白坂小梅「溜め池からの呼び声」 (24)
※ホラー注意
夢を見た。
自宅マンション近くにある大きな溜め池のほとりに、自分が立っている夢。
何をするために自分が溜め池の前に立っていたのかはわからない。
夢なんて、そんないい加減なものだ。
とにかく俺はそこに立っていた。
いや、立ち尽くしていたと言うべきか。
不意に、足元に冷たい感触が起こる。
視線を下に向けると、ゼリー状の透明な“何か”が俺の足首までを覆っていた。
「何なんだこれは!」
にわかに全身鳥肌が立ち、必死にその場を離れようとするが、足元が固められているため動けない。
俺がもがく間にもゼリー状の“何か”は俺の足を登ってくる。
足首まで覆い尽くした“何か”は、脛、膝、太腿と俺の下半身を飲み込んでいく。
「やめろ!離せ!この野郎…!」
無我夢中で“何か”を掴み、引き剥がそうとするが、水分を含んだゼリー状の“それ”を全て掴むことはできない。
どころか、“何か”を掴んだ両手までもがどんどん水分に覆われていく。
「やめてくれ…!来るな…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
気づけば透明な泥のような“何か”は俺の胸まで達していた。
マズい…!
このまま俺の口や鼻まで“これ”が登ってくれば、俺はすぐにも窒息してしまう。
嫌だ!死にたくない!
「やめろ!何なんだよ!離せよ、助けてくれ、もう嫌だもう駄目だ…」
“何か”は這い上がるスピードを上げて首元まで迫る。
何とかしないと、どうにかしないと。
必死で首を掻きむしるが、ほとんど効果は無いようだ。
既に顎まで“何か”に覆われつつある。
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌ゴボッ…」
何の抵抗もできず、あっさりと口も鼻もゼリーに覆われてしまった。
苦しい!!
息が詰まる…意識が遠くなる…
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そこでようやく目が覚めた。
最悪の寝覚めだ。
視認せずとも全身に嫌な汗が迸っているのはわかった。
寝る前に点けたエアコンはいつの間にか停止していたようだ。
「はぁ…暑いせいで嫌な夢見たな…」
何故だか今日は目覚し時計が鳴らなかったらしい。
お陰でいつもより遅い起床になってしまった。
朝食は…食える時間じゃないな。
それと、ヒゲは事務所で剃るしかないか。
とにかく活動を始めなければ。
汗で張り付く衣服を脱ぎ捨て、風呂場へと向かう。
早くシャワーを済ませて出社しないと…
それから…ベッドのシーツが異様に湿っている気もしたが、おそらく俺のせいだろう。
あれも洗濯しなきゃな…
「おはようございまーす」
「あら、おはようございます」
「お、おはよう…」
急ぎ気味に事務所へ飛び込むと、ちひろさんと小梅が出迎えてくれた。
そう、今日は朝から小梅とロケに行く予定があったのだ。
本来なら早起きして色々と準備したかったのだが…
遅れてきた俺を咎めるように小梅は俺をじっと見ている…
「Pさん、首…」
「ん?首…?」
どうやら睨まれていたわけではなかったようだ。
小梅に指摘された通り、首を触ってみると微かな痛みがあった。
「首、赤いよ…?」
近くの鏡で確認してみると、なるほど首が赤く腫れているようだった。
ミミズ腫れ、というほどではないが、そこには掻きむしったような跡がくっきりと残っていた。
今朝の夢を思い出して薄気味悪くなったが、何とか平静を取り繕い、小梅の方へと向き直る。
「ああ…今朝ちょっと変な夢を見てた。うなされた時に引っ掻いてしまったのかもしれん」
「変な、夢…?」
「まあ移動中にでも説明するよ。とりあえず俺はヒゲを剃らないと…」
逃げるように俺は事務所の洗面所へと向かった…
Message body
小梅を車に乗せてロケ現場へと向かう。
事務所からそう遠くない距離ではあったが、今朝の夢の話をするには十分な時間があった。
出来れば夢のことは思い出したくなかったが、小梅に相談すれば何かわかるかもしれない、と思ってのことだ。
まあ、結局はその目論見も外れるわけだが…
「それで首が赤かったんだね…」
「ああ。もしかして俺、なんか悪い霊とか憑いてる?心当たりは無いんだけどなぁ…」
「ううん…何も見えないよ。今のところは…」
「そうか…それなら少し安心かもな。単に俺が疲れてただけかもしれん」
「ただ…見えないからこそ余計に怖いものなのかもね…」
「えっ!?そういうこともあんの!?」
「ご、ごめんね…怖がらせちゃったら…私の考えすぎだったらいいんだけど…」
「…」
余計に不安が募る。
小梅が悪いわけじゃないが、何せ正体の見えない不安というのは厄介だ。
その不安がいつどこで牙を剥くのか想定できないというのはどうにも…
「気にしないのが一番かもな」
小梅に言う、というよりは自分に言い聞かせるように俺は呟いた。
「ふ、不安なら…朋さんに相談しても良いかも…」
小梅は健気に俺の身を案じてくれているらしい。
そうだ、俺がシャキっとせねば。
「朋か…ちょうど今日事務所に来るし、訊いてみるよ。ありがとう」
その後は車で移動しながら小梅と軽い打ち合わせを行い、ロケ現場へと到着した。
小梅を降ろした後、俺はそのまま事務所へとUターンする予定だった。
「Pさん…気を、つけてね…」
心配そうに小梅が手を振る。
俺はなるべく気丈に見えるよう、わざと大きく手を振り返した。
「ふぅ…」
駐車場へと着いた俺は車のキーを慎重に回した。
気持ちが焦って交通事故でも起こしたら問題だ。
気持ちを落ち着けるために、運転席で深呼吸を行う…
するとそこで、首の後ろに冷たい感触が走った。
「うわっ!?」
反射的に手を首の裏側へやると、冷たい水分が手に触れた。
「なんだ、汗か…」
どうやら過敏になりすぎているようだ。
9月の初旬とは言え、未だ残暑は厳しい。
冷房の効いた車内で汗の冷たさを感じるのは、何も不思議なことじゃない。
そう、何も不思議なことなど起こらないのだ…
まるで願うように、俺は心の中で呟いた。
朝は小梅を送り届ける用事があったが、それ以降は特に外出する予定はなかった。
事務所にこもっての雑務処理は本来好きではないのだが、今日に限っては煩わしい作業も良い気晴らしになるだろう。
もちろん、夢のことをすっかり忘れられるほどではないだろうが…
午後三時を過ぎた頃、眠そうな顔の藤居朋が事務所にやってきた。
おおかた新しい占いにハマって夜更けまで起きていたのだろう。
普段なら小言でも挟みたくなるところだが、今は占いに没頭する朋の姿勢が頼もしくもあった。
「P、おはよ〜」
「おう朋。寝不足か?」
「うっ…まあちょっとだけね」
「そうか…」
「あれ!?なんか今日元気ないわね?」
「んー…まあ少し心配事があってな」
「えっ、何なに?占いで解決できそうなことかしら!?」
能天気というか何というか。
その前向きさを分けてもらいたいくらいだ。
そんな朋の様子は、漠然とした不安を抱えた俺にとって有り難いものではあるが…
「朋…夢占いに自信はあるか?」
「もちろん!気になる夢でも見た?」
「ああ…」
自分が溜め池のほとりに立っていたこと。
そこでゼリー状の“何か”に襲われたこと。
その際感じた俺の恐怖と動揺。
なるべく事細かに説明するよう努めた。
話している途中、我ながらよくここまで仔細に覚えているものだと思ったが…
「うーん…夢占いだと基本的には湖とか水たまりは安心の象徴にされるわね」
「えっ、それなら…」
それなら、俺が見た夢もそんなに悪いものじゃなかったってことか?
しかし甘い期待は脆くも打ち砕かれる。
「ただ、それは穏やかな湖の場合に限るの。マイナスのイメージを抱く夢なら…凶兆になるわ」
「そうか…何となく予想はしてたけど、改めて断定されると不安だな」
「そ·こ·で♪」
消沈した俺の顔を見て、待ってましたと言わんばかりに朋はカバンを探る。
何やら秘策めいたものがあるのだろうか。
「水難から身を守るにはこのおまもりよ!」
そう言いながら朋は俺に小さな巾着袋を手渡した。
紫色で、複雑な紋様が描かれた袋だ。
どう贔屓目に見ても、あまり高価なものには思えない。
「これが…?ごくごく普通のおまもりにしか見えないけど」
「そう思うでしょ?でも実はこれ奄美大島の神社に祀られている水神の…」
そこから先の朋の蘊蓄は聞き流してしまったが、とにかく霊験の篭ったおまもりらしい。
そんな立派なものを俺が借り受けていいのか、と朋に尋ねると「私はしばらく水辺でのロケは無いから」とあっけらかんとしていた。
そもそもおまもりって気軽に貸し借りしていいものなのか?などと考えもしたが、朋の厚意は純粋に嬉しかったので有り難く借りることとした。
今度彼女にはソフトクリー厶の一つでも買ってやらないとな…
その後は特に目立った問題もなく業務を終えられた。
朋にもらったおまもりのお陰か、心なしか気楽に仕事ができたのが良かったのだろう。
今は繁忙期でもないため、20時には会社を出ることができた。
昨日作っておいたカレーがまだ家にあることだし、寄り道せず帰ることにしよう。
夜でも明るい東京の街並みは、今の俺にとっては救いだった。
大の男が真っ暗な道を怖がるのも情けない話だが…
しばらく電車に乗った後、俺は入居しているボロアパートの前まで来た。
築40年。
経年劣化が目視できるアパートは、今の心理状態からすると限りなく不気味に見えた。
錆びて朽ちかけた鉄の階段を、足取り重く昇っていく。
新入社員の頃と違ってそれなりに貯金もあるし、そろそろ引っ越しも考えた方がいいかもな…
そして部屋まで辿り着いた俺は、着替えもそこそこにベッドへ倒れ込んだ。
おまもりが気休めになったといっても、朝から張り詰めていた気持ちがすべて消えてなくなったわけではない。
なんだか少し眠気もある…
何ならこのまま一眠りしてもいいかな…
などと思いかけたところで、ハッと目が覚めた。
もしこのまま眠ってしまえば昨日と同じ夢を見るのでは?
それは嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。
ゼリーに口を塞がれ窒息していく感覚が蘇る。
マズい!
とにかく頭をシャッキリさせないと!
俺は勢いよく立ち上がり、冷蔵庫に保管していたペットボトルのコーラを飲み下した。
突き抜けるような刺激が俺の喉を伝う。
そうだ。カレーを温めよう。
カレーを。温めないと。
違う。行かなきゃ…行かないと…
気づくと俺は溜め池のほとりに立っていた。
夢で見た景色?
違う。今は現実だ。
辺りは暗く、古びた電灯が薄く世界を照らしているだけ。
ここが現実の溜め池だと認識できているものの、妙に頭がぼんやりとしている。
何より、「ここから動いてはいけない」という意識が強く脳内を占めていた。
まるで親の言いつけを守る子どものように、押し黙って俺は立ち尽くしていた。
ああもう良いや。
ここから動けなくても。
こうやって俺はずっとここにいるのだ。
昔からずっと。
離れたくないんだ…
じっと溜め池を見続けていたい…
そんな思いに頭が支配されていく。
突如ガサガサ!と背後の茂みが鳴った。
その瞬間、我に返って俺は後ろを振り返る。
音の主は現れない。
野良猫か何かだろうか?
その音を聞くや否やこの場にいることが恐ろしくなって、俺は早足で駆け出した。
いつ俺はここに?
なぜ俺はここに?
湧き上がる疑念よりも速く、速く脚を前へ。
アパートに戻ってきた頃にはすっかり息が上がっていた。
心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響く。
一息ついたところで、「今夜は眠れそうにないな」と他人事のように思えてきた。
「Pさん、目のクマ…酷いよ…?」
翌朝小梅と会った時の第一声がそれだった。
昨日は結局一睡もしていない。
今朝は鏡で自分の顔を確認したが、まったく酷いものだった。
「ハハ…心配かけて悪いな小梅」
「あ、謝らなくていいから…ちゃんと寝てほしい…」
ソファーに座る俺を見つめながら、怒ったように小梅は頬を膨らませた。
我がアイドルながら可愛らしい。
こういう宣材写真もありかもなぁ…
「なあ小梅、本当に俺には何も憑いてないのか…?」
「うん…いつも通り…悪い影なんて見えないよ…?」
「そっか…実は昨日無意識のうちに近所の溜め池まで行ってたみたいでな。悪霊の仕業じゃなきゃなんなんだろうな」
「なんだろう、ね…でも、Pさんを守ってくれるような光がうっすらと見えるのはわかる…」
「そりゃ安心だ…」
そのまま俺はソファーに倒れ込む形で意識を失った。
「ん…」
何時間ぐらい眠っていたのだろう。
重たい身体をソファーから起こす。
今回は夢を見ずに済んだようだ…
ふと柔らかい感触に気づく。
いつの間にか身体に毛布がかけられていたようだ。
「あら…Pさん、気がつきましたか?」
ちひろさんがいつもの笑みを湛えながら椅子ごとこちらに振り向く。
「ちひろさん、すみません俺…」
「まだお身体が優れないようなら、休んでいて大丈夫ですよ。それともお水でも飲みますか?」
「いや、俺仕事しないと…」
「それはダメです」
ちひろさんは少し険しい顔をしてキッパリと言った。
「小梅ちゃんから聞きましたよ?あんまり眠れてないんですよね」
「本当にただの寝不足ですんで…」
「部長に事情は話したのですが、今日と明日はPさんをお休みにするよう仰ってましたよ」
「マジですか…」
「マジです」
ふぅ…と我知らず溜め息が漏れた。
いい大人が、夢ごときで情けない。
しかし、今の精神状態で仕事をまともにこなせる自信も無かったのは事実だ。
申し訳ない気持ちは大きかったが、少しだけ安堵した。
「『俺が働かせすぎたせいかもしれん…』と部長も心配しておられましたよ?ですから、Pさんの今の仕事は体調を戻すことです」
「すみません、ありがとうございますちひろさん…」
俺が頭を下げると同時に、お盆を持って歩いてくる小梅の姿が見えた。
「お、お茶…飲む?」
「ああ、すまんな小梅。ありがとう」
小梅は普段おとなしいが、俺が弱っている時には積極的に労ってくれる。
年齢的にはまだまだ幼いのに、立派なものだ。
それにしても、担当アイドルにまで気を遣わせるとは…
いよいよもって情けなくなってきた。
やはりちひろさんの言う通り、ゆっくり休むべきなのだろう。
「それで…Pさん今日はお帰りになられますか?それとも、もう少し事務所で休んでいくか…」
「そうですね…折角お休みをいただいたので、帰ってしっかり休むようにします。本当にすみません」
「いえいえ、元気になってからまた頑張りましょうね!」
「気をつけて、帰ってね…ばいばい」
ちひろさんと小梅に見送られ事務所を出た俺は、真っ直ぐに駅へと向かった。
まだ頭がぼんやりする…
缶コーヒーでも買うべきか?
このまま家に帰ったとしても眠るのが怖い。
あの夢を見るのは出来るだけ避けたいし、また夢遊病のように溜め池に向かってしまったら…
幸いアパートのすぐ近くにはネットカフェがある。
そこで眠れば、仮に夢遊が起こったとしても店員か誰かが止めてくれるだろう。
電車に揺られ、ウトウトしながらも目的地へ進む。
それにしても、朋のくれたおまもりはあんまり役に立たなかったな…
結局昨日は無意識のうちに溜め池へ足を運んでしまったわけだし。
まあアイツが占いをハズすことも珍しくはないから、今回のおまもりも効能の無い贋作だったのかもしれない。
今度会った時にでも返した方がいいかな、などと考えているうちに駅に着いた。
眠い頭でも慣れた動作は難しくないらしい。
手短に受付を済ませた俺は、ブランケットを受け取った後、壁際のリクライニング席へ滑り込む。
平日の昼とは言え、幾人か客もいるようだ。
名前も知らない人たちばかりなのに、一人でないというだけでこんなにも心強いのか。
しかし急に休日ができてしまったな。
身体を休めるのもいいが、気分転換も必要かもしれない。
夏の間に母の墓参りには行けなかったし、明日の休みを利用して足を運んでみるか。
昔からよく「ご先祖様を大切にしなさい」とは母から叱られたものだった。
ただ…墓か。
今はあんまり見たくないかもな。
そんな風にあれこれと考えているうちに眠気が膨らんでいく。
ネットカフェの個室スペースと言えば寝苦しいことで悪名高いが、今の自分にとってはベッドよりも安心できた。
意識が薄れていく…
再び目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。
おかしい。
これはどう考えてもおかしい。
一眠りして夜になった、ここまでは理解できる。
しかしネットカフェの店内が暗いわけがない。
明らかに自分は、今屋外にいる。
見覚えのある場所…
いや、見覚えも何も、ここは昨日も来た場所ではないか。
あの忌まわしく、不気味な溜め池。
「何で…何でここに来ちまうんだよ!」
頭の中で精一杯叫んだが、喉からその声は出ない。
辺りはシンとして、虫の声と木々のざわめきが微かに聞こえるだけだった。
嫌だ…
溜め池に近づきたくないのに、足が自然とそちらへ向かう。
溜め池を覆う柵は低く、大人なら簡単に乗り越えられるだろう。
どうして、どうして俺はこんなに池に惹きつけられるのか。
自分の目に涙が浮かぶ。
死にたくない。
溺れ死ぬなんて嫌だ。
まだやることはいくらでも残っているんだ。
小梅や朋に俺は今までどれだけのことをしてやれただろう。
俺にはアイツらが必要で、アイツらにとっても俺は必要なはずで…
こんな訳のわからないままリタイアなんて…
思考だけが加速し、足は一定の歩みを止めない。
溜め池との距離が縮まっていく。
10メートル、5メートル、1メートル…
嫌だ、怖い、死にたくない!
溜め池を覆う柵に手をかけた瞬間、不意に気持ちが穏やかになった。
懐かしいような、暖かいような感覚…
溜め池を見つめる。
水面は静かに揺れている。
どうだろう。
このまま水に身体を委ねてみても…
「ダメェェェェーーーー!!!」
背後から悲鳴のような叫びが聞こえた。
驚いて振り向いた瞬間、みぞおちに衝撃。
「グェッ…」
「ダメだよP…行っちゃダメだって…」
「み、みずの中は冷たいよ…?」
「朋、小梅…お前ら何でここに…」
「小梅から聞いたわよ、Pが夜な夜な溜め池に呼び寄せられてるって」
「いやでも、なんでこの場所がわかったんだ…?」
「前に言ってたじゃない。『アパートの近くにネットカフェがあってよく漫画を読みに行く』とか」
「それだけの情報で…?」
「ネットカフェの名前は私が覚えてたから…近くに大きな溜め池のある店舗を朋さんが調べてくれたの…」
「マジか…朋、お前占い師より探偵の方が適性あるんじゃないか?」
「冗談言ってる場合じゃないわよ!本当に心配したんだから、バカ…!」
再び俺の腹に頭を押し付けた朋はそのまま声を出して泣いた。
その朋の頭を小梅が撫でている…
奇妙な光景だ。
「二人とも…心配かけてごめんな」
「ううん…Pさんが無事なら、それでいいよ…」
小梅がほっとした表情で俺を見上げる。
こんな風に心配をかけるくらいなら、いっそ事務所に泊まった方が良かったのかもしれないな。
今となっては後の祭だが…
未だ俺の胸でしゃくり上げる朋の頭に手を置いたところで、ピリリ…ピリリ…と電子音が響いた。
どうやらその音は俺のカバンから聞こえてくるようだ。
「すまん、朋。ちょっと電話が鳴ってるみたいだから…」
無言のまま朋は俺から離れる。
比較的おしゃべりな朋が静かにしている現状を見て、俺は事の重大さを思い知った。
原因が何であれ、心配をかけてしまったことに違いはない。
後でちゃんと謝らないと…
それはともかく、今はとにかく電話に出なければ。
着信元は…事務所?
なぜ事務所から架電が…
「お疲れ様です、Pですが」
「Pさん!?良かったぁ…」
電話越しにちひろさんの安堵した声が聞こえてきた。
どういうことだ?
小梅や朋と同じように、ちひろさんも溜め池の件で電話してきたのだろうか。
「Pさん、落ち着いて聞いてくださいね」
「はい」
「実は、Pさんの住んでいるアパートが火事で半焼したらしく…」
「は?」
ちひろさん曰く、何が出火の原因かはわからないが、とにかく俺の住んでいた部屋は修復不能なほど焼け焦げてしまったらしい。
他のアパートの住人はほとんど外出していて、アパートにいた数少ない住人も早く出火に気づいて無事だったようだ。
漏電かガス漏れか…何分古いアパートだったため、どちらの可能性も考えられるとのこと。
また、かなり規模の大きい火事だったためニュースとしてすぐ報道されたらしい。
ちょうどその頃、ちひろさんは事務所で夜食を取りながらニュースを見ていたのだが、まさかと思って俺の住所を調べると…
まさしく火事が起きたアパートに俺が住んでいることがわかったらしい。
それで、居ても立ってもいられず俺に電話をかけてきたと…
「とにかくPさんが無事で良かったです…」
そう言い残してちひろさんは電話を切った。
火事?
昨日からずっと溜め池に怯えていた俺には青天の霹靂だった。
「ど、どうしたのPさん…誰からの電話…?」
「ちひろさんからの電話だったんだが…俺もちょっと混乱してる。説明はするが…わかりにくかったらごめんな」
それから、俺はちひろさんから電話があり、自分のアパートが火事に遭ったことなどを話した。
話すうちに、段々平静を取り戻してきているのが自分でもわかった。
「火事…それは災難ね。それにしても…」
同じく落ち着きを取り戻した朋が首をひねる。
恐らく俺と同じ疑問を彼女は抱えているのだろう。
「結果的にPは助かったってことよね?この溜め池に来たことで」
「確かにそうなるな。俺は火事から逃れたわけだし」
「それなら…辻褄は合うね…」
小梅がぼそりと呟く。
「わ、私、言ったよね…Pさんの周りには怖いものは見えない、暖かい光が見えるって…」
「そう言えばそうだな…小梅の見立ては当たってってことか」
「私の渡したおまもりが効かなかったのも、たぶんそのせいね…Pには水難じゃなく火難の相が出てたってことになるし」
「なるほど…じゃあ夢占いはどうなる?苦しむ夢って凶兆なんだよな?」
「それはアレよ!最悪の事態にはならなかったけど、Pのアパートが焼けちゃったわけだし…やっぱり凶兆だったんだわ!」
「あー…それも言われてみれば納得できるな…」
正直、安心すればいいのか落ち込めばいいのか自分でもわからなかった。
一命を取り留めたし、一応アパートの火災保険にも入ってはいるが…
それでもこれから何かと不便はあるだろう。
その辺りの感情は小梅や朋も同じようで、俺が助かったことを喜べばいいのか、火事に同情すべきか迷っている様子だった。
とは言え、こうして二人と普通に話すことができる以上、俺はやはり幸運だったのだろう。
「それにしても…Pを溜め池に呼び寄せていたのは何者だったのかしらね」
謎が解けない、と言った表情で朋が呟く。
その姿はなかなか様になっていて、やはり占い師より探偵が向いているんじゃないかと俺に思わせた。
いや、占い師も色々推理したりするのか?
何とかリーディングとかって手法もあるらしいし…
「Pさん…き、聞きにくいんだけど…身近な人が亡くなったこととか、ない?」
小梅が遠慮がちに尋ねる。
「あー…俺、就職してから母親を亡くしてるんだわ。でもなんで母親が溜め池に…」
「そっか!お母さん!それなら納得だわ!」
そこで朋が閃いたように叫ぶ。
突然の大声に小梅がビクッ…と身体を震わせるのが視界に入った。
「朋…?何を思いついたんだ?」
「メタファーよ。占いとかでもよくあるんだけど…」
「メタファーって…比喩のことだよな?どういうことだ?」
「『母なる海』って表現があるように、海や湖は女性、それもお母さんを連想させるものなの。ほら、泉の精とかも女の人として描かれることが多いでしょ?」
「確かに…少女というよりは、成人した女の人のイメージだな…」
「つまり…Pさんのお母さんが溜め池を通して守ってくれたってことかな…?」
「そう、それなら色々としっくりくるわ!」
確かに朋の主張は正しいように思えてきた。
最初に俺を夢で襲ったゼリー状の水がなぜ透明だったか。
不吉なものなら泥のように濁っているか、あるいは真っ黒なゼリーでも良かったはずだ。
透明な水に包まれる…
母親のお腹の中にいた頃の記憶か。
いや、でもそうなると…
「じゃあ何で俺はあんなに夢とか溜め池に怯えてたんだろ…」
「うーん…その辺りはPのお母さんの性格がわからない以上何とも言えないわね」
「Pさんのお母さん…どんな人だったの…?」
「ん…とにかく厳しい人だったよ。悪さしたら引っ叩かれるし、正直割と怖かったな」
「あー…」
小梅は妙に納得したようだった。
横で朋もうんうんと頷いている。
実際、生前の母なら危ないところから俺を引き離すために強引な手段も使っただろう。
例えば、寝不足を利用して無理矢理アパートから引き離したりとか…
「しかしそれならなんで昨日もここに呼び寄せられたんだろ」
「火事が起こる正確な日にちが、お母さんにはわからなかったから…とかじゃない?ま、超常現象に細かく理由をつけるのもナンセンスかもしれないわね」
「まあ確かにな…でも俺がビビりまくって溜め池からめちゃくちゃ遠くまで逃げたらどうするつもりだったんだろ」
「それはそれでお母さんの思惑通りだったんじゃないかしら?元凶のアパートから離れることができるんだから」
「ああ、なるほど…それにしてもかなり怖かったんだけど、母さん手加減無しだな…」
「怖いけど離れられない…Pさんにとっては、お母さんはこの溜め池みたいな人だったのかも…」
「かもな。朋に引き止められる前も、溜め池を見つめてて何だかすごく懐かしい気分になったんだ。心が落ち着くようで」
「本当に?私たちから見たら池に飛び込む寸前に見えたけど…」
「最悪転落したとしても、今9月だし…風邪ひくぐらいで済んだんじゃないか?まあ、それはそれとして…お前らに心配かけたのは本当に済まなかった」
「そうだね…ちゃんと償ってもらわなきゃね…」
俺が深く頭を下げた後、小梅は悪戯っぽく笑った…
小梅と朋を駅まで送り届けた俺は、その日ホテルに泊まることにした。
財布とキャッシュカードが無事だったのは不幸中の幸いと言うべきか。
何より命のあっての物種だ。
亡き母への感謝の気持ちを抱え、その日はゆっくりと眠ることができた。
翌日は部長の計らいで休日だったのだが、事が事なので会社に来るよう電話で命じられた。
そこでちひろさんに今後の事務的な手続きについて説明された。
部長にも頭を下げに行くと「そんなことはいいからしばらくは俺の家に泊まれ」という業務命令?を受けた。
替えのシャツなどもお古を譲ってくれるとのことで、俺は何度も何度も部長に頭を下げた。
そして数日後、小梅と朋が揃ったタイミングで改めてお礼を言った。
溜め池への投身は見間違いだったとは言え、二人が特別に心配してくれたことは事実だった。
その気持ちがとても嬉しかったのも、また事実。
何より二人は俺を気遣って助言してくれたり、おまもりを貸してくれたり、あまつさえ溜め池の場所まで探して俺に会いに来てくれたのだ。
自分を長らく支えてくれた母はもういないが、今の俺には身を案じてくれるアイドルがいる。
この一件で、その有り難さは一層身に染みた。
「小梅と朋にはちゃんとお礼したいしな…何か食いに行くか?焼肉とか」
「わ、私は…Pさんのお母さんのお墓参りがいいなぁ…」
「私もそれに賛成よ!Pのお母さん、なんかすごいスピリチュアルパワー持ってそうだし!」
「はは…ウチの母親はそんな大層なもんじゃねえよ。どこにでもいる、ただの子ども思いの母親だ」
朋の発言に苦笑いしながら、俺は実家や家族のお墓がある方角を眺めた。
母さん…これからはできるだけ頻繁に墓参りに行くよ。
時々は俺の自慢のアイドルも連れて、な。
おわり
このSSまとめへのコメント
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