梨子「クラゲじゃあるまいし」 (61)

海でクラゲをつかまえた。
本当は逃がしてもよかったのだが、バケツに入れて持ち帰ることにした。
突然クラゲを飼い始めた私に、家人は困惑した。

「よりにもよって、どうしてクラゲなんて飼おうと思ったの?」

「……わかんない」

私の心はクラゲのように脆いので、私でさえも触ることはできない。
だから私は、私の心をせめてこの目で見たいと思い、それをクラゲに仮託したのだ。

「よろしくね」

私の声を聞くと、クラゲの傘が、嬉しそうにフワリと膨らんだ。
名前は何にしようかな。
クラゲの英名は……ジェリーフィッシュだったかな、たしか。

「ジェリーちゃん」

こうして、ジェリーちゃんと私は友達になった。
内浦に越して間もない私にできた、初めての友達だった。

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そこで私は、親愛なるジェリーちゃんの飼育に全力を尽くすことにした。
エアポンプを設置し、人工海水を作ってこまめに水を換えた。
水温計を見て、温度調整にも細心の注意を払った。

生き物を飼うのに消極的だった私が、どうしてここまでクラゲの飼育に情熱を傾けたのか、今でもよく分からない。
おそらく当時の私は、自分の世界を無くしてしまって、それを一から創造せねばならないところまで追い込まれていたのだ。

別に自分の境遇が特別だというつもりはない。
誰にでも、天地創造をしなければならないお年頃がいつか訪れる。それだけの話だ。

「海あれ」

すると海があった。

「クラゲあれ」

するとクラゲがあった。

「よし」

かくして私はアクアリウムを創造した。

海は体、クラゲは心。
そしてアクアリウムは、私の世界だった。

梨子 「ジェリーちゃん」

梨子 「何だい、梨子ちゃん」

梨子 「住み心地はどうかな」

梨子 「さあ、どうかな。
    急に引っ越してきたから、なかなか慣れないよ」

梨子 「……いつか、慣れるかな」

梨子 「友達ができたらいいんだけどね」

梨子 「ふふふ、ヘンなこと言うのね、ジェリーちゃん」

梨子 「どうして?」

梨子 「だってこのアクアリウムには、あなたしかいないのよ」

梨子 「それじゃあ、梨子ちゃんが友達になってよ」

梨子 「それは、難しいんじゃないかな」

梨子 「私と友達になってくれないの?」

梨子 「だって、あなたは私なのよ。
    自分が自分と友達になるなんて、おかしな話じゃないかな」

梨子 「どうして?」

梨子 「だってそれなら、ひとりぼっちでも友達がいることになっちゃうじゃない」

梨子 「自分と友達になってから、外の世界に友達をつくりにいけばいいじゃない」

梨子 「外の世界って、どこにあるの?」

梨子 「この水槽の外にあるんだよ。
    この水槽の外には、大きな海が、どこまでもどこまでも広がっているんだよ」

梨子 「ジェリーちゃん、あなたは少し勘違いをしてるわ」

梨子 「どうして?」

梨子 「あなたの世界は、この水槽の中だけなのよ」

梨子 「そんなこと、いったい誰が決めたの?」

梨子 「あなたを捕まえて閉じこめた、この私が決めたのよ」

梨子 「そんなのひどくない?
    ねえ梨子ちゃん、あなた一体、何様なの?」

梨子 「神様よ。
    ひとりぼっちのね」

体は海、心はクラゲ。
そして私の世界は、アクアリウムだった。

それから間もなく、春休みが終わり、新学期が始まった。
着慣れない制服を身につけて自分の部屋を出る前に、私は水槽の傍で立ち止まった。

梨子 「ねえ、梨子ちゃん」

梨子 「どうしたの、ジェリーちゃん」

梨子 「今日から高校二年生だね」

梨子 「そうね」

梨子 「新しい世界だよ」

梨子 「オー、イエーイ」

梨子 「ぜんぜん気もちがこもってないよ。
    ホントにそう思ってる?」

梨子 「思ってないわ」

梨子 「どうして?」

梨子 「どこに行ったって、おんなじだもの」

梨子 「そんなことはないよ。
    新しい靴を履いて、新しい制服を着て、新しいバスに乗って、新しい友達をつくりに行くんだよ」

梨子 「それでも、どこに行ったって、おんなじなのよ」

梨子 「なぜそう思うの?」

梨子 「新しい靴を履いて、新しい制服を着て、新しいバスに乗っても、新しいピアノは見つからないからよ」

梨子 「大丈夫だよ。
    高校の音楽室に行けば、ピアノくらいあるよ」

梨子 「音が鳴らないピアノなんて、ただの黒くて重たいお荷物よ」

梨子 「田舎をバカにしたらダメだよ。
    きっとステキなピアノだよ」

梨子 「バカにしてるわけじゃないわ。
    私がバカだから、ピアノの音を鳴らすことができないだけなの」

梨子 「ピアノが弾けなかったら、何か問題あるわけ?」

梨子 「問題、大ありよ。
    ピアノが弾けない私には、新しい友達なんてできっこないもの」

梨子 「そんなことないよ。
    ピアノが弾けなくても、梨子ちゃんのことを好きになってくれる人はいるよ」

梨子 「そんなこと、私は信じないわ」

梨子 「どうして?」

梨子 「だって私は、ピアノが弾けない私のことなんて……」

梨子 「ねえ、梨子ちゃん」

梨子 「何よ、ジェリーちゃん」

梨子 「私は、ピアノが弾けないよ」

梨子 「クラゲだもんね」

梨子 「じゃあ梨子ちゃんは、私のことが嫌い?」

梨子 「そんなことはないわ。
    ピアノが弾けないくらいで、私はジェリーちゃんのこと、嫌いになったりしないもん」

梨子 「それとおんなじだよ」

梨子 「……うるせえ、クラゲ!」

梨子 「言いやがったな、このヒトデナシ!」

梨子 「ヒトデじゃねえ、クラゲだ!」

梨子 「ほらみろ、お前もクラゲじゃねえか!」

梨子 「……うるせえ、クラゲ!」

梨子 「堂々巡りしてるじゃねえか!
    いらんこと言うヒマがあったら、さっさと学校に行け!」

こうして私は、何とか遅刻せずに学校に行き、輝かしい転校生デビューを飾った。
輝かしいというのは、ちょっと語弊があるかな。
別に私は、自分で輝いたわけじゃないから。

ただ、東京から来たという飾りに、ちょっとみんなが関心をもってくれただけだ。
私の中には、発光物質なんてありはしないのだ。
クラゲじゃあるまいし。

そういえば、私が自己紹介をしたあとで、目を輝かせて私のところに来てくれた人達がいたっけ。
名前は……そうそう、千歌ちゃんと曜ちゃんだ。

千歌 「梨子ちゃん、はじめまして!
    私の名前は、高海千歌です!」

梨子 「はじめまして」

千歌 「わー、すてき!
    東京から来ただけあって、とっても可愛いね!」

梨子 「関係ないでしょ、出身地なんて」

千歌 「えへへ、それもそうだね。
    でも、何だか大人っぽい雰囲気だね。
    私なんか、曜ちゃんと一緒に海で遊んでばっかりだから、いつまでたっても子供っぽいままなんだもん。
    あ、曜ちゃんっていうのは私の友達で……おーい、曜ちゃん!」

曜  「はじめまして、渡辺曜です」

梨子 「はじめまして」

曜  「わー、すてき!
    東京から来ただけあって、とっても可愛いね!」

千歌 「それ、もう私が言ったー」

梨子 「関係ないでしょ、出身地なんて」

曜  「あはは、それもそうだね。
    ねえねえ、いつからこっちに引っ越してきたの?」

梨子 「一週間くらい前かな」

千歌 「もうこの辺りには慣れた?」

梨子 「どうかな……まだ、なかなか慣れません」

曜  「海はどうかな?」

梨子 「近くにあるから、たまに波の音を聴いたりしてはいるけど。
    でも、まだよく分からないな。
    それに……ちょっと怖いの」

曜  「怖い?」

梨子 「私には大きすぎる気がして」

千歌 「ふふふ、梨子ちゃん、おもしろいことを言うんだね!
    海なんだから、大きいに決まってるじゃない。
    大丈夫、大丈夫。
    安全に気をつければ、入っても怖くないよ」

梨子 「そうかな」

千歌 「そうだよ!
    まあ寒いから、夏になるまでは海水浴はできないけど……
    まさか、水着で飛び込んだりしてないよね?」

梨子 「そんなことはしないわ。
    クラゲじゃあるまいし」

曜  「そうだよ、千歌ちゃん。
    梨子ちゃんはそんなオテンバなことせずに、もっとこう、おしとやかに休日を過ごしてるんだよ。
    ねえ、梨子ちゃん?」

梨子 「まあ、おしとやかというほどではないけど」

千歌 「梨子ちゃんは、何をするのが好きなの?」

クラゲと会話するのが好きです、とは言うわけにもいかず、私は仕方なくこう言った。

梨子 「ピアノを弾くのが好き……でした」

それを聞いた千歌ちゃんの目は、さっきよりもいっそう輝いた。

千歌 「おおお、これは奇跡だよ!
    ねえ梨子ちゃん、私たちと一緒に、スクールアイドル、やってみない?」

梨子 「スクールアイドル?」

曜  「ごめんね梨子ちゃん、千歌ちゃんが急に張り切っちゃって。
    最近の千歌ちゃん、スクールアイドルに夢中なのよ」

梨子 「スクールアイドルは、どんなことをするの?」

千歌 「歌って踊って、きらきらと輝くんだよ!
    そしたらね、周りの人が、みんな笑顔になってくれるんだ」

梨子 「どんな歌で?」

千歌 「それはこれから、私たちが作るんだよ!」

梨子 「へー、すごいなあ。
    誰が曲を作るの?」

千歌 「そりゃもちろん、梨子ちゃんだよ!」

梨子 「え、どうしてそういうことになってるの?」

千歌 「だって梨子ちゃん、ピアノが弾けるんでしょ?
    それなら作曲だってできるんじゃないかな?
    だから今ここで私たちが出会えたのは、奇跡だと思うんだ!」

梨子 「ねえ千歌ちゃん、あなたはちょっと勘違いをしてるわ」

千歌 「どうして?」

梨子 「ピアノが弾けるからといって、作曲もできるとはかぎらないのよ。
    そんなことができるのは、音楽の女神さまに選ばれた、ごく一部の人間だけよ」

千歌 「でも梨子ちゃんならできるよ!
    大丈夫、可能性は無限大……」

梨子 「無限大じゃないわ。
    ねえ千歌ちゃん、私たちには、できることとできないことがあるの。
    アクアリウムのクラゲが水槽の外に出られないのと同じように、人間も自分の限界を越えることはできないの。
    クラゲが肺呼吸できないのと同じように、私は作曲ができないの」

千歌 「そんなことないよ……

    やってみなきゃ分からないもん」   
    
梨子 「やってみなくても、分かるのよ。

    私がいちばんよく知ってるの。
    自分が、選ばれた人間じゃないってことくらい」

それでも食い下がろうとする千歌ちゃんを、曜ちゃんが押しとどめた。

曜  「ごめんね、梨子ちゃん。
    急に変なことを訊いちゃって。
    でもまあ、無理は言うつもりはないけど、ゆっくり考えてほしいな。
    ……ほら千歌ちゃん、もうすぐ授業始まるから、席に戻ろ?」

名残惜しそうに私の机に手を置いたまま、千歌ちゃんが言った。

千歌 「輝けるよ。
    梨子ちゃんなら、きっと」

きらきらと輝いているその目を見ることができずに、私は顔をそむけて、つぶやいた。

梨子 「クラゲじゃあるまいし」

その日の夜、ジェリーちゃんに餌をあげるために、私は水槽の傍に腰掛けた。

梨子 「梨子ちゃん、学校は楽しかった?」

梨子 「そうね」

梨子 「ぜんぜん気もちがこもってないよ。
    ホントに楽しかったの?」

梨子 「知らないわ」

梨子 「新しいお友達はできた?」

梨子 「そうね……こんなブッキラボーな私にも話しかけてくれる、優しい子たちがいたわ」

梨子 「千歌ちゃんと曜ちゃんでしょ?
    よかったじゃない、友達になってもらえて」

梨子 「でもあの二人は、ほんとに私のことが好きなのかな?」

梨子 「どういうこと?」

梨子 「千歌ちゃんと曜ちゃんは、東京から来た私のことを珍しがってるだけかもしれないよ」

梨子 「そんなふうに言ったらだめだよ。
    二人とも、とっても優しい子だったんでしょ」

梨子 「そうね。出身地なんか関係ないわよね。
    ……でも私がピアノを弾けるかどうかは、あの子たちには、関係大ありみたいなのよ」

梨子 「作曲の話?」

梨子 「そうよ。
    だから私、思ったの。
    私が作曲なんかできないし、それどころかピアノを上手に弾くこともできないことを知ったら……
    きっとあの子たち、私のことを好きになってはくれないわ」

梨子 「どうしてそう思うの?」

梨子 「ピアノという飾りをなくしたら、私なんか、何者でもないのよ。
    誰にも見えない、ノーバディーになっちゃうのよ」

梨子 「そんなことないよ。
    梨子ちゃんの姿は、ちゃんと目に見えるよ。
    それだけじゃない。
    梨子ちゃんの心も、ちゃんと目に見えるよ。
    だからよく見て、自分の心がどんな形をしてるのか、たしかめてごらんよ」

梨子 「どうしてそんなことが言えるの」

梨子 「月は自分で自分を見ることはできないけど、水に映った自分を見ることはできるよ。
    月が自分の心を見るために海を覗いたら、クラゲが生まれたんだよ。    
    だからクラゲのこと、海月って言うんだよ」

梨子 「……」

梨子 「ねえ梨子ちゃん、水槽の中、覗いてごらんよ。
    あなたの心は、あなたにどんなふうに見える?」

梨子 「……うるせえ、クラゲ!」

梨子 「言いやがったな、このヒトデナシ!」

梨子 「ヒトデじゃねえ、クラゲだ!」

梨子 「ほらみろ、お前もクラゲじゃねえか!」

梨子 「……うるせえ、クラゲ!」

梨子 「堂々巡りしてるじゃねえか!
    いらんこと言うヒマがあったら、さっさと寝ろ!」

ベッドの中から眺めるクラゲの形をどんなふうに形容すればよいのか、私にはよく分からなかった。

次の日から、千歌ちゃんは私に作曲を押し付けようとはしなくなった。
その代わりに、ますます私にちょっかいを出すように……出してくれるようになった。
そのクラゲのような手練手管に耐えかねて、私はついに音を上げた。

梨子 「ねえ、千歌ちゃん」

千歌 「何かな?」

梨子 「どうしてあなた、そんなに私に絡んでくるの?」

千歌 「えへへ。
    そりゃもちろん、私は梨子ちゃんのことが大好きだからだよ」

梨子 「でも私は、あなたに好きになってもらえるようなこと、何にもしてないわ。
    何にもしてないだけじゃない……何にもできないのよ。
    だから私に期待するのは、もうやめたほうがいいわ」

千歌 「そりゃまあ、私は梨子ちゃんにすごく期待してるけど……
    でも好きなのは、梨子ちゃんが私に何かしてくれるからじゃないよ。
    私は、梨子ちゃんが私に何もしてくれなくても、それでも梨子ちゃんのこと、好きだよ」

梨子 「ずいぶん、おめでたい考え方ね」

千歌 「うん。よくお姉ちゃんたちからも言われるんだ、バカチカだって」

梨子 「いえ、バカだなんて言うつもりはなかったの。
    ただ、不思議なのよ。
    私からこんなに冷たくあしらわれてるのに、どうして私のこと、嫌いにならないの?」

千歌 「何となく分かるんだよ。
    梨子ちゃんは、きっと優しい人なんだなってこと。
    だって傍にいると、すごく安心するから」

梨子 「私の心が目に見えないのに、よくそんなことが分かるわね」

千歌 「よく見たら、見えるんじゃないかな?」

梨子 「見えるわけないでしょ」

よく分からない押し問答をしているうちに休み時間が終わった。
私の机を離れるときに、千歌ちゃんがはにかみながら付け加えた。

千歌 「そうそう、実は今、私、歌詞を書いてるの」

梨子 「曲を作ってくれる人もいないのに?」

千歌 「梨子ちゃんが作ってくれたらいいのにな……
    ううん、ごめんね。押し付けるつもりはないんだ。
    でも、もしよかったら、歌詞を見て感想をもらってもいいかな?」

梨子 「無理よ、私には」

千歌 「どうして?」

梨子 「私は、私のアクアリウムの管理だけで精一杯なのよ」

思いのほか冷たい言い方になってしまったことを後悔しながら、私は千歌ちゃんのほうを見た。
千歌ちゃんは、おもてむきは何でもないように振る舞っていたけど、やっぱり少し寂しそうだった。

千歌 「えへへ、ごめんね、へんなお願いをしちゃって!
    それじゃあ、またね!」

梨子 「……またね」

その日の夕方、アクアリウムの水換えをしながら、バケツの中のジェリーちゃんに話しかけてみた。

梨子 「ねえ、ジェリーちゃん」

梨子 「どうしたの、梨子ちゃん」

梨子 「今日は千歌ちゃんが、私に歌詞を見せてくれるって言ってくれたの」

梨子 「よかったじゃない。
    それで、見せてもらったの?」

梨子 「ううん、ツッケンドンな態度で断っちゃった」

梨子 「もったいない!
    どうしてそんなことしちゃったの?」

梨子 「へんな期待をもたせることになったら申し訳ないでしょ。
    私には作曲なんて、できるわけないんだから」

梨子 「とりあえず、見せてもらうだけでもいいじゃない。
    明日、千歌ちゃんにお願いして見せてもらおうよ」

梨子 「ダメだよ」

梨子 「どうして」

梨子 「今日あんなこと言って断っちゃったのに、今さら見せてなんて言えないよ」

梨子 「どうしてそう不器用なわけ?
    あーあ、せっかく水換えがうまくなっても、そこんとこがうまくできないようじゃ、まだまだだね」

梨子 「……うるせえ、クラゲ!」

梨子 「言いやがったな、このヒトデナシ!」

梨子 「ヒトデじゃねえ、クラゲだ!」

梨子 「ほらみろ、お前もクラゲじゃねえか!」

梨子 「……うるせえ、クラゲ!」

梨子 「堂々巡りしてるじゃねえか!
    いらんこと言うヒマがあったら、歌詞見せてもらう方法を考えろ!」

梨子 「どうやって見せてもらえっていうのよ!」

梨子 「人間のままでは恥ずかしいなら、クラゲになって行けばいいじゃない」

なるほど、たしか家には、大きな半透明のビニール傘があったな。
ジェリーちゃんの水換えを終えた私は、さっそくそのビニール傘の脇に、さらに半透明のビニールをぐるぐると貼り付けた。
この傘をさせば、私の全身はすっぽり隠れるというわけだ。
これで私は、名実ともに怪人クラゲ女に変身できるという寸法だ。
この自家製の「クラゲ傘」をベッドの脇に立てかけ、私は安心して眠りについた。

最近気づいたのだが、千歌ちゃんの家は私の家のすぐ近くらしい。
そこで私は、次の日の下校中、千歌ちゃんと曜ちゃんを尾行することにした。
千歌ちゃんが曜ちゃんと別れたあとで、私はかねて用意していた「クラゲ傘」をさして、自分の姿を隠した。
不審者以外の何者でもない姿で、私は千歌ちゃんの肩を背後からぽんと叩いて、声色を変えて話しかけた。

怪人クラゲ女「コンニチハ、千歌チャン」

千歌 「はい、こんにち……わああ、オバケだああ!」

怪人クラゲ女「驚カセテシマッテ、スミマセン。
       私デス、ホラ、分カリマセンカ」

千歌 「ええと、うーん……どちらさまですか?」

怪人クラゲ女「アノトキ助ケテイタダイタ、くらげデス」

千歌 「へー、言われてみれば、たしかにその大きい傘はクラゲに似てますね。
    でも私、クラゲを助けたことなんてあったかな。
    海でおなかを刺されたことはあるけどなあ……」

怪人クラゲ女「マア、細カイコトハ、コノ際ドウデモヨイノデス。
       今日ハ、ソンナ千歌チャンニ、オ願イガアッテ、ハルバル竜宮城カラ泳イデ来タノデス」

千歌 「へー、それはまた、ずいぶん遠いところからお越しになったのですね。
    それで、お願いというのは?」

怪人クラゲ女「アナタガ最近書イテル歌詞、アリマスネ」

千歌 「はい、よくご存知ですね」

怪人クラゲ女「アノ歌詞ガ、海ノ中デモ評判ニナッテイルノデス。
       ソシテ竜宮城ノくらげ大王ガ、ゼヒ読ンデミタイト仰ルノデス」

千歌 「恐縮です」

怪人クラゲ女「ソンナワケデ、チョット私ガ拝見シテモ構イマセンカ」

千歌 「ええ、まあいいですけど」

そう言うと千歌ちゃんは、カバンの中をごそごそと探しはじめた。

千歌 「あった!」

怪人クラゲ女「デハ、ソレヲ私ニ!」

私のその言葉をきくと、千歌ちゃんがいたずらっぽく笑って言った。

千歌 「でも、人に未完成の歌詞を見せるのって、ちょっぴり恥ずかしいんですよ。
    私がそんなふうに恥ずかしい思いをするんだから、クラゲさんにも、その傘を外してほしいなあ」

怪人クラゲ女「何ヲ仰ッテイルノデスカ。
       くらげナンダカラ、傘ヲ外セルワケナイデショ……」

千歌 「いくら私がバカチカだといっても、その傘がビニールでできていることくらい分かりますよ」

そう言うと、千歌ちゃんはビニールをぐいぐいと引っぱりはじめた。

千歌 「よいではないか、よいではないか」

怪人クラゲ女「アレー、ゴ無体ナ」

千歌 「どうして見せてくれないの?」

怪人クラゲ女「傘ノ中ヲ見テモ、面白イモノナンテ何モナイカラデスヨ!」

千歌 「どうして?
    このヒラヒラしたビニールの飾りを外したら、ほんとのあなたが見えるんじゃないの?」

怪人クラゲ女「ほんとノ私ナンカ、何者デモナイデスヨ!」

押し問答をしながら、くんずほずれつしていると、急に雨が降り出した。

千歌 「あ」

千歌ちゃんは傘を持ってきていないようだ。

怪人クラゲ女「千歌チャン」

千歌 「はい」

怪人クラゲ女「私ノ傘ノ中ニオイデヨ。
       ソンナニ大キクナイケド、モウ一人クライナラ、入レルヨ」

千歌 「いいの?
    中を見られたら、恥ずかしいんじゃないの?」

怪人クラゲ女「ソリャマア、恥ズカシイヨ。
       デモ、千歌チャンヲ濡レタママニスルクライナラ、私ガ恥ズカシイ思イヲシタホウガ、ズットイイヨ」

千歌ちゃんが、嬉しそうににっこり笑った。

千歌 「ありがとう。
    怪人クラゲ女さん、優しいんだね」

こうして私の世界の住人は、一人から二人になった。
傘の中に入って私の真っ赤な顔を見た千歌ちゃんの表情は、すぐに満面の笑みに変わった。

千歌 「クラゲさん、お邪魔します」

梨子 「いえいえ、狭いところですが、どうぞご遠慮なく」

千歌 「今日は、竜宮城からいらしたんですか」

梨子 「はい、泳いできました」

千歌 「私の書いた歌詞、読んでくれますか?」

梨子 「はい、喜んで」

二体合体した怪人クラゲ女は、歌詞を二人で音読しながら、なかよく帰途についた。

千歌ちゃんの家の前で、怪人クラゲ女はふたたび二体に分裂した。

千歌 「家まで送ってくれてありがとう、クラゲさん」

梨子 「どういたしまして。
    こちらこそ、歌詞を見せてくれて、ありがとう。」

千歌 「えへへ、どういたしまして。
    ……あ、クラゲさん。
    さっきあなた、『自分は何者でもない』って言ったでしょ」

梨子 「まあそうね」

千歌 「でも、やっぱりそんなことなかったよ。
    傘の中に入れてもらったら、私には、ちゃんとクラゲさんの姿が見えたよ。
    それだけじゃない。
    傘の中に入れてもらったら、私には、ちゃんとクラゲさんの心も見えたよ」

雨の音にかき消されそうな声で、私は千歌ちゃんに訊いてみた。

梨子 「私の心は、どんな形をしてた?」

千歌 「お月さまみたいな、まるくてきれいな形をしてた」

梨子 「……そう。
    でもお月さまなら、自分で輝くことはできないわね」

千歌 「そんなことないよ。
    梨子ちゃんの心は、ちゃんと自分で輝いてるよ。
    だからその光が、私に見えたんだよ」

梨子 「そんなはずはない。
    私の心は、あなたの瞳みたいに輝いてはいない」

千歌 「へー、私の瞳、光って見える?
    自分だとよく分からないけど……」

梨子 「そうね、きらきら輝いてるわ」

それを聞くと、千歌ちゃんが嬉しそうに笑った。

千歌 「それはきっと、私の瞳の中に梨子ちゃんの心が映ってるからだよ」

半透明のビニール傘で顔を隠したままで、私は呟いた。

梨子 「そんなの、きれいごとよ」

千歌 「でも、きれいなんだよ。
    まるくて、すきとおっていて、きらきら輝いていて……」

梨子 「クラゲじゃあるまいし」

雨が止んだので、私は「クラゲ傘」を閉じて、そっぽを向いた。
遠くに見える海が涙で滲んで、きらきらと輝いて見えた。

その日の夜、私は自分の部屋の灯りを消して、考えごとをした。
月明かりに照らされた水槽の中で、クラゲの光が揺らめいている。

梨子 「ねえ、ジェリーちゃん」

梨子 「どうしたの、梨子ちゃん」

梨子 「水槽の中は、快適かな?」

梨子 「おかげさまで、すこぶる快適だよ。
    何といってもここは、梨子ちゃんが丹精こめて作ってくれた、とっておきのアクアリウムだからね」

梨子 「ねえ、ジェリーちゃん」

梨子 「どうしたの、梨子ちゃん」

梨子 「……ごめんね、今まで閉じこめてしまって」

梨子 「……」

梨子 「水槽の中から、出たい?」

梨子 「……でも、怖いよ」

梨子 「大丈夫だよ。
    水槽の外には、大きな海がどこまでも広がっていてね。
    そこにはきっと、あなたの友達になってくれるお魚さんが、たくさんいるんだよ」


梨子 「ちゃんと、みんなと友達になれるかな?」

梨子 「大丈夫だよ。
    その証拠に、私をあなたの最初の友達にしてほしいな」

梨子 「ピアノが弾けなくても、私のこと、好きでいてくれる?」

梨子 「もちろん」

梨子 「作曲ができなくても、私のこと、好きでいてくれる?」

梨子 「もちろん」

梨子 「どうして?」

梨子 「あなたと私が、おんなじクラゲだからよ」

私のその言葉を聞くと、ジェリーちゃんの傘が、嬉しそうにフワリと膨らんだ。

梨子 「ありがとう。
    それじゃあ私、もういちど、竜宮城でピアノの練習してみる」

梨子 「いい考えね」

梨子 「えへへ。
    こんどは、作曲の勉強もしてみようかな」

梨子 「そうね」

梨子 「ねえ、梨子ちゃん」

梨子 「なあに、ジェリーちゃん」

梨子 「私のこと、どんなふうに見える?」

梨子 「まるくて、すきとおって、きらきら輝いて見える」

次の日は土曜日で、学校は休みだ。
そこで私は、内浦で出来た初めての人間の友達である千歌ちゃんと曜ちゃんを近所の砂浜に呼んだ。

千歌 「梨子ちゃん、今日はどうしたの?」

梨子 「内浦でできた初めてのクラゲの友達が竜宮城に旅立つのを、見送ろうと思ってね」

曜  「クラゲ?」

私は微笑んで、家から持ってきた水槽を二人に見せた。

梨子 「紹介します。
    私のお友だちの、ジェリーちゃんです」

千歌 「はじめまして、ジェリーちゃん」

曜  「はじめましての挨拶とお別れの挨拶をいっぺんにしなくちゃいけないのは残念だけどね。
    でも、今日からこの広い海が、あなたの世界よ」

梨子 「今までありがとう、ジェリーちゃん。
    これからも、元気でいてね」

ジェリーちゃんの傘が、頷くようにフワリと膨らんだ。

梨子 「さよなら」

ジェリーちゃんが、波間をプカプカと漂いはじめた。

そのあと、千歌ちゃんと曜ちゃんが私の家に遊びに来てくれることになった。

千歌 「何して遊ぶ?」

梨子 「あら、遊んでるヒマなんかないでしょ。
    何といっても私たち、これから急いで曲と衣装を作らなきゃいけないんだから」

曜  「あ、それって、もしかして……」

梨子 「返事が遅くなってしまって、ごめんなさい。
    私もスクールアイドルの仲間に入れてもらっていいかな?」

それを聞いた千歌ちゃんと曜ちゃんの顔が、ぱっと明るくなった。

千歌 「ありがとう、梨子ちゃん!」

曜  「ありがとう、梨子ちゃん!」

梨子 「えへへ」

千歌 「ようこそ、われらがスクールアイドル、ええと……」

曜  「そういえば、グループ名をまだ決めてなかったね」

梨子 「浦の星☆クラゲ・シスターズっていうのはどうかな」

千歌 「いや、それはちょっと」

曜  「いや、それはちょっと」

梨子 「さあ、浦の星☆クラゲ・シスターズ(仮)の新曲、行ってみよう!
    題して、『君のクラゲは輝いているかい』」

そう言って私は、ひさしぶりに、ピアノをぽろんと鳴らした。
そうだ、曜ちゃんにお願いして、最初のライブの衣装には、クラゲ的な透明なヒラヒラを付けてもらおう。
初めて歌う曲の詞は、千歌ちゃんと相談して、ジェリーちゃんのようにキュートで希望にあふれたものにしてもらおう。

ああ、夢はどんどん膨らんでゆく。
クラゲの傘のように。

千歌 「ねえ、曜ちゃん」

曜  「何かな、千歌ちゃん」

千歌 「梨子ちゃんの鳴らすピアノの音、とってもきれいだね」

曜  「まるくて、すきとおって、きらきら輝いてるね」

千歌 「クラゲみたいにね」

※おわりです。
 読んでくれた方、ありがとうございました。

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