【艦これ】提督「もうめちゃくちゃだね」 (126)

・地の文あり
・遅筆

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 扉をノックすると廊下いっぱいに音が響いたような気がした。錯角だ。気にすることはない。始まってしまえばどうということはない。
 まさか最後のプランを実行するとは思わなかった。心臓が胸を突き破るんじゃないかと感じるほど膨れ上がり、縮むのを繰り返している。始まってしまえば、始まってしまえば……

「はい。どなた?」

 男の声。これから起きることなんて予想もしてない、穏やかな声。

「ルームサービスです」

 しばらく間が空いた。ドアスコープから俺のことを確r認しているのだろう。だけど男は必ず扉を開ける。ここのボーイの制服を着てサービスワゴンを押しているんだから。
 サムターンを回すカチリというごく小さな音を確かに聞き取った。

「どうぞ、開いてますよ」

 言い終わるまで待たなかった。ワゴンの二段目に置いたサイレンサー着きのコルトを掴み、ドアを開ける。部屋に体を滑りこませて乱暴に閉める。入ってすぐ、正面のチェアに座った男にダブルタップ。銃声はほとんど聞こえなかった。絶命したかどうかは確認の必要がある。

 視線と一緒に銃口を巡らす。あと一人。姿が見えない。バスルームの扉へ二発。あそこしか思い当たらない。扉を開ける。倒れていたのは女だった。まだ十代の後半、濃緑のセーラー服を着ていた。明るい栗色の髪の下の大人びた顔は苦痛に歪んでいる。二発とも胸の真ん中に当たっていた。右手には銃身の長い回転式拳銃が握られている。撃鉄は起きていた。危ないところだったわけだ。これが使われなくてよかった。

 女の喉に銃口を押し当てる。艦娘と言えど艤装がないとこんなもの。引き金を絞り落としてバスルームから出る。男の方もすでに息はなかった。一発は右眼に、もう一発は額に射入の形跡がある。

 長居はまずい。サイレンサーを外してズボンのポケットに押し込み、拳銃は男の両膝の間に置く。

 あとは……
 もう一度バスルームへ戻り、女が握っていた拳銃を拾う。撃鉄とフレームの間で指を挟んで引き金を絞り、そっと撃鉄を倒す。

 拳銃をベルトに挟み、出ようというときになって携帯電話の着信音が聞こえた。自分のではない。女のセーラー服のポケットに手を入れて鳴っている電話を取り出す。発信者の名前を見て心臓が止まるかと思った。フリップを開き、通話ボタンを押さずに耳に当てる。やがて留守電に切り替わり、発信者の声が聞こえてくる。女だ。


『もしもし。大井っち、忙しいみたいだね。落ち着いたらでいいから電話、してほしいな』

 電話の声はためらいがちだった。

『ほら、その、やっばり心配なこともいっぱいだから……ね。提督のこともあるし……』

 しばらくの間。やがて発信者はまたかけるから、と言って電話を切った。

 まずいかもしれない。電話もズボンのポケットに押し込み、足早に部屋を出る。自分の携帯電話を取り出し、あらかじめ入力してあった番号へかける。


「私だ。終わった。予定通り正面から出る」

 返事は待たずに切った。階段を降り、ホールを通って外に出る。出入り口の正面に停めてあったセドリックの助手席に滑り込む。間髪入れずに発進する。

「上手くいったのね?」

 山城はどうでもよさそうな口調で訊いた。普段通りアビエイション・グリーンの作業着を着ていた。よく見なければそれが海軍の制服だなんてわからない。きっとタクシーの運転手くらいにしか見えないだろう。

「まだだ」

 携帯に番号を打ち直して発信する。相手はすぐに出た。

「なにか動きはあるか?」

『いいえ、静まり返っています』

「変更だ。夜明けまで監視を続けろ。もし動きがあれば仕掛けてもかまわない」

『かしこまりました』

「頼むぞ、扶桑」

「なにかミスしたのね!」

 突然、山城が金切り声をあげた。耳を塞ぎたくなるが、本当にやってしまうと彼女との関係に致命的な亀裂が入るだろう。

「してない。してないよ」

「じゃあどうして姉さまたちに監視を続けさせるの。計画では撤収のはずよ」

「電話が気にかかるんだ」

「電話?」

「そう。二人を撃った後で大井の携帯が鳴ってな。今扶桑たちが監視してる宿毛湾の北上からだった。はっきりとではないけど、向こうもなにか気づいてるかもしれない」

「直接行く必要は?」

「私だったらやる。実際人を送るかどうかを決めるのは私じゃないけど」

 ちょうど宿毛湾泊地の提督が空席になった。もし俺が行くなら提督としてだ。

 ハンドルを握る山城がため息をついたのが聞こえた。

「不幸ね。姉さまとは離されるし、それでなにかをやらされるのかと思えばあなたの運転手……」

 山城のグチはまだまだ続きそうだったが、構わずに目を閉じた。


「どうぞ、降りられますよ!」

 ロードマスターの兵曹が張り上げた声にようやく気付いた。回転翼は回ったままだ。
 どうやらヘリの中で寝ていたらしい。乾いた口の中がそれを証明している。久しぶりに夢に邪魔されずに眠れた気がした。毎晩こうならいいんだが。

 機内通話用のヘッドホンを外し、ボストンバックの柄を掴む。ありがとう、と機内の誰にともなく叫び、降りるとすぐにヘリは離陸した。

 上昇し、小さくなっていくヘリをぼんやり眺めていると少しだけましな気分になった。
空は灰色の雲で覆われている。もうすぐ雨が降るかもしれない。


「ようこそ、少佐」

 どことなく気の抜けたような声だった。
 ヘリポートで出迎えてくれた子は見たところまだ十代だったが、着ているウィンターブルーの作業服には皺一つない。

「ありがとう。北上だね」

 踵を揃えて挙手の礼。立ち振る舞いはきびきびしているが、目はだるそうに細められている。綺麗な顔立ちをしているが、摑みどころのなさそうなやつだった。

「重雷装巡洋艦、北上です」

 北上は手を下ろすとご案内します、と言って俺に背を向けた。

「いいよ、慌てなくて。突然のことで大変だろ?」

 彼女が振り向く。

「中佐は残念だった。とても優秀な方だったよ」

 北上の目にはなんの感情も認められなかった。言う側の意思の込もらない、決まりきった文句なんて聞きたくないだろう。

「大井っちも……」

「なに?」

「雷巡大井も優秀な艦でした」

「あぁそうだったな。噂はよく聞いた」


 雷巡の噂など聞いたことがない。
 雷撃戦なんてもう起こらない。だから雷巡の二人はこんな小さな泊地でご自慢の魚雷も下ろして輸送任務に従事しているのだ。

 北上と大井は同じ球磨型の姉妹艦で、二人の間柄は親友と言って間違いないものだった。北上にとっては上官が死んだことよりも、親友が死んだことの方が辛いはずだ。

「大井の後継は来るんですか?」

 首を横に振る。彼女一人欠けても輸送遠征に影響はない。まさか口にだすわけにはいかないが。

「当面はこの宿毛湾泊地の艦は北上一人になる」

 北上ははい、と気のない返事をして歩き出した。

 執務室は清潔に保たれていた。ここの主はたった二日前に死んだのだから当然だ。そこそこ豪華な執務机と来客用のソファとテーブル。大体どこの根拠地も執務室はこんなもの。

「綺麗だな」

「一応、整理もしておきました」

 デスクの上やキャビネットを見ると、確かに前任者が用意したと思われる物は残っていない。

 俺が執務机の椅子に腰掛けると北上は机の前に立って気をつけの姿勢を取った。

「あぁそうか。君が秘書艦だな。いいよ、楽にして。それから無理にかしこまらなくていい。中佐がここに座っていらした時と同じ態度で構わない」

 すっと北上の顔から緊張の色が抜けていくのがわかった。

「ここの案内をしてほしいのだが、荷物を整理する時間がほしい。三十分後にここにまた来てくれ。それまでは自由にしてくれて構わないから」

「では、私は退室してますね」
 
 北上の声はもうすっかりリラックスしているように思えた。
 あんなやつが危険を冒して真実に迫ろうとする気概があるとは思えない。はっきりわかる。この任務は退屈になるぞ。


「昨晩はご苦労だったな」

 ホテルでの仕事から一夜明けてのデブリーフィングで局長は言った。昨日関わった者は全員揃っている。

 陽の射す窓を背に座る海軍情報局長は星二つの少将なのに全然軍人らしさがない。専門商社の管理職辺りとでも言ったほうがしっくりくる。小柄で、押し込めきれない狡猾さがたまに滲み出る。細い眼鏡の奥の目を絶えず抜け目なさそうに光り、なにを考えてるか全然わからない。

「後処理は憲兵隊がやった。警察よりも早くにな」

 局長は今しがた俺と扶桑が渡したファイルをパラパラとめくり、そっと机に置いた。

「宿毛湾泊地の中佐と秘書艦の雷巡大井は痴情のもつれから出張先のホテルで私物の拳銃を使って心中。警察も納得した」

 当然だろう。内務省にもぐるがいる。シナリオ通りだ。警察より先に憲兵が着くのも、憲兵の説明で警察が大人しく撤収するのも筋書きの一部だ。

「その後、宿毛湾に動きはなかったんだな?」

「はい。〇六〇〇まで私たちが監視しましたが、動きはありませんでした」

「庁舎の真上まで水上機飛ばしたけど誰も気付かなかったよ。警備の見直しがいるね」

 扶桑ののんびりした声。
 私たち、という言葉になにか思うことがあったらしく、山城は扶桑と俺を交互に見た。

 最上は昨日の任務に退屈していたらしい。頬杖をついて退屈そうに言った。

 局長はそれ切り押し黙って、机の上で組んだ手をじっと見つめていた。

「宿毛湾泊地の監視が必要じゃないか?」

 答える者はいない。誰もが必要だと思ってるからだ。

「正確には北上の監視」

 また間がある。

「君が持ち帰った大井の携帯電話のやり取りを遡った。大井は北上に中佐がどんなことに関わっていたか具体的には教えていなかったが、それでも北上に疑念を持たせるには充分だ」

 なんとなく予想していたことだから驚きはなかった。

「北上がなにか余計な詮索をしないかどうか見張っておけ。なにか動きがあれば妨害しろ」

「妨害に屈しなかったら?」


「僕たちが後ろから撃てばいい。簡単なことだね」

 時雨が控えめな笑みとともに身を乗り出して答える。
 局長は当然だという顔で頷いた。

「君は提督に復帰だ。泊地のトップが空席になって人事局はふためいているからな」

 提督。
 そう呼ばれると胸の奥がちくりとする。できれば思い出したくないし、できれば二度とそう呼ばれたくはなかった。

今回は以上になります

 出発のヘリに乗るところを扶桑たち第一艦隊は見送ってくれた。第一艦隊なんて便宜的な呼び方だ。情報局は艦隊など持っていない。彼女ら四人の名は人事局の名簿には載っていない。

「任務をさぼってくれて構わないよ。そうすればぼくたちがやることになるんだからね」

 時雨は自信ありげに言った。扶桑がたしなめる。時雨は重雷装艦を過小評価しているだろうが、本来なら強力な艦種だ。甲標的を装備し他の艦に先行して放つ開幕雷撃は巡洋艦クラスなら確実に沈められる。駆逐艦など当たればひとたまりもない。

 もっともそれは艤装のスペックだ。先ほど見た北上があのすばしっこい時雨に雷撃を当てられるとは思えない。


「あなたが撃たれたことを確認したら出撃するからね」

 山城はいつも通りのしかめ面。きっと無理やり連れてこられたのだろう。

「覚えておいてくれよ。僕たちは必ず行く。裏切らないからね」

 一瞬、頬が粟立つ。
 別に時雨が気味悪いからというわけではない。ただ彼女の裏切らないから、には奇妙な重さを感じる。一九四五年に沈んだ駆逐艦時雨がレイテ沖で経験した幸運––ある意味では悲運のせいかもしれない。

 理由はなんであれ、艦隊はいつでも来てくれるらしい。俺は出番がないと確信しているが。

 ふわっと過去に浮遊していた意識は扉をノックする音で引き戻された。

 提督が死んでから一週間と少しで後任が来た。まだ気持ちの整理なんて全然ついていない。もっとも、海軍は彼女の気持ちなんて考慮してくれるわけがないし、彼の代わりなんていくらでもいるということだ。

 退室したはいいものの、北上は執務室の扉の前から動かなかった。行く場所などない。提督はどうせ二人だからといつも執務室に居させてくれた。

 二人とも逝ってしまった。もしかしたらそういうことがあるかもしれないと大井は言っていたが、どこか本気にしていない自分がいた。憲兵隊は自殺と断定したそうだが、そんなはずない。原因は痴情のもつれ? バカバカしいにも程がある。二人はなにか大きな勢力に潰されたんだ。

 一人ぼっちになってしまった。大好きな親友も慕っていた上官もいない。改めてその事実を直視すると涙がこぼれそうになってくる。この先どうすれば?
 やったのは誰か、突き止めてやりたいとかそんな気概はなかった。だけどもし二人を殺した人と会えるなら、どうしてこんなことをしたのか訊きたかった。一体二人はなにに関わっていたの?

 新しい彼と上手くやれるだろうか?
 神経質で塞ぎがちな感じがする。提督にしては珍しく帯銃している。陸戦あがりかもしれない。あとで訊いてみよう。

 腕時計を見る。もう時間だ。扉の前に向き直り、小さくノックした。

 遠征要員を管理するのとここを通る艦隊への補給のためだけの泊地だ。設備も大したことはない。独自の工廠もないのだ。北上に案内させて施設を見て回る。立ち寄る先々で人を集めて挨拶をすませる。警備の陸戦隊は二個分隊十八人、憲兵隊は連絡のために派遣された二人だけ。通信隊もごく小規模だ。

 もし協力者を作るなら?
 もっともとりつけやすいのは憲兵の二人だ。防諜を強化しろと命令すればそれでいい。まだ彼らを使わない方がいい。北上一人なら一番監視しやすいのは俺自身だ。変に動かれると困る。

 泊地を一通り回って執務室に戻ったころにはもう夕方になっていた。結局雨は降らなかった。今も空は曇っている。


「まぁ、こんな感じです。小さな所だからすぐ覚えられそうですよね」

「そうだな。あぁ、前の提督は遠征もなにもない日はどうしてた?」

「そうですねぇ……訓練か、書類仕事のお手伝いでしょうか。元々二人しかいないんでよそと演習なんてありえなかったです」

「そうか……明日は一日私の手伝いをしてもらいたいな」

「ですよね。了解です」

「よし、今日はもうこれでおしまいでいい。帰っても大丈夫だ」

 しかし北上はぽかんとしたまま机の前から動かなかった。


「あの……歓迎会とかやらないんですか?」

 調子外れな声が漏れた。

「なんだ、やりたいのか?」

「いやぁ……私はやりたいんじゃないですけどねぇ……ここの人たちも忙しくて中々そういう機会持てないしせっかくですからぁ」

 最後にはは、と笑ってごまかした。しゃべっていく内に北上の視線はあらぬ方へ向いていった。
 あまり付き合い悪くすると今後なにかと気まずくなる。どうせぬるい任務だ。

「ただ酒にあずかりたいんだな。いいだろう。この辺店あるのか?」

テーブルに置かれたのはロックグラスとタンブラーだった。どうせ二人だからわざわざビールで合わせる必要はないと言った結果だ。
 庁舎から歩いて行ける距離の居酒屋。北上はやたらとここを勧めていた。きっと前任者や大井と何度も来ていたのだろう。
 北上のタンブラーには白い液体が入っていた。注文する時にあいつはカンターレラと言っていた。それじゃあ毒薬だと言ったら笑われた。きっと店のオリジナルのカクテルだ。

ロックグラスを手に取り、顔の前に掲げた。乾杯、と言おうとして吞み込む。前任者と同僚が死んで乾杯はないな。

「二人に」

 北上も同じようにグラスを掲げてそう言って同時に中身を一口飲む。
 琥珀色の液体は喉を焼き、さっと食道へ駆けて行った。

 グラスを置くとこちらを不思議そうに見ている北上と目が合った。

「前任、どちらだったんですか?」

「私か? ここの前は艦隊司令じゃなかった」

「陸戦?」

北上は自信があったらしい。俺のどこかを見て、確信したに違いない。制服の徽章だろうか?

「いや。この間までは海軍省の人事局にいたんだ。ただ元から羅針盤適性はあったから候補者の名簿にはあったけどな」

「海軍省? エリートじゃないですか」

「全然。さっき陸戦隊と言ったけど、どうしてそう思った?」

「帯銃してたので」

「当然じゃないか。前線で働くんだから」

 言いながら、そう言えばこれまで見てきた根拠地司令官は大抵銃なんて帯びていなかったなと思った。

「これまで見てきた提督にはほとんどそういう意識の方はいませんでしたねぇ……」

北上は頬杖をついてしげしげと俺のグラスを眺めた。
 うっかりお前の提督もいつも吊っていただろうと言う言葉が出そうになる。

「前の提督も持ってたんですよ。でっかいリボルバー」

 あの夜、あの部屋で、苦痛に歪んだ大井の顔が浮かぶ。あの時握っていたのは彼の銃だったらしい。

 ふと、北上が眼を細める。

「なんであんな呆気なく逝っちゃったのかなぁ……」

 沈黙。
 言葉が見つからなかった。なにかうっかりまずいことを言ってしまいそうだったし、北上に同情しそうになった。自分でやったことなのに、だ。

「すいません。こんな席で」

「いいんだ。あんな事のあとで普通でいろという方が無理な話だ。本当なら休みでもやりたいけど、艦は北上一人だから」

「いいえ、いりませんよ。遠征行ってた方がまだ気晴らしになります」

「本当にそうならいいんだけど」

 言いながらグラスをあおった。

久しぶりに酒で眠れる。
 スーツのまま宿舎のベッドに横たわり、思い返す。そろそろ日付が変わる。

『二人とも、どうしちゃったんですかねぇ』

 そろそろお開きにしようかという頃に、すっかり酔った北上が言った。どういう気分だったかわからないが、ヘラヘラしながら言っていたのが痛々しかった。

 仕方のないことだった。同情なんてしてはいけない。これまでにも何人か直接手を下した。実直な憲兵将校、好奇心とそこそこの正義感を持ち合わせた重巡洋艦に彼女とつるんでいた通信社の特派員……彼らに同情したことがあったか? ないだろう。同情することはずいぶん前にやめた。

 これまで通り、と自分に言い聞かせるように胸の内で唱えてそっと目を閉じた。


「艦隊や民間船舶の航行予定は毎朝通信隊が報告してくれます。作戦行動中の艦隊が臨時で立ち寄ることもありますけど、まあ十中八九は補給なので……」

 執務机に広げた書類や冊子を示して北上は宿毛湾泊地司令官の執務について説明していた。こんな小さな根拠地なのだからこの基地の業務自体が少なく、単調なものだ。艦の数も少ないので哨戒任務すらない。

「訓練は? 演習もここは難しいだろう。機会を作れるようにはしたいな」

「訓練はここで使える資源の上限が低いんで頻繁にとは言えませんね。演習なら、前の提督は遠征で一緒の鹿屋基地とやってましたね。あそこも水雷戦隊しかいないんですけど……」

北上の態度は昨日よりも淡白だった。朝、一目見て分かった。二日酔いだ。

「さて、これで一通りでーす」

 冊子をキャビネットに戻しながら北上は言った。
 時計を見る。一二〇〇を少し回っていた。午前中で全ての執務の説明が終わるとは思っていなかった。あとは俺次第、ということだ。

「昼にしよう」

 北上の顔はあまり明るくはならない。

「二日酔いか? 顔に書いてあるぞ」

「まさか」

「毎日その調子じゃなきゃ何も言わないさ。午後は北上の技量を測りたいんだけど、やれるか?」

「あっ……私、お昼は水が飲みたいなぁ……」


投下終了なら一言あると有り難いな

>>44
ご指摘ありがとうございます
今回より改善いたします

あの後ふらりと姿を消してしまったので本当に昼は水だけ飲んでいたのかわからないが、北上は一三一五ちょうどに庁舎裏の埠頭に現れた。顔色は良くなっているので大丈夫だろう。

「調子はどうだ? 走ってる途中で吐いたりしないだろうな」

「いいですねぇ、それ。魚雷よりやばい近接兵器ですよ」

 誰にともなく指を鳴らして北上はニッと笑った。やっぱり摑みどころのないやつ。
 北上は左手首にはめた格納状態の偽装を撫でた。三門の魚雷発射管を模したガントレット。三スロットの装備は一切指定せず、北上が最も扱いやすいものを持ってこさせた。

「始めるぞ。艤装を展開しろ」

北上はこくりと頷くと海の方へ向き、ガントレットから三本の小さな魚雷を射出した。炸薬が入っているわけでもない模擬魚雷は重力に従って海面にバチャバチャと落ちた。直後、魚雷が落ちた場所から青く大きな円が浮かび上がる。
 北上が載ると円は彼女の靴底を海面すれすれで留め、全身を包んで消えた。

「重雷装艦……」

 息をのんだ。
 濃緑のセーラー服に背負った艦橋はあまり目立たない。それより目を引くのは両脚、左手首に着けられた五連装の魚雷発射管だった。写真で見たこともあったが、大した印象はなかった。実際にこうして見ると威圧感がある。右手に握った小振りな14cm単装砲が不釣り合いだ。

「片舷だけで二十門の酸素魚雷。初めて見たでしょ? どうですか? すごいでしょ?」

北上は得意げな顔でこちらを向いた。お気に入りのおもちゃを自慢する子供みたいだ。だけど対空能力に不安がある。ほぼ皆無だ。水偵も積めないときてるから本当に雷撃特化。14cm単装砲は最後のための備えだろう。あんなものは野戦における拳銃ほどの意味しかない。最悪の場合に自分を撃てるだけだ。

「魚雷を撃つ前に中破したらどうするんだ?」

「大丈夫。そのための先制雷撃だから。航空戦と砲撃戦で中破しちゃうようじゃ勝ち目ないですよね」

 戦い方に関しては自分のやり方があるらしい。

「いいだろ。では出撃だ。交信用無線のチャンネルは2。進路を南西に取れ」

「りょうかーい。雷巡北上、出撃します」
 

魚雷を積むのも、一人で走るのも久しぶりだ。潮気を含んだ風が絶えず顔面にぶつかる。遠征で一緒の阿武隈たちもいないから自由にやれる。
 大井がいないのはわかっていたが、それでも振り向いてしまった。大井と単縦陣を組んだ時は必ず北上が前で大井が後ろ。それが一番しっくり来た。安心して正面だけを見据えていられた。

 代わりに北上の後ろに着いてきたのはガンカメラを装備した一機の零式水上偵察機だった。提督が基地航空隊から発進させたものだろう。基地航空隊なんて名ばかりで、必要だが破損したり未帰還で失った艦隊に貸与するための水偵が数機あるだけだ。

 新しい提督の人となりはまだよく分からない。無口で他人の話を聞きながら酒ばかり飲んでいる男、というのがこれまでの接触で得られた印象だ。摑みどころのない人。前の提督は全然違う。彼は飄々としていて、くだらない話が大好きで、そこそこに燃えるものを持っていて……まだ提督は出張に行っていると勘違いする時がある。今の彼は代理で……


『ラジオチェック。こちらは艦隊司令部。北上、聞こえてるか?』

 右耳に挿したイヤホンから擦過音が混じった提督の声が聞こえてくる。

「北上、聞こえてます。感、明、良好」

 肩の小さなPTTスイッチを押して答える。

『敵艦は見えたか?』

「いいえ」

『偵察機を先行させるか?』

「いいえ、大丈夫です」

『了解。アウト』

標的艦隊が見えたのは程なくしてだ。遠い前方、まだほんの黒い点が六つくらいにしか見えないが、単縦陣を組んだ標的艦だとはっきりわかる。

「敵艦隊、見ゆ」

『交戦許可。敵艦隊を全滅させろ。敵艦隊を全滅させろ』

「了解」

 交信を終えると進路を変更する。ちょうど標的艦と並行になる形だ。左手の魚雷発射管から五つの甲標的を放つ。甲標的はある程度自立して動いてくれるからそこまで精密に狙う必要はなかった。
 胸の中で数える。一、二、三、四……今。

 北上がカウントをやめたのと甲標的が魚雷を放ったのは同時だった。直接海中に潜った甲標的が見えたわけではない。しかしわかる。旗艦の一つ後ろと最後尾の標的が煙を上げて動きを止め、艦隊から脱落したのが見えた。

そうこれだ。敵艦隊の進路と魚雷を放った所がぴたりと重なる、忘れかけていた壮快感。この瞬間、北上の胸中にあった喪失感が消えた。

 進行方向を変えて標的に接近する。狙いもろくに着けずに単装砲を撃つ。ドン、という低く乾いた発射音。北上はこの砲声がきらいだった。陸戦が使う12.7mm重機関銃にそっくりの不快なうるささがある。

 ほとんどヤマカンで放ったが弾丸は前から五番目の艦に当たり、動きを止めた。残り三隻。

 進路を戻してまた標的艦と並ぶ。三隻なら魚雷をばら撒いて一挙に全滅も狙える。
 加速。標的艦を追い抜いて二十門の発射管全てから魚雷を放つ。雷跡は見えないが確信した。このタイミングなら全艦逃れられない。

 雷撃が旗艦を捉えることはなかった。旗艦は突然加速し、艦隊を離れていった。酸素魚雷の餌食になったのは突き放された二隻だけだった。

提督は中々に意地の悪い挙動を設定したらしい。旗艦はまだ加速している。北上も加速。単装砲で足止めしようとしたが、今度は上手くはいかない。全く当たらない。
 さらに加速。背負った機関部からキーンという不快で、危機感を呼び起こす甲高い音が聞こえてくるが構わなかった。どうせ入渠させれば直る。それよりもあの標的に魚雷を叩き込みたいという明るい闘争心に従う。

 旗艦の真横に並んだ所で再び牽制に単装砲を放つ。砲弾は海面に落ちただけだった。加速。機関部の熱が背中に伝わってくる。もっともっと。

 ついに旗艦を追い抜いた。そのまま距離を離し、二十門の発射管から残った魚雷を全て放つ。旗艦が追いつき、北上に並ぼうかという瞬間、旗艦に何本かの魚雷が刺さったのがわかった。

 派手な爆発、が起こったわけではない。訓練なので標的から黒い煙が上がり、動きが止まるだけだ。

停止し、片口のPTTスイッチを押す。

「敵艦隊、全滅しました」

『よくやった。帰投しろ』

 提督の声は平坦だった。それもそうだ。彼にしてみればただ北上のスペックを確認するための訓練。なにも特別ではない。北上は一人、久しぶりの壮快感を感じていた。

 水偵が引き返していくのが見える。それに続きもう二機、別の水上機が飛んでいった。呉鎮守府の航巡が哨戒のために放った瑞雲だろうか……

 気が緩んだ途端に胸に不快感がやって来る。無理やり収めるために昼休みに水を延々と飲んでたのがまずかったかもしれない。それにあの高速移動。
 もう抑えるつもりはなかった。だれも見ていないのだ。屈み込み、海面に吐いた。

ジーンズのポケットにも収まるという文句で売り出された小型軽量のラップトップの画面を見ながら思わず唸り声を上げた。

 北上の加速は尋常じゃなかった。
 全て偵察機のガンカメラを通してラップトップで観ていた。あの速度は異常だろう。艤装のカタログスペック以上のものが出ていた。

 精神論をアテにするつもりはないが、北上は思ってたより気概のあるやつなのかもしれない。少しにぶそうだと思っていたがそんなことはなかった。

 こちらに戻ってくる偵察機のカメラが追い抜いて行った二機の水上機を捉えた。機種の判断はすぐについた。

紫雲だ。フロートの形が独特なので簡単に見分けられる。それにあのスピード。高速性能を活かして敵中での偵察を期待された水上機だ。あんなのを使うのは……

 机に頬杖をついてウィンクする最上の顔が浮かんだ。ひまを持て余してるからといってあんな真似をよくやってくれたものだ。

北上が埠頭に戻ってきた。ラップトップを畳んで歩み寄る。

「大したものだ。あんなに早く走れるとは思わなかったよ」

「いえいえ。あれくらい」

 表情には出てないが、艤装を格納している北上の口調は満足気だった。

「実戦ではやめてくれよ。機関部ぶっ壊れるとまずい」

「大丈夫。今回はちょっと熱くなるだけで済んだから」

 全然大丈夫じゃないだろうという言葉は呑み込んだ。よく機関部が止まらなかった。
 北上はそんな心配は全くする様子もなく海をぼんやり眺めていた。

「ねえ提督、またやってくださいね?」

「訓練をか?」

「はい。訓練を、です」

「必要ならやるさ」

 その返事がよほど気に入ったらしく、北上の顔がすっかり明るくなった。

今回は以上になります

執務机に置いてあった二つの携帯電話の内の一つを掴み、テンキーを叩いた。電話帳に入ってない番号だが、もう何度かけたかもわからない番号なので指が勝手に動く。
 発信キーを押したところで考える。出るのか? 出るだろう。一ヶ月の半分以上はふらふらしてるやつらだ。

 果たして相手はすぐに出た。ほらひましてたんだ。

『やあ提督』

 最上の口調はからかうようだった。提督、という言葉を強調したのが余計に腹立たしい。

「ひまを持て余してるみたいだな」

『まあね。最近は訓練もないから余計にひまだよ』

あいつらの訓練は夜間に、横須賀鎮守府の演習場を借りてこそこそ行われる。横須賀鎮守府の艦隊が夜戦演習してれば当然使えない。

「だから遠路はるばる偵察機を送り込んだわけか。俺たちの様子見に」

『偵察機?』

「そうだよ。お前たちの大好きな紫雲だ」

『なんのこと? 呉とかの哨戒機じゃなくて?』

「別に怒ってないから、うそつくなよ」

『ゴメン……君の言ってること、本当にわからないよ。呉とか鹿屋の装備品目録は見たの?』

「見たよ。紫雲なんてない。俺の知ってる中で紫雲は横須賀とお前らしか持ってない」


『そうか……』

 最上はしばらく考え込むように唸っていたが、やがて言った。

『新しく配備されたのかもね。調べるように局長に言っておくよ』

 腑に落ちない。ひどく奇妙に感じた。

「そうか……」

『なんか元気ないじゃん。寂しいの? 北上って子と上手くやれてない?』

「いや、そうじゃないんだ……」

『そうか。なら良かった。偵察機についてはちゃんと言っておくからさ』

「あぁ……頼むよ」

それきりこちらから電話を切ってしまった。
 もやもやした気分のまま携帯を見つめていると、不意に扉がノックされた。我に帰り、入れ、と短く返事する。

「北上です。現在時刻は一九〇〇」

「あぁそんな時間か。もうあがっていいぞ」

 北上が訓練で消耗しているとは思わなかったが、彼女をこれ以上残しても何もない。

「提督は?」

「私ももうすぐあがる」

「夕飯、一緒にどうです? お昼も抜いてましたよね」

 その通り。訓練の準備で昼休みは潰れた。別に昼など何日抜いても気にならない。


「食堂、ご案内しますよ」

「それはまずい。食堂は准尉までのものだ」

「あっ……」

「用は時報だけかな?」

 艦娘には便宜上、准尉の階級をあてられてる。北上の階級章は彼女が五等准尉の階級にあることを示してる。
 ここに士官食堂は、ない。五本の指で数えきれる下級将校たちのための食堂を設ける予算はたぶん下りることはない。不満はない。

「せっかくですから。ご一緒どうです? 私も今日は外にします」

 距離が近いやつ。
 本当は夕飯くらい一人で食べたかった。だが、いいや、と無下に断るのはなんだかかわいそうな気がした。きっと一ヶ月前は毎食大井や俺の前任と一緒だったに違いない。その二人も俺が手にかけたから今の北上は一人ぼっちに……

こんなことを気にしてる自分があわれに思えてきた。前はそんなことなかったのに。同情しないのは鉄則だ。

「いいよ、行こう。どこかいい場所あるか?」

たどり着いたのは昨日と同じ居酒屋だった。いくらチェーン店ではなく静かな店と言っても、軍人がこんな所に出入りするのはいかがなものか。私服で来てるから古参の店員も我々が軍人とは知らない、とは北上の言だ。明日から近くの店に出前を頼もう。
 
 横須賀にいた頃は将校クラブに出入りできた。

「さて、どうしましょうかね。とりあえず……」

「今日は飲まないぞ。北上も私の前では飲むなよ」

「うぇぇそんなぁ……」

 前任と大井がいた頃は北上はどうしてたんだ。北上が誘いに来たのを見ると、中佐や他の士官も食堂に出入りできるのかもしれない。或いはここが将校クラブだったか……

「俺が来る前はどうしてた?」

「夕飯ですか?」

「そう。食堂、もしかして私も入れたのか?」

「入るだけならいいんじゃないですか。食事はたぶん出せませんけど。陸戦の警備隊長さんはいつもお弁当、食堂で食べてます」

「中佐は毎日そこで?」

「そうでしたね。大井っちも私も一緒に」

 たぶん、その面々で長いこと一緒だったんだろう。十年一日みたいに同じ顔が揃って食事というのも飽きそうな気がするが、やってみれば楽しいのかもしれない。

「そういえばですね……」

北上は真剣な顔で身を乗り出してきた。

「今日の訓練、どうでした?」

「訓練? あぁ思ってたよりもだいぶよかったよ。正直な話、雷巡というのは私の理解してたよりもずっと強力だ」

 北上の顔がぱっと明るくなった。こんな顔今まで見たことない。

「でしょ? すごかったでしょ?」

「すごかったけど、頼むからバカみたいに張り切らないでくれよ。例えば今日の無理な加速とか」

「なんのなんの、あれくらい。遅いくらいだよ。本当なら甲標的なんかより高温高圧缶とかあればいいんだけどね。大井っちなんかもっと出して機関部止めちゃったことあったもん」

「大井か?」

 またあの時の光景が浮かぶ。胸に二発の.45ACPを受けて苦しむ大井の姿。すっかり焼きついてしまったらしい。なんとかかき消そうとする。


「そうそう大井っち。すごかったんだよ」

「大井はどんな艦娘だったんだ?」

「そりゃあもうやばかったんだから。私なんかよりずっと攻撃的で。でも本当はすっごく優しいんだよ……」

 あわれなやつ。
 中佐と大井を殺したのは俺だと明かしたい衝動がまた湧いてくる。今度は興味半分じゃない。ただ北上がかわいそうに思えてきたからだ。

 今はヘラヘラ笑って話してるが、一人になると二人のことを思い出して泣いてるのだろうか。

「大丈夫ですか?」
 
 不意に北上の顔に、あいつの面影が見えた。息をのむ。本当にあいつが目の前にいたような気がした。
 容姿が似てるわけじゃない。性格も、近くはない。なのに……

たまらず立ち上がった。

「あれ、どうしたんですか?」

「すまないな、やり残してきたことを思い出した。誘ってくれて悪いが今夜は一人で食べてくれ」

 テーブルに五千円札を一枚置いて店を出た。背中には北上の弱々しい視線がいつまでも刺さってるような気がした。

未だに夢に見ることがある。もう三年も前のことだ。あいつが俺の目の前で沈み、俺自身も深海棲艦がそこら中にいる海に投げ出された日のこと。

 あいつはあの作戦で囮にされた。沈むことが前提のようなものだった。そういう作戦だったのだから仕方ない、というやつが大多数だがそれでも俺は納得したくなかった。

 昨晩はよくなかった。北上にはうそを言って宿舎に帰り、一人で全て済ませた。結局、寝付けることはなかった。

 執務室の扉がノックされる。

「入れ」


「失礼します。時刻は〇八〇〇。おはようございます」

「はいおはよう、北上。昨日はせっかく誘ってくれたのに悪かったな」

「いえいえそんな。お礼言わなきゃだよ。ありがとね」

 北上はニコニコしながら執務机に通信隊のところから持ってきた書類の束を置いた。うそをついて抜け出したことに対する細やかな罪悪感が今さら湧いてくる。

「提督、ひどい顔だけど大丈夫ですか?」

「私がか? そんなはずないだろ」

 きっと今の俺は青白い顔をして、吐き気を抑えようと無意識に口を固く結んでるんだろうなとちらりと思う。

「大丈夫ならいいですけど。いきなりそこで吐いたりしないでくださいね」

「言ってくれるな」

 北上の冗談を笑ってやり過ごし、最初の書類を手にとる。

「さて今日は……あぁ今日から遠征だな?」

今回は以上になります

北上と鹿屋基地の水雷戦隊で行なう資源輸送遠征は毎週水曜日に始まり、金曜日の朝に帰ってくる。

 水雷戦隊はここに到着したら補給を受けて北上を加え出発し、島全体が集積地になっている神津島で資源を詰め込み、横須賀鎮守府と演習で使われる伊豆大島でそれらを降ろして帰ってくる。

 長いことその経路で遠征を行っている。なにも特別なことはない。

「鹿屋の艦隊と合流して一一〇〇にここを出発か。それまでに装備、整えとけよ」

「りょうかーい。艤装、見てきますね」

それから鹿屋の艦隊が到着したという報告を受けたのはすぐ後だった。大した時間が経ったように感じられなかったというだけで、もう十時半を回っている。

 北上は時報以外で執務室に来ることはなかった。それでよかった。いられたらいられたであいつの影がちらつくような気がしていた。

 庁舎裏の埠頭に出ると艦隊はもう補給を終えていたらしく、整備補給隊員たちの姿は見えなかった。日差しがまた吐き気を誘う。

 俺の姿を認めた旗艦らしい金髪の子は姿勢を正そうとしたが、止める。

「そのままで聞いてくれ。今週から中佐の後任として配属された。なにそつよろしく」

「鹿屋基地第一艦隊、旗艦の阿武隈です。お世話になります」

 阿武隈は無帽なのに挙手の礼して弱々しく笑った。


「ほらみんな、新任の提督にご挨拶」

 阿武隈が振り返ると他の四人はあまり綺麗とは言えない一列横隊になって一人ずつ名乗った。弥生、皐月、照月、神風。艦隊防空を担う照月以外は少ない燃料でより遠くまで行ける燃費重視の駆逐艦。照月と対潜担当の弥生以外は武装を最低限にして輸送用ドラム缶や大発動艇を引っ張っている。

「司令官、北上さん大丈夫なんですか?」

 赤く長い髪を大きなリボンで結った神風の顔つきはいくらか険しかった。心配なのはわかる。

「大丈夫。とは言っても心配だと思うからちゃんと支えてやってくれ。私には言いづらいことも君たちには言えるだろう」

雰囲気が暗いからもう少しなにかしゃべろうかと思ったところで北上が艤装を着けてやって来た。魚雷発射管は両脚のものを残して取り去り、単装砲もない。代わりにロープで繋いだドラム缶を引いている。

 北上のおまたせ、という気の抜けた声で沈みつつあった雰囲気が和らいだ。

「阿武隈なに暗い顔してんのー?」

 北上が阿武隈の髪を手でかき乱す。彼女らの中で通じるお約束のネタらしく、駆逐艦たちが笑顔になった。

「君たち、そろそろ時間だ。補給は忘れてないか? 艤装は万全か?」

 各々艤装を確かめる。問題ないらしい。

「では遠征艦隊、出撃だ。集積地から資源を輸送せよ。資源を輸送せよ」

「了解です。遠征艦隊、出撃します。艦隊、単縦陣」

 旗艦の阿武隈を先頭にして出発する。最後尾に着いた北上が振り返る。

「行ってきます」

 ひらひらと笑顔で手を振って背を見せる。艦隊が見えなくなるのに時間はかからなかった。

彼女らを見送って庁舎へ戻る。執務室の扉の前で立ち止まった。人の気配がした。しばらく待つが中で動く気配はない。座っているらしい。ここにそんなことをする人間はいない。

 腰のホルスターから普段使いのベレッタの9mm半自動拳銃を抜き取り、安全装置を外し撃鉄を起こす。あとは引き金に指を置いてほんの少しテンションを加えるだけで弾が出る。

 拳銃を後ろ手に持ち、扉を開ける。乱暴に扉を閉め、机の方に銃口を向ける。相手が見えた。相手は俺の椅子に腰掛けて保管してあった回転式拳銃を向けてきた。

「それ、下げてくれないかな。僕も下げるから」

「なにしに来た? 時雨」

時雨はニコニコして椅子に深く腰掛け直し、銃を置いた。机の上にはまだ湯気の立つマグカップが二つある。

「まずは銃を下げてよ。コーヒーでも飲もう」

 まるで自分の部屋のように言った。
 暴れるためにここに来たわけではないらしい。銃をホルスターに戻し、来客用のソファに座る。時雨もマグカップを持って向かいに座った。

「あの回転式、中佐のだよね」

 答えなかった。正解。あれは押収したものではなく鹵獲品だ。俺が持ったままでも構わない。

「まぁなんでもいいけどさ」

「なにをしに来た?」

「機嫌悪くない?」

「こんな風に部屋に入られてなんとも思わないわけないだろ」

「あんなザルな警備で誰も入れないとは思ってないよね。上番中の警備隊員を全滅させることもできたよ」

仮にも今のここのトップは俺だ。時雨の発言がおもしろいわけがない。

 しばらく言葉を交わさずに張り詰めた空気だけが漂っていたが、やがて疲れた。時雨はこういうやつだ。よく言えば仲間には素直に何でも言う、悪く言えば相手の気持ちを考えない。

「で、どうしたんだよ」

 時雨は安心したらしく、いつもの笑顔に戻った。

「昨日の水上機のこと。大変だったんだから」

「なにかわかったのか?」

「なにもわからないから僕は来たんだ。局長も珍しくビビってたよ。ちょっとした波紋を呼んだね」

 ポケットをがさごそやり、折りたたんだ地図をテーブルに広げた。ごく簡単な日本全図だが、時雨の几帳面な字であれこれメモや矢印が添えられてる。

「君の報告や写真から昨日の紫雲の進路を考えてみた。おそらくあの水上機は宿毛湾から北東に進路をとってた」

 時雨の細く白い指が点線で描かれた矢印をなぞる。

「この進路上にある施設で航空機を扱えるのは小松島基地、阪神基地、それから横須賀鎮守府。この内で紫雲を配備してるのは横須賀だけ」
 
 地図を折り畳み、顔をあげた。

「実際にあの紫雲が通ったと思わしきルートをなぞってここまで来たんだ。なにか監視するべき穴がもしかしたらあるんじゃないかと思って。それからもしかしたらあの機に会えるんじゃないかという期待もあった」

「収穫は?」

「なにもない。穴があるとすれば管轄区域の境か、彩雲の行動半径ギリギリの所かと思ったけど監視は行き届いてる。なにを見に飛んできたのか全然わからない」

 ため息と共に時雨はコーヒーを一口すすった。

「という訳で、僕が個人的に出した結論は横須賀航空隊の人たちが出撃として示したポイントを間違えちゃったんじゃないかな」

なんともすっきりしない。しかしこれが一番それらしい。俺もこの話を聞けばきっと同じ結論を出すだろう。そして局もその結論に至るはずだ。

「あぁそういえば途中でお姫様と話してきたよ」

 お姫様、という言葉だけで胸の中が嫌悪感でいっぱいになる。あいつは文字通り生理的な嫌悪感を呼び起こす。できれば話題にしたくなかった。

「なんかお言葉を賜ったか?」

「いつもの調子。ただそろそろかもね」

 そろそろ、なんて何度聞いたかもわからない。そろそろの先は一生来ないんじゃないかとすら思ってる。現状を見ればそれでもいいが。

「それにしても……」

時雨は部屋をぐるりと見渡した。

「提督ってこんないいオフィスをもらえるんだね」

「あぁ。局の俺のオフィスにはもう戻りたくないね。お前たちの部屋のがよっぽど良いのは理不尽だ」
 
「北上とはどう?」

「上手くやれそうだよ」
 
「なら良かった。彼女もかわいそうだね。せっかくの重雷装も活かすことなんてできないんだから」

 雷撃が必要なほど苛烈な戦闘なんてもう起こらない。今や駆逐艦や軽巡に遠征以外での出番はないのだ。基地航空隊や空母が航空機であらかたの敵を沈め、撃ち漏らしたのを戦艦や重巡が狙撃するだけでいい。その程度の敵しか現れない。俺たちがそうしてると言っていい。

「それよりここで少しは君も心休まるといいんだけどね」

「俺が過去の殺しについて気に病んでると思うか?」

「まさか。五人殺した人が今さら吹っ切れないとは思ってないよ」

「どうかな。あんなに近づいてやったのは初めてだ」

 そう五人。もう五人殺したんだ。

今回は以上になります
しばらく空きます

殺しについては後悔はない。時おり同情することはあるが。あの経験がトラウマにはなったのかもしれないが、それなりの信念に基づいたものだから間違っていたなんて思わない。

 一人はある憲兵下士官。優秀な男で局は最初スカウトしたがっていた。しかし彼の正義感は俺たちの企みを拒み、上に報告しようとした。彼が自動車で移動している時に俺が前方から光を焚いて事故を誘発させた。


 次は二人一緒。一人は通信社の特派員、もう一人は好奇心が強い記者風情、大湊警備府所属の重巡。重巡の方はだいぶ前から海軍にバカらしい疑いを持ってたらしく、特派員の男と一緒にあれこれ探り回っていた。泳がせていても一向構わなかったが、まずかったのは二人が扶桑たち情報局の艦隊の写真を偶然にも演習場で撮ってしまったこと。

 当初の目的は写真が保存された記録媒体を盗み出すことだった。四日も監視を続けたのに何に保存して、どこに隠したのかついにわからなかった。

存在しないことになってる艦隊だというのにあちらも気づいたらしく俺たちは実行に踏み切り、二人はどこかへ逃げようとした。ちょうど二人が深夜に大湊の庁舎から出たところを狙撃した。

「その前は八〇〇メートル先からサコーの.338で二発だったね。忘れもしないよ」

 時雨が嬉しそうに笑う。
 あの時に観測手をしていたのは時雨だ。よほどあの狙撃にインパクトを感じたらしく未だに語り草にする。

 最初に男を撃った。隣の男が突然倒れたことに驚き、重巡は彼に駆け寄った。泣きながら何事か語りかけていた。そして不意に彼女は俺たちの方を向いた。一キロ近く離れていて、しかも夜。見えるはずがなかった。なのに暗視スコープ越しに俺と目が合った彼女は大きく目を開いた。直後に二発目。

 未だに彼女と目が合った時のことは夢に見る。あまりいい光景とは言えない。

 写真を収めた媒体は当然回収した。持っていたのは男の方だ。革バンドに重巡の名前を刻んだ腕時計、その裏に留めてあったマイクロSDカード……

そして中佐と大井。
 あの男は最も危険だった。単身で俺たちの企みを明るみに出そうと大井を使って横須賀鎮守府の周辺を調べまわった。

 これまでに情報局が隠しきれなかったボロを少しづつ拾い上げて、月一の根拠地司令の会合で公表しようとした。
 当初の手はずだと憲兵の時と同じように交通事故を起こすはずだった。街中で狙撃は無理だ。しかし中佐は隙を中々見せず、ついに交通事故は無理となった。そこで強引なあの手段に出た。

「大丈夫かい?」

 時雨の声で我に返った。

「なにが?」

「ぼぉっとしてたからさ。魂が抜けちゃったみたいに」

「もうとっくに抜けてる」

 時雨は小さく笑って立ち上がった。

「さて、そろそろ行くよ」


「見送りは?」

「まさか。また何かあったら来るよ」

「今度はこんな入り方するな」

 最後の言葉が届いたかどうかわからなかった。言い終わるより前に時雨は窓の一つから外へ出て行った。

 執務室が鎮まり返る。ソファから立ち上がりたくなかった。なにかしようという気力がすっかりなくなっていた。

 その言葉が出てくるまでに長い時間がかかった。元から気づいていた。それは自分だけの感情だからと抑えていただけだ。だけど不意にそれに向き合うことになった。

 もう殺しもだましもやりたくない。

今日ばかりは一番後ろでよかったと北上は思った。駆逐艦が振り返ってくることは滅多にない。十メートル先の弥生はことさらにその心配がない。

 なんとなく、泊地を出られてほっとしている。あの提督はあまり自分とは打ち解けたくないらしい。付き合いが悪いわけではない。どこかに誘えば応えるし、会話がきらいなわけでもなさそうだ。だけどそれら全て表面上のことのように感じる。

 大井と中佐が恋しかった。大井にはなんでも話せた。中佐は艦娘という存在を理解しようと努力していた。

〝二人ともどこ行っちゃったの?〟

 ふとそんなことを思う。
 どこと言ってもこの世ではないどこかだろう。あの頃が懐かしい。二人とも死ななければまだ続いいたはずのあの日々。単調なのに、楽しかった。あの時間が続くなら、ずっと魚雷を降ろしたままでも良かった。揃いも揃って軍人なのに街まで出ては飲み歩いたり、非番の陸戦隊員たちを巻き込んで装備でも数でも勝る呉鎮守府の艦隊との演習を前に一晩中作戦を考えたり……

もうそんなこともできないと思うと、言いようのないほど大きな喪失感と、焦燥感が胸の内を占める。

 艤装を着けてあの泊地に着任した日のこともはっきり思いだせる。
 北上の姿を見た大井はしばらくぽかんとしていた。そして北上を抱きしめた。

 重雷装艦はかつての大戦で大きな戦果が期待された。列強が一目置く酸素魚雷を主武装として艦隊決戦の切り込み役を担うものと期待されていた。当時の海軍からも大事にされていた。しかし実際に戦争が始まれば、魚雷の出番など来なかった。大井と北上に任されたのは降ろした魚雷の代わりに載せた大発動艇と輸送任務だ。日陰者になるのにそう時間はかからなかった。

 やがて大井は沈み、北上だけが残った。不安だった。回天を積まれ、それを使うんだと訓練。人の命を撃ち出すだなんて絶対にいやだったが、彼女が泣いたところで誰にもわかるはずがない。一人残された重雷装艦の胸には不安しかなかった。それに孤独だった。

だからまた大井と会えたときは北上自身も涙を流した。姉妹艦すら残らず孤独のまま、傷心のまま終戦を迎えた北上はやっと光を見た気がした。絶対に離れないと二人で約束した。

〝また先に逝っちゃったね〟

 もう沈みきろうかという夕陽の方に視線を向けたまま、胸の中で呟いた。

『みなさーん、間も無く集積地です。問題はありませんか?』

 右耳の小さなイヤホンから阿武隈の声が聞こえる。


『弥生がむちゃくちゃ怒ってること以外は問題ないよ』

 弥生の前を行く皐月が答える。

『えぇ……そんなに怒ってるの? どうしたの弥生ちゃん……』

『やばい。ガチギレ。ね、北上さん?』

 振られたようなのでPTTスイッチを押す。

「やばいね。阿武隈ボコボコにするって」

『怒ってないから。皐月をボコボコにします』

 弥生が無線機に触れるのが後ろ姿でわかった。
 皐月の怒ってんじゃん! という悲鳴が今度は無線機を通さずに聞こえた。
 思わず吹き出す。神風と照月の笑い声が聞こえてきたのも同時だった。


『もう! 到着直前の点呼くらいマジメにやってください! 北上さんもふざけないで』
 
 もう何度やってきたかわからないお約束の茶番だ。二週間前にもやったというのに、ずいぶん昔のことのように感じる。このやり取りが未だにざわつく胸の中を落ち着かせた。

「はいはい。ゴメンね。北上、異常なし」

 北上が始めると阿武隈の直後の神風までが滞りなく返事する。

『全く……最初からこうしてくださいね……』

 阿武隈が無線越しにぶつくさ小言を言っている内に艦隊は集積地に着いた。
 艦の玄関である埠頭で作業員たちに従ってドラム缶と大発動艇を降ろすと当直の若いハンサムな将校が迎えてくれた。鹿屋の面々はあの将校によく懐いているらしく連れられて庁舎の方へ歩き出した。

それが見えたのは偶然だった。
 偶然、視界の端に見えた。埠頭のずっと端に艤装の影。背が高く、髪が長く、大きな艤装を着けている。暗く、シルエットしかわからなかったが、艤装の大きさからして巡洋艦クラス、たぶん軽巡だろう。

 彼女は帰ってきた一機の水上機を背の機関部の大部分を占める格納庫にしまい、暗闇の中に姿を消した。

「北上さん?」

 前を行く阿武隈に呼ばれて、我に帰る。

「少佐、集積地に新しい艦娘が?」

 若い将校が振り向いた。彼はにべもなく言った。

「あぁ彼女は軽巡の大淀。ここに配属ではなく巡察で来てるだけだよ。最近建造された最新の艤装でね。所属は市ヶ谷になるな」

 阿武隈たちが市ヶ谷と聞いて意外そうな顔をした。
 市ヶ谷。陸海軍の憲兵隊司令部が置かれている。軽巡大淀は、憲兵らしい。

今回は以上になります。

闇夜が包めば陸と海との境界線はわからない。時雨は夜目が利く方だからぼんやりとはわかるが、普通の人間が見れば絶対に見分けられないだろう。背後の窓から見える伊豆大島演習場は今の所無人だ。灯りもないから本当に陸と海の境がわからない。
 書類の上ではこれから横須賀鎮守府が夜戦演習をすることになっている。当然、実際はちがう。横須賀の提督が了解していることなんだから書類なんていくらでもごまかせる。

 ヘリの車輪が地上を捉えたのがわかった。よく誘導灯もない中でパイロットはヘリポートに着陸させられるものだ。聞けば彼らはイギリス陸軍の統合ヘリコプターコマンドで訓練を受けたこともあると言う。イギリスはいよいよ大変なことになってるのにまだ陸軍が精強なのはおかしな話だ。女王陛下のウォースパイトが本当に無敵だとでも思っているのか。


『到着です』

 機内通話用のヘッドホンからパイロットの声が聞こえる。
 クルーがドアガンを機内に引っ込めると最初に駆け出したのは向かいに座った最上だった。真っ暗な中をためらいなく走っていく。一瞬、青い円柱状の光が見えた。山城がそれに続く。水上機を発艦させた音がかすかに聞こえた。

 ヘッドホンを外して作戦行動用のイヤホンを耳につける。隣に座る扶桑も同じ様に無線を切り替える。

「艦隊、チェックイン」

すぐ隣に座っているので扶桑の声はそのまま聞こえた。間髪入れずに山城と最上が返事を入れる。時雨もスロートマイクのPTTスイッチを押して小さな声で返事を吹き込む。

「山城、最上。どう?」

『侵入者はありません、姉さま』

『こっちも同じ。大丈夫だよ』

「了解です。上がってきてね」

 二人はいつもの手順に従って夜偵と紫雲で島を周囲から見て回った。軍の施設で、しかも演習場なのだから部外者は立ち入り禁止たが、一度だけある通信社の特派員が入り込んでいたことがあった。

 その男はまずいことに艤装を展開した山城と最上の写真を撮ってしまった。公表しようなどとバカなことを考えていたせいで彼の的になったが……

「局長。問題ありません」

 向かいのシートに座る海軍情報局長は小さく頷いた。最初に立ち上がったのは彼ではなく、両脇の四人の局員だった。黒い装備で全身を固め、ヘルメットとバラクラバで顔を隠している。散弾銃と自動小銃を手にしていた。

 四人に続くように局長はヘリを降りていった。扶桑と時雨は彼の後ろに着いて外へ出る。

 周囲はもう一機のブラックホークに乗って来た局員たちにぐるりと囲まれている。動きまわるような音は全然しなかった。彼らも闇夜に溶け込むために黒い装備で統一している。どこかに狙撃手も配置しているはずだ。

ヘリのライトが点いたお陰で足元もよく見える。だが時雨は真っ暗な方が好きだ。自分もよく見えない代わりに暗闇が姿を隠してくれる。照明弾をばら撒いて探照灯を焚くよりよほど安心できた。
 
 局長がぴったり着いてきていた四人に頷くと彼らは離れた。揚がってきた山城と最上が合流してより内陸側に進む。
 ヘリを着陸させたのは島の南、波浮港と呼ばれていた漁港だ。演習地になる前は観光地だった。

 それは岩肌の地面に紛れて全く気づかないまま起き上がり、時雨たちの前に立った。あと十メートルもそのまま進んでいれば踏みつけていただろう。岩に埋もれていた真っ白な上半身を起こすと、全長はおよそ三メートルほど。両腕は黒くゴツゴツとしていて義手に見えてくる。顔には眼鏡のようなものをかけ、ヘッドフォンらしきものも着けている。人間にそっくりだった。

 彼女は初めてコンタクトを取ったときにこう名乗った。

〝集積地棲姫〟

この呼び名はイ級やホ級と同じく一つのカテゴリーに属する深海棲艦を総称するもので、彼女らにも一体一体に固有の名前があるらしい。その名は人間に発音することはできないそうだが。

「ブッシハ アツマッタ……ナンダ」

 甲高い声に片言の日本語。気味が悪い。彼の言っていたこともわからないわけではない。最初はただ平坦な一音を発し続けていただけなのだから大きな進歩だ。

「我々も準備は整った。日を待つだけだ」

 集積地棲姫は押し黙った。局長の言葉を理解しきれなかったのかもしれない。

「言った通りだ。あとは海軍の主力が集まる演習の日を待つだけ」

「センリョクヲ シュウケツサセル……マニアウヨウニ」

 珍しく局長の顔が曇った。滅多に表情を変えない男だが集積地棲姫と話すときだけはいつも困ったような顔をする。話が噛み合ってるのか心配になるのだろう。七カ国語を母国語のように話せても深海棲艦相手には苦戦する。

「これまで話し合ってきた通りにやればいい。今日は忠告に来た。忠告だ」

「ナニヲ チュウイスル」

「最近我々のことをこそこそ嗅ぎ回ってるやつがいる。艦載機を警戒しろ。これまでよりも……不必要なら姿を見せるな。特に昼は」

彼女らに水上機の概念はない。瑞雲も夜偵も紫雲も艦載機で括られる。
 局長は先日に彼が偶然捉えた紫雲を未だに警戒した。時雨と別のやり方で調べていた最上が同じ結論、出撃方向の指示が間違って出されていたという説を全然信じていない。結局、彼は艦隊に引き続きの調査を命じた。あの紫雲を操る誰かが必ずいるはずだと。

「ライジュン トハ チガウ」

「あの二人とは違う。別のなにかだ。いずれわかるだろう」

「ワレワレガ シズメテモ」

「それはならん。あなた達は大人しくしていてほしい。我々が解明する」

 返事はなかった。どうしたらいいか考えているのか。勝手に局長の言う〝なにか〟を排除しようと企みだしていても不思議ではない。
 深海棲艦は総じて好戦的と言われる。どちらかが勝手に動けば戦争が再開しかねないのを忘れて事を起こすことも考えられないわけではない。

沈黙が続いた。にわかに緊張感が漂ってきたころ、最上と山城が視線を交わした。最上が局長の耳に顔を近づけて、なにかささやく。

〝偵察機〟

 最上の唇がそう動いた。

 扶桑がマイクに何か吹き込む。待機しているパイロットたちに向けてだ。

「噂をすれば、だ。所属不明の艦載機がこちらに向かっている。まさかあなた達のではないな?」

「チガウ」

「ではこちらのだ。絶対に、勝手に落としたりしないでくれ。撤収しなければならない。あなたも姿を隠せ」

「ジッコウハ マモナク」

「そうだ。それまでにバレたら大変だからな。しっかり姿を隠していてくれ」

  返事の代わりに集積地棲姫は白い脚で足元の岩を蹴散らした。そこから現れる大きな穴。そこへ潜っていった。

「撤収だ。扶桑、伝えろ」

 局長が命じた時にはすでにヘリのローターは回っていた。

今回は以上になります。

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