高垣楓に憧れていたモデルの話。 (14)
1
思えば。
初めて見たあの時から、彼女は私の憧れだった。
私がまだ、モデルじゃなかった頃のこと。何の気なしに買ってみた雑誌に彼女の姿はあった。
少し緑がかった髪に、宝石のように綺麗なオッドアイ。そして、何かを憂いているようなその表情……。
たった一枚の写真なのに、明らかに他の誰とも違う存在感。
私は、彼女に恋をした。
すぐに私は彼女のことを調べた。彼女の名前は高垣楓。和歌山県出身で、私より二つ歳上で……そんな、女性で。
気が付いた時には、私は彼女が載っている雑誌をできる限り集めていた。
いつか、私も、この人みたいに……!
そんな気持ちが抑えきれないほどに膨らみきった頃、タイミングを見計らったかのように私はとあるモデル事務所にスカウトされた。
所属モデルは、と、スカウトマンからサンプル写真を借りて見ていたら……いた。
そこは、彼女が所属する事務所で……私の返事は決まっていた。
一緒に仕事をする機会は思っていたよりもずっと早く訪れた。実際に見る彼女は、写真で見るよりもずっと美人で……私は思わず気後れしてしまった。
言葉を交わしてみたいと、思わなかったわけではない。ただ……彼女はどこか近寄りがたい雰囲気をまとっていて、なかなか話しかけることができなかった。
私以外の人もそう感じていたのか、高垣さんに話しかけるなんて人はほとんどいなかった。
でも、それは孤独というわけではなく、むしろ『孤高』という印象で……それがまた一段と彼女のミステリアスな美しさに拍車をかけていた。
そんな印象を持っていたのは私だけではなかったようで、モデル仲間もこんなことを言っていた。
「高垣さんって、本当に綺麗だよね。いったい、普段は何をしているんだろう……」
「わかる。美人過ぎて、私なんかが近寄っちゃダメって感じ」
「何と言うか……ちょっと、格が違うよね」
私もそれには同感だった。
高垣さんは、私たちなんかが触れていい存在じゃない。
もっと、神聖な……不可侵な存在なんだ、って。
――その頃の私は、本気でそんな風に思っていた。
そして、たぶん……だからこそ。
彼女は私の前からいなくなったのだ。
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2
ある日、私は高垣さんと二人きりで現場に入ることになった。
その時の私の緊張と言えば、もう、言い表しようがないほどのものだった。モデルになる前から憧れていた……いや、モデルになった理由そのものですらあるような人なのだ。
もう、どうすればいいのかわからなかった。
そうやってひとり「あああああ」と目をぐるぐるとさせていると、「あの……」と私に声がかかった。
「今日は、よろしくお願いしますね」
高垣さんだった。
「ふぇっ!? た、高垣しゃん?! そ、その、えっと、こちらこそ、よろしくお願いしましゅ!」
噛み噛みだった。死にたくなった。
せ、せっかく高垣さんが話しかけてくれたのに……私なんかに、気を遣ってくれたのに……。どうして、こんな時に私は……!
穴があったら入りたい……ブラジルまで突き抜けてしまいたい……。
そんなことを考えている自分がどんどん情けなく思えてきて、私はううと涙目になりながらうつむいてしまった。
すると。
「……ふふっ」
と、漏れるような優しい笑い声が聞こえた。
顔を上げると、そこには驚いたような顔で自分の口を抑える高垣さんの姿があった。
「あっ……ごめんなさい」
自分が漏らした笑みに気付いて、高垣さんは私に向かって頭を下げた。
「ああっ、いや、その、私が、私が悪いので、高垣さんは頭を上げて下さい!」
あわあわと慌てて私は言った。た、高垣さんにこんなことをさせてしまうなんて……私、もうこれだけで地獄行き確定なんじゃないだろうか。そんなことさえ思ってしまった。
しかし、それでも高垣さんは申し訳なさそうな顔をしたままだった。あの高垣さんにそんな顔をさせるなんて、一瞬だけでも大罪なのに、ずっとなんてありえない。
どうしよう。どうしたら高垣さんはいつもの高垣さんに戻ってくれるだろう。考えろ、考えろ、私。何でもいいから、高垣さんの表情を、和らげるために――
「――あの! 高垣さん!」
そう思った私の口が、勝手に動いた。
「きょ、今日っ! 一緒に、飲みに……いきません、か?」
口にした瞬間、私は自分を殴りつけてやりたい気分になった。
何を言っているんだ、私は。私なんかが高垣さんをお酒に誘うなんて……そんな恐れ多いこと、よく言ったな!
もう、ありえない……こんなんじゃ、高垣さんに嫌われちゃう……変な奴だって、思われちゃう……。
私は恐る恐る高垣さんの顔をゆっくりと窺った。
私の言葉に対して、高垣さんはぽかんと目を丸くしていた。
ああ、やっぱり……私は、なんて迷惑なことを。
そう思った時だった。
「……はい。あなたがいいなら、よろこんで」
やわらかな微笑みとともに、高垣さんは言った。
「……え?」
私は呆けた声で返した。
そうして、私と高垣さんの初めての飲み会が決定した。
3
「行きつけのお店があるんです」と、高垣さんのその言葉に甘えて、私たちふたりはそのお店に行くことになった。
高垣さんの行きつけのお店……いったい、どんなお店なんだろう。私は不安になった。今持っているお金で足りるだろうか。足りなかったら、今度こそ地獄行き……そんなことさえ考えた。
しかし、実際に着いてみると、そのお店は親しみやすい居酒屋だった。居酒屋と言うよりは小料理屋だろうか。高垣さんのイメージとは違ったが、なんだか、良い感じのお店だ。
私がそう言うと、高垣さんは「そうですか?」と微笑んだ。「そう言われると、なんだか、私まで嬉しくなっちゃいますね」
そんな風に微笑みを向けられて、私は頬がかあっと熱くなるのを感じた。やっぱり、高垣さん、綺麗過ぎる……!
入ってすぐ、高垣さんは慣れた様子でお酒や料理を頼んだ。まずはお酒が来た。どうやら日本酒らしい。私はちびと口をつけ。
「っ~!」
思わず、私は口を抑えてしまった。身体が熱い。アルコールが強い。
「あっ……ごめんなさい。度数が高いお酒は苦手でしたか?」
「は、はい……すみません、先に言っておかなくて」
「いえ、私の方こそ、気付かなくてごめんなさい。……すみません、度数が低めで、おいしいお酒、お願いできますか?」
うう……みっともない姿を見せてしまった。
普段、私はそこまでお酒を飲まなかった。モデル仲間と一緒に飲みに行く時も、最初の一杯にちょっとアルコールを入れるくらい。
それだけでほろ酔い気分にはなれるし、全員がつぶれちゃったらお店に迷惑がかかるし……まあ、理由はそんなところだったんだけど。
……ああ、こんなチャンスに恵まれるなら、お酒に慣れておけばよかった。今更後悔しても意味がないとわかっていても、後悔せずにはいられなかった。
でも、『普段あまりお酒を飲まない』ということを言ってしまうと、高垣さんに『それならどうして誘ったのか』なんて思われるかもしれない。
なので、そのことについては言わないでおくことにした。お酒が嫌いなわけじゃないし……いや、まあ、日本酒はちょっと苦手だけど。
そうしているうちに、お通しと高垣さんが新しく頼んでくれたお酒が運ばれてきた。このお通しがまた絶品で、一口食べただけで「わ、おいしい」と口に出してしまったほどだった。
それはすっかり高垣さんに見られていて、私はつい縮こまってしまった。彼女に見られていると思うと、なんだか、何をしていても恥ずかしいような気分になってしまう。
その恥じらいを隠すために、私は苦手な日本酒に口を付けた、のだが……。
「んっ……」
……え? 何これ。おいしい……。
その日本酒は今まで飲んできた日本酒と違って、すごく飲みやすくて……とても、とてもおいしかった。ふわりとした優しい甘さに、身体が温まるようで……。
「あ、あの、高垣さんっ。このお酒、すっごくおいしいです!」
興奮気味に私が高垣さんの方を向くと、彼女はきょとんとして私を見ていた。
私はまた自分が勢いで思ったことを口走ってしまったことに気付いた。顔が火照った。
……わ、私、高垣さんの前で、料理を食べたり、お酒を飲んだりしただけでこんなにはしゃいで……こ、子どもっぽいやつだと思われたかもしれない……。
「それは良かったです」
しかし、高垣さんは笑顔でそんなことを言ってくれた。その声音は心なしかいつもより弾んでいるような気がした。
それから、私は初めて飲む『おいしい日本酒』の魔力にすっかり取り込まれて、いつもなら考えられないペースでどんどんお酒を飲んでしまった。
気が付いた時には、私の前には開いた杯が随分と並ぶことになっていた。
そう、私は素敵な酔っぱらいに変身したのだった。
「私、実は、高垣さんに憧れてモデル業界に入ったんです……初めて高垣さんの写真を見た瞬間に、もう、雷に打たれたみたいになって、高垣さんが載っている雑誌を揃えられる限りで揃えて、高垣さんみたいになりたくて……。でも、えへへ、実際に会ってみたら、そんなの無理ってくらい、高垣さんは本当に、本当に綺麗で……高垣さんのような人には、どうやったらなれるんですか?」
完全に酔いが回った私は、高垣さんにそんなことを言った。
「……私は、何も、特別なことはしていませんよ」
高垣さんは静かな声で言った。
「……そう、私は、何も……」
そう呟いて笑う、高垣さんの顔は、どこか――
――そこで私の記憶は途切れている。次の記憶は、見慣れた自宅の玄関だった。
「ふぇ……? えっと、昨日は……」
目を覚ました私は、ゆっくりと昨日のことを思い出した。高垣さんと初めて二人で仕事をしたこと。高垣さんを飲みに誘ってしまったこと。なんとそれが受け入れられたこと。高垣さんに連れて行ってもらったお店の料理とお酒がとてもおいしかったこと。夢のような時間、そして。
そのまま酔って、高垣さんに言ってしまったことを。
「ああああああああああああああああああ!」
私は頭を抱えて叫んだ。ごろんごろんと廊下の上を転がった。そのままリビングにまで行こうとしたらドアに思い切りぶつかった。ごすっ、と鈍い音。頭を打った。
「……痛い」
私はいろんな意味で涙目になりながらひとりぼやいた。
……次に高垣さんと会った時、全力で謝ろう。
私は誓い、とりあえず、たんこぶができていないか確認することにした。
よかった、できてなかった。
4
「すみませんでした!」
私が深々と頭を下げると高垣さんは「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
「でも……」
私がもごもごとしていると、彼女は言った。
「なら、また一緒に飲みに行って下さい。……いい、ですか?」
……あんなに柔い声色でそんなことを言われてしまったら、もう、私に断れるわけがなかった。
それから、私たちは一緒にお酒を飲みに行く仲になった。
私はいつも緊張していたけど、それでも、最初に比べれば幾分か話せるようになっていった……と思う。
高垣さんはいつも何かを憂いているような、どこか澄ましたような、そんな表情をしていて……でも、私と一緒にお酒を飲んでいる時は、それが少しだけやわらかな表情になっているような気がして。
ただの自惚れだったのかもしれないけれど、そういったひとつひとつのことが、とても、とてもうれしくて。
あの憧れの高垣さんとそんな仲になるなんて、少し前までならとても信じられることじゃなかった。
でも、現実にこうなっているのだから世の中何が起こるかわからない。私にとってはこれこそが『事実は小説よりも奇なり』と表すべきことだった。
そこまで頻繁に、というわけではなかったけれど、たまに高垣さんと一緒にお酒を飲みに行って、ちょっとしたお話をして……。
そんなことができる私は、世界でいちばん幸せだと思った。
一生分の幸運を使ってしまったかもしれない、って、そんなことすらも思った。
こんな時間が、永遠に続けばいいのに、って……そう思っていた。
でも、そんな幸福な時間はそう長くは続かなかった。
5
「モデルを……辞める?」
いつもの小料理屋。
高垣さんに「大事な話があるんです」と言われて連れて来てもらったそこで告げられたのは、そんな話だった。
「はい」
私の言葉に、高垣さんは端的に答えた。いつもと違って、お酒には少しも手を出していない。
「どうして……」
喉の奥からそんな言葉が漏れた。――どうして。どうして、そんなことを言うんですか。あなたが居なかったら、私は……。
高垣さんは私を見据えて、その形のいい唇をもう一度動かした。それは澄んだ返事だった。
「アイドルに、なるんです」
「……え?」
思わず声を出した私に、高垣さんはもう一度言った。
「私、アイドルになるんです」
アイドル……? アイドルというのは、あの、アイドル? 歌って、踊る……あの?
意味がわからなかった。高垣さんは何か冗談を言っているんだと思った。そうじゃないとしたら……これは夢なんだ。そうだ、そうとしか考えられない。だって――
「あなたには言っておかないと、と思って」
……そんなこと、言われたら。
「……そう、なんですか」
声が震えるのを必死に抑えて、私は言う。動揺を隠せ。悟られるな。辞めてほしくない……そんな想いを抑えろ。ぎゅっ、と私は痛くなるほどに強く、強く、自分の手を握りしめる。
「……高垣さんなら、きっと、アイドルになっても成功できると思います」
そんなことは思っていない。行かないで。いつまでも憧れのあなたでいて。私の前から、消えないで。
「応援してます。頑張って下さい!」
――私のことを、見捨て、ないで……。
「……ありがとうございます」
高垣さんはそう言って微笑んだ。その微笑みは、どこか、寂しそうで……でも、そんなことはない、と思った。思い込んだ。
そんなことを気にしていられる精神状態じゃなかった。彼女の強さに、甘えたかった。
……もしかしたらその日、私は存外うまく笑えていたのかもしれない。そう思わせてくれるくらいには、高垣さんはそれ以上何も言わなかった。
それから、私たちはちょっとした料理を食べて、店を出た。
「あの……これを、あなたに」
そう言って高垣さんは私にお酒の入った箱を差し出した。
私はそれをありがたく受け取った。帰り道、一人になった時、それが彼女と初めて飲みに行った日に、私が最初に口を付けた日本酒と同じものだと気づいて、ようやく少しだけ泣くことができた。
翌日、高垣さんが事務所を辞めることが発表された。モデル仲間の子たちはどうしてですかと高垣さんに詰め寄ったが、高垣さんは曖昧に笑うだけだった。
私はその輪の中に入らなかった。
入れなかった。
6
それから。
高垣さんが事務所を辞めたことにより、高垣さんが常に居た位置が空席になった。モデル仲間たちは高垣さんが居た位置を取り合うようにしていっそう仕事に精を出していた。
私はそんなこともなく、ただいつも通りに仕事をした。すると、私にいつも高垣さんが勤めていた仕事が転がりこんできた。
そのまま何となく続けるうちに、それは私の仕事だとみんなが認識するようになっていった。
『私は、何も、特別なことはしていませんよ』。そういうことか、と思った。そういうことだったんだ、と思った。
高垣さんが座っていた場所を手に入れて、それは憧れの彼女に近づけたということに違いないはずで、でも、私はちっとも嬉しくなかった。
こんなもの、高垣さんが居なかったら何の意味もない。
その頃には、私はモデルを辞めようかとまで思うようになってきていた。モデルを辞めたところで行くあてなんてなかったけど、続けるモチベーションもほとんどなかった。
しかし、それでも、私はモデルを続けていた。
心のどこかでまだ高垣さんをあきらめきれていないんだ、と思った。縋っているんだ、と思った。もう……いや、はじめから、私と彼女の繋がりは、ここにしかなかった。
そんな私を私は笑った。送り出したのは私なのに、今更、何を思っているんだ。
それなら、彼女を引き止めればよかったのに。『行ってほしくない』って、『続けていてほしい』って、『変わらないまま、ここにいてほしい』って。
今でも少し考える。
もしもあの時彼女を引き止めていれば、今頃、どうなっていただろう。
高垣さんが私なんかの言葉で自分の決意を曲げたとは思えない。でも、それでも、私の気持ちは違ったんじゃないだろうか。
あの時、もしも本心を言っていれば……本心をそのままにぶつけていれば、今、こんなに後悔することはなかったんじゃないだろうか。
そんなことを考える。考えて、意味がないことだと気付いて、気分がずんと重くなる。
高垣さんは、どうしてモデルを辞めたのだろうか。どうしてアイドルになったのだろうか。考えても仕方のないことだとわかっている。でも、どうしても納得できなかった。どうしてモデルじゃダメだったのか。
どうして、アイドルだったのか。
その理由が、私にはわからない。
あの時私がそれを聞けば、彼女は答えてくれただろうか。
あの時私が彼女を引き止めていれば、アイドルを選んだ理由を言ってくれただろうか。
そうしたら、私は納得できていたのだろうか。
……今となってはそれだけが、心残りだ。
7
ある日。
私は仕事を終えて帰ってきたところだった。なんとなく静寂が耐え難くて、珍しくテレビを付けた。私はそのままバッグを放り投げて、ソファに自分の身を預けた。
もう、このまま眠ってしまおうか……ああ、でもメイク落とさないと荒れるしなあ。あそこのスタイリストさん、怖いんだよなあ。そんなことを思いながらも、私は目蓋を閉じた。
『それでは、歌ってもらいましょう。曲は――』
テレビからそんな声が聞こえて、何かの曲が流れ始める。
なんだか、壮大な感じのイントロだ。バラエティっぽいのに、どうして、こんな……。
うとうとしながらも私はそんなことを思っていた。まあ、いいや。とりあえず、このまま……。
その時だった。
『渇いた風が 心通り抜ける……』
テレビから聞こえてきた声に、私はガバッと顔を上げた。
身体を起こして、私は食い入るようにテレビを見た。テレビの音量を上げて、そして――
優しい風が、耳を撫でた。
「……高垣、さん」
少し緑がかった髪に、宝石のように綺麗なオッドアイ。
テレビの中に、彼女はいた。
そして、そこに映っていた、彼女の表情は――
「……ずるいですよ、高垣さん」
そんな顔を見たら、納得するじゃないですか。
「納得するしか、ないじゃないですか……」
その日。
私は高垣さんにもらった日本酒を開けた。
それはやっぱり、私には少し度数が高くて。
でも、とてもおいしかった。
終
終わりです。ありがとうございました。
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