ヴェロニカは一撃で死ぬことにした (355)

1

その少女の名前はヴェロニカといった。
歳は18そこいらといった所かな。
うっすら残るそばかすが、歳よりもずっと若く見せ、ピンク色したくりくり巻き毛が、すばらしく可愛い女の子だった。

今、その子はまったくもって可愛くない、無骨な拳銃なんかを握りしめ、ぎらぎらと輝く目でマガジンの部分を確認してる。
どこで手に入れたのやらその拳銃で、どうやら彼女は死ぬつもりらしい。

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今から死のうっていうはずなのに、彼女はぜんぜん暗い顔なんてしていなかった。
いや、むしろ明るい顔をしていたね。口元にははにかみ笑顔なんか作っちゃって、これから起こる事が、うれしくて、うれしくて、たまらないって顔をして、彼女は拳銃を口にくわえた。

これは知らない人も多いだろうけど ……ほら、こめかみに銃をあてて自殺するシーンって、ドラマかなんかでよく見るよね?
実は、あれってなかなか死なないんだ。
弾は右から左にぽーんっと抜けて、それでおしまい。
不自由な障害をかかえて、死ぬ事なく人は生きるハメになる。

人の生きる力は偉大なんだ。その点ヴェロニカはよく勉強していたね。
頭の中身を自分の後ろに全部ぶちまけるつもりで、口にくわえた銃口をななめ上に向けて撃てば、さすがに死ぬ。

そう、ヴェロニカは死にたいんだ。

とってもとっても、死にたいんだ。

だから、ヴェロニカは拳銃をくわえて、恍惚とした表情をしているんだ。
その顔といったら!裏町にあるバーのマダム・ジョッシュだって、今のヴェロニカの色気にはたじたじかもしれないね。

ヴェロニカが親指で引き金を引くと、すさまじい音がして、いねむりしていたネズミが文句を言いながら逃げてった。
けど、ヴェロニカは知らん顔さ。
当たり前だよね。頭をふっ飛ばしたんだから。

ヴェロニカのうしろにある壁は、トマト・ソースを塗ったくったように真っ赤っ赤さ。
お食事中の人がいるかもしれないから、あまり詳しい事は言わないけれど ……たぶん、頭の大部分を、ヴェロニカはぶちまけたんじゃあないかなぁ。

とにかくこれで、ヴェロニカは目的を達成した訳だ。
ごらん、彼女の ……かろうじて残った口元を。
歯を見せて笑っているだろう?
ヴェロニカは死にたかったんだ。だから今、ヴェロニカは笑っている訳だ。

さあ、これでものがたりはおーしまいっ!



……って言えたら、どれだけ楽だろうね。

けれど、よーく見てほしいんだ。ほら……死んだはずのヴェロニカを。彼女の頭の所をごらん。
シュウシュウと白いケムリが出ているだろう?
ボコボコっていう音も聞こえるはずだ。
見間違いなんかじゃあない。空耳なんかでもないんだ。ほら、目をこすっている場合じゃないよ。

君が見間違いかと思って目をゴシゴシしている間に、無くなったはずのヴェロニカの頭は、どんどんぼこぼこ増えていった。
君が聞き間違いかと思って耳の穴をグリグリしている間に、ヴェロニカのくりくりしたピンク色の巻き毛が、つるつるの頭からズルズル伸びていった。
そして、君がびっくりして目をパチパチしている間に、ヴェロニカはどんよりした目を開いた訳だ。

口からは大きな大きなため息がもれる。先程までの明るい顔がウソのようさ。
ヴェロニカは周囲をゆっくり見渡し、ここが天国じゃあなく、地獄でもなく、自分の住んでる汚いちいさなアパートの一室だって事を改めて認識して、こうつぶやく訳だ。

「ああ……また死ねなかった」

……どうして死んだはずの彼女が、またこうして生き返ったかというと、これには深い訳がある。

この世に産まれてくる人はみんな、おとうさんの思いと、おかあさんの愛と、かみさまの気まぐれを受けて産まれてくる。
それらが時として、ふかくふかく身体に染み付いて、一種のおまじないみたいなものになる事があるんだよ。

この世界の人はみんなそうさ。たとえば三丁目のパン屋のサムさんは、パン焼きの才能がとんでもない。彼がパンを焦がした所なんて、お天道さんだって見たことがないね。
きっとサムさんのおとうさんとおかあさんは、お店を継ぐ長男として、そんな子供を願ったんだろう。

学校の先生のゴードンさんは、どんな数式でも五秒あれば解いてしまう。パソコンだって彼には白旗を振るくらいだ。
ゴードンさんのおとうさんとおかあさんは、きっと素晴らしい頭脳の持ち主が産まれるように、かみさまに手を合わせたんだね。

つまり、ヴェロニカのおとうさんとおかあさんは、こう願ってしまった訳だ。

「産まれてくる子に、どんな事があろうとも ……強く、たくましく、生きますように」

その願いが叶って、今、ヴェロニカはこうして生きてる。
かみさまの気まぐれの力によって、ヴェロニカは、おそろしいおまじないを受けてしまったんだ。

さて、頭がしっかり元に戻ったヴェロニカだったけど、どうにもせきがとまらない。

げほげほ、ごほごほ、おほんおほん。

しっかり元に戻ったように思ったけれど、どうやら綺麗に治らなかったみたいだ。
仕方ないからヴェロニカは、お医者様のところに行くことにした。

あんまり行きたくないんだけどね。ヴェロニカのため息がどんどん増える。
せきをごほごほ三回するたび、ヴェロニカはハァと一回ため息をついた。

ヴェロニカじゃあなくっても、あのお医者様の所に行く人はみんな、重苦しいため息をつくんだよ。
名医なのは間違いないけど、この町の人は誰も行きたがらないんだ。

何故かって?病院のドアをくぐればわかるさ。

「おおー、ヴェロニーカー。あなた、まーた、ららら、自殺なんてしましたーねー」

ヴェロニカの耳に大音量のオペラなんかが聞こえてくる。
何を隠そうこの歌声の主こそが、この町のお医者様なんだ。

別にふざけている訳じゃあない。
ただ、彼のお家は音楽一家で、作曲家のおとうさんと、ピアノ演奏者のおかあさんは、歌が大好きな子が産まれますようにってかみさまに願っただけなんだ。
その願いは叶えられたけど、二人は『音楽の才能』をかみさまにお願いし忘れていた。

だからお医者様は音楽家にならず、毎日へたくそなオペラを歌いながら、治療をしているって訳なんだ。

「先生、先生、聞いて下さい。わたし、銃で頭を撃っても、ぴんぴんしているんです。げほん」

「じゅうーなんて、あなた、ららららー、何処でそんな、危険なもーのーをー」

「げほん、ごほん、ギャングのタップ親分です。ほら、げほごほ、タップダンスが大好きな」

「タップ親分ですってー、おおー、ヴェロニカ、あなたはー、うらら、そんな危険なかーたーにー」

死ねないヴェロニカにとってはそんなの、危険でもなんでもないんだな。
彼女はどうどうと事務所までいって、にらみつける親分の前でひとつ、タップダンスを踊ってみせた。
それはそれは綺麗なもんさ。子分どもが銃を突きつけてるっていうのに、ヴェロニカはタンタントトンと一曲、華麗にダンスを踊ってみせた。
それを見たタップダンス好きの親分は、びっくりするくらいの満面の笑みさ。

「なんてえ踊りだ。おれは産まれてこのかた、こんな踊りは見たことねえ。お嬢ちゃん、お前、ただもんじゃあないな」

そんなことをニコニコと、孫娘に話しかけるみたいにヴェロニカに言う。
子分はすっかりあきれ顔さ。こうなっちゃった親分は、もう誰にも止められないって、彼らはよーく知ってるんだから。

親分は、上等なブランデーを一本あけたようにすっかり気を良くしてしまって、ヴェロニカの言う無茶なお願いを ……。
新品で、ぴかぴかの、つよい銃が欲しいっていうお願いを、ハイハイと聞いてしまった訳だ。

「頭をずどんって撃ったんです。げほげほ、中身を全部まきちらすつもりで。けどそれから、どうにもせきが止まらなくって。えへん」

「それはいけませーんねー。たらら、おおー、ではすこし、見てみましょーうかー。わおおー」

といって、金属のヘラをヴェロニカの口に入れる訳だけど、歌うたびにヘラがぶるぶる揺れるから、どんな怪我でも治るヴェロニカでも、さすがにひやっとしちゃったよ。
けどそこは流石名医というやつだね。せき止めのアリアを一曲歌い切っちゃう間に、すっかりヴェロニカの症状を理解してしまう。

「吹き飛ばした脳のかけらが、らら、器官に入ったようですね。うーらー、このお薬で、ほおお、うがいをしてください、ふわわー」

がらがら、ぺっ。がらがら、ぺっ。何度か薬を吐き出すと、のどのあたりがスッキリとして、ヴェロニカのせきは綺麗サッパリ止まってしまった。
歌をうたわなければ素晴らしい先生なのにな、と、ヴェロニカはつい失礼な事を考えたね。

「ありがとうございます、先生。すっかり良くなりました」

「これにこりたら、ふううー、もう自殺なんて、やめることですね。うおおー ……」

お医者様はマイナー調でヴェロニカに言う。
ヴェロニカの自殺はこれが初めてじゃあないんだな。何度も何度も死にかけるたび、ヴェロニカはこのお医者様の所に連れてこられた。

ヴェロニカが自分の身体のおまじないに気付いたのは、彼女が 8歳の時の話さ。
本当はもっと昔から、うすうす感づいていたんだけどね。かけっこしてコケてもヴェロニカの傷は、一瞬で綺麗になっちゃうもんだから。
けど、おまじないの本当の力に気付いたのは、 8歳になってからなんだ。

その日、ヴェロニカと、ヴェロニカのおとうさんと、ヴェロニカのおかあさんは、車に乗ってた訳なんだけど。
小さなヴェロニカが、大きなお魚を見たいって言ったもんだから。
4人乗りの小さな車で、大きな海の近くにある、小さな水族館まで。
ひとっ走り行く所だったんだけど。

その途中、大きな車にぶつかられて、小さな車はグシャグシャになってしまったんだ。

ヴェロニカのおとうさんとおかあさんは、車と一緒にグシャグシャになったのに、ヴェロニカは傷一つなくピンピンしていた。
いや、本当はヴェロニカもグシャグシャになったんだけど。
ヴェロニカは元通りに治ってしまったんだ。二人は目の前で死んだってのに。
二人のグシャグシャを見つめながら、ヴェロニカの傷はどんどん治っていったんだ。

小さなヴェロニカは死ぬ事なく、一人生き残ってしまったんだ。

それからヴェロニカの自殺グセは始まった。
家族を失ったヴェロニカは、家族のもとへ行こうとしたんだ。
死ねない身体を呪いながら、彼女は自殺を行ったんだ。

ヴェロニカが行った自殺の中で、もっとも多かったのは、リストカットだね。
それもそこいらの女の子が、誰かにかまってほしくて切るような、そんな甘いもんじゃあない。

ヴェロニカは手首がちぎれる寸前になるまで、包丁をどかんと振り下ろしたんだ。

けれど、手首からは血がちょっぴり流れるだけで、すぐにすっかり治ってしまう。
それでもヴェロニカは包丁を振り下ろす訳だけど、ついには包丁の方が根負けして、根本からポッキリ折れてしまった。
その破片がヴェロニカの頭に突き刺さって、刃の一部が頭の奥底に残ったまま傷が治ってしまい、お医者様がヒイヒイ言いながら摘出した事だってあったっけ。

それでもヴェロニカは自殺をやめない。なんてったって、死にたい訳だからね。

車に轢かれて手足がバラバラになった事もあった。

睡眠薬を大量に飲んで、三日間グースカ寝てた事だってあった。

そのたびにヴェロニカは病院に運ばれて、あきれるくらいの回復力を見せつけた。
今じゃあ死にたがりのヴェロニカは、町ではちょっとした有名人さ。

お医者様は、そんなヴェロニカが文字通り傷つく姿を、誰よりも、何よりも、見てきたんだ。

「ヴェロニーカー。あなた、ううー ……命をもっと、大切に……」

なんて、よくある台詞を言ったって無駄さ。
考えてごらんよ。大切な家族が目の前で死んで、自分だけは生き残って。
生きる希望なんて無くって、毎日のように死んで、死んで。
それでも死ねないヴェロニカの、命の価値観っていうやつは ……。

普通の人と一緒だって、誰がどうして思うんだい?

そう、この日ヴェロニカは決めたんだ。

銃で撃っても死ねない自分を ……なんとしても、殺してみせるって。
半端な覚悟じゃ死ねないならば、完膚なきまでに死んでみせるって。

ヴェロニカは一撃で死ぬことにしたんだ。

続きます。
今更ですが、「ベロニカは死ぬことにした」という小説とは全く関係ありません。

3日に1回くらいのペースを目標に、書いていきます

2

ヴェロニカが銃で自殺した次の日、空はすかっとする青空で、暖かな空気が人々をウキウキさせていた。
そんな中、ヴェロニカは海辺で、のん気に釣りなんか楽しんでいた。
道行く人々はそんな彼女を見て、不思議そうな顔をするよ。

あら、死にたがりのヴェロニカが、似合わない釣りなんかしちゃってるよ。

ほんとう。ヴェロニカったら、諦めて人生を楽しむことにしたのかしら。

そんなひそひそ話が聞こえたけど、ヴェロニカは変わらず知らんぷりさ。
ただ、ちょっぴりニコニコした顔で、釣り糸をじいっと見つめていたんだ。

そのうちにピクン、ピクンと釣り糸が揺れる。
ヴェロニカは釣りに慣れていないからね。おっかなびっくりわたわたと、釣り糸を手繰り寄せていく。

はっきり言って彼女には、釣りの才能ってもんがあったね!それともビギナーズ・ラックってやつかな。
ヴェロニカが釣り上げたのは、大きな大きなシーデイスさ!
肉食で、気性が荒い、大きなやつさ!
白身で、からっと揚げたり、さっとムニエルなんかにすると美味しい、そんなお魚さ!

彼女を遠巻きに眺めてた人は、わっと大きな歓声を上げたね。
それほど大きなお魚だったのさ。

けれどヴェロニカは、しょんぼりした顔。
おたおたと釣り針を外してしまうと、そのままどぼんと、釣った魚を海に返してしまった。
見物客からは驚愕の声が漏れ出たね。
せっかく大きな魚を釣ったのに、彼女ったら写真も撮らないで、魚拓も記録もなんにもしないで、そのまま海に返しちゃうんだから。

それから先もヴェロニカは、大きな魚を山ほど釣ったよ。
そのたびに悲しそうな顔をして、彼女は海に返すもんだから、見物客はあきれ果てて、一人、また一人と去っていっちゃった。

だーれも見る人がいなくなった頃にかな。
ヴェロニカはようやく、お目当ての魚を釣ったんだ。

シーデイスなんかに比べると、驚いちゃうくらい小さなお魚さ。
釣り人たちからは嫌われてる、いわゆるハズレのお魚さ。

パファー・フィッシュっていうんだけど。
空気を吸って、ぷーっと膨らむ、おかしなおかしなお魚なんだけど。
わかりやすく言うなら、フグって名前の魚だね。

……頭の良い読者の方なら、もうヴェロニカの目的がわかっちゃったかな?

そう。ヴェロニカは魚の毒で死ぬつもりなんだ。
このフグって魚は内臓の部分に、恐ろしいほどの毒を持つ。
釣り人なら誰でも知っていて、それにコイツは歯がするどくて、釣り糸なんかを切っちゃうから、この魚は誰もが嫌っていたよ。
そんな魚をたらふく食べて、ヴェロニカは死んじゃうつもりなのさ。

むかし、睡眠薬を大量に飲んで、死ねなかったのがわかっているからね。
今度はこの魚の毒で、ヴェロニカは一撃で死ぬつもりなのさ。

それから長い時間をかけて、パファー・フィッシュをバケツいっぱいに釣ったヴェロニカは、今度は森へと足を運ぶ。
もうすっかり辺りは暗くなってたけど、ヴェロニカったら知らんぷりさ。

一応、彼女にもちょっとした考えがあってね。
大したことじゃあないんだけど。ただ、山の中で、クマか何かに出会っちゃって、襲われる事を期待してたってだけなんだけど。
結局、そういう危険には出会えなくって、ヴェロニカはまた悲しそうな顔をしちゃったね。

けれど、彼女の目的はクマじゃあない。
気持ちを切り替えて、ヴェロニカは木の根元あたりをがさごそ探し始めた。
暗くってよく見えなくって、彼女はふうふうと息を荒げちゃったけど、小一時間もしたら彼女は、お目当てのものを手に入れていた。

カゴいっぱいのキノコの山さ。
毒々しい色をしたのと、びっくりするくらい真っ白なのと、紫色のケムリを出してるのと、真っ赤な色して、触っただけで手が激しく痛むやつと。
そんな見るからに、明らかに危ないやつを、ヴェロニカはいっぱい手に入れたんだ。

フグだけじゃあ物足りないらしいね。

死にたがりのヴェロニカは、死のうと行動している時が、もっともキラキラ輝いていて、いきいきとしている訳なんだけど。
その事実に気付いている人は、たぶん誰もいないだろうね。

少なくとも、彼女は全く気付いていない。
気付いていないからこそ、彼女はいっそうキラキラとした輝く笑顔で、いきいきと死のうとしている訳さ。

家に帰ったヴェロニカは、フグの調理にとりかかった。
調理といっても簡単なもんさ。内臓を取り出すだけなんだから。

しかしヴェロニカは料理が下手でね。うんうん唸って一生懸命、フグから内臓を引きずり出した。
失敗して内臓が潰れちゃったり、肉がいっぱいついたりして。

そうこうしているうちに夜が明けたんだけど、フグの調理は終わらない。
最後にはえーいと癇癪おこして、まるごとミキサーに放り込んじゃった。

そこにキノコをどぼどぼと入れる。
毒々しい色をしたのも、びっくりするくらい真っ白なのも、紫色のケムリを出してるのも、真っ赤な色して、触っただけで手が激しく痛むやつも。

全部まとめて突っ込んで、めん棒でぐりぐりと押し込んでしまう。
容器の中から、生臭い臭いと、青臭い臭いと、つんとする刺激臭が漂ったけど、ヴェロニカはにこにこ満面の笑みさ。

そこにさらに睡眠薬の瓶を、 1ダースほどザラザラと入れて、飲みやすいようにと角砂糖を、陶器のカップからゴロゴロと入れる。
ここまでぶち込んだ所で、水分が無いから飲みにくい事にヴェロニカは気付き、台所にあった漂白剤を、一本まるまる流し込んだ。

もうすでにキッチンには有毒のガスが流れ出ていて、ヴェロニカの目や皮膚がひっきりなしに治り、シュウシュウと白いケムリをあげていたよ。
そのケムリを見てヴェロニカは確信したね。今回こそ、一撃で死ねるって。

ミキサーのスイッチを入れると、刃が恐ろしい音をたてて回転し、魚の内臓と、骨と、肉と、毒キノコと、睡眠薬と、角砂糖と、漂白剤と、ヴェロニカの殺意と、愛情と、憎悪と、幸せとを引っ掻き回した。

そのうちにそれらは混ざり合い、地獄のような色になり、空のような色になり、戦争のような色になり、世界のような色になった。

そして最後にスイッチを止めると、それは虹色になっていた。

ヴェロニカはわくわくしながらコップに入れて、ちょっぴりニオイを嗅いでみた。
すると、驚いたね。ヴェロニカの鼻から血が流れ出たんだ。
それも普通の量じゃあない。だくだくと、川の流れのように血が吹き出たんだ。

普通の人ならニオイを嗅いだだけで、死んじゃってたかもしれないね。

そっと唇を、コップのふちにつけてみる。
すると唇に、ズキリと突き刺すような衝撃が走り、べろんと唇が剥がれてしまった。

これをいっきに、全部、まるごと、飲んだらどうなっちゃうのかしら ……。

ヴェロニカの顔がいっそう輝く。まるで初恋の人に出会ったかのようだ。
どきどきと胸が高鳴るのが止まらない。妙な色気が溢れ出てくる。

まったく!この場所に、マダム・ジョッシュがいなくて良かったよ!
マダムがいたら、ヴェロニカに嫉妬してたかもしれないからね!

コップを手にしたヴェロニカは、エイと勢いをつけて中身を飲み干した。

液体がヴェロニカの歯に当たると、歯は根本からグラリと崩れだした。

液体がヴェロニカのノドを通ると、ノドがグツグツと沸き立った。

そして、液体がヴェロニカの胃におさまり、それはヴェロニカの身体を破壊し始める。

それはもう恐ろしいほどの痛みさ。言葉に出来ないくらいの痛みさ。
身体が内臓の内側から、細胞の一つ一つになるまでカミソリでバラバラに解体され、さらにその細胞一粒ひとつぶを、すり鉢でスリ潰されるかのような痛みさ。

痛みに慣れてるヴェロニカも、さすがに今回はちょっとクラクラしたね。
砂糖の甘味が無かったら、痛みに耐えられなかったかもね。

今まで感じた事のない痛みを受けて、ヴェロニカはニヤニヤと笑ったよ。

ああ、これこそ死の痛みなんだ!わたしはようやく、死ねるんだ!

そう思ってニヤニヤしたよ。ニタニタ、ニコニコ、笑ったよ。



だけど、そのうちにマズい事が起こる。
口の中から白いケムリが、もうもうとエントツのように沸き起こったんだ。

そう。彼女のおまじないは強いんだ。
彼女は本当に、ほんとうに、おとうさんと、おかあさんに、愛されて産まれてきたんだね。

毒によって破壊される彼女は、破壊されたそばから、元通り治っていったんだ。
それでも毒はすさまじいものだったらしく、彼女はしばらくケムリを吐き続けた。

もうもう、コホン。もうもう、ケホン。

一日中ケムリを吐き続けたもんだから、火事だって勘違いされちゃって、消防車がワンワン騒ぎながらアパートまで来ちゃう騒ぎになってしまったよ。

彼女の口からケムリが出なくなったのは、それからまたもう一度、夜が来て、朝が来て、夜が来てからの話さ。
ヴェロニカはもうウンザリとして、毒で死ぬのは諦める事にしたらしい。

……うん。『毒で死ぬのは』諦める事にしたんだ。

つまり、彼女は別の方法で、一撃で死ぬ事は諦めていなかったって訳だ。

3

次に彼女がやったのは、飛び降り自殺さ。
それも、そんじょそこらの飛び降り自殺じゃあない。
なんてったってヴェロニカは、衝動的に、突発的に、アパートの窓から何度も飛び降りてるからね。

その回数といったら!階段を下りた回数よりも、もしかしたら多いかもしれないくらいさ!

ヴェロニカは高い列車のお金を払って、となりの大きな町まで行った。
そこまで行くと、小さな町では死にたがりで有名なヴェロニカも、あまり知られていないらしく、ヴェロニカはじろじろ見られる事はなくなったね。
けど目的はそこじゃあない。ヴェロニカは普段から、人の目なんてあんまり気にしちゃいないしね。

ヴェロニカの目的は、この町にあるセントラルビルさ。
おおきな事で有名な、おおきなおおきな、おおきなビルさ。

セントラルビルは 100階建てで、一番上は、この町のお偉いさんが住んでいるらしい。
90階のあたりに屋外展望台があるんだけど、そこからの眺めはまさに絶景っていうやつだよ。
この大きな町はもちろんの事、隣にあるヴェロニカの住んでる町の、ヴェロニカが住んでる小さなボロアパートだって、このビルからは見る事が出来るんだ。

セントラルビルには実に 60基ものエレベーターがあって、それらが休むことなくひっきりなしに動いて、人々をせっせと運んでいる訳なんだけど。
特に、展望台行きの直通エレベーターには、観光客が毎日飽きもせず、大勢たくさん乗っていたね。

実際にビルを見てみると、口があんぐり開いちゃうくらいに大きい。
どのくらい大きいのかと見上げていると、ヴェロニカは後ろにコケちゃって、頭をコンクリートにたたきつけてしまった。
通行人がクスクスと笑うけど、ヴェロニカはまた知らん顔さ。

これから死んじゃう彼女にとって、他の人なんてどうだっていいのさ。

展望台の入場料はちょっとビックリするくらい高かったけど、ヴェロニカは、どうせ死んだらお金は使えないし、と、気前よく一人分払ったね。
けど死ぬのに失敗したらどうしよう、と、心のすみっこでほんのちょっぴり思っちゃったけど、それを押しとどめて、ヴェロニカはエレベーターに乗った。
サイフの中はずいぶんサムくなったけど、ヴェロニカの心はぽかぽかさ。

これに失敗したら、餓死を試してみるのも良いかもね。

ビルの大きさの割りには小さなエレベーターだった。
そこにギュウギュウすし詰め状態になっちゃって、小さな身体のヴェロニカは、あやうく窒息死する所だったよ。
もちろん彼女は死ななかったんだけど、息苦しいのには変わりない。
ヴェロニカの顔が真っ赤になって、ヴェロニカの顔が真っ青になる頃、やっとエレベーターは、地上 90階に到着した。

エレベーターからなだれ出ると、冷たい風が頬をなでる。
ビル風っていうのがあってね。大きな建物と建物の間にすさまじい風が生じる現象の事なんだけど。
休むことなく風が起きるもんだから、ヴェロニカの隣にいた小さな女の子が、かぶっていた帽子を飛ばしてしまう。

女の子が大声で泣いちゃうけれど、もう帽子は遠くへ飛んでいっちゃって、どうしようもありはしない。
どうやら女の子の誕生日に、おばあちゃんから買ってもらった、大切な帽子だったらしい。

ほら、帽子だったらまた同じの買ってあげるから。

いやだ、あの帽子じゃなかったら、いやあ。

なんて、女の子と、女の子のおとうさんと、おかあさんが話す声がそこら中に響き渡る。
そんな家族のやりとりを、ヴェロニカはまぶしいものでも見るかのように、薄目で、遠目で、ながめていた。

彼女には、もうそんなやりとりが出来る家族なんて、この世の何処にもいないんだ。

そんな家族から目を離して、ヴェロニカはさっと展望台を見渡す。
どこもかしこも人でいっぱいだけど、警備の人とかはいないみたいだ。

代わりに展望台には、周りを囲むように金属のフェンスが作られていて、さらにそのフェンスのてっぺんは、ネズミ返し状に内側に折れ曲がっていた。
ヴェロニカと同じように、自殺を考えちゃう人は、やっぱりたくさんいるようだ。

試しにヴェロニカはフェンスを登ってみるけど、これがなかなか上手くいかない。
ウンウンうなって30センチ登るたびに、ズルズルと20センチずり落ちた。
そうこうしているうちに他の観光客に気付かれちゃって、ちょっとした騒ぎになってしまう。

「おい君、そこの。ピンク色したくりくり巻き毛が、すばらしく可愛い、そこの君。君は一体さっきから、何をしているっていうんだい」

いかにも正義感が強いって顔した青年が、ヴェロニカの腕のあたりをつかむ。
一生懸命登ったのに、ヴェロニカは、青年が手を伸ばして届くあたりまでしか、登る事が出来なかったんだ。

「見てわかりませんか?わたし、今から死ぬんです。邪魔をしないでくださーいっ」

なんて、声を張り上げてみるけれど、そんな言葉をきく人間が、この世に存在する訳がない。
青年につかまれた腕を離そうと、わあわあ騒いでいるうちに、他の階にいた警備の人まで来ちゃって、ヴェロニカはとうとうつかまってしまったよ。
けれど彼女は諦めない。一撃で死ぬにはどうしても、セントラルビルの高さが必要だったんだ。
警備の人をひっかいて、かみついて、けとばして、ぺちぺち叩いて、ヴェロニカはなお登ろうとしたんだ。

「おい、あいつはヴェロニカだよ。死にたがりのヴェロニカだよ」

そんな声が、遠くから聞こえた。
ヴェロニカと警備の騒ぎを見ていた人の中に、ヴェロニカの住んでる町の人がいたんだ。
この町じゃあ無名のヴェロニカも、自分の町ではちょっとした有名人さ。

町のみんなは知ってるんだ。ヴェロニカのおとうさんとおかあさんが、どうなっちゃったのか。
なんで、ヴェロニカが死のうとしてるのか。

だから、町の人たちはみんな、ヴェロニカにはとっても優しいんだ。
彼女がそれを望むなら、みんな彼女に協力するんだよ。

「やめろ、やめろー。お前ら、やめろーっ。死にたがりのヴェロニカは、絶対、ぜったい、死なないんだ。そんな彼女が今度こそ、死ぬって言っているんだぞっ。だから、好きなようにやらせてあげろーっ」

そういって警備の人をけちらしてしまう。非力なヴェロニカにはとうてい出来っこない力強ささ。
その騒ぎに乗じてヴェロニカは、警備の人を蹴っ飛ばし、正義感強い青年を踏みつけて、ふうふう言いながらフェンスの上まで登り切ってしまった。
最後のネズミ返しの所は、町の人が手助けしてくれたから、難なく登る事が出来たよ。

「ありがとうございます。わたし、このこと、死んでも忘れません」

「いいんだ、死にたがりのヴェロニカ。君は、十分苦しんだ。もう、家族のもとへ行ってもいいだろう」

あっという間の出来事だったね。
ヴェロニカはぴょんっと、プールサイドから水の中へ飛び込むように、フェンスから、地上に向かって飛んだんだ。

観光客は悲鳴をあげた。
警備の人は青ざめた顔さ。
けれどヴェロニカは知らん顔さ。ただ、またヴェロニカの顔だけが、つやつやと光を放っていたね。

ヴェロニカは、出来る限り一撃で綺麗に死ねるよう、頭を地面に向けて真っ逆さまに墜ちた。
ごうごうと風を切る音がする。叫び声が聞こえる。泣き声だって聞こえた。
目をあけると、窓ガラス越しに、こっちを見ている人と目があった。
みんながみんな、ひきつったような顔をしていたね。

窓ガラス越しにヴェロニカを見た人は、みんな不思議がっただろう。
だって彼女は堕ちながら、満面の笑みを浮かべていたんだから。

そのまま地面に激突するかと思ったけど、そう上手くもいかなかった。
すさまじいビル風が吹いたんだ。まさに突風っていうやつだよ。
それがヴェロニカの華奢な身体を吹き飛ばし、ヴェロニカの身体は、ビルの壁に強く叩きつけられた。

腕で血を吸ってる蚊を叩き潰した時の、何百倍っていう音がした。
ばちいん、っていう音がね。

ビルの一部が真っ赤っ赤になったよ。

ヴェロニカの身体はバラバラになって、腰から下のあたりなんか、もうどこにあるのかわからないくらいになっちゃったんだけど。
それでもビル風はまだ止まない。
落ち葉が風で舞うさまに似ていたね。ヴェロニカの身体はもみくちゃにされながら、所々ビルに叩きつけられながら、地面に真っ逆さまに墜ちてった。

最後はお望み通り、頭から叩きつけられたもんだから、ヴェロニカは安堵の息をもらしたね。
ごちゅ、って音がした。頭のかたーい骨がばぎばぎに割れる音さ。

即死だろうね ……これで死なない生き物なんて、この世には存在しないだろう ……。






……ヴェロニカを除いてね。




実は、ヴェロニカもイヤーな予感はしてたんだ。
頭から叩きつけられた時、ホッと息がもれたんだけど……。

普通なら、そんな息なんて、絶対もれないはずだろう?
即死じゃあなかったんだ。だから、息がもれたんだ。
ホッとしたとたん、ヴェロニカはアッと思ったよ。

今回もまた、一撃で死ねなかったんだって。

ヴェロニカの手足はどこかへ行っちゃって、頭もパカッと割れちゃって、中身がどばーってそこらに散らばっちゃって、なんだかもうどこがヴェロニカで、どこがヴェロニカじゃあないのか、わからない感じだったけど。
それでもすぐに、いつもの白いケムリがもうもうと立ち上がって、人がいっぱい集まる頃には、ヴェロニカはしっかり二本の足で立ち上がっていたよ。

けれどヴェロニカは、自分の着ている服までは治す事が出来ないもんだからね。
ビルに叩きつけられてバラバラになる間に、服までバラバラになっちゃったらしく、ヴェロニカは細い身体をかがめて、恥ずかしさに頬を赤らめていた。

幸いにも、ヴェロニカの住んでる町の人が、野次馬の中に何人かいたんだ。
ヴェロニカはその人達から上着を貸してもらう事にした。

町の人は慣れたもんだったよ。暖かい笑顔で、彼女を迎え入れてあげた。

「ヴェロニカ、ヴェロニカ、ヴェロニカちゃん。おお、おお、可哀想に。また自殺に失敗したんだね?」

「ええ、ああ、はい。まあ、そういう事です。 ……あの、列車の切符のお金も、貸してください」

死にたがりのヴェロニカが、世界でも 5本の指に入るほど大きなビルから飛び降りて。
それでもやっぱり死ねなくて、服と切符代をパルマおばさんに借りて帰ってきたっていう話は ……。
しばらくの間、小さな町中のうわさになったらしい。

「ところで、ヴェロニカちゃん。死にたがりの、ヴェロニカちゃん。あなた、何をそんなに、しっかりにぎっているのかしら?」

パルマおばさんにそう言われ、ようやくヴェロニカも気がついた。
どうやらビルに叩きつけられてる間に、知らず知らず、強くにぎりしめていたらしい。
よく見てみると、それはベージュの色をした、可愛らしいフリルのついた、小さな子供用の帽子だった。

……ほら、覚えているかい?展望台で、女の子が、風に帽子を飛ばされたのを。
一緒にビルから飛んだヴェロニカは、その帽子を見つけてたって訳だ。

野次馬の中で、ヴェロニカは女の子を見つけた。
騒ぎになっていたので、展望台から急いで降りてきたようだ。
おとうさんと、おかあさんに、しっかりと手を握られている。
ヴェロニカはすこし、さびしい気持ちになりながら、その帽子を女の子に、きちんとかぶせてあげた。

「もう絶対に、飛ばされないように、ね。それと ……わたしのものまねなんか、ぜったいに、やっちゃあいけないよ」

そういって頭をなでてあげると、女の子はこくこくとうなずいた。

「あなたには、ちゃんと生きてる、おとうさんと、おかあさんがいる。だから、しっかり生きて。 ……ね?」

……ヴェロニカには、いないんだ。生きてるおとうさんと、おかあさんは。
だから、ヴェロニカは死ぬんだよ。一撃で、どうやっても、綺麗に、ね。

4

ヴェロニカが銃撃戦に巻き込まれた話はしたっけ?

あれは暑い夏の夜の話だったなあ。
この町にはギャングのファミリーが 2つ存在してて、普段はどちらもお互い干渉せず、平和にのんびりやってたんだけど。
発砲事件なんて年に二、三回ってもんさ。

つまり、この日はそのうちの、一回って事になるのかな。

始まりはほんのささいな事さ。
東のタップダンス好きな親分が、シックなバーで酒に酔った勢いで、バレエをバカにしたんだよ。

それに怒ったのは西の親分さ。誰よりもバレエを愛してる、トウ・シューズを履いた親分さ。
止める暇もなく撃鉄が起こって、バンバンババンと鉛弾が、夜の町に飛んだのさ。

最初はお互い一歩も譲らず、派手な撃ち合いなんかをしていた。
東の子分も西の子分も、似たような実力だったからね。

けれど、西のバレエ親分の所に最近入った男。こいつがどうにもいけなかったね。
砂漠の町で産まれた彼は、立派なガンマンになるようにって、おとうさんと、おかあさんから、願われて産まれてきたんだよ。
バンと一発銃声が響く間に、彼は 3発の弾丸を放ってみせた。

たくさんの修羅場をくぐってきたタップ親分も、さすがのこいつにはタジタジさ。

時間の経過に比例して、東のギャング達はどんどん倒れて動かなくなってった。

最後に残ったのはタップの親分だけさ。
暗くてせまくておまけに汚い、建物の影になった路地裏で、タップ親分は西のギャングに囲まれた。
葉巻をぷっと吹き飛ばし、悲しげなリズムでタップを一つ、トントントトオ ……、と打ち鳴らす。

「おれもヤキが回ったモンだ」

苦々しげに親分が言う。
本当はね、タップ親分は、こういう時に言うべき台詞を、ノートに一冊、用意してたんだ。
彼はギャング映画が好きでね。ナントカファーザーとかいう映画に出てきた台詞を、つらつらノートに書き連ねては、いつかこんな台詞を言おうと、思いを馳せていたんだよ。

けれど、絶体絶命のピンチの時に、口から出るのは簡単な台詞だけさ。
目の前にせまる 50の銃口を、親分は憎々しげに睨めつける。

西のギャングの下っ端達の、先頭に立つは砂漠のガンマンさ。
この町には到底似合わない、テンガロンハットなんかを被っちゃって、指先でクルクルと愛用のピストルを、おもちゃのようにもてあそぶ。

「さあて、どうする?バレエの親分よ。ハチの巣にしようか、ナイフで切ろうか。どんな地獄を味わわせるか」

言われて出てくるは、件の西の親分さ。
子分の群れをかき分けて、グラン・パドゥシャをタンと決め、くるくるくるり、くるくるり。
綺麗なピルエットを見せつけるけど、踊るのは小太りの中年男なものだから、なんだかおかしくなってしまうよ。

けれど、だーれも笑わない。なんてったって彼こそが、誰よりもバレエを愛してる、バレエの親分なんだからね。

「タップ、タップ、タップの親分。こんな事がなかったら、あなたとは是非とも末永く、仲良くしたかったものだったのにん」

バレエ親分は甘えた口調で言う。
これが俗に、オネエとかいわれるやつだね。
男らしく古典的なギャングのタップ親分とは、真逆の位置にいる存在さ。

「あなたが酒場で言った事は、たとえかみさまが許しても、アタシは絶対、許せない事なのよん。だから本当、ごめんなさいね」

プリエでちょこんとおじぎのような事をして、バレエ親分は右手をあげる。
50の銃口が改めて、タップ親分の心臓を狙う。
どうする事も出来ないさ。タップ親分は生を諦めた。

さっと右手が振り下ろされて、50の銃声が鳴り響く――……。

その時さ。

空から人が降ってきて、タップ親分の前に落ちたんだ。
誰も彼もが驚いた。驚いて、おどろいて、もう2、3発、あやまって銃弾を撃っちゃった。
落ちてきた人はハチの巣さ。いや、もうハチの巣なんてもんじゃあない。

ピストルの弾が脳みそを飛ばし、ライフル弾が心臓を貫通し、マシンガンは四肢をばらばらにして、ショットガンが100数個の穴をあけた。
西の子分たちはぞおおっと凍るような思いさ。何の関係もない人を、ぐちゃぐちゃのミンチにしちゃったんだから。

けれど、大丈夫。何も問題はないんだ。
いや、もしかしたら、問題があったほうが良かったかもしれないけれど。

だって、落ちてきたのは、死にたがりのヴェロニカだったんだから。
いつものケムリがもうもう昇り、ミンチになったヴェロニカは、ビデオの巻き戻しボタンを押したみたいに、元通りに治っていっちゃった。

実は、タップ親分が追いつめられてた場所は、ヴェロニカの住むアパートの隣だったんだ。
この日は寝苦しい熱帯夜でね。ヴェロニカはあんまりにも眠れないから、不眠不休の過労死を試していた所だったんだけど。

すぐ近くで銃声が鳴り響くだろう?
眠れないヴェロニカはイライラしちゃって、つい銃撃戦の真っ只中に、ぽぉんと飛び出してしまったんだ。

再生したヴェロニカは不満そうな顔だよ。
不眠不休でイライラしてる上、撃たれて痛い思いをして、その上死ななかったんだから。

だからヴェロニカは両手をあげて、ギャング達にこう言ったんだ。
やけくそ気味に、口上を一つ、思いつくまま言ったんだ。

「さあさあ、さあさあ、わたしの命はここに一つ。左の胸には心臓一つ。肺は左右にありまして、目玉が二つに鼻は一。胃・腸・肝臓・膵臓・胆のうなんかは一つずつ、脳は頭蓋に収まっています。どれもこれもが壊れちゃいない、元気にうごめく急所達です。さああ、おのおの手に持つ輝く銃で、わたしをずどんと撃ち殺してください。さあさあ、早い者勝ちですよっ。早く、はやく!わたしを、殺してーっ!」

そうやってわあわあと、下手くそな歌まがいのものを歌いながら、銃にすり寄ってくるものだから、西のギャング達はきゃあっと悲鳴をあげちゃったよ。
ヴェロニカは東の地区に住んでるからね、西の地区を治める彼らは、ヴェロニカの事をウワサでしか聞いた事がなかったんだ。

目の前で一人の人間がミンチになって、そしてそれが元通りになって、動き出しちゃうもんだから。
普通の人だとトラウマになっても、全然まったく、おかしくないよね。

そうやってヴェロニカが騒ぐうちに、ギャングの一人が誤って銃を撃ってしまう。
50口径の大きな銃さ。まともにこいつを食らっちゃったら、ゾウだって死んじゃうくらいの銃さ。
そんな大きな弾丸が、ヴェロニカの顔の右側をふっ飛ばして、目玉が壁にぺちゃりと張り付いたんだけど。
それでもヴェロニカは死ねなくて、あっと言う間に治っちゃって、それを目の前で見た子分の何人かが、ぶくぶくと泡を吹いて気絶しちゃう。

もう路地裏は大混乱さ。子分たちは、ゾンビ映画の登場人物になった気持ちで、我先にとこの場から逃げようとしていた。
もうだーれも、タップ親分の不祥事なんて、覚えてなんかいなかったよ。

砂漠のガンマンは野太い声で叫び、バレエの親分は気持ちの悪い裏声を出した。
大の大人たちが、カエルを踏み潰したような、オンドリを絞め殺したような、そんな悲鳴を口から出して、わたわたと逃げていっちゃった。

残されたのはタップ親分と、死にそこなったヴェロニカだけさ。
ヴェロニカだって女の子だからね。こんな反応されちゃうと、流石の彼女もちょっぴり傷つく。

心の傷を癒やすように、この辛い現実から逃げるように。
子分たちが落としていった銃で、ヴェロニカは頭を撃ちぬくけれど。

それでもヴェロニカは死ねなくて。

撃ちぬいては、治り、撃ちぬいては、治り。
彼女は泣きながら、頭を撃ちぬき続けた。

そんな彼女を止めたのは、タップの親分その人だったよ。
彼はヴェロニカにキスせんばかりの勢いで抱きつき、へーこら頭を下げ始めた。

「ありがとう……お嬢ちゃん、ありがとう。今回ばかりは男タップ、命運尽きたと諦めた。お嬢ちゃんこそおれの幸運の女神、天使、神様、マリア様だ。ありがとう、ありがとう、ありがとーう」

タップの親分の男泣きさ。
西のギャングの悲鳴よりも、数倍やかましい声で、えんえん、おいおい、うぉーいおいと、しばらく親分は泣き続けた。

死の淵から生還したんだから、その感動と安堵感はすさまじいものだろうね。
だけどこの泣き声のせいで、町の人々はなおのこと、眠れない夜を過ごすハメになっちゃった。

タップの親分にお礼を言われても、ヴェロニカの心は晴れないままさ。

死にたくない人が、死に直面し、死にたい人は、それに直面する事すら出来ない。
そんな不条理で、不実で、不満で、不況で、不安で、不屈な世界……。
ヴェロニカの心の中は、どす黒い感情がぐるぐるぐると、渦巻いて、溢れて、他のすべてを塗りつぶしていた。

ヴェロニカはまた、手にする銃を頭に向けて、引き金を引いた。

かちん、と音がしたけれど、銃口からは何も発射されない。

弾切れだった。死ぬ真似事すら許されなかった。

その日、ヴェロニカは泣いたんだ。

いつまでも、いつまでも。

ずっと、ずっと。

5

そうやってヴェロニカは、最低三日に一回、多い時には日に三回、自殺を繰り返していったんだ。
それでも、どーやっても、何をしても、彼女は死なない。

頭をハンマーでめった打ちしても、心臓にナイフを刺しっぱなしにしても、首の血管を引きちぎっても。
ヴェロニカは死ねなかったんだ。

冬の寒い夜、ヴェロニカはサンテムズ川にかかる大きな橋の上で、一人たそがれていたよ。
はるか下をごうごうと流れる水を見て、自分の人生について考えていた。

思えばくだらない人生だったよ。
8歳という小さな時から、彼女は死ぬ事しか考えていなかったんだから。

産まれて初めて、左手首に包丁を押し当てた時のことは忘れない。

自らの命を、自ら断つ。
そんな、生きとし生けるもの全てにとって、許されない好意を、平然とした。
おとうさんと、おかあさんに会うために。

白いケムリが手首から上がり、自分の代わりに空へと昇った。
その時、心に走ったズキリという痛みを、彼女はずっとずっと、忘れない。

ケムリが一筋立ち昇るたび、人の心を一つずつ、どっかに無くしていっちゃった。
今では自分が、人間の形をしているだけの、何か別の存在なんじゃあないかって、ヴェロニカはぼんやり考えていたよ。

数ヶ月前の夏の暑い夜、生きている事を喜ぶタップ親分の姿を、脳内に思い浮かべてみる。
まるで、分厚いガラスの向こう側にいるかのようだった。

ヴェロニカには、生きるという事、それを喜ぶという事が、もうわからなくなっていたんだ。

どんな傷でも治るヴェロニカだったけど、彼女の心にぽっかり空いた、大きな大きな黒い穴だけは、治る事が全然なかった。
おとうさんと、おかあさんが死んだ事で、ぽっかり空いた心の穴さ。

10年という長い間、ヴェロニカはその穴を塞ぐ治療薬を、誰からも受けられなかったんだ。
愛っていう、尊い治療薬をね。

だからヴェロニカはもうわからないんだ。人の心というやつが。

考えて欲しい。
人は普通、死を恐怖する。いつか起こるそれを恐れ、おののき、それを迎え入れる時がくるまで、人は懸命に生きるんだ。

けれど、その終末の死が、絶対に来ないってわかったら……。
もしかしたら、ヴェロニカは、老衰なんかでも死なないかもしれない。

もしも、自分に、どうやっても、最後なんて来ないってわかったら……。

壊れてもおかしくないだろう?懸命に生きる意味なんてないだろう?
穴がじゅくじゅくと広がっちゃっても、仕方がないってわかるだろう?

だから、ヴェロニカは見つけるんだ。
自分を殺す方法を。自分に最後を与える方法を。

それが、それこそが、彼女を人間たらしめる、彼女が人間であるための、たった一つの方法なんだ。

けれど、彼女は、やっぱり死なない。

ごうごうと流れる川を見て、ヴェロニカはぼうっと考えるよ。
ただ何の意味もなく生きて、自殺するためだけに動き、死んで、生きて、また死ぬ、自分の人生を。

サンテムズ川は大きな川さ。そこにかかる橋も大きくてね、ひっきりなしに車が通る。
ヘッドライトが川を照らし、きらきらとこの世のものではないみたいに輝く。それはそれは綺麗なもんさ。
その光を、川の流れが飲み込み、夜の冷たい闇と溶け、黒く染まり、また輝く。

ヴェロニカは飽きることなく、その一連の流れをながめていた。
まるで自分の人生みたいな、その流れに光る輝きをね。

そのうちに、サンテムズ川の表面が、おいでおいでと、自分に手招きしているように感じる。
ぐにゅぐにゅと水が口のように動き、自分の名前を呼んでいるように思う。
それは、おとうさんと、おかあさんに名前を呼ばれたかのように、ヴェロニカの耳に心地よく響いた。

実際は、ごうごうという音をたてて流れていただけなんだけど、傷心のヴェロニカにはそう聞こえたんだ。

そういえば、と、ヴェロニカは考える。

窒息死だけは試した事がなかったな。

ヴェロニカが今までやった自殺未遂は、ほとんど全部、痛いものだったんだけど。
それにはちゃあんと理由があってね。一つは一瞬で結果がわかるし、さっさと行えるって事。

もう一つは、8歳の時の事故で、最大限の痛みを味わってしまったから、ある程度の痛みには慣れっこになっちゃったって事。
なにより窒息死なんて、長くて苦しく、しんどいじゃあないか。
餓死や過労死を三日坊主で終わらせたヴェロニカに、そんなの合いっこないんだよ。

だけど、こうして水面を見ていると、溺死を誘われてるような気持ちになる。
はあはあと、ヴェロニカの息が荒くなる。

……もしまた、失敗しちゃったら?
もしも、水中に沈んだまんま、身体がシュウシュウ再生しちゃって……。
永遠に、永久に、水中で苦しい思いをする事になったら……?

顔が青ざめ、くちびるが紫色になる。
死ぬのなんて怖くない。
死にそこねるのが、怖いんだ。

けれど、そこに魅力的で、蠱惑的な香りがあるのも確かさ。
今まで試した事ない自殺方法。もしかしたら、これなら、ヴェロニカは死ぬ事が出来るかもしれない。
手招きがヴェロニカの心を捉える。名前を呼ぶ声が、心の奥底に染み渡る。

気づけばヴェロニカは、橋の手すりによじ登って、今にも飛び降りんとしていたよ。

橋の手すりの上に立つと、手すりの高さと自分の身長が合わさって、恐ろしいほど水面が遠く見える。
もう手招きは見えなかった。名前を呼ぶ声も聞こえない。
川は荒々しくごうごうと、海へと向かって流れていく。

普通の人ならおそらくきっと、飛び込んじゃえば、冷たい水で心臓マヒを起こし、もみくちゃにされて、溺れて死ぬ。
だけど、ヴェロニカはどうなんだろう。
それはきっと、かみさまだって、わからないって頭をひねる領域さ。

ドキドキしながら、青い顔のまんま……。

ヴェロニカは、大きな一歩を踏み出そうとした。

けれど、丁度その時に。

ヴェロニカは声を聞いたんだ。
ヴェロニカの丁度後ろから、男の声を聞いたんだ。

え?どんな声か気になるって?

だったら後ろを振り向いてごらんよ。ヴェロニカと一緒にね。
びっくりして振り向いたヴェロニカは、こんな声を聞いたんだから。

「おお、おお、そこの、可愛らしい彼女よぉ。ピンク色したくりくり巻き毛が、すばらしく可愛い女の子よぉー。馬鹿な事はおやめなさい。貴女が死ねば悲しむ人が、おおーっ、大勢いることでしょう」

すかっと通るテノール声さ。そいつがヴェロニカを止めたんだ。
最初ヴェロニカは、いつもの病院のお医者様かと思ったよ。
歌いながらしゃべる人なんて、そうそういるもんじゃあないからね。

けど、違うんだ。

なんてったってこの歌声は、お医者様より遥かに上手い。
それに、聞いてるだけでウキウキするような、笑い出しちゃいそうな、そんな歌声だったんだから。

そしてもう一つ、ヴェロニカは気付いたんだ。
この歌声には、本当の本気で、ヴェロニカの命を心配する気持ちがこもってるって。

今までヴェロニカに与えかけられた言葉や感情って、同情や、呆れや、悲しみや、哀れみなんかがこもってた。
おとうさんとおかあさんを失った境遇に対する同情や、死んでも死ななくって死に続ける行動に対して呆れ。
毎度毎度ボロボロになるヴェロニカを見て悲しがり、複雑なおまじないを受けたヴェロニカを哀れんだ。

この町の人はみんなそうさ。

おとうさんとおかあさんがいない、死にたがりのヴェロニカは絶対死ななくって。
そんなヴェロニカを皆可哀想だと思ってた。

可哀想だと思いながらも、皆どうしようもないって、諦めて呆れてたんだ。

けど、今かけられた言葉は、そのどれとも違った。
ヴェロニカを、ちゃんとした一人の少女として、本気で、真剣に、心配した声だったんだ。
踊り出したくなるような、笑い出したくなるような歌声から。

ヴェロニカは、暖かいものを感じたのさ。

目をまんまるにするヴェロニカの前に、歌声の主は立っていたよ。

すらっと背の高い男さ。赤と黄色の水玉模様の、派手な服を身につけてる。
首周りにはたくさんのフリルがあって、ヴェロニカは、エリマキトカゲが二本足で立ってるみたいだって思っちゃった。

そして顔は、なおさら奇妙でミョーチキリンさ。
真っ白けっけに塗っちゃって、真っ赤なつけっ鼻がてらてら輝く。
唇は、はみ出さんばかりに口紅でベタベタ化粧をし、にかっと白い歯がダイヤみたいに光る。

冬の寒い夜、サンテムズ川にかかる大きな橋の上に、長身のピエロが立ってたんだ。

もうヴェロニカったらびっくりしすぎちゃって、目を白黒させてるよ。
そんな彼女にピエロの男は、優しく、やさしく、歌いかける。

「お嬢さん、もしも貴女がこの世界に、絶望し、嫌になり、生きる希望がないと言うのなら、ららら、ぼくの姿を見てごらんよ。1分、10秒、1秒でもいい。玉乗り、手品、ジャグリング。なんでも綺麗にこなしてみましょう。それで貴女の生きる世界が、すっきり綺麗に晴れるならぁー、ぼくは貴女の道化師になろう」

広げた手の指の間から、ぽろぽろとボールがこぼれ落ちる。
それは一度地面に落ちてバウンドし、跳ね上がり、帰ってきた所を、ピエロはぽぉんと手で打ち上げた。

「お代は見てのお帰りさ。通貨は君のとびきりの笑顔。それさえもらえりゃあなんにもいらない。貴女の可愛い笑顔こそが、おおーっ、ぼくの幸せとなるのだからぁ」

ぽろぽろぽろりと止めどなく、手から溢れ出て来るボールを、ピエロは綺麗に放り投げ、華麗なお手玉を見せつける。
それはそれは見事なもんさ。
今までずっと、暗くて鬱屈した生活をしてたヴェロニカは、こんな楽しいもの、見るのなんて初めてだったよ。

「らるは、はるや。やさしい笑顔を、おどけたぼくに見せておくれ。死なんて暗いものから遠い、明るい笑顔を、さあ、ぼくにぃーっ」

ヴェロニカったらもう夢中さ。
5さいの子供のように目をきらきらと輝かせ、ピエロの一挙一動を、見逃すまいとしていたよ。
ピエロの見せる最高の芸に、ヴェロニカは拍手を送っていたよ。

雪がちらつくサンテムズ川の、冬の寒い橋の上。
そこに、最高のサーカスが幕を上げたんだ。

おどけた仕草でボールを投げて、笑える仕草でボールを投げて。
時には難しい技なんかを、惜しげも無く披露しちゃったり。

そのたびにヴェロニカは、はっとして口元を手で覆い、くすくすと笑い声をもらし、ほおーっと感嘆の息をもらしたよ。
死ぬ事以外興味のなかったヴェロニカが、産まれて初めて、他のものに興味を持ったんだ。

しばらくポンポンと宙を飛んでいたボールが、一つずつ、空中でポンと弾けた。
弾けたボールの中からは、綺麗なお花が飛び出てきたよ。

それをピエロは右手でキャッチし、みるみるうちに、見事な花束を作り出す。
うやうやしく深々と礼をして、その花束を、ヴェロニカに向かって差し出したんだ。

「ええーっ、これにてぼくことピエロが座長をつとめます、真夜中のサーカスは、名残惜しくも終幕と、おおーっ、相成ります。うーううー。貴女の笑顔でぼくの懐、ぽかぽか暖か良い気持ちです。ですからこれはその御礼。この花束は可愛い貴女の笑顔に、きっとピッタリだと思うからぁー」

そう言ってピエロは笑うのさ。
真っ白な歯をきらきら光らせ、くったくない顔で笑うのさ。

そして、ヴェロニカも気付くんだ。
いつの間にやら死にたがりの自分も、くったくない顔で笑ってるって。

産まれて初めての経験だったよ。
本当の本気でヴェロニカは、どこか知らない他人から、命の心配をされたんだ。
じんわり広がる暖かさが、じゅくじゅく広がる心の穴を、じわじわじわりと埋めたのさ。

完璧に埋まった訳じゃあない。まだ穴は空いたまんまだけど。
だけど、今までよりずっとずっと楽になったって、ヴェロニカはそう感じたのさ。

花束を受け取る時、ピエロと手が触れ合っちゃった。
おおきくて、暖かい手だったよ。
ピエロの心とおんなじくらい、おおきくて、暖かだったよ。本当。

ヴェロニカの心臓がどくんと跳ねた。
今まで感じたことない痛みさ。ヴェロニカは本気で、自分が死ぬかと思ったよ。

まるで全力疾走した後のように、心臓はどくどくと脈打ち続ける。
触れ合った指先が焼いた鉄のように熱い。
顔にあたる雪のカケラが、じゅおって音をたてて溶けていくよ。

それくらい熱く燃えていたのさ。
ヴェロニカの心は、ふいごを吹かれたかのように、ぼうぼうと熱く燃えていたのさ。

ヴェロニカはこの日、産まれて初めて……。

……恋というものを、知ったんだ。

(書き溜めが尽きました。次回更新少し遅れるかもしれません)

6

そのピエロの名前はジョージといった。
サンテムズ川にかかる橋を渡った所にね、大きなおおきな公園がある訳なんだけど。
大理石で出来た見事な噴水が、ひっきりなしに水を吹き出してる、そんな公園があるんだけど。

その噴水の近くでね、ジョージは毎日芸をやってた。
毎日毎日芸を見せて、風船やらキャンディなんかを売って、ジョージは日銭を稼いでたんだ。

正直言って、こんな小さな町の大きな公園で見せるには、ちょっとばかり場違いな芸さ。
彼くらいの実力があったら、もっと大きな町の大サーカスでも食っていけるだろうからね。
それほど彼はすごかったんだ。実際、昔は大サーカスにいたんだと思う。

なんてったって彼の持つ道具は、年季ってヤツがビシバシ入って、汚れきっているんだけど、なんだか不思議な重みを感じさせたからね。
そんな道具を使って毎日毎日、どこにそれだけレパートリーを隠し持ってたのか不思議に思っちゃうくらい、違う芸を見せていたんだ。

ジョージには才能があったんだ。
人を笑わせたり、喜ばせたりする才能がね。
きっと、ジョージのおとうさんとおかあさんもサーカス芸人で、産まれてくる子供にそういった才能があるように、かみさまにお願いしたんだろうね。

ボールを投げると皆が歓声を上げ。
おかしな動きをすると皆が笑いだし。
歌をうたうと皆が踊りだした。

そんなへんてこジョージは、ちょっとした町の人気者さ。
この公園に現れたのは最近の事だったけど、すでに子供から大人まで引っ張りだこになってたよ。

ジョージ、ジョージ、へんてこジョージ。ピエロのジョージはお手玉が得意。
歌も得意で玉乗りも出来る。落っこちた事は一度もない。
ピエロのジョージはなんでも出来て、へんてこジョージは皆が好き。

そんな歌を子供たちは、誰彼ともなく歌っていたよ。
その歌を聞くとジョージはニッコリ笑って、ぼくは手品も得意だよ、と、トランプを広げて見せてくれた。

ヴェロニカはね、ジョージが芸をする姿を、遠くの方から眺めてた。
どれくらい遠くの方からかとというと、ヴェロニカったら公園に入ってすらいないんだ。
公園の入口から道路を挟んで、向こうの歩道から、彼女は米粒みたいな大きさの、遠くのジョージを見てたんだ。

もっと近くに行ったらいいのにって思うだろ?
けど出来ないんだ。今はこれが精一杯。
これ以上近づいたらヴェロニカの心臓は、ドキドキしすぎて破裂しちゃうよ。

ヴェロニカは思ったのさ。産まれて初めて、死にたくないって。

ヴェロニカはとっても混乱していたんだと思うよ。
今まで死ぬ事しか考えてなくって、明日にも消え去ろうとしていたから、他の人なんて眼中になかった。
そんなヴェロニカが今現在、一人の人間が気になって気になってしょうがない。

産まれて初めての経験さ。
だからヴェロニカは、今まで死ぬ事だけに向けていた情熱を、ちょっぴりジョージに向けたんだ。

といっても、大した事は出来ないもんだよ。
真っ赤な顔して遠くから、米粒みたいな大きさのジョージが、ゴマ粒みたいなボールでジャグリングする姿を見るだけさ。

ゴクリとつばを飲んで意を決し、じわりじわりとジョージの所まで近付こうとするけれど、すぐに心臓がドクドク痛いほど脈打ち始めるから、ヴェロニカはあうあう言いながら座り込むばかりさ。
そんな事を毎日毎日、ヴェロニカは飽きもせず続けたんだ。

毎日毎日見ていたら、たとえ米粒みたいな大きさでも、色々なことがわかるもんさ。

一つは、ジョージのレパートリーは本当に底なしだってこと。
もう一つは、ジョージはみんなからすごく愛されてるってことさ。

笑顔の子供たちに囲まれるジョージを見てると、なんだか自分も笑顔になってしまう。
本当に、彼は大人から子供まで人気者だった。

けどね、ヴェロニカは思うんだ。

ジョージがみんなから好かれているから、自分も好きって訳じゃあない。
あの日、暖かい言葉をくれたから、わたしはジョージが好きなんだって。

たとえピエロでも、ピエロじゃあなくっても、ヴェロニカはジョージが好きになってた。
それはこの町の人としては、とっても珍しい事だったよ。
この町の人はへんてこジョージが、ピエロのジョージが好きだったからね。
ヴェロニカはジョージという人間に、本気で恋をしていたんだよ。

だけどさ……ジョージの方はどうなんだろう?

ジョージは皆の人気者さ。いつも彼は人に囲まれ、皆に笑顔を、言葉を送ってる。
もしかしたら、ヴェロニカに暖かい言葉をかけたのだって……。
……何も、特別な事じゃあないのかも。

ただ町の人に話しかける延長線上で、ジョージはヴェロニカに話しかけたのかもしれない。
八方美人の優しさを、彼女に与えただけかもしれない。

今、心を熱く燃えたぎらせてるヴェロニカ……彼女こそが、おばかな道化師なんじゃあない?
あんなに優しいピエロのジョージさ。皆の人気者のへんてこジョージさ。
想い人がすでにいたって、おかしな話じゃあないだろう?

ヴェロニカはひとりで勝手に盛り上がって、熱くなってるだけなのでは……?

頭の中で、道化師の顔をした悪魔がささやくよ。
ヴェロニカの心臓が冷たくなる。手足がガタガタと震え、歯がガチガチと音をたてる。

死ぬ事ばかり考えていた彼女さ。暗い事考えるのはお手の物さ。
道化師の悪魔はどろりと溶けて、誰だか知らない綺麗な女性の姿になり、頭の中で、ジョージとキスをする。

そんな想像がぐるぐる脳内をめぐり、ヴェロニカは嗚咽をもらしたよ。

けどね、ヴェロニカは思うんだ。

今はまだ死にたくないってね。

ジョージが見せる様々な芸を、明日も見てみたいってね。

死にたがりのヴェロニカは、暗い想像で毎日死にたくなるけど。
ジョージを心の支えにして、毎日公園でジョージを見つめてたんだ。

そうやって、ヴェロニカがジョージを見つめて始めて、一ヶ月くらい経ったころかな。

そのくらいになると、ヴェロニカも成長してね。
歩道から道路を渡って、公園の入口にあるアーチの近くまで、ヴェロニカは近付く事が出来ていてたんだけど。

そっと公園の中を見てみると、ジョージが噴水前にいないんだ。

キョロキョロと周囲を見渡すけれど、どこにもピエロの姿はない。
ヴェロニカの心臓がズキリと痛む。
気持ちがどんどんドン底へと落ち込む。

まるで迷子の女の子みたいに、彼女はしばらくジョージを探したよ。

ジョージを探してキョロキョロして、数十分は経ったかな。

ヴェロニカはついには諦めて、ガックリと肩を落としちゃって。
そろそろ家に帰って、久しぶりに自殺の一つでもやってやろうかって考えてたよ。
そういえば今はお昼時だし、毒物ランチでも作って食べようかって考えてたよ。

そうやって、ジョージの姿が見えなくて、落ちきっちゃった彼女の肩を。

トントンと叩く人がいたんだ。

びっくりして振り返ると、そこにはハンサムな男がいた。

長身で、すらりとした男さ。
ブロンドの髪をなでつける姿が、西部劇に出てくる映画俳優のようだった。
しっかりとアイロンがあてられたシャツが、彼の生真面目さを物語っている。

初めて出会うハンサムな男に、ヴェロニカはすっかり面食らっちゃって。
彼女は口をパクパクさせたよ。お魚のようにパクパクと。

そんな彼女にブロンドの男は、ニッコリと笑いかけるんだ。

「やあ、橋の上の女の子。ずっと会いたいと思っていたよ。ずっとずっと、会いたいってね」

死にたがりって言われるのは慣れてるけれど、橋の上の女の子なんて、初めて言われたもんだから。
ヴェロニカはつい、人違いだって口走っちゃうよ。

けれど、男は首を振って、キラリと光る歯を見せるんだ。

「忘れたなんて言わせないよ。ぼくは貴女の道化師さ。お代の笑顔はたっぷりもらった。だけど、今は懐がさみしくてね。また君の輝く笑顔が、たっぷり欲しいって思ってたんだ」

そう言って白い歯を見せる。
その歯を見て、その声を聞いて、ヴェロニカはハッとした訳さ。

このハンサムな男こそ、化粧を落としたジョージだって、やっと気付いた訳なのさ。

ヴェロニカの心臓は未だかつてないくらい、バクバクバクンと跳ね回り。
顔なんて、たまごを割ったら目玉焼きになっちゃうんじゃないかってくらい、真っ赤っかになってたよ。

「あの、あの、えっと、あの、えっと。わた、わた、わたしは、ヴェ、ヴェロニカ……」

そこまで言ったヴェロニカは、ぐるぐるぐるんと目を回し、ぽーっと蒸気を吐き出して、きゅうっと気絶しちゃったよ。

ハンサムジョージは大慌てで、彼女を病院まで連れてくハメになった。

後で知った事だけど、彼はお昼を食べに行く所だったんだ。
サムさん所のパン屋で売ってる、ベーコンレタスサンドをね、買いに行く所だったんだ。

その時、公園の入口で、まごまごしているヴェロニカを見かけたもんだから。
コッソリ後ろから近付いて、肩を叩いたって訳なんだ。

お昼を食べる事は出来なくなったけど、彼ったらそんなの気にしてないんだよ。
だって、ヴェロニカに会えた幸せで、胸がいっぱいなんだからね。

ベッドに横たわるヴェロニカが目を覚ました時、ジョージったら子供みたいに喜んで、嬉しさあまってヴェロニカの手の甲にキスをした。
それに驚いたヴェロニカは、まーた気絶しちゃったらしく……。

しばらく退院する事は出来なかったそうだよ。

……この日、ヴェロニカは死んだんだ。
一撃で、綺麗に、すっかりね。

死にたがりのヴェロニカは、この日死んで……。



ヴェロニカは、生きたがりのヴェロニカになったんだ。

(間に合った……次こそ遅れます。……いや、遅れないよう頑張りますが、たぶん遅れます。4日か5日後になるかと……)

7

まったく、アツいもんだねえ。

いや、天気の話じゃあないんだ。確かに最近は雪も降らなくなって、ぽかぽかと暖かな日も増えてきたよ。
だけど、そうじゃあなくってさ。アツいっていうのはヴェロニカの事さ。

ついさっき、サムさんのお店で大きな食パンを二つ買った、ヴェロニカの事を言ってるんだ。

サムさんの作る焼きたてパンはね、それはそれは良い匂いがして、立ち昇る湯気をスウって吸ったら、それだけで胸がいっぱいになって、お腹がペコペコになるんだけど。
そんなパンを紙袋に入れてもらって、ヴェロニカはスキップしながらお家へ向かう。

信じられるかい?スキップだよ。あの死にたがりのヴェロニカが、スキップなんかしてるんだよ。
サムさんはお店の窓越しにヴェロニカを見つめ続け、すれ違ったパルマおばさんはカバンから老眼鏡を取り出し、カフェでコーヒーを楽しんでいたゴードンさんは二度見した。

それくらい信じられないものだったよ。ヴェロニカのスキップなんてさ。

家に帰ったヴェロニカは、さっそく紙袋に入った食パンを取り出すと。
包丁でうすーく切り分けて、丁寧に耳の所を取り除いた。
そこに、ケチャップとマヨネーズをたっぷり塗って、ハムとレタスととろとろチーズ、それにふわふわのスクランブルエッグなんかを、イヤというほど間に挟んだ。

そう、ヴェロニカはサンドイッチを作ってるんだ。

もちろん、サムさんのパン屋ではサンドイッチの一つや二つ、販売してる訳だけどさ。
ヴェロニカったら不格好でも、自分で作るのにこだわったのさ。

食パン二つからサンドイッチは、恐ろしいほど沢山出来ちゃって、バスケットの中に入り切らないほどだったんだけど。
ヴェロニカはうんうん言いながら押し込んで、時計をちょっと確認する。

もうお昼の12時をとっくに回っている事に気が付いて、急いでアパートを飛び出すのさ。

こんなに沢山のサンドイッチ、華奢なヴェロニカの身体には、収まりきりっこないって思うだろ?
実際そうさ。この沢山の中から彼女が食べるのは、ほんの一つや二つだけさ。

じゃあ、残りは誰が食べるのかって?
もうわかるだろう?だって、彼女が急いで向かうのは、サンテムズ川にかかる橋を渡った所にある、大きな公園なんだからさ。

ああ、アツいアツい。
アツくてアツくて、チョコレートみたいにとろけそうさ!

公園の噴水前に彼はいたよ。
午前の公演を終わらせて、化粧を落としたハンサムジョージが、今かいまかとヴェロニカを、彼女の事を待っていたよ。

彼を見つけてヴェロニカは、バラの花のようにぱああっと明るく輝いた。
そしてジョージの方だって、ヴェロニカを見つけて嬉しそうに、ニッコリ歯を見せて笑うんだ。

初めてヴェロニカと素顔のジョージが出会って、もうふた月か、み月は経っていたかなあ。

最初のころはぎこちなかったものだよ。ヴェロニカったらジョージの顔を見て、うまくおしゃべり出来なかったんだからさ。
けどさ、仕方ないよね。今まで親しく話したことのある男性なんて、病院のお医者様くらいなもんだもの。

下手に近付こうとすると、ヴェロニカはきゅうって気絶しちゃうもんだから、ジョージは相当苦労したよ。
けれど、ジョージはめげなかった。公園の端から端に二人は立って、大声あげてお話したんだ。
公園で遊ぶ子供たちが、大笑いしながら二人を指さし、井戸端会議するマダムが、二人を見てひそひそ話をしても、ジョージはちっともへこたれなかった。

大声で、自分の趣味や、仕事の事や、好きな色やら好きな動物。
好きな食べ物は、ハムや野菜がたっぷりつまったサンドイッチだって事を、毎日まいにち日が暮れるまで、ジョージは声が枯れるまで話し続けたんだ。

そうやってしばらく経ってさ。
ジョージの魅惑のテノール声が、焼けたハスキーボイスになった頃には、二人の距離は噴水の端から端まで近付いてたよ。

それくらいになって、やっとジョージは言ったんだ。
低いひくい重低音でさ、ハスキーボイスで歌ったんだ。

「ヴェロニカ、ヴェロニカ、可愛い君。ぼくは君に、夢中なのさ。ららら。あの日自殺しようとする君は、人の夢のようにはかなくって、しゃぼん玉みたいに壊れそうで、ガラスの花のように美しかったんだ。へんてこジョージは思ったのさ。君の暗い顔を、おおーっ、笑顔に変えてやりたいって。それが叶うのなら、他は何もいらない。ぼくを君の、おおお、君だけの、道化師としてそばに置いておくれぇー」

そう言ってヴェロニカの手の甲に、キスをしようとするもんだからさ、ヴェロニカはまた胸が苦しくなって、真っ赤になって逃げ出しちゃったよ。
気絶しなかっただけ、彼女も成長したもんだね。

その次の日からさ。ヴェロニカが、サンドイッチを作るようになったのは。
死にたがりのヴェロニカが、死ぬような思いをして、ジョージと並んで座ったのさ。
彼の気持ちが本気だってわかったから、ヴェロニカも、本気で向き合う事にしたのさ。

今では彼女もすっかり慣れて、ジョージの話に笑顔で受け答え出来るようになったよ。
ジョージはサンドイッチをひょいひょい口に放り込みながら、味の感想と、昔旅行中に食べた、ひどい味のサンドイッチの笑い話を聞かせてくれた。

様々な事をヴェロニカは知ったよ。
ジョージは物知りで、博識で、経験豊富なんだ。

彼は昔、誰もが知る大サーカスにいたらしくってさ。
世界中を回りながら、色々な事を学んだんだって。

彼の話を聞いてヴェロニカは、笑い、うなずき、驚き、感心する。
サンドイッチが二人の胃袋を満腹にするまで、そんな素敵な時間を過ごすのさ。

そうして満腹になった後は、ジョージの午後の公演を観る。

毎日見ても飽きないさ。流石はプロというやつだね。
今日ジョージがやったのは綱渡りでね、公園にある木と木の間にロープを張って、そこを歩きながらコーラの瓶でジャグリングをする。

見てる人はハラハラドキドキして、息を呑んで見守るんだ。
そうして渡りきってようやく、皆ほっと息を吐いて、目一杯の拍手を送るんだ。

最後にジョージは、身振り手振りでノドが乾いたって事を示す。
そして、手にコーラの瓶がある事に気付いて、瓶の蓋を開けるんだけど。
お決まりのように、炭酸がどばっと吹き出して、ジョージはびしょぬれになってしまう。

そんな滑稽な姿を見て、皆笑うんだ。腹の底から。ヴェロニカも一緒に。

公演が終わって、ロープを外し、ピエロの化粧を落としてから、ジョージはヴェロニカをアパートまで送る。
他愛もない事を話しながら、夕焼けでオレンジ色に染まった町を、二人でゆっくり歩くんだ。

ヴェロニカはその時が一番楽しかった。けれど、アパートに近づくにつれて、悲しくなるんだ。
ジョージとお別れしないといけないからね。
毎日のようにぐずるヴェロニカを、ジョージは頭をよしよしと撫でて、こう諭すんだ。

「また明日会おう、可愛いヴェロニカ」

ってね。
死にたがりのヴェロニカはその言葉を胸に、生きたがりとして明日を待つんだ。

毎日が楽しいって思ったよ。
明日を捨ててた自殺志願者は、明日を楽しみに生存志願者になったんだ。

ヴェロニカは思ったよ。今日という日が、いつまでも、ずっと。
自分が死ぬまで続けばいいのに、ってね。

……ヴェロニカはね、言ってなかったんだ。
自分の身体の秘密を。死んでも死ねない自分の事をね。
ジョージに言ってなかったんだ。

この平凡で幸せな毎日が、壊れてしまうのが怖くって。
ジョージが自分の事を見る目が、哀れみや恐れに変わるのが怖くって。

ヴェロニカは逃げていたんだよ。
彼の真っ直ぐな瞳から、目をそらして逃げていたんだよ。

だから、ヴェロニカはしばらく気付かなかったんだ。

何をって?
それがね、難しい事なんだけど……。

たまにね、ジョージはヴェロニカと話している時、ここではないどこかを見つめる事があるんだ。
どこか遠くを、見つめる事があるんだ。

ヴェロニカの心には、ジョージしかいなかったんだけど。
ジョージの心には、ヴェロニカ以外の誰かがいたんだ。

ピエロはね、自分がどんなに悲しくっても、どんなに辛くっても、顔に化粧を塗りたくってね。
白い粉でシワを隠し、目尻に垂れ下がった線を引き、口紅でニッコリ笑顔を作って。
表面上の笑いを作り出す。自分がどんな感情だろうと、その表面上の笑いで、人を笑顔にしてしまう。

そんなピエロを何年も何年も、ずうっと続けてきたジョージなんだ。
感情を隠すのは得意だった。けれど、ジョージは苦しんでいた。

ジョージの心にいる誰かについて、ジョージはずうっと悩んでいたんだ。

ヴェロニカがその事に気付いたのは、だいぶ後になってからさ。
お話の流れでね、ヴェロニカはこう聞いたんだ。

「ねえジョージ、そういえば、貴方。家族は?おとうさんもおかあさんも、サーカス芸人だって聞いたけど……今も、大サーカスにいるの?」

そう聞いた時、ジョージはいっそう、遠くの方を眺めたんだ。
ここではないどこかを、ヴェロニカのいない所を、ジョージはぼうっと眺めたんだ。

「おとうさんと、おかあさんは、死んだよ。サーカスの芸に失敗してね。もう何年も昔の事さ。そして……」

そう言って口ごもるジョージに、ヴェロニカはそれ以上踏み込めなかった。
ただ、自分にも両親がいないって事を、もごもごとつぶやく事しか出来なかったのさ。

『そして……』

彼は、何が言いたかったんだろう?
もしかして……ジョージには、もう……。

愛している人が、いるんじゃあないか……?

死にたがりのわたしなんかじゃあない。
もっと別の……素敵な人が。

いるんじゃあないか……?

悩んだよ。ぐるぐるぐると、いつまでも。
家に帰ってからもずっと、ヴェロニカは考え続けたよ。
明日なんか来てほしくないって、その日久しぶりに思ったよ。

怖かったんだ。ジョージの事が。
ジョージが思い悩んでいる事が、とってもとっても、怖かったんだ。

居ても立ってもいられなくなったヴェロニカは、その夜もう一度ジョージに会おうと思って、ボロアパートを飛び出した。
階段を一段飛びで駆け下りて、公園までの道を急いだ。

会ってどうする訳でも無い。何かが出来る訳でも無い。
ただ、聞かなくちゃって思ったんだ。

『そして……何?誰か……いるの?』

そう聞かなくちゃ、前に進めない。
踏み込まなくっちゃって思ったんだ。どんなに怖くても、知らなくちゃって思ったんだ。

彼女はジョージを愛していたんだ。
自分を生きたがりに変えた、ジョージを、ね。

けれどね、ヴェロニカ。急ぎすぎてはいけないよ。
ほら、急がば回れとかって言うだろ?
どんなに急いでいたってね、赤信号はしっかり守らないと……。



ききーっ、どかん!



……ほら、ね。ヴェロニカ。言っただろう?
久々だね、トラックに轢かれるなんてさ。

ヴェロニカの頭は、タイヤとアスファルトの間にすり潰されて、ペースト状になっちゃったけど。
白いケムリが上がっているから、たぶんいつも通り大丈夫なんだろう。

問題は、トラックの運転手さ。
遠くの町から別の町へ、荷物を運ぶ所だった彼は、ガタガタブルブル震えて泣きそうになっていたよ。

当然だよね、人を轢いちゃったんだから。

彼は震える手で、救急車を呼んだみたいだよ。
サイレンの音を聞きながら、ヴェロニカはのん気に。

そういえば、お医者様の先生に会うの、久しぶりね……。

なぁんて、考えていたよ。
トラック運転手の気持ちなんか考えずにね。

この後彼は泣きながら、警察にあらいざらい罪をぶちまけたらしいけど。
ヴェロニカは死んでないから罪にならないって、あっさり言われちゃったそうさ。

さて、病院に連れてこられたヴェロニカは、その頃にはすっかり頭も元に戻って、けろりとした顔でお医者様に会ってたよ。

可哀想なのはお医者様の方さ。
最近はめっきり自殺をやめたヴェロニカが、また死んで、生き返って、病院に運ばれたって聞いたもんだから。
もう夜も遅くてね、家に帰ってワインの一杯でも飲んでゆっくりしていたっていうのに、お医者様はヴェロニカのために、急いで病院まで戻ったんだよ。

「ヴェロニカ、ヴェロニカ、ヴェロ、ニーカーっ。あなた、おおーっ、あなた、まーた……」

お医者様ったら珍しく、ぷんすかぷんと怒っていたよ。
やっと命の大切さを知ったと思ってたのに、また死んじゃったもんだからね。
だからヴェロニカも大慌てで、誤解を解こうとした訳さ。

「違うんです、先生。わたし、死ぬつもりなんかなかったんです。けれど、ジョージが……そう、ジョージ。彼に会うため急いでいて……轢かれちゃっただけです。車に」

言いながら、ヴェロニカは自分の説明力の無さに絶望していたよ。
いきなりジョージなんて言っても、伝わる訳がないもんね。
小さな公園では有名だけど、へんてこジョージは町中に知れ渡ってる訳じゃあないからね。
実際ヴェロニカも彼に会うまで、彼の事なんか知らなかったんだから。

けれどね、お医者様の反応は、ヴェロニカの思っていたのとは違ったよ。
彼ははっとした顔で、まじまじとヴェロニカの顔を見つめたんだ。

「ジョージ……ですって?おお、ヴェロニカ。あなたはいーま、ジョージと、そう……言ったのですか?おお、ジョージと!」

「知っているんですか、先生。ジョージを……?」

「知ってるも何も、彼は、彼は……」

そこまで聞いて黙ってられるヴェロニカではなかったよ。
自分の思っている事を、考えている全ての事を、お医者様に投げつけたんだ。

「先生、わたしは死にたがりでした。ずっとずっと死にたいって、この世に希望なんか無いって、そう思って生きてました。それを変えてくれたのがジョージ、彼の優しい言葉なんです」

「きっと彼は知らなかった……わたしが死んでも死なないって、知らなかっただけだけど。それでもわたしは、彼の言葉に、助けられてしまったんです」

「わたしは今、生きたがりです。明日もまた彼に会って、彼とサンドイッチを食べて、彼の魅せる素晴らしいショーを見て、家まで二人で歩いて帰って……そして、また明日って言って、別れる。そんな毎日をまた明日も。明日も生きたい……生きたがりです」

「そんな彼は、今、苦しんでる……ピエロの化粧でわからなかったけど。彼の心の奥底には、わたし以外の、誰かがいる。その事で……悩んでいるんです」

「わたしは、今……彼が好き。だけど彼は、わたしの事……好きじゃあないのかもしれない。彼の心にいる人の事を、本当に愛しているのかもしれない」

「だけど、わたし……いいんです。たとえそうだったとしても、わたし、彼に感謝してます。わたしに生きる希望をくれた、彼に感謝してるんです。だけど……ハッキリさせたいんです」

「彼が思っている人を……悩んでいる事を、知りたいんです。そして、出来ることならば……わたしが、彼の力になりたい」

「それが、生きたがりのヴェロニカの、たった一つの思いなんです。ジョージはわたしを笑わせてくれた。今度はわたしが、彼の事……笑わせて、あげたいんです。先生!」

……しゃべり終えたヴェロニカを待っていたのは、長い長い沈黙だったよ。

お医者様は、迷ってるみたいだった。
自分の知っている事を、ヴェロニカに話すべきか、話さないべきか……。
すごくすごく、悩んでるみたいだった。

けれど結局、彼女の力強い瞳に負けてね、お医者様は言う事にしたんだ。

「まず最初に、ヴェロニーカー。ジョージは貴女を、愛してます……ううう、それは、間違いない……」

そう聞いて、ヴェロニカの顔はぼっと熱くなり。

「けれど、彼は貴女と……一緒になる事は、ないでしょう」

そう聞いて、ヴェロニカの顔はさっと冷たくなった。

「どうしてですか……先生」

「彼の心にいる人は……彼の、妹なのですよ。その事で、彼はずっと悩んでいるのです……」

「彼の妹は……病気なのです。肺の病を患っていて……一生、治る事はない」

病院の蛍光灯がじりじりと、不快な音をたてて点滅した。
ヴェロニカは、ジョージの化粧の下にある、ジョージの素顔を知る事になったんだ。

(一日遅れました。申し訳ないです。次回もそのくらい遅れるかと……)

8

妹の名前はマリアといった。
ジョージと同じ赤みがかったブロンドを、さらさらと腰のあたりまで伸ばした、お人形のような可愛い女の子だった。
歳はヴェロニカよりいくつか下だったけど、華奢でおちびなヴェロニカと、背たけはそう変わらなかったよ。

今、その子はげっそりとやせ細って、病院のベッドの上にいる。

口には呼吸器をつけていて、息を吸うのさえ苦しそう。
ぜえぜえと荒く呼吸をして、ごほごほと咳を繰り返す。

「彼女の病気は、たらら、肺の一部が、とらら、コチコチに固まってしまう奇病なのです。世界的にも珍しいぃー」

お医者様がひっそりと歌うのを、ヴェロニカはあんまり聞いちゃいなかったよ。

世界って不平等じゃあないか。死にたがりで自殺ばかり繰り返すヴェロニカは、こんなにも元気に生きているのに。
マリアはどうしてこんなにも、苦しそうに生にしがみついているんだい?

ジョージとマリアは仲良し兄妹でね。
アクロバット芸人のおとうさんと、猛獣使いのおかあさんの間に産まれた二人は、サーカスで長年暮らしていた。

ジョージはピエロとして様々な芸を見せたけど、マリアは人前に出るのが得意じゃあなくってね。
ポップコーンやパンフレットの売り子として、毎日頑張って働いていたよ。

サーカスに事故はつきものでね。
おとうさんはブランコから落っこちて、おかあさんはライオンにじゃれつかれて、何年も前に死んじゃってさ。

二人っきりの兄妹は、お互い助け合いながら生きてきたよ。
様々な大きな町を巡ってね。ジョージはサーカスの人気者として、毎日一生懸命に生きてたよ。

そんなある日さ。半年近く前の話さ。

マリアが病気にかかったんだ。世界的にも珍しい奇病に。

今すぐ死ぬって病気じゃあない。だけど、治す手段がそうある訳でもない。
彼女はこれから先短い命を、病院のベッドの上で苦しそうに、咳を繰り返し浅い息をして、過ごす事になったんだ。

マリアはジョージにとって、たった一人の家族なんだ。
たった一人の家族がそんな目にあった、ジョージの苦しみがわかるかい?

ちょっとでも空気が綺麗な所へ行こうと、この小さな町までやって来たんだ。
それに、この町のお医者様は、歌が下手だっていう事と、医療の腕がたしかだって事で、巷では有名だったからね。

ジョージは大サーカスをやめて、この小さな町で一人、マリアの入院費を毎日稼いでいたんだ。

「彼は毎日、マリアのお見舞いに来てますよ。ららら。夜、日がすっかり暮れてから、彼はその日の稼ぎを右手に、この病院へ来ています」

ヴェロニカを家に送り届けてから、ジョージはここに来ていたんだ。
ヴェロニカと笑顔で別れてから、ジョージは悲しそうな顔で、マリアの手をぎゅっと握っていたんだ。

長い夜を、ずっと。
自分の無力さを噛み締めながら。

「どうにか……どうにか、ならないんですか。先生。わたし、なんだってします。助けてあげたいんです。……彼女は……彼女の病気は、治らないのですか?」

ヴェロニカはとっても恥ずかしかったよ。
ジョージの悩みなんかちっとも理解せず、ただ自分だけが幸せの絶頂にいたんだから。
自分が暖かなベッドで明日の夢を見てる時、ジョージは冷たい現実を見つめていたんだから。

死ぬ事しか興味の無かった彼女は、産まれて初めて、他の人の幸せを思ったよ。
マリアの病気が治って欲しい。ジョージの苦しみが無くなって欲しい。

心の底からそう願ったよ。

けれど、お医者様は首を振りながら言う。

「彼と……ジョージと一緒にいることが、ららら、ジョージの助けとなっていますよ。ヴェロニカ……」

ヴェロニカは目をぱちくりさせた。
そんな事聞いちゃいないもの。マリアの病気を治す方法を聞いたのにさ、お医者様ったら見当違いの事言うんだもの。
ヴェロニカは文句を言おうとしたけど、お医者様がそれを止める。

「ヴェロニカ。ジョージは、言ってました。おお、言っていたのですよ、ヴェロニカ。……好きな人が、出来たって。悲しい顔して死を望む少女を、笑顔に……生を望むようにしたいって。そう……言っていたのですよ」

そこでちょっと言葉を切って、お医者様はエヘンと咳をする。

「そして……こうも、言っていました。彼女の事が好きだからこそ、一緒になる訳にはいかない、と。……たった一人の妹、マリア。彼女を背負うのは自分一人、兄のジョージだけで良いと……そう、言っていたのです。苦しそうに、辛そうに」

「あなたの事を話すジョージは、とても幸せそうでしたよ。ヴェロニカ。マリアの事だけを考えて、悩み続けていたジョージは、あなたと一緒にいる時が、あなたの事を思う時だけが、おおー、幸せであったのでしょう。らーらー。彼の思いは本物です。しかし、マリアの病気が治らない限り……彼は、あなたと一緒に、心の底から笑う事は、未来永劫ないのです……」

そんな事を歌われてもさ、ヴェロニカは納得なんかしないよ。
さっきからお医者様ったら、あちらこちらと論点をずらしてばっかりさ。
酒場で一杯ひっかけたベンさんよりも、あちらこちらとフラフラしてるよ。

「だから、先生。それだったら、彼女の病気を治してください。肺の一部がコチコチになるなら、スパッと切り取ったらいいじゃあないですか」

鼻息荒くヴェロニカは言う。
奇病だなんだと言われても、きっと治す方法はあるって、ヴェロニカは思っていたんだよ。

けれどね、お医者様ったら頭をふりふり、深いため息なんかついちゃうもんだから。
ヴェロニカの鼻息はさらに荒くなって、もうもう闘牛みたいになっちゃった。

「無理なのですよ、ヴェロニカ。ううう、その部分を切り取ったとしても、また別の部分がコチコチに、そう!石のようにコチコチに、なるのです。あああー」

お医者様の顔のシワが、いっそう深くなった気がして、ヴェロニカの鼻息は少し落ち着いた。
お医者様も全身全霊をかけて、マリアの病気を治そうとしたって、ヴェロニカは気がついたんだ。

「全くもってわからない……薬も効かない。手術もダメ。見ている事しか出来ないのです……残された方法は、肺の移植手術くらいなものですが……」

そこで、またため息を一つ。
なんだか部屋の二酸化炭素が増えた気がして、ヴェロニカは息苦しさを感じたよ。

「人は死ぬと、肺はすぐにしぼんでしまうのです。うおお、針を突き刺した風船のように、しゅるしゅるしゅるりと人の肺は、しぼんで使えなくなるのです。だから、移植手術も出来ない。移植する肺が無いのですから、どうしようもないのです……」

お医者様の歌声は、どんどん小さくなっちゃって、最後にはうつむいてしまったよ。
後に残るのは痛いくらいの沈黙さ。しぃんって音が聞こえるくらいの、冷えびえとした沈黙さ。

しばらく、しぃんっていうのが続いたんだけどさ。
その沈黙を破ったのはね、意外にもヴェロニカ、彼女だったよ。

彼女は、こう言ったんだ。

「なぁんだ」

ってね。
今までの辛い話を聞いて、彼女はあっけらかんとそう言ったんだ。

「でしたら、先生。わたしがいます」

ヴェロニカの明るい声が、お医者様にはよく聞こえなかったらしく、目をしょぼしょぼとさせたよ。

「失礼、ヴェロニカ。あなた、今、何と……?」

「だから、わたしがいます。先生。死にたがりのわたしの、死なない身体が。世界一丈夫な身体があります」

ぽかぁんとするお医者様の前で。
ヴェロニカは誇らしげに、胸のあたりを指で差す。

「わたしの肺を、使ってください。この肺で、移植手術をして、マリアを助けてあげてください」

空が白みかけた頃、死にたがりの声が響いたよ。
産まれて初めて、誰かのために。

ヴェロニカは一撃で死ぬことにしたんだ。

(遅れてすみません。次回更新は日曜になるかと思います……)

9

お医者様っていうのはさ、人の命を救う職業だろう?

それがさ、たとえ死なない死にたがりだとしても、たとえ奇病を治すためだとしても。
人を殺して人を助けるなんて、やっていい事じゃあないだろう?

いや、実際は死なないんだけどさ。それでも肺を摘出するって事は、殺すのとおんなじ事さ。

お医者様は悩んだよ。
悩んで悩んでなやみきって、軽々と命を投げ捨てるような事を言う、ヴェロニカを叱ったりなんかしたよ。

けどね、ヴェロニカの助けがないと、マリアの病気を治せないのも確かさ。
ついにはお医者様も折れて、手術を行う事に決めたんだ。

手術は一週間後に決まった。
その間ヴェロニカはね、ちょっとでもマリアに強くて綺麗な良い肺をあげられるようにって、山に登ったりなんかした。

ほら、山っていうのは空気が綺麗でさ、その上高い所っていうのは、酸素が薄くて少ないだろう?
だからスポーツマンとかはさ、高い山でトレーニングとかをして、肺を鍛えたりする訳なんだけど。

ヴェロニカはそれの真似をして、高い山に登ったのさ。

ヴェロニカはなんの装備もつけず、スカートのまんま山へ向かったもんだから。
すれ違った大学の登山サークルの子たちなんかは、ギョッとしたそうだよ。

装備っていうのは、所詮人の命を助けるためのもんだからね。
死なないヴェロニカには必要ないし、その上ヴェロニカは登山に詳しくない。

だからヴェロニカは着の身着のまんま、山のがたがた道を歩いたのさ。

崩れそうな崖を越え、迷いそうな木々の間を抜け。
ふうふう肩で息をし始める頃には、視界が開け、山のてっぺんに立つ事が出来たよ。
セントラルビルよりもさらに高いその場所では、恐ろしいほど素晴らしい景色が待っていた。

ヴェロニカの住んでる小さな町を、端から端まで一望出来る眺めでさ。
それを見ながら薄くて清らかな空気を吸うと、肺のヨゴレがこそげ落ちるような気がしたんだ。

その後ヴェロニカは、三日ほど山の中を遭難するんだけどさ。
手術の予定日の前にはきっちり町へ帰ってきて、ひどい目にあったもんだとため息つきながら、バスルームで身体の汚れを落としたそうだよ。

ほんの数日で、肺が強くて綺麗になったかどうかは、全く全然、わからなかったけど。
なんだかやり遂げたような顔して、ヴェロニカは身体の汚れを落としたそうだよ。

問題といえば、ジョージの方さ。
手術について、お医者様から説明を受けた彼は、山から帰ってきたヴェロニカを捕まえると、ぶんぶんと肩を揺すったんだ。

「ヴェロニカ、ヴェロニカ、やめてくれ。君は、何を考えてるんだ。マリアのためとはいえ、君が身体を張る事はないだろう。それに、肺を摘出なんかしたら、君は死んじゃうじゃあないか。何を考えてるんだ、ヴェロニカ」

そう言ってぶんぶん揺すったんだ。
揺すりすぎて、ヴェロニカの目には、ジョージの姿が5人くらいに見えたよ。

お医者様はね、ヴェロニカの身体の事を、すっかり伝え忘れてたんだ。
だからジョージはこうやって、ヴェロニカを必死で止めてる訳だ。

その様子がおかしくて、うれしくて、かなしくて、ヴェロニカはわらいそうな、にやけそうな、なきだしそうな、顔をした。
ついにこの日が来たんだなって、ヴェロニカは遠い目をしたよ。

「ジョージ、聞いて。わたしはね、死んでも、殺しても、死なないの。死にたがりのヴェロニカは、ぜったい、ぜーったい、死なないの」

そう言ってヴェロニカは、洗面台に置いてあったカミソリを手に取ると、さっと手首を切り裂いた。
ジョージは小さく叫び声をあげたけど、ヴェロニカったら涼しい顔さ。
もう言うほどの事じゃあないんだけどさ。いつも通りの白いケムリが、ヴェロニカの手首から立ち上ったんだ。

ジョージは驚いたよ。
しげしげとヴェロニカの手首を見て、しんじられないって顔をした。

その顔を見て……ヴェロニカの心は。
ちくり、と傷んだ。
じゅくり、と心の穴が、広がったような気がした。

ヴェロニカを見るジョージの目が。
町の人たちと同じになる。
ばけものや、家なき子や、人じゃあないモノや、珍しい生物を見る。
そんな目になる。
そんな気がして。

ヴェロニカは、わらったんだ。にやけたんだ。ないたんだ。
自分がまた、一人ぼっちになったって。

そう感じて……泣いたんだ。

「今までありがとう、ジョージ。こんなわたしの、命の心配をしてくれて。本当に……ほんとうに、嬉しかった。だから、わたしは、そのお礼に……あなたにとって大切な命を、助けてあげるのよ。うふふ」

そう言ってヴェロニカは、ジョージを置き去りにして、ボロアパートを飛び出した。

もうジョージとは、一生会う事はないだろうって。
そんな事を考えながら。

ヴェロニカは走ったんだ。

さて、問題の手術なんだけどさ。

この一週間、お医者様はあちこちに電話をかけまくって、優秀な外科医を数人と、看護師を30人ばかり助っ人として呼んだ。
異常な数だと思うだろう?けどね、お医者様は大真面目なんだよ。

ほら、昔むかしにヴェロニカがさ、包丁でリストカットしようとして、包丁の方が壊れちゃってさ。
その破片が頭に突き刺さって、お医者様が摘出したっていう事件。

そんな事を言ったの、覚えてるかい?

あの時お医者様は悪戦苦闘でさ。
なんてったってヴェロニカは、どんな傷でも一瞬で、綺麗に治っちゃうもんだから。
メスで切っても、切ったそばからケムリをあげて治ってしまうんだよ。

試行錯誤を繰り返し、メスで切ってヘラでこじ開け、何時間もかけて破片を取り出した。
その手術の後お医者様は、しばらくスプーンすらロクに握れないくらい、疲労困憊したそうだよ。

そんな経験があったから、お医者様は大真面目に、過剰なくらい人を雇い入れたんだ。

メスは、触ったら指が吹っ飛ぶくらい鋭い切れ味のものを200本、人工心肺装置は最先端のものを入れ。
手術中に歌をうたっちゃって、指先が狂わないようにって。
声が枯れて出なくなるまで、家の中で歌い続けた。

お医者様も本気なんだ。ヴェロニカが命をかけてマリアを救おうとしてるんだから、自分も命をかけて、手術に向き合った訳なんだ。

手術当日。

着替え終わったヴェロニカは、お医者様の身振り手振りに促され、手術台の上に寝転んだ。
隣の台にはマリアがいる。
苦しそうな息を繰り返す彼女は、ヴェロニカを見て、にこりと微笑むような素振りを見せた。
ヴェロニカも軽く微笑み返す。

手術が始まる。
少し緊張するヴェロニカだったけど。

マリアが、ジョージの芸を見て、大声で笑う姿を思い浮かべると。
ヴェロニカの震えは自然にぴたりとおさまった。

マリアは肺が悪いから、マスクで麻酔薬を吸うのではなく、注射で麻酔を行った。
ヴェロニカはというと、注射針を刺すのさえ大変なものだったから、マスクで吸う事にしたんだけど。

1分たっても2分たっても、ヴェロニカったらちっとも眠くならないんだ。
麻酔の眠くなる成分でさえ、ヴェロニカの身体には効かないらしい。

そういえば、ららら、包丁の破片を摘出したときも、そーうでしたねー。

なんて、お医者様は頭の中で歌ったよ。声はすっかり枯れて出なくなっていたからね。
麻酔の機械のツマミを最大にして、普通の人なら永久に目覚めなくなっちゃうくらいの薬を噴出させると。
ようやくヴェロニカはウトウトとして、手術の準備が整った。

まず、お医者様はかすれた声で、外科医と看護師に今回の手術の概要を説明する。
手術自体はそう難しくないものだったけど、だからこそ集まった外科医や看護師達は首をひねったね。
こんな手術にこんな人数、はたして必要なのかしらん?ってね。

お医者様はヴェロニカの胸の当たりに、ペンで線をスウッと引くと。
試しにそこをメスでサッと切ってみた。

するとやっぱり、切ったそばから治るものだから。
お医者様はため息をついたよ。
声がかすれていなかったら、悲惨なレチタティーヴォをぶつぶつ長々と、呟き続ける所だったよ。

身振り手振りで看護師に指示を出し、切った所にヘラを差し込むようにする。
包丁の破片を摘出した時に得た経験を、上手いこと活かそうとした訳だ。
看護師達は訳がわからないって顔をしたけど、てきぱき動いてヘラを差し込んだよ。

けど、肺を摘出するには、胸を左右に大きく開かないといけなかったからさ。
左から初めて右の方まで開ける頃には、左の方がメリメリ音をたてながら元に戻ろうとしていた。
まるで終わりのないイタチごっこさ。そうこうしている間にヴェロニカの麻酔が切れて、手術中に目覚める騒ぎになっちゃったよ。

またヴェロニカに、人が死ぬくらいの麻酔をかがせると。
今度は疲れたお医者様の代わりに、優秀な外科医が5人がかりで執刀を行った。

もちろん彼らはこんな手術を行うのなんて、産まれて初めてだったけど。
流石はお医者様が雇い入れた外科医達だったよ。休むことなく手を動かして、肺が見える所まで開く事に成功した。

さて、ここからはスピード勝負さ。
人工心肺があるとはいえ、長時間使うとマリアの身体に負担がかかるからね。
さっと肺を取り出して、さっと移植しないといけない訳さ。

だけど、これがどうにも難しい。
ヴェロニカの肺を取り出そうとしても、取り出せないんだ。
ヘラを差し込めない微細な箇所が多く、切っても切っても治り始める。
彼女の身体の内側から、とめどなくケムリが溢れ出る。

まるで森の奥の、霧の中にいるかのようさ。
何も見えなくって、外科医達は辟易したよ。

そうやってしばらく手をこまねいていると、すっかり元気になったお医者様が、執刀に戻った。
外科医達も看護師も、なかなか優秀だったけど、この歌のへたくそなお医者様には、だあれも敵いっこしないんだ。

まるでいなずまのような動きだったよ。
ヴェロニカの身体が治るよりも、はやく、はやく!

メスが動く。

ぷっつりと肺と、肺を繋ぐ管の境目が切断され。
切断面からぼこぼこと、新しい肺がすぐさま再生した。

それを見た看護師の数人は気絶し、ばったり倒れてしまったよ。
メスや機械をひっくり返さなくって、本当に良かったもんさ。まったく。

肺を摘出し、金属のヘラを外してしまうと、ヴェロニカの身体は元通りに、すっかり綺麗に治ってしまった。
胸を縫う手術の手間がかからないというのは、良い事なのかもしれないね。

その後の手術は、ヴェロニカの胸を開ける事に比べたら、何万倍も楽な作業さ。
流れるような動きで、マリアの病気に侵された肺を取り出して、ヴェロニカの綺麗な肺を、ぴったりと縫い合わせた。
200本も用意したメスは、半分以下にまで減っていたよ。

手術が始まって丸一日が経った。
そのうち半日は、ヴェロニカの胸を開ける手術だったんだけど。

そんな大手術の末、マリアの肺移植手術は、無事成功したんだ。

それから一ヶ月の間、マリアは集中治療室で、術後の治療を受けた。

どうやら感染や拒絶反応はなかったらしく、何も問題は無いようだったけど。
長い間寝たきりだったマリアは、身体がやせ細っていてね。

歩く力も、自力で呼吸する筋力もなくなってたもんだから。
長い時間をかけて、マリアはリハビリを続けたよ。

マリアが集中治療室にいる間、ヴェロニカは足げく彼女のお見舞いに通ったよ。
彼女のリハビリに付き合ったり、彼女とおしゃべりなんかした。

マリアは長い言葉をしゃべる事が、まだ出来なかったんだけど。
それでも二人はおしゃべりをした。

二人で、お医者様のへたくそなオペラについてしゃべって、笑い合ったりしたんだ。

咳が出なくなり、呼吸器も外せるようになって。
マリアはヴェロニカに、お礼の言葉を、たどたどしくも伝えたよ。

ヴェロニカったら産まれてこの方、人に感謝された事なんて、一度も無かったもんだからさ。
どうすれば良いのかわからなくって、はにかんで、顔を赤くさせたよ。

季節は夏になっていて、強い日差しが町中を襲ってた。
そんな中、二人は病院の中庭にある木陰のベンチで、一休みしていたよ。
リハビリの散歩の途中さ。マリアは、病室から階段を降りて、ここまで歩けるくらいには力がついていたんだ。

二人で頬をなでる風の涼しさを感じて、じっとりと肌をつたう汗の流れを感じていると。
なんだか生きているって感じがして。

ついこの間まで、死にたがりと、死にかけだったなんて思えなくって。
二人は顔を見合わせて、笑い合ったりなんかしたよ。

「ほ……ほんとう、に……ありがと、う。……べろ、にか、さん。……あたし、あなたにあえて、うれしい……」

マリアは途切れ途切れに言う。
何度言ったって言い足りないらしく、こんな事をマリアが言うたび、ヴェロニカは居心地悪そうにもじもじした。

「ねえ。べろ、にか、さん。……いつか、いっしょに、みましょう。……あたしの、おにいさんの、げい。……ふたりで、いっしょに。みて、わらいたい。ね?いい、でしょう?……」

風が、ヴェロニカの頬をなでる。
ざわざわと、風が、心を、揺らす。

あの日、ジョージと別れてから、ヴェロニカはジョージに会っていなかった。
怖かったんだ。ジョージと会うのが。

ジョージが、自分を見る、目を、見るのが。
怖かったんだ。どうしようもなく。

昼間、マリアのお見舞いをして、ジョージが来る前には、ヴェロニカは病院から出ていた。

もう会わないって決めたんだ。

ヴェロニカはね、マリアの病気がすっかり治って、退院する頃に。
この町から、出ようって。

そう、決めていたんだ。

だから、ヴェロニカは、マリアの言葉にあいまいな返事をして。
逃げるように帰った。

愛しているからこそ、ジョージに会いたくない。
愛しているからこそ、マリアには、幸せになってもらいたい。

ヴェロニカは決めたんだ。
どこか遠い町で、ジョージを思いながら。
死にたがりの自分を殺し、生きたがりとして、生きるって。

そう、決めたんだ。

季節は移り変わる。

日差しが柔らかくなって、ぴゅうぴゅうと北風が木々の間を通る頃。
マリアは歌をうたえるくらいになって、スキップだって出来るようになった。

マリアの、退院の日が決まった。

ヴェロニカはその日、朝早くに起きると。
寒さに凍えながらお湯を沸かして、目覚めの紅茶を3杯飲んだ。
それから、大きなカバンの中身を確認して、必要なものをしっかり詰め込んでいるか指折り数える。

時計を見ると、面会時間まであと一時間もある。
引っ越しの準備はばっちりだ。今日、マリアに会った後、ヴェロニカはその足で列車に飛び乗るつもりだった。

最後に、産まれ育った町を見て回ろうかと、ヴェロニカはボロアパートの外に出た。

するとね、驚いたよ。
いやね、もう驚いたってもんじゃあない。

ヴェロニカは、驚きすぎて、その場で一回心臓が止まって死んだくらいさ。
その後心臓が破裂せんばかりにドクドク動いて、本当に破裂してまた死んじゃったくらいさ。

何がそんなに驚いたかって?

アパートの外にさ。

ジョージが……彼が、立っていたんだよ。

ヴェロニカは、ジョージの目を見れなかった。

恐ろしかったんだ。
彼女が愛した暖かい目に、哀れみや、恐れや、悲しみが浮かんでるんじゃあないかって。

そう思うと、恐ろしくて、おそろしくて、彼女は叫びだしそうになったよ。倒れそうになったよ。
けれど、そこをぐっとこらえて、ヴェロニカはがくがく震える足をどうにかとめようと踏ん張ったんだ。

そんな彼女の耳に、ジョージの声が……。
数カ月ぶりの暖かい声が、するすると入ってくる。

「ヴェロニカ……ヴェロニカ。やっと会えた。ずっと会いたかったのに、君ったら、ぼくを避けるようにするのだもの。君には……とても。言いたいことが、山ほどある。マリアを助けてくれてありがとうだとか、今まで会えなくてさみしかったとか、伝えたいことが、山というほどに」

「やめて……やめてよ、ジョージ」

つい、ヴェロニカは口を出してしまう。
恐怖に震える彼女に、彼の言葉は、地獄のように甘く、灼熱のように痛かった。

「ジョージ、あなたも、見たでしょう?わたしは、死なないおまじないをかけられた、普通の人じゃあない、女の子なの。もう、人じゃあないのかもしれない。そう思えるほど、わたしは、今まで死に続けた。けれど、けれどね、ジョージ。あなたが、わたしに、生きる希望をくれたの」

震える声はとめどなく溢れ出る。
彼女は泣いていたよ。
それは悲しいからでも、嬉しいからでもない、涙だった。

「ジョージ。生きる希望をくれたあなたの目が、変わってしまうのが、怖いの。だから、もう、わたしの前に現れないで。わたしを、見ないで。……わたしは、あなたのおかげで、生きたがりになれた。だから、生きたがりのまんま、わたしを行かして。……お願い、ジョージ。わたしを……」

涙、涙、涙。

「わたしを……ころさないで」

しばらくの沈黙。

北風だけがぴゅうぴゅうと、静けさを破る。

ヴェロニカはまだ、ジョージの目を見れないまんまさ。

そうして、どれくらいの時間が経っただろう。

ジョージが、口を開けた。

「ヴェロニカ……伝えたいことは、山ほどある。だけど、一つだけ……今、一つだけ、言わせてくれ」

ジョージの大きな手のひらが、ヴェロニカの肩をなでた。

ヴェロニカは、ゆっくりと、顔を……あげる。

「君が、ぜったい、ぜーったい、死なないって、言うのなら。……ぼくは、君を、永遠に、永久に、愛することが出来るんだね。ヴェロニカ」

目と目が合った。



ジョージの目は、前と変わらずに、暖かいまんまだったよ。

寒空の下、二人はキスをした。

涙のしょっぱい味がする、そんなキスだったよ。

(あと2回か3回で終わりの予定です)

10

冬の厳しい寒さが、小さな町をおそう。
しんしんと雪の妖精が、冷たい窓をノックする。

中に入れてくれよう、って声が、どこからともなく聞こえてくるけど。
君は入っちゃいけないよ、と、子供たちが言う。
うふふって、笑いながら。

ヴェロニカとジョージが出会って、一年という日が経っていたよ。
公園は相変わらずだだっ広くて、ピエロのジョージの周りだけ、人が大勢集まってた。
その人だかりの最前列で、ジョージに拍手を送るのは、生きたがりのヴェロニカと、ジョージの妹マリアだよ。
二人は姉妹のように寄り添いあって、ジョージの芸を眺めてた。

ジョージが難しい芸を見せるたび、二人は感嘆の声をあげ。
マリアはなんだか得意満面に、ふふんと鼻を鳴らすんだ。

「見てください、べろにかさん。すごいでしょう?あたしの、お兄さんは!」

すっかり肺の病気が治ったマリアは、舌足らずなしゃべり方で、ぴょんぴょん跳ねながら早口で言うよ。
そんなマリアをあやすように、ヴェロニカは頭を撫でてあげるんだ。

公演が終わる頃には、もう日が傾いて空はオレンジ色になっていた。
ジョージの芸を見ていた子供たちは、暗くなる前に家へと帰っていく。
おかあさんの手に引かれる子供たちは、晩ごはんについてお話するよ。

今日の晩ごはんは、あたたかいシチューよ。

なんて、シチューよりもあたたかい声で言われて。
子供たちは、嬉しそうな声をあげるんだ。

ジョージはそんな子供たちを、優しい目で見送った。
優しい彼は、子供たちが幸せでいる事が、何よりも、なによりも嬉しいんだ。

幼い頃に両親を失ったヴェロニカは、幸せそうな子供たちを見ると、胸の奥がちくりと痛んだけれど。
それはもう昔の話さ。

今の彼女はジョージと同じに、あたたかい笑顔で子供たちを見送るのさ。

「ヴェロニカ、今日もぼくの芸を、最後まで見てくれてありがとう」

ふいにジョージに声をかけられ、ヴェロニカは猫みたいにビクリと身体を震わせた。

「それと、君もね。マリア。ぼくの可愛い妹よ。君たちが見てくれているだけで、ぼくは身体の奥底から、勇気や力がもりもりと湧いてくるよ」

ジョージに頭を撫でられて、マリアはとっても嬉しそう。

「当然です。だって、あたしは、お兄さんのことが、大好きだから!」

「……わ、わたし、も……」

マリアの元気な声に続いて、ヴェロニカのか細い声がするよ。

「わたしも、大好き……だから。……わたしも、ジョージが、大好きだから」

そう言って、顔をリンゴみたいに真っ赤にさせるもんだからさ。
ジョージもつられて、顔を赤らめてしまったよ。
そんな二人の顔を見て、マリアはやれやれって首を振るんだ。

「まったく!二人とも、大好き同士なんだから!」

二人が大好き同士になって、もう結構な時間が経っていたんだけどね。
二人とも、あんまりにも相手の事が好きすぎて、まともにお話すら出来ないでいたんだ。

マリアはそんな二人の事を、あきれたような顔で見てたけど。
でもね、本当は、嬉しかったよ。
大好きな兄のジョージと、自分を助けてくれたヴェロニカが、大好き同士になってくれて。

マリアは嬉しくてうれしくて、たまらなかったんだ。

そして今日も、特になんにもなく、今日という日が終わるかと思ったけど。
この日ね、ジョージは勇気を出したんだ。

彼はピエロである前に、一人の男なんだからね。
綱渡りする時みたいに、勇気を振り絞って。

ヴェロニカに声をかけたんだ。

「そういえば、ヴェロニカ。今日が、なんの日か知ってるかい?」

急にそんな事言われても、ヴェロニカは首をひねるばかりさ。
自分の誕生日なんてとっくに過ぎてたし、ジョージの誕生日もまだ先のはず。
さては、マリアの誕生日?なんて、色々考えたんだけど。

ジョージが言うのは、そのどれとも違った。

「今日はね、このぼくピエロのジョージと、死にたがりのヴェロニカが、初めて出会った日、なのさ。あれから一年、経ったんだよ。ぼく達は、橋の上で出会い、君は、生きたがりになったんだ」

ヴェロニカは、はっと口元を手でおおった。
こんなにも、一年という日が早く過ぎるなんて、思ってもみなかったんだ。

「それでね、ヴェロニカ。君にこれを、受け取ってほしい。……高級品なんかじゃあない。恥ずかしいけど安物で、そんなに良い物じゃあないけれど。……君のために、一生懸命選んだんだ」

ピエロのジョージは、小さな箱を取り出した。
ヴェロニカは、震える手でそれを開ける。

中にはね、ぴかぴか銀色に光る、小さな指輪が入ってた。
ヴェロニカは目をまんまるにして、それをしげしげと眺めるよ。

今まで20年近く生きてきたけど、こんな綺麗で尊いものを見るのは、産まれて初めてだったからね。

「ぼくと、一緒になってほしい。へんてこジョージは旅のピエロで、様々な場所を旅するけれど。どんな所に行ったって、君に、隣にいてほしいんだ」

そう言ってジョージは、空中をつかむ動作をすると、どこからともなくバラの花束を取り出した。
一年前、ジョージがくれた花束よりも、立派で大きな花束だったよ。

「一緒に町の高いビルを見たり、田舎のぶどう畑を見よう。暑い南国では海が綺麗だし、雪国ではオーロラがお出迎えさ。危険な場所も通るかもしれないけれど、ぼくが君を守ってあげる。そうして、永遠に、ずっとずっと、ぼくの隣にいてほしい。しわくちゃのおじいちゃんとおばあちゃんになるまで……ううん、なったとしても。ぼくとずっと、一緒にいて、手をつないでほしいんだ」

差し出されたジョージの暖かい手を、ヴェロニカは、そっと握った。
目には涙を浮かべていたよ。
もちろん、悲しいからじゃあない。

嬉しかったんだ。本当の、ほんとうに。

「こんな、わたしなんかで、いいの?」

ヴェロニカが聞く。

「君じゃあなければ、駄目なんだ」

ジョージが言う。
彼の手は力強くって、絶対にヴェロニカを離さないぞ、っていう決意が、しっかり感じ取れた。

そっと、ジョージは、ヴェロニカの指に、綺麗なリングを通してあげる。
それは左手の薬指の所で、きらきらと眩しく輝いたよ。

その日の夜、ヴェロニカはサンテムズ川にかかる橋の上にいた。

一年前と同じで寒かったけど、今のヴェロニカには関係ないよ。
なんてったって彼女の顔は、よく熟れた桃の果実みたいに、ぽうっとピンク色になってるんだから。

何度も何度もニマニマ笑いながら、左手を広げて見てみる。
薬指にキラキラ光る指輪を見て、またなおさらニマニマしちゃうんだ。

心の中で、かみさまに御礼を言ったりした。
自分が産まれてきたって事に、感謝の言葉を思い浮かべたりしたよ。

一年前のこの場所が、愛おしいなんて思ったりして。
落ちてるゴミを拾ったり、鼻歌を歌ったりなんかした。

そのくらいヴェロニカはごきげんで、嬉しくて楽しくて仕方がなかったんだ。
一年前この場所にいた、自分とジョージに、心からありがとうって思ったんだ。

ごうごうと流れる川は相変わらずで、雪のせいで少し水量が増えたりしてた。
だから、ごうごうって言うよりは、ごわおごわおって感じに流れてたんだけど。
ヴェロニカにはその川の音ですら、自分を祝福する拍手の音に聞こえたよ。

一年前のあの日には、自分を死にいざなう声に聞こえた音だったけど。
今のヴェロニカは敵なしなんだ。

流れる川の音を聞いて、ニマニマにやにや笑ったよ。

けどね、そうやって笑っていると。

声が聞こえたんだ。

声っていうより、鳴き声だね。
にゃあう、っていう鳴き声さ。

川から、そんな声が聞こえたのさ。

どうにもネコの声のように聞こえる。
この町で野良ネコなんて珍しくないさ。

飛び降り自殺をした時に、腹を空かせた野良ネコが、ヴェロニカのはみ出た腸をかじった事だってある。
そのくらい、ネコはこの町のいたる所にいるのさ。

けどね、その声が川から聞こえたっていうのなら、話は別さ。
ヴェロニカは、身を乗り出して川面を見た。

すると、いたんだよ。ネコが。
板の破片にしがみついた子ネコが、サンテムズ川に流されていたんだ。

最近は雪が降り積もっていて、足場がちょっぴり悪かったからね。
どうやら足を踏み外して、川にどぼんと落っこちたらしい。

子ネコはせつない声をあげ、水流にもみくちゃにされていく。

ヴェロニカの見ている目の前で。
一つの命が、潰えようとしていた。

突発的で、衝動的だったね。

子ネコの姿を見たヴェロニカは、橋から大きく飛んだんだ。

天使の羽が生えてるみたいに、のびのびと、清々しく、飛んだんだ。

きっと、死にたがりのヴェロニカだったら、こんな事しなかっただろうね。

けどね、生きたがりのヴェロニカは、命の大切さを知ったから。
生きてる事がどんなに素晴らしいかって、知ってしまったもんだから。

小さなネコの命だって、見過ごす事が出来なかったんだ。
たとえ、死ねない自分の命が、死ぬ事になっちゃったとしても。

ヴェロニカは、子ネコを助けるために、サンテムズ川に向かって飛んだんだ。

川の水は冷たくて、どぼんと着水した瞬間、心臓マヒを起こしてヴェロニカは3回ほど死んだ。
さらにがつんと岩に頭をぶつけちゃって、脳挫傷を起こして1回死んじゃったよ。

ものすごい勢いで傷を治して、ヴェロニカは子ネコの姿を探す。
子ネコは寒さで弱り切って、もうすぐにでも川の底に沈んでしまいそうになっていた。

急いで子ネコの元まで向かおうとするけど、身体がかじかんでどうにも上手くいかない。

ヴェロニカは何をしても死なないけれど、暑いとか寒いとか痛いとかは、普通に感じる人間だからね。
この恐ろしいほどの寒さはどうにもならない。
それに、彼女は泳ぐのは、あまり得意じゃあないんだ。

がぼがぼと水をたらふく飲みながら、犬かきみたいな無茶苦茶な動きで、子ネコの元まで向かったよ。

やっとの事で子ネコを抱きかかえるけど、もう寒さで指は動かなくなっていて、仕方なくヴェロニカはネコを頭の上に乗せた。

川の流れがすさまじい。

何十メートルも流されちゃって、もう橋が遠くに見えるほどだった。

なんとしても、この子ネコだけは、助けてあげないと……。

そう思って泳ぐけど、寒さが彼女の体力を奪う。

手が動かない。足がつって激しく痛む。

息が苦しい。

視界がぼんやりとして、徐々に暗くなっていく。

『死』が、目前に迫っていた。

やっとの事で岸に近付いたヴェロニカは、子ネコを陸にあげるけど。
自分があがる前に力尽き、ぶくぶくと川底に沈んでいった。

意識が遠くなっていく。

何故か、彼女の頭の中に、おとうさんと、おかあさんの顔が浮かんだ。

サンテムズ川の底に沈み、呼吸が出来なくなったヴェロニカは。
酸素が脳に行き渡らなくなり、脳が破壊されていった。

すぐに白いケムリがあがり、脳は再生されていくけど……。
けどね、酸素が『無い』んだよ。

水の底じゃあ、呼吸が出来ないんだ。

どんな怪我でも治るヴェロニカでも……。
『無い』ものは、どうしようも『無い』んだ。

シュシュウボコボコ起こるケムリが、諦めたように、消える頃。
ヴェロニカの華奢な身体は、流されていく。

海へ向かって、遠く、早く。

流されていく。流されていく。






ヴェロニカは、一撃で死んだんだ。




(更新遅れて申し訳ないです。次回、完結です)

11

ヴェロニカの遺体が見つかったのは、次の日の朝の事だった。

痛々しいくらいの良い天気だった。

その日ジョージは寒さに震えながら、自分の住んでる安ホテルから、公園にサーカスの小道具を運んでいたんだけど。
サンテムズの川沿いを歩いている時に、にゃあにゃあ騒ぐ真っ白な子ネコを見つけたんだ。

ちょっぴり異常なくらい騒いでる。
毛並みがぼさぼさになっていて、くたびれた感じにも見えたけど。

その子ネコは一生懸命に、にゃあにゃあ声を張り上げていた。

なんだかその子ネコがね、海の方へ指差ししてるように見えて。

ジョージは妙な胸騒ぎがして、川の下流へ、海の方へ。
足を運ぶ事にしたんだ。

海岸に着くと、そこには人だかりが出来ていた。
朝も早いというのに、びっくりするくらい大勢の人が、そこに集まっていたんだ。
中には、手で十字を切る人も見えた。

ジョージの心臓が、どくんと跳ねる。
人だかりを押しのけて、ジョージはその奥へ入っていった。

ジョージを待ち受けていたのは、ヴェロニカだった。

ヴェロニカの、ボロボロの遺体だった。

どんな怪我でも治るはずのヴェロニカが、見たことないくらい無茶苦茶に壊れていた。

足は折れてひん曲がり、左手の手首から先が無い。
可愛らしいくりくり巻き毛には、木の枝や葉っぱなんかが絡みつき。
頬には深い傷が出来て、どろりと赤黒い血が流れていた。

死んだんだ。

生きたがりのヴェロニカは、息が出来なくなって、死んだんだ。

ジョージは泣いたよ。

胸が張り裂けそうな思いを、吐き出すように。
泣いた。泣いた。

町の人たちも泣いていた。
死にたがりのヴェロニカが、死ぬなんて思ってなかったから。

ボロボロに壊れたヴェロニカだったけど。
彼女は安らかな顔をしていた。

きっと、死ぬ前に一つの命を助ける事が出来て。
満足なんだろうね、ヴェロニカ。

けどね、ジョージは泣いていたよ。
安らかな顔とは対照的に。

彼女を失った消失感に、全身を震わせて。

泣いていたよ。

ぜったい、ぜーったい、死なないヴェロニカ。
永遠に、永久に、愛すると決めた、ヴェロニカ。

そんな彼女が死んでしまって。

ジョージは、全てを失った気になった。
世界が壊れたような気がした。

ヴェロニカの遺体を抱きしめていたジョージは。
ヴェロニカの遺体に口づけをした。

最後のお別れのキスをした。

血と、塩水と、涙と、死の味が。

入り乱れた甘いキスだった。

こうして、ヴェロニカは一撃で死んだ。
安らかな笑顔を浮かべてね。

さあ、これでものがたりは、おーしまいっ。





……なんて事はさ、口が裂けても言えないよ。

だって、あんまりじゃあないか。

確かに彼女は死にたかったけど。
こんな形で死ぬ事なんて、あってはならない事だろう?

それと同じ事をさ、お空の上にいるかみさまも、きっと絶対、思ったはずなんだ。

だから、起こったんだよ。

何がって?

いや、これがさ、実に言葉にしづらいもので……。
あまり口に出すと、安っぽい感じがするからさ。
本当、言いたくないんだけど……。

けどね、この二人には、最高にお似合いの言葉だよ。
だから、恥ずかしげもなく言う事にするよ。

起こったんだよ。



奇跡って、やつがさ。

ジョージが最後に口づけをした時。
一息……ほんの、一息だけど。

ヴェロニカの肺に、空気が送られたんだ。

それはか細い、ほんの少しの。
ちっぽけな生命の脈動だったけど。

そのほんの少しが、死んだヴェロニカの身体を駆け巡った。

死んだはずの肺は、空気に触れると、シュウシュウと白いケムリを上げた。
すぐに酸素を取り入れて、血液中に酸素が行き渡り、またも白いケムリがあがる。

どくんと身体がケイレンすると、ちっぽけな生命の脈動は、全身隅々まで渡り始める。

すっかり壊れた脳だって、酸素を取り入れてケムリをあげる。
今やもうヴェロニカの遺体は、白いケムリを上げすぎて、なんだか輝いているようにも見えたよ。

ジョージはそんな彼女の身体を、びっくりして目を白黒させながら見つめるばかりさ。

巻き起こるケムリが、少し薄れた頃にかな。

光の中、ヴェロニカが目を覚ましたんだ。

ずいぶん長く寝ちゃってて、ちょっぴり頭がぼうっとしてたけど。
ジョージに抱きかかえられてる事に気付いて、すぐに顔を真っ赤にさせたよ。

「ヴェロニカ、ヴェロニカ、おお、ヴェロニカ!」

ジョージは泣いたよ。
悲しいからじゃあない。嬉しくて、嬉しくて、なんだかもう信じられなくって。
かみさまがちょっぴりくれた奇跡に、感謝をして、泣いたんだ。

ヴェロニカはというと、なんだか今の状況が、よくわかってなかったけれど。

けどね、ヴェロニカは夢の中で。
おとうさんと、おかあさんに会ったんだ。

だから、自分が今の今まで、死んでたんじゃあないかって。
そう、気付いた訳なんだ。

「ジョージ、聞いて。わたしはね、死んでも、殺しても、死なないの」

ニッコリ笑ってヴェロニカが言う。

「こんなわたしを、永遠に、永久に、愛するなんて、本当に出来る?」

「当たり前だろう!」

ジョージが言う。

「こんなぼくだが、永遠に、永久に、君を愛させてほしいんだ。ヴェロニカ!」

朝日が昇る。
小さな小さなこの町を、明るいオレンジ色に染め上げる。

この日を最後に、生きたがりのヴェロニカは。
死ぬ事なんて、無くなったそうだよ。

二回目のキスは、幸せの味がした。
ものがたりはさ、やっぱりこういう文章で、締めくくられるべきなんだ。

二人はいつまでも、永遠に、永久に。
幸せに暮らしました。

ってね。

12

締めくくるって言ったけど、最後に一つ、言わせて欲しい。
それから後の事なんだけど。

一つだけ、伝えておこうと思う。

しばらく月日が経っちゃったけど、この小さな町は相変わらず。

サムさんのパンは美味しいし。
ゴードンさんはパソコンいらず。

パルマおばさんはちょっぴり老眼がひどくなって、メガネを買い換えたそうだけど。
タップ親分はバレエの親分と言い争いを続けてたし。
砂漠のガンマンは自分の生まれ故郷へ帰ったらしい。

マダム・ジョッシュはいつも通り綺麗で。
ベンさんにお酒を振る舞っていたよ。

そんな町の人々が、怪我や病気をするたびに。
お医者様の先生は、張り切ってへたくそなオペラを歌うんだ。

そんな小さな町の中、ヴェロニカと、ジョージと、マリアの姿は無かった。
三人がどこに行ったのか、知ってる人はいなかったよ。

けどね、小さな町の人たちは、ちっとも心配なんかしてないんだ。
生きたがりのヴェロニカと、へんてこジョージと、妹マリア。

彼ら彼女らは向かうところ敵なしだって、みんな知ってる訳なんだ。

小さな町から離れた場所で。
遠いとおい、遥か彼方で。

これからおとうさんになる人と、これからおかあさんになる人が。

かみさまに、こう願ったよ。

「産まれてくる子に、どんな事があろうとも ……強く、たくましく、生きますように」

って!






おしまい。

最後までありがとうございました。
書きながらもうこれSSじゃないなって感じでした。

・「あっしがおっ死んじまった話」
・あやかしの地獄
以前書いた地の文SSはこちらです。宜しければ……

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