仁奈「卒業」 (29)

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・10年後のお話


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こげ茶色の枝に、薄い桃色がぽつぽつと実り始める季節。

10年前のあの日出会った公園の砂場に、彼女は立っていた。

青緑のチェックのスカートに、紺色のブレザー。恐らくだが、彼女が通っていた高校の制服だろう。

こちらが手を振ると、元気よく手を振り返し駆け寄ってきた。

「待ったか?仁奈」

「ううん、待ってないですよ。P」

そう言って、仁奈は少し大人びた笑みを見せてくれた。

身長は小柄なままだが、それゆえの愛くるしさも健在だ。

しかしながら彼女が大きく成長したのは、その精神面において。

天真爛漫さはそのままに、とても落ち着いて行動するようになった。

今でもアイドル業界からは身を引いたものの、たまに事務所に遊びに来て、俺の担当アイドルに対し、先輩としてアドバイスをしている姿を良く見る。

「それより、今日はなんでまた制服なんだ?」

ずっと気になっていた事を尋ねてみると、仁奈は首をかしげて、

「一週間前、卒業式だったんです。それでこの制服を着るのが最後なんだって思ったら、ちょっと勿体無くて。いけないですか? デートに制服」

と言った後、少し俺から離れて一回転した。

栗色の髪とスカートがふわりと広がり、爽やかな柑橘類の香りが鼻を掠めた。

「あー……いや、いいんじゃないか。似合ってるし。俺もまぁ、スーツだからな」

「本当です?」

見とれてしまったのを誤魔化すために咳払いをしながらそう答えると、彼女は目を輝かせながら右腕を抱いてきた。

「ちょ、仁奈」

「それじゃ、デートに出発しましょう!実はもう、行きたい場所は決まってるんです」

そう言って早足で前を歩きだした彼女に、引きずられるように足をもつれさせてついていく。

最初はどこへ向かうのか検討もつかなかったが、だんだん、だんだんと見た事のある景色に色づいていく。

緑色の公園を出て、灰色の住宅街を抜け、水色の川辺を歩く。

辿り着いたのは一週間前まで、彼女が通っていた場所。

「……仁奈の高校じゃないか」

「はい。今日はここでデートしましょう」

満面の笑みを浮かべて言う仁奈に、俺は眉をひそめた。

「許可は取ってあるのか?」

「今は春休み中で、誰もいないから大丈夫ですよ」

「そういう問題じゃなくて……」

「もし誰かに見つかったとしても、パパって事で通すから大丈夫です」

「それは大丈夫じゃ……」

そこまで言って、右腕を抱く腕の力が強くなった事に気がついた。

不安そうな表情を浮かべて、彼女は上目づかいで俺に尋ねてきた。

「ダメ、ですか……?」

ああ、ダメだ。なんて、

きっと俺は断れない。

嫌なんだ。仁奈がこんな表情をするのが、仁奈が不安になるのが。

あの時もそうだった。

「好き……好き、です。仁奈の、仁奈の、彼氏になってください!」

数年前、プロダクション全体の大型ライブが終わった後、

会場の外に仁奈に呼び出され、そう言われた。

もちろん俺は断る気だった。他のアイドルにも言われた事があって、それももちろん断ったし、今回も告白される予感はしていたからだ。

だけど、

「俺は……」

彼女の、今にも泣き出してしまいそうな、不安そうな顔。

その表情自体は他のアイドルで何度も見て、見慣れたはずだったのに、

罪悪感とも違う、保護欲のような感情が俺の口を突き動かして。

「……約束を、しよう」

気づけば彼女の目の前に、小指をさし出していた。

きょとんとしている仁奈の手を取って、小指を絡ませ、

「仁奈が……そう、だな。高校を卒業しても、俺を好きで居続けてくれたなら。そういう関係になってもいい」

「ほんとですか?」

「ああ。そうだな。あとたまにならデートとかにも付き合う。と言っても、休日にアイドルに付き合うのはいつもの事なんだけどな。つまり、仮の恋人だ。今はそれでいいか?」

そう指切りをした。

今回だって、そう。

また保護欲のような何かが口を突いて、

「……わかったよ。見つかったら上手く誤魔化してくれよ?」

「はいっ!」

彼女を笑顔にするための、約束を重ねてしまうんだ。

「まずはここですよ!」

俺の腕を引いてまずやってきたのは、手芸部室と書かれた名札が吊り下げられた教室。

確か仁奈は中学、高校と手芸部だったはずだ。

「えっと鍵は……これですね」

彼女はブレザーのポケットから小さな鍵束を取り出して、その中の一つを鍵穴に差し込んみ、慣れた手つきでドアを右にスライドさせる。

ガラガラという音が廊下に反響して、やけに耳に残った。

「その鍵はどうしたんだ?」

「春休み中もOGとして少しだけ部活にお邪魔させてもらうからって、先生に貸してもらってたんです。えへへ、ここでデートしようっていう考えも実はその頃からあったんですけどね」

部室の中はカーテンで閉め切られている上に、窓が開いていないせいか薄暗く息苦しく感じた。

そんな室内の様子に仁奈は少し怒ったようにむっとして、

「使った後はちゃんと影干しをするようにって言ったのに……少し待っててくだせー」

「あ、ああ……」

てきぱきと窓を開けていく仁奈の様子に、自分の知らない彼女を見たような気がして複雑な気分になる。

手芸部では部長をやっていると聞いていたけれど、具体的にはどんな活動をしていたのかまでは聞いていなかった。

「お待たせしました。今着ぐるみを影干ししてるので、カーテンは閉めたままでも大丈夫ですか?」

「構わないよ」

「よかった……じゃあ改めまして、ここが仁奈が部長をしている、手芸部の部室です」

先程は薄暗くてわからなかったが、教室自体はそこまで大きくなく、真ん中に机が置いてあるだけの簡素な部屋だ。

しかし、その机に無造作に置かれた着ぐるみと壁際に積まれた動物の名前が書かれた段ボールに、ここは「仁奈が部長をしている」手芸部だという事を認識させられる。

同時にそれらを見て、安心感のようなものを覚えて思わず頬が緩んだ。

「Pはここに座ってください。仁奈はここに……」

仁奈に言われた通り、着ぐるみの対面に座ると、彼女は俺の隣に座ってきた。

そしてこつん、ともたれるようにして頭をこちらの肩に乗せる。

「ここはですね。部長と、副部長の席なんです」

「そうか。つまり俺が副部長で」

「ううん。Pが部長で、仁奈が副部長です」

そこで仁奈は何かを思い出しているかのように目を閉じた。

「Pが、面白い企画を考えて。仁奈達が、それを実行するために色んな物を作って。って、なんだかアイドルの時と一緒ですね」

「……そうだな」

「今日、なんで仁奈がここでデートしたいって言ったか、わかりますか?」

「……さぁ」

予測はついていた。けれど、俺はその言葉を仁奈本人の口から聞きたくて、わざととぼけて見せた。

仁奈もそれはわかっているようで、笑みを浮かべながら、

「仁奈、ずっと思っていたんです。Pと、同級生だったらこの学園生活は、もっと楽しかっただろうなって」

「だから、ここか」

「はい。……嫌、でしたか?」

「まさか」

また不安がる仁奈の頭を、優しく撫でてやる。

すると仁奈は嬉しそうに目を細めた。

そうしてしばらく。彼女が部長をしていた部室で時を過ごすのだった。

「次は、教室ですよ」

部室を出て、廊下をしばらく歩いて別棟へ。

その間も、彼女は学園での思い出を語ってくれた。

部室にあった着ぐるみは、仁奈が最初に作った着ぐるみで、生徒主催の卒業パーティーで後輩が着てきたという事。

自分の後継者になってくれるかもしれない後輩を見つけた事。

嬉しそうに話す仁奈に、俺もまた笑顔になって。

次に立ち止まったのは、3-4の名札が吊り下げられた教室。

「ここの鍵も借りたのか?」

「はい。着ぐるみの撮影で使いたいから……っていう名目で」

くすりと楽しそうに「秘密ですよ?」と、口元に人差し指を当てて笑う仁奈。

俺もまた、「ああ、秘密だな?」と同じように返す。

教室に入ると、明るい春の日差しが出迎えてくれた。

入口で立ち止まっていると、仁奈が俺の腕を引いてある机まで早足で向かっていった。

「ここが仁奈の席です。だから、Pは隣に座ってください」

「ん、わかった」

仁奈が自分の席に座ったのを確認して、隣の席に座る。

この席に座ってたやつに申し訳ないと思いつつも、こいつは俺の知らない仁奈を知っているんだろうなと少し腹が立ったのは内緒だ。

「……」

しばらくお互いに黙って、教室内を見まわした。

何の変哲もない教室。だけど、仁奈がいるだけで、ここで過ごしていたなら楽しいだろうなという思いが湧きあがる。

登校、授業中、放課後。

彼女が俺と共有したかったのはこういう気持ちなのだな、と改めて思う。

「Pは、今どんな事を考えていますか?」

「仁奈と一緒にいたら、どんな授業も楽しくてすぐに終わっちまうだろうなって考えてた」

「ふふ、仁奈も一緒です」

すると仁奈は机の中に手を入れ、数学の教科書を取り出してわざとらしく言った。

「あれー?P君、教科書、忘れちゃったんですか?」

突然の事にしばし呆然として、しかし仁奈のやりたい事がわかってしまったので口元が緩むのを抑えながら俺は答えた。

「ああ、そうなんだよ仁奈。だから、数学の教科書、見せてくれないか?」

「しょうがないですね、P君は」

困り笑いを浮かべながら、仁奈は自分の机を引きずるように少し動かして、ぴったりとこちらの机にくっつけた。

そして教科書を広げて、二つの机の真ん中に置く。

「……ははっ」

「ふふっ」

授業中ならよくあるであろうやり取り。

それが何だか幸せで、新鮮で。

「次は……そう、ですね。Pが先生をやってるところとか、見たいです」

「できるかわからんが、仁奈の頼みなら仕方ないな」

そんな教室ならよくある風景を、二人でかわるがわる再現して。

日が暮れるまで、教室内で過ごすのだった。

「今日は楽しかったですか?」

茜色が差し込む放課後の廊下。

前を歩く仁奈が、振り向いて言った。

「ああ。なんだか、学生に戻ったみたいで楽しかった」

「よかったです。頑張って考えた甲斐がありました」

おそらくこのデート自体、随分と前から計画していたのだろう。

じゃないと予め鍵を借りていたり、教科書を机に残しておくなんてできないだろうし。

「これで思い残すことはありません。仁奈はやっと、ここから卒業できます」

そう言って階段を一段だけ上がって、仁奈は振り返った。

階段の窓から差し込んだ光が、栗色の髪を輝かせて、

琥珀色の瞳が、まっすぐ俺を見つめた。

「(……きれいだ)」

そこでようやく。俺は今まで感じていた保護欲のような感情の正体を理解した。

要するに俺は最初から、彼女に惚れていたのだ。出会ったあの日から、彼女を守りたい、彼女を不安にさせたくない。

全部、彼女が「好き」だから。俺はそうしていたに過ぎなかったのだ。

「だから、P、約束でしたよね」

「……ああ」

そして先程仁奈は言った。「やっと、ここから卒業できます」と。

彼女の中では、思い残す事があったら、それは卒業ではないのだろう。

だから、二つの意味で【卒業】するために今日のデートをした。

一つは、文字通り、思い残すことがなくなった高校からの卒業。そしてもう一つは……

「ん……」

軽く、唇と唇を触れ合わせるだけのキス。

それは紛れもない、「仮」の彼女からの卒業。

「……仁奈、卒業、できましたか?」

「ああ」

「あ……」

不安そうな彼女に次はこちらからキスを交わす。

今度は、卒業の証を刻むように、じっくりとお互いの唇を味わうようなキス。

「……改めて、よろしく。仁奈」

「はいっ……」

使い古された陳腐な言葉しか、俺は並べられないけれど。

涙ぐむ愛しい彼女を抱きしめて、思う。

これからも、彼女を、幸せにしていこう――ーと。


おわり

10年後、他のアイドル達はどんな姿になっているのでしょうね。

では、ありがとうございました。

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