日本戦記2 (19)

http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1419252550/

前スレ

おかしい日本語があるかもしれません。ご了承ください

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1453291809

訳あって暫く投稿できなうちに前スレでの投稿ができなくなったのでここで続きを投稿します。

御都合主義もあると思うのでご理解ください。ではいきます。

同時に自由イギリス軍と台湾共和国陸軍が同じくルソン島のクリマオに上陸した。ルソン島を支配するアメリカ合衆国は司令官のダグラス・マッカーサー大将の命令でルソン島守備隊の大部分が首都マニラに防衛線を敷いていた。

その数10万人。既に海軍は壊滅、航空機も連日の大東亜連邦圏側の空爆で破壊し尽くされていた。

大東亜連邦圏側が上陸したのはルソン島だけではなかった。アメリカ連合国が支配するフィリピン ビサヤ諸島サマール島ドロレスに皇国陸軍第1機甲師団が上陸した(師団長は新井聡中将)


この師団には1940年生産開始の最新鋭の零式中戦車と去年の1941年に正式採用され少数しか生産されていない二式重戦車が配備されていた。

零式中戦車のスペックは

全長…7.10 m
全幅…5.12 m
重量…40.2 t
速度…50 km/h
主砲…零式75mm戦車砲×1
装甲…正面80mm
エンジン…皇3エンジン
乗員…5名

である。二式重戦車は

全長…8.21m
全幅…6.54m
重量… 52t
速度…48km/h
主砲…二式90mm戦車砲×1
装甲…正面100mm
エンジン…皇5エンジン
乗員…4名

である。

両戦車に搭載されている皇エンジンとは皇国政府が各自動車会社に合同でエンジンの制作を依頼して完成させた最新鋭エンジンである。二式重戦車の二式90mm戦車砲は皇国陸軍の90mm高射砲を転用したもだ。

皇国陸軍の機甲師団は全部で5つあり、第1は現在フィリピンを攻略中、第2・第3は満州国に駐屯しソ連と中国共産党に目を光らせている。

第4は帝都東京に配置し、第5は軍事顧問団としてインド共和国に駐屯している。

新型戦車を保有する第1機甲師団はアメリカ連合国の防衛陣地をやすやすと突破し橋頭堡を築いた。

上陸作戦自体は成功したが被害が一部甚大だった。皇国海軍第一機動艦隊の空母高雄・龍驤、他駆逐艦1が米合衆国海軍の潜水艦の特攻雷撃により轟沈した。

とりあえず投稿します。

またハワイ王国海軍も戦艦一隻が大破する損傷をうけた。

空母を二隻も失った第一機動艦隊は山口中将の命令で防御力の弱い軽空母二隻を駆逐艦の護衛の元、トラック泊地に撤退させた。

さらにオーストラリア海軍がフィリピン付近に攻撃を仕掛けるという情報を得た為、さらに第一機動艦隊から正規空母二隻と巡洋艦・駆逐艦多数を遊撃艦隊として派遣した(遊撃艦隊司令官は吉本篤少将)

これで、ふ号作戦自体に参加する第一機動艦隊の空母は装甲空母の二隻のみとなった。

8月、極東ソビエト赤軍100万が満州国に攻撃を仕掛けた。満州国は中国共産党の侵攻のダメージから抜け出せておらず、国境沿いには僅か5000のみ配置していた。

あっという間に国境を突破したソ連赤軍はこのまま首都に侵攻するつもりでいた。しかしここで立ちはだかったのが皇国陸軍第2・第3機甲師団である。

彼らは第1機甲師団に配置されている零式中戦車や二式重戦車をかなり保有していた。

さらに試製二式重戦車改を10両も保有していた。試製二式重戦車改とは、二式重戦車にさらに改良を加えて攻撃力・防御力をアップさせた試作戦車である(主砲は100mm戦車砲・正面装甲は150mm)

ソ連の主力戦車はT-34を軸としてKVシリーズ、少数だか皇国戦車を一撃で粉砕する122mm砲を搭載したISスターリン重戦車を保有していた。

戦車戦は満州西部のハイラル区で始まった。ソ連赤軍2個戦車軍団と皇国陸軍第2機甲師団第1・2中隊との戦闘だ。

数で圧倒するソ連赤軍戦車軍団に最新鋭戦車で挑む皇国機甲師団は善戦したが所詮は多勢に無勢、全戦車の4割を失い撤退した。

東寧付近でもソ連赤軍1個戦車軍団と皇国陸軍機甲師団第2機甲師団第3中隊と皇国陸軍第1対戦車師団・2個歩兵師団が戦闘を開始した。

対戦車師団とは、戦車戦を予想した陸軍参謀本部が編成させた対戦車用特殊師団である。

主に零式砲戦車を主力とし、対戦車無反動砲や対戦車ライフル・対戦車爆撃機を保有する通常師団とは完全に独立した部隊である。

一応歩兵連隊も所属するがあくまで対戦車攻撃が基本であり歩兵連隊は二の次である。その為歩兵同士の戦闘には弱く必ず歩兵師団と一緒に行動する。

師団内の爆撃機部隊は対戦車用の30mm機関砲と対戦車用300kg爆弾を取り付けた彗星五ニ型甲が使用されている。

この師団は現在3つあり全て満州国に駐屯しソ連赤軍に対応することになっている。

結果はなんと皇国陸軍の勝利に終わった。ソ連赤軍戦車軍団にはISスターリン重戦車も配備されていた。

しかし対戦車師団の前では無用の長物であった。彼らの専門は対戦車戦闘であり、対戦車無反動砲や対戦車爆撃機で攻撃したのだ。そして弱ったところを砲戦車部隊と機甲師団の部隊で攻撃する。

さらに追撃を加え、ウラジオストクを占領したのだ。これには本国にある皇国海軍第二艦隊の支援があった。

第二艦隊の軽空母艦載機がウラジオストクのソ連太平洋艦隊を殲滅し、その後に皇国陸軍部隊が占領したのだ。

皇国は満州国に2個機甲師団と3個対戦車師団・そして複数の歩兵師団を駐屯させていた。

それらを西部と頭部に分け、西部を第一方面軍・東部を第二方面軍にした。第一方面軍司令官は牟多口廉也中将で、第二方面軍司令官は磐田源太郎大将である。

第一方面軍は戦線をソ連赤軍に突破され首都新京に大規模な防衛線を築いている。

その一方で第二方面軍は赤軍を追い返したどころか、ウラジオストクまで占領し勝利を収めていた。

第二方面軍の勝利に牟多口中将は嫉妬しソ連赤軍侵攻阻止より磐田大将を陥れる為に時間を費やすことになる。

フィリピンではルソン島に上陸した大東亜連邦圏側の軍が合流し首都マニラに攻撃を開始した。

皇国海軍航空隊がマニラに大規模な空爆を敢行した。いくら兵の数が多くても制空権がない状態では意味がない。

数度の空爆で米合衆国陸軍は4000名以上の死傷者を出した。同時にフィリピン解放軍が破壊工作などを行い、合衆国各部隊で連絡が一時的に取れなくなった。

この好機を見逃す大東亜連邦圏ではない。三方向からマニラに対して攻撃を始めた。

部隊の連絡が出来ない合衆国陸軍であったがもう後がなく本国への撤退命令もない為、死ぬまで戦うしかなかった。

9月、フィリピンでの戦闘は今だ続いていた。20日に皇国陸軍がサマール島では最大都市ダバオを占領した。

米連合国陸軍は合衆国陸軍ほど好戦的ではなかった。その為一部を除きサマール島の米連合国軍は降伏した。マニラでも激しい市街戦が続く。

満州方面でも転機が訪れた。牟多口中将の謀略で磐田大将が更迭されたのだ。理由としては、磐田大将は捕虜を虐殺するように命令したというものだ。

無論これは間違っている。牟多口の部下が勝手に捕虜を殺害し、磐田のせいにしたのだ。

皇国では捕虜に対する虐待は重罪となっており、その為磐田大将は更迭され戦地とは程遠いい台湾駐屯司令官となった。

第二方面軍は磐田大将の代わりに高保優雅大将が任命された。彼は勉学こそできたが、戦地経験はなくインテリ系であった。

第二方面軍は司令官が代わったことで混乱がおき、ウラジオストクから北東に50km進軍していたがウラジオストクまで撤退する羽目になる。

第一方面軍でも新京付近で大規模な戦車戦が勃発した。そこでなんと戦況不利の感じた牟多口中将は司令部の新京を放棄、奉天に司令部要員と共に撤退した。

新京には満州国皇帝溥儀も残されており、溥儀と満州国政府そして残された皇国陸軍将校は怒りを覚えた。

残された皇国陸軍将校で最も階級が高いのは、第2機甲師団の師団長の西竹一中将である。彼は最善策として皇帝溥儀とその一族満州国政府の安全を第一とし満州国臨時首都の通化へと護送した。

新京には西中将を含む第一方面軍の残存部隊を残し新京が首都だと思わせることにし、ソ連赤軍を引きつけようとした。

策は成功しソ連赤軍50万が新京に侵攻した。ソ連赤軍戦車180輌に対し、皇帝陸軍及び満州国陸軍戦車は50輌程度であった。

戦闘は二週間続き、ソ連赤軍は1万名以上の死傷者をだす損害をだした。しかし最後は人海戦術で皇国側の司令部である満州国国会議事堂が陥落した。

司令部にいた西中将を始め第一方面軍の司令部付き将校は全員戦死、生き残ったのは満州国陸軍司令官の愛新覚羅溥傑上将(一般では大将)である。

彼は当初司令部に最後まで残るつもりだったが、西中将に説得されやむ得ず撤退したのだ。

第一方面軍は壊滅し生き残った第2機甲師団と第2・第3対戦車師団.歩兵師団は通化へ敗走した。

部下を見捨てた牟多口中将だが、彼のいる奉天には少数の満州国陸軍の歩兵と皇国陸軍補給部隊しかいなかった。

第二方面軍も危機にあった。第一方面軍の壊滅で補給路が脅かされていた。だがウラジオストクにいる為、第二艦隊からの支援が受けられるのが幸運だった。

だが陸路での撤退が不可能に成りつつあるので、ウラジオストクに立てこもるしかない。

10月、フィリピンルソン島マニラでは今だ戦闘が継続されている。皇国は援軍として独第三帝国陸軍、第1.第3.第5装甲師団(第1装甲軍)を派遣されることになった。

司令官はフリードリヒ・アドラー元帥である。彼は皇国陸軍士官学校外国科を首席で卒業した逸材である。若い彼は日本語も喋ることができ、多くの同期の日本人と交友をもった。

アドラー元帥は第1装甲軍の第1・第5装甲師団を戦線に投入し、残りの第3装甲師団を待機させるようにした。

理由はマニラでの戦闘が激しさが予想されたからだ。実際に第1装甲師団・第1戦車連隊は米合衆国の猛反撃にあい兵員の60%と装甲車両の半数を失ったのだ。

ウラジオストクに籠城する皇国陸軍第二方面軍は全方位(海上を除く)からソ連赤軍の猛攻を受けていた。高安大将は仕切りに海軍に援助を求めた。

だが支援中の第二艦隊もソ連太平洋艦隊の潜水艦部隊に攻撃をうけそちらの掃海に戦力を注いでいたのだ。

皇国政府は航空機による降下部隊の投入を決断し、第1降下猟兵師団を投入した。


通化の第一方面軍と満州国軍残存部隊は愛新覚羅溥傑上将と皇国通化駐屯部隊長の桜井徳太郎大佐の指揮下で再編され1個機甲師団・3個歩兵師団・皇国陸軍第十一飛行師団が防衛に当たることになる。


飛行師団には対戦車爆撃機も配備されていた為、かなり期待されていた。

その一方で奉天に逃げた牟多口中将は編成しようにもする部隊がいない為、どうしようもなかった。

数少ない指揮下の部隊には奉天を捨て通化に撤退する者も多くいた。その結果、ソ連赤軍侵攻時には僅か500名足らずの将兵しか残っていなかった。

その将兵らも戦意は低く、戦闘の混乱に乗じて逃げようとする者も沢山いた。

戦車も最新式の零式中戦車などはなく、5輌の軽戦車のみだった。その戦車の戦車兵も逃亡(通化へ)していたので稼働すらできなかった。

そして攻撃開始の3日後には奉天は陥落した。500名の内戦死したのはおよそ300名で残りは降伏しシベリアに連行された。戦後連行された者で帰還したものはいない。

この連行された捕虜の中に牟多口の姿はなかった。ここでも彼は逃げ出したのだ。

牟多口は副官と共に奉天脱出後、日本海への道を急いだ。驚いたことにウラジオストクに逃げ込んで自分が第二方面軍の司令官になろうとした。しかし途中で韓国領に侵入しており韓国兵に捕まった。


11月、通化での戦闘は継続されている。ソ連軍は4発戦略爆撃機であるPe-10も投入し攻撃していた。

一方の皇満連合軍は日本海より皇国海軍第二艦隊に所属する正規空母蒼龍改(飛龍改と共に本国で装甲空母化)より艦上戦闘機震電二一型(爆装も含む)を出撃させた。

Pe-10爆撃隊は最強レシプロ機の前に壊滅した。爆装している震電二一型はソ連戦車部隊に攻撃を仕掛け戦果をあげた。

しかしソ連は戦闘機などは旧式であるが対ジェット機用の対空砲を装備しており、皇国海軍航空隊にも被害がでた。

戦車戦は市街地で行われており、両軍多数の被害がでている。通化は満州国でも1.2を争うほどの発展した都市である。

その為建物も大きく、その建物一つ一つの奪い合いが続いていた。人海戦術で街を占領しようとしたソ連赤軍もこれには応えた。

皇満連合軍は街に皇帝溥儀がいる為士気もあがり死ぬ気で戦っている。弾薬なども皇国海軍航空隊の上空からの投下もあり豊富である。


フィリピンでは大東亜連邦圏側がついにマニラを占領した。司令官のマッカーサーは降伏し捕虜となった。

同時にフィリピンにおける全米合衆国軍が降伏した。これにより全フィリピンは解放されアルテミオ・リカルテが首班とするフィリピン連邦国臨時政府がマニラにおかれた。

大東亜連邦圏各国はすぐさま臨時政府を承認し支援を開始した。特にドイツ第三帝国は最新戦車四号戦車クリークを提供したほどだ。

四号戦車クリークのステータスは


全長… 8.66m
全幅… 6.87m
重量…50.6t
速度…40.6km/h
主砲…88mm高射砲(対戦車用に改造)×1
装甲…正面90mm
エンジン…皇3エンジン(皇国からライセンス生産)
乗員…4名

となる。提供理由は四号戦車クリークはまだ実戦には投入されておらず検証としての意味がつよかった(性能で言えばドイツ国の3号ティーガーとそう変わりはない)

臨時政府は早急に軍事力の強化に務めた。インフラは植民地時代に整っていたのである。

海軍は降伏した米合衆国・連合国の艦船を使用することになった。結果、フィリピンは戦艦1.正規空母1.軽空母3.巡洋艦15.駆逐艦23.潜水艦5を入手したのだ。

さらに空母艦載機や合衆国陸軍のB-17を含み航空機200機以上も入手した。すぐさまこれらの兵器を使用できるように訓練を開始した。

これらの訓練には降伏した米合衆国・連合国軍の一部の将校や大東亜連邦圏の将校が教官として対応することになる。

フィリピン連邦軍が本格的に戦闘参加できるまでにこの後1年を費やすことになる。

12月、通化の皇満連合軍がソ連赤軍を撃破し撤退させたのだ。この勝利には航空機の支援と大量の支援物資にあった。

ソ連赤軍は5万の兵が死傷し前線基地の新京に撤退した。皇満連合軍も無傷なわけなく、2万以上の兵と殆どの戦車を失った。

同月5日、突如アメリカ連合国が大東亜連邦圏に講和を持ちかけたのだ。理由は、太平洋での勢いは無くなり本国に米合衆国が侵攻する気配があったからだ。

現在の米軍連合国では合衆国軍を一度跳ね返す力しかなく危険な状態であった。講和はハワイ王国の真珠湾で行われた。翌年2月にはアメリカ共和国・連合国合併のアメリカ連邦国を建国した。

人種差別など多くの問題があったが、米連合国は合衆国ほど人種差別が強くなく黒人の議員もいた。米連邦国初代大統領はジョセフ・P・ケネディが就任した。彼は元米合衆国にいたが、ルーズベルトと険悪になり米連合国に亡命したのだ。その時、黒人青年らに助けてもらったことで黒人差別をやめることになる。そのため黒人からも人気があったのだ。


ここで7月までの欧州戦線に話を戻す。


ハンブルクがソ連の手に落ちた。ドイツ軍も善戦したが100万を超える軍の前に屈したのだ。

ドイツ国元首のデーニッツ元帥は撤退を決意した。主力艦隊は健在しており、生き残った将兵や国民を載せ脱出するつもりであった。

ロンメル大将やその他の将校もいた。彼らはハンブルク脱出後、ドーバー海峡を超える大西洋を横断しアジアに亡命することにした。

この脱出の為に殿部隊を率いたグデーリアンやグライムといった将軍達は戦死した。

主なドイツ国亡命部隊は

国家元首…デーニッツ元帥
陸軍大臣…フロンズベルク元帥

第1装甲総軍…ロンメル大将
第1歩兵総軍…ハーケン大将

第1航空総艦隊…ノイラート上級大将

独主力艦隊…ローゼンベルク大将

戦艦3
巡洋戦艦2
正規空母1
軽空母3
巡洋艦15
駆逐艦13
潜水艦59
輸送船100以上

将兵計30万以上、国民10万強

である。これだけの大部隊を大英帝国海軍が見逃す訳がなかった。そこでドイツはUボート20隻に攻撃させ、その隙にドーバー海峡を突破しようとした。


作戦は成功し大英帝国海軍の戦艦他数隻が轟沈した。しかしドイツ海軍も無傷でなくUボート18隻が轟沈、2隻が特攻して空母を沈めた。

こうした犠牲を出しながらも亡命船団は大西洋から喜望峰を通り無事8月にはインド付近に近づいた。

ハンブルクを占領したソ連赤軍は休む暇も無くスターリンの命令でデンマークとオランダに侵攻を開始した。

さらにバルト海に配備されてるバルト海艦隊はデンマークに砲撃を開始した。ハンブルク占領で欧州の大半がソ連勢力圏にはいることになった。

消えた…

続きがバグで消えてしまったのでここで終わります。すみません

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