元提督「ホームレスになったった」 (214)
地の分あり
亀更新
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「あちい……」
九月なのだから当然だが、口に出さずにはいられなかった。
高架橋の下だから大丈夫だと思っていたがそんなことは全然ない。アスファルトの地面は冷たいが出入り口に陣取ってるせいで陽射しは容赦なく挿す。数少ない財産の一つのベンチコートを羽織ったままにしているせいで余計に暑い。
もっと中へ行けばいいだけのことだが、動く気力もない。
ポケットに手を入れると五、六枚の小銭が指先にぶつかった。きっと千円くらいはある。あと二晩はもつか。
夜になるとようやく立ち上がりコンビニに行ってウォッカを一瓶買う。明け方くらいまでダラダラと時間をかけて瓶を空け、そこから先は悪夢を見ているのか、起きてるのかよくわからない地獄みたいな時間を過ごし、たぶん夕方頃にようやく意識がはっきりする。
悪夢を見ないように酒を入れるのに全く逆効果だ。でも飲まずにはいられない。
一体いつまでこんなことをしてる? 一週間後には餓死できるか? 馬鹿らしい見立てだ。
また意識が朦朧としてきた。視界がぼやけてきたところで、誰かが俺の前に立った。ほっそりした脚にジーンズ。
女だ。警官じゃなくてよかった。
顔をあげるとこちらを見下ろしていた目つきのきつい女と目があった。頭の左側で結った髪がなんとなく印象的だ。
「見たことあるな」
「私もあなたを何度も見たことがあります。写真でだけど」
平坦で高圧的な話し方が腹立たしい。一体何なんだ。
しばらく朧げな記憶を手繰っていくと、彼女の顔は見つかった。確か着任式のとき……
「思い出した。確か正規空母の……」
女の目がより攻撃的になったので、思わず口を閉じる。
「街中でそんなことを言うのは控えてもらいたいです」
女はしゃがんで俺と目線を合わせた。何日も風呂に入っていないし酒ばかり飲んでいたせいでひどい臭いを放っているはずだが、眉も動かさない。
「何の用だよ。見ての通り俺はもう軍人じゃない」
「だから話に来たの。海軍の事情でなくて私の事情で海に出てほしいの」
腹立たしさははっきりした怒りに変わっていた。いきなりやってきて自分の事情に巻き込もうとするなんてどうかしている。
「帰ってくれ。そんな話信じられない。早く。警察に泣きつくぞ」
「赤城さんに関係がある」
女が耳元で囁く。途端に俺は言葉を失った。ますます聞きたくない。
「今さら何だ。もう終わったことを……」
「赤城さんはまだ生きている」
胸の中で何かが弾けた気がした。女の襟を掴み、引き寄せる。
「その話を俺の前でするな。彼女は沈んだ。はっきり見た。もう終わったことなんだよ」
「終わってない。私は赤城さんを助けたいの」
「勝手にやればいいだろ。俺は二度と海には出たくない」
「赤城さんに対して少しでも責任を感じてるなら来て損はないわ」
驚いた事に俺は揺れている。彼女にもう一度会えるかもしれない? そんな馬鹿な。しかし彼女は海軍の艦娘だ。こんなところまで来て退役した俺をからかいに来たとは思えない。
もっと考えるより前に言葉が出た。
「名前を教えてくれ。どうしても出てこない」
女はやはり表情を変えない。
「加賀です」
「加賀、だな。話を聞くだけだ。それでいいだろう」
「やっぱりその気になると思いました、提督」
昔の肩書きで呼ばれると胸の奥がちくりとする。嫌味なやつだ。
今日はこれで全部です
明日また再開します
加賀は近くにビジネスホテルの一室を取っていたらしく、そこに俺を連れてきた。ロビーでは俺はひどく浮いていたし奇異の目を他の客から向けられていたが加賀はあまり気にしていないようだった。
部屋に着くなり俺はベッドに腰掛けようとしたが加賀は首を横に振って椅子を指した。
オリーブドラブのボストンバッグと長い弓袋が壁に立てかけてある。
「艤装を持ち出したのか!?」
加賀はその質問は無視して俺の向かいの椅子に座り地図を広げた。
「三ヶ月前、哨戒に出た水雷戦隊が房総半島沖で空母棲鬼に遭遇しました。水雷戦隊と、要請を受けて出撃した横須賀鎮守府第二艦隊と交戦した後にこれを退けて姿を消した」
「連合艦隊と同等の戦力と戦って勝ったのか? 空母棲鬼が?」
「艦載機搭載数、火力、制空能力。どれをとっても既存の艦娘の性能をはるかに上回ってるように私には見えました。まぁそんなことは些細なことです。それより大事なのはあれが赤城さんだったということ」
「加賀は件の深海棲艦と実際に交戦したんだな? なんで……その……彼女だと判断した?」
「容姿が酷似していたので実際に見ればわかります。その場にいた誰もが赤城さんだったと報告しています。海軍は公式に決定していませんが、鎮守府でも多くの人がそう考えてる」
加賀は小さくため息を吐いて続けた。
「私は赤城さんを沈めてあげたいけど、海軍は今の所は捕獲したがってる。艦娘の深海棲艦化の研究に最近お熱みたいだから……あの人が手術台の上でバラバラにされるのは耐えられない……」
ーー艦娘の深海棲艦化。
俺が海軍にいたころは極秘中の極秘だったというのに。時は移ろう。
ーー赤城。
彼女は俺のせいで沈んだ。彼女は最後まで俺のために行動してくれたのに俺は全部無駄にした。
きっと捕まればろくでもない扱いを受ける。だったらもう一度海の底に帰してやる方がいいのかもしれない。
だけど……
「加賀一人で勝てるのか?」
「勝とうなんて思っていません。刺し違えればそれでよし。装備も揃えています」
「できるなら今すぐ原隊に戻るべきだ。彼女を沈めてやりたいなら一人で立ち向かうのではなくて、鎮守府に戻って連合艦隊の編成を提督に進言しろ」
「ここは譲れません。海軍は一度決めればどんな犠牲を払っても絶対に捕獲しようとする」
「ダメだ。無謀すぎる。強行しようというなら警察を呼んでくる」
「別に構いませんけど、今頃私は艤装を無許可で持ち出した脱走兵扱いよ」
おれはようやく気付いた。ここまで着いてきた時点で俺はもう加賀の計画に巻き込まれていた。警察とーー間違いなく来るだろうーー憲兵隊にあいつは逮捕されるが、証言次第で俺も逃走を幇助した罪に問われる。死刑にしてくれるのも永遠に刑務所にぶち込まれるのも構わないが、せいぜい二年で外に放り出されるのはいやだ。出てきたところで今みたいな暮らしに戻るだけだ。
文字通り、乗りかかった船だ。
「どんな風に彼女を倒すんだ? 話せよ」
「その前に、身なりを整えて頂きたいです。見るに堪えない」
風呂に入って新しい服を着るのはもう何ヶ月ぶりかもわからない。そんなことは問題にならない仕事で糊口を凌いでいた。
加賀から渡された金で銭湯へ行き、服を新調したのはなんとなくみっともないような気がしたが他にはどうしようもないからと考えないようにした。
今年の頭から親密に付き合ってきたベンチコートとも公園のゴミ箱で涙のお別れをして、ホテルに戻ったときには外はすっかり暗くなっていた。
「別人ね」
戻ってきた俺を見るなり加賀は詰まらなそうに言った。
「久しぶりに人間に戻った気がするよ」
最初に座った椅子に座る。地図は広げたままだった。房総半島から三浦半島の鼻先にかけて大きな楕円が書き足され、円の中や線上に黒い点が13個記されている。
「三ヶ月前から今週の頭まで、赤城さんの姿はそこで確認されています。横須賀鎮守府と館山の哨戒基地が標的になっているのね。鎮守府はわかるけど館山は……なにか思い当たる?」
「彼女の最後の配属先」
それと俺の、と加える気にはならなかった。それ以上追求せずに向かいに座ったのを見るに、知ってて訊いたのだろうか。どこまでも嫌味なやつだ。
「幸いなことに、この二つの施設への直接的な攻撃は全て防ぐことができました。でも次は防ぎきれないかもしれない、というのが現状です。海軍は深海棲艦に占領されている海域の解放に注力しているので今さら近海に戦力は割けない。低練度の軽巡と駆逐から成る水雷戦隊を臨時に編成して警戒を強化していますけど、こんなんじゃどうにもならない」
加賀は地図を俺の方に寄せて背もたれに寄りかかった。地図はくれるらしい。
「私は補給も受けられないからあの範囲を闇雲に探し回るようなことはできない。だからあなたに羅針盤を回してほしいの」
俺はようやくこの脱走兵がわざわざ落ちに落ちた俺を探し出したのかやっと理解した。
羅針盤。出撃した艦隊の針路は例外なくこれによって決められる。
深海棲艦の持つ技術を利用したと言われているあの装置の中身はブラックボックスで、わかっているのは必ず艦隊を敵の潜む場所に導くということと、羅針盤を起動し操作できるのは適性のある人間だけだということだ。
今日の日本海軍において提督とは羅針盤を回すことのできる人間と言ってもいい。
俺も回せるから海軍に行かされた。それまでは海軍となんて何の縁もなかったのに。
「彼女はこの海域に確実にいるのか?」
「今は何とも。明日一度海へ出て回してみる必要があるわ」
「そうだな。ボートは?」
「お膳立てはとっくにしてあるから。あなたは羅針盤を回せばいいの」
まるで俺はそれしか能のないやつだと言われたような気がしたが、現状その通りだろう。俺がどんな失敗をしたかを知っていればそれは正しい認識だ。
「私はもう寝ます。電気消しといて」
そういうと加賀は座ったままパチリと目を閉じた。一つしかないベッドは譲ってくれるらしい。
寝ると宣言された以上いつまでも電気を点けておくのはかわいそうなので消灯し、ベッドに座る。
眠りたくない。久しぶりに海へ出ることへの戸惑いもあったが、それよりもまた赤城と顔をあわせるかもしれないということの方が不安にさせる。
自分の最悪の失敗とまた向き合う覚悟はまだない。
ベッドに横たわり目を閉じる。寝たくなくても、眠るのが一番いい。いつでも眠れるのは海軍より前の職場で身につけた特技の一つだ。
過去が断片的に再生される。夢を見ているのだとわかる。
憂鬱な朝にホルスターを差し出してくれた時の優しい笑顔。
基地の単調な献立に毎日喜んでいた。
解放した海域の視察に護衛として着いてくる時の張り詰めた横顔。
最後の時。俺をボートから突き落として。爆発。水面に浮いた俺のカービンと彼女の艤装。
前後して突き落とされる前。彼女はどんな顔をしていた? 逆光。眼を凝らす。その先に真っ赤な目。彼女の顔は憎悪に歪んでいた。
俺があの時冷静になって下がっていれば彼女は沈まずに済んだ。
彼女は俺のせいで、死んだ。
まぶたが開いてしまった。悪夢のせいで目が覚めてしまった。なにも変わらない。昨日だって同じ夢を見ていたのだ。
なにか落ち着かない。久しぶりにいいベッドで寝たせいか? 違う。酒がないからだ。ポケットに手を入れると指先が小銭にぶつかる。
買いに行ってこようか。
ベッドに横たわったままぼんやりとどうしようか思案していると、加賀の囁くような声が聞こえてきた。
話しているようではなくて、我慢しても尚漏れてしまう……すすり泣いている声だ。
ベッドライトを点けて起き上がる。
加賀はぐったりうなだれて、膝に涙を落としている。
「……ごめんなさい……」
自分の寝言で目が覚めたらしく加賀ははっと頭をあげた。視線がぶつかる。
「失礼しました。みっともなかったわね」
真っ赤になった目を手の甲で拭うとぷいっと顔をそらした。
「構うな。悪夢を見る夜だってある」
「あなたも見るの?」
「毎晩のように見るさ」
「そう。艦娘はね……艦だった頃のことをよく夢に見るの。練度が上がるほど艤装と長い時間を過ごすから」
「懐かしいな。赤城も夜中に目を覚ましてはそう話してくれたよ」
彼女のことを思い出して少しだけすっきりした。
落ち着き払い、昼間は決して慌てたりしないような彼女が夢を怖がるというのはなんとなくおかしかった。
日付けが変わる頃に決まって彼女は嫌な夢を見た、と執務室にやって来た。
そこから一時間が、たぶん赤城が兵器でも兵士でもなくただの人間になる時間だった。
平穏だった。出世なんていらないから退役までずっとあそこに置いてくれてもよかった。
「彼女に向き合う自信がない。合わせる顔もない」
話さずにはいられなかった。誰かに聞いてもらえればここまで落ちずに済んだかもしれない。
「俺のせいで死んだ。最後まで俺からはなにもできなかった。赤城はなにもかも俺のためにやってくれたのに……」
加賀がこちらに視線を向けた。
「今も俺はなにもできない。自分の失敗も清算できないよ」
「大丈夫。きっとできるわ。私がさせる。たとえ相手が赤城さんでも……」
言葉に詰まった加賀が視線をそらす。表情からはっきりと恐怖が見て取れる。けれども次に目を合わせた時にはそれも消えていた。
「戦いに心配はいらないわ。どんな相手でも鎧袖一触よ」
今日はこれで全部です
またしばらく空くと思います……
潮気を含んだ海風が容赦なく顔面にぶつかる。
昔東京港と呼ばれていた所から出発した全長5メートル足らずのプレジャーボートは進路を南西に取っていた。
時刻〇九三〇ちょうど。日差しが眩しかった。
俺が舵を握っている隣に加賀は座り、弓を抱えて目を閉じている。
加賀が調達してきたというボートは東京港で放置されていた船の中に紛れ込ませてあった。船なんて持っていても全く意味がないご時世だから売りたがってる人間はたくさんいる。加賀はそういった奴からただ同然でこのボートを買い取って港に隠しておいたらしい。
資格は持っていないが海軍にいた頃は海域の視察に行くときによくこの手のボートを動かしていたから操縦は問題なくできる。
「そろそろ回すぞ」
俺の声で加賀は立ち上がり、銀色のハードケースを渡してきた。
開けると直径15センチほどの円盤が出てくる。
羅針盤。艦隊の進路は例外なくこれの信託によって決まる。よくこれを盗んでこれた。普段は提督の執務室で保管されているものだから加賀は自分の上官を脅して持ってきたことになる。たぶん事前に持ち出しておいた備品のドイツ製9ミリ拳銃を使って。
舵の隣に羅針盤を置いて左手を載せる。
羅針盤はぼんやりと光り、眼前に俺が思い浮かべた海図を映しだす。昨日加賀がくれた地図に書き込まれた楕円の範囲だ。そして11個の白い点。
よし。羅針盤はまだ俺を適性保持者と認めてくれるらしい。
「羅針盤ってこうなってるんですね。初めて見ました」
加賀は投影された海図をまじまじと見ながら呟いた。
「見たことなかったのか?」
「はい。提督は私を秘書艦にしたことがなかったから」
加賀は海図と俺が手を置いた羅針盤を交互に見比べている。案外子供みたいな所があるのかもしれない。そう思うと少しだけ親しみが湧いた。
「しばらくは加賀が俺の秘書艦だぞ」
「そうですか。お好きに。早く回して」
「はいはい。よーし、羅針盤回すよー」
ふざけたつもりだったが加賀は眉も動かさなかった。
載せた左手の人差し指でフレームをくるりと回す。
針が止まろうかというとき……
「そこの船、減速しなさい!」
すぐ後ろから警告。羅針盤から手を離し、双眼鏡を取った。振り向き、双眼鏡を覗く。心臓が一瞬だけ膨れ上がった。
「おい……哨戒は水雷戦隊がやってるんじゃなかったのか」
「水雷戦隊も投入されてる、という意味よ」
加賀は俺と同じ方向に目を向けてしれっと言った。加賀にもあの艦隊が見えているらしい。
「戦艦、正規空母、航巡、軽巡……横須賀鎮守府の第二艦隊ね。哨戒と、相手を選ばず即座に対応するQRFとしての役目を負ってる」
「知ってるよ。何度か来てもらったことがある。精鋭だろ」
あらゆるシチュエーションに対応できる六隻の艦隊に対してこっちは一隻の正規空母。話にならないのは確かなことだ。
「加賀、艦載機で彼女らを足止めできるか? 航空優勢に運ぶんだ。敵艦隊が艦載機に対応してる隙を見て進路を反転、艦隊を大きく迂回して東京港に戻る」
どこかでパトロールに出くわすだろうとは思っていたが、こんなに早いとは思わなかった。
赤城の件と隣のお澄まし顔の脱走兵のせいで横須賀が殺気立ってることを考慮すべきだった。
寝覚めは悪いが、計画を一からきちんと建てる必要があるだろう。
加賀も同じ考えらしく、迫る艦隊を見据えながら小さく頷いた。
「焦ることはない。落ち着いて計画し直そう。まずは彼女らを止められるか?」
「心配いらないわ」
言いながら加賀は弓の先で海面をそっと叩いた。
海面から円状の光が浮き上がる。加賀はその上に立った。
円は彼女のつま先から頭上までを包み、消えた。
青く短い袴と飛行甲板を模した左肩の長大な肩盾、矢筒。よく知る正規空母の艤装だ。
ただ一つ、腰に据え付けられた左右二門の連装砲だけは見たことがない。
「それは……」
「20cm連装砲。本物のように装備する計画があったのだけど、機動力が削がれるという理由で試作品だけ作って工廠にしまわれてたの」
「使えるのか?」
「大丈夫。これを撃ったらすぐにボート出してください。さあ止めて」
アクセルを中立に戻し、減速する。
第二艦隊はすぐに追いつき、船尾を中心に半円を描くようにボートを囲んだ。
咄嗟にベルトに挿していた拳銃に手をかける。
「両手を見えるようにして!」
「わかった! 悪かったよ五十鈴。わかったからそんなの降ろしてくれ」
ちょうど右手側に陣取っていた軽巡の五十鈴は自分の名前を呼ばれてやっと俺のことを見たことある程度に思い出したらしく、あぁっという顔をした。
しかし警戒を解く気はないらしく、短機関銃によく似た艤装の銃口は俺の頭でぴたりと止まっている。
俺はといえばタマを縮み上がらせて手の震えが抑えられなかった。
あんな小さな女の子に怒鳴られただけでなにもできなくなるのは情けない話だが、あんな武器をむけられてちゃ仕方ないだろう。一発もらっただけで上半身が消し飛ぶような代物だ。
「お久しぶりですね。今日はどういった用事ですか?」
第二艦隊旗艦の榛名はすぐに俺のことがわかったらしく、キツくは声をかけなかったが、主砲はこちらを向いていた。
「特別に用事がなきゃ船を出しちゃダメかい? ここは自由航行海域だ」
彼女たちもバカじゃない。加賀が一緒にいるのを見つけた時点でろくでもないことをやってると見抜いていただろう。
「お変わりないようですね、司令。今までどうされてたのか霧島は聞きたいです」
榛名の隣に立つ霧島だけはニコニコしている。彼女とは話したくない。頭が切れるし、いつも会話を自分の望むように運べる。
「色々やってたさ。君たちも変わっていない……」
五十鈴からぐるりと艦隊を見回し、一番左で止まる。
変わってるな。
「メンバーの入れ替えがあったのか。前は翔鶴がいたと思うんだけど」
最後に見たとき正規空母は翔鶴だった。今は長い髪を頭の両側で結った気の強そうな子だ。
当の彼女は俺の方など眼中にないといったように加賀を睨んでいる。
「誰かのせいで沈んだ赤城の後任につくために翔鶴は異動になったわ」
五十鈴は相変わらず銃口を固定したまま言った。
「やめなさい、五十鈴。榛名も少しお話しを聞きたいです、横須賀鎮守府まで同行して頂けますか。それと加賀さんも」
「ダメだ。加賀はなにかマズイことをしたのか?」
「少しだけ。どうしてもダメな様ならボートを曳航します」
「船に触れるな!」
拳銃を抜く。一瞬だけ死を覚悟したが艦隊は誰も撃たなかった。正規空母の新顔を除いた全ての艦が俺に銃口を向けることになったが。
今回はこれで全部です
明日もう少し続けます
加賀に目配せした。加賀はこちらを見ることはなかったが砲門は全て正面の正規空母に向けられていた。相手はどうもそっちに注意は向いてない。
「ダメじゃないの、五航戦」
加賀の発砲を予期した瞬間、羅針盤が音を発した。よく知る甲高く、響く音。
羅針盤に向き直り、左手を置く。海図に加えられた赤い印と現在地を示す船のアイコンが重なっている。
「最悪だ……」
赤い印は鬼の顔を模した一際大きなもの。
動悸を感じる。
「会敵の可能性がある! 陣形を組め!」
「あなたの命令は受けない! 艦隊、複縦陣!」
榛名たちはこちらに固執するようなことらはせず、迎撃に専念してくれるらしい。
六隻は無駄な動きもなくボートの左手側で陣形を組んだ。全員練度が高いのがはっきり見て取れる。
索敵は……
航巡の最上は誰に言われるでもなく飛行甲板に瑞雲を据えている。
俺と目が合うとウインクまでしてきた。いつだって余裕なやつ。
「水偵、発艦するよ」
六機の瑞雲が最上の甲板から飛び立つ。
「加賀も……」
振り向いたときには加賀はすでに矢を放っていた。矢が三機の艦攻へと変わって加速し、すぐに見えなくなる。
誰も声を発さず、波の音だけが聞こえる。
偵察機が発艦してからもう何時間も経っているような気がする。
加賀と最上が声を発したのはほぼ同時だった。
「見えた……えっ……」
最上が言葉に詰まる。
「空母が一隻……空母棲鬼……違う、もっと大きい……あれは……」
「赤城さん……」
加賀が囁いた。
第二艦隊の緊張がはっきりわかった。それと俺自身のも。胃液がこみ上げてくる。
「加賀、本当なのか……?」
「間違いないわ」
言いながら加賀はさらに艦攻を放つ。
「航空戦に移行します。瑞鶴?」
第二艦隊の正規空母は誰にともなく頷き、同じ様に艦攻を放った。
「榛名、あの正規空母……瑞鶴はいくつ艦攻を出した?」
「二スロット四十二機。52型艦戦は全部よ」
榛名に代わって瑞鶴がぶっきらぼうに答えた。
「加賀は?」
「烈風、改。四十六機」
頭の中で書きかけていた計算式をかき消す。
こんな布陣で制空権取れませんでした、なんて話はありえない。
だが加賀の顔は険しい。
「うそ……」
瑞鶴がそう漏らしたのが聞こえる。
「制空権は喪失よ」
加賀は冷静だった。予期していたかのような。
最初に彼女が言った言葉を思い出す。
〝既存の艦娘の性能をはるかに上回る〟
うそだろ。
思ってたよりもずっとやばいのかもしれない。
水平線の向こうから空母棲鬼の放つ黒い歪な艦載機が見えてくる。
数え切れるような数じゃない。それこそ空を覆うような……
「対空射撃、用意!」
艦隊の砲が上空へ向けられる。
長良と五十鈴は高角砲を装備してるが、どこまで食い止められるか……
「撃て!」
全部です
しばらく空きます
それは砲撃というより銃撃の音だ。短機関銃をフルオートマティックで撃ったような音。できれば耳を塞いでいたくなる。
視線を外しても視界の端にマズルフラッシンがちらちらと映りこむ。
迫る敵艦載機が煙をあげて二機、三機と落ちていくのがわかる。
けれどもあの数なら雷撃が来る前にいくら落とせるか……
「多すぎる! 落としきれない!」
五十鈴が叫んだ。
「雷撃、来ます! 散会して!」
あれほどの艦載機から落とされる雷撃は艦隊にどれほどのダメージになるのか。
想像もつかなかった。あれほどの艦載機は見たこともない。
海面の雷跡がみるみる増えていく。
榛名たちは陣形を崩して互いに距離を取ったが、あれではいくら広がっても被弾は免れない。
魚雷はよく狙って放たれたらしく、雷跡は俺たちの所には全く来ない。
爆音。魚雷は命中こそしなかったが、衝撃の余波は凄まじかった。
ボートは傾き、俺も水面に叩きつけられる。最後に見えたのは、矢を放ち、走り出す加賀だった。
どれほど時間が経ったのかわからない。たぶん大した時間ではないだろう。
それよりも感じたのは息苦しさだった。空気を吸おうと大きく口を開けると大量の水が気管に流れ込み、余計に苦しくなる。
水の中だ。そう思った時にはもう首から上が海面に出ていた。
今度こそ息を吸い込んで呼吸を整える。
まず目に入ったのは流され始めていたボートだった。あの爆風で小さなボートがよくひっくり返らなかった。大したものだ。
もう敵艦載機の姿は見えなかった。
つい今しがたまで対空射撃していたのが嘘のような静けさだ。
第二艦隊は?
通常であれば砲雷撃戦に移行する。
が、彼女らの姿を見るとそれどころではない。
見える五人は全員大破状態だ。お互いに支えあって立ち上がるのがやっとという具合だ。
もう一人、空母の瑞鶴が見えない。それから加賀は?
ボートに登るとこちらに戻ってくる二人の姿が見えた。
口の中がさっと乾く。
加賀は目立って損傷はないが、瑞鶴の肩に片腕を載せてだらりと垂らしている。
瑞鶴の方もひどい。飛行甲板は割れ、艤装も所々で破れている。彼女も大破か。
「敵空母は?」
ボートの前で止まった瑞鶴は逃げた、とだけ答えた。
「そうか。君たちも加賀もひどい状態だ。横須賀に戻って入渠を。それから怪我してる所悪いがこのボートも曳航してくれないか?」
もう潮時だ。加賀もダメージを受けた以上は入渠と補給の必要がある。
それに俺自身も諦めがついた。一度やれば失敗しても少しはすっきりする。無茶なことだったんだ。
瑞鶴は船尾からひらりとボートに登ってきて、舵の隣のシートに加賀を横たえた。
「ありがとう。俺に投降の意思があることを榛名へ伝えてほしい」
「いやだ!」
「いやって……投降するの……」
俺が言い終わる前に彼女は俺の所に歩み寄り、胸ぐらを掴んで引き寄せた。両目には涙が溜まっているのがわかる。
「加賀さんを返して……」
「あぁ、大丈夫。誘拐とかする気じゃあ……」
「違う! 元の加賀さんを返して! 私が大好きな加賀さんを返して!」
「なんだよいきなり……少し落ち着いたらどうだ」
離してくれた瑞鶴を船尾に座らせると拳銃に初弾が入っていることを確かめて隣に座る。
俺が促すまでもなく瑞鶴はぽつりと話し出しだ。
「加賀さんはいっつも言ってたの。五航戦なんかと一緒にしないでって。でも本当に私と翔鶴姉のことを嫌ってたわけじゃないの。私の出来がどれほど悪くても、絶対に見捨てないで指導してくれた。結局いつも私のことを気遣ってくれてたの」
「意外だな。あいつ、嫌味しか言わないと思ってたよ」
「ちょっと不器用な人だから」
両膝を抱えて顔を伏せる瑞鶴を横目に見ながらさっきみたいにいきなり怒りだすんじゃないかとびくびくしていたが、機嫌は戻りつつあるらしい。
「ちょうどあの空母棲鬼が現れたころから加賀さんは変わっちゃった。薬を飲んでも夜中に目がさめるようになって、課外になると部屋にこもったきりになっちゃって……」
「加賀は赤城が沈んだことじゃなくて、海軍に捕まってモルモットにされることが怖いんだ。瑞鶴、頼むよ。横須賀の提督に赤城を沈めるように言ってくれ」
「私たちの提督さんは、きっとそんなことしたがらない。優しい人だから。でもあの人の意向が海軍の意向じゃないから……それにもし私たちが沈めても、加賀さんは納得しないはずよ」
「そんなこと言っても敵うわけない。さっきの見ただろ。加賀だけじゃ無理だ」
「加賀さんはきっと勝つ。一航戦は絶対に負けないの!」
「それはお前の理想だ! お前の尊敬する一航戦の赤城はたった二発の魚雷で沈んだんだ!」
瑞鶴は目を大きく見開いてこっちを向いた。信じられないとでも言いたげな。
「あんたはそれでいいの!? 赤城さんの死に責任を、悔いを感じてないの?」
「黙れ! 知ったような口をきくな!」
すぐに冷静になった。バカなことをした。女の子相手にキレるとは情けない。
ため息が漏れた。
「あの日を忘れたことなんて一時もない。夢に見なかった夜なんてない。決して清算できない間違いを犯したんだ……」
あの時俺が赤城の言う通り大人しく下がっていれば、私情なしに判断できていれば赤城は俺を庇わずに済んだ。
「これが最後の機会よ。自分の過去は、自分でしか清算できない。咎めの声が聞こえない所に逃げても、次は過去の自分が今の自分を咎める」
瑞鶴は大きな瞳で俺の目をじっと見ている。
「お願い。あの日と決着をつけて。そうすれば、加賀さんは戻ってくる」
俺は目をそらして立ち上がった。
女の子に諭され説教されというのが恥ずかしかった。
確かにこれが俺にとってのチャンスなのかもしれない。これで俺の過去が清算できるかもしれない最後のチャンス。
「できる限るのことはやる。加賀もきっとそのつもりだろう」
瑞鶴も立ち上がり、船尾に立つ。ボートはすっかり流されてもう第二艦隊の姿は見えない。
「艦隊に戻れ。尋問されてたと言ってごまかすんだ」
瑞鶴は信頼していいのかどうかわからないという顔だ。
「行け。お前の加賀は、きっと帰ってくるよ」
瑞鶴は小さく頷いて水面に立ち、走り去って行った。
「今日は暖かいですね」
赤城は片手を顔の上にかざして空を見ていた。
「そうだな。昨日まであんなに風が冷たかったのに……」
「こうやってると、時々空を飛びたいと思うんです」
ここはどこだったっけ? 懐かしいベンチ、懐かしい建物……
「空をかい? 赤城は船じゃないか」
「退役したら、ですよ」
くすくすと赤城の控えめに笑う声が聞こえる。
前にもたしかこんなことがあった。
「それまでに、海も空も、みんなが安心して通れるようにしないといけませんね」
「すぐになるよ」
空に目を向けた赤城の横顔はいつになく幼く見えた。
どうしてこんな子が一線に出なくてはいけない? 本来だったら大学にでもやるべきだ。
「赤城」
「はい。なんでしょう」
「来年度で退役しろよ」
「えっ? 来年度ですか……」
「そう」
「それはできません。艤装の次の適合者もまだいないし、働き口も探していませんし……」
息を大きく吸った。思ってたよりも緊張していない。大事な告白を控えてるんだからもうちょっと緊張がほしいくらいだ。
「仕事なんて辞めてから探してもいい。海軍から先の時間を……この先を赤城と一緒に過ごしていきたいんだ」
赤城はぽかんとしてこちらを見た。
「そんな……私と……」
「いやだったかい?」
「いえ……とんでもありません……」
赤城の白い手がそっと俺の手を覆う。いやにひんやりとしていた。背筋を冷たい汗が伝う。
赤城の方へ顔を向ける。彼女の真っ赤な目と視線がぶつかった。
真っ赤な……人間離れした瞳。憎悪に満ちた瞳。
その目に俺は釘付けになった。
「私のこと、好きでいてくれたんですね?」
冷たく、平坦な声。俺はそれでも頷いた。
「ならどうして、あの時退かなかったんですか? あなたが退けば私も生きて帰れたのに……」
「違う……」
赤城はそれ以上なにも言わなかった。
「すまなかった……」
すっと赤城の顔が耳元による。叫び出したかったが、声が出ない。足が動かない。
「あなたのせいで、死んだんです」
「悪かった……俺のせいだ……頼むから…」
視界が一瞬で黒く染まる。
「許してくれ……」
自分の声で目が覚めた。目を開けたが視界は黒いままだ。
上体を起こしてやっと自分がどこにいるのか思い出した。
東京港の保税倉庫。
負傷した加賀と港まで戻り、倉庫を臨時の寝床にした。前の住人の忘れ物のおかげで寝心地は悪くなかった。
あの後、海軍からの追撃はなかった。
加賀は小破状態のまま結局目を覚まさなかった。
死んだのかと本気で考えたが、日が沈むと昨日のように眠ったまましくしく泣きだしたから生きているだろう。
ソファから体を起こし、倉庫の外に出る。
目が慣れてきたのと月明かりのおかげで真っ暗には感じない。
ただ波の音だけが聞こえる。それが今日の出来事をまた再生する。そしてさっきの夢。
赤城は怒っているのだろうか? そんなことはどうでもいい。
彼女をいつまでも戦場に放るのに耐えられなくて一緒になることを持ちかけたのに、彼女は俺のせいで死んだのだ。
「まだ起きていたの?」
目を覚ましたらしい加賀が隣に立った。
「動けるのか?」
「この程度なら大したことありません。それより、ここは?」
「港に戻ってきたんだよ」
「そう。よくあんな場所を確保できたのね。あそこを寝床にしてる人たちだっているでしょうに」
「加賀が持ってきてくれたルガーを使って……」
「ひどいやり方」
拳銃を使ってホームレスを退かせたのは確かだ。後ろめたさもあったが、その時は必死だった。
今弁解したってどうしようもない。
「赤城の姿は見れたのか?」
「いいえ。ドジな話よ。たどり着く前に艦爆の攻撃を受けて頭を海面に打ちつけたの」
「そうか。瑞鶴がボートまで運んできてくれたんだぞ」
「あの子が……」
「加賀のことをずいぶん慕ってるみたいだな」
加賀は一瞬こちらに視線を向けてすぐに前へ戻した。
「慕ってる? そんなことないわ。あの子にとって私は無愛想で、口うるさい先輩だから」
「そんなこと言うなよ。瑞鶴に言われたよ。加賀を返してって」
「あの子がそんなことを……」
「お説教されちゃったよ。中々……そう、実直な子だな」
加賀は目を伏せて押し黙った。
「どうして赤城にこだわるんだ?」
「いきなりね」
「ただの興味本位だ。正規空母加賀の経歴のせいか?」
「それもある……どうしてそう思ったの?」
「艤装の装着者には艦の記憶が伝播すると聞いたから」
「そうね。でも、きっと彼女の声がなくても同じことをしていたわ。赤城さんは私の大切な人だったから。赤城さんの館山行きが決まった時、あの人をあなたに取られると思った」
「まるで恋人じゃないか」
なんとなくからかってはみたが、加賀がどれだけ赤城と親密かわかった。
自分よりも若い子がここまで大事な人のためにもがいてきたというのに、俺は?
過去も現状も見ずに酒に浸っていただけだ。情けない。
本当なら加賀に感謝しなければいけない。あの過去と決着をつけられるかもしれないチャンスを持ってきたのだ。
「私はもう少し眠ります」
「待て」
加賀は返事しない代わりに止まった。
「その状態でやれるのか」
「入渠できないからこのままやるしかないわ」
「赤城のこともあるけど、俺は加賀にも沈んでほしくない」
「全て終わったとしてもその先はろくでもない。あなたも同じでしょ。その気があるなら……」
加賀の視線が俺の腰のあたりを向く。ちょうど拳銃を挿してあるところ。
「なんてことを……」
「冗談よ。明日は良い日でありたいものです。おやすみ」
「おやすみ。明日の起床は〇七〇〇だぞ」
ここに時計なんてどこにもないことを理解したらしく加賀は少しだけ笑って倉庫に戻った。
たぶん初めて俺の前で見せた穏やかな顔だった。
以上です
ようやく終盤なのでこのまま駆け抜けるように終わらせたいですね……
陽の明かりに目を細めずにはいられないような朝だった。
ボートのエンジンはすでにかかっている。係留もしていないからなにもしなくてもやがてこのまま流れ出すだろう。
舵の隣においた小さな瓶の中身を薄汚いグラスに指二本分の高さまで注いだ。
「おはようございます」
加賀が弓袋を携えてボートにひらりと載ってくる。
挨拶以外に言葉は交わさなかった。任務の前は大体そんなものだ。懐かしい心地。
グラスの中身を飲み干す。熱い液体が喉をさっと焼いていった。
「出すぞ」
加賀は頷いて俺のグラスを取り上げた。足元の瓶の中身をやはり指二本分注いで一気に飲む。
ちょうど瓶は空になった。
アクセルを前へ傾けるとボートは緩やかに進み出す。
左手で羅針盤のフレームをピンと弾いた。
静けさが気味悪い。波とエンジンの音は絶えず聞こえるから無音というわけではないが、昨日の件があるから騒ぎが起きないと違和感を覚えてしまう。
加賀は相変わらず弓を抱えて舵の隣のシートに座っている。
羅針盤の示す通りに進むこと大体一時間。羅針盤の映す地図にも深海棲艦を示す表示は出てこない。
昨日は偶然運が良かっただけか?
一度引き返すことも検討し始めた矢先、地図に変化があった。印は鬼の顔。ちょうど舳先を向けている方向にいる。その十数キロ東には……横須賀鎮守府。
間違いない。赤城だ。
加賀を呼ぼうとしたが、その必要はなかった。俺の隣に立ち、地図を睨んでいる。
言葉を交わす必要はなかった。
「この船ならあとどれくらいで会敵かしら?」
「そんなにはかからない。たぶん十分足らず」
「遅い。姿が見えるより先に海軍に囲まれるかも」
「加賀の艤装だったらどれくらいだ?」
「半分の時間で到達します」
「よし、艤装を」
加賀は頷き、弓を海面に立てた。
海面から現れる輪がつま先から頭まで上がり、消える。
艤装は昨日と変わった様子はない。小破だが、それなりにはやれるらしい。
加賀が海面を走りだそうとした時、彼女と俺の間を砲弾が通り抜けて行った。
拳銃を抜いて振り向く。
やっと来た。昨日と変わらぬ第二艦隊の面々。
「これ以上の勝手は許しません! 逮捕します!」
波の音に負けない榛名の怒声。
射撃の次に警告。ひどいものだ。
「早く行け。俺はいいから。すぐに追いつく」
加賀は一瞬だけためらうような顔をしたが、すぐに頷いた。
「追いついたころには決着がついてるわ」
後方の第二艦隊に後付けの20cm連装砲を向け、撃つ。
落雷のような砲声にも加賀は表情を変えなかった。砲門を若干調整してもう一度放つ。
着弾を確認せずに方向を変えてボートを追い抜いて行った。互いに言葉を交わす余裕はなかった。最後に視線を交わしただけだ。
加賀の目は、たぶん決着を確信していた。
船尾に出て第二艦隊の状態を見る。
重巡の主砲とほぼ同等の砲撃を受けて長良は大破していた。先頭だった榛名もいくらかダメージを受けているが、軽微だ。さすが戦艦。
艦隊の砲は全てボートへ向いていた。俺はと言えば口径9ミリの拳銃が一丁。
海上では豆鉄砲ほどの意味もない。いざという時に自分を撃てるから本当にないよりはマシかもしれないが……
両手で細く頼りない銃把を保持し、艦隊の足元に銃口を向けて一発放った。
彼女らは全く気にするようでもなくボートに近づき、減速する。
一隻、瑞鶴だけはスピードを落とさずにボートを通り過ぎていった。
「瑞鶴! 戻ってください!」
榛名の制止には応じず瑞鶴は加賀が行ったのと同じ方へ走り去る。
減速しかけた霧島が再び加速して瑞鶴の後を追った。
残された四人は昨日と同じようにボートを半円に囲む。
唯一、最上だけは艤装をこっちに向けていない。
「銃を捨てて!」
五十鈴の怒声。昨日ほどの緊張はない。それよりも気にかかることがあるせいだ。すぐそこに赤城がいるというのに。俺なんかに構ってる場合じゃなくて全員瑞鶴を追うべきだ。
「提督、今降れば悪いようにはしないよ。さっきの一発も見なかったことにするから」
「もう提督じゃない……」
「最上の言う通りです。大人しくしてください!」
「俺に構うな。向こうには赤城がいるんだぞ! 第一艦隊はどうしたんだ? 長門は? 金剛は? 飛龍は? なんであいつらを出し渋ってるんだ?」
「第一艦隊は西方海域に投入されています。解放海域の平穏は榛名たちに任されているんです」
榛名は言葉とは逆にひどく弱気な顔をしている。実戦経験が少ないせいだ。
文字どおり仲間の命がかかる実戦で憔悴するのは人間も艦娘も同じ。そこで冷静なままでいられるかどうかは経験次第だ。
「鎮守府に戻って伝えろ。赤城がすぐそこに迫ってるって」
「もうそれくらい掴んでます。第三艦隊の奇襲が失敗した今、私たちがあの空母棲鬼を倒さなければいけない……」
「捕まえなくていいのか?」
「昨日の榛名たちと、明け方に戻ってきた第三艦隊の報告で海軍はすっかり気概を削がれたみたいです。大本営の偉い人たちも今ごろは震えて報告を待っているかもしれません。必ず倒せと命じられました」
「だったら俺のことなんかいいから行け」
「あなたと加賀さんは犯罪者です! 二人を捕まえるのもまた私たちの任務です!」
「そんなことは後で……」
俺が続けようとしたのを榛名は手で制した。空いた手を耳に当てる。なにか連絡が来てるらしい。
榛名の顔はみるみる曇っていき、手を下ろした頃にはどうすればいいのかわからないといったようだった。
「そんな……」
「どうした?」
「霧島と瑞鶴が……」
「二人がどうしたって?」
「敵の攻撃を受けて……」
「下がらせろ! 急げ!」
「釘付けに……されていて……」
榛名の目に涙が浮かぶ。
嘘だろこんな時に。
「どうしたらいいのか……わかりません……」
以上です
明日もちょこっと続けます
「泣くな! 戦場で泣く兵隊があるか! 鎮守府に連絡はつくか?」
「つきます……」
「横須賀の提督に現状を伝えるんだ。しっかりしろ、旗艦!」
榛名がまた手を耳に当てるのを見ながら、救援は無理だろうとぼんやり思った。
そもそも横須賀にそんな戦力残ってないはずだ。
救援の艦隊を出せたとしても、出さないだろう。撤退を支援するための艦隊も釘付けになり、その援護にやってきた艦隊も……という事態に充分なりえる。
戦艦、正規空母、高練度の巡洋艦を抱えているから捨て駒にされるようなことはないだろうが、自力で帰ってきてもらいたいところだろう。
艦載機の航空支援だけでもあれば……
「長良、走れるか?」
加賀に大破させられたというのに長良はきっぱり頷いた。
「館山の哨戒基地まで走って向こうの提督に、なにがなんでも航空支援を送るよう掛け合うんだ。できるか?」
「やるよ! 任せといて!」
「よし。上手く退けるか、長良にかかってるぞ」
長良はもう一度頷き、背を向けて走り去った。
館山の俺の後任者はよく知っている。
俺より年上、元々民間勤めをしていた。立派な決断力を備えた寡黙な男だ。
きっと協力してくれる。
「榛名、連絡は?」
榛名はすっかり絶望したような顔で首を縦に振った。
「鎮守府に残ってるのは低練度の二個水雷戦隊だけで、戦力全て鎮守府の防御へ回すので救援は難しいと……今大湊警備府に艦隊を派遣できるか掛け合ってくださっているようです……」
大湊警備府は遠いが、これを決戦にしようとするなら最良の選択だろう。館山もいいが軽空母と三隻からなる護衛の水雷戦隊では決戦には物足りない。小笠原も同じような具合なうえに遠すぎる。
「長良は館山に航空支援を頼みに行ってくれた……」
「勝手なことをしないで!」
人差し指をたてて榛名を落ち着かせる。
「上手くいったら榛名の手柄だ。赤城と決着がついたら俺も加賀も降る。だからそれまで一緒にやろう、な?」
榛名は俯き、両手で顔を覆った。
「どうしたらいいかわかりません」
「旗艦がそんなこと口にするんじゃない。随伴艦に笑われるぞ」
「あなたは……」
「榛名、行こうよ。二人を何とかしないと」
最上がボートの前に出る。
「提督はきっとぼくたちを後ろから刺そうなんて思ってないよ」
「気に入らないけど、この男もいないよりマシかもしれないわ」
五十鈴も最上に続き前に立つ。
「全員連れて帰るのが旗艦の役目だ。顔をあげて」
両手をおろすと再び榛名の曇った見える。
加賀のことはとにかく心配だし、榛名はまだ渋るんじゃないかと気が気じゃない。
「行けるか?」
「はい。行けます。大丈夫です」
もう一度榛名が二人の前に立つ。ようやく決心をつけられたのが態度にも声音にもはっきり出ていた。
「みっともない姿を見せてしまいましたね。申し訳ありません。私たちも行きましょう」
最上と五十鈴が小さく頷く。
「提督、協力をお願いできますか?」
「もう提督じゃない。大丈夫。行こう」
「ありがとうございます。最上、五十鈴、行きましょう。霧島と瑞鶴を助けだします。艦隊、単縦陣」
三人は走り出し、加速とともに陣形を組んで見えなくなった。
ようやく進める。加賀が無事なのか?
なんにせよ、やっと始められるといったところだ。
この先にいるのは本当に赤城?
嘘であってほしい。最初に加賀が会いに来てくれたときからずっと思っている。
アクセルをきつく握りしめ、前傾させた。
以上です
若干空いちゃうかなぁ……
進むにつれて砲撃の音が鮮明になっていく。
自然とアクセルを握る手に力がこもってくる。
もうどれほど進んでいるのかもわからない。何時間も何もない海上を進んでるような気がする。
そろそろ戦闘が見えるはずだ。
最初に見えたのは中破して尚も砲撃を続ける霧島の後ろ姿だった。
ボートを減速させて霧島の横に並ぶ。
赤城の姿が見えた。
滑走路を備えた黒い砲台の隣に立っている彼女の長い髪と、所々が破けた服から覗く肌は例えが見つからないような白さで、非生物的だった。
目はうっすらと赤く輝き、生気が感じられない。
ひどい姿になったが、あれは間違いなく赤城だった。
内心では、本当は敵が赤城なんかじゃなくて、見た目がどことなく似ている全く関係のない深海棲艦なんじゃないかと期待していた。
だけどあれを見ては、彼女が赤城と認めるしかない。
あんな姿になるとは……あれが深海棲艦化なのか……
「よくぞご無事で、司令」
「こっちが言いたいよ。よく耐えたな、霧島。艦載機が見えないけど……」
「艦載機の攻撃はひとまず落ち着いています。航空均衡といったところでしょう。加賀さんと瑞鶴さんがよくやってくれました。今は砲雷撃戦に移行して、膠着状態です。でも……」
霧島が言葉に詰まるところなんて見たことがなかった。
不安を掻き立てるような間を空けるのはやめてくれ……
「通常の空母棲鬼よりも素の火力、耐久も装甲もずっと上です。瑞鶴さんは一撃で大破しました。戦艦と大差ありません。このまま撃ち続けて、倒せるかどうか……」
「本当に空母なんだろうな……夜戦はさすがにいやだよな……加賀と瑞鶴は?」
二人の姿が見えない。
最悪の想定がちらりと思い浮かんだ矢先、五十鈴が艤装を大破させた瑞鶴を支えて下がってきた。がっくりうなだれて、飛行甲板が根本から折れているのが痛々しい。
「バカよ。スロットの中身を全部艦戦にしてたの。そんなことしたら航空戦のあとはなにもできなくなるのに……」
「大したものだ。これで彼女の艦載機を抑えられたんだからな……」
いいながら加賀を探して目線を走らせる。
見つからない。
視線の端で五十鈴が再び前に出たのが見えた。
「加賀はどこいった?」
「わからない……あれの主砲を受けてから……」
息をきらした瑞鶴が小さな声で答える。
もしかしたら本当に……
嘘だろ……
“追いついたころには決着がついてるわ”
最後に俺にかけた言葉。
あんなこと言っておいて……
今は絶望して頭を抱えてる場合じゃない。赤城をなんとかしないと。
向かって右側にいた榛名の主砲が火を噴いた。
砲声。三五・六センチ連装砲の直撃。普通なら空母相手だろうと勝利を確信するところだ。
だが赤城の圧倒的な耐久力の前では大したダメージではなかったらしい。何事もなかったかのように赤城は砲台の二門を榛名に向けた。
「避けろ!」
聞こえたがどうかわからないが、叫ばずにはいられなかった。
自分に砲門が向いているのにその場から動かずもう一発撃とうとしているのを見ると聞こえてないのだろう。
瑞鶴はあれの一撃で大破したらしい。もらえば榛名も同じ事になるだろう。
砲撃戦の主力である戦艦を戦闘不能にするのはまずい。
「霧島、無線貸してくれ! 榛名を退かせないと……」
霧島は片手で俺の言葉を制し、状況を注視してる。
発射を予期した瞬間、まさに間一髪のところで榛名はようやく砲門の前から退いた。
直後、赤城の真後ろとボートと間逆の方向から接近していた五十鈴と最上が魚雷を放ったのが見えた。
六一センチ、四連装の酸素魚雷。
魚雷は必殺の一撃になりえるが、確実な威力を望むなら敵に肉薄して撃つ必要がある。
榛名は二人を接近させる時間を稼いでたのか……
ちゃんとできるじゃないか……
雷跡が全然見えない八発の魚雷は全て砲台に命中し、点火した炸薬が突き上げる。
砲塔にヒビが入ったのがはっきりわかった。
あれが艦娘でいうどの程度の損傷状態かはわからないが、航空機の発艦はもう無理じゃないのか?
「霧島、弾着観測射撃やれるか?」
ほんの少しだけ見えた勝機に興奮して、舵をきつく握りしめる。
霧島は同じことを考えてたらしく、艤装に零観を据えて発艦させた。
とりあえずここまで
初月ほしいですね……
弾着観測射撃の手順では観測機を発艦させた直後に初弾を放つことになっている。が、霧島が初弾を放つことはなかった。
一機の零観は砲塔の滑走路から射出された丸い十機の艦載機に呆気なく落とされた。
さっきまでの期待はもう跡形もなく消えた。
あんなに魚雷を打ち込まれてまだあんなに艦載機を出せる余力があるとは……
赤城の歪な艦載機は対空射撃を始めた五十鈴に雷撃して反転した。
逃れようと走り出したが、対空射撃にすっかり集中していたらしく、逃げきれなかった。
五十鈴の足元で炸薬が爆発し、前のめりになる。
転びはしなかったが、ひどいダメージを受けているだろう。姿が再び見えたころには艤装のあちこちが破けていた。大破。魚雷発射管も折れているから雷撃はもう無理だ。
別の方向で砲声が聞こえる。
一発。二、三秒おいてもう一発。
榛名が弾着観測を成功させたのかと思って目をやるが、撃ったのは赤城だったらしい。
見えたのは飛行甲板と主砲を撃ち飛ばされた最上だった。大破。
たぶん一発目は逃れられたが、艦載機に退路を塞がれて二発目をもらったんだろう。魚雷発射管もあの様子じゃ使えそうにない。
戦闘を続行できるのは榛名と霧島だけ。
たぶん俺がもう少し若かったらまだ勝機を信じてたが、相手はあんなだしこっちの戦力はもうガタガタだ。
とっくに撤退の命令が出ていいはずなのに横須賀の提督はなにをしてるんだ……
「霧島……なんで撤退の命令が出てないんだ?」
「もう出ています。だけど私たちが下がったところで今度は……ろくに演習や遠征の経験もない子たちがあれと戦わなければいけません。残念ですが、その先には惨めな結果が待っている」
霧島は眼鏡を外して一度陽にかざし、かけ直した。
「大湊の艦隊が必ず赤城さんを仕留められるとは限らない。だから私たちがここで決します」
バカなことを言うな、と言いかけるが、霧島は人差し指で制する。
「それにですね司令、私たちは簡単に玉砕を選ぶような無謀な集団ではないんですよ」
霧島の視線が真上に動く。
俺もつられて同じ方を向いた。
直後、俺たちの真上を十数機の艦載機が通り過ぎていった。
「五二型、丙……」
編隊の中でそれだけが識別できた。
重武装の艦戦は赤城の丸い艦載機をあっという間に一掃した。
「計算通りのタイミングですね。よくできました長良!」
長良は館山で航空支援を上手いこと取り付けたらしい。
不発の可能性もあったが、上手くいったのであればよかった。消えかかってた期待がまた大きくなる。
「司令の采配もさすがです! 海軍に復帰されたら如何ですか? この霧島、推薦状ならいくらでも書かせていただきます」
「軍隊はもうお断りだ。よし、今度こそ弾着観測……」
俺が言い終わる前に霧島は零観を発艦させていた。榛名もそれに倣うのが見える。
直後に砲声。
霧島の砲台が零観から送られた数値を元に自動で砲身を調整する。
「距離、速度、よし! 斉射!」
榛名と霧島が同時に必中の弾着観測射撃を放つ。艦戦に守られた天山がダメ押しとばかりに魚雷を落として帰っていった。
そういえば鳳翔と龍驤は元気だろうか……
気が緩みだしたのはもう勝利を確信していた証拠だった。
今日はこれで終わります
もうすぐ終わり
爆煙の中から赤城の姿が見えた時、それが、現実なのかと本気で疑った。
赤城はさっきと変わらぬ姿でそこに立っている。滑走路を折れているから今度こそ艦載機は使えないだろう。だけど二門の主砲は健在だ。あれこそ一番凶悪なのに……
「そんな……」
霧島が呻いた。
赤城の主砲が動き、砲門が榛名と霧島に向く。
「司令、退避してください……」
霧島を無視してアクセルを前傾させる。
ボートが前進した直後、赤城は主砲を撃った。
逃げる間のなかった榛名に直撃したのが見える。振り返らなかったが、霧島も受けただろう。
拳銃を向け、引き金を引く。
二発、三発、四発、五発……
当然、全く効果はない。深海棲艦相手に拳銃などクラッカーほどの意味もない。
弾倉一本分撃ち尽くしたころには赤城の目の前に迫っていた。
「やっと来てくれた」
赤城の声は平坦で機械音声かなにかみたいだった。
「ずっと待ってた」
「赤城なのか?」
「はい、提督。あなたの赤城です」
赤城の白い手が差し出される。
「提督、如何です? 海の底は素敵です。きっとお気に召しますよ」
俺の視線は赤城の手から動かせなかった。
「昨日、加賀さんとも少し話したんですよ。あなたが来てくれたと聞いて、私本当に嬉しかった。今日は絶対会えると思ってました」
「加賀はどうした?」
「あんな頑固な人は嫌いです。あの人のことが気になるのですか?」
「心配なんだよ。赤城と同じくらい」
「だったら一緒に行きましょう? あの日のことも許してあげます」
心臓をきゅっと握られたような気がした。
あの日のことを許してあげる?
「あの日、あなたは解放海域の視察に行かれました。私はあなたの護衛として、あなたのすぐ隣を走った」
「覚えてる」
「あなたの隣にいられるのは嬉しかった。たとえ任務の中でも。でも、そこで運悪く深海棲艦の残党と会敵して……」
何度も夢にみた光景が蘇る。
「私は調査船とあなたを逃がそうと戦った。でもあなたは、私が一人にならないようにと残って一緒に戦ってくれた。それが足手まといになるということが見えてなかったんですね」
最悪のミス。
改めて突き出されれて胸がチクリとする。
その通りだった。
あの時、少し冷静になっていればそんな単純なことに気づけたはずだ。
興奮にまかせて、まだ兵隊気取りで立ち向かおうとしてしまった。三十口径のカービンが一体どれほどの戦力になったというのか?
そして一隻の雷巡が静止した的と変わらない俺のボートに魚雷を放ち……
「最初の魚雷はあなたをボートから落とした時、そして続け様に駆逐艦の放ったもう一発……全て私に当たって……」
もう聞きたくなかった。顔を伏せ、赤城の手を凝視する。
「あの時の私をかわいそうだと思うなら一緒に来てください。そして……一緒に過ごしましょう。あの時言ってくれたじゃないですか」
この手を握れば、俺は殺されるだろう。
それでいいのでは?
最後に赤城の声を聞けたなら、もう目的は果たしたことになる。
これでいい……
赤城の手に自分の右手を近づける。
手と手が繋がろうという瞬間、赤城の砲台から小さく火花が散った。
誰かが撃ったんだ。
すぐ後ろに瑞鶴が立っているのが見えた。両手で五十鈴が持ってた対空機銃を抱えている。
大破してるのにまだやろうとは……
「お願いだから……その人を連れてかないでください!」
「瑞鶴。あなた、いつまでも無謀なのね」
主砲が瑞鶴に向けられる。
「やめろ! 撃つな! 大事な後輩だろ!」
「はい。でも、今は違う」
「よせ! 頼むから……」
「すぐにあの子のことも忘れさせてあげます」
瑞鶴は最後まで恐れを表さないで銃口を向けていた。
発砲を予期。
すぐ真上を艦爆が通り過ぎた。急降下爆撃を加えて、主砲が一門、跡形もなく吹き飛ぶ。
「大した気概ね、瑞鶴。それでこそあなたよ」
瑞鶴のさらに後方に弓を携えた加賀が立っていた。
「そんな……あの一撃で沈んだと……」
「あなたは私だけちゃんと狙わずに撃った。昨日みたいにね。おかげで私はまた気を失っただけで済んだの。赤城さん……あなたの最後の良心なのね?」
少しだけ、救われた気になった。
自分が延命できたことではなく、加賀がまだ生きてたことにだ。
いや、少しだけというのは嘘だ。
加賀は空になった矢筒を放り投げ、弓を海面に立てた。地面に突き立てたみたいに弓はその場で海面に刺さる。
もう艦載機は残ってなかったのか。
きっと航空戦で使い果たしたんだ。瑞鶴みたいにスロットをほとんど艦戦で埋めていたのだろう……
「やめろ加賀! 榛名たちを連れて横須賀に……」
俺が言い終わる前に加賀は走り出しだ。
赤城の砲台に残った一門がそれを止めようと放たれる。
加賀は倒れないように飛行甲板を盾にした。
甲板はほとんどが砕けたが減速はしない。俺たちの方へ迫り、腰の連装砲を放つ。
至近距離で直撃弾を受けて、すっかりボロボロになった砲台は今度こそ砕かれた。
もう赤城は丸腰同然。加賀は尚も追い詰めて、赤城にも連装砲を放つ。
赤城が直撃弾でのけぞったのを確認すると連装砲を外しすばやく彼女の後ろに回る。裸絞めをかけてちょうどボートの真横で引き倒した。
「赤城さんはもう戦えない。その拳銃で止めをさせるでしょう?」
加賀の腕の中の赤城は全く抵抗しなかった。目はうっすらと開け、両手足は力なく垂れている。
最後の連装砲の直撃がよほど効いたらしい。
「俺が撃つのか?」
「言ったでしょう? あなたの失敗を清算させるって」
加賀は顔を伏せた。
「本当は、私が楽にしてあげたい。でも……艦載機も連装砲の弾薬も使い果たしてしまって……だからお願いします……」
拳銃の弾倉を差し替えて初弾を薬室に入れる。
銃口を赤城の胸に突きつけた。
ゴメン、という言葉と共に涙が一滴だけ目尻からこぼれ落ちた。
全部俺のせいだ。俺のせいで死んだ。
赤城が拳銃に自分の手を添えて、小さく頷いた。
一度ためらえば、もう引き金は引けない。
人差し指に、過剰なくらい力を入れて引き金を引ききった。
銃声が広がる。
残響が消えるまでずいぶん長い時間がかかったような気がした。
加賀は腕を緩めて赤城を抱き抱えるような格好になっている。
銃口を自分の喉に押し当てる。これでいい。
これで赤城と一緒に逝ける。
「提督……?」
弱々しい赤城の声で引き金にかかった指が止まる。
加賀は自分の腕の中の赤城を目を見開いて見つめていた。
「加賀……来てくれたのね……」
赤城の姿は深海棲艦のそれでなく本来の、俺が最後に見た姿に戻っていた。
赤城はまだ生きている……
「霧島! 最上! 誰でもいいから……」
赤城は人差し指を立てて俺の言葉を切った。
「申し訳ありません……もう私は入渠してもダメです」
「すまなかった……俺のせいだ……だから……」
「提督……私は幸せでした。素敵な親友がいて、素敵な人が私を好いてくれていて……あなたといる時だけは空母赤城の記憶からも逃れていられた……」
赤城の冷たい手が俺の拳銃を持つ手をそっと握り、おろした。
「あなたのおかげで私は幸せでいられました。だから私の死に責任を感じないで……私も安心して逝けません……」
赤城の顔は穏やかだった。憂鬱な朝に側に立っていてくれた時のように。
「加賀……ありがとう。あなたがいない中で沈んでいくのはあの時みたいですごく不安だったの……提督のことをたまに気にかけてあげて」
「わかりました」
「よかった……」
赤城はその言葉を最後に目を閉じた。
加賀が手を離すと、彼女の体は一人でに沈んでいった。
「お二人とも、来ていただけますか?」
榛名の声に俺は小さく頷いて拳銃を海に投げ捨てた。
五十鈴が俺の両手に手錠を打つ。
「ゴメン……規則だから」
「構うな。迷惑かけたな」
隣で加賀が霧島に手錠をかけられている。
加賀は顔を伏せて目を閉じていた。
「感謝します。では行きましょう」
一旦止めます
もうあとはエピローグみたいのしか残ってないので今夜にさっと終わらせます
横須賀鎮守府で俺は留置場にぶち込まれたが、特に不当な扱いはされなかった。
時おり内務省の役人がやって来てなんども同じ話を繰り返させたが、それ以外は犯罪者には上等すぎる扱いだった。
食事は毎日食堂で出されるものが運ばれたし、新聞でも雑誌でも頼めば持ってきてもらえた。
ただ、横須賀鎮守府の提督と加賀には会わせてもらえなかった。
まぁここの提督は多忙だろうし、加賀は今ごろは軍法会議か……
房に入れられてから二週間経とうとしてた頃、ようやく虚脱感が抜けてきた頃だった。
食事やなにかを持ってきてくれる以外には人が来なかった房に艦娘が来た。
「翔鶴じゃないか……久しぶりだな」
「お久しぶりです、提督」
「もう違うって」
翔鶴ももう俺の名前なんて覚えてないのかもしれない。今日の海軍では根拠地のトップは佐官だろうと将官だろうと提督とか司令官、と呼べば間違いないから名前の方は早々に忘れられるのだろう。
翔鶴はなにかこれから堅苦しいことをしようという様子ではなくニコニコしてる。
もともと穏やかな人柄なせいかもしれない。なんとなく、赤城に似てる。
「私たちの提督がお話したいと」
「あぁ……やっとか。俺もずっとお話したかったよ」
鍵を開けると翔鶴はまず俺の手に手錠を打った。
「申し訳ありません。規則でして……」
「構うな。行こう」
廊下のそこここで知ってる顔を見た。
すれ違う艦娘たちは興味深そうな顔でこちらをちらちらと見てくるが、だれも声はかけてこない。
「長門秘書艦は元気かい?」
「長門さんですか? 元気ですよ。今は秘書艦はやっておられませんけど」
「変わったのか……秘書艦の彼女はサマになってたんだけどな」
「私ではサマになりませんか?」
翔鶴の忍び笑いが聞こえる。
そうか翔鶴が……時は移ろう。
一際立派な執務室の扉の前でしばらく待たされてから、入る。
「おぉ来たか」
「お久しぶりです、提督」
純白の詰襟を着た正真正銘の“提督”はデスクから立ち上がって出迎えた。
階級章には銀の星三つの中将。
背が高く、堀が深い顔立ち。西洋人みたいな風貌だ。
いつも目を細めて眠たそうにしている。
懐かしい。
現役のころはこの人が同じ部屋にいるだけで自分が二回りくらい小さくなったような気がしたものだ。
今はと言えば畏敬の念もそこそこ、再会したことへの感慨のが大きい。
「手錠、外してやりなよ」
翔鶴は俺の手錠の鍵を開けてくれるとそのまま退出しようとした。
「いいって、翔鶴も聞いていきなよ」
中将は椅子に深く腰掛けて、デスクの前に置かれた椅子を手で示した。
「どうぞ掛けて」
「失礼します」
「しかし久しぶりだなぁ」
俺が座ると中将はなにがおかしいのか忍び笑いを漏らした。
「なんだかこれじゃあ今から拷問やるみたいだな」
この人はいつもこうだった。普段は言葉数も少なく飄々としているが、なにかスイッチが入ると笑い上戸になったりおしゃべりになったり……
「ひどい顔じゃないか。ちゃんと迎えろって言ったのに全く……」
「いいえ、充分に丁寧な扱いを受けました」
「あぁそうかい? 眠れなかったか?」
実際のところその通りだった。だけど、前ほどじゃない。
小さく頷く。
「そうか。あとでいい病院を紹介しよう」
中将の手が机の一番下の引き出しに伸び、そこから凝ったデザインのウィスキーのボトルが出てきた。
軽く俺の方に掲げてくる。
飲むか? ということだろう。本当だったら飲みたいところだけど、あんな見るからに高級品は恐れ多い。
首を横に振る。
次に翔鶴の方にもボトルを見せた。
彼女も断るとしばらくボトルを見つめたあとで引き出しにしまった。
「マッカランだよ? なんでみんな飲みたがらないの……」
翔鶴の方に視線を向けると、ちょうど彼女と目があう。
彼女は笑いを噛み殺してるみたいだった。
「それで……」
中将が引き出しをトンと閉める。
「君は何から聞きたい?」
「何から、と言いますと……」
「何でもさ。私が答えられることなら何でも。気にかかることがいくつかあるだろう?」
「加賀の処遇は?」
中将は驚いたように片方の眉を吊り上げた。
「加賀のことかい? 彼女は鎮守府軍法会議に出て、判決はもう出したよ」
「不名誉除隊?」
「本来ならそうだろうね。私の羅針盤と拳銃を脅し取り、装備を勝手に持ち出して同僚を撃ったんだから」
あぁやっぱり。
忘れかけていた虚脱感がまたやってくる。
「しかし、彼女は大いなる戦果をあげた。私はできるなら、今回のことは見なかったことにしたい。それほどの価値があることを加賀はやった。しかし罰は与えなければならない。だから彼女を罰した。ただし彼女の活躍を考慮して減刑した」
「具体的には?」
「禁固一週間。軍法会議ではそれで異論なかった」
「もう勤務に復帰してるんですか?」
「いいや。この間こんな風に加賀と面会してね、彼女の方から退官を願い出てきたよ。もう受理した。明日ここを出る予定だよ」
気分はすっきりすることはなかった。
海軍を辞めて、どうするつもりだろう。俺みたいにならなければいいけど……
「しかし君の方は簡単にはいかなかった」
中将がまた笑顔になる。
「加賀はまだ軍属だから鎮守府軍法会議の中で収めることができた。だけど君は民間人だ。内務省のやつらがやいのやいのとまぁ……」
そういえば内務省の役人が何度か来てた。同じ話を何度となくさせに……
「最初、彼らは君を殺したいんじゃないかと思ったよ。彼らにも面子があるからねぇ……だけど最後には彼らも君の戦果を理解してくれた。改めて彼らから言われるけど、君は裁判にかけられないよ。不起訴ってやつだね。明日には君も自由の身だ」
俺は刑務所にぶち込まれることはないらしい。
するとまた……
「再就職のアテ、あるかい?」
「見つけます」
「今の時期は大変だろう。どうかな、海軍に戻るというのは」
中将はにべもなく言った。
海軍に戻る? 冗談じゃない。
「私はまた君が路上生活に戻ってしまうのが心配なんだ。海軍を辞めて半年足らずであの生活になったそうだね。君は今回の件で、まだ全然やれるところを私たちに見せた。第二艦隊や加賀の報告書を見ればわかるよ。霧島は推薦状まで持ってきたんだから」
あいつ、本当に書いたのか……
「赤城のことをまだ気に留めてるのかもしれない。けど……過去の呪縛を解きたいなら……」
「過去とはもう別れました」
「そうか……」
しばらくの間。
「すっかり私が話してしまったね。他に聞きたいことはあるかな?」
「艦娘の深海棲艦化についてはどれほど研究が?」
「それについては機密に触れちゃう部分が多いな。一つ言えるのは君がいたころから大した進展はないということだ」
と言うことは、まだほとんどわかってないのか……
「大本営は深海棲艦を捕獲して解剖したり、根拠地単位で実験したりはしている。横須賀鎮守府ではやってないけどね。我々が踏み込む領域ではないと個人的には思う。私が思うに、艦娘と深海棲艦の関係はコインの表裏みたいなもので、本来なら争うべきでないとすら思う。まぁだけど、それが海軍全体の考えではないしね……」
「赤城の他に前例はあるんですか?」
「具体的な数字は言えないが、ある。あぁそれで思い出した……」
中将はメモ用紙になにか書いてこっちに差し出した。
「これは機密じゃないし近々発表することだ。我々は今回のあの空母棲鬼の出現を受けて、深海棲艦に新たなカテゴリーを設けることにした」
メモ用紙には几帳面な字で“棲姫”と書かれてる。
「読みは同じくせいき、だけど表記が違う。鬼級より強大で、強力な深海棲艦を姫級とカテゴライズする」
中将はなぜか得意気な顔をしていたが、突然そんなことを言われてもどうすればいいのか……
期待通りの反応が見れなかったらしい中将は傷ついたような顔をしてメモ用紙を丸めてくずかごに放った。
「またしゃべりすぎてしまったね。まだなにかある? 私はまだ時間があるけど」
「もう結構です。ありがとうございました」
「あぁ待って。一点だけ。私の拳銃は?」
「申し訳ありません。海に……」
そこまで言うと中将はがっくりうなだれた。
「そんな……高級品だったのに」
「申し訳ありませんでした」
「いいよ。また探す。ありがとう」
俺が立ち上がるのに合わせて中将も立ち、両手で握手した。
「元気でやってくれよ。まともな生活を。翔鶴、送ってあげなさい。手錠はもういいよ」
房に戻って間もなくして中将の言う通り内務省の役人がまたやってきた。
俺が起訴されない旨と、前例が残らないという意味の話を長々とされて、最後に書類に署名させて帰って行った。
その日はそれから食事を済ませて、ぼんやりと過ごしていた。
明日からどうすればいいのだろうか。
結局、今回の件になにか意味はあったのか?
赤城を沈めてやれたが、俺は明日には元の生活に戻るだろう。加賀は海軍を去ることにした……
結局、自己満足に過ぎなかった。
その結論に至るとベッドの上に横たわり、ぱちりと目を閉じた。
翌朝もいい天気だった。加賀と会った日よりいくらか涼しい。
中将は見送りには来れなかったが、俺が房から出る前にやって来て別れの言葉と礼、そしてまた海軍に戻らないかと加えた。
俺は改めてもう一度断り、横須賀鎮守府をその日後にした。
正門まで翔鶴が見送りに出てくれて、いくつか別れの言葉をかけて戻っていく。
翔鶴の後ろ姿をぼんやりと眺めながらさぁどうしようかと考えてた矢先……
「あら。今日釈放?」
加賀もちょうど庁舎から出てきたらしく、初めて会った日と同じ平服とボストンバッグを携えてる。弓袋を持っていないことになんとなくほっとした。
「加賀……」
最後に顔を見れてよかった。なんだかひどく懐かしい気がする。
「海軍、やめるのか?」
「えぇ、もう充分やりました」
「働き口はあるのか?」
「まだだけど、適当に探します。船の警備員とかいいかもね。あなたは?」
「なにもないよ」
そう、と呟いたきり、しばらく目を合わせる。
「加賀、ありがとう」
「それは私が言わないと……」
「いいんだ。晴れやかな気分だよ」
「そうですか……私もです。ありがとうございました」
「加賀さん!」
庁舎の方から瑞鶴が走ってくるのが見える。
瑞鶴は俺の姿を見るとバツの悪そうな顔をして、息も整えないまま話し始めた。
「加賀さん……本当に行っちゃうの?」
「えぇ。本当よ」
「嫌だよ、せっかく戻ってきたと思ったのに……もっと加賀さんと一緒にいたい……」
「瑞鶴、あなたはもう私なんていなくても立派にやれるから。今度はあなたが先輩になるの」
「できないよ……」
加賀が苦笑いしてこっちに視線を投げかける。
きっと二人で話したいだろうと一歩、踏み出した時……
「提督! 加賀さん!」
今度は翔鶴の声。
振り返ると翔鶴がちょうど庁舎から走り出てきたところだった。ひどく焦ってる。なにか忘れ物だろうか?
翔鶴も息を整えないまま話し始める。
姉妹揃って落ち着きがないのだろうか。
「今度はお姉さんか……どうした?」
「単冠湾泊地の提督が任務中に大怪我を負いまして、長期間復帰できないそうなんです。すぐに代替の人を送らなければならないのですが……海軍は人手不足でして……」
すぐに嫌な予感がした。
翔鶴が次に何を言うかはもう予想がついていた。
「単冠湾の戦力は前から問題ありと言われてましたし……お二人とも、海軍への復帰を真剣に検討してみてはどうでしょう」
翔鶴の苦笑い。瑞鶴は期待に満ちた視線を加賀に注いでいた。
俺は加賀とどうしようかと目を合わせ、二人揃って小さくため息を漏らした。
The End
以上で完結と致します。
ありがとうございました。
このSSまとめへのコメント
素人の仕事じゃないね……。