佐久間まゆ「どうか正夢」 (53)
プロローグ。
この作品はフィクションです。実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。
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1
「不幸の手紙がきたことってありますか?」
僕が聞くと、プロデューサーの荻野さんは窓を見つめたまま「あるよ」と短く答えた。
「何年前か忘れたけれども」
そうですか、と僕は彼に倣って窓のほうへ目を向けてみる。
「なにもないよ」
荻野さんは恥ずかしそうに言って、自分のデスクへ向き直った。
窓の外にはアスファルト、街路樹、雑居ビル、蜘蛛の巣じみた電線、エトセトラ。
見慣れたものと見慣れた配置。空は汚れた布団のような雲を被って、どこか物憂げだった。
「ひと雨きそうですね」
「いつかは雨が降るさ」
荻野さんはあくびをした。天気には興味がないみたいだった。
「それで」と、僕は話を戻す。「不幸の手紙がきたときには、どうしました?」
「ああ」と、荻野さんは頷いた。「引っ越した」
「引っ越したんですか?」
荻野さんは返事をする代わりに、またあくびをした。
「君のとこにも、不幸の手紙がきたのか?」
「ええ、まあ」と、僕は答えた。
「二週間以内に三十人へ手紙を回さないと、不幸が訪れるそうで」
そもそも、不幸の手紙が届くこと自体がすでに不幸ではないかと思うのだが、
考案者はその辺り、どう考えていたのだろう。
「書くのか?」
「まさか、面倒くさいですし」
「でも結構良心的じゃないか? 一日ニ、三枚のペースで書けば間に合う」
「夏休みの宿題じゃあるまいし」
「さては最終日にまとめてやるタイプだな?」
荻野さんはそう言ってひとしきり笑ったあと、少し声を低くした。
「なあ、前の職場では、こういうことはあったか?」
「いいえ? 初めてです」
「そうか、そうか」
小さくため息をつくと、荻野さんはデスクを指でトントン叩いた。
「やっぱり、引っ越したら?」
「勘弁してください」
僕が苦い顔をすると、彼は愉快そうに笑った。
2
「いいえ。不幸の手紙なんて、きてません」
佐久間まゆは簡単に答えると、ナンを口へ運んだ。
「なら、いいんだ」
僕はカレーまみれのチキンにフォークを突き立てた。
四人がけのテーブルに、二人で座るのはなんとなく居心地が悪い。
インド人のウェイターには「二人です」とピースサインを見せたはずだが。
「それで、話って?」
僕が聞くと、まゆは「ああ」と呟いた。
「はい、そうですよね、話があるんです……」
それは自分に言い聞かせているようだった。
まゆは言葉を探しあぐねるように、ちぎったナンをカレーへ沈め、口へ運んだ。
彼女が咀嚼して、飲み込むまでのあいだ、僕は手持ち無沙汰にテレビへ目をやった。
隅のテレビではハンサムなインド人が楽しげに踊っている。
話をするのに、インド料理店は不向きだった。喫茶店にすればよかった。
「進学しようと思うんです」と、まゆはようやく言った。
「いいじゃない」
僕は恐るべき軽さで言って、チキンを切りわけた。
テレビのスピーカーからシタールが鳴り響いたところで、手を止めた。
「それってアイドルを辞めるってこと?」
まゆはためらいがちに頷くと、二枚目のナンに手を伸ばした。
「早めに、話しておかなきゃと思って……」
「ああ、それは、そうだよね」
僕はチキンからフォークを抜いて、チャイを飲んだ。
「でも、なんで?」
まゆは怪訝そうな顔をして手に持ったナンを見た。
「ナンじゃなくてね」と、僕はつい笑ってしまった。
「あ、はい……すみません」
そう言う彼女の頬は微かに赤くなった。
「進学してからも、アイドルを続けている人は多いよ」
「それは、まあ……」
まゆは十七歳だ。もうしばらくすれば十八歳になる。
今年の春に進級を喜んでいたのだから、来年の春までには高校を卒業する。
僕はそんな当たり前のことを忘れていた。
しかし、卒業や進学はひとつの節目だけれど、アイドルを続けられないことはないだろう。
「スケジュールのことは心配しなくていい。仕事の量も調整できるだろうし……」
「でも、辞めたいんです」
「仕事が嫌になった?」
「お仕事は好きです」
「それじゃあ、どうして?」と、僕は首を傾げた。
「普通の人になります」
まゆはナンをちぎって、ちぎって、カレーと一緒に食べた。
「贅沢な悩みだ」
僕がそう言うと、まゆは照れくさそうに笑った。
テレビの画面では、ハンサムなインド人が踊るのをやめて手を広げていた。
憎たらしいほどのハッピーエンドだった。
3
「本当に後悔しないか?」
荻野さんが言うと、まゆは少し身をすくめた。
「はい、アイドルを辞めさせてください」
「一週間後に改めて聞く」と、荻野さんは言った。
「もう一度、じっくり考えてほしい」
「わかりました。ありがとうございます」
まゆは行儀よく頭を下げると、さっさとその場から去って行った。
荻野さんはその様子に苦笑しつつ、僕のほうへ目をやった。
「彼女から、他になにか聞いてないか?」
「他に、ですか」
まゆは進学する理由を筋道立てて、きちんと説明してみせた。
誰もが納得できるような理由で、つけ入る隙もない。
「他に、理由らしい理由は、話してませんでした」
普通の人になりたいというのは、理由らしい理由でしょうか。
そう、荻野さんへ聞く気にもなれなかった。
4
「やっぱり辞めるんだ」
僕はカッパ巻きを口へ放った。
レーンの上を回り続けていたのか、海苔は湿気っていた。
噛み締めるときゅうりがぱきり、音を立てて割れた。
「ええ、やっぱり辞めます」
まゆは隣の席でお茶ばかり飲んでいる。
話しているあいだも滞りなく寿司が通りすぎていく。
色とりどりの皿がカタカタと足音を立てて、目の前を行進した。
「迷惑をかけて、すみません」
「いや、いいんだ。迷惑じゃない」
僕は皿を積んで、流れてきたマグロを取った。
「この一週間、まゆは真剣に考えたんだろう」
「それは、もちろん……」
「同じように、僕も真剣に考えてみた」
マグロは少しばかり乾いていた。醤油に漬けて口へ。
僕はわざとらしくもぐもぐとやって、言葉の続きを先へ延ばした。
口の中のマグロが消えてしまうと、まゆの注いでくれたお茶を飲んだ。
「プロデューサーに会いたくないのか?」
僕がそう言うと、まゆは少し驚いたように目をぱちぱちとさせて、それから寂しそうに笑った。
「今は、どうかな……」
「会いたくない?」
「わからないです」
まゆはこわれものを扱うように自身の左手を、右手で包んだ。
僕は胸の底で魚が泳いでいるような気持ちがして、右手の小指を差し出した。
「君が引退する前に、彼を見つける」
「プロデューサーさんですか?」
まゆはかわいらしく首を傾げた。
「それとも会いたくない?」
「……いいえ? 会いたいです、とても」
差し出した小指に、まゆの小指が絡む。きゅっと力を込めて、僕は言った。
「約束する」
それから小指をほどいて、流れてきた甘エビを取った。
まゆのプロデューサー。彼のことは以前からよく聞いていた。嫉妬混じりに。
ひと目惚れだという。まゆは読者モデルを辞めて、プロデューサーだった彼のもとへ。
そして、半ばおしかける形でアイドルに。
そのプロダクションに在籍していた頃のことごとは、彼女が語ると、まるでおとぎ話の世界だった。
「夢のようでした」と、微睡むようにまゆは言う。
しかし、幸せが長く続かないことも、おとぎ話とそっくりだった。
プロデューサーはプロダクションを辞めてしまった。
彼を追って、まゆはプロダクションを転々とした。そして、今はここにいる。
「プロデューサーさんって、もしかして荻野さん?」
「違いますよ」と、まゆは首を横に振った。
「それにあの人、婚約していますし」
「荻野さん、結婚してたんだ」
「左手の薬指に指輪をしています」
「知らなかった」
僕は左の手のひらを広げて、自分の薬指に銀色の指輪があるのを想像してみた。
まゆも同じように自分の左手をじっと見ていた。
5
「それでいいと思います」
まゆはパンフレットの山から一冊を取ってめくり、試験の日程を読み上げた。
「最初から、書く気なんてなかったけど」
と、僕はノートパソコンに試験の日程を打ち込む。
不幸の手紙がきてから、二週間が経っていた。
「実際に不幸が起こったらどうしようね」
「どうしようもないです」
まゆはパンフレットを積んで、また別の一冊を取ってめくった。
話し合いの末、正式に佐久間まゆの引退が決定した。
今日は最後のコンサートに向けてスケジュールを作成するため、
まゆが暮らしている部屋へ上がらせてもらったのだった。
おおむね女の子らしい部屋だった。
ファンシーな壁紙や、多数のぬいぐるみは欠けていたけれど、
すっきりと片づいた棚には少女漫画と料理の本、それから編み物の本が収まっている。
それに、いい匂いがした。
ふと、僕は棚の隅にあったCDに目を留めた。
「チープ・トリック、好きなの?」
「以前、プロデューサーさんがくれたんです」
まゆはそう言って、好きだという歌の一節を口ずさんだ。僕が合いの手を入れると、彼女は照れくさそうに笑った。
「この曲、好きなんです」
「僕も好きだ」
彼女はふっと息を吐いて、飽き飽きしたと言うようにパンフレットを閉じると、山の頂上へ重ねた。
「聞いてもいいかな」と、僕は作業の手を止めた。
「プロデューサーさんって、どんな人だった?」
「どんな人……」
そう呟くとまゆは立ち上がって、隅の机から日記帳を持ってきた。
「日記です、プロデューサーさんのことばかり書いてます」
僕は差し出された日記帳を受け取ることをためらった。
「大事なものじゃないのか?」
「まゆには……わからないんです。どうしてプロデューサーさんは……」
「ああ、いや、大丈夫。きっと見つける、約束だから」
彼女は今にも泣き出しそうに言うので、僕は慌てて制した。
「それじゃあ……読んでくれますか?」
まゆは押しつけるように日記帳を差し出した。
「今? 恥ずかしくない?」
僕はやっと日記帳を受け取ると、その赤い表紙へ目を落とした。
「いいえ?」と、まゆは首を傾げた。
「自分の居ないところでじっくり読まれるほうが恥ずかしい?」
僕がそう言うと、まゆは「わかりました、好きなときに読んでください」と笑った。
6
「彼女を愛しているね?」
出し抜けに、荻野さんは言った。
僕らは試験の日程に合わせて、まゆのスケジュールを作成していた。
作業の合間、僕は「プロデューサーさん」について尋ねてみたが、荻野さんは彼を知らなかった。
代わりに、荻野さんは言った。
「彼女を愛しているね?」
その質問に、僕は頷かなかった。
彼女とは、まゆのことだが、まゆを愛しているかと言われれば少し違う。
愛じゃない、ただ好きなだけだ。
そこに居ない誰かを一途に、ひたむきに愛するまゆが、好きなだけだった。
「荻野さん、結婚してたんですね……」
僕は彼の質問を忘れたように言った。荻野さんは「ああ」と呟いて、左手の指輪を見た。
「つい、このあいだね」
「奥さん、どんな人ですか」
そう聞くと、荻野さんは腕組みをして考え込んだ。
「今度、ごはんでも食べにくる?」
彼の言葉には脈絡がないように思えて、僕はつい吹き出した。
「どういうことですか」
「いいじゃん、二人ともきたらいいよ」
「えっ、まゆもですか?」
「嫌がるかな?」
どうでしょう、と今度は僕が腕組みをした。
彼が思うほど、まゆは荻野さんを嫌っていないのだと思う。
「まさか、荻野さんがまゆのプロデューサーさんじゃないっすよね?」
僕が言うと、荻野さんは苦笑混じりに「まさか」と答えた。
7
「佐久間まゆは引退します」
ありふれた質問にありふれた返答が続く、小規模な会見。
奇しくも今日は、まゆの誕生日だった。彼女は十八歳になる。
「次のコンサートを最後に引退します」
戻ってきたまゆは、少し疲れているように見えた。
しんとした通路を並んで歩き、駐車場へ停めてある車まで戻るあいだ、お互いに黙りこんだままだった。
エンジンをかけると、一緒にカーステレオの電源も入った。
ポリスのアルバム、アウトランドス・ダムールが頭からかかる。
車が駐車場を出たところで、まゆは口を開いた。
「日記は読んでいただけましたか」
雨が降っていた。歪んだ水玉がフロントガラスにいくつも弾けるのを、ワイパーで隅に押しやる。
「まだ読んでない」と、僕は言った。「忙しかったんだ」
「すみません、急かしたみたいで」
本来なら謝るのは僕のほうだった。
忙しかったことは事実だが、日記を読む暇がないわけではなかった。
「そうだ、荻野さんに電話してくれないか」
雨と雲のせいで暗い車内は、まゆが携帯電話の電源を入れると中途半端に明るくなった。
彼女が荻野さんに電話をかけているあいだ、カーステレオの音量を下げるのを忘れていた。
まゆは通話を切るとすぐに携帯電話をしまったが、間を置かず、咳き込むように着信音が鳴った。
何度も鳴った。まゆはじっと雨ばかり見ていた。
「メール届いてない?」と、僕は落ち着かない気持ちで聞いた。
「あ……すみません。マナーモードにします」
「いや、違う違う。うっとうしかったわけじゃない」
僕は言い訳がましく言った。
「……無理に誘っちゃって、ごめん」
「いいえ? そんなことないですけど……」
「誕生日だもの。友達から誘われただろう?」
そう僕が聞くと、まゆは自嘲気味に言った。
「友達、いませんから」
「それじゃ、ひっきりなしに届くメールは?」
「明日、返信します」
「そういうことじゃない」
僕が呆れて言うと、まゆは悪戯っぽく笑った。
8
「テレビがないんですね」
僕がそう聞くと、荻野さんは表情を曇らせた。
「ああ、私たちは観ないんだ……」
彼はプロデューサーとして働いているのに、家にテレビがないのは不思議だった。
それを除けば、荻野さんの住んでいるマンションは彼の人柄とよく合っていた。
掃除の行き届いた清潔な部屋。家具は多くなく、必要なものを必要なだけ揃えているようだ。
「そんなに気を使わなくてもいいじゃない」
奥さんが言うと、荻野さんは照れくさそうに頭をかいた。
「君がそう言うなら」
意外と尻に敷かれているようだ。
奥さんは荻野さんよりもずっと年下のようで、二十代半ばか、あるいはそれよりも若く見えた。
かわいらしく、愛想のいい人だった。
和気藹々と食事を楽しんだあと、奥さんとまゆがその片づけをした。
二人は結構、気が合うらしい。皿を洗いながら談笑しているようだった。
荻野さんは酒を勧めてくれたが、僕は「車なので」と断った。
「彼女、アイドルだったんだ」
「どうりで、かわいい人ですね」
僕がそう言うと、荻野さんはグラスを片手に微笑んだ。
「荻野さんがプロデュースを?」
「うん。私が先に惚れたんだ」
「意外ですね」
「そうかな。告白もプロポーズも私からでね」
荻野さんは照れくさそうに笑って、彼女との交際について話した。
「裏切った、と言われた」
「ファンを?」
「さあ、全部だったのかな。わからない、私たち二人以外みんな敵だった」
ひどかったよ、と彼はグラスを傾けた。酔いが回ってきたのか、彼の頬に赤みがさしていた。
「プロダクションに居られなくなって、辞表を出した。
ごたごたしているうちに彼女はノイローゼになってしまうし。
それから同棲を始めたけど、何度も引っ越さなきゃならなかった」
「愛の逃避行ですか?」
「そんなに、ロマンチックなものじゃない」と、荻野さんは言った。
「一緒にいる時間より、彼女がカウンセリングへ通う時間のほうが長かったくらいだものな」
荻野さんは左手の指輪に目を細めて、それからにやりと笑った。
「知ってるか? カウンセリングって超高いんだぜ」
「はあ、そうなんですか」
「みるみるうちに貯金が減って、結局、私は芸能界へとんぼ返りだ」
「よく雇ってもらえましたね」と、僕は失礼を承知で言った。
「十年も経てば結構忘れてるものさ」
そう言って荻野さんは笑った。
僕も笑いかけたのだが、中途半端な表情で固まってしまった。
「十年?」と、僕は彼の言った言葉を繰り返した。
「奥さん、今いくつです」
「二十四歳」
二十四、引く、十。呆れた。
「あんた、中学生に手ぇ出したのか!」
僕がたまらず言うと、荻野さんは「しょうがないだろう」と悪びれもせず言った。
「世界に取られてしまう気がしたんだ」
「どういうことっすか」
僕はそれ以上言い返す気になれず、彼の肩を小突いた。
9
帰りの車内ではポリスのアウトランドス・ダムールが繰り返しかかっていた。
荻野さんとその奥さんのことを思い浮かべると、僕は少し寂しいような気持ちがした。
ワイパーがジャムのような街頭の灯りを拭う。
雨が降っていた。赤信号がフロントガラスの上で金魚のように泳いだ。
「もし、まゆはプロデューサーさんに会えたら……」
僕は言葉に詰まってしまい、慌てて続く言葉を探さなければならなかった。
「会えたら?」
「……なにを話す?」
まゆは少し考えてから、短く答えた。
「なにも」
赤信号は青信号に変わった。水たまりを踏んだらしい、バシャバシャと音がする。
「そばに居てくれるだけで、幸せです」
呟いて、まゆは目をつむった。そうすれば、夢を見られるかのように。
ロクサーヌ、ロクサーヌ、ロクサーヌ。僕はカーステレオのボリュームを絞った。
10
撮影用のドレスに身を包んだまゆは、恋人に捧げられる花束のようだった。
彼女は手に持った二輪の花のひとつを虚空へ差し出した。
「日記を読んだよ」
僕がまゆの手から花を取ると、彼女は照れくさそうに言った。
「プロデューサーさんは見つかりましたか?」
僕は頷いて、答えた。
「あれは僕だった」
白いヒナギクはつくりものだった。よくできた造花だった。
「どうして、こんなに大事なことを忘れていたんだろう」
「本当に、忘れちゃったんですね」
まゆの笑顔はいつだって影を含んでいた。
そして今はもう、その影を消すための微かな光さえなくなってしまった。
「どうして言ってくれなかった?」
手が空だったなら、彼女の肩を抱いていただろうか。
手に造花を持っていたので、僕は詰め寄るように睨むだけだった。
まゆはバツが悪そうに笑った。悪戯を叱られた子どものような笑顔だった。
「いっそ知らないままでいたほうが幸せだった」
いや、違う、そんなはずはない。
僕が首を振ると、まゆは呟いた。
「嬉しかったから」
「なに?」
「約束してくれて、嬉しかったから……」
「ああ、それだけは守れた」と、僕は自嘲気味に笑った。
「本当に嬉しかった、私と貴方は結ばれないってわかっていても」
「そうだな」
枯れることのない二輪の花が眠りに思いを馳せるように、僕と彼女は向かい合い、お互いを見つめていた。
「僕ら、結ばれることはないんだね」
「ええ。貴方だって知っていたでしょう?」
「知っていたのかな。すっかり忘れてしまった」
「……だから、思い出してほしかった」
「それが終わりになるとしてもか」
僕が言うと、まゆは刹那に声を上げて笑ったきり、空白を悪戯に引き伸ばすように口をつぐんだ。
世界が軋む。
まゆのモノローグ。
どうして、お互いがお互いを忘れなければならないんですか、別れなければならないんですか。
それなら、どうして「最初から出会わなければ」と言わないんですか。
あんなに楽しかったじゃないですか。
「お互いに忘れたほうがいいと思う」だなんて、貴方は勝手です、勝手な人です。
貴方が私を置いて行ってしまって、私は魂が抜けたようだった。
けれど、考えてみれば、私のほうが勝手かもしれませんね。
ねぇ、いつの間にか私のすべてだった貴方は。
私に行き先を教えてくれなかったことを、今さら恨むつもりはありません。
いいえ、貴方の顔を見たら、怒る気持ちも失せちゃった。
私たち、運命の赤い糸で結ばれているんです、ねぇ? きっと。
貴方は本当に私を忘れてしまうつもりだったんですか。
忘れたくって、仕方がなくって、私を残して行ってしまったんですか。
貴方は以前と同じように「はじめまして」と言いましたよね。私、寂しかった。
けれど、貴方と同じように忘れたふりをしました。
貴方が私を忘れたいと言うなら、私も貴方を忘れようとしたんです。
貴方は本当に忘れてしまっていたんですね。
忘れたいと願って忘れられるなら、私だって貴方のことを忘れたかった。
貴方は卑怯です、私のことを愛してくれましたか。
そばに居られるだけじゃ、幸せなんて言えないんですか。
いいえ、幸せだなんて――今なら貴方の気持ちもわかる気がします。
だって、貴方のそばに居ても、どうしてか、貴方がそこに居ないような気がしたの。
別人に思えたわけじゃないんです、私を忘れていても貴方は貴方だった。
私の好きなプロデューサーさんでした。だから、寂しかった。
私の日記は、もう読みましたか。
思い出してほしいんです、私が貴方を愛していることや、貴方だって私を愛していたこと。
それで全部こわしてしまっても、構わないんです。
ごめんなさい、ごめんなさい。貴方を愛しています。
11
幾千の声をほどくように、佐久間まゆは最後のステージを降りた。
アンコールのエヴリデイドリームを歌い終えると、泣き出してしまう観客もちらほら見られた。
まゆをかき消してしまうほどの歓声が起こり、それを咎める者も居なくなる。
彼らにとって、佐久間まゆは死ぬも同然だった。
そして、きっと、まゆがこわれものであることを忘れていた。
枯れるはずのない花が枯れ、終わることのない夢は醒め、
すべてが消えてしまう予感に打たれて、暗闇の中で立ち尽くした。
「プロデューサーさん」
僕を呼ぶ声がした。まだ、微かに残っている。僕はまゆを連れて、会場を出た。
12
ドアの閉まる音が僕の背中を抱いた。
ホテルの鍵はオートロックで、もう誰も入ってこられない。
まゆは灯りを点けようともせず、部屋の奥へ歩いて行った。僕は慌てて追いかけた。
部屋の大きな窓から街が見下ろせる、電気灯が星よりも明るく遠くに光っていた。
そして夜空はぞっとするほど冷たく、闇そのものだった。
僕はまゆのそばへ近づいた。部屋は暗く、まゆの姿の半分も見えなかった。
手探りで彼女に触れ、確かにそこに居ることを確かめる。
そして、僕はまゆを抱き寄せた。
そのまま、散ってしまいそうだと思った。まゆを強く抱きしめる。
彼女はどこか遠いところへ消えてしまいそうだった。
夜はいずれ明けるはずだった。
けれど、僕は永遠に抱きしめ続けた。まゆを永遠に抱きしめ続けた。
エピローグ。
まゆは駅のホームで待っていた。
僕が呼びかけると彼女は振り返り、そして柔らかく微笑んだ。
「もう会えないかと」
僕は足元軽く、まゆのそばへ立った。
「髪、切ったんだ」
「ええ。変じゃありませんか?」
まゆは短くなった髪先を指で摘んで、照れくさそうにした。
元々、肩より下へ伸びていた髪は、今はうなじを露わにするほどだった。
「似合ってる」
「うふふっ、ありがとうございます」
「学校はどう? 元気でやってるかい」
「それなりです。プロデューサーさんは元気ですか?」
「ああ、僕は元気。荻野さんも」
「よかった」
さらさらと風が流れていった。線路の向こうにたくさんの花が咲き、くすぐったそうに揺れた。
空は海のように青く穏やかで、飛行機雲だけが走っていた。それはさながらファスナーのようだった。
それを開けたら、僕らは果てのない場所へ行けるだろうか。
「また、会えるかな」
僕が聞くと、まゆは優しく頷いた。
「会えます。きっと会いに行きます」
「ああ、僕はずっと待ってるよ」
「まゆが誰のものでもなくなったら、きっと……」
「そんな日、くるのかな」と、僕はどうにか笑った。
「私は信じています」
「それなら、僕も信じるよ」
線路伝いに鉄の車輪が軋む音がした。あと少しで僕らの糸は断ち切られる。
「私を忘れないで」
まゆは左手の小指を差し出した。
僕はその意味を探るように、ためらいながら小指を絡めた。ほどけそうな結び目だった。
凄まじい唸りを上げて、電車が僕らのそばへ走り込んでくる。
僕は小指を離して、そっと屈み、まゆの唇へ自分の唇を近づけた。
触れ合わなかった、けれど体温は感じられた。だから、それで十分だった。
「さようなら」
「さようなら」
まゆは電車に乗り、僕はそれを見送った。
悲しくなんてなかった。「いつか」を僕らは信じたのだから。
僕がまゆを想い、それが祈りになって、彼女の居る場所を永遠にあたためてくれればいい。
僕はいつまでもそこに居た。車輪の音が消えたあとも、僕はそこに居た。
「雨か?」
僕は顔を上げた。それが涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
以上です。
スレッドタイトルはスピッツの楽曲「正夢」から。
スピッツ / 正夢
https://www.youtube.com/watch?v=algaC2jhu8s
作中に登場させた曲は以下の二曲です。
The Police - Roxanne
https://www.youtube.com/watch?v=3T1c7GkzRQQ
Cheap Trick - I Want You to Want Me
https://www.youtube.com/watch?v=-qgpewMCVjs
読んでいただきありがとうございました。
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