ハードボイルド風百合
銃は詳しくない
書きためなしなのでのろのろ
たぶん短い
『人類最後の日まで、臆病者は生き続ける』
ヘリの音で目が覚めた。
仄暗い空に向かって飛んでいる。
体が動かない。
先ほどまで、送迎用の車の中で体を揺らしていた気がしたが。
職業安定所はいつの間に空に浮かんだのだろう。
「ラビット、仕事だ」
私は呼ばれて、視線を転じた。
黒の戦闘服に身を包み込んだ男が七人。
「普通の職につけると思うなよ。俺たちの末路は、殺し続けるか、死ぬかだ。最も、臆病者にはもはや関係のないことだが。安心しろ、お前は、今回の仕事で確実にあの世行きだ」
男の言葉に周囲から電流のようなぴりりとした緊張感が走る。
やっと、休めると思っていたのに。
いつも、こそこそと動き回り、
人の顔色を窺い、
止まることなど許されなかった。
逃げ出したというのに、また引き戻されてしまった。
職業安定所は安全だと言った隣の部屋の男の下卑た顔を思い出す。
藁にすがるべきではなかった。
「ドナーが一匹逃げた。施設の森に上手く誘導したが、どうやら故郷が恋しいみたいでな」
「……」
「お前は囮さ。肉の匂いで寄ってくる。お前にたっぷりと年代物をぶっかけておいてやる。ありがたく思え」
指が少しだけ動かせた。
逃げるための思考はまだまどろんでいた。
「おっと、写真を見せてなかったな」
胸ポケットから彼は写真を抜き出した。
目を細めた。
金糸を思わせる肩よりも少し短い髪。
幼さの残る丸い顔。
青色の目。
写真の上に手書きで年齢が書いてある。
16歳。
年下だった。
男は小さく舌打つ。写真を私の顔の上に乗せる。
立ち上がって、降下の準備をし始めた。
何か、呟いている。
「ドナーに選ばれなければ、いい女に育ったろうに」
顔を振ることができた。
写真がはらりと落ちる。
裏にもまだ何か書いてあった。
ケイトス。
彼女の名前だろうか。
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敵はいつも誰かが連れてきてくれた。
みな、真っすぐに私の元へ向かうので、とてもやりやすかった。
敵はいつも同じぐらいの年代の子どもだった。
彼らは言葉を喋れなくされて、戦闘中はずっと唸っている。
ドナーになれなかった者の末路だ。
そいつらを始末するのが、私たちの仕事だった。
親はいたが、小さい街であった小さい暴力団同士の抗争で亡くなった。同年代の子どもと遊んだ記憶はなかった。
だから、この施設に預けられた当初は大人たちが情けをかけて遊び相手を連れてきてくれたのだと思った。
だけど、残念ながらそうではなかった。
大人が連れてきた子どもは、泥人形のようにもろく潰れやすかった。
少しじゃれあっただけで、彼らはすぐに赤い飛沫をまき散らし果てた。
それを見て、周りの大人たちは喜んでいた。
何度も抵抗し、逃げたが、なぜか気が付くとこの場所に戻って仕事をしていた。
抜け出せないと悟ってからは、行動を起こさなくなった。
けれど、時折楽しそうな笑い声が耳をかすめた。
幻聴だと分かっていたけれど。
分かってからは、あまりそういうものに執着しなくなった。
ただ、憧れは胸の中で燻っていた。
体に衝撃。
土と木の匂い。
「起きろ」
みぞおちに蹴りを入れられた。
「ごほッ」
体を丸めてせき込む。痛みに跳ね起きる。
もう一発、今度は頬にブーツの先が当たった。
数メートル程転がって、膝で立ち上がった。
顔に泥がついていた。
「ほら、ナイフくらいやるよ」
男がナイフを放り投げた。
「お前の肉が一番美味いだろうから、それで各部位をそぎ落とすってのもありだな」
くつくつと喉奥で笑う。
他の男達が、散開し始める。
ヘリはまだ上空にいる。
風が吹いている。
「……」
体が動くのを確認する。
耳をつんざくブザー音が唐突に鳴った。
10時の方向から草を踏み潰す音がした。
「来やがったな……ケイトスだ」
私はナイフを拾い上げて、構えた。
足取りの覚束ない少女――ケイトスがゆっくりと立ち止まった。
写真より、気だるげだ。
魂が抜けたような顔。
殺意は感じられない。
むしろ、こちらのむき出しの敵意に怯えていた。
怖いのだろうか。
「説得の通じる相手じゃない。マイケル」
「はい」
「奴がどこまで起きているか分からん。調べてこい」
「はい……」
顔の横に自動小銃を構え、マイケルは生唾を飲み込んだ。
あまり体格は近接戦闘向きではない。
どちらかというと、情報処理能力に長けているので、後方支援に適していた。
彼も自分と同じように完全に仕事を受け入れているわけではなかった。
日が経って間もなかったのだ。一緒に逃げよう、と食堂で彼が言っていたのを思い出す。
私は彼が一緒にいても足手まといになると思い返事はしなかった。
彼の頭が宙を飛んだ。
少女の傍らから、ぶどうの蔓のようなものが伸びていた。
「あれが……ケイトス」
マイケルが呟いた。
彼の体はすぐに絶命した。
「撃て撃て!!」
白煙をまき散らし、
男達は一斉に射撃を開始する。
ケイトスは飛び上がるような仕草を見せ、目の前から姿を消した。
「上だ!」
ケイトスの顔は愛らしい少女のモノではなくなっていた。
猪かオットセイのようなケモノ染みた顔だった。
白い牙が降りてくる。
「近づかせるな! 距離を保て!」
ケイトスの手がびくびくと脈打ち、
骨が皮膚を突き破って大きな爪を形作った。
肉片が地上にばらまかれる。
「完全に覚醒する前に撃ち殺せ!」
猪の瞳に銃弾が当たった。
咆哮が森に轟く。
着地ができずに、少女はぐしゃりと落ちた。
「脳まで貫通したか?」
彼女は動かない。
「ラビット。確かめろ」
こちらに銃口を向け、命令する。
私は黙って従った。
少女の頭部に触れる。
肌ざわりの良くない体毛に包まれた頭を確認する。
血は出ていない。
そもそも、同じ色の血液が変態後に出てくるのか。
「どうだ? 生きているか」
「分からない。呼吸はしていない」
「脈を見ろ、ふざけているのか」
苛ただしく、彼は言った。
「脈は……」
弓を張ったような脈動。
瞬間、体が吹っ飛ばされる。
「うわ!?」
垂直に吹っ飛ばされたようだ。
大きな爪のある方の手で足を捕まれる。
振り回され、青空が2回見えた。
そして、背中を大木に叩きつけられた。
「がはッ……」
意識は残っていた。
他の奴らが、次々に彼女の頭部に噛み千切られていくのを見た。
さっきまで偉そうに威張っていた奴もみんな。
あいつの名前はなんだったっけ。
思い出せない。
そもそも覚える気もなかったし、覚えなくてもいいと言われていた。
どうせ、みんなこうやって死んでいくのだから。
ケイトスの猛襲が止む。
時間が経つと、彼女はまた元の少女に戻っていた。
彼女はこちらに歩み寄って、私を立ち上がらせた。
「ごほッ……」
喜ばしいことに私は人よりも頑丈だった。
「あれ、動かせる?」
始めて聞く同年代の少女の声。
風のように透明感があってふわりとしていた。
先ほどの地鳴りのような咆哮とは違う。
彼女の指さす方を見た。
ヘリが今にも、離れようとしていた。
ちょっとここまで。
続きは夕方か夜か
マイケルは首ちょんぱされた状態で「あれが……ケイトス」 とか呟いたの?
>>7
台詞入れる場所間違えましたね
まあ、それでも意識があったみたいなニュアンスで
彼女のひげは人間の姿を保ったまま出現させることができるらしい。
正確には筋肉と運動神経が発達した触覚のようなものだった。
そのひげがヘリを捉えたのはものの数秒だった。
生憎、私は戦闘機なら訓練を受けていたが、ヘリは扱ったことがなかった。
そのため、中にいるパイロットを脅して操縦させようと提案した。
不規則に揺れるヘリの中で、少女は静かに座っていた。
「あなた」
「……」
誰のことかと思い、振り返る。
「誰?」
名前を聞いているのだろうか。
「……ラビット」
「あなた、どうして一緒に来るの」
ラビットはスルーされたのか。
「どのみち、あそこにいても生きていけない。あんたこそ、どこに行くっていうの」
「故郷に帰る」
「故郷って」
「……分からない」
「なんだよ、それ」
ヘリががたんと傾く。
「どうしたの」
パイロットが舌を噛みそうなくらい早口で、
「燃料が漏れてる!」
さきほど、ひげで締め付けたせいか。
「不時着して、どかんなんて嫌だな」
「あんたら、化け物だからいいだろうさ! 俺は普通の人間だ! 落ちれば死ぬ」
彼の後頭部に銃口をこすりつける。
「なら、今すぐどっかのビルに降下しろ」
「無茶言うな……こんな低いビルしか無いところに降りれるか! 降りるなら、お前ら降りろ」
がたんと扉が開く音がした。
風が吹き込み、体をもっていかれそうになる。
「ここまで、ありがとう。降りるね」
言って、彼女は床を蹴った。
こいつ正気か。
それを確かめる前に私も彼女の後を追っていた。
目を開けると、公園のベンチに座っていた。
ガサガサと音がする。
新聞が体の上にかかっていた。
浮浪者がかけたのか。
「……どこに」
「ここ」
後ろから声。
「どうやって、降りたんだ」
「ひげをいっぱい伸ばして摑まりながら降りた」
「そうか。すごいな」
「あなた」
「ラビットだ」
「……ラビット」
「そうだ」
「お腹空いた」
「何が食べたい」
「お魚」
スーパーマーケットのかごをぶら下げて、私はしばらく自分の選択に戸惑っていた。
仕事中に街に出かけることは珍しくない。
ただ、先ほど命のやりとりをしていた敵と買い物にくるなんてのは間違いなく誰もやったことがない。
「これ、飲みたい」
「トマトジュース?」
「うん」
しかも、初対面の人間に遠慮なく物を買わせるお嬢様となんて。
「お金がない。この後宿を探すんだ。さきほどのミルクは諦めてくれ」
「……」
無言でミルクを抜き取り、代わりにトマトジュースをかごに入れる。
「返す……」
とぼとぼと、食品コーナーに戻っていく。
『なあに、あの子の身なり……』
人の声が耳に入る。
体を見た。
なるほど、ぼろ布みたいになっている。
「おい」
「?」
「これで買い物を済ませて」
財布を放り投げる。
両手でつかんだのを確認して、
カートも前に滑らした。
「終わったら入口に集合」
手ごろなシャツとジーンズを買いに服飾コーナーへ回った。
買い物を終え、私たちは安い宿を探していた。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
「なに」
「男の子みたい」
「別に気にはしないよ」
髪の長さを見れば、分かることだろう。
「どこに泊るの」
「どこでもいいけど」
「あそこは」
目の前を指さす。
大通りの反対側に深夜営業の休憩所が並んでいる。
「あれは違うの」
「違うの?」
「違う」
「あっちは」
「あれも違う」
「どこでもいいって言った」
「言ったけど、営業時間が遅すぎる」
ケイトスは見かけより、いくぶん幼い印象を受けた。
一通りの日常生活、会話はできるがどこかなじまない。
ドナーになる前からこんな感じだったのだろうか。
ケイトスは表情もあまり変わらない。
移植手術後にはよくあることだ、と昔施設の人が言っていたっけ。
提供した体の運動神経が発達する一方で、感覚や自律神経が衰えるとか。
揺れるバスの中、彼女はつり革を大きく振りながらも、相変わらず人形のようで少し不気味だった。
バスで30分程移動し、近場のビジネスホテルに泊ることにした。
「ラビット、飲む?」
私は頷いた。
部屋に入って早々に、少女は、コップを二つテーブルへ置き、先ほど買ったトマトジュースをなみなみと注ぎ始める。
耳を傾けつつ、私はカーテンの隙間から外を見る。
死角の場所を確認。
特に不審な人影はない。
どうやら、追手はいないみたいだ。
「ふう……」
ダブルスのベッドに腰掛ける。
「はい」
「ありがとう」
コップを鳴らす。
「なに」
ケイトスが首を傾げた。
「逃走を祝して」
そう述べ、私はトマトジュースを一息で飲み干した。
寝息が聞こえた。
「……」
この状況でよく眠れる。
こちらが、ケイトスを殺すとは思わないのだろうか。
そして、何の話し合いもしないまま眠ってしまった。
私は鞄に潜ませていた掌程の拳銃を取り出す。
腕を静かにずらし、彼女に照準を合わせた。
ひげは出現しない。
ひげは彼女の意思で動かしているということか。
ならば、寝ている時はかなり無防備になってしまうう。
椅子の上で、膝を抱える。
備え付けのラジオをつけた。
音量はめいっぱい小さくする。
歪みの大きい音楽が流れた。
目をつむる。
もう、殺さなくていいのだろうか。
このまま、この少女と逃げてしまっていいのだろうか。
もう、一人ではない。
でも、彼女は故郷へ帰りたいと言っていたではないか。
ならば、私も国へ帰るか。
誰も待ってなどいない処へ。
長く、この街にいた。
施設の中で大半の時間を過ごした。
仲間と呼べる人間もいなかった。
仲間は次々と消えては増えていった。
中には、ケイトスのように変態に成功した奴らもいたようだ。
変態に成功した奴は、失敗作の処理や、要人の護衛、裏の仕事をしないでいいと聞いた。
そして、どこかの王室か貴族か、とにかくそういう所で一生遊んで暮らせるとも聞いた。
ならば、なぜケイトスは逃げてきたのだろう。
なぜ。
殺されそうになっていた。
やはり、彼女も失敗したというカテゴリーに分類されるのか。
力だけなら、すぐにでも実戦で使えそうだけれど。
「……っくしゅん」
ケイトスはいつの間にかかけていた布団を全てベッドの下に落としていた。
「戦いたくなかった……のか?」
一人、問いかける。
彼女がここにいるのは自分と同じ理由と言うことだろうか。
ならば、彼女は自分が願って止まなかった、仲間。
本当の意味での、仲間となってくれるだろうか。
力もある。
彼女がそばにいれば、追手を退けられる。
布団を拾い上げ、彼女にかけ直す。
ここまで
逃げて、その後は――。
職業安定所は、ダメだ。
児童誘拐のアジトなのだろう。
この国の失業者の大半はあそこへ行く。
働くあてもない子どもも。
施設の連中はそれを上手く利用していたのだ。
私もかつてそうだったように。
住み込みでどこかで働いて金を稼ぐか。
分かっていたことだが、自分の得意分野と言えば――。
「うん……」
ケイトスが寝返りを打った。
こうやって布団がずり落ちていくのか。
否、うなされているようにも見えた。
「……ッ」
何を見ているのだろう。
額に汗をかいていた。
金髪が張り付いている。
手ではらってやる。
おでこに手のひらを乗せた。
冷たくて気持ち良かったのか、
彼女は眠りながら微笑んでいた。
翌朝、ドアの向こうから聞こえた話し声で目が覚めた。
正確には廊下の端の方だ。
「ケイトス」
椅子からすぐに立ち上がり、小声で少女を呼んだ。
肩を揺さぶる。
「ひげ、出して。逃げるよ」
「ううん……後、五分」
「何言ってるのさ。追手だ」
目をこするケイトスの腕を引っ張って、窓枠に足をかけた。
「ほら、あそこのビルの鉄格子まで」
「届かないよ」
「え」
「昨日はヘリまで届いたじゃん」
「毎日、あんなに長くできないよ」
「じゃあ、どこまでなら届く」
「……このくらい」
彼女は言って、両腕を広げた。
「なんだって」
「小出しでなら」
足音が、ドアの前で止まった。
私は下を見た。
高さはそこまで高くない。
痛みはあるが、私は落ちても大丈夫だろう。
ケイトスは、どこか摑まる場所はないか。
どこにもない。電線に摑まれば、感電するかもしれない。
引き金を引いた音がした。
迷っている場合ではない。
私はケイトスを抱きかかえた。
「え」
「口、閉じてないと舌噛むよ」
私は体を小さく折り曲げて衝撃に備えた。
空に浮かんだ瞬間、
「あ、鳥」
などと間抜けな台詞を吐くケイトス。
「黙って」
すぐに、二人重力によって落下していく。
下にいる人間をどかせないと。
「どっけえええ!」
叫びながら、植木に突っ込んだ。
ケイトスが私の腕から飛び降りる。
「だ、大丈夫か?」
「近寄るな!」
男性が、こちらに手を伸ばす。
パン!
「ひい?!」
銃声。
ハトが驚いて飛び立っていく。
「ケイトス、こっち!」
ケイトスの細い腕を引っ掴み、その群れの下を走り抜けた。
私は走りながら、ケイトスに問いかける。
「昨日のイノシシかセイウチかオットセイみたいなのにはなれないの?」
「今日は無理かも」
「不安定だな」
「うん」
「ま、あんたも普通の女の子ってことだろ。安心したよ。いったん、そこの路地に入ろう」
「……」
壁伝いに体を引き付ける。
「なんで、場所が割れたんだろ」
「誰かが、常に見ているって言ってた」
「誰かって誰」
「アネラ」
「アネラ?」
「ケイトスを守る海の天使だって言ってた」
「誰に言われた」
「ハイジ」
「ハイジって、ドクトレス・ハイジ? あの子ども嫌いの?」
「そう」
「あの人と喋ったことがあるの?」
「お母さんだから」
何食わぬ顔で、彼女はそう述べた。
「お母さん?」
「そう、ママ」
「ママ?」
「イエス、お母さん」
私の知るドクトレス・ハイジは子どもが大の苦手なマッドサイエンティストだった。
失敗作の処理をさせられている時、強化ガラスの向こうにいた研究者の一人だ。
施設に来た際、色々と体の検査を受けた時もいた。
とにかく子どもに触るのも触られるのも嫌だという、過剰な反応が目に付いた。
そんな人物に子どもがいたなんて。
「私を見つけてくれた」
「見つける?」
「廃棄予定だったすでに人として育つ見込みのない受精卵を買い取って、私を生み出してくれた。いい人」
少女はやはり淡々と話す。
「そう……」
「どうしたの」
「いや」
「どうして、そんな苦しそうな顔をするの」
「いやなんでもない……一つ質問。なんで、お母さんのいるあの場所から逃げてきたの」
「お母さんがあそこから出るようにと」
母親の情でも湧いたのだろうか。
どちらにせよ、やはりあの場所に戻るという選択肢はないということだ。
けれど、ならばなぜその『アネラ』という奴はケイトスをずっと監視しているんだ。
「……」
『アネラ』がいる限り、私たちは常に狙われ続けるということか。
「アネラはケイトスを故郷へ導いてくれると言っていた。その時が来れば、現れると」
「その時?」
「その時」
「って、いつ」
「分からない」
「はあ……」
ケイトスは別段悪気もないようだった。
肝心なことは伝えていないドクトレス・ハイジも、このケイトスも実に胡散臭い。
やはり、信用するのはまだ早いようだ。
少し、煽ってみるか。
「ケイトス、今、私たちは何の目的も持ってはいない。私は、このまま平凡に暮らせればそれでいい。だが、お前は故郷へ帰りたいという。施設で廃棄予定だった受精卵のお前に、どんな故郷があるって言うんだ、ええ?」
「故郷はある」
「どうしてあると言える」
「体が、帰りたがっている」
「なら、アネラはどうして今すぐにお前の願いを叶えない。その時とはなんなのか、どうして疑問にも思わない? そもそも、アネラなどいないんじゃないか。お前は、ドクトレス・ハイジに騙され、捨てられたのを曲解しているんじゃないのか」
「……」
「黙っていないで何か言え。自分がおかしいことを認めるのか」
「……」
ケイトスがこちらを見据える。
少し、眉間にしわを寄せて。
怒っているのか。
「そんなに、一辺に言われても……答えれない」
「あーそうかい」
「ラビットは、私を怒らせて何がしたいの」
手首を摑まれる。
なんだ、ばれていたのか。
「私には勝てないよ?」
「昨日はね」
半歩踏みこんで、彼女の懐に潜り込む。
少女の腰に足を回して、仰向けに地面へ押し付けた。
「人間相手なら、負けないさ」
「……」
「……なんか喋れ」
「子どもみたいなことしないで」
「な、私はお前より1つ上だ」
「変わらない」
「1年は大きい」
「全く、変わらない」
「言うねえ」
腰に回した足に力を込める。
ミシッと音が鳴った。
「ッン……」
「痛いか? 痛いだろう。体はただの16歳だからな」
「……ッウン」
「その化けの皮を剥いでやる。言っとくけど、私は手加減と言うものを知らない」
「グッ……」
腕の一本くらい持っていけば、何か知っていることを吐くかもしれない。
まあ、別にそこまでしなくてもいいけど。
力を入れようとしたその時、首筋からお尻の先を何かが這いずった。
体をぱっと離す。
ひげか。
「……ッ」
ナイフを取り出して、顔の前で構える。
いや、ひげは出現していない。
寒気で、鳥肌が立った。
なんだ。
「……いたい」
横に転がって、恨めしそうな目でケイトスが見上げている。
気のせいか。
「どうして、ひげを出さなかった」
「本気じゃなかった。ひげは、人の殺意に反応する」
「へえ」
なら、今のはなんだ。
少女は気づいていない。
首筋を恐る恐る触る。
嫌な汗が指に張り付いていた。
今日はここまで
おやすー
今のが、ケイトスの言う『アネラ』なのか。
「ラビット、何をそんなに怯えているの?」
少女は起き上がって、茶褐色のスカートの土埃を手ではらった。
ケイトスの言っていることがどこまで正しいのか分からないが、
彼女を傷つけると、『アネラ』と彼女自身の『ひげ』が襲ってくることは理解できた。
「ケイトス、一時休戦だ」
「私は、別に戦ってなかったよ」
「……あー、そうだな」
ケイトスに謝るべきか迷ったが、何か悔しいので口には出さなかった。
「とにかく、この街からもっと離れれば、追手も手薄になるし、接触する頻度も少なくなるはずだ」
「歩いて?」
「金はまだある。銀行に行けば、貯めていた分もある」
あの施設の良心と言えば、寝床と食事と仕事を終えると報酬がもらえることだろう。
「お前は貯めてないのか?」
「うん」
「報酬はもらわなかったのか?」
「うん」
「仕事とかあっただろ?」
「ううん」
「じゃあ、何してたんだ」
「小さな動物と遊んでた。ウサギとか」
私は思わず泣きたくなった。
ふいに、路地の奥から、足音が耳をかすめた。
距離はかなり遠いが、足取りの慎重さからして追手だろう。
袖を引っ張られる。
「ラビット」
「なに」
「あれ」
「あれ?」
ケイトスが広場の方を指さしていた。
ピザ屋のバイクが置いてあった。
幸いなことに、エンジンがかかったままである。
なんて、不用心。
「なるほど……」
一人ごちて、周囲をざっと確認する。
彼女の手を引いて、乗り手が一時不在のバイクに向かって走った。
どこにいても逃げられないのかもしれない。
施設の連中からすると、飼い犬がちょっとした拍子に首輪抜けしたようなものかもしれない。
一時の自由を味わうけれど、いつか餌をもらいに私はまたあの場所へ戻ってしまうような気もした。
以前ならば、気持ちで負けてしまったかもしれない。
だが、今は自分以外の誰かがいてくれることに、やはり心強さを感じていた。
「なあ、私の故郷はここからずっと南部にある小さな村なんだ。ここよりも、かなり治安が悪い場所も通るし、命の保証もできかねるけど、追手をまくならちょうどいい。お前は、故郷がどこかまだわからないんだろ? どうだ、一緒に行くか? 何か分かることもあるんじゃないか」
「暑いのは嫌」
「……それとも、安全な所で降ろそうか?」
「ううん。行く」
「なんだよ、それ」
ぶっきらぼうに私は呟いた。
「じゃあ、振り落とされないようにしっかり摑まってて」
ハンドルを回し、スピードを上げる。
少女の腕が腰に回されたのを確認して、もう一度ハンドルを回した。
車を抜かして、人を抜かして、街を横切った。
私の故郷は電気も水道もないような村だ。
カジノもファーストフードもマーケットも存在しない。
あるのは、果樹林などの農園だった。
生まれた所はそこだったが、両親は学校に通わせてやりたいと思ったらしく、
何年も稼いで貯めた財産を、村から引っ越しをするためと、私の学費に注ぎ込んだ。
故郷の村にはおんじとおんばが住んでいた。
だから、たまにそこへ帰ることもあった。
ある日、その村で西部の人間が麻薬の密売をしていたのが発覚して、
その辺りを取り仕切っていた南部の街の暴力団の下っ端組織と抗争になった。
両親はおんじとおんばの様子が気になって、私を置いて村へ出かけた。
けれど、いつまで経っても帰って来ないので、私も一人で村へ戻った。
その時、村で見た光景は悲惨なものだった。
「ラビット、前、信号」
「あ、ああ」
村の記憶はあるが、感情と言うのは残酷なもので、
こちらに連れて来られた時は考えられなかったが、思い出しても錯乱しなくなった。
錯乱していた頃は、よく、ドクトレス・ハイジに罵声を浴びせられたっけ。
「そういえば、お前を逃がしたってことは、ドクトレス・ハイジも危ないんじゃないのか」
「……」
「戻る気はないけどさ」
「私も」
「そ」
けっこう冷酷だな。
分かってはいたけど。
いつか、私が殺されそうになっても、
何もせずに突っ立って見ているかもしれない。
そんな気がしてならない。
ぞっとしない。
「どうでもいいかもしれないけど、ケイトスって……どういう意味なんだ」
「神様が作った海の怪物の名前だって言ってた」
「へえ。お前は何の動物とかけ合わされたんだ?」
「セイウチとクジラと犬」
「悪趣味だな」
「ラビットは……?」
「言わなくても、分かるだろ」
「ウサギ?」
「そ」
「ぷ」
「笑ったのか、今」
「笑ってない」
「……ラビットって言うのはさ、そこからきたコードネームみたいなものだ。本名は捨てたからもう使わないけど」
「うさぎは、いつも周りにたくさんいた。うさぎといると落ち着くから」
「それって、私も含まれてるの?」
「ううん」
「あ、そう」
「みんなどこかに帰りたがってる。でも、みんなどこに帰りたいか分からないみたい」
ケイトスは独り言のようにぼそりと言った。
みんなって、セイウチとかクジラとか犬とかのことだろうか。
この少女の頭の中はいったいどうなっているのか。
「私が言うことでもないけどさ」
一拍置いて、
「帰る場所を故郷にしなくても、出かける先を故郷にしてもいいんじゃない」
そう言うと帰ってきたのは沈黙だった。
「って、脳内の愉快な仲間たちに伝えてみなよ」
「……難しい」
「そ」
今日はここまで
のろのろですまんのん
あの施設にいる子どものほとんどが、軍事的、政治的な利用目的で肉体強化を受けていた。
科学者連中は子ども達と動物を計算式のようにかけ合わせて、いわゆる化け物を生み出していた。
ケイトスのように、生まれる前から遺伝子操作を受ける者もいる。
そういう子どもは、肉体に動物の本能や習性が顕著に現れることもある。
すでに成長した子どもは、それがほとんどない代わりに、性格ががらっと変わってしまうことも多々あった。
しかし、本人は気づくことはない。
そうなったやつは、だいたい気づかないまま気が狂って死んでいった。
ケイトス、という名前から察するに生まれながらにして化け物だと言うことか。
そんな酷い名前をつける親が、本当に子を愛しているのか疑問だ。
道行くこと、数時間が経った。
高層ビルは遥か後ろに広がっていた。
ブロック塀の低い民家が増えてきた。
道路も舗装されておらず、時折飛び跳ねたバイクの振動で、
「お尻、痛い」
と、ケイトスが小言を呟いていた。
それからしばらくして、ぷすん、とバイクが鳴いた。
「あ」
「どうしたの、ラビット」
「燃料切れみたい」
「お菓子食べる?」
「私じゃなくて、バイクの方」
そうこう言っているうちに、エンジンが回らなくなった。
無我夢中で走っていたようだ。仕方がないけど。
「降りて、歩きながら移動手段を考えよう」
バイクを乗り捨て、徒歩ではなかなかえげつない距離に想いを馳せた。
「果てしない……」
「あとどのくらい」
ケイトスがお腹を抑えている。
「時間にするとバイクなら一日。歩いたら……わからんね。どうした、お腹でも痛い?」
「お腹空いた」
「そう言えば、朝から何も食べてなかったっけ」
お天道様も真上に来ている。
「ご飯にしよう」
そう提案し、周りを見渡す。
小さなバーガーショップを発見。
「おごってやるよ。出世払いな」
「何それ」
「そんなことも知らないのか……」
本当に、ウサギと遊んで過ごしていたのかもな。
「あんたがお金持ちになったら、私に分け前をよこすってこと」
「ふーん、分かった」
「いいんかい」
とれかけた看板がボロ屋を思わせるその店は、すでに来客がいて、
この地域の穴場なのか、よそ者を寄せ付けない雰囲気があった。
というのは、私の勘違いで、
「運が悪かったなお嬢ちゃん達」
「ですね……」
店の店主が縄で何重にもぐるぐるに巻きにされ、床に横たわっていた。
さるぐつわまでさせられている。
んー、んー、と這いずっていた。
フランクな服装の三白眼な中年男性が、懐から拳銃を抜き取ってこちらに向けた。
「物騒なもの向けないでください」
「肝が据わったお嬢ちゃんだな。関心するよ」
私は、ケイトスの腕を引いて背中に隠れるように合図を送ろうとした。
が、腕がない。
「あれ」
「大丈夫?」
「んー! んー!!」
ハゲの店主のさるぐつわをほどいてやっていた。
「ぷはッ!! だれかー!! 誰かきてくれー!!」
「余計なことしやがって!!」
男は引き金を引いた。
「ケイトス!!」
この至近距離で外れるわけもなく、
弾はケイトスの左腕に当たった。
何の悲鳴も発しなかったが、衝撃で、少女は後方に倒れ伏した。
「ケイトス!」
呼んでも返事がない。
気絶したのかもしれない。
「へ」
男が鼻で笑った。
私は持っていたナイフを男の方に投げつけた。
「……ッ」
歪な笑いを浮かべたまま、男が固まる。
ナイフが刺さったのは、男の喉だ。
血が噴水のように、吹き出た。
彼は、すぐに絶命した。
それを見届けてから、すぐにケイトスを介抱する。
「おい、大丈夫か」
「ん……」
どうやらかすり傷のようだ。
「ほんと、こういう時に限って役に立たないひげだな。中距離戦闘向きだよ」
「痛い」
ケイトスは頭を抑えている。
「あ、そっち」
膝で立って、上から頭部を見てみるが特に血も出ていないし、内出血もなし。
「それより、腕出して」
「はい」
右腕の袖を捲って、傷口を見る。
舌を出して、そこを舐めた。
「ん……なにしてるの」
「舐めると治りが早い」
迷信とかではなく、
実際、私の唾液には殺菌作用があるようで、
施設でも何度か実験させられた。
人の肌を舐めることに最初は抵抗があったが、
今では全く動じなくなってしまって、それが悩みではある。
「明日には治ってるよ」
「ありがと」
「ああ」
「お、お嬢さん達……私のもほどいてくれ」
「いいけど、条件があるよ」
「な、なにかね」
ハゲのおじさんが、びくりとした。
人一人が、目の前で死んだのだ。無理はないけど。
「ハンバーガー二人前と乗り物が余ってたら貸して」
彼はほっと息を吐いた。
「持っていけ」
顎で窓の外の方を指した。
古臭いエンジン音。
黒い煙をふかしている。
大丈夫か、これ。
「また、バイク?」
「バイクで十分」
「お尻、痛い」
「文句言うな。はい、これハンバーガー」
手渡して、ハンドルを回す。
「しっかり摑まって食べなよ」
「うん」
「あと、ケチャップ私の服につけないで」
「うん」
「よし、行こう」
バイク、途中で壊れませんように。
国境の検問所に来た頃には陽が沈み、かなりの時間が経っていた。
昼に食べたハンバーガーもすでに消化してしまって、私もケイトスも互いに腹の虫を鳴らせていた。
「さて、ここからが問題だ」
検問所をどうやって抜けるか。
こいつの力は当てにできないし。
「車が停まってる」
「うん?」
ケイトスの視線を追いかける。
車からは親子が出てきて、警備員に執拗に質問攻めにされている。
「ちっ」
「どうしたの」
「あいつら、父娘を装った麻薬の運び屋だ」
運び屋に10代の子どもを使う南部マフィアの下っ端の方だろう。
胸糞悪い。
「よく聞こえるね」
「耳がいいもんでね」
「なんて言ってるの」
「えっと……え」
「なに」
「子どもの胃の中に麻薬が……あるって」
「それって、どういうこと?」
「袋ごと飲み込ませたか、あるいは……切って入れたか」
「うえ」
「酷い……」
許せない。
いったんここまで
肌がちりちりと焼け付くような嫌悪感。
麻薬カルテルはこの国最大の汚点であり恥部だ。
ああ、胃が痛い。
胸糞悪い。
いっそ根絶やしにしたい。
ケイトスがもう少し有能なら良かったのに。
「殴り込む?」
私の感情をくみ取ったのか、ケイトスが真顔で言った。
「いや、ここで騒ぎを起こしたくない」
暫く観察するしかない。
が、血が沸き上がってくる。
「くそ……」
「ねえ、あれ何」
「ん?」
帯電するようなオレンジの空に向かって、ケイトスは言った。
「どうでもいいだろ」
今はのんきに星座を観察する気分じゃないっての。
「……」
白く光る金の星。
緊張感のないケイトスは、それをじっと眺めている。
ケイトスには関係のない話だから仕方がないか。
「あれは、金星。ひげを持つ一族の心臓だって言われてる」
「ひげかあ」
検問所に動きが見られた。
父親を装った男は、いわゆる袖の下を警備員に渡していた。
「ケイトス、チャンスだ、行くよ」
「はーい」
バイクをふかせる。
エンジン音に漸く気が付いた間抜け共が、こちらに一斉に拳銃を向けた。
「せーので降りるぞ!」
ケイトスの細い腰を掴んで、
「せーの」
バイクを思い切り踏み台にして、後方へ跳躍。
残された自走式と化したバイクは、一直線に男たちの元へ。
「うわああ?!」
「逃げろ、サンディ!!」
叫び声。
私はケイトスに後ろにいるように指示して、拳銃を構えた。
砂埃が舞う。警備員は横転したバイクの下敷きになっていた。
「ご、ごめんなさいっ。バイクに乗りなれてなくて」
「っ……」
父親役の方は、どうも腰を強く打ち付けたようで、
下半身をふらつかせていた。
「賄賂の現場なんて見たから、手元が滑ってしまって」
「貴様、何者だ……っ」
「……」
「何者?」
ケイトスが後ろから言った。
さあね。知らん。
「あんたに言う義理はないよ。見たとこ、出稼ぎに行ってきた帰りか、故郷を汚す売国奴さん」
「政府の役人の手先か……」
「こんないたいけな少女がそんな犬臭いことしてるわけ……」
そばに倒れていた少女が、
ポケットに手を差し込んだ。
持っていたものは、手りゅう弾。
「馬鹿野郎っ……」
彼女の所へ行って、あれを奪える距離ではない。
指がピンにかけられた。
死ぬ気か。どうしたらいい。
考えている余裕はなかった。
「や、止めろ、サンディ!」
乾いた金属音がした。
一瞬だけ視界に焼き付いた少女の顔は、どことなく解放的だったと思う。
「ケイトス!」
自分でも驚いたが、私はケイトスに覆いかぶさるように彼女を庇った。
耳に思い切り指を突っ込んだ瞬間、えぐるような轟音。振動。
爆風の風圧で、吹っ飛びそうになった。
熱波が、肌を焦がす。
痛みは。
痛みはなかった。
「え……?」
目を開ける。
音が聞こえない。
たぶん一時的なものだろう。
「ラビット、重い」
何を言っているか、口の動きでなんとか分かった。
ケイトスが恨めしそうに見上げている。
「ごめん」
退く。
見ると、ケイトスの傍らから何本かひげが出ていた。
振り返る。
ひげから緑の液体がぽたぽたと垂れていた。
「まさか、これで全部防いでくれたのか」
「うん」
「ありがとう」
頷いて、誇らしそうにしていた。
徐々に聴力が回復してくると、砂埃をまき散らす風の音に交じって、警報が聞こえてきた。
「やばっ、逃げるぞ」
車はどうやら、乗れそうだ。
不幸中の幸いというか。
「これ、借りるよ」
仰向けに横たわる男に言った。
破片が刺さりすぎて、上半身は重症だった。
しかし、息があるようだ。
彼のポケットを漁る。
鍵を発見した。
「ケイトス、前に乗って」
「こっち?」
「あんた、運転できないだろ。逆」
誰かに足を掴まれた。
「うん?」
車の下。
白い腕。
「ひい!?」
蹴り飛ばす。
ずるりと這い出てきたのは、先ほどの少女だった。
確か、サンディと呼ばれていたっけ。
なぜ、無傷なんだ。
しかし、胴体より下を見て唖然となり、また納得した。
彼女は――、
「お前、蛇か……」
「そういうあなたはウサギじゃないですか」
利口そうな喋り方だ。
「なぜ知ってるんだ」
「本能です」
こいつは、蛇とかけ合わされたのか。
まさか、成功例か。
「生まれながらにして化け物。レベル1の成功例です」
レベル1というのは、一種類の動物だけという意味。
ならば、マフィアに飼われる蛇ということか。
ナイフを握りしめる。
少女が、手を挙げた。
「戦闘は得意としません。私が得意なのはただの運びと縄抜けです」
いったんここまで
自分は危害を加えるつもりはないと言うことか。
「抵抗しないのは賢明な判断だと思うよ」
私は、彼女にナイフの切っ先を向けたまま、下がるように顎で指示した。
小柄で無垢そうな少女程、大人の男をたぶらかせるにはちょうどいい。
そんな理由で選ばれたのだろうか。
生憎、興味の対象外だ。
少女が、胴体をくねらせて後ろに下がる。
「じゃ、ここで軍が来るのを待ってなよ」
「いいえ、私も乗せて行ってください」
「いや」
答えたのは私じゃない。
割れた窓ガラスからケイトスが顔を出していた。
横目でそれを確認して、サンディに問う。
「なぜ」
「私は、マフィアに雇われているわけではありません。政府の指示で陸軍特殊部隊に所属しています。先ほどは、検問所で不穏な動きがあるため二重スパイとして証拠を掴みに来たのですが……」
「……」
彼女は酷く気怠そうなため息をついた。
「あなたたちが、計画を台無しにしてくれました」
「や、仮にその話が本当だとして、手榴弾を投げたのはあんたなんですけど」
「そうだそうだ」
「ケイトス、ややこしくなるから。ちょっと黙って」
「あなた方が先に攻撃して来たので、警備関係者が本作戦に気づいたのかと思ったのです。作戦がバレたら迅速に、私は自爆することになっています。結果として、車の運転ができる相棒を失ってしまいましたが、止むをえません」
「それは、何というか、ごめん」
「任務以外に口を挟まないようにしています。この事は口外しませんので、私を隣国の首都まで送ってください」
「は、はい」
少女に気圧され、返事をしてしまった。
彼女は、一息吐いて、車に乗り込んだ。
ケイトスがキョトンとしていた。状況が飲み込めていないのだろう。
「あー、ケイトス。彼女、悪い奴じゃないみたいなんだ。途中まで相乗りだから、よろしく」
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
ケイトスは無表情で、よろしくと言った。
人見知りか、お前は。
サンディー――本名かどうかわからないが、彼女の言葉を全て信じれる程人ができているわけではない。
不審な行動を起こされないように、警戒しておくに越したことはないだろう。
「……よろしく。私はラビット。こっちは、ケイトスだ」
外装がぼっこぼこになった車のエンジンキーを回し、アクセルを踏んだ。
この車で街中を走るのは狂気だろうな。
背中にサイレンを浴びながら、褐色の大地へと走り出した。
夜の砂漠は危険というのはおんじの代よりも前から言われ続けていたことだ。
どこかでいったん車を止めて休む所を探すか、先を急ぐか。
「早く、行こう」
と言うのはケイトス。
どうやら、サンディが先ほど話していた遺跡を早く見物に行きたいらしい。
遺跡と言うのは、お星さまになったひげの化け物の王様のお墓のことだ。
「ええ、急ぎましょう」
と言うのはケイトス。
一刻も早く連絡を取り合いたいらしい。
せっかち野郎だ。
だから、手榴弾なんてすぐに使いたがるんだろう。
「いや、盗賊に襲われたらどうすんだ」
と言うのは私。
レベル3であるケイトスと、レベル1の成功体であるサンディはいいが、こっちはレベル1の中途半端なウサギだ。
複数に囲まれて、勝機があるとは思えない。
あくまで少数やマンツーマンでのレベルでしか通用しない。
しかし、私の意見は却下された。
どうして2対1になるんだ。
ケイトス、あんた人見知りじゃなかったのか。
「ここからだと、星が見えない」
「頼むから、ひげで天井に穴を開けないでくれよ」
「その手があったか」
「忘れろ」
「……くすくす」
愛らしい声が聞こえた。
「笑ってないで、もう寝なよ」
「いえ、お二人を見ていると飽きなくて。仲がいいんですね」
「全然さ。昨日知り合ったばかりだし」
「昨日?」
「そうだよ」
ケイトスが後ろを振り返る。
舌噛むぞ。
「昨日、こいつに殺されそうになった。今日は、あんたに殺されそうになった」
「ラビットは、殺されそうになった人と仲良くなれるのかな」
ケイトスが言った。
「そうかもね」
サンディはまた笑っていた。
今日はここまでです
お付き合いどうも
乙です
55はどっちかサンディだよね?
「なぜ、二人は行動を共にしているのですか?」
もっともな問いだ。
私はヘッドライトが照らす砂粒を眺めるのに忙しかったので、その質問の答えをケイトスに投げた。
「故郷に帰りたいの」
ケイトスが言った。
「どこなんですか?」
「分からない。私の中の子達は、みんなどこかに帰りたがってる。でも、それがどこなのか分かんないから、ラビットの家に行こうと思う。ラビットが言ってた。出かける先を故郷にしてもいいんじゃないかって」
「まあ、私の家はすでにないから、正確には私の生まれた地に行くってことだよ。そう言えば、サンディは……」
「私は見ての通り、この国の生まれです」
「いや、そんな陶器みたいな見てくれで言われても」
「父が、西部出身だったので、そのせいかと」
私たちが先ほどまでいたのが、西部と呼ばれる地域の中心地と言える場所である。
そして、ここは南部地域である。
西部と言えば白人系の、南部と言えば黒人系の連中が多い。
また、様々な国籍の者が多く先進国でもあるのが西部であり、原住民が多く治安も悪いのが南部である。
ただし、共通してどちらも貧富の格差が激しい。
そして、お金よりも人や薬・武器は、よっぽど安定した通貨であった。
こいつは、家族にでも売られたのだろうか。
「あなたが聞きたいことは分かります」
「まだ、何も言ってないけど」
「父が大病を患っているので、私にはお金が必要なのです。そのために体を政府に売りました。母が南部の原住民の血を濃くひいていたのが幸いし、私はあの施設でもトップクラスの適合率となりました」
「へー……え、原住民って何か関係があるの?」
ふとした疑問を口にする。
「知らないのですか? 確か、座学で習ったはずですが」
いや、忘れた。たぶん、寝てた。
私は首を振る。
「簡単に言うと、原住民は動物により近い人種なのです。特に南部の一部の集落にはこんな伝説が残っています。昔、この世最悪の怪物と戦い敗退した神々は、動物に化けてこの南部の地に長い年月身を潜め、いつしかこの地や自然と一体になった、と。そして、その動物となった神々はいつしか人間と呼ばれるようになった」
「長い」
ケイトスが言った。
「ケイトス、つまりさ、お前はもしかしたら南部の原住民の血をひいてるってこと」
「ふーん」
ふーんって。
出生にかかわる重要なヒントだろ、今のは。
いや、ま、いいけど。
サンディは、特に気を悪くした風もなく、
「ただのおとぎ話ですから」
と、興味のなさそうなケイトスを気遣ってか話に終止符を打った。
大人だ。見習えよ、ケイトス。
「じゃあ、あのひげの怪物の王様も何かの動物だったってことか」
「大いにあり得ますね。動物と呼ばれる前、神々と動物の間の何かかもしれませんが」
その後、私は人生に全く関係なさそうなくだらない話をたくさんした。
神話の話、西部と南部の話、村の話、おんじ達の話。
こんなにも人と話すことに飢えていたなんて、初めて知った。
話して、初めて分かったことだった。
長い話が苦手なケイトスには悪いが、まともな話相手ができて、私は自分でも驚くくらい、良く話した。
サンディはそうではなかったようで、さすがに疲れたらしく、
子どもらしい欠伸をしていた。
「ごめん、寝てくれ」
「ええ、そうします」
彼女は、後部座席を全て後ろに倒して、
とぐろを巻く蛇のようにまるまった。
「ラビットは寝ないの?」
薄い毛布にくるまって、顔を半分だけ出してケイトスが言った。
砂漠は寒い。かくいう私も、寒い。
「誰が車運転するんだ」
「確かに」
「私のことは気にするな。お前らはしっかり寝て、体力を回復して、ちゃんと戦力になってくれよ」
気遣ってくれているのか。
こちらをじっと見ている。
「どうした?」
「なんでもない」
「なんじゃそりゃ。あ、お前お嬢様だもんな」
移動中の車内ではなかなか寝付けないのかもしれない。
ここまで
ねむいのでねます
「お嬢様じゃないよ」
「また、お尻痛いって?」
冗談めかして言うと、少女は首を振った。
「ラビットがウサギになってくれたら、もふもふして気持ちがいいと思って」
「私をクッションにする気か」
潰れるだろ。
「ウサギになれない?」
「なれない」
「どうして?」
「私は適性が少し劣ってたんだろ」
できないと言っているのに、ケイトスは駄々をこねる子どものように私を半目で見ていた。
いや、単純に眠いだけなのかもしれない。
「夜にね」
「ああ」
私は欠伸をかみ殺して返事した。
「たまにウサギがキスしてくれていたの」
舌を噛みそうになって、
私は誤魔化すように咳払いした。
「私は、あんたの母親でも父親でもないから」
どれだけウサギと仲睦まじかったんだこいつ。
「……」
「そんなに見つめられても困る」
なんで会ったばかりの人間を寝かしつけてやらないといけないのだ。
しかもキスで。
「分かった」
少女は目をつむった。
「はい、おやすみ」
「おやすみ」
車内が急に静かになる。
後ろの蛇は全く寝息が聞こえないくらい、穏やかに眠っているようだ。
これはこれで、多少騒がしさが恋しいかな。
このまま何事もなく、この砂塵の地を抜けられればいいけれど。
ただ、悪い予感と言うのはいつだって当たるものだ。
そもそも、そういう予感を感じてしまうような選択肢を選んでしまっているのだから、
必然と言えば、そうかもしれない。
車の斜め前方にオレンジの閃光が見えた。
直感で、アクセルを勢いよく踏み込んだ。
車体の加速で、ケイトスが頭を後ろにのけ反らせた。
次の瞬間、爆音と共に車体が大きく揺れた。
ハンドルを左に大きく回す。
右の方から衝撃音。
「わっ」
ケイトスが私の体に体当たりしてきた。
「悪い、何かに摑まってて!」
「な、何事ですか」
サンディが座席の合間から顔を出す。
「狙われてる。当たるとやばいから、ちょっと揺れるよ!」
ドゴオオオン!
3度目のそんな音と共に、両脇の砂が抉れ、噴水のように舞い上がった。
「一体、何に狙われてるって言うんですかっ」
サンディが早口で言った。
「盗賊だろっ。この辺には多いんだ。だから、言っただろっ。いや、言わなかったかっ?」
「聞いてませんよっ」
「マフィアの二重スパイのくせに、盗賊に会ったことないのっ?」
フロントミラーを見る。
かなり後方で、白煙が上がった。
ノーコン野郎で良かった。
「ありませんよっ」
「そりゃ、運が良かったな!」
加速しつつ、左右にそれる。
砂の上だと、上手くハンドルが切れない。
失速すると、確実に当たる。
アクセルを踏み続けた。
攻撃が中断された。
撃ってこない。
様子見をしているのか。
「サンディ、ケイトス。敵が周囲にいないか確認して」
「視認できる範囲にはいません」
どちらにハンドルを切るべきか。
街まではまだ遠い。
「サンディ、なんか武器積んでないのっ?」
「ハンドガンくらいしか……」
「あーっ、とにかく突っ切るから、二人ともしっかり何かにしがみついててっ」
火球が車体の上を通り過ぎたような気がした。
砂漠が一瞬閃光に包まれる。
砂丘の陰影がくっきりと浮かび上がった。
「白い海……」
ケイトスがぽつりと言った。
左から衝撃波。
「舌噛むよっ」
ケイトスが唇を結ぶ。
「ラビット、敵の位置が分かりました。並走しています」
「オーケー。ケイトス!」
「なあに?」
「ちょっと、あんた、ここずっと踏んで、ここ持ってじっとしてな」
ここまで
ねます
ケイトスは一瞬首をひねった。
が、指示に従って、揺れ動く車内の中ハンドルを握り、運転席へ移動する。
私は太ももにまたがるケイトスの下から這い出て、助手席へ。
「ハンドルはこのままっ」
スピードががくんと落ちる。
「もっと踏んでっ、そう」
後ろでサンディが焦燥的な声を出した。
「私が、しましょうかっ」
「大丈夫」
ケイトスが表情を変えずに言った。
「このまま?」
そして、私に確認する。
「ハンドルはな。ペダルの方は踏みながら、そこの数字を確認して、80~100の範囲を行ったり来たりさせておくんだ。絶対動かすな。今、道路の上を走ってるから、逸れたらすぐにスタックするぞっ」
「ラビット……」
「なんだっ」
助手席側の窓を開けつつ敵を確認する。
かなり近い所で、迷彩のジープが並走していた。
「なんか湿っぽい」
「悪かったな!」
ケイトスに構っている場合ではない。
砂漠の上をこれだけ長駆できる相手ということは、
余程の手練れに違いない。
バウンドする車内で、両足を踏ん張り体を固定させる。拳銃を突き出した。白海を力強く蹴る敵を、真っ直ぐに捉える。
よもや、ここから拳銃で狙おうとは思わまい。スコープでこちらを覗いているとしたら、せせら笑っていることだろう。
二つのサイトから見える水平線の上に、ジープの前輪を乗せた。
相手が撃ってきた。
威嚇のようだ。
また、後方で爆発した。
ウサギ狩りでもしているのか。
遊ばれてるな。
数ミリ、銃口を水平に右へずらす。
1、2、3。
呼吸を止める。
指をトリガーにかけた。
撃つ。
当たった。
前輪に命中。
ジープが狂ったように頭を振った。
そして、砂に埋もれて、しだいに失速していった。
「上等」
私は窓を閉めた。
「すごい」
サンディが言った。
素直に感心されたのが分かった。
「夜目は効く方なんだ」
振り向いて笑う。
目をきらきらと輝かせている。
止めろよ。
照れくさいだろうが。
「同僚でこのような長距離射撃ができる者はまずいません。どこで訓練を?」
「どこでって、施設でだけど」
「私はそのような精度を磨く射撃訓練はありませんでした……」
「必要ないからだろうさ」
「それは、そうですが」
「……なに?」
「ぜひ、ご指南を」
「え、いや」
「そんな」
蛇少女が私の両肩を掴んで揺さぶった。
「弟子はとらない主義だ」
別に教える立場になったことなどないが。
「そこをなんとか」
肩まで揉み始める。
ちょっと気持ちがいい。
視線を感じる。
顔を運転席へ向けた。
ケイトスが半目でこちらを見ている。
「ご苦労様」
労ってやった。
ごめん、忘れてた。
頬を少し膨らませている。
「なんだ?」
「別に」
そして、数秒後、車は道路をはみ出して砂漠へ突っ込んだ。
ちょっと抜けます
1・2時間後くらいにまた
何とか道路に車を戻し、オアシスに向けて再度出発した。
サンディは『起きています』とかなんとか言いつつ、結局眠ってしまった。
ケイトスは運転に興味を持ったようで、安全運転で走行してくれていた。
ただし、『もっと早く走りたい』などとスピード狂的発言もあったが。
周囲は、砂場から岩場へ移り変わっていた。
夜の色に瞼が重たくなる。
あの施設を抜け出してから、丸2日が経とうとしていた。
いつもの脱出なら、そろそろ施設の自室で目が覚めている頃だろう。
いつもなら。
なにせ、私は、一人で逃げることができない。
そういう体なのだ。
独りだと言う認識が、体に異常をきたす。
周りに自分の知る誰かがいると違うのだ。
孤独が体を蝕む前に、脳が勝手に施設に戻るよう指示してしまう。
もし戻らなければ、死んでしまう。
実際、どうなるかなんて分からない。
ただ、そんな妄想に憑りつかれている。
寂しいと死ぬ。
かもしれない。
だから、これはチャンス。
ケイトスがいつまで傍にいるかは分からないが、しばらくは共に旅をすることになるだろうから。
それまで、私は自由の身だ。
「ラビット」
「うん……」
生返事で私は答えた。
「何か面白いものあった?」
「え」
突飛な質問に目がさえる。
「笑ってる」
「あ、ああ」
頬に手を添えた。
「ちょっとな」
「変なの」
小鳥のようにケイトスは首を傾げた。
一時間ほど睡眠をとった。
それから街まではケイトスと運転を交代した。
静かで深い寝息をBGMに、南部最西端の要塞都市に到着した。
ウサギの耳のような白の巨塔のモニュメントをくぐり抜けると、
文化遺産にも指定されている半壊した元城壁が目に入った。
見るのは3度目だ。
1度目は、両親と。
2度目は、施設の人間と。
ぼっろぼろの車はかなり人目についた。
遺産の周りには軍の人間もちらほら警備に当たっていた。
視線があまりにも痛々しかったので、二人をたたき起こして車を乗り捨てた。
西部系金髪少女二人と南部系黒髪の女一人。
「どこから見ても、仲良し三人組に見えるな」
「そうですかね」
「お肉の匂いがする」
ケイトスが鼻をひくつかせる。
交差点の向かいに、屋台が立ち並んでいた。
獣くさい匂いがわきたっている。
店の主人が、丸々焼いた豚の肉をナイフでそいでいた。
それに野菜やチーズ、ケチャップを入れて薄焼きのパンで挟みサンドウィッチのようにして売っていた。
南部じゃ珍しくもない伝統料理である。
それを二人に奢ってやる。
サンディもケイトス同様にお腹が空いていたようで、
互いに口の端にケチャップをつけて頬張っていた。
「ここから首都までは地下鉄で行くのが手っ取り早いと思うよ」
歩道に立てかけてあったマップを指さして、
ここから駅までの道を辿っていく。
「ふんぐもごうぐ……」
「ケイトス、食ってから言え」
「地下鉄ですか……」
「もごうぐ……」
サンディは顎に指を置き考え込む。
眉根を寄せて、真剣な表情をしていた。
「地下鉄は、危ないのか?」
ならば、他の陸上の手段を考えなければならないな。
「いえ、その……」
「ぬぐ……」
「ケイトス、なに?」
見ると、青ざめた顔で胸を抑えていた。
喉に詰まらせたようだ。
全く、世話が焼ける。
先ほどの屋台で、トマトジュースを買ってきてやり、ケイトスに渡した。
「で、サンディ、地下鉄は無理なんだな」
「無理ではありません」
「じゃあ」
「ただ、地下鉄に乗ったことがないので、不安です」
私はサンディを見下ろした。
サンディはこちらを見上げていた。
サンディは肩より少し長い髪を端っこの方できゅっと結んだ。
細いうなじは、11歳という幼さを思い出させた。
「地下鉄くらい一人で乗れるようにな」
改札を抜けて、サンディに言った。
「はい……」
恥ずかしそうに少女は俯く。
祭日のためか、人が多く、観光客もかなり来ているようだった。
ケイトスは目を離すとすぐに人波に飲まれていった。
サンディは小さすぎて、すぐに見失った。
結果、私は中心で二人の手を繋ぐことになった。
「いつも、父の部下の車で……送り迎えをしてもらっていたので」
「どこの金持ちだ」
少女はそれ以上深くは説明しなかった。
軍の上層部の人間か、それとも政府の高官か。
「ラビット」
左手を握っていたケイトスが軽く引っ張る。
「ん?」
「遺跡」
彼女の人差し指の先には、ひげの王様の墓の写真が拡大コピーされていた。
「結局、首都に行かなくちゃならないわけだ」
溜息交じりに呟くと、ケイトスが跳ねるように歩き出した。
1時間程で首都に到着した。
サンディは見慣れた土地に安堵の笑みをこぼしていた。
「ありがとうございました」
私を抱きしめて、彼女は礼を述べた。
「もとはと言えば、こっちが迷惑をかけたんだし気にしないで」
体を離し、握手を求められたのでその手を強く握り返した。
「ケイトスも」
少女の手をケイトスも握り返す。
少しだけ微笑んでいるように見えた。
「次会うときは、互いに敵かもしれませんね」
「恐ろしいこと言うなよ」
言霊ってあるだろ。
「ふふっ」
少女はタクシーに乗り込む。
姿が見えなくなるまでこちらに手を振っていた。
「さーて」
ケイトスに顔を向けた。
「ひげ?」
ケイトスが言った。
旅行気分だな、ほんとに。
「ひげ、行くか」
「うん」
ケイトスが歩き出す。
「と、その前に」
かくんと少女が膝を折った。
「なあに」
「シャワー浴びよう」
近場の安い宿を借りて、ベッドの上で一息ついた。
仰向けに寝転がると、天井のシミが見えた。
その生活感のある雰囲気に気が緩む。
施設では案外規則正しく生活していたのもあり、昼夜が逆転するとなかなかしんどい。
ベッドのスプリングを使って飛び跳ねる少女はとても元気そうだ。
一足先に綺麗さっぱりしたケイトスを尻目にため息を吐いた。
「元気だな」
「早くシャワー浴びて、遺跡に行こう」
ギシギシベッドが揺れる。
うん、浴びる。
浴びるって。
「早く」
しびれを切らして、ケイトスが私のシャツのボタンに手をかける。
脱がせてくれるのか。
あれよあれよと言う間に、上着をはぎ取られた。
「っくしゅ」
「早く」
「はい……」
すごすごと、私はバスルームへ向かった。
今日はここまで
ありがとー
手早く砂っぽい体を洗い終えて、バスルームから出ると、
すでに準備万端のケイトスが足をぷらつかせてベッドに腰かけていた。
その顔は、『早くー』と言っていた。
遺跡の何がいいのかさっぱり分からないが、一人で勝手に行かない所を見ると、
もしかしたら、多少は気を許してくれているのだろうか。
それとも、案内役が必要だからか。
「今さらだけどさ、なんでそんなに遺跡に行きたいんだ」
新しいシャツに袖を通しながら言った。
ケイトスは長いまつげのくっついた目をぱちくりとさせて、
「お母さんの部屋に、ひげの怪物と遺跡の写真が飾ってあったから……だから」
だから、と言いかけてぼふんと背中をベッドに預けた。
「アネラのことも何か分かるかと思ったの」
アネラ。
ああ、そう言えば、そんなこと言っていたな。
「よく、その写真を見てたから」
あの人にそういう感傷的な所があったことにびっくりだ。
「お母さんのことも分かると思ったの」
ケイトスの横顔は母親を思い出して甘えたがる子どもの顔ではなかった。
疑問。
謎。
分からないことを知りたがっている。
母親とは何なのか。
それを知りたがっているような気がした。
私は、彼女はドクトリス・ハイジのことを何も知らないのではないかと思った。
いい人、と説明した時のケイトスを思い返す。
あれは、彼女の言葉ではなくて、施設の連中の言葉で、それをすり込みみたいに覚えていたんだとしたら。
彼女は、本当は今も廃棄予定の受精卵のままで。
3匹の獣達の声に従いはするけれど、
「ケイトス、準備できたぞ」
「うん」
彼女自身の帰るべき場所が、本当に外の世界にあるのだろうか。
小走りに扉へ向かう少女。
「ラビット」
こちらに手招きする。
「ああ」
向かう場所を故郷になんて言ったけれど、戯言だ。
何のために進むのか分からなければ、ただの迷子。
こいつは、私よりもよほど一人なのだ。
遺跡までは観光客に混じり路線バスを使った。
しだいに、視界の上方に積み重ねられた石の建造物が見えてきた。
ここは西部との国境に一番近いこともあり、要塞都市などと言われているが、
その実は観光に力を入れており、外交も盛んな街でもある。
出入り口が緩い分、頭のおかしな連中も入りやすいし、
マフィア同士の小競り合いも日常茶飯事だ。
この街での軽犯罪数は世界の中でもトップ5に入る。
そんな無法地帯に様々な人種が集まっている遺跡というのは、どこか異質だった。
入場料を二人分払い、チケットをケイトスに渡した。
彼女はそれを握りしめる。
100年で滅んだと言う古代文明。
古代の南部に君臨していたひげの王様の墓はもっと南の方らしい。
ケイトスは音声ガイダンスを聞いているにも関わらず、ふらふらと道順から離れようとしていた。
「お嬢さん、どちらに行かれるんですか」
「間違えた」
「手、いる?」
「いらない」
きっぱりと言って進み始めた。
可愛くないなあ。
今日はここまで
ねます
遺跡のマップをもらった時に、広すぎて、全て回るのに3時間以上はかかると説明を受けた。
見どころであるピラミッドは大中小の3つあり、ひげの王様の墓でもある最も古く巨大な第一のピラミッドは乾燥して崩れやすくなっているようで、
改修工事のため、今は登る事ができなくなっていた。ケイトスはそれを聞いて残念そうに項垂れていた。
空はよく晴れていた。
強烈な日差しが肌を焦がす。
すれ違う観光客も、どこで一体買ったのか、古めかしいクラウンの高い麦藁帽を被る者も多かった。
色とりどりの刺繍のハンカチーフや飾り紐を地べたに座って売っている老婆の姿もあった。
目が合うと、腕を引っ張られて買うまで離してくれなさそうな雰囲気だった。
「ラビット」
そうこう考えている内に、ケイトスが真っ赤なポンチョにくるまれた、
これまた真っ赤な顔をした深い皺の刻まれた老婆につかまっていた。
老婆は言葉を話せないのか、無言でケイトスを引っ張っていた。
ケイトスも別に困った様子はない。
ただ、動けない状態だった。
困った顔で、ため息を吐いたのは私だった。
口パクで、いりませんと言え、と伝える。
ケイトスは頷いた。
「それ、一つください」
「違う!」
結局、オレンジの刺繍糸を使って作られた花のヘアピンを買わされた。
ケイトスはヘアピンのつけ方を知らないようだった。
「じっとして」
「ん」
横髪が邪魔くさそうだったので、左耳の上辺りにつけてやった。
「まあ、可愛いんじゃないの」
「ふーん、ありがとう」
ふーん、て。
ただ、その後は一応反省したのか、路傍に座る老人たちには近づかないようになった。
砂利道を行くこと、30分。
中木と石の城壁に守られるようにして、第二の中ピラミッドがそびえ立つ。
上る事はできないが、今宿泊中のホテルよりは確実に大きい。
頂上へと延びる階段の手すり部分には、ウサギのドクロに人間の体をした像が等間隔で配置されていた。
何体かは風化してしまっている。死神の鎌を持っている像もあった。説明書きにはこう書いてあった。
かつてウサギは神々が化けた動物らしく、古代の人々の間ではもてはやされた。
神ならざるウサギとして『聖獣』などと神格化されていた。
「ウサギは敬うべしってさ」
ケイトスに言ってやる。
「ふーん」
だから、ふーん、て。
二人でピラミッドの周りをぐるぐると回った。
どこから見ても似たような作りだった。
こんなものを作るために、奴隷達はうん十年以上重たい石を運ばされるのか。
ぞっとしない。
「満足したか?」
「うん」
機嫌のいい返事が返ってきた。
好奇心をくすぐられたのか、第一の大きなピラミッドを見に行きたいと駄々をこねられた。
「けどさ、カバーとかシートとかで見れないかもよ」
「それでも見たい」
「分かりましたよ、お嬢様」
観光客は気のいい人が多く、途中道がよく分からなくなったが、
きょろきょろしていると東洋系の男性が近寄ってきて地図を指して教えてくれたりした。
そして、きょろきょろしていたのは私たちだけではなかった。
「……」
瞼に涙を貯めるタンクがあるのか、
その少年は今にも泣きそうな顔をしていた。
どうした少年。
ケイトスは最初その子を無視したが、
やはり老婆と同じように腕を掴まれた。
絡まれやすい体質なのか。
「ラビット……」
今度は困った声を出した。
珍しい。
少年はそのうちに本当に泣き出してしまった。
ケイトスは子どもが苦手なのか、
おろおろとしていた。
「どーした?」
しゃがみ込んで、少年の目線の高さで話しかける。
「……ママとはぐれた」
鼻水を垂らしながら、彼の赤毛と同じくらい目を真っ赤にさせていた。
今日はここまで
ありがとん
おつおつ、面白いよ。
百合成分はこれから増える予定?
乙
期待
「ママ……?」
私は呟きながら、周囲を見渡す。
こちらを訝しげに振り返る人間はいるものの、
近寄って来る気配はない。
少年の方を見て、笑いながら首を振る。
「うっ……」
「泣くな、男の子だろ」
そう一喝すると、少年はケイトスのひざにすり寄る。
ケイトスはカニのように横歩きして、少年を引きはがそうとしていたが、
少年も負けじとずるずると引きずられる。
どうしたものか。
「お前、名前はなんて言うんだ」
「イアン……」
少年は顔を膝にくっつけたまま言った。
「イアン・トフラー……」
「オーケー、イアン。どの辺まではママと一緒だったんだ」
「……分かんない」
「そうか……」
彼の首に何かかけてあるのを発見。
「それ、ちょっと」
「……?」
彼の首にはスタッフ証がかかっていた。
しかし、彼の顔写真ではない。
女性の写真だった。
この人が母親だろうか。
所属には、国立特殊人類学歴史学研究所調査団と書かれてある。
女性の名前は、
「アドリアナ・トフラー……」
40代くらい。黒いスーツの上から、白衣を羽織っていた。
どことなく、見覚えのある雰囲気を感じた。
気のせいだろうか。
少年と同じく赤毛。天然パーマを無理やり引き伸ばしたようなストレートヘア。
ネームケースの裏をめくる。
走り書きで携帯の電話番号が書いてあった。
あいにく、携帯なんて持っていない。
地図を広げる。
電話のできるとことがある。
この遺跡の入口だ。
今から行けば1時間くらいかかるだろう。
私はケイトスに、戻って電話をしに行くか、
それともここでイアンの母を待つかどちらにするか尋ねた。
すると彼女はどちらにも首を振った。
そして、指を指す。
遺跡最南に位置するピラミッドの方角へ。
「行こう」
きっぱりと言い放った。
清々しいくらいだった。
今さらだが、ケイトスは道徳的なネジが何本か欠落していた。
が、私もこのくそ暑い中、彼の子守をしつつ外に立ちっぱなしでいる気にもなれなかった。
「なあ、イアン。第一のピラミッドを一緒に見に行かないか? その間に、ママと出会えるかもしれないし」
ケイトスが若干嬉しそうにしていた。
「はぐれたら、動くなって言われた……」
「ここで一人で待つ?」
少年の頭の中で、天秤が揺れ動く。
「私たちはあんまりのんびりしてる余裕はないんだ。見たい遺跡を見たら、さっさと次の目的地へ行きたい」
少年はケイトスにしがみついたまま、顔をしぼませる。
「僕も行く」
そして、ケイトスの手を握った。
少し、震えているようだった。
それが、ケイトスにも分かったようだ。
観念したように、彼女はその手を握り返していた。
はたから見ると、先行く二人はまるで姉弟のようだった。
私から見るとどちらも危なっかしい存在であるが。
イアンはケイトスの歩幅に追いつけず、終始小走りで移動していた。
声をかけようと思ったが、ケイトスが自分で気づいて、歩くスピードを緩めていた。
子どもといるだけで、こんなに情操教育になるのか。
納得。時折、ケイトスがこちらを振り返る。
この生き物をどうしたらいいのか、とでも言いたげだ。
困るケイトスが珍しかったので、私は特にアドバイスもせず見守っていた。
暫らく経って、イアンが小石に躓いてこけた。
ついでにケイトスも一緒にこけた。
イアンは足を少しひねったようだった。
ケイトスは、私の方に寄ってきて、
「ヘルプミー」
と言った。
「おぶってやんなよ」
「え」
え、じゃないよ。
ケイトスはしぶしぶと言ったように背中に乗せてやっていた。
施設の連中の一人が言っていたっけ。
人間の社会と言うのは、『思いやり』とか『愛』とかそういうもので結合されてるって。
確かに外の世界にはそれがあるような気がした。
そういうエゴがあって、そのエゴを受け入れる存在があって、『優しい世界』が作られているのだろうか。
私にとっても、きっとケイトスにとってもこれから触れていかなくてはいけない世界。
長らく、殺伐とした環境にいたものだから忘れていたけれど、昔は、村の年下連中の世話をよく焼いていたのだ。
そう。
私は、お節介な少女だった。
そんなことを思い出しながら、目の前の二人に微笑んでいた。
今日はここまで
また明日
ピラミッドからピラミッドを繋ぐ砂利道の途中、1メートル程のコンクリートの円盤があった。
解説によると、他にも何か所かあり、今は全てコンクリートによって固めてあるということ。
地下道だったらしいが、10年前に1度発掘調査が行われた際、有毒ガスなどが発生していたため、人の出入りを禁止したようだ。
地下世界というと不気味な印象を受けるが、この古代文明においては死者が復活するとして崇高な場所となっている。
国の下へ沈んだ太陽が再び復活するように、地下世界は神羅万象の再生が行われると信じられていた。
そこから出土した物に多かったのが、ピューマや狼などの動物体や人の骸骨。そして、玉やナイフなどの黒曜石製品や耳飾り。
そういったものも発掘されたことから、身分の高い人物達の復活の儀式に使われたか、あるいは戦争中の捕虜等がそのための生贄とされたかというのが有力な説らしい。
この遺跡の調査が開始されてからまだ歴史は浅く、未だ謎も多いそうだ。
その謎の最もたるのがひげの王様。
彼は人間でもなく、その他哺乳類にも当てはまらない。
骨の成分率によって出身地を探るアイソトープ分析により、この地域の生まれであることだけが分かっている――。
だからこそ、人々は彼を恐れこの地の神のように祀り上げ、王に据えた――。
細かい字でびっしりと書かれた文字盤から目を離す。
ケイトスもイアンも物珍しそうに別々の方向へ首を伸ばしていた。
「イアンは、どうしてここへ?」
「ママのお仕事についてきたんだ。一人でお家にいると危ないからって……お兄ちゃんは」
「お姉ちゃんだバカやろう。ああ、名乗ってなかったが、私はラビット。こいつはケイトス」
イアンのほっぺたを引っ張る。
「ご、ごめんなさい、ラビット」
「ぷ」
吹き出すケイトスを尻目に、私は彼が言いかけていたことを促した。
「あの、ラビットは観光に来たの?」
私より先にケイトスが答えた。
「アネラのことを知りに来たの」
「おい、それじゃ意味が分からんだろ」
「アネラ? 天使の?」
イアンがキョトンとした顔で言った。
食いついたのはもちろんケイトスだった。
背中からイアンを降ろし、彼の両肩を掴んだ。
「知ってるの?」
「う、う、うん」
揺さぶられて、まともに返事ができていない。
「教えて」
「え、あ……う」
「もっと優しく尋ねろよ」
ケイトスが揺さぶるのを止める。
作り笑いみたいな顔で、
「お・し・え・て」
「ひい」
「怖いわ」
ケイトスがこちらを振り向く。
私は普通に聞けと指示を出す。
少女は手を話して、再度質問した。
「知らないの?」
私とケイトスは首を縦に振る。
「絵本に出てくる天使の名前だよ……いつも寝る前にママに読んでもらってたんだ」
「どんな絵本?」
ケイトス、顔、近いよ。
「昔の、お話で……題名は「海の天使」って絵本なんだけど。この辺りの大陸の海からは色々な怪物がせめてきてて、その怪物から人間や動植物を守るよう神様から遣わされたのがアネラなんだけど……悪い人や悪い子には悪い事をしたり教えたりするんだ。でも、良い人や良い子には良い事をしてくれるんだよ……」
「アネラは……」
ケイトスが呟いた。
「いないのか……」
「……いるよ」
イアンが言った。
ケイトスは顔を上げる。
「アネラはいつもそばにいて、そして、いつもぼくを見てくださっているんだ。悪い事をしていないかって。ちゃんと、みんなに優しくしているかって。ぼくはアネラをそばに感じる時があるもん」
少年は信じているようだった。
というより、そういう信仰に近いのか。
「でも今迷子だね」
「う……っ」
少年はまた顔をくしゃっと歪めた。
「でも、こんな美人に出会えたじゃないか。おまえは良い子にしてたってことさ」
彼の頭にぽんと手を置いて、くしゃくしゃと髪をかき混ぜるように撫でた。
まあ、お兄ちゃんと言ったことは許せんが。
力を込めてやる。
「いた、いたたっ……」
「なんだか悪意がある」
「そーんなことはない」
ぱっと手を離した。
イアンは泡立ったクリームみたいな髪を手ぐしで整えていた。
そうこうして、じゃれつき合っているいる内に、ひげの王様の眠るピラミッドが見えてきた。
見えたは見えたのだが、その台形の建造物は歩けども歩けども近づいた気がしない。
「まだ?」
ケイトスが言った。
「見たら分かるだろ。まだだ」
「疲れた……」
少年がふらふらしていた。
おぶさるのを止めていたケイトスが、心配そうにしていた。
素直に、心配していることを伝えられないようだ。
仕方ないので、私がイアンに言うと、
「がんばる」
と、汗を腕で払いながらケイトスの手を握って再び歩きだした。
私の手を握らなかったのは、私が『お兄ちゃん』だと思ったからか。
というのを、後で気が付いた。
漸くついた頃には、陽がピラミッドよりも下の位置に見えていた。
太陽が再び活力を取り戻すために地下世界に沈みゆく時間帯。神聖な瞬間が訪れようとしていた。
人はまばらだった。それもそのはずで、遺跡にはブルーシートや赤い網が張ってあった。
立ち入り禁止の板と、3人の警備員が常駐しているようだ。
その大きさと所々に見える石畳や石壁だけは圧巻であり壮麗だった。
一つの山だ。
「やっぱり登れないな」
そう言って、ケイトスを見やると、やはり残念そうにしていた。
ケイトスの背中をぽんと叩く。
「しょうがないさ。改修工事が済んだらまた一緒に来てやるよ」
「……ホント?」
「ああ。一緒に登ろう」
ケイトスがまるく笑った。
そんな顔もできるんだ。
「約束」
「いいよ」
「ふふ……」
嬉しそうにしているケイトスを見て、
私は、またこいつと一緒にこの遺跡を見に来れたらと思っていた。
ここ数日で変わったのは、私もか。
嫌な音がした。
「……?」
聞きなれた音に似ている。
「ラビット怖い顔してる」
「しっ」
ケイトスの口に指を当てる。
かなり離れた所。
銃声に近い。
だが、音が低すぎる。
違うのか。
この予感は、だいたいそういった状況を招くような位置にいたり、
時間帯であったり、状態であると感じることが多い。
逃走本能だろうか。
サバンナの草食動物のように、
私は視線だけをきょろきょろと動かした。
草むらに何かが倒れるような音がした。
耳の奥が疼いた。
今のは。
また、何かが倒れた。
茂みになっているのは、ピラミッドを挟み自分たちとは反対側の方だ。
今度は女性の悲鳴が聞こえた。
一気に近づいた。
確信した。
襲撃されている。
誰に?
欠伸をしている警備員は、全く気が付いている様子がない。
「おい、あんた……」
彼の額から血飛沫が上がった。
そして、そのまま悲鳴すらあげずに前のめりに倒れこんだ。
瞬間、私はケイトスとイアンの背中を押してしゃがませた。
わけが分からない様子の二人に、現状を説明している暇はなかった。
低音の女性の声。
否、歌。
その歌が、耳の中をかき混ぜた。
「ッア……?!」
「ラビット……?」
脳みそが溶けてしまうような、強烈な音だ。
「……イアン?」
かろうじて目を開けると、イアンが一人立ちあがってふらふらと大通りへ向かっていた。
「とめ……」
最後まで言えずに、私は崩れ落ちた。
ケイトスは私の意図を理解したのか、
イアンの方へ走り寄った。
「がっ……あ」
だが、ケイトスの行く手を阻むように、
「……っ」
弾痕が地面をえぐっていき、
そして、
イアンの体中に無数の銃弾を貫通させていった。
イアンは糸の切れたマリオネットのように、地に突っ伏した。
すぐにケイトスが近寄って抱き寄せた。
「はなれ……ろ」
四つん這いでなんとかケイトスの傍ににじり寄る。
どこから撃ってきたのか分からない。
何の目的なのか分からない。
ここにいても死ぬだけだ。
いや、もはやそうなってしまう可能性の方が高い。
それでも、ケイトスだけは守らなくてはいけないような気がした。
そうじゃなければ、人生の無意味さを呪いながら死ぬだけだと思った。
ケイトスの腕に触れた。
「っ……?!」
電気が走ったかと思うような鳥肌が立った。
肉食動物に捕捉された感覚に近い。
何十本ものひげが彼女のうなじの辺りを突き破って飛び出ていた。
銃器の発射音。
ひげが宙を舞った。
彼女はイアンを地面にそっと置く。
立ち上がって、数本のひげをピラミッドに向かって鞭を打つようにしならせた。
直線状に伸びたそれは、ブルーシートを突き破って、何かに突き刺さった。
飛び出てきたひげには、真っ赤な液体が付着していた。それが地面にぽとぽとと赤い染みを作った。
それを振り払って、
咆哮。
少女の顔はいつかの獣のそれだった。
鋭い白亜の牙が徐々に伸びていく。
前と違うのは、体だ。
手足がおかしい。
何か盛り上がってきている。
他のひげがミサイルのように一斉に遺跡に向かっていった。
そして、いくつもの悲鳴が上がる。
ピラミッドの下段辺りで、爆発が起こった。
瓦礫ががらがらと転がっていく。
そこからひびが一本頂上へと伸びた。
「ケイトス……まずい。遺跡が……」
聞こえていないようだ。
私はケイトスを止めるのを諦め、
イアンをかき抱く。
ネームカードに小さい穴が3つ空いていた。
服も蜂の巣のようになっていて、
そこから体液が染み出ていた。
心臓は、もう停まっていた。
だが、これは一体――。
「ケイトス……」
ケイトスはもはや私の知る姿をしていなかった。
頭部と四肢は猪のような犬。胴体はオットセイのようにずんぐりとしており薄い体毛に覆われていた。
クジラのような大きなひれが腹から出ていた。
「待ってくれ!」
遺跡から転がり降りるようにして、視界に飛び出てきたのは、原住民のような服装をした男だった。
顔に、青や赤などの絵具か何かでペイントしてある。
両手を挙げて、武器を地に置いた。
ケイトスがそれを無視して狙っているのが分かった。
「ひいっ」
私の方を見て、助けを請うていた。
「ケイトス」
私はケイトスを呼んだ。
返事をしなかった。
「ケイトス……!」
怒鳴った。
聞こえているのか、
動きを止めた。
「ダメだ……」
ケイトスはひげを地面に突き刺した。
そして、しゃがみ込んで、私の胸に鼻先をつけ、顔を埋めた。
くうんくうん、と鼻を鳴らし、その身に悲愴をまとっていた。
イアンの遺体に手じかにあったシートをかけ、
私と完全に変態したままのケイトスは、
男を縄で縛り、彼を詰問した。
名を、ペドロと言った。
彼は、彼らは国の認めた保留地を持てなかった先住民族の集まり。
政府にジェノサイドを受けた民族の生き残りだと。
ペドロは、自分は平和運動のための革命家だと言った。
「君たちは……」
尋ねられたが教える気にもなれず、
彼を縛ったまま、遺跡の茂みの中にしゃがみ込んだ。
いずれ、騒ぎに気づいた他の警備員がやってくるだろう。
先ほどから殺気立っているケイトスをなだめてはいるが、
こちらに敵意を向けた相手を殺しかねない。
「あんたらさ、どこから来たの」
そう。
爆発物までどうやってこの遺跡に持ち込んだのだ。
「……」
ペドロは喋らない。
ケイトスのひげがひゅんと鳴った。
彼はびくりとした。
そして、意を決したのか口を開く。
「僕は、姉さんのためにも、ここで死ぬわけにはいかない。だから、仕方ないが、教える。地下、地下から来た」
ちょっとここまで。
続きは夕方くらい
「地下? それって、あのコンクリートの円盤で塞がれてる所?」
ペドロは無言で頷いた。
どういうことだ。
有毒ガスが充満していると言うのは嘘なのか。
「僕らの襲撃はこれで二度目だ。一度目の襲撃の後にあの穴は塞がれたよ。ケチ臭くコンクリートなんかで埋め立てた所で、というだけさ」
彼は茂みの奥を指さした。
この向こうに、貫通させた所があると言うことか。
「ケイトス、人間に戻れない?」
獣は首を振った。
ケイトスは人目につかないように、
どこか安全な場所に連れて行く必要があった。
彼らがなぜ襲撃したのかは後で聞くとして、
まずはここを脱出しなくてはならない。
ケイトスが前足で、耳の横をひっかいている。
オレンジの刺繍糸でできた花のヘアピンが、ふさふさと伸びた毛に引っかかっている。
私はそれを外してやり、自分のジーンズのポケットに入れた。
「ペドロ、案内して。でも、変な気は起こすな。これは、あんたのために言ってるんだ。相棒は、私じゃ制御できない」
ケイトスが小さく唸る。
彼は両手を上げて、後ずさった。
「一つだけ、教えてくれ」
ペドロが言った。
「『MP』を知っているか?」
「なんだ、それ」
彼がじっとこちらを凝視してくる。
「知らないのか、なら安心だ」
「?」
興奮状態だったケイトスを暗く小さな穴に入れるのは一苦労だった。
それでもなんとか、粘り強く声をかけ名前を呼び続けた。
ライトの光を怖がるような憶病な所もあり、ほとんど野生の獣のようだった。
それでも、私のことは分かるのか、共に地下道を進んでいる。
「こっちだ」
地上とはうって変わり、ヒヤリとした。
湿っぽく、かび臭い。死臭のようだとも思った。そんな錯覚を起こす。
踏み抜いた地面は柔らかく、
壁は今にも崩れてしまいそうな粘土質でできていた。
ペドロは普通の人間にしては異常に足が速く、また、ケイトスも四足歩行で走っていたため、
徐々に遅れる私を振り返り、ケイトスが背中に乗るように合図していた。
私はケイトスにまたがって、彼女の背中にしがみついた。
身体がだるい。
背に乗り、自分の身体が最低最悪の不調なのだと理解した。
ペドロが速かったわけではなく、自分の足が重たかっただけだ。
歌が聞こえた。
ペドロから聞こえる。
あの、女の歌だ。
「っ……ア」
ケイトスが唸りを上げる。
「な、なんだ」
「そ、その歌を止めて……」
「歌?」
「……っツ」
「僕は何もしていない」
ケイトスは彼の身体に鼻先を押し当てて、
クンクンと臭いをかいでいる。
「なにも、ない!」
彼が叫んだ。
それすらも頭蓋骨を割りそうな程響いた。
耳の奥から溶けた脳が垂れてきたような気がした。
そこで、私の意識はばったりと途絶えたのだった。
目が覚めた時、右腕の感覚がほとんどない上に、動かなくてびっくりした。
切られてしまったのか。
恐ろしい事が脳裏をよぎった。
おろるおそる確認する。
「ケイトス……」
獣と化したケイトスが、顎を乗せていた。
彼女の耳がピクピクと動く。
大きな瞳が開かれる。
長い舌で、私の顔をひと舐めした。
良かった、無事だったか。
胸ポケットが軽い。
拳銃を抜き取られている。
ジーンズのポケットに入っていたナイフもなくなっていた。
髪留めは無事だったので、ほっと胸をなで下ろす。
「ここは……」
こじんまりとした寝室。
化粧棚がある。
女性客用か。
打ち鳴らした鐘のような頭を抑えて、靴を履く。
身体の平衡感覚が鈍くなってしまったのか、真っ直ぐに歩けない。
ケイトスが支えるように寄り添ってくる。
身体にすり寄って、気遣ってくれている。
まるで、ケイトスではないみたいだった。
けれど、もしかしたら彼女の本心が現れているのか。
素直ではない、彼女の。
どうも歩けない。
観念して、ベッドの縁に腰かける。
ケイトスがドアの方へ向かう。
扉を前足でひっかいた。
それは合図だったようで、
部屋の外にいた人物が入ってきた。
40代くらいの女性。
彼女も顔にペイントこそ施してなかったが、
先住民族が着るような装束をまとっていた。その上から、薄肌色の生地のマントを被り、赤い帯を腰に巻いていた。
白髪が少し混じった髪を、後ろで団子のようにして束ねている。
「……誰」
「ごほん」
彼女の後ろに控えていた、同じような出で立ちの人間が咳払いをした。
「姉のメンチャだ」
メンチャは穏やかな表情だった。
「メンチャ、付き添いの獣は危険だから、あんまり近づかないで」
メンチャは一度頷き、
腰を深く折って、
顔を上げた。
そして、しゃがみ込んで、
額を床にこすりつけた。
私は面食らった。
一番動揺しているのはケイトスだ。
メンチャはケイトスに向かって、それをやってのけた。
「メンチャ、ぼくは外にいるから何かあったら言ってくれ」
そこでメンチャは漸く言葉を発した。
「分かりました」
その声は聞き覚えがあった。
しかし、今度は脳を震わすことはなかった。
「歌の人……」
「歌を聞いたのですね」
頭を上げて、今度は私の方を見やる。
私はなぜか素直に頷いて、ゆっくりと質問していた。
「なんですか……その歌は」
「正確には歌ではなく思念のようなものです。古代から我が一族に受け継がれてきた神のご加護と申しましょうか」
メンチャは、それは自分の声であって自分の声ではなく、媒介としているだけだと言った。
そして、少したれ気味の目を薄めた。
目の横の皺が細くなる。
どこか懐かしい顔つきだった。
そうだ。
おんばの表情に似ているのだ。
自分をそのままに受け入れてくれる。
宇宙のような、おんばの顔に似ている。
なぜか、涙が出そうになった。
手の甲ですぐに隠す。
なのに、すぐに涙が溢れてきてしまう。
「辛い事があったのですね。落ち着くまで、ここにいてもよいのですよ」
メンチャは私の手をとり、強く握りしめた。
老婆という程年を食っているわけでもないのに、
彼女の手は乾燥してガサガサとしていた。
しかし、暖かい。
それが、心地よいと感じるくらいに。
暖かかった。
「食事をお持ちしますね」
そう言って、彼女はまた去っていく。
「……はっ」
ケイトスがこちらを見ている。
「な、なんだよ。見るな、バカ」
別にほだされてない。
メンチャがその後食事を持ってきてくれた。
ケイトスはやや警戒したが、毒が入っていないことが分かると全てぺろりと平らげてしまった。
食べ終わると、少し説明を受けた。
簡単に言うと、彼らは反政府団体。
ペドロは平和運動の革命家だと言っていたっけ。
しかし、話を聞く限り、そして実際の現場を見た限り、民族解放軍として、各地で武装蜂起しているテロリストだと言うことが分かった。
「否定も肯定もあるでしょうが、全ては神の導きのままにあります」
彼女の話には、私たちのいた施設の話も出てきた。
あの施設は各所にあり、政治活動に欠かせない要所だった。
そして、あの施設に子どもを放り込んでいる大本が『南部人的資源公社―Man Power―』。
通称『MP』と言われる準公的組織。
政府は、自分たちの国民として認めなかった先住民族の能力を利用して、
彼らを国有化してしまうルールを作り、その供給から使用、廃棄までの全てを『MP』に一任していた。
先住民はより野生動物に近い遺伝子を持ち、
かけ合せも、普通の人間に比べて失敗が少ない。
確か、前にサンディも同じようなことを言っていた。
出生前から10代の子ども達が主にターゲットになる。
捕まったら最後で、人間に戻ることはできない。
メンチャには妹と弟があと3人いて、
一番下の弟は、彼らに捕まってから一度も会ったことはないそうだ。
「……」
ふと、鼻に鉄さびの臭いが蘇る。
喋る事もできない、人間の成れの果てのような子どもの映像がフラッシュバックした。
胃の方から、食道を通り、先ほど食べたものを吐き出しそうになった。
今さらだ。
今さら。
手が震えた。
廃棄予定の子ども達が、
怨霊のように、私の周りをぐるぐると回っているような。
「どうしましたか?」
「いや……」
ケイトスが私の指先を舐めた。
「ここは、神のご加護が強い場所です。あまり、負の感情で心を満たさないようにしてください」
怒り狂ったメンチャとペドロの両親も同じように武装蜂起したが、
摑まって留置所に拘束されているらしい。
そして、その両親を助けるためにも、
捕まり続ける仲間を解放し、
これ以上犠牲を増やさないためにも、
彼らは戦い続けると言うのだ。
「けれど、私の妹達は違いました……」
メンチャは心を乱さないようにするためか、
息を大きく吐き出しながら、言った。
「私には、ハイジと、アドリアナという二人の妹がいるのです。二人とも、優れた知恵と能力を持っていました。一人は医学の道に、一人は考古学の道に進みました……そして、どちらも政府側の人間になってしまいました」
そして、続ける。
「特に、アドリアナは……自分の子どもを目の前で廃棄されたのにも関わらず……いえ、多くを語り過ぎましたね」
「ううん。聞かなくても良かったことなんて、なかった……ありがとう」
身体の震えが止まらない。
寒かった。
ケイトスを抱きしめた。
これが、普通の感覚なのだ。
足りなかったものが、
遅れながら私を満たしているだけだ。
これに耐え切れないような強さもないなら、
私はこれからケイトスと共に行くことさえできない。
「少し、ケイトスと二人にさせて」
メンチャは静かに頷いて、
部屋を出て行った。
目を閉じると、アネラのことを教えてくれたイアンの顔が瞼の裏に浮かび上がった。
それは、すぐに額から血を流した。
妄執が増幅する。
急いで目を開ける。
ケイトスがいる。
でも、ケイトスじゃない。
怪物だ。
私自身も、化物だ。
イアンはアドリアナの子どもではなかったのか。
また、生んだのか。
知ったことか。
どうしてそんなことまで考えなくてはいけない。
子どもを失う人間の気持ちが、
私に分かるはずもないのに。
脳みそを潰して、
四肢を引きちぎって、
この身を断罪につかえたのなら、
どんなに楽か。
「ケイトス……何か、喋ってくれ」
彼女の耳元で、
私はぼそりと呟いた。
「ケイトス……」
頭がおかしくなりそうだ。
寂しさが押し寄せてきた。
帰りたい。
どこへ。
私の友は、目の前にいるじゃないか。
どこへ行こうと言うんだ。
私を許してくれる人間の所へか。
それこそ、死んだ奴らは報われないぞ。
何のために殺されたのか、ってね。
ほんと、何のために、
ゴミみたいな扱いを受けたんだ。
狂ってる。
やはり、あの施設を出るんじゃなかった。
戻らなくてはいけないんだ。
外にいたってろくなことはない。
寂しい。
「……」
立ちあがった。
ドアを見た。
呼吸音。
見張りがいる。
窓を見た。
あそこから、飛び降りよう。
大丈夫。
私は頑丈だ。
ちょっとやそっとじゃ、
死なない。
窓枠に手と足をかけた。
5階か。
まあ、大丈夫。
なんとなく振り返る。
ケイトスが見ていた。
「やっぱり、あの施設に帰るよ。故郷に帰ったって、きっとろくなことないし、怖いしさ」
ケイトスは私に近寄り、窓枠の下に座った。
「なんだ、一緒に帰るか」
すると、彼女は口を大きく開いて、
私の手をがぶりと噛んだ。
「…………いっだあああアアア!?」
ケイトスを思い切り蹴り飛ばす。
「なにすんだ、バカ!」
腹に入った。
がはがはと、唾液をまき散らす。
彼女はただ睨んでいた。
「わかんないって、何が言いたいんだ……」
唸りながら、
私の周りをぐるぐると回る。
「は、なんだ、やるか。本性を現したな」
私は拳を握る。
ケイトスが覆いかぶさってきた。
「こんのっ」
右肘を彼女の頭蓋に向けて放つ。
きゃいん、と悲鳴を挙げた。
「なんだ、犬かよ」
私は近くにあった、羽ペンを右手で掴んだ。
「武器なんてなんでもいいんだよ。ほら、ひげでもなんでも出して来いって」
進むも戻るも立ち止まることも地獄なら、
どこでくたばったって一緒な気がした。
ケイトスが吠える。
「……一人は嫌なんだ。一人じゃ何もできないんだよ、ケイトス。あんたのことを戻してもらうにも、やっぱり一度施設に戻らなきゃいけないんだ。ケイトスと話せないのが辛いんだ。寂しいんだ……」
羽ペンをへし折って、
両手に鋭利な武器を携えて、
「でも、ケイトスは故郷を探すんだろ。だから、あんたはついて来なくていいから……帰って戻る見込みがあるか分かんないしさ」
ケイトスはひげを出現させた。
歯をぎりぎりと鳴らす。
「……怒った?」
私はふっと笑う。
ケイトスは口を大きく開いた。
ひげが矢のようにこちらに伸びてきて、
私はその速さに追いつけず、
両手足を緊縛され、
ベッドの上に転がされた。
その上に、彼女はまたがった。
食べられる、と思った。
だって、私の肉は美味しいから。
もともと、囮だった。
囮肉だった。
私と、ケイトスの関係は、
そんなものだった。
ケイトスの鼻先が近づいてきた。
私は目をつぶって、
最後だと思って、
笑った。
「……っん?」
ケイトスの口が私の唇に当たっている。
大きな舌が、進入してきた。
異物感に、諦めていた脳が抵抗を思い出す。
なんだ。
何をしているんだ。
唾液がからまって、
生暖かいものが、
口の端を流れていった。
ケイトスが喉を鳴らし、何か、飲み込んだ。
そして、
身体をのけ反らせ、
苦しむように、
喉を押しつぶされているような声を発した。
「ケ、ケイトス……?」
ひげが彼女のうなじに収束していく。
私はさなぎが蝶になるのではなく、
蝶がさなぎから芋虫になるような過程を見ていた。
なんともえぐい。
ベッドの上は、体液でべちょべちょになっていた。
だんだんとヒトの皮膚が覗いて、
そして、
ついに、
獣は、16歳の少女に戻っていた。
まるで、生まれたばかりのようなケイトスの姿がそこにはあった。
神聖な瞬間を目の当たりにしたような、
そんな高揚感さえあった。
「ケイトス!」
ケイトスを抱きしめようとしたら、
頬っぺたを思い切り叩かれた。
「あぐっ……」
目が覚めた気がする。
「ラビット、さっきから何言ってるのかわからない。人間の言葉を喋ってるのにわからなかった。なら、言葉なんて意味ないよね」
ケイトスは、早口で言った。
「良かった! 戻った!」
嬉しくて、また抱き着こうとしたら、
「聞いて」
今度は反対の頬っぺたを叩かれた。
「あいたっ……」
「でも、私も、ラビットと話せないのはいや」
ゆっくりと、私に腕を回す。
「ラビットの故郷も見たいし、遺跡ももう一回行きたい」
「ケイトス……」
私も彼女の身体を抱きしめた。
抱きしめて、彼女の感触を確かめた。
彼女が私を必要としているのが分かった。
軽くなっていく思考。
心。
過去の記憶。
誰かが、運んでくる。
両親が作ってくれたバースデーケーキ。
ぽっとロウソクを灯した。
おんじとおんばに手を引かれ、
洋服を街まで買いに行った。
私が、まだ、
ラビットではなく、
一つの生命として名づけられた名前があった頃。
『―――』
私の、寂しさを、受け止めていたもの。
もう、関係のない存在だと諦めていたもの。
切り捨てることのできなかったもの。
そもそも、私は、人間だ。
そして、ケイトスも、人間だ。
だから一緒にいたいと、思えるのだ。
『ラビット』と、『ケイトス』。
二つの生命を必要としあう、互いの存在によって。
そうか、故郷なんてどこでも一緒なのかもしれない。
「ケイトス……」
「なに?」
私はポケットに手を突っ込む。
「私さ、あんたが思う以上にかなり、寂しがりやなんだけど」
「ふうん」
ふうん、て。
「も少し一緒にいてくれないと、死んじゃうかもしんない」
オレンジの刺繍糸で作られた花のヘアピンを、
ケイトスの耳の上につけてやった。
「困る」
ケイトスはそう言って、
頬に軽くキスをして、
私の首に腕を絡ませた。
今日はここまで
続きはまた明日くらい
暫らくして、誰かが部屋をノックした。
入ってきたのはペドロだった。
「物騒な物音がしたと報告を受けたのだが……っ」
ペドロはすぐに後ろを向いた。
「ふ、服を着ろ! 破廉恥極まりない!」
陶器のような肌を恥ずかしげもなくさらしたケイトスに、
ペドロの声が上ずっていた。
一見30代くらいに見えたが、もっと若いのだろうか。
「悪いんだけど、服がない」
「うん」
そう言うと、ペドロは姉のおさがりだと言って、
白地に青い小さい花がいくつも印刷されたブロードクロースのカジュアルなドレスを持ってきた。
背丈がちょうどケイトスにぴったりだった。
「姉のハイジのものだ」
扉の向こうから、ペドロが言った。
ケイトスは鼻を引くつかせる。
獣の習性が抜けていないのか。
「これ……お母さんの臭いがする」
私はそれで確信した。
「……やっぱり、ハイジって、ドクトレス・ハイジのことだったのか」
ケイトスが服を抱きしめて、顔を埋めていた。
「懐かしい」
「まあ、とにかくケイトスは服を着ろ」
袖を通すと、見事にぴったりだった。
「やはり、君たちはハイジ姉さんの施設の子ども達だったんだな……姉さんは、レベル3を成功させていたのか……」
「私たちのこと知ってたんだ」
「ああ」
扉の向こうで憎々しげに呟くペドロ。
「可哀相に……」
可哀相?
確かにな。
人が見ればそうかもしれない。
けど、それを人に決められたくはないんだよ。
今、友情を確かめ合った所でね。
生憎、可哀相なんてこと、ないのさ。
「でも、ケイトスにとって、ハイジは生みの親で育ての親だ」
「……ハイジ姉さんが親? それは何か勘違いしているな。……アドリアナ姉さんと言い……どうして最後まで面倒も見れないのに……」
「あのさ、あんた達が遺跡で殺した少年……あいつはアドリアナの息子だろ?」
「イアンのことか」
「そうだ。分かっていたなら、どうして、殺した?」
「イアンは人間ではない。君たちと同じように、何らかの改良が加えられている。そして、彼の父親は『MP』の幹部だ。放っておくことはできない」
「その理屈だと、私たちも殺さないとな」
薄ら笑いを浮かべて、私は言った。
「メンチャ姉さんの指示があれば」
ペドロは笑ってはいない。
よっぽど狂って見える。
「メンチャは私たちをどうするつもりだ」
「恐らく、僕らの仲間になってほしいのだろうね。特に、レベル3になった者の力と言うのは計り知れない」
その言い方だと、ウサギはいらないみたいだな。
眠すぎるのでここまで
また二日後くらいに
「・・・・・・じゃあ、もし協力を要請されたとして、それを拒否して故郷に帰りたいと言ったら?」
ペドロが私を見やる。
「どこに? まさか、施設にか?」
「まさか。私は辺境の村の出身だ。小さいときに、マフィアの抗争に巻き込まれてもう誰も住んでいないと思うけど」
「抗争? ・・・・・・何年前だそれは?」
「もう、10年くらい前になるな」
「そうか・・・・・・」
「?」
ペドロは後頭部を無造作に引っかいた。
「久しぶりに外に出たからね、家族に花の一つでも手向けてあげたいんだけど」
同情を誘うような声を出して、
私は自嘲気味に笑った。
「その村の名前は?」
ペドロが聞く。
「ダラムスだ。知ってるのか? ニュースに流れてた?」
「その村、『MP』の下部組織がよく出入りしていたと聞いたことがある。政府に認められてから、彼らは始めのうち西と南を自由に出入りできる権限を得た。麻薬や武器の密輸、売春・・・・・・そういった裏の仕事もやりやすくなってしまって、当時はそういった事件が多発したんだ。民衆が怒って、今は、その権限を見直して、自由に出入りできないけれどね・・・・・・。君は、きっとそれに巻き込まれてしまったんだ」
「たまったもんじゃないな」
はき捨てるように、私は言った。
「ああ。だからこそ、あの腐った豚のような政府に神の捌きを受けさせなきゃならない」
「政府が腐っているのは理解できたけどさ、無差別に人を殺しているあんたらは彼らと何が違う?」
「何もかもさ」
「遺跡の周りにいた観光客や、雇われの警備員たちが、いったいお前らに何をしたって言うんだ」
らしくない。
何を私は憤っているんだ。
ちょいここまで
「彼らが何をしたかだって? 何もしてないさ。それが彼らの罪だ。泣き叫びながら家族と離ればなれにされる少女を見て、彼らは見て見ぬふりをする。政府に蹂躙されている人々について、どこか遠い世界の話だと思っているのさ。それが、例え昨日まで隣で住んでいた人間だろうとね」
彼は一息吸った。
「そうして、あたかも自分の国で起こっていることではないかのように、日常を享受している。彼らの怠慢が、今の結果なんだ。いつか気づくだろう。彼らが見捨てたのは、自らの神だったと。神は自らを助け尊ぶ者に救いの手を差し伸べるが、決してその逆の行為を許さない」
「残りは殺すってか」
「裁きを受ける。それだけだ」
「何も、殺さなくたって……」
「このまま、黙って同族を殺されるのを指を咥えて見ていろと? 罪深い選択だ。君は、自分の村に降りかかった火の粉を忘れてはいないんだろ?」
「忘れたことはないよ……。ただ、私は……」
自分が汚れるのは別にかまわなかった。
だけど、ケイトスが変わっていくのを見るのは嫌だった。
いつか、私すら忘れて、本当の化物になってしまったら。
彼女はそんなこと気にしないかもしれないけれど。
彼女に、見せてあげたいと思った。
私の感じた故郷を。
私が、見せてあげたいと思ったのだ。
「日常を取り戻したい。あんた達が許せないって言う日常をね」
ペドロは眉間を手の甲で押すような仕草をした。
「君には、まだ分からないようだな」
彼は首を振った。
「大局的な見地を持てば、そうも言ってられない。だが、それを君に、君たちに今すぐ理解してもらおうとも思ってはいない」
彼は、私とペドロを交互に一瞥して、部屋を出ていった。
部屋の前にまた見張りを立てたらしい。
軽く軟禁されているということか。
「ケイトス、ごめんよく分からんかったよな」
「私は、ラビットと一緒がいいよ」
面と向かって言われ、
私は気恥ずかしくて少し顔を背けた。
「どうしたの」
「う、ううん」
「ねえ」
「なんだ」
「ラビットの故郷に連れて行ってくれるんだよね」
「ああ」
「行かないの?」
ケイトスは、不思議そうに首を傾げた。
それを見て、私は呆気にとられて言葉に詰まった。
数秒して、顔が緩んで、
「はははっ……あはははっ……あっはっは!」
笑ったら、至極すっきりした。
「連れて行くさ。一緒に行こう、ケイトス」
彼女の両肩に手を置いて、にやりと笑った。
出会った時からそうだったが、
彼女は行くと決めたら、行く人間だった。
周りのことなんて関係ない。
一人でも行く。
でも、今はちょっと違う。
一人ではない。
ううん。
最初から、私は彼女に惹かれていた。
だから、私が勝手に追いかけていってるんだ。
「ラビット?」
「あのさ、ケイトス。私、あんたのことけっこう好きになったみたい」
「そうなの」
「うん」
ケイトスは考えるようにして、目線を斜め上にした。
実際は、何も考えてなさそうだったが。
「じゃあ、私は、出会った時から好き」
「じゃあってなにさ」
「私の方が早い」
なんのこっちゃい。
「どっちが早くてもいいさ。たぶん、私の方が好きだから」
ケイトスが、私の体にふわりともたれかかる。
「どうした?」
「なんとなく」
少女は頭を振る。
「笑ってる?」
「笑ってないよ」
「うそだ。笑ってる」
彼女の顔を覗き込む。
口元が歪んでいるというか。
笑ってると言っていいか疑問もあったが。
目線が合うと、瞼をぱちぱちと開閉させていた。
なんだろう。
ふっと脳裏で答えが見つかる。
「まさか、照れてる?」
「違う」
「そう」
彼女の目線と同じ高さまでしゃがむ。
「照れてるなら、ちょっと嬉しかったんだけど」
「……照れてないよ」
なんで、こっちを向いてくれないんだ。
少し、気まずい感じになってしまったので、それ以上深堀りするのを諦めた。
「よし、となると。まずは……」
体を反転させて、
後ろの窓を見やる。
「行くか」
ケイトスが私の言葉を復唱する。
「行くか」
彼女の体を持ち上げて、
窓枠に足をかけた。
「忘れ物は?」
「ない」
「髪留めは?」
「ある」
「よーし、せーの……!」
考えるのは苦手だ。
何かを成し遂げようとか、
そういう大それた事は周りの連中に任せておこう。
神様がもしいるなら、
言っとく。
復讐したり、祈ったりする暇があったら、
やりたいことをやらせてもらうよ。
きな臭い町々が私とケイトスの眼前に広がった。
空だけは広く青く、
それだけは確かに、
私のふるさとへと続いていたのだった。
長編は苦手なので、これで、俺たちの戦いはこれからだ!
で終わらせたいんですが……
けっこう思いつきの展開が多く、
自分ではどこが特に謎なのかよくわからなくなってきたので、
色々張ってきた伏線でここは書ききらないとね、
と言う所があれば教えてください。
お頼み申す。
続いて欲しいけど一番重要なのはもっとイチャイチャニャンニャンして欲しい。
あとサンディーちゃんも結構好きだから百合って欲しい
百合百合してけろ
あれだよ、故郷に帰ってなんやかんや村外れは安全で一緒にイチャイチャしながら暮らすエンドでどう?
も少し続けてくれたら嬉しい
――――
私と彼女は、南部にある政府専用の病院に来ていた。
その病院の南棟は、隔離病棟になっている。
無菌室。
あるいは、『第二特殊計測者用無菌室』。
私達はその部屋の前に立ち止まった。
ナースがその部屋に住む患者のバイタルチェックと、計器類の動作確認に来ていた。
私は彼女に一礼して、部屋の前の通路にあるベンチに座った。
「あ、座ってください」
そして、隣にいた女性にも声をかけた。
「いいえ、遠慮するわ。ご丁寧にありがとう」
自分の髪よりも、白に近い金髪。年齢は20代後半くらいだった気がする。
歳を推察するのは、年上の女性に対して失礼だろうか。
ただ、私が会った時から、彼女の風貌が変わってなかったので、
そんな疑問を持ってしまうのも仕方がないとは思った。
「サンディ、お父さんの調子はどう?」
白衣を翻して、
彼女は私を呼んだ。
「ごめんなさい。今は、サンディではなかったわね」
「つい、最近まではサンディでしたから。構いませんよ」
「いえ、言い直すわ。ピトン、お父さんの調子は?」
「ハイジは真面目ですね。……相変わらず寝るのが好きみたいですよ」
ピトン。
それが、次の私の名前だった。
蛇が脱皮するように、私は落屑(らくせつ)と言う現象を人為的に起こすことができる。
落屑とは 表皮角質層の上層部が大小の薄い断片となってはがれ落ちる現象のことを言う。
それによって、私の肌はより白く、真新しいものへと変わる。
そのため、顔形も多少変わる。
一度くらいしか会ってない人間なら、髪の色でも染めてしまえばもう同一人物とは思わないだろう。
今は、ライトブラウンに染めてある。
「ピトン」
「はい」
彼女は軍事関係者の噂では、子ども嫌いとか、マッドサイエンティストとか呼ばれているらしい。
「あなた、歳はもういくつになるのだっけ」
「嫌ですね。忘れたんですか」
「だって、あなたの演技とても上手だもの」
「そうですか」
「ええ」
「……もうすぐ20ですよ。年齢的には」
「あら、そう。すごい」
「あなたには言われたくありません」
不敵な笑みをたたえ、ハイジは白衣の右ポケットに手を忍ばせた。
「今日は、プレゼントがあってきたの」
出してきたのは、
「ちょ、ちょっとなんですかそれっ」
「ごめんなさい、間違えたわ」
どうして、私の入浴中の写真と間違えるんですか。
「ふざけないでください……あと、捨ててください」
彼女は、無視して私の写真をしまった。
彼女は、小さな女の子が好きだった。
変な噂が流れているらしいが、
それは、ただのカモフラージュなのだと、
私が知る事になったのは、
出会ってから数年経ってからだった。
彼女が手に持っていたのは、鍵だった。
「鍵ですか?」
「この病院の貸しロッカーの鍵よ」
305と書かれている。
彼女はそれを、私の手に握らせた。
「ロッカーの中に、プレゼントが入ってるから。家に帰ってから開けなさい」
「……」
「その目は何」
「不審な気配しかしませんが」
「どうして」
「野生の感です」
「なら、鍵はいらないの?」
分かっていて、聞いているのだろう。
「……頂きますけど」
「最初から、そう言えばいいのに」
私は鍵を胸ポケットへ忍ばせた。
ガラスの向こうの父親の痩せこけた頬を見つめる。
「そう言えば、ケイトスに会いましたよ」
ハイジの呼吸が少し乱れたのが分かった。
「そう」
「ラビットと王の遺跡に向かうと言っていました」
「ニュースで、遺跡でテロがあったと報道されていたかしら」
「まるで、知らなかったみたいな口ぶりですね」
「どこかの遺跡が襲撃されるという情報は入手していたけれど、それがどこかまでは分からなかったもの。まさか、よりにもよってアドリアナ姉さんの所だったなんて」
「部屋に遺跡の写真を立てかけておいて、何を今さら」
「あなたの写真も飾ってあるわ。そう、拗ねなくてもいいじゃない」
どうして、そうなるんですか。
「私の写真はともかく……」
ブブブ。
部屋の外についてあったアラームが鳴った。
『面会時間が終わりました』
同時に、棟内にアナウンスが響き渡る。
「ピトン、身体は大丈夫?」
「特に異常はありません」
「出ましょうか」
「はい」
ハイジが白衣を翻した。
私はその背を追いかけるようにして、
父の病室である『第二特殊計測者用無菌室』を後にした。
ロイ・ビーンと書かれている札を受付のナースに返して、私はハイジと別れた。
ロイ・ビーンとは私の父親のことだ。
彼は二度殺されかけたことがある。
一度目は、私の母親だ。
私に沸騰したミルクを飲ませようとしたからだ。
二度目は、南部の先住民族の難民キャンプでだ。
そこで、父と私はハイジと会った。父は、当時、難民に食料を運ぶために編成された部隊の隊長として、指揮を執っていた。
難民は政府によって国民として認められた民族の寄せ集めだった。
一部の民族を国民として認めなかったため、民族同士の争いが起こり、武力行使の末、認められた民族が負けるということもあった。
その頃ハイジは、南部の国際援助団体に所属しており、キャンプ地ではその美しい容姿と素早く的確な処置を行うことから、密かに『アネラ』と呼ばれていた。
『アネラ』とは、絵本の登場人物のことだ。元々は、諸外国と戦争状態にあったこの大陸の王の傍に仕えていた女医だったとか、女官だったと言う説もある。
しかし、悲劇は起こった。
何者かによる細菌テロによって、キャンプと部隊はほぼ壊滅。
酷い惨状だった。
私とハイジはなんとか逃げのびたものの、父は動かぬ人となってしまった。
今日はここまで
悩んだ末、ハイジとピトン(サンディ)編を開始します
サンディが金髪ロリだと信じていた人ごめん
合法金髪ロリです
乙です
サンディの時メガネかけてそうとか思った
過去の映像が眼前にちらついた。
人々の悲鳴が耳の奥で助けを求めている。
目を抑える。
身体のだるさを覚えた。
少し、疲れているようだ。
胸ポケットを抑えて、
コインロッカーに向かった。
父が死ななかったのは、人柄の良さもあり、ハイジの所属していた団体の設備をすぐに借りることができたためだ。
その後は、援軍との合流による野外病院への引継ぎで、何とか延命に成功した。
しかし、父の延命と引き換えに『蛇』の道を政府から示されることになる。
以前より再三、上層部から私を研究施設へ向かわせるように命令されていたことを、父の部下から聞いた。
逃げ出せるわけもなく、私は索漠とした状態で、まともな判断がほとんどできなくなっていた。
私が、助けを求めたのは、ハイジだった。
彼女は、当時、小児科医として援助団体に参加していた。
テロが起こる前は、彼女に医療や数学等の勉強を教えてもらっていた。
家に帰ることのできない父と行動を共にしていた私は、それがとてもありがたかった。
けれど、ハイジらは、もう次の難民キャンプに向かう準備をしていた。
最初、遠くから、彼女の少し焦げた白衣を見つめていた。
バイクに必要な物資を積み込み、仲間達と共に、
疲弊しつつも、その顔に憂いはなく、眩しかった。
私も連れて行って欲しいと切実に思った。
けれど、父を置いていくことはできなかった。
乾燥してガサガサになった肌に、
ぼろぼろと涙をこぼして、私は無言で彼女の背中に飛びついた。
『サンディ? どうかした?』
『……うああっ……あああっ――』
『サンディ何が』
とても、事情を説明できるような状況ではなかった。
彼女を巻き込んでしまえば、彼女がこれから救う多くの子ども達を見捨ててしまうことになる。
そして、彼女自身も危険にさらしてしまう。
『サンディ……』
ハイジは私の頭の上に頬をのせ、抱き寄せた。
『一緒に行く?』
私は首を振った。
『……そう』
仲間達がハイジを呼んでいた。
行ってしまう。
送り出さなければ。
涙を拭い、
彼女の頬にキスをした。
決然と目の前を見た。
『また、会いましょう。あなたの旅の無事を願います』
ヘーゼル色の瞳が、私を吸い込むように見つめていた。
下唇がわずかに震えるのを、私は我慢できなかった。
『……ありがとう。でも、気が変わった。行かないわ』
『え……』
その言葉の衝撃を私は今でも覚えている。
いつの間にか、目の前にロッカーがあった。
夢から覚めるように、蛍光灯の光に眩しさを思い出す。
305を発見。
鍵を差し込んだ。
私の身長で、ぎりぎり中が見える高さか。
外れた。
中には、茶色の包み紙。
拳一つ分くらいの大きさだ。
『親愛なるあなたへ』と書かれたメッセージカードをはがす。
「?」
取り出すと、そこまで重いものではなかった。
確か、家に着くまで開けるなと言っていた。
なぜ、そんな期待を持たせるようなことを言うのだろう。
期待してしまう。
欲しがってしまう。
幼い身体が、
心についていかない。
もう、彼女に甘えるわけにはいかないのに。
彼女に、もう大きな借りを一つ作ってしまっているから。
これからは、彼女に返していかなくてはいけない。
包み紙を、持っていたショルダーバックに入れる。
共に歩む未来が運命だったならば、彼女に近づけば近づくほど、
人ではない道を選んだ私の存在の理由を知る事ができるような気がした。
病院から出ると、父の元同僚であるレヴィが黒塗りの車から手を振っていた。
大柄な割に細い腕をぷらぷらとさせている。
「ごめんなさい。お待たせしてしまいました」
「ピトンを待たせなくて良かったよ。ハイジとは会えたかい?」
「はい」
彼は、父を無くし天涯孤独となってしまった私を引き取ってくれた。
住むところまで提供してくれて、今は共に生活している。
レヴィには彼と同じ西部出身の奥さんがいて、子どもはまだいなかったため、
二人とも私を実の娘のように可愛がってくれた。
彼は元々父と同じ陸軍特殊部隊に所属していた。
今は、西部国防省に勤めていると聞いている。
「今日は、君の好きなテールスープらしいよ。さっき、連絡が入った」
スーツの襟を緩めながら、彼がはにかんだ。
西部の人間が、南部の料理を作ることは滅多にない。
大方の西部人は、南部に対して差別意識を持っている。
父や、レヴィらのような人間は少なからず奇異な目を向けられる。
「そうなんですか? 今朝は別に特別なことをした覚えがないのですが……」
「気まぐれ屋だからね。口うるさい時もあれば、こんな時もあるよ」
私は、母側の南部先住民の血が濃く受け継がれてはいるものの、
外見は父の影響やこの身体的能力のおかげで西部の人間達と全く変わらない。
そのため、この街に住んでも違和感がなかった。
おおよそ、平和な暮らしをさせてもらっている。
それについて、本当に感謝しなくてはならないと思っている。
ごめん
目を開けてられないので、また明日
家に着くと、まるで自分の子どもにするような柔らかな笑顔でマリオンが出迎えてくれた。
父に会いに行くと告げた日は、いつも以上に彼らは暖かった。
それが、とても心地良かった。
「ピトン、今日の夕飯はなんだと思う?」
雲のようにふわふわとしたブロンドヘアを弾ませるマリオン。
「テールスープですか?」
答えてから、
私はしまったと思った。
マリオンがレヴィを睨む。
「レヴィ、あなた、言っちゃったの?」
「ご、ごめんよ。マリオン」
レヴィが謝るが、マリオンは唇を尖らせる。
「デリカシーがない人は、嫌われちゃえばいーのよ」
そう言って、私の手を握る。
「じゃあ、手を洗ってお夕飯にしましょう」
「はい」
「マ、マリオンッ」
少し、気恥ずかしい。
まるで少女のように扱うから。
厳格な父には、そのような扱いを受けたことはないから。
もう、少女ではないのに。
甘えてしまう自分が、くすぐったい。
マリオンは生まれも育ちも西部だった。
学生時代にレヴィに出会い、恋に落ちて、それからずっと二人で暮らしている。
マリオンは街外れの農家の生まれで、羊や牛の世話ばかりしていたので、世間の話には疎いのだと自分で話していた。
大学に入ってから、漸く、自分の住んでいる国で今何が起こっているのかを知り、
学生運動に参加したとも言っていた。
しかし、レヴィは違った。
彼の父も軍人で、レヴィは幼い頃から私の父とも知り合いだった。
私の父であるロイとレヴィが参戦した『南部先住民族浄化作戦』、いわゆる政府によるジェノサイドによって、
二人は政府への疑問を募らせることになり、以後、共に行動することが多くなった。
非人道的な作戦は幾度となく行われたが、世間一般に報道される際は、テロリストとの討伐作戦としてシナリオが描かれる。
今は政府が直接指揮を執ることはなくなり、『MP』と呼ばれる、準公的組織に委託している。
「ピトン、ハイジは不自由ないって?」
マリオンがスープを装って、
私の前に置いた。
お礼を述べてから、
「ええ」
「いじめられてない?」
「大丈夫だと思いますよ」
私は笑いながら、ナプキンを広げる。
非認可民族の選ぶ道は、
死か実験体か、のどちらかである。
しまし、ハイジのように学習能力の優れた者は、将来的に国益となると判断され、
子どもの頃から親元を離されて、特殊な就学をさせられ、適性にあった仕事を任される。
もちろん、拒否権はないし、拒めば死ぬだけだ。
稀に死を恐れない者もいるが、
そう言った場合、家族を人質に脅されることもある。
誤 しまし→しばし
「ハイジは、僕らより肝が据わっているから、逆に職員を脅しているんじゃないかな」
レヴィがテキーラを開けつつ、苦笑する。
それは、あり得る。
「いつか、お家に呼べたらいいんだけど」
マリオンがため息を吐く。
ハイジは『MP』の用意した寮で暮らしている。
彼女と会えるのは、病院か戦場か実験施設かくらいだ。
特に病院では南部特殊小児科医療の権威とも称されている。
実験施設でも、その手腕を発揮している。
しかし、逆に言えば、彼女はそれ以外は全て行動を制限されていた。
彼女はそれをおくびにも出さない。
国際援助団体で小児科医をしていた時の方が、よほど自由で自分らしくあれただろうに。
それを、私に悟らせることすらない。
あの日、私が彼女を求めなければ彼女は籠の鳥にならずに済んだのに。
日が経つにつれ自責の念は強くなった。
だから、聞いてしまったのだ。
どうして、一緒に来てくれたのか、と。
返ってきた答えは、予想外なものだった。
『ハイジ、前々から聞こうと思っていたことがあるんですが……』
『あら、改まって何?』
『どうして……私と……』
『どうして、あなたに着いてきたかって?』
読まれたことに動揺したが、
私はすぐに頷いた。
『簡単なことなのよ、ピトン』
『?』
『結婚を決める人間は、自由を奪われても、なおたった一人と共にいたいと思うでしょ?』
『はい』
『そういうことね』
『……』
誤 『簡単なことなのよ、ピトン』 →『簡単なことなのよ、サンディ』
私は、頬が熱くなっていくのが分かった。
考える素振りをして、彼女の視線を避けた。
からかうように笑っている所を見ると、
遊ばれただけなのかもしれなかったのに。
しかし、その時、彼女に対する私の中の憧れや敬愛が、
純粋で焦がれるような衝動に変わっていったのだった。
背の高い彼女を見上げて、
胸が高鳴っていったのを覚えている。
それから、私の言葉を待たずに、彼女は軽く私の頬にキスをした。
『嫌だった?』
『……わ、わかりません』
『もう一度した方がいい?』
私は彼女の唇に釘づけだった。
無意識に頷く。
『こんないたいけな少女を無理やり襲ったなんてばれたら、大変。あなたが私を誘ったことにしておいて』
その頃、私はまだ実験施設にいた。
検査用の薄い黄緑色の肌着を着ていて。
彼女は白衣で。
彼女の髪は、今よりも短く、肩につくかつかないか。
その頃から白金の美しい髪だった。
その髪を梳くように、彼女の頭に触れた。
『誘われたら、断れないの』
そう言って、検査用の肌着の肩紐に手をかけ、しゅるりと解いた。
「ピトン、スープ冷めるよ?」
レヴィが言った。
私は、現実に戻る。
食事中に思い出すことじゃない。
「いただきます」
スプーンでテールスープを一口すすった。
とても、美味しかった。
レヴィとマリオン。
二人のように私もいつかハイジと、
生活を共にすることができるだろうか。
どうすればいい。
大人になればいいのか。
女になればいいのか。
普通になればいいのか。
けれど、生まれる前のことも、
生まれた後のことも、
自分ではどうしようもなかったことばかり。
ハイジと共に生きたいと願ったことだけが、
私を私たらしめる。
願うだけだ。
それだけは誰にも邪魔されはしない。
ベッドの中で、
彼女の名前を呼び、
愛しさを思い出しても、
誰かが不幸になるわけではない。
繰り返し、想う。
もう、誰も、邪魔しないでと。
次の日。
私の所属する部隊に、とある作戦が発表された。
現在、南部で多発している小規模テロの抑制を目的とした、空爆を行うらしい。
投下ポイントは、街外れの村。
ダラムス。
人はもう住んでいないらしいが、民族解放の過激派グループのアジトであるとの情報がリークされていた。
南部に在住する西部軍や、警察は、先住民と繋がっているマフィアに情報を密告する恐れがあると言うことで、
本作戦は南部側に告知することなく決行すると言うことだ。
夕方にはパイロット5人と顔合わせすることになった。
爆撃機に二人一組で乗り込み、空爆が終了次第、
私たちの部隊が残党狩りを行う予定である。
指揮官に説明を受けて、一同は静まり返った。
それもそのはずで、
本作戦は、『無差別の皆殺し』としか言えないものだった。
誰もが、ダラムスが焼け野原になってしまった場面を想像したに違いない。
しかし、それを口に出すことはない。
この作戦では、誰が生き誰が死ぬかなど些細なこと。
失われることで、得られる仕事。
他に稼ぐ方法も知らない私にとっては、
来週の父との面会日にハイジと会う予定の私にとっては、
単純な作戦だ。
きっと、みんな似たようなものだろう。
どこかで、誰かが我慢しなくてはいけないのだ。
全体での説明が終わり、
2つのチームに別れてミーティングを行った。
無線を使わず、信号灯などでコードを送ったりするため、
複雑な文字の羅列の表を渡された。
少人数でこれだけ組み合わせが増えるのも珍しい。
逃げる、という選択はないため、
戦うか死ぬかくらいの、
単純なコードにすればいいのだけれど、
そういう風にはいかないようだ。
ミーティングが終わって、指揮官が部屋を出る際に私を呼び止めた。
「ピトン」
「はい」
「少し、いいかな」
私は何事かと思い、扉を閉めた。
彼には、陸軍に入隊した頃からお世話になっていた。
「座って」
「はい」
椅子を引いた。
彼も座る。
「君は、実験施設の子どもたちが、平均で何歳まで生きられるか知っているかい」
「確か、20から30歳だと聞いています」
「そうだ。特に、女性はホルモンの影響で男性よりも筋肉の減りが速く、30歳になる頃には歩行機能が衰え自分で生活することが難しくなる。筋肉は20歳をピークに衰え、老化は30歳をピークに、スピードがとても速くなる」
「ええ。なので、最適な身体の今、このような作戦に携われることを誇りに思います」
不安はある。
明日にはハイジに会えないかもしれない。
「私は、今年で軍を退役する予定だ」
唐突に彼は言った。
「そうだったんですか……私は、何も恩を返せないままで……」
「かまわん。ピトン、そこでだ……私には心残りが一つだけある。君だ」
深いダークブラウンの瞳が、私を見た。
「私ですか」
「そうだ」
「どうして」
「ロイ・ビーンは私の旧友でね。私は、彼に一度命を助けてもらったことがある」
「そうだったんですか……」
知らなかった。
「だから、君に伝えておく。この作戦で、陸軍特殊部隊は廃棄される」
「……その、それは」
一瞬、考えて、受け止める必要があった。
漸く、何を言われたのか理解する。
軍人らしく返そうとも思ったが、
想うだけで言葉にはならなかった。
「もう、必要ない……と判断されたということですか……?」
彼は無言で頷いた。
ちょっとここまで
続きはまた夜に
陸軍特殊部隊。正式には西部陸軍特殊部隊。
南部の首都にあるここ西部人区域に基地があり、
総勢20名の10代の男女で構成されている。
20名は全て、実験によって改造を受けた子ども達であった。
私たちは使役される立場。
使い捨てにされる存在。
私たちはそういう人種だった。
いくら、西部人との混血だろうと。
同じだと言うこと。
納得はしなかったが、理解した。
そうだ。
私たちの大半はもうすぐ20歳になる。
そうすれば、身体は弱くなる。
能力が衰えれば、この部隊にいる意味がないのだ。
新しい子ども達を使って、
新しい部隊を立ち上げるのだろう。
「仕方ありません……」
「本当に?」
「それを聞くのは、卑怯です」
「憎くないかね」
彼は言った。
「いいえ」
本当だ。
自らの力の無さを、悔いるばかりだ。
「君が死ぬと、君の父親も処理されることになっている」
「……え」
「彼は、ああなってしまった今でも、死を恐れるような人間ではない。だが、甘い男だった。甘さゆえに、君を残してしまった」
指揮官は私を見た。
「君は、南部人との混血ではあるが、認可民族との混血児だと言うことが確認されている」
彼は先ほど説明に使っていた書類の一番下から、用紙を一枚取り出した。
私の顔写真が映っている。
その他、個人データが書き連ねてある。
「君をこの部隊から切り離して、別の世界で幸せに暮らす道を用意することもできる。それも、誰かが血を流すこともない、平和な国に移住することだって不可能ではないのだよ……」
提案されたのだと、遅れて気づいた。
平和というのはラジオやテレビの中だけの空想ではない、と彼は言った。
「私は……」
指揮官は指を組む。
じっと待っていた。
「どうしたらいいのか……わかりません」
「人は皆、平等な価値がある。それは生まれ持った自然な価値だ。しかし、今、この国ではその価値を狂わせているシステムが働いている。西部は善、相対的に南部は悪と言ったようにね。辺り前のことに気が付けないこの国は、もはや腐敗しすぎた……そして、私たちは気づくのが遅すぎた」
耳を澄ませば、
どこかで銃性がする。
女性の叫ぶ声がする。
下卑た商人の笑い声がする。
それは、西部も南部も変わらない。
「私たちも、早くからロイのように行動しておけば良かったんだがね……いや、まあこれはいいさ」
彼は胸元から煙草を取り出した。
「いいかね?」
私は首を縦に振る。
ライターで火を点け、一口だけ吸って、後は机の上にあったまっさらな灰皿に押し当てた。
「君をせき止めているものを当てよう」
「……」
「ハイジだな」
私は動揺を悟られないように、歯を食いしばった。
「明日の朝、また返事を聞かせてくれ。よく考えるんだ。チャンスは、決して、二度訪れない」
彼が出て行った部屋は、視界を覆うように半透明の煙が漂っていた。
今、聞いたことを塗りつぶすように。
彼の言った、チャンスという言葉について私は考えた。
なんだろう、それは。
私が父とハイジを見捨てて生きるためのチャンスだろうか。
何を掴める。
幸せな生活?
差別のない世界?
チャンスとは、大きな変化のことだ。
自分が変わるのか、
周りを変えるのか、
とにかくチャンスは希望なんだろう。
けれど、それは誰の希望だろうか。
私の希望なのだろうか。
立ち上がって、窓のそばに立った。
先ほどのパイロット達が、
特殊部隊の仲間と共に食道へ向かっていた。
それを眺める。
ふと、窓ガラスに幼い少女の青白い顔が映った。
嫌気がさして、青い空に視線を移す。
生きていたい。
生きている限り、ハイジのそばにいたい。
例え、明日死のうと10年後に死のうと、
それだけは変わらない。
けれど、それは私の独りよがりだ。
聞かなくては、
彼女に。
何を。
私が行くべきか、行かざるべきかを?
いいや、彼女なら、あるいは、
別の答えをくれるかもしれない。
踵を返して、
私は部屋を後にした。
彼女は2、3日は病院に滞在して人手の少ない小児医療を手伝っているはずだった。
私は夜になってから、非常口へ向かい、そこから中へ入り、ハイジを探した。
「お嬢さん」
呼び止められた。
振り返ると、
廊下の薄暗い明かりを浴びて、
老人が一人立っていた。
「そんなに急いで、どこへ行く」
白衣も、入院患者が着るような寝間着も着ていない。
南部の衣装にも見える。
黒と黄色の薄い斑点がついたマントを羽織っている。
ワシのような顔に、深いしわを寄せ、
口元をもごもごと動かしている。
70代くらいか。
この病院の外来にしては、珍しい年齢だ。
行政府の人間だろうか。
「友人の元です」
「会って、どうする」
「話をしに行きます」
「今は、会わぬ方が良いと思うが」
「どうしてですか」
老人はくつくつと笑っていた。
「会わぬ方が良いと思うが」
彼は同じことを繰り返した。
私は首を傾げた。
ふと、彼の右の足元を見た。
黒光りする石が、彼の足と呼ぶべき部分にあった。
義足にしては、鋭利なナイフのようにも見えた。
「幼きナワルよ、植え付けられたトナルに気を付けることだ」
「あの」
一度、瞬きをしただけだ。
だが、その瞬間に彼はいなくなっていた。
周囲に窓はなく、
私は眉間を指でつまんだ。
白昼夢と言うものだろうか。
疲れていたのか。
まあいい。
私は、老人の言葉を無視し、
ハイジを探した。
彼女がいたのは、
休憩室だった。
私は、扉の取っ手に手をかけず、
外から、ガラス越しに彼女がいることを確認した。
いたのは彼女だけでなかった。
私よりも少し背の高い、
黒髪を両サイドで縛った少女と一緒だった。
少女が、ハイジの肩に手を置いて、
ハイジの顎を撫でている。
何をしているのだろうか。
喉が鳴った。
何をしているのだろうか。
ハイジが笑いながら、少女に語りかける。
少女はそれを聞いて、無邪気に喜んでいた。
少女がゆっくり、ハイジのシャツに手をかけている。
ハイジは拒まない。
机の上に乗って、彼女を上に跨らせた。
少女の体がくにゃりと折れる。
ここからではよくわからない。
上半身が互いに近づきあって、
あれでは、顔と顔がぶつかってしまう。
「ハイジ……?」
呟いた声は、届かない。
扉の向こうの彼女たちには聞こえない。
カツン、と音がした。
横を見ると、先ほどの老人が立っていた。
やはり、右足は黒い石だった。
それが廊下に当たって、
また音を鳴らせた。
「それみたことか。狐のように狡賢い女よの」
しわがれた声が廊下には響かず、
私の耳を通り、脳髄を震撼させる。
「あの女は、お嬢さんを利用しようとしていたのだ。だから、優しく接しておったのよ」
なぜ、なんのために。
「それは知らん。それはあの女に聞かねばわからん」
私は老人に何も言っていないのに、
彼は私の問いに答えていた。
まるで、心の中を読まれているようだった。
「ああ、ピトンよ、可哀相な娘」
カツン、と彼は私のそばを離れる。
暗闇に戻るように。
「私は……」
彼の気配は無くなった。
私は、扉の取っ手に手をかけた。
そして、ゆっくりと扉を開いた。
今日はここまでです
純粋な百合スキーさんすみません
乙です。
なんということだ・・・なんというこだ・・・
しかし話としては、おもしろいからなんて言えば良いかわからない
あと>>185の続きの描写が見たいです(懇願)
ベッドの上でのニャンニャンイチャイチャが見たい
>>199
ニャンイチャ……あると思います。たぶん……。
部屋の中は、彼女の柑橘系の香水の匂いがした。
二つの影が揺れた。
少女の黒髪が揺れた。
黒い翼を持った天使のようだ、と思った。
「ハイジ……話したいことがあります」
体を起こし、ハイジはこちらに視線を寄越す。
「ピトン、次は来週じゃ?」
乱れた髪をかき上げるハイジ。目を細めている。
黒髪の少女は、こちらに背を向けたまま顔を伏せている。
「急用だったので」
「そう。でも、こちらも取り込み中だから、悪いけど……」
「お願い……します」
声がかすれた。
黒髪の少女が、ハイジの耳元に口を寄せる。
何か、小声で呟いていた。
それからこちらを見て、絡みとるように笑った。
ねっとりとしていた。
「シルビア、よしなさい」
何を言ったのか、私には聞こえなかった。
ハイジは彼女の言葉に、少しイラついているようにも感じ取れた。
私はシルビアと呼ばれた少女を見た。
「何? 泣きそうな顔ね」
シルビアは笑った。
私と同じくらいの背格好。
歳は、少し下だろうか。
私は黙ったままシルビアと視線を合わせる。
そらしてはいけないような気がした。
ハイジは机の上から降りて、
私の方へ歩み寄った。
乱れた白衣を整えることもせずに。
ハイジが私のすぐ隣に立つ。
私は後ずさった。
シルビアがまた笑っていた。
大きな長机の上で。すすり笑っていた。
ここが病院の休憩室だと、私は思えなかった。
見たことなどないけれど、
娼婦を呼ぶ部屋とは、きっとこんな気だるげな雰囲気なんだろう。
「ピトン、緊急なら聞くわ……」
ハイジが言った。
声が低い。
怒っているのだろうか。
怖い。
背後がひやりとした。
「でも、短めにお願い」
「彼女は……」
私はシルビアを見た。
ハイジは手のひらで、
シルビアに外で待つように指示した。
「はあい」
軽くステップを踏んで、
少女は私の横を通り過ぎる。
扉が閉まる。
重たい音。
とたんに酸素が急激に少なくなったような、
息苦しさを覚えた。
ハイジに一歩、二歩近づいて、彼女の白衣にしがみついた。
足と手はこれ以上動きそうにない。
「ピトン、どうしたの」
口も道連れだ。
躰から、血液がどんどん流れ出ていく。
それは、私の気のせいなのだけれど。
頭の中で巡ってないような心地だった。
「話がないなら、部屋を出なさい」
ハイジは言った。
「……嫌……です」
「じゃあ、私が別の部屋に行くわ」
ハイジは私から離れ、斜め右へ進む。
私は動けない。
風が肌に当たった。
それだけ、分かった。
扉が開かれて、
シルビアの気配が漂ってきた。
私は振り返った。
「待ってくださいっ」
シルビアに駆け寄った。
「なに?」
シルビアが鼻で笑う。
「お願いです、あの、今日は、今日だけでいいから、ハイジと二人にさせてください」
ハイジの腕を掴んだ。
彼女の頬を両手で挟み、
精一杯背伸びして、彼女の唇に自分のを当てた。
とても、遠くて、
触れるだけで、
終わるようなキス。
「ふうん」
シルビアが口の形を変える。
彼女を外に残して、
ハイジを部屋に引き戻した。
シルビアは、動かなかった。
「入って、来ないでください。お願いします……お願い」
彼女の姿をこれ以上ハイジの視界に入れないように、
私は扉を閉めた。
シルビアは、透明なガラスから暫くこちらを覗いていた。
私はそれにかまわず、服の上着を脱ぎ始めた。
ハイジが後ろで見ている。
体が熱い。
何かが溶け出している。
いや、体から剥がされていくような。
私は下着だけになって、ハイジを抱きしめた。
シルビアは気が付くと、姿を消していた。
だが、そんなことはもはやどうでも良かった。
「ハイジ……っ」
ハイジの体を貪るように、
私は胴体を舐めまわした。
蛇。
まるで、蛇だ。
彼女の汗と私の唾液が混ざる。
彼女の肌はとても白い。
薄桃に染まる突起に吸い付く。
声を抑えて、ハイジは跳ねた。
彼女に巻き付くように、
太ももに腕を絡め、
膝をついて、
ベルトを緩めていく。
ショーツが見えると、
鼓動がいっそう早くなった。
「ピトン」
呼ばれたので、顔を上げた。
柔らかな唇が呼吸を困難にさせる。
「っん……」
どちらともなく嬌声が漏れた。
今日はここまで
続きはまた明日の夜に
目を伏せて、彼女の甘い蜜を味わおうとした時、
ハイジの背後に、またあの老人が立っていた。
右足の黒い石は、先ほどよりもっと細長くなり、うねうねと動いていた。
私は驚くことはなかった。
老人は頬の皮膚を真横に引きつらせて、こちらを見ていた。
「ピトン?」
ハイジの声が好きだった。
からかうようなその響が。
「ハイジ、私、夢を見ていました。いつも、ベッドの中で見ていました。あなたをここから連れ出して、争いも差別もない平和な世界で旅をする夢です」
ハイジは私の胸を優しく撫でる。
「んっ……」
思わず声が出る。
一度肌を重ねてから、どのくらい時が過ぎたのか。
私はまたこうして触れ合うことを渇望していた。
性的な欲求。
求愛。
「あなたの隣は私でありたいです……」
彼女のショーツに鼻を当てる。
小ぶりで引き締まったお尻をかき抱く。
「ピトン、私もあなたが必要だわ」
ハイジは言った。
老人が、ハイジのすぐ左隣に来て、声もなく笑う。
幻聴が聞こえる。
馬の蹄の音。
硬い地面を抉るような音。
男の悲鳴。
民衆の叫び。
それが、一瞬だけ、わんわんと、耳の中に飛び込んできた。
「嘘つきですね……」
キスをしてもすぐ乾く唇が、言いたくもない言葉を、言ってのけた。
ハイジは特別だった。
子どもしかいなかったせいかもしれない。
彼女は大人だったから。
特異な存在は、注目を浴びる。
だから、彼女が悪いのではない。
「これからもたくさんの子ども達を救ってください……愛してくださいね」
「ピトン、言い忘れていたことがあるの」
「なんですか」
「子どもは嫌いなの」
「……」
「でも、あなたは、もう子どもじゃないでしょ」
「……そうでしょうか」
「ええ。だから、好き。好きな子には優しくできないの」
「なんですかそれ……」
「そういう人間なの」
「私のことが好きなら、一緒に行きませんか?」
私は立ち上がる。
老人はまだこちらを見ている。
ハイジの腕を掴む。
彼女は首を振った。
「あなたとはいけないわ。分かって」
分からない。
なんで。
縋るように、私は彼女にまたキスをせがんだ。
けれど、次はしてはくれなかった。
「今日ここへ来たのは、デートのお誘いだったのかしら」
困ったように、彼女は言った。
困った顔を繕っていた。
「はい……そう、ですね」
「では、デートは延期ということで」
「……はい」
私は、まだ聞かなくてはならないことがあったし、
言わなくてはいけないことがあった。
けれど、それを言うことで、彼女を困らせてしまうのが分かってしまった。
「プレゼントは気に入ってくれた?」
ハイジは言った。
「もったいなくて、まだ開けてませんでした」
正直に答えた。
そして、ポケットに手を差し入れた。
「今、持っていますよ」
投げつけてしまおうかと思ったができなかった。
「開けて」
そう指示される。
私は言われた通り、それを開いた。
中には木の屑が敷き詰められている。
先端の尖った黒い石。
両端の刃も鋭く削られ、反射によっては虹色に見える。
オブシディアンナイフだった。
刃渡りは中指より少し長いくらい。
「ナイフなんて、物騒ですね」
「観賞するもよし、使うもよし」
「何言ってるんですか。本当に……」
「あなたにあげたのだから、あなたが選びなさい」
ハイジの喉に刺して、
その後、
私の喉に刺して、
その後は――。
私は息を吐いて、それをまたズボンのポケットにしまいこんだ。
「殺されたいんですか?」
ズボンを放り投げる。
彼女の方へ。
ハイジの体に当たって、ずるりと落ちた。
「いいえ」
「刺してあげてもいいんですよ」
「あなたの力なら、ナイフなんて使わなくても簡単に私を殺せるでしょうね」
「じゃあ、なんのためにそんなものを……」
「デートは延期しただけだわ。また、それを持って迎えにきなさい」
私じゃなくても、相手はいくらでもいるのに。
なのに、私に待てなんて言うのだ、この人は。
「私は……待っている間に、死んでしまうかもしれませんよ。それも、早いうちに……」
「あら、困る」
目の奥に火がついたように、熱い。
なんて勝手。
私を動かして。
人形のように。
抗えない。
ちょっと、ここまで
続きは夜に
このナイフの使い道は――。
殺しに来い、と。
私に、そんなことをさせようなんて。
酷い人だ。憎しみながら愛せなんて。
これが、愛情表現?
馬鹿馬鹿しいほど、分かりにくい。
これから、この人は、一体何人の人間と肌を重ねていくのだろう。
10人? 20人?
考えたくもない。
結局、私は小さな視野の中で、彼女を王子様か何かと勘違いしていたのだ。
私は、私の見たいものしか見ていなかったのだ。
盲目的で、直情的で。
天の使い『アネラ』と呼んでいた難民キャンプの子ども達のように。
己の純粋さに、嫌気が差す。
「近々、とある作戦があります。その作戦で、私は恐らくここへはもう来れなくなります。なので、良ければ父のことをよろしくお願いします」
ハイジがいつまで父に会えるか分からない。
けれど、せめて父の人生の最後の最後に、看取ってくれる人がいるなら。
私は、少しだけ悔やまずに済む。
最後の最後まで、父がいたことを覚えてくれている人がいた。
それが、最愛の人ならばもっと素敵じゃないか。
その光景を見ることはできないけれど、
そんな未来を描きながら終われるなら、
痛みや苦しみの最中でも、
安らぎを見いだせるかもしれないから。
「ロイには私もよくしてもらったもの、もちろんよ」
彼女は笑う。
私は衣服を拾い上げる。
「言いたかったのは、それだけです」
次の日の朝。
指揮官に会って、作戦に参加することを告げた。
夜。
レヴィに作戦の概要を打ち明けようかと思ったが、
彼は必ず何か行動を起こそうと躍起になると思い、話すことを止めた。
そして、その次の日の朝。
マリオンよりも早く起きて、朝食を作った。
簡単なものだ。
ベーコンエッグとポテトサラダ。
昨日の夜に買って置いたクロワッサンを、
オーブンで少し焼いただけのもの。
マリオンもレヴィも喜んでくれた。
昼。
自分が死ぬための作戦の訓練に参加した。
脱出方法はないかと探ってみたが、
パイロットの視界から特殊部隊の人間達が消えると、
死んだ、または作戦続行不可能とみなされ、
一体を爆撃するということだった。
夜。
残っていた給料で、本を買った。
10巻くらいまである長編で、作戦までに読み終えたいと思った。
寝る間も惜しんで読んだら、次の日はやはり眠たかった。
一日はゆっくりと過ぎていった。
また、朝が来た。
その日はフリーだった。
もしかしたら、指揮官が融通を利かせてくれたのかもしれない。
買い物に出かけた。
ナイフにつけるための紐を探しに出かけた。
ちょうどいい麻紐があったので、それをぐるぐると巻き付けておいた。
首から下げて、服の中にしまった。
あの日から、
私の後ろにはいつも、
あの老人がいた。
何もしてこないし、話しかけてもこない。
振り向けばそこにいるが、私が見ていることに対しても無反応だ。
そして、誰も彼に気づいていない。
私は麻薬の入った袋をお腹に入れたことはあっても、
麻薬を吸入したことは一度もない。
医者に聞いたら、精神安定剤を出された。
それから、本を読みすぎだと言われた。
まるで、私の妄想が過ぎると言われたような気がして、心外だったが、
あながち間違いではないのだろう。
今日は早く寝よう。
本はもう少しで終わる。
服の上からナイフを握りしめる。
「やあ」
家に向かって帰ろうとした矢先、呼び止められる。
私の外見と同じくらいの年齢の少年。
街を歩いていると、たまに話しかけてくれる。
南部の子どもだ。
西部人区域のすぐ隣の街から、
青果店の父親の荷運びの手伝いをしているらしい。
レンガのような赤茶けた肌に、
煤のように黒い瞳と髪。
Tシャツと短パン。
唇がぷっくりとしているのが印象的だった。
「久しぶり。えらく変わったな」
「こんにちは」
「前は金髪だっただろ?」
「ええ」
「何かあったの?」
「何もありませんよ」
「そう?」
心配そうに覗き込んでくる。
大きな瞳がきょろりと回る。
「あのさ、これ、良かったら……」
彼は握っていた拳を開く。
「珍しい花の種らしいんだ。親父がこっそり栽培してるんだけど、俺もこっそり一粒もらった。かなり貴重なものだから、人に絶対あげるなって言われたんだけどあげる」
「そんな大事なもの、もらえません」
突き出した手を押し返す。
彼は少し慌てながらも、
「い、いいからさ。なんか落ち込んでたんだろう? やるよ、ほら」
彼が頑なに言うので、私はそれを受け取った。
「……ありがとう」
「いいって……お、俺、親父の手伝いがあるから、もう戻るわっ! じゃ、じゃあな!」
「あ」
彼はすぐに駆け出した。
前方を見ると、彼の父親がトラックから荷物を運んでいた。
駆け寄って、父親にしがみついて、
何か話している。
夕方になって、人が市場に増えてきた。
気が付けば活気のある声が溢れていた。
少年の気遣いを握りしめる。
汗ばんだ手で握りつぶしてしまわないように。
注意して。
胸には、石の冷たさを感じながら。
少年と父親はもう街を出ていったようだ。
トラックはいない。
小さなシャムネコが一匹。
誰かが捨てた生ごみをあさっている。
私も帰ろう。
レヴィとマリオンの待つ家に。
あの少年に会うことはもうないだろう。
彼の想いに答えることもできないだろ。
この街で普通に生を授かっていたなら、
もしかしたら彼と共に歩む未来もあったかもしれない。
ハイジに出会っていなければ。
私が、あの時、ハイジを引き留めなければ。
あの頃、私はなんて呼ばれていただろうか。
うろ覚えだ。
思い出そうとすると、もやがかかったようになる。
もう、振り返りたくないと、思っているのかもしれない。
作戦の日の朝。
早朝に出かけると言っておいたら、マリオンが机の上にサンドウィッチを用意してくれていた。
私よりも早く起きて作ってくれたのだ。
今は、リビングで寝ている。
レヴィは昨日深夜まで飲んでいたようで、マリオンの隣で寝ていた。
いつも通りだ。
私はサンドウィッチを全部平らげて、靴を履いた。
「ピトン」
振り返る。
レヴィがよたつきながら、
私を抱きしめてくれた。
「グッドラック」
お酒臭い。
「ありがとうございます」
私も抱きしめ返した。
ごつごつとしていた。
骨と筋肉とお酒でできている。
暖かい人。
陽はまだ地球の裏側。
薄暗い玄関で、彼はなかなか離してくれなかった。
酔っていたから。
「ダンスパーティーに行けなくて残念だよ」
レヴィは言いながら、
玄関の壁伝いに崩れ落ちた。
「ごめんなさい。会員制なんです」
「そーかい……」
私は笑いかけて、
扉を開けた。
「行ってきます」
いったんここまで
次からはまた『ラビット編』に戻ります
一時間後くらいにまた
―――
――
―
しゃがみ込んで何かを一心不乱に見ている少女の背中を軽く蹴る。
「こら、なに休憩してんだ」
「ラビット、隅っこに何かいる」
ケイトスはこちらを振り向きもせずに言った。
「店長にばれたら怒られるんだから……って、お、お姉さん、ちょっとそれサソリ」
「サソリ?」
少女は首を捻る。
右手の人差し指と親指でつまんでいる。
「知らないのかっ。危ないから、ぽいしなさい! ぽい!」
「ぽい」
サソリが彼女の手から離れて、
私の太ももに当たってから、
床にぽとりと落ちた。
「ひいいっ」
ケイトスの体にしがみつく。
「くる、しい」
「なんで、こっちに投げるんだよっ。この脳タリン」
「ノウタリン?」
「脳みそ足りないってこと」
「バカ?」
「そう、バカ」
「ちょっと、そこの二人お客さん案内しないかい」
「あ、はいすぐに」
私は頭を下げる。
ふくよかな南部然とした女店主が指示しつつ、
ブリートと呼ばれる軽食のドリンクセットをカウンターに3つ手早く置いていく。
お肉、野菜、ライス、豆、サルサの入ったヘルシーフードで、
この老舗店では数十種類のソースが選べる。
「ケイトス、あれ私運んでくるから、エプロンでつまんでお外にぽいしてきて」
「うん」
大丈夫だろうか。
横目で確認しながら、カウンターに小走りで駆け寄り、
料理をテーブルへ出してから待っている客を案内する。
「こちらのお席へ、どうぞ」
なぜ、こんなところでウエイトレスをする羽目になったかというと、
軍資金を降ろしたくても降ろせなくなってしまったからである。
この辺りには銀行がなく、現地調達あるのみであった。
「お兄さん、ウイスキーお願い」
お兄さんじゃないんだけど。
17歳のピチピチの女の子なんだけど。
あと、この店ウイスキーないんだけど。
「大変申し訳ありませんが、そちらの方はメニューに載っておりません」
棒読みで、謝る。
「いやいや、品揃えの悪い店だぜ!」
だん、と机を叩く下っ端マフィア風の男。
自分の笑顔が引きつったのが分かった。
「じゃあ、可愛いお兄さんなんか面白いことしてくんないかなあ!」
お尻をなでられた。
げ、こいつ、そっちの趣味の人か。
「えい」
後ろから声が聞こえた。
「へ?」
肩越しに素早く後ろを見た。
ケイトスが何か投げたのが見て取れた。
サソリが尻尾を揺らして、宙を舞っていた。
男の顔面に当たって、テーブルへ落ちた。
「こ……のクソガキっ!!」
振りかぶって、男はケイトスに掴みかかろうとした。
「あー、もうっ」
その手をケイトスのひげが叩き潰してしまわないように、
男の右手を掴んでテーブルに押し付けた。
今日はここまで
ケイトスのクソガキっぷりをお楽しみください
水の入ったコップがカタカタ揺れる。
彼は指先まで刺青の入った反対の手で、私の胸倉を掴んだ。
「うわっ」
頭突きでもするつもりだったのだろう。
しかしそれは叶わない。
彼の体をケイトスのひげが捕獲していた。
ご丁寧に顔まで覆っている。
あれでは、喋ることもできない。
呼吸もできないのでは。
「ケイトス、殺す気か、ばか止めろ」
おでこを引っぱたく。
「あいたっ」
宙に浮いていた男の足が、
鈍い音を立てて床に沈んだ。
彼女の白色透明なひげが元へ戻っていく。
「何やってんだ」
男は意識を失っていた。
「助けたのに、怒られた」
「今のは、やりすぎ」
「でも」
「でもじゃない」
ケイトスは、黙ったまま後ろに下がる。
「なに?」
カウンターの方に引っ込んでいく。
「ちょ……」
私の肩に誰かが手を置いた。
女店主だった。
数時間後、店から数キロ程離れた田畑に来ていた。
街から切り離されたような場所。
スラム街を抜けた所に緑が広がっていた。
「誰のせいとは言わないけどさ、この暑い中、どうして雑草集めないといけないんだろうな」
「私のせい?」
「分かってるじゃんか」
麦藁帽が揺れる。
「でも、ラビット嫌がってた」
「そりゃ、ゲイに男だと思われながらお尻を触られたら誰だって嫌だろうさ。でも、我慢しなくちゃいけない時だってある」
「なんで」
「あの店の店員だからさ」
「そうなの?」
「雇い主に迷惑をかけたら、あそこで働けなくなるだろ」
「そっか」
「分かったならいいけど」
「でも、ラビットが他の人に触られるのを見るのはイヤ」
ええっと。
ありがとうと言うべきなのか。
「イヤなんだ?」
「うん」
「なんで?」
「分かんない」
「そっか」
「うん」
雑草を根っこから引っこ抜く。
この畑は雑草しかないのか。
ケイトスは会話が終わったと思ったのか、
立ちあがって生い茂る方へ向かって歩き出す。
背中は汗で濡れて、
白いシャツが透けていた。
女心は複雑だ。
白い下着は見えても、
心は読めない。
ケイトスが振り返る。
「なに」
「下着、透けてる」
「見ないで、変態」
今、まさに引っこ抜いた土のついた雑草を、
「だって、前にいるからしょうがなっ……やめっ……あ、口に土がはいっ……ぺっぺっ」
こちらへ放り投げてくる。
ケイトスは、さらに奥に進んで、
彼女の背丈よりも長い茎の植物達に囲まれて姿が見えなくなった。
あんな風に、恥じらうような人間だったろうか。
前は、羞恥心があるようには思えなかったけれど。
時間もあまりなかったので、
私は彼女のことは一時放っておいて、
雑草の刈り取りに集中した。
途中、蜘蛛の巣のような白く長い花びらの植物を見つけた。
ケイトスに見せてやろうかと、
声を張ろうとしたが、
一々気にかけてやる必要もないかと思い、
また作業に集中した。
私たちを送ってくれたあの店の従業員がさっきまでいたが、
トイレに行くと言ってスラムの方へ引き返していった。
それから、30分程帰って来ない。
そこで、漸く異変に気が付く。
田畑を囲むように人の足音が近づいてくる。
なんだ。
身を屈める。
小声でケイトスを呼ぶ。
返事は無い。
草をかき分けて、移動する。
草丈が高いものは揺れると音がした。
土を踏むと、体がぐらぐらと傾いた。
土が柔らかいわけではない。
どちらかというと、乾燥して硬い。
自分が揺れているらしい。
足から力が抜け、膝がかくんと折れた。
「え……」
真っ直ぐに立てない。
ふと、脇を見るとケイトスが寝そべっていた。
別に何か痛そうにしてるわけでもない。
なに寝てるのさ。
声が出ない。
脳がマヒしたような。
酔っぱらったような。
とにかくぐるぐると天地が横転して、
私はひっくり返った。
寒い。
まるで何も服を着ていないかのような寒気だ。
寒波が到来したのか。
それとも、雪国に連れて来られたのか。
とにかく、何か着たいと思って、
私は目が覚めた。
「……っん」
「目が覚めたかい? 子猫ちゃん」
なんてセンスの無い台詞を吐く男だろう。
彼にそう毒づいてやる前に、自分の手足が縛られていることに気が付いた。
頬や肩、むき出しの腰や太ももが冷たい床に当たっていた。
私は、皮を剥いだ豆のように、つるんとした状態でその部屋に横たわっていた。
はい?
「もう一匹も、ここいらじゃ見ない毛色だ。美しい。舐めたいくらいだ。ああ、いや、あの白い太ももに挟まれるのもいいな」
なんだ。
何を言ってるんだ。
「残念なことに、殻に閉じこもってしまって出てきてはくれないんだけどね」
眠いのでまた明日です
この部屋にケイトスはいなかった。
どこだ。
「っごほ……何をした」
「なーんにも。服を脱がしたくらいだ」
「十分恨みを買うレベルだな……」
視界が霞んでよく見えないが、
男が笑ったような気がした。
甲高い声。
「お楽しみはこれからだよ。実験動物の中身がどうなっているのか調べたかったんだ」
彼はかけていた椅子から立ち上がった。
そして、私の体に触れる。
布一枚ない肌に鳥肌が立った。
「触るなっ」
噛みつこうとしたら、避けられた。
気にした様子もなく、また、喋り始める。
「あっちの子はクラゲか何かかい? 脱がしたはいいけど、途中で目が覚めてしまって、そしたら、触手みたいなのが体を覆って、手が出せないんだよ……困ったなあ。君から、何か言ってくれない?」
「あんたら、何者だ……」
「僕ら? 僕らは君と同じ南部の先住民さ。慎ましい農家の生まれだ……君がさっきまでいた店の店主。あれは、僕のママだよ。で、さっきの農園は僕の所有地なわけね。新種のケシ畑はどうだった? 一時間もあそこにいて、粉でも吸っていれば、自分で全裸になって『抱いてください』って、泣いて縋りついたかもね」
私は先ほどから、彼の言った言葉に違和感を覚えていた。
そう。
どうして、私たちのことを実験体だと知っているのか。
しかし、よく思い返せばあの店でケイトスがひげを出してしまったではないか。
あれを見られたに違いない。
けれど、だからと言って、なぜこんな始末に?
この薬物中毒野郎と何の関係があると言うんだ。
「さーて、そろそろ君の裸体を見せてもらおうか」
何か、スイッチの入る音。
私の横たわっている場所が上昇していく。
天井から、アームが降りてきて、光の束が私を照らした。
眩しくて、目を細める。
カシャカシャと床を何かが転がってくる。
ノートパソコンが付属したワゴンカート。
その台の上には銀色に輝く刃物。
ここは、手術室だ。
見たことのある光景。
私がまだあの施設にいた時に、
何度も連れて来られたあの部屋にそっくりだ。
「不安そうだね。新種のケシから合成した麻酔薬を注射してあるから、痛くないよ? 怖くなーい、怖くなーい。抗コリン作用で、少し目が霞んだり、お漏らししたりするかもしれないけど、気にする程ではないから。こう暑い国だとね、送られてきた薬品もあまり長くはもたないから自分で作る方が早かったりするんだ」
彼は微笑んだ。
今すぐ、ぶん殴ってやりたくなった。
「執刀医は僕だ」
僕?
誰だ。
あんた、誰だよ。
「聞いていなかったけど、君は何と混ざっているんだい?」
「死ね」
「……」
男は黙った。
「まあ、いいさ。君のお友達がさっき教えてくれたよ。ウサギだよね? 君の名前は、ラビット。そうだろ」
心の中で、嘆息した。
「昔、ウサギの角膜に麻酔薬を滴下し、異なった太さの髪の毛で刺激して、ウサギの目の瞬きの変化によって麻酔効果を判定する実験をしたことがあるんだ。大丈夫。ウサギの扱いは慣れてるから」
彼は壁にかけてあった白衣を掴んで着こんだ。
「痛みや苦しむことがもしあったなら、それは罪に対する罰だと思えばいい」
「罪?」
「そうだよ。同じ地に根を下ろした同族だろうと、のこのこ、敵の懐へ潜り込んで捕まったら世話ないよねえ。今回は長旅ご苦労様。恨むなら、君をこの場に寄越した政府の奴らを恨むんだねえ」
「政府……? あんた、最高に勘違いしてるよ。私は別に政府の工作員でもスパイでもなんでもない」
「証拠はあるのかな」
「証拠なんてない」
彼は嗤っていた。
今日ここまで
彼の口に、置いてあるメスを突っ込めたらいいのに。
念じて動くわけもなく。
それから、先ほどから下腹部がむずがゆい。
「この国では、小さな農家は生計を立てていくことすら難しい。だから、こうやって新しいものに挑戦していかなくちゃならない。麻薬は金になる。欲しがる奴はどこにでもいるんだよね。僕らを捕まえる側の人間だって、例外じゃないのに。ねえ、そうだろう?」
国境の警備員を思い出した。
ああいう輩はどこにでもいる。
だから、サンディみたいな子どもが、やらなくてもいいことをする羽目になる。
「世の中、クソ野郎ばかりだと思うよ」
彼はもう一度笑った。
同感だよ、と頷いた。
「最後に言っておきたいことはあるかい?」
遺言ってこと?
そうだな。
「……ケイトス」
私は、ぼそりと呟いた。
「ん?」
そして、もう一度、連れの名前をできる限りの声量をもって叫んだ。
眠すぎるので、また明日くらい
返事はなかった。
代わりに、部屋の扉がみしりときしんだ。
「な、なんだ……」
砂埃がぱらぱらと落ちる。
続いて、ハンマーか何かで扉を叩きつけるような衝撃音が連続した。
亀裂が入る。
「鉄の扉でも用意しておくべきだったね」
私は吐き捨てた。
瞬間、扉は爆発するように一気に瓦解した。
しゅぱん、と小気味良くしなる鞭のような音。
「が!?」
男に当たったようだ。
ワゴンカートに乗っていた手術用具をまき散らせながら吹っ飛んでいく。
「ケイトスっ!!」
ひげをしならせて、白地に青い小さい花が踊るブロードクロースのドレスのすそをふわりと浮き上がらせて、少女が立っていた。
こちらを見やって、
「……えっち」
と言った。
「好きでこうなったわけじゃないんだけど……」
ゆっくりと手をついて起き上がるも、
目の前の空間が歪んでいた。
平衡感覚が戻るまで、ここにいるわけにもいかない。
「出よう」
「そのまま?」
ケイトスは私の胸をまじまじと見つめ、
自分の胸と見比べていた。
「おっきい」
「……ありがとさん」
気絶した男のシャツと白衣をむしりとる。
ズボンはめいっぱいベルトをきつくして、
裾を何回か折り曲げた。
「下着は?」
少女の質問には答えずに、瓦礫と化した扉をまたいで外に出た。
廊下に出た瞬間、お腹の中まで響くような警報がなった。
「逃げるよ」
私は裸足で駆け出した。
「はーい」
緩い返事で、ケイトスも走り出した。
廊下の向こう側から、複数人が移動してくるのが分かった。
「こっちはまずい。逆だ、ケイトス」
「はーい」
反対側に踵を返す。
走るたびに、下腹部に刺激が伝わってくる。
なんだこれ。
脂汗。
揺れる視界が体を揺らす。
ケイトスが肩を支えてくれた。
「大丈夫?」
「ん……ト」
「と?」
「トイレ……探して」
ケイトスから、なんで、という疑問の声が音もなく漂ってきた。
頭の弱いケイトスにも、今、そんなものを探している場合じゃない、ということが分かったようで、
「出口、いこ?」
と憐れむように少し遠慮がちに言われた。
あー、もうどうなっても知らないから。
私は諦めて駆け出した。
何か、出そうで出ない。
ともすれば、もう決壊寸前。
あるいは、もしくは、出て――。
背筋がぶるりとした。
結局、トイレを探して、
扉の前にケイトスを立たせて用を足した。
「ぷ」
「笑うな……ばか」
そこまで広い施設ではなかったが、
ケイトスが最終的に壁をタコ殴りして、
施設の外に出ることに成功した。
その破壊音で居場所がばれてしまったのは言うまでもない。
先ほどまで雇われていた店の女店主が、猟銃を携えて前方に待ち構えていた。
「おばちゃん……」
「あんたらを帰すわけにはいかないんだよ」
「だから、誤解なんだって……。私たちは、別に」
「あの店も、バカ息子も……あんたらの好きなようにはさせん」
銃口が私の頭に向けられる。
ケイトスが今にもひげでおばちゃんを突き殺してしまわんばかりに警戒していた。
後方から、若い男達の声。
振り返ると、ところどころ擦り切れた服を着た青年達が、
それぞれにハンドガンを手にしてこちらに狙いを定めている。
スラムにいそうな身なりだった。
みな、負傷しているようで、頭やお腹、腕などに包帯を巻いていた。
少し血も滲んでいる。
「おばさん、こいつら殺しちまおうよ!」
「よくも先生を……!」
先生って、さっきの変態のことだろうか。
死んでなかったと思うけど。
発砲音。
誰が撃ったのか。
私の横の地面がえぐれ、小石が飛び跳ねた。
とっさに、ケイトスを抱きかかえる。
「へ……女だろうと容赦しねえ」
一番若そうな青年が鼻を鳴らす。
ケイトスをなだめながら、怖がる素振りを見せてみる。
銃口は情けを見せることなく、こちらに向いていた。
「聞いて、私らは故郷の村へ帰りたいだけなんだ」
「故郷?」
おばさんが聞き返す。
「ダラムス。南方の小さい村だよ」
村の名を口にすると、
おばさんの表情が鋭くなった。
「あんたら……元々、ダラムスにいたのかい」
「ああ、でも、もう誰も住んでないだろうけど」
「……そうだね。あんなことさえなければ、平和な村だった」
「私の両親もおんじもおんばも……それに巻き込まれて死んだよ。今日は墓参りに来たんだ」
墓なんて誰も建てちゃいないだろうけど。
「それだけなのかい」
「そうだ。邪魔しないで欲しい」
彼女は、引き金にかけていた指をゆっくりと外した。
後ろの連中はまだ殺気立っている。
「……あんた名前は」
おばさんは猟銃を肩にかけながら、質問した。
ケイトスがふっと息を吐いた。
「ラビット」
「そっちの子は」
ケイトスは答えなかったので、代わりに私が答えた。
「ケイトス」
「あんたら……苗字の方は?」
そんなものを聞かれたのは、生まれて始めてだった。
久しぶりに、父と母の姓を口にした。
「……ナバーロ・トーレス」
「……そうかい」
彼女はそれだけ呟いた。
そして、もう一度。
そうかい、と確かめるように繰り返した。
私とケイトスは、運送用のトラックの後ろに乗せられていた。
果物が積まれた木箱の隙間にケイトスと身を寄せ合って座る。
「おばさん、いいの?」
青年たちが不満そうにして、遠巻きに見ている。
バカ息子もいつの間に目を覚ましたのか、何か叫んでいた。
何を言っているか分からないけど。
「いいんだよ。昔の仕事仲間の孫だ。冷たくはできないよ。あんたら、ちゃんと送ってやんなよ。あの村はラモス一家が占領してよそ者に厳しいからね」
「任せろ、おばちゃん。ラモスのとこのガキは俺の子分だ」
「あんた、歳同じだろう」
小柄な少年が、にこりと笑って座席の窓から私たちを見やる。
「それ、一つくらいなら食べてもいいから」
「ありがと」
運転席にいる大柄な男性は父親だろうか。
彼はおばさんと二言三言会話して、車を発信させた。
レンガのような赤茶けた肌。
それと、黒い瞳と髪。
Tシャツと短パン。
少年は、まさしく少年という感じで、
物騒な人間ばかり相手にしていたこともあり、
助手席で無邪気に父親に話しかける彼を見ていると、心が和んだ。
「ラビット、これ食べていいの?」
お腹を押さえて、ケイトスが箱詰めされたバナナに鼻を寄せる。
「毒が入ってなきゃいいんだけど」
「え」
眉間にしわを寄せて、ケイトスはバナナを掴む。
一房、三本ついている。
「毒?」
「味見してみなよ」
「どうぞ」
「どうぞどうぞ」
バナナを押し付けあう。
トラックがくぼみにはまったのか、
弾みで体が浮き上がった。
バランスを崩してケイトスを押し倒してしまう。
「ラビット、痛い」
「ごめんごめん。頭打った?」
「ううん」
少女の顔の横にバナナが転がっていた。
落とさなくて良かった。
それを掴んで、一本もぎ取る。
皮を半分ほどむいでやった。
彼女の上に馬乗りになったまま、
それを口元に近づけた。
「ま、お一つどうぞ」
ケイトスは仕方がないという風に、口を大きく開けた。
「あんむ」
「美味しい?」
珍しく、丁寧に味わっている。
というか、毒じゃないか確かめている。
「美味しい」
「そりゃ、良かった」
食べかけ部分を私もかじる。
「……甘い」
「あーん」
ケイトスが口を開いて、魚のようにパクパクと動かす。
味をしめたようだ。
「だーめ。今度は座って食べなよ」
「はーい」
「で、自分で食べな」
「えー」
後ろからひげをちょろちょろ躍らせている。
怖い、怖い。
「今日だけ特別だから」
「わーい」
嬉しそうに笑う。
「……」
それに、つい見惚れてしまった。
なんて言うか、感動してしまった。
変だ。
急に。
なに。
今までが殺伐した状況だったからか、涙が出そうになった。
こんなに眩しい存在だっただろうか。
いっこうに口元にバナナを近づけない私に煮え切って、
ケイトスは自分でぱくりと頬張っていた。
故郷は目の前で。
ずっと帰りたいと思っていた。
帰っても一人だとも思っていた。
夢に見たことがある。
家もなく友もなく、一人ぽつんと佇む自分。
今は違う。
彼女がいる。
ケイトスが。
「ケイトス」
「もぐもぐ……うん」
「村に辿り着いてから、それから……どうする?」
少女はバナナをごくんと飲み込んだ。
「私の中のみんなが、納得したら……そこにずっといる」
「納得しなかったら?」
「……」
ケイトスは空を見上げた。
「納得する所まで行く」
「そうか……」
無理やり、連れてきたようなものだしな。
仕方がないか。
でも、彼女と離れるわけにはいかない。
「ラビットも来てくれる?」
ケイトスが私の体に腕を回し、抱きしめてくる。
こんな甘え方、どこで覚えたんだろう。
私も一度空を見上げた。
笑って、細く柔らかな彼女を抱き返す。
「ああ」
指を絡めて、強く握りしめた。
村に着くと、武装した数人に取り囲まれた。
三メートル程のフェンスの前に立ちはだかって、ロケットランチャーのようなものを向けている者もいた。
「荷物を届けに来た」
運転席の男が言った。
武装集団はみな迷彩のマスクをつけていた。
くぐもった声で、
「連絡を受けている。全員、車から降りろ」
彼らの前に立たされ、軽く身体検査をさせられた。
トラックの積み荷も調べた後、
「フェンスを開けろ」
残りの人間が手動でフェンスを引っ張る。
「入っていいぞ」
自分の住んでいた村なのに、この厳重な警戒。
地形は変わってはいないし、懐かしさも込み上げてくるのに、
全く別の人間達が住み着いてしまったことの、物悲しさがあった。
その後、ラモス一家のボスの所まで連れて行かれて、洗礼を受けた。
ボスは気のいい人間で、マフィアとは思えないくらい柔和な印象だった。
彼は、私の住んでいた家がもう昔の抗争で無くなっていることを知り、今日は自分の別宅を使えばいいと言ってくれた。
元々住んでいた所に戻ってきただけなので、でかい顔をされるのは嫌だったが、
それでも、この村が荒廃せずに残っているのはありがたかった。
もちろん、もう地図からは消された廃村ではあるが。
少年と荷運びを手伝って、その日は彼らと他のマフィアの連中と食事をした。
強面な奴らばかりだった。それも、外見ばかりで、酒を酌み交わしていく内に、
鱗がはがれるように、そこには陽気な男たちが歌い踊っていたのだった。
飲むつもりなどなかったが、
断って彼らとの関係を損ねるわけにもいかなかった。
昼間と同じくらいふらつきながら、ボスの別宅に辿り着いた。
「ラビット、大丈夫?」
一切お酒を口にしなかったケイトスが、寝室まで運んでくれた。
「ケイトス……」
彼女を手招きする。
「なあに?」
「ここ、座りな」
ベッドの脇をぽんぽんと叩く。
彼女は何の疑問もなく、素直に従って靴を脱いだ。
「座ったよ」
「ん」
頭の中に妖精がいて、いつもは全く思いつきもしないことを閃かせてくれるのだ。
彼女を抱きしめて、そのまま仰向けに倒れた。
ベッドが弾んだ。
「熱い……」
ケイトスの金髪に顎を突き立てる。
「いた、いたい。ラビット、ぐりぐりしないで。離して」
「いや……」
眠たい。
このまま彼女を腕の中にしまいこんだまま眠ろう。
離さないから。
嫌だって言っても。
「たまには……甘えたい時だってある」
ぼそぼそと、彼女の耳元で囁く。
「どうして?」
ケイトスが言った。
「寂しいから」
「ラビットは、今、寂しいの?」
「いつも、寂しい」
「そうなんだ」
「そうだ……」
彼女の首筋に顔を埋めた。
しっとりとしたうなじが火照った頬にくっつく。
「っ……」
ケイトスが喉を鳴らした。
「でも、ケイトスに出会ってもっと寂しいよ」
「どうして? いつも、一緒だよ」
彼女の指を覆うように握りしめる。
冷たい手が、ひんやりとして気持ちがいい。
「そういうものなんだ」
「……わかんない」
「いいよ……わからなくて」
自分でも理解できないから。
彼女の重みが心地よく、
瞼がとろんと落ちそうになる。
「このまま……寝てもいい?」
聞くと、
「だめ」
と答えた。
「ケチめ」
「寝られないもん」
ケイトスは体を起こして、私の額に軽くキスをした。
「天井じゃなくて、ラビットを見ながら寝る」
私の左腕にしがみつく。
私は額をさする。
「ほっぺたにもして」
注文を付ける。
「うん」
啄むように少女は唇を落とした。
「反対側も」
ケイトスは嬉しそうに、
首を伸ばして唇を押し当てる。
「ラビット……」
天井の光を遮って、
目の前にケイトスの大きな瞳。
「ん?」
「ここ、してもいい?」
彼女は人差し指で私の唇をノックした。
いいのか。
いいか。
うん。
「どうぞ」
彼女の顔が徐々に近づいて、
吐息が鼻の上を撫でた。
ちょっとここまで
続きは夕方以降です
そう言えば、前にも一度キスされたっけ。
どこだっけ。
そうそう。
こいつが、人間に戻った時に、したんだ。
いや、されたんだ。
あと、ほんの数センチという所で、私は顔を背けた。
「っつ……」
思い切り反らしたものだから、首が変な音を立てた。
涙目でケイトスを見る。
不服そうだ。
「なんで、よけたの」
「な、なんとなく」
急激に熱が冷めていく。
気だるさは抜けきらない。
「前は避けなかった」
「あれは、そんな暇なかった」
「そうだっけ」
「私も酔ってたとはいえ、悪ふざけが過ぎた……ごめん」
「いいのに」
「いやいや」
私はケイトスと距離をとって、横になった。
「もう寝よう」
少女ももぞもぞと後ろに寝転がった。
それから、体当たりしてきた。
「ちょ、いたっ、なに」
「べつに」
「べつにってことないだろ」
「なら、ラビットのせい」
「はあー、言っとくけど、キスってのは恋人同士とやるもんなの」
「そうなの?」
「普通はな」
「でも、うさぎといつもしてた」
私は頭を抑えた。
「夜にすると、いつも落ち着いた」
「私は、人間だって」
あれ、てことは、今さっき、落ち着いてなかったってことか。
半回転して、ケイトスと向き直る。
何か、してしまったっけ。
酔っていて、うろ覚えだ。
とりあえず、怒っているのか悲しいんでいるのかすら表情に出ない彼女の思考を読み解くのは難しい。
彼女の体を抱き寄せる。
「よくわかんないけどさ、ごめん」
「ハイジが……」
「ん?」
「すぐに謝る奴には騙されるなって」
「何を教えてるんだ……」
「でも、よく分からないのに、謝って欲しくない」
「じゃあ、教えて」
「いや」
扱いにくい奴。
自分で考えろってか。
なんだ。
何かに怒ってるのか。
彼女に再度質問しようと口を開いた時だった。
窓の外が白んだ。
一瞬の閃光。
そして、建物に鉄球でも当たったかのような振動。
「は……?」
部屋のシャンデリアが揺れながら、明滅して消えた。
衝撃は1度ではなかった。
頃がるように窓を覗く。
庭に人がばらばらと集まっていた。
みな、空を見上げて、そして絶叫していた。
瞬きをした瞬間、彼らはすぐに地に伏していった。
エンジン音。
機関銃の音。
戦闘機が二機、ボスの屋敷の上空を旋回している。
「ケイトス! 逃げるぞ!」
少女の腕を掴んで、全力で階下へ降りていく。
次の瞬間、部屋が吹き飛んだ。
衝撃でこちらも、廊下になぎ倒される。
「大丈夫かっ」
「へーき」
「……なんなんだ一体」
一階の応接間が吹き飛んだらしい。
建物ごと破壊する気なのか。
休むことなく、次の爆発が起こる。
「とにかく走れっ」
扉を開けると、燃え盛る炎に囲まれていた。
どこか近くで、女性の悲鳴が聞こえる。
周りを見渡すが、どこにいるか分からない。
「くそ……」
素早く上空を確認する。
戦闘機は、村の中心の方へ去っていく。
またこちらに戻る前に、安全な場所へ避難しなければ。
けれど、このままあの戦闘機を放っておけば村は壊滅する。
逃げる前に、できることはないのか。
「ラビット……」
「戦闘機ってことは、軍の奴らに違いない……大方、マフィアを一掃しに来たんだろう。ここにいると巻き添えを食らう」
「ねえ、ラビット」
「なにっ」
「さっきまでいた男の子無事かな」
積み荷と一緒に乗せてきてくれた男とその息子。
彼らは、食事をした後は、ここに泊まっていくと言っていた。
村の中心に、いくつか寝泊りできる所が残っていて、たぶんそこにいるはずだ。
「分かってる……マフィアを助ける気はないけどさ」
「もう、死ぬ所を見たくない」
「同感だ」
戦闘機以外に、さらに上空に一機。
あれは、爆撃機じゃないのか。
嫌な予感がする。
家屋も人も田畑も森林も木っ端みじんにして、
ここを更地にでもする計画なのだろう。
はた迷惑な話だ。
墓参りさえ、ろくにできていないってのに。
「ケイトス、今夜のひげの調子は?」
「良好」
「オーケイ」
屋敷から村まで続く林を抜け、
崖を滑り降りていく。
見下ろした風景は、すでに焼野原と化していた。
「ひどい……」
屋敷の方へ向かって避難してくる男がいた。
さっきまで、ジョッキを鳴らしあっていた男の一人だった。
彼は、後ろから何かに刺されるようにして絶命した。
彼の後ろには、軍服を着こんだ20歳前後の男性が立っていた。
先に動いたのは、ケイトスだった。
男の太ももにひげを思い切り突き刺した。
男が絶叫して、足を抱えて崖を転がり落ちていった。
崖下まではそこまで高さはない。
男も死んではいなかった。
「ケイトス……落ち着いて。できる限り、殺すな」
なんで。
彼女はそんな顔をした。
確かに、こちらが殺されるかもしれない。
私が言えることではない。
けれど、彼女と平和な世界へ行くことは、
今からでも遅くないのだと、信じたいのだ。
故郷を血の海にしたくない。
それも、ケイトスの手によって。
「もしもの場合は私がやるから」
マフィアの男の体をまさぐる。
拳銃が一丁。
それをズボンのベルトに挟んだ。
崖下に降りて、先ほどの軍人から武器を横取りしようと思ったのだが、
彼の様子がおかしい。
背中が大きく盛り上がって、茶褐色の毛が全身を覆っていく。
「……なんだ、熊か?」
軍服がびりっと引きちぎられた。
顔が前方に飛び出て、立体的な骨格になっていく。
男性だった生物は、雄たけびをあげた。
冗談だろ。
こちらに狙いを定め、太ももを引きずりながら、
四本足で猛突進してくる。
「ケイトス、村へ!」
彼女の手を握りしめて、走り出す。
手負いの熊ほど、狂暴なものもない。
腕だけを後ろに伸ばして、発砲する。
獣の悲鳴。
一度、足を止めたようだが、再度追いかけてくる。
「あんな怪我で走ったら……死ぬぞあいつ」
「死ぬ気なのかな」
ケイトスがぽつりと言った。
なんでだよ。
どこかに出せば賞とか取れそうなクオリティ
ここに載せてるのが勿体無いな
そこまでして、追い詰めなきゃならないのか。
こんな女子どもに対して?
そりゃ、最初に太もも刺したケイトスは悪かったけどさ。
不可抗力だし。
いや、罠という線も。
陽動?
前方に何か待ち構えているのか。
前後左右に聴覚を集中させる。
誰か来る。
ベルトから拳銃を取り出して、脇をしめて身を低くした。
「ケイトス、ひげは自分の身を守るために使って」
返事はなかった。
しかし、質問を繰り返している余裕はなかった。
乱れた呼吸を整えつつ、照準を定めるため銃口を前へ。
人影。
小柄だ。
「姉ちゃんっ」
先ほどの少年だ。
元々全身黒っぽいせいか、夜に溶け込んでいる。
「お、親父がいないんだ……っお、おれ」
「悪いけど、立ち止まって話している暇はないんだっ」
戦闘機がこちらに向かってきていた。
何かを射出して、また上空へ。
ミサイルだ。
「まてまてまて……っ」
少年とケイトスを抱えて小脇に思い切り飛んだ。
耳に指を素早く突っ込む。
あまり意味はなかったが、それでも全く聞こえないという状況は避けられた。
「二人とも立って」
後方の熊人間の上半身が吹き飛んでいた。
二人に見せないように、先を促す。
なんだ。
本当に死にに来たのか。
仲間も敵も関係ないのか。
最悪だ。
この村をなんだと思っているんだ。
自分たちの所有物だとでも。
目を覚まさせてやる。
「……っ」
少年が泣き崩れている。
「親父を探すんだろっ」
少年の襟首を掴み、無理やり立たせ、背負う。
「しっかり、捕まってろ」
潰れた喉笛のような声で、少年は途切れ途切れに、
「友達がっ……ボスの息子の……そいづ助けようと……親父一緒にっ……合流ずるって……」
「意味が分からないけど、二人とも助ければいいってことか?」
「うっん……うんっ」
しばらくして、家屋は増えてきたが、逃げ惑う人々はいない。
地面に転がっているのは死体ばかりだった。
>>272
ありがとう
もっとしっかり設定ができてたら良かったんだけど……
この短時間で、一体何人死んだんだ。
死体と全壊あるいは家として機能していない建物群の間を通り過ぎる。
時折うめき声が聞こえて歩み寄るも、断末魔にしか過ぎなかった。
硝煙の匂いに、ケイトスが顔をしかめていた。
ケイトスを屋敷においてくるという選択肢を選べなかったのが悔やまれる。
「……親父ー!」
少年が叫ぶ。
「ばかっ」
すぐに口を塞いだ。
敵に見つかったらどうするんだ。
「……あ」
ケイトスが立ち止まる。
少年が私の手を振りほどき、走り出した。
ボスの息子らしき子どもを背負った男性が、
頬を真っ黒にしてこちらへ向かっていた。
宙を引っ掻くように、少年もアンバランスに走り寄った。
と、背筋をおぞましいものが這いずった。
私が視界に捉えたのは、細長い爆弾が10個以上上空にばらまかれた瞬間だった。
「戻れっ!! 爆弾だ!!」
少年一人なら、ケイトスのひげと私の体でなんとか守れるはずだ。
彼は、肩越しにこちらを見やった。
そして、私の言葉が聞こえたにも関わらず、走り出した。
「だめだッ、戻れ!!」
ひげが私の横を通り過ぎた。
少年の体に巻き付いていく。
彼は抵抗した。
暴れて、暴れまくって、
彼をひげでぐるぐる巻きにして、
急いで建物の陰に身を寄せた。
少年を体の下に隠した。
刹那、死の轟音と共に、大地が震えた。
政府の奴は、この村で世界大戦でも開戦するつもりなのか。
瓦礫に埋もれながら、私は村の最後を、故郷の終焉を目に焼き付けた。
視界が真っ暗になった。瓦解していく音も聞こえない。
「……っ」
少年は声を出さずに泣いていたのか。
それとも、また私の耳が麻痺してしまっただけなのか。
彼は憎しむだろうか。
私たちを。
政府を。
それとも、考えることを諦めるだろうか。
少年の体の震えが止まった。
どうしたんだ。
気絶したのか。
分からない。
ケイトスの息遣いが耳の後ろで聞こえた。
少年は息をしていない。
「おいっ……」
だと言うのに、彼はのそりと動いた。
立ちあがっただけではない、質量を増していく。
私とケイトスを圧迫していく。
遮蔽物が崩れて、熱風が舞い込む。
赤銅に輝く瓦礫の中、少年は一人黒い羽を広げて、地を蹴り空を舞った。
許さない――。
少年の姿を呆然と見つめていた私は、はっとケイトスを見やった。
「何か言った?」
「何も……」
互いに傷だらけになっていた。
許さない――。
「……ラビット、何か言った?」
「いや?」
この声はなんだ。
と、かなり上空で爆発が起きた。
爆撃機だ。
中の爆弾も連動して黒煙が上る。
村の外れの方に、破片をまき散らせながら墜落していった。
あの子がやっているのか。
「ああ、可哀想な鷲の子よ」
背後からしわがれた老人の声がした。
ケイトスがひげを出そうとして、老人の眼光に射止められる。
「災いの光よ。紛い物のトナルでは軍神を止められはせん」
「誰だ、あんた……」
「臆病な兎よ。平和を望むなら、エル・ビスカイノへ行くがいい。そこは、ナワルの楽園、トナルの聖地」
「何言って……」
「そこに、誰かいるのですか」
老人の姿が声にかき消される。
無防備かつ不用心に、その軍人は私たちの前に歩み寄った。
10代前半くらいの少女。
この間もこれくらいの女の子が、軍の特殊部隊に所属しているとかなんとか言っていたな。
さっきの熊野郎と言い、この少女も何らかの改良を受けているはず。
「あなたたち……」
少し驚いて、高い声を発した。
少女らしく透明感があった。
「ラビット、それにケイトス……」
「なんで、名前を知ってるんだ……」
彼女は、しまった、と表情に出ていた。
なんだ?
「……サンディです」
私とケイトスは顔を見合わせた。
今日はここまでです
ほんわか百合から遠ざかっていく……
生存報告です
今月中には
もしや、あの蛇少女なのか。
それにしても、髪や肌の色が違うような。
私が疑いの眼差しで彼女を見ると、
サンディらしき少女は、
「この姿では信じられないですよね。構いませんよ」
と別段怒る様子もなく言った。
口調だけで言うと、確かにあのサンディだと思えないこともない。
「それに、今はサンディではなくピトンですから」
「どういうこと?」
ますます混乱した。
「ラビット」
ケイトスが私の袖を引っ張る。
「なに?」
「さっきのじじい、あそこにいる」
目の前の少女がサンディだろうがピトンだろうがどうでもいいのか、
口の悪いケイトスが指を指す方向に、先ほどの老人がいた。
足元には、ボスの息子と空へ飛んで行った少年の父親が黒々と焦げて転がっていた。
私は思わず、顔をしかめた。
こちらまで、焼け焦げた匂いが漂ってきそうだ。
老人は、両手をその二人の死体の上に掲げ、
天に昇りゆく魂が見えるかのように、
手の平を戦火の空へと向けた。
「あなたたち、あの老人が見えるのですか?」
驚きを隠さずに、少女が言った。
「どういう――」
死体の向こうで、不自然な瓦礫の動き。
生存者か。
しかし、この炎と瓦礫の海の中立ち上がれる者など、
普通の人間ではないということと同義。
「誰だッ」
警戒し、ケイトスを後ろに下がらせる。
「……は? あんたこそ誰?」
影がゆらりと傾いた。
特殊部隊の戦闘服の肩口を、
子気味良く叩き払って、
少女はそう問いかけてきた。
見た所、15、6歳くらいか。
「ティグレ……無事でなによりです」
「ピトン、これが無事に見えるの? オソは? パローマもどこに行ったの?」
ティグレと呼ばれた少女は、
後ろを振り向く。
背中が焼けただれて、
皮膚が赤黒くなっている。
よくその傷で立っていられるな、こいつ。
「死にました」
「……冗談でしょ? 隊長は?」
「連絡が取れません」
「……戦闘機と爆撃機の連中は?」
ピトンは首を振った。
ティグレは上空を仰いだ。
しかし、先ほどから一機として、
飛んでいる機体はない。
恐らく、全てあの少年に撃ち落とされてしまったに違いなかった。
「ティグレ……」
「空の連中、使えないじゃん……」
ティグレはポケットから戦闘服と同じような深く濃い緑のキャップを目深に被って、
白に近い頭髪を押し込み、地面にどさりと座り込んだ。
「で、あんたたち何? 捕虜? 命令は殲滅だし違うか。じゃあ、あれだ観光客、そうでしょ」
「うん、そう。観光」
ケイトスが平然と答えた。
こいつのこの物怖じしない所、どうにかして欲しい。
ここまで
また今度
今年はもうないんかな
>>292
ぼちぼち進めていきます
ティグレは、その双眸に爛々と燃え盛る炎を宿し、ケイトスをじっと見て、そして笑った。
「あんた、同じ匂いがする。血と肉を好む、獰猛な野獣の匂い」
ケイトスは首を傾げた。
それから、自分の体をくんくんと匂い始める。
ティグレは、
「あー、でもバカなんだ。安心した。バカに悪い人間はいない」
言って、手のひらを軽く叩いていた。
「ティグレ、止血剤をかけますから、じっとしていてください」
ピトンは持っていた四角い迷彩のバックのジッパーを引き、
中からスプレー缶を取り出した。
「それ、痛いから……や」
「や、じゃありませんから」
呆れた口調で、ピトンはティグレの背に、
白い泡状の止血剤を吹きかけていた。
初めて見るものだ。西部軍の開発したものか。
ティグレのうめき声をよそに、私はまじまじと見ていた。
「――あづ!!!! も、もういい!! から!! 帰って、あとは、帰って、処置してもらうから!!」
「……ええ」
ピトンはスプレー缶をまたバックに戻した。
ティグレは、痛みに耐えるようにして瓦礫中に蹲る。
「って、言っても帰りは徒歩か……。ピトン、乗ってく? その方が早いし」
「いえ、悪いです。しかも、背中が、そんな状態で何を言ってるんですか。あなたは、先に…‥先に……安全な所へ」
「や、基地に戻るでしょ。まがりなりにも上官をおいて行くわけにもいかないんだからさ」
「上官なんて、そんなのもう意味ないですよ」
「は? 何言ってんの。作戦失敗して、頭おかしくなった?」
「……そうなら、いいんですけどね」
ピトンはティグレの傍にしゃがみ込んだ。
「もう、私たちは帰る場所がありません。全員、ここで死ぬはずだった。それが本作戦のもう一つの目的です」
「特攻なんて作戦になかったけど」
「違います。ティグレ。私たちの利用価値が無くなったのです」
ティグレは、ピトンの頬をつねった。
「ピトン、頭打ったでしょ?」
心底心配そうに、頭を撫でる。
「ティグレ、それに、他の特殊部隊の人間には知らされてなかったことです。私は、偶然知る機会に恵まれていた」
「だ、だからさ、なんで、なんのために」
「新しい兵士が、また南部から配給されたということです」
まるで、物みたいな言い方だった。
「困るって。だって、私――」
ティグレは膝を抱えた。
彼女が何かを言い終える前に、突風が巻き起こった。
翼の羽ばたく音。
黒い少年が、再び地に降り立った。
少年は、もはや人の姿を保っていなかった。
鷲のようにも見えるが、
顔の嘴はうねり、首も可笑しな角度に曲がっている。
目も、どこにいったのか。
果たして、生き物なのか。
「……」
敵になったのか、味方になったのか。
定かではない。うかつに近づけない。
「……親父は?」
一体、どこの器官で喋っているのだろう。
少年の声が、不気味に響く。
その問いかけにまともに答えられる人間が私しかいなさそうだったため、
仕方なく言った。
「あそこだ」
指を差した。
少年も振り返った。
先ほどのように、感情を爆発させることはなかった。
静かに、見ていた。
目など無いにもかかわらず。
「親父を……友達……も助けてッ……ひっく」
嗚咽交じりにそう言って、顔を両手で覆った。
「なんなの、こいつ……」
ティグレは、痛みのせいか顔を歪めて、少年から後ずさる。
「助けてよぉ……ッ」
炭になった父親を、彼は抱きしめた。
甲高い声で、体いっぱいの嘆きを放った。
ティグレにしろ、ピトンにしろ、
少年の声を無視できるほど、大人ではなかったのだろう。
そして、軍人にもなり切れていなかったはずだ。
だって、元は、ただの子どもだったのだから。
性根まで腐るには、時間が短すぎたんだ。
少年が彼女達に復讐しないのはきっとそれが分かっているからなのだ。
そうでなかったとしても、そうであって欲しい。
だから、二人は、少年を見つめることで精いっぱいだったのだ。
今日はここまで
と、車のエンジン音が聞こえた。
そう遠くはない。
「誰か来るぞ……」
誰にともなく、私は言った。
ケイトスが、また我先にと歩き始めようとしたので、
彼女の首根っこを掴んだ。
こいつ、本当に好戦的だな。
「大人しくしてろよ」
「わかった」
白い光が二つ見えた。
こちらに向かってきている。
どうやら、車のヘッドライトみたいだ。
軍用車ではなく、普通の自家用車。
車は、瓦礫に阻まれて、道半ばで停車した。
車から出て来たのは、猟銃を片手に携えたおばさんだった。
その後から、よろけながらおばちゃんの息子が顔を出した。
「なんだい、これは……」
おばちゃんが、信じがたいと言うように頭を振る。
すぐに私たちの存在に気付き、駆け寄ってきた。
「ラビット、何があったんだい……」
言いながら、おばちゃんはピトンとティグレに対して、
猟銃を突き付けた。
「まさか、この子たちは……」
ピトンは何も言わなかった。
ティグレに関しては、膝に顔を埋めたままで、動く気配はない。
「ひッ!?」
息子が悲鳴を発した。
おばちゃんが視線を外し、
「どうしたッ」
「ば、化け物だ!」
少年だったものを指さして、息子は発狂しそうなくらい狼狽えていた。
おばさんも悲鳴こそ上げなかったものの、口元を抑えて後ずさった。
「その服、チュスなのかい……」
異形の鳥人と化した少年――チュスは、小さく頷いた。
「……チュス、そこにいるのは」
チュスは抱きしめていた父親を隠すように、体を丸める。
羽を大きく広げて、誰の目からも見られないように覆った。
「ラモスの人間は……?」
チュスの体が揺れた。
「みんな死んだ。そいつらのせいだ」
チュスは翼の間から、ピトンとティグレを指さした。
鼻をすすり、立ち上がる。
「空から、爆弾をたくさん落として……」
チュスは、ピトンを睨み付ける。
「あ……」
しかし、言葉を止めた。
彼はピトンをまじまじと見つめ、
気味の悪い顔を彼女へ近づけた。
「君は……」
嘴で突き殺してしまいかねないくらい近づいて、
ティグレが弱弱しく割って入る。
「その嘴で、何をするつもりなのよ」
「え」
そこで、チュスははたと自分の顔を両手で触れた。
「な……んだ……これ」
彼は、もう一度同じセリフを呟いた。
「なに、あんた気づいてなかったの……あんだけ、空飛び回っておいて」
ティグレは言った。
チュスは嘴を右手で握り、
引っこ抜こうと躍起になった。
「うわぁッ……ああああ――」
自らの変化に怯え、顔中を掻きむしる。
バランスを崩して、父親の上に倒れこむ。
「ああッ……ッあ」
その横に、まるで亡霊のように、
あの老爺が姿を現した。
彼は言った。
「アギラのトナルよ。鷲の子よ。この小さきナワルは太陽に近づき過ぎた。すぐにテクートリが彼を最下層の冥府へと誘いに来るであろう」
ケイトスはひげをしならせ、
彼に突き刺した。
だが、そこには何も無い空間が広がるだけだった。
「チュス」
おばちゃんが逞しい腕で、
チュスの体を引き寄せた。
「……うああ――!」
「戻れないのかい?」
少年の体を包み込むように、
おばちゃんが彼の体に腕を回した。
「敵は必ずとるから……だから、元のチュスに戻っておくれ。家に帰ろう」
「ダメだよ、ママ。チュスはナワルとして自分で目覚めてしまった。いずれこのことがバレたら、チュスはMPの恰好の餌になる。そうなったら、僕らもただでは済まないよ」
「おまえは、チュスを見捨てるのかい」
「でも、チュスの力は、僕らに災厄しか運ばない」
「お前は、本当にバカ息子だよ。自分のことしか頭にないのかい」
「バカなのはママだよ。あんな戦争孤児ばかり引き取って……チュスを匿えば、何の力もない彼らや、僕やママが一番危険になるんだよ」
「チュスは、おまえの弟みたいなもんじゃないかいッ」
「こんな気持ち悪い弟を持った覚えはないさ!」
息子が怒鳴った。
チュスは怯えて、身を縮こまらせた。
「それより、この軍人達を始末しないと」
ピトンとティグレを交互に見て、
息子は鼻を鳴らす。
「一人は僕の実験の材料になってもらおうかな」
にやりと笑って、
ピトンの肩に手を伸ばした。
ティグレがかばうように、一歩前に出る。
「やめろ」
事が落ち着くまで傍観していようかと思っていたが、
私は息子の被害者として、見過ごすことができなかった。
「き、きみには関係ないだろう。だいたい、殺されかけたんじゃないのか」
「殺されかけたけど、死んじゃいない」
「どういう理屈だ」
「私がこの二人を引き取る」
引き取ったその後のことは、
何も考えちゃいないけど。
「きみは、やっぱり……政府のスパイだったんだ。そうだろ」
私は、息子の言葉を無視した。
「チュスいいか?」
私は跪いて、
チュスの手を取った。
「この二人を殺したって、敵をとったことになんかならない。こいつらは命令に従っただけだ。分かるよね、チュス」
チュスは手を握り返す。
「彼らは、作戦に失敗した。そして、もう軍人としての能力に限界が来ている。あの二人は帰った所で、殺処分されるだけなんだ」
「ラビット……」
「チュス、おまえは父親と友達を助けようとした、立派な人間だ。いいやつだ。おまえのお父さんだって、きっと褒めてくれる」
「……俺、もうすぐ死ぬんだ。そうでしょ」
チュスはぽつりと言った。
「そうだ……」
「父さんの所に……行くんだ」
「そうだよ…‥」
「ねえ、ラビット」
「なに」
「あの子を守ってあげて……」
彼の視線の先に、ピトンがいた。
どうして、彼女を。
私は、戸惑いつつ頷いた。
それから、彼は、ポケットに手を入れて、
私の手ひらに小さな植物の種を置いた。
「これ、調べたら……ケシの実だった。悪いことしちゃダメなんだ。いつか罰が当たる」
「……」
「ねえ、名前なんて言ったっけ? あの子」
「ピトンだよ…‥」
少年はピトンの方へ腕を伸ばした。
「あの種、持ってる? ごめんな、あれ、麻薬だったんだ」
ピトンは少年をじっと見つめた。
それから、ゆっくりと胸ポケットから、
全く同じ種を取り出した。
「それ、やっぱり返して……」
ピトンは、いつチュスからその種をもらったのか。
言われて、ピトンはそっとその種を少年に返した。
その手はわずかに震えていた。
「君に悪いことが起こらない様に、俺が向うへ持っていくね」
その言葉を最後に、チュスは息を引き取った。
いったん、ここまで
続きはたぶん夜に
チュスの亡骸は、おばちゃんが炎の中へ投じた。彼の身よりは父親しかいなかった。
実際、彼の死を本当に悼むことができたのは、もしかしたら、唯一このおばちゃんだけだったのかもしれない。
あるいは、遠巻きに焼かれていく少年を見ていたピトンも――。
ティグレに支えられるようにして立っていた彼女も、少年の死を哀しんでいたのだろうか。
「ラビット」
「なに、ケイトス」
「冥府ってなに」
「死んだ人間がいくとこだ」
「私も行ける? 一番下まで」
「最下層に行くには死んでから、4年は旅をしないとならないって聞いたけど」
「むり」
「じゃあむりだ」
「残念」
「なんで」
「死んだ人に会えるかと思って」
「……」
死んだ人に会えるなら、
死を恐れることなんてないのにな。
今頃、冥府の入り口が開いて、
少年が足を踏み入れた頃だろうか。
私の父や母、おんじやおんばも、
そこにいるのだろうか。
目を閉じる。
帰って来ない方が良かったと、
多少は思っている。
まさか、故郷の終焉に立ち会うことになると、
誰が予想しただろうか。
これからも、どこかの村で、
こんな惨劇が起こるのだろうか。
「ピトン。次、爆撃する村とか知ってたりする?」
「いいえ……」
ピトンは首を振る。
代わりに、ティグレが答えた。
「次は、南西の島々よ」
「あんた、そんなこと教えていいのか」
「あんたじゃない。ティグレよ」
ティグレは被っていた軍帽を手に取り、
薪をくべるかのように、炎へ投げ入れた。
「ピトン、私たちは廃棄されたってことでいいのね」
さほど長くない銀糸の髪を後ろにまとめ上げる。
小さな馬の尻尾がうなじからひょこんと顔を出す。
「ティグレはどうするんですか」
「どうせ、死亡確認できなければ、追っ手が来るし、ここから移動した方がいいに決まってる」
先ほどまで憔悴した顔をしていたはずだが。
「私、西部に妹みたいな子がいるから、その子のためにも、絶対に戻らなきゃいけないのよ。あの子、一人で私の帰りを待ってる。だから、殺されない方法を考える時間と、殺されないための仲間が必要なの」
彼女は、獣のような視線を私とケイトスに向けた。
「そのために、あなたたちを利用させてもらうわ」
「ああ。いいだろ、ケイトス?」
「いや」
私は思わず咳払いしてしまった。
「どうして」
ケイトスの顔を覗き込む。
わずかに、ほんのわずかに、
頬を膨らませている。
なんで、この状況で、
嫉妬してるんだこいつは。
「……ケイトス」
ピトンが、声をかけた。
「私からも、お願いします。彼女を一緒に連れていってあげてください」
「いやいや、あんたも行くでしょ? ピトン」
ティグレがぎょっとして、ピトンの腕を掴む。
「私は……」
「ピトン、あんたは私が守る。彼とそう約束した。何を迷っているかは知らないけど、どこで悩んだって同じだ。行く先で迷えばいいよ」
ケイトスが何か言いたそうにこちらを見ていたが、無視する。
私よりも頭一つ分は背の低い、ピトンとティグレに手を差し伸べる。
「私はラビット、こっちはケイトス」
よろしく。
そう言って、私は小さく微笑んだ。
「本当に、送っていかなくていいのかい」
おばちゃんが眉根を寄せて、
確認するように問いかけた。
山々の向こうから、太陽が顔を出しつつあった。
もう、朝なのか。
だが、その温かさに救われる。
「大丈夫。おばちゃんこそ、気をつけて」
息子が早く戻りたそうな顔をしていたので、
私は笑って手を振った。
この男だけは、墓場まで恨んでおこう。
「あんたらもね」
エンジンを吹かし、
二人を乗せた車が朝もやの中、遠ざかっていく。
「さて、とりあえず南西の港町を目指すか」
「ラビット、どうやって行くの?」
「歩いて?」
「……」
ケイトスが呆れた目をしていた。
「え、ダメ?」
ピトンとティグレに同意を求めたが、
首を傾げられた。
「ピトンは私が運ぶつもりだったけど……あんた、ケイトスって、あのケイトスよね? ラビットはあんたが運びなさいよ」
ケイトスはティグレの言ったことを反芻するように、
「あの? 私、有名人?」
「みたいだな」
「自分のことなのに知らないの? テューポンのABCランクで、戦闘力Aと防御力Bは最も高いASとBS、状況判断力Cはめちゃくちゃ低いCZって聞いたけど」
なんだその序列。
初めて聞いたぞ。
「なにそれ、私は?」
「見たことないけど」
ランク外ってやつかな。
地味に傷つく。
「テューポンはレベル3~1しか載ってないから、あんた兎にはなれないでしょ?」
ティグレは空に向かって腕を伸ばし、
猫のように大きく伸びをした。
「んーッ」
と声を上げた。
まるで、天を押し上げんばかりに。
「―――グルルッ」
彼女の腕が一瞬にして視界から消える。
視線を下げると、白い虎が唸っていた。
「ほ、ほお……」
思わず拍手しながら、
感嘆の声を上げてしまった。
「ガアッ」
見世物じゃないわよ、なんて聞こえそうだ。
ティグレは鼻先をピトンの腰に当て、
背中に乗るように促した。
「でも、あなたは、大けがを」
ピトンが遠慮がちに言って、しゃがみ込んで視線を合わせた。
「ガウッ……」
「あいたッ」
尻尾をしならせて、ピトンのお尻を叩く。
「ありがとうございます……」
ピトンはティグレの大きくてふさふさとした体毛に覆われた背中に跨った。
振り返ると、ケイトスもまたあの珍妙な生物へと姿を変えていた。
「……いいのか?」
私は聞いた。
ケイトスは何も言わない。
しかし、彼女の白いひげによって、
体を持ち上げられた。
「わっと!?」
バランスを崩して前のめりになった。
有無を言わさないというか、ほぼ強制的に彼女の背に乗ることになった。
私はうねるひげをしっかりと握る。
南西諸島は、エル・ビスカイリ海域のど真ん中にある。
これは、偶然だろうか。
それとも――。
「ラビット置いていきますよ」
ティグレたちが先行していた。
「ああ、行こうかケイトス」
頬を切るように風が起こる。
あの海域は、自然豊かだと聞く。
動物の楽園。
太陽の愛した場所。
そんな聖域を血生臭い戦場に変えるわけにはいかない。
もしかしたら、そこもまた私とケイトスの
帰るべき場所になるかもしれないのだから。
故郷はあったが、今はもうない。
望郷しても、虚しいだけで。
ならば、やはり目指すその先を故郷にしよう。
ねえ、ケイトス。
今日はここまで
また明日以降に
昔々の話だ。
世界では漸く、地球は丸いと言われ始めていた頃。
様々な国々が、資源を求め船を出し、新大陸を目指した。
鉄鉱石や石油、海産物等、豊富な資源を有していたとある大陸を統べていた王は、
それを守るために、多くの犠牲を払った。
犠牲の大部分は、大陸の南側から連れてきた先住民族達であった。
彼らは全て子どもであった。
彼らは、ナワル(鳥獣に変態する力(トナル)を備えている者)と呼ばれ、南部では『太陽の子』と言われ神々の末裔として崇められていた。
海から来る異形の者たちに対抗するため、王は大陸のさらなる統治も同時に進めた。
それまでばらばらだった大陸領土を南と西に分けたのだ。
王の住む西は、資源を優位に扱うことができたが、
南部側は生贄を捧げるように人も資源も西武側へ流出していった。
その統治体制は、今なおこの大陸に根強く残っている。
「なんだ、その王様は許せんな」
その王様が、そんなこと思いつかなかったら、
今、こんな目にあってない気がする。
「王様も、この力を恐れていたのでしょうが、王様が全て悪いというわけではありませんよ、ラビット」
ピトンが風になびく髪を抑え、言った。
「もし、この力で私たちが反逆を考えでもして、天地をひっくり返してみたとします。ですが、南側はとても保守的で、資源は豊富にあってもテクノロジーが発展する見込みはないのです。それに、ナワルを通じて、神の加護にあやかろうとして、儀式と称したくさんの人間や動物を毎日のように生贄に捧げていました。南の人間は、人を殺すことに躊躇がないと、今でも言われているくらいです。王が、介入しなければ、ただ無為に人が殺されていただけ、という風にも解釈できます」
「何かのブームみたいにさ、やれ鷲だの虎だの兎だのって作って、いらなくなったらぽいってどうかと思うけどね」
「寿命が短いのでしょうがありません。昔、老いた母を山へ捨てに行くという話があったそうですが、それと同じなのでしょう」
「ピトン、そりゃ昔の話だ。今の話をしよう」
「今の話ですか、あ、海が見えてきましたよ」
先ほどまでと打って変わり、ピトンが白い虎の背に揺られ、瞳を輝かせた。
「お」
私も視線を前方へ転じた。
地平線へと伸びる海が、
世界はこんなにも広いのだと、
語りかけているようだった。
港町では人目につくので、ケイトスとティグレの変態を解いてもらい、
途中から徒歩で移動することにした。
ケイトスが目を擦る。
「どうした、眠いの?」
「うん、おぶって」
「えー」
さっきまで運んでもらった手前断ることもできず、
「しょーがないやっちゃな……ほれ」
「わーい」
子どものように背中に飛び乗った。
「……ティグレ?」
ピトンが屈む。
「いや、私、求めてないから」
「そうですか」
「恥ずかしがり屋だな、ティグレは」
パンッ、と彼女の背中を叩いた。
「ひぐッ!?」
奇声を発して、床に突っ伏する。
「あん………たぁッ」
ティグレは涙声で私を睨んだ。
「ラビット、ティグレが背中に大けがしてるんですよッ」
「ご、ごめん! 忘れてた!」
「後で、覚えておきなさい……」
なんとも間抜けな格好でティグレが凄みを利かせる。
その一騒動の中でも、ケイトスからはすでに穏やかな寝息が聞こえ始めていた。
港町――バハ。
海に近いこともあり、異国の人間も多い。
そのため、大陸の中でも、割と南部西部といったくくりが緩い街でもある。
ここを通過して、南西諸島に逃亡するマフィア幹部や南部の者も多い。
南西諸島は、大陸の中でも、最も食べ物が美味しいとされている。
「とりあえず、ティグレの治療が最優先だ」
「必要ないわよ。明日には治るわ」
「そうは言っても、一日は夜露を凌ぐ場所が必要ってわけで」
残金を使い果たせば可能だが、
海を渡る金が無くなってしまう。
はて、どうしたものかな。
「大道芸でもしようか」
笑いながら、提案する。
「誰がするの?」
ケイトスが聞き返す。
「そりゃ」
名指ししようとしたら、ピトンとティグレに半眼で睨まれてしまったので、口を閉じた。
冗談だ。そう殺気立っちゃいやよ。
「ラビット、あなた今まではどうだったか知らないけど、一応お尋ね者なのよ、私たちは」
ティグレが私の顎を掴み上げる。
この子、手が早い。
「ふぁ、ふぁい」
ケイトスがゆっくりとティグレと私の間に割り入って、
ティグレを威嚇するためか、髭を出し始める。
「こ、こらッ、その物騒なのしまいなさい。めッ」
「はーい」
適当に返事をする少女。
「でもさ、西の連中だって、そんな大陸の隅々まで影響力があって、監視してるってわけじゃないんだから大丈夫じゃない?」
ケイトスを軽く羽交い絞めしながら、ティグレに尋ねる。
特に、この港町ならなおさらだ。
「いい? 南西の島々が次の標的だって言ったでしょ。ダラムスは西部人区域からも近かった。でも、今度は海を渡らなくちゃいけない。つまり、この街で軍の連中が宿泊してる可能性が高いの。それに、ダラムスで失敗してしまった以上、今まで通りではまずいと思ったはずよ。それに、あれだけの虐殺をして、反政府組織だって黙ってはいないでしょうね」
「とりあえずさ、軍に戻れば殺されるわけだ」
「はい」
ピトンは頷いた。
「じゃあ、反政府組織にお世話になるのはどう?」
「却下」
ティグレが即答した。
自分自身、ペドロやメンチャのことを思い出して、自己嫌悪した。
ああいった、思想家というか教団がほとんどではないだろうし、
中には平和的な指導者もいるとは思うけど。
「かくなる上は、夜の路地裏で、男をひっかける魔性の娼婦になるしかないかな」
「却下却下却下」
ティグレが吐き散らすように言った。
「ねえ」
何かを提案するように、
ケイトスが指を差した。
「これ」
3人で一斉にそちらを振り向く。
ショーウインドウに何か張り付いてあった。
雨かそれとも潮風のせいか、そのチラシは象の膝のようにゴワゴワしていた。
「何々、娘の遊び相手を募集中? 住み込み日雇いで1日からOK。給料は相談に応じる。体力のあるものに限る。また、命の保証はできかねる」
私がそう読み終えると、ケイトスが、
「よさそう」
「どこがですか」
ピトンからすぐに反対の声があがる。
「そうよ。なによこれ、最後の『命の保証はできかねる』って」
「遊ぶだけの簡単なお仕事だよ」
「おおかた、その娘ってやつはワニかクマか、はたまたライオンかっていうオチなんじゃないか」
「じゃあ、大丈夫」
ケイトスが自信ありげに言った。
頼もしい限りです。
「ちょ、ちょっとあんたの連れでしょ、どうにかしてよ」
私の耳たぶをひっぱり、ティグレが小声で言った。
反対側からピトンも、
「さすがに、このチラシは怪しすぎます」
う、うん。
だよな。
そう思うよ、私も。
両方の耳から責められて、
しかし、他に良い方法も思いつかない。
そして、最終的な決定権は、申し訳ないが、
私ではなくケイトスにあったりする。
兎にも角にも、
「面白そうだし言ってみようや」
と、私は笑いながら合掌した。
丘の上にあるその豪邸からは、
港が一望できた。
テラスではケイトスとピトンが海を見渡している。
開け放たれたテラスではしゃぐケイトスを尻目に、
私は家の主にらしくない作り笑顔を向けた。
「では、明日からお願いしますね。ラビットさん」
「ヘンリー、ラビットでかまいません」
「では、ラビット、ティグレ、娘のことをお願いします」
そう言って、恰幅の良いヘンリーは西部系の白い肌に金色の髪をしたたらせ、深々と腰を下げた。
「お礼は、このくらいでということで」
と指を全て立てる。
1週間は遊べそうな金額だった。
ティグレと目を合わせ、その話をありがたく承諾した。
「部屋や、後のことは全てメイドに任せています。私は仕事があるのでこれで」
「あの」
と、おずおずとしたメイドの声で応接室の入り口に視線を移した。
「お、お部屋の準備が整いましたので、ご案内させていただきます」
これまた体格の良い娘さんだった。
白いタイツは筋肉が浮き出ていて、
なんとも生々しい。
本当に女なのか疑わしい。
そもそも、どうしてこんなスカート丈の短いメイド服を支給したのだろう。
そういった下らない質問を飲み込んで、
私たちは彼女に案内されるがまま屋敷の奥へと向かった。
しかし、誰もが遠慮したとしても、我関せずと平然と聞く奴が、
このパーティーには一人だけいた。
「ねえ、あなた女の人?」
筋肉メイドはむろん自分のことだと悟ったようで、
ケイトスを見つめた。
「そうですが」
「こら、ケイトス! す、すいませんウチの子がとんだ失礼を」
「もが」
ケイトスの口を封じ込める。
クソガキめ。
「ふふ、いいんです。街に下りれば、そういった質問はよく受けます」
あ、意外と傷は浅いかもしれないぞ。
「昔はかっとなって、つい――なんてこともありましたが」
つい、何したって?
「今は、あまり気にしてませんから」
彼女は笑いながら、ケイトスの頭を撫でた。
それから、頭を掴みあげる。
ケイトスの体が宙に浮いた。
「あまり気にしてませんから」
「根に持ってる」
ケイトスが臆せずに呟いた。
メイドの名前はメアリーと言った。
今日はここまでです
ほのぼの百合編ができたらと思います
その後、メアリーにあることないことお世辞を述べて、
散々ちやほやさせて、漸くケイトスを解放してもらった。
寝室に案内される頃にはすっかりご機嫌になって、
「いつでも呼んでくださいね」
やたら骨格のしっかりした顎を突き出して微笑みながら去っていった。
もはやおっさんである。
「さ、部屋割りだけど」
ピトンに目配せする。
「どっちでも大丈夫ですよ」
部屋は2つある。
一つは、大きなダブルベッド。
一つは、シングルベッドが2つ。
「あみだくじにしようか」
「それ、どうなるの」
私の提案に、ピトンがうなる。
答えたのはティグレだった。
「やりようによっちゃ、私とあなたが一つのベッドで寝るってこともあり得るってことよ」
目を細めて、ティグレが意地悪く笑った。
「え、やだ」
ケイトスが私の腰に腕を回す。
「ほお」
ティグレの唇が、わずかに歪んだ。
「ティグレ、ケイトスはラビットが好きなんでしょう。許してあげてください」
ピトンが言った。
「ラビットと一緒に大きなベッドで寝たい」
「ケイトス、あんまり我がまま言うなよ」
「いいですよ。ね、ティグレ」
「良いも悪いも、私達は一応保護されてる身だし文句なんて初めからないわよ」
「ティグレ、そういうつもりは……」
ティグレは私の肩を叩く。
「はいはい。行くわよ、ピトン」
「あ、ええ」
ティグレはピトンの手を引いて、そそくさと扉を閉めてしまった。
残された私とケイトスは顔を見合わせる。
ケイトスはご満悦な顔で、
「ベッド、行こ?」
と、夜の誘い文句みたいな台詞を吐いていた。
ベッドシーツが白すぎて、なんだか寝るのがもったいないと思ってしまうくらいには部屋は清潔さを保っていた。
別に、ベッドを汚すとかってわけじゃないけど。
相棒は案外寝相がよろしくないし。
天井は低い。
日当たりはいい。
なんだか、あの部屋に似ている。
民族解放軍の、あれは本拠地みたいなものだったのか。
「ラビットー、あっちの部屋とお話できる」
「ああ」
小窓から体を乗り出して、ケイトスが手を振っている。
危ないから戻んなさい、とティグレが言っているのが聞こえた。
ぼんやりと見ていたら、何のお約束かケイトスが前のめりに落ちそうになっていた。
落ちても大丈夫そうな人間だったが、
「バカ!!」
叫びながら彼女の身体にとびかかって、
部屋に引き戻した。
「あいた」
私の上でケイトスが呟いた。
「赤ちゃんかお前は」
「16歳」
「知ってるよ」
二人、部屋の固い床に転がったまま天井を見ていた。
開け放した小窓から、潮風が入ってきてしょっぱい匂いがした。
「海の匂い、喜んでる」
「なに、お前の中の奴ら?」
「うん」
「懐かしいのかもな」
「そうだと思う」
「砂浜にでも行く?」
「ううん、ラビットとこうやってたい」
「重たいんだけど」
「ボスの所のベッドでは乗っても何にも言わなかった」
「あれは……なんだ、酔ってたの、ごめん」
ケイトスは黙った。
それから、いつの間にか握りしめていた部屋のモニターのリモコンを掲げた。
ヴインッ――とモニターに色が宿る。
ニュース番組が、明朝の事件を取りまとめていた。
「……南方の廃村ダラムスでの大量虐殺について、南部側から厳しい非難の声が上がっており、MP及び西部軍指導者らへ計画の詳細を要求していますが、一切開示しないという方向で、西武側は意見を固めたとの見解を発表し、今日午後の議会で報告書を」
私はケイトスの手ごと、スイッチを切った。
ふいに静けさが戻る。
「今は、聞きたくない」
ケイトスを抱きしめる。
「わかった」
彼女はぽとりと腕を床に降ろした。
何とはなくに沈黙。
一瞬だけ見えたダラムスは、鎮火し黒ずんだ街並みとなっていた。
まるで、元々村なんて存在していなかったようだ。
地に伸びた根っこを切られたような、浮遊感。
「このまま、どこか飛んでいきたいなあ」
私は、何を言っているのか。
「だめ」
ケイトスは怒ったように言った。
続けて、
「ここにいて」
くるりと身体の向きを変える。
白い頬に、私は手を添えた。
「分かってるよ」
不安げにケイトスの瞳が揺れた。
不思議だ。
こんな表情、見たことない。
私が、そうさせてしまっているのか。
可哀想じゃないか。
でも、ケイトスに求められるのは心地良い。
「ラビット……」
ケイトスの唇が私の口をわずかにかすめた。
ふっくらしていた。
くすぐったいので、片目を瞑る。
「こらッ」
冗談だと思い、体を押し返す。
私ははっとして、ケイトスを見返した。
上気した頬。少し、荒い息。
「ケイトス……?」
眠いのでここまでです
精神安定剤みたいなものかな。
お気に入りの人形が生身に変わっただけなんじゃないのだろうか。
と、そんなひねくれたことを考える。
言い方ってものがあるだろうってね。
「分かった。そんなにしたいならすればいいよ。ただし、1回だけだから」
私は大の字に手足を伸ばした。
どうにでもなれ。
目を瞑る。
口の端をちろりと舐められた。
体が震えた。
そんなオプションをつけた覚えはないぞ。
言うが早いか、ふっくらとした皮膚の重みが唇に伝わった。
それが引き金になったわけではなかったけれど、
今まで、どうにかこうにか誤魔化していた波打つ鼓動が激しさを増した。
心臓が飛び出そうになった所で、怖くなり目を開けた。
分かっていたけど。
あえて言うなら、ケイトスは愛くるしかった。
初めて見たときに、あんな出会いをしていなければ、友達になりたいとも思った。
今は、私を慕う彼女をずっとどこかに閉じ込めてしまいたい。
それくらいには、私は、ケイトスに惹かれていた。
認めたくないけれど。
懐いてくるケイトスは、可愛い。
ケイトスが満足そうに、顔を離す。
まるで、獲物を仕留めた肉食獣のようだ。
約束はすぐに破られた。
ケイトスは何度も唇を重ねた。
私の口の周りがふやふやになるのもかまわずに。
食い散らかす獣である。
「わっぷ……ストップストップ」
気持ちが良いわけもなく、若干べたべたしてきて、
こういうもんじゃないだろう、と言ってやりたくなった。
と、そこで気が付く。
ケイトスがしたかったことを、私は本当は理解していないんじゃないかってこと。
そして、ケイトス自身も理解していないんじゃないかってことを。
「ラビット」
私の名前を呼ぶケイトスは、難問にぶつかった数学者の顔である。
「なんか違う」
そりゃそうだ。
「そうだなあ」
私は、下唇をぺろりと舐めた。
かと言って、私自身彼女にレクチャーできるような経験があるわけではない。
施設に居た頃、人間の声は、昼間はごちゃごちゃして言葉として理解できなかった。
ただ、夜は違った。静まり返ったにも関わらず、聞こえてくる音。話声。
そして、同室のドナー達の噂話。
情報だけは耳に集まった。
もちろん錯綜していた。
今も。
カチカチ、と時計の音。
今日の夜は、ごちそうが食べれる。
それまでは、フリー。
明日は、仕事。
それまでは何をしよう。
誰か、部屋に訪ねてきてくれないか。
わあ、何をしてるんだ。
私とケイトスは咄嗟に跳ね起きるんだ。
そして、元の日常に戻る。
突然、首に痛み。
ケイトスに噛まれた。
「あいたッ」
「何、考えてるの」
「元に戻る方法を」
「?」
ケイトスは頭に疑問符を浮かべた。
だよなあ。
「ラビット、他のことはいいから、私のことを考えて」
自分の噛んだ部分を、ケイトスは人差し指でなぞった。
ぞくりとした。
「考えてるさ」
「ほんとに?」
「出会ってから、ケイトスのことばっかりだ」
死にそうな時も。
情けない時も。
寂しい時も。
そこにはケイトスがいた。
少女は単純だ。
首筋に当てていた人差し指を私の鼻の頭にちょこんとのっける。
口元をもぐもぐさせて、きゅっとしぼって、にやりと笑った。
「うん」
今の返答でよろしいのか。
「ケイトスは、どうなのさ。私のこと」
「好き」
即答。
びびっているのは私の方だ。
分かっていたけど。
落ち着け。
何度か言われたことがあるだろ。
なら、大丈夫。
受け止められる。
「それが一番しっくりくる」
少女は頷きつつ続けた。
彼女の乏しい語彙が漸く本領を発揮したようだった。
眠すぎるのでここまで
「不思議。ラビットがいないと寂しい。私を見ていないと、不安になるし怒りっぽくなる」
私はたじろいでしまう。
共にいたいと願って、通じ合って、いつの間にか彼女の方が先を行っている。
「他の人にデレデレしないで」
してない、と言いかけたが、ケイトスが文句は聞かないとでも言いたげだったので口を噤んだ。
「今日は、やけに女の子だな」
「可愛い?」
狙ってるのかこいつは。
むう。
私は頷いた。
無邪気さを装うケイトス。
根負けしたように彼女の頭を撫で、抱きしめてあげた。
「……一番可愛い」
胸の奥がかゆい。
しかし、少女は嬉しそうにもぞりと悶えた。
「もっと」
もっと?
いやあ。
改めて言うと、照れ臭い。
私はわざとらし咳払いをした。
言いあぐねているのが面白いのか、少女は楽し気だ。
西部軍とMPの研究と実験の果てに生み出されたケイトスと言う名の怪物は、
今や、どこからどう見ても恋する普通の女の子だった。
普通じゃないのは、対象が男の子じゃないという所だが。
まともな情操教育なんて受けて来なかっただろうし。
何もかも初めまして。
ハイジが育ての親でウサギが友達なら、必然次に出会った奴がパートナーになる。
可愛い、と私は繰り返した。
また、ケイトスは笑う。
余計なことばかり頭には過る。
自分の浅はかな思考なんて、
それはほとんどが余計なことだろうけれど。
痺れてきた下半身を動かす。
それに気が付いたのか、ケイトスは立ち上がった。
気を遣われた。
まさか、ケイトスが?
手を伸ばして、
「ベッドで遊ぼう?」
と言った。
一瞬、ぽかんとなった。
が、彼女に引っ張られてぼふんと体を委ねる格好になった。
固まったまま少女を見ると、ベッドのスプリングを生かして飛び跳ねていた。
「だよな……」
予想を裏切ってもらえてほっとしてしまった。
暫く経って、扉がノックされた。
ケイトスがごろごろとベッドから降りて、ドアに駆け寄った。
「はーい」
「入るわよ」
ティグレだった。
銀糸の髪を解いて、
ここの服を借りたのだろうか。
ラフな部屋着を着ていた。
「浴場があるらしいんだけど」
その横からやや前屈みにピトンが顔を覗かせた。
「行きませんか?」
ふと、視線を上げるとおっさん――メイドさんがいた。
「旅の疲れが溜まっているんじゃないかと旦那様が」
この家の主人には、私たちのことを大道芸の修行中の身で、世界各地を放浪中と説明してあった。
口から出まかせも甚だしいが、どのみち命の保証すらしかねる仕事のため、深くは突っ込まれなかった。
それに、客人が何らかの粗相をしたとしても、大体このメイドさんにお仕置きを受ける羽目になるのだろう。
私もケイトスも確かに薄汚いのは否めない。
喜んで同意した。
風呂場に行くと、金持ちの道楽としか思えない光景が広がっていた。
メイドのメアリー曰く、山奥の岩山の谷間にある洞窟温泉に一度旅行に行った時、この家の主人であるヘンリーがかなり気に入ったようだ。
当時、奥さんに先立たれていた彼は、その慰安旅行で何を思ったのか、寂しさを埋めるようにしてこの浴場の建設に取り組んだらしい。
壁や天井は乳白色の鍾乳石が使われており、さながら洞窟を演出していた。
床だけはタイルが敷き詰められており、肝心の湯船の部分は青白く濁った光を放っている。
神秘的と言えば神秘的。
秘湯と言えば秘湯。
窓ガラスは広く分厚く、すぐ前方の山間を抜けた所に煙突のようなものが3本突き出し、その奥には港のパノラマが広がっていた。
海には石油タンカーと採掘所が合体したような船が浮かんでいる。
「家の中にこんな大自然を作れるなんて、あの人何者なんだ」
メイドは早々に退出していたので、答えたのはピトンだった。
「この港町に属する海洋石油基地の所長だと思います。昔、一度だけ顔を拝見したことがありますので。ほら、あそこに大型の船が見えますよね。確か、ブルーホライズンと呼ばれている石油基地です」
ケイトス以外は、ピトンの指差す船に視線を寄せた。
ケイトスは洞窟のような作りに珍しがり、奥へと続く道を見つけたのかぺたぺたと裸一貫で歩いていく。
「私の顔が変っていたので、あちらは気が付いていないようですが。西部への石油資源供給施設は全部で10基地あり、ここはその6分の1を占めていると聞いたことがあります」
規模の話は比較対象がないためぱっと分からないが、とにかく凄い富豪なのだろう。
「その分、国や軍への備蓄量も多いですし、原油採掘には危険がつきものですから、見返りにMPからブルーホライズンに人的資源を送り込んだり、ブルーホライズンの開発資金は低金利融資を約束されていたりと色々とメリットは大きかったと思います」
ティグレはつまらなさそうに欠伸を噛み殺す。
「人的資源って?」
ティグレを横目で見ながら、私は聞いた。
「我々のような人間ですよ。超深度の採掘や危険なガスの蔓延する場所に普通の人間は行けませんから」
「いや、そんなの私らだって死ぬレベルだろ」
「用途に合わせて人材を捻出するのがMPの南部人的資源公社の役割です」
淡々と、しかし伏目がちに話す彼女の顔には、やや徒労が見えた。
これまでのことを思い返して感傷に浸っているのかもしれない。
「有機成因論と言うのはご存知ですか?」
「この顔見て、知ってると思う?」
「いいえ」
自分で聞いたことだが、真顔で言われるとややショックである。
ピトンは机の上にじっと座り、黒板をしっかりと書き写す優等生の顔でつらつらと滑らかに説明した。
ざっくりと言うと、うん百万年と長期間にわたって生物の死体が土砂と一緒に体積して、高温と高圧によって性質を変えていき油田が形成されていくというものらしかった。
ピトンの聞いた話では、MPの西部海軍特殊部隊チームの報告書には、超深度で生体反応を確認し、
その後、人型のナワル(鳥獣に変態する力(トナル)を持つ人間)と交戦したということだ。
「私、先に入るからねー」
ティグレはシャワーの栓を捻って、体を洗い始めていた。
「はい」
「前から、聞こうと思ってたんだけどさ……この力って自然に発症するんだ」
「これに関しては色々な説がありますが、精神的に追いつめられ、何らかの電気的刺激によってとか、麻薬による遺伝子破壊の結果だとか、どれも全てを説明すできないままです。信心深い学者の中には、量子テレポーテーションによって光速で神の国にアクセスし、『太陽の子』として覚醒するのではと真剣な顔で言う人間もいます」
「あながち間違いじゃないかもな」
「私には分かりません……っくしゅ」
ピトンは、身体に巻いた白い布地をさする。
「長話しさせてごめん、もう入ろうか」
「ええ。ティグレ、背中は大丈夫ですか?」
ピトンが声をかけた時にはもはや手遅れだった。
傷口にかけたお湯に耐えるように、ティグレがぷるぷると床に手をついていた。
昔、飛行機が空を飛ぶ理由は100%解明されていないと聞いたことがある。
まあ、人間だって全てを解明されて、動いているわけではないのだ。
卵が先か鶏が先か。
それと同じようなものだ。
謎の部分が残されたままだから、訳の分からないことが起こる。
訳の分からないまま私たちは飯を食べ、風呂に入り、人を殺し、
そうやって訳の分からないまま生きている。
「ケイトス、どこ行った?」
「ここー」
岩陰から声。
注視する。
手を振っている。
「体洗ってあげるから、こっちきな」
「はーい」
とりあえずここまで
ケイトスは出会った頃に比べて、健康的に日に焼けたように思う。
まあ、まだ私に比べればなまっちろいけれど。
背中を洗い終え、
「はい、前は自分でしなさいな」
ボディブラシを渡しても受け取らない。
「前もして欲しい。ダメ?」
首を傾げる。
こいつ、私の弱いポーズを覚えているのか。
否、何も考えちゃいないな。
「しょうがない奴め」
ケイトスをこちらに向かせ、
腕をとって軽くこする。
そこから首筋、鎖骨、胸。
ブラシが胸をぷるんと揺らした。
それは必然視界に入る。
私は終始、体を洗うという目的にしがみついた。
「ほら、終わった」
全身泡だらけのケイトスにシャワーでお湯をかけて流していく。
ピトンやティグレの肌を見てもそこまで動揺しなかったのに、
ケイトスのはやたらリアルで艶めかしく感じてしまった。
「私も、洗ってあげる」
「あー、うん」
悶々と私は腰掛けた。
湯船に先に浸かる二人から、
「あんたら付き合ってるの?」
と尋ねられるくらいにはくっつきすぎているケイトスをひっぺがす。
少女はしばしその辺りを遊泳して、また私の元に戻って体を寄せた。
「そうなるのかな」
「酔狂ねえ」
確かにな。
ティグレの言葉に苦笑する。
「そのちんちくりんのどこがいいの」
ケイトスのことだ。
「確かに、クソガキだけど」
と私も頷いた。
「ラビットはケイトスのお守りをしているのかと思っていました」
「それもまた然りだな」
三人三様にケイトスを見た。
ケイトスは幸せそうに、お湯に浸っていた。
瞑っていた目をふいにぱちりと開く。
「どうしたの?」
人の話を聞かないやつめ。
「ケイトスは、ラビットが好きなんだねって話ですよ」
ピトンは微笑みながら言った。
「うん」
少女は頷く。
お風呂と言うのは不思議なものだ。
昨日まで、ささくれ立っていた感情。
今は、照れくささと一緒にお湯に溶けて、
幸福感に満たされている。
一人ということに慣れていた。
二人というのも悪くないと思っていたら、
四人でもいいんじゃないかと惚けた脳が囁いていた。
ピトンも、ティグレも知り合ったばかりだが、良い奴だ。
年下に弱いのかもしれない。
あながち間違いではないだろう。
「ずっと4人で旅をするのもいいかもなあ」
とぽつりと口からもれた。
少し、間をおいて、
「私は、ラビットと二人でもいいよ」
とケイトスが言ったので、
頭上から手の平を押し付けてお湯に沈めてやった。
夕食時になった。
風呂上がりにメイドからドレスを支給され、お断りしようとしたのもあえなく失敗し、全員問答無用で着用させられた。
それから手際よく化粧までされる始末。
「あの、今日何かあるの?」
薄桃のカーネーションの蕾のような裾を持ち上げながら、
ティグレは背中側が大きくV字に開いた、重たそうなドレスを引きずりつつメアリーに訪ねた。
「いいえ、若い女性のお客様をお招きした時はいつもこうでして」
のしのしと戦闘を行くメアリーは軽やかに振り向きながら言った。
髪の長い私は髪を後ろに纏め上げられたり、青いバラの造花で留めて横に流されたりと、好き勝手にいじられた。
嫌だ嫌だと駄々をこねたが、結局、無駄を極限まで削ぎ落とした肌にぴったり張り付くくらいの白のスレンダードレスを着せられてしまった。
ケイトスとピトンは明らかに子ども服と思しきドレスを着用させられ、私とティグレは二人で笑ってしまった。
ピトンは心外そうにしていたが、ケイトスは無頓着なのかまんざらでもないのか、
お気に入りとなったヘアピンをつけれればそれでいいのか文句ひとつ言わなかった。
とにかく、4人中3人はこの道楽に辟易していた。
しかし、
「どうぞ、中へ」
何mに渡り長机に並べられた豪勢な料理の数々を見たら、
全てお空の彼方であった。
席の一番奥に座っていたヘンリーが満足そうに手を叩いた。
「いいですね。それは全て娘に着せようと思っていたものですよ」
柔和な笑みを浮かべ、ピトンの頭を撫でる。
食堂に娘の影は無い。
尋ねると、別室で食事を取っているとのこと。
あまりその当たりには触れず、
「こちらこそ、このような計らいをして頂いて感謝いたします」
とピトンが深々とお礼を述べていた。
「しっかりとしたお嬢さんだ」
私たちも慌ててお辞儀した。
「ピトンは小さいのにしっかりしてるよな」
ティグレに小声で言うと、
「あれでももうすぐ20歳よ。あんたより、年上なんじゃないの」
「え」
と衝撃の事実がさらりと述べられた。
ピトンの方を見る。
「どうかされましたか?」
「いや」
詐欺だなあ。
顔が無性にかゆくなっても化粧をしているために掻けず、
私は観念して、うろちょろしそうなケイトスの手を引いて席に座らせた。
「では、乾杯しよう」
全員がグラスを手にして、
今日の晩御飯にありつけたことに感謝して杯を重ねた。
皿に載っていた大きな甲殻類にケイトスはすぐさま食いつき、
殻の剥き方に苦戦していた。
「こうやるの」
頭から取って、身を出してやる。
礼も言わずに、そのまましゃぶりついた。
「ほいひい」
そうかい。
良かったな。
私も目の前にあったトマトとアボカド、エビや魚介類を刻んで炒めたような謎の料理にフォークを差した。
口に入れると、オリーブオイルと海産物のほのかな香りが口に広がり鼻から抜けていった。
自分の人生からは、縁遠い味だった。
その料理の深みはたぶん分からない。
分からないなりに、美味い。
「これは……なかなか」
シーフードのグリルも素材の味覚がそのまま味わえて、酒が進む進む。
「良い食べっぷりですな」
ヘンリーは少女達の食い散らかしように全く嫌な顔もせず、
「まだまだありますので、明日の鋭気を養ってくださいな」
と朗らかに言った。
夕食を食べ終えた頃には、出来上がっていた。
私だけが。
ドレスから部屋着に着替えて、部屋まで戻るまでは平静を装って歩いていようと思ったが、
扉と間違えて壁にぶつかって千鳥足になった所で全員にバレた。
足を滑らせて、床に転がって天井を仰いだ。
「弱いくせに飲んでんじゃないわよ」
ティグレに足で頭を小突かれた。
「はい……」
「ピトン、もうすぐそこだから引きずってあげなさいよ」
「うん」
少女は頷いた。
「ピトン、もう一回浴場行かない?」
視界の端で、ティグレがうずうずしていた。
「仕方ありませんね。構いませんよ」
「やった」
ああ。
上官って言うより、お姉ちゃんって感じだ。
ちっさいけど。
彼らからどんどん遠ざかっていく。
ケイトスが引きずっているのだ。
ありがとう。
背中がちりちりするけど。
部屋に戻ってきて、ベッドの縁に腰掛けさせてもらい、そのまま仰向けに寝転がった。
風が舞った。
「ケイトスー、お水とってー」
「はーい」
とたとたとケイトスが小走りして、
蛇口を捻る音が聞こえた。
こぽこぽとコップに水が注がれる。
酔っ払いの介抱までできるようになって、
成長したなあ。
「お水、飲める?」
「ううん、飲めない」
コップになみなみと注がれたそれを見て、私は首を振った。
零れるからちょっと飲んでくれるか、と言おうとしたら、
彼女は一口口に含んだ。
そのまま、顔が近づいて、キスされる。
「っん……?」
口の中に入ってくる冷たい液体。
端からぽたぽたと零れていく。
「つめたっ。おい、こら、ばか」
喉を通っていく水。
シーツにもやや染み込んでいた。
「飲ませてあげたのに」
文句あるのか、と言う顔。
しかし、私に起き上がる気力は無く、
それで良しと思ったのか、彼女はまた水を口に含んで、
私の口の中に直接流し込んできた。
次は、なんとか全部受け止めれた。
「んくっ、ん」
エロガキめ。
「飲めた、飲めましたっ」
「そう」
彼女は顎から首筋に伝っていった滴を舐めとった。
「ケイトスっ」
背中が震えた。
だめだ。
なんで酒なんて飲んでしまったんだ。
いつも、飲んだ後に後悔して、
飲む前にはまた綺麗さっぱり記憶から除去してしまうんだろうけど。
私は後悔していたい。
それも、頭の片隅の片隅の片隅で。
ケイトスの細い腕を掴んで抱き寄せた。
一度ぎゅっと抱き込んで、細い体を持ち上げて、ベッドの中央へ横たえさせる。
両腕をシーツに抑えつけて、彼女の唇に啄むようなキスをした。
熱い。
ケイトスの体も気持ちいいくらいに熱い。
少女の肌の心地よさに抗えない。
太ももを、彼女の足を開かせるように差し込んだ。
月明かりなんて、ロマンチックなもの相まって、
自分がケイトスの上気した表情に欲情してしまっているのがはっきりと感じられた。
ぞくりとした。
抵抗しない彼女は、期待を孕んだ目で私を見ていた。
「ケイトス、私にどうして欲しい?」
「わからない」
「それじゃあ、私も何もできやしないよ」
手を離して、顔を上げる。
急にケイトスが寂しそうに眉根を寄せた。
意地悪だったか。
瞳に陰りが見えた。
「ラビット、苦しい」
別に体重はかけてない。
何が苦しいんだ。
「どうした」
「苦しいの」
他に言い方が思いつかないと言った様子だった。
「分からないことが苦しい……ラビットに何かして欲しいのに、何をして欲しいのか分からない。自分のことなのに、思いつかない」
「うん」
「一緒にいて欲しい」
「うん」
「ぎゅってして欲しい」
言葉通りにしてあげた。
「中の子達が言うの。でも、それが何か分からない」
「なんて言ってる?」
私はできる限り、優しく聞いた。
「一つになりたいって。なれるの?」
「なれるよ」
「どうやったら?」
真っ直ぐに目も閉じずに、彼女は私に全てを委ねるかのように聞いた。
私も彼女から目を逸らさずに言った。
「相手と自分の境目が分からなくなるまで一緒になれば」
「教えて」
「いいよ」
愛おしさで狂いそうになる。
衝動を抑えながら、私は彼女の服にそっと手をかけた。
露わになった胸の膨らみを揉むと、ケイトスが小さく喉を鳴らした。
「嫌?」
「やじゃないよ」
小さな体にしては、手に収まる調度よい大きさだった。
感じたことのない感覚に、ケイトスの体が強張っているのが見て取れた。
「怖くない?」
「全然」
強がりのようにも聞こえた。
「下も脱いじゃおっか」
浴場では裸だったのだ。
今さら恥ずかしがることもないだろう。
と、思っていたのに、ケイトスは意外な反応を見せた。
「あっち向いて」
どうした。
頭でも打ったか。
「恥ずかしいの?」
「うん……」
この短時間の間に、彼女に一体何が起こっているんだろう。
驚くべきことだ。
羞恥で後ろを向いて下着を脱いでいる彼女が可愛くて、私は後ろから抱きしめた。
「や……」
「むり」
後ろから足を開かせる。
少し暴れた。
「これ、や」
体を抱きかかえて抑える。
「我慢して」
しっとりとした太ももを撫で、
沿うようにして下腹部に手を忍ばせた。
さらに驚くべきことに、秘所はぬるりとしていた。
嬉しくなって、彼女の反応を見たくてそれを見せてやる。
「これ、何か分かる?」
人差し指についた粘液を目の前にかざす。
ケイトスは首を振った。
「エッチな気分になってるってこと」
と、説明してもあまりピンとこないようだった。
「つまり、体は知ってるんだよ」
指はすんなりと入っていった。
さすがに二本目はきつくて、
ケイトスも暴れた。
「大丈夫、大丈夫だから」
髪を撫でて、頬にキスをして落ち着かせる。
ゆっくりと動かすと、入り口は徐々に柔らかくなり、
指の形に広がっていく。
ぬめりはいくらでも溢れ出た。
「お腹変」
「痛い?」
「違う……じんじんする」
「そうか」
私の指も中の熱で溶けてしまいそうだ。
空気と混ざって時折、いやらしい音が二人の耳を濡らした。
「ちょっと早くするから。しんどかったら言えよ」
「あ」
かき混ぜるように弄ると、
脈打つように中がうねる。
ぐいぐいと指の腹を押してて擦り上げた。
「あんまり、中に、入れないで」
「どうして」
「何か出ちゃうかも……」
「出ないよ」
言われたことを無視して、奥にしっかりと差し込んだ。
悲鳴に近い声が上がった。
「どうしてっ、だめって、言ったのに」
「ごめん、許して」
「ラビットっ」
批難の声。
「ァ、ゥ」
すぐに言葉は掻き消えていく。
産毛が逆立って、ケイトスは震え声で。
この先を恐れている。
「大丈夫だから」
ケイトスが私の腕を力いっぱい掴み、まるで犬のように音を漏らす。
「ンンゥ……クゥ……ンンン」
その瞬間が訪れようとしていた。
でも、彼女は言葉にする術を持たない。
「ンゥク……クゥ」
いつもより少し高くて鼻にかかるような声音。
喉を狭め小さく鳴いていた。
その姿に、背徳的で狂気的な興奮を覚えた。
あとは、もう彼女の果ての姿が見たいと言う欲求に素直に従った。
数秒の後、彼女は私の指をきゅっと締め付けて果てた。
その夜は長かった。
彼女の全てを味わわんとばかりに。
指と指とを絡め、太ももと太ももを密着させて、
私たちは互いの汗の匂いを体に擦り込ませた。
ただ、肌を重ねるだけでも良かった。
ケイトスは新たに芽生えた感情に混乱しているようでもあった。
恐る恐る触れるのだ。
常に、不遜な態度を保っていた彼女が、ここに来て自らの殻を破り、
女になっていく姿には、一抹の寂しさも感じていた。
明日、ケイトスはどんな顔で私を見るだろうか。
その楽しみと不安とがないまぜになった胸中で、
私はケイトスを抱きしめて眠りに落ちていった。
今日はここまでです
乙
満足
GJ!
最高や・・・
スレ見つけて一気に読みきってしまった
なんだかエル・カザドを思い出したわ
待っとる
待ってる
目が覚めた時、夜かと思った。
なぜなら視界は真っ暗だったからだ。
「……?」
よく寝た。
そうも思った。
顔に、何かかっていた。
なんだ、これ。
あ、毛布か。
と、そこまでゆっくりと思考して、毛布に手をかけた。
「……?」
誰かが抑えつけている。
顔の上から剥がれない。
「とらないで」
ケイトスの声が、すぐそばで聞こえた。
寝ぼけていて、聞き間違えたのだろうか。
強く引っ張る。
「とらないで」
そんな台詞が、またもや聞こえた。
「ケイトス、どうしたの?」
「見ないで」
「見ないでって言われても、もう朝じゃないか?」
「朝だよ」
「じゃあ、起きないと」
ベッドが戦慄く。
「驚かない?」
驚くも驚かないも、一体全体何をそんなに隠そうとしているんだ。
「驚かない」
「分かった」
抵抗が軽くなった。
毛布がふわりと浮き上がる。
その時の私は、恥ずかしがって、可愛い奴め。
なんて、間抜けなことを考えていた。
そこにいるケイトスの、震えた声にも全く気付かないくらいに。
「ケイトス?」
笑って、彼女の身体を抱きしめてやろうと思った。
伸ばした手は、ベッドにまた落ちていった。
「どうしたの、それ?」
笑えなかった口元から、浅く息が漏れた。
「分からない。朝起きたらこうだった」
恐る恐る、ケイトスは私に手を伸ばした。
その腕から、つーっと粘液が滴り落ちた。
彼女を覆う、透明な液体のひとしずく。
それは、ベッドに染みをつくった。
そして、ケイトスの眠っていたであろう場所は、ぬめりでてかてかと光っていた。
「汗……?」
汗にしては、粘り気がありすぎる。
なんだ。
彼女に何が起こったんだ。
「私、溶けるの?」
ケイトスはその瞳に、不安を覗かせていた。
まさに、彼女の言った通り。
身体の組織が溶け出しているのかと思うくらい、
彼女は全身べたべたの粘膜のようなものに覆われていた。
「やだ……溶けたくない」
「だ、大丈夫。溶けないから」
抱きしめてやりたかったが、身体は固まったままだった。
「大丈夫? 本当に?」
確認されても困る。
私にだって、分からない。
「体が……重たい」
少女は、ベッドから降りようとしているようだった。
溶けだした所は徐々に固まりつつあるような。
「ケ、ケイトス」
名前を呼ぶ。
唇を噛みしめて、ケイトスは私を見た。
私を必要としているのが分かった。
かける言葉が見つからない。
どうして。
朝、起きて、彼女のはにかむ顔が見たかっただけなのに。
どうして、今、こんな姿を見ているんだ。
嘘でもいいから、大丈夫と言って抱きしめてやらないと。
膝の上で拳を握る。
「私、消えちゃう……の?」
誰にともなく問いかけるように、か細い声音。
「そんなこと」
「邪魔じゃない。違うよ。ラビットは優しいよ。待って」
私ははっとした。
彼女は誰と話しているんだ。
「怖くない。あれは違うの。信じて」
「お、落ち着――」
「みんなが、怖がってる。ラビットのこと」
もしかして、昨晩のせいか。
「私のせい? そうなんだな?」
「ラビットのせいじゃない。だって、私がして欲しかったことだったから。私が欲しかったから」
「大事な宿主を傷つけようなんて思ってない。ケイトス、言ってくれ」
「私、ラビットのこと好き。大好き。だから、このままで、いいの」
たどたどしく――口の周りが固まりつつあった――言った。
半透明に固まっていく膜。
「いいの。痛いのも、気持ちいいのも、全部大好きだから……お願い、止めて」
「まて……待って」
私は、漸く彼女の身体を抱きしめた。
その感触は、想像したものではなかった。
完全に出遅れた。
硬質化した彼女の身体に、私は悲鳴をあげた。
思わず、身を離した。
「ッ……あ」
それは、あまりにも唐突で。
私はややあって、頭を抱えた。
噛み合わない歯が、ぎりりと音を立てた。
「ケイトス……?」
今日はここまで
また明日くらい
もう、返事はなかった。
瞬き一つせず、呼吸すらしているようにも見えない。
誰かが、キスをしてやれと囁く。
「……ッ」
彼女の頬に手を触れた。
唇に。
鼻に。
首筋に。
昨夜のような甘い声は聞こえない。
触れても、冷たい。
陶器の人形と戯れているみたいだ。
彼女の双眸を凝視した。
こちらを見て微笑むこともない。
暫くして、ピトンとティグレが部屋に入ってきた。
それに気が付くのに、だいぶ時間がかかった。
二人の驚く声が耳に届いても、私は全くケイトスから目を逸らすことができなかった。
泣きながら、彼女の身体を何度も叩いていていた。
力ずくで二人に引き離されながら、乱暴な言葉を吐いてしまったりもした。
落ち着いてきて、二人と二言三言と会話できるようになってから、メイドのメアリーが扉をノックした。
ピトンとティグレは慌てて、ケイトスをクローゼットへと隠した。
「どうぞ」
ピトンが言った。
扉を開けて、メアリーが入ってきた。
「旦那様がお呼びです。広間の方へお越しください」
「はい。すぐに」
「では、お待ちしております」
荒れたベッドや、妙に息の荒い二人を一瞥して、メイドはやや首を傾げつつもにっこりと微笑んで扉を閉めた。
少し静けさを取り戻した寝室で、ピトンが言った。
「あくまで、推測なのですが……」
私にその先の発言の許可を求めるように、手を挙げた。
私は小さく頷いた。
「彼女の宿すトナルの能力が原因ではないかと。私も、落屑と言って蛇の脱皮のような現象を起こすことができます。ただ、話を聞く限り、彼女の場合、自律した能力ではないのでしょうね」
「……レベルのついてる奴らって、そうやって中のトナルと話せたりできるもんなの」
「さあ……少なくとも、彼女以外では知りません」
あまり、驚いた様子はない。
ティグレが手を叩く。
「ケイトスって、クジラも入ってるんでしょ? ほら、鯨油とかって聞くじゃない。あれって、蝋燭にもしたりするんでしょ?」
ピトンが頷いた。
「そうですね。自己防衛で自分を蝋化したのかも……ラビット、彼女と喧嘩でも?」
「……色々、エッチなことした」
頭を抱えて、誰かに謝罪するように私は言った。
ピトンが遠慮がちな気配を見せる中、ティグレは私に追い打ちをかけるように言った。
「乱暴にしたの?」
「そんなことは……」
ない。
ないと言い切れるのか。
誘ってきたのは、あっちじゃないか。
違う。
酔っていて、理性が効かなくて、彼女の嫌がる声を無視してしまった。
「はあ……」
ティグレが溜息を吐いた。
「あのさ、そこの怪物はちょっとやそっとじゃ死なないと思うのよね。心に、体がついていかなかったってことでしょ。生物兵器って言ってもさ、女性器は発達途中なんだから」
横目でティグレを見た。
「それとも、私が手ほどきしましょうか? 女の扱いには慣れてるから」
私は首を横に振った。
言葉より、いくぶん真剣な表情だったので、ティグレに苛立ちはしなかったものの、私は自分への怒りを含んだまま拳を握った。
もちろん、正しく抱く方法を知っていればこんなことにはならなかったのかもしれない。
彼女に優しくしていたつもりだった。
ただのつもりだ。
教えて欲しいけれど、そんな気分にはなれない。
「でも、あなたと一緒になりたいと思ったのはケイトスが望んだことですよ」
肩に手を置いて、ピトンが私の頭を撫でた。
私より年上の少女は微笑む。
「結果はどうあれ、あなたとケイトスが望んだことです。私達は、子ども同士であまり求め合うことはありません。私は、あなた方が少し羨ましいです」
「ああなってしまっても……?」
「……ああなってしまっても、求め合えることがですかね」
少なくとも、それは私の幸せの定義には当てはまらなかった。
ピトンに共感をすることはできなかった。
ただ、彼らと話して、私はやっと重い腰を上げることができた。
二人にケイトスの傍で休んでいろ、と言われたけれど、
二人の後に続くように広間に向かったのだった。
私はこめかみを二回ほど指で弾いた。
悪夢を払うように。
あの後、広間にいったん集合してから、次に目隠しをされた。
これから行く場所は、外部の人間にルートがばれる訳にはいかないらしい。
そう説明されて、言われるままになった。
屋敷の外に出て、車に乗り、潮と緑の匂いが混じったような場所に連れていかれた。
いい加減胡散臭いとも思っていた。
車から降りて、目隠しを外された。
目の前には、地下へ続く階段があった。
「ここに入んな」
そばにいたのはメアリーではなく、作業服姿の中年男性が3人。
白いヘルメットは少し汚れていた。
疲れた顔で、額の汗を拭う。
「たく……この忙しい時に限って――」
ぶつくさ文句を足れていた。
「これで、作業の遅れが取り戻せるんならいいじゃないか」
「でも、ホントにいいんでしょうか……自分は」
「黙っとけ。悪いことは言わねえから。な?」
「は、はい」
背後にそんな言葉を受けながら、私たちは階段を下っていく。
湿気た土の匂い。
壁伝いに小さなランプが灯っていて、暗い土壁にゆらゆらと影を作っていた。
一番下まで着くと、トロッコが二つあった。
それに乗るように指示を受ける。
トロッコは予想よりも移動速度が速く、ピトンが振り落とされないように必死にティグレにしがみついていた。
途中、何度か乗り換えた。
時計を全く見ていなかったのでどのくらいの時間が経ったのかわからなかったが、恐らく1時間以上は経っていた。
すぐ近くに行くものだと思っていたので、私は焦った。
置いてきたケイトスが心配になってきたのだ。
そわそわとし始めた私に気付いたのだろう。
ピトンがティグレを掴みつつも、私の手を握る。
舌を噛まないように、喋りかけてはこなかったものの、私を安心させようとしているのが分かった。
漸く、奥に光が見えた。
トロッコのスピードが弱まって、カランカランと止まった。
線路は途中で途切れていた。
坑道のようなものの先にあったのは、格納庫だった。
「ここは?」
思わず漏れる。
が、作業服の男達は、首を振った。
「黙って歩け」
「まるで、囚人みたいな扱いじゃない?」
ティグレが牙を剥くように言った。
「失礼、レディ。久しく女に触ってないもんでね、扱い方を忘れちまってた」
「扱ったことがない、の間違いでしょ」
と、特に体格のいい中年作業員と軽口を言い合う。
「一応、所長のお客様だぞ。よせよ」
「客? 抜かせ」
「あの部屋に行くまではな」
「自分は、やはり……まだ納得が」
「おいおい、ここで働いてる限りそれを言う権利はねえだろう」
「ですが……」
「おい、無駄口叩くな」
リーダー格の男がやや呆れた様子で壁際のボタンを押した。
シャッターが上がり、きちんと整備された通路が伸びていた。
ここで逃げるとなっても、帰る方法が分からない。
もしもの時は、誰か人質にするか。
となると、この一番ひょろい男性か。
じろじろと見ていたら、
「なんだ?」
と緊張気味に問われた。
「いーや」
「惚れるなら俺にしとけよ、お嬢ちゃん」
体格の良い男が、ひょろい男の首に腕を回した。
リーダー格の男が、立ち止まり、二人を叱責する。
「俺は明日でここを出るんだぞ? 二人ともしっかりしてくれ。そんなんじゃフロアを任せれないだろうが」
「ああ、心配ねえよ。安心して、昇進してくれ」
「船長、この後、退任式ですよね? お時間大丈夫ですか?」
「あ? ああ、もうこんな時間か。すまないが、後は任せたぞ」
「オーケー」
「了解です」
素早い足取りで、船長と呼ばれた男が元来た道を戻っていく。
今日はここまでです
すいません
もう少しお待ちください
こっちもそろそろ書けるのか?
>>403
今月からこっちをかき上げるために新たになssに手を出しません
と、宣言しておかないと別の百合ssをまた書き始めてしまいそうなので……
あ、モチベ上げるためにケイトスのイラスト描いてもらったので良ければ見にきてください
自分の中ではこんな感じです↓
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=56695898
「さーて、フロアのドン亀さんもいなくなったことだし、俺は指令室に戻るぞ。これからプレッシャーテストをしなきゃならんからな。トーマ、お前が案内しろ」
「じ、自分一人でですかワイマン班長」
ワイマン班長――と呼ばれた中年作業員は、もそもそと喋るトーマの背中を叩く。
「いたッ」
「作業がずれ込んでんだ。お前の代えは効くけどな、俺の代えはきかねえのよ。じゃな」
彼は別段急ぐ様子もなく、来た道を引き返していった。
そのやり取りを見ていた私は、他二人と顔を合わせる。
ピトンもティグレも頭の上に疑問符を浮かべていた。
「あの、ここ、どこ?」
なんとなく予想はできていたが、聞いた。
「聞いていないのかい?」
トーマは多少驚いた顔で言った。
「ああ」
私は頷く。
「ここはブルーホライズンだよ。石油掘削施設ブルーホライズン」
「なんでそんな所に連れて来られたんだ?」
トーマはさらに顔を引きつらせた。
「え?」
「あー、いやなんとなくは聞いてるんだ」
ヘンリーの話をかいつまんで伝えると、トーマは鼻で笑った。
「あながち……間違ってはいないかな」
ティグレがまた彼の胸倉を掴む。
「で、結局私たちに何をさせようって言うのよ」
「うッ……ぐ、ぐるしい」
「ティグレ、やめなさい」
ピトンは背伸びをしながら、ティグレが持ち上げた腕を納めさせる。
喉を抑えて、トーマは後ずさりつつ咳き込んだ。
「ごほッ…ッなんて、乱暴な娘なんだッ」
「見ての通り無作法な子でして、申し訳ありません」
「ピトン、一言余計よ」
ピトンは小さくティグレに笑いかける。
少女らしい花のような仕草だ。
「……娘なんかいないさ。いるのは、少女の姿をした何かさ」
つばの絡んだような声で、トーマは言った。
「所長は、『メスカリト』なんて呼んでたけど……」
「メスカリト……」
ピトンは口の中でぼやいた。
「深海で拾ったお人形に名前をつけるなんてね。局長は金の雨を降らせる守り神だなんて言ってるけどね……」
「人間、なのですか」
ピトンは聞いた。
「……そんなわけないだろう。深海魚みたいなもんだと僕は思っているよ。ただ、彼女はもう深海には帰れない。僕らが耐えれる気圧に彼女は耐えられないんだ。耐圧パラメーターが低くてね、だから、今、彼女は……」
トーマは廊下の奥を指さした。
「あの部屋にずっと閉じ込められたままだ」
私たちは指の先を見つめた。
「遊び相手が欲しい、話し相手が欲しいって泣くんだ。その声がね……聞こえるんだよ。あの奥から……。今は聞こえないけどね。なんだろう……超音波でも持っているのかもしれないけど……僕は不気味で不気味でしょうがないよ」
「中の圧力を調整してるなら、我々に対しては逆に極限環境と言えるのではないですか?」
「え、えっと、人間もしんどいけど……ぎりぎり大丈夫だから」
ピトンの問いに、トーマは苦しそうに答えた。
「入った人いるの?」
「う、うん。しょ、所長……のメイドさんが」
「メイドォ?」
ティグレが歯をむき出す。
「ひッ……女性の方が男性よりもメスカリトと脳波が似てるから重なり合った脳波が一時的に耐圧パラメータを高めてくれるんだよ」
「中に入った瞬間、ぐしゃ! とかってないでしょうね?」
ティグレはトーマに詰め寄る。
「な、いと思うッ。少なくとも、メイドさんは普通に出て来たからッ」
「あのメイドと比べられてもね……」
「ティグレ……どのみち生活費が必要です。行くしかありません」
「言われなくても、分かってるわよ」
「ね、そうですよね。ラビット……ラビット?」
「ラビット、あんた何呆けてんの?」
「……え?」
「話し聞いてた? どうせケイトスのことでも思い出してたんでしょ?」
「あ……いや」
「ああいうのはさ、私達の界隈じゃそう珍しくないんだから。落ち込んだってしょうがないのよ」
「そうだな……」
気が付くと、目の前の生態認証システムをトーマが操作していた。
電子ロックが外れた音。
別に、呆けていたわけではない。
何か、頭に声が響いてた。
波の波紋のように。
それがだんだんと大きくなってきている。
耳が良いせいかとも思ったが、耳とは別の器官で声を拾っている気がした。
――おいで。
「なあ、今」
扉が開いた。
今日はここまで
待っててくれた方ありがとう
すぐさま、冷気が肌を刺した。
薄ら白いもやが眼の前を覆う。
部屋の空気が体に重くまとわりついた。
「さむ……」
ティグレが言った。
「ここはだいたい1.5度くらいに室温を保ってるんだ」
そう言うトーマ自身も寒いのか、肩をさすっている。
小さな正方形の部屋。奥に続くであろう扉が一つ。
頑丈そうな材質の壁に囲まれている。
壁には小さいモニターが一つと計器類がいくつか埋め込まれていた。
モニターはどこかの部屋を監視しているようだが、人は映っておらず、おもちゃや本が転がっていた。
「ここは、気圧を調節するための中間ゾーン。彼女がいるのはあの扉の向こうだ。僕の権限で案内できるのはここまでだから、次の扉は君達で開いてくれ。そこのバルブをひねったら開く」
「とか言って、ホントはびびってるだけなんじゃないのかしら」
トーマはティグレの煽りには答えずに、
「彼女が満足したら、解放されると思うよ。何かあったら中に電話があるからそれで知らせてくれ」
と逃げるように部屋を出て行った。
電話、とティグレが口の中でぼやく。
果たして、そんな事態になった場合電話をかけている余裕なんてあるのか。
「とうことらしいですが、ラビットどうします?」
「呼ばれてる。聞こえないか?」
「何も聞こえませんが。まあ、あなたの耳なら聞こえるかもしれませんね」
聞いているというより受け取っているという感覚なのだが、
上手く説明できないだろうと思い、それは言わなかった。
「なにそれ、何受信したのあんた」
ティグレが私の頭をぽんぽんと叩く。
なんかいつの間にか距離感が近くなったな。
「分からないけど、たぶん、これがメスカリトだ」
「歓迎してくれてる様子ですか?」
「どっちかと言うと、優しい声で誘って捕まえた所でぶすり、って声音かな」
寂しそうに聞こえるのは、どこかケイトスに似て儚げな声質だからだろうか。
それとも、私がケイトスに重ねたいだけだろうか。
だいぶ時間も経過したし、もしかしたらケイトスももう元に戻っているかもしれない。
願望だらけの希望的観測を過らせつつ、バルブに手をかける。
「いいか?」
確認。
「引き返すと言う選択肢もありませんし、警戒して入りましょう」
ピトンの言葉に互いに頷き合って、扉を開くべく3人で同時にバルブをひねった。
あーそーぼー。幼い頃に近所の子どもの家に出迎えに行ったことを思い出した。
遊ぶために誰かを訪ねるなんて、いつぶりだろうか。
重厚な扉を開けた瞬間、身体に衝撃を感じたがそれはすぐに収束していった。
「そう言えば、なんで私が先頭なんですか」
そこに気が付くとはさすがだな。
「いーじゃん、年長だろ」
「そうよ、ピトン。隊長でしょ」
私もティグレもピトンの小さな背中の後ろで寄り添い合う。
ピトンが溜息を吐いた。
「……こんにちはー」
ピトンが小声で言った。
「声、小さすぎない?」
「はいはい、お邪魔します」
ピトンがため息をついて、多少、声を張る。
「いらっしゃーい!!!」
すぐ横から声が槍のように耳に刺さった。
ピトンが右を向いたと同時に、彼女の身体は左側に何かと一緒に思いっきり吹っ飛んでいった。
ずしゃああ! と盛大に滑っていく少女二人。
私もティグレも呆然とその光景を見ていた。
「誰ですか」
ピトンは数秒起き上がれない様子だったにも関わらず、意外にも冷静に、自分を今しがた吹っ飛ばして覆いかぶさっている人物に問いかけた。
「待ちくたびれちゃったー! ううん、今、来たばっかり! ようこそ!」
なぜかデートの待合い時のような独り芝居を織り交ぜつつ歓迎される。
ピトンと同じくらいの背格好だろうか。薄桃色に近い長髪を振り乱す少女。
眩い白い肌が全て露出してしまっている。つまり、全裸。
「おまえが、メスカリトか?」
ピトンから全裸少女を引っぺがしつつ、聞いた。
なんで裸なんだ、という疑問は飲み込む。
「しょっちょーさんが言ってた? でも、チャルはチャルチウィトリクエって立派な名を授かってるんだよ。それは、快楽に覚れちゃった人が、いたらいーのになーって勝手につくった妄想の存在だよ」
全裸少女チャルは、私の手をほどき、包み隠さぬ体をピトンに押し付ける。
ピトンは面白いくらい眉根を潜めていた。
子ども同士じゃれあっているようにしか見えなかったが。
「チャルの時代の人達は、みんな魚になったり、シクトランに連れていかれたと思ってたから、またこうやって会えて嬉しい」
私とティグレがこいつ何言ってんだ、というオーラを出す中で、
「チャルチウィトリクエというのは、南部に伝わる神話の中の神の名前です。この地は5回破壊と再生を繰り返してできたと言われています。我々が住んでいる現代は5番目。つまり、彼女は、4番目の世界の太陽。つまり、創造主だと言われているのですが……」
ピトンは脳内の教科書をぺらぺらとめくって説明した。
なるほど、わかるようでわからん。
「覚えてくれてるの? 嬉しい!」
「いえ、習ったことを述べたまでですが」
「えー……じゃあ、チャルと海で遊んだ記憶もないの?」
チャルは寂しそうに、指をくわえた。
ピトンが首を振ると、涙目になった。
「あなたはないの? 虎の娘、浜辺で追いかけっこしたよね?」
ティグレに顔を向ける。
「ティグレよ。知らないし聞いたこともないわね。悪いけど」
「……星に導かれて、やっと来てくれたんだと思ったのに。チャルはつまらないよ。この時代の人はすぐに壊れちゃうし」
「ねえ、ピトン。今の話だと第四の世界とやらに私たちがいたって聞こえるんだけど」
ティグレがピトンに耳打ちする。
それに答えたのは、チャルだった。
「そうだよ。蛇の娘も虎の娘も、器は違うけど同じトナルを宿してるもん。姿形が違っても、私は覚えてるよ……あなたは」
と、私を一瞥する。言葉が途切れたかと思うと、
背中に鼻をおしつけて、匂いを嗅がれる。
「な、なんだ」
「うん……なんだか懐かしくて愛おしい匂いがしたんだけど……気のせいかな。あなたは、ちょっと中途半端だね」
人懐っこい笑みで、私の周りをくるくると回る。
「挨拶はもういいからさー。時間がもったいないから、遊ぼうよ!」
ぺたんこの胸も、恥部も全く隠さずにぴょんぴょんと飛び跳ねる。
詳しい説明をするつもりはないらしい。
「遊んだ後に、おまえについて聞かせてくれるか?」
「満足したらね!」
「あの、その前に、どうして服を着ていないのですか」
ピトンが今さらではあるが、もっともらしい質問をした。
「服? ああ、海の中では服なんて着ていなかったんだもん。地上の空気には慣れたけど、肌になにかを被せるのはいやー」
自論を述べて、裸族を主張した。
「地上の空気にはなれたってことは、もしかして……おまえ外に出れるんじゃ」
「外って、このお船の外? 出れるけど」
誰だ、地上の気圧に耐えれないとか言ってたやつ。
「でも、しょっちょーさんがチャルのお家に穴を開けたから、ここを仮住まいにしてるの。それに、この時代の太陽はあんまり肌になじまないし。ご飯も遊び相手も欠かないから、チャルは大満足だけど!」
言いながら、私の腕を引っ張る。
意外と力が強い。
「遊ぼうッ、遊ぼうッ」
無邪気に笑う。
「どわッ?!」
振り回されて、よろめいた。
「あなたが参ったって言ったら交代だからね!」
参った?
何に対して?
頭を捻るよりも早く、チャルが私の胸の辺りに手のひらを置いた。
「え?」
まるで液体のように、その腕は体を突き進んでいく。
「ラビット!?」
ピトンが叫んだ。
「せーの」
私は体に何かが注ぎ込まれていくような錯覚。
重たく、だるくなっていく。体と言う袋が水で満たされて、ぱんぱんにむくんでいくようなそんな。
しだいに胸がむかむかして、頭が痛くなってきた。
「何を……」
体が震えていたのが分かった。
「このままだと、死んじゃうよ。降参する?」
彼女の腕を掴んで引っこ抜こうと試みたが、びくともしない。
力が入らない。
何が何だかよくわからないうちに、自分は本当に死んでしまうのか。
感情が昂ぶってくる。意識が遠のいていくのが自分でもわかった。
眠りに着くように、目を閉じて、それはだがまずいと思い顔を上げた。
目の前にいるのはチャルではなかった。
息苦しさがふいに止む。
「ラビット」
「ケイトス……?」
「何をしているの」
しばらく状況が呑み込めず、目の前の会った時から変わらない気だるそうな少女の顔を眺めていた。
自分でもなんで今ここにこうして立っているのか思い出せなかった。
ついさっきのことなのに。
そうだ。
チャル。
そう、チャルに殺されかけて――。
あの自称神様、許さない、何考えてるんだ。悪魔か。
恨みつらみを吐き出す前に、私はケイトスがいることに慌てて二度見した。
それからすぐに抱き着いた。
「ケイトスッ! ケイトスッ!」
むずがゆそうに抱きしめられ、なすがままのケイトスの名を何度も呼んだ。
想像通り、彼女は柔らかく温かく良い匂いがした。
「良かった、戻ったんだ」
心から安堵して、ケイトスに笑いかけた。
「ラビット、別の人といちゃいちゃしてる」
「いちゃいちゃって、こっちは死にかけて大変だったんだぞ」
「このまま死んだら私たち会えなくなっちゃうよ」
「え、いや今こうして会ってるじゃないか」
「会ってるけど、会えてないもん。ばか」
「なんだよ、嬉しくなさそうだな」
「ラビット、起きないとホントに殺されちゃうよ」
「そんなこと言われても」
どうしたらいいんだ。
「参ったって言えばいいのか」
「だめだよ。それはだめ。神様の言う通りにしたら、神様に取り込まれちゃうよ」
「よく知ってるな」
「教えてくれたの。みんなが。思い出したの、昔、私もそうだったの……私、少し思い出したくないことも思い出したの」
「昔のことって、小さい頃のこと?」
「違う。もっと遠い遠い時代のこと」
「ああ、それならきっと、おまえのトナルが覚えていたんだよ」
チャルがさっき言ってたっけ。
「私のは、私のはそうじゃないの」
まるで自分を責めているみたいだった。
泣き出しそうなケイトスにキスをする。
「私を見て。大丈夫。殺されかけてるけど、そのうちお前のところにも戻るから」
「戻ったらもう一度抱きしめてくれる?」
「ああ」
迷いは無かった。
あの時は、臆病風に吹かれて、抱き寄せることもできなかったけれど。
「ねちょねちょのどろどろでも?」
「もちろん。良く見ると、あれはあれで愛嬌がある」
「それは、うそ」
目を逸らす。
ケイトスがぽかぽかと私のお腹を叩く。
「でも、嬉しい。みんなもちょっと冷静になってくれたみたい……だから、少しだけ力を貸してくれるって」
「それは、助かる」
「喉か湧いてたから、ちょうどいいって」
なんじゃそりゃ。
会話はそこで終わった。
ケイトスの姿も消えていた。
もう一度瞬くと、チャルが満面の笑みでこちらを見ていた。
時間はそれほど経っていないようだった。
笑っていたはずのチャルが目を見開いていた。
「あなた、何か連れてきたんだね」
私を通して、何か他のものが見えているのか。
相変わらず気だるさがあったが、私は少女の腕をもう一度強く掴み直した。
「なにって」
奇妙なことに、私が触れた場所から白い柔らかそうな皮膚が翡翠色に染まっていく。
石のように固く割れていく。
その様子に私自身が驚き飛びのいた。
腕が胸から取り除かれる。
チャルもすぐに小さく悲鳴をあげた。
しかし、恐れと言うよりは驚きと好奇に満ち溢れていた。
情熱的な視線を私に寄こす。
「なんだ、うさぎの影で光が弱くなっていただけなんだね。そこにいたんだ」
眩しそうに目を細めた。私が発光しているわけではない。
なのに、そこに太陽があるかのように、彼女は眩しそうにしていた。
「笑って、歌をうたい続けていれば……いつか会えると思っていたんだ。降り積もった灰とばかり遊んでいたのよ」
独り言としかとりようのない台詞を吐いて、チャルは自分の腕を舐めた。
「ちょっと、あなた」
チャルが私の肩を引っ掴む。
「ここにキスして」
翡翠と化した腕を突き出す。
ええ、なんでだ。
「早くしないと、私が石になっちゃうんだから!」
「は、はあ?」
頬を膨らませ、私の頭を掴み無理やり唇を当てさせた。
ごめんね、と耳元に吐息のような謝罪が聞こえた。
キスした部分から、翡翠は元の白い皮膚へと戻っていった。
「あー、ドキドキした!」
それすらも遊びの一つだったと言いたげだ。
ティグレとピトンが私から離れたチャルを両脇から取り押さえる。
「な、なになに!?」
チャルは手足をばたつかせる。
本気で逃げるつもりもないらしく、
やはりどこか楽しそうだ。
「私の友人を殺す気ですか。このばばあ」
「ば、ばばあ!?」
チャルがこれには憤慨する。
「だってそうでしょう? 一時代を築いた、もういい歳した女性なのですから」
「こんなに可愛い容姿なのに?!」
ピトンは半眼で、チャルにばばあと再三繰り返す。
ティグレは自分の上司の言動にやや驚いている様子だった。
「このままサンドバックしてしまいましょう」
「サンドバック?」
「タコ殴りです」
「チャルが参ったって言ったらいいんだね?」
こいつはなんでも遊戯にしたがるようだ。
「言わなくていいですので、殴らせてください」
私はピトンの幼い表情のどこかに、血管が浮き出ているのではと探してしまった。
ピトンは怒っていた。
「あの、ピトン、別にそこまでしなくてもいいんだぞ」
恐る恐る言った。
「よくありません。ほんとに、死ぬんじゃないかとひやひやしました」
「隊長がこんなに怒る所、初めて見た」
ティグレが興味深そうに事の次第を観察していた。
「こんなのチャルはどうってことないんだから! ふん! ふん! ふん! あれ?」
何か意気込んでいたチャルだったが、
思ったように力が出せないようだ。
「うさぎの娘、許し意外に私に何かした?」
「なにもしてないけど」
「水の精霊が反応しない」
精霊、なんていたんだ。
と、私は間抜けなことを思った。
「精霊が反応しないとどうなるんだ」
率直に気になった。
「力が使えないんだよ! それは、困るんだよ!」
「ほほう」
いやらしく唸ったのは、ティグレだった。
「ここからは、女の遊びを教えてあげるわ」
ぽきぽきと指を鳴らす。
鳴らす必要は、ない。
余裕綽々だった少女神チャルチウィトリクエの顔がこわばった。
「や、やだッ。お姉ちゃん怖いッ」
「むッ」
「ティグレ、お姉ちゃんと言う言葉に反応しないでください」
「し、してないわよ」
「お姉ちゃん、優しくしてえ」
「チャルちゃんの気持ちい所、教えてあげる」
妖艶な笑みを浮かべ、ティグレは舌なめずりした。
「いやあ、いやあ……」
チャルが首を振る。
庇うのも馬鹿馬鹿しいので、私は見て見ぬふりをした。
「ふぎゃああ!?」
全裸の少女の悲鳴が木霊した。
――――
―――
――
「バイザーさん」
そう呼ぶと男は振り返った。
「ワイマン班長、異常が検出されたと聞いてきたのだが」
「せっかく休憩中だったのに、ご足労感謝します」
「いや、船長が式典に参加しているし、出られるのは私しかいないだろうな」
俺は掘削フロアの計器の一つを指差した。
油井の圧力が上がっていることを説明する。
「先ほどから急に圧力が上昇したんです。こんなになるはずがないんですが、再テストして30分程経ってるんですが、同じような状態でして」
「油井のどこかがおかしいんだ。テストを頭からやり直すしかない。終わったら、また呼んでくれ」
「はい」
バイザーに言われたとおり、油井内の圧力を再び下げて油井外との圧力差を作り、セメントプラグに異常がないか、石油やガスが漏れていないかテストを一からやり直すとフロアの作業員に指示を送る。時計を見る。そろそろ、かと喉を鳴らす。
何もかもが上手くいっている。
誰もかれもが、この異常をいつものことだと思っていやがる。
再テストをすれば、さらに時間が稼げるはずだ。
30分後、テストは上手くいき油井内の圧力は一時的に正常に戻った。
「石油や炭化水素の漏れはなさそうです」
作業員が報告してきた。
「分かった。バイザーさんにもそう報告しておく」
「班長!?」
作業員の一人が、声をあげた。
なんだ。
その声に数人が集まる。
彼の方を見やると、ドリルパイプの圧力が今度は1400psiまで上がっているのがわかった。
つまり、100気圧ほど上がってしまっていた。
「漏れは無いはずだろ?」
「どうしますか?」
「もう一度テストしている時間は無いぜ、班長」
作業員が口々に言うので、手で制した。
「分かってる、漏れはない。プラグの検査は何度もして、漏れは無かった。恐らく、これは圧力の増加じゃなくプラダー効果による騙しだ。海底までのパイプに詰められている流体の重さ、その重さがバルブにかかって、圧力となりドリルパイプに表れているだけだ」
確信し、自信たっぷりに述べる。
他に、細かい裏付けをつらつらと述べると、なるほどと掘削チームの全員が納得した。
長時間に渡るテストで全員が疲弊していた。
しかも、作業は押している。
彼らの判断が甘くなるのを狙って、俺は別のテストを指示した。
「キルラインとリグとの間に何か異常があるかもしれん」
キルラインのテストは無事に終わった。
ドリルパイプの圧力とキルラインの圧力は1400と0という結果に終わった。
キルラインにはもともとセメントを詰め込んでおいたことで、圧力上昇を防いでいた。
しかし、それを知る者は誰もいない。
心の中で、俺は笑っていた。
「キルラインが無事ならば、大丈夫だろう」
全員が胸を撫で下ろすように、安堵した顔を見せた。
「班長」
「んあ?」
「バイザーさんが、異常は戻ったかと」
「大丈夫だ、問題ないと言っといてくれ」
「わかりました」
俺は時計を見た。
そして、ここ数年共に作業をしてきた掘削チームの顔を見やった。
政府や西部軍の連中にこびへつらう、南部の誇りを捨てて生きている人間ばかりだった。
今こそ、行動を起こさなければならなかった。腐った世の中に一石を投じてやるのさ。
それに、ここの所長はやってはいけないことをしでかしてしまった。
それがなければと、思う。
自分だって今まで共に働いてきた彼らに情だって移っていたというのに。
しかし、崇高な使命の前では、ささいなことであった。
もうすぐ夜勤のチームと交代するため、安心感から夕飯の話まで始めるやつまで出てきた。
彼らは長らく家に戻ってはいなかった。最後に母親や愛する妻の手料理を食べさせてあげたいとも思ったが、
いかんせん時間が足りない。
「班長、なににやついてるんですか? また、なんかエロいこと考えてたんでしょう」
冗談めかして言われ、俺はそいつの背中を叩いた。
「ふざけろ」
大きく深呼吸する。
酸素を求めるように。
ついで、大笑いした。
「お前ら、詩は好きか?」
誰もが振り返る。
俺の口からそんな繊細な単語が飛び出すなんて、と顔に書いてあった。
額と手の平に汗が噴き出してきたのが分かった。
視線を浴びたことによる緊張ではない。
武者震いというやつだ。
俺はもう一度時計を見た。
「我らがメシーカの神の御心のままに」
言う必要はなかった言葉。しかし、言わずしていられない。
何せ、何を意味するのか、ほとんど全員が恐れと共に理解できただろうから。
この言葉は民族解放軍のお決まりの台詞だった。
映画の見過ぎです、と茶々を入れる者はいなかった。
そう告げた瞬間、監視モニターから緊急の連絡が入ってきた。
「班長! 大変です! パイプから泥が漏れてます! メタンガスが施設に溢れてきてます!」
掘削フロアに一気にどよめきが広がった。
ガスが施設に充満すれば、何かの拍子に引火するだけでこのブルーホライズンは大爆発を起こすからだ。
俺は口を開いて、詩を口ずさんでやった。
全て歌い終わる前に、隣にいた男に取り押さえられた。
「もう、遅い」
何かの拍子まで、あと1分。
今日はここまで
――――
―――
――
人は本当に地上で
生きているのだろうか
たとえ翡翠でも裂け
黄金でも割れ
ケツアルの羽でも裂けてしまう
この地上では永遠ではなく
ほんのしばしの間
(ネサワルコヨトルの詩)
――
―――
――――
ぱらぱらと、目の前に塵が落ちてきた。
目のかすみかと思い、私は瞬きする。
足元がぐらついたような。
ティグレによって羽交い絞めにされたチャルをしり目に、天井を仰いだ。
防音扉から漏れ出たような鈍い爆発音が頭上から聞こえたような気がした。
再度、ぐらりと体が傾く。
部屋が振動している?
「ピトン、今揺れなかった?」
共に傍観者となっていたピトンに問いかける。
ピトンも訝しげに頷いた。
「ええ、なんでしょうか」
「外で何かあったんじゃないか」
「え、何よ? 何かあった?」
すったもんだしていたティグレとチャルがこちらに顔を向けた。
チャルがティグレの下から這い出て、
「海に腐った水が流れてる……」
あかん
もう寝ます
悪夢を見たような顔。
腐った水?
聞き返そうとしたら、さらに大きな衝撃が体を襲い前につんのめった。
おかげで、私はピトンを下敷きにして床に這いつくばった。
謝ってから、
「ここを出よう」
私は言った。
嫌な予感しかしないが。
「そうですね。ティグレ」
「ええ」
チャルから身を離し、ティグレが部屋の扉に飛びつこうとすると、チャルが言った。
「私も行く!」
その時、3人とも同じことを考えていたに違いない。
部屋を出ると、雷撃のような爆発音が頭上から連続的に聞こえた。廊下をしならせる。
この地下フロアにはもう人の気配は感じられなかった。
ここに来る手段として使ったリフトのある場所へ戻ってみたが、すでにもぬけの殻。
あれを使って逃げなければならないようなことが、ここで起きているということだ。
「おもいよぉー……」
「文句言うんじゃないわよ」
「虎の娘、昔みたいに背中に乗せてよぅ。ねえねえ?」
「ティグレだっつってんでしょ」
なんだかんだその無茶ぶりに答え、彼女はチャルを背中に背負った。
こいつも年下に弱いタイプか。
チャルには服を着ることを条件に、同行を許可した。
部屋の隅っこにあった髪の色と同じピンクの生地に白のフリフリレースがついたワンピース。
それを無理やり着せた。
「精霊の加護がないと、地上はけっこうしんどいだよ……」
確かに、辛そうな表情だ。
ティグレの首周りに腕を回す。
とりあえず上を目指して、階段を探す。
走って移動する度に、足元を金槌で叩かれているようだった。
「こっち、上がれそうだ」
二人に合図を送る。
上のフロアへ通じる扉は真ん中部分に何かが当たったのか、かなり頑丈そうに見えるのだが歪んでいた。
隙間から、黒煙が吹き出ていた。熱い空気が皮膚に当たる。
「おいおい……まさか」
「どいて、ラビット」
振り返ると、後ろ蹴りするティグレが視界に映った。
ゴガンッ! と扉は後方に吹っ飛んでいく。白いポニーテールが宙を舞う。
恐ろしい脚力だな。チャルが小さく拍手していた。
「これは……」
呻く。
渦巻く噴煙
ごうごうと燃え盛る炎。
いたる所から叫び声が上がっていた。
まるで、ダラムスの村の再来だった。
事故でもあったのか。
大小さまざまなパイプがへし折れ、大木の幹のようなパイプの亀裂からは泥が勢いよくわき出ていた。
熱風や黒煙が目や喉を刺激し、反射で咳き込む。
施設を切り裂く爆音、そして、火柱が上がる。
それが、すぐ近くの壁を粉微塵にしていた。
爆発に巻き込まれたら、無事では済まないと直感した。
「ごほッ……外に出るぞッ」
前方に人影が見えた。
壁にもたれかかって、蹲っている。
「おい、何があった?」
返事はない。
その作業員の男性には下半身がなかった。
衣服は焦げて悲惨な光景だった。
さらに向こうには太いパイプの下に挟まれて全く動かない女性。
圧死しているのか、それとも気を失っているのか。
――ブロウアウト!ブロウアウト!
――熱い!
――海に飛び込め!
――原油が、海に、そんな。
――いいから、逃げるぞ!
混乱する声と、叫び声。
状況の理解ができず、怯える声。
爆発。
目の前が火炎で真っ白に瞬いた。
無駄に危機感を募らせる赤い回転灯から、金切り声のような警報が鳴り続けている。
――救命艇に急げ!
燃え盛る炎の中、そんな声がいくつか聞こえてきた。
意識を集中させて、聴覚を研ぎ澄ませる。
「救命艇があるみたいだ!」
声がする方に踵を返す。
「こっち……」
――いやだ、死にたくない、助けて。
枯れんばかりの大声。
これは、聞き覚えがある。
トーマだ。
あの、作業員の声だ。
周りを見渡す。
どこかの部屋に閉じ込められているのか。
それとも瓦礫に埋もれてしまっているのか。
ドオオオンッ――と身体ごとひっくり返りそうな爆発。
原油に引火しているんだ。
急がないと、こっちまで死ぬ。
――足がァ、右足がァ……ひッ…ぅアァ!
今にも死にそうだ。
助けに行った所で、間に合うのか。
悩んでる時間は無かった。
私は走り出した。
「ラビット!?」
ピトンの声に、私は言った。
「すぐ戻る! そこを左に曲がれば甲板に出れるから!」
そこらじゅうに死傷者がいるだろうに、
彼一人助けた所でと思いつつも炎の中を駆け抜ける。
「どこだ、トーマ! おっさん!」
私は叫ぶ。
じりじりと熱風が肌を焦がし、汗を蒸発させる。
瓦礫を押しのける。足がコードに絡まる。
「わッ」
床が濡れていた。
どこかでスプリンクラーが作動しているのかと思ったが、その気配すらない。
衝撃で壊れてしまったのか。
少し滑りこけながら、コードを急いで取り外す。
何の未練もない人間のためにどうしてこんなことを。
自分でも可笑しい。
あんな真面目系クズみたいな西部人なんてほっとけよ。
誰かが助けるかもしれないだろ。
ここはダラムスじゃない。
おまえのせいじゃない。
ケイトスだけを守れればそれでいいじゃないか。
黒煙が思考と灰を侵す。
「いないのか!?」
一人では何もできやしない。
そばにケイトスがいないと。
込み上げて来る感情を噛み殺そうとする。
どうして今こんなことを。
歌。
歌が聞こえた。
これは――。
聞き覚えがある。
あのピラミッドで聞いた。
今度は言葉として、理解できる。
みしり、と背後で嫌な音がした。
刹那、ただ前に飛ぶことだけを考えた。
天井が崩落したようだ。
あまりの音に、耳がわんわんとわめく。
壁に手をついて立ち上がる。
ここもいつ崩れるかわからない。
トーマの声は聞こえない。
死んだのか。
ノイズ。
祈り。
歌。
低い男の声。
「よお、お嬢ちゃん大丈夫か」
足を引きずり、意識のないトーマを肩に担いでいる。
自身も脇腹に――銃痕だった――怪我をしていた。
「……」
なんとか班長だ。
名前はなんだったか。
彼が歌っていたのか。
「なに、のんきに歌ってるんだ」
思わず非難してしまう。
「お嬢ちゃんこそ、なに、のんきに散歩してんだい?」
くかかッと笑う。
あんたの担いでる男を助けに来たんだよ。
「早くこの施設を出たほうがいいぜ?」
「わかってるよ」
分かってる。
けれど、私はどうしても気になってしまった。
「その歌、なんなんだ」
班長は少し立ち止まって、しかし、再び歩き出す。
「古い歌だ」
それだけ答えた。
こんな緊迫した状況で、変な質問をしている自覚はあった。
「前にも聞いたことがある……あんた、まさかペドロやメンチャの仲間なのか」
彼は今度こそ立ち止まった。
今までも急いでいるようには見えなかったし、
背負っているトーマを運び出す作業を淡々とこなしているようにしか見えなかった。
顔だけをこちらに向ける。
煤けた頬をわずかに引きつらせた。
「お嬢ちゃん……あんた、特殊海軍の人間か。俺を捕まえに来たのかい?」
「違う」
「へえ、まあ、ただの人間ってわけじゃないだろうな。はぐれものか?」
はぐれもの?
「そんな所だよ」
「所長もたまに掘り出しもん見つけてくる。いいだろう、冥土の土産に教えてやるさ。この南部に伝わる神話は聞いたことあるだろ?」
私は頷いた。
「この歌は、はるか昔、第二の世界を築いた神に、王の神官が捧げた歌だ。第一の世界の神と違い、第二の世界の神は人の争いを嫌い、生贄を嫌い、平和を好んだ。しかし、それは永遠ではないと、人は知っていた。だが、神はそれを隠し、安寧を願う。けれど、神官はうたうのさ……いくら、精霊の力に恵まれていようが、この地の破壊と再生の輪廻は止められない。いずれまた滅び、別の太陽が再びこの地に昇る……」
彼は片膝をついた。
トーマが彼の肩からずれ落ちた。
うめき声が聞こえたが、彼は気絶したままだった。
トーマはそうとう出血しているようで、足元に血だまりができている。
これだと、逃げれても――。
班長は片手で横腹を抑えた。
息を思い切り吐くと、同時に口から赤い液体が吹きこぼれていた。
「ごほッ……だが、星の導きに背き、その手で太陽を地に落とし、その子らをも我が物としようとする輩がいる……それが」
それでも喋る。
私も止めはしなかった。止めれなかったのだ。
彼はいつの間にか、言葉に使命感を持っているような口調で、
それこそ時代の語り部のような印象さえ与えた。
「……西部のやつら?」
「そうだ。星々の理を無視し、力を手に入れ、そうして大陸の外の列強に見せつけるつもりなんだ」
ごぼりと血があふれ、彼は咳き込んで床に転がった。
「だから……ここを破壊するよう、メンチャは俺に命令したんだ……げほッ……チャルチウィトリクエを解放するためにも。残りの……太陽も」
言葉にはならなかった。
喉に張り付いた液体が、邪魔してごぼごぼッと音を出した。
「……すまねえな、トーマ」
ぼそりとそれだけが聞こえた。
後は、爆発の音で聞こえなかった。
強烈な熱に囲まれていた。
もはや出口までの退路は断たれている。
窓ガラスを探して、大きめの壁の破片を投げつけた。
盛大な音を立てて割れる。
そこから外に躍り出る。
視界は深く黒い。
周りは海なのだろう。
何も見えない恐怖。
しかし、そんなことを言っている場合ではない。
飛び降りるしかない。
神はいないと思っていたが、
これだけ神、神と聞かされると、
今だけは何かに祈りたい。
ふいにケイトスのシルエットがよぎる。
拗ねたり、怒ったり、ぼーっとしたり。
時折見せる不思議な表情。
人を凌駕する力。
薄い金髪をくしゃくしゃにして、
時に人を困らせ、泣かせ、喜ばせ、笑わせる。
自由気ままに生きる少女。
今思い出せる限りを脳裏に焼き付け直す。
私は息を吸い込んだ。
―――
――
―
「チャルチウィトリクエ、お迎えにあがりました」
という言葉を聞いて、私は救命艇に案内された時に、バカ丁寧に先導されたことを思い出した。
もはや背中にしがみついているだけのチャルだったが、しがみつく腕をさらに強く巻き付けた。
私たちの乗った救命艇の全員が、片膝をついてチャルを拝むように見ていた。
「は?」
私はとりあえず、威嚇した。
「小娘、チャルチウィトリクエから離れなさい」
「いや、こいつがしがみついてるんですけど」
こっちが迷惑してるというのに。
その上、わけのわからない人間たちに悪者扱いとは。
いい加減、切れてもいいかしら。
外では、救助を待ちつつ海に浮かんでいる人間もいる。
ラビットも助けにいかなくてはいけない。
こんなところで、時代劇みたいなやりとりをしている場合ではない。
「この子が欲しいなら、あげますから」
チャルを引き剥がそうと試みる。
剥がれない。
「ちょ、あんた、勘弁してよ。あれでしょ、保護者の皆さんが迎えに来てくれたんでしょ?」
「違うもん! こんなやつら、チャルは知らないもん!」
「チャルチウィトリクエ、ご安心ください。我々は、古くから神にお仕えしてきた一族の末裔でございます。悪いようにはいたしません」
いかにもな台詞を吐く。
恐らく、民族解放軍の連中だろう。
相変わらず、脳内がお盛んな様子だ。
「ほら、チャル、大丈夫だって」
「やだ……虎…ティグレといる!」
子どもか。
「ティグレ、お願い、ねえ」
名前で呼んでくれるのは嬉しけど、困った。
「では、ティグレ様もご一緒に」
彼らの一人が丁寧に言った。
聖母のような優し気な雰囲気を醸し出していたが、
そんな彼女は、ピトンの首にナイフを突きつけていた。
なんて卑怯な奴らかしら。
というか、この火災ってこいつらのテロ行為なんじゃ。
絶対そう。
間違いない。
確かに、この施設は政府や軍との癒着が酷かったかもしれない。
けれど、一般の作業員も巻き込むなんて、やはり頭が沸いている。
ピトンを人質にしているのも気に食わないし、
とにかく民族解放軍という奴らは、
正義のために悪を平気で実行する。
ならず者ばかり。
同じ南部の出身だけれど、これには賛同できない。
今日はここまで
よんでくれてありがとー
ちょっとお待ちを
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=57573913
モチベ上げるために、ラビットとケイトス描いて頂いたので良かったら見にきてくださいな
自分たちこそが罪を罰することができると、
本気で思っていそうな所が受け入れられない。
そう思いこまされてるのか、それにすがるしかないのか知らないけど。
とにかく、同じ人殺し同士なのだから、仲良くできるわけがないのだけれど。
「嫌よ」
きっぱりと言ってやった。
「だいたい、ご一緒にどこに連れて行く気?」
私の質問への答えが提示される前に、ナイフの角度が鋭利になる。
睨んでも小娘ごときにびびる様子はない。
脇に座っていた男がズボンのホルダーから、すらりと銃を抜いた。
一歩前に躍り出て、それを私の鼻先に突き付けたのは同い年くらいの青年。
「偉大なる太陽の子、我らが指導者メンチャの元です」
彼は、慣れた構えでそう言った。
そうやって、何度も脅してきたのかもしれない。
瞳に揺らぎはない。
解放軍の最高指導者、メンチャ・トフラーの教育の賜物なのか。
面倒なことになった。
ピトンは意識不明で、戦力にならない。
チャルは本当に力が出せないのか、私にしがみつくばかり。
退路はない。
ごめんなさい、ラビット。
あなたなら、必ず生き残って再会できるわよね。
私は、ゆっくりと両手をあげた。
「メンチャの教えに、請うものを拒まずとあります」
青年は銃をホルダーに戻し、代わりに、握手を求めてきた。
その手は無視し、私は座り込んだ。
「誰も命乞いしているわけじゃないわよ。命は恵んでもらうものではないわ」
と、吐き捨てるように言ってやった。
――――
―――
――
「ティグレ、次はいつ帰ってくるの?」
ぐっすり寝ているものだと思ったのに。
目をこすりながら、私の胸に頭を乗せる少女。
「来週の死者の日には……たぶん」
たぶんと付け加えたのは失敗だった。
ガトが私を抱きしめる。
「ガトと一緒に、イアンの所にお菓子を持っていってくれるんだよね」
「それは、もちろんよ。約束したでしょ」
イアンは同じ培養器から生まれた、言わば兄妹のような関係の少年だった。
しかし、イアンは先日遺跡観光のさなかに民族解放軍によって殺されてしまったのである。
イアンの悲報に接して以来、暗い顔ばかりの少女の頬にキスをする。
ガトはくすぐったそうに目を細めた。
「ガトとの約束、私が破ったことあった?」
「……あるもん」
「あれ」
ガトも私も肉親はいない。
ガトはもともと私と同じ特殊部隊に配属される予定だったけれど、
様々な内臓機能の障害が見られ保留扱いとなった。
今は、治療を受けながら私が与えられた家で一緒に過ごしている。
お待たせしました
ティグレの話をちょっと入れていきます
待ってくれていた方、ありがとう
今日はここまで
また明日の夜にでも
「分かった所でどうしようもないのよねえ」
チャルの頭頂部に手の平を乗せる。
「二人とも」
ピトンだ。
「寝てください」
「あんたは、よく寝れるわね」
「いつ何が起こるか分かりません。休養は取れる時にしっかり取っておかないと」
「ごもっともだけど、これからどこに連れて行かれるかとか考えてたら気になって眠れないわ」
「恐らく、彼らの総本山でしょう。」
急に真面目な声を出す。
「総本山って、そういやあいつら何の神様を崇拝してるの?」
ピトンの言葉を繰り返した。
「彼らは恵みの雨をもたらすと言われる第三の時代の神トラロックを信仰していると聞いたことがあります。山奥に洞窟をつくりそこで神を祀る。1年ごとに場所を変え、そうして軍の目から逃れていると。リーダーのメンチャは、トラロックの力が使えるらしいのですが……第四の時代の神がいるくらいですから不思議なことではないかもしれません」
「トラロックは人間に好かれていたからね」
その声は寂しさを含んでいた。
私はチャルを見た。
「トラロックが残した歌を使える人間なら、会ってみたい気もするけど」
チャルがそう言うので私は呆れた。
「解剖されちゃうんじゃない?」
「ひい」
チャルが私の身体にしがみつく。
「神様が解剖なんかでびびってんじゃないわよ」
「今、チャルは無垢な少女と同じなんだからねッ、そこらへん分かって欲しいな!」
ピトンは、目が冴えてきたのかチャルの方を向いて、
「もし、メンチャらがチャルが力を失っていると知った場合、どうなるのでしょうね」
「私も思った。神としての能力がないのに、チャルを置いておく意味があるのかしら」
「あのねえ! 力が無くても、こんなに可愛い神様がそばにいるなんて最高じゃないのかな」
私とピトンはチャルを見た。
ご神体くらいにはなるかしら。
「解放軍の奴らの目的は、西部に対抗でき得る強力な兵器が欲しい、ただそれだけよ。可愛さで人は殺せないわ」
チャルの破顔した鼻っ柱にでこピンする。
「ティグレ、能無しの役立たず神と知れたら我々の身の安全も保障されるかわかりませんね」
「よねえ」
私は溜息を吐いた。
チャルが私とピトンを交互に睨んで、
「ばかばか!」
頭からシーツを被り直していた。
「拗ねてる場合じゃないって、チャル。どうやったら力が戻るか考えないとでしょ。あんたの今後の人生がかかってるのよ」
チャルの体からシーツをはぎとる。
「そもそも、なぜ力を失ったんですか。ラビットとのやり取りで力を失ったように見えましたけど」
「2の太陽が月の影に隠れていたのに気づかなかったの」
「2の時代の太陽、ケツァルコアトルですね」
ピトンがすかさず解説する。
「ケツァルが近くにいるのは感じてたんだけど、急に気配がなくなったの。と思ったら、ラビットのせいでよく分かんなかっただけで、油断してたら持っていかれちゃってた。早く返してもらわないと。この時代の太陽は人工物っぽい感じがして気持ちが悪いし肌に合わないもん」
少女は顎に手を置いて上半身をもたげた。
足をバタバタさせる。
その仕草は可愛かった。
少女を見下ろしつつ、ピトンの方を慌てて向く。
「待って待って、ピトン、月の影ってのはラビットのことになるのかしら」
「月にうさぎがいたなんて話もありますから、そうなんでしょうか?」
ピトンも首を傾げていた。
「そうなると、ケツァルはケイトスのことを言ってるのよね?」
「ケイトス? 今はそういう名前なんだね。じゃあ、その子に合わないといけないよ」
ごめんここまで
また明日の夜にでも
「ケイトスに会うって言っても……」
私はピトンを見た。
ピトンもわずかに眉根を寄せる。
「結局、ここから脱出しなければならないということですね」
「それか、目的を果たしたら解放されるか殺されるかのどっちかね。それだけはごめんだけど」
ケツだかなんだかよく分からない話をしても今はしょうがないのなら、
「考えてもしょうがない時は寝るしかないわ」
背中からベッドに沈む。
「寝るんですか、ティグレ」
「神様の話なんて、聞いてもしょうがないし」
「ティグレが寝るなら、チャルも寝る」
「全く、諦めが早すぎます。力を取り戻す他の手段を探そうくらい思わないんですか」
「他の手段? あるけど」
チャルが私の耳元であっさりとそんなことを言った。
最初から言いなさいよ。
ピトンがチャルに詰め寄った。
「なんですか、それ」
「トラロックから力を奪うの」
「奪う?」
私は思わず聞き返す。
「どうやって?」
チャルは両手で何かを形づくる。
「普通、人間が神様の力を使う時はこの時代の何かを依代にしてるの。だから、それを食べればいいの」
口を大きく開けて、何も無い所にかぶりつく。
「食べるって……」
「まさか、歌ですか?」
ピトンが指を立てた。
「そうなんだよ」
「歌を食べるって言っても、どうやってよ」
「だから、喉ごとぱっくりいくの」
部屋が一瞬で静まり返る。
「なるほどねえ」
「ティグレ、これはさすがに」
「じゃあ、殺されるのを待つの?」
「それは」
チャルは説明を続けた。
「トラロックの力なら、ここを出ることなんて容易いとは思うけど、他の神様の力を使うって言うのはそれなりの代償がいるんだよ」
唇をすぼめる少女。
代償とは、さらに物騒ね。
「代償ってなによ」
「老ける」
「いいでしょ別に」
「やだもん! 今、せっかく可愛い女の子を保ててるのに」
「どうでもいいでしょ。ほら、ピトンなんてどうでも良すぎて寝てるじゃない」
ピトンが頭をぐらつかせている。
「はッ、すいません」
まぶたをこすって謝る。
「とりあえず、決まりね。そのうち、メンチャに会うだろうし。隙をついてやっちゃいましょう」
「老いたくないー……」
「総大将の首も取れれば、軍にだって帰れるかもしれないでしょ。ねえ、ピトン」
ピトンとチャルの反対ムードを感じたが、私は押し切った。
「一気に階級が上がったりして」
「そう、上手くいけばいいですが」
「上手くいってくれないと困るのよ」
生きて帰れれば、なんだってする。
それだけなのよ。
――――
―――
――
私はケイトスとキスをしていた。場所は、どこか分からない。
内装は宮殿のようにも思えた。私は神官のような服装で、彼女は獣の姿をしていた。
人は、それを夢と言うかもしれない。ただ、それはあまりにも鮮明で懐かしい、記憶に近かった。
「起きられましたか」
開眼一番に、筋肉隆々のミニスカートメイドが視界に飛び込んできたものだから、
「うわ?!」
思いっきり叫んでしまった。
「あらあらあら」
ごつい頬骨に左手を寄せて、メイドが手を差し伸べる。
おかげで、先ほどまでの記憶が半分くらい吹っ飛んでしまった。
ケイトスとキスしていたことくらいは残っている。
くっそ。幸せな部分しか思い出せない。
「身体の具合は大丈夫ですか?」
「あ、ああ。助けてくれたんですか?」
「ええ、そうです」
おぼろげに、外見に似合わない名前、確かメアリー――という名前だったことも浮上してくる。
「メアリー、他のみんなは」
「砂浜に打ちあがっていたのは、あなただけでしたね」
戻って来てないということは、救命艇が別の場所に漂着してしまったのか。
それとも、乗らなかったのだろうか。
まあ、もともと一緒に旅をしていたわけではないし、利害がほんの少し一致したくらいだ。
何も言わずに先に言ったのかもしれないが。
寂しいっちゃ、寂しいな。
そう言えば、ここはどこだ。
首を回す。
「ここって、ヘンリーの屋敷?」
「ええ」
私は、ベッドから飛び起きる。
「ケイトス!」
裸だったが、そんなことを気にする余裕もなく部屋から出ようとしたその時、
「ラビット……」
小さな声が後ろから聞こえた。
首が痛いほど素早く振り返る。
存在を認識した瞬間、体が走り出していた。
「ケイトスッ……ケイトスッ……!」
抱きしめる。
彼女も抱きしめ返すだろうと思った。
だが、腕をそっと外された。
「だめ……ラビット」
「なんで」
何が、ダメって言うんだ。
あろうことか、ケイトスは私から距離を置いた。
「もう、私……ラビットの知ってるケイトスじゃない」
「ばか、何言ってるんだ。どっからどう見ても、クソガキケイトスだろ」
ケイトスは私の軽口に、小さく笑った。
「ううん。違うの」
私は動揺を隠すことなく、
「な、何言ってるんだよ。分かった、この間、無理やり抱いたから怒ってるんだな?」
「ちがう。思い出したの、私のしなくちゃいけないこと」
少女は、一瞬笑いかける。
「あなたがいたから思い出した」
「何をするって言うのさ……?」
「この時代の太陽を殺さなくちゃいけないの。第一の太陽を」
ケイトスの言っている意味が理解できないのと、彼女に拒絶されたことで私は苛立っていた。
少女はそれに気づいているのかいないのか、言葉を続けた。
「この時代は、おかしいの。人間がどんどん太陽に近づいて……でも、結局近づいても身を焼かれて、星の下にいく。何も生まないことばかり。第一の太陽がきっとそう仕向けてる。だから、殺すの」
「分かった。とにかく、そいつをやっつければいいんだな。じゃ、じゃあ私も一緒に手伝うから」
「ううん」
ケイトスは首を横に振った。
「太陽を殺せば、この時代は終わる。また、新たな時代が始まる。始まりに、私とあなたは一緒にいることができない」
「ケイトス、お前が何言ってるのか全然分からないよ……。お前は、私と一緒にずっと旅をしてくれるんじゃないのか」
「そうだったね」
血が、血管を突き破るのではと思った。
それくらい、彼女の言葉を理解したくなかった。
それほどまでに、彼女を愛しいと感じてしまっていたから。
この芝居が本当でも嘘でも、もはやどっちでもいい。
重要なのは、ケイトスが自分を求めているかどうかなのだから。
胸のざわつきは、狂気をまとわせつつあった。
「ハイジが言っていた意味、漸く分かった。あの時代で、私にキスを教えてくれたのはあなただった。私はそのキスが好きだった。私が一番最初に気に入ったものは、あなたからの愛だった。アネラ」
「アネラじゃない……。私は、ラビットだ」
私は、今、一人の少女と対峙している。
なのに、まるで自然を前にするちっぽけな存在のようにも思えた。
私が今まで抱きしめていたものはなんだったのだろうか。
唇が震えた。
紡ぎたい言葉を喉で押し出した。
「ケイトス、ずっと傍にいてくれよ」
もう一度言った。
「ケイトス」
「ごめんね」
「ふざけんな!」
ケイトスに掴みかかった。
その瞬間、彼女の背後から白いヒゲが槍のように飛び出してくる。
「ラビット、怒らないで。怒るとみんな怖がる」
「何度も見てるんだッ。当たるか!」
横に思いっきり飛んで、
片足を蹴ってケイトスの背後に素早く回り込む。
「一発、頭でも叩いてやらんと気が済まん!!」
振り下ろした手刀はあっさりとヒゲにからめとられた。
が、それはダミーだ。
「バカ野郎!」
艶やかな金髪の後頭部を思いっきり叩いた。
「いた」
無表情で、ケイトスが呟いた。
「ケイトス、お前が何者だろうが、何をしようが私にとってそんなこと関係ない。一緒に死ねるのか、一緒に生きてくれるのか、とにかくお前と一緒ならどこでもいい」
ケイトスは唇を噛みしめていた。
なんだその顔。
「あなた、何も変わってない。もう、会えないかもしれないのに、一緒にいるなんて辛いだけ」
漸く、少女の顔を覗かせる。
まごつきながら、
「怖い。また、失うの怖い」
白ヒゲが緩んで、ばらばらと床に散らばった。
私の腕に、うっすらと赤い痕が残った。
「そんなんで、よく世界滅亡させようなんて言ったな」
鼻で笑ってやる。
「いいか、何か道を決めたなら迷わないことだ。ああ、私が言っても説得力がないってことは重々承知さ。でも、私はこの世界で一つだけ迷うことのない答えを手に入れた。だから、それを邪魔するって言うんなら、例え神や悪魔が相手だろうとそれを貫き通す。そうして、生まれる争いがあるかもしれないけどさ、それで例えお前を殺すことになっても、私は答えを信じてる」
「私を殺しても……その答えは正しいの?」
「ああ」
「なに、それは」
「そんなこともわからないのか。脳タリン」
「また、それ言った」
「……お前を愛することに決まってるだろ」
ケイトスはますます顔を歪めた。
考えているのだろうか。
考えてくれているのだろうか。
彼女の背負っているものの、ほんの少しだって理解しちゃいない私の言葉に、彼女は迷っているんだ。
「意地悪」
そうかな。
とびきり優しいと思う。
「はいッ、申し訳ありません……エルナン」
「それとも、君の妹の……なんという名前だったかな、ああ――ハイジに新しい子を産んでもらうべきかな?」
私は首を振った。
「バンク協会も献体コーディネイト会社も、外部組織だからね。全てを委ねる訳にはいかない。それに、彼らはろくな体を寄越しはしない。より強靭な肉体の開発を成功させる。それは、この男の悲願でもあっただろう?」
穏やかに笑いかける。
「この男の夢は、より悲惨な争いを生む。私がこの時代に求めるものを与えてくれるだろう。争いは勝ち負けにあらず。それ自体が最高の美酒なのだ。さあ、愛する男のために、君は何をしてくれる、アドリアナ?」
再び激しく打ち付けらる腰に、私は声を出すことすらできなかった。
雑音のような呼吸と、汗により溶け出したような肌がぶつかり合う音。
その部屋に虚しく響くそれらが、私の身体を凌辱していった。
事が終わり、私は衣服を整えた。彼のプライベートルームでシャワーを浴びた。
少しだるい腰回り。いつまで、続くのか。
そう、考えたこともあった。イアンの調整は中々上手くいかない。
何人ものイアンを生んできたけれど、最初は胎内でしか育つことがないため、時間もかかる。
培養器に入れてからも、何かしら問題が発生していた。
自分の体もいつまでもつのか分からない。
なのに、そこにエルナンと同じ顔、声、姿がある。
それだけが、私を繋ぎ止めていた。
私の腰を揺らすのが、最愛の男ではないと分かっているのに。
彼に呼ばれた時、私はいつも女だった。
白衣を取り払い、学者の顔を忘れ、彼の下で喘ぐ。
一人目のイアンは、耐久性の実験に耐えれなくて体がぐしゃぐしゃになって死んだ。
二人目のイアンは、生まれる前に死んだ。
三人目のイアンは、狂って自殺した。
最も新しいイアンは、殺されたそうだ。
哀しみはもはやない。
ただ、それが悲しかった。
それらの行動と感情がルーティン化されて、作業になり、体の負担はだいぶ減った。
私はただ、愛する男との子を産む、一介の学者にしか過ぎない。
そう思えば、楽だった。
シャワーを終え、彼の部屋を後にした。
軽い倦怠感が続いていた。
そういう時は、決まって資料室に引きこもった。
学生の頃は、進化の系譜の過程を解明することが唯一の楽しみだった。
発掘された古代人の化石と睨みあっていた。
人が人でなくなる分岐点を探し当てたかった。
それが分かれば――この地の人間だけが苦しまなくていいのではと考えたからだ。
けれど、世界は残酷だった。
なにせ、神様こそがこの争いを望んでいたのだから。
今日はここまで。ケイトスとラビットがとにかくイチャイチャして欲しかっただけのssだったんだけど
……なんか分かりにくくてすまんね。そろそろ終わらせたいよ
争いのない平和な世の中では、世界が生まれ変わることはない。
破壊と再生は自然の摂理なのだとエルナンだった男――は言う。
私の知っているエルナンは、無精ひげを生やし、私がいなければ家事だってろくにできない、そんな頼りない人間だった。
頼りないなりにも、仕事熱心ではあった。だが、熱中すると周りが見れなくなって、時折変なミスをする。
それでも、彼が目指していた大きな夢に私も周りの人間も惹かれていた。
彼がこのMPの責任者になる前に行っていたのは、南部系原住民の無力化実験の統括だった。
数十年前、西部政府は、脅威になる南部系原住民を殺処分、従属化、無力化の3つの方針を打ち立てた。
元々、政府上層部のほとんどは、いわゆる太陽の子の力を恐れ、『人間に害を及ぼす動物』と位置づけ、全ての南部系原住民の殺処分を進めていたが、
しかし、南部系のテロが増え続けるため、危険思想を持つ者は、殺処分し、雇用を求める者は従属化し兵士へ、平和を望む者は無力化実験の検体として扱うようになっていった。
未だ、南部系原住民は政府の支配下に置かれているが、無力化さえできれば、争いを生むことはない。
普通の人間として生活ができるのだ。しかし、平和を望む者は少ない。
なにせ、ほとんどの原住民は憎しみを抱えているからだ。
遥か昔から、生贄として扱われてきた。
ただ、死ぬために、ただ、戦わされるために生まれてきた。
そんな泥と血と飢えに塗れた絶望がある。
むろん、それは私の中にも。
それだけではないのだとしても。
まるで動物と言われる。
平和は理性だ。
理性は動物にはない。
怒りも憎しみも悲しみも内包しているのに、私たちはいつまで『人間に害を及ぼす動物』なのだろう。
自室に戻ってから、胃の方がむかむかとしてきて、吐き気を覚えた。
喉元が震えたがなんとかこらえる。いつものことだ。これもルーティン。
ふいに、固定電話の方にメッセージが残されていたのに気づいた。
ハイジからだ。メッセージは姉妹間で交わされるようなささいなもの。
それから最後にパソコンを見るように指示があった。メールBOXを見て、と。
パソコンを起動させ、メールを確認した。
ハイジの属する研究グループは、従属化を推進していた。
エルナンの研究グループと対立関係にあったので、たまに私が仲介をすることもあった。
エルナンはずっと、ハイジのことを毛嫌いしていた。
南部側にも関わらず、化け物を生み出す実験に加担しているのが気に食わなかったのだろう。
それもそうだ。
誰もが、そう思ったに違いない。
ハイジは頭がおかしい。
マッドサイエンティストだと。
私はその話を聞く時、いつも何も言わずに頷いていた。
エルナンは彼女と和解することなく、ある日、南部の視察で崖から足を滑らせ転落して一度死んだ。
そう、彼は一度死んだはずだったのに。息を吹き返したのは奇跡、神の仕業と医者は言った。
それからの彼は人が変ったように、無力化の実験を放棄し、その経験と知識を従属化へ向けるようになる。
そうして、今では、エルナン自身が狂ってしまったと周囲から言われるようになった。
まさにそれが神の仕業と知るものは唯一私と妹だけだ。
こんな話を南部出身の私たちがしているなんて知れば、危険思想と思われかねない。
メールには、南西諸島にある聖地エルビスカイノの拡大図が添付されてあった。大きな赤い印がつけてある。
それは、私が先日ハイジに送った地図。軍の次の空爆予定地だ。
偵察部隊の話では、解放軍指導者である姉のメンチャと、弟のペドロもこの場所に移動しているということだった。
次も新編成された部隊が容赦なく彼らを襲撃するだろう。大地は焼け焦げ、血に汚され、争いで穢される。
虐殺が始まる。
それだけでなく、もし、そこにいる子ども達が死と言う極限状態に置かれれば、トナルが覚醒してしまう可能性もある。
そうなった場合、両者が滅びるまで闘いは続いてしまうだろう。
滅びを見たいと言う神の望み通り。
エルナンは待っている。
一の世界の神であるテスカトリポカ――自分と対の存在、二の世界の神であるケツァルコアトル――ケイトスを。
ケツァルコアトルが介入してくれば、争いは終わり世界はまた新しく生まれ変わる。
エルナンは彼女との戦いを望んでいる。
五の世界の滅亡をもたらす狂気的な戦争を。
神にとって、人は、恩恵をもたらす対象ではなく、星々の定める流れの一部にしか過ぎない。
その流れを滞らせないようにする調停者である彼らには、善悪などない。
人を道具と思っているわけでもなく、憎むわけでもなく。
その大いなる意思の奔流に、人はただ飲み込まれていくだけなのだ。
人同士の争いならば、勝敗が決まれば終わる。土地と人質を差し出せば、生き残った者同士、共存の道さえある。
しかし、神は同情はしない。こちらがどんなに生贄を捧げても、草木は何も答えてはくれないのだ。
エルナンは死んだ。もういない。
私が大切にしなければならないものは、家族。
それが、今、私に残された世界だった。
「ハイジ……メンチャ、ペドロ」
もう一度、家族が揃うまで、私は生きていたい。
それは、争いの先に続く世界であり、新しい世界ではない。
どうせ長くもたない体だから。
私はエルナンの研究データをメールに添付してハイジに送った。
「エルナン……使わせていただきます」
彼が実現したかった未来をもう一度――。
ここまで
―――
――
小鳥が嘴で突くようなノックが唐突に耳に入った。
誰だろうか。落ち着いて、ディスプレイのスイッチをオフにする。
「どうぞ」
書類を整理するふりをしつつ、応答した。
小さな猫のような子どもが、扉の隙間からこちらをうかがっていた。
「ハイジ先生……あの、お薬をもらいに来ました」
「あなたが、ガトね。いらっしゃい」
「遅くなってすみません」
「そうね、体のことを考えるともう少し早く来てもらった方が良かったわ。どうして、時間通りにこなかったのかしら?」
突っぱねるように言ってのけると、ガトは委縮してしまったのか、一瞬で子猫の姿に変わってしまった。
ストレス耐性の低い子どもだとは聞いていたけど、まさかここまでとは。
「ニャア……」
「呆れた」
優しくするつもりは毛頭なかったので、私は薬の入った袋をガトの方に放り投げた。
「イアンの方が、まだしっかりしていたわよ」
子猫は鳴かなかった。ただ、ぷるぷると体を震わせている。
体を覆おう短い体毛が静電気でも浴びたように逆立っていた。
4つ足を体の下にいれて、後ずさる。
「ガト」
私は笑いかけた。
「今日は確か、死者の日だったかしら。イアンに何かしてあげるの?」
今度は返事のつもりなのか、か細くひと鳴き。
「ティグレの分も用意した?」
椅子から立ち上がり、ガトの頭を撫でる。
怖がっているのがわかったので、すぐに離してやる。
「残念だったわね。せっかく、身の回りをお世話してくれてたのに。ああ、ガト。あなたが気にすることじゃないわ。あなたはまだ9歳ですもの。何も出来なくていいのよ。さあ、それを持って帰りなさい」
誰かに、君は子どもに嫌われたがってる節がある、なんて言われたことがある。
しかし、実験に参加させられている子どもから好かれたって、気味が悪いだけだろう。
数分後には、壁一枚隔たった向こう側にいる彼らを、スイッチ一つで醜い姿に変えてしまうことだってあるのだ。互いに殺し合うのを、数値解析のためにただ監視し続ける時もある。
優しくかける言葉などない。
これから死にゆく彼らに私がしてやれることなどないに等しい。
できることと言えば、彼らに希望を与えないことだ。
もっとも、希望と絶望の区別すらつけられないような化け物ばかりではあるが。
それでも、希望はあるという大人の裏切りが子どもを最も傷つける。それだけは知っている。
ガトの去っていった扉をしばらく眺めていたが、私はすぐに作業の続きに取り掛かった。
アドリアナ姉さんからの贈り物をクリックする。
姉さんが送ってきたのは、南部系原住民の能力を無力化する実験のデータだった。
途中で上層部によって闇に葬られてしまったもの。
ここまで
研究の統括リーダーであるエルナンがこれまでは平和利用を訴えかけ、無力化に耐えられる生身の肉体の開発も手がけていた。
施設内ではその支持が多かったので上層部もはっきりとした圧力はかけてこなかった。
しかし、能力を失えば、兵士としての運用はできなくなる。
また、能力の無くなった子ども達は繰り返された実験のせいで寿命も短い。
雇用としても役に立たない。
何より、南部の原住民とそれ以外とで分けていた秩序が崩壊することが一番恐ろしい事。
ならば、無力化しないに越したことはない、というのがだいたいの見解であった。
昔のエルナンなら、彼らも同じ人間であると主張していたのだが。
現在のエルナンは、上層部の年寄り連中とより強力なトナルに耐えられる『太陽の子』を作り出そうとしている。
テスカトリポカと呼ばれる一の世界の太陽をその身に潜ませて。
恐らく、当の本人はすでに崖から落ちた時に死んでしまっているのだろう。
南部の神話は余り西部では研究されていない。南部の思想に侵されないように思想統制されていた頃もあった。
神話を紐解くと、テスカトリポカにとって、今の生温い五の世界は居心地の良いものではないということが分かる。
血を血で流し、自らに生贄を捧げさせてきた神。自分こそが世界を支配する唯一絶対だと主張している。
太陽のいない現在の世界で、人間が我が物顔で統治しているのは許せないはずだ。
運命の奔流により一の世界の太陽の座から失墜させられても、耽々と太陽の座を狙い続けていた。
有名な話では、最も人に近づいたとされる二の世界の太陽であったケツァルコアトルを冥府から蘇った彼がその座から引きずりおろした。
次の三の世界は、ケツァルコアトルの弟であるトラロックが太陽の座についた。姉のケツァルコアトルのいない世界を嘆き、
二の世界で姉の歌っていた歌を歌いながら人の世と自らの運命を嘆いていたので、彼を唆して罠にはめて冥府へ送った――等々。
神々の争いを運命としながらも、自らが戦うことを選んでいる。
神であり狂戦士。
だが、この時代に神なんて必要ない。
神がいなくとも世界は成り立つ。
必要のない時代にかくも多くの神が集まったものだ。
神がいたから太陽の子が生まれた。
太陽の子がいたから、人々は神の存在を認め、生贄を捧げた。
生贄は争いの火種を拡大させた。
ならば、神も太陽の子もいなければいいのだ。
人類の発展を、人間以外のものに頼ろうとした連中がおかしな文明を作り出した。
私たちは一体何と戦っているのだろう。
列強諸国はこの国の資源やエネルギーを狙っている。
だというのに、未だ内紛ばかり。それの制圧すらできていない。
身に余る力によって、身を焦がしているに過ぎない。
いつか枯渇する資源と同じ。曖昧な拠り所。
この文明が滅びればいいのだ。
神同士好きに争い合えばいい。
それを利用してやるだけだ。
アドリアナ姉さんは、新しい世界を望んではいない。
捕まった父や母。そして、反政府軍としてテロ活動にいそしむメンチャやぺドロ。
彼らへの未練を捨て切れていない。
でも、私は違う。この世界を救う方法はただ一つ。全てをいったんリセットする他ないのだ。
だから、これは彼女に対する裏切り。
この世界の人間を生贄に、次の世界に未来を託す。
醜い何もかもを終わらせなければならない。
そのために、彼女を生み出した。ケイトスを。
アネラと引き合わせることで、覚醒する日を待った。
神の力は確かに存在する。しかし、その力を支配することも、私たち人間は可能になった。
人間の大脳にある小さな海馬。そこに誰しもが原初の記憶を保管している。これがトナルと呼ばれる精神を作り出す。
トナルはアドレナリンやドーパミンと言ったホルモンにより興奮状態になった時、覚醒しやすい。
トナルの送り出す電気信号によって細胞が刺激され、遺伝子が多次元的に組み替えられる。
南部の原住民は、その海馬にある原初の記憶の質が高いため、トナルの能力が現れやすい。
無力化は、その海馬の一部を破壊するまたは、電気信号を送らせないようにすることで可能になるのだ。
特に麻薬やドラッグは、この海馬を破壊するため、実際麻薬やドラッグを頻繁に使用する地域の子ども達は、
歪な覚醒をして、覚醒後は元に戻らずにすぐに死んでしまうケースもある。
逆に、力を暴走させないように、制御する働きもある。
ここまで
アドリアナ姉さんは強力な薬物の力で、神が顕現したエルナンの海馬を破壊すれば、拠り所とする物が無くなるためテスカトリポカを追い出せると思ったのだ。
仮に、その後遺症として植物人間になろうと、一生彼に寄り添い生きていくつもりだったのだ。
なんて健気なんだろうか。
ああ、けれどあなたの望みは叶うことはない。
なぜなら、私たちは全て神の戦いの生贄になるのだから。
あの日、ケイトスを生み出し、姉の最愛の人間を殺し、テスカトリポカとケツァコアトルの饗宴を望んだ。
世界の滅亡のカウントダウンはすでに始まってしまっているのだ。
――――
―――
ゴガンッ、と微震が襲った。
その揺れで、ティグレは飛び起きた。
ベッドの端の方にいたチャルが転がり落ちる。
「ひあや!?」
顔から突っ伏したチャルの上に、ピトンもシーツと一緒にずり落ちた。
「ふぎゃッ」
二度目の悲鳴。
部屋の扉がノックされた。
無礼なことに、返事を待たず扉が開く。
「着岸しましたので、船を降ります」
「って、どこによ」
私は最もな疑問を口にする。
「聖地エルビスカイノです。メンチャがお待ちしております」
青年は言った。
「エルビスカイノですって?」
よりにもよって、こことは。
ピトンが立ち上がる。
「もしや西部軍と戦うおつもりですか」
少女は厳しい口調で聞いた。
侮辱と取ったのだろう、青年は声をやや張り、
「戦いますよ。今も、この聖地でさえ我々の同胞が助けを求めています。チャルチウィトリクエ、我々の力だけでは軍に通用しません。ですから……」
後ろに控えていたのか、ぞろぞろと白に簡単な刺繍を施したマントを着込んだ男女が取り囲む。
手にはみな、拳銃を握りしめていた。
「どうか、どうか我々を勝利に導いてください」
聖地の空は高く透き通っていた。周囲を海に囲まれた孤島の楽園。
この海域と陸域の海生生物や植物の種類はおよそ900種以上だと言われている。
トナルは全てここから生まれたとされる。
この楽園に住む動物達は、太陽になることができなかった神様なのだそうだ。
実験の際にかけ合わされる動物は全てここで捕獲しているらしい。
と、流暢に説明していた青年の言葉が途切れた。
鳥の群れが空を駆ける。
それを横目で見送りながら、袖を引っ張られたので正面を向いた。
南部解放指導者メンチャ・トフラーは、弟のペドロに手を引かれ、隣に着岸していたもう一隻の船から降りてきている所だった。
メンチャの周りにはペドロと他に護衛が二人。
チャルをけしかけるにも、護衛をどこかへ追っ払わなければ。
静かにこちらへ向かってくるメンチャ。
民族衣装のフードをとり、日に焼けた顔をさらす。
若くはないが、足取りはしっかりとしていた。
「チャルチウィトリクエ、お待ちしておりました」
少女と同じ視線にまで腰を落とし、膝をついて頭を垂れる。
「別に待ってなんて言ってないし、そもそもチャル関係ないもん」
チャルはどうでもいいと言ったようにそっぽを向く。
横にいた弟のペドロが一歩前に踏み出した。
「それは違います。あなたは、自らの世界の罪を、ここで償うべきです」
「なんのことさ」
「あなたは、自らの老いを恐れこの世界に絶望をもたらした」
ペドロは神を冒涜する。チャルは首を傾げて睨んだ。
「なぜ、この世界に太陽の座がないのか。それは、四つ目の世界の太陽が現存しているせいです。本来なら、他の神と同じようにあなたも世界の破壊と共にそのの身をトナルへ変えなければならなかった。あなた自身が次の世界をよりよくするための生贄にならなければならなかったんですよ。かの世界の人間と共にね」
ペドロはチャルに掴みかかった。
「ペドロ、お止めなさい」
メンチャが制し、ペドロを押しとどめた。
「し、知らないもん」
チャルは物分かりの悪い子どものフリをしているようにも見えた。
ペドロは呼吸を止めるようにすぐに黙った。
一転、メンチャは優し気な眼差しで見つめ、
「この世界を統べるべき太陽がいないということは、冥府を統べるシクトラン・テクートリと対になる存在がいないということなのです。テクートリは、トナルを最下層に閉じ込めてしまい世界が生まれ変わったとしてもその魂を決して手放さない。つまり、輪廻転生を果たせない。トナルとして真の覚醒を果たした人間は、死ねばその存在そのものがこの地上から失われてしまうのです」
努めて冷静に言った。
西部軍の上層部の連中が聞けば、鼻でせせら笑っただろう。
しかし、実際にこの目で見てきたもののことを考えると、メンチャが偽りを言っているようにも思えなかった。
メンチャの視線がこちらへ注がれる。
「あなた方のような若い命が、人生の半分も生きることなくその一生を終え消えてしまうのを、私はどうして許せましょうか」
死んだ後に何が残るのか。
そんなのは今生きている人間にとって関係のないことだ。
しかし、次の世界にいけない人間といける人間がいるとしたら。
未来に多くを残すことが、我々の責務だとメンチャは訴えた。
「あなたは幼い太陽でした。それが災いしたのでしょう」
チャルは何も言えない様子だった。
これのどこが神様だと言いたくなるくらいには。
「ちょっと、まるでチャルが何もかも悪いみたいな言い方やめてくれないかしら。あなたたちはいつもそうよね。神の教えに従い、何もかも神のせいにする。宗教なんてクソ食らえだわ。自分の生きている世界なのに、どうして自分以外の何かに託そうとするのよ?」
「ティグレぇ……」
チャルが私の太ももに抱き着いてくる。
「あなたたちは勝手よ。勝手に信じて、勝手に裏切られたと思ってるだけよ」
この悪夢みたいな世の中が、全て誰かの創造の中で作られたもので、
都合の悪いことがある度に、その誰かを憎んでいるのと同じだ。
次の世界?
そんなもの永遠に来なくていい。
私はここでガトと暮らしていくの。
次なんてものを考えるから、今が腐敗していくじゃないの。
「今夜、ここで西部軍による大規模な一掃作戦が展開されます」
メンチャは言った。
「私達は戦うことで、人類の未来を切り開く。神頼みのつもりは全くありません。しかし、戦況を有利にしたい。まあ、どのみち、あなた方も戦わなければならないでしょう。彼らは無差別的にこの地を爆撃する予定ですので」
一呼吸おいて、
「神を信じなければ、私達に勝利はありません」
脅迫めいたことを告げた。
ここまで
「あんたたちに加担するつもりは全くない。でも、ここでぼーっとしてても死ぬってわけね」
「チャルだって、力があればすぐにでもここから脱出できるもん」
一瞬、奇妙な空気が漂った。
メンチャとペドロが顔を見合わせる。
弟の方がしゃがみ込んで、チャルの両肩を浸かんだ。
「4の太陽よ、今、なんと」
「ふえ?」
少女は、首を捻る。
が、はっとして、小さな両の手のひらで自身の口を塞いだ。
「まさか……力を失ってしまったのですか」
ペドロが怒りと絶望を混ぜて言った。
「なんてこと、なんてことだ……」
メンチャも動揺を隠してはいなかった。
私とピトンはやや後ずさって、チャルに視線を送る。
少女が振り返る。
口が、ごめんと動いていた。
「では、あなたは今やただの少女になり果ててしまったのですか」
ペドロが言った。
「この大事な時に、あなたは……」
それについては知ったことではないのだけれど、チャルは馬鹿にされているようで悔しかったのか、
「無くなったわけじゃないもん! 盗られちゃっただけだもん!」
「盗られた?」
掴みかかる弟を下がらせ、メンチャは子を諭す母のように聞く。
「いったい、誰に?」
「ケイトス!」
「ケイトス……まさか、レベル3の?」
メンチャが顎下に右の拳を当てる。
「馬鹿……」
呟いたのはピトンだった。
――――
―――
お屋敷のメイドは気を利かせたのか、いつの間にか部屋からいなくなっていた。
ベッドのシーツを互いの背にかけ、壁にもたれかかり、体温とその柔らかな体に現実感を忘れ埋もれる。
手と手を取り合っていたけれど、どちらかと言えば、私がケイトスの手を掴んで離さないだけかもしれない。
「ケイトス……」
「ここにいるよ」
目を瞑り、そう何度呼びかけただろう。
「でもね、もう、行かなくちゃ」
ケイトスはそう言うが、まだ、動く気配はない。
「まるで、ゲームのコマみたいだ……」
「コマ?」
「そう」
私は実験の合間に与えられた、ボードゲームを思い出す。
「何かの役割を与えられて、誰かの意思で動く。進む先はコマが決めるんじゃないんだ、ゲーム盤で遊んでいる連中が決める」
ケイトスの返事を待つ。
「私は、コマ……?」
「そうじゃないことを願いたいけどさ」
「誰が、私を動かしているの?」
「……誰だと思う?」
「分からない」
「実は、私だったら?」
笑いながら言ってやる。
「それなら……」
ケイトスは微笑んだ。
しばらくして、お屋敷のメイドが扉をノックした。
「あの、ピトン様からお電話が」
「ピトン!?」
良かった。
無事だったのか。
子機を受け取り、二人で聞けるようにスピーカーモードにする。
「ピトン? よく、私がここにいるって」
声は、ピトンのものではなかった。
どこかで聞いた覚えがあると思っていたら、名を名乗られた。
「メンチャ……なんの用だ」
声のトーンを落とし、用心のためケイトスの口に人差し指を当てた。
そして、電話に出たことを後悔した。
メンチャは、今夜、大規模な作戦が聖地で開始されると言った。
戦況は不利に近い。
手伝う義理はない。
しかし、ピトンらがそこにいるなら話は別だ。
「行こう、ラビット」
おかしな話だ。
人類を滅ぼすために神を殺そうとしていたのに。
今度は人類を救うために神を助けに行こうという。
「アネラなら、終末が目の前に迫ってても、きっと助けに行ったから」
「……アネラって、結局なんなの」
「私と王に仕えていた、兎の神官」
ケイトスが頭を撫でる。
「すごく可愛かった」
言って、獣の姿に身を変えた。
ケイトス――ケツァルコアトルと自分で名乗っているが――の話では、
私がチャルに殺されかけた時に助けようとして、チャルの力を奪い取ったのだと。
ケツなんとかからすると、チャルは下位の存在になるらしい。
自分に宛がわれた使命すら理解できない幼い内に太陽に選ばれてしまった。
本来であれば、世界の崩壊と共に自害し、輪廻転生に乗っかり次の世界に生まれるらしいのだが、
彼女がそれを無視したことでこの5の世界にバグを生み出してしまっているらしい。
「世界に、太陽は1つ」
ケイトスの背中に揺られ、私は昔話を聞いていた。
驚くべきことに、海の上を走りながら。
いつもの猪スタイルで。
夕日が白波を染める。
このままどこまでも海原が続けばいいのに。
そんな少女のようなおとぎ話を思い描く。
「ねえ、あれ」
塩辛い唇を舐めながら、ケイトスの髭が風に逆らって夜空を指した。
「なんだ……? ああ、金星か」
ケイトスと出会って間もなかった頃は、
彼女は無邪気に星を眺めていただけだった。
「あの星みたいに、世界も、暮れると共に閉ざされ、明けると共に蘇る……」
ケイトスの髭が、羽のように海の上を羽ばたいた。
「ラビット、言ったよね。故郷は、帰る場所じゃなくて、向かう先でもいいって」
目を深く閉じて、ケイトスの体にしがみつく。
「一緒に、またあの星見てくれる? ピラミッドも見に行ってくれる?」
「デートのお誘い?」
「そうだよ」
それは、私よりもケイトスの方がより分かっている未来だっただろう。
「聞かなくても分かってるだろ」
「言って」
「……いや」
「どうして」
「どうしても」
言えば良かったと後悔するのだろうか。
けれど、この世界の終わりを肯定する言葉を私はまだ口にすることができなかった。
――――
―――
「冗談でしょう――?」
ティグレが目の前で次々と獣に姿を変えていく子ども達を見てそう言うのも仕方ないと思えた。
我々よりももっと幼い男女十数名が、人為的な開発も受けていないにも関わらず、太陽の子として覚醒しているのだ。
もちろん、目にしたことはある。
けれど、こんなに大勢いたなんて。
「正気ですか?」
指揮を執るペドロに言った。
「ぼくが正気かって? それは、あんたら西部軍だけには言われたくないね。本来は、自然と発現するものなんだ。それを、強化して無理やり覚醒させるなんて、どっちが正気なのかは明白だろう」
「ですが、自然発現は、不可逆的にしか覚醒できない恐れもあります」
つまり、一度異形の姿になれば、もう一度人間になることはできないかもしれない。
また、獣としての形成度も低い。
「彼らが望んだことだ。さあ、みんな薬は飲んだかい?」
薬――麻薬の事だと私は直感した。
子ども達だった生物が、咆哮をあげ、大人たちは銃を掲げた。
「来たぞ!」
インカムを耳に当てた男性の一人が言った。
咆哮はさらに輪をかけて地響きのような唸りに変わった。
ペドロは着ていた装束を脱ぎ捨て、自らも長銃を手に言い放つ。
「この聖戦が明日の地平を築く。我らがメシーカの神の聖地と御心を守り、我らの人権と領土を取り戻すぞ!」
車両に乗り込む者。
飛び立って行く者。
走り出して行く者。
迷う者はいなかった。
立ち尽くす者は、私達くらいで。
西部軍の攻撃が始まった。
遠くの方で、光が走った。
続いて、地を揺るがす着弾音。
解放軍の仮設テントの下で、誰もが空を見上げていた。
爆炎が踊り狂い、私の目をくらませる。
側に立っていたティグレが歯を鳴らした。
「こんな所で、死ねない……」
そうだ。
それだけは確かだ。
解放軍の見張り達が急にざわつき始める。
「海からも来てるぞ! 応戦しろ!」
どうやら、母船が攻撃を受けたらしい。
「命令が聞こえていなかったのか!」
民族衣装を来た見張りの一人が、私の腕を掴んだ。
「何するの!」
ティグレが虎に変態し、見張りを蹴り飛ばす。
「うわお!?」
「仲間割れしてる場合か!」
他の見張りが怒鳴った。
「仲間になった覚えもありませんが」
私は静かに言った。
ここまで。今月中に終わる予定です。
設定はあんまり練ってなかったので、読みづらい点は脳内補完で。
乙あけおめ
>>534
ありがとあけおめー
今や、西にも南にも所属していない。そういう意味では、私は一人の少女に戻った。
一人の夢見る少女に。いつも、ベッドの中で見ていた夢があった。
ハイジをここから連れ出して、争いも差別もない平和な世界で旅をする。
ラビットとケイトスのように、世界中を逃げ回ることになってもいいと思えたのは、彼女のことが好きだったからに他ならない。
首にかけたオブシディアンナイフを握りしめる。共に生きることができないなら、共に死んだ方がマシだ。
だからこそ、ここで死ぬわけにはいかない。
「おい、なんだ、あれ」
男が空を指さした。
空を覆っていた闇が切り裂かれ、まるで生命誕生のような光が差し込んだ。
その裂け目から降り注いできた熱波が、大地の何もかもを刈り取っていく。
刹那の出来事だった。
私は何の覚悟もないまま、死の光に飲み込まれた。
――目を開いた時、どこか見たことのある慈悲の欠片もない焼野原の中、一人チャルだけが立ち尽くしていた。
「何……」
ちかちかと明滅する視界。
「ティグレが」
チャルはその小さな手に、ひとふさの毛を握っていた。
それがティグレのものだと私は瞬時に理解した。
「ティグレ……?」
私は周囲を見回した。私とチャルの二人しかいなかった。
チャルは、何かに抱きつこうとする仕草をみせる。
しかし、そこに誰もいないことに気付き、毛を握りしめて、母親に取り残された子どものように、徐々に嗚咽を漏らし、ついには泣き叫んだ。
どうして――。
どうして私は生きているのだろうか。
「幼きナワルよ」
「あなたは」
ティグレの消えた状況を理解できないまま、新たに混乱を招く存在――老人が私を呼んだ。
「テスカ……トリ……ポカ」
チャルが泣きながら言う。
「幼き太陽よ」
老人はゆっくりと、チャルの頭に手を置いた。
「新たな世界に、全てを捧げよ」
「やめ」
それもまた瞬間の出来事だった。
チャルの体は、蒸発した水のように消えた。
今日はここまで
「次の世界の太陽が決まれば、再び、この地が創生される。その時、運が良ければ冥府から蘇ることができるだろう」
声が、青年のものに変わる。
老人の姿はない。
チャルのいた空間に光の粒が舞い上がっていた。
暗闇の中、昔の軍装のような貴金属の装飾を纏った、浅黒い身体が浮かび上がる。
場にそぐわない綺麗な顔立ちだった。
「王すら守護することのできなかった亡霊が、まだこの世を彷徨うのか。消えよ……」
貴金属が炎と共に踊る。
熱風が私の額を擦過した。
テスカトリポカ。
最後に少女が口にした言葉が、耳の中にたゆたう。
忘れていた瞬きを一度した。
乾いた瞳が潤った後、男はハイジと同じような白衣を着ていた。
「少女」
私の首元の黒曜石のナイフを指さした。
「それは、私の化身イツトリ。どこで手に入れたのか知らないが、意志ある者の手にしか渡らぬナイフだよ」
「その手で何を成し遂げたい?」
私の脳と彼の脳とが直結でもしているのか、何も言っていないのに心の内が覗かれていく。
そう感じた瞬間に、彼は私の思考をどんどん言葉に変えていった。
「なるほど、ナイフはハイジからもらったか。ふむ、それが君の本当の望みか、面白い。イツトリが好きそうな理由だ。愛ゆえに、信じて[ピーーー]……闘う者は嫌いではない」
彼は、いつかの老人のようにくつくつと笑った。
「化身イツトリは死を見届ける者だ。そのナイフでは傷一つ負わすことはできないだろう。君のその毒の牙を持って、戦いに勝利すればいい」
「私は……」
「もっとも、ハイジは拒みはしないだろうがね。世界の再生を望んでいる」
ひとりの女性の姿が、瞼の裏に浮かび上がる。
「見届けてあげよう。ここを真っ直ぐ進むのだ。君の目指す場所にたどり着ける」
※再投稿
「その手で何を成し遂げたい?」
私の脳と彼の脳とが直結でもしているのか、何も言っていないのに心の内が覗かれていく。
そう感じた瞬間に、彼は私の思考をどんどん言葉に変えていった。
「なるほど、ナイフはハイジからもらったか。ふむ、それが君の本当の望みか、面白い。イツトリが好きそうな理由だ。愛ゆえに、信じて[ピーーー]……闘う者は嫌いではない」
彼は、いつかの老人のようにくつくつと笑った。
「化身イツトリは死を見届ける者だ。そのナイフでは傷一つ負わすことはできないだろう。君のその毒の牙を持って、戦いに勝利すればいい」
「私は……」
「もっとも、ハイジは拒みはしないだろうがね。世界の再生を望んでいる」
ひとりの女性の姿が、瞼の裏に浮かび上がる。
「見届けてあげよう。ここを真っ直ぐ進むのだ。君の目指す場所にたどり着ける」
私には分からない。
彼の言っている意味。
どうして、ハイジを知っているのか。
テスカトリポカ――1の世界の太陽が何を企んでいるのか。
「敵が定まっている者に用はない。行きなさい」
彼の腕が蛇のようにうねった。
同時に、風が巻き起こり私の背中を押していく。
「きゃっ……」
瞬く間に周囲の騒乱が、過去の歴史のように遠ざかっていく。
その圧力に耐えきれなかったのか、地面から足がふっと離れた。
瞼を固く閉じた。
嵐に身を包まれたようだった。
『神』に会った。
と遅すぎる解釈をした。
『神』が殺された。
それも遅すぎる認知。
『友』が死んだ。
遅れてやってきた哀しみが胸をえぐった。
「ハイジ……」
それら全てを内包した私の体は、相変わらず彼女の前ではただ一人の少女だった。
彼女が、白衣を翻し、振り返る。
いく万もの言葉をもってしてもこの感情を言い表すことはできないだろう。
膨大なエネルギーとなって、この身を焦がした。
それでも、恐れることはなかった。
「ピトン、あなたどうやって……?」
ハイジは囁くように言った。
彼女の研究室の椅子から立ち上がる。
驚いて目をぱちぱちと瞬きしていたが、私が取り出したナイフを見て笑った。
「使い道が決まったのね」
「いいえ、こんなものであなたを刺そうなんて考えていません」
「どうして、ピトン。恨みを晴らしに来たのでしょう?」
「恨み?」
「あなたを利用した私達へ復讐しに来た、そうじゃないの?」
さも当たり前のようにハイジは言った。
こうなることを最初から予想していたようだった。
「どうして、愛するあなたに復讐なんてしなくてはいけないんですか。私はあなたに会った時に一度死んだ。私をこれまで生かしていたのはあなただった。あなたに会えたから、私はまだこうやって立っているんです」
「でも、あなたも、この世界にうんざりしたでしょ? 私は、そうよ」
まるで、直属の上司のやり方が気に食わないとでも言うように。
「けれど、世界の理に従って死ぬくらいなら、可愛いあなたの手で死にたいわ。ピトン――」
カツンとヒールを鳴らし、私の体をしっかりと抱きしめる。
ハイジの香り。
私の髪を梳かす指。
「軍の人間も、太陽の子も、力のある者に支配される世界は終わり。テスカトリポカとケツァコアトルによって、この世界は一度壊れてまた蘇る。後の事は、神の采配に任せるの」
ハイジは何を言っているのだろう。
創世神話の話だろうか。
「新しい世界に、あなたはいますか、ハイジ」
「分からないわ。それは、誰にも」
「私は……ここであなたと生きたいと思うこともありました。平和な土地に二人で逃げることだってできたはずだったと。でも、叶わないんですね」
私はハイジにしがみついて、
そして、
キスをした。
今日はここまで
あとちょっと
これが、テスカトリポカの見せている幻影だとしても。
この感触も、甘さも。
温もりも、切なさも。
私の望んでいたものだとしても。
ただ、一つだけ分かっていたことがある。
あなたは、最初から平和も夢も、叶うなんて思っていなかった。
私があった頃から、この世界に絶望していた。
とっくの昔に、狂ってしまって、自らの運命を手放していたのだ。
「ハイジ、私は、あなたに……幸せを贈りたかった」
「ありがとう」
「見せたいものもたくさんあるんです……」
「そう……」
「そうだ……西部軍地域にいる私の友人の作るスープ、凄く美味しいので一度味わって欲しかったんです……」
ハイジは笑った。
ハイジは死んでいたんだ。
それを私は気づかなかった。
ハイジは父と同じ。
肉体だけがあり続けている。
「あなたに……あなたと……私が……」
何を言っても言葉は通じないと思った。
言い換えた所で、彼女は受け止めることがもはやできないのだ。
私は何度も唇を重ねた。
確かに感じることができるのに、それだけだ。
それだけなのだ――。
ならば――、ならば、それでもいい。
彼女の舌に、牙を食い込ませて。
深く口づけた。
血の味が、口いっぱいに広がった。
ハイジは抵抗しなかった。
いつしか、互いの口の周りが涎と血でべとべとになった。
いつまでも、それを味わっていたかった。
「もう一度迎えに来たら……デートしてくれるって思ってました……」
べた付いた声は、ぶくぶくと喉を泡立てた。
頬を伝う涙が、血を洗う。
ハイジは最後に、目を細めて、
「では、デートは延期と言うことで」
「またですか……」
やっぱり、する気なんてなかったんだ。
ああ、バカみたい。
バカみたいだ。
――――
―――
――
目に染みる。
冷気と潮のせいか。
それとも、海を割るような速さで駆けるケイトスのせいか。
「見えた」
ケイトスが唸った。
私は前方に目をこらす。
聖地の影があった。
影が一瞬、閃光によって本来の姿を現した。
「……なんだ、今の」
すぐに、光は収束して、遅れて音が耳をかすめていった。
「ゥァっ?!」
煙が上がり始める。
「ラビットッ……大丈夫?」
「あ、ああ」
さらに再び、一閃。
それは、こちらに向かってだった。
ケイトスが上方に跳ね上がる。
海上すれすれだったその光の槍のような何かがジュッと音を立てて、海に溶けた。
今日はここまで
もうちょい
続いて、もう一射。
ケイトスがさらに上空に舞い上がって回避する。
――ケツァコアトル。
「誰だ……?」
男の声。
「テスカトリポカ……」
ケイトスも男の名を呼んだ。
――人に骨抜きにされたものと思ったが、本来の使命を忘れていなくて良かったよ。
どこからでもなく、思考に直接割り込んで、脳に響いた。
眼下には、砲撃のせいかクレーターのように抉り取られた地面。
人が廃材か何かみたいに倒れている所もあれば、そこだけ火炎放射器で炙られたような場所もある。
ピトン達は、無事なのか。
――しかし、戦意の無い臆病者をこの地にあげるわけにはいかないな。
「ラビットに手を出さないで」
「な、なんだ」
――君も目覚めたのなら理解しているだろう。この世界は失敗している。むろん、その人間もまやかしに過ぎない。君の知っている神官殿ではない。
「分かってる。世界は再生に失敗した。同じトナルを持っていても、違うナワルになる。だから、今、私が大好きなのはラビットなの」
――つくづく人間と仲の良い事だ。君が勝てば、次の世界は君のその想いを受け継ぐだろう。
「ケイトス……私も一緒に戦うよ」
「ラビット……」
――以前の神官殿よりも勇気があるのは好感が持てるが、さて、君の敵はどこにいる? 両親を殺した者か? 君をそんな体にした者か? それともそんな世の中を作った我々か?
「敵は……」
「ラビット……ごめんなさい」
「なんだよ、お前は何も悪くなんか……なっ?!」
視界いっぱいに、ケイトスの顔が広がった。
喋っている途中にキスをされて、思わず咳き込んだ。
涙目で見上げる。毛むくじゃらの顔が笑っているように見えた。
「ひとりで大丈夫だよ」
「そんなこと言うな」
ケイトスの鼻にもう一度、今度はこちらからキスをした。
「そんなこと……言わないでくれよ」
ドスっ、と鈍い音が背中で聞こえた。
焼けるような痛みが体中を貫いた。
続けて、何度も何度も。
痛みは徐々に甘い疼きに変わっていく。
「いや……だ……なんで」
「もし、私が負けたら、テスカトリポカは生き残った者を世界の生贄に捧げる。そうなったら、きっと、次の世界では会えない。あなたには会えないから」
だから、共に戦わせてくれよ。
いつまでも一緒にいるから。
どうしてだよ。
言葉にならない。
「私が負けても、私の事忘れることができる。悲しくない」
悲しいに決まってるのに。
言い返せない。
一人で決めるなよ。
大馬鹿野郎。
大馬鹿野郎だ。
クソガキだよ。
お前はホントに。
「でも、もし、私が勝ったら……」
ふわりと、私の体がヒゲに持ち上げられた。
白いそのヒゲに私の血が滴り落ちていく。
ケイトスはいつの間にか、人型に戻っていた。
金糸を思わせる肩よりも少し短い髪。
幼さの残る丸い顔。
青色の目。
夜の闇と貧血により奪われていく視界。
彼女は、横髪を止めていた、花の髪留めを外した。
そよいだ風に、髪がなびいた。
彼女は目を細めた。
信じている。
お前が勝つと。
世界にお前がいないなら、そんな世界はいらない。
ケイトス。
「私を待っていて」
血生臭い涙が、海へと落ちていく。
私は瀕死の状態で、情けないほど涙を流して、何度も頷いた。
きっと、待ちきれず、探しにいくから。
「あなたの元に帰るから」
―――――
―――
――
ノックの音で目が覚めた。
まだ、朝もやの中に向かって飛んでいるような心地だった。
体は動かない。
とてつもなく長い旅の後のような、徒労感すら感じる。
昨日、学校であったマラソン大会のせいだと思う。
全身筋肉痛だ。
「お姉ちゃん! 起きて!」
私は呼ばれて、視線を転じた。
猫のようなつり目の妹が、さらに目を怒らせて、いつものように私を起こしにきたのだ。
この後の展開も予想できる。
あそこから、走ってきてベッドにダイブしてくるのだ。
人間砲台め。
「起きる所だったから……待って」
「嘘つきだ……」
ただでさえ背中が痛いのに、これ以上の追撃を受ける訳にはいかないので、私はのそりと起き上がる。
「お母さん、もう仕事行ったよ」
「はいはい」
ベッドの端に手を置いて降りようとした時、手にちくりと何かが刺さった。
「あが?!」
痛みに驚き、ずり落ちる。
妹が、駆け寄って、
「だ、大丈夫?」
なに、画鋲?
フローリングの床に何か転がっている。
妹がそれを拾い上げた。
「髪留めなんて、お姉ちゃん使ってたっけ? はい」
「え、ううん。自分のじゃないのか?」
「こんなの持ってないよ」
二人で首を傾げる。
「それより、遅刻しちゃうよ」
「あ、やば」
ドタバタと、制服に着替えて階段を駆け下りた。
「はい、パン! はい、牛乳!」
飲み込んでいない内に、どんどん口元に運んでいく。
「待って、待って!」
世話好きの妹のおかげか、ぎりぎり間に合いそうな時間に家を出ることができた。
少し風が強い。眩しい陽光に目を細めつつ、肌寒さに身震いした。
「やば」
明滅する青信号。
妹と駆け足で、道行く人を避けながら横断歩道を渡る。
と、マフラーがずり落ちる。
「うわっと」
キャッチしようとしたけれど、運悪く歩道に落ちた。
朝からなんてついてないんだ。
反対側から来ていた人が、気づいてくれて、すぐに拾ってくれた。
「ありがとうございます」
「ううん」
私は微笑んだ。
イギリス人っぽい女の子。
青い瞳に、一瞬見惚れてしまう。
「お姉ちゃん! 赤になるよ!」
そんな妹の声が聞こえていた。
なのに私は、吸い込まれるように動けない。
「髪留め、持ってる?」
「え、あ」
私はおもむろに制服のポケットからオレンジの花の刺繍の髪留めを取り出した。
「ありがとう」
彼女は微笑んだ。
私は、妹にぐいぐいと腕を引っ張られて、
「じゃあね―――」
彼女と反対側へ。
「誰、知り合い?」
妹が言った。
「たぶん……?」
失礼ながら、名前が思い出せない。
会ったことがあるのだろう。
あの髪留めは彼女のものだったみたいだし。
知っている。
それは、確信に近かった。
それより、なにより――、
別れの言葉の後に、彼女が小さく言った言葉。
それが、胸の鼓動を高めていた。
私は、振り向いた。
人混みに紛れて、もうどこにいるか分からない。
「お、お姉ちゃん、どうしたの?」
「え」
頬を伝う涙。
驚いて目をこする。
何か、あったはずだ。
思い出さなくちゃいけないことがあったはずだ。
必ず、決めていたことが。
――ただいま、ラビット。
その言葉を、もう一度口にしてみた瞬間、体中の全神経が私を叩き起こしにかかった。
呼吸さえ忘れるくらいの衝撃が脳を揺さぶった。
思い出せ、思い出せ、と私を殴りつける。
葉が舞い落ちたように、ふっと目の前に、言うべき言葉が見つかった。
「おかえり、ケイトス」
その懐かしさは、軽くこの世界を飛び越えた。
終わりです。
二人の幸せな未来まで突貫工事でしたがたどり着けて良かったです。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。
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