涙目で熱い吐息を漏らす姉が弟に抱かれる話 (106)
定間隔に聞こえていた線路の継目を踏む音が、少しそのテンポを落としてきた。
さっきまで見えていた空は、今は聳え並ぶビルに隠れている。
大都会という程ではない地方都市でも、その地域で最も大きな駅に近付いているのだから当然の光景だ。
流れる看板にはどれも見覚えがある。
前にここを訪れたのは三ヶ月前、5月の連休の事だった。
明るいブラウンのタイル張りのビルが間近に視界を横切った、それを合図とするように車窓の色が変わる。
列車が河口に近く広い川幅を渡る橋に差し掛かり、再び空が眼前に広がったのだ。
僕は隣りの空席に置いた荷物を膝に載せかえ、もう一度車窓へと視線を戻した。
数分前、まだ建物の少ない地域を走っていた時から気にとめていた入道雲は、高さをぐっと増したようだ。
その覆い被さるような堂々とした姿が背負う青は、僕と姉が他人になったあの日の空によく似ていると思った。
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……………
………
…
「よろしくね」
「…うん」
十数年前、姉ちゃんは僕の姉ちゃんになった。
父ちゃんと、姉ちゃんの母さんが結婚したからだ。
僕は小学校の三年生で彼女は四年生の夏だった。
本当の母ちゃんは僕が幼稚園の頃に死んだ。
理由はその時はよく解らなかったけど、くも膜下出血だったらしい。
とにかく酷く辛くて、泣いた記憶ばかりが残っている。
姉ちゃんの両親は離婚したらしい、それも当時の自分にはよく解らなかった。
「弟ができるの嬉しいよ」
「…僕も嬉しい…かな…」
嘘じゃなかったと思う。
でも本当は照れ臭さの方が勝っていた。
初めて会ったのは夏休みの期間中、地元の映画館の前だった。
まだ互いの親が再婚する前、その機会が設けられたのはたぶん子供二人の仲を取り持つため。
映画の内容はほとんど忘れてしまったけれど、座席順が母・姉・僕・父でひどく緊張しっぱなしだった事ははっきりと覚えている。
程なくしてそれぞれの親は結婚し、四人で暮らすようになった。
近い年頃の姉弟となった僕達は自然と打ち解けていった。
「ちびちゃん、ゲームやろう」
姉ちゃんは当時背が平均より低かった僕を、からかうようにそう呼んだ。
けっこう失礼な呼び名だとは思う。僕も時々「チビって言うな」と反抗していた。
でも内心では『僕のことをチビと呼ぶ姉がいる』という事実が嬉しく気に入っていた。
「姉ちゃん、ゲーム下手だもん」
「ぷよぷよなら負けないよ?」
「そうだっけなー」
知らない人の目から見ればきっと昔からの姉弟のように見えた事だろう、そのくらい僕達は仲が良かった。
ただ本人達はその関係を、姉弟よりも幼馴染のそれに近いものと感じていた。
「お前、いっつもあのオンナと一緒にいるなー」
「当たり前だよ、姉ちゃんだもん」
「変なの、新しくできるのは弟か妹なんだぞ? 後から姉ちゃんができるとか──」
「──姉ちゃんは、変じゃない!」
ものの数ヶ月、僕は姉ちゃんが大好きになっていた。
思いがけず突然にできた、一番身近な友達。
「ちびちゃん…! どうしたの、その顔!?」
「…ケンカした」
「痛そう…こっちおいで、消毒しよう」
誰にも貶されたくない、最も親しい異性。
「──ちびちゃん、そろそろ好きな娘とかいる?」
「そんなのいない」
「本当かなー?」
よく解ってはいなかった。
僕達が家族であるということ、それは生まれながらにしての関係ではないこと。
なんとなくぼんやりと、普通の姉弟でもただの友達でもないという感覚だけはあった。
「…姉ちゃんは?」
「んー、どうなんだろ」
ただその感覚は思春期を迎えようとする僕達にとって、特別な感情の芽生えを抑制できるほど強いものではなかった。
………
…
僕達が姉弟になった翌年の夏休み、家族みんなで父ちゃんの実家へ帰省した。
母さんや姉ちゃんはもちろん初めて、僕も二年ぶりの事だった。
そこは絵に描いたような、まさに日本の正しい田舎といった趣きをもつところ。
初めて訪れた姉ちゃんは「すごい」「水きれい」「田んぼ広い」と、目に映るもの全てに感嘆していた。
以前からそこを知っていた僕は「すごいでしょ」「川魚いっぱいいるんだよ」と、なぜか得意げに答えていた。
「よう来んさったなぁ、疲れたじゃろう」
田舎には婆ちゃんが一人で暮らしていた。
ただその地域では集落全体が親戚のようなもので、生活に困る事は無いと婆ちゃんは言っていた。
確かにその集落には苗字は三種類か四種類くらいしかなく、各家は屋号で呼ばれるのが普通だった。
婆ちゃんの家は集落の中では比較的新しかったので、屋号は『新家(にいなえ)』になったと教えてくれた。
「はじめまして」
姉ちゃんは少し緊張した声色で婆ちゃんに挨拶をし、ぺこんと頭を下げた。
途端に婆ちゃんは目尻の皺を一層深くし、くちゃくちゃに顔を綻ばせて姉ちゃんの頬を掌で撫でた。
「よう来んさった、ありがとうねぇ」
「お婆さん…」
「あんたもこの婆の大事な孫じゃ、なぁんの遠慮も要らんけぇね」
姉ちゃんは涙ぐんでいた。
僕はそれをじろじろ見るわけにはいかず視線を反らしたが、内心とても嬉しかった。
婆ちゃんが何も区別せず家族だと思ってくれた事、姉ちゃんがそれを喜んでいる事が解ったから。
滞在したのは五日か六日、そのあいだ僕と姉ちゃんは地元ではできないような遊びに夢中になり日が暮れるまで外を駆け回った。
「婆ちゃん! 胡瓜かじりたい!」
「ああ、ああ、ええとも。好きなのを千切って食いんさい」
「あの…お婆さん、トマトは?」
「ええよ、うんと赤くなったのを選ぶとえぇ」
畑で収穫した野菜を納屋にあった金属のカゴに入れて、僕達が向かったのは田んぼの向こうに流れる川。
流れの中でカゴを引っ掛けられるような石を見つけ、そこへ野菜ごとそれを沈めた。
そのすぐ横に座ろうとしたけれど、日に晒された岩肌はとても熱かった。
「こっちなら平気かな」
「うん、ひんやりして気持ちいいね」
日陰で少し流れにかかる岩を選んだ。
少々湿っていようとそんな事は関係ない、服が濡れないようになんて考えもしなかった。
「うわぁ、冷たーい!」
流れに足を浸し、ぱしゃぱしゃと水を蹴って遊んだ。
真っ白なノースリーブにジーンズのショートパンツ、麦わら帽子を被った姉ちゃんはいつもよりも幼く可愛く見えた。
その横顔に、湿った白いシャツを透き通す肌に僕は度々目を奪われていた。
「…あれ? ちびちゃん、どうかした?」
それは明らかに家族に送る視線ではなく──
「どうもしない、野菜冷えたかな」
「うん上げてみよう」
──幼い恋の色を帯びた、胸の高鳴りを伴うものだった。
虫取りをして、山登りをして、川で泳いで、手を繋いで昼寝をして。
日々はあっという間に過ぎていった。
帰路につく予定の朝、僕は「もう一日泊まろう」と我侭を言って父ちゃんを困らせた。
「毎年でも来られるさ、ここは父ちゃんの故郷だからな」
「本当に?」
「ああ…それにお前達が大人になって父ちゃんが定年したら、父ちゃんはここに戻るつもりだ」
そんな話を聞くのは、その時が初めてだった。
父ちゃんは「その時はお前達が自分で何度でも、父ちゃん達に会いに来てくれ」と言って笑った。
婆ちゃんも笑っていた。
だから僕と姉ちゃんも頷いて笑った。
乗ってきたワゴン車は家の前までは乗りつけられないから、田んぼのそばに停めていた。
そこへ向かって歩く途中で、婆ちゃんは僕達二人にだけ聞こえるよう声を掛けた。
「ちょっと、こっち来んさい」
僕と姉ちゃんは「なんだろう」と顔を見合わせ、婆ちゃんが手招きするところへ歩んだ。
「なに、婆ちゃん」
「父ちゃんから聞いとるか…? 婆には本当は娘…お前らの父ちゃんの姉がおった」
聞いた事は無かった。
突然の告白、子供心にもそれはかなり重い話であると察せられた。
「ううん、知らない」
「この田舎…しかも昔の話じゃ。なんの病気じゃったかもよう分からん…じゃが、十歳で死んでしもうた」
「私と同い年で…?」
「じゃから、婆は嬉しかった。あの娘が戻ってきたと思うた」
「お婆さん…」
涙目で語る婆ちゃんの話を聞きながら、情けなくも僕は「それは違う」と思った。
姉ちゃんは父ちゃんの姉ちゃんじゃない、僕の姉ちゃんだ。
でも婆ちゃんはその先に思い掛けない言葉を続けた。
「あの娘が、このおちびちゃんの可愛い嫁さんになって戻った…そう思うてなぁ」
そして婆ちゃんは姉ちゃんの手を取り、そこへ押し込むように何かを握らせた。
渡し方、その仕草からして「内緒だ」という意図は見て取れる、だから姉ちゃんは掌を開きはしなかった。
「お婆さん…これ…」
「持っといとくれ、もう婆は先が長うはない。お姉ちゃんが持っといとくれ──」
帰りの長い道中、一度だけ小声で「姉ちゃん、何を貰ったの」と尋ねたが姉ちゃんは答えなかった。
僕もそれをさらに問い詰めようとは思わなかった。
『──あの娘が戻ってきたと思うた』
『このおちびちゃんの可愛い嫁さんになって──』
話の流れを考えれば、小学四年生の僕にも大方の予想はついたから。
きっとこの時が最初だった。
いつの間にか家族でありながら姉ちゃんに惹かれている…その事を子供心にも後ろめたく感じていた。
だけど初めてそれを他の誰かに認めて、許してもらえたような気がしたんだ。
でももう一つ、この時が始まりとなった事があった。
そしてそれは僕も姉ちゃんも、まだ気付いていなかった。
ここまで
……………
………
…
婆ちゃんの田舎には毎年でも来られる…その言葉は嘘になった。
「私にだって親はいるわ」
「やめないか、子供達の前で」
「最初から言わないなんて卑怯よ」
「まだ決めたわけじゃない」
姉ちゃんの母さんには、僕らの地元の隣県に住まう両親が健在だった。
そして母さんはその両親にとって一人娘だった。
『定年したら、父ちゃんはここに戻るつもりだ』
あの時父ちゃんが僕に投げた言葉が生んだ波紋は、この家庭にとって次第に大きな波となっていた。
そして二年が過ぎた。
姉ちゃんは中学生に、僕は六年生になった夏のはじめの事だった。
「ごめんなさい、私はついてゆけない」
父ちゃんに転勤が決まった。
母さんの故郷とは反対の方向へ、みっつも県を跨ぐ土地への異動。
母さんは自分の実家から遠く離れ、結果将来なし崩し的に父ちゃんの故郷へ住まうようになる事を恐れた。
最初は父ちゃんが単身赴任する案も出ていた。
しかし父ちゃんと母さんに不協和音が生じ始めてから既に二年。
その溝は『そうまでして関係を保つ意味は無い』と判断させるに足る幅に開いていた。
「すまない」
「…きっと私達、互いに焦ってたのよ」
「そうかもしれんな。子を持ち、伴侶を失い…」
「私、貴方が定年してからその財産の分け前を持ち去るなんて、そんなずるい事はしたくないの」
「君らしいな。だができるだけの事はしよう…嫌いあって別れるわけじゃない、そう思いたい」
「…貴方らしいわ」
ダイニングで話す二人は、廊下に潜む僕達に気付いていなかった。
さすがに中学生とそれに近い歳の二人だ、話の内容は聞きながら理解できた。
そしてその心情もまた理解できるものだった。
ただ、それを語る大人たちは──
「…あの子達には寂しい想いをさせるが」
「生まれついた時からの関係じゃないもの、きっと解ってくれるわ」
──自らの子供同士の絆を、理解しきってはいなかった。
およそ一週間後の事、親が離婚を決めたと改めて知らされた。
僕は拳を握り締めながらも、俯き言葉を発する事はできなかった。
姉ちゃんは少し震えた声で「ちびちゃんと離れるのは嫌」と意思を表してくれたけど、それでどうなる話でもなかった。
夏休みに入り、僕と姉ちゃんはできる限りの思い出を作るようにたくさん遊んだ。
自転車で行けるところまで出かけてみたり、二人だけで隣の市で催される花火大会を観に行ったり。
でもどんな時間を過ごしていても、もうすぐに離れ離れになるのだという想いがついてまわった。
転勤は八月の半ば、夏季休暇を使って引っ越しの作業をする事になっていた。
僕と姉ちゃんが姉弟でいられる時間は、もう何日も無かったんだ。
八月の10日頃だった。
自宅へと帰る河川敷の歩道を歩きながら、姉ちゃんは真剣な顔をして言った。
「ちびちゃん、私…このまま別々に暮らすようになるのは嫌だよ」
「姉ちゃん」
姉ちゃんの瞳は少しだけ潤んでいたように思う。
でもその表情は決して悲しみだけに染まってはいない、力強く何かを決心した様子だった。
「お年玉とかお小遣い、残ってる?」
「ええと…たぶん、あるよ」
姉ちゃんは外で遊ぶのも大好きで活発だけど、決して無茶な事をするような性格じゃなかった。
だから僕は一つしか歳の違わない姉の事を心から信頼していた。
その彼女が初めて口にした、耳を疑うような言葉。
「逃げよう、ちびちゃん──」
──翌日、最後のラジオ体操の朝。
僕らが早朝に玄関を出るのは自然な事だった。
まだ寝室にいる親達は、僕らが大きなリュックサックを背負っている事など知る由もなかった。
前日の夕食時、姉ちゃんは「ラジオ体操の後、そのまま友達と遊びに行く」とも告げていた。
「大丈夫? じゃあ、行こう」
姉ちゃんはにこりと笑い、上に向けた掌を差し出した。
少しだけ照れ臭い想いにかられ鼻先を掻きながらも、そっと手を伸ばし軽く握った。
角ひとつ過ぎてからラジオ体操の集合場所とは反対の方向、地元の駅に針路をとって。
そこから足早に歩き出す二人に気づいていたのは、真っ青な空に立ち昇る入道雲だけだった。
今日はここまで
「電車乗るの?」
「うん、とりあえず何駅かだけね」
子供だけで電車に乗った事など無かった僕は、姉ちゃんの言葉に胸が高鳴った。
姉ではあるが異性と……いや、好きな女の子と二人で初めて親の目を盗んで列車の旅に出るのだ。
期待と不安で胸がいっぱいだった。
姉ちゃんはかなり悩んだあと「やっぱりいけないよね」と笑い、ちゃんと大人料金の切符を買った。
連絡橋を渡り西向きのホームに降りて程なく電車は滑り込んだ。
ちょうど通勤の時間帯、多くの企業は既に連休に入っているはずなのにそれでも車内は混んでいた。
「大丈夫かい? もう少し中に、バッグが挟まってしまうよ」
「ありがとうございます」
優しそうな中年サラリーマンが無理にスペースを作ってくれて、僕らはなんとか車内におさまった。
シューッという音と共にドアが閉まった時、なんとなく慣れた地元の世界まで閉じられたように感じられてまた鼓動が速くなった。
すぐに電車は動き始める、買った切符は隣市に入ってすぐの駅までだった。
「これでしばらくは見つかりようが無いね」
姉ちゃんは周りの大人達に聞こえない程度の小声でそう呟いてくすくすと笑った。
僕はその手を握る力が無意識に強くなっていた事に気づき、ふっと緩めた。
すると姉ちゃんはその手の力をぎゅっと強めて、僕の顔をじっと見つめ小さな声で言った。
「ほんとは私も不安なの。だから守ってね? 頼りにしてるよ、ちびちゃん」
返事はできなかった。
だからその代わりに僕は手を握り返す力をもう一度強くした。
窓の外を、まだまだ見覚えの濃い景色が流れていった。
父ちゃんの車に揺られて幾度も通った町並、立ち寄ったことのある店の看板。
乗り込んだ次の駅は最寄の中では一番大きな駅で、乗客はそこで一気に少なくなった。
「大きな荷物だねぇ、よかったら座りなさい」
すぐ近くの席に座っていた品の良いお爺さんが、僕達にそう言ってくれた。
けど姉ちゃんはにっこり笑って首を横に振った。
「もういくつかで降りるから大丈夫です。ありがとうございます」
「そうかい…どこか遠くから?」
「ううん、まだまだ地元です」
地元からすぐ近くの駅で降りるにしては、僕らが背負う荷物はあまりに大袈裟だった。
でもお爺さんはそれ以上は訊かずに「気をつけてな」とだけ告げ、微笑んだ。
目指す先は父ちゃんの故郷、僕達の婆ちゃんが暮らす田舎。
『あんたもこの婆の大事な孫じゃ』
姉ちゃんにそう言ってくれた婆ちゃんなら、きっと味方になってくれると思った。
どうやったって別れは訪れる…それは解っていたけど、姉弟じゃなくなっても僕らはずっと家族だと誰かにそう言って欲しかった。
父ちゃんや母さんでも慰めとしてなら言ってくれるかもしれない。
だけどその言葉は離れて暮らす事を選んだ両親ではなく、婆ちゃんの口から聞かせて欲しかったんだ。
そのためにはとても遠い道程を越える必要があった。
日付を跨ぐ事にもなる、子供の僕らが夜中に歩いていれば大人達の目につくと思われた。
だから今は地元ではない近くの駅で降り、時間を潰して夜行列車で長距離を移動する事にしたのだ。
とりあえずの目的駅には、ものの十数分で着いた。
以前に車で来た事があるから、駅前に近いところに図書館があるのは知っていた。
「…涼しい、ホッとするね」
図書館の中は冷房も効いている、午後7時の閉館まではいられそうだった。
共用スペースには数台のパソコンが置かれていて、モニターの縁には『高速ADSL回線導入!』とポップがついていた。
姉ちゃんはその内の一台の席に掛け、僕に「地図帳を探してきて」と言った。
地図は『旅行・観光』の表示がついた本棚にあった。
できるだけ各地方が大きく描かれているもの、きっと道路よりも鉄道の情報に詳しいものが良いと思った。
でもたくさんある地図の中から最適なものは決められず、結局候補になりそうな数冊を持って姉ちゃんの元へ戻った。
「姉ちゃん、これ」
「えっと…ちびちゃん、お婆さんの家がどこか地図で探せる? 地名は?」
「確か桧ヶ瀬だったよ」
「このみっつの県の境あたりだったよね……」
「……あった!」
「うわあ…いちばん近い駅からもけっこう遠いね」
「一番近いのは……竹之戸駅?」
姉ちゃんは慣れない手つきでパソコンのキーボードを叩き、ひと文字ずつ入力していった。
何をしようとしているのか僕には全然解らないけど、画面には『乗換え案内』という文字が見えた。
「担任の先生が言ってたの、こういうインターネットのサービスができたから出張が楽になったって」
姉ちゃんは言い終わると同時にキーボードの右の方にある大きなキーをカタンと押した。
少しパソコンが考えているかのような間が空いて、画面は次第に切り替わった。
「夜行列車で……ここのちょっと大きな駅まで行って……」
姉ちゃんは指で地図をなぞりながら、ぶつぶつと経路の地名を呟いた。
僕とひとつしか違わないのに、中学生の姉ちゃんは自分よりずっとこの世界の事をよく知っていた。
それを頼もしく感じると同時に、僕は姉ちゃんに手を引かれてばかりいる事を少し悔しいと思った。
乗る予定の夜行列車がさっきの駅に入るのは、夕方六時を過ぎた頃らしい。
本に囲まれ、その上涼しい図書館の中だ。普段なら長い時間を潰す事は難しくない。
でもその日は、気持ちの焦りのせいかやけに時計の針が進むのは遅く感じられた。
遊びに行った事にしている友達の家に両親が電話をかけていないか、もしかしたら後を追ってきているのではないか。
乗換え案内に教えられた通り、ちゃんと列車は来るだろうか。
来たとして、夜を越える夜行列車に子供だけで乗ることはできるものなのか。
どんな本を読んでいても心の中は不安と疑問でいっぱいで、ちっとも内容は頭に入ってこなかった。
姉ちゃんはそんな僕よりずっと落ち着いた様子で、隣りで静かに本のページを捲っている。
僕はせめて弱気になどなっていない、図書館で本を楽しんでいるふりをして見せたくて姉ちゃんに話しかけた。
「今、なんの本を読んでるの?」
「えっ」
簡単な問いかけなのに姉ちゃんは驚いたように肩を竦め、慌てて表紙を確認していた。
一時間ほどして昼を少し過ぎた頃、姉ちゃんは「ちょっと外に出よう」と言って席を立った。
「列車の中で食べようと思ったけど、夏だから悪くなっちゃいそう」
図書館の裏側、建物の影が落とされた芝生の上。
リュックサックから取り出したのは、使い捨ての弁当容器に収められたいくつものおにぎりと卵焼きだった。
二人の間に置いた容器からひとつのおにぎりを手に取った時、僕のお腹は小さく鳴った。
「あははっ……お腹空いてたんだ、言えばよかったのに」
「……空いてると思わなかったんだ」
誤魔化したみたいだけど、本当の事だった。
そのくらい頭の中はこれからの事でいっぱいだったんだ。
「割り箸入れてくるの忘れたの、卵焼きも摘まんで食べられるよね」
何度もおにぎりを喉に詰まらせながら、僕は夢中でそれを口に運んだ。
なんの具も入っていないシンプルな海苔巻きおにぎりなのに、姉ちゃんが作ったものだというだけで僕にはとびっきりのご馳走だった。
「いっぱい食べてくれて嬉しいよ」
もぐもぐと口を動かしたまま、手は次のひとつを掴んでいる。
体育座りの膝から頬杖をついた姉ちゃんは、そんな僕を見ながらにこにこと笑っていた。
「遠慮のかたまりが残ってるよ。はい、どうぞ」
不意に姉ちゃんの指が目の前に迫り、心臓が大きく飛び跳ねた。
日に焼けていても細くて綺麗なその指は、一切れだけ残されていた卵焼きを摘んで僕の口元にずいずいと近付いてくる。
躊躇いに目を泳がせながら頭を少しずつ後ろに逃がしていると、姉ちゃんがちょっと不満げに頬を丸くした。
観念してぱくりと受け取った時、僅かに唇に触れた細い指。
僕はその感触と体温に気をとられて、最後の卵焼きを味わう事もせずに飲み込んでいた。
ここまで
夕方、列車の到着予定時刻に余裕をもって僕らは駅へ戻った。
子供だけだと改札で止められるのではないかと心配していたが、呆気ないほど簡単に通過する事ができた。
「…うん、やっぱりそうしよう」
姉ちゃんはそう呟き「ちょっと待ってて」と微笑んで、ホームへ上がる階段脇に備えられた公衆電話に向かった。
心なしかその表情は緊張して見えた気がした。
「……もしもし、お母さん? うん、私。今日は友達の家に泊まるから」
電話をかけた先が自宅だった事に僕も驚いたが、それは急な話を聞かされた母さんも同じだったらしい。
受話器から少し声が漏れるくらい大きな声で、なにかを姉ちゃんに問いつめているようだった。
「うん、ちびちゃんも一緒。え…? 林さん家だよ、隣のクラスの。今、ご飯食べに連れて出てもらってるから…待たせちゃうから切るね」
まだ受話器からは声が響いているようだったが、姉ちゃんは強引に電話を切った。ボロを出さないためだったのだろう。
今まで姉ちゃんの口から林さんなどという友人の名は聞いた事はなかった。
確かめようのないアリバイを作るために、架空の友人をでっち上げたのかもしれない。
ともかくこれで両親は子供の勝手な行動に腹を立てる事はあっても、それから一日程度は警察に捜索を願ったりはしないだろうと思った。
乗り込んだ列車にはまだ向かい合った空席もちらほらと残っていたけど、指定席制だから広々と一人で二席とる事はできない。
僕と姉ちゃんは窓際の番号を確認し並んで座った。
車窓の景色は次第に橙色を強くし、続けて紺色が支配する面積が広くなっていった。
途中で切符を確かめに車掌さんが訪れた時、僕は子供だけで乗り込んでいる事を問い詰められるのではないかと内心びくびくしていた。
「こちらは子供さんだけですか?」
「はい、姉弟です。私が中学生になったから、経験として二人でお婆さんの家に行ってみろって言われました」
「なるほど、いい経験かもしれませんね。なにか困る事があったら先頭車両に来て下さい」
はきはきと答える姉ちゃんに、車掌さんは何の疑問も抱かなかったようだった。
朝の電車で「頼りにしてる」なんて言われたのに。
それまでのところ僕は何も姉ちゃんの役に立てていないと思い、また悔しくなった。
しかしその悔しさを晴らす機会は思いがけず早く訪れたんだ。
「…お母さん、怒ってるだろうな」
姉ちゃんはホームで買った菓子パンをひとかじりし、小さめな声でそう言った。
その顔は僕の目にも明らかなほど不安の色を強くしていて、さっき車掌さんと言葉を交わした姉ちゃんとは別人のようだった。
この小さな逃避行、その最も重要な一日目にこなすべき事を終わらせた姉ちゃんは、きっと疲れと共に弱気に襲われたんだろう。
「僕らの方が怒ってるよ」
「え?」
「だって自分達の都合で僕らを他人にしようとしてるんだよ」
だから姉ちゃんが怒られるなんて、それを心配する必要なんてない。
そういう意味を籠めて言ったつもりだった。
幸いその意図は通じたようで、姉ちゃんはにっこりと笑って僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「やっぱりちびちゃんがいてくれて良かった、私一人じゃきっと泣いちゃってたよ」
後から思えばこの一言はおだてるつもりで言ってくれたのかもしれない。
でもその時の僕は単純にも得意げな気分になっていた。
「向こうの駅に着いたら、婆ちゃんの家に電話かける?」
「……ううん、かけない」
僕の問いに姉ちゃんは少し考えたあと答え、僕もまたそれでいいと思った。
もし電話して両親には伝えないよう頼めば、婆ちゃんはそうしてくれるかもしれない。
そしてその駅からのタクシーでも手配してくれるかもしれない、そう考えはしたけど。
あくまで僕らは自分達の力で婆ちゃんの家に着きたかった。
大人に頼らず目的と定めた所へ達する、それができる事を両親に見せつけたかった。
親の庇護を受けなければ何も判断できないほど子供じゃない、その二人が『離れたくない』と願っているのだと知らしめてやりたかった。
だけどそんな生意気な想いを持てる程度に、自分が大きくなっていたせいだろうか。
「いっそ、お婆さんの家で一緒に暮らせたらいいのにね」
僕は姉ちゃんが小さく唱えた無邪気な願いを、きっと叶わないだろうと思った。
そして姉ちゃんも叶うとは思っていない、そんな気がした。
夜行列車は深夜まで走り、日付を超える前あたりからどこか田舎の駅に停まった。
車内の灯りは半分ほどに落とされ、乗客の多くは眠りについたようだった。
寝台列車ではなく、あくまで夜行列車。座席のリクライニング角度は浅く、決して寝やすくはない。
それでも初日の緊張と疲れを溜めていた身体は次第に睡魔に誘われていった。
せめて姉ちゃんの寝息を聞いてから意識を手放そう。
僕はそんな努力をしたと思うけど、たぶん目論見は果たせなかったと思う。
互いの肩をもたせあい、座席の上で繋いだ手は明け方に列車が動き目が覚めるまでそのままだった。
それからおよそ四時間、目的とする駅に着く頃には車内の時計は午前九時を指していた。
婆ちゃんの家から最も近い駅。
それでも直線距離にしてさえ10kmほどもあるのだけど、随分と近づいたのは間違いない。
まだまだ見覚えのあった隣市の駅はもちろん、そこから乗り込んだ列車の中も景色こそ移ろえど空間としては慣れた地の続きに思えていた。
「すごいところまで来たね、私達」
だからそこでやっと地元から遠く離れた場所へと放り出された感覚に襲われ、急に不安が胸を支配した。きっと姉ちゃんも同じだったと思う。
でも僕はそれを胸に押し殺した。
そして初めて自分から姉ちゃんに手を差し延べたんだ。
「大丈夫だよ、二人でなら」
本当は「僕がついてるから」と言いたかったけど、それは照れ臭くて言葉にできなかった。
姉ちゃんは意表をつかれたのか目を丸くしていた。
そして失礼にも小さく吹き出し、でもその笑顔のまま僕の手を握った。
「かっこいいぞ、ちびちゃん」
「もうチビじゃないし、平均あるし」
「でも私よりはチビだもん」
駅の構内にあった簡易な地図つきのパンフレットを手にとり、僕らは歩き始めた。
バスを利用しようとも考えたが、婆ちゃんの家の方面へ向かう便は13時半まで無い。
この時点で二人の所持金は三千円を切っていたから、タクシーを利用しようとも思わなかった。
「道が曲がってる事を考えたら15kmあるかないか……歩けるかな?」
「時速3kmで歩けば途中休んでも夕方には着くじゃん、いけるよ」
「お、算数できるじゃない」
何かのTV番組で『駅まで何分』という表記は一分間に80m、つまり時速4.8kmで歩くよう計算していると見た事があった。
子供の歩幅だから加減するとしても充分歩けるはず…僕はそう考えたんだ。
そして姉ちゃんもそれに異議は唱えなかった。
だけど算数ができても、いくら姉ちゃんがしっかりしていても、やっぱりそれは子供の浅知恵だった事を僕らは痛感する事になる。
地元よりは幾分か標高があり気温も少しは低い…とはいっても八月の日差しは容赦無く僕らを襲った。
歩き始めて一時間と少し、身体にも多少の疲労が出始める頃に歩いていたのは建物のほとんど無い田舎道。
木々が多いだけに日陰はあちこちにあるが、その代わりに涼をとるために立ち寄る事のできる施設は全く無くなっていた。
蝉時雨は歩く程に増し耳が痛くなりそうなくらいで、それが余計に疲れを呼んでいる気がした。
「水筒のお茶、切れちゃいそう」
「駅前のスーパーで足したのにね」
渇く喉、自販機は見当たらない。
僕らは意志を確認するまでもなく、道の脇で涼しげな音をたてる小川へと近づいた。
この時の僕らには知る由もなかったが、小川といってもそれは一級河川の源流にあたるところ。
水は清く、飲むのを我慢しろというのは無理な話だった。
「わあ、冷たくて気持ちいい」
靴を脱ぎ足を浸すと一気に体温が下がった気がした。
きっと飲んでも冷たく、さぞ美味しく感じられる事だろう…そう期待して両手で水を掬ったのだが──
「……あんまり冷たくないね」
「うん…」
──口に含むと思ったほどの清涼感は無く、僕らは少しがっかりした。
「今どのくらい進んだかな」
「地図見るのやめよ、さっき確かめた時に『まだここかぁ』ってちょっと落ち込んだもん」
「でも道を間違ったりして?」
「別れ道があったらその時見ればいいよ。柵原ってとこまでは無かったはず」
道に面した田んぼの縁に植えられた向日葵を数えて歩き「50本ちょうどだった」「いや52本あったよ」とふざけて言い争って。
たまに通り過ぎる車のナンバープレートの頭文字を「次は3だよ」「じゃあ僕は7」と根拠もなく当てあいっこをして。
僕が何もせず通り過ぎたお地蔵様に姉ちゃんが小さく会釈したのを見て、慌てて自分も戻って一礼したり。
畑の遥か向こうに鹿の姿が見えたら足を止めてしばらくはしゃいだりしながら、僕らは陽炎に揺らぐ道を歩いた。
「さすがにそろそろお母さん達、不審がってるだろうね」
進む道が川を挟んで反対に切り替わる、その橋の上を歩きながら姉ちゃんはそう言った。
時刻は昼に迫っていた、友人宅に泊まったとしても翌日の昼食までに戻らないのは確かに不自然だろう。
「でも、今さら連絡はしない方がいいと思うの」
「うん」
さすがにこのまま夜を迎えれば、いよいよ両親も捜索をかけるかもしれない。
でも予定では夕方には婆ちゃんの家に着くつもりだ、そうしたらそこから電話をかけるだろう。
きっと両親は怒り狂う、だけどそれは僕らにとって勝利宣言のようなもの。
例え結果は変わらなくとも、こっぴどく叱られようとも、僕らはそれほどの意志をもって離ればなれになる事を拒んでいるという意思表示だ。
「きっとすごく怒られるけど、ごめんね」
「へっちゃらだよ、普段からげんこつには慣れてるもん」
「ふふ…自慢になんないよーだ」
橋を渡り切ると今度は川の側から日が差すようになった。そっちが山だった今までに比べ日陰は少ない。
僕は後ろを振り返り、そこに両親がいるわけでもないのにあかんべをして見せた。
何度か「曇ればいいのに」と零し、真っ青な空を恨んだ。
しかしその呪いは後になって効き、しかも少々過ぎたものだったらしい。
「……やばいかも」
姉ちゃんがそう言ったのと、低い地鳴りのような音が届いたのはほとんど同時だった。
山々の背後に姿を隠しつつ忍び寄っていた雨雲が、いつの間にか僕らの頭上に覆い被さろうとしていたのだ。
夕立がくる、しかも避けようが無い事はすぐに解った。
程なくして煤けた鼠色だったアスファルトに黒い水玉模様が生まれ始め、埃臭いような雨の香りが辺りに満たされていった。
僕らはリュックサックに入れていた安物のレインポンチョを羽織り、どこか雨宿りできるところを探した。
しかし結局、雨宿りに適した場所はかなり歩くまで無かった。
そう多くはないが民家が並ぶ集落、そのはずれにあったほとんど利用されていないであろう小さな公園。
僕らは丘に大きな土管を埋めて作られたトンネル型遊具の中に避難した。
「少し涼しくはなったけど、雨は困るね」
「早く止まないかな」
公園の入り口に『柵原下』という地名が書かれているのは見た。
地図でも確認した柵原の地名、その下流という意味だとしたらまだ徒歩での行程は半分くらいしか進めていない事になる。
時刻は13時前、このまま足止めを食えば着く前に日が暮れてしまうかもしれない。
気持ちばかりが焦った。
そこに30分ほど留まっていると公園の前から不意にブザー音が聞こえた。
見れば僕らが歩いていたのと同じ方を向いたバスが停車し、お年寄りがゆっくりと降りているところだった。
「姉ちゃん!」
「うん!」
僕らは土管のトンネルから出て、バスが行ってしまわないよう手を振りながら走った。
駆け込んだ車内に乗客はほとんどいなかった。
でもその中で一番近い席に座っていたおじいさんは僕らの髪がびしょ濡れな事に気づき声を掛けてきた。
「どうしたんじゃな、こんなところから子供だけで乗るなんて。ほれ、タオル使いなさい」
「すみません、ありがとう」
渡されたタオルは農機具メーカーのロゴが入ったもので、使い古されてはいたけど洗いたてのようだった。
姉ちゃんはそれを僕に先に使うよう促し、そのあと自分の髪を拭いた。
バスの中は冷房が効いていて最初は心地よかったけど、少なからず服も濡れていた僕らはだんだん寒くなってきた。
きっとバスが曲がったのを見落としたのは髪を拭いていたせい。
そして後から思えば、深く考えもせずバスに飛び乗ったのは焦っていたせいだったのだろう。
駅前で見た時刻表では婆ちゃんの家の方へ向かうバスがそこを発つのは13時半だった。
まだその時刻にもなっていないのだから、今ここにいるバスが乗るべき路線のものであるはずは無かったのだ。
15分ほど揺られ、乗ってからみっつ目の停留所でバスは停まった。
その時変わった次のバス停の表示を見て、姉ちゃんは「えっ」という声をあげた。
今まで表示されていた地名は手元にある簡易な地図に載っていなかったから気づかなかった、しかし新たに現れた地名には見覚えがあった。
しかもそれは婆ちゃんの家に向かう道からは大きく外れたところだったのだ。
「すみません! 私達も降ります!」
姉ちゃんは慌てて声を上げ、僕の手を引き立ち上がった。
既に動き出そうとしていたバスがもう一度自動ドアを開け、僕らは料金を支払ってそれを潜った。
すぐに姉ちゃんは戻るバスの時間を確認しようと停留所の看板に貼られた時刻表に目を這わせた。
僕はなんとなく真横で動き始めたバスを目で追っていたが、さっきタオルを貸してくれたおじいさんと視線が合って思わず目を逸らした。
ちょっと怪訝な顔をしている気がしたからだった。
「だめだ…どうしよう」
「何時にあるの?」
「18時過ぎだって…しかも同じルートを引き返すから、お婆さんの家の方には行かないよ」
雨はだいぶ弱まってはいたけど、まだ降り続いていた。
それでも僕らは歩き始めた。
今バスで来た道を反対向きに、道を逸れてからは長く走っていない事を願って。
しかし一時間歩いても二時間歩いても、分岐したであろう大きな交差点には辿り着かなかった。
道路に時々描かれた制限速度の表記は時速50km。
信号も無い田舎道だ、バスが僅か15分で走り抜けた距離は10kmほどもあっただろう。
ようやく分岐点と思える場所に出られたのは、引き返し始めてから三時間近くも経過した頃だった。
しかもそれは雨宿りをした公園から僅か200mか300mのところだったのだ。
完全に三時間をロスし、しかも婆ちゃんの家に向かうバスが通り過ぎた後なのは確実だった。
時刻は16時半、ここから疲れた足をどれだけ急かしても目的地に着く頃には日が暮れているに違い無い。
「どうしよう…夜には野犬とか出てくるかな…」
姉ちゃんは今までに無く力を失った声でそう言った。
「…今は夏だもん、日は長いよ。暗くなってすぐくらいには着けるんじゃないかな」
姉ちゃんが口にした野犬というキーワード、本当は僕も怖かった。
でもこんなにも落ち込んだ顔をした姉ちゃんを少しでも励ましたいという気持ちの方が強かったんだ。
「そうだね…がんばろっか」
「うん」
ただ姉ちゃんが弱気になった理由は他にもあって、そしてそれはじきに目に見えるようになった。
婆ちゃんの家に向かう正しいルートを再び歩き始めて僅か30分ほど、姉ちゃんの歩幅はだんだんと小さくなっていった。
視線は前を向かず、明らかに限界を迎えている様子だった。
「姉ちゃん…もしかして、具合悪い…?」
姉ちゃんは何も答えなかった。
それで充分だった。
きっと体調が悪く無ければ、すぐに『平気だよ』と強がったはずだから。
「おでこ触らせて」
僕が手を延ばすと姉ちゃんは小さく避けるそぶりをしたけど、その動作にも機敏さは無かった。
強引に触れた額はかなりの熱をもっていた。
元から体力は削られていた上に雨で髪や服を濡らし、バスの空調で冷やされて更にまた歩いたのだ。
それで具合を悪くしていない僕は余程の馬鹿なのだろう。
「大丈夫だよ、行こう」
今更になって姉ちゃんは強がった。
でも熱のある額を触らせた時点で、きっと姉ちゃんは助けを求めていたはずだ。
僕の頭の中をぐるぐると考えが巡った。
たぶんこれから歩くペースは更に落ちる、真っ暗になってそれでも残りの道程の半分も進めているかさえ怪しい。
それならば──
──僕らはまた道を引き返した。
姉ちゃんの身体を思えば、通り過ぎる車を停めて助けを求めるのが一番いいのかもしれない。
でも婆ちゃんの家まで行く、それを諦めるのもあまりに悔しかった。
さっきまでよりもずっと時間をかけて、僕らは雨宿りをした公園まで戻った。
今夜はあの土管のトンネルで休もうと考えたのだ。
それで姉ちゃんの具合が良くなるかは判らない、だけど歩き続けて夜を迎えてしまうよりはましだと思った。
時刻は既に18時に近づいていて、山間のそれも曇り空では既に少し暗くなり始めていた。
「ごめんね、ちびちゃん…」
「ううん…バスが来た時、先に乗ろうとしたのは僕だから」
僕は夜の間に少しずつでも姉ちゃんの体調が快復し、そして無事に朝を迎えられる事を願った。
しかし山間の夜は真夏でも冷える。
完全に日が沈み気温がぐっと下がると姉ちゃんは身体を震わせ始めた。
「姉ちゃん、大丈夫…?」
「うん…平気」
額の熱さは夕方にも増して酷かった。
トンネルの中が真っ暗闇になってから二人とも服を着替えてはいたけど、それでも寒さは引かないようだった。
リュックサックのベルトに着けたデジタル時計のバックライトを点けると土管の内壁が仄かに照らされた。
でもそのささやかな灯りに温度は無い。
表示された時刻は20時を回ろうとしていた。
周囲の民家はきっとお年寄りばかりだろう。そろそろ窓の灯りは消え始めるかもしれない。
それでも人里の中だ、山道にくらべれば野犬などが現れる可能性は低いと信じて考えないようにした。
姉ちゃんの呼吸はだんだん荒くなっている、それは狭いトンネルの中では隠しようが無かった。
時折かちかちと震えで歯が噛み合う音も聞こえた。
お互いのリュックサックに入っていたありったけの服を姉ちゃんに掛けたけど、震えは止まないようだった。
「寒い…よ…」
そしてついに姉ちゃんは弱音を零した。
その頬に触れると額と変わらずとても熱くて、でも僕の指に僅かな水分が移った。
あれほど気丈で凛々しかった姉ちゃんが、涙を零していた。
それが身体の辛さだけによるものならトンネルを駆け出して民家に助けを求めよう、僕はそう思った。
でも姉ちゃんは「寒い」と共に──
「…悔しいな……あと…少しなのに」
──まだ諦めたくない、その想いを滲ませた。
僕の中で色んな感情が渦巻いた。
姉ちゃんを助けたい、願いを叶えたい、ずっと一緒にいたい、守ってあげたい。
「ちび…ちゃん……?」
そうしようと考えるでもなく、僕は姉ちゃんの身体を抱き締めていた。
温めようとしたのだろう、でも単なる想いの現れかもしれなかった。
「姉ちゃん…ずっとこうしてるから、少しでも温めるから」
「うん…あったかいよ」
そう答えた姉ちゃんの身体は、震えを止めてはいなかった。
悔しくて泣いてるから震えているのかもしれない、でも身体は変わらず火照ったままだ。
「ここまで来たのに…ね…」
「姉ちゃん…」
そのまま姉ちゃんの荒い呼吸を耳元に感じながら、どのくらいかの時が流れた。
「──っちの方は…?」
「まだじゃ、手分けしてあたろうや」
ふと外から声が聞こえた。
幾人かの大人達の話し声、足音は次第に近づいてくるようだった。
「この公園じゃなかったら、ウチの集落にはおらんで」
「どっかの家に遊びに来た子で、今頃は布団の中いうんならええけどのぅ」
「わからん、そもそも谷屋の爺さんがなんとなしに気になったっちゅうだけじゃからな」
丸く切り取られた出口からは地面を照らす懐中電灯の光が見えた。
トンネルは出入り口が四箇所、十字形になっている。静かに上手く位置を移動すれば見つからないかもしれない。
「ちびちゃん、隠れよう…」
「姉ちゃん」
姉ちゃんが身体を持ち上げようとトンネルの床に手をつく、しかしその腕に力は籠らないようだった。
ぐすん、と姉ちゃんが鼻をすする音が聞こえた。暗闇の中だけど、なんとなく涙を拭った気がした。
「あとはこの中じゃな」
「水は溜まっとらんようじゃがの」
トンネルに灯りが近づいた。
身を隠すなら急がなければならない。
「ちびちゃん、早く」
僕は力いっぱい姉ちゃんを抱き締めた。
その頬の熱さを、伝う涙をもう一度確かめようとした。
「動けないよ、ちびちゃん」
それはきっと、自分を納得させるためだった。
僕がトンネルを出る時、姉ちゃんは泣き声混じりに何かを言っているようだった。
大人達の驚いた顔は忘れられない。
「助けて下さい」「姉ちゃんが熱を出してるんです」僕はぼろぼろと泣きながら、確かそんな事を喚いたと思う。
すぐにトンネルから姉ちゃんも抱えて出され、僕らはワゴン車の後席に押し込まれた。
「診療所に電話しといてくれ、頼むで」
「おお、谷屋にもわしが連絡しとくけえの」
大人達は僕らを落ち着かせるためか、その場では深く事情を訊く事はせず「もう大丈夫じゃ」「怖かったろう」と頭を撫でて毛布をかけてくれた。
それでも姉ちゃんはずっと泣き止まずに、僕に「ごめんね」と繰り返していた。
間違えて乗ったバスから降りた時に目が合ったおじいさんは、やはり雨の中を子供だけで移動する僕らを妙に思ったらしい。
付近の集落に子供二人が訪ねた家が無いか連絡を回し、該当する家が見つからなかったから捜索が開始されたのだと後から聞かされた。
診療所は車で10分ほどの別の集落にあった。
姉ちゃんはすぐに診察室に入れられ、その間に僕は連絡先などを質問された。
せめてもの抵抗として自宅ではなく「桧ヶ瀬の新家の孫です」と伝えた。
でもやはり田舎だ、僕らを保護した大人達の中には父ちゃんをよく知る人もいたらしく、結局連絡は自宅に入れられてしまった。
「お父さんが電話代わるってよ」
「……出たくありません」
僕は父ちゃんと話す事は拒んだ。
計画を果たせないまま両親に咎められる事は『単にまだ何もできない子供が親に反抗しただけ』と認めさせられるような気がした。
大人に助けを求めた時点で、全ては破綻している。でもまだそう割り切る事はできなかった。
父ちゃんは僕らの事を婆ちゃんに知らせるのは控えるよう頼んだらしい。
僕が婆ちゃんに電話できないように、持っていたお金は診療所に預けさせられる事になった。
そうするように促した大人の人は「婆ちゃんに知らせたら酷く心配するだろうからな」と僕を諭し、頭をぽんぽんと叩いた。
姉ちゃんは点滴を受け、一時間ほどで病室に移された。
ただの疲れからくる発熱だろうとの事だった。
四人部屋だったけど他に入院している人はいなかった。
「田舎の診療所じゃからな、本当に入院が必要な者は麓の大きな病院に運ばれる。気を遣わんでいい、よく休みなさい」
僕に同じ部屋を使うよう言い残し、お医者さんは灯りを落として部屋を後にした。
時刻は22時を回ったところ。雨はすっかりあがり、月明かりが窓の木枠をシルエットにして姉ちゃんに掛けられた白いシーツに伸ばしていた。
「だめ…だったね」
姉ちゃんは僕の方を向かずにぽつりと呟いた。
図書館で調べ物をした時に見せた頼もしさも、夜行列車で車掌さんと話した時の凛々しさも、欠片も感じられない。
きっと僕を責めるようなつもりは無いだろう。
でも大人に助けを求める事を決断したのは僕だ、そう考えると姉ちゃんに掛けられる言葉は見つからなかった。
「…ちびちゃん、これ」
姉ちゃんはベッドの脇に置いたリュックサックのポケットから何かを取り出し、僕に手を伸ばした。
何も言わずに受け取ったそれは二年前の夏に婆ちゃんが姉ちゃんに渡したもの、小さな指輪だった。
「きっと私、もうお婆さんには会えずに他人になっちゃうから」
「姉ちゃん…」
「…ごめんね、ちびちゃん。お婆さんに会ったら返してくれる?」
本当はそんな事を言う姉ちゃんを叱りたかった。
もう姉ちゃんは完全に諦めてしまったのか、そう問いただしたかった。
けど自らが体調を崩し、諦めざるを得ない原因を作ってしまった姉ちゃんは、きっと僕以上に悔しいだろうと思った。
僕はその小さくて冷たい敗北の証を、黙ってポケットに押し込んだ。
やがて姉ちゃんは静かな寝息をたて始めた。
時刻はもう23時を過ぎていたが、夕方の雨が嘘のように月明かりは眩しく外の景色も判る程だった。
僕は音をたてないようにそっと病室から、そして診療所の玄関から抜け出した。
診療所の表は小さな広場のようになっていて、僕らを運んできたワゴン車のタイヤの痕が土に残されていた。
多少ぬかるんだそこに新たな足跡をつけながら、僕は道まで歩み出た。
雨上がりの空は星座表のようだった、きっと月が無ければもっとたくさんの星々が見えたのだろう。
でもその月明かりも、好都合だと思った。
この集落に入る前、道路標識で真っ直ぐ行けば桧ヶ瀬だという事は確認していた。
僅か100mも歩くとこの集落を抜け、そこからは街路灯も無い。
でも月明かりは真上から注ぎ、まだまだ山に沈む事は無いだろう。
野犬は出るかもしれない、もしかしたら猪みたいな他の獣も。怖くないと言えば嘘だ、それでも──
「──だめよ、行かせない」
不意に診療所の方から女の子の声がした。
僕はびっくりし過ぎて、小さく変な声を漏らしてしまった。
「誰…?」
「この先、ダムの傍を通る辺りは本当に真っ暗なの。危なすぎるよ、行かせない」
女の子は素性を問う僕を無視し、引き止める言葉を続けた。
僕よりも少し年下くらいだろう、背の低い子だった。
「見つかっちゃったか…内緒にはしてくれない?」
「うん、本当にだめ」
「…そっか」
「野犬も出るし、熊だっていないとは言い切れないんだよ?」
確かに無茶な事をしようとしていたのは事実だ。
この子は診療所の孫だったりするのかもしれない、無理に振り切っても大人に知らされるだけだろうと思った。
独りで夜道を進もうと考えたそれは、きっと僕の意地だった。
見つかり引きとめられた事に少しだけ安堵している自分がいる、そう気づいてなんとなく悔しかった。
それから僕らは診療所の表に備えられた古いベンチに座り、この旅の理由や経緯を話した。
女の子は「うん」「がんばったのにね」と相槌を返しながら慰めてくれた。
「婆ちゃん家、辿り着きたかったよ」
「歩いてならあと一時間半くらいかな」
「…ここまで車で連れてきてもらったから、もう反則なんだけどね」
結局全ての目論見は崩れた。
やっぱり僕ら姉弟は、まだ大人の庇護を受けなければ遠い地に着く事などできない。
僕と姉ちゃんが他人になる事は防ぎようが無い、それは最初から解っていた通りだった。
女の子と話す内、僕はやっとそれらに対して諦めがついたような気がした。
「ごめん、もう休むよ。やっぱり僕も疲れちゃった」
「うん、おやすみ」
立ち上がり、少しその高さを落とした月を見上げて、もう一度視線を戻すと女の子は診療所の玄関の前にいた。
そして彼女は最後に思いがけない一言を寄越したんだ。
「離れても家族だよ」
それは僕らが、婆ちゃんに言って欲しいと願った言葉だった。
翌日、午後になって父ちゃんは診療所に着いた。
僕は引っ叩かれる覚悟もしていたけど、父ちゃんは言葉少なに近づき僕を強く抱き締めた。
「すまん」
絞り出すように言った詫びる言葉は、きっと『それでも結果は変わらない』事に対してだったんだと思う。
姉ちゃんの熱は朝にはかなり下がっていた。
だけど帰りの車の中、僕らはほとんど言葉を交わす事は無かった。
婆ちゃんに会う事もなく引き返す田舎道、額に汗を伝わせながら二人で歩いた景色はその時とは比べ物にならない速さで後ろに消えていった。
ただひとつ、高い空から僕らを見下ろす入道雲だけがずっとついてきているようだった。
きっとあの雲にとっては僕らの旅した距離など僅かなものなのだろう。
本当に離ればなれになったのは、それから数日後の事だった。
でも僕らが他人になったのはきっとこの帰り道での事だと思った。
……………
………
…
その冬、婆ちゃんは死んだ。
本当は春頃から具合が悪く、秋には入院していたらしかった。
はっきりとした病名は無く主には老衰、最後のきっかけは肺炎を患った事らしい。
あの日、僕らの事を婆ちゃんに伝えないのも当然だったのかもしれない。
葬式の時、僕は母ちゃんが死んだ時くらい泣いたと思う。
姉ちゃんから渡された指輪を花と一緒に棺に入れようとも思ったけど、婆ちゃんが余計悲しみそうでできなかった。
姉ちゃんと、姉ちゃんの母さんは葬式には来なかった。
田舎の葬式はその集落をあげて行われる。離婚して半年と経っていない母さんが顔を出せないのは仕方が無い事だ、父ちゃんはそう言った。
姉ちゃんとの別れ、小学校も終わりに近づいたタイミングでの転校、婆ちゃんとの死別。
悲しい事は畳み掛けるように訪れるものだ。
この頃の僕は心から笑顔になる事など忘れていたように思う。
いつしか身長は伸び、きっとあの日の姉ちゃんを超えただろう。
でもその姿は見せられない、チビというあだ名を返上する事もできない。
違う、そんな事は望んでない。
むしろそう呼んでくれる相手がいれば、どんなに良かっただろう。
今、僕の傍にあるのは姉ちゃんの元にも婆ちゃんの元にも居場所を失った指輪だけだった。
だけどこの辛い出来事の連続は、まだこのタイミングで良かったのかもしれない。
四月、僕は中学校という新たな環境に身を投じた。
そこは二つの小学校を卒業した生徒が集う事になるマンモス校で、つまり僕に限らず多くの生徒が新たな出会いに臨む機会だった。
転校したての小学校ではなかなか馴染み難いものがあったが、そうして僕には新たな友人がたくさんできていった。
運動部にも入り、朝練や休日練習は気が重い面もあるけど人並みに打ち込んだ。
「帰りに100円たこ焼きの店寄ろうぜ」
「おう、まだ水筒のお茶あるしいいぞ」
「また男子は寄り道してー」
「いいじゃん、お前らも来たら?」
少しずつ、僕は前を向いていると思った。
亡くなった婆ちゃんは決して忘れちゃいけないけど、どこかで元気にしてるはずの姉ちゃんの事までいつまでも引きずるわけにはいかない。
これでいい、あの夏はいつか懐かしいだけの思い出になるんだ。
僕は時々そんな事を考えていた。
本当に頭から消えようとしているなら、わざわざ考えないはずなのに。
その年の八月、僕は婆ちゃんのいた田舎へ半年ぶりに訪れる事になった。
婆ちゃんの初盆にあたるからだ。
深夜から長く高速道路を走り、やがて姉ちゃんと二人で歩いた道。天気もあの日の午前中と同じ快晴だった。
次第に木陰はあるけど涼をとりに立ち寄れる施設は無くなって、道の脇には一級河川の源流にあたる小川が流れて。
確か足を浸したのはあそこらへんだった、冷たいと思ったのに飲むとそうでもなくて、少しがっかりして。
田んぼの縁には今年も向日葵が植えられていて、車で通ってもその本数は判らなかったけどきっと50本くらいだろう。
すれ違う車のナンバープレート、その頭文字を心の中で予想しても当たる確率は低い。
お地蔵様は会釈をする間も無く視界を横切ってしまった。
畑では農家の人が作業に勤しんでいたから、その向こうに鹿の姿は無い。
どれも懐かしかった。
少し目頭が熱くなった気がしたけど、窓を開けて風を受けたせいだと思った。
「父ちゃん、車停めて!」
だけど、やっぱり想いは堰を切った。
そこに差し掛かるまで何とも思っていないつもりだったのに、僕は声をあげていた。
「どうした、酔ったのか?」
「降りる…ここから歩いていく」
急な申し出に父ちゃんは驚いたようだった。
それも構わずに僕はシートベルトを外し、買ってもらっていたスポーツドリンクのペットボトルだけを持って車から降りた。
「日が暮れるまでには着くよ」
「……ここからなのか」
「うん」
少しの間、父ちゃんは悩んだようだった。
そして鞄から財布を取り出し、数枚の千円札と五千円札を僕に押しつけた。
「何かあったら走ってる車を停めろ。携帯電話を持ってる人も多い、タクシーを呼んでもらってもいい」
「大丈夫だよ」
「この先しばらくで自販機もある、必ず飲み物を買うんだぞ。夕方になっても着かなかったら、この道を逆に走ってみる」
父ちゃんは一度大きく溜息をついて車の窓を上げた。
そしてゆっくりと走りだし、カーブの先に消えていった。
僕はそれを見送って道から目を逸らし、この決断をさせた場所を見つめた。
そこにはあまり利用されていないであろう小さな公園、丘に大きな土管を埋めて作られたトンネル型遊具があった。
僕はあの日歩めなかった道程を目指し、焼けたアスファルトに一歩を踏み出した。
父ちゃんに渡されたお金はできれば使いたくはなかった。
でもこの天気、この気温だ。飲み物を補充しないわけにはいかない。
しばらく歩くと見覚えの無い小さな滝があった。
姉ちゃんの具合が悪い事に気づいた地点よりも先に入ったという事だろう。
全く民家の無いあたりを歩いていると、一台の軽トラックが横で減速した。
「どこまで行くんじゃ、まだしばらく集落は無いでな」
「桧ヶ瀬までです」
「診療所のある辺りを過ぎたらほんまに何も無いけえな、気をつけて行くんやぞ」
「はい、ありがとうございます」
やはり大人とは思えない者が妙な所を歩いていたから気になったのだろう。
でも運転手さんは無理に引き止めたり、送って行こうとはしなかった。
それはつまり中学生になった今の僕を見て『過保護にする程ではない』と考えたからじゃないかと思った。
やがて見覚えのある診療所がある集落を過ぎ、ダム湖畔に出た。
この先にはトンネルがあるけど、確か歩道も備えられていたはずだ。
そしてその先は幾つかの橋で川を左右に繰り返し渡る谷間で、長く続くそこを過ぎると次第にぽつぽつと田んぼが見え始める。
その田んぼは桧ヶ瀬の集落のもので、道程の終わりが近い事を告げる合図だった。
あの日、この道を姉ちゃんと歩けたらどんな事を話しただろう。
もうすぐだよ、やっと着いたね、婆ちゃんいるかな……きっと疲れを忘れてそんな風にはしゃいだ筈だ。
時刻は14時を大きく回っていて、お腹が空いている事に気づいた。
着いても婆ちゃんの山菜料理は無いけど、畑は集落の人が管理してくれているそうだからトマトや胡瓜は千切って食べられるだろう。
民家が現れ始め、石垣の小径を曲がりこんだ。
「お疲れさま」
不意に聞き覚えのある声が届いたのは、その時だった。
見るとそこには確かに見た事のある女の子がいた。
あの日、診療所の夜に無茶をしようとする僕を引き止めた子に違いなかった。
「…久しぶり、なんでこっちの集落に?」
「ちょっと帰ってきたの」
よく意味は解らない、けどあまり気にしなかった。
女の子は「大きくなったね」と言って、くすくすと笑った。
「君はあんまり変わってないみたいだ」と返したら、少し不満げに「ほっといて」なんて拗ねてみせた。
「やっとここまでの道程、制覇できたね」
「一年越しだよ、しかも独りになっちゃったけど」
「でもすっきりしたんじゃない?」
彼女の言う通りだった。
本当の意味で思い残す事が無くなったと言えば嘘になるけど、あの日の悔しさは少しだけ晴れた気がした。
僕は汗に湿ったジーパンのポケットを外から探って、あの指輪があるかを確かめた。
これでやっと婆ちゃんの仏壇に返す事ができる、そう考えて小さく溜息をついた。
「もう忘れなくちゃいけないんだ」
「そうなの?」
「うん、姉ちゃんも元気にやってるはずだしね」
しかし女の子は少し考える仕草をしたあと、くるりと後ろを向いて小声で言った。
それはあの夜、最後に同じ彼女がくれた言葉だった。
「離れても家族なんだよ」
「……そうなのかな」
「死んじゃっても家族なんだから」
確かに、僕は婆ちゃんが死んだからって家族じゃなくなったとは思わなかった。
だけど同時に、元気にしているのに接点が無い…その方が悲しいとも考えた。
それはつまり他人と同じだからだ。僕と姉ちゃんはそういう関係になってしまった。
女の子は言葉を続けた。
「小学生の君はお姉さんと二人であんなに遠い道程を旅しようと思ったんでしょ」
「それは…姉ちゃんと一緒だったから」
「中学生の君は例え遠くても、田舎でもないところへ独りで行く勇気はないのかな」
胸がぎゅっと痛くなった。
僕の今の地元から姉ちゃんの住むところまでいくつか県を跨ぐけれど、それはきっとあの日を思えば越えられない距離ではない。
でもあの時、諦めてしまった僕にはその勇気が無かった。
同じように諦めてしまった姉ちゃんが僕を笑顔で迎えてくれるかも分からなかった。
「あの日、君に諦めて欲しくて慰めたんじゃないの」
「うん」
「だから今日は、ちょっとだけ力を貸してあげる」
そう言い残し、女の子は石垣の向こうへ消えた。
僕は意味が解らなかった、でもその後を追おうとした。
その背中にバスのブザー音が届いた。
「ちびちゃん!」
そう呼ばれる事は諦めたはずの名を聞いて振り返った僕は、どんな間抜けな顔をしていただろうか。
バスからは姉ちゃんとその母さんが降りてくるところだった。
姉ちゃんはすぐに駆け寄り、僕の両手をとって笑った。
「会いたかった。もう私より背が高いんだ…大きくなったね」
「もうチビじゃないよ」
「うん、でもちびちゃんって呼ぶよ」
話したい事はたくさんあった。
あの日残した道程を歩いてきた事、中学に入って友達もたくさんできた事、部活動を頑張っている事。
でもどれも今すぐ、一番に言いたい事では無い気がした。
「来てくれたのか」
さっき女の子が消えた石垣の向こうから、父ちゃんが現れて言った。
「…久しぶりだな」
「お葬式に顔を出せなくてごめんなさい、せめて初盆にはと思って」
姉ちゃんの母さんは僕の横を過ぎる時、小さく「元気そうで良かった」と言って頭を撫でた。
それは家族にするように自然な動作だった、それなのに。
「お線香、あげさせてくれる?」
「当たり前だ、元は家族なんだから」
僕はぎゅっと目を瞑った。
あの日と今日、女の子が言ってくれた言葉が頭を巡った。
『元は』じゃない、そう言いたかった。
でもあの日と同じだ、それを両親に言ったところで何も変わらない。
僕は意を決し、叫んだ。
「また家族になるんだ!」
「ちびちゃん…?」
変えるのは、変えられるのは、あの日より少し大人になった僕だけだ。
そして僕はポケットからあの指輪を取り出し、言ったんだ。
「僕が姉ちゃんを嫁さんにすれば、僕らはまた家族になれるじゃないか──!」
……………
………
…
列車のブレーキが鳴く。
もう歩く程に速度は落ち、ホームに並ぶ人の顔も判るようになった。
その端っこ。向こうも僕に気づいたのだろう、大きく手を振る姿が見えた。
きっと今日も彼女は自分より20cmほども背が高い僕の事を、慣れた愛称で呼ぶのだろう。
でもそれは来月には変わるに違いない、さすがに夫を呼ぶ時の名としては相応しくないと思う。
たまにはうっかりそう呼んでくれてもいい、そうも思うけれど。
ホームの庇の上、濃い青を背負って立つ入道雲は九月になっても姿を見せるだろうか。
できる事なら現れて、僕らがまた家族に戻るその日を見届けてくれたらいいのに。
おしまい
過去作置場、よかったらお願いします
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