提督「艦娘百人一首」【艦これ】 (299)

基本一日1レス更新。

地の文あり。

毎回相手の艦娘が変わります。パラレル的な感じ。

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提督「寒い、な」

大和「そうみたいですね……」

壊れた屋根の隙間から差し込む月光が、大和の肌を青白く染める。後で直すよう指示をしておく必要があるな。

大和「なにも提督まで見張り番をしなくても。私一人で十分ですよ?」

提督「大和こそ。こんな寒い中で見張り小屋を使わなくても、管制室に居れば暖房も効いてるだろう」

持ち回りの海の見張り番。海に面したこの見張り小屋は暖房も冷房も無く、寒い時期に使われることはめったにない。

大和「秋ですから寒いのは当然ですよ……それに」

提督「それに?」

大和「こうやって静かに海と風の音を聞くのも、情緒があると思いませんか?」

提督「情緒で凍えていたらいざという時に戦えないぞ。そしたら元も子もないだろう」

大和「くすっ、そうですね」

袖まで露に濡れる手は氷のように冷たくなっている。いくら艦娘とはいえ、これでは拙いだろう。

毛布は一枚。俺達は二人。一緒に包まれる以外に、寒さから逃れる術は無い。

提督「……秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ、我が衣手は 露に濡れつつ」

大和「百人一首ですね。確か、天智天皇の」

提督「刈穂に比べればコンクリートの方がまだマシだろうけどな」

大和「私はどちらでも構いませんよ」

大和の頭が俺の肩に乗り、甘えたような声を狭い小屋に響かせる。大和型一番艦大和の勇名からは想像もできないほどの愛らしさを見るのは俺だけだ。

大和「……何処にいても、貴方と一緒なら」

毛布の中で繋いだ指先に、大和の着けた指輪が触れた。

提督「武蔵、洗濯か?」

武蔵「ああ。そろそろ夏だからな、陽射しも丁度いいくらいだ」

提督「そうだな……」

鎮守府に夏が来る。海の色も深い青に染まり輝いて、眩しさに目を細めるくらいだ。

海風に揺れる白い服。その中に垣間見える武蔵の褐色の肌は、春とは違った魅力に満ちているように見える。

そんな俺の視線を察したのか、笑みを浮かべると挑発的に胸を持ち上げ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

武蔵「この服はな、お前のリクエストに答えたものだよ」

提督「リクエスト?」

武蔵「以前言っていただろう? あまり肌を見せるものじゃない、と」

提督「ああ……」

武蔵「だから提督、貴様以外の男の前では大和と同じように着てやることにしたのさ」

嬉しいだろう、と俺の隣で二つの山を押し上げ、意地の悪い笑みを浮かべていた。

見れば見るほど大きな山。大和三山ではなく大和二山とでも言うべきか。

提督「……春過ぎて 夏来にけらし 白妙の、衣干すてふ 天の香具山、と」

武蔵「うん? なるほど確かに白妙の布だし、もうすぐ夏も来る。山は……ふふ、三つ目の山はいつか私の胎、かな」

夏を迎える風が吹き荒び、白い服をはためかせて俺と武蔵の姿を隠す。

唇を重ねるシルエットが外から見えたかどうかは、俺達の知ったところではない。

長い長い夜はまだ、半ばを過ぎる前といった所だろう。

提督「もともと一人で寝ていたはずなのにな……いざこうなると、少し寂しいもんだ」

秋の夜長はなんとやら。人がいない訳じゃないし、まだまだ起きている声も小さく響いている。

それでも彼女が居ないだけでも寂しいと感じてしまうのは、どうにも悲しい男の性だろうか。

独り遠征に出た彼女達を想う。いや……彼女のことを、思ってしまう。

提督「睦月……」

睦月「おりょ、提督。まだ起きてたんですか?」

提督「ぶっ!? い、いつ戻ったんだ!?」

睦月「ほえ? たった今ですけど」

不思議そうに首を傾げる彼女には、どうやらセンチメンタルに浸っていたことはバレていないようだ。

それなら話を逸らすが吉だろう。

提督「遠征お疲れ様、今日はもうゆっくり寝て」

睦月「そういえば遠征の帰りに教わったんですけどぉ」

……睦月が話し始めたらどうにもならない。俺にできるのは、とりあえず聞き手になること。いつもの俺と睦月の関係だ。

睦月「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の、長々し夜を ひとり……かもかも?」

提督「……かもねむ、だろう」

睦月「そうそう、そうなのですっ! 提督がひとりかもねむことになるから早く部屋に行ってあげろ、って」

どういう意味なのかな、と再び首を傾げる睦月を、俺はさっと抱え上げベッドへと運ぶ。あいにく山鳥とは違う。長い夜を一人寂しく寝るのは御免だ。

小さな体を抱き枕に布団に潜ると、睦月は訳も分からないだろうに、笑顔で胸に顔を埋めてくる。

睦月「……えへ、おやすみなさぁい」

腕の中の少女が寝息を立てるまでの間、俺は柔らかな髪を撫で続けていた。

吹雪「司令官、ただいま帰還しました!」

提督「ああ、お帰り。早く入渠してくるといい」

吹雪「……はい」

煤けた髪を庇うような敬礼の下、吹雪の顔が曇る。それが妙に悲しそうに見えて、思わず近づき手を伸ばしてしまう。

吹雪「あ……えへへ」

触れた頬は柔らかく、そして温かい。驚きを浮かべる吹雪の顔はすぐに微笑みに変わり、ほのかに熱を帯びていく。

提督「疲れてるだろ? しばらく体を休めてくれると俺も嬉しい」

吹雪「でも、せっかく提督に会えたんです……最近はあんまり会えなくて、私の事、忘れられたんじゃないかって……」

徐々に潤んでいく声。思うよりも早く、俺の腕は少女を胸に掻き抱いていた。

提督「吹雪の事を忘れたりはしないよ。絶対に」

吹雪「あ……司令官」

提督「田子の浦に 打ち出でてみれば 白妙の、富士の高嶺に 雪は降りつつ。知ってるか?」

吹雪「えと、聞いたことはあるような……百人一首、ですよね?」

提督「ああ。意味は?」

腕の中でふるふると首を振る。

提督「駿河から見上げた富士山の上層に雪が降り続いている、ということだよ」

吹雪「え、と。それに何か意味が?」

提督「俺の心の中にはいつも吹雪が居続けている。吹雪のことをいつだって見てるし、想っているんだ」

耳まで朱色に染まった吹雪が顔を胸に埋めてくる。それを突き放す道理など、俺にはなかった。

晩秋になれば鮮やかに燃え立っていた楓の葉も落ちていく。

鎮守府にある楓並木の間には紅葉が散り敷かれ、まるで紅い絨毯のようだ。

提督「凄いな……一人で見るのは少し寂しい気もするが」

待ち合わせまで数十分。早く来すぎた自分が悪いとはいえ、さすがに人の気配も無いとあってはもの悲しさが先に立つ。

提督「……奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の、声聞くときぞ 秋は悲しき」

山じゃないけどな、と思うと少し笑えてしまう。そうなると彼女を求めて鳴く鹿は俺だろうか?

提督「もっとも俺と鹿で違う所は……」

球磨「なんだか一人でブツブツ怪しいクマー。待たせたクマ?」

提督「来てくれる人がいる、ってことかね。よく来てくれたな球磨」

球磨「当たり前クマ。提督に呼ばれたからには最優先クマー」

とん、とん、と踊る球磨は紅葉を踏み分け俺の隣に並び立つ。その姿は元気なもので、球磨らしい無邪気さがある。

そしてまた何か言うのかと思えば、今度は静かに散りかけの紅葉を眺め、俺に寄り添ってくるのだ。

球磨「……提督は鹿じゃないクマ」

提督「ああ」

球磨「例え鹿でもいつまでも一緒だクマ。秋だろうがなんだろうが、絶対寂しくなんかさせないクマー」

提督「ああ……ありがとう」

二人だけの空間に風が吹き、寂しげな紅色が木々を離れて落ちていく。

二人の間に寂しさが入って来ないよう、俺達は隙間なく互いの身体を抱き寄せた。

提督「さすがに、冬になると霜も降りてくるか」

仕事もようやく一段落。その頃にはとうに夜も更け、一気に冷え込み始める。

宿舎と本館を繋ぐ渡り廊下が嫌がられるのもこの季節からだ。風除けも無く、暖房の利いた室内から出ると余計に寒さが身を切るようになる。

提督「やれやれ、霜で真っ白じゃないか……ん?」

最上「……あ、提督。仕事は終わったのかな」

廊下の先、宿舎側へ入る扉の前に立つのは最上。色の無い指先を擦り合わせながら震え、それでも俺を見ると笑顔を浮かべる。

提督「こんな所でどうしたんだ?」

最上「どうって、提督を待ってたんだよ。なるべく早く会いたかったからね」

提督「そこまでしなくてもいいだろうに」

最上「そこまでするよ。ボクの提督に会いたい気持ちは……そうだね、織姫なんかよりずっと大きいんだから」

提督「季節が違うだろうに」

そうかな、と笑う最上の頬を手の平に包む。気持ちよさそうな最上を引き寄せて唇を上に向かせると、微笑んだまま目を閉じ、小さく唇を動かした。

最上「カササギの 渡せる橋に おく霜の、白きを見れば 夜ぞ更けにける」

提督「じゃあ渡り廊下は天の川に架かる橋か?」

最上「そうだよ……けど、んっ……」

唇を合わせたまま、最上は何かを喋ろうとしたのだろう。柔らかく揺れる唇と舌先がくすぐったくて、俺の方からもしゃべり返してみることにした。

――提督に年に一回しか会えないのは、ボクはイヤだな――

――俺もだよ、最上――

初春「なんじゃ貴様、こんな場所におったのか」

提督「初春か。どうした?」

初春「どうもこうもありはせぬよ。わらわが目覚めてみれば、隣りに眠る貴様が居らぬではないか」

シーツ一枚で覆われた体は白く、それでいてどこか幼さを残している。

薄紫の髪が月の光を返しながら揺れて、俺の目を奪って放そうとしてくれない。

そんな彼女が隣に座るだけで俺の心は弾み、温かなもので満たされていく。

初春「ほう……これは美しい月じゃ。なるほど、貴様が見惚れるのもよう分かるのう」

提督「ああ、なんだか故郷で見た月を思い出すよ。そういえば、随分長いこと帰っていないな」

初春「……そう、か」

ふと、初春の声に一抹の不安が滲んだような気がした。目を向けてみればどこか淡い微笑みを浮かべている。

初春「いつか言っておったな、貴様の故郷は内地の山奥であると。そこに帰るというのであれば……わらわとは別れなければならんということかの」

小さな手が俺の腕を掴もうとして、やがて力なく引っ込んでいく。それは俺を引き留めようという思いがそうさせたのか。

それならば、俺は彼女の不安を打ち消すべきだ。そうしないといけないだろう。

提督「天の原 振りさけ見れば 春日なる、三笠の山に 出でし月かも」

初春「き……おまえ様」

提督「仰いで見える月はどこに居ても変わらないさ。故郷の親兄弟には悪いけど俺はずっとここに居る」

初春「……ふふ、これはまた、親不孝者め……」

抱き上げた初春の身体はまだまだ軽い。シーツを振り落とし、初春をベッドに寝かせ口付けを交わす。

初春「ん……夜はまだまだ、じゃな」

俺を迎え入れるように手を伸ばす初春に覆い被さっていく。眠るまでにはもう少しばかり時間がかかりそうだった。

提督業の一つに他提督たちとの会合がある。特に同期ともなれば軽口や冗談と一緒に酒を交わすものだ。

提督「どうにも飲みすぎた……初夏でよかった、冬だったら風邪でも引いていたな……ん」

時間は既に午前二時。見張りなどごく一部以外は眠りに着いたであろう宿舎の入り口に、一人分の影が立っていた。

やがて俺の姿を認めたのだろう。深々と一礼をして迎えてくれたのは、航空母艦である鳳翔だった。

鳳翔「お帰りなさい。提督方との会合はいかがでした?」

提督「ああ、どうにも世捨て人みたいに言われて来たよ」

鳳翔「あらあら……ふふ、この鎮守府は一番中央から離れていますからね」

提督「近くに大きな街や娯楽も無いからな。まあお上みたいに、厳しい中央から逃げ出したと陰口を叩かれないだけマシさ」

コートを脱ぎ、上着を脱ぎ、帽子も渡す。流れるような動きの中で言葉も要らず、鳳翔を従え歩くだけで休む準備が整っていく。

……見てみると、確かに俺の鎮守府はオンボロだ。建て付けも悪いし壁は剥離していて、必要な場所以外は手入れすら行き届いていないのが現状だ。

こんな所から出ようともせず燻っている俺は、確かに世捨て人なのかもしれないな。

提督「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む、世をうぢ山と 人はいうなり……か」

鳳翔「喜撰法師ですね。ここは山ではありませんよ?」

既に風呂も用意できているあたり、さすがは鳳翔。衣擦れの音を響かせて肢体を晒し、俺に先行する。

俺に背を向けてしゃがむものだから、三角に整えられた毛までもしっかりと見えてしまう。

それすらも気にせず鳳翔は楽しそうに石鹸を泡立て、微笑みながら俺を手招きする。

鳳翔「どうぞこちらへ。お身体を流しますね」

提督「頼む……やっぱりここが一番快適だな」

明日は休みだ。このまま浴室で小一時間、あるいはそれ以上を過ごしてもいい。肉付きのいい身体を撫でると、鳳翔にもそれはしっかり伝わったようだった。

しとしとと静かな雨が降る。数日降り続くこの雨で、おそらく桜は落ちてしまうだろう。

春雨「……司令官、私がここに来て、どれくらい経つでしょうか……」

提督「随分長いように思えるな。俺がここに着任してすぐだったから」

雨を眺めながら物思いにふける春雨はこの鎮守府では最古参だ。練度こそ他の艦娘に抜かれているものの、俺にとっては一番心の通じる相手でもある。

そう。互いに言葉も要らないような相手だったはずなのに、どうにも最近は分からなくなっていた。

ぼんやりと外を見る目は何を見ているのだろう。その頭の中には、どんな考えが渦巻いているんだろうか。

春雨「花の色は 移りにけりな いたづらに、わが身世にふる ながめせしまに」

提督「小野小町か。そういえば春雨は百人一首も」

普段通りの言葉も出ず、強引な話題の提供さえも、春雨の決意に満ちた強い語調にかき消されてしまう。

春雨「司令官、私を、解体してください」

提督「……何を」

春雨「もう私は要らないと思います……練度も私より高い人はたくさんいますし、装備だってもう古くなって」

寂しげに微笑む春雨が差し出す艤装は、幾度に渡る使用と修繕の繰り返しで酷く色あせている。

何よりこの数日も雨の中で訓練をしていたのだろう。髪は傷み、肌は荒れ、それでいて入渠しようとはしない。

春雨「私なんかいなくても、司令官は大丈夫ですよね。そしたら、新しい人も、来れます、よね……っ!」

震える声で自分を捨てろと言う言葉は、涙を流す彼女自身が裏切っている。

そして何より、俺自身が春雨を解体どころか手元から放す気もないのだから。

春雨「ひゃうっ! し、司令官! やめ……ん……やめてください……私なんかぁ……」

抱き寄せ、唇を塞ぐ。拒絶はあまりにも弱く、すぐに縋り付くように俺の首を掻き抱いてくる。

春雨「……おねがいします……役立たずでも、司令官の傍に、いさせてください……!」

喘ぐような、あまりにも悲痛な声。零れ落ちる髪は、色あせた桜の花のようだった。

響「それじゃあ、行ってくるよ」

提督「ああ。行ってこい」

旅立ちを見送る者は俺以外には居ない。これは他の艦娘が薄情なのではなく、俺達が共謀して出立の時間を間違って教えたからだ。

朝方の薄暗い海は凪いでいて、残酷なほどに静かだった。

響「司令官、暁達をお願いしてもいいかな。多分一番大泣きするのは暁だと思うけど」

提督「ああ……とりあえず俺が怒られておくから、響はまた後で怒られてくれ」

俺の言葉に何かを返そうとして、結局響は帽子を目深に被り顔を伏せる。

やがて帰ってきた言葉は、何度も繰り返した別れの言葉。

響「さよなら司令官。もう、会わないかもしれないから、言っていいかな?」

帽子で見えない顔がどうなっているのかは、容易に想像がつく。鼻水をすすり、震えながら漏れる声と嗚咽。だが詮索するべきじゃないだろう。

響「しれ、かんのこと、好き……だよ……ぜっだい、わずれ、ないから……!」

腕の中に包んだ体は小さく、あまりにも痛ましい。

提督「……これやこの 行くも帰るも 別れては、知るも知らぬも 逢坂の関」

響「うっく……なんだい、それ」

提督「旅立つ人も帰ってくる人も、知る人も知らない人も出会って別れる関所がある。それを詠った和歌だ」

響「……和歌……日本の咏だね」

提督「帰ってこい。響が帰って来るまで、俺はここで待っているから」

帽子を取れば想像通りの酷い顔がそこにある。重ねた唇は鼻水の味がして、ムードもへったくれもない。

それでも響にとっては大事なキスだったのだろう。頬を染め、もう一度重ねると無理やり微笑んで、水面へ足を乗せる。

響「……行ってくるよ。貰ったキスと和歌のお蔭で、頑張れそうだ」

スパシーバ。そう言い残して、響は遠い異国へと旅立っていく。凪いだ海に立たせた水飛沫が、響の代わりに涙しているようだった。

青葉「司令官、今のお気持ちは?」

提督「そうだな……わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと、人には告げよ あまの釣り舟……かな」

青葉「おお! 百人一首ですねー。これはなかなかの返しです! あらかじめ考えてました?」

提督「まあ、ね」

今この時、鎮守府を去ろうとする俺に青葉以外の見送りはない。いや、青葉さえ禁じられているはずなのだ。

大本営に歯向い流される俺を見送るなど、軍属の、まして俺と契った彼女に許されるはずもない。

青葉「そうですねー、インタビューとしては『俺は多くの島を目指して舟を漕ぎだしていくよ、心配するな』でいいですかね」

無駄に明るい、と言われるいつもの彼女と同じように、にこやかにペンを走らせる……走らせようとしている。

震える指で書かれた文字は、傍目には子供の落書きですらない。

青葉「そうそう、『人には告げよ』の、人って特定の誰かだったり、するんですか?」

提督「……ああ」

青葉「お、おおー! できれば、教え……くだ、さ……いっ!」

時間が近づくほど青葉の口からは、意味ある言葉が紡がれなくなっていく。

そして溢れる涙を止めもせず、力なく俺へと近づき、倒れ込むように胸へと飛び込んでくるのだ。

提督「青葉だよ。俺にとって一番大事な人は、青葉だ」

青葉「だったら!」

絶叫が、俺の胸元から響く。

青葉「だったら……どうして、私を置いていくんですか!? どうして私を、連れて行ってくれないの……!」

泣き崩れる青葉を抱き返すことも、突き放すこともできず、ただ最後の時間が過ぎ去っていく。

行ってきますのキスもさよならの言葉も無い。崩れ落ち、泣き伏せる青葉に背を向けて、きっと二度と訪れる事の無い道を踏みしめるのだった。

少女が一人舞い踊る。灰色の長い髪を海風にたなびかせ、雲の切れ目から差す陽射しをスポットライトに舞う姿は、まるで天女のようだった。

くるりくるりと回るたび、裾が舞い上がって下着が見えるのは、ご愛嬌と言うべきかサービスと言うべきか。

天津風「……なに見てるのよ」

提督「天女、かな」

天津風「なにそれ。よくわからないわね」

おかしそうに笑うと天津風は再び踊り出す。ふわり、ふわりと浮かび上がる様な舞だった。

天津風「舞風に教えてもらったの。いい風をただ浴びるだけじゃもったいないでしょ?」

提督「そうだな……綺麗だよ」

天津風「……あ、そ」

天津風の頬が朱に染まっていくのがよくわかる。口元を弛ませて、ステップも弾むようなものへ変わっていく。

そう、まるで天女が空へと帰っていくような、そんなことを思わせる舞に。

提督「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ、乙女の姿 しばしとどめむ」

行かないで欲しいと言えばいいものを、我ながらわざわざ面倒な言い回しだ。

天津風「それ、どういう意味?」

提督「天女が舞終わって帰ろうとしてるから、風で帰り道を塞いで欲しいってことだ」

天津風「それで天つ風なの……ふふ、いいわねその和歌。でもね」

ととん、と軽やかに、天津風の身体が飛び跳ねる。跳ねて跳ねて、一直線に風の如く俺の元へと。

天津風「私の帰る場所は、そんなどこかも分からない場所じゃないの」

首元へと絡みつき、悪戯っぽく笑うと小さく囁いた。

天津風「あなたの傍に私を留めるのが、あなたの役目よ」

僅かに触れるだけのキス。宿舎に帰るまでの間、彼女は俺の腕の中に留まり続けていた。

赤城「提督もご飯ですか? 今日は納豆が美味しいですよ」

提督「納豆か……赤城が来た頃は嫌いだったのに、今だと問題なく食べれるようになったな」

赤城「良い事です。好き嫌いは可能な限り無い方が食事をより楽しめますから」

こうして赤城と食事を取りはじめ、どれほどの時間が過ぎただろうか。

着任当初、好き嫌いの多かった俺に赤城が怒り、毎日毎日残さず食べ終わるまで監視されたものだ。

今ではそんなことも終わっているものの、自然とその頃の時間に食堂へと足が向く。赤城もきっと同じなのだろう。

赤城「……提督、私達が初めて出会った日の事を覚えていますか?」

提督「いや。正直どんな会話をしたのかも覚えていない」

赤城「ふふ、私もです。一応日付は覚えているんですけど、その日の事はほとんど覚えてません」

提督「そんなものだろう?」

赤城「そんなものでしょう」

互いの目に映るのは、おそらく相手の笑い顔。思い返してみても赤城との出会いはまったく脳裏に浮かんでこない。

その代わりに浮かぶのはここ最近の赤城の姿。あの時頬にご飯粒がついていた、あの日は茶柱を見て頬を弛ませていた。そんなことばかりだ。

提督「我ながら気付くのが遅かったよ。少しずつ積もり積もって、最近ようやく自分の気持ちが見えてきた」

赤城「……筑波嶺の 峰より落つる みなの川、恋ぞつもりて 淵となりぬる」

提督「言い得て妙だけど、そういうことだ」

俺の言葉を、しかし、ゆらりと首を振って否定する。普段と変わらない目元を朱色に染めながら。

赤城「……今のは私の気持ちです」

恋心は積もりに積もってようやく互いに見えるようにまでなった。ここから更に積み上げていくには、もう少し時間が掛かるのだろう。

14

提督「陸奥、それは? 綺麗な着物だな」

陸奥「あら提督。ええ、「信夫もぢずり」という染め物よ。乱れ模様が綺麗でしょう」

蠱惑的に微笑む彼女を意識しだして、もうどれほどになるだろうか。

度重なる編成への手心、補給の優先順位、秘書艦への要請。提督の権限内の事とはいえ、いつ怪しまれてもおかしくない。

提督「それが……けど、着物を着る機会は少ないだろうに。それなのに取り寄せたのか」

陸奥「欲しかったから、じゃあいけないかしら?」

提督「いや……」

ああ、まただ。俺の言葉からはスルリと抜け出てしまうくせに、彼女の言葉は俺を惑わせる。

欲しかったということは着物を着るのだろうか。きっと美しく、優美な姿が見られるはずだ。

あるいはインテリアのように扱うのだろうか? せめて、せめて。彼女の事を知られればいいものを。

彼女のふっくらとした、柔らかそうな唇が呟くその言葉が。

陸奥「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆえに、乱れ初めにし われならなくに」

提督「それは……」

陸奥「貴方の心はそんな所かしらね。心が乱れきったままじゃ、着物を楽しむこともできないわよ」

そう嘯く彼女は、自分のせいだと言いながら飄々と、ゆるやかに俺に手を伸ばす。避けられないと知って、わざとらしく。

陸奥「だから……乱れなくなったら、一緒に楽しみましょうね」

甘い囁きが耳に、柔らかな感触が頬に届く。乱れることなく心を御することができるのは、まだまだ先になりそうだった。

15

三が日に体調を崩し寝込むというのは初めての事。ようやく整った頃には松の内が明けようという頃だった。

そうなると、普段気にしない縁起担ぎをしようという気にもなる。寒風の吹く野原に来てみれば、先客の姿が見える。

提督「若葉、こんな場所でどうしたんだ」

若葉「……どうしてここに居る?」

ひどく不機嫌そうな声に、何かしただろうかと不安になるが心当たりもない。正直に答えるほかないだろう。

提督「明日は七日だろう。今年は七草粥でも食べようかと思って、採りに来たんだ」

若葉「なに……提督は馬鹿なのか? 病み上がりの癖にこんな場所に来て、風邪がぶり返してもおかしくないだろう!」

怒り心頭といった様子の若葉だが、そんな若葉の方こそ袖口に雪をこしらえていて、唇の色も薄くなっている。

若葉「早く帰るぞ。七草なら……ここに、ある」

小さな手は冷たく、指先は土に塗れている。七草と併せて考えれば理由は明白だ。

不器用で、俺の事を考えてくれる少女だからこそ。

提督「君がため 春の野に出でて 若菜摘む、わが衣手に 雪は降りつつ……かな」

若葉「悪いか?」

提督「いいや、若葉にそこまで想って貰えて嬉しいよ」

若葉「そうか……」

ポケットに突っ込んだ若葉の手が温まるにはまだまだ時間がかかりそうだ。七草粥も作らなければならない。

松の内最後の日。まだまだ若葉と一緒に居られる時間は長く残っているようだ。

16

村雨「提督、お待たせ~」

提督「ああ。ほら、釣り針は付けておいたから餌は自分で付けてくれ」

村雨「ありがと。今日も村雨のいいところ、見せたげるっ」

薄茶色のツインテールを波風になびかせて、いつものように並び座る。俺より後に来るのがいつも通りなら、鼻歌交じりに釣り糸を垂らす姿もいつもと寸分変わらない。

提督「こうやって一緒に釣りを始めて、もう三年になるかな」

村雨「もうそんなに経つのかしら? 昨日の事みたいなのに」

提督「結局、釣果で村雨には勝てなかったな」

村雨「その分鯛とか、美味しい魚は提督の方が釣ってたでしょ?」

いつもと違う所は、こうして昔話に花を咲かせていることだろうか。

村雨「……私、待ってますから」

こうして毎朝釣りをするのは今日までのこと。俺は中央へ栄転し、艦娘である彼女はここに残る。当然の事だった。

提督「酷いな。俺は栄転するんだぞ? ここで待つってことは降格しろってことじゃないか」

村雨「あはは、それもそうなんだけど……でも、待つわ。ずっとずっと待っててあげる」

強い意思のこもった言葉だ。けれど、俺を一切見ないその目は、朝日を浴びて不自然に潤んでいる。

提督「……立ち別れ いなばの山の 峰におふる、まつとし聞かば 今帰り来む」

すぐに帰るよ、と伝えた俺に、彼女は首を振る。泣きながら笑って、悲しそうに喜んでくれている。

村雨「ずっと、待ってる、って、言った……でしょ……しばらく、帰って来なくて、いいから……っ」

優しく揺れる海面に彼女の涙が落ちて消えていく。最後の餌を付ける作業が、やけに短いように感じた。

17

龍田「ごめんなさいね~、お掃除を手伝ってもらっちゃって~」

提督「いいさ。どのみち少し暇だったんだ」

逢魔が時。アスファルトを覆う紅葉の葉が箒の先に誘われて宙を舞う。ひらりひらりと揺れながら、清水の流れる溝へと落ちていく。

提督「確かこの水は海に繋がっていたか」

龍田「そうよ~。詰まったりはしないから、安心してね~」

錦の絨毯か、あるいはレッドカーペットか。細く伸びる紅葉の道は、海を走る艦娘達を鼓舞するようだ。

龍田も同じような感想を抱いたのか、どこか好戦的な瞳が揺れ、紅色が注ぐ海を見やる。

龍田「うふふ、なんだか素敵ねぇ。踏んだら崩れちゃうけど、こんな道から抜錨できたらな~」

はらりはらりと紅葉が落ちる。道を、溝を、二人の姿を赤色で隠していく。

……いくらなんでもこれほど多かっただろうか。もう、龍田の姿がまともに見えないほど、紅葉の嵐が吹き荒んでいる。

龍田「ふふ、ふふふ。あははははははっ」

それなのに、耳朶を打つ龍田の声はかき消されるどころか、声の輪郭が酷く鮮明になっていくようだ。

提督「……ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川、から紅に 水くくるとは」

手に汗が滲むのがわかる。次第に弱まる紅葉の嵐、その隙間に見えたものは――

龍田「うふふ、そんなちっちゃな溝が龍田川だなんて、酷いわ~」

いつの間にか辺りは闇に包まれ、紅葉の川は赤黒く、溝の細さもあってどこか貧相な姿を晒していた。

頬に手を当てて笑みを零す龍田はいつも通りの姿。柔らかな目元と、緩やかな唇は相変わらず魅力的だ。

龍田「そろそろ戻りましょうか~? 晩御飯も近いし、また明日にしましょうねぇ」

後姿も、手を伸ばす姿も、するりと俺と腕を絡める仕草も、俺の知る龍田の物だ。

――だが、あの時の龍田は、龍田だったのだろうか。

逢魔が時の僅かな時間、俺の知らない龍田の声。漠然とした夕闇のような不安が、心の底に積もっていくようだ。

18

仕事中に提督に会いたいなら、旗艦にならないとダメ。忙しいあの人は会いたいって理由だけじゃ、会えない人だから。

でも、駆逐艦が旗艦になることなんかほとんど無い。まして私みたいな地味なのがなるなんて、ありえない。

磯波「……会いたいな」

ざぷん。岸による波がそんな音を立てて、私の言葉を掻き消してしまう。

空と海の境も分からない真っ黒な水平線。少しだけ肌寒いのは、まるで世界に私一人しかいないような静けさのせいかもしれない。

磯波「せめて、夢で会えたらいいのに」

こんなにも苦しいのに、切ないのに、あの人は夢にさえ出てきてくれない。

提督が褒めてくれた三つ編み。手入れを欠かしていないのは、見て、また褒めて欲しいからなのに。

磯波「昔の事にしたくありません……」

どんな顔で、どんな声で褒めてくれたのか、少しずつ色褪せてしまうのが怖い。

いつか過去の事になって、思い出せなくなってしまうなんて嫌。

磯波「……住の江の 岸による波 よるさへや、夢の通ひ路 人目よくらむ」

提督が好きな百人一首を覚えてもなんにもならない。

聞いてくれる人が居ないなら、ただの独り言でしかなくて、覚えた意味がない。

磯波「提督……会いたいです……」

抱えた膝を伝って涙が落ちていく。

聞きたくない、誰にも聞いて欲しくない嗚咽は、ざぷんという波の音に飲まれて消えてしまう。

夢の中であなたに会えたなら、きっとこんなことをしなくて済むのに。

19

黒潮「なんやっちゅーねん、司令のアホ……!」

ブツブツと漏れ出る愚痴が止まらない。歩いても歩いても、気は収まるどころかささくれ立っていく。

黒潮「また今度、また今度って、いつになったら!」

『今は忙しいからまた今度な。後にしてくれるか。終わってからにしよう』

黒潮「そればっかで今日も……!」

いつだったか、偶然ながら最大戦果を出した時、よく頑張ったと撫でてくれたことがある。

その大きな手が嬉しくて、もっともっとと頑張ったけれど所詮は駆逐艦。あれ以来そんなことはなく、みんなと纏めて声を掛けられてそれで終わり。

黒潮「今日、も……」

今日も、一度だけ目が合っておしまい。他の駆逐艦と同じように子供みたいに褒められて、女の子扱いなんて一度もしてくれない。

……仕方ないというのは分かっている。背は低いし、胸も無い。おしとやかさも無くて騒がしいばっかり。

黒潮「……けど、うちかて女の子やのに」

戦艦や空母を相手にするように自分を見て欲しい。そう思うのはいけないことなのだろうか。

司令、と声を掛けたら、秘書艦相手のようにいろんな話を聞いて欲しい。そう思うのは贅沢なのだろうか。

黒潮「……なにわがた みじかきあしの ふしのまも、あはでこのよを すぐしてよとや」

以前、秘書艦相手に「ズルい!」と嫉妬した時に貰った百人一首の札。これが分かれば提督も大人と見てくれるかもしれません、と困ったように笑っていた。

何度も読んだ。暗唱もできるくらい読んで、司令に向かって言ったのに、司令も困ったように笑って一度撫でてくれただけ。

けど、その手は欲しいものとは違う。わがままな子供をなだめるような手で。

黒潮「なんやっちゅーねん……」

うちはまだ、この句を詠めていない。

20

『侘びぬれば 今はた同じ 難波なる、身をつくしても 逢はむとぞ思ふ』

『アドミラール、それは? 和歌ってヤツよね』

『誰に邪魔されようと立場が悪くなるのが同じなら、例え身を滅ぼしてでも会いに行く。そんなところだな』

『……もう、言い過ぎよ』


許されざる恋があるのだとしたら、それはこの関係だったのかもしれない。

プリンツ「提督……この度は、お世話に、なりました……っ!」

提督「ああ。母国での活躍を祈ってるよ」

金髪緑眼の彼女は震える声を隠すことなく、大粒の涙が絨毯を濡らしていく。

彼女は今日、母国へと還る。

何度も触れた頬も、重ねた唇も、愛撫を重ねた身体や髪に触れることは許されない。

……例え同盟国といえど、同盟以上の関係は決して許されることではなかった。

プリンツ「アド……ミラー……」

提督「やめろ。それは俺に向かって言っていい言葉じゃない」

かつて彼女の指にリングが嵌まっていた時、心の底から呼んでくれた言葉。それは国を問わず彼女が最も尊敬し、愛してくれた俺に向かっての言葉だ。

今はもう、俺を指して言っていい言葉ではない。

提督「これは君が帰ってから提出する書類だ。確認してくれ」

プリンツ「ぁ……ぅ、は、い……? これ、って」

怯えたような手が書類を掴む。これが終われば俺と彼女が会うことは二度とないのだから当然だろう。

書類に紛れた一枚の札。俺から彼女に言えることは無く、ただこれを忍ばせる事しか「今」はできないのだ。

いつかきっと。俺のプリンツに向けた思いを、生半可な物だと思って貰っては困る。

21

テーブルの上には固くなったパスタと冷え切ったスープ。一晩を越えたせいか、見た目からして不味そうだ。

提督「悪かった。昨夜は急な仕事が入ったんだ」

黄緑色の髪は揺れず、ただ窓の外を見つめている。朝方の冷たい月はまるで俺を責めるように白く輝いている。

長月「……今来むと いひしばかりに 長月の」

提督「すまない。あの直後に通信があって、結局こちらから話す時間が無かった」

すぐに行く。昨晩、弾んだ声で俺を待っていると言った長月に、電話越しにそう伝えたのは俺自身だ。

提督としての仕事は多忙にして激務、必要とあれば昼も夜も無い。

長月自身、それは分かっているのだろう。俺に向けた背は来なかったことへの怒りではなく、どうしようもないことに対して泣いているようだ。

長月「有明の月を 待ち出でつるかな」

提督「……待っていてくれたんだな」

独りが嫌なら寝てしまえばいい。俺が仕事を終えて戻って来れば、起こすなりすることは分かっているはず。

それでも長月はずっと待っていてくれた。戻った俺を迎えるために、一緒に食事を取るために、長い夜を耐えながら。

提督「んん、一晩何も食べてなくて腹が減ってるんだ。何かないか?」

長月「……温めてくる。少し待っていろ」

例え伸びきった不味い飯だとしても。

今の俺の空腹を満たすものは、彼女の作ってくれたものであって欲しい。

22

谷風「うー、さっぶいなあ……ぶえっくし! あー、ちくしょー!」

風の吹く方へ向かって放たれる谷風の声も、晩秋の山までは届かない。

それどころか吹き降ろす山風に押し返されて、谷風の新たな悲鳴となっていく。

谷風「ひゃああっ!? さ、さっぶ……提督、もう帰ろうよぉ!」

提督「馬鹿言うな。谷風がたき火をしたいから言うから始めたんだぞ」

谷風「そりゃそうだけどさあ。そうだ! 火が大きくなるまで中で待ってるってのは?」

提督「たき火のそばを離れるわけにはいかないだろう。だいたい、どうしてそんな薄着なんだ」

さすがに半袖ではないものの、全体的に薄手のシャツと膝上のスカートとなれば寒いに決まっている。

厚着をするべきだと思うのだが、言われた谷風はといえば眉根を寄せて、いたく不満げだ。

谷風「そっちこそ馬鹿言うなってんだ。こちとら華の女の子、野暮ったい服装なんて、でき、ぶえっくしゅん!」

ずびび、と鼻水を啜り、萎れたように縮こまるのは女の子としていかがなものか。

提督「やれやれ……吹くからに 秋の草木の しをるれば、むべ山風を 嵐といふらむ」

せっかく二人で過ごしているというのに、来る前の甘い雰囲気を荒らしてくれた山風には困ったものだ。

提督「……ん、どうした?」

谷風「さっぶいから」

たき火と俺の間の空間に滑り込む、海から吹く風の名前を持つ少女。

せめて彼女が山風に荒らされてしまわないよう、少しだけ強く、黒い髪を掻き撫でた。

23

年に一度、夜間の大規模演習がある。提督として指揮し、自身の鎮守府の力を誇示するのも仕事の一つというわけだ。

秋月「司令、お茶をお持ちしました」

提督「ありがとう。しかし、寒いな」

秋月「もう秋ですから……夜の海風は寒くなります」

湯呑みから立ち上る湯気の向こうに青白い月が輝いている。爆撃の合間に耳を打つ波の音は、氷が砕けるような冷たい響きを含んでいた。

提督「秋月は今日は出ないんだったな」

秋月「はい、今日は給仕と演習の後片付けを。クジで外れたので雑用係です」

黒い髪が風に揺れている。さらさらと髪が流れれば、ほのかに甘い匂いを乗せて俺の下へと戻って来るのだ。

体温は感じず、けれど匂いと気配はすぐ傍に。しばらく続いて欲しい距離感だが、盆を水平にしたまま待っているということは、飲み終わり次第下がるということだろう。

雑用という仕事は一つや二つではない。演習の裏側で彼女達も、立派に戦っているということか。

提督「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ、わが身ひとつの 秋にはあらねど」

秋月「はい? あの……」

空にあるのは悲しくなるほど冷たい月。それと同じ名前を冠する彼女は、つれないことに仕事熱心で。

提督「秋の月が俺一人のものだったらいいのにな。傍に置いて、離す気にもならない」

大の大人のワガママに、白い肌が見る見るうちに朱色に染まっていく。

秋月「……後で怒られたら、司令のせいにします」

静かに盆を置いた音。すぐに強まる少女の匂い。繋がる小さな手の温もりと、柔らかな体の心地よさ。

天空の月は遠くとも。地上の月だけは今、俺の手中にあるようだ。

所用のため三日ほど更新無しになります。申し訳。

24

雷「司令官、急がないと日が暮れちゃうわ!」

提督「まだ午前中だろう。紅葉も綺麗だし、もう少しゆっくり行かないか」

ピクニックには良いお日柄という奴で、照らされた紅葉は嬉しそうに風に揺れている。

夜になれば寒いだろうが、陽のあるうちに歩く分には心地良さに満ちていて、思わず目を細めてしまう。

雷「んー、それもそうね。あっ、お地蔵様!」

提督「やれやれ……忙しいな」

近寄っては俺を見上げ、ふと見つけた道祖神に駆け寄っていく。落ち着きがないと言うべきか、相応に可愛らしいと言うべきか。

雷「司令官がもーっと活躍できますように、みんなが怪我をしませんように!」

提督「こらこら、道祖神にそれは大きすぎる。無事に鎮守府に帰れますように、くらいにしておいたらどうだ?」

雷「そうなの? じゃあ……あっ! 司令官、お供え物が無いわ……」

ころころと変わる表情。笑顔は不思議そうな顔に、そして驚いて、しゅんと俯いてしまう。

あいにく供えられるものは無いが……雷の顔を曇らせておくというのは、抵抗がある。

提督「このたびは 幣もとりあへず 手向け山、紅葉の錦 神のまにまに」

雷「まにまに?」

こてん、と首を傾げながら背中からじゃれついてくる。首に回った細腕が温かく、少し甘い匂いがした。

提督「お供え物の代わりにこの綺麗な紅葉をお受け取り下さい、ってことだよ。下手な物より、こっちの方が喜んでくれそうじゃないか」

雷「そうね……まにまに、まにまにー」

ツボにでも入ったのか耳元で囁くものだから、愛らしさもひとしおだ。

小さな体を背中に乗せたまま立ち上がり、歓声を上げる少女と共に紅葉のトンネルを潜り抜けていくのだった。

25

金剛「提督ぅ、お久しぶりデース」

提督「そうだな……こうして二人きりになるのは、どれくらいぶりかな」

時間の隙間を縫い、鎮守府の誰も知らない場所でコソコソと会う。まるで禁断の愛のような関係だが、大した理由は無い。

疲れた表情に複雑な姉心を滲ませて、金剛はため息とともに漏らす。

金剛「比叡がテートクと二人っきりで会わせてくれないのは困りものデース」

提督「まったくだ。こっちの秘書艦も、仕事に支障が出るって言ってね」

金剛「だから……今日は、スペシャルなコト、して欲しいカナー……」

暗がりに衣擦れの音が響く。同時に下腹部をくすぐる匂いが強くなり、自分でも息が荒くなっていくのが分かってしまう。

思わず手が伸びれば柔らかい肌に触れ、滑らせた先にある双丘とその先端の膨らみが、理性を溶かしていくようだ。

金剛「んっ……も、ぉ……ムードもヘッタクレも無いなんて、ヒドイデース……」

そう言いつつも、喘ぐ声は色に濡れている。だがここで知らぬ存ぜぬと欲に溺れるのも芸が無いわけで。

提督「……名にしおはば 逢坂山の さねかづら、人にしられで くるよしもがな」

金剛「ひ、ぁんっ! ふふ、それ、前に聞いたことありマス……」

提督「誰にも知られないように金剛の所に行ければ、毎日だってできるのにな」

正直すぎる俺の言葉に金剛は噴き出し、小さく震えだす。少しばかりムッとしたので、お返しとばかりに先端を歯で挟み、舌で嬲れば。

提督「可愛い声だよ金剛。もっと、もっと聞かせてくれ」

人影が二つから一つに重なって、蕩けるような声が空気の中に溶けていく。

久方ぶりの互いの感触を確かめあうように、高まりきった瞬間でさえひと時として離れることは無かった。

26

鎮守府を見下ろす山の上。重なる紅葉の木々を縫うように、ちらほらと建物が見えるのが面白い眺めだ。

提督「これは……丁度いい時期に来たな」

高雄「ええ、本当に。こんなに綺麗だったなんて、下から見ていては気付きませんね」

思わず頷き返してしまう。なにせ下から見たこの山頂は、妙に暗く鬱蒼としているので、わざわざ登ろうとする者は少ない。

実際、夏や春に登ったという人が疲れるだけだ、と言うものだから尚更だ。

なら、なぜ俺達が登って来たのかと言えば。

高雄「凄い凄い! これなら愛宕達も連れて紅葉狩りに……そうだ! 今度みんなとお弁当を持って来ませんか?」

提督「ああ、それもいいな」

高雄「ええ! 高雄、全力で頑張ります!」

楽しげにテンションを上げる高雄に、俺の口から出たのは溜息のような、感嘆のような微妙なものだった。

……当初考えていた、人気のない山で抱き寄せ豊満な彼女を抱く、というのは雰囲気的に難しそうだ。

ならば予定は予定で楽しみにしつつ、今の雰囲気を大事にするしかないだろう。愛しい彼女と共に過ごす時間が、二人きりでないとはいえ増えるのだから。

提督「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば、今ひとたびの みゆき待たなむ」

高雄「ええ……本当に。今度来る時まで綺麗なままで居てくれると嬉しいですけど」

提督「そうだな」

そっと肩を抱くと頬を赤らめ、目をあちこちへ忙しく動かしている。きっと誰か見ていないか確認しているのだろう。

そしておずおずと目を閉じて唇を寄せてくる高雄。挟まれて潰れる胸の感触と戦いながら、柔らかな口付けを楽しむことにした。

27

香取「あら……あの人から?」

パサリと落ちた封筒は、相変わらず簡素なもの。崩し字から溢れる素っ気なさに苦笑してしまうのも、いつものことだ。

香取「中身はこんなに目が滑りそうなのに。困ったものね」

伝え聞く話では、彼はクールで格好いいと艦娘達にも評判らしい。何の冗談だと心の中で声を上げたのも、記憶に新しい。

香取「付き合いたての学生じゃあるまいし、好きだの愛してるだの、よくもまあ……」

もっともそんな手紙に頬を染めてしまう自分も同類なのだろう。気付けばいつか貰った万年筆と便箋に手を伸ばしている自分に、呆れにも似た笑みが零れてしまう。

大事に畳んだ手紙を封筒に入れようとして、ふと小さな紙が中に残っていることに気付く。

香取「あら? これは」

『みかの原 わきて流るる いづみ川、いつ見きとてか 恋しかるらむ』

香取「……もう、本当に」

よくよく考えてみると、直接会って言葉を交わしたのはほんの数回のはず。彼が提督として着任する以前の事だ。

練習艦と提督候補。初めはただの挨拶状のやり取りを。そしていつしか恋文に。

こうして文通を始めてからも互いに「会おう」と言ったことは無い。別に会えないわけでも、会いたくないわけでもないのだけれど。

香取「こうなると、返歌が難しいですね」

借り物の咏とはいえ、送られたには変わりない。けれどまずは手紙から手を付けることにしよう。

この文字の向こうにあの人がいる。それを想うだけで筆が進むのだから、本当に困ったものだ。

28

冬の風に震えるガラス窓。遅まきに顔を見せた太陽の光が、寂しい部屋の中を照らし始めていた。

朝霜「ほら、朝だよ司令官。さっさと起きな!」

提督「ああ……おはよう朝霜」

ニッ、と跳ねあがる唇の端。見慣れた顔の輪郭を手でなぞれば、くすぐったそうに小突いてくる。

朝霜「馬鹿、やめろって! これから朝飯作らないと駄目なんだからさ」

提督「ああ……それにしても、良かったのか?」

朝霜「んー? 何がだよ」

浮かんだ苦笑いを見るに、俺の問いの内容は分かっているのだろう。もっとも同じ問いを繰り返す俺も俺なのだが。

海に面する山の中腹に設けられた、俺達の他に人の無い哨戒基地。部下一人を与えられての左遷以外の何物でもない。

提督「……山里は 冬ぞ寂しさ まさりける、人目も草も かれぬと思えば」

草木も枯れた冬の山里。雪に覆われてこそいないものの、寂しさばかりが被さるようだ。

それでも彼女は笑う。こちらが釣られて笑ってしまうほど快活に、それこそ後悔の一欠片もないのだ、と。

朝霜「馬鹿言うなって。こういうトコだって知ってて立候補したんだよ」

横たわる俺に朝霜の身体が重なり、灰色の髪がベッドに散りばめられていく。

朝霜「艦娘だから、あたいは司令と一緒にここ来れたんだ。むしろ二人っきりになれて感謝ってとこかな」

甘い囁きが耳元に届く。けれど朝霜の事だ、こんな状況でも朝飯のために俺を起こし、テーブルへ連れて行くのだろう。

ほのかに高い体温を抱きしめながら、俺の心は早くも、長い夜が訪れるように願い始めるのだった。

29

鴉の濡れ羽色とはよく言ったものだ。

初霜「提督? 今夜の工事停電はあと20分続くそうですけど……明かりはつけないの?」

提督「ああ。せっかく工事が終わるまでの間なんだ、人工光の無い執務室もこれはこれで風情があるだろう」

初霜「そうかもしれませんね。わかりました、ではこのままで」

すぐ近い場所から固いものを置くような音が響く。懐中電灯か、ランタンか。彼女の事だからきちんと用意していたのだろう。

ということは、だ。彼女は今、俺のすぐそばにいるはずだ。

提督「初霜、居るのか?」

艶やかな黒髪も、落ち着いた黒の制服も、闇夜に溶けて俺の目には何一つとして映らない。

初霜「ええ、提督のお傍に居ます」

声のする方に目を凝らしてみれば、人の輪郭がぼんやり浮かぶ。意識しなければ他の家具や物と区別もつかないのではないだろうか。

……なんとなく心が高揚するのを感じてしまう。子供が未知の宝物に手を伸ばしたくなるように、この手の先にあるものが彼女であるのか確かめたい。

初霜「提督?」

提督「心あてに 折らばや折らむ 初霜の、をきまどわせる 白菊の花」

見分けのつかない影の一つ。それと定めて手に取ったものが彼女だったら、少しは運命的と言うものだ。

そんな心を読んだかのように、呆れの混じったため息が闇に消える。

もっとも髪と肩に触れた俺の手から逃れようとしない辺り、彼女の案外楽しんでいるのかもしれない。

初霜「……20分だけですからね?」

抱き寄せ、重ね合わせた彼女の吐息は、期待の混じった熱に満ちていた。

30

提督業の朝は早い。明け方過ぎに帰ってくる遠征部隊のある日には、なおさらのこと。

どうにもただの目覚ましでは起きられず、そのために特別な目覚ましを頼むわけだ。

暁「んぅう……うー……」

扉を開けて入ってきたのは、今にも落ちそうな目蓋を必死にこする暁。

ふらふらと危うげに歩きつつ、欠伸をしては涙を滲ませながら、俺の寝るベッドへと近づいてくる。

暁「んみゃ……しれーかん、起きて……」

俺のお古のダボついたパジャマに身を包み、とんでもなく弱い力で揺すってくるのだ。これで起きない訳がない。

提督「おはよう暁、今日もありがとう」

最初から起きている、と言うのは野暮だろう。髪の跳ねた髪を撫で付ければ、眠たそうに微笑んで小さな胸を張る。

暁「とーぜんよぉ、レディなんだから……ふあ……」

一仕事を終えた後、ベッドに潜り込んでくる暁。いつまでも見ている訳にもいかず、身支度を整えて後ろ髪を引かれながら仕事に向かうのも、いつもの事だ。

提督「有明の つれなく見えし 別れより、暁ばかり 憂きものはなし……いってきます」

昇ってくる太陽がなんとも恨めしい。暁が来るのは嬉しいが、同時に『暁』に来ないでほしいと思うのは贅沢というものだろうか。

俺にできる最後の抵抗。眠りこける暁の頬に口付けを落とし、部屋を後にした。

31

冬の海に雪が降る。

夜半に降り始めたそれは、今では鎮守府を覆い隠していた。

丁度北側にある山に明け方の白い月の輝きが落ち、まばゆい光で鎮守府を照らしている。

提督「これはまた、一面銀世界だな」

グラウンドに工廠、入渠ドッグ。どれもが冷たい雪に口を塞がれて沈黙しているようだ。

その証拠に、ただ風が窓を叩く音だけが部屋に木霊する。

白雪「こんなに真っ白なのは初めてかもしれませんね」

提督「悪いな、起こしたか」

白雪「いえ、普段からこのくらいの時間ですから」

シーツの白さの中でも、彼女の肌の白さはよく映える。下ろした髪というのも実に素晴らしい。

白雪がまぶしそうに目を覆うと、胸を覆っていたシーツが滑り落ち、真っ白な雪原の中に淡い桃色が現れる。

白雪「朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに、吉野の里に 降れる白雪」

まったく、残酷なことを言う。自分ではなく外を見ろというわけだ……が。

白雪「あ……司令官……」

提督「悪いが、俺は寒がりだからな。冷たいより温かい雪の方がいい」

小さな雪原を手で包み、柔らかなシーツへとその身体を降り積もらせる。

外からは、次第に大きくなり始めた駆逐艦たちの歓声が窓を揺らし始めている。

部屋の内側には早くも雪解け水の粘つく音と、火照った雪の軋む音が響きはじめていた。

32

海へ抜ける一筋の川に掛かる短い橋。

幅で言えば二メートル程度でしかないそこに二人で寄り掛かるには、ある程度距離を詰めるしかない。

提督「金剛は行ったぞ。お前は、行かないのか」

比叡「そうですかぁ……金剛お姉さま、何か言ってました?」

ぼんやりと投げかけられた視線の先には紅葉の流れ溜まり。流れに乗って来たというのにどこにも行けず、ただ押し留められている。

提督「転属しても姉妹は姉妹、また紅茶でも淹れてあげるから遊びに来い。だったかな」

比叡「ひえー……あんな遠い所、簡単に行けませんよ」

提督「だろうな。行くなら長期休暇でも取らないと無理だろう」

だからこそ、比叡の決断は意外だった。金剛型全員に打診された同時転属を断ったのは、彼女だけだった。

比叡「そりゃあお姉さまの事は好きですし、片時も離れたくないですけど」

川を覆う紅葉の絨毯は、少しずつその尾を伸ばしていく。もし山の全ての紅葉が上流から流れてくるのなら、やがて川そのものを埋め尽くすほどに。

比叡「……なんか、それ以上に司令の傍を離れられないんです。自分でも全然分かんないんですけど」

顔が赤らんで見えるのは、紅葉のせいか、それとも。

提督「山がはに 風のかけたる しがらみは、流れもあへぬ 紅葉なりけり」

比叡「しがらみかぁ……そうかもしれないですねー」

欄干に乗った比叡の頭を撫でても、嫌がる素振りは僅かにも無い。

来年も一緒にこの紅葉の川を見るためなら、俺はこのまま彼女のしがらみであり続けてもいい。

33

隼鷹「提督ぅー、こっちこっち!」

満開の桜の下、僅かに落ちる日の光が小さく隼鷹を照らしている。

桜の絨毯に腰を下ろし、周りに酒瓶を散らす彼女の顔は赤い。そこそこ長い時間、一人呑んでいたのだろう。

提督「昨日の花見でも相当飲んでいただろうに、まだ飲むのか」

隼鷹「あっはっは! みんなと呑む酒と一人で呑む酒は違うって!」

朗らかな笑みで仰ぐ杯に桜が二枚舞い落ちる。目を細め、舌で器用に一枚を掬うと、美味そうに飲み込んでいく。

隼鷹「どうせもう少しで散っちまうんだ。呑める間に呑んどかないと、損ってもんでしょ?」

提督「やれやれ……で、俺の杯はどこだ」

へへ、と笑って差し出される杯は、今しがた隼鷹が口を付けたもの。とはいえ、受け取る側にも送る側にも戸惑いは無い。

隼鷹「ほぉら提督! さっさと呑もうよぉ……急がないと桜が散っちまうよー」

提督「一日で全部が散るわけないだろう。それに、桜は散るからこそ美しいって言うだろ?」

不満げな唸り声すらも酒臭く、抗議のつもりなのか人の首筋に唇を重ね、曖昧に動かしている。

隼鷹「ええと……あれだよ。提督の好きなさあ……久方の 光のどけき……えーと」

提督「久方の 光のどけき 春の日に、しづこころなく 花の散るらむ」

隼鷹「それだよそれ。提督と二人っきりで呑む機会なんてそうそう無いのに、こんな急いで散らなくてもいいってのにさぁ」

耳元に掛かる吐息が妙に熱っぽい。仕方なく膝の上に抱き寄せると、真正面から酒をねだってくるのが困りものだ。

隼鷹「だから、今は頼むよぉ……この花びらあげるから」

酒と隼鷹の味が交じり合った桜の花びらは、妙に甘く蕩けるような味がした。

34

長門「今日も、敵を倒してきたよ」

深海棲艦との戦いはいよいよ佳境に入っている。近い将来、この老朽化した鎮守府もお役御免となるだろう。

そうなれば、酒の染み込んだこの墓石を訪れるものも少なくなりそうだ。

長門「もうあの頃の艦娘も少ない。私の艤装も、長くはもたないか……」

広大な海から吹き荒ぶ春の潮風。目を細めると、隣りに立っていた、最愛の男の姿が目蓋の裏に浮かんでくる。

若く硬い顔、精悍な頼もしい顔、年嵩を重ねた余裕、晩年の穏やかな顔。

長門「お前はここから見る海が好きだと言っていたな……そう、確かこの木に背を預けて」

長門「女の胡坐を、はしたないと言ってくれるなよ。お前だっていつもこうしていただろう?」

墓石は何も答えない。ただ黙って、生前と変わらず海を眺めるばかりだ。

どうにも自分では動こうとしないから、酒を飲ませるには私から掛けてやる以外、方法は無い。

長門「そら、お前の好きな日本酒だ。無理を言って貰ってきたんだ、感謝しろ」

酒好きだった男にはこれがいい。どいつもこいつも、適当な酒を浴びせるものだから、石は笑ってしまうくらい妙な色になっている。

しばらくの間、黙って髪を風に遊ばせる。春の嵐に流れる髪はあの頃と何も変わらない。ただ、あの男が頭を抱いてくれないだけだ。

長門「……誰をかも 知る人にせむ 高砂の、松も昔の 友ならなくに」

呟く和歌は、男が好きだったものの一つ。背中を預ける松には悪いが、私の連れ合いはたった一人しかいないのだ。

あの頃の思い出を求めて薬指に嵌まるリングを唇に寄せる。

閉じた目蓋の裏にあの頃の鎮守府が映る。耳を打つ潮騒だけは、あの頃と同じものだった。

35

『お久しぶりです、後日鎮守府へお伺いします』

随分と久しぶりに来た電報は、そんな短い文章だった。

元々中央に勤める大淀だ。ここまで来る必要がある訳じゃないが、年に数回来ていたものが途絶えるとさすがに物悲しい。

……もの悲しい理由は、自分でも分かっている。

提督「久しぶり」

大淀「はい、お久しぶりです。ご無沙汰しておりました」

笑顔のまま腰を折る大淀の顔は綺麗な微笑みで飾られている。なんとも内心を読み辛く、少しばかり苛立ちさえ覚えてしまう。

だからこそ、嫌味の一つも零れてしまうというものだ。

提督「別に鎮守府の場所が変わったわけじゃないんだがな。俺としては、もう少し頻繁に来てもらいたいところだ」

半ば懇願のような要請でなんとも情けないが本心を曝け出す。だというのに、大淀ときたらどこ吹く風とばかりに梅の花へと寄っていく。

……ちょうど、初めて口付けを交わした木の下に。

大淀「人はいさ 心もしらず ふるさとは、花ぞ昔の 香ににほひける」

パキン、と甲高い音を立てて梅の枝が折れる。花の間から覗く彼女の目には、からかうような笑みが浮かんでいた。

提督「……いい度胸だ」

心変わりを疑われるのは、さすがに頭に来るものだ。例え往来の多い入り口脇といえど、こうまで言われて行動に移さないわけにはいかない。

提督「この花も、俺の想いもずっと変わらないよ」

涼しい顔で俺を待つ大淀の頬に手を添える。軽く引き上げた直後、唇が重なる直前に見えた顔は、勝ち誇ったように綻んでいた。

36

熱を帯びた夜。吹き抜ける風は湿っていて、潮の香りをこれでもかというほど運んでくる。

龍鳳「提督、どうぞ……」

提督「ああ」

紅い浴衣から伸びる細腕が、たおやかに折れて空の杯に冷や酒を注いでくれる。

一気に飲む気分じゃあない。背を向けてなにやらしている龍鳳の髪の先を弄びつつ、雲の湧く空を仰いだ。

提督「月が見えないな。せっかく今日は満月だと聞いていたんだが」

ただの独り言だ。返事を期待はしていないが、実際に無いとそれはそれでつまらない。

数秒の静寂が過ぎる。カラン、と酒瓶を冷やす氷の割れる音がしたかと思うと、それを合図にしたように、部屋の中に甲高い澄んだ音が鳴り響く。

提督「琴か」

返事も頷きもせず、ただ和琴を奏でるだけの少女を見やる。

まるで山のふもとを流れる川のような清澄の音。夏の夜にはなんとも心地いい。

提督「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを、雲のいづこに 月宿るらむ」

美味い酒、鳴り響く琴、美しい少女。そして次に流れ出した音楽は。

提督「……これで月も揃ったか。これはまた、贅沢なもんだ」

荒城というには若すぎる鎮守府を琴の音が照らしていく。着崩れた浴衣から覗く首筋は闇夜でさえ白く、甘そうな色気を漂わせている。

だが、この音を途切れさせるのはさすがに無粋というものだ。

酒で火照った下腹部を誤魔化すように、雲の中の何処かに居るだろう月を探し始める。どのみち真夏の夜だ、さして我慢しなければいけない時間は、そう長くはないのが救いだろう。

37

白露「提督、寒いよー……」

提督「ならついて来なければよかっただろうに」

風の吹き荒ぶ秋野原。倒れ込む草葉を合間を潜り、低い唸り声のような音を立てている。

鎮守府からほど近いこの場所は、今の時期、ほとんど人が近寄ることは無い。

好んでそこに来る俺自身も物好きだが、身体を抱いて震える白露は更に物好きだ。

提督「俺は写真撮るから、白露は……」

白露「うひゃあ……なんだか、きれー」

案外、本当に物好きのようだ。寒いと言った口から出るのは感嘆の声。色褪せはじめた草葉の上に、白い露が宝石のようにきらめいている。

それを楽しそうに見つめる白露の姿は、写真に収めるに相応しい。

白露「なんだか宝石みたい! すっごーい」

提督「白露に 風の吹きしく 秋の野は、つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける……ってな」

彼女の乱れる髪の一筋に、たった一粒白露が止まる。

白露「んー、どういう意味?」

提督「白露に風が吹き付ける野原は、紐で止めてない宝石が散らばっているみたいだろう」

白露「ふーん、宝石かあ……そんな感じかも」

野原に絶えず風が吹く。

はらはら秋風に髪をなびかせて、白露の中に紛れる彼女の姿は、レンズの中でどの宝石よりも光り輝いていた。

38

あきつ丸「お疲れ様であります、自分、本日は部屋へ戻らせて頂くであります!」

姿勢正しく礼を一つ。用意された自室へ戻る道は、もう何度も通り慣れた道。

陸軍へ戻ってから、もうどれくらい経つだろう。近頃は海の匂いを嗅いでも思い出すのはあの鎮守府ではなく、陸軍施設ばかり。

せめて、と手紙を送ろうとしても、陸と海の間ではそう簡単にも行かず、検閲で不可とされた手紙が帰って来る毎日だ。

あきつ丸「提督殿はそろそろ夕食の時間でありますな。またこっそり残したりしていないと良いのですが」

部屋で休む間思い出すのも、あの場所で共に過ごした彼の事。

海軍としての仕事も、ひと時の休息も、二人っきりでの神前での誓いも。不思議なくらいに鮮明に毎日思い起こされてしまう。

あきつ丸「永久に二人で、と誓い合いはしたものの……まさか、誓いを破った罰なぞを受けていないと良いのでありますが……」

こう言っては何ではあるものの、自分のことなぞどうでもいいくせに、彼の事になるとこんなくだらない心配までしてしまう。

それくらいにほれ込んでしまったのかと思うと、嬉しいような、気恥ずかしいような。

あきつ丸「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし、人の命の 惜しくもあるかな……雅でありますな」

白塗りの頬が朱に染まっているのが自分でもわかってしまう。

愛する提督殿が、ご健勝でありますよう。愛する提督殿が、どなたか良い伴侶を見つけられますよう。

あきつ丸「提督殿も、この空にあるものだけは同じものを見ていると思うでありますから」

例えいつかあの人から忘れられようと、同じ世界にいるのならそれだけでいい。

39

茅葺きの屋根、というのは海沿いにはほとんど見られない。潮風で痛みやすく、強風で破損することも多いためだ。

能代「加えて見えない所も腐りやすいから、そういうことですね。けど、それならどうして鎮守府に茅葺きの小屋を残してるんです?」

提督「個人的な趣味だよ。だから本当に小さなものだし、俺一人で葺き替えるから能代は戻って良いんだぞ?」

苦笑しながら私を見て、冗談めかして手を振るう。シッシッ、と追い払う手に、私が切なさを感じてしまうことなど知る由も無いのだろう。

能代「ダメです。午後からは仕事があるんですから、あまり時間を掛けて楽しんで頂くことはできません」

提督「やれやれ……能代秘書艦は厳しいな。そっちのカヤの束取ってくれ」

能代「はい。それにしても茅葺きで使うこの竹、随分細いんですね」

提督「ああ、浅い茅と書いて『あさぢ』と言う。まばらに生えた背の低い茅のことで」

知っている。貴方が好きなものは勉強したし、言葉の意味もきちんと覚えている。

けど、貴方が嬉々として説明する姿が見たいから。子供っぽく目を輝かせる、そんな貴方のことが私は――。

能代「浅芽生の 小野の篠原 しのぶれど、あまりてなどか 人の恋しき……百人一首の咏は、この事を詠っていたんですね」

提督「良い咏を知ってるじゃないか。ちなみにその歌はな、自分の溢れそうな恋心を忍びきれない恋の咏で――」

貴方は、私がどれほど思いを込めて詠ったか、ご存じないのでしょう。

今や私の恋心は、浅芽のようなまばらで低い竹林では到底隠すことなどできないのに。

竹のように急激に成長して、今にも声帯を越えて貴方へ向かって言葉を伸ばそうとしていることなど、ご存じないのでしょう。

貴方は私に恋していない。そんなこと分かっているのに、私の想いは竹の根のように心に根差し、刈り取ろうとしても決して消えてくれなかった。

40

艦娘も女の子だ。無骨で飾り気のない食堂よりも、お洒落で綺麗なテラスの方が人気がある。

大井「そんな良い席を占領してるくせに、なんて顔かしらね」

北上「大井っち……なに? 別にフツーの顔だよ」

大井「仏頂面が普通なんて、ずいぶん不細工な女の子なのね」

ちぇ、と緩い舌打ちが春の陽気に溶けていく。そんな私を見て笑う大井っちはイヤな奴だ。

私の心の内なんてなんにも気にしていないように隣の椅子に座って、少しだけ色っぽくブラックコーヒーなんて飲んでいる。

大井「今日も提督は元気ねえ。あんなに駆逐艦の子を引き連れて、ハーレムってやつかしら」

北上「あー、そーだねー。うちの提督ってばロリコンで救いようがないねー」

駆逐艦って、ほんとウザイ。人目もはばからずベタベタして、撫でられれば気持ちよさそうに笑って。

それ以上に、私を見てクスクス笑う大井っちがすっごくウザイ。

大井「ふふ……忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は、ものや思ふと 人の問ふまで」

グラスに張り付く水滴に私の顔が逆さまになって貼り付いている。不機嫌そうな表情のくせに、羨ましげに提督たちを見つめる瞳。

大井「提督の事、好きなんでしょう? 隠してるつもりなら、もう少し表情の練習をしたほうがいいと思うけど」

……テーブルの上の腕枕に顔を埋めてみる。見えないけれど、やたらと熱いっていうことは真っ赤になってるんだろう。

北上「……大井っちって、ホントにウザイよねー」

大井「あらまあ。北上さんにそんなこと言われるなんて、悲しくて泣いちゃいそうだわ」

睨みつけてもどこ吹く風。そんな大井っちの事を諦めて、少し遠くの彼を見る。

一瞬目が合うと小さく手を振って、そのまま駆逐艦たちと別れてしまう。きっと執務室に帰っていくんだと思う。

北上「あー……ちょっと、コーヒー買ってくる」

大井「行ってらっしゃい。海の男の人はブラックの方が好みらしいわよ? 残念、私とお揃いね」

最後に一度、大井っちの頭を小突いてテラスを後にする。

頬と首の熱が引いてから行こう。さすがに本人に顔を見られてバレるのは、情けないったらありゃしないから。

41

春のうららかな午後のこと、いつも通りのテラス席。

いつもと違うのは、にやにや笑いながらカフェオレを傾ける北上さんと、真っ赤な顔を隠すようにテーブルに突っ伏す私の姿。

北上「大井っちも結構隙だらけだよねー。提督がブラックコーヒー好きだって知った直後に勉強しだすなんてさ」

大井「ううー……」

秘密にして始めたつもりでも、狭い鎮守府で人目に付かずにというのは難しい。

あっという間に私が提督を……という噂が駆け巡り、それは当然、隣にいる北上さんの耳にも入る訳で。

北上「そろそろ提督の休憩時間なんじゃない? 早くしないと、駆逐艦に先越されるよー」

大井「べ、別に……提督の休憩の邪魔をする必要は」

北上「そう言って何日目? 私もいい加減、誰かさんのために淹れたコーヒー以外のものが飲みたいんだけどねー」

ガツン、と瀟洒なテラスに似つかわしくない、額とテーブルのぶつかる音。珍妙な唸り声を上げる私に、北上さんは追い打ちまでかけてくる。ウザイ。

北上「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり、人知れずこそ 思ひそめしか……意味、提督に聞いてみたら?」

大井「意味くらい知ってますぅ……」

まさに今の状況だ。脇腹をつついてくる北上さんの手を払いのけ、意を決して立ち上がる。

時間は三時になろうという頃。コーヒーを淹れて、クッキーでも買って行けば丁度いい頃合いのはず。

大井「ちょっと、コーヒーを淹れてきますね」

北上「行ってらー。クッキーくらい、自作できた方が女子力高いよー? 代わりに作ってあげよっか?」

ニヤつく北上さんの頭を、ペチン、とはたいてテラスを後にする。

今日にでも提督の好きなおやつを聞いておこう。次に勉強するものくらい、知っておかないと駄目だもの。

42

提督「なるほど、もう俺の事なんか好きじゃないってことか」

嘆息と共について出る言葉は我ながら大した悲壮感だ。なるほど、フラれたら俺の心は案外深く傷つくらしい。

ぐ、と息が詰まったように何度か口を動かして、目の前の少女はキツい眼差しを所在無げに揺らす。

曙「……そうよ。ま、考えてみればアンタみたいなクソを好きになるなんて、どうかしてたわ」

肩を竦め、背を向ける少女。顔は見えなくとも体の震えは残念ながら誤魔化しきれていない。

きっかけはおそらく、戦艦の練度の向上だろう。もっとも練度の高い彼女は『ケッコン』する条件が整っている唯一の存在だ。

曙「ふん、どうせ私じゃ力不足ってことでしょ。さっさと秘書艦替えなさいよッ!」

いつもの強気な声とは違う、絶叫にも近い声が続く。声に滲む不安と恐怖、嫉妬、悲嘆。

曙「もう、アンタの、顔……っ! 見たくもないのよッ!」

ポタポタと絨毯を濡らす曙の涙。心と体が噛みあわないのなら、無理をしなければいいものを。

俺のため息をどう受け取ったのか、大きく身体を震わせると、鼻を啜りながら扉へと小走りに駆けて行こうとする。

提督「契りきな かたみに袖を しぼりつつ、末の松山 波こさじとは」

嫌だ嫌だと言いながら、一緒にカルタを並べた仲だ。呆れた眼差しで俺の解説を聞き続けていたことを、彼女は忘れていないだろう。

提督「互いの想いは絶対に変わらない、そう誓ったな……俺がお前を大事にしてやれなかった。すまなかった」

……ここで我慢して出て行けないから、駆逐艦なんだ。

曙「そんなんじゃないッ! この、ぐぞでいとく! 私じゃ……私なんかと、ケッコンしても、恩恵なんかほとんど無いじゃない! だったら、戦艦と……っ!」

ケッコンしたほうがいい。曙はきっと、そう言おうとしたはずだ。結局は言葉にならず泣き崩れてしまったが、そういう子だから。

抱きしめた胸の中に、嗚咽と共に熱いものが広がっていく。今日はこの愛らしい少女を説得しなければいけないようで、なんとも骨の折れる仕事になりそうだ。

43

提督の役に立ちたい。そんな思いで海に潜ること、幾千回……そんなには行ってないけど。

58「そろそろ帰ろっかなぁ……」

いつもの半分と来ていない海の道、なのに後ろ髪を引かれるのは、きっとあの日の夜のせい。

ちゃぷん、という音を最後に耳の中から空気が抜ける。聞き慣れた静かな海のはずなのに、ぐるぐると頭の中を回るのはあの人の声。

58「褒めて欲しいはずなのに、おかしいでちね」

海色に溶けていく自分の声。自嘲するような声色のはずだけど、ここなら誰にも聞かれないから安心だ。

58「早く、会いたいな」

今までなら、長ーく潜ってたくさん資材を取って来たかった。そうすればたくさん褒められるから。

けど今は、すぐにでも会いたい。会いたい、会いたいって思えば思うほど切なくて。

波間を越えて落ちてくる太陽の光に思わず手を伸ばす。思わず動いた唇からは、自然と流れる思いの咏。

58「逢ひ見ての 後の心に くらぶれば、昔はものを 思わざりけり」

夜を共に過ごす前までの間はただ楽しかった。けど、今この胸にある恋しさは、あの頃とは比べ物にならない。

58「……資材、取ってくるでち!」

後ろ髪を引かれる思いを振り切って、厚い海の壁を掻き分けていく。

また一緒に過ごせるように夜までに帰ろう。そして、たくさん褒められるように、物凄く頑張ろう。

44

雨が降る。薄黒い空からザアザアとカーテンを掛けるように、辺りの音を掻き消していく。

水も滴るいい女、とは言えない。俺から離れて立つ足柄は酷く気落ちしたように俯いて、その表情は見えない。

提督「風邪を引くぞ。傘に入ったらどうだ」

いつものように傘を差し出しても足柄は近づいて来ず、雨の合間に歪んだ唇が震えるばかり。

足柄「風邪なんか……引かないわ。私は艦娘よ? 人間じゃないもの、故障の間違いよ」

提督「足柄?」

勢いよく跳ね上がった頭。髪から流れ落ち、腫れた目元を通って頬から水が落ちていく。

唇がもつれるように動き出すと、泣き叫ぶような言葉が止めどなく溢れ始める。

足柄「艦娘なのよッ! 私は兵器で、貴方は人間! そんなことも分からないの!?」

提督「分かってるさ。俺は君達を指揮する側だ、そうじゃないと話にならない」

は、と足柄が嗤う。こちらを責めるような目つきでありながら、自分を責めている。そんな声色だった。

足柄「貴方はいつもそう……ねえ、百人一首の第44首、知ってるかしら」

提督「……逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに、人をも身をも 恨みざらまし」

足柄「正解よ。このロクデナシ」

傘を叩き落され、衝撃の合間に冷たい唇が貪るように重なる。何度も重ねたはずの唇と身体なのに、芯に冷たい鉄のようなものがあるようだ。

足柄「貴方にさえ会わなければ……」

ザアザアと雨が降る。続く言葉はついぞ、俺の耳に届くことは無かった。

45

加古「ちぇー……提督も冷たいよなー。ちょっと昼寝したくらいで秘書艦から外すなんてさ」

寝てたのが悪い。あたしだってそれくらいは分かってるけど、それでも愚痴の一つも出てしまう。

加古「だいたいさあ、誰のせいだよって話だって。提督が悪いのもあるよなぁー」

この言葉に賛同してくれる人は居ないと思う。古鷹だって、聞いたら呆れてため息をつくかもしれない。

けど、言わないといられないくらい、あたしは悲しいから。

加古「せっかくさあ……一緒に居られるって、夜寝られなくてさ……朝も早起きして、髪の毛だってセットしたのに」

いつもより艶がある、柔らかい髪を摘まんでみる。自分の物とは思えない良い匂いがして、なんだかもっと悲しくなってくるんだ。

馬鹿みたいだ。朝会った時に髪を褒められたからって舞い上がって、気が抜けて昼寝して怒られて。もういいから寝てこいって呆れられて。

加古「バッカだよねえ……自分で、提督の印象、悪くしてさあ……っ!」

力強く唇を噛みしめると、なんだか血の味がする。きっと今にも流れてしまいそうな涙は、それが不味いからだと思う。

加古「あーあ! もうこのまま沈んじゃってもいいか……なーんて言ったら怒るよね、提督は」

窓枠の向こうは夏のような日差し。吹き込んでくる風が涼しいのが救いで、ぼーっと外を見つめてみたり。

ふと思いついて、懐から毎晩寝物語に読んでいる本を取りだしてみる。丁度昨日読んだのが、確か今の私には丁度いい。

加古「ええと……あった。哀れとも いうべき人は おもほえで、身のいたづらに なりぬべきかな……」

多分、深い意味では全然私とは違うんだと思う。この咏はもっと、想い人が自分と会ってくれないような切ない奴だ。

加古「でもさ、理由なんてなんだろうと、好きな人の役に立てないなんて悔しいよ」

……うん、今からきちんと寝に行こう。明日は出撃が控えてるんだから、提督の役に立つために今日はとことん寝貯めしてやろう。

加古「そうと決まれば善は急げってかー! よぉーし、寝るぞー!」

思いを切り替えてみれば、少しだけスッキリするものだ。アクビを抑えながら、部屋への道をゆっくりと進むのだった。

46

鎮守府から見える範囲の海には、さすがの深海棲艦も現れはしない。

だから練度の低い艦娘の練習に使われるし、非番の艦娘が釣り糸を垂らしている姿も見ることができる。

他にも……例えばそう、小さなボートを浮かべることだってできるわけだ。

提督「なあ、そろそろ戻らないか」

由良「由良の門(と)を わたる舟人 かぢをたえ、行方も知らぬ 恋の道かな」

自然と足が重なり合うほど小さな船。薄紫の髪は月明かりを返し、ジッとこちらを見つめる由良とあいまって、まるで精霊のような儚さがある。

こうして二人きりになってどれほど経つだろう。誘われてボートで海に出たと思ったら、櫂を投げ捨てられて。

穏やかな海は俺達を攫いはしなかったが、陸地に近づいてくれるわけでもない。ただ二人で小さな波に揺られるばかりだ。

由良「ねえ提督さん……私の事、好き?」

提督「ああ。好きだ」

くす、と由良の顔が和らいだと思ったら、すらりと危うげなく立ち上がる。

不安定なボートだというのに上手いものだ。海上を走る艦娘の面目躍如といった所だろうか。

由良「私も提督さんが好き。でも、今のままだとこの先どうなるか分からないの。だから」

遠くで聞こえる波の音の合間に、衣擦れの音が混ざる。

一糸纏わぬ由良の身体の柔らかな輪郭を、月明かりがなぞる。ふっくらと零れた胸、なだらかな下腹部と、淡く輝く秘蜜。

由良「提督さん、私に、貴方と同じ道を歩ませて……」

狭い船上だ。抵抗すれば海へ落ちてしまうから、仕方なく腰を上げる。その隙に彼女の手がベルトに手を掛けるのも仕方のないことだ。

激しく動くわけでもない。抱き合いながら、小さく揺れあう腰から響く音は、波の音に消えていく。

由良の門をこんな手段で分け入っていくのは……詠み手には、謝った方がいいかもしれないな。

今日は更新無しで。申し訳ありません。

47

海の風がツル草の生い茂る鎮守府に吹き付ける。

少しだけ肌寒いのは、季節が夏から秋へと変わっていく証拠でしょう。

扶桑『今までお世話になりました……』

長門『いや、それはこちらのセリフだ。長い年月を過ごした鎮守府を離れることを、許して欲しい』

そう言って、最後の一人も去っていった。今やこの鎮守府跡を守るのは、私一人だけ。

扶桑「今日は提督の部屋の掃除をしないといけないわね」

押し上がった戦線による鎮守府の移転。万一、億が一への備えとしての艦娘の配置。そしてあの人との約束。

番人の役割を兼ねることができるのは、私一人だけだった。

いつかこの場所に帰ってくる。そう言って中央へ行ってしまったあの人を見送って、もう何年になるのか。

扶桑「夜は何を作ろうかしら……少し冷えるようになってきたし、シチューとか」

色褪せない思い出に満ちた、埃の舞う部屋の窓を開ける。鎮守府を一望できるからこそ、かつてとの違いがよく分かる。

扶桑「そういえば、最後に正門を開いたのはいつだったかしらね」

ツルが絡む正門。きっとあと何年、何十年とそのツルがほどかれることは無いのでしょう。

扶桑「……八重むぐら しげれる宿の さびしさに、人こそ見えね 秋は来にけり……」

私は貴方を待ち続けます。例えこの季節が何度繰り返されようとも、この場所を守ります。

扶桑「また貴方の居ない季節が来るのね……」

艦娘としても戦えず、女としても待ちぼうけ。貴方を愛してしまった不幸を、私は嬉しく思います。

48

新参者。私のことを一言で言うのなら、それが一番しっくり来るのだと思います。

提督「高波、鎮守府には少し慣れたか?」

高波「は、はい!大丈夫、かもです!」

情けない口癖に自分で自分を叱咤したくなる。ほら、司令官だって苦笑いしてる。

提督「困ったことがあったら姉妹艦に相談してくれ。なんなら、俺でもいいから」

そう言って私の髪を撫でてくれるけれど、やっぱりその手は優しすぎるくらいで。

夕雲姉さんにするように時間を掛けて撫で付けてくれるわけでも、清霜にするようにクシャクシャにしてくれるわけでもありません。

高波「あ、あの……」

提督「ああ。どうした?」

ジッと見つめてくる瞳には、ほんの数日前に着任した部下を気遣う色。それ以外の色は見えないのは当然でしょう。

けど、どうしてこんなにも体が熱くなるのでしょうか。

どうして、当然とも言える私の扱いを悲しく思ってしまうのでしょうか。

高波「なんでも……ありません……」

風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ、くだけてものを 思ふころかな

波が岩にぶつかって砕けるように、私の心も司令官を想うだけで砕けてしまう。まだ数えるほどしか直接会っていないのに。

高波「こんなことを相談なんて、できません」

去っていく提督の背中へ、決して届かないように言葉を零します。そうじゃないと、壊れてしまいそうだから。

高波「……一目惚れかも、です」

とくん、と高く波打つ鼓動が、私の言葉を肯定しているようでした。

49

川内「敵影なーし……ちぇ、今日も夜戦は無しかあ」

新月の晩、海を照らすのは鎮守府からの照明だ。

見張り番の役目は深海棲艦が居ないか見張ることと、有事の際にはいの一番に出撃すること。

川内「ま、見張りで出撃なんてほとんど無いんだけどね。あーあ、退屈だなあ」

紐を持って振り回すと、くるくると双眼鏡が弧を描く。それだってすぐに飽きてしまうから、することなんて何もありゃしない。

川内「こっから見えるもんって言ったらさ、提督の部屋くらいだよ」

大きくズームアップされるのは、窓辺の椅子に座ってコーヒーでも飲んでる上司の姿。多分、また古典文学でも読んでるんだと思う。

ちょっとの時間見ていたけど、全然動きが無い。飲む、読む、たまに足を組み直す。凪いだ海を見ているのと同じくらい変化が無い。けど。

川内「これはこれで役得なのかな……那珂達みたいに真昼間からアプローチする気にならないし」

双眼鏡の中の提督は眠くなったのか、本を閉じて背伸びなんかしてる。結局私の視線に気付くことなくカーテンを閉めて、部屋の灯りは闇夜に消えていった。

きっと私の気持なんか、全然気付いて無いんだろう。私から言ってないから当然ではあるんだけど。

川内「……あーもう! 提督……大好きだよ!」

昼はみんなに遠慮してるくせに、夜になるとこんなにも湧き上がってくる想いの煩わしさときたら。

誰かに聞かれるかも、って心配もどこかに飛んで行ってしまって、きっと明日後悔するんだろうけれど、言わずにはいられない。

川内「御垣守 衛士のたく火の 夜はもえ、昼は消えつつ ものをこそ思え……ほんっと面倒くさい女だよね」

きっと明日のお昼には遠くから提督を見て、それで満足するんだろう。そして明日の夜には、提督に会いたいな、って思ってしまうのだ。

50

海に浮かぶ兵装の数々。蹴散らした敵の物だけなら良いものの、自分の物も含まれているのは未熟な証拠だ。

天龍「ってーな……提督、こちら旗艦天龍。無傷二隻、小破三隻、中破はオレ一隻だ」

『ご苦労さま。無理をする必要は無いが、撤退か進撃の判断は天龍に任せる』

天龍「あいよ。そうだな……」

オレを見つめる五人の瞳。先に進むと分かっているように、艤装の準備なんて始めてやがる。

それはまあ、正しい判断だ。少し前までのオレなら大破でも押し切って進もうとしたに違いない。

天龍「……戻る。撤退だ」

弾薬は未だ十分。燃料ももう少し進んで戻る余裕があるし、海域的にも今の損傷状態で進めるはずだ。

けどそれ以上に問題があるのは、そんな理屈を無視して湧き上がる恋慕の念。

帰りたい、会いたい、抱いて欲しい――死にたくない。

『そうか、分かった。十分に注意して戻って来てくれ』

天龍「ああ……なあ、なんで戻るって言ったか分かるか?」

『いや。けど天龍がそう判断したなら俺は文句は無いよ』

そうやって信頼されるのは心地良い。でも、今は少し不満だ。もっともっとオレの考えてることを知っていて欲しい。

天龍「君がため 惜しからざりし 命さえ、長くもがなと 思いけるかな」

提督のためなら命を捨てる覚悟だった。けど、結ばれた今は死にたくない。ただ生き長らえたい。

天龍「笑うか?」

『まさか。無事に帰投してくれよ』

天龍「ああ……じゃあまた」

太陽に掲げた指に嵌まる、光り輝く小さなリング。以前なら馬鹿にしていたに違いない女々しい自分も、今では胸を張っていられるのがなんとなく嬉しかった。

51

艦娘と違って人間の疲労は風呂だけでは回復しません。そうなれば必要なのは、適度な運動や、内服、外用薬の類い。

翔鶴「それでは火を付けますね」

提督「ああ、頼む」

中でもこの人のマイブームは、お灸。爺臭いだろ、とおおっぴらにしないものだから、毎度毎度私が付き合わされることになるのです。

肩から背中、そのまま腰へ。今では手慣れたもので何処に置けば一番効くのかも把握しています。

翔鶴「火の加減はどうです?」

提督「ああ……丁度いいよ……いつも、悪いな……」

翔鶴「いいえ。それでは時間になったら起こしますね」

頷くだけの返答も、恐らく意識しての物ではないのでしょう。柔らかい寝顔と整った寝息は、あまりにも無防備なもので。

部屋に香るモグサの匂い。チリチリと燃える灸の淡い音が、部屋の静けさを際立たせるかのようです。

翔鶴「……提督はいつも言っていますね。簡単に隙を見せてはいけない、人にどう見られているかを意識しろ」

少し硬い髪の毛は、やはり男性のもの。顔の輪郭も私達女性陣とはまったく違います。

翔鶴「かくとだに えやはいぶきの さしも草、さしも知らじな もゆる思ひを」

知っていますか? この灸のように、私の心にくすぶる貴方への想いを。

翔鶴「こんなに隙だらけの格好で……期待していても、いいのでしょうか」

知っていますか。貴方が私だけに見せてくれる姿や声が、くすぶり続けるために火種になっていることを。

52

朝雲「司令、そろそろ朝よ。早く起きないと駄目でしょ?」

提督「ん……もう時間か」

胸を揺する細い腕。掴んでみれば、彼女の持つ雰囲気に似合わない……あるいは、相応の幼い身体であることがよく分かる。

そして朝焼けに白み始めた部屋の中で、一番に見つけるのはスカイブルーのリボンだ。

朝雲「ちょっと、なに? せっかく整えたんだからあんまり弄らないでよ」

ベッドの上で体育座りのまま、くす、と笑う彼女の事だ。俺が甘えていると知っているのだろう。

朝雲「ほら、早く! 司令が遅刻すると私まで怒られるんだからね?」

提督「分かってるよ……なあ、いつものはまだか?」

朝雲「……ほんっと、甘えん坊なんだから」

薄暗く覆い被さってくる少女の顔。赤らんだ頬を隠さずに、小さな唇が優しく重なり合う。

ほんの数秒間の触れ合い。離れれば唾液の糸が一瞬で千切れるような、淡い口付け。

朝雲「ぁん……また夜に。ね?」

提督「ああ」

軽く抱きしめれば嫌がることなく身体を預けてくれる。だが、それもほとんど一瞬の事だ。すぐに離れて、叱咤するように頭なんて撫でてくれる。

提督「……明けぬれば くるるものとは 知りながら、なほ恨めしき 朝ぼらけかな」

夜には会える。そう分かってはいても、迫りくる朝はなんとも恨めしい。

朝雲「馬鹿言ってないで、さっさと準備しなさいよ……もう! 早くしなさいっ!」

ああイヤだ。朝雲と離れないとできない仕事なんて、本当に最悪だ。

今日はお休みで。申し訳

53

卯月「ぷっぷっくぷぅ~、うーちゃんは今日も夜更かしだぴょんっ!」

ぴょん、とベッドから跳ねてみる。外のお月様はきらきら輝いて、ぺったんぺったんお餅つきなんてしちゃってる。

起きてても良いよ、電気なんかなくたって明るくしてあげるから、って言ってくれてるみたい。

……一緒に遊べたら良かったけどごめんなさい。今日も私は寂しく人を待ってます。

卯月「嘆きつつー 独りぬる夜のー 明くるまにー」

また行くよ。そう言って頭を撫でてくれたのは何日か前のこと。

えっちなことは、してないけれど。うーちゃんが暖かいからって抱きしめてきて一緒に眠って。

すごーく良く眠れたって喜んでくれてから、私はいつでも綺麗なシーツと気持ちいい枕をご用意してるのでっす!

卯月「いかーにー久しきー ものとかはー知るぅー……うーちゃん、心の一句だぴょん」

でも、しれーかんは全然来てくれない。

卯月「ウサギは寂しいと泣いちゃうんだぴょん……しれぇーかぁーん……」

待てど暮らせど司令官は来やしない。そのうちウトウト目蓋が落ちてきて、綺麗なベッドは今日も私専用のベッドのまま。

卯月「ぅー……しれぇーかんの、いけずぅ……ぐすん」

悲しいな。抱っこして、一緒に寝て。

それだけですごーく嬉しいから、できない今がものすごぉーく寂しい。

司令官はとっても極悪。うーちゃんを誑かす、凄くすっごく大好きな人だぴょん。

54

人の気持ちは季節と同じ。

十二ある月初めの日がそれぞれ暖かさも生き物たちも違うように、心も日毎に変わっていく。

子日「提督、気持ちよさそうに寝てるなぁ」

五月の初めは爽やかな風がベッドを撫でてくれるから、提督の穏やかな寝顔が歪むことは無い。

それは、この人を見つめる私にとっても良い事だ。特に今日はひとしおに。

子日「好きだ、って言葉……そのまま受け取ってもいいんだよね?」

思い返すだけで頬が熱くなって、そっと手を想い人の手の平へ。その大きさに、鼓動が強くなってしまいそう。

……その鼓動の合間に見える不安の色は、私の心に巣食う弱さそのものだ。

子日「提督の気持ちは、どうなのかなぁ……」

今は良い。優しく愛を囁いてくれて、心から安心できる抱擁をくれる。

でも一か月、二か月、一年、二年。その先は?

子日「変わらない事なんて、無いもんね」

この手が私以外の人を撫でて、抱きしめる未来もあるのかもしれない。

子日「忘れじの 行く末までは かたければ、今日を限りの 命ともがな……」

この気持ちが永遠に変わらない様に、今日限りの命ならいいのに。

子日「ねえ提督、明日は何の日になるのかな……いつまで、提督の毎日に子日を居させてくれるかなぁ」

男の人の大きな胸板に頬を寄せてみる。せめて一日でも長く一緒に居られるように、眠りに落ちるまでの間、強く身体を抱きしめていた。

55

千歳「ここに来るのも随分久しぶりね……」

蒼ざめた海面の先。目を覚ます眩しい光の中に、かつての鎮守府は静かに眠っている。

とは言っても朽ち果てているわけじゃない。むしろ反対に、鎮守府の役目や深海棲艦との戦いを解説したりする広報基地として公開されているほど。

曙光が差す今の時間こそ静寂の中にあれど、数時間もすれば賑やかな声で溢れかえることでしょう。

千歳「元々賑やかな子が多かったし、貴方には今の状態が嬉しいかもしれないわね」

今では出撃の鐘が響くこともなく、建造の火が灯ることもない。

けれどここはとても有名な場所。なぜなら。

千歳「英雄が英雄たる戦果を挙げた場所。深海棲艦に大打撃を与えた艦娘達の所属地」

千歳「知っていますか? 私が今居る場所でも、私達や提督のことが未だに話題に上がるんですよ」

もう何年も会っていない提督なのに、逐一流れてくる噂のおかげで、ありありとその姿が目に浮かんできます。

きっと今日ここに来てしまったのも、その噂のせい。

千歳「今一度、英雄が最前線へ……どうせ提督の事ですから、後方での勤務は性に合わなかったんでしょう?」

他の子は皆、提督の名声に心を躍らせています。私はといえば、同じく心を躍らせているけれど。

……少女のような心の動きは、誰にも知られる訳にはいかないでしょうね。

千歳「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど、名こそ流れて なほ聞こえけれ」

この鎮守府が戦の声を上げることは二度と無いでしょう。けど私達が作り上げた名声は、まだ流れ続けています。

千歳「ならば私はその名声を汚さないよう努めるだけ。この千歳、以前とは練度も比べ物になりませんよ……!」

暁の水平線に見える勝利のために。この燃え上がる戦意と恋心、今一度提督へ捧げましょう。

56

如月「あーあ……ごめんなさいね司令官」

脚はもう、膝の下まで海に喰べられてしまったみたい。燃え盛る艤装はとても熱くて、いっそすぐにでも沈んでしまった方が楽なはず。

如月「無線も壊れるなんて困っちゃう。遺言も残せないじゃない」

もっとも、使えても言葉が聞こえるかは分からない。爆撃の波が言葉ごと飲み込んで、熱風がせっかくのキューティクルまで殺してしまう。

如月「やめてよ……髪も肌も、司令官が褒めてくれたものなのよ……」

言ってもなんにもならないことは知ってるけれど、それでも言わずにはいられない。

お願いだから、あの人の梳いてくれた髪を殺さないで。

お願いだから、あの人の撫でてくれた肌を殺さないで。

如月「お願い……せめて、あの人の愛してくれた私のままで沈ませてよ……!」

涙に濡れた声だって、敵にも味方にも届かないのは分かってる。海面はもうすぐそこにあって、早く早くと急かして嗤っているみたい。

如月「っ! 助けて、誰かッ! 司令官に……っ、会わせて……お願い、だからぁ……」

ああ、なんて酷い声なのかしら。鼻に詰まった涙声なんて、私のキャラがしていい声じゃないでしょ?

如月「……ふ、ふふっ……そう、よね。私が泣いたりしたら、司令官に心配かけちゃうわね」

髪に染み込む海水だって笑って流してやる。余裕の顔で困ったフリする私なら。

如月「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に、今ひとたびの 逢ふこともがな」

あの世に行く前に、せめてもう一度貴方と愛し合いたかったな。

如月「どうかしら? 私の、辞世の句よ……どうか貴方に」

貴方に届きますように。愛する貴方が泣かない様に、私も笑ったまま海の底から見守っています。

57

見つけた姿に、あ、と漏れ出る馬鹿みたいな声。慌てて口を覆っても、耳ざといアイツはすぐさま振り返り近寄ってくる。

提督「叢雲、久しぶりだな」

叢雲「え、ええ……そういえばアンタ、そこそこ上手くやってるみたいじゃない?」

提督「そうか? お前にそう言われるとありがたいよ。前は怒られてばかりだったから」

叢雲「ふん、悪くない程度よ。調子に乗ってるとすぐに足を掬われるんだから」

小気味良いテンポの会話はかつての頃を彷彿とさせて、自然と口元が緩んでしまう。

コイツが鎮守府に着任した時、ここは二人だけの場所だった。必死にもがいて、ぶつかり合って。それでも一緒に食事をして次の朝にはまた仕事。

……艦娘も増えた今ではありえない。二人で食べた塩だけのおにぎりの味は、今の鎮守府ではきっと味わえない。

提督「っと。悪い叢雲、秘書艦を待たせてるんだ。また今度な」

叢雲「……当たり前でしょ? アンタ、今の秘書艦に迷惑かけたら承知しないわよ!」

今の私はその他大勢の一人。常に寄り添って、食事を共にすることはない。

きっともう、私にはアイツに助言をすることは出来ない。それは傍で寄り添う秘書艦の役目。

去っていく背中に掛ける言葉も見つからない。会えた時間はほんの数秒、想った時間は幾数日。とても元が取れたとは思えないけれど。

叢雲「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに、雲がくれにし 夜半の月かな……」

久しぶりに会ったのに、雲に隠れる月のようにアイツは去っていく。

叢雲「まあまあ頑張ってるじゃないの。無理するんじゃないわよ?」

アイツを追うなんて事は絶対にしない。アイツはここから、私は海から。支え合うと誓ったあの日を裏切るような真似は絶対に。

58

仕事を終え、扉を開いた先の壁。見慣れたつまらない壁が今日は、長い黒髪を押し付けられて随分と美しく見える。

那智「……待て、無視とはいい了見だな。せっかく私の方から会いに来たというのに」

提督「あ、ああ。悪い……こんな時間にどうしたんだ?」

彼女に見つめられると妙に心がざわめいてしまう。それとは反対に彼女の涼しげな目は俺を射抜き、仕方のない奴だ、と笑うのだ。

那智「貴様が一月近くも私の部屋に来ないから、だ。忙しいのは承知の上だが音沙汰も無いとは嘆かわしいぞ」

なあ? と頬に添えられる手の平から逃れることもできず、漠然とした後ろめたさ誤魔化すように彼女の背中に腕を回す。

提督「すまない、那智が何も言わないから甘えていたよ。それにこの所お前も忙しかっただろう? てっきり忘れているかと」

漏れる言葉は情けないことに言い訳ばかりだ。そんなサマでは当然、那智の歓心を買うどころか呆れた目を向けられてしまう。

那智「呆れたな。忘れる訳が無いだろう……まったく、こんな男に心を奪われるとは我ながら情けない」

するりと腕から抜け出した那智は、ため息を逃がすように窓を開ける。俺はといえば、そんな那智をもどかしくも見ていることしかできない。

吹き付ける風は彼女の髪を揺らす。そよそよと流れ、辺り一面に那智の匂いを染み渡らせるように。

那智「有馬山 ゐなのささ原 風吹けば、いでそよ人を 忘れはやする……貴様を忘れる事など有り得ん」

黒髪が流れ、その合間から覗く目は自信と確信を湛えている。気負いもなく歩み寄り、再び俺の頬は彼女の手に包まれて。

那智「今夜はそのことを教えてやろう。一生忘れられない、そんな夜がいい」

鼻腔をくすぐる甘い香り。一気に湧き上がる衝動を止められもせず、彼女の匂いが風に攫われないように、元居た部屋へと微笑む那智を押し込んだ。

59

五月雨「提督、やっぱり来ないなぁ」

白み始めた空から、小さな月が西へ向かって落ちていく。

約束なんかした訳じゃない。ただ、初めて会ったあの日の夜が忘れられないからこんなことをしてるだけ。

五月雨「今年はあんまり寒くなくて良かった……うん、苦いかも」

海を見ながらお互いの事を話し合って、これからどうするかって朝が来るまで膝を突き合わせて。

一緒に飲んだインスタントコーヒーが苦すぎて、少しずつ薄めながら飲んだのも覚えてる。

五月雨「去年は作戦があって忙しかったし、一昨年は……確か私が寝ちゃって会えなかったんだっけ」

最初の日の一年後。なんとなく足を向けた場所にあの人がいて、それからはなんとなく恒例行事みたいになっている。

五月雨「そうは言っても、まだ数えるくらいだもの。来なくても仕方ないよね」

……それでも来て欲しかったし、期待しちゃってたのは事実。

海に向かって吐き出すため息。自分勝手な落胆の色に、ふと一つの咏を思い出す。

五月雨「やすらはで 寝なましものを 小夜更けて、かたぶくまでの 月を見しかな……ちょっと違うかも」

例え来ないと知っていたとしても、ベッドで寝たりはしないと思う。きっと今と同じように海を見ながらコーヒーを飲んでいるに違いない。

そして朝陽が昇ったら、お湯の残った水筒を抱えて部屋に戻るのだ。

五月雨「でも……今日はそんなこと無いみたいです」

使っていなかったカップにコーヒーとお湯を注ぐ。遠くに見える手を振る人は猫舌だから、きっとここに着く頃には丁度いい温度になっているはず。

まずは遅れに遅れた事への文句を言ってみよう。そんなワガママならきっと、笑って撫でながら誤魔化してくれるはずだから。

60

リットリオ「皆さん、これより無線封鎖を行ないますっ」

声をかけた先の方々は、すぐに頷いて下さいます。皆さんとても良い方ばかりで、出自の違う私でも優しく受け入れてくれました。

けれど新米の私の言葉に従って下さるのは、私が提督の言葉をそのまま伝えているから。

皆さんの目は私を見ているようでその実、遥か後方の提督を見ているのです。

リットリオ「敵艦を視認したら、まず私に報告をお願いします。それと……」

言葉を切って、一つだけ深呼吸。胸に当てた手からは溢れそうな高揚と緊張が伝わってきて。

リットリオ「ここからは私の指示で動いてもらうことになります。皆さん、お願いしますね」

反発の声も視線もありません。提督がお決めになった事だからでしょう。

それでも、みなさんの目の中に確かに見える値踏みするような色。ここで失敗すれば、皆さんや提督の期待を裏切ることになってしまいます。

そんな私の気負いを見つけたのか、どなたかが優しく「封鎖中は非常時の対応が聞けないけど大丈夫ですか!」なんて声をかけて下さいました。

苦笑と呆れが辺りに漂って、言った方は軽く叩かれています。やわらいだ雰囲気に肩の力が抜けていくのを感じて、お礼を言おうと思いましたが、ふと一つの咏が頭をよぎりました。

リットリオ「……大江山 いくのの道の 遠ければ、まだふみも見ず 天の橋立」

残念ながら、無線封鎖で提督との通信を遮断している間は指示を受け取ることはできません。ここからは自分の経験と知識、勘に頼らなければ。

おお、という感嘆の声に少し恥ずかしくなるけれど、咏のおかげで皆さんも一層距離を縮めてくださった気がします。

ただ、咏は咏。実力を示してこそ本物の信頼が生まれるでしょう。

リットリオ「さあ行きましょう! 総員、私に続いてください!」

なら今は、不安を見せずに前へ進むだけ。咏を教えてくれた提督への感謝は、帰ってから改めてということで。

61

伊勢「失礼します……提督、その桜は? 盆栽ですか」

提督「ああ、最近はこういうのがあるみたいだ。貰いものだが、なかなか綺麗だろう?」

いつものように入室した執務室。少しだけ違うのは机上に載った桜の枝木。

花見というにはささやかすぎるけれど、恥じらうように花弁を伏せる姿は確かに美しい……というよりは。

伊勢「随分可愛らしいですね。あまり大人数では愛でる訳にもいかなさそうですけど」

提督「なあに、今後は成木の植樹と接ぎ木も進めるつもりだ。それが満開になった暁には大宴会でもしようじゃないか」

伊勢「はあ……それはまた、なかなか先の話ですね」

提督のこと。ここまで得意げに言うということは、それなりのプランができているはず。

呆れたものだけれど、こんなどこか子供っぽい所に笑ってしまうし、心をくすぐられてしまうから困りもの。

提督「ふふ、まずはここからさ。俺の城たる執務室から計画は始まるわけだ。伊勢にはその立会人となって貰おうか」

伊勢「それは結構なことですけど、仕事はきちんとしてくださいね」

当然だ、と頷く姿は何とも提督然としているから本当に困る。ころころ変わる空気に振り回される私の身にもなって欲しい。

提督「ふむ……いにしえの 奈良の都の 八重桜、今日九重に 匂ひぬるかな」

ほら、また妙な事を言い出した。これのどこが盛大に咲き誇る桜だというのやら。

伊勢「そういうことは野望を果たしてから言って下さい」

提督「良いんだよ。この部屋で、この桜から始まるんだ。それと伊勢も覚悟しておけよ」

私は怪訝な目を向けようとした。したのに、悔しいことにこの身勝手な男に阻止されてしまう。ニヤリと笑う、その人に。

提督「お前は見届け人だ。俺の野望を全て、全て果たすまでお前を離さんからな」

ああ――わざわざ全てだなんて言うあたり、また私を困らせるつもりだ。だってそれは以前語ってくれた、老衰で孫に囲まれて死ぬって馬鹿馬鹿しい野望も含めてっていうことで。

提督「ん、桜色がこの部屋に早くも二つに増えたじゃないか。お前の方が花よりも濃いみたいだが」

確かに私と桜は同じかもしれない。桜と同じように、私も真っ赤に染まった顔を伏せているのだから。

62

扉越しに聞こえる、バカ司令官の声。本当にイライラする。

『満潮、昨日は悪かった。急用だったんだ。その埋め合わせと言ってはなんだが今から』

満潮「うるさいのよッ! 気になんてしてないし、今日は無しって言ってるでしょ! さっさと帰りなさいバカ!」

ああもう、まただ。バカなんて幼稚な言葉を使うから、司令官はあやすような口振りで接してくるのに。

朝潮はバカ真面目に口のきき方を注意してくるし、荒潮は笑ってるし、朝雲なんて気にも留めていない。

満潮「だいたい、アンタが忙しいなんて分かりきってるんだからそんな事で怒る訳ないでしょ!?」

『なら何を怒ってるんだ? その辺りを話さないと分からないぞ』

満潮「ああもう……! これっ!」

ノートの端の殴り書き。開けて、投げつけて、閉めて。後は徹底的に無視してやる。



大潮「あれは何を渡してたの?」

朝雲「見えてたわよ。『夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも、よに逢坂の 関は許さじ』ですって」

朝潮「それはデートのお誘いを断る咏……どうして和歌で?」

荒潮「提督が百人一首を好きだからよぉ。じゃないと、そんな長い文章わざわざ書かないでしょ?」

山雲「それにー、部屋まで来られて恥ずかしかったのかなぁー。恥ずかしくって断っちゃった感じでー」

霰「多分……司令官と待ち合わせがしたかった……だと思う……」

霞「どうせすぐに謝りに行くわよ。素直じゃないもの」



満潮「うぅううう、うるっさああああい!」

駄目だ、私の姉妹艦はバカばっかり。こんなうるさい部屋には一秒だって居られない。

……今の時間から他の子の部屋に押し掛ける訳にはいかない。食堂も間宮さんも閉まってるし、夜間監視の邪魔もできない。

満潮「あ、あーあ、仕方ないわね……さっきは、少しだけ言い過ぎたから……ふん、仕方ないわ!」

そう、行く先が一つしかないから仕方ない。そのついでに謝って、時間潰しにコーヒーでも二人分淹れればいい。

……走れば、部屋に戻る前に捕まえられるかもしれない。そしたら少しだけ長く話して、一緒に居られる。

仕方ない。私は自分にそう言い聞かせて、身体に急がせることにした。目標は執務室、遠征予測時間は……なるべく、長い時間だ。

63

俺は失敗をした。ならば、報いを受けるのも当然の事だろう。

提督「貴重な高練度戦艦を一隻殺しかけた無能、か。本当にその通りだ」

彼女は今も大怪我から目を覚ましていない。仮に目を覚ましたとて、復帰できるのはいつの日になるだろうか。あるいは復帰さえも。

愚かしい自分が本当に嫌になる。焦りに押され、戦果に気を取られた末にこの結果だ。

提督「……出立は明日。次の任地はまた、とんでもない僻地だな」

辞令に書かれたその場所は激戦海域と名高い海。この場所に戻って来ることは、おそらく叶わないだろう。

左遷に文句は無いし、どんな非難も甘んじて受けよう。ただ、彼女に二度と会うことができない事だけが気がかりだ。

提督「すまない榛名。お前を苦しめた男はもう、お前の前に現れることは無いから」

榛名は大丈夫です。そう弱弱しく微笑んで、血の海に沈んだ彼女が脳裏に映し出される。

彼女が目を覚ました時、愛を交わした男が居ないことを知ってどう思うだろう? 怒るだろうか、嘆くだろうか、それとも案外安堵するだろうか。

窓の外には、今日限りの穏やかな海。共に過ごした思い出が、心を切り刻むように目の奥を熱くさせる。

提督「……今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを、人づてならで いふよしもがな」

君への想いはこの海へ沈めてしまおう。せめて直接伝えたいところだが、それが難しいのならいっそ、静かに消えた方がいい。

机の上で物悲しく光る指輪。縋り付くような輝きに、俺はただ目を逸らしたまま思い出を鞄に押し込んでいくことしかできなかった。

64

北方を鎮めるこの場所は、夏になっても比較的涼しいものだ。特に朝方となれば肌寒ささえ感じるほどに。

明け方から立ち込め始めた海霧は、鎮守府全体を覆う程に濃密で、広いものになっていた。

朝潮「司令官、おはようございます」

提督「ああ、おはよう。朝潮は鍛錬か? こんな霧の中じゃ走りにくいだろうに」

朝潮「いつもの道ですし、全く前が見えないわけではないので大丈夫です」

上気する頬は朱に染まり、体操着に滲んだ汗はどこか甘い匂いを霧の中に混ぜ込んでいく。

少女の頭の位置はまだまだ低い。何気なく手を伸ばせば撫でるに丁度いい高さで、思わず黒い髪を掻き乱していしまう。

艦娘によっては、特に朝潮のような生真面目な艦娘にはあまり好まれない癖なのだが、どうも今日はそうでもないらしい。

目を細めたかと思うと、ぎこちなく近づいてくる。ゆっくりと、だが確実に体温を感じるほど近くまで。

提督「どうした? いつもは嫌がるのにどんな風の吹き回しだ」

朝潮「い……いつもは、その、他の子の目がありますから……今日は霧も濃いですし……」

真っ赤な顔を俺の胸元に押し当てて、恐る恐る腕を背中へと回してくる。抱き返してやれば、嬉しそうに顔をグリグリと埋めてくるのが可愛らしい。

提督「暑くないか」

朝潮「暑いですけど、好きな暑さです」

放してくれないのは、嫌じゃない。だが。

少しずつ霧が晴れて、その切れ間を通して鎮守府の連中がこっちを見ているのをどう伝えたものだろう。

提督「あー……朝ぼらけ 宇治の川霧 絶えだえに、あらはれ渡る 瀬瀬の網代木」

人のいない朝っぱらから並び立つ俺と朝潮は、恐らく川に打たれた杭のように目立っているはず。

残念ながら朝潮は遠回しな言葉に気付いてくれず。たっぷり五分ほどかけて満足そうに体を離し、ニヤつく連中を見て盛大な叫び声を上げたのだった。

65

鈴谷「あーあ。なんか私、バカみたいじゃん」

部屋の中には私一人きりだ。誰も居ない今だけは、笑ったりしなくていいから気が楽かな。

目の前は真っ暗。それはまあ、腕で目を覆ってるから当たり前なんだけど。

鈴谷「お休みの昼間からベッドで寝てるなんて、ニートか! って感じ」

ああ、やっぱりダメ。無理やりにでも笑えないなんて、今日は夕飯までは部屋から出ない方がいいや。

鈴谷「周りに持ち上げられて調子に乗っちゃったんだよね……ホント、バカだなぁ」

私が経験豊富だとか、女子力が高いとか、今思うとなにそれって話。

変な自信を持ってロクにスケジュールを確かめもせずに、提督をデートに連れ出そうとしたりして。普通に考えれば迷惑だって分かりきってるのに。

それでも提督は怒ったりしなかった。ため息をついて、子供を宥める目で私を見ていて、そっちの方がショックだった。

鈴谷「それってさ、私を恋愛対象って見てないってことじゃん」

あの目を思い出すだけで、私の心はズキズキ痛む。隠した目が熱くなって、袖口が濡れていく。

その後に言われた言葉も最悪だ。「他にいい男でも誘って行ってきたらどうだ?」なんて、私の気持ちに一ミリも気付いてない。

そのくせ、私が恋愛経験豊富なんて噂を真に受けてるんだから。

今ならあの咏の気持ちが分かる。前は全然分からなかったのに、一つ経験するだけでこんなにも受け取り方が違うなんて驚きだ。

鈴谷「うらみ侘び ほさぬ袖だに あるものを、恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ」

恨むのは他の誰でもない、私自身だからちょっと違うけど。

晩御飯になったら少し元気になるから。ちょっとだけ、私のキャラはお休みだ。

66

熊野「失礼しますわね、足元よろしくて?」

大本営の近くの山。もう何度ここに来たことでしょう。秘書艦として提督のお供をして、会議中にはこうやって一人時間を潰しているのです。

熊野「今時女子禁制だなんて時代錯誤も甚だしいことですわ。貴方もそう思いませんこと?」

艦娘が主力の時代に馬鹿馬鹿しいったらない。そう提督に伝えてみれば、いずれ変わるさ、なんて他人任せ。

提督がそんな風に頼りないから、私はこのお方に寄り添って、身体を預けてしまうのです。

熊野「あら、プレゼントですの? 気が利いていますのね」

ほら見なさいな、提督とは違ってこの方はこういうことも欠かさないのですから。

はらはら舞い散る薄紅色。髪に付けてくれるのは嬉しいけれど、量が多いのだけは玉に瑕でしょう。

熊野「今年は早くありません? 暖かかったからかしら……一番綺麗な貴方に会えて嬉しいですけど、ね」

年に一度だけ会うなんて彦星と織姫のよう。ロマンチックさに少し頬が熱くなって、目蓋を閉じて。

肌から感じる温もりは、変わることの無い優しさ。年上の包容力とでも言いましょうか。

うっとりと見上げるこの方の美しさときたら、どれだけ見ても飽きることはありません。そういう意味では、馬鹿げた会議も悪くないのかも。

そしてあっという間に過ぎゆく時間。気が付けば、陽は傾いて空が赤みを帯び始めています。

熊野「……そろそろ、今年の逢瀬もおしまいですわね」

伸びる腕を引き寄せ、淡い指先に口付けを。別れの言葉はいつも同じもの。

熊野「もろともに あはれと思へ 山ざくら、花よりほかに 知る人もなし……また来年にお会いしましょうね、提督には内緒で」

緑の木々に合間に咲ける一本の山桜。その姿は、殿方達から除け者にされた私のよう。

今日も私はあの方から頂いた花弁の髪飾りを、提督に自慢することにいたしましょう。焦らして焦らして、愛するヘタレ男から指輪でもせしめるのも良いでしょう?

67

大規模作戦がうまくいった後には、必ず大宴会があります。駆逐艦から戦艦まで、見張り番の貧乏クジを引いてしまった人以外での大酒宴。

今日の当番は青葉さん。さめざめと泣いていましたが、クジとあっては蹴ることもできません。

神通「はいどうぞ、空いた皿は片付けてしまいますね」

間宮さん達だけでは人手が足りず、こういう時は各々手伝いながら宴会は進みます。

作戦に従事していた私は大人しく食べて飲んでいろ、と言われたのですが、そうもいかないのが性分。

あちこち周っていましたがさすがに疲労は重なるもの。一度座ってしまえば、後は襲い掛かる睡魔と必死に格闘するしかありません。

神通「少し、眠いですね……枕でもあればいいんですけど」

どんちゃん騒ぎから少しだけ離れて、壁にもたれかかって。ずるずる倒れていきそうになる身体を直すことは、難しそう。

やがて体が横になろうという時、ふと頭の下に少し硬い、けれど柔らかい感触を感じました。

ふと見上げてみれば、そこには少し疲れた、けれど静かに微笑む提督の顔。慣れない膝枕にもぞもぞ動いているのが少し面白いです。

提督「俺のでよければ使ってくれ」

神通「……春の夜の 夢ばかりなる 手枕に、かいなくたたむ 名こそ惜しけれ」

こんなことで提督との噂でも流れたら大変。一度でも艦娘に手を出したと噂が流れれば、消すのは難しいものです。

だというのにこの人ときたら、離れるどころか私の頭を撫で始めて。そんなことをされてしまっては、睡魔と闘うことすらできません。

神通「……知りませんよ……後で、どうなっても」

ああ、きっと私の頬は緩んでいるのでしょう。だってこんなにも頭を預けることが嬉しくて、心地よいのですから。

次の日、案の定鎮守府に流れた噂がありました。それにどのように答えたかは……秘密ということで。

68

窓辺に注ぐ青白い光。寒々しい輝きは俺の心を見透かしているようにも、励ましてくれているようにも見える。

提督「どうだ? みんなの様子は」

利根「うむ、おおむね元気なものじゃな。空元気でも無いよりマシじゃ」

利根の報告は想定していた中ではかなり良い方だ。戦意の喪失もあり得たし、最悪逃走だって覚悟していた程なのだから。

小さな安堵のため息を、彼女はしっかり捉えたらしい。笑みに呆れの色を混ぜながら、諭すように人差し指を立てている。

利根「まったく、我らが艦隊に逃げ出す者なんぞおらんぞ。阿呆め」

提督「辛辣だな……けどな、俺としては逃げて欲しかったよ」

彼女達の命はこんな所で散らすような物じゃないと思いたい。例えそれが、上からの命令だったとしても、

提督「先の見えない囮役。殿ならまだしも、敵に突っ込めとは面白くも無い冗談だ」

利根「吾輩に言わせれば、提督が我々と共に残った方が不思議なものじゃ。それこそ冗談かと思ったぞ?」

ふふん、と笑う利根の手が、俺の秘蔵の酒を掠め取る。一気に煽るなんて普段の俺なら激怒するところだが、最後の晩酌くらい、それも良い。

利根「綺麗な月じゃな……これほど見事な月は稀なもの。運が良いではないか」

呟いた言葉に重なる、グラスの氷が割れる音。

提督「心にも あらで憂き世に ながらへば、恋しかるべき 夜半の月かな」

良い月だ。万が一にも生き長らえたなら、この夜の月を恋しく思ってしまうだろうほどに素晴らしい。

二人で月を見上げる合間、部屋に響くのは利根の言葉。生き延びる自信は微塵にも無い、遺言にも近い戯言だ。

利根「さっき提督は先が見えないと言ったが、それは提督の目が悪いからじゃ」

利根「吾輩に任せるが良い。提督の代わりに目となって、未来への道を見つけてみせよう」

提督「ああ、任せた」

俺も、彼女自身も。そんな道が延びている筈もないことを知りながら、小指を絡め合うのだった。

69

真夏の台風を思わせる秋色の大嵐。吹き付ける風雨が過ぎ去れば、突き抜けるような青空と冷え切った空気が残る。

そして嵐の後に始まるのが、遠征も出撃も無い待機組での清掃活動だ。

提督「電、お前は外の掃除か」

電「あ、司令官さん……そうなのです。木の葉っぱが沢山落ちちゃったから」

提督「風が強かったからな。木が倒れなかっただけマシだが、酷いもんだ」

濡れた木の葉で埋まったアスファルトを踏めば、汚い音を立てて土色の水がにじみ出る。

酷いもんだ。空はこんなに爽やかなのに、地上は汚泥に塗れているなんて。天気に限らず人に限らず、お上って奴は苦労ばかりを押し付けてきやがる。

提督「お前もそう思わないか。ワガママの一つも許されないなんて、働き甲斐が無いだろ」

電「電を働かせて、煙草を吸うだけの司令官に言われたくないのです」

そう言われては何とも返しがたいが、背を向けて鼻歌交じりの電から逃げるというのも癪だ。

提督「あー……ほら、お前もたまにはワガママくらい言ってみろ。聞けるもんなら聞いてやる」

二本目の煙草を噛みながら問えば、無言のまま小さな指が遠くの山を指す。嵐の前の鮮やかな赤色が消えた、その山を。

電「嵐のせいでみんなと紅葉狩りに行けなかったから。紅葉狩り、したいのです」

葉が落ちた後に無茶を言う。だが、出来ないわけじゃない。今から俺の知っている秘密のスポットに行けば、丁度良く落ちた紅葉が川を染め上げるのが見えるだろう。

提督「じゃあ今から行こう。いいだろ?」

煙草を消し、電の後ろへ。覆い被さるように抱きすくめて囁くと、手の平が俺の額をぺしりと叩く。

電「駄目なのです。お掃除が終わってからじゃないと、みんなの迷惑になるのです」

提督「……嵐ふく 三室の山の もみぢ葉は、龍田の川の 錦なりけり」

川を覆い尽くした紅葉は、まるで錦の織物のようだろうに。そんな遠回しの誘いにも、電はぺちぺち叩いて離れろと言う。

電「邪魔なのです。早く離れないとお掃除が終わらないから、一緒に見に行けないですよ?」

そんなことを言われては、逆に離れたくなくなってしまう。箒の柄でぶっ叩かれるまで、俺のじゃれ付きは続くのだった。

70

寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば、いづこも同じ 秋の夕暮

ふとそんな一句を思い浮かべるほど、新規の小規模基地は寂しいものだ。

提督「人もいない。あるのは静けさと波の音だけなんて、ほとんど左遷みたいなものだよな」

未だ馴染みの無い建物から出てみたものの、歩いても歩いても風景に変わりは無い。

海の向こうから吹き付ける秋の気配は夕暮れの色と相まって、とにかく人の郷愁を誘う。ここは寂しい所だと言い聞かせるように。

漣「ご主人様、ここにいましたかっ」

提督「ああ……漣、さん」

何ともぎこちない返答で、自分でも笑ってしまう。案の定艦娘である彼女も困ったように眉を下げながら、なんとなく愛想笑いを浮かべている。

漣「さんは要りませんよ? 部下ですから、タメ語で全然オーケーっていうか偉そうにして大丈夫ですんで」

お互い新人ですし、と笑う彼女に、少しだけ肩の力が抜ける。今日会ったばかりだというのにフレンドリーに接してくれるのはありがたい。

まあ、あえて言うのなら……御主人様という妙な呼称は受け入れるには時間が掛かりそうだけど。

提督「じゃあ漣。漣は何しにここに来たんだ? 秋だし、寒いだろ」

漣「ええと、今日来たばかりですから最低限建物の場所と道を覚えようかなーって。ご主人様は?」

提督「同じだよ……いや、一人で部屋にいると寂しいから、気を紛らわそうと思ってさ」

こんな本音を晒すなんて提督失格なのかもしれない。でも、たった一人の仲間にだけは本心で接したいとも思う。

固かった笑みを少しだけ綻ばせ、漣は少しだけ離れて同じ海を見やる。

漣「頑張りましょうご主人様。頑張って仲間もたくさん増やして、この海をみんなで賑やかにしましょう」

紅色に染まる海を静かに眺める、秘書艦という立場に着いた彼女。

静かな決意を湛える瞳を裏切ることだけはしたくない。誰にも言わない、将来への指針が決まった瞬間だった。

71

海面がゆらゆら揺れる。秋風に煽られた波が、稲穂のような水滴を撒き散らしていた。

磯風「司令、こんな所にいたのか」

掛けられた声に応えることさえ面倒だ。小さく手を振るにとどめると、ため息と共に視界の端に長い黒髪が入り込んでくる。

そのまま目の前まで来るかと思いきや、何故か俺が座るベンチの空き場所へ。

提督「……海に面したベンチは嫌いじゃなかったのか。潮風が髪に良くないって言ってただろ」

磯風「それはあくまで一般論だ、艦娘には適応されない」

黄金色の夕焼けのおかげか、水面は小麦畑か稲田かと思わんばかりに輝いている。

手の平に触れるさらさらとした感触は隣に座る少女の命。先端から根元まで指を滑らせて抱き寄せれば、大した抵抗もなく腕の中へと収まってしまう。

磯風「眩しいな……司令のお気に入りは私にはイマイチ理解しがたい。ただの海じゃないか」

提督「情緒の無いガキだな。海を海としか見れないなんて可哀想な奴だ」

抗議したいのか甘えたいのか。人の胸に頭を押し付けてくるあたり、ガキだと言わざるを得ない。

提督「夕されば 門田の稲葉 おとづれて、あしのまろやに 秋風ぞ吹く……良い風景だろ」

目の前の広大な水田を波打たせながら、コンクリートを葺いた鎮守府へ秋風が吹きこんでくる。

そんな美しい光景に、このガキときたら欠伸なんてして、挙句の果てに視界を遮ってくる暴挙。

磯風「海なんかよりも私を見てくれ。きっと海よりも楽しいし、綺麗なはずだ」

逆光の中でさえ顔が赤いあたりまだまだだが、まあ、たまには悪くないのかもしれない。

72

提督「ハチ……あー、伊8。このケッコン指輪を受け取ってもらえないか」

その言葉と机の上のリングを見た瞬間、私の頭は真っ白になってしまった。

好きなものを聞かれたから素直にお菓子だって答えただけなのに、いきなり。ずるい。

伊8「……えっと……意味が、分かりません」

潜っている時、すれ違う魚達みたいに口がぱくぱく動いて、やっと言えたのはそんな言葉だけ。

呆けたみたいに見つめ合って、何を思ったのか慌てたように提督が次の言葉を紡ぎだす。可愛いくらい必死に、頑張っているみたい。

提督「好きだ……お前の事が好きで仕方ないんだ! なんていうか、その、お前の事を想うと心がざわつくって言うか波打つというか」

詰まりながらも少しずつ想いを吐露してくれる。相変わらず口下手な人だけど、それだけに正直に伝えてくれているのが分かる。

意識してしまえばもう私も抗えない。じんわり心の奥が温かくなってそれが目元まで届き、涙になって落ちそうになってしまう。

慌てて後ろを向くけれど、提督はじっと私の答えを待っているみたいだ。それなら、答えない訳にはいかない。

伊8「お……音に聞く 高師の浜の あだ波は、かけじや袖の 濡れもこそすれ」

ふと思いついた短歌を口ずさんでみれば提督の落胆が背中から伝わってくる。それもそうだろう、これは求愛を断る咏。

浮気者の貴方と恋なんてしたら涙が袖で濡れてしまうから。事務的とはいえ、他の子ともケッコンしてる提督にはかなり効いたのかな。

でも、どうやら気付いてないみたい。私には濡らす袖が無いってことに。貴方の一途な想いを知っていることに。

深く深く深呼吸。とびきりの笑顔と嬉し涙を隠すことなく、私は愛しい人へと振り向いた。

73

――サクラ、サクラ、サクラ。

耳をつんざく轟音の隙間に聞こえる少女の声。玉砕を伝えるその声は不思議と落ち着いていて、いつもの苛烈さは鳴りを潜めている。

霞『ねえ……他の子は?』

提督「危険海域からは離脱したとの報告があった。このままなら鎮守府に帰投できるだろう」

霞『ああそう、それならいいわ。せっかく殿を務めたんだから無事に帰って貰わないと』

喜色を滲ませる通信を聞いた直後、口の中に血の味が広がっていく。噛み締めすぎた奥歯が悲鳴を上げているのが分かる。

これが通信で良かったと心から思う。もし姿が映っていたのなら、みっともなく泣き腫らす姿を見られてしまうだろう。

霞『さくら、さくら、さくら……ねえ。前に桜を見に行った時の事覚えてる?』

忘れるものか。桜が満開の山が霞がかって見難くて、それを言ったらなぜかやたらと怒られた。

今では笑い話になっている話だ。だから、頼むから、笑い話を悲しみで染めないでくれ。

霞『高砂の 尾の上の桜 咲きにけり、外山の霞 たたずもあらなむ……私が咲かせるから』

やめろ。帰って来てくれ。俺の傍に居てくれ。居なくならないで。

震える呟きは降り注ぐ砲弾と爆発音にかき消されているのか、彼女は何の反応も返さない。

霞『アンタはそこで聞いてなさい。最後の最後まで、桜を遮る霞が消えるまで』

霞『お願いだから…………私を、一人で死なせないで……!』

提督「ああ……ああ、聞いてる。聞いてるよ。お前の傍にいるからっ!」

通信機から響く悲鳴が俺の心を切り刻み、削り取る。

外山の霞が立たなくなったのは、それから二分後の事だった。

74

羽黒「司令官さん、おめでとうございます。姉さんを幸せにしてあげてくださいね」

困ったように微笑むその人を見て、そして優しく見つめる姉さんの目を見て私は確信できました。

この人達なら幸せになってくれる。末永く愛し合ってくれるはずだと。

提督「ありがとう、羽黒には今までずいぶん助けて貰ったね。今度の作戦の事もあるし、これからもよろしく頼むよ」

ああもう、祝いの席でそんな仕事の事を。ほら、姉さんに摘ままれてるじゃないですか。

……私の表情もカンペキです。周りの人も提督も姉さんも、この場にそぐわない私の内心を指摘しないのですから。

羽黒「あ、お皿片付けてきますね……ふふ、大丈夫です。お二人は主役なんだから座っていてください」

普段の行いのおかげか、この場から離れる理由なんて疑われることなくいくらでも作れます。

部屋の外、廊下、そのまま片付けに厨房へ……は行かずに、喧騒から外れて静かな海へ。

羽黒「この辺りなら、いいですよね……」

ああ、良かった。ここならいくら涙を流しても、誰かを罵ったりしても聞かれることはないはず。

そう思ってしまえば後は早いもので、震える体は崩れ落ち、視界が歪むほどに涙が溢れ出して。

羽黒「なんで……なんで、姉さんなの? わた、しもっ! 頑張って、傍に居たのに……!」

八つ当たりだということは知っています。姉さんは思いを伝えて、私は誰にも知られないように秘めていた。どちらが選ばれるか、考える必要もありません。

羽黒「好きなのにッ! 私だって、あの人の事が……好きなの……」

うかりける 人を初瀬の 山おろしよ、はげしかれとは 祈らぬものを。

神様に祈っても何の意味も無い。それどころか根拠もなく取られるんじゃないかという不安を軽くして、結果が今この通り。

何もしなかった後悔は何よりも重い。私はその重みに潰されながら、かすかな祝賀の喧騒を惨めに聞くことしかできない愚か者でした。

75

提督は忘れてしまったんだろうね。一人の駆逐艦との小さな約束なんて些末なもの、忙しい日々の中に消えてしまうんだ。

時雨「そろそろ仕事に戻った方がいいよ。秘書艦に怒られてしまうからね」

提督「そう言わないでくれよ、ここで息抜きするのも仕事のうちなんだからさ」

時雨「また調子の良い事を言って……知らないよ?」

仕事を抜け出して僕の部屋までお茶を飲みに来るようになって、もう何年になるのかな。

あの口約束からこれで三回目の秋だから、多分四年目くらい。すっかり日常になってしまって、提督が見当たらない時はまず僕の部屋に探しに来るくらいだ。

提督も慣れたもので、秘書艦が迎えに来る頃合いでお茶を飲み干すから、それまでは僕と二人の談笑の時間。

……それだけが僕に許された時間。

提督「さて、そろそろ来る頃だな。明日は紅茶で頼む」

時雨「うん……ねえ提督?」

声を掛けると不思議そうな顔。やっぱり忘れているんだね……ここまで綺麗さっぱりだと、思わず笑っちゃうくらいだ。

時雨「ふふ、なんでもないよ。しっかり休憩したんだから残りの仕事は頑張るように。わかったかい?」

いつもみたいに気楽な返事をして、提督は廊下の向こうへ消えていく。少し聞こえた声は秘書艦の声だ。

時雨「……秘書艦をやらせてくれるっていう口約束、僕は忘れられないんだ。提督は適当に言ったんだろうけど」

僕も冗談扱いして流したから、お互い様なんだけどね。今思えばあそこで押しておけば良かったかな?

時雨「契りおきし させもが露を 命にて、あはれ今年の 秋もいぬめり……僕も何をしているんだか」

それでも、それでもね。

僕にとっては、提督と一緒に居られる時間が増えるかもって、本当に嬉しかったんだよ。

76

見渡す限りの水平線。四方八方遮るものは無く、延々と続く空と海の青が争うように伸び広がっていく。

雲龍「こちら雲龍。遠征任務完了、これより帰投しますね」

提督『了解、その辺りに深海棲艦は少ないが気を緩めるなよ』

雲龍「ええ……それにしても今日は気持ちいいわね、こんな素敵な海を感じられないなんて提督が可哀想」

広げる腕を海風がゆるゆると絡め取る。流れに逆らわず、くるりくるり。

三百六十度を埋め尽くす青色と、所々滲む白い綿。目を瞑ろうと目蓋を透かす陽射しも柔らかくて、まるで海と空に包まれているよう。

提督『それは艦娘の特権だな……いいさ、俺は固い椅子の上で書類に囲まれることにするよ』

拗ねた声も、この紺碧の前には小さなもの。けどこのまま無視をするのも可哀想ね。

雲龍「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の、雲居にまがふ 沖つ白波」

ああ、遥か遠くの白波が、まるで空に溶けて雲に変わっていくよう。同時に提督の羨む様なため息が聞こえて面白い。

雲龍「見事な波ですよ。私もこのまま雲に乗って、龍のように昇って行ってしまいそうです」

それが出来たらどれだけ素敵でしょう。水面から離れる事の叶わない身には、自分の名前を酷く羨むときさえもあって。

提督『それはいいな、俺もこのまま波に乗って上に立ちたいところだ。昇り竜という奴だな』

……なんて風情の無い言葉。如何に出世が早いといっても、提督以上の立場なんてそうそう簡単じゃないはず。

提督『それと雲龍、次の作戦を俺の地盤固めに使う。帰ってきたら悪巧みを始めるぞ』

雲龍「ええ、分かったわ。それでは帰りますから一旦通信を切りますね」

せっかくの雄大な風景も、提督の小賢しい企みのせいでゆっくり見る暇もない。

それでも……昇れないからと悲しむよりも、手のかかる足元にかまけていた方がいいのかもしれない。

雲龍「それじゃあ早く帰らないと。昇るにもしがみつくための龍が居ないと、あんな小物だけじゃ無理だもの」

私の昇り道は空でもなく海でもなく、陸という場所にある。そこらの龍では進めないその道に向けて、私は一直線に進んでいくのです。

77

突き立てられた軍刀が海へと注ぐ小川を二つに分かつ。

しかし流れる清流は、刀身を優しく包むだけ。すぐに合流した二つの流れは溶け合いながら遥かな海へ消えていく。

木曾「……さすがに錆びてる、か」

かつて携えていた愛刀は見る影もない。風雨にさらされ錆が浮き、刃も若干欠けている。

見るだけで申し訳なさが湧き上がって来るが、それだけにここまで耐えていてくれた事が嬉しくもある。

木曾「悪いな、待たせた……ようやくアイツが返って来たんだ」

抜き取った刀はやはり見れば見るほど酷い有り様だ。軽く砥ぐ程度じゃなんともならないだろうから、ナイフにでもしてこれからは使い潰してやろう。

向き直った先のアイツはそれを見て何を思ったのかは分からない。けど、穏やかな色をしてるのだけは確かだ。

提督「その持ち方じゃあ服に錆が付くぞ」

木曾「ふん、これくらいで刀が許してくれるなら安いもんだ」

白い軍服は少し触れただけで汚れ塗れ。拭うように動かすから、もうこの服は使い物にならないだろう。

木曾「何が『瀬を早み 岩にせかるる 滝川の』、だ。俺の刀にこんなくだらないことさせやがって」

提督「『われても末に 逢はむとぞ思ふ』。叶ったからいいだろ……お前も乗ってきたじゃないか。次に会う時までこの刀が俺達の楔だ、とかなんとか」

バカか。なんでそんな言葉なんか覚えてやがるんだ。

提督「は、赤くなってどうしたんだ? 過去の歴史でも思い出したのか」

ニヤニヤと笑う顔は、何年ぶりに見てもウザイ。切り捨ててやろうかと構えようとするが、その直前にアイツの手が頭の上を撫でる。

提督「……その刀、半分にしてナイフか何かにしよう。俺と木曾で使おう」

ああ。やっぱりこのバカは最高だ。オレと同じことを考えて、それ以上にオレの事を考えてる。

何年かぶりの再会でも何も変わらない距離と時間。断ち切られた川の流れが海で交わる様な、当たり前のような瞬間だった。

78

瑞鶴「あの夜戦バカ、また騒ぎ出すのかしら」

そろそろいつもの時間だけれど、鎮守府にいるのは皆が皆同じ時間に寝起きする訳じゃない。

あのバカみたいに夜に起きてる奴もいれば、目の前の人みたいに夕方から寝始める奴もいる。

瑞鶴「提督さーん……もう、いつまで寝てるつもり? 晩御飯の時間も終わっちゃったんだけど」

ちょん、と固いほっぺたを突いてみれば、煩わしそうに首を傾けたりしてる。ちょっと顰めた眉はいつもとは違う感じがして、なんとなく面白い。

瑞鶴「うりうり、おーきーろー……あ、かわうちの声だ。ホントうっさいわねー」

別に耳元で騒がれてるわけじゃないけど、不思議と耳に届いてくる声だ。だから微妙にウザがられてるんだけどね。

呆れちゃうっていうか、ちょっとだけムカつく。だって私が声掛けても起きなかったくせに、バカの声で目が開くってどういうこと?

瑞鶴「……おはよ。夜戦バカの目覚ましはどう? 提督さんには私の声より良いみたいね」

ちぇ。声が無茶苦茶不機嫌になってるし。こんな風に言いたいわけじゃないんだけどね。

そんな私の想いを知らないみたいに、提督さんはニヤニヤ笑ってる。なんかウザイ。

提督「別に川内の声で起きた訳じゃないんだけどな。寂しそうに頬を突いてくるから、起きるに起きれなかったんだよ」

瑞鶴「は? ちょ、ちょっと何それ!?」

何言ってんのこのバカ提督……ていうか、なんかほっぺた熱くなってきちゃったじゃない!

提督「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に、いくよ寝覚めぬ 須磨の関守……ってな」

そこでニヤリと笑みを深めて、意地悪く笑う提督さん。

提督「俺が先に寝たふりしたら、いっつも寂しそうに声掛けて来るだろ? 言っとくけどお前の前で本当に寝てたの、お前が思ってるよりだいぶ少ないから」

加速度的に思い起こされるのは夜の時間。寝てると思って、背中に抱きついて甘えた声なんか出しちゃったりして。

提督「悦ばせた後にあんな寂しげな声出されたら、寝返り打って偶然抱きしめる感じで可愛がるしかないよなあ」

瑞鶴「んなぁっ!? あ、あああ……あ、あれってぇ!」

顔が真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。恥ずかしい恥ずかしい暴露大会は、ベッドに押し倒されるまで続くのでした。

79

空の闇を覆い隠すような雲の群れ。風にたなびく雲の下で、俺はその時を待ち続けていた。

望月「だるぃー……なんかちょっと寒いし、戻りてぇー……」

提督「戻ってもいいんだぞ? この雲じゃあ見えるかどうかも分からんし」

中秋の名月と言えど、それは拝めてこそのもの。ともすれば時間の無駄ともなりかねないお月見だ。

だというのに、寝るなら部屋の方がいいだろう、と言ってみても望月は微動だにしない。

提督「おいおい、もたれてくるくらいなら帰った方が」

望月「戻るのも面倒くせー……こうしてれば、そんな寒くないし」

ジッと見つめてくる望月は、こうなると梃子でも動かないだろう。諦めて一緒に空を見上げても、そこは秋雲ばかりなり。

虫の声だけが耳に響く中、不意に掛けられた声は何故か不機嫌な色を帯びていた。

望月「あのさー、女の子と居て無言ってありえなくない?」

提督「そうは言ってもな……ああ、それなら百人一首なんてどうだ? 正月にカルタ取り大会もあるだろ」

望月「うぇ、自分の好きなのじゃん……てーか、別にカルタ取りもだるいだけだし……」

ブツブツ呟きながら、再び空を見上げる少女。釣られて俺も見上げると、不意に雲に切れ間が現れた。

望月「……おー」

この子から感嘆の声が漏れるのは意外な感じだが、その気持ちはよく分かる。澄んだ輝きが月を臨む少女を照らしていて、まるで一枚の絵のようにも見える。

提督「秋風に たなびく雲の 絶え間より、もれ出づる月の 影のやさけさ……か」

望月「うん? それ、なんか聞いたことあるよ。どーゆー意味?」

望月が聞いたことがあるのは、五十音順で一番上に来るからだろう。けど、覚え方なんてどうでもいい。

少女の気だるそうな相槌を消さないよう慎重に、けれどたくさんのことを教えよう。俺の好きなものを彼女に知ってもらうためにも。

80

夏の陽射しに目蓋をくすぐられて、気怠い身体を引き起こす。開いた窓からは湿った海風が吹き付けて、体中の汗と絡みついて何とも言えない不快感が湧き上がる。

矢矧「ん……もう朝なのね……」

少しだけ頭が痛い。昨日のお酒のせいでもあるんだろうけど、それ以上に疲労した原因は他にあるはず。

矢矧「ああもう、提督ってばいつの間に出て行ったの? せめて掃除くらいしてくれればいいのに」

シーツの上に散らばる髪。寝乱れたそれを掻き集めてみれば、不快な臭いに一瞬息が詰まってしまう。

窓を開けておいて良かった……酔いのせいかムードのせいか、昨日はよくこの臭いの中で楽しめたわね。

矢矧「その前にお風呂かしらね。気持ち悪いったらないわ」

じっとり滲む汗をなぞれば胸の谷間辺りが酷くベタついている。そのまま下腹部まで撫でると、きちんと整えているそこに絡みつくソレ。乾燥して固くなっているから、引っ張ると少しだけ痛かった。

矢矧「……貴方は好きだと言ってくれたけど、信じてもいいの?」

そういうコトをするのと恋愛感情はイコールじゃない。盛り上がって出ただけの言葉かも、そう思うと途端に不安が渦を巻いて、心が乱れていく。

ながからむ 心は知らず 黒髪の、みだれてけさは ものをこそ思へ。

ふと思い起こす咏。詠った彼女はもしかしたら、こんな気持ちだったのかも……いいえ、それ以上に辛かったはず。

矢矧「考えすぎても仕方ないわね……とにかく、朝礼の前に全部洗い流さないと」

シーツは残念ながら処分した方が早いと思う。新しい物を貰ってくるとして、今は中に残ったものや付着したものを綺麗にしないと。

脱ぎ捨てられた服を拾って籠に投げながら、備え付けのシャワー室へ。太ももを伝う生温い粘液は、さほど気持ちの悪いものではなかった。

81

声というものは、声帯の長さ、声道の長さ、口の形から決まります。同じような背格好の姉妹であれば声が似通うのも当然の事です。

三日月「司令官、おはようございます」

提督「……ああ、おはよう三日月。今日もいい天気だな」

驚いたように振り向いて、一瞬だけ呆然としながら次の瞬間には笑みを浮かべる。ここ数年の司令官はいつもこんな風。

きっと思い出しているのでしょう。小さな想いを交わし合った姉の姿を。海の藻屑と消えた、金の髪を揺らしていた最愛の少女を。

三日月「最近雨でしたからね。たまに晴れてくれると洗濯物も干せますから、みんな嬉しそうですよ」

提督「そうだな……いい五月晴れだよ」

ああ、やってしまった。天気の話なんて流してしまえばよかった。また未練たっぷりの笑顔なんか浮かばせて、私は本当に馬鹿だ。

提督「さ、早いとこ仕事を終わらせてしまおう。こんないい天気の日に部屋に籠ってるだけなんて不健康だろ?」

三日月「ええ……あれ? すみません、書類を一枚忘れてしまったみたいです。取ってきますから司令官はこちらから先に処理して頂けますか?」

にこやかに頷く司令官。いつもより遥かに早い処理の理由は、忌むべきこの日に独り彼女との思い出に浸る時間を作るため。

それ以外司令官の目には何も映らない。その時間のためなら、私の涙なんて道端の石よりもどうでもいいのです。

提督「……ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば、ただ有明の 月ぞ残れる……三日月に失礼か」

廊下に声が漏れていることなんて気付いていないのでしょう。今にも泣き出しそうな声だということすら、気付いていないのでしょう。

零れる涙が廊下を濡らしていく。どうして貴方は、そこまで縛られているのですか。どうして――

三日月「お願いですから……皐月姉さんを、縛らないで……!」

司令官に愛を告げる時鳥はもう居ないんです。どうか、貴方のために悲鳴も涙も押し殺した姉を、もう逃がして上げて。

……泣き崩れるだけの私は、なんて無力。ごめんなさい姉さん、託された想いを無碍にする私を、どうか恨んでください。

82

ねえ司令、酒匂だって戦えるんだよ。

提督『また被弾したのか? もう少し訓練がいるな……実戦はそのうちにしよう。な?』

そんな事言ったらヤだな。そんな特別扱い要らないのに。

提督『すまない、これから作戦だから終わった後にしよう。終わったら色々話せるから』

酒匂を置いていかないで。ねえ、あたしも連れてってよ。

提督『頑張ってるみたいだな……出撃? また次の編成時に検討するよ。そうだ、後で甘いものでも食べに行かないか?』

頑張ってるのに。朝から晩まで頑張って、倒れそうになった事なんて一回や二回じゃなくて。

だから、酒匂の努力を子供のワガママみたいにあしらわないで。

司令の役に立ちたいっていう酒匂の想いを、せめて、真正面から受け止めて欲しいのに。

提督「ん? 今は特に大きな作戦も無いしな……」

酒匂「じゃ、じゃあっ!」

提督「ああ。遠征組も安定してるし、無為に出撃するより最低限のシフト以外は臨時休暇でも出そう」

ねえ、あたしの顔、凍り付いてないかな? お願いだよ、あたしの顔を見てよ。あたしの居ない方を見ながら、酒匂に話しかけないでよ。

提督「そろそろ昼食だな、一緒に食べに行かないか?」

ねえ。

酒匂ね。今、泣いてるよ。

提督「え、さ、酒匂? どうした、何泣いてるんだ……?」

酒匂「ひっぐ、ぅぐ……お、思ひわび……さても命は あるものを、憂きにたへぬは……涙なりけり……だよ」

意味が分からないって、困った顔してるね。だって司令は酒匂をいつも気に掛けてくれてるつもりなんだもん。

あたしは司令が百人一首が好きだって知ってて、司令は酒匂が好きなものは一つも知らないのにね。

83

年若くして提督ともなれば、世間一般ではエリートと言われるものだ。それが望む望まざるに関わらず。

那珂「たっだいまー! 那珂ちゃん、ライブも無事に終わりましたー!」

提督「ああお帰り……那珂は元気そうだな」

那珂「あったりまえだよー! 提督はあんまり元気無いけど、どうしたの?」

答える気力もなく、口に咥えた火の無い煙草に天井を仰がせる。思えばこの所は書類整理以外でとんと記憶に残る事が無い。

たまの休みですら昼から酒を飲むか、寝るか、書類を読み直すかときた。これで元気なぞ出ようはずもないだろう。

それに比べて目の前の那珂ときたら。可愛らしい服と表情豊かな瞳、様々な感情を見せる口元。眩しいったらありゃしない。

提督「世のなかよ 道こそなけれ 思ひ入る、山の奥にも 鹿ぞなくなる、ってな。逃げようとしても逃げられるもんでもないってことさ」

那珂「えー、なんで鹿なの? それより、何から逃げようとしてるのか、那珂ちゃん分かんなーい!」

そりゃあ分かりにくかろう。和歌を解説無しに理解しろなんて無茶な話だ。

提督「提督業がしんどいってことだ。ああ辞めたい……楽しみも無しで仕事に埋もれるなんて、泣けてくるよ」

那珂「ふーん……じゃあ楽しみがあれば提督のお仕事もできるんだよね?」

提督「あ? まあそうだな。提督やってて良かったって思えればな」

見つめた先の那珂の笑顔はまさしくアイドル。俺の傍まで来ると、少しだけ恥ずかしそうにあたりを見回して、そっと唇を寄せてくる。

那珂「んっ……アイドルはこんなことしたらダメなんだから、絶対言っちゃダメなんだからね?」

提督「あー……てことは、これは提督やってる間しかしてくれない。そういう事か?」

はにかんだまま何も言わない那珂を抱き寄せる。少なくともこうして簡単に触れるのは、提督をしている間だけだろう。

そう思えば提督業も悪くない。ただ、仕事に取りかかるのは、もう少しだけ後にするとしよう。

84

鉢巻を締め直す少女の顔に浮かぶのは緊張の色だ。この辺りは、どれだけ練度を高めても変わらないのが彼女らしい。

提督「長良、準備は出来たか?」

長良「あ、はい! 頑張りますっ!」

提督「ああ頼むぞ。それで、準備はできてるか?」

長良「あ……はいっ! すみません、準備万端です!」

慌てふためく彼女の気持ちも分かるというものだ。大規模作戦ではないものの、新しい海域に手を伸ばすというのは、やはりピクニックとは違う。

気を抜けばいつ沈められるとも限らない。その点を思えば、後ろに控える俺とは緊張の度合いも段違いだろう。

提督「お前は変わらないな。新海域への突入なんて何回も携わってるだろうに、今もずっと緊張しいだ」

長良「ぁう、す、すみません……」

しゅん、と身を縮こまらせる長良を励ますのも、いつものこと。少女の髪に指を通せば、くすぐったそうに笑みを零してくれる。

提督「いいか長良、百人一首に俺の好きな咏があってな。ながらへば またこのごろや しのばれむ――」

この話も一体何回目やら。今では長良も心得たもので。

長良「――うしと見し世ぞ 今は恋しき。ですよね司令官」

さんざん聞きました、そんな苦笑も今となってはテンプレートな流れで、だからこそ彼女の心を軽く出来るらしい。

提督「いつも言ってることだけど、無事に帰って来い。そしてまた、新しい海域の話を聞かせてくれ」

長良「はい……分かりました」

例え負けて帰って来たとしても、生きていればいつかは笑って話せるだろう。

俺に出来る事はなるべく彼女が無事に戻ってくれるよう、最善を尽くすことだけ。そしてやる事は終えている。後は、手を振る彼女を信じて待つことだけだ。

85

『夜もすがら もの思ふころは 明けやらで、ねやのひまさへ つれなかりけり』

『司令官もつれないな。早く助けに来て欲しいものだ……さすがに幾晩もこうしていると、私でも泣けてくるぞ』




―――――し…………か……しれい、かん。司令、官……そう、司令官だ。

ちゃぷ、と波の寄せる優しい音が耳を覆っていく。ぼやけた視界も妙に明るくて、今日はどうやら、天気が良いようだ。

菊月「……ぁ……に、せん……ろく、じゅ……」

鬱陶しいものだ。喉を震わせようとしているのに、口も碌に動かない。確か500日ほど前は、それなりに話せたはずだが。

もっとも、鬱陶しくても苛立ちはしない。カウントするという目的のために、私は数分だけ意識を保つことができるから。

菊月「………………し、れい」

そして意識が保てるということは、思い出すことができるということだ。

愛した人を思い出すことができる。なんと甘美な事か。それだけで私は、不死という艦娘の呪いから救われる。

……深海棲艦に沈められた時は、そのまま海に消えていくのが怖かった。だが今となっては羨ましいの一言に尽きる。

菊月「司令官……しれいかん……しれ……かん……」

無線も通じず、負傷していた手足のせいで波打ち際からは動けず。かといって、怪我や飢餓では艦娘は死なず。

希望、絶望、諦念。失われていく思い出、名前も声も顔も消えた姉妹の姿。夜が千回を超えたあたりで、私が覚えているのは。

菊月「司令官……助けて、くれ……しれ……」

懐かしい言葉だ。確か最初の半年は何度も口にした言葉。そういえば、この頃に何度も詠った和歌があったはず。どんな和歌だっただろう?

……駄目だ。もう、今日はこれ以上、意識を保てない。どんな咏だったか……し……かん……

波の打つ音が聞こえる。お願いだから、私を浚えないからといって、あの人の記憶だけは持っていかないでおくれ――

86

夜の世界は大好き。私が司令官に貢献するためには、戦果が大事だったから。

168「何よ……貴方のせいじゃない。貴方がそんな所で輝いているのが悪いのよ」

月っていうのは、本当に嫌なヤツ。せっかく誰も居ない海でぷかぷか漂っているのに、無駄に自己主張が激しくて、人の顔に光を注いでいく。

168「アンタのせいよ……アンタが、そんな……明るいから、目が嫌がってるの……!」

ほら、やっぱり月は嫌なヤツだ。面と向かって文句を言っても知らんぷりしてそこにいる。

逃げ出した私を、この弱虫、って嗤ってる。私が癇癪を起こすのを待っているんだ。

168「っ、しょうがないでしょ……あんな目で、ごめんって言われてみなさいよ! 告白して……振られた私の身にも、なってみなさいよッ!」

月のせい。視界がボヤけていくのも、声が震えているのも月のせいだ。月が私を馬鹿にするように見下ろすから。

168「ぁ……ぁあ……うあ、ぁぁあああああああ!」

ほとばしる涙声。喉の痛みなんて全然気にならないし、誰が聞いてるかもなんて気にならない。

……嘆けとて 月やはものを 思はする、かこち顔なる わが涙かな。

分かってる。胸を切り刻む様な悲しい思いも、零れる涙も、全部全部月のせいなんかじゃない。

だって月は私が恋をした時も、告白を迷っている時も。振られた後だってずっと見ていてくれるんだもの。

168「ぅあ、ひっく……うぁあああああああん!!」

夜の世界は大好き。きっと失恋から立ち直った後だって、私を見守ってくれるはずだから。

87

さら、さら、さら。

薄黒い緑の木々を覆い隠すように粒の小さな雨が降る。窓の外は一面淡い白色に彩られて、幽玄という言葉が特に似合っていた。

初雪「あー……ひま」

提督「暇だなあ」

書類も終わり、出撃も何もありゃしない。かといってこんな天気では外に出ようという気も起きるはずがない。

結果として、窓辺に頭を預ける初雪と、ソファに沈む俺という構図がそこにはあった。

提督「まあ、これはにわか雨だろう。止んだら外にでも行けばいいさ」

初雪「えぇ? やだ……また降ってくるかもしんないし……」

提督「そうか……村雨の」

途端、初雪の顔が面倒くさそうに歪む。俺としてはさっさと出て行ってくれないと煙草が吸えないから、逃げてくれると嬉しいんだが。

提督「村雨の」

初雪「もぉさあ……いいじゃん、そういうの……面倒くさいし」

提督「村雨の」

コイツが執務室をサボリに使う交換条件として、一回に一つ覚えさせた百人一首。忘れていたらまた覚えさせるだけだ。

初雪「ああもう……村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に、霧立ちのぼる 秋の夕暮……これでいいでしょ……」

一つ頷いて、我ながら未練がましく煙草を仕舞う。未だにわか雨は止まず、霧は晴れず。濡れたスギやヒノキはどことなく官能的だ。

きっとこのまま夜になるのだろう。二人して見る窓の外は、どんな季節だろうと悪くないものだ。

88

私は扶桑姉様の代わりにはなれない。声と顔が似通っても全くの別人だなんて、私自身がよく知っている。

提督「……すまない」

山城「いえ……私から誘ったことですから。でも、やっぱり駄目なのね……」

自己嫌悪に苦悩する姿はあまりにも痛ましい。酷く憔悴した様子で、シーツを握りしめている。

私はといえば、天井を仰いだまま姉様の事だけを考えていた。最愛の人を置いて沈んだ、大事な姉様を。

提督「仕事に戻る。もう、大丈夫だから。ありがとう……本当にすまなかった」

疲れ切った微笑みを浮かべて扉の奥に消えていく。私はその背中に声を……掛ける事なんて、できなかった。

山城「姉様に変わって慰めるなんて所詮私には無理よね……そんなこと、分かりきってたのに」

下腹部の違和感に手を伸ばせば、気色の悪い粘液が指に絡みつく。こんなものを嬉しく思っていたなんて扶桑姉様も変な趣味。

胸をまさぐられた感触も残っているし、女を捧げた時の痛みも尾を引いている。嫌じゃない。嫌じゃないけど。

山城「難波江の 葦のかりねの 一夜ゆえ、みをつくしてや 恋わたるべき……私は……」

提督と過ごした一晩で、私の気持ちがはっきりと分かった。分かってしまった。

今後一生、私の大好きな貴方と人生が交わることは無い。だからこの身が尽きるまで私は、貴方を想い続けることでしょう。

89

私の周囲を取り囲む、深海棲艦の群れ、群れ、群れ。四方八方から向けられた砲口が、口火を切る時を今か今かと待っている。

ビスマルク「ふ……ふ、ふふ、あは、あっはははははははははははは!」

笑ってしまうのも仕方のないこと。これこそ私が望んだことであって、困る事といえばただ一つ。

周りを囲む敵共が、どこか怯える様に撃つのを躊躇っている事ね。

ビスマルク「何をしているの……? 私を沈めたいのなら、早く撃って来なさい!」

私は今、祖国に居る。この身と魂を捧げて祖国の海から敵を駆逐し、安寧を勝ち取るために。

だから私の口から発せられる言葉は、強く雄々しいものでないといけない。

ビスマルク「どうしたのかしら? 無防備な私を沈められないほど、ここには雑魚しかいないの?」

破損した艤装はもう、反撃することもできやしない。今の私に出来る事といえば、案山子のように突っ立って、的になることだけ。

ようやく周りの馬鹿達もそれが分かったのか、一斉に砲口を私に定める。空気が変わるのを感じて私は緊張……などいなかった。

むしろ、真逆。これで私は永遠に黙っていられる。日を追うごとに溢れそうになる、言ってはならない言葉を封じ込めることができる!

ビスマルク「が、ぎっ!? あ、は、あはははははははっ! あぐ、ぎゃ、ふっ!?」

嗚呼――金の髪が焼かれていく。白い肌が紅蓮に染められる。目を削り、腹を抉られて。それでもなお、私はまだ生きている。

玉の緒よ 絶えねば絶えね 長らえば、忍ることの 弱りもぞする。あの人に教えられた時は共感なんてできなかった。

今なら分かる。このまま生き長らえてしまって、私の心が祖国に無いことを知られてはならないのだから。

ビスマルク「ア……ミ、ラ……愛し……」

どうか私の想いが、遠く遥けき貴方に届きませんように。

90

指から離れた矢は風を貫きながら、危うげなく的の中心に吸い込まれていく。

瑞鳳「っふ、ぅ。今日はこれくらいにしようかな」

鉢巻を乗り越えて頬を伝う汗の気持ち悪さ。ふと時計に目を向ければ、修練には長すぎるほどの時間が過ぎているのに気付く。

瑞鳳「え、もうこんな時間? 困ったなぁ……晩御飯の前に急いでシャワー浴びないと」

矢取りに向かう足取りはなんとなく重い。疲労もあるけれど、それよりも服が汗を吸って重くなったんだと思う。

瑞鳳「色も変わっちゃってるし、ベトベトするし、早く脱ぎたいわ……」

袖全体が濡れて絞れるくらいになっていて、もう元の色が分からないほどになっている。乙女にあるまじき姿かもしれないけど、私にとっては日課みたいなものだ。

ふと、服を普通の袴から迷彩色に変える前の頃を思い出す。あの頃も今と同じだった気がする。修練に修練を重ねる毎日で、他の空母に追いつくために必死だったあの頃。

ともすれば倒れるまで頑張っていたけれど、フラフラのまま緊急出撃に応じようとしてこっ酷く怒られたのは今になっては恥ずかしく、つい頬を手で隠してしまいたくなる。

瑞鳳「提督に私の力を見て欲しいって、ちょっと頑張り過ぎちゃったもの。余力は残しておかないとね」

そういえば、あの後しばらく私の修練は提督に監視されていた。無理をしないように、っていう事だったけれど、私は仕事を弓道場に持って来てまで見てくれる事が嬉しくて。

さすがに仕事が忙しくてすぐに来れなくなったけれど、来てくれた間は練習量もセーブしないといけなかったのが少しだけ不満だった。

瑞鳳「見せばやな 雄島のあまの 袖だにも、濡れにぞ濡れし 色はかわらず……意味は全然違うけど」

提督にはもう一度見に来てほしい。今の私がこれだけ出来るんだってことを、提督に知って欲しい。

瑞鳳「けど、やっぱり嫌かも。汗でびしょびしょになった所なんて見て欲しくないもの」

蒸れる髪に手櫛を通す。見ていて引いちゃうほどの汗の量に、やっぱり見に来ないで欲しいと心から願うのでした。

91

夜半の月が窓際を白く染めている。私はその輝きを裂くように、静かに静かに、眠るその人の元へと歩み寄る。

早霜「そう……私を待てなかったのね……疲れ気味のようだし」

指先には、司令官の少しだけ乾いた唇が。なぞってみれば淡い吐息が掛かって、ぞわりと背筋まで愛撫されている感覚に頬が熱くなる。

早霜「……コオロギが鳴いているわ。せっかく窓辺で演奏しているのに寝てしまうなんて、酷い人ね……」

さら、と長い髪が司令官の顔に被さっていく。不快気に眉を顰めるのが面白くて、声を押し殺しながらも笑ってしまう。

早霜「独り寂しく寝るなんて可哀想な人。なんのためのダブルベッドなのかしら……」

加えてダブルベッドのど真ん中に大の字で寝るなんて、寂しい男にも程がある。

早霜「きりぎりす なくや霜夜の さむしろに……衣かたしき 独りかも寝む……」

行くか行かないか。それを伝えなかった私は嫌な女だと思う。それで待っていろなんて、まさに悪女の所業でしょう。

早霜「それでも女は待っていて欲しいものよ……そうね、報酬は前払いの方がいいわね……」

ふ、ふ、ふ。私の鳴き声はコオロギのそれよりも小さくて、響くことなく消えていく。姉妹が聞けば、悪巧みでもしているのか、と警戒されるかも。

早霜「間違ってはいないけど、ね」

しゅる、と衣擦れの音がして、ほのかな胸の膨らみとピッタリ閉じた下腹部が晒されていく。月に見られているのは、仕方ないと諦めるとして。

早霜「は、ぁ……ん、ぁう……ふふ、朝になるまでこうしていてあげる……」

舌でなぞる司令官の首筋の味。疼き出す前に手足を司令官に絡め、自分を鎮めるように目を瞑る。

明日の朝、どんな反応があるかしら。慌てて起こす? そっと出ていく? それとも寝ている私を……三つ目だと嬉しい、かしらね。

92

わが袖は 汐干に見えぬ 沖の石の、人こそ知らね 乾く間もなし。

誰も私の恋心など知る由も無いでしょう。そして心で涙を流し、それが乾く事も無い事でさえ。



不知火「では明日より秘書艦は大和に変更となります。引継ぎは終わっていますから、問題は少ないかと」

秘書艦を務めて一年となる明日、不知火はその役目を解任される。元々任期は一年だから当然の事ではあるけれど。

提督「ご苦労だったね。一年間の補佐の手当……と言ったらなんだけど、何か欲しいものはあるかい? 少しなら無理を言ってくれてもいい」

酷い人。不知火が欲しい物を知らないくせに、簡単にそんなことを言うなんて。

提督「おいおい、そんな難しい顔をしないでくれよ。いつも遠慮してくれてるけど今日くらいはワガママでいいんだから」

やめて下さい。そんな風に笑わないで。必死に想いを押し殺している私を、そんな風に嘲笑わないで。

不知火「……結構です、必要な物は自分で調達できますから」

提督「そうか……そうだ、間宮から新しい甘味の試食に誘われていてね。誰かと一緒でいいらしいから、不知火さえ良ければなんだけど」

やめて。そんな柔和な目で私を見つめないで。心を跳ねさせて、期待に胸を膨らませるような事をしないで。

だって、だって貴方は何も分かっていないのだから。

心の底から『一年秘書艦だっただけ』の私を思いやる、優しい提督で居ないで。

提督「姉妹か親しい相手と一緒に行くと良い。特別だからな?」

貴方の目に映るのは、頭を撫でられて憮然とする愛想の無い駆逐艦なのでしょう?

その駆逐艦の中に、貴方に恋い焦がれながら想いを伝えられない、そんな愚図が居る事を知ることは一生無いことでしょう。

93

砂浜から響く歓声に思わず頬が緩んでしまう。隠そうかとも思ったが、作戦遂行中という訳でもない。今日くらいはいいだろう。

古鷹「提督、楽しそうですね」

提督「そうだな。駆逐艦達がああして楽しんでいるのを見ると、こっちまで楽しく思えるよ」

地引網を引くのは、鎮守府にいる駆逐艦達だ。乗り気だった奴も面倒くさそうだった奴も、掛かった大量の魚に一様に輝くような笑顔を浮かべている。

それを肴に一杯と洒落込む戦艦や空母連中と、駆逐艦を監督する巡洋艦たち。潜水艦は魚の追い込みだ。

提督「たまにはこういうのも悪くないな……なあ?」

古鷹「そうですね。こうやってみんなで何かをすることで仲良くなれますし、なにより私も純粋に楽しいです」

目を細めて駆逐艦達を見やる古鷹の顔には、穏やかで優しい表情が浮かんでいる。あまり見ないその表情に、俺は嬉しいような複雑な気分になってしまう。

それはきっと、俺と二人きりの時にだけ見せる表情じゃないから。まったく、我ながら独占欲の強い男だ。

古鷹「世のなかは つねにもがもな 渚こぐ、海士の小舟の 綱手かなしも……前半は少し違いますけどね。世の中がずっと今のままだと少し困ります」

古鷹の訂正はもっともだ。深海棲艦が永遠に駆逐できないというのは、さすがに困る。

提督「ま、今日の所は楽しもう。せっかくのレクリエーションだし、な?」

駆逐艦達が網を引く。俺はといえば、隣に座る古鷹の肩を引くわけで。きょとんとした瞳。みるみるうちに混乱し、紅潮していくのが、なんとも可愛らしい。

古鷹「やっ! て、提督、みんなが見てますっ!」

無言で笑う俺に、抗議なんて意味を成さないと気付いたんだろう。それでもばたばた甘えるように暴れるくせに、本気で逃げ出さないのも愛おしい。

そして、じゃれ合っていれば駆逐艦達もさすがに気付く。無邪気にはやし立ててくる少女達に、俺は真っ赤になった古鷹を抱きながら悠々と手を振り返すのだった。

94

夜ともなれば、鎮守府を吹き抜けていく秋風は身を震わせるほどだ。実際俺の身体は芯まで冷え切りそうで、情けなく実を縮こまらせていた。

提督「なあ……寒く、ないのか」

秋雲「んー、寒いけど艦娘だかんねぇ。提督も無理に付き合わなくていいから、部屋に戻んなよ」

目の前の少女は俺より薄着のくせにどこ吹く風だ。纏わりつく髪をものともせず、ひたすらキャンバスに向かい合っている。

秋雲「たまにはこういうのも悪くないね。印象派的な? 点描みたいな感じっ」

風の音に混じる、キャンバスを叩く筆の音。いつもと違う筆遣いだが、心底楽しそうに絵の具を叩きつけている。

自分では気付いていないのだろう。時折見せる横顔に浮かぶ満面の笑みが、薄闇の中でさえ魅力的に輝いていることを。

提督「へえ……それは何を描いてるんだ?」

秋雲「これは山と空、そんで海だよ。全部暗い色だけど、その中で違いを描くっていうのが楽しいからねー」

俺に絵心は無い。けど、秋雲が嬉々として語ってくれることが嬉しいし、聞いているだけで心が温かくなる……気がする。

好きな事に熱中する秋雲は美しい。見ているだけで眼福なのだから、これ以上を求めるのは贅沢というものだろう。

提督「みよし野の 山の秋風 小夜更けて、ふるさと寒く 衣うつなり……」

衣を打つキヌタというには随分細い音だけれど、これはこれで味があるものだ。

秋雲「ん、また提督の百人一首? それってどういう意味なの?」

問いかける秋雲は、何時の間にやら楽しげなその目に俺を映している。手を止めてまで俺を見つめる理由は。

『提督が百人一首の話している時って、結構カッコイイし好きだよ』

お互い相手の好きなものに対しては門外漢。要するに好きなものを語る時の、相手の姿が好きなのだ。

95

摩耶「あ? ちょっと被弾しただけだから、気にすんなよ」

面倒くさそうに吐き捨てる摩耶だが、居心地悪そうに目を逸らすあたり分かってはいるのだろう。

俺のため息にビクリと身体を揺らすのが何よりの証拠というものだ。

提督「いつも言ってるだろう? なんでもかんでも突っ込んでいくのは無謀。その恰好は奮戦の証じゃなく、ただ不様なだけだ」

露骨な舌打ちをしながらも言い返してこない。ただ、格好については指摘されるや否や、頬を赤らめて睨みつけてくる。

摩耶「な、なんだよ……見るなっての!」

濃紺の服は焼け焦げて、ヘソどころかあと少しで胸まで零れそうなほど短くなっている。見れば肌も赤く染まって痛々しい。

摩耶「っ、いった……ばか、やめろよ……」

火傷の縁をなぞれば、打って変わって弱々しい声が耳を打つ。目を向けた摩耶の顔は……火でも噴きそうなほど赤く、紅くなっていた。

つ、と指先が柔肌を押すと、その度に小生意気な唇が甘さを含んだ吐息を吐き出していく。潤んだ瞳に浮かぶのは期待か、あるいは怯えているのかもしれない。

提督「また服を新調しないとな。そうだ、今度は袖でも付けようか。長い方が肌を隠せるだろう」

摩耶「……んだよそれ面倒くせーな。どういう心境だよ?」

提督「そうだな……おほけなく うき世の民に おほふかな、わが立つ杣に 薄染めの袖。なんてのはどうだ?」

我ながら上手くないことを言ったもので、摩耶にはすぐさま一笑に付されてしまう。

摩耶「『摩耶様』に仏の加護ぉ? 大体提督はあたしを守るんじゃなくて、守られる側だろ。ったく……」

摩耶は呆れたような笑みを浮かべつつ、焦げた服の端を思い切り引きちぎり始めた。あっという間に柔らかな胸元が露わになるが、それすら構わず千切った端を差し出してくる。

摩耶「新しい服はさ、裾はもっと短くしてくれよ。最初から短かったらもう少し気を付けるから」

きっと反省はしていないんだろう。気の無い言葉を窘めるように、火傷痕を撫でていた指を、胸を覆う布の下へと滑り込ませていく。

……俺はどうも、仏道を志すには生臭すぎるらしい。途端に可愛らしく悲鳴を上げる摩耶を見て、沸き上がる煩悩を打ち消す気も起きやしないのだから。

96

彼女はいつも隣に居てくれた。いくつもの春を迎える時も、年月が重なり過ぎていく時も、互いの手が重なるほど近い場所に。

潮「長い間、本当にお世話になりました……私はお役に立てたでしょうか?」

今、彼女は俺の前に居る。分厚い机を挟んだ向こうは手を伸ばしても届かない。そんな場所だというのに、彼女は柔らかく微笑んでいるのだ。

提督「お前が役に立たなかったのなら、お前を傍に置き続けた俺はよほど見る目が無かったんだろうな」

潮「秘書艦が要らないほど、提督の能力が高かったんじゃないでしょうか」

けんもほろろとはこのことか。引き留めても褒めちぎっても、皮肉交じりに伝えても潮の意志は全く変わらない。

昔から気弱なくせに、これと決めた所は譲らない頑固者だ。諦念がため息に変わり、それを察した潮が穏やかに目を細める。まったく、以心伝心というのも場合によりけりだ。

提督「一つ聞かせてくれ。何故今になって解体を希望する? お前の練度と能力なら転属でも十分な待遇は期待できるだろうに」

伊達に長年秘書艦は勤めていない。お世辞抜きに潮の事務処理は高く、欲しがる鎮守府もあるだろう。

潮「私の鎮守府はここだけで私の提督は一人だけですから。別の鎮守府に行くくらいなら解体されたい、それだけです」

さも当たり前のように言われては、二度目のため息以外出せるものは無い。窓の外を……そしてその向こうにある何かを見やる潮の独り言に、耳を傾けるだけだ。

潮「花さそふ あらしの庭の 雪ならで、ふりゆくものは わが身なりけり」

淡い視線が俺を貫く。そして、窓に映る潮自身をも。その姿は桜の花びらのように儚いように、俺の目に映った。

潮「私、このまま高い地位しか見ようとしない提督を見ていたくありません……それと、古びていく私を見て欲しくない」

いつからだろう。俺の心が海の上ではなく、陸の上に居場所を移し始めたのは。

潮「……もう、下がってよろしいでしょうか。今までありがとうございました……」

さようなら、と未練の無い声を残して、潮の姿は扉の向こうへと消えていく。

その後ろ姿に手を伸ばさない俺の胸に去来するものは、後悔や未練ではなく、権力への渇望だけだった。

97

陽炎「……遅い」

パチン、と石造りの炉で爆ぜる火の粉を見て、私の苛立ちも破裂しそうなほど膨れ上がっていく。

きっと私の顔は真っ赤になっていることだろう。それは夕焼けのせいだけじゃなくて、怒りのような感情のせいでもあるはずだ。

陽炎「だいたい塩作りがどうとか言って、なんで私に任せっきりなの? 言いだしっぺがやらないでどうすんのよ!」

文句を言いつつ生真面目にやる私も私だ。今じゃ艤装の手入れの片手間にできるほど手際が良くなっちゃったし。

煮詰めて煮詰めて、火に包まれた窯の中からはベージュ色の塩が香ばしい匂いが漂ってくる。そろそろ頃合いと分かってしまうのが嬉しいような、悲しいような。

陽炎「これなら焼き魚にしたら美味しいわね……じゃなくて! あの馬鹿司令、いつになったら来るのよ!」

明日は大丈夫、明後日は間に合う。それを繰り返してもう何日になるかしら。空に昇っていく蒸気を見送りながら考えてみると大したことはないんだけど、それでも長く感じてしまう。

陽炎「なんだっけ……来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに、焼くや藻塩の 身もこがれつつ……だったっけ」

待っても来ない司令を待つ私はこの塩みたいだ。ただひたすらに思い焦がれて、心を燻らせている。

陽炎「あーもう! これで今日も手ぶらで来たりしたら、絶対許さないんだから!」

今日こそは絶対。そう言って釣竿を手に意気揚々と出発した馬鹿も、そろそろ戻って来る時間だ。

さすがに鯛は難しくても、何かしら食べれる魚が欲しい。ああ、本当に私は待ち焦がれてしまっている。

陽炎「……お腹空いたーっ!」

くうくう鳴るお腹が司令を、司令が獲ってくる魚を恋い焦がれている。残念だけど、恋心でも食欲には勝てないみたいだ。

98

八月にしては薄い太陽の光が、穏やかな小川の流れを鮮明に浮き立たせていく。

提督「ここに居たのか阿賀野。また随分だらけた顔だな」

阿賀野「提督さぁん……暑いよー……」

聴こえた弱々しい声に思わず苦笑してしまう。暑い、と全身全霊をもって訴える阿賀野は、まるで打ち上げられた魚のよう――というと流石に怒りそうだ。

木陰の中にはブーツと靴下が乱雑に脱ぎ捨てられていて、蒸れていたであろう素足は小川の中で涼しげに揺れていた。

提督「涼むなら部屋に行けばいいじゃないか。エアコンと扇風機、アイスもあるだろ?」

意地悪く声を掛けてやると阿賀野の頬が力なく膨れていく。

阿賀野「もう、阿賀野がいっつもそんな風にしてると思ってるの? たまに……時々くらいだけなんだから!」

提督「そうだな、休みの度だからせいぜい週二回だし、時々だよなあ」

わざとらしく煙草でも咥えてやれば、不機嫌そうな唸り声を上げて顔を反対側へ。どうにもお冠らしい。

そんな子供っぽい仕草もいつものこと。阿賀野の隣に座り、そよぐ風に目を瞑れば、その涼しさに秋の気配を感じることもできそうだ。

提督「涼しいな」

阿賀野「暑いね」

まったく風情もにべもない。苦笑しながら長い髪を梳いてやると、暑いと文句を言いながらもこれっぽっちも嫌そうな顔をせず、それどころかすり寄ってくる。

提督「風そよぐ 楢の小川の 夕ぐれは、禊ぞ夏の しるしなりける……か」

姉妹の中で一番俗っぽい阿賀野が禊。ギャップのようにも思うし、俗っぽいからこそ禊が必要なのかもしれない。

もっとも俺にとってはどうでもいい事だ。二人でこうしていられるのなら、夏だろうが秋だろうが、大した意味などないのだから。

99

私は人を守らなければならない。人を愛し、敵を憎む。それこそが私に課された役目なのだから。

日向「うん、こちらは問題ない。提督が居た時の方針がそのまま採用されているからな」

電話の向こうに居る男の声は少し疲れているようだ。きっと隠そうとしているんだろうが、何年も近くにいた私にはすぐ分かってしまう。

日向「新しい提督も良い性根をしている。皆と上手く交流を持っているし、この間は駆逐艦達と海水浴をしていたよ」

新しい上司となる者について気に掛けていたようで、信頼できると分かったからか、安堵のため息が耳に掛かって随分こそばゆい。

今も外に目を向ければ、かの男が球磨型と戯れているのが目に入る。私自身も人としての彼は嫌いではなく、むしろ好ましく思っている。

……だからこそ。私は胸の中で疼き続ける、汚泥のような粘つく恨みの向け所を失っていた。

日向「提督はどうだ? 左遷先で穏やかにやっていると聞いたが……そうか、まあ始めが肝心というからな。今を乗り切れば面白おかしく過ごせるだろう」

耳に届く肯定の声。その中に含まれた充実感や自信の程を感じるに、嫌な暮らしをしている訳では無さそうだ。

それは良かった。もしそうじゃなかったら、私は人を殺さなければならなかったところだ。

日向「ああ、それじゃあ。また今度電話するから……じゃあ、また」

ああ……提督は知らないだろう。私が薄暗い部屋で独り、淀みきった瞳と歪んだ想いを抱えていることを。

私は提督が好きだ。新しく赴任してきた男は人間として好ましい。仲間達は大切だ。大本営は嫌いだ、今すぐにでも殺したい。市民達は……どちらもいるから悩ましい。

日向「人もをし 人もうらめし あぢきなく、世を思ふ故に もの思ふ身は。か」

人は守るべき対象だ。だが、誰がそう決めた?

日向「く、はは……はは、あはははははっ! 私はどうすればいい? 教えてくれ……誰か、教えてくれ……!」

左遷された提督をはじめ、私が好きな者達は今を幸せそうに生きている。引き離された悲しみに、未だに浸っているのは私一人だけだ。

私を蝕む恨みを晴らすには反逆しかありえない。だが、それは私が愛する者たちをも不幸に導くだろう。

何もできない私にとって、今やこの暗い部屋だけが唯一の安寧を得る場所だ。例え身も心も蝕む場だとしても、私にはここ以外に居場所など無い。

耳を塞ぎ目を閉じる。私はいったいどうすればいいのだろう? 誰も教えてくれない、訊くことのできない問いだけが、手の平から囁いているようだった。

100

提督「みんな準備は出来たか? それじゃあ百人一首大会、始めるぞ」

おー、という歓声が広いホールのあちこちから巻き起こる。改めて目を向けてみれば、およそ150もの見目麗しい少女達が数人のグループを作り、百枚の札を囲んで座っている。

楽しげに談笑する艦娘もいるし、ジッと札の場所を覚えるのもいる。かと思えば、こっそり見やすいよう向きを変えるズルいのもいて。それぞれの個性がよく出ていて面白い。

提督「最近着任した艦娘にも説明はしたが、分からないこともあるだろう。何かあったら近くの仲間に聞いてくれ」

幸いなことに、仮名を読めない海外艦は居ない。あとは百人一首の得意不得意でグループ分けを調整すれば、誰かの一人勝ちということも少ないはずだ。

毎年恒例とはいえ悔しくて勉強する艦娘もいるから、毎年グループ分けには、特に駆逐艦相手では気を使う。もっともそれすら楽しいのだから、俺の百人一首好きも相当なものだ。

提督「じゃあ読むぞ……百敷や 古き軒端の しのぶにも」

上の句だけで取り合いになるグループもあれば、じっと下の句を待つグループもある。そわそわと続きを待つのは大半が駆逐艦で、その様子に微笑む戦艦達という光景も毎年のもの。

ふと芽生えた悪戯心から、わざと引っ張って窓の外を見やる。

コンクリートの割れた場所からは雑草が生えていて、若かった鎮守府が重ねた年齢を偲ばせてくれる。

提督「……なほあまりある 昔なりけり」

いつか、この鎮守府から人も艦娘も姿を消す時が来るだろう。

それが素晴らしい未来なのか、あるいは凋落の結末なのかは分からない。

けれど……ここにいる少女達の努力と献身が今を支えていることを知って欲しいと思う。戦いと日常の中で生きている、優しい彼女達の姿を。

ようやく駆逐艦達も札を見つけたらしい。一番近いグループでは、誇らしげに札を掲げる子に頬を膨らませながら、俺に早く次を読むよう声を上げてくる。

提督「はいはい、じゃあ次行くぞー」

そのためにも、俺は彼女達を後方から全力で支えよう。胸に新たな決意を湛えながら、俺は次の札を読むべく息を吸いこむのだった。

これで終わりになります。分かりにくかったりしましたが、読んでいただきありがとうございました。

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年06月22日 (月) 00:22:30   ID: 13aMS52w

良かった

2 :  SS好きの774さん   2015年06月22日 (月) 21:44:45   ID: WCm2R57j

お疲れ様でした

3 :  SS好きの774さん   2015年07月21日 (火) 04:08:33   ID: mtOL69Dr

乙です
なんか泣けた

4 :  SS好きの774さん   2015年08月13日 (木) 12:17:47   ID: yiiSLlEs

百人一首の勉強にもなるし、面白かったし
良いssだった。乙です。

5 :  SS好きの774さん   2016年08月31日 (水) 21:57:23   ID: g0KXV2jt

響はあの後帰ってきたのか気になったけど、面白かったよw同じく泣けた

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