妻「7ヶ月目に来た戦いの日」(94)

山無し谷無しオチ無しの日記のようなもの。



一応
妻「結婚して1年が過ぎたとある土曜日」
妻「結婚して1年が過ぎたとある土曜日」 - SSまとめ速報
(http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/internet/14562/1407760205/)
女「恋人同士になって5回目のクリスマス」
女「恋人同士になって5回目のクリスマス」 - SSまとめ速報
(http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/internet/14562/1410088229/)
女「大学生活2度目の誕生日」
女「大学生活2度目の誕生日」 - SSまとめ速報
(http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/internet/14562/1413187528/)

と繋がってます


目覚ましに頼ること無く目が覚めた。

隣に振動が伝わらないよう、ゆっくりと枕元の携帯を見ると、サブディスプレイに6:03の表示。

妻「……」

私の隣には、うつ伏せで幸せそうに眠る夫くん。枕に半分うずまった寝顔が、狂おしいほどに可愛い。

妻「……おはようございます」

夫くんには聞こえないように、朝の挨拶。

ゆっくりゆっくり慎重に、狩りの最中の肉食獣のように、布団の中で夫くんに忍び寄る。

最近、ちょっと自分のお腹が重く感じるようになってきた。

お腹と夫くんに負担をかけない範囲で、肩に鼻の先を精一杯近づけて深呼吸をする。

妻「……すー……」

布団というのは、空気をとてもよく保持してくれる。つまり、夫くんの匂いもたっぷり蓄えてくれるのだ。

なんというか、私の語彙力が欠乏しているせいで上手く書き表せないけども……良い。

良い匂いだ。


7ヶ月目に入り、お腹の大きくなってきた私の身体を気遣って、最近は休日の家事を夫くんがしてくれるようになった。

申し訳なくて、まだ大丈夫だから私にやらせてと言ったのだけども、却下されてしまった。

しかし、今日は、どうしてもやりたいことがあるのだ。どうしても。

……それはそれとして、もうひと呼吸。

夫くんの匂いを思いっ切り堪能できる機会というのは、実はそんなに多くはない。

限られたチャンスを逃さず、胸いっぱいに夫くんの匂いを吸い込む。

……良い匂いだ。本当に。

もうひと呼吸。

……夫くんの目が覚めるまで、こうしていよう。


6時半。夫くんの携帯電話が震え出した。

匂いでとろとろに蕩けていた私の脳みそに喝が入る。

夫「んぐ……」

もぞり、と身じろぎして、枕に顔を半分取り込まれたまま、無事な方の目を開ける夫くん。

肩の辺りで匂いの虜になっていた私と目が合う。

夫「……ぅはよう」

妻「お、はよ、ざいます」

夫くんは眠気と低血圧で、私は芳香と高心拍数で、ろれつが回っていない。

ヴー、ヴーと自己主張を続ける携帯に手を伸ばし、アラームを切った。


なんとも眠たげな、目じりの下がった半開きの目。

ちょっぴり髭が伸びている。あそこに頬ずりしたい。できないけども。

夫くんは大きなあくびをして、私の頭に柔らかく触れてくれた。

頭を撫でるというか、頭を抱きしめるというか。

表現が難しい仕草だったけども、妙に幸せだ。

目を閉じて、優しい手のひらの感触を貪りながら、思わずにやけてしまう。

妻「んふふ……」

夫「起きられる?」

妻「まだまだ全然動けますよっ」

夫「ん。でも無理するな、よ、ふぁぁ」

妻「…く、ぁぁ~……」

夫くんの言葉の途中で暴発したあくびが、私にも感染してしまった。


二人で一緒に布団から脱出する。

途端に、ひんやりとした部屋の空気に襲われた。

今の私は夫くんの匂いを堪能しすぎて相当にのぼせているので、全身がきゅっと冷やされて、ちょっと気持ち良い。

最近は少しずつ暖かくなってきたとはいえ、朝と夜はまだまだ気温が低い。

しかし、私の魂は真っ赤に燃えている。

いかに夫くんが私の身体を気遣ってくれているとしても、今日はどうしてもやりたいことがあるのだ。

今日は2月14日、土曜日。戦いの日。

お菓子業界の陰謀なのだとしても、大義名分を頂けるのであれば私は一向に構わん。

私という人間は、常に夫くんといちゃつくきっかけを求めている。


私がバレンタインデーという行事を知ったのは、小学2年生の時だった。

私の初恋の相手であり、現在進行形で最愛の相手でもある夫くんは、一つ年上だ。

その日、夫くんが同じクラスの女の子からチョコレートを貰ったことを知った。

併せて、その理由も。

何で私にそんな素敵な行事を教えてくれなかったんだ!!と母に八つ当たりしてしまった記憶がある。

私が母にお菓子作りを習い始めたのはその直後だった。

幼い私の嫉妬心と来たら、思い出すと赤面せずにはいられないほどに分かりやすく、

我を忘れて暴れたくなるほどに素直だった。

我ながらとんだマセガキだったと思う。

そして向こう見ずで無鉄砲でもあった。

初めてチョコを贈った小学3年生の時、私は馬鹿正直に、朝のHRが始まる前の夫くんの教室に渡しに行ってしまったのだ。

違う学年の男の子に学校でチョコを贈ったという事で、同級生にも散々散々からかわれたものだ。

きっと、夫くんもからかわれただろうということは想像に難くない。


ちなみに翌年からは学習し、夫くんの家に直接渡しに行くようになった。

生まれた年が違うのは、もうどうしようもないことだ。

でも学年が違うからこそ、夫くんの同級生の誰よりも早く渡したい。

夫くんに一番最初にチョコを渡したのは自分だ、という事実が欲しかったのだ。

我ながら、みみっちい優越感と嫉妬心だと思う。

けども、その幼稚な嫉妬心のおかげで私はお菓子作りが好きになった。

その翌年以降、毎年欠かさず夫くんにチョコレートを贈り続けることができ、

夫くんの「ありがとう」と笑顔を堪能できた。

悪いことばかりではない、と思う。


冷たい水で顔を洗って歯を磨き、のぼせた脳みそに喝を入れる。

化粧台の前で髪に櫛を通して後ろで結び、軽くメイクをする。

首を振って、他の角度からの見え方を鏡で確認する。


私は幸運にも夫くんと夫婦になることができた。

でもそれは、本当に本当に、幸運としか言いようがないような出来事なのだ。

例えばの話だけども、私と夫くんがご近所さんではなかったら、私が夫くんの幼馴染じゃなかったら、

きっと夫くんと私の接点はほとんど無かったと思う。

私が一方的に憧れて、終わりだったはずだ。

まずスタートラインで、私は他の女の人に比べてとんでもない幸運に恵まれていた。

圧倒的なアドバンテージを持っていたのだ。

そのアドバンテージを活かすことができて本当に良かった。


これは言うなれば、容姿端麗頭脳明晰スポーツ万能の勇者さまが、

たまたま家が近所だったアリアハンの村娘と結ばれてしまうようなものだ。

だからこそ慢心はしない。

私は、自分の今の立ち位置が、数多の幸運の上に成り立っている奇跡のような結果だと理解している。

運が良かったのだ。決して、私のスペックが高かったからとか、そういう理由ではないことを理解している。

とてもではないけども、自分のスペックが夫くんとは釣り合うものではないことも理解している。

だからこそ、だからこそせめて可能な限り少しでもきちっとして、愛想を尽かされないようにしなければ。

私は、夫くんに良く見て貰うための努力は惜しまないと決めている。

愛想を尽かされないために死力を尽くす事を決めている。

身だしなみを整える。

全力で猫の皮を被るのだ。


リビングに戻ると、夫くんはパジャマの上にエプロンを装着してキッチンに立っていた。

萌える。

他の人のエプロン姿なぞどうでも良いけども、他ならぬ夫くんのエプロン姿だ。

しかもパジャマの上。

ポイント高い。

とはいえ、最近は毎週末この姿を見ることができるのだけども。

いやぁ、心の底から言える。眼福眼福。

素晴らしい目の保養だ。

個人的には浴衣が世界中の全衣類の中で最も夫くんに似合う服だと思う。

私たちの新婚旅行は外国ではなく、国内のちょっと高級な感じの温泉旅館に泊まってのんびり、だった。

浴衣を愛してやまない私としては願ったり叶ったり。


しかも、私がチェックインを担当させて貰った。

受付で、夫くんの苗字と、自分の名前とを続けて書いて、幸福感に身悶えしていた。

幸せが極まりすぎて、あの時の私は呼吸をする事にさえ幸せだった。

部屋に案内され、まず夫くんに抱きしめて貰った。

あまりに幸福感が強すぎて、あの時私のシナプスはいくらか死滅したと思う。

今思い出しても幸福感で身悶えできるのだから、その時の私の身悶えっぷりがわかるというものだ。


ともかく、最近の休日は私が食事メニューを考えて、夫くんがそれを作ってくれるようになった。

今日はたまねぎとワカメのお味噌汁。

たまねぎがとろとろになるくらいじっくり中火で煮込んだ後、火を止めてからお味噌を溶かす。

白米とお味噌汁。茹でたソーセージに生野菜サラダ。昨日の残り物のひじき煮。

そしてベーコンエッグを作って朝食は完成だ。

夫くんが調理してくれている間に、私は洗濯を済ませてしまおう。


洗濯籠に入った、夫くんのYシャツ。ズボン。下着に靴下。

私の濁った視覚には、いよいよ以て宝の山としか認識されない。

私の穢れた嗅覚には、依然としてご馳走のように認識される。

夫くんはキッチン。ここには、今、私一人だ。

……洗濯して匂いが消えてしまう前に、思いっきり吸い込んでおこう。

私がそう思うのも当然だし、ぶっちゃけ洗濯の度の恒例行事である。

妻「……すんすん…………はぁぁ……」

……なんて良い匂いなんだろう……。

私にとっては、夫くんの匂いは、生活必需香と言っても決して過言ではないものだ。

夫くんの汗腺からは、きっと依存性のある物質が分泌されているに違いない。

でなければ、私がここまで夫くんの匂いに依存し切っている現状に説明がつかない。

どうにかしてこの匂いを再現した香水あるいはアロマとか作れないものか。化け学の範疇になるのだろうか?

専攻に物理系を選んだことがちょっと悔やまれる。


少し前までは、夫くんが一日着ていた服を洗濯する前に、こっそり羽織りながら袖や首下の匂いを嗅いでにやにやしたりしていた。

あれはあれでとても良いものだ。それは間違いない。

でもあれは匂いとかそういう要素抜きにして夫くんの服を着ているという事実になんか興奮してきてしまうから良くない。

だって夫くんが一日着ていた服に包まれているということは、夫くんに抱きしめられていると言っても過言ではないのではないだろうか。

まぁ、実際に抱きしめられている感触とは全く違うけども、疑似的に抱きしめられている気分になれるのだ。

……ぶっちゃけると、朝だというのに下着が汚れてしまうこともあると言えばあるから、やめた。

単純に、純粋に、夫くんの匂いだけを堪能するならば、

やはり一人落ち着ける場所で、夫くんの着ていた服を抱えて持ち、欲望のままにただひたすらに顔をうずめて深呼吸を繰り返すのが一番だ。


……恍惚の表情というのは、多分、今の私のような表情のことを言うのだろうなと思う。


しかし思えば、私も随分落ち着いたものだと思う。

私が一番重篤だったのは、おそらく高校1、2年生ぐらいの頃だったなぁと反省する。

あの頃の私は、我ながら本当に気持ち悪くて気色悪くて頭のネジが十本単位で抜けている、掛け値なしの一級犯罪者だった。

冬にはニット帽とマフラーを編んで夫くんにプレゼントし、

マフラーを外したときのしっとりした夫くんの首筋に吸い付きたいとか、

夫くんの頭に密着できるニット帽になって頭の匂いを堪能したいとか常日頃から思っていたし、

悶々としすぎて夫くんの肌着に憑依するという頭のおかしい夢を見たこともある。

夏には浴衣を反物から作って夫くんにプレゼントし、

幸せで甘くて心臓ドキドキしっぱなしの夏祭りデートを楽しんだ後、

妻「浴衣の洗濯は陰干しとかしなきゃいけないし難しいのに勝手にプレゼントしてしまったから私がやります!」

と必死に言いくるめて夫くんの浴衣を持ち帰り、

こっそり自室で浴衣の襟元を嗅いだり顔を擦り付けたり舐めたりすすったりして吐息も荒く興奮していたのだ。

……我ながらドン引き過ぎる。特に浴衣のくだり。


そんな自分の黒歴史を脳裏で掘り返しながらも、Yシャツの襟元を軽く前洗いし、襟用の洗剤を塗る。

Yシャツやズボンのポケットに何も入ってないことを確認して、洗濯機に投入。

ついでにズボンの匂いも確認しておく。すーはー。

良い匂いだ。

ブラ用洗濯ネットに私のを入れて、洗濯機に投入。

正直自分の服などどうでもいいのだ。

夫くんの肌着と下着。匂いを確認してから投入する。すーはーすーはー。

極上の匂いだ。

靴下も少し前洗いをして、洗濯ネットに入れて投入。

ぴっぴっとボタンを押し、洗剤と柔軟剤を入れて、稼動させる。

洗濯するのは昔から好きだった。でも一緒に暮らし始めてからは、以前にも増して好きになった。

服が綺麗になるのももちろんだし、それ以上に合間合間に匂いを堪能できるのが素晴らしい。


私の最愛の完璧超人くんは、料理だって上手だ。

私が匂いを堪能しながらもたもた洗濯機のスイッチを入れ、リビングに戻るまでの間に、

手際よく野菜を切り、千切り、煮込んで、あっという間にベーコンエッグを除く献立が完成していた。


夫くんは、ふちがカリカリになった、半熟のベーコンエッグが大好きなのだ。

無論、私も大好き。

フライパンに油を敷きながら、夫くんの顔がほころんでいるのが見える。

その表情に、私の顔もほころぶ。

味覚の差や好き嫌いこそあれ、本人にとって美味しいものが嫌いな人なんていないのだ。


食卓を布巾で拭いておこう。

しばらくすると、キッチンから、ジュー、という音が聞こえていた。

ベーコンがフライパンの上で熱がって跳ねているのだろう。良い匂いも漂ってきた。

コツコツコツ、と軽いノック音。ヒビを入れている音だ。

カキョッという卵を割った音がして、さっきよりも大きなジュウウという音。それがもう一度繰り返される。

一瞬、音が大きくなった後、小さくなった。

水を少し入れて、蓋をしたのだろうな、と脳内でその情景を描く。

少しこもったような、油が跳ねる音。なんというか、幸せな音だ。


そういえば、夫くんと初めて一緒に料理をした時は、目玉焼きを作ったなぁ。

私が小学3年生の頃、私の家に夫くんが遊びに来たときに、母の監督の下、一緒に焼いたんだった。

懐かしく、胸の奥がくすぐったい大切な思い出だ。

にやけながらも噛み締める。


夫「できたよー」

妻「はーい」

夫くんの声に応え、キッチンへ向かう。

浅くて広いお皿に、ベーコンエッグと茹でたソーセージが載っている。

私は二本、夫くんは三本。いつもの数だ。

私は食器棚からお茶碗と汁椀を取り出す。

……夫婦茶碗だ。顔がにやける。

夫婦茶碗という素晴らしい言葉を作り出した天才は、いったいどこの誰なのだろう。

たった四文字を頭に思い浮かべるだけで嬉しくて仕方がない。

その間に、夫くんがサラダにゴマドレッシングを少しだけ。昨日の残り物のひじき煮は、これで売り切れだ。

手渡したお椀に、ほんのり湯気の上がるお味噌汁とご飯。とても美味しそうだ。

二人で食卓へ運ぶ。

食卓に食器を並べているこの時間でさえ幸せなのだから、私の脳内お花畑っぷりも大したもんだと思う。

毎日毎日、本当になんでもないような事で顔がにやけてしまって仕方が無い。


夫「いただきます」

妻「いただきますっ」

二人で向かい合って、両手を合わせる。

一口目はいつもお味噌汁からだ。お箸でお味噌汁を軽く攪拌して、まずは一口、熱い汁を飲み込む。

妻「ふぅー……」

夫「はぁー……」

美味しい。思わず嘆息が漏れる。

夫くんがベーコンエッグに醤油をちょろっと垂らして、私に醤油瓶を渡してくれる。

お礼を言いながらそれを受け取って、醤油を垂らす。

二人とも、目玉焼きには醤油派だ。

半熟の黄身をお箸で割ると、どろりと漏れて白身に絡む。

なんとも食欲をそそる光景だ。


妻「あの、夫さん」

夫「ん?」

妻「今日は、ちょっと台所使っても良いですか?」

夫「え? どうかした?」

妻「……今日はバレンタインですし」

夫「あっ、あー、そうか、そうだった」

ふわりと、柔らかく微笑みながらじぃと見つめてくる。なんか顔が熱くなってきた。

夫「気持ちだけで充分なんだけどな」

妻「……いらない?」

夫「……まぁ、なんだかんだ言って」

ちょっと照れくさそうに笑った。

その微笑みに胸が打ちぬかれる。


夫「何度貰っても、好きな人からのチョコレートは嬉しいもんですよ」

私のやる気スイッチがバッチンと音を立ててONになった。

妻「がんばります!」

夫「うん。……身体、ホントに大丈夫?」

妻「まだまだ全然大丈夫ですよっ! 逆に運動不足になっちゃいます」

夫くんは、最近ちょっと過保護だ。

何をするにも、私の身体を心配してくれる。

過保護と言うとマイナスイメージがあるかもしれないけども、夫くんが私にしてくれる過保護については全くの逆だ。

そんな過保護がたまらなく嬉しくて、嬉しくて、私はそのうち幸せ死にするのではないかと思う。

夫「んー……じゃあ、楽しみにしてる」

妻「はいっ!」


妻「ごちそうさまでした。今日も美味しかったです!」

夫「ごちそうさまでした。何よりです」

二人で手のひらを合わせて、ごちそうさま。

今日も美味しい朝ごはんだった。

毎日美味しい食事が取れるという事は、それだけで本当に幸せなことだと思う。

もう少しお腹が大きくなってくると、内臓が圧迫されて食が細くなるらしい。ちょっと残念だ。

夫くんは椅子から立ち上がると、ぐーっと背伸びをする。

毎朝の光景に心が和む。

変わらない毎日の景色が幸せの元なのだ。

これを見る度に夫くんの脇腹をくすぐりたい欲求に駆られる。

しかし、そんな欲求に身を任せるほど私は向こう見ずでも、卑怯でもない。

今くすぐったとしても、きっと夫くんは私の身体を気遣って、くすぐり返しをしてこないだろう。

どちらかといえば、私は夫くんをくすぐるよりもむしろ、夫くんに仕返しあるいはお仕置きをして貰いたいのだ。

夫くんに意地悪されたり、いじめられたりしたい。


小学生くらいの子は良く、好きな子には意地悪をしたくなる、と良く言われると思う。特に男の子。

幼い私は、それを素直にも真に受けていた。

しかし夫くんは基本的には優しい男の子なので、意地悪なんてされなかった。

いや、ただ単に、その当時の私が夫くんの恋愛対象ではなかっただけかもしれないけども。

……だというのに、いやだからこそなのか、小学生の頃の私は、夫くんに意地悪して欲しいと思っていた。

意地悪して欲しいなー、と思い続けた結果、今の私が出来上がってしまったのかもしれない。


夫「うし、干すか」

妻「あ、いつもありがとうございます」

夫「いえいえ」

寒い時期の洗濯物干しは指先が冷たいというのに、休日はいつも夫くんが洗濯物を干してくれる。

結婚当初は洗濯物干しも私の仕事だったのだけども、いつの頃からか夫くんがやってくれるようになった。

本当にありがたい。けども、休みの日くらいゆっくりして貰いたいなぁという気持ちはやっぱりある。

……あと、自分の下着を見られるのは、何度見られても、いつになっても正直恥ずかしいものだ。

私はその間に、食器とフライパンを洗っておく。


夫くんが洗濯物を干し終わり、私も洗い物を終えた。

私が先に洗面所で歯を磨き、夫君が後から歯を磨いて、それから髭を剃る。

ヴィーンと唸る電動髭剃りを顎や頬に押し当てる仕草。

なんだか男の人!って感じがして、妙な色気がある。私は大好きだ。

ちなみに髭を剃る直前のちょっぴり髭の伸びた顎やほっぺに触らせて貰うのも好きだ。感触が気持ち良い。

夫くんはあんまり髭が濃くないから、髭剃りシーンというのは週に1、2回しかない。とても貴重だ。

許されるならば、この希少価値の高いシーンを全て目に収めておきたい。

けども、以前、髭を剃る夫くんを後ろからじぃーっと見ていたら、恥ずかしいからやめてと言われてしまった。

見てたいですと言ったら、じゃあ今度、化粧してるところじぃーっと見てて良い?と言われてしまい、

私は成す術なく引き下がった。

無念である。


おこたの上に、カゴに入ったミカン。残弾数は3つだ。

キッチンからミカンをいくつか持ってきて補充しておこう。

現代の日本で実際にやっている家庭がどれくらいあるのかは分からないけども、おこたにミカンは冬の定番だと思う。

実家もこうだった私には、幼少の頃からとても馴染み深い光景だ。

ついでにお茶を淹れることにする。

夫くんは少し渋めの熱いお茶が好きだ。

急須にお茶っ葉を入れ、コポコポとポットから熱湯を注ぐ。

蓋をして、少し揺らす。蒸らしてから、湯呑みに注ぐ。

お茶の香りが広がる。良い匂いだ。

と、髭を剃り終わった夫くんがリビングに戻ってきた。

顔も洗ったのだろう、前髪がちょびっと濡れて垂れている。

いつもとちょっと様子が違って、これまた素敵だ。


素敵といえば、私は幼い頃、素敵という漢字を書けなかった。

とはいっても小学3年生ぐらいの頃なので、当然といえば当然なのだけども。

私は小学生の頃から、嬉しい事があった日には日記を付けていた。

一歳年上の夫くんと並びたくて、早く大人になりたくて、必死に漢字を使っていたのだろう、

当時の日記を読み返すと、ところどころに「夫くんは索敵」とか書かれている。

索敵してどうするつもりなのだ。

デストロイする気か?

しかもそれを大学生の時に、夫くんに音読されてにやにやされた。

思い出して身悶えそうになる。


どちらからともなく、おこたに入った。

お茶を一口。まだまだ熱い。

ちらりと夫くんの方を盗み見ると、目が合った。

夫くんの目が、これ以上なく分かりやすくキラキラしている。

妻「目がキラキラしてます」

夫「あれ、そう?」

夫くんは今までずーっと私のお兄ちゃんの立場にいて、大人っぽくて落ち着いていて、とてもかっこいい人だ。

なのに、こうやってたまに子供っぽくてそわそわして可愛いのがずるい。

そんなのメロメロにならないわけがないじゃないか。

妻「ふふ。今日は負けませんよ?」

夫「吠え面かかせてやるぜー」


最近、私たちは将棋にはまっている。

私のお腹が大きくなってきてから、格ゲーとか、FPSとか、

操作も内容も激しくて、どうしても熱くなってしまうようなゲームはやらないようにしている。

なんというか、人を殴り蹴りボコボコにして勝敗をつけるゲームとか、

人を撃ち殺して歓声を上げるゲームとか、

私個人としては好きだけども、胎教に良くなさそうだ。

とはいえ、やることが何もないのも暇なので、最近の休日はボードゲームをやるようになった。

ちょっと前までは「DX人生ゲームII」というゲームをやっていたのだけども、

あの手のパーティーゲームを二人でやるというのはちょっと無謀だった。

一回目は物凄く盛り上がった。しかしやっぱり間をおかず繰り返しやるようなものでもないし、どうしても飽きる。

ちなみにその前はマリオカート(Wii)をやっていた。

私はトゲゾーが大嫌いだ。


マリオカートWii、DX人生ゲームII、モノポリー、リトルビッグプラネット。

そうして今は、めぐりめぐって将棋がブームだ。

と言っても、将棋盤や駒は我が家には無いので、一台のパソコン画面で夫くんと対局したり、

あるいはネット上で、どこかの誰かと対局したりしている。便利な世の中になったものだ。

……ちなみに、私たちは相手に見られてないのを良い事に、対局中に常に相談している。

純然たる反則。

だけどもバレなきゃ犯罪じゃないとどこかのニャルニャルした星人も言っていた。

何より、夫くんとあーでもこーでもないと相談しながら打つのはとても楽しい。

……他の夫婦は、妊娠中、休日をどう過ごしているのかなぁと思う。

というか、妊娠中に限らず、他の夫婦の休日の過ごし方は気になるところだ。

私たちはこうしてボードゲームをしたり、いろんなゲームをしたり。

お互い用事がある時は別行動だけども、最近は夫くんがずっと一緒に居てくれる。幸せこの上ない。

私の両親は休日どう過ごしていたっけな。

いざとなるとなかなか思い出せないものだ。


今日はまず夫くんと対局することになった。

おこたの一辺に並んで座り、ノートパソコンを開いてアプリケーションを起動。

隣り合った状態での対局というのも変な感じがするけども、もう慣れてしまった。

私は振り飛車党なので四間飛車が好きだけども、最近は居飛車も勉強中だ。

夫くんは根っからの居飛車党だ。今までの戦績は、私がやや負け越している。

悔しい。

今日は勝ちに行きたい。


夫「今日の昼は何食べる?」ポチ 7六歩

妻「焼きそばの材料買ってあります。焼きそば、お願いしても良いですか?」ポチ 3四歩

夫「おー、いいね。焼きそば。ソース? 塩?」ポチ 2六歩

妻「塩ですよー」ポチ 4四歩

夫「塩か。味噌汁はいらない?」ポチ 3八銀

妻「お味噌汁は、んー…………」

妻「お味噌汁は夕飯まで取っておきましょう」ポチ 9四歩

夫「おー、了解」ポチ 9六歩

妻「……うーん」

妻「四間飛車!」ポチ 4二飛

夫「好きだなー四間飛車」ポチ 5六歩


妻「王手」ポチ 7七銀打

夫「……」ポチ 同桂

妻「王手」ポチ 6七金打

夫「妻がクリックミスしますように」ポチ 8八玉

あまりにストレートな呪詛に笑ってしまう。

妻「やです~。王手っ!」ポチ 7七桂成

夫「ぐぅー……ダメだ詰んだな」

妻「へっへっへ」

勝利の余韻に浸りながら、ミカンを一つ手に取って皮を剥き、半分に割る。

夫くんに半分渡しながら、夫くんの持ち駒にある角2枚を指す。中盤、こちらの角と引き換えにかなり美味しい思いをした。

妻「この角を早々に潰せなかったのが敗因ですね」

夫「ぐぬぬ……攻め切れんかったなぁ。……あ、このミカン美味い」

妻「凌ぎ切りました!」

夫「もう一局やろう」

夫くんがかなり本気で悔しそうな表情を浮かべている。


お互い、対戦に関しては結構負けず嫌いである。

格ゲーでもボードゲームでも。

何事も本気でやるからこそ。

だからこそ楽しいのだ。

妻「良いですよ~」

夫「ちいっ、勝者の余裕が滲み出てやがる」

妻「ふふふ」

休日に、朝っぱらから、パジャマも着替えず、暖かいおこたに入って、大好きな人と将棋。

……なんだかちょっぴり定年後の夫婦っぽい匂いが漂っているけども、私にとってはこの上なく幸せだ。


○○×○××○の4勝3敗。

勝ち越した。

にんまり。顔がにやける。

そろそろ、お昼だ。

夫「くっそー。腹いせに妻の焼きそばだけ塩辛くしてやる」

妻「わぁなんて陰湿な」

くっくっと喉を鳴らしながら、夫くんが立ち上がった。

妻「いつもありがとうございます。お願いします」

くしゃくしゃと私の頭を少し乱暴に撫で回して、キッチンへ向かう夫くん。

後姿に胸がきゅんとする。


キッチンからトントントンという包丁の音が聞こえる。耳が心地良い。

夫くんが調理してくれている間、手持ち無沙汰になってしまった。

お昼ごはんを食べ終わったら、夫くんに贈るチョコケーキを作り始める。

レシピを再確認しておこう。


夫「完成ー」

妻「はーい」

夫くんの声に応え、キッチンへ。

湯気と共に、塩ダレの匂いが鼻腔をくすぐる。

……私の分、ちょっと量が多いかもしれない。

二人で食卓へ運ぶ。


夫「いただきます」

妻「いただきますっ」

二人で向かい合って、両手を合わせる。

お箸を使ってこんもりと盛られた焼きそばをほぐすと、中に閉じ込められていた湯気がもわわっと広がった。

私はちょっと猫舌気味なので、しっかりと冷まして口へ運ぶ。

猫舌と言えば私が大学1年生の秋ごろ、風邪を引いて夫くんに看病をして貰ったことがある。

心身ともに弱り切っていた私は、心身ともに弱り切っていたから、仕方なく、ここぞとばかりに夫くんに甘えた。

私の人生の中でも、あれはかなり上位に入る甘えっぷりだったと思う。

ふーふーしてあーんとかして貰った。

それで火傷した。

あれは熱かったなぁ。

まさか、夫くんに食べさせて貰って吐き出すなんて愚行をするわけにもいかず、必死に飲み込んだけども。


……ともかく、今は塩焼きそばだ。

大変美味である。

具材はキャベツとピーマン、ニンジン、そして豚肉だ。

妻「んふふふ。美味しいです」

夫「あれ? そっちだけ塩辛くしたんだけどな」

妻「もー、まだ言ってるんですか?」

わざとらしい口調と表情に、思わず笑ってしまう。

妻「美味しいですよ」

夫「それは何よりだ」

妻「……でもちょっと多くて食べ切れないかもしれません」

夫「ありゃ、そうか。ちょっと貰おうか」


妻「ごちそうさまでしたっ」

夫「ごちそうさまでした」


妻「じゃあ、洗い物もついでにやっちゃいますね」

夫「それくらいやるよ」

妻「ダメです。今からチョコ作るんですから」

夫「えー」

妻「しばらくキッチン侵入禁止、です」

言いくるめて、キッチンへ。

手早くお昼の洗い物を済ませ、チョコケーキの、本日の私の本命武器の製作に取り掛かろう。


将棋ではなんとか勝ち越した。

でも本日の本当の意味での勝敗は、この武器にかかっているのだ。

きっと失敗してしまったとしても、夫くんは笑顔でぺろりと平らげてしまうのだろう。

だからこそ。だからこそ、失敗するわけにはいかない。

我が全身全霊の技術を以て、細心の注意を払って、この武器を作り上げなくてはならない。

平日であればそんなに凝ったものは作れないのだけども、嬉しいことに本日は土曜日。

愛情こもったケーキだって作れるのだ。


オーブンを180度に予熱して、バターを湯煎にかける。

ボウルに触れる部分がてろりと溶け出し、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

……どうしたって顔がにやけてしまう。

今年はシンプルなチョコレートケーキを作ろうと1ヶ月前から計画している。

何度も脳内シミュレーションを繰り返してここにいる。

作るケーキの数は一個、私の分はなし。とある狙いあってのことだ。

準備は万端だ。

冷蔵庫からチョコを出し、包丁でざくざくと刻み始める。

夫くんの好みに合わせて、ビターだ。

刻み終えたら、スポンジケーキを焼く。

ボウルに砂糖と卵を入れ、ハンドミキサーでギョワーっと撹拌。泡立てる。

……そういえばよつばと!で女子高生’sがケーキ作ってたなぁ。

よつばと!の最新刊はいつ出るのだろうか。待ち遠しい。

私はみうらちゃんが一番可愛いと思う。


あとは、食べる直前にコーヒーパウダーをまぶすだけになった。

ひとまず、ケーキ完成だ。

……完成してしまった。

味は、きっとまずまずのものが出来上がったと思う。けども。

つくづく思う。

こういう贈り物と言うのは、贈ろうと計画している間や、作ったり選んだりしている間が一番幸せなのだと。

いざ完成すると途端に緊張してきてしまう。

……当然だけども、最後には渡さなければならない。

私は基本的にも応用的にもヘタレなのだ。

夫くんの存在を意識すると緊張してしまい、頭も口も回らなくなるし、まるで望遠鏡を覗いたように視野が狭くなってしまう。

端的に言うと夫くんしか見えないし夫くんの事しか考えられないくせに口を開けば噛みまくる状態になる。

もう20年以上一緒にいるというのに、この症状は治る見込みがないどころか悪化するばかりだ。

深呼吸をする。手を合わせて拝んでおこう。今日は失敗するわけにはいかない。

どうかどうか、夫くんの口に合いますように。

願掛けが終わったら、冷蔵庫のちょっと見えにくい所で冷やしておく。


おこたに戻り、夫くんの隣へ侵入。

夫「できた?」

妻「う、うん。あとは冷やすだけ、です」

夫「見てきていい?」

即座に立ち上がろうとする夫くんの肩に手をかけ、静止する。

妻「ダッ、ダメですダメです、今から冷蔵庫開閉禁止です!」

夫「えー」

くすくすと笑う夫くん。

妻「食べるときのお楽しみですよ!」

夫「一目だけでも」

妻「ダメ!」

……どうか口に合いますように。


夫「毎年楽しみです」

妻「……お口に合えば良いんですが」

夫「妻ちゃんは毎年そう言って心配してるけど、毎年美味しいからなー」

妻「そ、それはその……何よりです……」

夫「妻ちゃんに始めてチョコ貰った時は嬉しかったなぁ」

妻「う……受け取って貰えた私の方が、あの、多分嬉しかったと思います」

夫「大好きな子にチョコを貰えたから、友達に自慢してたなぁ」

……こ、こやつ、急に私をどうする気なのだ。

ちらりと横目で伺うと、夫くんは私の視線に気づき、にんまりと笑ってみせた。

くっ……からかいやがって……っ!

妻「……私だって夫さんにもrっ、貰ったクッキー、両親に自慢しましたよ」

夫「そう? 喜んで貰えてたみたいで何よりだ」

妻「!」

こんなタイミングで手を握ってきやがった!

ドキドキしすぎて息が苦しい。心臓が今にも破裂しそうだ。


妻「ちょ、ちょっとあの……きょ、今日は、女の人が男の人を口説く日ですよ! 夫さんは口説くの禁止!!」

夫「えー? 口説いてないよ、妻ちゃんに対する素直な気持ちを言ってるだけで」

くすくすと笑いながら、私の手、より正確に言うと私の左手の薬指の根元をすりすりと指先で撫でてくる。

小さい頃はともかく、今の夫くんが私のことを妻“ちゃん”と呼ぶ時は、例外なく からかっている時だ。

今、お前さんをからかっていますよ、と宣言しながら からかってくるのだ。

……それが私には効果テキメンだから成す術がない。

顔が熱くて仕方がない。顔を逸らす。

妻「うそですどう考えても口説いてます、事実上口説いてます」

夫「それは主観によるじゃないか」

妻「世間一般的に見て夫くんの意見の方が圧倒的少数派ですよ!」


散々からかわれた後、一旦キッチンへ逃げる。

時刻は3時ごろ。丁度、お菓子の時間だ。

冷蔵庫から、しっかり余熱が取れたケーキを取り出し、お皿に乗せ、コーヒーパウダーを振り掛ける。

ケーキを食べるときにいつも使っている、金色の小さなフォークを添える。

呼吸と鼓動と気持ちを落ち着けて、夫くんもとへ。

リビングに入ると、夫くんがちらりとこちらを見て、ちょっと意地悪な微笑みを浮かべた。


いざ、本日の一番勝負。

気合を入れ、緊張を忘れたことにする。


夫くんの隣ではなく、対面に座る。

……もう私も26歳。

だというのに、こういう場面だと恥ずかしくてなかなか夫くんの顔を見る事ができない。

小学生のときの私の将来設計では、クールな女の人になるはずだったのだけども。


意を決して、夫くんの目をバチッと見つめる。というか、ほとんどにらみつけてしまった。

妻「……夫さん、好きです! 受け取っttてください」

ちょっと噛みかけた。

夫「ありがと」

緊張している私が面白いのだろうか、くすくすと笑いながら、お皿を自分の方へ引き寄せる夫くん。

両手を合わせて、ぺこりとお辞儀をする。

夫「いただきます」

妻「ど、どうぞ」

金色のフォークを縦に使って、ケーキを切り崩す夫くん。

しっとりめに作ったケーキは、そのままフォークにくっついている。

毎度毎度、この瞬間はどうしても緊張する。

形の良い、色の薄い唇が開いて、ぱくり。

もぐもぐ。


夫「んん」

その表情だけで、私は幸せになれる。

大好きな人の大好きな表情。

夫くんの匂いにも多大なる依存性があると思うけども、夫くんのこの表情もかなりの麻薬っぷりだ。

この表情を見るためなら、私は何度でも美味しいお菓子や料理を作ってみせよう。

夫「んまい。ほろ苦だ」

妻「お口に合って何よりですっ!!」

今の私は、それはそれはだらしない表情をしているのだろう。でも仕方がない。否が応でもにやけてしまう。

もう一口、夫くんが口へ運ぶ。

お坊さんはともかく、普通の人間は基本的に煩悩の塊なのだと思う。

一旦安心すると、雑念というか、欲が沸いてくるものだ。

夫くんのフォークを凝視する。

私の視線に気づいたのか、夫くんが口元まで運んだフォークを止めた。


夫「食べる?」

き、来た! と思いつつ、一応、遠慮しておく。

妻「あ、いえ、私はその……いっぱい味見、しましたし」

夫「そう? …………ホントにいらない?」

……見透かされている。

妻「……言い方がいじわるです」

くっくっと笑いながら、私の口元へフォークを差し出す。

夫「こーやって一個しか作らないのは、これがしたいからでしょ?」

妻「……違いますけど、仮に、そういう可能性が1%でもあったら、言わないでおくのが優しさだと思います」

夫「はいはい。あーん」

小学生の時、私の家に遊びに来た夫くんが使ったコップを、たまに後でこっそり使ってドキドキしていたことを思い出す。

……間接キスは間接キス特有の良さがあると思う。

夫くんの唾液が付いたフォークを私の口に入れるというのにもドキドキするし、

その後、私の唾液が付いたフォークが夫くんの口に入るというのにもドキドキしてしまう。

妻「…………あー、ん」


夫「ごちそうさまです。美味しかった」

2回もあーんをして貰ってしまった。

妻「……私の方こそごちそうさまでした」

夫「なに言ってんの」

夫くんがくっくっと笑いながら、お皿を持って立ち上がろうとする。

妻「あ、私が」

夫「いいからいいから」

妻「……ありがとうございます」

私の邪念を知ってか知らずか、阻止されてしまった。

……洗う前にフォークをぺろっとしようと思っていたのに。


夫くんが洗ってくれている間に、対面からいつもの定位置に移動する。

ささっとお皿とフォークを洗って戻ってきた夫くんが、私の右隣に腰を下ろした。

夫「一ヵ月後は楽しみにしといて」

妻「うん、ありがとうございます、楽しみにしてますね」

ホワイトデーは、いつも夫くんが美味しいクッキーやケーキを作ってくれる。

私の最愛の完璧超人さんは、お菓子作りまで完璧だ。

小中の頃は、お義母さんと一緒に作ってくれていたそうだけども、

今はもはや絶品と言う他ないくらい美味しいお菓子を、ばっちり一人で作り上げてきやがる。

私の立つ瀬が無い。

でもクッキーは美味しい。

困ったものだ。


ふと思いついたように、不意打ちで夫くんが私の左肩に手を置いて、ぎゅっと抱き寄せた。

妻「!?」

突然の幸運と緊張に、身体が硬直する。

妻「……あの、な、何ですか?」

夫「いやー、好きですって言ってくれたのに」

手まで繋がれてしまった。もはや私に逃げ場はない。

夫「返事してなかったと思って」

妻「そ、そんの……」

噛んだというか訛ってしまった。緊張すると途端に回らなくなる自分の舌が憎い。

夫「嫌?」

妻「滅相もない!!」

夫「滅相もないと来たか」

おかしそうにくすくすと笑う夫くん。ますます頭に血が上ってしまう。

夫「まー、なんだその」

私のお腹を優しく撫でてくれた。手の感触がくすぐったい。


夫「子供が生まれたら、妻ちゃんといちゃつく時間もなかなか取れなさそうだし」

もう今にも心臓が破裂してしまいそうだ。顔が発火してもおかしくない。

夫「今のうちにいちゃいちゃしておこうかなと思って」

妻「……そっ、そう……ですか」

夫「うん」

夫くんの重心が、少し前になった。

長年夫くんと一緒にいた私の思考回路は、それだけで夫くんの意図を読み取ってしまう。

以心伝心具合がちょっと誇らしくもあり……より一層緊張してしまう要因でもある。

だって、今からキスするぞと言われて緊張しないはずが無い。

ちらりと夫くんの唇を盗み見る。

形が良くて、色が薄くて、ふにふにしてて、見た目からは想像が付かないほど柔らかい、夫くんの唇。

夫くんが身体を捻って、私の正面に顔を乗り出す。

私は少しだけ顔を上げて、夫くんの方を向く。


夫「……ちょっとケーキの味が」

妻「お、夫くんだって」

夫「そうだった?」

悪戯っぽく微笑んで、右手で私の頬を撫でながら、唇を親指でふにふにと弄くってくる。

……間接キスはドキドキして幸せだけど、やっぱり普通のキスが一番シンプルに幸せだ。

目を閉じて、頬を撫でてくれる手のひらの感触を堪能する。

夫「……もう一回していい?」

妻「!……あの……こちらこそ」


合計3回もキスして貰えた。

顔が燃えそうなくらいに熱い。頭がのぼせ上がってしまう。

その上で、顔がにやけるのを止められない。

こんな奴が母親になってよいものだろうか。正直不安だ。


時刻は16時。

結局、今日は一日中パジャマを脱がないことになりそうだ。

だらしない生活だけども、夫くんと一緒だと思うと妙に幸せを感じてしまう。

こんな姿の私を見せるのは今は夫くんにだけだし、こんな姿の夫くんを見る事ができるのも今は私だけなのだ。

夫くんは私を自堕落な生活へ誘う悪魔なのかもしれない。

その悪魔さんは、今は洗濯物を取り込んでくれている。

私はアイロン台を組み立てて、洗濯物の中からアイロンが必要なものを取り分ける。

夫くんが他の洗濯物を畳んでくれている間に、Yシャツとズボンにじゅーっとアイロンの足跡を残していく。

夫「……最近気づいたんだけど」

妻「はい?」

夫「アイロンかけてる姿ってなんか妙に色気あるよね」

妻「……何言ってるんですか?」

髭剃り姿に色気を感じる私が言うのも何だけども、夫くんはちょっと変だ。


畳み終わった洗濯物をクローゼットに仕舞い込んだら、また将棋をすることにした。

今度はネットで、姿が見えないことを良い事に、2対1の対局だ。

夫くんがパソコンを操作し、私はその隣から画面を覗き込む。

私たちは後手。相手の一手目は、7六歩。

夫「何で行こうか?」

妻「居飛車で行きましょう」

夫「居飛車か。よっしゃ」ポチ 8四歩

妻「勉強中です」

夫「うーん、角道開けようか」

妻「角交換したいですね」

夫「ですね。そうしましょうか」ポチ 3四歩

妻「そうしましょー」

夫「んー、うん。……ん? れ?」

まさかの△3三角。ただで角を渡してきたようなものだ


妻「……明らかにミスですよねこれ。」

夫「いやまぁ、だろうな」

『相手が投了しました』ピローン

夫妻「あっ」

夫「多分クリックミスだな」

妻「萎えちゃったんですね」

顔を見合わせて苦笑する。

△7六歩、▲8四歩、△6八銀、▲3四歩、△3三角、間髪入れずに先手投了という、スピード将棋だった。


そのままもう一局することにした。

またもや後手で、相手はどうやら美濃囲いのようだ。こちらは矢倉を組むことにした。

今度は先ほどのようなアクシデントもなく、順調に進み、中盤。

まだまだ戦況は拮抗している。しかし、お互いの銀と角から、5五に戦いの焦点が集まりつつある。

夫「あ、忘れるとこだった。風呂洗わないと」

妻「あ、そうでした」

夫「ちょっと洗ってくる。続き指しといて」

妻「ありがとうございます。夫さんが戻ってくる前に勝負付けときます!」

夫「負けんなよー」

くすりと笑って、夫くんがお風呂場へ向かった。

戦場を任されたからには、真剣に勝利を求めよう。

画面をにらみつける。


夫「ただいま」

妻「……負けました」

夫「ありゃ」


18時。

少し早いけども、夕食の準備に取り掛かることになった。

お味噌汁は朝作ったものがまだ残っているけども、他の品が何もない状態だ。

副菜を何種類か作りたい。冷蔵庫の中身を確認する。


まずは煮物を作ろう。

鍋いっぱいの灰汁抜き用のお湯を沸かせながら、

夫くんにレンコンとニンジンの皮剥きと、一口サイズに切り分けをお願いする。

こんにゃくもあったので、私がその横で一口サイズに手でちぎっておく。

鍋が沸騰したら、レンコンをさっと茹で、ざるに上げる。

夫「何秒? 何分?」

妻「えーっと……15秒くらい?」

夫「おっけー」


妻「その後ニンジンも3、4分くらい茹でてください」

夫「うん」

……夫くんに美味しいって言って貰えるように料理を作るのも楽しいけども、

こうやって夫くんと二人で料理するのも物凄く楽しいということに今更ながら気づいてしまった。

ニンジンを茹でている間に、超手軽なサラダを作っておく。

夫くんにお願いして、キャベツを洗ってざっくりと切って貰う。

私はその横でツナとコーンの缶詰を開けて、コーンの水気を切る。

キャベツにツナとコーンを加え、よく混ぜながら、夫くんにオリーブオイル、マヨネーズ、ポン酢を混ぜ合わせておいて貰う。

夫「でも僕はオリーブオイル」

妻「フふッ、んんッ!……料理中にふざけちゃダメです」

夫「まるでもこみちくんが番組でふざけてたみたいに」

妻「そっ、そんなことは言ってないですよ?」


今日のメインはブリの照り焼き。

何度も夫くんに食べて貰ったことのある料理だけども、夫くん自身は作ったことの無いメニューだ。

なので、今回は一緒に作ることにする。

とはいえ、そんなに難しい料理ではない。

醤油、みりん、お酒を1:1:1で混ぜ、あと砂糖と黒糖をほんの少し。これでタレは完成だ。

ブリの切り身をフライパンで焼き、両面に焼き色がついたら蒸し焼きにする。

その後、作っておいたタレを全体にかけると、食欲をそそる匂いが漂いだす。

夫「おー……こうやって作ってたのかー。美味そ」

楽しそうにフライパンを覗き込む夫くん。

その楽しそうな横顔や服をまくっている腕に目を奪われる。

……本当に、かっこいい人だと心から思う。

妻「あとは焦がさないように注意しながら、時々タレを追加して、じっくり弱火です」

夫「りょうかーい」


今日の夕食は煮物、キャベツのサラダ、きんぴらごぼうと卵焼き。そしてブリの照り焼き。

お味噌汁を温めなおし、ご飯をよそって食卓へ運ぶ。

二人とも食卓に着き、両手を合わせる。

夫「いただきます」

妻「いただきます!」


夫「美味い。我ながら」

妻「ですね!」

煮物もブリの照り焼きもきんぴらごぼうも、とても美味しかった。


夫「これで照り焼きも覚えた」

妻「どんどんレパートリー増えますねー」

夫「おー。もっと大きくなってきたら、手伝って貰うわけにもいかないからな」

妻「ちょっとくらい大丈夫ですよ。逆に運動不足になっちゃいます」

夫「妊娠中くらい任せなさいってば」

妻「うむぬ」

やっぱり過保護だ。……顔がにやける。

自意識過剰な思い込みだとしても、大事にしてくれているみたいで幸せだ。


妻「ご馳走様でした!」

夫「ご馳走様でした」

煮物ときんぴらが残ったので、ラップをかけて冷蔵庫へ。

その間に、夫くんが洗い物をしてくれる。

そろそろ冷蔵庫の中も空っぽだ。

買い物に行かなくてはならないな。明日は残念ながら一日中パジャマというわけにもいかないか。


ちなみに我が家の冷蔵庫の中には炭酸飲料のライフガードの缶が常備してある。

私は炭酸飲料があまり得意ではないので飲まないけども、夫くんの好物なのだ。


夫「明日はさ、肉じゃが作りたいな」

妻「肉じゃがですか?」

夫「コロッケ作りたい」

妻「あー……んふふ。あれ好きですよねー夫さん」

夫「美味いからな!」

肉じゃがだのコロッケだの、何を言ってるんだと思われるかもしれないけども、

私の実家では肉じゃがを作った次の日は決まってコロッケなのだ。

あらかじめ多めに肉じゃがを作っておいて、次の日にジャガイモを潰して水分を飛ばし、カラッと揚げてコロッケに変身させる。

この肉じゃがコロッケが、夫くんの幼少の頃からの好物なのだ。


私と夫くんはいわゆる幼馴染だ。

私が4歳の頃に夫くんの家族が近所に引っ越してきて、家族ぐるみの付き合いが始まったのだ。

そんなだから、お互いの家で夕飯をご馳走になることも多かった。

確か夫くん小学2年生の頃、とある日、私の家で肉じゃがコロッケを食べてから、

もう20年弱、夫くんの好物であり続けている。

当然、私はその作り方も母から受け継いでいる。母にはいくら感謝してもし足りない。

妻「じゃあお昼に肉じゃが作って、夜にコロッケにしましょうか」

夫「楽しみだなー」

無邪気だ。

可愛い。

ギャップがずるい。


時刻は20時ごろ。

おこたに入りながら、夫くんと一緒にゲームをする。

私たちは、一般的に言う所のゲームオタクだと思う。

格ゲーからFPS、パズルにアクション、RPGまで。ただし、広く浅く嗜む程度に。

二人プレイをする事も多々あるが、最近は夫くんがWiiUをプレイするのを隣で眺めることが多い。

引っこ抜かれて、運んで戦って最後には食べられるやつの3作目だ。つい最近購入した。

……昔、これの1作目が出たときに、友人にあんたピクミンみたいだよねといわれたことがある。

確かに1作目の時の盲目的なまでのオリマーラブっぷりにはかなりの親近感を覚えたけども、

2作目になり、ベテラン社員と新米社員とでまさかの二股をしたと思ったら、

今作に至っては、こやつら、キャプテンとエンジニアと植物学者との間をフラフラするらしいじゃないか。

何処が“貴方だけに着いていく”なのだ。全く不貞である。


と、なにやら緑色の球体を見つけた。

まだまだ序盤も序盤、操作キャラクターにようやく植物学者が加わったところだ。

夫「うわ、何だこれ?」

妻「うーん……マリモ?」

夫「食べ物じゃないのか?」

妻「……スダチとかですかね?」

夫「あ~、それっぽい。まぁいいやとりあえず運んで貰おう。赤ピクミンがんばって」

妻「ついでにあっちの橋作れるんじゃないですか?」


『カボストニタリヨタリ』

夫妻「カボスかぁ~」


今作ではピクミンだけでなく、操作キャラクターたちをも投げ飛ばすことができるようになった。

三人の操作キャラクターを投げ飛ばし、ピクミンを受け渡すことで、より一層行動の幅が広がるという寸法だ。

なかなかに面白い。


9時半まで引っこ抜いては敵やアイテムへ向かって投げつけ、投げては笛を吹いていた。

夫「おーし、今日はここまでにするかぁー」

ぐぅーっと背伸びをしながら、夫くんがかすれた声で終了の合図。

楽しい時間は、本当にあっという間に過ぎ去ってしまう。

ついちょっと前に、チョコを作って心臓をバクバクさせていたような気がするのに。

妻「お風呂沸いてますよ」

夫「先入って良い?」

妻「もちろんです。ごゆっくりどうぞ」

夫「ん、ありがとう」

このやり取りも、いつものことだ。


休みの日の夜に二人でゲームをやって、9時過ぎに夫くんがお風呂に入りにいく。

赤ちゃんが生まれたらなかなかこういう時間も取れなくなるだろうな。貴重な時間だ。

お腹が大きくなる前は、夫くんがお風呂に入っている間に翌日の朝ごはんのおかずを1品作っていたのだけども、

今は夫くんに心配されるので、余計なことはしないでおこう。

おこたに入りながら、漫画を読むことにする。

友人に勧められた『つるつるとザラザラの間』というタイトルの漫画だ。

内容は、言ってしまえば、爬虫類が苦手な中学生の男の子と爬虫類が大好きな中学生の女の子がおっかなびっくりいちゃいちゃする、だけ。

読み進めていく。可愛らしい絵柄で、ただただ可愛い二人がひたすらいちゃいちゃ。私の好みどんぴしゃだ。

……しかしまさか擬人化ならぬ擬爬虫類化した恋人が自分の腕を這う夢を見た中学生の男の子が

夜中に自分の下着をお尻丸出しで洗っているところを母親に目撃されるシーンに出会うとは思いもしなかった。

……夫くんにもこういう事があったのだろうか、と想像して、悶々とする。


ガチャリと、お風呂場のドアが開く音が聞こえた。

あわてて髪の毛に手櫛を通し、さっと身だしなみを整える。

夫「上がったよ」

妻「おかえりなさい」

髪の毛がしっとりした夫くん。なんだかいつもより幼く見えて可愛らしい。

妻「じゃ、私も入ってきますね」

夫「うん。ごゆっくり」


脱衣所で服を脱ぐ。

マタニティウエアというのは、着てみると本当に楽だ。

でも最近は張ってきたせいか、胸の方がきつくて息苦しい。

下着を外すと、胸に痕がついていた。

……マタニティ用の下着というものもあるんだったっけ。

夫くんに相談して購入を考えよう。


お風呂場へ。

鏡で見ると、お腹が大きくなってるのが良く分かる。

シャワーからぬるま湯を出して、まずは髪の毛を念入りに漱ぐ。

熱いお湯で絞ったタオルで髪の毛を覆って蒸らしながら、身体を洗う。

くしゅくしゅと泡立てたタオルで身体を洗っていく。

お腹が大きくなってきて、ちょっと洗いにくい。

全身を隈なく念入りに洗って、最後にデリケートな部分を指で丁寧に洗う。

身体を洗い終わったら、泡立てネットで細かくあわ立てた洗顔料で顔を洗い、最後にタオルを外して髪の毛を洗う。

私の髪の毛は、今は腰の辺りまで伸びている。ちょっと伸びすぎだ。切りにいかなくては。

長すぎるとケアも大変だ。重いし。シャンプーもコンディショナーも余計に消費してしまう。

この季節は乾燥するから、ちょっと気を抜くとすぐに痛んでしまうし。

泡をシャワーでよく流して、髪にコンディショナーを馴染ませてタオルで上げ、湯船に浸かる。

さすがにこの身体で半身浴なんてしていられない。

ゆっくり身体を暖めて、のぼせない内に上がろう。

はぁーっとため息。


今日は戦いの日だったけども、今までの人生のバレンタインに比べると、随分のんびりと過ごせた気がする。

小中高、そして大学と、バレンタインは本当の意味で戦いの日だったのだ。

少し昔を思い出す。

心底惚れてしまった私が言うのもなんだけども、夫くんはかっこいい。

小学校の頃はライバルがたくさんいた。

勉強も出来るし、体育でも大活躍だ。クラスの人気者で、当然、女の子にとても人気があった。

私は当時、母に「好きなら言葉はともかく態度でアピールしろ」というようなことを教わっていたので、

言葉には出さなかったけども、自分なりに必死に夫くんへの好意を表現していたつもりだ。

バレンタインは、そんな私にとってはありがたいイベントだった。

誰よりも早く、当日の朝に夫くんが家から出てくるのを待ち伏せ、いの一番にチョコを手渡し、その後一緒に登校していた。

……今思えば、いや当時から自覚はあったけども、正真正銘のストーカーだった。


中学2年生になり、夫くんと交際して貰えることになった後も、バレンタインは戦いの日だった。

夫くんが卒業するまで、私達は交際している事を本当に親しい友人以外には秘密にしていたのだ。

当時、色恋沙汰に目覚め始める思春期真っ只中の中学生時代、

私の周りでも、あいつとこいつが付き合ってるらしいぜ!という話題は事欠かなかった。

そして大体のカップルはそういう場合、周りが茶化して気まずくなり、そのまま自然消滅なのだ。

そんなことになるのは絶対に嫌だった私は、夫くんにお願いして秘密にして貰った。

……あと、2年生の私が夫くんと交際しているなんて事が知れ渡ったら、3年生の先輩女子に何をされるか本当に分かったものではなかった。

漫画のような話だけども、本当にそれくらい当時の夫くんは女の子に人気があったのだ。


そして高校生になり、自分から言いふらしたりはしなかったけども、聞かれれば隠さないようになった。

一緒に登下校したり、校内で話したり、を目撃されることも多かったから、聞かれる事は多かった。

だけども。

私と夫くんとが交際している事を知っていてなお、夫くんにチョコを渡そうとする人がたくさんいたのだ。

しかも明らかな本命チョコをだ。

義理チョコですら面白くないのに、綺麗にラッピングされたハート型のチョコなぞ、私に対するあてつけとしか思えなかった。

事実、あてつけだったのだろう。

そんなわけで、私のバレンタインは幸せな日であると同時に、苛烈な戦いの日でもあったのだ。


去年は、結婚して八ヶ月目。

結婚できたという人生でも間違いなく最大のイベントをなかなか実感できなくて、私は毎日緊張していた。

……今も、結婚なんて夢でしたと神様に言われれば納得してしまいそうなくらい、夢見心地ではあるのだけども。

まず、毎晩同じ布団の中、夫くんの隣で眠るという事に寝不足だった。だって隣から良い匂いがするんだぜ。


ところが、今日はどうだ。

一日中パジャマ。朝から二人でお茶を飲みながら将棋をし、お昼からのんびりチョコケーキを作り、

夫くんに贈ってあーんとかして貰い、その後は一緒に料理だ。

土曜日だったという事もあるけども、戦いの日とは思えないくらい、のんびりとした日だった。

……こうやって、私もいろいろと落ち着いていければ良いな、と思う。


目下、夢はちゃんとしたお母さんになることだ。


湯船から上がり、全身をシャワーで流してフェイスタオルで水分をある程度ふき取ってから、脱衣所へ。

バスタオルで身体を拭いて、下着と、パジャマを着用。

化粧水と乳液でスキンケア。

髪の毛をタオルで持ち上げて、歯を磨く。

……土曜日は、髪にドライヤーをかけずに夫くんの下へ向かう。

結婚して、いつからか恒例となった、一週間に一度の私のわがまま。

土曜日だけは、お風呂上りに夫くんに髪を乾かして貰えるのだ。

このわがままを言っていられるのも、きっとあと少しだけだ。

子供が生まれたらそれどころではないだろうし、

子供が成長して手がかからなくなってきても、子供が見ている前で乾かして貰うのはさすがに恥ずかしい。

私の両親も、私が生まれる前は多分今よりももっといちゃいちゃしていたことだろうと思う。

回数制限のあるわがままだ。一回一回を噛み締めて味わいたい。


妻「ただいま」

夫「おかえり」

リビングに戻ると、夫くんはおこたに入りながらさっきまで私が読んでいた『つるつるとザラザラの間』を読んでいた。

妻「あ、それ」

夫「さやちゃん可愛いな」

妻「でしょう!」

虻川さやちゃんというのは、爬虫類が好きな本作のヒロインだ。とても可愛い。

おこたの横には、クッションが二つ、並べて置いてある。近くにはドライヤーと櫛が。……準備万端だ。

私に視線を移し、ふわりと微笑む。夫くんが単行本を天板に置いた。

おこたから出て、クッションの上に腰を下ろす。

夫「おいで」

妻「えへへ……いつもいつもすみません。ありがとうございます」

夫「いえいえ、こちらこそ」

私も、もう一方のクッションの上に腰を下ろす。

夫くんに背中を預けるような形だ。


背後にいる夫くんが、丁寧に丁寧に、タオルで髪の毛を挟むようにして水分を吸い取ってくれる。

自分の髪の毛に言うのもなんだか本当に自意識過剰な気がするけども、とても愛おしそうに拭いてくれるので私もついつい毎週お願いしてしまうのだ。

目を閉じて、少し夫くんに体重を預けて、夫くんの手の感触を堪能する。


凡そ水分を取り終えたら、タオルを頭に被せられる。

かちっとスイッチが入り、ぶおーっという音を立てながらドライヤーが熱風を吐き出す。

タオルの上から熱風を当てながら、髪を拭いていく。伊藤家の食卓でやっていた、髪の毛が早く乾く裏技だ。

夫くんの手がタオル越しにくしゃくしゃと髪の毛を弄び、そこに熱風が当たって、じわじわと熱くなっていく。

心待ちにしていた感触だ。土曜日の楽しみ。

タオルで顔が見えないのを良い事に、思う存分にやけまくる。

髪の毛がしっかり乾いたらタオルを隣に置き、今度は櫛を手に取って、丁寧に私の髪の毛を梳いてくれる。

櫛が頭皮をなぞっていくのが、ちょっとくすぐったい。


……さっき、漫画を読んでいて疑問に思ったこと、思い切って聞いてみようかな。

妻「……夫さん」

夫「ん?」

妻「ちょっと変なこと聞いてもいいですか?」

夫「いいよ、何?」

耳がくすぐったくなるような、優しい声だ。

妻「夫さんも、そのー……いわゆる、その、寝てるときにですね?」

夫「うん?」

妻「……寝てるときに、……出ちゃったこととかありますか?」

1秒の沈黙があったのち、頭頂部に手刀が繰り出された。

妻「ぃてっ」

夫「なんてことを聞いてくるんだ」

妻「だ、だって、漫画に……」

もう一発、手刀を喰らった。


夫「はい、終了」

お楽しみタイムが終了してしまった。

妻「へへへ。ありがとうございました」

夫「こちらこそありがとうございます」

夫くんが私の髪の毛を一房つまみ上げて、毛先で私のほっぺをくすぐってくる。

私も夫くんの頭に手を伸ばして、柔らかい髪の毛を撫でてみる。

そのまま二人でにやにやする。なんとも幸せな時間だ。


ちなみに、結局、教えてはくれなかった。

……と言う事は、多分、あるのだろう。

その時の夢は、どんな感じだったのだろうか。……もしかして万が一、私が出演できていたりしないだろうか。

女性には無い生理現象だからこそ、気になるものだ。

ちなみに夫くんにやらしい事をされる夢を見て朝起きたら下着が汚れていたことが私はある。

最初は中学1年生の頃だった。


時刻は11時を少し過ぎたところ。

夫くんと一緒に、寝室へ向かう。


私が先にベッドに寝転がり、布団を被って夫くんを待つ。

夫くんは加湿器のスイッチを入れ、灯りをオレンジ色の電球に切り替えて、もぞもぞと布団の中へ。

掛け布団を通して伝わってくる振動さえも愛しく思えるのだから、私の病気も治りそうに無い。

今や日常の一部となった、夫くんの隣での就寝。

まだ冷たい布団を、二人の体温で暖めていくこの時間さえ幸せだ。

以前のような緊張からくるドキドキよりも、安心感の方が強くなってきた。

緊張して緊張して眠れなかったあの時間も幸せだったけども、今はこの安心感がこの上なく心地良い。


夫くんのパジャマの肩あたりを摘まんで、つんつんと引っ張る。

オレンジ色の視界で、一度だけキスをして貰った。

歯磨き粉の味がする。

夫「おやすみ」

妻「おやすみなさいっ」

おしまい。

らぶらぶ乙

これは今年の話?

>>85
昨日の出来事に適当に味付けしたものですww

他の人はどうかわかりませんが、本番は私たちはしませんねー
今は、たまに口で……くらいです

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom