佐久間まゆ「まがいもの」 (142)


 時間は、はらはらと落ちて行った。
 指先で触れた花が散って行くように。

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 時折、確かめるように日記帳を開くことがあった。
 記憶の残り香を抱いて、古い自鳴琴へ耳を傾けるように。
 それが忘れたふりだということは、分かっていた。
 たまゆらに起こった細波へ今一度揺られようと素足を沈める――ただそれだけに過ぎないことを。
 記憶の始まる最初の日付は、仄かな白が空へ滲む晩秋に書き込まれている。

 ――――

 その頃、私はほとんど毎日、街中にあるチェーンの喫茶店へ通っていた。
 隅の二人がけのテーブル席がお気に入りで、よく編み物の本を読んでいた。

 その日は平日の午前中であるのに混んでいて、向かいの席へ男性が一人案内された。
 こざっぱりとした雰囲気に、グレーのスーツがよく似合う会社員風の人だった。
 店員はいかにも申し訳なさそうに相席の礼をして、コーヒーを運んできた。

 会社員風と言ったものの、平日の午前中にこんな喫茶店へ来るなんてよっぽど暇か、
 あるいはサボりなのかしら。私も人のことは言えないけれど。

「編み物が趣味なんですか」

 カップから漂う香り越しに見ると、彼は微かに笑っていた。
 表紙を見せるように、手首を少し反す。

「趣味というわけじゃないです。ただ、読んでいるだけで」

「編み物の本をただ読んで、面白い?」

「さあ……」

「変わった子だね」

 彼はくすりと笑って、コーヒーを一口啜った。

「もしよければ、名前を教えてくれないかな」

「どうしてですか」

「仕事柄、気になった子の名前は訊けって言われるもんで……」

 変な仕事じゃないよ、と彼は慌てて付け足した。
 確かに、例えばホストにしては、彼の顔は少し愛嬌がありすぎた。

「……佐久間まゆです」

「ありがとう。今日は学校は休みかな? 羨ましい」

 一瞬ぐっと言葉に詰まったが、私はうまく微笑んだ。

「貴方は、お仕事ですか?」

「そう。とは言え、見ての通り暇なんですけどね」

 彼はカップの縁を指で撫でつつ、窓の方へ振り返った。
 見ると、往来にパラパラと雨が降り始めていた。

「参ったな。明日は降らなきゃいいけど」

 彼はため息をついて、それからコーヒーを飲み干した。

「佐久間さん、傘は?」

「持ってきてないです」

「そっか」

 彼は鞄から折り畳み傘を出して、テーブルへ置いた。

「もしよかったら、どうぞ使って下さい。名前と相席のお礼ということで」

 返事を待たず、彼は席を立った。
 会計を済ませ、雨の往来へ走り出て行った彼の背中が見えなくなると、
 私はテーブルの傘を手に取った。

 傘を鞄にしまって、私はココアのカップを持ち上げた。
 雨が止んでから帰ろう。
 曇り空を透かす淡い陽光を浴びて、濡れた路が白く濁っていた。

 ――――

 時折、出涸らしのような罪悪感に駆られて、学校へ行くことがあった。
 大抵は午前の授業が終わる前に保健室へ駆け込んで、
 お昼休みには早退するのだけれど――今日も同じように保健室へ駆け込んだ。

「頭が痛くて」

 女性の養護教諭は理由を聞くと、名簿に私の名前を書いてくれた。
 彼女とも久しぶりに会ったような気がする。

 私は隅のベッドに横になって、そっと目をつむった。

「最近、お仕事はどう?」

 彼女の優しげな声を寝たフリでやり過ごしてしまう。頭がズキズキと痛んだ。

 結局いつもと同じく、昼休みになると荷物を取って学校を早退した。
 曇り空の下、成仏できない幽霊のようにあてなく歩いた。
 時折、木枯らしに足元がふらついた。

 家に帰る気分ではなかった。
 途中の交差点を曲がって、私はチェーンの喫茶店を目指した。

 街中のアーケード通りに差し掛かったとき、奇妙な人混みが目に映った。
 遠目に観察すると、中心に居る少女をカメラやマイク、何人かの野次馬が囲んでいた。
 さっさと立ち去るつもりだったけれど、カメラマンと野次馬の間に昨日の彼が見えて、
 私は思わず立ち止まった。

 正直、意外だ。彼は芸能界のような華やかさと無縁に見えたから。
 どちらかと言えば、保健室の養護教諭に似ていた。

 私はその人混みを追った。
 私に気付いてくれないかと期待したけれど、彼は仕事に夢中らしかった。

 結局、彼と話ができたのは夕方頃だった。
 アーケード通りで撮影を終えたあと一行は解散し、彼は少女を伴ってラジオ局へと向かった。
 二人がラジオ局から帰ってくるまで、私は二時間ほど待たなければいけなかった。

 自動販売機で買った缶のココアにかじかむ手を温めていると、笑いがこみ上げてきた。
 ただ、傘を返そうというだけで、私はなにをしているんだろう。

 ようやく少女と彼がラジオ局から姿を現したとき、空は藍と紫の絵の具を混ぜ合う水のようだった。
 私は空き缶をゴミ箱に放ると彼の元へ走り寄った。

「あの、すみません」

「は、はいっ」

 先に振り返ったのは少女の方だった。
 秋らしい落ち着いた色合いのスカートとジャケットに、
 ハンチング帽を目深に被る下へ丸っこい目がきょろりと動いている。
 どことなく垢抜けない風貌が却って彼女を可愛らしく見せた。

「あ、いえ……その、男性の方……」

「僕?」

 彼は自分のことを指さして、言った。

「はい。あの、喫茶店で、傘を借りた……」

「ああ、佐久間まゆさん」

 彼はポンと手を打って、にこりと笑った。

「傘、ありがとうございました」

 鞄から折り畳み傘を出して彼に手渡す。彼の横で少女がキョロキョロと私を見ていた。
 それから、彼女は彼の方を見上げて、訊いた。

「知り合い?」

「昨日、喫茶店で相席になったんだ」

 ふーん、と興味があるのかないのか、彼女は私の方へ目を戻した。

「佐久間さん、こちら工藤忍」

 彼は懐から名刺を出して、一枚渡してくれた。

「彼女、アイドルなんだ。まだ、活動歴は浅いけど」

「わっ、ちょ、ちょっと……!」

 少女は顔を赤くして、慌てた。名刺には少女の名前とプロダクション名が印刷されている。

「工藤忍をどうぞよろしく」

「ねぇ、アタシにも心の準備というものが……」

「いいかげん慣れてもらわないと、ロクに紹介もできないや」

「だ、だけど……」

 少女は恥ずかしそうに彼の袖を引っ掴んだ。
 彼は構わず、私の方へ向き直った。

「改めて、返しに来てくれてありがとう。
 せっかくだし夕飯くらいごちそうしたいんだけど……あいにく、時間が」

「気にしていません。私が忙しいところに来ちゃったから」

「本当にごめんね」

 彼は少女の方を振り向くと、苦笑した。

「じゃあ、また」

 少女はやっと袖を離して、彼と並んで歩き始めた。
 時折、振り返って、丸い目を私の方へ向けているようだった。
 私は二人の後ろ姿を見つめていたが、直に帰路を歩いて行った。

 ――――

 夕食の席で母に、土曜日に東京へ行くことを伝えた。

「お仕事?」

 私は曖昧に頷いて、黙々とハヤシライスを口の中へ詰め込んだ。
 読者モデルは一月も前に辞めているのに、ずっと明かせないでいる。

 その場しのぎの嘘だと分かっていても、もう後戻りはできない。
 後戻りはできないけれど、一体どこへ向かって行くのかは分からなかった。

 土曜日の朝、起きると私はさっさと着替えて、家を出た。
 この息苦しさとも今日限り別れられるかもしれない。

 新幹線での二時間は退屈だった。
 母からミュージックプレイヤーを借りてきてよかった。
 編み物の本は家へ置いてきたし(ただ読んで面白いものでもないけれど)、
 景色を見るのはさして楽しくなかった。

 プレイヤーには母の好むブリティッシュロックがたくさん入っている、らしい。
 どれも知らないバンドだった。

 あっちこっちとつまみ食いのようにプレイヤーを操作した。
 気に入ったバンドのアルバムを一回り聴き終える頃、ちょうど東京へ着いた。

 名刺に印刷されていたプロダクションは、雑居ビルの一室に事務所を構えていた。
 様々な広告看板に紛れるそれは、一見するとサラ金か英会話教室に思える。

 一つ深呼吸をしてビルの階段に足をかけた。
 事務所のある三階まで上っただけなのに、息が切れる。
 呼吸が整うまで、私はドアの前で途方に暮れていた。
 喉の奥が痺れたような感覚、それに口の中がカラカラに乾いている。

 誰か、このドアを開けてくれないだろうか。
 首筋に冷たい汗が伝うほどに、私は神経質になっている。

 控えめに、ドアを三回叩いた。
 待てど暮らせど――と言うほど時間が経ったわけではないけれど、
 内からドアが開く気配はなかった。もう一度ノックをする。

 静かなドアの前、深い溜息が反響した。
 右手を開くと、淡く差し込む秋の陽に汗が光った。
 服の裾で手のひらを拭って、私はドアを開けた。

 中へ入って、後ろ手にドアを閉めると、デスクに座る二人が私の方へ怪訝そうな目を向けた。
 どちらも知らない顔だった。

「新人の子かな」

「いや、俺ぁ知りません」

 顔を見合わせる二人へ礼をして、私はポケットから名刺を取り出した。

「工藤忍さんのプロデューサーに会いに来ました」

「そりゃあ、俺だけど」

 向かって左の男性が手を上げた。

「……本当ですか?」

「本当ですよ?」

 首をひねる私に、デスクの彼も同じように首をひねった。

「でも、私が会った人と……」

「その会ったって人の名前は知ってる?」

 もちろんと言いかけて、彼の名前を知らないことに初めて気が付いた。
 私は失望感に俯いてしまった。

「佐久間さん?」

 声の方へ振り返る。入り口から遠い隅のデスクで、男性が一人身を乗り出していた。
 間違えようがない。傘を貸してくれた彼だった。

「あっ……あの、こんにちは……」

 彼はデスクを立って、私の前へ歩み寄った。

「どうも、こんにちは」

「ああ、マドギワさんのことだったんですか。彼女、誰です?」

「知り合いと言って差し支えない子ですよ」

 マドギワと呼ばれた彼は二人へ私を簡単に紹介したあと、向き直って尋ねた。

「どうしたの、佐久間さん」

「私、アイドルになりたいんです」

 数瞬間、彼は呆気にとられたようだった。
 それから左手の時計を見て、咳払いを一つするとデスクの二人に呼びかけた。

「お昼、食べてきます」

「はい、ごゆっくり」

 事務所を出て、後ろ手にドアを閉めると、彼は苦笑を見せた。

「連絡してくれれば、もっとちゃんと色々準備しておいたのに」

「あっ、すみません……気がつきませんでした」

「まあ、いいや。なにか、食べたいものはある?」

「えと、ファミレスとか」

「ハンバーグか」

 彼の中ではファミレスといえばハンバーグらしい。
 私は彼の後ろへついて、淡く陽の射し込む階段を降りて行った。

 彼と入ったファミレスは昼時ということもあって混んでいた。
 待たされている間、空腹が意識の縁までぷかりと浮かんできた。
 気まずくないくらいの沈黙の時間が過ぎ、それから二人がけの席に案内された。

 私はハンバーグを、彼はたらこスパを注文した。
 ファミレスといえばハンバーグじゃないんですか、と言いかけてやめる。

「君は読者モデルなんだろう?」

 スパゲッティをフォークでくるくるとまとめながら、彼は尋ねた。

「知ってたんですか」

「あ、いや……彼女に聞いたんだ」

「あの、ハンチング帽の……」

「そう、工藤忍」

「そう言えば、その……マドギワさんはあの人のプロデューサーではないんですか?」

「あー、そうだね。僕は誰かに付いてるわけじゃないんだ」

「そもそもプロデューサーではないということですか」

「いや、プロデューサーなんだけどね」

 彼は照れくさそうに言った。

 聞くと、彼は他のプロデューサーと違って、非常勤講師のような役割を受け持っているらしい。
 先日の工藤さんの仕事は、担当の予定が合わないため彼が代打で付いた。
 そうしたピンチヒッター以外ではもっぱら事務仕事や裏方のさらに裏方仕事をこなしている。

「肩書はプロデューサーだけど、実際はやることの多い雑用係みたいな感じ」

 彼は自嘲的な笑みを浮かべた。

「だから、『窓際』ってアダ名なんだよ」

「えっ、あっ……アダ名……」

 頬がかあっと熱くなるのを感じた。
 マドギワなんて珍しい名字だと思ったけれど、道理で。

「す、すみません……私……」

「あははっ、いいんだ。そうだ、僕の名刺も渡しておこうか」

 彼は内ポケットから名刺入れを出して、自分の名刺を渡してくれた。
 当然、マドギワなんて名字じゃなく、ありふれた名字だった。

「さて、アイドルやろうってなると、読者モデルの方は辞めることになるけど……」

「もう、辞めました」

 フォークを繰る彼の手が、一瞬止まる。

「それはいつ?」

「先週です」

 本当は違う。

「言いたくなければ言わないでいいけど、なぜ?」

「アイドルになりたくて」

 これも違う。私はごまかすようにハンバーグをナイフで突いた。

「……貴方にプロデュースしてもらいたかった」

「僕に?」
 彼は丸めたスパゲッティを口に運び、なにを言うべきか迷うように咀嚼し、飲み込んだ。

「そりゃあ、また随分……情熱的な……」

 困惑しつつも少しおどけたように彼は言った。
 彼がスパゲッティを食べ終わるまでの間、沈黙がテーブルに柔らかく立っていた。

「ご両親はなんて?」

「まだ、なにも話してません」

「一応訊くけど、君が今日、東京まで出てきていることは知っている?」

「はい、知ってます」

 これは本当。

「……プロデューサーさん、私をスカウトしてくれませんか」

 彼はコップの水を一口含み、首を振った。

「それは、オーディションを免除してくれってこと?」

「オーディションを受けなきゃいけないなら、受けます。
 でも、貴方が私をスカウトしたということにしてくれませんか」

「そう望む意図が、ちょっと分からないんだけど」

「いけませんか?」

「ダメっていうか……」

「私は、貴方にプロデュースしてもらうために来たんです」

 彼は控え目にため息をついて、目頭を軽く押さえた。

「わがままだっていうのは分かってます」

「……少し、考えさせてくれ」

「少しって、どれくらいですか」

「佐久間さん、いつまでこっちに居る?」

「ホテルに泊まって、明日のお昼頃には帰るつもりでした」

「じゃあ、連絡先教えてくれないか」

 携帯電話の番号を教えると、彼は手帳へ書きつけた。

「そう心配しないで。なるべく早く決断するから」

 手帳をポケットにしまいつつ、独り言のように彼は言った。
 皿にハンバーグが半分以上も残っているのに気が付いて、私は慌てて口へ運んだ。

 ハンバーグの皿がようやく空になると、私たちは席を立った。
 彼は、私の分の会計まで払ってくれた。
 ファミレスを出たあとに彼と別れて、私はホテルへと向かった。

違ってたら悪いけど雪歩の奴も書いとくれぇぇぇ!

 彼の決断は言った通り早かった。
 コンビニからホテルの部屋へ帰ってくると、携帯電話が鳴った。
 買ってきたサンドイッチとココアをチェストの上へ置いて、私は電話を取った。

「もしもし、プロデューサーさん」

「佐久間さん、こんな夜更けにごめん」

 傍のデジタル時計を一瞥すると、午後九時と表示されている。
 彼の感覚では『こんな夜更け』らしく、きっと私くらいの子は寝る時間だと思っているんだろう。

「いえ、構いません……」

 私は電話を耳に当てたまま、ベッドへ腰かけた。
 携帯電話のスピーカーに彼の呼吸音が届く。

「僕は、君をプロデュースしようと思う」

「……ありがとうございます」

 ひとまず良かった。ほっと胸を撫で下ろす。

「ああ、いや、スカウトして……もう、したってことでいいかな」

「はい、よろしくお願いします」

 私はなんとなく落ち着かなくって、ベッドを立ってうろうろと歩きまわった。

「それで、一つ訊きたいんだけど」

「なんでしょうか」

 と、立ち止まる。

「どうして僕にプロデュースされたいと思った?」

 それは予期せぬ質問だった。私はためらいがちにベッドの上へ戻って、
 チェストに備え付けてあるラジオの電源を入れた。
 ざあ、と冷たいノイズが足元へ落ちて行った。

 どうしてだなんて、ラジオを点けた理由くらい曖昧に眩んでいる。
 いや、探れば分かるはずだけれど。

「……運命だと思ったから」

「運命か」

 彼は笑ったようだった。呆れたようではなく、もっと温かな感じ。

「そういうの嫌いじゃない」

 ザーザーとラジオのノイズが染みている。
 私はツマミを回して、ラジオのチューニングを合わせた。
 水面に波紋が滑って行くように、ノイズが波立った。

 本当は違う。私は運命なんて信じてない。

 ――――

 私の垂れ目は父譲りだ。
 小学生の頃は、泣いていないのに泣き虫だと言われて嫌だった。
 今も、相変わらず好きになれずにいる。

 父の目と違って母の目は切れ長だった。
 その目が咎めるように私を見る度、逃げ出したくなる。

 ピアノを習いたいとせがんだとき。
 写真を応募した雑誌のモデルに選ばれて、保護者の同意書にサインを求めたとき。
 そして、プロデューサーさんが名刺を渡したときも、私の方へ切りつけるように目をやった。

「貴方の好きにしたらいい」

 こういうとき、母は決まって私を貴方と呼ぶ。

「もう、子供ではありませんから」

 母はプロデューサーさんへ言った。

 私と母とプロデューサーさんの三者面談は夕飯前に済んだ。
 ご一緒にいかがですか、と母の言う社交辞令をかわして、プロデューサーさんは出て行った。

 私は夕飯のビーフシチューを急いで飲み込んだ。
 母はもしかしたら、カレーとハヤシライスとビーフシチューを、
 同じものだと思っているのかもしれないと、ふと妙な考えが浮かぶ。

「ごちそうさま」

 食器を流し台へ運び、私はさっさとお風呂へ入った。

 お風呂から上がって髪を乾かし終えると、私はすぐに部屋へ戻った。
 温もりの残る髪を払うと、シャンプーの匂いが鼻先へ掠める。
 母の髪もきっと同じ匂いがするんだろう。

 プロデューサーさんの強い勧めで、私立の学校へ転入することに決めた。
 工藤忍さんもその学校に通っているらしい。

 引っ越し先もプロデューサーさんが見繕ってくれるらしく、甘えっぱなしだ。
 私はベッドへ身を投げた。枕に顔をうずめると懐かしい匂いがして、なぜだか寂しくなった。
 温い血が皮膚の下を流れて、少しずつ私の意識を運んだ。

――――

 夢うつつの波打ち際で、私は膝をついて祈っている。

 どうか許してください。私を罰さないでください。

 嘘に塗れた私の身体を、波が洗ってくれる。
 波は幾度も足を舐め、乾いた砂に噛み付いて離れない。

 疲れ果てた船が崩れ始め、波に身体を奪われていった。
 船は穴だらけになりながらも私を運んでくれたのに、なんて脆い嘘だったのか。

 微睡みの途中、誰かが部屋の電灯を消した。

 ――――

 十二月が半分を過ぎる頃にはようやく、
 越してきた部屋からもダンボールが片付き、新しい空気に慣れ始めた。

 年の瀬の迫る時期でプロダクションは忙しいらしく、レッスンなどもしばらくは始まらない。
 学校もすぐに冬休みに入るため、年が明けるまではかなり暇をもて余してしまう。
 やはり、プロデューサーさんの言った通り、冬休みまでは仙台の学校へ通うべきだったかしら。

 いや、と私は苦い笑いを浮かべる。

 引っ越しの前に、手続きの書類を持って学校へ行った日。
 今日で最後だから、せめて誰かにお別れを。
 そう思ってすぐ、一人も友達が居なかったことに気がついた。
 一番親しくしたのは、多分、保健室の養護教諭だった。

 携帯電話も買い換え、アドレス帳にはプロデューサーさんと母の名前しか登録されていない。
 以前のアドレス帳に何件登録されていたかは覚えていないが、これよりは多かったはずだ。
 だからと言って、電話やメールがしょっちゅう来たわけでもないのだけれど。

 越してきてからというもの、私の携帯電話はもっぱらキッチンタイマー代わりに使われる。
 ピピピッと鳴ったところで鍋を火から下ろす。

 ひと通りの家事を済ませると、私はカーペットへ腰を下ろし、
 買ってきたばかりの編み棒と毛糸とを取った。
 センターテーブルに編み物の本を開いて、必死に赤い糸を絡ませる。

 マフラーと言うよりは早くも赤い毛の塊になりつつあるそれを見て、思わず苦笑いしてしまった。
 今まで自分を器用だと思ったことはないけれど、存外不器用らしい。

 家事の合間に編み物。それとも、編み物の合間に家事。
 マフラーが出来上がったら、早速首へ巻いて買い物へでも行こうかと目論んでいたのだけれど
 ――その不細工な形にため息をついた。

 これなら、いも虫の方がよっぽどうまく糸を編む。
 私はマフラーを隅へ放って、立ち上がった。

 赤の毛糸はまだたくさん残っている。
 時間は――壁掛けのカレンダーを一瞥しても、今日が何日なのか分からなかった。
 携帯電話を取って、待ち受け画面を呼び出す。

 一月三日、午後九時半。一瞬、日付に冷や汗をかいた。
 東京へ来てから、母に連絡の一つもしていない。
 どうせ暇だったのだから、年末年始は帰省するべきだったかしら。

 携帯電話の画面には文句のように『不在着信が二件』と表示されている。
 二件とも、知らない番号からの着信だった。母からでないことに、少しほっとする。

 着信のあった時刻は三十分ほど前で、
 プロデューサーさんだったら「こんな夜更けに」と申し訳なさそうに言ったのだろうか。

 かけ直すべきか悩んでいるうちに、無機質な電子音が鳴り響いた。同じ知らない番号からだった。

「あっ、もしもし、佐久間まゆちゃん……さん、ですか」

 電話を取ると、いかにも明るい女の子の声がスピーカーに届いた。

「そうですけど……」

「いきなり、ごめんね! アタシ、工藤忍……って言って分かる?」

「ええ、分かります」

「ああ、よかった」

 それなら話が早い、とあの丸い目が嬉しそうにきょろきょろしているんだろう。

「あのね、えーと、佐久間さん」

「まゆで、いいです」

「ありがと! そう、えーっとね……まゆちゃん、明日暇?」

「ええ、とても」

 暇に大小あるいは強弱があるかどうかはさておき、暇をもて余していた。

「じゃあ、鍋しない? 鍋!」

「鍋……?」

「そう。マドギワさんも一緒に三人で」

「いいですけど」

 マドギワという彼のアダ名の由来を、工藤さんは知っているのかしら。
 私は微かに目を細めた。

「鍋がしたいって話したら、コンロとか鍋とか用意してくれるって言うから……」

「それじゃあ、プロデューサーさんの家で?」

「って思ったんだけど、それはまずいからってアタシの部屋に持ってくるってさ」

「それはまずくないんですか」

「きっと自分の部屋が汚いから、言い訳したんだよ」

 工藤さんはスピーカー越しにからからと笑った。

「十時くらいにまゆちゃんを迎えに行くらしいから、よろしくね!」

 通話が切れてから、しんとした部屋のどこか冷えたような空気に身震いした。
 そう言えば、鍋は今まで数えるくらいしか食べたことがない。

 翌朝、十時を十分ほど過ぎた頃に、インターホンが部屋に響いた。
 ドアを開けると冷たい風が部屋に走る。

「あけましておめでとう」

 プロデューサーさんは片手を挙げて挨拶をしてくれた。
 外を覗くと、雪が舞っているようだった。

「あけましておめでとうございます。すみません、ちょっと待って下さい」

 私は部屋へ戻って不細工なマフラーを首へ巻いた。

「寒そうなので」

「賢い選択だ」

 彼は寒がりなのか、風が吹く度首をすくめた。
 温かそうなダッフルコートを着ているにもかかわらず。

「工藤さんのところまで近いとは言え、車で来ればよかったね」

 これも結構重いし、と彼は肩に提げた大きめのバッグをぽんと叩いた。

「持ちましょうか?」

「いやいや、平気だよ」
 細かい雪の混じった風が歩道の人々を撫で斬りにしては、消えて行く。
 プロデューサーさんは鼻をすすった。

「佐久間さんは賢いなぁ。僕もマフラーを買っておけばよかった」

「あ……これ、自分で編んだんです」

「本当? そりゃすごい」

「初めて編んだから……ところどころほつれたりして、イビツな形なんです」

「そうは見えないけど。温かそうでいいなぁ」

「よければ、作りましょうか」

「それはすごく嬉しいけど……大変じゃない?」

「少し時間はかかるかもしれないですけど」

 私のわがままを聞いてくれたお礼を、マフラーで返そう。
 一度目は失敗したけれど、次はきっとうまく編める気がした。

 ――――

「工藤さんがうちに来たことを思い出したよ」

 しらたきを鍋から掬いつつ、プロデューサーさんは懐かしそうに言った。
 それを聞いて工藤さんは豆腐を箸から落とした。

「おっ、と。まゆちゃんは飛び出してきたの?」

「私は、えっと……まあ、そう言われればそうですね」

「でも、佐久間さんは抜け目なくやったよな」

 言われて、少し頬が熱くなる。

「工藤さんも飛び出してきたんですか?」

 ごまかすように私が訊くと、二人は顔を見合わせて同じような苦笑を浮かべた。

「工藤さんのときは大変だったね」

「半年も経ったんだから、いいかげん忘れてよ……」

「佐久間さん、聞きたい?」

「いいんですか?」

 ちらりと工藤さんの方を見ると、彼女は過ぎたことだと言いたげに肩をすくめた。

「学生が夏休みの期間ってオーディション希望者が結構来るんだけど、工藤さんもその一人でね」

 オーディションの翌日に合格の電話をかけ、それから改めて事務所で工藤さんと話し合ったらしい。
 施設やシステムの説明の最後に、書類関係――保護者の委任状へ話を移すと、
 彼女は申し訳なさそうに切り出した。

 家出同然で飛び出してきたから委任状にサインは貰えない。

「実家が遠いから、とかなんとか言い訳してたよね」

「と、遠いのは事実だから」

「まあ、そうだけど」

「工藤さんの実家はどこなんですか?」

「青森。まゆちゃんは宮城だよね」

「はい。……青森は確かに遠いです」

「本当は郵送してサインしたのを送り返してくれれば、それでも良かったんだけど、事情が事情で」

「青森に少し詳しくなったんじゃない?」

「そうかも。何回も足を運んだし……」

 両親の説得、転校、引っ越し――と、彼は指折り数えた。

「そういうゴタゴタは全部僕が受け持ってね。
 ちゃんと活動始まったのって、確か九月末くらいからなんだ」

「どうも、ご迷惑をおかけしました」

 工藤さんはおどけたように頭を下げた。
 プロデューサーさんは照れくさそうに頬をかいた。

「まあ、そういう経験が佐久間さんにも活かせたから」

「どうもご迷惑を……」

「ええい、問題児共め!」

 私も頭を下げると彼はからからと笑った。

 ――――

 私の携帯電話はキッチンタイマー兼、カレンダー兼、時計の仕事を担っている。
 学校が始まると新たに目覚ましの仕事が増えた。

 転入した先は私立であること以外に特に言うことのない学校だった。
 私がアイドル候補生ということは教員に話されているが、
 今の知名度で特別扱いはされないようだった。

 普通に学校に通って、放課後と週末にレッスンをして
 ――仕事で休むことがあると、欠席した授業に応じて課題が課される。

 転入して一、二週間はクラスメイトからお昼ごはんに誘われることもあったけれど、
 近頃は工藤さんと二人で食べている。
 工藤さんは隣の教室からやって来て、私の机にお弁当とペットボトルのお茶を置く。
 そのうち、同じレッスンがある日は一緒に帰るようになった。

「アタシ、最初はびっくりしちゃった。まゆちゃんがアイドルだなんて」

「自分でもあんまり実感ないです」

「アタシにとってまゆちゃんは有名人だから」

「読者モデルと言っても、私はあんまり……」

「でも、すでに雑誌に載っている人と、アイドル目指すようになるなんて思わなかった」

 こうしてお喋りするとも、と工藤さんは屈託なく笑った。

「これから一緒に頑張ろうね!」

「はい、よろしくお願いします。工藤さん」

「そうだ。学年一緒だし、『工藤さん』ってやめてほしいなぁ、なんて……」

 並んで歩く彼女は、少し照れくさそうに言った。

「じゃあ、これから忍ちゃんって呼びますね」

「えへへ。アタシ、早生まれだからまだ一個下だけど」

「誕生日、いつ?」

「三月九日。まゆちゃんは?」

「九月七日です」

「ああ、過ぎちゃってたかー」

 ふと目を上げると、破片のような細かい雪がオレンジ色の陽にきらめいて、
 風が指の間を微かに通り抜けていった。

 忍ちゃんと私はよく一緒にレッスンを受けた。
 体力作りから始まり、発声練習やダンスの基礎が主な内容だった。

 さすがに何ヶ月か先輩ということもあって、忍ちゃんは長い練習でも元気があったし、
 よくコツを教えてくれたりした。

 ――――

 二月を目前に迎えると新しい生活リズムに身体が慣れて、やっと余裕ができた。
 学校生活やレッスンは相変わらずだけれど、仕事がポツポツと入り始めた。
 ティーン雑誌でのモデルが初仕事で、続くいくつかの仕事も写真撮影だった。

「元読者モデルだし、慣れていると思って」

 プロデューサーさんは少し申し訳なさそうに言った。
 仕事の内容は以前経験したのとあまり変わらないけれど、
 どこへ行くのも一人でないからずっと充実していた。

 とは言え、初任給は決して多くなく――と言うよりか、
 施設使用費やレッスンの料金などの名目で差し引かれ、残ったのは小遣い程度の金額だった。

 ついため息をついてしまうが、小遣い程度でも残るだけいいのかもしれない。

 給料を貰ったその日に、家電量販店へ寄って小さなセットコンポを買って帰った。
 夕食のあと早速、母から借りっぱなしのミュージックプレイヤーを繋いだ。

 ハスキーな歌声にリズムを取りつつ赤い毛糸を編み棒に絡めると、
 なんとも言えず幸せだった。

 二本目のマフラーは形が整っていて、それに同じ長さを編むのでもずっと早くなった。
 とは言え、合間合間の作業であるから完成は早くても二月中かしら。

 間に合えば、バレンタインに合わせてプロデューサーさんへプレゼントするつもりだった。
 きっと喜んでくれるに違いない。

「そっかぁ、マフラーね」

 センターテーブルの向かいで頬杖をつく忍ちゃんは、ノートに何重も丸を書いた。

「忍ちゃん、一緒に作る?」

「うーん、今からじゃ間に合わなさそうだなぁ……」

「プロデューサーさんなら、気持ちだけで十分なんて言いそうだけど」

「まあ、でも、チョコレートは作るよ」

「溶かして固めるやつ?」

「そう、溶かして固めるやつ」

 笑い合っていると、本来の目的を忘れそうになる。
 レッスンが休みになった日曜日、教師に出された課題を二人で片付けようと誘われて、
 私は部屋へ忍ちゃんを招いたのだった。

 お昼頃からノートを開いていたのに、夕方近くになっても半分ほどしか終わっていない。
 忍ちゃんはペンをぽいっと放って、伸びをした。それから隅のセットコンポに目を留めた。

「まゆちゃんはどんな音楽聴くの?」

「あんまりよく知らないんだけど、ポリスってバンド、よく聴いてる……」

「ね、ちょっと聴かせて」

 私は手を伸ばしてコンポの電源を入れ、繋いだプレイヤーを操作した。
 小さな画面の中で『THE POLICE』の赤い文字とメンバーの三人がこちらを覗いている。
 ゆったりとしたリズムに乗るギターとベースは派手すぎず、アップテンポなサビを一層シリアスに思わせる。

「この曲、好きです」

 私がソーロンリー、ソーロンリーと曲に合わせて呟くと、
 忍ちゃんはとっても寂しい、とっても寂しいと返した。

「結構、渋いのが好みなんだね」

「忍ちゃんはあんまり?」

「そういうわけじゃないけど、アタシはクイーンが好きで……」

 入ってるかな、と私はプレイヤーのミュージシャンの欄を探った。
 クイーンのアルバムは三枚入っていた。画面を見せると、忍ちゃんは嬉しそうに手を叩いた。

「このアルバムの最初の曲がすごくいいんだ!」

 彼女が指で示したアルバムを再生すると、お祭りの街中を描いたようなざわめきがスピーカーから流れてきた。
 首を傾げて忍ちゃんの方を見ると、彼女は慌てない慌てないと言う風ににこにこ笑った。

 次第に特徴的なフレーズのギターがフェードインして、バタバタとドラムが鳴り、曲が始まった。
 ボーカルは女声と男声を歌い分け、サビは厚みのあるコーラスが力強く響いた。
 長いギターソロでは二重になったり、あっちへ行きこっちへ行き、縦横無尽という言葉がよく似合う。

「不思議な曲だね」

 思ったままを言うと、忍ちゃんは少し照れくさそうに頭をかいた。

「青森に居るときラジオで聴いて惚れ込んだんだけど、誰のなんて曲か聞き逃して」

「それで、探したんだ」

「一応ね。結局、ちゃんと知ったのはこっち来てからなんだけど」

 言いつつ、忍ちゃんは身を乗り出してプレイヤーを操作した。
 これも好き、と言うその曲はジャッジャッとギターが刻むイントロが印象的だった。

「マドギワさんに教えてもらったんだ」

「プロデューサーさんもクイーンが好きなの?」

「アタシの鼻歌で曲を当てるくらいだし、好きなんじゃないかな」

 こうして互いの好きな曲を聴いていると、課題の終わる気配はどんどん薄れて行くようだった。
 結局、二人とも課題を三分の二ほど片付けてから解散した。

 夕食のあとに残る三分の一に取り掛かった。スピーカーから響くクイーンが耳に新鮮だった。

 ――――

 事務所から出るとすでに陽は沈んでいて、街灯とアスファルトに残った雪だけが白く浮かんでいる。
 空に雲の濁りはなく、だけれど星も見えず、水槽の底を歩いているような気分にさせられる。

「マドギワさん、喜んでたね。よかった」

 私は頷いて、よかったと繰り返した。
 赤いマフラーとチョコレートを渡すと、プロデューサーさんは少し驚いたようだった。
 それから子供みたいにはしゃいで、ホワイトデーのお返しを今から考えとかなきゃ、と礼を言った。

「まゆちゃんへのお返しは豪華だろうなぁ」

 同じ手作りでもアタシのは溶かして固めただけだもん、と忍ちゃんは頭をかいた。

「私もチョコは溶かして固めただけだよ」

「まあ、そうかもしれないけど」

「それに、忍ちゃんはみんなにあげていたし」

「あははっ、質より量ってやつかな。アタシはマドギワさんにも、
 プロデューサーさんにも迷惑かけてるからね」

 忍ちゃんはプロデューサーさんだけでなく、
 自分のプロデューサーや事務員さんにもしっかりチョコレートを渡していた。

 私は気が回らなくて、プロデューサーさん一人だけにしか用意していなかった。
 彼以外の事務所の人と話すことはあまりないけれど、用意するべきだったかしら。

「来年は、私もみんなに用意しようかな」

「うん、良いと思う!」

 お返しもいっぱい貰えるだろうしね、と冗談めかして忍ちゃんは笑った。
 つられて笑い、それからプロデューサーさんの嬉しそうな顔が浮かんだ。
 ふっと息を吐くと、鼻先で街灯の光に白く受け止められた。

「……喜んでもらえてよかった」

 私が確認するように呟くと、忍ちゃんは頷いた。

「本当によかった」

 ふと、忍ちゃんは立ち止まった。どうしたの、と私が訊く前にまた歩き出した。

「まゆちゃんがアイドルになってくれて、本当によかった」

「どうして?」

「……マドギワ、ってアダ名の理由、知ってる?」

 貴方は知っててそのアダ名で呼ぶんですか、と言いたくなるのをやっと堪えた。

「ええ、知ってます」

「あの人、事務所を辞めるつもりでいたらしくって」

「えっ、……今は?」

「わかんない。けど、辞めないで、まゆちゃんをプロデュースするって決めたんだと思うな」

「私をプロデュースするから……」

 喉元に赤黒い煙が固まったような息苦しさを感じた。

「まゆちゃんが来てから、マドギワさんすごく楽しそう」

 本当によかった、と忍ちゃんは何度も頷いた。

「もちろん、アタシもすっごく楽しいよ!」

 私はなにか言う代わりに微笑みを作った。そうすると、なぜだかいつも眠くなる。

 ――――

 結露した窓の表面をなぞると、指が冷たく濡れた。
 露が剥がれたその下に暗い路が覗いている。

 細かい雪が落ちては溶け、爬虫類の肌のようにアスファルトが青く光った。
 二月下旬の午後五時。一時期に比べると、日の入りの時刻も遅くなりつつある。
 今日のように、レッスンが終わってからも太陽が居残っていることが多くなった。

「今年の雪は、これで終わるといいんだけど」

 運転席へ座るプロデューサーさんは寒そうに呟くのだけれど、車内はエアコンがきいていて快適だ。
 彼はきっと外を見ているだけで寒いんだろうな、とつい笑ってしまう。

「どうしたの、佐久間さん」

「いえ、早く春になればいいな、って」

「そうだなぁ」

 正面の信号が赤く灯り、車はゆっくりと止まった。
 プロデューサーさんはカーラジオのスイッチを入れ、ちょうど流れてきた曲に声を上げた。

「懐かしいな」

「……ヘビメタですか?」

「そうだね。正統派ヘヴィメタル」

 彼がボリュームのつまみを回すと、硬質でタイトな音がはっきりと耳にまで届いた。
 荒々しいハイトーンのボーカル、流麗なギターアンサンブル。初めて聴くタイプの音楽だった。

「アイアン・メイデンは良いよ」

「意外と聴きやすいんですね、ヘビメタ」

「ニューウェイブオブブリティッシュヘヴィメタル」

「……え?」

「あ、いや、ジャンルの正式名称。学生の頃、必死になって覚えたもんで……」

 プロデューサーさんは照れくさそうに頭をかいた。

「……そう言えば、プロデューサーさんはクイーンは好きですか?」

「まあ、好きかなぁ。佐久間さん、好きなの?」

「忍ちゃんに教えてもらって……」

「ああ、工藤さんは好きだったね」

「私は、クイーンも好きですけど、特にポリスが好きです」

「ポリスか。これも懐かしいバンドだなぁ」

 信号が青に変わると、プロデューサーさんはハンドルを握り直して、車を発進させた。
 ラジオからは相変わらずアイアン・メイデンが流れている。

「高校の同級生がポリスのファンでね。同じ洋楽趣味だってんでCD貸してきてさ」

「アイアン・メイデンとポリスって、なんだか」

「相容れなさそうだよね」

 プロデューサーさんは若さだな、とくつくつ笑った。

「ポリスだと……トゥルース・ヒッツ・エブリバディが好きだな」

「私はソーロンリー、あとエヴリ・ブレス・ユー・テイクも好きです」

「『見つめていたい』かぁ。あいつも好きだって言ってた」

 交差点を一つ過ぎて、アイアン・メイデンが終わると、
 プロデューサーさんは残念そうにラジオのボリュームを落とした。

「ところで、話は変わるんですけど」

「はいはい、なんだろうか」

「もうすぐ、忍ちゃんの誕生日じゃないですか」

「三月のー……」

「九日です。三月九日」

「あと二週間くらい?」

「はい。なにをプレゼントしたら、喜ばれるかと思って……」

「編み物は?」

 プロデューサーさんは傍に置いた赤いマフラーを指差した。

「工藤さんも、喜ぶと思うよ」

「でも、すぐ春になるから……」

「それもそうか」

 うーん、とプロデューサーさんは唸った。

「僕の同級生が誕生日のときはCDあげて、それで結構喜んでもらえたけど」

「CDですか」

「例えばクイーンだったら、工藤さんの持ってないアルバムとか、DVDとか」

「喜んでもらえるでしょうか」

「ま、一つの参考として……でも、気持ちだよ、気持ち」

「……忍ちゃんにはすごくお世話になっているので、この機会にちゃんとお礼したくって」

「お世話ね……」

 ふと見ると、プロデューサーさんの横顔は影絵のように沈んでいた。
 冷たい夜が私たちを覆って、建物の窓から窓へ時間が流れ、
 水底のような道路へ車が目を光らせていた。

「着いたよ」

 プロデューサーさんの声にはっとなって、私は目を上げた。
 いつの間にか、事務所の傍にある駐車場へ車が停まっていた。
 シートベルトを外して助手席から降りると、冷たい空気に抱きすくめられる。
 プロデューサーさんはたまらず、といった様子で首へマフラーを巻いた。

「うう、悪いね。付き合わせちゃって」

「いえ。それよりも、早く中へ入りましょう?」

「そうだね。さむさむ……」

 夜の影が辺りを濡らして、街灯の光と雪が白く浮かんでいる。
 モノクロの景色に、プロデューサーさんのマフラーだけが赤かった。

 私はプロデューサーさんと並んで、雑居ビルの階段を上った。
 忍ちゃんへの誕生日プレゼントはなににしよう、なんて考えごとをしていたからか、躓いた。
 あっ、と低く声を上げたのと、プロデューサーさんが私を支えてくれたのは、ほとんど同時だった。

「気をつけて。疲れてるのかな」

「す、すみません……ありがとう、ございます……」

 ドキドキなんて穏やかなものではなく、私の胸は激しく鼓動した。
 危うく転ぶという場面にダンスレッスンでたびたび遭遇するけれど、
 日常生活では本当に久しぶりだった。

 冷や汗とため息、時間が止まったような息苦しさは事務所へ入ってからも続いた。

「すぐ済ませるから、僕のデスクにでも座ってて」

 促されるままに腰掛けて、私は中々落ち着かない胸元をさすった。
 書類をコピーするプロデューサーさんに、向こうのデスクの男性が声をかけた。

「マドギワさん、そのマフラー温かそうでいいッスね」

「いいでしょう。佐久間さんが作ってくれたんですよ」

「そりゃあ、羨ましい」

 プロデューサーさんは書類のコピーをデスクに置くと、傍へ立って説明を始めた。

「来月、期末テストが終わってから春休み入るよね。
 春休み期間にレッスンスタジオ抑えたんで……これスケジュールなんだけど」

 彼の吐息が微かに私の髪を揺らして、落ち着きかけていた胸が騒ぎ出した。

「シングルCD用の曲、僕らが貰えるかも知れないんだ」

 彼はこそっと耳打ちした。
 振り返ると彼の顔がすぐ近くにあって、かあっと頬が熱くなる。

 頑張ろう、と肩を叩かれたとき、私の身体はびくっと跳ね上がった。
 端からは大した反応をしたようには見えないだろうけれど、私は心臓が止まるかと思った。

 彼の言ったことをちゃんと意識したのは、事務所を出て、夜に身体が冷えてからだった。
 歌うのは好き。でも、誰かに聴いてもらうなんて、夢にも思わなかった。
 きっと、彼が私の歌を最初に聴いてくれるのだろう。

 肩に、支えてくれた感触が、ぽんと叩いた感触が、
 彼の手の感触が心地良い煙のように残っていた。

 ――――

 シャリシャリ、クルクル――ベッド傍のスピーカーから響くリズムに合わせて、
 忍ちゃんの手指は器用にりんごを剥いた。

 色々考えた末、忍ちゃんへの誕生日プレゼントにはクイーンのCDアルバムを買った。
 プレゼントしてすぐ、一緒に聴かないかと誘われるまま忍ちゃんの部屋へお邪魔して、
 もうアルバムはすでに三周目に入っている。忍ちゃんの十六歳の誕生日会は二人きりだ。

 実家から送られてきたというりんごの甘やかな香りが部屋に立ち込めている。
 忍ちゃんはりんごを均等に切り分けて、はい、と皿に載せた。
 私の分の皿には、うさぎ耳のりんごが一つ紛れていた。

「意外と器用でしょ」

 忍ちゃんはにこにこと笑った。うさぎ以外の一切れを取って、そっとかじる。
 口に果汁が溢れて、甘酸っぱさがじわっと広がった。
 スーパーで買うりんごよりも数段味が濃くておいしい。

「誕生日プレゼントがりんごっていうのもお母さんらしいけど、こんなに一人で食べられないって」

「まあ、そうだね」

 傍に開けてあるダンボールの中には、いっぱいに赤いりんごが詰まっている。

「まゆちゃん、何個か持ってく?」

「そんな……いいの?」

「いいよ! うちにある冷蔵庫小さいし」

 そう言って、忍ちゃんは台所からビニール袋を持ってくると、
 無造作にりんごを入れて渡してくれた。りんご三つにしては、ずっしりと重い。

「ありがとう」

「アタシが言うのもなんだけど、おいしいよねー」

「こっちでも、仙台でも食べたことないくらいおいしいよ」

 耳付きのりんごまで食べて二人分の皿が空になると、忍ちゃんは伸びをした。

「んー、テストのあとは開放感があるね」

「私たちは、これから忙しくなるけど」

「忙しくっても、アイドルはすごく楽しいから!」

「そうだ、この間テレビ見たよ。ダンス、上手だった」

「えへへ。でも、まだまだバックダンサーとしても並以下だから……今は練習あるのみだよ!」

 この頃、忍ちゃんとレッスンをすることが減ってきた。
 仕事の傾向が段々と決まってきて、忍ちゃんはダンスレッスン、
 私はボーカルやビジュアルのレッスンを受けることが多くなったためだった。

「まゆちゃんは……最近どう?」

「相変わらずモデルとか、写真の仕事ばっかり」

「そろそろ、アイドルらしい仕事あってもいいのにね」

「でも、春休み入ってからボーカルレッスン、みっちりするらしくって」

 ふと、吐息に髪が揺れる感触を思い出してドキリとする。

「それって、もしかして」

「シングルCDの曲を歌わせてもらえるかもって、プロデューサーさんが……」

 忍ちゃんは一瞬あっけに取られたように口を開けた。

「そっか……CDデビューできるんだね! いつ発売?」

「ありがとう。まだ、いつかは分からないの」

「じゃあ、いつか決まったら教えてね。絶対、絶対買うから……」

 そのときちょうど、アルバムの最後の曲が終わった。
 忍ちゃんは身を乗り出して、もう一度最初からアルバムをかけ直した。
 テープを逆回転させたような奇妙なイントロのあと、ピアノの弾き語りが始まる。

「そっかぁ、CDかぁ……」

 ポツリと呟いたあと、忍ちゃんはそっと鼻歌を歌った。
 プレイ、ザ、ゲーム、エブリバディ、プレイ、ザ、ゲーム……。

 ――――

 ホワイトデーの今日を境に三週間ほどの春休みが始まる。
 私はなぜだか気分が浮ついていた。
 今までに一度だってこんな日があっただろうかと思うほどに。

 クローゼットを開けて服に悩むことも、ずいぶん久しぶりだった。
 モデルの頃はそれこそ殺気立っていたのだけれど、今は純粋に服を選ぶことが楽しかった。

 今日は昼食がてら、春休み期間のレッスンについて改めて話し合うことになっている。
 今さら意識するのも不思議な気がするけれど、
 私はプロデューサーさんのアイドルで、彼は私のプロデューサーなのだ。

 お気に入りの靴を履いて、コツコツとつま先でアスファルトを叩く。
 ほんの数週間前はカミソリのように吹き付けた風も、刃が丸くなって段々と柔らかくなってきた。
 冬のことをもうすぐ、私は忘れてしまうだろう。

 エヴリ・ブレス・ユー・テイクの旋律を舌でなぞりながら、
 雪の影もない路を歩いて行った。東京の春は少し早いみたい。

 事務所のドアを開けると、プロデューサーさんと忍ちゃんの話し声が耳へ入ってきた。

「マドギワさんには大人の事情ってのがあるからね」

「だから、言ったように……」

「アタシだって分かってる、けど」

 私が後ろ手にドアを閉めると、二人はこちらへ振り返った。

「……ごめんね、忙しいのに」

 忍ちゃんはプロデューサーさんに言って、早足に私の居るドアの方へ歩いてきた。
 それから、ぽんと私の肩を叩いてにこっと笑った。

「まゆちゃん、レッスン頑張ってね!」

「あ、ええ、うん……」

 私が曖昧な返事をしている間に、忍ちゃんは傍を通り抜けて外へ出て行った。

「やあ、佐久間さん」

「今日はよろしくお願いします……」

 プロデューサーさんのデスクの上はいつもより散らかっていた。
 彼は書類をかき集めて、鞄へ入れた。

「なに食べる?」

「……ファミレスとか」

「またハンバーグ?」

 プロデューサーさんと目を見合わせて笑う。
 忍ちゃんとのやりとりについて訊くのはやめにした。

「じゃあ、ファミレスにしようか」

 プロデューサーさんは鞄を脇へ抱えて、私を促した。
 事務所を出てから、彼がマフラーを巻いていないことに気がついた。

「マフラー、しないんですね」

「あー、ずいぶん暖かくなったからね」

 私はあからさまにしょんぼりしてしまったらしい。
 プロデューサーさんはぽんと私の頭に手を置いて、慰めてくれた。

「来年まで大事にしまっておくよ」

「あっ、い、いえ、そんな……」

「大活躍だったからさ。マフラー、本当にありがとう」

 再び訪れたファミレスは混んでいた。何ヶ月か前の昼時、ここへ来たときと同じように。
 代わり映えしない店内の風景。変わったのは私たち二人と、エアコンの設定温度くらいだろう。

 二人がけの席に案内され、プロデューサーさんはたらこスパを、私も同じくたらこスパを注文した。
 しばらくすると、テーブルにたらこスパが二皿運ばれてくる。

「ファミレスと言えば、ハンバーグじゃないの」

「私の言うセリフです」

 お互いにクスっと笑って、まずは食べようとたらこスパにフォークを絡めた。

「そうだ。ホワイトデーのお返し、ちゃんと用意したんだ」

「あ……本当ですか、ありがとうございます」

 プロデューサーさんはフォークを置いて、紙ナプキンで口元を拭った。
 それから鞄を開けて、丁寧に包装された手のひら大の箱をテーブルへ置いた。

「忘れないうちに」

「た、食べ終わってから、開けさせてください」

 私が急いでフォークを手繰ると、プロデューサーさんは笑った。焦らなくても逃げないよ、と。

 皿が空になると、私は紙ナプキンで丁寧に手指を拭った。
 プレゼントの箱を手に取って、包装を解いた。

 立方体のハードケースの蓋を持ち上げると、中で時計が静かに駆動していた。
 ケースから取り出して、両手の上へ乗せた。
 丸く白い文字盤をシルバーが縁取り、赤い革製のバンドが洒落ている。

「わぁ……着けてみてもいいですか?」

「どうぞ」

 左の手首に巻いてバンドを金具へ通そうとするのだけれど、どうにもうまくいかなかった。
 苦戦する私を見かねて、プロデューサーさんはそっと私の手を取った。

「あっ……」

「はい。どう、きつくない?」

「は、はい……ぴったりです」

 彼の両手の離れた私の左手首には、時計の赤いバンドが巻き付いていた。
 左手をそっと耳元へ近づけると、心臓の鼓動のように時間の落ちる音がした。

「ありがとうございます。すごく……すごく嬉しいです」

「よかった。……うん、似合ってる。きっと似合うと思ったんだ」

 それから、時折私は手首を反して時計を見た。
 レッスンや歌う曲について話し終える頃には、分針は一周していた。
 見ているときは秒針だけがカツカツと歩くようなのに、
 目を離している隙に分針は五分も十分も先へ進んでいる。

 ――――

 春休み期間のレッスンはトレーナーさんと、私とプロデューサーさんの三人で行われた。
 初めの二、三日はプロデューサーさんのことを意識して集中できずにいたけれど、
 今はそれよりも、傍に居てくれることがこの上なく嬉しかった。

 プロデューサーさんは私が歌うのを隅でじっと見つめて、
 時折手帳になにやら書き込んだり、休憩時間にはトレーナーさんと話していた。

 メトロノームの針がカチカチと揺れている。
 トレーナーさんの弾くピアノに合わせて、音を追い、楽譜を捲る。
 譜面には印刷されていないけれど、曲の詞はもうできあがっているらしい。
 頼んで見せてもらうと、直球すぎるほどのラブソングだった。

「佐久間さんにぴったりだと思って」

「そうですか……?」

「ぴったりですよねぇ」

 プロデューサーさんが言うと、トレーナーさんはぴったりですねぇ、と頷いた。

「まゆちゃんは今好きな人居る?」

「えっ、いや……その……」

 顔を赤くして言葉を詰まらせた私を見て、トレーナーさんは快活に笑った。

「それじゃあ、その気持ちを込めて歌ってみましょうか!」

 ワン、ツー、スリー、フォーと勝手にカウントを取って、彼女は鍵盤を叩いた。
 ちらっとプロデューサーさんの方を見ると、少し困ったように私へ笑いかけた。

 レッスンが終わるとプロデューサーさんは私の家まで送ってくれる。
 車内には彼の好きだという音楽がいつもかかっていた。
 疲れに半分まぶたを落として、名前も知らないでいたロックミュージックに耳を澄ませた。

 帰りの車内でプロデューサーさんが私に話しかけることは少なかった。
 私は時折微睡みさえしながら、彼が声をかけるのを待っている。
 左手の時計をそっと見るたびに、もっと遠くに住んでいたら良かったと、
 甘やかに流れる時間へ身体を委ねた。

 プロデューサーさんと別れて自分の部屋へ戻ると、いつも深いため息が出る。
 寂しいような、暖かな、なんとも言えない気持ち。

 運命というものが在ったとして、よくできていると思う。
 あの歌を歌うたび、一本の糸のような巡り合わせにぞっとした。

 もしも、あの日の喫茶店で相席にならなかったら?

 運命が在るのなら、きっと運命の出会いだったんだろう。
 私は左手の時計を耳元へ近づけた。
 今までの嘘偽りも運命と一つになって、正夢のように確かな形を持っていた。

 この時間は永遠に続くかしら。

 ――――

 白く晴れた午前、私はレッスンスタジオに一人で居た。
 プロデューサーさんは打ち合わせがあるからと、私に待っているように指示をした。
 スタジオの床には冬の面影を残した空気が漂っている。

 壁一面の鏡にアップライトピアノと私が気まずそうに佇んでるのが見えた。
 私はそっと鍵盤の蓋を持ち上げて、鍵盤の一つに指を置いた。足元へ音が落ちる。

 スタジオのドアを一瞥して誰も来ないことを確かめると、私は椅子へ座った。

 ピアノを習ったのは一年間か、半年間か、それとももっと短かったかしら。
 左手で弾く音を何度か確かめる。右手も同じように。
 以前も決して上手だったとは言えないけれど、両手の動きは錆びたようにぎこちない。

 ゆっくり、ゆっくり、記憶をたどるように鍵盤を叩く。
 なんで辞めたんだっけ。そうそう、この曲の他にはなにも弾きたくなかったからだ。

 スペイン舞曲集第二番、オリエンタル。
 この物哀しいメロディを、私は宝物のように大切にしていた。

 この曲を弾いてさえいれば幸せだったのに。躓いて、同じ小節からやり直し、また躓いた。
 最初から、もっとゆっくり弾こうと両手を離したところで、
 ドアの傍にプロデューサーさんが立っているのに気がついた。

「ピアノ、弾けたんだね」

「……この曲だけです。それに、下手っぴですし」

 私は鍵盤の蓋を下ろして、椅子から腰を上げた。仄かに顔が熱い。

「あの、勝手にピアノ弾いたこと、トレーナーさんには内緒に……」

「あははっ。彼女、怒ったりするタイプじゃないと思うけど、そう言うなら内緒にしておく」

 トレーナーさんがスタジオへ着くのは、もう少しかかるようだった。
 私は隅に並ぶパイプ椅子へ腰かけて、プロデューサーさんが買ってきてくれた缶のココアを大事に飲んだ。
 プロデューサーさんはスタジオの中を歩き回りながら、手帳を捲っては目を細めた。

「あの、プロデューサーさん」

「ン……なに?」

「プロデューサーさんは、事務所を辞めませんよね」

「それはもちろん。どうして?」

「忍ちゃんから聞いたんです。辞めるつもりだったって」

「ああ、そっか。工藤さんが」

 彼は手帳をポケットへしまって、バツが悪そうに頬をかいた。

「迷ってはいたけど、確かに、今くらいの時期に辞めるつもりだった」

「……私が無理を言ったから、残ったんですか」

 そう言うと、彼は予想に反してからからと笑った。
 それから傍へ来て、私の右肩をポンと叩いた。

「僕が君をスカウトしたんじゃないか」

「それは私が頼んだからじゃないんですか」

「決めたのは僕だもの」

 プロデューサーさんは隣のパイプ椅子へ腰かけた。

「僕は、佐久間さんをスカウトしてよかったと思ってるよ」

「本当……?」

「君が来てくれたから、今の事務所で続けて行く決心がついた」

 彼の微笑に、頬が少し熱くなる。

「同僚とも多少揉めたけど今も仲良くしてくれるし」

「揉めたんですか」

「まあ、便利な役割だったからね」

 プロデューサーさんは照れくさそうに頭をかいた。

「でも、不満を溜めたまま辞めるより、ちゃんと話ができた分、良い選択だったよ」

 左手を反して、時計に目を落とす。
 時間は等間隔に削られているはずなのに、知らない間に省略されているような気さえする。

「……私、プロデューサーさんの期待に応えられてますか?」

「さっきも言ったように、スカウトしてよかったと思ってる」

 君は、と彼は続けた。

「君はどうかな。スカウトされてよかった?」

「それはもちろん、です。私、貴方と会ってから……毎日、楽しいです」

 もしかしたら、一目惚れだったのかもしれない。
 自分でもよく分からないまま、今まで過ごしてきたけれど、今日のために生きていたのかしら。
 灯りに向かって飛ぶ虫のように、それがなにか知らなくても。

 過去に引かれた一本の線を運命と呼ぶなら、運命のような巡り合わせだと、そう思った。

「これって、運命ですよね……」

 私は左手の時計を右手でそっと覆った。すべての謎が解けたような気がした。
 嘘の強がりも、なにかに怯えたことも、彼が意味を作っていた。

「そういうの嫌いじゃない」

 プロデューサーさんはそっと笑った。

 ――――

 朝、制服を着て、革靴を履いて、それからやっと春休みの終わったことに気がついた。

 夢の中にも時間は在るのかしら。
 もしも袖から覗く腕時計が止まっていたなら、今までのことをあるいは夢と思ったかもしれない。

 耳を澄ませば聞こえる秒針の音は、夢じゃなかった。

 学校の門をくぐると、昇降口の前に人だかりができていた。
 掲示板の貼り紙を遠目に見ると、クラスの名簿らしかった。
 なかなか自分の名前を見つけられずにいると、ちょうど人だかりから出てきた忍ちゃんと目が合った。

「あっ、おはよーまゆちゃん!」

「おはよう、忍ちゃん」

「クラス分け、見た?」

「見ようと思って背伸びしてたんだけど……」

「あははっ、ここからじゃ全然見えないね。まゆちゃん、アタシと同じクラスだよ!」

「本当?」

「ホントホント! これからはお弁当食べるとき教室出なくていいね!」

 体育館で簡単に始業式をしたあと、平常通りに授業が行われた。

 四時間目の授業が終わると、忍ちゃんはいそいそと私の机の向かいへ椅子を持ってきた。

「授業日数の確保とは言うけどさ、なんか雰囲気ないよね」

「雰囲気?」

「始業式が終わったら、帰るものじゃない?」

「分からなくはないけど……」

 由々しき事態だね、と忍ちゃんは呟いて、お弁当の卵焼きを口に入れた。
 それから、思い出したように言った。

「春休みのレッスン、どうだった?」

「んー、と、楽しかった」

「ホント?」

「本当。忍ちゃんはどうだった?」

「アタシも楽しかったけど……朝から夕方までずっとダンスばっかりで」

「それは疲れそうだね」

「すっごく疲れた! けど、着実にうまくなった……気がする!」

 もっともっと頑張るぞぉ、と忍ちゃんはお弁当の残りをかき込んだ。

「まゆちゃんは今日、放課後レッスンあるの?」

「今日はナシ。プロデューサーさん、引っ越しがあるからって……」

「引っ越し? そっか、引っ越すんだ」

「だから、今日と明日だけレッスン休み」

「……ね、まゆちゃん」

 忍ちゃんはお弁当箱をしまいつつ、迷うように目を細めた。

「マドギワさんのこと、好き?」

 その質問はあまりにも急に思えた。
 喉の奥が凍ったような感覚と冷や汗が吹き出して、
 それらがようやく引いたあと、顔が熱くなるのを感じた。

 私はやっと一度頷いた。

「やめときなよ」

「……どうして?」

「どうしても」

 忍ちゃんは無愛想に言って、椅子を自分の席へ戻した。
 昼休みの終わるチャイムが鳴ると、教室のあちこちでガタガタと椅子を引く音がうるさく響いた。

 歴史の授業は今日に限らず、いつも退屈だった。
 ノートの端に蝶の絵を描きながら、時折、忍ちゃんの方を盗み見た。

 どうして、好きではいけないのかしら。
 三匹目の蝶を罫線畑に飛ばすと、薄らいだ影が私の目に掠めた。

 きっと、忍ちゃんはプロデューサーさんのことが好きなんだ。

 ぼきりとシャープペンの芯が折れて、ノートに黒いしぶきを飛ばした。
 吹くと、さらさらと形を変えながら、黒い煙は消えて行った。

 私に嫉妬しているのかしら。

 シャープペンをノックして、もう一匹蝶を飛ばしかけて、ふと手を止めた。

 以前――そう、春休みが始まる日。
 ホワイトデーに、忍ちゃんとプロデューサーさんが二人でなにか話しているのに出くわした。

 どうして、忍ちゃんとプロデューサーさんは多くの秘密を共有しているの。
 どうして、私には内緒にするの、嘘をつくの。

 また、芯が折れた。

 背中に冷たい感覚が伝う。二人に出し抜かれたような、気がした。
 二人して、私を笑っているのかしら。顔がかあっと熱くなる。

 忍ちゃんの方へ目を向けると、偶然か、彼女も私の方を見ていた。
 はっと、目を伏せる。目を伏せた先に左手の時計が静かに秒針を回していた。

 私はその音に聞き入った。
 私と彼との間には同じ時間が流れていて、赤い糸がかかっている。
 それだけは疑わなかった。

 休み明けのその日から、忍ちゃんとはギクシャクしてしまっている。
 表面上は仲良くできているはずだけれど、お互いに少しピリピリしていて、学校に居る間はなんとなく憂鬱だ。

 あれ以来、プロデューサーさんの話はしないけれど、お互いに牽制し合っているような気がした。
 プロデューサーさんのことが好きなのかと、忍ちゃんに聞くタイミングは、時間の下流の方へ流されて行った。

 時折、問題の核心たるプロデューサーさんが心配して、それとなく声をかけてくれることがあった。
 きっと忍ちゃんに相談でもされたんだろう。

「他の子との話、楽しいですか」

 そう言うと、プロデューサーさんは驚いた顔をするので、それきり私は口をつぐんだ。
 恋がじくじくと膿んでいた。けれど、彼が私だけを気にかけてくれたと感じたときは、
 私の胸はこの上なく温かで、優しい気持ちになれた。

 恋は不思議だ。微かなことで揺れ動くのに、無限を夢見ているから。

「私のこと、『まゆ』って呼んでくれませんか」

「別に構わないけど……」

「……まゆを置いてかないで下さいね」

 それから、プロデューサーさんから名前を呼ばれるたびに、私は安心できた。
 すべて委ねたいとさえ思った。

 彼が名前を呼んでくれれば私は自分を認識できる。
 忍ちゃんが彼にとって、なんであっても。あるいは、彼が忍ちゃんにとって、なんであっても。
 そんな気がした。

 ――――

 その日は予報が外れて、午後から雨が降り出した。
 天気が予報を裏切ったのか、それとも逆か。

 プリントは湿気でよれ、シャープペンでこするとキュッキュッと音を立てる。

 職員室へ課題を提出しに行ったあと、鞄を取りに教室へ戻った。
 左手の時計を見ると、レッスンの時間が迫っていた。
 雨が降っていることもあって、急いでもきっと遅刻してしまうだろう。

 深いため息が出る。苛ついてしまうのは、このところ溜まりがちな課題のせいか。
 雨も一端を担っている気がした。

 私は携帯電話を取って、プロデューサーさんへ電話をかけた。

「もしもし、プロデューサーさん」

「……まゆ、どうしたの」

 彼に名前を呼ばれると、思わず頬が緩んでしまう。

「レッスン、遅刻します。今、学校で……二十分か、もしかしたら三十分くらい遅れるかもしれません」

「雨だものな。どうする、中止に……」

「いえ。遅れても、やります。……すみません、お願いします」

「うん、それは構わないよ。トレーナーさんにも伝えておく」

「ありがとうございます」

「まゆ、傘持ってる?」

「いえ、天気予報じゃ、晴れるって言ってたので……」

 灯りを消したままの教室は薄暗い。私は窓際へ立って、雨を見つめた。

「じゃあ、迎えに行くよ」

「そんな、悪いです」

 いかにも申し訳なさそうな声を出すけれど、嬉しくてしょうがなかった。

「十分くらいで学校に着くから……また連絡する」

「……すみません、ありがとうございます」

 通話を切って、携帯電話をポケットへしまった。ウキウキとした気分で窓際から離れる。

 ふと見ると、ドアの傍に忍ちゃんが佇んでいた。
 雨の音に紛れて、表情はよく見えなかった。

「まゆちゃんは誰のためのアイドルなの?」

 はっきりと私を責めているのが分かった。
 私は鞄を抱えて、忍ちゃんの傍を通り過ぎた。
 教室を出ると湿った空気が少しだけ冷たかった。

 プロデューサーさんの車はすぐに学校へ来てくれた。
 助手席へ乗り込んで、雨の煙る道路の様子を見つめる。

「……なにかあった?」

 プロデューサーさんは心配そうに、私の顔を覗きこんだ。

「まゆは、誰のためのアイドルなんでしょうか」

「……ファンのためじゃないかな」

 バシャバシャと窓の外で雨が跳ねていた。

「プロデューサーが最初のファンなんだって、よく言われた」

 私は運転席側へ目を向けて、彼の横顔を見つめた。

「少なくとも、僕はまゆのファンだよ」

 彼はそう言って、にこっと笑った。
 笑い返そうとしたところで、彼の手に光る銀色に私は凍りついた。
 彼は左手の薬指に指輪をしていた。

「嘘……」

「嘘じゃないよ」

 ざあざあと雨の音がうるさい。
 運命の糸は真っ赤な嘘だった。

 時間が止まったような気がしたけれど、左手の時計は動いていた。

 ――――

 夢うつつの波打ち際で、私は渚を見つめていた。
 色のない空と海が遠くで太陽に焦がれている。

 砂で作った小さな声を、私は両手にすっぽりと隠してしまったけれど、
 捕まえた声を耳元へ近づけても、なにも聞こえなかった。

 私が手を開くと、手の中から落書きの蝶が翅を広げて飛び去って行った。
 私は砂浜へ上がって、蝶の飛んで行った方へ歩き始めた。

 ――――

 目を開けたとき、部屋は暗かった。
 雨が降っているのか、微かにヒスノイズのような音が聞こえる。
 カーテンを開ける気にもなれず、私は布団にくるまって、浅い眠りの残り香を吸い込んだ。

 今、何時かしら。右手を伸ばして、枕元に外して置いた腕時計に触れると、意識が凍った。
 右手を引っ込めて、布団の中へ身体を丸めた。
 この身体も、気持ちもすべて溶けてなくなれば良い。もうなにも見たくないと思った。

 微睡んでは覚めてを幾度も繰り返すうち、私は時間を忘れた。
 そっと顔を出して見ると、カーテンの隙間から鳥の鳴く声が届いた。

 雨は止んだのかしら。

 再び目をつむりかけたとき、部屋のインターホンが鳴った。
 私はベッドの上で身体を起こして、玄関の方へ目をやった。誰だろう。

 もう一度、インターホンが鳴る。私はもぞもぞと布団から出て、玄関へ向かった。

「あ……えと、おはよう?」

 ドアを開けると、忍ちゃんが少し驚いたような顔をして立っていた。
 寝間着のままだからだろう。

「昨日今日と、学校休んで……レッスンも来ないって聞いて、心配で」

 風邪引いたの、と訊く忍ちゃんに、曖昧に返事をして少し苦く笑った。

「……ちょっと、上がってもいいかな」

「えっ、と……うん」

 薄暗い部屋へ入ると、忍ちゃんは私のすぐ隣へ腰を下ろした。
 制服と寝間着が隣り合うのはなぜだか、不思議だと私は思った。

 忍ちゃんは口を開かなかった。ためらいがちに同じ空気を呼吸して、私は夢うつつに呟いた。

「もう、アイドル辞める」

 忍ちゃんは丸い目をもっと丸くして、私を見つめた。

「辞める」

 確認するように、私は繰り返した。

「……マドギワさんがかわいそうだよ」

 皮膚の下で黒く冷たい後悔に血管が萎縮した。
 どうして。私は彼に焦がれていたけれど、彼は私のことなど考えてくれなかった。
 そうでなかったら、どうして私に黙って他の誰かと――。

 激しい感情に圧倒されて、私は目をつむった。
 そして、暗闇の中、強く自分を否定した。
 違う、それはひとりよがりだ。けれど、私は――もう、私は。

「もう、いい」

「どうして……?」

「もういいんです。まゆは、アイドルも、学校も……」

 私はもう、いい。現実は私自身の嘘で、もう形を保てなかった。
 それなら、いっそ壊れることのない夢を見ていたい。

「マドギワさんが結婚したから? 一時の感情で投げやりにならないで」

「写真も、ピアノも、時計も……最初から欲しくなんてなかった」

 立ち上がって、道に迷うように部屋をさまよい、行き場もなくベッドへ腰を下ろした。
 忍ちゃんは静かに私を見上げていた。

「アイドルなんて、なりたくなかった」

 私は独り言のように続けた。

「嘘をついたんです。ごめんなさい」

 知っていたつもりだったのに、自分のついた嘘を信じてしまった。

「マドギワさんのことが好きだっていうのも?」

 答えられなかった。ああ、それは嘘じゃなかったけれど――。

「……まゆはアイドルになるべきじゃなかった」

「でも、今、まゆちゃんはアイドルなんだよ」

 忍ちゃんがベッドの隣に腰を下ろすと、スプリングがギシリと音を立てた。

「元々、アタシの曲だったんだ」

 なにが、と訊き返すけれど、察して私は俯いた。

「佐久間さんに歌ってほしいから、って、マドギワさんが」

「……私が辞めたら、歌えるね」

 皮肉っぽく言っても、忍ちゃんは怒ったりしなかった。
 彼女が気遣ってくれることが感じられるたびに、髪の毛の内側が冷たくなる気がした。

「アタシは、まゆちゃんが歌うべきだと思うし、前もそう納得した」

「どうして?」

「あれはまゆちゃんのための曲で、アタシじゃ代われないから」

 私のための歌だとしても、今は重荷でしかない。
 忍ちゃんのためじゃなく、プロデューサーさんのためでもない。
 私のための歌だとしても、私は私のために歌えない。

 私の時計は止まってしまった。きっと止まった。
 彼から受け取った時間は、私の嘘のせいで重さを失って、直に散ってしまうだろう。

「もう、あの歌は歌えない」

「甘ったれないで」

 忍ちゃんは強い口調で言った。

「歌わなかったら……まゆちゃんが逃げたら、アタシ、嫌だよ」

 カーテンの隙間から白灯りが差して、部屋へ入ると青く変わっていた。
 急に眠気が襲ってきたように、私は目を細めた。

 ――ああ、もう、死んでしまいたい。

 呟くと、忍ちゃんは放心したように私を見つめて、わなわなと肩を震わせた。
 それから口を真一文字に結んで立ち上がると、足早に部屋を出て行った。

 私ははっとして、彼女のあとを追った。寝間着のままだけれど、構わずに玄関のドアを開けた。

 空には鮮やかな青に蜜柑色が夢のように塗られていた。
 風は涼しく、道端に花が咲い、私は五月を思い切り呼吸した。

「忍ちゃん!」
 少し行った歩道へ、忍ちゃんは立ち止まっていた。
 走り寄ると、彼女はいきなり私の頬を平手で打った。丸い目に涙が浮かんでいた。

「馬鹿!」

 忍ちゃんは、私を抱き寄せて何度も馬鹿だと言った。
 私を強く抱きしめて、首筋に涙を零した。

「まゆちゃんの馬鹿……」

「ごめん、ごめんね。忍ちゃん……」

 私はそれだけ言うと、声を上げて泣いてしまった。
 夢から覚めた子どものように、確かめるように抱き合った。
 忍ちゃんの身体は温かで、呼吸していて、脈拍があった。

 嘘でもいいじゃない。忍ちゃんは嗚咽混じりにそう言った。

「アタシ、まゆちゃんに辞めてほしくない」

「どうして……私……」
「わがままかもしれないけど……アタシ、まゆちゃんのこと、好きだから」

 忍ちゃんは涙を拭って、親友だもの、と付け足した。
 お互いの赤くなった目に、照れくさく笑った。

 ――――

 久しぶりの撮影の仕事だった。
 目的のチャペルへ向かう間、プロデューサーさんの運転する車ではポリスがかかっていた。

 彼の左手の指輪を見てから、私は深呼吸をした。

「結婚、おめでとうございます」

 声が少しだけ震えたかもしれない。
 彼はハンドルから左手を少し離して、幸せそうに笑った。

「ありがとう。まゆには言ってたっけ」

「あ、いえ……あの、指輪をしていたので」

「これから本格的に忙しくなる前に、籍を入れることになってね」

「……お相手は、どんな方ですか」

「明るくって、話し好きのおてんばって感じかな」

「へぇ……」

「そう言えば、まゆのこと話したらぜひ会いたいって言ってた」

「ほ、本当ですか?」

「ポリスが好きならきっと趣味が合う子だ、って年甲斐もなくはしゃいじゃって……」

 プロデューサーさんは笑って、ソーロンリーと口ずさんだ。
 彼の幸せそうな表情に傷つかずにいられるには、もう少し時間がかかりそうだった。

 ――――

 ようやく着付けを終えると、私は裾を気にしつつ聖堂を歩いた。
 窓から差し込む光が、影と混ざり合って床を青く染めている。

 衣装の一部だと渡された白い薔薇を、幾度も指先に弄ぶ。

 私の願いは叶うのだろうか。
 もしも、私の願いが彼と結ばれることなら、それは永遠に叶わない。

 きっと、最初から分かっていた。
 けれど、彼に恋したことを運命だと感じたのと同じように、
 今を愛するにはもう少し時間が必要だった。

 私の願いはなんだろう。白い花びらが落ちて行った。

 廊下の方から、パタパタと足音が近づいてきた。

「まゆ、もう少し待ってるようにってさ……」

 彼は聖堂へ入ると案の定、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

 このドレスは決して着心地が良いとは言えないけれど、着られる時間が伸びるのは嬉しかった。
 もちろん寂しくもあるのだけれど、今、左手に時計はない。
 だから、この淡い夢に溺れることも、許されたら――。

「ねぇ、プロデューサーさん」
 私は窓の方へ目をやって、誰に言うでもなく呟いた。

「誓ってくれますか」

 青い床へ、浮雲のように花びらが横たわっていた。

「ずっと、佐久間まゆのプロデューサーでいてくれますか」

 嘘に塗れた私を、受け入れてくれますか。
 今も貴方に傷ついている私に、願うことを許してもらえますか。

 振り向くと、なぜだか彼の表情は淋しげに見えた。

「永遠に……」

 永遠。なんて儚い言葉だろう。

 貴方が誓ってくれるなら、私は佐久間まゆで在り続ける。
 まがいものであっても、夢うつつの祈りであっても。構わないのに――。

「……僕は、先に行っているよ」

 彼は踵を返して聖堂を出て行ってしまった。
 微かに吹き込んだ風が床の花びらを攫い、純白のドレスを揺らして、消えた。

 私は拒絶されたわけではなかった。
 それどころか、初めて彼に愛されていたことを感じた。

 泣きたくなったけれど、涙は出なかった。


 花は、はらはらと落ちて行った。
 焦がれた時間が散って行くように。

以上、拙い文章でありましたが、読んでいただきありがとうございました。

劇中で登場させた(つもりの)曲は以下の通りです。

Queen - Now I'm Here
Queen - Brighton Rock
Queen - Play The Game

The Police - So Lonely
The Police - Truth Hits Everybody
The Police - Every Breath You Take

Iron Maiden - Flash of the Blade

エンリケ・グラナドス - 12のスペイン舞曲 第二番 オリエンタル

>>29
多分、人違いです。

乙、他に何か書いてる?

>>137

佐久間まゆ「微睡みのセレナーデ」
東郷あい「ピースの匂いがする」

の二本を書きました。

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