…………。
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「ああ~疲れた。ったく店長もこんな時間まで働かせんなっての」
満月の夜、二人の若者が歩いている一人がそう愚痴を吐き出すと、もう一人が笑いながら諭す。
「ははっそう言うなって。
男と俺が店じゃ一番古株なんだから」
前を歩き愚痴を溢している男とそれを諭す男友は、閉店間際に入ってきた在庫選別の為、日付が変わる寸前まで拘束されていた。
「ハイハイ。男友と違って
俺は人間できて無いからな」
男はそう言うとパスケースに目をやる。
「おっギリでバス有るじゃんラッキー!」
そう言った男の手元の時刻表を男友が覗き込む
「げっ俺んち方面もう無いじゃん
……仕方ねぇ歩くか」
話しながら歩くうちに、二人はバス停へとたどり着いた。
男友が恨めしそうな視線で唯人を見つめる。
「文句が有るなら店長に言え。
んじゃ頑張って歩いてなぁ」
男はバス停のベンチに座ると男友向かって言い放ち、シッシと手で追い払う仕草をした。
「チェッ感じワル」
男友は舌打ちをし家の有る方向に向かって歩き出した。
「お疲れさーん。また明日な」
背中に向かって男が声を掛けると、男友は何も言わず面倒臭そうに軽く手を上げ歩き去って行った。
月明かりの中、男友の後ろ姿が暗闇に
吸い込まれていく。
その背中を見送りながら携帯を取り出し時計を確認する。
『えっと……あと二十分か。
結構時間有るな』
ベンチにもたれ掛かり携帯を弄り時間を潰す。
後ろの草むらでコロロと虫が鳴いているのが聴こえる。
月の光が降り注ぐ音が聴こえてきそうな程辺りは静寂に包まれていた。
「男君! 聞いてる?」
女の子の声が静寂を打ち破った。
「えっ!? えっ!?」
一人のはずのバス停で突然名前を呼ばれ、驚き顔を上げる。
さっきまで誰も居なかったベンチの隣にこっちを向いて少女が座っていた。
混乱し目は見開き、顔がひきつったままの唯人に少女は構わず話を続ける。
「今日は楽しかった。
明後日は……海浜遊園地行こっか?」
『え!? 何? 誰?』
硬直したままの男を放って少女は腕にした
時計に目をやる。
「わっヤバ。もうこんな時間。
じゃあ明後日、海浜遊園地だよ。
遅刻しないでね」
ニコッと無邪気に笑い、少女がベンチを立つ。
男は小走りで向こうに去っていく背中を呆然と眺めるしかできなかった。
『え? 夢? 幽霊? 何?』
少女が去っても混乱は続く、冷静さを取り戻そうとその場に立ち上がり深呼吸する。
『落ち着け、落ち着けぇ俺。
で、誰だあの子?
俺の名前呼んでたよな?』
少し冷静さを取り戻し改めて考える。
『いや……絶対に誰も居なかった。
あれって一体……』
酒を飲んで酔っていた訳でも、知らない間にうたた寝をしていた訳でも無い。
しっかりと現実だった。
あっという間の出来事に男の思考はついて行けて無かった。
幽霊と思いながらも不思議と恐怖を感じない。
彼女の存在だけがやけに鮮明で、まるで曇り空に浮かぶ満月のようだった。
ヘッドライトがバス停の前で立ち尽くす男を浮かび上がらせた。
不思議な感覚に捕らわれながらバスに乗り込んだ、
大して時間が経って無いにも関わらず少女の姿は見えない。
窓の外を見るのをやめ、座り直し改めて考える。
『やっぱり幽霊? いやいやそんな訳
……そっか俺疲れてんだな、きっとそうだ』
さっきの出来事を気のせいと思い込みながらバスに揺られた。
バイトの疲れもあり、座席に座るとウトウトとし始めていた。
『でも……可愛いかったな、あの子』
不思議とさっきの少女の事を可愛いくて、無邪気な子だなんて能天気なことを感覚
そんな奇妙な感覚に包まれながら深い眠りへと落ちていった。
「お客さん、お客さん! 終点ですよ!」
運転手に揺り起こされ、目を擦りながら辺りを見回す。
「あれ? ここどこ?」
寝ぼけながら運転手に問い掛ける。
「終点ですよ、終点。お願いしますよ、
車庫に戻りたいんで……」
寝ぼけた男を運転手が困った表情で見下ろしている。
「あ……すみません。すぐ降ります」
運転席に戻る運転手にペコッと一礼しバスから離れた。
『あっちゃー、やっちゃったよ……』
幸い男の住む家はバス停二つ程でそこまで遠くは無かった。
家の道を歩く間、さっきの出来事を思い出した。
バスの中で眠ったせいか、夢と現実の境界線が曖昧になっていた。
『んん? やっぱ夢だったんか?
にしてはリアルだったな』
強烈なインパクトがあったにも関わらず、気のせいだと自分に言い聞かせ始めていた。
それほど非現実的な感覚だった。
『まっいっか』
驚くほど簡単にに気のせいに分類された。
それより遅くなってしまった帰宅の方を気にして家へと急いだ
「ただいまぁ」
扉を開け家の中へと入る。
その瞬間、男の視界が真っ白になる。
「ボフッ」
顔面をクッションが直撃した。
「遅い!! 何してたの!?」
顔面から剥がれ落ちるクッションを受け止めながらリビングの方を見る。
Tシャツにホットパンツ姿の女性が男を睨んでいる。
「何ってバイトだよ」
リビングを通り過ぎ部屋にバックを放り込む。
さっきキャッチしたクッションを投げ返し問いに答える。
「今日は男が夕食の当番でしょ?
もぅお腹減って死にそうなんだから」
女性は投げつけられたクッションを抱え寝転がりながらそう答えた。
「え!? 姉貴まだ飯食って無いの?
自分で作って食えば良いじゃん」
男は自分の空腹より当番にこだわり、深夜まで食事を摂らない姉にある種尊敬の念を抱いた。
姉がキッと唯人を睨み反論する。
「何よその言い種。当番は男が
言い出した事でしょ。
第一誰のマンションに住ませて
もらってると思ってるのかなぁ?」
ふぅと溜め息をつき呆れた様子で男がうつむく。
姉のマンションに転がり込んだ男に反論の余地は無かった。
「ハイハイ、分かりましたよお姉様。
作ればいいんでしょ? 作れば」
反論を諦めキッチンに向かう。
パスタとレトルトのソースを取り出し茹で始める。
「うんうん、分かればいいのよ」
姉は満足そうに頷きながらテレビに視線を向けた。
パスタが鍋の中で踊る。
茹で加減をみながら姉に話し掛ける。
「あのさぁ……
さっき変な事が有ったんだよね」
「ん? なにが?」
テレビを見る姉がこっちも見ずに返事をする。
話すべきかどうか悩みながらもバス停での出来事を思い出し話し始める。
「月見台のバス停あるじゃん。
あそこでバス待ってたら、いきなり変な女の子に 話し掛けられてさ……」
スナック菓子を食べる姉の手が一瞬止まった。
「誰も居なかったはずなのにさ、急に声掛けられて。
しかも俺の事、男君って呼んだんだよ」
テレビを見て笑っていた姉の顔が強張る。
鍋の方を見ている男は姉の表情の変化に気付いていない。
「まだそんなに暑くないのに、
ノンスリーブのワンピース着ててさ。
ははっ変だよな、やっぱ夢だったんかな?」
男は話しながら茹であげたパスタをソースに絡め盛っていく。
両手に皿を持ちリビングに向かいながら話を続ける。
「でも……どっかで見たことある気が
するんだよなぁ……あの子」
テーブルに皿を置き姉の方を向く、悲しそうな表情でこちらを見ている姉に男は驚いた。
「え? どうかした姉貴?」
男に問い掛けられ、ハッと我に返った様に反応する。
「わぁ美味しそう! さ、食べよう」
姉はまるで誤魔化すように食べ始めた。
「やっぱり俺、疲れてるのかな?」
姉はまたテレビに視線を向け、話を聞く素振りを見せなかった。
「そんなん夢に決まってるじゃない。
バイトのやり過ぎよ」
それ以上話は続かなかった。
姉の態度に多少の違和感を覚えたが大して気にはしなかった。
乙
次の日、午前の講義を終えバイト先に向った。
バイト先はレコードショップに加え楽器店と貸スタジオを営んでいた。
「おぃーっす」
レコード店側のレジに立つバイト仲間に挨拶し奥に向かう。
倉庫兼休憩室になっている奥の部屋に入り椅子に腰掛けた。
目の前には昨日深夜まで格闘したインポートレコードが山の様に積まれている。
『はぁ、今日もこの続きか……』
椅子に座ったままダラリと両手を下に垂らし、力無く首を横に振る。
これから始まる果てしない選別作業にウンザリしている男に背後から一人の男性が近寄る。
「おはよう、今日は早いな」
「あっ店長。おはようございます」
生気の無い表情で振り向き店長に挨拶をすると、視線をまた未選別のレコードの山に戻す。
「ご苦労さん、まっちゃちゃっと
片付けちゃってくれや」
その一言に男の眉がピクッと動く
『ちゃちゃっとだぁ? 昨日もどんだけ
苦労したか知ってる癖に……』
心の中で不満を呟く。
「へーい。ガンバリますよ」
明らかにやる気の無い返事でちょっとした反抗を試みる。
店長はその様子を察して、バツが悪そうに首筋を軽く掻いている。
少し言い難そうな表情で男の背中に向かって話し掛ける。
「そうそう。明日さ、また同じ位の量
入庫すっからよろしくな」
さりげなく誤魔化しながら、休憩室から出て行こうとする。
「はーい。……って、マジで!?
いやもぅ勘弁して下さいよ」
その言葉に驚き振り返った。
「じゃ、よろしくー。
あっ今日、男友休みだとさ、
1人で大変だろうけど頑張ってな」
店長は既に扉に手を掛けていた。
最悪の事実を告げると逃げる様に部屋を出て行った。
「ちょっ、店長!」
バタンと扉が閉まり、休憩室に男の声が虚しく響く。
『最悪。男友の奴め逃げやがったな』
昨日の夜自分を諭した癖に自分は休む理不尽さに怒りを通り越し呆れてしまった
「はぁ……マジかよ」
一人で呟きながら選別を始める。
話し相手も作業分担もできない状況は負担を倍以上に感じさせた。
黙々と作業を続け時間が過ぎていく。
男の頭の中は店長と男友への不満で一杯になっていた。
レコードのジャケットが擦れる音と時折男のつく溜め息で部屋が満たされていく。
何時間か過ぎた頃、部屋に店長が戻ってきた。
携帯で話しながら男の方に近寄り様子を伺う。
少し離れた所で話を続け、携帯を切りポケットに入れながら話し始めた。
「なぁ男、明日暇か?」
作業の手を止め振り返る。
「暇も何も……また在庫選別でしょ?」
不機嫌そうに答えると、再び前を向き作業を続ける。
店長は少し困りながらさっきの電話の内容を伝えた。
ところどころ男が唯人になってんぞ
「いや、今さ連絡があって、
ローディーを1人貸してもらいたい
って言うんだよ、それでさ……」
話が終わる前に男は立ち上がり、店長の肩を掴んでいた。
「行きます! いえ、俺に行かせて下さい」
じっとしているのが苦手な男には、部屋に籠っての果てしない作業より、機材運びや設営の方が何倍もマシな選択だった。
思った以上の反応に店長は多少困惑気味に答える。
「そ、そうか。
じゃあ明日の三時にシーパークの野外スタジオな。
あとは向こうの指示に従ってくれ」
店長はそう言うと、すぐさまポケットから携帯を取り出し、話しながら軽く手をあげ部屋を出て行った。
『はぁ良かった。
何度もこんな事やってられねぇよ』
明日は解放されるかと思うと、思いの外作業ははかどり、一人にも関わらず昨日より大分早く選別は終了した。
作業が終わった事を店長に告げ、店をあとにした。
すっかり長くなった影を引き連れバス停に向かって歩く。
十時間以上ひたすらレコードのジャケットを見る作業に疲れ果てていた。
バス停に着き一人バスを待つ。
「じゃあ明後日、
海浜遊園地だよ。遅刻しないでね」
突然頭の中に昨日の不思議な出来事が浮かんでくる。
「あっ……そういえば」
偶然にも明日のイベント会場と同じ場所だった。
『いやいや、何考えてんだ俺』
昨日の出来事は気のせいだと結論付けすぐその考えを自分で否定した。
期待
イベント当日、男はステージの設営に奔走していた。
「あっ、それはこっちの方が……」
違う店のイベントとはいえ、それなりに経験の長い男は指示役に回っていた。
急ピッチで作業が進む。
無事設営が終わり、ぞくぞくと客が入ってくる。
『あとは任せるか』
入り口に近いスタッフ用の席に座り一息つく。
ステージをボーっと見ている男に二人組の若者が話し掛けてきた。
「あれー!? 男じゃん。久しぶりー」
覚えの無い二人に声を掛けられそちらを向く。
全く覚えの無い人に話し掛けられるのは初めてでは無かった。
「ごめん……誰だったっけ?」
申し訳なさそうに謝る。
「あっヒッデー。
高校の時に一緒だった同級生Bだよ、
忘れたんか?」
一緒に居たもう一人が慌ててを言葉を遮る。
「おいっ! 忘れたんか?
男はあの事故でって聞いたろ?」
別に男が忘れてっぽい訳では無かった。
男は二年前にあった事故により、それ以前の記憶が一部欠落してしまっていた。
「あの話本当だったんだな……
じゃあ、あの娘もやっぱり」
「お前、バカっ! その話は……」
もう一人が慌てて言葉を遮る。
「あっ、えっと……俺は同級生A、こいつは同級生B
男とは二年の時同じクラスだったんだ」
二人は何事も無かった様に自己紹介をし、暫く話を続けた。
自分の知らない自分自身を人から伝え聞く、それを幾度となく繰り返し、記憶の無い時期はほぼ補完されていた。
ただ一部を除いて。
定刻になりイベントがスタートした。
イベント中の裏方は企画店のスタッフで取り回す為、やる事も無くライブを見る。
「じゃあ明後日、海浜遊園地だよ。
遅刻しないでね」
一昨日の出来事がまた浮かんでくる、あの彼女との約束がぐるぐると頭の中に渦巻く。
『ははっ、何考えてるんだって』
バカバカしいと思う冷静な感情と、今にも走り出して行きたい二つの想いが心の中で混ざり合う。
気が付くと男は会場を飛び出していた。
人波の中を縫いながら彷徨う、通り過ぎる人々の中に彼女の姿を探し続けた。
歩き疲れた男はパークの中心にある広場にたどり着き、端に生えた木の下に座り込んだ。
「何やってんだ俺?」
ついボソッと独り言を呟き木の下でうなだれる。
気のせいかもしれない出来事に対して、必死でパーク内を走り回った自分の行動を少し意外に思いながら膝を抱え、目を閉じる。
『バカバカしい……居る訳無いじゃん』
らしくない行動を冷ややかに笑いながら目を開き立ち上がる。
ズボンの埃を払い、視線を前に向けた。
その瞬間
目の前を歩く人々も景色も透明になった。
向かいの木の下に立つ彼女だけが鮮やかに色を帯び、男の視覚を支配した。
「本当に居た……」
半信半疑のまま探していた男の視線の先、この間のバス停で出会った彼女が確かにそこに立っていた。
信じられない思いのまま、木に寄り掛かり待つ彼女の元へ無言で近付く。
伏し目気味だった彼女が顔を上げた瞬間、男に気が付いたのかその表情に笑みが指す
照明があるとはいえ薄暗い外の木の下に居るにも関わらず、彼女の表情まではっきりと読み取れた。
バックを持つ手を小さく振り、近付く男に微笑み掛けた。
「ごめんね。私が遅れちゃった」
男が目の前に立つと、彼女は軽く首をすくめながら謝った。
「いや、いいんだけど……」
待ち合わせをしていた事を成すがまま受け入れた。
自分が知らない相手との身に覚えの無い約束、そんな状況に混乱しながら、不自然さが一切無い彼女の態度に、解っていない自分の方が悪いかと、罪の意識さえ感じた。
「ちょっと歩こっか?」
彼女は木から離れると、クルッとこちらを向き笑顔で問いかけた。
バックを後ろ手に持ち、満面の笑顔で話し掛けてくる彼女の顔を見て男は何も言えなくなった。
「あっ、うん」
手を伸ばせば届きそうな満点の星空の下、マリーナのデッキに二人の影が映る。
波の音だけが静かに響いていた。
歩きながら男は必死に記憶を辿っていた。
どうしても彼女の事が思い出せないで悩みながら歩き続ける。
意を決し、男が彼女に問い掛けようと口を開く
「あのさ、君って……」
話を始めようとした瞬間、まるで男の言葉を止める様に彼女も口を開いた。
「女ね、ずっとここ来たかったんだ。
でも男君って、人が一杯いる所嫌いでしょ?
だから、今日は一緒に来れて嬉しい」
後ろ向きに歩きながら笑顔で話し掛けてくる。
彼女の笑顔に男の心にはある感情が芽生え始めていた。
『彼女、女って言うんだ……』
この時、男の心は無意識にこのおかしな状況を受け入れていた。
「あっ見て見て。イルカだよ」
マリーナから離れ少し小高い丘の上で二人はベンチに腰を下ろした。
眼下には遠くに広がる港の明かりと、パークの施設が光っている。
彼女はショーが終わり調教を行っている光景を見て、嬉しそうにそちらを指差した。
「本当だ。でもちょっと遠いな……」
目を細め彼女が指差した方を眺める。
その言葉を最後に彼女も男も丘からの夜景を見ながら黙りこんだ。
瞬く星空の下、二人の間に言葉は必要無かった。
彼女と居るだけで心が和んだ、彼女がそこに居るだけで十分だった。
景色を眺めているだけの時間が静かに流れていく。
いつしか男は月の光に照らされた彼女の横顔を見つめていた。
男の視線に気付くと、彼女は恥ずかしそうに手で顔を覆い下を向いた。
「何? 男君。そんな見ないでよー」
彼女の言葉で見つめていた自分に気付く。
「あっごめん。つい……」
指摘された自分が恥ずかしくなり顔を赤らめた。
恥ずかしさを誤魔化す様に男は話しを変えようとした。
「でさ、女? って……」
改めて彼女の事を聞こうとした瞬間、携帯が鳴った。
「ちょっと、ごめん」
見覚えの無い番号、主催店、店長からの電話だった。
「ごめん男君、今どこいんの?
ぼちぼち撤収始めたいんだけどさ」
男は今日ここに来ている理由を完全に忘れていた。
「あっスイマセン。すぐ戻りますんで」
携帯を切るとベンチから立ち上がった。
彼女が座ったままこちらを見ている。
「行っちゃうの?」
寂しそうな表情で立ち上がる男を見つめる。
「うん、仕事に戻らなきゃ。
で……あのさ、次っていつ会える?」
もう彼女の存在に疑問すら感じていなかった。
また会いたいと思う気持ちが男を支配していた。
「今度は……来週かな?
女、SSランド行きたい」
曇っていた彼女の表情がパッと明るくなる。
その顔を見て男の表情も柔らかくなる。
「うん。じゃあ、また来週な」
手を振り会場の方へ走って行く。
丘を駆け下りながら何度も彼女の方を振り返った。
彼女は見えなくなるまで男に向かって手を振り続けていた。
少し欠けた月が、遠ざかっていく2人の姿を見守っていた。
無事イベントを終え男は打ち上げに参加していた。
ほとんど知らない顔ぶれの中、居場所を持て余していた。
話し相手も居ない状況もあり、さっきまで一緒にいた彼女の事をひとり思い出していた。
物思いにふけっていると、不意に声を掛けられた。
「よっ、また会ったな」
会場で会った同級生Aはグラスを持って男の隣に座った。
「あぁ、同級生A? だっけ。
ごめん覚えて無くって」
相手を覚えていない事を申し訳無く感じていた。
「ん、仕方無いさ。じゃあ初めまして、かな?
高校の時は結構仲良かったんだけどな……」
男の言葉を聞き少し苦笑いしながら同級生A答える。
男が事故に遭ったのは二年前の大学一年の夏。
それ以前の三、四年間の記憶がスッポリ抜け落ちていた。
「ホントごめん」
改めて頭を下げ同級生Aに謝る、その姿を見て逆に同級生Aはいたたまれない気持ちになっていた。
「いや、男が悪いんじゃ無いんだから謝るなって」
過去の友人の優しい言葉が心に染みる。
何も思い出せない自分に苛立ちさえ覚えた。
そんなやり取りが終わり、自分の思い出話を人から聞くという、妙な会話になった。
「二年の冬休みは酷かったぞー。男と男友が……」
自分の事なのに一切現実感の無い話ばかりだった。
興味津々に同級生A
の話に耳を傾ける。
こうして男は自分の無くした約三年を補完していた。
しかし、誰と話しても必ず高校三年の時の話は出てこなかった。
今回の同級生Aもその期間には一切触れる事は無かった。
何か腫れ物に触る様にその期間を避けているのが分かっていた。
男もあえてそこには触れる事は無かった。
暫く高校時代の話を聞いた後、質問を投げ掛けた。
「なぁ同級生A、女って子知ってるか?」
その名前を出した途端に表情が硬くなる。
「男……お前、本当に何も覚えて無いんだな……」
困った顔で返答に悩んでいる。
悩む同級生Aを見て男は何かを感じ取った。
暫くの沈黙、重苦しい空気が流れる
「ごめん、何でも無い。で、同級生Aは今何してんの?」
真相を聞くのが怖くなり、話題を変えた。
同級生Aもホッとした表情で自分の事を話始めた。
『やっぱり知ってる子なんだな……』
同級生Aの反応から女の存在に確信を持った。
しかし、なぜ頑なにその話に触れない様にするのか、その時の男は分からずにいた。
結局この日も綺麗に高校三年の時の話だけ避け、初対面の旧友との話は打ち上げが終わるまで続いた。
『あの子は一体誰なんだろ?』
帰りのバスに揺られながら懸命に女の事を思い出そうとする。
何故かチクチクと頭が痛む。
月見台のバス停を通り過ぎ、バスは家の方へと進む。
『でも可愛い子だったなぁ。
明後日か、楽しみだな』
今日、一昨日と会った彼女の顔が頭に浮かぶ。
微かに昔の記憶が浮かび上がってくる。
バスの窓の外、少し山道のカーブに差し掛かりその景色を見た瞬間、激しい頭痛が男を襲った。
「キャー!!」
激しい悲鳴、窓の外の景色があり得ない方向に流れていく。
強い振動と痛みが身体を走る。
崖を落ちて行くバスの中、男は自分の身も顧みず少女を自分の身体で包み、痛みに耐えている。
一瞬なのか数時間なのか分からない時間の中で必死に腕の中の彼女を身を呈して守った。
その内に意識が遠くなっていき、ついには目の前が真っ暗になり意識を失った。
「うわっ!?」
叫び声を上げ、椅子から飛び起きる。
目の前には驚いた顔で運転手が立っていた。
「だ、大丈夫ですか? 顔色が大分悪いですよ」
心配そうに運転手が話し掛ける、身体のどこにも傷は無く、バスも無事終点に着いていた。
「えっ!? 夢?」
手が汗で湿っている。
気が付かないうちに眠っていた様だ。
「すいません、終点なんで」
運転手は男の様子に戸惑いながらそう告げた。
「あ……すいません」
リアルな情景がまだ目蓋の奥に焼き付いている。
バスを降りようとした男は躊躇いながらも運転手に質問した。
「あの、変な事聞いてすいません
この路線バスって事故とか起こした事有りますか?」
男の問い掛けに運転手の表情が暗くなる。
「えぇ……二年程前に、運転手を含めて
四人の方が……」
運転手は帽子を脱ぎ、深々と男に頭を下げた。
「僕の方こそ変な事聞いてすいません。
じゃあ失礼します」
運転手に頭を下げバスを降りる。
さっきの夢の感覚がまだ生々しく残っていた。
「俺が事故ったのって、やっぱり……」
男は自分が遭遇した事故の事を全く知らなかった。
事故の話になると姉や友人達も固く口を閉ざした。
何度も事故の事を調べようとしたが、そのたびに激しい頭痛に襲われ、触れる事をやめていた。
しかし、女の存在とさっき見た夢がどうしても気になり、男は事故について調べる事を決意した。
その後、数日間
その日は講義も無く、バイトも久々に休みだった。
遅めに起きた男は独り昼食を食べ、何をするとも無くぼんやりと過ごしていた。
『この前のあれってどこまでが夢なんだろ?』
イベントの夜の事を思い出す。
女と過ごした穏やかな夜の風景、その帰りに見た夢の出来事。
現実との境界線が曖昧な事ばかりだった。
「さてと……」
現実に戻り、バックから荷物を取り出す。
何気なく手帳をめくり明日の欄を見て焦った。
「あっやべ」
バイトに明け暮れていて、明日提出の論文に全く手を付けていなかった。
渋々と資料をめくり論文に取り掛かる。
どんよりとした曇り空の一日はひたすら論文に費やされた。
時間が刻々と過ぎていく、ペンを走らせる音とパソコンのキーを叩く音だけが部屋に響く。
陽の光も落ち部屋に電気が灯る頃、ペンを置き、ノートを閉じた。
「うーん。やっと終わった」
コーヒーを注ぎ一息つく男の視線の先にパソコンが置かれている。
あの日の夜決心した自分の過去を探る事を未だ躊躇していた。
「よしっ! 悩んでても仕方無いな」
カップをテーブルに置き、検索エンジンを開く。
“200×年 バス事故”
打ち込んだ時点でピシッと軽い頭痛が走る。
結果が表示される。痛みで顔を歪めながらも当時のニュースを開く。
「なになに、スピードの出し過ぎたバスがカーブを曲がり切れず横転、死者二名……、
重体三名……」
そこまで読むと、今度は激しい頭痛が襲ってきた。
痛みを我慢しながら読み続ける。
「ええっと、痛……。同市に住む男さん、
女さん……」
その後は激しくなる頭痛に負け読むのを諦めた。
しかし、痛みに襲われながらもその名前を見つけた。
「女……」
男の中の疑問が確信に変わった。
自分の事を一方的に知っている彼女、バスでの夢、四人の犠牲者、消えた記憶。
「重体三名か。一人が俺って事は、
あとの二人は……」
信じられない事だが、この全てをつなげる答えは一つしか無かった。
「あの子はやっぱり」
考えれば考える程、頭痛は増していった。
ついに頭を抱え、その場にうずくまってしまった。
「ただいまー。男いるの・? 今日は早いじゃ……
どうしたの!?」
帰宅した姉がリビングでうずくまる男を見て駆け寄る。
「いや、何でも……無い……」
朦朧とする意識の中で姉に心配を掛けまいと立ち上がろうとする。
フラつく男を支えながら、パソコンの画面を見て、姉は状況を悟った。
「だから前も言ったじゃない。
事故の事は調べるなって」
肩を貸しソファーに寝かせると厳しい表情で諭した。
「なぁ姉貴、女って……」
そう問い掛けようとすると、また激しい頭痛が男を襲った。
まるで事実を知る事を自分の体が、頭が拒否している様だった。
『なぁ姉貴、女って誰なんだ?
俺の何なんだ?』
薄れていく意識の中で姉に問い掛けたその言葉は声になっていなかった。
男は完全に意識を失った。
窓の外の下弦の月が淡い光を放ちながら姉弟を見つめていた。
額に当たる冷たい感覚で目を覚ました。
目を開けると姉が額に手を当て、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「はぁ良かった。あんまり心配させないでよね、
この馬鹿!」
キツい言葉とは裏腹に姉の顔が安堵に包まれた。
「ん、ワリィ姉貴」
テーブルの上にあったパソコンは既に電源が落とされていた。
『あっそうだ、女って……』
そう思った瞬間、またピシッと頭痛が走る。
顔を歪める男の顔を姉が心配そうに伺う。
「大丈夫? まだ痛む?」
普段は男に厳しい姉が、いつもより優しい口調で気を使っている。
その口調から、心の底から心配している事が痛々しい程よく分かった。
『駄目だ、姉貴に心配させちゃ』
そう思うと男は何も聞けなくなってしまった。
男が平気そうな事を確認すると、姉は立ち上がり髪を後ろに束ねた。
「さて、男はもうちょっと寝てな。
ご飯は私が作るから」
そう言うとキッチンの方へ歩いて行く。
「姉貴……」
姉の優しさが嬉しかった、だがそれと同時に姉にそこまでさせる位の事実なのだと
男が理解した。
「はーいできたよぉ、さっ食べよ」
姉の作ったリゾットを食べ、何気無い会話をした。
もう事故の話題に触れる事は無かった。
食事を終えベッドに入る。
複雑な感情が頭の中で渦巻く、事故の事、彼女の事、自分の事。
『女……か』
整理の付かないまま、男は眠りに誘われた。
その日男は、パークでの女と過ごした時間を夢で見ていた。
次の日の朝、女と夢の中で一緒に過ごした事をボンヤリと感じていた。
男の心は既に女で一杯になっていた。
抑え切れない感情が胸に溢れる。
今日があの夜から一週間だと気付くのにそんなに時間は必要なかった。
『SSランドか、久しぶりだな』
女と約束したその場所を思い出す。
「久しぶり?」
男はSSランドに行った記憶が無かった。
だが久しぶりという感覚もあった。
矛盾した二つの感覚が男を悩ませる。
「でも確かに、ん?」
男の視線がクローゼットに向く、一番端の扉を見つめる。
事故に遭って以来、決して開ける事の無かった扉に手を掛けた。
『この中に……』
扉の中に何が入っているか覚えていないにも関わらず、そこは開けてはいけない気がしていた。
息を止め、手に力を入れる。
「ガラッ」
音を立てて扉が開く。
恐る恐る中を覗き込んだ。
『アルバム?』
そこには何冊かのアルバムが置かれていた。
持ち上げると部屋中に埃が舞った。
「プハっ」
埃にむせながらも、窓を開け外でアルバムを叩く。
埃を払い床にアルバムを置きその前に座った。
『これって』
中身は大体想像できた。
記憶の無い三年間だろうと思いながらも表紙を開く勇気が出なかった。
『何を今更ビビってんだ?』
開こうと思いながらも手が動かない。
アルバムに手を添えたままの状態で固まってしまった。
「ピリリリ!」
自分の携帯にビクッとし、手を引っ込めた。
携帯を開くと男友の番号が表示されている。
「何だ男友か……」
アルバムから手を離し携帯に出る。
「何だじゃねぇよ。何やってんだ男?
レポート提出して無いのお前だけだぞ」
「え!?」
時計を見ると午後をとっくに回っている。
知らない間に時間が過ぎていた。
「ワリィ男友、今から向かうって伝えといてくれ。
じゃあな」
慌ただしく電話を切ると家を飛び出した。
閉め忘れた窓の外を男が走って行く、窓から風が吹き込む。
パラパラと風がアルバムのページをめくる。
風で開かれたページ
そこには、幸せそうに男と女が笑顔で寄り添っていた。
今日は終わりかな?
おつおつー
おつ
男は必死にキャンパスに向かった。
二時に提出しなければならないにも関わらず時計は三時を指していた。
さっきまでの事も忘れ、ただひたすら走った。
息を切らして部屋に駆け込む。
「はぁはぁ、セーフ?」
男友を見つけ問い掛ける。
「バシッ」
男の頭に軽い衝撃が走る。
「セーフな訳無いだろ……」
男の頭にテキストを落としたまま、冷ややかな目で教授が睨む。
「やっぱり?」
その後はひたすら教授に頭を下げ続けた。
懇願の結果、レポートは受け取って貰えた。
男はホッと胸を撫で下ろした。
「その代わり……これを今日中な」
教授の論文資料の編纂要点が手渡された。
「今日中って、何すかこの量」
「文句が有るならやらんで良いよ、但し……」
脅すような眼差しに男は条件を承諾した。
部屋の隅でまとめ始める。
「よっ大変だな。頑張れよ」
男友が声を掛け帰ろうとする。
「おいっ友達甲斐の無い奴だな。
君は可哀想な友人を助けようって気は……」
引き留めようとする男に振り向きざまに男友が返す。
「男ぉ昨日、今日バイト休みだったよな?
また入庫してるんだけど、手伝うなら……」
男友がニヤニヤしながら話す。
「あっお疲れさーん、またなー」
男友に最後まで喋らせず手を振り送り出した。
一人黙々と資料を書き出していく。
高かった陽もすっかり傾いていた。
窓から西陽が射し込む。
『クッソ、何で今日に限って』
このままでは在庫選別をしているのと変わらない時間になるのは必至だった。
陽も落ちた頃、扉が開いた。
「おぉーまだやってたか、感心感心」
教授はレポート用紙を手に取ると内容を読み始めた。
『感心感心ってお前がやらせてんだろ!
このジジイ』
何枚か内容を確認すると思いがけない言葉が掛けられた。
「うん、結構よくまとまってるね、
もういいや、帰りなさい」
「本当ですか? ありがとうございます、
じゃあ失礼します」
喜び部屋を飛び出す、構内を突っ切り駅に向かって走りながら時計を確認する。
『よし、まだこの時間なら』
改札にパスを叩き付ける、ゲートが開く時間さえもどかしく感じる。
階段を駆け登り、電車に飛び乗った。
一刻も早く女に会いたい気持ちで一杯だった。
電車に乗り込み座席に座り少し考える。
『あれ? 何時に何処で待ち合わせだ?』
不安を抱く男を乗せ電車は海沿いを走り続けた。
男を乗せた電車がホームに入って来る。
ドアが開くと改札を飛び出し駅の目の前にあるチケット売り場に飛び込む。
「はぁ、大人……一枚」
必死の形相でパスポートを求める男に、受付の女性はたじろいた。
「は、はい。大人一枚? ですね」
険しい顔の男が一人でパスポートを買う姿は、夢の国と呼ばれるここに全く似つかわしくなかった。
パスを受け取りゲートをくぐる。
薄暗い中、入り口付近で女の姿を探す。
『やっぱ見つから無いか……何処だ?』
人々の中を男が足早に通り抜けて行く。
『先週からこんなんばっかりだな』
自嘲気味に笑いながら女を探し続ける。
歩くうちに更に人の多いメイン通りに立っていた。
『絶対何処かに居るはずだって』
息を切らせた男はパレード通りの柵を手で掴み、下を向き息を整えていた。
向こうの方からパレードの列が近付いてきた。
楽しそうな音楽と電飾が夜空に広がる。
「わぁ」
すぐ隣からパレードにハシャぐ声が聞こえる。
ふと見ると、女の横顔がパレードの光に照らし出されていた。
男は光で輝く女の笑顔を暫く横から見つめていた。
華やかなパレードの列も男の目には入らなかった。
ただ女の横顔を見つめ続けた。
「綺麗だったね、男君!」
興奮冷め遣らぬ様子で女は男に話し掛ける。
「男君?」
ひたすら女の顔を見つめる男を見て、不思議そうに首を傾げる。
「あぁ綺麗だな……」
女を抱き締めたい気持ちで一杯だった。
抱き締めたら消えてしまいそうな、儚い女の存在を感じ、男はその気持ちをぐっと我慢した。
「ドーン パラパラ……」
見つめ合う二人の上に大輪の花が咲く、散っていくその光が二人の頬を色鮮やかに染めた。
「あっ花火!」
子供の様に声を出してはしゃぐ女。
その笑顔が何者で在ろうと、もう男には関係無かった。
雑踏の中、男は確かにそこに居る女の存在を感じていた。
暫くして空に静寂が戻った。
「えぇ、もう終わり? もっとやれば良いのに……」
女が口を尖らせ少しスネた様な素振りをする。
「また来れば良いんだよ、だからスネるなって」
努めて明るくそう言った。
“また”が有るかどうか男は不安に思う気持ちを悟られない様、必死に感情を押し殺した。
「あー楽しかった、ぜったいにまた来ようね!」
出口向かって話しながら歩いて行く。
「あぁ約束するよ、絶対な」
また消えてしまう女を思い、一言一言大切に言葉を交わす。
その言葉を聞き女の顔が少し曇る。
何か言いたそうな表情を察して問い掛ける。
「女? どうした?」
「ん? ……どうもしないよ」
女はとぼける様に返事を返した。
『もしかして、もう終わりなのか?』
その態度が男を不安にさせた。
「女、お前もう……」
男は立ち止まり、うつむき話し掛けた。
顔を上げ前を見ると、女は木の枝に引っ掛かった風船を取るのに夢中で男の話しを聞いていなかった。
「取れたぁ、どしたの男君? 顔恐いよ」
真剣な顔の男を女が茶化す。
風船を手で遊ばせ満足そうに前を歩いて行く。
突然立ち止まり男の方へ振り返った。
「ねぇ今度はどこ行こっか?」
いつもの満面の笑みで男に問い掛ける。
その言葉を聞いて緊張が解れる。
『また、会えるんだな』
次などでは無く、このままずっと女と一緒に居たかった。
しかし、それが不可能な事も理解していた。
「うーん、そうだな……」
悩んでいる男に、女は風船を持った手を差し出す。
「ん?」
男がその手を見ると、女はパッと風船を離した。
赤い風船が夜空に消えて行く。
「じゃあ、また来週。月見台の公園で待ってるね」
女の声が耳の中に響く。
風船を見上げる視線を戻すと、そこに女の姿は無かった。
夢から覚めたように、痛みが現実になる。
『バカ、何普通に消えてんだよ……』
零れそうな涙をこらえて再び夜空を仰ぐ
風船の姿は見えず欠けた月がこちらを見ていた。
力無く玄関の扉を開く、部屋に電気は灯っていない。
姉はまだ帰っていないようだ。
街の明かりでかろうじて見える程度の薄暗い中、自分の部屋を進む。
爪先にコツっと何かが当る。
取り上げると、それは出しっぱなしにしたアルバムだった。
目が部屋の暗さに慣れてきた。
開かれたページに写る二人の笑顔が徐々に浮かび上がってくる。
「女……」
一緒に過ごせる時間が残り少ない事を予感していた。
バス停、パーク、そして今日、段々とその存在が希薄になっているのを感じていた。
「もぅ消えちまうのか?」
写真に向かって問い掛ける。
男に寄り添うその笑顔が問いに答えてくれる事はなかった。
眼に涙が滲む。
アルバムを見ようとするが、胸が一杯で直視できない。
そっとアルバムを閉じ、机の上に置く。
ベッドに寝転び思いを巡らせる。
女の存在が現実のものでは無いのは確かだった。
もしかしたら記憶が見せている妄想なのかも知れない。
そんな事は関係無かった、さっきまで隣で笑っていた
存在がかけがえないモノになっていた。
女と過ごした時間を思い出そうと目を閉じる。
「ほんの少ししか話して無いじゃんかよ」
目尻から零れた涙が枕に落ちる。
思い出にするにも余りに時間が短すぎる。
過去の女と過ごした日々が記憶から消え去っている事が心の底から憎かった。
失意に暮れた男はそのまま眠りに落ちていった。
せめて夢では女と出逢える事を願いながら。
「ただいまぁ、男ぉ鍵開きっぱなしだ……ぞ……」
薄暗い部屋の中、男の部屋の扉を開ける。
眠る男を見てその声を静めた。
何も掛けずに眠る男に近寄り、足元の布団を掛ける。
「もぉ、まだ子供なんだから」
最近姉らしい事ができていないなと思い、自分の行動にクスっと微笑んだ。
部屋を出ようとすると、机の上にあるアルバムが目に止まった。
「これって」
手に取り表紙を開く。中を見てハッと息を飲む。
「男……」
姉は何か言いたそうに、眠る男を見つめた。
アルバムを机の上に戻し部屋を出る。
「思い出しちゃったのかな?」
男の部屋の前で不安そうな顔で姉が呟く、二人の複雑な想いを乗せ夜は更けて行った。
次の日からも日常は変わらず流れていた。
少々の講義と、果てしないバイトの毎日。
何事も無かった様に毎日を過ごす。
アルバムはクローゼットの元の場所に仕舞われ、姉と女について話す事も無かった。
女との約束を明日に控えた夜、久々に姉と一緒に夕食を摂った。
いつも通りの何気無い会話を交わす。
「男、ん」
食後に姉がコーヒーを差し出す。
「サンキュ」
カップを受け取り口を付ける。
「なぁ姉貴。俺、大丈夫だからな」
黙ってコーヒーを飲んでいた男が突然口を開く。
「何が?」
半分意味を悟りながら質問を返す。
その表情には誤魔化そうとする思いが現れていた。
「だから、おん……」
そこまで口にし男は言葉を飲み込んだ。
「……いや何でも無い」
女について事実を知る覚悟を姉に伝えようとしたが、
その表情を見て思い留まった。
『俺が何も知らない事にすれば、
姉貴に心配掛けないで済むしな……』
姉の事を思い、それ以上考える事をやめた。
顔を合わせているのが辛く感じ、自分の部屋に戻ると上着を羽織った。
部屋を出ると、姉は両手でカップを持ったまま真剣な表情で悩んでいる。
「ちょっと出掛けてくるわ」
言葉を掛けても、姉は同じ姿で前を見続けていた。
リビングを抜け玄関に向かう
「男!
いつか……いつかきちんと話すから。
だから今は……」
姉の悲痛な言葉を背に受けながら、無言で扉を開き外に出て行った。
男が扉に鍵を掛ける音が部屋に響く。
「だって、何て言えば……」
カップを持ったままテーブルの上に開かれた雑誌に額を落とす。
文字がジワッと滲み、染みが広がっていく。
窓の外に浮かぶ月はその細い体に必死で光を湛えていた。
待ち合わせの朝、ネットカフェで夜を過ごした男が帰ってきた。
リビングのドアの隙間から机に突っ伏して寝ている姉の姿が見える。
「姉貴……何こんなとこで寝てんだ?
風邪引くぞ。ってか会社は?」
部屋に入り際、肩を揺すり姉を起こす。
「んん? あれ寝てた? 会社は有給取った」
姉は顔を上げ、目を擦りながら男の方を向いた。
頬には洋服の袖口の縫い目の痕が付き赤くなっている。
寝惚け眼で壁に掛かった時計を見上げる、男は自分の部屋に入って行った。
ボーっと時計を見る姉、改めて時間を認識しハッと目を見開く。
「ああー!」
リビングから聞こえた声に驚き顔を出す。
「どうした姉貴!?」
「ええ!? もうこんな時間? もう手術始まっ……」
顔を出した男を見て、言葉を止めた。
「手術?」
その言葉に男が反応する。
「ううん。何でも無い。ちょっと出掛けて来るね」
まだ寝惚けた様子の姉が慌てふためき、部屋に駆け込む。
「行ってきまーす」
支度を終えた姉は足早に家を出て行った。
『手術? 誰のだ?』
疑問に思いながらも男は仮眠を取る為ベッドに入った。
これはワクチンなんよww
やめてぽ…許してぽ…
∧_∧ lヽ,,lヽ
(*・ω・) _,,..,,,,_ (・ω・*) 良かったじゃねぇかw豚ww
( o├==l-- /;ω; ヽ ( )
/ ) l l | | |
( / ̄∪ `'ー---‐´ (_(__)
泣き言言うなクソブタッ
ポヒィィィィィおめめが潰れたぽぉおおおおおお
∧_∧ lヽ,,lヽ
(#・ω・) _,,..,,,,_ (・ω・*) 目に打つなよwwww
( つ├==l-*ω; ヽ ( )
/ ) l l | | |
( / ̄∪ブスッ`'ー---‐´ (_(__)
ブタの体が腐り始めて黒い斑点が出て来たんよwwwwww
,.、,、,..,、、.,、,、、..,_
,, " ;;;;; ;;;;; ;;;;; ゛ ,,
, ' / ;;;;; ;;;;; \゛ 、
,/ ('''') / , ヽ ◎ ;; ヽ 体が熱いぽ…
/ ;;;;; U ヽ__人_ノ ;; U ;;;;; ',
l ;;;;; ;;;;;;; ;;;;; ;;;;; :
. | ;;;;;;;; ;;;;; ;;;;; ;;;;; ;;;;; | 苦しいぽ… 気持ち悪いぽ…
. | ;;;;; ;;;;;;; ;;;;; ;;;;; |
l ;;;;; ;;;;;;;; ;;;;; ;;;;; ;; l
', ;;;;; ;;;;; ;;;;; /
' 、 ;;;;; ;;;;; ;;;;; ;;;;; , '
`'ー-―---―-―---―-‐´
(~)
. γ´⌒`ヽ
. ___ {i:i:i:i:i:i:i:i:} レジ袋に入れますか?
|[\_194]|\ ( ´・ω・)
|___l./ ̄ ̄ ̄ ̄△@/| lヽ>>1lヽ
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|. | (ω・ ) おねがい
| .|. | し i します
|__________|./ しーJ
(~)
. γ´⌒`ヽ
. ___ {i:i:i:i:i:i:i:i:}
|[\_194]|\ ( ´・ω・)
|___l./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/| ヾM/
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|. | //ヽ~\
| .|. | | |
|__________|./ ヽ__/
ネットカフェの慣れないソファーで十分に寝られなかったせいもあり、あっという間に深い眠りに落ちた。
眠る男の夢の中に女が現れた。
暗闇の中に女が徐々に消えて行く。
「女!!」
消えて行く女を掴もうとした手が空を切る。
「夢? ……か」
全身に汗が滲む、上げた腕を力無く下ろしうなだれた。
窓の外を見ると陽が大分傾いている。
思いの外眠ってしまっていた。
汗を落とし気分を変えようとシャワーを浴びる。
顔にお湯を受けながら男は決心した。
『悲しい顔なんてするか。
一緒に居られる時間は、せめて……』
薄れていく存在、夢の暗示、その笑顔が消えてしまうという予感は益々強くなっていた。
シャワーのお湯に紛れ、涙が頬を伝う。
男はシャワーを浴び続けた。
全ての涙を洗い流す様に浴び続けた。
シャワーから出ると携帯が光っている。
携帯を見ると男友からメールが入っている。
今日のバイトをどうしても変わってもらいたいとの懇願だった。
「えっヤダよ」
携帯相手につい呟いた。
すぐさま返信する。
送信直後今度は電話が掛かってきた。
渋々通話ボタンを押す。
「ヤダよ」
声も聞かずにすかさず断る。
「いやいやいや、少しは話を聞こうよ。
あのな、男にはやらなきゃならない時が
あってだな」
男友が必死に訴え掛ける。
「合コンか?」
「…………うん。頼む! 九時までで良いから」
この間一人で選別をさせた手前、無下に断れなかった。
「ったく。分かったよ、九時な。
絶対来いよ、俺も予定あるんだからな」
「合コンか?」
「お前と一緒にするな!」
少し笑いながら電話を切った。
『少し遅くなるな。
……しかし女は何時に来るんだろ?』
ささやかな疑問を抱きながらバイト先に向かった。
その日は楽器店のバイトが欠勤で、一人で二店舗を取り回していた。
お陰で男友が来るまで帰る事が出来ない状況だった。
『何で今日に限って……』
約束の日に限って不都合が起きる自分の運の悪さを呪った。
『男友のヤツ、ちゃんと来るかな?』
視線は壁の時計に釘付けになっていた。
この日は平日という事もあり、ほとんど客は入ってこない。
レジの前でのひたすら退屈な時間が流れていく。
六時、七時、八時。
やはり客は一人も入ってこない。
「開けてても無駄じゃね?
もぅ閉めちまおうよ……」
レジカウンターに突っ伏し不満を呟く。
相変わらず誰も居ない店内、男の問いには誰も答えてくれない。
無人の店内にBGMだけが虚しく響く。
約束の時間が刻々と迫る。
八時半を回っても現れる気配は全く無い。
「アイツ本当に来るんだろうな……」
段々と不安が募る。
八時五十分。イライラは頂点に達しようとしていた。
その時、ジーンズの左のポケットが小刻みに震えた。
嫌な予感を覚えつつポケットから携帯を取り出す。
予想を裏切らない名前が、携帯に表示されている。
イラつきながら電話に出る。
電話の向こうの男友は男の気持ちも知らず陽気な調子で話し始めた。
「ごっめーん、男
ちょっと盛り上がっちゃってさ、
今から行くから」
少し酔っているのか声が上ずっている。
その声にイラつき男は少し強めの語調で男友に問いただした。
「お前、今からって何処いるんだよ!
あと五分で来られるんだろうな?」
「え? あと……三、四十分くらいかなぁ?」
予想以上の剣幕に男友は戸惑った。
「フザけんな! 来いよ……女が待って……」
居ないはずの女の事を男友言っても理解される訳が無い。
思わず言いかけた言葉を飲み込んだ。
「女ちゃん……? 悪い!
タクシーで今すぐ向かうから!」
女の名前を聞いて、男友の声に冷静さが戻った。
さっきまでのふざけた様子が消え深刻な口調で電話を切った。
雑踏の中、人波に逆らって走るもうひとつの影。
「あっすいません」
肩がぶつかりよろける。振り向き謝って再び走り出した。
『女、待っててくれよ』
一秒でも早く女の元に行きたかった。
「はぁはぁ……どこだ?」
敷地の広い公園、女を探し園内を走る。
くまなく園内を探したが女の姿は見えない。
「クソッ、消えちまったのかよぉ」
広場の中央でガックリと肩を落とし、その場に崩れ落ちた。
ふと顔を上げ、塔の上の時計に目を向ける。
「う……ん……?」
脳裏に何かがよぎる。
塔の前に女が立ち、手を振っている。
足早に駆け寄る男。
「おはよ、男君」
薄く靄が掛かった様な記憶の中に女が現れた。
「まだちょっと時間あるし……歩こっか?」
途切れ途切れに思い浮かぶ光景を必死に思い出す。
二人は広場から歩き丘の上の方へ歩いて行く。
「わぁ見て見て男君、綺麗ぇ」
晴れ渡った空の下で、眼下に広がる真っ青な海に女がはしゃぐ。
男はベンチに座って、微笑みながらその姿を見ている。
横にチョコンと女が座る。
肩にもたれ掛かり手をつなぐ。
「ねぇ男君。ここね、夜景もすっごく
綺麗なんだって、今度見に来ようね」
ニコッと笑顔でこちらを向く女の顔が霞んでいく。
『今のは……昔の記憶?』
我に帰り周りを見回す
「あそこか」
公園から少し離れた丘の上に据えられたベンチ。
目を凝らして見るとポゥっとベンチが光っている。
「女!?」
光の正体を瞬時に理解し、全力でそちらに向かう。
丘を駆け上がり、背後から近づく、その後ろ姿は女に間違い無かった。
「ゴメン、お待たせ」
振り向きその顔に微笑みが広がる。
記憶の中と全く同じ笑顔だった。
「ううん、大丈夫」
他の記憶は戻らないが、この笑顔が昔から男に向けられていた事だけは思い出していた。
二人はベンチを離れ海の方へ向って歩きだした。
「ここ来るのも久しぶりだな」
男の問い掛けに女が黙って頷く。
「海見えないな……また昼間来ような」
月の光も弱く、辺りは所々にある街灯の下しか見えない。
男の言葉を聞いて女は少し悲しそうにうつむいた。
「男君、わたし」
もうリミットが近付いている。
その事実が女の笑顔を奪った。
「女……」
悲しそうな顔をする女の手を取ろうとする
「あっ」
男の手が女の手をすり抜け空を切る。
女が思わず声を上げた。
「えへっ、バレちゃった……?」
バツが悪そうに笑顔を作り舌を出す。
「女ね、お月様にお願いしたんだ。
また、男君と一緒に居たいって。
でね、力を借りて会いに来てたんだけど、
もう姿を保ってるのが精一杯みたい」
「お前……」
本当のことなんて知りたくなかった。
全てを知ってしまったら消えてしまうと思っていた。
でも知ってしまった。
ありえない真実を突き付けられ、ショックを隠しきれない。
それを悟られ無い様、誤魔化す様に喋り続ける。
「でもさ、また来られるんだろ?
そん時はまた……」
後ろを歩く女の気配が途切れた事に気付き振り向いた。
女は、立ち止まり俯いていた。
「どうした?」
駆け寄り問い掛ける。
「消えたくないよぉ……」
女は手で顔を覆い肩を小刻みに揺らしながら泣いていた。
「わたし、もう男君と一緒に居られるなんて
思ってなかった、だからこの二週間が
夢みたいで」
「女…」
男の目からも自然と涙が零れていた。
二人の思いを無視して月が陰る。
「でも……もう、行かなくちゃ」
そう言うと身体が光に包まれていく
「おいっ!? 待てよ、まだ話したい事が沢山……」
空を切ると思った男の腕が女の身体を抱き寄せた。
「え!?」
女は驚き胸の中で顔を見上げる。
「俺、さっきお前といた事思い出したんだぞ、
これからはずっと一緒に居られると思ったのに。
なのに、ふざけんなよぉ」
男の涙が女の頬に落ちる、その頬が一層輝きを増した。
「くるしいよぉ男君
でもあったかいなぁ。
またこんな風に抱き締めてもらえるなんて
思って無かった」
男の胸に顔を寄せ、目を瞑る。
女の全身が光に包まれる。
「男君の事好きでいられて、女は幸せだったよ」
顔を上げて見つめ合う二人。
「女……俺も幸せだったよ」
目から大粒の涙が溢れている。
女が目を閉じ、身体を預ける。
滲む視界の中で二人は唇を重ねた。
次の瞬間、両腕が虚しく交差する。
女の身体が光の粒となり、男身体を通り抜けていく。
『バイバイ、男君』
目映い光の粒になった女が夜空に吸い込まれて行く。
「おんなぁー!!」
夜空を仰ぎ叫ぶ声と共に最後の一粒の光が消えていった。
辺りが闇に包まれていく。
少しずつ、女のいた景色を夜空に溶かしながら……
女への思いを抱き立ち尽くし空を見上げる。
胸元に温かさを感じる。
視線を落とすと一粒の欠片が唯人に寄り添う様に胸元で瞬いている。
慈しむ様な眼差しで光を見つめる。
男はその光をそっと両手で包み話し掛けた。
「女?
そっか……お別れを言いに来てくれたのか」
小さな光が頷いている様に見えた。
男は大切に大切に、その儚い光を抱き締めた。
抱いた光が胸に吸い込まれる。
男の中に女の記憶が流れ込んでくる。
出会った日の事、男からの告白、
一緒に過ごした日々
次々と浮かんでは消えていく女の記憶に、
感情に打たれ目から涙が溢れる。
「女……俺、絶対に忘れないからな」
記憶の全てを取り戻した。
ただ、一番大切な存在が欠けたまま。
だが、男の顔に曇りは無かった。
女との思い出を胸に街に向かって歩きだした。
頭上でか細く光る月が男の背中を見送っていた。
泣いた
>>55 どもです。もちっとだけ続きます。
女が消えてしまった事実を受け止める為、必死に気持ちを整理しようとしていた。
「整理できる訳無いじゃん」
突然訪れた別れが男の胸を締め付ける。
そんな男の元に姉からの着信
「……何? 姉貴」
暗いトーンで電話に出る。
「男、今どこに居るの?」
電話の向こうの焦った声色に戸惑いながら答える。
「え? 月見台公園だけど」
「何でそんな所に?
まぁいいわ、駅前で拾うから向かって」
「え? 何で?」
「いいから! 訳は車で話すから」
様子が気になり駅へと向かって走り出した。
駅に着くとロータリーの入り口付近に姉の車が止まっている。
男は急ぎ車に飛び乗った。
「ふぅ、一体何なんだ?」
ベルトをしながら姉に問い掛ける。
「落ち着いて聞いてね」
姉も自分を落ち着かせようと一呼吸おき、車を出す。
「実は男が事故に巻き込まれた時、
一緒にある子がいたの」
姉は前を見ながら、深刻な口調で話を始める。
「女ちゃんって言う子なんだけど。
その子……男の彼女なんだ」
そう言うとチラッと男の様子を伺った。
思いの外驚いていない顔を確かめた様にも見えた。
「で、その女がどうした?」
さっき消えてしまった女を思い出し胸が痛む
「男はその時の記憶が無いから
分からないかも知れないけど、
女ちゃんは今、中央病院に入院してるの」
その言葉に驚き、思わず姉の方を向き声を上げた。
「え!? 女は死んだんじゃないのか?」
「男、やっぱり女ちゃんの事……
でも何言ってるの、意識は無いけど、今でも必死に戦ってるわよ」
女の事を分かっている事を気にせず、姉は話を続ける。
「女が……生きてる……」
思いがけない事実に思考が乱れる。
「そう、だけど今日ね血腫を取り除く最後の手術があって……」
そう言うと黙って運転を続けた。
車が病院の駐車場に滑り込む。
姉に手を引かれ、慌ただしくロビーへと駆け込む。
その様子を見て看護師が出てきて、二人の前に立った。
「どうかしましたか?」
怪訝な表情で二人を見る看護師。
姉が要件を伝える。
「女さんに面会に来たのですが、
病室まで行かせて頂けないでしょうか?」
姉の話を聞き、看護師が困った顔をする。
「申し訳ありませんが、今は面会時間外ですので
ご家族の方以外は受付けられない規則なんです」
丁重に規則を伝える看護師に、姉が訴え掛ける。
「え、そんな……何とか男だけでも、
弟だけでも行かせてあげてくれませんか?」
姉の目に涙が滲む。
「お願いします」
「そんなにお願いされても規則は規則ですので…」
深々と頭を下げる姉に看護師が困り果て、掛ける言葉を探していると、男が顔を上げ看護師に向かって声高に叫んだ。
「女は……女は、俺の婚約者なんです!」
男の言葉に姉が振り返る、男も姉の隣に立つと深々と頭を下げた。
「お願いします!」
「お願いします」
二人の必死の訴えに看護師が戸惑う。
その時、薄暗い廊下の奥から一人の女性がロビーに向かって歩いてきた。
「男君?」
女性は男の顔を見るなり両手で口を抑えて驚いた。
その声を聞き、看護師が振り向く。
「お母様、この方が女ちゃんの
婚約者だと仰っていて……」
看護師の言葉を遮り、
男は女の母親に話し掛ける。
「女母さん!! 女は?」
記憶が戻った事を知らない女母は、姉の方を見て目で問い掛ける。
黙って頷く姉の様子から察して、看護師に説明する。
「確かにこの人は娘の婚約者です、
通してあげて下さい」
「そうですか、分かりました。
あっもう遅いですからお静かに願います」
看護師が諦めた様に面会を許した。
「男君、女は305号室よ。
早く行ってあげて」
女母がそう言った時、既に男は走り出していた。
「はい!」
女母とすれ違い様に返事をしながら廊下の奥へと走っていった。
「だから、静かにって。もぅ」
看護師のため息を背中に受けながら男は走った。
案内板を見て階段を駆け登って行く。
院内の静寂を切り裂く様に足音だけが響き渡る。
「お戻りになったら、
注意しておいて頂けますか?」
そう言い残し、廊下には二人が残された。
姉が待合室のソファーに座る。
「男君、いつ記憶が?」
男の消えて行った廊下に視線を向けたまま、女母は問い掛ける。
「多分、昨日……何があったか分かりませんが、
私が話す前から」
「そう、思い出してくれたのね。あの子も喜ぶわ」
そう言うと女母も後を追い、病室に向かい歩き出した。
やきに落ち着いた女母の態度に不安を抱きながら暗い廊下の奥に吸い込まれて行く後姿を見送った。
そんな姉の心配を振り払う様、男は階段を駆け登り三階の病室を目指していた。
息を切らせながら3階にたどり着く、目の前の部屋番号を確認する。
「325、324号室。こっちか」
常夜灯だけが点いた薄暗い廊下、角を曲がるとその奥に一つだけ明かりの灯る部屋が見えてきた。
場所から女の病室だと即座に理解した。
男は走るのを止めゆっくりと病室に近寄る。
開きっぱなしのドアの前に立つ。
中では医師と看護師が懸命に何かの処置を行っている。
機材とチューブの束に囲まれた存在を男の目が捉えた。
「おん……な?」
医師が脈を取る為に手を持ち上げる。
持ち上げられたその腕は重力に負け、力無くダラリと垂れ下がっている。
「女?」
目の前の光景が信じられず立ち尽くす。
医師達は男の存在など気にせず処置を続ける。
看護師が点滴を加え、医師が機材の数値をカルテに書き込んでいる。
さっきまでいた女より頬は痩せ、唇は紫で生気を帯びていない。
「そんな……女、何してんだよ!? 起きろって」
医師を押し退け女に近寄り肩を揺すろうと手を伸ばす。
「君! 止めなさい!」
医師が男を抑え女から引き離す。
「男君、落ち着いて」
女母が追い付き、取り乱す男の手を握る。
女母の言葉で我に返る。
落ち着いた様子を見て医師も男から手を離した。
「先生! 女は?」
医師の両肩を掴み詰め寄る。
医師は少し顔を背けて話し出した。
「容態は一旦安定しました、
我々も最善の処置を尽くしました……後は患者さんの気力次第です」
そう言うと医師は一礼して病室を離れた。
男は目の前の現実にただ、立ち尽くしていた。
「男君、今日は女の傍に
居てあげてくれないかしら?」
女母は涙混じりに頼み病室を後にする。
「はい……俺に付き添わせて下さい」
声を掛けられ意識が戻ってくる。
女母に向かって深く頭を下げると、病室の床に男の涙が落ち弾ける。
二人切りになった病室の中、ベッドの脇に歩み寄り、その顔を見つめた。
「お前さ、もう二度と会えないと思ったんだぜ?」
まるで会話をしてる様に横に置かれた椅子に座る。
「でさ、やっと本物の女に会えたんだぞ……」
答える事の無い女に向かって語り掛ける。
「姉貴から生きてるって聞いて、どんだけ嬉しかったと思う?」
ベッドに顔を伏せ、女の手を取り自分の額に当てる。
「また一緒に居られると思ったんだぜ。
ホラ、お前、こんなに暖かいじゃん、
生きてんじゃん」
涙がシーツに吸い込まれていく。
顔を上げた男は精一杯の笑顔で女に話し掛ける。
「だから、起きろよぉ。
また男君って笑ってくれよ……」
そう言うと、目を閉じたままの顔に手を当て、頬を撫でる。
男の涙が女の頬に落ちる。
吸入マスクを外し血の気無い唇にゆっくりと優しくキスをした。
手をしっかりと握りしめ、目が醒める事を一心に祈った。
女は答える事無く眠り続けている…
今日の出来事で疲れ果ていたせいか、女の手を握ったまま、いつしか眠りに落ちていた。
眠る男の後ろ、病室のカーテンが風で揺れる。
少し開いた隙間から夜空が覗く。
空の端が白み始めた頃、月の最後の光が女の頬を照らす。
女の全身を光が包んでいく。
唇が微かに動いた。
男の握る指先に血色が戻っていく。
「おと……こ君……」
手に懐かしい、優しい温もりをかんじる。
霞む女の視界に男の姿が映る。
「おはよ、男君」
体を起こし、男の髪をクシャッと掻き上げる。
手を握ったまま眠る男の寝顔を見つめ、女が微笑む。
「ありがと。これからは、
ずぅっと一緒に居られるね」
朝の光を集めて女の笑顔が輝く。
そっと男の頬にキスする。
意識が戻った女に気付いた看護婦が医師を呼び大慌てで廊下の向こうから走ってくる
一緒にロビーで一夜を明かした姉と女母も階段を駆け上がってくる
男が目を覚ました時、二人の今が再び始まる。
「男君、大好きだよ」
光の中、消えていく月がニッコリと二人を見て微笑んでいた。
おしまい、だけど、はじまり。。。
拙いながらも完結です。
三人称難しい。
前半の修正ミス恥ずかしい。。
誤字脱字だらけ情けない。。。
お付き合いありがとうございました。
このSSまとめへのコメント
個人的にこういう話めちゃくちゃ好き。
またこういうSS書いてくださると嬉しいです。