絵里「その花の色は海のよう」 (58)
膝元の裏から少し上、
スカートのひだに掛からない辺りで
ふわっと肌に触れた花びら。
あ、
と声がもれ出てしまったのは
そよ風が重なったせいかな。
振り向くと、
私より少しだけ背丈の低い支柱に絡まったツルから
大きな花がいくつも咲いていた。
青紫の花びらは
どれも八月の直射日光に向けて満開で、
なんとなく、
スポットライトを浴びて
笑顔を輝かせるあの子たちのことを思い浮かべたりする。
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花の数、試しに数えてみたら、
ちょうど九輪……いや、十一輪だった。
残りの二人は誰だろう、
この、肩に当たるほどはみ出た二輪は穂乃果とことりかしら、
そんな風に周りの人を当てはめて少し遊んでみたり。
中でもいちばん色の鮮やかな、目の醒めるような青の花びら。
さっき私の脚にキスしたこの子は、
根本の近くから他の花々を見上げるように、
後ろでみんなを見守るようにそっと咲いている。
午後一時十八分、
待ち合わせの時間までもう少し。
目線を合わせるようにしゃがみこんで、
風に揺れる花びらを指先でつついてみたりした。
「あんまりいじめたら駄目ですよ」
耳元の声。
はっ、と振り向けば顔のすぐそばに海未がいる。
私に向かって、かがみこんで。
風向き次第でその長い髪が掛かりそうなほど近く。
息がとまりそう。
って、もしかして、見てた?
「気づくかなって思ったんです」
にやにやと口元をゆるめてみせる海未。
もう、こんな顔する子だなんて思わなかったのに。
私は汚れてもいない制服のスカートをはたいたり、
前髪を整えたりするけど落ち着かない。
むしろ胸の奥がよけいにはねるみたいで、
はずかしいから離れて、
なんてことも言えずに海未の瞳からしばらく目をそらしてた。
いっそあからさまにからかってくれたら、言い返したりできるのに。
……ううん、やっぱりムリ。
うつむけば花の青が目にまぶしい。
私をからかう海未なんて、想像でさえもするものじゃなかった。
「かわいいですね」
どきっとした。
海未は指を伸ばして私の頬に……
じゃなくって、肩の辺りで咲いてた一輪に触れてみせた。
こう、
支柱の方へ軽く押しやるように。
「でも、こんなに伸びてたら切られてしまいますよ」
聞こえた声の温度、二度ほど低い。
本当に心配そうな声だった。
「……そんなの、仕方ないでしょ。伸びすぎちゃったんだから」
私の声も低かった。
海未ほど優しい理由じゃなくって、
もっとどろどろした気持ちで。
二歩ほど下がって息を整える。
こんな声、あの子に聞かせるべきじゃない。
少し離れると、
あの子が細い指を二本ほど揃えて伸ばして
はみ出た花と葉に触れてる姿がはっきりと見える。
肩から垂れた黒く艶やかな髪の毛先が
ときどき風に小さく揺れて、
膝元の花に触れたり横顔を隠してしまったりもする。
うだるような暑さのなか、
蝉の音は遠のいて、
もう耳に刺さるほどではない。
白い小さな耳たぶが
寄せては返す髪のなかで見え隠れして、
いつか見た波打ち際を思い出したとき、
ああ、
だから「うみ」なんだ、
と勝手に納得してしまった。
それは絵はがきにでもしたいほど映える光景で、
でももし、
そんな絵はがきがあったとしても、
私は誰にも宛てることなく机の奥へしまい込んでしまう気がする。
「ねえ海未。その花、なんていうの?」
もう少しだけここにいたくって、そんなことを問うてみた。
よく見る花だけど、そういえば日本名を知らなかった。
これはアサガオです、と海未が言う。
「小学生はよく、学校の課題でこの花を育てるんですよ。
夏先にこうして花を咲かせますから、
観察日記をつけるんです」
日記、という言葉で活動日誌を思い出す。
そうだ、昨日の私の分まだ書いてなかった。
なぜだかうまく書けなくて。
「って……小学校でみんなが育てるのなら、
これも一般常識だったの?」
そう付け足したら、
海未は少し首をかしげると、
育てるのは関東だけかもしれませんけどね、
と返した。
気を使ってくれたのかもしれない。
だからわざと、私はこの青い花の話をせがんだ。
どんな風に育てたのか、
観察日記はどんなものだったのか。
たぶん、学校に向かう道のりを使って、
私の知らない昔の海未へと距離を縮めようとした、のかもしれない。
「――でですね、その年はちょうど九月一日が日曜日で。
だから急いで描き写したんですよ、絵日記を」
「穂乃果、その頃から変わらないのね……」
海未の昔話を聞きながら、
おぼろげだった小さい頃の姿に輪郭が少しずつ形ができていく。
蒔いた種が芽を出して少しずつ伸びていくみたい。
小さい頃は引っ込み思案で誰かの後をついてばかりだった、
という年下の彼女に先導されながら、
成長しきってまだ伸びる勢いのあのアサガオと心の中で重ねたりした。
「でも、大丈夫だったの?
絵日記も観察日記も、人によって異なるはずでしょう?」
ふと私が口にすると、海未はこう返す。
「ああ、それなら大丈夫でした。
穂乃果は夏休みじゅう、
ほとんどことりと私と三人でいましたから、
絵日記の内容もほとんど変わらなかったんです」
私が迷子になった日も穂乃果たちは迎えに来てくれたんですよ、
ってくすくす笑う海未の目は遠い。
……聞くんじゃなかった。
ふいに海未が歩みを止めた。
私もつんのめるように止まって、
やっと向こうの信号が赤だったのに気づく。
灼熱の陽射しを浴びて動き出す乗用車のボンネット、
どれも見るからに熱そう。
あの、と口ごもった声がする。
海未が半袖から伸びた二の腕を私につかまれて、
しおれたように目をそらしている。
って、なにしてるのよ私。
ごめん、と引き離した腕への数十センチの距離が遠い。
焼き付ける太陽や首もとに垂れる汗がめまいを起こすから、
あの子がよけいに遠く感じた。
ビル街を一直線に抜ける二車線の国道、信号はなかなか変わらない。
三つほど先の交差点、首都高のICからは
様々な会社のロゴが描かれたトラックや乗用車が絶え間なく行き交う。
ついさっきもタワレコの制服を着たA-RISEの
全面広告を掲げたトラックが目の前を過ぎていった。
隣に居たのがにこか花陽なら携帯ぐらい構えたかもしれない。
でも、
じっと前を見つめる海未は
相変わらずしゃんとした背筋で、
私が日本の暑さに溶かされかかってるのとは正反対だった。
すると彼女は
こっちも見てくれないままぽつりと言う。
「……絵里は、ヒマワリですね」
ヒマワリ?
って、あの、黄色くて大きな花のこと?
おぼろげな知識で確かめる。
よかった、合ってた。
でも、なんで?
もしかして、私の髪が黄色っぽいから?
「なるほど。確かに、それもありますね」
よかった、違ってた。
……よかったのかしら、それで。
信号はまだ赤のまま。
横断歩道の向こう岸の親子は待ちくたびれて、
男の子に引かれるようにして後ろのローソンへ逃げ込んでしまった。
「ヒマワリって、
いつ見てもまっすぐ太陽の方を向いてるんです。
大輪の花びらは爛々と輝いていて、存在感があって、
こう、凛々しいじゃないですか」
含み笑いをにじませたような声でいう。
まるで、にこがお気に入りのアイドルを薦めてくるときみたい。
あの子ほど押しが強くはないけれど。
「それに、茎も太いですし」
えっ。
「……海未、ケンカ売ってる?」
ちょっと目尻に力をこめて言ってみる。
すると海未は目を見開いて、
手をぱたぱたさせて、
ちがうんですちがうんですと本当に慌てだした。
まったくもう、こういうところが、
もうね。
「冗談よ。そのぐらいで動じてたら、生徒会長なんて勤まらないわ」
そう言ってあの子の頭にそっと手をおく。
細くしなやかな髪の感触、冷たい水の中みたい。
そのまま軽く撫でてしまったら
消え入りそうな声で、年上ってずるいですね、と目を伏せた。
「それよりどういう意味なのよ」
「その……そういうところです」
ぴっ、と私に人差し指をさして海未がいう。
まだ顔をうつむかせたまま。
「ヒマワリの茎って丈夫で、めったなことでは折れないんです。
台風にだって耐えるほど。
一度生え育ったら、覚悟を決めたら、
自分の場所で種を落とすまではしっかり咲いてみせる。
ヒマワリにはそういう強さがあるんです」
自分の言葉を確かめるようにぽつりぽつりと言いながら、
少しずつ顔をこちらに向けて、言い聞かせてくれる。
おしまいに海未は、ヒマワリの茎をアサガオの支柱にたとえてみせた。
……まったく、もう。
「だったら、なおさら私じゃないわ。
私、そんなに強くないのよ?」
笑ってやり過ごすつもりで乗せた自分の軽口が、
数秒かけてじわじわと重く響いてくる。
そう、
私は強くなんてなかった。
自分一人で何かをしてきたように見せて、
そう見せるのが少し得意なだけで、
本当は誰かに寄りかからなければどこにも行けない。
希に、
穂乃果に、
そして隣のこの子に。
……そうだ、
「μ'sの柱は海未のほうよ」
右折専用の青い矢印が灯って、車の通りがやや少なくなる。
もう少しで信号が変わる。
青になる。
集合は二時過ぎだから、遅れることもないはず。
そこで隣の女の子の顔色がちらっと目に映るまではそう思ってた。
その子はほんの一瞬――
かなしく青ざめきった、置き去りにされた迷子のような顔を見せた。
「絵里? どうかしましたか?」
数秒も経つ頃には海未がいつもらしい微笑みを作って問いかける。
信号も青になっていて、さっきの親子が歩き出す。
後ろからバイクが道を横切るように右折する。
固まったままなのはもう私の表情だけだった。
ああ、うん、
なんでもないのよ、気にしないで。
口だけでそう言って
彼女を安心させようとしたけれど、
喉はもう乾ききっていて舌もうまく回らないし、
今の私はあの子よりもポーカーフェイスがへたっぴでしょうがない。
海未は何事もなかったように道を渡ろうとする。
草木も枯れるほど白く焼き付ける横断歩道へと歩み出る。
だめ、
なぜだか分からないけど行っちゃだめ、
私はあなたを放っておけないの、わかってよ、
そんな言葉が胸の奥で爆発して耳鳴りになって
あの子を引き留めろとさいなむのに声にはならない、
今日のあの子がやけに早足に感じる、
この足がもたつくせいであの子がまた遠ざかって見える、
ほらもう渡りきってしまう、
目に焼き付いた顔色と
遮るものもなく肌を焼く陽射しのせいでまためまいが起きる、
あの子も打たれてしまう、
何も言えないまま直射日光に打たれてしまう――
「絵里、そろそろ信号が変わります」
その声でまた転びかかった。
ステップを踏むようにして独りで持ちこたえた。
掴まろうとしたあの子の腕はもう、
手の届かない向こう岸にあったから。
今日が曇り空ならよかったのに。
ガードレールに守られた上り坂の歩道を
すたすた抜けていく彼女の後ろ姿を追いながら、
宛てもなく太陽をうらんだ。
ここからはあの綺麗な髪しか見えなくて、今どんな顔してるのか想像もつかない。
道の反対側の建物の影はここまで届かず、
私たちはガードレールの内側で痛いほど肌を焼く太陽に打たれてた。
灼熱地獄が言葉を奪って、
もはやただ目的地へと足を進めるロボットになっていた。
「今日が雨ならきっと泣けてた」って曲を思い出す。
歌詞の他の部分は知らない、
PVで誰かがバレエをしてたのだけ覚えてる。
たしか、
雨粒が土を濡らすようにしっとりした歌声だった。
でもここには水滴ひとつなくって、
おまけに地面はアスファルトで固められきっている。
車線から歩行者を守るはずのガードレールが、
私たちを閉じこめる檻のように思えた。
緩やかな上り坂が終わる頃、先を歩くあの子がぽつりとこぼした。
「でも、
後ろで支える柱になるのもきっと良いことですよ。
だって大切な人が花開くとき、
一番近くにいられるってことじゃないですか」
私に聞かせたのか、ただの独り言だったのかは分からない。
海未はこちらを振り返り、
私はずっと誰かを支えたかったんです、
と言った。
逆光が強すぎて陰になって、表情がひどく黒ずんで少し見えづらい。
でもそれは妙に大人びていて、
母親のようにも見えた。
だけどまた、
迷子の子供の姿がはっきりと重なって見えた。
「……そんなの、認められないわ」
私がそう言った。
この声に反応して海未が目を見開く。
自分でも何を口走ったのか一瞬分からない。
でも、わかった。
海未は年下なのよ、あんな顔させるわけにはいかないの。
急に胸の奥で、
いやもっとずっと深いところで湿った熱が燃え広がるのを感じる。
怒り? 義憤?
そんな単純なものじゃないわ。
いいえもっと単純なものよ、これはただのワガママ。
しおれた海未を見たくないっていう単純すぎるワガママじゃない。
しっかりしなさいエリチカ、
元はといえばあんたのせいなんだから。
すると「私では力不足ってことですか」なんて
ぽんこつな答えが間を空けて返ってくる。
違うわよ、全っ然ちがう。
あなたさっき自分で言ったでしょう、
私がヒマワリなんだって。
茎も神経も図太い女なんだって。
海未はこちら側を振り向きながら歩いてたせいで
コンクリの割れ目にかかとをぶつけてふらついてしまう。
その手をすかさず取った。
「あ、すみませ……絵里?」
そのまま手を強く引っ張ってわき道の陰に海未を引きずり込んだ。
ちょうどよかった、だってここは、
「……近道、なんでしたっけ。
たしか校舎裏の通用口につながるっていう。
弓道部の後輩から聞きました」
きょろきょろと細い道を見回して優等生らしい95点の答えを言う。
人っ子ひとりいない細い路地。
車だって通れやしない、こんな時間には子どもだって居やしない。
ツタの生い茂るマンションの壁の下は強い陰になってて、
自転車置き場入口はちょうどいい死角だった。
ふふん、好都合ね。
今なら熱でいい感じに頭がとろけて、
なんだってできそうよ。
「ねえ海未?
あなた、あのアサガオの支柱みたいに私も支えてくれるっていうの?」
「ぇ……あ、あたりまえです!」
それじゃあ、と私は海未の腕に身を寄せる。
こう、倒れるようにして。
本当に倒れたりはしないけど。
斜め向きの目線をなめるように向けるのも忘れない。
唇を舌で湿らせておくのだって。
逃げ場を失った海未はマンションの冷たい壁に背中を軽く押しつけられる。
髪がはらりと広がって
いつものシャンプーの奥に海未の匂いがした。
上目で見上げる瞳の光も震えていて、
半開きの唇は言葉も紡げないまま柔らかそうな舌をのぞかせている。
どうしよう、この子超かわいい。
って、そんな場合じゃないわ。
私はその唇に、ではなくて
右側の耳たぶへ息が当たるほど濡らした口を近づける。
ぴくん、とうなじが波打つのを感じた。
その敏感な波しぶきが押しつけた私の胸に伝わって
奥深くへとこぼれ落ちる。
いけないいけない、理性を失ってはだめ、
かしこいかわいいエリーチカ。うん。
私は極限まで海未に近づけた唇でそっとささやいてみせた。
――じゃあ、
私は海未だけの柱になってあげる。
海未のこと、トクベツにからませてあげるわ。
薄い塩水のような味。
海未の身体がびくんとはねる。
半開きの唇から甲高くてねっとりした声が小さくもれだす。
震動が私の奥まで広がって、
早く済ませないと私まで押し倒してしまいそう。
すかさず左手でスマホを取り出して親指だけでカメラを起動、
赤く染まってとろけそうな海未の顔を撮った。
カシャリ、
と大きな音が濡れた雰囲気をいい具合に壊す。
任務完了。
私はまだ力を失ったままの海未が倒れ落ちないように、
すっと腕を抜いて少し離れた。
「な、な……なにするんですかあっ!?」
自分の腕を必死に抱いて二歩ほど離れるあの子はもう涙目。
ちょっとどうかしてしまいそうなほど可愛い。
「なぁんだ。
やっぱり私のこと、支えられないんじゃない」
「当たり前ですっ!
というか、こんなの聞いてませんよぉっ!」
あー……エリチカ本気で嫌われるかも。
冗談だと言い切るには
越えちゃ行けないラインを踏み越えすぎたかも。
海未の目は怯えと警戒心と
あと他のいろいろで震えていて、
あと一歩でも近づくと私の身が危ない。
しょうがないのでスマホの写真を掲げる。
「海未、あなたこんなに可愛いんだから
支柱なんかやめて狂い咲けばいいのよ!
心配しないで、
私の太い茎がささえてあげ――」
その瞬間こめかみに何かがすごい勢いで衝突。
そこから数分間、意識がシベリアの大地まで飛んでいた。
後で考えれば、いや考えるまでもなく、
私のせいだった。
「最低ですね」
路上に昏睡した私を膝枕して、目覚めの一言。
そこはせめておはようございますがよかった、
なんて贅沢は言わない。
ていうか怖いわよ、目が、本当に……。
「ちなみに先ほどの写真は消去しましたのでご安心を」
「ええっ!?
なんてもったいない!
家のパソコンでポストカードでも作りたかっ……
ごめんなさい今のは忘れて」
またカバンをふりかざす海未の腕を押さえる。
すると頭の上から、重たく冷ややかなため息が流れてきた。
人の息が頬や鼻の下に当たるのって、結構気持ち良いのね。
ましてそれが……やめよう。
こんなに近いと、心、読まれてる気がするから。
こちらを見下ろすため息の主は、
アニメのキャラみたいに分かりやすいジト目を向けている。
その彼女の肩からすべりおりた黒髪の毛先が風に揺れて
私のうなじをくすぐるのが、
目を閉じてしまいそうなほど心地いい。
あの子と私の心の温度差、たぶん今ものすごいことになってる。
どうしてこんなことしたんですか、と聞かれた。
そうするしかないと直感したからだ。
この際、頭と心の中身を全部包み隠さず送りつけたかった。
でもこんなぐちゃぐちゃした気持ち、
言葉にすればざっと七、八千字はかかりそうで、
どうせ途中で蝉の音やトラックの走る音にかき消されて伝わらないだろう。
「そうね、愛かしら」
うそぶく自分の声に自分で吹き出してしまう。
しまらないわね、私って。
だからってそんな目で見ないでよ、
さみしいから。
「ねぇ海未知ってる? 愛って間違えることなのよ」
そう、正論はこの子の取り分だ。
園田海未は弓道も日本舞踊も現役で、
絢瀬絵里はクラシックバレエを引退して数年経つ。
私はこの子みたいに正しい道をまっすぐ歩くことなどできなかった。
だけどもし、
いくつかの正しさとやらが彼女の笑顔を窮屈に陰らせるのなら、
私が間違えてみせる。
後でどんな罰を受けたって、
……まぁ、カバンでひっぱたかれるくらいなら、折れないらしいから。
なんて、
そんなことまでは恥ずかしくて言えないけれど。
「うさんくさいですね。誰の言葉ですか?」
「私。
絢瀬絵里が今考えた名言よ、歌詞のネタにメモっておいたら?」
「うそくさいですね。却下です」
ひどい……。
「そんな顔しないでください。
さ、ちゃんと立って。行きますよ」
そう言って私の汗ばんだ肩を優しく起こすと、
まだぼんやりする視界の数十センチ先で、
海未はそそくさとカバンを背負って振り返る。
家並みの隙間から差し込む光に照らされたあの子は、
やっぱり一枚絵のようにきれいだった。
見返り美人、って浮世絵の題材だったかしら。
気温はそれほど変わってないのに、
風鈴みたいに揺れる髪を指先で後ろに流す姿がやけに涼しげに映った。
あの子が手をさしのべる、まだぐずついていた私に。
触れた指先すらも水しぶきみたいに冷たく思える。
この手を引き上げる、
たおやかな腕の線に少し見とれてしまって、
私はまた転びそうだった。
「それで、この先をまっすぐでいいんですか?」
そうね、そのうち突き当たるからそこを左よ。
この抜け道、希に教えてもらったんだけど日陰が多くてありがたいのよ。
ほら、私って肌弱いから。
にこほどじゃないけど、ケアにも気を使ってるのよ。
出しっぱなしのプランターが散らばる民家や
路上にチョークで描かれた白い輪なんかを通り過ぎながら、
意味もない言葉を積み重ねていく。
会話を止めたくなかった。
私の汗が涼しげな手を汚してしまうのが、急に怖くなったから。
生徒会の仕事で張り慣れたはずの虚勢、
この子には全部見透かされてる気がする。
さっきのいきおい、なんだったんだろうって。
胸の奥がぞわりと嫌なもので冷やされた時、
私はどこか安全な場所へ逃げ込みたくなった。
なんだかデートみたいですね、とその人が言った。
ぴくん、と振れた私の指をごまかそうともっと力をこめた。
一瞬遅れてあの子の手が握りかえしたとき、
もう少しで倒れてしまいそうだった。
ダンスが音楽と一体になって手足が自在に伸びていくような、
あの幸福な酩酊感にも似ためまいで足が動かなくなったとき、
黄色い花が目に映った。
「ああ、噂をすれば」
「海未が呼んだのかしら」
「だとしたら、すばらしい偶然ですね」
茶色のくすんだプランターには
ひらがな混じりの幼い文字で学年と名前、
まだ少し濡れた土からは
緑色の太い茎が青空を撃ち抜くいきおいで伸びていて、
てっぺんには図鑑で見慣れたはずの黄色い花びらが
太陽みたいに輝いてみえる。
触れるのもおこがましいほど堂々とした立ち姿、
そこにミツバチが二匹、ふらふらと誘われる。
この子と居たせいだろうか、
放課後部活終わり、
彼女が弓道部の後輩たちに囲まれる姿を思い出した。
「やっぱり、ヒマワリは絵里ですね」
隣の海未がそう言った。
海未は私のファンの話をした。
海未は私が壇上でのスピーチを終えて
解散した後に聞こえた「かっこいい生徒会長さん」の噂について聞かせた。
海未は彼女のクラスメイトたちが休み時間に
YouTubeでスクールアイドルを始めた私の姿を見せ合っては
黄色い声を上げてるのを自慢してみせた。
そして海未は、
そんな私を知っていることを
密かに誇りに思っていることを明かしてくれた。
「でも、私ってそんな格好良くないでしょう?」
「はい」
えっ。
「私は『絵里を知っている』と言ったんです。
遠くから見えた姿も、いまここにいるあなたのことも」
そんなあなたのことを支えたいと、海未は私に言った。
さっきとは全然ちがう、
ちょうどその向こう側の晴れきった青空みたいな顔色で。
そよ風がまた私たちの髪をなでつける。
蜃気楼みたいに遠近感が溶け落ちて、
カメラのファインダー越しに眺めたように遠い。
けれどもまだこの手は繋がったままだから、
遠く感じても切り離されてしまうことはなかった。
「……海未に支えられるの? 私、結構重いわよ?」
「大丈夫です。
それなりに鍛えてますから」
「それはそれで切ないんだけど……」
冗談ですよ、と笑ったあとで彼女は、
ほんの一言を付け加えた。
「そうですね。
愛、でしょうか」
彼女がいじわるな目で笑ってみせた。
はっとする。
撃ち抜かれた気がした。
もう、だめだった。
やっちゃった。
愛、なんて聞き慣れない言葉を使ったのがまずかった。
たぶん、
向こうはただの意趣返しのつもりだったのだ。
だってどぎまぎする私を見てあんなふうににやにやしてるくらいだもの。
でもその言葉は固い種になって、
私の深いとこまでずぶずぶと挿し込まれる。
ああどうしよう。
とんでもないことに気づいちゃったのかもしれない。
私、もしかしなくても、この子のことが……。
◆ ◆ ◆
結局、十分遅刻した。
どこが近道なのよ、って言うけど結局私のせいだった。
その日は本当に酷いもので、希にいいようにされただけじゃなくって、
海未にも練習メニューを増やされ、
穂乃果たちにはクレープをおごらされた。
でも正直、真姫の生温かい視線が一番へこんだ。
さらに罰ゲームは終わらなかった。
それから一週間くらい、毎晩ひどい夢にうなされたのだ。
私の伸ばした足、
太股の辺りにあの子がくちづけする悪夢。
心に植え付けられた種はみるみる育って、もうじきつぼみを膨らませそう。
咲くのは黄色いヒマワリか、
いや違う、
きっと澄んだ青だ。
どこまでも深く広く色鮮やかで、
でも手にすくい取ればまっさらに透明な、
夏の陽射しに温まったちょっぴり苦い汗の味。
その花のことを知りたい、ひとりじめしたくてたまらないの。
だから今からでも、
観察日記を付けるのは悪くない気がした。
そんな気持ちで書いた活動日誌は、
あの子の冷たい目をした検閲で却下されちゃったけれど。
おわり。
このSSまとめへのコメント
しっとりとしたえりうみすごいよかったです次回作があるなら期待してます