入学式から3ヶ月経った校内は、放課後も生徒たちのクラブ活動で静けさとは無縁だ。
高校生というのはもっと大人だと思っていたが、周囲を見る限り幻想だったということを思い知る。
そしてこれもまた大人への一歩なのかなあなんてつまらなく考えた。
赤く焼かれる教室の中は僕一人だというのに、外から聞こえる運動部の喧騒や楽器の音のせいで孤独を感じることはない。
そろそろ帰ろうか、と腰を上げる。
するといつから落ちていたのかわからないが、僕の足の下にはノートがあった。
床より若干柔らかい感覚にびくりとする。
体ごと後退させてノートの表紙を見るが、名前も教科名も書いていない。
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幸い足あとがついていなかったことに安堵し、そのノートを手にとってページを捲った。
「あ、」
中身は日本史。
今日提出しておかなければならない課題があったはずで、ノートには提出用のプリントが挟まっていた。
誰だかわからないがおっちょこちょいだなと呆れる。
しっかり内容は書いてあるし綺麗な文字だ。
整った字は少し丸美を帯びていて、女性的な印象を持っている。
昇降口までの道中に歴史の準備室はあったはずだ。
そして授業外はそこに先生がいる。
お節介ながらも僕は、紙一枚手渡すくらいいいかと考えた。
そこにこのノートの持ち主であろう女生徒への下心がほんの少しもなかったかと聞かれると、嘘になるけれど。
廊下は誰も居ない。
夕日がまぶしい光を窓から注いでいて、拾ったノートで若干紫外線からガードしながら歩く。
相変わらず部活動の音で飽和しているけれど、足音は僕一人だけのものだ。
それがなんとなく寂しくなって、準備室へ急ぐ。
「失礼します」
中に聞こえるであろう声量で声をかけて扉に手をかける。
思ったよりも音はなく開いた。
しかし肝心の先生が、いない。
トイレにでも行ったのかなと思いながら日本史の担当である若い男の姿を思い浮かべる。
いわゆるイケメンというやつであり、生徒、特に女子に人気が高い。
かといって男子が嫌っているかというとそうでもなく、口を開けば面白い話をしてくれるし生徒のことをちゃんと気にかけているもんだから非の打ち所がない。
そんな先生を僕は、ちょっと苦手にしている。
とりあえずプリントと、あと持ち主がわからないノートを置いていこう。
(きっとあの先生のことだから文字で生徒のことを把握しているだろうし。)
なんとなく悪いことをしている気分になりながら勝手に中へ入る。
極力足音をたてないように、なんて無駄なことだ。
ところが準備室の奥の部屋、教材の物置となっている部屋から人の声がすることに気づいた。
なんだ、奥にいたのか。
僕の声が届いていなかったのだろうな、と思い一声かけようと進む。
「こら、勝手にまた。駄目だと言っているだろう。」
先生の咎める声に、話しかけているのが生徒だとはっとした。
説教中に割り込むのはよくないかな、と思うがすぐ終わるかもしれないと少しだけ話を聞くことにした。
「でも、我慢が――――から、お願い。」
そして続いて聞こえてきたか細い、だが確かに甘えるような女子の声に、僕は驚愕した。
まさか、先生と生徒の禁断のアレってやつじゃあ。
そっと暗い奥を覗いてみると、先生の姿しか見えない。
いや違う、先生が女子生徒を覆うようにしていて見えないんだ!
生徒に人気で授業も面白い先生がまさかこんなことをしているとは。
相手は誰だろう、上級生か。
出歯亀になっていることは置いといて、僕は息を殺して二人のやりとりを聞くことにした。
「だとしても君のお父さんになんて言えばいいか……。」
「そんなの関係――でしょ、――――なんだもん。」
女子の声が小さくて聞き取りづらいが、どうやら本気の恋らしい。
保護者にカミングアウトするまで発展しているのか。
と、そこでその声に聞き覚えがあることに気づいた。
囁くような、しかし張りがあって神経質そうな声。
授業中に当てられてもさらりと流れるように答え正解する彼女の凛とした表情。
まさか、と思った。
でもあのプレゼントをねだるような女の子らしい響きを取り除けば、そうとしか思えないじゃないか。
同じクラスで前の席の、佐野米(サノメ)さんだ。
ごくり、と無意識に喉が鳴る。
許されない恋が、いつも僕に背を向けている彼女が、涼しい笑みをいつも浮かべている先生が、気になった。
今彼らはどんな表情で向き合っているのだろう。
「いい子だから言うことを聞いてくれ、いずみ」
佐野米さんの、下の名前。
なんとなく姉の持っている少女漫画を見ていたときのような、それ以上見ていられないというようなこっ恥ずかしい気持ちが湧いてくる。
僕は夢を見ているようなふわふわとした気持ちで廊下へゆっくり出た。
そっと扉をしめる。
このことは僕の心のなかだけに閉まっておこう。
2ヶ月後、先生は幼馴染だという女性と結婚した。
僕から見た限り、彼女の態度は何一つ変わっていなかった。
それは周囲から見ても同じらしく、何も変化のない日常が過ぎていく。
先生は授業中奥さんの惚気を吐くし、僕は気が気でなかったけれど。
でもやっぱり佐野米さんはいつも通りだった。
それが逆に気の毒に思えてしまって、僕は心のなかだけでそんな彼女に慰めの言葉を送った。
先生は堂々と付き合っていた、そして捨てた少女に対してそんな台詞を言えるのかと、少し軽蔑した。
教室の中は何一つ変わらない。
彼女も、みんなも。
(あんなもの、見なければよかった)
そうすればこのもやもやとした気持ちを毎日感じずにすんだのに。
「なあ、グミやるから日誌書くの頼まれてくんね?」
放課後、僕は甘酸っぱい弾力を楽しみながら教室でたそがれていた。
(あーグミおいしい)
彼だって悪気があったわけではない。
大事なスタメンになれるかどうかの練習試合があることは知っている。
グミの持ち主であった運動部の爽やかな友人がグラウンドで走り回っているのを見つめながら、僕は校内の喧騒たちをBGMにぼんやりとしていた。
日誌は書き終えたから帰ってもいいのだが、家に帰ると家族がうるさい。
何か部活をすればよかったかな、とこの学校の文化部に何があったか考えながら校舎のほうを見る。
ああ、そうだ、真面目な吹奏楽部に月2回しか活動のない茶道部、不器用な僕にはまず無理な家庭科部の3つしかないんだった。
この学校は運動部がやけに活発だ。
スポーツ推薦で入った生徒がクラスの3分の1以上を占めている。
特にこのクラス、男子がほぼ当てはまり僕の友人は大体推薦で入ってる。
おかげというべきか試験はそこまで勉強しなくてもそこそこいい点数をとれるし、先生もそこまで試験結果は重視していない。
まじめに授業を受けていれば成績は悪くならないのである。
なんとなく日誌をさかのぼって見てみると、たまに「部活で練習試合です、がんばります」などというコメントをつけている生徒がいたり。
ぱたんと日誌を閉じてそろそろ帰ろうかと時計を見る。
5時を過ぎている。
やけに夕日が眩しいと思った。
僕は足元にノートが落ちていないことを確かめて、立ち上がった。
廊下はやっぱり僕一人だけだ。
あの日のように眩しい光を手で遮りながら進む。
準備室には目を向けないように、廊下の窓から外を眺める。
校舎はH状に建っていて、平行した廊下の窓が向かい合うように見える。
向こうの廊下に人影があるのを見つけて、少し目を細めた。
(あ、佐野米さん)
彼女は長い黒髪を揺らして、胸に何かを抱いて歩いていた。
なんだろう、まるで人の頭のように見える。
抱かれた頭からは明るい色のショートヘアが生えていて、頭部だけのかつらを被ったマネキンのようだった。
だが目を凝らして見るとそのマネキンが、開かれた目をこちらに向けたのだ。
「なま、くび……!?」
紛れも無く、あれは人の生首であるかのように僕は錯覚した。
夜、僕はベッドの中で今日見た衝撃的な事実を繰り返し考えていた。
生首のように見えた、でもそれはきっと錯覚だ。
だって生首は目を動かさないし。
そもそもあそこに佐野米さんがいたかどうかだって怪しい。
きっとあれは黄昏れていた僕の悪い夢。
そういえば愛する人の首を欲しがった少女の映画を見た、きっとそのせいだ。
あの生首の目が生々しく現実を訴えていることに気づかぬふりをして、僕はベッドの中で丸くなった。
「見られたかも、どうしよう先生」
夢を見た。
少女が、佐野米さんが、先生の生首を抱いて「見られちゃった」と眉を下げている、そんな夢。
朝目が覚めた時、僕の体中は汗でびっしょりだった。
もうすぐ夏だし、湿気でじめじめしているせいだろうか。
まあ、夢のせいなんだろうけれど。
あのなまく……いや、マネキンは一体なんだったんだろう。
幻覚だったらいいな、いや、幻覚を見る時点でどうかしている。
精神科にでもかかったほうがいいんじゃないかと自分の心配をしてみる。
ああ、でももしあれが現実だったとしたら――きっと佐野米さんは美容師になるんだろう。
僕は美容師になって笑いながら接客する彼女を想像してみた。
似合わない。
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