「酩酊」 (64)
同じ産道を通って生まれた者同士のみを兄妹と呼ぶのなら、
十郎に妹なんぞはいない。
だけどそれでも、十郎はこう言って憚らないだろう。
僕には二人の妹がいる。
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十郎はあまり両親のことが好きではなかった。
というのも、そもそも両親が彼のことをあまり好いてはいなかったからだ。
とにかく両親は、血のつながっていない十郎に対して意地悪だったし、
まともであるということに対してまともじゃないくらいに偏執していたし、
一言で言ってしまうならば、まあ、ウマが合わなかったのだ。
だからこそ、十郎は不思議で仕方がなかった。
どうすればこの親からこんな娘が生まれるのだろう。
十郎の妹となった彼女は、どことなく、ぼんやりとした女の子だった。
十郎は一目で、妹に好意を抱いた。彼らの年齢は当時12歳だ。
十郎と妹は同級生だったが、十郎のほうがふた月ほど早くこの世に生を受けていたので、
暫定的に彼は兄貴分ということになった。
十郎の持つ妹への愛情といえば、それはもう度し難いもので、
彼はその心情を上手に隠すということを知らず、当然の帰結として、
正常を愛する彼の両親たちは頭を抱えた。
彼らは十五歳になるまでに、両親の目を盗んで、
セックスを除くすべての性行為を愉しんだと言っても過言ではないだろう。
十郎の歪んだ性愛もさることながら、それを受け入れた妹にも、
並大抵ではない兄への想いがあったことを付け加えておく。
十郎は一目で、妹に好意を抱いた。彼らの年齢は当時12歳だ。
十郎と妹は同級生だったが、十郎のほうがふた月ほど早くこの世に生を受けていたので、
暫定的に彼は兄貴分ということになった。
十郎の持つ妹への愛情といえば、それはもう度し難いもので、
彼はその心情を上手に隠すということを知らず、当然の帰結として、
正常を愛する彼の両親たちは頭を抱えた。
彼らは十五歳になるまでに、両親の目を盗んで、
セックスを除くすべての性行為を愉しんだと言っても過言ではないだろう。
十郎の歪んだ性愛もさることながら、それを受け入れた妹にも、
並大抵ではない兄への想いがあったことを付け加えておく。
十郎と妹は18歳で家を出た。
進学の決まった大学は実家からそう遠くないが、とにかく、なんとしてでも、
十郎が親元を離れたがったのである。
鼻つまみものの彼が家を出ることに関しては特に反対をしなかった両親であるが、
しかし妹が彼と同居すると言い出したのにはほとほと参ってしまった。
両親は彼らのただならぬべったりぶりに、しきりに眉を顰め続けてきていたし(もちろん両親の想像する十倍ほどに彼らは親密だった)、
そんな二人が二人きりで暮らすというとなると、これは到底、許しがたいことなのだった。
そういう経緯もあって、十郎と妹は半ば勘当のていで家を出てきた。
家賃四万二千円に管理費二千円という2Kのぼろアパートで、
つつましやかに生活を送ることとなった。
もうひとり――ひとりというか、一匹の妹の話である。
彼女と十郎が出会ったのは約半年ほど前だ。
彼女は誇り高きトーティーシェルだった。
その名が少し洒脱すぎるというならば、サビ猫と言い換えよう。
間借りしているアパートの前、住人の置いて行った黄色いごみ袋を漁っていた彼女に、
十郎はハナという名前をつけた。
ごく薄めた石鹸入りのぬるま湯で洗ってやるまで、
十郎はハナのことを黒猫だと思っていたのだが、
汚れを洗い流してやるとその下からは、まばらに濃い栗色の毛並が現れた。
この日から十郎の妹は、二匹、いや、ふたりに増えたのである。
◆
悪夢からさめた十郎の髪の毛を、妹の手がかく。
「うなされてたみたいだったけど」
十郎は上半身を起こして、ぼんやりとした視界のままに妹を見やる。
妹はいつも、なにかと、十郎の頭を撫でるのだ。
「たいしたことじゃないよ」
そう言って彼は、シングルベッドに腰掛ける妹を抱きしめる。
起きて、妹がそばにいるとき、十郎はかならず彼女を抱きしめることにしている。
誰にも邪魔されることのない、彼女との時間を噛みしめるのだ。
「あれ、珍しい。大学行くんだ?」
裸のまま毛布にくるまって、妹は十郎の背中に甘ったるい声をかける。
当年とって二十歳、十郎は二年生になっていた。
「そろそろ出席がまずいんだ」と、水色のシャツに袖を通しながら十郎は答える。
「真面目なこと言っちゃって」妹は笑う。「でも、今日は、お兄ちゃんやめると思うな」
意味ありげな言葉に、十郎は振り返る。
「どういう意味?」
「さあ、どうしてでしょう」
確かに、と十郎は思う。
確かに大学二年生というやつは不思議だ。
一年生のときに比べると、大学に向かう足取りはずっと重い。
ちょっとのことで、大学に行きたくなくなる。
おなかが減っているから、なんてバカみたいな理由で講義を休んだりする。
これが一年生だったら、学食に行くのを楽しみにして、両の足を動かしたものなのだが。
オーブンレンジからトーストを二枚取り出す。
「お前のぶん、焼いておいた」
「ありがとう。一緒に食べようよ。わたし一枚でいいし」
「僕はもう出ないと間に合わないから」
十郎の言葉を聞いて再度、妹が妖しく笑った。
「なんだよ」
首を傾げながらドアを開ける。
気圧差が、湿った空気でもって十郎の全身を圧す。
外は、秋雨だった。
五秒ほど考えて、十郎は開いたドアから手を放す。
風に押されたドアは閉じて、十郎を再びアパートの一室に閉じ込める。
「ほうら、ね」と妹がしたり顔をした。
首をすくめてそれに答えた十郎は、テーブルの上に置いた皿からトーストを一枚取り上げる。
体に毛布を巻きつけた妹も、白い腕を伸ばして兄に倣った。
「言ったとおりになったでしょ」
ああ、なんでもない幸せな日々。
◆
ある日スーパーで二人分の食材を買った十郎は、レジに向かう途中でハナのことを思い出す。
そうだ、ハナに缶詰でも買って帰ってやろう。
ここ最近確信したことなのだが、ハナはどうにもグルメすぎるきらいがある。
猫にとって缶詰なんてのは、その種類がなんであれ、
とびきりのご馳走であるのだと十郎は思っていた。
だがハナにはハナの好みがあるらしく、たとえば彼女は、
ゼリーに魚肉が包まれたタイプの猫缶をあまり好きではないらしい。
色とりどりの缶詰やパウチが並ぶ棚の前で、十郎はハナの食事を吟味する。
なかなか生意気ではあるが、しかし彼女が一心不乱にエサ入れをつつくのを想像すると、
どうしようもなく嬉しくなってくる。
やはり彼女もまた十郎にとって、二匹といないかわいい妹なのだ。
十郎の帰宅を出迎えたのはハナだった。
真っ青に塗られたドアの、牛乳瓶入れの隙間から両目を覗かせて、一つ高く鳴く。
吟味の甲斐あって、ハナは十郎が金属皿に開けたささみ入りの何とやらを夢中になって食べた。
二色刷り模様の猫を尻目に、十郎は換気扇の下でラッキーストライクを吸う。
部屋の中に妹の姿は見えない。また、西洋法制史の講義が長引いているに違いない。
妹ときたら、すぐに十郎を籠絡してベッドに引きずりこみ、なかなか大学に行かせないくせに、
自分のお気に入りの講義がある日はちゃっかりと大学に行って、最前の席で講義にかじりつくのだ。
真面目なんだか不真面目なんだかよくわからない、つかみどころのない妹であるが、
十郎からしてみれば、そんなところがたまらなく、たまらないのだ。
妹が帰ってくる前に夕飯を準備してしまおうと、十郎は煙草を流水に潜らせて消した。
狭い勝手ではあるが、それもこの家賃では仕方ない。
三角コーナーに吸殻を放って、十郎は料理に取り掛かる。
常日頃より妹に「そんなところにたばこ、捨てないでよね」と怒られている十郎であるが、
料理ついでに生ごみの処理もしてしまえば問題ないだろうと開き直る。
あるいは、あえてそのままにしておくというのも悪くないな――そんな風に十郎は考える。
眉根を寄せて、困ったような顔で小言を言う妹の顔を、十郎は嫌いではない。
◆
「今日の、すばらしいこと」
電気を消して、二人してベッドに潜り込んだ後、妹は十郎にささやく。
「学食の鳥天丼にかかってる青葉が、いつもより多かったこと」
「なんだよそれ」
「あとね、銀のエンゼルが当たった。捨てちゃったけど」
「もったいない」
「五枚も集めるなんて、むり。不可能だよ」
安物のシングルベッドは、二十歳の二人が並ぶにはいささか狭いが、それでも二人にとっては好都合なのだった。
《今日のすばらしいこと》というのは妹が寝る前のひと時に、
十郎に向かって語りかける際の、お決まりの切り出しだ。
「晩ごはんのカレー、じゃがいも固かったね」
「じゃあお前が作ってくれよ」
「わたし作れないよ。知ってるでしょう」
「ああ、そうだった」
こうして二人は眠るまで眠らずに、
くすくすと笑ったり、囁いたり、不健全にくっついたり、情熱的に離れたりしながら、
一日を振り返って、ああ、今日もいい一日だったねと、
戯言をのたまいながら、眠る。
◆
ミズキは万全を期するタイプの女である。
もともと勤勉でも努力家でもない彼女であるが、しかし講義には休まずに出席する。
ノートだってちゃんととるし、必要とあらば教授の言葉を明快にして自分なりにまとめてみたりもする。
いつ何時、十郎がその怠惰な生活のツケを払いきれず、試験前に四苦八苦することになるかわからないからだ。
そうして困っている十郎にそっと、整然と体系化された判例解釈のノートを差し出してあげるためだ。
もちろん十郎には、互いに互いを目に入れて連れ立っているような、かわいいかわいい妹がいるので、
彼が泣きつくとすればまずその妹君のほうであるだろうが、いやしかし、彼女とてミズキほどには熱心に講義に出てはいないだろう。
ミズキは万全を尽くすタイプの女である。
相手がたとえ四年目の付き合いになる男子といっても、油断などしない。
前髪、オーケー。
メイク、オーケー。
笑顔、オーケー。
うん、よし、今日もスキなし。
「じゅうくん、おはよ」
傘を左手に、愛想のいい動きを右手に、ミズキは十郎に声をかける。
大講義室が詰められたレンガ造りの裏で、十郎はラッキーストライクをくわえていた。
年々減らされていく灰皿に反比例して、各喫煙所に群がるスモーカーはその数を増す。
特にこの喫煙所は、最も近い他の喫煙所からでも200メートルは離れているので、どの時間に来てもそれなりに人がいる。
赤い火と紫のもやをまとった学生たちを交わして十郎に近づきながら、ミズキは顔をしかめる。
こんな場所にいたら、カットソーに匂いがうつっちゃう。
しかしそれも我慢だ。
煙草の匂いは嫌いだが、それでも十郎のことは好きだ。どうしようもなく好きだ。
「あの子は一緒じゃないの?」
さほどなんでもないふうには言えたはずである。
十郎は左腕の手首を回して彼女に応えた。
「たぶん、この時間だとまだ寝てるんじゃないかな」
「もう十一時だよ」
「最近、寝てばっかりなんだよあいつは」
ふうん。『寝て』ばっかりね。まあいいけど。
せりあがってくる不快を呑み込んで、ミズキは笑う。
ああ、もう煙たいったら。
十郎は、ミズキの好きな俳優に似ている。ちょっとだけ。その程度だ。
もともとミズキは、十郎ではなくその妹の友人だった。
めちゃくちゃに仲がいいというわけでもない。ただ、同じ高校からこの大学の法学部に進んだのは、
十郎と、その妹と、ミズキだけだったため、顔を合わせればそれなりに話をするくらいにはなった。
決定的な出来事が起こったのは半年ほど前だった。
ミズキは十郎と一緒に『寝た』のだ。
どうしてそんなことになったのかというと、さあ、あれはどうしてそうなったんだっけか。
正確なところはいまいち、ミズキ自身にもつかめていないのだった。
図書館の前で彼に会って、いつものように二、三話している間に夕食に誘われて、そのあと安居酒屋でお酒を飲んで……
彼の様子が少しおかしかったのはなんとなく覚えている。いつもならちびちびとまずそうに飲むビールを一息に煽ってみたりだとか、
ほっけじゃなくてたこわさを頼んでいたりだとか、やたらとほっぺたに手を当てられたりとか、とにかく、何かが違ったのだ。
そうしてミズキはその日、十郎の腕の中で眠ることとなった。
あの日から変わってしまったことが二つほどある。
やたらと、十郎がきらきらして見えるようになったというのがまず一つ。
なんとなく、彼の妹と連絡を取りたくなくなったというのがもう一つ。
たまに昼食を一緒に取るくらいには友達のつもりでいたんだけどなあ、とミズキは思う。
ミズキはもう半年ほど、彼女の顔を見ていない。できればあまり見たくもない。
もちろん、あの日から変わらないこともある。
相変わらず、十郎は妹にご執心であり、半年前の一回以降、彼はミズキの部屋を訪れたりはしない。
そもそもにしてミズキは、たった一度のセックスに籠絡されてしまうようなお安い恋愛は、自分には縁遠いものだと思っていた。
別に軽蔑も毛嫌いもしないが、しかし、理解はできないといったところである。
そんなものは、コーンフレークの代わりにムースが入っているチョコレートパフェであり、わらびもちについている黒蜜であり……
要するに、現実を排除しきった夢いっぱいの少女マンガ的空想だと思っていたのだ。
しかしどうだろう。今ひとたび、そんな空想世界に身を置いているミズキではあるが、これがなかなかどうして、悪くないものである。
どう考えたって、簡単にはいかなそうなところがいい。ミズキはそう思う。
義理の妹を溺愛し、自分には目もくれないところがいい。
他に好きな女がいて、でも逢瀬を重ねるうちに段々と自分に心を開いていって、ライバルに先んじて彼の心を手に入れて、なんて。
そんなご都合主義に流れそうにないところが素晴らしい。だからこそミズキは、十郎にこんなにも惹かれるのだと考える。
くれぐれも言っておくが、簡単にいかないほうが燃え上がるだとか、そういう心理ではない。
あくまでもミズキは、『上手くいきそうにない』ということに現実を感じているだけである。
この想いが、現実であるということを噛みしめていられるのが、嬉しいということなのである。
叶わなければいい、なんてたわけたことは思っていない。
今すぐ叶えばいいと思っている。報われればいいと思っている。
その胸中は、幸せな分だけ、黒々としている。
だからミズキは「今日飲みに行こうよ」という誘いの言葉が、あっさりと受け入れられたことを
なんの余計な考えもなく、素直に、純粋に、喜ぶことができた。
両手を高々と突き上げて「やったー!」と叫び出したい気分であった。
衆目あるこの場で、なにより十郎の目があるこの場で、まさかそんな奇行をするわけにもいかないので、
ミズキはその衝動を、もう一つ勇気を振り絞ることにあてたのである。
「今日は、あの子の話はしないで欲しいな」
言った端から冷や汗が落ちそうなほど緊張した。
だってこんなのもう、告白しているに等しいじゃない。
しかもこんなに言いづらい一言なのに、これじゃあ告白したってことにはならないんだから、かなり損してるんじゃないかな、あたし。
あっけにとられていた十郎だったが、結局、ミズキの勇気に甲斐ある返事をする。
五限目の行政法に出席したミズキは、これほど長い九十分があったものかと焦れながらも、やはりしっかりと板書をノートに書き写していた。
あの子は今日、家で一人なんだろうか。
大学からほど近いチェーンの居酒屋に入って、一時間ほどが過ぎた。
水で薄められた280円のサワーを口に運びながら、ミズキは十郎を見据える。
この男はなんてずるいのだろう、と。
大して話は弾まない。気の利いた一言があるわけでもない。沈黙を楽しむほどに上等な場にいるわけでももちろんない。
それでも、楽しい。嬉しい。
ミズキは上機嫌だった。ふわふわとしていた。
目はとろんとして、安酒に頬をりんごのように染められて。
ふわふわとしていた。
初めこそ照れくさくて、正面の十郎から逸らした視線を箸入れの付近に立ててあるドリンクメニューに注いでいたのだが、
アセロラサワーを三杯空けたあたりから、気づけばミズキは、十郎の顔しか見ていない。
十郎は、ぽつりぽつりとどうでもいいことを言う。
それは妙に一般的だったり、哲学的だったりして、ちっとも面白くない。
自分の言葉に笑ったり、急に押し黙ったり、ミズキの質問に見当違いのことを返したりする。
今日の誘いをかけるために前髪を切ってきたのだが、そのことにだって触れやしない。たぶん気づいてもない。
それなのに、どうしてこの男はこんなにあたしを幸せな気持ちにするのか。
その視線の動きだけで、ぎこちない笑いだけで、武器にもならない垢抜けなさで――
そんなのはずるい。そう思いながら、ミズキは決める。
今日、好きだって言おう。勝算なんてまるでないけど、それでも言おう。
万全を期せないことだって、たまにはある。
◆
妹と十郎が連れ立って祭りにくり出すのは、七年ぶりのことである。
十郎が妹との外出にこの祭りを選んだのには、それなりの理由がある。
といってもそれは、実に甘ったるく、ぬる惚けた、ロマンチックな女々しい理由である。
要するにこの秋祭りは、二人にとって思い出深いお祭りなのだ。
織姫と彦星もかくやという仲睦まじさであった二人だが、なにも出会いがしらから恋人関係にあったというわけではない。
十二歳、十三歳の彼らは今よりも健全で、初々しく、もじもじとしていた。そういう時期は確かにあった。
中学一年生の、この時期のことである。
妹は浴衣をもらった。
金魚帯でない、ちゃんとした大人の浴衣だ。
母親のお下がりではあるが、そんなことは関係なしに妹は喜んだ。
むしろそれが母親のお下がりであることで、自分も大人の女として認められたのだという気さえしていた。
なにか理由が必要だった。
濃紺のそれを着て、兄に見せびらかす機会が必要だった。
電車一本で行ける市の中途半端な花火大会はとうに終わっていたし、盆踊りだってそうだったし、そうなるともう妹に残されているのは、
赤ら顔の大人たちが鬱陶しくたむろする、爺むさい秋祭りだけであった。
羞恥に染まりやたら小声で誘いをかける妹と、さして乗り気でもないふうに、むしろいやいや了承してやるのだと言わんばかりの十郎の内心は、
同等の胸の高鳴りをもってその日を待ち望んだ。
お祭りで、浴衣で、中学生である。
なにも意識するなというほうが無理なくらいである。
その日、秋祭りの日、二人はわざわざ、駅前ロータリーのバス停にて待ち合わせをした。一つ屋根の下に住んでいるにも関わらず、だ。
ボロい筐体ばかり並ぶゲームセンターで慣れない暇つぶしをした後、ロータリーに向かって歩きながら十郎は思う。
当日になるまで足元に気が回らず、浴衣にミュールというのはおかしくないだろうかとうなりながら妹は思う。
きっと今日、家に帰ったときには、今までの二人じゃないんだろうな、と。
そういう予感がしていた。
二人歩きは散々だった。
メインストリートの人ごみは、二人の想像していたそれよりも遥かにごった返していて、それに付随する暑苦しさは、二人の覚悟していた十倍ほども不快だった。
十郎も妹も、平均的な十三歳だった。
大人たちの頭は自分たちよりも常にちょっと高いところにあって、それだけでも幾分か呼吸が楽だろうと羨ましく思った。
大人たちの体は自分たちよりも常に少しばかり重くて、それだけでも幾分か歩きやすそうだと恨めしく思った。
手を繋ぐ、なんてロマンチックなものではなかった。
はぐれないように、離れないように、互いが互いにしがみつくようにして歩いた。
異性との接触によるときめきよりも、汗ばんだ身体が密着する不快感がまさった。
二人は、残暑の中行われる暑苦しいお祭りの、一番暑苦しい時間帯に、一番暑苦しいメインストリートにいた。
ただ単に一本外れた通りに抜けるか、一時間前後した時間帯に出かけるかすればそれで良かったのだ。
それだけでこの地獄もかなりマシなものになっていたはずなのだ。
不運としか言いようがない。
出発の時間は、すでに出かけてしまったあとにはどうしようもない。
そして二人の脳内は、「秋祭りに二人で出かけるのだ」というガチガチの意識に固められていた。
この街の秋祭りに出かけるということは、つまり、今二人が歩いているこの通りを歩くという意味なのだった。
一番賑やかで、一番お祭りっぽい場所。そこを歩くという意味なのだった。
そんなわけで、二人は半ば意地になってその街道を突き進んだ。
砂糖水と塩素とソースと汗の臭気に溢れたその道は、人をして蠕動させ、遅々とした速度で二人を歩ませる。
両脇に立ち並ぶ露店を囲む客たちの年齢層は極端なもので、そのだいたいが幼児か大人であった。
十郎たちと同じ年の頃の少年少女はあまりいない。
これだけ人がいるのだからクラスメイトにばったりと出くわすということがあってもよさそうなものだが、
二人はクラスメイトどころか、中学生の姿を見とめるという事態にすらなかなか遭遇しなかった。
それもそのはずで、地元の小中学生たちは秋祭りの折にこの街道がどんな惨状になるかをよく知っているため、あえてこの通りにこだわるということをしないのだった。
いかにこの兄妹が出不精で、祭り慣れしていないかというのがよくわかる話である。
不幸中の幸いというか、不幸が幸いだったというか、とにかく、そのアクシデントがなかったら二人はいつまでもその地獄の中で無意味な行軍を続けていたに違いない。
蚊の鳴くような声で妹が言った。
左後方からの妹の声は露店の呼び込みに塗りつぶされて、十郎ははじめ、彼女が暑さのあまり「お茶」と言ったのだと思った。
多分、頭の芯まで茹で上がっていたのだと思う。
数瞬遅れて十郎は、妹が「おにいちゃん」と、自分を呼びかけたのだと理解する。
なんだよいったい今こっちは大変なんだよああほらまた前から[ピザ]が来たまったく日本は左側通行じゃないのかよ。
イライラを前面に押し出したままで十郎は首だけで振り返って、
思わず立ち止まった。
妹が、あられもない姿をしていた。
[ピザ]が十郎の背中にぶつかって、そのまま通り過ぎていく。
その次の瞬間には、イカ焼きを持った鼻ピアスの男が妹を半ば突き飛ばすようにしてまた人ごみに消えていく。
それでも二人は数秒、身動きできずに見つめ合っていた。
「ゆかた、ぬげそう」
言わなくても、見ればわかる。
それがいったいどのようにしてあんなにもピシッと着付けられていたのかと不思議に思えるほど、妹の浴衣は着崩れていた。
おはしょりなどというものはとうになく、身八つ口は信じられないほど下にあって、腰帯はたすきかと思うような円周になっており、
はだけるえり元を留めるのは今や妹の小さな左手だけであった。
「ぬげそう」
繰り返して妹が言った。
ただし言葉に込められたひっ迫の度合いは増している。たぶん、泣き出す一歩手前だ。
「来い」
言うが早いか、十郎は妹の手を引いて、今までの進行方向から直角に折れる方向に歩き出した。
つんのめるようにして妹も、兄について歩き出す。
左右から来る人の流れにばんばんとぶつかり弾き飛ばされながら、二人は街道を横切る。
たこ焼き屋とヨーヨー釣りの露店の間にあるガスボンベをまたぎ、その後ろにある植え込みもお構いなしに踏み越えて、二人はようやく地獄を脱した。
そこは役所の駐車場だった。
人ごみは抜けたが、まだ安心はできない。
どこか人のいないところにいかなければならない。
十郎の頭の中にあったのはそれだけであった。
それが祭りの夜であるからなのか、とにかく街の至る所に人はいた。
二人は市役所の敷地を突っ切り、裏口にあたるところから再び通りに出て、祭りの中心部から離れる方向に歩いた。
少し大きめの用水路かと思うほどに幅の狭い川を右手に眺めながら、十郎は妹に聞く。
「それ、自分で着なおせるの?」
「わかんない」と妹は言った。やはり涙声だった。
十郎は心の中だけで舌打ちをする。
散々な二人歩きだった。当初の予定とは全然違うのだった。
手を繋いで、射的とか金魚すくいとか、ちっとも面白くなさそうな露店を二人で回って、でもそれがなぜか、二人でやってみると異様に面白くて。
りんご飴とかかき氷とか、砂糖の味しかしないそれを馬鹿みたいな値段で買って、食べて、それがなぜか、二人で食べるととてもおいしくて。
そうして一通り祭りを楽しんだら、どこか少し静かなところに行って、ああ、告白しようと思っていたのだった。
「好きだ」と言おうと思っていたのだった。予定ではそうなっていた。
妹は今、自分の少し後ろで声もあげずに泣いている。振り返ってみなくてもわかる。絶対そうだ。
そして自分は、なんだかとてもイライラカリカリしていて、それがなぜなのかはよくわからなくて、だから余計に腹立たしい。
どこに行こうという考えがあったわけではなかった。
ただこの状況で知らない道を歩く気にはならなかったので、十郎は覚えのある道を選んで歩いた。
川沿いから端を渡って、駄菓子屋の前を通り過ぎ、両側に畑の並ぶ狭い舗装路を抜けた。
その段になってもまだ人通りはなくならなくて、十郎は歯噛みした。
林の暗がりからなにか飛び出しては来ないかと内心びくびくしながら山裾の脇を通り、最後の交差点を横切った。
いつのまにか、通学路を辿っていたのだ。
目の前に続く急な坂道を登り切った先、十郎と妹が通う中学校がある。
道々、二人は言葉を交わさなかった。
だからこの時も、ひたすらに無言で、学校への坂道を登った。
人ごみの中で変な歩き方をせざるを得なかったせいか、十郎の足裏にはまめができていた。
ミュールの細い装飾が擦れて、妹のかかとには靴擦れができていた。
痛かったけど、疲れていたけど、それでも二人は何も言わずに歩いた。
当然、校門は閉まっていた。
やっぱりだめか、と十郎は気落ちした。
既に周りに人はいなくなっていたが、まさか往来で着付けを始めるわけにもいかない。
学校の敷地内ならば、物陰に隠れられそうなところはいくらでもある――坂の下まで来たとき、その案に至ったのだった。
だが、二人の前に立ちはだかる鉄格子は屈強で、高い。
まったく、散々な二人歩きである。
人ごみには押しつぶされるし、妹はあられもない姿だし、ふくらはぎも足の裏も痛い。
こんな予定ではなかった。こんなはずではなかった。
そして十郎はようやく、自分のいら立ちの根源を知る。
きっと、妹も自分と同じようにぼろぼろになっているはずなのだ。
小指の爪の先ほども、「楽しい」とは思っていないはずなのだ。
一年前――たった一年前である。
いきなり兄ができて、生活が一変して、穏やかでなくなって、ぎくしゃくしてもじもじして……
勇気を振り絞ったに違いない。いつまでも、この居心地の悪い共同生活を続けるわけにはいかないと思ったに違いない。
妹は、秋祭りに誘ってくれた。
手を差し伸べたのは妹で、自分はその手を取ったに過ぎない。しかもその内には、下心が満ちていた。
もしかすると、今妹が受けているショックは、自分の感じている焦燥や落胆に比べて、ずっと大きいのではないか。
楽しみにしていたのに。楽しみにしていたのに。楽しみにしていたのに。
妹は泣いていた。
自分の不甲斐なさが許せなかった。
お兄ちゃんがとてもイライラしていて、すごく怖い顔をしている。そう思ってくれているならばまだいい。
『血の繋がらないどこの馬の骨ともわからない男』がとてもイライラしていて、すごく怖い顔をしている。そう思われるよりはマシだ。
とにかく、今からでもあやまろう。低頭平身あやまろう。
そう思って、十郎は振り返った。
そしてそのまま、固まった。
◆
今までずっとだんまりだった兄が急に振り向いたので、妹は思わず身をこわばらせた。
きっとわたしは今から怒られるんだ。そう思った。
優しいお兄ちゃんも、今日という今日はあきれ果てたに決まっているのだ。
自分から誘ったというのにろくに下調べもせず、考えもなしに人ごみに引きずり込み、先を歩かせ、おまけにこの体たらくである。
えり元を掴んで固く握った左手も、もう限界に来ていた。なにもこんなに力を入れて握っている必要はなかったように思う。
ただ、お兄ちゃんに見せたかっただけなのだ。
「かわいいね」なんて言ってもらえることを期待していたわけでもない。
ただ、大人と同じ浴衣を着て、大人の女のひとみたいな顔をして、お兄ちゃんと歩きたかっただけなのだ。
それが今では、半分裸みたいな恰好になっている。
どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
ぎゅっと両目を閉じる。大粒の涙が目尻から落ちた。
胸の奥から吐き気のようにせり上がってくるなにかを懸命に堪えている妹なのだが、しかし当人にはその『なにか』というのがなんなのか、よくわからない。
きっとわたしは今から怒られるんだ。大好きなお兄ちゃんから、怒られなければならないのだ。
妹は覚悟を決めた。
左手はぎゅっと握りしめたままで、両の目はぎゅっと強く閉じたままだ。
そうして三秒が過ぎ、五秒が過ぎ、十秒が過ぎた。
いつまでたっても、自分を罵る声は降ってこない。
妹はそっと目を開けて、上目づかいに兄を見る。
十郎は妹の頭上を越えて、遥か遠くを見ていた。
なにを見ているんだろう、と妹も首だけで後ろを振り返る。
◆
まるで、街が丸ごと燃えているようだ。そういう風に見えた。
街道も川沿いも運動公園も小学校も住宅街も、赤とオレンジと白の光に包まれていた。
この街にそんな風景があることを、十郎も妹も知らなかった。
冗談みたいに傾いた坂をのぼらなければたどり着けないこの中学校の存在意義は、この光景を眼下におさめるためにあるに違いなかった。
少なくともその瞬間、兄妹はそう信じて疑わなかった。
さっきまであの只中にいたのだということが、信じられなかった。
あの光の一つ一つは、薄汚れた提灯と立て灯篭なのだ。
たぶん今日だけで千個以上は目にしたはずだ。
近くで見ているときには、気にさえとめなかった。
街が燃えているようなときなのだ。大変なのだ。
だから、これから自分が言うことは、それに比べれば大したことではないような気がする。
呆けたような顔つきで、十郎は呟くように「好きだ」と言った。
うっとりとした顔つきの妹が、壁にでも話しているかのような無感動さで「わたしも」と返した。
秋の風が、汗に濡れた十郎の体温をさらっていく。
半分ほど裸みたいな妹が身を震わせた。
魔法のかかった時間は、本当に、ごく短い時間だった。
五秒もなかった。
二人同時に「えっ……!」と声を上げ、我に返る。
嘘みたいに素早い動作で、十郎は視線を落とし、妹は振り返る。
見開かれた二組の視線がぶつかる。
兄と妹が恋人になる。
>>55について
[ピザ]→デブ
です。ごめんなさい
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