幼馴染「……童貞、なの?」 男「」.(1000)
目覚まし時計のアラームは融通がきかない。
日によって気を利かせて鳴らなかったりするならもっと仲良くなれると思うのだが、今のところそんなことは一度きりしかなかった。
ちなみに原因は電池切れ。彼との付き合いの短さが露呈する回数だ。
あんまりにも融通がきかないので、最近では一度殴ることで沈黙させている。
暴力はあまり好ましくないが、言うだけで分からない奴には殴ってきかせるしかない。ときにはそういう場合もある。
女を殴ったと考えるのは寝覚めが悪いので、目覚まし時計を脳内で擬人化するときは男だということにしている。
「なおと」という名前もつけた。たまに話しかける。
「よう、なおと。俺、また女子に笑われちゃったよ……」
思い出すだけでせつない過去だった。
「元気出せよ相棒、らしくないぜ。あんたはいつも笑ってるべきさ。あんたが悲しい顔をしてると、どこかで誰かが悲しくなるだろう?」
彼はその神経質な性格が垣間見える説教で俺を励ました。
最近では何か嫌なことがあれば彼に愚痴を言う。最初の頃は頭がどうかしたのかと心配そうにしていた妹も、今ではかまってくれなくなった。
「ああ、またおかしくなったのか」とあっさり認めてくれる。理解のある家族で非常に助かる。
この頃はあまりに擬人化妄想がリアルになり、人間だったらどんな顔をしているか、どんな姿をしているかまで具体的に想像するようになってしまった。
おかげで、部屋に女子を連れ込んだとき、なおとがいるせいで上手くアンナコトができないのではないかといらぬ心配までするようになる始末。
もしも女子の前でなおとに話しかけでもしたなら目も当てられない。
「あいつ目覚ましに話かけてたんだけどー」
「えーなにそれまじうけるー」
「ありえねー。やべー」
「ひくわー。あいつマジないわー。ないわー」
「ていうかあいつ童貞でしょー?」
「だよねー。目覚ましに話しかけるなんて絶対童貞だよねー」
「童貞マジうけるわー」
となること請け合い。
脳内でエコーのかかった幻聴が響き終わると、全身にぞくぞくと寒気が走った。
脳内教室にクラスメイトたちの童貞コールがこだまする。超怖い。
なので近頃は、本格的になおとと決別するべきか、真剣に悩んでいた。
ぶっちゃけ俺が部屋に女子を連れ込むなんて天地が逆さになってもありえないのだが。
なおとのことを考えているうちに、さっきまで見ていた夢の内容を忘れてしまった。
忘れてしまったのだが、なぜかえろい夢だったことは思い出せる。
なんかすごくえろい夢だった。
具体的に言うなら……。
武道場の女子更衣室で剣道部女子が着替えをしているところを覗いていたら、あっさり見つかって、
女子が脱いだばかりの服で全身を縛られたうえ仰向けに押し倒され、
顔見知りの剣道部員三名(容姿ランクB+,A,B)に全身を嘗め回されながら罵倒され、
あられもない姿の三人に男としての尊厳をこれでもかというほどに踏みにじられ、
最終的にはその三名に学生生活の影でこっそりとえっちなことをしてもらうセフレ的な地位になるような夢だったはずなのだが――
――ぶっちゃけ細かいことは覚えてない。
なんか感覚とかすごくリアルだった。
童貞なので、本番の想像をしようとしたら夢が覚めた……のかも知れない。覚えてない。
えろい夢に関しては覚えてないのが悔しい。覚えてたら何かに使えるかもしれないのに。
とはいえ、今重要なのはいろいろ持て余してしまって屹立している下半身であり。
さらにいえば、目覚ましが鳴る時間を過ぎても起きてこない兄の様子を見に来た健気な妹のことでもあった。
季節は夏。
寝相が悪いと、タオルはすぐ落ちる。
薄着だから、いろいろ見られる。
察される。
お約束だった。
「待て、なんだそのさめた顔は」
反応はない。
「もっとこう、あるだろ。恥じらいとか」
返事はない。
「なんとかいえよ」
妹の視線は品定めするように冷静だった。
「おい……?」
まさかはじめてみたので驚いて失神したというつまらないギャグではあるまい。
と、くだらないことを考えた瞬間――
「……フッ」
――鼻で笑われた。
身長百五十センチ(自己申告)の子供っぽい妹さまに。
あどけなさを残した中学生女子の顔が高慢に歪んだ。
女王の貫禄。
思わず死にたくなる。
「……え、そんな、笑われるようなアレですか、俺のは」
「それセクハラだから」
ごもっともな意見だ。
「いいから起きて。時間なくなる」
「起きようにも起きれないと申しますか……」
言い訳する俺を尻目に(尻目って言葉はなんだかすごく卑猥だ。尻目遣いって言葉もあるらしい)、妹は扉を閉じて去っていってしまう。
残るのはむなしさだけだった。
妹がいなくなってから例のアレはすぐに鎮まった。人体の不思議。
「妄想だと罵倒されても平気なのに……」
妹さまの罵倒はどうにも耳に痛い。……よく思い返せば罵倒なんてされてなかったが。
妹がなぜ俺につらく当たるようになったのか(厳密にはつらくあたるというより舐め腐っているという感じだが)。
心当たりはあまりない。思春期だからかも知れない。
でもまぁ、話しもできないというほどではないし、こうして朝起こしにくるだけでも常軌を逸した妹ぶりと言える。
もし嫌われた心当たりがあるとするなら、
ネットで見た情報に興味を引かれ、フリーの催眠音声(セルフあり)をダウンロードし実践していたところを目撃されたこととか、
妹の読んでいた小説を追うように読んで「主人公って絶対ロリコンだよな」と発言したこととか、
妹が買ってきたアイス(箱)を一日で食い尽くしたこととか、
せいぜいそんなもので、どれも瑣末に思えた。
難しい年頃なのだろう。
大人の寛容さで認めてあげることにした。
あと何年かすればもうちょっと距離感がつかめるに違いない。なんだかんだいって兄が大好きな妹様だし。
根拠はない。
「うむ」
ひとつ頷いてからベッドを這い出て着替えをはじめた。
月曜の朝はつらい。
家を出ると夏の太陽が俺を苛んだ。
ちょっといい感じの言い方をしてみても、暑いものには変わりない。
「コンクリートジャングル!」
テンションをあげようとして思わず叫んだ。
どちらかというと気が沈んだ。
「ヒートアイランド現象……」
一学生には重過ぎる言葉だ。
「何やってるの?」
声に振り返ると妹が呆れながらこちらを見ていた。なんだかすさまじく冷たい視線。
「夏だなぁって思ったら生きてるのがつらくなってきた」
「毎年大変だね」
大変なのだ。
「最近、馬鹿さが加速度的にあがってきてるよね」
「マジで?」
「このままいくと世界一も夢じゃないかもね」
「まじでか!」
世界一。素敵な響きだった。思わず言葉に酔いしれて白昼夢を見た。
表彰台の上で「THE BAKA」と刻まれたトロフィーを抱え、首に金色のメダルをかけられる。
美女に月桂冠をつけてもらう。そのとき頭を前のめりになる。でっかいおっぱいが目の前で揺れた。
童貞には強すぎる刺激だが目をそらせない。馬鹿の証明とも言えた。
涙ながらに「うれしいです!」とインタビューに答え、ぱしゃぱしゃというフラッシュの音を一身に浴びる。
良かった。努力してきた甲斐があった。ようやく俺は世界一になれたんだ……。
――そんなわけがなかった。ギャグにしても寒い。
「ちょっと前はもう少しマシだったのに」
妹さまは不服そうだった。
「お姉ちゃんがきてた頃はマシだったのに」
お姉ちゃん。
妹がいう「お姉ちゃん」は俺から見ると同い年だ。
俺と妹には幼馴染がいた。
美少女だ。料理も上手い。朝起こしにきたりもした。「将来は結婚しようね」と砂場で約束した仲だ。たまに弁当を作ってくれる。
家事が趣味でほんわりとした穏やかな性格が持ち味。からかわれると「むぅ~」と言いながらぷっくりと頬を膨らませる。
クラスメイトに「夫婦喧嘩か?」とか「夫婦漫才か?」とかからかわれるたびに、「ち、ちがうよっ!」と真っ赤になって否定していた。
サッカー部のマネージャーをしている。犬好きで、暇な休日はペットショップを覗きに行き、「かわいい……」とか言ってる。
そんな好みが分かれそうなハイスペック幼馴染なのだが、つい先日サッカー部の先輩と交際を始めた。
そのことから照れ隠しかと思われた「ち、ちがうよっ!」という発言が本当だったことが判明し、クラスメイトは今でも俺に哀れみの視線を寄せる。
ぶっちゃけ一番ショックを受けたのは俺だった。クリティカルダメージ。オーバーキル。
昔からの知り合いに恋人ができるというのは、なぜだかひどく寂しかった。
数日生と死の狭間をさまよった。
嘘だ。
嘘だが、寝取られという言葉がなぜか頭を過ぎった。
付き合ってなかったからショックを受ける理由なんてないはずなのだが、なんかすごいショックだった。
なんかすごいショック。技名みたいで少しかっこいい。
ちょっと前から幼馴染は俺に話しかけたり朝起こしにきたりしなくなった。
もう弁当を作ってくれることもないだろう。恋は人を盲目にさせる。
勝手に傷ついた友人(しかも男)の心境など、あの美少女が気にかけるわけもなかった。
「死にたい……」
「悪かったわよ……」
妹もなんとなく俺の気持ちを察してくれているらしい。
が、察されるのもなんだか悲しいところだ。
「もう学校に行こう」
「……ごめんなさい」
素直に謝れるのが妹のいいところだが、あと一年もすればこいつも彼氏をつくってきゃっきゃうふふとしゃれ込むのだろう。
暗澹とした気持ちのまま妹と別れて学校に向かった。
教室につくと、目の前にサラマンダーが現れた。
当然、人で、あだ名だった。
名前の由来を語ると長くなる。
ある休日、友人たちで家に集まっていたときのこと。
彼は昼食に「激辛キムチ鍋! ~辛さ億倍~」という名前のカップラーメンを買ってきて食べた(鍋なのにラーメン)。
グロテスクですらある見た目に警戒した俺たちはサラマンダーに忠告した。
「やめとけ、それは魔の食い物だ。人の食うものじゃない」
でも奴は食った。向こう見ずだった。青春っぽい。当然、あまりの辛さに顔を真っ赤にして噴き出した。
案外、由来を語っても短かった。それ以来彼はサラマンダーと呼ばれている。
サラマンダーは長いし、ドラゴンでよくね? という俺の意見は却下された。面白くないかららしい。
みんなサラマンダーと呼ぶ。いつのまにかクラス中に移った。正直呼びづらい。長いし。
余談になるが「激辛キムチ鍋! ~辛さ億倍~」は生産中止になった。ありふれた話だ。
サラマンダーは俺を見て不愉快そうに眉を寄せた。
別に嫌われているわけではない。こういう顔をしているときは、サラマンダーが何かを話し始めるときだ。
「聞いてくれよ」
始まった。と同時に騒がしいはずの教室が鎮まりかえる。彼は期待を一身に受けて口を開いた。
「俺は今日、なんかすげーえろい夢をみたんだ」
「……あ、そう」
どこかで何かがリンクしているようだった。静寂が途切れて、教室にざわつきが戻る。いつも通りか、と誰かが呟いた。
「テニス部のプレハブに忍び込んで持ち物をあさってると、あっさり女子に見つかって罵倒されまくるような夢だった」
「……」
なぜだか背筋が寒くなった。そんな夢を見た気がするが、覚えてないので仕方ない。
「さいてー」
「いやー」
「きもちわるーい」
女子から声があがった。でもこういうときに積極的に声をあげるのは、あまり容姿がよろしくない人たちだ。
ごくまれに美少女もいた。歯に衣着せぬ物言いでちょっとした人気があるが、とにかく近寄りがたい。
「すげーえろい夢だったんだが、内容を思い出せない。この気持ち、分かるか?」
「悪いが分からない」
名誉のためにそういうしかなかった。
サラマンダーは肩を落として「そうか」と呟き、教室から出て行った。廊下を覗くと、幽鬼のようにふらふらと歩く後姿が見える。
くだらないことで落ち込む奴だ。が、実際俺も似たようなものだった。
自分の席まで行くと今度はマエストロが我が物顔で座っていた。
体格のいい大男だが、運動部には所属していない。
先輩の女子率が一番高いということでワープロ部に入った(キーボードをかちゃかちゃ鳴らす速度を競う部活動。大会がある)のだが、
かっこいい先輩が部長をやっているため女子の熱のこもった視線はそちらへ向き、部内ではいじられキャラらしい。
憐れな奴。ちなみに指が太い割りにキーボードさばきは的確で精確だ。
マエストロのあだ名の由来にもいろいろある。
簡単に言えばエロ関連の芸術家なのだった(ノートにえろ絵描いてる。女の子の目がでかい。うまい。えろい)。
最近は男子全体の指揮者という意味も含んでいる。マエストロの信奉者がいる(ただのエロ絵乞食でもある)。
とはいえ、クラスの男子全員が、女性の土踏まずにフェティッシュな愛着を持っているのは、彼の布教の賜物だった。
マエストロは俺の席に座って何かを読んでいた。
何かというより薄い本だ。
R-18だった。
俺たちには過ぎたるものだった(年齢的に)。
そんなこと言ったらフリーの催眠音声(セルフあり)も俺たちには過ぎたるものだが、そんなことは今は関係ない。
「何やってんのマエストロ、人の机で」
「お、ああ。おまえの机に入ってたこれ、ちょっと借りてるぜ」
「あたかも俺のものみたいな言い方してんじゃねえよぶっ飛ばすぞ」
思わず口調が荒くなった。マエストロの冗談は俺の心臓と評判に悪い影響を与える。
エロ本も買ったことのない少年にはあまりに残酷な噂が立ちかねない。
エロに興味があるのは当然だが、実際に手を出したことはなかった。
さらにいえば、道端にエロ本が落ちてたとしても拾えない。
チキンだから。
コンビニでチキンを買えば共食いだ。
……馬鹿なことを考えた。
ちなみにエロに関することはすべてネットで済ませる。便利な世の中。科学技術の進歩は常に人を孤独にする。情緒がない。
「マエストロ、その薄い本しまって。隣席の女子の目が鋭いから」
「女子の目を気にしてるようではまだ若いな」
おまえも十代だろ、というツッコミはかろうじて飲み込む。
隣の席の真面目系女子がこちらを睨んでいる気がする。
たまに宿題を見せてもらうので、悪い印象を与えることは可能な限り避けたい。
それでなくても、
「私、アンタみたいな不真面目な人って嫌いだから」
とか
「アンタ、『宿題見せて』以外に私に言うことないわけ?」
とか、挙句の果てに、
「ヘンタイ! 死ね!」
とか言われてるのに。
妄想の中だったら歓迎したいところだったが、普通に現実だった。
しかも、今も睨まれている。
なぜかマエストロではなく俺が。
明らかに巻き込まれていた。
「マエストロ! 頼むから、俺の名誉のために!」
必死に懇願する。俺はチキンだった。
マエストロがぎらりと細い目を動かす。ガタイがいい割に、菩薩のような穏やかな顔をしている彼が、俺を威圧している。
彼は謎の地雷を持っていて、そこを踏むとたまに暴走する。
ちょうど今だ。
「名誉のため? 違うだろ、はっきりいえよ。女子から冷たい目で見られるのが嫌だって! 俺はええかっこしいですって言えよ!
ほら、大声で言ってみせろよ! そして自分がどれだけエゴとナルシズムに満ちた存在かをさらけだすがいい!」
一瞬圧倒された。周囲が沈黙した。
「……いや、おまえの行動と言動の方がエゴに満ちてるから」
一瞬だけだった。でもナルシズムはちょっと図星かも知れない。ぶっちゃけよく見られたい。思春期だし。
マエストロの信奉者が心配そうにこちらを眺めている。なぜ男にそんな目を向ける? 一種のホラーだ。
俺が周囲に目を走らせていると、マエストロは表情をより険しくさせた。
「黙れこのムッツリスケベがッ!」
教室中に轟く大声で彼は叫んだ。
注目されている。なぜかマエストロが激昂していた。
クラス中の視線の中に「おまえが言うな」という心の声が含まれていたのは言うまでもないことだった。
よくよく考えると彼はオープンな方なのだけれど、でもスケベには変わりない。
「おまえのエロに対する執着心を数値化してクラス中の女子に見せてやりたい気分だ! 死ね!」
なぜか死ねと仰られる。どうやら今日は虫の居所が悪いらしい。
「いいか、この際だからはっきり言ってやる」
マエストロは言った。唐突だ。何かそんなにまずいことをしただろうかという気持ちになる。
俺の苦悩をよそにマエストロは言葉を続けた。
「このクラスで、童貞は」
何か重大な発表がなされようとしていた。
なぜ今のタイミングで童貞の話に? という疑問はたぶん解消されない。
「サラマンダーと、俺と」
なにやらカミングアウトしている。
「――それから、おまえだけだ」
……巻き込まれてしまった。
一瞬遅れで、
「……え、まじで?」
俺は墓穴を掘った。
空気が凍る。
教室から音が消えた。
サラマンダーの下手な口笛がどこかから聞こえる。
今の発言は童貞だということを暴露したようなものだった。
何かの視線に気付いて振り返ると、幼馴染が教室のうしろの扉から入ってきたところだった。
彼女はあっけにとられたようにこちらを見ている。
しばらく沈黙があった。その間中ずっと、幼馴染と俺は目を合わせたままだった。こんな状況でなければ喜ばしいことだ。
彼女は静かに視線を落とし、照れくさそうに微笑したあと、言った。
「……童貞、なの?」
ちょっと戸惑ったような声だった。
――その瞬間、俺のあだ名はチェリーに決定した。
――マエストロの虫の居所が悪かったのには理由があったらしい。
なんでも、彼の信奉者であるオタメガネ三人組(鈴木・佐藤・木下)が、三人揃って童貞を卒業したというのだ。
……なぜ急に?
鈴木曰く、
「体育の授業で怪我をして保健室いったら、保健の赤嶺先生に……」
メガネをはずすと可愛いね、って言われて喰われた。
巨乳で地味系。童顔。野暮眼鏡。ロリコンにひそかな人気がある。羨ましくて憤死する。
佐藤曰く、
「ヒキコモリの従妹が数日間うちに泊まることになって……」
親たちが出かけてる間に、合意の上で、好奇心に煽られてエロいことをし合った。した。
年下。物静か。色白。生えてなかった。ぱんつはくまさんだった。ふざけんな。豆腐の角に頭ぶつけて死ね。
そして木下曰く、
「勉強のふりしてアレしてたら、義理の母親に……」
甘やかされた。
歳の差結婚で恐ろしく若い上、父親は死んでいて未亡人だった。いろいろやばい。まずい。そんな際どいことクラスメイトに言うな。
――どこぞのエロゲーか。
脳内ツッコミ。
応える声はなかった。
どう考えてもエロゲーだった。
「保健の先生(巨乳)とか!」
マエストロが吼える。丘の上の住宅街にある公園に、男三人の長い影が落ちていた。
「ヒキコモリの従妹(色白・物静か)とか! 義理の母親(未亡人・いろいろ持て余す)とか!」
力が篭っていた。
「ふざけんなああああああああ――!!」
魂の叫びだった。夕日に向かって、マエストロは泣いていた。思わず俺の目頭も熱くなる。
「なんだそりゃあ! なんだそりゃあ! 馬鹿にしてんのかあああああああ――――!!」
「落ち着けマエストロ」
サラマンダーが冷静に諌めた。彼はたまに冗談みたいなボケと失敗をかます以外、クールでイケメンなのだ。天然でエロ魔人だが。
「で、それなんてエロゲ? 特に二番目について詳しく教えて欲しい」
――天然でエロ魔人だった。
そして俺たちは十六歳(数え年)だ。
「俺がゲームやってる間に! 絵描いてる間に! MAD動画作ってる間に! エロ小説書いてる間に!」
多才な奴だ。
「アイツらがそんなことをしてたと思うと!」
「思うと?」
「死にてえ!」
「ですよね」
聞くまでもないことだった。
「反応鈍いぜ、チェリー」
サラマンダーが気障っぽくいった。こんな気障な奴が「激辛キムチ鍋! ~辛さ億倍~」を食べて火を吐いたのだから思い出すだけで笑える。
「チェリーって言うな」
とはいえ、俺は俺で落ち込んでいた。
『このクラスで童貞は、サラマンダーと、俺と、おまえだけだ』
という言葉もそうだが、何よりショックだったのは、
『……童貞、なの?』
といったときの幼馴染の表情だった。
普通に死ねる。
なんか、経験済み的な微笑だった。先入観のせいかも知れない。
男の子だもんね、的微笑だった。
おとだも的微笑と名付けた。
分かりにくいのですぐにやめた。
……付き合ってれば、そりゃ、ね。
あの先輩、悪い人じゃないし、ね。
でもヘタレっぽいし、たぶん、積極的なのは、幼馴染の方、だよ、ね。
『……童貞、なの?』
あの微笑。……せつない。
本番はともかく、ペッティングくらいならやってるかも知れぬ。
「手でいいですか? ……とか言ってるんだろうか」
ふと呟いた。
「口でやってもらえる? って言われて、『……それは、ちょっと』って言ってたりしてな」
サラマンダーが冷静に言った。
「もう我慢できない! って跨ってたりしてな」
マエストロが必中必殺魔法を使った。即死効果付だった。俺は死んだ。
言葉にするだけで頭に光景が浮かぶ。鬱勃起しそうになる。
自己嫌悪で死ねる。
「現実でそんなのは……ないだろ」
と言いたかったが、童貞なので分からない。
「……死にたい」
言いながらジャングルジムに登る。丘から見下ろす住宅街のそこらじゅうに「済」のハンコが押されてる気がした。
「現実なんて、クソばっかだ―――――ッ!!」
青春っぽく叫んでみた。
……むなしかったのですぐにやめる。
なんか童貞とか童貞じゃないとか以前に、幼馴染のあの表情だけで普通に死ねそうです。
「この世こそが真の地獄であり、我々は永遠の業火によって罰を受け続けているのだ――ッ!!」
グノーシスっぽいことを言ってみる。
適当だった。
その日はそのままふたりを別れた。
家に帰ると妹が台所で料理していた。せつなくなって後ろから抱き締めた。
照れられた。癒された。本気で嫌がられた。抵抗を黙殺した。殴られた。
「次やったら晩御飯抜きだから」
クールに宣言される。難しい天秤だった。
つづく
母親「魔法使い、なの?」俺「」
母親「魔法使い、なの?」俺「」
しまった…色々やっちまったww
翌日は授業に身が入らなかった。
ずっと幼馴染のことを考えていて、気付けば、誰とも話さないまま昼休み。
「俺……」
ひょっとして幼馴染が好きだったんだろうか、とシリアスに悩む。
悩んだあげく、いつまでも幼馴染のことばかり考えていても仕方ないという結論を出した。
幼馴染に声をかける。
「おい!」
「え?」
きょとんとしている。
おべんとをあけていた。
ピンク色の巾着袋。
乙女チック。ファンシー系女子(普通の女子がやっていたら寒いことをしてもかわいく見える人種)。
「おまえのことなんて、もうしらねえからなッ!」
「……あの、突然なに?」
苦笑してる。
普段からマエストロやサラマンダーと一緒にいるせいで、周囲から「またあいつらか……」的な視線が送られていた。
二人のせいで俺までエロ童貞三人衆に数えられている。
なぜかしらないが俺にまで信者がいる。妄想に関しては随一だというくだらない噂が立っているらしい。
……冗談だと思いたかった。
幼馴染はこちらを見ながら苦笑した。
毒のない無垢な笑顔に癒されそうになって逆に深く傷つく。もう人の女だ。
「おまえなんて、おまえなんて、サッカー部のなんかかっこいい先輩といい感じになってあげくのはてに卒業してからも一緒にいればいいんだ!」
「……祝福されてるのかな?」
照れ苦笑しておられる。微妙に困っていた。
どことなく寂しさ漂う苦笑。
俺の心境がそう見せているに違いない。
……自分がかわいそうになってくる。
ふざけていたつもりが、声に出したら真剣につらくなった。
というわけで、幼馴染のことは忘れることにする。
さらば幼き日の約束。
妙な達成感が胸に去来した。
「おまえと結婚の約束をした記憶なんてないッ!」
「私もないよ?」
忘れ去られていた。
……死のう。
開放されている屋上に行くと女の子がいた。
見なかったふりをして鉄扉の内側に戻ろうとする。
「待って」
しかし逃げられなかった。
ロールプレイングゲームっぽいテロップが脳内に出る。
戦闘BGM。敵性存在とのエンカウント。
「ヤァ、コンニチワ」
ナチュラルに挨拶をしようとしたら片言になった(ありがちだ)。俺はこの子が苦手なのだ。
「何でカタコト?」
普通に気付かれた。
「実を言うとこのあたりに地球外の知的生命体の痕跡が……」
「別にいいから、そういう冗談」
「やは」
ごまかし笑いが出た。
「何しに来たの?」
「何しに、とは?」
「お弁当、持ってないみたいだけど」
何かを言いそびれたみたいな、困ったような声音だった。
彼女はこの学校でも有名な一匹狼だ。ザ・ロンリーウルフ。
でも別に凶暴ってわけじゃない。気付くといつもひとりでいる。
多分ひとりが好きなんだろう。もしくは気楽なのかもしれない。
俺はなぜか彼女に嫌われていた。
その嫌われ具合は簡単に語れる。
まず初対面が――
曲がり角でぶつかる。彼女が突き飛ばされる。
「あ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
「い、たた」
尻餅をついた彼女に、手を差し伸べる。紳士に。
「大丈夫です。ありがとう――」
いい雰囲気。彼女の手が俺の手と合わさる。
「あ、パンツ見えてる」
「――は?」
「今日はラッキーデイ! 眼福!」
「……」
――ごく普通の出会い方であるどころか、むしろ好印象ですらありそうなものだが、
「……死ね」
と暴言を吐かれた。
深く傷ついた。
人に噛み付きたいお年頃なのだと納得し、その後もめげずに声をかけるようになった。
あるときは階段の下から――
「黄色!」
「――ッ!!」
あるときは廊下で転んだところに彼女が歩いてきて――
「水玉! 青地に白!」
「……」
あるときは彼女とぶつかって転んだときに身体が絡み合い、体操服の隙間から――
「白!」
「……死ね」
ということを何度か繰り返していたら、普通に嫌われた。よくよく思い返してみれば当然かもしれない。
自己嫌悪。でも全部事故だ。実際に口に出したのは自分だけれど。
「あのさ」
考え事をしていたらふたたび声をかけられる。
「お弁当、どうしたのって聞いてるんだけど」
「……ええと」
教室に忘れてきた。妹の手作りだった。
親が忙しいのでいつも妹が作っているのだが、美味い。常に食べきっている。
昨日は食べられたか覚えていない。というか昨日の記憶がない。
死にたくなってきた。
「どうしたの?」
なにやら(心配そうに)下から覗き込まれる。カッコ内はの妄想。
「よせやい、照れるぜ」
茶化す。
「死ね」
笑いながら死ねと仰られる。
なんだか今日はご機嫌のようだ。
孤高のロンリーウルフである彼女は、通称を屋上さんという。
なんか屋上にいるから、屋上さん。
あだ名ばっかりの学校だ。
名前を聞いても教えてくれないので、俺がつけた。
髪型はポニーテール。この歳になるとなかなかお目にかかれない。
陸上部に所属していて、いつもハードルを越えてる。すごい。やばい。足が速い。クラスが違うので詳しいことは知らない。
「食べる?」
「は?」
何かを差し出される。
コンビニのサンドウィッチだった。
「……ミックスサンドだけど」
まるでツナサンドじゃないことが申し訳ないみたいな言い方だった。
「いいじゃんミックスサンド、好きだよ」
思わずミックスサンドをフォローする。実際好きだ。ツナサンドも嫌いじゃない。
「そう?」
なぜか照れてるように見える。言うまでもなく妄想に違いない。
「ありがとう、もらうよ」
「べ、別に。余ってたってだけだから」
「ありがとう」
なにやらツンデレっぽい発言だが、彼女が実際にツンデレだというわけではない。現実でそんなのいるわけない。
実際、好かれるようなことはやっていないのだ。
――が、嫌いな人間にすらサンドウィッチを分けるこの優しさ。心に傷を負ったタイミングでこんなことをされれば、当然、
「やばい、惚れる」
となる。
「は?」
「つらいときのやさしさは身に沁みる。結婚しよう」
「死ね」
とたんに不機嫌になった。屋上さんは扱いが難しい。現実でも選択肢がでれば、間違ったほうは選ばないのに。
「なぁ、屋上さん」
「なによ?」
「エロゲの主人公ってさ、バッドエンドの後、どんなふうに過ごしてるのかなぁ」
「……いや、知らないし。エロゲとか」
「だよなぁ」
現実は厳しい。
「食べないの? それ」
「食べる」
もさもさとサンドウィッチを口にする。ぴりぴりとした味が舌に広がった。調味料がききすぎてる。
「生きてんのつれー」
屋上さんはどうでもよさそうにフェンスの向こうを眺めていた。
その後屋上さんと恋について話をした。ちょっと思わせぶりに振舞うためだ。
「屋上さん、好きな人いる?」
「あんたには関係ないでしょ」
あっさり切り伏せられた。
その後、理由なく保健室に向かった。保健の赤嶺先生はいなかった。ちょっと期待してたのに。
教室に戻ると幼馴染が声をかけてきた。
「どこいってたの?」
「ナンパ」
「そ、そうなんだ……」
なぜだかショックを受けている。フラグかと思ってちょっと期待した。
が、俺だって幼馴染が逆ナンしてたら普通にショックだ。
深い意味がないだろうことに気付いて無意味に落ち込んだ。
席について妹の弁当を食べた。
美味かった。好きなおかずばかりだった。優しさと励ましが垣間見えた。
あいつが何か困っていたら全力で助けようと涙ながらに誓った。
でも冷食だった。そりゃそうだ。
気付けば午後の授業が終わってた。授業を聞いた記憶もない。当然、内容も何も覚えていなかった。
「……期末、近いんだぜ」
冗談めかして自分に言うと、声が震えていた。
「どうしよう」
周囲を見回すとサラマンダーもマエストロもいなかった。ぶっちゃけ二人以外仲のいい友人なんていない。
「孤独だ……」
世間の風にさらされる。
人間なんてひとりぼっちだ。
切なくなってドナドナを歌っていたら、うしろから声をかけられた。
「チェリー」
「チェリーっていうな」
うちのクラスでのあだ名の普及率は一日で100%(担任含む)。
「そんなに童貞がつらいか」
女子だった。
やたら下ネタ率が高い茶髪だ。
化粧が濃い。睫毛の盛りがホラー的である。
化粧を落とすと目がしょぼしょぼしてて眉毛がないに決まっている。
でもいい身体をしていた。
前にそれを言ったら数日間女子に無視された。
「無視するなよう!」と駄々をこねたら「きもかわいー」って許してもらった。おかげで大事なものを失った気がする。全面的に俺が悪いが。
「童貞は関係ないです」
冷静に言ったつもりだったが、現実には女子に下ネタ振られて童貞らしく動揺しているだけだ。
茶髪は俺の心の機微を意にも介さず話を続ける。
「ヤらせてやろうか」
情緒のない女だ。
「ぜひ」
でも童貞のセックスに情緒は必要ない。二秒で結論を出した。
幼馴染が心配そうにこっちを見ていた。睨み返す。裏切りものめ、と視線に乗せて送った。
幼馴染は見る見る落ち込んでいた。何やってんだ俺……。
「何やってんだおまえ」
「俺が知りたい」
本当に。
「まぁいいか。それで、いくら出す?」
「いくら、と申されますと?」
嫌な予感。
「諭吉さん」
「それ犯罪!」
「愛があれば金の有無なんてちっぽけな問題だから」
「……えー」
ドン引いた。「金の有無」の意味が違うだろう。
「冗談だよ、冗談」
煙草に酒に乱交までやってそうな茶髪が言うと冗談とは思えない。
「まぁ、童貞だからってそんな気にするなよ、童貞。別に童貞だからって犯罪ってわけじゃないしな。だろ、童貞」
茶髪が言うと、うしろで数人の女子がくすくす笑った。
屈辱。でもなんだか興奮する。
嘘だ。
「かくいう私も処女だしな」
「それも嘘だ」
思わず反論してしまった。
茶髪は気を悪くするでもなく気だるげに笑う。そのあたりが彼女の魅力だ。気だるげな、おとなのおねえさん的魅力。
「まぁ、あんまり落ち込むなよ、おまえが落ち込むと、あれだ。どっかで悲しむ奴がいるかも知れない」
茶髪になおと的な励ましをもらった。意外と神経質な性格だったりするのかも知れない。
普通に元気付けられてしまった。
「ありがとう茶髪、チロルチョコやるよ!」
「いや、チュッパチャップスあるし」
チロルチョコとチュッパチャップスの間にどのような互換性があるかは謎だが、どちらもチが二つ着いてる。
略すとチチだった。
チチ系フードと名づけた。
すぐに飽きた。
チョコを食べながら部室へ向かう。ポケットにしまおうとした銀紙が廊下に落ちて、通りすがりの保健の赤嶺先生に叱られた。
巨乳だった。
わざとじゃないんです、と言った。
そうなの? と聞かれた。
そうなんです、先生と話がしたくてげへへへへ、と言った。
あらそうなの、とさめた声で言われた。
赤嶺先生の脳内評価では、俺は鈴木以下だった。鈴木がどうというのではないが、男として劣っていると言われたみたいで悔しかった。
そのまま何事もなく先生と別れた。つくづく女性と縁がない。
部室についてすぐ、そんな不満を部長に言うと、彼女は呆れたようにため息をついた。
「あ、そうですか……」
正真正銘呆れている。
部長は三年で、今年で文芸部も引退。それを思うと少し切ない。
文芸部は部員数が二十数人の人気文化部で、基本的には茶飲み部だ。部室は第二理科実験室。
女子数はワープロ部に負けず劣らず多いが、男子率も比較的高い。
普段はお菓子を食べながら好き放題騒ぎまくり、年に一度の文化祭に文集を制作、展示する。
ちなみに、今年度の文集での俺の作品は「きつねのでんわボックス」の感想文だと既に決まっていた。顧問と部長に許可は取った。呆れられた。
「大変ですね」
部長は会話が終わるのを怖がるみたいに言葉を続けた。ちょっと幼い印象のする容姿の彼女は、面倒ごとを押し付けられやすい体質。
お祭り騒ぎが好きで面倒ごとが嫌いな文芸部の先輩がたは、お菓子を食べながらがやがや騒いでいる。
ちょっと内気そうな彼女が、パワフルな先輩たちに面倒な仕事を押し付けられたであろうことは想像にかたくない。
それを想像するとちょっと鬱になるので、部長が大の文芸好きで、文に関しては並ぶものがいないから部長になったのだという脳内エピソードまで作った。
すごくむなしい。一人遊戯王並にむなしい。
「部長、どうしたら女の人と付き合えますか?」
せっかくなので聞いてみる。部長は困ったように眉間を寄せて考える仕草をした。
「告白、とかどうです?」
清純な答えに圧倒された。同時に正論だった。
「部長、気付いたんですけど俺、好きな人いませんでした」
「どうして彼女が欲しいんですか?」
部長が心底不思議そうに首をかしげる。ぶっちゃけエロいことするためだが、そんなこと部長にいえるわけがない。
「愛のため?」
適当なことを言った。言ってからたいして間違ってないことに気付く。
「素敵ですね」
案外ウケがよかった。
その日の部活はつつがなく終わった。
家につくと妹が料理していた。
後ろから抱きしめた。もがかれた。そのうち大人しくなった。十分間じっとしていた。お互いの息遣いと時計の針の音だけが聞こえる。
背の低い妹の肩は俺の胸元にすっぽり収まる。妹のつむじに鼻先を寄せて触れさせた。息を吸い込むとシャンプーのいい匂いがする。
妹の肩が抵抗するみたいにびくりと震えた。それもすぐに収まる。目の前に妹の黒い髪が艶めいていた。
腕の力を強めると妹は足の力を少し抜いたみたいだった。自分の息遣いがいやに大きく聞こえる。
身体を密着させると妹の身体の細さと小ささがはっきりと分かった。服越しに感じるぬくもりに、なぜだか強く心を揺さぶられる。
目を瞑ると深い安心があった。腕の感触と鼻腔をくすぐる香りに集中する。妹の身体に触れている部分が、じわじわと熱を持ち始めた。
それと同時に焦燥のような感情が生まれる。罪悪感かも知れない。
俺は何をやってるのだろうと、ふと思った。
なぜか心臓がばくばくしていた。妹相手なのに。顔も熱い。
危ない雰囲気。これ以上はまずいだろうと思ってこちらから拘束を解除した。
俺を振り向いた妹の顔は、暑さのせいか少し赤らんで見えた。瞳が少し潤んでいるようにも見えた。多分それは錯覚。
直後、彼女が右手に包丁を握ったままだったことに気付いてさまざまな意味で戦慄した。
危ねえ。やばそうだと思ったら放せ。俺が言えたことじゃない。
「晩御飯抜き」
クールに言われる。後悔はない。
実際には既に準備をはじめていたらしく、食卓には俺の分の食器も並べられていた。
「愛してる」
「私も」
愛を語り合った。妹は棒読みだった。
夕飯のあと、部屋に戻ると幼馴染の顔が頭を過ぎった。
「やは」
ごまかし笑いが出た。
せっかくなので幼馴染がサッカー部のなんだかかっこいい先輩と別れて俺と付き合うことになる妄想をしてみた。
亡き女を想う、と書いて妄想。
なかなか上手く想像できず、妄想は途中で舞台設定を変えた。俺が延々「一回だけでいいから!」とエロいことを要求している妄想だ。
「じゃあ、一回……だけだよ?」
仕方なさそうに幼馴染が言う。よし、押して押して押し捲れば人生どうにでもなる。
幼馴染はじらすような緩慢な動きで衣服のボタンをひとつひとつはずしていった。指定シャツの前ボタンをはずし終える。
彼女はそれを脱ぎ切るより先にスカートのジッパーを下ろした。
できればスカートは履いたまま、上半身だけ裸なのが理想だったが、そんな男の妄想が女に通用するわけもなかった。
下着だけの姿になった幼馴染が俺の前に立つ。明らかに育っていた。子供の頃とは違う。女の身体だった。
「……ねえ、あの、あんまり、見ないでほしい」
顔を真っ赤にして呟く。俺は痛いほど勃起していた。
彼女は俺がひどく緊張していることに気付くと、蟲惑的な、からかうような、見下すような微笑をたたえる。
ベッドに仰向けになった俺に、彼女が覆いかぶさった。主導権が握られたことは明白だ。
「心配、ないから。ぜんぶまかせて……」
俺は身動きも取れないまま幼馴染のされるがままになる。気付けば上半身はすべて脱がされていた。
体重が後ろ手にかかっている上に、シャツが手首のところまでしか脱げていないので、手が動かせなくなった。
彼女は淫靡な手つきで俺の身体に指先を這わせた。彼女に触れられたところがじんじんとした熱を持つ。
それは首筋、胸元、わき腹、臍を静かに通過して下半身へと至った。
一連の行為ですっかり反応した俺の下半身に、ズボンの上から彼女の指が触れる。びくびくと中のものが跳ねた。
圧倒的だった。
圧倒的、淫靡だった。
ズボンの留め具がはずされ、制服のチャックが下ろされていく。途方もなく長い時間そうされている気がした。
その間ずっと、俺は幼馴染の熱い吐息に耳を撫でられ続けているような気分だった。
見られる、と思うと、とたんに抵抗したい気持ちになった。それなのになぜか、早く脱がしきって欲しいとも思っていた。
少女に脱がされるという倒錯的な感覚も相まって、頭がぼんやりして息苦しくなるほど快感が高まっていく。
胸の内側で心臓が強く脈動している。破裂する、と比喩じゃなく思った。
「あはっ……」
ズボンが太腿のあたりまで下ろされると、トランクスの中で脈打つ性器の形が幼馴染に観察されるような錯覚がした。
「脱がすよ……?」
答える暇もなく、彼女は手を動かす。脱がされるとき、彼女の指先が皮膚をなぞって、そのたびゾクゾクとした快感を身体に残した。
貧血になりそうなほど、血液が下半身に集中している。
「……かわいい、ね」
――何かが決定的に間違っていた。
でも勃起していた。勃起しているんだから、まぁ、間違っていようとしかたない。
幼馴染の視線をなぞって、ようやく違和感の正体に気付いた。
妄想の中の例のアレは、なぜだか包茎だった。
しかも早漏であろうことがすぐに分かった。
でもよくよく考えたら現実でも早漏だった。
ので、変なのは包茎だけだ。
幼馴染は俺の腰のあたりに顔を近付けて、じろじろと観察した。
あまつさえくんくん臭いまで嗅いでいた。
「へんなかたち。先輩のとちがう……」
先輩は剥けてるらしい。
知りたくない情報だった。
寝取ってるはずなのに寝取られてる感じがする。
「ね、なんでこんなに皮があまってるの?」
無垢っぽく訊きながら、彼女が人差し指でつんつん突付く。思わずあうあうよがる。
「変な声だしてる。かわいい」
言いながらも彼女は手を止めない。
「ね、なんか出てきてるよ?」
彼女の言葉にどんどんと性感を刺激される。
ソフトながらも言葉責めだった。
まさか先輩がソフトエムなのではなかろうな、と邪推する。
「きもちいーんだ?」
照れた顔で微笑んで、手を筒状に丸めアレをゆっくりと焦らすように擦る。
「やば、い……って!」
すぐ限界がきそうになる。ゆっくりなのに。
童貞早漏の面目躍如だ。ぜんぜん誇らしくない。
「すぐ出しちゃうのは、もったいないよね」
幼馴染は手を止めて荒い息をする俺の表情を見て、恍惚とした表情を浮かべた。今の彼女はメスの顔をしている。
「ね。……入れたい?」
熱っぽい顔で幼馴染が言う。意識が飛びそうだった。答えは決まっていたが、俺は息を整えるのに必死で何も言えなかった。
「黙ってちゃ分からないよ?」
どう考えても黙ってても分かっていた。いつの間にこんな魔法を覚えやがったのか。
砂場の泥で顔を汚していた幼馴染はどこへ言ったのだろう。
俺が少ない小遣いで買ってあげた安っぽい玩具の指輪はどうしたのだろう。
いつの間に――こんなに歳をとったのだろう。
「……あんまりいじめるのもかわいそうだし、ね」
彼女は下着をはずし、俺の下半身に腰を近付けた。体温が触れ合う。奇妙な感じがした。でも不満はなかった。
しいていうなら、おっぱいさわってねーや、と思った。腕が動かないので触れない。
仕方ないのでじっと見つめていると、しょうがないなぁ、と言うみたいに、彼女が俺の頭を抱え込んで胸元に招きよせた。
いい匂いがした。近くで見ると彼女の肌は精巧な硝子細工みたいになめらかで綺麗だった。何のくすみもない。恐ろしく美しかった。
でも、体勢がつらそうだな、と思った。
「じゃあ、いくよ?」
いよいよだ。やっと……遂に……俺も、童貞じゃなくなるんだ。
さらば青春。美しかった日々。さようならサラマンダー。さようならマエストロ。俺は一足先に大人の階段を登る。
そして、今までつらい思いをさせてきて悪かったな、相棒。
なあに、たいしたことじゃないさ、と相棒が彼女のお尻の下で応えた。
彼女がゆっくりと腰を下ろしていく。足を両脇に開いた姿がよく見えて、その姿だけで俺は一生オカズに困らない気がした。
そんなことを思っていたら、もうすぐ秘部同士が触れ合いそうだった。何か、余韻のようなものがあった。
これで、俺の人生はひとつの区切りを迎えるのだ。そう考えると、不意に何かを遣り残しているような気分になった。
喪失の気配。もうすぐ何かを失うような、そんな気配。
本当に良いのか? と頭の中で誰かが言った。
幼馴染とこんなふうにして。何もかもうやむやなまま。彼女には恋人がいて、でも俺は童貞だった。
童貞だから仕方ない、と誰かが言った。まぁ、そんなものかもしれないな。童貞だし。
なんだかとても、悲しかった。
――そのとき、不意に後ろから声がした。
「……おい、時間だ。そろそろ起きろよ、相棒」
下の方の相棒じゃなかった。
どう考えてもなおと(目覚まし)の声だった。
――やっぱり邪魔しやがったか。
そこで俺の妄想は途切れた。
「なおとおおおおおおお――――!!!」
我に返った俺はひとまずなおとに対して攻撃を放った。
「右ストレート! 右ストレート!」
技名だ。内容的には左フックだった。
「あとちょっとで! あとちょっとで!」
たぶん俺は一生なおとを恨むに違いない。他方、感謝もしていた。あのまま妄想が続いていたら後悔していただろう。
幼馴染を妄想の中で慰み者にするなんて、男の風上に置けない。童貞の風上には置ける。
その後、部屋の隅でインテリアとなっていたアコースティックギターを抱えて「悲しくてやりきれない」を弾き語った。
空しさだけが残った。
アウトロに入った頃、妹が部屋のドアを開けた。
「お風呂入らないの?」
「一緒に?」
「入りたいの?」
「入りたいよ?」
兄として当然の答えだった。それに対する返事もまた、
「ありえないから」
妹として当然の答えだった。
風呂に入った後、布団に潜り込んだ。ちょっと涙が出た。もう幼馴染なんて知らない。
さっきの妄想を思い出すと勃起した。死にたい。
寝付けなかったので深夜二時に台所にいって冷蔵庫の中の麦茶を飲んだ。作ったのは妹。
幼馴染がハイスペックなように、うちの妹もハイスペックだ。
そんな妹も、いずれは他の男の女になる。
むなしい。
目にいれても痛くないのに。
せめて悪い虫がつかないでくれと祈るばかりだ。
麦茶を一杯飲むと妙に頭が冴えた。
コップの中身を飲み干してから溜息をつく。
「……彼女、欲しいなぁ」
むなしさばかりの夜。
五分後、布団にくるまってゆっくり眠った。
その日、変な夢を見た。
夢の中ではなおと(目覚まし)が擬人化していた。
「なぁ、なおと……どうやったら、童貞卒業できるのかな」
真剣な悩みだった。
なおとはダンディに答える。
「……恋、しちゃえばええんちゃう?」
夢の中のなおとはエセ関西弁だった。
「っていっても……好きな人とか、いないし」
「ちょっと気になる子とか、おらんのん?」
本当にこれ関西弁か? と疑問に思った。
「気になる子……」
俺は仲の良い何人かの女子の顔を思い浮かべた。
幼馴染(彼氏持ち)。屋上さん(嫌われている)。茶髪(化粧すごい)。部長(距離がある)。妹(血縁)。
「いや、妹はナシだろう」
自己ツッコミ。
「それをナシにしても障害ありすぎだろ……」
「たとえば?」
なおとは標準語のイントネーションで訊ねた。
「彼氏とか、嫌われてたりとか、ろくに話したことなかったりとか……」
目覚まし時計が呆れたように溜息を吐く。
「なんだよ?」
ちょっと不服に思って問い返すと、なおとは静かに答えた。
「障害くらい、なんだっていうんだ。ちょっとくらいの壁、乗り越えろ。男だろ」
ダンディだった。
こんな男になりたい、と真剣に思った。
目覚まし時計に諭されてるあたり、自分が本気で情けなくなる。
「恋人がいるくらいなんだ! 本気で好きなら寝取れ! 『遠くから彼女の幸せを祈ってる』なんて馬鹿な言い訳はやめろ!
好きでもない男に幸せを祈られてるとか女からしたら気持ち悪いだけだ! 好きなら彼氏がいようと直球でいけ!
『彼女が幸せならそれでいい』とかな、自分に酔ってるだけ! 気持ち悪いんだよ!
女なんてラーメン屋と一緒だ! いい店なら客がいて当たり前なんだよ! 彼氏のいないイイ女なんているわけねえだろ!
分かったら電話をかけろ! 話しかけろ! 家まで押しかけろ! しつこく声をかけ続けろ! 嫌になるまで諦めるな!」
「……なおと」
最初の方には感銘を受けかけたが、最後の方は普通にストーカー理論だった。
あと途中でうちの妹さまに対する悪口が聞こえた気がする。
あえて彼氏を作らない、そんないい女だっていると思います。
「ろくに話したことがない!? だったら話しかければいいだろうが! 仲良くなればいいだろうが! 自分の臆病を棚にあげて何が障害だ!
おまえが少し勇気を出せば変わる問題じゃねえかよ! 嫌われたくない? 馬鹿にすんな! 相手にされないくらいなら嫌われた方がマシだ!
嫌われたらなんだよ! 嫌われたらおまえは生きていけないのか? 人間なんて生きてれば理由があろうとなかろうと嫌われるもんなんだよ!
話しかけられないなんていう臆病な言い訳は実際に嫌われてから言え!」
「いや、実際に嫌われてたりするんだけど」
屋上さんとか隣席の眼鏡っ子を思い出す。
どう考えても嫌われていた。
「おまえはその子の心が読めたりするのか?」
「え?」
「あのな、自分が好かれていると思うのが勘違いなように、自分が嫌われていると感じるのも思い込みなんだよ」
「そんなこと言われても……」
実際に言われたわけだし。
「素直になれないだけかもしんないじゃん! ツンデレかもしんないじゃん! 勝手に判断すんなよ!『俺のこと嫌い?』って真顔で聞いてみろよ!」
「できるかそんなこと!」
「このヘタレめ!」
もう意味が分からなかった。
面倒になったので右ストレートを発動してなおとを黙らせた。
つづく
翌朝、夢から覚めたときには、前日の憂鬱も忘れていた。
「お兄ちゃん、起きて」
時々兄に対して絶対零度の視線を向ける妹ではあったが、基本的に兄に対する呼称は「お兄ちゃん」だった。
いい妹なのだ。ときどき起こしに来る。そうして欲しくて、わざと起きていかないこともある。
見抜かれて放置される。遅刻する。
しかし、今日は目覚ましが鳴った記憶がなかった。
「……なおとは?」
「自分で止めたんでしょ」
妹の視線の先でなおとが物寂しげに床に転がっていた。
「悪かったよ、なおと……」
「目覚ましに話しかけないでよ……」
妹さまの呆れ声から、一日がはじまった。
MP3プレイヤーで「人として軸がぶれている」を聴きながら登校する。
二番目のサビに入ったところで夢の中の出来事を思い出した。
しょうがない。恋をしよう。新しい何かを始めてみよう。
サビを聴いてテンションがあがった。何かを変えようとするにはちょうどいい。イヤホンをはずした。
学校につき、教室に入ると同時に両手を挙げて叫ぶ。
「ハローワールド!」
教室を間違えていた。違うクラスだった。
なんだこの人、という視線が突き刺さる。
明らかに頭がアレな人だと思われていた。
なぜ夏にもなって教室を間違えるのか、疑問だ。
ちゃんと自分の教室にたどり着くと、今日もマエストロが俺の席で薄い本を読んでいた。
なんだかんだでマエストロとサラマンダーの二人とは三年以上の付き合いになる。
そう考える感慨深いものがあった。でも三人とも童貞。
「何読んでるの?」
一昨日の例があるので、下手に刺激すれば乱心しかねないと思い、普通に話しかける。
「ん」
言いながらマエストロが本の表紙をこちらに向ける。
月刊青年誌で連載中のむしろ成年誌でやれと言いたくなる人気漫画のヒロインが表紙だった。
ひらりと浮き上がったスカートの下にいちご柄の子供っぽいパンツに包まれたお尻が見えていた。
家事万能の妹キャラ。
好きなキャラ。
俺は今怒ってもいい、と思った。
「……あてつけか? ひょっとしてなんかのあてつけなのか? 俺の好きなキャラだと知っていてそのような暴挙に出ておられる?
これは宣戦布告なのか? おまえの好きな委員長キャラの同人誌をおまえがいない時間帯に自宅に送るぞコラ」
「……え、なんでそんなに怒ってんの?」
なぜかどうでもいいキャラのエロに関しては寛容な俺たちだった。
好きなキャラのエロに関しては場合による。
個人として鑑賞する分にはいい(駄目なときもある)。
どうでもいいキャラはどうでもいい。
エロ担当として別のキャラがいたりもする。
そもそも原作がエロチックな内容の漫画なので、俺の理屈の方が間違っているのは明白だ。
元ネタからしてエロなのに、エロがアウトとかエゴにもほどがある。
が、友人が読んでるのは嫌だった。
「おまえそれ売ってくれない?」
交渉に出る。マエストロの細い目がぎらりと光った。
「高いぞ?」
今月の小遣いが半分になった。
「つか、買ったはいいものの本編の方がエロいからあんまり使えなかったんだけどな」
「使うとか言うな」
いつだって現実は残酷なほど正直だった。
授業前のホームルームで担任のちびっ子先生が言った。
「持ち物検査をします」
うちの妹と同じくらいちっこい先生は、いわゆるロリババア。
ツンデレくらいありえない存在だが、いるものは仕方ない。
歳を重ねた分だけ世間擦れはしていた。
口がめちゃくちゃ悪い。息がコーヒー臭い。酒が好き。
やはり現実だった。
教壇の上でだるそうに溜息をつく担任に、サラマンダーが冷静に訊ねる。
「なんで?」
先生は答えるのも面倒とでもいうみたいに眉間に皺を寄せてから、しっかりと理由を話した。基本的に話の通じる教師だ。
「なんかね、煙草吸ってたんだって。あんたらの先輩。あの、四階の、あんま使われてないトイレあるでしょ。あそこで」
とばっちりだった。見つからないようにやって欲しい。
「私は煙草くらいいいと思うんだけどね。むしろ年寄りとか積極的に吸えよ。長生きしてどうすんだ」
ありがたい訓辞だった。基本的に話は通じるが、少し人の都合を省みないところがある。
でもまぁ、みんなそんなもんだな、と思い返して納得した。
「どこもかしこも嫌煙ムードでさ。やんなっちゃうよ。副流煙がどうとかさ、どう考えても言いがかりじゃん。ふざけんなっつう。
どこ行っても肩身狭くて。値上がりまでするし。金払ってるっつーの。税金払ってるっつーの。権利あるっつーの。健康そんなに大事か?
パチンコのCMですら煙草ダメみたいなのやってるじゃん。なんなのアレ? それ以前にそもそもあそこは不潔だろうが。システムからして」
一方的な言い草だったが、正直そのあたりのことはよく知らない。先生がそこまで煙草にこだわる理由も分からなかった。
「んなわけで。持ち物検査します」
職権濫用だった。
たぶんPTAに訴えれば責任問題にできる。モンスタースチューデント。世間は世知辛い方向へと進歩していく。
とはいえ、拒否するのはやましいものがある奴だけだ。
「おいチェリー」
「チェリーって呼ばないでください」
「悪かった。チェリー、おまえこれどうした」
好きなヒロインがスカートを翻してぱんつをこちらにみせつけていた。
圧倒的ピンチ。
サラマンダーが声を出さず笑っている。
マエストロが俺から目をそらした。
幼馴染が怪訝そうにこちらを見ている。
茶髪が斜め後ろで興味なさそうに頬杖をついていた。
困った。
「実は、マエストロに預かってくれと頼まれて……」
俺は友人を売ることにした。既に支払った小遣いは痛かったが、マエストロに責任を押し付けられる。犠牲は多いが勝利は近かった。
「ホントか?」
「いや、俺そんなことしてないっす」
「してないそうだが」
マエストロがあまりに冷静に言ったので俺が嘘をついたような雰囲気になった。
ていうか実際嘘だった。圧倒的不利に陥る。
「実はそれ、プレゼントなんです」
「へえ。誰への?」
「入院してる親戚がいるんです。そいつ、思春期なのにろくにエロ本も読んだことなくて……思わず憐れに思って、読ませてやろうと。今日の帰り病院に寄る予定だったんです」
適当なことを言った。
「そりゃいいことだな」
ちびっ子先生が感心している。茶髪がニヤニヤしていた。幼馴染が何かに気付いたみたいにさっと視線を下ろした。
「でも、おまえが持っていいもんじゃないから」
煙草には寛容なちびっ子先生は、エロには寛容ではなかった。
「あとで職員室に取りに来い。な? 今なら父ちゃんのエロ本を間違えて持ってきたことにしといてやろう」
「すみません。それ父ちゃんのエロ本でした」
俺は父を売った。
茶髪とサラマンダーがこらえきれず笑い始めていた。
「おまえの父ちゃん……こんなの読むのか」
先生が心底同情するように言った。三者面談は母に来てもらおう。
ちびっ子は俺の席を離れて次々と他の人間の持ち物を確認していった。
やがて彼女はひとりの男子の席で足を止めた。
「……なんでライター?」
「ゲーセンの景品で取ったんです」
キンピラくんだった。
茶髪ピアスの痩身イケメンで、微妙に不良っぽい雰囲気がある。
彼のあだ名の由来はサラマンダーだった。
初めて彼と接したとき、
「うぜえ、近寄んじゃねえよ」
と冷たくあしらわれて、その態度の悪さからサラマンダーが、
「ああいうのなんていうんだっけ? キンピラ?」
と言い間違えたのが由来となった。
多分チンピラと言い間違えたのだと思うが、さらに正確にはヤンキーと言いたかったに違いない。ありがちだ。
キンピラくんはさして居心地悪そうでもなく、ライターを持ってることを悪いとは思っていないみたいだった。
というか、ライター持ってるくらい別に悪くない気もする。
「煙草吸うの?」
「吸わねえっす」
キンピラくんは基本的に正直者だ。
「ホントに? なんでライター持ってんの?」
彼は小さく舌打ちをした。
「今舌打ちしたね?」
「してねえっす」
「しただろ」
「してねえって」
「したって言えよ」
「しました」
キンピラくんは基本的に正直者だ。
「で、煙草吸うの?」
「吸わないっす」
「吸ったんだろ? 正直に言えよ。私も隠れて吸ってたよ。授業サボって屋上で吸ってたよ」
学生時代から今のままの性格をしていたらしかった。
「吸ってねえんだって」
「嘘つけよ。じゃあ何でライター持ってるんだよ」
「……」
「何とか言えよ」
先生の言葉には困ったような響きが篭っていた。
「……ぶっちゃけ」
キンピラくんは静かに話し始めた。
「金属性のオイルライターってなんかいいかな、って思って……」
クラス中が静寂に包まれた。
「……煙草は吸わないのね?」
「はい。吸わないです」
彼は基本的に正直者だ。
そんなふうに持ち物検査は終わった。
昼休みに屋上に行く。
あたりまえのような顔をして屋上さんがコーヒー牛乳を啜っていた。
場所を変えようかと思ったが、どうせいるかも知れないことを承知できたのだ。こちらが変えてやる理由もない。
俺は彼女が苦手だが、彼女と話すのは嫌いではなかった。
「また来たんだ」
屋上さんは困ったような顔をして俺を迎えた。強く拒絶されることはない。
最初の頃は来るだけでも冷たい視線を向けられたが、今となっては彼女の方もだいぶ慣れたらしかった。
屋上さんに近付く。
「人、多いね」
普段はろくに人がいないのに、今日は屋上で食事を摂る人間が多いようだった。
「たまにある。こういうことも」
屋上さんは周囲を気にするでもなく言う。人ごみの中にあっても、彼女が孤高であるということは揺るがない。
彼女がひとりでいることと、周囲に人間がいることは無関係なのだ。
「このくらい騒がしい方、逆に落ち着くでしょ」
そうだろうか。俺は人が多すぎると落ち着かない。
「で、なんで私の隣に座るわけ?」
「一緒にお昼食べようと思って」
「……まぁ、いいけどさ」
最初の頃と比べれば格段の進歩と言える。
とはいえ彼女が不躾なほど威圧的な視線を見せることはまだある。
俺が何か言わなくていいことを言ったときとか、何か気に入らないことがあったときとか、あるいは理由なんて想像もできないこともある。
いずれにせよ屋上さんは俺に対してなんら執着を持つことがないようだった。
いたらいたでいいし、いないならいないでいい。どちらでもかまわない。不快になってもまあ仕方ない、という考えでいるようだった。
「今日はおべんとあるんだ」
屋上さんが静かに言う。甘ったるそうな菓子パンをかじりながら、彼女はフェンスの向こうを眺めていた。サンドウィッチじゃないんだ。
「忘れてこなかったから」
包みを開けて食事をはじめる。屋上さんはそれに目もくれず一心にフェンスの向こうを睨んでいた。
「何かあるの?」
「何が?」
「フェンスの向こう」
「ツバメが飛んでる」
「ツバメ」
正直、空を飛んでいる鳥なんて鴉もツバメも同じに見える。
「ツバメは空を飛べていいなぁ」
屋上さんがぼんやり言う。
何かを言おうとしてから、何をどういうべきかを考えたけれど、今のタイミングで絶対に言わなければならない言葉なんてないように思えた。
とりあえず適当なことを言ってみた。
「人間だって飛べるでしょう」
「飛行機で?」
「ヘリコプターとかね」
屋上さんがくすくす笑う。何がおかしかったのかはまるで分からない。
彼女の笑い声に呼応するみたいに、少し強い風が屋上を吹きぬけた。髪がなびく。
「屋上さん」
「なに?」
「立ってるとパンツ見えそう」
「見えないから大丈夫」
「ねえ。スカートの下にハーフパンツとか履けば見えないよね。実は見て欲しいとか?」
「いっぺん死ね」
「屋上さん、俺のこと嫌い?」
なおとに言われたことを実践してみた。口に出してから、少し卑怯だったかもしれないと思う。
屋上さんは少し困ったような顔をしてから、ためらいがちに口を開いた。
「別に嫌いじゃないけど、セクハラはうざい」
案外、悪印象はなかったようだ。
今後セクハラしないように気をつけよう、と思った。
「あ、今パンツ見えた」
「いっぺん死ね」
本能はいつだって俺の身体を支配してしまう。
屋上さんと和やかな昼を過ごした。
放課後、部室に向かう途中で部長と遭遇した。
部長とどうでもいい話をしながら部室へ向かう。
「部長は、進学ですか? 就職ですか?」
「進学です」
「大学ですか」
「大学です」
「なんていうか、進路の話をしてると、怖くなってくるんですよね。焦燥感?」
「分かります」
「たとえば、中三の夏休みくらいから、模試とか夏季講習とか受ける奴増えるじゃないですか」
「増えますね」
「で、ずっと成績で負けたことなかった奴相手に、休み明けのテストでめちゃくちゃ引き離されたりして」
「そうなんですか?」
「そうなんです。夏休み中遊び倒してたから。あのときくらいの焦燥感ですね、進路の話をするときの心境っていうのは」
「よく分かりません」
部長は真面目で堅実な中学時代を過ごしたのだろう。
「あとは、そうだな。将来のこと何も考えてなさそうな奴が、「建築関係の仕事につきたい」って立派な希望を持ってるって知ったときとか」
サラマンダーがそう語ったとき、盛り上がるマエストロを横目に、俺はひとり硬直していた。
「あ、こいつもこんなこと考えてたんだ、っていう。俺なんも考えてないし、何もないや、っていう。分かります?」
「……分かる気がします」
「なんというか、置いてけぼりにされてく気分。こういうの、心細さっていうんですかね?」
どうでもいい話はそこで途切れた。沈黙が徐々に空気を凍らせていった。
部長は、部室につくまでずっと黙ったままだった。
部活を終えて家に帰ると、台所で妹が立ち尽くしていた。
「どうした?」
良い兄っぽく訊ねる。
「……ご飯炊き忘れてた」
数秒声が出なかった。天変地異の前触れか。
「ごめんなさい」
しゅんと落ち込んだ妹に、罪悪感がこみ上げてくる。
実際、家事を全面的に押し付けていたわけだし、今までミスがなかった方が不思議だったのだ。
少しの失敗くらい誰でもする。主婦でもする。中学生で家事をこなせるだけでもすごいのに、完璧まで目指さなくてもいいのに。
だのに、ちょっとのミスで妹はひどく落ち込む。
妹は落ち着かなさそうに自分のうなじを撫でながら目を伏せていた。
「今日は外食にするか」
誰でも思いつきそうな解決案を口にする。
妹の顔は晴れなかった。
「俺が奢るから」
「ほんと?」
冗談のつもりで言ったが、思ったとおりの答えは帰ってこなかった。
「むしろ、妹に払わせるつもりだったの?」
……という感じの答えを期待していたのだが。
たったひとつのミスが、妹には致命的なダメージを与えるらしい。
そんなに完璧を目指さなくてもいいのに。
気負いすぎるのがうちの妹のダメな部分だ。
それはいいところとも言えるのだけれど。
兄としてはもうちょっと甘えて欲しいし、あんまり思いつめすぎないで欲しいし、たまには逆ギレしてもいいのに、と思う。
「ファミレスでいいか?」
一番近場だし、という言葉はかろうじて飲み込む。安いし近いしそこそこ美味い。
妹は小さく頷いた。
玄関を出て、二人肩を並べて歩く。まだ少し早い時間だが、あのまま家にいても落ち着かないだろう。
なんだかアンニュイな雰囲気。
歩きながら妹は、気のせいかと聞き逃しそうになるほど小さな声で謝った。
何を謝ることがあるんだと言ってやりたかったが、そんなことを言っても妹は喜ばないし、いつもの調子を取り戻さないだろう。
いいよ、と軽く答えた。なんとなく、自分の態度に苛立つ。何をえらそうにやってるんだ。おまえが家事をやれ。
なんだって、わざわざ家事を引き受けてくれている妹がダメージを食らうことがあるのか。
俺の態度が悪いのかも知れないな、とふと思った。
文句のひとつでも言ってやれば、「じゃあアンタがやればいいでしょ!」と逆ギレしてくれるかも知れない。
それはそれで、お互いストレスがたまりそうだ。
良い兄であろうとするのも考え物かも知れない。基本的にはダメ兄なわけだし。
「家事、手伝ってほしいときは言ってくれていいから」
一応、そう伝えておく。そっけなくならないように細心の注意を払って。
別におまえの仕事に不満があるわけじゃないぞ、と言外に想いを込めて。
「……うん」
落胆した様子のまま、妹は小さく頷いた。これ以上は何を言っても逆効果だろう。
ちょっとくらいのミスがあっても、今の時点で充分すぎるくらいがんばっているのに。
自分のいいところって、見えないのかもしれない。
一通りの家事をこなせるようになってから、妹は家事のすべてを自分ひとりでやりたがった。
最後には家事を仕込んだ側の俺が折れて、妹に全部を任せるようになったけれど、やっぱり分担は必要だったと思う。
お互い、とるべき距離を測りかねているのかもしれない。
両親は仕事で忙しくて、帰ってくるのはいつも夜遅くだから。
俺たちがそこそこ成長したからか、最近ではろくに帰ってこないこともある。
でもやっぱり、俺たちはまだ子供なのだ。
どうしたものか。
考えながら歩いていると、すぐにファミレスにつく。徒歩十分。奇跡的な立地。
「何名様で」
「二名です」
「禁煙席喫煙席ございますがどち」
「禁煙席で」
日本人は相手の言葉を最後まで聞かずにかぶせるように返事をすることが多い。
というか、見るからに学生なのに喫煙席を選択肢に入れるな。
禁煙席を見渡してから少し後悔する。平日の夕方は、学生たちで賑わっている。
騒がしい。
空いている席につく。ちょうど後ろに騒がしい集団がいた。どいつもこいつも茶髪。なんで染めるんだろう、と思う。
お洒落感覚? ちょっと理解できない。明らかに似合ってないのに。派手な化粧も着飾った服もバッグだけシックなところとか。
要するに見栄っ張りなのかも知れないな、と考えてから、自分が異様にイライラしていることに気付く。
妹が心配そうにこちらを見ていた。
それには反応せずに問いかける。
「何にする?」
メニュー表を眺めながら、意識は別のところを飛んでいた。
騒がしい場所に来ると、自分の存在が希薄になっていくような気がしてすごくいやなのだ。
店員が水を持ってくる。テーブルの脇に置かれたそれに手を伸ばして口をつけた。水は好きだ。
飲み込んだ瞬間、後ろの席でどっと笑い声が沸く。
楽しそうで結構なことだ。
メニューを決めて呼び出しボタンを押す。天井脇のパネルに赤いデジタル文字が点灯するのが位置的によく見えた。
注文を終えて溜息をつくと同時に、店内の雑音にまぎれて俺の耳に届く声があった。
「先輩?」
脇を見ると中学時代の後輩がいた。妹が慌てて挨拶をする。俺の後輩であると同時に妹の先輩でもある。
「中学生がこんな時間まで何をしているのか」
後輩は困ったように笑った。
「今から帰るとこス」
「五時のサイレンが鳴ったら帰るようにしろよ。誘拐されるぞ」
「いや先輩、このあたりサイレン聞こえないって」
「じゃあ携帯くらい見ればいい」
「鳴らない携帯なんて持ち歩かないし」
「鳴らないの?」
「やー、あの。先輩、あれだ。私ぼっち」
「ああ、だもんな、おまえ」
後輩の顔を見るのは卒業以来だった。特に付き合いがあったわけではないけど、見かけたら話す程度の仲。
幼馴染を介して知り合ったのだが、仲が良くなってからはむしろ幼馴染より長い時間一緒にいたかもしれない。
別に暗いわけでも話していて退屈というわけでもない。親しい人間が少ないのは、耳につけたイヤホンをなかなか外さないから話しかけづらいのだろう。
それさえなければ友達なんて嫌というほどできるだろうに。
孤立しているというわけではないようで、それならまぁ、好き好きかとも思えるのだけど。
「妹ちゃんとお食事ですか」
「デートっス」
「デートっスか」
「違います」
妹があっさり否定する。あまりにも月並みなやりとりだ。
「ドリンクバーのクーポンあるけど。先輩使う?」
「いや、持ってるから」
ですよね。後輩はからから笑った。ポケットからイヤホンを取り出してつける準備をする。
「んじゃ、私行くんで。また。じゃあね、妹ちゃん」
後姿で妹の返事を受け取りながら、彼女はスタイリッシュに去っていった。
「相変わらず、かっこいい先輩ですよね」
と、妹が言う。
「スタイリッシュなんだ」
「スタイリッシュ」
一瞬、妹は硬直した。これ以上ないというほど似合う言葉。あまりに似合いすぎるので、なんだか笑ってしまう。
「あいつ、趣味はベース」
「スタイリッシュだ」
笑いながら妹が何度も頷く。ベースを弾く後輩の姿を想像するとあまりに似合う。
「インディーズのロックバンドとか超好き」
「スタイリッシュ」
そもそもヘッドホンが似合う。肩までの短くてストレートな髪。整った顔立ち。それなのに少し小柄な体格。
可愛く見える容姿なのに、鋭い雰囲気を持っていて、クールともかっこいいとも微妙に違う、スタイリッシュな感じを作っている。
「洋楽とかめっちゃ聴く。邦楽も嫌いじゃない。というか、ちっちゃい頃じいちゃんに演歌やらされてたんだって」
「意外……」
「だから歌が上手い」
「へえ……」
後輩の話をするとき、俺はやけに饒舌になった。たぶん、彼女のことが好きだからだろう。恋愛とは別に、人間として。
俺が長々と続ける後輩の話に、妹は普通に感心していた。
どこか大人のような雰囲気を持つ後輩。
ザ・スタイリッシュ。やることなすことなんだかスタイリッシュ。やたら大人びている。そんな後輩。一緒にいると退屈しない。
独特の空気を持っていて、同じ場所にいると俗世とは縁遠い場所にいる気分になる。
あと、ときどき「森のくまさん」を鼻歌で歌う。スタイリッシュな表情で。からかっても照れない。手ごわい。
甘いものが好きで、いつもポケットに忍ばせている。
姉と妹がひとりずついる。面倒見がいい。頼られ体質。
「姉って何歳の?」
「たしか、俺と同い年だったはず」
「同じ学校かもね」
「ないない。そんな偶然ない。あったらおまえと結婚する」
「その冗談、意味分からないから」
ひとしきり話題を消化しきった頃、愛想の悪いウェイトレスが注文した品を届けにきた。悪くない味だった。
帰路の途中で、いつのまにかイライラがなくなっていたことに気付いた。
後輩恐るべし。
彼女の持つ謎の癒しパワーはいずれ軍用化されかねない。
家に帰ってからリビングのソファに座って妹と『2001年宇宙の旅』を鑑賞した。
冒頭から意味不明の映画だ。なぜだか数十分間(ひょっとしたら数分かも知れないが、体感時間的には数十分間)猿の闘争を見せられる。
やがて舞台は古代から現代を通り越し近未来へ。この時点で謎は深まるばかりだ。さっきの猿はなんだったのよ。
話は静かに進んでいく。宇宙船(厳密には違うかも知れないが、素人から見るとそのようなもの)の中で音もなく進む話。
やがて人類の月面基地へ。ちなみに舞台設定、時代背景の一切は説明されない。予備知識なしで見たらぽかんとすること請け合いだ。
この映画のすごいところはいくつか挙げられる。
全編を通して音による演出がほとんどないこと。台詞すらも極端に少ない。そのおかげで眠くなる。
映像による演出が凝っていること。これそんなに必要か? というシーンにやたら長い尺を取っている。そのおかげで眠くなる。
にもかかわらずSFファンには高い評価を得ていること。理解ができないので眠くなる。
以前サラマンダーとマエストロに見てみろと薦めたことがある。DVDを貸した。翌日、変な顔で返された。子供には理解できない世界。俺も理解できない。
正直に言うと、この映画を最後まで見れたことがなかった。
今日こそは、と意気込んでみても、眠い。がんばってもラスト十分で眠ってしまう。
妹は開始三十分で眠っていた。肩に頭が乗せられる。もやもやする。気分が。いろんな意味で。
仕方ないので眠気を振り払って身体を起こす。妹がぼんやりとした表情で何度もまばたきしていた。
DVDを入れ替えて『バック・トゥー・ザ・フューチャー』をかける。
テンポよく進む話。先が読めるのに面白い演出。ちょっとした感動と少しのせつなさ。少しだけブラックなラスト近くの展開。
掻き鳴らされるギター。若さゆえの暴走。軽蔑。友情・努力・勝利。愛と未来への不安。まさに青春。
でも妹は開始三十分で寝た。たぶん疲れているのだろう。
スタッフロールを最後まで見ずにDVDをしまい、妹を起こした。
「風呂入らないのか?」
紳士に訊ねる。
「……一緒に?」
「は?」
なんか言ってる。
なんばいいよっとねこの子は。
思わず硬直した。
何拍かおいてから、妹は正常な意識を取り戻したようだった。
「待て。今のナシ。ナシだ」
彼女の口調は唐突に荒くなった。二重の意味で硬直する。凍結の重ね掛け。
お互い何も言えずに数秒が経過する。
しばらくしてから、妹は何かをごまかそうとするみたいに口を開いた。
「……お風呂入ってくる」
「いってらっしゃい」
仲がいいのも考え物だ。もう年頃だし。役得といえば役得だけれど。
その後、風呂に入っていざ寝るかとベッドに潜り込んだ瞬間、期末テストが近いことを思い出した。
……勉強しとこう。
ベッドから這い出て電灯をつける。カバンから筆記用具を取り出して机に向かった。
「……めんどくせ」
結局、教科書を一通り読み返すだけにした。何もしないよりはましだろう。
飽きてきた頃に教科書を開きながらPSPの電源を入れた。三国志Ⅷをプレイする。
強力な登録武将を大量に作成して新勢力で敵を圧倒した。
飽きたのでお勧めシナリオの赤壁の戦いから諸葛亮を選択してプレイする。
夏候淵に離間をかけ続けて内通、登用。都市ごと寝返らせて一気に三都市を制圧する。
少しずつ軍を進めて勢力を拡大していくが、なかなか人口が思うように増えない。
そうこうしているうちに夏候淵が曹操軍に都市ごと寝返る。太守変えとけばよかった。
前線だからと前に押し出していた大量の兵が露と消える。なんてことをしやがる。
むなしくなってやめた。
ゲーム機の電源を落とすと同時に、まったくページの進んでいない教科書が机に載っていることに気付いて愕然とする。
そんな馬鹿な。
気付けば深夜二時。
今までの時間はなんだったんだろう。どこに消えたんだろう。
無性にやるせない気分になり、ベッドに潜り込んだ。
寝てしまおう。明日、勉強しよう。
夢は見なかった。
つづく
翌朝、台所で洗い物をしていた妹から声をかけられる。
「今日、じいちゃんち行こうと思うんだけど」
じいちゃんち。結構遠い。車で三十五分。母方の祖父の家と思えば結構近い。いずれにせよ田舎だ。俺たちが住んでいるところもだが。
「お呼ばれですか」
家族が全員揃うことよりも、祖父母と食事をとることの方が多い。
両親がなかなか帰ってこないので、気を遣ってくれているのだろうというのは分かる。
妹も妹で、祖父母の家に行くのは嫌いではない(末の孫で、しかも女なのでやたら甘やかされる)。
「玉子が切れそうだったから頼んだら、晩御飯を食べにこないかと」
「迎えにくるの?」
妹が頷く。
「一応、お兄ちゃんも行くかもって言っておいたけど」
「俺も行く」
俺が行かないとなると、妹は俺の分だけ食事を作ってから祖父母の家に向かうだろう。
そんな手間をかけさせるくらいなら、一緒に行ったほうがマシだ。
というのは建前。孫たちと一緒に食事をするとき、祖父母の食卓は豪勢になる。
「じゃあ、早めに帰ってきて。夕方頃迎えに来るって行ってたから」
短く頷いて、カバンを抱える。ちょうど皿洗いが終わったようだった。
「暑い」
外はうだるような熱気だった。
「連日の猛暑で! 我々の体力は既に限界に達している!」
「暑いんだからあんまり騒がないでよ」
クールに言われる。涼しい顔をしているようでも、妹だって頬には汗が滴っていた。
学校に向かう途中で、サラマンダーと遭遇した。
サラマンダーは不愉快そうに眉間を寄せて俺を睨んだ。何かを話そうとしている。
やけに真剣な表情だ。俺には理解できないことを言おうとしているのかもしれない。
「しまぱんってあるだろ?」
高尚な話だ。
「水色かピンクか、ずっと考えてたんだよ。最良なのはどちらかって」
どっちも良いに決まってるだろ。
とは口に出さず、サラマンダーの言葉の続きを待つ。
「緑っぽいのもあるな。まぁともかく、しまぱんで一番すばらしい色の組み合わせは何かと、考えていたんだよ。一晩中」
寝ろよ。勉強しろよ。どちらを言おうか悩む。馬鹿なことに時間を使う奴だ。俺も人のことは言えないが。
そんなことをしてるから淫夢を見るのだ。
「で、思ったのよ、俺」
「……何を?」
「黒と白。どうよ?」
どうよと言われても、参考画像がないことには判断のしようがない。
そもそも、それはしまぱんと言えるのか?
サラマンダーと高尚な話題で盛り上がっていると、すぐに学校についた。画像に関してはあとでマエストロに要求してみよう。
教室では、茶髪が下敷きで自分の顔を仰いでいた。
「化粧落ちる?」
「落ちるね。汗で」
おんなのひとはたいへんです。
睫毛に汗の丸い雫が乗っていた。すげえ。ひょっとして本物か?
篭った熱気を逃がそうとしたのか、茶髪はぐしゃぐしゃと自分の髪をかき回した。
見栄えも気にしなくなっている。大人のおねえさんはどこへ行ったのか。
「暑い!」
暑かった。
「チロルチョコ食べる?」
ポケットから差し出す。溶けてるけど。
「食べない。なぜこの暑い中でチョコなど食うか」
そういえば、彼女は以前、夏は嫌いだと言っていた気がする。
「なんで?」
「暑いじゃん」
そんな会話をいつだったか、交わした。じゃあ冬は? と訊ねてみたら、寒いじゃん、という答えが返ってくる。そういう奴。
茶髪は気だるげに髪をかきあげる。その仕草が誰かに似ていた。
「茶髪、おまえ妹っていたりする?」
まさかな、と思いながら確認。あの後輩の姉がこいつというわけはないだろう。
「いないけど」
いないらしい。案の定といえばそうだが、肩透かしとも言えた。
暑さにうなる茶髪を放置して自分の席に向かう。今日はマエストロがいなかった。
オタメガネ三人組が教室の隅で大富豪に興じているのが目に入る。
せっかくなので参加した。ここいらでは大富豪と呼ぶのが定型。革命返しはアリ、八切りもアリ、それ以外はなし。
カードを配り終えてからジャンケンで一番最初に出す人間を決める。特に予備的な意味はない。
「童貞の力を見せてやる!」
デュエルスタンバイ!
結果は惨敗だった。
「……一番でかいのがジャックって」
神様が俺を苛めたとしか思えない。
それから、あと二枚で上がりってときにトリプルを連続で出し続ける奴はどういう教育を受けてるんだ。
「負けたよ、ほら。賞品のチロルチョコやるよ」
一番に上がった佐藤に渡す。
「ヒキコモリの従妹にあげろ。な? 俺の名前ちゃんと伝えとけよ。会ってみたいって言っててくれる? すげえイケメンだよって」
「これ、溶けてるよチェリー」
「チェリーって言うな」
佐藤は変な顔をしていた。それ以上何かを言ったら冗談ですまなくなりそうだったのでやめておく。
そりゃあ自分の従妹をダシにされたら気分は悪いだろう。
それも黒髪色白物静かくまぱん美少女なら。
俺なら黒髪でなくてもかまわない。
なんならハーフで色素の薄い栗色の髪をしていてもいい。よく考えるとプラス要素だった。
とにかくちょっとくらい属性が変わっても可愛がられるタイプの従妹。
そんな従妹が欲しかった。
「悪かったよ、冗談だ、佐藤。八つ当たりしただけだ。本気で受け取るなって。ごめんな」
心底安堵したように、佐藤の顔から顔の引きつりが取れていった。
これからは言っていい冗談と悪い冗談くらいは考えよう。相手を選ぼう。
でも年下の従姉で童貞卒業したのは許さないよ。
なんとなく佐藤の態度に共感してしまった。今度から妹に関する相談はこいつにすることにしよう。
マエストロもサラマンダーも男兄弟しかいないのでそのあたりは頼りにならなかった。
オタメガネ三人組は、なぜか俺に対して一定の距離を置く。
言葉遣いとかが、クラスメイトに対するそれじゃない。ひょっとして嫌われてるのだろうか。
考えたらつらくなってきた。少人数でトランプやってるところに割り込んできて好き放題。溶けたチョコを押し付ける。他人の従妹をネタにする。
俺最悪じゃね?
いろんな場面で、口に出してから気付くことが多すぎる。
考えなしなのか、必死に会話を盛り上げて人の輪に入ろうとしているからなのか。
なんというか、あれだよ。
人がやってる大富豪に混じるのって、ほら。
仲がいいと思ってた数人の友達が、土日に一緒に遊んでて、そのとき俺だけ声もかけられなかった、みたいな。
親戚の集まりで、子供部屋に集められた子供たちが、全員、自分以外顔見知り、みたいな。
普段五人で集まってた友人同士で、バンド組もうって話になって、俺だけ話に入れてもらえなかった、みたいな。
そういう、ね。
なんというか、ね。
置いてけぼりの気持ち。
静かに立ち上がって教室の出口に向かった。
「どこいくの?」
人のいい佐藤はさっきのことをもう忘れたようだった。そう見えるだけで、内心不愉快に思ってはいるのかもしれない。
こんなふうに後ろ向きに考えてしまうことも失礼にあたるかな。
でもやっぱり考えてしまう。
どうも、人の輪に、馴染めないんです。僕。
「お花摘み」
短く答えると、三人組はそろって変な顔をしていた。
トイレは階段の近くにあるので、登校してくる生徒たちの姿がすぐに見つかる。顔を洗ってからすぐに廊下に出た。
先輩と幼馴染が、一緒に階段を登ってきたところに遭遇する。
呆然とした。
お前ら家の方向違うじゃん。
今までこんなことなかったじゃん。
校門で待ち合わせてたのか、メールで示し合わせてたのか。
でもそんなことどうでもよかった。
俺は幼馴染の彼氏じゃないし、先輩の友達でもない。
楽しそうだな、と思った。少し頬を紅潮させて、笑っていた。
なんだよこれ。
危うく泣き出しそうになりかけたタイミング。
幼馴染と目が合った。
次の瞬間、その肩越しに部長の姿を見つけた。
理由なんてなんでもよかった。
「部長!」
部長に声をかけて彼女と一緒に上の階へと向かった。
「どうしたんですか?」
部長は普段どおりの口調で俺に返事をしてくれた。穏やかな笑み。怪訝に思う様子もない。
どうやら俺は泣いていないようだった。
「いえ、ただ見かけたので」
そうですか、と部長は頷いた。部長についていく。ゆっくりとした歩調の彼女に合わせていると、後ろからさっきまで幼馴染と一緒にいた先輩が俺を追い越していった。
何度も追い越しやがって、と思う。
でも彼は悪い人じゃなかった。
悪い人だったらよかったのに。
女を食い物にするような悪人だったらよかったのに。
それだったら、幼馴染を取り戻す大義名分ができたのに。
「ままならないな」
ぼそりと呟く。
部長にまで変な顔をされてしまった。
ままならない。
でも、しょうがないことだ。
家に帰ったらギターでも弾こう、と不意に思った。
そう考えてから、今晩の予定を思い出す。
妹の顔を思い浮かべると、強張った表情が少しだけ緩んだ気がした。
「今日は、部活に来ますか?」
教室に引き返しかけたとき、部長から尋ねられた。
「いや、今日は放課後、ちょっと予定があるので」
うちの部活は水曜日以外は自由参加だ。
「そうですか」
特に感慨もなさそうに、部長は頷いた。
短く部長に挨拶して、階段を引き返す。教室に戻ると同時に、幼馴染と目があった。
なぜだか、声をかけることができない。
自分が嫌いになりそうだった。
――たまに小学生だった頃のことを思い出す。
大半の記憶はおぼろげで、ろくに思い出すこともできないのに、ときどき、そのときの出来事を鮮明に思い出すことがある。
小三くらいの頃だったろうか。恋の話が流行った。
おまえ好きな人誰? おまえこそ誰だよ。そんな会話が何度も繰り返されて、みんなに聞いて回って女子に報告する奴もいた。
報告する奴は、なんのつもりだったんだろう。遊びのつもりか、女子に媚を売っていたのか。
小間使いにされている時点で、相手になんてされてないのに。それでも少し羨ましかった。
小三の俺は生意気な子供だった。恋だの愛だの馬鹿じゃねーの、とまでは行かないが、そういう話からは距離を置いていた。
なんとなく、自分には過ぎたことのように思えたから。
でも追い掛け回された。
小間使いに、好きな人言えよ、誰なんだよ、って。
くすぐられながら「言わないよ!」って答えたら、「言わないってことはいるんだな?」と問い返される。
とても困る。
呼吸が苦しくなるほど笑いながら、教室から廊下から校舎中を逃げ回る。休み時間がなくなるまで。
授業が始まったら席について、授業が終わったらまた追いかけっこ。
逃げ回ってるとだんだん疲れてくる。
どっかに隠れるか、と思う。
図書室のカウンターの中。
他の学年の教室。
トイレ、は汚いから嫌だった。
最終的には、自分たちの教室の給食台の下に隠れた。
どう考えてもすぐに見つかる。
子供だから、ばれないと思った。
で、見つかる。小間使いに。
でも、教室にいた女子には見つからなかった。俺にとっては幸運なことに。
女子は隠れる俺に気付かずに給食台の脇を通過する。
その日、スカートだった。
ぱんつみえた。
黒かった。
俺のフェチ的原体験。俺が窃視的な画像に興奮を覚えるのはこのときの体験に起因していると見た。
なぜこんなことを思い返しているのだろう。
小間使いの、「あ、おまえスカートの中覗いただろ!」という声が教室に響く。
「ち、ちがうよ!」と俺は悲鳴に近い声をあげる。
なんだか、そんなこともあったなぁ、とふと思った。
ほほえましい過去。笑い話。
あのときから幼馴染は、学校にスカートを履いてこなくなったのだ。
『……童貞、なの?』
……なにがあろうと、あいつのぱんつを初めてみた男は多分俺だ。父親除く。
ふへへ。
くだらない。
でも、ちょっと笑えそうだ。
とりあえず、元気出せ俺。
何も世界が終わるわけじゃない。
ぱんつが見れなくなるわけでもなし。
「何の話?」
屋上さんはきょとんとしながらミックスサンドをかじっていた。なんでツナサンドを食べないのだろう。
「童貞こじらせると、ちょっとのことで鬱になっちゃって」
「……急に、なに。どう……ああもう。そんなこと言われても困る」
「屋上さんを困らせたくて」
「いっぺん死ねば」
屋上さんはとても辛辣です。
「まぁとにかく」
彼女は今日も今日とてフェンスの向こうを眺めている。
「元気出しなよ。落ち込んでてもろくなことないし」
そんなに落ち込んでいるように見えるのだろうか。屋上さんに慰められるとは思ってもみなかった。
「だから、そんなふうに励まされると惚れてしまう」
「惚れっぽいね」
「惚れっぽいんだ」
屋上さんはもさもさとサンドウィッチをかじる。俺は弁当を箸でつつく。
並んでいるのに遠い気がする。距離がある。なぜだろう。
沈黙が降りた。あ、会話終わっちゃう、と思う。なんか言わなきゃ。
とりあえず、
「惚れてまうやろー」
人のネタを借りた。
屋上さんはクスリともしなかった。
……俺にどうしろっていうんだ。
放課後、教室から出るときに担任に呼び出された。
ちびっこは俺を手招きして教壇へと召還する。
リトルサモナー。ファンタジーゲームなら人気の出そうな立ち位置。ロリキャラだし。
「おまえ、これ昨日忘れていっただろ」
薄い本を手渡される。
「……おお」
忘れてた。
父まで売ったのだから、手に入れておかなければなるまい。
「私も忘れてたんだけどさ」
だろうと思った。ちびっこ担任に「さようならー」と小学生的な挨拶をして教室を出る。
誰かと会わないかな、と思いながら歩いていたら、誰とも会わずに校門を出てしまった。
顔見知りが少ないって損だ。
家につく。妹は既に帰宅していて、私服に着替えていた。
慌てて俺も着替えるが、実際に祖父が迎えにきたのはその一時間後だった。
車に揺られて祖父の家につく。祖父は女にめっぽう甘いが、男には厳しい。立派であってほしいとかなんとか。そういうものかもしれない。
祖父母の家につく。犬の'はな'が吼える。おーよしよし。
噛まれる。俺が嫌いか。
玄関から入ってすぐに、独特の匂いがする。ザ・祖父母の家、という匂い。だいたいの人にはこれで伝わる。
和風の居間。家具は大体が古いが、テレビとテレビ台だけがいやに新しい。
じいちゃんは上座で何かの小物を弄っていた。腕時計。壊れたものを修理しているのだろう。物持ちのいい人なのだ。
もう料理は並びはじめていた。台所の方から包丁の音が聞こえる。ザ・おばあちゃん、という気配。
腰を下ろして周囲を見回す。何年も前から変わらない。
俺はテレビの近くへと向かった。テレビ台の中に映画のDVDが収納されている(千円くらいで安売りされてる奴が多い)。
結構な量があるので、なかなか全部は見切れない。
「これ借りて良い?」
じいちゃんに訊くと渋られるので、食器を準備していたばあちゃんに訊く。
「いいんじゃない?」
ばあちゃんも適当な人だ。
時計に集中していたじいちゃんが顔を上げる。
「ああ、好きなの持ってけ」
ときどき、じいちゃんはすべてのDVDを一気に渡そうとしてくる。さすがにそれは無茶だ。
「インデペンデンス・デイ」と「ターミナル」のふたつを借りていくことにした。なぜか洋画が多い。
食卓には刺身が並んでいた。
マグロ。サーモン。タコ。カツオのたたき。
好物。
食事を堪能したあと、帰りの車の中で妹は眠っていた。そもそも寝るのが好きな奴なのだ。
玉子を膝に抱えたまま、やっぱり来てよかったな、とほくそえむ。美味いものは正義。
家について、祖父の車を見送ってから、ひとまず妹をリビングのソファに寝かせて「ターミナル」をかけた。
妹は終わるまでずっと寝ていたが、俺はひたすらに感動していた。
泣いた。
こんな映画を撮りたい、と真剣に思った。
リビングの引き出しにしまっておいた家族共用のビデオカメラを取り出す。
俺は映画監督になる。
とりあえず試しにビデオを起動して妹の寝顔を撮影した。かわいい。
……変態っぽい。
やめようかな、と思ったところで、運悪く妹が目を覚ます。
――ビデオカメラを構える兄。寝顔を撮影される妹。
誤解とは言いにくい状況。
妹は絶対零度の視線を俺に向けてから何も言わず部屋に戻っていった。
何やってるんだろう、俺。
その日の夜、俺は変な夢を見た。
夢の中で、俺とサラマンダーとマエストロはファミレスにたむろしていた。
男三人、夏の暑さを屋内の冷房でごまかすため、ドリンクバーだけで何時間も粘る。
と、逆ナンされた。
女は三人組で、それぞれ独特の可愛さを持っている。ちなみに配役は、幼馴染、妹、茶髪が担当していた。
向かい合って一緒の席に座る。マエストロが調子に乗って財布の紐を緩め、「好きなだけ食べていいよ!」と言った。
「じゃあ私フライドポテト!」という俺の声を、マエストロは黙殺する。
マエストロは妹に目をつけた。夢の中では妹は俺の妹ではなく、ごく普通の赤の他人になっていた。
彼女はマエストロの「俺が作ったエロ小説、芥川賞とっちゃってさぁ」という自慢話を「えー、そうなんですかー」と笑いながら聞いている。
仕方ないので茶髪の方に目を向けると、彼女はサラマンダーに肩をもませていた。
席の仕切りが邪魔になって肩を揉むのは困難なはずだが、サラマンダーは簡単そうに彼女の指示に従っている。
最後に残った幼馴染と目が合う。すぐそらされた。なぜ?
彼女は悲しそうに目を伏せてから、俺にこう語った。
「私、身長、一七○センチ以下の人とはお付き合いできないんです」
俺の身長は一六七センチだ。
そうこうしているうちに、俺より遥かに身長の高い男が他の席から現れて彼女をさらう。
「ああ、待って! あと一年待って!」
悲壮な声で叫ぶが、届かない。気付けば他の二組も、どこかにいなくなっていた。
薄暗い店内にひとり取り残された俺は、フライドポテトを齧りながら周囲に目を向ける。使用済みの皿が山積みになった自分たちの席。
俺が口にしたのはフライドポテトだけだった。どことなく物悲しい気持ちのままフライドポテトを食べ続ける。
いくら食べてもぜんぜん減らない。いやになって、そろそろ店を出ようかと思ったとき、財布を忘れていたことに気付いた。
これじゃあ、いつまで経っても店を出ることができない。困った。俺はポテトを食べ続けるしかない。
ときどきサラマンダーが、炭酸系のジュースをことごとく混ぜ合わせたミックスジュースを俺に渡しに来た。
それがとんでもなくまずいのだが、なぜだか俺は飲み干さなければならなかった。
それ以外は、どこかで見たような顔が店内で馬鹿騒ぎしているだけで、誰も俺には話しかけない。
またこれだ。
取り残されていく。
置いてけぼりの気持ち。
ふと気付くと、隣の席には部長が座っていた。
「どうしたんですか?」
そんなふうに、彼女は俺を見つめる。
席の脇の通路には、後輩が立っていた。
「デートっスか」
そんなふうに、彼女は俺を見下ろす。
なんだかなぁ、という気分になった。
俺はふたりに返事をせずにフライドポテトを食べ続ける。だんだん胃がもたれてきて、具合が悪くなる。
でも、トイレの近くでは大勢の人間が踊りを踊っていて、あと何時間か待たないといなくなってくれないのだ。
「元気だしなよ」
不意に、他の雑音がすべて消えて、屋上さんの声が響き渡った。
いつのまにか、店内には彼女と俺のふたりきりになっていた。
屋上さんは、現実ではみたことのないような綺麗な笑みをたたえて、俺の目の前の席に腰掛けていた。
彼女はしずかに、首をかしげて笑った。
「ね」
――なぜか、
その瞬間、店内が正常な明るさを取り戻した。
屋上さんは笑顔を打ち消してから立ち上がった。さりげなく伝票を手に取る。止めようとしたけれど、俺は財布を持っていなかった。
レジにいた店員が何かを言った。
「お会計」までは聞き取れるが、そのあとの金額の部分はまるで聞き取れなかった。想像を絶する金額だったのかもしれない。
店を出てから、屋上さんは飲み屋を出たよっぱらいみたいに夜空を見上げた。
星が綺麗な夜だった。
「ねえ、キスしようか」
不意に彼女は言う。
俺はひどく戸惑った。セックスしようか、なら迷わなかった。でも、キス、だとダメなのだ。童貞だから。
セックスなんて、好きでもない女とでもできる。童貞だから分からないけど。でも、キスはダメなのだ。それはとても重要なこと。
子供っぽいな、と自分でも思う。
「私のこと好きじゃないの?」
――分からない。
「そっか」
屋上さんは呆れたような表情をした。
俺は何かを言おうとしたが、けっきょく何も言うことができずに押し黙る。
最後に、誰かの表情が頭の隅を過ぎった。
それまでに遭遇した誰かであることは疑いようもないのに、それが誰なのか、まるで分からない。
たぶん、その女の子は――。
……そこで、夢は途切れる。
目を覚ますと深夜三時だった。俺は風呂に入らずにベッドに倒れこんだことを思い出して起き上がる。お肌が荒れてしまうわ。
シャワーを浴びて目を覚ます。歯を磨いて顔を洗う。
もうこのまま起きていようか、とも思ったが、明日(というより今日)に響きそうなのでやめておいた。
変な夢を見たことだけは覚えていたが、内容はちらりとも思い出せなかった。
眠れなかったので、リビングに下りて「インデペンデンス・デイ」を鑑賞した。
見終わる頃には朝だった。
俺は何をやってるんだろう。
もう考え事にふけるのはやめよう。
期末も近い。明日からは普段どおりに過ごそう。
手始めに、マエストロに嫌がらせのメールを送ることにした。
「ツインテールとツーサイドアップってどっちがかわいいと思う?」
返信はすぐにきた。
添付ファイルを開くと同時に、思わずのけぞる。
ウルトラ怪獣ツインテールの画像が添付されていた。
ふざけんなしね。びびったわ。
三十分ほど仮眠をとってから、ベッドから起き上がった。
六時を過ぎたころ、マエストロからもう一通メールが来た。
黒髪ツーサイドアップの美少女が、笑顔でスカートを翻して、お尻をこちらに向けていた。ちょっとリアルな等身と塗り。
白黒しまぱん。
アリだ。
つづく
朝、歯を磨きながら、バイトでもするか、と思った。
夏休みまであとちょっと。来週からテスト前で部活動休止。どうせ原付の免許も取りに行くつもりだったし、ちょっと遠めのところがいい。
やるならコンビニ。涼しいし、仕事が楽らしいし、時給は安いが、金が入ればとりあえずはかまわない。
できれば顔見知りのいないところがいい。今度探してみよう。
時間になってから玄関を出る。
「今日も暑いねえ」
おじいさんっぽく妹に語りかけてみた。
妹はごく普通に返事をした。
「そうだね」
一日がはじまった。
校門近くで部長に遭遇する。なぜだか茶髪と一緒だった。
真面目な部長×不真面目な茶髪=混ぜるな危険。
のはずが、ずいぶんと和やかに会話をしていた。
「地区一緒で、昔から顔見知りなんだよ」
茶髪が言う。部長も小さく頷いた。まじかよ。強い疎外感。
仕方ないので強引に話題に加わることにした。
「なあ茶髪、テスト勉強してる? 俺ぜんぜんしてないんだけど」
「そういうふうに言う奴に限ってきっちり勉強してるんだよな」
見透かされていた。
でもやってることなんてせいぜい教科書を流し見るくらい。
「ちゃんと勉強しておいたほういいですよ」
部長が大真面目に言う。
「イエスサー」
大真面目に返事をする。
部長はちょっと呆れていた。
教室につくと、サラマンダーが携帯と睨めっこをしていた。
彼は俺に気付くと、にやにやしながら携帯の画面を見せつけてきた。
今朝、マエストロから送られてきたツーサイドアップ画像。
「白黒しまぱん、悪くねえだろ」
ツーサイドアップも悪くないだろ。ドヤ顔。
席についたとき、幼馴染と目が合った。ばつの悪そうな顔をしている。
あえて無視するわけではないが、話すことがあるわけでもない。
とりあえず俺は佐藤に声をかけた。
「給食着ってあるじゃん」
妹の中学校は給食なので、当然、給食当番がいる。
「あるね」
佐藤は不思議そうな顔をしながらも頷いた。
「今日、金曜日じゃん」
「そうだね」
「うちの妹、今週、給食当番だったみたいなんだよ」
「なんで妹のクラスの給食事情を知ってるんだよ……」
佐藤は呆れていた。態度にちょっと余裕がある。非童貞の余裕。悔しい。
「で、俺はどうすればいい? やっぱ匂いとか嗅いどくべき? 兄として」
「やめといた方がいいんじゃないかな……」
やめておくことにした。そもそも冗談だけど。
実際、他の人も使うものだしね。うん。
逆に考えると、別の生徒の兄が妹が使った給食着の匂いを嗅いでいるのかもしれないのだ。
胃がむかむかしてくる。
馬鹿な思考を終わらせたとき、誰かが俺の制服の裾を引っ張った。くいくい。
「ちょっといいかな?」
幼馴染だった。
呼ばれて廊下に出る。俺がついてくるのを確認すると、彼女は周囲に気を配りながら歩き始めた。
「あのね、実は……その」
そこまで言ってから、幼馴染は何かに遠慮するみたいに言葉を詰まらせた。
沈黙の中で俺の妄想ゲージがフルスロットル。
『実は先輩とは遊びで、あなたのことが好きなの』
キャラじゃない。
『先輩、えっちへたなの!』
キャラじゃない。聞かされてもうれしくない。
どう妄想しても先輩を貶める方向に話が進む。俺って嫌な奴。
妄想で時間を潰している間も、幼馴染は押し黙ったままだった。
何かあったんだろうか、と少し心配になったところで、幼馴染が口を開く。
同時に、その背中に声がかけられた。
例の、幼馴染の彼氏。と、その友人と思しき男女三名。
幼馴染は居心地悪そうに視線をあちこちにさまよわせた。
そうこうしているうちに、先輩たちが幼馴染の名前を呼んだ。
「ごめん。ちょっといってくるね」
気まずそうに目を伏せて、彼女は先輩たちに駆け寄っていった。
何を言いたかったんだろう?
気付けば、例の彼氏のうしろに並んでいた三人のうちの一人が、俺を睨んでいた。
……シリアスな感じがする。
そのあと、始業の鐘が鳴るまで幼馴染は戻ってこなかった。
休み時間、ふと気になってキンピラくんに話しかける。
「キンピラくんって童貞じゃないの?」
「死ね」
キンピラくんはとてもフレンドリーだ。
「クラスメイトとして知っておきたいじゃん?」
俺は彼が童貞と踏んでいた。なんか仕草から童貞っぽさが滲み出てる。かっこいいけど。
なんだろう。童貞だけど不良、的な空気。
「童貞じゃねえよ」
キンピラくんは不愉快そうに続けた。
「仲間が欲しくて必死だな、チェリー」
せせら笑うキンピラくん。
見下されてる感じ。
ぶっちゃけ、キンピラくんの不良っぽい態度はあんまり怖くない。マスコット的ですらある。
デフォルメされたチビキャラが煙草吸ってるような雰囲気。
「そっかそっか。キンピラくんは大人だったのか」
適当に返事をする。
「おまえ信じてないだろ」
彼は語気を荒げた。
「信じてる信じてる」
軽口を叩く。彼は毒気を抜かれたように溜め息をついた。
「で、相手は誰だったの?」
「……俺、おまえのそういうところすげえ嫌いだわ」
キンピラくんに嫌われた。
クラスにはまだ童貞が隠れていそうだ。
あんまりいじくりまわすのも可哀相なので、そこそこで切り上げる。
昼休みに、屋上で屋上さんと話をする。
屋上で屋上さんと話をする。奇妙な語感。
屋上さんはツナサンドをかじりながら言った。
「好き」
「は?」
深く動揺する俺をよそに、彼女は俺の胸の中に飛び込んできた。「ぽすん」と漫画みたいな音がする。
なんだこれ。
なんだこれ。
エマージェンシー。
「私のこと、嫌い?」
屋上さんが俺の顔を見上げる。美少女。
「嫌いじゃないけど」
思わず目をそらす。どこからかいい匂い。柔らかな感触。
彼女は俺の背に腕を回してぎゅっと力を込めた。
胸が当たる。
なんだこれ。
「じゃあ好き?」
「好きっていえば……好きだけど」
「じゃあ好きって言ってよ」
「ええー?」
どう答えろというのだろう。
「四六時中も好きって言ってよ!」
サザンっぽい要求をされた。
どうしよう。
「あ……」
脳が混乱している。甘い匂いに脳を侵される。どうしろっていうのよ? 頭の中で誰かが言った。やっちまえよ。頭の中のなおとが言った。
「愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好きだ」
消費者金融っぽい雰囲気の返事をした。
そこで、チャイムが鳴った。
「はい、授業終わり」
夢だった。
せっかくだし、正夢になるかもしれないので屋上に向かう。
屋上さんは今日も今日とてサンドウィッチをかじっていた。ツナサンド。正夢。
「愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好きだ」
「は?」
何を胡乱なことを言い始めとるんだこいつは、みたいな目で睨まれた。
目は口ほどにものを言う。
「何寝言いってるの?」
確かに、夢の中で言った台詞をそのまま繰り返しただけなので、寝言であってる。
「現実って厳しい」
「なんで落ち込むの?」
「いや、しばらく放っておいて欲しい」
正夢なんてものを信じるなんて、俺はよっぽど恋愛的なサムシングに飢えていたらしい。
屋上さんと雑談しながら昼食をとった。
放課後、部活に行くかどうかを机に座って悩んでいると、ふと天啓を受けた。
「図書室に行くべし」
その声は神秘的な響きを持って俺の脳を甘く溶かした。
図書室。素敵な響き。文学少女。無口不思議系後輩。髪色は青か? 悩みどころだ。
そんなわけで図書室に向かった。
来なきゃよかった。
天啓なんてものを信じるなんて、俺はよっぽど運命的なサムシングに飢えていたらしい。
「あれ。君は確か……」
幼馴染の彼氏がいた。
「……ども」
ふてぶてしい感じに挨拶をした。生意気な後輩っぽさを滲ませるのがポイントだ。目を合わせないで唇を突き出すとそれっぽくなる。
「君、あの子の友達だったよね」
幼馴染のことだろう、と考えて、違和感を抱く。
『あの子』。
――なんだろう、この違和感。
胸の内側がぞわぞわする。
何かを見逃している感じ。
俺を睨む先輩。何かを言いそびれた幼馴染。それに、この人の態度。
なにかがおかしい。
黙りこんだ俺を不審に思ったのか、先輩が怪訝そうに眉根を寄せた。
「どうしたの?」
「いえ……」
そもそも、どうしてこの人は俺のことを知っていたんだろう。
幼馴染といつも一緒にいたから?
知っていてもおかしくはない、けれど――何か、不安が胸のうちで燻った。
「先輩、幼馴染と付き合ってるんですよね?」
本人に直接きいたことがなかったと思い、訊ねてみる。
「ああ、……うん。まぁ」
彼は気のない返事をした。
――なんだ? この反応。
答えにくいことを訊かれたように、先輩は頭を掻いた。
「まぁ、いろいろあってね」
彼の態度があからさまにおかしいのか、それとも、俺が先輩に先入観を持っているせいで、粗探しをしようとしているのか。
分からないけれど、何かがあるように思える。
「君には悪いと思ったけど」
「どういう意味です?」
「どういう意味って……」
言ってから、先輩は何かに気付いたように口を覆った。怪しすぎるだろこの人。
「いや……君は彼女が好きなんじゃないかと思ってたから」
――この態度。
なぜ、会ったこともないような後輩の恋心を気にかける必要がある?
たとえば俺は、もし幼馴染と付き合うことになったって、幼馴染を好きだったかもしれない先輩のことなんて気にもかけないだろう。
それなのに彼の態度はなんだろう。
まるで、俺がいることを見越した上で幼馴染と付き合い始めたと言うような。
でも――ただ好きなだけなら、なぜ俺がいることを気にかける必要がある?
俺が彼女を好きだったかもしれないと思うなら、幼馴染の方に確認をとるだけでいいはずだ。
先輩は落ちつかないように頬を掻いた。
悪い人じゃない。そう思う。だから、幼馴染に対して何かをするというのではないのだろう。
でも彼は、悪い人じゃない代わりに、自分の意志が強いというわけでもないのだろう。ヘタレっぽいのは見れば分かる。
誰かが、何かをしているのか?
正々堂々と告白して付き合いはじめたなら、なぜ「悪い」と思う必要があるのだろう。
付き合い始めたなら、「彼の彼女」であって、「俺の幼馴染」ではなくなる。
なぜ、幼馴染を横取りしたような言い方をするんだ?
――後ろめたい手を使ったから?
考えて、自分の妄想だけが先走っていることに気付く。ただ話したことのない後輩を相手に緊張しているだけかもしれない。
何もおかしなところなんてない。そうだ。
――君には悪いと思ったけど。
馬鹿馬鹿しい。何を考えているんだろう。幼馴染に執着しているから、彼が悪いように見えるだけだ。
俺はいまだに、彼が生粋の悪人で、幼馴染が彼にだまされているだけ、という展開を期待しているにすぎない。
だから、彼が何かを企んでいるように見えるのだ。馬鹿な考えはやめろ。
でも――この胸騒ぎ。なんだろう。何かが変だ。
先輩が人のよさそうな表情で俺を見る。その顔は本物だろう。彼は善人だ。――俺の見る目が正しければ。
彼が善人だとして、どんなパターンがあるだろう。
幼馴染が何かを言いたげにして、先輩の友人が俺を睨んで、先輩の様子がおかしいという状況は。
――俺を睨んだ先輩。
幼馴染の話を聞いてみるべきかもしれない。
「そういえば、先輩。サッカー部はどうしたんですか?」
彼は安堵したように溜息をついて、俺の質問に答える。
「テスト前だから休みだよ。今日から」
「ああ、そういえば」
ちびっ子担任がそのようなことを言っていた。
教室で悩んでいたとき、部室にいけ、という天啓がなかったことに心底安心する。危なく赤っ恥だ。
ひょっとして、昨日が最後だったから、部長は俺に部活に出るかどうかを訊ねたんだろうか。
俺がこれからどうしようかと考えていると、誰かが先輩に話しかけた。
その顔を見て、また胸中で何かが疼いた。
今朝、俺を睨んでいた女子の先輩だ。
彼女は先輩の肩に手を置いて笑いかけたあと、俺の存在に気付いて顔をしかめた。
あからさまに、邪魔者を見るような目。
「アンタ、ちょっと来て」
彼女は俺の手を掴んで図書室の外へと誘導した。うしろから戸惑ったような先輩の声が聞こえた。
彼女は図書室を出てすぐのところにある階段を下りて、誰もいない二年の廊下に俺を導いた。
教室からは話し声が聞こえるけれど、ほとんどの生徒は既に帰っているか、他の場所にいるのだろう。
「アンタ、なんのつもり?」
「なんのつもり、と言われても」
今朝からずっと思っていたが、この人は何かを誤解している。
朝は幼馴染から話しかけてきたのだし、さっきは先輩から声をかけてきた。俺が何か行動を起こしているわけではない。
「何でアイツらの周りウロチョロしてるわけ?」
「どういう意味ですか?」
女の先輩(面倒なので以下メデューサと呼称。目が異様にでかい。マスカラすごい)は俺を見下すように溜息をついた。
「とぼけなくても分かってるから。アイツの彼女に未練あるんでしょ?」
幼馴染のことだろう。
「言っちゃ悪いけどさ、アンタ、振られたんだよ。ぶっちゃけ、未練がましくて気持ち悪い」
メデューサの発言は続く。俺は彼女が言いたいことを言い終わるまで待つことにした。
それにしても――彼女は何をそんなに焦っているのだろう。
「アイツになんか言いがかりでもつけてたわけ? 言っとくけど、あの二人、ホントに付き合ってるから」
言われなくてもそうだと思っていたし、振られたとも思っていた。
――メデューサがそんな発言をしなければ、疑うこともなかっただろう。
「それとも、どっかでなんかの噂でも聞いたわけ? 無責任な噂を信じるとか、馬鹿じゃないの?」
それはつまり、何かの噂が流れる余地があるという意味だろうか。
揚げ足を取るような思考。冷静になれ、と胸中で呟いた。それにしても一方的な人だ。
「あの二人の恋路、邪魔しないでくれる? アンタみたいなのにケチつけられたら可哀相だからさ」
――何を、こんなに恐れているんだろう。彼女は何かが露呈することを恐れている。それは確実だ。
確証はないけれど、ひょっとしたら、と思うと自然に考えが進んでいく。
「アンタみたいに見てるだけで恋してるみたいな気分になってる奴が一番イタいんだよ。もう二度と二人に近寄んな」
メデューサは、最後にそれだけ言い残して去っていった。
俺は彼女の言葉を踏まえて、改めて思考を組み立てなおした。
――言いがかり、噂、「ホントに付き合ってる」。
それを、なぜメデューサが言うのか?
わざわざ「本当に付き合っている」と強調したということは、裏を返せば――。
家に帰ってから、机に向かってテスト勉強を始める。
といっても、教科書を眺めるだけだ。またPSPを起動する。いやになってすぐにやめた。
携帯を開いてディスプレイの時計を確認する。五時。まだ早い。
本当は今すぐにでも電話をかけたかったけれど、まだ出先かもしれない。
それを思うと夜まで待つべきのように思える。
気持ちを落ち着かせなければ。飲み物を求めて台所に行く。妹が料理の準備を始めていた。
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。冷たさが喉を通って身体を伝っていく。緊張は解けなかった。
電話の発明は相手の家まで行く手間を解消してくれたが、インターホンを押すのに必要な勇気までは肩代わりしてくれない。
呼び出しボタンに指をあわせると心臓の鼓動が強まるのがその証拠だ。
六時になる頃に妹が夕飯の準備を終えた。ひさびさに、母の帰りが早かった。何週間か振りに一緒に食事を取る。
食事の量は足りる。妹はいつも、少し人数が増えても足りるくらいの量を作るからだ。
妹の気持ちはよく分かっていたから、俺も二人分には多すぎる量を黙って食べた。それがいつも。
ときどき、母か父かのどちらかと食事が一緒になると、妹はすごく喜ぶ。目に見えて上機嫌になる。
大抵、帰ってきたとしても、そのときには俺たちが食べ終えているから。
上機嫌になったあと、両方そろえばいいのに、と考えて、また落ち込む。見てれば分かる。
母は妹の料理をべた褒めした。学校での様子を聞いた。
仕事の方が忙しくて、と寂しそうに呟いた。俺も妹もそんなことは知っている。
分かってるよ、と妹は返事をする。学校はふつうだよ。家事はもうとっくに慣れたよ。心配しないで。
仕事を一生懸命こなす両親。
尊敬と感謝を持って接するべき人。
悪い人たちじゃない。
夫婦仲も家族仲も悪くない。
ままならない。
文句があるわけじゃない。
時間ができれば、こうやって俺たちと一緒にいようとしてくれる。
それでなくても仕事熱心というのは尊敬に値することだし、おかげで金銭面でもなんら不自由のない生活を送れている。
充分すぎる。
言いたいことがないわけではないが、それを言葉にするにはあまりに長い時間が経ちすぎた。
一緒にいる時間だけが、圧倒的に足りなかった。
俺だけならどうにでもなる。
妹のことを思うと、どうも気持ちが暗くなる。
食事を終えて、部屋に戻る。一緒にトランプをしたがる母に、用事があるからちょっと待ってて、と言い訳した。
そう長い話にはならない。
言うことは決まっている。確認するだけ、だ。それなのに、やっぱり心臓は痛いほど脈打つ。
ボタンを操作する指が、いつものように思い通りに動かない。
それでもなんとか番号を呼び出す。
通話ボタンを押した。
耳に電話を当てる。断続的な音が、やがて呼び出し音変わる。そういえば今は食事時かもしれないな、といまさらながら思った。
でももうかけてしまった。
長い時間、同じ音を聞いていたような気がする。
電話に出た幼馴染の声は、少しだけ固くなっていた。
「もしもし」と言葉を交わした後、沈黙が訪れる。何から話せばいいのか分からない。
「珍しいね。えっと……なに?」
彼女の声にハッとする。何かを言わなければならない。
俺は直球に話を進めることにした。
「今朝、何かを言いかけてたなと思って」
少し卑怯だったかもしれない、と思う。でも、自省的な思考は後回しでいい。
幼馴染が何かを言おうとしたのが分かる。けれど彼女は、すぐにいつもの調子に戻って茶化すように笑った。
「あれは――ごめん。なんでもなかったの」
声に動揺が浮き出ているのが分かる。長い付き合いだから。
彼女が言葉に詰まる様子が目に浮かんだ。気まずそうな表情。電話口でも気配だけで想像できてしまう。
もういいや、言っちゃえ、と思った。間違っていたとしても俺が恥を掻くだけだ。
「――偽装なんだろ?」
幼馴染が息を呑むのが分かった。
しばらく沈黙があった。耳鳴りがしそうな静寂。時計の針の音が聞こえそうなほどだったけれど、ここに時計はなかった。
不意に、前触れもなく、
「……よく分かった、ね」
幼馴染がそれを認めた。ほっと息をつく。なぜだか、すごく安心していた。
「今朝、言おうとしたのって、それか?」
「……うん」
できれば詳しい話を聞きたかったが、俺がそれを訊ねるのはおかしいような気がする。
けれど幼馴染は、自分から事情を話しはじめた。
「先輩の友達の、女の先輩がいるじゃない?」
先輩の交友関係には詳しくないが、おそらくメデューサだろう。
「あの人にしつこく付き合ってって言われて、困ってる、って先輩に言われて。それで……」
「それで?」
「……付き合ってるふりをしてくれ、って」
押しに弱い幼馴染のことだから、最初は渋っても、しつこく言われ続ければ引き受けてしまう。
たぶん、周りに流されたところもあるのだろう。
先輩がどのような言葉を用いて幼馴染の協力をとりつけたかは、だいたい想像がつく。
部活動に集中したいこと、そのために誰かの協力が必要だということ、そう長い期間は必要ないこと、迷惑はかからないこと。
「最初は断ったんだけど……」
「断りきれなかった」
「……うん。それで――」
――それで、付き合っているふりをはじめた。
それだけのこと。
先輩とメデューサが何のつもりかは分からないが、まだ何か含みはありそうだ。
だとしても、幼馴染の認識でいえば、ただそれだけのこと。
ただの偽装。
それを確認できたことに、深く安堵する。
話を終えたあと、また電話口に沈黙が降りた。お互いの呼吸の音が聞こえる。彼女が息を吸うのが聞こえた。
幼馴染は、覚悟を決めたように話し始めた。
「ほんとは、さ」
その言葉に思わず眉間が寄る。何か彼女にも含みがあったのだろうか。
「私、先輩の提案を、積極的に受けたの」
一瞬、思考がフリーズした。
数秒置いて、胸の中で暗い気持ちが膨れ上がるのを感じる。
冷や汗が滲む。電話を持つ手の力が抜けてしまいそうだった。
続く言葉をあらかじめ予想しておく。先輩が好きだったから、先輩と偽装でも付き合えるのは嬉しかったから。
こうしておくとあらかじめ防壁を張っておける。でも現実は、いつだって想像の上をいく。防壁など、大抵は貫いてしまう。
俺は覚悟を決めて瞼を強く瞑った。
「友達に、一度、相談したの。そしたら――」
話がよく分からない方向に進む。俺の想像とは違う方向に。
俺の想像した通りだとしたら、友人に相談する意味はない。
「――ちょうどいいんじゃないかって」
「ちょうどいい?」
「だから……その」
幼馴染はそこで言いよどんだ。
「誰かと付き合うって話になったら、何か、反応するかなって」
「……反応?」
俺の反芻に、彼女は心底困ったように「ああもう」と唸る。
「だから、やきもち妬くかなって」
誰が? ――と、訊くのはやめておく。
内心で自分が期待し始めたことに気付いたからだ。
それは自惚れかもしれない。
臆病といわれても、聞き返す勇気はなかった。
「で、どうだったんだよ。反応はあったのか?」
もう考えるのがいやになって、やけになって適当なことを言った。
「……充分すぎるほど」
偽装だってことになると、たとえば月曜の朝の、
『……童貞、なの?』
という言葉には、別に経験済み的な意味はなかったことになる。
脳内シュミレーション。幼馴染の立場。
朝、教室に入る。静まり返ったなか、マエストロの声が響いている。
『このクラスで童貞は、サラマンダーと、俺と、それからおまえだけだ』
扉を開けた瞬間に聞こえる衝撃的な発言。
混乱していると、俺と目が合う。
何かを言わなきゃ、という気分になり――
『……童貞、なの?』
思わず鸚鵡返し。
まさかそんなばかな。
シュミレーションを続ける。
火曜日の発言。
『おまえなんて、おまえなんて、サッカー部のなんかかっこいい先輩といい感じになってあげくのはてに卒業してからも一緒にいればいいんだ!』
『……祝福されてるのかな?』
このとき周囲にはクラスメイトたちがいた。
偽装を頼まれている立場からして、否定的な言葉を出すわけにもいかないだろう。
やけに冷静だったところを見ると、ひょっとして俺の反応を楽しんでいたのかもしれない。――それは自惚れか。
こうやって判断していくと、何もおかしいことなんてなかったような気がする。
自分の思い込みのせいで勝手に落ち込んでいたんだろうか。ひどく馬鹿らしい気分になる。
気にかかるのは、
『おまえと結婚の約束をした記憶なんてないッ!』
『私もないよ?』
このやりとりくらいか。
彼女は本当に忘れてしまったのだろうか。
俺が考え事にふけっていると、幼馴染は電話の向こうであくびをかみ殺した。
まだ八時にもなっていないことに気付いて愕然とする。もっと長い時間、電話していたような気がした。
「――明日、先輩に言おうと思う」
幼馴染は眠そうな声で言った。
「やっぱり、あの話はなかったことにしてください、って。みんなに嘘つくのも、疲れちゃったし」
悪女だ。
悪女がいる。
学校中を騙してみせたあげく、「疲れちゃった」なんて理由でやめようとしていた。
「ごめんね、心配だった?」
からかうように、幼馴染は言った。
「馬鹿言えよ」
俺は見栄を張った。
ふたりで一緒にひとしきり笑った。
また、互いに言葉を失う。何かを言わなければならないような気がした。
言っちゃえよ。頭の中で誰かが言った。好きって言っちゃえよ。
頭の中のもうひとりが言った。それでいいのか? 勢いと雰囲気に流されてないか? おまえは幼馴染が好きなのか?
冷静な声に情熱的な声が反論する。馬鹿おまえ、好きじゃなかったらこんな内容の電話するわけないだろ。
不毛なやりとりが何度も繰り返される。その間、俺はずっと黙っていた。
やがて、幼馴染はしびれを切らしたみたいに言葉を発した。
「それじゃ……」
名残を惜しむような声だった。俺は何かを言おうとして、やめた。
「ああ、うん……」
電話を切ると、物音ひとつしない自分の部屋に戻ってきた。今まで、どこか遠い場所にいたような気がした。
そのあとで、幼馴染の言葉を思い出した。
『――明日、先輩に言おうと思う』
……馬鹿だ。
明日は土曜だし、テスト前だから部活もない。
ひとりでクスクス笑ってから、また考え事にひたる。
何で何も言わなかったんだろう、と自問する。
本棚から一冊の文庫本を取り出した。ブックオフで百五円で売っていた小説。
冒頭にはこんな一節があった。
――なににもまして重要だというものごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。――
俺はこの言葉を盾にとって自分を慰める。多くを口に出せないとき。何かを言い損ねたとき。言い訳に使う。
それでもいつか、誰かに何かを告げなければならない場面は来る。
考える。
今回は結局、幼馴染に彼氏ができたわけではなかった。
でも、もし仮に、本当に幼馴染に恋人ができたとき、どうなるのだろう。俺は祝福するのか、後悔するのか。
子供っぽい独占欲と恋愛感情との区別を、俺はいまだにつけられていない。
今回は偽装を偽装と確認するだけでよかった。
でも、もし今後そうではなく、「本当の」交際相手などというものが現れたら、幼馴染を取り返すなどということはできはしない。
このところさんざん悩んでいたように、苦しみながらも折り合いをつけていくことになる。
だから、判断しなければならない。
俺はいったい、誰が好きなのか。
幼馴染を取り戻そうとした感情が、もし子供っぽい独占欲だったなら、それは何の為にもならない。決別しなくてはいけない。
選ばなくてはならない。そもそも、幼馴染の恋愛に口を出す権利など、俺は持ち合わせていないのだから。
考え事を続けすぎて、頭痛がしそうになる。
部屋を出てリビングに戻ると、母と妹がふたりでトランプをしていた。
「なにやってるの?」
「ババ抜き」
……ふたりで?
喉を潤してから自室に戻る。しばらくテストにそなえて教科書を見返す。
文字を目で追うが、ちっとも頭には入っていない。教科書の表面を撫でるだけ。目が滑っている、と感じた。
長い時間、なんとか教科書を理解しようと苦心していると、不意にノックの音が聞こえた。
返事をすると、お風呂あがりらしい妹がパジャマ姿で部屋の中に入り込んでくる。
「お母さんは?」
「……電話してる」
寂しそうに言う。
「そっか」
頷いてから、ふたたび教科書と向き合う。
「ね、なんかして遊ぼうよ」
さっきまで誰かと一緒にいたせいで、ひとりになるのが寂しくてたまらないのだろう。
俺は少し考える。遊ぶといっても、できることなんてない。
「テスト近いだろ。勉強したらどうだ?」
妹は不服そうに口を尖らせた。
彼女には落ち込めば落ち込むだけ素直になるという習性がある。
「分かった」
素直に頷く。
背中に声をかけて呼びとめる。
「カバン持ってきて、この部屋で勉強しろよ」
妹がカバンを持ってふたたび俺の部屋を訪れるまで、五分とかからなかった。
しばらくふたりで勉強をする。一時間が経った頃、妹はうつらうつらと舟を漕ぎ始めた。
明日が休みだから、気が抜けたのだろう。
肩を揺すって起こす。自分の部屋で寝るように言う。寝ぼけたままの様子の彼女は、ふらふらとしながら自分の部屋に戻っていった。
どうも、喉の渇きがとれない。
リビングに行く。
電話を終えた母が手持ち無沙汰に座っていた。
「あの子は?」
母は開口一番に尋ねた。
「寝たよ」
「ずいぶん早いのね」
「まぁ、うん」
「学校はどう?」
「悪くないよ」
曖昧に答える。すべての学生が、両親に学校での出来事をつまびらかに語るわけではないだろう。きっと。
「妹は?」
「がんばってるよ」
過剰なほど。
「なんとか、やっていけてる?」
「……まぁね」
親が子供に言う台詞としては、あと数年早い。
母はまだ何かを言いたげだったが、もう質問が思い浮かばないようだった。
距離を、測り損ねている。
麦茶をコップに注ぐ。
「飲む?」
「ええ」
ふたつめのコップを用意した。
少しすると、母は自分の寝室に戻った。
部屋に戻ってひとりになってから、どうするべきかを悩んだ。
思い浮かんだのは、先輩の言葉。
――君には悪いと思ったけど。
ひとまず、話の通じる彼から事情を聞いておきたいところだ。
いったい、何がどうなっていたのだろう。
幼馴染のことはひとまずいいにしても――放置しておけばメデューサに攻撃されかねない。
あの異常な態度。
憂鬱だ。
風呂に入る。歯を磨く。ベッドに潜り込む。
寝付けない。うだるような熱気に部屋がもやもやと侵食されている。
ドアを開けっ放しにして空気の通り道を作る。窓を開けると涼やかな風が入ってきた。
起き上がって電気をつける。教科書をめくった。
テストが近い。勉強しなきゃ。
こういうとき、何か趣味があればいいのになぁ、と思う。寝付けない夜が多すぎる。
つづく
>>1の他の作品は無いの?
朝、起きて朝食をとる。
健康的な食事。一日の活力。ハムエッグは好物。
暇だったのでアコギを掻き鳴らした。
三十分程度、適当に鳴らして飽きたころ、妹がどこかから「うるさい!」と叫んだ。
仕方ないのでリビングに下りて階段下の物置から64を持ち出した。
風来のシレン2。カセットを差し込む。今となっては粗いグラフィック。
毎回、カタナ+54、オオカブトの盾+62くらいまで装備を強化したところでシレンが運悪く倒れる。
次はじめるときに装備を取り戻そうと同じダンジョンに挑む。
強い武器と防具に慣れてしまって適当になったプレイングのせいで、また死ぬ。
装備が取り戻せなくなる。
むなしさだけが残った。
妹は暑そうにソファに寝転がっていた。
せっかくなので誘ってみる。
「一緒にスマブラしない?」
「しないから」
古すぎるもんね、64は。
正午を過ぎてから幼馴染にメールを送る。
返信はすぐにきた。
「ちゃんとメールで言ったよ!」
「明日」と言ったのは間違えたわけではなく、最初からメールで断りを入れるつもりだったのだと主張したいのだろう。
妙なところで意地を張る奴だ。
俺は幼馴染から先輩の自宅の電話番号を聞きだした。部活の連絡網。携帯に見知らぬ番号から電話がきたら無視しちゃうしね。
先輩の家に電話をかけると人のよさそうな母親と思しき人が電話口に出た。
先輩の名前を言って呼び出してもらう。どうやら家でテスト勉強をしていたらしい。
彼は少なからず驚いていたようだった。せっかくなので、事情を省みず呼び出ししてみる。
「今から会えません?」
デート。
嘘だ。
先輩の了解を聞き届けて、待ち合わせ時間に間に合うように準備を始める。といっても、財布と携帯だけ持っていけばいいだろう。
待ち時間を潰すために文庫本を持っていこうかとも思ったけれど、ブックカバーをつけたままにしているものがなかったのでやめておく。
本屋でつけてもらえるブックカバーは便利なのだけれど、手触りがいやだ。
かといって布製のものは読みにくい。ジレンマ。
ガレージから自転車を出す。中学のときのステッカーを貼ったままだ。
先輩の家の位置も考えて、ちょうど中間くらいにある店に待ち合わせた。ハンバーガーショップ。
蝉の鳴き声を掻き分けるようにペダルを漕いだ。
俺が店についたとき、先輩はまだ来ていなかった。昼時だからかひどく混雑している。
注文、支払い、商品の受け取り。空いている座席を探して座る。そう時間をおかず、先輩はやってきた。
彼が座るのを見届けれから、口を開いた。
「いくつか訊きたいことがあるんですけど、かまいませんよね?」
「その前にひとついいかな?」
先輩はさわやかに笑った。
「なんでしょう?」
不敵に問い返す。
「襟元になんかついてるよ」
「え、うそ」
白いものが付着していた。
ケフィア的な何かか?
心当たりは無い。
よくよく見てみたら歯磨き粉だった。
「やだ私ったら」
恥ずかしくて赤面する。
先輩はひとつ咳払いをした。
「それで、訊きたいことって?」
「単刀直入に言うと幼馴染のことです」
単刀直入に話をはじめた。
「ぶっちゃけ」
はっきりと言うべきかどうか悩む。
少しおいてから、悩んでも仕方ないことに気付いた。
「自作自演ですよね?」
先輩が驚いたように目をしばたたかせる。どんな仕草をしてもさまになる人だ。
「どうしてわかったの?」
「カマかけただけです」
怪しんではいたけれど、推測の域を出ないものだった。
「なにが目的だったんですか?」
先輩は言葉に詰まった。だいたいの想像はつく。
「……それ、言わなきゃダメかな?」
「別に言わなくてもいいです」
想像がつくから。
「で、ちょっと訊きたいんですけど」
「なんだろう」
爽やかな反応。いい人なのに、流されやすいのだろうか。
「あのメデューサ、暴走気味じゃありません?」
「メデューサ?」
脳内呼称を口に出してしまった。
「えっと、あれだ。目が異様に大きい人」
先輩が「ああ」と頷く。
「サコか」
「サコ? さん、ですか」
「昨日、図書室で君を呼び出した人。あ、あの後大丈夫だった?」
「ええ。まぁ、何事もなく」
何事もなく罵倒された。
「それならよかった。一応、心配だったんだ」
先輩は安心したように溜息を漏らした。そう時間をおかず、今度は憂鬱そうに溜息を漏らす。
溜息は口ほどにものを言う。だいたいニュアンスでどんな気分かが伝わってくるものだ。
「――前言を翻すようでアレなんですけど、やっぱり、ちゃんと訊いておきたいです」
俺は少し考えてから口を開いた。
「先輩、アイツのことが好きだったんですか?」
アイツ、は、幼馴染のことだ。
彼は、逡巡するようにあちこちに視線をめぐらせて、最後にはテーブルの上に向けた。
トレイの上に載ったままのハンバーガー。封の空いていないストロー。一向に減らないフライドポテト。
「……うん」
長い沈黙のあと、先輩はかすかに頷いた。
「卑怯だよな、とは思ったよ。自分でも」
自嘲するような笑みを頬に貼り付けて、先輩は言う。
「言い訳はしないけど」
「ええ。納得はしませんけど、理解はしますよ」
「ありがとう」
とはいえ、彼が悪いのかどうかは、これからする質問次第で分かることであって、今は判断のしようがない。
「昨日、メデューサ、じゃないや。サコさんに言われたこともありますし、実際にあったことを説明していただけるとありがたいんですけど」
先輩は言葉に詰まった。
またこれだ、と思う。人には隠し事が多すぎる。
「……まぁ、巻き込んだわけだし、ね」
「言いたくなければいいです。俺、実際にはほとんど無関係ですから」
「そうでもないよ」
先輩は気まずそうに微笑んだ。
「まず、僕は彼女が好きだったんだ。それは、もう言ったよね?」
「ええ」
頷いて続きを待つ。先輩は言葉を選ぶような間をおいてから、話を続けた。
「そのことをサコに相談した。彼女は僕の友達の中でも、恋愛ごとに関して一番頼りになる人物だと思ったから」
――アンタみたいに見てるだけで恋してるみたいな気分になってる奴が一番イタいんだよ。もう二度と二人に近寄んな。
言動の節々に見え隠れする、恋に対する自信と自負。
オブラートに包まずに言ってしまえば、彼女は思い込みが激しく、自信家であり、お節介焼きで、ちょっとイタい人なのだ。
「サコは次の日には具体的な計画を立てて来たよ」
「それが偽装カップル?」
俺の俗っぽい言い方に、先輩はいささか辟易したようだった。それでも仕方なさそうに頷く。
「そういうこと。口車に乗せられた、という言い方をすると誤解を生むかな。実際には僕も同意したから。でも、その場の雰囲気に乗せられたところはあった」
これは言い訳かな、と彼は肩をすくめる。その仕草が妙に似合っていて腹立たしい。少しはしおらしくしやがれ。
「つまり、サコさんは、偽装カップルとして一緒に行動させることで、二人の距離が縮まることを期待したんですか?」
先輩は俺の言葉にきょとんとした。少し間をおいてから、ああ、と頷く。
「そうだよ」
「その話に乗ったわけですか」
「……うん」
先輩は幼馴染が好きで、それをメデューサに相談した。
メデューサは、自分が彼に言い寄っていることにして、ふたりを偽装カップルとして近づけることに成功する。
互いの距離は少しずつ縮んでいったが、今日に至って幼馴染からそれを取りやめる旨のメールが送られてくる。
先輩の話をまとめると、つまりはこういうことになる。
「俺、関係ないですよ、やっぱり」
俺という存在は、メデューサの計画にはまるで出てこない。
「はっきり言ってしまえば」
と先輩は前置きした。苛立たしげに言葉を続ける。
「君が羨ましかったんだよ。彼女のそばにいたから」
「……はあ」
「一番最初にサコに相談したときも、そのことを言ってあった」
「だから、あの人は俺を目の仇にしてたんですか?」
「その他にも、あの子が僕やサコの前で君の話をすることがあったから」
「……サコさんとしては、俺が邪魔者だったと」
つまり、二人の距離を縮めるためだけではなく、幼馴染を俺から遠ざけるためにも、そういう形の計画になったのか。
遠ざけることに成功したと思っていたのに、幼馴染や先輩の周囲をうろうろする俺を見かけた。
それが昨日のことで、その後の発言はすべて「ふたりの恋愛を成功に導くためによかれと思ってやったこと」なのだろう。
ありがた迷惑って言葉もある。
下手な企みなんて、失敗するものだ。
「なんだかもう、疲れますね」
「僕もすごく疲れた。ここ最近はずっと胃が痛くて仕方なかった。彼女はちっとも振り向いてくれないしね」
そりゃそうだ。
なにせ幼馴染は、超がつくほどの鈍感なのだから。
小学の頃も、中学の頃もそうだった。自分に対する好意にまるで気付かない。
ナチュラル悪女。
「アイツ、偽装をやめるって、先輩にメールしましたよね?」
彼は額の汗を手の甲で拭ってから頷いた。
「来たよ。本人の意思に従おうと思う。実際、期限付きで、っていう約束だったんだよ、本当のところ」
「……無理のある話ですね」
「僕もそう思う」
俺はひとつ溜息をついてから考える。誰も実害をこうむった人物はいない。
何かを企むことに呆れはしても、責めることはできない。
「男らしくない」
口をついて出た言葉に、焦る。だいぶ失礼なことを言ってしまった。
「まさにその通りだ」
先輩は気を悪くするでもなく笑った。
「僕はもともと、臆病というか、そういう気質があるから」
「臆病というか」
俺はずっと思っていたことを言った。
「ヘタレなんですよね。直接告白もできないような」
自分のことを棚にあげて先輩を責めた。
別に、なんだかんだで幼馴染と仲良くなりやがったことに対するあてつけとかではない。断じて。本当に。
「まぁ、そうだね」
先輩はまた笑った。
「本気で好きなら、直接言うのが一番いいと思いますよ。アイツには」
「敵に塩を送るの?」
「アイツのことを抜きにすれば、俺は先輩のことが嫌いじゃありませんから」
かといって、本当に告白されて、付き合うようなことになれば、俺としては困る。
すごく、困る。
勝手だな、と内心自嘲してから溜息をつく。なにをやってるんだろう。全然論理的じゃない。
いいかげん話を終わらせるべきだと考えて、先輩に向かって最後の確認をした。
「まぁ、先輩の恋についての話はいいです。とにかく俺が言いたいのは、サコさんのことです」
「サコが、なに?」
きょとんとしてる。
できれば気付いてほしい。この人も鈍感なタチだ。
とはいえ、彼にとっては友達のことだ。
俺は慎重に言葉を選んだ。
「サコさん、なんというか、暴走しがちですよね。偽装をやめたって知ったら、誰かに強く当たったりしません?」
失礼を承知で言う。必要なことだ。いい気分はしないけれど。
俺に罵詈雑言を並べ立てるくらいならいいけど、他の人間に当たられては冗談ではすまない。
その懸念に、先輩は平気そうに答えた。
「大丈夫だと思う。なんだかんだいっても、冷静な判断が出来る人なんだ」
「そうですか?」
昨日の出来事を思うととてもそうは思えない。
「俺にはもっと、こう……あ、これは別に、昨日罵詈雑言をぶつけられて腹を立てているというわけではないですよ?
あくまで一意見としてですけど、あの人はこう、暴走しがちなんじゃないかなって。
別にひどいこと言われた当てつけとかじゃないですけどね。好き勝手言いやがってとか思ってないですし。
でもちょっと、策士策に溺れる的な、自己陶酔っぽいところがありますよね、たぶん」
先輩は大笑した。
「大丈夫だよ、そのあたりはきちんとする」
そういって彼は溜息をつく。端整な顔立ち。さわやか。サッカー部でレギュラー。人望もある。魅力だらけの人。
彼はひょっとして漫画か何かから飛び出してきたのではないだろうか。
それでも、彼だって何もかも充実しているわけではない。
嫌な考え方かもしれないが、それを思うと少しだけ安心する。
努力していこう、と思える。
「がんばってみるよ」
なにに対する「がんばる」なのか、少しだけ考えてしまった。
メデューサを説得することをか、あるいは――。
それは、俺に言ったって仕方のない言葉だ。ひとりごとのつもりだったのかもしれない。
俺にも俺の考えがあるから、がんばってください、とは言えない。先輩もそれは分かっているのだろう。
「まぁ、サコさんのことをきちんとしてくれるなら、それでいいです。ぶっちゃけ、今日話したかったのも、そのことだけなんですよ」
昨日のアレみたいに幼馴染に当たられたらたまったもんじゃないからね。言っちゃなんだけど。
先輩は少し困ったような顔をした。
「ところで、先輩」
俺はすっかり熱を失ったハンバーガーを手に取りながら訊ねる。
「アイツ、俺についてなんて言ってたんですか?」
「秘密」
先輩はもったいぶるように笑ってストローの袋を破った。
二人でハンバーガーを食べきったあと、どうでもいい話をしながら店を出る。
互いに変な空気が生まれていた。照れくさい感じ。
「テスト勉強中に呼び出してすみませんでした」
「いや、いいよ」
「悪い点とっても、俺のせいにしないでくださいね」
「……それは、するかもしれないな」
先輩は大真面目な顔で言った。
店の出口のところで別れて、俺は止めてあった自転車に向かって歩く。
むちゃくちゃする人も、世の中にはいるもんだ。
自転車を漕いで帰り道を急ぐ。家に帰ったらなにをしようか。俺はわざと目前に迫った期末テストを思考から追いやった。
防風林が木陰をつくった、家々の隙間の狭い道を通る。石で出来た水路がブロック塀の隣を通っていた。
ひんやりとした空気の中で蝉の鳴き声だけが延々と響いている。それでも自転車のスピードは緩めない。
もうすぐ、夏休み。
誰とどこへ行こうか、と考える。いろんなことをしたい。花火。プール。海。夏祭り。
そういうことを想像するだけで、胸が沸き立って落ち着かない気分になった。
そういうことをできるだろうか、と考える。
したいなあ、と思った。みんなで、楽しく過ごせるといい。
ペダルを踏みながら、そんなことを思った。
家に帰ると、幼馴染がいた。
「お邪魔してます」
平然と、妹と世間話に興じていた。
昨日の今日でこいつは。
世間様に尻軽女だと思われてしまうでしょうに。
「麦茶を俺にもください」
「コップ持ってきたら注いであげる」
妹も暑さのせいであまり動きたくないようだった。
流しに置かれた食器入れの中からコップを取り出す。二人は既に自分たちの分を飲んでいた。
「どこ行ってたの?」
幼馴染に尋ねられる。先輩と会ってきた、と言ったらどんな顔をするだろう。
俺は「ちょっとそこまで」と答えてから麦茶を飲み干した。
コップを置いたところで、妹が何かを思いついたように声をあげた。
「本人に直接意見を聞けばいいんじゃない?」
幼馴染は意表をつかれたように「ああ!」と頷く。
「何の話?」
「お弁当の話」
「おべんと、ですか」
何の説明にもなっていない。
「お姉ちゃんが、お兄ちゃんの、作りたいって言うから」
「ふたりで話し合いをしてたんだよ」
「月火水木は半分ずつってことで決まったんだけど、金曜の分をどっちが作るかがなかなか決まらなくて」
……なんだろう、このやりとり。
「いや、何でわざわざ分担する必要があるの?」
幼馴染に作ってもらえたら食費が少しだけ浮くが、そんなみみっちい話ではなく。
なぜ別々の人間に作ってもらう理由があるのか。面倒だろうに。
彼女らは当人の意見を無視して協議を再開した。
なんだかなぁ、と思う。今までずっと、どうでもいいことに時間を費やしていた気がした。とんだ徒労。くだらない悩み。
一気に肩の荷が下りた気がした。
話し合いは平行線を辿っているようだ。
金曜の担当が決まるのと、夏休みに入るのはどっちが早いだろうかと、ふとそんなことを思う。
「あ」
不意に思いついた。
「なに?」
「週ごとに金曜の担当を交換すればいいんじゃね?」
その言葉の後もしばらくは話し合いが続いていたが、結局はその方向で決まったらしい。
「でも、何で弁当なんて作りたいの?」
割と真剣な疑問。面倒なだけだと思うのに。
幼馴染は簡単に答えた。
「はっきり言って、男の子にお弁当つくるのって、女子からしてもけっこう憧れなのです」
「へえ」
「制服デートとかもね」
「なるほど」
そのあたりは男子と大差ないらしい。
「つまさき立ちでちゅーするために身長差は結構欲しいとかね」
妹がさらりと言った。少女漫画的。
……やっぱ身長か。やっぱ一七○センチないとダメなのか。
「……ちょっとコンビニで牛乳買ってくる」
カルシウムの摂取が身長の伸びに直結しない自分の体が憎い。
幼馴染は、妹の言葉に微妙な表情を浮かべた。
「それはちょっと……違わない?」
「そう?」
妹さまはけろりとしている。
なんだかもう、女ってよく分からない。
本当にコンビニに行こうとすると、二人は慌てて追いかけてきた。
三人で並んで歩く。両手に花。美少女二人。ぐへへ。
――暑さでそれどころじゃなかった。
「……誰? コンビニ行こうって言った人」
妹がうなる。誰も「行こう」なんて言ってない。
「蝉がうるさいね……」
幼馴染も疲れ果てていた。なんだか、子供の頃もこうやって歩いたことがあるような気がする。
なんだかなぁ、と思う。
恋だ愛だと騒いでおいて、結局、ふたりと一緒にいるだけで、俺はある程度満たされてしまうのだ。
まいった。
この居心地のいい立ち位置で、曖昧なままで一緒にいたい。
まぁ、できないんだけど。
でもまぁ、今は、ね。
徒歩十分のファミレスの脇に立つコンビニ。広い駐車場。でかい看板。何かのキャンペーンのポスターが張られた窓。
冷房のきいた店内に入っても、暑さの名残は消えないようで、幼馴染はうんざりしたように呟いた。
「アイス食べたい」
財布を忘れてきたらしい。
「私もアイス食べたい」
妹は財布を持ってきていたが、間違いなく便乗しようとしていた。
仕方なしに、三人分のアイスバーを買うことにした。
牛乳、炭酸のジュース、少しのお菓子を選んで、レジに並ぶ。
店を出てすぐに、アイスを配ってその場で食べ始める。
「食べ歩き、食べ歩き」
上機嫌な様子で幼馴染はアイスをかじりはじめるが、どう考えても「買い食い」と言いたいに違いない。
店の前におかれたゴミ箱に袋を捨てて、来た道を引き返す。
太陽に焼かれて、アイスはすぐに溶けそうになる。
溶けて垂れはじめた雫を舌先で舐めとるふたりの様子をみて、思わず変なことを考えそうになる――などということもなく。
俺は自分のアイスを食べきるので精一杯だった。
家に帰ってからも、リビングでぐだぐだと過ごした。
テスト勉強をしなくては、と思うのに、気が抜けて行動に移せない。
たぶん、長い間頭を支配していた悩み事がひとつ消えただろう。都合のいいことだ。
幼馴染は結局、夕方まで家に居座った。
彼女が帰った後、俺と妹は手持ち無沙汰になった。
さっきまでいた誰かがいなくなると、寂しさと同時に時間を持て余している感じが訪れる。
夕食に冷やし中華を食べたあと、映画を鑑賞することにした。
ターミナルをまたかける。今度は、妹は眠らなかった。最後には涙目になっていた。
俺は本気で泣いていた。
さすがに、またビデオカメラを構える勇気はない。
順番に風呂に入って、早めに寝ることにする。
ベッドの中で、明日の日曜はどう過ごそうか、と、少しだけ考えた。
テスト勉強、少しくらいしておかないと。
そんなことを考えていると、いつのまにか眠りに落ちていた。
つづく
一区切りついたのでちょっと投下の間隔が空くようになるかもしれない
>>207 ないです
次の日曜も、幼馴染は当然のようにうちにやってきた。
リビングのソファに寝転がってだらける幼馴染。
テーブルに突っ伏して暑さに負けている妹。
俺は椅子に身体をもたれて全身の力を抜いていた。
暑い。
「たとえばさ、朝の六時って『早い時間』だろ?」
「そうだね」
だるそうに幼馴染が頷く。意味もなくつけたテレビでは旅番組をやっていた。
チャンネルを変える。暑さに負けない健康料理特集。妹が顔を机にくっつけたままちらりと目を向ける。
リモコンをおいて手の力を抜いた。
「でも、深夜三時って『遅い時間』だろ?」
「そうだね」
幼馴染がさっきとまったく同じ声音で応じた。
「遅い時間が早い時間より先に来るって、おかしくない?」
「そうだね」という幼馴染の呟きを最後に、言葉が途絶える。
開けっ放しにした窓から、風が一切吹き込まない。風がないのだ。ちょっとでいいから吹け。
扇風機をつけてあるが、気休めにもならない。近付くと髪が動いてわずらわしいし、遠いと涼しくない。
髪、切りにいきたい。
けど、動くのだるい。
テスト勉強どころじゃない。
夏。
網戸の向こうから蝉の鳴き声が聞こえる。風物詩。
「……暑い」
何もやる気が起きない。
このままではいけない。
何とかしてやる気を取り戻さなければならない。
しばらく無言のままの時間を過ごしていると、やがてインターホンがなった。
這うようにして玄関に向かう。客はマエストロだった。
彼を玄関からリビングに招き入れたときには、二人の少女は居住まいを正していた。どういう理屈だそれは。
「こんにちは」
にっこりと妹が笑う。
どういう理屈だそれは。
マエストロは幼馴染の姿を見つけてひどく戸惑った様子だった。
「なんで?」
「いろいろあって」
本当にいろいろあった。
幼馴染はマエストロに向かって笑いかける。だからどういう理屈だ。さっきまでのおまえたちはどこへ行った。女って怖い。
マエストロは少し怪訝そうな表情をしたものの、すぐに興味を失ったのか、堂々とリビングの椅子に座った。
女が二人いることに気後れする様子はない。すげえ。逆の立場ならこうは行かない。
「で、だ」
マエストロはカバンからノートPCを取り出した。
「電気もらうけど」
「いいけど、充電あるんじゃないの?」
「ずっとコンセント繋ぎっぱなしにしてたら数秒で充電切れるようになって」
「……どうにかしようよ、それは」
具体的な解決法は詳しくないので思いつかない。
バッテリー買い替え? どこで売ってるんだろう。
「で、これ描いたんだけど」
画像ファイルが展開される。
パステルっぽい淡い彩色のされたイラスト。
リアルっぽい雰囲気で描かれたイラスト。
アニメっぽい塗りのイラスト。
なんかすごい凝った風景。
モザイクなしのモロエロ絵。
なんてものを描いてるんだ。
「ごめん、これは間違いだわ」
マエストロがファイルを閉じる。と同時に、俺の様子を窺うようにこちらを見た。
「……おまえ、どうした?」
彼は驚いたように目を見開いた。
「え、なに?」
何か変な態度を取っただろうか。
別におかしなことはなかったように思う。
それなのにマエストロは、女だと思っていた漫画キャラが男だったと気付いたときみたいに呆然としていた。
「反応が薄すぎるだろ」
「そう、か?」
マエストロはしばらく考え込んでいた。
たしかに、マエストロの絵には、いつも強い反応を見せたような気がする。上手いし、ツボをついている。
クオリティが落ちているとか好みじゃないというわけではない。
そう考えると、確かに反応が薄いような気もした。
彼はしばらく押し黙ったあと、不意に幼馴染に目を向ける。
「……なるほど」
「なにが?」
マエストロは俺の質問には答えずにうっすらと笑う。
「なぁ、チェリー。おまえひとつ忘れてないか?」
「チェリーって言うな」
妹の前で。
肝心の妹本人はきょとんとしている。それならまぁいいや。
と、安心したところに、
「幼馴染との関係が元通りになったって、おまえが童貞だってことは変わらないんだぜ?」
――爆弾が投下された。
「どうて……え、なに?」
妹が戸惑ったように眉をひそめる。幼馴染はもう慣れた様子で、平然と麦茶を飲んでいた。恐ろしい。
なんてこと言いやがる。
が、的を射ていた。
「そうだった……」
俺は依然として童貞だった。状況は一向に打破されていない。
まいった。完全に忘れていた。
「どうしよう……」
苦悩する俺を見て、マエストロは楽しそうに笑った。自分だって童貞のくせに。
「童貞か童貞じゃないかって、そんなに重要かな」
幼馴染が心底不思議そうに言った。重要だよ。むちゃくちゃ重要だよ。
あと女の子があんまり童貞とかいうんじゃありません。
夏が近い。
どうにかしなくては、と考える。
……でも、ぶっちゃけ、そんなに焦る必要あるか?
冷静に考える。
別に、彼女ができていい感じに仲が進めばそのうちやることはやっちゃうわけで。
何も焦ることはないんじゃないか?
童貞捨てたいから女の子と付き合うっていうのも、何か違う気がするし。
マエストロは眉をひそめて悲しげな表情をつくった。
「昨日までのおまえは切羽詰ってて面白かった」
彼は寂しそうに呟く。
「今のおまえの、その妙な余裕はなんだよ。キャラが違いすぎるだろ。先週までの童貞丸出しなおまえはどこにいったんだ」
「マエストロ……」
その発言、普通に失礼だよ。
一度しっかりと行動しはじめてしまうと、だらだら過ごすのはもう難しい。
仕方ないので、冷房が効いていることを期待してファミレスに向かう。時間帯のせいか、結構空いていた。
朝食と昼食をかねた食事。味は悪くない。
数十分居座ってから、店内が混み合い出した頃に店を出る。
外に出ると太陽がうっとうしいほどに自己主張を続けていた。
入道雲。蝉の鳴き声。炎天下。汗。
「暑い」
口に出すと暑さが増したような気がした。
今の段階でこうなのだから、夏の盛りとなった頃には熱中症で倒れかねない。
「俺、帰るわ」
マエストロは汗を肩で拭いながら言う。
「うち来ないの?」
「だっておまえ、エアコンつけねえじゃん」
幼馴染がちらりとこちらの様子を窺ったのが分かった。
「まぁ、必要ないかなって」
「んなわけあるか。この暑いなかで」
マエストロが帰ったのを見届けたあと、三人で並びながら家に戻る。
暇なので、三人でゲームをする。スノボー系のレーシングゲーム。昔よくこれで遊んだ。
妹は恐ろしくこのゲームが上手いが、俺は恐ろしくこのゲームが苦手だった。
幼馴染は普通だが、順位はかなり変動する。
「エアコン、つけてもいいよ」
幼馴染はコントローラーを握ったまま言った。
何言ってるんだこいつは。
エアコンつけてると具合が悪くなるくせに。
ちょっとくらいなら平気かな、と思って青褪められた経験は忘れようにも忘れられない。
「別に気を遣ってるわけじゃないよ」
俺だってエアコンの風は好きじゃなかった。何度か試して懲りた。妹も寒がり。
エアコンをつけて得をする人間がそもそもいない。民主的な結論。
「そう?」
彼女が俺の言葉を信じた様子はなかった。なんだって俺たちは遠慮しあってるんだろう。
扇風機の電源を入れて首を振らせた。気休め程度にはなるかもしれない。
夕方までゲームをして過ごしてから、テストのことを思い出す。
勉強してない。
これはまずい。
が、まだ二週間くらいある。
大丈夫。うん。
五時を過ぎた頃、幼馴染の母であるユリコさんがやってきた。
ちなみに本名はユリコではない。どうしてこんなあだ名がついたのかは分からないが、俺の母がそう呼んでいた。
「久し振り。先月以来?」
母とユリコさんは学生時代からの付き合いで、忙しい俺たちの両親に代わってよく面倒を見にきてくれた。
最近でも、食事を一緒にとったりする。
家族全員で揃って食事をとることより祖父母と食事をとることのほうが多いが、ユリコさんと一緒に食事をとることはさらに多かった。
幼馴染と会ったのも、母親同士が友人同士だったという縁があったからこそだ。
「にしても、女ふたりに囲まれて休日を過ごすなんて、ちょっと爛れすぎてるんじゃないの?」
片方は妹だ。それにもう片方は自分の娘だろうに。爛れるとか言うな。
「夏の魔性が俺を野獣にさせるんです」
なぜかこの人を前にすると冗談を言わずにはいられない。
「ユリコさんも爛れてみます?」
四本目のコントローラーを差し込んだ。
四人でプレイする。首位は妹。二位は幼馴染。三位は俺。四位がユリコさん。
「……ねえ、コントローラーがきかないんだけど」
「いやいやいや」
正常に動作しております。
俺のコントローラーの方をユリコさんに手渡して、もう一度レースをはじめる。
首位妹。二位俺。三位幼馴染。四位ユリコさん。
「……調子悪いなぁ」
「いやいやいや」
そんな素振り全然見せていなかった。
その後、何度もステージを変えてプレイしたけれど、一位と四位は全部同じだった。
「……もういっかい。もういっかいだけだから」
「もう六時になりますよ」
ユリコさんは負けず嫌いだ。
その後、ユリコさんに誘われて幼馴染の家で夕食をご馳走になる。
焼肉。
遠慮はいらない、と自分で思った。
ばくばくと食べる。
「調子に乗りすぎ」
ユリコさんの不興を買った。
「夏の太陽が俺をおかしくさせるんです」
「もう日、沈んだから」
ちょっとだけ遠慮しながら食べた。
どうせならお風呂も入っていけば、と勧められる。
せっかくなので好意を受け取ることにした。
「一緒に入るか」
「調子に乗りすぎ」
妹の不興を買った。
「私と一緒に入る?」
幼馴染が真顔で言った。
「なんばいいよっとねこの子は」
思わずシリアスに突っ込む。
このところペースが乱れっぱなしだ。
「どうせだから泊まっていけば?」
「調子に乗りすぎです」
無礼を承知で俺が言う番だった。
丁寧に断る。風呂まで入っておいて今更だが、一応テスト前だし勉強もしたい。
お礼を言って、家に帰ることにした。
いつものこととはいえ、もてなしが過度でちょっと遠慮してしまう。
「またきてねー」
笑顔のユリコさんに見送られて玄関を出た。おじゃましました。ごちそうさまでした。
日曜の和やかな夜が過ぎていった。
その夜は、ぐっすりと眠ったが、変な夢を見た。
夢の中、俺は夕方の教室で「なおと」と一緒にいた。
「なにやってるんだよ相棒」
なおとは困ったような声音で言う。
「らしくないよ……女の子と一緒の週末なんてらしくない」
余計なお世話だ。
俺は冷静に返事をする。
「よく考えてもみろよ、なおと。俺が何の代価も支払わず女子と一緒にいるなんてありえないじゃないか」
夢の中の俺は、なんだか紳士な口調だった。
「つまり……?」
「つまり、だ。両津が金儲けに成功したあとに調子に乗りすぎて自滅するように、予定調和があるんだよ」
「予定調和?」
「爆発オチとか、そういう類の。上手く行っているってことは、悪いことが近付いているとみたね」
「たとえば?」
「たとえばだ。明日、朝起きたとする」
「そいつはびっくりだ」
「まだ何も言ってねえ」
思わず紳士口調が取れてしまうほど、なおとの反応は適当だった。
「明日の朝、目が覚めたら、俺に妹なんていないんだよ」
「……ん?」
「幼馴染もいない。全部妄想なんだよ」
「……そいつは予定調和って言うより、一炊の夢だ」
「もしくは幼馴染はいてもいい。ただ、普通に先輩と付き合ってるって可能性もあるな」
「もうちょっと前向きにものを考えられねえのか」
「じゃあ、明日朝起きたら、妹に彼氏ができてて、夜、遊びに来る。お兄ちゃん、外行っててくれる? って言われる」
「前向きになってないな」
「とにかく、何かあるはずだ。絶対だ。今までのはサービスタイムみたいなもんなんだよ。ここから地獄のどん底に叩き落されるに決まってる」
なおとは不可解そうにうなった。
「つまり、嫌な想像をしておくと、ちょっと嫌なことが起こっても平気だっていう感じの、心のバリア?」
「それをいわないで」
なぜそこまで的確に俺の心を読むのか。
良いことは続きすぎると怖い。
いつ悪いことが起こるのかと。
「やっぱり臆病者だな、いつもの相棒だ」
「失敬な奴だなおまえは」
俺のどこが臆病だと言うのか。ぜひ説明してみて欲しい。
そう思ったときには、なおとの姿は見えなくなっていた。
しばらく俺は教室にひとりで取り残されていた。
置いてけぼりの気持ち。
絆創膏だらけの指。
場面変わって、俺はベッドに横になっていた。
仰向けに寝転がっている。不意に、タオルケットの内側に誰かの気配を感じた。
自然な表情で、妹が眠っていた。今より少し幼い顔。泣き腫らした跡。
冷蔵庫にしまいこんだバースデイケーキ。
蒸し暑い夜なのに、妹は決して俺から離れようとしなかった。
仕方ないな、と俺は思う。いろいろなことが仕方ない。
両親が来れないのも、妹が悲しいのも、俺にはどうしようもないのも。
妹の寝顔をしばらく見つめていると、なんだかよく分からない気持ちが湧き上がってくる。
自分が甘えてるんだか甘えられてるんだか分からなくなる。混乱する。そういうことはよくあった。
なんだか落ち着かない気持ちになって、俺は意地になったように眠ろうとする。
けれど、寝ようとすればするほど、逆に目が冴えていく。
仕方ない、と思う。
寝付くまではしばらくの時間が必要だった。妹の寝息を聞きながら瞼を閉じる。一緒にいる、という感覚。
不思議だ、と思いながら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった
つづく
夢の内容を覚えていたので、意識がはっきりしたあとも、目を開けるのが少しだけ怖かった。
まさか、本当に妹がいなくなっているということはないだろうけど。
まさか、幼馴染が先輩と付き合ってなかったというのが夢だったわけではないだろうけど。
考えごとをしながら身体を揺すると、なにかの感触があった。
目を開くと、腕の中に妹がいた。
強く動揺した。
顔が近い。
いったいなにが起こったというのか。
なぜこうなった。
「……起きた?」
妹は心底困り果てたような声で訊ねた。
頷きながら、状況を分析しようとする。
なんだ、これ。
「起きたんなら、放してほしいんだけど。腕」
言われてから、自分が妹をなかば拘束していることに気付いた。
目を開けるとそこには妹が……って、さすがに驚く。
妹を解放する。
彼女はベッドから起き上がって居住まいを正した。
落ちつかなそうに視線を動かしながら、後ろ髪を撫でている。
なにがどうなった。
混乱する俺を尻目に(以前も言ったように尻目という言葉には独特の卑猥さがあるが、今はそんな場合ではない)妹は部屋を出て行った。
「朝ごはん、できてるから」
気まずそうな顔をしたまま去っていく。
ひょっとして記憶が飛んでるんじゃなかろうか。
携帯を開く。
月曜。昨日の記憶もはっきりとしていた。
なにが起こったのか、妹は結局説明してくれなかった。
「なんていうか」
通学路を並んで歩いていると、不意に幼馴染が口を開いた。
「シスコンだよね。妹ちゃんもブラコンだけど」
自覚はある。
「たぶん、寝ぼけて布団の中に引きずり込んでしまったんだと思うんだけど」
でも、それなら殴られるような気もする。反応がおかしかった。
ギャルゲーかなんかなら、寝てる間にキスでもされてるところだろうが、現実なのでありえない。
考え込んだ俺の姿を、幼馴染がじとりと睨んだ。
「なに?」
「別に、なんでもないよ」
言葉の割には不服そうな表情をしていた。
教室についてからは幼馴染と別行動をとった。
先週までのことを考えれば、突然一緒に行動するようになるのは不自然だというのもあるが、以前からそういうところがあったのだ。
お互い、教室にいるときはあまり話しかけあわない。
なにか理由があってのことではないが、いつのまにかそうなっていたし、特別不満は感じない。
急に手持ち無沙汰になる。
先週までどうやって過ごしていたかを思い出せない。
佐藤たちの大富豪に混ざったり、マエストロが俺の席で薄い本を読んでいたり。
思い返しながら佐藤たちの方を見る。今日も今日とて大富豪に興じていた。
俺は佐藤たちの円に割って入って大富豪に参戦した。
「今度は負けないぜ?」
佐藤は苦笑していた。
今日の俺は絶好調だった。2が一枚、Aが三枚、ジョーカーが一枚。
3も4もある。絵札も充実している。これならいける、と俺はほくそえんだ。
最初は様子をうかがうように強い数字を出し惜しむ三人に対して、絵札を駆使して一気に攻める。
強い数字を出し切ってから、A三枚とジョーカーで革命を起こす。ワイルドカード。
あとは大きい数字の順に出していくだけだ。
俺は勝利を確信しながら9を出した。
続く佐藤が、8を出した。八切り。
初手を取った佐藤は6を三枚とジョーカーで革命を起こす。
結果、俺は大貧民だった。
「……おかしいだろ、あの手札で勝てないって」
佐藤は困ったように笑っていた。
昼休みになってすぐ、あくびが出た。大きく伸びをすると、筋肉が心地よくほぐれていくのを感じる。
ひさびさに授業に集中できた気がした。
妹が作った弁当を持って屋上へ向かう。結局月水が妹で、火木が幼馴染らしい。
屋上には、相変わらずの顔をした屋上さんがいた。
ポニーテール。退屈そうな視線。サンドウィッチをもさもさと食べる。
土日振りに見る彼女の姿は、先週までと少しも変わりなかった。
俺は彼女の隣に座って弁当をつつく。彼女は俺を一瞥したあと、視線をフェンスの向こうに送った。
「ツバメでも飛んでるの?」
「それが、いないんだよね」
月曜だからか、彼女は少し眠たそうだった。
沈黙が落ち着かなかったので、適当な話題を屋上さんに振る。
「テスト勉強してる?」
「まぁ、そこそこ」
俺は全然してない。
……本当にしてない。
「それはともかく」
分の悪い話題だったので話を逸らした。
自分で振っておいて、という顔で屋上さんがこちらを睨む。俺のせいじゃない、星の巡りが悪かったんだ。
「このまえさ、グーグルで『堤防』って入力して画像検索したのよ」
「突然なに?」
「したらね、すげえの。なんか癒されるの。あ、この町住みたい、って思うよ、きっと。今度やってみ?」
感動を伝えようと興奮するあまり口調が変化した。
でも、よくよく考えると喋り方なんていつも安定してないし、まぁいいか。
「こりゃあすごいと思って、次は『海』って検索したよ」
「そうしたら、どうなったの?」
「沖縄に行きたくなった」
湘南でもいい。なんか、海っぽいところであればどこでもいい。夏だし、どうにかしていけないものか。海。
この街から海を見に行こうとすると、車で一時間から二時間。自転車でどうにかできる距離じゃない。
「で、画像検索が楽しくなって、今度は『水着』で検索した」
「そしたら?」
――めくるめく肌色世界がそこにはあった。
「ごめん、言わなくてもいい。だいたい想像ついたから」
屋上さんは察しがいい。
昼食を食べ終えてから教室に戻ると、茶髪に声をかけられた。
「ネタバラシされたんだって?」
何の話か、と考えて、すぐに思い当たる。
幼馴染のことだ。
「茶髪、知ってたの?」
まぁね、と彼女は頷いた。幼馴染の言葉を思い出す。
――友達に、一度、相談したの。
こいつか。
「まぁ、元気が出たようで何よりだな、チェリー」
「いやまぁ」
あまりそのあたりには触れてほしくない。反応に困るから。
茶髪との話を終えて自分の席に戻る。授業の再開を待っていると、教室の入り口で誰かに呼び出された。
メデューサがそこにはいた。
彼女は俺を見て、一瞬だけ顔を強張らせた。
一瞬だけ警戒しかけたが、先輩が大丈夫と言っていたのを思い出す。実際、彼女は何もしてこなかった。
メデューサは気まずそうに俺から目を逸らす。ちょっとどきどきする。
「……あの」
「はい」
「……ごめんなさい」
謝られた。
なぜだか後ろめたい気分になる。
「私、自分のことしか考えられないというか、周りの様子が見えなくなるというか、感情的に行動してしまうというか、
ダメなのは分かってて直そうとしてるんだけど、どうしてもこう……」
メデューサはその大きな瞳を伏せた。
「ごめんなさい」
メデューサは謝った。俺はなんと返せばいいのか分からなくなった。
例の罵詈雑言はすさまじく恐ろしかったが、別段傷ついたりはしなかったし、実害はこうむっていない。
腹は立ったが、それは俺がそう思うからであって、メデューサからすれば自然な行動だったのだろう。
「別に怒ってませんよ」
自分のことしか考えられない、周りの様子が見えない、感情的に行動する、というのは別段悪いことではない。
周囲のことばかり気遣って、いつも周りとの距離を測っている、理性的な人間。
そういう人間よりは好感が持てる。
とはいえ、さんざん好き勝手言われたのは事実。何も悪いことしてないのに責められて、少し落ち込んだ。
だから、いいところと悪いところを相殺するということにした。
プラスマイナスゼロ。
「先輩に怒られました?」
「……君を呼び出したことには、うん」
「ならいいです」
メデューサは不思議そうな顔をしていた。
そのとき、チャイムが鳴った。メデューサは俺の方を気にしながらも、慌てて去っていった。
放課後、帰る前に携帯を開くとメールが来ていた。妹。
買い物に行くから手伝って欲しいという旨。
了解の返信して、教室を出た。
家について荷物を部屋に置く。間を置かずに妹が帰ってきた。肩を並べて玄関を出る。
ファミレスやコンビニを通過してさらに五分歩く。いつも行く古いスーパー。
店内に入る。ひんやりとした冷房の空気。
生鮮食品が並ぶ。魚、肉、野菜、果物。
「今年、スイカちっちゃいよね」
「メロンくらい小さいな」
昔はもっと大きかった気がする。あるいは俺たちが知らず知らず歳を取ったのか。
そうかもしれない。毎年こんな会話をしている気がする。
「なにが食べたい?」
「ハンバーグ」
素直に答えたら変な顔をされた。
「……今、子持ちの主婦の気持ちが分かった気がする」
俺が子供ですか。
「どんな感じ?」
「しょうがないな、って気持ち」
完全に子供扱いだった。
妹は商品を次々とカゴに突っ込んでいく。
麺系の食品が多かった。ハンバーグに関係がありそうだったのは、合挽き肉とハンバーグヘルパーのみ。
楽だしね、ハンバーグヘルパー。
俺はカゴを持ちながら妹が買い物をする様子を見ていた。
不意に思うところがあって、その横顔に話しかける。
「なんか欲しいものとかある?」
「……そういうあからさまな質問、される側としてはすっごく困るんだけど」
察された。
もうすぐ妹の誕生日なのです。ちょうどテスト明けの日曜。
「今のところ、何か思いついてるの?」
「そうあからさまに訊かれると、考えてる側としてはすごく困るわけですが」
まぁ、別段サプライズを狙ったわけでもなし。
「夏だし、浴衣がいいかなと思ったんだけど」
「浴衣て」
妹はあきれ果てたような表情になった。
「いくらするか知ってる?」
「安いのなら一万は超えないでしょう」
贈る側の言葉としては最悪だった。
「そりゃそうだけど、いくら安くてもプレゼントにさらっと出す金額じゃないでしょ」
「うん、まぁ」
「第一、どうせ夏祭りのときくらいしか着ないし」
「うん」
「着付けできないし」
「うん」
サイズが分からないし、柄のこともあるので、結局は没になった案なのだが。
そもそも自分で選んだ方がいいだろうし、夏祭りの前にはどうせ買うことになるだろうから。
どちらにせよ、なにを選ぶにせよ、結局、俺の金というよりは、親の金で買うのだから格好がつかない。
「じゃあ、いらない?」
妹は少し黙ってから、
「……そうじゃないけど」
呟いた。
照れていたらしい。
着付けはユリコさんに頼もう、と密かに誓った。
「でも、浴衣は、ちょっと、だめ」
「なんで?」
「もったいないもん」
よく分からないことを言う。
「年に一回だけでしょ、着るの。どうせならいつも使うものがいい」
難しい注文をされた。
「つまり、俺をいつも感じていたいと」
「そうじゃなくて」
渾身の冗談だったが、あっさりとかわされた。
「せっかくだからね」
とりあえず、何か考えておこう
荷物を二人で分けて運ぶ。全部を持とうとしたけれど難しかったし、意地を張るほどのことでもなかった。
帰り道では、どちらも言葉を発しなかった。やがて家に着くというところで、突然強い雨が降り出した。
慌てて家に入る。さいわい少し濡れただけで済んだ。
開けっ放しにしていた窓を閉める。家中の窓を確認してから料理を手伝おうとキッチンに向かったところで、妹の大声が響いた。
「わあっ! うわあっ! いやあ!」
ほとんど悲鳴だった。
慌ててキッチンに入ると、緑色の何かが飛び跳ねていた。
「かえる! かえるー! かえるがいる!」
めちゃくちゃ怯えていた。
かくいう俺も、
「うわあ! なんだこいつどっから入った! こっちくんな! あ、そっちにもいくなっ!」
半狂乱だった。
最終的にはなんとか蛙を屋外追放できたが、他にも隠れているんじゃないかとしばらくのあいだ落ち着かなかった。
いつから蛙を怖がるようになったんだろう。大人になったのかもしれないなあ、と少し切ない気持ちになった。
料理の手伝いを申し出ると、ひたすら合挽き肉とハンバーグヘルパーを混ぜ合わせたものをこねさせられた。
言うまでもなく夕食はハンバーグだった。いつのまに用意したのかデミグラス的なソースまであった。
その夜はずっとプレゼントのことを考えていたが、いいと思える案はなかなか浮かんでこなかった。
つづく
テストが着実に近付いていた。
ろくに勉強もしないまま、テスト前期間はあっという間に過ぎていく。
サラマンダーやマエストロはなんだかんだで真面目な人種で、残された時間を使って器用に勝率を上げ続けているだろう。
幼馴染も一見普段どおりだったが、彼女はそもそも普段から少しずつ勉強しているタイプだった。
屋上さんは部活がないとストレスがたまるらしく、微妙に声をかけづらい雰囲気だったが、相変わらずツナサンドをかじっていた。
一応、俺もテスト勉強はしていたものの、どこまで効果があるかは怪しいものだった。しないよりはマシだと信じるしかない。
一問でも解ける問題が増えれば、点を取れる確率はあがっていくわけだし。
テスト開始前日、幼馴染と妹の誕生日について話をした。
「プレゼント、決まってるの?」
「いや、それが……」
まだ決まっていない。
CDや本なんて買っても喜ぶタイプじゃないし、化粧品だとまだ早いような気がする。
かといって服なんかは自分で選びたいだろうし、アクセサリーは買っても学校につけていけない。
ぬいぐるみなんかを喜ぶタイプでもない。難しい。
「去年はなんだったっけ?」
「エプロン」
それまで使っていたのが家に置いてあった母のお下がり(ろくに使ってない)だったので、新しいのを買ったのだ。
あまりわざとらしいのは個人的に嫌だったので、水色のシンプルなものにした。気に入ってるらしい。
「とりあえず、考えてもちっとも思いつかないので、土曜につれまわして自分で選ばせることにした」
幼馴染は微妙な顔をしていたが、比較的マシな案だと思えた。
そこで俺が選んだものと妹が欲しがったものを渡せば一石二鳥。我ながら良い案。
「おじさんたちは?」
幼馴染が尋ねる。少し戸惑った。
「いつも通りだな」
彼女は納得したように頷く。
「まぁ、当たり前っていったら当たり前だけど」
「そうでもないだろ」
「そう?」
彼女は不思議そうに首をかしげる。俺が間違っているような気分になってきた。
俺たちは当たり前だと思ってはいけないのです。
昼休み、屋上にいくと、彼女はやはりそこにいた。
屋上さんはサンドウィッチを食べながら単語帳をめくっている。
「……お勉強ですか」
もぐもぐとサンドウィッチを咀嚼しながら彼女は頷いた。
「ねえ、屋上さん、自分が誕生日プレゼントをもらうならなにがいい?」
参考までに訊いてみることにした。
「なんでもいいかな」
気のない返事。
「なんだってうれしいもんでしょ。プレゼントって。あることが重要なのであって」
適当かと思えば、案外まじめな意見。
とはいえ何の参考にもならなかった。
「じゃあ、兄弟っている?」
「妹が二人」
「誕生日にプレゼントってあげてる?」
「まぁ、一応ね」
頷いてから、彼女は俺に疑問を返した。
「誰かの誕生日?」
「妹」
「いるんだ」
彼女は少し意外そうにしていた。
話題がなくなる。俺は必死になって頭の中をあさり話の種を探した。
できれば夏休みになるまえまでに距離を詰めておきたいという下心。
四十連休の間、ずっと会わなかったら忘れられてしまいそうだ。
とはいえ、本当に距離が縮まったら、それはそれで戸惑ってしまうだろう。
このくらいの距離感がちょうどいい、という見方もできる。
ずるいかもしれない。
「ところで屋上さん、ちょっと気になったんだけどさ」
「なに?」
「たとえばここで、女子が着替えてるとするじゃん?」
「何言ってるの?」
頭大丈夫? 的な目で見られる。
「でさ、じっと見てるとするよね、俺が」
心配そうに見つめられる。
照れる。
「でも、下着とか一切見えないんだよ、不思議と」
「さっきから何が言いたいのかまったく分からないんだけど」
「たとえば屋上さんが制服からジャージに着替えるとするでしょう」
「ええ」
「そのとき、屋上さんはスカートのまま下にジャージを履いて、そのあとスカートを脱ぐよね?」
少し考え込んだ様子の屋上さんは、やがて「ああ」と納得するような声を漏らした。
「それが?」
「女の子っていつのまにああいう技術を習得するの?」
彼女は少し呆れてながら、ちょっとだけ考えて、俺の疑問に答えてくれた。
「たぶん、男子の着替えって、周りに人がいても気にしないんだよね?」
「ああ、まぁ」
男子同士でも気にならないし、女子がいても、別になんとも思わない。
騒がれたらまずいので目の前では着替えないだけで。
「でも女子って、男子だろうと女子だろうと、見られるのが嫌なわけね」
「……女子だろうと?」
「女子だろうと。ていうか、男子なら恥ずかしいだけだけど、女子だと本当に見られたくない」
なんとなく理由は想像がつくものの、今まで気付きもしなかった感覚だった。
「それで、毎回毎回隠しながら着替えているから、もはや習性」
習性。面白い言葉が出た。習性だったのか。
和やかな会話をしながら、屋上さんと昼食をとった。
テスト前日の夜は必死に勉強をした。
一夜漬け。とはいっても付け焼刃にしかならないと分かっていても、必死になってノートにかじりつく。
早めに眠って、翌日に備える。万全の準備をした。
が、それだけ前準備をしていたにもかかわらず、終わってみればテストの手ごたえはほとんどなかった。
「だいたいさ、おかしいだろ」
俺の呟きに、幼馴染は心底同情するような視線を向けた。
「だって、テストに出ることってだいたい教科書に載ってるじゃん。だったら、分からないことがあったら教科書を見ればいいわけで」
俺は大真面目に言ったつもりだったのだが、彼女は苦笑するだけで同意はしてくれなかった。
元素周期表なんてものは必要としている奴が壁にでも貼っておけばいい。本当に必要としているならそのうち覚えてる。
家に帰ってからもしばらく憂鬱な気分は続いたが、終わったことをずっと考えていても仕方ないので、俺は土曜日のことを考えた。
一応、妹に行き先と目的を告げて出かけることは言ってある。
財布をいつもより厚くしておく。
妹だけに決めさせるのも申し訳ないので、俺もいくつか案を考えておいたが、実際に見て気に入ったものがあればそれにすればいいだろう。
ベッドに倒れこんで一日の反省をした。
勉強、せねばなるまい。
蝉の声に耳を傾けてしばらくぼーっとしていると、あるときを境にその音が耳が痛くなるほど大きくなった。
窓に目を向けると、蝉が網戸に止まっていた。
「おお! すげえ! 近い!」
思わず携帯で写メる。
蝉の腹の画像がデータフォルダに保存された。
夏だなぁ。
網戸を一度開けて、がんっ! と閉めなおした。蝉は羽を広げてどこかに飛んでいく。
もう一度がらりと開ける。青い空が広がっていた。
「夏――――ッ!」
思わず叫ぶ。
近所の犬が呼応するように吼えた。
子供たちの笑い声が聞こえる。
テストは終わった。
もう夏休みは目前だ。
土曜は近場のショッピングモールへと行った。
日用品から服、インテリア、楽器屋、靴屋、雑貨屋、ギフトショップ、アクセサリーショップ、ペットショップ、フードコート。
大小含めておびただしい数のテナントが並んでいて、大勢の人々がさまざまな店に出たり入ったりしている。
冷房の効いた店内に入っても、人波は独特の熱気を持っていてとても涼めはしなかった。
店が多いのはいいものの、おかげで一日で回りきれるほどの広さではない。
ある程度目的を決めて動かないといけない。
とりあえずぼんやりと決める。
服屋はなしにして、鞄、財布なんかを回るのがいいか、それとも小物か、アクセサリーか。
考えるのが面倒になったわけではないが、妹に先導をまかせて後をついていくことにした。
普段はあまり来ないところだからか、妹はいつもよりはしゃいでいた。
人ごみは得意ではないはずなのに、疲れた様子を見せることもない。
この反応だけで、まぁいいか、と思ってしまう。
雑貨屋を回る。クッション、ペン立て、本棚、クッション、ぬいぐるみ、さまざまなものが置いてあった。
妹はいろいろなものを触ったりしながらいろいろと見て歩いた。
俺も追いかけながら、いろいろと手にとってみる。
次にアクセサリーショップを見に行くが、これにはあまり食指が動かないようだった。
いつも身につけていられるとはいえ、金額も相応だし、学生はおおっぴらには付けて歩けない。
そもそも兄にプレゼントをされたネックレスやらなにやらを身に付ける女子というのも微妙な塩梅だ。
そうなるとやっぱり家の中で使うものがいいだろう。あるいは財布のようなもの。
「財布は、別になあ」
と妹は言う。そもそも財布にこだわる感覚が分からないのだろう。
使いやすくてあまりデザインのひどくないものなら何でもよさそうだ。
しばらくいろんな店を見て回ると、あっというまに昼時になった。
混み始めてからだと困るので、早めにフードコートへ向かったが、それでも人は大勢いた。
昼食にラーメンがいいんじゃないかと提案したところ、妹がひどく不機嫌になった。ラーメン、悪くないのに。
仕方ないのでハンバーガーにする。これも妹は少し難色を見せたが、他よりはマシと判断したらしい。基準が分からない。
「こうしてると、デートみたいだね」
と、言ってみた。俺が。
「馬鹿じゃないの?」
反応は辛辣だった。ひでえ。
腹ごしらえを終えて、少し休憩していると、聞き覚えのある声に話しかけられた。
後輩だった。
「どもっす」
「おす」
「どうも」
後輩は前にファミレスで会ったときと変わらない様子だった。
「デートすか」
「デートっす」
「違います」
示し合わせたような会話に、後輩はけらけら笑う。
「そっちはデート?」
「ああいや。家族です」
彼女はちらりと遠くの席を見た。
少しの間、話をしていると、食器の載ったトレイを持ったまま後輩に誰かが話しかけた。
どこかで聞いたような声だと思って振り向いたが、その顔に見覚えはなかった。
太い縁の赤い眼鏡。まっすぐ下ろした髪。その表情はどこかで見たことがあるような気がした。
彼女は一瞬だけ俺を見ておかしな反応をした。その直後、後輩を置き去りにして早々に去っていく。
「待って、ちい姉!」
後輩の言葉を耳ざとく追いかける。ちい姉。「ち」がつく知り合いはいない。たぶん気のせいだったのだろう。
「それじゃ、私行くんで。デート楽しんでください」
「デートじゃないです」
後輩は颯爽と去っていった。スタイリッシュ。
混み合ってきたフードコードを出る。人の出入りが多い。はぐれないようにあまり離れないように注意する。
「手でもつなぐ?」
「冗談でしょ」
半分くらい本気だったが、そう言われては仕方ない。
結局さっきの雑貨屋が一番よさそうだったので、その中を歩いてみることにする。
「マグカップ。どうよ?」
無難なものを押す。
妹は満更でもなさそうだった。
長い間、彼女はさまざまなマグカップの形や色や柄を眺めていた。
やがてこれだというものを見つけたらしく、俺に向けてそれを得意げに抱えた。
外側が黒く塗られた、シンプルな形のものだった。
一瞬怪訝に思う。本当にこれでいいのか? 受け取ってよく観察してみると、側面に小さな猫の後ろ姿が白線で描かれていた。
そしてその足元にはアルファベットが並んでいる。不器用そうなフォントで『can't sleep...』。切なげな猫だ。
「これでいいの?」
真っ黒というのも変なものだと思う。
「うん。これがいい」
いたく気に入ったらしい。そこまで言うならと早々に決定した。
満足顔の妹を横目に笑う。安上がりな奴。もうちょっと贅沢をしても誰も責めないのに。
俺はレジに寄る前に写真立てのコーナーを探した。少なくない種類がある。どれも同じに見えたが、一応意見を聞いておいた。
「どれがいいと思う?」
妹はよく分かっていない顔をしていたが、それでもちゃんと選んでくれた。シンプルであまり気取っていない木製のもの。
カメラは帰りに使い捨てのものでも買うか、と思ったが、デジカメがあるのでそれをプリントすればいいと気付いた。データのまま保存できるし。
写真屋で現像を頼むことなんていつの間にかなくなった。
せっかく来たのでもう少しだけ回って歩こうかとも思ったのだが、割れ物を持ち歩くのは少し怖いし、人ごみに疲弊しつつもあった。
早い時間だが家に帰ることにした。
妹は帰る途中も期限をよくして鼻歌を歌ったりしていた(鼻歌は歌うで合っているのだろうか)。
最近は「馬鹿が割り増しになったよね」とか言われることもなかったし絶対零度の視線を浴びせられることもなくなった。
良い傾向なのか悪い傾向なのかは分からない。
まぁ、考え事をしたって仕方ないし、と割り切る。
家に帰ってからひとりで買い出しに出た。
自分で自分を祝う食事を作るのも妙な話なので、明日の食事の準備は俺がすることになっている。
せっかくなので大量に作ることにした。豪勢に。好きなものを。
買い物を終えて家に帰ると幼馴染とユリコさんがいた。
どうやら妹の誕生日前日ということで、プレゼントを置きにきたらしい。
彼女たちはプレゼントを妹に渡してわずかに言葉を交わしたあと早々に帰っていった。
その後俺たちは夕飯をとってリビングで暇を持て余した。
テストが終わったばかりで、何もすべきことが見当たらない。
とにかく映画でも観るかと思ったけれど、もう見飽きたものばかりで見たいものがない。
結局その日は何もせずに眠った。
後で聞いた話だが、幼馴染からは熊のぬいぐるみ的ストラップ、ユリコさんからは熊型目覚まし時計だったらしい。
なぜ熊なのかは疑問だが、本人が気に入っているようなのでよしとする。
翌日。
基本的にはいい親ではない両親も、妹の誕生日だけはきっちりと休みを取る。
というのも、一度大幅に遅刻した際に妹がかなりのダメージを負ったからだ。
大泣きした。後にも先にもあんなに泣いたのはあのとき限りだ。
普段忙しい人たちで、ゆっくり話をすることも難しいので、特別な日くらいは帰ってきてほしいと思ったのだろう。
その日は結局待ちきれずに先に寝てしまった。かなり落胆していたのか、その日は同じ部屋で寝ようとしたほどだった。
実際、同じ部屋の同じベッドで眠ろうとしたが、それは今は関係のない話だし、俺が役得を感じていたかどうかもどうでもいいことだ。
結局二人が帰ってきたのは日付が変わる頃だった。
物音で目を覚ました俺たちは、両親を出迎えた。嫌な見方をすれば、彼らとしてはなんとか体裁を整えられたということだ。
間に合ったといえば間に合ったけれど、間に合わなかったといえば間に合わなかった。
生活が切迫しているわけでもないのに、それでもどちらかが仕事をやめたりしないのは、やっぱり好きだからなのだろうか。
ふて腐れるような歳ではないにせよ、あんまり面白くない。もうちょっと家庭を顧みろ。
日曜の朝、妹と二人で朝食をとっていると、父が寝室から出てきた。寝癖をつけたまま。
仕事に行くときはぴしっとしているが、家にいるときはひたすらにだらしない。
おはよう、って言うとおはようって言う。挨拶は魔法の言葉です。
三人でダイニングテーブルに向き合って食事をとる。今度は母が降りてきた。
両親の分も食事を用意するのは妹だった。世話を焼いているだけで楽しそうなのでよしとするが、あまり釈然としない。
とはいえ俺も甘んじて世話を受けているわけで、まぁ人のことはとやかく言えない。
だらだらと一日を過ごす。
遠出をしても疲れるし、ゆっくりと過ごすのが休日の正しい過ごし方。
我が家に安心を見つけることで、人々は安らぎを得ることができるのです。
会話がないが、誰かがそれを不服に感じることはない。
仕事の話なんて聞いたところでちっとも面白くないし、学校のことを話したって仕方ない。
ぼんやりテレビを見ながら、それでもリビングに揃う。
二時を過ぎた頃、渋る三人を押し出すようにして出かけさせた。とりあえず店でも回ってきて、帰りにケーキでも買ってくるといい。
「いかないの?」
妹が尋ねる。
「晩御飯は腕によりをかけようと」
不服そうだったが、俺がいないほうが両親も落ち着いて妹と話せるだろう。両方いるとどっちと話せば良いか分からないだろうし。
五時半を過ぎた頃に料理を始める。久々だったので道具の位置やらなにやらで手間取った。
その頃にちょうど三人も帰ってくる。どこに行ったかは分からないが、とりあえず満足そうだった。
寝転がりたがる三人を無理やり並ばせてデジカメで写真を何枚か撮っておいた。
その後、母親が料理の手伝いをしたがった。はっきり言って足手まといだったが、せっかくなので手伝ってもらう。
料理が作りおえてテーブルに皿を並べた頃、ちょうど六時を回った。
たいして苦労したわけではないが、見栄えだけは良かったし量も多いので迫力があった。
父が大食漢だということを考慮したうえでの量だったが、あっというまに減っていった。
食事の後、少し時間を置いてからケーキを切り分ける。なぜか巨大なホールケーキだった。
明らかに余る。
蝋燭に関しては妹が嫌がったので省略した。そういうこともあるだろう。母は残念がっていた。
イチゴの乗ったショートケーキ。シンプル。バースデイケーキ、という形。示唆的。
「おめでとう」
「ありがとう」
ごく平凡(少し過剰なほど)な家族の誕生日が過ぎていった。
買い物に行ったときに、プレゼントはもらったらしい。何をもらったのか聞くつもりはなかった。
両親はリビングに残って買ってきたと思しき酒を飲んでいた。
夫婦水入らず。二人揃うのも久しぶりなのだと思って放っておく。
さっき撮った写真を大急ぎでプリントアウトした。
渡さずにいた写真立てに写真を入れて、妹の部屋に行く。
俺がドアを開けたとき、彼女は疲れてベッドに倒れこんでいたようだった。
「ほれ」
気安げに渡した。照れ隠し。
妹は少し驚いていた。素直に感謝される。照れる。
妹はなんだか微妙そうな顔をしていた。良いことが続きすぎると怖くなるものだ。
「一緒に寝るか?」
軽口を叩く。
「馬鹿じゃないの?」
いつもの調子で言われた。
とりあえず、今日はそこそこがんばった方じゃないかな、と思う。
つづく
週明けにはテストが返却され始めた。点数は思っていたよりも悪くなかった。
せっかくなので誰かと点数勝負がしたくなった。
キンピラくんに声をかける。
「点数勝負しようぜ」
「なんで勝負なんだよ」
「男だからだよ」
男ならしかたない、とキンピラくんは納得したようだった。
「全教科の合計点数を競う。もし俺が負けたら、なんでもしてあげるよ。三回回ってワンと鳴くくらいなら」
「おい、結構『なんでも』の幅が狭えぞ」
俺はキンピラくんの言葉を無視した。
「もし俺が勝ったら……」
「勝ったら?」
「お……」
俺は大真面目に言った。
「俺とメル友になってください」
「何言ってんだおまえ」
心底心配そうな目で見られた。友達ほしい。
「じゃあ、もし俺が勝ったら」
「勝ったら?」
「俺の分の夏休みの課題、全部やってもらう」
「あ、ごめん。俺ちびっこ担任に用事あったんだわ」
「逃げんなてめえぶっ飛ばすぞ」
シリアスに言われる。負けるわけにはいかなくなった。
手始めに既に返ってきている答案の点数をお互いに言い合う。
圧勝していた。
この分だと俺の勝利は確定的だ。
それなのにキンピラくんは自分の勝利を微塵も疑っていないようだった。
何が彼に自信を与えてるんだろう。間違いなく自信だけが先走っている。
俺は不敵な笑みを浮かべるキンピラくんに少しだけ同情した。
結果から言ってしまうとキンピラくんとの勝負に俺は勝った。
全教科の答案が返却されたのち、赤外線で互いのアドレスを交換しあう。
「毎日電話するね、ダーリン!」
語尾にハートをつけた。
「もう死ねよおまえ」
キンピラくんは辛辣だったが、俺はご機嫌だ。
携帯のメモリにまたデータが増えた。
試しに適当な文面を送信する。
キンピラくんは律儀にも返信をくれた。
怒りマークの絵文字。
微笑ましい気持ちになる。
彼が意外とメール魔だと気付いたのは夏休みに入ってからだった。
学期最後の週、屋上さんと昼休みに遭遇する。
もはや日課と言ってしまってもいいほど、彼女と一緒に昼食をとることが多くなった。嫌がられることも不思議とない。
とはいえ彼女と話すこともだいぶ消費され尽くしてしまい、既にほとんど会話と言えるものは生まれない。
老夫婦のような空気。
と、前に口に出して言ったら「いっぺん死ねば?」と言われた。
口は災いの門である。
屋上さんに夏休みの予定を聞いたら、彼女は押し黙ってしまった。
「……部活」
長い沈黙のあと、彼女は短く呟いた。
「他には?」
「なにも」
彼女は苛立ちをぶつけるようにハムサンドをかじった。
「じゃあ俺と遊ぼう」
誘ってみた。
「なんで?」
嫌そうだ。
「え、だめ?」
「ダメ」
ダメらしい。それなら仕方ない。
弁当をつつきながら屋上さんのことを考える。
俺が彼女について知っていることなんて、名前と顔と学年くらいだ。
あと妹がふたりいる。その程度。
距離が縮まっているようで、まるで縮まっていない。
屋上さんはハムサンドを食べ終わると今度はタマゴサンドをあけた。数個用意してあったらしい。
「食べる?」
俺は差し出されたタマゴサンドを受け取った。美味い。
もしゃもしゃと咀嚼ながら彼女の方を見上げる。
強い風が吹いた。
ぱんつ見えた。
――久しぶりだなぁ。
しばらく沈黙が落ちた。
「見た?」
奇妙な迫力があった。
「白でした」
ありだと思います。
正直に答えたのに、彼女は何も言ってくれなかった。
屋上さんとの間に溝が出来た気がする。
でも事故。俺悪くない。
「まぁいいや」
屋上さんは意外にも何の文句も言わなかった。
思わずのけぞる。
「それは覗いてもお咎めなしという意味?」
男として聞かずにはいられない。
彼女は俺の言葉に簡単な答えを返した。
「事故だから許すという意味」
以前を考えれば格段の進歩だ。
距離が縮まってないように思えて、やっぱり縮まっているのかもしれない。
俺はひとつ咳をしてから、屋上さんに別れを告げて教室に戻った。
ある日、妹に贈った写真立てに、二枚目の写真が入っていることに気がついた。
何が写っているのかを聞こうかと思ったが、あんまり詮索するのもおかしいだろう。
気にかかっても聞かずにいたのだが、
まさか彼氏か。ツーショットか。
と思うとなんだかやりきれなくなったので、やっぱり実際に聞いてみた。
「彼氏?」
「違うから」
違うらしい。
じゃあ何が写ってるの? と聞いても答えてくれない。仕方ないことではあった。
幼馴染に電話でそのことを相談すると、反応は淡白だった。
「写真立てにどんな写真を入れたって、妹ちゃんの自由じゃない?」
まぁそうなのだけれど。
ちょっと気になる。
「もともとはどんな写真入れてたの?」
「家族の」
「へえ」
「俺は写ってないけど」
「……なんで?」
単に操作の仕方が分からなかったので、自分で撮るしかなかった。
それに、なんで俺が写ってないんだろう、と考えるたびに、そのときの状況を事細かに思い出せるのではないかと思った。
思い出的なものを保存するにはちょうどいい感じがする
幼馴染は呆れたようだった。
「それってさ、たぶん……」
「たぶん?」
彼女はそこで言いにくそうに言葉を区切る。安楽椅子探偵が何かを言おうとしていた。
「……やっぱり、なんでもない」
私が言うことじゃないし、と彼女は言った。
すごく気になる。
が、問い詰めても答えてはくれないだろう。
ままならない。
そんなふうにして学期の残りはすごい速さで消費されていった。あっというま。
最後の部活の日に、予定表を渡される。特に何があるわけではないが、他に予定がない限り部活には出ようと思っていた。
なんだかんだで学校は嫌いじゃない。特に、夏休みの学校の、あのひんやりとした感じ。
どことなく空気が軽やかになっていく。
夏休み、という感覚。開放感。
それだけで周囲が違って見えた。新鮮に見えたし、色鮮やかに感じられた。
終業式は暑い日だった。
あまりの暑さにほとんど記憶がない。
帰り際に誰かに話しかけられたが、そのときにはもうほとんど意識がなかった。
あんまりにも頭がぼんやりするので、早々に家に帰ってソファに寝転がっていた。
目を覚ましたときには夕方で、俺は自分が夏休み直前に風邪を引いたことに気付いた。
「体調管理……」
幸先が悪い。
そういえばテストが終わってからも、原付の免許の勉強をしていたのだ。
簡単だとは聞いていたけれど、さすがに知識も何もないのでは話にならない。
それに不安もあった。勉強は多めにしておくに越したことはない、と感じた。
全身がだるい。
食欲がない。
頭痛がする。
寒気。
こりゃ風邪だ。
咳が出る。
熱っぽい。
喉がいがいがする。
苦しい。
「あうえ……」
謎の声が出た。
身体がだるくて動かせない。ソファに倒れこんだまま目を瞑る。
しばらく寝ているのか起きているのか分からない時間を過ごす。
喉が痛い。
洟が大してひどくないのが救いといえば救いだが、暑くて息苦しいのは変わらない。
これは早めに寝たほうがいいだろうと判断して、ふらふらになりながら自室へ向かう。
ベッドに倒れこむ。本当にひどい。風邪だと認識したとたんに具合が悪くなってきた。プラシーボ効果。
瞼を閉じてから、薬を飲めばよかったと舌打ちした。
しばらくすると、妹が帰ってきたのが分かった。建てつけが悪いのか、うちのドアは開け閉めするときに大きな音がする。
そのうち祖父に頼んで見てもらおうと思っていたが、いつも忘れる。
妹は誰かと一緒に帰ってきたらしい。話し声が聞こえる。リビングに置きっぱなしの鞄を見て文句をこぼしているようだった。
蝉の鳴き声が、いつのまにか蛙の鳴き声に変わっていた。
目を開くと、周囲は思ったより暗い。想像以上に長い時間休んでいたらしい。
少しだけ身体を起こす。そこまでひどくない、と判断する。喉だけが痛み、あとはだるさと熱っぽさだけだ。
階段を登る音。妹がカーテンを閉めながら部屋に近付いてきた。
部屋のドアが開けられたとき、それまで遠くに聞こえていた足音を近くに感じた。
「どうしたの?」
「風邪気味なのです」
げほ、と咳をする。
妹を追いかけるようにふたつめの足音が近付いてくる。
幼馴染がいた。
「……俺は果報者ですなあ」
「ひどい声だよ」
渾身の冗談をスルーされた(半分本音だった)。
「熱はかった?」
「計ってない」
「起きれる?」
「あー……まあ」
「食欲は?」
「あんまし」
風邪なんて引いたのは久しぶりだ。
「雑炊つくる?」
「ぞうすいはー」
苦手だった。猫舌だから。
ここぞとばかりにわがままを言う。
「できればミカンとか桃とかそういうアレな缶詰とか……」
「後で買ってくるけど、ご飯は?」
「今はたべられぬー」
布団にくるまる。
「じゃあ後で雑炊つくるから」
「うん」
苦手だけど、食べないと治らない。
「もうちょっと身体が強ければいいのにねえ」
ちょっと疲れが重なるとすぐに風邪を引いてしまう。普段はなんともないのに。
「いったん風邪引くと弱いからね、お兄ちゃんは」
妹は呆れたように溜息をついた。
「とりあえず、着替えた方いいよ」
制服のままだった。
だるさを押して身体を起こす。その場で着替えようとしたとき、幼馴染がいることに気付いた。
目が合う。
「いつまで見ておられるのか」
「妹ちゃんもいるし、私もいいのかなって」
何の話をしているのだろう。
「マナー。デリカシー」
目で語りかける。
照れられた。なぜ?
「恥ずかしがることないのに」
子供の頃はビニールプールで裸になって遊んだ間柄ではあるが、今となっては昔のことだ。
幼馴染を追い出して寝巻きに着替える。中学のときのジャージ。
「だーるい」
なぜだか口調まで変わる。
だるい。
携帯を見る。キンピラくんからメールが来ていた。
『暑いな』
しらねえよ。
俺は手短に返信した。
『むしろ熱い』
即座に携帯が鳴った。
何者だ。
『熱いな』
一旦寝て、明日「ごめん寝てた」とメールすることにした。
メール文化って馴染めない。
体温計で熱をはかる。
三十八度三分。
「平熱!」
「何バカなこと言ってんの?」
怒られた。
妹が料理をするためにキッチンへ向かう。なぜか幼馴染が部屋に残った。
「なにしにきたの?」
幼馴染は変な顔をした。
「妹ちゃんと話をしに」
「話、ですか」
せっかくの終業式の午後に。
そういうこともあるだろう。
「一緒に買い物してて、帰るの遅れたんだ。ごめん」
なんで謝るんだろう。
「風邪、うつるから。早く帰ったほうがいいよ」
幼馴染は頷いたけれど、すぐに立ち去ろうとはしなかった。
「どしたの?」
彼女は何か迷うような表情をしていた。
やがてそれを断ち切るように顔を上げて、俺の方を見た。
「ごめん、やっぱり帰るね」
「言いかけて止める癖、やめろよ」
ちょっと本気で言った。
幼馴染は苦笑して応える。
「ごめん。なんか、言いたいことはあるんだけど、自分が言うべきことじゃない気がするんだ」
分からないでもない。
そのあたりの線引きは難しい。
俺と幼馴染が、家族のように育ったとしても家族ではないように。
どこまで踏み込んでいいかは難しい。
「なんだよ。遠慮すんなよ。俺らの仲だろ」
寂しさを紛らわすためにわざと茶化した。彼女はそれを無視して部屋から出て行こうとする。
「明日、お見舞いくるから」
「缶詰買ってきて」
距離を測りかねている、と思った。
線引きが難しい。
でもまぁ、しかたない。
どうせこれから散々悩んでいくことになるんだろうから、今気にしたって損だ。
幼馴染が帰ったあと、少しの間眠っていた。熱のせいでぼんやりとする頭で、ぐるぐると考え事をしていた。
その考え事はまどろみの夢に反映された。
夢が心象をあらわすというけれど、俺が見る夢は示唆的というよりも直喩的だ。
「私、童貞の人とはお付き合いできないの」
心底申し訳なさそうに幼馴染が言う。
「お兄ちゃん、いまどき童貞とか、さすがにないよ」
心底残念そうに妹が言う。
そして二人は誰かと一緒にいなくなる。
いなくなる。
置いてけぼりの気持ち。
いつかいなくなってしまうこと。
不安。
バカみたいだ。
でもなくならない。
困った。
風邪をひくと弱気になってしまって困る。不安になる。
とても一人が怖くなる。
まどろみの中で、夢はかすかな変化を遂げる。
いなくなった誰かは、いつのまにか両親に取って代わられた。
いつまで待っても帰ってこない人たち。
泣いて追いかけても追いつけない人たち。
置いてけぼりの気持ち。
両親が本当に仕事で忙しかった頃、俺と妹は二人で祖父母の家に預けられた。
彼らはよく面倒を見てくれたのだと思うが、今でもときどき夢に見る。
引き離された感触。
眠る直前まで傍にいた人が、目を覚ませばいないこと。
置き去り。
意識が不愉快な記憶を反芻し始めた頃、俺は浅い眠りから覚めた。
目を覚ましたのは携帯が鳴ったからだった。キンピラくんからメール。無視するな、という旨。それを無視する。
うなされていたようだった。滲んだ冷たい汗を拭って溜息をつくと、妹がちょうど食器を持って部屋にやってくる。
「雑炊ですか」
「うん」
妹はベッドの脇に腰掛けて食器を膝の上に乗せた。熱そう。
スプーンで雑炊をすくって、息を吹きかけて、冷ましてから、俺の口元にそれを運ぶ。
「手、動くから」
「いいから」
「よくないから」
昔風邪を引いたときに、祖父母が似たようなことをしてくれた。だから俺もまた、妹が風邪を引いたとき似たようなことをしたわけだが。
さすがにこの状況は想定していない。
でもまぁ、せっかくだし、人生経験で何が役に立つかも分からないので、一応受け入れることにした。
「美味しい?」
「美味しい」
恥ずかしいけど。
「ずっと体調悪かったの?」
「別に」
身体がだるいのは暑さのせいだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
「もういいよ、あとは自分で食べるから」
「だめだよ」
何がだめなのか。
結局最後まで妹はスプーンを放そうとしなかった。
逆の立場になったときは存分に世話をしてやろう。
せっかく病気になったのだし、上手く使えないものかな、と打算。
ちょっと卑怯かな、と思いつつも。
「なあ」
妹は俺が寝るまでいるといって部屋に残っていた。
俺たち兄妹には基準にすべき家族がいない。お互いがお互いの模倣をする。
だから、互いに対する態度は自然に似通う。性格や立場が大きく言動や態度を変えることはあっても、本質的には似たものになる。
「写真立ての中の、二枚目の写真、なんなんだ?」
妹は少し迷ってから、立ち上がって部屋を出て行った。少しして戻ってきたときには、手には写真立てを持っていた。
「お姉ちゃんにも、同じこと聞かれた」
言いながら写真立てを差し出してくる。なんだか不満そうだった。
受け取って、写真を取り出す。
――見なかったことにした。
「なんか言ってよ」
「何を言えばいいやら」
「私がバカみたいじゃない」
「いやまぁなんといいますか」
若かりし頃の僕と妹の写真でした。
「自分が写ってない写真しか寄越さないからわざわざ二枚入れてたのに」
「……なんといいますか」
「全員だったら文句はなかったのに」
ひょっとして写真立てを渡したときに微妙そうにしていたのもこれだったのだろうか。
そのあと、少しだけ話をした。俺は気付くと寝ていて、特に夜中目覚めるようなこともなかった。
悪い夢も見なかった。
なんだかな、と思う。
些細なことで浮いたり沈んだり、ちょっとだけ疲れる。楽しいんだけど。
とりあえず、そのうちまた写真でも撮ることにした。風邪が治ったら。
つづく
乙
そろそろ活躍の時か
\ _,,-‐'"ヽ. ∧ _∧ /
_ \ノ\ ヽ ト、 /∧´・ω・) /∧_∧
../ jjjj. \. ヽ_(⌒) _,,.. -‐'"ノ /ノ >‐个 、../ ( ´・ω・)
/ タ {!!\ `7⌒/'フ >,ノ--―‐‐' ̄ /_‐'´ \ / `ー、_
ノ ~ `\ ∨ ∨ >ミ .//' ̄`Y´ ̄`Y´ ̄`レ⌒ヽ
`ヽ. ∧_∧ , ‐'` \ { { / { 、 ノ、 | _,,ム,_ ノl
\ `ヽ(´・ω・`)" ノ/ \∧∧∧∧∧/ /\ ̄ ̄ ̄ (;;゚;;) ̄ ̄旦 ̄\
`、ヽ. ``Y" r < 壁 >/◇◆\_________\
i. 、 ¥ ノ < 殴 >\\◇/◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆\
`、.` -‐´;`ー イ. < の り > \(ニニニニニニニニニニニニニ)
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★壁殴り代行始めました < 感 行 > ∧__∧ __________
ムカついたけど壁を殴る < !!!! > __( ´・ω・` ):!::. :. . .....:::=≧=‐- 、
壁を殴りたいけど殴る壁 < > _/ .:ヽ :i::::::::/: /:::':.. .:..,. ''. :: `ヽ
壁殴りで鍛えたスタッフが /∨∨∨∨∨\-'´;.:.、... .: .:i :i::/: .:::..:,.‐''". . .:、 :.
モチロン壁を用意する / ∧_∧ \ノ:. ..\. ヽ: , -‐''´ ..::: .. : .::l . :.
スタッフがあなたの家/ (´・ω・`) _、_,,_,,,. \ ` ヽ、::/ .:::、:.. .. . :. .::i ...:
家の壁を無差別に/ /´`''" '"´``Y'""``'j ヽ. .\ :i::. . .::`''‐-=、ヽ、.:.. .:: :ノ
1時間\1200~ / { ,ノ' i| ,. ,、 ,,|,,. 、_/´ ,-,,.;;l. \ :|: . .:: :.::::::::::::/゙"ヽ、:.:::´::.
24時間営業 / '、 ヾ ,`''-‐‐'''" ̄_{ ,ノi,、;;;ノ.. \:|: . . . :: :.:.:::::::::{::. ::;'`‐ .::
年中無休!!!/ ヽ、, ,.- ,.,'/`''`,,_ ,,/ \ . . . .. .. .:.::..:.:::::::::::|::. .::i ..:::
★壁殴り代行始めました★
ムカついたけど壁を殴る筋肉が無い、壁を殴りたいけど殴る壁が無い、そんなときに!
壁殴りで鍛えたスタッフたちが一生懸命あなたの代わりに壁を殴ってくれます!
モチロン壁を用意する必要もありません!スタッフがあなたの家の近くの家の壁を無差別に殴りまくります!
1時間\1200~ 24時間営業 年中無休! ∧_∧
, ''二=-― -、 (´・ω・`)_.. ッ". -'''" ̄ ̄^ニv..........,、
/,'" )'ー、 ∧_∧ ,.. -―'''';;]_,゙二二__,,/ _..-''" ゙゙゙̄''ー `'-、
/ /''ー ' /'"`` ' 、 ( ・ω・.:.`) ,,-'"゙゙,゙ニ=ー''''"゙゙シ'"_,゙,゙,,,,,,,_ `'''T゛ \
/: / ヽー'ノ::::.... )-、,, /:::゙' 、. ヽ /_..-'"″ '''^゙>'''"゛ ´ `!、
l゙::: / リ:/ ::: ノ::::.... ヽー 、:::: :::: :: ','' ー 、 _イ- ''""" '' 、,,,,,,,、-ーZ ''''''''ー、- 、、, ,r‐-、_ ∧_∧ .l
', | / l|// /::" ::/ ̄ヽヽ、、、,,,:::: | ',::::: `'ー、,、-''"´ / ヽ ヽ `'' 、/.:.:.:ヘ7ノ (・ω・:.:.`)ハ=ー-、
',ノ,'' イ' ::/ ィ / :/ ゙''':::::| ヽ;;;;; `゙;;'''';;ーi、,,、- '''''"彡゙ll|ソ , '" / / i l |ゝl|.__i´.:.:.:./-' /:.`ニニ´彳`` _,,='"´.: ̄`ヽ
{ | l| /,,;イ / / ::| ::」``ヽ;;;;; ,、;;;ヽ、ヽ;; 、,,,ッ ,、 '"ノ / ノ ,j lリ j{=ー---‐' } ,r'´ ̄`ヽ‐-=,_ゝY´.:.:.:.:.`゙ー-、,,.:.:}.::`ー、_
ヽ リ '" } /ノ l| / :|" 三三`' 、( );; ヾ'、○} { r' / j , |,,、 " `ー---‐'、 ,r='´`ー='"´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.'',,.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ノ'´`ヽゝ、ハ
ヽ ヽ" :l l l| / :}、::::: `' 、;;; ;;; ', ゙''、 j 、|. y' }. / / _,、,," ',.:.:.:.:.:.:.Y.:.:.:.:.:.:.r'´.:>、.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.ノヽ、,,_,,/ハ.:.:.:.:.:`i.:.:`ヽ、
ヽ ヽ { " / | リ:: ヽ::: '' 、从 ',、 ミヽ ゙' 、.| ||. ノ / /∧ _∧ .',.:.:.:.:ノハ,,='"´.:.:.::i´.:`ーt――"´-'ー--'彡/リ`ー=_ノ、.:.:.:)ヘ
ヽ :: \ '、 ミ / 、 ゙l::: ゙ll ゙ll:',ヽ ゙' 、, ゙{ jl,,,,/,z'ノノ/∧´・ω・) ',.:.:.:.>.:.:.:_,,=-'ゝ、.:.:.:',ニ)_`i´.:_ノ、_)ー'/ /,r'.:.:.,,/.:)
ヽ ::: ミ '、 ミ |::: ヾ::::: ゙ll ゙l|l::::゙、 { |`"´ ,r=‐'"ノ /ノ >‐个Y´`ー=-‐'゙ `ヽ i、ヽ_ノ´.:.:.`ii´.:.:.ノ リ j'.:./:/.:ノ
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|`-、ミ /:::::::| } |:::...... ,,、 '",、、゙゙''ー''´ ',Y / ヾ ノゝ, ゚ _,r/.lヽ='../\\l.:.:.:.`.:´.:/_lr='´"`ヽ\ ヽ
|゙、::::`' 、,_ _/:::::::/ :} /::::::::::::,,、-''" {○ ゙ll`' 、 ゙l|: | `tチ"´`ヽ,, ,ノゝ=='/ { `r/.// ノ7/_ ノハ `ー-=-‐' リ/,r/:.:.ノー='"
| `'' 、:::::::::: ̄ ̄:::::::::::::/ ::: /:,、-''" / ヽ ゙ll ゙'、,,,,,、リ='´ /、 てー='<´_,,,,)、,,ノ、 >、..`ー‐'",/´" /l/`Y`ー=‐'´/l、ゝ'_//´
壁殴り代行では同時にスタッフも募集しています 筋肉に自身のあるそこのアナタ!
借りたものは返さなければ人の道にもとる。
俺は後輩から借りたCD(インディーズのロックバンドだった。微妙に良かった)をどう返すかを悩みに悩んでいた。
彼女の連絡先は知らなかったし、家に直接行くというのも少し抵抗がある。
どうしたものかと悩む。屋上さんにメールすればいいのだと気付いたのは一日悩んだあとの朝だった。
メールをするとすぐに返信が来た。今なら家にいるというので、さっそく押しかけることにした。
許可をとって準備を始める。時間には気を遣った。男友達と遊ぶのに遠慮はいらないが、女子の家はそれとはわけが違う。
遅すぎず早すぎず、あまり邪魔にならない時間帯に留意した。
原付で行くか自転車で行くか、迷う。せっかくなので原付で行こうと決めた。
妹に目的と行き先を告げて玄関を出る。彼女は微妙そうな顔をしていた。
後輩と歩いた道をなぞる。夜だったので分からなかったが、意外と悪くない雰囲気だった。
原付で行けるところまで行く。さすがに庭園までは乗り入れられない。道の脇に停めて鍵を抜いた。
玄関まで行ってどうしたものかと悩む。周囲を見回してからインターホンに気付く。
押してから、身だしなみが妙に気になって髪を手櫛で梳かす。すぐに中から声がした。
屋上さんか後輩が出ると思っていた俺は、少しだけ混乱した。出迎えてくれたのは小学生くらいの女の子だったからだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
お互い硬直する。あ、俺がなんか言わなきゃダメなんだ。数秒後にそう気付いた。
「あの、アレだ、えっと」
……なんといえばいいんだろう。
そういえば後輩の下の名前は知らないし、屋上さんの方だって分からない。
困った。
俺がどうしたものかと考えていると、すぐに屋上さんが玄関にやってきた。髪は結んでいなかったけれど、眼鏡はしていなかった。
「どうも」
「……どうも」
お互い、気まずい空気になる。なぜか。
「ちい姉の友達?」
「うん、まあ」
「彼氏?」
「ちがう」
屋上さんは妹(と思われる少女)を手を払って追放した。気まずい沈黙が取り残される。
「……あの。上がれば?」
彼女も彼女で対処に困っているらしい。
客間に通される。彼女は麦茶を出してくれた。なんとなくお互いそわそわと落ち着かない。屋上さんはしきりに髪の毛先を弄っていた。
「あ、後輩は?」
「部活」
いないらしい。
「これ、CDなんだけど」
「あ、うん」
渡しておく、と屋上さんは頷いた。
また沈黙が落ちる。
どうすればよいやら。
困っているところに、先ほどの少女がやってくる。
「……彼氏?」
「ちがう」
俺が少女に目を向けていると、屋上さんはそれに気付いて、ほっとした態度で紹介してくれた。
「妹」
「どうも、妹です」
上二人の姉妹はどことなく雰囲気が似ていたが、一番下の妹はまるで違った。
天真爛漫で人見知りしない、ような印象。
「姉のことを末永くよろしくお願いします」
そして人の話を聞かないところがある。
「ちがうってば」
「どこで知り合ったんですか?」
「学校が一緒なんだよ」
「どうして平然と答えてるの?」
屋上さんは疲れきったように溜息をつく。
少しだけ緊張が取れた。なんとなく安心する。二人きりになったら固くなって何も言えそうになかった。とても助かる。
屋上さんは妹さんのことを「るー」と呼んでいた。名前を聞くにもタイミングが分からず、俺もそう呼ぶことにする。
基本的にコミュニケーションは苦手です。
るーちゃんは俺と屋上さんの関係をやたら気にしているようだった。
第三者に説明しようとして初めて気付くことだが、俺と彼女の関係はとても説明しにくい。
クラスメイトというのではないし、友達というには少し距離がある。その割には毎日のように顔をあわせていた。
彼女は俺のことも根掘り葉掘り訊ねた。
仕方ないので、おととし地球を侵略しに来た宇宙海賊ダークストライカーを撃退したことや、
幼少の頃は国中から天子と崇められていたが、魔人・九島秀則の呪術と謀略によって生まれ故郷を後にしなければならなかったことや、
夜な夜な町に出没する、白衣のマッドサイエンティストが作り出した黒き魔物と日夜戦いを続けていることつまびらかに語った。
「すごいですねー」
感心された。悪い気はしない。
屋上さんは呆れたようで、何も言ってこなかった。
「よくそんなに作り話が出てきますね」
感心のしかたが微妙に大人だった。この少女、侮れない。
もっと話して下さい、とるーちゃんはせがむ。
仕方ないので、これは秘密の話なんだけど、と前置きして話を始める。
魔術結社<輪廻>に追われていたときの話。
彼らの扱う魔術は、あまねく人々の命を刈り取ることで生まれる『ガイアの雫』と呼ばれる魔力を源にしていた。
強力な魔術であればあるほど多くの雫を必要とするので、大量の魔力を得るために彼らは多くの人間を犠牲にする。
けれど<輪廻>の最終目標である因果改竄術は、どれだけの人間を殺したところでとても間に合うような魔術ではなかった。
魔力の欠乏を解消しようと苦慮した彼らは、あるとき無限の魔力を持つ魔道人形の噂を聞き、彼女を手に入れようと目論んだ。
くしくも<輪廻>の魔の手がその少女へ伸びる前日、俺は街中で彼女と遭遇し、友達になっていた。
そして彼女とかかわったことで、俺は事件に巻き込まれ、<輪廻>との終わりなき闘争へと身を投じることになったのだが――
――という設定のライトノベルを書こうとしたことがある、と、るーちゃんに話した。
そのすべてを語るには少しばかり余白が足りない。
「正統派ですね」
正統派だろうか。
その後、三人で人生ゲームをして遊んだ。
最下位は俺で、一位はるーちゃんだった。なぜか納得のいく順位。
帰ってきた後輩を交えて四人で話をする。男女比率が夢のようだった。
「また来てくださいね」
るーちゃんはとても良い子です。
別れ際、屋上さんがなんだか困ったような顔をしているのが見えた。
なんだかなぁ。
お互い、上手く距離が測れていないのかもしれない。
でも、悪い気分じゃなかった。
翌朝目覚めたのは八時頃だった。
妹と一緒に穏やかな朝を過ごす。まったりと朝を過ごすのが久しぶりのような気がした。
「……そういえば」
「なに?」
不意に口を開くと、妹はきょとんとした顔でこっちを見る。なんだか最近、態度が柔らかくなった気がする。
「俺はおまえと結婚しなければならないようだ」
「何言ってるの?」
態度が柔らかくなっていたのは錯覚だったようで、絶対零度の視線は健在だったらしい。
とはいえ、至って正気である。回想する。
『姉って何歳の?』
『たしか、俺と同い年だったはず』
『同じ学校かもね』
『ないない。そんな偶然ない。あったらおまえと結婚する』
というやりとりが、以前あった。
「ね?」
「いや、ね、と言われても」
妹は困ったように眉を寄せた。
「同じ学校の人だったの?」
同じ学校の人でした。世の中って狭い。
妹は俺の言葉を無視して家事に励んだ。手伝おうかと名乗りを上げると洗濯物を任される。
洗濯物。
魔性の気配がする。
が、妹なのでなんら問題ない。
正午を過ぎた頃、幼馴染とタクミくんがやってきた。
「また来たよー」
気安げに幼馴染が言う。タクミくんは今日も今日とてゲームをぴこぴこしていた。
なんだかちょっと寂しいので、みんなで映画でも見ることにした。
『七つの贈り物』。ちょっと前に見た。眠くなるほど退屈な序盤。独特の空気。
話は広がるだけ広がり、それはなんの説明も伴わず進んでいく。眠くなる。
のだが、中盤を過ぎた頃に、その流れは一変する。
明かされる主人公の背景。過去。事実。目的。それらが前半に積み重なった伏線と同調して急展開を迎える。
多少の不満点はあるが、それを補ってあまりある勢いがある。
終盤ではストーリーが一気に転じて、ラストシーンへと静かに収斂していく。
おしまい。
見終わった後、しばらく四人で並んで黙っていた。
「いい映画だったねー」
幼馴染が最初に口を開くが、彼女はだいたいの映画に「いい映画だったね」という感想をつける。眠らない限り。
妹と俺は一度見たことがある。二度目なので余計面白い部分もあった。
タクミくんは一本の映画を丸々見たせいで疲れたらしい。
気付くと彼は眠っていた。ソファに寝かせてタオルケットをかぶせる。
妹とは四歳くらい違うのだろうか。ちょうど昨日会ったるーちゃんと同じくらいの年齢。
このくらいの年頃のとき、俺はどんな子供だっただろうか。よく覚えていない。友達がいなかったことだけは覚えている。
ちょっとしてから、屋上さんからメールがあった。
『るーが会いたがってる』
……ええー。
どんだけ懐かれたんだよ、と自問。そこまで好かれるようなことをした記憶がない。
今、親戚の子が来ているのでいけない、と返信する。厳密には違うが、まぁそんなようなものだろう。
これなら引くだろうと思ったのだが、屋上さんは難攻不落だった。
『実はもう向かってる』
俺の家知らないはずなのに。
後輩か。
そういえばこの間送っていったときに、途中で通った。
「……うーん」
まぁ、いいか。
別に問題ないような気がしてきた。
いや、問題はあるのだけれど、そこまで必死になって阻止するようなことでもない。
迎えに行くとメールして、玄関を出た。いったい何が彼女らをそこまで駆り立てるのか。
ちょっと歩くと、三姉妹が歩く様子が見えた。
屋上さんが気まずそうな表情をしているのが分かる。
家に連れて行く。寝ているタクミくんと二人の少女を見て、るーちゃんが「どっちが恋人ですか?」という。どっちも恋人じゃない。
幼馴染は意外にも屋上さんと面識があったようで、すぐに話を始めた。
妹は後輩に挨拶をしながらこちらを睨む。なぜ?
そういえば、幼馴染以外の女子を家にあげるなんて初めてだった。
混乱する。
るーちゃんは俺に会いにきたはいいものの、何を話せばいいのか分からずに戸惑っている様子だった。
仕方ないのでみんなでトランプを始めた。
人数は大したものだった。俺、妹、幼馴染、屋上さん、後輩、るー、それにタクミくんが目覚めると七人になる。
これだけの人数がいるにもかかわらず、なぜか俺が負けた。
昼過ぎに、食料を求めてコンビニへと歩いていくことになった。
ジャンケンによって選出された二名が。
やっぱり負けた。
もう一人は屋上さんだった。
話をしたかったので、ちょうどいい。
が、最近ちょうどいい偶然が起こりすぎているような気もする。
頭の中でずっとエンターテイナーが流れている気分。
「突然押しかけて、ごめん」
彼女は何かを扱いかねているような表情で俯いた。
屋上さんは眼鏡は外していたけれど、髪は下ろしていた。私服が大人しい雰囲気のもので、それが妙に似合っている。
普段のイメージとまるで違うため、違和感はある。こうしていると誰か別人と歩いているようだった。
虎の威を借る狐の化けの皮を剥いだら、やたら可愛い狐が出てきた感じ。
いや、ちょっと違う気もするけれど。
そのせいか、気分がとても落ち着かない。
さっきまで大人数でいたせいでなんとかごまかせていたのだが、
とても、落ち着かない。
なんだかなぁ、と思う。
屋上さんの態度も、なんだか妙だった。
妙というか、変だった。
距離を測りかねている感じ。
「るーが」
と、屋上さんは話を始めた。
「はしゃいでるというか。私が家に友達入れるの、初めてだったから」
友達、と言われて、一瞬、歓喜に浮かれると同時に、暗い罪悪感に包まれた。
そもそも俺はまっとうな友達作りというものができない人種なのだ。
人の輪に入るということができない。自分が邪魔をしているように感じる。
だから、サラマンダー、マエストロ、後輩、部長、屋上さん。
一人でいる人にばかり声をかける。
そもそもやり方が卑怯。
そんなことは、たぶん言っても分かってもらえないだろうけれど。
だから、多人数でいると取り残されたようで不安になる。
置いてけぼりの気持ち。
でもまぁ、そんなことを考えたって仕方ない。
屋上さんはそれっきり押し黙ってしまって、コンビニにつくまでずっと無言だった。
買い物をしている間も、なぜか、なんとなく、話しかけづらい雰囲気。
でも、それは悪い意味ではなくて。
照れくさいような、気恥ずかしいような気持ち。
俺だけかも知れないけれど。
いつのまにか頭の中の音楽がエンターテイナーからジュ・トゥ・ヴに切り替わっている。
単純。
どっちもどっかで聞いたことがある感じのする曲には変わりない。
食べ物、飲み物、アイスを購入し帰路に着く。蝉の声はほとんどしなかった。
帰る間も、互いに言葉を交わすことはなかった。
落ち着かない気持ち。
なんだかなぁ、という気持ち。
何かを言うべきなような気もするし、何も言うべきではないような気もする。
まぁいいか、という気持ち。
その後、昼食をとってから夕方までゲームを交代しながら遊んだりした。
後輩、屋上さん、妹の三人は、ほとんど遊びには参加しなかった。ダイニングのテーブルに腰掛けて話をしていた。
夕方を過ぎた頃ユリコさんが迎えに来た。
タクミくんは遊び足りなそうな顔をしていたけれど、また今度、というと少しだけ表情を明るくした。
「今度バーベキューやろうと思うんだけど」
ユリコさんはまた唐突に言う。普通は親戚同士で盛り上がるのではないのか。
「行っていいんですか?」
「予定ないならだけど」
予定はほとんど白紙だが、普通なら遠慮するところだ。
「じゃあ決定ね」
決定されていた。表情から予定の有無を見抜くのはやめてほしい。
「そっちの人たちも来る?」
と、彼女は三姉妹に声をかける。
「他にも友達呼びたかったら呼んでいいから」
勢いだけで乗り切られる気がした。
「……えー」
人、増えすぎだろう。
この場にいる子供七人大人一人。その段階でも既に多すぎるくらいなのに。
かといって男女比的にこのままでは困る。
「やっぱり俺は遠慮……」
「できません」
「俺、ノーと言える日本人なので」
「イエスと言い続ける日本人の方が潔くて好きです」
ユリコさんには反論できない。
仕方ないので後で連絡の取れる男子三人に予定を訊いてみようと思った。
仮に全員揃ったとして、人数はゆうに十人を超える。
増えすぎだろ。
ちょっと怖い。
そんなふうにして一日が過ぎていった。
翌日、妹は幼馴染と一緒に出かけた。水着を買いに行くらしい。
水着て。
暑いからプールに行きたいらしい。
一人家に取り残されて、俺は暇を持て余していた。
夏休みの過ごし方としては、だらだら家でひとり過ごすというのも正しい気がする。
暇だったのでテレビをぼんやり眺める。
すぐに飽きた。
麦茶を飲みながら静かに時間を過ごす。
課題やってねえ、と不意に思った。
でも、めんどくさい、と思った。
そういえばバイトしようと思ってたのも忘れていた。
まぁいいか、と思う。
ダメ人間ここに極まれり。
暇なのでゲームをする。
なぜかちっとも楽しめない。
仕方ないので昼寝をする。
目が覚めた頃には夕方だった。
一日があっという間。
夏休み、という感じ。
夜は妹と二人で食事をとった。
穏やかな日々。
「今度プール行くってことになったけど、お兄ちゃんも行く?」
「行く」
当然。
いい年して一緒に遊びに行く相手が妹以外にほとんどいないってどうなんだろう。
マエストロは基本的に趣味に没頭するタイプだし。
サラマンダーは自分の世界に閉じこもってるし。
キンピラくんとは微妙に距離があるし。
友達ほしい。
その夜は暑くて寝苦しかった。
つづく
翌日は部活があった。
最近、ろくでもない生活を送っている気がする。
目を覚ます。食べる。寝る。起きる。食べる。寝る。食べる。寝る。遊ぶ。寝る。
課題してない。
さすがにまずいよな、と学校に課題を持ち込む。どうせやることがない部活。
なんだか気が抜けている。
遊んでばかりだからだろうか。
このままじゃいけない、と思うが、何がいけないのかが分からない。
よくよく考えれば学生の夏なんてだらけているのが当然という気もする。
ひんやりとした校舎。
音が遠く聞こえる下駄箱に響く、上靴が床を叩く音。
自分の起こす音だけが、やけに大きく聞こえる世界。
太陽は相変わらず喧しいような光で地上を照らしている。緑の木々が潤んだ風に揺れて、ひそやかに夏を彩る。
木漏れ日の下の水道に、休憩中の運動部が笑いながら近付いていく。
体育館から響くボールが跳ねる音。掛け声。グラウンドからバッドとボールがぶつかり合う音が聞こえる。
吹奏楽部の練習の音。廊下の途中で通った教室で、誰かが話す気配。
部室に向かう途中で、ちびっこ担任と出会った。以前とあんまり変わった様子はない。
「おう」
「どうも」
言葉を交し合う。あんまり個人的に言葉を交わしたことがない。そもそも教師があまり得意ではなかった。
「どう? 調子」
「何の?」
「いや。いろいろ?」
ちびっこも、訊ねておいて困っているようだった。彼女の立場で想像すると、確かに「いろいろ」としか言いがたいかもしれない。
「まぁ、そこそこ充実した夏を送ってますね」
「妬ましいな。呪われろ」
自分から訊いておいて呪うこともないと思う。
「まぁ、ほどほどにな」
大人っぽい言葉を投げかけられる。
部室に行く。やっぱり来ている部員は少なかった。
それでも部長はいる。彼女は窓際の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
ドアを開けて部室に入ったとき、その音に気付いた部長が顔を上げた。
話しかけるのは邪魔になる気がして、頭を下げるだけにとどめる。
適当な位置に荷物を下ろして課題を進める。
開けっ放しの窓から入る風が、日に焼けた薄いカーテンを揺らしていた。
静かな時間。
数人の先輩たちが一箇所に集まって話をしていたけれど、それは気をつければ聞こえないほど小さな声だった。
休み前の騒々しさと比べると、あってないようなものとすら言える。
部室はやけにひんやりと涼しかった。
自分でも驚くほど集中して課題を進められた。静かな時間。こういうのも、たまには必要なのかもしれない。
部活を終えて家に帰る。玄関のドアを開けなくても、中で人が騒いでいるのが分かった。
妹、幼馴染、タクミくん。
屋上さん、後輩、るーちゃん。
すっかり遊び場にされてしまった様子だった。
リビングに入ると、みんながいっせいに俺の方を見た。一瞬動揺する。
彼女らはそろって「おじゃましてます」と言ってから、またがやがやとした騒ぎの中に戻っていった。
なぜこうなった。
幼馴染は俺の方を見て少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「来たらいなかったから」
いなかったから?」
「勝手にあがったの」
だろうね。
妹がいたから勝手とは言いがたいけど。
屋上さんの方を見る。彼女は気まずそうに目を逸らした。
「一応、メールしたんだけど」
ポケットから携帯を取り出す。マナーモード。メールが来ていた。
俺が悪かった。
「うちの兄は人気者のようで大変誇らしいです」
妹は不機嫌を隠そうとするとき敬語になる。
なぜ機嫌が悪いのかはちっとも分からない。
こんなに人数がいては収拾がつかない。
「よし、タクミくん、るーちゃん! ザリガニ釣りに行こうぜ!」
「暑い」
「ジュース買ってくれます?」
ノリの悪い子供たちだった。
るーちゃんに至っては、「遊びに行きたい子供に仕方なくついていく年上の姉」みたいな雰囲気すら滲ませている。
なんだろうこの気持ち。ちょっといいかもしれない。
嘘だ。
「なんだよもう、どうしろっていうんだよ」
「どうもしなくていいんじゃないすか」
後輩が楽しそうに笑う。
じゃあもうどうもしなくていいや。
「先輩、私とオセロします? オセロ」
「なんでオセロ?」
「あったからです」
後輩とオセロをする。
るーちゃんとタクミくんは――もうめんどくさいので「るー」と「タクミ」でいいや。二人は仲良くアニメのDVDを見ていた。
ぶっちゃけサラマンダーとマエストロに押し付けられた深夜アニメなのだが、楽しんでいるならいいだろう。そのうちパンツシーンが来る。
麦茶を飲む。幼馴染と屋上さんが何か話をしていた。今度いくプールの話。幼馴染が屋上さんを誘っているらしい。
「先輩、ひょっとして迷惑でした?」
後輩が言う。
「なにが?」
「来たの」
「まさか」
本音だった。にぎやかなのは嫌いじゃない。騒がしいのは好きじゃないけど、意味が違う。
赤の他人の子供の泣き声と、親戚の子供の泣き声くらい、意味が違う。
「さ、勝負勝負」
後輩とオセロをしている間に、子供たち二人は眠ってしまった。
よく寝るなぁ。もう昼寝が必要な年齢でもないだろうに。
それだけはしゃいでいたのだろうか。
ジャンケンで食料の買出しにいく人間を決める。いっそ準備しておけばいいのかもしれない。
当然のように俺が負ける。
もう一人は後輩だった。
毎日のようにコンビニで金を浪費している気がする。
このままじゃいけない、と思う反面、夏だし、アイスくらい誰でも買うよな、という言い訳がましい部分もあった。
「まぁ、なんだかんだでいい機会なのかもしれないです」
コンビニ帰り、ポッキーをかじりながら、後輩は不意にそんなことを言った。
「何の話?」
「うちのきょうだい」
何の話かが分からず、続きを待って口を閉ざす。後輩の言う言葉の意味がよくわからなかった。
「ぶっちゃけ、そんなに仲良くないんですよね。嫌いとかじゃなくて。なんというか……」
「距離を測りそこねている」
「そう、そんな感じ」
ようやく後輩が言わんとしていることを理解する。三姉妹の間に、どことなく距離がある、というのは俺も感じていた。
互いに直接言葉を交わすことが少ないし、会話するにしてもなぜか他者を中継する。
距離を測りそこねている感じ。
「いわゆる家庭の事情って奴で、まぁいろいろあるんですけど。るーは私にはなついてるけど、ちい姉には微妙に距離があるし」
そのあたりの機微は、会って間もない俺にはわからない。
「ちい姉も、何考えてんのか分かんない……という言い方するとあれですけど、あんまり思ってることを口にしないタイプなんで」
だから、いい機会なのかもしれないです、と後輩は言った。
「俺んちに集まって遊ぶのが?」
「まぁ、そう言われると微妙なんですけど」
後輩は人のよさそうな笑みをたたえた。どことなくほっとしたような微笑。
「先輩には期待してますよってことです」
「そんな抽象的な話をされてもな」
「でも先輩、具体的に事情を説明されてもいやでしょ」
「まぁ、本音を言えばね」
できれば、人間関係に対して責任を負いたくない。
どうしてもというのであれば仕方ないが、個人の問題は個人でかたをつけるべきなのだ。
物見遊山で人の事情に足を突っ込んで、ろくでもないことになるのは目に見えてる。
どれだけ親しくなろうと、一定の距離は保つべき。
こういう考えも、やっぱり卑怯かもしれない。
「先輩、そういうタイプだし。あんまり頼られると、すぐに逃げ腰になる」
「遠まわしに臆病と仰っておられる?」
「あんまり嫌いじゃないですよ、そういうの」
臆病の部分は否定してもらえなかった。
後輩はポッキーをかじりながら軽快に歩く。
なんだかな、という気持ち。
買いかぶりすぎじゃないだろうか。
家に帰ると、るーとタクミはまだ眠っていた。
二人を除く三人は、なぜかテレビゲームで白熱している。
妹と幼馴染の順位は伯仲していたが、屋上さんはぶっちぎりのトップだった。
「おかえり」
おかえり、といわれるのも、なんだか変な気分。
三時頃、眠っていて昼を食べ損ねたるーとタクミのために、妹がホットケーキを焼いた。
「俺にも!」
二人に混じって要求する。
「子供の分を取り返そうとするな、バカ兄」
叱られた。
夕方頃には幼馴染とタクミは家に帰った。タクミはあと二週間ほどはいる予定だと言う。
夏祭りがあるな、と思った。
妹の浴衣のことも考えておかなければならない。
三姉妹は疲れた様子だった。
「遊び疲れた?」
「みたいです」
るーは眠そうに瞼をこする。
ずいぶん馴染んだな、と感じる。
屋上さんは、うちにきている間もたまに眼鏡をかけるようになった。どういう心境の変化かはわからない。
髪は相変わらずほどいていた。法則が読めない。
帰り際、後輩が口を開いた。
「明日あたり、どっか行きます?」
「どっかって?」
「どっかっす」
丸投げ。
「あー、じゃあ、まぁ、そのー、えー。モールとか?」
かなり適当だった。どうでもいいことだが、いつのまにか明日もうちに来ることが決定していた。
「おっけいです」
おっけいが出た。
人ごみを思うと憂鬱になる。
しばらく三人の後姿を見送っていると、不意に屋上さんがこちらを振り向いた。
既視感。
どこかで見たことがあるような表情。
たぶん、錯覚だろう。
少し早い夕食をとってから、静かな家の中でテレビを見ているのが妙に寂しく思えて、洗いものをする妹を後ろから抱きしめた。
「動きにくい」と言われただけだった。
余計寂しくなったので、何も言わずにソファに戻る。
なんだかなぁ。
最近、自分が分からない。
だんだん落ち着かなくなっている。
なんだろう、これ。
変なかんじ。
翌日、揃ってショッピングモールまで足を伸ばす。
大人数で動きすぎて統制が取れない。本来取る必要はないのだが、はぐれそうで不安になる。とくに子供が二人もいると。
後輩とるーが手をつないでいた。なんとなく理解する。
タクミも幼馴染と手をつなぐ。親戚だから当然だった。
「俺たちもつなぐ?」
「その冗談、面白くないから」
妹はやっぱり辛辣だ。
女性陣は浴衣やら水着やらを見たいようなので、気を利かせて子供たちを引き受ける。
あとでこの二人の水着についても確認しておかなければならない。
妹には、あらかじめ多めの金額を渡しておいた。
もともと妹と俺の小遣いは親から別々に与えられているけれど、何か必要になったときの予備費などを、何種類かに分けて管理しているのは俺だった。
ちなみに妹は食費関係を管理している。たぶん妹に全部任せたほうが家計には優しいだろうが、兄として何の責任も負わないのは忍びない。
俺は子供をつれて時間を潰すのにもっとも都合のいい一角へと身を投じた。
アミューズメントパーク。ゲームセンター。
「いいか、このあたりは音がすごいから絶対にはぐれるなよ、二人とも。はぐれたら見つけられないから」
強めの口調で脅かす。二人の表情に緊張が走った。
「まずは修行だ。るー、何か欲しいプライズはあるか?」
「プライズってなんですか?」
「景品って意味だ。用例を挙げると『彼女はUFOキャッチャーのプライズを物欲しそうな顔で見つめていた』となる」
「ひとつ賢くなりました」
「で、あるか? 欲しいプライズ」
「じゃああのぬいぐるみで」
るーはUFOキャッチャーのプライズを物欲しそうな顔で見つめていた。キャラモノのぬいぐるみ。
「タクミ、いいか。男には、女が欲しがっているものを常に提供できる能力が必要とされる」
「なぜ?」
タクミはどうでもよさそうに訊ねた。
「モテるためだ」
「俺、モテなくてもいいよ」
「強がるな!」
俺は渾身の力を込めて叫んだ。
周囲の温度が少しだけあがった。
「男として生まれたからには女にモテたいものなんだよ! 自然の摂理! 本能なの!」
るーが面白そうにこちらを眺めていた。サーカスの観客みたいな顔。俺は珍獣か。
タクミは気圧されたように頷いた。
「わ、分かった」
「では、女にモテるために求められる男としての能力とはなんだろう? タクミ少年」
「え、えっと……」
「そう。その通り。UFOキャッチャーのプライズを手に入れる技術だ」
「まだ何も答えてないんだけど」
「こればっかりは練習してコツを掴むしかない。栄えある未来を手に入れるために立ちふさがる試練だと思え」
「絶対に必要なタイミング来ないよ、その技術」
不服そうにするタクミに、一度実演してみせることにする。
るーが欲しがっていたプライズの入っている筐体を選ぶ。小銭を投入。
挑戦する。
失敗する。
「……とまぁ、こういうこともある」
「先生、頼りないです」
るーが楽しそうにくすくすと笑った。
もう一度小銭を投入する。
失敗する。
「……まぁ、その、なんだ。こういうときもある」
「先生、とれないんですか?」
「とれないんじゃありません。ほら、タクミ、やってみろ」
小銭をみたび投入して、タクミに操作させる。
あっさり取った。
「取れたけど」
「ええー……」
なんだこの状況。神が俺をいじめているとしか思えない。
「ほら」
タクミは取り出し口に落ちてきたぬいぐるみをるーに手渡した。
こいつ、取った後の微妙な駆け引きまでできてやがる。
具体的にいうと、あまり露骨な感じにならず、あくまでそっけなくぶっきらぼうに振舞うが理想的なのだが、そこまで忠実にできている。
負けた。小学生に。完璧に。
これが主人公属性か。生まれて初めて目の当たりにした。末恐ろしい。
「ありがとう」
るーはタクミに笑顔でお礼を言った。
まぁいいか。見てて微笑ましいし。
昼時に一度集合してフードコートへ向かう。ただでさえ混雑していた中で空いている席を見つけるのは困難だった。
モール内のレストランの受付で記名して席が空くのを待つ。
しばらく待ってから席に案内される。昼時とはいえ、時間が流れれば席も空く。
七名。
ぶっちゃけ狭い。
テーブル席に案内されたものの、明らかに人数オーバーだった。食器も置ける気がしない。
仕方ないので、俺と妹だけ他の店で軽く済ませることにした。
「買い物、終わったのか?」
話の種にと訊ねると、妹は小さく頷いた。
「私のはね。お姉ちゃんがまだだけど」
幼馴染は買い物は長い。
対して妹の買い物が短いのは、いつも誰かと一緒に行くせいで、気を遣って早めに済ませるのが癖になっているからだろう。
「そっちはどうだったの?」
「なにが?」
「タクミくんとるーちゃん」
どうしたもこうしたもない。
「二人とも俺よりよっぽど大人です」
「まぁ、だろうけど」
冗談のつもりが、本気で肯定されて落ち込む。
「いや、冗談だよ?」
妹は後になってフォローした。落として上げるのは心臓に悪いのでやめていただきたい。
買い物は結局、夕方まで続いた。
帰る頃には東の雲が紫に染まっていた。肩を並べて歩く。
通行人の邪魔をしないようにと歩道を歩くと、どうしても縦に長い列になる。
すると自然と、会話に混ざれる人間と混ざれない人間が出てきて、俺はどちらかというと後者になりやすい人間だった。
なんだかなぁ、という気持ち。
置いてけぼりの気持ち。
幼馴染、妹、後輩が並んで話をしている。
その少しうしろを、るーとタクミが並んで歩いている。
屋上さんが、そのうしろ。
俺がさらにうしろ。
「屋上さん」
「なに?」
一瞬、何かが頭の隅を過ぎった。
すぐに思い出す。休みに入る前、屋上で彼女に声をかけたときと、反応が似ていた。
でも、似ているだけで、ちょっと違う。髪形とかいろいろ。
「なんでもない」
何かを言おうとしたのだけれど、何を言おうとしたかは思い出せなくて、結局そう言うしかなかった。
屋上さんは特に不審にも思わない様子で、また前を向き直る。
会話はないけど、悪くない。
でも、なんだかなぁ、という気持ち。
もうちょっと。
というのは贅沢か。
まぁ、今はいいか。
帰る途中で幼馴染たちとは別れた。妹と俺も、三姉妹を見送って家に入る。
るーが抱えたぬいぐるみが目に入った。
なんだか、似たような光景を見たことがあった。
思い出そうとしてもなかなかうまくいかないので、仕方なく諦める。
重要なことなら、そのうち思い出す。そうでないなら、忘れていてもかまわない。
その夜は涼しかったが、翌朝は虫刺されがひどかった。
つづく
スレが余ったらで良いからサラマンダーかマエストロ視点の番外編を書いて欲しい。
チェリーと後輩は幼馴染を通して知り合ったから、幼馴染と屋上さんが顔見知りなのは当然。
でもそれだと、屋上さんもチェリーと同じ中学校だったことになるから、チェリーと屋上さんの面識が
なかったのがちょっと不思議になる。そもそも幼馴染は後輩はチェリーに紹介したけど、その姉である
屋上さんは紹介しなかったことになる。
やたらと集まる回数は増えたものの、まったく誰とも会わない日だってないわけじゃない。
幼馴染と屋上さんが両方とも部活でいないときは、家には誰も来なかった。
昼過ぎにマエストロからメールが来る。久しぶりに会わないかという内容。
せっかくなのでサラマンダーとキンピラくんも呼んで、ファミレスで会うことにした。ファミレス超便利。
実際に会ってみると、話すべきことがないことに気付いて唖然とする。
「今日まで何してた?」
「寝てた」
「息してた」
「うぜえ死ね」
こんな感じ。暴言を吐きつつも集合してくれるキンピラくんはどう考えてもツンデレです。
男四人で向かい合って沈黙する。
暇を持て余していた。
普段だって何かを話しているわけではないのだが、久しぶりに会ったせいか、何かを言わなくてはならないような気になってしまう。
とはいえ、話すことは何もないので、
「暇だな」
「うん」
こんなやりとりを繰り返すばかりだ。
ふと、ユリコさんに誘われたバーベキューの話をするのがまだだったことを思い出す。
彼らは三者三様の反応を見せた。
「肉あるか?」
「あるんじゃない? バーベキューだし」
「ならいく」
サラマンダーは三大欲求に正直だ。
「女いる?」
「いるけど、おまえその発言はどうなんだよ」
マエストロも三大欲求に正直だ。
「俺、休み中は起きれるかわかんねえから」
キンピラくんも三大欲求に正直だった。
欲の権化。
ある意味男らしい。
「行けたらいくわ」
三人は魔法の言葉で話を終わらせた。
しばらく沈黙が落ちる。
みんな、会話なんてなくてもいいと思ってるのかもしれない。面倒になって考えるのをやめた。
友達ってそういうもんだろうか。話すことが何もなくて、会話が途切れても、不安に思わない関係。
だとすると、沈黙を不安がってしまう俺は、いったい彼らをどう思っているんだろう。
ひょっとしたら気を遣いすぎているのかもしれない。もうちょっと図々しくなってみようかな。
そのあとは、考え事をしながらマエストロの独り言に耳を傾けて時間を潰した。
「分かるか? 俺は彼女が欲しいんじゃない。ただ女の子にちやほやされたいんだ」
マエストロはいつだって欲求に素直だ。
家に帰ると、妹はいなかった。友達とどこかに遊びに行っているのかもしれないし、一人で買い物にいったのかもしれない。
やることがないので、部屋に戻って課題を進める。少しずつではあるが、終わりが見えてきた。
それでも、暑さのせいでなかなか集中できず、結局ベッドに寝転がってだらだらと時間を潰すことにした。
ごろごろと転がる。
最近、周囲がずっと騒がしかったからか、ひとりでいるとなんとなく手持ち無沙汰な感じがする。
暇。
「ひーまー」
口に出してみる。
退屈が増した気がした。
「うあー!」
暑いので無意味に叫ぶ。
よけい暑くなる。
何をやっても逆効果、という日もある。
妹は日没前には帰ってきたが、俺の落ち着かない気分はちっともなくならなかった。
なんだか落ち着かない日。
こういうこともある。
夕食を済ませた後、妹とリビングでだらける。
「なんかないの?」
妹も妹で暇を持て余している様子だった。「なんか」といわれても困る。
映画でもかけようかと思ったが、大抵のものはもう観てしまっていた。
仕方なく『2001年宇宙の旅』をかける。妹は開始三十分で眠ってしまった。
途中で最後まで見るのを諦める。時間を浪費している気がした。
ひどく蒸し暑い。寝るかという時間になっても、なかなか睡魔がやってこなかった。
夜中にベッドから起きて台所に下りる。冷蔵庫を開けて、麦茶をコップに注ぎ、いつものように飲み干した。
落ち着かない気持ちのまま、ふたたびベッドに潜り込む。
実際に眠れたのは、結構な時間が過ぎてからだった。
ある朝、妹に体を揺すられて目を覚ますと、部屋には幼馴染とタクミがいた。
「プールに行こう」
幼馴染が楽しそうに言う。
仕方なく起き上がり、全員を追い出して着替える。プール。そういえば水着はどこにやったんだったか。
準備を終えてリビングに下りる。妹が朝食を作っていた。
なぜだか幼馴染たちの分まである。食べて来い。いや、別にいいのだけれど。
どうやら屋上さんたちには既に連絡してあったらしい(というより俺以外の人間にはあらかじめ知らされていたようだ)。
集合時間に合わせて移動する。主導したのは幼馴染だった。
彼女は妙にはしゃいでいる。もともと暑いのが苦手で、泳ぐのが好きというタイプだからか。
市民プールにつくと、駐輪場の屋根の下に三姉妹がいた。
このあたりにはあまりプールがないので仕方ないのだが、このプールはあまりよろしくない。
男子更衣室の窓が割れてたりする(ダンボールで補修されている)。
けっこう狭い(というか狭い)。
人気があまりない。人があまりいない。
言っても仕方ないことだし、とりあえずプールには違いないのだが。言い方を変えれば穴場でもある。
学生の身分では入場料は高くつく。妹の分と自分の分を払う。タクミの分は幼馴染が払った。
俺が出すかとも考えたが、それは少し違うだろう、と自分で否定する。
更衣室はとうぜん男女で分かれているので、タクミは俺が引き受けることになった。
よく考えると男女比が2:5。
倍以上。恐ろしい。
やっぱり更衣室の窓は割れていた。まさか女子更衣室の窓まで割れているとは思わないが、これはちょっとした怠慢ではないだろうか。
着替えを終えてプールに出る。
タクミと一緒に軽めの準備運動をする。女勢はまだ時間がかかりそうだった。少しの間待機する。待つ時間は苦にはならなかった。
更衣室から最初に出てきたのは後輩とるーだった。
次いで妹。少し間をおいて幼馴染。一番遅かったのは屋上さん。
立ち並ぶ女性陣からとっさに目を逸らすと、幼馴染が不思議そうに首をかしげた。
「なんでそっぽ向いてるの?」
「眩しいから」
童貞には強すぎる光なのです。
当然といえば当然だが、水着姿を積極的に見られたい女子はいないようで、みんなあちこちに散らばっていった。
おかげで目のやり場に困るようなことはなくなったが、少しばかり残念という気もする。
まじまじと見ることなんて、どうせ出来やしないのだが。小心者だから。
「でも先輩、ちゃんと見ないとだめですよ」
後輩がからかうように言う。
「よせ、俺を弄ぶな。分かってるんだぞ、どうせ実際に見たら見たで変態扱いされて両方の頬に平手打ち食らう展開が待ってるんだ」
「やー。でもほら、水着って見られることを想定して選ぶものですし」
「そんなわけあるか。男にあんな露出の激しい格好見られたいと思う女がどこにいる」
俺は目を覆った。童貞には刺激が強すぎる。下手をすると大変なことになる。主に下腹部周辺。
「そこまで拒否されると、何としても見てもらいたくなるんですけど」
「じゃあほどほどに見るから早く泳ぎに行くんだ」
後輩は仕方なさそうに去っていった。
取り残されたのは俺とタクミの二人で、彼は俺の方をちらりと見て、やれやれというみたいに肩をすくめた。
子どもに子ども扱いされた。
そう間を置かず、幼馴染とるーがタクミの名前を呼んだ。彼は返事をして駆け出す。プールサイドを走るな。
一人取り残される。
「……なんだろう、この寂しい感じは」
仕方ないので一人で泳ぐことにする。
子供たちは底の浅いプールで水をかけあってはしゃいでいた。
楽しそう。
幼馴染と後輩が、るーとタクミの面倒を見ていた。
妹がいないことに気付いて探す。流れるプールで流されていた。
屋上さんはどこだろう、と周囲を見回すが、みつけられない。
「何してるの?」
と思ったら、後ろから声をかけられた。
「いや、何してるのというか」
普通に驚く。
とっくにどこかに行ったものと思っていた。
「屋上さんこそ何をしておられるのか」
「いや、みんながどこにいるかわかんなくて」
「なぜ?」
「視力が……」
そういえば、彼女は眼鏡をしていたっけ。
「普段はコンタクトなの?」
「そう」
納得する。確かにプールで泳ぐのにコンタクトをするわけにもいかないだろう。
視力が悪い人って、水泳のときはどうしているんだろう。度の入ったゴーグルでもあるんだろうか。
「ぜんぜん見えない」
彼女は目を細めてなんとか周囲を見ようとしていたが、効果があるようには思えない。相当悪いらしい。
とりあえず屋上さんを幼馴染たちと合流させる。さすがに近くまで行けば分かるだろう。
「お兄さん、どこにいくんですか?」
すぐさま退散しようとした俺を、るーが目ざとく見咎めた。侮れない。
「泳いでくる。二〇〇メートルくらい」
「二往復ですか。がんばってください」
別に水着だからと過剰に意識しているつもりはないのだが、かといってあんまり近付くのも気まずい。
いや、だって、ねえ?
恥ずかしいし。
男の恥じらいなんて気持ち悪いだけだけど。
水着って露出多いじゃん。
見てるこっちが恥ずかしい。
小学生の頃、漫画を読んでいるとき、誰に見られているわけでなくとも、ちょっとエッチなシーンがあったら読み飛ばしていたものだ。
ああいう気持ち。
競泳用プールをきっちり二往復してから、周囲を見回す。ちょうどウォータースライダーから落ちてくる後輩の姿が見えた。
そういえば、大人びてはいるけれど、あいつだって中学生か。俺たちとはひとつしか違わないけれど。
……今年受験じゃね?
考えないことにした。
子供向けの浅いプールに、膝まで浸して座った。
運動自体久々だったせいか、全身がさっそく痛み始める。
これはまずくないだろうか。
運動不足。
何か手を打たねばなるまい、とひそかに思った。
不意に、足が引っ張られる。
何事と目を向けると、るーが俺を水の中に引きずり込もうとしていた。
目が合うと、彼女はにっこりと笑った。
天使の笑顔だった。超癒される。でもやってることは小悪魔レベル。
もし深いプールだったら洒落にならないところだ。
「るー、泳げるの?」
「泳げません」
彼女はにっこりと笑った。
「……練習しようか」
「いやです。怖いです」
「中耳炎か何かとか?」
「健康そのものですけど」
「泳ごう」
「だめです! 水の中って息できないんですよ? 宇宙みたいなものじゃないですか! 息ができないと人間って死んじゃうんですよ!?」
意味不明の言い訳をされる。宇宙とはわけが違う。泳げるようにできてるわけだし。
「いいじゃん、教えてもらいなよ」
後輩が気安げに言うと、るーは絶望的な表情になった。
だんだんかわいそうになってくる。
「溺れなければ大丈夫だから」
「泳げないから溺れるんだよ?」
「練習しないから泳げないんだよ」
るーはしばらく抵抗を続けていたが、結局諦めたようにうなだれた。力が抜けて体が浮く。おもしろい。
「ひとごろしー……」
「人聞きの悪い」
「ひとごとだと思って」
「ひと繋がりはもういいから」
水の中で遊ぶこと自体に抵抗はないようだし、犬掻きくらいは出来ている。
つまり、顔をつけるのが怖いのだろう。
顔を洗うときに洗面器で息とめてみたりしないのかな。
いや、普通の人がするものかは分からないけれど。
力を抜いて身体を浮かすくらいのことはできている様子。
借りてきたビート板を持たせる。
「はい、手を伸ばす」
「……怖いんですけど」
「水はともだち。怖くない」
なるべく優しい声音で言う。
逆に警戒されてしまったようだった。なぜ?
「息を止めて顔を水につける。ちょっとでいい」
るーは本当にちょっとだけしか顔を水につけなかった。
どうしたものか。
根気か。根気しかないのか。
俺がどう教えたものかと途方にくれていると、横合いからタクミが現れた。
「無理しなくてもいいんじゃない? 泳げないと死ぬってわけでもないし」
るーは救いの神を見つけたかのように瞳を輝かせた。
なんだこの態度の違い。
「いいこと言った。今、タクミくんはいいことを言いました。お兄さん、スパルタはもう終わりです」
「あれー? なんだろうねこの俺が悪者みたいな空気は」
スパルタというつもりはなかったのだが。というか、最大限の優しさをもって接したつもりだったのに。
ビート板か。ビート板が悪いのか。やっぱり浮き輪にするべきだったか。
打ちひしがれてプールからあがる。なんだこの徒労感は。
うしろから、るーに声をかけられる。
「冗談ですよー?」
分かってます。プールサイドでは屋上さんと妹が並んで休んでいた。
るーとタクミは幼馴染たちに任せて、ふたりのところに行くことにした。
「つかれた」
妹がぼやいた。
濡れた髪。一通り泳いだ様子だった。もともとあんまり運動が得意な奴じゃないので、長時間泳ぎ続けるのはつらいのだろう。
屋上さんの方は髪の毛先が少し濡れている程度で、あまり水泳後という感じがしない。
「泳がないの?」
「私、からだ動かすの苦手だし」
今日の目的の根底を覆す発言だった。いつも陸上部で軽快に走ってるのに。
「せっかくなのに?」
「うん。せっかくだから流されてきた。流れるプールで」
「どうだった?」
「寒い」
そりゃあ身体を動かさなければそうだろう。
満足行くまで遊んでから、プールを出る。ふたたび更衣室前で別れて、ロビーで集合した。
一緒に昼食をとることになったが、人数と時間帯の面で考えるとあまり行ける場所が思いつかない。
仕方が無いので、俺の家に集まることになった。なぜか。
帰りに食料を求めてコンビニに寄る。近頃本当にコンビニばかりだ。まずいような気がする。
幼馴染とタクミは一度帰ることにしたらしく、まっすぐ帰路についた。
残された俺と妹、三姉妹は、暇を持て余す。
「つかれたー」
家に帰ってすぐ、妹がソファに倒れこむ。珍しいことだ。普段だったら客人の前でこんな姿を見せたりはしないのに。
それだけ疲れていたのか、それだけはしゃいだのかのどちらかだろう。
しばらくゆっくりとした時間が流れる。妹はともかく、るーと後輩まで、いつのまにか眠っていた。
残された俺と屋上さんは、互いに何も言わずに押し黙った。
何を言えばいいやら。
付けっぱなしのテレビの音量を下げる。台風が近付いているらしい。
沈黙に耐えかねて、屋上さんに声をかける。
「アイス食べる?」
「うん」
彼女の返事は短い。
落ち着かない。
距離が縮まっているようで、やっぱり縮まっていないような。
アイスをかじりながら、また黙る。
ふたたび口を開く。どうも気まずい。
「屋上さん、課題進んでる?」
「終わってる」
「……あ、そう」
早めに済ませるタイプらしい。
どう話を続けるべきか。
……こうなると、そもそも会話する必要があるだろうか、という気分になる。
屋上さんは会話がなくても平然としていて、むしろ俺が話しかけたときほど居心地悪そうにしている気がする。
「あのさ」
不意に彼女は口を開いた。緊張したように表情が強張っている。
まずいことしたかな、と思考を巡らせた。そう考えると山ほど落ち度があるように思えてしまう。
「いや、別にそういうんじゃなくて」
「そういうのって?」
「だから、その、さ」
彼女は何かを言いたそうにしていた。何かを言いたいのだけれど、上手く言葉にできないような、もどかしそうな表情。
「私、あんまり人と話すの、得意じゃないというか」
「……うん」
相槌を打って、続きを待つ。急かすような態度をとらないように、そっけなくなりすぎないように注意しながら。
「だから、別に、話すのが嫌とかじゃなくて」
ゆっくりと、なんとか伝えようともがくみたいに、彼女は言った。
――人と話すのが、あまり得意じゃない。
「……うん。なんかもう、上手く言葉にできないけど、そんな感じだから」
彼女はそれを最後に、また言葉を切った。
また沈黙。その静けさには、さっきまでとは違う意味があるように思えた。
彼女が、人との会話を難しいと思っていることは分かった。
でも、それを今言ったのはなぜだろう。
深読みすれば、とても都合いいように解釈すれば、「話すのを嫌がっていると思われたくない」となるわけで。
それはつまり。
深読みすれば。
過大解釈すれば。
自惚れるなよ、と内心で自分に言ったが、頬がゆるむのはどうもこらえられそうにない。
「何ニヤニヤしてんの?」
屋上さんが怪訝そうに眉を寄せる。
「いや」
短く否定する。彼女は仕方なさそうに溜息をついた。言ったことを後悔しているのかもしれない。
俺は浮かれそうになる気持ちを意識して押さえ込んだ。
どうせこの後、なんかよくないことが起こるに決まってる。
予定調和。
あるいは、俺の勘違いでしかないとか。
屋上さんの発言に、俺が考えてるような意図はなかったとか。
そのはずなのに、何分経っても、妹が起きて、後輩が起きて、るーが起きて、三人が並んで帰るときも、そのあとも、ちっとも悪いことは起こらなかった。
けれどその翌日、妹が風邪を引いた。
つづく
>>528 たぶんやりません
「油断した」
と、ベッドの中で唸りながら妹は言った。顔は火照っていて、息も少しつらそうだ。
うちの家族は、風邪になりにくいわりに、実際にかかると弱い。
「いつから調子悪かったんだ?」
「昨日の夜から、なんだか頭痛がするなぁ、とは」
「プールかな」
ほとんどプールサイドに上がって休んでたし。
「たぶん」
妹は疲れきったように溜息をついた。
「しんどい……」
「だろうな」
変に強がられると困ったことになるので、つらいときはつらいと正直に言うのが我が家のルールです。
それでも正直に言わなかったりするのが妹の困ったところではあるのだが。
「間接痛い。頭ぼんやりする。洟つらい。喉がいがいがする。全身だるい」
妹が鼻声で列挙した症状を頭の中で繰り返す。
俺の推理が正しければ風邪だ。
ていうか風邪だ。
「ゆっくり休むように。食欲は?」
「あんまりー」
間延びした声。ひょっとして俺もこんな感じだったんだろうか。
「でも、雑炊なら食べれる、かも」
「後で作る。欲しいものは?」
「愛とか」
うちの人間は自分がつらければつらいほど冗談を言いたくなる人種です。
俺の場合は周囲を茶化してるだけだけど。
「愛ならやるからさっさと治せ」
「うん」
妹はしおらしく頷いた。普段より態度が軟化していて、どうも調子が狂う。それだけ弱っているのだろうか。
たかだか風邪、と言えばそうだけど。
風邪を引いたときの、あの妙に心細い感じは、結構つらい。
台所に下りて冷蔵庫の中を確認する。玉子。野菜室。ネギ。
炊飯ジャーの中を覗く。問題ない。
作れなくはない。
正直、料理はあまり得意ではない。妹はもちろん幼馴染も食べさせたことがあるが、あまり評判もよろしくない。
味が濃すぎたり薄すぎたりするそうな。
粉末かつおだし(万能)を駆使して雑炊を作る。俺の料理は基本的に大雑把だ。
炊飯ジャーから茶碗一杯分のご飯を取る。ザルに移して軽く水で洗い、ぬめりを取る。
小さめの鍋に水を入れる。沸かす。ダシを入れる。米を投入。醤油、塩コショウ、めんつゆなどで味付け。刻んだネギ、卵でシメる。
完成。
五分クッキング。
味見する。
「熱ィッ!」
舌を火傷した。
味は悪くない。
昔は水の分量なんかで手間取ったものだ。料理を教える側だった祖母が感覚で作るタイプだったというのもあるが。
「具体的にどのくらい入れればいいの?」
「だから……このくらい?」
「このくらいってどのくらい?」
「だいたい勘でやってるから」
「勘なの?」
「うん。この量だから、たぶん……このくらい」
そんな祖母に教わっても上達はしたのだから、習うより慣れろというのは案外的を射ていると思う。
出来上がった雑炊を大きめの椀に取り分ける。スプーンの代わりにレンゲを用意した(形から入るタイプ)。
妹の部屋に持っていく。レンゲで雑炊をすくって冷まし、妹の口元に運んだ。
「自分で食べれるから……」
「火傷するから」
「大丈夫だって」
「俺なりの愛だから」
「愛はもうおなか一杯だから」
「いいから食べろって」
妹は仕方なさそうにレンゲを口に含んだ。
餌付けの感覚。
微妙に楽しい。
「塩コショウききすぎ」
妹は味に関しては手厳しい。
「まずいですか」
「そうは言ってないです」
催促されて、手を動かす。嫌がったのは最初だけで、二口目以降は食べさせられることに抵抗はなかったようだった。
半分くらいまで減ったところで、もう食べられないというので、残りは俺が食べた。
「熱測った?」
「七度二分」
微熱。そうひどくはないようだ。
とはいえ、甘く見ていたら悪化しかねないわけだし、どうせ休みなのだから、じっくり休んで治すべきだろう。
「ミカンとか桃とか、それ系の缶詰とか食べる?」
「今はいいや。それより、喉渇いた」
「他には何かある? 水枕いる?」
「大袈裟。そこまでしなくても大丈夫だから」
とりあえず水と薬を用意する。冷蔵庫の中にスポーツドリンクがあったので、それも持っていった。
どうしたものか、と思う。
ずっと傍にいるのも落ち着かないだろうと思い、自室に戻る。
なんとなくそわそわする。
三十分ほど時間をおいて部屋を覗きに行くと、妹はすやすやと眠っていた。
特に寝苦しそうな様子もない。ひとまずほっとする。もういちど部屋に戻ろうとしたところで、インターホンが鳴った。
玄関に出ると幼馴染とタクミがいた。
俺は妹が風邪を引いて寝込んでいることをふたりに告げる。
幼馴染はお見舞いをしたいと食い下がったが、眠っていることを言うとすぐに引き下がった。
「うつったらあれだし、今日のところは悪いけど」
「うん」
お大事にと言い残して、二人は去っていった。
三姉妹も来てしまうかもしれないと思い、屋上さんにメールを入れておく。
返信はすぐに来た。「了解。お大事に」短くて分かりやすい。
さて、と溜息をつく。
家事しないと。
洗濯、食器洗い、簡単に掃除をして……まぁそのくらいか。
だいたい二人分なので洗濯物は少ない。食器に関してもさっき使ったものだけだが、やっておいても問題ないだろう。
掃除といっても全体的に片付いているので、軽く掃くだけでそこそこ綺麗に見える。
こうしてみると、うちの妹さまは年齢の割にあまりに優秀な性能をお持ちだということがよく分かる。
せっかくなので布巾を使ってテレビ台の脇やカーテンのレールなんかの埃をふき取る。
はじめると楽しい。
掃除を満足するまで続けていると、いつのまにか昼過ぎになっていた。
そろそろ起きる頃かと思い妹の部屋に向かう。そのまえに用を足そうと思い、トイレに向かった。
ドアを開ける。
閉める。
幻を見た気がした。
少しして、水を流す音が聞こえる。
妹が出てきた。
鍵を閉め忘れたのは彼女の方なので、俺に落ち度はない、はずだ。
なんだろう、この罪悪感。
「……気配で察してください」
言い終えてから、妹は小さく咳をした。気配とは無理を言う。
「音で気付くっていうのも、なんか微妙な話じゃない?」
「音とか言うな」
よくある事故だった。
二人でいることが多いので、風呂の時間がかぶることはなかなかない。
そのせいか、妹はトイレでも脱衣所でも鍵を閉め忘れることが多かった。
いや、トイレで遭遇したのは初めてだけれど。
寝てるものだと思ってつい。
「寒気とかない?」
「少しだけ」
「なんか飲む?」
「ココア」
妹を部屋に帰して、そのままココアを入れに行く。黒いカップ。猫のうしろ姿。
ついでに自分の分のコーヒーも入れる。
ゲームキャラを真似してブラックで飲んでいたら、いつのまにか癖になり、何もいれずに飲むことが多くなった。
中身をこぼさないように注意しながら妹の部屋に向かう。
椅子を借りて、ベッドの脇に腰掛けた。
妹はベッドから半身を起こしてカップを手に取る。
パジャマの袖に隠された手の甲。
ひょっとして狙ってやってるのか。
会話がない。
少しずつコーヒーが減っていく。ゆっくりとした時間。
空になったマグカップを持って、妹の部屋を出る。夜まですることがなくなる。
ギターを弾いたら寝るのに邪魔だろうし、映画を見るには気分が乗らない。
部屋に戻って課題を進めることにした。
夕方になっていから、夕食をどうするかを訊ねに行く。だいぶ楽になったようで、食欲もあるらしい。
簡単に、消化によさそうで、あまり食べにくくないものを作ろうとしたが、そんな料理思い浮かばなかったので、適当に済ませた。
食事の後、妹がシャワーを浴びたいと言い出す。
やめておけと言いたかったが、こういうときだけは困る。
性別の壁。女性的な感覚が分からないので、あんまり口うるさくも言えない。
あまり長くならないことと、体をしっかり拭いて髪を乾かすことだけ言いつける。
分かってる、と頷いた妹の顔は、朝よりはずっと普段のそれに近かった。
妹はシャワーを浴びたあと部屋に戻って早々に寝入ったようだった。
俺は部屋に戻って課題を進めた。だいたい半分近くは済んでいる。期間的に余裕はまだあるが、そろそろ終わらせてしまいたい。
しばらく机に向かってから、風呂に入って寝ることにした。
ベッドに入る。なんとなく落ち着かない気分。
明日には妹の風邪が治っているといいのだが。
そろそろ祭りも近い。ユリコさんの言っていたバーベキューの日取りも、幼馴染が言ってくる頃だろう。
食材の費用とか、どうしよう。俺たちが渡そうとしても素直に受け取らないだろうし。
一応、両親にも話をしておくべきだろう。母ならなんとかできるはずだ。
目を瞑って考え事をしていると、自然とここ最近のことに思考が集約していく。
幼馴染、タクミ、妹、屋上さん、後輩、るー。近頃良く会う顔ぶれ。
いつからこうなったんだっけ。幼馴染が家に来るようになったのは夏休みのちょっと前だ。
タクミを連れてくるようになったのは夏休みに入ってから。
屋上さんが家に来るようになったのは、たしかるーが来たがったからだ。
そこまで考えて、不意に疑問に思う。
後輩はたしか、るーと屋上さんとの間には、微妙に距離がある、というようなことを言っていなかったか。
後輩自身も含まれるような言い方で。
だとしたら、るーはどうして俺のところに来たがったのだろう。
素直に受け取るなら気に入られたということになるだろうが、あまり仲の良くない姉妹の友人相手なら、距離をとるはずじゃないだろうか。
考えすぎかもしれない。
その夜、久しぶりに夢を見た。
夢の中の俺はまだランドセルも背負っていないような年齢だった。
公園の砂場で、幼馴染と一緒に遊んでいる。
俺はそこで、彼女を問い詰めている。
「俺、おまえと結婚の約束したよな?」
けれど幼馴染は首を振る。冗談などではない。彼女は本当にそのことを知らないのだ。
俺は混乱する。たしかに、そういうことをした記憶がある。
じゃあ、ひょっとしたら、と考えて、俺は質問を変えた。
「俺、おまえに指輪をあげたことがあるよな?」
この質問には、彼女は頷いた。
少ない小遣いをはたいて買った玩具の指輪。スーパーマーケットの小物店。
でも、おかしい。
俺と幼馴染が結婚の約束をしたとき、俺たちはランドセルを背負っていなかった。
その頃は、ちょうど祖父母の家から両親の家に戻ってきた時期。
両親の仕事は落ち着いてきたけれど、毎日のように祖父母やユリコさんが様子を見に来た時期。
その頃、俺はまだ自分で金を持ったことがなかった。あるにはあったが、ごく少ない金額だったはずだ。
少なくとも、その頃の自分に、小物店で玩具の指輪を見つけて、レジに持っていく、なんてことができたとは考えにくい。
そこまで考えて、結婚の約束と指輪との間に関連性がなかったのかもしれないと気付く。
だとすれば幼馴染は指輪のことだけを覚えていて、約束のことを忘れているのだろうか?
違う気がした。
俺や幼馴染が忘れていても、そんなことをしていればユリコさんが知っているはずだ。
そんなことがあれば、今の歳になったってからかうに決まっている。
だとすると、ユリコさんは知らない。
じゃあ約束なんてなかったんだろうか。
夢はいつのまにか静止していた。砂場で俺と幼馴染が硬直している。少し遠くにあるベンチから、ユリコさんがこちらを見ている。
妹は、ユリコさんのところから、こちらへ向かって走ってくる。あいつはひどく元気で手の付けられない子供だった。
夢の中の俺は、そこで考えるのをやめた。
子供の頃のことだし、実際に約束したかどうかなんてどうでもいいことだ。
実際、子供の頃の約束を理由に何かが変わるわけでもない。
そんなものを持ち出したからといって幼馴染と結婚できるわけでもないし、結婚しなければならないわけでもない。
約束なんてことを言い出せば、妹とだって子供の頃から数え切れないほどの約束を交わしてきた。
具体的に覚えてるものなんてほとんどないけど。
夢はそこで途切れて、俺の意識はふたたび眠りに落ちていった。
翌朝、リビングに下りると、妹が既に起きてキッチンに立っていた。
病み上がり。
「ご飯、すぐにできるから」
嫁みたいな台詞を言われる。
顔色はいつもと変わらない。治ったようではある、が。
「熱はかった?」
「計ってないけど」
「休んでなさい」
料理を引き継いで妹をリビングに座らせる。不満そうにしていたが、ぶり返しでもしたらそれこそ困る。
それでも一応、風邪は治った様子で、多少動いても平気そうにしていた。
あまり無茶をしなければ、もう大丈夫だろう。
妹が部屋に戻って課題をやるというので、俺は暇を持て余した。昨日の今日なので誰もうちには来ない。
部屋に戻ってギターで「太陽は夜も輝く」を弾き語る。かっけえ。俺超かっけえ。
すぐに鬱になる。いったいいつになったら上達するんだろう。
ふと気になってテレビを見る。台風は大きく逸れていったそうだ。期待させやがって。
ギターをスタンドに立てかけて課題を進める。
昼時まで集中すると、結構進んだ。あと二日もあればだいたい終わるだろう。
妹と一緒に昼食をとり、また部屋に戻る。
昼過ぎに幼馴染が一人でやってきた。
「リンゴ持って来たよ」
妹の様子をみて、幼馴染も少しばかり安心したようだった。リンゴを剥いて三人で食べる。美味い。
「バーベキュー、明日だって」
「明日?」
また急な話だ。
ていうか妹はまだ病み上がりだ。
「思い立ったが吉日だって言ってた」
思い立ったのはだいぶ前だと思うが、ユリコさんに理屈は通用しない。
「連絡しておく。みんなに」
その前に、明日は部活があるのだが。
「うん。そんな感じで」
幼馴染はリンゴをしゃりしゃりかじりながらぼーっと周囲を見回した。
特に意味のある行動ではなさそうだが、妙に気になる。
訊いてみることにした。
「どうかした?」
「え? なにが?」
無意識だったらしい。
「そういえばさ」
ふと夢のことを思い出して、訊いて見る。
「指輪を渡したこと、あったよな?」
幼馴染は一瞬変な顔をして、
「ああ、うん」
小さく頷いた。
「ちゃちな玩具の」
「ちゃちって言わない」
なぜか怒られた。やっぱり指輪のことは覚えているらしい。
「それがどうかしたの?」
「別に」
そこで会話が終わると、幼馴染は不満そうな顔になった。なぜ?
リンゴを食べ終える。
幼馴染は早々に立ち上がって、帰る準備をした。
「じゃあ、明日のこと、よろしく。一応必要なものは揃えとくみたいだから」
「はいはい」
彼女が帰ったあと、夕食の準備を始めた。妹が手伝いたがった。仕方がないので分担する。
夕食を食べ終えたあと、部屋に戻った。
その夜は雨が降った。
つづく
「悪かった」
謝る。
「いや、私が悪いんだけど、さ」
気まずい。
困る。
「調子どうだ?」
話題を変えるついでに訊ねる。
顔色を見ると、少しはマシになったようだった。
額に触れる。
「な、なにをするか」
今日の妹は口調が安定しない。
熱はまだ少しあるようだった。
「まぁ、今日一日休んでれば治るだろ」
「うん」
素直に頷く。
普段もこのくらい分かりやすければいいのだけど。
家事だって黙々とこなすし、学校のことだって何も教えてくれないし、基本的に自分のことを話したがらないし。
お互い様といえば、そうなのだけれど。
これだけ
ごめんなさい
祭り言ってたんでちょっといつもより遅れました
今から投下します
翌日の午前中、部活があったので学校に顔を出した。
雨は夜中降り続いていたようで、朝になってようやく止んだらしい。地面が濡れていた。
部室につくと、やっぱり部長がいた。
「どうも」
「おはようございます」
そういえば部長と話をするのも久しぶりだ。
「何か良いことでもあったんですか?」
彼女は俺の顔を見てすぐにそう言った。
「なぜ?」
「機嫌良さそうな顔してるから」
「そうですか?」
無自覚。意識していなかった。
「恋人でもできたんですか?」
部長が真顔で突飛な質問をする。なぜ恋人か。
「休み前にそんなようなことを言ってたじゃないですか」
そういえばそんな話をしたような気もする。
恋人つくるにはどうしたらいいか、みたいな話。
すっかり頭から抜けていたけれど、別に恋人ができたわけじゃない。
やたら周囲の女子率が上がっただけで。
「毎日楽しくて仕方ないです」
男として本音を言うべきだと感じた。
「女の子を侍らせて毎日楽しんでるわけですか」
「部長、その言い方だと、なんか俺が悪い人みたいです」
「好きな人はできたんですか?」
部長は疑問が直球です。
好きな人。
好きな人て。
「やだそんな恥ずかしい」
照れた。
「好きな人、いないんですか?」
「ぶっちゃけよくわかんねえっす」
正直に答えた。
好きな人とか言われても困る。
しいていうならみんな好きです。
「部長は、いないんですか?」
「私のことはいいじゃないですか」
誤魔化された。
好きとか好きじゃないとか、難しい。
幼馴染はずっと一緒にいるせいで、きょうだいみたいなものだし。
屋上さんとは友達と言えるかどうかも微妙なところだし。
妹は、いや、妹は妹だし。
しいていうなら、
「全員ひとりじめしたい……?」
「最低の論理ですね」
軽蔑された。いや、男なら思うって。
もちろん、そんなことできないのはわかってる。
でも選べないってことは、少なくとも特定の誰かに恋愛感情を持っているわけではないってことだろうか。
なんかそんな気がする。
「俺はずっと女に囲まれて過ごすのですぐへへ」
うわあ、と部長が声をあげた。
言い方はともかく、割と正直な気持ちではあった。
俺は嘘もつくし失敗もするけれど、できるだけ正直であろうと思うし、真摯でありたいと思う。
言ってることは最低かもしれないけど。
……真摯じゃないかもしれないな、これは。
そういえば、とふと思う。
部長に「好きな人は」と聞かれたとき、頭を過ぎった、幼馴染と屋上さん。妹……のことはおいておいて。
いつのまにか、屋上さんと幼馴染をほとんど同列に置いている自分に驚いた。
ちょっと前まで屋上さんは、ただのよく会う人だったのに。苦手にすら思っていたのに。
ちょっと前まで、幼馴染に彼氏ができたとかいってひどく落ち込んでいたのに。
深く考えないことにした。
部活を終えて家に帰る頃には、地面はすっかり乾いていた。
太陽、まばゆい。張り切りすぎだ。暑い。
汗を拭うが、きりが無い。さっさと着替えてしまいたい。帰ったらシャワーを浴びよう。
家についたのは一時過ぎだった。幼馴染の家には夕方までに行けばいいので、まだ余裕がある。
シャワーを浴びて着替える。昨日のうちに男子三人にはメールを出しておいた。
返信はすべて「行けたら行く」だったけれど、たぶん三人とも来るだろうと思う。
マエストロはエロ小説の肥やしにでもするかもしれないし、サラマンダーは肉食だし、キンピラくんはツンデレだし。
案の定、一時を過ぎた頃に、三人とも俺の家にやってきた。
それぞれ、手にビニール袋を持って。
どこかで一旦集合したらしい。結局乗り気だったんじゃん。
荷物の中身を訊ねてみる。
「サラマンダー、なにそれ」
「花火。食べ終わったらやるかなーと思って」
サラマンダーの面目躍如である。
「マエストロ、なにそれ」
「おまえに見せようと思ったエロ小説」
そんなもんみせんな。マエストロの面目躍如である。
「キンピラくん、それはなに?」
「いや、初めて会いにいくわけだし、親御さんいるんだから、菓子折りでも持ってくべきかと思って」
やけに礼儀正しい。高校生の発想じゃなかった。侮れない。
「これだと、俺もなんかをもってかなきゃいけない気がする」
とりあえず何かないかと家中を探す。妹が怪訝そうな目でこちらを見ていた。照れる。
冷蔵庫の中にスイカがあった。これだ。
俺だけ手土産なしという最悪の事態は回避される。
三時までゲームをして遊んだ。
キンピラくんはやたらと強かったが、マエストロには敵わない。最下位は俺だった。
少ししてから五人で幼馴染の家に向かう。庭では既に幼馴染の父であるアキラさんが準備を始めていた。
三姉妹は既に来ているらしく、幼馴染やタクミと一緒に中で待機しているという。
アキラさんを手伝おうと思ったのだが、なぜだか拒否される。あまり強くも出れない。
ユリコさんなら、強引にでも手伝うことはできる。でもアキラさんは難しい。
この人はなんというか、「いいっていいって」という言葉だけで万人を納得させる力を持っているのだ
「いいっていいって」
仕方なく家の中にお邪魔する。
リビングに入ると、五人は座ってトランプをしていた。
男勢の多さに、るーが少しだけ警戒したようだったが、後輩と話すのを見て少しは安堵したようだった。
基本的に無害な人たちですし。
男子勢はむしろ、見知らぬ女子がいることを疑問に思っていた。そういえば説明してなかった。
軽く紹介する。彼らはすぐに納得した。
「花火持ってきたから後でやろう」
サラマンダーが株をあげた。
キンピラくんはキッチンに立つユリコさんに菓子折りを礼儀正しく渡した。すげえ。
でもキッチンで渡すことないのでは? やっぱりキンピラくんはキンピラくんだ。
勝手知ったる人の家で、俺はユリコさんに一声かけてからスイカを冷蔵庫に入れた。
俺、妹、幼馴染、タクミ、屋上さん、後輩、るー、サラマンダー、マエストロ、キンピラくん。
増えすぎ。
さらに、ユリコさん、アキラさん、と、見知らぬ誰か数名。
見知らぬ誰か数名。
知らない人がいることに気付いて動揺する。キッチンでユリコさんと並んでせわしなく動いていた。
「だれ?」
「るーちゃんたちのお母さんだって」
幼馴染が答えてくれた。人のよさそうな表情、若々しい見た目、少し聞こえる話し声は、落ち着きがあって控えめ。
いい人っぽい。
どことなくるーに似ている。
親しみを持つために脳内呼称をつけることにした。シミズさん。申し訳ないけど適当だ。
もう一人、キッチンには誰かが立っていた。
「タクミの?」
うん、と頷いたのはタクミだった。
そういえば、さっきアキラさんの隣に誰かがいたような。あの人がタクミの父親だろうか。
こっちは「タクミのお母さん」でいいや。うん。それで混乱しないし。
大人多い。
微妙に緊張する。
でも緊張していたって仕方ない。今日は余計なことを考えず、子供として楽しむことにした。
いわば妹と同列。
それはそれで間違っている気がする。
しばらく話をする。屋上さんが後輩のことを「すず」と呼んだ。
記憶にある限り、屋上さんが後輩の名を呼ぶのははじめてのことだ。
るーはいつも後輩を「お姉ちゃん」と呼んでいる。その違いはなんなんだろう。
「すず姉」でもいいはずなのに。
それはどちらに対して距離があると受け取れるんだろう。
俺が考えるべきことでもない、と、思考を区切った。
今はバーベキュー。
四時頃、ユリコさんに呼ばれて庭に出る。サンテーブル、紙コップ、紙皿、ジュース、ビール。
鉄板に重ねられた網の上で焼かれていく肉、野菜。
垂涎。
幼馴染と妹が積極的に動いて皿の準備をした。ユリコさんは早々に椅子に座りビールを飲んでいた。
トングはもっぱらアキラさんが持っていた。
「代わりますよ」
シミズさんが名乗り出る。
「いいからいいから」
アキラさんは当然のように断る。ユリコさんがシミズさんを強引に座らせて、酒を紙コップに注ぐ。強引な人。
サラマンダーとマエストロは遠慮がなかった。焼けたそばからばくばく喰う。ちょっとは遠慮しろ。
二つ目のトングを握った妹に、俺は野菜ばかりを食わされた。ひどい。
でもほとんど食べられていない妹の手前、何もいえない。
るーやタクミはサラマンダーたちに負けじと張り合っていたが、後輩や屋上さんはマイペースで箸を進めていた。
幼馴染は、なぜか大人たちと酒を飲んでいた。謎。
これだけの人数がいると、場は騒がしくなる。
頃合を見て妹と役割を交代する。子供の網は子供の管理。
マエストロたちに肉があまりいかないように誘導しながら具材を焼く。
大人たちが微笑ましそうにこちらを見ていた。落ち着かない。
アキラさんも大人たちに混じって酒を飲み始めた。もう酒盛りがしたいだけだったんじゃないか。いや、そういうものか?
大人たち五人を放置して、子供たちはばくばく食べる。そのままだろうが串だろうがどんどんなくなる。早い。
でも食材は大量にあった。……いいのかこれ。
敷かれていたレジャーシートの上に、屋上さんたちが正座していた。小さなテーブルの上に置かれた皿。
少し休むことにする。なぜだかあまり食べる気にはなれなかった。
俺が座ったのと同時に、後輩が立ち上がる。
網に近付いてトングを握った。気遣いタイプだなぁ。
屋上さんはあんまり食べていない様子だった。
「遠慮してるの?」
と訊ねると、首を横に振る。そういえば、いつも彼女は昼食にサンドウィッチを食べていた。少食なのかもしれない。
会話の糸口を見失う。何を言えばいいのやら。
紙コップに炭酸を注いで飲む。なんだかなぁ、という気持ち。
周囲を見る。マエストロがトングを握ってタクミの皿に肉を分けていた。大人っぽい。
サラマンダーは大人たちに混ざって酒を片手に談笑している。何者だアイツは。なぜか和やかな笑いを作り出している。
キンピラくんはマエストロの脇に立って、空いた皿や肉の入っていた容器の片付けをしている。気遣い屋。
後輩はるーの脇に立って、マエストロ作業を眺めていた。
妹は、皿を持ってこちら側にやってきた。俺の隣に腰掛ける。正面に屋上さん、隣に妹。
不意に衝撃があった。
何事、と動揺すると同時に、なにか心地よい匂いが鼻腔をくすぐった。
幼馴染が後ろから抱き付いてきたのだと気付いたのは、数秒経ってからだった。
「ふへへ」
妙な声で笑いやがる。
酔ってる。
こいつは酔うと抱きつく。抱きつき癖がある。
「離れなさい」
大人っぽく言う。
「ごめんなさいー」
謝りながらも、彼女は離れようとしない。
困る。
背中に当たる感触とか。
微笑ましそうな大人たちの目とか。
隣に座る妹の視線とか。
屋上さんの何か言いたげな顔とか。
るーがこっちを指差してけたけた笑っている様子とか(酒でも飲まされたんだろうか)。
困る。
しばらく流れに身を任せていると、幼馴染は飽きてしまったようで、なんとか離れた。暑苦しかった。
なんとか解放されたと溜息をつくと、今度は膝の上でぽすりという感触がした。
なぜか、妹が眠ろうとしていた。
「ちょっと疲れた」
「……あ、そう。中で休めば?」
「ここでいい」
言いながら妹は目を閉じる。
なんだろうこの理屈。自分がひどくおかしな空間に巻き込まれている気がした。
気付く。
夢オチだ。
そろそろなおとが現れて、「時間だぜ、そろそろ起きろよ相棒」とか言いながら都合のいい夢の邪魔をするのだ。
目が覚めるとまだ七月の上旬で、テスト前。キンピラくんも屋上さんも辛辣で、幼馴染には彼氏がいる。
そうだ、きっとそうに違いない。
どうせ夢なら何してもバチは当たらないだろう。
髪を撫でると、妹は瞼を閉じたままくすぐったそうに首をすくめた。
猫みたいに頭を動かして眠る姿勢を変える。ちょっとかわいい。
胸に触る。
殴られる。
「何をしやがりましたか」
動揺のあまり、妹の口調はいろいろ混じっていた。
「痛い。ってことは夢じゃないのか」
「何を言ってるの?」
痛いからといって夢じゃないとは限らない。夢の中で痛いと感じることもあるだろう。たぶん。
もし現実だったとしたら幸いなことに、他の誰にもさっきの行為は見られていなかったようだった。
幼馴染はどこにいった、と周囲を確認すると、いつのまにか屋上さんと世間話に興じていた。
妹は眠る気をなくしたのか、落ち着かないような顔をして居住まいを正した。
現実。
まずいことした。
「ごめんなさい」
謝る。夢の中なら何をしてもいいなんて考えた時点で最悪だった。
「いや、うん。さっきのはナシで」
なかったことにした。誰も傷つかない平和的な解決。
屋上さんと、ふと目が合う。
彼女はきょとんとした表情でこちらをみた。
なんだかなぁ。
変な日だ。
たぶん夢オチに違いない。
けれど、バーベキューを終えて、片付けをして、庭を綺麗にして、スイカを食べながら休んだあと、花火をするためにまた庭に出て。
そのあとも、ちっとも夢はさめてくれなかった。
ユリコさんたちの酒盛りに付き合わされて、次に目が覚めたのは翌日の朝だった。
一晩、明かしたっぽい。
どうやら子供勢がリビングで雑魚寝した様子。
不思議とサラマンダーたち三人の姿はなかった。昨日のうちに帰ったのかもしれない(なぜ俺だけ取り残されたんだろう)。
どういう法則が働いたか分からなかったが、寝転がる俺のふとももに、妹の頭が乗っていた。結局俺を枕にするのか。
頭痛をこらえながら起き上がる。
シミズさんたちはどうしたのだろう。姉妹を残しているということは、どこか別の部屋を借りたのか。
タクミとるーもいなかった。最年少組を雑魚寝させるのを親たちが避けたのだろう。
つまりこの場で寝ていたのは。
俺、妹、幼馴染、屋上さん、後輩、の五人。
男が俺ひとりだった。
毛布がもぞもぞと動く。誰かが動いたらしい。
慌てて立ち上がって、勝手に洗面所を借りる。
二日酔い。顔色は悪くないものの、飲まされた気配がする。夜のことはほとんど覚えていない。
顔を洗うと少しだけ意識が冴えたが、頭痛と体のだるさのせいで眠りたくて仕方なかった。
リビングに戻って時計を見ると、針はまだ五時半を差している。
寝なおそう。
床に敷かれた毛布の一枚に潜り込んで、俺はふたたび眠りに落ちた。
再び目を覚ましたとき、なぜか屋上さんが腕の中にいた。
混乱する。
心臓がばくばくする。
このままじゃまずい、と思う。
とりあえずできる限り静かに、ゆっくりと、腕を引き抜いていく。起こさないように。
動揺のあまり「せっかくだし観察しよう」とか思える状況じゃなかった。
ていうかいっそ恐怖すら覚えた。
このラブコメ的イベントの連続はなんなのか。
絶対なんかの予兆だろ(被害妄想)。
なんとか体を引き抜いて、屋上さんからじりじりと離れる。
立ち上がる。達成感。よくぞここまでがんばった。
でも振り返るとみんなが起きていた。
めちゃくちゃ見られてた。
ユリコさんがニヤニヤ顔でこちらを見ている。やっぱこういうイベントか。
なぜかからかったりしてくる人はいなかった。逆に怖い。
その後、片付けやらなにやらが始まったので、なんだかんだでうやむやになる。
相当後になってから分かったことだが、このとき屋上さんは狸寝入りをしていたらしい。
日が出て、それぞれが身繕いを終わらせてから、ちょっとのあいだ空白の時間ができた。
大人たちはテーブルについて談笑している。るーとタクミはそこで一緒にお茶を飲んでいた。
暇を持て余す。とはいえまだ帰るには早い。
昨日の夜の記憶がほとんどない。
そこまでひどいことにはなってないはずだが、なんとなく嫌な予感もする。
幼馴染に昨日の夜の出来事を尋ねてみる。
「昨日の夜、俺、どんなんだった?」
「結婚を前提にお付き合いしてくださいって言われたよ」
簡単そうに言った。
それって親の前でか。
恥ずかしすぎる死にたい。
ホントに? と屋上さんに聞いてみる。
「私も、僕と同じ墓に入ってくださいって言われたけど」
どうでもよさそうに彼女は言った。
冗談だろ、と思った。
他人事のように横で見ていた後輩が、けらけら笑い出す。笑い事じゃない。
妹を見る。
「私も、毎朝俺のために味噌汁を作ってくださいって言われた」
「それもう作ってるじゃん」
急に冷静になった。
でももう酒は飲まない。
「別にお兄ちゃんのために作ってるわけじゃないから」
否定される。ツンデレ(希望的観測)。
「この女たらし」
幼馴染が笑いながら言う。
ひょっとしてからかわれたんだろうか。
昼前に解散になって、みんな家に帰った。
家に戻ると、なんだか急に静かになりすぎて落ち着かない。
二日酔い。腹の辺りに何かが埋まっているような不快感があった。そして頭痛。
なんだか疲れているのを感じて、寝なおすことにする。
目が覚めたのは夕方で、ちょうどすさまじい勢いの夕立が降り出したときだった。
その日は何もする気になれず、結局ほとんど寝っぱなしだった。
つづく
ある日、祖父母の家に遊びにいくことにした。
暇は持て余していたし、親戚たちが帰ってくる盆までは日がある。
うちにいるよりも山に近い祖父母の家の方が涼めるのではないか、という考え。
裏の山を通ると、舗装された道路が丘沿いに進み、その左右には向日葵畑が開けている。
田舎、夏、という風景。
ちなみに舗装されていない山道を通って山頂に向かうともれなく虫に刺されたり筋肉痛になったりする。
ついてすぐ、犬を散歩に連れて行くように言われる。
暑いのに。
わざわざなぜ外に。
文句は黙殺され、結局、妹とふたりで‘はな’を連れて散歩をすることにした。
「暑い」
「暑いな」
適当に歩く。なだらかな傾斜に沿って丘を登る。車がぎりぎりすれ違えるような狭い道路、はみ出た木々。
太陽は疲れ知らずで、夏を延々と燃やし続けている。
台風でも来ればいいのに。
それはそれで蒸し暑いのだが。
丘を登り、向日葵畑の間を歩く。
子供の頃も、こうやって散歩をしたような。
向日葵はまだ咲いていなかった。満開ともなれば声を失うほど綺麗なのだが、あいにく今年は開花が遅い。
ぼんやり歩く。
リードを持った手がぐいぐいと引っ張られた。急ぐこともないので、力をこめて抑え、ゆっくりと進む。
丘を登りきってから引き返す。ふと横を歩く妹の顔を覗き見た。
別に何も考えてなさそうな表情。散歩なんてするのも久しぶりだ。
最近じゃコンビニかファミレスくらいまでしか歩かない。たまにはこういう時間も必要だろう。
祖父母の家に戻る。
昼寝がしたくなって座敷に寝転がる。祖母がタオルケットを出してくれた。子供の頃使った奴。懐かしい。
せっかくなので妹も誘ってみる。
「一緒に寝る?」
「なんで? 暑いのに」
「いいから」
強引に隣に寝かせる。タオルケットを共有する。天井。縁側から流れ込む風。風鈴の音。
「超落ち着く」
「私は落ち着かないけど」
感覚の違いがあるようだった。
「このタオルに一緒にくるまって、怖い話したこともあったな」
「あったっけ?」
「あったんだよ。そしたらおまえがすごく怯えて、夜中にトイレにいけなくなって」
「それはない」
「まぁそれはなかったけど、怖がってたのは本当」
「そうだったっけ」
「そうだった」
怪談とはいえ子供がするものなのだから、そこまで怖い話なわけがない。
それなのに、そもそも妹は聞こうとすらしなかったのだ。
懐かしい気分。
「おまえがお祭りでもらってきた風船を俺が割っちゃって、わんわん泣かれたこともあったな」
「それは覚えてる。私が買ってもらったお菓子を半分以上食べられたりとか」
「嫌なことだけ覚えてるんだな」
そう考えると、あまり嫌な思いをさせるわけにもいかないと思う。
昔の話をしてみると、忘れていたことを結構思い出したりもした。
自分では覚えているつもりだった記憶も、妹の記憶と比べてみると齟齬があったりする。
なんとなく物思いに耽る。
夏と田舎は人をノスタルジックな気分にさせるのです。
しばらく黙っていると、いつのまにか妹は眠ってしまったようだった。
俺だけ起きててもしかたないので、瞼を閉じて眠ろうとする。
気付くと、起きているのか寝ているのか自分でも分からないような状態になっていた。
しばらくまどろみの中で溺れる。眠っている、という感覚。
目が覚めたとき、だいぶ時間が経っていたような気がしたが、実際には三十分と経っていなかった。
それなのに、少し疲れが取れたような気がする。
こういうときは少しうれしい。
ふと見ると、妹は隣ですやすやと寝息を立てていた。
落ち着く。
普通の兄妹って、こういうことしたりするのかな、と思う。
するかもしれないし、しないかもしれない。よく分からない。
考えてみれば、俺と妹はふたりきりでいる時間が長すぎたのだ。
祖父母と一緒に暮らしていた頃は、料理も出たし面倒も見てもらえた。
それでも両親がいないのは寂しかった。
家に戻って暮らすようになると、今度は自分たちのことは自分たちでやらなければならない。
本来なら、母の仕事が落ち着いてきて、子供の様子を見れるから、という理由で家に戻ったはずだった。
一年を過ぎた頃に、ふたたび母の仕事が忙しくなった。
たぶん、人生でいちばん、毎日楽しくて仕方なかった時期だった。
それ以前も以降も、寂しかったり忙しかったり落ち着かなかったりで大変だったし、今だってやることが増えて大変だ。
多少、余裕は出てきたけれど。
年上だからという理由で、祖母は俺に家事を仕込んだ。自然な考えだと思う。
そこから少しずつ、俺が妹に教える。祖母に協力してもらいながら。
一通りの家事を祖母の手伝いなしでこなせるようになる頃には、兄妹で協力しあうという考えはごく自然に身についていた。
協力することを自然に思っているからか、あるいは両親がいない時間が多いからか。
そのどちらのせいかは分からないけれど、どうやら他の人間からみると、俺と妹の距離は普通より近いらしい。
実際、今になって思えばたしかに普通ではない、と思うようなことは多々ある。
妹が小学校高学年になる前くらいまで、一緒に風呂に入ったりしていたし。一緒に寝てたし(1、2年前まで)。
一緒に風呂に入っていたのは、祖母が俺たちをまとめて風呂に入れたから。
一緒に寝ることが多かったのは、祖父母の家では全員が同じ場所で寝ていたからだ。
でも、いつのまにかそういうことはなくなった。たぶんそういうものだからだろう。距離はとれるようになっていく。
油断すると、距離が詰まりそうになる。
それが普通ではない、と、いつのまにか知ったから距離をとるようになっただけで。
距離を測りかねている。
たまに、困る。
そういうときに助かったのか幼馴染の存在だった。
子供の頃からユリコさんと一緒にうちに来て、俺たちと遊んだ。
彼女は「ふつう」の基準を教えてくれる。どこがおかしくて、どこが間違っているかをはっきりとさせてくれる。
とはいえ、幼馴染にも男兄弟はいないから、そのあたりは適当だったりしたのだが。
自分たち兄妹以外の誰かがそばにいるというのは、上手な距離のとり方を把握していくのに一役買った。
結果的に余計混迷とした気がするけど。
なぜか幼馴染まで一緒に風呂に入りたがったり、一緒に寝たがったり。
小学に入って少しした頃には、多少の分別がついて、幼馴染と入るときは水着を着てたりもした。そういうこともある。
それが妹との関係に適応されたかどうかを考えると、微妙なところだ。
いろいろがんばってはみたけれど。
いまさら、「普通の兄妹の距離感」を手に入れるには、ふたりきりでいる時間があまりに長すぎた。
もやもやする。
困る。
妹なのに。
でもまぁ、考えても仕方のないことではある。
起き上がって祖父母が休んでいる居間へと戻る。昼時らしかった。
「出前取ろうと思うんだけど、何がいい?」
チャーハンとラーメンくらいしか選択肢がない。ラーメンは多彩。チャーハンは大盛りが有効。
「チャーハンとラーメン一個ずつ」
「妹は?」
「寝てる。どっちか分からないから、一個ずつ」
「はいはい」
出前が届いてから、妹を起こした。四人で一緒に食事を取る。
妹がラーメンを選んだので、俺はチャーハンを食べた。
「ちょっとちょうだい」
要求される。食べさせた。
「俺にもくれ」
分けてもらう。
よくあること。
夕方頃に、祖父に送られて家に帰る。泊まっていけとも言われたけれど、やめておいた。
家に帰ってから、なんとなく手持ち無沙汰になってぶらぶらと散歩をすることにした。
妹もついてきた。一緒になって歩く。ちょっと遠くまで。
しばらく歩くと堤防があって、一級河川と書かれた看板が立っている。
でかい川。前、幼馴染と一緒にここにきて、浅いところで遊んだ。
「台風、近付いてるらしいよ」
不意に妹が言った。
「また?」
この間もそんなことを言っていた。結局逸れていったけれど、今度はどうだろう。
家に帰ってから、簡単なもので夕食を作った。
料理は妹に任せる。その間風呂掃除を済ませて、お湯を張っておく。
余った時間で課題を進める。もうほとんど終わっていた。
部活動の日程を確認する。あと三回ほどしか活動はなかった。
夕食の後、映画を見ようとして、祖父にDVDを返し忘れたことに気付く。今度また、いかなくてはならない。
翌日、暴風警報だか強風警報だか大雨警報だかが出た。
にもかかわらず、幼馴染とタクミの二人も、三姉妹も、なぜか俺の家にやってきた。
「風、強いなぁ、とは思ってたんですけど」
後輩がぼそりと呟いた。
「台風とは知らなかったなぁ」
「テレビくらい見ろよ」
「夏休みのテレビなんてアニメの再放送スペシャルくらいしか見ないっす」
それもそうかもしれない。
強い雨が窓を叩いていた。風が木々をしならせている。
とてもじゃないが外に出れる天気じゃない。
「帰りどうすんの?」
「まぁ、たぶんなんとかなりますよ」
そういいながら三姉妹も幼馴染たちも、勢いが弱まったタイミングを無視し、完全に帰るタイミングを逸した。
タクミとるーのテンションがやたらと高い。分かる。台風とか超ワクワクする。
「いざとなったら、泊まっていいですか?」
「おまえそれ最初から狙ってたろ」
言動とか、どう考えても面白おかしく騒ぎたくてやってきたようにしか思えない。
けれど実際、夕方を過ぎても、台風も勢いを弱めなかった。すごい雨。
テレビをつけると、川が増水して洪水の恐れがあると言っていた。恐ろしい。
車で迎えでも頼まないと帰るのは難しそうだ。
後輩は夕方頃に家に電話して、外泊の許可を取ったらしい。恐ろしい行動力。
タクミと幼馴染は無理をすれば帰れなくはないが、便乗してうちに泊まりたいらしい。
もうどっかに集まってお泊りしたいだけにしか見えません。
仕方ない。
とりあえず普段使っていない和室をあけて、押入れにしまってあった敷布団を敷く。
人数分はなかったので雑魚寝してもらうことにした。この間と同じだし問題ないだろう。
俺は自分の部屋に寝るからいいとして、妹も和室で寝たがった。
狭くはなるが無理ではない。女に囲まれて寝ることのできるタクミが羨ましくてたまらない。
夜になると妹、幼馴染、後輩がキッチンに立った。やっぱりもともと計画していたんじゃないだろうか。
というか、やけに多い荷物とか、よくよく考えるとおかしな点がいくつかある。
そういえば冷蔵庫の中に、普段より圧倒的に多い量の食材が用意されていた。
共犯か。妹を見る。目をそらされる。こいつだ。
食事をしてから、全員で集まって騒ぐ。
ゲームする。話をする。遊ぶ。
順々に風呂に入って、早々に寝床へと向かう。
俺以外。
一人でリビングに取り残される。廊下から聞こえてくる話し声。楽しそう。
置いてけぼりの気持ち。
でも、参加するのもまずい。いろいろ。湯上り、布団、雑魚寝。
なぜだか気分が落ち着かない。
仕方ないので冷蔵庫に入っていたチューハイを出す。缶一本。
俺は酒を飲むとエロいことを考えられなくなる体質をしている(バーベキューのときも何もしていないと信じている)。
ちびちびとチューハイを飲んでいると、少しずつ話し声が静かになっていく。
時計の針を見ると八時を過ぎていた。そろそろタクミやるーは寝た頃だろうか。
少しして、屋上さんがリビングにやってきた。
「どうしたの?」
「落ち着かなくて」
落ち着かないらしい。それはそうだ。俺だって落ち着かない。意味が分からない。唐突だし。
寝巻きは妹のものを貸そうとしたが、サイズが合わなかった。
るーや後輩のものはどうにかなった。幼馴染に関しても。
屋上さんだけは合うものがなく、結果的に俺のシャツとジャージを貸すことにした。
おかげでなんか薄着。
でも酒を飲んだ俺は無敵だった。
「屋上さん」
「なに?」
「一緒に寝ようか」
「……いっぺん死ねば」
久しぶりにその言葉を訊いて、なんとなく安心する。
彼女は椅子に腰掛けて周囲をせわしなく眺めた。
いい機会なので、前から気になっていた疑問をぶつけることにする。
「屋上さんって、どこの中学に通ってたの?」
「遠く」
と彼女はすぐに答えた。
「中学の頃は別の街に住んでたから」
「へえ」
と俺は相槌を打った。でも、後輩はこの街に住んでいた。変なの。
後輩の言葉を思い出す。家庭の事情。
難しい。
屋上さんはしばらくリビングで休んでいた。麦茶を出す。飲む。休む。まったりする。
「暑い」
思わず呟くと、屋上さんは「うん」と頷いた。
よく分からない。距離感が。
その夜、また、変な夢をみた。
夢の中で俺は教室にいた。机をはさんだ正面に、メデューサが座っている。
「それで、君は」
彼女は神妙そうな表情で口を開いた。
「こう言うわけね。つまり、ハーレムを築きたいと」
「いえ、その言い方だと語弊があります。俺はですね、みんなと仲良くやれたらなぁと」
「あわよくば全員と淫らな関係を持ちたいと」
「そんな童貞の妄想みたいなこと考えてません」
「ほんとに?」
「ちょっと考えました」
男の子ですから。
「救いがたい童貞ね」
メデューサは静かに溜息をついた。
「貴方の悩みを分かりやすく解決する手段があるわ」
「なんでしょう」
夢の中のメデューサはどこか妖しげな雰囲気があった。
俺は彼女の言葉の続きを、固唾を呑んで待つ。
「二股をかければいいのよ」
「最悪だ!」
できれば絶対にしたくない行為だった。
「妹さんは妹なわけで、ほっといても一緒にいるでしょ。あとは二人、他の女性と付き合えばいいのよ。三人もいれば、まぁハーレムじゃない?」
「なぜ妹がハーレムに入るのかが謎なのですが」
「だってアンタ、妹のこと好きでしょ」
「え?」
「ぶっちゃけ、好きでしょ?」
何言ってんだこいつ。
「大丈夫大丈夫。なんとかなるって。アンタ、愛してるの響きだけで強くなれちゃうタイプだから」
「それ、暗に童貞だってバカにしてますよね?」
「別にそんなことないわ」
素直に話を聞くのがバカらしくなって立ち上がる。教室から出るとき、うしろからメデューサが声を掛けてきた。
「相談料、億千万円」
小学生かよ。
俺は廊下に出てから周囲の様子を見る。隣の教室から、なんだかすごそうなオーラが漂っていた。
クラス表記のプレートには、「なおとの館」と書かれていた。彼に相談してみるのも悪くないだろう。
教室に入ってすぐ、窓際の席に座りアンニュイな表情を浮かべているなおとを見つける。
俺は彼の隣の席に腰掛けた。
「どうした、若人よ」
夢の中で彼はオッサンチックな口調になっていた。
俺は真剣に相談した。
「恋に悩んでいるのです」
「おまえ、考えすぎるタイプだもんなぁ」
なぜか見透かされていた。
まったくその通りです。
「で、誰なん、誰が好きなん? 歳は? 相手の年収は?」
オッサンからオバサンになったが、ツッコんでもしかたないので無視する。
「三人」
「三人。三人か」
「……三人?」
自分で言っておいて、なんで三人なのか分からなくなる。
幼馴染、妹、屋上さん。
三人。
「なぜ妹がハーレムに入るのか分からない」とかいいながら、しっかり妹をカウントしていた。
俺はあほです。
「難しいな、三人は」
いや、難しいとか以前に、倫理的にないと思うのだが。
いろいろ。
「でも、可能ならハーレム作りたいだろ?」
作りたいけど。
でもそういう問題じゃなく、自分の姿勢として、それはよくないと思う。
「なんだかんだで、うやむやにしたまま女に囲まれていたいわけだ」
「やめて言わないで」
本音を突付かれた。
居心地が良すぎるのです。
「あわよくばいい思いもしたいと」
なおとは言葉を区切った。
「最低だな」
最低だった。
「そんな貴方に朗報です」
急に営業っぽい口調になる。
どこぞの通販番組みたいだ。
「ハーレムルートが開放されました」
「何ギャルゲーみたいなこと言ってんだ」
真面目に相談した俺がバカみたいだ。
「だいたいさ、悩むことがおかしくね? おまえ」
なおとは急に荒っぽい口調になった。
「おかしいって?」
「なんかさ、『女の子がいっぱいいすぎて誰かひとりなんて選べないよー』みたいなこと言ってるけどさ」
語弊があるが、まぁだいたい正しい。
「ぶっちゃけ、誰もおまえのこと好きだなんて言ってないじゃん」
「そういえばそうだ」
急に冷静になる。
「別に告白されたわけでもないし、おまえだって誰かと恋人になりたいってわけでもないんだろ?」
「うん、まぁ」
「だったら今のままでいいじゃん」
「うん。……うん? そうか?」
納得できるような、できないような。
「とりあえず、今はこのままでいいんじゃねえの? そのうち女の子たちにも彼氏ができて、おまえはひと夏の淡い思い出を手に入れる。
あんまり想像したくないことだ。
でも、実際、そうなるのが普通だ。
置いてけぼりになる。自然と。
二兎追うものは一兎を得ず。
「そうだな、このまま居心地のいい空気を楽しんでおくといい。何年かあとには傍には誰もいないわけだ」
なおとは嫌な感じに笑った。憫笑。
「そんな殺生な」
「どこが殺生なものか。この浮気者。貴様はいったい誰が好きなんだ」
「そんなことを訊かれましても」
「ちやほやされるのが気持ちいいだけだろう!」
「ちやほやされてないです」
「されてないっけ?」
「されてないです」
されてなかった。
「まぁとにかく、どうせ長くは続かないんだから、今のうちにいい思いしとけってことだ」
なおとが話を終わらせた。
そんなことを言われても困る。
考えても仕方ない。が、なんかこう、あるだろう。
不安みたいなものが。
なおとが嫌な感じに笑う。
いつのまにか現れた先輩が、俺の方を見てにっこりと笑った。
「じゃあ、彼女は僕がもらっていくから」
幼馴染がさらわれる。
どうしたものか。
ひとりを選べないなら、自分のところにつなぎ止める権利などないわけで。
本当にこうなったとしても文句はいえないわけで。
だが感情的なことを言わせてもらえるなら。
ひとりじめしたい。
最低の発想だった。
その晩俺はひどくうなされていたらしい。
意識がはっきりしたあとも、起き上がることはなかなかできなかった。
目を覚ますと誰もいなくなっていたりするんじゃないかな、と思うと、どうしても目を開けるのが怖い。
置いてけぼりの気持ち。
それでもとにかく目を開ける。
と、なんか人がいた。
最初に目に入ったのは幼馴染だった。
その少しうしろに、妹と屋上さんが並んで立っている。
「……なにやってんの?」
部屋に侵入された挙句、寝姿を観察されてたっぽい。
「起こしにきたらうなされてたから」
幼馴染が答える。たしかにひどい悪夢だった。
とにかく起き上がる。三人は硬直していた。
「……なに? 寝言でも言ってた?」
三人はそろって首を横に振った。
なんだろう、と思って、気付く。
時間は朝。
季節は夏。
寝相が悪いと、タオルはすぐ落ちる。
薄着だから、いろいろ見られる。
察される。
お約束だった。
「先輩、起きましたか?」
後輩がドアの向こうから現れる。るーも一緒にやってきた。
……えー。
「とりあえず、出て行ってください。全員」
追い出した。
ベッドから起き上がって伸びをする。
服を適当に選んで着替えた。
それが終わる頃には、夢の内容は思い出せなくなっていた。
つづく
そろそろ終わる
いいか、このスレ埋めちまえば、次スレいかざるを得ないだろ?
パートスレたったら早々には終われないはずだ
恋は唐突なものだとよく言うけれど、大抵の場合は恋心に気付く瞬間が唐突なだけだ。
恋自体は既に存在する、という場合が多い。
そんなようなことを誰かから聞かされたことがある。
たぶん、小学校の頃ひそかに憧れていた近所のサチ姉ちゃんだ。当時十六歳。
今は二十三歳くらいだろうか。まだまだ若い。
美人で綺麗で黒髪ロングヘアだった。
男が好きそうな仕草をわざと選んだりしていて、自分の可愛さを分かってる感じがあった。
黒髪ロングヘアも狙っていたところがありそうだったが、かといってそのことが男の気持ちを醒ましたかというとそうではない。
むしろ学校では人気があったらしい。
県内でも有数のバカ高校に通っていた彼女の周囲にいる女と言えば、茶髪、マスカラ、ピアス、煙草、酒好き。
あるいは、陰気、野暮眼鏡、オタ女、腐女子(特に最後の種族は机の中に男子を必殺する薄い本を保管している)。
好きになろうとするなら数週間にわたるコミュニケーションが必要になるタイプが多かった。
そんな中、多少あざとくは見えても、男子から見ても「可愛い」女子であるサチ姉ちゃんはまさに掃き溜めに鶴。
女に縁がない男たちが亀の頭をもたげて鶴たる彼女に求愛した。後に言う鶴亀合戦である(てきとう)。
そんな彼女に俺が夢を見れていた時間は、一週間もなかった。
サチ姉ちゃんは俺を、薬局の入り口に置いてあるカエルの置物か何かと勘違いしていたらしい。
いわば愚痴聞き機。腹を割った付き合いといえば聞こえはいいが、大概の本音なんて聞くに堪えない。
たまに帰り道で見かけたとき、彼女はクラスメイトと思しき男子(茶髪・雰囲気イケメン)を連れていたことがあった。
その次にサチ姉ちゃんと会ったとき、俺はその男子に対する文句や愚痴を延々と聞かされるのである。
息が臭いとか髪が長くてうっとうしいとか自意識過剰で気持ち悪いとか勘違い野郎とかそういう類の言動を。
夕方に公園のブランコにまたがって、日が暮れるまで。
子供だった俺には彼女の気持ちなんてろくに分からず、
「そんなに嫌なら、はっきり嫌だって言えばいいんじゃないの?」
と、突き放そうとしたことも一度や二度じゃない。
そのたびにサチ姉ちゃんは、
「歳をとったら君にも分かる」
少し強張った声でそう語った。
たしか、あれは暑い夏の日のことだったと思う。その日の彼女の言葉がやけに印象に残ったのだ。
「だいたいさ、おかしいのよ。ぶりっ子ぶりっ子って、ぶりっ子のどこが悪いのよ」
彼女は心底不満そうに毒づいた。
「どうせ人と関わりあっていかなくちゃならないんだから、嫌われるより好かれたほうが都合いいじゃない!」
魂の叫びだった。
男を舐め腐ったような安い上目遣いにも、彼女なりの理念があったのだな、と考えさせられた。
「可愛く見せて何が悪いっつーのよ! 何の努力してないよりマシでしょ!? むしろ努力しないで彼氏欲しいとか言ってる奴はどんだけ自分に自信があんのよ!」
その言葉だけはやけに俺の心を打った。
自分をよく見せようとするのも、理にかなったことなのかもしれないな、と。
そう思えば、身だしなみを整えたり、髪形を気に掛けたり、やけに鏡を確認したりするのも、自然に思えた。
単なるナルシズムではなく、自分に自信がないことの表れだったのかもしれない。
今でも数ヶ月に一回くらい、サチ姉ちゃんと街で遭遇することがある。
近所にある寂れたコーヒーショップに入って、気取った古臭い環境音楽をバックに、彼女の愚痴を聞かされる。
そして彼女は、いつも最後に、「ごめんね」「ありがとう」と二つの言葉を並べる。
たぶんそれが彼女なりの礼儀なのだろう。
なぜこんなことを今思い返しているかと言うと。
ひょっとしてこれが恋か? 的な感情が俺の胸の中で急激に膨らみ始めたからである。
三姉妹と幼馴染とタクミが我が家に泊まった翌日のこと。
雨はまだぽつぽつと降り続いていたけれど、風はだいぶ弱くなった。
それでも誰も家には帰ろうとせず、ただ時間が流れるのに任せて、取り留めのない話を続けている。
気持ちは分かる。
泊まりの翌日の寂しさ。
友達の家に泊まったことがないのでそんな気持ちは分からないけれど。
なんとなく想像はつく。
だから、あんまり急かすことはないだろうと考えていた。
のだが。
一晩泊まって怖いものなしになったのか、皆が我が家に馴染んだようで、やたら無防備になっていた。
くわえて、雨のせいで窓が開けられず、蒸し暑い。おかげでみんな薄着。
正直目のやり場に困る。
るーは薄着すぎて、ちょっと動くたびに見えてはいけない部分が見えそうになった。
小学生相手なのでさすがに困ったことにはならないが、それでも動揺はしてしまう(童貞だから)。
後輩はさすがにしっかりとしていて、姿勢や服装が乱れることはなく、むしろ周囲を諌める立場だった。
それを残念に感じてしまうあたり、俺という人間の低俗さがよく分かる。死ねばいいのに。
幼馴染と妹は服装からしてアウトだった。ノースリーブ。その時点でなんかもう挑発してるんじゃないかって気になる。性癖。
幼馴染は暑さに耐えられなくなったようで、髪を結んだ。
正面にいたため、腋が見える。
何かに目覚めそうになる。
マエストロが腋とか膝裏とか騒いでたことを思い出した。これか。
髪を結ぶと今度はうなじが見える。
女って怖い。魔性。
妹はみんなにお茶を出したりしていた(なぜか熱いお茶を飲みたくなって、みんなにも入れた。暑い中で飲むと意外に美味い)。
よく動くせいで、服があんなことやこんなことになる。
具体的に言えば、屈んだ拍子に胸元から下着が見えたりする(が、毎年のことではある)。
エロス的な意味ではなく、背徳感から心臓が揺さぶられる。
意外な成長が垣間見えたりするのも、それに一役買っていた(気付くと意識させられる)。
屋上さんはというと、特に動くわけでもなく、ソファに座っている。
疲れたのは、あるいは気を回すのが馬鹿らしくなったかは分からないが、彼女は昨日寝たときと同じ格好をしていた。
シャツ、ジャージ。
ジャージのハーフパンツって、なんというか、こう、一種の魔力を持っていて。
しかも、彼女の姿勢がその魔力を強めた。
体育座りというか三角座りというかはどうでもいいが、それに近い座り方をしている。
実際に見てみると分かるものの、正面からだとやたら太腿がまぶしい。
こうしていろいろ考えると、なんだか嫌な方面でばかり自分が大人になっていくのを感じる。実質的にはまだまだ子供なのに。
とにかく、そんな光景がリビングの至るところで繰り広げられるわけで。
やたらと胸がときめく。どきどきする。
これが恋か、と微妙に納得した。
なんだろう、この、もどかしいような心地良いような気恥ずかしいような感覚は。
恋です。
雨が止んだので、コンビニにジュースを買いにいくことにした。
一人で行こうと思っていたら、屋上さんがついてくる。
「……その格好で?」
「ダメかな」
ダメじゃないけど、それじゃほとんど寝巻きです。
仕方ないので俺のジーンズを貸して着替えさせた。
「なんか服借りてばっか」
「なんかまずいですか」
「着心地悪くないし、別にいいよ。ていうか、お礼言う側だし、私」
最近、屋上さんの態度が微妙に軟化している気がする。
言動が優しくなってる。
最初はあんなに無愛想だったのに。
まさかただの人見知りだったとか。
微妙になつかれてしまった感がある。
猫的な。
家を出るとき時計を見ると、まだ九時にもなっていなかった。
いつの間にか雨は上がっていた。灰色の雲が裂けて、太陽の光が遠くに差し込んでいる。
天使の梯子。何かの本で読んだ。
幻想的ではあるのだけれど。
ふとした瞬間に目の当たりにすると、少し寂しい気持ちにさせられる。
それは綺麗というより、悲しげで、示唆的だ。儚さの。だからあんまり好きじゃない。
コンビニを目指す途中で、屋上さんは不意に足を止めた。どうしたのかと視線の先を追うと、公園がある。
「どうしたの?」
「いや、うん」
昔ここで遊んだな、って。屋上さんはそう言った。
「え?」
「え?」
「昔って、いつの話?」
「……小学校入るまえだから、四、五歳の頃だと思うけど」
「四、五歳の頃?」
その頃なら、俺と幼馴染もここに来て遊んでいたはずだ。
ひょっとして、と思う。
まさか、と思う。
記憶がおぼろげで思い出せない頃だから、とても困る。
確信がもてない。
祖父母の家に預けられていたのが、三、四歳の頃。
五歳の頃には母が面倒を見ていた。
俺は母に連れられて、幼馴染や妹と一緒にこの公園に来ていた。
そこで、屋上さんに会ったことはなかっただろうか?
――三度。
見知らぬ女の子と一緒に遊んだ記憶があるような。
何をして遊んだかはよく覚えていないけど、たしか、結構仲良くなって、そして、ある日、来なくなった。
「屋上さん、小学校はどこだったの?」
「親戚の家から」
彼女はそこで一拍置いた。
「小一から中三まで、親戚の家」
その答えを聞いて、少しのあいだ考え込んだ。
そして驚愕する。九年間。
俺はそれまで考えていたことを横において、その年数に愕然とした。
「その頃、るー、生まれたばっかりじゃん」
「あー、うん」
彼女は困ったみたいに笑った。
「実は、また一緒に暮らすようになったのも、今年の頭からだから」
その言葉で、自分が馬鹿な質問をしたことに気付いた。
いつのまにか踏み込んでいた。我を忘れて、距離をとるのを忘れていた。
失敗した。
謝ろうかと思って、やめる。そうするのが嫌だったからだ。
俺を落ち込ませようとか、謝ってほしいからとか、そういった理由で彼女は質問に答えたのではない。
謝ってしまうのは、とても身勝手に思えた。
そもそも質問自体が身勝手だったのだけれど。
あまり暗くなってもしかたない。
もう何も訊かないことにして、自分の中の感情に区切りをつけた。
俺は失敗もするし嘘もつくけれど、できるかぎり失敗しないように努力しているし、嘘をつかないでいようと思っている。
一度した失敗は二度と繰り返さないように努力する。それでも失敗することもあるけれど、そのときはさらに注意する。
そういうふうにありたいと思っている。
馬鹿らしいかもしれないけど。
似たようなことを繰り返さないように心に留めながら、考える。
気付くと歩調がずれはじめていて、彼女は俺の少し先を歩いていた。
「ねえ」
声をかけると、屋上さんは不思議そうな顔で振り返った。
「俺と結婚の約束ってした?」
まさかな、と思いながら訊く。
声が微妙に震えているのは、気のせいだと信じたい。
「約束はしてないけど、申し込まれた」
「いつ?」
「こないだ」
「……バーベキューのときですか?」
「うん」
まぁそうだよな、と納得する。
さすがにそんな少女漫画みたいな展開はない。
まさか、そんな、ねえ?
それに。
そんな約束、もししてたとしても、今となっては時効なわけで。
いつまでも気にする方が馬鹿げてる。
誰も覚えてないことだし。
うん。
「でも、そういえば」
屋上さんは言葉をつないだ。
「子供の頃、公園で、近所の男の子と、そんな話をしたような」
……まさか、そんな、ねえ?
でも。
この近所、俺たち以外には同年代があんまり住んでないんですけど。
コンビニで買ってきたアイスをみんなに配る。るーとタクミはひとつのアイスを取り合って喧嘩していた。
最終的に分け合うことになったらしい。素敵な話。泣けてくる。
椅子に座って買ってきたジュースを飲む。後輩が話しかけてきた。
「ちい姉と、何話してきたんですか?」
「何って、結婚の約束の話だけど」
俺は正直に話した。
「まじで?」
後輩の言葉から敬語が取れた。
俺には聞き返される意味が分からない。
「マジでも何も」
そのままの意味です。
「兄さん」
妹に呼びかけられる。なぜか呼び方が普段と違う。
「その言い方は語弊があると思います」
なぜか敬語がついていた。
「正確に言ってみてよ」
「……屋上さんが、子供の頃、近所の男の子と結婚の約束をしたことがあるそうな」
へえ、と後輩は感心したように頷いた。
なんだったんだ、さっきの態度は。
「現実にあるんですね、そういうの」
え、ないの?
――とはさすがに言えず。
「あるみたいだね」
他人事のように返すことしかできなかった。
「私たちもあるしね」
妹が不意に言った。
「誰と?」
「お兄ちゃん」
「……まじで?」
「まじで」
まじでか。後輩がからから笑っていた。どう反応すればいいか分からない。
「お嫁さんにしてくれるって言った」
「言ったっけ」
「言ったのです」
子供の頃の俺っていったい何者だったんだろう。
深く考える気にはなれなかった。
だらだら過ごしても仕方ないので、昼過ぎに出かけることになった。といっても、またファミレスなのだが。
全員で座る。七名。大人数向けの席に案内された。
注文を済ませる。家の中にいると忘れそうになるが、外に出ると夏を感じる。
夏休みも、半分近く消化した。そこそこ充実した毎日だったんじゃないだろうか。
課題も終わらせたし、憂いはない。
後は遊ぶだけなのだが、最近は遊びに行くというよりも、みんなでがやがや騒いでいるばかりだ。
というか、だいたいのイベントは消化してしまったため、何をして遊べばいいか分からない。
残っている目ぼしいイベントなんて、夏祭りくらいしかなかった。
どこにいたって、七人もいると、話に入れない奴は出てくる。
俺だ。
幼馴染、妹、屋上さん、後輩、るー、タクミ。
それぞれ二つぐらいに分かれて話をしている。
混ざろうと思えば混ざれなくはない、が、なんとなく憚られる。
仕方なくドリンクバーに立った。どれにしようかと悩んでいると、肩を叩かれる。
振り返ると茶髪がいた。
「よう」
声を掛けられる。
「よう」
驚きながらも返事をする。
茶髪の後ろには、部長もいた。
ホントに仲いいんだ、この人たち。
せっかくなので一緒するかと思って、席に連れていく。
追加注文。昼時の忙しい中、店員さんには申し訳ないことをした。
「なに? この人数」
茶髪はまず最初にそこに触れた。七人。子供二人、女四人、男一人。そりゃあ戸惑う。
「この女たらし」
不本意なあだ名をつけられた。
茶髪と久しぶりに話をすると、なんだかひどく落ち着く。
部長はメロンソーダをすすりながら俺と茶髪の話を聞いて、時折口を挟んだ。
話の内容はもっぱら会わなかった間のことで、どんなことがあったのかとかを互いに話した。
茶髪はろくに出かけなかったし、ろくに課題もしていない、と言う。
彼女は自分がバーベキューに誘われなかったことにひどく憤っていた。たしかに好きそうだけど。
部長の方もほとんど同じだったようだ。とはいえ、勉強などは忙しかったらしいが。
食事を終えてさあ帰るか、となったとき、彼女ら二人も俺の家に来ると言い出す。
……九人。
多ければいいってもんじゃない、と俺は思う。
結局その日は夕方まで騒いだ。
遊んだり喚いたりしながら時間を過ごし、帰るときにはみんな疲れきっていた。
夜、数日後に夏祭りが迫っていることを思い出す。
期間は三日間。それが終わると、今度は隣街で大きな祭りがある。
全部行く気にはなれないが、それだけ続くとなると気分が盛り上がるのも仕方ないだろう。
少しだけ楽しみだったけど、今のところ誰とも約束はしなかった。
今のままなら、たぶん、みんなで集まることになるだろうけど。
それを思うと、少しだけ気分が楽になる。次がある、というのは、ある種の安心を産む。
その夜はひどく蒸し暑く、夜中に何度も目が覚めた。起きるたびにキッチンに行って水を飲む。
なんだか落ち着かない。
その日、眠れるまでだいぶ時間がかかった。
ここらへんで夏祭りと言えば、駅前の商店街で開催されるものを言う。
最近では商店街自体が寂れはじめているので、どことなく哀愁漂う祭りではあるが、まぁ地方の祭りなんてそんなものかもしれない。
商店街全域に出店が立ち並んでいる。その列はやたらと長い。
人々は浴衣を着たりして、家族や友人や恋人と一緒にやってくる。
やたらと高いカキ氷やらお好み焼きやら焼きそばやらを食べて、「美味しい」という。
商店街から脇道を逸れて街中を歩いてみると、家々の立ち並ぶ道の間に、石造りの水路があることに気付く。
水路が街中を貫いて存在している雰囲気は、なんとなくいい感じ。昔風で美しい。
しかもそれに沿って桜の木が伸びていたり。
歩くと癒される。
夜。
俺たち(七人)は、賑わいだ雑踏から遠くの、そんな道を歩いていた。
祭りに行く人数が多かったので、アキラさんに車を出してもらったのだが、当然、駐車場なんてなかなか空いていない。
そんなわけで、割と遠くで下ろしてもらって、そこから歩いていくことになったのだ。
ちなみにアキラさんとユリコさんは今日は二人で夏祭りを楽しむらしい。仲が良いのはよいことだ。
女子勢は浴衣率が高かった。
着ていないのは屋上さんと後輩の二人。妹と幼馴染はせっかくなのでと浴衣を着ていた。
巾着まで持って草履まで履く徹底ぶり。懐からがま口財布でも出しかねない。
空には月が出てきたが、街灯の明かりが周囲を照らしていた。
なんとなくしんみりする。
るーとタクミは祭りに行くのが楽しみで仕方ないらしく、ずっとは騒いでいる。
それを見て、後輩と幼馴染があんまりはしゃいで、はぐれないように、と諌める。
妹と屋上さんはその少し後ろを歩いている。少しずつ馴染んでいるようで、ふたりだけでも話をするようになった。
いまいちどんな話をしているのかは想像できないのだけれど。
出店のある通りに辿りつく。人の話し声が連なって、周囲を覆っていく。
ともすれば隣を歩く人の声も聞こえないような喧騒。
通るのに難儀するほどではないものの、それでも多くの人が祭りにやってきていた。
浴衣を着ていたり、水ヨーヨーを持っていたり。
射的だのくじ引きだのが並んで、広場ではステージの上で和太鼓の演奏がされていた。
食べ物を食べたり、ステージを眺めたり、遊んでみたり。
女性陣がタクミとるーを連れて盛り上がったので、俺はひとり置き去りになる。
こういうときのテンションだと、あんまり話に入れない。なんとなく。
仕方ないのでフランクフルトやアメリカンドッグやチョコバナナやお好み焼きをひとりで食べた。
すぐに腹がつらくなった。
「なにやってんだ俺は……」
もはや自身を犠牲にしたギャグにしかならない。
出店の中には普段見ないようなものもあった。
最たるものとして、飴細工が挙げられる。割り箸大の一本の棒に、干支の動物の形をした飴を作って売る出店。
注文を受けてから作り始めるため、待ち時間は長いが、物珍しさも相まって人は列を作る。
るーとタクミが欲しがって、長時間待たされることになる。
出店なんて多少は待たされるものだし、そうすることが祭りのメインなのだから、あんまり苦にはならない。
慌てたっていいことはない。
人波の中を歩いても、夜なので少し涼しい。
買ってきた飴を舐めながら、ふたりは笑いながら歩いていた。なんか癒される。
でも。
後輩と幼馴染はその少し後ろを歩いていて、
妹と屋上さんは、さらに後ろを歩いていて、
俺は、一番後ろを一人で歩いている。
なんだかなぁ、という気持ち。
結局、集団の中にいても、俺は取り残されている気がする。
馴染めていない気がする。自分だけ。
置いてけぼりの気持ち。
子供っぽい疎外感。
綿飴でも食うかな、と思って立ち止まる。
携帯があるし、はぐれたらはぐれたでなんとかなる。
出店に並んで、綿飴を頼む。
少し待たされる間、手持ち無沙汰になる。
そのとき、服の裾を引かれた。
「なにやってんの?」
屋上さんがやたらと近くにいた。
遠くでみんなも立ち止まっている。
なんだろうねこれは。
この微妙にうれしい感じ。気恥ずかしい感じ。なにやってんだ俺は、という感じ。
「綿飴、私も欲しい」
屋上さんがそういうので、二つ目を注文する。ちょっと待って、受け取って、一緒にみんなを追いかける。
なんか。
ちょっとうれしかった。
置いてかれてないや、っていう。
まぁ、それだけのことなのだけれど。
ちょっとどきっとした。
そろそろ帰る頃合かな、と思って引き返そうとすると、妹が屈みこんだ。
「どうした?」
と、見てみると、草履の鼻緒に擦れたのか、指と指の間が赤くなっていた。
「痛い」
まぁ、こういうこともある。
「ほれ。おんぶ」
「なんで?」
「痛いんだろ」
「でも浴衣だし」
「……何か問題が?」
「恥ずかしいです」
埒が明かないので、強引に負ぶった。
「この馬鹿兄。周りの目を少しくらい気にしろ」
なぜか怒られる。
後輩が微笑ましそうにこっちを見ていた。
……なんで一番年上みたいな雰囲気をかもし出しているんだ、あいつは。
どうせ駐車場までだし、ちょっとくらい我慢してもらおう。
来た道を遡って駐車場に戻る。大人ふたりには幼馴染が電話した。
なんとなく落ち着かない。
「どうしたの?」
そわそわしていると、背中に乗る妹に声を掛けられた。肩越しに返事をする。
「浴衣って帯とかで胸が当たらないもんだと思ってたんだけど、意外と当たるんだな」
「最低だこの兄」
比較的真面目な意見です。
それでも妹は、強引に離れようとはしなかった。疲れてるらしい。
しばらく歩くと、不意に背中にかかる重みが増した。
寝たっぽい。
「……この状況でよく寝れるなこいつは」
呆れる。
三分かからないって。
世界中の赤ん坊がこうだったら、育児ノイローゼも半数がなくなるだろう。
駐車場につくと、ユリコさんたちは既に車に乗っていた。
帰りの道の途中で、るーとタクミは眠ってしまった。
妹も目を覚まさないまま幼馴染の家につく。アキラさんは家まで送ると言ってくれたが、近いので断ることにした。
屋上さんたちはアキラさんに送られていくことにしたらしい。それがいい。
別れ際、屋上さんと目が合った。
なんか、変な気持ち。
そわそわする。
家に帰って妹をベッドに寝かせようとしたところで、浴衣のままではまずいだろうと気付く。
どうすることもできないので、とりあえず起こすことにした。
妹はしばらく眠そうにしていたけれど、やがてしっかりと起きたようだった。
自室に戻ってベッドに倒れこむ。
疲れた。
人の多いところはあまり得意じゃないし、騒がしい場所にいると混乱する。気疲れもあった。
でもまぁ、楽しかった。
明日も行ってみようかな、と思う。
全身がほどよく疲れていたら、その日は心地良く眠ることができた。
翌日は誰も家に来なかった。起きたのは昼過ぎ。暇だったので、適当に街をぶらつくことにした。
レンタルショップや本屋なんかをぶらりと回って暇を潰す。こういうことをしていると時間はあっという間にすぎる。
とてもじゃないが、有意義とはいえない。かといって家でだらだら過ごすのも有意義ではない。
今この瞬間も、課題を全部終わらせた上で、一学期の復習やら二学期の予習やらをやってる奴がいるんだろうか。
ちょっと想像がつかない。
アリとキリギリスの寓話(ホントはアリとセミらしいが、語感的にはキリギリスの方がいい)。
遊んでばっかりの俺は、いつかそのツケを食らうことになるのかな、とか。
柄にもなく真面目なことを考えたりもした。
ボディーソープを詰め替えたばかりだったことを思い出して、近所のホームセンターに向かった。
生活用品は一通り何でも揃う店。いつも使っているものを購入する。妹の選択。
ひとりで買い物してるときって、なんか和む。特に生活用品の場合は。
なんかこう、生活してるや、って気分になる。
俺だけかもしれない。
帰りにペットショップを覗くと、やっぱり幼馴染がいた。
「……かわいい」
ガラス窓の向こうの子犬を見つめて瞳を輝かせていた。
よく飽きないものだな、と思う。
ガラス窓の向こうの子犬を見つめて瞳を輝かせていた。
よく飽きないものだな、と思う。
幼馴染は昔から犬を飼いたがっていた。ユリコさんがそれを認めなかったのは、遠出ができなくなるから。
旅行好きな一家としては、やっぱりそれは痛かった。
幼馴染も、犬を飼うことの責任と旅行にいけなくなることを考慮したうえで、納得はしていたが、やっぱり犬は好きで仕方ないらしい。
暇を持て余すとここに来て窓を覗いてる。
一度、祖父母の家に連れて行って‘はな'に会わせたことがある。すごく喜んでいた。
帰り際に泣いてた。そこまでいくとちょっと怖い。
声をかけると、幼馴染はハッとして振り返った。
「いつからいたの?」
「さっきから」
実に十分間、彼女は俺に気付かずに子犬を眺めていた。
「一緒に帰ろうか」
「うん」
並んで歩く。なぜだか赤信号に多くぶつかった。
家につく頃には二時頃になっていた。幼馴染の家までつくと、ユリコさんに強引に誘われてお茶を飲まされた。
「トウモロコシ茹でたから」
「いただきます」
好物。
「麦茶もどうぞ」
「いただきます」
好物。
「あ、昼間お祭り行ってリンゴ飴買ってきたの。いる?」
「いやなんつーか」
なんていえばいいんだろう、この人には。
やりすぎって言葉がある。ユリコさんも知ってるだろうけど。
ユリコさんは食べ物を置いていったあと、用事があるといって家を出て行った。幼馴染とふたりで取り残される。
「タクミは出かけてるの?」
「うん」
タクミの両親もいないようなので、多分どこかに出かけてるんだろう。
せっかくなので涼しい場所に行こうと思い、縁側に麦茶とトウモロコシを持って腰掛ける。
幼馴染とふたりで並んでトウモロコシをかじる。
「美味い」
「うん」
さっきから幼馴染が「うん」しか言ってない。
しばらくだんまり。ゆるやかに流れる時間。
最近じゃ珍しく、涼しい。
明日からはまだ暑いらしい。残暑は九月半ばくらいまで続きそうだという。
不意にポケットの中の携帯が鳴った。歌を設定すると外で鳴ったときになんとなく恥ずかしいので、初期設定のまま。
画面を開く。メール一通。開く。屋上さんからだった。
本文はなく、画像ファイルが添付されている。
浴衣姿のるーが、カキ氷を食べながら出店の並ぶ商店街を歩いていた。かわいい。今日も祭りにいったらしい。
「タクミ、こっちにいつまでいるんだ?」
「たぶん、今週末くらいまで」
両親の仕事の都合ってどうなってるんだろう。少しだけ疑問だった。
「……今週末」
意外に近い。
屋上さんのメールに対する返事を打っていると、幼馴染が何かを言おうとした。
「あのさ」
こんなふうに、彼女は何かを言いかけることが多い。なぜか。
そして最後には、「なんでもない」と言って話を終わらせる。
「……なに?」
続きを促す。幼馴染は戸惑ったような表情をした。
「メール、誰から?」
「ああ」
話している相手の前で携帯を弄るのは、さすがに失礼だったかな、と思う。
でも、そういうことを気にする奴じゃない。
親しき仲にも礼儀ありとはいえ、そんな瑣末な事柄で不愉快になるような間柄ではない。
もちろんそれに甘え切ってなんでもしていいと思っているわけではないが、これは「そこまでのこと」とは思えなかった。
少し考えてから、添付されてきた画像ファイルを見せる。
「ほら」
幼馴染はディスプレイを見て少しだけ表情を強張らせた。なぜ?
「メールのやりとり、結構してるの?」
「そこまでではない。たまに来たり、送ったり」
それも最近になってからだ。教えてもらったのがそもそもつい先日。
メールをしたといっても、大した期間じゃない。キンピラくんとの回数の方がよっぽど多い。
大抵が、こういう画像だったりとか、どうでもいいことだったりとか、家に行ってもいいかとか、そういう類のものだ。
「ねえ、好きなの?」
「え?」
驚く。どうしてそうなる。
「何が?」
「彼女」
判断に困る。
「メールのやりとりがあると、イコール好きなのですか」
「そうじゃないけど」
幼馴染はもどかしそうに唸った。
「なんか、そんな感じがする」
「そんな感じ、とは」
「……そんな感じ」
そんな感じがするらしい。
話の流れから判断すれば、幼馴染には、俺が屋上さんのことを好きであるように見えるらしい。
ぶっちゃけ、嫌いではないけれど。
というか、好きではあるけれど。
それが恋愛感情かと訊かれれば、どうだろう。
でもたしかに、好意の種類としては、るーや後輩に向かうものとは別のもの、という気もする。
「よく分からない」
大真面目に答える。
でも、最近なんか気になる。ふとしたときにどきっとする。
そういうことはある。それが恋愛感情なのかどうかは、まだ分からない。まだ。
「……じゃあ、私のこと好き?」
「何言ってるのか君は」
唐突な質問に呆れる。
「真面目に。シリアスに」
と幼馴染が言うので、シリアスに考えてみる。
幼馴染。
「……おまえとは、なんか、好きとか嫌いとかじゃないような気がするんだけど」
「というと?」
「きょうだいみたいなもので」
「……都合の悪いときばっかりそれだよね」
彼女は少し棘のある声音で言った。強張った表情。距離を測りかねている。
「本当に妹ちゃんと同じように扱ってくれれば、納得もいくけど」
そうは言われても、妹と幼馴染は同じ人物ではないし、立ち位置も違う。
もし仮に、本当に幼馴染が俺の妹のひとりだったとしても、妹とまるで同じ扱いにはならないだろう。
個人個人に対して態度が変わってしまうのは当然のことだし、仕方ないことだ。
「ねえ、今さ、私が告白したらどうする?」
「……はあ」
少し考えて、返事をする。
「え、なんの?」
「だから、好きです、っていう」
硬直する。
冗談か、と思って幼馴染の顔を見る。
目が合った。
緊張で強張った表情。
戸惑う。
しばらく、互いに黙り合った。西部劇の決闘みたいな雰囲気。というのは嘘。
「……困ってる?」
「困ってる」
そう答えた俺より、幼馴染の方がよっぽど困った顔をしていると思う。
困ってる。
でも、何かは言わなくちゃいけない。
考えなかったことではない。想像していたことでもある。
けれど、そのとき自分がどう答えるか、まるで想像ができなかったのだ。
俺は幼馴染をどう思っているのか。
罪悪感が胸のうちで燻る。なぜだろう。これは誰に対する罪悪感なんだろう。
たぶん、幼馴染に対するもの。
罪悪感があるということは、つまり、俺の中では、幼馴染に対する感情は、恋愛的なものではない、ということだ。
自分の中で絡まっている感情を、少しずつ解いて言葉にしようとする。
その作業を進めているうちに、つくづく自分が嫌になっていく。保険をかけようとするからだ。
この期に及んで、正直に、思ったことだけを告げることができないからだ。
やがて、なんとか考えを言葉にする。できるだけ慎重に。
「たぶん」
なんというか。
たぶん。
「おまえは俺にとって、家族なんだよ」
言ってから、言葉が足りないことに気付く。
そうじゃない。でも、難しい。どういえば伝わるだろう。
好きじゃないわけじゃない。でも、それは恋愛感情というよりは、家族に対するそれに近いのだ。
お互い、押し黙る。心臓が痛んだ。何かを言おうとするけれど、やめる。
言葉を重ねれば重ねるほど、言いたいことが伝わらなくなってしまう気がしたからだ。
彼女は少しの間、ずっと息を止めていた。顔を逸らして俯いた。
俺は何も言えない。
しばらくあと、幼馴染は軽い溜息をひとつ吐いて、拗ねたみたいな声音で言った。
「好きだから」
そういう空気はずっと感じていたのに、実際に言われてみるとひどく戸惑う。
俺が何も言えずにいると、幼馴染が立ち上がった。どたどたと大きな音を立てながら、階段を登っていく。
ついさっきまでとは、自分の体を構成しているものがまるで別のものになってしまった感じがする。
不意に、屋上さんの顔が脳裏を掠めた。
現実感がまるでない。
手のひらの中に、受信したメールを表示したまま操作していない携帯があった。
折りたたんでポケットに突っ込む。やけに鼓動が早まっている。落ち着こうとして麦茶をコップに注いだ。
ユリコさんが帰ってきてから挨拶を済ませて家を出た。
帰り道を歩いているはずなのに、どこをどう歩いているのかが分からない。
やけに重苦しいような痛みが胸を突いた。
家に帰ってから、リビングのソファに倒れこんだ。ひどく疲れている。
現実感が、まるでない。
夕食は半分も腹に入らず、体調でも悪いのかと妹に心配されたが、そうではない。
その日は動く気になれず、ほとんど何もしないまま眠った。
翌日は朝から昼過ぎまでじめじめとした雨が降り続いていた。湿気で暑さが煩わしく疎ましい感触を伴う。
しっかりと覚醒してからも、起き上がる気にはなれずベッドの上でごろごろと寝転がった。
昼過ぎに妹に強引に起こされた。あまりだらだらするなと言いたいらしい。
仕方ないので起き上がる。汗がべたついて気持ちが悪いので、シャワーを浴びることにした。
濡れた髪を簡単にタオルで拭いて服を着替える。少しさっぱりとした。
リビングにはタクミがいた。傘を差してひとりで来たらしい。
「なんかあったの?」
タクミにすら気付かれる。なにかはあった。
「世の中には、どれを選んでも正解じゃない問題だってあるんだなぁ、というお話です」
分かったようなことを言ってみる。
タクミは呆れたように鼻を鳴らした。小学生にして、なんなのだろうこの貫禄は。
なにがあったというわけでもないのに、落ち込んでしまう。
なんだろうこれは。上手く言葉にならない。
タクミは少し休んだ後、雨の中を帰っていった。
俺は部屋に戻ってまたベッドの中で寝返りを打ち続けた。
考え事が上手くまとまらない。
なんというか。
告白、されたわけで。
うれしくないわけではないけど、どちらかというと後ろめたさの方が大きかった。
それが誰に対するものかは分からない。その由来の知れない罪悪感が、ひとつの答えになっているような気がする。
家でぐだぐだと考えていても仕方ないので、出かけることにした。
街を適当にぶらつく。本屋、レンタルショップ。暇を持て余した休日のルート。
本屋でマエストロと遭遇する。少し話をして別れた。彼は以前となんら変わらない。
でも、以前とは何かが違う。変わったのはなんだろう。状況か、環境か、あるいは俺自身か。
何か、落ち着かない。
家に帰ろうと歩いていたところで、サチ姉ちゃんに捕まった。
近所のコーヒーショップに連れて行かれる。古臭い環境音楽。適当に注文を済ませてから、サチ姉ちゃんは俺を見て変な顔をした。
「……どうかしたの?」
不思議そうな顔。この人でも他人を気遣ったりするんだな、と妙なことを思った。
「いや、なんといいますか」
困る。上手く言葉にできない、のです。自分でもよく分からない。
だが、今の感情を分かりやすく説明するなら、
「……二股かけたい」
「最低だ」
サチ姉ちゃんは呆れたみたいに吹き出した。
「なんかもう、考えるのめんどいっす」
「何があったのよ、いったい」
何があったか、と言われれば、幼馴染に好きだと言われただけなのだけれど。
「だけ」というには、ダメージが大きすぎた。
「なんというか、いつかこういうことになるのは分かってたんですけど」
どういう形であれ、みんなで楽しく遊ぶのをずっと続ける、なんて形にならないのは自然なことだ。
仮に曖昧なままで進んだって、結局いつかは何かの形で別れることになるわけで。
「なんというか」
どうしたものか。
どうしたものかも何も、俺の中で結論は出ているのだけど。
いま俺が落ち込んでいるのは、明確な答えが出せないからではない。
答えが出た上で、どう動くべきかを悩んでいる。
昨日、幼馴染が最後にああ言ったとき、俺の頭に浮かんだのは、屋上さんのことだった。
なんなんだろう。
なんというか。
どうやら俺は屋上さんのことが好きらしい。昨日、気付いたのだけれど。たぶん幼馴染よりも。
あわよくばもっと近付きたい。付き合いたい。下心。
でもそれは、幼馴染と比べてどうとかいうわけじゃなく、どこがどうだというのでもなく、単にタイミングの問題。
彼女は俺が欲しがっているものを、欲しがっているタイミングで差し出してくれる。大抵、偶然なのだけれど。
立て続けにそんなことが起こったから、どうしても、好きになってしまうのだ。
結果からいえば、だけれど。
こんがらがってる。いろんなものが。
「なんていうかさ、いろいろ考えすぎなんじゃない?」
サチ姉ちゃんは、俺を励まそうとしているようだった。似合わない。
「一個一個見てけば、意外と簡単に片付くものって多いよ」
一個一個。
やってみよう、と思った。
幼馴染は俺が好きだと言った。聞き間違えたのでなければ。
で、俺はどうやら屋上さんが好きらしい。
でも、今までの関係も居心地良く感じていた。
多分そこだ。
俺は、今までの状況を居心地良く感じていた。このままでもいいや、って思っていた。
でも、たとえば誰かを好きになって、仮に付き合うなんてことになったら、今のままじゃいられない。
選択。
サチ姉ちゃんの言葉をもう一度考える。「一個一個」。でも、もう遅い。
今までのぬるま湯みたいな関係を続けるには、もう幼馴染が行動を起こしてしまったわけで。
俺は自分の好意に自覚的になってしまったわけで。
恋愛としての「好き」が屋上さんに向いているとしても、幼馴染のことを「好き」じゃないわけじゃない。
だから、選べといわれても困る。
でも、選ばざるを得ない状況に、いつのまにか追い込まれている。
これがぐだぐだ過ごしてきたことのツケだろうか。
なんというか。
ままならない。
悪いことではない、はずなのだが。
「どうにかなりませんかね、こう、みんな俺のこと大好き! みたいな感じで終われません?」
「それはねーよ」
サチ姉ちゃんはさめた声で言った。
「ですよねー」
まぁ、冗談なのだけれど。
でも、俺としては、誰に対しても真摯にぶつかるしかない。
幼馴染に考えてることを伝えてみるしかない。
サチ姉ちゃんはちょっと笑った。
「アンタね、ちょっと傲慢なところがあるから」
「傲慢。傲慢ですか」
「なんか、自分がなんとかしなきゃどうにもならない! みたいに思ってそうな」
「そんなことは」
めちゃくちゃあります。
「いくら自分に関わりのあることだからって、自分がなんとかしなきゃ何一つ問題が解決しないと思ってるなら、思い上がりだから」
サチ姉ちゃんは偉そうなことを言った。
そうだろうか。少なくとも自分にかかわることなら、自分が行動を起こさないとどうにもならない気がする。
「案外、なんもしなくても状況が動いたりするんだよね。あと、アンタはいろいろ溜め込みすぎ」
「溜め込んでないっす」
溜め込んでない。つもりだ。
「たまには言いたいことぶちまけちゃった方いいよ。猫の毛玉みたいなもんでさ」
なんかえらそうなことを言ってる。
けど、この人が俺に会うたびに「上司の目がいやらしい」だの「結婚した同級生がうっとうしい」だのという愚痴を言ってくるのには変わりない。
いまさら、ちょっといいこと言おうとしても手遅れです。
サチ姉ちゃんと別れて、家に帰る。
なんとなく頭が疲労している。
たとえば、幼馴染に、俺って屋上さんが好きなんだよ、と言ったとして。
それを考えると憂鬱だ。
でもどっちにしろ、二人を同時に取るなんてことはできないわけで。
いつか屋上さんのところに成績優秀頭脳明晰運動神経抜群の怪物が現れて、彼女を誘惑しないとも限らない。
それなら。
でも。
やっぱりなぁ、と考えてしまう。不安。
今までずっと一緒にいた幼馴染と、話もできなくなったりしたら、俺はどうなるか。
それでも、どうにかしないわけにはいかなかった。
俺は、誰に対してもできる限り真摯でありたいと思っているのだ。
つづく
何かを言わなければならない、と決意はしたものの、どこから手をつけたものか分からない。
結局悩みに悩んだ挙句、誰にも何も言えずに、タクミが帰る日になった。
俺と妹は一緒に幼馴染の家に行って、別れを惜しんだ。三姉妹も来ていた。俺と幼馴染は一言も話せなかった。
何かを言わなければならない、のだけれど、何をどう言ったものか、分からない。
タクミは平気そうな顔をしていた。何を考えているのか、つくづく分からない奴だ。
それでも、初めて会ったときのようにゲームを手放さないなんてことはなくなっていた。
るーは後輩の背に隠れて、何かを言いたそうにしている。寂しそうな表情。
タクミはそれを見て困った顔をする。
暑さがおさまり始めた昼下がりに、タクミたちの両親は幼馴染の家を出た。
タクミはるーを手招きして呼び寄せて、小声で何かを言った。
それを聞いたるーがくすくすと笑う。ふたりはそれっきり話をしなかった。
「またな」
と俺が言った。うん、とタクミは頷いた。
そのまま車に乗ってしまうのかと思ったら、彼は、今度は俺を呼び寄せた。
「なに?」
「ねえ、姉ちゃんと早めに仲直りしときなよ」
諭されてしまう。やっぱりこいつは大人だ。
「けっこう、落ち込んでたよ」
なんというか。まぁ、そうなのだろうけれど。
「まぁ、がんばるよ」
苦笑しながら答える。どうなるかは分からないし、どう言えばいいかも分からないけど。
でもまぁ、がんばる。
彼は最後に、俺たちに向かって小さくお辞儀をした。大人だ。もうちょっと子供っぽくてもいいのに。
タクミを乗せた自動車は、あっという間に見えなくなった。
蜃気楼が道の先を歪ませていた。うっとうしいような蝉の声だけが、いつまでもそこらじゅうに響いている。
少し、落ち着かない空気が流れる。ユリコさんが、それを吹き飛ばそうとするみたいな大きな声をあげた。
彼女は俺たちを家の中に招こうとしたけれど、全員が断った。
なんとなく、もうちょっと黙っていたいような気分だった。
全員で俺の家に向かい、リビングで寝転がる。誰も何も言わなかった。
やがて、るーはソファに寝転がって顔を隠したまま眠ってしまった。
後輩は困ったみたいに笑った。
「るー、泣きませんでしたね」
彼女は少し意外そうだった。るーもタクミも、強がりなタイプで、弱いところを見せたがらない人種だ。
まだ子供なのに、俺よりもずっと大人だ。参る。
幼馴染も、俺たちの家にやってきていたけれど、俺とはちっとも言葉を交わさなかった。
黙っているというわけではなく、終始、妹に話を振っている。
このままじゃまずい、と思う。
窓の外から、まだうるさい蝉の声が続いている。
腹を決めるしかない。
タクミに言われてしまったわけだし。
幼馴染を誘ってコンビニに行く。彼女は少し緊張したような顔つきでついてきた。
こういうことはどう伝えるべきなのだろう。
下手に取り繕っても無意味だという気がした。
けれど、実際に考えを口に出す段階になると、どうしても躊躇してしまう。
蝉の鳴き声。赤く染まりかけた西の空。揺れる木々。かすかに肌を撫でる風。
隣り合って歩く。
言葉というものは、考えれば考えるほど混乱していく。
だから思ったことを単刀直入に言うべきなのだ。
でも。
言うとなると、難しい。
結局、コンビニに着くまで何も話すことができなかった。飲み物とアイスを買って店を出る。また並んで歩く。
帰りに公園に寄った。幼馴染は黙ってついてくる。
ブランコに座る。落ち着かない気持ち。
考えても仕方ないし、ずっとこうしていても仕方ない。
「俺さ」
幼馴染が息を呑んだ気がした。
間を置くのもわずらわしい気がして、はっきりと告げる。
「屋上さんのこと、好きだ」
声に出してみると、その言葉は俺の頭の中にすっと融けていった。いま言ったばかりの言葉が、心に自然に馴染む。
好きだ。
なんかもう、そうなってしまっている。
手遅れな感じ。
惚れたからにはしかたない。
長い時間、沈黙が続いた気がした。幼馴染の方を見ると、顔を俯けていて表情がよく分からない。
「私は」
と、しばらくあとに彼女は口を開いた。
「やっぱり、家族なの?」
否定しようとして、口をつぐんだ。どう言ったところで同じことだ。
俺は何も言わなかった。胸が痛む。緊張のせいか、息苦しささえ覚える。
そうじゃない。
家族だと思っているからとか、そういうことじゃない。
でも、それを言ったところで、何も変わらない。
彼女はじっと俯いたまま動こうとしなかった。ふと、トンボが飛んでいることに気付く。
それを追いかけていると、視線が上を向いた。夕月が青白く澄んだ空にぼんやりと浮かんでいる。夏の終わりが近付いていた。
不意に、幼馴染が、今までに聞いたことがないほどはっきりとした声で言った。
「納得いかない」
「……は?」
「納得いきません」
納得いかないらしい。
何が?
「だって、ずっと一緒にいたでしょ、私たち」
「はあ」
「人生の半分以上の時間を共に過ごしてるわけで」
「……いやなんつーか」
「その間中、私はずっと好きだったわけで」
「……ずっと好きだったんですか」
「ずっと好きだったんです」
頭の中で斉藤和義が歌っていた。
なんか、開き直ったっぽい。
「ね、屋上さんにふられたら、私と付き合ってくれる?」
「何言ってんだおまえは」
「いいじゃん。保険。キープ」
こいつ、自分で何言ってるのか分かってるんだろうか。
「あのな、仮に振られたとして」
言いかけて考え込む。
そういえば、振られるかもしれないんだった。
何も解決してない。
「……いや、それは今はいい。仮に振られたって、あっちがダメだったからこっち、みたいな真似できるわけないだろ」
「なんで? 別に私はいいけど」
「いいけど、って」
「だから、別にそういう扱いでもいいよ、って」
ダメだ。
言葉が通じなくなってしまった。
「なんなら二号さんでもいいよ!」
……あれ?
なんか二股できる感じの雰囲気?
いや違うだろう。
「ダメだって」
何が悲しくて、こんなことを必死に否定しなければならないのか。
「でも、それじゃ私、告白し損じゃん。もし君が先に屋上さんに告白して、それで振られてたら、私にもチャンスがあったわけでしょ?」
「いや、え?」
「先に告白しちゃったから付き合えませんって、どう考えてもおかしいよ」
……いや、なんつーか。
「振られる前提で話を続けないでください」
そこまで自信がないので。
「いいじゃん、振られてよ」
無茶を言う。そこは俺の意思でどうにかなる部分じゃないです。
言ってることがむちゃくちゃだ、さっきから。
「いや、だからさ――」
「あ、アイス溶けてる」
「――あっ」
「もう帰ろうよ」
言うが早いか、幼馴染はブランコから跳ね上がるように立ち上がった。
「いや待てって」
「もう何も聞きたくないです」
結局、その後は何を言っても聞いてもらえなかった。
家に帰ってからドロドロに溶けたカップアイスを冷凍庫に突っ込む。
幼馴染はその後すぐに帰ってしまったので、あの態度にどういう意図があったのかが分からない。
本気で言っていたのか、ただの強がりだったのか。
まさか、とは思う。
でも、もし本気で言っていたら、少し気が楽になるのに。
どう考えても希望的観測。
もう以前通りとはいかないだろう。
……そのはず、だ。うん、たぶん。
その後すぐに、幼馴染は自分の家に帰った。三姉妹も同様に、揃って帰路につく。
特別騒がしかったわけではないはずなのに、妙に静かになったように感じる。
困る。
台所で洗い物を始めた妹が、不意に俺に声をかけた。
「ねえ、お姉ちゃんの何かあった?」
鋭い。
が、どう答えるべきか迷う。
何も言うべきではない気もするし、何かを言っておくべきだという気もする。
結局、何も言わなかった。
「いいんだけどさ」
ちょっと拗ねたみたいに、妹は言った。
部屋に戻ってベッドに寝転がる。
さて、どうしたものか。
ひとまず、幼馴染に自分の考えを伝えることはできた。
なんだか、非常に疲れる結果になったけれど、まぁ贅沢は言わない。
妙に気に掛かるところではある。が、今は気にしてたって仕方ない。
――で。
これからどうすればいいんだろう。
告白?
というのは、唐突だ。
別に、今すぐ急いでどうにかしようとしなくても、なんとかなるんじゃないかな、と思う。
サチ姉ちゃんもそんなこと言ってた。
……いいのか、それで。
どうなんだろう。
でも、今日は疲れた。とりあえず眠りたい。
ここのところずっと考えてばかりだったから、少し休んでいたい。
その日は何の考えも浮かばないまま眠る。
翌日になって、サチ姉ちゃんが実はエスパーなのではないかと疑いたくなるような出来事が起こった。
前日、早めに眠りについたにもかかわらず、ぐっすりと眠って十時過ぎに起床した俺は、起きてすぐ携帯を手に取った。
メールが来ているのに気付く。慌てて開くと、屋上さんからのものだった。十五分ほど前のもの。
心臓の鼓動がやけに騒がしいことに、気恥ずかしい気持ちを覚えながら本文を読み進める。
内容は単純で、近々後輩の誕生日が来るため、プレゼント選びを手伝って欲しい、という内容。
二人でお出かけしませんか、的なお誘い。
「うおお……」
喜んだりする前に、強く動揺した。どうしよう。
とりあえず深呼吸をする。深く息を吸って、息を吐く。
後輩の誕生日って夏だっけ、と考える。思い出そうとしたけれど、記憶に引っかかるものはない。
夏休み中に誕生日が来ていたなら、知らなくても無理はない。
でも、なんで俺なんだろう。
幼馴染とか、妹の方がいいんじゃないだろうか。後輩、女の子だし。
とはいえ、そんなことを言ってせっかくの機会を棒に振ることになるのも嫌だったので、即座に了解の返事を打った。
サチ姉ちゃんはエスパーです。
その日。
俺は朝五時半に目覚めた。むしろほとんど眠れなかった。やけに緊張していた。たぶん受験のときより緊張している。
眠れなかったからといってベッドにすがりついていても仕方ないので、さっさと起き上がる。
準備を終えて時間に余裕ができる。三時間以上。
そわそわする。
「……どうしたの?」
妹に心配される。
「なんでもない」
「なんでもないなら貧乏ゆすりをやめて」
無意識です。
時間になってから、忘れ物がないかを確認して家を出る。一応、決めた時間に迎えに行くことになっていた。
結構距離がある、が、毎日のように三姉妹は歩いてきていたわけで。恐るべし。
幸いなことに、暑さはそこまでではなかった。
相変わらずでかい家だった。
玄関でインターホンを鳴らす。やっぱり緊張する。でも押さなきゃならない。怖い。ジレンマ。
呼び出しベルが鳴った後、家の中からどたばたという物音が聞こえた。
がらりと引き戸が開いて、なかば飛び出すみたいに屋上さんが出てくる。
「……どうも」
「あ、うん」
言葉が途切れる。
なんか言わなきゃ、的な空気が飽和する。
でも、互いに言葉はない。
困った。
というか、困っている。
そういえば屋上さんとふたりきりになるなんて久々なわけで。
一緒に出かけるなんて初めてなわけで。
そう考えると目すら合わせられない。彼女の方を見るのが怖い。
なぜか普段と雰囲気が違って見えるし。
なんかこう。
……どうしたものか。
持て余す。いろいろ。
ずっとそうしていても仕方ないので、とりあえずモールに向かって歩く。言葉がない。
何を言えばいいやら。
今までどんな話をしていたんだっけ。
……平然とセクハラまでしていたような。
何者だ、以前の俺。
ていうか、ぱんつまで覗いてたような。
……なんだろうね、この気持ち。
なんていうか、昔の自分に腹が立ってくるよね。おまえ、どんだけ調子乗ってんだ馬鹿野郎っていう。
見詰め合ってなくても、素直におしゃべりできません。
馬鹿みたいだけど。
モールに着くまで、結局会話らしい会話はほとんどなかった。
「何か考えてるのはあるの?」
「え?」
「プレゼント」
「あ、ああ」
突然話しかけたからか、屋上さんは少しきょとんとしていた。
「何も考えてない」
「……何も考えてないのに、とりあえずモールに来たの?」
「……うん」
深くは追及するまい。
とにかく、店を回る。後輩の趣味を屋上さんに訊ねながら店を回る。
「ぬいぐるみとか好きかも」
まじかよ。
予想外でした。
「鞄に小さめのストラップ付けてる。いつも」
そういえばそんなのもあった気がする。
ちょっと想像してみる。ぬいぐるみ的ストラップをつけた鞄を背負う後輩。
――なんか普通にスタイリッシュだ。チューインガム噛んでそう。
もう何をやってもスタイリッシュなんじゃなかろうか、あの子。
ともかく、小物が置いてある店とか、ぬいぐるみ系統の店とかを回る。
男の居心地の悪さは女性向け服飾店にも劣らない。
適当に歩いてみるものの、これだというものは見つからないらしい。
仕方ないので他の案を探すついでに店を回ってみることになった。
雑貨屋。マグカップ、写真立て。このあたりは経験則的に悪くないが、誰かに贈ったものを提案するのも気が進まない。
ああでもないこうでもないと言い合いながら、いろいろ見て回る。
結局目ぼしいものが見つからないまま昼になり、とりあえず昼食をとることにする。
フードコートのなかのハンバーガーショップ。学生の財布にやさしい場所。
妹ときたときとまるで同じルートって、自分の行動範囲の狭さを自分で示しているような。
なんとなく生まれる後ろめたさ。
いや、深く考えないようにしよう。
対面に座ってハンバーガーをかじる屋上さんの顔を覗き見る。
特に退屈ではなさそう、では、あるのだが。
気を遣う。
なんか、こう、ねえ。
下手打ってないかな、とか、まずいことしてないかな、とか、失敗してないかな、とか、全部同じ意味なんだけど。
気付くと、屋上さんがこっちを見ていた。
「……なに?」
「え?」
「見られてると食べにくい」
「あ、はい」
無意識でした。
とはいえ。
どこに目を向けたものか困る。普段はどうしていたんだっけ。
ああなんかもう、おかしくなってる。
軽い食事を終えた後、次はどこの店を回ろうかと考えはじめたところで、屋上さんがゲームセンターで足を止めた。
UFOキャッチャー。
たしかにぬいぐるみはあるけれども。
以前の失敗が頭を過ぎる。今はタクミもいないのです。
でもまぁ、仕方ないので筐体に小銭を突っ込む。
「え」
と屋上さんは変な声をあげた。
「どれ?」
「いや、いいって」
「もう入れちゃったし」
「……それ」
彼女が指差したぬいぐるみの位置を確認する。
難しくはない、が。
一度やってみるしかない、と思う。
失敗する。
屋上さんが居心地悪そうに体を揺すった。
「こういうのは最初に一、二回失敗するものなのです」
本当はあんまり詳しくないけど、それっぽいことを言う。
また硬貨を投入する。二度目。失敗する。位置と向きが変わる。
三回目。取る。
「はい」
ぬいぐるみを受け取るまで、彼女はずっときょとんとしていた。
「エアホッケーしようぜ!」
ついでだから誘う。あっさり負けた。
他の店を適当に見て回る。特に心惹かれるものもなく、無難に浮かぶものもない。
役に立ててるんだろうか、俺。
「なんも思いつかないっす」
「うん」
無口になる。なんか言わなきゃ、的な雰囲気。でも言うことねえや。
なんかもう、ね。
何を言えばいいやら。今までどんな話をしていたやら。
ちょっとした会話はあっても、話が弾むことはない。
居心地悪いわけではないんだけど。
これはこれでいいのかもしれないけど。
あと一歩、という感じの。
結局、特に何があるわけでもなく、夕方近くに帰ることになった。
並んで帰る。ひょっとして今じゃね? って思う。
何かを言うにはちょうどいい時間。
どうしたものか。隣を歩く屋上さんは、UFOキャッチャーで取ったぬいぐるみを抱えて視線を落ち着かないように彷徨わせていた。
考え事をしながら歩く。
それでも結局、何もいえない。肝心のところでダメ人間。
あーあー。
どうにかせねば、と焦る。なんか言わなきゃ。
会話がないまま道を歩く。夕方。トンボが飛んでる。蝉の声。
どうしたものか。
距離を測りそこねている。
屋上さんの家につく頃には、四時半を回っていた。
なんか言わなきゃ、が、ずっと頭の中でぐるぐる巡っている。
そうこうしているうちに、屋上さんは一歩踏み出した。
「それじゃ」
短く言って、彼女は歩いていってしまう。
ああもうめんどくさい。言っちゃえよ。
衝動に従う。
「ストップ」
屋上さんは戸惑ったみたいに立ち止まった。振り返った彼女の表情が、今までで見たことのないものに思える。
さて、何でもありません、とは行かない。
何かを言わなきゃならない。
とはいえ。
どう伝えたものやら。
「あのさ」
ひとまず何かを言おうと口を開く。
でもダメだった。何も浮かばない。混乱する。言いたいことは明快なはずなのに、言葉が出てこない。
自分が、怖がっていることに気付いた。
心臓が鳴る。どうしたもんか。正面から屋上さんの顔を見ることができない。どうしようもない。
「あのさ」
……繰り返しになる。
馬鹿みたいに見えるかもしれない。
でも、仕方ないんです。
告白なんて初めてなんです。
「あー」
何も言えなくて、焦る。時間だけが過ぎていく気がする。このまま何も言えずに、彼女が帰ると言い出してしまったらどうしよう。
ていうか、仮に言えたって、振られるかもしれないわけで。そっちのほうがむしろ可能性としては濃厚だ。
「ごめん、ちょっとまって」
彼女は困ったみたいな顔で頷いた。表情が少し強張っている。緊張が伝染したのかもしれない。
逃げたい。
嫌な想像ばかりしてしまう。
変な汗をかいてる。どうしよう。
「おまえ、考えすぎるタイプだもんな」
頭の中で、誰かが言った。
そうなんです。
考えすぎて、足を取られて、身動きが取れなくなるタイプなんです。
好きだ、っていうのは、なんか偉そうだし。
好きです、っていうのも、なんか馬鹿らしいし。
付き合ってください、だと、意味が通じないし。
でも、完璧な告白文なんてものがあれば、みんながそれを使う。
結局、どれを選んだって、自分の気持ちをそのまま表現することなんてできないのだ。
壊れるほど愛しても三分の一も伝わらないわけですし。
だったらとりあず、後先考えずに言葉にしてみるしかない。
「好きだ」
言った。
時間が止まった気がした。
そのまま続ける。
「付き合ってください」
なんか間抜けだった。
でもしょうがない。言うしかなかった。
屋上さんは間もおかず、
「は、はい」
即座に返事をした。
「……え?」
「え?」
お互い、きょとんとする。
いやなんつーか。
反応早すぎじゃね?
こういうのって、永遠にも思える五秒、とかそんなんじゃないの?
なんか、一秒なかったんですが。
というか、「付き合ってください」の「さ」のあたりで既に「はい」って言ってたんですけど。
「……え、あ、いや、え、なに?」
屋上さんも屋上さんで、俺がなぜ硬直しているかが分からないらしく、混乱していた。
「……ひょっとして、返事する準備してた?」
「え、あ……」
彼女は「ああ」とか「うう」とか唸りながら顔を真っ赤にして俯いた。
いやなんつーか。
「……うん」
雰囲気でだいたい感じ取れるものなのかもしれないけど、もし違う話だったらどうするつもりだったんだろう。
いつのまにか、さっきまで全身を支配していた緊張がどこかに消えていることに気付く。
この人には敵わない。
「えっと、それってさ」
とりあえず、話をまとめてしまおう、と口を開く。
「つまり、その……」
口に出すのが照れくさくてどうにもまずい。
言ったあと、実は違う意味でした、みたいに言われたら、目も当てられない。
また緊張する。
「うん」
屋上さんは、今にも逃げ出してしまいそうなほど真っ赤になって、小さな声で頷いた。
「その」
どうにか、必死に言葉を寄せ集めるみたいな顔をして、
「よろしく、おねがいします」
告げた。
なんていうか。
なんていうか。
なんだろう、この可愛い生き物。
「えっと。……こちらこそ?」
現実感がない。
はっとして、夢オチを疑う。
頬をつねる。
「……なにやってんの?」
呆れられる。
痛かったけど、痛いからって現実とは限らない。
どうしましょうか。
頬が勝手に持ち上がる。
「いや、どうしたもんかねこれ」
手のひらで自分の頬をこね回して表情を戻そうとする。でも、どんなに抵抗しても無駄だった。
どうしたものか。
不意に、屋上さんが笑った。
「顔、真っ赤だけど」
お互い様です、とは言わないでおいた。
なんかもう夢でもいいや。
でもやっぱ夢じゃ嫌だ。
頭が回らない。
その日、どのタイミングで屋上さんと話すのをやめて、どのように家に帰ったのかがどうしても思い出せない。
そのあとの記憶がひどく曖昧で、次に目をさましたとき、ひょっとして全部夢だったんじゃないかと疑った。
あんまりにも不安になったので、屋上さんにメールを送った。
――昨日の出来事は夢でしたか?
返信は少し遅かった。
――夢じゃないみたいです。
夢ではないらしい。
続く
次で軽めのエピローグっぽいものやって終わり
なんか短いし引っ張るほどの内容でもないんでもう投下します
――その後の顛末。
俺と屋上さんは、特に際立った進展があるわけでもなく、夏休みの残りを消化した。
デートは三回した。一回目がモール、二回目が映画、三回目もモール。
レパートリーなんてありはしないので、相当苦労した。
その結果、彼女と俺との間でいくつかの約束ごとがなされることになる。
話し合いは近所のコーヒーショップで行われた。
曰く、
「あんまり、無理にデートとかしようとしなくてもいいんじゃない?」
という話。
どこにいったって緊張してろくに話せるわけでもない。それだったら、今までみたいにぐだぐだ過ごしたほうがいいんじゃないのか、と。
でもせっかくだし、デートとかしたいんだけど、と俺が言う。
「それは、もうちょっと現状に慣れてからの方が」
その言葉は、俺を簡単に納得させた。
お互い、思うところはあるのだが、かといってそれを一気にやろうとしても間が持たない。
焦ってもろくなことにならないのは見えているし、と合意した上で、話はまとまった。
帰り道で手を繋ぎたいと提案されて、それを受け入れた。とりあえず、夏は暑い。
さて。
俺と屋上さんが付き合うことになったという話は、簡単ながらも早々に広がった。
まず、礼儀として幼馴染に。
彼女とはその後三日間、連絡がとれなくなったが、四日目、俺の家に押しかけてきた。
ちなみにそのとき屋上さんもいた
「夢を見ました」
と幼馴染は言った。
「なんか、人気のあるラーメン屋なら行列くらいあって当然だ、みたいな天啓を受けました」
どっかで聞いたことのある話だ。
「というわけで、諦めないことにしました」
「そこは祝福してください」
話は簡単には終わらないようだった。
それとは別に、ユリコさん側からも話があり、
「アンタに彼女ができようが彼氏ができようが、私としてはこれまで通り、面倒みたり連れまわしたりします」
とのこと。
それ、いいんだろうか。そろそろ年頃だし、別に面倒見てもらわなくても。
どこかに行くとなれば幼馴染も一緒になるわけだし、さすがに気まずい。
とはいえ、ユリコさんには逆らえない。どうしたものかと策略を練っているところだ。
妹の反応はというと、ひどくシンプルだった。
「あ、そう」
短く頷く。もうちょっと、なんかないの? と訊ねると、彼女は簡単に答えてくれた。
「お兄ちゃんに彼女ができようができなかろうが、私はお兄ちゃんの分のご飯を作るし、新学期になればお弁当も作るんです」
ちょっとよく分からない理屈だが、自分の態度はなんら変わることがない、と言いたかったらしい。
周囲の反応はといえばそんなふうだった。
それから、後になって後輩から聞かされた話がある。
「ぶっちゃけ、ちい姉から告白するように仕向けてたんですけどね、私は」
なんでも、後輩の誕生日というのは単なる口実だったらしい(実際に誕生日は近かったらしいが)。
「ちい姉がね、新学期始まったら、これまでみたいに会えなくなるんじゃないかって心配してたんですよ」
もちろん初耳だった。
「そんで、じゃあ告っちゃえば? と私が言ったんです。で、だったらまずデートだろ、と」
軽い。開けっぴろげな言い草に苦笑する。そういう裏があったらしい。
これは直接関係ない話だが、タクミとるーは双方とも携帯を持っていて、今もメールのやりとりを続けているという。
時代も変わったもんだ、と奇妙な気持ちになる。
男たちの反応はどうだったかというと、彼らには報告が遅れた。
屋上さんと二度目のデートに行ったあと。そろそろ報告しておくか、と久しぶりに三人を呼び出した。
サラマンダーはなぜだか笑い転げて、キンピラくんはどうでもよさそうに窓の外を眺めていた。
マエストロだけが呆然と俺の顔を睨んでいた。
その日の夕方、丘の上の公園に、ひとりの男の咆哮がこだましたとかしてないとか。
後になってサラマンダーから聞いたので、まぁ、実際に叫んだんだろう。
そんなこんなで、夏休みが終わった。
二学期が始まって、また忙しない学校生活が始まる。長い休みでだらけきった生活リズムを正すのは困難を極めた。
とはいえ、学校にいかないわけにはいかないし、いきたくないわけでもない。
起きなければならないことはわかっているが、それで眠気が吹き飛ぶわけでもない。
ベッドの中で寝転がる。学期が始まって何日かたった今でも、体はまだ眠さに負けそうになる。
そうこうしているうちに、休み中ずっと眠っていたなおとが、それまで休んでいた分を取り戻そうとするみたいに騒ぎ始めた。
目覚まし時計のアラームは融通がきかない。
が、ここ数ヶ月で親しくなれた感があるし、起こしてもらっているわけなので、殴ったりはしなかった。
ここ最近の俺は特にゴキゲンです。
起き上がって学校に行く準備をする。残暑はまだまだ続きそうだ。
リビングに下りると妹が朝食を並べていた。一緒になって食べる。
休み中はだらだらと過ごしていた妹も、学校が再開されてからはまたきっちりとし始めた。
一緒に家を出る。そのうち屋上さんと一緒に登校したいな、と思うのだが、いまいち言い出すきっかけがない。
距離的にも道的にも、できないわけではないのだが。
まぁそれより先に、未だに強引に一緒に登校しようとする幼馴染をなんとかするのが先かもしれない。
最近ではわざと屋上さんを挑発するみたいなことを言い出す始末。ひやひやする。女って怖い。
とはいえ、俺がいない場所ではそこそこ仲良くやっている、らしい、が。
どうだろう。そこらへんの機微は良く分からない。問題があるというわけではないようだが。
教室につくと、マエストロが俺の席で薄い本を読んでいた。
またかよ、と思うと同時に、なんとなく嫌な予感がする。
静かに声をかける。
「マエストロ、何読んでんの?」
彼は表紙だけをこちらに向けた。
好きなヒロイン。
やっぱこいつは敵だ、と思う。
「……まぁいいや」
なんでもないつもりでそう言い放つと、マエストロの眼光がぎらりと歪んだ。
「まぁいいや、だと?」
怖い。
なんか踏んだ。
「おまえ、彼女できたからって調子に乗りやがって! 自分はソンナモノ興味ないですよ、みたいな顔しやがって!」
彼はガタイがいいので、大声で騒ぐと迫力がある。
困る。
「いや、落ち着け」
「落ち着け、じゃねえよ!」
彼は俺が何かを言うたびに声を荒げた。
どうしろっていうんだ。
「なんか最近上から目線になりやがって! おまえだって依然として童貞だろうが!」
――そりゃそうなんだけど。
彼の叫びが終わると、教室は耳鳴りのしそうな静寂に包まれた。
周囲のクラスメイトたちから、ああ、この夏もこいつはダメだったのか、みたいな目で見られる。
済、のハンコが全員に押されてる気がした。馬鹿にしやがって。
ふと視線に気付いて振り返ると、教室の入り口に、幼馴染と屋上さんがふたりで立っていた。
「……」
「……あー」
言葉をなくす。
デジャビュ。
やがて屋上さんは、困ったみたいな声音で言った。
「……童貞、だもんね」
……なんというか。
否定しようのない事実だった
とりあえず、目下のところ、火急の解決を要するような要件はないのだが、ひとつ考えはあった。
別に急いで変えるようなものでもないのだけれど、まぁ、今のままよりは、というもの。
呼び名。
いつまでも、屋上さん、と呼ぶのもどうか、という気がした。
なので近々、そのことについての提案をしようと思うのだが、学校に来るたびに、別にこのままでいいんじゃないか、という気になってしまう。
なにせ彼女は、昼休みのたびに、やっぱり屋上でサンドウィッチをかじっているのだ。
屋上に続く鉄扉を開ける。彼女はフェンスの近くに座って、サンドウィッチをかじりながらツバメでも探してる。
今日も今日とて。
話しかけるわけでもなくその横に座って、彼女と一緒に昼食をとる。
こういうことをしていると、夏休みの前となにひとつ変わっていないような気がした。
でもまぁ。
なんとなく、という幸せ。
問題があるとすれば、近頃やたら、屋上さんにイニシアチブを握られているというところだ。
「ねえ」
不意に屋上さんが口を開いた。
「キスしよっか」
「え」
突然なにいってるんだこの人は、と思った。
ともあれ。
そこらへんの顛末は、あまり語るべきことでもない。
おしまい
誤字脱字、見直しただけでも多すぎるので、申し訳ないんですが訂正しきれません
投げっぱなしの伏線とか突っ込みどころとか不満とかあると思います、が、たぶんこれ以上は書きません
ありがとうございました
やっぱり屋上さんイイネ(*´∇`*)
面白かったわ(*;∇;*)
乙
このSSまとめへのコメント
面白かった
グッジョブ
なかなか良かった