異形使い「あなたを追って、ここまで来た!」 (312)

すみません、リベンジさせてください
sageてひっそりやりますんで

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 プロローグ


「お前を追ってここまで来た!」

 怒声にこもった呪詛の棘は、相手の芯にしっかり食い込んだだろうか。と彼女は眼を凝らした。
 叶うならば憎しみの強さだけで相手をずたずたにしてやりたいと思う。
 だが、あり得ない。それはただの願望だ。

 眼前のこの男に届く言葉など存在しない。棘が刺さるほど柔らかい心があるとも思えない。
 現に殺意を向けられた長髪の男は何の感情を顔に表すことなく、ただじっとこちらを観察しているようだった。
 身構えることなく棒立ち。こちらを瑣末な支障程度にしか思っていないらしい。

 旅装の彼を睨みながら、彼女は短く息を吸った。
 違う、届かせる必要などない。この身の内に荒れ狂う怒りをそのまま叩きつければいい。そのための方法も自分は熟知している。

「俺はこの日を待ちわびていた」
 男に扮するための口調は、しかしこんなときにこそしっくりくる気がした。
 右手を顔の前にかざし、手の甲の文様を相手に向ける。

「想い人の仇……覚悟しろヴィルフレード!」
 ティナ――アルベルティーナ・フローリオは異形の力を解き放つ。
 振り下ろした手が光に覆われ輝いた。


 第一話 荒野と異形使い


 風の音を貫いて警笛が鳴り響いた。
 急いで馬車を飛び出すと乾いた空気に目がひりつく。ティナは一度だけ瞼をこすり、それから駆け出した。

 荒野の風が潤うことなど稀だ。雨が降らないわけではないがこの大地は水はけが良過ぎる。
 降り注いだ雨水はすぐに石や砂の間に吸い込まれ、消えてなくなるかのごとく地中深くへと姿をくらます。
 水分を保持する土壌や植物は植物域にしか存在しないため、それ以外の土地では空気はこうして乾燥し弱い身体を傷つけた。

 荒野で生きていける生物もまた多くない。
 極めて頑丈かしぶといか、とにかく人間の想像力で測れる程度では生き残れない。
 そして当然ながら想像の主体である人間はそこには含まれていない。荒野に出る時、彼女はそれを強く意識する。

 だが人はそれゆえに知恵を身につけ工夫をし、生き延びてきたとも言える。
 使える土地が少ないのならば衣食住をそれに適応させ、文化もそれに応じて変化した。

 ただ。ティナは走りながら自分の衣服をちらりと見下ろす。
 異形部隊の証であるこの黒装束は、そういった方向の英知とはかけ離れたものであるのは間違いない。


 頭部をすっぽりと包むフードが暑苦しい。
 口元を覆う黒布は走るための呼吸を邪魔している。
 両方ともむしり取ってしまいたかったがそれはできない。顔を隠すことは重要だった。

 警笛が再び鳴り響いた。しかしそれは途中で途切れる。
 植物域をつなぐ補給馬車の最後尾、七台目からだ。

 彼女が乗っていた馬車は四台目なので二台分の距離があった。
 警護のためになるべく馬車の間隔は空けないよう指示しておいたのだが、それでも離れてしまうものらしい。
 七台目は大分離れて隆起している大岩の陰に見えなくなっていた。
 声はその向こうから聞こえる。興奮した馬の嘶きもだ。

 荒野は人が生きるのには適していない。
 しかし生きるために皮肉にも荒野に出ざるを得ない者もいる。
 訳あって植物域を追いだされ、賊に身を落とした者などはその最たる例だ。

 ティナは走りながらダガーを一本抜いた。
 岩を素早く回り込み、最初に目に入った人影に向けてそれを放った。


 悲鳴――というよりはただ単に驚いただけか、声が上がる。
 相手に手傷を負わせることまでは期待していなかったが、それでも襲われている御者から注意をそらすだけの効果はあった。
 今回御者を失うわけにはいかない。人員が足りていないのだ。賊に襲われて人数を減らすのは避けたかった。

「なんだ!?」
 だみ声。馬車を取り囲んでいるどの賊が発したものかは分からない。砂に汚れた男たちの十数の視線がこちらを向く。
 馬さえも静まり、半秒ほどの沈黙が落ちた。賊の一人が呆然と呟くのが聞こえた。
「異形使い……」

 所属を一目で知らせる以外に、顔を隠す黒装束には一応の意味がある。
 一つには個人としての異形部隊を知られるのを防ぐため。
 もう一つには、これが意外と重要なのだが、容貌を隠すことによって相手を威圧するためだ。
 考案した者が意図したかどうかは別として、敵対する者から抵抗の意思を奪うのに今回もまた一役買っている。

 加えてティナの個人的な事情として素性を隠す必要もあったのだが、これは別の話である。

 ざわつく賊を無視し、御者に避難するよう手振りで伝えた。
 這うように逃げる御者に、だが賊たちは見向きもしなかった。


「護衛はいないんじゃなかったのかよ!」
「こんなの聞いてない!」
 仲間を押しのけてまず二人が逃げた。残る五人を見据え、ティナは右手の革手袋に左の指をかけた。
 気配を察したのだろう、さらに二人が逃げた。

 賢明な判断だと思う。世の中には逆らってもどうにもならないことがある。
 そのことを理解し、あえて屈することもまた人間の知恵だ。
 荒野に逆らわなかったからこそ人間は今もまだ繁栄を保っているという見方もある。

 残るは三人。明らかにうろたえて抵抗の意思はないように見えた。
 ならばとっとと投降してほしいのが本音だったが、そううまくはいかないらしい。

「こいつ、まだガキじゃねえか?」
 日焼けした額に汗を浮かべながら賊の一人が囁いた。

 他の二人は言われて初めて気づいたようにはっと表情を変えた。
 こちらが意外に小柄で若いのを見て取ったようだ。何かを推しはかるように三人は一様に目を細め、鋭くした。


 想像するに、ガキだから未熟と見るかガキとはいえ異形部隊と見るかで揺れているのだろう。
 あまりいい状況とは言えない。

 使わなくていいなら正直あまり使いたくはないのだが、そうもいかないようだ。
 仕方なく革手袋を外して右手の甲を相手に向ける。
 相手からは傷跡にも似た文様が見えるはずだった。それが異形使いの証である。

「化けさせるな! やれ!」
 首領だったらしい一人の合図で賊たちの得物がティナを向く。二人はボウガン、一人が短刀。
 矢が放たれるよりもほんの少し早いタイミングで、ティナは気合を発した。

 気が進まないとはいえ、異形の力の行使には快感が伴う。
 全細胞がくまなく発する激痛を乗り越えれば、その先にあるのは抗いがたい恍惚だった。
 力の奔流に押し流されて目がくらむ。

 右手の甲、そこにある文様が輝きを発していた。
 払うように手を振り下ろすと、もう変化は終わっている。

 身体は既に黒装束姿ではなかった。鎧のような硬質で隆起した肌に覆われ、手からは爪が大きくせり出している。
 見下ろして満足した。異形はこの身に確かに宿った。


「うわあっ!」
 ほとんど悲鳴に変わった声を上げ、賊らが矢を放った。
 目には見えない速度で飛来するそれは、しかしティナに触れる前に何かに阻まれて逸れる。

 それはティナの目には、左右から身体を包み込むように伸びた大きな腕に見えた。
 賊たちの目からは彼女の背後から伸びた"翼"が矢を防いだように見えただろう。

 "御使い"――自らの身に宿る異形を、ティナはそう名付けた。
 大きな翼と爪を持つ鎧の天使。
 たとえ怪物のようではあってもあの人が美しいと言ってくれた姿だ。

「ば、化け物!」
 ボウガンの二人が得物を放り出して逃走する。
 残りの一人がそうしなかったのは、その勇敢によるものというよりは単に飛び出す体勢になっていたために逃げ損ねただけだった。
 前進の慣性を消すことに失敗し、彼は転倒した。短刀がその手から滑って地に落ちた。


 必死にもがいて立ち上がろうとする賊に、ティナはゆっくりと近付いた。
「ひっ……」
 腰を抜かして賊が這い逃げる。バタバタと動作だけは大きいが、歩くティナの方がまだ速い。

 賊は岩にすがりつきようやく立ち上がった。そのまま逃げようとして、
「ほれ」
 何者かに死角から足を払われて再び転倒した。

 現れたのは軍服の老人だった。バタバタともがく賊を踏みつけて押さえ、こちらに快活な笑顔を向ける。
「よし、これで終わりだな、ティナ」

 あなたなにもやってないでしょう。それに遅すぎる。今までなにしてたの。
 言いたいことは色々あったが、とりあえず肩をすくめてみせた。男に扮するための口調で言う。
「"今は"アルベルトだ」


……

 全補給馬車の移動を一時止めて岩の陰に賊を引っ張りこむ。
 縛られて座り込んだ賊は、うなだれてすっかりしおらしくなっていた。

 尋問はすんなりいくこともあれば相手によってはずいぶん難儀することもある。
 受ける者の意志の力の度合いによるのだが、その点においてこの賊に手こずることはなさそうに見えた。

「護衛がいるなんて聞いていない、と言っていたな」
 しゃがみ込み、視線の高さを合わせて問うと、賊の肩がピクリと跳ねた。
「お前たちは事前にどんな情報を掴んでいた? 話せ」

 賊は逡巡の気配を見せた。があまり長引くこともなく口を開く。
「ほ、補給馬車がここを通る、人手が足りてないから護衛はいない、と」
 ティナは怪訝に思って眉をひそめた。


 植物域という形で分断された人の居住区は、一応のところ自給自足を基本としている。
 自分たちに必要なものは自分たちで用意したほうが当然ながらてっとり早い。

 だがそれにも限界はあった。ある植物域では栽培できるものが別の植物域では難しいか不可能といったようなことがときたま起こる。
 そのため物資を融通し合うために補給馬車が植物域間を行き来した。
 高価な代物が載っていることも珍しくなく、強盗の危険は常に付きまとっている。

 通常は軍が多人数でそれを護衛する。
 荒野のエキスパートらによって構成された護衛団は屈強で、今まで強奪にあったという話は聞いていない。
 というよりよほどの酔狂でない限り国を相手取ってまで襲撃しようとは思わないだろう。

 加えて補給馬車の進行ルートは極秘事項として扱われていて、一般人が知る手段はない。
 荒野を渡る行路は数パターンに分かれ、その時々によっても通る道は違う。

 秘密を守るために、補給馬車の御者の選定にも厳格な基準が設けられる。
 もし情報を漏洩させれば、それはそのまま漏洩させた者の命にかかわる。


 つまり、まず第一に一介の賊ごときが補給馬車がここを通ることを知っているのは奇妙だった。

 人手が足りていないという情報についてもそうだ。
 半年前の事件の調査のために軍は多くの人員を割いている。
 それによって補給馬車護衛の従事者も削減されていた。だが、これもまた軍の関係者しか知りえない。

 ティナはしばし思索を巡らした後、再び口を開いた。
「誰だ。誰から情報を得た」
「それは……」
 賊はそこで言い淀んだ。

 しばらく待ったが続ける様子はない。
「言え」
「さすがに情報の提供者まではバラさんじゃろ」

 口をはさんだのはティナの背後に立っていた老人だった。
 ティナよりは背が高いが、それでも小柄な体躯。
 何が面白いのかにやにやと口元に笑みを浮かべ、楽しげにこちらを見下ろしている。


「バジル」
 老人の名を呟く。呼ばれた老人は片眉を上げてみせた。
「おおかた提供者の名前を出せば命はないとでもいわれとるんだろな」
 まあ当然か。言われて納得する。

「じゃあ話は簡単だ」
 ため息をついてティナは言う。
「情報を提供してそのタレコミの主に殺されるのがいいか、今殺されるのがいいか選べ」
 右の手袋に手をかけながら静かに凄む。賊は身体を震わせた。

「こいつは恐ろしいぞ。お前さんも早いところ吐いちまった方がいい」
 老人は右手を賊に向ける。手袋に包まれた手は、しかし人差し指と中指以外が欠損している。
「儂もこないだこいつを怒らせちまってな、こうなった」

 この嘘つき。それはずっと前の傷のくせに。
 抗議の言葉が出かかったが、呑みこんだ。脅して情報が得られるのならば何でもいい。


 賊は老人の右手をまじまじと見つめ、顔を蒼白にした。
「ラクリマだ」
「ん?」
「ラクリマという男が俺たちにタレこんだんだよ……」

 賊は俯いて声を震わせた。
「絶対に上手くいくからと言われて」
「何者だ?」
「知らねえ」

 賊は視線をうつろに持ち上げて言った。
「でもアイツはただもんじゃねえよ」

 機密を知っているんだからそれはそうだろう。
 その言葉を呑みこんで、ティナは記憶に一つの名前を刻みこんだ。ラクリマ。
 その男の身元を特定する必要がある。

 仕事が増えたわね。
 ティナは憂鬱にため息をついた。


◆◇◆◇◆

 荒野よりはいくらか湿潤な薄暗闇の中。
 少し前にラクリマと名を変えた男は、目を閉じて座っていた。

 椅子の背に長身の身体を深く預けているが眠ってはいない。意識ははっきりとしている。
 カーテンの隙間から入る一条の光を瞼越しに見つめていた。

 屋内のため風はなかった。長髪も揺れることなく肩に落ちついている。
 追想に浸るにはちょうどいい空気だ。

(――ロレッタ)

 胸中で名を呟く。
 それによっていつでも彼は満たされる。
 その名と、名にまつわる記憶は彼の支えであり、指針であり、今まだ生きている理由でもある。


 かつての名を捨てることには抵抗があった。
 たとえそれが彼女との再会のために必要なことであったとしてもだ。
 彼女がその声で呼んでくれた名前には、思っていたよりも執着があった。

(ロレッタ)

 それは彼の全て。
 そのほかの何もかもを賭けるだけの価値があることだ。
 と。物思いを遮って部屋のドアが開いた。

「やっほ」
 瞼を持ち上げると、部屋に歩み入ってくる若い男が見えた。

「エルネスト」
 視線を強くして陶酔を妨げたその男を見る。


「ん? ああ、邪魔して悪かったよ。ごめんね」
 言葉とは裏腹に悪びれる様子もなく、エルネストと呼ばれた男は軽く手をひらひらさせて見せた。

 ラクリマは鼻から短く息を吹いた。
 椅子から立ち上がって窓に寄る。
 カーテンを薄く空けると、広がる町並みが一望できた。

 限られた植物域に隙間なく詰め込まれた建物の数々。
 平穏そのものに見えるが、その水面下では常に居住権の取り合いが起きている。
 定住の権利は流浪の者たちが涎を垂らしてほしがるものの一つだ。

 半年前にその一人となった彼はしかし、定住権には興味がなかった。
 その意思が向くところはただ一つ。
「どうだった」


 問われたエルネストは首肯の気配と共に答えた。
「うん、ヴィルフレードの言ったとおりだったよ」
 肩越しに睨みをくれてやると、彼はへらりと笑って言いなおした。
「ラクリマの言うとおりだった。これでいい?」

 返事は返さずに男は窓の外に視線を戻した。
 眼下には平穏な空気と共に人通りがある。
 壊れた彼の世界とは別に回る、関係のない世界。

 その事実を噛みしめ、ラクリマは告げた。
「出発だ」
「分かった」

 相棒のエルネストは頷き、あ、でも待って、と言葉を継いだ。
「お土産買っていってもいい?」
 無視して、ラクリマは旅の荷物をまとめ始めた。

◆◇◆◇◆


 馬車の行く手に町の影が見えた。
 荒れ果てた灰色の地平にぽっかりと浮かぶ緑色。

 規模はまずまずといったところだ。
 自前の農場を持ち、自給自足のシステムはおおむね整っている。
 農業が主産業のその町に運ばれるのは、鋳造技術をはじめとする工業的手法で作られた製品だ。

「オリーヴァ」
 それが町の名前である。

「やれやれ、やっと着いたんかい」
 いかにもくたびれた風に隣に寝転がった老人が声を漏らす。

「あんたはただ寝てただけだろう」
「儂も結構働いたぞ」
「嘘つけ」
「あれでも儂の全力じゃよ」
「ああそうかい」


 冷たくあしらうと老人はちらりとこちらに視線をくれた。
「なんじゃティナ、機嫌が悪いの。生理か」
 無言で脇腹を殴ってやる。

 まったく、御者に聞こえたらどうするというのか。少し離れた御者席を見やる。
 今はあまり気にしすぎることはないが、ミスというのは思わぬ所に蓄積し、足場を崩してくる。

 老人は殴られた脇腹を気持ちよさそうにさすり、何事もなかったかのように話を変えた。
「ところで、あいつは連れてきてよかったのかの」
「賊のことか?」

 捕まえた賊の首領は後ろを来る馬車にのせてある。無論拘束してだ。
「ほっぽり出してきてもよかったろうに」
「そういうわけにいくか。あいつは罪人だ。きちんと裁かれる必要がある」

「また心にもないことを」
「……」
「どうせまたお前さんのおせっかいだろうに」


 賊はあの場所においてきても、仲間が戻ってくれば助かっただろう。
 その可能性は低くはないはずだった。

 それでもわざわざ連行したのは老人の言う通り、彼女のおせっかいだ。
 ラクリマというのがどういった人間だかは知らないが、自分の情報をティナたちに引き渡した彼をそのままにしておく保証はない。
 危険な人物だった場合、賊の安全に支障が出る恐れがある。

「まったく。そんなことじゃ先が思いやられるわい」
「なによ」
 思わず口調が女のものに戻る。
「なにか文句でも?」

「小娘は自分の心配だけをしておけばいいということさ」
「でも」
「お前さんは想い人の仇を討つんじゃろ。なら余計なことは考えるな。思い上がりも大概にしとけ」

 さらに反駁しかけるが、開いた口からは言葉が出ない。老人の言葉が正論だからだ。
 そのまま口を閉じる。声を男の口調に戻した。
「……分かったよ」

 視線を前方に戻すと、町が先ほどより近付いていた。

続きます


……

 足早に山道を進みながら。老人が考えていたことは一つだった。
 彼女は無事に逃げおおせただろうか。
 そろそろ動けるようにはなってはいるはずだった。

 願わくば無事に逃げのびてそれなりにでも平穏な生活を手に入れてほしいと思う。
 だが彼女の性格を鑑みるに、逃げないという選択肢をとることも十分あり得る。
 それは望むところではないが、もしそうなった場合老人自身に出来ることは少ない。

 ここまで無事にたどり着けるよう道を整えてやることは無理だ。
 そこまで手は回らなかった。道は彼女自身で開かねばならない。
 代わりに出来ることと言えば、この戦いを生き残り、無事を祝い合いながら帰ることだ。

 彼は苦笑した。
 この先で待ち受けている化け物たちを殺し、かつ無事に生き残る?
 馬鹿馬鹿しい。
 自分に出来ることは、刺し違えてでも敵を全滅させるか、それが無理ならば少しでも減らすか。
 それだけだ。


 不思議なほどあの娘に入れ込んでいる自分がいることに老人は気づく。
 いや気づく、というほどの驚きはない。
 せいぜい確認するぐらいの重みだ。

 あの娘に特別なところがあるわけではないと思う。
 どこにでもいそうな、思慮に欠ける少女だ。
 だから、彼女の天性に惹かれた訳ではないのだろう。

 共に過ごした時間が長いだけ。
 だから強い思いというわけではない。単なる愛着程度に過ぎないはずだ。
 だがそれでも大切な人間である。
 死なせたくない。それけは疑いない。

 山道の幅が広くなった。
 勾配が弱くなり、ほぼ平坦に近い地形になる。
 バジルはそこで足を止めた。


 少年が――といっても既に十代の終わりにさしかかっているはずだったが――道を遮って立っていた。
 立ちはだかるといったような力んだ様子はない。
 ふらりと散歩に立ちよって、たまたまそこで立ち止まっていたというような風情だった。

 しばらく眺めて、バジルは口を開いた。
「お前に指を奪われたのは、もう二年も前になるか」
 左手で右の指を撫でる。二本だけ残った指。

「お前は任務中の事故だと主張し、上層部もそれを認めた」
 手を止めた。声に力がこもる。
「だが儂は知っているぞ。あれは明確な害意あってのことだとな」

 少年は黙っていた。
 穏やかな笑みだけを浮かべて、そこにたたずむだけだった。
「なぜだ。儂への恩を忘れたか。そこまで儂を憎んでおったか」
 奥歯が軋る。身体に力が入り筋肉が震えた。


「恨むなんてとんでもない。師匠には感謝してるよ。いろいろ教えてもらったしね」
 バジルの怒りに完全に水を差す口調で彼は言った。
「ただ、興味があっただけさ」
「興味?」

 視線を鋭くするバジルにエルネストは頷いた。
「屈強なあなたがその力を失った時、どんな顔を見せてくれるのか知りたかったんだ」
 そして小さな笑いを洩らす。
「その人にはその人の世界がある。その人だけの持つ世界がある。それを壊すのが、ぼくは楽しくて仕方ない」

「つまり……」
 バジルは声を詰まらせた。
 こいつは、怨恨でも反抗でもはたまた義務でもなく、"ただ面白そうだから"という理由だけで自分の指を奪っていったということか。


 沈黙する老人に対してエルネストは肩をすくめた。
「ま、仕方ないよね。興味がわいちゃったなら試してみるしかない。好奇心って恐ろしいなくらいに思ってもらえれば」
「そうじゃな」
「……?」

 その答えはいささか、というより完全に予想外だったということか。少年は訝しげにこちらを見た。
 バジルは唐突に静まった心の奥から彼を見返した。
「好奇心ならば仕方がないな」

「……本気で言ってる?」
「ああ本気じゃ。本気でお前はその程度の奴だと確認できた」
「どういう意味?」
「どういう意味も何もないじゃろ。興味がわいて好奇心を抑えられないならばそこらのガキと同じだ」

 少年は一旦言葉を止め、しげしげとこちらを眺めた。
「……何かあった?」
「何がだ?」
「いや、別に。大したことじゃないんだ」
 それだけ言って彼は言葉を止めた。


 何かあったか。老人はにやりと口をゆがめた。
 それはもういろいろとあった。
 あの少女をコルツァで拾ってからいろいろと。

 最初は彼を傷つけ部隊を裏切った元弟子を殺すために利用するつもりだった。
 そのつもりで訓練し、協力もしてやった。
 そう遠くないうちに少女は彼の望みをかなえてくれるはずだった。

 その後彼女がどうなろうと知ったことではなかった。
 彼女はもう復讐者となっていて後戻りは出来ないと思っていた。
 が、違った。
 彼女はこの間の夜、間違いなく死の恐怖に怯えていたのだ。
 だから守る価値がある。そう思った。

「もう一つ訊く。なぜお前はヴィルフレードについた」
「知りたい? どうでもよくない?」
「聞いておく。どちらにせよこれが今生の別れじゃろうしな」
 そっか、と笑って少年は頷いた。


「答えはさっきと同じ。興味がわいちゃったから試してみた。それだけ」
「部隊を裏切ってどうなるかは分からんでもあるまいに」
「違うさ」

 バジルは顔をしかめる。何が違う?
「多分ヴィルフレードの目的は聞いてると思う。世界征服。あれね」
「ああ」
「なぜそんなくだらないことしたいか知ってる?」
「いや」

 彼はそこで一旦言葉を止めた。
 もったいつけるように指を虚空に振って実はね、と続ける。
「想い人を取り戻すためなんだよ」


「想い人を、取り戻す?」
「死んだんだよ、彼女。ロレッタっていうんだけど」
「死んだ者を生き返らせると?」
「うん、そういうこと」

 バジルは顔をしかめた。
「世界原理を掌握すればそんなこともできるのか?」
「さあ?」
 答えはこの少年らしく無責任な響きだった。

「でも彼はそう信じてる。そう信じたいからね」
「くだらない。そんなことのためにティナを巻き込んだのか」
「そんなそんな。くだらないとか言わないでおいてあげなよ。傷ついちゃうかもしれないじゃない」

 と、少年はわずかに身をかがめた。前の方に重心を移したらしい。
 攻撃の予備動作かと思いバジルは警戒する。が、そうではないようだ。
 こちらに身を乗り出しただけだった。
「でさ、その想い人だけど、なんで死んだか知ってる?」


 知るわけがない。
 少年は嬉しそうに言葉を続ける。特別の宝物を取り出して見せびらかす子供のように。
「任務中の事故死だよ」
「事故?」

「異形制御失敗による消失。彼女は根幹異形使いだった。根幹異形そのものはヴィルフレードに渡った」
「制御の失敗……そんなことがあるのか?」
 異形使いは異形を制御する術を生来の感覚として身に着けている。
 確かに強大な異形ならば制御が難しいかもしれないがあまりあることではない。

「正確には感情の制御かもしれないね。ぼくが彼女の形見を壊しちゃったから」
「お前」
「あれは面白かったなあ。最強の異形使いの一人がああも簡単に消えちゃったんだから」
 少年は笑う。

「最初の質問の答えに戻るよ。なぜぼくはヴィルフレードについたか。
 彼は最愛の想い人を失った。彼の世界は壊れた。でも彼はそれに抗って生きることを決めた」


 エルネストはおもむろに懐からナイフを取り出した。
「だったらぼくは見届けなくちゃ。自分の好奇心の行きつく先がどうなるのか、見てみたい」

 バジルは黙って立ち尽くした。
 言葉を失った、わけではない。
 単に言うべきことが何もなかったにすぎない。黙したまま、ナイフを抜いた。
 構える。

「……お前を育てたこと、後悔しているよ」
「だろうね」
 少年の返事はそっけなかった。


……

 目標を無事撃ち抜き、砲使いの異形は膝をついた格好のまま小さく息をついた。
 敵は落下し、家屋の間に見えなくなっていた。
 後は地上にいるもう一人が無力化に向かうはずだった。

 上手くいけばそれで終わりだ。
 もちろん相手は根幹異形使いなのだから油断をするわけにはいかないが。
 それでも手応えは十分だったように思える。

 問題は、と彼は考えた。
 次に控えるヴィルフレードへの対応だ。
 もともとそちらが本来の任務だったわけであるし、ここからが真に難しいところだろう。

 計算外だったのは二点。
 部隊の同僚が指名手配中の根幹異形使いだったこと。
 それからヴィルフレードが同じく根幹異形使いだったこと。


 一つの場所に二体以上の根幹異形使いが集まるなどめったにあることではない。
 それ以前に根幹異形使い自体が珍しいのだが。

 舌打ちする。
 メッセンジャーがしっかりしていればこんな面倒は避けられたはずなのだ。
 目の前に指名手配犯がいて、それを見抜けない?
 なんのための監視係だ。

 ひたすら胸中で毒づき、ふと気付く。
 静かすぎる。
 もうそろそろもう一人から合図があってもいいはずだった。

 訝しく思ったその瞬間――
 地面にわずかに開いた亀裂。
 その隙間から細い何かが飛びだし彼の喉に巻き付いた。

「!?」
 慌ててそれを掴むが遅い。
 次々とわき出した触手は彼を包みこみ、強烈に締め上げた。
「ぐ……」
 砲使いの意識はそこで途切れた。


「ふう……」
 砲使いが倒れ伏してから数秒後。
 ティナはようやく警戒を解いて地中から姿を現した。
 蔦が絡みあって人型になったかのような姿。根幹異形だ。

 砲に撃ち抜かれる直前、彼女は異形を御使いから根幹異形に切り替えた。
 衝撃から必死に身体を守って落ちた先にいた大剣使いを無力化した後、地中に潜って砲使いを狙ったのだった。

「……」
 正直なところ上手くいくとは思っていなかった。
 だが結果として成功した。
「ラウロ」
 もしかして、と愚にもつかないことを思う。
「あなたが守ってくれたの?」


 馬鹿げたことだった。
 死者は現世に干渉しない。
 先ほどの夢にしたってそうだ。夢は夢に過ぎない。
 だが。

「……ありがとう」
 小さく呟いて、彼女は変身を解いた。
 どっと疲れが襲い来るがそれに堪えて、見上げる。
 山道はそこから続いている。


……

 たん、と小さな音を立てて少年は踏み込んできた。
 軽やかで、かつ隙はない。
 あっという間にこちらの懐に飛び込むとナイフを閃かせる。

 バジルは横に体捌きして避け、同時に相手の膝を狙って蹴りを放った。
 当たることは想定していない。
 避けるために相手が動けばその隙を狙って追撃する。

「――!」
 予想に反して手応えがあった。
 が、相手に痛撃を与えたわけではない。
 エルネストは蹴りを足の裏で受けとめていた。
 そのまま押し返してくる。
 体勢が崩れ、逆にこちらが隙を見せる形になった。

 必死で身体を捻る。
 ナイフの刃が肩を抉った。
 深くはないが浅くもない。


 痛みに引っ張られそうになる意識を必死でとどめた。
 既にエルネストはナイフは突き込もうとしている。たとえわずかであろうと気を散らす訳にはいかない。

 心臓を狙って正確に飛んでくるナイフ。
 バジルはそれを保持する腕をつかみ取り、関節を極める。
 あとは少し力を込めるだけでその部位は破壊され、格段に有利になる。

 しかしその刹那、バジルは気づいた。
 関節を極めた相手の腕の先に、ナイフがない。

 手を放して後ろに跳ぶのとナイフが踊るのとは同時だった。
 腹部に痛みが走った。
「くっ……」
 押さえる手にべっとりと血がついた。

 これもまだ致命傷ではない。が、先ほどよりは深い。
 時間がたつほどに不利になることは間違いない。


 少年は持ち替えていたナイフを右手に戻すと、薄く笑った。
「不便だね。その手」
 バジルは黙って手元を見下ろした。

 二本の指で保持されたナイフがそこにある。
 ひどく不安定で、頼りない。
 相手の命を奪えるほどの強さはそこにはなかった。

「確かにな」
 バジルは静かに認めた。
 ただでさえ全盛期は過ぎ去り、老いが身体をむしばんでいる。
 身体は思うようには動かない上、この欠損である。

(ままならぬものじゃ)
 小さくかぶりを振る。
 歳をとるたび思い通りにならないことばかりが増えていく。

 恐らくこの少年を殺すことはできないだろう。諦観ではなく冷静な推測だ。
 ティナもきっとこちらを追ってくるだろう。逃がすためのこちらの苦労も知らないで。
 本当に思い通りにならない。


「でも大丈夫。もうすぐ終わるよ」
 確かにその通りだろう。
 もうすぐ終わる。終わってしまえば全ては大したことなかったと思えるはずだった。

 どこで思うのだ?
 ふと気づいて笑う。あの世か?
(馬鹿馬鹿しい……)
 あの世には何も持っていけない。あの世があるのかも分からない。
 少なくとも彼自身は死後の世界を信じていない。

 もうすぐこの人生は終わる。
 そうだ、あの世には何も持っていけない。
 だが代わりに何かを残すことはできるかもしれない。

 バジルはゆっくりとナイフを構えた。


 エルネストが笑いを引っ込める。
 無表情となった顔の下で何を思ったかは分からない。
 そのまま彼は飛び込んできた。
 恐らくは最後の交錯となるだろう。

 少年は踏み込む勢いを拳に乗せて突き込んできた。
 それを肘で叩き落とし、裏拳で反撃する。
 だが少年は軽く身体をかがめる程度でそれをかわしてさらにもう半歩、踏み込んできた。

 バジルは後ろに跳ぶ。
 が、それより早く足を払われて転倒した。少年がその胸部を踏みつけてくる。
「がッ!」
 苦悶の声が口から洩れた。

 ごうごうと耳元で風が吹いているような錯覚。
「じゃあね、師匠」
 それでもその声だけははっきりと聞こえた。

 ナイフが閃く。
 喉を貫かれて身体が跳ねるのを感じながら。
 同時にバジルは最後の力でナイフを振るう。
 失血による暗闇の奥で、少年の悲鳴が聞こえた。


……

 山の中腹ほどまで登り、ティナは自分が間に合わなかったことを悟った。
 広くなった道幅の真ん中。老人が仰向けに倒れ伏している。
 その身体を中心に、赤黒い血が辺りに飛び散っていた。

「バジル!」
 駆け寄って抱き起こす。
 なおも呼びかけるが返事がない。
 虚空を見つめて動かない目。半開きになった口。ぐったりと脱力した四肢。
 全てが示すところは一つだった。

「馬鹿……!」
 死んでからようやく感謝される?
 そんなことがあるものか。あってたまるか。
 誰かを置き去りにした者は、置き去りにされた誰かにどうしたところで恨まれるのだ。


 喉に大きな傷があった。それが致命傷だろう。
 ティナは懐から布を取り出すと、そっとその傷を覆った。
 老人の遺体を横たえる。いまだ開いたままだったまぶたを閉じてやる。
 そして自身もきつく目を閉じる。

 喉の奥が詰まって痛い。目の奥が熱くて仕方がない。
 泣く資格はないことは理解している。
 バジルは彼女のために敵を追っていた。死んだのは自分のせいだ。
 それでもわき起こる感情に嗚咽が喉から漏れそうになる。

 と。
「っは……」
 乾いた笑い声がかすかに聞こえた。


 ティナは立ち上がった。
 そして声のした方に猛然と駆け寄る。
 油断していたわけではない。
 バジルを殺した敵がすぐそばにいる可能性は忘れていなかった。

 向かう先には大きな岩がある。
 ティナは回り込んでナイフを構えた。
 そこにいたのは――

「やあ。久しぶり……」
 ティナは絶句して立ちすくんだ。
 見覚えのある少年が血だまりの中に座り込んでいた。

「お前は……」
 記憶を探る。
 少し前にヴィルフレードからの伝言を持ってきた彼は確か。
「エルネスト」


「まさか、覚えてくれてるとは、思わなかったよ」
 こちらを横目で見上げて彼は笑う。
 だがその声にも表情にも力はない。
 顔面は蒼白で見るからに弱っている。

 無言で見下ろす。
 エルネストの右手首に鮮血に染まった包帯が巻かれていた。
 まだ血は止まっていないらしい。

「ああ、これ?」
 少年はふらふらと右手を掲げて見せる。
「師匠にやられたんだ」

 ティナがなおも無言でいると、エルネストは勝手にしゃべりだした。
 かすれた声だが話したくて仕方ないといった様子である。
「いやあ油断してた。まさか、最後の最後でこんな仕返しをくらうなんて」

 傷のない左手で見えないナイフを握って突く動作をする。
「こう、喉をズブってやって、仕留めた、と思った瞬間これだもの。嫌になっちゃうよ」
 右手はだらりと脱力している。動かせないようだ。
 もう一生動かないだろう。


「あの世への土産ってことかな。持ってかれちゃった」
 虚ろな笑みを顔に浮かべて、少年はふへへと笑った。
 両手を下ろして空を見上げる。
「あーあ。どうしたもんかな」

 叩きのめしたい。
 ティナが思ったのはそれだけだった。
 バジルを殺したこいつを、異形の力を使ってただひたすらに痛めつけたい。

 今ならそれができる。
 誰にも邪魔はされない。そして少年は力を失っている。
 妨げるものは何もない。

 噛みしめた奥歯が音を立てる。
 握った拳が震える。
 殺したい。

 右手を顔の前に掲げた。


 少年が空からこちらに視線を落とした。
 恐怖の色はその目になかった。
 ただ「やりたければやれば?」とだけ語っていた。

 やれないとでも思っているのだろうか。
 やらない理由などどこにあるというのか。
 ティナは意志を込めて右手を振りおろした。

「そのまま惨めに生き続けなさい」
 口元の黒布を取り去って静かに告げる。
 数秒の間をはさんで、少年は視線を訝しげなものに変えた。

「力を失ってなお生き続けなければならない痛み。あなたにはそれを味わってもらうわよ」
 そのまま背を向ける。
 山頂の方へと足を踏み出した。


 どうせ少年を殺したところで彼女に得はない。
 そのために使うエネルギーももったいない。
 今はヴィルフレードを追うのが先決だ。

 それに、これで十分だと思えた。
 少年にとっては一番堪えがたい罰だろう。

 歩いていると後ろから笑い声が聞こえた。
 弱弱しいそれは、泣いているように聞こえなくもなかった。


……

 ティナは山道を黙々と進んだ。
 登っていくにつれて足元はさらに凹凸を激しくしていく。
 日は雲に隠れていてややうす暗い。
 風は乾いて冷たく、頬に当たって熱を奪う。

 風に混じる自分の足音以外は何も聞こえない。
 当たり前だ。一人で進んでいるのだから。
 彼女の隣には誰もいないのだから。

 だが、ティナはあるはずもない温かい気配が脇を歩いているのを感じた。
(ラウロ)
 その名を胸中に呼ぶ。
(あなたを……あなたを追って、ここまで来た)

 そうだ。彼女自身勘違いをしていた。
 追っていたのはあの人殺しなどではない。
 あの人を追って、ここまで来たのだ。


 あの人を忘れたくなかった。
 忘れるのが怖かった。
 憎んでさえいれば忘れないと思った。
 仇討ちは本当のところ口実でしかなかった。

 気づいてみればどうということはない。
 ずいぶんと遠周りをしたものだ。
 心配はない。彼はすぐそばにいる。

「ラウロ」
 乾いた唇を動かす。
「見届けに行きましょう」
 なおも前に進み続けた。


……

「ヴィルフレード!」
 ティナの声を聞き、男は肩越しにこちらを振り返った。

 相変わらずの黒ずくめ。
 山頂のやや開けたその場所に何をするでもなく立ち尽くしていた。
 その口が動く。
「来たか」

 ティナは無言で歩み寄る。
 七歩ほどの間合いを開けて立ち止まった。
 それに合わせてヴィルフレードが身体をこちらに向けた。

 彼の目には何の感情も浮かんでいない。
 平板な光だけがそこにある。

「エルネストは……負けたのか」
「ええ。わたしにではないけどね」
 答えて後ろを示す。
「バジルは……死んだわ」

 ヴィルフレードは、「そうか」とだけ呟いた。


 そのことには不思議と怒りはわかなかった。
 ただ気になって訊ねる。
「ここで何を?」

 ヴィルフレードは周りを見回した。
「ここは異形誕生の地だ」
「え?」
 再びこちらに目を戻したヴィルフレードが言葉を続ける。
「異形使い発生の発端となったのがここなんだ」

 言ってることがよく分からずティナは顔をしかめた。
 それを気にした様子もなく彼はさらに続ける。
「異形使い発生にまつわる伝説を知っているな? 神に挑んだ男の話だ」
「……ええ」
「それ自体は伝説に過ぎないが、あれは現実に起こったことを核にして作られた話なんだよ」


 彼は何を言おうとしているのか。
 やはり分からないが、彼女にも関係のあることに違いはなさそうだった。
「賢者エルメネジルド。知を極めた彼はある時山にこもり、さらなる知の高みへと登ろうとしていた。全知。神の域だ。
 それが本当に可能なのかどうかは知らない。だが確かなのは、彼がその過程で世界原理を見つけ出したことだ。
 彼は世界の根幹に触れた。混じり合い、一つとなった。その時、彼を媒介として人間全体に流れ込んだ世界原理が異形として現出した」

 ティナを目を見て、彼は頷いた。
「そうだ。だから異形使いは世界原理の現出の形なんだ」

 ヴィルフレードはマントの前から左の手を差し出して見せた。
 手袋ははめていない。掌には異形使いの証。
「そして根幹異形はより世界根幹に近いものだ。異形誕生の地で、これを通して世界原理に干渉しようとしたが……上手くいかないな」
 ため息をついて手を下ろす。
「根幹異形の出力が足りない。お前の根幹異形ももらうぞ」

 ティナは黙って左右両方の手袋を外した。
 手の甲に文様。
「一つ聞かせて」
 顔を上げてヴィルフレードの目を見返す。
「あなたは世界を手に入れてどうするつもりなの」


「お前に教える義理はない」
 ヴィルフレードはにべもなかった。
「じゃああなたに譲る理由もないわね」

 ティナは敵を睨んだ。
「もう仇討ちにこだわっているわけではない。けど、あなたがあの人の知識をいいように利用しようとしているならわたしはそれをとめるわ」
 懐からナイフを抜く。
 世界を手に入れるなどということが可能かどうなのかは知らない。
 だが、ヴィルフレードは冗談で言っているわけではないことは見ればわかる。

 ラウロの研究で好き勝手させるわけにはいかない。
 それが仇討ちを捨てた彼女がなおもヴィルフレードを追った理由だった。

 ヴィルフレードはふん、と鼻を鳴らす。
「別に譲ってもらおうとは思っていない。勝手に奪っていく」
 彼が言い終わるより少し早く。ティナは地を蹴り駆け出していた。


 気合いの声を上げて踏み込む。ナイフを振るう。
 相手は軽く後ろに跳んでそれをかわした。
 が、既にティナは追撃の投げナイフを飛ばしていた。
 ヴィルフレードはマントでそれらを防いだが、足が止まる。

「ふッ!」
 懐に飛び込みそのまま体当たりする。
 手応えは十分。
 倒れた敵を踏みつけてナイフを振り上げる。

 が、相手を押さえていた足がガクンと沈んだ。
 彼女が踏みつけていたのは、のっぺりとした人型の異形だった。
 腹部を自ら分解している。

 舌打ちして飛び退った。
 虚空から現れた手が彼女を狙って手刀を放つ。
 避けられないと見て、彼女は右手を掲げた。


 堅い翼が攻撃を防いだ。ティナの異形、御使い。
 彼女は受けとめたそれをはじき返す。
 相手が倒れていた辺りを見やるが既にヴィルフレードはそこにいなかった。

 空気が揺らぐ。
 飛んできた追撃を右手で防ぐ。向き直るがそこに本体はいない。
 同時に背後から衝撃をくらって彼女はよろめいた。

 振り返ると敵はそこにいた。
 既に半分ほど姿を崩してはいたが。
 爪で切り裂くも手応えはなかった。

 分が悪いと認める。
 翼を開いて地を蹴った。
 宙に浮かびあがって見回す。
 敵は先ほどまでティナがいた場所の死角に現れようとしているところだった。

「行け!」
 飛びあがると共に根幹異形へと切り替えている。
 ティナの声と共に触手が飛んだ。


 蔦のようなそれはヴィルフレードを確かに捕えた。
 が、それはすぐに崩れる。
 相手もまた根幹異形へと変貌していた。

 崩壊が触手を伝ってティナへと伸びる。
 ティナは触手をさらに伸ばしてそれに対抗した。
 触手の生成と崩壊が拮抗する。
 そして重力に従ってティナは落下を始める。

 叫び声が喉からあふれた。
 その声に意味などない。
 だが怒りでも悲鳴でもない。純然たる意志の発露。

 みるみる内に距離が詰まる。
 敵の岩のような外殻が迫る。
 ティナは再び御使いへと姿を変えた。

 翼で身体を覆う。
 だがそれだけで敵の攻撃を防げるわけもない。
 翼はすぐにひび割れ崩れ始める。
 激痛。翼が崩れ落ちる。

 そして。その時にはもう敵はすぐ目の前にいた。
 御使いの爪が相手の身体を貫いた。


 敵の身体が震えた。一度ではなく二度、三度と。そのたびに震えは大きくなった。
 うめき声を上げながら、その姿は人間のものへと戻っていく。
 爪を引き抜くと、ヴィルフレードは崩れ落ちるように倒れた。

「こんな……」
 呟く彼のその目は既に焦点が合っていない。
 痙攣するように激しく呼吸しているが、次第に弱くなっていく。
「ロ、レッタ……」

 ティナも姿を人へと戻しながら呟く。
「それがあなたの"理由"なのね」
 膝から力が抜ける。勝ったとはいえダメージが大きい。
 だが言葉をとめることはできない。気づいてしまったからだ。
「あなたも大事な人を失ったのね……」

 ヴィルフレードは反応しない。
 口から苦悶の声を漏らして弱っていくのみだ。
 ティナの目に涙が滲んだ。

 激痛が身体を苛んでいたがそれが理由ではなかった。
 本当に痛いのは胸の奥だ。
 心の奥にヒビが入ってじくじくと悲鳴を上げている。

 日の光は雲にさえぎられてここまで射し込まない。
 どこかうす暗く、肌寒い。
 そんな中、彼女はただただ涙をこぼすしかなかった。


 エピローグ


 アルジェントの町に残されていたスコップはまだなんとか使用に耐えた。
 それを使って町の片隅に二人分の墓を掘る。
 老人と、かつての仇を埋葬した後、彼女は短く祈った。
 無力化したとはいえまだ異形使いがいる町にはあまり長くはとどまれない。

 町を後にして、彼女は空を見上げた。
 相変わらずの曇り空。ぼんやりと白む空に太陽は見えない。
 荒野には乾いた風が吹く。

 顔を下ろして左手の甲を見下ろした。
 異形使いの文様がそこにある。
 世界根幹へとつながる鍵がそこにある。

 世界を手に入れれば死人も生き返らせることもできるかもしれない。
 ラウロを取り戻すことができるかもしれない。
 そんなことも考えた。

 考えたが、試すことはしなかった。
 試さなくてもあの人はそばにいてくれる。
 そう信じた。

 ふと辺りが明るく照らされたことに気づいた。
 顔を上げる。日の光が射していた。
 見上げれば青空。遠く、彼方まで吸い込まれそうな。

 彼女はしばらくそれを見上げた後、右手を顔の前に掲げた。
 御使いが翼を広げる。空へと浮かび上がる。
 彼女は雲の切れ目、鮮やかな青を目指して飛んだ。
 どこまでも飛んで行けそうな気がした。

終わり

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