異形使い「あなたを追って、ここまで来た!」 (312)

すみません、リベンジさせてください
sageてひっそりやりますんで

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 プロローグ


「お前を追ってここまで来た!」

 怒声にこもった呪詛の棘は、相手の芯にしっかり食い込んだだろうか。と彼女は眼を凝らした。
 叶うならば憎しみの強さだけで相手をずたずたにしてやりたいと思う。
 だが、あり得ない。それはただの願望だ。

 眼前のこの男に届く言葉など存在しない。棘が刺さるほど柔らかい心があるとも思えない。
 現に殺意を向けられた長髪の男は何の感情を顔に表すことなく、ただじっとこちらを観察しているようだった。
 身構えることなく棒立ち。こちらを瑣末な支障程度にしか思っていないらしい。

 旅装の彼を睨みながら、彼女は短く息を吸った。
 違う、届かせる必要などない。この身の内に荒れ狂う怒りをそのまま叩きつければいい。そのための方法も自分は熟知している。

「俺はこの日を待ちわびていた」
 男に扮するための口調は、しかしこんなときにこそしっくりくる気がした。
 右手を顔の前にかざし、手の甲の文様を相手に向ける。

「想い人の仇……覚悟しろヴィルフレード!」
 ティナ――アルベルティーナ・フローリオは異形の力を解き放つ。
 振り下ろした手が光に覆われ輝いた。


 第一話 荒野と異形使い


 風の音を貫いて警笛が鳴り響いた。
 急いで馬車を飛び出すと乾いた空気に目がひりつく。ティナは一度だけ瞼をこすり、それから駆け出した。

 荒野の風が潤うことなど稀だ。雨が降らないわけではないがこの大地は水はけが良過ぎる。
 降り注いだ雨水はすぐに石や砂の間に吸い込まれ、消えてなくなるかのごとく地中深くへと姿をくらます。
 水分を保持する土壌や植物は植物域にしか存在しないため、それ以外の土地では空気はこうして乾燥し弱い身体を傷つけた。

 荒野で生きていける生物もまた多くない。
 極めて頑丈かしぶといか、とにかく人間の想像力で測れる程度では生き残れない。
 そして当然ながら想像の主体である人間はそこには含まれていない。荒野に出る時、彼女はそれを強く意識する。

 だが人はそれゆえに知恵を身につけ工夫をし、生き延びてきたとも言える。
 使える土地が少ないのならば衣食住をそれに適応させ、文化もそれに応じて変化した。

 ただ。ティナは走りながら自分の衣服をちらりと見下ろす。
 異形部隊の証であるこの黒装束は、そういった方向の英知とはかけ離れたものであるのは間違いない。


 頭部をすっぽりと包むフードが暑苦しい。
 口元を覆う黒布は走るための呼吸を邪魔している。
 両方ともむしり取ってしまいたかったがそれはできない。顔を隠すことは重要だった。

 警笛が再び鳴り響いた。しかしそれは途中で途切れる。
 植物域をつなぐ補給馬車の最後尾、七台目からだ。

 彼女が乗っていた馬車は四台目なので二台分の距離があった。
 警護のためになるべく馬車の間隔は空けないよう指示しておいたのだが、それでも離れてしまうものらしい。
 七台目は大分離れて隆起している大岩の陰に見えなくなっていた。
 声はその向こうから聞こえる。興奮した馬の嘶きもだ。

 荒野は人が生きるのには適していない。
 しかし生きるために皮肉にも荒野に出ざるを得ない者もいる。
 訳あって植物域を追いだされ、賊に身を落とした者などはその最たる例だ。

 ティナは走りながらダガーを一本抜いた。
 岩を素早く回り込み、最初に目に入った人影に向けてそれを放った。


 悲鳴――というよりはただ単に驚いただけか、声が上がる。
 相手に手傷を負わせることまでは期待していなかったが、それでも襲われている御者から注意をそらすだけの効果はあった。
 今回御者を失うわけにはいかない。人員が足りていないのだ。賊に襲われて人数を減らすのは避けたかった。

「なんだ!?」
 だみ声。馬車を取り囲んでいるどの賊が発したものかは分からない。砂に汚れた男たちの十数の視線がこちらを向く。
 馬さえも静まり、半秒ほどの沈黙が落ちた。賊の一人が呆然と呟くのが聞こえた。
「異形使い……」

 所属を一目で知らせる以外に、顔を隠す黒装束には一応の意味がある。
 一つには個人としての異形部隊を知られるのを防ぐため。
 もう一つには、これが意外と重要なのだが、容貌を隠すことによって相手を威圧するためだ。
 考案した者が意図したかどうかは別として、敵対する者から抵抗の意思を奪うのに今回もまた一役買っている。

 加えてティナの個人的な事情として素性を隠す必要もあったのだが、これは別の話である。

 ざわつく賊を無視し、御者に避難するよう手振りで伝えた。
 這うように逃げる御者に、だが賊たちは見向きもしなかった。


「護衛はいないんじゃなかったのかよ!」
「こんなの聞いてない!」
 仲間を押しのけてまず二人が逃げた。残る五人を見据え、ティナは右手の革手袋に左の指をかけた。
 気配を察したのだろう、さらに二人が逃げた。

 賢明な判断だと思う。世の中には逆らってもどうにもならないことがある。
 そのことを理解し、あえて屈することもまた人間の知恵だ。
 荒野に逆らわなかったからこそ人間は今もまだ繁栄を保っているという見方もある。

 残るは三人。明らかにうろたえて抵抗の意思はないように見えた。
 ならばとっとと投降してほしいのが本音だったが、そううまくはいかないらしい。

「こいつ、まだガキじゃねえか?」
 日焼けした額に汗を浮かべながら賊の一人が囁いた。

 他の二人は言われて初めて気づいたようにはっと表情を変えた。
 こちらが意外に小柄で若いのを見て取ったようだ。何かを推しはかるように三人は一様に目を細め、鋭くした。


 想像するに、ガキだから未熟と見るかガキとはいえ異形部隊と見るかで揺れているのだろう。
 あまりいい状況とは言えない。

 使わなくていいなら正直あまり使いたくはないのだが、そうもいかないようだ。
 仕方なく革手袋を外して右手の甲を相手に向ける。
 相手からは傷跡にも似た文様が見えるはずだった。それが異形使いの証である。

「化けさせるな! やれ!」
 首領だったらしい一人の合図で賊たちの得物がティナを向く。二人はボウガン、一人が短刀。
 矢が放たれるよりもほんの少し早いタイミングで、ティナは気合を発した。

 気が進まないとはいえ、異形の力の行使には快感が伴う。
 全細胞がくまなく発する激痛を乗り越えれば、その先にあるのは抗いがたい恍惚だった。
 力の奔流に押し流されて目がくらむ。

 右手の甲、そこにある文様が輝きを発していた。
 払うように手を振り下ろすと、もう変化は終わっている。

 身体は既に黒装束姿ではなかった。鎧のような硬質で隆起した肌に覆われ、手からは爪が大きくせり出している。
 見下ろして満足した。異形はこの身に確かに宿った。


「うわあっ!」
 ほとんど悲鳴に変わった声を上げ、賊らが矢を放った。
 目には見えない速度で飛来するそれは、しかしティナに触れる前に何かに阻まれて逸れる。

 それはティナの目には、左右から身体を包み込むように伸びた大きな腕に見えた。
 賊たちの目からは彼女の背後から伸びた"翼"が矢を防いだように見えただろう。

 "御使い"――自らの身に宿る異形を、ティナはそう名付けた。
 大きな翼と爪を持つ鎧の天使。
 たとえ怪物のようではあってもあの人が美しいと言ってくれた姿だ。

「ば、化け物!」
 ボウガンの二人が得物を放り出して逃走する。
 残りの一人がそうしなかったのは、その勇敢によるものというよりは単に飛び出す体勢になっていたために逃げ損ねただけだった。
 前進の慣性を消すことに失敗し、彼は転倒した。短刀がその手から滑って地に落ちた。


 必死にもがいて立ち上がろうとする賊に、ティナはゆっくりと近付いた。
「ひっ……」
 腰を抜かして賊が這い逃げる。バタバタと動作だけは大きいが、歩くティナの方がまだ速い。

 賊は岩にすがりつきようやく立ち上がった。そのまま逃げようとして、
「ほれ」
 何者かに死角から足を払われて再び転倒した。

 現れたのは軍服の老人だった。バタバタともがく賊を踏みつけて押さえ、こちらに快活な笑顔を向ける。
「よし、これで終わりだな、ティナ」

 あなたなにもやってないでしょう。それに遅すぎる。今までなにしてたの。
 言いたいことは色々あったが、とりあえず肩をすくめてみせた。男に扮するための口調で言う。
「"今は"アルベルトだ」


……

 全補給馬車の移動を一時止めて岩の陰に賊を引っ張りこむ。
 縛られて座り込んだ賊は、うなだれてすっかりしおらしくなっていた。

 尋問はすんなりいくこともあれば相手によってはずいぶん難儀することもある。
 受ける者の意志の力の度合いによるのだが、その点においてこの賊に手こずることはなさそうに見えた。

「護衛がいるなんて聞いていない、と言っていたな」
 しゃがみ込み、視線の高さを合わせて問うと、賊の肩がピクリと跳ねた。
「お前たちは事前にどんな情報を掴んでいた? 話せ」

 賊は逡巡の気配を見せた。があまり長引くこともなく口を開く。
「ほ、補給馬車がここを通る、人手が足りてないから護衛はいない、と」
 ティナは怪訝に思って眉をひそめた。


 植物域という形で分断された人の居住区は、一応のところ自給自足を基本としている。
 自分たちに必要なものは自分たちで用意したほうが当然ながらてっとり早い。

 だがそれにも限界はあった。ある植物域では栽培できるものが別の植物域では難しいか不可能といったようなことがときたま起こる。
 そのため物資を融通し合うために補給馬車が植物域間を行き来した。
 高価な代物が載っていることも珍しくなく、強盗の危険は常に付きまとっている。

 通常は軍が多人数でそれを護衛する。
 荒野のエキスパートらによって構成された護衛団は屈強で、今まで強奪にあったという話は聞いていない。
 というよりよほどの酔狂でない限り国を相手取ってまで襲撃しようとは思わないだろう。

 加えて補給馬車の進行ルートは極秘事項として扱われていて、一般人が知る手段はない。
 荒野を渡る行路は数パターンに分かれ、その時々によっても通る道は違う。

 秘密を守るために、補給馬車の御者の選定にも厳格な基準が設けられる。
 もし情報を漏洩させれば、それはそのまま漏洩させた者の命にかかわる。


 つまり、まず第一に一介の賊ごときが補給馬車がここを通ることを知っているのは奇妙だった。

 人手が足りていないという情報についてもそうだ。
 半年前の事件の調査のために軍は多くの人員を割いている。
 それによって補給馬車護衛の従事者も削減されていた。だが、これもまた軍の関係者しか知りえない。

 ティナはしばし思索を巡らした後、再び口を開いた。
「誰だ。誰から情報を得た」
「それは……」
 賊はそこで言い淀んだ。

 しばらく待ったが続ける様子はない。
「言え」
「さすがに情報の提供者まではバラさんじゃろ」

 口をはさんだのはティナの背後に立っていた老人だった。
 ティナよりは背が高いが、それでも小柄な体躯。
 何が面白いのかにやにやと口元に笑みを浮かべ、楽しげにこちらを見下ろしている。


「バジル」
 老人の名を呟く。呼ばれた老人は片眉を上げてみせた。
「おおかた提供者の名前を出せば命はないとでもいわれとるんだろな」
 まあ当然か。言われて納得する。

「じゃあ話は簡単だ」
 ため息をついてティナは言う。
「情報を提供してそのタレコミの主に殺されるのがいいか、今殺されるのがいいか選べ」
 右の手袋に手をかけながら静かに凄む。賊は身体を震わせた。

「こいつは恐ろしいぞ。お前さんも早いところ吐いちまった方がいい」
 老人は右手を賊に向ける。手袋に包まれた手は、しかし人差し指と中指以外が欠損している。
「儂もこないだこいつを怒らせちまってな、こうなった」

 この嘘つき。それはずっと前の傷のくせに。
 抗議の言葉が出かかったが、呑みこんだ。脅して情報が得られるのならば何でもいい。


 賊は老人の右手をまじまじと見つめ、顔を蒼白にした。
「ラクリマだ」
「ん?」
「ラクリマという男が俺たちにタレこんだんだよ……」

 賊は俯いて声を震わせた。
「絶対に上手くいくからと言われて」
「何者だ?」
「知らねえ」

 賊は視線をうつろに持ち上げて言った。
「でもアイツはただもんじゃねえよ」

 機密を知っているんだからそれはそうだろう。
 その言葉を呑みこんで、ティナは記憶に一つの名前を刻みこんだ。ラクリマ。
 その男の身元を特定する必要がある。

 仕事が増えたわね。
 ティナは憂鬱にため息をついた。


◆◇◆◇◆

 荒野よりはいくらか湿潤な薄暗闇の中。
 少し前にラクリマと名を変えた男は、目を閉じて座っていた。

 椅子の背に長身の身体を深く預けているが眠ってはいない。意識ははっきりとしている。
 カーテンの隙間から入る一条の光を瞼越しに見つめていた。

 屋内のため風はなかった。長髪も揺れることなく肩に落ちついている。
 追想に浸るにはちょうどいい空気だ。

(――ロレッタ)

 胸中で名を呟く。
 それによっていつでも彼は満たされる。
 その名と、名にまつわる記憶は彼の支えであり、指針であり、今まだ生きている理由でもある。


 かつての名を捨てることには抵抗があった。
 たとえそれが彼女との再会のために必要なことであったとしてもだ。
 彼女がその声で呼んでくれた名前には、思っていたよりも執着があった。

(ロレッタ)

 それは彼の全て。
 そのほかの何もかもを賭けるだけの価値があることだ。
 と。物思いを遮って部屋のドアが開いた。

「やっほ」
 瞼を持ち上げると、部屋に歩み入ってくる若い男が見えた。

「エルネスト」
 視線を強くして陶酔を妨げたその男を見る。


「ん? ああ、邪魔して悪かったよ。ごめんね」
 言葉とは裏腹に悪びれる様子もなく、エルネストと呼ばれた男は軽く手をひらひらさせて見せた。

 ラクリマは鼻から短く息を吹いた。
 椅子から立ち上がって窓に寄る。
 カーテンを薄く空けると、広がる町並みが一望できた。

 限られた植物域に隙間なく詰め込まれた建物の数々。
 平穏そのものに見えるが、その水面下では常に居住権の取り合いが起きている。
 定住の権利は流浪の者たちが涎を垂らしてほしがるものの一つだ。

 半年前にその一人となった彼はしかし、定住権には興味がなかった。
 その意思が向くところはただ一つ。
「どうだった」


 問われたエルネストは首肯の気配と共に答えた。
「うん、ヴィルフレードの言ったとおりだったよ」
 肩越しに睨みをくれてやると、彼はへらりと笑って言いなおした。
「ラクリマの言うとおりだった。これでいい?」

 返事は返さずに男は窓の外に視線を戻した。
 眼下には平穏な空気と共に人通りがある。
 壊れた彼の世界とは別に回る、関係のない世界。

 その事実を噛みしめ、ラクリマは告げた。
「出発だ」
「分かった」

 相棒のエルネストは頷き、あ、でも待って、と言葉を継いだ。
「お土産買っていってもいい?」
 無視して、ラクリマは旅の荷物をまとめ始めた。

◆◇◆◇◆


 馬車の行く手に町の影が見えた。
 荒れ果てた灰色の地平にぽっかりと浮かぶ緑色。

 規模はまずまずといったところだ。
 自前の農場を持ち、自給自足のシステムはおおむね整っている。
 農業が主産業のその町に運ばれるのは、鋳造技術をはじめとする工業的手法で作られた製品だ。

「オリーヴァ」
 それが町の名前である。

「やれやれ、やっと着いたんかい」
 いかにもくたびれた風に隣に寝転がった老人が声を漏らす。

「あんたはただ寝てただけだろう」
「儂も結構働いたぞ」
「嘘つけ」
「あれでも儂の全力じゃよ」
「ああそうかい」


 冷たくあしらうと老人はちらりとこちらに視線をくれた。
「なんじゃティナ、機嫌が悪いの。生理か」
 無言で脇腹を殴ってやる。

 まったく、御者に聞こえたらどうするというのか。少し離れた御者席を見やる。
 今はあまり気にしすぎることはないが、ミスというのは思わぬ所に蓄積し、足場を崩してくる。

 老人は殴られた脇腹を気持ちよさそうにさすり、何事もなかったかのように話を変えた。
「ところで、あいつは連れてきてよかったのかの」
「賊のことか?」

 捕まえた賊の首領は後ろを来る馬車にのせてある。無論拘束してだ。
「ほっぽり出してきてもよかったろうに」
「そういうわけにいくか。あいつは罪人だ。きちんと裁かれる必要がある」

「また心にもないことを」
「……」
「どうせまたお前さんのおせっかいだろうに」


 賊はあの場所においてきても、仲間が戻ってくれば助かっただろう。
 その可能性は低くはないはずだった。

 それでもわざわざ連行したのは老人の言う通り、彼女のおせっかいだ。
 ラクリマというのがどういった人間だかは知らないが、自分の情報をティナたちに引き渡した彼をそのままにしておく保証はない。
 危険な人物だった場合、賊の安全に支障が出る恐れがある。

「まったく。そんなことじゃ先が思いやられるわい」
「なによ」
 思わず口調が女のものに戻る。
「なにか文句でも?」

「小娘は自分の心配だけをしておけばいいということさ」
「でも」
「お前さんは想い人の仇を討つんじゃろ。なら余計なことは考えるな。思い上がりも大概にしとけ」

 さらに反駁しかけるが、開いた口からは言葉が出ない。老人の言葉が正論だからだ。
 そのまま口を閉じる。声を男の口調に戻した。
「……分かったよ」

 視線を前方に戻すと、町が先ほどより近付いていた。

続きます

俺は見ててやるよ


……

 植物域の町に入ってまず感じるのは、足下の踏み心地の変化だ。
 荒野の粗い砂粒と違い、土がしっとりとした感触を足の裏に返してくる。
 そしてそのせいで喉の渇きを思い出してしまった。

(水……)
 喉の奥がガサガサになっているのが分かる。
 荒野では気づかなかったそれは今、鬱陶しいほどの痛みを訴えている。

 とはいえ、すぐに渇きを満たせるせるわけではない。
「異形使い……」
 賊たちと相対した時と同じような声が聞こえてきた。

 大きくはない。ひそめられた囁きだ。
 横目でそちらを見やると、町の住人と思しき者たちが固まってこちらに視線を注いでいた。


「なんでこんな辺鄙なところに異形部隊が……」
「視察か?」
「お役人の示威活動ってやつだろう……」

 聞こえてくる言葉の内容も友好的とは言えないが、それ以上にその口調は敵意に満ちている。
 ティナとしては心外なところであるが、その敵意も仕方ないと思えるところはある。

 異形使い及び異形使いが所属する異形部隊はこの国における重要な軍事力だ。
 国はそれを切り札として位置付けており、異形使いはかなり厚遇されている。
 必要以上と言っていいほどにだ。

 もちろんそれだけでも国民に嫌われる要因にはなりえた。
 ただ、それはあくまで副次的な要因にすぎず、根本的な嫌悪の理由は、やはり異形使いという存在の特異性にある。

 異形使いはその身に異形を宿し、その力を借りて身体を変化させる。
 身体のどこかに現れる文様はその証で、それによって人間とはかけ離れた力を発揮し、通常は多くのものを破壊してしまう。


 要するに、常人たちは異形使いを怖がっている。
 その昔は異形狩りと呼ばれる迫害が頻発していたとも聞いた。
 国が異形使いの人権を明確に規定し、彼らを集めた異形部隊と呼ばれる組織の発足までそれは続いたとか。

 異形使いは国によって保護されている。
 反対に、この荒れ果てた世界において、国は異形部隊という切り札によって存在をなんとか維持している。
 つまりはぎりぎりの共依存ということだ。

 棘のある視線を浴びながらティナは軍の公舎に向けて通りをあるいた。
 姿勢は真っ直ぐに。ただ、視線はどうしても下がり気味になった。

「気にしてると身が持たんぞ」
 横を行く老人が言う。
「もう半年じゃ。いい加減慣れとけ」

 ティナは無言で足を進めた。


 公舎にて。
 賊を引き渡して、それから与えられた部屋に一旦入る。
 旅の疲れを癒すためだ。

 厚遇されているだけあって、部屋は広く、設えは豪華……と言えないまでもそれなりに整備は行き届いている。
 大きなベッド、テーブル、その他家具はシンプルではあるが傷一つ見当たらない。
 ドアを閉めて数秒。誰の気配もないことをしばし確かめ、ティナは息をついた。

 柔らかく膨らんだベッドに寄って、一気に倒れ込む。ぐったりと重い倦怠感が身体の底から滲みでてきた。
(ああ……疲れた)
 数分ほどそのままうつぶせでいたが、ふと喉が渇いていたことを思い出す。のろのろと起き上がって、テーブルの水差しに向かった。

 水を喉に流し込んで、ふとテーブルの上にある資料の束に気づく。
 さっと目を通すとそれが手配書であることが分かる。

 細密な似顔絵と、それから罪状の羅列。ぺらぺらと見ていくといかつい男たちの顔が続く。
 しかししばらくして場違いに童顔な少女の顔が目に映った。


 罪人の名はアルベルティーナ・フローリオ。
 罪状は大量殺人。小さな町一つを壊滅させた、とある。根幹異形の使い手とも。

 異形使いに宿る異形は人によってさまざまだ。
 一人に宿る異形は一体。強いものもあれば弱いものもある。

 通常その強さは通常比較の問題に過ぎない。
 だが例外がある。

 根幹異形は世界の異分子である異形の中でもさらに特異な異形だ。
 極めて強力で破壊に特化し、だが数は少ない。

 大昔、一体の根幹異形が国が傾くほどの破壊行動を行ったという伝説もあるが定かではない。
 根幹異形自体がただの迷信にすぎないという者もいる。

 ティナは無言でフードを外し、口元の黒布を下ろした。


 部屋には小さいが姿見も掛かっていた。ちょうど彼女の正面。
 そこに映っているのは、手配書の似顔絵と瓜二つの顔だ。

 ただし、手配書の少女と違い、髪は短く切ってある。
 灰色に近い銀髪は、やはりあの人が好きだと言ってくれたので切るのは本当に嫌だった。

 手配書との違いは髪の長さだけではない。
 あの頃と違い、たった半年で自分はずいぶん擦り切れた、とティナは思う。
 手配書の快活な目をした少女は、姿見の中で暗く陰った視線をこちらにくれている。

 目に見える変化だけではない。
 失ったものは多い。

 その時ドアがノックされた。間髪いれず開く。
 慌てて黒布を直そうとして失敗するティナを見て、老人――バジルが笑った。


「お前さん、なにしとるんじゃ。顔芸の練習か?」
「……。別になんでもないわよ。出てって」
 外れた黒布を乱暴に地面に投げつけ、ぶっきらぼうに返す。と、老人は続けた。
「そうはいかん"アルベルト"、仕事じゃよ」


……

「ご苦労様でしたアルベルト殿。馬車の積荷は全て無事でした」
 軍のメッセンジャーが言う。平坦な事務口調だ。
 軍に所属してもう半年。まだこういった種の人間のこういった話し方には慣れない。
 ついでにいえばこういった殺風景な執務室にもだ。

 机に着いたメッセンジャーは続けた。
「異形使いとはいえ、急の、しかも一人での護衛は大変だったと思います。本来ならばゆっくり休んでいただくところですが、次の仕事が入っています」
「ああ」
 内心うんざりと頷く。人手が足りないのは分かっていたが。

「あなたの報告にあったラクリマという男。町の北、宿の一つに滞在していたという確認が取れました」
 さすがに調査が早いな、と思った。
「ですが宿自体はもう出てしまった後のようで身柄を取り押さえることはできませんでした」

「それで?」
 先を促すが、なんとなく予想はできている。
「その男の拘束をあなたにお願いしようと思います」


「人使いが荒いのう」
 大通りを歩きながらバジルが愚痴る。
「あんたに同調するのは心底嫌だが、同感だな」
 ティナもため息交じりに呟いた。

「なんじゃい年寄りは大切にせんといかんのに」
「年寄りが本当に大切に扱われるのは死んだ後だよ」
 くくっ、と老人が笑う。
「お前さんも言うようになったの。半年前なんぞ何も面白みのないガキだったくせに」

 そうか。あしらって進む。
 道はあまりきちんと舗装されておらず、土を固めた程度のものだ。
 脇には雑草がきままに生え散らかっている。

 だが、そんな雑然とした緑も植物域の特権と言える。
 なぜだかは誰も知らない。しかし、植物はこの大地に点在する植物域にしか生えない。


「で、ラクリマとやらはどこにいるんかいの」
「俺の話を聞いてなかったのか」
 声に嫌味を混ぜて睨む。

「まさか。聞いとったよ。覚えとらんだけで」
「そういうのを聞いてなかったって言うんだ」

 いいか、と続ける。
「ラクリマという名はこの街の住民簿には載ってなかった。宿を利用していることを見ても流れ者で間違いない」
「ふむ」

「となれば宿を出れば行くところは限られる。賊に補給馬車の情報を流すなんてヤバいことをやった後の行動も予想は簡単だ」
「儂ならさっさととんずらこくの」
「俺もそう思った」

 だから、と締めくくった。
「植物域間の乗合馬車を使うのは間違いない」


 停留所の入口にいた組合員に声をかけると、その男はわずかに顔をしかめて見せた。
「……何の用でしょうか」
「ラクリマという男を探している。入るぞ」

 一方的に告げ、組合員の返事を待たずに横を通り過ぎた。バジルも後ろに続く。
 異形部隊は様々な権能を持っている。事前申請なしのこういった立ち入り捜査もその一つだ。
 後ろから聞こえる露骨な舌打ちを無視し、居並ぶ馬車を見回す。

 馬車や馬の手入れをしていた男たちと、馬車に乗ろうと集まっている客たちが、手を止めてこちらに視線を向ける。
 特に目立って不審な人物はいない。
 ただ、こちらに目もくれない人間がいるのは見えた。

 そちらに足を向ける。
 荒野への出口にほど近い位置にある馬車に乗り込もうとしている男二人。
 一人は革鎧を身につけ、短髪の頭にバンダナを巻いている。中肉中背。

 そしてもう一人は。
 もう一人は砂色の外套を身にまとい、黒い長髪を背中に流している。背は高く、筋肉質とまでは行かないが体格は悪くない。
 記憶に引っかかるものがあった。わずかに、ではなく強烈に。


「おい」
 ティナは声を上げた。
「そこのお前たち、止まれ」

 例の二人は聞こえないようだった。それともわざと無視したのか。
 自分の心臓の音が妙に大きく聞こえた。
「止まれ!」

 ようやく二人が足を止めた。
 バンダナの方が振り向く。若いを通り越して幼い印象さえある童顔。無邪気な視線をこちらに注ぐ。

「お前もこちらを向け。ゆっくりとだ」
 そう言った時にはわれ知らず、右手袋を外していた。
 長髪の男が振り向く。音がしそうなほどゆっくりと。


 ティナは。ティナは不意に喉をさかのぼってくる何かを感じて、それをそのまま吐きだした。
「ヴィル、フレェェェェド!」

 男の顔は知っていた。ああそうとも、あの日から片時も忘れたことなどない。忘れようとすると夢に出る。
 自分が失ったものは全てそいつが持っていった。持ち去って壊して、放り捨ててみせた。
 だから、忘れられる訳がない。

「探していた。探していたぞ、お前を!」
 男は発せられた叫びにも動じることなくこちらを見ていた。
 そしてぼそりと言う。
「人違いだろう。俺はラクリマだ」

「違う。忘れるものか。お前だ。名を変えていたんだな」
 噴きだす怒りに体温が上がる。胸の奥が煮えくりかえっている。
「コルツァを覚えているか。お前が滅ぼした町だ」


 男はぼんやりとこちらを見ていた。
「そしてお前は俺の最も大切な人をそこで殺した!」
 一歩近づく。
「俺は――お前を追ってここまで来た!」

 叩きつけるための力をイメージする。ぐずぐずの肉塊になる相手を夢想する。
「この日を待ちわびていたぞ」
 右手を顔の前に掲げた。自然、手の甲が相手を向いた。

「想い人の仇――覚悟しろヴィルフレード!」
 右手の甲の文様が光を放った。


 変化が終わる。
 翼を広げ、ティナは雄叫びを上げた。

 危険を察して他の人間が避難を始めた。
 それを尻目に、ティナはヴィルフレードに向けて突進した。
「アアアアアアッ!」
 振り下ろす爪が確かに相手を捉える――はずだったのだが。

 空を切る尖った先端。
 ティナはバランスを崩してたたらを踏んだ。

 訳が分からず視線をめぐらすが、相手を捉える前に身体に衝撃が走る。一つ、二つ。
 死角からの打撃と気づいて、大きく飛び退く。
 ようやく憎き仇が目に入った。


 信じられない思いで瞬きする。
 確かに自分の異形は攻撃に特化しているとは言い難い。
 それでも異形に人間の身体能力で応じるなど正気の沙汰ではない。

 その動揺が隙となった。
 ヴィルフレードがこちらにすっと右掌を向けた。
 そこにあるのは――傷跡にも似た文様。

 光を発して相手の存在が置き換わるのが分かる。
「くっ……」
 目を凝らすと相手の姿が再び見えた。既に人間ではない。異形。

 のっぺりとシンプルな人型だった。
 ティナの御使いと違って身を守る鎧も、相手を引き裂く爪もない。


 じり、と構えたまま間合いを測る。
 対して、相手は人間であった時と同じく棒立ちのままだった。
 まるでこちらを忘れているかのようだ。

 ティナは右の翼を振るった。猛烈に風が巻き起こり、砂が舞い上がる。
 相手に向かっていくそれに乗じて、再び地を蹴った。

 わずかに向かっていく軌道をずらして、撹乱して肉薄する。
 相手が反応できていないと確信し、爪を中心に突き込んだ。貫き、めり込む。

 勝利を確信した。しかし同時に違和感にも気づく。
(なに?)
 爪が刺さった部位がぼろりと崩れた。敵の腹に穴が開いた。

 そして再び衝撃。頭部を殴り飛ばされた。
 よろめいて数歩退く。


(どういうことよ!)
 理不尽だ。

 揺れる視界を相手に向ける。相手はさらに崩壊を進めていた。
 だが、どう見てもティナの攻撃によるダメージのせいではない。自壊している。

(まさか、そういう異形なの?)
 自らを分解し、形を失う異形。

 相手が完全に消失した。

(まずい……)
 相手を見失った。次の攻撃は、恐らく自分の命を刈り取るだろう。

 だが、敵に特性があるのと同様、こちらにも特長はある。
 翼を身体に巻き付けた。


 狙いはこうだ。相手の攻撃を受け止め、その隙をついて撃破する。
(どこからでもきなさい!)
 待ち受ける。一拍、二拍。

 三拍目で馬の嘶きが聞こえた。
 はっとして見やると荒野に向かって馬車が走っていくのが見えた。

 呆然として見送り、それから気づく。
 しまった、逃げられた!


「間抜けじゃのう」
「うるさい!」

 唐突に後ろから聞こえたバジルの声に怒鳴り返す。
 変身を解いて振り向く。

「あなたなにやってたのよ! 逃げられちゃったじゃない!」
「お前さんがしくじったんじゃろうが」
「あなたが協力してればこんなことにはならなかった!」

 怒りを叩きつけるが、老人は笑みをおさめることはしなかった。
「どうかの。逃がさなかったところであいつを殺せたか」
 もちろん。という声は出なかった。

「無理じゃよ」
「そんなことは」
「いや、無理じゃ。あいつが何者かは嫌というほど説明したろうに」


 ティナは言葉に詰まった。
 知っている。あの悪人と自分の実力の差は。
 だからこそ逃げられる前に殺せなかった。

 ティナはしばしうつむき、それから荒野へ続く門を見た。
 荒野の風が吹き込んで来ている。
 馬車は遠ざかって、もう見えなくなっていた。


……

 全速力で走っていた馬車は、ようやく御者の操作によって速度を落とした。
 大きかった揺れが途端におさまる。

「いやあ、おもしろかったねえ」
 バンダナの御者、エルネストがこちらを振り向いて言う。
 ラクリマは答えなかった。

「なんて言ってたっけ。コルツァ? 懐かしい名前だ」
「……」
「恨み、買っちゃったの?」

 ラクリマはそれも無視しようとしたが。
「恨まれる覚えならいくらでもある」
「うわ、ひっど」
 エルネストはからからと笑った。


「でも変だね。ラクリマは女も殺したことあるの? ちょっと意外」
 エルネストの言葉にあの異形部隊員が想い人の仇と言っていたのを思い出す。

 正直なところそういった記憶はなかった。
「さあな」
 だから適当に答えた。

「恨みならいくらでも買った。直接間接関わらずだ」
「じゃあその中の誰かだね」
「ああ。良くは分からないが」

「はは。やっぱりひどいね」
 エルネストが笑うが、ラクリマは目を鋭く細めた。
 お前には敵わんよ、と。

 座席に深く身体をうずめた。
 日が傾いている。荒野の風が冷えてきた。
 そして乾いている。荒野の風が潤うことなど稀だ。
 それに吹かれる人の心もまた、潤うことはない。

続きます


 第二話 追憶、追跡


 その日だっていつものように始まって、そしていつものように終わるんだと彼女は信じて疑わなかった。

 そう、信じていた。

 いつものように、徹夜でふらふらの彼に朝食を食べさせる朝、そして休まず机に向かう彼に夜食を運ぶ夜。そんな一日を。


 彼女は十八年前に異形使いとして生まれた。
 両親はそれで彼女を捨てるような真似はしなかったが、小さな村でそのことを隠して育てるには限界があった。
 異形使いという人種はひどく恐れられている。

 いつも右手に手袋をはめているティナを、町民たちは変な目で見た。
 小さい頃に火傷をしたのでそれを隠すためと偽っていた。

 十二歳まではそれでなんとかなった。
 だから、それまで上手くいっていたものがなぜその時に限って駄目になってしまったのか、彼女には分からない。

 発端は些細なことだったと記憶している。
 大人の仕事を手伝った後の時間で、友人たちといつものように遊んでいた。
 何かのゲームをしていて、それでティナはいつもより調子がよかった。
 当時気になっていた少年にも褒められて悪い気がしなかった。


 だからもっといいところを見せたくてはりきったのだが、それが別の少女の不興を買ったようだ。
 後になってなんとなくわかったが、その子も少年のことが好きだったのだと思う。
 少女はティナがズルをしたと非難し、言いがかりをつけた。

 ティナは当然怒って喧嘩になった。ところがその時に手袋がもぎ取られてしまったのだ。
 異形使いのことは少年少女でも知っている。恐ろしい存在なのだと、小さい頃から大人からいい聞かせられて育ってきた。
 ティナの手の甲を見た少年の、ひきつった顔を、ティナは忘れられない。

 町中にティナの事情が伝わって、ティナは子供心に殺されることすら覚悟した。いや本当は怖くて震えていたのだけれど。
 彼がそんなときに町を訪れたのは、幸運を通り越して奇跡だったと言えるかもしれない。

「ぼくがこの子を引き取りましょう」
 両親すらティナを守ることを諦めたところに、事情を聞いた彼が言った。
「この近くに研究のための屋敷を買おうと思うんですがね、助手がいるんですよ」

 その日から、彼女は町の外れの屋敷で彼と暮らすことになった。


 彼は名をラウロといった。
 ティナは二日以上寝ないで大丈夫な人を初めて見た。

「夢中になると、どうにも寝付けないんだ」
 目をこすりながら彼は言った。
 ラウロは彼女より年上だったが、無邪気に作業に取り組む姿は小さな子供のようだった。

 彼は何かにつけて彼女を褒めた。
 彼女の髪の色を好きと言ってくれたし、勉強の呑みこみがいいと撫でてくれた。
 何より彼は彼女の異形を怖がらなかった。

 まだ異形の制御が分からなかった頃のこと。
 試しに化けてみたら戻れなくなった。

 彼に怖がられるのが嫌で、屋敷の裏の小屋で縮こまっていた。
 探しに来た彼は笑った。
「今日は僕が晩御飯を作ったよ。食べよう」

 その日は異形の姿のまま彼と一緒の床で寝た。
 ラウロの腕の中はあたたかくて、ぐっすり眠った後、朝には人間の姿に戻っていた。


 満たされていた。こんな日がずっと続くことを信じて疑わなかった。
 実際、六年間それは続いた。

「ラウロ・マグリーはいるか」
 訪ねてきた長身、長髪の男は冷たい視線でティナを見下ろした。
「異形部隊だ」

 その時から嫌な予感はしていた。
 奥から出てきたラウロはいつものように微笑を浮かべていたが、それでも彼女の不安は晴れなかった。

 彼は言った。
「ティナ、ちょっと地下室に探し物をしに行ってくれないかな」
 ティナは分かった、と応じた。それが彼との最後の会話になった。


……

 執務室のその机をぶっ叩いたところでそのメッセンジャーはひるみすらしなかった。

 異形使いを恐れない人間には共通するところがある。
 異形使いといえども所詮中身は人間であると知っている点だ。
 人間ならばいくらでも弱点はある。それを知っているということだ。

 ともかくとして、軍のメッセンジャーは大概そういった人間のようだった。
「だから何度も言っているだろう」
 そののっぺりとした無表情に、ティナはいらだちをそのままぶつけた。
「補給馬車の情報を流した男がいた、ラクリマという名前だった、だがその男は元異形部隊のヴィルフレード・アリオストだった!」

「ほう」
 メッセンジャーは数呼吸間をおいて続ける。
「それは興味深いですな。異形部隊の元分隊長が賊の情報屋となっているわけですか」


 余計イライラが募る。
 先ほどからこんな問答を繰り返していた。
 つまり、主張し、それをやんわりと受け流されるといったやりとりを。

「そうか、あなたの興味を惹けたようでよかった喜ばしい。
 けれども俺が言ってるのは、だからヴィルフレード現ラクリマという男を、早急に捕縛対象として手配して欲しいということだ!」
 再び机を殴打する。

 メッセンジャーはわずかに顔をしかめた。
 ただ、それはひるんだというよりも単に机が傷まないか心配しているだけに見えた。
「それは無理ですな」
「なぜだ」

「いいですかアルベルト殿。世の中には道理があります。死んだ人間に捕縛手配はできません」
「奴は生きている」
「いいえ」


 メッセンジャーはかけていた眼鏡をはずし、磨きながら言葉を継いだ。
「異形部隊分隊長ヴィルフレード・アリオストは半年前の任務で殉職しています。コルツァ事件。ご存知ですね?」
「コルツァという町が壊滅した件だな。だが死体は確認されていない」
「おや、よくご存じで。公開されていない事実のはずですが」

 つい、とメッセンジャーはこちらに目だけを向けた。
「ついでにいえばアリオスト元分隊長の容姿をはじめとする個人情報も秘匿されているはずでしたが」

「異形部隊の権能を知らないわけじゃないだろう」
 内心冷や汗を流しながら応じる。
「それくらいの情報は簡単に引っ張り出せる」

「そうですか」
 メッセンジャーの視線はじっとりとこちらにまとわりついた。

 どのメッセンジャーにも共通するのは、異形使い相手に退かないこと、事務という方向に極端に特化していること。
 そしてこの視線だとティナは思う。絡め取り、自由をひっそりと奪うこの視線。

 たかだか伝言役のはずなのだが。
 もしかしたら、その伝言という役目こそが組織を支配しているのかもしれない。


「とにかくだ」
 沈黙に耐えきれず、ティナは口を開いた。
「少なくともラクリマという男を追う必要がある。手配を――」
「ああ、それならば済んでおりますよ」

 メッセンジャーはさらりと口をはさんできた。
 ぽかんと呆気にとられるティナに彼は続ける。
「アルベルト。そして補佐バジル・カジーニ。治安妨害罪でラクリマを捕縛するよう指令が下っております」


「なーんで儂らがやらんくちゃならんのじゃ」
 公舎の個室で椅子の背に反り返りながらバジルがぼやく。
 傾いてギシギシと音を立てるその椅子を見るともなく眺めながら、ティナは壁に背をつけ腕を組んでいた。

「あーやっとれんやっとれん。なんのための税金じゃ。何のための警衛兵どもじゃ」
 ぎしぎし、ぎしぎし。
「おい、何を黙っておる」

 言われてもしばらくは虚空を見下ろし、頭の中の整理を続けた。
「思うに」
 それから言葉を選んで口にする。
「これはチャンスじゃないかしら」

「ん?」
「うん。やっぱり好機だわ。公式に奴を追う大義名分ができた上に、いざって時に変な邪魔が入らずに済む」
「……」


 バジルは椅子を軋ませるのを中断すると、こちらに半眼の視線を投げてきた。
「前々から思っとったが、利口そうに見えてお前さん、実はアホじゃろ」
「なによ」

 むっとして見やると老人は再び椅子を揺らし始めた。
「考えてもみい。まず第一に、奴は半年間も国に見つからずに姿を隠し通してきた。それを儂ら二人だけでどうして見つけられると思う」
「それは……」

「探し当てるにはまず人手が必要じゃよ。これは動かせん」
 ティナは口をつぐむ。

「第二に、腐っても奴は元分隊長じゃ。異形使い……いや戦う者としての実力は本物じゃ」
「わたしは……確かに敵わないかもしれないわ」
 しぶしぶ認める。
「でもあなたも手伝ってくれるんでしょう?」


「お前さん一人でなんとかなるとは思っとらんよ。当然儂も出る」
 じゃがの、と彼は続けた。
「儂はこの通り老いぼれじゃよ」

「まだ初老でしょ」
「ハンデもある。この通り」
 右手を持ち上げてこちらに見せる。指を二本残したのみの掌。
「無理じゃ」

 言われて壁に深くもたれる。正論だ。認めたくはないが。
 自分の実力などたかが知れてる。半年前までは人を傷つける術など引っ掻くくらいしか持たなかった小娘だ。
 部隊に入ってからこの老人にみっちりと鍛えてもらったつもりだが、所詮は付け焼刃である。

 対して老人の実力は本物だ。
 異形部隊は各異形使いの能力的な個性が強すぎるために"実際には"隊は組めない。
 一人の異形使いに対し複数人の非異形使いである補佐がつく。
 その補佐役の中でも老人は古兵であり、本来ならば自分のような新米にあてがわれる程度の器ではない。

 が、それでも足りないのだ。


(どうしたものかしら)
 どんよりと気持ちが沈む。
 考えても考える程に無謀さだけが際立っていく。

 焦ってもしょうがないことは分かっている。
 しかし、落ちついていたからと言って、これまたどうしようもない。
 こうしている間にもあの男は遠くに逃れようとしているというのに。

「そうじゃ」
 ぽん、と唐突に老人が手を打った。
 傾いた椅子を、かたんと水平に戻して立ち上がる。

「なに?」
 期待に思わず身を乗り出す。

 老人はあくびを一つかましてドアを向いた。
「とりあえず町に出んか。わしゃ腹が減ったよ」

 なによそれ。こっちはそれどころじゃないってのに。
 むかっ腹が立ったが、空腹に気づいて、仕方なく後を追った。


 オリーヴァの町は今日も変わらず穏やかだった。
 窓の外の商店前を人が行き交い、規模は小さいながらも町はそれなりの活気を見せている。
 町の喧騒は通り沿いのこの食堂の中までは聞こえてこないが、その気配だけは伝わってきていた。平和そのものだ。

「じゃのになんでお前さんはそんなに仏頂面かね」
「そんな気分じゃないの」
 不機嫌に告げる。
「町の雰囲気とわたしの機嫌は別よ。分かるでしょ」

「まあの」
 言って、バジルは皿の上のパンをとりあげる。
「じゃが焦っても仕方あるまい?」

「そうね」
 苦々しくティナは答えた。
「あの野郎の捕縛手配の申請とその返答を待つための時間で完全に手遅れになったわ。
 ヴィルフレードがどこに逃げたかわかりゃしない」


 店の隅の席を使っているため会話を聞かれる心配はない。
 服装も異形部隊の黒衣から着替えていた。念のためにフードは手放せないが。
 同じくバジルも軍服から平服に着替えていた。

「それが焦っとるというんじゃよ」
 パンをぷらぷらと弄びながら、あくまで老人は冷静だった。
「広いようで狭い世界じゃ。そのうち見つかるじゃろ。ほれ、だからこそ半年で奴に辿りつけたわけだし」

「あんな幸運、そんなに続きゃしないわよ。あっちも警戒してよりいっそう足跡を消そうとするでしょ」
「そうじゃな」
 バジルはあっさり認めてパンをちぎった。
「では精一杯焦ってみるか。焦れば焦るほど追いつける可能性は減るがの」

 ぐっ、と言葉に詰まる。
「まあ、若者は常に生き急ぐ。仕方のないことではあるな。急いだ所で行きつくのは大抵見当外れの場所じゃが」
「……うっさいわね」
 ここら辺はまあいつも通りのやりとりだ。こうやって少しずつ落ち着きを取り戻す。


 バジルがパンをかじり、呑みこむのを待って、ティナは話を続けた。
「分かったわ。冷静に行きましょう。あいつに追いつくために必要なことは何?」
「まずは落ちつくことじゃが、それはいいみたいじゃの。なら次は情報収集じゃ」

「聞き込み?」
「メインはそうなる。奴も補給馬車の情報を流すなどと大胆な真似をしている以上、何かしら痕跡は残しとるはずじゃ。それを見つける」

 スープをつつきながらティナは訊ねる。
「痕跡って、そんなもの役に立つの?」
「奴が何をしてきたか。それによってこれから何をするかが読める。何をするかが分かればどこに行くかも当然分かる」
「あいつは何か目的があって動いてるってこと?」

 バジルは肩をすくめた。
「さて、そこまでは分からんよ。ただ、調べる価値はある。というより他にできることがないからの」
 それもそうか。ティナは納得してスープをすすった。


 とりあえず、これで行動の指針は立ったようだ。
「問題はわたしじゃ聞き込みがしにくいことね」
 予想外のところで指名手配されている人物と看破される恐れがあった。

「そこはまあ儂に任せとけ」
「いいの?」
「おう。その代わり胸かケツを揉ませてくれんかの」

 ぎょっとして身を退く。
「ちょ、ちょっと……!」
「冗談じゃ。お前さんに欲情するくらいならそこらの娼館にいくよ」

 いちいち気に障ることを言う。抗議しようとした時、ティナの背後から声が降ってきた。
「おい小僧にジジイ。そこは俺らの席だぜ」
 振り向き見上げると、がっちりとした体格の男たちがそこにいた。


 男たちは五人。もれなく薄着で、筋肉に覆われた屈強な身体を余すところなく周囲に見せつけていた。
 鋼鉄のような肉体。

 農業を営んでいればそれくらいの容貌は当たり前だが、どうにも違和感がある。
 ティナは視線を下げて納得した。男たちはめいめいに鞘におさめられた短刀等の得物を手にぶら下げていた。
 農作業のための筋肉ではない。暴力のための筋肉だ。

「何だ」
 男の声を作って応じる。
 一番先頭にいた男が不機嫌に繰り返した。
「そこは俺らの特等席だっつってんだ。繰り返さすな愚図が」

「……」
 ティナは口をつぐんで相手を見返した。

 異形使いが妙な輩に絡まれることはそれなりにある。
 だが、今は格好が格好のため異形部隊の所属であることは知られていないだろう。
 純粋に自分たちの居場所に見慣れない人間がいることが気に入らなかったようだ。


「なんじゃいお前さんらの席だったんか。名前が書いてないから気づかなかったわい」
 視線をやると、バジルは白髪の頭の後ろで手を組んで、椅子にふんぞり返っていた。
「所有を主張するならそれくらいしてくれんと困るぞガキンチョ」

「バジル」
 制止の声を上げかけるが遅かった。
「ああん、ジジイ? 今なんか言ったか」

 手に持った短刀をこれ見よがしにちらつかせながら先ほどの男が凄む。
 取り巻きらしき他の者たちもにやにやと武器を軽く持ち上げる。
「俺たちが誰だか知ってんならもう一度言ってみろ」

 なにやら雲行きが怪しい。だが老人はひるみさえしなかった。
「知らんが一度言う。名前を書く知恵くらい持っとけアホガキ」

 ぴくり、と男の顔がひくついた。さすがに予想外だったようだ。
 だが、それでも存外忍耐強く彼は続ける。
「そうか、知らないのか、それなら仕方ない」

 ダン!
 突然激しい音と振動が炸裂する。
 視線をずらすと、男は抜く手も見せずに抜いた短刀を脇のテーブルにぶっ刺していた。

「俺たちゃアバティーノ家の護衛団だ! 覚えとけクソジジイ!」


(アバティーノ?)
 聞き覚えはあった。どこで聞いたのだったか……

「ほう、名のある商人の。あれの護衛団とは」
 老人は多少表情を変えた。とはいっても嘲り見下す表情から微笑にひっ換えた程度だが。

 思い出した。アバティーノはこの国を代表する商人の一人だ。
 有数の資産家で、あらゆる植物域に支部を置いている。もちろんこの町にもだ。

 補給馬車は通常国が運営し、各植物域の流通を手掛けている。そんな大仕事は国しかできないからだ。
 商人はそれぞれの植物域に数多くいるが、植物域間の物品のやりとりとなると、その全てを国に依存している状態である。

 しかし、アバティーノほどの大商人となると話は変わる。
 商売にはあちこちへのつながりと物品の融通が不可欠だ。
 それを国に頼っていてはその分だけの見返りを要求され、足元も見られてしまう。
 それを防ぐためにアバティーノは独自の流通パイプを持っているのだ。


 護衛団はそれに要する人員だ。
 国の搾取を受けない代わりに、保護もまた受けられないため自衛の手段は自分たちで用意する必要がある。

 その構成員は流れ者であることも少なくない。
 なにしろ本当に優秀な人員は軍に吸い上げられるため、多少質が落ちるもやむなしといったところがある。

 流れ者は確かな収入源と寄りどころを求めて護衛団の募集に群がる。
 なにしろ荒野で人は生きられない。町でも定住権がないとなると――

「……」
 ふと気づくところがあった。バジルを見る。

 老人もまた、なにやら光の灯った目でこちらを見返していた。
 彼は面白がるように笑みを大きくした。


 筋肉男はティナ達のそんな様子が気に食わなかったようだ。
「おい、ジジイ。言っとくが俺たちに容赦は期待するなよ。なにしろ――」
 言いながらティナを通り過ぎバジルに詰め寄る。

 大きな背中だ。ティナより頭一つ半程背も高い。その後頭部目がけて。
 ティナは振り上げた椅子を叩きつけた。

「がッ……!?」
 鈍い音と共に一瞬身体を震わせ、それから男はくずおれる。

「な……何しやがる!?」
 残りの男たちがざわつく。
 その中で一番前にいた者の頭にも椅子が命中した。これはバジルが投げたものだ。

 完全に男たちが硬直した。反応しきれていないようだ。
 それを見ながらティナは三歩ほど引いた。


「後は頼んだ」
「普通は若いもんが頑張る場面だと思うんじゃが……」
 愚痴りながらもテーブルを蹴り飛ばし老人は飛び出していった。

 ティナは、五分ぐらいかな、と見積もった。いや、もう少しは短いだろうなとも思った。
 それから泡食って飛び出してきた店員を制止し、後でいくらでも弁償するからと短く保証する。
 そしてあとは成り行きを見守った。

 男たちの制圧には結局二分ほどかかった。
 弁償額も安く済んだが、経費からは落ちなかった。

続きます


 その翌日。昼下がり。
 ティナとバジルはオリーヴァで一番大きいと思われる建物を見上げていた。
「ほほう、豪華な屋敷じゃの」
 バジルが感嘆の声を上げる。

「まあかの有名なアバティーノの屋敷の一つだしな」
 そういいながらもティナとて気圧される感があった。

 両者ともに正装、つまり黒衣と軍服である。
 今日は異形部隊として動く、そういうことだ。

「では、行くかの」
「ああ」
 門に向かう。入口を守っている私兵が、脇にどいた。


 屋敷の中は外から見た以上に広く思えた。

 ティナが先ほど口にした通りアバティーノが所有する屋敷の一つである。
 オリーヴァにおかれた支部で、この裏手にある倉庫で各種物品を管理していると聞く。
 国の手が届きにくいここのような町では、国よりも大きな力を振るえると言ってもあながち間違いではない。

 案内人に連れられて奥へと進む。
 いくつかの角を曲がり、通された部屋は軍の執務室より明らかに広い。

「ようこそ」
 そしてそこにおかれた、やはり軍支給のものより明らかに立派な机についた男が声をかけてきた。
「私がアバティーノ家のオリーヴァ支部を任されています、フェルモ・ボナです」
 三十代半ばを過ぎた、その歳にしては細身の人物だった。

「アルベルトだ」
 応じてティナが偽名を名乗ると、フェルモは立ち上がり、机の前のソファを示した。
 各人腰を落ちつけたところでフェルモが笑みを浮かべて口を開いた。
「して、今日はいかような御用件で?」


「忙しいところ、お時間をいただき感謝する」
 ティナはまず礼を述べた。と言っても形だけのものだ。
 なにしろこちらから無理矢理引き出したものだから。

 昨日、護衛団の男たちを叩きのめした後、彼らに一つ"頼みごと"をした。
 この町の支部の代表にできれば会いたい、といったようなことを。
 決して強制したわけではないが、身分を明かしナイフをちらつかせたのでどうとられたかは定かではない。

「いや、かまいませんよ」
 フェルモは穏やかな微笑で答えた。
 その顔には含みはない。先の事情は全て知っているはずだが。

(いや、もしかして知らない?)
 メンツを保つためにあの男たちが一部をぼかした可能性もある。
 考えてみればわざわざ自分たちの無能を報告する馬鹿もいないだろう。
 それはそのまま自分の解雇につながるかもしれないからだ。仕事にあぶれれば命にかかわる。賊に身を落とすぐらいしか道もない。


 だがまあ今はそれはどうでもいい。
「それで今回の訪問の理由だが」
「なんでしょう」
「ああ。あなたに確認したいことがあった」

 一拍置いて続ける。
「ラクリマという名に聞き覚えはないか」

 フェルモはわずかに考えるためと思しき間を置いた。もしくはわずかな動揺の間か。
「いえ。知りませんね」
「そうか」

 ティナは次の言葉を慎重に選んだ。ここで誤れば、二度と奴に追いつけない。その足掛かりはここにしかない。
「ラクリマという男は元異形部隊の所属。だが、半年前軍規に背いて今は追われる身だ」
「罪人ですか?」
「ああ」

 もちろん嘘だ。正確にはヴィルフレードは殉職扱いである。
「詳しくは明かせない。だが、奴には頼る相手がいない」
「はあ」


 フェルモはいまいち分からないといった顔で声を漏らした。
 そのタイミングで、ティナは視線を心もち鋭くして相手に刺した。
「率直に問う。奴はあなたたちを頼りはしなかったか?」

「いいえ」
 返答は早かった。
「言い切るな?」
「ええ。素性の知れない輩は採用しないようにしておりますので」

 涼しい顔でフェルモは言う。
 しかし。しかしティナはほんの少しの違和感を見逃さなかった。
 理屈ではない。しかし嘘を見抜くのは得意だった。
 ラウロの嘘だっていつも見破って見せた。自信がある。

「そうか。ならすまなかった。あてが外れたようだ」
 だが、一旦は引く。代わりに別のものを突きつける。
「ところで、あなたの護衛団は最近編成を変えたりはしなかったか?」


「え?」
 明らかに虚を突かれた顔でフェルモが言う。
「いや、あなたの護衛団の一人から妙な話を聞いたものでな」

「……と、言うと?」
 警戒を滲ませてフェルモ。
 この攻め手は当たりだ。確信してティナは続けた。

「異形使いが入った。そう聞いている」
「それはあり得ない」
 フェルモがうめく。
「何を言っているのですか」

「護衛団の編成を変えたことは否定しないのか?」
「いえ、そちらも否定させていただきます」
「それはおかしいのう」
 唐突にバジルが口を開いた。


 老人は無礼にならないぎりぎりまで姿勢を楽に崩していた。
 その脚を組み、言う。
「こちらが手に入れた資料では編成変更は事実なんじゃが。異形部隊とよく似た編成らしいの」

 これはハッタリだ。資料などない。
「そんな資料などありません」
 フェルモもそれは承知していたはずだ。だが、表情に余裕はなくなっていた。

 普通はあり得ないことをやってのけるのが異形部隊である。
 "存在しないはずの資料を手に入れる"。そんなこともやってのけるのではないか。異形部隊はそう思われるほど恐れられている。

「また話は変わるのだが」
「なんです?」
「最近護衛団から一人失踪者が出たそうだな」


「それがラクリマとやらだと?」
「さて。そこまでは」
 はぐらかす。全てを知っている。それとなくそう思わせる方がいい。

「……不愉快ですな」
 しばらくの沈黙をはさんでフェルモは立ち上がった。
「帰ってください。憶測で妙な疑いをかけられても困る」

「もし罪人を雇っていたとなれば問題だ」
 立ち上がりながらティナはかぶせる。
「だが、確証はない。わたしたちもまだ調査途中だ」
「なにしろ儂らしか人員を回してもらってないんでの。大変じゃ」

「そうですか。ご健闘をお祈りしますよ」
 それだけ言ってフェルモは部屋を出ていった。
 ほどなくしてティナたちも屋敷を後にした。


 屋敷を出ると、既に日はかなり傾いていた。

「さて、どうなるかのう」
「上手くいってるといいんだが」
 実際は五分五分といったところか。

「まあ、やるべきことはやった。後は運に任せるだけだ」
「異形使いに神は微笑まないと聞くがの」
 老人を睨むと、素知らぬ顔で彼はこちらに背を向けた。

「じゃあ、儂はここで失礼するよ」
 手をひらひらと振りながら、バジルは通りを曲がって姿を消した。


 見送ってため息をついた後、ティナもまた歩きだした。
 路地に入り、真っ直ぐ歩く。日当たりは良くない。そのためかなりうす暗くなってきていた。
 路地には人気もない。ひっそりと静まりかえり、そしてどことなくきな臭い。

 ティナはゆっくり息を吸った。それからまたゆっくり吐いた。
 タイミングをはかる。
 老人に教わった方法では、意識を鋭敏化させることに思っている以上の意味はないそうだ。
 感覚を信じつつもそれに引っ張られ過ぎない。理性による推測にも意味がある。

 もう一度吸気し――それから一気に吐いた。
 黒衣の下から抜いたナイフで背後から突きこまれてきていた鋭い気配を受け流す。
 すれ違うように体さばきし、身を沈めた。頭上を二撃目が通り過ぎていった。

(くっ……)
 胸中で悪態をつきながら、路地の壁まで飛び退る。
 そこでようやく襲撃者たちの姿が確認できた。


 三人。いずれも覆面をし、加えて薄暗闇の中では人相は判別できない。
 ただ、手練であることはすぐに分かった。
 老人ほどではない。しかし、相手に傷を負わせ、命を奪う方法を熟知している者は気配が似る。

 襲撃者たちはそれぞれ良く似た短刀を持ち、じわじわと包囲を狭めてきた。
 ティナは強烈に右手袋を意識する。
 だが、使えない。町中では使えない。基本的にはそういう軍規だ。

 破れば懲罰だけでない。非異形使いからの異形使いへの視線が一層厳しくなる。
 異形使いは人々に本当の意味で受け入れられてはいない。
 たとえ人々がその力にどっぷりと依存しきっているとしてもだ。

 向かって右方の襲撃者が踏み込んできた。
 横薙ぎに短刀が振るわれる。
 後ろには下がれない。だからティナは逆に踏み込み返した。


 相手の短刀よりこちらのナイフの方が刃渡りは短い。
 踏み込めば踏み込むほどこちらに有利になる。逆もしかり。
 と、理屈ではそうだが、それを実行に移せるようになるまではだいぶ訓練を要した。

 相手の懐でその手首を押さえ、逆にその内側の腱を狙う。
 切り裂くが、浅い。二人目が来ていたからだ。
 一歩を一人目の陰に移動するのに使った。

 それで二人目の一閃はかわす。
 が、二の腕に痛みを覚えてよろめく。三人目が回りこんで来ていた。動きを読まれていた。
 隙を見せたことで三つの刃が一気に襲いかかってきた。


 身をよじり、足を踏み変え、必死で逃げ回る。
 もう反撃の余裕はなかった。
 身体のあちこちに細かい刃傷が生じた。

 バジルなら。バジルなら上手くやっただろう。
 歴戦の戦士だ。相手の攻撃に合わせて一撃で無力化し、沈める。
 自分はそれには届かない。

 届かせる方法は一つしかない。
 それはこの右手にある。右手の甲に刻まれている。
 だが……

 次の瞬間、相手の刃が右肩を貫いた。


 悲鳴が口からこぼれる。
 足から力が抜けて尻もちをついた。
 その頭上を鋭い気配が通り過ぎた。もし身を沈めていなければ頸動脈を切り裂かれていただろう。

 とはいえこれで終わりだ。もう逃げられない。
 見上げる刃が、逆手に構えられた刃がゆっくりと――

「そこまでじゃ」
 静かに声が響いた。

 襲撃者たちが俊敏に声の出所に向き直る。
 いつの間にかすっかり暗くなっていた。路地にはいくつも暗闇があり、その一つから軍服の老人が姿を現した。
 不覚にも泣きだしかけていたらしい。ティナの目にはそれがぼやけて見えた。


 襲撃者の一人が飛び出した。
 しかし一瞬の交錯の後、老人の前にくずおれる。

 残りの二人はわずかに躊躇を見せた。
 そしてその隙に割り込む形で、老人が右手をそちらに向けた。
「もう無意味じゃよ。やめておけ、アバティーノの護衛団」

 襲撃者たちは明らかに動揺したようだった。
 一歩を引き、それからすぐに遁走した。

 残されたのは尻もちをついたティナとバジル、それからのされた男が一人。だけではない。
 老人の背後にも一人、縛られ地面にもがく影があった。

「ち……くしょう」
 良く見ると、昨日の男だった。ティナが最初に椅子で殴り倒したあの。


「意外にもこの男が襲撃者たちの指揮だったようじゃ」
 老人がティナの傷に布を当てながら言う。
 立てるか? と聞かれ、ティナは首を振った。腰が抜けている。

「とりあえず話してくれたよ。やはりラクリマという男はフェルモが雇っていたようじゃ」
 老人に肩を貸されて立ち上がる。壁にもたせかけられ、息をついた。
「じゃあ、やっぱり当たりか」

「そうじゃな」
 ヴィルフレードは異形部隊所属だった。
 異形部隊というのは絶大な権能を与えられているが、そこから脱退してしまうと頼るべき相手がほとんどいない。
 そんな輩を引き受けてくれるのは、脱退の事情を知ってまでもその能力を利用したいと思う相手だけだ。
 独自の流通パイプを持ち、有能な護衛人員を必要とする商人がその一例というわけである。

 何にしろ、これでひと段落だ。
 震える息を必死で抑え、ティナは俯いた。
 これで、またあいつに追いつける。殺すチャンスが生まれる。
 たとえこんな窮地がいくつ訪れようとも、必ず成し遂げてみせる。


……

 フェルモ・ボナは数日後に軍に拘束された。
 素性の知れない者を雇い、その者による補給ルートの情報を漏洩させた罪状で。

 補給ルートはそのまま国民の命にかかわる。そのため間接的な漏洩とはいえ微罪ではすまない。
 フェルモは厳しく処罰されるだろう。
 フェルモが首都に送られる前に、ティナたちにも彼を尋問する機会が回ってきた。

「ラクリマは南に向かうと言っていた……」
 監房で、うなだれたフェルモはかすれ声で話し始めた。
「ある人物のことを調べているらしい」

「ある人物?」
「ラウロ・マグリー」
 あの人の名だ。ティナは驚いた。
「それ以上のことは分からない」


 次の日、ティナとバジルは乗合馬車に揺られていた。
 肩の傷はまだ痛む。ごわごわと包帯が不快だ。それでも行かなければならない。
 奴に追いつくためにはどうしても必要なことだ。どれだけ傷つこうが進むことは。

「無理はするな」
 ふいにバジルが口を開いた。
「無理はいかんよ」

「でも」
 思わず反駁するティナを遮って彼は続ける。

「お前さんはあの程度の男と刺し違えるつもりなのか?」
「それは」
「いかんよ。いかん。生き急ぐのはいい。だが若者は死ぬことを考えてはならん」

 言って、それからバジルは笑う。
「死んでからやっとこさ喜ばれる老人とは違うんじゃ。命は大切にな」
 ティナは黙って聞いていた。

 馬車の外には荒野が広がる。荒野には乾いた風が吹く。
 乾いた風。死んだ大地。
 それらを越え、どこに辿りつけるのだろうか。そんなことを思い、彼女は眼を閉じた。

続きます


 第三話 末路からの呼び声


 夜の冷えた空気に呼気を混ぜる。
 荒野程ではないが植物域でも夜は気温ががくりと落ちる。
 白い靄が浮かんで、それから消えていった。

 ラクリマはその一連を眺め、ゆっくりと足を踏み出した。
 しんしんと身体を冷やす外気を外套で遮り前だけを見据える。

 何が見えるわけでもない。人工的な明かりなどはどこにもない。
 それでもわずかな月明かりの下に黒々とうずくまる建築物の影は判別できる。
 彼はそれに向かって真っ直ぐ歩いていた。

 人気はない。
 場所が場所のため衛兵がいないはずもないが、エルネストに人払いするよう言っていた。
 そして了承は得た。了承した以上は完璧にやってのける。それがあの相棒である。

 恐ろしい程の手並みだった。
 あのバジル・カジーニをして化け物と言わせしめるだけはある。
 そうだ。苦々しく認めた。化け物め。


 毒づき歩き続けながら右手の手袋をはずす。
 闇夜で見えるはずもないが掌には異形使いの証がある。
 それはささやかに光を発してラクリマの存在を変換する。

 異形となった瞬間、冷気を感じなくなった。
 異形は世界と彼を断絶するのか。
 いや、と彼は思う。世界と彼を限りなく近づけ、混ぜ合わせ、その境を曖昧にするのだ。

 建物の影が目の前に迫ってきた。
 堅牢なそれは全ての進入を阻む。エルネストですらこれを越えるのは苦労するだろう。
 決して越えられないわけではないだろうが。

 ともかく、ここからは自分の領分だ。
 ラクリマはそう呟き、異形の身体の分解を始めた。
 異形、"断片"はすぐに散り散りに分かれると、その場から姿を消した。


……

 次第に近付くその町には、スピーガという名の他に"教区"という呼び名があった。

 この国には国教は明確に定められていないが、事実上そうみなされているものはある。
 聖教と呼ばれるのがそれで、国に十数ある信教の内最も多くの信者を獲得している。

 このスピーガは聖教会の総本山がおかれている町だ。
 当然規模は大きく、国における発言力も大きい。
 人口は王都に次いで二番目である。

 だが、そんな情報にはあまり意味がない。とティナは思う。
 自分にとって重要なのは、この町が異形使いにとって動きづらい町であるということだ。

 異形使いがそうでない人々に畏怖され嫌われているのはもう繰り返すまでもないが、教区ではその度合いがさらに強い。
 聖教会が異形使いという人種を異端と認定しているためだ。


 異形使いにまつわる伝説がある。彼らの発生について述べたものだ。

 その昔、この世の全ての知識を求め神に挑んだ男がいた。
 彼に知らぬことなど存在せず、知の極致に達したとまで言われていた。

 ある時彼はその頭脳で神に相対し、不遜にも打ち負かすことを試みる。
 勝負は七日間に及んだ。
 その間世界は凍りつき、全ての事象は停止したと伝えられている。

 知恵比べの末、男は負けた。
 その際神に挑んだ罰として彼は化け物に身を落とす。

 彼は人を襲い、殺し、犯し、壊しつくした。
 その結果、異形となった彼の血は人々の間に潜み、後世に異形使いという形で現れるようになったとか。
 世界に荒野が広がったのも同時期と言われている。

 所詮は根拠のない言い伝えだ。
 だが、聖教会の信者はそれを過去実際に起きた事実と信じているのだ。


 町に入って馬車から下りると人々の視線が強く刺さってきた。
 畏怖だけの視線ではない。明確な敵意と害意に満ちた視線だ。

 先の事情があるため、ここでの異形部隊の活動は厳しく制限される。
 公舎も必要最低限のものしか置かれていない。
 そこへと逃げるように移動する。

「異形使いに頼らぬ生活などないと分かっている癖にの」
 バジルが言う。
「嫌っていても依存せざるを得ない。皮肉じゃな」

 ティナも強くはいさめなかった。
 事実、制限があるにしろここで異形部隊が活動できるのは、異形部隊なしには解決できない事柄もあるからだ。
 教区であろうと異形部隊への依存は変わらない。例えば――

「聖教会に侵入者?」
 ティナが問うとその町のメッセンジャーは頷いた。
「異形使いによるものと思われます」

 異形使いの犯罪は異形使いにしか対応できないことが多い。
 今回もそのケースのようだった。


「一体どういうことだ?」
「聖教会の私兵数人が何者かに殺されました。盗み出されたものもあるそうです」
「盗み出されたもの?」
「なにやら極秘指定の代物だそうで。具体的な話は聞けませんでした」

 ふむ、とティナは腕を組む。
「やったのが異形使いであるという根拠は?」
「明確な証拠はないそうです。しかし状況的に見て確かに異形使いの仕業かと」

 目で促すとメッセンジャーはさらに続けた。
「私兵の交代はかなり頻繁に行なわれていたようです。
 その短い時間に私兵の殺害、聖教会への進入、窃盗を行うとなると常人には不可能です」

 つまり異形の力を使う必要があるというわけだ。
「今分かっていることは?」
「何も。犯人が本当に異形使いかも判然としませんし、もし異形使いであったとしてもその異形がどんなものかもわかりません」

 なるほど。ということはだ。
「あなたたちにも協力を要請します」

続きます


「というわけ」
 部屋に戻り一連のやりとりを説明すると、椅子をもたれたバジルは渋い顔をした。
「引き受けたんか?」
「ええ」

「なんで奴のことを聞きに行って見当違いの仕事をもらってくるかの」
「そうでもないわ」
 ことさらに嫌そうな顔をする老人に説明を加える。
「聖教会の総本山、その建物は昔砦として機能していたことは知っているでしょ」

 信教の権力を保ち、発言力を高めるには武力が必要、そんな時代もあった。
 そのための拠点として使われたこともある。

「老朽化し、改修工事が重ねられたとはいえその防御力と密閉性は健在。外から余所者が侵入するのは困難」
「だから異形使いが疑われとるんじゃったな」
「ええ。ヴィルフレードの可能性がある」


 奴の異形は自らを分解する。細かく細かく分割して移動することが可能のようだった。
 あの特性を使えば侵入は困難ではないだろう。
 なにしろどんな堅固な要塞にも空気の通り道ぐらいはあるからだ。

「奴が? なんのために?」
「さあ……そこまでは。盗まれたものが分かればもっと強く断定できたんだけれど」

 大きな権力を持つ信教の総本山とあって価値あるものは多い。
 しかしそれだけに守りも厳重で、盗みに入るにはとてもリスクに見合う手取りがあるはずもない。
 ヴィルフレードの性格について詳しくは知っているわけではないが、金品目当てに入るような輩ではないとも思う。

 では一体。

 ふとフェルモ・ボナの言葉を思い出した。
 理由は分からないが、ヴィルフレードはラウロ・マグリーの情報を追っている。


(教区にあの人に関する何かが?)
 ラウロはかつて各地を転々としていたと自ら語っていた。

 詳しくは聞けなかったが、研究のためだったらしい。ここでも何かしら研究を行っていた可能性はある。
 彼の生前、そういったことについて聞く機会はいくらでもあったはずだが、当時は彼女もそれほど興味を持ってはいなかった。
 一緒にいられればそれだけでよかった。

(今になってそれを後悔するなんてね)
 あの人について知らないことが多いことに気づく。
 どこで生まれ、どんなふうに育ち、何を目指していたのか。
 一番大事なことだったろうに、もう語り合うこともできない。

 と、沈黙が長引いたことに気づいた。
 バジルが訝しげな表情でこちらを見ていた。

「……とにかく」
 何かを払う手振りをして、ティナは続ける。
「情報が必要よ。町に出ましょう」
 バジルは何か言いたそうではあったが、とりあえずはこちらに頷いて見せた。


 服装を変えて町に出る。それだけで途端に居心地が変わる。
 視線の力を思い知るということだ。
 こちらに集まる目がないだけでこうも違うものか。

「そりゃそうじゃろ」
 バジルは言う。
「見る・見られるは重要なことじゃ。ナニを見られることで興奮する輩もいるからして――」
 肘で小突いて黙らせた。

 さて、この町では情報を得られる場所はだいたい決まっている。
 聖教会の教徒が集まる集会所がそのひとつ。
 人が多く集まり異形使いが近付くにはリスクが大きいが、その分有用な情報が手に入る可能性も高い。
 ただ、異形使いの情報となるとやはり難しくはなる。

 だから狙うのは見返りさえ差し出せば何でも話す類の人間だ。
 つまりは貧民層である。


 誇り高き聖教徒には身分の違いはなく、皆誇り高き神の民。
 と、対外的にはそのように示してはいる。
 が、どうしたって人には違いが出る。階層ができる。

 聖教会の各施設では貧困層に対して施しと称して衣食住を提供している。
 全員がその恩恵にあずかれるわけではないが、朝と正午、そして夕暮れ時に彼らは聖教会の前に集まる。

「けしからんことだ」
 聖教会の総本山襲撃の件について貧民の一人に問うと、彼は顔をしかめて応じた。
「まったく恐れ多いことだよ」

 彼は食料の配給待ちで退屈していたらしい。こちらが銅貨をちらつかせたのもあるだろう、口調は滑らかだった。
「異形使いが絡んでいるとも聞くが」
 ティナが言うと、男は魔除けの仕草をする。

「そういう噂もあるな。異端の輩が神に弓引く。大いなる裁きが下るだろう」
「詳しいことはわかるか?」
「いいや。だが、神官兵たちが南区の方を調べているらしい。じきに罪人も見つかるはずだ」


 南区は整然と区画された北半分と異なり、必要に応じて雑然と継ぎ足されてきた経緯を持つ区画である。
 確かに罪人が隠れるとすれば、どうしても目立ってしまう北区よりも南だろう。

「つっても、広すぎていかんわい」
 バジルがぼやく。
 その言葉通り、南区は北区よりも面積では広い。迷路のように入り組んでいるのもあって、探索には向かない。

「それでも地道に探すしかないだろう」
 ティナは言うが、自分の声にもうんざりとした響きが混じっているのが分かる。
「他に方法もないんだから」

 しらみつぶしに怪しいところを当たる。貧民街だけあってそんなところは無数にあるが、それでも気力と体力に任せて踏破していく。
 時間は刻々と過ぎていき、日は次第に傾いていった。


 それから夕刻が近付き、そろそろ公舎へ戻ることを検討しはじめていた時のことだった。
 背後から騒音、続いて罵声が聞こえた。

 振り向くと、通り過ぎた脇道の一つから男が飛び出してくるのが見える。
 続いて白い長衣を纏った三、四人程の神官兵がそれを追って出てくる。

 集団は向かいの路地に走りこんで姿を消した。
 バジルを見ると、彼は既に追跡を開始していた。慌ててそれに続く。

 集団の背中を追い、角を二つほど曲がってすぐに追いつく。というのも彼らが立ち止まっていたからだ。
 神官兵たちが男一人を手荒く組み伏せ警棒で殴打を加えていた。

 男は暴れ、抵抗していたが、殴打のたびにそれがみるみる弱っていく。
 力なく地面に伏したその前腕に、傷跡にも似た文様が見えた。

「そこまでだ!」
 ティナは制止の声を上げた。
 こちらに気づいた神官兵の数人がこちらを向く。
「その男の身柄は異形部隊が預かる!」
 その声で、ようやく全員の注意がこちらを向いた。


「……異形部隊」
 神官兵の誰かのものだろう、声が上がる。
 彼らは視線を交わし合い、ぐったりと倒れる男を残して立ち上がる。

「異端の者が何の用だ」
「言った通りだ。その男の身柄はこちらが預かる」
 舌打ちが聞こえた。

「それは承服しかねる。この罪人には罰を与えねばならん」
 神官兵の声には険悪なものが混じっていた。が、ティナはひるまず返す。
「こちらの方が権限は上だ。従え」

 神官兵たちは無言でもう一度視線を交わした。
 それから警棒をその手にぶら下げたままゆっくりと近づいてくる。
 ティナは一歩を引いて身構えた。

「やめといた方がいいと思うがの」


 バジルの声だ。
 彼はいつの間にか、倒れた男のそばにかがみこんでいた。
 神官兵たちが明らかに動揺の気配を見せる。

 バジルはそんな彼らに構わず男の傷の様子を見ると、「問題なし」と頷いた。
「気絶しているだけじゃ。運ぶぞ」
 言って、男を肩に担ぎあげた。

 神官兵の一人が動いた。
 鋭く踏み込み警棒を振り下ろす。
 老人の頭を狙ったそれは、外れるはずのない軌道を通っていた。のだが。

 警棒が空を切った後には、何事もなくバジルが立っていた。
 わずかの体捌きなのだろうが、目には見えなかった。
 同時に、いつの間にか抜いたナイフを神官兵の喉に突きつけている。


 神官兵がうめいて一歩を退いた。
「我々としても面倒事は避けたい」
 彼らの勢いも一歩退いた気配を察してティナは声を上げた。

「こちらの取り調べが済んだら、その男はそちらに引き渡す。それで問題はないだろう?」
 実際には、何かしら冤罪によって男が私刑にかけられる恐れがあるため、おいそれとは渡せないが。
「上には、その男が異形を使おうとしたから我々に任せたとでもいえばいい」

 その言葉で、神官兵たちは静かに引いていった。

続きます

お休み気味だけど書き溜め切れかしらん


 公舎に運んで一時間ほど。
 目を覚ました男はベッドから転がり落ちた。

「うあ……!」
 床に落ちてもなお暴れ続ける。
 即座に飛び出したバジルがそれを押さえつけた。

「ぐ……!」
「落ちつけ」
 ティナはゆっくりと男に話しかけた。
「安心しろ。ここに神官兵はいない」

 男はしばらくもがいた。が、体力の限界だったのだろう、ぶり返してきたらしい痛みにうめくだけになった。
 だが目だけはせわしなくあちこち動き回っている。
 バジルに組み伏せられたその姿は肉食獣に捕まった哀れな獲物のようだ。

「ここは」
「公舎だ。異形部隊のな」


 解放するように手振りで指示する。
 バジルの手がゆっくりと離れて、男は思い出したように深く息を吐いた。

 それから身体を起こして座り込む。
「あの。俺は」
「我々が保護した」

「……異形部隊が?」
「心当たりがないわけじゃないだろう」
 言って男の右腕を指さす。

 彼ははっとして、それを隠そうとしたようだった。が、ティナは構わず続けた。
「お前が異形使いならばその義務があるからな」
「まあこやつはそうでなくとも助けたろうが」
 口をはさむバジルを視線で刺す。老人は素知らぬ顔でそっぽを向いた。
「とにかく、もう安全だ。怖がる必要はない」

 男は腕を握ったまましばらく固まっていた。


 その心境は一応分かる。
 異形使いにとって教区でその素性が暴露するというのは、死ぬよりも恐ろしい目に遭うことも覚悟しなければならないということだからだ。
 延々小突きまわされたりずたぼろに引きずりまわされたりといったような。
 死んだ方がいくらかマシかもしれないという点では荒野の方がまだ安全だ。

 異形使いが教区にいるのは珍しい。
 ただ、絶対にないことでもない。
 異形使いの発生は不規則で、教区だろうがそのほかの場所だろうが関係なく誰かが異形使いとして生まれる。

 事情は分からないが、異形使いとして生まれてそれを隠したまま育てられたのだろう。
 ただ、やはり正気の沙汰とは思えない。よく今まで生きてこれたものね、とティナは思った。

 ようやく落ちついてきたのか、男は腕から手を離した。
 そこにあるのは異形使いの証、引っかき傷のような文様だ。

 ただ、それは傷とは違って消えることはない。
 一生付きまとい、剥がれはしない。


「いくつか質問する。答えろ」
 男はいまだ立ち直りきっていない様子だったが、ティナは構わず問いただした。
「まず、聖教会で起きた事件については知っているか」

 男は床に視線を落としたまま首肯した。
「ならば率直に聞く。お前がやったのか?」
「違う」
 返事は短く、そして早かった。

「俺は無実だ」
「だが異形使いではあるな」
「だからなんだっていうんだ、俺はやっていない」
 割り込む老人に、男は口調を荒げた。

「確かに俺の中には異形がいる。でもあれはそんな便利なものじゃないんだ」
「盗みは無理だと?」
「そうだ」


「……どう思う?」
 これは老人に向けた声だ。老人は肩をすくめてみせた。
「どうもこうも。否定しとるんだから違うんじゃないかの」

 老人の適当な返答は置いておくとして。
 嘘を見抜くのを得手とするティナの勘も、確かにこの男は犯人ではないと告げていた。
「信じてくれ。俺は、やっていない」
「信じる根拠がない」
 男の顔がこわばった。

 ティナが自分の勘に反してそう突き離したのにはいくつか理由がある。
 まず、信じるための事実が本当にないこと。これは詳しく聞いていないのだから当たり前だ。
 次に、異形部隊としての立場上そう言うしかないこと。
 下手に甘い顔をして、異形部隊は同胞には寛容であると見なされれば、すなわち異形使い全ての地位が危うい。

 異形使いは国に人権を保障されたという、ただそれだけの事実に守られている。
 ぎりぎりの信頼――もしくは油断だ――を失えばそれは異形使い狩りの再来につながるだろう。


「それでも、お前が冤罪を主張するなら異形部隊には保護義務が生じる」
「え?」
「詳しく話も聞かなければならないから、そのための拘留措置もとる必要があるな」
「どういう、ことだ?」

 事情を呑み込めていない様子の男にそっけなく告げる。
「しばらくは安全ということだよ」
 ああやっぱりそうくるんじゃの、と。
 視界の隅で呆れる老人を、ティナはわざと無視した。

すみません、滞ってましたが続きます


……

 そもそもあの時男を助けるために先に走り出したのはバジルではないか。
 そう言うと老人はすっとぼけてみせた。
「儂ゃボケちまってよう覚えとらんわい」
 だからまだ初老でしょうに。

 要するにティナもバジルも、同じくらい世話焼きということだ。
「いやいや、どうせお前さんが助けるなら要らぬ手間を省こうと思っての」
「はいはい」

 適当に流して通りを進む。
 南区の路地だ。人気はない。朝日の下にあってもどこか湿り気と陰りを感じさせる。
 気分的にも治安の不安としても正直踏みたくはない場所だが、再びここを訪れたのには理由があった。


「俺はその晩、教区の外郭付近にいた」
 男は名をドナートといった。
 事件のあった夜の行動について問うと、先のように答えた。
「誰かが俺を目撃している可能性はある」

「なぜそんな場所に?」
 不審に思って聞くとドナートは言葉を濁した。
「それは聞かないでくれ」
 そういうわけにはいかないと言っても彼は何も答えなかった。
 しかたない、とりあえずは裏付けをとろうということになり、ティナたちは南区に戻ってきたのだった。


「あれは何か隠しているな」
「なーにを分かり切ったことを」
 ティナの言葉にバジルが呆れる。
「もしやと思うがお前さん、いちいち口に出さんと理解できんのか?」

「そんなことはない。ただ、問題は何を隠しているかだ」
「それは聞いて答えんのだから調べるしかないじゃろ。尋問するわけにもいかんしの」
 確かにその通りだ。ばつが悪くなって、ティナは口をつぐんだ。

(異形部隊相手にも明かせないこと、か)
 とはいえ異形使いにとって異形部隊は必ずしも全幅の信頼を寄せられる拠り所ではない。
 部隊が最優先すべきは異形使い全体の安全であって、そのために一部を切り捨てた例も確かにある。

 つまり、ドナートが話せないとするならばそれはきっと。
「まあ、愉快な話ではないだろうな」
「そうじゃの」
 肩をすくめてバジルが同意の声を上げた。


 入り組んだ道をずうっと進む。が、人影はまばらだ。人の数に比して南区は広い。
 とはいえ前日歩きまわった時より明らかに閑散としている。
 こちらをうかがう視線をかすかに感じた。

「警戒されているわね」
 囁くと横を歩くバジルがうなずいた。
「後ろからつけてくる奴もおるの」

 ぎょっとして振り向こうとするティナをバジルが鋭く制した。
「そのまま歩け」
「……神官兵?」
「多分な」

 緊張に身体をこわばらせるティナとは反対に、老人は明らかにつまらなそうな様子だった。
「はやるな。どうせ何もしてこんじゃろ」
「どうして言い切れる」
「何かしてくるのなら奴ら、とうにそのタイミングを逃しておるよ」


 それもそうか、と恐る恐る身体から力を抜いた。
 ここには既に異形部隊や軍の影響力は及ばない。何があっても関知せず。
 神官兵たちが何かしら手を出してくるつもりだったならば、確かに今さら警戒しても遅い。

「じゃあ監視が目的?」
「儂らは獲物を横取りしとるからの。そうでなくともよそ者は監視するじゃろ」

 通りに人気がないのも昨日の騒ぎが原因だろう。
 ここは昨日の区画とは距離があるが、口伝えは時に予想を上回って情報を広げる。

「困ったわね」
「じゃの。これでは情報集めどころではねえやな」
「どうする?」
「このまま帰って綺麗な姉ちゃんといちゃつくのが最善じゃ」
「あなたね」

 脱力の後、苛立ちに歯ぎしりする。奥歯で老人をすりつぶす妄想をした。
「ふざけてる場合じゃないでしょ。真面目に考えてよ」
「儂は至って真面目じゃが……」
 肩をすぼめてバジルがうそぶく。


「となるとあれじゃの。プランその一、奴らをぶちのめしてからゆっくり情報収集」
「却下。また荒事なんてごめんだわ」
「プランその二、奴らが諦めるまで待って情報収集」
「駄目。そんなに待てない」
「プランその三、帰って綺麗な姉ちゃんと」
 無言で蹴り足を放ってやった。

「割と悪くない案だと思うがの」
 ひょいとかわしてバジルが言う。
「変にあがくよりは英気を養う方が理にかなっとる」
「却下!」

「困ったやつじゃのう」
「よりによってあなたが言う?」
 険悪に顔をしかめながらティナは返した。
「今度こそ真面目に考えないと――」
「プランその四」
 前を向いたまま唐突に老人が呟いた。同時にとん、と押されて脇の道に身体が流れた。


「ちょっと……!?」
 たたらを踏んで振り返ると、彼は既に走る体勢に入っていた。
「適当に撒くぞ。また後でな」
 言い残してそのまま姿を消した。入れ違いに足音が近づいてくる。神官兵だ。

 一瞬考えて理解する。つまり二手に分かれて神官兵の追跡を撒こう、ということらしい。
 妥当ではある。少なくとも他のプランよりははるかに上等だ。
 だが。
(いくらなんでもいきなりすぎるでしょ!)
 悪態をついて、ティナも走り出した。

続きます


 かなりの時間を走りまわり、神官兵を撒くことにはどうやら成功したようだが、どこで落ち合うのかはそういえば聞いてなかった。
 というより聞く暇もなかったのだが。
 だから南区でバジルと再合流することはできなかった。

 仕方ないので公舎に戻り、とりあえずドナートの部屋に向かおうとしたところで後ろから声がした。
「よう、お帰り」
 バジルだ。
 振り返った先の彼は、ちょっとした散歩から帰ってきたかのような様子で立っていたので、ティナはため息をついた。

「あなたねえ。何かするならまずきちんと言ってくれないと」
「まあ言うな。とりあえずあの若造の目撃証言は取れたぞ」
 呑みこみが遅れて瞬きする。
「まさか、聞き込みまで終わらせてきたの?」

「そうじゃが、何かまずかったかの」
 バジルは意地悪く笑う。
 神官兵の追跡を撒いた後それほど間をおかずに戻ってきたティナだが、老人にとってはそれでも十分な時間だったらしい。
 まったく、敵わないわね。
 再びのため息のあと、ティナは両手を上げて降参のポーズをとった。


 歩きながら話そう、とバジルは促した。
「あの晩、確かにあの若造は外郭付近にいたようじゃ。数人がそれらしき人物を目撃しとる」
「もしそれがドナートなら、じゃあ、やっぱり彼には犯行は不可能?」
「じゃろうな。さすがに聖教会本部とは距離がありすぎる」

 とりあえずは彼の無実はほぼ確定ということでいいだろう。
 証明には時間がかかるだろうが、彼の潔白を示すことはできるはずだ。
 ただ。

「それで異形使いであることが見逃されるわけじゃないわよね」
「そうじゃの。ここの者は異端者に厳しい」
 ここではつまり、異形使いであること自体が罪だ。
 異端者と認定されれば、生きる資格を剥奪されるに等しい。
 そのことを考えると気分が暗くなるのを感じた。

「面倒事は終わらない、か」
 憂鬱にティナは呟く。
 ドナートの安全を本当に保証するには、もう少し手を尽くす必要があるということだ。


「面倒ならほっぽり出しときゃいい。違うか?」
 ティナを一瞥してバジルが言う。
 事実を淡々と告げる口調だ。確かにそれは事実であって残酷であろうとも正論だ。
 とはいえ。

「わたしが首を突っ込んだことよ。中途半端に放り出せば夢見が悪いわ」
「そうか」
 所詮は彼女の自己満足に過ぎない。
 それでもバジルは軽く肩をすくめる程度で済ませてくれた。


 部屋の中、ドナートは静かに窓の外を見ていたようだった。
 ティナたちが入室してもしばらくは視線を動かさなかった。

 考え事でもしていたのだろうか。それに水をさすような後ろめたさを感じながら、ティナは咳払いした。
「ドナート。とりあえずお前のアリバイは証明されたよ。潔白は証明できそうだ」
「そうか」
 こちらを振り返ってドナートが頷いた。あれだけ必死だった割に、落ちついたということなのか、随分と淡白な反応だった。

 そして嫌な目だなと、ティナは思った。
 底冷えのする目。しかしどこか熱の塊がうごめくような不気味さもある。
 何を考えているのか測り損ね、一瞬だけ次に言うことを忘れた。

「……だが、お前は異形使いと知れてしまっている。教区に残るのは難しいと思った方がいい」
「ああ」
「そこで、我々はお前を異形部隊隊員候補として別所に護送しようと思う」
 ドナートはそれにはすぐに答えなかった。

 彼がここで今までのように暮らしていくのは不可能だ。ここを出ていく必要がある。
 だが、他の地に移住することは同じくらい難しい。
 なぜなら植物域は限られており、当然そこに住める人数にも制限があるからだ。

 となるとドナートに残された道は一つしかない。
 異形部隊への入隊だ。

「すぐには決められないだろう。時間を与える。明日返事を聞かせろ」
 だが最初から他の選択肢などあってないようなものだ。
 黙ったまま目を伏せるドナートを残して、部屋を出た。


「この件は、まあこれでひと段落ね」
「そうじゃな」
 人気のない廊下を歩きながらバジルと話す。

「彼には大きな負担になるだろうけれど、迫害されるよりは……」
「だといいんじゃが」
 バジルは頷いたが、どこか気になることがあるような言い方だった。

「なにか?」
「いや……」
 考えるような間をおいて、バジルは続けた。
「聞き込みで得た情報の中に気になるのがあっての」

「どんな?」
「あの若造に妹がいる……いや、いた、だったか? まあそんな話じゃよ」
「何それ?」
 よくわからず顔をしかめて聞き返す。妹?


「いや、詳しくは聞けなかったんじゃがの。若造の身内についても一応探って、その時に妹がいる、と」
「もしくは、いた?」
「そうじゃ」

 少し聞いただけなら特に気になる話でもなかった。が、考えてみれば奇妙なことではある。
「彼、そんなこと言ってた?」
「いいや」

 もし彼に家族がいるならば、そちらも何かしら害を被っている恐れはあった。
 迫害は想像を超えた距離と度合いで異形使いとその身内に降りかかる。
 彼がそのことについて心配し、ティナたちに保護を求めるのは十分考えられることだった。

「どういうことかしら」
「儂らのことを信用しとらんのかもな」

 確かにあり得る。
 繰り返しだが、異形部隊は全幅の信頼を寄せられる対象ではない。


「それでも家族の安全を天秤にかけるなら部隊を頼るはずでしょ」
「儂に言われてもな」
 腕を組んでバジルはうめいた。

 先ほどのドナートの不審な様子といい、何か引っかかった。
 バジルはひとしきり首をかしげた後、お手上げのジェスチャーをした。
「若いもんの考えることは分からんの」

 ふとティナは思い出す。
「そういえば、彼があんな時間に外郭付近にいた理由って何なのかしら」
「確かなことは言えん。だが逃げ出そうとしていたのかもな」

 意味がよく呑み込めずにバジルに目で問いかけた。
「いや。夜遅く、町の境界付近。そんな状況から想像できるのは密入出ぐらいでの」
 老人はティナをちらりと見て指を一本立てて振った。
「植物域の外郭には大抵抜け道があるもんじゃ。そこからの出入りを手引きする輩もな」
「なるほど」


 ドナートがひそかに町を脱出しようとしていたという話はそれなりに納得できる。
 異形使いであることを隠してこの町で長生きするのは不可能だからだ。
「だから逃げ出そうとした?」
「さて」

 バジルは言って、それから顎に手をやった。眉間にしわが寄っている。
 怪訝に思って声をかけた。
「どうしたの?」
 それに対し、老人は一言だけ、ぽつりとつぶやいた。

「もう死んどるのかもしれんな」
 何の話? 聞いてもバジルは、いや、と言葉を濁した。
 そうこうしているうちにもうティナの部屋の前だった。
 軽く挨拶を投げ、バジルと別れた。老人は考え事をしたまま廊下を歩いていった。

 その後は部屋で軽く雑務をこなして、ベッドに入った。
 次に目が覚めたのは真夜中だ。

続きます


 静かな夜だった。自然に目が覚めるには穏やか過ぎるほどだ。
 だからティナは自然に目が覚めたわけではなかった。揺さぶられて起きた。
「な、なに……?」

 窓から月明かりが射しこんでいる。
 その光にぼんやり照らされてベッド脇に人影があった。
 緊張が身体を走る。反射的に右手を構えた。

 だが。
「儂じゃ」
「……バジル?」
 右手を持ち上げかけたままティナは動きを止めた。

「何の用?」
 まさか、と口のなかで呟く。
「何度も言うとる気がするが、お前さんに欲情は無理じゃ」
「どういう意味よ」
 複雑な気分で口を尖らせた。


「それより早く準備せい。何やら怪しい」
「怪しい?」
「あの若造が公舎を抜けだしたようじゃ。窓の開閉音がしたから外を覗いたら、あやつが出ていくところじゃったよ」

 なんで窓の開閉音に気づけるのか。
 呆れるような心地で聞いたが、意味のない嘘をつくような人間ではない。
 ティナは急いで準備をすると、部屋のドアを開けるバジルの背を追って、駆けだした。


「なんでドナートは公舎を?」
 夜の道を小走りに走りながら呟く。
「わからん」
 先を行くバジルが首を振る。

 彼が走っていく先は南区の方向だ。
 迷いのない足取りで、ドナートは間違いなくこの先を進んでいるらしい。

 月の光が細い道を薄く照らしている。
 足下がおぼつかないため、ティナはついていくのに苦労していた。


 ドナートは聖教会本部襲撃の容疑で神官兵から暴行を受けていた。
 それを保護したのがティナたちだ。
 一応容疑は晴らせる見通しで、しかしここでは今までと同じようには暮らしていけないとの見通しのため、ティナは異形部隊への入隊を勧めた。
 だからきっかけがあるとすれば。

「やっぱりわたしの言葉かしら」
 明日、彼をここから移送する手はずだった。

「可能性はあるな」
「けど……」
「ああ、何故かはわからん」

 そのまま走り続ける。
 どうやら方向としては南区の外郭に向かっているようだ。


 ふと思い出すことがあった。
 密入出。そして、妹。もう死んでいるのかもしれない、というバジルの言葉。

 と、月明かりに照らされた道の上に、立ちつくす若者の背中を見つけた。
「ドナート!」
 彼はわずかながら驚いたように見えた。半身振り向いてこちらを見た。
「なぜ公舎を出た。早く戻れ。神官兵に見つかるのはまずい」

 言いながら、ティナは不穏なものを感じ取っていた。
 ドナートはわずかな間をはさんで口を開いた。
「止めないでほしい。立ち去ってくれ」
「……?」
 訳が分からない。ティナは怪訝な心持ちで彼を見返した。


「俺にはやらなきゃいけないことがあるから……」
 言って、ドナートは再びこちらに背を向ける。
「どういうことだ」

「死んだ妹のことか」
 ティナの声に答えるようにバジルが呟いた。
 ドナートは黙ったままだった。

 バジルは続ける。
「この付近には密入出を手引きしている輩がいるはずじゃ。恐らくお前さん方は、かつてそいつを頼って教区を脱出しようとしたんじゃろ」
「……そうだ」
 ドナートが言う。
「ここは、俺たちが暮らすには、厳しい場所だったから」


 ドナートは天を仰いだ。
「脱出には随分と苦労した。手引きしている奴と接触するのも、金を用意するのも大変だった」
 その目に映るのは、夜空の星か、それとももっと別のものか。
「それでもなんとか脱出の手前までは行ったんだ」

「なら、なぜ?」
「なぜ、まだここにいるか、か? 脱出の直前になって、手引きしているあの男が気を変えたんだよ」
 平坦だった声に、濁りが生じる。怒りか、もしくは憎しみだ。

「あの野郎、妹を差し出せとほざきやがった」
 ドナートの声は、憎悪を混ぜながらもあくまで静かだった。
 静かに積もった砂を思わせた。

「俺は当然断ったよ。だが、殴られて気を失った。目を覚ました時には妹はいなかった。……殺された」


 ドナートの背中が震える。俯いて、拳を固めている。
「あいつ、悔しかったろうな。痛かったろうな」
 震える腕に、異形使いの印がある。

「俺はあいつの仇をとらなきゃならない」
 彼の震えが、その瞬間止まった。声には怒気がなかった。むしろとても静かな声だった。
 ただ、殺意の衝動というのはそういうものなのかもしれなかった。

「待て!」
 察して、ティナは声を上げた。
 バジルは既に飛び出している。
 だが、間に合わないこともまた察していた。

「殺す」
 ドナートの声が遠くに聞こえた。
 その腕の文様が、かすかに光を放った。

続きます


 最初にあったのは夜を貫く轟音だった。
 次に頬をかすめるいくつもの細かい疾風。
 風だけではない。鋭い痛みを伴い皮膚を裂く。

(な、なに!?)
 とっさに手で顔を庇い、目を閉じてしまっていた。何も見えない。
 ただ、瞼の暗闇の向こうから殺人的な気配が大量に迫ってくるのは分かった。
 避けようがない。

 死んだ。根拠もなく確信した。
 が。衝撃を受けて吹き飛ばされた。
 一瞬上下すら分からなくなり状況を見失う。

 目を開いて最初に見えたのは星空だ。
 仰向けに倒れているらしい。起き上がろうとする彼女に怒鳴り声が飛ぶ。
「動くな!」
 バジルの声だった。


 鼻先を鋭い何かがかすっていった。
 夜の闇にまぎれる黒い何か。
「なん――」
「奴の異形じゃ! でかいぞ!」

 バジルが彼女をつきとばして助けてくれたようだ。
 視線だけをめぐらすと、さほど離れていないところではいつくばるように伏せていた。

 こちらを見ていない。
 険しい目である方向を睨んでいる。
 その視線の先。

 そちらからまた何かが飛んできた。
 切り裂くのはティナからいくらか離れた空間だが、その恐るべき速度は肌を粟立たせる。


 棘だ。
 いくつもの棘が高速で四方に伸びているのだ、とティナは気づいた。
 あまり太くも見えないのだが、刺さった建物があまりに簡単に崩壊していく。
 悲鳴がいくつか聞こえた気もした。

 その悲鳴の主の中に、ドナートの仇もいたのだろうか。

 再び轟音。一際大きな建物が崩壊した音。
 粉塵が舞い上がる。
 その向こうに、うずくまるように鎮座する大きな影。

 棘の放射が緩んだのを見て取り、ティナとバジルは身を起こした。
 跪くような体勢でうかがう。

「バジル。あれは」
「ああ。とてつもない」
「まさか」
「恐らく、根幹異形じゃ」

 純粋な破壊。その主たちの呼び名だ。
「化ける前に昏倒させたかったんじゃが」
 それについては責められない。
 こんな強力な異形を持っていることなど予想の外だ。


「どうする?」
 珍しく険しい表情でバジルが問う。
 ティナは頭の中でいくつかの事を素早く確認した。

(あの異形を撃破できるだけの力はこちらにはない――いや、ある。でも)
 使えるわけがない。論外だ。
(ならなんとか説得してやめさせるしかない。あれだけ強力な異形なら変身の時間的限界もわずかのはず)
 ドナートが危ない。

 ティナは叫んだ。
「ここはわたしがなんとかする。あなたは隠れていて!」
 右の手袋をむしり取る。
 手の甲の文様が光を放った。


 変身が終わると闇に沈んだ町の様子が手に取るように分かるようになる。
 御使いは目がいい。

 ティナはかがんでいた体勢から身を起こすと、前方に向かって走り出した。
 棘は先ほどより勢いをおさめていたが、まだいくつかは勢いよく射出されている。
 自分に向かってきた棘のいくつかを、翼で防いだ。

「ドナート!」
 そして叫ぶ。そびえるように大きな異形に向かって。
「やめるんだ、ドナート!」

 声に反応してか、棘の噴出がやんだ。
 こちらをうかがう沈黙の気配があった。

 ティナはある程度の距離を空けて彼と対峙する。
「今すぐ変身を解くんだ」


 しばらく待ったが返事はなかった。
 代わりに再び棘が飛んできた。
 でたらめだった先ほどと違い、今度は明確にティナを狙ったものだ。

 舌打ちして横に跳ぶ。
 間合いをはかるなどという器用なことはできない。大きく距離を取っての跳躍だ。

 距離をあけるとドナートはそれ以上追ってこなかった。
 再び辺りの建物の破壊を始める。

『あいつ、悔しかったろうな。痛かったろうな』
 つい先ほど聞いたドナートの言葉が頭に響いた。
『俺はあいつの仇をとらなきゃならない』

「ドナート!」
 再び近付き、声を張り上げる。
「もうやめろ、変身を解け! でないと消えるぞ!」


 異形でいられる時間は無限ではない。
 各人によって差はあれど、その事実だけは共通している。
 理由は定かでないが、一定時間以上異形の姿のままでいると、その異形使いは消失する。
 この世界から消えてなくなってしまうのだ。

 異形使いは、変身から時間が経つにつれ現実の認識能力を失っていく。
 知能も次第に欠如していき、最後には暴走を始める。
 さらに先にあるのが消失である。

 強い異形ほど、限界がくるのが早い。
 根幹異形ともなれば、恐らくその時間は極めて短い。
「分かってるのか! ドナート!」

「知ったことか!」
 巨大な棘の塊と化したドナートの声は、意外なほど人間の頃のままだった。
 怒りにたぎる声で呪詛を吐く。
「あいつは殺す! 絶対に、殺す!」


 その声に導かれるように棘が爆発的に広がる。
 残っていた最後の建物が、音を立てて崩壊した。

 ティナはたまらず地を蹴り、翼を広げた。身体がふわりと浮かび上がった。
 そのまま上空に自らを持ち上げる。
 異形の肌では感じることはできないが、吸い込む空気で夜の空の冷たさを知る。
 上方には棘は飛んでこなかった。

 そのまま上昇を続ける。
 夜に沈む町が眼下に広がる。
 ある程度の高さに達したところで。ティナは翼をたたんだ。

 上昇が急激に落下に転じた。
 重力に従って、その速度はみるみる増加した。
 地面が急速に迫ってくる。

 落下の勢いそのままに、彼女は標的に爪をつきたてた。

続きます

乙です


 肉を抉る感触。
 とはいえ異形の大きさからすれば大した傷を与えたわけではない。
 それでもドナートの動きは止まった。

「俺に従え、ドナート」
 爪を引き抜きながらティナは言う。
「変身を解くんだ」

「……あんたは大事な人を殺されたことはあるか?」
 一拍置いて聞こえてきたドナートの返答は、命令への恭順でも反抗でもなかった。
「何?」

 聞き返すティナにドナートは言葉を重ねる。
「あんたに俺を止める権利があるかどうかを訊ねているんだ」
「……」
 ティナは言葉に詰まる。
 頭にラウロの笑顔がよぎった。

 動きを止めたティナに、ドナートは怒号を放つ。
「分からないか。なら俺を止められると思うな!」
「!」
 声と共に棘の嵐がティナを襲った。


 翼で防ぐのが遅れていれば恐らくその時点で死んでいた。
 身体に巻きつけたそれが、なんとか棘の猛攻を防いでくれるよう祈る。
 幸い防御ごと身体を貫かれるようなことはなかったが、果てしなく小突きまわされ転がっていく。
 残骸として残った建物の壁にぶつかってうめき声が漏れた。

 苦悶の声を噛みしめた歯の間から絞り出しながら、しかし考えていたことはそれとは全く別のことだった。
(あれはわたしだ)
 大切な人を奪われ、号泣し、怨嗟の声を上げる。
 あれが自分でなくて何だというのか。

 失くしたものは取り戻せない場所に持ち去られ、捨てられて。
 取り残された自分は打ちひしがれることしかできない。
 もしくは怒り、拳を辺りかまわず叩きつけることしかできない。
 あれはわたしだ。


 棘がやんだところを見計らって、ティナは変身を解いた。
 だが諦めたわけではない。
 こんなところで諦められる訳がない。
 ティナは"左手の"革手袋を外した。

 そこには右手と同じく、傷跡のような文様がある。
(ドナート!)
 胸中で叫んで立ち上がる。彼を、そして自分を救うために。

「あああああああ!」
 左手を掲げたところで悲鳴が聞こえた。
 はっとして見やる。

「ドナート!?」
 苦痛の叫びと共に無数の棘で構成された異形の巨体が崩壊していく。
 棘の一本が、砕け、分解して虚空に消えた。

「まさか……」
「限界じゃな」
 ぼそりと声がする。
 いつの間にかバジルがそばに立っていた。


 あの惨状の中を生きのびていたのは驚きだった。が、それどころではない。
 ティナはドナートに駆け寄った。

 棘は全て分解してしまい、残るは小山のような本体だけだった。
 それも次第に姿を薄れさせていく。
 消えていく異形の後には燐光を放つ男の身体だけが残った。

「おい!」
 ドナートの肩を掴み、叫ぶ。
 燐光は徐々に弱くなって、消えた。
 まるで命の灯が消えるかの如く。

 ドナートは何事か呟いたかのように見えた。
 死んだ妹の名だったかもしれない。仇への呪いの言葉だったかもしれない。
 何にしろ聞き取ることはできなかった。

 聞き取ることができないまま、ドナートは消失した。
 まるで世界から切りとられたかのごとく、ティナの手にはぽっかりと空白だけが残った。


……

 二日後。ティナとバジルはスピーガを出た。
 部隊への報告など、煩雑な仕事はあったものの、終わってしまえばそれまでだった。

 町を去る前に、あの夜の現場を一度だけ確認しに行った。
 崩壊した町並み。
 うす暗い箇所が多い地区だが、その一帯だけは光が目一杯降り注いでいた。

 聞いたところによると、死者は十六人。
 夜の惨事ということもあって多く死人が出たようだ。

 死傷者のリストを見た。密入出の手引きを隠れて行なっていた男もその中にいたようだ。
 それがドナートの仇であったかどうかは知らない。
 もし違うならば彼の望みは果たされなかったことになる。

(いや……)
 ティナは考える。
 どちらにしろ意味のないことだ。
 意味を持たせるには生き残らねばならない。
 死んでしまっては、何も残らない。


 馬車に揺られながら彼女はさらに考える。
「あれが末路なのかも知れないな」
 仇を追ってさまよう者の。
 殺意に追いたてられ逃げ惑う少女の。

 バジルもその呟きを聞いていたはずだった。
 が、何も言ってこなかった。

 彷徨の果てに待つのは何なのか。
 ティナはドナートの姿に、それを見つけたような気がした。

続きます


 第四話 老兵の傷跡


 その老人の右手には二本しか指がない。
 人差し指と中指。
 それ以外はすっぱりと、おおむね綺麗に欠損している。

 切断面は滑らか。まるでそのためにあつらえた器具で切りとったかのようだ。
 元からそうであったように、違和感なく欠けている。

 ただ無論、綺麗にそれがなされたからといって粗雑にもぎとられたよりも痛みが軽かったわけではない。
 当時老人は痛みの大きさに身体を折って悪態を吐き、失血の多さに顔を蒼白にした。
 物理的な痛みにしたって老人をのたうちまわらせるだけの威力はあった。

 しかし。
 それよりも老人を苦しめたのは莫大な喪失感だった。
 失ったという自覚は遅れて老人にのしかかってきた。
 握力を根こそぎ失いナイフを握れない右手に、彼は自分の終わりを悟らざるを得なかった。
 あの日、老人は確かに一度、戦士として死んだのだ。

 老人は忘れていない。
 これから先、忘れることなどない。
 その損失の埋め合わせを、老人は未来永劫探し続ける。


……

(探し続けるからといって見つかる道理もないがの)
 胸中で呟いて、どこかうす暗い路地を踏みしめながら進む。
 奥まって行くにつれて暗く、細くなる通り道だ。
 当然のごとく人気はない。そもそも使える道でもない。なにしろこの先はただの行き止まりなのだから。

 ……そうだ、探しているからと言って見つかる保証などどこにもない。
 胸中で再び呟く。
 求めよ、されば与えられん。これは嘘だ。なせばなる。これも嘘。やればできる。大嘘。
 長い戦いの人生で学んだことは一つ。意志は現実を突き通すこともあるが、稀なことであってかつ意志の強さは関係ない。

 探そうが見つからない。恨もうが殺せない。
 そして、進もうが通れない。この路地のように。
 行きつく先はただの壁だ。暗く冷たい行き止まり。


 奥歯を噛みしめる。形ない物をぎちりとかみつぶす。
 所詮はただの憂さ晴らしに過ぎないのかもしれない。悪あがきだ。見苦しい。
 その上人を巻き込んでもいるのだからたちが悪い。自覚はある。罪悪感もある。

 とはいえ、止まることはできない。
 ゆっくりとでも足は進む。
 徐々に徐々に光量が落ちていき視界は暗くなる。ふと思う。これは暗示か。この小さく干からびた老人の行く末か。

「待たせたの」
 感傷にかさつく声を投げると、つきあたりのその男は、寄りかかっていた壁から背中を剥がした。

 ちょうど太陽が真上を過ぎた辺りにある。
 両側の建屋で切りとられた細い空。
 そこから降り注ぐ日光は、しかしかえって濃い影を作る。

 その男はその暗がりで身じろぎしたようだった。
 組んでいた腕を解いたに過ぎない。
 ただ、老人は軽く拳を握った。決して油断していい相手ではない。


「この町にいるそうだ」
 その男が発した声には特に変わったところはなかった。
 格好もただの平服。暗がりに沈む顔かたちも目を凝らせば特に険の気配など感じられない。
 だからこそこんな汚れた場所には不似合いで、逆に怪しくも思える。

 とはいえ、怪しいも何も正体は知っている。
 異形部隊のメッセンジャーだ。
 ただし、事務雑務を担当し基本的に公舎を出ない表向きのメッセンジャーではない。

 裏のメッセンジャー……というと大袈裟すぎてバジルは好まない。
 単にイヌ、と呼んでいる。日向のイヌか日陰のイヌかの違いだ。
 とにかく日陰イヌの役割は異形使いには"知られぬよう"情報の伝達を行うことである。


 特別不思議なことではない。
 なぜならば国は異形使いの力に大きな信頼を置いている一方、大きな不安も抱いているのだから。

 異形使い同士では基本的にチームを組まない。
 一人の異形使いにサポートの非異形使いが数人つく。
 これは異形使いの能力的個性が強いためだと"表向きには"説明されている。

 嘘ではない。が、それで全てでもない。
 異形使いが不穏な行動を取った場合――例えばクーデターのために集結するとかいった――、始末をつけるのはサポート役についた非異形使いの仕事だ。
 大抵は殺すことになる。異形使い相手に手加減はできない。

 つまりサポートたちは異形使いの監視役というわけだが、彼らを統括するため"日陰のイヌ"がいるわけだ。
 異形使いは彼らの存在を知らない。
 知っている者もいるかもしれないが、表だって何かを言いはしない。
 異形使いは結局のところ国に依存しなければ生きていくことはできないからだ。

 異形使いの人権を保障しているのは権利章典の一文のみ。
 曰く、異形をその身に宿す者の生命を国は保証するものである、と。
 それに実際的な効力を持たせているのは国の威光だ。


「確かなんじゃろうな」
 一言ずつ、慎重に言葉を練り出す。
 何かあれば躊躇なくこのイヌを叩きのめすつもりだった。
 機嫌が悪いのもあった。今日の目覚めは良くなかったし、そもそもイヌは嫌いだ。猫がいい。

「目撃証言は取れている」
「信憑性は」
「目撃者の誠意次第じゃないか。あれ以上試せば死んでいたとは思うが」

 運の悪いごろつきでもいたのだろう。
 まあどうでもよかった。欲しいのは確度の高い情報であってそれに伴うエピソードは必要ない。

「それだけ聞ければ十分じゃ。じゃあの」
 さっさと踵を返して足を踏み出す。
 だがメッセンジャーの声がそれをとどめた。


「アルベルトについて」
「あ?」
「何か変わったことはないか?」

 老人は肩越しに振り返ってしばし沈黙した。
 ティナを異形部隊に引き込む際に、軍に明かした情報は多くはない。
 ある小さな村で彼を見つけたということ。彼に家族はいなかったということ。それぐらいだ。
 コルツァ壊滅事件での生き残りであることも、恐らくは事件の原因であることも、そして"彼"ではなく"彼女"であることも明かしていない。

「別にないのう」
「スピーガで根幹異形による破壊があったそうだな」
「それが?」
「お前たちが関わったと報告書にはあったが」
「そうじゃが、駆けつけたときには既におわっとったよ。わしらがやったのは後始末ぐらいじゃ」


 ふん、とメッセンジャーは鼻息を漏らした。
 細く尖らせた目でこちらをにらみ、それから歩み寄ってくる。
 思わず身体に力が入るのを自覚する。
 男は目前までバジルに迫り――

「それでは働きに期待する」
 そのまま通り過ぎていった。
 軽くバジルの肩を叩きながら。

 肩の力がすっと抜けていくのを感じながら、バジルはその背中を見送った。
 見えなくなったところで視線を持ちあげる。
 切りとられた細い空。
 先ほど聞いたことを反芻する。奴はこの町にいる。

続きます


……

 そのあまり広くもない通りの両側には、隙間を丹念に埋めるようにみっしりと露店が並んでいた。
 午後の明るい日差しを浴びて多くの人々が行き交い、露天商たちがその流れに威勢のいい声を投げている。
 何人かがその声に立ち止まり、そのたびに流れが鈍るといったありさまで、ごった返すというほどではなくともなかなか歩きづらい。
 肩がぶつかることも多々あるが、気にする人間はいないようだ。
 大きな都市いくつかの中継点に当たる町。多くの物がここを流れるため、必然的に人も多くなる。

 一人一人がどこへ向かうのかは掴みようがないし調べる必要もない。
 だがそれぞれに目的地はあるのだろう。行く場所があるならば帰る場所もあるはずだ。
 行く人と帰る人、それが入り混じり一つの流れとなっている。
 ティナはその流れの中で一人、どこへ向かうでもなく歩いていた。

 一週間だ、と胸中で呟く。この町に来てからもう一週間。
 スピーガで見失ったヴィルフレードの足取りを追って、最も近いこの町に目星をつけたのだが、情報はいっこうに入ってこない。
 無能なメッセンジャーたちはそれらしい噂すら掴んでいない。

 完全にロストした、ということも大いに考えられた。
 頭を重くするあまり認めたくなかった事実を、ティナはそろそろ受け入れる覚悟ができてきていた。


 足は止めないままため息をつく。
 異形使いの正装ではなく、フード付きの外套だ。
 口を覆う黒布はなく、だからため息は問題なく流れていった。

 改めて確認する。見失った。つまり、やり直しだ。半年前と同じ状況に逆戻り。
 手がかりも何もない状態からやり直さねばならないということ。
 オリーヴァで接触できたのは偶然とはいえ、いや、だからこそ逃してしまったのは惜しい。
 再度追いつくには同じくらいの時間がかかるだろう。

(違うわね)
 ティナは絶望的に思いなおす。
 また遭遇できる保証などどこにもない。
 同じくらい時間がかかる、ではなく、もう発見は不可能かもしれない。


 うめいてティナは歩みを鈍らせた。
 舌打ちと共に誰かが肩にぶつかって追い越していく。
 それに軽く足をもつれさせながら、ティナはさらに思いを暗くした。

 ラウロ。わたし、諦めはしない。心は折らない。
(でも……)
 ずんと重いものが胸の中に沈んでいく。
 深く深く水をかきわけ、奥の方を押し潰す。
(ラウロ……)

 と、何かが聞こえた気がした。
 遠くからではない。かなり近く。というより鼓膜を震わす音ではない。
『ティナ』
 記憶の靄の向こうから声だ。心安らぐ愛しい声。


『いいかいティナ。もし胸の奥が重くて仕方ない時はね、こうしなさい』
 彼はそう言って腕を目一杯に広げて息を吸い込んでみせた。
 すううぅ……と吸い込んで、一気にだはっと吐き出す。
 実に子供のような仕草だが、なんとなく似合ってはいた。

 ティナは昔、しばしば気分がふさいで部屋にこもっていた。
 胸が妙にざわざわして、そのくせからからに乾いていて、はっきりとしない不安感。
 どうしようもなくていつも持て余した。
 ラウロは基本それを放っておいてくれるのだが、あまりにひどくて食事もとらない時、彼は部屋を訪ねてきていうのだった。
『悩みはね。どうしようもないね』

 そう言って深呼吸を勧めてくる。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも彼と一緒に深く呼吸を繰り返していると、少しずつ落ちついてくる。
 それから彼の胸に飛び込む。ティナが洗ってあげた服の匂いと、彼自身のほのかな香り。


 たまに一緒に外出することもあった。
 今目の前に広がっているのと同じような露店街を、並んで歩いた。
 欲しくもないものを買ってくれと彼にねだり、そんなお金ないよと苦笑する彼に心にもない文句を言う。
 そんな日々がたまらなく懐かしい。

 町の喧騒が耳に戻ってきた。
 露天商が客を寄せるがなりたてる声。
 どこかで言い争う騒がしいやりとり。
 あの日も聞いたようなざわめきの中、彼の声だけがない。

 いつの間にか止まりそうになっていた足を踏み出す。
 ポケットに手を突っ込む。がさりとした手触り。店で扱っているのだろうか、鼻をくすぐる油のにおい。
(がさり?)
 ふと気づいてティナはポケットからそれを取り出した。

 しわくちゃの紙だった。
 古い、というわけではない。特に新しくもないが。
 ただ丸められて、なぜかポケットに入っていた。さっきまではなかったと断言できる。
 ティナは首を傾げた。

続きます


……

 問題はだ。老人は一人呟いた。奴がこの町にいるという情報だけではどうにもならないことだ。
 大事なのはどこにいるかであるし、見つけたら見つけたでもう一つ問題がある。
 すなわち――
(どうやって仕留めるかじゃが)

 先ほどの路地を逆方向に歩いている。
 まばらに散らばったゴミを踏み散らかしながら逆戻りしていた。
 向かう先は表通りに通じる出入り口で、光がさしてきているが道を照らすよりむしろ路地の暗さを強調する。

 ふと足を止めた。右手を持ち上げる。
 人差し指と中指。
 他の欠損してなくなった指は、錯覚でしか感じることはできない。
 今もある。三本の指の感覚が。かゆみに似た痺れを伝えてきている。


 指二本ではまともにナイフを握ることはできない。
 ひっかけるタイプの格闘ナイフならば扱えないこともない。
 扱えないこともない程度には使って、戦える。

 自分では道具にも手段にも単純な力にもこだわらない性質だと思っていた。
 が、白状してしまえばずいぶんと頼りなくなった自分の能力に失望したし絶望もした。
 そして当然募るのが、憤怒や憎悪というものだ。

 ドロドロと粘り、そのくせ鋭く脳幹を突く熱を、ずっと持て余してきた。
 ゆっくりと右手を下ろす。
 目じりがひきつるようにつり上がるのを感じる。
「落とし前はかならずつけさせるぞ……我が弟子よ」

 音もなく足を踏み出す。光の差す路地の出口へと。
 探し出し、必ず仕留める。
 手段はまだ見つからない。それでも、どんな手を使おうと殺す。


……

 しわだらけの紙には、大雑把な字と地図である場所が示されていた。
 その場所自体はどうということもない。
 町の一角、そこに何があるわけでもない中途半端な通路の途中。
 しいて特徴を挙げるとすればその先に何もないので、人が寄りつきにくいということか。

 紙自体もどこででも手に入りそうなものでこれといって妙なところはない。
(問題は……)
 いつの間に、誰が、何のつもりでこれをティナによこしてきたかということだが。

 公舎の一室。デスクに着いて、ティナは口元に手を当てながら考えた。
 いつの間に、誰が、ということなら分からないでもない。
 先ほど外出していた通り。そこで人にぶつかられたのは覚えている。
 ポケットに紙を放りこまれたのは恐らくその時。それ以外には考えにくい。


 後は、何のつもりで、だ。
 これをよこした何者かは、ティナをティナだと分かった上でこれを渡してきたのだろうか。
 選ばず無差別にポケットに放りこんでいるというなら話は別だが、全く気づかせない手際というのを考えるに意図的なものを感じずにはいられない。
 そしてその何者かがティナと認識してわざわざよこしてきたというのならば。

 と、その時部屋のドアが開いた。
 振り向くとバジルがそこにいる。
「よう」
「……ノックぐらいするべきだと思うけど」

 顔をしかめて言うのだが、老人は気にもしなかったようだった。
「何か用?」
「いや、別に。戻ってきたついでに何か変わった事がなかったか訊こうと思っての」

 ティナはその時一瞬だけ躊躇した。
 だが迷うほどの間はなかった。ティナは平静を装って答えた。
「別に」


「そうか。邪魔したの」
 バジルは特に不審に思うこともなかったらしくドアを閉めて去っていった。
 聞こえるはずもないその足音に耳を澄ませて、後ろ手に隠した紙を握り締めた。

 紙には地図と、それから一文。
『夜。一人で来ること』
 それだけが書かれていた。

続きます


 夜の街路に人気はなかった。
 表通りから少し逸れた道。
 星や月の明かりもあまり差していないので足元がおぼつかない。
 自分の不器用な足音だけが狭い道にこだましていた。

 募る緊張感を押さえつけて歩く。
 地図に示されていた地点まであと少し。もちろんそこに具体的な印があるでもないが。
 と、そこでティナは一旦立ち止まった。

 息を吸う。吐く。黒布越しに滑りこんできた冷たい空気が肺の内側を撫でて去った。
 それが意識を鋭敏にする。もしくは鋭敏にしてくれることを願う。

 それからティナは慎重に思索をめぐらした。
 地図をティナによこした何者かがいる。
 それが誰であれ、一つだけ間違いないことがある。

 手練だ、ということ。


 ゆっくりと右手の革手袋を外した。手の甲を冷気が撫でる。
 戦いを予感して昂ぶる神経をなだめる。
 口の中がゆっくりと乾いていくのを感じた。

(相手はわたしを認識している)
 わざわざ狙ってポケットに紙を放りこんだのだ。まさか人違いということはあるまい。
 そして狙ったのならば、相手の素性もある程度分かる。

 異形使いとしてのティナに用があるのならば、恐らくは反異形使い的活動を行っている者。
 そして、仇を追う者としてのティナに用があるのならば……
 そのどちらにしても、ティナにとっては危険な人物に違いはない。

(必要ならば……潰す)
 心を決めて、踏み出した。


 その場所を踏みしめて。
 思うのはやはりこれといった特徴もないなということだった。
 そこで夜の闇が一層濃くなるでもなし、何者かの視線を感じるでもなし。
 慎重に周囲をうかがうのだが、何もない。

 夜の闇の微妙なグラデーション。
 ささやかに吹く風。
 眠りに着いた人々の奏でる聞こえもしない衣擦れの音。

 何者かが現れることやもっと単純に攻撃が飛んでくることを予想していたのだが、何も起こらないまま数分が過ぎた。
 既に捕捉はされているのか? 思うが、いい加減緊張が持たない。
 いつでも異形になれるよう、それだけを注意して肩の力を抜く。
 悪戯。そんな単語も頭をよぎる。

「もしくは嫌がらせ、とかね」
 聞こえてきた声に、心臓が跳ねた。
 ぞっと寒気が背筋をかけ下りる。今、このタイミングで、例えば何かしら殺傷力のあるアクションを起こされていたら、反応できなかったと言い切れる。
 呼吸を読まれていた、と察して、振り返った。


 小柄な人影がある。
 目を凝らして、再び意表を突かれた。
 そこにいたのはどうということもない、ただの男だった。

 同じくどうということもないこの場所にはむしろふさわしかったかもしれない。
 年は、見た目だけで判断すれば十八、九といったところか。
 男というよりは少年という方が適切なように思える。
 昼間ならあえて注視することもなかっただろう。
 コートを着こみ、口元を軽く緩ませてこちらを眺めている。
「いい夜だね」

 ティナは答えずに睨みつけた。
 右手に意識を移して口を固く引き結ぶ。
 返答がなかったことに対しては頓着しないらしい。少年は、それにしても久しぶり、と続けた。


 ティナは怪訝に思って眉を寄せた。
「あれ? 覚えてない?」
 心底驚いた顔で彼は言う。
「ショックだなあ」

 記憶の端に。引っかかるものがあった。
「彼と一緒にいたよ。覚えてない? ほら、オリーヴァで」
 視界が白く弾けた。少なくともそう錯覚した。

「お前、は!」
 右手が力んで震える。それを自分の冷静な部分が見下ろす。
 喉の奥に熱い塊がせり上がってきて、そのまま飛び出る。
「ヴィルフレードの!」


「ああ、だめだめ。今はラクリマって名前なんだって。間違えないであげないと――おっと」
 最後の一言はティナの投擲したナイフを避けながら発したものだ。
 力の調節を忘れたまま投げ放ち、確かにこの暗闇、狙いはでたらめだったが、相手は正確にさばいてみせた。

 格闘用ナイフを抜き放ち、地を蹴る。
 技術も何も関係ない。怒りそのままに突き出した。
「ふっ」
 聞こえたのはその吐息のみ。右手に軽い衝撃。
 だがそれだけで格闘ナイフは地に落ち、軽い音を立てた。暗がりに転がってもう見つからない。

 信じられずに目を見張る。
「まあ落ちついてよ。ごたごたさせる気はないんだ」
 落ちつくどころかかっと頭に血がのぼる。


 右手を掲げる。その甲に意識を伸ばす。
 そして命じる。いや、命じようとした。
 とどめたのは先ほどのような小さな衝撃ですらなく、ただの冷たい一言だった。
「異形使いは町の中においてその力を制限されるものとする」

 掲げた手が震える。身体が硬直する。意識が冷える。
 理不尽だった。
(なんで……)
 なんでそんな一言に止められなくてはならない?

「異形使いは莫大な力を持っている。代わりに足枷もある。制御の義務だ」
 淡々と声がする。先ほどの人好きがするものとはうってかわって底冷えする音の連なり。
「異形使いに対して普通の人々が抱くのは単純な不安と恐怖。下手に力を使えば恐怖はそのまま暴力となって異形使いを襲う」
 ふらふらと右手が胸元に下りてくる。
 その手を左手で包むようにして聞く。
「だから使いどころはきちんと考えろ」
 ぐっ……と喉の奥が詰まるのを、確かに感じた。


「……とまあ、ラクリマならそう言うだろうけどね」
 声の調子を急に緩めて少年は言った。
「ぼくはまあどうでもいいかな。君がどうなろうと。でも用事があるからそれは果たさないとならない」

 ティナは懐に残っている武器を数え上げた。
 投げナイフが二本。格闘用ナイフはもうないが、短剣が腰にある。
 相手との距離は三歩ほど。たったそれだけだ。
 自問する。その距離を詰めて、かつ相手に手傷を負わせられるか? 捕えられるか?

「ぼくを捕まえようと思ってるならそれは無理だよ」
「……お前はなんのつもりで?」
 認めるのは癪だったが相手の言う通りだろう。先の攻防でそれは理解した。手練ということだ。
 懐に伸ばした意識はそのままに、ティナは質問を重ねた。
「俺に何の用だ?」

「ラクリマから伝言」
 ぴっ、と彼は懐から一枚の紙を取り出す。手のひらほどのサイズ。大きくはない。
 ここに置くよ、と言って彼は地面にそれを伏せた。
 無駄のない動きで、飛びかかる好機だったにも関わらずティナはなにもできなかった。


「どう言うつもりだ? ヴィルフレードは――」
「ぼくにも分からないよ。ただ、渡せって言われただけだし」
 言って、少年は一歩後ずさった。
「ちゃんと渡したからね。今は暗くて見えないかもだけど」

「おい、お前!」
「あ、そうそう」
 もう一歩遠ざかって彼は言う。
「お前、じゃなくてエルネスト。覚えといて。一応」

 限界だった。
 懐の投げナイフ、二本を抜いて勢いのまま投擲しようと――
「……」
 しようとして、暗闇にもう姿が見えないことに気づく。
 気配もない。そこにいたことすら疑いたくなるくらい、さっぱりと消え失せていた。


(くそっ!)
 声に出さずに毒づいて脇の壁を殴る。
 胸に残るこのうずき。敗北感。
 続けて二三度壁に拳を打ちつけてから奥歯をギリギリと噛みしめて前に出る。

 暗がりに沈む紙一枚。
 拾い上げて、確認する。
 月明かりの下、よくは見えないが、几帳面な字で何か書きつけられているのは分かる。

 何かの名前であるように思えた。
 今は読みとれないが、朝になればそれもはっきりとわかるだろう。
 だが、と煮えたぎる頭で考える。
 ヴィルフレードは一体何のつもりでこれを渡してきた?

 夜の静寂の中、ティナは紙を握り締めたまま立ちつくした。
 喉の奥に棘が刺さったような気持ち悪さ。
 そのどうしようもない異物感を持て余しながら。

続きます


 暗闇の中、標的は悠々と歩いていた。
 夜の帳の下にあって、何も恐れるものはないとばかりに鼻歌まで洩らしていた。
 バジルは音もなく一息に距離を詰めると、その背中にナイフを突き刺した。

「……」
 手応えはない。
 コートの生地一枚を突き通した感触はあったかもしれないが、革手袋越しには分からなかった。

 はらりと道に落ちるコート。
 その向こうに笑み。
 少年は、月明かりの下、まるで散歩の途中であったかのような体でこちらに半身を向けていた。

「あれ? 師匠だ」
 その軽い一言は、だがこちらの積もった恨みを弾けさせるのに十分な威力を持っていた。
 飛び出す。お前なぞに儂を師匠呼ばわりする資格が――
「あると思うな!」


 左手でナイフを投擲。同時に右手には格闘ナイフをひっかける。
 投擲したナイフに対処する隙をついて始末する、そういう算段。

 少年は、前に飛び出た。
(……!?)
 投げナイフがその胸元で弾き飛ばされるのが見えた。
 動揺で動きが鈍る。右手のナイフが相手を捉えきれずに懐への侵入を許した。
 とん、と少年の肩が胸元に触れた。

「が……っ!」
 後方に吹き飛ぶ。
 必死に受け身を取って起き上がったが、右手のナイフは取り落してもうない。
 顔をあげると、何事もなかったように少年が立っている。

「今ね、どうしようか考えてる」
「エルネスト!」
 鋭く囁く。相手は気にもしなかったようだが。
「師匠を――あ、師匠って呼んじゃ駄目っぽい? じゃああなたをどうしようかなって」


 彼の言う意味が分からず、目で問う。
「いや、ほんとに分からないんだよ」
 言って、少年は肩をすくめる。
「今始末すべきかどうかってことなんだけど」

「貴様……」
「怒らないでよ? 怒っても全然怖くないけど」
 言って、気づいたように少年は続ける。
「ああそうだね、あなたのことは全く怖くないんだ」

「これ以上儂を愚弄する気か?」
「事実を述べるって結構残酷だよね。あなたにはどうしたって負ける気がしない」
 エルネストは――かつてバジルの弟子だった少年はそう言って笑った。
「でも、ラクリマには特にあなたについては何も指示されてないんだ」

「何を迷う必要がある? ここで儂と戦え」
「それって楽しい?」
 うめくように言うバジルに対して、エルネストはあくまで軽い調子だった。
「あまり面白くなさそう」


「お前を楽しませる趣味などない。戦う気がないのならばなぜ目撃者など残した?」
 少年が本気になれば誰にも見つかることなくなにかしらの目的を達することができたはずだ。
 だが実際はこの少年を目撃した者がいて、その情報が日陰のイヌを通してバジルに伝わった。
 エルネストは一瞬きょとんとした後、ああ、とうなずいた。
「特に意味はないよ」

 どうやら、とバジルは思った。
 この少年は確かに自分を怖がっていないらしい。ほんの少しもだ。
 そのことだけは明確に理解した。憎悪と共に。

 理解したところで怒りが収まるわけでもないが、わずかに躊躇が生まれたらしい。
 少年が一歩を下がるのを見逃した。
「逃げる気か!」
「逃げる? それって怖い相手に背を向けることでしょ?」
 じゃあ違うよ、と少年は言う。
「見逃してあげる、って感じかな」


 瞬間、少年は跳躍し、老人はその姿を見失った。
 残像を追う心地で駆け出す。

 闇の中、エルネストの声が響いた。
「まあせいぜい知恵を絞ってよ」
 少しずつ遠ざかっていきながら響いた。
「少しは楽しめるかもしれないからさ」

「エルネスト!」
 諦めてバジルは足を止めた。叫ぶ。
「儂の三本の指、儂の力を奪ったこと、必ず償わせる!」

 少年の笑い声が聞こえる。
 それに叩きつけるように繰り返す。
「必ずだ!」
 必ず。
「必ず、殺す!」

 絶叫は闇の中にむなしく――バジルはそれを認めた――、残響を残して、それから消えた。

続きます


 第五話 お前を追ってここまで来た


 例の紙には、アルジェントで待つ、とだけ書きつけてあった。

 アルジェント。
 町の名前だ。といっても、もうとうに滅びた町だが。
 国の北端近くに位置し、近接する山々から銀を採掘するためだけに人が集った場所。
 採算が合わなくなると自然に人口は減っていき、打ち捨てられてからもう長い。

 あるのは無造作に建てられた納屋と表現する方が近い家々と、砂に汚れたツルハシの類。
 それから寂れたストリートだけ。
 植物域でもなかったので、荒野の風に直接さらされていたと聞く。

 荒野は人を干からびさせる。人体は脆い。
 乾いた風の中で、住人は少しずつ水分を、潤いを失っていったのだろうか。

 砂に覆われ埋もれかけいるであろうその町に、ヴィルフレードが待っているという。
 ティナたちはそこに向かっていた。


 夜。馬車の陰。ティナは毛布をかぶって膝を抱え、焚き火にあたっていた。
 揺れる炎を凝視し、眼球が乾いた頃に思い出したように瞬きする。
 時々夜空を見上げ、すぐに焚き火に目を戻す。
 寒いくらいに冷たい空気に包まれてしかし汗ばむ掌を、ティナは黒衣の膝にすりつけた。

 夜も更けてそろそろ睡魔がやってくる時間帯だった。
 いつもならばもうすでに就寝の支度をしているところだが。
「……」
 どうにも心臓の音がうるさくて眠れそうにない。

 どうしてかは知っていた。
 だから、身体の芯が震える。落ちつかない。
 火が大きく揺れた。眠れそうにない。

「いい夜じゃの」
 声がしたのはティナが何度目かの深呼吸をした時だった。
 気配もなく現れたのはバジルだ。肩越しに振り返ってティナは小さく呟いた。
「あんたから見ればどんな夜もいい夜になるんだろう?」


「そうとも限らんよ」
 老人は珍しくにこりともせずに答えると、ティナの隣まで歩いてきて、距離をおいて腰を下ろした。
 あぐらをさらに崩したような適当な座り方で、先ほどのティナと同じように焚き火を見つめる。
 ティナも火に目を戻すと、ちょうど火花が弾けて音を立てた。

 荒野には風が吹く。何かの遠吠えのように遠く風の音がする。
 それを聞きながらしばらくは両者ともに何も言わなかった。
 口を開いたのはバジルだ。

「眠れんか?」
「……ああ」
 頷いて、ティナは膝の辺りに拳を握って押し付けた。
「明日にはアルジェントに着く」
 それの意味することはひどく明確だった。
「明日には、追いつく」


「だから気が高ぶって眠れんか」
「そうだな。そういうことだ」
 バジルは視界の隅で頷いたようだった。なるほど、と。
「それでも眠るべきだと思うぞ。またみすみす逃げられたくなければな」
「分かってる」

 また沈黙が落ちた。
 バジルの言う通りだった。
 成功を望むならばコンディションは最高のものにしておいた方がいい。
 たとえ待ち望んだ日を前にして気が高ぶろうが、興奮に打ち震えようが、眠った方がいいのは理解していた。
 しかしまだ眠れそうにはない。

「何を怯えている」
 静かなその声は、しかしティナの肩を跳ねさせるには十分な威力を持っていた。
「怯えている? 誰が」
「お前さん以外に誰がいる」

「俺は怯えてなんかない」
 言い返すが、その声に力がないのは誰よりもティナが理解していた。
「どうして、怯えなきゃならない?」


「さて。それはお前さんがよく知ってるんじゃないかの」
 視界の端で老人は肩をすくめる。
 拳をさらに強く膝に押し付け、ティナは歯を食いしばった。
 震えてない。怖がってなんかいない。
 そうだ、怯えてなどいない――たとえ奥歯がガチガチと音を立てているとしても。

「ヴィルフレードの狙いはなんだろう」
 震える歯の間から同じく震える声を絞り出す。
「今までずっと隠れ逃げていたのになぜ今になって」
「詳しいことは分からんな。だが、大雑把にどういうつもりなのかは分かる」

 老人の方を見やると、彼は自分の掌を見下ろしていた。
 二本しか指の残っていない、右の掌。
「儂らを始末するつもりじゃな」
 それを聞いた瞬間、ティナの首筋に寒気が走った。


 ヴィルフレードが逃げ隠れしながら何をしてきたのかは知らない。
 今になってなぜこちらを待ち受けるつもりになったのかも不明だ。
 だが一つだけ分かることがある。

 ヴィルフレードはわざわざこちらと相対しようというのだ。
 まさか今更投降したいなどと言い出すはずもない。
 ならば敵の狙いはこちらを指定した場所で一掃することに違いなかった。

 ティナの視界で拳が震える。必死に押さえつけてきた震えがどうにもならずに表出する。
 内心で悪態をついた。
 何を怯えることがある。これはチャンスだ。奴を仕留める好機だ。
 ここで怖がっていたら……奴を殺すことなんてできやしないじゃないか。

「気張っているところを悪いが、偽の情報の可能性もあるぞ。儂らを撹乱するつもりなのかもしれん」
 それを聞いた瞬間安心しそうになる自分を、ティナは心底憎んだ。苛立ちと共に呟く。
「それはない」

「なぜ言い切れる?」
「部隊がこれだけの人員を派遣してるんだ。ヴィルフレードがよこしたメッセージだけで動いたとは思えない」
 ティナは周りの馬車を示した。
 数は多くないが、そのどれもに異形使いとその補佐たちが乗っている。
「異形使いは俺を含めて四人。異例の対応だ」


「上の気まぐれかもしれんよ」
「本気でそう思ってる訳じゃないだろう? 部隊は独自にヴィルフレードの情報を追って、掴んでたんだ」
「どうだかの」
「あんたはどうでもかもしれないけどな、俺にとっては重大事なんだよ!」

 あくまで軽い調子の老人に、ついに押さえていたものがあふれだした。
 乗り出すようにして語気を強める。
「俺は奴を追ってきた。半年だ。短いなんて言うなよ。俺にとってはとてつもない長さだった!」
「……」
「明日だ! ついに奴に追いつけるんだ!」

 ティナが言い切った所で老人は短くため息をついてこちらに顔を向けた。
 冷たい目でこちらを見ていた。
「だから怖くて仕方ないか」

 すっ……と怒りが引いた。
 冷静になった訳ではない。頭に上った熱が、別のもので塗り替えられただけだ。
 頭の芯に冷たさが戻ってくる。


「そうね……怖いわ」
 乗り出していた上体をゆっくりと引っ込めて膝を抱え直す。
 顔をそこにうずめるようにして、ティナはうめいた。隠すこともない。女の声で。
「わたし、死にたくない」

 認めまいとはしていた。
 殺すつもりなのだから、死を恐れる資格はない。
 死後の世界があるとすればラウロに会えもする。ならばなおさらだった。
 それでも存在するものは仕方がない。死の恐怖。

「あなたは怖くないの?」
 顔を上げて訊くと、老人は考えるような間を置いた後、ゆっくりと、呟くように答えてきた。
「そういえば、考えたことがなかったのう」

「なぜ?」
「憎くて憎くて仕方なかったから、ではないかな」
「憎む? 誰を?」
 老人は答えなかった。


 ティナはさらに言葉を重ねた。
 老人の言葉に思うところがあった。老人は憎しみで死ぬのが怖くないという。
「なら、わたしの憎しみは足りない?」

「そうはいっとらんよ」
「でも」
「死を恐れるのは正常なことだと思うが」
「けど……」

 自分は仇を打たねばならない。
 死を恐れてそれが成せるはずもない。
 と。老人が、何かに気づいたようにはっと息を呑んだ。
「……どうしたの?」

「いや」
 言って、バジルは黙り込む。短くない間を置いた後、彼は再び口を開いた。
 火に目を戻して言う。
「お前さんは、まだ……戻れるのかもしれんな」


「え?」
 分からず聞き返す。
 が、バジルはそれ以上は続けず、一人頷くだけだった。

 そして立ち上がり、こちらに言う。
「もう遅い。無理矢理にでも寝ろ」
 さらに問おうとするティナの機先を制して、彼は馬車に戻っていった。

 困惑したまま焚き火を見る。
 火はずいぶん小さくなって、もう間もなく消えるだろうことは想像に難くなかった。

 そういえば、と思った。
 老人の指を奪ったのは誰なのだろう、と。

続きます


 アルジェントに着いて人員を配置し町の包囲が完成したのは、昼を少し過ぎた頃だった。
 日が雲の陰に隠れて光は弱まり空気はどこか重苦しい。
 風は朝方には強かったが、今は弱まっていた。

 雲の中に丸く浮かんでいるぼんやりとした光を見上げ、ティナはゆっくりと拳を握った。
 前方に立つバジルが肩越しに振り向いて視線をこちらによこす。
 意識を上空からゆっくりと引きもどし地に下ろした。

 もう恐怖に震えることもない。少なくとも表面には出てこない。
 覚悟が固まった自信はないが、もう引き返せないことはきちんと理解している。
 バジルに頷いて見せるとティナは静かに足を踏み出し、町の門をくぐった。


 門とはいってもそんな立派なものがあったわけではない。
 町を囲む朽ちた柵の間に粗末に開いている隙間、そこを通ったに過ぎない。
 わずかに原形をとどめてはいたが、それだけだ。

「静かね」
「ああ」
 短く言葉を交わして見回す。
 道の両側には倒壊した、もしくはしかけた家が並んでいる。そしてどれもそれほど大きくはない。
 例外もあるが、それは人家ではなく倉庫に見えた。

 植物域ではないここでは農作物は栽培できない。
 国から補給される物資は頑丈な倉庫に保管されていたと聞く。
 その類の建屋は砂に沈みかけながらもまだしっかりと形を保っているようだ。

 バジルに視線を向けると彼は道の先を示した。
 ティナは頷いて、歩きだす彼に続いた。


 町に入ったのはティナとバジルだけだ。
 指揮権は二人にある。
 他の人員は全て町の包囲に回していた。
 不安はもちろんあった。が、ヴィルフレードを仕留めるのは自分の悲願であったし、異形使い同士で連携はほとんど不可能だ。

 周囲を警戒しながら歩き続ける。
 口元の黒布が呼吸を邪魔するのはいつものことだが、今は特に気になった。
 風が建屋の間を抜ける音、軋む家々、ぼんやりと頼りない陽光。
 雰囲気に呑まれることの恐ろしさは分かっている。が、だからといってどうしようもない。

 と。じゃり、という足音にびくりと意識を跳ねさせた。
 音の方を見るが単にバジルが足を止めただけらしい。
「どうしたの?」
 ティナの声に答えはしなかったが、彼が立ち止まった理由はすぐに知れた。
 あまり広くもない町、その中心。そこは小さな空き地になっていた。


 そこだけ家々が身を引いたかのような空間だ。
 当時は貴重であったろう木材の残骸、採掘具、台車や大きめの布の切れ端。
 それらが隅の方にどけて置いてあった。
 そして見上げると山がそびえている。採掘場の入口までほんの少しといったところだ。

 何があるわけでもない。採掘がおこなわれていた当時の名残以外は。
 だがバジルは動かない。広場の中心辺りを凝視したままゆっくりと懐に手を伸ばす。
 再び問いかけようとして、その直前にようやくティナも気づいた。

 砂が風に運ばれるような音がする。さらさらと細かいもの同士がこすれあって出す音。
 かすかであっても間違いない、確かに聞こえる。
 胸にざわりと嫌なものが広がる。
 それをはっきりとつかめた訳ではなかったが直感した。奴が来る。

 一際強い風が吹いた。


 風に流され揺らめくようにそれは実体化した。
 目を凝らせばきらきらとした小さな砂粒のようなものが、バジルの視線の先に集まっていくのが見える。
 ゆっくりと滲むように影を濃くし、のっぺりとした人型の異形が立ち上がる。

 見覚えはある。ティナは小さくうめいた。
「ヴィルフレード」
 異形はほのかに光を発すると、姿を人間のそれに変じた。

 黒の長髪。黒い瞳。同じく黒いマントを身につけ、露出した顔だけが奇妙に白い。
 特に構えるでもなくぼうっと立ちつくすその姿は、まるでどこかから切りとってきて貼り付けたように現実味がない。
 ヴィルフレード。胸中で再び呟く。お前を追ってここまで来た。
 右手の革手袋を、ティナはゆっくりとはずした。

 甲高い音が鳴る。
 バジルが懐から取り出した呼び子を吹き鳴らした音だ。
 あまり広くもないこの町の外まで響き、他の異形使いを呼び寄せるだろう。
 包囲を狭めながらなのでそう早くもない。だが時間がたつほど余裕がなくなる。
 そうなればヴィルフレードにも隙が生じるはずだった。


 だが敵は動じた様子を微塵も見せない。
 棒立ちになったまま身じろぎすらしなかった。
「……随分余裕じゃの?」
 呼び子を口から離し、軽く構えながらバジル。距離を測っているようだが、どうにも掴めないらしい。
 異形使い相手に常人ができることは限られる。まともに対抗できるのは異形使いだけだ。

「俺に余裕なんかない」
 ヴィルフレードがぼそりと呟いた。
「余裕があったこともない」

「俺から逃げるのがそんなに骨だったか。そいつは嬉しいな」
 言葉と裏腹に苦々しくティナは吐き捨てた。
 こちらはこれまで足取りすら掴めなていなかったのだから、冗談にしても意地が悪い。

「そうだな。多少目障りではあった。おかげで調査にかける手間が増えた」
「調査?」
 ティナは訝りながら呟いた。
 そういえば、と思い出す。ヴィルフレードはラウロの研究を追っていた。


「異形使いはなぜ発生したのか知っているか?」
「……?」
 唐突な問いに困惑する。
「お前はなぜ自分が異形使いなのか考えたことはなかったか?」

 まず考えたのは、この問いの意図は何かということだった。
 最もあり得るのは時間稼ぎだが、時間の経過で有利になるのはこちらだ。
 何を考えているのか、図りかねた。

「ある男は一つの仮説をたてた。異形使いは世界原理の現出だと」
「世界原理?」
「世界を統べるシステムとでも考えればいい。それが目に見える形で表出したもの。それが異形使いだ」
 言っていることがさっぱり分からない。バジルを見やると彼も面食らっているようだった。

「男は仮説をもとに異形使いのサンプルを集め続けた。そして確信を強める。異形使いは世界を握る可能性を持っていると」
 ヴィルフレードはすっ、とマントの下から右手を差し伸べた。その掌には異形使いの印。
「世界原理の現出が異形使いということは、逆に異形使いから世界原理に干渉することができるということだな」


 右手をマントの下に戻す彼にティナはうめく。
「さっきから何を言っている」
「世界原理への干渉。これが何を意味するか分かるか?」
 問いを無視してヴィルフレードは続けた。
「世界掌握。つまりはそういうことだ」

 次に口を開いたのは今まで沈黙を保っていたバジルだった。一拍置いてゆっくりと言う。
「とどのつまり」
 慎重に、というよりは自分の考えたことが疑わしいといった口調だ。
「お前は、世界を支配するために動いていた、というわけか?」
「そうだ」

 何の躊躇もなくヴィルフレードは頷いた。
 ティナは呆気にとられ――それから顔をしかめて吐き捨てる。
「馬鹿馬鹿しい」
「その馬鹿馬鹿しい行動の根拠づけをしたのはラウロ・マグリーという男だがな」

 はっとティナは息を呑む。ヴィルフレードはさらに言葉を抉りこんできた。
「お前の想い人らしいな、アルベルティーナ・フローリオ」


 頭の中が真っ白になった。
 何も分からない。何も考えられない。
 それは今までひた隠しにしてきた、ともすると自分でも忘れかけていた名前だった。

「な、なん……っ」
「なぜ知っているかということならば、エルネストに調べさせた。奴は有能だ」
 つまらなそうに敵は言う。
「コルツァに存在した異形使いはお前だけだったらしいな」
 いや、奴もか、とヴィルフレードが呟くが、それは頭には入ってこなかった。

 何も言えないうちに敵は言葉を続けた。
「彼は各地でサンプルを集めていたというのは言ったな。お前もその一人だったということだ」
「……」
「お前のような下級の異形使いを飼うなどつまらない男だ。
 ……ああそうだな、つまらない男だった。世界の真理に最も近いところにいながら、それを持て余していた」

 わずかに彼の表情が変化する。ほんのわずかに。
 目を細め、薄い唇の端をつり上げる。
 それは確かに、嘲笑い見下す顔だった。
「だから殺した。代わりに俺が世界を手に入れる」


 ティナは無言で顔を上げて空を見上げた。
 目を見開き、それからゆっくりと視線を元の高さに戻した。
 耳に入ってきた言葉を整理し、理解する時間が必要だった。

 許せない。歯を食いしばって、最初に頭に浮かんだ言葉がそれだった。
 許せない。わたしを愚弄するのはいい。だが――
「あの人を嘲るなっ!」
 言って、"左手の"革手袋をもぎ取った。

 バジルがこちらを振り返り何かを言うのが見えた。口の開け閉めが見えた。
 それは制止の声だったのかもしれないが、意識の奔流に流されて聞こえなかった。

 左手の甲。そこにも文様。傷のようにも見えるそれは、だが異形使いの印だ。
 ティナの二つ目の異形。あの人から受け継いだ異形。
 彼女は意思の爆発を、そのままそれに注ぎ込んだ。

 視界が白く弾けた。

続きます


……

 あの日のことはまだ覚えている。
 故郷が壊れ、屋敷が潰れ、彼との生活が終わった日のことは、まだはっきりと覚えている。

 その時ティナは地下室で崩壊の音を聞いていた。
 地面の下にありながら激しく揺さぶられ、床に手をついて震えていた。
 上からパラパラと降りかかる塵。
 永遠にも近いその数十秒を、彼女はうずくまって堪えた。

 外に出ると、光景は一変していた。
 屋敷は崩れて木材の残骸が辺りに散らばり、見渡す限り地面も建物も全てまんべんなくかき混ぜられたようなありさまだった。

 瓦礫の中に彼を見つけた。仰向けに倒れて浅い呼吸をしていた。
 服がところどころ汚れてあちこちに擦り傷があったが無事に見えた。
 だが、それは外見だけのことであるのに気づくのにそうはかからなかった。


「ティナ」
 泣きながらすがりつく彼女に、彼は微笑みかけた。
「今まで世話になったね」
「やめて」
 ティナはかぶりを振って声を詰まらせた。
 世話になったのは自分の方だ。大きな借りがあるのは自分の方だ。

「泣かないで、ティナ。ぼくまで悲しくなってしまうよ」
 彼女の頬に触れて、しかしその手はぼんやりと輪郭を失っていく。
 ティナは必死でその手を掴んだ。つなぎとめるために両手で強く握った。

 いたた、と彼は苦笑いした。
「そんなに頑張らなくても大丈夫だよ。ぼくはどこにも行かない。すぐそばにいるから」
 この世界と溶けあって、いつでも見守っているから。
 意味は分からなかった。ティナはただただ涙を流し続けた。
 彼の眼差しを、もうすぐこの世界からいなくなる彼の温かさを感じながら。

 そして、彼は消失した。ティナの左手の甲に異形の文様を残して。
 今から半年前のことだ。

……


 絶叫していた。
 力の限りに叫んでいた。

 ただ怒り狂っているだけではない。声には実際の力が伴っていた。
 怒声と共にティナを中心として同心円状に破壊が広がっていく。
 轟音。破壊し、ひっくり返し、かき混ぜる音。

 連鎖する隆起はごうごうと波のように周囲を浸食していき、それから一点に殺到する。
 破壊の先には男が一人。
 ヴィルフレード。仇。

 彼はマントの下から緩慢とも言える動きで右手を差し伸ばした。
 その掌の文様が光を放つ。
 異形に変じた敵はすぐさま分解し姿を消して破壊から逃れた。

 ティナは瞬時に右方に視線を振る。
 そこに実体化しようとしていたヴィルフレードを、"大きな植物の葉"が切り裂いた。


 痛撃にだろうか、敵がよろめいた。
 その腹部に大きく傷口が開いているのが見えた。
 ティナはすぐさま蔓のような触手でヴィルフレードを絡め取る。
 緑のそれはすぐさま敵の自由を奪い、締め上げた。

「くっ……」
 敵は苦しげにうめく。そしてその変身が解ける。
 先ほどの嘲笑は影を潜め、代わりに喉を締めつけられる苦痛に顔を歪めていた。
 その目に映るのはティナの姿。ティナの根幹異形。

 植物が人の形により集まって固まったような身体だった。
 蔓がきつく結び付きあって五体を形作り、ところどころから大きな葉や花が飛びだしている。
 植物域以外にはないはずのそれらのものたち。それを身体とし、膨大な量の蔓状触手で破壊を行うのがこの異形だ。
 ラウロが遺した思いの形。そして――敵にとっての死の形。

 敵はそれを目の前にしながら苦悶の声を上げる。
「やはりさすがだな……ラウロ・マグリーの遺した、根幹異形……」
「黙れ。お前があの人の名を口にするな」
 ティナは冷たく吐き捨て蔓の締め付けを強くした。
「何か言い残すことは?」


「それは俺を殺すと……そういうことか?」
「それ以外に何がある。死ぬのが怖いか?」
「いや……随分と手ぬるいものだなと思っただけだ」

 ティナは顔をしかめた。
「何が言いたい?」
「殺したいならさっさと殺せばよかった。それを理解せずいちいち手間をかけるような輩は」
 くい、と敵は左手を動かしたように見えた。
「結局しくじるんだ」


……

 ティナが根幹異形に変じた瞬間バジルは全速全力でその場を離脱した。
 任務も敵の位置も一旦頭から追い出し、破壊領域から逃れること以外は何も考えなかった。

 案の定背後からは猛烈な破壊音が聞こえてくる。
 家と家の間の細い道に滑りこんでなおも走った。

 十分な距離を走って、轟音が止まったことを確認した後手近な家屋の屋根に飛び乗る。
 振り向くと、家々がなぎ倒されてできた空間に、緑の異形とそれに捕えられたヴィルフレードが見えた。
(勝った……?)

 ティナが根幹異形を出し、相手はそれに対応する手段がない。
 ならば勝負は決した。はずなのだが……
 どうにもそれを確信することができない。

 と、その時。
 ヴィルフレードの左手、ついで全身が、まばゆい光を放った。

……

続きます


 その瞬間に起こったことは、ティナには全く理解できなかった。
 光が閃き、意識が遠のいた。
 必死で起き上がり――倒れていたらしい――、身構えて目を凝らす。
 敵を巻き取っていた蔓は全て消失していた。そして、ぽっかりと空いた空間に立っていたのは、見たこともない異形。

 荒野。頭に浮かんだのはそんな単語だった。
 植物を人型にした自分とは反対に、荒野という地形をそのまま人型にしたように見えた。
 粗い土くれや岩石を思わせる硬質な外殻を鎧のように身にまとい、頭部も兜のように角ばっている。
 目は落ちくぼんだように外からはうかがえなかった。

(そんな……)
 訳が分からず混乱する。
 相手の異形は今まで把握していたものとは違う。
 ということは――
 脳がようやく理解に辿りついた。
(わたしと同じ、二体目の異形!?)


「懐かしいな。あの時と同じだ」
 敵は静かに呟いた。
「あの男も同じ異形で俺に向かってきた」

 ラウロ。ちくりと胸の底が痛む。
 ヴィルフレードはそんなティナにかまわず続ける
「俺はそれをこの異形で叩き伏せた。そしてまた叩き伏せる」

 その言葉とほぼ同時、敵の身体からぶわりと不穏な気配が噴き出す。
 鋭くはないが険しく、明確な殺意。
 敵との間に這っていた蔓状触手がみるみるうちに枯れ果て崩れ落ちる。

「……っ!」
 すんでのところで展開した触手の障壁がそれを受け止めた。
 壁は瞬時に乾燥し、ひび割れていく。
 それでもなんとか耐えきったようだ。
 障壁を解くと、敵は先ほどと変わらずそこにいた。
「そうだ、所詮は繰り返しだ。お前を片付けるなど造作もない」


「……この!」
 削がれた気勢が怒りによって息を吹き返す。
 ティナは最大威力を異形の身体に命じた。
 手加減などいらない。持てる力全てで敵を潰す。
 ティナが叫ぶと同時に手から腕から胴から足から触手が噴き出した。

 嵐のように荒れ狂い、蔓がヴィルフレードに殺到する。
 だがそれを眼前に、動じた様子もなく敵は立ちつくす。
 緑の波は、目標に到達する直前で見えない壁に阻まれるように次々と消失した。

 根幹異形。極めて強力な異形たちの総称。
 数は少なく、目撃されることは稀だ。
 根幹異形同士がぶつかった例はさらに少ない。

 コルツァ事件の際には根幹異形同士の戦闘があったのではないかと言われていたが――
(奴も根幹異形使い……!)
 予想してしかるべきではあった。
 己の甘さに歯噛みする。
 一度は、確かに、奴の息の根を止める寸前までいったのに。


(今度こそ、殺す!)
 互いの力は拮抗しているように見えた。
 ティナの放出する触手を敵は不可視の壁で防いでいる。ちょうど中間地点。
 純粋な、真っ向からの力の押し合い。技も小細工もそこにはない。

 ごうごうと蔓が瓦礫をこする音。
 それに地響きが加わって、めちゃくちゃに轟音が響いている。
 蔓と音の奔流が敵を襲うが、攻撃が通らないまま時間だけが過ぎる。
 互いに出せる威力は同等。それでもティナが少しずつ押しこんではいる。

(……本当に?)
 疑惑は水面に気泡が飛びだすように、唐突に生じた。
 それと同時か少し早く、ヴィルフレードは右腕を掲げた。
 緑の波に深く裂け目が入った。


「!?」
 猛烈な速さで裂け目はティナに突進する。
 声なき悲鳴を上げて、彼女は身をよじった。
 右腕に激痛が走った。

 転倒する。
 すぐさま起き上がろうとするが、できない。
 見ると右腕の肘から先がなかった。

 倒れたまま敵の方を見やる。
 ヴィルフレードは一歩も動くことなくそこにいた。
 だが、不可視の攻撃が迫っているのが、これも気配でわかる。

「あ……」
 ティナの脳裏に浮かんだのは死。その予感だった。
 身体が一瞬恐怖に波打つ。
 しかしそれと共にわいてくるものがある。

(想い人を殺されて、その上自分の命ももぎ取られるっていうの?)
 それは理不尽への反抗だった。
 爆発的に生じた激怒だった。


「ああああああああああッ!」
 右腕を相手に向ける。
 肘から先がすっぱりと枯れ落ちた右腕。
 その断面から鋭い切っ先が噴き出した。

 一直線にヴィルフレードへと向かう触手の刃。
 相手は動じることなくそれを防ごうとしたようだが、何重にもなったそれは消されても消されても次の刃が心臓を狙う。
 敵がわずかにたじろいだ。
 その瞬間に目標に触手が――

 猛烈に視界が揺れた。
 見える景色が黒に沈み、白く輝き、それから空が見えた。
(な……)
 何が、起きた?

 状況を把握するために身を起こそうとする。
 が、動かない。身体が全く動かない。
 何らかの攻撃を受けたようだが分からない。

 根幹異形にこれだけの痛撃を与えることができるのは根幹異形だけだ。
 しかし、そうなるとこの場に自分を含めて三体もの根幹異形使いがいることになる。
 そんな馬鹿げた話はない。


 と。冷静にそんなことが考えられるほどに頭が澄んでいることに気づいた。
 妙に思考が冴えている。
 何だろうこれは。

 変身の限界。空から声が降ってきたかのようにそれを思い出した。
 異形使いには変身していられる時間に限りがある。
 強い異形であるほどそれは短い。
 頭のどこかがティナに告げる。限界だ。

 そうか、とぼんやり考えた。自分はその限界を迎えてしまったのか。
 だからもう動けず、あの人と同じに消えてしまうのか。
(ラウロ……)
 声に出したつもりだが、口からはうめき声しか出ない。

 意識が徐々に薄れていく。
 いや、正確には意識をまとめるたがが外れてどんどんこぼれ、拡散していくといった方が近い。
 溶けだして周り一面といっしょくたになってしまう感覚。
 自分というまとまりをなくして、風に還るような。

 ああ、ラウロ。
(わたし、駄目だったみたい。あなたの仇、討てなかったみたい)
 ごめんね。
 まだかろうじて残っている意識の中で、ティナは、最後の言葉を紡いだ。
(愛して、る)
 言葉は遠い空。そのさらに向こうにしみこんでいく。
 そして、ティナは。言葉への返答を――優しい声を聞いた。

第五話終わり
これでようやく最終話が書ける……

続きます


 第六話 あなたを追って、ここまで来た


 たわいもない話をしていた。
 相手の顔も見えないほどの暗闇の中だったが、そこにいることは疑いもしなかった。
 言葉を交わしているというのに不在を予感する必要はどこにもない。
 孤独に打ち震える必要もありはしない。

 会話の内容は昔についてのことが多かった。
 最初に顔を合わせた日のこと、初めて彼に食べさせた料理のこと、心細さに泣いた夜のこと。
 彼女がした失敗の話になると顔が火照るような思いだったが、彼が楽しそうに笑い声を上げるのでそれはそれで悪くなかった。

 話は尽きることなく続くように思われたが、それでもやがて沈黙が落ちた。
 不意に落ちたそれは、さりとて居心地の悪いものでもなく。
 彼の考えていることはなんとなくわかる気がした。

「わたしはね、ラウロ」
 沈黙を破ったのは彼女だ。
「あなたの仇を討つために旅していたの」


「うん、知ってる」
 彼はゆったりと答えた。その中にほんの少しの寂しさに似た響きがあった。
「僕は君をいつも見ていたからね」

「それでね、ラウロ。わたし、失敗しちゃったみたいなの」
「うん」
「悔しくてね、本当に悔しくてね。でもそれ以上に申し訳なくてね」

 この暗闇の中に自分の身体は存在しているのだろうか。
 手があったら拳を固めていたかもしれないが、感触はない。
 ただ言葉に苦いものを混ぜて、彼女は続けた。

「ごめんなさい、ラウロ。わたし、あなたの仇、とれなかった」
 言った途端、何かが崩れた気がした。
 崩れて、落ちて、どこまでもどこまでも奈落に落ちるような気分に陥った。

 彼のため息が聞こえた。優しく、微笑みを混ぜた吐息の音。
「僕は君に仇討ちを頼んだ覚えはないんだけどな」


「え?」
「僕は君が平穏に生きてくれればそれでよかった。君を危険な目になんか遭わせたくなかった」
 この暗闇の向こうに彼はいるのだろうか。
 存在を疑ってはいない。だが、手を伸ばした先に、触れるものはあるのだろうか。
 ふとそんなことを思った。

「僕の方こそ謝らなければならない。君にはつらい思いをさせたね」
「そんなこと……」
 声が詰まる。そんなことは、ない。

「わたしは、あなたを忘れたくなかっただけ。あの男を追っていたのもあなたを忘れたくなかったから、だから……」
 その瞬間、死の恐怖に震えながらもどうしてか追跡をやめる気にならなかった理由が、どうしてか分かった。
「わたしは……わたしはきっと、あなたを追って――」

「ティナ」
「……ラウロ?」
「ティナ」
 声がする。目の前の闇からではなく、彼のものでもない声。
 闇のかなたから光が差した。小さいそれは急速に広がって、視界を埋め尽くした。


……

「ティナ」
 強く囁きかけてくる声があった。
 多分に歳を重ねてなお意志の力を失わない、そういった声。
 ティナは混濁した水の中から這い出るような心地で目を開けた。

「バジル……?」
 うめき声をあげると小さく息をつく気配がした。
「目が覚めたか」

 ティナは横たわったまま、重い頭をゆっくりとめぐらせた。
 ひたすらに暗い。そしてあまり広くもない。狭い空間だ。その硬い床に寝かされている。
 小さなろうそくが視界に入った。それがぼんやりとこちらにかがみ込む人影を照らしている。

「地下室じゃ。かつては倉庫だったようだがな」
 どろりと粘る意識は老人の言葉の意味を上手く汲み取ってはくれない。
 ただ、ぼんやりと思い出すことはあった。
「わたし、なんで……生きてるの?」


 覚えていることは少ない。
 ヴィルフレードに追いついたこと。そして交戦したこと。
 ……それから異形への変身の限界を迎えたこと。
 ぼんやりとする頭の中、消滅する感覚だけが妙に生々しい。

「儂にも分からんよ。お前さんを拾って逃げるので精一杯じゃったからの」
 彼は疲れたようにため息をついた。
「大変じゃったぞ。他の奴らの目をくらますのはな」

 ティナは起き上がろうとして、身体がピクリとも動かないことに気づいた。
 完全に脱力している。もっと言えばひどく消耗している。
 身体と意識が完全にずれ込んでいるかのように手応えがない。

 そんな彼女の気配を察したのか、バジルは手で制してきた。
「無理はするな。消失はまぬがれたとはいえ、どんな影響が残っているかは分からん」
 ティナはそれを聞いて、息を深く吸った。ゆっくりと吸って、吐いて、それから震える喉から声を絞り出した。


「夢を見たの」
「ん?」
「あの人の夢」

 暗闇の中、顔すら見えなかったが、想い人と一緒にいた実感だけははっきりと覚えている。
「久しぶりだった。あの人の声を聞くのなんて」
「……」
「あれからもう半年以上たつのね……」

 バジルは彼女のうわごとに近いそれをどう聞いただろうか。
 そのままうわごととして流しただろうか。あるいは――
「儂はもう行くよ」
 老人はそう言うと床から腰を上げた。立ち上がった分、ティナから遠ざかった。

「え……?」
 ティナが疑問の声を上げると、バジルは淡々と告げた。
「時間がない。手短に説明する。お前さんは根幹異形を使った。そのせいで他の異形使いが敵に回った」
 言いながら脇にある荷物を手早くまとめていく。
「当然ではあるな。指名手配されている根幹異形。確実に無力化を狙ってくるじゃろう。生け捕りか殺害かは分からんが」


 彼は荷物を二つに分けるとそれをティナの頭のすぐ脇に置いた。
 見返すと、頷いてこちらに背を向ける。
「動けるようになったらお前さんは逃げろ。見つからずに行くのは厳しいじゃろうが、異形を上手く使えば不可能じゃあない」

 相変わらず頭が働かない。そのことに苛立ちを覚え始めながらティナは一つだけ、かすれ声で訊ねた。
「あなたは?」
「儂は」
 老人はそこで一旦言葉を切った。逡巡の気配があった。
「儂は、追いかける」

「誰を?」
「奴らをじゃよ」
 その言葉だけですぐに分かった。
「無茶よ」

 異形使いではない人間が異形使いに挑むなど狂気の沙汰だ。
 ましてや相手はただの異形使いではない。訓練され、同時に狂ってもいる。
 無茶だ。


「死ぬわ」
「そうじゃのう」
 こちらに背を向けたまま、彼は天井を仰いだようだった。
 なにがしかのことを考え、吟味したようだった。

 短い間だった。彼はこちらを振り向いた。
「ま、老人は死んでからやっと感謝されるもんらしいからの」

 馬鹿。ティナは毒づいた。この馬鹿。
「じゃあの」
 短く言い残してバジルはその場を立ち去った。
 彼女はそれをただ黙って見送ることしかできなかった。

 馬鹿。
 動けるようになったのはそれからしばらく後だ。
 これからやらなければならないことは少ない。
 だが、同時に最も困難なことでもある。

 それでも。やらなくてはならない。

続きます


……

 彼女のことはいつでもはっきりと思い出せる。
 その冷たい瞳も引き結んだ口元も、その他すべてまではっきりと。
 ロレッタは常に彼と共にあり、彼を突き動かしている。
 少なくとも彼はそう信じている。

(もうすぐだ、ロレッタ)
 ラクリマは瞼の裏に浮かぶ彼女に語りかけた。
(もうすぐ君を取り戻す。必ず、取り戻す)

 目を開けると山道が視界に戻ってきた。
 それなりに整備されてはいるが、長い間使われていなかったように見える。
 荒れ具合が目についた。

 目的地はこの先だ。


 まだまだ距離はある。
 急ぐ必要はないが気は焦る。
 早く会いたい。
 と。

「どうしたエルネスト」
 ラクリマは振り向いて訊ねた。
 後ろを歩いていた少年が立ち止まって後方を見やっていた。

「ん」
 彼はそれだけを言って、こちらを向いた。
 だが足は止めたままだ。
「誰か追ってきてるね」

「誰だ?」
「さあ? まあ予想はつくけど」


 行って、彼は荷物を下ろした。
 迎撃するということか。
 ラクリマは特にそれを咎めはしなかった。
 好きにさせておけばいい。興味はない。

「先に行く」
 彼は前に向き直る。
 ロレッタに会うために。
 遠く隔たれた時を越えて、彼女を取り戻すために。


……

 アルジェントの町は山のふもとにある。
 その山から銀を採掘していたのだから当然ではある。
 バジルは山道の先を見やって息をついた。

 とりあえずここまで来ることはできた。
 異形使いの包囲網をくぐってなので苦労はした。
 あの娘の逃げ道も確保しながらなので倍の苦労だ。

 だが上手くはいった。そのはずだ。
 とりあえずはそれを満足すべきだと自分に言い聞かせる。
 少なくとも彼女は逃げることができる。

 あとは。と目を凝らす。自分の目的を果たすまでだ。


 山道はでこぼこと起伏に富み、歩きやすいとは決して言えない。
 それでもある程度整えられてそれが保たれているだけでもましな方だ。
 今まで歩き通した道の中には、道と呼べないようなものはいくらでもあった。

 そう、今まで。今まで自分は戦い通し、すなわち歩き通してきた。
 歩くことは前に進むこと。たとえ真っ直ぐな前進でなくとも、自分はずっと前進を続けてきた。
 それを後悔することはない。
 これまでしなかったのだから、これからもするはずはない。それだけは断言できる。

 乾いた砂を踏みしめ、強い風当たりをくらいながらも目は閉じない。
 バジルは一心に足を前に運び続けた。


……

 彼を失った時、自分は地下室にいた。
 そのことを彼女は思い出す。
 隠れて震えていることしかできなかった自分を、思い出す。

 あれから何が変わったか。
 全てが変わったと言えるし根本は何も変わってないとも言える。
 たとえ状況が真逆に変化しようと、自分は小さな臆病者のままだ。
 大事な人が死んでいくのを黙って堪えるしかない力なき子供のままだ。

 肝心な時になにもできない。
 たとえ人ならざる力を持とうと、それだけは変わらない。

 それでも。彼女は奥歯を噛みしめる。やってやろうと奮起することはできる。
 変えようと立ち上がることはできる。

 右の掌を、顔の前にかざした。

続きます


 異形の姿で外に出て、ティナは視線をめぐらせた。
 同時に深く呼吸する。
 近くに彼女以外の気配はなかった。

 どんな手を使ったのか知らないが、バジルが逃げ道を用意してくれたのは分かった。
 町から出るならば何事もなくすませることも可能だろう。
 このまま逃げて、何事もなかったように過ごすこともできるのだろう。
 しかし。

(ごめん……)
 ティナは山に続く道の方へと足を踏み出した。

 アルジェントにあるのは山とその麓の町だけだ。
 ヴィルフレードが向かうとすれば町の外か山のどちらかしかない。
 だが相手はわざわざこの僻地を指定してきたのだ。この山に用がある可能性は高かった。
 何よりバジルが彼女を町の外に逃がそうとしている。ならばその逆方向に敵はいる。


 と、そこまで考えて足を止めた。
 敵。ヴィルフレードは確かに敵だ。
 あの人を殺した罪を償わせなければ、いや、もっと正確に言えば"自分の憂さを晴らさなければ"おさまりがつかない。
 そのはずだった。

 だがあの夢を見た後でも果たしてそのままでいられるのか。
 その意志を持ち続けられるのか。
「……」

 だが、追いかけねばならない。
 仇討ちという目的は見失ったかもしれないがそれでも放っておいていいとは思えない。
 何よりバジルを死なせる訳にはいかないからだ。


 物陰を縫うように再び歩き始めて十数歩。甲高い音ははるか頭上から聞こえてきた。
 はっと顔を上げると空に影が見える。翼を広げ、ゆったりと旋回していた。

 呼び子の音はそれほど長くなかった。
 入れ替わるように足音が聞こえてくる。
 凄まじく速い。急速に近づいてくる。
 その時にはティナも駆け出していた。

 背後に轟音が響いた。
 何者かが脇の家屋を突き破った音だ。
 肩越しに振り返ると、大剣を手にした人影が見えた。

 人影は止まらずに駆け寄ってくる。
 こちらよりはるかに速い。
 大剣が勢いよく振り下ろされる。しかしその時にはもうティナはそこにいなかった。


 翼を広げ、宙に浮かぶ。
 地面とぶつかった大剣は大量の土くれを撒き散らす。
 至近距離で弾けた轟音に押し上げられるようにティナは高度を上げた。

 見上げる先には翼を持つ先ほどの異形。
 既にこちらを目がけ、攻撃の体勢に入っている。
 高高度からの急降下だ。よけるのは不可能だった。
 衝撃が二度、身体を揺さぶった。一つは敵の攻撃、もう一つは地面に叩きつけられた分。

 ティナを押さえつけ、大型の鳥型異形は勝ち誇ったように雄たけびを上げた。
 仕留めたと思い油断したのだろう。
 彼女が身体に巻き付けていた翼を思い切り開くと、敵はよろめいて後退した。


 起き上がる。
 ティナは二体の異形を見据えた。

 一体は金属質の皮膚に包まれた人型。
 大剣を手にして、感情のうかがえない目でこちらを見返している。
 もう一体は先ほどの鳥型異形だ。

 敵対する異形使いは三人のはずだったが最後の一体は見当たらない。
 そのことは疑問ではあったが、まさか相手に訊ねる訳にもいかない。

 何にしろ分かっていることは一つだ。
 これから自分はその全員を叩き伏せなければならない。
 限りなく不可能に近い。だが決めたのは彼女だ。

 鳥型異形が翼を広げて地面を蹴る。
 それと同時、もう一方が飛び出してきた。

 ティナは後ろに跳んで距離をあけるが大剣使いの速度の前には微々たるものに過ぎない。
 異常な身体能力を活かして敵は下方からティナの脇腹を狙ってきた。
 避けられずにまともにくらった。


 一撃で身体が浮き上がる。
 悲鳴が口から洩れ意識が飛びそうになるが、同時に彼女は地面を力強く蹴り離していた。
 翼を広げる。羽ばたく。
 ほぼ吹き飛ばされた形ではあるが、ティナはなんとか空へと離脱することに成功した。
 地上にいれば相手は二人だが、空ならば一体を相手にするだけで済む。

 大剣を受けた両腕がひどくしびれていた。
 鳥型異形は追ってくるとは思っていなかったらしく、攻撃の体勢が整っていないようだがそれほど時間があるわけでもない。
 ティナは高度を稼ぐために翼を羽ばたかせた。

 同じ目線の高さになったところで鳥型異形が襲いかかってきた。
 先ほどと同じく爪を使った攻撃。ただし勢いは先ほどに劣る。
 目前に迫る尖った一撃を、ティナは翼で打ちすえた。

 敵は思わぬ反撃に体勢を崩した。
 よろめいたのはこちらも同じだが、敵との違いは手足がそろっていることだ。
 ティナはしびれの残る右手で相手の身体を掴み、踏みつけるように蹴りとばした。


 さらにバランスを失って鳥型異形が地面に墜落する。
 ティナは蹴りとばした分で身体を持ちあげ体勢を立て直した。
 下方から激突音が聞こえた。これで一体。

 もう一体、大剣使いは地上からこちらをうかがっている。
 だがわざわざ危険を冒してまで相手をしてやる義理もない。
 ティナは山の方に顔を向けた。

 と、ちょうどそちらの方で何かが光ったのが見えた。
 次の瞬間、ティナの身体が猛烈に揺さぶられた。


(……!?)
 何者かの攻撃、と思い至るのにはしばらくかかった。
 ただバランスを崩したもののそれ以上の痛みはなかった。
 必死に翼を操り墜落を免れようと踏ん張る。

 錯乱に落ちかける脳を必死でなだめる。
(何かが……かすめていった?)
 突風がごく近いところを吹き抜けていった。そんな感触だった。

 となれば、とようやく理解が追いつく。
(飛び道具を使う異形使い!)
 山の方でさらに光が瞬いた。


 舌打ちして身を翻す。
 再び突風に煽られて体勢が崩れる。
 立て直そうとあがくが立て直したら立て直したで追撃が来る。

(一か八か……)
 再び光。
 視界が閃光に包まれた。衝撃はそれと同時。音は遅れて聞こえた。
 激しく身体を打たれてかすむ視界の中で地表がみるみる内に近付いてくる。
 次の瞬間、ティナは地に激突した。

続きます


……

 足早に山道を進みながら。老人が考えていたことは一つだった。
 彼女は無事に逃げおおせただろうか。
 そろそろ動けるようにはなってはいるはずだった。

 願わくば無事に逃げのびてそれなりにでも平穏な生活を手に入れてほしいと思う。
 だが彼女の性格を鑑みるに、逃げないという選択肢をとることも十分あり得る。
 それは望むところではないが、もしそうなった場合老人自身に出来ることは少ない。

 ここまで無事にたどり着けるよう道を整えてやることは無理だ。
 そこまで手は回らなかった。道は彼女自身で開かねばならない。
 代わりに出来ることと言えば、この戦いを生き残り、無事を祝い合いながら帰ることだ。

 彼は苦笑した。
 この先で待ち受けている化け物たちを殺し、かつ無事に生き残る?
 馬鹿馬鹿しい。
 自分に出来ることは、刺し違えてでも敵を全滅させるか、それが無理ならば少しでも減らすか。
 それだけだ。


 不思議なほどあの娘に入れ込んでいる自分がいることに老人は気づく。
 いや気づく、というほどの驚きはない。
 せいぜい確認するぐらいの重みだ。

 あの娘に特別なところがあるわけではないと思う。
 どこにでもいそうな、思慮に欠ける少女だ。
 だから、彼女の天性に惹かれた訳ではないのだろう。

 共に過ごした時間が長いだけ。
 だから強い思いというわけではない。単なる愛着程度に過ぎないはずだ。
 だがそれでも大切な人間である。
 死なせたくない。それけは疑いない。

 山道の幅が広くなった。
 勾配が弱くなり、ほぼ平坦に近い地形になる。
 バジルはそこで足を止めた。


 少年が――といっても既に十代の終わりにさしかかっているはずだったが――道を遮って立っていた。
 立ちはだかるといったような力んだ様子はない。
 ふらりと散歩に立ちよって、たまたまそこで立ち止まっていたというような風情だった。

 しばらく眺めて、バジルは口を開いた。
「お前に指を奪われたのは、もう二年も前になるか」
 左手で右の指を撫でる。二本だけ残った指。

「お前は任務中の事故だと主張し、上層部もそれを認めた」
 手を止めた。声に力がこもる。
「だが儂は知っているぞ。あれは明確な害意あってのことだとな」

 少年は黙っていた。
 穏やかな笑みだけを浮かべて、そこにたたずむだけだった。
「なぜだ。儂への恩を忘れたか。そこまで儂を憎んでおったか」
 奥歯が軋る。身体に力が入り筋肉が震えた。


「恨むなんてとんでもない。師匠には感謝してるよ。いろいろ教えてもらったしね」
 バジルの怒りに完全に水を差す口調で彼は言った。
「ただ、興味があっただけさ」
「興味?」

 視線を鋭くするバジルにエルネストは頷いた。
「屈強なあなたがその力を失った時、どんな顔を見せてくれるのか知りたかったんだ」
 そして小さな笑いを洩らす。
「その人にはその人の世界がある。その人だけの持つ世界がある。それを壊すのが、ぼくは楽しくて仕方ない」

「つまり……」
 バジルは声を詰まらせた。
 こいつは、怨恨でも反抗でもはたまた義務でもなく、"ただ面白そうだから"という理由だけで自分の指を奪っていったということか。


 沈黙する老人に対してエルネストは肩をすくめた。
「ま、仕方ないよね。興味がわいちゃったなら試してみるしかない。好奇心って恐ろしいなくらいに思ってもらえれば」
「そうじゃな」
「……?」

 その答えはいささか、というより完全に予想外だったということか。少年は訝しげにこちらを見た。
 バジルは唐突に静まった心の奥から彼を見返した。
「好奇心ならば仕方がないな」

「……本気で言ってる?」
「ああ本気じゃ。本気でお前はその程度の奴だと確認できた」
「どういう意味?」
「どういう意味も何もないじゃろ。興味がわいて好奇心を抑えられないならばそこらのガキと同じだ」

 少年は一旦言葉を止め、しげしげとこちらを眺めた。
「……何かあった?」
「何がだ?」
「いや、別に。大したことじゃないんだ」
 それだけ言って彼は言葉を止めた。


 何かあったか。老人はにやりと口をゆがめた。
 それはもういろいろとあった。
 あの少女をコルツァで拾ってからいろいろと。

 最初は彼を傷つけ部隊を裏切った元弟子を殺すために利用するつもりだった。
 そのつもりで訓練し、協力もしてやった。
 そう遠くないうちに少女は彼の望みをかなえてくれるはずだった。

 その後彼女がどうなろうと知ったことではなかった。
 彼女はもう復讐者となっていて後戻りは出来ないと思っていた。
 が、違った。
 彼女はこの間の夜、間違いなく死の恐怖に怯えていたのだ。
 だから守る価値がある。そう思った。

「もう一つ訊く。なぜお前はヴィルフレードについた」
「知りたい? どうでもよくない?」
「聞いておく。どちらにせよこれが今生の別れじゃろうしな」
 そっか、と笑って少年は頷いた。


「答えはさっきと同じ。興味がわいちゃったから試してみた。それだけ」
「部隊を裏切ってどうなるかは分からんでもあるまいに」
「違うさ」

 バジルは顔をしかめる。何が違う?
「多分ヴィルフレードの目的は聞いてると思う。世界征服。あれね」
「ああ」
「なぜそんなくだらないことしたいか知ってる?」
「いや」

 彼はそこで一旦言葉を止めた。
 もったいつけるように指を虚空に振って実はね、と続ける。
「想い人を取り戻すためなんだよ」


「想い人を、取り戻す?」
「死んだんだよ、彼女。ロレッタっていうんだけど」
「死んだ者を生き返らせると?」
「うん、そういうこと」

 バジルは顔をしかめた。
「世界原理を掌握すればそんなこともできるのか?」
「さあ?」
 答えはこの少年らしく無責任な響きだった。

「でも彼はそう信じてる。そう信じたいからね」
「くだらない。そんなことのためにティナを巻き込んだのか」
「そんなそんな。くだらないとか言わないでおいてあげなよ。傷ついちゃうかもしれないじゃない」

 と、少年はわずかに身をかがめた。前の方に重心を移したらしい。
 攻撃の予備動作かと思いバジルは警戒する。が、そうではないようだ。
 こちらに身を乗り出しただけだった。
「でさ、その想い人だけど、なんで死んだか知ってる?」


 知るわけがない。
 少年は嬉しそうに言葉を続ける。特別の宝物を取り出して見せびらかす子供のように。
「任務中の事故死だよ」
「事故?」

「異形制御失敗による消失。彼女は根幹異形使いだった。根幹異形そのものはヴィルフレードに渡った」
「制御の失敗……そんなことがあるのか?」
 異形使いは異形を制御する術を生来の感覚として身に着けている。
 確かに強大な異形ならば制御が難しいかもしれないがあまりあることではない。

「正確には感情の制御かもしれないね。ぼくが彼女の形見を壊しちゃったから」
「お前」
「あれは面白かったなあ。最強の異形使いの一人がああも簡単に消えちゃったんだから」
 少年は笑う。

「最初の質問の答えに戻るよ。なぜぼくはヴィルフレードについたか。
 彼は最愛の想い人を失った。彼の世界は壊れた。でも彼はそれに抗って生きることを決めた」


 エルネストはおもむろに懐からナイフを取り出した。
「だったらぼくは見届けなくちゃ。自分の好奇心の行きつく先がどうなるのか、見てみたい」

 バジルは黙って立ち尽くした。
 言葉を失った、わけではない。
 単に言うべきことが何もなかったにすぎない。黙したまま、ナイフを抜いた。
 構える。

「……お前を育てたこと、後悔しているよ」
「だろうね」
 少年の返事はそっけなかった。


……

 目標を無事撃ち抜き、砲使いの異形は膝をついた格好のまま小さく息をついた。
 敵は落下し、家屋の間に見えなくなっていた。
 後は地上にいるもう一人が無力化に向かうはずだった。

 上手くいけばそれで終わりだ。
 もちろん相手は根幹異形使いなのだから油断をするわけにはいかないが。
 それでも手応えは十分だったように思える。

 問題は、と彼は考えた。
 次に控えるヴィルフレードへの対応だ。
 もともとそちらが本来の任務だったわけであるし、ここからが真に難しいところだろう。

 計算外だったのは二点。
 部隊の同僚が指名手配中の根幹異形使いだったこと。
 それからヴィルフレードが同じく根幹異形使いだったこと。


 一つの場所に二体以上の根幹異形使いが集まるなどめったにあることではない。
 それ以前に根幹異形使い自体が珍しいのだが。

 舌打ちする。
 メッセンジャーがしっかりしていればこんな面倒は避けられたはずなのだ。
 目の前に指名手配犯がいて、それを見抜けない?
 なんのための監視係だ。

 ひたすら胸中で毒づき、ふと気付く。
 静かすぎる。
 もうそろそろもう一人から合図があってもいいはずだった。

 訝しく思ったその瞬間――
 地面にわずかに開いた亀裂。
 その隙間から細い何かが飛びだし彼の喉に巻き付いた。

「!?」
 慌ててそれを掴むが遅い。
 次々とわき出した触手は彼を包みこみ、強烈に締め上げた。
「ぐ……」
 砲使いの意識はそこで途切れた。


「ふう……」
 砲使いが倒れ伏してから数秒後。
 ティナはようやく警戒を解いて地中から姿を現した。
 蔦が絡みあって人型になったかのような姿。根幹異形だ。

 砲に撃ち抜かれる直前、彼女は異形を御使いから根幹異形に切り替えた。
 衝撃から必死に身体を守って落ちた先にいた大剣使いを無力化した後、地中に潜って砲使いを狙ったのだった。

「……」
 正直なところ上手くいくとは思っていなかった。
 だが結果として成功した。
「ラウロ」
 もしかして、と愚にもつかないことを思う。
「あなたが守ってくれたの?」


 馬鹿げたことだった。
 死者は現世に干渉しない。
 先ほどの夢にしたってそうだ。夢は夢に過ぎない。
 だが。

「……ありがとう」
 小さく呟いて、彼女は変身を解いた。
 どっと疲れが襲い来るがそれに堪えて、見上げる。
 山道はそこから続いている。


……

 たん、と小さな音を立てて少年は踏み込んできた。
 軽やかで、かつ隙はない。
 あっという間にこちらの懐に飛び込むとナイフを閃かせる。

 バジルは横に体捌きして避け、同時に相手の膝を狙って蹴りを放った。
 当たることは想定していない。
 避けるために相手が動けばその隙を狙って追撃する。

「――!」
 予想に反して手応えがあった。
 が、相手に痛撃を与えたわけではない。
 エルネストは蹴りを足の裏で受けとめていた。
 そのまま押し返してくる。
 体勢が崩れ、逆にこちらが隙を見せる形になった。

 必死で身体を捻る。
 ナイフの刃が肩を抉った。
 深くはないが浅くもない。


 痛みに引っ張られそうになる意識を必死でとどめた。
 既にエルネストはナイフは突き込もうとしている。たとえわずかであろうと気を散らす訳にはいかない。

 心臓を狙って正確に飛んでくるナイフ。
 バジルはそれを保持する腕をつかみ取り、関節を極める。
 あとは少し力を込めるだけでその部位は破壊され、格段に有利になる。

 しかしその刹那、バジルは気づいた。
 関節を極めた相手の腕の先に、ナイフがない。

 手を放して後ろに跳ぶのとナイフが踊るのとは同時だった。
 腹部に痛みが走った。
「くっ……」
 押さえる手にべっとりと血がついた。

 これもまだ致命傷ではない。が、先ほどよりは深い。
 時間がたつほどに不利になることは間違いない。


 少年は持ち替えていたナイフを右手に戻すと、薄く笑った。
「不便だね。その手」
 バジルは黙って手元を見下ろした。

 二本の指で保持されたナイフがそこにある。
 ひどく不安定で、頼りない。
 相手の命を奪えるほどの強さはそこにはなかった。

「確かにな」
 バジルは静かに認めた。
 ただでさえ全盛期は過ぎ去り、老いが身体をむしばんでいる。
 身体は思うようには動かない上、この欠損である。

(ままならぬものじゃ)
 小さくかぶりを振る。
 歳をとるたび思い通りにならないことばかりが増えていく。

 恐らくこの少年を殺すことはできないだろう。諦観ではなく冷静な推測だ。
 ティナもきっとこちらを追ってくるだろう。逃がすためのこちらの苦労も知らないで。
 本当に思い通りにならない。


「でも大丈夫。もうすぐ終わるよ」
 確かにその通りだろう。
 もうすぐ終わる。終わってしまえば全ては大したことなかったと思えるはずだった。

 どこで思うのだ?
 ふと気づいて笑う。あの世か?
(馬鹿馬鹿しい……)
 あの世には何も持っていけない。あの世があるのかも分からない。
 少なくとも彼自身は死後の世界を信じていない。

 もうすぐこの人生は終わる。
 そうだ、あの世には何も持っていけない。
 だが代わりに何かを残すことはできるかもしれない。

 バジルはゆっくりとナイフを構えた。


 エルネストが笑いを引っ込める。
 無表情となった顔の下で何を思ったかは分からない。
 そのまま彼は飛び込んできた。
 恐らくは最後の交錯となるだろう。

 少年は踏み込む勢いを拳に乗せて突き込んできた。
 それを肘で叩き落とし、裏拳で反撃する。
 だが少年は軽く身体をかがめる程度でそれをかわしてさらにもう半歩、踏み込んできた。

 バジルは後ろに跳ぶ。
 が、それより早く足を払われて転倒した。少年がその胸部を踏みつけてくる。
「がッ!」
 苦悶の声が口から洩れた。

 ごうごうと耳元で風が吹いているような錯覚。
「じゃあね、師匠」
 それでもその声だけははっきりと聞こえた。

 ナイフが閃く。
 喉を貫かれて身体が跳ねるのを感じながら。
 同時にバジルは最後の力でナイフを振るう。
 失血による暗闇の奥で、少年の悲鳴が聞こえた。


……

 山の中腹ほどまで登り、ティナは自分が間に合わなかったことを悟った。
 広くなった道幅の真ん中。老人が仰向けに倒れ伏している。
 その身体を中心に、赤黒い血が辺りに飛び散っていた。

「バジル!」
 駆け寄って抱き起こす。
 なおも呼びかけるが返事がない。
 虚空を見つめて動かない目。半開きになった口。ぐったりと脱力した四肢。
 全てが示すところは一つだった。

「馬鹿……!」
 死んでからようやく感謝される?
 そんなことがあるものか。あってたまるか。
 誰かを置き去りにした者は、置き去りにされた誰かにどうしたところで恨まれるのだ。


 喉に大きな傷があった。それが致命傷だろう。
 ティナは懐から布を取り出すと、そっとその傷を覆った。
 老人の遺体を横たえる。いまだ開いたままだったまぶたを閉じてやる。
 そして自身もきつく目を閉じる。

 喉の奥が詰まって痛い。目の奥が熱くて仕方がない。
 泣く資格はないことは理解している。
 バジルは彼女のために敵を追っていた。死んだのは自分のせいだ。
 それでもわき起こる感情に嗚咽が喉から漏れそうになる。

 と。
「っは……」
 乾いた笑い声がかすかに聞こえた。


 ティナは立ち上がった。
 そして声のした方に猛然と駆け寄る。
 油断していたわけではない。
 バジルを殺した敵がすぐそばにいる可能性は忘れていなかった。

 向かう先には大きな岩がある。
 ティナは回り込んでナイフを構えた。
 そこにいたのは――

「やあ。久しぶり……」
 ティナは絶句して立ちすくんだ。
 見覚えのある少年が血だまりの中に座り込んでいた。

「お前は……」
 記憶を探る。
 少し前にヴィルフレードからの伝言を持ってきた彼は確か。
「エルネスト」


「まさか、覚えてくれてるとは、思わなかったよ」
 こちらを横目で見上げて彼は笑う。
 だがその声にも表情にも力はない。
 顔面は蒼白で見るからに弱っている。

 無言で見下ろす。
 エルネストの右手首に鮮血に染まった包帯が巻かれていた。
 まだ血は止まっていないらしい。

「ああ、これ?」
 少年はふらふらと右手を掲げて見せる。
「師匠にやられたんだ」

 ティナがなおも無言でいると、エルネストは勝手にしゃべりだした。
 かすれた声だが話したくて仕方ないといった様子である。
「いやあ油断してた。まさか、最後の最後でこんな仕返しをくらうなんて」

 傷のない左手で見えないナイフを握って突く動作をする。
「こう、喉をズブってやって、仕留めた、と思った瞬間これだもの。嫌になっちゃうよ」
 右手はだらりと脱力している。動かせないようだ。
 もう一生動かないだろう。


「あの世への土産ってことかな。持ってかれちゃった」
 虚ろな笑みを顔に浮かべて、少年はふへへと笑った。
 両手を下ろして空を見上げる。
「あーあ。どうしたもんかな」

 叩きのめしたい。
 ティナが思ったのはそれだけだった。
 バジルを殺したこいつを、異形の力を使ってただひたすらに痛めつけたい。

 今ならそれができる。
 誰にも邪魔はされない。そして少年は力を失っている。
 妨げるものは何もない。

 噛みしめた奥歯が音を立てる。
 握った拳が震える。
 殺したい。

 右手を顔の前に掲げた。


 少年が空からこちらに視線を落とした。
 恐怖の色はその目になかった。
 ただ「やりたければやれば?」とだけ語っていた。

 やれないとでも思っているのだろうか。
 やらない理由などどこにあるというのか。
 ティナは意志を込めて右手を振りおろした。

「そのまま惨めに生き続けなさい」
 口元の黒布を取り去って静かに告げる。
 数秒の間をはさんで、少年は視線を訝しげなものに変えた。

「力を失ってなお生き続けなければならない痛み。あなたにはそれを味わってもらうわよ」
 そのまま背を向ける。
 山頂の方へと足を踏み出した。


 どうせ少年を殺したところで彼女に得はない。
 そのために使うエネルギーももったいない。
 今はヴィルフレードを追うのが先決だ。

 それに、これで十分だと思えた。
 少年にとっては一番堪えがたい罰だろう。

 歩いていると後ろから笑い声が聞こえた。
 弱弱しいそれは、泣いているように聞こえなくもなかった。


……

 ティナは山道を黙々と進んだ。
 登っていくにつれて足元はさらに凹凸を激しくしていく。
 日は雲に隠れていてややうす暗い。
 風は乾いて冷たく、頬に当たって熱を奪う。

 風に混じる自分の足音以外は何も聞こえない。
 当たり前だ。一人で進んでいるのだから。
 彼女の隣には誰もいないのだから。

 だが、ティナはあるはずもない温かい気配が脇を歩いているのを感じた。
(ラウロ)
 その名を胸中に呼ぶ。
(あなたを……あなたを追って、ここまで来た)

 そうだ。彼女自身勘違いをしていた。
 追っていたのはあの人殺しなどではない。
 あの人を追って、ここまで来たのだ。


 あの人を忘れたくなかった。
 忘れるのが怖かった。
 憎んでさえいれば忘れないと思った。
 仇討ちは本当のところ口実でしかなかった。

 気づいてみればどうということはない。
 ずいぶんと遠周りをしたものだ。
 心配はない。彼はすぐそばにいる。

「ラウロ」
 乾いた唇を動かす。
「見届けに行きましょう」
 なおも前に進み続けた。


……

「ヴィルフレード!」
 ティナの声を聞き、男は肩越しにこちらを振り返った。

 相変わらずの黒ずくめ。
 山頂のやや開けたその場所に何をするでもなく立ち尽くしていた。
 その口が動く。
「来たか」

 ティナは無言で歩み寄る。
 七歩ほどの間合いを開けて立ち止まった。
 それに合わせてヴィルフレードが身体をこちらに向けた。

 彼の目には何の感情も浮かんでいない。
 平板な光だけがそこにある。

「エルネストは……負けたのか」
「ええ。わたしにではないけどね」
 答えて後ろを示す。
「バジルは……死んだわ」

 ヴィルフレードは、「そうか」とだけ呟いた。


 そのことには不思議と怒りはわかなかった。
 ただ気になって訊ねる。
「ここで何を?」

 ヴィルフレードは周りを見回した。
「ここは異形誕生の地だ」
「え?」
 再びこちらに目を戻したヴィルフレードが言葉を続ける。
「異形使い発生の発端となったのがここなんだ」

 言ってることがよく分からずティナは顔をしかめた。
 それを気にした様子もなく彼はさらに続ける。
「異形使い発生にまつわる伝説を知っているな? 神に挑んだ男の話だ」
「……ええ」
「それ自体は伝説に過ぎないが、あれは現実に起こったことを核にして作られた話なんだよ」


 彼は何を言おうとしているのか。
 やはり分からないが、彼女にも関係のあることに違いはなさそうだった。
「賢者エルメネジルド。知を極めた彼はある時山にこもり、さらなる知の高みへと登ろうとしていた。全知。神の域だ。
 それが本当に可能なのかどうかは知らない。だが確かなのは、彼がその過程で世界原理を見つけ出したことだ。
 彼は世界の根幹に触れた。混じり合い、一つとなった。その時、彼を媒介として人間全体に流れ込んだ世界原理が異形として現出した」

 ティナを目を見て、彼は頷いた。
「そうだ。だから異形使いは世界原理の現出の形なんだ」

 ヴィルフレードはマントの前から左の手を差し出して見せた。
 手袋ははめていない。掌には異形使いの証。
「そして根幹異形はより世界根幹に近いものだ。異形誕生の地で、これを通して世界原理に干渉しようとしたが……上手くいかないな」
 ため息をついて手を下ろす。
「根幹異形の出力が足りない。お前の根幹異形ももらうぞ」

 ティナは黙って左右両方の手袋を外した。
 手の甲に文様。
「一つ聞かせて」
 顔を上げてヴィルフレードの目を見返す。
「あなたは世界を手に入れてどうするつもりなの」


「お前に教える義理はない」
 ヴィルフレードはにべもなかった。
「じゃああなたに譲る理由もないわね」

 ティナは敵を睨んだ。
「もう仇討ちにこだわっているわけではない。けど、あなたがあの人の知識をいいように利用しようとしているならわたしはそれをとめるわ」
 懐からナイフを抜く。
 世界を手に入れるなどということが可能かどうなのかは知らない。
 だが、ヴィルフレードは冗談で言っているわけではないことは見ればわかる。

 ラウロの研究で好き勝手させるわけにはいかない。
 それが仇討ちを捨てた彼女がなおもヴィルフレードを追った理由だった。

 ヴィルフレードはふん、と鼻を鳴らす。
「別に譲ってもらおうとは思っていない。勝手に奪っていく」
 彼が言い終わるより少し早く。ティナは地を蹴り駆け出していた。


 気合いの声を上げて踏み込む。ナイフを振るう。
 相手は軽く後ろに跳んでそれをかわした。
 が、既にティナは追撃の投げナイフを飛ばしていた。
 ヴィルフレードはマントでそれらを防いだが、足が止まる。

「ふッ!」
 懐に飛び込みそのまま体当たりする。
 手応えは十分。
 倒れた敵を踏みつけてナイフを振り上げる。

 が、相手を押さえていた足がガクンと沈んだ。
 彼女が踏みつけていたのは、のっぺりとした人型の異形だった。
 腹部を自ら分解している。

 舌打ちして飛び退った。
 虚空から現れた手が彼女を狙って手刀を放つ。
 避けられないと見て、彼女は右手を掲げた。


 堅い翼が攻撃を防いだ。ティナの異形、御使い。
 彼女は受けとめたそれをはじき返す。
 相手が倒れていた辺りを見やるが既にヴィルフレードはそこにいなかった。

 空気が揺らぐ。
 飛んできた追撃を右手で防ぐ。向き直るがそこに本体はいない。
 同時に背後から衝撃をくらって彼女はよろめいた。

 振り返ると敵はそこにいた。
 既に半分ほど姿を崩してはいたが。
 爪で切り裂くも手応えはなかった。

 分が悪いと認める。
 翼を開いて地を蹴った。
 宙に浮かびあがって見回す。
 敵は先ほどまでティナがいた場所の死角に現れようとしているところだった。

「行け!」
 飛びあがると共に根幹異形へと切り替えている。
 ティナの声と共に触手が飛んだ。


 蔦のようなそれはヴィルフレードを確かに捕えた。
 が、それはすぐに崩れる。
 相手もまた根幹異形へと変貌していた。

 崩壊が触手を伝ってティナへと伸びる。
 ティナは触手をさらに伸ばしてそれに対抗した。
 触手の生成と崩壊が拮抗する。
 そして重力に従ってティナは落下を始める。

 叫び声が喉からあふれた。
 その声に意味などない。
 だが怒りでも悲鳴でもない。純然たる意志の発露。

 みるみる内に距離が詰まる。
 敵の岩のような外殻が迫る。
 ティナは再び御使いへと姿を変えた。

 翼で身体を覆う。
 だがそれだけで敵の攻撃を防げるわけもない。
 翼はすぐにひび割れ崩れ始める。
 激痛。翼が崩れ落ちる。

 そして。その時にはもう敵はすぐ目の前にいた。
 御使いの爪が相手の身体を貫いた。


 敵の身体が震えた。一度ではなく二度、三度と。そのたびに震えは大きくなった。
 うめき声を上げながら、その姿は人間のものへと戻っていく。
 爪を引き抜くと、ヴィルフレードは崩れ落ちるように倒れた。

「こんな……」
 呟く彼のその目は既に焦点が合っていない。
 痙攣するように激しく呼吸しているが、次第に弱くなっていく。
「ロ、レッタ……」

 ティナも姿を人へと戻しながら呟く。
「それがあなたの"理由"なのね」
 膝から力が抜ける。勝ったとはいえダメージが大きい。
 だが言葉をとめることはできない。気づいてしまったからだ。
「あなたも大事な人を失ったのね……」

 ヴィルフレードは反応しない。
 口から苦悶の声を漏らして弱っていくのみだ。
 ティナの目に涙が滲んだ。

 激痛が身体を苛んでいたがそれが理由ではなかった。
 本当に痛いのは胸の奥だ。
 心の奥にヒビが入ってじくじくと悲鳴を上げている。

 日の光は雲にさえぎられてここまで射し込まない。
 どこかうす暗く、肌寒い。
 そんな中、彼女はただただ涙をこぼすしかなかった。


 エピローグ


 アルジェントの町に残されていたスコップはまだなんとか使用に耐えた。
 それを使って町の片隅に二人分の墓を掘る。
 老人と、かつての仇を埋葬した後、彼女は短く祈った。
 無力化したとはいえまだ異形使いがいる町にはあまり長くはとどまれない。

 町を後にして、彼女は空を見上げた。
 相変わらずの曇り空。ぼんやりと白む空に太陽は見えない。
 荒野には乾いた風が吹く。

 顔を下ろして左手の甲を見下ろした。
 異形使いの文様がそこにある。
 世界根幹へとつながる鍵がそこにある。

 世界を手に入れれば死人も生き返らせることもできるかもしれない。
 ラウロを取り戻すことができるかもしれない。
 そんなことも考えた。

 考えたが、試すことはしなかった。
 試さなくてもあの人はそばにいてくれる。
 そう信じた。

 ふと辺りが明るく照らされたことに気づいた。
 顔を上げる。日の光が射していた。
 見上げれば青空。遠く、彼方まで吸い込まれそうな。

 彼女はしばらくそれを見上げた後、右手を顔の前に掲げた。
 御使いが翼を広げる。空へと浮かび上がる。
 彼女は雲の切れ目、鮮やかな青を目指して飛んだ。
 どこまでも飛んで行けそうな気がした。

終わり

htmlスレ見て驚いた
いつの間に再開してたし

クソ今は時間が取れないから、読むのはしばらく先になるな
まだ見てないがおそらくその頃には落ちてるだろうから今乙しとくわ

>>311
ありがとう。なんか救われた気分

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