【グラスリップ】透子「かけるくん?」 (171)

 †

 ピアニストの母さんは、職業柄なのか、人柄なのか、ひとところに留まらない人だった。

 それが原因で、子供の頃から俺は各地を転々としてきたけれど、そのことで母さんを恨んだことはない。

 むしろ、母さんのしていることは、それがなんであろうと、正しいように感じられた。

 母さんのような生き方に、憧れていた。

 広い世界を飛び回る、まるで翼が生えているような、母さんの背中。

 その後ろについていくことを許されたのだから、俺は恵まれていた。

 母さんの生き生きとした姿を間近に見ることができて、俺は誇らしかった。

 ……ただ、一つだけ。

 この胸にわだかまる気持ち。

 ふとした瞬間に襲いくる痛み。

 それだけが、ずっと、影のようにぴたりと付いてきて、俺を苦しめた。

 しかし、それも俺が完全な人間になれば。

 散らばる断片を集めて完成した形になれば。

 いつか、何かしらの決着をつけられるはずだ、と。

 そう、思っていた。

<第1話 花火>

 転校は初めてじゃない。

 ただ、これが最後になるかもしれなかった。

 高校三年生の夏。

 進路を決めるのに、腰を据えて考えられたほうがいいだろう、と誘われて、俺は父さんの地元で一緒に住むことになった。

 そうと決まれば、それまで住んでいたところを離れ、学校も変える。

 いつもしてきたことだ。

『新しい場所でうまくやっていけるだろうか?』

『やっていけるとも。これまでそうしてきたようにな』

 車窓に映る《俺》たちが、他人事のように軽い調子で言う。

『それにしても、やけに人が多くないか?』

『祭りでもしているんだろう。花火の音が聞こえるし、華やかな装いの人も多い』

『このあたりでは有名な祭りなのかもな』

『人が増えないうちに、さっさと父さんの家に向かおう』

 俺は《俺》たちが喋るのをただ聞いていた。

 汽笛が鳴り響き、電車が石橋の下をくぐる。

 外の景色が遮られ、窓に映る《俺》たちの顔が、元の俺の顔に置き換わった。

 混み合う車内で一人、重たい荷物を抱え、退屈そうに押し黙る俺――沖倉駆と目が合う。

 三両編成の古そうな電車が、乗客の重さに耐えられないというように、軋みながら停車する。

『日乃出浜港駅』

 日の沈む日本海の港町なのに、日の出。あべこべな印象を受ける地名。

 電車が止まり人が動き出すと、俺もその流れに乗って電車を降りる。

 花火が打ち上がり、前をゆく乗客が歓声を上げながら立ち止まった。

 俺は歩みを止めず、視線を足元に向け、空いている僅かなスペースを見つけて、ごったがえす人々の間を抜けていく。

 まるで幽霊か、透明人間にでもなったかのように。

『花火、少しくらい見ていかないのか?』

 ほとんど歩く機械みたいになっていた俺を見かねたのだろう、《俺》が苦笑気味に言う。

『よせよ。俺は祭りが苦手なんだ。知ってるだろ?』

 何も答えない俺の代わりに、もう一人の《俺》が俺を擁護する。すると、花火が見たいらしい《俺》は、納得いかないといったように言い返した。

『祭りが苦手、とはちょっと違うだろう』

『なら言い方を変える。祭りにはあまりいい思い出がない』

 結局、《俺》は《俺》にやり込められてしまい、名残惜しそうにため息をついた。

『花火……綺麗だと思うんだがな。今日見逃すと、次はきっと来年だろうに』

 来年――それは果てしなく遠くのことのように思えて、うまく想像できなかった。

 高校を卒業して、来年の今頃、俺はどうなっていて、何をしているのだろう。

 少しくらいは変われているだろうか。

 今の俺に足りない、欠けている何かは、手に入っているだろうか。

 それは、どこに落ちている?

 どこを探せばいい?

 どうしたら俺は完全になれる?

 そもそも、俺に欠けているものとは一体なんなのか――。

 思考がいつもの袋小路に迷い込んだ、その瞬間だった。



 どんっ……!



 と、ひときわ大きな花火が打ち上がり、そして、



《――やっと見つけた――》



「っ……!?」

 不意に聞こえる、俺自身の《声》。

 空耳や幻聴とは違う、《未来の欠片》と名づけた現象――それは今までにも何度もあった。

 しかし、今回の《未来の欠片》はやけにはっきりと聞こえた。

 それだけじゃない、《声》と一緒に『打ち上がる色とりどりの花火』までもが『見えた』。

 実際の花火を、俺がこの目で見たのではない。俺はずっと下を向いて歩いていたから、見えるはずがないのだ。

 なのに今、確かに花火が――立っている俺よりももっと地面に近い視点から見上げた花火が――見えた。

 何が起こっている?

 《未来の欠片》で何かが見えたことは一度もない。

 明らかにこれまでのものとは違う。

 俺はその理由を求めて、周囲を見回す。

 すると、山吹色の帯に桃色の浴衣を着た、明るい髪色の女の子の姿が目に飛び込んできた。

 露店の前にしゃがみ込んで、鈴のようなものを手にしている。

 ちょうど『彼女の視点』からなら、俺に『見えた』のと同じように花火が見えるのではないか――?

『声をかけてみるか』

『なんて言って? 完全に不審者だろ』

『今みたいなのはこれっきりかもしれない。理由を突き止めておかないと』

『だが、彼女が原因だと決まったわけではないだろう』

『その時はその時で、いっそナンパしたらいいじゃないか』

『いや、まあ、可愛らしい子だとは思うが――』

 そのとき、彼女がこちらの視線に気づいて、振り返る気配がした。

 《俺》たちの意見もまとまらず、困惑も大きかった俺は、逃げるようにその場を去った。

 翌日、俺は転校の手続きに必要な書類を受け取るため、日乃出浜高校を訪れた。

 既に夏休みに入っていたので、登校している生徒は少なかった。野球部員がグラウンドで練習していたり、美術部員がなぜか放し飼いにされている鶏をスケッチしていたりと、そんな程度。

 閑散とした校舎に入り、担当の先生と会って、少し話をした。しかし、昨日のことが気になって内容が頭に入ってこない。俺は適当なところで話を切り上げ、そそくさと帰り支度をした。

 日差しが遮られて薄暗い昇降口から、炎天下の屋外へと足を踏み出す。

 ふと、つば広の帽子を被った美術部員の姿が目に留まった。

 少し癖のある、長い髪の女の子。その明るい髪色に、俺はハッと息を飲む。

「……君だったのか」

 再会できるとは――それも昨日の今日で――思ってもみなかった。

 俺の《未来の欠片》に、何らかの変化を齎した……かもしれない存在。

 同じ学校の生徒ならば、声をかけても不自然ではない。もし違っていても、その時はその時。ひとまず自己紹介をして、それとなく探りを……。

「――ダビデ!」

 振り返った彼女は、開口一番、驚きに満ちた表情でそう言った。

「ダビデ……?」

 意味がよくわからない。

 いや、ダビデとはイスラエルの王の名か、あるいは美術部員ならば、あの有名な石像のことを指しているのだろう。

 しかし、なぜ俺を見ての第一声が、ダビデ?

 ……少し変わった子なのかもしれない。

「おおい、きみー、これ」

 話の端緒を探っていると、先ほどの先生が俺を追ってやってきた。転入手続きに必要な書類を持ってきてくれたのだ。すっかり本来の用事を失念していた俺は、礼を言ってそれを受け取った。

「ありがとうございます」

 先生が校舎へ戻っていくのを見届けてから、俺はスケッチを続ける彼女の隣に、ゆっくりと腰掛けた。

「面倒だよね。転校って」

 こういう雑談はそれなりに得意だと思っている。ひとまずは、様子見だ。

「何年生?」

 彼女はあまり警戒することもなく、自然に話題に乗ってきた。

「三年」

「同じなんだ。三年で転校って大変だねえ」

 相手に合わせているというよりは、心から共感しているような言い方。素直な子なのだろう。話しやすい、と感じる。

「名前、なに?」

「深水透子」

 フカミ、トウコ――綺麗な響きだと思った。

 ガラスとガラスが優しく触れ合う、風鈴の音色のような響き。

「トウコ」

 気づくと、俺はその名を口にしていた。

 いきなりの呼び捨てに、彼女――トウコが困惑するのが伝わってくる。

 けれど、トウコは気恥ずかしそうにするだけで、俺に対して線を引いたり壁を設けたりはしなかった。

 やはり、ちょっと変わった子だ。もちろん、いい意味で。

「この間、花火大会の日、君を見た。鈴、買ってたよね」

 やや踏み込んだ言い方をしてみる。

 どうだろう、さすがに不審がられるだろうか?

 俺はちらりと、トウコの表情を伺う。すると――。

「あっ、待って、ジョナサン!」

 トウコは急に立ち上がって、校庭に放し飼いにされている五羽の鶏のうち、デッサン対象なのだろう一羽のところへ走っていく。

「ジョナサン?」

 何気ない問いかけだったが、トウコはこの鶏たちを可愛がっているのか、詳しく教えてくれた。

「鶏の名前。他にもフッサール、孔子、ロジャー、真葛がいるの。学校のみんなで飼ってるんだけど、一番世話してるのは倫理の先生かな。ジョナサンだけは他から来た子なんだけどね」

 『他から来た子』――その単語が、胸の奥に無断で手を突っ込まれたように、嫌に耳についた。

「……だから一羽だけ浮いてるのか」

 少し暗い調子でそう呟いた俺に、トウコが不思議そうに振り返る。だが、俺が何も言わないでいると、彼女はまたデッサンに戻った。

「放し飼いだから、描きづらいったらないのよ」

「なら、小屋に入れればいいのに」

 トウコに悪気はないとわかっている。なのに、どうしても言葉に棘が出てしまう。気を落ち着かせなくては。俺は立ち上がり、ジョナサンなる鶏をよく見てみようと歩み寄る。

「私の勝手で小屋に入れるなんてできないよ。かわいそうだし」

 何気なくそう呟く、トウコ。

「なんでジョナサン逃げないの? すごいね」

 確かに、ジョナサンは俺が近づいても反応らしい反応を見せない。

 いや、それよりも、俺はまた彼女の言葉に引っかかりを感じてしまう。

「……かわいそう?」

 それはつまり、小屋に入れるのを良しとは思ってないということ。

 言い換えれば、放し飼いの肯定だ。

 けれど、彼女はきっと、知らない。

「好きなとこ歩けたほうがいいでしょ?」

 色んな街を見られて楽しそう、自由な生活が羨ましい――誰もが口々に言った。

「それはトウコの価値観だろ」

 あてどもなく歩き回ることが、いいことばかりとは限らない。

 小屋の中での生活だって、そう悪いことばかりじゃないはずだ。

 一つの場所に留まる人々ほど、そのかけがえのなさに気づかない。

「ええっと、自分から檻に入る動物なんていないし……」

「それは彼らに、選択肢が不足しているからだよ」

 生まれてからずっと同じ街に住み続けるのか。

 それとも、飛び回るように様々な街を移り住むのか。

 子供の俺には、母さんについていく以外の選択肢はなかった。

 それが間違っていたとは思わない。

 けれど、もしも、自分の意思でどちらかを選べたなら。

 あんな経験をすることもなかったんじゃないか?

 仮にしたとしても、それは俺自身で選択した結果なのだと、納得できたんじゃないだろうか?

「ここは港町だし、猫もたくさんいる。――襲われる可能性は考えない?」

「魚でお腹いっぱいだから大丈夫っ! ……たぶん。今まで猫に襲われたっていう話、聞いてないし……」

「猫以外は?」

 直接的な外敵なんかではない。

 もっと概念的なものに、不意に襲われる可能性。

「ジョナサンは飛んで逃げ――」

 そう言いかけて、彼女は俺のことを見、ぎょっとしたように表情を強張らせる。

「へ……?」

 自分でもわかっている。こんなの、幼稚な八つ当たりでしかないと。

 本気で彼女を困らせたいわけでも、ジョナサンを傷つけたいわけでもない。

 それでも、つい、試したいと思ってしまった。

「いったいなに!?」

 俺の醸し出す不穏な雰囲気に、彼女が焦ったような声を出す。

「……飛んで逃げるんだろ」

 他にどうしようもないなら、そうするしかないだろう。

「俺は敵? 味方?」

 唐突に現れる、強大で、自分ではとても太刀打ちできない、何か。

 ちょうど、ジョナサンにとっての、今の俺のような。 

 そんなものに襲われたときには、どうするのが正解なのだろう。

 敵として、戦いを挑んで必死に抗えばいいのか?

 味方のように、自らの一部として受け入れるしかないのか?

 それとも、飛び立って、捉われないよう、どこまでも逃げる?

 ジョナサンは、どうするだろう? 俺はどうすればよかった? あるいは彼女なら――。



「それならジョナサンは、私が守るからっ!」



 想定していなかった答えに、面食らった俺は、言葉を失った。

 ……守る? 君が――?

 彼女はジョナサンを庇うように俺の前に立ち塞がり、決意に満ちた瞳で見つめてくる。

 素直で、暢気そうで、少し天然風な女の子――そんな素朴な印象が、上書きされる。

 俺の《未来の欠片》に何らかの変化を齎したかもしれない存在。

 フカミトウコは、どうやら、かなり変わった子のようだった。

 *

 あんなことをしでかして、結局、俺は彼女に《未来の欠片》のことを切り出せずに終わった。

 けれど、もちろん、一歩目で躓いたくらいで諦めるつもりはない。

 狭い街だからだろう、少し聞き込みをするだけで情報は手に入った。

 彼女――深水透子は、普段はカゼマチという喫茶店に数人の仲間とたむろしているらしい。

 早速、俺はその喫茶店を訪れた。

 からん、と、どこか懐かしい音色でカウベルが鳴る。

「いらっしゃいませー」

 すらりと背の高い、大きなリボンが特徴的な子に迎えられ、好きな席に座るよう案内される。

 俺は手近な席に落ち着いて、店内を見回す。すると、奥のテーブル席に透子の後ろ姿を見つけた。

 話しかけるタイミングを伺っているうちに、先ほどのリボンの子がエプロンを脱いで透子のいる席へ向かう。

 俺は静かに席を立った。

「なんでいきなりあんなことしようと思ったの?」

「えっと……転校生がね、三年で、ダビデみたいな――」

 近づくにつれ、壁で遮られていたテーブル席の様子が見えてくる。

 集まっているのは、透子とリボンの子を含めて、五人。

 最初に俺に気づいたのは、透子の正面に座るリボンの子だった。

「……ん?」

 そして最後に振り返ったのが、当の本人。

「俺のこと?」

「あっ……!?」

 背後から話しかけたせいか、透子はかなり驚いた様子だったが、わりあいすぐに気を取り直し、物言いたげな仲間たちのほうへ向き直った。

「紹介します。ええっと、名前は――」

「沖倉です」

「沖倉ダビデ?」

 カチューシャで前髪を上げた男が、そんなとぼけたことを言う。きっと人が良いのだろう、彼からは敵意を感じない。

 ただ、彼の隣にいる眼鏡の女の子、それに透子の隣にいる目つきの鋭い男からは、かなり不興を買っているように思う。

 リボンの子は――どうなのだろう、じろじろと俺の顔を見てくるが、敵意よりは興味を持たれている感じだ。

「私、ジョナサンのこと考えているつもりで――」

 透子が昨日のことで俺に何か伝えようとする。だが、その言葉は途中で遮られた。

「ってか、なんだ?」

 がたっ、と目つきの鋭い男が立ち上がる。背が高い。それに何かスポーツをしているのか、身体が引き締まっている。凄まれると、なかなかの迫力だ。

「男子がいるのは想像の範囲内だったけど……」

 透子に話しかけただけでこんなに睨まれるとは――ちょっと厄介だな。

「なんなの?」

 男に続いて、今度は眼鏡の女の子が立ち上がった。よほど俺が不審に見えるのか、あるいは、透子が仲間内でかなり大事な立場にいるのか。リボンの子も、二人の不穏な反応を見て、俺という異分子に警戒心を抱く。

 長居するのは得策ではないらしい。用件だけを告げて、退散するとしよう。

「――透子」

 《未来の欠片》について、どうやって切り出すか、いくつか用意してきた。

 その中で、最も手短でかつ端的な台詞を、俺は口にする。

「俺はあの日、君と同じものを見た」




唐突な当たり前のグラスリップSSです。

このSSは完全かけるくん視点なのでヒロくんはもうラストまで出てきません。

第2話はしばらくしたら更新します。


 †

 その《声》のことは、母さんにも、もちろん父さんにも、話したことはない。

 あれは、忘れもしない、あの夏祭りの日。

 家へと続く道を悄然と歩いていた俺の元に、それは通り雨のようにふらりとやってきた。



《――またな――》



 その時は、何かの空耳かと思い、気にも留めなかった。

 しかし、その街を出ていくことになって、みんなに別れを告げたとき。

『……またな』

 無理に笑って再会を約束する自分の声に、俺は強い既知感を覚えた。

 以来、俺はその《声》を、それなりの頻度で耳にするようになった。

 大半は意味のないノイズだったり、おぼろげで何を言っているのかわからなかったりしたけれど、かろうじて聞き取れた《声》は、ほとんどの場合、少しあとになって俺が言うことになる言葉だった。

 母さんのあとについていくのに精一杯で、自分が今どこにいて、次にどこへ向かうかもわからなかった幼い俺にとって、その《声》は闇夜の灯台のように感じられた。

 今はまだ不完全な俺だけれど、その《声》の示す場所へ向かうことで、いつか完全な形を手に入れることができるかもしれない……。

 いつしか、俺はその《声》を待ち望むようになった。

 《声》について、もっと多くのことを知りたいと思った。

 少しでも《声》の正体に近づければと思うようになった。

 そしてついには、《声》それ自体が、現実の、現在の俺の欠落を補ってくれる、何かの部品のようなものなのではないか、と考えるようになった。

 胸にわだかまるこの気持ちを、いつか埋めてくれる小片。

 ゆえに。

 暗い海の底か、あるいは、はるか遠くにある大地にでも落ちていくような感覚の中で。

 藁に縋るような、淡く、それでいて切実な期待を込めて。

 俺はその《声》に、《未来の欠片》という名をつけた。

<第2話 ベンチ>

「俺はあの日、君と同じものを見た」

 そう告げた俺に、透子は何も答えることはなかった。

 代わりに反応したのは、周りにいた透子の友人たちだ。

「同じものって……」

 カチューシャの彼は、状況についていけない、と戸惑っている様子。

「あんた、透子のなに?」

 目つきの鋭い彼は、俺への敵意を隠そうともしない。

「ちょっと」

 そんな彼を諌めるのは、気の強そうなリボンの子。だが、彼は構わず質問を重ねた。

「ここにも透子に会いにきたわけ?」

「ああ」

「ああ、って……」

 そんなの見ればわかるだろう、と開き直った態度で肯定した俺に、彼は言葉に詰まったようにうめいた。

「どうして場所がわかったの?」

 鋭い質問をしてきたのは、眼鏡の女の子。直情的な彼よりも、彼女のほうが手強そうだ。俺は誤解されないよう、なるべく正直に答える。

「ここが君たちのたまり場なんだろう?」

「そうだけど……」

 次なる質問はなかった。しかし、会話が途切れたことで、かえって彼らからの視線が痛い。透子の返事はまだ受け取っていないが、これ以上待ってもさらなる面倒が起こるだけだろう。

「明日の十一時、麒麟館の展望台で待ってる」

 透子の耳元に囁き、俺は踵を返す。透子が困惑したように振り返り、例の彼氏が声を荒らげて俺を呼び止めたが、一切を無視して俺は店を出た。

 *

 そして、翌日。

 父さんの家のリビングのリクライニングソファの上で、俺は母さんの演奏する夜想曲を聴いていた。

『昨日は随分と思い切りがよかったな』

『けど、確実に反感を買った』

 仕方がなかったんだ。時間も無限ではない。少し強引なくらいでないと。

『俺にしか聞こえない《声》なんて、よくわからないものに巻き込むんだからな』

『それでも、周りの彼らはまだ、適切な距離を置けばいいさ。ただ、深水透子――彼女には、どうしたって迷惑を掛けることになる』

 そこは、俺も彼女に悪いと思ってる。でも、だからこそ急がなければならない。

『彼女も受験を控えているだろうから、期限はこの夏休み中か』

『忙しくなりそうだ』

『でも、ようやく巡ってきたチャンスだ』

『逃すわけにはいかない……な』

 《俺》の言う通り。

 こんな偶然はきっと、最初で最後。

 今まで形のはっきりしなかった《声》――《未来の欠片》。

 その正体に迫る手がかりを、俺はあの花火の日、《やっと見つけた》。

 ずっと知りたかったことが、わかるかもしれないんだ。

 掴もうとしても掴めなかった、《未来の欠片》の本当の意味。

 不完全な俺に足りないもの、今の俺に欠けているものが、一体なんなのか。

『何はともあれ、今日の約束に深水透子がどう応じるかだ』

『彼女の協力は必要不可欠なんだから、うまくやれよ』

 わかってる……やれるだけのことはやるさ。

 決意を固めると、俺は逸る心を鎮めるため、母さんの演奏に集中する。

 深く呼吸をして、身体の力を抜いていく。

 そうして音楽に聴き入り、無心になれたかと思った、次の瞬間だった。



《――あなたの欠片は見つかった?――》



「っ……!?」

 またしても、かつてないくらい、はっきりと聞こえる《声》。

 それも俺のじゃない――『深水透子』の《声》だ。

「……油断した……」

 母さんの演奏を聴いていると《声》を聞きやすいのは、わかっていたはずだ。

 ただ、『深水透子』の《声》が聞こえるというのは、完全に想定外。

 これは……しかし、やはり彼女が何らかの鍵を握っているということなのか?

「済まないな、部屋の準備が間に合わなくて――」

 聞こえた《声》について考えを巡らせていると、ダイニングにいた父さんが話しかけてきた。

 庭のテントのことで詫びられたが、好んでああしているのは俺だ。今までふらふらと各地を飛び回ってきたから、急に自分の部屋ができるのは違和感があった。

「そうだ、これから出かけるから、昼飯いらないよ」

 そう伝えると、父さんは冗談めかして返した。

「なんだ、デートか?」

 デート――言われて、俺ははたと気づく。

 同年代の女の子と待ち合わせるのは、客観的に見れば、そういうことになるのか。

「……うん」

 まさか『《未来の欠片》の正体を探るため』とも言えず、俺は頷いた。

 それにしても、デート、か。

 昨日喫茶店で会った深水透子と、彼女の友人たちの姿が思い浮かぶ。

 たが、今更後には引けない。

 俺にできるのは、俺の我儘で起こる面倒が少しでも小さくなるよう、祈ることくらいだった。



 来ないという可能性も考慮していただけに、女の子一人が同伴しての登場とは、昨日の突貫はかなりの成果を上げたと考えていいだろう。しかし――、

「やあ、こんにちは。君は昨日の……」

「永宮です」

 同伴者がこの眼鏡の子――永宮となると、かえって対応は難しい。彼女に下手なごまかしは通じないだろう。何もかもを喋るわけにもいかないが、話せる範囲で誠意を見せるしかない。

「永宮は、透子が心配でここにきた?」

 答えがイエス以外にありえないのは、俺を睨む永宮の表情でよくわかった。

 腹の探り合いでは埒が明かない。ここは単刀直入にいこう。

「どうしたら君の信頼を得られる?」

「透子ちゃんに近づかないで!」

 拒絶――永宮は、得体の知れない俺を端から信用していないらしい。

 となれば、信じるか信じないかではなく、損か得かで決断を迫るのがいいか。

「……もし、俺が透子の悩みの一部を解決できるって言ったら、どうする?」

 確証はないが、起こった現象や透子の反応から、俺はある仮説を立てていた。

「透子には、何かきっかけがあると、幻覚のようなものが見えるんじゃない?」

 あの花火の日、それまで《声》だけだった俺の《未来の欠片》に、《映像》が付随した。

 もし、その変化を齎したのが透子なら、その《映像》はきっと彼女に由来するもののはず。

 その先は俺の体験からの類推でしかなかったが――、

「さっちゃん、私、沖倉くんと話したい」

 どうやら、そう的外れではなかったようだ。

「でも……」

 永宮はなおも反対したが、最終的には透子の意思を尊重することに決めた。

「透子ちゃんを、助けてくれるのよね?」

「……恐らく」

 俺と短いやり取りを交わし、永宮は俺と透子を残して席を外す。ただし、

「うちのグループ、恋愛禁止だから」

 そう、しっかりと釘を刺していく。

 ……父さんといい彼女といい、やはり、そういう捉え方になるのか。

 しかし、永宮の懸念は少しだけピントがズレている。

 俺は透子とそういうことをするつもりはないし、透子にもその気はないだろう。

 だから、何かあるとすれば、それはきっと、俺が現れたことで仲間内の人間関係が変化する、という形で訪れるに違いない。

 部外者の俺に気を取られて、近くのものを見落とすようなことにならなければいいが――。

「そういうの、すぐ崩れると思うけど」

 釘を刺された意趣返し、というわけではないが、やんわりと警鐘を鳴らしてみる。

 永宮は細い眉を顰め、それから心配そうに透子を一瞥すると、静かに階段を降りていった。

 *

 いざ透子と二人きりになってみると、自分でも意外だが、多少の緊張があった。

 それもこれも父さんや永宮の一言のせいだ――というのは、さておき。

 あまり長い間二人でいると、永宮が上がってくるかもしれない。

 限られた時間の中で、うまく説明できるといいのだが……。

「透子は自分の才能についてどう考えている?」

「自分の才能?」

「能力と言い換えてもいい。君の幻覚の話」

 手短に、かつ端的に――そんな俺の急いた気持ちを察してか、それとも単なる天然か、透子は言う。

「あの、外に出ない?」

 ……この子と話していると、ペースを狂わされてばかりだな。

 *

 クーラーの効いた室内から外に出た瞬間、痛いほどの日差しが肌を焦がした。

「暑い……」

 自ら進んで外に出たはずの透子だが、早くも後悔しているようだった。

 どこまでも飾らないというか、感情がそのまま表に出るというか、少し抜けてるというか。

 その屈託のない横顔を見ているうちに、俺は自分が彼女にひどい詐欺を働いているような、心苦しい気持ちになってくる。

「俺、透子に謝りたいことがある」

「え?」

 いきなり謝罪を申し出られた透子は、そうだっ、と見当をつけて、まったく見当外れのことを言った。

「あんな一方的に約束して、もし来なかったらどうするつもりだったの?」

「そのときは何度でも会いに行くさ」

 なぜそんなわかりきったことを訊くのだろう。

 まあ、それはいいとして、まずは謝罪からだ。

「今日、少し油断してたんだ。だから、透子の《声》を聞いてしまった。ごめん」

「あの、意味がよく……」

「断りもなく、未来の《声》を聞いてしまったから」

「私の、未来の声?」

「うん」

 言いながら、俺は透子の反応を伺う。

 すると、彼女はどういうわけか瑣末なことをぶつぶつと呟き始めた。

「……謝るってことは、誰にも聞かれてないと思ってお風呂場で歌を歌ってたり、いや、そんなことより、まさかテストの点、呟いてないよね……」

「どっちでもない」

「よかったぁ」

 透子はほっと安堵のため息をつくが、その様子がどこか空とぼけているように見えて、俺はつい意地悪なことを言ってしまった。

「悪いの」

「え?」

「テストの点」

「フツーそこ聞かないよ、察して!」

 今度はむうっと頬を膨らませる。ころころとよく表情の変わる子だ――と、脱線はこれくらいにしなくては。

「信じてくれるんだね?」

「今、ウソだっていえば許すよ、三秒ルールで」

「……嘘じゃない」

 真剣な声音でそう言って、俺はまっすぐに透子を見つめる。

 透子は俺の視線から逃れるように俯き、黙り込んでしまった。

 先ほどまで豊かに変化していた表情が、強い日差しに翳る。

 悄然と肩を落とすその姿に、俺は自分の性急さを悔いた。

 この子は――透子は、たぶん、自分の不安や動揺を胸の内に抱え込むきらいがあるのだろう。冗談みたいなことを言ったのも、場を和ませようとしてのことかもしれない。だとしたら、悪いことをした。

「……こないだの祭りの日」

 彼女を不安にさせないよう、俺はなるべく穏やかな口調で、そう話を続けた。

「俺は初めて《映像》と《声》――両方の合わさった《欠片》を見た」

「かけら……?」

 透子は俺の言い回しに首を傾げたが、心当たりがあったのだろう、これまでで一番それらしい反応を見せる。

「声を聞いたの……初めてだった」

 あの日、俺が聞いた《声》は透子にも聞こえていたらしい。俺はさらに続けた。

「俺の聞いてきた未来の《声》。それを俺は、《未来の欠片》と呼んでいる」

「未来の、欠片――」

「透子に見えているのもそうだ」

「っ、私に未来が見えるの!?」

「恐らく」

「どうやって……!?」

 未来という要素に心を引かれたのか、透子の声に明るさが戻り、話はとんとんと進んでいく。

「幻覚のようなものが見えるとき、何かきっかけがあるだろう?」

「……うん」

「それがあると、たぶん見えやすい」

 すると、透子は首から下げたネックレスの飾り玉に触れた。

「ガラス、でいいの?」

「うん。きらきらしたものとかなんだけど、ガラスが特に」

「じゃあ、そのまま、ガラスに意識を集中させて」

 百聞は一見に如かず――この場で互いの体験を共有することができれば、透子の不安や悩みもいくらか和らぐに違いない。

 透子はガラスの飾りをじっと見つめる。俺も母さんの演奏を聴くように集中を高める。

 果たして――『それ』は起こった。

 最初に『見えた』のは、鮮やかな静止画。

 昼間の日乃出浜港駅のホーム。

 線路の上に並んで立つ、透子の四人の友人たち。

 そして反対側には、一人で立つ透子。

 そのイメージはやがて中心に向かって歪み、直後、



《――私も、未来が見たいの――》



 透子の《声》が、『聞こえた』。

「……今の、私?」

 透子が驚きに満ちた表情で俺を見上げる。思っていた以上の収穫に、俺は自信を持って頷いた。

「やっぱり君がいると、俺にも《映像》が見える」

「こんなにはっきり見えたこと……今までなかった。それに声まで」

 自身の《未来の欠片》の変化を反芻する透子。と、彼女は小さな疑問を口にした。

「でも、どうしてこれが未来だってわかるの?」

 改めて問われると、客観的な根拠はない。あるのは経験則のみだ。

「俺がそうだったからとしか」

「ん……?」

 納得しているような、いないような、なんとも言えない表情。

 もちろん《未来の欠片》には不明な点も多い。というか、そこを解明したくて、俺は今こうして透子と一緒にいる。初回でこれだけの結果を出せたのだから、十分だといえよう。

「今の通り、二人の時は《映像》と《声》、両方がわかるんだ」

 俺がまとめると、透子は、きょとん、と大きな瞳を俺に向けた。

「それを知って、どうするの?」

「っ…………!」

 どうする――?

 素朴な質問に、俺は虚を衝かれた。

 俺にとって《未来の欠片》は、それ自体が目的であって、何かを為すための手段ではない。

 俺が完全な形になるのに、《未来の欠片》を拾い集めることが必要だというだけ。

 そして透子といれば、よりはっきりとした《未来の欠片》を手に入れることができる。

 今日のような実験を繰り返せば、さらに鮮明で、意味のある《未来の欠片》を聞いたり見たりできるかもしれない。

 そう思って俺は透子に声を掛けたわけだが――。

 《未来の欠片》を集めて……それで、俺はどうする……?

 欠落が埋まって、完全な形になれたとして、それから先のことは……?

 ――ダメだ、考えがまとまらない。いや、でも、とりあえず今はわからないことがたくさんある。なぜ透子がいると《未来の欠片》が変化するのか。その変化にどんな意味があるのか。この夏休みのうちに、できる限り調べておきたい。

「一応これ、番号」

「これって、もしかして家電!?」

 やたらと驚かれたが、理由はよくわからない。

 ともあれ、そろそろ切り上げ時だろう。続きはまた、なるべく早いうちに。

 *

 家に帰ってからも、透子の問いに対する明確な答えは出なかった。

 考え過ぎで疲れた頭をすっきりさせようと、俺は海沿いを走ることにした。

 その途中、俺は透子の友人の一人に会った。

 イミ、ユキナリ。

 喫茶店で透子の隣に座っていた、目つきの鋭い彼。

 お互い名乗りあっただけで、他に言葉は交わさなかったが――。

 俺を追い抜き、ぐんぐんと遠ざかる背中が雄弁に語っていた。

『負けねえからな』

 と。

 *

 次の日の夕方、家の電話が鳴った。

「はい、沖倉です」

『あの! あ、えっと、深水ですけど、同じ学校の』

「ああ、俺だよ」

『あっ、沖倉くん、あのね――』

 小さく息を吸い込んで、透子は言う。



『私、未来が見たいのっ!』



 瞬間、麒麟館での《未来の欠片》が脳裏を過ぎる。



《――私も、未来が見たいの――》



 透子もそうだったのだろう、はっと息を飲む音が、受話器を通して間近に聞こえた。

 †

 山登りは、元々は父さんの趣味だった。

 子供の頃は、正直、父さんとの山登りにはあまり気が乗らなかった。

 大人の足ならなんてことのない山道も、子供の足にはかなりきつかった。景色だってほとんどの道のりはただ木々が見えるだけで退屈だった。

 それでも、一度習慣になったことは、なかなか抜けないもので。

 一人になりたいとき、考えを整理したいとき、気分を変えたいとき、俺の足は自然と山へ向いた。

 丈夫な靴とバックパックがあれば事足りるくらいの、そう高くない、街からもさほど離れていない山を、散歩感覚でぶらぶらと巡る。

 身体が成長し、歩幅が大きくなるにつれ、それは俺自身の趣味になっていった。

 しっかり自分の足で歩けるようになったことで、物事の感じ方や、景色の見え方が変わったのだろう。

 大人になるって、たぶん、こういうことなんだと思う。

 背が伸びて、力がついて、色んなことを知って、苦手だったことも楽しめるようになる。

 けれど、それでも、まだ歩くことを覚えただけ。

 自由に飛び回る母さんの背中は、今もなお、ずっと遠くにある。

<第3話 ポリタンク>

『あ……今の――』

 初めてガラス球越しに逆さまの風景を見たときのように、透子は《未来の欠片》が実際に『未来の欠片』であることに感じ入っていた。俺はそっと手を取るように、うん、と肯定し、話を本題に――透子が未来が見たいと言い出した件に――戻す。

「それは今から?」

『うん、今から』

 透子の声からは、何かしらの強い決意が感じられた。むろん断る理由はない。《未来の欠片》を見聞きする機会が増えるのは俺も望むところである。

「とにかく会って話をしよう。透子の家に行くよ」

『えっ?』

「これからだと、帰りが遅くなる」

『いや、それは悪いよ。私なら平気だから』

「用事を片付けてからいく」

『あっ……』

 結局、俺が押し切る形で、透子の家へ向かうことになった。

 *

『YATAGLASS
 studio』

 透子から聞いた住所に着くと、烏の意匠の看板を掲げた建物がまず目に入った。ここが透子が待ち合わせに指定した工房だろう。電気が点いていたので、俺は正面の入り口ではなく、ガラス張りになっている側面へと回る。

 透子は工房の中に一人でいた。Tシャツにジーパンというラフな格好で、髪を一つに結んでいる。作業中のようで、竿の先についたオレンジ色に煌めくガラスの表面を、特殊な紙か布のようなもので磨いていた。透子は慣れた手つきで、くるくると竿を動かし、ガラスの形を整えていく。

 俺はそんな彼女の姿を黙って見つめた。扱っているものがものだけに不用意に声は掛けられないし、それに、誰かが一心に仕事をしている姿は、それだけで絵になるものだ。

 しかし、鑑賞の時間は長く続かなかった。透子が俺の視線に気づいて振り返ったのだ。

「うっ、ああ……」

 俺に気を取られているうちに、透子のガラスは、誰の目にも失敗だとわかるくらいに、ひどく変形してしまった。

 *

 作業場の隣には、長テーブルと椅子が置かれた談話室のような部屋があり、俺はそこに案内された。

 片付けを終えた透子が、作業場の電気を消し、部屋に入ってくる。その表情はどこか暗い。先ほどの失敗を引きずっているのかとも思ったが、理由はまた別にあった。

「……やなちゃんを泣かせちゃう」

 やなちゃん――眼鏡の彼女、永宮が『さっちゃん』だったから、透子が言っているのはリボンの子のことだろう。

「未来が見えた?」

 尋ねると、透子は沈んだ面持ちで頷いた。

 俺に電話をしてから今までの間に、透子は単独で《未来の欠片》を見たのだ。

 しかし、それももっともだと、部屋に並ぶガラス製品の数々を見て、俺は思った。

「なるほど。透子のための媒体がガラスである理由はこれか」

「そうかも……」

 俺にとって母さんのピアノがそうであるように、幼少から慣れ親しんでいるものが媒体になりやすいのだろう。これも《未来の欠片》を紐解くヒントになりそうだ。

 そうして興味深く部屋を眺めていると、隣の作業場に明かりが灯った。そして――、

「あっ、お客さんだったの?」

 中学生くらいのショートカットの少女が、ひょこりと扉から顔を出し、こんばんは、と明るく挨拶してくる。

「いつも姉がお世話になっております」

 少女は透子の妹だった。かなり人懐っこい性格のようで、初対面の俺に臆する様子もない。それどころか、俺が何者なのか、透子とどういった関係なのか、好奇心に目を輝かせていた。

「今、お茶を――」

「大丈夫! 沖倉くんはもう帰るから!」

 俺を接待しようとする妹さんを、透子は強引に部屋の外へ追い出す。そして姉妹の間で短い密談が交わされ、妹さんは工房を去り、透子は申し訳なさそうな顔で俺の前に戻ってくるのだった。

 *

「ごめんね、来てもらったのに追い返すような……」

「別に気にしなくていい」

 少なくとも、透子とガラスの関わりについてわかったのは収穫だった。

 それより気がかりなのは、透子が『未来を見たい』といった理由のほうだ。

 何か、透子にとって重大なことが起きたのではないかと思ったのだが――。

「私、やなちゃんとゆきくんの未来を見たかったの」

 ぽつりと、そう零す透子。

 ゆきくん――その名がイミユキナリと繋がった瞬間、走り去っていく彼の背中が、脳裏に蘇った。

「……イミユキナリに、告白されでもした?」

 鎌をかけてみる。すると透子は丸々と目を見開いて、

「なあっ……!? なぜそれを!?」

 と大げさな身振りで驚愕をあらわにした。

 彼女の感情表現の大胆さと豊かさに、俺は少し笑ってしまう。

 だが、もちろん、端からは可笑しく見えたって、当人にとっては冗談では済まない。

 俺に言い当てられた衝撃が収まると、透子は深刻な表情で事情を話した。

「やなちゃん、ゆきくんに好きな人がいるって気づいて、私に相談してくれたの」

 イミユキナリの好きな人――そんな存在がいるとすれば、透子以外にありえないだろう。

 カゼミチという喫茶店で彼を見たときから、その可能性は考慮していた。

 なにせ彼は、あんなにもわかりやすく、透子に話しかける俺を睨んできたのだから。

「恐らく、気づいてなかったのは君だけだろうね」

「えぇ……?」

 カチューシャの彼はわからないが、やなちゃんというリボンの子が気づいたのなら、きっと永宮も気づいているだろう。

 まあ、透子がその方面に疎いのは仕方あるまい。

 いま考えるべきは、直面している問題をどう解決するかだ。

 イミユキナリが透子に告白したのは、俺の出現も原因の一つなのだろうし。

「透子は彼らの未来を見て、どうするつもりだった?」

 『どうする?』――麒麟館での透子の問いかけが脳内に反響する。

 《未来の欠片》を手段にして現実を変えようとする透子。

 《未来の欠片》そのものを追い求める俺とは違う。

 そんな彼女は一体何を求め、何を願うというのだろう?

「離ればなれにならなくて済む方法を考えたくて……」

 真剣な面持ちでそう答える透子は、やはり、俺とは根本から違っていた。

 離ればなれになりたくない――なんて、俺にはまず思い至らない。

「……叶うかどうかはともかく」

 仲間思いで、純粋で、自分の気持ちに正直で、流されやすく脆そうに見えるのに、その核は頑として堅固。

 仲間と呼べる者はなく、ひねくれ者で、嘘も平気でつけて、自分本位のように振る舞っているのに、中心を覗いてみればそこには何もない。

 別離を繰り返し、そのたびに色々なことを諦めてきた俺と、透子は、真逆の存在。

「何事にも懸命なのは、君の美点だな」

 透子は俺にないものばかり持っている。

 それは、しかし、不思議と嫌な感覚ではなかった。

 ちょうど工房の外からそうしていたように、何事にも一生懸命な彼女を、俺はいつまでも見つめていたいと思った。



「ここでいいよ、ありがとう」

 見送りは透子の家の敷地から出たところで固辞した。と、透子に呼び止められる。

「明日、山にみんなで行くの!」

 喫茶店にいたメンバーでハイキング――それがどうかしたのだろう。イミユキナリと会っても気まずくならない方法とかなら、対症療法は思いつくが……。

「沖倉くんも行かない?」

 ……本当に、この子は予想もつかないことばかり言う。

「どうして?」

「えっ!? ……その、こっちに来て友達とか、まだ少ないかなー、とか……」

 純粋な好意からのお誘いだったらしい。

 一瞬、イミユキナリと対決させられるのかとも思ったが、自意識過剰だったようだ。

 まあ、透子にその気はなくたって、俺が飛び入りで参加したら彼は黙っていないだろう。

 もちろん透子の気持ちは嬉しい。が、だからこそ俺はできるだけそっけなく返した。

「山には、一人で登るようにしてるんだ」

 角が立たない言い訳を探したが、咄嗟に思いついたのはこれくらいだった。

 すげなく断られた透子は、あからさまにショックを受けていた。その心細げな俯き顔を見ていると、前言を撤回したくなる。だが、不可能だ。仲良しグループの和をいたずらにかき乱すような真似はしたくない。透子には悪いが――。

「……じゃあ、また」

 後ろめたい気持ちを抱えながら、俺は透子に背を向けた。

 *

 その帰り道のことだった。

『見ろよ、夕日が綺麗だ』

 《俺》に声を掛けられ、俺はそちらから肩を叩かれたように、海へと視線を向けた。

 岸に泊められた船舶の向こうで、赤々と輝く、大きな太陽。

 逆光の中を影絵となって飛び交う、悠然たる鳶。

 絶えることのない波音。

 風に運ばれてくる、強い潮の香り。

『こんないい景色がすぐ横にあるのに、素通りしようとするんだもんな』

 仕方ないだろう、考え事をしていたんだ。

『考え事か。《俺》たちにも黙って、何をそんなに?』

 揶揄うような《俺》の問いに、はっと、胸を突かれたような気持ちになる。

 気づけば、古の哲学者にでもなったみたいに、一心不乱に歩いていた。

 誘いを断り、逃げるように別れてから、ここまでずっと。

 沈みゆく夕日に目をくれることなく、《俺》たちの声に耳を傾けることもなく。

 俺は、ただ、彼女のことを。

 彼女の未来や、願いや、大切な友人たちとの関係について。

 考えていたのは、そんな、他の何でもない。

 透子のことばかりだった。

 †

 自分の名前について調べてみることは、誰でも一度は経験があるだろう。

 俺――沖倉駆も、例に漏れず漢字辞典を開いた口だった。

 『馬』に、『区』。

 意味は、走ること。特に、馬に乗って。

 そこから、馬を追い立てるとか、鞭を打って走らせるとか、強要や排斥といった意味も派生する。

 正直、プラスよりもマイナスのニュアンスが強いように思った。

 同じ『カケル』ならば、『翔』のほうがずっと印象も良くなるのに、とも。

 けれど、学校で『駆』の字を習う頃には、考えが変わっていた。

 俺にぴったりなのは、『翔』ではなく、『駆』なのだと。

 俺は母さんのように大空を翔ぶことはできない。

 置いていかれないように、追い立てられるように地を走るだけで、精一杯。

 そうして必死に駆けていくうちに、何かを取り零し、掴み損ね、欠けていく。

 母さんも父さんも、俺がこうなるとわかって『駆』と名付けたのだろうか?

 いや、そんなわけはない――頭ではわかっているけれど、時々、自信がなくなる。

 自由に飛翔する母さんの姿を間近で見ていると、尚更に。

 俺は『駆ける』ことしかできない、『馬』では空は飛べないのだ、と。

 ため息をついて、ふと、ある思いつきが頭に浮かんだ。

 もし『馬』ではなかったとしたら、俺はどうなっていただろう。

 もしも、俺が『鳥』だったら――?

 ぱらぱらと漢字辞典をめくり、俺はその一字を見つけ出す。

 『鳥』に、『区』。

 ノートの余白に書きつけて、横に『沖倉』と添えてみる。

 ひどく間が抜けているような、ある意味では似合いのその名に、俺は苦笑するしかなかった。

<第4話 坂道>

 庭に張ったテントで寝起きすることにも、少しずつ慣れてきた。

 日が昇り、まどろみの心地よさと、覚醒しようとする意思とが、いつものように戦っていると、

「どうだ、住み心地は?」

 そう、テントの入り口から父さんが顔を出した。

「おはよう。思ったほど悪くないよ」

 少なくとも夏の間は保つだろう。その先のことは――まだ、わからない。

「虫、食わないか」

「ああ。……ん?」

 気遣う父さんの背後から、耳慣れた旋律。

 早朝に聴く、夜想曲。

 それは、日乃出浜に沈む夕日のように。

 あるいは、麒麟館に飾られていた、エッシャーの『昼と夜』のように。

 性質の異なるもの同士の、奇妙な融和だった。

 *

「長いこと、おまえには迷惑かけたな」

 芳ばしく薫るハムを皿に盛りつけながら、父さんはそんなことを言った。

「朝からなんだよ」

「いや、これから一緒に暮らすわけだしな。最初に少し真面目な話をしたほうがいいかと思ってな」

 改まって、なんの話だろう――まあ、候補は限られるが。

 俺は父さん特製の炙りハムに舌鼓を打ちつつ、続きを待った。

「一般的には、親の都合で子供が右往左往させられるのは……」

「扶養家族だし。まあ、ある程度は仕方ないことだよね」

「そう言ってくれると助かるよ」

 父さんの口元がふっと安堵に緩む。しかし、それはすぐ真剣な表情に変わった。

「だが、それも子供が小さくて自立できないときの話だ」

 真面目な話とは、俺の進路のことだった。

 確かに、今までの俺は、父さんの言葉を借りるなら、親の都合に合わせて生活せざるをえなかった。

 だが、高校を卒業して大人になれば、話は別。

 どこで、何をして、どう生きるのか、それは俺自身が決めること。

 わかってる。俺が父さんのところへやってきたのは、それを考えるためなのだから。

 それに、俺なりに、こうしてみたい、という漠然とした希望もある。

 母さんのようになりたい、という気持ち。

 色々な場所を飛び回るような仕事をして、生きてみたい。

 ただ、それ以上のことを考えようとすると、決まって胸の中に暗い靄が立ちこめる。

 迷っている……いや、踏ん切りがつかない、というほうが正しいか。

 不安が拭えない。躊躇いに足を取られている。

 今のままでは、いけない。

 胸に支えるこの気持ちに、どうにか決着をつけなければならない。

 そのためにも、今は彼女の……。



《――一緒に行こう――》



 その《声》は、ごく自然に、俺の耳に届いた。

 優しく、どこかへと誘う、彼女の呼びかけ。

 さらに、



《――違うのかもしれない――》



 暗い部屋で呟くような、不安げな自問。

 またしても、俺は無断で透子の未来の《声》を聞いてしまった。

 油断していた?

 ……いや、むしろ俺は今、望んでいたんじゃないか?

 『未来を見たい』と言った透子が、ほどなくして《未来の欠片》を見たように。

 俺もまた、心のどこかで彼女の《声》を聞きたいと思っていたのではないか――?

 答えを求めるように、俺は母さんの演奏を再現するオーディオプレイヤーに目を向け、ふと思う。

 俺にとっての《未来の欠片》と、父さんにとってのこれは、似たようなものかもしれない、と。

「いつも聴いてるの?」

 ずっと母さんと一緒にいた俺は、父さんがこの家で一人、どんな風に暮らしていたのかよく知らない。けれど、

「ああ。おまえがいると恥ずかしいんだが……まあ、聴いてるかな」

 少し照れつつも、穏やかに目を細める父さんを見て、俺は同志を見つけたような気持ちになる。

「俺も母さんの演奏の中じゃ、好きなほうかな」

「……そうか」

 きっと父さんは、こんな朝を何度も過ごしてきたのだ。

 離れて暮らしていても、この旋律によって、父さんと母さんは繋がっている。

 二人の子供として、俺はそのことを純粋に嬉しく思った。

 ただ、それと同時に。

 独り立ちの時が迫ってもなお決心がつかず、

 《未来の欠片》という不安定なものしか頼るよすがのない俺は、

 深い繋がりを持つ二人を、心の底から羨ましいと思った。



 朝食を済ませると、俺は出かける準備を始めた。

 透子の誘いを断った手前、というわけではないが、近辺を散策することにしたのだ。

 結論から言うと、その散策で、俺は二つのものに遭遇した。

 そのうちの一つは、人物。

 透子の友人――泣いてしまう未来が見えたという、渦中のリボンの子だった。



 麒麟館近くの坂道を下っていたときのことだ。

 近づいてくる雨の気配に、俺はバックパックから雨具を取り出した。

 そのとき、坂下に見覚えのある女の子の姿を見つけた。

 会うのは二度目で、まともに喋ったことは一度もないが、傘も持っておらず、その上、足を引きずっていた。

 さすがに無視するのは後味が悪い。

「――こっち」

 問答無用で合羽を羽織らせ、ちょうどよく蔦が屋根になっている擁壁の下にリボンの子を案内する。彼女は驚いた様子だったが、状況が状況なのですんなりと俺についてきた。

「……ありがと。一人だったら、やばかったかも」

 礼を言う彼女に、俺はとりあえず名乗ろうとしたが、

「ダビ――沖倉、カケル」

 透子か誰かから聞いたのだろう、彼女は既に俺のフルネームを知っていた。

「君、透子の友達だよね」

「高山やなぎ」

 やはり、この子が『やなちゃん』か。

 幸い、永宮やイミユキナリほどには俺を警戒していないようだ。

「足、つらそうだけど」

「ただの捻挫」

「そんな足で出歩くのは感心しないな」

 つい口調がきつくなって、自分でも少し驚く。

 透子から彼女が『泣いてしまう』と聞かされていたからだろう。

 軽率な行動を咎める気持ちが声に出てしまった。

 なぜなら、彼女が悲しめば、透子が悲しむ。

 俺は透子が悲しむ姿を見たくなかった。

「……カケル、って変な名前」

 俺の小言に反発してか、高山は揶揄うようにそんなことを言った。

 ひとまず、さほど気分を害した様子はないことに安堵する。

「やなぎ。いい名前だ。ひらがな?」

「漢字だと幽霊みたいだから、ひらがな」

 『柳』ではなく、『やなぎ』。

 彼女の名付け親が、どんな思いを込めたのか、想像を巡らせる。

「しなやかにして強靭」

「へ?」

「ひっそりとしてしたたか」

「あっ、それって――」

 名前を褒められたと思ったらしく、高山は少し笑顔を見せ、今度は俺の名前を話題に挙げた。

「カケルって――」

「馬偏に区」

 誤った変換をされないように、食い気味に答える。

 『翔』ではなく、『駆』なのだと。

「馬を走らせるとか、追い立てるとか、そういう意味。もしかしたら、名付け親は何かの欠如という意味も付加したかったのかも」

「親は子の名前にそんな意味かけたりしないと思うけど」

 もちろん、俺だってそんなことはわかっている。

 高山も「当たり前じゃない」と明朗な声で否定してくれる。しかし、

「……そう、かな」

 現に俺は今、自分が不完全であると感じる。

 何かが欠けている――そんな感覚が、影のように付き纏う。

「雨が、上がる……」

 降り始めと同様、急速に過ぎ去る雨脚。

 空を見上げれば、散らばる雨滴に光が反射して、きらきらと輝いている。

 透子なら、こういった光景でも《未来の欠片》が見えるのだろうか。

 今頃どこかで、同じように雨上がりの空を見ているだろうか。

 透子に会いたい……。

 そう、俺が思っていると。

「あっ、これありが――痛っ」

 合羽を返そうとした高山が、体勢を崩してこちらに倒れてくる。

 咄嗟にその身体を支えながら、俺は心の中でため息をついた。

 今この瞬間に透子と鉢合わせたら、不本意な誤解を生みそうだな……と。

 †

 そこは、誰からも見落とされたような場所だった。

 それでいて、誰かに見つけられることを待ち望んでいるような場所だった。

 山歩きの途中、引き寄せられるように、俺はその高台に辿り着いた。

 四方に解放されているのに、立ち寄る人はなく、閑散としている。

 重荷になるから途中で捨ててしまったみたいに、特別なものは何もない。

 そんな寂しげなところなのに、不思議と気が落ち着くのは、たぶん、ここが俺によく似ているからだろう。

 一人で考え事をするにはうってつけの場所だ、と思った。

 でも、実際に草の上に寝転がって、木漏れ日を浴びながら、ぼんやりと過ごしてみると。

 隣に誰かいてくれたら、とも思う。

 ……いや、誰か、なんてはっきりしない言い方はよそう。

 ここに深水透子がいてくれたら。

 風の音に耳を澄ませながら、俺は彼女のことを思った。

<第5話 日乃出橋>

 通り雨の日に高山と話をしてから、数日。

 工房で会って以来、透子から連絡はない。

 ゆえに、高山を泣かせてしまう、という件がどうなったのか、俺はわからないままだった。

 かといって、俺の都合で透子を呼びつけるのも気が引けた。

 恐らくだが、高山を泣かせてしまうことと、透子がイミユキナリに告白されたことは、無関係ではない。

 透子とその友人たちの人間関係に、何かしらの変化が生じている。

 発端はどう考えても、俺が透子に声を掛けたことだ。

 透子は『離ればなれになりたくない』と言った。

 透子がこの街で積み上げてきた交友関係。

 部外者の俺が不用意に透子に近づけば、彼女が大切にしているものを壊しかねない。

 事態が落ち着くか、あるいは透子から連絡があるのを待つしかなかった。

 そうして晴れない気持ちのまま山歩きに出かけ、帰りに駅の近くを通りかかった――そのときだった。

「っ……!」

 振り返れば、何やらただ事ではない様子の、高山やなぎがそこにいた。

 *

 高山に案内されてやってきたのは、急な階段の上にある小さな神社だった。

 日陰になっている社の軒下、礎石に腰を下ろし、俺は高山が何か言い出すのを待った。

「こないだは、ありがと」

「そんなこと言うために、わざわざ息切らせて追いかけて来たのか?」

 当然そんなことはなく、高山は静かに切り出した。

「……話を少し聞いてほしくて。あなたならあるでしょ? 美術室のデッサン用の石膏像に話しかけて、自分の気持ちを整理したりしたこと」

「ないけど」

「透子はあるって」

 ……揶揄われているのか、これは。

「じゃあ俺は返事しないでもいいわけ、かな?」

 石膏像扱いに不満を呈してみるが、返答はない。

 振り向くと、高山は何かの決心がついたように、顔を上げた。

 俺は要望に従い、黙って聞くことにした。

 *

 高山がまず話してくれたのは、井美雪哉のことだった。

 彼は陸上部で、一年の夏に足を怪我して以来、リハビリ中なのだという。

 今日は記録会があり、高山はそれに付き合って会場まで行ったようだった。そして、結果はというと――。

「あんまりよくなかった」

 悔しそうな表情で、高山は言う。

 俺は一度だけ見た、井美雪哉の走る姿を思い浮かべた

 それこそ翔ぶように、力強く駆けていた背中。

 あれで『リハビリ』だというのだから、怪我をする前の彼はきっと有望な選手だったのだろう。

 怪我から回復したことも含めて、彼がどれだけ陸上に打ち込んできたのかは、素人の俺にも察せられる。

 ただ、競技の世界は、結果が全て。

 今は夏で、彼は高校三年生、最後の大会も近いはずだ。

 本人も、傍らで支えてきたのだろう高山も、焦りを覚えて当然だと思う。

「未来が見えるといいのに」

 思わず、俺は高山のほうに振り返った。

 透子から何か聞いたのだろうか――そう思ったが、

「ユキは……すごい不安だと思う。みんな未来が知りたいもんだよね」

 高山の口ぶりから、ごく一般的な仮定の話だとわかり、俺は落ち着きを取り戻す。

 それにしても……『未来が見えるといいのに』か。

 現在の自分が直面している問題。

 未来が見えれば、それを解決することができる。

 透子はきっとそう考えている。だから《未来が見たい》と、彼女は言った。

「……ほんとに喋らない気なの?」

 黙考していたら、高山が呆れたように声を掛けてきたが、俺はわざと返事をしなかった。

 正直、先の見えない不安に駆られているのは俺も同じなので、的確なアドバイスができるとも思えない。

 それに話題が話題だ。《未来の欠片》について口を滑らせないとも限らない。

 そうして俺がだんまりを決め込んでいると、高山は諦めたように俺から視線を外して、

「ううん、ウチは見ない」

 決然と、そう宣言した。

 それは、小さな池に投げ込まれた石のように、俺の胸に波紋を広げる。

 未来を見ない――仮に未来が見えたとしても、彼女はそれをしないという。

 俺は横目で高山を見る。毅然と前を向く姿が、とても眩しく映る。

 透子の見た未来では、『泣いてしまう』らしい彼女。

 しかし、彼女ならば、たとえ悲しみに涙しても、それを乗り越え、前に進めるのではないだろうか。

 その名のように、しなやかに、強靭に、したたかに。

「…………」

 俺は何も言えなかった。もちろん石膏像だからではない。

 強くあろうと胸を張る高山の姿に、胸を打たれたからだ。

 同時に、そんな高山が特別な感情を抱いているのだろう、井美雪哉についても。

 彼もまた挫折を経験し、今も苦しい状況にありながら、それでも走り続けている。

 それに比べて、今の俺はどうだ……。

 透子に迷惑をかけるかもしれないから、連絡を待つしかない――本当にそれでいいのか?

 透子を思い遣っているようで、その実、透子に会って何かを変えるのが恐くて、二の足を踏んでいるだけじゃないのか……?

 とどのつまり、自分の気持ちに自信がないから。

「ウチ、ユキに告白するつもり」

 ぐだぐだと迷う俺の耳に、またしても高山の毅然とした宣言が響く。

 井美雪哉は透子に思いを伝えた――恐らくはそれを承知の上で、高山は井美雪哉に思いを伝えるという。

 その堂々とした姿に感化されて、迷いが晴れる。

 高山はさらに話を続ける。すると、おあつらえむきに透子に伝言を頼まれた。

 背中を押してもらったばかりか、口実まで与えられる。

 雨合羽の礼には釣り合わない気もするが……さておき。

 家に帰ったら、透子に電話を掛けよう。

 そう、俺は決めた。



 家に帰ると、父さんがきまりの悪そうな顔で待っていた。

「さっき、女の子からおまえに電話があったぞ」

 透子だ。間違いない。

「私をおまえだと思ったみたいでな。『あの夜に言われたこと』がどうこうって……結果的にだが、おまえたちのプライベートに立ち入ってしまった。しかも相手は若い娘さんだ。本当に申し訳ない」

 電話を取った相手を確認せずに喋り出す透子の姿が目に浮かぶ。そして、相手が俺ではなく父さんだとわかったときの、頓狂な反応も。

「お詫びと言ってはなんだが、ちょうどおやつどきだし、軽食でもご馳走しようと思うんだ。ついては、駆……今から彼女をうちに招待してはどうだ? 彼女もおまえに用があるようだったしな。もちろん、おまえと彼女さえ良ければだが」

 なんだかんだ言って、父さんも透子に興味があるらしかった。



 父さんから話を聞いてすぐ、俺は透子にリダイヤルした。ちなみに父さんは気を遣ってリビングから出ていった。

『はい、深水ですけど』

 電話越しだが、本物の透子の声。久しぶりに聞くような気がする。

「やあ。さっきは留守しててごめん」

『あっ、いや……あの、さっき』

「若い娘さんに申し訳なかったって、親父が謝ってたよ。俺からも」

『私が勝手に間違えただけだから……』

 少し間が空く。俺は小さく息を吸い込み、なるべく自然な調子で尋ねた。

「今からうちに来ないか?」

『えっ?』

「もし君に時間があるなら、親父がお詫びに手料理ご馳走したいってさ」

『手料理!?』

「親父、一人暮らしが長かったんで、料理うまいんだ」

『いや、でも――』

「俺になんか用だったんだろ?」

『えっ……それは、そうなんだけど』

 気後れしているのか、遠慮がちな透子。でも、ここで引き下がるわけにはいかない。俺は押しの一手で続けた。

「俺も君に、伝えなきゃならないことがあるし」

『――え?』

「うち、わかる?」

『あっ……わからない……』

 そうして半ば強引に、俺は透子を家に招いたのだった。



 透子に電話を掛けてから、一時間ほどして。

 俺と透子は、俺の部屋という名のテントが張られた庭でコーヒーを飲みつつ、父さんの料理が出来上がるのを待っていた。

「……あの」

 話を切り出したのは、透子が先だった。電話で父さんに話したことかと思ったが、どうも違うらしかった。

「こないだ、ほら、にわか雨の日、麒麟館の坂道で……」

 躊躇いがちに言って、俯く透子。

 彼女がなんの話をしたいのかはすぐにわかった。

 まさか本当に目撃されていたとは。しかも案の定、あらぬ誤解をされているらしい。

「……見てたのか。でも俺は高山を抱きしめてたんじゃない。支えてたんだ」

 努めて淡々と、言い訳がましくならないように注意しながら――途中、透子が何か呟いたような気もしたが――俺は続けた。

「彼女、足を痛めてて。知ってるだろ? で、坂道でこけそうになって――」

 ちらりと透子の反応を伺う。ものすごい形相でこちらを睨んでいた。

 ……誤解は解けたのだろうか? 定かではない。が――、

「ま、大したことじゃない」

 この話はここで終わらせるのが最善だというのは、いくら俺でも理解できた。

 それに、大したことじゃない、というのは実際その通り。

 ちょうど高山の話が出たことだし、大したことがある用件のほうを話すとしよう。

「でも、今日来てもらった俺のほうの理由は、その高山のことなんだ」

 昼間に石膏像として聞いた内容を、俺は一息に告げる。

「高山、井美雪哉に告白するらしい」

「…………え?」

 透子は、ぽかん、と口を開けた。どうやらうまく伝わらなかったらしい。俺は放送委員にでもなったつもりで、同じことを繰り返す。

「だから、高山が、井美雪哉に告白するらしい」

 やがて理解が追いついた透子は、ひどく混乱した様子で声を張り上げた。

「なにっ!? なになに!? どうしてやなちゃんのそんなこと知ってるの!? 未来を見たの!?」

「本人から聞いた」

「ええっ!?」

「君に伝えてほしいと頼まれた」

「えええええーっ!?」

 慌てふためく彼女の姿は――透子には悪いが――とても可愛らしかった。

 *

 ひょっとすると、俺は気恥ずかしかったのかもしれない――というのは、後から気づいたことだ。

 高山からの伝言を透子に伝えると、途端に俺の口は、チェーンの外れた自転車のように回らなくなった。

 食事の席について、父さんがいたから話しにくいというのもあったのかもしれないが……。

 本来、高山の伝言は口実に過ぎず、俺自身が透子に伝えたいことがあったはずなのに。

 思いがけず聞こえてくる透子の《声》について話したかった。

 あの夜から今まで、透子が何を考えて過ごしてきたのか訊きたかった。

 《未来の欠片》のことを深く知るために、また透子に力を貸してほしかった。

 あるいは、もっとプライベートなことも――井美雪哉の告白にどんな返事をしたとか――知りたかった。

 結局、透子との会食は、父さんが話すのに相槌を打っているうちに終わった。

 料理に満足している透子の顔が見られたのは嬉しかったが、これではただの伝言係だ。

 何か言わなければ。

 他の誰かではなく、俺自身のことを、伝えなければ。

 このまま付かず離れずの距離でいたって、何も変わらない。

 踏み出して、踏み込んでみようと、決めたはずだろう――。

「なんかすっかりご馳走になっちゃって」

 見送りの玄関、靴を履き終えて、扉の前に立つ透子。

「お邪魔しました」

 何を躊躇う? 何を怖がる? いつまで同じことを繰り返す?

「それじゃ……」

 なんでもいい、透子に伝えたいこと、聞かせたいこと、本当はたくさんある、そのたった一つでいい――。

「――こないだ、面白い場所を見つけた」

 前置きもなく切り出すと、扉に手を掛けた透子が、「ん?」と振り返る。

「すぐ近くなんだ。見つけたとき、どうしても君をつれていきたくて、いつか誘おうと思ってた。これから行ってみないか?」

 決心が鈍らないよう、俺は一気にまくしたてる。

 その勢いが功を奏したのか、透子は、うん、と小さく頷いた。

「……待ってて。すぐ用意する」

 必要なものを取りに、俺は家の中へ引き返す。

 心臓がどくどくと高鳴っているのは、きっと、無駄にばたばたと動いたせいばかりではない。

 *

 そこは、あの通り雨の日に、たまたま遭遇した二つのうちの、もう一つ。

 家から山のほうへ少し歩いたところにある高台、木々がまばらに生えた、開けた場所。

 そこだけ人の目から見落とされたような、ひっそりとした空間。

 道も通ってなければ、ベンチの一つも置かれていない。

 それでも、葉の擦れ合う音や、野鳥のさえずり、木漏れ日の暖かさが、俺をとても穏やかな気持ちにしてくれる。

 なんて、言葉ではうまく説明できる気がしなくて、とにかく俺についてくるよう透子に言って、あとはひたすら無言で歩き続けた。

 やがて、目的の場所に辿りつく。

 そよそよと風が吹き、さわさわと木々が囁き合う。

「……あっ……」

 後ろをついてくる透子が、静かに息を飲んだ。

 たぶん、ここを気に入ってくれたのだろうと思う。

 そのことに俺はひどく安心し――情けないことに――その瞬間に緊張の糸が切れてしまった。

 しかし、気持ちはいくらか上向いたように思う。

 自分にとって特別な場所を、自分にとって特別な存在が、受け入れてくれた。

 それだけで何か得がたい繋がりを手にしたような気持ちになる。

 事ここに至っては言葉など不要――いや、飾らずに言おう。

 今の俺の対人能力では、これが精一杯だった。

「………………」

 何も言わず、俺は草の上に寝転がり、目を閉じる。

 すると、それがここでの作法と思ってくれたのか、透子も同じように横になった。

 夏草のベッドがさわさわと涼やかな音を立てる。

 風に乗って透子の呼吸が伝わる。

 緊張から解放された心地よさと、透子がそばにいる安心感で胸がいっぱいになる。

 ほどなくして、俺はまどろみの中へと落ちていった。



 ……そうして、どれくらい経っただろう……。



 指先に何かが当たったような感触がした。

 がさがさ、と透子が慌てて起き上がる音が聞こえる。

「ん……?」

 俺が目を開けて身体を起こしたときには、既に透子は立ち上がっていた。

「今日はありがとう。すっごくおいしかった。お父さんによろしく。私このまま帰ります。さようなら」

 箇条書きにされたメモを読み上げるように言って、透子はぱたぱたと元来た道を走っていく。

 俺は何か言わなければと口を開くが、結局、ぼんやりと見送ることしかできなかった。

 透子を引き留めるための適切な言葉が出てこなかった。

 でも、それも当然かもしれない。

 確固とした理由や口実なんて、初めからありはしないのだから。

 ただ、もう少し君とここにいたかった――なんて。

 俺の胸にあったのは、そんな漠然とした気持ち一つ。

 そんなもの、そのまま本人に伝えられるはずもなく。

「……透子の用事、まだ聞いてないぞ」

 もう見えない透子の背中に向かって、ぽつりと、俺は未練がましく呟いた。

 †

 あの夏祭りでの出来事は、俺のその後に大きな影響を与え、また様々なものをもたらした。

 そのうち一つは、不思議な《声》――《未来の欠片》。

 もう一つは、《俺》という存在だ。

 初めて《俺》が現れたのは、移動中だった。

 古い街を去り、新しい街へ向かう道すがら。

 俺は母さんの運転する車の助手席で、あの夏祭りのことや、その帰り道で聞こえたよくわからない《声》、そしてその《声》が時を置いて実際の俺自身の声になったことなんかを、とりとめもなく考えていた――そのときだった。

『あの《声》は、先のことを暗示する予知夢みたいなものなのかもな』

 サイドミラーに映る自分が、こちらに向かって話しかけてきた。

『もしくは、俺の秘められた能力が目覚めたのかもしれない』

 その《俺》は、俺の頭の中の、浮かんでは沈む思考の断片を掬っているようだった。さらに、

『未来の《声》をラジオのように受信する力、とかか?』

 最初の《俺》とは微妙に違う《俺》が、《俺》と意見交換を始める。

 《俺》たちの議論を聞くうちに、俺は自分の中で考えが整理されていくように感じた。

『まあ、なんにせよ情報が足りないな』

『同じようなことがまた起きれば、いずれあれがなんなのかもわかるだろう』

 それからというもの、《俺》たちはわりと頻繁に現れるようになった。

 あの《声》に《未来の欠片》という名称をつけたのも、《俺》たちがきっかけだった。

 今となっては、《俺》たちは俺の一番の友人といっていいくらい、ごく自然に俺とともにある。

 何か大きな問題に直面したときや、一人では抱えきれない感情の揺らぎが生じたときに、俺と《俺》たちはその負荷を等分して、俺自身の負担を軽減する。

 透子が、何かややこしい出来事があると、急に饒舌になって動揺を紛らわせようとするのと同じ。

 胸に収まりきらない気持ちを、それでも自分の中に閉じ込めようと、足掻いた結果なのだった。

<第6話 パンチ>

 透子に驚愕されたテント生活だが、利点を一つ挙げるなら、目覚まし時計が要らないことだろう。

 なにしろ幕一枚隔てた先は屋外だ。自然と、日の出と目覚めが同期する。

 いつものようにのそのそとテントを出て、庭の水道で顔を洗う。

 すると、水音に交ざって、ピアノの音色が耳に届いた。

 栓を締めて水を止める。リビングから漏れるのは、母さんの夜想曲。

《――駆くん――》

 聞こえてくる《未来の欠片》――透子の《声》。

 下の名前で呼ばれたことなど一度もないのに、不思議としっくりくる。

 これは確定した未来だろうか?

 それとも、俺の願望だろうか?

 浅い眠りから目覚めた朝に夢の続きを求めるように、俺はピアノの音のするほうへ向かう。

 リビングに上がると、父さんがパイプをくゆらせていた。

「おはよう」

「おはよう。起こしたかな?」

「……いや」

 なおざりな返事をして、俺はオーディオプレーヤーに目をやり、耳を澄ます。

《――そこにいたの?――》

 弾むような、透子の《声》。

《――探しちゃった――》

 ……自分でも、よくわからない。

《――俺はずっとここにいた――》

 俺は《未来の欠片》を聞きたいのか?

 それとも、透子の声を聞きたいのか?

 いくら《未来の欠片》に耳を傾けても、答えは出てきそうにない。

「ん……?」

 プレーヤーを見つめたまま佇む俺に、父さんが不思議そうに首をかしげる。

「……まだ、少し眠いかな」

 考えが纏まらない言い訳のように、俺はそう返した。

 *

 その日、俺は午前中と昼過ぎの二度、透子に電話を掛けた。

 会う約束を取りつけるつもりだったが、一度目は慌ただしく切られ、二度目も要領を得ないまま早々に切られてしまった。

 父さんが「何かやったんじゃないか?」なんて言ったせいで、もやもやと落ち着かない時間を過ごす羽目になった。

 例の高台まで行って考えを整理したいが、透子から電話がかかってくるかもしれないと思うと、家を動けない。

 ……俺も持つべきなのだろうか、携帯電話。

 なんて益体もないことを考えていた、そのときだ。

 玄関のベルが、何者かの来訪を告げる。

 透子だろうか、と期待を抱きつつ、俺は努めて冷静にインターフォンに出た。

 返ってきたのは、硬く強張った、低い声。

「井美といいます」

 ――嫌な予感しかしなかった。

 *

 外で話したい、と言った井美雪哉は、要件はおろか、どこに行くのかも告げずに、ひたすら俺の前を歩き続けた。

 そうしてやってきたのは、例の急な階段の上にある神社。

 井美雪哉は俺に背を向け、海を眺めながら言った。

「本当はおまえなんて呼びたくねえんだ」

 無愛想で、ぶっきらぼうな第一声。案の定、愉快な会話にはなりそうになかった。

「……なら、呼ばなければいいじゃないか。なんの問題が?」

「やりたいこととやりたくないことだけで世の中回ってねえんだよ」

「そうか……。で、なに?」

 背中に問いかけると、井美雪哉は感情を押し殺したように告げた。

「いつもの面子で花火をする。それのお誘いだ」

 いつもの面子――つまりは井美雪哉と、高山と永宮、カチューシャの彼、そして、透子。

「……なるほど。君は誘いたくないけれど、理由があって仕方なく誘いにきたってことか」

「そう」

 状況的には、以前に透子からハイキングに誘われたときと同じ。答えは決まっていた。

 ただ、今回は相手が井美雪哉――気を遣う必要もないので、俺はあけすけに突っぱねる。

「なら断るよ。わざわざ波風を立てる必要もないだろ」

 俺が関わりを持ちたいのは透子だけだ。仲良しグループの和を乱すつもりはない――もう手遅れかもしれないが。

「おまえが来た時点で波風立りまくりだよ」

 苛立ちを隠さず、事実を告げる井美雪哉。

「……そうだろうな」

 後ろめたさは、もちろんある。

 俺さえ現れなければ、きっと彼らは今頃――あの日喫茶店でそうしていたように――五人で仲良くだべって、ハイキングや海水浴の計画を立て、高校生最後の夏休みを楽しく過ごしていたのだろう。

 全ては、俺が《未来の欠片》を――透子を求めたから。

「知っててやってるのか?」

「……ある程度は」

 俺の投げやりな物言いに神経を逆撫でされたのか、とうとう井美雪哉が振り返った。

「楽しいか?」

「楽しいわけないだろ。……副次的なものだ。君同様、やりたくてやってるわけじゃない」

 俺が透子に関わり、透子の友人関係に変化をもたらす可能性は、考慮していた。

 それでも、引き下がるという選択肢はなかった。

 透子は、俺がずっと探していて、やっと見つけた、《未来の欠片》を解き明かす鍵。

 否、《未来の欠片》のことを抜きにしても、今や透子は俺の中でとても大きな存在になっている。

 彼女から手を引くつもりはない。

 井美、高山、永宮――君たちに配慮はしても、遠慮はしない。

「なんだよ、それ……っ」

 歯切れの悪い言い回しばかりの俺に業を煮やしたのだろう、井美雪哉が声を荒らげる。

「透子との関係はなんなんだ!? おまえ透子の気持ちに気づいてねえのかよ!?」

「っ……!!」

 なんだよ、それ――瞬間、そっくり言い返してやりたくなった。

 透子との関係?

 透子の気持ち?

 そんなもの……俺だって知りたいくらいだというのに。

「――透子からは、何も聞いていない」

 透子が俺をどう思っているのか。

 透子が俺に何を求めているのか。 

 透子は俺とどうなりたいのか。

 そもそも、透子の中で俺は、どれほどの存在になれているのか。

 大事なことは何も話せていない。

 それどころか、俺自身の透子に対する気持ちだって、はっきりと言葉で表せているわけではないのだ。

 俺は透子をどう思っていて、透子に何を求めていて、透子とどうなりたいのか――?

 自分でもよくわからない。

 それに、これがもし仮に、透子と答え合わせをして、全てを理解できたところで、だ。

「君に言う必要もない」

 それは俺と透子の問題であって、井美雪哉――君には関係がない。

「おまえ……っ!」

 ほとんど挑発のような俺の言葉に、井美雪哉の顔がみるみると気色ばむ。

 睨み合いは数秒続いた。先に目を逸らしたのは俺だった。

 花火とやらには参加しない。用件は済んだ。もう彼と話すこともない。

「おいっ、待てよ!」

 立ち去ろうとしたが、井美雪哉に肩を掴まれる。

 その力があまりに強く、直接的な痛みに、俺もとうとう我慢の限界がきた。

「――高山から告白はされたのかい?」

 振り向いて、彼を狼狽させるのにうってつけの一言をぶつける。

「っ……!?」

 目に見えて動揺する彼に、残酷な気持ちが湧き上がってくる。

 それは、羨望であり、嫉妬だった。

 この街でずっと暮らしてきた彼らに対する、羨望と嫉妬。

 透子の隣に寄り添って、彼女を外敵から守ろうと立ちはだかった永宮。

 透子のことを近くから見てきて、自然に恋愛感情を抱くことができて、想いを告白することができた井美。

 そんな井美雪哉に好意を持ち、傍らで支え続け、一方で透子とも親しい友人のままであろうとする高山。

 当たり前のように一緒にいて、当たり前のように想い合う。

 そんな当たり前の絆で結ばれている彼らが、羨ましく、妬ましい。

「まさか、まだ返事をしていないってことは――」

 どろどろとした気持ちが、棘だらけの言葉となって吐き出される。

 そして気づいたときには……。

「っ――!!」

 目の前が真っ白な光で埋め尽くされる。

 それが引くと、今度は視界いっぱいに青空が広がった。

 じわじわと頬が熱を持つ。井美雪哉に殴られたのだと、理解した。

「…………っ」

 身体を起こし、口元を拭う。鋭い痛み。手の甲を見れば、掠れた血の跡。

 しかし、涙も、ため息も、恨み言さえ出てこない。

 わかりきったこと。

 こんなのは、最悪の、自業自得。

 今の俺は――正真正銘の、バカだった。

 *

 しばらくその場に立ち尽くしていたが、乱れた心中はなかなか治らなかった。

 じっとしていても仕方がない――俺は足元に気をつけながら、急な階段を下りていく。すると、

「あっ……」

 間がいいのか悪いのか、息を切らした透子と出くわした。

 心配そうに揺らいでいた視線が、俺の頬のあたりでぴたりと止まる。

「……どうしたの、それ?」

 君を巡って井美雪哉と揉めた、とはさすがに言えない。

「とりあえず、痛かった」

「なんでこんな……」

 透子は困惑しながらも、すぐに事情を察して、驚愕に目を見開いた。

「まさか、まさかまさか、ゆきくんに……?」

 ああ、と俺は頷く。ひどい……、と透子は震える声で呟いた。ショックに青くなっている顔を見て、俺は白状する。

「いや、俺が言い過ぎたんだ」

「えっ?」

 俺が井美雪哉を擁護したように聞こえたのか、透子は意外そうな声を上げる。俺はさっさとこの話を切り上げたくて、微妙に話題をズラした。

「高山は彼に、自分の気持ちを伝えたみたいだね」

 しかし、透子は悲しげに俯いてしまう。

「私、ゆきくんにひどいことしてるのかな……」

 思いつめたように、井美雪哉のことを案じる透子。

 俺の胸にまた暗い靄が立ちこめる。

 部外者の俺は、透子たちの過ごしてきた日々を何も知らない。

 俺は透子たちの現状、それぞれの感情が縺れ合う今を、総合的に分析できるだけの材料なんて持ち合わせていない。

 だから、透子が井美雪哉にしているのがひどいことなのか――俺には評価しようがない。

「……どうだろ」

 考えが纏まらない。

 俺は何がしたいのか。どうしたらいいのか。

 ずっと《未来の欠片》の本当の意味を知りたいと思っていた。

 透子と出会って、その答えに手が届くと思った。

 それがいつしか、《未来の欠片》は、まるで透子に会うための口実のようになって。

 今の俺は、透子に特別な感情を抱いているように思う。

 けれど、それは伝えていいことなのか?

 透子には大切な友人たちがいて、俺はそこに要らぬ波風を立てる部外者で、彼らが悲しめば透子も悲しむ。

 俺は透子とどうなりたい?

 そして肝心の――透子は、俺をどう思っている?

「実は最近……色んなことがよくわからないんだ」

 《未来の欠片》のこと、俺のこと、透子のこと。

 わからないことばかりが増えていく。

 全ては、透子に出会ってからだ。

 *

「うちに寄っていかないか?」

 自転車を押しながら後ろをついてくる透子に、俺は言った。

「……え?」

 深い意味はない。俺は透子を安心させるように、言葉に微笑を含めた。

「父もいるよ」

「あっ……、うん」

 そう、深い意味はない。

 ただ、透子と、もう少し一緒にいたいだけ。

 *

 家の扉を開けると、玄関に女性物のパンプスが置かれていた

 それに、リビングからうっすらと聞こえてくる、華やいだ声。

「母だ……」

 俺が日乃出浜にやってきてから、母さんが家に立ち寄るのはこれが初めてだった。

 俺の声色に驚き以外の感情を読み取ったのだろう、透子は優しく微笑む。

「私、今日は帰るね」

 ほとんど反射的に、俺はその腕を掴んでいた。

「っ……?」

 咄嗟のことで、言葉が出てこない。

 透子をむりやりに引き止めて、俺は――一体、何を言うつもりだった……?

「透子――」

 リビングから漏れ聞こえる、母さんの生演奏。

 振り向いた透子の、驚きに大きくなった瞳に、吸い込まれそうになる。

 そして、次の瞬間――。



《――俺は見つけたのか――》



 俺の《声》――透子が息を飲む。彼女にも聞こえたのだ。

 俺はそのまま透子をつれて家を飛び出した。

「どこ行くの……?」

 どこか、どこでもいい、とにかく母さんの演奏が聞こえないところまで。

 《未来の欠片》が聞こえないところまで。

 おかしな話だ。俺は《未来の欠片》が聞きたくて透子を求めたはずなのに。

 今、この瞬間は、透子に未来の俺の《声》を聞かれたくない。

 未来の俺が透子に何を伝えるにしろ、それは今の俺が透子に伝えなきゃいけないことだから。

 今はまだ、何を伝えたらいいのかさえわかってない今は、未来なんて知りたくもない。

 俺は透子をどう思っていて、透子とどうなりたいのか――?

《――やっと見つけた――》

《――俺はずっとここにいた――》

《――俺は見つけたのか――》

 今までに聞こえた俺の《声》が、耳の奥に反響する。

 思考の断片や感情の破片が、頭の中に次々に湧いては散らばって、何一つ纏まった形になりやしない。

 わからないことだらけだ。

 でも、一つだけ、はっきりしていることがある。

 なんであるにせよ、答えはきっと、今の俺自身で見つけなければいけないんだ。

 *

 例の高台までやってきて、乱れた息を整えると、俺は草の上に寝転がった。

 透子は俺の隣に腰を落ち着けて、同じように呼吸を整えている。

「ここに来ると、落ち着くんだ」

 ようやく人心地つけた気がして、俺はそうこぼした。透子も笑顔で同意してくれた。

「……わかるよ」

 透子は足を伸ばし、空を見上げて尋ねてきた。

「お母さんって、どんな人?」

「そうだな……一か所に留まらない人かな。職業柄なのか、人柄なのか、わからないけど」

「活発な人なんだね」

「幼い俺には、母が何をしても正しいことをしているように見えた――なんていうと、マザコンなのかな」

「まさか。私もそう思うときあるよ」

 風が吹き抜ける。俺は透子の様子を伺いつつ、間を埋めるように、聞きそびれていたことを訊いた。

「二度も電話したけど、例の透子の用事、そろそろ教えてくれないか?」

「ごめん、二回とも、ちゃんと話せなくて……」

 透子は少し硬い声で語り出す。

「さっちゃん、入院するんだって。さっちゃんは検査入院だから心配ないって言うんだけど、入院してる未来も見ちゃったし」

「……心配、なんだな」

「うん……」

 友達思いで、懸命で、優しい透子。

 透子はいつも他人の心配ばかりしているように思う。

 高山のこと、永宮のこと、井美のこと。もしかしたら、カチューシャの彼のことも。

 しかし、なら、俺のことは……?

 透子は、突然現れた俺のことを、どれほど気にかけてくれているのか?

 そう疑問を抱いた直後、無粋な電子音が穏やかな空気に割って入った。

「あっ――もしもし、ゆきくん?」

 電話の相手は、井美雪哉らしかった。

「……沖倉くんを殴ったことでしょ?」

 二人は俺の話をしているらしい。「いま一緒にいる」と透子が言ったところで、俺は透子から彼女の電話を取り上げた。

「えっ?」

 突然のことにぽかんと固まる透子。俺は電話の向こうの井美雪哉に、一方的に告げる。

「校庭に来い。はっきりさせよう」

 そして彼の返事も聞かずに通話を切った。

 ――はっきりさせよう。

 思わず、失笑したくなるような、安っぽい台詞だ。

 それは、確固たる意志で以って前に進もうという、勇ましい決意表明なんかでは、決してない。

 後に引けない状況に自らを追いやることで、無理にでも答えを出そうという、姑息な売り言葉。

「……透子は俺の味方だろ?」

 不安に胸がざわつき、尋ねる。

 困惑する透子からの答えはない。

 それでも、もう後戻りはできない。

 俺はほとんど自棄になって、大股に歩き出した。

 *

 俺と透子が学校に着いたとき、井美雪哉は既に校庭にいた。

 俺は、決闘に向かう闘技者というよりは、法廷に立たされる被告人のような気持ちで、彼の前に立つ。

 透子はどうしていいのかわからずにおろおろしていた。時折校門のほうに目をやるのは、途中で電話を掛けていた高山を待っているのだろう。

 一触即発の危うい空気が漂う中、最初に言葉を発したのは井美雪哉だった。

「突然殴ったことは謝る。悪かった」

 正々堂々、筋は通すとばかりに、彼は手を出したことを謝罪した。

 むろん、あのとき俺は殴られるようなことを故意に口にしたわけで、そこに関して彼を咎めるつもりはない。

 ただ、せいぜい状況は利用させてもらう。悪く思うなよ、井美雪哉。

「あっ、やなちゃん!」

 透子の声で高山が来たことを知る。これで役者は揃った。

「……本当に悪いと思っているなら、俺と勝負しないか?」

 そう切り出すと、井美雪哉は俺の意図を探るように目を細めた。

「ちょうど、ここにはいいグラウンドがある」

 井美雪哉は俺の言わんとすることを理解し、ぴくりと眉根を寄せた。

「っ……走る? おまえが、俺と……?」

「君が本気になれるのは、走ることくらいだろう」

「っ――!?」

 暗に、今の彼が高山の告白に真摯に向き合えていないであろうことを指摘する。神社でも一度触れている逆鱗だ。頭に来ないわけがない。俺はさらに畳み掛ける。

「君が勝てば、俺はもう二度と透子には会わない。俺が勝てば、透子は俺のものだ」

 そして最後に、駄目を押した。

「君には、高山がいる。わざと負けても構わない」

「っ――――!!」

 ここまで言われて、彼が黙っていられるわけがない。現に彼は拳を握ってわなわなと震えている。

 そう、それでいい――俺の口元が意地悪く歪む――そうして激情に任せ、拳を振り上げ、俺に襲いかかってこい――!

「……っ!?」

 直後、俺の前に立ったのは、井美雪哉でも透子でもなく、高山やなぎだった。



 ――ぱぁん!



 目が覚めるような、いい音がした。

「どうせ走る気なんてないんでしょ!? 何が目的かは知らない! けど、あんたの取ったやり方は最っ低!!」

 グラウンド中に響き渡るような大声でそう叫んだ高山は、俺の浅はかな心を見限ったように踵を返した。

「……帰ろ」

 高山は井美雪哉の手を取り、有無を言わせず彼を連れ去っていく。

 打ち捨てられた空き缶のようにグラウンドに残された俺は、激しい自己嫌悪に襲われた。

 そのとき、視界の端に透子が高山を追って動き出すのが見えて、

「――行くなっ!!」

「っ……」

 自分でも驚くほど、大きな声が出た。

 透子がびっくりしたように振り返る。

 俺は祈るような気持ちで透子を見つめた。

 *

 俺はグラウンド横の階段に腰掛けて、哲学者の名前を与えられた鶏たちが思い思いに歩き回るのを茫然と眺めていた。

「……やなちゃんの言ったこと、本当?」

 隣に座る透子が探るように訊いてくる。俺は取り繕う気力もなく、白状する。

「ああ……走る気なんてなかった。そんなことして俺が勝てるわけない」

「……じゃあ、どうして……?」

「殴り合いに持ち込んで……どうしたかったのかな――俺、よくわからない……」

 ――いいや、本当は、心の底ではちゃんとわかってる。

 ああして切迫した状況になれば、透子が俺をどれくらい気にかけているのか、確かめられると思った。

 窮地に陥る俺を見て、透子がどんな行動を取るのか、試したかった。

 透子なら、きっと俺を庇って――守ってくれるんじゃないかと、期待して。

 あの花火大会の翌日、この校庭で初めて透子と言葉を交わしたとき。

 透子は、俺という理不尽な脅威に晒された鶏を、全力で守ろうとした。



『それならジョナサンは、私が守るからっ!』



 あんな風に、俺も透子に言ってほしかった。

 そうすれば、まるで不透明な彼女の本心がわかるんじゃないかと。

 直接訊けばいいものを、そんな度胸もなくて。

 嫉妬に駆られ、井美雪哉や高山まで巻き込んで、自棄を起こした。

 本当に、高山の言う通り――俺は最低だ。

「……そんなのひどい。そんなの、なんの説明にもなってない」

「だよな……」

 透子が心を痛めているのが伝わってきて、さすがにだんまりを決め込むことはできなかった。

「とにかく透子に、『私は駆の味方』って、言ってほしかったのかもしれない」

「えっ……?」

 周りの哲学者たちに馴染めず、一羽だけ浮いていたジョナサンを、守ろうとした透子。

 あのとき俺は、俺にもそんな存在があればいいのにと、たぶん、そんな風に思った。

《――俺は見つけたのか――》

 もしかして、《未来の欠片》が本当に意味するものとは。

 俺がずっと探していたのは――。

「透子にとって……《未来の欠片》ってどんな存在?」

 散らかった頭の中を整理しようと、思いつくままに尋ねてみる。

 透子はなぜかもじもじと恥ずかしそうに答えた。

「に、二度楽しめる、心の準備……?」

 楽しめる――透子は未来を見ることを楽しんでいるのか。

 ならばきっと、彼女の目に映る《未来の欠片》は、ガラスのようにきらきらと輝いているのだろう。

「本当に君は面白い」

 俺とはまるで違った物の見方をする、透子。

 俺にはないものばかり持っている、透子。

 ころころと表情が変わって、いつも慌ただしく感情を動かして、前向きで、友達思いで、時々とんちんかんなことを言って、俺を驚かせる――心を、揺さぶってくる。

「あれを《未来の欠片》と名付けたのは、俺にとって、あれが自分に欠けているピースのような存在だと思ったからなんだ」

 どこに行っても、自分のいるべき場所はここではないような気がしていた。

 そんな中で聞こえてくる《未来の欠片》は、俺が向かうべき場所――俺がいていい場所を指し示す、道しるべのように思えた。

 童話に出てくるちぎったパンのかけらのように、それを拾い集めていけば、いつか辿りつくのではないかと。

 この胸にぽっかりと空いた穴を、埋めてくれるのではないかと。

 最後にはジグソーパズルが完成するように、弱々しく、不完全な俺でも、強く安定した形になれるのではないかと。

 そう思って、長い間、儚い願かけのように、俺は《未来の欠片》に耳を傾けてきた。

「でも、そのピースも、弱々しいただの音だったり、人の声だったり、それ以上のものじゃなかった」

 何もわからなかった。

 何も変わらなかった。

 《未来の欠片》の本当の意味も、その行く先も、不完全な俺自身も。

 手がかりさえ掴めないまま時が過ぎて、いくつもの街を通り過ぎて、その間もずっと胸の内が晴れることはなかった。

 もはや、俺の居場所は永遠に見つからないのだ、と。

 そう、思っていた。

「透子と、会うまでは」

 全ては、透子に出会ってから、変わった。

「……少しずつ、わかってきたんだ。俺が欲しがっていたのは、なんだかよくわからないピースみたいなものじゃない。もっとはっきりとした、もっと実体のあるものじゃなかったのかって」

 俺が必要としていたのは、概念上の強さや完全さなどではなく。

 弱く不完全な俺を、懸命に守ってくれる、絶対の味方。

 隣にいて、言葉を交わして、その手に触れられる、誰かの存在なのではないか?

「それって……」

 はっと、大きく開かれる透子の瞳を見つめ、俺は彼女の頬に手を伸ばし、そっと、触れる。

「君の声ばかりなんだ。聞こえてくる声が」

 透子の《声》が聞こえれば。

 透子が手を差し伸べてくれれば。

 透子の心からの笑顔を見られれば。

 そんなことばかり考えて、だから、君の《声》ばかり聞こえてくる。

「私も……駆くんの姿ばかり見える……」

 透子も?

 透子も、俺と一緒にいることを望んでくれている?

 だとしたら、俺は辿り着いたのか?

 俺は、透子の元に、君の隣に。

 ここにいても、いいのか?

「俺……見つけたのか……?」

 ずっと何か掴もうとして、空を切ってきた俺の手に。

 透子の手が重なり、そのぬくもりがゆっくりと胸を満たす。

 気づけば、俺の目から一筋の涙が零れ落ちていた。

<第7話 自転車>

 少しずつ日が傾いていく。藍色と茜色が混じり合う空に、ひぐらしの声が溶けていく。

「今度、海、行こう」

 その誘いは、透子には何気ない一言だったのかもしれないが、俺には新鮮に響いた。

 海のある街に訪れたことは何度かある。

 しかし、そこは休みにふらっと出掛けるような場所ではなかった。

 大抵は、いつも遠くから潮騒に耳を傾けるだけだった。

「俺、波の音が、少しくすぐったい」

「えっ?」

 透子はきょとんとしたが、俺の答えがイエスであることを察すると、柔らかに微笑んだ。

「そろそろ帰ろっか」

「ああ」

 こんなに心安らかでいられたのは、いつ以来だろう。

 友人とか、恋人とか、そんな明確な形にはなっていないけれど。

 この日、少なくとも俺にとって、透子の存在は特別なものとなった。

 *

 母さんが父さんの家に帰ってきた次の日、俺は早起きして例の高台へ行った。

 考えていたのは変わらず透子のことだった。

『今までだって、好きな女の子いただろ?』

 《俺》と話すのも久しぶりだった。《俺》の興味ももちろん透子にある。

「不思議な感触……以上の感じがしなくて」

 今まで異性に一定以上の好感を持ったことはある。

 だが、それはどうにもあやふやな、はっきりとしない気持ちだった。

 当然、相手に想いを伝えたこともない。

 しかし、透子はそうではなかった。

「我ながら驚いた」

 こんな気持ちは初めてだ。

 彼女と一緒にいたい、触れて存在を確かめたいと、強く思う。

『あんな天然な子が好きだったとは驚きだよ』

 確かに彼女は予測できないことを言ったりする。が、それも透子の魅力の一つだ。

「悪く言うなよ」

 たしなめるように言うと、『悪くないよ』と《俺》たちが苦笑する。俺も可笑しくなって、つられて笑ってしまった。

『《俺》たちが要らなくなるといいよな』

 その一言に、俺は一瞬、胸がいっぱいになったような、切ない気持ちになる。

 思えば、今まではずっと、彼らが俺を守ってくれていたんだ。

「俺……おまえたちのこと、嫌いじゃない」

 俺の不完全な心が生み出した、想像上の話し相手。

 彼らとしては、たぶん、もっと早くに役目を終えるつもりでいたと思う。

 それが、もうそこにいるのが当たり前になるくらい、長い付き合いになってしまった。

 ……でも、おまえたちには、悪いと思うけれど。

 あと少しだけ、俺のこれからを見守っていてほしいんだ。

 *

 昼食を終えてしばらくすると、家の電話が鳴った。

 透子かもしれないと思い、父さんや母さんに先んじて受話器を取る。

 果たして、電話回線の向こうにいたのは透子だった。

「あ……うん、俺。……いいよ。……じゃあ、あとで」

 麒麟館で待ち合わせる約束をして、電話を切った。

 特に急ぎの用事があるわけではないようだった。

 ただ、ちょっと顔を見て、話したいから、会わないか、と。

 他愛のないことだけれど、俺の心はにわかに弾んだ。

 *

 麒麟館にやってくると、透子は熱心にエッシャーの絵を眺めていた。

 声を掛けると、嬉しそうに振り返り、そのまま俺を外に連れ出した。

 前と同じように、外に出るなり、暑い、と透子は言う。

 手を庇にして空を見上げ、それから、あっ、と何かを見つけて声を上げる。

 どうやらツバメが飛んでいたらしい。軒下に巣があることを教えたら、やけに感心された。

「あんなとこにツバメの巣があったなんて全然知らなかった。あっ、ヒナがいる!」

「……みたいだな。二羽、確認している」

 ツバメは渡り鳥だ。あの雛たちもやがて巣立ちして、夏が終わる頃には南へ旅立つのだろう。

 夏が終わる頃――そのとき、俺や透子はどうなっているだろうか。

 頭の片隅でそんなことを考えつつ、俺は透子と展望台を巡っていく。

「なんか、私ずっとここで暮らしてるのに、駆くんのほうがいろんなこと知ってるみたいで、なんか悔しい」

 唇を尖らせる透子から、海岸沿いの平地に寄り集まる家々に視線を移して、俺は少し感傷的な気分で言った。

「この街の些細なことを知ったからって、透子が暮らしてきた事実に比べたら、つまらないことだよ」

 すると、透子は「えっ?」と意外そうに目を丸くして、

「そんなことないよ、駆くん、すごいよ」

 と力強く励ましてくれる。

 そのことに甘やかな心地よさを覚えるが、昨日の一件を思い出し、反省した。

 いたずらに自己否定して、それを誰かに肯定してもらうこと。

 自分を守ってくれる誰かがいると確認することは、実際、麻薬のような危うい快楽を得られる。

 しかし、俺のそうした自分本位で甘えた思考が昨日の騒動を引き起こした。

 結果的に、こうして透子との関係が深まりはしたけれど――。

「俺、なんか恥ずかしいところ見せた」

「…………そんなこと、ない」

 同じ過ちは繰り返すまい、と決意を込めて透子を見つめていると、透子は照れたように視線を逸らした。

 すると、透子も透子で、今のやりとりから何か思うところがあったのか、高山のことを話題に出す。

「今日、やなちゃんがうちに来て。で、昨日のこと話したの」

 もしかして、それがきっかけで俺の家に電話してきたのだろうか?

 高山と何を話したかはわからないが、ためらいがちな口ぶりからすると、案外、俺の悪口でも言い合って意気投合したのかもしれない。

「友達なんだな」

 透子が高山を大切に思っていることは、透子の家の工房で相談を受けたから、知っている。

 高山が透子を大切に思っていることも、神社で石膏像として話を聞いたから、知っている。

 同じことは、井美にも、永宮にも、たぶんカチューシャの彼にも言えるだろう。

 強い絆で結ばれた友人たちに囲まれた透子のことを、羨ましいと、やはり思う。

 けれど、そんな透子だったから、俺はきっと彼女に惹かれた。

 惹かれて、それで、俺は、そんな透子の――。

「あの、私と駆くんは……なに?」

「えっ……?」

 じっ、と上目遣いにこちらを見つめてくる透子。

 なんと言っていいのか、一瞬頭が真っ白になる。

 我に返ったときには、透子の視線は俺から外れていた。

「……ごめん、急に駆くんを見れなくなった」

 いや、気恥ずかしくて目を逸らしたのは俺も同じだ。

 透子を直視できなかった。

 透子との関係に、まだ自信が持てないから。

 友人だ、というには高山たちの手前、厚かましいように思うし。

 ましてや、恋人、なんて口にするのも烏滸がましい。

 だが、それでも、

「俺たち、変な力を持ってるもの同士以上の関係に、なれたのかな?」

「えっ……」

 《未来の欠片》以外に繋がりのなかった最初より、俺たちの関係は進んでいるはずだ……と思いたい。

 透子も同じ気持ちでいると、信じたい。

「…………」

 俺があんまり見つめるからか、透子はまた俯いてしまった。

 何か掛けるべき言葉を探したが、見つからない。

 そうして微妙な沈黙が続く中、不意に上空を鳶が過ぎ去り、足元にその影が落ちて――。



「っ――――危ない!!」



 いきなりそう叫んだかと思うと、透子は血相を変えて俺を壁際へと追い立てた。

 何が起きたのかわからなかったが、次の透子の一言で事態が飲み込める。

「今、駆くんが落ちるのが見えた!!」

 《未来の欠片》――俺には何も『聞こえなかった』。でも、透子には『見えた』のだ。

「こうしていれば、大丈夫だよね……っ!?」

 狼狽と困惑で強張った透子の顔が間近に迫る。

 透子がどんな《未来の欠片》を『見た』のかはわからない。だが、経験上言えることは――、

「……未来は、変えられない」

 少なくとも、俺の聞いてきた《声》はそうだった。

「やっぱり海にする! そのほうが安全っ! 明日は海――絶対ね!?」

 確かに、海ならば、わざわざ崖の上にでも登らない限り、落ちることはないだろう。

 透子の見た映像が具体的にわかれば気をつけることもできるが……この取り乱し様では、今すぐ聞き出すのは難しいか。

 一体、『落ちる』というのは、どこから?

 この展望台か? 学校の校舎? 例の高台? 神社の急な階段?

 あるいは……と、俺は妙な連想をした。

 軒下で透子と身を寄せ合っているからだろうか。

 脳裏に、先ほどの二羽の雛がいたツバメの巣が思い浮かんだ。

 *

 その日の夜、俺はテントの前で昼間の出来事について考えを巡らせていた。

 俺は透子の見たという《未来の欠片》を整理してみる。

 俺が透子から聞いたのは、『泣いている高山』と『入院している永宮』。

 これらは実際にそうなった――厳密に確認はしていないが――《未来の欠片》だ。

 それに、透子は俺のことも見たと言っていた。

 細かい内容までは聞いていないが、少なくとも俺は透子のそばにいることを望んでいるわけだし、その分だけ未来の透子は様々な俺の姿を見ることになるだろう。

 今回の『落ちる俺』も、そのうちの一つと考えるべきか。

『高所恐怖症になりそうだ』

 そう、《俺》が言う。

『引きこもりになるのもいいな』

 ロクな対策が出てこない。

 俺は次に、俺の聞いた《未来の欠片》を思い返してみる。

 透子と出会ってから、幾度となく彼女の《声》を聞いてきた。

 未来を見たいと言う声、俺の名を呼ぶ声、どこかへと誘う声、探し求める声――。

 それらは多少形を変えて現実になったように思うが……。



《――違うのかもしれない――》



 明るい《声》が多い中、一つだけ妙に翳っていた《声》に、引っかかりを覚える。

「……まさか……」

 名前を付ける、というのは不思議なものだ。

 そうすることで見えてくるものもあるし、見えなくなるものもある。

「未来じゃない、のか……?」

 結局、夜が更けても、確かな答えは出ないままだった。

 *

 約束の時刻より早く日乃出浜にやってきた俺は、砂浜に座り、寄せては返す波を眺めながら、昨日の考察の続きに耽っていた。

「待った?」

 明るい声がして、俺は振り返る。もちろん、そこにいたのは透子だ。

「いや、待つのは嫌いじゃないし」

 約束の時刻に遅れるのは避けたいしな。

「って、待ったのね……?」

 期待した答えと違っていたようで、透子は拗ねたように呟き、それから俺の隣に腰を下ろした。

「くすぐったい?」

「えっ?」

「波の音」

 戯れに言ったことを覚えてくれていたらしい。些細なことなのに、やけに照れくさく感じる。

「以前とはちょっと違う感じかな。こんな時間に海に来たのは初めてかもしれない」

 波の音だけではない。透子に出会ってからは、初めてのことばかりだ。

「これ、あげる」

 透子はそう言うと、鞄からきらりと光を放つものを取り出した。

 乳白色の渦が巻く、群青と淡紅のガラス球。

「蜻蛉玉?」

「おそろい」

「……ありがとう」

 それは透子の手作りらしく、紐が通されて身につけられるようになっていた。

 そういえば、いつかの永宮も似たようなものを首に下げていた気がする。

 透子なりの親愛の証なのだろう――自宅の工房で、一生懸命にガラスと向き合う透子の姿が思い浮かんだ。

 俺は透子からの贈り物を受け取り、その確かな重みを手に感じながら、昨日のことを切り出す。

「少し、気になることがあるんだ」

「え?」

「透子が言ってた、『落ちる俺』って――」

「そうよ。絶対高いところ登っちゃダメだからね?」

 妙に明るい声で言い含める透子。

 そんな彼女に、俺は一晩考えた仮説を話して聞かせる。

「そんなことが本当に可能だと思っているのかい?」

「えっ?」

「大袈裟に言えば、俺はこれから一生、少しでも落ちる可能性のある場所には登れない」

 しかし、そんなことは不可能だ。

「……じゃあ、どうすれば……?」

 不安げな目でこちらを見る透子に、俺は肝心の問題提起をする。

「本当に、『未来の欠片』だったのかな……?」

 それを聞いた透子は、「でもっ!」と声を大にして反論した。

「駆くんが『未来だ』って教えてくれたんだよ?」

 その通り――『あれ』に《未来の欠片》という名前を付けたのは、他ならぬ、俺自身。

 だが、透子と出会ってから《未来の欠片》は劇的に変化した。

 二人でいれば映像と声の両方がわかる。そして単独で見聞きする《欠片》も、以前より明瞭なものになった。

 今まで漠然とそうだと信じてきたことを鵜呑みにしていると、真実を掴み損ねるかもしれない。

 俺の中でも結論が出ているわけではないので、強くは言えないが――。

「もう少し、よく考えたほうがいい」

「私、ジュース買ってくる!」

 この話はこれでおしまい、とばかりに、透子は勢いよく立ち上がる。

「駆くんは、何がいい?」

「俺は水を……」

「私、子供の頃、大人がなんでわざわざお金出して自販機で水やお茶買うのか、ほんと不思議だったわ。横にハルピスウォーターとかあるのに」

 急に饒舌になる透子を、悪いと思いつつも、俺は可笑しいと感じてしまう。

 緊張したり動揺したりしたとき、突然本題と関係ないことを話し始めるのは、俺にとっての《俺》のような、透子のお決まりの癖だ。

 子供っぽく振る舞う透子を見られて、なんだか急に親しくなれた気がして、微笑ましくなる。

 しかし、まあ、これは完全に俺が考えなしだった。

 せっかく海にデートしにきて、のっけからくどくどと小難しい話を始める男がどこにいるというのだろう。

 透子が戻ってきたら、もっと何気ない、それでいて気の利いた話をしよう。

 できるかどうかは、別にして。

「…………」

 海を見つめながら、俺は透子を待った。

 やがて、ざっ、ざっ、と足音が近づいてきて、俺の傍で止まる。

 振り返ると、高山やなぎが立っていた。

 ……どうして高山がここにいる?

 さすがに昨日の今日なので、平然としてはいられない。

 高山のほうも顔つきが険しい。

「そっか。あんたも呼ばれてたんだ」

 呼ばれていた? 待て、なんのことだ?

「透子は一緒じゃないの?」

「今、飲み物を買いに――」

「そう。じゃあ、いい機会だから今のうちに言っとく」

 高山は、次に俺に会ったらそうすると心に決めていたように、断然と言った。

「ユキがかっこ悪くなったのはあんたのせい」

 ……これは、断罪、なのだろうか?

 それにしては高山の言い方に俺を詰るようなニュアンスが感じられない。

 むしろ、今の高山は俺を責めるというより、何かを『守ろう』としているように思える。

 透子に近づくな、と俺の前に立ち塞がった永宮のように。

 でも、それもそのはずだ――なぜなら高山は井美雪哉に好意を持っていて、彼の『味方』なのだから。

 高山は、井美雪哉の歯車を狂わせた俺を許さないと表明している。

 そこにはたぶん、彼を傷つけてまで透子を求めた、その責任をしっかり果たせ、という要求も含まれているのだろう。

 高山にとって、井美雪哉は想い人で、透子も大切な友人なのだから。

「っ……邪魔してごめん、もう帰るから」

 そのとき、タイミング悪く透子が戻ってきて、高山は気まずそうに――透子には俺と対決しているところを見られたくなかったのだろう――呟いて、足早に去ろうとする。

 そんな高山を、両手に飲み物を持ったまま呼び止めようとする透子。

「あっ、あの……!」

 二人がすれ違い、透子が高山に振り返った。

 その、直後、



「っ――嫌ああああああああっ!!」



 耳を擘くような透子の悲鳴が、浜辺に響き渡った。

<第8話 雪>

「透子――ッ!?」

 海のほうに走り出した透子に追いつき、俺はくずおれる彼女の肩を支えた。

「いや……っ! いやああああっ!?」

 透子はひどい恐慌状態に陥っていた。とにかく落ち着かせなくては。俺は休めるところを探す。

「どこか、日陰っ……!」

 俺の言葉に、高山が後ろを振り返る。休憩所のテントが見えた。俺は透子を抱き上げ、そこまで運ぶと、シートの上に寝かせた。

 透子は悪夢に魘されるように唇を震わせ、ものすごい力で俺の腕を掴んでくる。

「っ……!」

 瞬間、目が合って、透子の瞳に正気の光が戻った。

「――今の――」

 弱々しく何かを呟く透子。しかし、それは高山の心配そうな声にかき消された。

「透子、大丈夫……? びっくりしたわよ。何があったの?」

「なにが、って――」

 透子はふらつきながらも上体を起こし、眩暈を振り払うように首を振る。

「――ごめん、よくわからない」

「……とりあえずは、心配なさそうね」

「うん……」

 透子が表面上は落ち着きを取り戻し、高山が安堵のため息をつく。

 だが、俺の心臓は、なおもどくどくと不快な脈動を続けていた。

 その不安を裏付けるように、透子の怯えた目が俺を捉える。



《――お似合いのカップルね――》



 突き放すような高山の《声》とともに、透子へ襲いかかった鳶の群れ。

 《未来の欠片》というには、あまりに不穏で、不吉な断片だった。

「うちまで送るわ」

 なんと声を掛けるべきか迷っていると、高山が事態の収拾に動き出した。そうしてやってほしい、と頼む以外に、俺は何もできない。

「きっちり説明してもらうから」

 高山は、透子だけでなく俺の様子もおかしいと気づいて、こっそりと、だが力強い口調で、そう告げた。

 *

 ……今日はもうダメだ。一度切って、明日また掛け直そう。

 十コール目が鳴ったとき、俺は諦めて受話器を下ろしかけていた。

「っ――!」

 ざっ、と回線が繋がる短い信号が聞こえ、慌てて受話器を耳に押しつける。

『………………』

 透子の息遣いが感じられるようで、思わず手に力がこもった。

「大丈夫か?」

 恐る恐る尋ねると、透子はいくらか回復したような声色で、うん、と答え、

『あれ……なんだったの?』

 と問い返した。

「すまない。俺にもよくわからないんだ」

 だが、わからないからと言って、投げ出すつもりはない。

「会わないか?」

『えっ……』

「またあんなの見そうで怖い?」

 気が逸り、語気が強くなってしまう。透子は躊躇いに言葉を詰まらせたが、心を奮い立たせるように言った。

『……どこにする?』

「そうだな……」

 麒麟館や海には近づきたくない。例の高台に行くには少し時間が遅いし、となると――。

『私、ジョナサンに会いたいかな』

 学校――それはいい考えだ。

「じゃあ、一時間後に」

『うん』

 透子に拒絶されなかったことに胸を撫で下ろし、俺は急いで支度に取り掛かった。

 *

 制服に着替えて家を出るとき、母さんに妙なことを訊かれた。

「駆、ここの生活、楽しい?」

 母さんの意図はわからなかったが、俺は素直に肯定した。

「あぁ……楽しい、かな」

 すると、母さんは僅かに驚いたように瞬きをして、そう、とだけ呟いて家の中に引っ込んだ。

 ……なんだったんだ?

 気になったけれど、いずれ話してくれるだろう、とそれ以上考えるのをやめて、俺は学校へと急いだ。

 *

 空は黄昏れつつあった。時計を見ると、そろそろ六時になろうとしている。

 透子は校庭にいて、一心に鶏の素描をしていた。俺に気づくと立ち上がって、でも、あるところで迎えの足が止まる。

 脳裏をよぎるのは、海で見た不吉な《未来の欠片》。

「私たちって……もう並んで座れないのかな?」

「……そんなことはない」

 そんなことに、するつもりもない。

 ただ、もちろん不安がないわけではなく、やがて俺たちは並んで座ったが、しかし、

「あれ、なんだったのかな。私、駆くんに近づくのが少し怖い。……ひどいよね」

 そこには、以前まではなかった距離があった。

「……俺もあれがなんだったのかわからない。だから、確かに透子に近づくことに、今は少し躊躇する」

 沈んだ面持ちで黙りこむ透子。

 どうにかしなければ――そう考えるが、焦りばかりが募る。

 互いに言葉が見つからない、気詰まりな沈黙。

 そのとき、ぴんぽんぱんぴん、と透子の携帯が空気を読まずに鳴った。どうやらメールが届いたらしい。差出人は高山あたりだろうか、と推測していると、

「ぅえええっ!?」

 いきなり上がった頓狂な声に、俺は驚いて振り返った。

「あっ、い、いや、妹から。ゆきくんがやなちゃんになっちゃったって」

 ちょっと状況がよくわからない。だが――。

「こないだひなちゃんに、あっ、妹、陽菜、っていうの。ひなちゃんに、ゆきくんが実は水泳部の――」

 こういった他愛ないお喋りは、透子の不安を和らげる助けになる。

「あっ……ゆきくんの話、嫌じゃない?」

 話を中断して、俺の反応を伺う透子。気遣いはありがたいけれど、今は透子の精神衛生のほうが大事だ。

「水泳部の、なに?」

 続きを促すと、透子は表情を明るくして話を再開した。

「あっ、うん。水泳部のアイドルだって――」

 それから透子は、ランニングでいつも同じ時間に現れる井美雪哉が、妹の所属する水泳部で話題になっていること、それが今日になって、井美雪哉の代わりに高山が走って現れたこと、などを話してくれた。

 なぜ井美雪哉の姿が見えなくなったのか、なぜ代走のように高山が現れたのか、透子はそのあたりが気にかかるようだった。

「やなちゃんに電話したんだけど、なんか繋がらなくて……」

「話だと、高山が慌ててるって感じでもないし、心配は要らないと思う」

「そうかなぁ、だといいなぁ……。あっ、駆くん、もしかして私のこと心配してくれてる?」

 もちろん、心配している。今の透子はひどく不安定に見える。懸念はできるだけ少ないほうがいい。

「井美雪哉のことなら、心配する必要はないと思うけど、そんなに気になるなら、あとで彼の家に一緒に行ってもいい」

「……うん」

 少し照れたように頷く、透子。

 話が一段落し、また間が空くが、先程のような気まずい沈黙にはならなかった。

 透子のお喋りを聞いて、俺もいくらか落ち着けた。

 改めて、《未来の欠片》について考えを巡らせる。

 麒麟館で透子から『落ちる俺』を見たと聞かされてから、俺はずっと考えていた。

 《未来の欠片》は、必ずしも確定した未来を示すものではなく。

 その内容は、見聞きする当人の精神状態に左右されるのかもしれない、と。

 俺はずっと自分の場所を求めてきたが、透子に出会う以前、その『場所』というのは具体性を伴わない、漠然とした夢想のようなものでしかなかった。

 そして透子に出会う以前の《未来の欠片》も同様、はっきりとしない、曖昧な《声》でしかなかった。

 それが透子と出会い、彼女に惹かれるにつれ、俺は彼女の隣にいたいと強く願うようになった。

 すると《未来の欠片》はそれに呼応するように、透子の《声》ばかりを、それもはっきりとした《声》を、俺に届けるようになった。

 透子にしても、高山や永宮の未来を見たのは、それがその時の透子にとって重要な関心事だったから。

 俺の姿を頻繁に見るようになったのも、俺のことを考える頻度が増えたからと考えれば説明がつく。

 《未来の欠片》に、その時々の当人の感情が影響を及ぼすのだとすれば、求められるのは現時点での懸念を晴らすことだろう。

 『落ちる俺』が見えたなら、『落ちる俺』という未来を回避するのではなく、あの時の透子が『落ちる俺』を見た理由のほうを突き止めて、解消するのが正しい対処なのではないか。

 海で見た不吉な《未来の欠片》も、解決すべきは、あんなものを見てしまう現在の透子の心理なのではないか。

 そのためには、今よりもっと、透子の内面に踏み込んでいく必要がある。

「――こないだここで、ほんとこんな感じでスケッチしてたら、ゆきくんと会ったの」

 ぽつ、と透子が静かに語り出す。俺は耳を傾ける。

「それで、美術準備室に二人でコンテ取りに行って……」

 しりすぼみに声が小さくなっていく。見ると、俯く透子の顔は赤かった。

「……で、その美術準備室で……」

 透子は、ためらいがちに、そのときのことを話してくれた。

 透子はそこで、井美雪哉に俺のことを尋ねられたという。

 気になっているのか、と。

 好きなのか、と。

「で、私、自分でもびっくりしちゃって――」

 恐らくは、透子が俺のことを意識したのは、そのときが初めてだったのだろう。

 ……ひょっとすると、これは透子の気持ちを知る手がかりになるかもしれない。

「あっ、またゆきくんの話……」

 下を向いて考え込んでいた俺を見て、気を悪くしたと誤解したのか、透子が落ち込んだように呟く。

 まあ、井美雪哉と二人きりだったのは気にならなくはないが――いま重要なのはそこではない。

「そうか、そんなことがあったのか」

「あっ、いや、ほんとそれだけ! それ以外は何も……」

「でも、透子はそこで、激しく動揺したってことだろ?」

「え……?」

 透子が一瞬こちらを見る気配がした。けれど、俺は振り返らずに考えを続けた。

《――お似合いのカップルね――》

 あの高山の台詞が、透子の不安によって形作られたものならば、今の透子が悩んでいるのは、俺との関係だ。

 なら、俺を意識するきっかけとなった場所――すなわち、美術準備室に行けば。

「《未来の欠片》について、新しいことがわかるかもしれない」

「本当……?」

「今度は俺と一緒に行ってみないか?」

 何気ない会話の端々から、透子が高山や井美のことを気にしているのは察せられる。

 透子と彼らの間にあるすれ違いは、主に俺が原因で起こっている。

 もし、透子が俺と関係を持つ上で、彼らに負い目や引け目を感じているのなら。

 始まりの場所に行ってみることで、それが少しは解きほぐせるのではないだろうか。

「……あっ、でも――」

「なに?」

 気まずそうに目を逸らす透子。俺は先に立ち上がり、彼女の返事を待つ。

「……うん、そうだよね。何か――」

 透子の気持ちが固まると、俺は昇降口へ向かった。

「どこ?」

「あっ、玄関入って右!」

 校舎に入り、電気の点いていない薄暗い廊下を右に曲がって、奥へ進む。

 そのうちに透子が追いついて、俺を先導した。

「……こっちよ」

 辿りついたのは、廊下の突き当たり。

 透子は部屋の前に立ち、気持ちを奮い立たせるように、呼吸を整える。

「ここがそう」

 扉を開け、思い切って中に入っていく透子。その後ろ姿を目で追いながら、俺は部屋の様子を観察した。

 木製のテーブルの上にはデッサン用の小物が置かれている。壁際の棚には美術道具が雑多に並び、古びた埃と絵の具の匂いが漂ってくる。

<第9話 月>

 翌日の昼下がり。

 家のリビングから夜想曲が流れてくる。

 いつものCDの再生ではない――生身の母さんの演奏。

 その旋律を俺はテントの中で聴いていた。

 さっきからずっと同じことを考えている。

 あの美術準備室で透子に何が起きたのか。

 いや、教室の中だけではない。外に出てからも異変は続いていたようだった。

 それに、腕を掴んだ時の、怯えきった表情――。

 透子は何を見たんだ……?

「………………」

 そうして、母さんの演奏をBGMに、透子のことを考えていて、ふと俺は気づく。

 俺の音は……?

 耳を澄ませる。だが、母さんの演奏以外、何も聞こえてこない。

 俺はテントを出て、リビングのガラス窓の前まで行って、演奏する母さんの姿を見ながら、また耳を澄ませる。

 やはり何も聞こえてこない。

 さらに確信を得ようと、俺は家を飛び出した。

 例の高台までやってくると、乱れた呼吸を整え、母さんの演奏と透子のことを思い浮かべながら目を閉じた。

 しかし、それでも。

「《欠片》が……聞こえない……?」

 異変が起きたのは、透子だけではなかった。

 *

 いっぺんに色々なことがあり過ぎて、考える気力も尽きそうだった。

 ぼんやりとしたまま夕食を終え、俺は父さんを手伝い食後のコーヒーを淹れる。

「ねえ、駆。卒業したらどうするの?」

 ソファに座って雑誌を読んでいた母さんが、そんなことを訊いてきた。

「……ああ、どうしようかな……」

 目の前の問題にかかりっきりの俺は、明快な答えを返せない。

「相変わらずねぇ」

 苦笑する母さんの前に、俺はコーヒーを置く。

 と、キッチンから出てきた父さんが、自分と俺の分のコーヒーをテーブルに置きながら、会話に加わった。

「俺はそろそろ将来を見据えたほうがいいと思うな」

「……そうだね」

「堅実な職に就いたほうがいいぞ。ま、俺が言える義理じゃないが」

「ふふっ」

 父の冗談に、母さんが微笑む。

「父さんも母さんもわりと小さい頃からなりたいものって決まってたけど、あんたはそうならなかったもんね」

「母さん、留まらないもんな。次、海外だろ」

「んー、今回は少し長くなりそうなの」

 相変わらずなのは母さんのほうじゃないか、と俺は苦笑する。

 相変わらず、自由奔放に、飛ぶように生きている。

 小さい頃から憧れてきた、理想の大人の姿。

「……そっか」

 俺もこうしてはいられない。

 夏休みは着実に終わりへ向かっている。

 透子のことはもちろん、俺自身のことも、きちんと答えを出さなければならない。

「俺、戻るよ」

 一人で落ち着いて考えたくて、俺はリビングを後にした。

『あの子ここが気に入ってるって言ってたから、やりたいことでも見つかったのかと思ったけど』

『ガールフレンドだろ』

『一度でいいから会ってみたいわ』

『夏休み中にまた来てくれたらな。ま、邪魔はしてやるなよ』

 ……聞こえてるぞ、母さん、父さん。

 *

 翌日、俺は透子に連絡を取ろうとしたが、朝食を終えたあと、母さんに呼び止められた。

「昨日の話の続きなんだけどね、駆」

 ルージュの艶めく唇を笑みの形にして、母さんは言う。

「母さん、あなたに一つ、提案があるのよ」

 果たして、それは俺の将来を左右する重大な『提案』だった。

 結論は、もちろん、すぐには出せない。

 それどころか、動揺を鎮め、気持ちの整理をするだけで、俺は一日のほとんどを費やしてしまった。

 *

 透子に連絡を取り、会う約束を取りつけたのは、夕方になってからだった。

 透子の家に着く頃には、完全に日が暮れていた。

 工房の前までやってくると、透子が俺に気づき、ガラス張りの戸を開けようとして――寸前で手が止まる。

「……仕方ないよな」

 覚悟はしていたが、こうして明確に距離ができると、落胆を隠すのは難しい。

 だが、気を落とすわけにはいかない。俺は短く息を吸い込んで、拳を握った。

「そのままで聞いてくれ。あの美術室に行きたいんだ」

 俺がそう言うと、透子は表情を強張らせたまま、俯いてしまう。

「……また、何を見るかわからないよ」

 消極的な透子――だが、それでは何も変わらないままだ。

「この間の美術室で何を見たか、話せるようになった?」

「それは……」

 よほど怖いものを見たのだろう、透子の口は重かった。

 普段はあんなにお喋りで、あからさまで、天然気味な失言をすることさえあるのに。

 本当に大事なことに限って、胸の内にしまいこんでしまう。

 もどかしい……と、俺は気が逸る。

「あそこへ行けば、《欠片》について何かわかるかもしれない」

 俺は、《欠片》こそが透子に繋がる唯一の糸と信じて、亡者のように縋り、辿ろうとする。

「駆くんは……そんなに《未来の欠片》について知りたいの?」

「俺たちには、《欠片》についての情報が足りない」

「……足りない?」

 俺と透子の関係は良くも悪くも《欠片》と切り離せない。

 《欠片》によって出会い、《欠片》によって一時は結ばれたように思えた。

 そして今また、《欠片》によって翻弄されている。

 俺たちが前に進むために、《欠片》の謎を紐解くことはどうしても必要なんだ。

「考察も足りていないと思う。だから同じ場所で、同じ状況を作りたい」

 そう、俺が言った、直後だった。

「っ……そうじゃない! そんなことじゃないッ!」

 突然、声を荒らげた透子に、俺は言葉を失った。

「私、雪を見たのっ!」

 透子はわなわなと拳を握って、何かに耐えるように下を向く。

「……あの場所で……一面の銀世界だった。周りじゅうが雪……あんなの初めて……」

 そして小さく、それでいてはっきりと、拒絶した。

「私は、行かない」

 ガラスの向こう側、一人で苦しむ透子の姿を見て、俺の頭から血が引いていく。

 ……俺は、何を、やっているんだ……?

 《欠片》のことを気にするあまり、透子のことがまるで見えていなかった。

 透子がどれだけ不安なのかも、どれだけ苦しんでいるのかも、何も――。

「……そうか。そんなものが見えていたのか」

 細い糸が、する――と、手から滑り落ちていく感触がした。

「俺にはこないだから……《欠片》が、聞こえない」

「……えっ?」

「もう、聞こえることはないかも」

 どうしたらいいのか、迷子のように何もわからなくなって、俺は透子に背を向けた。

 あの空虚さとは違う――剃刀で切られるような鋭い痛みが、胸を灼き焦がす。

 もう二度と透子には会えないかもしれない。

 いま交わした会話が透子との最後の会話になるかもしれない。

 逃げるように歩いていく。

 怖くて後ろを振り返られなかった。

 あのガラスの向こう側で、透子も俺に背を向けているように思えて。

 透子の家の敷地を出たところで、俺はたまらなくなって走り出した。

 ぐんぐんと速度を上げていく。心臓が狂ったように脈打ち、全身が熱くなる。

 なのに、胸の内側だけが、大きな風穴が空いたように、どんどん冷たくなっていく。

 透子の苦しみに寄り添えなかった後悔と、彼女を失うかもしれない恐怖に追い立てられて。

 俺は夜の街を駆けた。

<第10話 ジョナサン>

 目覚めは最悪の気分だった。

 一晩で何歳も老け込んだみたいだ。

 透子に拒まれたショックから立ち直れない。

 母さんの提案に対する答えもまだ出せない。

 家にいても落ち着けなくて、俺はそこが唯一の避難場所であるかのように、朝食を済ませるとすぐに例の高台に向かった。

 古びたアルバムを手繰るように、透子のことを思い出しながら、時間だけが無為に過ぎていく。

 どれだけ透子のことを考えても、集中しても、耳を澄ませても、失われたものは戻らなかった。

「……やっぱり、聞こえてこない」

 《未来の欠片》は、全て幻だったみたいに、ノイズさえ捉えられなかった。

『もう《未来の欠片》は聞こえない』

 《未来の欠片》は――透子との繋がりは、消えたのだ。

『でも、なぜ?』

『透子に出会ったからなのか?』

『もしかして、必要がなくなった?』

 俺自身の迷いの反響のように、《俺》たちから疑問の声が上がる。

 俺は彼らの問いを頭の中で再構築し、瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。

「っ――!?」

 《俺》たちは――俺は、いま、なんと言った?

 《未来の欠片》が消えたのは、透子と出会って、必要がなくなったから……?

 もし、その仮定が正しいとしたら――。

 《未来の欠片》は、俺にとって闇夜の灯台だった。

 その示す先に向かえば、いつかどこかへ辿り着いて、自分の場所を手に入れられると思っていた。

 そして俺は透子に出会った。

 透子との出会いは俺の《欠片》に大きな変化を齎し、ついには《欠片》を消し去った。

 透子との唯一の繋がりは断たれた。

 ……本当に、そうか?

 だって、俺はあの時、透子に触れて、確かに感じたはずだ。



《――やっと見つけた――》



 そうだ、俺は見つけたんだ。

 ここにいたい、そう思える場所に辿り着いた。

 そばにいたい、そう思える存在にこの手で触れた。

 《未来の欠片》を追い求める日々は終わった。

 『なにか』や『どこか』を探す旅は終わったんだ。

 かつての俺が漠然と欲していた『未来』は、既に今ここにある。

 たとえ《欠片》が失われても、俺が透子に抱くこの想いまでは消えていない。

 ……こんなところで腐ってる場合じゃないだろ。

 透子は今も一人で苦しんでいる。

 まだ俺にできることはあるはずだ。

 気持ちを奮い立たせるように、勢いよく立ち上がる。

 なりふり構ってなんていられない……!

 俺はとある場所を思い浮かべながら、即座に駆け出した。

 *

 ここに来れば、目的の人物に会えると思った。

 カゼミチ――透子たちがたまり場にしていた喫茶店

 扉を開くと、前回と同じように、からん、と耳心地のいい音がした。

「いらっしゃいませ。……おっ、どうも、ご注文は?」

 迎えてくれたのは、透子の友人たちの中で唯一俺が話したことのない相手――カチューシャの彼だった。

「烏龍茶」

 全力疾走して喉が渇いていたので、俺はメニューも見ずにそう注文した。

「烏龍茶ないんだ」

 ……なら、ブレンドを。

 *

「ブレンドお待ちどお様」

 エプロン姿のカチューシャの彼が、湯気の立ち上るマグカップを持って、俺のテーブルへとやってくる。

「真夏にホットコーヒーなんて、大人だねえ」

 皮肉や揶揄ではなく、純粋に感心しているらしく、彼はそんなことを言った。

 人の良さそうな顔を見上げながら、俺は心の中で謝罪しつつ、単刀直入に訊く。

「彼女の名前、永宮幸だったよね」

「っ……!?」

「住んでいるところ、知ってたら教えてほしい」

 永宮の名前を出すと、さすがに険しい顔つきになった。カチューシャの彼はわざとらしくそっぽを向いて――慣れていないのだろう――たどたどしく突っぱねた。

「ただでは教えられないな……!」

 対価を払えば教えてくれるあたり、彼のお人好しさが透けて見える。

「何が知りたい?」

 間髪入れずにそう切り返すと、彼は呆れたように振り向き、じれったそうな表情で詰め寄ってきた。

「おまえさあ、透子さんが好きなのか? 大事にしてるんだろうな……? 透子さんは、俺たちの大事な友達なんだよ」

「…………」

 誰も彼もが友達思いな彼らに、俺は言いようのない後ろめたさを感じる。

 その上、透子を大事にできているかといえば、目下かなり怪しいところだ。

 俺が黙って俯いていると、カチューシャの彼は根負けしたように言った。

「さっちゃんの住んでる場所、教えるよ」

「……俺、君の聞きたいことに、何も答えていないけど」

「俺、なんかうまく言えないけど、俺に……答えなくていいよ」

 わかるだろ、とでも言いたげな視線を寄越すカチューシャの彼。

 彼は俺に、透子が好きなのか、大事にしているのか、と問うた。

 その答えを伝えるべき相手は――確かに、そうだ、彼ではない。

 *

「ごめんください」

 声を掛けると、しばらくしてがらがらと玄関の扉が開き、ワンピース姿の永宮が出てきた。

「白崎祐に聞いてきた」

「……そう」

 永宮はそれだけ言うと、俺に少し待つよう言って、家の中へ戻っていった。

 *

 外出の準備を整えた永宮とやってきたのは――恐らく彼らは込み入った話をしたいときによくここへ来るのだろう――あの急な階段の上にある神社だった。

 高山や井美のときと違ったのは、きちんと神様に挨拶をしたこと。

 賽銭を投げ、からからと鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝する。

 それから俺たちは、海を眺めながら透子のことを話した。

「きらきらしたもののこと、教えてくれないか?」

 俺は、俺に出会う前の透子の《未来の欠片》について、何も知らない。

 そこに、あのとき透子が見た《欠片》を紐解く――透子の抱えている不安を取り除く手がかりがあるかもしれないと思い、事情を知っていそうな永宮を訪ねたのだった。

「このあいだ、やなぎちゃんが訊いてきた」

 海での一件だろう。そうか、と俺が相槌を打つと、永宮は続けて、

「あなた、透子ちゃんのこと全然守ってない」

 と、厳しい口調で断じてきた。反論のしようもない。

「ああ、そうだな。高山にも言われた」

 はっきり言われたわけではないが、しっかりしろ、と思われていることは間違いない。

 俺がそんなに大したやつなら――強く完全な人間だったなら、そもそもこんな不甲斐ない状況にはなっていないが。

「……でも、深水透子は、守ってほしがっているのかな」

 透子を守る俺、という絵面がうまく想像できなくて、そんな言葉が漏れた。

 永宮は、え、と不思議そうな目でこちらに振り返った。

「彼女といると、落ち着くんだ」

 そこにいていいんだと、心穏やかでいられる。

「俺……俺が透子に助けてもらってもいいかな」

 透子を想うと、そんな本音がぽろりと零れた。

「――私も、透子ちゃんに助けてもらってるかも」

 否定されると思ったが、意外にも永宮は同意を示した。

 いや、実際のところ、『意外』ではないのかもしれない。

 俺は永宮のことをよく知らないので、はっきりとはわからないが……。

「私、きっとあなた以上には、そのきらきらしたもののことは知らないと思う」

 きっぱりと、突き放すように永宮は言う。

 けれど、それは最初にカゼミチや麒麟館で相対したときのような、敵意のある反発ではなく。

 海で俺を断じた高山と同様、言外に、俺が透子のそばにいることを認めるような、そんな意味が込められているように、俺には感じられた。

「あなた、透子ちゃんのこと……好きなの?」

 鋭い視線で、核心を射抜く永宮。

 しかし、彼女も白崎と同じく、この場で俺の口から答えを聞きたいとは思っていないだろう。

 わかっている。

 俺がその答えを伝えるべき相手は、ただ一人だ。

 *

 街のあちこちを歩いて回った。

 透子がずっと住んできた街。

 俺にとっては、ついこの前、ふらりとやってきた街。

 けれど今では、印象深い場所がいくつもある。

 駅前。砂浜。麒麟館。透子の家の近くにも行ってみた。

 少しでも透子のことを知る手がかりがほしかった。

 どんなに些細なことでもいい。

 欠片でも、破片でも、断片でも、なんでもいいから。

「……もう、俺一人じゃダメなのか……」

 染みついた感覚はなかなか抜けないもので、無理だとわかっているのに、つい耳を澄ませてしまう。

『私、未来が見たいのっ!』

 あの時、そう言った透子の気持ちが、今ならわかる。

 大切な相手と離ればなれになるかもしれない。

 また傷つけてしまうかもしれない。

 未来が見えたらいいのに――そう思わずにはいられない。

 透子と一緒に。

 透子と一緒の。

 そんな未来が、見えたらいいのに。

 天高く輝いていた太陽が、西の空へ、海の向こうへ、ゆっくりと落ちていく。

 *

 最後に訪れたのは、学校だった。

(……ここでどうする?)

 あちこちさ迷い過ぎて、何がしたかったのかよくわからなくなっていた。

 手がかりは掴めない。

 《欠片》は聞こえない。

 ただ、想いばかりが募る。

(あんなに面倒だったのに……聞こえなくなると、なんだか寂しいな……)

 俺は透子に貰った群青の蜻蛉玉を取り出して、夕暮れの空に翳した。

(深水透子――おまえに会いたいよ)

 *

 透子が雪を見たという、美術準備室。

 何か手がかりがあるとすれば、残るはここだけだった。

 佇んでいると、遠くから声が聞こえた。

「ジョナサン!」

 それは《未来の欠片》による幻の《声》ではない。

「待って……!」

 今この瞬間、確かに誰かが発した生の声。

 振り向くと、廊下の真ん中に透子が立っていた。

 透子はゆっくりとこちらにやってくる。

「……駆くん……」

 透子は俺と、いつの間にやってきたのか俺の足元をうろつき回るジョナサンを見、それから視線を美術準備室の窓の外へ向けた。

 この間と、ちょうど時間帯も見える景色も同じ。

 窓という額縁に切り取られた一枚絵――強い西日の中、濃い緑を背景に、簡素な鶏小屋が建っている。

 ありふれた夏の風景。

 俺の目に透子が見たという雪は見えない。

 透子の抱える不安を、俺は何もわかってやれていない。

「駆くんも、やっぱりここに来てたの?」

「ここに来れば、《未来の欠片》が聞こえなくなった理由がわかるかもしれないと思って」

 この期に及んで《未来の欠片》を引き合いに出すあたり、俺はどうしようもない意気地なしだ。

「そう……」

 含みのある言い方をする透子に、俺は首を傾げる。

「透子もそうなんじゃないのか?」

 昨日あれだけ頑なに拒んでいたのだから、まさか散歩がてら立ち寄ったとか、急に美術用具が必要になったとか、そんな日常的な理由であるはずがない。

 しかし《未来の欠片》でもないなら、他に一体どんな理由が――。

「私は……駆くんの《唐突な当たり前の孤独》が知りたくて!」

「っ――!?」

 透子が口にした言葉に、俺はかつてない衝撃を受けた。

「それ……」

 なぜ?

 どういうことだ?
 
 なんで透子が、そのことを知っている?

「――ご両親に聞いた」

 返ってきた答えはシンプルなものだった。

 言いたいことはいくつもある。しかし、それらは透子の顔を見た瞬間に全部どこかへ行ってしまった。

 透子は、何か、とても強い覚悟を決めて、ここに来ている。

「駆くんには、窓の外の雪が見える?」

「雪が降ってるのか?」

 あの時だけではなく、今、この瞬間も?

「うん……さっきからずっと」

 声を震わせ、透子は語り出す。

「すごい雪が降ってて、私がその中にいるの……っ」

 はじめは静かだった透子の声に、徐々に力がこもっていく。

「《欠片》が見えるんじゃない! 周りじゅうに雪が降ってる!」

 透子は俺に詰め寄り、感情を爆発させるように言った。

 俺は一旦、透子に落ち着くよう声を掛ける。

 透子はぎゅっと手を握って、大丈夫、平気、怖くない……と、おまじないのように口の中で呟く。そして、

「――でも、まだ、続きがあるっ!」

 これこそが本題、というように、昂奮に頬を赤らめる透子。

 雪が降っている――今も――それは確かに、昨日も聞いたことだ。

 それとは別に、まだ何かあるのか……?

 一体、透子は、何を見た――?

「……駆くんが……」

 俺?

「駆くんが、その中で……私に――っ」

「……なに?」

「えっと………………」

 そう、下を向いたまま、

「……キス、を……」

 震える唇で、透子は囁いた。

「駆くんがっ、私に、キスするの……っ!!」

 困惑に絶句する俺をよそに、透子は身を守るように胸に手を当てて、押し隠していた不安や恐怖をさらけ出した。

「私……おかしいのかもっ! だって、その前も見たの! あの時で二回目……!!」

 透子は瞳を潤ませ、顔を真っ赤にして俺に迫ってくる。

「私ってなに!? だってそうでしょ? 駆くんはこないだ、私たちが見てるものって、もしかしたら未来じゃないかもしれないって――――じゃあ、なに!? 私が見えるものってなに? それとも……っ」

 火照っていた透子の頬が、一転して、凍えるように白くなっていく。

 あまりに急な変化に、全て理解したわけではないが、それでも、わかったことがある。

「……そんなときが……来るの……?」

 透子は怯えている。

 さっき、透子自身がおまじないのように口にしていた――透子は今、怖いのだ。

 たぶん、俺との関係が進むことが。

 関係が進み、変化していくだろう未来を前にして、立ち竦んでいる。

 『落ちる俺』も『襲いくる鳶の群れ』も『雪』も『俺との口付け』も、そんな透子の怖れや気後れ、躊躇い、心細さ――そういったものが形作った幻影なのかもしれない。

「確かに……俺たちが見たり聞いたりしていたものは、未来じゃなかったかもしれない」

 俺の《欠片》が、俺の淡い期待や願望をアンプのように増幅させていたように。

「だけど今、君は窓の外に冬の景色を見ている」

 透子の《欠片》は今、透子の不安を映写機のように増大させ、感情とともに制御が利かない状態になっているのだとしたら。

「何かが見えて、聞こえていたことは間違いないんだ」

 どんなに得体が知れないイメージでも、気味の悪いヴィジョンでも、《欠片》が内心を映し出す鏡なのだとしたら――それは受け入れなくてはいけない。

「……そうよね」

 透子は深く息を吸って、頷き、窓の外を見た。

「何かが起こってるってことは、認めなきゃね」

 俺たちは出会った。それは事実、過去だ。

 出会って、変化し、今なお変化し続けている。それも事実、現在だ。

 その先に、どうなるかわからない未来が待っている。

 俺たちはそんな未来に期待を寄せたり、不安を抱いたりするけれど。

 いずれにせよ目を背けることはできない。

 それは否応なく、いつか必ずやってくる。

 果てしなく遠くの、想像もつかない場所なんかじゃない。

 今この場所から、俺たちの過去や現在から、地続きの未来。

 そんな未来に、俺たちは進んでいかなければならないんだ。

「そう。それに――」

 俺は、透子に、一歩近づく。

 降りしきる雪の中にいるという、透子。

 何もかもが凍てつき、人影さえ見えない、一面の銀世界。

 そんな寂しい場所に、透子が今、一人で立ち尽くしているというのなら。

 どうにかして、その隣に俺は駆けつけよう。

 透子の声が、存在が、ぬくもりが、俺の胸を満たしてくれたように。

「こうすれば……それは《未来の欠片》だってことだろ」

 脳裏に、彼らの言葉が過ぎる。

『おまえ透子の気持ちに気づいてねえのかよ!?』

『ユキがかっこ悪くなったのはあんたのせい』

『おまえさあ、透子さんが好きなのか?』

『あなた、透子ちゃんのこと……好きなの?』

 彼らは俺の覚悟を、気持ちを、問うてきた。

 それに対する答えは、もう、決まっている。

 それを伝えるべき相手も今、目の前にいる。

 ならば、俺のすべきことは、ただ一つ――。

「っ……!」

 震える彼女を、強く、抱き寄せて。

 冷たい氷を溶かすように。

 俺は透子にキスをした。

 †

『一緒に花火を見に行こう』

 夏祭りの前日、俺はみんなとそう約束した。

 家に帰るなり、俺は母さんに祭りのことを話した。お祭りは街の外からも人が来るくらいに大きく、クライマックスにはたくさんの花火が上がって、それをみんなで見るのだ、と。

 寝床に入ってからも、明日の祭りが楽しみでなかなか寝付けなかった。

 そして、当日。

 空には雲が多く、夕方になるにつれ、世界はぼんやりと暗くなり始めた。

 黄昏時――人の顔がわからなくなる時間帯。

 大通りには屋台が連なり、街の雰囲気はがらりと変わっていた。

 華やかな装いの人たちが道いっぱいにあふれて、少し先も見通せない。

 まだ道に慣れてなかった俺は、約束の時刻に遅れてしまった。

 やっとの思いで待ち合わせの場所に着いて、辺りを見回す。

 そこに、みんなの姿はなかった。

<第11話 ピアノ>

 窓の外の景色が、照明をゆっくりと落としていくように、薄ぼんやりと明度を失っていく。

 美術準備室の中で、俺と透子は棚に背中を預け、並んで座っていた。

 教室の扉は開いている。あんなことをしたあとだったから、閉めてしまうと、なんだかうまく息ができないような気がしたのだ。

「びっくりした、嬉しい……」

 透子はこんなときでも透子で、感じたことを感じたまま素直に語った。

 だからこそ透子の言葉は時々、深々と胸に突き刺さる。

「でも……駆くん、私のこと本当に好きなのかなって」

 その問いかけは一瞬で心の奥底まで這いってきた。

 透子が、私――、と何か続けて言おうとするが、俺は動揺を抑えられずに自問した。

「俺は……そう思い込もうとしているだけ、なのか?」

 俺は透子と出会えて、隣にいて、今まで感じたことのないような安らぎを覚えた。

 透子と一緒にいると、胸の中があたたかいもので満たされるように感じた。

 好きだ、と思った。

 だが、それは巧妙な気持ちのすりかえだったというのか――?

「……そうなの?」

 真実を見極めるように、透子が訊く。

 俺は透子のことを好ましいと思う。愛おしく思う。

 だが、それは本当に、純粋に彼女を想う気持ちなのだろうか?

「俺は、自分のことを確かめたいだけ……?」

 今までの俺には何もなかった。

 街から街へ流れていくだけで、中身はからっぽの器のようなものだった。

 それが、透子と出会ってから、《欠片》の輪郭がはっきりしていったように、俺という存在もまた、確固とした形を得ていった。

 自分の意思が、望みが、存在する理由が、みるみると確かなものになっていく――そんな手応え。

 そんな実感を得たいがために、俺は、俺が透子を想う気持ちを、利用しているのか?

 好きという言葉で飾って、透子を繋ぎとめようとしているのか?

 透子に守ってもらいたい――自分を守りたい――結局、それだけなのか?

「………………」

 透子が好き――その気持ちは今、砂上の楼閣のようにぐらぐらと揺れていた。

 つまるところ、自信がないから。

 土台になるものが何もないから。

 本当に深いところでは何も共有できていないから……なのだろう。

「今だって、私の周りには雪が降ってる。でも、駆くんには見えてない」

 そう、透子は一つの事実を突きつけてくる。

「私たち、何もわかりあってない」

 ――分かり合っていない。

 《未来の欠片》も、俺のことも、透子のことも。

 俺たちは互いのことをほとんど何も知らない。

「……そうだな。俺には雪は見えていない」

 透子の抱えている恐怖や不安を、俺は知らない。

 透子が、俺の感じてきた孤独を知らないのと同じように。

 けれど、そのことに気づけたのは大きな前進ではないだろうか。

 俺たちは何も分かり合っていない。分かり合っていないと、わかった。

 だから、透子は俺の《唐突な当たり前の孤独》を知りたいと言ってくれた。

 俺も、透子の周りに降りしきる雪の冷たさを知りたいと思う。

 もっと互いのことを確かめて、分かり合いたい。

 そう思うと言葉は自然に出てきた。

「今度、母にピアノを弾いてもらおうと思う」

 母さんのピアノ――俺にとって、とても特別なもの。

「透子にも来てほしい」

 誘うと、透子は快く受けてくれた。

「お母さんのピアノ? ……素敵」

「うん。一応プロだし、本気で弾いてくれると思う。そしたら――」

「そしたら……なに?」

 はっきりそうだ、とは言えない。

 だが、予感のようなものがあった。

 母さんのピアノは、俺の《欠片》の引き金――俺の心と深く結びついているもの。

 前に一度、たまたま母さんがピアノを弾く場面に透子と居合わせたとき、俺は逃げ出すように透子をピアノの音が聞こえないところへつれていった。

 俺の《欠片》を――本当の気持ちを透子に知られることに躊躇があった。

 それを、もう一度、やり直したい。

 俺は、俺のことを透子にきちんと知ってほしい。

 互いに分かり合うために必要なのは、本音で向き合うことだと思うから。

「来てほしい」

「……そこに行ったら、駆くんと私のことがわかる?」

 わかるかもしれない、わからないかもしれない――いずれにせよ決断の時は迫っている――急がねばならない。

「今から母に電話する。明日やってもらおう」

 俺は透子に頼んで、携帯電話を貸してもらった。

 *

『沖倉でございます』

 電話に出た母さんは、余所行きの声で応じた。

「母さん?」

『駆? どうしたの?』

 相手が俺だとわかると、母さんは途端にくだけた調子になる。俺は早速用件を伝えた。

「知り合いになった子がいるんだけど、母さんのピアノ、聴かせてあげてくれないかな」

『あら、珍しい。初めてね、そんなこと言うの』

「……うん」

 初めてなのは、当然だ。母さんのピアノを聴くと《欠片》が聞こえる――そのことを隠さなくてもいい相手、それどころか《欠片》を共有できる存在なんて、透子が初めてなのだから。

『いいわよ。どうせだから、何曲か弾こうかな。いらっしゃるなら、ご両親もお呼びしたら?』

 透子の両親を呼ぶ――それもまた互いに分かり合うためのいい機会になるだろう。

「……そうだね。ありがとう、母さん」

 少しの間が空く。通話を切ろうかどうか迷ったが、母さんが切り出した。

『駆』

「ん?」

『このあいだの話、どう?』

「どう、って?」

『私と一緒に行かない?』

「……うん、考えてる」

 母さんの提案――考えれば考えるほど、透子の存在がちらつく。

 透子のことと別々に結論を出すのはもはや不可能だ。

 ただ、それをありのままに母さんに言うのはちょっとな――と俺が言い訳に困っていると、母さんは見透かしたように言った。

『で、この携帯を貸してくれた子、深水さんでしょ?』

 どうして気づかれた、と驚いたが、考えてみれば、出先から電話しているのだから可能性は限られてくる。

『一度お会いしたのよ。たまたま駆がいないときに訪ねてらして』

 そのことは知っている。俺のことを話したことも、透子から聞いた。

「……そっか」

 どういうわけか透子は、父さんとも母さんとも、俺が紹介する前にコンタクトを取ってしまう。

 俺は透子を横目に見ながら、大事な人を紹介するつもりで、彼女の人となりを伝えた。

「気は優しくて優柔不断。周りに振り回されてて、本人は大変で、俺はその子をさらに混乱させてて……俺がなんにもわかってないって、わからせてくれた」

 全ては、透子に出会ってから。

 求めていたものを見つけたように思って、これで完全な形になれるような気がして、でもそれは結局ひとりよがりな願望で、俺は俺のことも、透子のことも、まだ全然わかってない。

 本当に、透子に出会ってから、今までになかったことが次々と起きる。

『……そう』

 母さんは、ゆったりと、優美な旋律にため息をもらすように言った。

『好きなのね』

 俺は、少しの嘘も混ざらないように、力を込めて肯定する。

「…………ああ」

 そうでありたい、と心から思っている。

 だから、確かめるんだ。

 俺は通話を切った。透子は窓の外を見ている。今も雪が降っているのだろうか。

「……帰ろうか」

 携帯を返すと、透子は、授業中に出た課題がまだ終わっていないというように、言った。

「私、もう少しここに残る」

 課題の答えを探し求めているのか、教室の一点を見つめて言う、透子。

「なんか、今年の夏は、ここから始まった気がする」

 それは、自惚れでなければ、透子が初めて俺を意識したことを言っているのだろう。

「もっと、ここにいたい。ここが私の場所なの。きっと」

「……場所?」

「さっちゃんが教えてくれた。季節と時間が、それから一緒にいる人が、いつもの場所を特別な場所に変えるって」

 一緒にいる人――それならよくわかる気がする。

 あの高台に透子を招いたとき、確かに、そこが特別であるように感じた。

「あまり遅くならないうちに帰るほうがいい」

「うん」

 俺は立ち上がり、透子に別れを告げる。

「じゃあ、明日の午後、うちにきて」

「わかった」

 俺は美術準備室を後にする。

 教室を出るとき、振り返ると、透子もこちらに振り向いて、俺たちは微笑を交わした。

 それから俺は扉を閉めて、昇降口へと歩き出したが……。

 こっこ、こっこ、と、一羽の鶏――ジョナサンが、名残惜しそうに足を突いてくる。俺はその鶏冠に触れて、戯れる。

 そうしていると、教室の中から透子の声が聞こえてきた。

「あっ、ひなちゃん? ……うん、お願い。明日の朝には必ず帰るから」

 明日の朝、という言葉に、帰ろうとしていた足が止まる。

「お母さんたち、心配しないように、よろしく」

 気づくと、俺は隣の教室の扉に背を預けていた。

「お願い、じゃあね、切るね」

 透子の声が聞こえなくなる。俺は糸が切れたように、すとん、とその場に腰を下ろした。

 張っていた気が緩んで、少しうとうとしていた。

 かつん、とリノリウムの床を硬い靴底が叩く音に、目が覚める。

 外はすっかり日が暮れて、廊下は薄闇に包まれていた。

 そこに明かりが灯る直前、俺はほとんど反射的に、階段下の死角に身を隠した。

 かつん、かつん、という足音に耳を澄ませながら、俺は見回りの教師をやり過ごした。

 廊下が再び闇に包まれる。

 やり過ごした以上、美術準備室の中を確認しないわけにはいかなかった。

 いや、まさか――そう思いつつ、扉に近づいて小窓から中を覗くと、

「っ……!?」

 透子はまだそこにいて、目を丸くしてこちらを見ていた。

(……帰らなかったの?)

 内側から、声をひそめてそう訊いてくる透子。それは俺の台詞だ。

(しばらくしたら帰るはずだったろ?)

 だが、言ったところで状況は変わらない。

 どうしたものかと迷ったが、そんな俺を尻目に、こんこん、とジョナサンが扉を突き始める。

 嫌に大きく響く音に、見回りの教師が戻ってきやしないかと気が気でなく、なんとかしてノックをやめさせようとするが、ジョナサンは聞く耳を持たなかった。

「……はぁ」

 降参だ。俺はため息をつき、教室の扉を開けた。

 ジョナサンは躊躇いもなく、ひょこひょこと中に入っていく。

 人の気も知らないで……と恨めしい気持ちで俺はジョナサンを見、それから、許可を求めるように、ちら、と透子に視線を送った。

 透子は、さすがに気恥ずかしそうだったが、わりとすんなり頷いてくれた。

 俺は敷居をまたぎ、先ほどのように透子の横に腰を下ろす。

 そのとき、意図せず肩がぶつかった。正直、過剰に意識してしまう。

 が、教室の隅っこでうずくまるジョナサンが目に入った瞬間、妙な気持ちはあっさりとどこかへ消えた。

 俺は教室を見回す。

 そこまできっちりと物が整理されているわけではない。どちらかと言えば、気の赴くままに、雑然とした感じ。

 けれど、よく見れば、煌めくもの、美しいものがそこかしこに隠れていて、それらは外に向けてひけらかされることなく、とても大事に、大切に、ひっそりと内に秘められている。

 月明かりが射し込む美術準備室は、真っ暗闇というほど暗くはない。おぼろげながら全体が見渡せる。

 けれど、光の届かない部屋の隅や戸棚の影は、どんなに目を凝らしても見ることができない。

 ここは、そんな、透子の場所。

 そこに俺は――ついでに言えばジョナサンも――居ることを許されている。

「……一晩ここにいたら、ここが俺の場所になるかな」

「それは――」

 どこにも見つけられなかった俺の居場所――それが、ここにあるなら。

「もし俺の場所ができたら……」

 透子の場所に、透子の心に、寄り添うことができたなら。

「《唐突な当たり前の孤独》に、もう出会わなくても済む?」

 心のどこかでそう期待していたことは否めない。

 透子が好きだから、透子の隣にいたいと願うのか。

 透子の隣にいれば一人じゃないと思えるから、透子を好きだと言うのか。

 こうしていても自分の気持ちなんてわからないことだらけだ。

 ましてや、透子の気持ちなんて俺にどこまで理解できるだろう。

 俺は窓の外に目をやった。空には三日月が浮かんでいる。

「まだ雪が降ってるのか?」

「……ううん、もう降ってない」

 透子はそう言った。

 けれど、それが本当かどうか、俺に確かめる術はない。

 こんなに強く惹かれるのに、触れ合うほど近くにいるのに、俺は透子と同じものを見ることができない。

 分かり合いたい、その想いが強くなればなるほど、本当に分かり合えるのかと、不安も大きくなっていく。

 俺は今、確かに、透子の隣にいる。

 満たされている、そう感じるのに。

 一抹の寂しさが、消えてくれない。

「………………」

 考え込んでいると、透子が俺の肩に頭を預けて、すやすやと寝息を立て始めた。

 最初こそ意識したが、しばらくすると慣れてきたのか、俺も瞼が重くなってくる。

 姿勢をまっすぐに保てなくなって、とうとう透子のほうに重心が傾く。

 人という字はなんとやら、俺と透子は絶妙な加減で釣り合いを保ち、均衡を得る。

 冴えた月明かりの射す教室、なのに陽だまりの中にいるような、穏やかな気持ちになる。

 けれど、どうしてなのだろう。

 まるで趣味の悪い騙し絵のように。

 胸の中には、いっぱいの安らかさとともに、同じだけの怖さが、溶け込んでいた。

 *

 翌朝、俺たちはジョナサンの鳴き声で目を覚まし、慌ただしく学校から抜け出した。

 家に帰ってテントに入り、俺は寝袋を敷くのも面倒でそのままぐったりと横になる。

 そうして仮眠を取っていると、母さんがやってきた。

「駆、おはよう。昨日の電話――また外泊なの?」

 怪訝そうな声が聞こえて、入り口の幕が開く。射し込む光が眩しくて、俺は片目だけを開けて応じた。

「……おはよう」

 寝起きの掠れ声でそう言のうがやっとの俺に、母さんはうきうきと弾んだ声で訊く。

「深水さんのご両親は来てもらえそう?」

「たぶん……」

「じゃあ、早めに来ていただいて、軽いお食事でもしましょう」

「……ああ」

 乗り気な母さんのテンションに当てられて、強制的に目が覚める。

 のろのろと起き上がり、テントの外に出ると、《俺》たちが難しい顔で待ち構えていた。

『透子にちゃんと話しておくんだろう?』

「あぁ……」

 曖昧な返事をすると、《俺》は批難めいた口調で言う。

『まだ決められないのか?』

 母さんの提案は魅力的だ。俺のやりたいことにも合致する。

 しかし、それを選べば、俺はもう透子とは一緒にいられない。

 だが、もし仮に透子と一緒にいることを選んだとして、その先は――?

『透子がいたからって、あれからは逃げられない』

「……ああ、わかってる」

 まとまらない思考を振り払うように、強く言い返す。

 透子と一晩一緒にいて、今までにない安らぎを得られたのは本当だ。

 透子のことも、もっと知りたいと、前よりずっと強く惹かれる。

 でも、そうして近づけば近づくほど、耐えがたい恐怖が俺を襲う。

 これまで何度も何度も思い知らされてきたこと。

 一つの街でずっと暮らしてきた人間と、街から街へ移り住んできた人間は、あまりにもかけ離れている。

 両者の間には、埋められない深い溝がある。

 近づこうとすれば、どこかで必ず底のない淵へ落ちることになる。

 今この瞬間も、それは真夏の影のように、俺の足元で黒々とした口を開けている。

 透子とも、俺自身とも、真剣に向き合おうとするからこそ、わかり過ぎるほどにわかってしまう。

 《唐突な当たり前の孤独》からは、逃れられない。

 *

 午後になり、透子の家族がうちにやってきた。

 以前工房で見かけた透子の妹――深水陽菜は、可愛らしい赤のワンピースを着ていた。

 それから、透子の父親から、うちの家族へ、演奏のお礼にと花瓶が贈られた。

 海のように澄んだ群青の花瓶に、淡紅色の大和撫子が活けられる。

 奇しくも、それは透子のくれた揃いの蜻蛉玉と同じ配色だった。

 *

 軽い会食の後、俺は庭に出て芝生に水をやっていた。

 リビングでは、両親たちが世間話に花を咲かせながら、デザートの準備をしている。

 すると、透子の妹が、何か甘いものでもねだるような、きらきらした目でこちらに近づいてきた。

「あのっ」

 人懐っこい笑みを浮かべて、なぜか敬礼する、深水陽菜。

「昨日、私、頑張りましたっ! にひひっ」

 小さな猫に懐かれたみたいで、微笑ましい気分になる。

 言われてみれば昨日、電話で透子がよろしくと頼み込んでいたが――口ぶりからすると、うまくやったらしい。

「あの、二学期から、お姉ちゃんと同じ、日乃出浜高校なんですか?」

「……その予定。まだ正式には、転校手続きは終わってないけどね」

 あくまで、予定。嘘ではない。

 そうして俺たちが話していると、透子が何か言いたげな顔でやってきた。深水陽菜は、いつぞやと同じようににまにまと笑み、俺の隣を透子に譲ろうとする。

 と、そのタイミングで父さんがリビングから顔を出した。

「陽菜さん、ケーキ食べないか?」

「あっ、いただきまーす!」

「駆、おまえたちも――」

 父さんがそう言いかけたところで、透子が俺と父さんの間に割って入った。

「あ、すみません! 私たち散歩してきますっ!」

 どうやら透子はそれを言うためにやってきたようだ。

 俺たちに気を遣って、父も強く誘うことはなかった。

 五時半には始める、そんな母さんの言葉に送られて、俺たちは二人で家を出た。

 *

 いつもの高台の林の中に分け入って、俺たちは海と街が一望できる場所を見つけ、そこに腰を落ち着けた。

 そこで透子は、ぽつぽつと自分のことを話し始めた。

「私、ガラス職人の父の影響で、小さい頃からずっと、きらきら光るものを見てきたの」

 きらきら光るもの――透子にとっての《欠片》。

「あれがなんなのか、またわからなくなっちゃったけど、見始めたのはいつ頃からだろう……」

 言いながら、透子は俺の左手に巻かれた蜻蛉玉に目を留めた。

「それ、ちょっと貸して」

「ああ」

 透子は、そうすることに何か特別な意味があるように、自分のと俺の、二つの蜻蛉玉を並べて、そのガラス越しに街を眺めた。

「……これから実験が始まるんだね。何かがわかるといいね」

「ああ」

 俺にとっての、母さんの弾くピアノの調べは、透子にとっての、透子の父親の作るガラスの煌めきと、同種のもの。

 小さな頃から馴れ親しみ、強い影響を受けてきた、自身の核心にあるもの。

 それを二人で共有することで、何か特別なことが起きるのではないか。

 あるいは、俺たちの《欠片》がなんなのか、判明するのではないか。

 もっと互いのことを分かり合えるのではないか。

 そんな予感めいたものがあって、俺は透子を家に招いた、けれど……。

「でも、そうじゃなくてもいいのかもしれない」

「え?」

「透子の家族と俺の家族が、一緒に母さんのピアノを聴くって、そんなこと思いもしなかったけど、それだけでも十分なんじゃないかって」

 ここへ来てあと一歩が踏み出せないのは、母さんの提案をまだ透子に話せていないからだろう。

 俺がこの街からいなくなるかもしれないこと。

 もしそうなるのなら、《欠片》のことや、互いのことを、分かり合ってどうなるというのだろう。

 離ればなれになってしまうなら、もっと純粋に、一夏の稀有な思い出として、今日という日を安らかに楽しく過ごせれば、それでいいんじゃないだろうか。

「それって、駆くん――」

 俺の決心が鈍るのを感じ取ったのだろう、透子が不安げな声を出す。

 透子に出会えたことには感謝している。

 今の時点でも、俺にとって透子は十分、特別な存在だ。

 この上、分かり合いたいなんて、そんな風に求め合って――その先は?

「……怖がってるんだと思う……」

 最後に別れが待っているのなら、これ以上踏み込まないほうがいいんじゃないか?

 仮に別れないで一緒にいることを選んだって、《唐突な当たり前の孤独》は変わらず付き纏うだろうし、うまくいく保証もない。

 そうして俺が覚悟を決められずにいると、突然、透子が何かに気づいて声を上げた。

「あっ……」

 振り返ると、透子が食い入るように蜻蛉玉を覗き込んでいた。俺もそちらに目を凝らして、はっ、と息を飲む。

「駆くんにも見えてる?」

「ああ……」

 ガラス球の向こうの、奇妙に歪んで、不可思議に色づく街。

 そこに、いくつもの花火が上がっていた。

 透子と初めて出会った日――俺がこの街にやってきた最初の日。

 あの時、透子の《欠片》を通して見た景色のように。

 色とりどりの大輪が、日乃出浜の海上に咲いては、水平線の下に消えていった。

 *

 ガラス越しに見えた花火は、しばらくして打ち止めとなった。

 それからは特に何も起こらず、俺たちは諦めて家に戻ることにした。

 海沿いの道を透子と並んで歩く。

 頭の中では、さっきから同じ言葉が回っていた。

 言わなければ。

 伝えなければ。

 でも、なんと?

 心が決まらないまま、予定の時刻が迫る。

 家に帰るのを拒むように歩みが鈍っていく。

「どうしたの?」

 透子が心配するように訊く。俺は声が震えるのを止められなかった。

「俺は……一緒にいるのが、怖いのかもしれない」

「え?」

「……母さんが、演奏旅行について一緒に世界を回らないかって、誘ってくれてる」

 そう告げると、透子は目に見えて動揺した。

「駆くん……なに言ってるの? 駆くんがもうすぐここからいなくなるかもしれないってこと?」

 ここに残ったって――そう思うことを止められない。

 近づこうとすればするほど、知ろうとすればするほど、果てしない距離を感じる。

 透子は生まれたときから十七年、この街の中で暮らしてきた。

 対して俺は、この街にやってきて、まだ一ヶ月しか経っていない。

 俺が透子と一緒に過ごした時間はあまりに短い。

 俺が透子と一緒に見てきた風景はあまりに限られている。

 どんなに強い気持ちを抱いたって、その事実は変えられない。

 このままここに残ったって――高校卒業までの数ヶ月を透子と一緒にいられたって――きっと俺たちの間にある溝は埋められない。

 どうしたって、否応なく、情け容赦なく、その瞬間はやってくる。

「いつか不意に訪れる、《唐突な当たり前の孤独》をまた経験するのは、もういいかなって」

 どこに留まっても、誰に出会っても、俺が流れ者である限り孤独は付いて回る。

 ならば、ひとところに留まろうとしなければいい。

 孤独に抗うことも叶わず、孤独を受け入れることも怖くてできないのなら。

 どこまでも、いつまでも、逃げ続けるしかないのかもしれない。

「……私たち昨日、ずっと一緒にいたのに……」

 目に涙を溜めて、透子が悔しそうに訴える。

「っ……」

 美術準備室で共に過ごした一夜。

 透子の場所にいることを許され、透子に守られていると感じて、確かに幸せだった。

 けれども同時に、途方もない隔たりを感じた。

 俺には、透子の見る雪が見えない。

 透子がこの街で過ごしてきた長い時間、そこで何を見て、何を感じて、どう生きてきたのか、何も知らない、知りようがない、想像もできない。

 透子にも、俺の孤独はきっとわからない。

 俺が街から街へと飛び回ってきた長い時間、そこで何を見て、何を感じて、どう生きてきたのか、どれだけ言葉を重ねたって、本当の意味で理解されることはないだろう。

 それくらい、俺たちは異なる世界を生きてきた。

 時を戻せないように。

 人生をやり直せないように。

 それはどうしようもないことのように思えて、俺は透子の顔を見られなかった。

 *

「……ただいま」

 俺たちが家に帰りついたとき、演奏の準備は既に整っていた。母さんはピアノの前に、透子の家族はその後ろに並んで、座っている。

「お姉ちゃん、早く早く! もう始まっちゃうよ!」

 待ちきれない、といった様子の深水陽菜。

「二人とも、そのへん適当に座って」

 父さんに促されて、俺はピアノが横から見える位置に腰を下ろす。透子も俺の隣に座った。

「……あれが本当に《未来の欠片》なら……」

 どこか自分に言い聞かせるように、透子は囁く。

「来年の花火をまた二人で見るってことだよね?」

 それは問いかけではなく、願い事を唱えるようだった。

 透子の横顔は心細げで、今にも泣き出しそうだった。

 そんな透子を見ていられなくて、掛ける言葉もなくて、俺は俯く。

 すると、透子の手が、そっと、俺の手に触れた。

 にぎわう祭りの人波の中、はぐれないよう、手を差し伸べるように。

 俺は、せめて今この時間だけはと、透子の手を固く握り返した。

 そして、母さんの演奏が始まる――――――。

 †

 あの夏祭りから数年が経ち、俺もそれなりに分別がついてきて、ようやく理解した。

 街から街へと飛び回る俺には、同じ場所で、同じ顔ぶれと、長い時の中で思い出を共有することができない。

 俺とみんなの間には、忘れられない時間や、忘れられない場所というものがない。 

 だから、何かの拍子に、みんなは俺のことを忘れてしまう。

 それは、しかし、俺の生き方が今のようである以上、仕様のないこと。

 当たり前のことなのだ。

 当たり前なのだから、それは俺が構えていようといまいと、不意を突いていつか必ずやってくる。

 ゆえに、俺は『それ』をこう呼ぶことにした。

 唐突な、当たり前の、孤独。

 そう名前を付けてからは、以前ほど頻繁に、深く傷つくことはなくなった。

 けれど、名前を付けて、はっきりと意識するようになってからは、無視もできなくなった。

 どこにいても、誰といても、自分の中にぽっかりと空いた欠落の存在を意識してしまう。

 でも、もしも、特別な場所で、特別な存在と一緒にいられたら?

 何かが変わるのだろうか?

 《未来の欠片》に抱く淡い期待に似た儚い空想。

 それはしかし、怖い想像でもあった。

 コインの裏表のように、希望はたやすく絶望に変わる。

 ――もしも、何も変わらなかったら?

 特別な場所で、特別な存在と一緒にいても、この孤独が消えなかったら?

 他にどうしようもないなら、方法は一つしかないだろう。

 どこにいても、誰といても、孤独を感じてしまうなら。

 どこにもいようとせず、誰ともいようとしない。

 それしか、ないのかもしれない。

<第12話 花火(再び)>

 母さんの演奏が終わりに近づいたときだった。

 繋いでいた透子の手に、急に力がこもる。

 振り返れば、透子は茫然と、どこか遠くを見つめていた。

 何か、あったのか――?

 また、透子にしか見えない、何かが……。

 俺は透子が話してくれるのを待つ。

 透子は俯き、ぽつりと呟いた。



「なんでも……なんでもないの」



 その『なんでもない』は、とても遠いところから届く、別れの言葉のように聞こえた。

 ほどなくして、母さんの指が鍵盤から離れ、演奏は傍目にはつつがなく幕を閉じる。

 リビングに拍手の音が満ちて、厳かな空気から一転、華やいだ雰囲気に変わる。

 その直後だった。

「っ――透子!?」

 透子は、長く過酷な旅からやっと故郷へ帰りついた旅人のように、その場で意識を失った。

 †

『一緒に花火を見に行こう』

 そう約束をして、しかし待ち合わせの時刻に遅れてしまい、置いていかれた俺は、諦めきれずにみんなを探した。

 ゆったりと歩く大人たちの隙間を縫って、きょろきょろと左右を見ながら、早足に駆けていく。

 そうして、俺はようやくみんなの姿を見つけた。

 人波に流されながら、俺はすれ違いざま、みんなに声を掛ける。

「――――!」

 俺の声は周囲の喧騒に掻き消されて、みんなに届かない。

 そのうちに、みんなは何か面白いものを見つけたのか、はしゃぎながらどこかへ走り出す。

 そのとき、一人が何かに気づいたように振り返った。

 確かに目が合ったと思った。

 よかった、これで一緒に祭りを回れると、安堵がこみ上げてきた。

 ――だが、現実はそうではなかった。

『どうしたんだ?』

『……なんでもない』

 そう、口が動くのが見える。

 俺を探しているようなそぶりはなかった。

 俺との約束も、俺の存在すらも、忘れてしまったように。

 みんなの姿が人ごみに紛れる。

 残された俺は立ち尽くすしかなかった。

 呼びかける気にも、追いかける気にもなれない。

 今のみんなに声を掛けたら、初めて会うような反応が返ってきそうで、たまらなく怖かった。

 そんな俺をよそに、花火の打ち上げが始まる。



 どんっ――!



 肌がびりびりと震えるほどの轟音。

 その一発を皮切りに、爆音は途切れることなく続いた。

 誰もが足を止め、顔を上げて、空を見上げる。

 俺に目を留める人など、どこにもいなかった。

 みんな、まるで俺が見えていないみたいに。

 誰一人、俺がここにいると気づかない。

 どうして――?

 胸が痛くなって、ぎゅっと手を押し当てる。

 誰か――。

 助けを求めるように、声にならない声を出す。

 誰か……。

 返事はない。どこからも。誰からも。

「――――――」

 つぅ、と透明な雫が零れ、頬を滑り落ち、ぽつ、ぽつ、と爪先に当たって砕ける。

 ひゅ、と火の玉が打ち出され、どん、どん、と頭の上で弾けては、色をばらまく。

 滲む視界は、いくつもの色が映りこみ、出来の悪いステンドグラスのようだった。

 しゃくりあげるのを堪えようと、重たい扉を閉ざすように力いっぱい瞼を下ろす。

 涙が溢れ、一面の色ガラスは跡形もなく散らばり、俺の目には何も映らなくなる。

 ただ、花火の音だけが、不粋な訪問者のように、俺の鼓膜をしつこく叩き続けた。

<第13話 流星>

 倒れた透子をソファに寝かせ、目覚めるのを待った。

 父さんや母さん、透子の家族たちは、俺たちに気を遣ってか庭に出ている。

 そして客観的には十数分、体感ではその五倍くらいの時間が経った頃、透子はようやく目を覚ました。

「大丈夫か?」

 そう呼びかけて、俺は透子の家族にも知らせようと立ち上がる。すると、

「――行かないでっ」

 ぱっ、と意外なほど強い力で腕を掴まれ、引き止められる。

 透子は冬の寒空の下をあてもなくさ迷ったあとのように蒼白な顔をしていた。俺は激しい後悔に駆られる。

「……俺のせいだ」

「違う。私も駆くんと一緒に、お母さんのピアノの演奏を聴きたいって思った」

 透子は俺を庇うように言ってくれる。しかし、 

「俺には何も聞こえてはこなかった。でも、透子は気を失うほどの何かを感じた」

「実験は成功したってこと……?」

「……かもしれない。だけど、俺は透子を危ない目に遭わせたんじゃないのか……?」

 分かり合おうとして、近づき過ぎた結果がこの有様だ。

「私、平気だし、それに――」

 透子が何か言い掛けるが、窓をノックする音に遮られ、透子の父親がリビングに戻ってくる。

「……やっぱりひとところにいようとすると、他の人を余計なトラブルに巻き込むことになる……」

 俺が孤独に苛まれるだけならまだしも、透子を危険に晒すなんて論外だ。

 やはり、ここに残ることはできない。早々に立ち去らなければ――と、

 そう考えていた俺の耳に、予想外の言葉が飛び込んできた。

「私、もう少しここにいたい」

 透子の発言に、深水陽菜が「お姉ちゃん?」と訝しむ。俺も同じような気持ちだ。

「確かに、もう少しじっとしてたほうがいいかも」

 しかし、透子の母親は、俺にはわからない透子の意思を汲み取ったように、透子の背中を押した。

「……戻ったら、蜻蛉玉、作りたい」

 決意を固めるように呟く、透子。

 彼女の中で何か変化が起きている――そう感じるけれど、演奏中に彼女が何を見たのか聞かされていない俺には、それがなんなのかわからない。

 結局、透子は一人、うちに残ることになった。

 *

 残ってどうするのかと思ったら、透子はまたしても予想もつかないことを言い出した。

「えっ? もう一曲?」

 もう一度ピアノを聴かせてほしい――さすがの母さんも、ちょっと驚いたようだった。

「はい、お願いします。それを聴いたら、帰ります」

「大丈夫なのか……?」

 たまらず俺は訊くが、透子は「うん」と力強く頷いて、母さんに熱っぽくリクエストする。

「あの、えっと……すごく、ドラマチックなのをっ!」

 これは一体、どういうことなのだろう――。

「はい、わかりました」

 笑顔でピアノの前につく母さん。

 透子は椅子に座り、居住まいを正して演奏を待つ。

 俺は棒立ちのまま、そんな透子を見ていることしかできない。

 再び母さんの演奏が始まる。

 選ばれたのは、幻想即興曲。

 一度目と同様、俺には何も見えなかったし、聞こえてこなかった。

 *

 眠れない夜を過ごした、その翌朝。

 重たい身体を引きずるようにテントから出て、庭の水道で顔を洗い、縁側に腰掛けてぼんやりと考え事をしていると、父さんがコーヒーを持ってやってきた。

「駆、どうするか決めたか?」

 母さんの提案のことだ。俺は、うん、と頷いて、コーヒーを受け取る。

 結果的に、昨日のことで俺も決心が固まった。

「もうおまえも一人前の歳だ。これからは、おまえの好きなことをしていいし、できる限り協力するつもりだから」

 よっぽど俺が浮かない顔をしていたのだろう、父さんは励ますようにそう言った。

 それにしても――好きなこと、か。

 無茶を承知で言うなら、俺も普通に、どこか一つの街でずっと暮らしてみたかった。

 透子みたいに仲のいい友人を持って、祭りの日には、いつもの面々といつもの場所で落ち合い、みんなで打ち上がる花火を見ながら、他愛ないお喋りをしてみたかった。

 でも、現実はそうならなかった。子供の俺に選択肢はなかった。

「……中学まで、結構厳しかったよ」

 今でこそ慣れたものだけれど、昔は転校のたびに大変な思いをしたものだ。

「中学までは子供、高校からは大人、みたいな、変な区切りが俺にはあってな。ま、なんとなくなんだが――」

 仕方がない。翼が大きくなるまで、雛は親の庇護下で育つしかないのだから。

 ふと、麒麟館のツバメはもう巣立っただろうかと、そんなことを思った。

「おまえ、山、続けてるみたいだなぁ」

 父さんがそんな話題を振ってくる。

「うん。けど、登るってほどじゃないよ。低山を半日歩き回るだけ」

「俺が誘ってた最初の頃はあんまり乗り気じゃなかっただろ」

 わかってたのに連れ回したのか――と、苦笑してしまう。

「そうだね。いつの間にかね」

「一緒に登らなくなって長いな」

「父さん、俺についてこられるかな?」

「大きく出たな」

 昔のことを話しているうちに、感慨深い気持ちがこみ上げてくる。

 最初は苦手だったことが、いつの間にか好きなことになっていた。

 本当は疲れるし、苦しいし、外に出て山なんか登るより、家の中で本を読んだり、ピアノを聴いているほうがよかった。

 本当はつらいし、寂しいし、転校なんて一度もしないで、一つの街に留まり、そこを自分の場所だと思えるようになりたかった。

 でも、いつの間にか……変わっていた。

 母さんについていくことは、今や立派な俺の好きなこと、したいことに、変わっている。

 その気持ちは本物だ。

 だから、俺は決めた。

 透子のこと、《未来の欠片》、それに《唐突な当たり前の孤独》――そういった心残りはあるけれど……。

「ちょっとー、あなたー、手伝ってー」

 家の中から母さんの声がする。父さんが母さんの元へ向かうと、タイミング悪くドアチャイムが来客を知らせた。

「俺が出るよ」

「すまないな」

 俺は早足で玄関へ向かう。そして扉を開けると――、

「……高山?」

 現れたのは、高山やなぎだった。

 *

 いつかの井美雪哉のように、高山は俺を外へ連れ出した。目的地はカゼミチとのこと。用件も察しがつくので俺は従った。

 以前会ったときより随分と吹っ切れたような、軽やかな足取りで歩く高山に続き、しばらく街を歩いていく。

 すると、高山はとある坂道の下までやってきたところで、

「ちょっと、休憩」

 と、木陰にぽつんと置かれたベンチに腰を下ろした。俺も足を止めて海に視線をやる。

「ヒナちゃんから聞いたけど、家でお母さんのピアノ演奏会やったんだって?」

「……演奏会ってほどじゃない。もっとささやかなものさ」

 そう返しつつ、頭の隅で、深水陽菜から聞いたなら透子が倒れたことも知っているだろう、と考える。

 けれど、高山は今はその話題に触れるつもりがないのか、俺たちの頭上に広がる青空のように明るく言った。

「次やるときは、ウチも呼んでよ」

「高山は――」

「やなぎ」

 ぴしゃりと訂正が入る。俺は念のため振り返って確認する。高山は微笑した。

「やなぎでいいよ」

「……やなぎは、クラシックに興味あるのか?」

「実はよく聞いてる」

 ――あるいは出会い方が、もしくは世界が異なっていれば。

 俺は高山やなぎと……それに井美雪哉や、永宮幸や、白崎祐と、友人になれたのかな――。

 そんな突拍子もない空想をしてしまうのは、強い日差しのせいか、あるいはうるさいくらいに鳴きしきるクマゼミのせいか、そのどちらかだろう。

 *

 カゼミチの店内に入ると、高山は奥のテーブル席に向かった。

 俺は彼女と向き合うように席を選び、そこに落ち着く。

 高山は真面目な顔になって、いよいよ本題を切り出した。

「約束を果たして。もし忘れてるなら説明するけど」

「覚えてるよ。君との約束なんて一つしかない」

 海で言われたこと――『きっちり説明してもらうから』――を思い出しながら、俺は答える。

 そのとき、エプロン姿の白崎祐がコーヒーを持ってやってきた。高山は彼に「座る?」と声を掛けたが、気遣い屋の白崎祐は「あとで聞くよ」と柔らかく断って、仕事に戻った。

「サチから大まかな話は聞いてる」

「……そうか」

 それは永宮から既に聞いていた。永宮は、透子の『きらきらしたもの』のことを高山に尋ねられた、と言っていた。

 俺は自分の《欠片》のことや、透子の《欠片》のこと、それが出会ってから今までどのように変化してきたのかを、掻い摘んで話した。

「君と約束をする破目になった海辺のことも、今回、透子が倒れたのも……俺のせいなんだ」

 話を聞き終えると、高山は困ったような顔で言った。

「それって、どこまで信じればいいの? まるごと信じるのって難しいかも」

「それで構わないが、本当のことだ」

 俺には《声》が聞こえ、透子には《映像》が見えていた。

 そんな妙な力が、あの花火の日、俺たちを引き合わせた。

「それに、透子の存在が必要だったことは確かだ」

 俺は透子と出会い、ついには《欠片》も聞こえなくなった。

 その過程で彼女には随分と助けられた。

 透子は俺にたくさんのことを教えてくれた。

 透子を失いたくない。別れたくない。そう思った、けれど――。

「だけど俺がいなければ、透子はこんな目に遭わなかった」

 結果的に見れば、俺は透子を混乱させ、不安にさせてばかりだった。

「……俺が透子を傷つけた」

 散々振り回したあげく、《欠片》がなんだったのかはわからないまま。

 出会った意味も、そのあとに起きた変化の理由も、どうするのが正解だったのかも、わからない。

 俺は透子に何も返せていない――彼女が何を望み、何が彼女の幸せになるのかも、わからない。

「俺には……透子が何を見たのか思いもつかないんだ」

 演奏の後、なんでもない、と口を閉ざした透子。

 あのとき瞳の奥で揺れていた透子の本当の気持ちに、手が届かない。

 どこに行っても、思い出を分かち合えない。

 誰と出会っても、想いを分かり合えない。

 そんな自分がたまらなく嫌になる。

「……いいことばかりじゃないわよ」

 ため息をこぼすように、高山は言った。

「気づくってことは」

 ハッとして、俺は顔を上げる。

 発言の意図を探るように見つめていると、高山はむずがるように目を細めた。

「……なに?」

「井美雪哉のことか?」

 図星だったらしく、高山は恥ずかしさに顔を赤らめた。

 しかし過度に照れることはなく、むしろ誇らしげに井美雪哉のことを語った。

「……そう、ユキのこと。言葉なんかなくても、あいつが何考えてるのかすぐにわかる」

 相手が何を考えているのか、言葉を交わさなくてもわかる。

 そんなことができたらいいと思っていたけれど、違うのか?

 たとえ完全に分かり合えたとしても、それはそれでいいことばかりではない、と……?

 俺は高山と井美の関係を思う。

 分かり合えなくて、ではなく、分かり過ぎるほど分かってしまって、互いに傷ついたのだろう、二人のことを。

「……確かに、それは少し厄介そうだ」

 高山の忠告を吟味するように、俺はコーヒーに口をつける。

「――それで」

 高山は急に雰囲気を変え、どうしてか心配そうな顔で、こちらを見据えた。

「カケル、あなたはいなくなるの?」

 質問の形を取っていたけれど、高山は俺の答えを必要としていないようだった。

「なんだかそんな気がして……」

 そう言う彼女も、どこか遠くへ行ってしまいそうに、俺には思えた。

 *

 高山に別れを告げたあと、俺は家に帰り、両親と今後の話をした。

 母さんについていく、そう決めたと、二人に伝えた。

 日乃出浜高校への転校は白紙になった。

 いくつもある選択肢の中から俺自身で決めたことだった。

 俺の意思が固まったことで、父さんも母さんも喜んで準備を手伝ってくれた。

 旅立ちの日取りも定まった。

 夏休みの終わりを待たずして、俺はこの街から去ることになった。

 *

 流星群を見に行ってくる。

 そう言って家を出て、俺は日乃出浜の街を歩いた。

 坂が多く入り組んだ街並み、海からの風、潮の匂い、やまない蝉の声、甲高く鳴く鳶。

 ほんのひと月しか過ごしていないのに、不思議と懐かしく感じる。

 懐かしく、名残惜しい。

 最後にやってきたのは、あの高台だった。

 草の上に寝転がり、目を閉じて、耳を澄ませる。

 《欠片》は聞こえない。

 けれど、待ち人は現れた。

 さっ、さっ、と草を踏む、柔らかい足音が近づいてくる。

「……駆くん?」

 目を開け、声のしたほうを見て、俺は待ち望んでいた人の名を呼ぶ。

「透子……」

 上体を起こして、俺は彼女を見つめた。

 本当はすぐさま立ち上がって、迎えにいきたい。でも、できなかった。

 透子は穏やかな表情で俺を見つめたまま、すぐ目の前までやってくる。

「横に座っていい?」

 その言葉だけで、霧が晴れるように、救われた気持ちになる。

「……ああ」

 扉を開いて、部屋へと迎えるように、俺は微笑む。

 透子はごく自然に、怖がることなく、俺の隣に腰を下ろした。

「今日、流星群が見られるらしい。花火みたいに見えたら最高かな」

「また一緒に、花火が見られたらいいね」

 来年の花火をまた二人で――透子の願いに応えられないことに、胸が痛む。

 だから、せめて最後くらいは、そう思ったけれど、これまでの行いが悪かったのだろう。

「……この空じゃ、無理か」

 見上げれば、灰色の雲が、幕を下ろしたように空を覆っている。

「冬の花火を――」

 一瞬、透子がなんと言ったのかわからなくて、振り返り、聞き返した。

「えっ……冬の?」

「《未来の欠片》の中でね、冬の花火をみんなで見に行こうって」

 俺を見て、微笑みかける透子。

 その口から語られたのは、昨日、母さんのピアノを聴いたときに見た《欠片》のこと。

 いつものメンバーで、冬の花火を見ようと約束したらしい。

「見たのか?」

「うん」

 小さく頷くと、透子は切なげに目を細め、どこか遠くのほうを見る。

「一人で見た」

 一人で? 透子が? なぜ――。

「みんなは?」

 そう訊くと、透子は力なく俯く。

「私に気づいてくれなくて……」

 寂しげで、何もかも諦めたような、透子の横顔。

 幼い頃の俺がそこにいるようで、胸が締めつけられた。

「そうか……。一人で見たのか」

 あの時、俺はみんなと確かに約束した。

『一緒に花火を見に行こう』

 なのに、祭りの当日になって、はしゃぐみんなは俺のことなど忘れてしまって。

「一人で見る花火……初めてだった」

 すれ違っても、声を掛けても、気づいてくれなくて……俺は――。

「唐突な、当たり前の孤独、だったかも」

 あの時の、どうしようもない心細さを。

 寂しさや切なさ、もどかしさを。

 透子は《未来の欠片》の中で感じてきたというのか……?

「――その花火、俺も見たかったな」

 少しでも励ましになればとそう言うと、透子は穏やかな顔で振り向いた。

「駆くんも見てたよ、みんなと」

 透子は、《欠片》を見たというより、もっと壮大な――異なる世界を渡ってきたかのように話す。

 その世界で、俺はいつものメンバーと仲が良かったらしい。

 そして透子のほうが、他から来た流れ者だった。

 ガラス球の向こうにある景色のような、現実とあべこべにズレたところ。

 冬に打ち上がる花火のように、交わるはずのないもの同士が奇妙に融和した、不思議な世界。

 そんな世界で、俺はみんなと花火を見ていた――そう、透子は言う。

「その俺は楽しそうだったかい?」

「うんっ、とっても」

 透子の笑顔を見る限り、その世界の俺はかなりうまくやっていたらしい。

 それはたぶん、かつて俺が空想して、『なりたい』と思っていた俺だった。

「それは、よかった」

 夢が一つ叶ったような、重い荷を下ろしたような気持ちで、ため息がこぼれる。

 《欠片》の中でそんな俺を見たのは、透子がそれを望んでくれたからなのだろうか。

 自分だけの特別な場所を持たない、現実の俺の、ささやかな希望を叶えるために?

 それだけじゃない、透子は俺の《唐突な当たり前の孤独》を知ろうとして、果敢にもあれに向き合ってきたという。

 誰とも分かち合えないと思っていた、この胸の痛みに。

 煌めくガラスの向こうの、《欠片》の世界で。

「《未来の欠片》って、なんだったんだろう……」

「もう、その言葉はそぐわないかもしれないな」

「……お母さんが――」

「え?」

「ううん、なんでも……」

 何か言いかけて、結局口ごもる透子に、俺は思わず苦笑してしまう。

 透子が不思議そうにこちらを見てくるので、俺は言ってやった。

「また透子の『なんでもない』が始まったって思ってさ」

 正直、透子の『なんでもない』には随分やきもきさせられた。

 けれど、今はそれも透子らしさだと思える。

 俺も少しは透子のことをわかってきたんだ。

「でも、透子がそう言うときは、いつも大切なことがあるときなんだろ?」

「……私って、わかりやすい?」

 ちょっとムキになったように言い返す透子に、そうでもない、と俺は答える。

 すると、透子は考えを整理するように、閉ざしていた胸の内を明かしてくれた。

「そうか、そうかも……大切なこと」

 透子は《欠片》について、思うところを聞かせてくれる。

「あの日、花火大会の日、駆くんが見えた。あれは偶然?」

「少し、違うと思う。偶然なんかじゃない。あの時……見たいと思ったから見えた」

 それは、答えになってないかもしれないけれど、俺なりの結論だった。

 俺にとっての《欠片》は、導きの光。

 こだまのように、俺の心のうちにある望みを反響するもの。

 曖昧な希望には曖昧な《声》が返ってきた。

 透子の声が聞きたいと願えば透子の《声》が聞こえた。

 そして《欠片》ではない、透子の存在そのものを求めたとき、俺は《欠片》を聞くことができなくなった。

「あれは、未来なんかじゃなくて――」

 透子も、《欠片》がなんだったのか、自分の言葉で答えを出そうとしていた。

「まだ起こってない、だけど、きっと、これから起きること」

 考えを言葉にすることに慣れていないようで、そう口にして透子は混乱する。

「あ、あれ? これって、同じ意味?」

 考えを言葉にすることに慣れている俺は、《俺》にでもなったように相槌を打つ。

「同じ意味で言ったのかい?」

「うえ、ああ…………違うかも」

「だったら、それは違う意味なんじゃないか?」

 そう手助けをすると、透子の表情が確信に満ちたものに変わる。

 まだ起こってない、だけど、きっと、これから起きること。

 それが、透子の出した《欠片》の答え。

 確定した未来ではなく、可能性であったり、希望であったり、はたまた仮想であったり。

 透子は《欠片》の中に、いつか、どこかの世界を思い描くことができるのだろう。

 そんな俺たちの《欠片》に共通しているのは、投影されるのは俺たち自身の想いである、ということ。

「私は駆くんを見たかった」

「俺は透子を見たかった」

「だから、見えた?」

 ずっと見つけたかった――だから、見つけられた。

 お互い名前も顔も知らなかったけれど、俺たちは二人とも出会うことを望んでいた。

 胸に秘めたことを打ち明けられて、大切なものを分け合える存在を。

 偶然によって引き合わされただけならば、きっと今こうして並んではいない。

「……それに、あの時の花火の音と光が、そうさせたのかも」

「すごい光と音だったもんね」

 炎が煌めくだけでは、まぶしいだけ。

 爆音が轟くだけでは、うるさいだけ。

 性質の異なるもの同士が重なり合うことで、花火は完成する。

「……でも、どうして私? 私、冬の花火のときも、駆くんに何もしてあげられてない。ただ、駆くんの気持ちが少しわかったような気がしただけ。なんにも……なんにもしてあげられてないよ?」

 なんにもしてあげられてないなんて、そんなこと、あるものか。

 安らぎをくれた。気にかけてくれた。色々なことをわからせてくれた。特別な場所に招いてくれた。幼い俺の夢を叶えてくれた。そして何より――、

「それで十分だよ」

 透子は、俺の孤独に寄り添ってくれた。

「それでいいの……?」

 いいんだ、本当に、透子はたくさんのものを俺にくれた。

 あの日の花火の美しさが今も脳裏に焼きついているように。

 たとえ一夏の出来事で終わっても、透子と出会えて、好きになれて、俺は幸せだった。

 もちろん、このまま、いつまでも一緒にいたいと思う気持ちもある。

 けれど、俺には俺のやりたいことがある。透子もそうだろう。

 この夏、俺たちは巣立ちの時を迎える。

 生きていくために、飛び方を覚えなくちゃいけない。

 だから、今はそれぞれに、互いの進むべき場所を目指す。

 そのせいで遠く離れることになっても、大丈夫。

 望むなら、その未来はいつか必ず現実になる。

 《欠片》の導きがなくたって、絶対に君を見つけ出す。

 だから、これは別れなんかじゃない。

 未来へ羽ばたくための、これは、約束。

「この街で君に会えてよかった」

 いつかまた、出会った日のように。

「駆くんが、この街に来てくれてよかった」

 一緒に花火を見に行こう。

 *

「星、見えないね……」

 そう言うと、透子は「そうだっ!」と何か思いつき、持っていた包みを解いた。

「これ、星になるかな?」

 中に入っていたのは、花火のように色とりどりの、蜻蛉玉。

「これ、全部君が?」

「うん」

「……すごいな」

 数もそうだし、柄も一つ一つ違う。かなり気合いを入れて製作した作品のようだ。

 俺は、そのうちの半分を受け取り、手のひらを器にして乗せる。

 透子も同じようにして、手のひらいっぱいに蜻蛉玉を湛えて、空を見上げる。

 そして、透子は大きく息を吸い込み、空に叫んだ。

「せーのっ!」

 息を合わせて、心を合わせて、俺たちは蜻蛉玉を宙に放った。

 いっぺんに撒かれた蜻蛉玉が、街明かりを反射して無数の輝きとなる。

 その輝きは連鎖し、透子の《欠片》が、まるで世界に溢れ出すように、夜空へと拡散していく。

「……流星……」

 きらきらと、出会った日のように、見えないはずのものが見えた。

「……ああ」

 この光景を俺は一生忘れないだろう。

 出会って、惹かれて、触れ合って。

 戸惑ったりすれ違ったり、怖くて立ち止まったりもした。

 君の目に映るものが見えなくて、もどかしく思った。

 それでも今は、こうして見えている。

「駆くんにも見えるの?」

 君と同じ景色を。

「ああ――」

 いつかまた、こんな夜空を君と見上げよう。

 そう思って、思ったときには、彼女の手を取っていた。

 ガラスのように煌めく流星が、次から次へと、天から滑り落ちていく。

 今なら、どんな願い事だって叶えられる――そう、思った。

 *

「ねえ、駆くん」

「なに?」

「いま、幸せ?」

「この上ないくらいに」

「どう生きたい?」

「広い世界を、飛び回りたい」

「私、あなたを守れてる?」

「そうだね、とても」

 降りそそぐ流星の下、空を見上げて、俺たちは未来を思い描く。

「また、会える?」

「会えるさ、きっと」

 巣立ちの朝を待つ二羽の雛のように、ひっそりと、寄り添いながら。

 †

 いくつもの季節が巡り、俺は母さんと渡り鳥のように世界各地を飛び回った。

 彼女とはあれから一度も会っていない。

 ただ、連絡は時々取り合っていた。

 なんとなれば、海外に出て最初に俺がやったのは、自分の携帯電話を持つことだったから。

 なので、彼らが今なにをしているのかもある程度は知っている。

 永宮幸と白崎祐の二人は、県内の国立大に進み、ともに教育学部で学びながら、相変わらずの関係を続けているという。

 井美雪哉は医療を専門とする学校に進んだ。理学療法士の資格を取り、将来は身体に障害を持つ人を助ける仕事をしたいという。陸上は今でも続けていると聞いた。

 高山やなぎは都内の大学に合格し、上京のために日乃出浜を去った。今は学業にモデル業にと充実した毎日を送っているらしい。

 そして、深水透子も卒業後は上京し、希望通りに美術大学に通っている。高山とはたまに会うそうだ。それと、あのきらきらした《欠片》は、もうほとんど見ることがないという。

 誰もが、それぞれの道を歩いていた。

 自らの力で、広い世界に飛び立つために。

 †

 久しぶりの帰国が決まったのは、いよいよ本格的に夏が始まろうという時期だった。

 俺と母さんは、かつての国名を冠するガラス工芸で有名な、海上の街に滞在していた。

 そこは彼女が喜びそうなお土産であふれていた。

 聞いたところによれば、彼女はまもなく夏休みに入り、地元に戻るらしい。

 ちょうど、俺と母さんが父さんの家に帰る頃と重なる。

 会う約束をすることは、そう難しくないだろう。

 だが……と、子供みたいなイタズラ心が湧く。

 何も知らせないで会いにいくのも面白いかもしれない。

 たとえば、街中でいきなり声を掛けたら、彼女はどんな反応をするだろう。

 そう、想像を巡らせた、そのときだった。



《――かけるくん?――》



 彼女の柔らかな声が、海からの風に乗って耳に届く。

 周りを見回すと、きらきらと光を反射する街角のショーウインドウが目に入る。

 大きな瞳を丸くして、ちょっと間が抜けたような顔で振り返る透子の姿が、映った気がした。
















《Pieces of glass like a star slipped over the sky――GLASSLIP End.》




ご覧いただきありがとうございます。

色づく世界の明日からがよくて、名前しか知らなかったグラスリップを見たんですが、めちゃくちゃ面白いですね。

今年で五周年だそうですが、もう見た方もまだ見てない方も、ぜひいま一度見てほしい。

では、お付き合いいただきありがとうございました。

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