渋谷凛「きっと、こういう日々が積み重なって」 (6)


 渋谷凛は悩んでいた。
 そして、眼前の喧騒を見るでもなく眺め、何度目かのため息を吐いて、どうしよう、とこぼすのだった。

 時は三十分ほど前に遡る。
 フリートークを交えながら、数曲を披露し、最後に「ありがとうございました」と頭を下げて、凛はステージを降りた。

 疎らな拍手を背で聞きながら、全身に浮かぶ汗も気に留めず、やりきった、という感慨にふけっていた。

 トークの方はまだ改善の余地が多分にありそうだったが、歌唱やダンスは少しは見られるものになったのではないだろうか、そう脳内で自賛しながら、舞台裏で待っている自身のプロデュースを担当している男のもとへ駆け寄った。

「お疲れ様でした」

 凛の担当プロデューサーは、満面の笑みで彼女を迎える。

 彼は大きなタオルを凛の肩にかけ、次いでスポーツドリンクを手渡した。

 凛はそれを受け取り礼を言って、そのあとで、どうでしたか、と男に訊く。

 すると男は笑みを一層強烈に浮かべて、素敵でしたよ、と言った。

「汗かいてますでしょう。冷えちゃいますから……こちらへ」

 男に導かれるままに、凛はその後ろをついていく。

 体をねじって音響機材の間を抜けて、舞台裏の仮設テントを出て、そのまま公園の外へ。

 数分ほど歩き、路地を折れた場所にあったコインパーキングで、男は立ち止まる。

 そして凛へ車の鍵を差し出した。

「申し訳ないのですが、車の中で着替えを」

 年頃の少女、それもアイドルを、こんな路地のコインパーキングで着替えさせるとは何事か、内心でそう思わなくもなかったけれど、男の表情から心より申し訳なく思っているであろうことが窺えたためか、凛は差し出された鍵を無言で受け取った。

 何よりも、今は達成感の方が勝っていた。今日は、凛にとってまだ数えるほどしかない、お金がもらえる仕事、であった。もちろん規模はあまり大きくはない。自治体が主催する祭りのステージイベントの一部、そのほんの数十分の出番であったが、それでも、だ。手に入る金額の大小などではなく、自身の歌唱がお金を払うに値するものである、という事実が、凛は嬉しかった。

 凛は車の鍵を操作して、ドアのロックを解除する。

 そのまま滑り込むようにして後部座席へ乗り込んだ。外の様子をちらりと見やり、男がこちらを向いていないことを確認する。

 よもや覗くなどはしまいが、気になるものは気になってしまう。

 そうして安全を確かめると、凛は衣装を破いてしまわないように慎重に着替えを始めた。

 低予算で拵えたものではあるものの、この漆黒のドレスと紫の花の髪飾りとシューズが、現在の彼女の唯一の衣装であった。

 この衣装は、凛の担当プロデューサーが知人を頼ってデザインを練り、製作したものである。

 当初のデザイン案ではドレスのフリルもさらに多く、靴も豪奢なブーツであったのだが、所属する事務所からの予算が下りず、泣く泣くダウングレードしたものを発注することになった過去を持つ。

 加えて、なんとかドレスとシューズを発注したところで予算が尽き、髪飾りは諦めるほかなかったのであるが、そこへ凛の担当プロデューサーが私費を投じて、用意させたのだった。

 故に、凛はこの衣装を大変、大事にしていた。

 できる限り皺にならないように、と丁寧に畳み、紙袋に収納する。

 汗を拭いてから、代わりに取り出した私服をもそもそと身に着けて、車を降りた。


「おまたせしました」

 凛が男の後ろ姿に声を投げると、男はゆっくり振り返る。

 ややあって、男は「大丈夫です。今来たところなので」と言った。

 不意な小ボケを食らい、吹き出してしまった凛は仕返しとばかりに「覗いてないですよね」と眉を上げる。

「まさか。……あ、いえ、渋谷さんに魅力がないとか、そういう意味ではなくね?」

 などと、慌てふためきながらあれこれと弁明を重ねる男がおかしく、凛は遂に声を出して笑う。

「大丈夫です。冗談なので」

「えっ。あ、俺からかわれたの?」

 きょとん、として言う男に対して、凛は、なんのことですか、と返す。

「えー、っと。まぁいいや。そんなことより、これを」

 言って、男は自身のスーツの内ポケットをまさぐり、何やら長方形の紙を取り出した。

 それはなにか、と凛が聞くよりも早く、男が「今日のステージ、すごく良かったと会長さんが。そしてこれを渋谷さんに渡して欲しい、って」と説明を加える。

 凛はその紙を受け取って、開く。

 どうやら、この祭りで使用できる金券らしかった。

「遊んできていいですよ。俺は今回呼んでくれた会長さんたちにご挨拶してくるから」




 というものが、現在までの経緯であった。

 依然、渋谷凛は悩んでいた。

 手の中にある、残り二千円と少しの金券を見やり、さてどうしたものかと途方に暮れていた。

 お祭りの出店の価格というのは、総じて高いものだが、それにしたって三千円を一人で使うというのは中々に難易度が高かった。

 担当のプロデューサーに「行ってらっしゃい」と放り出されてから、あてもなく歩いて、目に留まったりんご飴を購入して以降、他に何も購入していない。

 これではせっかくの金券を無駄にしてしまうと思ったが、ベンチに腰かけて、喧騒を眺めながら独りで寂しくりんご飴に口をつける十数分で、すっかり気が萎えてしまった。

 困ったことになった。友人でもいれば、楽しく過ごせるのであろうが、独りでの祭りとはこうも、楽しみにくいものか。

 凛は現在の謎めいた状況を客観視して、苦笑する。

 目の前を通りがかる者の中には、先ほどの凛のステージを観覧した者もちらほらとおり、しばしば声をかけられた。

 凛はどうにもそれがくすぐったく、喧騒を離れ、木陰で独りぼんやり途方に暮れることに努めた。

 頃合いを見て、自身の担当プロデューサーに連絡をして、帰ろう。

 そんな腹積もりで、凛はぼうっとしていた。





 しばらくして、凛のもとへ祭りの喧騒には不似合なスーツ姿の男が小走りでやってきた。彼女の担当プロデューサーだ。

「姿が見えたので。……って、まだあんまり金券使ってないんですね」

 はっとして金券を隠そうとする凛だったが、無駄だと気付き「その、独りでお祭りを回るのがちょっと、辛くて」と正直に白状した。すると男は、ああと唸り「それは配慮が足らず、申し訳ないことをしました」と頭を下げた。

 意図が汲めず、首を傾げる凛に、男は微笑む。

「一緒に回りませんか。お祭り。……あっ、嫌だったら、ぜんぜん断っていただいても」

 またしてもあたふたと慌てながら弁明を加える男を見て、凛は吹き出す。

 そして、いいですよ、と笑みを返した。



 おわり

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