渋谷凛「私は――負けたくない」 (879)






私は、実はおちこぼれだった。

スカウトされたはいいものの、愛想なんて全くないし、
身体能力はただの人並み、歌も特段に巧いと云うわけじゃなかった。

カラオケは好きだからよく学校帰りに友達と行ってたけどね。




……いやホント、どうして私なんかがスカウトされたんだろう?

――渋谷凛「回想」 2019.09






SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1439132414


・シンデレラガールズSSです
・地の文オンリー
・長いよ


以前の
凛「私は――負けない」
と関連がありますが、これ単体でも大丈夫だと思います

懐かしいな
あのss凄くよかったよ




・・・・・・・・・・・・


渋谷の街は、とても雑然としていた。

林立する商業ビルはおろか、無秩序に行き交う人の波は、それそのものがまるで壁の如く。

タクシーは無茶な車線変更をして走り抜け、路線バスは重いエンジン音を吐きつつ道玄坂を登らむと息を切らす。

加えて店頭の騒々しいBGMや、遠くからは電車の生み出すこだまも混ざり合い、一帯はノイズに覆われている。

人々は、都市計画などまるで無視した、毛細血管のように絡み合う雑踏を、早足で駆け抜けて行く。

さながら、何かから追われているように。

久しぶりに太陽が顔を覘かせた爽やかな空模様も、先を急ぐ者たちには何ら眼中にない。

まもなく春本番を迎えようと云う時節、南風に吹かれて心地よい陽気であるにも拘わらず。

閉塞した社会。

鬱屈した日々。

牙を剥く自然。

彼らは、目に見えぬ“どす黒い”ものから必死に逃げているのだ。焦っているのだ。


しかし、まるでそんなものとは無縁だと云うような雰囲気で――

車も人通りも多いスクランブル交差点の傍ら、何をするでもなくガードレールに気怠く腰掛ける少女がいた。

否――むしろそれは、閉塞や鬱屈への、一種の白旗だろうか。

かれこれ数十分も、冷めた視線を世界へ送っているのだから。

微動だにせぬまま、時折走る風に、髪や服の裾が揺られるだけ。

艶のある長い黒髪、やや吊り上がった切れ長の眼、神秘的な碧い瞳を持つその少女は、おそらく十代半ばだろう。

外見こそ端麗なれ、その表情は年齢と不釣り合いなほどにクール、歯に衣着せず云えば……無愛想。

近くのカフェでコーヒーを飲む或る男は、そんな彼女を気がかりに思っていた。

例えば、友人――または彼氏か――の到着を待っているような素振りには見えないし、
小綺麗な彼女にナンパを持ち掛ける若者にも、何の反応も示さない。

まかり間違えば、人形が捨てられているのではないかと通報沙汰にさえなりそうな。

そんな異様な雰囲気を、男はとうとう放っておけなくなった。


「……ん? なに?」

男が少女の方へ歩み寄ると、それまで何の反応もなかった彼女が、ごくわずかに目線を向けて問うた。

ナンパに挑戦する数々の若者とは、やや雰囲気が違うスーツ姿の者が近づいたからであろうか。

だがその口調は刺々しく冷め、目や口元が不躾な角度であることは変わりない。

「あー、ちょっといいかな?」

「……私は別に用とかないけど」

少女は、男の方を見ずに云い捨てた。外見から想像するよりも芯の強い声だった。

「まあ、用がなさそうなのは見ていれば判るんだけどな、どうにも君の様子が妙なんでね。声を掛けてみたのさ」

「ヘンなナンパの仕方だね」

「いや、ナンパじゃなくて。何か放っておけない、と云うべきか……あぁ、俺は別に怪しい者じゃない」

猜疑の目を少しでも和らげようと、「普通のサラリーマンだ」と云って証明書代わりの名刺を差し出す。

どう説明したものかと男が思案していると、少女はついにガードレールから腰を浮かした。

「私、急いでるから。もういい?」

どう見ても急いでいるようには思えないのだが、これは『私に構うな』と云う常套句。

「じゃ」

少女は短くそう嘆息して、男や、彼の名刺など一瞥もせず、駅の改札へ向かって歩いて行った。

去り際に、「……変なの」と云う呟きを残して。




・・・・・・・・・・・・


年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月ほどが過ぎようかと云う土曜の午後。

黒いアスファルトで舗装された歩道を、可憐な少女が一人、傘を差して歩いていた。

傍の道路には、モノレール――正確には新交通システムの橋脚が微かに影を作っている。

片側二車線の大きな道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。

その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に緑と桃色の線の入った列車が、頻繁に往き来している。


まもなく大型連休を迎えるものの、世間はそれを手放しで歓迎できていない。

つい先日発生した、未曾有の地震の所為だ。

揺れによる直接的な被害はそうでもなかったが、大津波はあらゆるものを呑み込んだ。

自然災害には滅法強いはずの日本が二万もの犠牲者を出した――その事実こそが、事態の規模を物語っていよう。

東京の街は、被災地と比して幾分か混乱は収束しつつある。

しかし、輪番停電等で暗く寒い夜を過ごした人々は、
自分らが『如何に文明に飼い馴らされているか』を痛感することとなった。

停電対象外の23区の中、ほぼ唯一の例外地として、そんな非日常を実際に経験したばかりとあっては、
到底目出度い気分になどなれなかった。

しとしとと降る雨も憂鬱だ。

――明日は誕生日だと云うのに。

今、世間には、過度な『自粛』を強要する空気が満ちていると云っても過言ではない。

そう、個人の誕生日を祝うことすらも憚られるほど。

本来なら、今夜は通っている養成所でささやかなお祝いが開かれる予定であったが、お流れとなってしまった。

ただの一市民がパーティを止めて祈りを捧げたところで、被災地の情勢など変わりもしないのに、
そうしなければならない雰囲気。

日本の民族性なのであろうが、一種異様な状況である。

「はぁ……」

少女は、軽く息を吐いて、すぐに、はっと顔を挙げた。

いけないいけない、元気が取り柄の自分なのだから、こんな顔をしていてはいけない。

笑顔で頑張らなくては。

そこへ、数十メートル先に昇降口を構える駅から歩いてきた、体格の良い男が道を尋ねる。

少女が軽いジェスチュアを交えて教えると、合点がいったようだ。

お礼にジュースでもどうかと問うので、

「あ、いえ。これから養成所へ行くところなので。では失礼しますね!」

そう笑って彼女が頷くと、緩いウェーブの掛かった、濃茶色の綺麗な長髪が揺れた。


公共交通を数本ほど乗継いだ場所にある養成所の、壁面が全て鏡張りされたスタジオ。

大勢の女の子たちに混じって、その少女の舞う姿が見える。

彼女は輝くステージにアイドルとして立つ自分を夢見て、この養成所――芸能界への入口にそびえる門を叩いた。

純粋な憧れ。

無垢な将来像。

しかし実際に門の少し内側へ入っただけで、それは、とてつもない倍率の世界なのだと思い知らされた。

勿論、養成所だって誰も彼も見境なしに入塾させてくれるほど甘くはない。

だから、一定のラインはクリアできているはずだと、或る程度の自信は持っても良いと思う。

それでも、栄光の舞台を目指さむと日々奮闘する数十人ものライバルを見ると――

本当に自分は芸能界への狭き階段を昇っていけるのだろうか……と云う類の思考を禁じ得ない。

無論、そんな自信の無さや幾許かの恐怖など、一種、負の情念は誰でも持つことだろう。

だが彼女自身は、その種の感情を“不安”だとは受け取っていないようだ。

“恐怖心”を“頑張る精神”へと無意識に置き換え、その心で自らを衝き動かす。

そして、日々の地道な成長を――なりたい自分に近づけていることを、嬉しく感じる。

それは彼女の一つの才能であった。


大勢で同じ動きを舞うことしばし。

頑張った成果か、前回踏めなかったステップをこなせるようになり、少女は足許を見ながら笑みを浮かべる。

顔を挙げると、ふと、少し先にある扉から、妙な出で立ちをした、初老の男性が入ってくるのを視認した。

インストラクターと握手をしている。

新しい講師だろうか?

少女は頭の中でそう呟いた。

どうやら、業界関係者のようではあるが……

養成所で修練していれば、そんな人物がやってくるのはままあること。

彼女は、その人物を意識しないように、ひとまず今は練習に集中するようにと、自ら云い聞かせた。

しかし逆に、インストラクターが彼女のその行動を差し止めるように呼ぶ。

驚いた少女が視線を向けると、手招きをしているではないか。

不思議な面持ちのまま、小走りで駆け寄って問う。

「えっと、私に何か……?」



・・・・・・

年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月が過ぎた日曜の午後。

赤茶色のブロックが敷かれた歩道を、快活な少女が一人、歩いていた。

傍の道路には、モノレールの橋脚が規則正しく影を作っている。

片側二車線の大きな道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。

その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に青い線の入った列車がぶら下がり、頻繁に往き来している。


大型連休中だと云うのに、世間はそれを手放しで歓迎できていない。

つい先日発生した、未曾有の地震の所為だ。

この時期は、本来なら家族で毎年どこかへ出掛けるのだが、今年は特にそう云った話は出なかった。

代わりに、新しい高校生活に馴染んできたので、今日はクラスメイトとショッピングをした。

母親がいつもより多めのお小遣いをくれたものだから、嬉しくて色々と買ってしまい……

今は荷物の多さに少しだけ後悔している。

でも、久しぶりのショッピングだもん、楽しかったから良し!

そう彼女が頷くと、外側に向かって撥ねた、やや短く綺麗な茶髪が揺れた。


帰宅後、母親が用意していたおやつへ目もくれず、玄関は姿見の前で、買ってきた春夏物の新作に身を包む。

ターミナル駅近くのブティックでこの服を試着したとき、友達が「とても似合ってるよ」と褒めてくれた。

鏡に正対してポーズを取ったり、くるりと翻って肩から背中そしてヒップへのラインを確認したり。

独り、セルフファッションショウをしばらくこなし、えへへ、と顔を綻ばせた。

笑いながらガラスの向こうにいる自分を覗き込んでいると、来客を告げる電子ベルが鳴り響く。

彼女は、「ほいほ~い」と云って、すぐさま玄関の扉を勢い良く開けた。

その方が、わざわざ居間へ戻ってインターホンを受話するよりも早いし効率的だから。

だが来訪者は、呼び鈴を鳴らしてすぐに戸が開くとは思っていなかったのであろう。

そこには、心底驚きたじろいだ様子で、郵便配達の人が立っていた。

曰く、簡易書留で郵便物が届いたらしい。

受領印を押してから封書を眺めると、それは、ちょうど自分へ宛てられたもので――

封筒の下部を見た瞬間、普段は至極快活な少女が、まるで人形のように固まった。

『オーディション合格通知在中』

何度も目を擦って読み返しても、そこには明らかに良い報せであることを示す朱印が輝いている。


彼女は普段から元気溌剌だった。

クラスでも随一のムードメーカーであり、笑わせ屋であり、輪の中心にいた。

友人たちに冷やかし半分で「アンタって明るいし、アイドルにピッタリなんじゃない?」とも云われるほど。

笑顔が、向日葵のような橙色に輝く女の子だった。

先日クラスメイトと読んでいた雑誌に、新規プロダクション設立に伴うオーディションの情報が載っていたので、
そそのかされた勢いのあまり応募したのだが……

まさか本当に合格するなんて。

正直、彼女自身は結果に全く期待していなかった。

何故なら、柄にもなくあまりに緊張し過ぎて、本番で色々とトチったからだ。

会場へ向かっている時は、まるで心臓が口から飛び出るのではないかと思うくらいどきどきしていたし、
あろうことか遅刻しそうになって急いだら、強面の男性とぶつかりそうになってしまった。

さらには選考時のことなど、もはや何を喋って何をやったのかさえ朧げにも覚えていない有様。

そんな散々なオーディションだったのに、何故合格通知なのか。

何かの間違いではないのか。

震える手で封を切り、おそるおそる中身を出す。

そこには『技量ではなく内面を見て判断し、ティンときたから合格』と良く判らない理由が綴られており――

その挨拶状の下に、しっかり整えられた様々な書類が束になっている。

不合格なら紙切れ一枚しか入っていないから、本当に合格通知なのだ。

人間、予期せぬ嬉しい事象が起こると、得てして爆発的に喜ぶことはできないもの。

彼女は、全身を震わせながら、しかし顔には満面の笑みを浮かべて、静かに、そして力強く呟いた。

「えへへ……やった……ッ!」



・・・・・・

年度が変わり、新しい一年が始まってから一箇月ほどが過ぎた平日の午後。

ベージュ色のブロックが敷かれた歩道を、美しい少女が一人、歩いていた。

傍の道路には、モノレールの橋脚が規則正しく影を作っている。

片側二車線の大きな道ではあるが、時間帯のせいか、車通りはさほどでもない。

その代わり、モノレールの軌道には、銀色車体に橙が四角く塗られた列車が、頻繁に往き来している。


大型連休が明け、世間には閉塞した空気が漂っている。

少女は気怠そうに、茶色いレザーのスクールバッグを肩へ廻した。

普段、一緒に下校している仲の良い友人は、今日は部活や掃除当番。

ゆえに、彼女は、JR駅までの道を独り、ややゆっくりとした足取りで歩んでいた。

ふわぁ、と軽く欠伸をし、それを左手で隠す。

実に、実につまらない日常だ。

地震で、人生の価値観に僅かな変動があったとはいえ、結局それも二箇月弱が経って薄れてきた。

……そもそも、災害に対する現実感がほとんど無い。

発生当時は中学卒業直前の自宅学習日だったが、家の周辺地域は地盤が極めて強固なので、さほど揺れなかった。

さらに軍事基地が近所に在る為なのか、輪番停電の対象からも外れた。

つまり彼女にとって震災とは、テレビの向こう側の出来事にしか感じられなかったのだ。

喉元過ぎれば何とやら。変化の無い日々が、再び少女を支配しつつある。


この春から高校へ進学した彼女は、幾分か、変化への期待があった。

新しい自分への、渇望があった。

しかし入学以来一箇月以上が経ち、それは幻想だったのだと思い始めている。

幼稚園から小学校、また小学校から中学校へ上がった際の、明らかな環境の変化と違い、
高校生になったからと云って、何かが劇的に変わるわけでは無かった。

強いて違いを挙げれば義務教育ではなくなったと云うことだが、そんなものは目に見えぬ立場の話でしかないし、
クラスを構成する人間が変わる――中学時代の友人の大半と離れることになったのは、まったく負の側面だ。

結局、学校生活だって、授業内容だって、日々通り過ぎていく日常は、何もかもが中学校の延長線上。

中間と期末の憂鬱な定期考査は容赦なくやってくる上、同年代の男子の幼稚さは相変わらず。

実際、男子の幼稚さは、彼女の澄ました美貌に気後れしてのことだったが、当の本人には判ろうはずがない。


そんな変わらない鬱屈したループから抜け出したくて、藻掻いて、ピアスを空けてみた。

中学生とは違うのだ、と自らの身体に刻み付けたかった。

それでも、生じた変化は、髪に隠れた部分の僅かな見た目だけ。

父親に渋い顔をされたくらいで、その他の環境は何ら変わることは無かった。

むしろ、ナンバースクール伝統の自由過ぎる校風から、ピアスや染髪なんて当たり前に行なわれている中で、
彼女はただ単に、そんな有象無象の一人にしかならなかった。

「はぁ~ぁ……」

まるで幸せが逃げて行きそうな溜息を吐いて、髪を掻き上げる。

西日に照らされた左耳、白銀色のピアスが鈍く光り、そして、さらりと流れる、黒く綺麗な長髪が揺れた。


そのまま、ターミナルの駅ビルでアパレルや靴、アロマなどを、大して注目もせず視てぶらぶらしていると、ふと
一階から四階までぶち抜くエスカレーターから、妙な出で立ちをした、初老の男性が歩いてくるのを視認した。

その態―なり―を半ば不躾な視線で凝視する少女に、男性が気付く。

そして彼もまた、視線を少女に向け、若干の驚きを得たように跳ねた。

大股の早歩きで少女の眼前まで寄ると、彼女は気怠く無愛想な表情で問うた。

「……オジサン、誰? 援交―サポ―ならヤんないよ」



――

駅ビル二階の、明るく賑やかなカフェ。

少女は、アールグレイを飲みながら、男から差し出された名刺を眺めていた。

しかしその目は、欺瞞を疑うように刺々しい。

「C、G、プロ……ねぇ。……正直、聞いたことも無いんだけど」

ひらひらと団扇を煽ぐように揺らして、率直な感想を述べると、

「いやはや、設立してまだ間もないからねぇ!」

男は目の尻を下げ、自らの後頭部をぽんぽんと叩いて困ったように笑った。

そして、テーブル上のガトーショコラを指して「ささ、遠慮せず」と促す。

彼女自身、同年代の他の娘よりはそれなりに可愛いと云う自覚を持っているので、警戒心は多少ある。

だが、このような場所で、店の売り物に変な薬を盛られることもないだろう。

そう判断し、ゆっくりと、しかし怠そうにフォークを構えて「頂きます」と一口食べた。

美味なケーキに、期せずして顔が少し綻んだのだろうか、そのタイミングで男が喋る。

壮年・中年の歳相応の、ほど低く渋い声だ。

「そう云えばまだ君の名前を尋ねていなかったね。差し支えなければ教えてくれないかい?」

少女は即答せず、視線を少し逸らした。

長い時間、咀嚼したまま考え、無言の間が続く。

卓上にある少女のiPhoneへメールが着信し、バイブレータが天板と共振して存外大きな音を立てた。

彼女は手に取って画面を一瞥したが、他愛の無い内容だったようで、返信せず再びテーブルへ置く。

そして目を軽く閉じ紅茶を飲んでから、おもむろに口を開いた。

「……渋谷だよ。渋谷――凛」

きちんと答えてくれるとは期待していなかったのだろうか、男は少しだけ目を丸くする。

「渋谷凛ちゃんか。素敵な名だ」

凛は、嬉しくも何とも無いと云う表情で紅茶をもう一口呷った。

「――で、そんな事務所の社長さんが、学校帰りに道草してる不良女子高生を掴まえてスカウトだって?」

先程、エスカレーター前で出会ってすぐ、アイドルにならないか、と単刀直入に云われたのだ。

頭上に疑問符を浮かべている凛を、あの手この手で云い包めて、ひとまずカフェの椅子へ坐らせた。

物腰は紳士的ながらも、その話術は、流石、芸能業界の関係者、と云うことか。

確かに、「スカウトしたい」と告げられて悪い気分にはならないが――

「そう。さっき君を見て、一目でティンときたんだ」

「……はぁ。そんなの手当たり次第に誰にでも云ってるんでしょ、色んな甘言を弄してさ」

この真っ黒いオジサンの言葉を鵜呑みにするのは早計だ。今一信用ならない上、判断する材料が乏し過ぎる。

――どうせ私なんか、何百人と声を掛けた雑輩の中の一人なのだろうし。

ものぐさな様子の凛と、正反対に、至極真面目な顔をする男。

「とんでもない。私は業界歴だけは長いが、『コレだ!』と云う子にしか声を掛けないんだよ。
 ただの一人にもコンタクトせず撤収する日も少なくない」

凛が視線だけ挙げて相手の眼を見ると、その彼は柔らかな笑みを湛え、言葉を続ける。

「それに、自分で自分を不良と云う子ほど、根はそうじゃないものだよ」

「妙な断言をするね、オジサン」

凛は、目線だけでなく、顔も挙げて正対させたが、その言葉には、若干の刺が見え隠れしていた。

まるで、私の何が判るのだ、とでも云わむばかりに。

しかし男はそれを気にしない。

「君の全身から、お花の香りがする。芳香剤ではない、青く潤う生花の薫りだ。多分、お家は花屋さんのはず。
 そして手先は若干水荒れを起こしているね。きっと、ご両親の手伝いを精力的にこなしているのだろう」

この男は、家業を難なく云い当てた。これがスカウトマンの眼と嗅覚か。

ブラフかどうかは判らないが――凛がよく手伝っていることも見抜いている。

花屋は即ち水仕事と云って過言ではない。四六時中水に触れていると、肌を保護する皮脂が流失し荒れてしまう。

凛は、慌てて手先を袖の中へ潜らせた。

男の云い分を認めるようで癪だが、何故だか、隠さずにはいられなかったのだ。

凛のその反応に、男は少しだけ口角を上げた。

「身なりも一見崩しているようで実は端正だ。ぴしっとした上着、緩められているが形は整っているネクタイ。
 よく磨かれ、潰されていない革靴。僅かな染み汚れも、そして擦れもないスクールバッグ。
 手入れされた長く美しい髪もそうだね」

澱みなく、流れるように指摘を重ねていく。

「君が持つiPhoneは一世代前のだが、保護ケースへ入れていないにも拘わらず綺麗な状態だった。
 身近にある、頻繁に使う小物さえも丁寧に扱っている。そう云う細かい部分に、育ちの良さが出ているよ――」

まるでエスパーかと思えるほどの指摘ぶりに、凛はだんだんと目を逸らしていった。

ここまで云われては、少し……いや、大分気恥ずかしい。

頬が微かに紅潮していることが、自分でも判る。

「――そんな子の自称する『不良』って云うのは、一種のサインのようなものだ」

「……へぇ、サイン、ね……」

凛はそう返すのが精一杯だった。

逆に男は、上半身を凛の方へ若干寄せて、覗き込むような視線を送る。

「君はきっと、とても真面目な子だ。だからこそ、日常の繰り返しをつまらないと諦めているのではないかな?
 耳に光っているピアスは、おそらく、それの裏返しだ。違うかね?」

凛は、ぴくりと、眼や眉を上げ、逸らしていた視線を再び目の前の男へ向けた。

「それにしたって、なんで私を? ……そりゃ人並みより多少容姿に恵まれてるとは思うけどさ。
 それだって偏差値がちょっとマシかな、ってくらいでしょ」

「謙遜だねえ。もしくは、自分を過小評価しているのかな? 君は十二分に綺麗だよ。
 それに、見掛けも大事だが、それだけじゃないんだ。君には、凛々しく纏うオーラがある。
 私に云わせれば、それら相乗効果で、偏差値なら75を優に超えると確信している」

恥ずかし気もなく、堂々と云い切る目の前の男。

凛の方が照れくささで縮こまってしまう。

そんな様子を見て、男は「とまあ、ここまでは、ただの前口上だよ」と笑い、刹那、眼力鋭く凛を射抜いた。

「――君の、きりりと澄み、引き締まった碧い眼。最大の理由はそれだ」

「……眼?」

「ああ、君はとても真っ直ぐで綺麗な眼をしている。確かな意思を宿す瞳だ。私は、それに惚れた」

真っ直ぐな云い種に、凛は少し眉根を寄せる。

「……オジサン、もう『惚れた』ってストレートに云えるような歳じゃないと思うんだけど」

極めて失敬な突っ込みであるが、男は、少しだけ眼を丸くして、数秒ほど溜めてから、顎を外した。

「あっはっは! スカウトなんて、一目惚れの告白と同じようなものだよ。
 清水の舞台から飛び降りて、想いの丈を精一杯ぶちまけるんだからね」

腹を抱える男と対照的に、凛は表情を変えなかった。

否、呆気にとられて、表情が追い付かなかったと云うのが正解。

はぁ、と軽く息を吐いてから、やや温くなった紅茶で喉を湿らせる。

「――そもそも私、見ての通り無愛想だけど、こんなのがアイドルなんてやっていけるの?
 そう簡単に直せるもんじゃないよ、これ」

「その辺りは幾らでもやりようはあるさ。君の中の、アイドルとしての輝きは、そんなことでは曇らない」

妙に自信たっぷりと云い切るものだ。

凛は、目線をやや下げ、左手を顎に添えた。そのまま、じっと考え込んでいる。

 ――日常に飽き飽きした心への、カンフル剤となる。澱みの中へ一条の光が射し込むかも知れない。

 ――いや、幾ら無変化に飽きたからと云ったって、芸能界などとは。到底やっていけるわけがない。

相反する考えが、ぐるぐると脳内を渦巻く。

どちらも、間違ってはいないと思える。

それだけに――今、この場で結論を出すのは、到底無理だ。

「……返答は保留でいい? さすがにここで決めるのは、ちょっと」

「勿論だよ。君の人生にも大きく関わってくることだからね、無理強いはしないし、結論を急がせもしない」

男の言葉には余裕が見て取れる。

まるで、近い未来に凛が出すであろう答えを、既に確信しているかのような。

しかし何よりも、他人の人生を大きく左右させる以上、無理強いをしないと云うのは、彼の本心であった。

「是となっても非となっても、君の意見は尊重する。答えが固まったら、連絡をくれると助かるよ」


その後、事務所へ戻る男と駅コンコースで別れ、彼とは反対方面へ向かうプラットホームで、独り言つ。

「アイドル……か……」

流れた言霊が、滑り込んで来た電車に、掻き消されてゆく。

正直、これまでアイドルと云うものにあまり興味を抱いていなかった。

いや、正確に云えば、自分には無縁の存在、別の世界のことだ、と思っていた。

女の子なら、一度くらいは憧れを持つ世界のはずだけど。

しかしそれは、自らの手の届かない場所に在るからこそ、羨望の対象になるのであって……

いざ実際に誘いを受けてみると、実感の全く無い、ひどく冷めた視線で自分自身を見ていることに気付く。

『私なんかが――』と。

電車の扉が開く際に鳴る電子音が、凛の鼓膜を揺らす。

脳はそれを、ただ行動に移すための記号としか捉えず、深い自問自答を中断させることはなかった。

その日、凛は、寝るまでずっと、考え込んでいた。

最寄駅まで自らを運んでくれる電車の中でも。

家に帰ってからも。

看板娘として店番を手伝っているときも、愛犬ハナコの散歩中も、夕飯を食べている間さえ。

不思議に思った母親が話し掛けても、ずっと、上の空で生返事をするだけだった。



――

「はぁ~ぁ……」

翌日、二限目の授業を終え、凛は机に顎を乗せて嘆息した。

65分もの間、政経の小難しい話を受けるのは、実にしんどい。

しかも今日は若干寝不足だから尚更。

昨夜は床へ就いてからも、ずっと思考を回していて中々寝付けなかったのだ。然もありなむ。

そこへ、前の席にいる少女が、声を掛ける。

「なによ凛、そんな幸せが逃げ出しそうな溜息なんか吐いて」

「あー……あづさ、私そんな溜息ついてる?」

あづさと呼ばれた、高校一年生と云う割には些か大人びたショートヘアの彼女が、やれやれ、と片目を瞑った。

「口からエクトプラズムが出てくるんじゃないかってくらいだったわよ」

「まあしゃーねーよ。政経なんてかったるい授業トップ3だもん」

隣の席からも会話が混じってくる。

凛は、声のした方に顔を向けて笑った。

「ふふっ、まゆみは政経からっきし駄目だもんね」

少し癖毛なセミロングの髪を、金に近い茶で染めた彼女は、「うっせ」と舌を出す。

やや上品なあづさと、決して品行方正とは云えない風体のまゆみ。

見た目も性格もほぼ正反対なのだが、不思議と馬が合うこの二人は、数少ない同じ中学出身の友人だ。

気難し屋に映る凛を避けがちな高校からのクラスメイトと違い、忌憚なく喋れる間柄である。

「んで? 随分とダルそうな溜息じゃねーの、どうしたよ」

少々がさつな口調のまゆみが、頬杖を突いて問うた。

「んー、ちょっと将来について考えることがあってね」

「えぇ? なにそれ、高校入ったばっかでもう先のこと考えてんの? 進学先とか?」

あづさは目を丸くして云い、まゆみは、

「お前、相変わらず中身はインテリ思考だよな、こないだピアス空けたくせに」

と、凛とは質の違う短い嘆息をする。

凛は頭を上げて、「うーん」と身体を伸ばした。

「そこまで真面目なもんでもないよ。ただ、人生について考えるきっかけがあっただけ」

「人生、ねぇ。わたしは一回こっきりしか無いんだから楽しんだモン勝ちだと思うけど」

「楽しんだモン勝ち……か」

伸びをした腕を下げて、ぽつりと、鸚鵡返しに呟くと、

「ま、具体的に何すればいいのかなんてのは判らないけどね」

あづさはそう付け加えて笑った。

対照的に、まゆみは「あたしにゃ人生なんかより、再来週から始まる中間の方が問題だっつの」と天を仰ぐ。

そう。憂鬱な定期考査は容赦なく迫ってくるのだ。

上半身を反らしていたまゆみが勢い良く体勢を戻し、息を吐いた。

「あー中間のこと考えたら気が滅入っちまった。
 あたし今日は部活ねーからさ、あづさも凛もどーせヒマっしょ? カラ館行ってスッキリ発散しようぜ」



――

放課後、ターミナル駅前のカラオケ店へ、三人は来ていた。

学校帰りにお遊びとは、校則違反ではなかろうか?

ご心配なく。凛の通っている高校には、校則と云えるような縛りがない。

なにゆえか『下駄での登校を禁ずる』と云う、世にも珍妙な一節があるだけだ。

“自主・自律”を校訓とし、基本的に皆を信用しての自由放任だから、
生徒たちもそれに応え、羽目を極端に外すことなく振舞う。

きちんと学業に勤しんでいれば、カラオケくらいで目くじらを立てられることはない。


水色を基調とした店の受付口は、今をときめくアイドルたちのポスターやパネルで賑やかだ。

トップアイドル天海春香や男性アイドルグループ・ジュピターなど、処狭しと並んでいる。

普段ならそんなもの意識せず、店内の個室へと入って行くのだが、
昨日スカウトの話を聞いた凛は、どうしても視線を向けてしまう。

ポスターの中では、可愛いアイドルたちが大きく笑っていて、それは実に眩しく、キラキラと輝いて見えた。

――私にこんな笑顔できるのかな?

あのオジサンは「幾らでもやりようはある」と云ったけれど……

「――ちょっとぉー、凛、何してるの、行くよー」

ふと、あづさに呼ばれる声で凛は我に返った。

「あ、ごめんごめん」

慌てて向き直り、奥に伸びる廊下へと走る。

「何を見てたのよ? ボーっとしてさ」

二人に合流すると、あづさが呆れたように訊いてきた。

「ううん、ちょっと考え事してただけ。さ、行こ」



――

 嘘の言葉が溢れ
 嘘の時間を刻む――

六畳ほどの個室に、まゆみの歌声が響く。

『Alice or Guilty』、先日発売された、ジュピターのニューシングルだ。

歪んだ重低音が腹に響く。

やや遅めのテンポだが、激情に溢れたとても熱い曲。

モニタの背景には、汎用ムービーではなく、彼らが昨年行なったライブの映像が使われている。

実に贅沢な仕様だ。

アイドル三人を照らす眩しいライト、客席で無数に揺れるサイリウムと、激しく飛び跳ねる観客たち。

その世界は、とても煌めきに満ちている。

もし――もし、このような舞台に立てるのなら……

これまで、テレビ画面の向こう、実感の湧かない処にあると思っていた場所。

一般人の自分なんかには、まるで無縁だと思っていた場所。

そこが、不意にも、居所となるかも知れない機会を得た。

飽き飽きする日常の繰り返しから、脱せられるかも――?


じっと画面を見詰め、昨夕からずっと廻している思考に耽っていると。

「凛、次はどの曲入れる?」

ふと、それはあづさの問い掛けによって断たれた。

二度ほど瞬きをしてから、声の主の方を向くと、彼女はもう次曲のリクエスト送信を終えたようだ。

選曲端末を「はいこれ」と寄越してくる。

「うーん、この流れだったら蒼穹かな」

「なにそれ?」

「詳しくは知らないんだけどさ、うちの店の有線で最近よく流れてるから憶えたんだ」

決定ボタンを押すと、ピピピッと鳴る軽い電子音と共に、リクエストが登録された。

Alice or Guiltyは終盤に差し掛かっている。


 ――罪と 罰を全て受け入れて
 今 君の……裁きで!


歌いきるとほぼ同時に、短いアウトロ、ベースのスライドで曲が終わる。

シンクロして、画面の中のステージでは、エアキャノン砲の銀打ちがキラキラと舞った。

「あーやっぱジュピターかっけえぜ!」

コーラを一口飲んでから、まゆみがガッツポーズを取ると、あづさはマイクに手を伸ばしながら云う。

「確かにジュピターもいいけどさ、わたしはやっぱり桜庭サマが一番かな」

桜庭薫。外科医から転向した異色の経歴を持つ、孤高の男性アイドルだ。

「あいっかわらず、あづさって面食いだよなぁ」

「五月蝿いわね。わたしにとって桜庭サマこそが一億二千万人の中のトップなのよ」

「へいへい」

まゆみとあづさがいつもと変わらぬ応酬をする間に、モニタは次曲の映像へと切り替わり、イントロが流れる。

しかしその曲は、凛の頭には入っていかなかった。

あづさの云った、『一億二千万人』――

その中から選び抜かれる僅かばかりのアイドルに、凡人の自分が到達できる確率など途方も無く小さな数値だと。

改めて、それを認識させられたからだ。

――私なんかが、誰かにとっての『一億二千万人の中のトップ』になれるだろうか?

「……なれるわけないよね」

凛のつぶやく声は、スピーカーから流れる歌に掻き消され、誰の耳にも届かない。

芸能界が居所となるかも知れない機会を得た、だって?

思い上がりもいいところだ。

バレエや歌を習っているわけでもない、ティーン誌のモデルをしているわけでもない。

ただの一般人である自分に、果たして何ができると云うのか。

口車に乗せられて、分不相応なことを考えてしまっていた。

――何の取り柄も無い私には、こうやって友達とカラオケを楽しむくらいが関の山。

あづさの歌唱に合わせて備え付けのタンバリンを振るまゆみを見ながら、凛は自嘲気味に笑った。

自分など、物語の主人公はおろか、登場人物にさえなれない、観覧者の立場でしかないのだから。

そもそも、一回会っただけのあの変なオジサンの話を信じられる方がおかしいのだ。

ぼーっと二人を見ていると、いつの間にか曲が終わって、次は凛の番になっていた。

この話は、忘れた方がいい。

歌い出しをガイドするカウベルのリズムが響く中、凛はそう決心して、マイクに手を付けた。


 砕け 飛び散った欠片バラバラバラに なる
 魂は型を変えながら 君の中へ Let me go……
 叶え――


まるで、奇妙な男からの奇妙な誘いを振り切るように、橙の照明が踊る空間で、凛の熱唱が響いた。




・・・・・・・・・・・・


渋谷の街は、とても雑然としていた。

人々は、さながら何かを諦めたように、ごった返す雑踏を縫って歩く。

長く続いた春雨が去り、久しぶりに太陽が顔を覘かせた爽やかな空模様も、疲れた者たちには何ら眼中にない。

そんな有象無象が行き交うフィールドで、凛は井の頭通りを渋谷駅へ向かって歩いていた。

今日は平日だが、サボタージュではない。

校舎の耐震チェックだとかなんだとかと云って、授業は午前でお仕舞いだったのだ。

午後が丸々空くなんてそうそうないから、新しいアクセを見繕いに、デパートをハシゴした帰り。

良さそうな品はあったものの、手持ちのお小遣いでは足が出てしまう。

高校生になったばかりの身分だ、見るだけで我慢した。

そんな少し不完全燃焼気味の物欲を慰めるべく、iPhoneで近隣の情報をチェックすると。

「あ、109―マルキュー―で夏物のイベントやってる……」

ファッション業界はせっかちなもの。

衣替えはまだまだ先と云うのに、早くも夏商戦が始まっている。

「せっかくだし……気が早いけど行ってみようかな」

スクランブル交差点を渡り切ったところで、画面から目を挙げて109の方角を見やる。

と、視界の端にQFRONTビルの壁面ビジョンが飛び込んできた。

瞬間、凛は足を止める。すぐ後ろを歩いていた中年サラリーマンがぶつかりそうになり、渋い顔をした。

しかし凛はビジョンに釘付けで、そのことに気付いていない。

彼女の無愛想な目に飛び込んでくるビジョン『Q'S EYE』には、765プロのアイドル達が映し出されていた。

先日開催されたアリーナライブの模様だ。

ワイドショウ等で聞くところによれば、幾つかのトラブルがあったものの最終的には大々的な成功を収めたとか。

例のオジサンと話してから、身の回りでアイドルを目にすることが急激に増えた。

テレビは云わずもがな、雑誌、電車の中吊り広告、デパートに掲示されたポスター、そしてこのQ'S EYE。

……いや、ここ数日でアイドル全体の露出が一気に増えるはずはない。

それだけ、無自覚のうちに意識してしまっているのだ。

現に、これまでなら壁面ビジョンなど『ただの景色の一部』として過ぎ去っていたであろう。

だが、今は平静を装おうとしても、目を逸らすことができない。

画面の中では、天海春香や如月千早と云ったトップアイドルの面々が、縦横無尽に舞っている。

彼女らの後ろには、凛が見たことのない、若い芽の姿もある。

そう、こうやってただでさえ狭い階段を、どんどんと新顔が昇って行かむとしているのだ。

自分がアイドルなんて、無理に決まっている。

――なのに。

忘れると決めたのに、どうして意識してしまうのだろうか。


彼女らの勇姿が消え、税務相談の広告に切り替わる。

凛は、内心ほっとして、交差点傍のガードレールに寄り掛かった。

何をするでもなく、ただ単に腰掛けるだけ。

世界は、そんな彼女とは関係無しに進んでゆく。

青と赤、はたまた黄色を交互に灯す光が作り出す制御で、定期的に人や車が動く。

地面には、雲の影が、人々の足よりも速く、そして自由気ままに流れている。

絶え間なく動き続ける渋谷の街から切り離されたように、ぽつんと動かない凛。

まるで彼女の身体だけ時間が止まったかの如く。

だが、その異質なコントラストは、この日は思いのほか早く終焉を迎えた。

「また君か」

テイクアウトのコーヒーカップを二つ持った先日のサラリーマンが、そこに立っていた。


「こないだもそうだったが、何をするでもなくずっとそこに腰掛けて、一体どうしたんだ?」

「……アンタには関係ないでしょ」

「そう云われちゃこっちはどうすることも出来ないな」

男は「よいしょ」とぼやいて、凛の隣、ガードレールに尻を据えた。

凛はいきなりずけずけと隣へやってくる男に眉をひそめたが、相手にしたら負けだ、と無視を決め込む。

「飲むかい? そこのカフェのキャラメルラテ、結構うまいよ」

男が、利き手にある自分のものとは別の、左手で持っている紙カップを、凛の前に差し出した。

さすがに行動が非常識すぎて、無視をしようと決めたばかりなのに反応してしまう。

「……箱入りで世間知らずのお嬢様でもない限り、この状況で受け取ると思うの?」

「まあそれもそうだな。いきなり知らん男に飲み物を薦められても、飲んじゃダメだわ」

君のために買ってきたけどまあいいや、と男はコーヒーもキャラメルラテもまとめて飲み始める。

そうは云いつつ残念そうな口調でないのは、おそらく反応を予期していたと云うことだろうか。

凛が、相手にしてられない、とばかりに視線を街中へ向けると、ちょうどQ'S EYEが切り替わった。

今度は魔王エンジェルの登場だ。

ランキング上位常連、高い人気を誇るアイドルトリオユニット。

三人それぞれが強いカリスマ性を持ち、ファンの精鋭さでは、765プロのそれを凌駕するとも云われる。

同性の凛から見ても格好良い存在だった。

画面の中の彼女たちから、ニューシングルリリース告知がなされているが――

「アイドル、好きなのか?」

凛の耳に、ばっさりと思考を裁ち切る言葉が入った。

「……なんで?」

「QFRONTのビジョン、アイドルが出てるときだけ真剣に見てるから」

「は? 私が?」

「気付いてなかったのか? さっきの765のニュースといい今といい、結構食い入るような感じで眺めてたぞ」

男は空になったカップを持ったまま、Q'S EYEの方へ向けて手を揺らした。

凛は、隣を向かず、

「……別に、興味なんてないよ。ただ、どんな世界になってるのかなと思う野次馬根性だけ」

風で揺れる髪の毛を乱雑に梳かして、ややぶっきらぼうに答えたが――

その様子を見た男は、不思議そうにつぶやく。

「うーん、本当にそうかねえ」

「なにが」

「なんて云えばいいだろうな……うーん、“物わかりの良いフリをした諦め”で凝り固まってるように見える」

今度こそ、凛は隣の男をきつい表情で振り返った。

「なにを訳の判らないことを――」

「おいおいそりゃこっちの台詞だよ。こないだも今日も、妙な雰囲気でぼーっとしててさ」

「アンタに関係ないでしょ、放っといてよ」

そう吐き捨て、睨む。

なんとも余計なお節介焼きめ。

「だいたいなんなの、物わかりの良いフリだとか何とか好き勝手云ってくれるじゃない。私の何が判るの」

「いや別に君のことは何も知らないけどさ」

凛の眼力に、男は肩を竦める。

「うーん、眼を見た直感……かな」

「はぁ?」

「全身から醸し出してるのは“諦め”……って云ったらいいのかなあ。達観とか諦観とか、ニヒリズム。
 そんな鬱屈した雰囲気なんだけどさ、瞳は何かを希求しているように見えるんだよ」

男が、顔を凛に正対させて云った。

見ず知らずの他人のくせに、遠慮ない。

しかし、ずけずけした言葉とは裏腹に、表情は幾分か真剣に感じられた。

「また『眼』か……あのオジサンと同じことを……」

「あのオジサン?」

「……なんでもない。気にしないで」

そして、はぁ、と一つ息を吐き、

「それで? 私の眼が何を求めてるって?」

「いや、そんな細かいところまで判らないけどさ。少なくともアイドルには興味あるんじゃないかな、と」

「馬鹿々々しい。そんなわけ……ないでしょ」

凛が、付き合ってられない、話はもうお仕舞いだとばかりに立ち上がって裾を払う。

「じゃあね」

そのまま駅の方へ歩き去ろうとするが、

「あーちょっと待って」

男は前回と違い、凛を呼び止めた。

「これも何かの縁だ、貰っといてくれよ」

凛が几帳面にも振り向くと、彼は名刺を片手で差し出している。

「……こないだの名刺とは違うみたいだけど」

「おっと、見てないようで意外としっかり見てくれてるんだな」

凛は面倒くさいことを云ってしまったことに気付いて眉根を寄せた。

「ああすまん、茶化す気はないんだよ。つい先日転職してね」

「要らない。別にアンタの名刺なんか貰ったところで何の足しにもならないし」

凛はそうピシャリと断って、回れ右を――しようとした。

しかし、凛の動きに沿って流れる彼女自身の視界の端っこに、男の名刺が何故か止まったように主張していて。

そしてすぐに、ピクッと身体を強張らせた。

『CGプロダクション』

男の名刺には、過日の、奇妙な態をした“オジサン”のそれと同じ社名が書いてあった。


「アンタ……それ……CGプロって……」

「んん? 君、うちのこと知ってるのか? 設立したてだ、って社長は云ってたんだけどなぁ……」

凛の予想外の反応に、男は驚いた様子だ。

名刺を受け取ると、そこには間違いなく先日と同じCGプロダクションの社名。

そして、その下に『P』と云う名前が載っている。

凛は、名刺から目を離せないまま、訥々と口を開く。

「……こないだ、社長のオジサンから……スカウトされたの」

「あ、そうなの!? なんだ、じゃあ話は早いじゃないか。時間空いてる? 事務所行こう」

「ちょ、ちょっと待ってよ。私は断りの連絡を入れるつもりなんだから」

Pが早合点で話を進めようとするので、凛はあわてて遮った。

「えぇ? あんなにアイドルを食い入るように見てたし、なんやかんや云っても少なからず興味あるんだろう?
 更には既にうちの社長からスカウト受けてて。こんなの断る理由なんか無いじゃないか」

「……だって、凡人の私が、あんな輝く世界でやっていけるとは思えないから」

「いや、それは、やってみなきゃ判らな――」

「これまでもずっとそうだったの!」

凛はPの言葉が終わらないうちに、目を固く閉じて、絞り出すように叫ぶ。

「新しいことを求めて、何かを変えようと必死で藻掻いても、何も変わらなかった! 何も変えられなかった!」

 ――結局、大人や社会が敷いたレールの上を走って、いくつかの選択肢をつまむだけ。

「自由に走り回れることなんてない! それが赦されるのは、運命に選ばれた一握りの人間だけだよ!」

凛は、これまでの満たされない渇望と、鬱屈した諦めを吐き出した。

肩を上下に揺らす凛を、Pはしばし見詰め、

「……難しく考えずに、変化を求め続ければいいんじゃないか?」

やや時間をおいて、ゆっくりした声で云った。

凛が目を開け、視線を上げると、彼は柔和な笑みを浮かべていた。

しかしその顔は同時に少しだけ哀しそうで――凛には、その表情の意味するところは判らなかった。

「確かに上手くいかないことも往々にしてあるさ。でも諦めずに希求することを忘れちゃいけないと思うね」

「希求、すること……」

「ああ。例えば、一個だけ当たりの入ったガチャ――いや、クジがあるとするだろ? 引き当てるのは難しい。
 でもな、“挑戦しなければ、手に入る可能性は確実にゼロ”なんだぜ?」

「……ヘンな例えだね」

「俺の補佐をしてくれる人がたまに云うんだよ」

Pはバツが悪そうに、後頭部を掻いた。そして軽く咳払いをしてから、

「ま、自分の目の届く範囲だけが世界の全てってわけじゃないんだ。
 これまでとは違う世界ってモンを、一目見てみるだけでもいいと思うけどな。
 そこで成功しても、仮にできなくても、得た見識はきっと貴重な血肉になるはずさ」

更に笑って、付け加える。

――同じ後悔でも、やらずに悔やむより、やって後悔したほうがずっとマシなんじゃないの?


凛は、何も云えずに立ち尽くした。

挑戦しなければ、手に入る可能性は確実にゼロ――

自分の目の届く範囲だけが世界の全てってわけじゃない――

Pの放ったフレーズが、頭に何度もこだまする。

これまでずっと、つまらない日常や鬱屈したループから逃れることはできない、と諦めていて。

何をするにしても『身の丈』と云う言葉を使って、目を逸らしていて。

「ただ逃げていただけ……か」

凛は、ふっ、と自嘲の息を吐いた。

「確かに、アンタの云う通り……でも、アイドルなんてこれまでの生活とガラリと違う場所、本当に行けるの?」

そう、いま立っている分岐路は、全く未知の世界へ続いているのだ。

見たことのない土地を、地図も持たずに歩いているようなもの。

不安が無いと云えば嘘になる。いや、むしろ、不安しかない、と云ってよい。

Pは、凛の確実な変化を感じ取り、彼女の手許にある自分の名刺を指差した。

「そうだな……もしよければ、日曜日の十時、そこに書いてある住所まで来てくれ」

凛が小首を傾げたので、補足の言葉を続ける。

「その日、他のアイドル候補生の子たちが来るらしいから、会ってみてはどうだろうか。
 やる・やらないの結論を出すのは、それからでも遅くはないと思う」

「……わかったよ。とりあえず日曜、話だけでも聞いてあげる」

聞かせて、ではなく、聞いて『あげる』。

それは彼女の、精一杯の、強がりだ。




・・・・・・・・・・・・


数日後、日曜。

凛は、名刺に記載のあった場所へと赴いていた。

飯田橋駅から歩いて五分ほど、煩くはないが静かでもないエリア。

幅の狭い道を入った処にある、茶色いタイル張りの古そうなビル。

そのくたびれた建物は、決して廃墟なわけではないが、芸能事務所と云うイメージにはほど遠い。

ビル入口に据えられた電灯のプラスチックカバーが、日に焼けて黄色く変色している。

「ここの三階みたいだけど……なんか胡散臭そうな場所だね……」

再度名刺の住所を確認するが、目の前の古ビルで間違っていない。

――これ、本当に大丈夫なのかな……

折角の決心が揺らぎそうになりながらも、
凛は、シャッターが閉められた一階店舗のすぐ横、コンクリートの階段に足を掛けた。

そこへ、比較的高めの声が、彼女を呼び止めるように響く。

「あのー、すみません、CGプロの方……ですか?」

「ん?」

凛が声のした方を向くと、そこには緩くウェーブの掛かった長い髪の女の子が、柔和な笑みを湛えて立っていた。

ベージュのブレザーに赤茶色のチェックスカートは、彼女の制服だろうか。

まさに、『可愛い―キュート―』を体現した子だね――凛は、そんな感想を得た。

自分には無いものを持っているその子に、何故か少し嫉妬する。

対して、その少女は、我方を振り返った凛を見て、口を半開きにさせ放心気味で呟いた。

「うわぁ……綺っ麗~……」

期せずして発したであろう、その言葉が凛の耳に入り、少し眉をひそめた。

それは、気恥ずかしさによるものだったのだが、少女にはそう映らなかったらしい。

はっ、と云う顔をして、慌てて謝ってきた。

「あ、ご、ごめんなさい! いきなり、し、失礼なことを……」

腰を直角に折り曲げるくらいまで、勢い良く何度も頭を下げる。

これには凛も面喰らった。

「あ、いや、ちょっと照れただけ。怒ってるわけじゃないから気にしないで。私、よく勘違いされるんだ」

バツの悪い顔で両手を振り、そう弁解すると、ようやく少女は頭の上下動を止めた。

「で、貴女もCGプロに用?」

恐縮そうにしたままの少女は、その言葉におそるおそる顔を挙げた。

「えっと……一応……そうです」

――あのPとかいう人の云っていた『私以外のアイドル候補生の子』なんだね、きっと。

これは、怖い女と云うファーストインプレッションを与えてしまったかも知れない。

凛は、心の中でだけ苦い顔をした。

はぁ、と小さい溜息を吐きそうになって、すんでのところで押し止める。

そんなことをしたら、『やっぱり怒ってる』と思われて、今度は土下座までされてしまいそうだ。

「あ、あのー……何か……?」

黙り込んだ凛へ、少女は不安そうに、窺うような面持ちで尋ねてきた。

「ううん、何でもない。私もCGプロに用事があるから、ひとまず行こ? ここで突っ立ってても仕方ないし」

凛は首を少しだけ傾けて、階段を指差した。

「あ、はい!」

大きく頷いて、少女は凛の後をついて来た。


三階まで無言のまま昇ると、“CGプロダクション”と掲げられたドアが目に入る。

長年の汚れだろうか、そのアルミ扉はみすぼらしく、
嵌め込まれた磨りガラスは端が少し割れ、クラフトテープで補修されていた。

廊下の電灯は、切れているのか、はたまた節電のためなのか点いておらず、陽も入らない所為でだいぶ薄暗い。

そこは、建物の外観以上に、怪しい雰囲気が漂う場所だった。

凛は、ノックしようと腕を掲げ――そのまま、ついて来た少女に問う。

「……ねえ、私、これ、かなり胡散臭そうに思えるんだけど、大丈夫かな……?」

少女は、困ったように苦笑いをした。

「だ、大丈夫と……思いますけど…………たぶん」

あまり自信なさそうに答えるので、凛は不安を増した。

「なんか……如何わしいビデオとか撮られたり、反社会的勢力に人身売買されたりするんじゃないの、これ」

凛は腕を下ろし、少女の方を向く。

少女は、頬に両手を当てて顔を青くさせた。

「えっ……ま、まさかそんなことは……」

なまじ、真っ黒いオジサンや、正体のよく判らないPを完全には信用していない凛にとって、
この見るからにまともではなさそうな空気は、尻込みをさせるに充分だった。

さて、どうしたものか。

これで社名が『CG総業』や『CG企画』などであったら即座に踵を返すところだが……

二人、目を合わせて思案している刻、扉がギィと不気味な音を立てて、勝手に開いた。

「ヒィッ!!」

驚きのあまり、二人、抱き合って飛び跳ねる。

やがて、ドアの陰から現れたのは、黄緑色のスーツに身を包み、太い三つ編みを右肩へ下げた愛嬌のある女性。

「そんな物騒な場所じゃありませんよ」

柔らかながらも困惑した笑みを浮かべて、そう告げた。



――

「おぉ、良く来てくれたね」

内装もあまり綺麗とは云えない事務所の中を、女性の誘導で応接エリアに通されると、
真っ黒な男、CGプロ社長が笑顔で出迎えた。

しかし、凛を視認した瞬間、きょとんと目を丸くし、

「ん? 君は確か……渋谷君じゃないか! なぜここに?」

と、すぐに顔を輝かせて立ち上がった。

「こないだ、Pって人から、今日ここへ来るように云われて……」

「……ああ! P君が云っていた、“日曜に来る子”とは君だったのか! なんと奇遇なことだろう!」

――まるで、オジサンは私が来ることを知らなかったみたい。

と、凛はここまで考えて、そういえばPへ自分の名前を云っていなかったことに思い当たる。

なるほど、これでは社長にとって、この日凛が姿を現したのは青天の霹靂に違いない。

「でも、そのPさん、いないみたいだけど?」

「ああ、今日は彼は外回りをしているよ。原宿辺りに行ってるんじゃないかな」

社長が破顔して、「ささ、こっちへ坐って」とジェスチュアで促す。

対照的に、不信感満載と云った表情で、立ち尽くす女の子二人。

「ん? どうしたね?」

「いや、だって……ここ明らかに怪しい建物だしマトモそうな場所じゃないし」

凛の放言に、隣の少女はぎょっとした目を向けた。

だが否定しない辺り、ほぼ同じ気分なのであろう。

「もしかしたら、怖い人たちの事務所なのかも、と……」

「うん。そう思われても仕方ないよね」

お互いの顔を視て、大きく頷く彼女らに対し、

「いやはや、こりゃまいったね」

到底そうは思っていないように、ははは、と社長は笑った。

茶を淹れて持って来た女性が、刺々しく諌める。

「だから最初は少し苦しくても、もっと綺麗な処にした方がいいって云ったじゃないですか!」

「いやーちひろ君、そうは云うが、やはり立ち上げたばかりは色々と入り用でねぇ~!」

そして、「ままま、坐りたまえ」と再度、凛たち二人にソファを促す。

「それに“そっち系”の人の事務所は、門構えだけは綺麗にしているものなのだよ」

社長は腿の上で手を軽く組んで、それまで以上に大きく笑った。

「そんなこと、中高生くらいの女の子に判るわけないでしょう……もう」

ちひろと呼ばれた、その綺麗な女性が若干の溜息を吐きながら、凛たちの前にお茶を置く。

「あ、ありがとう……ございます」

凛が軽く、上目遣いで礼を述べると、隣の少女はちひろを見て「貴女は、先輩アイドルの方ですか?」と問うた。

「あらあら、そう云って貰えるなんてね。でも私はただのアシスタントですよ」

若干嬉しそうに、しかし苦笑いで否定する。

「そう、この事務所は立ち上げたばかりで、アイドルがまだ居ないんだ――」

社長が、ちひろの言葉に首肯を添え、

「――出来ることなら、君たちにアイドル第一号となって貰いたい」

ぐいっと身を乗り出して、目を真っ直ぐ覗き込み、そう云った。

その眼はまるで少年のように活き活きとしており、悪い企みをしているようには感じられない。

「この業界で長年やってきた、とはこないだ話したね。こうやって自分の事務所を持つのは夢だったのだよ。
 ゆくゆくは、765や961にも負けないレベルにまで育て上げたいと思っている」

765も961も、業界最大手クラスのアイドル事務所。

そんなプロダクションと張り合いたいとは、スケールの大きな話だ。

しかし、このようなみすぼらしいオフィスで語っても、夢想話にしか感じられないのは、致し方なかろう。

「勿論、ここには現在誰もアイドルが所属しておらず、事務所だってボロ屋だ。
 まだスタートラインにも立っていない状態だが……それでも私は、君たちに大きな可能性を感じたんだ」

凛は、熱く語る社長を、賛否の入り交じった視線で見た。

――このオジサンは、本当に熱意と夢を持っているのかも知れないけど……

対して、社長は身振り手振りがどんどん大きくなる。

「君たちを、眩いアイドルの世界、その頂点に光り輝かせたい。そして、それを見たい。
 どうかな、今のこの状態じゃ笑い話に聞こえてしまうかも知れないが、ついて来てくれないかい?」

凛がどう答えたものかと思案している隣で、少女は軽く拳を握って強く宣言した。

「判りました、頑張ります!」

「……えっ、さっきあんなに怯えてたのに、そんな即答しちゃっていいの!?」

驚いた顔で隣を向くと、少女も凛の方を見て、「はい、やっぱり悪い人そうには見えません」と微笑んだ。

お人好しと云うか、世間知らずと云うべきか――

凛が、やや困惑しつつ何度も目を瞬かせていると、

「紹介を受けた事務所ですし……それに、ずっと、アイドルになりたいと思ってましたから」

そう呟いて、少女はやや恥ずかしそうに顔を伏せ、自らの組んだ指を見るように視線を下げた。

言葉の裏に秘められた、アイドルへの強い憧れを感じ取った凛は、どう受け取ればよいか迷った。

「自分もアイドルとして輝きたい」と同意する理想主義的な見方、
「夢想家だね」と冷ややかで現実主義的な見方、その両方が頭中に渦巻いているからだ。

そして、何の取り柄もない自分が、果たして、
熱意を持ったこの子と同じ立場に乗ってしまって良いのだろうかと云う逡巡も。

色々考えても埒が明かないので、ひとまず喉を潤そうと、ゆらゆらと湯気の立つお茶に手を伸ばした、その刻。

事務所入口のドアが勢い良く開けられ、バン、と大きな音が響く。

「おっはようございま~す! すいませーん総武線がちょっと遅れてて時間ギリギリになっちゃいました~♪」

およそ申し訳ないとは思っていないであろう口調で、一人の女の子が入って来た。

外側に撥ねた短めの茶髪を揺らして、大股で向かってくるその子は、
まさに『情熱―パッション―』と形容するに相応しい少女だった。

「おっ? 社長、ここにいるのがこないだ云ってた、私と同じ卵の人たち? うわー美人揃いだね~」

凛は、少女の勢いにぽかんと口を開けて絶句し、その対面で社長は「ああ、そうだよ」と答え頷く。

桃色のジャケットと橙色のスカートに身を包み、けたけたと笑う少女は、

「今日から候補生になる“予定”の本田未央っていいまーす! 15歳高一! 宜しくね!」

と、右手を真っ直ぐ挙げて破顔した。

それにつられ、凛の隣に坐る少女も、
「あ、そう云えば私たち自己紹介がまだでしたね」と、思い出したように手を叩く。

「私、島村卯月です。17歳になったばかり。宜しくお願いします!」

立ち上がり、軽いお辞儀を交えてウインクした。

「おぉ~! 歳上なんだ~? 宜しくね、しまむー!」

未央は、笑顔で握手を求めながら呼び掛けた。

不意のあだ名に、卯月はやや驚く。

「えっ? し、しまむー?」

「そ! “しまむ”ら“う”づきだから、しまむー。どお~?」

「うわぁ~、私、そんな可愛い呼び方されたの初めて! えへへー、宜しくね、未央ちゃん」

二人、両手でがっちりと握手をする。

そして未央が、卯月の肩越しに、凛を見て問うた。

「んでんで、そっちのキレーな貴女は~?」

ぼーっと二人の様子を見ていた凛は、いきなり話を振られてまごついた。

切れ長でやや吊り目がちな双眸と、への字口のまま、思考をショートさせて数秒ほど固まる。

初対面の相手からすれば、凛は近寄り難い雰囲気であろうに、未央はそれを気にする様子が微塵もない。

にこにこと元気な笑みを真っ直ぐ向けてきて、まるで明るく輝く星のようだ。

卯月も未央から凛の方へ振り返り、「教えて、教えて」と眼で語っている。

ソファに腰掛けたまま、やや引き気味に口を開いた。

「え、あ……わ、私は……渋谷、凛。……15歳。でもまだアイドルになるって決めたわけじゃ――」

「ええ!? 15歳? 大人びてて綺麗だから歳上かと思ってました!」

凛の言葉を遮り、卯月が驚いた顔でずずっと身を乗り出す。

「え、あ、ご、ごめん……」

凛は訳も判らず、ひとまず謝罪の言葉を述べた。

「それじゃあしぶりんだね! 宜しく!」

未央が右手を差し出してきたので、反射的に立ち上がって、おずおずと握り返す。

そこへ卯月も加わって、三人で手を重ね合った。

その光景を微笑ましそうに眺めていた社長が、凛に声を掛ける。

「本田未央ちゃん、島村卯月ちゃんは兎も角、渋谷凛ちゃんはまだ決めかねているようだね」

「……ごめんなさい」

凛が声の主の方を向いて、やや目を伏せると、社長は笑って手を軽く振った。

「いやいや、何も謝ることは無い。こないだも云った通り、無理強いするつもりはないのだから」

「え、しぶりんアイドルにならないの? 美人でスタイル良いのに勿体無いよー」

「そうそう。こんなに綺麗ならきっと凄いアイドルになれますって!」

社長と凛の遣り取りを聞いて、未央と卯月は共に驚く表情をした。

勿体無いと云う評価は有難いが、それ以上に凛にはこそばゆいことがあった。

「ねえ、卯月。そろそろ気楽に話してくれないかな……学年ひとつ上なんだし、敬語じゃちょっとくすぐったい」

やや照れくさい表情で云うと、卯月は、眼を少しだけ大きくする。

「あ、ごめんね、ビル前で会った時からの流れでつい。じゃあ、凛ちゃんね!」

「うん、ありがと。助かる」

アイドル云々は抜きにしても、この二人とは良い友達になれるかもね――凛は、少しだけ顔を綻ばせた。

「しぶりんは、アイドルに興味ないの?」

「うーん、正直、未知過ぎてよく判らないって云うか、おいそれと決断できる話ではないって云うか……」

未央の問いに、凛は呟くように答えた。

そこへ、社長が横から声を掛ける。

「まあそれも仕方ない話かも知れないね。新たな世界へ足を踏み出すには色々と情報や勇気が必要だ。
 そこで、アイドルが普段どんなことをするのか、これからお試しレッスンと云う形でやってみないかい?」


ちょっと休憩します。
ここまでが、前回立てたはいいものの諸事情でエタったスレに書いてた部分です。
その節はごめんなさいorz

>>4
ありがとうございます、今回もがんばります



――

どうやら、社長が提案した“体験入社”は、予め考えていたものだったらしい。

Pから伝えられていた子のために準備しておいた、とは社長の弁だ。

「まさかその子が君だとは思わなかったがね、ちょうど良かったよ」

事務所を出て歩きながら、社長は笑った。

やや大きめの通りに面した場所にあるスタジオまで、およそ10分。

そこでは、既にトレーニングスタッフが準備して待っていた。

身体を動かすとは聞かされていなかった凛たち、どのように体験するのか不思議がっていたが、
きちんとレッスンウェアが用意されている。

随分と先回りが巧い社長だ。

ハンドルの少々固い防音扉を開けると、陽の光が差し込む明るいスタジオは、広く、開放感に溢れていた。

「今日はわざわざすまんねぇ!」

三人を率いた社長がスタジオへ入るなり大きく破顔すると、
スタッフは固く握手し、「貴方のご要請とあらば他の何よりも優先して都合つけますよ」と、白い歯を見せた。

そのまま、凛たちを手招きして呼び寄せる。

「キミたちがレッスン生だな。えー――こほん、社長殿から聞いているよ。私はマスタートレーナーの青木麗だ」

その女性トレーナーは、体幹に筋の通った、ぴしっとした姿勢で笑み、

「今回は二時間ほど、普段アイドルがどんなことをやっているのか実際に体験してみよう。軽くな」

と、左手の親指を立てた。

「私は、頃合いを見てまた迎えに来るとしよう。それでは、頼んだよ!」

社長はそう云い残し、左腕を大きく振って去って行く。

年甲斐の無い大はしゃぎっぷりを見て、防音扉がガチャンと重い音を立てると同時に、
麗は「まったく、あの人は変わらないな」と苦笑とも郷愁とも取れる、短い嘆息をした。

「社長とトレーナーさんは、お知り合いなんですか?」

二人のことを不思議そうに眺めていた卯月が尋ねた。

「まあ、そんなところだな。さ、更衣室はあっちだ。その服に着替えたら、ピアノの前へ集合するように」

麗が指した小さめの部屋へ、凛たち三人は消えて行く。


「こう云うレッスンスタジオに入るのって初めて~。なんだかワクワクするな~!」

桃色のジャージを勢い良く脱ぎ、パイプ椅子の背へ放り投げた未央が、黄色いリボンタイを緩めて息を弾ませた。

「私も初めてだから、勝手があまりよく判らないな」

凛は、未央の言葉に軽く頷きつつ、カーディガンのボタンを外し開―はだ―ける。

そしてロッカーの扉を引き、その濃紺の上着を衣紋掛けに据えると、卯月が後ろから声を掛けてきた。

「大丈夫、今は私たち三人しかいないみたいだから、何も気兼ねすることはないよ」

「おろ? しまむー手慣れてるね。こう云うスタジオの経験あるの?」

その気負わない様子を見て未央が問うと、「うん、養成所に通ってたから」と卯月は答えた。

凛は、自らの背中の向こうで交わされる会話に、心の中で、なるほどね、と呟いた。

先程の、『アイドルになりたい』と云う卯月の熱意ある言葉に、合点がいったのだ。

「へぇ、卯月は経験者なんだね」

凛が碧いネクタイを右手で緩めながら振り返ると、卯月は早くもレッスンウェアに腕を通していた。

「えへへ、そんな大層なことは云えないレベルだけどね」と凛の方に顔を向けた彼女は口を開け、

「うわぁー、凛ちゃん、片手でネクタイを解く仕種がすごく“様”になるね。カッコよくて綺麗~~……。
 ホワイトブラウスとの組み合わせは反則だよ」

と羨望の嘆息を長く吐く。

面と向かってはっきりと云われるのは、凛にとって、とても気恥ずかしかった。

これまでずっと、似たようなことは云われてきたが、決まって邪な色が言葉に込められていたものだ。

しかし彼女から感じられるのは、美しいものをそのまま美しいと云う、素直な溜息だった。

「あ……ありがと」

凛は顔を紅くして、慌ててロッカーの方へと身体を向け、いそいそと着替えを続けた。


更衣室から出てピアノの前に集合した三人に、麗が尋ねる。

「えーと、島村君に、渋谷君に、本田君だな。君たちはソルフェージュを触ったことはあるか?
 島村君は養成所の経験があるようだから兎も角、私の記憶が正しければ、皆小学生の頃にやっているはずだが」

三人は、「はい」と大きく頷いた。

基礎的な音楽能力を養うソルフェージュは、音楽教育の初歩中の初歩。

音符や休符の種類、音の高さや音階、五線譜の記法など、義務教育課程の音楽授業でお馴染みだ。

ただし卯月以外の二人は、

「正直に云えば、あまりよく憶えてませんけど……」

「あはは~……わ、私も~」

と、凛は首を竦め、未央は右手で後頭部をぽりぽりと掻いて、付け加えた。

「はは、大丈夫。今はドレミファソラシドさえ判っていれば充分だ」

そして、「私の鳴らす音をなぞって、全身から声を出してみてくれ」と長調のフレーズを弾き始めた。

まず麗がお手本のラインを鳴らし、二回目のループで三人が併せて歌う。

軽快なテンポで、ステップを踏むようにフレーズが流れていく。

右手は軽妙かつ爽快なメロディ、左手はノリよく小刻みに揺れる伴奏。場を包む音は、ラグタイムだ。

音楽に明るくない者でも知っているであろう、The Entertainerと云う名曲。

普段のJ-POPでは歌わないような音階の飛び跳ねに、最初はおそるおそるだったが、徐々に発声をし始めた。

中でも卯月は、さすが養成所に通っているだけあって、
安定してフレーズを追随出来ており、三人の中では特に良く通る声が出ていた。

しかし凛と未央の二人は、一般人と何ら変わらない普通の女子高生。

その発声量や安定感は……云わぬが花だ。

微妙にピッチの合わない三声が、スタジオに鳴り響いた。

ピアノを弾き終わった麗に、凛がおそるおそる手を挙げて問う。

「あの……、こんな、うまく音を出せない状態でもいいんでしょうか……」

麗は「ははは、全く構わんさ」と明るく破顔した。

「なに、今は上手くやろうと気張る必要はない。リズムに乗って、喉ではなく身体から声を出してみよう。
 それがとても楽しいことなのだ、と感じてくれればそれでいい。誰しも最初は初心者だ、恥ずかしがらずにな」

再び麗がピアノを弾く。今度は更に軽快でうきうきするような雰囲気が感じられた。

未央は早くも、開き直ったと云うか、遠慮せずと云うか、全身で楽しんでいるようだ。

凛も下手な羞恥心と決別し、大きな声を出す。

30分ほど身体を暖めたところで、麗が壁面鏡の前へ移動した。

「先程と同じフレーズだが、今度はピアノではなくCDから普通の曲として流すぞ。
 その音楽に併せて、身体を動かすんだ。私が最初に手本の動きを見せよう」

そう云って、麗はそのとても綺麗な姿勢のまま、CDから再生される音楽に沿って、流れるように舞う。

ラグタイムで弾いていたフレーズが、今度はカントリーミュージックの潮流となって麗を動かした。

その美麗な動きに、凛や未央は勿論のこと、卯月も口を開けて惚けている。

麗は若干苦笑しつつ、「さあ、みんな一緒にやってみよう」と促す。

「渋谷君と本田君は、ダンスのテクニックとか、そんなものは今は一切意識しなくていい。
 最初から巧くやろうと気張らず、見様見真似でいいから、思うままに歌い、身体を動かしてみたまえ」

三人はそれぞれの顔を一度見やってから、軽く頷いて、麗の動きに追従した。

リズムに合わせて足踏みを入れたり、腕を振ってみたり。

身体をひねり回したり、飛び跳ねたり、片足を軸に回転したり。

そのまま、様々な曲に合わせて、麗は色々な情景を、声で、身体で、表現する。

いつしか凛も、夢中で声を出し、身体を動かしていた。

――あれ、楽しいかも……これ。

目の前の鏡に写る自分が、まるで自分ではないかのような、
第三者が自らを俯瞰するかの如き気分で眺めながら、凛は爽快な感覚に身を委ねた。


およそ一時間ほど身体を動かし、クールダウンを兼ねてストレッチをしている際のこと。

ぎこちない柔軟運動をこなす凛に、麗が訊く。

「そう云えば、君は歯列矯正をしたのか?」

いきなり妙な話を振られた凛は、少しだけ驚きつつ、

「えっと、歯にずらりと銀色の器具をつけるやつですよね? それはやっていません。
 親には、小さい頃から虫歯でもないのに歯医者さんへ定期的に“連行”されてますけど……」

と身体の筋をぐっと伸ばしたままの姿勢で答えた。

歯科医院独特の、あの厭な空気を、あまり歓迎しない感情が、その言葉に込められている。

「ふむ、そうか」

麗は顎に手を添えて頷いた。

そして、その様子を不思議そうに眺め眉根を寄せる凛に気付き、

「あぁいや、歯並びが綺麗な割には、矯正した歯にありがちな、“作り物”っぽさを感じないのでな。
 なるほど、君のは細やかなメンテナンスの賜物と云うわけだ」

「はぁ……」

凛はきょとんとしながら上体を起こし、今度は違う側の筋を伸ばそうと逆へ身体を倒した。

「芸能人は見られるのが仕事だからな。整った歯並びと云うのは重要なんだ。
 かと云って、矯正されたそれは、まるで入れ歯のような人工的な印象を与えてしまう。
 その点、君の“自然な歯並びの良さ”と云うのは大きな武器となろう」

麗は腕を組んで軽く頷き、「君は恵まれているな、親御さんに感謝するんだぞ」と笑った。

対して凛はあまり実感がないようで、いまいちピンとこない表情をしている。

「はぁ、そう云うもの……ですかね?」

「そう云うものさ。私は、昔それでちょっと苦労したからね」

親心子不知――凛がそれを理解するには、まだまだ時間を要すことだろう。

丁度のタイミングで、防音扉が音を立て、社長が顔を出す。

視認した麗は、凛、卯月、未央を立たせて、レッスンの締めくくりに移った。

「さて、体験はどうだったかな。勿論今日やったことが全てではないが、多少は空気を感じて貰えたと思う。
 今度は、現役アイドルをしごく教官として、また皆に逢いたいものだ。それでは今日はここまで。ご苦労様」

麗が力強く云うと、三人は「ありがとうございました!」とお辞儀をし、更衣室へと入って行った。

見届けた社長は、スタジオにスリッパの音を響かせて、麗の許へと歩み寄る。

「君の目から見て、あの子たちはどうだったかね?」

背中で手を組んで、麗の隣に並び立ち、正面の更衣室の方を見遣りながら問うた。

「正直に云えば、現時点では三人とも平均的な一般人レベルに過ぎません。島村君は多少こなれてはいますがね」

彼女も同じように、更衣室へ向いたまま答える。

「はっはっは、相変わらず厳しいねえ、麗は。――他の二人はどうだい?」

「本田君は筋肉の瞬発力、持久力、両方がありますね。動くのも好きそう。ただしだいぶ大味です。
 渋谷君は……只の案山子ですな。喉のピッチが安定しませんし、体幹の保持力も弱い」

麗の辛辣な指摘に、流石の社長も少し残念そうな表情になる。

「むぅ……私はティンときたのだがねぇ……」

「ふふっ、いま私が述べているのはあくまで身体能力の話ですよ?」

そう云って、麗は社長を見、にやりと口角を上げた。

「それ以外の部分なら、あの子自身にはあまり自覚がないようですが、色々と恵まれています。
 造形の整った顔や細くしなやかな脚、すらりとした長身、芯の通る声質、纏ったオーラ、強いカリスマ性……」

麗は右手の指を折りながら、凛の印象を一つずつ列挙していく。

「とかく感情表現に乏しいなど、不利な点は確かにあります。ですが、生まれ持った要素だけで判断すれば、
 ただの一般人よりもスタートラインはずっと有利な位置へ設けられるでしょう」




――そして、それこそが普通の人間との決定的な差です。


麗は、再度更衣室の方を向いて表情を引き締め、強くそう云い切った。

身体能力は、無論、センスや才能も物を言うのだが、トレーニングを積んで高みへ昇ることが可能。

しかし生まれながらに左右される要素は、後からどのような修練を重ねても、会得することはできない。

社長も、その言葉にゆっくりと頷く。

そして麗は、少しだけ、間をあけて。

「なによりも――」

一度そこで息を切ると、社長と麗は、お互いの顔を見合った。

「――真っ直ぐで綺麗な眼をしている。貴方は、きっとそこに惚れ込んだ。違いますか?」

社長は何も云わないが、目を細めることで回答した。

無言の返事に、麗は肩をやや竦めながら笑い、言葉を続ける。

「本田君だって、15歳であのグラマーな体つきは大きな武器になるでしょうし、島村君の愛嬌も元気になれる。
 三人それぞれ、磨けば光るものがありそうですよ」

「その言葉を聞けて、良かった。あの子たちは、きっと、輝ける」

社長は満足そうに頷いた。

「ところで、ようやく自分の事務所を立てたし、どうかな、トレーナーとして専属契約を結んでくれんかな?」

後ろで組んでいた手を解いて、今度は胸の前で腕を組み、そう問う。

麗は残念そうに首を振った。

「自分の主宰する教室がありますから、今すぐには無理です。来年度まで待ってください」

「まあ駄目元で訊いてみただけだが、やっぱりそうなるか」

要請を断られたにも拘わらず、それを全く気にしない様子で相好を崩す社長。

しかし、その笑顔の裏に若干の落胆が隠されていることを、麗は知っている。

「ですが――妹たちなら大丈夫です」

笑みを浮かべ、そう補足した。


着替えを終えた卯月たちが「お待たせしました」と出て来た。

そのまま、五人全員でスタジオのエントランスまでゆっくり歩く。

麗は、「ありがとうございました!」と深く頭を下げる三羽の雛に右手を挙げて応え、
社長とともに去って行く後ろ姿を眺めながら、ぽつり、誰の耳にも入ることのない言葉を洩らした。


――全く、プロデューサーの審美眼は相変わらず、と云ったところかな……
ふっ、あの子たちの将来が楽しみだ――



――

凛は、事務所までの道のりを歩く間、心の中の火照りに戸惑っていた。

歌うことや踊ることが――いや、違う。

より正確に云えば……自らの身体の内側から何かを放出させることが、予想以上に楽しかったからだ。

15年と半年余と云う短い人生ではあるが、それは、これまでの無味乾燥な生活では得たことのない感覚だった。

まるで、初めて玩具を買い与えて貰った幼子のような。

勿論、アイドルになるのなら、それが“仕事”と化すのだから綺麗なことばかりではなくなるだろうが――
このまま日常のループに身を置いているだけでは、この興奮を得るなど、到底出来ないだろう。

それでもやはり、『非日常』の世界へ飛び込んで行くのに必要な“勇気”を確信するまでには至っていない。

凛は、真面目な子だ。

だからこそ、何事も考え過ぎてしまう。

当然、それは生きていくのにとても重要な要素ではあるのだが。

彼女にとって、事務所までの道は、あっという間だった。


先程と同じ応接エリアへ戻りソファへ着くと、ちひろが改めてお茶を淹れてくれた。

スタジオからの道中も、事務所に入っても、社長から凛に「どうだったかな」と催促してくることはなかった。

じっくりと、凛自身に納得のいくまで考える時間を与えるため。

その間、凛の隣に坐る卯月と未央と、所属にあたって必要な書類の遣り取りなどをしている。

凛は、その気遣いを何となく察してはいた。しかし、思考は延々と巡り、出口が見えない。

一種、社長の放任さが、却って仇となっているような気がする。

そこへ、ちひろが社長の隣、凛の正面に坐った。

「ふふ、どうだった?」

にこりと笑み、尋ねてきた。

「うん、楽しかった。……けど、やっぱり色々な考えが頭の中を巡っちゃって……」

「そうね、それは当然だと思うわ。自分の、これからの生き方が大きく左右されるんだものね」

そう相槌を打って、ちひろは自らの分の茶を啜った。

茶碗をことりと置き、「どの辺が楽しかった? 歌? ダンス?」と他愛のないおしゃべりを振ってくる。

「……なんて云うか、歌とか踊りとか固有のものじゃなく、漠然とした感覚だけど……“表現すること”、かな」

明るいメロディに合わせて楽しく、哀しいメロディに合わせて情緒豊かに――
そんな、場に応じた自らの表現の仕方に、様々な種類、表情があると云うこと。

そう、麗が魅せ示した、その“存在の表現”と云う行為が、凛は気に入った。

ちひろは、目尻を下げてにこにこと穏やかに微笑んだままだ。

そんな彼女に、凛は「確かにスカウトされて光栄だし、楽しそうとも感じるけど……」と思うところを告白した。

「さっきの先生のような、綺麗な歌や凄い動きが、果たして自分に出来るのかな、とか不安が先にきちゃって」

ちひろは、その言葉に大きく頷く。

「そうね、わかるわ。私だって、同じようにスカウトされたらそう云う思考が一番に浮かぶと思うもの」

ちひろに大きく同意され、凛は少しだけホッと安堵の息を吐いた。

しかしちひろは笑みを崩さず、言葉を続ける。

「でもね、社長ってこう見えて、いい加減なことは云わない人よ。貴女を誘ったなら、相応の想いがあると思う」

「いい加減なことは云わない……」

「ええ。理由も無く無闇矢鱈にスカウトをする人ではないわ」

凛自身、それには、すぐに見当がついた。

「理由……か。確かに、オジサンにも、そしてPって人にも、同じような理由を掲げられたよ」

「同じ理由?」

「……眼、だってさ」

「なるほど。Pさんも、新人の割には、ちゃんと見てるのね」

うふふ、と肩を揺らし、

「二人とも――特に社長はとても変な人だけど、直感は意外と凄いのよ」

ちひろの好き勝手な云い種に、隣で書類の説明をしていた社長は思わず苦笑いを浮かべ、

「はっはっは、随分云ってくれるねぇ、ちひろ君」

と後頭部を掻きながら、新たな書類を取り出すためだろうか、自らの執務机へと歩いて行く。

そんな社長へ凛が視線を向けていると、ふと、彼の机に飾られた何気ない写真立てが目に留まった。

そこには、少しだけ若く見える社長と、手に大きなトロフィーを持つ綺麗な女の子がツーショットで写っている。

どこかで見たような……

と、考える時間も必要ないくらい、答えはすぐに浮かんで来た。

何故なら、ついさっき手ほどきを受けた青木麗その人だったからだ。

先刻と同じように長い髪をアップに結い、きらびやかな衣装に包まれ、泪を流しながら笑っている。

その姿は、とても――とても美しかった。

「ねぇ、オジサン、それって……」

凛は、無意識のうちに社長へ声を掛けていた。

ん? と、その呼び掛けに凛の方を向いた社長は、彼女の視線を追って再度自らの手許へ目を落とし、
机上で控えめな輝きを見せるフォトフレームに、合点の行く顔をした。

「あぁ、これか。君は視力がいいな、よく気付いたね」

そう云い、写真を凛のところへ持ってくる。

「察しの通り、彼女は私がかつてプロデュースしていたアイドルだよ。これはIUで優勝したときの記念写真だ」

「えぇっ!? さっきのレッスンの先生、IUで優勝してたんですか!?」

凛との会話を耳にした卯月がそう叫んで、すっ飛びそうな勢いで立ち上がり、写真を覗き込んだ。

未央も、あまりの驚きに、呆けた顔をしている。

IU――アイドルアルティメイトは、年に一度、真のトップアイドルを決めるオーディション番組だ。

その存在は国民的関心事と云って過言ではない。

「IU優勝者に気付かないなんて……私どれだけ疎いんだろう……」

凛が頭を抱えてそう呟くと、対照的に社長はあっけらかんとして、手をひらひら振った。

「それは仕方ないよ。彼女が引退したのはもう八年も前になるからね、君は小学校に上がろうかって頃だろう?
 当時人気だったアイドルのことなんか判らないだろうさ。後々、座学として資料に触れることはあってもね」

子供がアイドルや芸能に興味を持ち始めるのは、大抵は小学校高学年から中学生の頃だろう。

凛にとって、初めて意識したアイドルは天海春香だ。

彼女のデビューは六年前。

事前情報なしでは、かつてのトップアイドルとは云え、八年前に去った麗を知らないのも、致し方あるまい。

だが、アイドルとしてスカウトされたにも拘わらず、それに気付かなかったことに、ショックを隠せない。

それは同時に、「このオジサンって、アシスタントさんの云う通り本当に“出来る”人だったんだね……」と、
認識を改めるきっかけともなった。

――そんな人が、私のことをスカウトしてくれた――

――同時に二人の人が、私の同じ部分から何かを感じてくれた――

ならば。

無変化なつまらない日常を脱する、またとないチャンス。

たとえ、その先が茨の道であっても。

無味乾燥な日常を繰り返すより、ずっとマシだ。


「ねえ、オジサン。…………ううん、“社長”」

凛は、目の前の、微笑む黒い男を眼力鋭く見詰め、強く告げる。

「……私、やります」

その言葉を聞いた卯月と未央が、顔を大きく綻ばせ、凛に抱きついた。


以上までが去年の舞浜WONDERFUL M@GIC前日に投下した『春の日の追憶』に該当する部分です。
ここまでは、既にどなたかの目に触れているものでしょう。

↓完全新規部分を続けます↓




・・・・・・・・・・・・


世の中は実につまらないもので、閉塞感と不安感に満ち満ちている。

リーマンショックから二年半が経ち、日本経済にようやく底を打った兆しが見えたところで今度は大震災。

まったく、天は我々に恨みでもあるのだろうか?

テレビを点ければ、目に入るのは公共広告機構のCMばかり。歌のフレーズを否が応でも憶えてしまうほどだ。

経済の疲弊、覇権主義を隠そうともしない隣国、自然災害、対応が極めてお粗末な内閣と後手々々に回る政府――

巷のあらゆる人間にとって、先行きの全く見えない時代に突入していた。

もうまもなく年度が変わり、新しい一年が始まろうかという平日の午後。

銀座の老舗カフェで独り、喫茶する男にとっても、それは同じことだった。

こんな時勢になるならば、社会の歯車でいるのではなく、夢を追っていても大差なかったのではないか?

震災からおよそ半月、年度末の今日まで、ずっと同じ問いが頭を巡っている。


カラン、と音がして店の扉が開いた。

ここは銀座の本通りから一本裏路地に入ったところ。

メニューにコーヒーしか載っていない、知る人ぞ知る名店だ。

しかしその秘密度が高過ぎて、大勢の客で埋まることは稀。

木の温もりに溢れた、昭和の薫りを色濃く残す店内に誰か来客が在ればすぐに判る、こぢんまりとした場所だ。

扉を開けて入って来たのは、初老の男だった。

常連と云えるほど通っているわけではないので、見知らぬ顔だったとしても驚かない。

しかしその態は真っ黒と云う些か奇妙なもので、それを半ば不躾な視線で凝視する若い男に、初老の男が気付く。

そして若干の驚きを得たように跳ねた。

そのまま、大股の早歩きで若い男の眼前まで寄ると、いきなり名刺を出して云う。

「――ティンときたよ」



――

「……アイドルプロダクション、ですか」

一瞬で店内は商談室の如き様相を呈した。

客はこの二人以外にいないのでさほど問題はなかろうが、少し落ち着かない。

もうまもなく御年百歳になろうかと云う元気な老店主が、カウンター内に腰掛けて穏やかな笑みを浮かべている。

名刺を眺めつつ問う若い男に、初老の男は大きく頷いた。

「そうだ、君……いや失礼。えー、あなたを見て――」

「Pです、私の名は」

初老の男が、どう呼ぶべきか一瞬迷ったようだったので、若い男――Pは懐に腕を入れながら名乗った。

そして、左の内胸から名刺を取り出し、渡す。

「Pさんか。ありがとう。……おお、伝通―デンツー―に勤務とは、いつもお世話になっていた処です」

そう云って初老の男が頭を軽く下げたので、Pもついつい返礼する。

「――でね、今さっきPさんを見て、ティンときたので、是非我が社にお誘いしたいのです」

机の上に指を組んで、初老の男が笑った。

Pは貰った名刺に再び視線を落とし、訝しむ様子で問う。

「これは、私をアイドルに、と云うことなのですか? 正直、自分はしがないサラリーマンでしかないのですが」

「ああいやいや、これはまたまた失礼。あなたをアイドルではなくプロデューサーとしてお迎えしたいのですよ。
 我が社にはまだプロデューサーがおりませんでな」

その言葉にPは眉をひそめた。

アイドルプロダクションなのに担当者がいないとは。

そもそもプロデューサーと云うものは、制作の現場やマネージメント、ディレクション等を経て到達する地位だ。

制作だけでなく、“製作”、つまりライン全体を管理し、労使の橋渡しもする、実務側に於いては最高位。

齢二十三の人間にとって雲の上の存在と云える。

そのような役職に、こんな若造を、いきなり諸々すっ飛ばして据えてしまおうだなんて。

俄には信じがたいものであった。

Pの表情からその疑問を察するかのように、

「我が社は設立したてでしてな、まだスタッフが社長の私と事務兼アシスタントの二人しかおりません――」

と、自らを社長と称する初老の男は言葉を添えた。

「――つまり、『プロデューサー』とは呼ぶものの、実際のところはアイドルのプロデュースの他、 
 日程管理から引率含め、諸々の庶務を全て一手に引き受ける“アイドルの半身”として招きたいのです」

「……アイドルの半身、ですか」

「左様です。規模の大きなプロダクションならマネージャー、ディレクターなど階層構造を採るのですがね」

そこで一旦言葉を区切り、男は薫り高いコーヒーに口を付けた。

ゆっくりと呑んで、芳醇な味わいを楽しんでから、

「私が社長兼プロデューサーとして動くことも可能です。しかし、いつかは世代交代が到来するのは必定。
 それに半身として二人三脚で動くなら、アイドルと歳が近い方が何かとやりやすいことも多い」

カチャリと微かにカップを置く音を纏わせ、スカウトの真意を説明した。

Pは顎に手を添え、少し視線を落とす。

「なるほど、仰りたいことは判りました。しかし私にも生活や社会人としての立場があります。
 貴方のプロダクションは判らないことが実に多い」

CGプロと云う名は、広告代理店、つまり芸能と縁の深い業種にいる彼でさえ聞いたことがないのだ。

勿論、それは設立したてなら仕方ないことであろうが、そもそも目の前の男が何者なのか。

出会ったばかりの男の云う会社が本当にアイドルプロダクションとしてやっていけるのか。

話を受けるにせよ受けないにせよ、Pには不確定要素が多過ぎた。


「Pさんの仰ることは、尤もです――」

男は、眼を閉じて深く頷いた。

そしてもう一口、今度は先程よりも多めにコーヒーを呑んでから。

「――私が青木麗のプロデュースをしていた、と申せば幾分かは判って頂けますかな?」

「青木……麗……!?」

やんわりと放たれた言葉に、驚愕して目を見開く。

彼女は、Pの中高時代に活躍していたアイドルだ。

つまり、彼の青春期に於ける異性の象徴と云って良い。

学校のクラスで、アイドル青木麗が話題に上らぬ日などなかった。


Pが小学校三年生の頃、伝説のアイドル、日高舞が引退した。

彼自身にはその頃のテレビの記憶はほとんど無いが――だいぶ世間を騒がせたことは微かに覚えている。

その舞と入れ替わるようにして業界を牽引したのが、麗だ。

舞がセンスで一点突破する重戦車なら、麗はスキルに裏打ちされた巧みな技術力と機能美を魅せる戦闘機。

“本物を知る人”に受けの良い、技巧派アイドルだった。

確かに舞の引退後、アイドル界は暗黒期に入ったと云われている。

しかし。

麗がいなければ、現在のアイドルシーンは、粗製濫造が跋扈する、より悲惨な状況となっていたことだろう。

その意味で云えば、彼女は業界の救世主―メシア―であった。


固まったままのPの目の前に、そっと、写真が差し出される。

そこには――

少しだけ若く見える目の前の男と、手に大きなトロフィーを持つ綺麗な女の子がツーショットで写っていた。

長い髪をアップに結い、きらびやかな衣装に包まれ、泪を流しながら笑っている青木麗。

史上稀に見る混戦となったIUを制した時の様子だ。

『ポスト日高舞』を狙って激しく争われた年。

それは、麗がトップアイドルとして君臨する橋頭堡となった。

群雄割拠の中、麗が制覇できたのは、彼女自身の力の他にも、指導する者のアシストも大きかったと云われる。

その“青木麗を牽引していた者”が、いま目の前にいる、奇妙な態の男……


「……業務の引き継ぎ等があります。一箇月ほど待ってください」

眼力鋭い表情のPはようやく、その一言だけ絞り出す。

微笑む男と、身を固くするP。

二人を、老店主が淹れる、新しい一杯の豊かな薫りが包み込んだ。




・・・・・・・・・・・・


凛がアイドルになることを決心してからおよそ一週間。

ここのところ、五月晴れの心地よい天気、それでいてさほど気温は上がらず、過ごしやすい日が続いている。

彼女は、モノレールの橋脚が規則的な影を作っている道を独り、早足で下校していた。

茶色いレザーのスクールバッグを肩に廻しながら、上空に横たわる飛行機雲を視る。

歩いても歩いても、いつまでも縮まる気配のない距離が、不思議な感覚だ。

その青と白のコントラストは、作られてから時間が経ったようで、境目が曖昧になりつつあった。

凛は、ふと、自身の変化に気付く。

――そう云えば、空を見上げることなんて、最近あったかな。

印象的な空を最後に見たのはいつだっただろうか。

一箇月前か、はたまた一年前か。少なくとも、詳細な期間を云えないほどには昔のことらしい。

じきに、一筋の白線が描かれているカンバスは、高いビルによって遮られていく。

いつの間にやら、ターミナル駅近くまで来ていたのだ。周りを取り巻く人の密度は、加速度的に高まっている。

ついさっき学校を出たばかりではなかったか? まるで、数分のタイムリープをしたかのよう。

ぼんやり余所見をしていては、ぶつかってしまう。前を向こう。

すらりと長い脚を前へ出す度に髪がなびき、その陰でひっそりと咲くピアスが顔を覘かせる。

やや傾いた西日に照らされ、左の耳たぶがキラキラと光った。


あの日のレッスンのあとの行動は早かった。

社長はすぐさま書類を作成し、凛とともに両親の許へ。

驚きのあまりあんぐりと口を開ける父親、そして「あらあらまぁまぁ」と笑う母親を必死で説得した。

娘がどこかへ出掛けたと思ったら、帰ってくるなりアイドルになると云い出した――

これで仰天しない親などいるものか。

結局、青木麗と云う有名な実績のある社長の、小一時間に亘る熱い説得に、無事了承を得られた。

凛の両親はそこまで堅物ではないとは云え、一度の訪問で了解を取り付ける社長の話術は不思議なものだ。

もしかしたらそれは、仮にアイドルとして上手くいかなくても、花屋と云う家業の道もあることが、
挑戦的な行動を一般の家庭よりも聴―ゆる―す土台を醸成していたのかも知れない。


さておき。

アイドル“候補生”としての一歩を踏み出した凛は、あれから毎日、放課後は体力作りにジムへ通っている。

当然ながら、「やります」と云ってすぐにデビューできるほどアイドルの世界は甘くない。

まずは一にも二にも基礎固めだ。

スタジオでのレッスンではなく、事務所に近い単なるトレーニングジムなので全てセルフ。

なのに肝腎の指示の方は、簡潔な参考資料を社長に渡されただけだった。

スタミナ作りだから内容は普遍的なもので良いとは云え、その放任ぶりは凛の方が苦笑するほどだ。

例の日曜日、三人が本格的に所属するとなったとき、社長は

「私は関係各所を飛び回るのに忙しくてねぇ! すまんがしばらくは各自で体力作りをしてくれたまえ!」

と豪快に笑っていた。

その言葉通り、挨拶回りなどのために全国を行脚しているようで、この一週間はほとんど社長の姿を見ていない。

もう一人、凛をスカウトした片割れであるPも、社長と別行動で各地を巡っているそうだ。

こちらは社長よりご無沙汰で、渋谷での一件から一度も顔を合わせていない。

必要な事務処理や連絡事項等は、全てちひろから伝えられている。

今日は一体どこを飛び回ってるんだろうね――凛はつらつらと思いながら、中央線に揺られている。

席へ坐った膝上には、復習を兼ねた、中間考査対策の暗記カードと問題集。

この時間の上り列車、快速東京行は空いていて、30分余の“通勤”中、勉強をするには丁度良い。

トレーニング後はへとへとになり、家へ帰っても学習どころではなくなってしまうので、この時間は貴重だ。

試験範囲の重要なキーワードや式など書き込んだカードを、一枚そしてまた一枚と捲っていく。

高校に入って初めての定期考査だから、まずは腕試し。そこまで難しい内容ではない。

しかし集中していると、刻が経つのはあっという間。

気付けば、電車は新宿を既に発ち、千駄ヶ谷を通過しようかというところだった。

窓の外では、首都高速4号を並走する自動車が列車に追い抜かれ、ゆっくりと後方へ見えなくなっていく。

飯田橋には橙色の中央線は停まらない。手前の駅で黄色い総武線への乗り換えが必要だ。

凛は「ふぅ」と軽く息を吐き、カードと本をパタンと閉じた。

四ツ谷で降りる為に、スクールバッグを肩へ掛けて立ち上がる。

この面倒な乗り換えにも、一週間通い詰めてようやく慣れてきた。



――

「おはようございまーす」

みすぼらしい事務所のみすぼらしい扉を開けて挨拶すると、予期せぬ声が凛の鼓膜を揺らす。

「おお、ご苦労。ちょうどよかった、こっちまで来てくれんか」

社長が応接エリアから声を掛けた。

呼ばれた方をひょっこり覗き込むと、既に卯月と未央がソファに坐って談笑している。

凛に気付き、二人とも手を振ってきた。

「社長、今日は行脚してないんですか?」

凛が二人へ右手を挙げて挨拶しつつ、彼女らの対面に腰掛ける社長に訊くと、当の本人は大きく笑った。

「はっはっは、私だってたまには戻ってくるさ。今日はちょっと方針を固めようと思ってね」

「方針?」

鸚鵡返しに述べ、きょとんとする。

社長は大きく頷き、ソファから立ち上がった。

そして「皆揃ったから早速始めてしまおう、入ってくれ」と云って手を二回叩く。

すると、パーテーションの陰から、こないだ手ほどきを受けた青木麗によく似た女性が二人。

そしてPのほか、見たことのない男性が二人、ゆっくりと姿を現した。


「この人たちが、これから君たちの面倒を看てくれることになる」

社長がまず自らの隣に並んだ女性を掌で指すと、その二人はぺこりとお辞儀をした。

二人ともやや長い黒髪。さらに顔も似ているが、片方は一本結びを肩の前に垂らしているので見分けがつく。

「トレーナーの青木明―めい―君。そして、ルーキートレーナーの慶―けい―君だ」

社長の口から出た名前に、凛も卯月も未央もやや驚いた様子で、開いた口に手を当てた。

「そのお顔と、名前は……」

卯月がやや独言のように云うと、

「その通り。麗の妹さんだよ」

社長は笑って肯定した。

一歩前に出た明がハキハキとした口調で自己紹介する。

「はじめまして、私があなた方をレッスンさせて貰います、担当トレーナーの青木明です!」

そして面影にやや幼さのある女の子――写真として残る現役時代の麗によく似た慶もまた一歩前へ出て

「はじめまして! 姉たちに比べればまだまだ未熟なトレーナー見習いですが、精一杯頑張ります!」

とにこやかに、それでいて力強く云った。

社長は、うんうん、と頷きながら、

「麗は教室を主宰しているから、時期がくるまではこちらを付きっ切りで看て貰うことが出来ないんだ。
 だから、現時点での専属トレーナーは、この二人にお願いすることとなる」

「あれっ、じゃあこないだのレッスンはー……」

未央が驚いた様子で問うと、社長は右手の人差し指を振った。

「こないだは特例中の特例だよ。私が麗にどうしても、とお願いしてね。勿論、明君、慶君とて腕は折紙付きだ」

「麗さんって、姉妹がいたんだね……そしてその人たちもトレーナーをやってる……」

ぽつり、凛が呟き、過日目に焼き付けた、麗による次元の違う動きを思い出して身を固くした。

その様子を見た明は

「そんなに身体も心もカタくならないで。大丈夫、姉ほどきつくしないですから!」

と笑う。

「……宜しくお願いします」

「宜しくお願いします! 頑張ります!」

「宜しくお願いしま~す♪」

凛たち三人がそれぞれ深く礼をすると、社長が明・慶姉妹の後ろに立つ者たちの紹介に移った。

「そしてこっちの男性諸君が、P君、銅―あかがね―君、鏷―あらがね―君だ」

名前を呼ばれた男三人は、それぞれ会釈をする。

その彼らに対して、凛は、どのように反応すれば良いか迷った。

Pのことは知っているからまだしも、その他の二人は矢鱈とガタイのよいムチムチだったり、
はたまたスキンヘッドにサングラスという出で立ちだったりしたからだ。

堅気な人間には、到底見えない。

幾分妙な空気の中、驚きを隠し切れない声が響いた。

「あ、あぁ~~っ!?」

未央が、鏷と呼ばれたスキンヘッドの男を指差して、口をあんぐり開けていた。

「よう。まさかここで会うとはな」

強面の口元を歪めて、その男は笑う。

「え、未央、この人いったい誰……?」

凛が声のトーンをやや落として耳打ちするように問うと、

「いや~、私がオーディションを受けた日に、走っててぶつかりそうになったんだよね」

「あれから『オーディション会場』って掲げられた建物にダッシュしていくのが見えたから、
 あ、こりゃだめだな、と思ったもんだが、まさか受かってるとはな。
 更には俺が誘いを受けて入った会社に所属してるときた」

くつくつと肩を揺らす鏷に、未央は口を膨らませることで抗議した。

その隣では、卯月が大きな体格の銅を見て、

「あれっ? あなたはこないだの……」

「あら、やっぱりあの日のコ? いやーあの刻は携帯の電池切れちゃってたから助かったわ~。アリガトね」

こちらもお互いを知っているような素振りだ。

凛は状況を余り掴めていないように、二人の様子を見ながら何度も瞬きをする。

社長も、まさか面識が――たとえ僅少とは云え――あるとは思いもしなかったのであろう、面喰らった様子だ。

コホン、と一度咳払いをし、凛、卯月、未央の顔を順に見て、

「この三人に、君らのプロデューサーを務めてもらうよ」

と、一番近くにいたPの肩を叩く。

「あ、私たちのこと、社長が直々にプロデュースするわけではないんですね」

「経営者ともなるとやらねばならないことが増えてしまってね。私としては前線に立っていたいとは思うのだが」

凛の、やや驚きを込めた呟きに、社長は複雑そうな表情をして目尻を下げた。

「それに業界には新陳代謝も必要だから、歳を取った私ではなく若い者同士で切磋琢磨して貰うのも良いだろう」

腕を組んで、一人、納得したようにうんうん、と頷く。

「その様子では、誰が誰を担当するか、今更相談する必要もなさそうだねぇ! はっはっは!」

じゃあ後は当人たちで宜しく、と笑って社長は執務机へと戻っていった。

Pはそれを横目で見送ってから、凛の前まで歩み寄る。

「どうやら俺が君のプロデュースを担当するようだ。初めての経験だが、二人力を合わせていこう。宜しくな」

先日渋谷で会った刻とは違う、爽やかに着飾ろうとする云い様に、凛はやや呆れた様子。

「ふーん、アンタが私のプロデューサー? ……まあ、悪くないかな」

大胆不敵な第一声に、Pは虚を突かれたように首を竦める。

「おいおいそりゃ随分な云い種だな、まったく、この――」

やれやれ、と云う顔をして小さな抗議をするが、ふと何かに気付いて言葉を止めた。

「……そういえば俺、君の名前をまだ聞いてなかったんだ」

街でスカウトをしてから既に二週間弱も経つのに。

Pは、ここで初めて、目の前の美しい少女の名を知ることとなった。

「私は渋谷凛。今日からよろしくね」

それは、変に愛嬌を振りまくこともなく、気取ることもない、端麗―クール―な名乗り。

「渋谷凛……いい響きだな。俺の名前は――って、これは今更云う必要ないか。宜しくな、渋谷さん」

「凛、でいいよ。苗字にさん付けは、なんか落ち着かない」

相変わらず、何を考えているのかよく判らない無愛想な表情で、右手を差し出してきた。

勿論、何かをねだる仕種ではない。

凛の方から握手を求めてくるなど、Pは意外に思ったのか、目を少しだけ大きくした。

そうだ、これから二人三脚をする相手ではないか。

凛の華奢な手と、掌が触れる。

ゆっくりと柔らかに、それでいて力強く握り合った。



――

「さて、ではそろそろスタジオへ向かいましょうか。プロデューサーの皆さんも、一緒についてきてください」

明が、頃合いを見計らって告げた。

今日はこのまま、過日、麗の手ほどきを受けたのと同じ貸しスタジオで初レッスンとなるらしい。

通常、スタジオへはレッスンを受ける者のみが向かう。

しかし今日は初回だ、各アイドルの身体能力など、プロデューサーが知っておかなくてはならないこともある。

アイドル・トレーナー陣だけでなく、社長も含め、ちひろ以外の全員ご一行様で出発だ。

大所帯でぞろぞろと移動するさまは一種異様で、対向の歩行者がそそくさと道を譲るほどだった。

社長はじめ奇妙な態をした男どもが先頭で風を切っているのだ、然もありなむ。

凛は少々の申し訳なさを感じつつ、身を縮こまらせながら歩く。


ほどなくしてスタジオへ到着すると、社長以下男性陣は、打ち合わせと称して別の部屋へ入って行った。

凛たちは先日と同様、更衣室で着替え、鏡張りの壁の前で、明・慶と正対する。

「この間は姉、麗による“体験”でしたが、今回からは正式なレッスンです。張り切っていきましょう」

一歩前に出た明が、先刻までとはまるで違う雰囲気を纏って、云った。

姉譲りの、ピンと張り詰めた声音と、力の宿った視線――

そこは、一瞬で“戦場”へと様変わりした。

レッスンを受ける三人は、身を強張らせる。

養成所で慣れているはずの卯月でさえ、そうなのだ。

経験の乏しい凛や未央は、まるで猛禽類に狙われた兎に等しかった。


本日のメニューは、ダンス。

柔軟運動ののち、基礎のステップ、また同じく基礎のスタイルポジションの講義を受け、いざ実践へと移ると――

それはまさしく、予想とは遥かに次元の違う厳しさだった。

凛は花屋と云う水仕事の関係上、重い物を持つことは日常茶飯事。

だから、腕力に関してだけ云えば、巷の女子よりはついているはずだと思う。

それに、わずか一週間とはいえ集中的に体力作りをこなしてきたこともあって、幾分か自信があった。

この年頃の者にとって、一週間の集中と云うものは意外と大きい。

実際、持久力や筋力が、わずかではあるが、実感できるくらいには伸びていた。

朝、通学電車へ乗り遅れそうになって駅の階段をダッシュしても息切れしにくくなったし、
家業の店頭では、商品の生花プラントを、持ち上げやすくなった。

……にも拘わらず、いざレッスンの蓋を開けてみれば、既定の通りに身体を動かすことさえままならない。

まるで錆び付いたブリキ人形であるかのような、ぎこちない動作だ。

どのように筋肉を使えば良いのか、皆目見当がつかなかった。


ダンスとは、見た目以上に過酷な運動である。

数十キロある人間の体躯を、或る刻は飛び跳ねさせ、また或る刻は不安定な姿勢のまま支える。

そしてあらゆる動作の開始と終了時には、慣性の法則に真正面から抗う必要があるのだ。

大腿やふくらはぎ、足首、そして腹筋と背筋。

普段あまり使わない場所が、一瞬にして乳酸を大量に放出した。

一週間の準備など、まさに焼け石に水の如く、全身が悲鳴を上げる。

「はいそこで脚を引きながら腕をピタっと止めます! 未央ちゃんは力を入れ過ぎて反動が大きいですよ!
 凛ちゃんは逆に流れちゃってて足許も疎かです!」

明が全体を眺めて指示を出し、慶は凛の身体に手を添えて「右脚はここに持って来て」とガイドする。

レッスンを始めてから寸刻、凛の肌やレッスンウェアは、大量の汗で濡れてしまった。

明も慶も、運動量は凛たちとほぼ変わらないはずだが、何事もなかったかのようにケロリとしている。

さらに卯月と未央へ目を向けても同様であった。

卯月は養成所での経験によるものだろうし、
一方、凛と同じ素人であるはずの未央は、技術はともかくスタミナがかなり有るらしい。

凛は驚愕した。

自分はもう腕や脚に力を入れることすらままならないのに。

肺の求めに応じて息を大きく吸い込むことしか出来ないのに。

慶だって、はたまた卯月や未央だって華奢な体躯をしているのに。

彼女らの中には、一体どれほどの力が潜んでいるのだろうか。

凛は、自らの身体だけが粘度の高い泥沼にいるかのような錯覚に陥り、動揺を隠せない。


「はい! じゃあ少し休憩しましょう」

数十分ほどののち、明がパン、と手を叩いて云う。

その言葉に、たちまち凛は壁面鏡の手摺へともたれ掛かってしまった。

細く長い手足が、力なく投げ出され、垂れ下がる。

「凛ちゃん、大丈夫?」

凛の白旗ぶりに、卯月が覗き込んで問うた。

彼女の肩も相応の上下動をしているが、凛ほどではない。

「よ、予想、以上の……運動量、だね、これ……」

酸素を多く求める呼吸の合間に、短く切った言葉で卯月に答えた。

明も傍に寄り、

「凛ちゃん、辛かったらいつでも休んで構いませんからね」

と云いながらタオルを差し出してくる。

凛はもはや言葉では答えられずに、軽く二三度頷いて、荒い息に上体を揺らしながら、緩慢な動作で受け取った。

額から流れ落ちる汗が目に入ってしみるので、慌てて顔を拭う。

ぷはぁ、とタオルから顔を離すと、パタパタと云うスリッパの音を纏わせて、社長がゆっくり歩いてきた。

「大丈夫かね?」

「はい、……なんとか」

「大変そうだが、限界以上に無理はせんようにな」

その言葉に、凛は目を瞑って云う。

「はい……ちょっと甘く見てました。まさかこんなにハードなんて……でも大丈夫です」

「忍耐と無謀は別物だよ」

緩やかに社長は諭すが、凛は首を横に数度振り、

「いえ、まだいけます――」

そして瞼を勢い良く開け、社長を真っ向から見据えた。

「――卯月も未央もへっちゃらで動きをこなせているのに、私だけこのままでいるのは厭です。
 私は、中途半端は嫌い。やるんだったら、全力を尽くさないと」

瞳に力を込めて、ぴしゃりと云い切る。

凛は、人一倍、負けん気が強かった。



――

数時間に亘る初レッスンをこなしたあと、凛はボロ雑巾のようになっていた。

結局、あれから凛は自分だけ上手くこなせていない基礎ステップを踏めるようになるまで、何度も指導を乞うた。

卯月や未央、果ては慶の制止を振り切ってまで懇願した。

困った明が社長に伺いを立てると、「やらせてみなさい」と云うので、それでようやく決着を見たほど。

「……いいんですか?」

Pが小声で社長に問うた時、

「勿論、これ以上やっては身体を壊すと云うところまでいきそうだったら、止めさせるよ」

腕を組んで返答する社長の目が慈愛に細くなったのを、彼女たちは知らない。


いづれにせよ、数時間かけて、凛はステップを“なんとか”踏めるようになった。

当人はまだ納得がいかないようではあったが、流石にこれ以上は悪影響があると云う社長の指示に、渋々従う。


「うひ~……ダンスがこんなきっついなんて思わなかったよ~」

三人が更衣室へ入ると、簡素な椅子に体重を預けながら未央が嘆息した。

「うん、私も養成所で受けてたレッスンとは次元が違ってびっくりしちゃった……」

卯月はレッスンウェアを脱いで、ひたすらタオルを身体に当てる。

そして、「凛ちゃん……大丈夫?」と、ベンチにへたり込んで何も云えない状態の凛を気遣った。

「な、何とか……ね……」

ミネラルウォーターを何度も呷ってから、凛は気丈に答えた。

しかしペットボトルを持つ腕は、その空になった軽い容器を持ち上げることすら叶わず――

無造作にベンチの背から垂れ下がっていた。

「卯月は兎も角……未央は初レッスンなのにバリバリ動けてて凄いね……」

やや息が整ってきた凛は、羨ましいとも悔しいとも受け取れる声音で、未央を讃えた。

当の未央は、首の辺りをタオルで拭いながら、やや目を丸くする。

「私はむしろ、しぶりんのガッツにびっくりしたよ? 普段の澄ましてる姿からは想像もつかない迫力だった」

「そりゃ……私だけ出来てなかったんだから当然でしょ」

「しぶりんはマジメだなぁ~」

未央の言葉に、凛は少しだけ目を伏せた。

そして、ふう、と一度大きく深呼吸してから、よろよろと自らのロッカーへ歩む。

「私……このままでやっていけるのかな……」

ようやくウェアの両袖から腕を抜いた凛が、独り、ロッカーの中へ小さく呟いた。

弱気の言葉がついつい口をついてしまう。

「ん? 凛ちゃんどうかした?」

「あ、ううん。何でもない」

やっとのことで着替えを終えた三人は、ゆっくりと更衣室を出た。


往きと同じ道を同じメンバーで同じように戻る。

凛たちが事務所のソファに身を沈めると、ちひろが甘くて薫りよいアイスココアを持ってきてくれた。

目の色を変えた三人はすぐさまそれに飛びつき――

一口飲むごとに、五臓六腑に染み渡るさまを実感している最中だ。

その顔はまるでヘロインを打ったかのように蕩けていた。

「あ゛~~……おいひい……」

ビールを飲んだ親父のような声で未央が唸り、凛と卯月は揃って大きく首肯を添える。

社長や男性陣はパーテーションの向こうで何かをしているようだが、今の三人にはどうでもいいことだ。

十分ほどして社長が顔を出すと、すぐにその表情を曇らせて、三人の横で茶をすする事務員に視線を向けた。

「……何か危ない薬でも混ぜたのかね?」

「とんでもない。女の子にとって、運動後の糖分は麻薬にも等しい。ただそれだけのことですよ」

ちひろは我関せずと云うかの如く、目を瞑り、しれっと淡白に返答した。

社長はこめかみをぽりぽりと掻いてから、アイドルに告げる。

「諸君、重要な話がある。そのままでいいから聞いてくれ」

オッホン、とわざとらしい咳払いを挟み、

「本日より本格的にアイドル活動を開始することとなる」

その言葉で、麻薬にノックアウトされ背もたれに沈んでいた三人は、ゆっくりと身体を起こした。

身を乗り出し、お互いを見て「いよいよだね」と頷き合う凛たち。

「ついては、それぞれのプロデュース方針を発表しよう」



――

少々時間を巻き戻し、ここはレッスンスタジオ。

男ばかり四人が詰めた部屋から、アイドルが受講しているフロアの様子を小窓で見られるようになっている。

卯月たち候補生は、疲れを隠せず、だいぶ動きが鈍い。

中でも凛は、見るからに疲労困憊であった。

「……いいんですか?」

そんな彼女らの様子を眺めている男性陣のうち、Pが顔を社長へ向けて、小声で問うた。

つい今しがた、社長が明にレッスンの継続を許可したことについてだ。

社長はPの問い掛けに、フロアをまっすぐ見据えながら腕を組んで小さく頷き、

「勿論、これ以上やっては身体を壊すと云うところまでいきそうだったら、止めさせるよ」

と、柔らかに目を細めた。

「しっかしまー、傍から見てる以上にアイドルってのは体力勝負なんだな」

パイプ椅子に浅く座り、脚を投げ出しつつ窓の向こうを見ているスキンヘッドの鏷が、感心したように呟いた。

部屋の中だと云うのにサングラスを外さない、不思議な男。

どことなく他人事な声音ではあったが、それでも彼女らの根性に舌を巻いていることだけは確かだ。

「まったくだね。百聞は何とやらと云うけど、『百見は一経験に如かず』ってことよ」

大きな体躯の銅も、右手を頬に添えて頷いた。ガタイはいいくせに、仕草は妙に女々臭い。


奇異な男二人をそっちのけに、Pは、凛へ目を奪われていた。

その『沈着―クール―』を体現した美しい少女。

今では、受講している三人の中で最も惨めに、酸素を求めている少女。

彼女の視線は少々刺々しく、かつ冷ややかなものであったが、何か、碧い瞳にまっすぐとしたものがあった。

『冷徹そうな外見とは裏腹に、内部には熱い激情を持っている』……改めてそう感じさせる何かがあった。

――あの日、渋谷で会った刻と同じだ――

しばらく無言でレッスンの様子を眺めていたが、やおら、社長が振り向いた。

「さて、プロデューサーの卵諸君。目の前に、これまたアイドルの卵の三人がいる。
 今日、スタジオまで君たちを同行させたのは、担当する子の方向性を見出して欲しいからだ」

「え、今この場でですか? 唐突過ぎやしませんか」

Pが驚き、やや狼狽えた調子で問うと、「何事もティンと来るかが重要なのだよ!」と笑いが返ってくる。

「このあと事務所へ戻ったら、“プロデューサー―指導者―”として彼女たちを引っ張ってもらう。
 今日は、CGプロ本格始動の記念すべき日になる」

社長は、腕を組んで、満足そうに顎を引いて云った。

プロデューサーの卵三人は、急な催促にきょとんとしながらお互いを見る。

「んまぁ、或る程度のプランは立てておかないと活動できないモンね。あの娘たちのことよく見ておかないと」

「ここで全部ガッチガチに決めるワケじゃねえもんな。確かに、どう売り出していくか、ってのは重要だ」

銅が斜に構えて窓の近くへ寄る。鏷も「よっこらせ」と腰を上げた。

Pは二人とは違い、動かず顎に手を当て、やや視線を下に向けた。

――直感を信じるなら、あの子は、磨けばきっと光るものがあるはずだが――

すぐに顔を挙げ、銅と鏷の肩越しに凛を視る。

汗だくの彼女は、自らを射抜く視線に気付いていない。



――

「プロデュースの方針、ですか」

卯月が、三人を代表する形で問うた。

「左様。無事にプロデューサーも揃ったことだしね、各々のこれからの展望を伝えておこう」

社長が頷いて、プロデューサー陣三人に続きを促した。

それじゃ、と銅が一歩前に出る。

「はいじゃあ卯月ちゃんね、アナタはもう即戦力になりそうだから、すぐに営業を始めるわ」

「そ、即戦力……」

銅の口から真っ先に出てきた言葉に、卯月は固唾を呑む。

激しいレッスンをこなして疲れている身体とは裏腹に、彼女の心は燃え上がっていた。

そうだ、このために、養成所で頑張ってきたのだ。

ずっと、ずっと憧れてきたアイドルの世界への一歩を、ついに踏み出す時がきた。

「ローカル局やケーブル局辺りから売り込んでみる。ドサ回りも多いと思うけど、地道にこなしていきましょ」

「はいっ! 島村卯月、がんばります!」

卯月は満面の笑みで、力強く宣言した。

居ても立っても居られない様子で、銅の傍に寄る。

もし彼女に尻尾が生えていたら、きっと物凄い勢いで振れているはずだ。

「ういー、んで未央、オメーは――」

銅に続いた鏷が、一旦言葉を切って、手許の用紙から視線を挙げた。

そのまま未央の全身を眺め、何度も首を縦に振る。

「――おう、やっぱいいカラダしてんな」

「うわっ、この人、エロオヤジだ!」

未央がやや引き気味に突っ込みを入れると、鏷はニヤリと口角を上げた。

「馬鹿云え。お前の身体付きはまさに“武器”なんだよ。まずそれを活かして、グラビアから突破口を開く。
 ったく、中学出たばかりのクセにその凹凸は反則だろ。世間の中高生の男子猿はぜってぇ放っとかねえよ」

眼を瞑って肩を何度も揺らす。

云い方は多少――いや、かなり――卑俗だが、明確な展望や売り込み方の方針に、未央も鼻息荒い。

「やー、この未央ちゃんの可愛さが全国に知れ渡るのも、時間の問題と云うヤツですかな!?」

「それはお前次第だろうな。俺ぁ仕事は取ってくるが、その仕事で結果を出すのは俺の役目じゃねえ」

「えー、なんか凄く他人事っぽい」

頬を膨らませて抗議する未央、しかし鏷には柳に風だ。

「俺がやるべきは、お前のための仕事を、より良い条件・待遇で、より多く引っ張ってくることだからな」

腕を組んで飄々としつつも、担当アイドルのために全力を出す決意を言外に秘めている。

未央もそれを感じ取ったのか、「宜しくね、プロデューサー!」と、笑いながら鏷の上腕をこつんと叩いた。


「そして凛。君はアイドル活動はまだちょっと先だ。しばらくレッスン漬けになってもらおうと思う」

Pが、プランを記した用紙を凛に渡しながら告げた。

卯月や未央とは明らかに異なる、“育成に専念する方針”。

「息の長いアイドルになれるよう、まずは鍛え上げる方向でいこう」

「……わかった」

凛は、Pから受け取った紙に書いてある計画表を見て、ゆっくり、強く頷いた。

手許には、達成すべき目標がびっしりと書き込まれていて、自然と武者震いが起こる。

「凛はきっと輝ける。二人で、トップアイドルを目指そうな」

「ふふっ、頼んだよ、プロデューサー。ぼーっとしてたら置いてっちゃうからね?」

凛は気丈に振る舞った。

だが彼女の本音は、相応にショックだった。

そこには、卯月や未央と明確な隔たりがあったからだ。

『鍛える』――言葉としては格好良いが、その実、現時点では使い物にならない、と云うことを意味する。

無論、これまでただの一般人だった自分が、すぐにアイドルとして輝けるなどとは思っていない。

流石に自惚れてはいないつもりだ。

それでも、こうやって明確に烙印を押されるのは、辛い現実として凛を襲った。


ミーティングを終え、日がすっかり暮れた中を、凛たち三人は飯田橋駅まで歩く。

いよいよ本格活動を開始するだけあって、皆、幾分か気負っているようだ。

卯月はいつになく饒舌だったし、未央は一歩一歩に力が入っていて、まるでズンズンと音がするよう。

勿論、凛も意気込んでいる。

しかし。

――判っては、いたけれど。……結構、心に刺さるな。

駅で別れてから、凛は、悔しさに、唇を強く噛んだ。

卯月と未央は、凛とは反対方向の総武線。電車に乗ってしまえば、一人きりになれる。

本心を誰にも悟られないように、こうやって飯田橋を後にするまで耐えたのは、彼女なりのプライドだった。



・・・・・・

「凛ちゃん、かなり気合入ってたな」

鏷がソファの背もたれに体重を預けつつ、Pが凛に渡した計画表のコピーを眺めて云った。

アイドル三人が帰途に就いたのち、残ったプロデューサー陣は再び打ち合わせをしている。

「置いてっちゃうよ、か。随分と豪胆で余裕の姿勢だ」

サングラスの奥で眼を閉じて、小刻みに身体を揺らし笑っている。

――果たしてそうかな?

鏷の言葉に、社長は少し離れた執務机で、声には出さず、内心そう呟いた。

現時点で凛の本心――猛烈な悔しさに気付いているのは、この一人だけ。

しかし、社長はそれを口に出そうとはしなかった。

――もはや自分は経営者なのだ。

これまでのような――麗のほか様々なアイドルを指導していたような監督的立ち位置ではない。

新たな監督者たちを、極力干渉せずに見守るのが、社長の立場であり、役目だった。

「それにしても、随分レッスンばっかりねぇ」

口を閉じて笑う鏷の手許を、銅が覗き込む。

「見た目は既に小綺麗なんだし、グラビアとかモデルとか、そう云う方面からやってもいいんじゃないの?」

「まぁ、その考えは尤もだと思うよ」

「じゃあなんで?」

自らの指摘に頷いたPを見て、銅は不思議そうな表情をした。声音にはやや批難も込めて。

「でも、多分それだと『ちょっとカワイイ娘』の評価のままで、遠くないうちに消えるだけだと思うんだよ」

例えば、昨年一年間に発行された数多の少年誌・青年誌。

それらの巻頭などで取り上げられたアイドルやモデルのうち、記憶に残っている者はどれだけいるだろうか?

更には、数年前の誌面に載っていた女の子のうち、今でも活躍している人は一体どれだけいるか?

思いを馳せれば、現在なお表舞台に立つ子と比べて、忘れ去られ消えて行った子の方が圧倒的に多いと気付く。

「勿論、グラビアを突破口にすると云う鏷と未央ちゃんの方針に異は唱えないさ。彼女ならきっとうまくいく。
 でも、その手法は、おそらく――凛では通用しないと思う」

禿―かむろ―が芸を磨いて、長く重用される太夫となるように。

ただの石ころにしか見えない原石を磨いて、光り輝くジュエリーとするように。

小手先ではなく、アイドルとしての本質を磨いてから世に放つ。

それこそが、凛が息の長いアイドルになる道だと、Pは判断していた。

つまり、凛と云う“商品”の『ブランディング』だ。

ただし、この育成方針は、彼にとって一種の賭けだった。

芸能界で通用するためには、今よりももっと鍛え上げなければいけない。

だが、あまり修練に費やしすぎると、精神力の枯渇を早期に招く。

人間、行動を続けるには、達成感を得ることが何よりも必要だ。

徹底的に鍛錬を重ねるべく、長く暗いトンネルの中を走り続けさせると、心を折ってしまいかねない。

先の展望が見えないことほど、精神を不安にさせるものはないから。

凛が花開く前に挫けてしまうか、耐え抜いて美麗な姿に羽化するか。

実に難しい舵取りとなろう。

事実、スパルタとして有名な961プロは、デビューまで漕ぎ着けられる候補生がごく僅かしかいないのだとか。

「……ま、きちんと考えてのことならいいわ。凛ちゃんのことは管轄外、部外者―アタシ―は何も云わないさ」

「すまんね。こう云っちゃ悪いが、しばらくは卯月ちゃん未央ちゃんに“養って”もらうことになりそうかもな」

レッスンや鍛錬とは、それ自体は金を生む行動ではない。

むしろ、金を消費する存在。

云うまでもなく、CGプロは設立したばかりで、資金力は貧相だ。

限られた枠組をやり繰りする必要がある中で、凛を修練に専念させるには、卯月と未央の奮闘が頼みの綱だった。

鏷が口を大きく開けて笑う。

「はっは。元々新興事務所で飛込営業バッチコイな状況だ。扶養家族が一人二人増えてもあんま変わらねえだろ」

「頼もしいな、ありがとう」

軽く頭を下げるPに、銅も肩を竦めて云う。

「設立したてで所属者は新人のみ。こんな状況じゃ、全員持ちつ持たれつでやっていかないと回っていかないわ」

「まったくだぜ。Pは元々広告代理店にいたんだよな。卯月ちゃんや未央のブランディングも助言してくれよ。
 銅は卯月ちゃんの営業廻り先で、未央に合いそうなのがあったら教えてくれな」

「判ったわ。じゃあ鏷には良さげなフォトスタジオの開拓とか、やって貰うからね」

「任せとけって」

宛転と話し合いを進めるプロデューサー陣の背後を、ちひろが横切り、執務机へ歩いていく。

「まずは第一関門突破、ですね?」

社長に、湯気の立つ茶碗を差し出しながら、破顔した。




・・・・・・・・・・・・


CGプロに、記念となる初仕事が舞い込むまでは、さほど時間はかからなかった。

依頼の指名先は、卯月。

地元ケーブル局が主催する、デパートの屋上イベントへの出演だ。

何でも、ヒーローショーのヒロイン役に土壇場で欠員が発生したらしく、急遽代役を捜しているとのこと。

そこで、丁度売り込みに来ていた、日程の都合をつけやすい――つまり暇な――新人に白羽の矢が立ったのだ。

ほぼ時期を同じくして、未央も、地域の情報誌の片隅に掲載された。

イベントの観客動員数はせいぜい二桁だし、雑誌は全国流通などされず発行部数などお察しな零細。

どちらも小さな仕事ではあるが、アイドル活動の報酬として初めて金銭を得た――

この事実は、CGプロそしてアイドルたちにとって、非常に大きな意味を持った。

労働をして対価を獲得することの大変さを、身を以て知った卯月と未央。

特に卯月は、封筒に入れられた報酬を渡された瞬間、目尻に光るものを浮かべた。

その雫に込められた想いたるや、小さな頃からの憧れや積み上げた修練等、相当のものがあろう。

二人は、どんなに小さな仕事でも、どんなに世間の反応が薄くとも、全力で打ち込んだ。

一箇月弱ほども経つと、ぽつぽつと依頼が入ってくるようになった。


他方、凛は。

相変わらず、スタジオでレッスンを受ける毎日だ。

最初の頃は共に講義を受けていた卯月や未央が、最近は仕事の都合でスタジオに来られないことも何度か。

その度に、凛は独り、鏡の前で身体を動かすこととなった。

ダンス力、歌唱力、表現力。

そしてそれらを制御する背筋や腹筋と云った体幹の筋力を、ひたすらトレーニングする。

だが、それらはまだ成果には結びついていない。

例えばボーカルは、声量こそ以前より出るようにはなったが、こと安定性は一般人のカラオケと変わらないし、
ダンスは、身体の柔らかさが足りずに、まだまだぎこちない動きは解消されていない。

表現力に至っては、澄まし顔こそ美麗なれ、笑顔などは生来の無愛想ぶりが矯正される気配なし。

トレーニングを積む上で、避けて通れない“踊り場”に、凛は差し掛かっていた。

慶がPに出す報告書からも、その試練が窺えた。

成長の鈍化、翌月見通しの下方修正、今後の課題、エトセトラ。

あまり好ましくはない内容が、紙上に書き連ねられている。

そして、文末に控えめな表現で記された「アイドルとしての活動をさせてはどうか」と云う提案。

凛の集中力は素晴らしい。だからこそ折れる時は――直前まで気付かず、兆候なく折れてしまう。

仕事をすることが、一種の気分転換になるのではないか。

差し出がましい越権を謝罪する慶の言葉で、レポートは締められていた。

Pは書面を机にゆっくり置き、心の中で彼女に手を合わせた。

慶の言葉には、P自身深く頷ける。そしておそらく、明も同じことを思っているはずだ。

事務所は保育所ではない。

各アイドルに割ける予算も限られている。

CGプロが本格稼働を始めてからおおよそ一箇月。

まだ逼迫した状況ではないとはいえ、そろそろ一定の道筋を得ていなければならない頃合だ。

所属している以上は、仕事をして稼いでこなければ。――それがプロと云うもの。

さて、どうしたものか。

Pは、腕を組んで目を瞑った。



――

凛は、脳天に固い物が当たる感触で鈍く覚醒した。

まどろみが断たれたことに軽い不快感を憶えながら、ゆっくり頭を持ち上げる。

薄く目を開けると、普段、眠りから覚めた時に見えるはずの、自室の天井ではなく――

まもなく定年となる老教師が、畳んだ教科書を片手に立っていた。

そこでようやく、古文の授業中に寝てしまったのだと気付く。

きっと冊子の角――あの痛いところ――で小突かれたのだ。

はっ、と一気に意識が戻り、慌てて上体を起こす。

凛は、しまった、と顔をしかめた。

今は五限目、あと少し耐えれば放課だったのに。

その様子を見届けた先生は、特に何かを云うことはせず、咳払いをしながら教壇へと戻って行った。

教室内は、“気難し屋”が見せた珍しい光景にざわついている。

隣で涎を垂らしながら爆睡しているまゆみのことは、誰もがスルー。

教師もクラスメイトも、まゆみとはそう云うものだ、と認識していることがよくわかる。

だからこそ、真面目な凛が見せる意外な居眠りは、驚きを以て迎えられた。


「凛にしては珍しかったわね」

放課後、スクールバッグに教科書やらノートやら詰めているところへ、あづさが苦笑気味に声をかけた。

横からは、時限の終了を知らせるチャイムが響いた次の瞬間から元気になったまゆみが顔を突っ込んでくる。

「あン? 凛が何かしたのか?」

「この子、古文の授業中に寝ちゃってたのよ」

「へぇーマジか! 凛が居眠りなんて、そんな特別天然記念物並みの出来事にアタシも立ち会いたかったな!」

大きな声で、よく判らない比喩を云う。

「……まゆみの場合は人身事故で止まる中央線くらい日常茶飯事だもんね」

「あっはは、五限なんて起きてられるわけねーだろって!」

凛の拗ねたような皮肉に、ガサツな勢いで道破する本人。

「それはともかく、まさかあんたが居眠りするとか、どうしたのよ?」

あづさの問いに、鞄の中を弄―まさぐ―る手が一瞬止まる。

「うん、まぁちょっと疲れが出ただけだよ」

「運動部でもねーのにか?」

まゆみが笑いながら突っ込みを入れるので、凛は肩を少しだけ竦めた。

「まァいいや、アタシ今日は部活が早上がりだからさ、どっか寄らね? 最近遊んでねーし」

五限を丸々使ってたっぷり寝たせいか、彼女は元気が余っているようだ。

「あー……行きたいのは山々なんだけど」

凛は、竦めた肩を更に縮こまらせて、申し訳なさそうに眉根を寄せた。

期待した答えが返ってこなかったまゆみは、呆れたような嘆息を漏らす。

「なーんだ今日もまた駄目なのか。こないだからずっとじゃねーの」

「そうねぇ、最近付き合い悪くなったわよね。ここ一箇月……もうそれくらいになるっけ?」

凛がCGプロへ行ったあの日から、ずっとレッスン漬けで、ほとんど遊べなくなっていた。

特に、休日ならともかく、放課後の予定を合わせることはまず無理だ。

「ごめんね、やることがたくさんあってさ」

「いや、忙しいなら別に無理強いはしねーけどよ、一体なにやってンの?」

「ん……ちょっと、色々こなさなきゃいけない用事が、ね」

凛は、少しの間を置いてから、言葉を濁した。

「ふーん、そっか」

あづさもまゆみも他人へ必要以上に干渉しないので、それ以上訊いてくることはなかったが――

凛は、彼女達に少々の申し訳なさと、自分に対するむず痒さを禁じ得なかった。

「アイドルをやっている」と答えられれば多少はマシなのだろうが、今の自分にはそんなことは云えない。

些少でも実績を作らなければ、ただの自称と変わらないのだから。

自称・アイドル。これほど滑稽な肩書もそうそう在るまい。



――

飯田橋は鉛色をした空で覆われている。

梅雨本番にしては珍しく、まだ雨模様にはなっていない。

ただしその低い天井は今にも泣きそうで、人々は降り出さないことを祈るように、早足で駆け抜けていた。

生温く湿った南風が、立て付けの悪いCGプロ事務所の窓を揺らし、決して心地よくはないBGMを奏でる。

Pは、梅雨が好きではない。

それは、所有している楽器が湿気を吸ってコンディションを保ち難いと云う個人的な理由が一番大きいが――
無論、世の中が陰気になる、この時期特有の性質も、苦手と形容するに充分な理由だ。

集中力を乱す騒音を意識からシャットアウトすべく、手許の仕事に目を凝らす。

そこへ事務所の扉がやや勢いよく開けられ、風圧で、ガラス窓が更に大きな音を立てた。

ドアの蝶番は軋んだ音を立てる猶予などなく、開け切って止まったところでようやく「キィ」と控えめに鳴く。

「おはようございます」

入ってきたのは、スクールバッグを肩へ掛けた凛。

既に夕刻であるが、芸能界の挨拶はいつでも『おはよう』だ。それはたとえ陽が落ちていようとも変わらない。

「あら、おはよう、凛ちゃん」

出入口近くで書類を捌いていたちひろが、顔を挙げて微笑む。

しかし凛が固い表情をしているので、不思議そうに首をやや傾げた。

凛は、ちひろに会釈を返しつつ、Pが書類と格闘している事務机まで、つかつかと直行する。

「ねぇ、プロデューサー。私が云うのは変かも知れないけどさ――」

矢庭に話しかけると、机の天板に右手を添えて、Pを覗き込んだ。

「私も、そろそろ何か営業をこなした方がいいんじゃない?」

Pは、視線を書類から外して凛へ向けた。

彼女の瞳はやや険しくなっている。

無作法で、無遠慮で、無愛想な、碧い宝石。

その奥に在るものを、吐き出したいのに吐き出し切れない、そんな眼。

――何かあったな。

Pは直感した。同時に、凛の方針に手を加えるべき刻が来たことも確信した。

軽く頷いて、棚から一つのファイルを取り出す。

「俺も、そろそろかなと思っていたんだ」

何枚か束ねられている紙には、中堅企業の広告モデル案件が書かれていた。

Pが、前職の先輩に相談し、伝手―つて―で回してもらったもの。

凛は、クライアントの、朧げながら記憶のある社名に身震いした。

卯月や未央がこなしている仕事は、まるで聞いたこともない企業からの依頼ばかりなのに。

新人もいいところの彼女にとっては、破格の、極めて不釣り合いな大仕事だ。

CGプロ創設以来、卯月たちが受けてきたあらゆる事例を、一気に凌駕する規模だった。

「さ、アイドル・渋谷凛の、デビューといこうか」



――

結論から云えば、仕事は失敗した。

「伝通の大嶋さんの紹介だから手間掛けて稟議―ひんぎ―を通したんだぞ!」

撮影が中断されたスタジオで、クライアントの怒号が響く中、Pはひたすらに頭を下げていた。

件のオファーは、盆の時期を見据えた甘く爽やかな飲料のイメージモデル。

しかし凛は、発注の意向に添えない、ぎくしゃくした表情や仕種しか出せなかった。

日頃のトレーニングでは、ビジュアルレッスンの項目で様々な感情の表現を練習してはいるのだが――
こと笑顔に関しては、そこですら満足にこなせないのだ、急に仕事でやろうとしたところで結果は云わずもがな。

この日の彼女は、『爽やかさ』『爽快感』とはおよそ懸け離れた体たらくだった。

長く見積もっても二時間あれば余裕と思われたスケジュールも、軽くその三倍は既に消費している。

五回の休憩を挟んで尚、満足な成果はおろか及第点の収穫すら得られないことに、担当者は堪忍袋の緒が切れた。

新人を採用するのは、上司の説得など様々なハードルがある。

ただでさえ起用に不安のある新興事務所なのだ、その稟議は提出と差戻しの相当なやり合いがあったに違いない。

だと云うのにこの惨憺たる有様では、クライアントの怒りは尤もなことだった。

結局、撮影スタジオを押さえられる時間の限界がきて、この話はご破算。

「だから私は愛想よく振る舞えないって云ったでしょ!」

「そんなこと云われたって、まさかここまでとは思わないだろ!」

夏至に近い日にあって、夜の帳が下りた道を、Pと凛は口論しながら歩く。

無論、凛は開き直っているわけではなく、自らの歯痒さ恥ずかしさゆえに声を荒げてしまっているのだが。

Pはそれに気付かず、言葉の応酬は激しさを増すばかりだ。

やれ先輩の顔に泥を塗った、やれ前途が気がかりだ、やれ事務所の悪評が広がってしまう、エトセトラ。

ここが往来の多い道ではないのは、不幸中の幸いだろう。

社会人として、他人の面目を潰すのは最も重い行為だ。Pが語気を強めるのも、これまた無理のないこと。

しかし。

「だいたい笑顔くらい作れるもんじゃないのか普通は!」

大仰な身振りで詰問するPの言葉に、凛は目を見開いて歩みを止めた。

「普通って何、普通って!? 私にとっては……この自分が普通なのに……!」

拳を握って、身体を震わせる。

確かに、Pが社長から渡された彼女に関する書類の注記欄には、無愛想を考慮すべきこととして挙げられていた。

「笑顔は大事って判ってるし、トレーナーさんにも色々と訊いてるんだよ……」

この課題は凛自身が最も痛感しているのだろう。だんだんと言葉尻が弱くなっていった。

慶からの報告書にも言及されていた部分だ。Pはその点を真剣に思案すべきだった。

これは、全く以てPの落ち度と云わざるを得ない。

凛の覇気が急速にしぼんだことで、Pはやや冷静さを取り戻した。

そしてようやく、目の前で弱々しい瞳が揺れている事実に気付いた。

アイドルは偶像で、商品であることに疑いの余地はあるまい。

しかし、だからといって工業製品ではない。きちんと感情のある人間なのだ。

「……汐留に行ってくる。先輩に頭を下げてこないと」

既に伝通の大嶋の許には、クライアントからのクレームが入っている筈だ。

過ぎたことは覆せない。一刻も早く詫びを入れること、それがPの今すべき行動だった。

Pのボルテージが下がり、凛も自分のしでかしたことを認識しつつある。

「……私も行く」

「いや、凛はもう帰ってゆっくりしとけ。明日もレッスンあるしな」

「そうはいかないでしょ。台無しにした張本人なんだよ、私」

「誰がやらかしたかに関係なく、腹を括るのが俺の役目だ。そのことを、まさに今、自覚した」

末端を伸び伸びと気持ちよく働かせ、万が一の際には先頭へ出て詫びる。

それこそが管理を負う者の務めと云うもの。

「だからって――」

Pは、凛の口の前に人差し指を置いて制した。

「来たいなら汐留まで来てもいい。だが、浜離宮で待っているようにな」



――

「申し訳ありません。先輩の顔に泥を塗るようなことをしてしまって」

「全くだよ、勘弁してくれよ。仕事を振った手前、フォローはしておくけどさぁ」

汐留にそびえる伝通本社ビル、その46階にある展望ロビーで、Pは前職の先輩だった大嶋に頭を下げていた。

ビルの最上部に位置するここは、23時まで一般に開放されており、眼下に広がる東京の夜景を味わえる。

そんな一見ロマンチックな場所で、くたびれた背広姿の男二人が、
スターベックスからテイクアウトしたコーヒーを片手に気の滅入る話をしているのは、些か妙な光景だった。

平日だから一般客の利用者はそこまで多くないとはいえ――
たまたまこのタイミングにかち合ったカップルたちには、奇異に映るに違いない。

「向こうさん、それなりに立腹っぽいし、代わりを斡旋するのだって結構手間がかかるんだぞ?」

大嶋は、お前もこないだまでここにいたんだしそんなことは百も承知だろうが、と付け加えて、コーヒーを啜る。

「――この分じゃ、次はちょっと難しいぞ」

「やっぱり、そうなりますかね……あのクールビューティさは、中々の逸材だと思うんですが……」

「いや、そりゃ確かに先方からはキレイな娘、って要望があったけどさ、笑顔を出せないんじゃ話にならんだろ」

二度ほどカップを傾けて嘆息してから、大嶋は本音を隠すことなく云った。

「そもそも芸能業なんて笑えてなんぼじゃないか。わざわざこんなの口に出すまでもないことだ」

会話をするうちに、明日以降の面倒事が頭をよぎったのだろう、声音が強くなって、乱暴にもう一口呷る。

「……はぁ。お前に云っても仕方ない。その基本すらなってない当人をここに連れてきて貰いたいもんだがな」

大嶋は、出来の悪い“後輩”に鋭い視線を刺す。

不満の捌け口として、一言でも『新人アイドル』に文句を投げたくなる気持ちはわかる。

ただひたすらにPは平身低頭した。

「担当アイドルの不始末は、即ち全て自分の不始末であり責任ですので……」

大嶋は、上の人間同士のいざこざから現場を護る防波堤たらむとするPを、しばらく何も云わずに見た。

Pは、陳謝の姿勢のまま。

やがて、大嶋はガラスの向こうに広がる夜景へ目を向ける。

その光の海は一見変化に乏しいようで、その実、灯りの下では幾千幾万の人間像がうごめいているのだろう。

二匹の蟻がどんなに嘆こうとも、意思とは関係なく社会と地球は動いているし、明日がやってくるのだ。

しばらくののち、大嶋は大きく溜息を吐いた。

「……はーぁ……ま、下がヘマしたら上が頭をさげる点は、広告―こっち―の業界も、芸能―そっち―も同じか」

中間管理職なんてなるもんじゃねえや、と小さく笑い、ぬるくなったコーヒーを飲み干した。

「クールビューティ、ね。確かに武器にはなるかも知れんが、まぁ……今回はお前の采配ミスだな」

「はい、その通りです。申し訳ありません」

Pは顔を挙げ、もう一度謝罪の言葉を述べてから、同じように外の景色を眺める。

眼下の道を走る車の光は、男二人の寂しい背中などに構うことなく流れ続けていた。


港区ベイエリア、汐留再開発地区の目の前に位置する浜離宮恩賜庭園は、この時間は門が閉められている。

わざわざそんなところに用事のある人間などいるわけがなく、都心のど真ん中にありながら喧噪とは無縁だ。

隣の首都高速を走る車の風切り音が聞こえるのみで、高層ビルが林立する景色との大きなギャップを感じさせる。

車道から橋を渡って入り込んだ場所にある、庭園門前の駐車場の隅で、凛は石塀に寄り掛かっていた。

何をするでもなく、じっと足許を見詰めて。

東京湾を駆け抜けてきた潮風が、梢のざわめきを生み出しつつ、凛の灰色のスカートを揺らす。

昼間は湿って心地よくないそれも、夜になれば適度な爽やかさを持つ。

身体をクールダウンさせる風に包まれた凛の頭の中では、今日の自らの体たらくが、ずっと回り巡り続けていた。

『自称・アイドル』を脱却したいが為にプロデューサーへ掛け合って、その結果がこのザマだ。

今日求められたのはプロの仕事であって、お遊戯会ではない。

だというのに、そのお遊戯すら満足にこなせないではないか。

無論、これまでただの一般人高校生だった凛に、初めての場でいきなり仕事意識を要求するのは酷な話なのだが。

それでも当人にとって、この日の醜態は人生最大の自己嫌悪をもたらすのに充分すぎた。

浜風になびく長い髪が頬をくすぐっても、気にかける余裕はない。

Pが彼女をここに置いていってから、どれくらいの時間が経っただろうか。

革靴がコンクリートを踏む音に気付いて、凛は顔を挙げた。

時計を見ていないのでわからないが、しかし思考渦巻く凛自身にとっては意外なほどの早さで、Pが戻ってきた。

「……もう終わったんだ?」

てっきり、詫びの行脚や埋め合わせの会議などで、もっと時間がかかるものだと思っていたからだ。

「勝手知ったるマイホーム……だったところだからな」

Pは肩をすくめて、軽く笑った。

その姿は、先刻言い合いになったとはいえ、凛にとっては予想外の態度だった。

「ねえ、プロデューサー。えっと……怒らないの?」

「馬鹿云え。これは俺の判断ミスが原因だ。適材を適所に配置できなかった俺の責任だ」

こめかみを掻いて、「先輩にこっぴどく絞られた」と、ばつの悪い顔をする。

そう。大嶋にも云われた通り、今回のことは、功や展開を焦ったPの完全なミスだ。

どれだけ素材が良かろうとも、使いどころを間違えれば、ただの木偶の坊に過ぎない。

無論、凛が無愛想キャラとしての市民権を得れば、企業プロモ等でも使える素材になるだろう。

だがそれは有名になり、彼女の存在が世間に知れ渡ってからの話だ。

無名の今、そんな売り方をしたところで、顰蹙を買うだけなのは明らかだった。

綿密な戦略が必要なのだと、Pは思い知らされた。

「それに、下手をすれば……急くあまり、お前の心を折ることになってしまうかも知れなかった」

すまないことをした、とPは目を伏せ、凛に詫びた。

「あ、わ、私も……応えられなくて、その、ごめん……」

さきほどの感情に任せた遣り取りは影を潜め、二人はお互いに謝る。

彼らを包む大きな後悔とわずかばかりの屈辱は、高い授業料だった。




・・・・・・


翌日から、Pは凛の計画の仕切り直しを始めた。

独り善がりのマイルストーンではなく、凛と共に『渋谷凛』を造り上げようと、意思の疎通を図る。

「凛は、アイドルとして『これをやりたい』ってことはあるか?」

相変わらず鉛色の空の下、事務所からレッスンへ出発しようとする彼女に、Pは訊ねた。

凛は鞄を一度置いて、形の良い人差し指を顎に添えながら思案に耽る。

「んー、最初さ、麗さんに見てもらったとき、存在を表現することが気に入ったんだよね」

アイドルの世界に踏み込もうと決心した、あの日のことだ。

「存在の表現……つまり演技か?」

「あーううん、演技っていうよりは……歌や踊り、かな?」

明るいメロディに合わせて楽しく、哀しいメロディに合わせて情緒豊かに。

一言で歌・踊りと云っても、それらで表現できることの多彩さに圧倒された記憶は、凛の中で強烈に残っていた。

その言葉を手帖に書き留め、

「なるほどな。それじゃあ、ステージに立つ方向で試しにやってみようか」

Pは、パタンと閉じてから、視線を向けて問うた。

凛は大きく頷いてレッスンバッグを再度握りしめ、颯爽と出発していった。

プロデューサーが自分に意見を求めてくれた――そんな嬉しさによるものだろう。

昨日あんな失敗を犯したとは思えない力強さが、彼女の背中に宿っていた。

社長とちひろが、凛の後ろ姿を、目を細めて見送る。

そこへPは、一日かけて取りまとめた始末書を提出しに寄った。

失態を詫びるPに、社長は殊更追及することなく、静かに首肯するのみだった。

それは、Pが問題点を把握し改善の方向性を既に見出していることが、二人の様子から汲み取れたからだ。

失敗は成功のもと、という諺にもあるように、過ちから学ぶ点はとても多い。

ミスを開き直るのではなく、次に活かす。

改善しようという動きを採れるならば、無用な介入はすまい――社長はそう思っていた。

「昨日のことはもういいよ。あとはこちらで何とかしておく。それよりも、君は彼女のレッスンを見てきたまえ」

堂々とした姿に、Pはいつかこのようになれるのだろうかと、深く頭を下げた。


いつものレッスンスタジオ、その防音扉を、Pは静かに開けて中へ入った。

凛の邪魔をしないよう、レッスン場の隣の部屋から、彼女を様子を見る。

相変わらず身体は固いし、歌はぎこちない。

それでも、慶や明の指導に素直に従っていて、なによりも応えようと云う気概が感じられた。

身体が固いとはいえ、最初の頃に比べれば、充分に動ける力をつけている。

スタミナも或る程度増えたし、しなやかさも然り。

凛は、同年代の女の子と比べて、かなり長身の部類に入る。

加えて、整った造形といい、芯のある声質といい、これなら相当にステージ映えするはずだ。

Pは、無理に笑顔を作らせるより、ビジュアルとパフォーマンスを絡めて展開した方がいいと確信に至った。

一体全体、どうしてこんな単純なことに気付かなかったのだろう。

彼女のレッスンの光景をしげく観察していれば簡単にわかったはずのことなのに。

机で報告書を読むだけでは駄目だったのだ。

Pは、握りこぶしで二度、自らの額を叩いた。

ここまでくれば、あとはどうやってステージデビューさせるかを考えれば良い。

光明は、徐々に徐々に、見えてきている。

ただし、デビューの方策こそが一番の難題でもあった。

自称含め、駆け出しのアイドルが簡単に立てるステージは意外とどこにでもある。

所謂『地下』と呼ばれるものだ。

手っ取り早く凛の要望を叶えるなら、明日にでも出来てしまうだろう。

それほどまでに、箱は都内には数多あるのだ。

だがそこで簡単にステージに立ったところで、持続できるかと云えば……答えはまずNOだ。

そもそも、地下でアイドルを名乗っている者は、大半が本業として会社員をやっていたりする。

事務所にすら所属していない者も多い彼女らにとって、アイドルとは刹那の暇つぶしに過ぎないのかも知れない。

地下から上へと昇れるのは、一握り、いや、一摘みにも満たないだろう。

「とは云ってもなぁ……」

凛の様子を窺いながら、思案に耽る。

地下に対して厳しい見方をしたところで、しかし大嶋の助力を得られない現状では、
一足飛びにマスメディアへ露出したり、大きなステージへ出られる機会を得ることは宝くじレベルの確率だ。

よしんば大嶋が「廻してやる」と云ったところで、Pはケジメとして辞退するだろう。

結局、一歩一歩、堅実に進むしか道はないのだ。

誰もが無名の状態から始まる。

そう、現在第一線で活躍するアイドル、例えば天海春香や如月千早でさえ。

彼女らだって、最初期は誰にも知られていない有象無象に過ぎなかったのだ。

まずは半歩、踏み出してみよう。

Pが自問自答で頷くと時を同じくして、レッスンを終えた凛もトレーナー陣に礼をしていた。

「凛、突然だが、明日は何か用事あるか?」

一度外へ出て自販機のスポーツドリンクを差し入れに買ったのち、Pは再びスタジオ入りして問うた。

今回は防音扉の開閉に気を使う必要はない。

閉まったドアのノブが、ガチャンとひときわ大きな音を立てた。

「え? ううん、明日は特にないけど……どうしたの?」

凛にとっては、いきなりPが姿を現したに等しい。突然の来訪に、驚いた様子だ。

ありがとう、とペットボトルを受け取ってから、首を傾げて問い返した。

「ちょっと敵情視察を、と思ってな」



――

翌日、学校を終えて出社する凛の荷物を事務所に置き、飯田橋からわずか三駅東へ出た秋葉原に、二人はいた。

地下アイドルは、都内さまざまな場所で活動している。

原宿、目黒、池袋。

そしてここ秋葉原は、特にアイドル系サブカルチャーとの親和性から会場が多い。

視察をするにはもってこいの環境だ。

駅から歩いて10分ほどにあるビルの、地下へ降りる階段。

昼間なのに昇降口はやや薄暗く、胡散臭い雰囲気を漂わせている。

しかしCGプロの事務所だって、怪しさでは負けていない。

そこにほぼ毎日往来している凛にとって、この程度の空気でたじろぐようなことはなかった。

喜ぶべきことなのか嘆くべきことなのかは、わからないが。

胡散臭い入口をくぐり、胡散臭い扉を開け、胡散臭い受付で二人分のチケット代を支払って、中を窺う。

湿度の非常に高い熱気が、Pと凛を包んだ。

観客の入りはせいぜい数十人といったところだろうか。

とてもこぢんまりとしたライブハウスのせいで、そんな少なさでもだいぶ混雑しているように錯覚する。

すぐ目の前にある舞台では、フリルのあしらわれた衣装をまとった二人組が歌い、踊っていた。

やや小上がりになっているステージの手前に、常人より多くの空間を占有する体積の人間がひしめき合う。

しかし会場の熱気とは裏腹に、内容そのものは友人同士による内輪のバンド活動と、さほど差異は感じられない。

それはアイドル自身の力量不足によるものか、はたまた音響設備の貧弱さによるものか、または別の何かか。

いづれにせよ、一般人の思い浮かべるアイドルから、およそ懸け離れた姿だった。

短い演舞時間で、めまぐるしく出演者が交代していく。

「えっと……これ、文化祭の出し物?」

凛の疑問だって、然もありなむ。

悪気があってのことではなく、単純にこう云う世界を知らないだけなのだが――毒気を抜かれるのは宜なるかな。

どれもが、テレビや雑誌で目にするアイドルシーンとまるで違う存在なのだから。

「これも一応、れっきとしたアイドル活動さ。地下アイドルっていうジャンルだな」

「悪いけど……全然知らないし見たこともない……」

「だろうな。俺も知らないのばかりだし」

呆然とつぶやく凛に、Pは首を竦めて答えた。

「でも、今の凛――いや今の俺たちは、このラインにさえ達していないわけだ」

一見、目の前で繰り広げられるのが学校の文化祭かと錯覚するレベルであったとしても。

こういう場所が、Pたちの出発点となろう。

地下だからとて、実際に活動できている人々にはすべからく敬意を払うべきだ。

「それでも、俺たちが最終的に目指すのは、もっと先。例えばIUとか、そういう輝くステージなんだ」

「アイドル……アルティメイト……」

麗がかつて手にした、トップアイドルの印。

凛を間接的ながらこの世界へ誘った、最高の証。

Pをこの世界へ引き込んだ、栄冠の星。

そのIUへこのアイドルの卵を駆け上がらせたい。Pは漠然ながらも、そう思うようになっていた。

「お前ならその力を蓄えられるはずだ」とPは凛を力強く見詰めた。

凛はPを一度見てから、ステージを向いて、静かに頷いた。


実際のステージを視察した二人は事務所へ戻り、次に、その場所へ如何にして立つか、を話し合った。

応接スペースを使って、膝と顔を突き合わせる。

「まあこう云っちゃぁ身も蓋もないが、凛は見た目は第一級だから、あとは目立てれば勝ちだと思うんだよな」

至極単純な、何も考えてないかのような台詞だ。

その放言っぷりになのか、はたまた言葉の内容にか、凛は眉根を寄せた。

「……私で第一級だったら、世の中の女子は第一級ばかりだと思うんだけど」

「馬鹿云え、凛ほどの逸材がゴロゴロ転がっててたまるかよ。自分が美人だっていう自覚ないのか?」

「それ初めて会った時の社長にも云われたけどさ、二人して私のこと買い被りすぎじゃない?」

小首を傾げる凛に、Pはやれやれと云った様子で、ソファにどかっと体重を預けた。

「まずそこの意識改革からかね。はったりでも構わないから自信持てよな」

同程度の美人が二人いたとして、片方は卑屈に謙遜し、もう片方は自らに確信を持っていたら。

後者の方が、より美しく感じられるものだ。

無論、その自信や確信が不遜の域に達してしまえば逆効果ではあるのだが。

凛は、自らの恵まれた造形にもっと自覚を持つべきだと云えよう。

さておき。

そんな凛がパフォーマンスで目立てれば、知名度を上げやすくなるのは簡単に予見できる。

新人が世に出るにあたって、とにもかくにも幅広く知られるようにならなければならない。

他人に知られていない、というのは即ち存在しないと同義なのだ。

渋谷凛は、ここに存在します!
と周知させるには、ハイレベルな容姿に加え、ハイレベルなパフォーマンスを魅せる必要がある。

「……ま、つまりボーカルとダンスを重点的にレッスン、っていうか特訓だよね?」

「そういうことになるな」

「なんかあまり代わり映えしない結論だけど……」

しかし答えとは、得てしてそう云うものなのかも知れない。

同じ内容のレッスンをするにしても、到達点が見えているのといないのでは、吸収力に歴然たる差が出る。

それでも、これまでと同じレッスンを再度繰り返して大丈夫なのかと云う不安を持つのも事実だ。

「今は苦しくても、じきに楽しいと思えるようになると思う」

凛が憂いに少しだけ顔を曇らせたのを見て、Pは柔らかく、ゆっくり語った。

「もし楽しいと思えるようにならなかったら、無理することはない、普通の女の子に戻ってもいいさ」

一種プロデュースの放棄とも受け取れる言葉に、凛はぎょっとした。

しかしPの目は、冗談を云っているようには見受けられない。

「アイドルってのは享楽を具現化する像だ。お前自身が楽しめなければ、お客さんを喜ばせることはできない」

「私自身が、楽しめなければ……」

「そうだ。お前だって、テレビ等で見るアイドルたちが、厭々そうにしていたら嬉しくも何ともないだろ?」

「それは……確かにそうだけど、プロなんだから幾らでも取り繕えるんじゃないの?」

言外に「だからこそ自分は半人前なのだ」との意味も込めて、凛は問うた。

「まあそれも一理あるんだがな、でもやっぱり内面から楽しめていると、笑顔の輝く度合いは違うものさ」

「ふぅん……そういうものかな……」

「ああ。それに、アイドルは奴隷じゃないんだから、無理をさせてまでお前を縛ろうとは思わないさ。
 志願ならともかく、凛はスカウト――こっち側からお願いして来て貰ったわけだからな」

そう、自ら希望して業界へ入ってきた卯月や未央との決定的な差が、ここにある。

凛は、今でこそアイドルたらむとすれど、ことの源流を遡れば、この世界に興味など持っていなかったのだから。

「いや、まぁ……それは逆に、社長には見つけてくれてありがとう、
 そしてプロデューサーには磨いてくれてありがとう、って感じだけどさ」

凛の意外な感謝の言葉に、Pは期せずして相好を崩した。

「はは、そうか。いづれにしろ、お前には最高に輝けるだけの素質が在る。俺はそう思ってる。
 でも、それは本人の意思を踏み潰してまで実現させる性質のものじゃないさ」

「一応、私の身も考えてくれてる、ってことで……いいのかな?」

「寧ろお前が主役。俺たちはあくまで裏方なんだから、凛のことを一番に考えるさ」

例の大失敗から、Pも大きく得るものがあったようだ。

担当アイドルに対する考え方、接し方、それぞれに、明確な変化があった。

凛もそれを肌で感じたのか、ほんの少しだけ頬を染め、気恥ずかしさに手許へ視線を落とした。

「……ありがと」

「今は辛いと思うが、二週間ほど辛抱してくれ。ただし、限界を超えるような無理はするなよ、絶対な」

これまでの教訓を踏まえて、適度に休日を作ること。今日、最も重要な厳命と云えよう。

「うん、……頑張ってみる」

「何かあったら、気軽に相談してくれて全く構わない。溜め込むことだけはしないでくれな」

「わかった」

二人、お互いを見て、軽く頷き合った。



――

そして一週間が経った。

あれ以来、レッスンのときは邪魔しないように隣の部屋から凛の様子をチェックする日々が続いている。

Pの云う通り、凛は数日に一回の割合で身体を休める日をきちんと確保していて、メリハリを得たようだ。

ボーカルレッスンでは以前より芯の通る声の出し方を会得しつつあったし、
ダンスレッスンでは身のこなし、ステップの踏み方、端々の表現力などの進化が見られた。

もちろん未消化の課題もあるが、焦らず順を追って潰していくべきだろう。

Pの方はと云えば、早速凛のデビューステージの段取りをほぼ組み終わっている。

小さ過ぎず、かといって分不相応に大き過ぎもしない適度なキャパシティの箱を片っ端から一本釣りし、
そこでよくライブを行うアイドルたちと合同のステージを企画した。

つまりは小規模なフェスのようなものだ。

事務所にすら所属していない自称アイドルが多い中で、Pのような存在は非常に珍しがられた。

企画書なんて見たこともない――そんな子が大半だから、Pの持ち込む構想に興味を示す者は後を絶たなかった。

P自身が想定していたよりも一回りほど大きなライブハウスを使うよう変更したほどだ。

東奔西走した甲斐あってか、凛がデビューするためのお膳立ては整いつつある。

ただ一つ、レパートリーの問題を除いては。

地下で活動するアイドルは、既存曲のカバーが多い。

理由は当然、その方がラクだし初期投資も少なくて済むからだ。

かといってカバーだけではそこらのカラオケと何ら変わらない。

アイドルを名乗る以上は、例え一曲のみであろうとも、オリジナルの持ち歌を確保する必要がある。

しかし凛には、まだそう云った曲は与えられていない。

そして今から制作を発注していたのでは、間に合わないのは確かだった。

仮に一週間前の時点で依頼を飛ばしていたとしても、通常の発注手順ではまず時間が足りないだろう。

オリジナルのボーカル曲と云うものは、制作にとかく手間がかかるものなのだ。

「さぁて間に合うかね……」

Pは事務所で半田ごてをいじりながら、独り言つ。

この日、社長はじめP以外の全員が諸々の用事で外出していた。つまり事務所にPが一人きりだ。

まもなく凛が出社する頃合いだろうが――
この分だと、今日は留守番を続けねばならないから、残念ながら凛のレッスンの様子は見に行けないだろう。

そのPの目の前に、秋葉原で買ってきたジャンク機器やパーツが、分解されて転がっている。

横幅19インチ、黒い箱形の機材だ。

Pは半田ごてを使って、内部の電源基板からケミカルコンデンサを剥がしていた。

寿命を全うしたそれは、液漏れケミコン特有の化学臭をまき散らしている。お世辞にも良い匂いではない。

三つほど取り去ったとき、立て付けの悪いドアが、あまり精神衛生に宜しくない摩擦音を立てた。凛だ。

「おはようご…………なにやってるの?」

開扉と同時の挨拶を途中で切って、理解する為の時間をたっぷり取ってもなお理解できなかった凛が訝しんだ。

「おうお疲れ。これは音の機材だよ。秋葉原でジャンク品を安く調達してきて、直しているところだ」

新しいコンデンサを半田づけする目線を逸らさないまま、Pは答えた。

「音の機材? それで何をするの?」

「曲を作るんだよ。凛がステージで披露するやつ」

「え? 曲を作るのって専門の人に頼むものじゃないの? プロデューサーが音楽なんか作れるの?」

意外な事実に驚いた声音と、珍奇なものを見るような目をする凛。

Pは顔を挙げて「おいおいおい随分非道い云い種じゃないか」と口を尖らせた。

「ごめん、あまりにも予想外だったからさ」

「いいさ。ま、昔取った杵柄ってやつだよ。大学の頃にちょっとかじってた」

勿論、本格的な曲を用意するなら、そして充分な予算と納期を確保できるなら、本職の人に発注するのだが。

今回は予算も時間もないからな、と云ってPは再び半田づけに目線を落とす。

「ふうん……私の曲、か。楽しみに待ってていいのかな?」

凛が、作業中のPの顔を覘き込むように、机に顎を乗せて訊ねた。

「……あまり過度な期待はするなよ」

言外にプレッシャーを掛けられたPは、ややバツが悪そうに笑った。

「あと三日――いや明後日までには形にする。そしたら、週末までだいぶタイトだが、身体に叩き込んでくれ」

「わかった。じゃあ私はレッスン行ってくる」

すっくと立ち上がった凛が、きびきびとした動作で出て行った。

その足取りは、一箇月前と比べて確実に軽くなっている。

日々の内容に大した差異はないはずだが、明確な目的を認識するだけで気の持ちように変化が現れる証左だ。

Pは満足げに頷いて、修理を終えた機材に火を入れた。

買ってきた時点ではうんともすんとも云わなかったディスプレイが、明るく反応する。

無事、修理は成功だ。

厳しい予算の制約の中でやりくりした達成感から、ガッツポーズを禁じ得ない。

鼻歌を奏でながら、一緒に入手した中古の鍵盤を接続して動作を確認していると、
事務用品の補充に外出していたちひろが戻った。

Pの予想よりも早い帰社だった。

「あら、ご機嫌ですね、Pさん?」

「はい、良い出来事がいくつか重なったものですから。ちひろさん、大荷物の割に早いお帰りですね」

「うふふっ。デキる事務員は、時間を無駄にしないんですよ?」

「さすが、そこに痺れる憧れる。じゃあ自分は凛の様子を見てきます。いつまでも浮かれちゃいられませんね」

Pが机を片付けて立ち上がると、ちひろは差し入れですと云って茶色の小瓶を寄越した。

「スタミナつけて、ファイト一発、ですよ」

Pは会釈して、星のあしらわれたキャップを勢いよく開け、一気に飲み干した。


本日のレッスンスタジオまでの道のりは、あっという間だった。

つい先刻から、不思議なほど非常に身体が軽い。

良い出来事が重なると、ここまで肉体に影響するのかとPは驚嘆する。

力がみなぎる今なら、二日くらいの徹夜ならば難なくこなせてしまいそうだ。

もう間もなくスタジオの入口というところで、Pは女性が同じ建物へ入るところに遭遇した。

「あ、どうも」

二人して同じ言葉同じ動作で軽くお辞儀をする。

普段、凛だけでなく卯月や未央を鍛えてくれている明や慶に、よく似たその女性。

しかしトレーナー二人より年齢を重ねているように見え、何よりも纏うオーラが桁違いに強い。

非常に失礼なことながら、Pは彼女を顔をじっと凝視した。

「ん? えーと……なにかな」

女性の表情が困惑へと変わる前に、Pが飛び上がる。

「あっ、あっあっ、あ……青木……れ、麗……!」

青春時代の、異性の象徴。

同級生たちと、ときには熱く魅力を語り合い、ときには下世話な談笑の種として存在し続けた、トップアイドル。

社長がかつてプロデュースしていたその女性―ひと―が、今はレッスン教室を主宰しているとは聞いていたが。

まさか、こんな形で大接近できるとは。

これまで、青木麗はPの記憶の中、遠い遠いステージの上で輝いている遥か彼方の存在だったのに。

「あぁ、もしかして貴方がプロデュ……じゃない、社長の云っていたP殿……か?」

理解の範疇を超え、完全に固まっているPに、麗がゆっくり笑んで問うた。

その言葉にはっと意識を取り戻し、しかし脳味噌は取り乱したままで、

「はい、CGプロ、渋谷凛を担当するPです。あの、ずっと、貴女のファンでした! いや今でもファンです!」

とアイドルプロデューサーらしからぬ発言をしてしまう。

さらには、勢い余って麗の手先を、両手で固く握った。これでは完全に厄介者である。

麗はPのあまりの攻勢に苦笑した。

「とてもありがたいが……私はとっくに引退した身だし、今ではただの教官に過ぎないぞ」

「それでも、自分にとって、貴女は永遠のトップアイドルなんです」

「……嬉しいね。社長がこの場にいたら、きっと彼も喜んだんじゃないかな」

麗は、往時を思い出してか、やや目を細め、遠くを眺めた。

ようやく落ち着きを得たPは、手を離して、何かに気付いたように訊ねる。

「CG―うち―の専属には就けないと伺っていましたが……今日はなぜこちらに?」

そう、麗は自らの主宰する教室があるから、すぐにはCGプロと専属契約は結べないはずだった。

「なに、今日はオフだ。私自身は契約の身ではないが、妹たちが世話になっているからな」

きちんと指導できているかをチェックしに来たのさ、と破顔する。

この人にかかれば、明たちトレーナー陣もレッスン生と化してしまうようだ。

「どれ、ちょうどいい。P殿の手腕も拝見させて貰おうか」

とPを脅した後、冗談だ、と肩を揺らしながらスタジオへと入る。

しかしPとしては、到底冗談には感じられない、ライオンの檻に入れられた小動物のような気分だった。


普段のPと同様、麗もレッスンそのものを邪魔するのは気が引けるらしい。

マスタートレーナーたる私が修練の邪魔をしては元も子もないからな、
とはスタジオの様子を窺える隣の部屋へ静かに入る時の彼女の弁だ。

かくして、凛を陰ながら見守るP、明と慶を陰ながら見守る麗、という構図が出来上がる。

それぞれ、レッスンの光景を見てノートやメモに書き込みを加えていた。

今日はダンスを重点的に教えてもらうカリキュラム。

喉の暖めもそこそこに、凛はひたすらステップを反復している。

スタジオから漏れ聴こえるダンスミュージックに呼応して、Pの踵が動きを刻み、手先は跳ねる裏拍を叩く。

ノリの良い曲を聴くと、気分が高揚して楽しくなるのは何故だろうか。

人の身体を勝手に動かしてしまう、音楽のチカラとは不思議なものだ。

しばしののち、慶の指導についてメモを取る麗の手が、不意に止まった。

「P殿、渋谷君のダンスについて、今現在把握している一番の問題点はどこだ?」

急に話を振られたPはまごついた。

「え? えーっと……」

手にした自らのノートに目を落として、少しだけ時間を稼ぐ。

正直、Pは凛の“どこが悪いのか”までは明確に掴めていなかった。

ただ何となく、何かがまだ甘い。そんな意識しかなかったのだ。

しかしそれでも、頭をフル回転させて答えようと努力する。

「ダンスの表現力とかテクニック的なことは……実のところ、よく判りません。ですが――」

麗がチラリとPを見る。少し間を置いて、目線で続きを促された。

「ですが、身体の感覚の話で良いのなら……リズム感がまだ拙いかな、と思います」

そう。

凛自身は一定のテンポを保っているつもりなのだろうが、実際はかなりふらつきがあった。

或る拍と拍の間は長く、また或る拍と拍の間は短い。

錆びたメトロノームのように、安定していなかった。

「そうだな、P殿。ダンスに於いて最も重要なのは、ステップのテクニックなどではない」

麗は眼を閉じて「リズムを一定に維持すること、これに尽きる」と息を吐いた。

踊る表現力が幾分か稚拙であろうとも、歌が多少音痴であろうとも、拍子さえ安定していれば、鑑賞に堪える。

逆を云えば――
ステップが完璧でも、メロディをきちんと追えていても、リズムがおぼつかなければ立ち所に粗製と映るのだ。

「ですが、ここで自分が感じることは、既にトレーナー陣の皆さんも判っていらっしゃるでしょうし」

Pは、自らが出るまでもありません、と相好を崩した。

彼は現場を混乱させる可能性を危惧して、レッスンの内容に口を出すことはしなかった。

毎度、邪魔をしないよう隣から見守るのだ、凛はおろか明や慶までPの存在を認識していないかも知れない。

もちろんトレーニングの様子はしっかり見ているし、それを受けてプロデュース方針にこまめに手を入れている。

現在は慶たちに、映える動きの技術を会得させるよう要請中だと、Pは云った。

「これは……今日はP殿と偶然にも鉢合わせできて幸いだったかも知れんな……」

麗はPの説明に、小さな声で独り言ちた。

「P殿。老婆心から云うが……過干渉も、そして“不干渉”も好ましくないぞ」

「えっ?」

Pは驚いて一歩後退さる。

混乱を与えないため口を挟まないようにしていた配慮が好ましくないとはこれ如何に?

「おそらく、P殿の云う通り、妹たちはリズムが第一の課題だと判っているはずだ」

麗は断言した。朧げに、見くびってもらっては困る、というニュアンスも感じられる。

「だが、P殿からの指示は?」

「え……? あっ……」

あくまで技術のレベルアップを要望しただけで、リズム感を鍛えてくれ、とは云っていない。

つまり、トレーナー陣はPの要求に忠実に動いているわけだ。

Pは、自分が云わずとも、凛の踊りの質を上げる為に、明たちが裁量でやってくれるだろうと思い込んでいた。

だからこそ、しゃしゃり出ようとはしなかった。

しかしそれは結果的に、最も重要な課題を置き去りにする結果となっている。

「まあこれは、妹たちからP殿に提案・進言する姿勢が欠如しているとも云える。あとできつく絞っておこう」

麗がメモを取ろうとする様子を、慌ててPが制止する。

「待ってください、おそらくその原因には心当たりがあります。彼女たちを責めないでください」

かつて凛の方針についてPへ提案したことが、結果的に失敗を招く引き金となってしまった――
慶は、きっとそのように気を病んでいるのではないか。

勿論、失敗したのはPと凛の自滅であって、その責は慶になどあるはずがないのだが。

「慶ちゃん、真面目でいい子ですよね。勿論、明さんも」

スタジオ内を見やって、Pは自らの落ち度にやれやれと首を竦めた。

「凛の本番が一週間後に近づいているんですが……今から指導内容を変更して大丈夫でしょうか」

土壇場の方針変更で結果がどっちつかずになることを、Pは恐れていた。

「そうだな……ギリギリになってから内容を卓袱台返しするのは、どの界隈でも嫌がられるだろう」

麗の呟きに、Pはやはりリズムは先送りにすべきかと意思を固めかける。

「だが貴方はそれが課題だと認識できているのだろう? 原因が判っているなら改善のために動くのは簡単だ」

Pの思考を見透かしたようなタイミングで麗が言葉を続けた。

訝しむPへ、麗は腕を組んで笑う。

「単純なことさ、P殿がリズムのレクチャーをするんだよ」

「はっ? 俺がですか!?」

驚きのあまり素っ頓狂な声が出た。しかも素の言葉遣いが漏れてしまっている。

「そう。スタジオレッスンとはまた別の機会で、P殿によるリズムトレーニングを追加するんだ」

「だって自分はトレーナーではありませんよ!?」

「何を云う。プロデューサーはアイドルを導く存在。多少のレッスン指導はするものだ」

「自分に……できるんでしょうか」

それまで柔和だった麗が、すっと真面目な顔つきになった。

「P殿は……少なくとも渋谷君よりも、リズムの感覚は鍛えられている。それはさっきの仕種だけですぐ判る」

ダンスミュージックに乗って、自然と身体が動いていた件だ。

「私見だが……貴方は音楽に関して何らかの経験が既にあるんじゃないかな?」

「そ、そこまで判るんですか……たったあれだけで……」

Pは戦慄した。目の前に立っているのはよもやエスパーなのでは、と。

「種明かしは簡単さ。訓練を受けてない人間が、裏拍でリズムを取ることはまずないよ。特に日本人はね」

箏曲や囃子など、西洋の文化がもたらされる前の伝統音楽に思いを馳せれば、表拍子を刻むものが大多数だ。

さらに元を辿ってゆけば、唄による感情表現が最優先となり、一定の律動を刻むという習慣さえなかった。

これは我々の遺伝子に刻まれた設計図なのだ。

日本人の血がそうさせてきた……としか云いようがない。

「西洋式の拍の取り方を知っているなら――即ち訓練されたことがあるなら、それを彼女へP殿から伝えるんだ」

Pは麗の目をしっかり視て、一度だけ、強く首を縦に振った。

「……わかりました。すぐにでも準備します」

ありがとうございました、と表情を引き締め、しかし口元には笑みを浮かべて回れ右。

そのPの背中を、麗は暖かな眼差しで見送った。


レッスンから戻った凛を、半ば拉致するようにやって来たのは、井の頭線は新代田『フォーエバー』。

キャパシティは数百人と、決して大きいとは云えないライブハウス。

しかし他店ならその二倍は詰め込めるだろう非常にゆとりある設計、シックな内装も手伝って落ち着く場所だ。

「久しぶりに連絡してきたと思ったら、いきなり『使わせろ』って随分急な話すぎるだろ!
 本当にたまたま今日はフリーだったからよかったものの……」

オーナーが呆れたようにフロントのカウンターから苦情を云う。

「しかも何だ、新しいバンドでも組んだのかと思ったらJK同伴で二人だけの貸切たぁ、妙な使い方じゃねえか」

「いやーすいません、ここならきっと便宜を図ってくれると信じてたんで」

「ったく都合のいいハナシだぜ」

Pの言外に「タダで使わせてね」という匂いを感じ取ったオーナーは苦笑した。

「ま、いいけどよ。――もう演んねえのか?」

「はは……そうですね、みんな大学出た後は社会の歯車ですよ」

「……もったいねえ話だ」

オーナーは肩を竦め、Pはやや申し訳なさそうに後頭部を掻いた。

フロアに入り、ドアを閉めると、借りてきた猫の如く押し黙っていた凛が、ようやく口を開く。

「……あの人とは知り合いなの?」

「ああ、昔、ちょっとな」

「ま、いいけど。ここに私を連れて来て一体何をさせるつもり? ライブの下見ってわけでもないでしょ」

凛を置いて背後の音響ブースへ登ったPは、機材をごそごそ操作しながら、

「何、って。そりゃお前の“特訓”だよ」

事務所を出るとき云わなかったか? と、きょとんとする。

「何も聞いてないよもう! ていうかプロデューサーが私に特訓って何? さっきレッスンしたばかりじゃない」

両手をカーデガンのポケットに突っ込んだまま、凛は口を尖らせ抗議を寄越した。

「慶ちゃんたちトレーナーさんとは違うアプローチでな、お前のリズム感を鍛えるんだ」

Pはそう云ってプレーヤの再生ボタンを押した。

凛とP以外は誰もいない、がらんどうなフロアに、とても無機質な音が響く。

シンプル・オブ・シンプルで展開が非常にゆっくりな、電子音の羅列。

一歩間違えば、ただ単調な音楽として烙印を押されかねないのに、不思議と格好良いと思えてくる音楽。

かつて電子機材が貧弱だった時代、その制約を逆手に取って生み出された芸術、ミニマルテクノだ。

簡素な音のパーツが正確な拍を刻み続けるそのジャンルは、凛にとって初めて触れる世界だった。

「凛。お前は、ぶっちゃけ云えばリズムがだいぶ拙い」

Pの正直な指摘に、自覚のなかった凛は目を丸くした。

「え? 私の中では正確に刻んでいるつもりなんだけど……」

「ところがどっこい、そんなことはないんだな。今流れてる曲に合わせて手を叩いてみ。ちゃんと気を張ってな」

凛は手をポケットからおもむろに出し、眼を閉じて耳に集中しながら両手を打った。

パン、パン、パン、と乾いた音が空間を漂う。

「はいOK」

Pが制すると、手にはマイク付きのレコーダー。凛のクラップを録音していた。

「じゃあ聞いてみよう」

と現在流れている音楽を止め、ミキサーにつなげて録ったものを再生すると。

「えっ……」

凛は驚愕した。

自分が思い描いていたタイミングとはまるでズレた、よれよれの拍手だったからだ。

Pはそれをラップトップコンピュータに取り込み、波形として表示した。

手の鳴るタイミングごとに切り取って並べると、長さが全く揃っていないことを文字通り“見せつけ”られる。

「聴覚だけだと結構あやふやだけどさ、こうやって視覚化すると、結構……心にクるだろ?」

「……」

左手で口元を押さえて、画面を食い入るように覗き込む凛。

素になると女の子らしさが結構出るんだな――とPはやや他人事のように思いながら、その仕種を視た。

再度、ブースの機材でミニマルテクノを流し出して問う。

「凛は普段、どんな曲を聴いている?」

「いつも聴いてるのは特にこれと云ったこだわりはないけれど……音楽番組を見て気になる曲を買う程度、かな」

小首を傾げる凛に、Pは眼を瞑って腕を組む。

「そうか。すまんが、しばらくの間はこのタイプの曲をずっと聴き続けてくれ」

ミニマルテクノは、使う音が少なく構成が単純な分、反復で快楽を与えむとするジャンルである。

フレーズの反復、展開の反復。そしてそれら全てに関わってくるのが、リズムを反復することの気持ち良さだ。

そして、リズムによって精神をトランスさせるべく、とても高度にパターンが練られたものが多い。

特に裏拍の使い方は、それまでの音楽と比して格段に進化を遂げている。

「この裏拍の取り方こそが、今の音楽シーン、特にダンスミュージックの格好良さにつながってるんだ」

耳と脳味噌をミニマルテクノ漬けにすれば――
たとえ時間はかかっても、特別なスキルトレーニングを必要とせずに拍の取り方が徐々に鍛えられていく。

「確かにずっとこういうのを聴いていればリズム感は鍛えられそうだけどさ――」

凛は、まだ何となく納得しきれていない顔をする。

「人間の気持ち良さは、揺らぎ……っていうんだっけ? そこにあるんじゃないの? 1/fとかいうやつ」

「それは、正確さを追求してなお、どうしても機械のように完璧に刻めない不完全さが生み出す結果だ。
最初から揺らぐことを許容しているわけじゃない」

「……ふーん」

半信半疑な様子の凛に、ブースから降りたPが傍へ寄った。

「さて、せっかくこんな場所にいるんだ。聴くだけじゃなくて身体にも染み込ませよう」

そう云って、表拍のベースドラムに合わせて脚を、裏拍のハイハットに合わせて腕を動かすように指示を出す。

しかし凛は目線を鋭くして口をへの字に歪めた。

「えー……ヤだよ、さっきまでレッスン受けてヘトヘトなのに。聴くだけでいいんじゃなかったの」

彼女にとっては、レッスン後に無理矢理引っ張られ何も判らず連れてこられた先でもまた不意のレッスンなのだ。

この反応は、仕方ないところもあろう。

「プロデューサーは私をオーバーワークで潰したいの? 今、体力結構ぎりぎりなんだよ?」

「その疑問にも一理はあるが、ライブまでにお前のどうしようもないリズム感を改善させなきゃいかんだろ」

不信感が少し込められた凛の言葉に、Pの語気がやや強くなった。

凛のためを思って云ったことが無下にされれば、これもまた仕方のないこと。

結局、台詞の応酬が飛び交う。

「ちょっと、どうしようもって……言い方ってもんがあるんじゃない?」

「事実を云ったまでだ。言葉を取り繕ったってしょうがないだろ」

「たとえ本当のことでもストレートでぶつけられたら良い気はしないでしょ!」

「じゃあ今のままライブに出て赤っ恥かきたいのか!」

「そうならないようにトレーナーさんからレッスン受けてるんじゃないの!?」

睨み合ったところで、流していた曲が終わる。フロアが、急に静まり返った。

先にクールダウンしたのはPだ。

「言い過ぎた。色々と悪かった。このリズム感は喫緊の課題で、今のレッスンと並行して進める必要があるんだ」

凛も、Pにつられてボルテージがしぼむ。

「……ごめん、判ったよ。意固地になってた」

凛自身、先程自らのリズム感を見せつけられて、改善の必要性を内心で理解していたのだ。

雨降って地固まる。人気のライブハウスが、即席のリトミック教室へと様変わりした。

今しがたまであまり乗り気のしない様子を見せていたが、実際に身体を動かし始めると意見が変化する。

「あ、なんだろ。意外と……楽しいかも。これ」

「身体を動かすとドーパミンが出るからな。一回やり始めちまえばこっちのもんさ」

「なんか癪だけど……ま、いいや」

裏拍を感じることの大切さを口酸っぱくPは云い続け、凛は真剣な顔で頷く。額には汗がうっすら滲んでいる。

「凛、リズムを取ろう取ろうとしちゃダメだ、ビートを感じるんだ。そのために音を浴びて浴びて浴びまくれ」

一時間ほど集中して訓練を繰り返したのち、再度曲に合わせて手を叩かせてみると。

「うわ……すごい」

「あぁ! こりゃ予想以上の成果だ」

同じように波形として見た際に、確実に改善している様子が判った。

もちろんまだまだ完璧にはほど遠い。

しかし僅かな時間でこの成果なら、トレーニングを続ければ目覚ましい進歩を遂げることは間違いない。

二人とも顔を綻ばせ、満足そうにガッツポーズし、練習を再開。

端から見れば謎の儀式にしか思えない光景、その様子をオーナーが不思議そうに窺っていた。



――

それからの凛は、とかくやるべきことが多かった。

通常のレッスンのほか、リズム感覚の特訓、Pが書き上げたステージ用新曲の吸収。

もちろんまもなく始まる期末考査に備えた勉強もしなければならない。

寝る間も惜しいくらい、タスクの多さに目が回る。

あづさやまゆみと遊べる時間がここ二週間弱で復活したばかりというのに、再び慌ただしくなってしまった。

放課のチャイムが鳴った途端に鞄へ荷物を詰める凛に、あづさが近づく。

「ねえ凛、なんか今日グワンデュオでセールやってるみたいなんだけど――って、その様子じゃ行けないわね」

凛をショッピングに誘おうとした彼女は、言い切る前に無理だと悟ったらしい。

「ここ最近久しぶりに遊べるようになったかと思ったら、またバタバタしてんな」

横の席に座るまゆみも、授業―すいみん―中に垂れたよだれを袖で拭いて、凛へ向いた。

「ごめん、たぶんこの週末さえ乗り切ったら大丈夫になると思うから」

片目を瞑って謝る凛に、二人は不思議そうな表情だ。

「お前んとこの花屋、そんなにてんやわんやしてんのか?」

「この時期、お花屋さんって特に繁忙期じゃないわよね」

「あーいや、店番のせいってわけじゃないんだけどさ……」

凛はいつものように言葉を濁す。

そのまま去ろうとして、ふと、気付いた。

いよいよ週末、ステージに立つのだ。

自称ではない、正真正銘のアイドルとなるのだから、隠す必要はもうないじゃないか、と。

凛は、二人についてくるよう手招きした。


「んなッ!? お前がアイドルゥゥう!?」

「ちょっ――声が大きいって!」

屋上で、まゆみが驚嘆する叫びと、それを制す凛の声が混じり合う。

放課後は、屋上に用事のある生徒などまずいない。

ここなら密会ができる、と凛がこれまでの経緯を切り出したのだ。

「ねえ凛、もしかして五月あたりから急に付き合いが悪くなったのって――」

「そう、アイドルになるためのレッスンがみっちりあったから……」

「んもう、それならそうと云ってくれればよかったのに」

あづさが、凛のしていたことを知って、打ち明けてくれなかったことにやや不満気な顔をした。

「だって、ただのレッスン漬けで活動してるわけでもないのに、アイドルやってますなんて……云えないでしょ」

「まあ……凛のその気持ちは判らないでもないけれど」

「んーで、つまり今度の日曜に、お前はアイドルとしてデビューする、ってーわけだな?」

渡されたチケットを覗き込んで問うまゆみに、凛はこくりとゆっくり頷いた。

「まだ駆け出しも駆け出し、新人ですらない状態だけどね。ようやくステージに立てるんだ」

「なるほどね、その追い込みなら確かに今週は遊んでるヒマないわね。じゃあ頑張ってきなさいな」

「うん、行ってくるよ。……って、あぁっ!」

凛は急に大声を出した。今日は掃除当番だったことを思い出したのだ。

今頃、同じ班の生徒は、凛がサボったのだと恨み言を洩らしているだろう。

早く担当する生物教室に行かなければ。

「いいわよ。わたしたちが代わりにやっとくから、凛はさっさと行きなさい。時間が惜しいんでしょ」

「げぇっ! 『わたしたち』って、あたしもかよ!?」

あづさがひらひらと手を振って、助け舟を出した。

生徒会に籍を置くあづさの手伝いなら班の皆は文句を云うまい。ただしまゆみは流れ弾に後退さった。

「貰ったチケのお返し分にね。どうせヒマしてるんだから変わらないでしょ。さ、行くわよ」

げっそりしたまゆみの二の腕を引っ張るあづさ。凛は二人に、

「ごめん、ありがと!」

と顔の前で強く合掌して、飛び出していった。

階段を抜け、玄関を抜け、校門を抜け、橋脚そびえる大通りへ。

夏至の近い、高く強く照り付ける陽を、モノレールが反射して輝く。

時折モーターと摩擦の音をまとわせながら滑ってゆくそれを横目に、凛はイヤホンをつけて駅までの道を駆けた。

耳に流れ込むのは、アリル・ブリカの『オン&オン』。

その曲のテンポに合わせた速度で、軽やかに風を切る。

表拍は足で、裏拍は手で。

500メートルほどもある道のりだが、トレーニングを重ねた身には、全力疾走でもしない限りは容易い。

今、凛のアイフォーンには、膨大なミニマルテクノが詰め込まれている。

否、ミニマルテクノ“しか”入っていないと云うべきだろう。

先日のリズムトレーニングの際、Pが膨大なミニマルテクノのCDを用意していた。

それらを片っ端から転送し、わずかな暇さえあれば頭へ流し込んでいるのだ。

この時期にしては珍しく青色を覘かせる空に、飛行機雲が一本伸びていく。

ただし、軽い足取りで走る凛は、その模様に気付くことはなかった。

以前の空っぽな少女とは違う。今は、空のカンバスよりも強く見詰めるべきマイルストーンがあるのだから。



Aril Brikha - On & On
https://www.youtube.com/watch?v=-4i7SiWpvmc

古すぎない名盤でミニマルへの入口に最適です
https://itunes.apple.com/jp/album/on-on-original-mix/id414069116?i=414069203




――

日曜。

都内、中小規模の箱で、様々なアイドルが一堂に会するP企画のライブイベントが行なわれた。

もちろん、その誰もが、未だ名が広く知られているとは云えないレベル。

それでも多種多様な顔ぶれが揃うということで、それぞれのファンが集い、数百人のキャパは中々に盛況だった。

企画者の特権とでも云おうか、凛はタイムテーブルのだいぶ美味しい部分にねじ込んである。

勿論、Pの呼び掛けに呼応したアイドルの中で、現状最も知名度のある子はトリへと配置。

流石に、新人に〆のステージをやらせるわけにはいかないのはPも凛も承知していた。

かといって、その子の存在だけでキャパ全部の客を開演から終演まで維持できるパワーバランスではない。

つまり、スケジュールの中間付近が、客の入りとしては一番美味しいのだ。

トリとは一種名誉職みたいなもので、実際この規模この知名度なら中程がプラチナセッティングだった。

さあ、Pのできるお膳立てはした。

あとは、凛が、凛自身で、フロアにたむろする客の目と耳を掴まなければならない。

もう間もなく出番だ。

バックステージで緊張の面持ちを隠し切れない凛にPは近づき、髪飾りの位置を少しだけ修正して云う。

「大丈夫だ。あれだけのレッスンを重ねて、“特訓”もこなした。そして――俺と凛の絆もたぶん、向上した」

自意識過剰かね、とおどけてみせるP。

「ふふっ、……かもね?」

否定せず意地悪く笑う凛に、Pはこめかみを掻いてひとつ咳払いし、

「なんにせよ、今、煌やかなアイドルの衣装をまとうお前は、誰よりも輝いてる。自信を持っていい」

そう頷くPへ、凛がくるりと正対した。

「ねえ、似合ってる?」

ふわりと、長い髪そして黒いドレスの裾が舞う。

黒いワンピースドレス、黒いチョーカー、黒い手套。それに黒髪とくれば、印象が暗く沈んでしまう危険を孕む。

しかし凛のこのデザインは、全く逆の効果を生み出していた。

髪飾りや手にあしらわれた紫の花のワンポイントと、何よりも凛自身の碧い瞳がくっきりと活きるのだ。

「こんな恰好するの初めてだけど、ちょっと嬉しい、かな」

はにかんで、しばらく間を置いてから微笑んだ。

「……ありがとう、プロデューサー」

紆余曲折はあったが、ステージに立ちたいという、凛の要望を叶えるために尽力したPへの感謝。

たった一言、されどその一言と笑顔で、Pは半分報われる思いがした。

もう半分は、このあとの凛のステージ次第。

しかしそれでもPは、この時点で既に成功を確信して止まなかった。


狭いフロアに、熱気が渦巻く。

凛のパフォーマンスは、頭一つ、いや、それ以上に抜きん出ていた。

勿論、第一線で輝くアイドルとは比較するのもおこがましい拙さであることは云うまでもない。

だが、この日この会場に集まった面々となら、凛はもはや相手にすらならぬ――
そう断言できるほどのポテンシャルを見せた。

きりりとした意志の強そうな表情、芯のしっかりした歌声、キレのよいダンス。

凛は、固定ファンの多数存在する、トリを務めたアイドルとほぼ互角の興奮を生み出したのだ。

それは、本日デビューでこのステージが初めてという者がおよそ達成できる偉業ではない。

そんな密閉空間の昂りを、フロア背後の機材ブースに近い角っこで、全身に曝されている人影が二つあった。

あづさとまゆみだった。

凛の初舞台、その勇姿を本当は前列で見たかったのだが……

予想以上の混雑と熱狂で、まるで地下鉄東西線の朝ラッシュの如く弾かれてしまった。

「……すげえな」

「……ほんとね。思ったよりも、ずっと」

凛の熱気に当てられた二人は、ようやく、ぽつりと言葉を漏らした。

結局そのまま、ここが彼女らの指定席。

最後まで、近くて遠いステージを見詰めていた。

「こないだ屋上で聞いた時は、根は真面目なアイツがアイドルなんて性質の悪い冗談かと思ったけどさ」

「そうね。でも、悔しいけれど凛は周りで一番可愛いから、驚きはしなかったかな。それに……なんか楽しそう」

中学や高校の学生生活では見せることのなかった、凛の活き活きとした姿。

学校と云う、ともすれば家族よりも一緒にいる時間が長くなる場所で何年も付き合ってきた者が初めて見せる顔。

演り終えた凛が、新たに獲得したファンとフロアの端で記念撮影をしているのを遠目に、二人は感慨深気だ。

「これは、自慢話が捗るわね」

あづさが期待に胸膨らませると、

「あたしたちの手柄でもねーのにか?」

まゆみが笑って突っ込みを入れた。

「正直、これまで何に対しても“なあなあ”で済ませてきた凛がここまで打ち込んでるなら、近く大物になるわ」

「かもな。原石って、思いもしねえほどあたしの近くに転がってたんだなぁ」

「あわよくばわたしたちも?」

「あっはは、そりゃーねえだろって」

二人は、一種馬鹿げた話に肩を揺らす。

しかし、もしかしたら――運命の女神は、数年後に彼女らへ白羽の矢を立てるのかも知れない。

誰に福音がもたらされるのか、それは神のみぞ知る。

撮影を終えた凛が、Pを伴ってやって来た。

「二人とも、来てくれたんだ」

「ええ、そりゃ貰ったチケットを無駄にするわけにはいかないもの」

「せっかく代わりに掃除当番したんだ、来て楽しまないともったいねーって」

まゆみの強烈な軽口に一同が笑う。

「楽しんでくれた、と受け取っていいかな?」

期待半分、不安半分の微笑みで凛が問うた。

「ああ。なんか気恥ずかしいけどよ、カッコよかった。お前のファンになったぜ」

「わたしもよ。そこそこ長い付き合いだと思ってるけど、初めて凛に燃えさせられた。れっきとしたファンね」

「そこまで云ってくれると光栄だね。君たちは凛のファン第二号と第三号だよ」

まゆみとあづさの感想に、Pが明るい声音で語りかけた。しかし妙な数字に凛が訝しむ。

「……第一号は?」

「勿論、俺に決まってんだろ」

「……はぁ。まったく調子いいんだから」

その即答に呆れた表情の凛と、笑い合うあづさ、まゆみ。そして三人を満足そうに見守るP。

今まさに、凛が正真正銘のアイドルとして、Fランクアイドルとして歩み出した瞬間だった。


帰路に就く友人らと別れ、凛とPは飯田橋の街を事務所まで歩く。

凛は表向き無感情な顔をしていたが、その内心は昂りを禁じ得なかった。

自身が他人に与えた好影響の手応えを、ひしひしと感じたからだ。

ステージの緊張感、スポットライトの熱さ、一身に受ける歓声、そして笑顔になる観客。

自らの歌に、誰かが聴き入ってくれる。

自らのビジュアルに、誰かが見蕩れてくれる。

自らのパフォーマンスに、誰かが興奮してくれる。

もっと観て。

もっと私を視て。

もっと私の歌を聴いて。

凛は、かつて経験したことのない未知の充足感に包まれている。

ついこの間までただの一般人だった不器用な女の子。

そんな凛が自分とは無関係だと思っていた場所へ、境界の向こう側へ足を踏み入れた実感。

事務所手前の、赤に変わった横断歩道で待つさなか、隣に立つPの袖をくいっと引っ張る。

「プロデューサー。……アイドルって面白いね」

気付いて凛の方を向くPに、やや控えめな声量で語り掛けた。

「こんな楽しい世界があるなんて、知らなかった」

いや、正確には、知らない“フリ”をして、直視しようとしなかっただけかも知れない。

「あの刻、渋谷で“不審者”に声を掛けられなかったら――きっと耳を塞いで回れ右していたんだと思う」

在りし日に思いを馳せる。社長とPにスカウトされた日を、昨日のことのように記憶している。

「そうだな。でもこれがゴールじゃないぞ。むしろ、今日はスタートラインに過ぎないんだ」

「うん、わかってる」

「とはいえ――」

青信号になり再度歩き出したPが空を眺めつつ呟く。

「今日くらいは、喜んでも、いいよな」

「うん、そうだね。……ていうか前見ないと危ないよ」

凛の注意虚しく、事務所へ続く階段にPはつま先をぶつけた。

「あーあ、云わんこっちゃない」

足を押さえてうずくまるPへ呆れて語り、それを横目で見ながら凛は軽やかに駆け上る。

「ほら、置いてくよ」

後ろを見て笑う凛が、事務所のドアを開ける。

そこには、CGプロの全員が集合していた。

「凛。本格デビュー、おめでとう」

凛に遅れること少々、立て付けの悪い扉を閉めたPが云うと同時に、それぞれが手にしたクラッカーを鳴らす。

色とりどりのテープが凛に降り掛かってすぐ、卯月と未央が凛に抱きついた。


その日の夜、ライブのノウハウを銅たちに伝える席上で飲んだ酒は、Pの人生で一番美味かった。




・・・・・・・・・・・・


しばらくの日が経ち。

週末のライブ開催を重ね、凛に固定ファンがつくまでには、さほど労を要しなかった。

中小レベルの箱ならばソロでも余裕で埋められるほどとなり、一回り大きな会場を探す日々だ。

意外とFランクからEランクへ上がるのは苦労しないんだなと、Pは良い意味の予想外を実感した。

ノウハウを共有したことで卯月や未央も凛同様にステージデビューし、めきめき力をつけている。

三人は、抜きつ抜かれつ、追い付け追い越せと切磋琢磨し合っていた。

CGプロも、『金食い虫』だった凛が金を少しずつ稼ぐ存在に変わってきたことで、
幾分か余裕が出るようになった。

設備を少し拡充、併せて新しいアイドル候補生を何人かスカウトし――零細事務所から脱却しつつある。

そんな夏本番が迫った日、銅が地方の営業先で行なった紹介が、ローカル局から本局へつながった。

ライブの評判を聞きつけたフジツボテレビの担当者が、ライブフェスティバルへの参加を打診してきたのだ。

なんでも、八月末に臨海副都心で二日間開催されるサマーライブフェスに大幅な欠員が生じてしまったらしい。

いわば間に合わせの補欠と同義ではあったが、このチャンスを活かさない手はない。

何よりも、凛が「やりたい」と強く希望した。

Pは二つ返事で了承し、CGプロを代表して、台場のオフィスへ折衝に来ている。

勿論、チャンスを狙って凛も同伴だ。

欠員は先方の都合とはいえ、CGプロは立場が弱いし、主催のフジツボにとってはただの補充に過ぎない。

ゆえにフェスのタイムスケジュールや、複数ある会場の割当は全て向こうに任せるという交渉結果となった。

しかし、好き嫌いを云っていられないし、何よりも担当者が非常に喜び、CGプロへの好感触を得た。

これはきっと将来につながると判断してよいだろう。損して得獲れとはよく云ったものだ。

大規模なライブには多大な準備期間が必要で、開催まではまだ時間がある。

それまでに力をつけよう、Pと凛はそう頷き合って、局の廊下を歩いていた。

制作フロアは多忙で駆け回る人から一仕事終えてまどろむ人まで、多種多様な姿が見える。

Pと凛は、資料と音源映像の入ったDVDを手当り次第に配り「新人アイドルの渋谷凛です」と営業をかける。

全ての者が「時間があったら観ておくよ」と薄い反応だったが、想定の範囲内。

Pたちにとっては、渡せるだけでも及第ラインだった。

そんな中、前方から、ひときわ大きな態度で歩いてくる者がいた。

立ち居振る舞いを見たPが「これはデカいぞ」と意気込む。

駆け寄ってDVDを渡すと、あまり興味がなさそうだったものの、それでも立ち止まってはくれた。

「渋谷、凛、ねぇ? ……聞いたことないな。まあそれなりに小綺麗だけど」

金本という名札を首から下げたそのディレクターは、凛を頭から足の先までじろじろと値踏みするように視る。

非常に無礼な仕種ではあったが、これが現在のパワーバランスだ、甘んじて受け容れるしかない。

凛は、自らを舐め回す粘り気ある視線に、身を固くする。

「こんなの貰っても観るヒマなんかないからさ。ここで見せてくれない? 場合によっては番組枠を考えるよ」

やがて金本はDVDを突き返してそう云った。

チャンスだ、とPは思った。

普通、資料等を受け取ってもらえなければ次には繋がらないが、多忙な金本はこの場で完結することを望んだ。

ならば一気に決められるかも知れない。

頷くPを見て、凛は一歩前に出る。

「では失礼ながら少々お騒がせ致しまして――」

西日の差す広い廊下で、凛は歌い、舞い、これまでの成果を遺憾なく発揮する。伴奏などなくとも、構わない。

Pの目には、凛の踊る場所が即席のステージに映った。もはやそこは、廊下ではなかった。

1コーラス分を演り終えて頭を下げる凛。その仕種は、しなやかで、女性的で、しかし力強い。

Pは彼女に見蕩れていた。

きっと、ディレクターも――

そう思って金本を向いたPは、しかし、予想に反して嗤う顔が目に入った。

「いやぁ、実は今回手掛けてる枠は既に埋まってるんだよ。残念だったね」

つまり、最初から使う気など、否、考える気すら皆無だったと云うこと。

「えーと、名前なんだっけ? 刹那で忘れちゃった。まぁいいか、ライブ出てる程度じゃねじ込むのは難しいし」

出直しといで、と手を振って立ち去るが、数歩進んだところで凛を振り返った。

「それとも――今夜ウチに来るか? 君、もし貫通済じゃないなら便宜図るよ? 身体の具合は悪くなさそうだ」

暗に枕営業を求める台詞。口調や表情は冗談のようでも、目だけは本気の色を隠していなかった。

凛は、隙あらば捕食せむと狙う金本の瞳に、固まって何も答えられない。

その様子に満足したのか、下卑た笑いを残して消えてゆく。

誘発されたか、周りから失笑が漏れ聞こえた。

テレビ局の人間など、Pが伝通の肩書を持っていた頃はへらへらとおべっかを使ってくる連中だったのに。

「ご覧頂き、ありがとうございました」

Pと凛は、屈辱を押し殺し、周りへ頭を下げた。


「あンの糞野郎! 俺ならいざ知らず、凛本人を虚仮―こけ―にしやがって!」

Pは、つい先日稼働を始めたばかりの社用車へ乗り込むやいなや、悪態を我慢しなかった。

助手席に座る凛もはらわたが煮えくり返る思いだろうに、Pのあまりの勢いに驚きの方が勝ってしまった。

「プ、プロデューサー、いいよ、そこまで怒らなくて……」

「俺自身が何か厭な思いをするのはいいんだ、そのためにいるんだから。でも今回は違う。あの野郎赦さんぞ!」

アイドルが心地よく活動するために、業界の黒い部分はPたちスタッフが受け持つ。

その代わり、アイドルはいつでも全力投球に集中する。

金本は、そんな配慮を飛び越える嫌がらせを、Pたちに振り掛けた。

「勿論、私もいい気分じゃないけど……でも、プロデューサーがそこまで怒ってくれたなら……いいかな」

凛は、自分の代わりに、我が事のように怒ってくれたPへ「ありがと」と小さく云った。

もしかしたら、Pの激怒は、凛に口汚い台詞を云わせないための芝居だったのかも知れない。

その本心は、誰にも判らない。

斯くして、厭な思いこそしたものの、この日一番重要なフェスの打ち合わせは無難に済ませられた。

そのことを喜ぶ方向にシフトすべきである。

「……ま、くだらん事はさっさと忘れるに限るな。それよか、フェスはいい感じに演れそうだ」

Pが、ハンドルをぽんと軽く叩いて云った。

「そうだね、あんな大きな規模のライブができそうだなんて、予想もしなかったよ」

参加者は60組にも達しそうな勢いで、特設会場のキャパシティもこれまでと桁違いだ。

そんな大きさのライブに凛、卯月、未央が参加できるとは、千載一遇のチャンスと云う他ない。

うまくいけば、CGプロを大躍進させるチャンスとなろう。

「開催まであと一月半だな……それまでにレッスンや新曲は勿論、ライブの場数もこなしておこう」

「うん、ライブで宣伝もできると思うから、いいんじゃないかな」

Pの提案に凛も乗る。

レインボーブリッジを渡りながら、作戦会議に花が咲いた。


事務所へ戻ると、早速銅と鏷に打ち合わせの結果を報告する。

凛だけでなく卯月や未央もサマーライブフェスに参加できるとあって、両プロデューサーとも気合いが入った。

まだ本番までは時間があるので、ひとまずこれまで通りのルーチンをこなそうと云う話で決着した。

浮き足立って余計なことをして、逆効果を生んでしまっては元も子もないからだ。

Pは、これまで通り、凛はとにかくライブの場数を踏ませることに専念しようと考えていた。

しかしそれには、手狭になった現在の箱の代わりを探さなくてはならない。

探索の範囲を広げて、城東だけでなく山の手の方まで虱潰しに調べ上げ、目を付けたのが、原宿。

竹下通りをはじめ表参道も近く、秋葉原等とはまた違ったポップカルチャーの発信地として、
40年以上に渡り重要な地位を占めているエリアだ。

ここをステップアップの拠点にできれば、凛の名を広く知らしめるのに大きな力を与えてくれるはずだ。

運の良いことに、小さすぎずそして大きすぎない、ほどよいサイズのライブハウスも発見できた。

これなら、一部の追っかけのみが知っているアイドルから、一般層への浸透を図れよう。

最初のライブと同じように、合同ライブと云う形式で、凛は原宿に進出し、舞い、歌う。

土日を重点的にライブをこなし続けることしばし。

元から獲得している固定ファンに加え、原宿で遊ぶ女の子を中心として、新しい客層を掴みつつあった。

凛のパフォーマンスは、より要求がシビアとなる流行の最先端地でも、或る程度健闘できたと云ってよいだろう。

とはいえ、やはり新しい場所に馴染むには少々時間が要るものだ。

凛に続いて進出した卯月と未央は、観客動員数で追い付けない子と共演したと語った。

「ホントに凄かったんですよ~!」

卯月がまるでただのファンのように、その時の光景を回想して云う。

未央も「いや~凄い子に出会うと、こっちも燃えてくるよね! あんなの初めて見たよ!」と興奮していた。

それほどまでに、二人にとって新天地の与える影響は大きかったようだ。

しかし凛は幸か不幸か、そのような相手とまだ出会っていない。

フジツボでの打ち合わせから起算しておよそ半月が経ち、間もなく八月になろうかという夏休み本番の土曜日。

この日、凛は原宿で初めてのトラブルに遭遇した。

ライブをするはずだった箱が、手違いでダブルブッキングを起こしてしまったのだ。

電話で報告を受けたPと凛は、会場入りの予定時刻を大幅に前倒しして現地へ向かった。

入口をくぐると、既に中からヒステリックに問い詰める声が聞こえてくる。

「――ダァーブルブッキングってどういうことにゃ! 今日のために色々用意してたんだにゃ!」

ひたすら陳謝する担当者と、妙な口調と猫のような仕種で食いかかる女の子。

「ゴメンで済んだら世の中ケーサツなんて要らないのにゃ! ファンのみんなに申し訳……って、ん?」

件の子が、自らを不思議な面持ちで見詰める二つの影に気付いた。

「あーもしかして、ダブルブッキングのお相手さん、えーとどれどれ……渋谷凛チャン、かにゃあ?」

予約状況の紙を覗いて、名前を確認してから問い掛けてくる。

返答するのも忘れ、凛は隣へ囁くように訊く。

「……誰、あの妙な子」

「おそらく、猫キャラとして売り出しているアイドルは一人しか知らんから心当たりはあるが――」

二人の会話を遮って、やや強い口調が割り込む。

「妙な子、とは失礼にゃ。みくには前川みくと云うれっきとした名前があるにゃ」

Pと凛は、その強烈なキャラクターに呆気に取られ、ただ頷くのみ。

「ちょうどいいにゃ。ここに予約が重複した当事者が揃ったなら、話も決めやすいってモンでしょ」

と猫もどきの女の子は一人で納得した風で、

「と云うわけで今日のところはみくに譲るにゃ」

堂々としていながら、しかしとんでもない要求を出してきた。

勿論その提案――と云う名の強要――などPは承服しかねるので、慌てて制止する。

「いやー、流石にそれはちょっと……うちのライブにも来てくださる観客のみなさんがいますし」

お互いに譲らない抗争が勃発するかと思われたが、

「ま、そりゃそうだよね。みくだって同じこと云われたら困るモン」

意外にもみくはあっさり首肯した。

「そ・こ・で、にゃ。この際ダブルブッキングはもうどうしようもないんだし、それをどうカバーするかにゃ」

「つまり、それって……」

凛が、みくの云わむとすることを察した。凛とて、伊達に色々なライブをこなしてきてはいない。

「そ。合同でライブするにゃ」

案の定、ニコイチにするという、誰にでも思いつきそうな内容。

凛もそれ以外の解決策を持ち合わせていないので同意しかける。

しかし、

「――モチロン、いい機会だからLIVEバトル形式にゃ!」

びしっと指差して続けられた台詞に、表情を固くした。

みくの一連の提案は、表向きには解決のための建設的なプランに見えるが。

「……喧嘩を売られたら、買うしかないよね」

そう、みくの言葉の本質は、提案ではなく『宣戦布告』だった。

「最近この原宿界隈を荒らしてるってウワサの新人でしょ? 叩き潰しておかなきゃみくの名が廃るにゃ」

ふっふーん、と流し目で凛を値踏みし「最近張り合いがなくてつまらなかったから丁度いいにゃ」とうそぶく。

ここまで云われては凛とて引き下がるわけにはいかない。

「いいよ、やろう。どっちにしろ、この状況を解決するのはこの手しかなさそうだしね」

「ふん、なーんかいかにも優等生、ってカンジの答えにゃ」

みくが鼻を鳴らす。

「行こ、プロデューサー。準備しなきゃ」

みくの挑発に乗ることなく、凛は淡白に踵を返した。

Pはみくに「じゃあまた後で」と挨拶をしてから去るが、内心はあまり穏やかではない。

「前川みくか……原宿で一番のやり手と聞くが……」

数時間後、Pの心のざわめきは現実のものとなる。


凛とみく、期せずして実現したライブバトルに、双方の観客は熱狂した。

二人とも最大限の力を出し切り、フロアからの応援も完全燃焼の様相を見せた。

これほどまでの上昇気流は、原宿では久しい。だから、表向きとしては、ライブは成功と云ってよかった。

しかし、Pが終演後の観客誘導を手伝っている頃、バックステージ、楽屋では。

凛が、茫然とした顔で、突っ立っていた。

ダンスで乱れた長い髪が、汗に濡れた肌へ貼り付いている。

まず間違いなく不快な状態であろうに、彼女にはそれを気にかける余裕すらない。

みくが対照的に涼し気な仕種で感想を述べる。

「CGプロ……って云ったかにゃ?
 こないだその事務所の二人と一緒になったけど、あっちの方がずっと骨があったにゃ」

おそらく卯月と未央のことだろう。

みくがそう云うのも無理はない。本日のバトルは、ダブルスコア以上の大差をつけて、凛に圧勝したからだ。

みくは、パフォーマンスも、バックボーンも、そして惹き付ける話術も凛とはまるで違った。

年齢からは考えられないほどグラマラスなボディラインに、アダルティな持ち歌。

固定ファンの層の分厚さにも、全く歯が立たない。

凛自身が、歌っている最中「追い付けない」と寒気を自覚するほどに。

これまで凛のライブにほぼ毎回と云ってよいほど足を向けてくれた客さえ、凛そっちのけでみくを応援していた。

ステージ上では、勝者を惜しみなく讃えていた凛。しかし一旦控えへと下がれば……

屈辱を感じることすらおこがましいと怒られそうなほど、こてんぱんに打ちのめされた現実が転がっていた。

「みくはレッスンもライブも、そしてプロデュースも自分一人でやってるにゃ」

彼女の言葉には、重みがあった。それ相応に苦労してきた――そんな自負が色濃く滲んでいる。

「そっちは専属の指導者がいるのに、全てセルフプロデュースしてるみくに惨めな負けを晒して、
 恥ずかしくないのかにゃあ?」

打ちひしがれる凛に、容赦ない言葉の踏み付けが襲う。

それは望外にあっけない勝負となったことへの八つ当たりもありそうだ。

「つまんにゃい」

ぽつり、一言を残して、みくは、すたすたと去っていった。

この間仕事で大失敗した時とは比べ物にならない喪失感が、凛を津波の如く呑み込む。

自らの責による先日と違い、今日は全力を出した結果の敗北。

「凛、今日は残念だったな。切り替えて次は頑張ろう」

ドアノブの控えめな音と共に、スタッフの手伝いを終えたPが控室へ戻ってきた。

しかし凛は、その呼び掛けに反応できない。

「……凛?」

放心状態で立ちすくんだままの凛に、Pは悪い予感が現実となったことを認識した。

なにぶん、みくを称えるステージ上の姿をPは見ていたのだから、
ドアを開けるまで凛がこんな状態になっているとは思うまい。

しかしあれは、負けん気の強い凛が、最後の力を振り絞った行動だったのだ。

公衆の面前で醜態を披露してたまるものか――燃え尽きた彼女に僅かばかり残されたプライドが、そうさせた。

意識的なものかどうかはさておき、プロとして褒めるべき所作ではあったが、そのぶん反動も大きい。

「凛」

そっと、Pが肩に手を乗せても、案山子は何も答えられず、ただただ、焦点の合わない目を地に向けている。

「俺たちは、負けたんだ」

Pの宣告に呼応するかのごとく、凛は崩れ落ちた。

床へ膝を突いた敗者は、力なく拳を握ることしかできない。

泣いたり、喚いたりはしない。それどころか、微動だにしない。

なればこそ、ショックの大きさを物語っていた。

「次だ。次に活かそう」

Pが優しく、力を込めて促す。

ようやくそこで、凛はゆっくりと、とても小さく頷いた。



――

翌日。

あまり良質な睡眠を得られずじまいだったが、どうやったって日は昇ってくる。

休日朝の日課となっている愛犬ハナコの散歩で、凛は家近くの道を歩いていた。

ルートは毎回決まっているので、散歩そのものについて特段気にかける必要はない。

それゆえに――

昨日からの答えのない思考が、ずっと、ぐるぐる巡っている。

自らのことでありながら、凛にとって意外に思ったのは、負けたことが想像以上にショックだった点だ。

例えば運動競技で力が及ばなかったとか、テストで上位を取れなかったとか、負けたことなど過去数知れずある。

なのに、ライブでの敗北は、過去のどんな負けよりも、深く心臓を抉り込むように凛の心を突き刺した。

みくに黒星をつけられたことだけではない。

卯月や未央にすら劣る、みくにそう改めて突きつけられたのもショックだった。

勿論、凛は自分が卯月たちより勝っているとは露程も思っていない。

むしろ彼女らより明らかに劣っている。それは最初のレッスンの刻から判り切っていた話だ。

それでも、改めて第三者に落ちこぼれの烙印を押されると云うのは、軌道に乗り始めた凛には辛い現実だった。

――あっちの方がずっと骨があったにゃ。

――専属の指導者がいるのに恥ずかしくないのかにゃ?

みくの声が、まるで洞窟の残響のようにずっと頭の中をこだまする。

――つまんにゃい。

たまらず眼を瞑る。

――つまんにゃい。

それでも言霊は、全く消えない。

――つまんにゃい。

追い払うように、かぶりを激しく振った。

荒い呼吸に、歩みを一旦止める。

みくの声を掻き消してくれと云う思いが天に届いたか、飛行機の轟音が響き渡った。

ここは米軍基地の滑走路南端をかすめるように延びる道路。

ゆえに余計なものが歩道に在らず、歩行者の往来も少なく、犬の散歩にはもってこいの場所だ。

脂汗の伝うまぶたを開けると、輸送機―ハーキュリーズ―がすぐ上空を通り過ぎるところだった。

甲高いエンジン音、そして風を切るプロペラの重く低い音。

二つが混ざり合って空気を切り裂き、音も姿も、遠く高く消えてゆく。

見送ったのち、視線を下げると、ハナコが不思議そうに、飼い主の表情を窺っていた。

「……ごめんね、ハナコ」

凛は、自らを見上げる小さなヨークシャーテリアを抱き上げた。

ハナコが鼻を近づけて、ぺろっと頬を一度舐める。励ましてくれているのだろうか。

「ステージは、私が最初にやりたいと云い出したアイドル活動の原点なのに……」

ハナコの目を覗き込んで、誰宛ともなく独り言つ。

「そのステージで、結果を出せなかった……」

道路と軍用の敷地を隔てるフェンスに体重を預け、輸送機の去った空を見た。

金網がたわんで身体に食い込むが、その鈍い痛みさえ神経は知覚を放棄している。

このままでは、私は捨てられてしまうだろう。

以前の無味乾燥な日々に戻ってしまうだろう。

何もかもがつまらなく、そして何も変えられないと思っていた自分が、ようやく、楽しいと思えることに――
未知の世界へと誘―いざな―ってくれる魔法使いたちに出会えたかも知れないのに。

まるで幻だったかのように、それらは泡沫―うたかた―の夢と消えてしまいそうで。

そんな諦めが心を浸食してゆく。

凛は胸の前で拳をぎゅっと握った。

このままこれまでと同じレッスンを続けても――

凛が腕を上げたところで、みくだって自主レッスンをこなして更に数歩先へ進むことだろう。

もしかして、自分はずっと落ちこぼれとして走っていかなければならないのか。

――叩き潰しておかなきゃみくの名が廃るにゃ。

凛は再びかぶりを振って、みくの言霊から逃げるように、ハナコの散歩を再開した。



――

それからの凛は、だいぶ淀んだ。

改善すべき点や、山のように積まれた課題が判っているにも拘わらず、レッスンに身が入らない。

無論レッスン自体は休まず受けている。しかし何をやっても、頭の中でみくが囁くのだ。

――無駄な足掻きにゃ。

それは一種の被害妄想に過ぎないのだが、凛自身にとっては深刻な問題である。

たとえ無理矢理に鼓舞しようとも、心の安寧を脅かす思考から離れることができない。

自らを磨く為でなく、ただ予定表に書かれているからレッスンをこなす。

そんなルーチンワークに成り果ててしまっていた。

明や慶にも、かの日を境に乱調を来した凛をどうしたものか戸惑いが見られた。

Pは、どう対処すれば正解なのか悩んでいる。

レッスンの様子を人知れず見守って得た感触や、慶からのレポートとにらめっこして解決策を探るものの……

再度ステージに立たせるべきか?

 ――トラウマが甦ったらどうする。

レッスンにとことん打ち込ませるべきか?

 ――今の状態ですら身が入っていないのに増やして何の意味がある。

ひとまず休ませるべきか?

 ――サマーライブフェスまであまり時間は残されていない。

どの選択肢も決定打に欠けていて、だからこそPの頭を悩ませる。

それでもこの中でベターなものを選ぶとしたら。

「休ませる、なのかなぁ……」

ここ最近のレッスン中に見せる凛の顔が、以前に比べて暗く疲れているように感じたから。

少し気分転換が必要だろうか。

事務所の机でウンウン唸っていると、

「おはよう、ございます」

過日、油を注して不快な音が出なくなったドアを開けて、凛が事務所へやって来た。

レッスンをうまくこなせないのに、それでも腐らず出社してくるのは根の真面目さゆえだろう。

「おう、お疲れ」

Pが手招きをすると、凛はきょとんとした顔でそばへ寄った。

「明日から少し休みをやるから、羽根を伸ばしてみたらどうだ?」

ここ最近バタバタしてたしな、と凛の予定が書かれているスケジュール帖をめくって云う。

勿論この提案はPが凛のことを思って出したものだ。

しかし、当の凛は、さっと顔色を変えて、戦慄―わなな―いた。

遠回しに、左遷ではないかと思ったのだ。

「それって、もう私なんて要らない、ってこと……?」

気が滅入っている状態では、どんな些細なことも悪い方向に考え、悪い方向に受け取ってしまうものだ。

さらにはタイミングの悪いことに、凛は今、月に一度のナーバスな時期だった。

普段の彼女なら冷静に考えられようことでも、こじれてしまいやすい状況だ。

Pの机に『黒川千秋 マイルストーン』と書かれたファイルが置かれているのを見てしまったのも、
その疑念が更に高まる要因となった。

黒川千秋は、先日新たに社長がスカウトしてきたアイドル候補生だ。

凛を棄て、千秋を育てる――そんなマイナス思考がどんどん膨らんでくる。

「要らない、なんてそんなわけないだろ。上の空の状態でレッスンを何度やってもあまり吸収できないだろうし」

「上の空って何……私はきちんとレッスンしてるんだよ!?」

「それは充分判ってる。でもレッスンスタジオに“ただ居るだけ”じゃ仕方ないしな」

凛は図星を突かれて身体を硬くした。Pが慶のレポートに目を落として、軽く息を吐く。

「――トレーナーさんたちも凛の様子に結構戸惑っているみたいだから、やっぱり休息が必要だよ」

「なにそれ……私のせいだっていうの……?」

Pは、どうにも凛の様子がいつもよりおかしいことが気がかりだった。

意識して平静に諭す。

「違う違う。根を詰め過ぎだから、久しぶりに羽根を伸ばしたり、何か好きなことをやったりしてみろってだけ」

Pの云うことは、一般論的にはあながち間違いではなかろう。

あづさやまゆみといった友人たちと、どこぞへ遊びに行ったり、スイパラ巡りをしたり。

Pもそう云う過ごし方を念頭に、凛へ休息を薦めていた。

しかし、ここで一つミスを犯した。

これまで、凛の生活は空っぽに近かったのだ。

何もかもがつまらない。将来に希望も見出せない。

アイドルが唯一の心の拠り所となりつつあったのに――そこから離れて一体何をすれば良いと云うのか。

しかも敗北のショックを受けている凛に無理矢理休めと云ったところで、苛まれるのが落ちである。

「だから結局、お荷物はしばらく大人しくしてろってことでしょ!?」

「おい、凛、俺はそんなこと云ってないだろ!」

不幸にも様々な要因が重なって気持ちを制御できなくなった凛に、とうとうPも声を大きくしてしまった。

「この際はっきり云ってすっきりしなよ、成長しない奴は要らない、って!」

「馬鹿野郎! お前が立ち直ってまた伸びていけるように、無理せず少し休むよう薦めてるんだ!」

「根を詰め過ぎって云うけど、普段私の練習なんか見もせず、机で書類眺めてるだけじゃない! よく云うよ!」

Pはハッと言葉に詰まった。

レッスンを邪魔しないように見守っていたのに、凛はそのことを知らない。

たまの特訓指導以外は、いつも事務所で紙を眺めているだけ。――彼女はPの日常をそう認識していた。

知られなければ、存在しないと同義――

他ならぬP自身がそう云っていたのに。Pは自分で自分の足許を掬われた。

麗に教えられた『不干渉もまた好ましくない』という言葉が改めて思い浮かぶ。

凛は何も云わなくなったPを睨みながら、

「……もういい」

そして鞄を掴み、勢い良く事務所を出て行った。

Pは事務椅子に体重を全て預け、右手で瞼を覆って呻く。

「どうしろと云うんだ……」

やや離れたところから、ちひろが心配そうに様子を窺っているが、気付く様子はない。

しばらくの後、困惑した声音の明から連絡が入った。

初めて、凛がレッスンをすっぽかした日になった。



――

翌日。

凛は下校後、事務所へ寄らず直接レッスンスタジオに向かった。

Pの顔を見たくないから。

事務所へ行かずとも、休めと云われる前のスケジュールは頭に入っているので、レッスンがある日は判る。

結局あれ以来Pからの電話がひっきりなしに掛かってきて、あまりの鬱陶しさに機内モードで全て弾いていた。

しかし夜になって、歳が近く個人的に連絡先を交換していた慶から、心配する旨のメールを受け取った。

Pのことは兎も角、慶たちに要らぬ心労を掛けてしまっているのは本意ではないし、サボりは完全に凛の責だ。

昨日すっぽかしたことを直接謝ろうと、飯田橋までやってきたのだ。

防音扉の固いノブを開け、「おはようございます」と述べる。

その挨拶と、重いドアのガチャンと閉まる音に、スタジオにいた者が気付く。

卯月、未央、そして明と慶が同時に振り向いた。

「り、凛ちゃん!」

「しぶりん!」

卯月と未央が駆け寄る。

「二人とも、そんなに血相変えてどうしたの……?」

「昨日から全然電話がつながらないんだもん、何かあったのかって心配したんだよ~~」

卯月が凛の二の腕を掴んでぶんぶんと振った。

「あ、そっか、機内モード……」

Pからの着信が煩わしくて設定した機内モードは、卯月や未央など全ての電話を遮断してしまっていたのだ。

慶からのメールは無線LAN経由で通信できるから届いたわけだ。

凛は卯月と未央に「ゴメン」と手刀を切ったのち、明と慶を向いて、頭を下げた。

「昨日は、すみませんでした」

「もしや事故にでも遭ったか、って心配したけど、何もなかったならよかったです」

明が優しく声を掛けた。凛はもう一度、何も云わずに頭を下げる。

すると。

「お、やっぱり来たか」

防音扉とはまた違うドアの開閉音とともに、芯の強い声が届いた。

凛はおろか、卯月や未央もその姿に驚く。

誰あろう、麗だった。

「ふふ、驚いたか? 昨夜、慶から相談されてな。少し様子を見に来ていたわけだ」

今しがた卯月と未央のレッスンを隣から見ていたよ、と笑って。

「渋谷君なら、きっとスタジオには顔を出すだろう――とな。予想的中だ」

麗もアイドルとして道を通ってきた人間だ、凛の思考パターンは読みやすいらしい。

「渋谷君。昨日、P殿と激しくやり合ったそうじゃないか」

耳が早い。もしかしたら社長やちひろも、麗に助言を求めたのかも知れない。

「意見の相違なんてよくあるもんさ。それ自体は別に構わないが――レッスンの無断欠席は感心しないな」

急転、麗が重いオーラを発して戒めた。

凛は立ちすくみ、恐怖で全身に鳥肌が立つさまをはっきりと感じた。

「申し訳……ありません」

ようやくその一言を絞り出す。

それで充分と判断した麗は、再び笑った。

圧する空気は霧散し、心なしか部屋の電灯が明るくなったように思える。

「着替えてきます」

凛が更衣室へ向かおうとするが、麗は「今日は休め」と制止した。

卯月たちにレッスンを続けるよう促してから、凛には親指で部屋の隅を指す。

ついてこい、と云うことだ。

再びスタジオに、拍をカウントする明の声や、上履きと床の擦れるステップ音が響いた。

麗と凛は、しばらくその光景を眺め、やがて麗がおもむろに口を開く。

「妹たちから伝聞した限りでは、何やら色々とあったようだな」

凛の方を向いて、詳しいところまでは訊かないが、と微笑む。

凛は、力なく頷いた。

「ライブでこてんぱんに負けて……なんか、レッスンしても無駄なんじゃないか、って思ってしまうんです」

どれだけ頑張って走り抜けても、凛がみくの位置へ辿り着いた時には、相手はそのさらに先へ行っている。

「プロデューサーには、お荷物だと思われてますし……なんだか、色々見えなくなってしまって」

「お荷物? それは直接P殿に云われたのか?」

麗が驚きに目を大きくした。

「え? ……いえ、あくまで状況判断の推察ですけど……」

「憶測で思い込んではいけないな。君には、難しく考え過ぎたり、早合点する癖があるらしい」

麗は嘆息して云った。しかしそれは呆れた声音ではなく、むしろ慈愛に満ちた吐息だった。

「とにもかくにも、P殿と腹を割って話してみたらいい」

麗が、不安そうな凛の瞳を覗き込んで云う。

「アイドルとプロデューサーは共に歩んで行く同志、そして相棒。
 他の事務所だとどうなのか知らないが、少なくともCGプロでは、表裏一体の存在だと思う」

「でも、昨日は言い合いになってしまいましたし……」

凛は逡巡するように、目を逸らす。

「喧嘩になることの何が悪いんだい? 私もプロデューサーとはよく言い争ったもんさ」

「えっ、プロデューサー……と云うことは社長ですよね」

凛はぎょっとして、逸らしたばかりの麗の顔を視た。

口論を推奨するような云い方は兎も角、あの掴み処のない社長が声を荒げるなど、想像もつかない。

「ああ。あの人は昔から頑固でな。しょっちゅう衝突してたよ。
 ……だが彼の云うことは、不思議とあまり外れないんだ。なんだかんだと、結局うまくいく」

麗は、天井を仰ぎ見て、壁面鏡に頭をコツンと当てた。その表情はとても穏やかだ。

往事を思い出しているのだろうか、無言の刻が過ぎる。

しばらくして凛の方を向き、控えめに笑った。

「人間とは、得てして自分自身のことが一番判らないものさ。外側から見てくれる人こそが、的確に指摘できる」

「確かにそうかも知れませんが……プロデューサーはトレーナーさんのレポートを事務所で読んでいるだけです」

凛が少し不機嫌そうに眉根を寄せたのを見て、麗は「あー……やはりな」とこめかみを掻いた。

「P殿はほぼ毎回、レッスンの様子を見守ってたはずだぞ。先日たまたま一緒になったが、熱心にメモしていた」

あそこからな、と自らが先程出てきたドアを指差す。

「えっ!?」

凛が飛び上がらむとするほどの勢いで驚いた。

案の定、彼女は見守るPの存在に全く気付いていなかったのだ。

Pがレッスンの邪魔をしないよう必要以上に配慮をしたことが、完全に裏目に出ていた。

「……渋谷君とP殿は、お互いに、ボタンを少々掛け違えていたようだな?」

麗がやれやれと苦笑し、凛は縮こまる。

そのまましばらく眼を閉じ――意を決したように麗を視た。

「麗さん、ありがとうございました。私、行かなきゃいけないところができました」

麗が相好を崩して大きく頷く。

「ああ。行っといで」

駆け出した凛が防音扉を閉めるのを見届けてから、明と慶にウインクを投げた。


事務所の扉が、バン! と大きな音を発して開けられた。

飛び込んで来たのは、凛。

すわ何事かと度肝を抜かれるちひろの様子を見て、はっと気付いた凛は、いそいそと扉を閉めた。

勢いでネジが歪んだのか、再びドアの立て付けが悪くなっていた。

これはもしかしたら、修理が必要になるかも知れない。

あれだけ鳴り響かせたのに、ちひろ以外は顔を出さない。社長はおろか銅も鏷も、そしてPも外出中のようだ。

「ちひろさん、社長とプロデューサーは?」

「Pさんなら、さっき遅いお昼を食べに出たから、そろそろ戻ってくるんじゃないかしら」

社長は別件で戻りが遅くなることを付け加えてちひろは答えた。

「そっか……」

やや出端をくじかれた恰好の凛がPの事務机を窺うと――

作業が煮詰まったのか、はたまた逆に行き詰まっているのか、散らかったままだった。

こんな夕方まで昼食を摂らないほどだったのだ、きっと筆が進んで食べる機会を逸したに違いない。

やれやれ、片付けてあげるべきか。いや、もし作業途中なら下手にいじるのはまずい。

机を見て凛が考えていると、書類の束の下に『渋谷凛 '11, 6~』と書かれたノートが鎮座しているのを発見した。

まるで磁石のように、視線がそこへ引っ張られる。

覗き見なんてしてはいけない。

そんなことは当たり前で、判り切っている。それでも――

それでも。

凛は、周りをきょろきょろと見渡す。

ちひろは手許の書類に集中していて凛の様子に何ら気付いていない。

プロデューサー……ごめん!

凛は心の中で強く合掌して、おそるおそるノートを引っ張り出し、開く。

一番始めのページは、初仕事で大失敗したときの苦い思い出と、それを自戒する言葉、そして決意の文。

次ページから、日記形式で、凛の考察が書かれていた。

レッスンの様子を見て浮上した課題や、それを解消するためには何が必要か。

ライブのステージを観察し新たに発見したプロデュースの方向性。

失敗したところ、駄目なところ。成功したところ、良いところ。

そして方々に散りばめられたPの想い。

初のステージで観客の視線を釘付けにできた誇り。

みくとのライブバトルに勝たせてやれなかった、指導者としての力不足。

音楽の夢破れた自分と違って、凛なら、きっと輝かしい舞台へ行けると確信していること。

一種それは、彼自身の追い切れなかった陽炎を、凛の背中に重ねているだけかもしれない。

しかし、だとしても、ただの赤の他人のため、ここまで身を粉にできるだろうか?

芸能界へ飛び込む前から妙な縁があった女の子だから?

初めての担当アイドルだから?

それとも何か別の理由が?

凛は、目を通しながら、手の震えを禁じ得ない。

これほど自分のことを見てくれていたとは、予想だにしていなかった。

自分はそんなことも知らず、なんて言葉を浴びせてしまったのか。

凛は、胸が締め付けられる思いがした。

そして二度と、人の――Pのノートを覗くという仁義にもとる行為などしない、と。

そんなことをするまでもなく信じて背中を委ねてみよう、と。

判断に迷ったらまず訊ねよう、と。

凛は、ノートを静かに元の場所へ戻して、固く心に誓った。


応接エリアのソファで凛が宿題を解いていると、Pが昼食から戻ってきた。

立て付けが急に再び悪くなったドアを訝しみながら、事務机へと戻る。

「ねえ、プロデューサー」

「うおっ!?」

背後からそろり、近づいた凛が声を掛けると、まさかここに凛がいるとは思っていなかったPは驚きに跳ねた。

勢い良く振り返るPを、凛は目に力を入れて、じっと見た。

そのまましばらく目線を交わらせ、

「……ごめん。その……色々と」

深めに頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。

Pは、予想外にあっさりと謝った凛に面喰らった。事実、彼の目には昨日とは別人に映った。

「……いや、俺も実際下手を打った。すまなかった。おあいこだな」

肩をすくめ、苦笑い。

「着拒されたから、俺のプロデュース人生が終わったかと、結構本気で思った」

「麗さんにね、お前は早合点する癖がある、って……諭されちゃった」

Pは、自分の知らないところで橋渡しをしてくれた麗に心の中で感謝した。

麗は、Pにとっても凛にとっても、師や先輩のように導く存在となりつつある。

「私、頑張るから。明日から……レッスンちゃんと受ける」

凛が胸の前で手を握って覚悟を述べるが、「でも――」と、自信がなさそうに少し目を逸らした。

「こないだ負けて、まだまだだって思い知らされた。だけど、これから頑張ってあのレベルまで成長できても、
 その頃にはみくだって同じように力をつけて、もっと先に行ってるよね……」

握る手に、不安の力がこもる。

「私、これじゃ永遠に追い付けない。どうすればいい? 身が入らなかったのも、その諦めがあったせいなんだ」

Pは、ようやく凛の不調の核心に迫ることができた。

腕を組んで、大きく頷く。

「そりゃ典型的な『アキレスと亀のパラドックス』じゃないか。ゼノンのやつ」

「パラ、ドックス……?」

「そうだ。そのパラドックスは一見、正しいことを云っているように思えるんだよなぁ」

古代ギリシャ人を悩ませた有名な逆理。

これこそが、凛を追い詰めていた犯人だった。

「でも、よくよく考えてみ? 前を歩く人間の横を走り抜けてみれば、普通に追い付いて追い越せるよな」

10メートル先を秒速1メートルで歩く人間がいたとして、それを秒速3メートルで追い掛ければ――
5秒後には追い付いて、6秒後にはその人より2メートル先へ飛び出ている。

哲学的に考えれば袋小路へ陥りそうでも、数学的に考えれば至極単純なこと。

「じゃあ、私がみくよりもっと速く走れば……」

「ああ。追い付けるし、追い越すのも難しくないと思う」

あっけなく答えを出された凛は、ぽかんとしている。Pは隣の机から椅子を引っ張って、凛を坐らせた。

キィ、と椅子を回転させて、顔も身体も全てを凛に正対してから、ゆっくりと話を切り出す。


確かに、凛……いや俺たちはあのとき負けたが、打ち負かされること自体は、何ら恥じ入る必要などないと思う。

“打ち負かされたまま、立ち上がろうともせずにいる”――それこそが、恥ずべきことなんだ。

俺たちが常に自らへ問わねばならないのは、「打ちのめされた後、自分は何をしようとしているのか」

情けない不平不満をこぼすだけなのか、或いは闘志を燃やし再び立ち向かっていくのか、と云うこと。


ステージに立つ誰もが、必ず一度や二度、屈辱を味わうだろう。

今時分、それはアイドルに限らず、どの分野の人間だってそうだ。

打ちのめされた経験がない奴なんて、どんな世界にもかつていたことがない。


ただし。

一流の人間は、あらゆる努力を払って速やかに立ち上がろうと努める。

また、並の者は、立ち上がるのが少しばかり遅い。

そして敗者は――地面に横たわり、哀しみ嘆いたままでいるのさ。


「速やかに……立ち上がる……」

凛が、やや哀し気な表情で繰り返した。きっと、ここしばらくの自分の体たらくに想い至っているのだろう。

「ああ。それが出来る者こそが、トップを目指せるんだろうさ」

「……プロデューサー、ありがとう……凄く、胸に沁みたよ」

「まぁ……俺が学生時代に読んでいた漫画の受け売りさ」

Pはおどけた仕種で肩を竦ませ、両手を小さく上に広げた。

「切り替えなきゃね。いつまでも腐ってちゃ……いけないんだ」

凛の心に、これまで心配をかけた人たち、そして見守ってくれた人たちへの、感謝と申し訳なさが押し寄せる。

察したPが、努めて明るく云い聞かせようと、凛の目を覗き込んだ。

「なあに、何も全てを押し殺してさっさと前へ進め、って云ってるわけじゃない。
 こないだも云ったように、休む――つまり美味いものを食べたり、友達とカラオケでスッキリしたり。
 そうして気分転換したら、また一歩踏み出せばいいさ」

「そうだね、リフレッシュしていくよ。だから――」

凛は眼を閉じて、言葉を切った。

形の良い眉が、少し歪んでいる。

「……ちょっとだけ、泣かせて貰っていい? 今更さ、悔しくて悔しくて……堪らなくなってきちゃった」

「……ああ。むしろ俺はあの刻、泣きも喚きもしなかった凛を妙だと感じたもんだ。泣いて泣いて洗い流そう」

「ふふっ、キザったらしいね……」

凛は気丈な言葉を発するが、その声音は震えていた。

「あらあらいけない、栄養ドリンクが切れちゃってるじゃないですか」

自らの机でマウスを動かしていたちひろが、わざとらしい大きな声で云う。

そのまま、Pさん留守番お願いします、とだけ告げて、小気味よいヒールの音とともに外へ消えていった。

ちひろのささやかな心遣い。

彼女を目で追っていた凛は、ゆっくりとした動作でPの方に向き直るうち、
皆の暖かさに耐えきれなくなった泪が、一滴、また一滴と頬を流れ落ちる。

やがて、溢れ出るそれをPには見せないように、重力に任せて顔を伏せた。

「ううっ……うああああぁぁっ……!」

自らのスカートの裾を、凛はその華奢な手からは想像もできないほど強く握って、堰を切ったように慟哭した。

大人びているとは云え、彼女はまだ15歳。年端のゆかぬ子供なのだ。

Pはスポーツタオルで目の前の震える肩を覆い、ひたすら熱い放出を促す。

「すまんな、今回のことは、俺の力不足だ」

背中を擦ってやりながらそう云うと、凛は小刻みにかぶりを振った。

「う……ううん……ち、違っ……っ!」

だが、何かを答えようとしても咽びに押しのけられ、声にはならない。

「……俺も、もっともっと頑張るからさ。また、前へ進んで行こうな」

その言葉に、横へ振っていた顔をただ頷くのみに変え、凛はただひたすらに哭いた。

いつもは事務処理の邪魔をする眩しい西日も、今日だけは、二人を優しく包んでくれているような気がした。


いや日付変わってすぐ投下始めたのにもう六時ってどういうことだよ(真顔
ようやく半分くらいのところまで来ましたが副業&アイプロ最終日も走らないといけないので、
凛を泣かせたところでちょっと中断させてください
スマイルつかさをお迎えに行かなきゃいけないんですなんでもしまむら

今日中には終わらせます では


取っつきにくい地文のうえ一斉投下する「お前本当に読んでもらう気あるの?」スタイルなのに
見てくださってる方が多くてありがたい限りです

なおTBSはミニチーム組むの間に合いませんでした
副業ヒマなので続き投下します




・・・・・・・・・・・・


大都会のど真ん中にあって江戸城外濠の景観を残す飯田橋は、ぎらついた太陽をほんの少しだけ和らげてくれる。

ただしそれは堀の水辺だけのプラシーボで、一本路地を入ってしまえば汗のしたたるコンクリートジャングルだ。

駅至近にはない雑居ビルまで五分も歩けば、一日の体力がほとんど持っていかれてしまう。

ただしPについては、やや当てはまらないらしい。

さっさと事務所へ上がって凛の戦略を練りたいがため、足が逸る因果で暑さをあまり感じないのだ。

凛が事務所で泣き腫らしてから数日。

久しぶりに家族とレストランで食事をしたり、あづさやまゆみとカラオケに行ったり、
はたまたPにお薦めの映画へ連れて行ってもらったりと、短い休みだが、中身の濃い気分転換ができた。

凛が心の内を曝け出したことは、Pにも良い影響を与えている。

プロデューサーとは、アイドルと二人三脚すべき存在なのだと自覚を持つに至った。

邪魔しないようにしたりだとか、必要な時だけ指導すると云うのは違うのだと。

表舞台に出るアイドルから一歩引いていた自分とは決別しなければと、Pはあの日の夕陽に誓っていた。


凛があのとき「悔しい」と何度も繰り返したのを見て、Pは判断を変えた。

これまでは、凛はスカウトで連れてきた存在なればこそ、一定の遠慮がなかったと云えば嘘になる。

その抑えめに設定したリミッターを取り払うようにした。

取り外しても、彼女は、きっと食らいついてくるはずだと信じて。

レッスンでは、卯月や未央の方が未だ凛より高評価だ。

ことリズム感のみに関して云えば、凛は誰よりも正確に――Pすら凌駕して――刻めるようにはなっていたが、
全体の身体能力を見れば、まだまだ凛には二人より足りない部分が多い。

そこでPは、トレーナー陣に、多少きつくても最大の伸びが期待できるメニューへ更新するよう依頼した。

アイドルの動きとは、テレビで見ているよりも実際にはだいぶ激しいもので、持久力をつけるランニング、
筋力をつけるウェイトトレーニングなど、“表現者”としてやっていくために必要な身体を造るのは過酷だった。

凛自身、卯月や未央に比べ、三人の中で最も劣っていることを理解している。

より高みを目指すアイドルになるなら、早急にそれを克服することが必要だ、とも。

ただし、つい数箇月前まで普通の女子高生だった彼女にとって、ペースを上げたトレーニングはとても苛烈。

シャトルランなどで身体に激しい負荷をかけると、決まって化粧室へ駆け込んで嘔吐した。

それでも音を上げないのは、生来の負けん気の強さと、一度云ったことはやり通す責任感の強さ。

みくに、そして何より卯月と未央に負けたくないと云う意地が、彼女を衝き動かしていた。


PはPで、如何に凛を援護射撃できるか腐心していた。

担当アイドルをどうやればより高みへ昇らせることができるか。どうやれば雪辱を果たせてやれるか。

大量の書類をやっつけながら、考えを巡らせる。

Pと凛、それぞれフィールドは違えど、同じ目標を見据えて、まさに戦闘状態に入っていると云えよう。

……Pの方は、いくらか地味ではあるが。

そんな折、サマーライブフェスの委員会から最終段階の打ち合わせが入った。

このフェスを成功させることが、とにもかくにも凛を成長させることになる。

だから入念に準備して、やりすぎることはない。

Pは張り切ってフジツボへと乗り込むが、その意気込みとは裏腹に――

「実は……穴を埋めようとしたら逆にオーバーフローしちゃいまして」

会議室で、先方の担当者が苦い顔をした。

「えっ、それはつまり……」

「はい、CGプロさんは現在三枠ご希望されてますが、それを一枠に収めて頂きたいのです」

申し訳ない、と云いながら頭を下げる姿を、Pは複雑な感情で見た。

きっかけは補欠的な穴埋めだったとはいえ、援護の為に一肌脱いだのだ、この恩を仇で返す仕打ちはなかろう。

いくら弱小事務所の身でも、承服しがたい事態だった。

凛だけでなく卯月も未央も、フェスに挑む気満々で準備に勤しんでいる。

その中から一人しか選べないなんて。

「いや、さすがにそれは……」

Pは腕を組んで唸った。

ただ、これまでのやりとりで先方は、救いの手を出したPらCGプロに色々と心を砕いてくれた印象がある。

察するに、上層部―うえ―からの見直し圧力に抗い切れなかったのではなかろうか。

中間管理職の哀しい現実だ。

もしこの場に伝通の先輩、大嶋がいれば、酒席へと移って共感のし合いとなるに違いない。

「うーん、どうしましょうかね。弱りましたね」

Pが書類に目を落として考え込む。

――代替手段や、ピンチをチャンスに活かす方策を練るのが俺の役目だろ、脳味噌を捻り回せ。

自分自身に喝を入れたPは、頭の中でパズルを動かす。

「……ん?」

ふと目に入った、先日の打ち合わせでは気に留めなかった出演者リストの中に、みくの名前がある。

その瞬間、ピンと来るものを感じた。

大きなイベントで注目度も高い。これはみくと一戦交える絶好の好機だ。

そして、みくに雪辱を果たしつつ、枠削減の要請にも応えられる妙案が浮かぶ。

「……わかりました、私どもへの割当は、一枠に減らして頂いて結構です」

「すみません、本当に助かります」

Pの言葉に、先方は感激の深礼をした。

CGプロとしても、恩を売っておいてマイナスになることはあるまい。


「と、云うわけでさ――」

事務所へと戻ったPは、銅と鏷、そしてアイドル三人を集めて、展開の相談をしていた。

凛、卯月、未央、三人を組ませること。

これが、Pの考えた解決策だ。

今まで、各アイドルは個別に仕事やライブを行なっていたが――
サマーライブフェスではその方向性を一旦停止し、三人をひとつのグループとして見せることをPは提案した。

みな一様に驚き、特に当事者であるアイドルたちは度肝を抜かれて言葉が出ない様子だ。

「ユニット化……って、今からやってどうにかなるのか? ピンで演るのとは勝手が全然違うだろ」

鏷がソファの背に身体を預けて問うた。

確かに、自らのことだけを考えればよい独り舞台と違い、ユニットとなると思考すべき事柄が飛躍的に増える。

鏷の疑念は尤もだ。Pも頷いて云う。

「ああ。だが、今の時期に練り直すことができて一種、幸いだったと思う」

フェスまであと三週間しかないが――逆に『三週間もある』と考えることだってできる。

この限られた時間を使って、三人の新たな次元を開拓するのだ。

「ま、確かに……クールビューティの凛ちゃん、元気が眩しい未央ちゃん、そして笑顔なら負けない卯月……」

お互いのいい部分を引き立て合うわね、と銅が考え込んでつぶやいた。

銅の云う通り、CGプロ初期メンバーの三人は奇跡的に重複する要素がないのだ。

一人の足りない部分を、他の二人が分担して補う。

これは、まさしくユニットになるべくして集められた人材と云ってよい。

もしかしたら――社長はこの展開すら計算に入れて各々をスカウトしたのでは?

そんな人間離れした想像を許してしまうほどに、設計がかっちり嵌る三人組だった。

凛と未央は、担当外のプロデューサーからの言葉を受けて、やや照れくさそうだ。

「さしあたって、ユニットとして先方へ登録しなきゃいけないんだが――」

「ああ、なるほど。ユニット名とか諸々を決めなきゃいけないわけね」

察しの良い銅が、先回りしてPに答えた。

「ご明察。まずリーダーについてだが、もうこれは養成所からのキャリアがあるし、卯月ちゃんで異存ないよな」

特に鏷の方へ目を遣って問うた。視線の先の人物も飄々とした様子で

「ああ、問題ねえ。っつーかこの場合むしろ卯月ちゃん以外にいねーだろ」

と肩を揺らす。

「え、ええっ!? わ、私がリーダーですか!?」

唯一、当の本人だけが不意打ちを受けたかの如く飛び上がった。

「別に優劣をつけるわけじゃないけど、卯月ちゃんは養成所からアイドルに触れてた一日の長があるからさ」

Pが、卯月のあたふたする様子を笑いながら「君が適任だよ」と云った。

卯月が、担当プロデューサー銅、そして凛と未央を順に見てから、再び銅の様子を窺う。

「ええ、アナタがやりなさい。卯月なら、みんなを引っ張っていけるよ」

銅は腕を組んで、深く頷いた。

「私も、卯月がいいと思うな」

「私も私も~~!」

凛が卯月に優しい視線を向け、未央は右手を大きく挙げて同意した。

「わ……判りました! がんばります!」

腹を決めたようで、小さくガッツポーズをしながら、しかし鼻息荒く卯月が意気込んだ。

「よし、取りまとめ役はこれでOK、あとは……最も面倒そうな名前決めだ」

Pが書類に書き込みを入れてから、長丁場を覚悟するように、ソファへ深く坐り直した。

名称とは、そのユニットを的確に表わしていなければならない。

それでいて万人にとって判りやすく、憶えやすいものとする必要がある。知名度に劣る新興事務所なら尚更だ。

「一番単純に組み合わせれば『うづみおりん』とか『うづりんみお』だが」

「え……ありえないでしょ、それ……」

Pがぼそりと漏らした何も考えてなさそうな一言に、どん引きした凛からすぐさま突っ込みが入った。

「いやいやいや、あくまで便宜的であって真剣な提案じゃないからなこれは!」

慌てて釈明するが、凛だけでなくP以外の全員が懐疑的な視線を送る。

仕切り直しを咳払いをしてから、真面目な声音に戻る。

「このプロダクションで最初の三人、つまり先駆者だから『パイオニア』ってのを思いついたんだけどな」

「……カーナビとかオーディオ機器のメーカーか?」

「それとも宇宙探査機のアレ?」

今度は鏷と銅からのダメ出しを喰らった。

「やっぱそうなるよなぁ……」

言葉とは、便利であれば便利なだけ、どこでも使われる。即ち、競合も多い。

がっくりと意気消沈するPの傍ら、アイドルたちは

「探査機ぃ~~?」

「ロケットで飛ばして宇宙を調べるやつだよ」

「去年はやぶさで話題になったよね!」

「あぁ~~! あの還ってきたあれだね! 流れ星みたいに燃え尽きるの、綺麗で感動したよあのとき!」

などと雑談に興じている。

「ほらほら、おめーらも考えろ。自分らのユニット名だろーが」

徐々に脱線しそうな雰囲気を察知して、鏷が笑った。

はっと気付いた卯月が、失敗失敗、と小さく舌を出す。

「そうだね、私たちも一緒に考えなきゃ」

「しっかし難しいよな。新興事務所だし目立つ名前にしてえけど、捻りすぎちゃァ判り難くなるしよ」

意気込むアイドルたちにフォローを忘れない。鏷は見た目こそ怪しいが、充分にやり手だ。

凛が顎に手を添えて考え込んだ。

「確かにできたばかりのプロダクションだけど、社長は麗さんのプロデュースを手掛けていたんだから、
 初心者……っていうイメージでもないよね、CGプロは」

彼女の云うように、麗の実績ある社長の縁故で、新しく設立された会社の割にはスムーズな船出ができている。

「私、麗さんにはとても助けられたし、受け継げるものがあったら入れてみたいかな」

何か現役時代に使ってた名前とかないの? とPに訊ねるが、反応は芳しくない。

「残念だが『青木麗』はずっとソロだったんだよなあ。最後までこの名前のまま変わってない」

「そっか……」

肩を落とす凛に、卯月が思案顔。

「じゃあ『受け継ぐ』って云う言葉をそのまま使ってみるのは? えーっと、英訳すればインヘリテッド……」

「しまむー、すごい。良くそんなすらすら出てくるね?」

「ち、ちょうどこないだ英語の夏期講習があったからね」

未央の望外の賞賛に、卯月はえへへ、少しだけ胸を張る。

「うーん、恰好は良さそうだけど、あまり一般的ではないわよねえ」

銅の客観的な意見に「で、ですよね~~」と、微笑みが苦笑いへと変わってしまった。

場にいる六人全員が黙り込む。

「……あの」

卯月が真剣な面持ちで話を切り出した。

「やっぱり、私はさっきの凛ちゃんの考えが頭から離れないんです。麗さんから何かを受け継ぎたい、って」

プロデューサー陣も、それを否定せず首肯する。

「コンセプトとしちゃ俺ァ結構いいと思うぜ?」

「そうね、アナタたちはCGプロの顔、そして社長の“代表作”は青木麗。関連づけていいと思うわ」

「かと云って七光りのようになってもいかんしな。青木麗は俺たちの世代ドンピシャだから俺も頭を捻って――」

男三人の会話を、卯月が「あの、Pさん」と遮った。

「おっとと、どうした卯月ちゃん」

「いま、Pさんの言葉でピンときました。世代、って」

卯月が真剣な顔で、胸の前で自らの右拳を握る。その言葉に未央が触発された。

「世代を超えて受け継ぐ姿、って感じ?」

「うん、そうだね未央ちゃん。私たちって、社長や麗さんの軌跡を受け継ぐ、新世代なんじゃないか、って」

卯月と未央の言葉に、凛が独り言つ。

「ニュー……ジェネレーション……?」

アイドル三人が、それぞれ顔を見詰め合った。皆、心に直撃を受けた表情だ。

即座にプロデューサー陣が動く。

「ニュージェネレーション、芸能関係で聞いたことあるか?」

「いや、アタシはないわね」

「俺ァ日本タレント銘鑑を確認してくる」

鏷が立ち上がって資料を漁りに行き、Pと銅はちひろを呼んで商標登録がどうだのと、俄に熱を帯びた。

「Pさん、商標『ニュージェネレーション』は第31類に登録されていますが、それ以外は大丈夫みたいです!」

ちひろが自らの机でコンピュータの画面を見ながら大きな声を出す。

「よかった! 第41類で早速出願するよう進めてください!」

傍ら、銅がインターネットで検索し、めぼしいヒット事項がないかどうか確認している。

慌ただしく動くプロデューサーらとは対照的に、凛、卯月、未央は目を瞬かせて坐ったままだ。

「なんか……こんなあっさり一気に決まっちゃっていいのかな……」

「まーいいっしょ~~! しぶりん、決まるときって案外こんなもんかもよ?」

未央がけたけたと笑った。卯月もつられて破顔する。

「ニュージェネレーション、いい響きだね! 凛ちゃん! 未央ちゃん!」

斯くして、CGプロの看板となるユニット、ニュージェネレーションが結成された。

デビューとなるフェスまで、残り三週間。



――

ニュージェネレーションというユニットが固まって、先方事務局への連絡も済ませた。

フェスまでの期間内に、凛だけでなくユニットを徹底的に鍛え上げよう――

そう決心したPは、時折レッスンスタジオの“同じ部屋”で凛たちをじっくりしっかり視るようになった。

隣の部屋から窺うだけでなく、レッスンを実際に眺め、
気付いたところは都度指摘を入れたり、課題としてメモを取ったりする。

銅と鏷もPと同様、レッスンによく顔を出す。凛そして三人の鍛錬は、順調に進んでいる。

ユニット化にあたって、これまで体力や身体能力に重点を置いた凛の育成方法を見直す必要があった。

歌も、踊りも、そしてビジュアルの魅せ方も、三人で改めて積み重ねなければならない。

ありがたいことに、麗の力添えによって、ベテラントレーナー青木聖の合流が叶った。

麗の妹であり明や慶の姉である、トレーナー四姉妹の次女。場数を踏んでいる、理論派の頼もしい後援だ。

これでユニット練習の際も、アイドル一人につき最低一人のトレーナーがつけられる。

現在のCGプロの事務所規模にしては異例と云える厚い態勢だった。

それだけ社長も、そして社長に手を貸してくれる麗も、期待が大きいのだろう。


全てを満遍なくレベルの底上げができるようにレッスンを組み直してから数日。

スタジオから戻った凛が、そのまま帰らず、事務所でPに相談していた。

「あのさ、今日はボーカルの練習をしたんだけど……どうにも私、巧く合わせられないんだよ」

卯月と未央はかなり息が合ってるのに、と嘆息しながら、Pの隣の事務椅子を引っ張って坐った。

この日、Pは他の担当アイドルの関係で、凛たちのレッスンを見ることができなかった。

その代わり、鏷にチェックをお願いしたのだが――

「あーなんつーかアレだな、細い、ってーのか? よく判らんがハモりが中々安定しない印象だったな」

と、本日の引率者は斜向かいにある自らの机から凛の印象を述べた。

「三人一緒に同じレッスンを受けるの久しぶりだけど、進歩ナシだね私。ちょっと悔しい」

最近の彼女は、こうやって比較的素直にPへ色々な感情を示すようになった。

Pとしては非常に喜ばしい傾向だ。

これに比べれば、レッスンがあまりうまくいかないことなど些細な問題だとさえ思えるほどに。

「未央ちゃんや卯月ちゃんは、引き出し方がうまいんだ。今のところはな」

机上の書類をファイルホルダに片付けてから、Pが凛の方を向いて云った。

「お前は、目を見張るほどの才能があっても、それの引き出し方を知らないだけだよ」

「才能……か。私にあるのかな……」

「莫迦―ばか―云え、才能の塊が自らの才能に気付けなくてたまるか」

Pは眉をハの字に歪ませて苦笑し、

「いいか――」

よっこいしょと、凛の方へ椅子を引いてゆっくり語り出した。


 いい音を出すには、楽器の奏法だけではなく、楽器の構造を知っていなければならない。

 例えばギターは、弦を弾いて、その振動をボディに共鳴させ増幅し、豊かな音を届ける楽器だ。

 弦を弾く位置を変えれば倍音成分も変わる。

 倍音成分を変えれば、共鳴の仕方も変わる。

 物理の基本だ。振動とか波長とか、習ったはずだな。

 サウンド、そしてミュージックと云うものは、物理学と密接に関わり合っている。

 どのような原理で音が出ているのか――

 その構造を知っていないと、いくら演奏の仕方を練習したところで、ポテンシャルを引き出せないんだ。

 どんなに楽器の質が良くてもな。


 それは声も同じ。

 声帯を震わせて作る空気の振動を、咽喉や口腔で共鳴・調整して出力している。

 人体の仕組みがよくわかっていないまま、闇雲にトレーニングをしたところで意味は薄い。

 勿論、トレーナーさんたちから腹式呼吸とか、諸々のテクニックは教わっていると思う。

 最初の頃に比べれば、喉ではなく腹から声を出せるようになってきているもんな。

 ただ、それだけじゃ最大限の効果は発揮できない。

 お前にいま必要なのは、身体と音楽の構造を知ること。

 そうすれば、トレーナー陣のレクチャーも、よりスムーズかつ効果的な吸収ができるようになるはずだ――


雄弁に語るPに対し、凛はいまいち自信がないようで、怪訝な顔つきをしている。

「本当にそうなの? いまいち信じられないんだけど」

「じゃあ例えを変えるか。お前、スマートフォンをだいぶ使いこなしてるよな?」

「まあ……そうだね」

「じゃあそのスマホを爺さんなり婆さんなりに渡して、『これで電話を掛けてみて』と云ってみたら、
 果たしてすぐに掛けられるかな?」

Pが自分の私用携帯を凛の前に置いて問うと、凛の怪訝さはより一層厳しくなる。

「急にそんなこと云ったって、おじいちゃんおばあちゃんがスマホの操作なんてすぐわかるわけないでしょ」

「それだよ」

Pが手を叩いてから、ビシッと凛の口を指差した。その仕種はいくらか大仰だ。

「え?」

「お前だったら、電話やアドレス帳の“アイコン”を“タップ”して、難なく通話するはずだ」

口に出す操作を、Pは自らのスマホ上で再現してゆく。

各種アプリケーションや機能を切り替えるアニメーションが、端末上で踊る。

「だが爺さんや婆さんじゃ、おそらく無理だろう。0から9までのボタンがある従来の携帯電話ならまだしもな。
 ホーム画面で何をすればいいのか判らず、固まってしまうはずさ」

画面に表示されている“飾りのような絵”に触れれば良いなんて、初めて手に持つ人間にどうして見当がつこうか。

情報を表示する画面部と、操作を受け付ける入力部は、まったく別のもの。

昔の人間にはそう云う先入観があるからだ。

「ではこの差はなぜ起きるか? それはお前がスマホと云う新概念の構造を知っているからだよ」

スマホだって身体だって、構造を理解することが第一歩……凛は、なるほど、と思った。

「それにしたってさ――」

今日もつい数時間前まで受けていた授業を思い出しながら肩を落とす。

「物理学と生理学なんて、理科の授業は真面目に受けてたつもりだけど……わからないことばかりだよ……」

「芸術ってのはな、意外と理系なんだよ。スポーツだって今や科学の時代だ」

まあ考えすぎてもそれはそれで良くないんだがな、とPは言ちてから、机に並べられた書籍の一つを取り出した。

「ほれ」

日に焼け、擦り切れたその本。

中のページには鉛筆でびっしりとメモ書きがされている。

「ポピュラー音楽理論……?」

「これは俺が中学の頃から読んでいる本だ。音楽を“作る”側の本だが、だからこそ曲の構造を知るのに役立つ」

どのようにして曲は作られているのか。

どのようにして曲は組み立てられているのか。

自分の歌っているラインは、その部分の和声――つまりハモり――に於いてどのような役割を果たすのか。

どのように歌えば輝くのか。

「作家側からのアプローチを紐解くことで、それを理解する手助けになるはずだ」

「なんかそういう音楽の理論って、楽典……って云うんだっけ? ああいうのじゃないんだ?」

凛が本をぱらぱらとめくって、不思議そうに呟いた。

「楽典なー。音大生なら誰でも持ってる『黄色い楽典』も確かにあるが、ありゃあクラシック方面だからな。
 アイドルとしてポップスを歌うなら、ひとまずはそっちの本の方が合ってるよ」

「ふーん、そっか。……すごい書き込みの量だね。でも、字、ヘタクソ」

まるでミミズやヘビでも這ったかのような筆録が、五線譜を縦断している。

年季を示すかのように、その一部は指で擦れたりしてやや滲んでいた。

「うっさい。中学高校の野郎が書く文字なんてそんなもんだろ」

Pが口を尖らせた。しかし、

「……今は?」

凛の追い打ちに、Pは視線を逸らして苦し紛れの口笛を吹く。

「まあそんなことよりな」

「あ、誤摩化した」

「忘れろ。そんなことよりもだ、
 スマホに鍵盤を押すと音の出るアプリがあるだろうから、それを併用して、本の中身を吸収してみてくれ」

ゆくゆくは自室に簡単なキーボードを据えるとベターだ、とも。

「わかった。これ、借りていいんだよね?」

凛がパタンと閉じて表紙を掲げ、問うた。

「勿論だ。手前味噌だが、昔の俺が書きまくったメモのおかげで、より内容を理解しやすくなってると思うぞ」

「ふふっ、そういうことにしとく」

そう笑って、通学鞄へと、ゆっくり丁寧にしまう。

CGプロにまたひとつ、“新世代”への受け継ぎが生じた瞬間だ。



――

凛の集中力は凄まじい。

Pが本を渡してから一週間も経たずに、和声や音階の実践的な仕組みを理解しつつある。

同じドでも、ドが土台の場合、ラと組み合わせた場合、はたまたソと組み合わせた場合。

それぞれ役割が異なり、綺麗に響く音の高さも微妙に違うのだ。

実際の発声でそこまで精密な周波数の制御はできなくとも、その知識があるのとないのとでは、
少し高め・少し低めなどの意識を持てることで結果に雲泥の差が出るのだった。

明と慶が、驚きに満ち満ちた表情でレッスンをつけている。

ニュージェネレーション用に書き下ろした曲の三声ハーモニーが、
卯月、未央、凛、それぞれの三つの音で組み上げられ、混ざり、溶け合った。

「すごいよ! しまむーとしぶりんと綺麗に混ざった! たっのし~~!!」

一曲を通して歌い終えた未央がはしゃいで跳んだ。

三和音―トライアド―、和声の中で最も単純かつ基本となるものだがそれでも美しい響きを奏でることができた。

「これが……ハーモニー……。すごいな……」

凛は、自らの出した歌声が紡いだ芸術に、ただただ感歎の息を吐く。まるで自分の声ではないかのような錯覚だ。

「渋谷、凄いじゃないか。ここ一週間ほどで見違えたぞ」

聖が手許のバインダーに色々と書き込みながら相好を崩した。

明や慶と違ってやや厳しい彼女が、ここまで手放しで褒めるのは中々ないことだ。

「はい、じゃあ今日のレッスンはここまでです」

明がパンと手を叩き、アイドルたちは「ありがとうございました!」とお辞儀をする。

「凛、ちょっと残ってくれ」

更衣室へと向かう背中に、Pが呼び掛けた。

「ん? どうしたの?」

「だいぶ良くなってきたから、次のステップへ上がろうと思ってな」

顔だけPの方へ向けていたのを、全身で振り返ってから首を傾げる凛。

「次のステップ?」

「そう。技術的なことはトレーナーさんの指導があるから割愛するとして……俺からは感覚的な話をな」

凛に語りがてら、聖にスタジオをこのまま少し使ってよいか訊ねる。

「ん、ああ構わない、まだ時間的には大丈夫だ。そうか、姉から伝聞していたが、キミも指導するんだったな」

「指導……と云えるほど大層なモンじゃないですよ」

Pは、たはは……と苦笑しつつ、パタパタとスリッパの音を立ててホワイトボードの方へ歩んだ。

「腹式の基本はトレーナーさんに教わってるし省くよ。更に踏み込んで、感覚を徹底的に身体へ染み付かせよう」

ワンコーラス分を歌ってくれ、とPは音源を再生させながら云った。

凛はきょとんとしながらも、スピーカーからの音に歌声を乗せる。

「はい、OK」

Pが間奏で一度再生を止めた。

凛を一旦休憩させてから、ホワイトボードへPが課題を箇条書きにしてゆく。

マーカーの小気味良い摩擦音が響いた。

「えーっと……『凛の課題 ・発声感覚 ・メロディ感覚』?」

「そ。トレーナーさんたちに教わっているのは、声を出す方法。俺のは、より綺麗に声を響かせるためのものさ」

と凛の前へ出て、「まず発声はな、ヨーヨーなんだ」と、腕を上下に動かした。

「ヨーヨー? ……ねえプロデューサー、ちょっと話が飛躍し過ぎてついていけない」

「感覚的な話だって云ったろ?」

やや呆れた様子の凛に、「冗談で云ってるわけじゃないんだ」とPは肩を竦めた。

「延髄の辺りから、前方軽く上方へ放る意識を持って声を出してみ。顔の位置と向きはそのままで」

「首の後ろから斜め上に、を意識するんだね?」

「そう、そして単に放りっぱなしにするのではなく、ポーンと投げたら手綱をクイッと引き戻すんだ」

これがヨーヨーと形容した所以だった。

「えっと、こうかな……」

凛は一度軽く息を吐いて、大きく吸い込んでから、腹部に手を添えて声を出す。

その瞬間、聖、明、慶の表情がピクリと動いた。そして勿論、凛も。

これまでとは違う、芯の通った音が始終安定して響いたのだ。

「ん、いい感じじゃないか。これが発声感覚だ。だいぶ変わったろ」

「うん、自分でも判る。……ずっと意識してなきゃいけないのは疲れるけど」

それは最初のうちは仕方ないことだった。

「反復練習すれば意識せず出せるようになるさ。次にメロディ感覚だが――」

Pが自らの鞄を漁って、白と黒の丸い石を取り出す。

「メロディラインってのはな、碁石なんだ」

凛は、また性懲りもなく訳の判らないことを話し始めた、とでも云いた気に、眉を寄せる。

さっきよりも強い怪訝な雰囲気に、Pは「だから冗談で云ってるわけじゃないんだっての」と肩を再び竦めた。

「凛の歌い方ってさ、ラインが不必要に流れちゃってるんだよ。
 良く云えば『スムーズなポルタメント』になるけど、実態は『メリハリなし』ってとこだ」

碁盤に碁石を置く動きを、Pが空中で行なう。その姿は些か滑稽だったが、Pは真剣そのものだ。

「ミミズが這うように意識なく流すのではなく、
 一音一音の頭を、スチャ、スチャ、ポン、ポン、と碁石を置く様をイメージして出してみろ」

「碁石を、置くように……?」

凛が手探りするように、二度咳払いをしてからサビのメロディラインを出す。

最初はやや暗中模索だったが、考え方を掴んだ瞬間があった。

その前後で明らかに声そのものとメロディの聞きやすさが変化したのだ。

「うわ……」

慶が、凛の出す音に嘆息した。

声の出し始めと締め方に、しっかりした土台ができた。

そしてそれぞれの音の頭が、フォーカスのかっちり合った状態で明確な安定性を発揮した。

これまで、ドップラー効果のように焦点が合うまで時間がかかっていたのに。

ヨーヨーと碁石――

一見、歌と何の関わりもなさそうな単語が、凛のボーカルを引き締めた結果に、一同が色めき立つ。

「なんでもっと早く教えてくれなかったの!?」

興奮して問う凛に、Pが押される。

「物事には順番ってモンがあるんだよ。
 お前の場合は、まず腹から声を出せるように、声量を稼げるようにしなきゃいけなかったんだ」

声の大きさと、声の芯の強さそして安定性は、また別物なのだ。

「それに……我流で身につけた感覚だからな、アドバイスすべきか否か、本当はさっきのさっきまで迷ってた」

頬を掻いて、ばつが悪そうに語る。

「でも、麗さんから、臆せず進むようこないだ諭されてさ。今がたぶん俺の出番なんだろうな、って腹を固めた」

差し出がましいことをして申し訳ない、とトレーナー三人に向けて頭を下げる。

殊勝なPに、聖がとんでもない、と手を振った。

「いや、これはむしろ私たちにとっても興味深い結果だ。是非とも盗ませてくれ」

不敵な笑みを湛えて、肌身離さず持ち歩くバインダーにペンを走らせている。

「ねえプロデューサー、今日もう少し歌っていい? 喉を傷めない程度に抑えるから」

凛が、逸る気持ちを隠し切れない声音で、自ら居残りを願い出た。

おそらく、駄目だと云っても聞くまい。

それほどまでに、今の凛の表情は輝いていた。

歌うことに楽しさを見出した顔だった。

この分なら、月末のフェスは間違いなくいける――Pはそう確信した。



――

ここはお台場、フジツボテレビの湾岸スタジオ。

建物内だけでなく、周囲や屋上にも特設ステージが設けられ、フェスの熱気が渦巻いている。

ただでさえ暑い夏、会場近くはさらに気温が高いように思えるのは、気のせいではあるまい。

ニュージェネレーションの三人は、スタジオの屋上へ仮設された控室にいた。

屋上には小規模と中規模、二つのステージがあり、その小さい方へ出演するためだ。

なお、このフェスで最大のステージは、空調の整った建物内にある。

そちらには765プロや東豪寺プロなど、誰もが知っているアイドルしか出ていない。

各所へのアイドルの割り当ては準備委員会が決めるが、その内容は事前に知らされていたし、Pも異存はない。

もともと知名度の低いニュージェネなど、最も小さい舞台ですら上等なのだ。

ただし、一つだけ先方に注文したことがあった。

「みーんにゃ~~! サマーライブフェスへようこそにゃ~~!」

少し離れた中規模ステージから、特徴的な喋り方で即座に判別できる、前川みくのMCが響いてきた。

――そう。これこそがPからの要求だった。

『みくの出番にぶつける形で、CGプロのタイミングを持ってくること』

三枠を一枠に縮小する見返りとして、こんなことでいいのなら幾らでも、と事務局は快諾してくれた。

フェスとは即ち――戦争である。


まもなく、我々が誇るアイドルユニット、ニュージェネレーションの初舞台。

あと五分で開演だ。

Pが「そろそろだ」と云って控室に入ると。

そこには、三人が、統一感ある衣装で待っていた。

ロッキングスクールというテーマの、淡色のシャツに黒いチェック柄のノースリーブベストとミニスカート。

ネクタイとベルトは、それぞれ赤系、青系、黄系で差別化を図っている。

活動的であり、なおかつ清潔感や清楚感を憶える、よく出来た『戦闘服』だった。

ニュージェネレーションはみな、興奮と緊張の混ざり合った、それでいて勇壮な笑みを浮かべている。

「プロデューサー、やってくれたね。みくにリベンジする機会をこういう形で用意してくれるなんて」

「さあて、なんのことやら?」

タイマンで負けた凛を筆頭に、直接的な勝負はしていないながらも追い付けなかった卯月と未央。

三人がひとつにまとまって、一気呵成の反撃を仕掛ける。

仮に、もし、万が一、個々の力ではみくに未だ及ばなくとも、三本の矢が集まれば、強靭な力となる。

皆、Pの意図したところを汲み取っていた。

そして円陣を組んで、お互いを見詰め合う。

「卯月、未央。ここが歯の食いしばりどころだよ」

「うん、私たちが頑張れば、最近入った子も活動しやすくなるし、そうすれば即戦力にもなってくるよね」

「えっへへ! しぶりん、しまむー、向こうのステージからお客さんを根こそぎ奪う勢いでいこうっ!」

えいっ! と気合いを入れて、舞台へと飛び出していく。

Pの目には、彼女らの背中に、羽ばたく翼があるように見えた。


みくは、やや離れた小規模ステージから突如として流れてきた爆音にひるんだ。

自らの持ち歌を披露しながら、しかし心の中では「一体向こうでは何が起こっているのにゃ!」と動揺している。

実はPはこのときの伴奏音源に、細部のディテールを犠牲にしてでも音圧を極めて高くしたものを用意していた。

音圧が高ければ、それだけ遠くへと届く。

CD等のパッケージでは、やってはならない悪手。

だが、みくのステージを観ている客の耳にもニュージェネの音が入っていくよう、修羅の選択をしたのだ。

戦争とは、えげつない。

案の定、そのノリの良い楽曲に、中規模ステージの近くにいた者たちがみな興味を惹かれたようだった。

――はじめまして! 私たち、ニュージェネレーションです!

三人の息の合った掛け声が、そして歌声が、湾岸スタジオの屋上に響いた。

いま、ニュージェネレーションは一箇月弱もの特訓の成果を遺憾なく発揮している。

アップテンポの曲が聴く者の興奮を呼び覚まし、玲瓏な三人のハーモニーが聴く者の魂を揺さぶる。

一人、また一人と中規模ステージからニュージェネの歌い踊るエリアへと移ってゆく。

ちょ、ちょっとみんな待つにゃ!

みくのそんな心の叫びは、彼女自身のプロ根性ゆえマイクには乗らない。

それが災いか、数分も経つ頃には、民族大移動が発生していた。

複数のステージを同一会場内に設置するサマーライブフェスならではの、残酷な光景。

これこそ、フェスの名に相応しい。

それでも自らに割り当てられた分の演目をこなし、みくは「ありがとにゃー!」と感謝の叫びを上げる。

無論、大移動が起きたとはいえ、みくの観客だってゼロではない。

聴いてくれた人々に感謝するのは当然のことだ。

しかし、この変則的なLIVEバトルに負けたのだと、彼女は舞台袖へ引っ込みながら認めざるを得なかった。

「きぃ~~ッ! ムカツクにゃ!」

まるで猫が「フシャー」と威嚇するのと同じように、みくはボルテージを上げた。

「こうなったら敵情視察にゃ!」

衣装の着替えもそこそこに、カモフラージュの上着を羽織って、すぐさま小規模ステージの方へ向かう。

そのエリアは、人数を改めて確認するまでもなく、明らかにオーバーキャパシティとなっていた。

満員電車の如き様相で、ニュージェネの演舞に歓声やコールが入れられている。

連写するシャッター音や、録画開始を告げる電子音が、至る所で鳴り渡る。

――ニュージェネレーションなんて聞いたこともないにゃ! こんな馬の骨、誰にゃ!

みくは人の波を掻き分けて、ステージを見渡せる位置へとつくことができた。

そこには、先月とは見違える姿となった、凛、卯月、未央。

「あ……あれは、渋谷凛チャン……? 他の二人も確かCGプロの……」

歌い、踊り、舞い、跳ねているのは、原宿で見かけたアイドルではなかった。

「まるで別人にゃ……」

同一人物のはずだが、到底そうは思えない変貌を遂げていたのだ。

ステージを演り終えたニュージェネレーションに、喝采が浴びせられる。

「こんなアイドルグループ知ってたか!?」

「いや、全然知らねえ! 見たことも聞いたこともなかったけど、こりゃすげえ発見かもな!」

方々から、ダークホースの出現に驚愕、興奮する会話が聞こえてきた。

みくは、一言「負けないにゃ!」とだけ叫んで、踵を返した。

――まだにゃ、まだ明日があるモン。借りはきっと返すにゃ。

心の中は熱く、しかしそれを表には出さず、みくは場を去った。


夜、CGプロ事務所では、フェス期間中とはいえ大人だけのささやかな祝賀会が開かれていた。

初ライブで、予想を上回る動員を記録したことは、CGプロにとって大きく明るいニュースだった。

そればかりか、色々な場所で、今日の出来事は話題になっている。

消防法の関係で一時は規制すら囁かれたほどだったのだ、芸能関係ニュースの食い付きの激しさたるや。

さらにネット上のアイドルオタクが集う場では、そのダークホースぶりも併せて、CGプロが注目の的だ。

ニュージェネステージの様子を撮影した写真――特に凛をアップで捉えたものが、物凄い勢いで拡散している。

『この渋谷凛って子、すっげぇ可愛いんだけど!』

『まあ普通だな、ミキミキほどじゃない』

『ニュージェネレーション? 聞いたことねえな』

『どこの地下アイドルだよ全く――  …………おい……可愛いじゃねえか……』

『この子765の新人? それとも波浪プロ? え、違うの? CGプロ? 知らないぞこんな事務所』

『可愛過ぎてやべえよ……やべえよ……』

『将来が楽しみで仕方ない』

『俺は原石を見つけたんだ(確信』

想像以上の反響に、「こりゃえらいことになったな」「明日から忙しくなりそうだ」などと会話が弾む。

急遽、明日のステージ構成は小規模から中規模の方へ移されることになった。

バミのチェック等をしなければならないから、明日の会場入りは早朝。

ゆえに凛たちは早めに帰宅させてある。祝賀会が大人たちだけで行なわれている所以だ。

もちろん凛も、卯月も、未央も、この反響は聞き及んでいる。

今頃、自宅でネット等を見ながら武者震いしていることだろう。

斯くして、熱いフェスは暑い二日目を迎える。


昨日よりも更に気温が上がる予報の中、ここお台場の湿度は幸いにも今日の方が低く、爽やかだ。

ただし太陽は朝っぱらからぎらぎらと本気を出しており、外に半刻も立っていたら確実に紫外線の餌食となろう。

ステージを土壇場で交換することとなったため、一日目から変更のあった箇所は多岐にわたっていた。

ニュージェネレーションと引率のPは、開場までの短い間にいくつもの項目を確認して潰していく。

銅や鏷も話題沸騰となったニュージェネの舞台を見たがっていたが、
生憎、新規に所属したアイドル、水本ゆかりや高森藍子たちの営業が重なってしまった。

「おいP! いいか、未央を重点的にビデオ撮っとけよ! アップでな! あと観客席の様子も忘れるな!」

「ちょっと、卯月も始終フレームインさせとかないと承知しないわよ!」

早朝、事務所で別れた際の各プロデューサーの無茶な要求の数々。

一日目はうまく終えられるかどうかに気を取られ、Pはスマホのカメラで簡潔な記録しか残せなかったのだ。

同じ轍は踏まないよう、今日はきちんとビデオカメラを鞄に入れてきてある。

開場前最終チェックに合わせ、Pがカメラを弄くり回して調子を窺っていると、舞台から三人が降りてきた。

ニュージェネ三人は本番前日のゲネプロを含め、昨日まで小規模ステージでしか活動しなかった。

つまり中規模ステージで演るのはぶっつけ本番に近い状態だ。

舞台へ上がる際のバミや、各種機材のセッティング、返しのモニターの位置。

色々な部分で異なるので、凛たちは臨時リハーサルで必死に吸収している。顔は真剣そのものだ。

そして、ニュージェネと同じ状況に置かれているアイドルがもう一人。

「なぁーんでみくが小さい方へ追いやられなきゃならないのにゃ!」

件のアイドル、みくが事務局の配置担当者に苦言を呈しながら歩いている。

「こんな間際になって別のリハやらされても頭がパンクするにゃ! 一昨日のゲネは一体なんだったにゃ!」

ニュージェネと入れ替わる形で小規模の方へ移されたのがみくだった。

二日目も、みくとニュージェネは同じタイミングのタイムテーブルだったのだ。

昼過ぎと云う、お陽様と気温が一番元気な時間に割り当てられている。

企画時点で力の弱かったニュージェネが損な時間帯に配置されるのは、当たり前のこと。

いくら一気に脚光を浴びたからと云って、ステージの移し替えはともかく、出演時間の変更は流石に無理だった。

持ち時間を15分だけ伸ばしてもらえたが、これすらも破格の配慮と云えよう。

強い足取りで歩くみくが、CGプロの面々を見つけ、びしっと指を向ける。

「またみくと同じタイミングでLIVEだって? 受けて立つにゃ。今度は手加減しないんだからにゃ!」

その声にレジュメに目を通していたPたちが顔を挙げた。

「……私たちは負けないよ」

凛が眼光鋭く言い放つ。

みくとの視線が交錯し、LIVEバトルの場外戦を繰り広げた。お互い一歩も退かない。

どれくらい火花を散らしただろうか、まもなく開場する旨のアナウンスによって、各々が控室へと下がった。

決着は本戦へと舞台を移す。


中規模ステージは屋上の北端に築かれており、トラスなど覆う構造物がない。

そのため、客席から見ると、アイドルの背にフジツボテレビ本社ビルが控える。

球体の構造物が印象的なその建物は、燃え盛る午後の太陽を反射して輝いており、さながらミラーボールのよう。

そして突き抜けた青空は、蒸し暑さを吹き飛ばすほどに爽快だ。

まもなく、CGプロの演目が始まる。

昨日と同じく、五分前にPが「そろそろだ」と云って控室へ入ると。

昨日とは違う衣装を身につけた凛が立っていた。

初めて舞台を踏んだ時とは見違えるほど落ち着いた様子で、出番を待っている。

凛が纏う黒基調の衣装は、最初のライブで着たものを基に改良を施した、新型だ。

改造の前と後では、醸し出す高級感に歴然とした差があった。

革のコルセットが追加され、スカートも五層構造へと大幅なボリュームアップを遂げた。

絞るように引き締めるウエストと膨れ上がるスカートの裾の対比で、凛の身体の魅力が遺憾なく発揮されている。

一輪の花が目を引く髪飾りは一回り大きくなり、長いリボンに付け替えられた。

すらりと長く伸びた脚には、黒光りするロングブーツが艶かしい。

誰が見てもアイドルだと納得できるであろう女の子の姿だ。

凛の恵まれた体型の真骨頂が、ここに在った。

「とても綺麗だ。だけど、最終的に俺がゴーサインを出したとはいえ、熱中症には気をつけろよ」

このような黒づくめのドレスは、夏の日射しの中では非常に過酷と云える。

しかし、抜ける青空を背後にして立つと、くっきりと見せることができるのだ。

「ふふっ、大丈夫。水分はきちんと摂ってるし、熱中症を怖がってちゃアイドルなんて無理でしょ」

凛の言葉には、きつい体力トレーニングにも耐えてきた自負が顔を覘かせていた。

「でも気をつけるに越したことはないからね~~。はいしぶりん、冷たい水」

オレンジを基軸にした衣装の未央が、凛にコップを渡して云った。

傍で笑む卯月もまた、ピンクをあしらった、彼女ならではの恰好をしている。

幸運にも昨日より長い時間を貰うことができたので、急遽ニュージェネとしてだけでなく、
凛、未央、卯月のソロでも舞台へ立つことにしたのだ。

凛は、その切り込み隊長の役割を負った。

――出番OKです!

スタッフの声が響く。

凛が、堂々とした所作でステージへ上がっていった。


みくもまた、本番が間近に迫り、控室に待機していた。

普段は柔らかい感じの服を着ているが、彼女のアイドル衣装は、逆にシャープな印象を与える。

上下がセパレートになっていて、魅惑的な部位を惜しげもなく空気に曝しているのは目のやり場に困ってしまう。

自らの武器を、みくは完全に認識していた。

彼女は努力家だ。

実際、全て一人でセルフプロデュースしているにも拘わらず、このようなフェスの大舞台に立てるまでになった。

勿論その裏事情には、CGプロと同じく最初は補欠要員として挙がったというのもあるのだが――

経緯はどうあれ、この大きなイベントに演る側として参加できている事実は判然と存在している。

そんな身だが、昨日は慢心が存在していたらしい。不覚をとってしまった。

今日こそ、いつも通り気張ってゆけば、問題ないはず。

シマへ乗り込んできた者に自分が負けるなんて、認めないし、あってはならないのだ、そんなことは。

肩に届くか届かないかという長さの髪を、後頭部で束ね、リボンで装飾を施す。

猫耳を装着し、腰に猫の尻尾も着け終えた瞬間から、そこにいるのは前川みくではない。

アイドル『みくにゃん』だ。

「今度こそ負けないにゃ!」

鏡の前に立ち、ガラスの向こう側にある世界の中で立っている自分へ檄を飛ばした。

――出番OKです!

スタッフの声が響く。

みくが、猫を模した所作でステージへ上がっていった。


ステージへ飛び出た凛の目の前には、まさに人波が横たわっていた。

背の高さ様々な人々が、ざわめきを発しながらうごめき、それは波と形容するに相応しい。

ダークホースを一目見ようとした群衆の量は、中規模ステージへ移された判断が正しかったことを示している。

観客の中には、ニュージェネレーションの写真を見たことで急遽会場へ足を運んだ者もかなり多いと聞く。

ネット上に拡散されひときわ反響を得た、クールに舞う凛を捉えた画像。

そのシンデレラの如く注目されたアイドルが、今日はユニットではなくソロで先発を務める。

「ニュージェネレーションの、渋谷凛です!」

凛が右手を天高く振りかざすと、駆け抜ける風に黒い長髪とリボン、そしてスカートがたなびく。

碧い瞳が、髪飾りのワンポイントが、洗練された装いの中で明るく主張している。

昨日とは違う恰好で登場したアイドルに、客席から怒濤の歓声が上がった。

衣装こそ異なれど、昨日のロッキングスクールと同様に、凛々しく佇むのはクールな姿。

写真で見た通りの美少女が、写真とは違って動いている。

舞い、踊り、歌っている。

――今、自分は、誰も知らない将来のスターを、誰よりも早く見ることができている。

ひしめく客の大半が、その感想を胸に抱いていた。

遠くない未来、きっとこのアイドルは大物になる。そんな予感とともに。

何も持っていなかった少女が、空っぽだった少女が、居場所を見つけ、人に何かを与えられる存在へ羽化した。

ステップの踏み方、体幹の位置、振り付けの躍動、腹の底から出す声――青木姉妹から受け継いだもの。

そして、ヨーヨーを投げる意識、碁石を置く意識――Pから受け継いだもの。

非常に多くの要素を頭で考えるより先に、凛の身体が自動的に次へ次へと存在を表現していく。

日射しに噴き出る汗も、今の彼女には何ら障害にはならない。

むしろ飛び散ったそれは、光を反射して、より凛を彩らむとする舞台装置だった。

凛に続き未央、卯月、そして三人揃ってロッキングスクールでの演目を終えるまで、
観衆は減るどころか集う一方だった。


みくは一足先にステージを終えていた。

未だ曲と歓声の流れ続ける方向をちらりと見て、勝敗を探らむとし、途中で止めた。

数えるまでもない。

黒い群衆の密度も、それが占める面積も、凛ひいてはニュージェネレーションの方が大きかったのだから。

勿論、みくの本日のステージだって、原宿の箱で演っていた頃よりも大きな動員数を記録した。

だから、みく自身も成功していたのは間違いない。

単純に、ニュージェネレーションの方がより大きく成功しただけに過ぎないのだ。

それでも。

両者ともに成功したとはいえ、Pが仕掛けたこの戦争の白と黒は、はっきりしてしまった。

「みくの実力はこんなじゃない! きっと証明して見せるにゃぁ!」

屋上に轟く歓声の中、みくの叫びは、人知れず臨海の虚空へと溶けていった。



――

CGプロの事務所、応接エリアに大手雑誌社のライターやカメラマンがいる姿は、どうにも慣れないものがある。

「今後目指したいもの、ですか――」

フェスから数日、一躍脚光を浴びたCGプロの面々に、複数のマスメディアから取材要請が絶えない。

思案し「今を駆け抜けることで精一杯」と受け答えをする凛の言葉に、敏腕ライターはメモを走らせていた。

それは、これまで何も持っていなかった彼女の偽らざる本心であろう。

アイドルであることが楽しい、今はそれだけでも、凛の存在意義となっているのだ。

卯月はこれまでずっとアイドルを目指していて報われつつあることを語り、未央は相変わらずお調子者な回答で周囲を湧かせる。

新聞や雑誌、ニュースサイト――複数回に亘るアポを消化する頃には、
彼女らにはアイドルとしての強い自覚、そして風格が備わりつつある。

ランクこそ上がってはいないものの、ニュージェネレーション三人のDランク昇進は時間の問題であろう。

速報性の高いサイト、数日後には多くの読者を持つ新聞、月に一冊とペースは遅いが興味対象層が深く読む雑誌。

ニュージェネレーションの三人、そしてCGプロの名は、それらの波状効果で確実に世間へ広がっていった。

今、受けているインタビューは、展開の核となろう雑誌のもの。

ゆえにCGプロとしても鼻息が荒い。

社長やプロデューサー陣がアイドルの展開予定等を伝え、手応えを感じつつある頃。

事務所入口を勢い良く開けるバァンという音が響く。先日修理したばかりのドア、そのネジが再び歪んだ。

何事かと全員が驚き、特に取材に臨むカメラマンは、戦慄のあまり大事な仕事道具を咄嗟に抱きかかえた。

「たのもー! にゃ!」

同時に、特徴的な喋り方がフロアにこだました。

Pが応接エリアのパーテーションから顔だけを覗かせると、案の定、玄関で仁王立ちしているのはみくだった。

Pの顔をめざとく見つけた彼女は、戸惑うちひろの制止を無視してずんずんと歩いてくる。

肩を怒らせ、Pをびしっと指差して、「こ、こないだは全く歯が立たたなかったぞぉ!」と威勢良く叫んだ。

しかし、その場で何が行なわれていたかを理解するにつれ、やや気恥ずかしそうな素振りとなる。

まさか、今まさに取材を受けているところとは思わなかったのだろう。

やっちゃった、と云う表情をしている。

ここまで来たらええいままよ、と開き直ったみくは、その場の全員を上目遣いで見た。

「あ……あんなことされたのっ、初めてにゃ……だから、ちゃぁ~んと責任、とってよねっ☆」

みくの爆弾発言に、未央が、喋りまくって乾いた口を潤そうとしたお茶を盛大に噴き出す。

自らのお気に入りのシャツに染みを作らされた鏷は、サングラスの下で哀しい表情を浮かべた。

「ぴ、Pさん……もしかして……裏では食べてたの? 戦争だとか云っといてさ~~」

咳き込みながら問う未央やジト目を向けてくる凛に「そんなわけあるか! 誤解だ!」と弁解するP。

「さぁ、みくをトップアイドルに仕立て上げるのにゃ☆」

みくはそんな騒動などお構い無しに笑う。彼女の中では、移籍することは既定事項らしい。

「俺はどっちかってとクールな子の方が得意なんだよなぁ……」

「非道い! 弄んだみくを棄てるのかにゃ!」

「そうは云ってないし弄んでもいない。……銅、たぶんこの子はお前にぴったりだろ」

Pは区画の隅に立ちながらも独特のオーラを醸し出すもう一人のプロデューサーに話を向けた。

「あら、独特なキャラが立ってるし、それでなくとも素材は充分に可愛いし、いいわねェ」

と笑ってみくの全身を見定めてから、

「いいわ、こっちで面倒みたげる」

とウインクをする。

社長はそんなドタバタ光景をニコニコしながら静かに見守っており――

その後発売された当該雑誌では、ニュージェネレーションの記事に、みく転属のニュースが追加されていた。


副業に戻ります
七時くらいに再開できればと思います


あとから誤字を見つけるとへこむ

>>507
誤 仕切り直しを咳払いをしてから、真面目な声音に戻る。
正 仕切り直しの咳払いをしてから、真面目な声音に戻る。




・・・・・・


大嶋から電話が入ったのは、暦上の秋とは名ばかり、残暑が厳しい九月半ばのことだった。

先輩と後輩の間柄であり、個人的な遣り取りはたまのタイミングで行なっていたが、今回はそれとは違うようだ。

個人ではなく伝通としての連絡であった。

「正式な取引関係、ですか」

「ああ、こないだのフェスでお前のところがクローズアップされただろ」

件のニュースは、広告代理店の耳にも入るほど幅広く伝搬しているらしい。

「ウチの主要取引先―フジツボ―からも好感触ぶりを、伝え聞いているんだ」

例のサマーライブフェスは、フジツボテレビが主催者に名を連ねていた。

そしてフジツボと伝通は蜜月の関係にある。

これまで伝通社内では、どこの馬の骨とも知れないCGプロを顧みる人間などいなかった。

そもそも知られてすらいなかったと云うべきか。

ほぼ唯一その存在を認知していた大嶋も、先日の失敗以降はCGプロの名前を出すのは控えていたそうだ。

あの件は大嶋のせいではない。全てPに責任があるのだから、大嶋の対処は何ら間違っていない。

そしてP自身、そのけじめをつけるべく、大嶋に負担をかけないよう独立独歩でやってきたわけだ。

CGプロにとって、成功こそ重ねたものの、これまでやや険しい向かい風情勢だったと云える。

それが、今回のフェスの成功で潮目が大きく変わるのは、願ってもないことだった。

広告代理店と云うものは、金の匂いがすると行動が早い。

ゆえに、がめついと後ろ指をさされたり、搾取者という烙印も押されがちで、その事実をPは否定しない。

しかし腰を上げる素早さは、CGプロに福音をもたらす。

「先輩が――伝通が間に入ってくださるなら、これほど心強いものはありませんよ」

Pが感激のあまり、声量を大きくして受話器を強く握った。

「嬉しいことを云ってくれる。どうやらざっと調査した限りでは、あの一件で大きく成長したようじゃないか」

「……あのときは本当にすみませんでした。先輩のお蔭です」

「今となっちゃ笑い話さ。フェスを成功させるほど大きな姿になっただけで充分報いてくれてる」

当時は死にそうな顔をさせられたトラブルも、時間が経てば美談となるのだ。

「あのときお前が失敗したクライアント、CGプロの再採用を検討しているみたいだぞ、よかったな」

きっと、正式に伝通と顧客契約することとなれば、そのクライアントと再び仕事をする日も遠くはないだろう。

ひいては傘下の制作会社、伝通テックともパイプが太くなるはずだ。

「それからな……お前と俺の間柄だ、秘密保持契約―NDA―を前提として話すが――」

Pは、大嶋の口から発せられた情報に、身震いを禁じ得なかった。



――

二日後、汐留。

Pと社長は、正式な顧客契約とNDAを締結するために、伝通本社へと赴いていた。

大嶋と握手した社長は、「うちのP君が大変お世話になったそうで」とお互いに笑い合う。

伝通側も事業部長が同席しており、この場で全てを決めてしまおうという強い決意が見える。

CGプロとしても、社長自らが出張ったのはそのためだ。

世間話もそこそこに双方が書類に押捺、本題はすんなりと終わってしまった。

「なんか、驚くほどあっさり済んじゃいましたね」

Pが相好を崩すと、大嶋もつられて声を出して破顔した。

「まあ或る程度事前に話がまとまってればこんなもんさ。それでも予想以上の早さだったがな」

予定していた時間よりだいぶ余ってしまったな、と皆が笑い合った。

やるべきことを終わらせてから、業界話に花が咲く。

広告代理店が俯瞰しているアイドル業界の進む先、CGプロが描く将来像。

失われた20年に加えて大震災にも襲われ、暗く閉塞した世の中だ。

癒しの手段として、これから更にアイドルが重要となってゆくことは間違いない。

無論、企業活動ゆえ稼がなくてはならないのは前提として、
向こうもこちらも、人々を笑顔にしたいと云う想いは同じだった。

伝通といえど、現場に近い部署なら、必然的に想いも近づいてゆくものだ。

「ん、そろそろかな――」

大嶋が腕時計を確認してつぶやいた。

さほど時を経ずして、応接室にノックが響く。

若い女性社員に連れられて顔を出したのは、青年と中年の間ほどの背格好をした男性が二人。

片方はぱりっとしたスーツを着て、もう片方はとてもラフな服装だった。

「どうも、この度お世話になります」

その二人が会釈を向けてくる。皆が立ち上がって挨拶を返した。

「こないだPにも話した通り、こちらが磐梯南無粉の早川さんと――」

大嶋がスーツの人物を示した紹介を、隣のラフな者が引き継いだ。

「磐梯南無粉ディレクターの岩原です。本日はお話があって、早川に同席させて頂きます」

先日Pに大嶋が話したこと。

それは、伝通と磐梯南無粉が共同展開を広げるというものであった。

順調に話がまとまれば、来月半ばにでも発表されるはずだ。

その提携の詰めを行なっていく中で、磐梯側が新規アイドルに関する情報を欲しがっていることを大嶋が知った。

共同展開の内容とは直接の関わり合いはないとはいえ、仲介するのも代理店の重要な仕事だ。

伝通がアイドル業界を探る中、そこへきてCGプロのフェスでの注目度上昇である。

大嶋はタイミングを見逃さなかった。

磐梯の実動部隊である岩原と、CGプロの実動部隊であるPを引き合わせるセッティングを、今日に組んだのだ。

「我々はゲームコンテンツを通して、アイドルの世界を幅広い人々にお届けしたいと思っています」

岩原が、激務からか隈の酷い、しかし眼光はぎらついた目でPを見た。

「磐梯南無粉さんといえば、たしか色々なアイドルを――」

「はい、既に765さんや961さんなどと協業で、コンテンツ展開をさせて頂いています」

確認するまでもない。

現在業界の第一線をゆくAランクアイドルは、
765の天海春香や如月千早、961のジュピターなど、全て磐梯南無粉の息がかかっている。

勿論、スターダムを駆け上がるにはアイドルたち本人の実力が大いに必要だ。

しかし、磐梯南無粉の協力を得られるか否かで、アイドルとして成功できるか、その難易度は著しく変わる。

磐梯南無粉の影響力は大きかった。

「この度、全く新しいジャンルでコンテンツの展開を進めたいと思っています」

岩原は、Pが予想した通りの話を切り出した。

「――しかし、実現の為には、既存ではリソースが足りない」

「磐梯さんほどのコンテンツホルダでも足りないのですか?」

「はい。これまでの765さんだけではまかなえない規模です」

岩原が顎を引いて指を組む。

「そこで今、新興ながら脚光を浴びて赤丸急上昇中、幅広いアイドルのいるCGプロさんにお願いしたいのです」

765や961を最前面に出して展開すると、失敗した時のリスクが大きいことを、岩原は言外に示唆している。

リソースの量で云えば、ダウンバックや星屑プロモーションなど、多くのタレントを抱えた事務所は数ある。

ただしそれらはランクの高い大手だ。

吹けば飛ぶようなCGプロだからこそ、磐梯南無粉にとって冒険ができるのだ。

「今回のご提案、双方にWIN-WINだと思いますが如何でしょうか」

隣の早川が、眼光鋭い岩原の代わりに、柔らかい調子で問うてくる。

Pも、社長も、ここが分水嶺だと直感した。

セッティングしてくれた大嶋の顔を立てる必要もあるし、挑戦しなければ掴み取ることはできない。

例えリスクがあっても、だ。

何より、CGプロが今後成長していくために、磐梯南無粉と手を組むことは絶対に必要だ。

将来的には、ステークホルダとして対立する可能性は無きにしも非ずだが――
そんな衝突など企業間ではいくらでもある。相手が無視できない力を、こちらが持つようになれば良い。

社長とPはお互いを見合って、頷いた。

「承知しました。こちらとしても、磐梯南無粉さんとお仕事ができるのは光栄の極みです」

Pが立ち上がり、手を差し出す。岩原が、がっちりと握手した。

その手は、熱かった。



――

十月半ば。

磐梯南無粉が新たなアイドルコンテンツを十一月末から展開すると云うニュースが、世間を駆け巡った。

そのリリースの中に、765と並んでCGプロの名前が入っているのを、Pは感慨深気に見る。

マスメディアは、新たなアイドル業界の動きに興味津々だ。

フェス後もライブや営業等をこなし認知度を高めつつあったCGプロが一気に躍進した、と報道が過熱している。

もし上場していたら、株価はきっとストップ高になっていたことだろう。


磐梯南無粉との協業は、Pの予想を遥かに超えた規模の計画になっていた。

詳細なプランが煮詰まりつつあった先月のこと、出家鵺の参加が打診されたのだ。

新型メディアのトップヒッターとして頭角を現しているプラットフォームビルダー。

携帯電話ネットワークに甚大な強みを持つ企業の参画に、Pのみならずアイドルたちも怪訝顔だ。

「ねえ、プロデューサー。なんでこんなに話が大きくなってるの……?」

「……俺もわからん」

Pは磐梯南無粉の真意を測りかねていた。

これほど大規模になるなら、それこそ波浪プロ擁するダウンバックなり、星屑プロモーションなり、
大事務所を使った方がいいのでは。

それとも、これほど大規模に風呂敷を広げてもなお、失敗の可能性を危惧しているのか。

ふと、Pは先日テレビで見た、青函トンネルのドキュメンタリーを思い出した。

青函トンネルは、いきなり隧道本体を掘り進めて造ったわけではない。

海底トンネルと云う未知の領域の為に、まず小さな先進導坑で進む先の地質を調査し、
次いで準備の為の作業坑、それを終えてようやく本坑の工事へ移った。

自分たちは、磐梯南無粉にとって先進導坑のような存在なのだろう。

仮に出水事故や落盤事故を起こしても、CGプロだけ切り捨てれば被害は軽微で済む。

大手事務所を大量に使っては、そうはいくまい。

いわば使い捨ての駒のようにも思えるが、世の中にはその駒にすらなれず消えていく人々の方が多いのだ。

CGプロにとっては、この機会を逃さず、無事故で成功させればよいだけのこと。

徐々に所属者が増えてきたCGプロにとって、輝ける場所が用意されるという事実があるだけで、
所属アイドルのモチベーションはあがるものだ。

ニュージェネレーションの三人をはじめ、プロダクション全体の士気は高かった。


伝通と磐梯南無粉、そして出家鵺の力は凄まじい。

新規コンテンツのリリースを間近に控え、CMが全国ネットで放映されたのだ。

広告枠の確保は伝通に勝る者なし、希望通りの時間帯に挿入されたのは流石と云える。

そのCMはほとんど765出身者で占められていたが、CGプロからただ一人、凛が抜擢された。

Dランクアイドルが、1カットのみとはいえお茶の間に堂々と流れるのは異例中の異例だ。

765の代表曲『READY!!』をBGMに凛が登場して喋る15秒の映像を、Pは事務所でひたすらリピートしている。

その喜びぶりには、社長もちひろも苦笑いを禁じ得ない。

「おはようございま……」

カチャリと軽やかになったドアの開閉音とともに凛が出社して挨拶を寄越すが、

『アンタがプロデューサー?』

『アンタがプロデューサー?』

『アンタがプロデューサー?』

延々と繰り返される自らのループに、テレビの傍までダッシュし、乱暴な動作で電源を落とした。

「あアァッ! なんで切るんだよ!」

「なにやってるのプロデューサー! 延々同じところを繰り返して、恥ずかしいってレベルじゃないでしょ!」

不意の切断にPが叫び、凛は顔を真っ赤に染めながら呆れる。

「だって、だって、担当アイドルだぞ!? 担当アイドルが全国ネットデビューだぞ!?」

「もう、やめてよ。そりゃ喜んでくれるのは嬉しいけどさ」

凛自身、両親とともに初めてCMを見たときは、天にも昇る気持ちだった。

しかしそれで済めば可愛いものだったのだが、本日、クラスで散々弄られるハメになったのだ。

いくらインターネットが発達したとはいえ、お茶の間に流れるテレビは依然強い伝搬力を持っている。

知る人ぞ知る状態で、あまり波風が立っていなかったこれまでと違い――
全校の誰もが、アイドル渋谷凛の存在を認知するようになっていた。

もはや凛は、学校では気の休まる時がないと云ってよい。

流石にこの事態に教諭陣は眉をひそめつつある。

凛の成績は上位を維持していたので現時点でお咎めは受けていないが、もし今後さらに露出が増えれば、
仕事も比例して増え、現在のままの学業を続けるのは難しくなるだろう。

「あの二人とはその後どうだ?」

Pがあづさとまゆみの様子を訊ねた。

「ん、二人とも喜んでくれてるし、私の防波堤にもなってくれてさ。とても助かってる」

好奇の目に曝される凛を、それとなく護ってくれているのだ。

身近に理解者が居るというのは、とてもありがたいことだった。

「……そうか。また今度、何かお礼をしなきゃいけないな」

Pの頭の中には、関係者席への招待するプランなどが踊っていることだろう。

いづれにせよ、最近は受けたオーディションに合格したり、凛自身を指名する仕事がぽつぽつ入ってきた。

そう遠くないうちに、対策を考えなければならない日がやってきそうである。



――

11月28日。

いよいよ以て、磐梯南無粉と出家鵺、CGプロの渾身のコンテンツ展開が開始された。

夏のフェスで注目されてもなお、世間にはCGプロが浸透したわけではないことを思い知らされるほどに、
新興事務所を初めて知る人が続出した。

『765目当てでコンテンツ触ってみたけど、なんかこの渋谷凛って子めっちゃ良くね!?』

『おまえ黒髪ロングとかDT受けよさそうなの好き過ぎだろw 俺は本田未央、キミに決めた』

『はいはいおっぱいおっぱい。正統派な島村卯月ちゃん以外にないっしょ。アイドルっつったらピンクよ』

ネット上をメインとして、改めてCGプロ旋風が巻き起こっている。

このままファンを堅実に獲得し、ライブ等で露出を増やしていけば来年度にはCランクも夢物語でもなさそうだ。

無論これは喜ぶべきことであるが――やはり『知られていない』と云うのは『存在しない』と同義なのだと。

改めて、Pはその教えを噛み締めている。

他人に知られて初めてアイドルは意味を持つのだ。

もっともっと、世間に凛、いやそれだけでなく担当アイドル全てを知ってほしい。

「凛を筆頭に、うちにはこんな幅広く可愛いアイドルがいるんですよ」と皆に知らせてあげたい。

そんな“伝道師”としての想いが、Pの中で鎌首をもたげていた。

更には、経営が軌道に乗り始めたせいか、根っからのスカウトマンである社長が本気を出し始めた。

街中でアンテナに引っ掛かる人を見つけたらとにかくアタックを試みる。

大抵は断られて終わりなのだが、百回・二百回と繰り返せば、足を止めてくれる人はそれなりにいる。

そこからアイドルとしての適正云々でふるいに掛けられた『予選通過者』が、だいぶ増えてきた。

先日などは、凛の雑誌撮影案件でスタジオを共同使用したモデルのことをぽつり漏らしたら、
その翌週には当人がCGプロ事務所―うち―にいた。

「……社長、ちょーっと最近スカウトしすぎじゃないですかね」

人数が増えれば、それだけスタジオ待ちや仕事の時間調整で事務所に詰めるアイドルが多くなる。

そんなおしくらまんじゅう寸前状態のフロアを見ながら、Pは社長にぼそりと告げた。

後先考えずスカウトしてくる社長のせいで、現在の事務所は手狭という言葉の次元を超えてしまっている。

「はっはっは、あまりにも魅力的な子が街に多くてね! いやこれでもだいぶセーブしているのだが」

社長は豪快に笑って弁解した。

CGプロの知名度が上がったことで、以前はコンマ数パーセントだった成功率がかなり上がってきたのだそうだ。

これでは早晩、建物がパンクしてしまうだろう。

出家鵺との新規展開によって、更に仕事の幅やスケジュールの過密さが増えた。

十二月から一月にかけて、凛はじめニュージェネレーションの予定は、出席日数ぎりぎりの状態だ。

冬休みに入るからまだ首の皮一枚で綱渡りできていると云って過言ではない。

アイドルに関するあらゆる業務を行なうプロデューサー陣、そしてちひろの処理能力も限界に達しつつある。

社長はもちろんそれは認識しているようだ。

「そうだね、そろそろアイドル諸君だけでなく、我々自身も次のステップへ進む頃かもしれない」

半年以上世話になった飯田橋の街に別れを告げるのは、その日からそう遠くなかった。



――

港区は麻布十番。

四車線と六車線の大通りが交差し、ほとんど流れの静止した渋谷川を覆うように首都高速が入り組んでいる。

ここは交通量が非常に多い傍ら、細い道を入れば意外と落ち着いた雰囲気のある、不思議な街だ。

社長はどこから見つけてきたのか、この地で安く売りに出されているビルを入手し、新社屋とした。

――なぜ麻布十番なのか?

それは単純に『以前の拠点だった飯田橋と行き来しやすい』と云うだけの理由だった。

完全に移行が済むまでは旧事務所と新社屋それぞれに用事があるだろうし、
移行が済んでも、旧事務所は貸主との契約期間満了まで倉庫等として使う予定があったからだ。

飯田橋と麻布十番は、南北線を使って、ものの十分強で移動できてしまう位置関係にあった。

しかしきっかけはその程度のことだったとはいえ、道路幅が広く送迎等の車を出しやすい環境も、

南北線だけでなく大江戸線が利用可能で新宿や汐留に出やすい点も、

今となって考えればこの地にして正解だったと思える絶妙なチョイスだった。

「はえーすっごい」

未央が新社屋を見て、無思考の感想を垂れ流した。

未央だけではない。この場に来ているアイドル、そしてプロデューサー陣全員が同じ様相をしている。

目の前に鎮座するは、これまでの胡散臭い雑居ビルとは打って変わり、だいぶ清潔感ある複層階の建物だ。

全体が青みがかった白色で、壁面にガラス張りが占める割合も大きい。

小規模ながらトラックヤードがあり、各種納品物の出し入れは楽に行なえそうだ。

エステルーム、カフェテラス、サウナルームが完備され、トレーニングルームも順次増築すると云う。

きっと、アイドルたちは伸びやかに自らを磨くことができるだろう。

業界の巨人、961にも見劣りしない規模のプロダクション社屋だった。

さらには、地方から出てきたアイドルが増えてきたため、笹塚に女子寮までも確保した。

「なんだか、今の自分たちには豪華すぎるようにも思えますね」

Pはぽつりと呟いた。

このスケールの設備を揃えようとするなら、かなり大きな元手が必要だ。

取引金融機関からの借入額も相当なものだろうし、そもそもその規模の稟議を銀行が易々と通すはずがない。

80年代後半ならいざ知らず、今は景況芳しくない世界同時不況の時代なのである。

「さほど高い買物ではなかったよ、改装費を入れても億に全然届かないくらいだ」

好条件の資金も掴んだしね、と背後からゆっくり歩いてきた社長の言葉に、Pは驚いて振り返った。

「はっ?」

有り得ない破格だった。

この規模のビル一棟売りであれば、最低でも数億、場合によっては二桁億円は下らないはずだ。

しかも笹塚にも女子寮としてもうひとつ不動産を買っているのである。

港区の一等地よりは幾分かましであろうとは云え、それだって億を割り込むとは考え難い。

「ちひろ君が色々と調整してくれてね」

「……詳しくは聞かないことにしましょう」

まず売価を値切り、融資を引き出し……

出す額は少なく、入れる額は多く。両方の側面からどんな錬金術を使ったのか。

隣のにこやかな笑顔を崩さない緑色の事務員に、底知れぬ恐怖をPは感じた。

世の中には、触れてはいけないものがあるのだ。


気を取り直して、入口の自動ドアをくぐり、改装したてで塗料などの匂いが残る建物内を練り歩く。

「大きくなるから、社員を増やしてこれまでプロデューサー諸君に任せていた諸業務を分散させるようにするよ」

社長は『制作部』『興業部』と様々な立て札を指し示しながら、今後の展望を語る。

アイドルのプロデュースは制作部が一貫して面倒を看る。

ライブの企画や会場手配等に関わる事柄は興業部。ほかグッヅ販売はCS事業部、忘れてならない法務部など。

今はやや大き過ぎるようにも思える社屋でも、じきにちょうどよい容量となるくらい会社を成長させたい。

現在持つリソースなら建物の四階までで充分埋まるが、眠らせている上層階を稼働させられるようになりたい。

そしてそれはきっと、そう遠からず可能だろうという展望。

社長の言葉には、一種の楽観があるかもしれない。

しかし、それはニュージェネレーションを筆頭として、
現在のCGプロを彩る個性豊かなアイドルたちに、絶対の自信を持っていることの裏返しだった。

「プロデューサーとアイドル諸君には、このエリア――制作部に籍を置いてもらうよ」

社長はそう云って、磨りガラスでできた扉を開けた。

青いOAフロアが隅々まで敷かれた、現時点では何もない、がらんどうなだだっ広い空間が目に入る。

「部を三つの課に分けるから、それぞれP君、銅君、鏷君に割り振ろう」

今は殺風景でも、近日中に間仕切りが組み込まれて、いわゆる一般的なオフィスの様相を呈することとなろう。

「アイドル諸君も現在のプロデューサーについていく形で、各々の課に入ってもらうのがスムーズだろうね」

「なんか、すごい。本当に“会社”って感じがする……」

これまでとは全然違う――凛がそう云って感歎の息を吐くと、

「はっはっは。今のアットホームな事務所も気に入ってるんだがね」

社長はややノスタルジックな笑いで応えた。

その後、レッスン室や福利厚生施設を見学してテンションの上がるアイドルたちを見て、相好を崩す。

「年度明けには麗も合流してくれるし、バックアップ体制はより充実できるだろう」

何度も頷いてから、Pたちの方を振り返った。

「この分なら、アイドル諸君は頑張ってくれそうだね」

「……はい、我々としても、アイドルにもっと仕事を持ってこよう、と云う気概が湧きますね」

Pたちの視線の先には、まだ営業していないカフェテラスの椅子で笑い合うニュージェネレーション。

年相応に楽しむ女子高生の姿だった。

それを遮るようにちひろが身を乗り出して云う。

「プロデューサーさん、仮眠室も完備してありますから、忙しくなっても大丈夫ですよ♪」

Pと銅と鏷には、ちひろの笑顔が、悪魔のそれに見えた。



――

寒風吹き荒び、冬が本番の力を発揮している十二月中旬。

冬至の近いこの時期は、部活など少し学校に長居しただけで陽が落ちて暗くなってしまう。

まゆみとあづさは、二人ともマフラーに顔を埋めて、街道を歩いていた。

片方は部活で疲れた身体に、
もう片方は生徒会で疲れた脳味噌にチョッパチャプスで糖分を補給しつつ、凛の家である花屋へ赴くべく。

まゆみのプチ不良ギャル然とした恰好、そしてあづさの典型的なJK然とした恰好に於いて、
防寒具らしい装いは首許の柔らかそうな布だけだった。

特に下半身は丈の短いプリーツスカートに生足、ふくらはぎにゆるく履いた靴下のみ。

意外にも、スカートはまゆみよりもあづさの方が短く、堂々と白い大腿を冷気に曝している。

彼女たちの通う高校には制服がないから、どのような服装でも構わないのだが。

一般的な女子高生の姿を維持したいとか、
パンツルックにしたりタイツを履いたりするもんか、と云う強い意思が感じられる姿だった。

見た目優先、寒さは我慢。

冬の女子高生の逞しさには実に頭が下がる。

「こんばんはーっす」

「あら二人とも、いらっしゃい」

花屋の店頭へ上がったまゆみが乱暴な挨拶をすると、奥から凛の母親が出て応対した。

「はい、これ凛―アイツ―の分の答案す」

夏のフェスそして昨今の脚光を受けて、最近の凛は急速に出席状況が悪化していた。

期末考査の返却日だったこの日、凛は仕事の為に学校へは来られず、
まゆみたちが代わりに受け取って“飛脚”となったのだ。

部活があったから本来はあづさ一人に頼むところだが、
生憎彼女は登校日につきものの生徒会の用事が遅くまであった。

結局、どちらも下校時間に大した差はない。

ゆえに双方がやることを終えてから、星の瞬く下、一緒に凛の家まで来たわけだ。

二人が学校で答案を覗き見した際には、全学科70点以上はきちんと取っていた。

「まったく憎らしいくらいに優等生ね、あの子」とはあづさの弁である。

それでも、高校に入ったばかりの一学期中間考査では軒並み90点ほどだったことと比べると、
徐々にではあるが下降線を辿っている。

凛の日頃の努力がなければ、とっくに赤点コースだろう。

「いつもありがとうね、二人とも」

「いえいえ。じゃ、わたしたちはこれで」

二人の背中を見送った母親は、娘の頑張りを認めつつも「さてお父さんにどう云おうかしらね」と思案顔。

父親も凛のアイドル活動には一定の理解を持っている。

しかし学生の本分は学業である。

早晩課題となるであろうと判ってはいたが、予想よりも早い、というのが母親の正直な感想だった。


花屋から出たまゆみたちの横を、味気のないライトバンが通り抜け、巻き起こした風が彼女らを縮こまらせる。

店の裏手に停車したそれから降り立ったのは、誰あろう凛だった。

「あづさ? まゆみ?」

凛がドアを開けながら呼び掛け、その対象に間違いがないことを確認するとすぐに車から降りた。

「おー凛。“お早い”お帰りで」

けたけたと笑いながら軽口を叩くまゆみ。飴を頬張っている所為でその声はやや不明瞭だ。

しかし凛は全く気分を害することなく

「そうだね、今日は結構早く帰れたかな」

と小首を傾げて微笑んだ。

「……マジかよ」

「うん、試験休み中は帰ってくるの十時になったりしてたから。六時ならだいぶ早い方」

「人使い荒過ぎじゃないかしら、それ」

「ふふっ、でもそれなりに楽しいよ?」

凛より遅れて車を降りたPに対して呆れた表情を向けるあづさに、凛は目尻を下げた。

クラスでの会話と全く変わらない、気軽な遣り取り。

「さいですか」

やれやれ、と髪を掻き上げようとしたまゆみがポケットから手を出すと、その弾みで何かがぽろりと落ちた。

「あ」

カシャリと乾いた音を立てて地面を跳ね、滑るのは携帯電話。

まゆみとあづさ、そして凛の間に転がったそれを取ろうと、三人が同時にしゃがみ込み、手を伸ばした。

その様子をお互いにしばし見詰め、笑い合う。

「もう、まゆみったらガサツに座り過ぎでしょ、私からショーツ見えてるよ」

「部活するのに履いてたオーバーパンツだから恥ずかしくねーって」

凛が先に携帯を拾い上げ、まゆみに手渡した。

「で、今日はうちまで来てどうしたの?」

「答案返却日だったでしょ、わたしたちが代わりに持ってきたのよ」

「あー……」期末考査の存在を思い出して凛は首を竦めた。

「あたしゃ天使だからな、あまり悪くはない点数だった、とだけ教えといてやるぜ」

「……心遣いありがと」

破顔してまゆみとあづさは立ち上がり、スカートの裾をパンパンと払った。

「じゃああたしらは帰るわ。終業式くらいは学校来るだろ?」

「の、予定だけど。まあ……プロデューサー次第かな?」

ちらりと横目でPを見てから、「わざわざありがとね」と二人に手を振った。

彼女たちが見えなくなってから凛を玄関までエスコートしたPは不思議そうに呟く。

「あのまゆみちゃん、見た目は不良ギャルなのにいい子だよなぁ」

逆にあづさちゃんは真面目そうだけど一番キワドイ服装だったな、とも。

「何でも外見だけで判断しちゃダメって云うでしょ。中身だよ中身」

学校の先生のようなことを、高校一年生に諭されてしまうようでは世も末である。

Pは「仰る通り」とこめかみを掻いた。


この日が答案返却日だったのはPにとってタイミングが良かった。

凛を送迎しがてら、彼女の両親に、越堀高校芸能科への転学を検討する相談を切り出す材料になったからだ。

勿論、一気に決めてしまうわけではなく、凛の将来なりたいもの、凛を取り巻く環境、凛の仕事の見通し――
色々な要素を鑑みた上で、アイドル稼業を抑えて学業優先にするか、転校するかを考えることとなろう。

現在通う高校はせっかくのナンバースクールなのだ。移ってしまうのは惜しい。

『アイドル渋谷凛』は今せっかく流れに乗ってきているのだ。仕事量を抑えてしまうのは惜しい。

どちらも、凛だけでなく両親、そしてP、関係者たちにとって頷ける理由だから。

担当アイドルの住む家へ上がっての相談――

ファンからすれば垂涎の状況であっても、その席上は難しい議題だ。

凛自身、「ちょっとどうするのが正解なのかわからないな……」と考え込んでしまった。

彼女にとっては、アイドルの方が楽しいし、
学校自体に――進学等の強みがあるのは理解した上で――特段の思い入れはない。

しかし高校には、かけがえのない友人がいる。この点が、凛にとって非常に大きなポイントだった。

寡黙だった父親が、

「まあまだ冬休みに入って時間はある。少しずつ考えて気持ちを固めるといいだろう」

凛にそう告げ、さらに、お前の考えを尊重する、と付け加える。

「あらあら、お父さん『最近は娘が店番してくれなくて寂しい』ってお隣さんに零してたのにねえ」

母親の笑いに大きな咳払いをかぶせて誤摩化そうとするさまを、Pと凛は苦笑いして視た。


数日が経って、凛が終業日をきちんと出席し冬休みへ突入したばかりの昼下がり。

事態は思わぬところから背中を蹴られた。

「――Pさん! ちょっとこれを!」

新社屋のフロア構成に慣れ切っていないちひろが、Pの姿を探してバタバタと走り回る音が制作部に響いた。

まずはじめに『バンッ』と扉を開けたのが第二課―キュート―だったらしく、
「Pはアッチよ」と教える銅の声が聞こえた。

ただならぬ雰囲気を察したPが部内廊下へ顔を出し「どうしました?」と訊くと。

ちひろが、何やら丸めた用紙のようなものを持って、肩で息をしていた。

「り、凛ちゃんが――」

そう云って広げたのは二日後に発売予定の、ゴシップで有名な週刊誌の試し刷り。

事前照会のため出版社から送られてきた、独特の光沢ある白黒の写真ページに、でかでかとした表題が踊る。

『――人気急上昇アイドル“R”の黒い交友関係――』

そこには、笑うまゆみとあづさ、そして凛が載っていた。

あづさとまゆみには大きめの目線が入れられている。

『見るからにガラの悪い仲間と談笑するのは某アイドルか。ファンに媚びへつらう裏で、実態はこの様?』

タイミングとしては、落とした携帯を拾おうとしゃがみ込んでいる刻だろう。

巧い具合にトリミングして、物を拾う行為ではなく、不良同士がたむろしているような雰囲気を演出している。

しかも、まゆみとあづさの口元をわざと少しボカして、あたかも煙草を咥えているかのように見せていた。

チョッパチャプスもこのような使い方をされるとは形無しであろう。

あづさに至っては、気をつけた所作でしゃがんでいるにも拘わらず、
そのさらに上をゆくアングルで、ショーツがちらりと、しかししっかり顔を覘かせている。

「なんじゃあこりゃあ!!」

Pの怒りの叫び声が、社屋全体にこだました。

――パパラッチ。

一種の有名税と捉え、それは喜ぶべき一面があるのかも知れないが……

まさか凛が早くもその対象になるとは。

事実を捏造してまで煽ろうとする姿勢には、反吐が出る。

なにより腸が煮え返るのは、無関係の友人を巻き込むことに何らの躊躇いもない出版社の姿勢だ。

凛一人だけならまだしも、あづさとまゆみはただの一般人なのである。

「……社長室案件ですね。俺、行ってきます」

机を叩く勢いで立ち上がったPに、ちひろが告げる。

「Pさん、たぶん行っても無駄だと……思います」

「な、なんでですか!? 我々が凛を護ってやらなきゃ!」

意外なちひろの言葉に食いかかってしまうのは仕方ないが、

「……では、行くだけ行きましょう」

ちひろは、やや諦めた表情で、Pと共に制作部を出た。


「……そうか。ついにこの時がきたかね」

社長が自らの机で記事を読み、紙をデスクに放り投げてから、ふぅ、と溜息を一つ吐いて云った。

「いますぐ差し止めと損害賠償請求を――」

炎々と迫るPを、社長は「無理だよ」と一言で遮った。

「なんでですか!」

「P君。担当アイドルがこのような玩具にされて腹が立つのはわかる。だがまず冷静になりたまえ」

こうなることを予見していたのであろうちひろが、冷たいお茶を持ってきた。

社長が一口呷って、眉の尻を下げた。

「……ちひろ君は判っているようだね」

「……はい。この記事には、どこにも『CGプロ』または『渋谷凛』と書かれていません」

「その通り。しかもだ、向こうも裁判沙汰に慣れているからね、本文の中で一度も断定口調はないんだよ」

Pは、そこで初めて「しまった、そうか」と理解し、吐き捨てた。

一言もCGプロや渋谷凛とは書かれていないのに、疑問詞ばかりなのに、我々が拳を振り上げたらどうなるか。

内容の虚実に関係なく、“当該記事は我々に関する件です”と自ら認めることに等しい。

相手方から「別に渋谷凛のことだと名指しはしてませんよ?」と云われたら、ダメージを受けるのはこちらだけ。

「……つまり、どうするのが正解でしょうか」

「まあ、完全無視しかないだろうね」

残酷な判断だった。

芸能人となった凛はともかく、その友人たちはあくまで一般人なのに。

「どうしようもないのだよ。下手にこちらが行動してしまうと、動けば動くだけ不利になる」

いわば交通事故のようなものなのだ。有名になってきたことの裏返しでもある。

冬休み期間で、クラス等での騒動にはすぐには発展しないであろうと予見されるのは、不幸中の幸いだった。

Pは、怒りに身体を震わせて拳を握るしかできなかった。


十数分が経ち、ようやくPがクールダウンしてから。

凛にも、発売後にいきなり知らせるよりは、事前に報告しておいた方がよいとの判断で連絡がいった。

表向きは、「ふーん、そっか。私にもパパラッチがつくようになったんだね」と冷静な素振りだったが……

その実、自分のみならず、友人までこのような扱いを受けて、ショックがないわけなどなかった。

しばらく試し刷りの紙に目を落としていたが、机に置いて、はぁ、と一つ嘆息して云う。

「……なんで私なのかなぁ」

凛の疑問詞に、Pは真意を測りかねた。目線で続きを促す。

「……私だって、普通の人間だよ? ついこないだまで、ごく普通の女子高生だったんだよ?」

――数箇月前までの私が同じ状況になっても、きっと誰もレンズで狙ったりはしない。誰も騒ぎ立てはしない。

「道端に転がる小石や雑草と変わらない存在の、皇族に生まれたわけでもない私が、
 普通の人々と違う点ってなんなの?」

凛は、自分の置かれる環境が変質したことを頭では判ったつもりでいた。

だが、実際にこう云う風にはっきりと示されるまで、どこか他人事に思っていたのだと突きつけられた。

Pは、やや思案して口をゆっくり開く。

「生物として、種として人間は全て同じかも知れないが、同質ではないんだな」

難解な言葉遊びのような、または誰もが当たり前と思っているような。

「この世は不平等で理不尽で、とてつもない格差や選別の上に成り立っているわけさ」

よく使われる比喩としては、宝石がある。

例えば……炭やコークスと、ダイヤモンドは、突き詰めれば同じ“炭素原子の集合体”だ。

にも拘わらず、それらは全く別の物質として我々の目に映るし、価値にも違いが出る。

一般人を炭とするならば、凛はダイヤモンド。

そのダイヤの原石を磨き上げ、世に送り出すのがPやトレーナー陣の役目なわけだ。

「だが……俺は、これは必ずしも正確な喩えではないと思ってる」

凛の方へやや顔を寄せて、指を組んだ。

炭は、一定の処理をすることでダイヤモンドに作り替えることができるから。

「だから、正確性を期すならば、凛は『雑草繁る草地に、一株、すっと立ち生えた百合』なんだ」

花やつぼみをつけていない時期の百合は、人々にとって雑草と同じように映るだろうが、
ひとたび花を咲かせれば、その存在は、雑草から一気に可憐な美花として認識される。

ただの草と、百合。同じ植物と云う括りでも、それらは全く別物に映るし、勿論価値も違う。

この最大のポイントは。

――雑草は、どうやっても百合にはなれない。

根本から異なる存在。

それが、凛だ。

それが、“渋谷凛の、普通の人々とは違う点”なのだ。

そして、Pたちスタッフは、数多の雑草に埋もれる百合の株を見つけ出し、育み、花を咲かせ、綺麗に飾り、
世へ送り出し披露する。

これまでは、凛は雑草と見分けがつかなかった。

だが、どうやら百合らしいと世間の人々が判るようになってきた。だから狙われた。

「己の立ち位置について悩むのではなく、『そう云う運命の許に生まれてきた』と割り切る必要があるのかもな」

「そう云う、運命……」

「あーと、ここまで云っておいてナンだが、勘違いはしないようにな」

Pは手を軽く振って、凛に念を押した。

自分のことを、普遍的かつ不変の価値を持つ選ばれた民だ、と思ってはいけない。

確かに、今の凛には、一般人よりも高い価値がついているのは間違いない。

しかしそれは、より多くの人から選ばれるものが、結果的に高価値と看做されているに過ぎない。

例えば――通常、水は安くダイヤは高い。水は低価値でダイヤは高価値だ。

だが、それが砂漠では、安いはずの水が高価値に、高いはずのダイヤは何の役にも立たない低価値な代物となる。

環境や条件が変われば、人や物の持つ価値なんてのは容易に揺れるのである。

もしかしたら、百合よりも雑草の方が価値の高い世界があるのかも知れないのだ。

「お前が、今すべきこと。それは、ファンの皆に――いや違うな、“お前自身に価値を見出してくれる人”に、
 どんな形でも全力で応えることだ。そうすれば、巡り巡って自分に返ってくる」

環境や条件が変わっても、価値の左右されない存在となって、返ってくる。

「全力で……」

凛は自らの白黒写真から目を離さず、長い間、じっと考え込んだ。


二日後。

きりきりと胃が痛むPに面倒なこと――しかし当然の事象――が降り掛かる。

校内、クラス内での騒動には広がらなかったとはいえ、発売後即座に高校の生活指導室から連絡が入ったのだ。

凛の出勤風景とは真逆の方向へ、Pがモノレールの橋脚に沿って走っている。

凛そしてまゆみとあづさの通う高校の門を駆け抜け、事務所で手続きをし、指導室へ入る。

そこには既に、渦中の三人とその両親、三角眼鏡を掛けた初老の女性教諭が揃っていた。

「この度はご迷惑、ご心配をお掛けしまして申し訳ございません」

入室一番、Pが担当教諭に頭を下げた。

「ちょっと困るんですよねぇ。CGプロさん、でしたっけ?
 我が校の生徒をこう唆―そそのか―してもらってはねぇ」

「大変申し訳ありません」

唆すとは、風評被害・言いがかりもいいところだが、今のPは平身低頭謝ることしか道はない。

「確かに我が校はねぇ、自主・自立が校訓ですよ。でもそれは生徒を信頼してこそ成り立つものです」

そして週刊誌の表紙をパンパンと叩いて続ける。

「――信頼する生徒にこのような犯罪紛いのことをされては、前提が崩れるんですよ」

その厭味たらしい言葉に、まゆみとあづさ、凛は身体を硬くした。

凛には昨今の出席率低下、まゆみには日頃の受業態度について快く思っていないことの顕れだった。

あづさに対しては、生徒会員が何たる体たらくかと云う失望が込められている。

それら不満は、Pが全て身代わりにならなければならない。

「一点だけ弁護させてください。この写真は落とした携帯を拾った際のもので、
 決してやましいシーンではなく、彼女たちに何も落ち度は――」

「黙らっしゃい! 実態や真実がどうであろうとも、このような絵面が世に出た事実は変わらんのですよ!」

指導教諭がヒステリックに叫んだ。

ただの言いがかりに近い苦言だとしても、一部には正論も混じっているから尚のこと性質が悪い。

「だいたいねぇ、こんな年端も行かない高校生を、アイドルとか云う性奴隷に従事させるとは何たる了簡ですか。
 いい大人が恥を知りなさい!」

教諭の言葉はどんどんヒートアップし、一部に聞き捨てならない単語が出てきた。

これにはPも反論を禁じ得ない。

『性奴隷』などとは――ひたすら叱責に耐えようと決めてきたのを覆さなければならない。

他ならぬ凛の尊厳のために。

「お待ちください。アイドルは決して性奴隷ではございません。それはここにいる渋谷凛さんをはじめ、
 幾多関わる物たちを最大級に侮蔑する発言です。その言葉だけはご撤回頂かないと、承服致しかねます」

「たとえ性奴隷でなくとも欲望に塗れたくだらない産業であることに変わりないでしょう!」

Pは、その言葉はひとまず無視し、話題を元に戻した。

「この度、一般人たる、まゆみさんとあづささんを巻き込んでしまったのは、完全にこちらの落ち度です。
 その点に関しましては、お詫びしてもお詫びし切れるものではありません」

申し訳ない、とPは二人とその両親を向いて頭を下げた。

「えっ、あ、いや、いーんだけどよ……しゃーねーし、元はあたしが乱暴だったせいだし」

まゆみが面喰らって、別に個人情報抜かれたわけでもねーしな、と両手を振る。

「……こんな編集をされるとなると、いくら気をつけても防ぎようがないしね。運が悪かったとしか……」

あづさも困惑顔で頬を掻いた。

Pは再度教諭へ向き直って、顎を引いた。

「しかしこちらの渋谷凛さんは既に芸能人であり、いづれこうなるだろうことは予見されて然るべきでした。
 見通しの甘さは、ひとえに我々CGプロダクションの責です」

ほら見ろ、と云う色の表情をした教諭へ、さらに告げる。

「渋谷凛さんにとって今回のことは、もはや不可抗力です。彼女を責める言葉は、
 本来は出版社や低俗なカメラマンに向けられるべきです。
 彼らの巧妙な手口によって、それは不可能ですが……」

「ですから、くだらないことをしている所為でその罰が当たったのでしょう!」

Pは、視界の端に凛が顔を歪めるのを見た。今の彼女は、存在そのものが否定されているに等しい。

Pは凛をかばうように立ち、懐から写真を複数枚取り出して教諭に渡した。

「先生はくだらないと仰りますが、彼女は多くの人々を笑顔にしてきました」

サマーフェスでの、凛のステージとその観客を写したものだった。

どの写真にも、溢れんばかりの光り輝く無数の笑顔があった。

「昨今の暗い時代に於いて、このように、自分以外の人間をここまで幸せにできる渋谷凛さんを――
 自校生徒を『誇り』ではなく、『くだらない』と仰りますか」

「わたくしは生徒自身ではなくアイドルという訳の判らぬ業種に対してくだらないと云っています!」

「自らの知見の及ばない範囲を、くだらないという一言で片付けてしまうことこそ、くだらないと思いませんか。
 自らの知見の狭さを、渋谷凛という一個人に全て被せて、顔を背けているだけの状態を、
 果たして教育者として胸を張れますか」

「論点のすり替えはやめなさい! 現にそこの渋谷凛がアイドルなどと云うくだらないものとなったがために、
 我が校の生徒が今回のような事態に遭っているのです!」

「ですからその責は我々大人にあり、彼女自身は他人を笑顔にできるのだと――」

顔を真っ赤にして口角泡を飛ばす教諭に、凛を精一杯守ろうとするP。

しかし。

「もうやめて!」

凛の力一杯の叫びで、場は一切の静寂に包まれた。

誰も動かない。いや、動けない。

「ごめん、プロデューサー。ありがとう。嬉しかった」

どれくらい時間が経っただろうか、凛が床を見詰めながら、肩を震わせた。

「でも――もういい。私、この学校辞める。越堀へ行く」

「ちょっおま、凛、マジかよ!?」

越堀のことを初めて耳にしたまゆみが、凛の肩を掴んで訊いた。あづさは驚きのあまり口に手を当てている。

「……うん。元々そう云う話はぼちぼち出てたし、ほぼ自分の中では意思を固めてたんだ」

このまま私がここにいたら、まゆみやあづさに迷惑がかかっちゃうから。

凛は力なく笑って、小さく、そう呟いた。

なぜ二人がこんなことに巻き込まれなければならなかったのか?

私がアイドルになったから、まゆみもあづさも狙われる運命から逃げられなくなったのか?

変化を望んだ私がいけなかったのだろうか?

答えのない疑問が、凛の頭をぐるぐると巡る。

「いや……今回のことって、結局は素行のよくないあたしのせいなんだろ?」

まゆみの“所為”では決してないが、まゆみを出汁に使われたのは事実だ。

「これ、あたしが身を退いた方がいいんじゃね? その方が色々ラクなんじゃね?」

凛の友人ではなく、ただの1クラスメイト――または、完全な他人――となること。

「そんなの絶対ダメだよ!」

凛は気色ばんだ。

「まゆみとあづさとは長い付き合いだもん。友達でなくなるなんて、絶対厭だ」

二人を守るために。

かけがえのない友人たちを守るために、越堀へ移る。

これが、私の、全力の応え。

「離れることになるけど……アイドルとして、もっと上へ登り詰める。それこそが、二人への恩返し」

凛の決意は、固かった。

幸い越堀の芸能科に欠員があったので、編入試験を経れば三学期から問題なく通えるだろう。

ごたごたを収束させる決断を下し、
Pと凛そして凛の両親は、巻き込まれた二人とその両親に、迷惑を掛けたことを謝罪した。

特にまゆみの家族は、見た目からよく勘違いされる我が子と仲の良かった凛に対し、
咎めることなどなく、お互い感謝し合い、そして詫び合った。

あづさも、

「凛が考えて考えて、考えて出した結論なら、反対しない。背中を叩いて送り出してあげる」

そう云って、凛の更なる飛躍を嬉しそうに、しかしそれでいて別れを寂しがるように、小さく笑った。

何かを得るためには、何かを棄てなければならないのだろうか――

年末年始の仕事の合間を縫って、編入試験を受ける為に中野坂上の街を歩く凛の心を、出口のない問いが覆った。




・・・・・・・・・・・・


二月という存在は不思議なものだ。

普段より少ない日数の勤務で同じ労働対価が入手できることを喜ぶか。

次の月末報告書を出すまでの猶予が他の月より数日短いことを嘆くか。

特異的に短い月、まもなく立春。それを過ぎれば暦の上では春だ。

とはいえ実際の気候は懸け離れていて、本日もPはスーツの上にコートが欠かせない。

麻布十番の駅を降り、地上へ出ると、抜けるような快晴の空と肌を刺す寒風が出迎えた。

青空が広がること自体は歓迎すべきとはいえ、放射冷却で朝方の冷え込みが厳しいのは身体に凍みる。

気が早くも今年の桜開花予想が発表され、例年よりも遅咲きのようだと、朝の天気コーナーで話題になっていた。

肩を丸めて、CGプロ社屋まで歩いていると、背中にぽん、と軽く叩かれる感触があった。

「おはよ」

担当アイドル、凛である。

今日の彼女は、午前中に軽いインタビューを受けてから、登校する手筈だ。

冬将軍が猛威を振るう中、目の前の女子高生は若さ故か、冷えた空気に生足を惜しげもなく曝していた。

上半身には厚手のコートを羽織っているので、若干ちぐはぐな印象を禁じ得ない。

「なにをそんな縮こまって歩いてるの?」

「凛は元気だな、俺はようやくの思いで布団から這い出るのがやっとだ」

「はぁ。私だって朝の満員電車に揺られて出勤するのは億劫なんだからね」

前までの中央線よりは断然マシだけど、と笑って、Pを追い抜いていく。

凛は越堀への転校を機に、笹塚の女子寮へと移ることになった。

その方が中野坂上への通学にも、麻布十番への通勤にも、労力を減らせるためだ。

なによりも年末の件で、自分の意思とは無関係に周りの人を巻き込んでしまうことを知った凛は、
自ら実家から離れることを決めた。

無論、家族と云う身内なら、身体を張って巻き込まれるのも吝―やぶさ―かでなかろう。

だがパパラッチのみならず、ファンが押し掛けて花屋を営業しづらくなったりするのは、
実家にとっても、そしてファン自身にとっても良い結果にはなるまい。

卯月や未央のような一般的家庭とは、前提条件が違うのだった。

だから、転校や引っ越しは、彼女の納得尽くではあるのだが。

それでも、凛はPの想像以上に、朗らかな笑みを絶やさない。

齢十六の少女がこのような状況に置かれ、ホームシックになったり、旧友を懐かしまないことなど有り得ようか。

Pがぼんやり思案しながら制作部の扉を開けようとしたところで、背後からちひろが呼び止めた。


「CDデビュー?」

制作部のデスクに詰めたプロデューサー三人が、ちひろから渡されたFAXを覗き込んで、表題を呟いた。

CGプロが上々の発展を見せ、出家鵺の手掛けるCGプロ系コンテンツも手堅いことから、
更なるてこ入れとして、磐梯南無粉が大手レコード会社を斡旋してきたのだ。

その社名を見た途端、三人全員が、驚きのあまり言葉を失った。

『ジヤパン哥倫―コロム―』

我が国最古のレコード会社であり、その由緒は、
拗音が商業登記に使えなかった時代の名残を今なお脈々と受け継いでいることからも明らかだ。

磐梯南無粉は傘下にランチスと云うレコード会社を抱えているが、そこを推してこなかったのは、
CGプロをリスペクトし独自性を保つよう心掛けている、とのメッセージだろう。

いづれにせよ、磐梯南無粉が紹介したのは、ツニーミュージックやワーニャーなどと並び、
最も有名な巨大レーベルのひとつだった。

現在のCGプロには釣り合わないほどの相手だが――
これはもともと伝通や磐梯南無粉、出家鵺だってそうだったから、今や慣れっこになりつつある。

順応とは斯くも恐ろしい。

ただし、その力関係を示すかの如く、先方から
『この子のCDを出したい』と云う要望とともにリストが添えられている。

第一課―クール―から第三課―パッション―まで、満遍なく挙げられているのは向こうなりの配慮だろうか。

「ここから先は、折衝が必要になるだろうな。ちひろさん、先方へ連絡してください」

「ええ、すぐに」

ちひろが自部署へ戻ってから、ジヤパン哥倫の担当者である粕谷との接触まで、さほど時間はかからなかった。

と云うよりも、承諾の連絡をして間もなく、フットワークの軽い粕谷が
ひょいっと散歩でもするかのようにやってきたのだ。

ジヤパン哥倫のオフィスと麻布十番は、直線にして1キロあまりしか離れていない。

この件でも、麻布十番の立地至便をPたちは実感した。

「いやーこの度は早速ありがとうございます。岩原さんからの紹介でよかったです」

粕谷が社屋二階の応接室で、プロデューサー陣三人と握手を交わした。

「いえ、こちらこそジヤパン哥倫さんからソフト化のご提案を頂きまして光栄です」

代表して返礼したPに、粕谷が大きな声で笑う。

「CGプロさんは現在飛ぶ鳥を落とす勢いの注目株ですからね、
もう既に他社に出し抜かれているんじゃないかって心配していたんですよ」

調子良くおどける素振りを見せた。

「――とはいえ我々も既に765さんのアイドル展開をお手伝いさせてもらっていますし、
 その点に関しては他社よりノウハウがありますので、CGプロさんのお力になれると確信しています」

非常に心強い言葉だ。

765のソフトは、音楽も映像も、軒並みジヤパン哥倫が担当していた。

無論それはパッケージ化の実作業のみならず、セールスプロモーション等も含めてのトータルサポートだ。

765単体には大量のAランクアイドルと云うリソースはあるが、
モノとして世に出すにはジヤパン哥倫の力が絶対に必要だった。

つまり、それだけジヤパン哥倫には現場の対応やPRアドバイスなどの経験が豊富だし、
そしてそれを即座にCGプロにも反映できる柔軟さを持っていると云える。

CGプロにとってこれほど心強いビジネスパートナーは、そうそうあるまい。

「頂いた候補リストは既に拝見しました。ご存知とは思いますが、
 我々はクール・キュート・パッションと属性を三つに分けて展開しております」

「ええ、承知しています。その展開の妙や幅広さも気に入っていまして」

比較的ばらけるようにチョイスしたつもりです、と粕谷は胸を張った。

「ジヤパン哥倫としては基本的に五作品単位で展開できればと思っていまして、まずはこの子を――」


「CDデビュー!?」

本日の授業を終え、朝方ぶりに再度顔を合わせた凛が、Pの言葉に目を丸くした。

「そ。ひとまず切り込み隊長的にな。もちろん第二課と第三課にも話がいってる」

第一課の打ち合わせ室に、Pとクールアイドルが二人集まっている。

凛と、そして先の晩秋にスカウトされモデルから転身した高垣楓だ。

「つまり、第一課―うち―からは私と楓さん、ってことだよね、多分」

凛が、この場にいることの意味をすぐに察している。

高垣楓は活動を開始して三箇月ほどしか経っていないが、その独特のミステリアスさに加え
“二五歳児”と形容される茶目っ気さで、人気を徐々に上げていた。

前職の経験値を活かし、この短期間でDランクを視野に入れている豪腕である。

第一課としては、凛も納得の人選だった。

「ジヤパン哥倫……こんな有名なところからCDデビュー……すごいね。なんか一気に階段を上がっちゃう気分」

凛の興奮もうべなるかな。

これまでライブ会場や都内レコード店等で自身の歌を収録したCDを売ってきたが、
それはCGプロのインディーに過ぎなかった。もちろん、一般流通になど乗らない。

全国津々浦々に行き渡る、いわゆる『メジャー』からのリリースというのは、
同じ音楽媒体でも全く意味が異なることを、しっかり認識しているのだ。

「で、勿論、きちんと作曲家や作詞家を用意してもらうから、挨拶回りが予定表にねじ込まれるぞ」

ちょっとスケがきつめになるかも知れん、と手帖に目を落とすPに凛が問う。

「あ、作るのプロデューサーじゃないんだ?」

「そりゃーなぁ。こんな規模だと俺が適当に作るわけにはいかんだろ」

餅は餅屋。たとえ杵柄を昔取っていたとしても、現在第一線に立つ人と比べるのはおこがましいにもほどがある。

「二人分ともに、磐梯南無粉さんが便宜を図ってくれるみたいだから、俺も楽しみだ」

リッチレーサーの小久保さんかな? エースウォンバットの串西さんかな? と妄想の世界に入り込む。

「ほら、いつまでもトリップしてないで。私、今日これからイベントMCの仕事でしょ?」

思考が飛ぶPに、凛はやれやれと云った様子で「車出してよ」と突っつく。

楓はその様子をみて笑い、

「じゃあ私は、そろそろ上の階でレッスンですね。今日は聖さんの特訓があるようなので、
 今から心臓がドックンドックンいってます…………ふふふ」

ぽかんとする二人を置き去りにして、ゆっくりと第一課を出て行った。



――

しばらくはCD関連の用事が多く、凛は忙しかった。

作曲家への挨拶、方向性の打ち合わせと確認、プロモーション方法等々、
レギュラー業務や学校の合間に入れられたスケジュールを、慌ただしくこなす。

CGプロの勢いを逃したくないジヤパン哥倫の意向で、リリースを急ぐことも、忙しさに拍車をかけた。

作曲家から上がってきたラフの段階で音取りを始めてしまうとか、振り付けの見当をつけてしまうとか、
とにかく先へ先へ進めようと皆が奮闘している。

緊急時にとりあえず行けるところまで行かせてしまう京急みたいだな、とPは自らの部署を見て思った。

目まぐるしい平日を終え、土曜日。

凛はようやく腰を据えてレッスンできる環境を得た。

この日は卯月、未央と一緒に練習できる久しぶりの機会だ。

「新社屋に移ってから、あまり一緒にならなくなっちゃったね」

小休憩中に凛がスタジオで肩を竦めると、卯月も未央も「ちょっと寂しいね」と苦笑した。

全てが一フロアにまとまっていた旧事務所とは異なり、
課として三つに分けられたことで交わる機会が少なくなってしまっていた。

二人とも凛同様ぼちぼち軌道に乗りつつあり、平日は忙しそうにしているのも理由としてある。

ちひろとも離れてしまったし、寂しくないと云えば、それは嘘になる。

しかし忙しいことは本来喜ばしいのだ、三人はそう云って笑い合った。

十箇月前から比べれば、今の多忙ぶりには感謝しなければならない。

「私たちはニュージェネレーションなんだし、たまには課の壁を越えてお邪魔してもいいかもね」

「そうだね、卯月。これからは暇を見つけたら第二課や第三課を覗いてみようかな?」

「まーでも最近は特にしぶりんが忙しそうだよねー。見かけると必ずバタバタしてるし」

未央が首に掛けたタオルで頬の汗を拭いながら笑った。

「ここしばらく、作曲の人への挨拶とか、ジヤパン哥倫での打ち合わせとかがあったから――」

「ジヤパン哥倫??」

未央が鸚鵡返しに、不思議そうな顔をした。

「うん。……あれ? 未央は打ち合わせはジヤパン哥倫でやらなかったの? 
 忙しいとかで担当の横浜さんがこっちに来てくれたりとかしたんだ?」

「ん~~? なにが?」

「え、だって未央と卯月もCDデビューするんでしょ?」

凛が嬉しそうに問うと、二人は至極不思議そうな、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。

「ううん? そんな話は出てないよ?」

「えっ……?」

凛は口元は笑んだまま、瞠目して固まった。

「……え? え? う、嘘……冗談でしょ?」

卯月がピンと来たのか、わくわくした様子で身体を寄せる。

「ジヤパン哥倫ってことは、もしかしてメジャーデビューするの!? すごいよ凛ちゃん!」

「おおお? しぶりんマジ? メジャー行きおめでとっ!」

凛のCDデビューを我がことのように喜ぶ二人に対して、当の本人である凛は、混乱していた。

てっきり、第二課から卯月、第三課から未央が選ばれるとばかり思って疑わなかったためだ。

当然だろう。

この三人はCGプロのパイオニア、ニュージェネレーションを構成するメンバーなのだから。

CMに1カットだけお情けで出してもらったのとは訳が違う。

今回は、CGプロのアイドルたちがそれぞれ主役となる作品群である。

ニュージェネの三人がトップバッターにならなくてどうするのだ。

だが――どうやら上層部の判断は違ったらしい。

「あ、ありがとう。……私、頑張るね」

凛はそう返すのがやっとだった。


大きな音を立てて、第一課のドアが開いた。

新しいからびくともしないが、もし旧事務所だったらまたネジが歪んだことだろう。

それほどの勢いで、凛がレッスン後の身体を上気させたまま入ってきた。

目線厳しく、Pを射抜く。

「プロデューサー、どういうこと?」

「……なにがだ?」

「とぼけないで。私が何を云いたいか判ってるんでしょ。CDのことだよ、みなまで云わせないで」

Pは予想通りになった、と息を一つ吐いて立ち上がった。

「あの時俺が詳細な名前を云わなかったのはこのためなんだが――」

「なんで!? なんで卯月と未央じゃないの!?」

凛はPの言葉を遮って声を荒げた。

凛としては、自分よりも地力のある卯月や未央が優先されて当然という認識があった。

だからこそ、自分がCDデビューするなら卯月と未央もきっとそうだろう、と疑わなかったのである。

「先方の条件なんだよ。要望リストの中に、今回はその二人が入ってなかった」

「なんで? 卯月なんか、あれほどアイドルになりたいって云ってて、
 私よりずっと前から養成所へ通ってて、私よりずっと巧く歌って踊れるのに、なんで……?」

「その真意は、ジヤパン哥倫にしか判らない」

だが――と一度大きく息を吸って、吐き出す。

「おそらく、凛……お前のルックスだと思う」

「はあっ!? そんな、そんなくだらないことで選んでるの!?」

いきり立つ凛を、Pは、あくまで予想だよ、と宥める。

「例えば、その子の人となりと云うのは話してみなければ判らないし、
 歌唱力も、ダンスのスキルも、実際に演ってみなければ伝えることが出来ないだろ?」

「それは……確かにそうだけど」

「その点、ビジュアルってのは、何もしなくても伝えられる。……いや、“伝わる”。
 何をせずとも――極端に云えば突っ立っているだけでも、勝手にな」

生まれ持った要素に左右され翻弄されるのが堪らなくむず痒くて、凛は両手を強く握って、振り下ろした。

「見掛けで判断するなって、いつも云うのは大人たちだよね! やってることが逆だよ! いっつもいっつも!」

「確かに、お前の云う通り、人を外見だけで判断してはいけない。その意見は至極真っ当で正しい。
 しかし、人に対する印象の、第一の入口もまた、外見なんだ」

哀しいことにな、とPはとても苦い顔で呻く。

凛は、その表情から、数箇月前の激写騒動を思い出した。胸を、ぎゅっと右手で押さえる。

「非道いよ、酷いよこんなのって……」

「最初の打ち合わせの席で、銅も鏷も、当然イの一番にリスト外の卯月と未央を推薦したんだ」

だが粕谷の反応はにべもなかった。リストの中からお願いしたい、と。

「ジヤパン哥倫で出す以上、意向は汲まなきゃならない」

これが、今のCGプロの力関係なのだ。

しばしの静寂が場を支配する。

この日、第一課のアイドルが皆仕事か帰宅済みで会社にいなかったのは、一種幸いだった。

ややあって、Pが静かに口を開いた。

「……なぁ、凛。世の中には、正攻法では動かせない強大な力と云うものがある」

象に挑む蟻のように。

「だから、別の考え方をしよう。
 今回のデビューで、凛をはじめ第一弾のメンバーがいい成績を残せたら――きっと、次回以降に弾みがつく」

「頑張ったところで、次回が本当にあるの? 約束されてるの?」

凛が哀しそうに問うた。

「判らん。だが、いい成績を遺せなかったら……確実に次回は遠のく」

卯月たちのために、今、凛がやるべきこと――
それは、自らのCDデビューを成功させる、この一点に尽きるのだ。

Pだけでなく銅も鏷も、リストに挙がったアイドルの中からどの布陣にすれば、
最も力を発揮し数字を残すことができるかに腐心している。

第一課はすんなり決まったが、第二課・第三課は侃々諤々と意見を煮詰めているところだ。

「……わかった」

凛は眼を閉じて、静かに一言だけ発した。

そして何回か深呼吸を重ねたのち、瞼を上げ、Pを力強く見据えた。

碧い瞳の奥に、猛烈な焔が燃え盛っている。

――私の役目。次の展開を引き寄せて、そして卯月たちにバトンを渡すこと。

「私、きっと成功させる。絶対に……!」



――

ジヤパン哥倫は、やはり会社規模ゆえだろうか、決断を下すのにやや時間のかかる組織だった。

「CDリリースを急ぎたい」と云う言葉とは裏腹に、最終決定までは半月ほどを要した。

無事に発売スケジュールを世に出すことができたのは二月も下旬に差し掛かった頃。

CGプロを初っ端からやきもきさせてくれたが、まずは一安心だ。

勿論、本決定されていない間にも作業を進めなくてはならないから、
もし鶴の一声で覆ったらどうしようか……と云う、現場の恐怖感は相当のものであっただろう。

Xデーは、2012年4月18日。

この日が、凛、そして同時発売の双葉杏、三村かな子、高垣楓、城ヶ崎莉嘉にとっての、
ひいてはCGプロ所属アイドルの、運命の分かれ道となる。


ジヤパン哥倫とCGプロの連名で発表されたニュースは反響は凄まじく、CGプロ社内はてんやわんやだった。

フェス等ので活躍も含め、これまでも出家鵺プラットフォームで展開などをしてきたCGプロだが――

それでも完全にメジャーなわけではなく、注目こそあれ、
まだ海のものとも山のものともつかない状態だったと云えよう。

それが、ここへきてジヤパン哥倫の出動である。

磐梯南無粉とジヤパン哥倫が使っている――

これがもたらす安心感と云うものは、どんな業種の企業にとっても重要な要素だった。

経済活動ほど保守的なものはないからだ。

雪崩を打ったかの如く、各ジャンルの企業からオファーが飛躍的に増えた。

出版社からは、写真集の企画や子供向け漫画雑誌のタイアップ。

放送局からは、キー局への番組出演やドキュメンタリー取材依頼。

各企業からは、伝通を経由してCMに使わせてほしいと引っ張りだこだ。

「ちょっと待ってくれ、俺の身体は一つしかねえんだ」

第一課のアイドルに舞い込む依頼案件を捌くPは、どうにもならない独り言を零しながら、
今年の正月はもっとたっぷり休んでおくべきだったと大絶賛後悔中だ。

書類さばきも重要だが、それよりも、二箇月後に迫ったCDリリースを成功させなければ全て水泡に帰す。

「CDに専念できりゃなあ……」

第一課を全て切り盛りしなければならないPにとって、それはまさしく夢物語。

事務机へ突っ伏し、口からエクトプラズムを吐き出していると、ドアが開いた。

授業を終えた凛がすたすたと入ってくる。

「おはようございま……何やってるのプロデューサー」

「やること多くて頭がパンクしそうだ……」

消し炭になっているPを見て、凛は腰に手を当て呆れ顔だ。

「もう、しっかりしてよね。プロデューサーしかいなんだから、第一課―うち―を引率するのはさ」

「判らいでか。しっかり考えてるからこんな状態になってるんだよ」

頭の中で大きなウェイトを占めているのは、やはりCDリリースの件。

流通等納品日から逆算すると、三月最終週の頭、26日にはマスターテープを工場へ出さなければならない。

つまり猶予はあと一箇月しかない。

第一課だけでも凛と楓、二つ分の大プロジェクトを進行管理しなければならないのにこの残時間は極めて厳しい。

それぞれの期限からどんどん逆算すれば、どれほど切迫しているかよくわかる。

五作品分を整形・ミキシング・マスタリングを施して工場へ出せるまでにかかる時間は、
レコーディング後約一週間。――つまり作業開始日は20日前後。

レコーディングには予備日含めスタジオを二日間押さえるから、
ちょうど第三週末に当たる17日と18日に割り振ることになるだろう。

そのレコーディングのためには、凛と楓の音取りやメロディラインの習熟にやはり一週間欲しい。

となると、全体構造を固定してゴーサインを出せる状態のオケは、最悪でも再来週、
3月10日あたりには上がっていなければならない。

各種作業にかなりの無理を強いる極道スケジュールでこうなのだ。

本当のことを云えば月末にはもうオケが欲しい。

だと云うのに、特に楓の曲の方は、オケを生録したいという不穏な要望が作家側から上がっていると聞く。

オケを生録するには、コンピュータで全てを完結させてしまう方法よりも格段に時間がかかる。

楓→凛の順番で、プロジェクトをこなしていければまだいけそうだが――

「まあ無理だよな」

これまでのラフを聴いた限りでは、凛のオケの方が早く上がりそうだ。

凛の頑張りに期待して、さっさと彼女の分だけでも終わらせてしまうべきか。

「……プロジェクト初っ端から始終逝っとけダイヤってのはキツイな」

この年端もゆかぬ少女に、おんぶにだっことは、情けない大人たちである。

凛は聞き慣れない言葉に首を傾げた。

「なにそれ?」

「んー、今とにかく進められるところまで進んじまおう……って感じだな」

あまりにも場当たり的な進行方法に、凛は眉をひそめた。

「できれば事前にしっかりスケジュール決まっておいてくれた方が嬉しいんだけど……」

「そりゃごもっともだ。俺だってそうだよ。けど、こればっかりは俺だけじゃどうにもならないんだよな」

今までPが内製していたときとは違い、制作に色々な会社、色々な人物が絡んでいる。

調整役として、各担当者の尻を叩くのがせいぜい。

もし今後この制作方法がCGプロ内で主流になるなら……

調整の齟齬で涙を呑む事態が多発することになるかも知れない、とPは危機感を募らせている。

「まあ、そのぶん私が頑張ればいいんでしょ。そのために越堀へ移ったんだし」

「すまんな。お互いバタバタしてきてるが宜しく頼む」

「うん。なんだかスクラムを組んでるような感じがあるよね」

これまで凛にとって作業指示などはPから下りてくる一方通行に近いものだったが、
今回の件がきっかけで二人で一緒に走っているような――互いが互いに支え合う空気を憶えつつあった。

Pは凛に期待し、凛はPに期待する。

「……ま、悪くないかな」

凛は制作部を出て、レッスンフロアへと登る階段に足を掛けながら独り言ちた。




・・・・・・


春が来た。

数箇月前に予測されていた通り、桜の開花前線は例年より遅めに北上している。

だが正直に云えば、桜なんかに構ってられないのが本音だ。

厳しいスケジュールをどうにかこなして、無事に予定通りの期日にCDを発売できそうだと道筋が見える頃には、
凛は既に高校二年生となっていた。

日頃の学業、日頃のレッスン、日頃のお仕事。

年度が変わって、ラジオの新しいレギュラーが入ったり、テレビに映る仕事もだいぶ増えてきた。

特にラジオはニュージェネ三人での生番組で、全員慣れていない為に試行錯誤が続く日々だ。

初回なんか放送事故寸前の空白が生まれたりしてしまい、スタッフをハラハラさせた。

レッスンの方は、マスタートレーナー青木麗の合流がようやく叶い、
青木四姉妹の強力なトレーニング体制が固められた。

ちなみにこれを最も喜んだのは、麗の元プロデューサーであった社長だ。

元トップアイドルたる麗のレッスンは、厳しいながらも楽しく、とてもためになるものだった。

それら沢山のやるべきことをこなしているうち、Pも凛も、
気がついたら桜が咲いていて気がついたら散っていた、という状態だ。

「今年、お花見しなかったな……」

レッスンスタジオが空くのを待つ間、第一課の窓から外を見る凛が、ぽつりと呟いた。

「そうだなあ、桜自体は毎日の行き帰りで見てたが」

凛の独言を拾って、Pがキーボードを叩きながら「それじゃ花見じゃないもんな」と軽い吐息を洩らす。

麻布十番は、意外と桜の見所に事欠かない地域だ。

街路には吉野桜が多数植えられ、駅近くに花見のできる小さな公園が散見される。

少し足を伸ばせば芝公園や有栖川記念公園と云った有名なお花見スポットも。

又聞きながら、一部のアイドルは、スケジュールの都合をつけて近くの児童公園でささやかな花見をしたらしい。

しかし凛のみならず、制作が佳境だったCD組や、普段の仕事が忙しい卯月と未央は
そのような機会を設けることができなかった。

既にCDの収録は終えているとはいえ、各種プロモーションやライブステージ用のダンスレッスンなど、
こなすべきタスクは枚挙に暇がない。

息抜きが必要なのは誰もが判っているが、
「今はそんなことやってられない」と将来の自分から体力の前借りをしている。

今年はタイミングが悪かったと、諦めるしかあるまい。

「来年はお花見したいね。それとも、もっと忙しくなっててそれどころじゃない方がいいかな? ふふっ」

凛が皮算用にくつくつと肩を揺らした。

「まあどっちに転んでもいいんじゃないかね。適当に理由つけて昼間からビール呷りたいもんだ」

「うわ、ダメな大人」

他愛ない遣り取りの間に、メールの受信音が鳴った。

差出人アドレスのドメインはフジツボだ。

「お、これはこれは――」

フジツボのサマーライブフェス担当者から「今年も参加してほしい」とスケジュール確認の打診だった。

「プロデューサー、どうしたの?」

「サマーライブフェスからお誘いがきたぞ。今年の夏も暑くそして熱くなりそうだ」

「え? もう案内がきたの? 去年は夏に入ってからの話じゃなかったっけ」

凛の記憶の通りだ。だがそれは、枠に穴が空いたことで急遽決まったに過ぎない。

本来なら、このように数箇月前には問い合わせがくるものだ。

つまり、去年の「補欠で出してあげる」から、今年は「是非参加してくれ」に変遷したと云うこと。

なるほどね、と凛は満足気に笑う。

日頃の仕事内容が増えることよりも、去年経験した仕事に再度触れる際の待遇の変化こそが、
「ここまで頑張ってきたんだな」と実感しやすい。

今年は八月頭に開催とのことで、ひとまず凛のスケジュールを仮押さえした上で、メールを返信。

CD発売後に改めて詰めましょう、と云う話になった。

どこまで去年より高い場所へ昇れるか、今から折衝が楽しみだ。


4月18日。

いよいよ凛たちのCDが、全国津々浦々へ届けられる日がやってきた。

実際のところは、各店舗への出入荷の関係上、前日の十七日から既に市場へ出回っていたのだが、
それら『フラゲ組』の反響も含め、かなりの手応えが感じられる。

特に凛のCDに収録されているトーク冒頭の“犬のモノマネ”はファン至宝の数秒となった。

早速ネット上ではその部分のみをひたすら繰り返す『凛ちゃんのわんわんで十分間耐久』
などという訳の判らない動画が人気を博し、当人は頭を抱えている。

Pが爆笑しながら延々とその動画をリピートさせていたら、思いっきり叩かれた。

「権利侵害だよ著作権侵害! はい通報通報!」

「別にいいんじゃないかこれくらいは。ループしただけで何か悪意のある編集でもないし、大目に見るぞ俺は」

「私の尊厳が踏み躙られてるんだってば!」

「えー。だってこれ捏造じゃなくて実際CDに収録されてることだしなあ」

「あーもうテンパってあんなことやるんじゃなかった!」

凛はソファに顔を埋めて足をバタバタさせる。

いわゆる若さ故の黒歴史と云うものは誰しも持っているだろうが、
凛にとって不幸なのは、それが形として永遠に遺ることであろう。

まあきっと数年後には笑い話の種になっているはずだ。

「はぁ……まあいいや。それよりもさ、今日は、夜ヒマ?」

凛の質問に、Pは不思議そうに、しかし頷いて肯定した。

「私、レコードショップの現場を見てみたいから、連れてってよ」


終業後、二人は東京ミッドタウンはTATSUYA MUSIC STOREに足を運ぶ。

「あ、ほんとに置かれてる」

半ば他人事のような台詞だが――

変装して店内に入ると、アイドルコーナーの一番目立つ位置に、CGプロの五作品が特設されていた。

凛の大判ポスターが掲示され、店内BGMは凛の新曲『Never say never』のみならず、
楓の『こいかぜ』等、かなりプッシュしてくれていてありがたい。

他ジャンルのアルバムを探すふりをしながら遠目で様子を窺うと、
会社帰りとおぼしきスーツ姿のサラリーマンが、手に取ってレジへ持っていくのを何度となく見た。

或る人は凛だけを予め狙っていたように。

また或る人は、コーナーの前で思案して五つ全部カゴへ入れたり。

「私のCDが……売れてる……」

その光景に、凛はようやくメジャーデビューを実感した。

「凛」

Pが小声で呼び掛ける。

振り返った担当アイドルに、シンプルな一言。

「改めて、おめでとう」

お忍びだから表情は抑え気味でも、心の中が充分に判るほどの笑みを、凛は浮かべた。



――

発売翌週。

普段は腰の重いジヤパン哥倫が、珍しく俊敏に動いた。

CGプロのCD展開、その第二弾を早くも発表したのだ。

人選は順次発表してゆく、ひとまず「次も出します」と云うだけのものではあったが、
この素早い続編発表は、それだけジヤパン哥倫にとって結果が予想以上のレベルだった証左だ。

然もありなむ。出した五枚のシングルが、全てオリコソでトップテン内に輝いたのだから。

昨今、アイドルが注目を浴びている時代とはいえ、
シリーズを通して一気にランクインするのは前代未聞の快挙だった。

Pは賭けに勝った。凛たちの苦労が、実を結んだのだ。

凛以外の四人は既に一段階ランクが上がっているし、凛だってCランクへの上昇は当確。

次の定例ライブの動員次第だが、秒読み段階と断言して構わないだろう。

順調そうに見える凛のランクアップだが、こと765のアイドルに照らし合わせれば、
もうこの時期にはBランクになっていたと云うのだから末恐ろしい話だ。

凛は凛なりのペースで成長してくれればよい。

しかし――

「765とはまだまだ当たりたくないな……」

Pは、誰もいない第一課で残業しながら独り言ちる。

次のフェスに向けて詳細を詰めなければならないし、CGプロ単体で行なうライブの手配も興業部と打ち合わせる必要がある。

CDを出したら幾分か休めるかと思っていたが、そんな気配は全くなかった。

CDを出したら終わりではないのだ。

まもなく世間では大型連休で、法務部とか云う暦通りの連中からは浮かれた空気が漂ってくるのに。

「社内格差だ!」とでも叫びたくなる。

ただしそれを云い始めたら、P以上に暦の関係ないアイドルたちから怒られよう。

やれやれ、と坐ったままで伸びをすると、メールの着信があった。

こんな時間にジヤパン哥倫からだ。

向こうさんも、大型連休前に残業でやるべきことを片付けなければならないのだろうか。



――

大型連休後半、五月に入ってすぐの週末。Pと凛は午前中の便で新千歳空港へ降り立っていた。

飛行機を出た瞬間から、ひんやりと身体を包む冷気に、薄着の凛は小さく震えた。

鞄からストールを取り出し、肩に羽織って云う。

「ここ本当に五月なの? 涼しいというより……寒い」

「そりゃ北海道だからな。五月でも場合によっては最低気温が一桁まで落ちる」

「冬だよねもうそれ」

預けた荷物はないので返却場のターンテーブルは素通りし、札幌行きJRのホームへと向かう。

東京とはまるで違う構造の電車に、凛は驚いた。

「ドアが二重になってる……」

「そりゃ北海道だからな。扉を二つ設けないと冬は中を保温できない」

全てが雪国仕様の日常、凛はことあるごとに感銘を受けた。

「信号機が縦になってる!」「道路の端に矢印がついてる!」エトセトラ。

札幌の中心に着いてからも、大通方面へ向かって駅前通りを南下するのに
「本当に街が数字で区切られてる!」とはしゃぎっぱなしだ。

なぜこのような旅行紛いのことをしているのか?

札幌に二店舗あるトワーレコードで、トークイベントを開催することになったためだ。

CDが爆発的にヒットしたことで、ジヤパン哥倫から急遽、大型連休中に全国各地で発売記念トークを行なう企画を得た。

第一課は、連休前半に博多で楓が。後半はここ札幌で凛。

第二課は前半に三村かな子が大阪、後半は双葉杏が徳島へ。

そして第三課の城ヶ崎莉嘉は名古屋へ赴いている。

地方在住者にとって、中央へ出なくとも良いイベントは非常に助かるものだ。

大型連休中で外出する予定のある人も多いだろうに、
トワレコに設けられたイベントスペースは満員御礼の盛況さを誇っていた。


「――実は発売日にこっそり近くのお店を覗いたんだ。
 そしたら特設コーナーがあって、立ち止まってくれる人も多くて」

アイドル衣装ではないが、普段よりややお洒落をした私服で、
トークステージに腰を据える凛が、発売当時を語っている。

「やっぱり、実際に自分のCDを手に取ってレジに持って行ってくれる人を見ると嬉しくなるよね。感謝で一杯」

昨今の凛は、柔らかい笑顔が出るようになってきた。

無愛想な表情もクールではあるのだが、やはり笑顔が一番。

それが自然に出てくるならば、アイドルとして申し分ない。

ファンと質問の遣り取りをしながら小一時間ほどトークを進めてゆき、最後は勿論、締めの一曲。

サイン会も行なわれ、二店舗でのべ二百人分ほど筆を走らせた。


「ねえ、プロデューサー」

二箇所での仕事を終えて、帰京する時間まで札幌の街を散策するうち、凛が隣を歩くPに語り掛けた。

「大きな舞台に立つだけではなくて、こうやって小さな規模でもファンの人たちと近くで交流するのって、
 ……やっぱりいいね」

「あー、そういえば凛は最近こういうタイプの、やってなかったな」

ここ半年ほどは、ファンと直接顔を合わせるイベントは、大規模化する一方だった。

「うん。なんて云えばいいのかな……懐かしい感じがした」

大通公園でストリートパフォーマンスをする人を遠目に見ながら、凛はゆっくりと歩を進め、語った。

Pは正直、そこまで考えてトークイベントの企画を進めたわけではなかった。

たまたまジヤパン哥倫からの「やらない?」と云う素案を具体化し、廻しただけ。

それでも凛が、そしてファンが喜んでくれたのなら、プロデューサー冥利に尽きるというもの。

「凛さえ良ければ、この大型連休が明けてからこういう規模のイベント、いくつか企画してみるか?」

「そうだね、連休明けに――あ」

ふと、凛は自らの言葉で何かを思い出したらしい。

「……そっか。社長やプロデューサーにスカウトされて……もう、一年経つんだね」

流れで高校へ進学して、何の彩りもなかったときに現れた、妙なオジサン。

渋谷で当て所もなく抜け殻になっていた自分の前に現れた、妙な不審者。

「プロデューサーには云うまでもないだろうけどさ、私、空っぽだったんだよね――」

卯月みたいに、小さな頃からアイドルへ憧れていたわけでもない。

未央みたいに、大勢の輪の中心で笑っていたわけでもない。

「正直、私なんて、卯月と未央に比べたら……アイドルをやるきっかけって相当後ろ向きだったよね。
 何もない今よりはマシかな、って」

なのに。

「蓋を開けてみたら、のめり込んでる自分がいて笑っちゃう」

一途に走る、自らの姿に笑ってしまう。

「でもさ、それってプロデューサーと麗さんが教えてくれたんだよ。こんなに熱くなれるものがあるんだ、って。
 プロデューサーが私の背中を押してなかったら、ステージに立つ緊張も、スポットライトを浴びる高揚感も、
 歌う楽しさも……たくさんのことを知らないままだった」

――だから。

「――だからプロデューサー、もっともっと、次の景色を見せてよ」

今は、もっともっと、走り続けたいと思う。


普段はあまり自分のことを語らない凛が、珍しく饒舌だった。

それは、この一周年と云う機会を逃したら、もう伝えられないかも知れないという思いによるものか。

それとも照れ隠し故か。

Pは、口を挟むことなく、彼女の言辞に深く深く相槌を打つのみ。口へ出さなくても、凛には伝わるはずだ。

そのまま、二人はしばらく、言葉の心地良い一方通行のまま、ゆっくり歩く。

「あ」

凛が白い吹雪に気付き、ふと立ち止まると、そこには満開の桜が何株か、立っていた。

太い幹のたもとにはベンチが据えられていて、タイミングの良いことに誰もいない。

「……ちょっと花見でもしていくか」

ひらひらと舞う柔らかな花弁を全身に受けながら、Pは凛を振り返った。

ベンチの前に広がる大通公園は桜だけでなく様々な花が咲き誇っていて、とても彩り豊かだった。

「ゴールデンウィークに桜、って……季節感狂うね」

「そりゃ北海道だからな。こっちじゃ花見がGWの風物詩さ」

今頃、北大の構内ではお花見――をダシにした――ジンパが繰り広げられていることだろう。

Pが綿飴のように膨れる染井吉野と蝦夷山桜を見上げて笑う。

「ねえ、プロデューサー、もしかしてさ――」

隣に坐る凛がPの方を向いた。

言葉は続けないが、目で語り掛けてくる。

イベントを札幌の地で開催したのは、先日、花見をしなかったことを事務所で話題に出したからなんじゃ――

Pはにやりと口角を上げて「さて何のことやら」ととぼけた。答えを云っているようなものだった。

「まったく、キザったらしいことするよね。職権濫用じゃない? ふふっ」

二人はしばらく他愛ないおしゃべりをしながら、そよ風に揺れる日本人の心を、眺め続けた。




・・・・・・・・・・・・


2012年も、夏は暑かった。

猛暑日だの熱中症だの、テレビからは毎日同じ単語が途切れず流れている。

気温は自然の采配だし、熱中症は気をつけていても罹ってしまうものだから、仕方ないといえば仕方ないのだが。

流石にこうも連日同じ内容ばかりだと、地球の自転軸を動かして一気に冬へと気候変動させてみたくもなる。

第一課の事務スペースでそんな風にぼやくPを、凛は「また何か変なことを云い出した」と冷ややかに見ていた。

凛がメジャー流通にデビューして以降、無事にCD第二弾として卯月へバトンを渡すことができた。

残念ながら未央は第二弾のメンバーに入らなかったが、彼女曰く
「第三課―パッション―はみんな平均が高いからね!」と自らが所属する課の層の厚さに胸を張っていた。

ジヤパン哥倫から未だデビューせずとも、ニュージェネレーションとしての活動は
かなりの知名度を獲得することに成功しつつあるので、未央本人は至ってどっしり構えている。

彼女の剛胆さは、凛には到底真似できない、眩しいものだった。

いづれにせよ、このままいけば第三弾も出せるはずだから、その時こそ未央の力が爆発することだろう。

第二弾の発売が八月第二週へ迫るのと同時並行で、今年のサマーライブフェスは八月最初の週末だった。

フェスに専念できる凛と未央はともかく、二重タスクとなる卯月は相当に大変そうだった。

さほど遠くない実家から通う時間すらも惜しかったのか、本郷の第二女子寮へ入ることにしたほどだ。

CD関連の作業は一日の長がある凛が卯月をサポートし、
フェスのステージ編成に関しても、凛と未央が多めにパートを受け持つ。

「幾分か余裕のできた私が、卯月の分まで引っ張らなきゃね。駆け抜けてみせるよ」

先日、Pにそう意気込んだ凛の目線は、しっかり未来を視ていた。


昨年と同じく、サマーライブフェスはフジツボテレビ湾岸スタジオ内に、特設ステージを築くことで開催される。

規模や構成も、去年とほぼ変わっていなかった。大、中、小それぞれの規模でステージが設けられ、
個々のタイムスケジュールで大勢のアイドルたちが熱く盛り上げていくのだ。

いくらCGプロ所属アイドルが躍進したとはいえ、まだメインの大舞台に登る許可が得られる立場ではない。

メインステージは、やはり765や東豪寺など強大な力と高いランクを持っているところだけ。

凛とニュージェネは、去年と変わらず中規模のステージへ割り当てられた。

それでもCGプロとしては、他にもみくや楓などが別枠で出演するし、新人たちも小型ステージで披露する。

去年と比べれば、プロダクション全体の扱いは雲泥の差と云えよう。

本番二日前のゲネプロへ赴いたCGプロ一同が、タイミングの合った他の出演者と挨拶を交わす。

「まさかみくと隣り合って挨拶回りするようになってるとはね、一年前の私に教えたいよ」

「みくもそう思うにゃ。もし今ここに去年の自分がいたら、敵―凛チャン―と並んでるのを見て
 きっと卒倒するにゃ。人生……じゃない、猫生なにが起こるかわからないものだにゃ」

ニュージェネレーションとみくが即席の変則LIVEバトルを行なった去年のフェスは、今や業界の語り種だ。

今年はお手柔らかにお願いしますよ、とフェス事務局の担当者から苦笑いされている。

ふと、去年言葉を交わしたアイドルの何割かがここにいないと、凛は気付いた。

回を重ねるごとにフェスの参加アイドルは増えていて、今年は去年の倍以上が出演することとなっていたのに。

凛が引き出せる限りの記憶では、去年いたアイドルのうち、およそ五分の一ほどが、この場に姿を見せていない。

遅入りの765たちがまだ来てないのは当たり前として、ランクのあまり高くない参加者たちは早めに入るものだ。

と、云うことは。

「あー、あそこ解散したよ」

自身が割り当てられたステージの進行管理スタッフとは、必然的に会話が多くなり、顔も見知る。

その担当者にそれとなく訊くと、やはりと云うべきか、予想された答えが返ってきた。

中にはスケジュールの都合で参加できないグループも当然いるのだが、
アイドル業界は群雄割拠、誕生と淘汰は日常茶飯事なのだ。

毎月のように新しいアイドルまたはユニットが生まれ、また毎月のように耐え抜けなかった者が去ってゆく。

諸行無常。或いは、タイミングやつながりに見舞われなかった不幸か。

運も実力のうち。そう云って切り捨てるのは簡単だ。

だが――凛だって、他のCGプロアイドルだって、その立場になるかも知れなかった。

降り積もった些細な結びつきや偶然が、糸となって持続できたに過ぎない。

結局、泡沫に消えていった人々と自分は何が違ったのか。

その理由が完全に判る者など、この世にはいない。

ただ一つ判っているのは、自分はこれからもひたすら突き進むしかない、と云うことだけだ。


フェス初日は、雲が広がって太陽のぎらつきが抑えられた代わりに、だいぶ湿度が高かった。

やはり、できることなら快晴の空の許で演りたいと思うのはわがままではあるまい。

気温はマシかと思いきや、雲が蓋の役目をしているせいでまったく下がらない。これは自然の罠だ。

結局、温度も湿度も厳しい盛夏だった。

それでも観客の入りは上々。

いや、その表現はぬるい。去年より確実に来場者は多かった。

導線などがこなれてきた為に起こる錯覚だ。

「うわ~~すごい人、人、人。熱気ムンムンだねっ」

未央が控室から外の様子を窺っている。

この日の出番は午後。

現在、凛と未央が二人で自身の準備を進めているところだ。

卯月は午前にCD関係のプロモーションがあったため、後から別動で入ることになっている。

しかし、そろそろ合流しなくてはならない時間なのに、銅からの連絡がないのが気がかりだった。

「しまむー、大丈夫かな?」

「うーん、まだ本番まで一時間くらいあるけど、流石にそろそろ来てないとまずいかも」

「私たちができる準備はこっちで進めちゃえばいいけど、しまむーのメイクとかは私は代われないもんね~~」

「……考えたくはないけど、万一のための二人でステージに立つ場合の対処とかおさらいしておこうか」

二人が舞台の設計図面に指を滑らせ、万一の際の行動を確認していると、銅からPに連絡が入った。

「卯月ちゃんはあと三十分で来られるそうだ。かなりギリギリだから、
 俺たちが他にこなせることは全部済ませておいてしまおう」

ステージを三人構成でFIXする旨を音響担当に伝えたり、脇への待機タイミングを少し後へずらすよう要請したり。

じきに、卯月が大慌てで楽屋へ入ってきた。

「遅くなっちゃってごめんなさ~~い!」

肩で息をしながら、目をぎゅっと瞑って手を合わせる。

「ごめんねェ、途中で渋滞に嵌っちゃってにっちもさっちもいかないから、車を捨ててゆりかもめで来たわ!」

銅が、車を回収してくるから宜しく、とPに告げてとんぼ返りをする。

ひとまず間に合ってよかった、今は一刻も早く卯月をスタンバイへ持っていくことだ。

乱れた髪をセットしなおし、噴き出す汗に苦戦しながらなんとかメイクを整える。

「卯月、ダッシュでこっちへ向かってきたんだろうけど……それでステージ大丈夫?」

凛が覗き込むように問うと、未だ呼吸の落ち着かない卯月は「う、うん……がんばるね」と力なく苦笑した。

ニュージェネレーションのリーダーとしてステージ上でやるべきことも多く用意されている卯月。

CDリリースが重なって多忙を極めている卯月。

この様子ではやや心配だ。

Pはギリギリまで調整役として事務局と行ったり来たりしているし、
未央は転ばぬ先の備えとしてステージ脇で既に待機を済ませている。

いま、卯月の様子をチェックできるのは凛しかいない。

――私が引っ張らなきゃ。

「……卯月。ちょっといびつになるけど、こうしよう」

凛はそっと耳打ちした。


ニュージェネレーションと、未央、凛、卯月のソロがステージを終え、拍手と歓声が沸き起こる。

凛が卯月のサポートへ入って、ニュージェネのユニットとしての舞台はなんとかこなすことができた。

卯月にはひやりとさせられたが、失敗しなかったのは幸いだった。

しかし撤収して第一課のスペースへ戻ってきたとき、Pが凛に告げる。

「今日、あまり喝采がなかったな」

「……えっ?」

ステージを終えた時の歓声を、Pは聞いていなかったのだろうか?

凛がそう疑問を内心で浮かべると、Pは嘆息した。

「俺の予測値が高過ぎたと云うこともあるかも知れん。
 ……が、それを差し引いても、今回のステージで贈られた拍手は想定していたより少なかった」

今のニュージェネなら、もっと地鳴りのような大歓声が沸き上がってもおかしくない。

「それだけお客さんを満足させられなかったということだ」

「……どういう意味? 私は、私たちは精一杯のステージを見せたつもりだよ」

「あのちぐはぐな構成が精一杯なのか?」

ユニットの時は卯月を支えようと前面へ出て引っ張った。だが、その陰で卯月の存在感は薄れた。

逆にユニットを引っ張ろうとして、バネの瞬発力を使い切ってしまったから、凛
のソロのステージでは、いつもより少しだけ声の通りやダンスのキレが鈍かった。

その様子を収めた映像をモニタに流して、再度問う。

「――これが、精一杯のステージか?」

「……だ、だって今日は予定外の事態が」

「お前にとっては、何回、何十回、歌った曲かも知れん」

声がすぼむ凛に、Pが妙にはっきりと区切る言葉を投げた。

「でもな、お客さんの中には、今日初めてお前の歌を聴いた人がいるかも知れないんだぞ」

いつ、どこで新しいファンが増えるか判らない。偶然通り掛かって足を止めた客もいたことだろう。

「その人に対して、凛は胸を張れるものを出せただろうか? 俺はそうは思わない」

――お前は今日、一期一会の意識を忘れていた。

Pは、言葉を濁さずにはっきりと断言した。

凛は俯いて、どこにピントを合わせるでもなく床を眺めた。

「……だって卯月が」

やや沈黙の時間が流れ、凛がようやく声を絞り出す。

卯月がオーバーワークで大変そうだったから。

だから凛は善かれと思って卯月に助言したし、卯月をサポートしたのだ。

Pは軽く、もう一回嘆息した。

「それは卯月ちゃんに頼まれたか?」

「――ッ!」

「卯月ちゃんに、『無理そうだから代わってくれ』って云われたのか?」

「ち、違うけど……私はそうした方がいいって思ったから――」

凛の弁解に、Pは目を瞑って首を振った。

「つまりその判断が誤りだったってことだよな」

凛は、自らの心が、目の奥が、万力で締められるように感じた。

明日はこれまでの練習通りにな、と諭すPに、凛は何も答えず踵を返し、鞄を持って第一課を出て行った。


フェス二日目。

昨日の雲は太平洋高気圧に押し出され、打って変わって快晴だ。

殺人的な紫外線がお台場を襲っており、あわや猛暑日一歩手前の状態まで茹で上がっている。

そんな太陽に負けることなく、観客は逆に太陽光線で熱せられるが如く、会場は興奮が渦巻いていた。

「凛ちゃん、昨日はごめんね。私のせいでごたごたしちゃって」

控室で一足先にメイクと着替えを済ませた卯月が、凛がリップグロスを塗るのを待ってから切り出した。

凛が卯月を振り向く。

口を真一文字に引き、上下の唇を圧着してグロスを馴染ませている仕種は変顔となり、少しだけ面白い。

「卯月、今日はもう大丈夫そうだね」

「うん、がんばるよ!」

両手でVサインを作って掲げる。

昨日、卯月のためを思ったとはいえ、彼女の出番を潰す形になった凛に、卯月は変わらず笑顔を向けた。

Pに映像を見せられて、ステージで演っていた自分では気付かないほど、卯月の影が薄くなっていたと判った。

卯月だって、もっと笑顔を振りまきたかっただろうに。

凛がどう云おうか迷っている間に、ニュージェネレーションへ、ステージ脇の待機へつくよう要請が降りた。

「よーし、行こう、しまむー、しぶりん!」

昨日の分を取り戻す。言葉を呑み込んだ凛はそう気合いを入れて、スタンバイした。


演目を終えた凛たちに、大きな拍手と喝采が、屋上全体を揺るがすように響き渡った。

プレイバックして比べる必要がないほど、昨日とは反応が違う。

昨日も、今日も、同じくらいに熱を傾けてステージを舞ったのに。

……いや、昨日の方が情熱を注ぎ込んだと云えるかも知れない。

引っ張る為に、皆で駆け抜ける為に全力を出したのに、昨日はどうしてそれが報われなかったのか。

投じた熱量に比例して結果が返ってくるわけではないこの不確定さに、凛は苛ついた。

そしてその『不確定さ』とは、アイドルとしての存在そのものにも関わってくることで。

もし昨日のような“ボタンの賭け違え”がステージではなく自身に降り掛かったら。

今年見かけなかった、淘汰された側に、自分もいたのかも知れない。

そう思うと、凛は言い知れぬ不安を、底冷えする恐怖を憶えた。



――

夜、フェス出演者を集めて行なわれたデブリーフィングを終え、解散したのち。

明日月曜に提出しなければならない課題を、凛は営業の終了した静かなカフェテリアで独り消化していた。

『お仕事モード』の直後に『学生モード』へ切り替えなければならないのは、意外とパワーを使う。

世間は夏休みといえども、越堀高校はやや様相が異なる。

この休暇期間中に、本来授業を受けなければならなかった日を振り替えているのだ。

こうやって出席日数の辻褄を合わせるから、芸能科の雰囲気は長期休みでも普段とあまり変わりがなかった。

「ふぅ、数学終わり。あとは現国……」

背もたれに体重を預け、一つ嘆息した凛は、手許に転がる一口サイズの黒糖羊羹を剥いて頬張った。

『おもかげ』と書かれたそれは、黒砂糖の深い甘さと薫りが鼻へ抜け、南国のような夏の面影を思い起こさせる。

――南の島の夏。

アイドルにとって身近かと思われがちだが、実際はそうでもない。

アイドルとして避けられない水着姿での撮影仕事は、
既に『夏の準備特集!』などと銘打たれた複数の雑誌で経験済みだ。

だがその紙面は一般人が夏の準備をしようと云うときのために刷られるわけで、発売は当然夏本番になる前だ。

そしてその発行に間に合わせるには、撮影タイミングは晩春となる。

寒さで鳥肌が立つのを抑えるのに、相当苦労した記憶が甦る。

クーラーからそよぐ冷風で、撮影時の寒さを連想してしまい、「はっ!」と南国へ飛んでいた意識が戻った。

身体を起こすと、傍の廊下を、終業した社員が会釈を寄越しながら通り過ぎていくところだった。

凛も目礼を返すが、当該社員の顔に見覚えはない。

最近、社員の数がどんどん増えているので、まだ会ったことのない人が、このビルには何人もいる。

ぼーっとその姿を目で追うと、玄関へ降りるために消えていった階段から、
ふと、音楽が微かに聞こえることに気付いた。

階上のスタジオから洩れているのだろうか。

夜遅いこんな時間には、誰もレッスンを受けていないはずだ。

一体誰が。

凛は勉強道具を手早く仕舞って、リノリウムの床に靴音を響かせた。


階段を上ると、本来は固く閉まっているはずの重い防音扉が少し開いていた。

覗き込むと、第一ダンスレッスン室に、未だ照明が点いている。音もそこからだ。

ギターを除けば全てが電子音で構成され、拍のしっかりした、とてもグルービーなダンスミュージック。

――そんなんじゃないよ 愉しいだけ
――留まらない衝動に 従うだけ

シンセの波に、高すぎず低すぎない、すっきり芯の通った女性ボーカルが乗った。

――平坦な感動に 興味はない
――退屈な時間は 要らない

凛の知らない曲だった。こんな格好良いのに、世間を賑わせた記憶がない。

大ヒット間違いなさそうな曲だよね、と不思議に思いながらレッスン室までやってきてノブを引く。


Chase the Chance (1995)
https://www.youtube.com/watch?v=L88wQ8iSff0

「――ッ!?」

その瞬間、熱波が身体中を襲ったかのように突き抜け、飛ばされるように尻餅をついた。

腰が抜けて、動けない。

凛の見開いた視線の先では、麗が激しく踊っていた。

現代のAランクアイドルのライブでも見たことのない、キレと滑らかさ、しなやかさ、そして艶かしさ。

それは、765の星井美希ですら表現できないであろう次元の動きだった。

角度の関係で、麗は凛に気付いていない。そのまま三分ほど、自身の知らないところで凛を圧倒し続ける。

曲がアウトロとなり、サビのフレーズをひたすら繰り返してフェードアウトすると、ようやく疾風が止まった。

「……ふぅ」

一気に力を抜いた麗は、少し離れたところに掛けてあるタオルを取ろうと横を向く。

すぐに、入口でへたり込んでいる凛と目が合った。

「うわっ」

不意のことに驚き狼狽える麗を、凛は何もできずに見た。

「……あー、こほん。ひとまずだな、渋谷、ショーツが見えてるぞ」

股が開き、灰色のスカートから覘いている白いショーツを麗は指差して、自身の顔を伝う汗を拭う。

四月から正式に専属トレーナーとなり、生徒となったアイドルたちを、麗は呼び付けするようになっていた。

凛は衝撃のあまり俊敏に動けなくなった四肢をいそいそと閉じる。

その緩慢な動作に、麗は苦笑いで手を差し伸ばし、凛を引き揚げ立たせた。

「あ、あの……凄かったです。その……色々と」

凛は云いたいことが多過ぎて逆に収集つかず、一言しか出せなかった。

麗のレッスンはこれまで何度も受けてきたが、ここまでの動きは見たことがない。

きっと、受ける者の技量に合わせてセーブしているに過ぎなかったのだろう。

「そうか。お粗末様だったな」

「お粗末だなんて……むしろどうしてそこまでやれるのにアイドルを続けていないんですか」

現在現役で活動中のアイドル全員を、片手で捻り潰せそうな腕前なのに。

「私の今の役目は、後輩をしっかり育てることさ。表舞台へは、そこに相応しい者が立てばいい」

麗はそのまま水を一口飲んで、少しだけ黙り込んだ。

ややあって短く嘆息してから、やれやれと云う表情で笑みを浮かべる。

「それに、たまに身体感覚を維持する目的でしかこの動きでは踊れないよ。
 今やったレベルのパフォーマンスを四六時中保っているのは、もう無理だ」

言葉の裏に、身体の衰え――過ぎ行く時間に抗えない運命を背負っていた。

「それでも、凄い躍動感でした。
 今まで聞いたことのないほどクールな曲に、今まで見たことのないほどホットなダンス」

「……そうか。この曲を知らない世代が現役になったんだな……」

麗がぽつりとこぼす。凛は驚きを以て迎えた。

「えっ……今の曲って、そんなに古いものだったんですか?」

「私が中一の時に大ヒットした曲さ。95年だから、渋谷と同い年ってことだな」

「ウソ……17年も前の曲……? これが……?」

てっきり、最近発売されてまだ耳に入っていなかったものだと。

「たしか当時150万枚くらい売れたはずだ」

「ひゃっ、ひゃく!?」

凛が先日出したシングルとは桁が二つも違った。驚愕のあまり瞳を揺らすのを、麗は苦笑して見た。

「それだけダンスナンバーと云うものは……
 J-POPにしろアイドルソングにしろ、90年代から進化が停滞しているんだよ」

娯楽が多様化している今、魅せ方に至っては、むしろ退化しているかも知れないな――と、麗は目を細めた。

「さっきのダンスは当時の振り付けのまま、コピーしただけなんだ。
 私がアイドルを目指すきっかけになったやつさ」

麗はもう一口、水を飲んで、「いつか――このレベルのパフォーマンスを、現代に復活させたいね」と
やや離れた机にペットボトルを置きにいく。

それはトップアイドルの背中だった。

凛の目には、麗の向こう側に、スタジアムを埋め尽くす膨大な観客が見える。

背筋に鳥肌が立つ。

凛は、ここ数日感じている恐怖をより明確に意識した。

「……あの、麗さん」

「ん? どうした」

麗が振り返ると、群衆の錯覚は霧散した。

「私――怖いんです」

普段テレビとかでよく目にするトップクラスのアイドルたち。

逆に云えば、一般の人間は、それらしか知らない。

その下に、何百何千もの、アイドルを夢見、そして夢潰えた者の屍があることを、知らない。

「甘いことを云うようですが、業界に入って、初めて、その頂の遠さを実感しました」

自らが、さきほど錯覚に視たような、観衆によって埋め尽くされたシーンに立てるのか。

「以前は、身近に感じていたトップアイドル、それが急にとても遠くの出来事のようで……」

まるでそれは、山登り。

麓に来るまでは、頂上がどこにあるかが見える。

しかし、一度山へ踏み入れると……険しい道しか目に入らなくなる。

どこに頂上があるのか、どこまで歩けば辿り着くのか。

普通の山なら、登山道があるだけまだマシ。

アイドルと云う存在は、案内板などない、道無き道を掻き分けて、登り詰めて行かなければならないのだ。

「私、このままやっていけるのか……」

消え入りそうな凛とは対照的に、強くはっきり麗の声が響く。

「案ずることはないだろうさ。いつだったかも云ったように、渋谷にはP殿がいる。
 私に社長……いや、“プロデューサー”がいたようにな」

凛は、はっと顔を挙げた。

「いいか、アイドルとプロデューサーというのは、表裏一体、二人三脚、背中合わせのパートナーだ」

パートナーだからこそ背中を預けられるし、逆にパートナーだからこそ、苦言を呈したり喧嘩もする。

「最近、渋谷はそれをちょっと忘れ気味だったんじゃないか?」

麗が意地悪く笑って云った。

しかしその顔はすぐに慈悲深くなる。

「それに、私の頃は一人だったが、君には島村が、本田がいる。仲間がいるんだ」

「……一応判ってるつもりではいるんですが……
 仲間の為を思ったことが裏目に出てしまって、何が正解なのかよく見えないんです」

凛の自信のなさそうな答えに、麗は、ふむ、と腕を組んだ。

「やっぱり君は一人で抱え込むきらいがあるな。何かきっかけがあれば変われるのだろうが」

こればかりはレッスンでどうにかなるものではないしな――と思案顔。

麗の頭の中には答えがあるらしい。しかし、それを凛に伝える術がないのだ。

頭同士をケーブルでつなげられるテクノロジがあれば便利なのに。

そうすれば、頭で思ったことを自動的に文字へ起こしてくれる機械も出ることだろう。

と凛はここへ思い至って、

「あ、宿題……」

未だ現国の分を消化していない事実に気付く。

さっと顔を青くした凛に、麗は「……頑張ってくれ」と励ますしかできなかった。



――

「う~~川島さん、とっくりでもう一本、たっぷりくださいな」

露天風呂に浸かった楓が、お猪口を掲げて、たゆたいながら酒のおかわりを要求している。

ここはとある山間の温泉。

サマーライブフェスの成功を祝して、出演したCGプロのアイドルたちが慰安旅行に来ている。

全員のスケジュールを最小公倍数で揃えた結果、実現可能な時期が秋にずれ込んでしまった。

そこでただでは起きないCGプロである、温泉街でのオータムライブ案件をこの旅行にかぶせてきた。

ちひろの商魂逞しさには頭が下がる。

「この忙しい時期に温泉なんて……」と呆れていた凛も、いざ到着して浴衣に着替え、
卯月と未央と温泉街を散歩してみた途端に「まぁ悪くないかな」と云い出す現金な反応を見せた。

フェスから二箇月弱、ソロでの仕事がほとんどを占めていた凛にとって、
ニュージェネ三人でゆっくりできる機会は相当久しぶりのことだった。

湯煙ただよう中で温泉まんじゅうを味わったり、川縁へ降りて紅葉に染まる遊歩道を散策してみたり。

一応仕事で来ているとはいえ、慰安旅行としての側面も、きちんと満喫している様子だ。

対して、Pは心休まる暇がない。

鏷は「ちょっくら遊んでくる」と温泉街の中心部へ繰り出した上に、
銅は何故か自分磨きと称してホテルでエステを受けている。

結局、お調子者も少なからずいるCGプロのアイドル全員の面倒を、Pが一身に背負っている状態だ。

なのに給料は他の者と変わらないのである。

こんな理不尽な仕打ちを許してはならない。帰ったらちひろに直談判だ。

……と意気込むが、Pに「おつかれさまです♪」と可愛いアイドルたちが笑顔で色々差し入れを持ってくると、
そんな不満は一気に雲散霧消するのだ。

その現場を凛に見られていて、あとで「プロデューサー、なに鼻の下伸ばしてんの」と
脇腹をつねられることとなった。


さておき、翌日のライブまでは、慰安旅行のフェイズだから楽しまねば損である。

損なのだが、凛は生来の真面目さゆえか、陽が落ちると既にライブのことで頭が一杯になっていた。

温泉を味わって、夕食が終わって、あとは就寝するだけ――という時間になってなお、一抹の不安があった。

明日行なわれるライブ。ニュージェネとしてのステージは、フェス以来だ。

またフェスのときのような失敗をしてしまわないだろうか、と、
ここ二箇月は鳴りを潜めていた不安が、再び膨れ始めた。

「……駄目だ。もう一回、お風呂に行こうかな」

横になっている同室の卯月と未央を見やってから溜息を吐いて、独り、部屋を出る。

紫色の絨毯が敷かれた廊下を暖かな橙色の光が照らし、
上品に飾られた生け花と白檀のお香が高級感を演出している。

それらは心を落ち着かせてくれるが、逆に落ち着くからこそ、色々と考え出してしまう側面もあった。

『女湯』と書かれた小豆色の暖簾をくぐり、茶羽織と浴衣をするりと脱ぐと、赤みの強い凛の柔肌が露になる。

内湯で掛け湯をしてから露天風呂へと続く扉を開けると――

「あれ……」

いきなり目の前で大人アイドル二人が酒盛り中だった。

温泉の露天風呂で、燗酒を傾ける――これは模範的な、駄目な大人の姿だ。

とはいえその二人、川島瑞樹と高垣楓は、特に騒ぐ様子もなくしめやかに飲んでいた。

「あー……お邪魔、だったかな」

「とんでもない。ゆっくり入って、どうぞ」

瑞樹が気にしないでいいわ、と促した。

凛は邪魔しないよう、少し離れたところで湯浴みを味わう。

穏やかで、静かで、悪くない湯だった。

空を眺めると、満月が輝いていて、視界の端には色づく樹々も入る。

ふと、最近の自分は、これほどゆっくり景色を見たことがなかったと思い当たった。

それは勿論アイドルの仕事でいつも忙しくしているから当然なのだが、
ここまで穏やかに過ごせる機会はとんと得られていない。

「たぶん、プロデューサーはこれを狙って旅行を組んでくれたんだよね」

ぽつり、空を見ながら、たまにはいいよね、と独り言つ。

こうやって先回りして何かを用意してくれるのが嬉しい。

最初は「なんでこんなことを?」と思うのだが、蓋を開けてみれば「なるほど、こういうことか」となる。

「……私の進む先を照らしてくれるのは、プロデューサーにしかできないんだろうな」

これが、背中を預ける安心感、と云うものなのだろう。

「あ、空になっちゃいましたね。お酒がなくなるのは避けられない……ふふふ」

隣から不穏な台詞が聞こえてきた。

ここで冒頭の、楓の要求である。

「あのー川島さん、いいんですか? 楓さんだいぶ酔ってるんじゃ……明日ライブなのに」

凛が二人の方へゆっくり近づいて訊いた。

穏やかな気分になっても、やはりライブのことは忘れられないのだ。

対して、瑞樹はあっさりと、あっけらかんと返す。

「大丈夫よ。楓ちゃん、こう見えて締めるところはきちんと締めるもの。
 明日に影響が出るくらいまでは飲まないわ」

「……信用してるんですね」

「楓ちゃんとは飲みに行く機会多いからね」

慣れたのよ、と笑う。

凛は、水面―みなも―に映り込んで揺れる月を見ながら、胸にすとんと何かが落ちる感覚を憶えた。

「……そっか。私、ようやく判った」

フェスのとき、凛は、仲間のため卯月のためを思ってやったと思っていた。

勿論、その時の凛は本気でそう思っていたし、押し付けがましく考えたわけでもない。

「でも――違ったんだ。卯月を“信用してなかった”んだ」

卯月も、未央も、これだけずっと一緒に歩んできた戦友なのだ。事務所を立ち上げた際の、最初の三人なのだ。

辛い時には、本当に辛かったら、辛いと云ってこっちを頼ってくれるだろう。

独りで走っているつもりだったが、それは誤りだった。

きっと、皆がいるから輝けるのだ。

仲間がいるから、走れるのだ。

結局は、勝手に判断して、勝手に空回って、勝手に自滅しただけ。

そんなことを二箇月も経ってから理解できるなんて。

「バカだな……私」

凛は一度、手柄杓で顔を湿らせて、一つ、息を吐いた。

「私、ホントまだまだ子供なんだな……」

ようやく、それが判った。

「あ、凛ちゃん!」

ガチャリと音を立てて、内湯から露天に続く扉が開いた。

顔を出したのは卯月と未央。

「お、しぶりんやっぱりここにいたいた! 私たちもいーれーてっ!」

「二人とも、よく私がここにいるって判ったね」

「気付いたら凛ちゃんが部屋にいないから、きっとお風呂行ったんだろうな、って」

「そんなに読みやすい行動パターンなのかな、私……」

静かで穏やかだった露天風呂が、一斉に賑やかになる。

「ねえ、未央、卯月」

凛が不敵に笑んだ。

「明日、ぶちかますよ。私たちならできるから。きっと……絶対ね」

「おうおう、この未央ちゃんパワーを存分に発揮してしんぜよう!」

「ステージが楽しみだね、凛ちゃん、未央ちゃん!」

露天風呂を明るく照らす高校生トリオの横で、
成人済みの二人は、お猪口を盆に伏せ、眼を瞑り静かに笑い合っていた。


すいません
たぶんもうあと少しで終わりなんですが時間がアレなのでアイプロやってきます
23時過ぎに戻ります



――

つかの間の非日常を終えて、再び慌ただしい日々が戻ってきた。

だがあの非日常が幻だったのではないと、
テレビのワイドショー等で話題に上っているのを見るたびに思い出させてくれる。

温泉街でのアイドルイベントとは風変わりだったのか、事前の予想よりも注目度は高かった。

当該日の宿泊施設は軒並み満室御礼で、経済効果はかなりのものだったらしい。

芸能ニュース媒体は当たり前として、その地方の主要紙やローカル局がここぞと主力記者を派遣してきたし、
また町おこし事例として全国自治体からの照会も多数寄せられていた。

湯浴みをした翌日、自信に身を包んだニュージェネレーションが、とびきりのライブを成功させ――

和服を基にしたアイドル衣装はファッションのトレンドにまでなり、原宿では小さなブームになっているそうだ。

Pもあの時の内容には大層満足し、

「すごくいいライブだった」

と三人を手放しで賞賛している。

「なんか、一皮むけた感じがしたな。これまでのニュージェネとは全然違った。
 もちろん、凛単体としても。良い意味で肩の力が抜けたか」

「うん、ちょっとね、見つけたことがあったから。皆がいるから輝ける、ってさ」

そして――皆だけじゃない、プロデューサーがいるから歌えるんだ。

でも、恥ずかしいから……これはプロデューサーには云わない。

「よし、この分なら……大丈夫だろうな。遠藤さん」

そう云ってPは、第一課に来ていた興業部の取りまとめ役、遠藤を呼んだ。

凛が部屋に入った時から気にはなっていたが、詳しく訊くことはしなかった人物だ。

「ちょっと年度末にね、大きいの一発ぶち上げますよ」

と云って凛にライブの企画書を手渡した。

「私のソロコンサートだね? えっと、横浜アリーナ、3DAYS。……3DAYS!?」

書類に書かれた見出しをスムーズに読んでいたが、実施期間を見て二度叫んだ。

「ちょっと、私のソロで横アリってキャパ大きくない? しかもいきなり三日間ってどういうこと!?」

「いきなりじゃないよ。この企画は年度末までだいぶ時間があるからな。
 それまでに横アリ級のキャパで一日だけのイベントを何度かやるさ」

Pがしれっと年度末までに何度も大きなライブをすることを示唆した。

「フェスでもかなりいい成績を出してますから、社内で年明けのIUに挑戦させようかって意見もあったんですよ」

遠藤が、企画書を読んで驚く凛を満足そうに見て云った。

「えっ!? IUはさすがに私の腕じゃ……」

「そう、それなりにいいポジションまで行けるとは思うんですが、優勝となるとまず無理でしょう。
 負けると結構ダメージ大きいですからね、IUはまだちょっと保留しておこうと」

IUの代わりに、横アリ3DAYSを開催して存在感を示していく、と云う戦略らしい。

「このコンサートは、今後のCGプロがどこまでやれるかの試金石となる。
 CDのときと同じく、凛、お前に白羽の矢が立った」

Pに、やっぱり同じサイクルを繰り返すのか、とやや諦め顔で凛が問う。

「また選定基準って中身より外身の見た目なの? アイドルの適性だったら卯月にした方がいいんじゃない?」

「そりゃ当然ルックスもあるよ。ニュージェネの中で凛が一番ビジュアルの受けがいいのは否定しない。
 でもお前、見た目以外の大事な要素、歌も、踊りも、もう卯月と未央を僅差で追い抜いてるぞ」

Pの指摘に凛はやや固まった。

「……冗談でしょ?」

「莫迦云え。ここで戯言吹いてどうする」

ストイックな鍛錬の成果が実を結んだんだよ。Pは腕を組んで大きく顎を引いた。

一年と半年をかけて、凛は、全てがビリだった落ちこぼれから、
三人の中で最も『動いて歌える』百合の花へと成長したのだ。

しかし凛としては、全然そのような実感がない。

常に誰かに対して自分は劣っているという認識。

それは――身近に麗がいる、と云うことに拠るのだろう。

元トップアイドルに指導してもらえるという幸せな環境は、裏を返せば、
元トップアイドルの凄さと自分の未熟さを延々比較してしまうという不幸が常に包含されている。

「私、こないだ麗さんの本気のパフォーマンスを見て、自分は全然ダメだって、わかったんだ」

凛は、麗がどれだけ凄いのかを、Pへのその一言に込めた。

「そりゃあ俺はアイドル青木麗の全盛期に育ったからよく知ってるよ。
 レッスンではだいぶセーブしてるってことも、見てれば或る程度わかる」

「……さすがだね」

お見それしました、と凛は両手を挙げて白旗。

「――だからさ、私は年度末までに、麗さんから受け継げるものは徹底的に吸収したい、って思う」

「あまり根を詰めすぎると後が怖いぞ」

大丈夫だよ、と凛は笑った。

アリーナライブを行なうに相応しい力を手に入れるまで、諦めない。

私は――負けたくない。

卯月に、負けたくない。

未央に、負けたくない。

麗さんに、負けたくない。

なによりも。

私は、自分に、負けたくないんだ。

「……よしわかった。じゃあ麗さんには『凛に遠慮せずガンガンしごいてくれ』って伝えておくよ」

「望むところだよ。ふふっ」

Pの意地悪な言い種に、凛も意地悪なウインクを添えて破顔する。

Pは、その表情に、堅く頼もしさを催した。



――

秋のテレビジョンは、様々なジャンルの番組が活況づく。

紅葉をテーマにした行楽や、自然が恵んでくれる味覚。スポーツも、読書も、芸術も掻き入れ時だ。

旅行に明るい者、食に通じている者、幅広い層に対応できるCGプロの強みを出す絶好の機会となる。

バラエティの特番も多く、事務所内で最も露出の多い凛、卯月、未央は色々な局から引っ張りだこだ。

ただし、睡眠の秋としてニートアイドル杏をフィーチャーするだらだら番組を作った担当者は、
酒席で酔いながら企画でもしたのかと思わざるを得ない。

さておき、凛はこのように仕事、学業、そしてレッスンと常に切れ目なくスケジュールが組まれていて、
週あたり半日分の休息時間を除いては常に慌ただしく動き回っている。

無論、テレビだけでなくCMの収録もあれば、インストアのイベントや、
種々のアーティストが顔を揃えるアリーナライブへの参加、雑誌のグラビアに寄稿にと、
枚挙するには両手の指だけでは到底足りない。

「うおおやっべ、次の現場ブーブーエスだから時間キツいぞこれ」

フジツボテレビ湾岸スタジオでの収録を終えた凛とPは、ガラス張りで小春日和の陽が差込む廊下を走っていた。

ドタドタと音を立てるPと、ふわり音を立てず舞う凛。

凛からは、急いでいてもアイドルとして行儀の悪い走り方をしてなるものか、と云う意地が感じられる。

「こりゃ俺はメシ抜きだな。コンビニ寄ってお前の分だけ買うから車の中で軽く食え」

「わかった。私が現場入りしたらゆっくり食べてよ」

現在地の台場からブーブーエスのある赤坂までは、車を使っても鉄道を使ってもかなり面倒だ。

首都高でワープしようにも、浜崎橋ジャンクションは一日中渋滞しているし、
飯倉ランプを降りてからの一般道がどれくらい混雑しているか予測が難しい。

そんな面倒くさいタイミングで。

「おーこれはこれは、今最もホットなアイドルさん」

広めのエントランスでPたちに声を掛ける姿があった。

金本だ。

普段は数百メートル北の本社ビルに詰めているはずだが、今日は立ち会いでもあったのだろうか。

このクソ忙しい時に、とPは思っても、それを表には出さない。

「お、これは金本ディレクター、なかなかご一緒する機会がなく、ご無沙汰しております」

走る足を止めて、凛とともに会釈した。

「色々と噂は聞いてるよ。フェスでは相当お世話になったみたいだね、勿論、普段も」

「フェスはあんなに大きな舞台を用意して頂いて、こちらが感謝ですよ」

フェスはフジツボ内の企画だ、当然金本にもその情報は抜けているはずだし、
その件以降の凛の露出アップでもフジツボは“お得意様”だ。

きっと、いつぞや鼻であしらった『新人アイドル』が局内でよく名前を聞く存在となって驚いていることだろう。

「今度さ、俺の企画で一件、かわいい子を使いたい番組があるんだけど、渋谷凛ちゃん、是非どうかな?」

収録と放映のスケジュールを併せて伝える金本に、Pは懐から手帖を取り出した。

「あぁ、申し訳ありません、その放映タイミングだと“汐留”から電波に乗っちゃいますね」

つまり、金本が手掛ける時間帯は、テレビ日本の裏番組で既に凛がブッキングされているということ。

芸能界には、同じ放映時間帯の複数の番組に重複出演してはならない、と云う紳士協定があるのだ。

「うわーそりゃ残念、もう一件あるんだけど、こっちの曜日の昼枠はどう?」

「あー……それも申し訳ない、“渋谷”から出ちゃいますね」

この『渋谷』とは当たり前に凛のことではない。日本放送機構―NHK―を表わす隠語だ。

実は、Pは裏でこっそりと、金本が手掛けるほとんどの番組の裏に、凛の出演をアサインしていた。

金本へのささやかな意趣返し。

「それに、渋谷凛はまだまだ青二才です。華の金本ディレクターの看板番組には、
まだまだ到底出られるレベルでは御座いませんよ」

そう云って頭を軽く下げたPに、凛はむっとした視線を送る。

しかし、彼の丁寧な物腰の裏に込められた、痛烈な皮肉と厭味に、きちんと気付いていた。

その上での、『演技』なのだ。

「そうかあー、今回は残念だけど、次、都合が合えば是非とも宜しくね」

金本は、眉の尻を下げて笑ったが、屈辱によって虚勢を張った声になっているのは隠し切れていなかった。

「ではすみません、“赤坂”へ急いで行かなければなりませんので、これで」

再度会釈して、二人は駆け出す。

地下へ降りて、車のエンジンをかけながらPは「コンビニに寄る時間も取られちまったな……」と呟いた。

「いいよ、スカッと気分がいいし。このまま直でブーブーエス入りして、休憩時間中にでも社食へ行くよ」

「そうか、すまんな。でもまあ、気分がスッキリしたならいいか」

埋立地特有の無機質な道をすいすい転がっていく社用車の中で、凛が控えめに笑って息を吐く。

「たぶん、今年に入って一番痛快だったと思うよ。ありがとね、プロデューサー」

「そりゃあな。凛みたいな素晴らしいアイドルを虚仮にする糞野郎には容赦なんてしねえよ。
 ――こほん、虚仮にする人にはお引き取り願うさ」

「プロデューサー、今、素が出たね?」

「……お前と二人の刻だけだよ」

Pは「不味ったな」と少し顔を歪め、軽く凛を向いて弁解した。

「ふふっ、判ってる。ありがと」

結局、懸念していた浜崎橋ジャンクションの渋滞も、外苑東通りの混雑もあまり大したことはなく、
現場入りする前にブーブーエスの社員食堂で二人、軽食を口にすることができた。



――

それと時期を前後して、CGプロ社内スタジオでは。

凛が麗に膝を突いてお願いごとをしていた。

横では、困惑する聖、明、慶の姿と、遠巻きに、他のアイドルやアイドル候補生たち。

彼女らの視線が、全て麗に向かっている。

やれやれどうしたものか、と麗は後頭部を掻いた。

「渋谷、P殿からそれらしい話は耳に入れられているし、君のその心意気は認めるが……
 身体への負担を考えるとあまり賛成はできないな」

「覚悟の上です。リスクのない成長なんて、ないと思っています」

凛は、顔を挙げず地に伏せたままで答えた。

かれこれ十分ほどこの状態だ。

「フェスのあと見せてくれた――魅せてくれたあの技術、あのボーカル、あの動き……どうか教えてください」

食らいついていきますから、と凛は嘆願を緩めない。

いよいよ以て、にっちもさっちも行かなくなってきた。麗は顎を撫でて、「はぁ……」と根負けした。

「……じゃあまずは何はなくとも体力だ。裏手の暗闇坂をダッシュで駆け上がり、
 大黒坂をぐるっと回り込むように降りて、再び暗闇坂へ。これを十周、四十分以内でやってきなさい」

暗闇坂も大黒坂も、麻布で有名な坂道。

大黒坂はほどよい勾配で道幅も狭すぎず広すぎず、地元の人のランニングコースになっている。

対して暗闇坂はかなり急な心臓破りの坂で、道幅もだいぶ狭い。

一周およそ五百メートル、総計五キロの坂道を四十分は、あまりにも過酷な設定だった。

麗としては、根負けしたように見せかけて、この目標値なら音を上げるだろう、
もっとゆっくりとしたペースで学ぶように考え直すだろう、と判断してのこと。

しかし。

「わかりました」

そう云って凛はレッスンウェア姿で出てゆき、きっかり四十分後、
ボロ雑巾のように髪を乱し汗だくの状態で帰ってきた。

「……まさか本気にするとはな……」

息も絶え絶えでへばり込む凛を見て、麗はバツが悪そうだ。

対する凛は、してやったりというニュアンスを言葉に込めて、

「当然、私を止めさせる為に設定したんだとわかってます」

一語ごとに、途切れ途切れで答えた。

「ならどうして」

「それで、諦めるような、半端な覚悟じゃない、って見せたかったからです」

半ば、意地とあしらいのぶつかり合い。凛はそれを承知で意地を貫き通した。

「私は、誰にも負けたくない。勿論、麗さんにだって負けたくない。だからこそ、麗さんの指導が必要なんです」

荒い息に喉を鳴らしながら、「お願いします」と食らいつく。

麗は、大きく息を吐いた。

「全く予想外のことをしてくれるな、渋谷は。……ま、スポ根も嫌いではない」

そのまま凛の前へしゃがむ。

「聖の分析に従うこと。闇雲な特訓ではなく、理詰めに従って、身体を壊さないようにすること。これが条件だ」

その言葉は、ついに、麗が本当に根負けしたことを示していた。

「あ……ありがとうございます!」


翌日から、仕事、学業、通常のレッスンの合間に麗の特訓が挿入された。

トップアイドルの世界を知る人間ゆえか、麗は意外と精神論や根性論が嫌いではないらしい。

「声を出せ! 疲れていても声だ!」

何故か竹刀を手にした麗が、トレーニングルームで凛に厳しい声を浴びせる。

その姿は、これまでのマスタートレーナーとはまるで違っていた。

普段の温和な麗を知る者たちは、みな一様に驚いている。

カフェテラスで数人のアイドルと一緒になったとき、第二課の気の小さめな子が、
凛に「もしかして、いじめられてるの……?」と心配そうに訊いてきたこともあった。

「あの人は私をいじめるためにしごいてるんじゃないよ。そもそも私がお願いしたことだしね」

凛は笑って、いじめ説を否定する。

内心では、外側からはそんな激しく見えるのかと、

そして自分はそれについていってるのかと、他人事のように感心している。

「あんな激しいことを、お願いしたの……?」

「うん、あの人は、戦場で生き残るための術を私に与えてくれてるんだ」

日高舞と云う、とても巨大な存在と比較され続けた麗。

舞の強大な背中を常に意識させられる中で走り抜けてきた彼女の“遺伝子”を、凛は受け継がむとしていた。

「あの人が孤独で引っ張ってきた世界に比べれば、私はまだまだぬるま湯の中。もっともっと吸収しなきゃ」

もっともっとファンの期待に応えられるように。

ファンを良い意味で裏切り、期待以上のステージを作り上げるために。

凛の貪欲な探求は、CGプロの名物となりつつある。

一万人クラスのイベントへ参加するたびに、凛のレベルが上がっていくと、様々な媒体で話題となっていた。


麗の特訓は、体力ばかりの話ではない。

むしろ体力作りは基本中の基本だから、それは毎日やっておけと云うのが麗のスタンスだった。

彼女の真髄は、その技術の高さだ。

技術の高さとは、即ち精度の高さ。要求される精密さは、まるで次元が違った。

これまでのレッスンなら太鼓判を押されるほどの結果を出しても、門前払い。

何度も何度も叱咤が飛ぶごとに、

「麗さんの指導なら、どんなに厳しくても喰らいついていきます!」

と凛がすがりつく。

しかし、厳しい麗をして一目置くことがあった。

振付けを動かす上での重要なポイントを教わる際、麗の云うことを理解するために高度な専門知識を要求される。

彼女の特訓は、身体を動かすばかりではなく、座学も重要なのだ。

その講義に於いて、凛は、完璧ではないまでも、常に理解する糸口を掴むくらいの知識を確保していた。

これには日頃叱る言葉の方が多い麗も、素直に褒める。

「渋谷……よく勉強してるな。まさかこれを予備解説なしで教えることができるとは思っていなかった」

「あ、実は――」

凛は、以前Pから云われたことを麗に伝えた。

『構造を理解することが第一歩』である、と。

凛はあれ以来、暇を見つけては音楽理論や音響工学、人体解剖学など幅広い知識を頭に入れるよう心掛けていた。

まさか麗の特訓でそれが役立つ日がこようとは、何事もやっておくものだね、と凛は昔のPに感謝している。

「なるほどな……」

麗は「……これは、P殿に私からなにかご飯でも奢らねばならないかな?」と笑って云う。

「えっ!? 駄目ですよ、麗さんがそんなことしたら、プロデューサーきっと勘違いします。
 なんてったって、プロデューサーにとって麗さんは憧れのアイドルなんですから」

「あっはっは。もう私はただのトレーナーだよ」

麗は手をひらひら振って否定した。

「……しかし、P殿もおよそ十年越しに、憧れのアイドルだった人間と食事に行くとは、
 当時の彼には予想もつかないことだろうな」

麗の中で、Pを食事に誘うことはほぼ固まっているらしい。

「もう! だめです! 本気で忠告してるんです!」

凛自身、どうしてここまでムキになっているのかは判らない。

判らないが、なにかが癪なのだ。

「……ふっ。まあ、ここは頑張っている現役アイドルの助言を素直に聞いておくとしようか」

麗はもう一度肩を揺らして、計画を撤回した。


以降の特訓は、Pが忙しい合間を縫って可能な限り同席するようになった。

なんでも、麗がPに直接要請したらしい。

「正直、音楽関連のレクチャーは私なんかよりもP殿の方がずっと教えられるからな」

と云うことらしい。

麗がPを認めているという事実は、凛にとっても、そしてP自身にとっても驚きだった。

「俺なんかが麗さんの特訓で教鞭を執っていいんですかね……」

「P殿はもっと私に対しても自信を持つべきだ。渋谷の特訓のために、渋谷を導くためにP殿は必要だよ」

なにより私もP殿に教えてほしいのだ、との言葉に、Pは泣きそうになっていた。

「なんだか、報われた気がするな」

Pがぽつり洩らした言葉。

期せずして凛の耳に入ったが、凛はそっと胸に仕舞い、訊ねることはしなかった。

その後の特訓は、CGプロを象徴する構図だったと云える。

Pは、麗に熱狂させられた側の人間として。

麗は、そのステージを創り上げた本人として。

社長という不思議な“オジサン”の引き寄せた縁が、次世代の凛を育てている。

凛は、二人の意思を全て吸収しようと、奮闘した。

壁面鏡と向かい合い、自らの動きのチェックに余念がない凛を見て、麗がPに訥々と話し掛ける。

「P殿。渋谷なら、あの子なら、もしかしたら……」

腕を組んで、慈悲深い視線を、踊る偶像に送る。

「私……いや、あの舞でさえも未踏だった領域へ――」

汗だくで飛び跳ねる凛は、自らを視る二人に気付いていない。

「――輝く世界の、さらにその向こう側まで、行けるかも知れんな」

Pは、言葉に出せず、ただただ静かに、麗の呟きを聞いていた。




EPILOGUE
・・・・・・・・・・・・


秋が過ぎ、冬となって、街路樹の葉が全て落ちる頃。

横浜アリーナ3DAYS、CGプロの社運を賭けた大規模コンサートの
一般チケット販売が、間もなく開始されようとしている。

先立つこと一週間前には、ファンクラブ会員向け販売が既に行なわれていたのだが、

充分な枠を用意していたにも拘わらず瞬く間に捌けてしまった。

記名式のうえに本人確認もするという、出来うる限りの転売対策を施しても、である。

Pと社長は、総務部のちひろの横で今か今かと落ち着かない様子だ。

「社長、落ち着いてくださいよ、ここでそわそわしてもどうにもなりません」

「それはP君もそうじゃないかね。指先がせわしないぞ」

いい大人が二人、お互い自分を棚に上げている。

この中で一番落ち着いているのは、二人とちひろの間にちょこんと坐っている凛だった。

午前十時の時報が鳴る。

それは戦争開始の合図であると同時に、戦争終了の合図でもあった。

「……完売しました」

ちひろが販売各社からの報告をまとめて、伝える。

「早ッ」

Pは社長と戯れている間に売り切れてしまい、争奪戦の様相を味わう暇もなかった。

ネット上は阿鼻叫喚の巷と化している。

『ああああああああ取れなかったあああああああああああ!!』

『あたりめーだろ、会員の俺が先行枠すら買えなかったんだぞ』

『チケットをご用意することができませんでした』

『手数料ふんだくってんだから鯖増強しとけよちくしょおおおおお!』

『完売。 し っ て た 』

『チケットをご用意することができませんでした』

『まあ、渋谷凛ならそうだよね……納得の結果でしかない』

『これ空売りじゃねーのか?』

そしてごくたまに上がってくる、戦勝報告。

『凛ちゃんのコンサート、初めて取れました!』

『おめでとう! しね!(楽しんでこいよ!)』

チケット販売大手の三社に委託したのだが、そのうちの一社に至ってはサーバが落ちる事態にも発展したそうだ。

「三日も公演があるのに取れなかった人が多いみたいだな……かといって四日以上だと凛がもたないしな……」

Pが口惜しそうに拳を握る。

需要量と供給力のバランス――関係者を常に悩ませる問題だ。

こればかりは、今後こなれていくのを期待してもらうしかないだろう。

最終的なチケット販売数、三日間分で述べ四万枚。

世間の人気としても、数字となって現れる成績としても、
CGプロ初のBランクアイドルが登場したことを意味していた。

凛が自らのスマホで自らの公演を検索する。

チケット各社の『×(残席無し)』『0』『完売』という表示が、彼女の眼に焼き付いた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


横浜アリーナの位置する新横浜は、新幹線の効果で北口はビジネス街として発展し、

都内のそれよりも若干余裕のある都市計画によって洗練された印象を与える。

在来線でのアクセスはやや不便だが、東海道新幹線の全列車停車駅だから、遠方の人々に優しい会場と云えよう。

横アリの特色は、何はなくともその音響の良さにある。

大抵、音響を重視すると、会場規模は大きくても数千人に抑えられてしまう。

一万人以上の収容が可能なアリーナという箱において、

音響設計がきちんとした会場はここが唯一の選択肢と云って過言ではない。

CGプロが、初の大型主催イベントでこの会場を選んだ、という事実。

それは、とにかくキャパシティや価格ではなく、クォリティを重視していると表明したことになる。

「なによりも最高のものを届けたいから、ここを選んだのです」と。


凛の控室に、ノックの音が響く。

扉を開けたのは、担当プロデューサー、P。

まだ開演時間までは少々あるが、凛のスタンバイは既に完了していた。

「控室でじっとしている気分じゃなさそうだな」

「ふふっ、そうだね。早く舞台に立ちたくて、うずうずしてるよ」

笑う顔には緊張の色など微塵もなく、これまでやってきたことへの自信が顕われていた。

「どうせここまできたら、もうやることはないんだ。スタッフの邪魔にならない範囲で、舞台の方へ行くか」

「うん、行く行く」

頷いた凛が、すっと滑らかな仕種で立ち上がり、颯爽と扉を開ける。

バックヤードではスタッフが最終準備に奔走していて、客席へ魔法をかける時間が迫っていることが感じられた。

「早めに控室を出て良かったかも。
 スタッフさんが、こうやって私を支えてくれてるんだ、って、改めて感じることができる」

「そうだな。主役は、渋谷凛。しかし、お前一人で舞台が作られるわけじゃない」

「当たり前のことだけど、本番前に余裕を持つとしっかりわかる。感謝しなきゃ」

突き当たりの角を折れると、客席のざわめきがよく聞こえるようになってきた。

もう、このすぐ先は、ステージだ。

そっと舞台袖から見る客席は満杯に埋まり、気が早くもところどころで蒼いサイリウムが光っていた。

あづさとまゆみに、今日のチケットは送った。

二人が今日この会場へ来ているかは判らない。

でも、きっと見てくれているはずだ。そう信じている。

「……私は、ここへ立つため……社長に、プロデューサーに、スカウトされたんだね」

「俺も少し不思議な気分だ。勿論ここがゴールってわけじゃない。
 でも、この光景は、この埋め尽くす観衆は、一つのマイルストーンになる」

二人並び立って、同じ光景を目に焼き付ける。

照明が少し絞られ、モニタではCGプロ関係の宣伝映像が何種類も流れる。

ステージの開幕は近づいている。


凛が、一歩、二歩と進んで、Pを振り返った。

黒を基調にした、シンプルながらも可愛さと格調高さを両立したドレスの裾が、ふわり、舞う。

艶のある長い黒髪が、さらり、揺れる。

髪飾りやコルセット、そしてブーツの、紫色に光るワンポイントが上品で。

意思の強さを宿す、きりりと引き締まった碧い瞳は、この衣装だと特に映える。

これまで、様々な衣装に袖を通した。

しかし、ここぞと云うときの『勝負服』は、これなのだ。

凛の原点にして至高。黒く光るドレスが、彼女をより輝かせる。

「今だから云っちゃおうかな」

しばらくPの目を無愛想に見据えていた凛が、微笑んだ。

「初めて会った時は、私のためにここまでしてくれるなんて、思ってなかった」

――正直、身体目当てのナンパか、なんて疑ったりもしたよ。

凛は往時を思い出して、くつくつと笑う。

「身体目当てとは、ひどい言い種だ」

Pは肩を竦め、それでも凛につられて苦笑している。

凛がひとしきり思い出し笑いを終えて、ふぅ、と軽く息を吐いた。

「プロデューサー、私をここまで連れて来てくれてありがとう」

「……俺だけの力じゃないさ。凛自身の頑張りの結果だ」

「うん。でも、私の水先案内人は、プロデューサーだから。
 ずっと走り続けられるのは、プロデューサーのおかげだよ。
 ずっとそばで応援してくれて、嬉しく思ってる。本当だよ」

凛はやや上目遣いでPを見ている。少しだけ、云いにくそうに、息継ぎを入れた。

「だからプロデューサー、これからも、私のプロデューサーでいてよ。……いいよね?」

――こんな人生を進むことになったのはプロデューサーのせいだし、おかげだから。

凛が、これまで見せたことのない、柔らかな眼をして云った。

こんなタイミングで、凛の卑怯な言葉。Pの胸や目の奥に、込み上げるものがあった。

「ずるいな凛は。そんなの、イヤと云えるわけないだろ?」

だから、わざと茶化して答えた。

「ふふっ、そうだね。さ、恥ずかしい台詞はおしまい」

眼を閉じて、わざとつっけんどんに云った。凛だって、相当に恥ずかしかったのだろう。

「でも恥ずかしいのを全部出し切ったから、あとに残ってるのはクールな私だけ。
 今度は、私がプロデューサーのために、みんなのために頑張る番だよ」

再び瞼を開けたところには、意思の強い、碧い宝石が輝いていた。

館内の全ての照明が降りた。

ついに――ついにこの時がきたのだ。

「ぶちかましてこい、切り込み隊長」

「ふふっ、云われなくても」




――私は、享楽を表現する者。


麗から受け継いだもの。

Pから受け継いだもの。

それらを全て、今ここにぶつけるのだ。




PAからのキューで、音楽がスタート。

スピーカーが生み出す空気の振動が、アリーナを包み始めた。




Pが、凛に向かってゴーサインを出す。

CGプロの誇る、Pの誇るアイドルが、渾身の舞台の幕を、いま、開ける――――




~fin~



ようやく終えられました。
誕生日が終わらないうちに完了できてよかった。
これが、今の自分の、担当アイドルにしてやれる全力のプロデュースです。

ここから、拙作「私は――負けない」へと続く構図になっています。
もしまだそれを読んだことがない方は、お暇な時にでもご笑覧くだされば幸い。


この日に投下しておいてナンですが、刷ったものを夏コミでも頒布しますので
物理的に分厚い本を持っておきたいという奇特な方は宜しければお手に取ってみてください

ではまた何れの機会に

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom