白菊ほたる「恨みます、プロデューサーさん」 (116)






 遠くから聞こえるさざ波。


 透明な瑠璃色の波が奏でる音色。






 優しくて、残酷な音色。







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 私はあの事務所にやってきて、色々な人に出会った。

 関裕美ちゃんや松尾千鶴ちゃん。

 千川ちひろさんに関ちゃんプロデューサー。

 そしてプロデューサーさん。



 私のプロデューサーさん。



 彼のことを考えるとき、あの海沿いのバス停の姿を思い出す。

 海を見つめる彼は、なにを思っていたのだろうか。

 私を見つめる彼は、なにを想っていたのだろうか。



 


―――
――

 私は予定より一時間早く家を出て、予定より一時間遅く目的地の駅に着いた。

 乗っていた電車が事故とか車両不良、いろんなことが起こってしまって、結局のこの時間。


(大丈夫、まだ大丈夫)


 予定はあくまで私の予定だった。約束の時間には、ギリギリ間に合う。

 大勢の人を吐き出す駅から、私も飛び出した。


「ごめんなさい……通してください。ごめんなさい……」


 怪訝そうな人の間を、何度かぶつかりながら通り抜け、歩道橋を上がっていった。目指す先はあと少し。

 新しい事務所。

 今日は、私が初めて事務所に顔を出す日だった。

 本当に突然のことだった。昨日の夕方、見知らぬ男の人から声を掛けられて、うちの事務所に来ないかと誘われたのだ。

 むこうは私のことを知っていたらしい。いつかの現場で一緒だったらしくて。

 私の事務所になにが起こったかも、知っていた。



『凄いね。ほたるちゃん。うちで潰したの何個目だっけ?』



 屈託のない笑顔。良い子だけどちょっと無邪気で、でもあの時は確かな邪気があった。


(なんでこんな時に思い出しちゃうんだろう)


 こんな時だからだ、きっと。




 私は新しい事務所に入ることになった。






 前までいた事務所が、倒産してしまったから。


 それは初めてじゃなかった。その前も、その前の前も、私が入っていた事務所は倒産していた。

 彼女はとてもいい子で、少し言い過ぎるところがあっても、私には優しかった。

 持ち前の明るさで、この小さい会社を大きくするんだって、やる気にあふれていて。
 
 ほたるちゃんなんかの不幸に負けないと息巻いていて。

 倒産の話を聞いた時、私は彼女と一緒だった。


『あたしは結局、ほたるちゃんに負けちゃったってことか』


 開き直ったみたいに彼女は呟いた。申し訳なくて、何度も謝って。

 彼女がこの先どうするか、私は知らなかった。知るのが怖かった。

 他人を不幸に巻き込んでいるのに、私は新しい事務所に行こうとしている。

 断ろうとも考えた。これ以上、誰かに迷惑をかけることになるなら。でも、


『大丈夫、君は素晴らしいアイドルになれるよ』


 力強く声を掛けてくれた、あのプロデューサーさんを信じて。



 もう一度、私は事務所の扉をくぐろうと思った。








 一生懸命走ったおかげで、なんとか待ち合わせの時刻に間に合った。

 息を切らしている様子の私に驚くこともなく穏やかな笑みを浮かべていた受付のお姉さんに、プロデューサーさんの名前を告げると、お姉さんは内線を手に取った。

 待つ間に、髪が乱れてないか確かめて。


(あれ?)


 髪留めがなくなっていることに、私は気づいた。

 誕生日石のバイオレット・ジルコンを桜の花びらの形にあしらった髪留め。

 いつか、旅行先のお土産で買ったものだった。ずっと大切にしまっていたのを、この日の為につけてきた。新しい門出のために。

 駅前で人とぶつかった時に弾みで取れてしまったのだ。それに気づかなかったなんて。


「えっ?」


 受付のお姉さんは、電話口で眉間に皺を寄せた。

 どうしたのだろうか。待ち合わせには遅れていないはず。不安を覚えて時計を確認したけど、やはり時間に問題はなかった。視線を戻した時にはお姉さんはなにもなかったように静かに微笑んでいた。それから、待っているように言われた。


 椅子に座っている間、落としてしまった髪留めが気になって、何度も髪を手でなぞっていた。そうしていれば、いつの間にか元の位置についているかもしれないみたいに。

 当然、そんなことはなかった。

 プロデューサーに挨拶する前からこんな調子だなんて。私は小さく息をついた。



「白菊、ほたるちゃん?」






 私は慌てて立とうとした。

 でも慌て過ぎた。机に膝をぶつけてしまって、机はガタンと大きな音を立てて揺れて、膝の痛みに短く声を出した。


「大丈夫? 落ち着きなよね」


 ジンジンとした痛みをこらえながら、その人影に改めて目を向けた。


「えっと、貴方は?」

「アタシ? アタシはプロデューサーだよ」


 ほら、と、胸元にぶら下げていた社員証を見せてきた。確かにプロデューサーと書かれている。でも、あの時声を掛けてくれた人とは違っていた。

 女の人だ。パンツにスーツ姿で、髪の長さは私と同じくらい。


「ほたるちゃんって、呼んでいい?」


 頷くと、彼女はニッと笑った。安心していいんだよ、そう語りかけてくるような笑顔は、私をスカウトした彼とどことなく似ていた。きっとその笑顔が彼女たちがプロデューサーになれた理由なんじゃないかって私は感じた。


「えっと、あの人は。私をスカウトしてくれた……」


 彼女は小さく頭を掻いた。




「いやあ、それがね。入院したんだよ、あいつ」






「えっ」

 私はさっと血の気が引くのを感じた。


「過労でね。仕事は出来るんだけどアホでさ。自分のキャパを理解してなかったんだよ。頑張るのにも限度があるって言ってあったのに。周りに迷惑がかかるって分かんないのかね……って、ほたるちゃん?」



「やっぱり……私のせいで……」



 彼女の言葉は、殆ど頭に入ってこなかった。

 私なんかをスカウトしたから、不幸が起きたんだ。


「過労だっていったでしょ。なんでほたるちゃんのせいになんの?」

 彼女は笑い飛ばしてくれたけど、私の不安はわだかまったまま。

 その不安は、たった今起きたものではない。海の底に捨てられた自転車のように、深く胸の内に沈み込んでいた。さび付き苔に覆われるほどに放置され、もはや心の情景一部となってしまった感情。



「だって……私が不幸だから」





 私の不幸は私だけに起きるのではない。

 周りをも不幸にする。それを考えるだけで、胸がキュッと痛くなった。


「気にし過ぎだって。ほら、とりあえず行こう」


 私達は事務所の奥へ入っていく。彼女は歩きながら事情を説明してくれた。



「入院したって言っても、検査入院でね。さっき電話したけど、ピンピンしてたよ。ただ、これ以上仕事を増やす訳にもいかなくてね。だからほたるちゃんは――」

「この事務所には、やっぱり入れないんですか」


 口にした不安を、彼女は軽く受け流す。


「違う違う。別の奴が担当するの」

「……じゃあ、貴方が私のプロデューサーさんですか?」

「そうしたいのは山々だけどね、アタシも新人の子を担当してて、手一杯なんだよ」


 先を歩いていた彼女は振り返って嬉しげに微笑んだ。


「カワイイ子達なんだ。ほたるちゃんに負けないくらい。こんど会わせてあげる」


 私は少しがっかりした。もし、彼女が私のプロデューサーになってくれるなら、それはそれで、素敵なことだと一瞬でも考えていたから。


「えっと、じゃあ、一体誰が……」

「そいつが待ってる部屋に、今から案内してあげるから」






 歩きながら、事務所の広さに私は少しめまいがしてきた。

 今までの事務所は小さな事務所で、ビルの一室を間借しているような場所がほとんど。


(ここなら、大丈夫かもしれない)


 私は安心してきた。私がここにいても、この事務所なら潰れないじゃないか。だって、こんなに大きな事務所なんだから。有名なアイドルがたくさん所属してて、大きなコンサートを何度も何度も開いているんだから。


(でも、本当に?)


 安心は、すぐに不安に裏返った。どんな大きな会社だって、倒産しないことはない。

 それに、私が起こす不幸はそれだけじゃないんだ。

 現に、すでに一つ起こしている。


(大丈夫)


 胸の内で、自分に言い聞かせるように私は唱えた。

 そんな時にスタッフさんだろうか、こちらに駆け寄ってきた若い男の人が、プロデューサーさんに耳打ちをした。



「嘘でしょ?」

 そう言葉を漏らした彼女は、ちらりと私に目を向けた。ドキリとした。その顔は何度も現場で見たことのあるもの。




 トラブルが起きた時の顔。







「そっか……うーん」


 判断しかねるようで、廊下で足を止めたまま唸っていたプロデューサーさん。

 なにがあったんですか。私はそう聞こうとして。





「どうしたんですか?」



 声の方に見ると、緑色のスーツを着て、おさげの女性が不思議そうにこちらに目を向けていた。


「ちひろさん、いいところに」


 プロデューサーさんは、その女性の元まで行くと話し出した。


「ちょっと、あいつのことで面倒が起きて」

「あの人にですか?」

「様子を見たいから、ほたるちゃんのことお願いしていい?」


 小声だったけど、その時の廊下はとても静かで、私の耳にも会話が聞こえてきた。

 やっぱりなにかトラブルが起きたんだ。それだけははっきりとわかった。


「ごめんねほたるちゃん。ちょっと待っててね」


 そう言い残すと、彼女は私とおさげの女性を残して立ち去った。


 怒ったような早足が、私の心をますますざわつかせた。






(大丈夫、大丈夫)


「白菊ほたるちゃんですよね」


 私は我に返ると、おさげの女性は胸元に書類を抱きながら私の顔を覗き込んでいた。


「私はアシスタントをしている千川ちひろです。これからよろしくね」

「は、はい。白菊ほたるです……よろしくおねがいします」

「固くならなくていいですよ。私は気楽に読んでください。ちひろさんとか、ちっひーとか」

「は、はい……」

「なんなら……ちひりん、でもいいですよ?」


 一指し指を唇に添えて、おどける様に微笑んだ。私の気を紛らわすための冗談なのだろう。私も自然と頬が緩んだ。

 やがて、プロデューサーさんが戻ってきた。その顔には、明らかな不満が浮かんでいた……いや、怒りかもしれない。

 プロデューサーさんはちひろさんを呼び寄せると、また小声で話し始めた。

 先ほどより離れていて、今度は声が聞こえなかった。

 ちひろさんはまだ会話を続けたかったようだが、プロデューサーはこちらに戻ってきた。困ったような、作り笑い。



「ゴメン、ほたるちゃん。担当プロデューサーと会うの、また次の機会でいいかな?」





 「えっ」

 私の心がキュッと締め付けられた。



「ど……どうしてなんですか」

「ちょっと、色々あってね」

「色々って、一体」

「いやあ、大したことじゃないんだけど」


 嘘だ。私はそう感じた。

 大したことじゃないなら、どうして今日じゃ駄目なのか。



(まさか)


 なにか大怪我でもしたのだろうか。

 或いは。私の担当になるのを嫌ったのか。

 私の不幸は知られていて、そんなものに巻き込まれたくないと思ったんじゃ。私をスカウトした彼の二の舞はご免だと。


 きっとそうなんじゃないのか。



「ごめんなさい……」


 そう思うと、自然と私はそう漏らしていた。


「ごめんなさい……私がご迷惑をおかけして……」

「ちょ、ちょっと。なんでほたるちゃんが謝るの」

「きっと私のせいなんです。全部……私のせいで……」


 あの子の顔が頭に浮かんだ。あの子だけじゃない。いろんな顔が。

 私に向けられる、侮蔑や軽蔑、憎しみの表情。

 それを思い出すたびに胸が締め付けられる。思い出したくないのに思い出してしまう。



 自分が不幸になるのはいい。ただ、誰かを不幸に巻き込むのは嫌だった。





 嫌だというのに、私はいろんな人を不幸に巻き込んできた。

 そんな私は、拒絶されて当然なのだ。

 やっぱり、アイドルなんて続けない方がいいんじゃないか。



 テレビの向こう側の彼女たちは、人々に希望を与えていて、だから私も、そうなれるんじゃないかと勘違いしていた。


「ごめんなさい……私やっぱり……いいんです」

「いやいや、別にいいとか悪いとかじゃなくて。本当にこっちのせいで」


 プロデューサーは、困惑した表情を浮かべている。きっとここに居たら、もっとそんな表情をさせることになる。

 だから私は。




「会わせましょう。プロデューサーさん」




 力強く言ったのは、ちひろさんだった。

 プロデューサーさんは呆気にとられていた。


「え……いやいや、ダメでしょ。あんな状態で」
「駄目じゃないです。今日、会わせてあげなきゃ。だってほたるちゃんは、その為に今日来たんですからね。時間通りにちゃんと。なら、私たちも守ってあげないと」


「ちひろさん……」






プロデューサーさんは目を細めていたが、やがて、それはなにかを覚悟した表情に変わる。


「なにしてもいい?」

「あんまりやりすぎなければ」

「それは無理な相談かな。10分頂戴」

「ええ。ほたるちゃんもいいですか」

「……でも」

「いいじゃなくて、待ってもらうから」

 ニッと微笑んだプロデューサーさんは、私の返事を待たずに身を翻した。


 私に気を利かせてくれたのか、ちひろさんが自販機で飲み物を買ってきてくれた。

 私は受け取ったけど、封も開けず、ただ蓋を人差し指でなぞっていた。

 頭には嫌なイメージすら浮かばず、深い霧のような憂鬱だけがずっと居座っていた。


「ほたるちゃん」


 私が顔を上げると、ちひろさんがにっこりと笑っていた。


「心配ですか?」

「だって……私が皆さんにご迷惑をかけてるから」

「ほたるちゃんは、誰にも迷惑なんてかけてないですよ」

「ですけど……」


 私の言葉をさえぎる様に、ちひろさんは口を開いた。



「プロデューサーさんを、信じてあげてください」






 約束してた時間よりちょっと過ぎてから、プロデューサーさんが戻ってきた。なんだかとても疲れているようだった。

 うんざりしてるようにも見えた。なにか気になるのか、しきりに片手を振っていた。見ると手のひらが少し赤くなっていた。


「ちひろさん、後はお願いね。アタシ、外で空気吸ってくる」


 頷いたちひろさんから、プロデューサーさんは私に視線を送る。


「じゃあね、ほたるちゃん。また今度」

「えっと……ありがとうございました」

「はは、ありがとうか」


 疲れたように笑ってから、ぽつりとつぶやいた。




「どうだろうな」


 そのまま、プロデューサーさんは歩き去っていった。去っていくときも、やはり手を気にしていた。すれ違う時、微かに煙草の匂いが香った。建物内は禁煙と聞いていたけど。

 ちひろさんに促されて、私は反対の道に進んでいった。

 案内されたのは、扉に『第三応接室』と銀のプレートにそっけなく刻まれていた部屋だった。


「失礼します」


 ちひろさんが扉を開けた瞬間、鼻についた匂いに、私は思わず顔をしかめてしまった。

 さっき、プロデューサーさんとすれ違ったときと同じ、煙草の匂い。でもさっきより強い匂い。
 小さな部屋の中ではまるで霧が発生したみたいに、薄い煙で覆われていた。

 匂いは、煙草だけじゃない。いろんな匂いが混ざっていた。何かが焦げたのと勘違いしてしまうような、強いコーヒーの匂い。

 そして栄養ドリンク特有の、べた付くような甘い匂い。

 机の上には、真っ黒なコーヒーの入ったコップにポット。

 その隣には、エナジードリンクと、スタミナドリンクの空の瓶と缶。

 エナジードリンクの缶の上には、まだ火のついていた煙草。女性が吸うような、細いタイプの煙草だった。




 汚れた机の向こうのソファーに、彼は座っていた。






 首元のネクタイは緩んでいる。きっとクリーニングに出したばかりだったのだろう、綺麗なスーツだったけど、着崩れているのに気付いていないようだった。

 歳は若そうにも、とっても歳を取ってるようにも見えた。身をすくめていた私に、彼が視線を向けてきた。その眼は虚ろだった。


 よく見れば、両頬が赤くはれていた。


(一体この状況は?)


 ちひろさんが一歩前に出てから、私の方に体を向けた。

 その立ち振る舞いは、まるでなにも問題がないかのようだった。

 部屋はいたって清潔で、目の前の人もしっかりとスーツを着ていて、ビンタされた跡も当然ない、というような。

 ちひろさんも驚いていたはずだけど、私を動揺させないために、そうふるまっているんだと思った。



 ちひろさんが、彼のことを紹介してくれた。




「この人が、ほたるちゃんのプロデューサーさんです」




 これが私とプロデューサーさんの、最初の出会いだった。








「待たせて悪かった」


 彼はおもむろに立ち上がってから、自己紹介をした。表情は虚ろなままで、ニコリともしなかった。


「よろしく……お願いします……」


 私の戸惑いが彼にも分かったのだろう。彼は言い訳をするように口を開いた。


「昨日飲み過ぎたんだよ。二日酔いだったんだ」


 私には信じられなかった。


 この状態はむしろ、酔いを覚まそうとしているみたいだ。


 以前、現場でそういう人に出くわしたことがあった。思えば、朝まで飲んでいたというあの俳優さんの目にそっくりだ。

 それに近づいて分かったが、微かにお酒の匂いがした。さっきまで飲んでいたかのように。



(そんなわけ……ないよね……)

 そんなとき、机の下から私の方へ何かがゆっくりと転がり出てきた。ギョッとなる。



 お酒の空き缶だった。


 余りのことにジッと見つめてしまったが、黒いヒールが横から缶を蹴飛ばすと、コロコロと机の下に戻っていった。


「あははは」


 足の主であるちひろさんも、引きつった笑いを浮かべていた。

 笑ったままプロデューサーさんを睨みつけたが、プロデューサーさんは視線を合わるのを拒む様に私をじっと見ていた。







「今日は顔合わせだけだ。業界のことは今更どうこういうこともないんだろ。経歴をみたけど、他から引き抜かれたって」

「引き抜きと言うより……倒産してしまって」



 それを口にして、私の気分は重くなった。


「ふうん、そうか」


 でも、プロデューサーさんは素気なかった。そんなものになんか興味がないように。

 彼の態度に、私は少しホッとした。


「じゃあまずは、事務所内の案内だけど……生憎俺もよく知らないんだ。新入社員でね」


 新入社員、というのは不思議だった。もしかしたら、私と同じで、他の事務所から移ってきたのかもしれない。





「私が案内しますから。プロデューサーさんは休んでいてください」

「……ありがとう、ちひろちゃん」



 ちひろさんは微笑んだ。どこか寂しさを感じさせる笑みだった。



「それから、換気もしっかりお願いしますね」

「ああ」と、プロデューサーさんは静かに答えた。彼を残して、私はちひろさんについて事務所の中を案内された。


 その案内は、私の頭には入ってこなかった。どうしてプロデューサーさんはお酒なんか飲んでいたのだろうか。

 単なる酔っ払いなのだろうか。


 それとも、お酒を飲まないといけないようなことがあったのか。



(例えば、担当したくもないアイドルを、担当することになったから)







 そんなことを考えているうちに、案内は終わっていた。


「じゃあ、詳しいスケジュールは今度来た時に、プロデューサーさんと決めましょう。他になにか質問は?」

「……どうしてプロデューサーさんは、お酒なんか飲んでたんですか」


 怖かったけど、聞かずにはいられなかった。

 ちひろさんは虚をつかれたようだったけど、それから柔らかに微笑んだ。


「お酒が好きなんですよ」

「お酒が好きだからって、あんな時にまで飲むなんて。やっぱり私の担当が嫌で――」




「そんなことはないです」ちひろさんは、言葉を選ぶように視線を彷徨わせた。

「お酒が好き、って言い方は良くないですね。お酒を飲んじゃうんです。プロデューサーさんは。駄目だって分かってても、どうしても止められないときがあって、それが運悪く今日だったんです。だから、ほたるちゃんのせいじゃないんですよ。そもそもプロデューサーさんは、ほたるちゃんのことそんなに知らないですし」




「でも、ちひろさんは知ってるんですよね」


 そうフォローしてくれているのは、ちひろさんも噂を知っているから。







「噂だけなら、耳にしたことがあります」


 誤魔化すかと思ったけど、ちひろさんは誤魔化さなかった。



「なら、私がいたらご迷惑になるかもしれないです」

「でもほたるちゃんは、アイドルをやりたいんですよね?」

「それは……」

「それなら、私たちは全力でサポートします。かぼちゃの馬車は準備できませんけど、自分の足で歩こうとする子達を見守ること。
 それが私の役目ですから」


 その笑みは、ちひろさんの言葉通りの笑みだった。

 強制はしない、選択は私にあって、どちらを選んでも、決して責めない。その優しさに胸が熱くなって。



 「……はい」

 と、私は小さく頷いた。






 そうして、私の何度目かのアイドル生活は始まった。

 次に事務所に来たとき、プロデューサーはお酒の匂いもしなくて、ちゃんとスーツを着込んでいた。

 前と同じ部屋、室内には煙草の匂いもなく、あるのは柔らかなコーヒーの匂い。


 そして、新しく張られた『喫煙禁止』の殴り書きポスターだった。


 まずはレッスンを受けて基礎をしっかり作っていく。

 プロデューサーさんは大まかな予定を告げて、私の予定も聞きながら調整を加えていく。
 
 文句ないほど、しっかりとこなしてくれて。

 でも、私の不安はぬぐえなかった。

 最初の出会いのせいもあるし、こういうやり取りの間もなにか落ち着かない。

 よそよそしいというより、本当に事務的に仕事をこなしている、という感じだったから。

 感情も見せないで淡々と進んでいく。


 その後に、宣材写真を撮ることになった。

 撮ってる間、プロデューサーさんはスタッフさんに任せてどこかに行っていた。別の仕事でもあったのだろうか。
 
 知らない人のなかで、一人放り出された気分だ。そんな状態で、いいものは中々撮れず。


 頭を掻いて首を捻るカメラマンさん。端でひそひそと話すスタッフさんたち。

 何度も謝って、大丈夫と返されて。


「ありがとうございます」


 何度目かの写真で、渋々というようにオーケーがカメラマンさんから出た。








 挨拶をしながら見回してみたけど、やはりプロデューサーさんの姿はなかった。


 今日の予定はこれで終わりと聞いていたけど、帰る前にプロデューサーさんにも声を掛けたほうがいいだろう。

 そういえば、連絡先も知らなかった。



(探さなきゃ、駄目かな)


 なんで私が探さなきゃいけないのか、そう思うと気が重かった。

 どこかで別の仕事でもこなしているのか。その相手には、もっと笑ったりしてるのかな。


 そんなことを考えて、ますます気分が重くなる。でも、たとえ素気なくても、彼は私のプロデューサーだ。勝手に帰るのは気が引けた。私はモニターで写真をチェックしているスタッフさんの一人に近づいていった。


「お疲れ様です。あの、プロデューサーさんがどこにいるか知ってますか?」


 スタッフさんは不思議そうな顔をした。




「彼? 彼ならずっと外で待ってたよ」


「えっ?」


 信じられなかった。そんな私の感情を読み取ってか、彼は笑いながら続けた。


「ホントだって、途中で出入りしたけど、ずっとスタジオ前の椅子に座ってたよ」


 私はスタッフさんたちに挨拶をしてから、スタジオを出る。


 嘘ではなかった。扉のすぐ前で、プロデューサーさんはパイプ椅子に座って待っていた。スマホを見るでもなく、本や企画書を読むわけでもなく。


 手に缶を持ちながらジッと椅子に座っていた。視線は足元に向けられ、どこか虚ろで。



(まさか)


 お酒でも飲んでいるのではないか。そんな不安が胸に湧いたが、手にしていた缶はコーヒーだった。







 背後で、スタッフの一人が大きな声でお疲れ様と叫んだ。

 私は振り返って返事をする。視線を戻すと、プロデューサーさんも顔を上げていた。



「終わったのか」

「あ、はい。プロデューサーさんは、ずっとここに?」

「ああ」頷いてから、プロデューサーさんは時計で時間を確認した。

「少し時間が掛かったな」

「なかなか、うまく撮れなくて……」

「そうか……でも最後はうまく撮れたんだろ」

「……はい」



 ちゃんと待っていてくれたことになんだかほっとしたけど、別の疑問が浮かんできた。


「どうして、スタジオから出てったんですか?」

「邪魔にならないようにさ」

「でも、普通は写真の確認とか、プロデューサーもやるものじゃ……?」

「プロに任せてある。問題はないだろ」

「そう……かもしれないですけど」


 近くに居てくれたのは嬉しかったが、それならばスタジオの中で見ていてくれても良かったんじゃないか。

 なにかが引っかかるけど、その違和感をうまく言葉にできなくて。



「ご苦労様、今日は終わりだ」


 プロデューサーさんは入口まで私を送ってくれた。


 次の予定をなにかで確認することなく、空で話してくれた。しっかり覚えていてくれているけど、あくまで業務的。




 ニコリともしなかった。








 
 次に事務所に訪れたのは、レッスンの為だった。

 以前に教えられた通りに更衣室で着替えて、伝えられていたレッスンルームにむかった。

 私がついた時、室内にはまだ誰もいなかった。

 それもそうだ。今日は早く家を出たけど、電車も止まらず、予定通りの時間についたから。



 私の予定通りということは、予定の時間よりちょっと早い。

 ちょっと、どころではないかもしれないけど。でも私はそれが嬉しくて、鼻歌を歌いながら着替えをしてレッスンルームにむかった。十分経って二十分経って。




 レッスンの始まる五分前だと言うのに、誰も姿を現さなかった。 


(どうかしたのかな)


 みんな遅刻しているのだろうか。それとも。

 私の不安は、見事に的中した。

 レッスンの開始時刻になっても、誰も姿を現さなかった。


(もしかして、部屋を間違えた?)


 今さら気づくなんて、真っ青になりながら慌てて部屋を出て。

 本当に慌ててたから、私は入口のところでその影とぶつかってしまった。









「あ……ご、ごめんなさい」

「いいえ……大丈夫です。貴方は……?」 


 顔を上げて、改めて相手をまっすぐ見て、私はどきりとした。

 ウェーブのかかった髪に、首からは可愛いアクセサリーをつけていた。こんな状況でなければ、どこで買ったか聞いてみたくなるような、可愛いアクセサリー。



 でも、そんなことは聞けなかった。

 彼女は、私をジッと睨みつけてきているようだったから。

 怒ってるのだ。私はとっさに頭を下げた。


「あ……あの、本当にごめんなさい……!」

「えっと、本当に大丈夫だから」


 私が顔を上げると、まだ視線はするどくて、でも、困惑してるようにも見えた。


「怒ってないから、本当に」


 困ったように言ってから、彼女は無意識にか、顔に手をやった。表情を気にするように肌に触れていた。


「もしかして、貴方も自主レッスンにきたの?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」


 私は周囲を見渡した。並んでいるレッスンスタジオの扉。そのいずれかが自分の本来のレッスンスタジオなのかも分からない。観念したように息をついた。


「レッスンが始まる時間なんですけど……私、部屋を間違えちゃったみたいで」

「もしかしてそのレッスンって、ダンスレッスン?」

「はい……そうですけど」

 なんでそんなことを聞いてくるんだろうか。

 そもそも、なんで言い当てられたか。首を傾げた私に、彼女は驚いていたようだった。



「ダンスレッスンが中止になったの、知らなかった?」








「えっ」

「トレーナーさんが急に用事で来れなくなって。ほら」


 彼女はスマホを操作して、私に差し出してくる。レッスン、緊急中止のお知らせ。


「私……見てなかったです」


 本当に緊急で、時間は三十分前。

 その時間には、すでにレッスンルームについていた。

 そしてスマホは更衣室のロッカーの中だった。どう頑張っても、見れるわけがない。

 せっかく早く来れたのに……。落ち込んでいた私に、彼女は言った。


「ねえ、良かったら私と、一緒に自主レッスンしない?」

「いいんですか?」

「うん、私もやる気で来たんだけど、一人だとなんだか不安で。いいかな?」

「……はい、もちろんです」

「良かった。私、関裕美。貴方は?」


「白菊……ほたるです」



「よろしくね、ほたるちゃん」


 

 彼女の顔に、ハイビスカスのような素敵な笑顔の花が咲いた。









 二人で一緒にストレッチをしながら話をした。裕美ちゃんは最近スカウトされたという。



「アイドルになんか慣れっこないって、まだ思ってるけど……プロデューサーがいるから、少しでも頑張ってみようかなって」

「裕美ちゃんのプロデューサーさんは、どんな人なの」

「どんなかな」


 んーと、悩ましそうに口元に手を当てていたけど、



「凄い頼りがいあるけど、変な人。ほたるちゃんのプロデューサーは?」

「私のプロデューサーは……」


 パイプ椅子に座った彼の姿を思い出す。虚ろにジッと待っているプロデューサーさん。


「……私のプロデューサーも、変な人かも」

「じゃあ、お揃いだね」


 笑った裕美ちゃんに、私もつられて笑ったけど、私のプロデューサーさんより変わっている人は、きっといないと思った。




「あら」

 
 声に振り替えると、ちひろさんが首を傾けるようにして部屋を覗き込んでいた。

 その覗いている姿が妙に子供っぽくみえた。宙にフラフラと揺れる三つ編みのせいかもしれない。


「ほたるちゃんに裕美ちゃん。自主レッスンですか?」


「はい」裕美ちゃんが返事をした。「使っていいってプロデューサーから聞いたんですけど」

「ええ、もちろん。ほたるちゃんも自主レッスンに来てたんですね。偉いじゃない」

「というより……連絡がある前に着いていて……スマホ、ロッカーの中だったんです」


「ああ、だから……」







 
 ちひろさんは一人腑に落ちた様子だった。


「どうかしたんですか」


「いえ……」口を開きかけたけど、なにかを思いとどまったように小さく首を振った。


「うんうん、なんでもないです。二人ともレッスン、頑張ってくださいね」








 ちひろさんが去った後、私たちはレッスン用のダンスの動きを始めた。

 と、言っても私は動きを知らなかったから、裕美ちゃんに教わりながら。

 裕美ちゃんの動きはぎこちなくて、自信もなさそうだけど、それでも一生懸命練習に打ち込む姿は、見惚れるほどだった。動くたびに揺れる長い髪は風に鳴く草原のススキのように静かで力強く、優しかった。

 裕美ちゃんの後に、私もダンスを行った。初めてだし、うまくできたとはいえない。

 それでも終わると、裕美ちゃんは拍手をしてくれた。



「すごいね、ほたるちゃん。とっても上手だよ」


 感心した裕美ちゃんに、私は照れくさくて頬が熱くなった。


「前も別の事務所にいたから……レッスンとかなら」

「だから上手なんだね」


 すると、裕美ちゃんはジーッと私を見つめてきた。なんだか落ち着かなくなった


「あの……どうかした?」

「え、ああ違う。私も頑張らなきゃって思って」



 自分の顔を包む様に両手で覆うと、目頭の部分を揉むように指を動かした。



「睨んでるみたいに見えたよね?」









「そ、そんなことないです……ちょっとびっくりしちゃって……ごめんなさい」

「ほたるちゃんが謝ることじゃないよ。ただな」


 気にしてるのだろう。裕美ちゃんは指でずっと目頭を揉み続けていた。

 そうしたら、目つきが少しは柔らかくなると思っているように。


 でも、手を放しても裕美ちゃんの顔はさっきと一緒。

 可愛いのだけど、目つきのきつさは変わらなかった。そして本人も、それは分かっているのだろう。小さく息をついた。



「こんな目つきだったら、アイドルなんてな。ほたるちゃんと違って、ダンスも全然だし」

「そ、そんなことないよ……裕美ちゃん、とっても可愛いから、素敵なアイドルになれるって」

「可愛いって……」


 ジッと睨みつけられて、私はまた狼狽える。


「い……嫌だった? そういわれるの」

「そんなことはないけど……嬉しいよ。そりゃあ」


 難しそうに眉間に皺を寄せていた。私はやっと理解した。


 怒ってるのではなくて、照れているようだ。それが分かって、私はつい綻んでしまった。


「裕美ちゃん、やっぱり可愛いね」

「あ、ありがとう。ほたるちゃんも可愛いよ」

「そう……?」

「そうだよ。凄い可愛い」


 言い返されて、私もなんだか照れくさくなった。お互いに黙ってしまい、ちょっと気まずくなって。




「……ふふっ」

「えへへ」




 それからなんだか可笑しくなって、どちらともなく笑い出した。







「千鶴ちゃんだったら、きっと顔を真っ赤にしてそう」

「千鶴ちゃんって?」

「私と同じプロデューサーにプロデュースしてもらってる子なの。真面目で書道が上手で、でも結構、可愛いのも好きで。きっとほたるちゃんとも気が合うよ」





 レッスンルームの扉が開いた。

 今度現れたのは、私を最初に案内してくれた、あの女性のプロデューサーさんだった。


「よう、どうかな」

「プロデューサー」



 嬉しそうに裕美ちゃんが声を上げた。



(裕美ちゃんのプロデューサーだったんだ)


 裕美ちゃんに微笑んで見せて、次には私に目を向けた。


「あらら、ほたるちゃんじゃん。もうひろみんと仲良くなったの」

「プロデューサー、ほたるちゃんのこと知ってるの?」

「少しね。新しい事務所はどう?」

「まだ……落ち着かないです」

「はは、そっか」

「でも、プロデューサーはどうしてここに?」

「いやあ、ひろみんにちょっとお話があって。ここでレッスンしてるって言ってたじゃん」

「……もしかして、お仕事の話?」


 裕美ちゃんは、ちょっと不安げにプロデューサーさんに尋ねた。おどける様にプロデューサーは肩をすくめた。


「さあどうでしょう。正解はアタシの部屋でお教えしましょうね」








「うん……分かった」


 自信がなさそうに裕美ちゃんは頷いた。そんな裕美ちゃんの頭をプロデューサーさんがぽんと撫でだ。


「大丈夫だって、前の仕事も上手く行ってたよ」

「でも、向こうの人に笑顔が硬いって言われてたでしょ」

「アタシにとっては百点満点だった。それじゃ不満?」

「……まあ、プロデューサーが言うなら」


 気恥ずかしそうに顔を俯けながらも、裕美ちゃんもまんざらではなさそうだった。


(仲、いいんだな)


 仲がいいとは少し違うかもしれない。信頼しているのだ。プロデューサーさんのことを。


(それに比べたら……私たちは)


 裕美ちゃんと裕美ちゃんのプロデューサーに比べたら、私とプロデューサーさんの付き合いは浅いのだから、同じようにいかなくておかしくない。

 それでも、この二人のような関係になれるとは、想像も出来なかった。



「そういえば、ほたるちゃんはお仕事決まってるの?」


 裕美ちゃんの言葉に、私はバツが悪くなった。


「えっと……私はまだ……」

「ほたるちゃんは来たばっかりだからね。そこはあいつの腕の見せ所さ」

「あいつって、ほたるちゃんのプロデューサーのこと?」

「ああ……プロデューサーが二人はややこしいか」


 ムー、と腕を組んでプロデューサーさんはワザとらしく唸ったけど。


「そうだ。アタシは関ちゃんのプロデューサーだから、関ちゃんプロデューサーって呼んでよ」



 彼女の提案は、私としては分かりやすいし納得も出来たのだけど、裕美ちゃんは呆れていた。







「プロデューサー、苗字に私と同じ漢字があるからでしょ」

「そうだよ。運命だと思わないかい、ひろみん」

「もう、プロデューサーはてきとーなんだから」


 裕美ちゃんに、プロデューサーさん――もとい、関ちゃんプロデューサーはあっけらかんと笑っていた。


「ほたるちゃん、ひろみんと仲良くしてやってよね」




「仲よく……ですか」



 楽しかった気分を覆い隠すように、不安の雲が現れた。


「ほたるちゃん……?」




「仲よくしない方が……いいかもしれません」

「どうしてそういう事言うの?」


 裕美ちゃんの悲しそうな声に、胸がキュッとなった。

私だって、仲よくしたくないわけではない。

それでも、だからこそちゃんと伝えておかなきゃいけないことだと思った。


「私……その……凄く不幸で……私だけじゃなくて、周りの人も不幸にしちゃうの……前に別の事務所に居たって言ったよね。
こっちに移ってきたのも、前の会社が倒産しちゃったからで、その前も……だから、私と仲良くしたら、裕美ちゃんに迷惑が掛かるかもしれないから」

「ほたるちゃん……」



 困ったように裕美ちゃんは見ていたけど、不意に首につけていたペンダントを外すと、私の手を持って、それを私に渡してきた。


 あのとっても可愛いペンダントを。








「これは?」

「私の幸運のお守り。ほたるちゃんにあげるね」

「お守りって、大事なものなんじゃ」

「うんうん、私の手作りだから。また作ればいいから」




 手の中のそれが嬉しかったけど、始めて来た日になくした髪飾りを思い出し、晴れかけていた心がまた曇りだした。


「でも……なくしちゃうかもしれないから」





「なくしちゃったらまた作ってあげる」




 私の不安を打ち消すように、裕美ちゃんは言った。 

「私、アクセサリーを作るの大好きだから。ほたるちゃんが何度なくしても、作ってあげるからさ。だから、仲よくしないなんて言わないでよ?」




 覗き込むような裕美ちゃんの視線は、優しさにあふれていて。


 断ることなんかできなかった。



「……わかった」

「よかった。よろしくね、ほたるちゃん」


 裕美ちゃんの顔に、またハイビスカスが花開いた。


「私はもう行くけど、ほたるちゃんはどうするの?」

「私はまだレッスンしていくから。もう少し、体を動かしておきたくて」

「うん、わかった。またね、ほたるちゃん」

「うん……またね」



 裕美ちゃんと関ちゃんプロデューサーが、レッスンルームを去っていく。


 残された私は、手の中に残されたペンダントに目を落とした。

 オレンジで三日月をかたどった、綺麗なアクセサリー。

 私はそれを首につけると、大きな鏡に映った自分の姿を見やる。胸元に輝くペンダントに、頬が緩んでしまう。


 先ほどの裕美ちゃんとのやり取りが、頭の中で反響され、私の頬はますます緩んだ。












 それから少しレッスンをした私は、一人更衣室にむかった。

 とても清潔に保たれていて、なんだか落ち着かない更衣室だった。着替えてからスマホの着信を確認して、驚いた。




 一瞬、迷惑メッセージでも送られてきたのか思ってしまった。



 メッセージが五件、着信が二件。


 全部、プロデューサーからだった。



 最初のメッセージは、裕美ちゃんに見せてもらったのとほぼ同じ、レッスンの中止を知らせるもの。

 残りは全て、私の反応がないことを訝しって送ってきたものだ。

 きっと、着信も同じ目的だったのだろう。

 後から文句を言われるのを嫌って、伝わっているか気になっていたのか。



(それとも、私の心配をして?)


 今日はプロデューサーは仕事で事務所におらず、レッスンが終わったなら勝手に帰っていいと言われていた。でも、ここまで連絡をくれたのならば、こちらからも折り返し連絡をしておいた方がいいだろう。

 私は通話ボタンを押した。

 着信音の後、プロデューサーが電話に出る。



「ほたるか、どうした」




 返ってきた声は余りに平坦で、私は少し失望した。










 心配する素振りすらなくて。


(どんな声が返ってくると思ってたんだろう、私は)


「今日は特に連絡しなくていいって言ってただろ」

「いえ……ただ、プロデューサーさんからたくさん連絡が入っていたので、一応」

「状況が分からなかったからな。それにたくさんじゃないだろ」

「そうなんですか……でも七件はたくさんだと思いますけど……」

「七件も送ってない」

「送ってましたけど。電話とメッセージで」

「メッセージは五件だし一つは……ああ、どうでもいいだろ。自主レッスンが終わったって報告だろ」



「はい――」と、答えてから私は首を傾げた。



「あの、なんで自主レッスンのこと、知ってるんですか?」



「どうでもいいだろ」



 ちょっとの間の後、プロデューサーさんはそっけなく言った。

 そうかもしれないけど、知っているのは不自然だ。会社の外に居るのだし、誰かから連絡を受けなければわからないはずだ。

 関ちゃんプロデューサーだろうか。それとも、



「ちひろんさんですか」








 思えば、あのタイミングにどうしてちひろさんがやってきたんだろう。

 もしかしたら、ちひろさんはプロデューサーさんに頼まれて、様子を見に来たんじゃないのか。私がいるかどうかを確かめて。

 さっきのメッセージの着信時間を思い出す。最後のメッセージが届いたのは、ちひろさんが来る少し前だ。



「プロデューサーさん、私のことを心配してくれてたんですか」


 どうしてか、プロデューサーさんはすぐには答えなかった。短い、不自然な沈黙だった。


「ああ、そうだよ」

 返ってきたのは、いつものようにそっけない言葉。肯定をしてくれたのに、なんだか腑に落ちなかった。だからだろう、

 後に続いた言葉も、なにか言い訳じみて聞こえてしまった。




「俺はほたるのプロデューサーだからな」





 

 裕美ちゃんとはその後もよくレッスンで一緒になった。

 連絡先も交換して、タイミングが会えば外でお茶やご飯にも行くようになった。
 
 その日も、私のレッスン前と、裕美ちゃんがレッスン後、別々のレッスンだったけど、丁度空き時間が合ったから、私たちは駅の傍のドーナツ屋さんで集まっていた。



 裕美ちゃんには、別の目的もあったのだけど。



「おまたせしました」








 顔を上げると、傍に一人の少女が立っていた。

 一件、生真面目さんという言葉がとても似合いそうな子。私よりも短いショートヘアーに、綺麗に着飾った服は堅苦しいとも感じられる。趣味は書道というのも、いかにも真面目に思わせる。


 松尾千鶴ちゃんだ。

 彼女は、裕美ちゃんと同じ関ちゃんプロデューサーが担当しているアイドルだった。

 裕美ちゃんは、彼女との待ち合わせもあった。



「ほたるちゃんも、わざわざ居てくれたんですね」

「裕美ちゃんと話したかったし、千鶴ちゃんとも会いたかったから」

「ふうん、そうですか」



 と、彼女は素気なく言ったけど。



「もう……嬉しいな」


 椅子に座りながら言葉が続いた。

 ハッとなった彼女は、恥ずかしそうに私たちを見比べた。



「……私、なにか言いました?」

「ほたるちゃんが会いたいって言ってくれたの、嬉しいって」


 裕美ちゃんが指摘すると、ムッとなったようで。


「ええ、私そんな……いやまあ、そりゃあ嬉しいに決まってるけどさ」


 またも千鶴ちゃんはハッとなった。

 最初は話しづらい子かとも思ったけど、根はすごい良い人で。ただ、ちょっと本音が漏れやすいみたい。


「えっと……あっと、私も飲み物買ってきます!」


 照れ隠しのように席を立った千鶴ちゃん。裕美ちゃんと私は、顔を見合わせて微笑んだ。









「そういえば、ほたるちゃんはどうなんですか?」


 千鶴ちゃんは写真撮影の仕事があって、その帰りだった。

 セクシーなの? なんて私が聞いたら、書道雑誌のインタビューですと、顔を真っ赤にして否定した。

 セクシーより、カワイイの方がやりたいですし。って漏らした後、ハッとなってから必死に否定していた千鶴ちゃんは、気を取り直してから私に聞いてきたのだ。



「レッスンのこと?」

「御仕事ですよ。そういえば私、その辺り、どうなってるか知らなかったですし」

「それは……」


 私は手に持っていたカップを置いた。


「ほたるちゃん?」

「まだ仕事は決まってなくて」



 新しい事務所に入ってしばらくたつけど、私はレッスン漬けの毎日だった。毎日レッスンをして、レッスンをして。



 それだけだった。




「なんにもって、本当ですか?」


 信じられないと言うように、千鶴ちゃんが声を上げた。


「私、ほたるちゃんは、仕事をバンバンやってるって思ってました」

「そんな……」



「……やっぱり彼のせいなのかな」








 言葉にしてから、ストローで一口。私の視線に気づいた千鶴ちゃんは、ハッと失態に気づいた。


「もしかして今のも、漏れてました?」

「彼のせいって、プロデューサーさんのこと……?」

「千鶴ちゃん、知ってるの、ほたるちゃんのプロデューサーのこと」

「その、知ってるって訳じゃないんですけど」



 ちょっと悩んだようだけど、やがて口を開いた。

 「挨拶する機会があったんですけど……ちょっと近寄りがたいというか、いい印象はないというか。それに、私たちのプロデューサーも心配していたし。あの人のこと」

「心配って?」

「ちゃんと、やれてるのかなって」


 私はレッスンがあるから、お店の前で二人と別れた。

 事務所にむかいながら、先ほどの会話が引っかかっていた。

 裕美ちゃんや千鶴ちゃんは、関ちゃんプロデューサーのことを信頼しているのが傍からでも見て取れた。私はというと、プロデューサーさんに感じるのは、信頼ではなく困惑。

 優しくないわけでもない。ただ、なにを考えているか未だに分からなかった。

 それが、不安に思うこともあった。

 仕事に関しても、やる気がないわけではないと思う。でも、ちゃんとやってくれているのか。言い切ることはできなかった。


(お仕事のこと、聞いてみようかな……)

 発破をかける、というわけではないのだけど。私からも少しはそういう話をした方がいいかもしれない。


 関ちゃんプロデューサーが心配していた、というのも気がかりだった。






 もしかしたら、と別の不安も胸の内にあった。

 もしかしたらプロデューサーさんは、やっぱり私なんかのプロデュースをしたくなくて、だから手を抜いているんじゃないか。


 そんなはずはないと思う。でも、私の運のなさは自分が一番に自覚していた。

 そういうプロデューサーに当たってしまうのも、運の悪さなんじゃないか。

 グッと胸元に手を当てながら、私はプロデューサー室にむかった。

 彼のプロデューサー室は、私が見てきたなかでもっとも素っ気のないプロデューサー室だった。

 今までのプロデューサーの部屋は――そんな部屋を持たない人もいたが、机はみんな持っていた――なんというか、その人の個性が出るものだった。

 格言を掲げている人もいたし、奇妙な顔が彫刻されたペン立てを使う人もいた。

 家族や友達、アイドルたちとの写真を飾ったり、どこかで使っている人らしさがでてくるものだ。

 でも、プロデューサーさんの部屋は、そういう個性がなかった。

 会社から与えられた備品を使って、会社から与えられたままで使っているようだった。

 明日から突然来なくなっても、そのまま引き継げるような。寂しさを感じる部屋だった。



 プロデューサーさんは居なかったが、ノートパソコンは机の上に乗っていた。

 それも会社から支給されたもの。パソコンは立ち上がったまま。ちょっと席を外しているのだろう。


(お仕事をしてたんだよね)


 となれば当然、パソコン画面には仕事に関するなにかが表示されているはずだ。


(……私の為の、仕事)


 プロデューサーさんは、ちゃんと仕事をしてくれているだろうか。その不安が胸の内に膨らんだ。


(少し見るぐらいなら……)


 いいことではないのだけれど、不用心なプロデューサーさんが悪いのだ。

 私は机の反対に回り、画面を覗き込んだ。

 メールの確認をしていたらしい。起動されたソフトには、メールの文面が乗っていた。



 メールを見ていくうちに、私は背筋が冷たくなっていった。




 全てが、断りのメールだった。








 私を、白菊ほたるを仕事で使うことはできないと。いくつものメール。


 その全て、断りの文面。



 見なければいいのに、気になってメールを見て。

 そのうち、とても砕けた文面が一つあった。


『貴方の頼みなら使ってあげたいのだけど、上司が首をふってくれない。あの子には悪い噂が多すぎるから――』


 頭が真っ白になった。


 扉を開く音。プロデューサーさんが戻ってきたんだ。

 私は自分の行為を隠すかのように、ノートパソコンを勢いよく閉めた。



「なにをしてるんだ」


 入ってきたプロデューサーさんは、怪訝そうな顔をした。


「プ……プロデューサーさん……」


 誤魔化そうと思っても言葉が出てこなかった。プロデューサーさんが私の手元のパソコンを、ちらりと見た。彼の目に宿った感情が、明らかに変化した。

 ばれたんだ。覗き見したことを。申し訳なさが溢れてきて、私は急に泣きそうになってきた。


「ご……ごめんなさい……私……その……私……!」

「なにを見たんだ」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」



 私は怖くなって顔を覆い隠した。腕を引っぺがされて殴られると思った。

 だって私は、プロデューサーさんを疑ってしまったから。仕事が取れないのはプロデューサーさんが手を抜いているから。そんなことを考えて。

 本当は全部自分のせいだったんだ。

 自分がどんな存在なのか。周りに不幸をもたらす少女。



 そんなアイドルを、一体誰が使いたがるというのか。








「怒ってる訳じゃない」


 でも、プロデューサーさんはそんなことをしないで、静かに言った。


「なにを見たかを聞いてるんだ」

「……メールを……プロデューサーのメールを……私のせいで……仕事が取れないって書いてあるのを見て……」


 それを口にすると、私はいよいよ瞳から零れる感情を抑えられなくなった。


「ごめんなさい……私……ごめんなさい……」

「メールをどこまで見たんだ」

「私の評判のせいで、上の人が認めてくれないっていう……ところ……ぐらいまで」


 呆れるようにプロデューサーさんは肩を落とした。


「半分以上もか」

「ごめんなさい……つい」


 プロデューサーさんは首を傾げながら、伺うように私を静かに見つめていた。

 右眉の上を掻く。


「いや、俺の実力不足だよ」

「そんなことないです。私が不運だから、だからプロデューサーさんが頑張っても、仕事がとれないんです……」


 プロデューサーは、また黙り込んで私を伺った。腕を組んで、右眉の上を掻いて、また腕を組んだ。



「ほたる。自意識過剰だ」







「不運なんて誰にでもある。仕事を取るのが俺の仕事だ。お前はレッスンに励んでいてくれ」


 それは励ましているようにも、突き放しているようにも聞こえた。


「だから、そう……まかせろ。さあ、そこをどいて。仕事をしなきゃいけないからな」


 そういいながら、プロデューサーさんは私の傍に来る。

 私がゆっくりと退くと、プロデューサーは椅子に座って、閉じられたパソコンを開いて。

 また顔をしかめた。見ると、パソコン画面に綺麗なヒビが入っていた。


 私が思いっきり閉めてしまったせいだ。



「ご……ごめんなさい……!!」

「いや、いいんだ。どうせ支給品だ。また貰うよ。それよりこの後はボイスレッスンだろ。遅刻するぞ」


「……はい」プロデューサーさんの言葉に従うのが、それが今の私に出来る精一杯の仕事、ということだった。


 肩を落としながら、私は部屋を出ていこうとして。




「ほたる」


 呼び止められて振り返ると、プロデューサーの瞳が私を捉えていた。黙り込んだまま、私を見ていたけど。


「お前は、アイドルなんだ。アイドルになれたんだ。それでも不幸っていうのか」

「それは……不幸じゃないです」

「そうだろ。アイドルになれたんだ。こういう噂も、自分たちの不注意や準備不足を、お前に押し付けてるだけだ。だから」

 プロデューサーは言葉を戸切り、また私をじっと見つめていた。私は息が詰まりそうに思えるほど長くも思感じたし、瞬きほどに短くも感じた瞬間。

 プロデューサーさんは視線を、パソコンに向けた。大きくヒビが入って、なにも映らないはずのモニターに。




「だからレッスンに励むんだ。仕事はなんとかする」









 もちろん、なんとはならなかった。





 プロデューサーさんがいくら頑張っても、私の不幸ばかりは、どうしようもならなかった。

 それでも私は一生懸命にレッスンに精を出して。

 だってそれ以外、今の私にできることはなかったから。



「ほたるちゃん、大丈夫?」


 ベンチに座っていた私は横に目を向ける。心配そうな表情の裕美ちゃんの顔。


「大したことないから」

「はい、ほたるちゃん」


 差し出されたのは、甘いスポーツドリンク。自販機から戻ってきた千鶴ちゃんだった。

 ペットボトルを受け取ると、私の横に千鶴ちゃんも腰かけた。



「……ありがとう、千鶴ちゃん」

「気を付けてよね。ほたるちゃん、うっかりさんなんだから」

「そうかも」

「ほんとうに、心配だったんだから」


 目を細めながら、ぼそりと千鶴ちゃんは漏らした。

 ダンスレッスン中に、私は転んでしまったのだ。その時に捻って、レッスンを中断して私は医務室に向かったのだ。

 脚は全治二週間ほど。包帯も一応巻いてもらっただけだった。

 医務室から出たところで、同じレッスンを受けていた裕美ちゃんと千鶴ちゃんと鉢合わせたのだ。

 私の様子を見に来てくれたらしい。


 心配する二人の着信には気づかなかった。充電がいつのまにか切れていたから。

 
 今、私のスマホには千鶴ちゃんのモバイルバッテリーが刺さっていた。








「お医者さんにダンスレッスンは、しばらく禁止って言われちゃった」

「その足じゃ仕方ないよ」


 慰めるように裕美ちゃんが言うと、千鶴ちゃんも頷いた。


「そう、無理はいけないですよ。今日は早く帰って、うがい手洗いもしっかりしなきゃ」

「千鶴ちゃん、お母さんみたい」


 クスクスと笑った裕美ちゃんに、恥ずかしそうに千鶴ちゃんが反論した。


「ホント気をつけなきゃ駄目ですよ。今はほら、風邪も流行ってるじゃないですか」


 ここ最近、季節外れの風邪が世間をにぎわせていた。

 ひどくなると声が出なくなるほどとのこと。事務所でも注意するように厳重に言われていた。


「予防には手洗いうがいが一番ですから」

「ダンスレッスンどころか、ボイスレッスンもできなくなっちゃうもんね」


「ほたるちゃん、そういう言い方よくないよ」


 鋭い眼光を、裕美ちゃんが投げつけてくる。怒っているわけではない、本当に心配してくれているのだ。


「うん……ごめんなさい」

「ほたるちゃん、練習一生懸命やってましたもんね。最近頑張りすぎてたから、休むには丁度いいじゃない?」

「頑張りすぎてなんか……レッスン以外、やることがないだけだから」

「そういえば、ほたるちゃん。仕事はまだ……?」


 私は首肯する。

 
「そっか」


 裕美ちゃんが言って、小さな沈黙が流れた。


「やっぱりおかしいですよ……」千鶴ちゃんが口を開いた。









「ほたるちゃんに仕事がないなんて」

「そんなことは……ほら、私はまだまだ新人だし」



「やっぱり……その。あのプロデューサーが良くないんじゃないのかな」



 遠慮がちに、でも今度はうっかりではなく、しっかりと千鶴ちゃんが言った。

 それでも、口にしてから後悔したのか「こんなこと、言いたくないけど」と、小さく千鶴ちゃんは付け加えてくれた。

 千鶴ちゃんは私のことを心配してくれてるのだ。だからそんなことを言ってくれる。

 気持ちは嬉しいけど、そうじゃないのだ。


「……違うの……その……」

「ほたるちゃん?」

「私が……良くないみたいで……」

「ほたるちゃんのなにが良くないの」


 裕美ちゃんも身を乗り出してくる。


「ほら、私って、一緒にいると悪いことが良く起きるでしょ?」

「そんなことないって」

「今までも仕事現場で、変なことが良く起きて……悪いうわさが多くて、だから私を使えないってプロデューサーさんのメールで見て……」


「……まさか、プロデューサーがそのメールをほたるちゃんに見せたの」


 裕美ちゃんの眼光が鋭くなった。気のせいではない。明らかに裕美ちゃんは怒っていた。







「ち……違うの、私が勝手に見ただけで……プロデューサーさんはなにも悪くないの」


 プロデューサーさんが、なにを考えてるか。やっぱり今でも分からない。

 それでも、仕事をしっかりとやってくれているのは間違いなくて。

 私の為に努力をしてくれている。仕事に対する姿勢だけは確かだった。


「……だからせめて、レッスンだけでも頑張ろうって思ったのに」


 それが今の自分に出来る精一杯ならば、それをちゃんとこなすことが、プロデューサーさんに報いられる唯一のことだと思って。

 でも、こうなってしまっては。私は自分の足にまかれた包帯を、指でなぞった。

 困ったように私を見つめていた裕美ちゃんだけど、柳眉が吊り上った。




「なら、私に任せて!」


「裕美ちゃん?」

「私が、なんとかしてみせるよ。プロデューサーに頼んで、一緒の仕事が出来ないか」

「でもそんな……」

「いえ、いい考えかも知れないですね」


 千鶴ちゃんも裕美ちゃんに同意した。


「私たちのプロデューサーなら、乗ってくれますよ」

「でも、二人に迷惑が」

「迷惑なんかじゃないって。私、ほたるちゃんと一緒の仕事をしてみたいと思ってたし。千鶴ちゃんもそうでしょ」

「もちろんですよ。協力できるなら、喜んでやらせて貰うから」

「今度プロデューサーに聞いてみるから。ね」



 二人の勢いに私は戸惑っていたけど、その気持ちは嬉しくて。



「……うん、ありがとう」


 そう、小さく頷いた。









 その時の私は、藁にもすがりたい気持ちもあった。

 だから、もしかしたら、なにか仕事が見つかるんじゃないか。

 でも、当然そううまくはいかなくて。次に会ったとき、裕美ちゃんは言っていた。


「検討はしたいって言ってたけど」


 裕美ちゃんの表情から、難しそうなのは十分に伝わってきた。

 私はありがとうと答え、その件はそれで終わりになるはずだった。


 ところがそうはならなかった。ならなかったのだ。







 日曜日だった。学校もお休み。怪我のせいでレッスンもお休みとなっていたので、気が緩んでいたんだと思う。

 目が覚めたのは、すっかり日が上りきった後だった。重い体で時間を見て、思ったより寝過ぎたことに驚いて、

 そこでスマホが鳴った。誰からだろう。確認するとプロデューサーさんの文字。

 私は驚いてから、頭を必死に動かした。今日は確かにお休みだったはずだけど。

 慌てて私は電話に出た。


「おはようございます、プロデューサーさん」

「ああ、おはよう」 


 電話の向こうのプロデューサーさんの声は、少しかすれているようにも聞こえた。


「どうしたんですか、こんな時間に」

「足の方はどうだ?」

「足ですか? 歩くぐらいなら問題ないですけど」


 そのことは、金曜日の夜に連絡していた。どうして改めてそんなことを聞くのか。

 プロデューサーの目的は、それを聞くことではなかった。


「ほたる、急なんだが、今日は空いてるか」


「どうかしたんですか」




「仕事の話だ」




 眠っていた頭が、はっきりと目覚めた。








「仕事、ですか?」

「ああ、まだどうなるか分からないが……イベントの司会だ」

「イベントの?」

「ああ、関裕美のイベントの」

「裕美ちゃんのですか?!」


「司会者が風邪にかかって……大したことないって高をくくってたみたいなんだが、今日になったら声が出なくなったそうだ。それでほたるに話が回ってきた」


 ともかく、待ち合わせは事務所で行うことにした。

 私は服を着替えて――出来るだけ綺麗で、お気に入りの服を――ご飯も食べずに家を出た。







 少しでも電車が遅れれば、その不安もあったけど、問題なく電車は進んでくれた。

 電車に乗っている間、私は胸の高まりは、だんだんと不安に変わって言っていた。

 私が到着してから、少しして、プロデューサーさんも姿を現した。


「じゃあ、行くか」

「あの、プロデューサーさん」


 駐車場に向かおうとしたプロデューサーさんを、私は呼び止めた。

 どうしても、聞いておかなければならないことがあったから。





「もしかして今回の仕事って、裕美ちゃん直々のお願いなんですか」


「……らしいな」







 やっぱり。

 きっと裕美ちゃんはあの約束を覚えていて、だから私に頼んだのだ。その気持ちは嬉しいけど、心の奥の不安はむしろ深まった。


「……お仕事は嬉しいですけど、進行役なんて、うまくできるんでしょうか」


 そんな仕事、今までしたことがなかった。小さなイベントとはいえ進行役だ。


 それに、裕美ちゃんもそんなに慣れているわけでもないはずだ。ただ約束を守るために、私の名を挙げたにすぎない。

 関ちゃんプロデューサーだって、納得してやっている訳じゃないんじゃないか。

 私の不安は、続くプロデューサーさんの言葉で肯定された。


「実をいえば、向こうは別の候補も決めてあるらしい。それでも、関裕美はお前と一緒にやりたいと言ったそうだ」

「裕美ちゃんが……」


「どうする、不安なら今から断ることもできるぞ」



「……プロデューサーさんは、どう思います」

「お前が決めることだ」



 突き放すような言い方は、予想できていた。でも、続いて。




「ただ……関裕美のことを考えるならな」


 プロデューサーさんは口を濁した。やはりそうだ。プロデューサーさんも、私と同じ想いを抱いている。

 仕事は嬉しいが、私が引き受けることによって、イベントが失敗するかもしれないと。

 司会には向き不向きがあるし、私は……自分でむいているとは思えなかった。

 例えそうだとしても、私は彼の言葉を聞きたかった。



「考えるなら……なんですか」


 僅かな沈黙の後だった。




「断った方がいいだろうな」








 自分で促していたのに、答えなんかわかっていたのに、それでも私は言葉を失ってしまった。


「小さいとはいえ彼女の初イベントだ。誰だって成功させたい。すでにもう、一つ躓いたって言えるんだ、成功する可能性は少しでも高めるのは間違ってない。ほたるにとっても、失敗はすれば痛手になる」


 その通りだ。私にお仕事がないのは、私の悪評のせい。

 このイベントに失敗すれば、それを強めることになるだろう。そうすれば、私のアイドル人生は。


 でも、たとえそうだとしても。



「……頑張れとか、言ってくれないんですか。頑張れとか、お前なら出来るとか、そういうことは言ってくれないんですか」



 私はそう漏らしてしまった。プロデューサーさんはいつもそうだった。どうして私を励ましてくれないんだろう。お互いに頑張っているのに、別々に頑張っているようで。


 それが私は嫌だった。


 慰めでもいい、背中を押してくれる優しい言葉をかけてほしかったのに。



「決めるのは、ほたる。お前だ」


 彼の繰り返した言葉は、瞬時に心にまとわり、ゆっくりとしめつけてきた。

 胸の痛みに強張った瞬間、私はプロデューサーと目があった。その瞳は、確かに私の心のうちを見通していた。


 プロデューサーは、逃げるように視線を逸らした。



「まだ少し時間がある。一人で考えてみろ」



 そういうと、プロデューサーさんは事務所を一度出ていった。








 残された私は、目についた椅子に腰を掛けた。

 良くないと思うのに、いろんなことがグルグルと頭を回った。

 胸からぶら下げていたペンダントを手に取った。裕美ちゃんに貰ったペンダント。裕美ちゃんの優しさのつまっている。


 不幸な私がイベントに出れば、裕美ちゃんにどんな迷惑がかかるのか。上手く行かない辛さは私だって分かっている。

 それならば、プロデューサーさんの言うとおり、断るのが正解に思えた。



 でも、プロデューサーさんはこうも言っていた。

 アイドルになれたのは、不幸なことか?





 それは私にとって、幸運な出来事だった。


 そして希望だった。










 ただ、その希望にいろんな不幸がぶら下がって、今ではすっかり弱まっていた。




 嵐の中の蝋燭の小さな灯。

 前に進もうとすれば、あっという間に消えてしまいそうな弱い灯。

 歩かずに、じっと嵐が止むのを待っているのが正しいように思えて。

 裕美ちゃんやプロデューサーさんたちにも、たくさん迷惑をかけてしまうかもしれない。

 行動した結果、希望という灯がいとも簡単に消えてしまうかもしれない。



 それでも私は、前に進みたかった。暗闇の向こうに煌めいた、僅かな輝きへ向かって。




 弱々しい灯が、世界を照らす暖かな光になる可能性に、賭けたかった。





 プロデューサーさんが戻ってきた。その表情は、数分の間にすっかり疲れ果ててしまったようにも見えた。



「プロデューサーさん、私」

「ああ、分かってる」

「私、イベントに立ちたいです」

「ああわかっ――なんだって?」



 プロデューサーさんは驚いたように目を見開いた。


「迷惑をかけるかもしれませんけど、このチャンスを……逃したくないんです。だから」



 このチャンスをつかむことが、どうなるかわからない。ただ、掴まなければ、私は一生後悔して。

 テレビの前で、アイドルを羨むだけの、あの頃の自分に戻ってしまう。

 それだけは嫌だった。

 プロデューサーの言うとおりだ。自分で決めなければ意味がない。


 あの時も最初の一歩は私が踏み出した。

 だから今も、私が自分で踏み出さなければ。




「私、イベントに出演します」









 そう宣言したけど、プロデューサーの反応は曖昧だった。

 びっくりはしてるようだけど、喜んでいるようにも、落ち込んでいるようにも見えない。


 ただただ、驚いていた。



「プロデューサーさん?」

「……じゃあ、どうやって行こうか」


 私は首を傾げた。妙なことを心配する。


「どうやってって、プロデューサーさん、車運転できましたよね」


 そもそも、さっきは駐車場に向かおうとしていたではないか。


「……ああ、そうだが」


 とても気まずそうに、視線を逸らして。片眉の上を撫でて。

 彼は、ポケットから瓶を一本取りだした。

 事務所近くのコンビニのシールが張られている小さな瓶は、半分以上亡くなっていた。

 申し訳なさそうなプロデューサーさんと、つまむように持っていた瓶を見比べていて。




「えっ!?」


 たぶん私は、今までで一番変な声で驚いたと思う。受付の人が目を丸くしていたから。


「まさか、お酒飲んじゃったんですか?!」

「断ると思ったんだ。今回は、だから」

「だからって御仕事中ですよ!」

「今日は休日だろ。俺だって休みだし……昨日も飲んでた」


 朝の電話が、妙にかすれ声だったことを思い出した。夜遅くまで飲んでいたせいだったのだ。


「昨日も飲んでたのは関係ないじゃないですか?」


「もういいだろ……タクシーを捕まえるぞ」






 気まずさを隠すように、プロデューサーは歩き出した。

 納得しないながらも、私も彼の後についていく。事務所前で手を挙げてみたが、なかなかタクシーは捕まらない。



「くそっ、どうして捕まらないんだ」

「プロデューサーがお酒飲まなきゃ良かったんじゃ」

「悪かったよ。悪かった」


 一度手を上げるのをやめて、両手を腰においたプロデューサーは、ゆっくりと首を振ってから、顔を俯けた。


「悪かった。さっきは。あんな言い方はなかった」

「……いいんです。プロデューサーさんの言うとおりですから」


 タクシーが近づいてきて。プロデューサーさんは手を挙げた。

 そのタクシーも、素通りしていく。両手を腰に当てて、プロデューサーは首を振った。



「なんで無視したんだよ」

「回送って、書いてありましたよ」

「回送か……そうか……回送じゃあな」



 三度タクシーが通りすぎて、四台目でやっと止まってくれた。


 二人で、タクシーに乗り込んだ。








 会場はある建物の地下にある小さなイベントスペースだった。

 すでに準備は進んでおり、スタッフさんたちが回線などを設置していた。

 控室に入ると、緊張した様子で椅子に座っていた裕美ちゃんの顔がパッと明らんだ。



「ほたるちゃん! 待ってたよ」

「今日はありがとうね。裕美ちゃん」


「うんうん。ほたるちゃんが引き受けてくれて、私もホッとしてる。やっぱり緊張しちゃって。ほたるちゃんが一緒だったら、私も頑張れるよ」


 控室には別に奥の扉があって、そちらが開いて関ちゃんプロデューサーが顔を覗かせた。


「ほたるちゃん、急だったけど、ありがとう」


 それから、関ちゃんプロデューサーは、私の背後――プロデューサーさんに目を向けた。


「よろしくね」

「ああ、ほたるを頼む」

「それはこっちのセリフ。時間がないから、早く打ち合わせだ」


 渡された台本を手に、流れを予習する。ミニライブのようなものもあって、その間、私は脇から裕美ちゃんを見る形になる。


「プロデューサーさん」


 そのリハーサル中、私は脇に立っていたプロデューサーさんに、舞台に目をむけたまま話しかけた。

 たとえまだリハーサルでも、リハーサルだからこそ、キラキラと輝くために努力している裕美ちゃんから、目が離せなくて。



「私も、あの舞台に立ちたいです」

「……ああ、そうだな」


 プロデューサーさんの返事は、やっぱり素気ない。

 夢なんか語らないけど、それでいんだと思う。

 今の私達にとっては。







 リハーサルも終わり、控室。

 すでにお客さんは入り始めていた。狭い会場だから、控室にもそのざわつきは聞こえてきた。

 裕美ちゃんの顔は、ますます強張っていくようだ。


「裕美ちゃん」


 私の声に、裕美ちゃんは我に返った。傍に居た私のことを、たった今思い出したというばかりに。それほど緊張していたんだろう。


「私がちゃんと、支えてあげるから」


 彼女を励ます為に言ってから、私は急に不安になった。


「め、迷惑になるかもしれないけど」

「迷惑だなんて。そんな……」

「あ」と、小さく声を漏らした。それから裕美ちゃんは自分の鞄を探り出した。

 取り出したのは、綺麗なペンダント。


「これ、ほたるちゃんに。新しく作ったんだ。いつでも渡せるように持ってたの」


 可愛いペンダント。裕美ちゃんが差し出してきたけど。「そうだ。私がつけてあげる」

 立ち上がった裕美ちゃんは、私を鏡と向い合せ、首にかけ、後ろで止める。


 胸元に輝く新しいペンダント。嬉しさに、頬が熱くなった。








「ありがとう、裕美ちゃん」


「私こそ。あのね、この舞台は私のアイドル人生にとって、最初の一歩になると思ってるんだ。その時にほたるちゃんが居てくれて。本当に嬉しくて」

「……私もだよ。私にとっても、この一歩って、大事になると思ったの。迷惑もかけるかもしれないけど……それでも」

「じゃあ、これって、私たちにとっての、最初の一歩になるんだね」

「うん」


 私の両肩に手を置いた裕美ちゃん。

 その手は緊張で強張っているのが、私にも伝わってくる。そんな手を、私は上から包み込んだ。

 裏口から、関ちゃんプロデューサーが顔を覗かせた。


「じゃあ、始まるぞ」

「うん」


 私は席を立つと、最初にステージに立った。

 みんなが私に注目している。誰だろうと、不思議そうな視線。ドキドキして。声を出して。


「みな――」


 マイクの音が出ていない。小さな会場だけど、ないと不安だ。

 どうかしたのか。マイクの電源を入れ忘れたのか。でもしっかりついている。じゃあなんで。

 会場の一番奥、音声盤を弄っていたスタッフさんが手を挙げてから、次に両手で丸を作った。どうやらそちらのミスのようだ。

 もう一度、声を出した。



「みなさん、初めまして。私、本日の進行役をやらせていただく。白菊ほたるです」




 そう言った私の声は、少しだけ上ずっていた。







 裕美ちゃんのイベントは成功といっていいと思う。

 掛け合いは、私としてはうまくいったと思えないし、小さな不幸も起きはした。

 でも、お客さんも喜んでくれたし、私たちも楽しむことが出来た。

 お客さんが笑ってくれたなら、それが成功だと思う。

 あのイベントは私に変化をもたらした。

 イベントの見学にたまたま他の現場の人も来ていて、私と裕美ちゃんをネット放送の小さな番組にそろって出演させてくれたのだ。

 相変わらずハプニングが起きたりして……台本通りにはいかなかったけど、裕美ちゃんが上手くフォローしてくれて、なんとかなって。

 それがディレクターさんに気に入ってもらえたらしい。

 それからは裕美ちゃんと私、二人セットで仕事に呼ばれることが多くなった。

 そうするうちに、私にも小さな仕事がぽつぽつと入る様になって。

 この前は、千鶴ちゃんと共演することも出来た。

 裕美ちゃんと千鶴ちゃんも共演したことがあったという。今度は三人でだね、なんて、私たちは笑いあった。

 私とプロデューサーさんの関係も、少しは変化した……と、言えればよかったのかもしれないけど、別に変ったところはなかった。

 彼はいつものように業務的で、踏み込んでこないで。でも、私はそれをすっかり受け入れていた。そういうものだと。



 それでも、笑いあう関ちゃんプロデューサーと裕美ちゃんや千鶴ちゃんを見ると、少し羨ましく思うこともあった。








 千鶴ちゃんと裕美ちゃんとの三人での共演は、あるイベントで叶うことになった。

 プロダクションが定期的に開いているもので、新人をメインで行っているイベントだ。

 それに私たち三人も選ばれたのだ。

 でもどうしてか、それを伝えたプロデューサーさんの表情はすぐれなかった。

 別に喜んでくれないのは分かっていたけど、なにか不満があるようだった。


「プロデューサーさん、どうかしたんですか」

「いや……」


 プロデューサーは口を濁してから、首を振った。


「なんでもないさ」


 渡された企画書には、行われる場所も書いてあった。

 会場は複数あり、私たちの出るのは、地方のある海の傍のホールだった。





 朝霧の漂う駅に降り立って、そこからさらにバスに乗って、目的地の傍のバス停に降りた。

 バス停の目の前には、広がる海の景色。突き抜ける青色に、私は目を輝かせた。


「わあ、凄い……」

「ほら、行くぞ」


 それでもプロデューサーさんは素気ない。少しぐらい海の綺麗さに感激してもいいんじゃないか。


「プロデューサーさん、少し海の方に行ってみてもいいですか」

「駄目だ」

「えっ」


 有無を言わせない拒絶に私は驚いてしまった。

 時間だってまだ余裕があるというのに。普段より少し早い足取りで進むプロデューサーさんに、私は慌ててついていった。






「プロデューサーさんは海、お嫌いなんですか」

「ああ」



 びっくりした。プロデューサーさんがそこまで好き嫌いをはっきり言うのは初めてだったから。


「どうして嫌いなんですか」

「……」


 返ってきたのは沈黙だった。答える気はないらしい。

 やっぱり、普段より不機嫌だ。このイベントに出ると決まってから、ずっと。

 それほど海が嫌いだというのか。

 会場に着くと、すでにたくさんのスタッフさんやアイドルの皆さん。裕美ちゃんと千鶴ちゃんも居た。

 リハーサルまで余裕があった。


「ねえ、少し探検してみない?」


 裕美ちゃんの言葉を、私が否定する理由はなかった。


「プロデューサーさん、少し会場の周りを見てきていいですか……」

「海の方には行くんじゃないぞ。リハーサル前なんだから」


 どうしてリハーサル前なら駄目なのか、不満よりも不思議だった。


 元よりそこまで遠くに行く気もなかった。

 建物の中を見て回ったり、他のアイドルの子と話をして時間を過ごした、関ちゃんプロデューサーにちひろさんもいて。

 スタッフさんにご迷惑を掛けちゃ駄目ですよ、なんてちひろさんに窘められもした。



「このホールってね、事務所が小さい頃からお世話になってたから、そのお礼も兼ねて毎年ライブとかやってるんだって」


 プロデューサーから聞いたの、と裕美ちゃん。

 私たちは三人で客席に座りながら、準備に勤しむ人たちを見学していた。


「そういうの、いいですよね。情を大事にしてる感じがして」


 千鶴ちゃんが感心するように言った。

 私は頷いてから、座席から周囲を見渡した。小さな胸の高まりに少し興奮もしていた。


 舞台に立つ前に、自分たちがどうみえるのか。


 そんなとき、端の方にプロデューサーの姿を見つけた。








 彼は一人じゃなかった。別のアイドルと一緒だ。



(あの人は確か……)


「ほたるちゃんのプロデューサーと話してるのって、岡崎さん? ほら、元子役の」


 同じ方向に目を向けていた千鶴ちゃんが言った。岡崎泰葉さんのことは私も知っていた。

 小さい頃から子役として芸能界で活躍していた子だ。

 彼女とプロデューサーさんが話してるのが不思議だった。

 相手が岡崎さんだからというわけではない。プロデューサーさんがアイドルと話しているのを、私は殆ど見たことがなかった。

 話すのは基本スタッフさんや他のプロデューサーさんで、アイドルとは挨拶を交わす程度だった。


 なにを話しているんだろうか。気になったときには、会話が終わったようだ。頭を下げた岡崎さんは、そのまま扉を出て行った。
 







 ライブは、大盛況で幕を閉じた。

 会場の片づけもほどほどに、打ち上げの為に舞台の上にスタッフさんやアイドルのみんなが集まった。

 紙コップを手に、音頭を取ってささやかな打ち上げだった。


「おっつかれー!!」


 グッと抱きつかれて、私は驚いてしまった。振り返ると、関ちゃんプロデューサーだった。


「ほたるちゃんよかったよー」

「あ、ありがとうございます……」

「プロデューサー、ほたるちゃん困ってるよ?」


 眉をひそめた裕美ちゃんが近づいてきた。


「もー、ひろみんったら拗ねちゃってー」

「す、拗ねてなんかないから」

「そんなこと言ってー……」


 私から素早く離れた関ちゃんプロデューサーは、今度は正面から裕美ちゃんに抱き着いた。








「ちょ、ちょっと」


 照れてる裕美ちゃんを抱き上げると、そのままその場でグルグルとまわりだした。


「ひろみんも最高だったよー」

「もう、なにやってるんだか」


 一歩引いて見ていた千鶴ちゃんが、呆れるように呟いたけど。


「私には、やってくれないのかな……?」


 ハッとなった千鶴ちゃんを、関ちゃんプロデューサーは見逃さなかった。

 裕美ちゃんを降ろすと、千鶴ちゃんに抱き着こうとする。でも、千鶴ちゃんはさっと身を引いてそれをよけた。


「ちづちづ、素直になった方がいいぞ」


 ジリジリと近づいていく関ちゃんプロデューサーから逃げるように、後ずさっていた。


「す、素直ですから。私」

「まったまたー」


 思わず逃げだした千鶴ちゃんを関ちゃんプロデューサーが追いかける。そんな様子を見て、周囲もクスクスと笑っていた。

 一方の私のプロデューサーさんは、舞台の端でお酒の缶を静かに傾けていた。私の視線に、小さく頷くだけ。

 私も頷き返した。

 ご苦労様はもう言ってくれていたからいいのだけれど、この距離はいつまでたっても埋まりそうとは思えなかった。

 そのうちグッと傾けてから、おかわりの並んでいるテーブルに歩いて行った。



 ふと目端に岡崎さんの姿が見えた。丁度別のアイドルとの話を終えたところで、彼女が私の視線に気づいた。


 私は、彼女に近づいていく。







「お疲れ様です、岡崎さん」

「固くならなくていいですよ。泰葉って呼んでください。私もほたるちゃんって呼ぶから」

「じゃあ……泰葉ちゃん」

「ほたるちゃんは確か――」



 そうして、泰葉ちゃんはプロデューサーの名前を口にした。


「プロデューサーさんのこと、知ってるんですか?」

「ええ、昔少しお世話になったことがあって。復帰したって知った時は、正直おどろきましたけど」

「復帰って……?」

「彼は一度、業界から身を引いてたんですよ」


 そんなこと、私は全然知らなかった。泰葉ちゃんが、目を細めた。その表情は、どこか寂しげだった。


「仕方がないとはいえ、すっかり雰囲気が変わってて、一瞬分からなかったです」

「前は違ったんですか?」

「はい。明るくておしゃべりで。変わってないのは真面目なところだけ……ほたるちゃん?」



 私は呆然としていた。泰葉ちゃんから聞いた言葉が、余りに今のプロデューサーさんと重ならなくて。


「全然……想像つかないです……そんなプロデューサーさん」


 驚いている私に、泰葉ちゃんもびっくりしているようだった。


「どうして……変わっちゃったんでしょうか……」





「どうしてって、ほたるちゃん、聞かされていないんですか?」


「? なにをですか」


 私の知らないプロデューサーさんの話を、泰葉ちゃんは知っているようだった。




「それは――」



 泰葉ちゃんが私の背後に目を向けると、その表情が強張る。



「ほたる」



 本人は無意識だったかもしれない。

 でも、それは余りに強張った声だった。



 振り返ると、プロデューサーさんが立っていた。






 明らかに怒りに満ちた表情。本人は意識していないのかもしれないが。


「やあ、泰葉ちゃん」


 そう言葉を投げかけると、プロデューサーさんは、私の手を掴むと、強引に袖まで引きずっていく。


「ど、どうしたんですかプロデューサーさん」

「ホテルに戻るぞ」

「でもまだ」

「初めてだったろ。こんな大きな舞台。疲れてるだろ。休まなきゃ」

「だ、大丈夫ですから。まだ」


 私は後ろを振り向くと、まだ舞台にいる裕美ちゃんが心配そうに視線を投げかけていた。

 せっかくイベントが成功したのに。まだあそこに立っていたいのに。


「大丈夫じゃない。俺はお前のプロデューサーなんだから。お前を守らなきゃ」



 嘘だ。その言葉に私は足を止めた。そのままプロデューサーさんの腕を振り払う。



 驚いた様子で振り返ったプロデューサーさんに、私は言った。


「なんなんですか……散々素気なくして……」


 こんなこと、言っちゃ駄目だ。そうだと思っても私は言葉を止められず、
 




「都合がいいときばかり……プロデューサーぶらないで……ください」









「ほたる……」

「どうかしたんですか、二人とも」


 声に振り返ると、いつの間にかちひろさんが傍に立っていた。

 私は小さく首を振った。


「いえ……なんでもないです。ちょっと外の空気を吸ってきますね」




 私はプロデューサーの脇を抜けて、走り出した。



 扉を抜けると、先ほどまでの熱気が嘘のように静まり返っていた。

 お客さんたちはもうみんないなくなっていた。

 空には月明かりに輝く星々。そして磯の香りに波の音。
 私は道路沿いをゆっくりと歩き出した。少し歩くと、海沿いに出る。

 堤防の階段を上り、息を呑んだ。

 見渡す限りの海。

 この辺りは岩場となっており、もう少し歩けば砂浜だった。


 でもそこまで行く元気もなく、私は岩場をゆっくりと歩いていく。ごつごつとした岩に時折手を付きながら波打ち際まで歩いていく。強くなる潮の香りは、いよいよ私の全身を包み込むかと思うほどだった。


 月光が水面を反射し、もう一つの夜空を地上に作り出してる。


 その岩場の先端で、煌めくなにかが目についた。なにか石か――貝殻か。



(裕美ちゃんに持って行ったら、喜んでくれるかな)


 貝殻なら、首飾りを作るのにいいかもしれない。裕美ちゃんなら綺麗なペンダントにしてくれるだろう。

 でもそれは、貝殻ではなかった。なにかの鱗だった。とても大きな鱗で五百円玉よりも大きい。私は、それを持ちあげる。

 薄く光沢を持つそれは、美しくもあり、同時に恐ろしくも感じた。


(なんの、魚のなんだろう)


 こんなに大きな鱗を持つのだからどれだけ大きいのか。そんなことに気を取られてしまっていたからか。




 足場のもろさに、私は気づかなかった。






 海に面していた足場が、突如として崩れたのだ。


 普段なら、持ち直すことはできただろう。

 でも、手に持っていた鱗を無意識に守ろうとして手が使えなくて。


「っ!!」


 滑り落ちた先は海ではなかった。岩場と海の合間に、僅かな砂場があった。

 そこに滑り落ちたのだ。大きく手をすりむいてしまっていた。

 それでも立ち上がろうとして、足首に大きな痛みが走った。


 以前に捻挫した場所だ。

 お医者さんから、もしかしたら癖になるかもしれないと注意を受けていた。そこを再び捻挫してしまったのだ。

 痛みに顔をゆがめる。それから、足にかかる水しぶき。




 私は急に、泣きそうになってきた。寂しさや、色々な想いから。


 イベントに成功した高翌揚感はもうなくて、惨めさが心を支配していた。

 上手く進めてるはずなのに、なにもうまく行っていないじゃないか。

 それを知らしめるために、神様は私にこんな仕打ちをしたんじゃないか。

 両手をグッと握りしめ、痛みをこらえる。

 何度も何度も深く呼吸をして、嫌な考えを頭から追い出す。

 そうしているうちに、私は少し落ち着いてきた。




 結局、鱗もどこかに落としてしまっていた。


(戻らなきゃ……)


 裕美ちゃんや千鶴ちゃんが心配してるかもしれない。


 プロデューサーさんは……どうだろう。

 お酒を飲んでたし、私のことなんか今は頭にないかもしれない。きっと今も、会場の中で飲んでいるのだろう。








(だからって、心配させていい訳じゃ……ないよね……)


 私の仕事、プロデューサーの仕事。

 プロデューサーの仕事は、アイドルのプロデュース。アイドルの子守じゃない。


 私が勝手に拗ねてるだけなんだから、プロデューサーさんに迷惑を掛けちゃ駄目だ。


 痛みにこらえながら立ち上った。

 高さでいえば、一メートル少し。上がれない高さではない。そう思って岩場に手をついて。


 私が落ちた衝撃で、岩場は緩んでいた。

 大丈夫だと思った岩がゆっくりと転がり落ちて。


 私はとっさに身を引いた。



 次の瞬間に巨大な岩がぼこりと取れて、海に落ちた。

 水しぶきとともに、大きな音を立てて。まるで人が落ちたみたいな音だった。



 そのしぶきが、私に思いっきりかかった。

 ここまで来ると、辛さよりも呆れが先になって、私は息をついた。





「ほたる!」




 波打ち際の孤独を突如打ち砕いた声に、私は耳を疑った。しかも声の主は。




「プロデューサーさん?」










「ほたる?! どこだほたる!!」


 岩場のむこうに小さな人影が見えた。

 ここからでもはっきりと分かるほど、必死に周囲を探している。私は手を挙げて大きく腕を振り、居場所を知らせる。



「こ……ここです……プロデューサーさん」

「ほたる!」


 近づいてきたプロデューサーさんを見て、私は言葉を失った。

 そんな表情のプロデューサーさんは初めてだったから。


 おびえるような顔。まるで今にも泣きだしそうで。




 私を見つけたことに、心から安堵しているようで。



「ほたる、ほら……手を伸ばして」


 私は言われるがまま両手を伸ばすと、それを掴んで、抱き上げるようにプロデューサーさんは持ちあげた。


 そうかと思うと、彼は膝をついたまま私を抱きしめる。私が痛くなるほど強く、強く。



「良かった……無事でよかった……」

「プ……プロデューサーさん……」

「海に近づくなって、言っただろう」

「ごめんなさい……」



 嗚咽にも似た息遣いのプロデューサーさんに、私はなにも言えなくて。

 しばらくは、彼のなすがままになっていた。









 やがて、ゆっくりと彼が体を離す。


「さあ、戻るぞ」

「はい……」


 立ち上がろうとしたけど、私は足に感じた痛みに顔を小さく言葉を漏らした。


「大丈夫か、どこかぶつけたのか。岩場で切ったり……」

「いえ……そうじゃなくて。少し足を捻っちゃって。前と同じ所を……」

「足を?」


 彼は屈むと、足首を確かめる。私は少し顔が熱くなった。


「少し腫れてきてるな。おぶってやる」

「えっ?」


 驚いている私をしり目に、彼は私にしゃがんで背を向けた。



「ほら、早く」

「いや……いいです……大丈夫ですから」


「足を怪我してるんだ。大丈夫なわけないだろ。ライブ後だ。疲れてて足元も覚束ないだろ。帰る途中にまた捻って、悪化したらどうするんだ」


 私としては気恥ずかしさが強かったけど、疲れているのは確かだし、プロデューサーさんの行っていることは尤もに思えてきた。



「……それじゃあ」


 私は恐る恐る、プロデューサーの背中に抱き着く。彼はちょっと反動をつけて、立ち上がった。おんぶしてもらうなんて、いつぶりだろうか。気恥ずかしさもあったけど、その背中に身を預けると、不思議と心が落ち着いてきた。


 彼はゆっくりと歩き出す。




「夜に出歩くだけで危険なのに、こんな足場の悪い場所だったら尚更だ」

「ごめんなさい……」

 私だけが悪いとは思えなかったけど、なんだか否定する元気はなかった。

 心から心配してくれていたのは本当で、それをとやかく言いたくはなかったから。






なっが





「自分の運の悪さは自覚してるんじゃなかったのか」

「プロデューサーさん……前はそんなの自意識過剰って言ってませんでした」

「鞍替えしたんだ。傍に居続けてな。ほたるに起きた全部が全部がほたるのせいじゃないが……少しはな。でも大体は、他人が自分の責任をほたるに擦り付けているんだ」


「プロデューサーさんは、違うんですか……」


「……さあ」彼は少し言葉を途切って、小さな沈黙の後。


「かもな」


 その呟きは、さざ波に消え入りそうなほど小さくて。



 意地悪な質問をしてしまった。

 小さな後悔が胸に浮き上がったけど、その後悔を口にするのが私は嫌で。

 返事をするかわりに、抱きしめる力を少しだけ強めた。








 
 早朝、私たちは帰りのバスを待っていた。その間、彼は海に目を向けていた。



 私はひっそりと彼の横顔を盗み見る。彼の瞳に浮かぶのは憧れでも憎しみでもない。







 そんな彼の瞳が、私はとても気がかりだった。










 それから数日後、私は事務所にやってきていた。

 ボイスレッスンをこなした後――本当はダンスレッスンの予定だったけど、それは暫く禁止――プロデューサー室へ向かった。

 私のプロデューサーさんの部屋とは、別の部屋。


 ドアをノックすると、明るい声が招き入れてくれた。

 部屋に入ると、デスクに座っていた関ちゃんプロデューサーが朗らかに微笑んだ。



「あら、ほたるちゃん。足の具合は大丈夫?」

「はい。そこまで酷くなかったので」

「良かった。ひろみんとちづちづも気にしてから」

「あの、少しお時間ありますか」

「ん? うん。丁度ひと段落ついたところだから。お茶淹れようと思ってたの。ほたるちゃんも飲む?」



 私がうなずくと、電子ポットから急須にお茶を注いだ。それから二人分の器を取り出す。


「ティーバックとか紙コップの方が楽なんだけど、やっぱお茶は急須とお椀。こればかりは譲れないんだよね」

 関ちゃんプロデューサーは端においてあった折り畳み椅子を出して私に勧めてきた。私がそこに座ると、目の前にお茶の入ったお椀と、袋のおせんべいを置いてくれる。


「それで、なんの用」


 砕いたおせんべいの欠片をつまみながら、関ちゃんプロデューサーが促してくる。




「プロデューサーさんのことです」









「……アタシじゃなくて、あいつの方だよね」


「教えてください。プロデューサーさんになにがあったんですか」


 関ちゃんプロデューサーの顔に、微かに皺が寄った。

 お椀を手に取ると、ゆっくりとすすりながら椅子の向きを変えて思案していた。私はお茶も飲まずに、答えを待った。




「逆に聞くんだけど、どこまで知ってるの」

「昔もプロデューサーをやっていた、ということぐらいです」

「そっか」


 関ちゃんプロデューサーは黙り込むと、小さく頭を掻いた。背もたれに沈み込み、深く息をつく。

 決心がつかないのか、何度もお茶を傾けて、どれほど時間が経ったのだろうか。

 また、息をついた。

「そうだよな。どうせいつかは知ることになるだろうし……あいつ等より、アタシから説明したほうがいいか」



 関ちゃんプロデューサーは椅子を元に戻すと、私と正面から向かい合う。




 そして口を開いた。




「あいつはな、家族を二回失ったんだ。奥さんと、それと娘さんを」











「うちの会社のアイドル部門はまだ小さくてね……こう言っちゃなんだけど、今みたいにこんなデカくなるなんて、誰も思ってなかった。アタシたちだってね。でもあいつは違った。世界一のアイドル事務所にしてやるって意気込んでたよ」


 プロデューサーさんと関ちゃんプロデューサーは、同じ時期にこの事務所に入社した、同期だった。


「そんなあいつが初めて担当したアイドルはね、控えめだけど明るい良い子で、それに雰囲気があった。なにより歌がうまくてね。聞いたことない?」


 関ちゃんプロデューサーは歌を口ずさんだけど、私は首を振った。

 「世代じゃないもんね」と、彼女は寂しく笑った。



「そこまで有名って訳でもないし。でも歌声が綺麗だったんだ。澄み渡るようで優しくて。アイドルらしくないと言えばそうだけど、アタシは好きだったな。社内でも期待をされたんだけど……そんなときに病気が見つかってね」



 癌だった。

 それも喉に出来る癌。薬や放射能治療で、なんとか抑える事が出来たけど、彼女は歌えなくなった。



「綺麗だった声が潰れてね……売出し中のアイドルにとっては致命的だった。結局、引退することになって」


 プロデューサーさんは治療中も、そして引退した後もずっと彼女の傍に居た。

 信頼は愛へと変わり結婚することになった。

 子供も生まれて、幸せそうだったという。

 プロデューサーさんは結婚した後も、しばらくはプロデューサー活動を続けていた。だけど。



「奥さんがね、癌が再発したんだ。気づいた時には他の場所にも転移してた」


 プロデューサーさんは仕事を辞めて、彼女の看病に専念することになった。




 再発してから半年後、奥さんは息を引き取った。









 残された子供と共に、彼は知り合いのつてを頼りに海の見える町に引っ越した。


 そこで小さな会社の事務の仕事を見つけ静かに暮らしていたが。


 関ちゃんプロデューサーは言葉を止めた。苦々しい表情を顔に浮かべながら。




「事故があったんだ。娘さんが海に落ちたんだ」


 自販機で飲み物を買うために、目を離した隙だったという。

 気づいた時には、彼女の姿は無くなっていた。


 遺体は見つからなかった。

 まるで泡となって、世界から消えてしまったみたいに。




 それ以来、彼はめっきり変わってしまった。仕事も辞めて家に引きこもった状態が続き。


 日雇いの仕事をしながら、酒に溺れる日々だったと言う。



「それに見かねた……親類がね。うちの部長に頼んだんだ。また雇ってくれないかって。部長もあいつのことは気にかけていたし。あいつ自身、何度か拒否したらしいが、説得されてね。結局仕事に復帰することになった」


 私は話してくれたことにお礼を言った。


「いや、いいんだよ」


 帰りの電車のなかで、私はスマホで聞かされた名前を検索した。

 いくつかの記事やサイトがヒットして、一番上のサイトを開いた。

 引退を知らせる、本当に小さな記事。病気のことはどこにも書かれていなかった。

 きっと隠していたのだろう。画像に映ったその顔にどこか見覚えがあるように思えて、でも誰かは思い出せなかった。
 









 
 手を止めたプロデューサーさんは、机の向こう側から一枚の紙を渡してきた。

 来月のスケジュールだ。

 次に事務所に行ったのはスケジュールを受け取る為だった。

 個人のスケジュールは専用のサイトからみることができるのだけど、なぜか私はログインできなくて、メールで画像を添付しようとしても、いつも破損データになってしまうから、手渡しでもらうようにしていた。


 手にしたスケジュールを見て、私はちょっと感動する。

 前はレッスンを示すマークばかりだったのに、仕事を示すマークが着実に増えていた。



「どうしたんだ、ほたる」


 スケジュールを見つめている私が気になったのか、プロデューサーさんが訪ねてきた。


「御仕事が……増えてるって思えて……」


 言葉にするだけで、私は自然と笑みが零れてきた。


「ほたるの努力のお蔭さ」

「プロデューサーさんがいてくれたからです」


 彼はニコリともしなかったけど、小さく頷いてみせた。それから、パソコンの画面に視線を戻す。

 いつもならこれで私は退出するのだけど、今日はその場を動かなかった。

 言わなければならないことがあったから。


「……あのプロデューサーさん」

「どうしたんだ」



「私……聞きました。プロデューサーさんになにがあったか」










 キーボードを打とうとしてた手が止まり、プロデューサーさんが顔を上げた。

 無言で伺ってくるプロデューサーさん。私は言葉を続けた。



「奥さんと……娘さんになにがあったかも……」

「誰から聞いたんだ」



 関ちゃんプロデューサーの名前を挙げると「そうか」と、小さく呟いた。


 彼は落ち着きの無さそうに指で机を叩いていたけど、深く息をついた。

「だからって、それを理由で仕事の手を抜いたことはないつもりだ」

「それは分かってます。さっきも言ったじゃないですか。私がここまで来られたのは、プロデューサーさんのお蔭だって。本当に感謝してます」


「じゃあ、それがどうかしたのか」



 彼の口調は微かに厳しくなった。怒りなのか、悲しみなのか。私には分からなかった。


「どうって訳では……ただ、私が知ったことを知っていて欲しかったんです。私が知っているとことをプロデューサーさんが知らないのは……なんだか、嫌だったんです」



 うまく言葉にできなかった。そのことはプロデューサーさんにとってはとてもではないが無視できないことで。

 きっと、誰にも触れてほしくない傷口で。

 でも私は、知ってしまって。



 きっと後ろめたかったのだ。プロデューサーさんに対して。

 口にしたところで、なにかが変わる訳ではない。変わる理由はない、と思う。


「じゃあ、プロデューサーさん、お疲れ様です。次のお仕事は……ラジオですよね」

「ああ、そうだな」


 私は小さく頭を下げて、部屋を出ようとした。


「ほたる」


 振り返った私を、プロデューサーさんはじっと見つめていた。

 何を言おうとしたのか、私には分からなくて。きっと彼は、言いたい言葉を飲み込んだ。



「……次は、明後日だな」

「はい。よろしくお願いしますね」


 そうして今度こそ、私は部屋を出た。









 それからは、私は順調に仕事が増えていった。

 共演が多いのは裕美ちゃんや千鶴ちゃんだけど、他の人との共演も増えていった。

 同じ事務所でいえば、森久保ちゃんやクラリスさん。

 前の事務所で一緒だった相場さんとも一緒になって、懐かしいなんて言いあった。泰葉ちゃんとも、一緒になる機会があった。


 仕事は順調だけれども、だからといって私の運の風向きがよくなったかと言われれば、そうでもなく。




 例えば、こんなことがあった。









 ある田舎でのロケのこと。ロケ用のバスが遅れていて、余裕もあったし、歩いてむかうことにしたのだ。


「あっ」


 私は目の前にぽとりと落ちた水滴に気づくと、空を見上げた。

 太陽が隠れていなかったから気づかなかったが、空はすっかり雲に覆われていた。

 プロデューサーさんも空を見上げていた。


「目的地までもう少しだから、持ってほしいんだが」

「私のせいで、降られそうですね……」

「ほたるのせいじゃないが……降られるだろうな」


 なんて言っているうちに、またぽつりと一滴。


「今日……降らないってお天気予報で言っていたのに……」

「そうだが……安心しろ」


 プロデューサーさんは、鞄から折り畳み傘を取り出した。ボタンを押すと全自動で開くタイプの傘だ。


「抜かりはない」

「流石プロデューサーさん」


 感嘆している私に、プロデューサーさんもまんざらではない様子でカバーを外しながら、ボタンを押して。


 ポン。っと勢いよく伸びたかと思うと。

 傘の軸の部分が止まるべきはずのところで止まらず、そのまま飛んで行った。

 傘の部分は開くこともなく、コロコロと脇の茂みに転がっていった。

 呆然としていた私とプロデューサーさん。その直後に、遠慮のない土砂降りが降ってきた。私とプロデューサーさんは降られるがまま顔を合わせていたけど。



「……走るぞほたる」

「は……はい……!!」



 ロケ現場に着くころにはすっかりずぶ濡れになっていた。







 今のはあくまで一例で、他にも色々あったけど……それでも、仕事を続けることが出来ていた。

 そしてとうとう。


「CDデビュー……ですか?」

「ああ」


 向かいのソファーに腰かけていたプロデューサーさんが、企画書を差し出してきた。


 私は胸の高鳴りを感じながら、企画書に目を通していく。

 聞いたことのある作曲家と作詞家の名前。レコーディングスケジュール。

 そして発売記念イベント。

 イベントの会場の名前に、私は覚えがあった。


「プロデューサーさん、この会場って本当なんですか?」

「ああ、もちろん」

「でも、ここって……かなり大きいハコですよね」


 私なんかのCD発売記念イベントで行うには、大きすぎるほどのイベント会場だ。


「なにか不安でもあるのか」

「……こんなところ、私が埋められるんでしょうか」



「出来るさ」


 プロデューサーは、言い切った。


「出来ると思ったから、その場所を俺は選んだんだ」


 その言葉は、私の不安を完全に拭い去ることはできなかったけど。


 それでも、プロデューサーさんに私は少しでも答えたくて、静かにうなずいた。






 
 レコーディングは進んで、イベントも告知されて。その宣伝にいろんな番組に出る機会があった。

 その中には、裕美ちゃんの番組も。

 裕美ちゃんの初めての冠ラジオ――番組内のミニコーナーだけど、初冠であることは間違いない――の栄えある初ゲストとして私が選ばれたのだった。


「改めて、おめでとう。ほたるちゃん」


 収録前の控室、裕美ちゃんの言葉に、私は笑みが浮かんだ。


「ありがとう。裕美ちゃんのお蔭だよ」

「そんな、私なにもしてないよ」

「裕美ちゃんがイベントの司会に選んでくれたから、今の私があるんだもん。だから、裕美ちゃんのお蔭だよ」

「そんな…ほたるちゃんが頑張ったからだよ」

「私だけじゃないよ、裕美ちゃんや千鶴ちゃん。それにやっぱりプロデューサーさんのお蔭」

「ほたるちゃん、変わったよね」

「そう……かな」

「うん……特にほたるちゃんとプロデューサーの関係。前よりすごく仲良くなってる」

「そうかな……そうだといいな」

「そうだよ、きっと」


 収録も無事に終わり、夕暮れの中、私とほたるちゃんは一緒に帰っていった。



「あーあ、ほたるちゃんのイベント。私も観たかったな」

「仕方ないよ、二人とも別のお仕事があるんでしょ?」


 私のCD発売記念イベントの日、裕美ちゃんと千鶴ちゃんはお菓子のプロモーションイベントの予定が入っていた。


「ほら、私の時はほたるちゃんが傍に居てくれたでしょ。それがすっごく心強くて、私もそうしたいって思ってたのに」

「大丈夫だよ、ずっとそばにいてくれてるもん」


 そういって、私は首からかけていたペンダントを持ちあげた。裕美ちゃんから貰ったペンダントは、いつも肌身離さず持っていた。


 なくすこともなく、ずっと。








「そうだ。渡しそびれるところだった」


 裕美ちゃんは鞄から小さな封筒を取り出した。


「これって……?」

「開けてみて」

 開くと、中から出てきたのはペンダントだった。

 扇状の薄いプラスチック、青から白へのグラデーションが入り、細かい気泡がアクセントになっている。

 それはまるで、小さな海だった。


「新しいペンダント。ほら、前にほたるちゃん、海岸で大きな鱗を拾ったって言ったでしょ。それで、鱗みたいな形にして、青色を海みたいにしたの。新しいお守り。成功しますようにって」


「凄い……ありがとう裕美ちゃん」


「頑張ってね、ほたるちゃん」




 私は家に帰ってからも、そのペンダントを光に掲げて見つめていた。

 美しい青い海と、白い空。そして鱗の形。


 気泡の一つが、プロデューサーさんの後ろ姿になった。

 バスに乗る前に、海を見つめているプロデューサーさんの姿。

 水面の向こうに、彼は一体なにを見ていたんだろうか。


 深い海に沈むように私の瞼は重くなっていき。目を閉じる瞬間、気泡が瞬いたように思えた。










 ゆっくりと目を開けて、手のひらのペンダントに目を向ける。白い手袋の上に載ったペンダント。


「新しいペンダントだよな」



 私が顔を上げると、プロデューサーさんが覗き込んでいた。

 CD発売記念イベントの、楽屋だった。


「裕美ちゃんに作って貰ったんです」


 私が促すように手のひらを上げると、プロデューサーさんがペンダントを手に取った。

 まるで美術館に展示されていような貴重品を持つように、丁寧に手のひらに載せて眺めていた。


「綺麗なペンダントだ」そう言ってから、また私の手の上に戻した。


「はい、本当に」

 
 私はペンダントを首につけようとしてから、ふと気づいた。


「これ、着けてもいいですか?」

「もちろんだよ」

「ありがとうございます」


 私は改めて首の後ろで止めようとしたが、うまくつけられない。


「俺がつけようか?」

「じゃあ、お願いしていいですか」


 私は再びプロデューサーさんにペンダントを預けると、彼は私の後ろに回って、鎖を止めてくれる。


「ありがとうございます」

「……緊張してるのか?」

「……少し」


 否定しようかと思ったが、どうせプロデューサーさんにはお見通しだろう。










「うまく行くかなって……歌えるかなって。それに」


 なにか、不幸なことが起きないか。

 それで舞台が台無しになったら。もう考えないようにしようと思っていたのに、土壇場でそんなことが頭をよぎってしまった。


「安心しろ」

 
 プロデューサーさんは口を開いた。

 
「ブレーカーの傍に立っててやるから」


 どういうことなんだろうか、意味を掴めかねていた私に、プロデューサーさんは続けた。


「だからブレーカーが落ちても、すぐ対応できるぞ」

 
 意味が分かって、私は頬が緩んだ。


「ブレーカーの傍より、私の傍に居てほしいです」

「……ああ。ブレーカーの位置はちゃんと覚えておくから、すぐに走っていくよ」

「お願いしますね、プロデューサーさん」



 プロデューサーさんは腕時計で時間を確認した。

 私も壁にかかっている時計を見る。間もなく開演だ。


「おし、じゃあ……行くか」

「はい。行きましょう。プロデューサーさん」


 頷き合ってから、私たちは控室を後にして、舞台袖に移動する。

 客席から、ざわつきがこちらに伝わってくる。ひりひりする緊張感で、私はこわばった。

 助けを求めるようにペンダントを握りしめ、静かに息をつく。

 スタッフさんが、もう間もなくと声を掛けてきた。



「プロデューサーさん、行ってきます」

「ああ、行って来い」


 そして私は、舞台の上へと飛び出した。










――



 楽屋に戻ってきたとき、私の足元はおぼつかなかった。ドキドキが止まらず、震えも止まらなかった。


「ほたる」


 声に私は肩を跳ねさせた。振り返ると、プロデューサーさんが立っていた。


「お疲れ……最高だった」


 その言葉に、私の緊張の糸がぷつりと切れた。

「あ、ありがとうございます。プロデューサーさん……!!」


 それからこらえきれなくなって、私はプロデューサーさんに抱き着いた。



「良かった……本当に良かったです」



 大成功、だったと思う。途中でなんどかミスをしそうになったけど、それも何とか乗り切れて。

 歌も、ちゃんと歌うことが出来た。




「最高だったよ……ああ、本当にな!」


 プロデューサーさんが思いっきり髪を撫でまわしてくる。

 プロデューサーさんも嬉しかったのだ。

 彼がここまで感情を現らにするのは初めてで、だから私も嬉しくて、益々笑顔がこぼれてしまった。



「さすがほたるだ。俺のアイドルは伊達じゃないな」

「私のプロデューサーさんも……伊達じゃないですから」



 彼は目を丸くすると。微笑んだ。


「言ってくれるじゃないか」










 それから、気を緩めすぎたと思ったのか、プロデューサーさんは体を離した。


「そうだ。まだ終わりじゃない。お客さんたちをお出迎えしなきゃな」


 その通りだ。最後に出口でお客さんの一人一人にお礼の握手をすることになっていた。



「しまった、髪」


 あっとプロデューサーさんが我に返った。

 私も鏡を見ると、プロデューサーさんが撫でたせいで髪が乱れてしまっていた。


「えっと、櫛は」

「任せろ。俺がやるよ」

「えっ?」



 プロデューサーさんは私を鏡の前に座らせると櫛を手に取り、ゆっくりと梳きはじめる。


 それはとても優しくて。




「お上手ですね、プロデューサーさん」


「上手だなんて。慣れてるからさ……」


 自分の口にした質問の意味に気付いて、私はあっとなった。





 どうして上手なのか。どうして慣れているのか。




 きっと誰かに、何度もやってあげていたから。


 何度も何度も、毎日寝る前や起きた時。鏡に向かってやってあげていたから。



 気づいた時には、遅かった。



 プロデューサーさんがすく手が、ゆっくりになっていき。





 そしてプロデューサーさんの手が、止まった。
 その片手は震え出し、鏡に映ったプロデューサーさんは、顔を俯け、ただ震えていた。こらえるように強く、強く。

 
 私は、櫛を持ったプロデューサーさんの手を手繰り寄せると、肩の上に乗せ、自分の手を重ねた。

 私の手が触れても、プロデューサーさんの手のこわばりはほどけることはなく、むしろ益々強く握りしめられていく。

 全てを拒絶するかのように。










「私……行ってきますね」




 プロデューサーさんの手をゆっくりと退かすと、私は出来るだけプロデューサーさんの方を見ないで扉の方へ向かった。



 楽屋を出る直前、私は一度振り返った。プロデューサーさんは、地面に座り込み、小さなすすり泣きが聞こえてきた。

 私は部屋を出て、お客さんたちの前に立つ前に、息をついた。

 そして笑顔を作って、お客さんの前に出た。

 会場を出るお客さんたちの一人一人と笑顔で握手を交わしながら。





 心の隅では、床に座り込んだプロデューサーさんが、すすり泣きを続けていた。








 それから、プロデューサーさんは一見、前と変わらず仕事を続けていた。


 ただし、机に小さな変化が起きていた。


 ある日プロデューサーさんの元へ行くと、机の上になにか乗っているのに気付いた。

 写真立てが二つ。私の方から、どんな写真家は見えなかったけど。



「妻と娘だよ」


 プロデューサーさんは言うと、写真を私に見えるようにひっくり返した。

 写真立ては二つあり、片方が二十代ほどの女性の写真。

 それはいつかネットで見た女の人だった。ネットの写真より柔らかくて、幸せそうな笑顔を浮かべていた。


 Tシャツには、有名なアニメがプリントしてあった。

 人魚姫を題材にしたアニメだった。



 もう一つの写真は、小さな女の子。

 まだ小学生にも満たないであろう、小さな女の子。私は思わずほころんでしまった。
 彼女が着ていたのは、私も小さい頃に観ていたテレビ番組、その番組でアイドルが着ていた衣装だった。

 体を大きく伸ばし、今にも踊りだしそうな写真だった。



「私もこの番組、観てました」

「そうか……娘のお気に入りだったんだ」



 彼は写真を持ちあげると、遠慮がちに微笑んだ。



 優しく慈愛に満ちた、暖かな笑みだった。










 あるレッスン終わりのことだった。


 千鶴ちゃんと同じレッスンで、二人で一緒に更衣室を出た。

 千鶴ちゃんは、勉強のためということで、アクセサリーを見に行きたがっていたから、今から行こうかと話し合っていた。


 エレベーターホールに置いてある自販機の傍で、プロデューサーさんが立っていた。


「ほたる、少しいいか」


 千鶴ちゃんとのお出かけはまた今度。裕美ちゃんもいる時になった。


 私は部屋に通された。最初、プロデューサーさんと出会った部屋だった。

 壁には相変わらず喫煙禁止のポスターが貼られたまま。

 椅子に座ったプロデューサーは口を開いた。




「ほたる。俺はお前のプロデュースを降りることになった」









 言葉にされた瞬間、頭が真っ白になった。でも同時に、どこかで理解していた。



(ああ、この時が来たんだ……)




「……他の子のプロデュースをするんですか」

「いいや。俺は会社を辞める」

「やめた後は」

「引き継ぎはちゃんとやってるさ」


 上がった名前は、関ちゃんプロデューサーだった。


「あいつと相談してプロデュース方法も決めてある」


 そう言って、企画書の入ったファイルを私の方へ差し出してくる。

 私はそれを受け取ったが、ろくに目もやらなかった。



「……プロデューサーさんはどうするんですか」

「親戚がペンションをやってて、しばらくはそこでお世話になる。その後は……まあどこかで仕事も見つかるだろう」

「そうですか……」

「なにか言いたいことはあるか」



 プロデューサーさんは、なにかを言ってほしいかのようだった。

 そしてそれは、感謝の気持ちや引き留めの言葉でないように、私には思えた。



 だから首を振った。ただ、ありのままを受け止めて。


「そうか」プロデューサーさんは、小さく頷いた。


 私は立ち上がって、頭を下げた。







「プロデューサーさん、今までお世話になりました」











 部屋を出てから少しして、手に持っていた企画書を思い出した。



 私は企画書の表紙に目を落とす。


 新しいアイドルユニットの企画書。



 メンバーは、私に裕美ちゃんに千鶴ちゃん。







 ユニット名は『GIRLS BE』だった。











 そして、プロデューサーさんは事務所を去っていった。


 私は関ちゃんプロデューサーの元に行き、私たち三人はGIRLS BEとして活動をするようになった。


 
 ユニットの評判が良かった。

 関ちゃんプロデューサーも優しいし、裕美ちゃんと千鶴ちゃんと、前以上に一緒に居られるのも嬉しかった。

 それでも、ふとエントランスを歩いているときや、写真スタジオで撮影をしたとき、事務所前のコンビニを通り過ぎる時。

 彼のことを、思い出すこともあった。

 プロデューサーさんの部屋は、今は利用されておらず鍵が掛けられている。きっと、中は殆ど変っていないのだろう。

 もしかしたら、あの写真立ても、私が壊したノートパソコンも、あの部屋の中に残っているんじゃないか。

 そんな想像が、私の中に浮かぶことがあった。

 もちろん、そんなことはなくて。

 私と言う存在以外、この事務所にプロデューサーさんの居た形跡はもう残っていなかった。



 ただ一つを除いて。








「ごめんなさいね、手伝ってもらって」


 たくさんの書類を抱えたちひろさんに、私は首を振ろうとした。でも、同じように胸に抱えた書類が崩れそうになって、諦めた。


「いえ、そんなことないです」


 先ほどまで、ちひろさんは一人でこれを抱えていたのだ。でも私とぶつかって、書類が廊下に散乱してしまった。そのお詫びとして

、私もちひろさんのお手伝いをすることにした。そもそも、こんな量を一人で持っていこうとしたのは、無茶だと思う。

 いけると思ったんですけど。残念そうに呟いたちひろさんに、私は微笑んだ。

 長い廊下を進んでいって、ふと第三応接室の前を通り過ぎた。

 扉は小さく開いていて、その隙間から中を除くことが出来て。



(あっ)



 と、私は思った。

 壁に貼られた手書きの注意書き。




『喫煙禁止』




「ほたるちゃん?」


 足を止めていた私の元に、ちひろさんが戻ってくる。


「あのポスター、まだ貼ってあるんですね」

「あら、本当ね」


 ちひろさんは室内に入ると、書類を机に置いてポスターの前に移動した。


「もういらないですよね、これも」


 そう言って壁のポスターを、テープが残らないように丁寧に剥がした。







「あんまり意味が無かったですよね。社内で吸わない分別は残ってたみたいですし」

「そもそも、プロデューサーさん、煙草は吸ってませんでしたよね……」

「お酒は飲んでいましたけど」付け加えた私に、ちひろさんは首を振った。

「いいえ、彼は結構ヘビースモーカーなんですよ。ほたるちゃんの前では吸わなかったかもしれないですけど」

「いえ、辞めたって言ってました」

「本当に?」


 意外そうにちひろさんは呟いた。


「はい。少し前に」



 仕事中に気になって聞いたことがあった。すると、その答えが返ってきた。


「なんだ……そうだったんだ」


 ちひろさんは知らなかったようで、手の中のポスターをジッと見下ろしていた。


「ちひろさん。いくつか聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「なにかしら」

「どうしてプロデューサーさんは、このお仕事に戻ってきたんですか」



 関ちゃんプロデューサーは、説得されたと言っていた。

 でも、単にそれだけとは思えなかった。


 プロデューサーさんにとって、この仕事に戻ってくるのは楽な決断ではなかったはずだろうに。

 ちひろさんは言うか悩んでいるようだったが。






「……約束が、あったんです」
 



 ゆっくりと口を開いた。









「彼の奥さんとの。もう一度、プロデュースしている姿が見たいって。そして貴方が育てたアイドルが、輝いてる姿を見せてほしいって。この約束をしたとき……もう助からないって、本人も分かってたと思います」

「じゃあ、なんでそんな約束を……?」

「彼に前を向いていて欲しかったんです。彼女にとって、彼が一番輝いていた瞬間が、プロデューサーをやっているときで……」


「でも……」と、ちひろさんは顔を俯けた。


「結局、彼は去ってしまって……ごめんなさい。ほたるちゃんにも迷惑をかけることになってしまって」

「迷惑なんて、そんなことなかったです。私は……あの人にプロデュースしてもらって、本当に良かったと思ってます」

「……優しいんですね、ほたるちゃんは」

「違います。優しかったのは、あの人です」


 ただ、それを上手く表現できなくなっていただけなのだ。

 ボロボロで、それでも私の傍に、出来るだけ居ようとしてくれた。


 そうしてくれたのは、彼がとても優しかったから。



「……ありがとうね、ほたるちゃん。貴方が彼のアイドルで居てくれて……本当に、本当にありがとう」


 ちひろさんは私に背を向けたまま、呟いた。それから口元を少し抑えて、大きく、肩で息をしてから、振り返った。



「さあ、早く運んじゃいましょう。お礼にジュース、奢ってあげますから」


 微笑んだちひろさんは、ネットで見つけたかつてのアイドルに、少しだけ似ているようだった。












 ユニットは評判を呼び、私たち三人は社内フェスに呼ばれることになった。

 以前のような新人のフェスではない、ドームを借りた大きなフェスに。


「なんだか、あっという間な気がするな」


 ドームの中、私たちはスタッフ専用の通路から、ひっそりとお客さんを伺っていた。


「あんな場所に立てるって思うと……緊張しちゃうね……」

「でも、頑張ってきたんだもん。ここでもうひと頑張りだよ」


 そんなとき、私はあるお客さんに目が言った。

 小さな子供を連れた、三人家族のお客さんだった。

 女の子は可愛いウサギ耳をつけて、ぴょんぴょんと跳ねている。ウサミンこと、安部ちゃんの衣装だ。

 きっとファンなんだろう。

 やがて、彼女はその場でポーズを決めてから、踊りだした。新しいウサミンの歌の踊りだ。

 拙くて、でも一生懸命で、お父さんとお母さんは嬉しそうにその様子を見ていた。

 その踊る姿が、写真の中で笑っていた幼い少女と重なる。




(あ……そうだったんだ……)






 私は、急にこらえきれなくなった。その場でしゃがみこんで、両手を手で覆って。


「ほたるちゃん?!」


 驚いた裕美ちゃんが私の傍にしゃがみこんで、背中をさすってくれる。


「どうしたの? 気分悪くなったの?」

「違うの……違うの、裕美ちゃん……」


 プロデューサーさんのいろんな全てが、すとんと腑に落ちて。

 廊下の傍に私は座り込んだ。それでも涙は暫く止まることがなくて。


「ほたるん、大丈夫か」


 千鶴ちゃんが呼んだのだろうか、いつの間にか関ちゃんプロデューサーが私の傍に屈みこんでいた。


「どうかしたのか」

「違うんです……ただ……前のプロデューサーさんを思い出して……」


 関ちゃんプロデューサーが、私を優しく抱きしめる。


「辛かったよな、ほたるん。あいつのわがままに振り回されて」


 私は胸の中でゆっくりと首を振った。


「違うんです……そうじゃなくて……ただ、悲しくて……」


「どんな理由があったって、アイドルを悲しませるならプロデューサー失格だよ」





「そんな言い方……しないであげてください」


 私は感謝の気持ちを込めながら、ゆっくりと関ちゃんプロデューサーの体を引き離す。






「だって……どうしようもない時ってありますから……受け止めきれなくなったなら……逃げるのは悪いことじゃないです……」








「ほたるん……」

「大丈夫です。私は……大丈夫ですから。ただ少しだけ、一人にしてほしいです」

「ああ……分かったよ」


 関ちゃんプロデューサーは裕美ちゃんと千鶴ちゃんを連れて行った。

 心配そうな二人に、大丈夫と答えるように、笑みを浮かべて見せた。

 ただ落ち着く時間が欲しかった。

 プロデューサーさんのことで。



 彼が去ったのは仕方がないと思う。それほどまでに、彼の傷は深かったのだから。

 それでも、私は。



(恨んでいます、プロデューサーさん。私は貴方を)



 恨む権利はあると思う。


 傍に居てほしかったから。


 この晴れの舞台で傍に。輝く私を、間近で見ていてほしかった。





 私はまた少し泣いてから、涙を拭い去って、立ちあがった。











 転んだら、立ち上がればいい。



 何度でも何度でも、立ち上がって見せればいい。


 そういう言葉は、良く耳にする。

 でも、そう簡単な話じゃない。

 立ち上がるのは大変だし、何度も何度も、転ぶたびに傷ついていく。

 そしてボロボロになってしまって、それでも立ち上がればいいとは、私は言えなかった。


 私も、多分ギリギリだったから。
 本当にギリギリで、みんなのお蔭でここまで来ることが出来たにすぎないと思う。

 プロデューサーさんだけではない。

 きっとお客さんたちの中にも、そういう人はいるはずだ。笑顔を浮かべながら、傷ついて傷ついて。

 辛い思いをしている人もいるはずだ。





 彼らを救うことは、きっと私にはできない。









 暖かいぬくもりが、私の手を包む。

 裕美ちゃんだ。

 裕美ちゃんは、反対の手で千鶴ちゃんの手も握っていた。

 暖かい、優しい手。




 救うことはできないと思う。

 でも、寄り添うことはできると思う。出来ると信じたかった。

 寝て起きたらすぐ消えてしまうような、小さな幸せの灯。

 一瞬だけでも、それでお客さんの心を灯してあげたくて。



「いこう、二人とも」


 裕美ちゃんの言葉に、私たちは頷いた。そして歩き出す。





 眩い輝きの待つ、あの舞台へ。





 その光が、僅かでも誰かの希望への手助けになれることを、願って。










―――――
――
 







 窓から見えるのは、見渡す限りの空と山だった。美しい木々が太陽の光を浴びて、痛くなるほどの緑だった。


「ちょっとプロデューサー、速度出し過ぎじゃないですか?」


 助手席に座った千鶴ちゃんが不満を述べたが、関ちゃんプロデューサーはどこ吹く風だった。


「安心してよ、アタシこれでも、峠の関ちゃんって呼ばれてた走り屋なんだから」

「そういう問題じゃないです」

「そもそもそれ、絶対嘘だよね」呆れるように裕美ちゃんが息をついた。

「マジマジ。豆腐屋の姉ちゃんと、一騎打ち、見せてやりたかったなー」

「もう、プロデューサーったら」


 そんなやり取りに、私は頬が緩んだ。

 私たちのユニットは、今度単独ライブが決定していた。

 フェスの後も、私達はますます忙しくなっていって。

 さらにもう一つ、大きな変化もあった。



「でも、事故は気を付けないといけませんよ、プロデューサー」


 苦笑しながら言ったのは私の隣に座っていた岡崎泰葉ちゃんだった。


 私達GIRLS BEは、泰葉ちゃんを加えた四人で、『GIRLS BE NEXT STEP』としてユニットを新たにしていた。
 今度のライブは、私達のデビューライブだった。




 でも、私達がむかっているのは、会場ではなかった。


 会場に向かう前に、一つ寄り道をしようとしていた。







 舗装された道を離れ坂を上がっていくと、その建物は見えてきた。森の中に佇む、大きな建物。



「ここであってるよね?」


 車を降りながら、訝しげに言った関ちゃんプロデューサー。

 他のみんなも車から降りてきたとき、ペンションの扉が開かれ、中から人影が現れた。


 私はパッと明るくなる。




 プロデューサーさんだった。








 ここはプロデューサーさんの叔父がやっているペンションだった。

 彼はなにか作業の途中だったようだ。軍手を外しながら、歩いてくる。

 最後に事務所であった時より肌も黒くなって、髪が短くなっていた。


「うっす、元気してたか?」


 軽い調子で関ちゃんプロデューサーが言うと、彼は小さく頷いた。


「まあまあだ」


 ペンションの奥から、白髪の男性が姿を現した。

 顔には皺が刻まれていたが、体ががっちりしており、背筋もまっすぐ。どうやら彼が、オーナーのおじさんのようだ。


「遠いところからどうも。さあどうぞ中へ」

「先になかに入ってるから」


 関ちゃんプロデューサーが声を掛けてから、残りのみんなを連れてペンションへ向かう。

 気を使ってくれたのだろう。私たちは顔を見合わせた。




「久しぶりだな、ほたる」



「お久しぶりです。プロデューサーさん」







「もう俺はプロデューサーじゃないぞ」

「私にとっては、貴方はずっと、プロデューサーさんですから。肌、焼けましたね」

「ああ。活躍、ちゃんと見てるぞ。凄いじゃないか」

「ありがとうございます。プロデューサーさんは、今度のライブには来れるんですか?」

「どうだろうな……どうだろう」

「そうですか……」

「今日は泊まってくんだろ。晩御飯の後だけど――」

「あ、いえ。ライブもあるんで、夕方頃には出発する予定なんです」

「なんだ、そうなのか……」

「どうかしました?」

「いや……ほたるの生息地がすぐ傍にあってな。ちょうど見ごろなんだ。だからどうかって思ったんだから」

「……私だから、ほたるですか?」

「いや、そんなわけじゃないが……綺麗なんだ、だからどうかなって思っただけだよ」




 残念だけど、それも仕方がない。


 昼食をとってから辺りを散歩して、色々と話し合った。

 プロデューサーさんは、この夏の終わりから、近くの街で仕事を見つけたと言う。


 少し歩くと、綺麗な水の流れる川辺にたどり着いた。



「ここなのかな……」

「なにが?」


 首を傾げた裕美ちゃんに、ほたるのことを教えてあげた。


「へえ……見てみたいね」

「でも仕方ないよ、御仕事だもん」


 そして夕方になって、車に乗ろうとして。


「あれ?」


 関ちゃんプロデューサーは顔をしかめた。いくらキーを捻っても、車は動き出さない。


「エンストか? 嘘だろ」


 電話で修理業者を呼ぼうとしていたけど、そこで裕美ちゃんが関ちゃんプロデューサーに近づいていった。

 なにかを話してから、私とプロデューサーさんの方を見て、肩をすくめてから電話をしまった。

 それから叔父さんと少し話して、大声で言った。






「今日はここに泊まりだー」


 関ちゃんプロデューサーは、いくらか余裕をもって予定を立てていたらしい。

 修理だけしてもらって、出発は明日の朝となった。









 夕食を食べ終えた私たちは、懐中電灯の明かりを頼りに、川岸まで歩いていく。



 やがて、遠くに点々と明かりが見えてきた。近づいていくと、光が強くなっていく。





 ほたるの光。



 その綺麗さに目を奪われて。それから、プロデューサーさんが私を見ているのに気付いた。






「綺麗ですね。プロデューサーさん」


「ああ……そうだな」





 そして彼は、にっこり笑った。


 つられて私も笑って。




 私達は笑いあった。




 優しいほたるのひかりに、見守られながら。





―――白菊ほたる「恨みます、プロデューサーさん」―――≪終≫――

 終わりです。

 不幸なほたるちゃんが自分より不幸な人と出会ったら? そんなテーマから書いてみました。
 ほたるちゃんは不幸ですけど、だからこそどんな人も受け止められる、優しくて強い子だと思います。
 でも同時に、ほたるちゃん自身も、周りに支えられているからこそ、輝けるんだと思います。
 この作品を読んで、少しでも彼女たちのことを好きになってくれたら幸いです。

乙でした
ちょっと切ないけど、みんながきちんと前に一歩ずつ前に進んでるいいお話でした
義妹さんも肩の荷が下りた感じでしょうかね


すごい面白かった

冗長

乙です。
良い点
・これだけの大作を書ききったところ
・ガルビの関係がデビューから段々と描写されて、ユニット結成までしっかりと書かれているところ
・ほたるとPのすれ違いから信頼を築いていくところ
イマイチな点
・タイトルが強く言い切り過ぎに感じたところ。作中ほたるはPの事情を理解はしているしそこまで悪く思ってはいなそうに感じました
(何か元ネタがあるタイトルだったらすみません)
・ラストでほたると再会したPが特に謝ったりしていないところ。個人的にもっとはっきりした和解が欲しかったです

全体的にとても良く書けていたと思います。それだけにラストがちょっと惜しく感じました。
本当に乙でした!

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