傘を忘れた金曜日には (999)


 四月下旬のことだった。

 木曜の放課後、時刻は昼下がり、東校舎三階の隅にある文芸部の部室の真ん中で、瀬尾 青葉はぽつりと呟いた。

「これは由々しき事態ですね」

 部室の中央に二つ並べた長机を挟んで、俺は頬杖をつきながら瀬尾の様子を眺めている。
 深刻ぶった声の調子に、やけに落ち着かない気持ちにさせられる。どうしてだろう。

 とはいえ、それはべつに彼女のせいでもないだろう。
 どうにか心の中だけでおさまりをつけようと苦心しつつ、俺は相槌を返した。

「進退窮まった、といったところではあるな」

 まさしく、と言いたげな悲しげな表情で、瀬尾は頷いた。

 思いのほか落ち込んだ様子の彼女の姿を、俺は意外な気持ちで見ている。

 もっと無関心な奴かと思ったが、部長に任命されたことで責任感でも覚えたのかもしれない。

 まあ、任命されたとは言うものの、この文芸部には現状、実質的には部長と副部長のふたりしかいない。
 だから消去法だったはずだが。

 そして、それがまさしく、いま俺たちに降りかかっている問題だ。



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 考えたことがないわけではなかった。

 去年の春、俺と瀬尾が入部したときには、七人の先輩がいて、ただし全員が三年生だった。
 彼ら彼女らは去年の秋の文化祭を最後に引退して、今年の春に卒業した。

 結果、部室に残されたのは俺と瀬尾のふたりだけになった。 

比較的まじめで熱心な瀬尾が部長に信任されたのは当然の成り行きだと言える。

 反対に、俺のようなやる気のない人間に副部長を任せざるを得なかったのは、先輩たちとしても顧問としてもさぞかし苦渋の決断だったことだろう。
 同情に値する。改善する気はないが。

 この高校の文芸部の歴史はだいたい二十年だか三十年だか前までにさかのぼるという。
 一度誰かに聞かされたはずだが、具体的には覚えていない。
 ひょっとしたら四十年だったかもしれない。まあどうでもいい。

 とにかくずいぶん長い間、この文芸部は文芸部としてこの学校の中にあった。
 メンバーが入れ替わり、部室が移り、顧問がかわり、それでも文芸部は文芸部のままだったのだ。
 
 あたかも、船の部品をひとつひとつ取り換えるうちに、最初と同じ部品がひとつもなくなってしまったあの神話の船みたいに。
 まあ、爪や髪の生え変わりと思えば不思議でもないが。

 そして目下の問題は、次の髪が生えてきそうにないことだ(悲しい話だ)。
 


「危機的状況」と瀬尾がうめく。こうされると、俺も対応に困る。

 ことの発端は単純だ。

 七人の先輩が卒業したあと残された文芸部の部員の人数。
 これは部活動の成立要件である「部員数五名以上」を下回っており、よってこの項に抵触する。
 瀬尾はそう言うのだ。

 なるほど、と俺は思った。

 とはいえ、四月から新入生も入学したのだ。

 勧誘に成功して新入部員を獲得できれば解決、という話でもある。

 仮入部期間は四月いっぱい。それまでに間に合えばいい。
 簡単ではないだろうが、不可能な条件ではない。

「なんだかんだでどうにかなると思うよ」と、先代の部長も俺たちに言っていた。

 ところが俺たちは失敗した。どうにもならなかった。



 理由はシンプルだ。

 勧誘がうまくいかなかったわけじゃない。そもそも勧誘しなかったのだ。

 四月のはじめ、新入生歓迎会が終わったばかりの頃は、俺たちだって何も考えていないわけじゃなかった。

「そろそろ何か考えないとね、ビラ配りとか、ポスター貼ったりとか」

 そんなふうに責任を果たそうとした瀬尾に対して、めんどくさいなあというのが正直な俺の感想だった。
 
 それでも、そうだな、なにか考えないとな、と返事をした。嘘をついたつもりもなかった。

 それなのに、気付いたら四月末になっていた。

「どうしてこうなったんだろう」

 瀬尾は長机の上にほっぺたをくっつけてだるそうに溜め息をついた。
 なにもしなかったからだ、とは言わないでおくことにする。

 彼女はなおも不服げに、「こんなはずじゃなかったんだよなあ」とか言いながら指先で机の上面を叩いてリズムを刻んだ。

「ねえ、どうしたらよかったんだと思う?」

 目も合わせないまま問いかけてくる瀬尾に、心の中だけで、勧誘すればよかったんだよ、と答えた。

「どうすればピアノが上手になると思う?」と訊かれたら「練習する」としか答えようがないのと一緒だ。

 でも言わない。めんどくさいから。



「あんまり心配するなよ。そんなに考え込まなくても、最後には全部よくなるよ」

「どうしてそう言い切れるの?」

「いいか瀬尾」、と俺は偉ぶった口調を作った。

「この部は何十年も前から途絶えることなく続いてるんだ。俺たちが何もしなくても今日まで続いてきた」

「うん」

「ということは、俺たちが何もしなくてもこれからも続いていくって考えるほうが自然だろう?」

「……えっと、どっかで理屈がおかしくなってると思うんだけど、どこからかわかんないな。わたしつかれてるのかな」

「そうだよ。ゆっくり休め」

「なーんか、口車に乗せられてる感じがするなあ」

 そう言って、彼女は机から体を起こすとパイプ椅子の背もたれに体重を預ける。
 それからじとっとした目でこちらを見た。


 それにしても、彼女の仕草、表情、相貌、姿かたちを見るたびに不思議な気持ちになる。

「こんなことってあるんだろうか?」というような。
 起きるはずのない奇跡を目の当たりにしているような。
 そんな奇妙な心境だ。

 出会って一年以上が経つ今になっても、ときどきふとした瞬間にどきりとさせられる。
 そのうち慣れるかと思ったが、そうもいかないらしい。

「あーあ。このままじゃ廃部かなあ。先輩たち、悲しむかなあ」

 いまだに拗ねたような口ぶりで話し続ける瀬尾の様子を眺めながら、俺も少しだけ考えた。

 正直なところ、文芸部に対して義理や執着はあまり感じていない。
 だから、今回のことも彼女が言うほどの問題だとは思っていないのだが、目の前でこう落ち込まれると居心地が悪い。


「……あのさ、瀬尾」

「ん?」

「そんなに気にするくらいなら、勧誘すればいいんじゃないの、これから」

「なんで他人事みたいに言うのさ、副部長は」

「いやまあ、言葉のあやだよ」

 勧誘なんかできることならしたくないからだ、とは言わないでおくが、たぶん瀬尾は察していることだろう。

 俺は椅子から立ち上がって窓際に近付いた。

 中庭の大きなケヤキの下で、何人かの女子生徒が休んでいるのが見える。

 雰囲気からして、新入生だろう。
 ぼんやりと眺めているうちに、そのうちのひとりに見覚えがあることに気付く。

 窓を開けて身を乗り出すと、春先のゆるい風が心地いい。
 空は高く薄い水色、曖昧な輪郭の雲が描かれたように動かない。穏やかな日だ。

 窓枠に肘をかけて、新入生の一団を眺めていると、そのうちのひとりが、不意に顔をあげてこちらを見た。

 思わず驚いて身を隠しそうになったが、そうする理由がないことに気付いてやめた。
 やましいことなんてなんにもしていない。


「副部長はさ、廃部になってもいいの?」

「そうは言ってないよ」

 まだ、中庭からの視線はこっちを見ている。
 目が合ったまま互いにそらさない状況こうも続くと、さすがに気まずい。

 そろそろ離れるか、と思ったところで、彼女はこちらを見上げたまま軽く手を振ってきた。
 どきりとして、慌てて窓辺から離れ、瀬尾との会話に戻った。なぜかわからないが負けた気がする。

「じゃあ、勧誘しなきゃいけないでしょ?」

「それはどうだろうな、別の問題だと思うが」

「どうだろうなじゃないよ。どうすればいいのさ」

「とりあえずポスターでも描けばいいんじゃないか」

「やっぱり他人事みたいな言い方するよね、副部長」

「まあ、偉い立場の奴が積極的じゃないとな、こういうのは」

「そりゃそうだけどさ」

 寂しげな瀬尾の表情を見ると、溜息をつきたくなる。

 本当に俺はこいつの容姿に弱い。


 どうしたものかな、と思ったところで、当の彼女がやけになったように声をあげた。

「じゃあいいよ。わたしひとりでポスターつくるから」

「いまさら効果はないと思うけどな」

「おかしいな。わたしの記憶が正しければ、ポスターって言い出したのは副部長だったと思うんだけど」

 そういえばそうだった。うっかり本音が出てしまった。
 いかにも文句があるというふうに睨まれると、さすがにいたたまれない。

「ところで、ポスター作り、手伝ってくれるんだよね、副部長?」

「瀬尾、俺トイレ行ってくるわ」

 逃げるなこのー! という間延びした声を背後から飛ばされながら、俺は部室を離脱した。 
 帰りにジュースでも買ってきてやることにしよう。



 廊下に出て、早歩きで部室を離れながら、さて、と考え込むはめになる。

 そりゃあ一切勧誘なんてしていないから、新入部員なんて来る方がおかしい。
 ましてや文芸部なんて、正直地味だし、あんまり流行りそうにもない。
 勧誘したって入部する奴がいたか怪しいものだ。

 中には興味をもってくれるような人間もいるかもしれないが、残念ながらこの時期に入る部を決めていない新入生はそんなに多くないだろう。
 その中の何人が文芸部に興味を持ってくれるかと考えると、はっきりいって絶望的だ。

 そういうわけで、そっちの線はあっさり諦めるべきだろう。
 結果の見えているポスター作りを手伝う気にもなれない。

 しばらく物思いにふけりつつ散歩でもするとしよう。考えを決め、中央階段を下ろうとしたときに、

「おう」

 と今まさに降りかけた階段の下から声をかけられた。
 ちょうど、会いにいこうか迷っていた相手だった。

 手をあげて返事を返すと、彼は少し歩くのを速めた。

 昇ってくるのを待って合流する。

 同じ高さに立つと身長の差が際立って嫌な感じだ。
 決して俺が低いというわけではない(と信じたい)が、こいつがデカすぎる。


 大野辰巳というその男子生徒は、去年の春に一緒のクラスになってから、なんだかんだで付き合いが続いている数少ない相手だ。

 恵まれた体躯と精悍な顔つきで見栄えはいいし、運動も勉強もできて、そのうえ人望もある。
 しかもちっとも嫌味じゃない。絵に描いたようないい奴だ。

 まあ、正直言ってそんなに羨ましくもないが。いい奴は損だ。

「また頼みがあるんだが、いいか?」

 なかなかにタイミングのいい話だ。願ったりかなったりとも言える。

「ちょうどよかった。なんでも引き受けよう。カモがネギを背負ってくるとはこのことだ」

「ありがとう。……今なにか言ったか?」

「口が滑った。気のせいだ」

「割とはっきり聞こえたんだが……なにかあったか?」

「それについてはあとで話そう。ひとまず屋上にでも行くか」

「屋上? 閉鎖されてるだろ。ていうか、部室じゃダメなのか?」

「部室はダメだ」

 理由は説明しなかったが、大野はとりたてて不満に思わなかったらしい。


 俺と大野はそのまま階段を昇って、東校舎の屋上へと向かった。

 鍵は俺の制服の内ポケットにいつも入れてある。
 あっさり鍵を開けてみせると、大野は詐欺にあったような顔をした。

「なんでそんなの持ってるんだ?」

「先代の文芸部長が持ってたんだ。合鍵って奴だな。三月にもらったんだ」

 そのまま扉を抜けて屋上に出る。

 春先の埃っぽい風と白みがかった太陽の光がやけに眠気を誘う。

 グラウンドから聞こえる運動部の掛け声に、新入生の不慣れなものが混じっている。
 あれを少し分けてもらえたら、瀬尾もあんなに頭を抱えていないのだろうが。

「先代って、ましろさんか。どうしてあの人がそんなもの持ってるんだ」

「知らん。おおかた、あの人もそのまた前の文芸部員にもらったんだろ。伝統って奴だ」

「変な伝統もあるもんだな。おまえに渡すあたりもましろさんらしい」

「まったくだ。ところで依頼の話をしようじゃないか」

 ビジネスライクな私立探偵よろしく俺が話をうながすと、「ああそうだった」というように大野は頷いた。


「いつもどおりといえばいつもどおりの話なんだが、実はまた頼みたい」

 困り顔の大野をちらりと見てから、俺はフェンスのそばへと近付いていく。

 頼みごとというのは、いつものことだ。
 大野辰巳にはひとつ弱点がある。それを埋め合わせるために、こいつはたびたび俺に会いにくる。
 内容については、言い方だけで伝わった。

 さて、問題はそれをどうするかだ。
 いつもなら何のこだわりもなく引き受けるのだが、今回は状況が少し違う。

「引き受けるのはかまわないんだが、実は問題があってな」

「問題?」

 大野はちゃんと食いついてくれた。とりあえずほっとしつつ、それでも俺は慎重に話を進めることにした。

「文芸部なんだが、新入部員が入らなくてな」

「はあ」

「このままだと廃部になるかもしれない、と、瀬尾が言っていた」

「廃部? そんなに急に?」

「なんでも、部員が五人を下回るとまずいそうなんだ」

「そんな決まりがあったのか」

「瀬尾が言うにはな」

「そうか」

 気の毒そうな顔で俺の方を見たあと、大野は少し考え込むような様子を見せた。


「そのせいでちょっとバタついててな。ポスター作ったりビラ配ったりしないと新入部員なんて期待できないだろ?」

「まあ、そうだな。忙しいなら、無理にとは言えないが」

 あっさりと引き下がってくれるあたり、やっぱりこいつは良い奴だ。

「でも、少し意外だな。おまえは廃部阻止のために何かするようなタイプじゃないと思ってたが」

「それはそうなんだけど、瀬尾に任せるのも悪いしな」

「まあ、そうか」

「……ところで、大野。おまえ、委員会には入ってたけど、部活には入ってなかったんだっけか?」

「……なんだよ。文芸部には入らないぞ」

 見え透いていたらしい。さすがに、そんなにうまく誘導はできないか。
 ここで大野が入部すると言ってくれたらおもしろかったのだが。
 
 とはいえ、そう言いながらも、大野は少し思い悩むような様子だった。

「だよな。余計な話だった」

 まあ、入らないというなら仕方ないだろう。
 俺は瀬尾と違ってそこまで熱心な部員じゃない。

 でも、可能性はゼロじゃなさそうだ。



「それで、今回は何を書けばいいんだ?」

 話を戻すと、大野は我に返ったようにこちらを見た。

「あ、ああ。図書新聞の、本の紹介文なんだ」

「題材は?」

「なんだったかな。春にまつわるおすすめの本だったか」

「分かった。任せとけ」

「悪いな」

「いまさら気にするなよ。こういうのはお互い様だ」

 お互い様か、と大野はひとりで繰り返した。

 大野は文章を書けない。
 板書をうつしたりとか、そういうことはできるけれど、一定量以上の文章を自分の頭で考えるということに苦手意識があるらしい。
 忌避感、と言ってもいいかもしれない。

 それにもかかわらず、一年のときはじゃんけんに負けて図書委員になんてなってしまったものだから困り果てたそうだ。


 委員会顧問の方針なのか、図書委員では割と頻繁に新聞を発行している。

 本の紹介文や、読み比べの感想を書いたりして記事にするものだ。

 大野があまりに途方に暮れていたので、俺が代わりに書いてやろうと言い出したのが始まりだった。

 今にして思えばそれがよくなかった。

 俺の書いた感想文が顧問だか司書だかに気に入られたらしく(奇特な人もいるものだ)、引っ込みがつかなくなったのだ。

 今年に入ってからも図書委員を続けているのは、まあ、大野のくじ運の悪さだろう。

 以来俺は、大野辰巳のゴーストライターをしている。
 今回は春にまつわる話らしいので、『桜の森の満開の下』の感想でも書くことにしよう。

「とりあえず、わかった。すぐに仕上げる」

「悪いな。今週中に書いてくれたらいい」

「ああ。とりあえず、俺はそろそろ戻るよ」


「……いや、やっぱり、待て」

 呼び止められて振り返ると、大野はまた思い悩むような顔をしていた。いちいち深刻な反応をする奴だ。

「俺も行こう」

「そうしてもらえると助かるな。鍵を閉めなきゃいけないから」

「そうじゃない。部室に戻るんだろ?」

「ああ」

「俺も行く」

 まあ、来るというならべつにかまわないのだが、と、素直に頷いた。


 屋上を出て大野とふたりで部室に戻ると、瀬尾は画用紙にああでもないこうでもないと言いながらポスターの文句の下書きをしていた。

「ただいま」と声をかけると、「長いトイレだったね」と皮肉を言われたので、
「トイレでトロールと出くわしたんだ」と適当な返事をしておいた。
「それは大変だったでしょう。少し休んでHPを回復していきなさいな」と彼女はあまり動じない。

 バカらしいやりとりのあとに顔をあげて、瀬尾が大野の存在に気付く。ちょっとびっくりしたみたいだった。

「大野くん。どうしたの?」

「ああ、いや。新入部員、来ないんだって?」

「そうなの。神様もびっくりだよね」

 むしろ当然の結果だと思うが。瀬尾のふざけた返事に呆れたのか、はたまた何か考えているのか、大野はまた黙り込む。

 俺は自分の定位置に腰掛けて、筆記用具を広げた。『桜の森の満開の下』ってどんな話だったっけか。

「副部長、何するの?」

「内緒」

「わたしがひとりで勧誘がんばろうとしてるのに、副部長は他のことするんだ……」


「瀬尾さん、ごめん。俺が頼んだんだ」

「あ、大野くんのか。じゃあいいよ」

 あっさりとした口調の瀬尾に無性に悲しくなりつつ、口を噤んでペンを手に取った。

 大野と瀬尾はふたりで勝手に話し始めたので、聞き流しつつ作業に入ることにする。
 うろ覚えでどうにかなるだろうか。いや、それはさすがにまずいか。

「部員入らないと廃部なんだって?」

「そうなんだよー」

 なんて会話を適当に聞き流しながらペンを握る。

『桜の森の満開の下』、作者は坂口安吾。漠然とした雰囲気は思い出せる。

 ……流し読みの高校生が感想を書いていいような作品なのか、そもそも。
 まあ、どうせ俺じゃなくて大野の名前で評価されるものだし、どうでもいいといえばどうでもいい。

 なんかこう、安吾の女性観とか、知ったかぶりでそういうあれこれを混ぜて高尚っぽく見せてみよう。


 俺が書き出しに迷っている間も、ふたりの会話は続いていた。

「なあ、瀬尾さん。もしよかったらなんだけど、俺、入部してもいいかな」

 不意に耳に飛び込んできたそんな言葉に、俺は思わず吹き出した。

「どうしたの、副部長」

 大野の言葉に喜びの表情を浮かべかけた瀬尾がこっちを向いた。さすがによろしくない。

「いや、なんでもない。最高に笑える書き出しを思いついてしまったんだ」と適当にごまかすと、
「そうなんだ、がんばってね」とスルーされる。
 さすがに悔しかったので「爆笑必至だぞ」と付け加えておいた。

 瀬尾は疑わしそうにこちらを横目で見てから大野に視線を戻した。

「ホントにいいの? 大野くん。委員会あるんじゃないの?」

「委員会は当番制だから空いてる日もあるし。そりゃ、いつもは来られないかもしれないけど」

「ホントに?」


 近くで青春っぽいやりとりがおこなわれるのを不思議な気持ちで眺めつつ、俺は書き出しを考える。

 さっきの言い訳を本当にするために笑える書き出しを考えなければいけない。
 坂口安吾の感想文で笑える書き出しなんてあり得るのかと思わないでもないが、やってみなければ始まらない。

「じゃあ、ぜひお願いしたいです」

 俺が苦心している間に、どうやら部員数が増えたらしい。

 横目で見ると、うれしそうに照れたそぶりをみせる瀬尾の顔が見えた。

 大野も大野で気恥ずかしそうに俯いている。仲が良くてたいへんよろしい。

「それで、部員は五人必要なんだっけ?」

「そう。五人を下回るとまずいの」

「てことは、あと二人か」

 しかし、いいかげんふたりの誤解を解いておかないといけない。


「一人だ」

 俺が口を挟むと、ふたりはまったく同じ動作でこちらを見た。

「副部長、ついに算数できなくなったの?」

「ついにってなんだよ。どう計算したって一人だよ」

「あの、大丈夫? この場に何人いるか、わかる?」

 正直、こんなふうにからかわれるのも心地よくて仕方ない。

「部長のくせに部員数も把握してないのか。大野が入る前から文芸部員の数は三人だったよ」

「どういうこと?」

 正直、ひょっとしたら知っているかもしれないと思っていたのだが、やっぱり知らなかったらしい。

「幽霊部員がいるんだよ。ひとり」

「うそ」

「ホント。名簿に名前が載ってる。なんなら顧問に聞けばいい」

「なにそれ。知ってたなら教えてくれればよかったのに」

「だって、知ってると思ったし」

 半分本当で半分嘘だ。教えない方がおもしろいと思っていた。


「まあ、ともあれ」

 呆れた溜め息をついてから大野は言葉を続けた。

「あとひとり勧誘すればいいってことか」

「うん。そうすれば……」

「ああ、同好会落ちは回避できる」

「廃部はまぬがれ……え、同好会落ち?」

 ふたりが、また同じ動作でこっちを見る。

「廃部じゃないの?」

 目をまんまるくして訊ねてくる瀬尾に頷きを返す。


「生徒手帳にも書いてある。部員数が五人を下回った部は同好会に格下げ。
 五人未満になったからって即時廃部にはならない。ていうか、部員数がゼロになったって、休部扱いになるだけだ。
 休部状態が二年以上続いて、ようやく廃部」

「そ、そうなの? じゃあ、設立要件の五人っていうのは?」

「設立っていうのは、『新しく作る』ってことだよ、文芸部部長。創部のときの要件だ」

「でも、おまえさっき、俺には部員数が五人を下回ったら廃部って言ってただろ」

 不満そうに声をとがらせる大野に、俺はあらかじめ決めていた返事をする。

「俺が言ったのはこうだ。『このままだと廃部になるかもと瀬尾が言っていた』『部員数が五人を下回るとまずいことになる』。嘘はついてない」

 大野ががくりと肩を落とした。


「そうだったよ。おまえはそういう奴だったよ」

 こういう反応を期待していたので、してやったりという気持ちでいっぱいだ。
 が、想像に反して肝心の瀬尾はまだ納得がいかないような顔をしていた。なんだというんだろう。

「……そうだったんだ。だったら、そんなに必死になることもなかったのかな」

 そもそも必死になんてなってないだろう、というツッコミはしないでおいた。 

 困り顔の瀬尾を「まあまあ」と大野がいさめる。

「同好会に格下げになるよりは部のままでいた方がいいんだし、こうなったら四月中はやれることをやってみようぜ」

 入部しなくても廃部にはならないと知ったあとでも、じゃあやめると言わないのが大野の人のよさだろう。

 結局ふたりは勧誘ポスターをああでもないこうでもないと言いながら作り始めた。
 俺も作業に戻ろうとしたが、やっぱり気になって仕方なくなり、結局瀬尾に声をかけた。



「なあ、瀬尾。訊きたいんだけど、五人下回ったら廃部って、誰に言われたんだ?」

「……ましろ先輩だけど、それが?」

 ましろ先輩。あの人が、瀬尾に「部員が五人を下回ると廃部」だと教えた。

「そうか……」

 なんとか相槌だけを返してから、作業に戻るふりをすると、瀬尾は気にした様子もなくポスター作りを再開してくれた。

 ましろ先輩。文芸部の先代部長。

 あの人が瀬尾に廃部の可能性を伝えた。

 でも、それはおかしい。

 生徒手帳の校則ページを開いて、部員が減っても同好会になるだけだと俺に教えてくれたのはそのましろ先輩なんだから。

 とすると、彼女は、瀬尾と俺にそれぞれ別の情報を与えたことになる。
 しかも、瀬尾に伝えたことは、嘘だ。明らかに、何かの意図があってしたことだろう。

 まさかとは思うが、そういうことだろうか。



 廃部になる、と言われたからこそ、瀬尾は勧誘しなければと言い始めた。

 最初から同好会落ちとだけ聞かされていたら、まずそうはならなかっただろう。
 逆に俺は、廃部と聞かされたとしても、何の行動も起こさなかったはずだ。

 俺は、瀬尾が『同好会落ち』ではなく『廃部になる』と思い込んでいたからこそ、おもしろがって大野を勧誘するような真似事までして見せたのだ。
 瀬尾をからかうのが楽しいから。

 まさか、とは思うのだが、俺たちの性格を計算に入れて、わざとバラバラのことを言ったのだろうか。

 瀬尾ならこう動く、俺ならこう動くと想像して。
 もしそうだとしたら、エスパーもいいところだ。
 が、あの人の場合、ないとも言い切れないのがおそろしい。

 べつに、そうだったらどうだというわけではないのだが、卒業してなお俺を踊らせるのか、あの先輩は。
「勝手に踊ったんじゃないですか」と言われそうだけれども。

 やるせない敗北感に支配されつつ、頬杖をつく。

 でもまあ、先輩の思いどおりとも言い切れない。瀬尾が勧誘を始めたのはギリギリだったし、俺だって大野を全力で勧誘したというわけでもない。
 今度のところは、引き分けだと思っておこう。

 俺は溜め息をつき、ペンを意味もなく回してみた。それでもやっぱりもやもやする。


 その日のうちに、大野と瀬尾は簡単な勧誘ポスターを何枚か完成させた。

 画用紙に油性ペンで勧誘文句と部室の所在を書いただけの代物だが、ふたりはさっそく数か所の掲示板にそれを貼りにいった。
 味方がいると、案外瀬尾も行動的らしい。

 部室にひとり残された俺は、大野に頼まれた感想文を急いで完成させることにした。

 桜の森の満開の下。著作権が切れているから、携帯があればネットでタダで読むことができる。
 いい時代と言えばそうかもしれないし、悪い時代と言えばそうかもしれない。

 いちめんに咲き花びらを舞い散らせる桜の森は、人の気を変にさせる。

 そこには涯がなく、つめたい風がはりつめているばかりだ。頭上からはただひそひそと花が降り、それ以外には何の秘密もない。
 最後には、伸ばした手さえもかき消えて、あとはただ、桜の花が景色を覆い隠すように舞い散るだけだ。

 盗賊と女の間には、何か巨大な隔たりがあり、それが女を神秘にも俗物にも見せる。

 ふと、この話はひょっとしたら真実なのかもしれない、などと、そんなことを思った。

 どうしてだろう。そんな景色を、俺は見たことがあるような気がしたのだ。
 
 けれど、俺はいま桜の木の下にいるわけではなかったから、そんな妄想にとらわれて気が変になるようなことはなかったし、惑わされたのも一瞬だけだった。
 最後には、ちゃんとそれらしい感想を書くことができた。



 まあ、爆笑必至の書き出しとはいかなかったが仕方ない。

 所詮、図書新聞の紹介記事だ。そんなに長い文章にもならないし、限界はある。
 俺はコピーライターでもなんでもないのだ。

 机から顔をあげると、思わず深い息が漏れた。

 気合の入った文章ではないとはいえ、書くとなるとやはり肩が凝る。何か飲み物でもほしいものだ。
 両腕を組んで前に伸ばし、体を軽くほぐしてから、そのまま机に体重を預けて目を閉じる。

 そういえば、部室を出る前に、帰りに飲み物を買おうと思っていたのを忘れていたな、と考えたところで、扉が開く音がした。

「早かったな」

 目を閉じたままそう声をかけてから、いや、べつに早くはないかもしれないな、と思った。

 文章を書いていると、すぐ時間の感覚が狂ってしまう。

 大野と瀬尾が出ていってから、どのくらい時間が経ったか、よくわからない。

「そうでもないよ」と、案の定、声は否定する。

 けれど、その声は、俺が思っていた声ではなかった。


 顔をあげて部室の入り口に目をやると、ひとりの女子生徒が立っている。
 小柄で、綺麗な顔立ちをしている。どこが、というわけではないが、目を引くところがある。

 肩まで伸びたダークブラウンの髪が、からだを動かすたびに空気を含んでふわふわと揺れていた。

 さっき見た顔だ。窓の外を眺めていたとき、中庭にいた。
 そして、俺に向けて手を振ってきた。でもそれ以前に、俺はこの子を知っている。

「せんぱい、なんでさっき無視したの?」

 彼女は当たり前の顔で部室に入って来ると、閉めた扉に背中をあずけて、不満げに眉を寄せた。

「入学式が終わってからもうすぐ一カ月だよ。せっかく後輩が入学してきたっていうのに、せんぱいは『おめでとう』の一言もなしなの?」

 さして不服でもなさそうに、彼女は言う。きっと、俺をからかって楽しんでいるんだろう。

「メールしただろ」

「直接言われてないもん」

「はいはい。おめでとう」

 案の定、雑な反応を見せたって彼女は不満げな顔ひとつ見せない。
 ただ気まぐれに言ってみただけで、なんとも思っていないのだ。


 同じ高校に入学してきたという話は聞いていたが、実際に制服を着ているところを見るのは初めてだ。
 真中柚子との付き合いも、中学二年のときに出会ってからだから、もう三年が経つことになる。

「ここ、せんぱいが入ってる部の部室?」

「そうだよ。何度も言うけど、一応年上には敬語を使え」

「せんぱい以外には使ってるもん。せんぱい、特別扱いだよ。やったね」

 真中は笑いもせずにそう言った。適当に受け流されているのをありありと感じる。彼女はそのまま、壁に飾られた絵に視線をやった。

「へんなところ。文芸部だっけ?」

「知ってたのか」

「まあ、偶然。さっきポスター見たから」

 すごいタイミングだな、と思ったが、何も言わないことにした。

 真中がまた何かを言おうとしたタイミングで、廊下から足音と話し声が聞こえてくる。内容はわからないが、どうやらふたりが戻ってきたらしい。

 真中は入口の扉から離れて俺の近くへと寄ってきた。こういうときだけは近付いてくるのだから嫌になる。

「だれ?」

「部員だよ」

 そんなのわかるよ、と言われたけれど、それ以外に答えようがないだろう。
 この警戒心の高さも、やむを得ないと言えばやむを得ないのだろうが、改善の余地がある。協力する気はないので自助努力していっていただきたい。


 扉が開いて、ふたりは上機嫌な様子で帰ってきた。
 瀬尾は満足げに定位置のパイプ椅子に戻ろうとする途中で真中の存在に気付いたようだった。

「だれ?」

 真中は、いくらか緊張している様子だった。

 よく知らない上級生ふたりと突然向き合うはめになったんだから当然と言えば当然だ。
 が、それならこんな場所にいきなり来るなと言いたい。

 黙り込んだままの真中を見ていてもらちが明かないので、結局代わりに答えることにした。

「中学のときの後輩」

 ああ、と納得したように瀬尾が頷く。

「そうなんだ。……が、どうしてここに?」

「あの、ポスター、見たんです」

 真中はささやかな声でそう呟いた。本当に人見知りするやつだ。内弁慶ともいえる。

「ポスター? すごい奇跡だね。今貼ってきたばっかりなのに」

 そこまで言ってから、瀬尾は考えるような間をおいた。

「あれ、ってことは、入部希望?」

真中はきょとんとした顔をしたかと思うと、俺の方にちらりと視線を向ける。それは一瞬のことで、彼女はすぐに瀬尾の方へと向き直り、

「はい」

 と、ためらう素振りもなく頷いた。


「ホントに? ほら、副部長! ポスターだってバカにできるものじゃないよ、ぜんぜん!」

 瀬尾の素直さもすさまじいものがある。

「いいのか、真中。ほかに入部する部とか考えてたんじゃないのか」

「友達に誘われてたのはあったけど、どうしようか悩んでたし」

「ともだち」

「わたしに友達がいると変?」

「めっそうもない」

 友達ができてよかったなあと思うだけだ。


「でも、この部が何をする部なのか、おまえ知ってるのか?」

「文芸部でしょ? だいじょうぶ。それともせんぱい、わたしに入部してほしくなかったりするの? だったら考えるけど」

「そういうわけじゃないけど、他にやりたいことがあるんだったら」

「あのね、せんぱい」と真中は俺の言葉をさえぎるように口を挟んできた。

「せんぱいには、いつでも彼氏といっしょにいたいなあっていうオトメゴコロがわからないかな?」

「……ううん」

 あからさまに嘘だし、そんなにけなげな奴でも恋愛主義者でもないだろうが。

「彼氏」

 瀬尾が録音機械みたいに繰り返した。

「彼氏。誰が?」


 あーあ、と俺は思う。

 真中は俺の方を見て、くすぐったがる子供みたいな、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 こいつがわかりやすく笑うのなんて、こんなときくらいだ。

「せんぱい。訊かれてるよ」

 俺に言わせたいらしい。文句があるわけじゃないが、中学の時はあえて自分たちから説明することなんてしていなかったから、微妙にやりづらい。

「せんぱい?」

 首をかしげて、真中は俺の表情を覗き込んだ。どきりとしてしまうのは仕方ない。

「これは、真中柚子という生き物だ」

「いきもの」と瀬尾が復唱した。

「俺と同じ中学出身で、ひとつ年下だった。今年、うちに入学したらしい。どうぞよろしく」

「説明になってませんよ?」

 瀬尾はなぜか敬語になって、俺の視界に割り込んできた。なんだってみんな、この手の話題が好きなのか、よくわからない。誰が好きとか嫌いとか。

「真中は俺の彼女ってことになってる」

 開き直って言葉にした途端に、大野と瀬尾のふたりが顔を見合わせて、

「うそだ」

 と声をそろえて呟いた。

 まあ、わかりきっていた反応ではある。しかし、聞いておいてこれは失礼じゃないか。


 信じられない気持ちも、もちろんわからないではない。

 真中柚子という人間は、少し特殊だ。たしかに、それでなくても顔立ちが整っていて、どちらかというと線が細いが、スタイルは悪くない。
 深みのあるダークブラウンの髪は綺麗に肩まで流れている。単純に、真中はかわいい。衆目を浴びる程度には。

 俺なんかと付き合ってると言われても、簡単に信じられないのは仕方ない。

 でもそのかわいさは、言ってしまえば、それだけで言えば月並なかわいさだった。
 絶世の美少女だとか、そういうのとは少し違う。

 そういったものよりは距離が近い、自然な愛らしさのようなもの。
 容貌としてはそんなものだ。もちろん、それだって十分すぎるものではあるが。

 でも、真中の特殊性は、そんなところにはない。

 彼女には、どこから来たのかもわからない、何のためかもわからない、そんな魔性が宿っている。
 人の警戒心をふとほどいてしまうような、心の隙間を縫って入り込むような。

 この世のものとは思えないほどの、幻惑的な親しみやすさ。
 彼女自身にすら選択不可能の、ただ立っているだけで人を吸い寄せてしまう魔性。誰も気付かない。

 気付かないうちに、飲み込まれる。


 それでも、いっときに比べれば、ずいぶん落ち着いたものだ。
 かわりに、彼女の表情の起伏はだいぶ減ってしまったけれど。

「うそじゃないです」と真中は言う。

「わたしはせんぱいにベタ惚れということになってます。せんぱいも素直じゃないだいだけで、わたしにベタ惚れです」

「……いや、どう突っ込めばいいのかわからん」

 平静な表情で淡々と妙なことを言う真中に、大野はあきれて溜め息を漏らす。

「本当だ」と俺も付け加えておいた。

「俺は真中にベタ惚れという設定だ。真中も俺にベタ惚れだ」

「設定って言ってるじゃんか」

「せんぱいは素直じゃないので」

 さくっと反応するくせに、大野が視線を向けると、真中はとっさに表情をこわばらせる。

「ま、それはもういいや」と瀬尾が話を区切った。まあ、付き合っていますと認められたらそれ以上追及もなにもないだろう。


「それより、本当に入ってくれるの?」

 期待を込めた瀬尾の表情。それがまっすぐに真中に向けられている。俺はそれを不思議な気持ちで眺めている。

 本当に、瀬尾がこんなに部に執着するなんて、思ってもみなかった。
 真中はやっぱり一度俺の方をちらりと見て、茶化すふうでもなく、ふんわり笑ってから、正面をまた向き直った。

「はい」

 彼女は頷いて、それで瀬尾は笑顔になった。

 これでよかったのかなあ、と俺は思う。なんだか狐に化かされているみたいな気がした。

 廃部だと騒いでいたけど、実際には廃部になんかならないし、勧誘なんかしなくても部員が集まってしまった。

 とにかくこれで同好会落ちすらなくなったのだ。そんなことでいいんだろうか。これってなんだか、理屈に合わないような気がする。

 ほとんど何の労力も払わず、あるいは、払った労力とは無関係に望んだものを手に入れて、そんなことが許されるんだろうか。
 ふと窓の外を見ると、日差しの白さは均したように薄く視界にひろがっている。

「なんだかんだでどうにかなると思うよ」という、先代の言葉を思い出す。

 俺は、制服の内ポケットにしまいなおした屋上の鍵を取り出して、それを手の中でもてあそんでみる。
 緊張したようすの真中と、嬉しげな瀬尾が、何かの話をしている。

 とにかく、文芸部は文芸部として存続することになった。それは喜ぶべきだろう、たぶん。




 文芸部室の壁には、一枚の絵が飾られている。

 淡いタッチで描かれたその絵は、線と線とが溶け合いそうになじんでいて、ふちどりさえもどこか不確かだ。
 けれど、描かれているものの境界がぼやけてわからなくなるようなことはない。

 鮮やかではないにせよ、その絵の中には色彩があり、陰影があり、奥行きがあった。
 余白は光源のように対象の輪郭をぼんやりと滲ませている。
 その滲みが、透明なガラス細工めいた繊細な印象を静かに支えていた。

 使われている色を大別すると、三種になる。青と白と黒だ。
 絵の中央を横断するように、ひとつの境界線がある。
 
 上部が空に、下部が海に、それぞれの領域として与えられている。

 境界は、つまり水平線だ。空に浮かぶ白い雲は、鏡のような水面にもはっきりとその姿をうつす。
 空は澄みきったように青く、海もまたそれをまねて、透きとおったような青を反射する。



 海と空とが向かい合い、それぞれの果てで重なり合うその絵の中心に、黒いグランドピアノが悠然と立っている。
 グランドピアノは、水面の上に浮かび、鍵盤を覗かせたまま、椅子を手前に差し出している。

 ある者は、このピアノは主の訪れを待ち続けているのだ、と言う。またある者は、いや、このピアノの主は忽然と姿を消してしまったのだ、と言う。そのどちらにも見えた。

 その絵は、世界のはじまり、何もかもがここから生まれるような、無垢な予兆のようでもあったし、
 何もかもがすべて既に終わってしまっていて、ただここに映る景色だけが残されたのだというような、静謐な余韻のようでもあった。

 誰がいつ、その絵を描いたのか、それがいつから飾られているのか、知るものは今の文芸部にはいない。俺たちの先輩も、そのまた先輩も、それがいつから飾られているのかすら知らなかった。

「でも、なんだか象徴的だよね」

 そう言ったのは、文芸部の先代の部長だった。

「ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?」

 何か、途方もない祈りのように見えるのだ。
 主が訪れることのない椅子、誰にも触れられないピアノ。

 去年の春に文芸部に入部して以来、時間を持て余すと、俺はついその絵をぼんやりと眺めてしまう。
 
 その景色の中に人の姿はない。それは何かを象徴しているのか、それとも単なる空想が描かれただけなのか。
 いくら考えたところで答えには辿り着けない。



「ウユニ塩湖みたい」と、真中柚子がそう呟いた。

 彼女もまた、その絵を眺めている。

 物知らずの俺のために、彼女はその場所について詳しく解説してくれた。

 ウユニ塩湖。
 南米ボリビア西部の広大な高原地帯に位置するその塩の湖は、世界でもっとも平らな場所だと言われている。
 雨季になって雨が降ると、その平坦な大地に、水は薄く静かに広がる。

 その浅さゆえに、水面はさざなみさえも起こさず、空を映す巨大な鏡となって見る者を魅了する。

 天と地がくっついたようなその絶景は、ただし、条件が揃っていなければ見られない。
 雨季でも運が悪ければその鏡を見ることはかなわない。雨が降らなければ、それはただどこまでも広がる塩の砂漠にすぎない。

 地の塩。それはそれで圧巻の光景ではあるだろうが。


 天空の鏡とあだ名されるその塩原は、標高約四○○○メートルの高さに広がっている(富士山よりも高いんだよ、と真中は言った)。

 物見遊山で準備もなく向かえば、高山病の症状は避けられないだろう。
 また、その面積は一万平方キロメートルにも及ぶという(岐阜県と同じくらいなんだよ、とやはり真中は言った)。

 波打ち際から水平線までの距離が約四、五キロメートルだというから、歩くとなるとその広さは神秘的であると同時に悪夢的だろう。
 どこまで歩いてもただ塩の海が広がっているだけなのだ。

 もし道から外れて迷おうものなら、途方に暮れることになるだろう。

 もはや誰も迷い人を見つけられず、迷い人はどこにも辿り着けない。
 ただ茫漠と塩が広がるだけの砂漠に取り残されることになる。

 どこに向かえばいいのかも分からぬまま歩き続けるか、それとも助けが来ることを信じ待ち続けるか、あるいはすべてを諦めてしまうか、いずれにせよ楽な話ではなさそうだ。

 近年では、メディアやSNSで活発に取り上げられたことにより、観光客数が増加傾向にあるらしい。
 観光客が増えればゴミが出る。なにせ標高四○○○メートルだ。処分も簡単じゃない。

 現地の人間は苦肉の策としてゴミの埋め立てをおこなっていたらしい(いまどうなってるかはわたしも知らない、と真中は言った)。

 騎兵隊とインディアンの関係に比べれば、多少の旨味があるのかもしれないが、それでも憤懣やるかたない現地人もいるに違いない。
 そのことの是非を云々するほど、俺はその場所について知らない。

 そんなもんだと、割り切ってもいいのかもしれない。





「桜の森の満開の下には、秘密がある。春になるたびにうつくしい花が咲き誇るのを見て、人はおそろしさのあまり正気を失う。
 酒席の賑わいでごまかしはするが、そんなのは、桜が本当はおそろしいからなのだ。
 この小説の作者は親切なので、桜の森の満開の下の秘密について、それとなく、おぼろげに教えてくれる。

 それは、孤独というものであるのかもしれない、と。

 けれど、その秘密が運んでくるものを教えてくれはするものの、
 その秘密が我々をどこに連れていくのか、我々はそれに対して何ができるか(あるいはできないのか)については何も語ってくれない。

 ただ桜は毎年のように咲き誇る。それは押しとどめることも、逆らうこともできない。
 できることと言えば、ただ足早に通り過ぎようとすることだけだ。

 この小説に登場する女は、どこか奇怪な一面を持つようにも思えるが、
 それは実のところ、作中の男からは、その距離、遠さ、隔たりゆえにそう見えたというだけで、幻想的な性質をもっていたのではないのかもしれない。

 それは単に、現に生きている我々が、宿命的に抱える距離と隔たりを、象徴的に表現したにすぎないものなのではないか。

 女の体は消え失せ、伸ばした手すらも透きとおるように消えていき、桜の森の下にはただ虚空のみが残される。
 覆い隠すように、花が舞い落ちている。

 透きとおるようにうつくしくおそろしいこの風物は、我々の内に宿るものではないか。

                        (二年・大野辰巳)」






 その日、部活を終えて家に帰る途中に、俺はひとりで『トレーン』という名前の喫茶店に立ち寄った。

 喫茶『トレーン』は、コーヒーと軽食を出す、どこにでもあるような個人経営の店で、店内は落ち着いた雰囲気に装飾されている。
 あまり広くはなく、客の入りもそれほどでもなく、いつも顔見知りの客が店主と談笑しているような店だ。

 店の看板娘兼マスターの一人娘である少女はまだ高校生で、学校から帰ると制服姿にエプロンを重ねただけの恰好で手伝いをしている。

 鴻ノ巣ちどりという名前の、俺の幼馴染だ。

「隼ちゃん、いらっしゃい」

 ドアベルが鳴る音を聴きながら店に入ると、ちどりがすぐにこちらに気付いてふわりと笑った。
 いつも店に出ているときと同じように、ゆるくウェーブがかったセミロングの髪を後ろの低い位置で束ねている。

 ちどりは俺のことを「隼ちゃん」と呼ぶ。
 小学校高学年くらいの時期には恥ずかしくなったりしたものだが、さすがにもう気にしているのが馬鹿らしくなってくる。

『トレーン』はちどりの父親がはじめた喫茶店だ。
 家のすぐ近くにあるからと、俺の両親が頻繁に利用していたものだから、いつのまにか俺も入り浸るようになっていた。

 迷惑な客だとも思うが、そういう店だろうとも思う。 



 俺がカウンターに座ると、ちどりはすぐに水を用意してくれた。

「苦しゅうない」と偉ぶって見せると、「ははあー」とにこにこしたまま頭を下げてくれる。
 ノリのいい奴だ。

「ブレンドでいいんですよね。何か食べますか?」

「いや、もうすぐ晩飯だし、ちどりの顔見に来ただけだから」

「そうですか。真正面から言われると照れますね」

 さして照れたそぶりもみせずにちどりは受け流す。

 彼女は、誰に対してもいつも敬語を使う。
 理由は、よく覚えていない。

 最初からこうだったとは思えないから、たぶん、漫画か何かのキャラクターの真似をしていたのが、いつのまにか取れなくなったんだろうと思う。

 ちどりは店の奥のキッチンにいたらしいマスターに声をかけると、自分はそばにあった椅子を寄せて、カウンターを挟んだ俺の向かいに腰かけた。

「サボっていいのか、看板娘」

「ちょうど落ち着いたところなんです。わたしはコーヒー淹れられませんしね。隼ちゃんがひとりで店に来るの、ひさしぶりですね」

「そうだったっけな」 

 よく覚えていないけれど、言われてみればそうかもしれない。
 もともと、学生の身分でそう頻繁に来られるほど、ここのコーヒーは安くないし。



「何か用事ですか?」

「そういうわけじゃないんだけど、元気かなあと思って。最近会ってなかったし」

「それは、でも、隼ちゃんに彼女ができたからじゃないですか」

「まあ、うん」

 どうやら、そのあたりのことに気を使っているらしかった。

 俺に彼女ができたと知ったときには、ちどりは「あの隼ちゃんが大きくなって……」といたく感動した様子で赤飯を炊こうとしたくらいだった。
 固辞したけれど。

 そんなわけで、

「まあ幼馴染とはいえあんまり仲のいい女の子が周囲にいてもよろしくないでしょう」

 と言わんばかりにちどりは俺と距離を置くようになった。

 まあ、どうなんだろう、そういうものなのかもしれないし、気の回しすぎという気もする。

 でも本当は、たぶん、俺に彼女ができたから、というだけでもないような気がする。
 そのことについては、いまさら俺も口には出さないけれど。


 マスターがコーヒーを届けてくれてからも、ちどりは俺の前に座ったままだった。

 こういう店では、常連と話をするのも仕事のうちという話はきくけれど、こいつの場合もそうなのだろうか。よくわからない。

「隼ちゃんこそ、どうなんですか?」

「俺?」

「なんだか、元気がなさそうに見えますよ」

「ちょっと、疲れてるのかもな。新学期、始まったばかりだし」

「あまり、無理しないでくださいね」

 相変わらず、大人ぶったことを言う奴だ。昔から店に出て大人たちの話し相手に付き合わされていたら、こうなるのだろうか。
 ブレンドに口をつけつつ、ちどりの表情を見やる。俺の元気がないというが、彼女の方だってあまり元気には見えない。

「べつに無理なんてしてないよ。夜は寝てるし、食事もとってる。それで十分じゃないか」

「それならいいんです。隼ちゃんは困ったことがあっても誰にも相談しないから」

 それはお互いさまだろう、と言ったところで否定されるだけだから言わない。

「今日は部活だったんですか?」

「ああ」


「新入部員、入りました?」

「それがおもしろい話だったんだが……」

「だが?」

「うまく話せないから、いいや」

「そうですか。……文芸部でしたっけ?」

「そう」

 ちどりは、なんだか複雑そうな顔をした。

 俺が文章を書くということについて、思うところがあるのかもしれない。

 無理もない。俺は昔から夏休みの宿題で読書感想文があればちどりに五百円硬貨を握らせて書かせていた。
 そのくらい、文章を書くのが苦手なのだ。そんな俺が文芸部になんて入ってること自体、ちどりからすれば違和感だらけだろう。

 なんとなく、俺は店の奥の方の壁に目を向けた。

『トレーン』の壁には、マスターが若い頃に描いたという二枚の絵が飾られている。

 一枚は『夜霧』、もう一枚は『朝靄』。本当は三枚目があるんだ、と以前本人が言っていたのを覚えているが、見たことはない。
「誰も見たことがない三枚目があるって、神秘的だろう?」と言っていたが、どうだろう。


 とはいえ、少なくとも、『夜霧』も『朝靄』も、綺麗な絵だ。

『夜霧』は、霧に包まれる夜の街を、『朝靄』は、靄の立ち込める早朝の湖畔を描いているらしい。
 詳しくは知らない。どちらも、靄と霧に覆われてはいるが、曖昧に、人影のようなものを見つけることができる。
 それがどんな意味を持つなのか、俺にはわからない。

「彼女さんとはうまくいってますか?」

 視線を絵に向けているうちに、ちどりに世間話みたいにそう訊ねられて、戸惑う。

 なんでだろう、やっぱり、昔なじみというのが気まずさを増長させるのかもしれない。

「あんまりうまくいってない」

 適当なことを言うと、ちどりは「それはたいへん」と真剣な顔をした。
「喧嘩でもしたんですか?」と真顔で言うので、「そういうんじゃない」と嘘を重ねる。

「なんだか飽きたんだ」

「飽きた」と、ちどりが繰り返す。

「男っていうのは釣った魚には見向きもしない生き物らしいからな」

 人類の半分を根拠もなく貶めてみると、なんとなく胸のつかえがとれた気がした。

「お姉ちゃん悲しいです」と本当に悲しそうな顔をされて、思わずうめく。

「同い年なんだからそのお姉ちゃんっていうのをやめろ」

 ごめんなさい、と、ちどりは素直に謝った。


 それから俺は恋人についての架空のあれこれのちどりに話し続けた。

 メッセージがあったら五分以内に返信しないと怒られる、デートはなにもかもこちらに決めさせるくせに文句ばかり言う、だいたいそんなようなことだ。
 ちどりはひとつひとつ真剣に頷いて、

「それはよくないです」

 とか、

「それは隼ちゃんも悪いです」

 とか、いちいち意見してくれた。全部嘘なのだけれど。

 まあ、もちろんそんな嘘は俺の話ぶりから見透かされていたことだろう。

 くだらない話を終えて帰るという段になると、ちどりは思い出したみたいにバックヤードへ向かって、小さなビニールの袋に入ったクッキーを分けてくれた。

「手作りです」と彼女は言う。

「彼女さんには、内緒にしてくださいね」


 俺はクッキーをつまみながら帰路についた。ちどりの作るお菓子はなかなかに美味だ。

 帰り道の途中、交差点で信号待ちをしているときに、ふといろいろなことを思い出しそうになった。

 昔飼っていた猫のこと、死んでしまった祖母のこと、文章を書くことを決めた日のこと、今までついてきたたくさんの嘘のこと、これからつき続けるだろう嘘のこと。

 そんなすべてが重なりすぎて、自分が今どこにいて、何を考えているのかすら曖昧になりそうな気がした。

 文芸部のことを思い出す。新入部員が入って、部は存続することになった。

 でも、それは結局のところ、俺にはあまり関係のないことだとも思う。どうしてだろう。

 不足や不満なんてない。十分すぎるくらいに満ち足りている。欠けているものなんてひとつもない。
 それなのに、いつも、自分がいる場所が、仮の場所だという気がしてしまう。

 そんな感覚を振り払いたくて、俺はもらったクッキーをもう一枚口に含む。

 甘みは舌の上で確かに広がる。信号は、すぐに青に変わった。

つづく


 家に帰ると妹の純佳がソファに寝そべって眠っていた。

「おかえりなさい」と彼女は言う。

「ただいま」と俺は答える。

 じゃがりこを頬張りつつ、純佳はテレビに視線を戻した。

「部活は?」と訊ねると、「早退しました」とすぐに返事が来る。
 純佳はトレンディードラマの再放送から目を離さない。

「それ、なんて呼ぶ?」

「なにがですか?」

「早退」

「別名ですか? 世人はサボタージュとも呼ぶらしいですね」

「……まあ、人のことは言えんが。大丈夫なのか? レギュラーなんだろ」

「知りません」と純佳は言う。

「中学の部活が強制参加だからやってるだけです。レギュラーとか、知りません」

 ポリポリとじゃがりこをかじる音がする。

 堂々としたものだ。僻みなんて怖くもないらしい。


 俺は純佳の背後に近寄って、彼女の頭をわしわし撫でた。

「なんですか」

「いや、褒めてつかわす。それでこそ我が妹。思うがままの道を行け」

「褒められるようなことはなにもしてないですし、あの、褒められてるとすると、髪がぼさぼさになってどちらかというといやな感じです」

 犬ですかわたしは、と、純佳は不服げに眉をひそめた。

「兄、なんか変ですよ。いつも変ですけど」

 声を聞き流しながら、俺は純佳の体を無理やり起こさせてソファの隣に腰掛けた。

「なんなんですか、今日は」

「ん」

 クッキーの袋を差し出すと、純佳は怪訝そうな顔をする。

「……なんですか、これ?」

「ちどりにもらった。クッキー」

「浮気ですか? 良くないですよ」

「もらえるもんはもらう。悪いことじゃないと思う」

「程度にもよると思いますが……まあ、ご相伴にあずかる身で余計なことも言えませんね」

 純佳はクッキーをひとつつまみとり、さくっとかじった。


「おいしい」

 普段大人ぶった口調のくせに、こういうときだけ子供っぽい声を出すのだからかわいいやつだ。

「ちどりちゃん、また腕をあげましたね」

「そうか?」

「兄にはわからないです」

 単に動くのが面倒なのか、それとも気にならないのか、狭いソファにふたりで並んで座っても、純佳は嫌がらない。
 動くたびに長い黒髪がさらさら動くのが、見ていて気持ちいい。

 我が妹ながらなかなか端正な顔立ちだと思う。
 純佳の顔立ちをつくるときの巧みな技術を、俺のときにも少しは使ってくれたらよかったのだが。

 純佳がクッキーを頬張りながらドラマを観るのに戻ってしまったから、俺も彼女に付き合うことにした。
 ドラマの中では偏屈な独身男性が自分のオーディオ趣味について長々と語って、知人の女医をげんなりさせている。

「どんなドラマなの、これ」

「覚えてませんか?」

 不思議そうな顔をされて、逆に戸惑う。

「……いや、まったく」

「むかし、お母さんがDVD借りてきて、一緒に見てましたよ」

「ふうん。よく覚えてるな」

「兄がいろいろ忘れがちなだけだと思いますが……」

 そうかもしれない。


「兄、本当に、なにかあったんじゃないですか?」

「なんで?」

「元気ないですよ」

「ちどりにもそう言われた」

「だったら、元気がないんですよ」

 ……少し、疲れているのかもしれない。
 元気がない、と言われて、ああ、今は家にいるのだな、と思ったら、体の力が急に抜けていくような気がした。
 
 そうなってはじめて、ずっと体に力が入っていたことに気付く。

 肩の力を抜いてみると、俺の頭は純佳の肩に乗っかった。

「重いです」

「うん」

 いつもどおりの、そっけない口調。それでも、払いのけられたりはしない。
 不思議なものだ。

「兄、疲れてますよ。なんでです?」

「なんでだろな」

 なんでだろう。



「そういうときは、甘いものですよ」

 純佳は、またクッキーをひとつ指先でつまみあげて、俺の口の前に運ぶ。
 特にためらいも覚えずに、俺はそれを口に含んだ。

「……しかし、人様に見られたら、どう思われるんでしょうね、この光景は」

「さあなあ」

 わからない。
 わからないことは、どうでもいい、ようにも思える。

「兄。大丈夫ですか」

「うん。うん……」

「もうちょっとしたら、ごはん作りますね」

「うん」

「ちどりちゃん、元気でしたか?」

「うん」

「……柚子先輩とは、うまくいってます?」

 真中柚子。彼女は、純佳から見れば、一個上の先輩ということになる。

「どういうのを、上手くいってるって言うんだろうな」

「わたしが知るわけないです」

 そりゃそうだ。


「……純佳」

「はい」

「日が沈むと寂しくなるのは、どうしてなんだろうね」

 純佳は、耳にかかった髪を指先で後ろに流しながら、考えるような素振りを見せた。

「夜が怖いからじゃないですか?」

「夜?」

「たぶん。動物だった頃、夜はおそろしい時間だったから。だから、寂しいというより、不安で、心細くなるんだと思う」

 夜は、暗闇は、おそろしい。何が潜んでいるか分からない、暗闇。
 それは人に、原始的な恐怖を覚えさせる。遺伝子が運んだ、動物の血脈。

「だから、夕焼けは、綺麗だけどおそろしいんだと思う」

 純佳の真面目な口調は、コメディータッチのドラマを背景に、浮かび上がってるみたいに聴こえた。

 暗闇。
 だから人は、灯りをともし、寄り添い合う。
 でも、それは、少し違うような気がする。

 俺に限っては、当てはまっていないような気がする。今この瞬間の、寄る辺なさの正体は。


 でも、それを口に出すことは、やっぱりしない。

 嘘、偽物、偽装、隠し事。

「純佳は博識だなあ」

 俺の適当な褒め言葉に、純佳はきっと、それと分かった上で頷いた。

「えっへん」

 夕焼けはおそろしい。
 何かを思い出しそうになる。

 ドラマが終わると、純佳は水色のエプロンをつけてキッチンに立った。
 両親の帰りが遅い日は、俺たちが交代で夕食を作るようにしている。

 部活のレギュラー? 文芸部? 彼女?

 知ったことか。
 と、言いたいわけでもないけれども。

 その日、純佳のつくったポトフは美味しかった。
 



 でも、なんでだろう、その日、ものすごく些細なことで純佳と喧嘩をした。

 たぶん、本当にとてもくだらないこと。テレビのチャンネル争奪とか、そんな程度のこと。

 そのときの彼女の捨て台詞が、

「じゃあ、明日から兄のことを起こしてあげませんから!」

 というものだった。

 ああいいさ、別に頼んだ覚えなんてないね、朝ひとりで起きるくらいのことなんでもないさ。
 第一俺を何歳だと思ってるんだ? だいたいそんなようなことを言い返したのを覚えている。

 そのあとはもう単純で、「本当の本当に起こしてなんてあげませんからね!」と妹は繰り返すばかりだった。

 俺も彼女も、そのあとは「もう口なんてきいてやらない」と言わんばかりにそっぽを向き合った。
 妹は怒った声で「おやすみなさい!」と怒鳴ったし、俺もまた「ああ、おやすみ!」と怒鳴り返した。



 そんな夜が明けて、当たり前に朝が来て、目を覚ましたらヤバい時間だった。
 
 明らかに遅刻だった。

 何度もスヌーズ機能を動作させたらしい携帯のアラームがむなしい。

 ベッドから飛び起きて、自分でもおどろくほどの速度で制服に着替える。
 寝癖も直さず洗面所で顔だけパッと洗って歯を磨き、キッチンに向かって素のままの食パンをくわえた。

 ダイニングテーブルをふと見ると、弁当箱が置かれてた。

 近くには書置き。

「兄へ。起こしませんでした。
 あまりに哀れなのでお弁当だけ作っておいてあげました。
 これに懲りたらけなげな妹の存在に感謝してケーキのひとつでも上納するのがいいでしょう。
 それと、予報によると夕方は雨が降るそうなので傘を忘れずに」

 ファンシーなメモ用紙に記された丁寧な文字がやさしい。

 悔しい気持ちを覚えながらも、それでもやっぱりありがたい。

 弁当箱をひっつかんで鞄にいれると、俺は食パンをくわえたまま家を出た。
 
 折りたたみ傘なら鞄に入れっぱなしだ。




 
 俺の通う高校の手前は勾配の緩やかな長い坂道になっている。
 ゆっくりと歩くだけならなんということはないが、自転車で登ったり慌てて駆け上がったりするのはつらいものがある。

 日頃の運動不足も重なって、体中が軋みをあげかねない。

 そんなわけで、坂の手前にさしかかった段階で、俺はいいかげん諦めて歩くペースを緩めることにした。

 慌てて出てきたのがバカみたいだが、仕方ない。

 ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、もう授業が始まっている。

 今までは純佳に起こされていたから、高校に入ってから初の遅刻ということになる。

 人の気配のない通学路が俺の心をわくわくさせるのと同時に、なんだか憶えのない緊張のようなもので、心臓が早鐘を打つのを感じる。

 歩くペースを落として見れば、坂の途中から見える景色はそんなに悪くない。





 朝が来てしまうと、俺は昨夜の自分が何を考えていたのか、それがよく思い出せなくなっていた。

 坂を登りきった先の校門の傍に、大きな桜の木がある。

 思わず、立ち止まって、見上げてしまう。

 桜の木。

 今年は少し開花が遅かったせいで、桜の花は、満開とまでは言わないまでも、そこそこきれいに残っていた。

 花びらが、風に乗ってかすかに舞い落ちる。
 人の気配のしない空間に、大きな枝を垂らすように伸ばし広げた桜の木がある。

 俺は、その様子を立ち止まって眺めている。

 ふと、一陣の風が吹いて、桜吹雪が散った。

 嘘みたいに、花びらが舞った。

 その瞬間、ほんの一瞬の間、ひとりの女の子の姿を、花吹雪の向こう側に、俺は見た。
 目が合った気すらした。

 でも、それは本当に一瞬の幻視で、風がおさまったときには、もう彼女の姿はなかった。

 あとにはただ、桜の花が咲いているだけだった。

つづく


 桜のせいにはできないだろうけれど、そのまま教室に向かう気にはなれず、俺は屋上への階段を昇った。

 リノリウムの床を叩く自分の足音がひどくうるさく思えて仕方ない。
 東校舎の床は埃っぽい。本校舎と違って、掃除される機会が少ないからだろう。

 いつもどおりに鍵を回して屋上に出ると、白んだ風景が目に飛び込んでくる。
 校門の桜の木が見える。

 いくつかのことを考える。順不同に。

 ちどりのこと、真中のこと、
 昨日の喧嘩の理由、
 さっきの、桜の下での出来事、
 ましろ先輩が、俺に鍵を渡した理由。

 昨日の喧嘩の理由、なんだったっけ。
 本当に、なんだったっけ?

 チャンネルの争奪。……本当に、そんなことだったっけか?
 よく、思い出せない。近頃はいつもこうだ。

 大事なことも、そうでないことも、なんにも思い出せない。

 それは単に、きっかけでしかなかったような気がする。


 どうしてだっけ。
 
 純佳が急に不機嫌になって、些細なことで喧嘩になったんだ。

 なんで、だっけ。

 そうだ。真中の話をしたのだ。
 どんな内容だったかはわからない。何気なく、話した気がする。
 
 そうしたら、純佳は腹を立てたのだ。

「どうしてそんなに、人を信じられないんですか」、というようなことを言っていた気がする。
 
 そこまで思い出すと、原因になった俺自身の言葉も思い出せそうな気がする。
 でも、あえてそれ以上記憶を掘り下げることはしなかった。



 人間不信。人間不信?

 ときどき、そういう人間として扱われることがある。
 他人を信じていない、いつも本当のことを話そうとしない、心を開いていない。
 でも、そんなの、誰だってそうじゃないか、と、俺には思えるけれど。

 ちどりのこと、真中のこと。
 俺には難しいことばかりだ。

 すぐに授業に出る気はしない。
 俺は、屋上に寝そべって、静かにあくびをした。

 このまま二度寝でもするとしよう。どうせ遅刻しているのだ。
 
 それから、さっき見た景色のことを考える。

 桜の木の下の少女。あれは、単なる目の錯覚だったんだろうか?

 でも、なんだか、うわさ話を聞いたことがある気がする。
 桜の木の下の少女……いったい、なんだったっけか?

 誰から聞いたんだっけ? ……そうだ、それも、ましろ先輩から聞いたんだ。

 ――あそこは異境の入り口だから。



 瞼を閉じて、少しだけ溜め息をつき、いくつかのことを思い浮かべる。
 それから、自分がどうしてこんなことになってしまったのか、考える。

「ずいぶん不満そうですよね」と声が聞こえる。

 俺は目を開く。

 ……女の子が、そこに立っていた。
 すぐ傍に、本当に、すぐ近くに、膝を立てて、スカートの裾をおさえて、座っている。
 
 そこは無防備でいるところだろう、と、寝ぼけたまま思った。

「きみ、誰」

「ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね」

 その言葉に、思わず息を呑んだ。
 
「あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?」

「……」

「そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?」

 ああ、そうだ。
 さっき、桜の木の下で見た子だ。
 


 次の瞬間には、彼女の姿は消えていた。
 
 目を向けた先には、ただ虚空の先に、フェンス越しの景色がぼんやりと浮かんでいる。
 何もかもが短い夢だったような気がした。
 
 春が、そんな気分にさせる。

 だからこそだよ、と俺は思う。

 それから本当に眠ってしまって、ふたたび目をさましたのは、チャイムの音が聴こえたときだった。

 なんだか、もどかしくなって、起きてすぐ、寝ぼけた頭のままで、俺は携帯を取り出した。

「ごめん」と、純佳にメッセージを送る。

 三十秒くらい後になって、返信が来た。

「わたしの方こそ、ごめんなさい」

 と彼女は言う。



 続けて、

「今日はバイトですか?」と質問。

 週に三日か四日、夕方からの四時間程度、俺は近所のコンビニでバイトしている。
 部活に行ってからでもギリギリ間に合う程度のシフトだから、隙間時間の活用法としてはもってこいなのだ。

 思い出してみると、たしかに今日はバイトの日だ。

「そう」とだけ返信すると、「じゃあ今日はわたしだけですね」と何気なく送られてくる。

「帰りになにか買っていくか?」

「じゃあ、甘いもの」

 そうしよう。疲れているときには、甘いものがいい。

 さて、と俺は立ち上がる。

 現実に帰るときだ。




 教科書、ノート、板書、チョークの音。
 周囲から、ペンを走らせる音、誰かが居眠りしている気配。
 カーテン越しの柔らかい日差し。眠気を誘う教師の声。

 俺も、その風景の中に混じる。

 混じっている。たぶん、誰も気にしない程度には、馴染んでいる。
 それなのに、違和感がある。

 こうして過ごしている風景、日常のすべてが、全部、自分のものではないような気がする。

 誰かのためのものを、かすめとっているような、そんな気がする。

 ただの錯覚、誇大妄想、思春期特有の麻疹。
 誰かはきっとそう言う。俺もそう思う。そう感じる理由がないんだから、なおのこと。
 
 本当は俺は、文章なんて書かなくていいのだ。






 どうにかして授業をやり過ごして昼休みになってから、俺はすぐにまた屋上に向かった。
 昼寝をしていても誰にも邪魔をされないのが、いいところ。

 そういう日々が、たぶん、いい日々だ。

 そう思ったのに、寝そべって目を閉じていると、ドアが開く音がした。

「……昼寝か、不良」

 急に日差しが遮られた気配がした。目を開くと、大野の影が俺に落ちていた。

「いらっしゃい、珍客だ。ここにいるって、よくわかったな」

「最近、けっこう不思議だったんだ。昼休みになるたびにいなくなってたから。こないだ腑に落ちた」

「なるほど。それで来てみたわけか」

「ちょっと話がしたくてな」

 大野は、汚れるのも気にせずに、制服のまま俺のそばに座り込んだ。

「話?」


「今日、どうして遅刻したんだ?」

「寝過ごしたんだよ。いつもは妹に起こしてもらってるんだ」

「妹がいたのか」

「言わなかったっけか」

「ときどき、おまえがものすごい秘密主義者だって感じるよ」

「話すタイミングがなかっただけだろ」

「そうかもしれないが」

 大野は呆れたふうな溜め息をつきながら、両手をうしろに伸ばして杖にした。

「いい天気だな、しかし」

「絶好の昼寝日和だ」

「ああ。……でも、妹に起こしてもらってるのか?」

「朝は弱いんだ」

 厳密に言うと、夜、あまり眠ることができないだけなのだけれど。それもあえて言うことはしない。
 携帯のアラームなんて、役に立った試しがない。それでもやめないのは、まあ、神頼みみたいなものだ。


「仲が良いのか?」

「俺が他人だったらうらやましがるか気持ち悪がるかするくらいには」

「へえ。稀有だな」

「そう、俺は恵まれている」

 自分で言うと、いくらか気持ちがすっとした。
 俺は恵まれている。

「……話って、それか?」

「話? なにが?」

「話したいことがあるって、さっき言ってただろう」

 ああ、と、大野はそれでようやく思い出したみたいだった。


「いや。ちょっと、聞いてみたかったんだ。本人のいる前で聞くのもどうかと思ったからな」

「本人?」

「真中さんのことだよ。付き合ってるって、本当なのか?」

 本人は普通の顔をしていたけれど、大野がそんなことを気にするなんて思ってもみなくて、俺は少し意外な気がした。
 色恋沙汰なんて興味がない、という顔をしているのに。

 いや、顔で人を判断するのもよくないのだが。

「本当だよ。なんで?」

「今までそんな話聞いたことなかったから」

「話すタイミングがなかったからだろ」と、俺はさっきと同じ返事をした。

「真中の、何がそんなに気になる?」

「……何が、と言われると弱るんだが」

 大野は、前のめりになって腕を組んだ。

「べつに、そんなに根拠があるわけじゃないんだ。ただ、おまえに彼女がいるっていうのが意外でな」

「失礼な奴だな」

「そういう意味じゃない。いや、そういう意味でもあるが」

 本当に失礼な奴だ。
 今までこんな話を大野としたことがなかったから、なんだか新鮮な感じがする。



「俺だって、人を好きになったりするよ」

「そりゃ、そうだ。べつにそこまで疑ってるわけじゃない」

 この話は、あんまり続けるべきじゃないかもしれない。

「今日の部活だけど」と俺は自分でも分かるくらいあからさまに話を変えてみた。

「たぶん、瀬尾がなにか言い出す」

「なにか?」

「わからないけど、言い出すと思う」

「根拠は?」

「勘」

「さすがに付き合いが長いだけあるな。アテになるかはわからないが」

「まあ、頭数も揃ったし、なにかしたがるタイミングだろう」

「頭数って言えば、幽霊部員って、本当にいるのか?」

「いるよ」

 そう答えはしたものの、俺自身詳しく知っているわけではないことを思い出す。


 自分で話を変えたくせに、無性に気になって、俺は話を戻した。

「なあ、大野は彼女とかいたことあるの?」

「なんだよ急に」

「や。一年以上の付き合いになるけど、今までそういう話聞いたことなかったなと思って」

「……まあ、そういうのはなかったな」

「ふうん」

「なんだよ。彼女持ち特有の見下しはやめろ」

「そっちこそ、彼女ナシ特有の被害妄想はやめろ」

 大野はハッとしたみたいに目を丸くした。

「あ、ああ。……今のは俺がどうかしてた」

 ……こう見えて、意外とコンプレックスがあるんだろうか。
 俺だって、実際は大野と対して変わらないのだが。


 それから、生真面目な大野らしく、しっかりと話題を続けてくれる。

「好きな子がいたことは、あるんだけどな」

「へえ。なんか意外だな」

「俺は人を好きになりそうにないか?」

「まあ、どちらかというと、惚れられていそうに見える」

「そんなことは今までなかったな」

「その子とはどうなったの?」

「まあ、いろいろあってな」

 人に歴史ありと言ったところか。

「それ以来……別に、いいかなとは、思ってるんだ」

「そうなんだ」

 適当な相槌を打ったわけじゃない。どう反応すればいいのかわからなかったのだ。
 言い訳はできないけれど。

 何を話せば良いのかわからなくなった。
 俺と大野は結局それから、天気のこととか、空を飛ぶ鳥のこととか、そんな話をしてその場をやり過ごした。

「暑いな」と大野は三回言って、俺は三回とも「そうだな」と頷いた。

つづく




 その日の部活で、瀬尾は案の定何かを言い始めた。

「部員も揃ったことだし、そろそろ活動しないとね」

 去年の秋以来、埃をかぶったままになっていたホワイトボードを引っ張り出して、瀬尾はペンを握った。

「さて、ゆずちゃん」

 と、瀬尾は当たり前のように真中を下の名前で呼んだ。
 この距離感の独特のとり方が瀬尾だという気がする。 

「文芸部の活動とはなんでしょうか?」

 真中は、この二週間の間にすっかり定位置になった窓際のパイプ椅子に腰かけたまま、首をかしげた。

「読書?」

「正解」

 と、瀬尾は簡単に頷いていみせる。 



「厳密にいうと、正解に含むって感じだね」

 瀬尾は、淀みのない口調で続けた。

「文芸部は本を読んで感想を言い合ったり、それを文章にしてみたり、あとは自分で何かを書いてみたりする部なの」

 瀬尾は本当に器用な奴だなあと、こういうときは思う。
 求めていない言葉がでてきても、不正解と突っぱねたりせず、自然と自分の話したい方向へと話題を誘導していく。

 普段の奇妙なテンションからは想像もできない。真似できない。

「で、今から話すのはね、その『書いてみたり』っていう部分」

 半円形に椅子を並べて瀬尾の方を眺める俺たちに背を向けて、彼女はホワイトボードに文字を書き始めた。『部誌の発行について』。

「ふたりはちょっとイレギュラーというか、なんにも説明しないまま入部しちゃったから、今更だけど、説明するね」

 ホワイトボードに新しい文字が増えていく。


『薄明』と瀬尾は記した。

「うちの部では、年に四回か五回くらい、部誌の発行をしてるの。
 内容は、部員の書いた文章……なんでもいいんだ。小説や詩を書いてもいいし、俳句でも短歌でも川柳でもいい。エッセイでもいいし、何かの感想文や評論でもいい。
 とにかく、それが文章でさえあればなんでも。で、部員たちで編集して、部誌として形にして、それを配布する。大野くんは知ってるよね」

 自分には無関係のことと思っていたんだろう、突然話を振られて、大野はいくらか面食らったみたいだった。

「ああ。一応、図書委員だしな」

「図書委員って、部誌となにか関係があるんですか?」

 入学したての真中からしたら、当然といえば当然の疑問か。

 大野も瀬尾も質問に答えなかったので、俺が答えることになる。
 面倒見が悪いわけではない。真中のことは俺に任せようという意識ができあがってしまっているみたいだ。

「発行した部誌は図書室の展示スペースに置かせてもらってるんだよ。フリーペーパーみたいな感じで」

「誰か読むの?」

「それが不思議なんだよな。実際、うちの高校の七不思議のひとつにもなってる」

「つまり?」

「けっこう読まれてる」

 これは事実で、文芸部で発行している部誌は意外なほど知名度がある。
 長年の歴史の賜物という奴かもしれないが、それにしても生徒が絶えず入れ替わるのだからファン層なんてできるはずもないのに、変な話だ。


「なるほど」と真中は頷いた。

 こほん、と咳ばらいをして、瀬尾が話の続きをはじめる。

「部誌『薄明』。歴史はかなり長いみたい。一応、伝統ってことで、わたしたちもつくらなきゃいけないんだよね」

 先代にも言われたしね、と、瀬尾は付け加えた。

「そういうわけで、一学期中に、部誌をつくりたいんです」

 一学期中、とホワイトボードにまた文字が足される。

「で、みなさんにも何か書いていただきたいわけです」

 瀬尾のその言葉に、俺たち三人は顔を見合わせる。

「……って感じなんだけど、どうかな」

 何の反応も示さない俺たち三人に、瀬尾は不安そうに眉を寄せた。
 とはいえ、どう反応したものだろう。

 部誌『薄明』は、確かに瀬尾の言うとおり、これまで毎年、年数回、文芸部で発行されてきた歴史ある部誌だ。
 部室の隅の戸棚には、歴代『薄明』のバックナンバーがずらりと並べられている。

 部が存続した以上、活動実績として、俺たちは俺たちの『薄明』を作らなければいけない。それはまあ、自然な成り行きというものだろう。


 問題がいくつかある。

「文章、ですか……」

 真中は考え込むように眉を寄せた。

「あの、青葉先輩。わたし……」

「うん。大丈夫。書き慣れてなくてもサポートするし。楽しむことがいちばんだからね。 
 歴史があるっていっても学生のつくるものだしあんまり気にしなくて平気だよ」

「いえ、あの。わたし、文章ってあんまり書いたことなくて……」

「そうなの?」

「はい。あんまり興味がなくて」

「あ、そっか。うん。そっか。いや、入ってもらって助かったからいいんだけどね」

 さすがの瀬尾も困り顔だった。無理もない。だったらなぜ入部したという話である。



「とはいえ、せっかくだからちょっと挑戦してみてもらえないかな」

「はあ……」

 曖昧に頷いた真中の表情に、やはり瀬尾は不安そうだった。
 まあ、でも、真中は書けといえば何かしら書けるだろう。問題は別にある。

 案の定、次に手を挙げたのは大野だった。

「なあ、瀬尾。俺、文章は書けないんだが」

 あ、という顔を、瀬尾はした。失念していたわけでは、きっとないだろう。 
 それでもいくらか、大野の人の好さに期待していたのかもしれない。

「あ、えっと、そう、だよね、うん」

 瀬尾の頬が、カッと赤く染まった、ように見える。

 そうだな、瀬尾ならそうなるだろうな、と俺は思った。

 大野は、部員が足りないから、頭数として、入部してくれた。



 それ以上のことを求めるのは、人の善意につけこむことだ。
 瀬尾は、それでも期待していたのだろう。そして、期待していたことを見抜かれたと思って、恥じ入っている。

 生真面目と言えば、生真面目な奴だ。あの手この手で言いくるめて、書かせてしまえばいいものを。
 せっかくホワイトボードまで持ち出してきたのに、新入部員はこの様子だ。瀬尾の部長としての初仕事は、最初から行き詰まりを見せたことになる。

 とはいえ、仕方ない部分もある。

 もともと俺も瀬尾も、集団を引っ張っていくよりは、集団の隅っこで自分の好きなことをやっている方が性に合うタイプなのだ。

 やりたくないやつを無理に参加させたり、その気にさせるためにあれこれ気を引いたりなんてできる人間じゃない。

 難航は、ある意味で必然だ。俺たちは烏合の衆なんだから。


「いいんじゃないか」と俺は言った。

「最悪、俺と真中のふたりで作ったって、『薄明』は『薄明』だ。大野には編集や製本を手伝ってもらえばいい。
 真中は自分から入部するって言い出したんだし、書けるなら書いてもらいたいけど、一度目だし、雰囲気をつかんでもらってからでもいいだろう」

「……ん。まあ、そう、だね」

 瀬尾は、やはり複雑そうだ。気持ちはわからないでもない。

 今まではずっと、先輩たちがいた。俺たちはずっと下っ端だった。
 そりゃ、去年の最後の部誌発行のときには、後継者としていくらか部誌作りの基本も教えてもらった、とはいえ、だ。

 たくさんいた先輩が一気にいなくなって、じゃあこれから二人でやってみなさいと突然言われても、不安を感じるなという方が無理だ。

 せめて人数がいれば相談しながらどうにかやっていけたかもしれないが、それも望めない。

 大野や真中をアテにしたくなる気持ちもわかる。

 俺が頼りにならないからなおさらだろう、というのはさておき。

 とりあえずそういう話にまとまったかな、と思ったところで、大野が立ち上がった。


「悪い。今日は委員会あるから、いかないと」

「あ、ごめんね、当番だったんだ」

「いや、こっちこそごめん」

 じゃあな、と短く言って、大野は部室を出て行った。心なしか表情が硬かったようにも見える。

 当番というのは、嘘ではないのだろう。昨日だって、委員会の件でこっちに来たのだから。
 人に任せてわざわざ顔を出したのだとしたら、やっぱり付き合いの良いやつだ。

「……怒らせちゃったかな」

 閉じられた扉を心配そうに眺める瀬尾に、どう声をかけるべきか迷う。

 たぶん、大野は怒ってはいない。いくらか普段よりもそっけなく見えたのは、きっと、やさしく対応して、期待をもたせるのが嫌だったからだろう。

 押せば書いてもらえる、なんて思われたら、どっちも嫌な思いをするだけだから。
 俺には大野の気持ちはわからないけれど、たぶん、そうだと思う。


「気にするな。部に入るって言った以上、大野だって言われる覚悟はしてたろ」

「でも、最初に自分で頭数って言ってたもんね。やっぱり、わたしの失敗かな」

「それはまあそうだろうな」

「大野くんの言う、文章が書けないって、ただ書くのが苦手なだけだと思ってたんだけど、違うの?
 ……って、副部長に訊いちゃうのもいけないよね、きっと」

「詳しい事情は、俺も知らない。でも、少なくとも、単純に苦手だというだけじゃないと思う。きっと、人にはわからない理由があるんだろうな」

 瀬尾はちょっと考え込んでしまっているみたいだ。
 黙ったまま、しばらく何も話そうとはしなかった。

 なにげなく真中の方を見ると、彼女も俺の方を見ていた。

「どうしたらいいかな」という顔をされたので、「ほうっておいたら」と目で訴えた。

 彼女はその瞬間、なにか素晴らしいことを思いついたみたいな顔で、指を狐のかたちにしてこちらに向けて上下に二度振った。
 意味はよくわからないが楽しそうなので放っておくことにする。


 部室の隅の戸棚に目を向ける。この部に入部してすぐ、俺は『薄明』のバックナンバーを読むことに熱中した。

 べつに特別なものでもないと思う。どこにでもある、でもほかのどこにもない、ここにしかない言葉の海。

 部誌『薄明』。文芸部。その歴史。のこされた言葉。
 遺されたのか、取り残されたのか。

 文章というのは不思議なものだ。口で話すよりもよほど簡単に嘘をつける。

 おもしろいことがある。

『薄明』平成四年春季号。

 部員『佐久間 茂』名義の小説。これは、江戸川乱歩の『白昼夢』の一字一句違わぬ盗作だ。
 編集後記に付したコメントで佐久間は「江戸川乱歩に影響を受けて……」と堂々と語っている。

 夏季号では、佐久間はモーパッサンの『水の上』の、固有名詞を変更し、文章を若干削っただけの、またしてもまごうことなき盗作をおこなった。
 そして、秋季号から彼の名前は『薄明』から消えた。

 その後の文化祭特別号にも、冬季号にも、彼の名前はない。
 ただ、文芸部の部室がいまだに彼のしたことを保管している。大事に、失われないように、しっかりと。

 こんなことってあるだろうか?

 だが、この佐久間茂という人間について、もうひとつ語るべきことがある。
 彼は『水の上』の盗作を載せた夏季号において、自身の散文に近いエッセイも掲載した。内容には、いささか目を引くところがある。


「ほんとうのことを言うと、みんなは文章を読んでいるのではなくて情報を読んでいるのではないでしょうか。
 たとえば名のある現代詩人が書いたものであれば、いささか稚拙な感のある文章であれ大なり小なり感心してもらえるものです。
 やれあえて定型を崩したであるとか、やれ詩に対する洞察がもたらした深みがあるのだとか、そんなようなことをです。

 しかしたとえばです。もし仮に太宰治が『女生徒』を書いていなかったとしてみてください。
 そしていまぼくが『女生徒』と一字一句たがわぬ小説を公開したとしてみてください。

 そのとき、さて、太宰治が好きだと言っていた彼/彼女らはぼくの小説を気に入ってくれるでしょうか。本当にそうでしょうか。

 ぼくには、太宰治の猿真似などして厭らしいと疎まれるような気がしてなりません。いや、太宰だと気付かれることもないかもしれない。

 誰であれそうです。文章というのは畢竟ことばのつらなりにすぎぬわけで、そこにあるのはつまり語の選択と配置でしかないのです。

 たとえば何匹もの猿にペンをもたせて、何十年何百年と紙に何かを書かせ続けることができたとしましょう。
 そしてその猿の一匹が偶然にも寺山修司の名文句を書き上げたとしましょう。その文句はぼくらを感動させるでしょうか。

 せいぜい、ああ、猿にしてはやるではないか、という程度ではないでしょうか。

 これは極論ですがつまりこういうことです。
 ぼくたちは、なにが偽物で、なにが本物なのか、ほんとうの意味では、これっぽっちもわかっていないのです。
 区別なんて、できていないのです」


 この清々しいほどの責任転嫁ともとれる文章には、どことなく悲哀がある。なるほど彼の言うことにも一理あるかもしれない。

 キーボードの上で猫を遊ばせてシェイクスピアの戯曲ができあがるのを待つのは、
 本来考える必要もないくらい困難であり得ないことだが、時間が無限であったならいつかは起こりうることだろう。

 仮にそれが起きたとしよう。

 そのとき、俺たちはシェイクスピアの血肉のこもった(と、想像するが案外そうでもないのかもしれない)文章と、
 単に猫が遊んだ痕跡に過ぎない文字の羅列とを区別することができるだろうか。

そんな彼の思考と相反する言葉も、この文章の中には存在している。

 たとえば猫が奇跡的に作り上げたシェイクスピアの文章を、シェイクスピアのものと言われずに、
 猫の遊んだ痕跡だと言われて読んだときに、俺たちはシェイクスピアの戯曲を読んだのと同様の感慨を受けることができるだろうか。

 俺にはどうも自信が持てない。

 もちろん、猿が寺山修司の名文句を書くことも、猫がシェイクスピアの戯曲を作り上げることも、単に奇跡でしかない。

 シェイクスピアは何本もの戯曲群をひとりで生み出したからこそ偉大なのだとも言える。

 さて、それでは俺たちがシェイクスピアに対して抱く敬意なんてものがもしあるとしたら、それは作品そのものではなく、彼という文脈を経由した作品なのではないか?
 俺たちは、本当の意味で、文章そのものを読むことができるか?

 そんな空想は、案外楽しい。


「そうだ」

 ぼんやりと物思いにふけっていたところで、不意に瀬尾が声をあげた。

「ねえ、副部長、こないだいってた、幽霊部員の子は?」

「は、って。何が?」

「その子は参加してくれないかな、部誌」

 一瞬、何の話か分からなかったが、ようやく見当がついた。

「あのさ、瀬尾。それはさ……本人も自分の意思で出てないんだと思うし」

「でも、でもでも、聞いてみるだけでも、いいんじゃないかな」

「そりゃ」

 一年間、一度も部室に顔を出していないような奴だ。あてにできるとは思わない。

 仮にそいつが気まぐれに参加するといったところで、二人が三人になるだけだ。
 そんなの誤差の範疇じゃないか。そのためにそんなことをするのは……面倒だ。

「いいんじゃないですか?」

 真中はそう口を挟む。俺だって、瀬尾が勝手にやるというなら異論はないのだ。


「俺にそいつを探して来いっていうんだろ、瀬尾」

「ダメかな」

「……ダメかな、っていうかだな」

 自分で行け、とか、そういうことを言おうとするのだが、こいつに弱々しい表情をされると俺は本当にダメになる。
 自分でもどうしてここまでと思うほど。呪われてるのかもしれない。
 
 瀬尾は極端な口下手、人見知りで、典型的な内弁慶タイプだ。
 がんばって話そうと思わないとなかなか言葉が出てこない。
 周りに友達がいるときなんかは平気みたいだが、ひとりで職員室にもいけないような人間なのだ。

 そんな奴にとって、知らない誰かを探すという行為が簡単じゃないということもわかる。

 けれど、だからといって、自分の言い出したことを他人に任せるというのはどうなのか。

「どうしても無理なら、ひとりでがんばるからいいけど……」

 ぬぐえない不安を隠そうとして、瀬尾は不器用に微笑む。自覚がないから困りものだ。

「……わかったよ」

 結局俺は頷いた。俺は瀬尾にはどうしたって勝てない。じゃんけんみたいなものなのだ。
 

85-8 この二週間の間にすっかり定位置になった窓際のパイプ椅子に → 窓際のパイプ椅子に

つづく





 部室に戻ってことの顛末を報告したあと、その日の部活は終わりという流れになった。
 真中と瀬尾がどんな話をしていたのか知らないし、聞こうとも思わなかった。

 とにかく、市川には参加の意思がないでもないようすだった、とだけ伝えると、瀬尾はうれしそうに笑ってくれた。
 実際に参加するかどうかはともかく、人が増えるということに心強さを感じたのだろう。

 さっきまでは気持ちのいい天気だったはずなのに、いつのまにか空が暗くなっている。
 じき、雨が降り始めるのだろう。

「せんぱい、このあとはどうするの?」

 真中にそう聞かれて、俺は一瞬考えたけれど、よく考えたら予定がある。

「バイト」

「せんぱい、バイトしてたの?」

「ああ」

「知らなかった」

「話すタイミングがなかっただけだろ」

「……ふたりってさ」と、瀬尾が口を挟んだ。

「付き合ってるんだよね?」

 俺と真中は顔を見合わせてから瀬尾を見た。

「ああ」

「はい」

「……そ、そうなんだ」

 なにか言いたげな表情だったけれど、瀬尾は結局何も言わずに先に行ってしまった。


「じゃあ、途中までご一緒しますか?」

 真中の言葉に、俺は頷く。
 東校舎の階段を降りる途中で、他の文化部の連中と何度かすれ違う。
 
 新入部員が入ってきて、どこも忙しいんだろう。

「なんだか、妙なことになったね」と真中は言った。

「なにが?」

「部誌。そんなことやるなんて聞いてなかった」

 そりゃ、何も聞かずに入部したんだからそうだろう、と思う。

「第一、せんぱい、なんで文芸部になんて入ったの?」

「なんでって。俺が何部に入ろうとかまわないだろ」

「それは、かまわないけど。でも、せんぱいと文章って、なんか結びつかなくて」

「……いや、まあ、自覚はある」



 東校舎から本校舎に戻り、そのまま昇降口へと向かう。
 
 昨日から訊きたかったことを、ようやく訊けるタイミングが来た。

「なあ、真中」

 と、声をかけながら、俺は、まだためらっていた。

「なに?」

 平然と首をかしげられて、戸惑う。
 こいつの表情のひとつひとつが、本当に魔的だ。
 油断していると、ときどき吸い込まれそうになる。

 結局、それが引き金になって、俺は言葉を続けることにした。

「なんで、俺と付き合ってるなんて言ったんだ?」

 俺のその疑問に、彼女は目を丸くした。

「なんでって。付き合ってるからだよ」

「それ、続いてると思わなかった」

「どうして?」

「ここ一年、ほとんど会ってなかっただろ」

「連絡は取ってたし」



 たしかに、連絡は取っていた。
 
 といっても、ときたま真中からどうでもいいような内容のメッセージが飛んでくるだけだったのだが。

 通学路で見かけた猫の写真とか、金曜ロードショーを観るかどうかとか、観たなら感想はどうだとか。
 動画サイトで拾ってきたおもしろネタのURLだったりもしたっけ。

 俺はそのたびに「猫だな」とか「観るな」とか「おもしろかったな」とか適当に返事をしていた。
 雑な返事をしたかったわけじゃない。どう返答すればいいのかわからなかったのだ。

「でも」

「せんぱいは、嫌ですか?」

「……あのな、真中」

 こういうときだけ敬語を使いやがるのが、こいつの困ったところだ。
 かすかに甘えの混じった声音。わかっててやってる。そうわかっていて、それでも弱る。

「嫌とか、嫌じゃないとかじゃない。そうじゃなくて、潮時だったんじゃないかって言いたいんだよ、俺は」

「なにが?」

 とぼけたふりをして、真中はまた首をかしげる。
 結局俺は言いよどんでしまう。
 
 嫌ですか。
 嫌だとか、そういうわけじゃない。

 ただ、不可解なだけだ。






 
 真中柚子と三枝隼は付き合っている、というのが、中学時代は周知の事実だった。
 三枝隼。さえぐさしゅん。俺の名前だが、なんだか別の人間の話でも聞いているみたいな気がした。

 俺と真中は、それぞれが中二、中一の秋に出会い、その冬に付き合い始めた。
 自他共に認めるカップル。ただし、その自他共にという言葉の、「自」の部分が虚偽申告だった。

 理由はいくつもない。

 真中が困っていた。俺は暇をしていた。真中は俺を都合の良い人間だと思った。
 真中を助けても俺は困らないと思った。利害の一致というほど大袈裟な話でもない。こっちは面白半分だったし、あっちは必要に駆られてだった。

 真中は、こういう言い方がふさわしいかはわからないが、かわいかった。

 自然で落ち着いた振る舞い、どことなく愛らしい仕草。
 普通なら子供っぽく見えるだけのはずのスケールの小さな体さえ、容姿と線の細さが相まって、女の子らしい魅力に見える。

 真中と同じ小学校に通っていた後輩は、「小六のとき同じクラスだった男子は、全員一度は真中に告ってました」と教えてくれた。

「そりゃすごい」と俺は素直に思った。なかなかできることじゃない。

 そこまで来ると、もう容姿とか性格とかの問題じゃない。



 男子の中で「かわいい」とされる女子というのは、不思議なもので、そんなにかわいくなくてもかわいいと思われてしまうのだ。
 クラスだとみんなに人気の女子の写真を、他の学校の男子に見せたら「そうでもない」と言われるなんてよくあることだ。

 そういう補正にくわえて、真中は実際かわいかった。

 そんなわけで、彼女は中学に入ってからも大層モテた。あやかりたいものだ。

 それで困ったことが起きた。
 
 小学校の頃からそういうことはあったらしいが、まず女子にやっかまれた。
 
 もちろんそんなにあからさまな嫉妬なんて見苦しいだけだから、女子だって分かりやすくいじめたりはしない。それでもやっぱり避けられたりはしていたみたいだ。

 次に、小学校の頃とは違って、断っても引かない奴が現れた。

 ラインを強引に聞き出して連日メッセージを送ってくる先輩もいたし(俺の知り合いだった)、
「そんなこと言わずに一回でいいから遊びに行こうよ」としつこく誘う同級生もいた(部活の後輩だ)。
 それは別に責めるようなことじゃない。そのくらいの押しがあっても悪くないと思う。でも、こと真中に限って言えば、そういうのは逆効果だった。

 真中は不器用な言葉と表情で、そういう誘いを必死に断り続けた。

 さて、その結果、真中は男女双方からあまり良い目では見てもらえなくなった。先生たちからでさえそうだった。
 女子の間では「男をたぶらかしている」「色目を使っている」「とっかえひっかえ」と噂された(真中に言わせれば、全部「ひどい言いがかり」だ)。
 反対に男子の間では、「お高くとまっている」「ちょっとかわいいと思って調子に乗っている」「男を馬鹿にしている」他多数。




 厄介だったのが、そんな状況でも真中を好きになる男子は後を絶たず、そのせいで余計に真中の評判が下がっていく一方だったということだ。

 俺はその頃、校内の事情に疎かったから、そんなことはまったく知らなかった。

「一年に生意気な女子がいる」「あいつは調子に乗ってる」と友達に言われれば、
 真に受けて「へーそうなの。そりゃすごい一年がいるもんだなあ」と困惑顔を作ったりもしていた。

 最初の頃は「困るなあ」としか思っていなかった真中も、仲の良かった友達に避けられるようになったあたりで事態を深刻に受け止めた。

 このままでは自分にとって大切な、何か重大なものまで壊れてしまう。

 わたしが言っていないことをわたしが言ったことにされ、わたしが思っていないことをわたしが思っていることにされてしまう。

 そんなつもりはない、そんなことは考えていないと、彼女がいくら訴えたって無駄だっただろう。彼女自身もそう気付いていた。

 万人に共有された幻想は真実とほとんど同義だ。
 この病は時間の経過と共に悪化していく。
 
 どうにかしなければ、と真中は思った。
 状況は日に日に悪くなる一方だ。

 どんな解決策がありうるだろう?

 彼女は特効薬を求めていたが、そんなものはいくら考えたって出てこなかった。



 そこで登場したのが何を隠そう俺だった。
 
 といっても、真中との出会いはただの偶然だ。
 ある日の放課後、彼女が動物小屋のうさぎをひとりで見つめていたのを見つけて、なんとなく声をかけただけだった。

 最初は警戒されていたけれど、それをあんまり気にしないでいたら、最後には諦められたようだった。

 それで何度か話すようになって、まあ顔見知りから知り合いくらいまでにはランクアップしたかな、という頃。 
 いろいろ事情を聞かされて、俺はなるほどなあと思った。

 それで、提案したのは真中だった。

「ね、先輩。わたしの彼氏のふりをしてくれませんか?」

 とっても困っているんです、と彼女は言っていた。

 どうして俺なの、と訊ねた。彼女は頼りなさげに笑った。
 自暴自棄になったような、弱りきった微笑みだった。
 
「だって、先輩は、わたしのことを好きにならないと思うから」

 ねえ、だめですか。

 いいよ、と俺は言った。



 早まったとは思っていない。
 真中はそのとき、本当にまずそうだったから。
 
 翌週にはその話が学校中で噂になっていた。そのくらい、真中の話はもともと広まっていたのだ。

 樹の根のような深さと強固さで、変幻自在にあちこちに張り巡らされ、どこにいても誰といても、彼女はそういう目で見られ続けていた。

 俺と真中はひとつの嘘をつくことで、その根を全部新しいニュースに塗り替えた。

 もちろん、全部が一気に変わったわけじゃない。けれど、そこからは真中にとって少しくらいはマシな方向に動き始めた。

 毒をもって毒を、嘘をもって嘘を制した。
 
 俺は、誰にも、本当のことを話さなかった。ちどりにも、純佳にも、実は嘘なんだよ、とは言わなかった。
 敵を騙すにはまず味方から。ほころびはどこから生まれるかわからない。

 そして今も尚、その嘘は続いている。

 もう、三年目になる。

 俺たちは一緒に出かけたことすらない。手も繋いでいない。
 嘘の付き合い。偽装カップル。虚構の関係性。

 茶番は今も続いている。
 
 嫌だとか、そういうわけじゃない。
 ただ、メリットが、もうどこにもないような気がするのだ。

 結局俺は何も言い出せなかったし、真中もその話題には触れようとしなかった。
 そのようにして俺たちはそのまま別れた。

 頭を切り替えなきゃいけない。今日はバイトだ。


つづく





 バイト先の店につくと、店は仕事帰りの(あるいはこれから出勤の)人間で混雑していた。

 すぐに制服に着替え売り場に出る。一年もやっていると、さすがに時間帯ごとの空気のようなものにも慣れるものだ。

 ホットフーズが飛ぶように売れ、陳列されていた弁当は片っ端からなくなっていき、パンの棚はそこらじゅうが歯抜けになる。
 せわしなく働いているうちに時間が過ぎて、そうこうしているうちに新しい商品が納品され、今度はそれを陳列する業務が始まる。
 
 客の流れが落ち着いて、商品の補充が終わったあと、ようやく話をするだけのゆとりが生まれる。

「今日は、特にバタバタしたね」

 一緒のシフトだったのは、二年くらい前からここで夕勤をしているフリーターの男の人だった。
 どうしてフリーターなのかは知らない。夜勤じゃない理由も知らない。人にはそれぞれ事情がある。

 この男の人のことが、俺はあまり得意じゃない。
 存在感が希薄というか、背景が見えないというか。

 見た目はいたってまともな好青年という感じなのに、醸し出す雰囲気が、得体も知れず不可解だ。



「片付け終わったら、ちょっと休憩してきていいよ」

 そう言われて、思わず戸惑った。

「いや、でも俺、時間的に休憩ないですよ、今日」

「いいよ。ちょっとくらいなら回せるし、べつに登録する必要もないから」

「……はあ」

 商品と一緒に納品されてきた備品や消耗品を整理しながら、俺は曖昧に頷いた。
 まあ、このくらいゆるい方がやりやすいのだけれど、悪いことをしている気分になる。

「新学期、どうだい」

「どう、と言いますと?」

「いや、具体的な質問じゃないから困るけど、全体的に、どうかなって」

「具体的じゃない質問ほど答えにくいもんはないですよ」

「ああ、うん。おっしゃるとおりだね」

「でも、まあ、調子は……どうでしょうね」

 悪いと言えば悪い。普段どおりと言えば普段どおり。
 良いとは、言いにくいかもしれない。


「先輩は……」

 と、俺は彼のことをそう呼んでいた。

「どうですか?」

「なにが?」

「調子です」

「ん。……んん。どうかな。俺はほら、平坦だからね」

 平坦。そんな感じもした。
 それ以上、話は膨らみそうもない。

「そういえば、今日、変なことがあったんですよ」

 ふと思い出したことが、思わず口をついて出た。

「変なこと?」

「はい。自分でも、白昼夢でも見たんじゃないかって思うんですけど……」

「おもしろそうだね。何があったの?」


「今朝、学校に遅刻して……それで、諦めて、学校につながる坂道を歩いてたんです」

「坂道?」

「ええ。で、登りきった先に、校門があって、傍に大きな桜の木があるんですけど」

「桜」

「はい。それで、一瞬だけなんですけど……女の子が」

 そこまで言ってから、さすがに、口ごもってしまう。
 俺は今何を言おうとしてたんだろう。

 女の子の姿を見たんです、幻なんですけど、なんて言ったら、からかわれるのがいいところだ。

「……女の子が?」

 ちょっと気付くのが遅かった。先輩は、もう最後まで聞く準備ができているらしい。

「……女の子の姿を見たんです。でも、次の瞬間には、いなくなってた、っていう」

「……いなくなってた?」

「はい。……白昼夢だと思うんですけどね、自分でも」

「ふうん。おもしろいね」

「そうですか? 自分で言うのもなんですけど、俺が他の奴に同じ話をされたら、ちょっと笑いますよ」

「でも、見たんだろう?」

「まあ、見えた気はしました」


「だったら見えたんだよ」と彼は言った。

 だったら、という言葉の意味がわからなくて、俺は戸惑った。

「どういう意味ですか?」

「世界は脳の中にあるから」と彼は言う。

「だから、きみが見た気がするものは、きみが見たものなんだと思うよ」

 説明されても、やっぱりよくわからない。

「……実は、二回見たんです」

「二回? その女の子を?」

「はい。一度目は、さっき言った校門の桜の木の下。二回目は、昼休みの屋上で」

「へえ。変なところにいるんだね」

「……」

「その子、なにか言ってた?」

「……」

 何の含みもなさそうに、先輩は訊ねてくる。
 俺は、さすがに口を噤んだ。
 
 なんなのか、わからないけれど、この人のこういうところがおそろしい。



「……先輩って、ちょっと変わってますよね」

「そうでもないと思うけどな」

「言われませんか?」

「言われないね。まあ、仮に思ってても、直接言う人間っていうのもなかなかいないと思うけど」

 そうかもしれない。

「でも、きみの目に僕が変わって映るとしたら……」

 先輩は、いつもみたいに何気なく笑った。

「それは、きみの目が変なんだと思うよ」

 ……そう、かもしれない。



 ――ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね。
 ――あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?。

 ―― そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?

 ……。

「休憩、してきていいよ」

「……はい」

 今度は、遠慮はしなかった。
 急に、頭がくらくらしているような気がした。
 
 結局、その日はそのまま、さしたる問題も起きずに、バイトを終えた。
 
 先輩は、それ以上は何も訊いてこなかった。





 家に帰ると、純佳がダイニングの椅子に座り、テーブルに突っ伏して眠っていた。
 
 ちょっとした悪戯心が湧いて、声をかけずに歩み寄り、彼女の耳をつまんでみる。

「ん……」

 くすぐったがるみたいに、純佳は眉を寄せて身じろぎした。

 すぐ起きてしまうかと思ったら、案外深い眠りについているらしい。

 暗い帰路を歩いてきた身としては、少し寂しいような気もする。

 純佳をそのままにしておくことにして、
 夕飯代わりにもらってきた廃棄の弁当をレンジで温め、その間にやかんに火をかけた。

 インスタントの味噌汁でもないよりはマシだ。




 ちょっとやそっとの物音では、純佳は目覚めそうもない。
 このまま寝せておいてもいいが、まだ夜は冷える。風邪でも引かれたらよくない。

 とはいえ、すぐには起こさずに、俺は純佳の正面に座って、ひとまず弁当を食べることにした。

 今日の課題のこと、それから、『薄明』用の原稿。
 やらなきゃいけないことはある。それをこなしていかなければ。

 両親も、そろそろ帰ってくる頃だ。洗い物はまだやっていなかったようだし、早めに食べて終わらせてしまいたい。

 そう思って弁当をかきこみ、食べ終えたところで、純佳が目をさました。

「おはよう」と俺が言う。
「おかえりなさい」と彼女が言う。

「……寝ちゃってたみたいです」

「四月だし、疲れてるんだろ」

「そうかもしれないです」

「今日は早めに寝るといい」

「そうします」

 寝ぼけた声でそう言ってから、純佳は小さくあくびをした。



 彼女がシャワーを浴びるというので、俺は洗い物をして、ひとり自室に戻ることにした。

 夜は暗い。

 今日出た課題のことを考えるより先に、部誌の話を思い出した。

 部誌『薄明』。一学期中。まだ始まったばかりだとはいえ、ぼーっとしていたらあっというまに終わってしまう。
 まさかギリギリに発行するわけにもいかないだろう。
 試験だってある。ゴールデンウィークが終わる頃までには、なんとか方向性を掴んでおきたいところだ。

 文章。文章か。

 少しだけ考えようと思ったけれど、結局やめにしてしまった。

 そして、自分の部屋の中を見回してみる。

 小さな本棚に並ぶ雑誌と文庫本、何枚かのCD。
 何もかもが他人事みたいだ。まるで他人の部屋に感じる。

 どうしてだろう。いつからこうなったんだろう。

 そんなことを考えていても仕方ないので、今度は部屋を見回すのをやめ、部誌の原稿の内容を考えることにした。

 いつもそうだ。

 なにかが嫌になったらなにかに逃げて、逃げた先で嫌になったら別のなにかに逃げる。
 



 ライオンから逃げ出した男が、その先で切り立った崖と荒れ狂う高波に出会ったとしたら、
 彼はライオンの口の方へと引き返すのだろうか。

 そんなたとえ話を思い出す。

 そんな思いつきごと放り投げる。
 
 ――でも、きみの目に僕が変わって映るとしたら……それは、きみの目が変なんだと思うよ。

 ……今日は、さんざん人に好き勝手言われた日だった。

 自分がどうしてこんなありさまになっているのか、やっぱりよくわからない。

 何かが欠けている気がするのに、それがなんなのかわからないなんて、
 そんなの、結局、単なる思いすごしなんだろうか。

 真中と付き合っているふりなんてしているのも、
 ちどりに距離を置かれてそのままにしているのも、
 純佳に甘えてしまうのも、
 大野のゴーストライターをやっているのも、
 文章なんて書こうとするのも、
 結局全部同じ理由だ。

 何をしていいのか、何がしたいのかわからないから、流れに身を任せているだけだ。



 携帯を取り出して、誰かに連絡をしようと思った。
 
 とりあえず、最初に思いついた相手が瀬尾だったので、

「ばおわ」
 
 とだけメッセージを送ってみる。

「日記帳にでも書いておきなさい」とすぐに返信が来た。

「じゃあ今度から瀬尾に向けて言うべきことは全部日記帳に書いておく」

「片恋の歌みたい」

「調子に乗るな」

「まあ青葉ちゃんはかわいいから副部長が惚れちゃうのもしかたない」

「調子に乗るなと」

「いや~モテちゃうもんな~困ったな~ホント。彼女持ちにモテてもなー」

 イラッとしたので、ボイスメッセージ機能を起動して「人の話はちゃんと聞け」と怒鳴った。

「うるさい!」とボイスメッセージが返ってくる。ノリの良いやつだ。



「今日の晩飯なに食った?」

「おさしみ」

「タコたべたい」

「わたしタコきらい」

「おまえの好みなんて聞いてないんだが?」

「わたしが副部長の質問に答えたと思うなんて思い上がりもいいところだよ」

「やっぱりサーモンだよね」と追い打ちが来る。

「サーモンだな」と適当に返事を返すと、数分後、画像が送られてきた。

 牛乳プリンだった。

「これより食す」

「太るぞ」

「太らないんだなーこれが」

「俺もたべたい」

「知りません」

 返信を考えるより先に、また追撃。

「なんかあったの?」

 俺は一瞬戸惑った。


「なんかって?」

「だって、そっちから連絡よこすなんて珍しいし」

「いやまあ」と、返信ではなく、思わず声が出た。
 まあ、たしかに珍しいのだが。

 返信しないでいると、音声通話の着信が始まる。
 少し迷って、俺は出た。

「やあ」と瀬尾は言う。

「……やあ」と俺は返事をした。

「なんか、最近暗いねえ?」

「まあ、否定はできないけど」

「あは。変なの」

「なにが」

「さっきまでばかみたいなこと言ってたのに、声が真面目くさってるから」

 真面目くさってるとはなんだ。

「根が真面目だからな。どうしても出ちゃうんだよな」

「そうなんだ。ふーん」

 どうでもよさそうな声音に、してやられたような気持ちになる。
 弱みを見せている気がする。


「寂しいの?」

 と、なんでもないことみたいに、瀬尾は言う。
 それは図星だったんだろうか。

「……そんなわけない」

「ふうん? ね、副部長」

「……なんだ」

 副部長、と呼ばれるたびに、未だに違和感がある。
 すっかり定着してしまったが、前までは苗字で呼ばれていたから。

「寂しいならさ、ゆずちゃんに連絡しなよ」

 瀬尾はそういうしかないか。
 困らせているのかもしれない。

「真中とは……」

 と、言いかけて、やめた。
 それを瀬尾に説明して、いったい何になるっていうんだろう。
 
 どうもよろしくない。



「……あのさ、瀬尾。ちょっと聞きたいんだけど」

「ん?」

「前に、ましろ先輩だったかな。誰かが話してたのを聞いた覚えがあるんだけど……。
 桜にまつわる七不思議みたいなのって、うちの学校にあったっけ?」

「桜?」

「そう。桜の木の下の……」

「守り神?」

「……そんな話だったっけ?」

「精霊だったかな。わかんないけど。女の子のやつでしょ?」

「そう。どんな内容だったっけ」

「わたしもあんまり覚えてないんだけど……」

「異境、って、言ってなかったか?」

「イキョウ?」

「うん。異境」

「異郷って、遠くの土地って意味だったよね?」

「そう、その異郷でもあるんだと思うんだけど……ちょっとニュアンスが違う。異界って言うのか?」

「ちょっとファンタジーなお話?」

「守り神もそうだろ」

「そうだったそうだった。なんで急にそんな話?」

「……いや、どんな話だったかなって、気になっただけ」


「ふうん。でも、たいした話じゃなかったと思うよ」
 
 電話の向こうで、何かを整理しようとするみたいに、「んーと」と彼女は息をつく。

「たしか、だけど、うちの高校の桜には、精霊? 守り神? みたいなのがいるんだ。
 女の子の姿をしてて、ときどき、その子に出会う生徒がいるんだって」

「……ありがちだな」

「そう。漫画なんかだとありがちだけどね」

「いまなにか食べてる?」

「プリン食べてるってば。なんで?」

「いや、そんな感じがしたから」

「へんたい」

「なんでだ」

「ま、それはそれとして。その子は、学校で起きてることは、なんでもわかってて、誰の気持ちでも知ってるんだって」

「なんだそれ」

「知らない。それで、人知れず恋の手助けなんかをしてるって話だったと思うけど」

「恋の手助け、ね」

 本当にありがちな話だ。




「副部長がそんな話に興味を持つなんて意外だな」

「なんで?」

「だって、ばかにしてそうだもん。リアリストっぽいし」

「りありすと……」

 かっこいいワードが出てきた。悪い気はしない。

「オカルトとか、星占いとか、嫌いそうなのに」

「まあ、別に興味があるってわけでもないんだけど、否定もしてないぞ」

「そうなの? 幽霊とか、超常現象とか、信じる方?」

「信じる信じないという言い方が正しいかはわからないが……中には本当もある」

「……ん」

 まずいと思って、付け加えた。

「……かもしれない、とは思っている」

「あ、うん。まあ、そうだね。そういう言い方をするとね」


 でも、と瀬尾は続けた。

「その、イキョウっていうのは、わたしは聞いたことないな」

「……分かった。悪かったな、変なこと聞いて」

「べつにいいよ。暇だったし。そういえばなんだけど、あの、幽霊部員の子」

「うん?」

「どんな子だった?」

「どんなって……」
 
 ――三枝くん、べつに書きたくなかったんでしょう?

「……まあ、変わった子だったな」

「そっか。なら安心だね」

「何が?」

「だって、うちの部には風変わりな人しか集まらないもん」

 楽しそうに、瀬尾は笑う。
 俺も思わず笑ってしまった。



 不意に、ノックの音が聞こえて、扉が開けられた。

「兄、お風呂空いたから、早めに……」

「あ、うん」

「あ、電話中でした?」

「うん……。あと、もう入るよ」

「ごめんなさい。わたし、もう寝るので」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 扉が閉じられて、部屋が静かになる。


「今の、妹さん?」

「ああ」

「ふうん。かわいい声してるね」

「うん。声だけじゃないけどな」

「うわ、シスコンだ」

「べつに否定はしない」

「そうなんだ。仲良きことは美しきかなですね」

 ふあ、と、瀬尾はあくびをした。

「ごめん……あくび出た」

「いや。悪いな。長々と」

「ん。いいよべつに、暇だったから。電話かけたのわたしだし」

 そういやそうか。
 
「んでも、そろそろお風呂入って寝ようかな。副部長も早めに寝た方がいいよ」

「ああ。そうするよ」

 どうせ、なかなか寝付けないのだけれど。

「あ、そうだ。副部長」

「ん」

「もっと、楽しんだほうがいいよ」

 じゃあね、と瀬尾は言う。ああ、と俺も頷く。

 瀬尾と電話なんてしたの、そういえば初めてじゃないだろうか。



 彼女と話して、いくらか気分はマシになった。

 純佳に言われたとおり、風呂に入ることにして、それからまた自室に戻る。
 
 夜は暗い。夜は長い。夜はおそろしい。

 さっき、瀬尾に聞き咎められそうになったことを、自分で思い返す。

 超常現象を、信じるか。

 まさか、巻き込まれたことがあるなんて言えるわけがない。

 夜が怖いのは、そのせいかもしれない。
 
 もっと、楽しんだほうがいいよ、か。
 たしかに、そうかもしれない。


つづく




 翌朝は、純佳は当たり前に起こしてくれた。

「ありがとう」と言うと、「どういたしまして」とそっけない。
 結局昨夜もあまり眠れなかった。

 周囲にまぎれて学校までの坂道を歩きながら、今日のことを考える。
 
 もっと楽しんだほうがいい、と瀬尾はいうけれど、どうすればそうしたことになるのかがよくわからない。

 真中のこと、ちどりのこと、考えることが、たくさんあるような気がする。

 そういうのを全部放り出して、眠っていられたらそれで幸せなはずなのだけれど。

 と、そんなことを考えながら歩いていると、前方を歩くひとりの女子生徒に目がとまった。
 
 更に前方を歩く男女一組の様子を、うかがっているように見える。
 二人組の方は、ずいぶんいい雰囲気だ。

 横恋慕だろうか。

 と、考えた瞬間、ストーカーっぽい女の子がこちらを振り返ってじとっと睨んできた。



 彼女は俺が追いつくまで、ずっとこちらを睨んでいた。
 そして、声が届く距離まで近付くと、

「失礼なことを言わないでください」

 と不服げにつぶやいた。

「……何も言ったつもりはない」

「でも、考えたでしょ」

 俺は驚いた。
 昨日の朝、桜の木の下で見た女の子だ。
 昼休みの屋上で見た女の子だ。

「……守り神さんか」

「なんです、それ」

「いや。違うのか? そういう話を聞いたんだけど」

「気をつけた方がいいですよ」と彼女は言った。

「他の人にはわたしの姿は見えませんから、あなたはいま通学路の途中で突然立ち止まって独り言をつぶやき始めた危ない人です」

「……厄介なもんだな」

 俺は溜め息をついた。いったいどうすりゃいいんだ。


「どうすりゃいいと聞かれましても、わたしは放っておいてほしいんです」

 考えただけでわかるのか。便利なものだ。

「まあ、近くにいる人だけですけどね」

 しかし、昔から疑問だったのだが、心を読むというのは不思議な話だ。
 というのも、人は普通、普段行動するとき、「言葉」で考えているのだろうか。

 ああ、忘れ物をしたなとか、あれを持っていかなきゃなとか、そういうことを考えるとき、
 少なくとも俺は言葉ではなく映像やイメージで思い出している、考えている気がする。

 それなのに、フィクションに登場する読心術者というのは、言葉を読んでいる気がする。
 まさに今がそうなのだが。

「そこらへんはご都合主義ですからね」

 と彼女は言う。

「わたしに見えるのは上澄みだけですから」

 よくわからないことを言う奴だ。心を読まれていなかったら、電波扱いしているところなのだが。


 しかし、こうなると俺の方もどうするべきか迷う。

「あ、へんなのの相手してたら前方のカップルを見失いました」

「やけに説明台詞だな」

「わたし、親切なので。あなたが邪魔だってはっきり言ってあげないとと思って」

「そういう親切さは配慮とかオブラートで丁寧に包装してようやく親切って呼べるんだ」

「無関心と善意を履き違えてるような人に親切を説かれたくないです」

 耳に痛いことを言う女だ。ちょっと嫌いになってきた。
 見た印象よりも、よく喋る奴だ、という感じがした。

「とりあえずわたしはさっきのカップルを追います」

「出歯亀か? あんまり良い趣味とは言えないな」

「違います」と彼女は言う。

「彼らは厳密に言うとまだカップルじゃないんです。今日が彼らの天王山」

「天王山」

「わたしは彼女の背中を押す義務があります」

「義務」

「そういうわけで、あなたに付き合ってる暇はないです」

「それ、俺に言ってよかったのか?」

 しまった、という顔を彼女はした。


「じゃ、邪魔だけは。決して邪魔だけは……」

「しないよ……」

 なんでこんなに嫌われてるんだ、俺は。

「あなたは信用できません。なんか、へんな気配がするから」

「へんな気配?」

「正直、この世のものとは思えません」

 人間に対する形容じゃないだろ、それ。
 真顔で言われるとさすがに傷つくものである。

「わたし、あなたのこと好きじゃないんです。あなただけは手伝ってあげません」

「なんで嫌われてるかな、そんなに」

「ていうかあなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。人の心は複雑怪奇の摩訶不思議」

「失礼にもほどがある」

「正直あなたみたいにスカした態度で斜に構えてる人間があんまり好きじゃないです。わたし、甲子園とか好きなタイプなので」

「どうでもいい情報ありがとう」

「いいんですか?」

「なにが?」

「さっきから見られてますよ」


 俺は慌てて周囲を見回した。
 何人もの生徒が、立ち止まって俺を見ている。
 
 やっばい。

 例の女は心底おかしそうにくふくふ笑っている。
 非常に腹立たしい。

「……せんぱい」

 と、声をかけられて後ろを振り返ると、真中が怪訝げな顔をしてこちらを見ていた。

「あ……」

「なにやってるの、さっきから」

 ……一部始終を見られていたらしい。

「いや……あの、真中」

 俺は、一応、試しに、例の女を雑に指さした。

「ここに、なにか見えるか?」

 真中は、不可解そうに眉を寄せた。



「……何かって?」

「人とか」

「見えないけど……」

 女を見ると、ドヤ顔でうんうん頷いていた。
 非常に腹立たしい。

「ならいい……」

「じゃあわたしはこれにてドロンしますね」

「なんだドロンって」

「せんぱい?」

 ああ、厄介。

「さて、わたしは急がないといけませんね」

 とたとたと走り始めた後ろ姿に、俺は声を投げた。

「おまえ、昼休みに屋上に来い、説明しろ」

「えー? 気が向いたらそうしますー」


「せんぱい、大丈夫?」

 心配そうに見上げられて、さすがに溜め息が出る。
 とっさのことに冷静さを失った俺が悪い。

「……ちょっと疲れてんのかもしんない」

「……そっか」

 真中はそれ以上何も言ってこなかった。少しすると、周囲にいた生徒たちも校門に向かって歩き始める。
 変な噂が立ったら厄介だが……いや。

 どうせ遠巻きに見られるくらいが関の山だろう。気にするだけ無駄かもしれない。

 それから真中は、俺に気をつかったのか、いつにもなく必死な雰囲気で話題をつないでくれた。
 昨日のテレビとか、ネットで見つけた猫画像のこととか、そんな話だ。

 俺は真中と別れるまで二ワードくらいしか喋れなかった。





 教室につくと、クラスメイトに「おまえなんかしたのか」と声をかけられる。

「なにが」

「校門で一人エチュードをはじめたって聞いたけど」

「エチュード」

 練習曲。

「たぶん、おまえが想像してるやつじゃない。即興劇の方」

「ああ、ああ……」

 遠巻きで眺められるだけでは済まなかったらしい。

「いや、気にしないでくれ、寝ぼけてたんだ……」

「盛大に寝ぼけたな……」

 同情のまなざしで見られる方が、奇異の視線よりはだいぶマシだという気がした。

「で、なんだけど……あれ、おまえのお客さんか?」

「あれ?」

 彼の視線に従って自分の席を見ると、誰かが俺の椅子に座っている。

 誰かと言うか、市川鈴音だった。


「や」と彼女は手をあげる。

「……おはよう。どうした」

「ん。ちょっと伝えたいことがあって」

 市川は、そうとだけ言うと立ち上がって、俺の方を見た。

「文芸部、今日からわたしも出ることにしたから」

「……ホントに?」

「なんで不思議そうなの」

「いや」

 そりゃあ、俺が誘ったのだけれど。
 こんなに急に、出るなんて言うと思わなかった。

「部誌、出すんでしょう? わたしも参加する」

「……まあ、そう言ってもらえると助かる」

 正直、突然そういう話になるのは意外だったが、出るというならそれでかまわない。
 瀬尾がいちばん喜ぶだろう。

 せっかくだ、顔合わせも兼ねて、大野がいたらと思ったが、どうやらまだ教室に来ていないらしい。
 俺よりも早く来ていそうなやつなのにどうしてなのだろうと思ったが、ひょっとしたら委員会かもしれない。


 
「今日の用事は、それだけ」

「……そっか。わかった。わざわざ悪いな」

 しかし、たかだかそれだけのことを伝えるために、人の教室の他人の椅子に座って待っているものか?
 俺が瀬尾に言ったことだが、本当に変わり者らしい。

 瀬尾は喜びそうだけれど。

 じゃあね、とだけ言い残して、市川はそのまま去っていった。
 
 残された俺は、なんだか夢でも見ていたような気分になる。

 さっきのクラスメイトに「いまの美人誰?」と聞かれたので、
「部の奴」とだけ答えた。

「いいよな。この学校の文化部美人多くて」

 隣の席の女子(運動部)が、「なにをー!」と不服げに声を張り上げた。

 朝からみんな騒がしい。



つづく




 午前中の授業が終わり昼休みになると、俺は迷わず東校舎の屋上へ向かった。
 
 彼女がいるかどうかは分からない。
 
 朝が弱い俺のために純佳が作ってくれる弁当の巾着をさげながら階段を昇り、いつものように鍵を差し込む。
 彼女が来るかどうかは分からない。可能性としては半々くらいだろうな、と思っていた。

 それこそ、朝見た景色が俺の妄想という線も未だに捨てきれない。

 そう思って扉を開けたのだけれど、彼女は既にそこにいた。

「遅かったですね」

 扉を開けると同時に、彼女はこちらを振り返った。こちらに背を向けて風を浴びながら、俺の方を見た。

 その姿が、なんだか映画のなかの景色みたいに見える。




「……あのな」

 と、俺はさすがに頭を抱えた。

「なんでいるんだよ」

「なんでって。あなたが来いって言ったからです」

「そうじゃない」と俺は言った。わかってて言ってるんだろうとは思うが、言わずにはおけない。

「鍵。閉まってたのに。なんで、もういるんだよ」

「そういう常識、わたしと会話してる時点で、一旦捨てませんか?」

 そう言われてしまえば、もう考えるだけ無駄だという気もした。

 まあ、いい。最悪、もう、俺の妄想だとしてもいい。
 彼女の存在は、俺にはとてもリアルに感じられる。影も陰も気配も空気も声も、ちゃんと感じる。
 世界に存在する他のありとあらゆるものと同様に、俺には感じられる。

 仮にそれが俺の錯覚だとしても、その錯覚には意味がある、と思う。
 



「とりあえず、ひとつ、手始めに聞きたいことがある」

 彼女は不服そうに眉をひそめた。

「あの。それ、わたしが答える義理はあります?」

「ないけど。ないけど……とりあえず聞かせてくれ」

「……まあ、聞くだけなら、かまわないですよ」

 とりあえず、得るものもないまま逃げられることはなさそうだ、と、俺は少しほっとした。

「きみはいったい、なんなんだ?」

 彼女は、目を丸くする。「そんなことを未だに気にしていたのか」というような。

「……なんだよ、その反応。そんなに意外な質問か?」

「いえ。あ、まあ。やけに順応性高いなあとは思ってたんですけど、へんなこと気にしてたんですね」

「順応性……」

「わりとあっさり、わたしのこと受け入れてるように見えたので」

 受け入れたつもりは別になかった。ただ、そもそも冷静に考えられるような状況で遭遇していなかっただけだ。



「でも、残念ながら、わたしはその問いの答えを知らないんです」

「知らない?」

「わたしが何なのかなんて、わたしにはわからないです。それって、他の誰かが決めることだと思うから。
 わたしは他の人に見られたことってあんまりないから。だから、何なのか、誰も決めてくれてないんです」

「テツガク的な話だな……」

 自分を規定するものはなにか。 
 俺は人間だ、と言うとき、その自認を支えているのは何か。
 俺自身? でも、たとえば俺が世界にひとりきりの人間だったとしたら、俺は自分を人間と呼ぶだろうか?

 自分が何者であるかを規定するのは、いつだって、他者か、内面化された他者の視点だ。
 
 他者が、自分の中に潜んだ他者の視線が、自分自身を規定する。

 だとすれば、自分に対する『視線』を持たない彼女は、たしかに、何者であるとも自認できないのかもしれない。

 少なくとも『当たり前』の人間ではなく、
 かといって、鳥や獣や虫とも違う。
 
 何者とも規定されていない存在。

 ある意味切ない立ち位置とも言えるのかもしれない。




「名前は?」

「……ないです」

 そりゃ、そうか。呼んでくれる人がいないんだから、名前だって必要ない。
 
「でも」と彼女は付け加えた。

「ましろは、わたしのことを、"さくら"って呼びました」

「……"ましろ"?」

「ましろじゃないです。さくらです」

「そうじゃない。いや、さくらは分かった。いい名前だ。でもそこじゃない」

「と、言いますと?」

「ましろって、誰だ?」

「ましろは、ましろです。わたしの、初めての友達です」

「それ、会ったのはいつ?」

「えっと……ましろが一年生のときです。でも、このあいだ、ましろはもう卒業なんだって聞きましたから」

 ましろ先輩は、こいつが見えてた?
 
 だったら、先輩は、こいつのことを知ってた。その上で、俺達に、こいつのことを話していたってことになる。

 



 なんて言ってたっけ?

 俺には、異境と、そして瀬尾には、守り神と言った。

 だとしたら、ましろ先輩はきっと、噂について話したんじゃない。
“こいつ”のことを話したんだ。俺たちに。

「じゃあ、おまえは……人知れず、恋の手伝いをしているわけか?」

 俺の質問に、ここまでで一番の満面の笑みを、“そいつ”は、さくらは浮かべた。

「我が意を得たりとはこのことです。そのとおり。わたしは今そのために生きています」

 生きている、と来た。本当か?」

「あの、ひねくれ者のあなたにはわからないかもしれないですが……わたし、思うんです」

「はあ」

「世界は……愛に満ちているって」

「……はあ?」

 酔いしれるように瞼を閉ざし、彼女は夢見るような口調で呟いた。


「世界は、愛に満ちているんです」と彼女は続けた。

「郵便ポストも信号機も、学校も町役場も、電信柱もアスファルトも、みんな愛なんです」

 自信たっぷりの声音でつぶやくと、彼女は「どうだ」と言わんばかりの顔で俺を見た。
 電波にしか聞こえない。

「……そうかな」

「……不服げですね?」

「俺には、悪いけど、そんなふうには思えない」

「……ふうん。そうでしょうか?」

 さくらは複雑そうな顔をした。
 寂しそうに見えるのは、どうしてだろう。

「俺には、世界は……」

 世界が、空虚に見える。
 あるいは、
 世界が“空虚”で充溢しているように見える。

“空虚”によって“満たされている”ように見える。


「おそらくこれは、視点の相違という奴ですね」

 さくらはそう語る。

「そういうことになるだろうな」と俺も言う。

 そして俺たちは、どちらも間違っている。どちらも偏っている。
 そういうものだ。

 さくらはそして、にっこり笑った。

「だったら、わたしが思い出させてあげます」

「……何を?」

「からっぽなあなたに、からっぽじゃなかった頃のあなたのことを」

 それは歌うような声で、俺は思わず、信じたくなってしまった。
 
 このからっぽの正体を、こんな幻覚じみた存在に、確認してほしくなった。

 だから、

「できるもんならやってやがれ」

 と、俺なりの挨拶をした。







 拝啓ましろ先輩へ。

 おひさしぶりです。

 そちらの調子はどうですか?

 文芸部の部員は揃いました。
 思惑通りですか? したり顔の先輩を想像すると、ちょっと悔しい気持ちがあります。

 ひとつ、質問したいことがあります。

「さくら」という少女に会いました。
 先輩は、彼女のことを知っていたんですか?





 拝啓、愛しの後輩くんへ。

 ひさしぶり。こちらは相変わらずです。
 
 わたしは何も企んだりしてないよ。失礼な子ですね。
 でも、部員が揃ったならよかったです。

 さくらのこと、よろしくね。
 わたしの大事な友達だから。
 
 それが鍵の代金です。

 よしなに。



つづく





 その日、授業が終わると同時にさくらが俺の教室にやってきて、

「善は急げです」とばかりに俺を急かした。

 何の話だ、と頭の中だけで問いかけると、「今日が彼らの天王山なんです」と要領を得ない答えが返ってくる。
 
 そう言われてようやく思い至る。そういえば、朝にそんなことを言っていた。

 例の二人か。背中を押してやらないといけない、と言っていたっけ。

 俺はさくらの存在をとりあえず無視して、廊下へと向かった。
「無視しないでください」と言われるが、返事をしている余裕もない。

「なあ」と後ろから声をかけられる。大野だった。

「今日も俺、図書室に行くけど……」

「ああ」と俺は頷いた。

「いいんじゃないか」

「……瀬尾、なにか言ってたか?」

「なにかって?」

「怒ってたりしたかと思って」

 どんな心配をしているんだろう、と少し呆れる。

「まさか。なんでだよ」

「……いや、怒ってなかったならいいんだけどな」




 ひとつ溜め息をついて、話を変えた。

「今日から、幽霊部員が顔を出すかもしれないって」

「幽霊部員? 前言ってた子か」

「うん。なんでかは知らないけど、乗り気になってくれたみたいだ」

「そっか。分かった。俺はいけないけど……いや」

 大野は、ちょっと気まずそうな顔をする。

「どっちにしても、部誌の件は役に立てないだろうしな」

「そんなことないだろう。図書新聞の編集だってやってるんだろ」

「そりゃ、みんなでやってるだけだよ。できることがあったら、まあ手伝うけど」

「みんなできるをそれぞれにやってるだけだよ」

「……まあ、そうか。じゃあ、まあ、瀬尾に謝っといてくれ」

「何について?」

「……ああ、うん。そうだな。部活に出れないこと、かな」

「了解」

 それだけの返事を聞いて、大野は図書室の方へと歩いていった。

 さて、と俺はさくらの方を見る。


 それで、と頭の中だけで訊ねる。

 天王山がどうしたって?

「今日が彼らの天王山なんです。あなたにも手伝ってもらいます」

 ……やっぱり、頭の中で考えていることを読まれるというのはやりづらい。

 移動するぞ、とそれだけ脳内で話しかけると、さくらは黙って頷いた。

 校舎の端側、あまり使われていない南側の階段を昇り、踊り場へと向かう。
 窓から中庭の様子がうかがえる。今日も今日とて、放課後を迎えた生徒たちが喋ったり遊んだりしていた。
 憩いの場という奴だろう。

 うちの学校は、部活動も強制ではないので、帰宅部の連中がけっこう多い。

 バイトをしたり遊んだりと、何をしているかはさまざまだ。
 自習室もあるし、図書室は夕方まで開放されているから本を読んだりもできる。
 中庭や渡り廊下など、いろんなところにベンチがあったりするので、話し場所には困らない。
 
 案外便利な空間と言えるのかもしれない。

「それで、手伝ってもらうってどういうこと?」

「だから、あなたにも手伝ってもらいます」

「どうしてそうなる?」



「わたし、思うんです。人間は何かをしていないと腐っていく生き物だって」

「腐っていく」

「そう。何かをしていないと、腐っていく。だから、何かしないといけない」

「……」

「見るところ、あなたは腐敗してます」

 腐敗。

「……突然ひどい言いようだ」

「だからあなたは、何かをするべきなんです」

 腐敗。


 何かをしないと、人は腐っていく。
 そのとおりかもしれないと思った。

 何もしないでいると、倦んでいく。
 ただ思考だけに絡め取られて、何も見もせずに、わかった気になってしまう。

 汗もかかずに自分について知った気になってしまう。

 本当は何もしたことがないくせに。

 そして最後には、何もできなくなっていく。
 今の俺みたいに。

 なにかしなければと思うのに、なにもできないで空回りしている。
 ハムスターの回し車みたいに、からからからから回っているだけだ。

 かざぐるまであったならば、まだしも誰かの慰めにもなっただろうが。


「だから、あなたに手伝ってもらいます」

「あのさ。俺、これから部活があるんだけど」

「後回しです。あと十分で始まります」

「……後回しって。始まるって何が?」

「彼女の天王山です。今日、彼女は告白するはずです」

 するはず。
 その言葉に、なんだか奇妙な感覚を覚えた。
 それが最初じゃない。今朝話したときも、そんな感覚があったのを覚えている。

「三階の渡り廊下です。時間を決めて、彼女は彼のことをもう呼び出しています」

 そうだ。
 こいつ、心を読んでいるだけじゃない。未来まで見ているんだ。
 ついでに、起きたことまで把握している。
 
 これは参る。

 ましろ先輩は「よろしく」と言ったが、こんな規格外をどう相手にしろというんだ?




 まあ、いいや。

「告白するならいいじゃないか。見た感じ、いい雰囲気だっただろ」

「そうです。問題なく告白できれば、今日でうまくいくはずです」

「はあ」

「告白までも必須イベントもちゃんとこなしてます。一緒にお昼ご飯、一緒に下校、一緒に登校」

「それ必須イベントだったのか」

「はい。彼の悩み相談を受けて励ますところまでやっていたので、これはもうトゥルーエンド確実です」

「……そういうシステムなのか?」

「はい」

「それじゃ何が問題なんだ?」

「察しが悪いですね」

 呆れた溜め息をつきながら、やれやれ、とさくらは肩をすくめてみせる。
 小生意気な態度がいちいちわざとらしい。
 


「彼女は彼のことを呼び出しました。称えるべき勇気です。でも、ひとつ問題があります」

「それは?」

「何階の渡り廊下か、伝えてないんです」

「……はあ」

「もっと驚いてください。『なに、そいつは由々しき事態じゃないか』というふうに」

「……いや。携帯で連絡とればいいんじゃねえの?」

「ところが残念。彼女たちは連絡先をまだ交換していません」

「必須イベントこなしてないじゃんか。フラグ管理ミスってるぞそれ」

「どちらも引っ込み思案なので、どちらかが聞くという流れにならなかったのです」

「……ふむ」

 彼女は、三階の渡り廊下に彼を呼び出したつもりになっている。
 そして、彼は何階の渡り廊下なのかを伝えられていない。

「別々の場所で互いが来るのを待ち続けることになるってことか」

「そういうことです。そして、それが起きることを知っているのは、わたしとあなただけです」

「……」

 なるほど。
 由々しき事態と言えばそうなるだろう。


「状況はご理解いただけましたか?」

「ああ」

 些細な行き違い。不幸な勘違い。悲しい偶然。
 俺たちが生きている世の中には、そんなもので削り取られてなくなってしまう光みたいなものがある。

 それは本当にそうだ。

 言葉の使い方、態度の解釈、そんなもので、俺達に見えるものは簡単に変容する。

 こいつはそれを正そうというのだ。
 ……でも、それは、それ自体は、正しいことなのだろうか?

 そんな考えが一瞬ちらついたけれど、俺はもう乗り気になっていた。

「おまえの言葉を信じようじゃないか」

 さくらに向かって、俺はそんな言葉を投げた。
 どうやら、俺の頭はいかれているのかもしれない。

 嘘かホントか分からない、証拠も何もない話に乗るなんて。

 でも、それはいつもどおりだ。

 俺はいつだって、流されているだけだ。流れに身を任せて、あたりを眺めているだけだ。

 だったら、今度もそれに乗ろう。

 そして、この子との出会いが、俺をどこに連れていくのか、見定めてやろう。
 
「偉そうなこと考えてますね」と、さくらは不服げだった。

「今に、あなたから泳ぎだすように仕向けてあげますよ」

 からかうような笑みが、今はなんだか心地良い。
 
 さて、悪戯をはじめよう。
  

つづく


 さくらはそれから、俺にしたのとだいたい同じような説明を瀬尾に繰り返した。

 こうしてちゃんと話したところで嘘くさくなるし、納得できるような話でもない。
 だったら巻き込んでしまえばいい。

 しかも、こういうのはたぶん、俺よりも瀬尾のほうが得意分野だろう。

 おせっかいを焼くのが好きなやつにはもってこいだ。

「……つまり、どういうこと?」

 瀬尾は、話の内容を理解できないというより、本気で言っているのか、というふうに首をかしげた。
 からかわれてると思ってるのかもしれない。


 さて、困った。たしかに俺だって、最初は戸惑っていたのだ。
  
 信じるまでには、いくつかの状況が必要だった。

 心を読まれたこと。
 姿が他の人間に見えなかったこと。

 どうしたものか、と迷ったけれど、

「そういうことなら」

 とさくらが口を開いた。

「わたしに任せてください。ちょっと、外に出ていてもらえますか?」

 そう言われて、俺はすぐに屋上を出てふたりきりにした。

 


 少し経って、扉の向こうから「もういいですよ」とさくらに声をかけられる。

 屋上に戻ると、瀬尾が膝をついてうなだれていた。

「……どうした、瀬尾」

「なんでもない。信じた」

 なにやらショックを受けているが、やはり手っ取り早い方法だったと言えるだろう。
 いったいどんな方法を使ったかは知らないが。

「あなただって反対しなかったでしょう」

 と、心を読まれた。これを使って証明されたら、それはさぞかしショックだろう。
 とはいえ、それにしても、尋常ではない気がする。

 いったい何を言ったんですか。

「それを教えるのは、さすがにやめておきます」


「……副部長!」

「え、なに」

「聞かないでよ、その子に」

 思いの外、真剣な様子だった。
 
「……さくら、おまえ、やり方を少しは考えろよ。だいぶダメージあるみたいだぞ」

「やり方はあなたが考えました」

「じゃあ、内容」

「それに関しては、わたし任せだったでしょう」

「……酷いやつ」

 愛がどうこう言ってた奴と同じとは思えない。

「聞かれたくないことは言わないし、たぶんさくらも言わないよ。心配すんな」

「……ひどい。あんまりだ」

 すっかり落ち込んでしまっている。なんだか少し意外な気がした。
 瀬尾に、そんなにも隠したいことがあるというイメージがなかった。
 
 いつも素直で、腹芸が得意なイメージなんてまったくない。

 そりゃ、誰にだって、そういう秘密くらいあるだろうけど……。



「それで」

 と、さくらは話を続けた。

「話はわかってもらえたと思うんです。べつに、あなたを不快にさせたくてこんなことをしたわけじゃないってわかってくださいね」

「……よく言うよ」

 瀬尾は、うめくみたいに答えた。

「でも、わかった。本当だってことは、わかった」

 頭を落ち着かせようとするみたいに、彼女は額を抑えて目を瞑る。
 
「とりあえず、立った方がいい」

 自分が蹲っていることにようやく気付いたみたいに、瀬尾は立ち上がり、

「……ごめん」

 となぜか謝った。

「……大丈夫?」

 一応訊ねると、彼女はこほんとひとつ咳払いをする。

「大丈夫。話はわかった」

 さっきからそれを繰り返していたけれど、今度はいくらかしっかりと口調だった。

「話はわかったけど、意味わかんない。……どうして、そんなことをしなきゃいけないの?」



「どうして?」

 さくらはその言葉を繰り返した。
 
「どうしてって、理由が必要ですか?」

 心底疑問だというふうにさくらは問いかける。

 これは、けれど、俺にはない視点だった。

 俺がさくらの『使い』を引き受けたのは、俺の個人的な心理事情に依る部分が大きい。
 いくらちゃんと説明したところで、瀬尾が引き受ける道理なんて、ないと言えばないのだ。

 そもそも、どうしてさくらが、縁を結ぶ必要があるんだろう。
 それを俺はまともに考えたことがなかった。

 さくらはこの学校の守り神だ。逆を言えば、この学校以外の縁は結べない。
 ということは、さくらがいなくても、人と人は出会うし、結びつくのだ。

 どんな場所にでも守り神がいて、そこに役割分担があるというなら話は分かる。
 けれど、少なくともさくらはそんな話はしていなかった。

「世界は愛に満ちています」
 
 と、さくらはまた繰り返した。

「でも、それはとても細く弱々しい糸です。だから、誰かがそれを繋ぎ止めなきゃいけないんです」

「それが、あなたってこと?」

 いかにも納得いかない、というように、瀬尾は少しだけ眉を吊り上げた。




「それって、余計な介入なんじゃないの?」

 急に口調を尖らせてそう言った彼女に、戸惑う。
 どうしてそんなに過敏になったのか、わからなかった。

「あなたが介入したせいで失われてしまった縁も、ひょっとしたらあるんじゃないの?」

「……」

「どうしてあなたが、その縁を判断する立場にあるの?」

「瀬尾」

「大事なことだから、聞きたいの。副部長。ねえ、それはあなたの恣意で判断していい事柄なの?」

「……」

 さくらは答えなかった。
 ただ、黙って瀬尾の顔をじっと見ている。

 そして、短く、

「じゃあ、“あなた”はどうなんですか?」

 と、瀬尾に向かって小さく呟いた。

「……わたしが、なに」

「あなたは、何も変えないんですか?」

「……おまえら。俺に分かるように話せ」

 さすがに口を挟むと、ふたりは気まずそうな顔をした。


「べつに、そこらへんはいいだろ。大事なのは、ましろ先輩がこいつの手伝いをしてて、俺もこいつを手伝ってるってこと。
 そりゃ恣意的かもしれないけど、基本的には背中を押してるだけだろ。悪いこと考えたって仕方ない」

「……誰かと誰かを結びつけることで、他の誰かがその誰かと繋がれなくなったとしても?」

「でも、その誰かと結び付けないことで、その誰かと誰かは繋がれなくなるわけだろ。結果はおんなじだ」

 瀬尾はそれでさすがに黙った。
 どうして、こうなったんだ。

「とにかくそれで、どうせだったら瀬尾に手伝ってほしいわけ」

「なんで」

「さくらのこと、見えてるからだよ」

「……」

「とりあえずさ、やってみない? って言っても、俺も、こいつの言いなりになってるだけなんだけど」

「……仕方ないから、引き受けてあげる」

 案外、瀬尾は素直だった。

「円満解決ですね」

 ……そうなんだろうか?

 よくわからなかったけど、結局チャイムが鳴って、その朝はそれで終わった。

つづく



 ◇

 真中は東校舎の屋上の前にいた。
 開かない扉の前で膝を抱えてうつむいていた。

 俺の足音がきっと彼女にも聞こえていただろうと思う。
 でも彼女は顔もあげなかった。

 どうしてなんだろうな、と俺は思った。

「真中」

 声をかけても、彼女は身じろぎひとつしなかった。
 膝に顔を押し付けて黙っているだけだ。

 隣に座る資格があるのかどうかすら分からない。
 



 結局ただ、彼女がそうしている姿を眺めているだけだ。

 俺は卑怯者だ。

 でも、みんなそうだ。

 真中だって、こんなふうになるまではっきりとしたことなんて一度も言わなかった。
 あんなふうに俺をけしかけた瀬尾だってそうだ。

 ついさっきまで、「恋をしないとだめなのか」と言っていたくせに、
「泣かせたら許さない」なんて無茶を言う。

 なんにも知らないくせに。

 みんな勝手だ。俺だけじゃない。

 でも、違う。
 そうじゃない。




「なあ、真中。おまえが何に腹を立ててるのか、俺にはわからない」

「……本気で」

 ようやく返ってきた言葉は震えていた。

「本気で、わからないんですか」

「……こうなのかな、というのはある。でも、正直、わかりたくないんだ」

「……なんで」

 わかりたくない。
 知りたくない。



「真中、おまえさ、俺のこと好きなのか」

「……そういうこと、普通訊きます?」

「俺は普通じゃないんだ」

「知ってる」

「そうじゃないんだよ」と俺は言う。

 本当は、言わなきゃいけないんだろう、きっと。

 自分でもうまく言語化できないこと。
 どうしてそう感じるのかわからないのに、うまく説明もできないのに、たしかにそうだと自分自身で感じること。
 きっと、どう言ったとしても、誰の耳にも悪い冗談にしか聞こえないようなこと。

 あの夜の、事実としか思えない夢、あるいは夢としか思えない事実。
 けれど、それを、俺は、どうしても、引きずり出す気になれない。

 俺自身が、蓋をしようとする。けっしてそこに踏み入る気にならない。
 触れることが、おそろしい。

 だから、言えない。



「真中、俺はおまえを好きにならないし、おまえも俺を好きにならない。そういう約束だった」

「二番目の方は、約束してない」

「でも、そういう話だった。だから、俺たちはこれまで一緒にいられたんだ」

「そんな話、聞きたくない」

 どうしてだろう。いつからだろう。

「俺はおまえを好きにならない」

 と、そう言うしかなかった。

 嘘だ。
 真中のことが、好きじゃないわけではない。
 真中を好きになれないわけでもない。

 魅力的な子だと思う。かわいいと感じることもある。
 もしこの子と一緒に過ごせたら幸せだろう。

 でも、俺は、真中を好きにならない。
 
 ならない。なってはいけない。
 
 そこは決して『俺』の居場所ではないから。

 根拠なんてない。理由がはっきりと分かるわけでもない。




 ただ降りかかる実感として、認知として、思う。

 仮にそんなことが起きたとしても、それは本来、俺の身に起きるべきことではないんだと。
 強迫観念に近い。原因がどこにあるのかもわからない。

 でも、俺のその感覚は、どこまでも強固だ。
 逃れようもなく、強固だ。

 どうせ、誰に言っても理解してくれない。気取りや韜晦と思われるのがオチだ。

 それでも俺は知っている。
 何度も夢に見た。眠れない夜も、眠たい昼間も、ずっと夢に見ていた。

 俺の本来の体は、まだあの暗い森の中にある。
 冷たく暗い枯れ木のうろに投げ込まれたまま、骸になる日を待っている。 

 今この瞬間だって、俺は、
 暗い森の枯れ木の虚で、森のざわめきに怯えている自分を、同時に体験している。
 
 そのどちらが本当に俺が見ている景色なのか、俺には分からない。
 
 この現実のすべてが、夜に見る夢のように思えて仕方ない。





「……もういい」と真中は言う。

「なんにも言わなくていい」

 彼女は顔をあげて俺の方を見た。

「いい。せんぱいがわたしのことを好きじゃなくてもいい」

 そんなの、最初からわかってたことだから、と彼女は言う。

「べつにいい。そんなの、いい。ちょっと混乱しただけ。いまさら、気にしたってしかたない」

 彼女の言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。

「せんぱいがわたしを好きじゃなくたって、わたしがせんぱいを好きでいることは、せんぱいには動かせない」

「……」

「どうせせんぱいは、誰のことも好きにならない。だったら、わたしはずっとせんぱいにつきまとってればいいだけ」

「真中」

「最初からそのつもりだった。そのつもりでこの学校に来たんだ。わかってるもん」


「あのな、真中」

「せんぱいが最後の最後に、他の誰かよりほんの少し、ほんの少しだけでも、わたしのことを大事に思ってくれたら、それだけでわたしは勝ちなんだ」

 ひどく、苦しげに、うめくみたいに、彼女はそう言って、
 でも、

 俺は、彼女がそんなふうに言ってくれるほどの価値を、自分自身に見いだせない。

「だから、べつにいい」

 まっすぐに俺の方を見ながらそう言うと、彼女はいつもみたいにすまし顔を作って立ち上がった。
 それからもう、ひとりで階段を降りていってしまった。

 何事もなかったみたいに。

 取り残された俺はため息をついて、そしていつものように二重の視界がざわめくのを感じる。

 一瞬の錯乱。

 それはけれど、すぐに過ぎ去った。

 あと、何時間かすれば、また夜がやってくる。
 そうすればまた、あの葉擦れの音が、今よりもはっきりと聞こえてくるだろう。

 夢なのかどうかすら、わからない。
 それなのに、俺はばかみたいにそれに縛られている。
 
 身動きだってとれやしない。


つづく




 帰り道の途中で、俺はどうしてかまた『トレーン』に寄ってしまった。

 ちどりはいつものように俺を迎えてくれる。

「いらっしゃい、隼ちゃん」

 その表情に、俺は安堵する。ちどりはいる。ここにいる。

 どこか遠い場所にいなくなったりなんかしていない。
 それはたしかなことなのだろう、おそらく。

「……なんだか、元気がないですね?」

「そうでもない」

「ブレンドでいいですよね?」

 店の中にはほかに客の姿はなかった。俺はカウンターの席に腰掛ける。
 
 制服にエプロンをつけたまま、ちどりがカウンターの向こうへと行く。

 


 ポケットから携帯を取り出してみると、大野と瀬尾からそれぞれ連絡が入っていた。

 大野からは「話せた」。瀬尾からは「解決したみたい。副部長はどこにいるの?」

 どちらも三十分以上前に来ていた連絡だった。俺はその両方をとりあえず無視した。

「ここにいるときはいつも……」とちどりは言う。

「隼ちゃんはなんだか、悩み深い顔をしていますね?」

「そうだろうか」

「彼女さんと、何かありましたか?」

「それとは違う……」と言いかけて、結局言い直した。

「それもある」

 ちどりは意外そうな面持ちで俺を見た。

「隼ちゃんが素直に言うなんて、珍しいですね」

 明日は嵐ですか、と彼女はおどけて笑って見せる。
 そういえば予報では雨が降るらしい、と俺は返事をした。


 自分が何のせいでこんなにダメージを負っているのか、自分でもよくわからない。

 ただ、間違いなく、俺の身に何かが起きている。
 それはこの消えない葉擦れの音の、二重に見える風景のせいなのかもしれない。

 これはいったいなんなんだろう。

「予報では雨ですか」

「そう、雨」
 
 ちどりは何かを思い出したみたいに含み笑いした。

「なに?」

「覚えてますか、隼ちゃん」

「なにを」

「小学生の頃です。ふたりで一緒に帰ってたときのこと」

「……いや」

「予報は雨だったのに、ふたりとも傘を忘れたんです」

 カウンターの向こうに隠れたちどりの表情はこちらからは覗けなくなった。



「それで、帰り道で雨に降られて、わたしたち、神社で雨宿りをして……」

「ああ。なんだかそんなこともあったような気がする」

「そこで、捨て猫をみつけて」

 三匹の仔猫だった。
 瞼も開いていなかった。

「わたしたち、猫を抱えて、雨が止むまでずっとそこにいたんです」

 覚えている。
 何にも喋らなかった。何にも言わなかった。

 猫だけが鳴いていた。

「たしか、金曜日だった。次の日学校がないからって、ふたりで夕方までそこにいたんです」

 そう、そんな日があった。
 
 あのときは、そうだ。
 
 葉擦れの音なんて、まだ、聞こえちゃいなかった。
 風景が二重になんて見えていなかった。

 世界は何の瑕疵もなくそこに存在していた。
 
 当たり前のように。



「隼ちゃん、わたしね、ときどきあの日のことを思い出すんです」

「どうして」

「あの日、何にも話さなかったのに、隼ちゃんの顔つきが、すごく優しくて……」

 少し、悲しそうで。

「そのことを、思い出すんです。だから、わたしはちゃんと、知ってますよ」

 隼ちゃんが、本当に、本当に優しい人だってこと。

「だからそんなに苦しまなくていいんですよ」

 違う。
 違うんだよ、ちどり。

 それはおまえが見ている風景にすぎない。
 おまえがやさしい人間だから、俺がやさしく見えるだけに過ぎない。
 
 それはおまえの心の風物なんだ。

 俺の景色とは少し違うんだ。

 そんなことは口には出せなくて、俺はただ黙り込んでしまう。

 結局俺は何にも話せないまま、正直になんてなれないまま、『トレーン』を後にする。
 コーヒーを一杯飲んで、それだけで、「また来てくださいね」なんてちどりの言葉にうなずきだけを返して。






 家に帰ると、また純佳がひとり、ソファに座ってドラマを見ている。

「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と返事が来る。
 そのまま彼女はこちらをちらりと見やると、「ひどい顔ですよ」と驚いた声をあげた。

「そう、たしかに」と俺は頷いた。たしかにひどい顔だろうと思う。

「兄、大丈夫ですか?」

 珍しく、本当に心配そうな顔で、純佳は立ち上がった。
 本当にひどい顔をしているらしい。

 二重の風景が途切れない。
 音が止まない。
 
「純佳……」

「なんですか。お水、飲みますか?」

「俺は……」

 俺は必要な人間ですか。

 そんな問いかけが口をつきそうになって、押しとどめる。
 何も言うべきじゃない。

「……なんでもない。水を一杯、悪いけどもらえるか」

「……うん」

 明らかに何かをごまかしたと、彼女にだってわかるはずだ。
 でも、俺は言わない。純佳も触れない。

 そういうものだ。






 家に帰ると、また純佳がひとり、ソファに座ってドラマを見ている。

「ただいま」と声をかけると、「おかえり」と返事が来る。
 そのまま彼女はこちらをちらりと見やると、「ひどい顔ですよ」と驚いた声をあげた。

「そう、たしかに」と俺は頷いた。たしかにひどい顔だろうと思う。

「兄、大丈夫ですか?」

 珍しく、本当に心配そうな顔で、純佳は立ち上がった。
 本当にひどい顔をしているらしい。

 二重の風景が途切れない。
 音が止まない。
 
「純佳……」

「なんですか。お水、飲みますか?」

「俺は……」

 俺は必要な人間ですか。

 そんな問いかけが口をつきそうになって、押しとどめる。
 何も言うべきじゃない。

「……なんでもない。水を一杯、悪いけどもらえるか」

「……うん」

 明らかに何かをごまかしたと、彼女にだってわかるはずだ。
 でも、俺は言わない。純佳も触れない。

 そういうものだ。



 キッチンの流し台で、純佳はすぐに水を用意してくれた。
 俺はそれを一息に飲み込んだあと、少し溜め息をつく。
 
 鞄を置き、そして自分の身に何が起きたんだろうと考える。

 いつからだ。
 
 いつから風景が二重に見えるようになったんだ。

 俺の半分があの景色の中に置き去りにされたのはいつからなんだ。

「兄、本当に大丈夫ですか?」

 純佳は背中をさすってくれる。彼女は俺のドクターだ。今も昔も。
 それだっていつからだ?

「あのさ、純佳……」

 もう一度言いかけると、今度は純佳は返事もせずに俺を見上げる。
 本当に心配そうな顔。

「夢の話を、しただろ。こないだ」

「……うん」

「純佳……おまえ、なにか知ってるか?」

 純佳は、一瞬だけ表情を凍らせて、

「知らない」

 と言った。


つづく




 翌朝、純佳に起こされ、彼女の作ってくれた朝食を食べ、「今日は顔色がまともですね」とありがたい言葉をいただいて家を出た。

 学校につくと大野が俺の席の近くにいて、「待っていた」という顔をした。
 俺は頷いた。

「話せたらしいな」と俺は言う。

「ああ。……顔色が悪いな」

「あまり眠れなかったんだ。今は平気だ。それで?」

 これは本当だ。今は、葉擦れの音は止んでいる。というより、遠ざかっている。

 大野は少し言いよどむような顔をした。

「……おかげさまで」

「付き合うことになったか?」

「そこまではなっていない」

 慌てた調子で彼は否定する。

「とりあえず和解だ」

「そうかい。よかったな」

「あっさりしてるな」

 むしろ俺には、たったそれだけのことが今に至るまで複雑に入り組んでしまっていたことのほうがよくわからなかった。


 みんな言葉足らずなのかもしれない。

 どうしてなのだろう。大野も、市川も、たぶん、俺や瀬尾や真中だってそうだ。

 自分について話すのを避けてしまう。
 誰かに知ってほしいと思うことを、誰かに話すことができない。

 どうして?

 怖いから。疑っているから。信じられないから。

 あるいは。

「もう少し喜んであげてください」とさくらの声が聞こえる。

「せっかく友人の長年の悩みが解決したところなんですから」

 たしかに、と俺は思う。そう言われるまで、素直に大野の悩みの解決を喜ぶ発想にならなかった自分を発見する。

 こういうところなのかもしれない、結局のところ俺は……。

「あなたは本当に、自分のことしか考えていない寂しい人なんですね」

 心を読むな。

「読んでません。あなたがわかりやすいんです」とさくらはあくまでも俺を非難する。


「まあ、よかったな」と、俺は一応の祝福を述べる。

「ああ。ありがとう」

 大野は珍しく素直だった。

 そして、さくらに心の中で声をかける。

 そこが俺の問題だという気がする。

「そう、そこがあなたの問題です」とさくらは肯定する。

「あなたは誰ともつながることができません。なぜならあなたは周囲に興味がないからです。
 だから簡単な世間話もできない。相手に興味がない。相手が何を好きかにも興味がない。
 人とうまく関わることができません。皮肉を言うのが精一杯。誰かと何かをしたいという欲望もない」

 今まさに皮肉を言われている俺を誰かに哀れんでほしいものだ。

「でもそれはどちらなんでしょうね。ひとりでいるのが好きだから、楽だから、他人との関わり方がわからないのか。
 それとも、他人との関わり方がわからないから、ひとりでいる方が楽になってしまったのか?」

 そんなことは俺にももちろんわからない。
 なるほど、けれどたしかにそうだ。

 問題は、なぜこんな状態になったか、ではないのかもしれない。

 この状態を、俺はどうするべきなのか? どうしようがあるのか?

「けれどそれは、もう少し先の話です」

 彼女はそう言った。もう声は聞こえない。振り返ると、彼女の姿はそこにはなかった。
 最初からいなかったのかもしれない。


「それで、瀬尾が張り切ってるぞ」

「ん」

「部誌作り。市川もやる気になったから」

「はあ。そうか」

「俺も、何かを書こうと思う」

「いいのか?」

「ああ。……たぶん、何かを書くべきだという気がする」

 それは結構なことだ。……と、そこで。

 俺は、昨日自分があんな状態に陥った原因のひとつであるやりとりを、急に思い出した。

 ……瀬尾と市川と大野は、やる気になった。

 真中は?

 昨日、真中は、あのあと、どうしたのだろう。


 俺は大野との会話を打ち切って、教室を出た。

 真中は来ているだろうか。それが急に心配になってしまう。

 とにかく、教室まで行ってみようと思う。
 けれど、何を言えばいいだろう。昨日自分が告げたこと以外のことを、俺はなにか彼女に対して言えるだろうか。

 そこで俺は立ち止まってしまった。

 真中に対して、俺が言えることってなんだろう。
 
 それがわからないまま彼女と接することは、正しいことなんだろうか。

 正しさなんてものを自分が求めているかどうかさえ、そもそも俺には分からなかったのだけれど。

 そんな迷いのせいで立ち止まってしまう。
 
 そんな状態のままで、彼女の気持ちをどうこうすることなんて、俺にはできない。
 ……だとしたら。

 俺はこの状況を、どうにかしなければならないのかもしれない。





 放課後、文芸部室に、部員たちは揃っていた。

 瀬尾青葉、市川鈴音、大野辰巳、三枝隼、真中柚子。

 みんな、すっきりとした様子だった。
 真中は俺が部室につくより先にやってきていて、「遅いよ、せんぱい」なんて言った。

 瀬尾がホワイトボードの前に立ち、みんながそれを囲むように椅子に座っている。

 俺は真中に手で示され、彼女の隣のパイプ椅子に腰掛ける。
 相変わらず顧問は姿を見せていないみたいだ。

「揃ったね」と瀬尾は言う。

 昨日のことには、誰も触れない。もう、一通り話し終わったあとなのかもしれない。

「ね、せんぱい」と、ひそめた声で真中が言う。

「なんだか、なにもなかったみたいだね」

 くすりと彼女は笑う。そんなことを言うその表情は、けれど、俺と一緒にいたときの真中のそれとは違う気がした。

 ほんの少し、彼女は表情を取り戻した、あるいは、解き放った、ように見える。

 不意に真中はこちらに体を傾けて、俺に静かに耳打ちした。

「覚悟しててね」と彼女は笑う。そんな喋り方をする彼女を、俺はまだ、見たことがない。

「わたしももう、開き直っちゃったから」





 話の内容は、この間していたのと同じようなものだ。

『薄明』を出す。そのために、原稿を用意してほしい。

 以前はいなかった市川に対しての、改めての説明ということになる。

 けれど、前とはみんなの反応が違った。

 大野も、真中も、乗り気だ。

 変わらないのは俺だけだ。

 何を書けばいいのかなんてまだ分からない。

 でも、そうだな、と俺は思う。
 
 書こう。書くことで何が変わるというわけではないのかもしれない。
 あるいは書くことでより入り組んだ場所に連れて行かれることもあるかもしれない。
 
 ひどく混乱した場所に迷い込んでいくことになるかもしれない。

 でも、書こう。
 いつだってそうだった。

 書くことでしか、俺はどうせ考えることができない。
 そこにどれだけの嘘が含まれていたとしても。






 話が終わったあと、みんながそれぞれに別のことをしはじめた。

 瀬尾は本を読み、大野はノートを開いた。真中は何かを考えるように壁にかけられた絵を眺めている。
 市川はひとり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 俺は、立ち上がって部室の隅の戸棚へと向かい、『薄明』のバックナンバーに目を通すことにする。

 べつに考えがあったわけではない。何か、とっかかりのようなものを求めたのだ。

 ふと思いついて、佐久間茂の例の散文に目を通す。

 文章とはいったいなんなのか。大野も昨日、そんな話をしていた。

 書くことによって、何が可能か。
 あるいは、書くことは何を伝えうるのか。

 ぺらぺらとページをめくりながら、なんだか自分が途方もない空間に足を踏み入れてしまったような錯覚に陥る。
 手にとっていたものを、ひとまず棚に戻す。

 それから、去年の『薄明』を棚から取り出した。

 先輩たちの書いた文章と、俺と瀬尾が書いた文章が一緒になっている。

 ましろ先輩の書いた文章も、ちゃんと残されている。
 読んだ記憶はあるのに、どんなものだったか、具体的には思い出せない。

 試しに開いてみると、見開きの一ページ目がエピグラフになっていた。







 しろやぎさんから おてがみ ついた
 くろやぎさんたら よまずに たべた
 しかたがないので おてがみ かいた
 さっきのてがみの ごようじ なあに

 くろやぎさんから おてがみ ついた
 しろやぎさんたら よまずに たべた
 しかたがないので おてがみ かいた
 さっきのてがみの ごようじ なあに






 こんなページ、あっただろうか。見逃していたのかもしれない。

 有名な童謡だ。タイトルは忘れたが、たぶん大抵の人が聞いたことがあるものだろう。
 
 部誌の編集はましろ先輩がやっていたはずだ。彼女は何を思って、これをエピグラフにしたのだろう。

 ヤギがお互いに向けた手紙を互いに食べ続ける、コミカルとも奇怪ともとれるエピソード。
 
 多少ミステリアスな部分もあるが、示唆的だとも言える。

 しろやぎは手紙の送り主がくろやぎであることをわかった上でそれを食べてしまう。
(どうして手紙だとわかっているのに食べずにはいられないのだろう?)

 そしてやむを得ず、その手紙の用件を訊ねるために手紙を送る。
(どうしてその手紙に使う紙を食べずに届いた方の手紙を食べてしまうのだろう?)

 それにもかかわらずここにはコミュニケーションが発生している。

 内容のない(あるいは内容を必要としない)相互コミュニケーション。

 空疎な交換。





 息が詰まるのを感じて、俺は部室をあとにして、屋上へと向かった。
 
 さくらはそこで待っていた。

 彼女の後ろ姿を見ながら、俺は少しだけ考える。
 
「とりあえずは、これでいいでしょう」

 と彼女は言う。

「部誌作りは再開、みんなの心はひとつになりました。あなたの彼女さんも、本気を出すみたいです」

「……」

「それであなたは、これからどうなるんでしょうね?」

「おまえには、少し、見えるんじゃないか」

「あなたは見えない」とさくらは言う。

「あなたは少し違うから」

「どう違うんだろう?」

「それはわたしにもわかりません。ただ、あなたが、いくつかの意味で普通でないということはわかります」

「普通」




「そう。それがどうしてなのかは知らない。でも、あなたは近々、その景色に関わっていくことになると思います」

「……どうして、そう分かる?」

「逆を言えば、そのくらいのことしかわかりません。あるいは、ひょっとしたらあなたは、わたしに近い存在なのかもしれない」

 近い存在。

 さくら。
 
 異郷、と、ましろ先輩はそう言っていた。

 異郷?

「もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
 でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
 あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
 あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない」

 彼女。

「彼女って……?」

 俺の問いかけに、「もうすぐですよ」とさくらは笑いもせずに言った。


つづく




 それから二週間後のある木曜日に、俺たちはそれぞれに原稿を提出し部誌を発行した。
 
 編集作業は主に瀬尾が担当し、俺と大野もそれを手伝った。
 
 瀬尾は終始自分の編集の出来に不安そうにしていたが、歴代の『薄明』と並んで遜色ない程度の出来ではあった。
 人数の関係で厚さはないが、それでも、見栄えも内容も、決して見劣りはしないだろう。

 真中は掌編を三本仕上げた。「なんだか楽しくなってきた」とは彼女の言葉だ。
 
 大野は、それまでの嘘を取り返すみたいに何本かの感想文を書いていた。
 出来に関してはまあ、図書委員の顧問に「調子でも悪いのか」と心配されるくらいなのだが。

「今までが修飾過多だっただけですよ」と大野は俺まで貶めていた。

 市川は、おそらくこれまでも、何本か書いていたのだろう、一本の短編小説を仕上げただけだった。
 
 瀬尾もまた、短編小説を二本。

 俺もまた、短編小説を二本。

 もちろん去年のものには及ばないが、かといってペラペラというわけでもなくなった。
 ついでに、顧問だって本当にコメントを寄せてくれた。

 前年の部長にならい、瀬尾は部誌の冒頭にエピグラフを用意した。
 それはこんなものだった。
 





  あなたに歌を歌ってあげる
  そんなに長い曲じゃないけど
  心地よくなれる歌だと思う
  だから財布に手を入れて
  こんなわたしに硬貨をわけて
  そんなに多くじゃなくてもいいから
  





 それはどうやらマザーグースからの引用らしかった。どんな意味があるのかは、やはり俺には分からない。
 べつに瀬尾自身の小説とは関係がないようだった。

「たいした意味があるわけじゃないけど」と瀬尾は言う。

「だったらどうしてこれにしたんだ?」

「だから、たいした意味があるわけじゃないってば」

 彼女はそう笑っていたけれど、なんだか不思議な顔をしていた。

 まるで何かを諦めようとしているみたいに見える。

「ねえ副部長、この絵をどう思う?」
 
 彼女は部室の壁に飾られた例の絵を眺めている。
 俺は彼女の視線を追いかける。

 空と海とグランドピアノ。どこまでもどこまでも、淡く、けれど確かな線。

「どうって?」

「なんだか、この景色、どこかで見たことがあるような気がしない?」

 俺は、少しだけ考えて、答えた。

「綺麗な風景っていうのは……どこかで見たような感じがするものじゃないか?」




「そう?」

「たとえば、空の写真を見ると、どこかで見たような気がするだろう。おんなじ空なんてどこにもないのに」

「まあ、たしかに」

「海も山も、街も、そうだろう。何もかも、似通っているように見える」

 人でさえも。

「フラクタル」

「フラクタルだね」

「ねえ、副部長、最近、さくらって子に会った?」

「……ああ、まあな」

「なんだか、最近おとなしくない? 結局わたし、あの一回しか手伝ってないんだけど」

「さあな」

 他に都合の良い手伝いでも見つけたのかもしれない。
 
 あるいは、他になにか集中しなくてはいけないことでもできたか。



「ねえ、副部長、あのさ……」

「ん」

「ゆずちゃんとは、どうなったの」

「どうにも?」

 実際、ここのところは原稿の作業でお互い忙しかった。
 もちろん真中と過ごす時間がなかったわけでもないが、それだってたいした話はしていない。

「そういえば、鈴音ちゃんのこと」

「ん」

「苗字で呼ぶようになったよね」

「ああ、まあな」

 市川は不服そうにしていたが、結局のところそのくらいの距離感の方がやりやすい。
 というか、大野が市川と呼んでいるのに、俺が彼女を下の名前で呼ぶのも違うだろう。


「ね、いろんなことがあるもんだよね。一ヶ月とかそこらで」

「……そうか?」

「そうだよ。ゆずちゃんが入部して、大野くんも入部してくれて、市川さんが部活に出るようになって……」

「そう言われると、そうかもな」

「それで、部誌も完成させられて」

「うん」

 俺たちが完成させた部誌は、もう、図書室の一部にスペースを借りて置かせてもらっている。
 どのような評判になるかはわからないが、まあ、新生文芸部の最初の活動としては結果を残せたほうだろう。

「ねえ、それで……」

 そして瀬尾は、突然にこちらを見た。

「それで……?」

 それまで、何かを思い出すみたいに含み笑いしていたのを、彼女は突然にやめた。


「それで……?」

 彼女はまた、同じ言葉を繰り返した。

 あのとき、市川が泣いていたと、瀬尾が言ったとき、あの日のあの瞬間と同じ表情。

 いや、ひょっとしたら、部員が揃わなくても廃部にはならないと聞いたときも、似たような顔をしていたかもしれない。

 どこか虚ろな、

「それで、これで、どうなるっていうの?」

 そんな言葉を、瀬尾は吐いた。

「これが、いったいなんになるの?」

 子供が、詩でも諳んじるように、不意に哲学的な問いかけをするように、彼女は言う。

 春は終わり、初夏が過ぎ、季節は梅雨へと移り変わり始めている。

 空の色は暗い。
 
 雨の降る季節が来る。
 真昼でも暗い季節が来る。 




「瀬尾……?」

「ねえ、なんだか、わかっちゃった」

「……なにが」

「わたし、わかっちゃったんだ。副部長」

 ううん、と首を振って、

「三枝くん、わたし、わかった」

「……なにが?」

「ぜんぶ、つまんないんだ」

 それが世紀の大発見だというみたいな綺麗な笑顔だった。
 陰ひとつないようなその表情は、どこか空々しくて、俺は、昔のことを思い出した。
 
 やめろ。
 その顔で、そんな表情をするな。その顔で――。

「三枝くん」

「……」

「前から思ってたんだけど、わたしは、『他の誰か』じゃないよ」

「……」

「重ねるのはやめてね」




 でも、知ってるんだ、と彼女は続ける。

「知ってる。知ってるよ。ぜんぶわかってる。本当は最初から。
 ねえ、三枝くん、きみが今回の部誌で書いた小説、ね、どうしてあんなものを書いたの?」

「どうして、って」

「あれは……当てつけ?」

 気付かれていた、と思った。
 彼女はそれに気付いた。

「ねえ、あれ、わたしの真似だよね」

「……瀬尾」

「器用だよね、三枝くん。わたしがやってること、ぜんぶ巧くこなしちゃったね」

「瀬尾」

「どうして? 自分ならもっと巧くやれるって思ったの? わたしがやってることなんて誰でもできるって?」

「瀬尾」

「わたしがやってることなんて、誰かのモノマネ。模造品なんだ。劣化コピー。
 でもそれだって、組み合わせて必死になってこねくり回して、それでなんとかやっていけるって思った。
 でも、ねえ、三枝くん、そんなやりかたすらきみは否定するんだね。わたしは最初からなんでもなかったのに」

「違う、瀬尾」

「でも!」

 と彼女はほとんど吠えるみたいに言った。

「きみがしたのはそういうことでしょう」

 


 感情を抑え込むみたいに声が震えている。

「わたしにはなんにもないのに……わたしには、なにもできないのに。
 でも続けていけば、普通くらいにはなれるかもって、もしかしたら、わたしだけのものができるかもって、そう思ってたのに。
 でも、わたしがやってきたことなんて、きみに簡単に真似されるくらいのものでしかないんだ」

「瀬尾、俺は……」

「結局、そうなんだ」

 もう、俺を見てすらいない。俺の声を聞こうとすらしない。

「結局、偽物なんだ」

 途切れ途切れの音楽みたいに、

「わたし、やっぱり偽物なんだ」

 彼女は言葉を吐き出して、

「やっぱり、いらないんだ」

 それは、ついこのあいだ、俺が遮った言葉だった。
 でも、今は、もう、瀬尾は俺の声なんかじゃ止まらない。

「わたし、やっぱり、いらないんだ」

 それから、機械が突然電源を落としたみたいに、彼女の顔から表情が消える。
 もう、言葉すら発さない。

 そして彼女は、荷物も持たずに部室を出ていった。

 少しだけ唖然としてしまったが、俺は慌てて彼女を追いかけ、部室を出る。

 けれど、もう、彼女の姿は、気配や足音すら、俺には見つけられなかった。


つづく




 五月も末近いある日のことだ。
 放課後の文芸部室で、俺と真中はいつものように「北斗七星と南十字星はどちらがかっこいいか」というようなくだらない話をしていた。

「断然北斗七星じゃないか?」

「北斗七星は男くさい感じがする」

 と真中は譲らない。

「南十字星のほうが名前もスマートだし、英語にしてもかっこいいと思うよ。サザンクロス。北斗七星なんて英語だと、大きなひしゃくとかでしょ、たしか」

「いや、男くさいって、それは過去の名作のイメージに引っ張られてるだけだろ」

「北斗七星は男くさいよ。おおぐま座の一部でしょ。南十字星はみなみじゅうじ座だよ。上品でかっこいいよ」

「真中、おまえそれはかっこよさを履き違えてるぞ。第一、南十字星なんてここいらじゃ見えないし。その点北斗七星は……」

「履き違えてるのはせんぱいだよ。見られる機会が少ないからこそいいんでしょ」

 そもそもべつに北斗七星と南十字星をこんなふうに雑に比較することに意味があるわけがない。
 しかも俺も真中もさして星座や宇宙に造詣が深いわけでもない。
 だからこの話の結論は、俺たちふたり自身、どうでもいいとわかっている。

 のだが、退屈しのぎについくだらない話を長引かせてしまう。

 こうなるといつも延々と同じような話を続けるはめになるのだが、今日はそうはならなかった。



「いるか」

 ドアの向こうから声が聞こえて、俺と真中は顔を見合わせた。いるか。

「シャチ」

「合言葉じゃないと思うよ、せんぱい。ていうか、それなら立場逆だし」

 ドアが開けられて、俺たちは話を中断した。

「居るみたいだな」

 扉の隙間から顔を覗かせたのは大野だった。

「相談したいことがある」

 背もたれに体をあずけて、腕を組み、足を組み、退屈そうな顔を窓の外に向けたまま、大野辰巳はそう言った。
 頼み事をする態度には見えない。

「またか」

「まただ」

 感想文は自分で書けるようになったというのに、いったいなんの話だろう。


「とりあえず話を聞こう」

 俺は私立探偵よろしくテーブルの上で両手を組んで上段にかまえた喋り方をした。

「せんぱい、ばかみたいだよ」と真中が言うけれど気にしない。いまさらのことだ。

「実は、少し気がかりなことがあってな」

 こうなると、大野の方も付き合いがいいので、俺の私立探偵ごっこの雰囲気に合わせて返事をしてくれる。
 理解のある友人というのは貴重なものだ。真中は今度は何も言わなかった。

 とはいえ、大野の言葉を、俺は少し意外な気持ちで聞いていた。

「気がかりなこと?」

「正直、話すかどうか、けっこう迷ったんだが、まあ見てくれ」

 そう言って大野は手に持っていた一冊の本を長机の上に置いた。ボルヘスの『伝奇集』だ。


「これがなに?」

 大野は本を手に取ると、裏表紙の内側を開いてこちらに向けた。

 今時よそじゃ見かけないだろう古臭い貸出カードが入っている。

 借りた人間の名前と借りた日付を記入し、カードを図書室で預かる。
 返却された際は返却日を記入し、カードを本に戻す。

 かなりアナログな管理の仕方だ。

 うちの図書室はけっこう力が入っていると聞いたことがあるが、どうもそれはシステム面のことではないらしい。

 大野は貸出カードを抜き出してこちらに差し出してきた。

 なんとなく不穏なものを感じつつ、受け取り、カードの内容を見る。

 まず、カードの一番上にタイトルと著者名、棚番号が書かれている。

 その下に貸出の履歴。カードの半分も埋まっていない。その一番下に、見覚えのある名前が見覚えのある文字で書かれている。

「二年三組 瀬尾青葉 5/22 5/23」

 貸出日が二十二日、返却日が二十三日。
 書かれていたのはそのくらいの情報だ。


「どうしたの?」と真中が貸出カードを覗き込んでくる。

 彼女は怪訝げに眉をひそめると、「どういうこと?」と首を傾げた。

「分からない」

 そう、なるほど、これはたしかに気がかりというよりは、異様だ。

 瀬尾青葉は、五月の半ば、つまり十日ほど前、部誌を完成させた直後から、一度も学校に来ていない。 
 あの出来事から、彼女は学校に来なくなってしまった。

 連絡さえつかない。きっと俺のせいなんだろうと思う。

「これだけなら、まあ、瀬尾が授業に出ずに本だけをこっそり返しに来たんじゃないか、というふうにも考えられるんだが、問題があって」

 いかにも頭が痛いというふうな表情をして、大野はぱらぱらと本のページをめくる。
 何かが挟まれていたページでその手が止まった。



「……メモ用紙か?」

「ああ。見覚えは?」

 見覚え、といっても、どこにでもあるようなメモの切れ端だ。

 おそらく、リング式の小さなメモ帳から切り取っただけの、罫線が引かれているだけの、そっけないメモ用紙。

 ただ、見覚えがあるかないかでいえば、ある。

「瀬尾が、そういうのだったな」

「そうか。そうなんだろうな」

 そして彼は、四つ折りに畳まれたメモの切れ端を指先でそっと持ち上げて、俺に渡した。

 嫌な予感を感じつつ、俺は受け取る。メモ用紙には見覚えのある文字が(というより、明確に知っている文字が)並んでいた。

 内容は次のような具合だった。




「こんなメモを見つけるということは、あなたはボルヘスに興味があるか、それとも勘がいい人間かのどちらかでしょう。
 わたしの想像だと、たぶん大野くんあたりがあっさりこれを見つけてくれて、
 部に届けてくれると期待してるんだけど、それが本当になったら、みんなわたしに少しは感心してくれるかな?

 紙面がわずかなので手短に。わたしはいま静かな湖畔でまったりとこの手紙を書いてます。
 メモ用紙が小さいから字が細かくなるのは許してね。

 とにかく、こんなことになってごめんなさい。突然のことで驚いたと思うけど、でもわたしは無事。あんまり心配しないで。
 いま、とてもくつろいだ気分で過ごしています。

 心配しないで、なんて言わなくても心配なんてしないだろうけど、言っておきます。

 わたしはいま穏やかだから、放っておいてね。
 あ、何か伝えたいことがあったら、この本に挟んで本棚に入れておいてください。返事は書くようにするから。じゃあね。
 
                      瀬尾青葉」







 まいった、と俺は思った。確実に俺が知っている瀬尾の字だし、内容もいかにも瀬尾が書きそうなことだ。

 こういう状況をどう思えばいいのか、ちょっとよくわからない。

 額を抑えて考え込むが、どうも説明がつかない。
 この十日間ずっと連絡がつかなかった人間が、こんな陽気なメモを残していたんだから、俺じゃなくても当然だろう。

 思わず口をついて出た言葉は、

「静かな湖畔にいるやつが、どうして学校の図書室に本を返せるんだよ」

 とか、そんなどうでもいいことだけ。

「どう思う?」

 まともに考えるのも嫌だというふうに、大野は溜め息をつきながら訊ねてくる。

「どう、っていうと?」

「このメモ。瀬尾だと思うか?」

 俺は少し考える。とりあえず、いろんな要素は脇においておいて、瀬尾かどうかだけを判断しろというなら、

「高確率で本人だろうな。いや、絶対とは言えないが」

「だけど、本人だとすると、授業には出てなくても、学校には普通に来てたことになるよな」

 本が返却されているわけだから、そうなる。
 とはいえ、彼女は実のところ、登校していないだけじゃなく、家にも帰っていない。捜索願が出されたという話も聞いた。


 にもかかわらずこんなメモが見つかる、ということは、

「家出?」

 真中の声に、俺と大野は顔を見合わせた。

 少なくとも、メモの文章からすれば、自分の意志で望んで帰っていないというふうに見える。
 しかも、最後の文章を見るに、学校の図書室を頻繁に訪れることができる場所でもあるらしい。

 まさか図書室で生活しているわけでもないだろうが。

「だとしたら、人騒がせな話だが……瀬尾が、そんなことするか?」

 大野の言葉に、俺は考え込む。もちろん、そんなことをしそうには思えない。

 根拠はいくつでもあげられる。だが、絶対とは言えない。

 それに、このメモの中にも、気になることはいくつかある。

「わたしは無事」という言葉は、なんだか不自然にも思える。
 それに、「静かな湖畔」というフレーズも。このあたりに湖なんてない。

 何かの比喩か、冗談だろうか。いずれにせよ、考えてもわかりそうにない。

 俺は鞄からルーズリーフと筆記用具を取り出して文面を考えた。

「どうする気だ?」

「お返事を書こうと思って」

 大野が呆れた顔でこちらを見た。とはいえ、他にどうしようもないだろう。

「本気で返事が来ると思うか?」


 来ないと考える方が自然だろう。

 仮に本当に反応するつもりでメモを残したとしても、もう本人だって忘れている可能性がある。

 今頃は静かな湖畔を後にして、熱帯林の中で色鮮やかな鳥たちとハミングしている頃かもしれない。

 とはいえほかにどうしようもないだろう。

 とりあえず俺はメモ用紙に「ふざけんなバカ。どこで何やってんだ」とだけ書き込んだ。
 それから『アル・ムターシムを求めて』のタイトルのページにその紙片を挟んで大野に渡す。

「本棚に入れといて」

「本気か?」

「反応がなかったら、気にするだけ無駄だってことがわかる。反応があったら、捕獲に希望が持てる」

「絶滅危惧種の保護みたいな言い方だな」

「溺れる者は藁をもつかむのだ」

「まあ、無駄だと思うが」

 大野はそう言った。ところが反応はあった。





「三枝隼くんへ。いきなり「ふざけんなバカ」とはご挨拶ですね。
 そんなのだから女の子にモテないのです。猛省しなさい。

 まあ、どうやら心配してくれていたようなのでそこだけは感謝しておきます。
 というかごめんね。でもまあ、わたしひとりいなくても、ぜんぶぜんぶ、どうにでもなるでしょう。

 前回のお手紙にも書きましたが、わたしはいま静かな湖畔でまったり晴耕雨読の日々を過ごしております。嘘です。
 晴耕の部分は嘘です。ごめんね。ていうか雨読も嘘です。

 何も気にせずまったり過ごしています、という程度の意味だと思ってください。

 たぶんしばらくは帰るつもりになれないと思う。こっちに根を下ろすことになるかもです。
 とにかく、わたしのことは気にせず、みなさんで日常をお過ごしください。
 べつに誰のことも恨んでいないから気にしないでね。
 
                       瀬尾青葉」





 大野が混乱した様子でそのメモを文芸部室にもってきたのは、俺たちがメモを挟んで本棚に本を戻した翌日の水曜日だった。

 つまり、一日しか間をおかず、俺のメモと瀬尾のメモが入れ替えられていたのだ。

「あいつは図書室の天井裏にでもいるのか?」

 大野がそんな疑問を持つのも無理からぬことだろう。

「誰のことも恨んでないって。よかったね、せんぱい」

 なんて素直な反応を見せたのは真中だけだった。

 俺たちはそれから三十分ほどさまざまな可能性について検討したが、大した結論は出なかった。

 出てきたのはむしろ疑問だけだ。


 字や内容を見る限り、本人である可能性は高い。
 だが、本人だとしたらいったいどこにいるというのか。

 こんなに反応が早いということは、どこかで俺たちの様子をうかがっていたのか(部室に盗聴器でも仕掛けてあるのか?)。

 こんなメモを残すことの意味はどこにあるのか(このご時世顔を見せずに連絡を取りたいなら携帯電話があるじゃないか)。

 もちろん現実的に説明しようと思えばできないことはない。
 が、どの説明にも、ただの悪戯にしては大掛かりすぎるという難点があった。

 そんなわけで俺たちは考えることを諦めた。

 なにせ本人がしばらくは帰るつもりにはなれないと言っているのだ。

 監禁犯の目を盗んで瀬尾が書いた暗号文によるSOSという可能性も考えるには考えたが、そうだとしても解けそうにない。
 それを学校の図書室の選んだ本に隠せることの意味がわからない。深読みするだけ無駄になりそうだ。

 そういうわけで、どうしようもない。心配するなと本人が言うのだ。好きにさせておくしかないだろう。

 そして、俺はまた返事を書くことにした。ルーズリーフにシャープペンで。






「瀬尾青葉へ。

 諸々の疑問については、訊ねたところでどうせ答えてくれそうにもないので訊かない。
 どこにいるかとか、どうしてこんなまどろっこしい連絡手段なのかとか、
 返事がやけに早いのはどういうことだとか、そういうことについてももういい。お互いそこまでの義理もないだろう。

 せいぜい無理がない程度で生き延びてくれ。
 ただ、もしも俺が原因だと言うなら話がしたい。言い訳させてほしい。

 そっちがどこなのかは知らないが、根を下ろすというならそれもいいだろうと思う(具体的状況がまったく想像できないのでなんとも言えないが)。

 こっちは少し寂しい程度のことだし、少し心配だという程度だ。まあがんばってくれ」




 名前は書かなかった。誰かなんて、見ればわかるだろう。

 俺がペンを置いたところで、「わたしも書こうかな」と言って、真中が俺のルーズリーフを一枚勝手に取り出して、ペンを握った。
 べつにそれもかまわないだろう。俺が書きたいことは書いたのだ。みんなも好きにすればいい。

 真中は内容を考えるような素振りで、シャープペンをくるくると指先で回しながら、鼻歌をうたっていた。

 それは、誰もが聴いたことがあるような童謡の響きだった。
 名前は知らなくてもメロディーと歌詞は覚えているような、そんな曲。

「それ……」

 真中は顔をあげて、笑いもせずに教えてくれた。

「やぎさんゆうびん」






「しろやぎさんから おてがみ ついた
 くろやぎさんたら よまずに たべた
 しかたがないので おてがみ かいた
 さっきのてがみの ごようじ なあに」



 ◇
 
 俺たちの手紙を挟んだ『伝奇集』はそれから大野の手に渡り、図書室へと運ばれた。

 大野は疲れ切ったような呆れ切ったような顔をしていた。
「もう考えるのも面倒だ」と顔が語っていた。

 誰も必死に心配していないのだから薄情な話かもしれない。

 とはいえ、とりあえず生きていることははっきりしたのだ。ひとまず安堵してもいいだろう。

「ね、せんぱい。大野先輩が青葉先輩とグルになってわたしたちをからかってるわけじゃないよね?」

「それはわからないな」

「でも、こんなにすぐ手紙に返事が来るってことは、青葉先輩は誰かの家に転がり込んでるんだと思うんだよ。同じ学校にいる、誰か」

 現実的に解釈しようと思えば、いくらでもこねくり回せる。

 でも俺には、今回のことはそういうものとは違うように思える。

 ほんの少し外の空気を吸いに出かけただけにしか見えないような気安さで、彼女は姿を消した。
 部室に鞄を置いたまま、靴すらも下駄箱に残したまま。

 おそらくは俺のせいで。

 俺には、瀬尾青葉は本当に静かな湖畔で穏やかに暮らしていて、
 そこから俺たちに手紙を送り、そこで俺たちの手紙を読んでいる、そんなふうにさえ思えるのだ。

 ボルヘスの『伝奇集』を連絡手段にして。

 俺が返事をしないでいると、真中は話の続きを諦めたのか、「ま、いっか」と溜め息のように呟いた。
 お互い、こだわらないのは美点なのか欠点なのか。






 それでも空は分厚い雲に覆われている。まだ時間は早いというのに、あたりは暗い。
 俺はいろんなことを思い出しそうになる。

  さいわい雨は降っていないが、それもどう転ぶかはわからない。

 俺と真中は階段のそばの自販機で飲み物を買ったあと、いつものように東校舎の屋上へと繋がる階段を昇った。

「そういえば気になってたんだけど、せんぱいってどうして屋上の鍵を持ってるの?」

 この話は大野ともしたな、と俺は思った。

「譲ってもらったんだよ。先代の部長に」

「なんで?」

「なんでだろうな。たぶん先代も誰かに譲ってもらったんだと思う」

「ふうん」

「俺が卒業するとき、真中にやるよ」 

 真中の視線はこちらを向いていたが、たいして興味なんてなさそうだった。

 階段の踊り場の窓から中庭を見下ろしながら、真中は口を開いた。



「青葉せんぱいのこと」

「ん」

「よかったね。せんぱいのせいじゃないって」

 俺は、少し考え込んでから、思っていたことを言った。

「誰のことも恨んでないとあえて言葉にするということは」と俺は言う。

「恨んでいると思われる心当たりがあるってことだろ。その時点で思うところがあるって言ってるようなものだ」

 真中は釈然としないような表情を見せたが、何も言い返してこない。
 俺の考えを改めようとするのを諦めたのだろう。

 階段を昇りきって、鍵穴に鍵を差し込む。ぐるりと回すと、小気味いい音を鳴らして扉が開いた。

「でも、じゃあ、せんぱいは、青葉先輩がせんぱいを恨んでるからいなくなったと思うの?」

「いや。それだけじゃないだろうけど」

 真中の呆れた溜め息を聞き流しながら、俺は屋上の扉を潜り抜けた。


「せんぱいって、ネガティブ方向に自信あるよね」

「否定はしない。というかできない」

 はあ、という真中の溜め息を聞き流しながら、体を外の空気のなかに放り投げる。

 屋上から見える景色はいつもと変わらない。

 フェンス越しの街並み、分厚く引き伸ばされた灰色の雲、ひっそりと肌にまとわりつく雨の気配。

 湿り気を帯びた風が、だだっ広いだけの屋上を当たり前に吹き抜けていく。

 ここは行き止まりだ。ここには何もない。どこまでも広がっているのに、どことでもつながっているのに、ここからはどこにもいけない。
 デッドエンド。

「別に、瀬尾が俺のせいだけでいなくなったって思うほど思いあがってるわけじゃないよ」

「でも、理由のひとつではあるって思ってるんでしょ?」

 思わず黙り込むと、真中は俺の目をじっと覗き込んできた。
 俺は視線をそらした。


 真中は屋上の縁に向かって歩いていく。

 あんまりフェンスに近付くと教師に見つかると、何度も何度も言ったのに、やめてはくれない。
 そうなってもかまわないと思っているのかもしれないし、高いところが好きなのかもしれない。どっちでもいい。

 自販機で買ったカフェオレの紙パックにストローを差して、俺もフェンスの方へと歩いていく。

 東校舎の屋上から見える街並みは、いつものように他人事みたいに見える。こことはべつの世界みたいだ。

 無性にうんざりした気分になって、俺はフェンスに背を向けて網に軽くもたれかかった。

 カフェオレの味が今日はやけに甘ったるい。真中はさっき買ったアップルジュースにまだ口をつけていなかった。

「真中、なにか話したいことがあるんだろ」

「うん。わかった?」

「まあ、一応……」

「わたしね、やっぱり、青葉先輩がいなくなったのはせんぱいのせいじゃないと思う」

「だから、そう思ってないって」

「うん。そっか」

 瀬尾のことは、考えても仕方ない。

 本人だって、自分がどうしていなくならなければならなかったのか、きっと自分で分かっていないだろう。

 真中は、なおも何か言いたげな様子で、俺と目を合わせようとしなかった。


「どうした?」

 彼女の視線の先には街と空がある。金網の向こうの空は、まだ明るい。
 でも、いずれ赤く染まり、日が沈んでいくだろう。鳥の鳴き声が遠ざかり、暗い夜がやってくるだろう。

「さっき、ふと思い出したんだけどさ」

 彼女はようやく、パックジュースにストローを挿した。

「この状況。似てるよね」

「この状況?」

「青葉先輩のこと」

「……が?」

 いつもどおりの要領を得ない話し方が、今は妙にもどかしい。
 続きを促すと、真中はほんのすこしだけ躊躇するような間を置いて、それでも結局口に出してくれた。

「似てると思う。せんぱいが去年書いた小説に」

「……小説?」

「覚えてないの?」

 呆れたような顔をされて、むしろ戸惑う。

「むしろ、なんで真中が知ってるんだよ。去年いなかっただろ」

「バックナンバーあるもん。ほんとに思い出せない?」

 真顔でそう訊ねられると、なんだか不安になってくる。



 瀬尾の状況というのが具体的にどういうものをさすのかわからないが、そんな内容の話を書いていただろうか?

 去年。……去年。市川も、俺の去年の原稿を、やけに気にしていたっけか。

「あとで、読み直してみるといいよ。ひょっとしたら、なにかのヒントになるかも」

「なにかって?」

「わかんないけど、なにか」

 真中は拗ねたみたいな表情でそっぽをむくと、距離をとって片足をあげ、俺を蹴る真似をしてみせた。

「せい」とやる気のない掛け声までつけくわえられると、こちらがなんとも痛ましいような気持ちになる。

 本当に何を考えてるのかわからない子だ。案外なにも考えずにしたことかもしれない。

「今日はそろそろ帰ろうか」

 そう声をかけると、真中は小さく頷いてくれる。

 瀬尾がいなくなったなんて嘘みたいに、俺たちは当たり前の生活を続けている。
 瀬尾にわざわざ言われなくても、日常を続けている。

 ほかに、ふさわしい態度を見つけられなかった。

つづく




 その日は夕方からバイトがあった。

 店まで向かう途中で少しだけ雨が降った。傘が必要のない程度の。

 行き交う人々の群れに混じって、俺はぼんやりと歩く。

 葉擦れの音は、やはり止まない。

 瀬尾がいなくなったあの日から、さくらも俺の前に姿を現さなくなった。

 間違いなく、俺の身の回りで何かが起きている。
 それは分かるけれど、それがいったい何を意味するのか、わからない。

 去年の部誌に俺が提出した原稿の内容を、俺は本当は覚えている。

 市川が、実話かどうか疑った話。
 真中が、今回のことに似ていると言った話。

 そのことを意味を、少し考えなきゃいけない。



 あれは、ある意味では実話だ。そして、今回のことに似ている、という真中の言葉の意味も、正直わからなくはない。

 とはいえ、読み返してみないことにはなんともいえない。

 神さまの庭の話。

 だが、仮に今回の件が、それに無関係ではないとしたら……。
 瀬尾は、『神隠し』に遭ったのかもしれない。

 神さまの庭。記憶のなかの夢うつつ。
 そんな馬鹿な話があるか、とも思う。けれど、もしそうだとすれば、

『もうすぐあなたの身にいくつかのことが起きると思う。それはあなたとは直接関係がないとも言えるし、そうではないとも言える。
 でもどちらにしても、あなたはそれを避けることができない。どうがんばったって無理なんです。
 あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
 あなたはそこで見つけなければいけない。彼女を探し出さなければいけない』

 ……何もかもが、符合する。

『彼女』とは、瀬尾のことなのか?
 さくらはその未来を見ていたのか?

 聞こうにも、そのさくらも姿を見せない。


 店について制服を着てカウンターに出ると、既に混みあいはじめていた。
 先輩たちがてんやわんやでレジ打ちをしている。

 しばらく袋詰めの作業を手伝っているうちに、波は過ぎ去った。

「お疲れさま」と先輩は言う。

「お疲れ様です」

「来て早々大変だったね」

「まあ、時間帯的に……仕方ないです」

「うん。まあ、そうだね」

 そう言って先輩は品出しの作業を始めた。
 俺は備品の補充をし、商品を陳列しなおす。

 何もかもを整然とさせなければいけない。


 そしてようやく、今度こそ店内は秩序を取り戻す。
 
 失われるための秩序。

「あの」

 と、不意に声をかけられた。

「はい」

 振り向いて返事をして、驚いた。
 
 中学一年生くらいの、小柄な女の子だ。
 耳を覆うストレートの髪が活発そうな印象に短く整えられている。

 少し、赤みがかって見えた。

「あの。……三枝隼さん、ですか」

 問われて、また驚く。こんな小さな知り合いはいない。

「……えっと、どちら様ですか」

「三枝隼、先輩ですよね。わたし、一年の宮崎ちせと言います」

「宮崎。一年……一年って」

「先輩の高校の、一年生です。今年の春に入学しました」

 中一どころか高一だったらしい。俺の見る目は当てにならない。



「えっと、どっかで会ったことあるっけ?」

「いえ、でも、先輩のお噂はかねがね……」

「どんな噂だよ」

「ええと、いろいろ。姉とか、青葉さんとかから」

 気になるワードがいきなり二つも出てきた。

「えっと、一個ずつ聞くけど、きみのお姉さんって?」

「宮崎ましろ。ましろ姉さんです。文芸部で一緒だったって聞いてます」

「……きみ、ましろ先輩の妹か」

 そう言われると、端正な顔立ちに彼女の面影があるような気がする。
 何もかも見通すような澄んだ目や、話すときに口元をほんの少し緩める癖なんかが。

 まあ、あの人の、厄介さみたいなものの影は、あまり見えない。

 垢抜けていないわけではないが、純朴そうに見える。
 俺の見る目は当てにならないが。

「ましろ姉さんから、いろいろ聞いてます」

「いろいろって?」

「からかうと面白いとか、冷めたふりした熱血漢だとか、厄介な荷物を持ってそうとか」

「……なんかひどい言いようだな」

 ましろ先輩の見立てというあたり、微妙に反論しづらい。



「それで、瀬尾の知り合いなのか」

「はい、あの……隼さん。そのことで、少しお伺いしたいことが」
 
 隼さん。隼さんと来た。悪くない。

「あの、バイト、終わるの何時頃ですか」

「……九時半頃だけど」

「あの、そのあと少し、時間ありますか」

「ないことは……ない」

「青葉さんのこと、訊きたいんです」

「きみ、瀬尾とどんな知り合い?」

「わたし、春からバイトを始めたんです。えっと、レストランなんですけど」

「ばいと」

 この見た目で。

「あの、おっしゃりたいことは、わかるんですけど、気にしてるので……」

「いや、ごめん。そんなつもりじゃない。頑張り屋だなあと思って」

「ちょっと子ども扱いしてますね?」

「いや、そういうつもりじゃない」



「いいです。子ども扱いされるの、嫌いじゃないですから」

「……不思議なやつ」

「よく言われます」

 やっぱりましろ先輩の妹だという気がした。

「とにかく、そこでいろいろお世話になったんです」

「待って。瀬尾、バイトしてたの?」

「はい。……知りませんでしたか?」

「……なるほど」

「じゃあ、えっと、九時半頃に来ますから、お話しできますか?」

「わかった。……けど、どこの店も入れないんじゃないか」

「任せてください」と彼女は言う。

「あ、わたしのことは、ちせでいいです」

「ちせ?」

「はい」

 なんだろう、不思議な子だ。
 一切、緊張せずに話せる。どうしてだろう。




 それで、九時半を回り店を出ると、ちせは外で待っていた。

「中にいたらよかったのに」

「大丈夫です」

 大丈夫というなら、いいのだけれど。

「それで、どこに行く?」

「近くに公園があります」

「公園」

「はい。街灯もあります」

「……まあ、そうだな」

 それでいいなら、いいのだが。

「何か買っていくか?」

「いえ。わたしは大丈夫です」

「飲み物くらいならおごる」

「ホントですか。ありがとうございます」

 あっさり甘えるあたり、かわいげがある。


 
 ちせに連れられて、近くの小さな公園にやってくる。

 公園、と言っても児童公園で、ブランコと滑り台とベンチと砂場しかないようなところだ。

 木立のつくる影が、夏の夜の街灯のせいでやけに熱っぽくみえる。

「ありがとうございます。ホントはちょっと、喉渇いてました」

「きみは素直でいい子だ」

「はい。よく言われます」

 ちせはそう言って、買ったばかりの紅茶の蓋を開けた。

「それで、隼さん。青葉さんの話なんですけど」
 
 それにしても、この子が真中と同い年と思うと不思議な感じがするものだ。

「学校にも来てない、んですよね?」

「うん」

「バイト先の店長、無断欠勤なんてする子じゃないから、どうしたんだろうって心配してて」

「うん。瀬尾は、そうだろうな」

「いったい、どうしたんでしょう? ほかに、こういうこと聞ける人、いなくて」

「……捜索願が出されてるらしい」

「捜索願?」

「家にも帰ってないってこと」



「えっと、じゃあ、家出ですか?」

「そう思うか?」

「いえ……青葉さんにかぎって、それはない、と、思いますけど、でも」

 そう。そういうものだ。
 誰がどうなるかなんて、誰にもわからない。

 瀬尾があんなふうに取り乱すなんて、俺は思っていなかった。
 かけらさえも思いつきやしなかった。

 あんなに長い間話したのに、俺は瀬尾のことなんてなんにも知らない。

「あの、青葉さん、いなくなった日、会ったんですか」

 俺は、言うかどうか迷って、結局、話すことにした。

「たぶん、俺が……」

 でも、それは、おそろいしことでもある。
 何を言われるか、何を聞かれるか。

「瀬尾と最後に話したのは、俺だ」

 そして、おそらく、瀬尾がいなくなったのは、
 きっかけは、

「文芸部の部誌で……俺は、瀬尾の小説の書き方を真似たんだ」

「……部誌。真似って?」


「パクったわけじゃない。手法を、真似たんだ。隠喩の取り扱い、構成、文体。そしたらあいつ……」

「……怒ったんですか?」

 それなら、まだよかった。
 瀬尾は泣きもしなかった。

「自分は、いらないんだって、言って」

 荷物さえ持たずに。
 最初からいなかったみたいに、消えてしまった。

 あの日の、あの表情。

「……隼さん?」

 ちせの顔を見ることができなかった。
 責められそうで、誰にも言えなかった。

「違う。俺には、何もないから。何もないから、憧れただけなんだ」

 確固としたスタイル。軽妙な語り口。アイロニカルな視点。

 そんなすべてに。

「なんにもないのは、俺の方なのに、なんであいつ、あいつが……」

 なんで、瀬尾がいなくなってしまうんだ。
 なんで、いなくなるのが俺じゃないんだ。
 
「隼さん。……すみません。大丈夫ですか?」



「……ん。少し取り乱した」

「いえ。……じゃあ、青葉さんは」

 躊躇するような間が置かれる。俺のせいで、というのをためらったんだろう。

「わからない。でも、きっかけはそうかもしれない」

「何か、手がかりはないんですか?」

 ある。

 俺は鞄からノートを取り出して、そこに挟んであった二枚のメモを取り出した。

「これは?

「ボルヘスの『伝奇集』って知ってるか?」

「いえ……」

「その本に挟んであった。あいつがいなくなってからのことだ」

 ちせは俺から二枚のメモを受け取ると、しげしげと内容を眺め始めた。

 うまく理解ができなかったのか、何度も読み返している。


「これを読むかぎりだと、瀬尾は自分の意思でどこかに行って、しばらく戻ってくる気がないらしい」

「湖畔……でもこれ、手紙じゃないですよね。挟んであった、って?」

「学校の図書室の本にだ。大野って奴が見つけた」

「誰かの悪戯って可能性はないんですか?」

「瀬尾の字だ」と俺は言った。

「見間違えたりしない」

「……でも、だとすると、青葉さんは図書室に出入りできる状況っていうことですか?

「わからない」

 そう考えるのが自然だ、と答えようと思った。でも、できなかった。

「どういうことなんでしょう」

「わからない」


 ちせは少しの間黙り込んで何かを考えている様子だった。
 細い首筋が、本当に子供みたいだと思った。

「隼さん、わたし、どうしても気になるんです。青葉さんのこと」

「うん。俺もそうだ」

「あの人は明るくて、やさしくて、とてもいい人だけど、いつもどこか遠くにいるような気がする」

 それは、俺もまた感じていたことだ。

「隼さん。わたし、青葉さんのこと、探そうと思うんです。放っておいてはいけないような気がする。
 あの人を放っておいたら、よくないことになりそうな気がする。
 見つからないかもしれない。余計なお世話かもしれない。でもそう思うんです」

「……」

「このままにしておいたら、青葉さんは、どこかとても暗いところに入り込んで、帰ってこれないんじゃないかって」

 暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある。
 
 みんな気付かないふりをしているだけで、知っている。

 そして、そこには、誰の声も届かない。





「隼さん、ましろ姉さんから、隼さんのことを聞いてます。
 とても、頭がきれて、感情表現が苦手だけど、いい人だって」

「それは、意外な評価だな」

 ましろ先輩の言うことだ。乗せられてはいけないのだろうが。

「会ってみて、わたしもそう思いました。とてもやさしそうな方だって。
 隼さん、もしよかったら、協力してもらえませんか。そんなに迷惑はかけませんから」

 やさしそう。
 やさしそう、ね。

 だが、瀬尾のことが気になるのも事実だ。

「……できることは、そんなにないと思う」

「かまいません」とちせは言う。

 俺たちはとりあえずその場で連絡先を交換した。

「それで、あの、ひとつお願いがあるんですけど」

「ん」

「あの、駅までついてきてくれませんか。このあたり、けっこう暗くて……」

 ……まあ、たしかに、この子をひとりで帰したら、今度こそ事件になりかねない。




 そういうわけで、俺は初対面の後輩の女の子とふたりで夜道を歩くはめになった。

「ごめんなさい。急に押し掛けたうえに、送ってもらっちゃって」

「いや、べつにいいんだけど」

「やっぱり、ましろ姉さんから聞いたとおり、隼さんはいい人です」

「いい人?」

「はい。……違いましたか?」

「うん。違う」

「そうですか。それでもいいです」

 変わった子だ。

「隼さんはわたしのこと、知らなかったかもしれないけど、わたしは隼さんのこと、ずっと前から知ってましたから」

「そんなにましろ先輩から聞いてたの?」

「はい。それと、青葉さんからも」

「あいつ、俺の悪口吹き込んだんじゃないか」

「そんなことは……なかったと思いますけど」

 含みのある言い方だ。

「でも、隼さんの話をするとき、青葉さんは楽しそうでしたよ。……これ、わたしが言ってもいいのかな」

「どうだろうな」


「隼さん、あの……わたし、変だと思うんですけど」

「なに」

「勝手なイメージなんですけど、隼さんのこと、お兄さんみたいだなって思ってます」

「……」

 本当に変わった子だった。

「変ですよね。初対面でこんな話……」

「変だね……」

 さすがに肯定した。

「ましろ姉さんや、青葉さんから隼さんの話を聞くの、楽しくて」

「面白いことなんてないと思うけど」

「でも、そうだったんです」

「……」

「イメージしてたとおり、優しそうな人で、うれしいです」

「うれしい?」

「はい。いけませんか?」

「……」

 優しい人間なんかじゃない。
 でも、うれしいっていうのは、不思議な感じだ。


「隼お兄ちゃん」

「……」

 本当に変な子だな、どうすればいいんだ、これは。

「……言ってみただけです」

 ちせは照れくさそうに笑った。
 こっちが照れる。

「青葉さんのこと」

「ん」

「……土曜日に、青葉さんの家に行ってみようと思うんです」

「……住所、知ってるの?」

「一応、バイト先に履歴書が控えてあるはずですから」

「いいのかな」

「よくないのかもしれない」

 そうだな。
 そういうものだ。



「ね、隼さん。手を貸してください」

「手?」

 いうが早いか、ちせは勝手に俺の手を掴みとった。
 
「おっきいですね」

 ……あ、そっちの手か。

 本当に、親戚か何かみたいな距離感だ。
 誰にでもこうなんだろうか。

「……違いました。えっと、わたし、こんななりですし、ひとりで言っても、おうちの人に相手にしてもらえないと思うので」

「あ、ああ……そういうことか」

「隼さんに手伝ってもらえたら、助かります」
 それからふと、我に返ったみたいに、ちせは俺の手をパッと離した。

「すみません。変なことしました」

「そうだね?」

「なんか……変なこと言ってた気がします」

「まあな?」

「忘れてください……」

「善処するよ……」

 それからちせはほとんど喋らなくなった。
 駅まで彼女を見送ってから、帰途につく。

 妙な奴に会ったという気がした。


つづく


 92-2 真中 → 瀬尾




 夜の十一時を回った頃に、玄関から扉の開く音が聞こえた。

「……あ、起きてたの」

「お母さんだ」

「母さんだね」

 俺と純佳はソファの狭いスペースに隣り合って座ったまま、一緒にマンガを読んでいた。

「……相変わらず異様に仲いいわね、あんたたち。暑くないの?」

「久々にお母さん見ました」

「うん。久々に母さんだね」

「虹みたいな扱いね、わたし」

 虹よりもいくらか珍しい。
 たいてい日付を越えてから帰ってくるし、俺は朝が遅いから、なかなか遭遇しない。


「ごはん食べますか?」

「さすがに食べてきたわよ」

「そうですか。お仕事お疲れ様です」

「本当にね」

「好きでやってる仕事だろう」

「それはもちろんね。ふたりとも、寝ないの?」

「久しぶりに会ったのに、寝ないのもないものだと思いますが」

「心配してるのよ。明日も学校でしょう」

「働き詰めの人に言われたくないです」

「……なに、純佳。お母さんに久々に甘えたいの?」

「わたし、もう寝ますね。兄、電気は消してくださいね」

「そうするよ」

「……冷たい子たち」


 拗ねたみたいに溜め息をついてから、母さんは静かに荷物を置いてダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

「疲れてるみたいだね」

「もう慣れたわ」

「そうですか」

 母さんは仕事でいつもいない。なんの仕事をしているのか、俺は実のところ知らない。
 夜遅くまで働いて、会社に泊まったり、どこかに出張したりと忙しそうだ。

 学生時代にやりたかった仕事をしているとは言っていたが、詳しくは知らない。

「案外やり手なんだぞ」と、父がいつか言っていた。なんのだ。

「隼、大きくなったわね」

「同居してる親のセリフとは思えないな、おい」

 そもそも、さすがに大きくなるほど長い時間会っていないわけじゃない。

「家事、任せちゃってごめんね」

「いいよ、べつに。どうせ純佳と交代だし」

「うん。まあ、仕事で忙しくなくたって、わたしがやるよりあんたらがやったほうが上手く行くだろうけど」

「否定できないけど、さすがにどうなんだよ」

「いいじゃない。画一的な価値観に惑わされることはないわ。家族のあり方なんでそれぞれよ」

 それはまあそうかもしれない。


「学校はどう?」

「平々凡々です」

「部活は?」

「……平々凡々」

 とは言えない。なにせ部長が失踪している。

「……そっか。あんたたち、しっかりしてるから、心配はしてないけど」

 しっかりしてる。
 しっかりしてる、か。

「親がだめだと、そうなのかしらね」

「……知らないけどさ」

「そう……隼も、もう寝なさい」

「ん。母さんも」

「母さんは、お酒飲んで寝ます。明日はおやすみ」

「ふうん?」

「今週の土日、ひさびさに家族でどっか行こうか。父さんも休みだって言うから」

「……いや。ごめん。予定がある」


「そっか……。ね、明日は朝ごはんつくってあげる」

「いらない。心底」

「失礼なやつ。……ねえ、隼」

「ん」

「ごめんね」

「……なにが?」

「……ううん。なんでもない」

「俺、もう寝るよ」

「そっか。おやすみ」

「おやすみ……」


 俺は自分の部屋に戻り、すぐに明かりを消した。

 ベッドに倒れ込む。

 もう慣れた。
 葉擦れの音にも、他のいろんなことにも。

 しっかりしてる。優しそうな人。
 まともそう。食えない奴。

 そんなふうに言われる。

 そんなふうに見えるらしい。

 それも慣れた。

 目を閉じると、睡魔はすぐに襲ってくる。
 けれど、やはり、もう片方の視界は目覚めたままだ。

 影絵のような葉擦れの森は、まだそこに浮かんでいる。

 風の冷たさ、白々しい月。

 不意に、その景色が――動く。

「そろそろですよ」と声が聞こえる。



 俺の視界に、誰かがいる。

 けれど俺は、声をあげることはできない。
『そちら』の体は、ひどく衰えているし、俺の意識は、まだ『こちら』にある。

 だから、何もすることができない。

「不思議なものですね。まるでわたしは、あなたのために生まれてきたみたいな気がします」

 その声を、俺は知っている。

 さくらの声だ。

「違います」と声は言う。

「わたしは、さくらじゃない」

 そうだ。こいつは、俺の心を読むことができる。
 ……いや。でも、こいつは、俺のこの現象には関係がないのではなかったか。

 そもそも、学校にしかいられないのではなかったか。

「さくらでは、ないのですが……名前がないと不便なら、つけてもらってもけっこうです」

 ……。

「ああ、喋れないんですね」

 じゃあ、自分で考えることにします。

「……大切なことは、越境という言葉の意味について考えることです」

 そして彼女は、歌を歌うように、つぶやく。


「その場所に名前はない。入口は無数にあるし、出口も無数にある。
 けれど、その中は迷路にようになっていて、簡単には抜け出せない。

 あるものはそこを仙境と呼ぶし、あるものはそこを異世界と呼ぶ。
 冥界と呼ぶものもいれば単なる白昼夢と呼ぶものもいる。

 あるものにとっては芳しい花の香りに満ち満ちた極楽の蓮池であり、
 あるものにとっては暗雲垂れ込める枯れ果てた木々の森であり、

 あるものにとっては地中深くの水晶の谷間であり、
 あるものにとっては焼け落ちた家の跡地であり、

 あるものにとっては近未来的なビルの林でり、
 あるものにとってはただ茫漠たる砂漠であろうし、

 あるものにとっては黴の匂いに包まれた光も差さぬ牢獄であり、
 あるものにとってはそこは郷愁誘う民家である。

 ふうけいはおそらく問題ではない。

 問題は、そこには「なにともしれぬ暗闇」がひそんでおり、
 彼らはその木々の虚めいた隙間から舌なめずりしてこちらを覗いているということだ。

 そしておそらく彼らは『滲み出している』。
『あちら』と『こちら』との間に本来境界線はなく、ただ便宜的な住み分けがなされているだけに過ぎない。
 彼らは『そこにいる』。

 暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある」


 覚えていますか、と彼女は言う。

「……あなたが、書いたんですよ」

 そうだ。
 どうして、彼女が、そのことを知っている?

 それは、去年、俺が書いた文章だ。

「思い出してもいいし、思い出さなくてもいい。忘れてもかまわないし、忘れた方が幸せなのかもしれない。
 でも……音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない」

 それだけ、覚えていてくださいね。

「わたしは、さくらではない。でも、名前が必要なら、いま、考えます」

 そうですね、と彼女は微笑み、

「……カレハというのは、どうでしょう?」

 得意げに笑った。

 そうして彼女は姿を消し、森にはまた、葉擦れの音だけが響いた。
 





「こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
 何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
 誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします。
  
 悪い意味じゃなくて、なんだか、自分が世界で、世界が自分だっていう気がする。
 そこではわたしは、他のなにものでもなく、でもたしかになにかではあって、でも誰もわたしに何も求めないの。

 それって悲しいことのようで、実はとても気楽なことなんじゃないかって思うんです。

 陽の光を浴びながら湖の水面を眺めていると、なんだかいろいろなことを思い出しそうになります。

 でも、そっちのことを思い出す時間が、日に日に減ってきたような気がします。

 本当にこっちに根を下ろすことになるかもしれない。

 そうしたら、みんな、少しは寂しがってくれますか?

                瀬尾青葉」


つづく




 放課後の文芸部室には、瀬尾を除く部員たちが全員揃っている。
 今日もまた、ボルヘスの『伝奇集』に瀬尾のメモが挟まっていた。

 俺と真中がメモを読み終えると、市川が深刻そうな顔で俯いた。

「どう思う?」

「……ううん」

「……なんだか、まずそうな感じがしない?」

「状況が、やっぱりわからない」

 大野は、静かに呟いた。

「本当に湖畔で静かに暮らしているわけがないだろ。だって、瀬尾は図書室の本にメモを挟んでるんだ」

「そうだけど……これ、何かの比喩なのかもしれないし」

「比喩?」

「つまり、実際に湖畔にいるわけじゃなくて、そういう気持ちってこと」

「なんでそんな回りくどいことするんだよ」

「知らないけど……小説なんて、そういう回りくどい言い方しかできない人が書くものだと思うし」

 そう言われれば、そうかもしれないが。


「……なんか、隼くんはさ」

「ん」

「あんまり、瀬尾さんのこと心配してないの?」

「……」

 あまりに不意打ちで、返す言葉に詰まる。

「そういうふうに見える?」

「悪いけど、見える。平気そうに見える」

「そう」

 そう。慣れてるよ。

「でも、瀬尾さんも……そういうふうに見えた」

 市川は、そんなふうに言葉を続けた。

「いつも笑ってて、元気そうで、自分のことより誰かのことを考えてて、自分のことなんて、どっかに忘れてるみたいな顔してた」

「……」

「違うんだね」

 大野と真中が、黙って俺たちの様子を見ている。
 市川の言葉が続くのを待ってる。

「きっと、見た通りの人なんていないんだ。どんな言葉にも裏があって、すぐ揺らいで、だからわからないだけで」

 だからすぐにわかんなくなっちゃうんだ。

「ひょっとしたら、わたしたちみんな、何かを演じているのかもしれない」


 溜め息をつくみたいにそう言ってから、彼女は壁にかけられた絵を眺める。

 空と海とグランドピアノ。
 孤独。

 そうかもね。
 どうだろうね。

「ねえ、隼くん。……ひょっとして、なにか、気付いてることがあるんじゃない?」

「どうしてそう思う?」

「……質問に質問で返すのは、隼くんの悪いところだね」

 俺は本当に何も知らない。
 ただ、予感のようなものがあるだけだ。

 そのとき、不意に、部室の扉がノックされる。

 誰だろう、と考える間もなく、ドアが開けられる。

「失礼します。あの、隼さんは……」


「ちせ」

 と、名前を呼ぶと、部員たちが一斉にこっちを向いた。

 ……もうだいたい、何を言われるか分かってきたような気がする。
 と、思ったけど、そうだ。

 こういうときに、真っ先に俺に文句をつけてきたのは、いつも瀬尾だっけ。
 前までだったら、別に説明する理由もないような気がしたが、真中との話もある。

 妙な誤解をされても愉快ではない。

 俺はみんなの顔を見回した。

「ましろ先輩の妹だよ」

「え」

 と声をあげたのは、大野ひとりで、残り二人は首をかしげていた。
 ……。

 あ、そうか。

 そりゃそうだ。市川も真中も、去年まで部に出入りしてなかったんだから。
 知ってるのは、大野と瀬尾……。ここでもやっぱり、瀬尾だ。

 瀬尾がいないと調子が狂う。

「ましろ先輩って……?」

 首を傾げたのは、また市川だった。ひとり欠けるだけで、会話のバランスがこうも乱れるものだろうか。


「先代の部長だよ」

 そのとき、ふと思い出す。
 
 ましろ先輩には、さくらが見えていた。
 俺と瀬尾にもさくらが見えて、他のやつには見えない。

 今、俺にはさくらが見えない。

 ……ましろ先輩は、こういう状況に心当たりがないだろうか?

 そもそも気になることだらけだ。

 さくらとましろ先輩の話を思い出してみれば、去年だって、さくらはましろ先輩の周囲をちょろちょろしていたはずだ。

 そのとき、俺はさくらの存在を認識できなかった。

 それなのに、どうして今年の春になって、突然さくらのことが見えるようになったのだろう。
 瀬尾にとってだってそうだ。

 ……もっと早く、思いつくべきだった。

「あの、隼さん」

 突然黙り込んだ俺に向けて、ちせが不安そうな顔をした。

「少し、お願いがあるんですけど……」

「ん」

「職員室まで、一緒に来てほしいんです」

「……なんで?」



「えっと、土曜の話で……あの、行き先の住所が」

 やけに遠回しな言い方をするのは、周囲に気を使ったのか。
 まあ、瀬尾のことを探ろうなんて、こういう状況でもあんまり趣味が良いとは言えない。
 
 家族の心境からしたら、俺達の応対なんてやってる気分でもないだろう。
 大野あたりは反対するかもしれない。

「……ああ、それなら俺が知ってる」

「そうなんですか?」

「行ったことあるから」

「……そうなんですか」

 ちせは、なにか複雑そうな顔をした。

「じゃあ、わかりました。とりあえず、あとで連絡します」

「うん」



 ちせが去ったあと、三人の視線が俺に集中する。

「せんぱい」

 真中が不意に俺のことを呼んだ。

「あのね……。あの、せんぱい」
  
 一度はこらえるように言葉を止めたのに、彼女はもう一度話しはじめた。

「わざとなら、さすがに悪趣味だと思うよ……?」

「なにが……」

「たしかにね、わたしはせんぱいと付き合ってないし、せんぱいが誰といようとなにかを言う権利なんてないけど」

 むっとした顔で、眉を逆立てている。
 わたしは怒っています、みたいな顔だ。

「でも、でも、自分のこと好きだって言ってる相手がいる前で、平然と他の子と遊びに行く約束っていうのはどうかなって」

「……そういうんじゃない」

 本当に調子が狂う。
 例の騒動以降、真中の表情は徐々に豊かになってきた。
 感情表現を取り戻したみたいに。

 もちろん、あの無感動な雰囲気がなくなったわけじゃない。それでも、はっきりとした意思表示をときどき見せるようになった。

 いろんなことが、一度に起こりすぎてるんだ。



「せんぱい、土曜日、あの子とどこいくの」

「……あー」

「……せんぱいがどこ行こうと、わたしには関係ないんだけど」

「……」

「せんぱい?」

 俺だってべつに、真中に対して罪悪感がないわけではないのだ。
 こいつのことを好きにならない、好きじゃないとは言っていても、突き放す気にはなれない。
(それは弱さなのだろう)

「……真中、ちょっとこい」

「ん」

 彼女は素直にうなずいた。俺たちは立ち上がって、部室を出る。


 廊下に出てすぐ、俺は真中にことの成り行きを説明した。

「さっき来たのはちせって言って、おまえと同じ学年の生徒だ」

「知ってる。宮崎さん」

「あいつには姉がいて、それが先代の部長だ」

「うん。さっき聞いた」

「あいつはどっかのレストランでバイトしてたらしくて、そこで瀬尾も働いてたらしい」

「……」

「瀬尾のことを、調べるつもりなんだって言ってた。俺も協力することにした。
 それで、土曜、一緒に瀬尾の家に行くことになってる」

「……そうなんだ」

「……これで説明になったか?」

「うん」

「……なんで笑う?」

 本当に、未だに、こいつの素直な笑い方には慣れない。
 気を抜くと持っていかれそうになる。

 魔性。

 しかも、これを、俺にだけ見せてくるっていうのが、本当に厄介だ。
 ……どうして、俺なんだ。

 もっと、別にふさわしい相手がいるはずだ。この笑顔を受取るに足る奴が。


「せんぱい」

「ん」

「あんまり、答えを急がないでね」

「……」

「わたしをどう扱うか、ゆっくり決めてくれていい。ちゃんと待てるから」

「……なんで」

「だって、今答えを出したら、きっとわたしに都合の悪い結論になるだろうから」

「意外と打算的だな」

「せんぱいとしても、都合がいいでしょ。ひとりキープがいるって思えば」

「言い方を……考えてほしい」

「うん」

 本当に嬉しそうに笑うんだ。
 素直に。



 この子のことを好きになれたら、たぶん、それでよかったはずなのに。

 風景がまた、二重になる。
 何かを忘れさせまいとするみたいに。

 誰かに近付こうとするたびに、誰かに触れようとするたびに、誰かにすがりつこうとするたびに。
 
「ね、せんぱい。……土曜日、わたしも、一緒にいったらだめかな」

「……」

「わたしだって、青葉先輩のこと、心配してるよ」

「……知ってるよ」

「だめかな」

「聞いてみるよ」

 それで、そのときは話は終わった。
 
 俺たちは、いつも何かを演じているのかもしれない。
 誰の仕組んだ舞台なのかも、分からないまま。

 俺たちはついでに、自販機まで歩いて飲み物を買うことにした。

 そのとき不意に、廊下の向こう側に、人影が見える。




「さくら」が、見えた。
 
 彼女は俺と目が合った瞬間、ふわりと体を翻して、なんでもなさそうに去っていく。

「真中」

「ん」

「今、誰か見えたか?」

「……ううん」

「そっか」

 たぶん、追いかけても、もうそこにはいないだろう。

 ましろ先輩に、連絡してみるべきかもしれない。

 さくらのことを、俺はなにひとつ知らないままだ。
 昨夜見た、『カレハ』のことも。

 謎ばかりが増えていく。

 ……その謎は、俺が向き合わなきゃいけないものなんだろう、きっと。

 空虚が充溢しているように思える景色。
 俺の視界のその曇りを、俺がどうにかできるか。

 いま起きていることのすべては、それに関わっているような気がする。
 この葉擦れの音の正体も、きっと。



つづく




 瀬尾の家にいたのは、せいぜい三十分くらいと言ったところだった。
 
 外に出たときにはもう、景色は灰色に澱んでいる。
 結局のところ、収穫らしい収穫があったとはいえない。

 瀬尾の過去を知ったところで、今瀬尾がどこにいるかはわからないままだ。

『こっちの様子は相変わらずです。穏やかで、日々に変化はない。これってすごく幸せなんじゃないかって思う。
 何もかもが簡単に変わってしまうくらいなら、鉱物にでもなっていられたらいいなとわたしは思う。
 誰ともかかわらずにいると、なんだか自分というものがどんどん希薄になっていく気がします』

 真中もちせも、黙り込んでしまっていた。無理もないだろう。
 他人の事情に、勝手に踏み入ってしまった罪悪感みたいなものを感じる。

 それでも今俺を悩ませているのは、瀬尾の事情ではなく、さっきの連想の方だった。
 
『鴻ノ巣』。『六年前の五月』。

 瀬尾青葉。



「……とりあえず、瀬尾の居所のヒントはなかったな」

 話の内容にはあえて触れず、俺はそう呟いた。

「そう、ですね」
 
 ちせが頷く。真中は黙っていた。
 さて、どうしたものだろう。

「雨が降りそうだな。このあとはどうしようか」

 瀬尾の行方を知るという最大の目的に関しては、空振りだった。
 話をしたところでなんら展開はないだろう。

 俺の頭はそう考えている。けれど、耳に響く葉擦れの音が、何かを教えるみたいに騒いでいる。

 そうじゃない、おまえはもう気付いている、と、誰かが言っている気がする。

 さっきまでの話でわかったことはない、と俺は考えようとしている。
 でも、そうじゃない。俺はそれを認めたくないだけで、ずっと頭の中に浮かんでいた。

 それを確かめる手段も、実のところ、思いついている。
 ただ、もしそうだったとして……どうやって、瀬尾を連れ戻せばいいんだろう。

 それは、正しいことなのだろうか?




「……わたし、今日は、帰りますね」

 ちせが、少し無理のある笑い方で、そう言った。

「夕方から、バイトもありますから。今日は、ありがとうございました」

「ああ、うん」

 そうやって返事をする以外に何を言うこともできない。

 ちせは、一刻も早くこの場を離れたいというみたいに、すぐにいなくなってしまった。
 
 俺と真中は取り残されて、ふたりで顔を見合わせる。

「……真中は?」

「……どうしよう」

 すぐ帰るという気分にはなれないらしい。
 まあ、まだ夕方というほどの時間でもない。

「どこかに入るか」




 それで、駅前の近くで休めるところを探したら、真中が急に「そういえば行ってみたい店があった」と言い出した。
 
 携帯で位置を調べて向かうと、店の扉には「CLOSED」の札がしてあった。

「おかしいな。定休日じゃないはずなのに」

 ネットで調べてみるとSNSのアカウントにたどり着き、「今日は臨時休業とさせていただきます」という旨の投稿があった。

「なるほど」と俺達は呻いた。

 そうこうしているうちに、いよいよ雨が降り出しそうだった。
 こうなったらなんでもよかろうと、俺達はとりあえず駅ビルに戻り、テナントのチェーン店に入った。

「なんだかなにもかもうまくいかないね」と真中が言った。

「そんなことはない」と俺は言ったけれど、よくわからなかった。

 うまくいかないこともいくことも、そんなに多くはなかったんじゃないだろうか。

 向かい合ってテーブル席に腰掛けて、俺と真中は話すことも思いつけずにいた。

 彼女はエスプレッソを飲みながら壁にかけられた絵を眺めている。




「雨、降ってきたな」
 
 店の窓ガラスの向こうで、雨音が強くなりはじめた。
 真中は返事をしなかった。何かを考えているみたいだ。

 言葉を探すのもばかばかしいような気がして、俺もあえて口を開くことはしなかった。

 しばらく、そのまま時間が流れた。俺はコーヒーを飲みながら、どこから手をつけるべきだろうと考える。
 
 瀬尾は家に帰っていない。
 荷物ももたずに消えてしまった。
 
 あいつの友人関係はかなり偏っていた。そしてその誰もがあいつの行方を知らないという。

 そもそもの話、俺との口論の直後姿を消した瀬尾は、荷物も持たず、靴すら履き替えていなかった。

 この不自然さは、今まで放置していた。というより、考えるのを避けていた。

 財布も持たず、靴も履かずにどこかにいなくなることの不自然さ。

 誰かの家に転がり込むなら、荷物くらいは持っていくし、靴だって履き替える。

 であるなら、あいつはそもそも、学校から出ていないはずだ。

 可能性として、考えなかったわけじゃない。





 瀬尾がいなくなった日から、さくらは姿を見せなくなった。
 そして再び会ったとき、あいつの様子がおかしかった。

 さくらは、学校のなかで起きることなら、だいたいは把握できているはずだ。

 瀬尾が学校の中でいなくなったとしたら、それをさくらが知っていたとしたら、
 その結果、さくらの様子がおかしくなったとは考えられないだろうか。

 そして俺は、瀬尾がいなくなってから、さくらに瀬尾のことを聞いていない。

「……」

 もちろん、また空振りかもしれない。でも、確認する価値はあるような気がする。
 
 けれど、もしそうだとしたら、俺は……。

「せんぱい」

「……ん」

「なにか、隠してるでしょ」

「……そりゃあね。人には隠し事っていうのがあるものだ」

「せんぱいは、隠し事だらけだけどね」

「どうしてそう思う?」

「そう思われてないと思うほうが、わたしには不思議」




「せんぱい、あのね。ずっと考えてたんだけど……」

「ん」

「せんぱいにとって、青葉先輩って、なに?」

「……」

 なに?

「なにって、どういう意味?」

「べつに、そのままの意味。友達なのか、それとも、べつのなにかなのか」

「べつのなにかってなんだよ」

「わからないけど……」

「俺は、自分にとって誰かが何かなんて、考えたことないよ。真中のことだって、何って言われたら言葉に詰まるし」

「そうかもしれないけど……」

 話の途中で、俺の携帯が鳴った。


「電話?」

「ああ。ごめん」

「ん。どうぞ」

 断ってから携帯を取り出して画面を見ると、ちどりの名前が表示されていた。

 俺は少し考えてから、結局すぐに電話に出る。

「もしもし、隼ちゃんですか?」

「俺の番号なんだから、そりゃ俺が出るだろう」

「そうですよね。今平気ですか?」

「……まあ、一応」

「あ。そうですか。あの、このあとって空いてますか? 今晩なんですけど」

「は? ……まあ、べつに平気と言えば平気だけど、何の用事かによる」

「晩御飯。うちで食べましょう」

「なんで?」

「えっと、お父さんとお母さんが……あ、隼ちゃんの家にはもう電話してて、あと隼ちゃんだけなんですけど」

「ごめん、おまえが何言ってるのかわかんない」




「あ、そうですよね。えっと、怜ちゃんが」

「れい?」

「はい。帰ってきてて、それで、みんなで……」

 れい。怜。

「それで、隼ちゃんも……」

 俺はとっさに電話を切った。

 驚いたみたいな顔で、真中が俺を見上げる。
 それ以上に俺の方が驚いていた。

「切っちゃった」

「……どうしたの?」

「……ううん」

 べつに、切る理由なんてなかったはずなのに、とっさに切ってしまった。
 どうしてだろう。

「……今日はもう帰った方がいいかもね」と真中が言った。

 帰りたい、でもなく、帰った方がいい、と。


「どうして?」

「気付いてないの?」

「……なにが?」

「せんぱい、顔、真っ青だよ」

 ……真っ青。
 たしかに、さっきから、『音』がいつもよりひどい。頭まで、痛くなってきたような気がする。

「……ん。かもしれない」

「うん。今日は土曜日だし、帰って休むといいと思う」

「そうだな。今日は少し……疲れたな」

「うん。……気をつけて帰って。なにかあったら、連絡ちょうだい」

「そうするよ」

 なにかって、なんだろう? そう思ったけど、詳しくは話さなかった。

つづく

537-1 来て → 着て





 それで、真中とは駅ビルの入り口で別れてしまった。

 ひとり取り残されて、俺はどうしようかと迷っている。
 
 バイトはない。用事はもちろん、どこにもない。ちせも帰ってしまった。
 今日は土曜日。明日は日曜でバイトがある。

 ちどりからの連絡のことを思い出す。
 突然切ってしまったが、掛け直してはこないみたいだった。

 雨は徐々に強くなっていく。俺は建物の軒先で広場を打つ雨のしずくを眺めている。

 空からそそぎ地面を濡らす幾つもの線を眺めている。

 切り取られた絵画のように、何気ないスナップのように、景色が他人事めいて綺麗だ。




 ――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。

 ――巻き込んで、ごめん。

 ――ちどりを助けて。

 ――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。

 ……怜。
 どうして、このタイミングで、怜が帰ってくるんだ?

 まるで、なにもかもが仕組まれた舞台みたいだ。
 すべてが繋がり合おうとしているみたいにさえ思える。

 あの日の、あの場所に、俺は閉じ込められたままなんだと、教えようとしているみたいに。

『暗闇はどこにでもある。
 暗闇はいつもそこにある。
 足元に、手のひらの中に、頭の中に、耳鳴りのように、影のように、いつだってある』

 ――音は、まだ止まない。あなたがそれを止めようとしないかぎり、止まない。







 泉澤 怜について説明することは難しい。

 外的な状況を並べ立てることは簡単だ。
 
 たとえば、俺とあいつは小学校の同級生で、ちどりと俺と怜は、いつだって一緒に遊んでいた。
 幼馴染と呼んでも、たぶん問題ない関係だろうと思う。

 あいつは中学に上がると同時に転校してしまって、一応連絡先は知っているけれど、卒業以来顔を合わせたことはほとんどない。
 
 俺は怜のことを親友だと思っているし、怜もたぶん俺のことをそう思ってくれていると思う。
 
 怜は頭が切れて、物知りで、柔和で、鈍いのに鋭い、自信家で、でも弱くて、強がりで、バカで、そのどれもがどうしてかスマートだった。
 
 言うなれば、あいつは探偵で、俺はその助手だった。

 小学校の頃、学校はあいつのためにしつらえられたひとつの舞台装置のようだった。

 あらゆる謎、あらゆる悩み、あらゆる失せ物、あらゆる困難が、怜のもとを訪れた。
 そして、怜はそのひとつひとつを払いのけるように解決してみせた。

 謎のあるもの、ないもの。

 それはたとえば花壇の花がなぜか枯れてしまう理由であったり、
 あるいは動物小屋から抜け出したうさぎの行方であったり、
 あるいは女の子が失くした筆箱のありかであったり、
 あるいは図書館から本を盗む生徒に隠された事情であったり、
 あるいは新任教師に降り掛かった人間関係の悩みであったり。
 



 怜は人助けを好んだ。
 
 誰かのためになること、誰かの助けになること、誰かを楽しませること、誰かをもてなすことを好んだ。

「たぶん、ぼくはそういうのが好きなんだ」と怜は言っていた。

「誰かのためになること、そうすることで満たされるんだ」

 その感覚は俺もわからないでもなかった。わからないでもないはずだった。
 だからこそ、俺は怜と一緒にいることを苦にしなかったのだと思う。

 あの日、怜があの場所に行こうとしたときだって、俺はべつに止めなかった。
 
 六年前の五月、俺たちは、俺たちは、神さまの庭に迷い込んだ。
 あれが白昼夢でないのなら、たぶん。

 そして、そのときからずっと、俺の視界は、二重になった。
 はっきりと見えるときもあれば、忘れられるくらいにおぼろげなときもある。

 葉擦れの音も、またそうだ。
 うるさいくらいに響くときもあれば、冗談みたいに静かなときもある。

 けれど、止まない。消えない。

 あの日からずっと。

 ……“神隠し”。

 誰がそう言ったんだっけ。
 


 一応、純佳にだけ連絡をしておこうと思い、携帯を開く。
 見ると、すでに何件かメッセージが届いていた。

「今日はちどりちゃんの家で夕飯をいただきます。私達はもう向かっているので、兄は直接来てください」

 ……ずいぶん早く集まるらしい。怜が来るとなれば、当然といえば当然だろう。
 あいつとも、一応家族ぐるみの付き合いだった。

「少し遅くなる」と連絡をする。とはいえ、まあ、夕飯時までには間に合うはずだ。

 遅くなる、とは言ったものの、どこにいくという宛てがあるわけでもない。

 とりあえず近くの商業ビルに入っていろいろと眺めてみるが、何か見つかるわけでもなかった。

 本屋に入って手慰みにカポーティの「夜の樹」を手にとってみたけれど、頭には入ってこない。

 俺は、その事実に、ひどく混乱した。

 予兆はあった。葉擦れの音が大きくなって、二重の風景がぶれ始めることが多くなった。
 それが今日、臨界点を超えた。
 
 ――またこれだ。

 他の本ならどうだろうか?

「嘔吐」は? 「人間の土地」。「星の王子さま」。「曙光」。ダメか。「自由からの逃走」。駄目だ。

「羊をめぐる冒険」ならどうか? 「コインロッカーベイビーズ」は?

 じゃあ「オラクル・ナイト」はどうだ? 「芝生の復讐」は?
「人間椅子」なら? 「砂の女」は?
 
 駄目だ。

「容疑者Xの献身」。「ラッシュ・ライフ」。「レベル7」。「キッチン」。

 駄目だ。



 小説や思想書だけじゃない。戯曲もノンフィクションも、写真に添えられただけの詩も、芸能人の暴露本も、よくあるビジネス書でも同じことだ。
 絵本や児童書でさえそうだ。一冊の本を読み切れる気がまったくしない。

 なにひとつ、頭に入ってこない。

 どのような文章も、どのような一節も入ってこない。頭の中で像を結んでくれない。
 
 どれだけ丁寧に意味を拾い上げようとしても、頭の中に残ってくれない。
 接続詞を挟んだ瞬間に、その前の語句を忘れてしまう。綺麗に頭の中から消え失せてしまうみたいに。

 おそろしいほど、集中できない。……こんなことが、よくある。
 原因は、わかっているといえばわかっているし、わかっていないといえばわかっていない。

 葉擦れの音のせいだと、思うことにしている。

 今日は、キツい日だ。

 いままでで一番かもしれない。

「虞美人草」も「パンドラの匣」も駄目だ。

 勘弁してくれよ、と俺は泣きたい気持ちになる。こんなことがあるたびに冷静でいられなくなる。

 どうしていつもこうなんだ?
 どうして俺はひとつの文章を読むことも満足にこなせないんだ?

 何かを楽しむことがどうして出来ない?

 どうしてこんなふうにすぐに何もかも駄目になってしまうんだ?

 偽物なのも、なにもないのも、俺の方だ。




 本棚から一冊抜き出して、開き、すぐに戻す。別の棚に向かい、また同じことをする。
 何度も何度も同じことを繰り返す。

 どれだけやったところで駄目だった。
 
 もう、俺はどんな文字も受け入れることができない。
 
 ひょっとしたらこの先ずっとこうかもしれない。もう二度と本を読むことができないかもしれない。

 そんな不安が頭の中を支配する。一度その不安に気付くと、今度はそれがあたかも事実であるかのように感じる。

“俺はもう二度と文章を読むことができない。”

 頭を振って、いま、目の前で起きていることを認識し直す。

 冷静になれ、俺は本屋に立っている。本棚の前に立っている。それだけだ。それ以外、なにも起きちゃいない。

 いったいどうしてこんなざまになったんだ?

 動悸がいつになく烈しい。
 呼吸が浅くなっている。自覚はある。

 でも……でも、どうにもできない!

“どうしてこんなありさまになるんだ?”




 本を置き、視界をととのえるためにまばたきをする。

 目にうつる本棚に立ち並ぶ背表紙の文字列は、すでに意味を失っていた。
 それは何かの影のように平面上を這いうねっているだけのように見える。

 急に体の力が入らなくなるのを感じる。
 かろうじて立っていることだけはできる。立っていることだけは。

 けれど、歩き出すためには、もう少しだけ力が必要になる。

 折れるな、と俺は思った。“折れてはいけない”。立ち上がれなくなる。それはまずい。

 呼吸をゆっくりと、ゆっくりと、呼吸を。そして、何も考えるな。
 
 いいか、崩れ落ちちゃいけない。今崩れ落ちたところで、“誰も助けてなんてくれない”。

 そう考えた瞬間、ひときわ強い風が“向こう”で吹き抜けて、木々の梢を揺らしたのが分かる。

 いけない。持っていかれては、いけない。

 保て。
 維持しろ。
 甘えるな。

 誰もおまえを“助けてなんてくれない”んだ。

 ゆっくりでいい。
 取り戻せ。
 落ち着け。
 大丈夫だ。
  
 なあに、たいしたことじゃない――こんなことは、今までにだってあった。

 


 しっかりとした感覚を取り戻すまでに、十分ほどそこで立ち尽くしていなければならなかった。
 さっきまでの眩暈のような感覚は、ようやく落ちついてくる。

 けれど、ふたたび本を読めるかどうか試そうという気分にはなれなかった。
 
“誰も助けてなんてくれない”という言葉が頭の中でまだぐるぐると響いている気がする。
 だから俺は立っていなければいけない。ひとりで。

 本屋を出て、溜め息をつく。どうにか難所は切り抜けた。
 しばらくは、本を読もうなんてしないほうがいいだろう。

 なるべく、気分をゆっくり休めなきゃいけない。一度こうなったら、しばらく映画も漫画も何もかも無理だ。
 からだが受け付けない。

 胸焼けのような気分の悪さが喉の奥の方でつっかえている。

 歩くとひどくなりそうで、店を出て少ししたところで立ち止まり、壁にもたれて休んだ。

 大丈夫、さっきまでよりだいぶマシになっている。たぶん、無事に帰ることができる。

 不意にポケットの中で携帯が鳴動した。

 救いを求めるような気持ちで画面を見ると、ただのニュースアプリの通知だった。

 ――吐き気がひどくなる。

 誰もいない。なにもない。



 ポケットにしまい直したところで、ふたたび振動があった。

 画面をつけるが、何の通知もない。念の為メッセージアプリを確認するが、やはりなにもない。

 ファントムバイブレーションシンドローム。
 うんざりする。

 誰もいない。なにもない。もう一度言い聞かせる。

 そこで、もう一度携帯が震えた。

 ただのメールマガジンだ。
 
 俺は瞼をぎゅっと瞑った。

 理解している。

 いいか、“誰も助けてなんてくれない”んだ。

 ふたたび瞼を開けると、画面にメッセージの通知が来ている。



「薄情者」

 と一言。

「……」

 落ち着け。
 縋り付いてはいけない。
 浮足立ってもいけない。

 とりあえず、内容を確認する。

 ましろ先輩からだ。

「なんだか妹がひどく落ち込んだ様子で帰ってきたのですが」
「何をしたのですか」
「薄情者」

 ……妹。

 ああ、そうか。ちせだ。

「落ち込んでいましたか」

 少しだけ考えて、俺はとぼけることにした。

「きみが何かしたの?」

「いいえ。心当たりはないです」

「そうですか。後輩くんも女を泣かせるようになりましたか」

「人聞きが悪い」

 少し待ったが、そこで返信が途絶えた。俺は携帯をポケットに入れ直し、深呼吸をする。
 さっきまでと比べてどうか? ……いくらかはマシだ。

 さて、と俺は思う。

 ……いつもどおりに振る舞わなければ。

つづく




 鴻ノ巣家は俺の家の真ん前にある。
 郊外住宅地の狭くて見通しの悪い路地を挟んで、ちどりの家は俺の家に背中を向けている。

 昔はずっと仲が良くて、今もこんなに近くに住んでいる。
 それなのに、中学を卒業して別々の高校に通うようになってから、俺はちどりとほとんど会わなくなった。

 たまに『トレーン』にでも出向かない限り、皆無と言ってもいいだろう。
 
 彼女ができた俺に気を使って、ちどりが一緒に通学したりするのを避けようと言い出したのが一番の理由だ。
 それだってもはや、バカバカしいという気持ちもないではない。

 鴻ノ巣家の門の前に立つと、賑やかな笑い声が響いてきた。

 辺りはまだ雨が降っていて、俺は自分がマッチ売りの少女にでもなったような気分だった。

 自己憐憫はよくない。

 少しだけ迷ってから、インターフォンを押した。以前ならそんなことはしなかったけれど、今は今だ。

「はーい」

 中からすぐに声が返ってくる。なぜだかドキドキする。

 こんなこと、昔はなかったけど、頻繁に会わないことに慣れすぎたかもしれない。

 でも、その声がちどりだと、やっぱりすぐに分かった。




「あ、隼ちゃん」

 ちどりは相変わらずのほわほわした顔で、ドアを開け放した姿勢のまま俺に笑いかけた。
(その表情が、いま、ほんの少し、他の誰かのものとダブる)

 高校の制服のうえに、水色のエプロンをつけて、髪をサイドにまとめている。
 くるりとした毛先を乗せた鎖骨がほんの少しだけ目に毒だ。

「やあ」

 俺が棒読みで挨拶すると、彼女はちょっと不満そうに眉を寄せた。

「どうして急に電話切ったんですか?」

「いや、謎の衝動に襲われて……」

「……それは大変でしたね?」

 よくわからないことでも、深く追及しないまま適当に返事をできるのが、ちどりの美徳と言えば美徳だろう。

「怜、来てるの?」

「来てますよ。みんな揃うの、久々ですね」

「そうだね」

 俺はやっぱり、自分で分かるくらいの棒読みだった。


 招かれるままに玄関に入ると、靴がこれでもかというほどたくさん並んでいた。
 うちの家族ももう来ているらしい。
 
「急に呼び出してすみません」

「いいよ。どうせうちの親父あたりが無理やり呼ばせたんだろ」

「ううん。怜ちゃんが会いたがったんです」

「怜が? 俺に?」

 まあ、べつに意外でもないか。久し振りだし、友達は友達だ。

 ちどりはスリッパで文字通りスリップしながらダイニングの扉を開けた。
 その仕草に懐かしさのような感慨を覚える。

 俺が顔を覗かせると、「遅い!」と怒鳴り声が聞こえた。

 大きめのダイニングテーブルを囲んで、大の大人四人と子供二人がオードブルに舌鼓を打っていた。
 大人たちはもう酒が入っているらしい。まだ六時も回っていないのに気が早いことだ。

「怜が久々に帰ってきたっていうのにどこほっつき歩いてたんだ! それでもおまえ俺の息子か! おまえそれでも人間か?」

 酔っぱらった顔で怒号を飛ばした親父を見て、俺はげんなりした。
 怜、と呼び捨て。ほとんど自分の子供みたいな言い方だ。

 自分の息子ともほとんど顔を合わせていないというのに、たいした親だ。

「我が子になんて言い草だよ」

 適当に受け流しながら、俺はダイニングテーブルの隅の方にスペースを見つけて座った。
 ちどりはすぐにコップと飲み物を用意してくれた。



 俺とちどりは、家が近く、それぞれの両親の親交が深かった関係で、ほとんどきょうだいみたいな育てられ方をしていた。

 怜は中学に上がるまで近くに住んでいて、家が近かった関係で仲良くなった。
 そこに純佳が加わって、四人でよく遊んだものだ。

 親が今みたいに多忙になる前には、バーベキューもしたし、サッカー観戦にも行った。
 水族館にも行ったし、動物園にも行った。

 夏休みの自由研究は共同でやったりみんなで協力したりしたものだ。
 
 俺がそうしていたように、怜もまたちどりに五百円硬貨を握らせて読書感想文を書かせていた。
 バレるのはいつも俺で、怜は上手くかわしていたっけ。

 ちどりの両親と俺の両親は、酒が入ってもうだいぶ気持ちよくなっているらしい。

 料理や飲み物はちどりがひとりで回していた。

 昔からかわらず損な立ち位置だとは思うが、手伝おうとも思わない。
 好きでやっているから気にしないでと遠慮されるのがオチだ。




 怜は純佳の隣に座っていた。
 久し振りにみても、やっぱりほとんど変わらない。前と同じ、綺麗な、不思議な表情。

 この表情が、怜の魅力なんだろうと思う。
 底知れない、意味深な、けれどなぜか親密さを感じさせるような、笑み。

 怜は、こっちを見上げて、俺に笑いかけてきた。

「久しぶりだね、隼」

「ああ。……おかえり、怜」

「うん。ただいま、だ」

 怜の声は、ざわめきのなかで役者みたいにすっと俺の耳に届く。
 よく馴染む、前と変わらない、人を安心させる声だ。

 純佳は、どうしてだろう、ほんの少し居心地悪そうに、オレンジジュースを飲みながら、俺と一瞬だけ目を合わせて、黙った。


 親父たちは俺の存在なんか忘れたみたいに酒を飲むのを再開した。

「隼ちゃん、すぐにごはん用意しますね」と、ちどりだけが俺のことを気遣ってくれる。

「どうしたんだ。ずいぶん急だったよな?」

「うん。まあ、ちょっといろいろあってね」

「いろいろって?」

「それはまあ、あとで話すけど……」

 怜は、前と同じように――ああ、俺が羨ましかった表情だ――少し意味深に唇を歪めた。

「少し、気になることがあったんだ」

「気になること?」

「うん。隼にも知恵を貸してもらいたいんだ」

「……知恵?」

 怜が、俺の知恵?

 皮肉か、とか思ってしまうあたり、やっぱり俺はだいぶひねくれてしまったんだろう。
 こいつが俺の知恵なんて必要とするとは思えない。

「隼ちゃん、けっこうお腹空いてますか?」

「まあ、割と」

「いまあるので足ります? いろいろ買ってきてあるんですけど」

「あ、うん。……あ、自分でやるよ」

「いいです。隼ちゃんはお客さんなんですから」



 とりあえず俺は怜の隣に腰掛けた。親父たちは騒いでいたけれど、たぶん無視しても問題ない。
 
「彼女ができたんだって?」

「あれ、言ってなかったっけ。……中学のときだけど」

「聞く機会がなかったじゃないか。上手くいってるの?」

「いや。いまいち」

「ふうん」

「怜は、そういうのないの?」

「ぼく? うん。そうだな。ぜんぜん」

 ぜんぜん、と怜はへらへら笑った。

「猫は元気?」

「猫?」

「ほら、ちどりと拾ってきた猫。飼ってただろう」

「死んだよ」

「そっか。……学校はどう? 文芸部だって?」

「おまえは俺の親戚かなにかか」

「そう冷たいこと言わないでよ。ひさびさに会って、何話したらいいかわからないんだ」

 怜は首を軽く揺すって、短い髪をさらりと揺らした。そんな仕草さえ絵になる。



 はい、とちどりが俺の前に食器を運んでくる。

「ありがとう」

「いえいえ。たんと召し上がってください」

 ……どういう返事をすればいいんだ? 

「ちどりも座れば」

「あ、はい」

 と言って、エプロンを外すと、俺の隣に腰掛けた。

「みんな揃うの、ひさしぶりですね」

「だな。ちどり、何飲む?」

「あ、いいです。自分でやります」

「そう言うな」

「あ……じゃあ、オレンジジュースを」

「はい」

 グラスに注いでジュースを渡すと、ちどりは両手で受け取って、「ありがとう」と笑った。
 変なやつだ。文句のひとつくらい言ってもバチはあたらない立場なのに、平然としている。

 こういうところで、ちどりと怜は似ている。損を損と思わないところが。




「兄、今日はどこに行ってたんですか」

 怜を間に挟んで、純佳がそう声をかけてくる。

「駅の方」

「駅? どうして?」

「ちょっと約束があって」

「……柚子先輩?」

「……」

 沈黙が答えになってしまった。

「少しな」

「柚子先輩って?」

 怜が口を挟んだ。

「兄の彼女です」

「なんだ、いまいちとか言って、ちゃんとしてるんじゃないか」

「ちゃんとってなんだよ。べつに、本当に用事があっただけだ」

「ふうん」と、ちどりが息をついたのが少し意外で、三人が揃ってそちらを見た。

 ちどりは面食らったような顔をして、「なんですか?」と言う。

「べつに」と、今度は俺がごまかす番だった。

つづく





「夢じゃないかと思ってたんだ」と、帰り際、俺は怜に向けてそう言った。

「なにが?」

「あのときのこと」

「……」

「本当は、今でも疑ってる」

「……そうだったんだ」

 含みのある微笑みを浮かべて、怜はそれ以上言葉を続けなかった。

 何もかもが現実感がなくて、そのせいで俺は、覚えているべきなのか、忘れるべきなのかも分からなかった。
 こうして久しぶりに怜と話したことで、それが事実だったんだと理解できる。

 そうじゃなかったら、やっぱり夢だったんだと思っていただろう。

 ちどりは、あのときのことを何も覚えていなかったから。






 六年前の五月だった。

 当時は、俺も怜もちどりもランドセルを背負った小学生だった。
 そして、その当時、怜は名探偵だった。

 知識と頭の回転を武器に、快刀乱麻に日常の謎に光を当てる、陽の下の存在だった。
 困っている人を捨て置けない正義感と、世界があたたかくやさしさに満ちているべきだという理想を持った善人だった。

 そして、子供らしさのひとつのあらわれとして、自分の優秀さに対する自負心も持ち合わせていた。
 もっともそれは、怜の魅力のひとつにすぎなかったように思う。

 そのほんの少しの思い上がりは、他の面で大人びていた怜を子供っぽく見せて、むしろ親しみすら湧いたくらいだ。
 第一、自負といっても、他人を見下すような態度をとっていたわけでもないのだから。

 世知に長けているわけではなかったにせよ、怜の自負にはかわいげがあった。
 それを帳消しにするくらいの愛想と愛嬌があった。

 だから、怜はめったに人に嫌われなかった。
 けれど人間というのは複雑な生き物だ。

 嫌われないような人間だからこそ嫌われるということがある。

 五月に起きたのはそういうことだ。




「ねえ、隼。丘の上に公園があるだろう」

 六年前の五月のある日の放課後、俺は怜にそう話しかけられた。

「あそこに、涸れた噴水があるって聞いたことある?」

「噴水?」

「なんでも、木立の奥に隠れてるんだって聞いたんだけど」

「いや……知らない」

 ふむ、と怜はわざとらしく唸ってみせた。

「それがどうしたんだ」

「……シマノがね。そこで落とし物をしたっていうんだ」

「……落とし物?」

「そう。代わりに探してきてほしいって頼まれた」

「……シマノだろ。放っておけよ」



 シマノというのは、当時、俺や怜につっかかってくることが多い男子だった。
 特に、何かと注目を集めてみんなに人気だった怜のことは、嫌っていたみたいだった。

 たぶん、僻んでいたんだろう。

「でも、頼まれた」

 そういうときの融通の効かなさは、ある意味では美徳でもあったんだろう。
 それでも俺は呆れた。

「なんでシマノは自分で取りにいかないんだ?」

「それがまた、変な話でね」

 と、怜は言った。

 そうだ。今にして思えば、警告はそのとき既になされていた。

 



 変な噂があるらしいんだ、と怜は続けた。

 ちょっとした怪談みたいなものがね。
 まあ、漠然としてるんだけど……。

 黄昏時の公園に、
 人の気配が消えたあと、
 涸れた噴水に水が湧き、
 水面に木立の梢が浮かぶと、
 水面の月が静かに揺らぎ、
 ひときわ強い風が吹き抜け、
 鏡を覗く誰かをさらう。

 そんな漠然とした噂だった。

「……どうも、怖いらしくてね」

「……怖い? シマノが?」

 そういう奴じゃない。仮に怖がったとしても、怜に対して、怖いなんて素直にいう奴じゃない。
 俺にはもう、そのときちゃんとわかっていた。
 シマノは、わざと怜をそこに近付けようとしていた。

 からかうつもりで、怜を試すつもりで。
 怜にだって、そのくらいのことはちゃんとわかっているはずだった。


「悪いんだけど、隼、付き合ってもらえないか?」

「……行くのか」

「うん、まあ、頼まれたから。でも、ほら……」

「……」

「ひとりだと、ちょっと怖くてね」

 素直に言えるのも、怜のいいところといえばいいところではあった。
 けれど、俺は一緒にはいかなかった。

 俺が帰らなければ、純佳がひとりで家にいることになる。
 まずいことが起きるわけではないが、それはなんとなく避けたいことだった。

「悪いけど、行けない」

「そっか。……なら仕方ない」

「落とし物って、なんなんだ?」

「……時計だって」

「時計?」

「うん。お父さんの時計なんだって」

「……そうか」

 そのとき俺は、絶対に怜を止めるべきだった。そんなのはもちろん今だから言えることだ。
 当時は、そんなくだらない、漠然とした噂なんて信じちゃいなかった。
 怜だってシマノの思惑なんてわかった上だろうと思っていたから、それでもいいなら勝手にすればいいと思った。

 せいぜい、「暗くなる前に帰れよ」と言うくらいが関の山だった。
 怜はなまじ自負がある分、当たり前の危機に無頓着なところがあった。

 そうわかっていたなら、やっぱり俺はついていくべきだったのかもしれない。




 ちどりの家に戻るまでに、そんなに時間がかかったわけではないはずだった。
 袋の中のアイスは溶けていない。ただ、話の内容のせいで少し時間を長く感じただけだ。

「おかえりなさい」

「ごめん。遅くなったね」と怜は言う。

「ううん。ちょうど片付けも終わりましたから。何か飲みますか?」

「ん。……じゃあ、麦茶をもらえるかな」

「隼ちゃんは?」

「ああ、うん。もらうよ」

 ちどりはくすっと笑った。

「どうした」

「いえ、べつに」

 なんだか含みのある言い方だと思ったけれど、追及はしないでおく。

 するとちどりは、勝手に言葉を続けた。

「なんだか、本当に、昔のままだなあって」

 そんなことなんかで、こいつは本当に嬉しそうに笑うのだ。

 でも、そのとき不意に、気付いたことがあった。



「……ちどり?」

「……はい?」

 名前を呼ぶと、不思議そうに首をかしげる。
 それで違和感は消えてしまった。

 自分でも、その正体がうまくつかめない。

 いま一瞬、ちどりがどこか遠くにいるように感じられた。

 それが何か意味のある感覚なのか、それともさまざまな状況と情報が、俺を疲れさせているせいなのか、わからない。

 ……瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。

 怜にも、話さないといけないだろう、おそらく。

 買ってきたアイスを三人で食べながら、少しの間、なんでもない話をする。

 それぞれの学校や部活のこと、友人や教師や勉強のこと、家族のことなんかを。

 それから俺たちは、解散した。

 ちどりの前で例の話をすることには当然抵抗があった。
 俺と怜は、あとで改めて連絡することにした。

 馬鹿騒ぎのあとだというだけではなく、三人とも疲れているのはわかっていた。

 ちどりは食事を準備したし、怜はひさびさにこっちにきた。俺は俺で、昼間から混乱し通しだ。
 
 やけに長く感じる、そんな一日だった。



 家に帰ってシャワーを浴びたあと、いつものようにベッドに横たえる。

 体が眠りたがっているのはわかっていたし、今日は例の音は控えめだった。

 いつのまにか、また雨が降り出していた。屋根を打つ雨音のせいで、やけに考え事がまとまらない。

 俺は起き上がって机に向かい、卓上灯をつけて、置きっぱなしにしてある筆記用具を手にとった。

 考えること、起きたこと、いろいろなことを書き留めていく。


・瀬尾青葉

 と、まず最初に書く。
 
 瀬尾がいなくなったのは五月の半ば頃、部誌が発行された直後だ。
 最後に彼女の姿を見たのは、おそらく俺だ。荷物も持たずに彼女はいなくなった。

 その十日ほど後、五月の末に、彼女からの手紙を大野が発見した。
 こちらから返事を送ると、二枚目の手紙が返ってきた。

 その次に手紙が来たのは数日後のことだった。今のところ、瀬尾からの手紙は三枚ということになる。

 考えなければいけないことを、そのまま並べてみることにする。

(1)瀬尾青葉は今どこにいるのか?
(2)どんな手段で『伝奇集』にメモを挟んでいるのか?
(3)彼女は今、どんな状態なのか?

 ……ひとまず、こんなところだろう。今日瀬尾の家で聞いた話については、考えることはない。
 少なくとも、瀬尾の居所のヒントにはならない。



 まず、(1)瀬尾がどこにいるのか、という部分。

 誰かの協力を得て、普通に過ごしている、と考えることもできなくはないが、難しい。
 なにより、やはり、『伝奇集』にメモを挟まなければいけない理由がわからなくなってしまう。

 いろいろな情報を統合して考えると、可能性として検討の余地があるものはふたつ。

 まず、瀬尾が──こう考えるのは俺にはひどく苦しいことだが──"神さまの庭"にいる、とすること。

 根拠は、怜が持っていた学生証だけだ。
 けれど、そのひとつが決定的だという気もする。

 瀬尾は鞄ひとつ持たずにいなくなった。学生証は瀬尾の手荷物として部室に残されたままになっていたはずだ。
 もしそうでなかったとしても、怜が"あっち"でそれを拾ったというなら、瀬尾が"あっち"にいるというのは突飛な想像とは言えない。

 もうひとつは、瀬尾が学生証を鞄とは別に持ち歩いていた場合。
 もしそうだとすると、怜が学生証を持っていてもおかしくはない。

 怜が瀬尾をかくまっている、と考えることができるからだ。

 けれど、実際的にそれはありえないことだろう。

 怜と瀬尾は知り合いではないはずだし、やはり『伝奇集』の問題も残る。
 付け加えて、怜が瀬尾をかくまっているのなら、俺に瀬尾青葉の学生証を拾ったとわざわざ報告する理由もない。



 そうだとすると、やはり、瀬尾青葉は、"神さまの庭"にいる。あるいは、いた。

 それ以外の可能性は、ありえなくはないが、"学生証"があちらに存在することに矛盾する。
 あるいは……"あっち"では、そういうこともありえるのかもしれないが、いずれにせよ、
 瀬尾青葉が、現状何かの形で"あっち"に関わっている可能性は否定できない。

 それは、瀬尾の手紙からも、なんとなく想像ができる。

 湖畔というのは……"あっち"の湖畔のことなのかもしれない。

 次に、(2)『伝奇集』のメモのこと。

 もし、瀬尾が"あっち"にいるのだとしたら、これはあながち謎であるとも言えないのかもしれない。
 あんなおかしな場所があるのなら、その程度の不思議はありえないことでもない。

 ましてや俺は、そうした不思議をいくつか目の当たりにしている。

 さくら。彼女についても、考えたいところだ。

 最後に、(3)瀬尾青葉がどんな状態にあるのか、だ。

 ちせが懸念するまでもなく、状況がよくないのは確かだろう。
 あの場所について、俺は詳しく知っているわけではない、けれど……。

 あそこに長く居たら、きっと、戻れなくなる。それは、なんとなく分かる。


 そこまで考えてから、俺は(4)を書き足した。

(4)瀬尾青葉を連れ戻すためにはどうすればよいのか?

 怜は言っていた。
「入り口はどこにでもある」。俺もそう思っている。

 けれど、あの中は迷路だ。
 入り口は無数にあるが、その先の空間は必ずしも繋がっていない。

 ……とはいえ、ものは試しだ。やってみる価値はあるかもしれない。
 俺は(4)の横にメモを書き足した。

「← 実際に行ってみる」

 書いてから、重く鈍い痛みが頭の中にのしかかってくるのが分かる。

 ……あとで考えよう。

 こうして書き出してみて、俺がいくつものことをごちゃごちゃとないまぜにして考えていたことがわかった。

 自分のことや、さくらのこと、カレハのこと、真中のこと、……ちどりのこと、怜のこと。
 十年前の五月のこと。

 それは、たしかに、問題だし、今、やけに話に上がってきている。

 けれど、それらは、瀬尾には直接関係はない。

 今は、それについて、すぐさま考える必要はない。



 肝心なのは瀬尾のことだ。

 他のことは、とりあえずは、考えないほうがいい。
 そのはずだ。

 やれることを、考えてみよう。

 ひとつは、さっきも書いたとおり、直接、あちらに向かうこと。

 怜の手を借りる必要はあるかもしれない。
 けれど、こうなってしまうと、真中やちせを巻き込む気にはなれない。
 協力すると言った手前ちせには申し訳ないが、彼女には伝えないでおこう。

 他にあるとしたら……。

「……」

 見落としていた。

『伝奇集』を使ったやりとりは、まだ行える。
 そこで直接、瀬尾の居場所を本人に聞くことはできるはずだ。

 ……それが、まだ繋がっていれば、だけれど。




 困ったことに今日は土曜で明日は日曜。学校の図書室は閉まっている。
 早くても、試せるのは来週だ。

 となると、明日すべきことは……。

 まあ、いい。

 やれることを、いくつか検討してみよう。
 怜の協力を仰ぐかどうかは、またあとで考えよう。

 そこまで考えると、体が一層重くなった。
 
 特別なにかしたわけではないにせよ、今日はひどく……ひどく、疲れた。

 瀬尾を連れ戻すなら、行動をするしかない。

 けれど、と考えてしまう。

 みんな、瀬尾がいなくなったことで、心配している。
 心配させるのは、本意ではないだろう。

 でも……瀬尾は、それさえも気にかけることができないくらい、追い詰められていたんじゃないか。
 そうだとしたら、瀬尾を連れ戻すことは、瀬尾にとっていいことなんだろうか?

 彼女が抱えているものがなんなのか、俺は、かけらさえ知ってはいない。

 それはもしかしたら、十年前の五月、あのときのことと、関係があるのだろうか?
 考えても、たしかめようはない。けれど、考えてしまう。

 無関係、なのかもしれない。でも、何もかもが符号する。

「こんなことってあるんだろうか?」と何度も思った。
 瀬尾の顔を見るたびに、不思議な気分にさせられた。

 彼女の顔は、姿は、鴻ノ巣ちどりに瓜二つなのだ。

 でも、それがいったい、どういうことなのか、俺には、わからない。


つづく

一月半の猶予があったのにまったく書き溜めていないのでペースは相変わらずです


 バイトを終えて携帯を確認すると、怜からメッセージが来ていた。
 
「昨日の話の続きがしたい」とあった。

 その話を聞くのは、とても大事なことだろう。

 俺と怜はどこに行くか迷ったけれど、落ち着いて話せる場所というのがいくつも思いつかなかった。
 それで、結果的に「トレーン」以外にふさわしい場所がないというのがおかしい。

 ちどりは今日はいないようで、ちどりの父親が俺を迎えてくれた。
 昨日もそうだったけれど、ちどりの両親はうちの親たちとは違って落ち着いた雰囲気なのが羨ましい。

 そうは言っても、べつに両親に文句があるわけでもないのだけれど。

 先に店に着いたのは俺で、少し待たされたあとに怜もやってきた。

「やあ」と怜は言った。黒っぽいスキニージーンズ、薄い水色のシャツ、いつもみたいに爽やかだった。

「待った?」

「少しだけ」

「うん。ごめんね」

 いいよ、と俺は言った。



 俺はブレンドコーヒーを、怜はカフェモカを頼んだ。
 話を途中で分断されるのもよくないだろうと、注文したものが届くまで、俺達は世間話をすることにした。

「日曜だけど、彼女さんと会ったりはしなかったの?」

「今日はバイトだったよ。……それに、昨日会ったって言っただろう」

「ああ、そう言ってたね。たしかに、あんまりベタベタするのも隼らしくはない」

 ……そうだろうか。わからない。
 怜は記憶のなかの俺と今の俺が符号するのがおもしろいみたいにクスクス笑う。

「怜はそっちで、そういうのいないのか……ああ、昨日もしたか、この話」

「うん。したよ。ぼくは全然、そういうの縁がないんだ」

 こいつのことだから嘘だろうなと俺は思った。どうせそういう気分になれないだけだろう。

 どうもうまく話せない。違和感があるとかそういうわけでもない。なんとなく、気まずさみたいなものがある。

 カップがふたつテーブルに置かれて、マスターは別のお客の相手を始めた。
 俺たちはようやく本題に入ることができる。

 それでも少し声のトーンを落としながら。


「それで、昨日の話の続きをしよう」

 怜は頷いた。

「俺はたぶん、いくつか話せることがある。その前に、おまえの話を訊きたい」

「うん。うまく話せるか、自信ないんだけど」

「謙遜は似合わない」と俺は言う。

「知ってるみたいに言うなあ。……けっこうひさしぶりなのにさ」

「まあ、そう言われればそうだけどな。そんな話がしたいわけじゃない。分かるだろ?」

「うん。そうだね。話をしよう」

 怜は抱えていたリュックサックからノートとペンを取り出した。
 そう、こういう奴だ。



「どこから話せばいいだろう、と思う。でも、やっぱり順番に話すべきなんじゃないかと思う」

「ああ」

「隼は平気?」

「なにが」

「あのときのこと、落ち着いて話せるかな」

「……」

「ぼくらはあのときのことを、真剣に検討したことってなかっただろう?」

「そうだな」

 俺は頷いた。
 たぶん、それは仕方ないことだったんだろう。俺も怜も、あのとき自分たちの身に起きたことをうまく消化できないでいた。

「……そこから話を始めるべきだろうな。おまえの身に起きたことと、俺の身に起きたことを、それぞれに」

「うん」
 
 いくらかほっとしたみたいに、怜は微笑んだ。俺がまた怒ると思ったのかもしれない。
 
 昨夜はいくらか、俺も感情的になりすぎた。おまえのせいなんだぞ、と言いかけるくらいに。
 でも、落ち着いて考えてみれば……いったい、何が怜のせいだったんだろう?




 俺のそんな戸惑いを無視するみたいに、怜は話を始める。

「始まりはシマノだった」

 そう、俺の認識も同じだ。

「六年前の五月の始まり頃、ぼくはシマノから頼まれごとをした。シマノのことは覚えてる?」

「覚えてる。おまえを目の敵にしてた」

「正確にいうと、隼をだよ」

「……俺? なんで」

「彼はちどりのことが好きだったんだよ」

「それは初耳だ。俺はあいつに何かされた記憶はないけど」

「それは隼が気にしなかっただけだよ」と怜はなんでもないことのようにいった。

「それに、ぼくもいた。直接隼になにかをするなんて、シマノには怖かっただろうね」

 たいした自己評価だと思うが、じっさい、そうだろう。
 怜と仲の良い俺にどんな嫌がらせをしようとしたところで、きっと怜に看破されていただろう。
 


「シマノは、丘の上の公園で父親の時計をなくした。それで、ぼくに探してくるように頼んだ。
 自分で取りに行くのが怖いから、と言っていたけれど、実際には違うだろうね」

「ああ。おまえを怖がらせたかったんだろうな」

「うん。……だからこそ、ぼくは引き受けたんだけど」

 怜は、実のところ、怪談やおばけや幽霊の類が昔から苦手だった。
 合理主義者に見える怜は、その合理主義ゆえに、霊的現象の存在を否定しきれなかった。

 それは「起こりうるかもしれない」という畏怖を当時から抱いていたような気がする。
 そう考えれば、怜は当時からずいぶん成熟した考え方をしていたわけだ。

 あるいは単にそれは俺の錯覚で、当たり前に、子供らしく、怖かっただけなのかもしれないが。

 怜は昔から独特のプライドのある奴だった。
 シンプルに言うと、格好つけで、見栄っ張りだった。自分が怖がってるなんて悟られるのはいやなやつだった。

 とはいえ、そんなのは普段から一緒に生活している人間なら、なんとなく気付いているような話だ。

 シマノだって、まがりなりにも怜と同じ校舎で何年も一緒に過ごしたのだ。
 怜のそういう性格だって、お見通しの上だっただろうし、怜はそれを見越したうえで、引き受けたのだ。

 両方共、実は肝試しのつもりだったのだ。


「でも、さすがにひとりで行くのは怖かった。だから隼に声をかけた。覚えてる?」

「うん。俺は断った」

「純佳がいたからね」

「そう。純佳がいたから」

 とはいえ、俺はいつだってそんなふうに付き合いが悪かったわけではない。
 純佳だってひとりで家には帰れるし、留守番だってできたはずだ。

 考えてみるとどうしてだろう、と思ったところで、怜が言った。

「純佳はあの時期、ちょっと過敏なところがあったからね」

「……ああ、そうだ」

 そうだったかもしれない。
 原因ははっきりしている。

 あの地震だ。
 
 あのときから、純佳は少し、いわゆる「赤ちゃん返り」のような状況になった。
 
 もちろん、このあたりでは電気やガスや水道が止まったくらいで、人的被害なんて言えるものはほとんどなかった。
 それでも、あの非日常と言ってもいい状況は、大人の心さえも不安定にさせていた。

 それからまだ、ほんの一、二ヶ月後のことだったのだ。
 そう考えれば合点がいく。



「それでもぼくは、ひとりで行くのが怖かった」

「ああ」

「それで、ちどりに声をかけたんだ。ちどりは、二つ返事で頷いてくれたよ」

「そうだろうな」

 ちどりならきっと、シマノの悪意になんてまったく気付かなかっただろう。
 昔から、そういうやつだった。あるいは、シマノのこととは無関係に、怜が困っていたら、ついていっただろう。

「それで、ふたりで行ったわけだ」

「そう。丘の上の公園。涸れた噴水」

「……例の都市伝説だな」

「そう。覚えてる?」

 覚えている。不思議なものだ。

「昨日も思い出してたんだ」

 黄昏時の公園に、
 人の気配が消えたあと、
 涸れた噴水に水が湧き、
 水面に木立の梢が浮かぶと、
 水面の月が静かに揺らぎ、
 ひときわ強い風が吹き抜け、
 鏡を覗く誰かをさらう。


「その噴水のそばに落としたって話だった。ぼくらはそこに向かったんだ」

「……そうだな」

「そしてぼくらは、"さらわれた"」

 怜はそう言った。まっすぐに俺の方を見ている。俺だっていまさら疑ったりしない。
 
「気付いたときに、ぼくとちどりは、"神さまの庭"にいた」

 もちろん、そういう話になる。

「でも、ぼくらはあの噴水からさらわれたわけじゃない。あの木立の奥に、小さな小屋があった。
 たぶん、物置小屋かなにかだったんだと思う。スコップとか、そういうものを置いておくような。そこに、鏡があった」

「鏡」

「そう、鏡。あの廃屋に、鏡があったんだ」

「訊いてもいいか?」

「ん」

「どうしてその小屋に入ろうと思った?」

「時計が見当たらなくて、探しているうちに、その小屋を見つけたんだ。入ったのは、好奇心だったかな」

 好奇心。

「なるほどな」

「鏡を見つけた。そして、それが光った」

「……」

「眩しくて、目を瞑った。そうして気付いたら、あっちにいた」

 荒唐無稽な話。それが嘘じゃないと俺は知っている。



「あれは、どのくらいの時間だったんだろう?」

 怜は、俺の目を見てそう訊ねてきた。

「……その日の夜、俺の家に電話がかかってきた。怜とちどりの家からそれぞれだ。
 ふたりとも家に帰っていないが、行方を知らないか、という話だった。
 俺は母親に、ふたりと会っていないか、と言われて、会っていない、と答えた」

「ふむ」

「たぶん、時計を探してるので遅くなっているのかもしれないとも思った。でも、ふたりの親がパニックになった様子でうちに来た」

 そのとき俺が怜の父親に何を言われたのか、それはべつに話す必要のないことだろう。
 もともと彼は俺のことをよく思っていなかった。

 怜の父親は、怜があの頃のような性格に、つまり、何にでも首を突っ込みたがる、好奇心旺盛な性格になったのは、俺の影響だと考えていたらしい。

 事実がどうかは、俺にはなんとも言えない。
 それで、俺が何かを知っていると決めつけてきた。
 
 子供を心配する親心と言えばそうだが、当時としてはけっこう恐ろしかったのを覚えている。

 そうなると俺も余計に、知らない、と言い張るほかなかった。

 でも、心の中ではちゃんと思いついていた。

 結局、話を聞き終わると、ふたりの親は家へと帰っていった。
 子供が帰ってくるかもしれないと、うちの親も説得した。

 明日の朝になっても帰ってこなかったら、そのときは……。そんな話をしていたのを覚えている。



 その夜は、もうどこからも連絡は来なかった。
 
 ひょっとしたらちどりも怜も、家に帰ってきていたのかもしれない、と俺は想像したけれど、今にして思えば逆の話だ。
 もしどちらかがだけでも帰ってきていたなら、帰ってきた、とうちに連絡をよこしたはずだろうから。

 そして翌朝、ちどりも怜もいなかった。
 普段一緒に登校していたから、朝の段階でそれはわかった。

 俺は当然のように学校に行った。ふたりは当然のようにいなかった。

 シマノが話しかけてきて、ふたりはどうしたのか、と訊いてきた。

 わからない、と俺は言った。昨日は家に帰ってこなかったらしい、と。

 シマノの顔ははっきりと蒼白になった。
 俺は彼に、怜の言っていた噂の内容を問いただしたけれど、結局シマノもたいしたことは知っていなかった。
 単なるうわさ話だと彼の方も思っていたらしい。

 放課後、俺はひとり、丘の上の公園へと向かった。

 木立の奥の噴水を見つけるのは簡単だった。

 五月の夕暮れは、冬よりはだいぶ明るいにしても、いくらか暗い。
 夕空がやけに綺麗だったのを覚えている。




 涸れた噴水を見つけたとき、不意に話しかけられた。

 中学の制服を着た、知らない女の子だった。

 ──きみ、この先に行くつもりなの?

 不意に、そんな声をかけられて驚いた。
 この人は、いったい何を知っているのか。そう思った。 

 ──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。

 俺は、息を呑んで、けれど言い返した。

 ──友達が、迷子なんだ。

 彼女は困ったような顔をした。
 本当に困った、という顔をした。
 それは困ったね、と実際に口に出しもした。

 ──じゃあ、仕方ないから、ついていってあげる。

 彼女は、なんだったんだろう。誰だったんだろう。
 記憶のなかの彼女の顔はおぼろげだ。
 
 ただでさえ黄昏時だった。
 誰そ彼。陰影に飲まれて、記憶の中の彼女の顔はまっくらだ。




 そして、俺と彼女はむこうに行った。
 
 怜とちどりが帰ったタイミングがいつなのか、俺は知らない。

「たぶん、一日じゃないか」と俺は言う。

「一日……」

「うん。たぶん、一日だと、思う。怜とちどりが帰ってきた正確な時間は、俺にはわからない」

「……そうか、そうかもしれない。考えてみれば、一日なのかもしれない」

「……」

「ぼくらは、あそこに行って、隼と会って、助けられて……帰ってきたら、隼がいなかった」

「……」

「二週間。隼は、姿を消していた」

 悔恨だろうか、後ろめたさだろうか、怜は、目を合わせようとしない。

 俺が怜とちどりが帰ったタイミングを知らないのは当たり前だ。
 そのとき俺は、まだむこうにいたんだから。

 ……あの日、あのときから、そうだ。

 あの日、葉擦れの森に迷い込んでから、俺のからだの半分は、まだあそこに取り残されているような気がする。
 あのときから、葉擦れの音が、止まないままだ。


つづく


「隼が帰ってきたのは二週間後のことだった」

 と怜は言う。

「ぼくとちどりは先に戻ってきた。でも、ちどりはあっちのことを何も覚えていなかった。
 ぼくは大人たちに説明しようとしたけど、あまり信じてはもらえなくて、途中で諦めた。
 隼がいなくなったことで、状況はむしろ混乱していった。うちの親は……」

 怜は、言いよどんだ。

「おまえは気にしなくていい、と言って、ぼくが隼のことを話すのを嫌った。
 たぶん、心配していたんだと思う。また何かしでかさないようにと、ぼくは登下校親に車で送られて、自由に動けなかった」

「……そりゃ、そうなるよな」

「ちどりは何も覚えていなかった。鏡を見たところまでは覚えていたけど、それ以降の記憶は、ちどりにはなかった」

 それは俺も確かめた。ちどりは何を話しても覚えていない。

 あの日のことなんて、何にもなかったみたいに、ちどりは過ごしていた。


「隼がいなかった二週間、隼の家族は……当然だけど、憔悴した様子だった。
 今度はぼくとちどりが、隼の行方を聞かれる番だった。
 ちどりは何も覚えていなかったし、ぼくの言うことは……当然だけど、まともな大人なら信じられない内容だった。
 途方に暮れただろうね。それでも、おじさんたちはぼくらを責めなかった」

「……」
 
「ぼくは、純佳にはあのときのことを話さないようにした。純佳にもし教えたら、彼女まであっちに行きかねないと思った。
 ふたりは昔から仲が良かったからね」

「……どうだろうな」

 そうかもしれない、とも思う。とはいえ、ミイラ取りがミイラ、が増えるのも馬鹿な話だ。
 怜の判断は正解だった。

 怜は身動きが取れず、
 ちどりは覚えておらず、
 純佳は知らない。
 大人たちは怜の言葉を信じなかった。

 だから、俺は……。

「でも、隼はひとりで帰ってきた。そして、それ以降、誰もいなくならなかった。
 だからひとまず、一旦は、そこで話が終わった。ぼくも、けっこう怖い目をみたし、隼もそうだった。
 だからぼくらは、今までその話を避けていたところがあったね」

「……そうだな」

 ──今もまた。
 葉擦れの音が聴こえる。



 
「あの場所は、結局なんなんだろう?」

 怜は、そう言った。それについて話すのは、きっと困難だけれど必要なことだ。
 少なくとも検討の必要がある。

 あそこがいったい、どんな場所なのか。

 考えたところで、分かるものだろうか?

 その瞬間、脳裏によぎる記憶があった。

 ──あそこは異境の入り口だから。

 ……そうだ。言っていた。
 誰が言っていたんだ?

 ましろ先輩だ。

 ましろ先輩はたしかに言っていた。さくらのことを、去年、俺に説明するときに、確かに。
 桜の木の下は異境の入り口だと。
 
『異境』ってなんだ?

 ましろ先輩は、何かを知ってるんだろうか。
 どうして、そのときの会話をよく覚えていないんだろう。



「なんなのか、は、わかりそうにないな。少なくとも、俺達の常識じゃ判断できない領域ってことはたしかだろう」

「ファンタジーだね」

「起きたことがファンタジーだからな」

「そこには、そこなりのルールがあるんだろうか?」

「あったとしても、俺達にそれを推し量れるとは限らない」

「……たしかにね」

 あの空間、あの世界が、どんな理屈で人をいざない、どんな理由で人をあんな目に遭わせるのか、それを考えるのは、ひどく難しそうに思う。

 世界そのものがひとつの生き物のからだの中のようだった。

「グリム童話に、『トルーデさん』っていう話がある。怜は知ってるか?」

「……知らない。どんな話?」


「あるところに、好奇心旺盛な女の子がいた。女の子はある日、トルーデさんの家に行ってみたいと言う。
 両親は、トルーデさんという女の人はとても悪い人だからとそれを止めようとする。けれど、娘は止まらない。
 そして彼女はひとりでトルーデさんの家に行く。家についた娘は、真っ青な顔をしている。
 それで、トルーデさんは、どうしてそんな青い顔をしているんだって訊くんだ」

「……」

「娘は、トルーデさんの家に来るまでの途中でとてもおそろしいものを見たんだと答える。
 最初は、真っ黒な姿の男、次に、緑の姿の男、最後に、赤い姿の男。
 そして最後に、窓から見たトルーデさんの姿が、頭が火で燃えている悪魔の姿に見えたのだという」

「……」

「トルーデさんは答える。『おまえは、魔女の姿を見たんだ』と。
 そして続ける。『私はお前を必要としていたんだ。さあ、光っておくれ』」

「……それで?」

「魔女は娘を一切れの木っ端に変えて、火に投げ入れる。娘はあっというまに燃え上がり、周囲をほのかに照らす。
 魔女はその火で暖を取り、『なんと明るい光だろう』と笑う。……それで終わりだ」


「……終わり? それで?」

「ああ」

「なんとも……言いがたい話だね。どんな教訓がある?」

「見ようによっては、そうだな。人の聞く耳を持たない頑固さや、不相応な好奇心は身を滅ぼすとも取れる。
 だけど、俺は違う見方があると思う。この話は、ある意味で、そのような理不尽があることを示してるんじゃないか」

「理不尽」

「そう。ただ他人の家を訊ねたというだけで、薪に変えられて火にくべられるような、理不尽だ」

 娘は、おそろしいものを見ても引き返さなかった。
 当たり前だ。どれだけおそろしいものを見たとしても、自分が薪に変えられ火にくべられるなんてこと、普通は想像できない。

 けれど、そのような、普通では想像できないことは……起こりうる。
 
「そういう種類の、この世ならざる理とでも呼ぶべきものに対する、戒め」

「……この世ならざる理、ね」

 少なくとも、俺や怜の身にはそれが起きた。
 
 その意味を検証するのは、俺には不可能に思える。

 俺や怜の身に起きたことに理由があるとすれば、それは俺たちがあそこに踏み入ったからだ。

 それ以上のことを考えるには、材料があまりにも足りない。



「……冷静に話そう」と怜は言う。

「まず、前提。ぼくらが暮らしている生活空間。この日常。つまり、こっちの世界がある」

「ああ」

「それとは様相の異なる空間、つまり、むこう、がある」

 その認識は、いまさら覆しようがない。あれが夢だとでも言われない限り。

「入り口は無数にある。おそらく。ぼくはそれを知っている」

「むこうに、何度も行ったって言ってたか?」

「うん。通っていた。あの建物には、近付いていない。べつの入り口から、向かった」

「入り口。たとえば、どんな?」

「多いのは、鏡、絵。それから、人目につかない自然の中。川べりや、木立の奥」

「……鏡」

「何でもいいんだ。条件は、あるのかもしれない。でもぼくは、たとえば、手鏡なんかでも、もうむこうに行ける」

「……どうしてなんだろう」

「たぶん、存在を知っているからじゃないかと思う。むこうの存在を知っているから、行けるんだ」

 そうかもしれない、とも思う。でも、根拠はない。そう感じるだけだ。

「それはぼくらの世界と繋がっているし、隔たりもほとんどないように見える。
 でも、たしかに別の場所、空間だ。少なくとも、あの木立の奥、あの小屋の中に……あんなに広い空間があるわけがない」

 俺は黙って頷いた。そうである以上、あそこは『こちら』とは異なる空間なのだ。


「ぼくとちどりが迷い込んだのは、森の中の、広場のような場所だった」

「それはたぶん、俺が最初についたところと同じだ」

 森の中の、どこか開けた場所。

 太陽は中天に浮かび、
 吹き込む風に木々は枝葉を揺らし、
 影は川の流れのように姿を変える。

 噴水の向こう側では、大きな藤棚がアーチのようにその口を広げている。
 藤棚の向こうは、どこかに繋がっている。

「藤棚があった」

「うん。たしかに、あのとき、あった」

「……"あのとき"」

「そう、あのときは、それを見た。でも、二度目以降は、違った」

「どういう意味だ?」

「どこから入るかによって、着く場所が変わるみたいなんだ」

 たとえばぼくの手鏡からだと、人の気配のしない西洋風の町並みに着く。
 学校の廊下に飾ってあったある絵から入ったときは、暗い地下室についた。

 あるいは校舎裏の木立のそば、切り株のそばからだと、ぼくの通っている学校にそっくりの、けれど誰もいない校舎についた。



「瀬尾さんの学生証を拾ったのは、図書室から入ったときだ」

「どこの図書室だ」

「うちの学校の図書室だよ」

「そこから着くのはどんなところだった? ……湖があったか?」

「湖? ……いや。森の中の小川のそばで拾った」

 これが本当だとしたら、かなり厄介な話になってきた。さすがに頭が混乱してくる。

「訊きたいんだけど、隼は、あっちに行ったことはないの?」

「あのとき以来、一度もない。……どうして、怜だけ行けるようになったんだ?」

「わからない」と怜は言う。それはそうだろう。わからないことだらけだ。それはわかっている。

 いや、考えるだけ無駄だ。


 
「わかるのは、どこから入ったとしても、ある一定の距離を歩いたところに、森があるってことだ」

「森……」

「そう。あの、森だ」

「あの……」

 暗い森。

 怜はそこで、俺の顔を見た。

「隼、あのとき……」

「ん」

「助けてくれて、ありがとう」

「……いや」

 助けた。
 そんな大げさなことを、俺はしただろうか。







 あの日、俺はあの噴水のそばで、ある女の子と出会った。
 そして、彼女と手を繋ぎ、はぐれないように、むこうへと渡った。

 そこにはあの、森の中の開けた空間があった。

 俺も彼女も、すぐにそれが、この世ならざる場所だとわかった。
 
 そう考えざるを得ないのだ。
 夕暮れが真昼になって、木立が森になったのだから。

 そして、少し歩いた先に、藤棚のアーチがあった。

 その先に、怜とちどりがいるんだとわかった。

 声が聞こえたからだ。

 アーチのむこうから、怜とちどりの声が聞こえた。
 ……聞こえた、気がした。

 あのとき俺はたしかに感じた。


 俺は彼女と手を繋ぎ、怯えながら藤棚の先へと歩いていった。
 並ぶ背の高い生垣が、視界を覆うみたいに立ちはだかる。

 それは左右を遮り、道のように続いていく。
 いくつもの分かれ道を含む迷路。

 悪夢みたいに、空が赤く、夕焼けに染まった。

 不思議の国のアリスのような、そんな景色だ。

 その迷路を抜けた先に、あの森があった。

 あの、枯れ木の森があった。
 浮かぶ月は朧、雲は薄く、巨大な鳥の尾羽みたいだった。

 真昼の広場を抜け、夕暮れの迷路を抜け、その先が、暗い夜の森だった。

 ちどりと怜の声は、近くで聞こえたような気もするし、遠くから聞こえたような気もする。

 森には、いざなうみたいに小径が伸びていた。
 枯れ木の枝が視界のほとんどを覆い尽くして、先はよく見えない。

 戻れなくなるかもしれないと、彼女が言ったのを覚えている。

 それでも、彼女は手を離さなかった。
 離したら自分の魂が砕けてしまうというように、俺の手を握っていてくれた。


 ある場所で、うめき声を聞いた。
 
 怜は、木々の間、崖の下で足を抑えていた。
 俺と彼女はすぐに近付き、怜の様子を見た。

 怪我をしていた。血が、少しだけ滲んでいた。けれど、無事だった。

 ──隼、隼……。

 真っ暗闇が、怖かったのだろうか、深い森が、怖かったのだろうか。
 それとも、怖かったのは、孤独だったのかもしれない。

 もう大丈夫だ、と俺は根拠もなく言った。
 怜は泣きながら頷いた。

 ――ねえ、隼。ぼくは、バカだったな……。

 ほとんど朦朧とした様子で、怜は言った。

 ――巻き込んで、ごめん。

 怯えたみたいな濡れた瞳で、

 ――ちどりを助けて。

 と言った。
 ちどりはどこだと俺は聞いた。
 はぐれてしまったのだ、探しているうちに、落ちたのだと、怜はそう言った。



 俺と彼女は、怜とともに、どうにか崖の上へと戻った。
 さいわい、それほどの高さでもなかったし、低めのところもちゃんとあって、観察さえすれば、道に戻るのは難しくなった。
 
 俺は、彼女に怜を任せることにした。

「ここで待ってて」と俺は言った。

「ひとりで大丈夫?」

 もちろん、大丈夫なわけはなかった。

 ――隼、ごめん。ぼくは、バカだ。

 けれど、他にどうしようもなかった。

 ちどりだって、ここで泣いているはずだ。
 ちどりの声は、俺の耳に届いている。

 彼女は泣いている。
 
 彼女が見つからなかったら、怜だって、泣いたままになる。

 だから俺は、ちどりを見つけないと。
 早く見つけないといけなかった。



 小径の先に進めば進むほど、いろんな感覚がなくなっていった。
 時間も、意識も、視覚も、どんどんとあやふやになっていく。
 振り返っても、枯れ木の枝に隠されて、歩いてきた道の形はわからない。

 ちどりのすすり泣く声だけが、ずっと聞こえていた。耳から離れなかった。

 段々と俺は不安になってきた。
 声はずっと、同じ距離で俺についてきた。
 おんなじふうに聴こえるせいで、ちどりの居場所がわからない。

 もう、通り過ぎているのかもしれない。もしかしたら、ずっと見つけられないままかもしれない。

 月のあかりが眩しくて、なぜだか森がいっそう暗く感じられた。

 嫌だと思った。
 
 ちどりに会えないのは嫌だ。
 ちどりがいなくなるのは嫌だ。

 どこで泣いているんだ? どうしたら会える? まるで分からなかった。
 でも、歩くしかないと思った。



 やがてたどり着いたのは、開けた空間だった。
 枯れ木はそこだけを避けるみたいだった。

 焼け落ちた、大きな建物の跡。そんなふうに見えた。

 その前で、ちどりは泣いていた。

 ──隼ちゃん。

 どうしてそんなものが目の前に現れるのか、俺には分からなかった。

 ──隼ちゃん、隼ちゃん。

 しゃがみこんで涙を流すちどりに近付いて、彼女が伸ばした手を掴んだ。
 足りないみたいに、ちどりは俺の胸元に顔を押し付けた。



 俺は彼女の背中に手を回して抱きしめた。

 それはちどりを安心させるためというよりは、俺自身が安心したいからだった。

 ちどりは、縋り付くみたいに泣いた。
 枯れ木の森は笑うみたいに俺たちを取り囲んだままだった。

 帰ろう、と俺は言った。

 ちどりは、嗚咽を漏らしながら頷いた。

 俺たちは来た道を引き返した。

 戻るのは、意外なほど簡単で、怜も、あの女の子も、ちゃんとそこで待っていてくれた。
 
 月明かりに照らされながら、迷路の入り口まで戻り、三人が先にその中に入るのを見てから、俺は森を振り返った。

 振り返ってしまった。

 ふたたび前を見た時、迷路の入り口はもうそこにはなかった。

 俺は、森の中、小径すら見当たらない、木々の狭間に取り残されていた。

 明かりひとつなく、道らしき道もなく、人の気配もしない。
 もう、声も聞こえない。

 そんな場所にいた。





「……隼、ごめん」と怜は言う。

「……何で謝る」

「あのとき、助けてもらったのに。……助けにいけなくて、ごめん」

 俺は、ひとつため息をついた。そして言う。

「こうして両方無事なんだ。もう済んだ話だ。今問題なのは……」

 と、俺は言った。

「瀬尾青葉のことだ」

「……そう、だね」

 こうして思い返してみると、やはり、あのときのことが原因なんだろう。
 
 俺の耳の奥に響く音、二重の風景。
 
 俺がむこうから帰ってきたのは二週間後だったと怜は言った。
 実際、そんなものだったんだろう。

 けれど、俺には、その時間が永遠のように感じた。

 助けを求めて、喉が涸れるまで叫びながら、あの森の中を宛もなくさまよった夜。
 
 やがて、歩くことも、叫ぶこともやめてしまった夜の森。



 ……俺は、結局、どうやってあの森を出たのだったか。
 未だに、それが思い出せない。

 たしかなのは、ちどりがあの夜のことを覚えていなかったということ。

 ――隼ちゃん。

 ――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか? 

 ちどりがそのことを覚えていなかったということが、俺はおそろしくて、おそろしくて、泣いた。
 葉擦れの音が止まないのが、おそろしくて、おそろしくて、泣いていた。

「瀬尾青葉さんは……湖のそばにいるの?」

「ああ。本人の言うことを信じるなら」

「……どうやってそれを知ったの?」

「手紙が届いた」

「手紙」

「……あっちにも送れる。それを使って、やりとりしてみようと思う。
 それから、あいつが『むこう』に行くときに使った入り口を探す。
 そうすれば、連れ戻せるかもしれない」



「……たぶん、正確な入り口じゃなくても大丈夫だ」と怜は言った。

「入り口が、こっちの位置関係として近い位置にあれば、むこうに出るときも近くに出る」

「……噴水と小屋か」

「うん。……今日は、このくらいにしておこう」

「……」

「隼、ひとつだけ」

「……なに」

「むこうには、ぼくが行く」

「……なんで。おまえは、瀬尾とは直接関係のない人間だろう」

「だからって、隼にいかせられない」

「どうして」

「前のことがあるからだよ」と怜は言った。

 実のところ、俺は怜に言われるまでもなく、ためらっていた。


 瀬尾はたしかに、むこうにいるらしい。
 学生証のことを考えると、状況はきっと、よくはない。

 それでも俺のなかに恐れが湧く。

 またあの森に行かなきゃいけないのか?
 あの、暗い夜の森に、俺はもう一度向かわなければいけないのか?

 瀬尾がいなくなる前に、さくらが俺にした予言を思い出す。

 ──あなたはこれからとても暗く深い森に向かうことになる。
 ──森の中には灯りもなく、寄る辺もなく、ただ風だけが吹き抜けている。
 ──あなたはそこで見つけなければいけない。

"あなたはそれを避けることができない"、と、さくらは言っていた。

 どうして、そんな予言がありうるんだろう。

 わからない。

 頭が妙に、痛かった。


 ふと、俺は店内の様子を見る。

 マスターはカウンターの向こうにはいなかった。
 途中から気にするのを忘れていたが、内容を聞かれてはいなかっただろうか?

「大丈夫だよ」と怜は言った。

「ぼくが見ていたから」

 そう言って笑う。少し、不注意だったかも知れない。気をつけなければ。
 いずれにせよ、やることはやはり変わらない。

 むこうはある。
 入り口を探すだけだ。

 条件はある程度特定されている。

 何をするにしても、明日だ。
 
 話している間に、結構な時間になっていたことに気付いて、俺と怜は席を立った。
 何度か呼びかけると、マスターはカウンターまでやってきて、会計をしてくれた。

「またのお越しを」と彼は言う。




「怜、おまえ、このあとはどうするんだ」

「……どうするって、帰るよ。明日は学校だし」

「そうか」

 ……そのとき、不意に思い出した。

「なあ、怜。昨日、瀬尾青葉について俺に聞いたとき、おまえ変なことを言ってたよな」

「変なこと?」

「瀬尾青葉を知ってるか、とおまえが聞いた。俺は頷いた。するとおまえは、"そうじゃないと筋が通らない"って言ったんだ」

「……ああ、そのこと」

「さっきまでの話を聞いても、俺が瀬尾を知ってるって理屈にはならない気がする」

「簡単な話なんだけど、それについては本人の名誉のために話さないでおく」

「……なんだそれ」

「まあ、気にしなくていいと思う。それに関しては別に不可解な事情なんてないよ」

「……」



 いまいち話がわからなかったけれど、俺は頷いた。

「何かわかったことがあったら、連絡してくれ」と怜は言った。

「そうするよ」と俺は答えた。嘘だ。

「嘘だって顔をしてるな」

 すぐにバレてしまった。俺は頭をかく。

「ひとりでどうにかするつもりだろう」

「……そんなこと考えてねえよ」

「隼はいつもそうだ。自分だけでなんでもやろうとする」

「そんなことない」

「なんだよ。やけに分かったようなことを言うな」

「分かるよ。ぼくだって隼のことは知ってるし」

「……はいはい。怜はすごいな」

「ぼくだからじゃない。隼が自分でどうにかしようとするのは、ぼくが女だからだろう」

「……」

 まあ、否定はできない。
 ボーイッシュな雰囲気は変わらないけれど、会わないうちに、怜もずいぶん成長した。
 
 少年にしか見えなかった見た目も、中性的な女の子、とはっきりパッとみただけで分かるくらいになっていた。

「ぼくがむこうに行くのをよしとしないなら、せめて、ぼくと協力するってことは考えてくれる?」

「……そうしとくよ」

 見透かされた気持ちで頷く。
『トレーン』の前で、俺と怜はそのまま別れた。


つづく


 その日は、家に帰って、余計なことはせずに、早めに眠った。
 頭痛、けだるさ、さまざまな不調が、家に帰った途端に一気に襲ってきた。

 明日はすべきことがある。体調を崩してもいられないだろう。

 瀬尾に手紙を出し、無事を確認する。可能なら居所など、詳しい話を聞く。
 学生証のことを考えると余裕はないかもしれない、とそのことを思い出す。

 急に、瀬尾の無事が心配になる。
 
 あいつは無事だろうか。

 ……今まで悠長にやっていたことを、後悔しはじめた。
 手紙の返事が来ているうちは、まだ大丈夫だと高をくくっていた。

 あの、学生証。
 
 昨夜それを見せられてから、それが妙に頭をよぎる。



 翌朝俺は、いつものように純佳に起こされた。

「おはようございます」と純佳は言う。

「おはようございます」と俺も言う。

「今日は平気ですか」

 どうだろう、と俺は考えた。

「……たぶん平気」

「ならよかったです」と純佳は笑った。

 純佳の様子はいつもと変わらない。
 俺の様子だってきっと、いつもと変わらないんじゃないか。そう思った。




 学校に着き、いつものように自分の教室に向かう。

 席に向かい、荷物を置いて、教室の様子をたしかめる。
 
 既にクラスメイトたちは登校してきていて、いつものように教室の様子は賑やかだった。

 誰かの机を占領して話をしているやつら、教室のうしろでゲームアプリに興じるやつら、
 机に突っ伏して寝ているやつ、イヤフォンをつけて窓の外を眺めているやつ。

 どうしたもんかな、と俺は思う。
 
 本当ならすぐにでも『伝奇集』を確認しにいきたいものだ。
 朝のうちに挟んでおけば、放課後までには返事が来るかもしれない。

 そう思っても、動き出すのが億劫だった。
 
 こうしようと決めたことでも、いざ行動するとなると躊躇してしまうことがある。
 周りに人がいるとなおさらだ。

 自分が何をしようとしているのか、それが急に不安になったりする。

 まあ、そんなことを考えても仕方ない。




 そのままぼんやりと、今日の授業のこととか、そんなことを考えておく。

 頭が鈍く重い。おとといから、ずっとそうだ。頬杖をついたまま、まどろみそうになるくらいに。

「三枝」

 と、不意に名前を呼ばれて、意識が浮かび上がった。

 教室の入口の方から、クラスの男子のひとりが俺の方を向いていた。

「なに」

「お客さん。女の子。ふたり」

「……」

 隣の席で話をしていた女子が、「三枝、また女?」とニヤついた。

「やかましい。またってなんだ」と俺は返事をした。

「こないだも女子が三枝の席に来てたじゃん」

「こないだ? こないだ……」
 
 市川が来たときのことか。

「あれは部活の子だ」

「じゃああれは?」

 入り口をさされて、俺はそちらに視線を向ける。
 立っているのは、ちせと真中だ。
 


「……あれは、まあ、部活の関係だな」

 言いながら、俺は立ち上がる。

「文芸部、女子多いの?」

「男子二人だからな」

「あ、そうなんだ」

 女子は三人なので比率的に考えればさほどの差はないが。

「……ふうん。かわいいね」

「まあな」と適当に頷くと、隣席の女子はびっくりしたみたいだった。

「三枝ってそういうキャラなの」

「キャラってなんだよ」

 ひらひら手を振って、話はおわり、と合図をする。
 
「ふーん?」と、隣席の女子は意味ありげににやにやしていた。




 俺が入り口につくと、ちせがぺこっと頭をさげた。
 真中は「や」と適当な挨拶をむけてきた。

「おはよ、せんぱい」

「おはようございます」

「おはよう。どうした?」

「土曜日のことで」とちせが口を開いた。

「ちゃんとお礼を言わないとと思って。わたしが言い出したことですから、付き合ってもらって、ありがとうございました」

「……おお」

 やっぱり、見た目のわりにしっかりしている。
 見た目のわりに、という言い方はまずいか。

「いや、どういたしまして。結局俺はなんにもしてないし」

「そんなことないです。お話するの、結局ほとんど隼さんに任せてしまいましたから」

「そう……だったか」

 というよりは、俺がどうしても気になってしまった、という方が近い。

「まあ、収穫はなかったけどな」

「……はい」

 収穫、という言い方が気に障ったのだろうか。ちせは少し暗い顔をした。



「なんだか、余計なことを知ってしまった気がして……」

「あんまり気に病むな」と俺は言った。

「ちせのせいじゃない」

「……はい」

「せんぱい、なんでわたしを無視するの」

 黙ってると思ったら、妙なところで口を挟んでくる。
 いかにも、というようすで口をむっとさせていた。

「真中は、なにか用事?」

「ひどくない? その態度」

 不服そうな態度は続く。率直に、真中の方もなにか用事があったのだろうかと思っただけなのだが。 

「せんぱいはわたしに冷たいです」

「そんなことはない」

「……そうかなあ」

「そうだよ」

「ちせとわたしとで、態度が違う気がする」

「気のせいだ」

 と言ってみたが、どうだろう。
 誰に対しても均質な態度というのはあり得るものだろうか。



「ま、いいや。ちせがお礼しにいくっていうから、ついてきたの」

「なんで?」

「なんでって。だめですか」

「や。だめじゃないけど、なんでだろうって」

 真中はもどかしそうに唇を歪めた。

「わたしも、せんぱいにお礼言いにきたの。ありがとう」

「……なんで?」

「せんぱい、やっぱりわたしに冷たいよね」

「違う。お礼を言うなら、俺じゃなくてちせだろ。俺たちはちせについていったんだから」

「……ん。あれ? そっか」

 頭の中で状況を整理するみたいに、真中は人差し指を額に当てた。

「ちせが行くのに、せんぱいが付き合って、わたしは……ちせに頼んでついていったから、そうか」

 納得したみたいに、真中はひとつ頷いた。

「ちせ、土曜日はありがとう」

「えっと、どういたしまして……?」

 ……何を見せられているんだ、俺は。



「まあ、それはあくまで口実で、せんぱいとちせをふたりきりにしたくなかったんだけど」

「それは胸の中に秘めておけ」

「うん。今後はそうしようかな」

 手遅れだ。

「隼さん、あの、青葉さんのことなんですけど」

「ん」

「『伝奇集』……何かあれば、わたしにも」

「ああ……うん。そうだ。そのことで、真中にも訊きたいんだけど」

「ん。なに?」

「真中もあれに手紙を挟んでたよな。あっちには返事って来たのか?」

 ああ、と真中は頷いた。

「来たよ」

「いつ?」

「こないだみんなで見たのより前」

「……そうか」

 だとすると、それ以降は途絶えていることになる。
 といっても、それは先週のことだ。


「今はあれ、どこにあるんだろう」

「……さあ。図書室じゃないかな。なにか見つけたら、大野先輩が教えてくれると思うけど」

「だよな。わかった」

「それじゃ、戻りますね」

「ああ。気をつけろよ」

 ふたりはきょとんとした顔をした。

「……なにに?」と真中。

「……あ、いや。そりゃそうか」

「へんなの」
 
 今度はそろってくすくす笑う。
 仲の良いことだ。……そうか? わからないけれど。




 ふたりを見送ってから席に戻ると、さっき俺を呼んだ男子に声をかけられた。

「さっきの子、また文芸部?」

「そう。片方は」

「もう片方は?」

「文芸部の先輩の妹」

「ずりいよ三枝」

「なにが」

「あの、比較的ちっこくない方、が、文芸部?」

「……比較的ちっこくない方」

 真中だろう。

「そうだよ」

「……やたらかわいかったな?」

「……」

「な、なんだよ、その目」

「いや……」
 
 真中は表情を抑え込むのをやめた。
 こうなるのは、当たり前と言えば当たり前か。

 ……厄介なことにならなければいいけれど。



 けれど、俺はどういう立ち位置でいればいいんだろう。

 真中に対して、どう振る舞えばいいんだろう。

 たとえばあいつを好きだという男があらわれたとき、俺はどんな態度をとるべきなのか?
 
 俺が答えを出せないまま、昔のようなことになってしまったら……それは、俺のせいなのかもしれない。

「あいつは難敵だぞ」と、そう言うと、あからさまに驚いた顔をされた。

「べつにそこまで言ってないだろ。なんだよ、急に。世間話だよ」

「それならいい」

 本当にそれならいいと思った。
 
「……縁の匂いがしますね」

 不意に後ろから声が聞こえて、俺は飛び上がるほどびっくりした。

「どうした、三枝」

 振り返ると、さくらがいる。心臓が止まるような思いだった。

 姿を消していたかと思えば、急にあらわれたり、いったいこいつはなんなんだ。

「なんなんだとはご挨拶ですね」とさくらは言った。

「ほら、話しかけられてますよ」

「あ、ああ。なんでもない。悪寒がしただけだ」

「そうか……?」

 彼はそう言って、不思議そうな顔のまま自分の席に戻った。



 ひさしぶりの感覚に、俺は慎重になりつつ、さくらを見た。

 どうしたんだ、急に。ずいぶんひさしぶりじゃないか。

「サボってばかりでもいられないと思いまして」

 こっちはそれどころじゃないんだが。

「そうみたいですね。なので、べつにかまわないですが」

 ……縁の匂いって言ったか?

「はい。さっきの子と、今の男の子。縁の匂いがします」

「……」

 こないだまで、様子がおかしかったのはなんだったんだよ。

「あれは……気にしないことにしました。考えても仕方ありませんから」

 さくらについても、いくつか、気になる点はあった。
 けれど、今は瀬尾のことが優先事項だろう。

「瀬尾さん、ですか」

 さくらが人の名前を呼ぶのは、珍しい。ましろ先輩以外だと、初めてかもしれない。
 ……そんなこともないか?

「そんなこともないです」

 そうかもしれない。


「いなくなってしまったんですね」

 ……おまえは、何か知ってるか?

「なにも」とさくらは言う。

 この間言っていた、予言みたいなのは……。

「なんとなく、そう思ったんです。……あるいは」

 あるいは?

「わたしにとっても、無関係のことではないかもしれないから」

 ……そう言われても、今は点と点が結びつかないままだ。

「あなたはどうするんですか」とさくらは言う。

 何がだ。

「あのふたりの縁。わたしがつなぐと言ったら、手伝ってくれるんですか?」

「……」

 俺は、答えられない。
 答えられない。

「時は流れます。望むと望まざるとにかかわらず」

「……」

「あなたは、そのままでいいんですか?」

「……うるさい」

 今は、それどころではない。

 ──今は?

 じゃあ、いつならいいんだ?
 そんなふうに自問したけれど、俺にはやっぱり、答えられない。

 誰かを求めることは、誰かを好きになることは……俺には、どうしてもおそろしいままだ。
 そんな言葉を積み重ねたまま、誰にも離れていってほしくないと思うのは、不誠実なのかもしれない。

 けれど、たぶん順序は逆なのだ。

 好いた人に離れられるのが怖いから、求めた人に応じてもらえないのがおそろしいから、俺は誰のことも好きになれない。
 きっと、そうなんだろう。

つづく

700-9 「そんなことない」 は消し忘れです。
ありがとうございます




 その日の昼休み、俺は図書室へと向かった。

 さくらは結局、あのあと、真中たちの縁とやらについては何も言わずにいなくなってしまった。
 どうする、とも何も言わずに。そのことについてはひとまず考えないことにする。

 いくつものことが一気に押し寄せてきている。
 俺のことなんて後回しでいるべきだろう。

 図書室には担当の委員がいたが、それは大野ではない。
 大野も、いつも図書カウンターにいるわけではないのだ。

『伝奇集』……。ボルヘス。岩波文庫だ。棚を見れば、場所は分かるだろう。

 案の定、特徴のある背表紙の並びはすぐに見つかった。
 
 伝奇集を探すのはいくらか骨が折れたが、そう難しいことではなかった。

 俺は、その本を手にとり、開いてみた。

『長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。』とある。

 よりましな方法は……と続くが、それ以降は頭に入ってこない。

 そのまま、ぺらぺらとページをめくってみる。



 すとん、とあるページが開かれる。栞を挟んであるみたいに。
 
 当然のように、それはメモ用紙だった。

 俺は四つ折りにされた紙を手に取り、広げてみる。

 案の定、それは瀬尾からの手紙らしかった。

 とりあえずほっとする。瀬尾からのアクセスは途絶えていない。今のところは。

 内容に目を通そうとして、文字を受け取れない自分に気がついた。
 ……まだ、戻っていないらしい。さっき、ボルヘスの一節がすっと頭に入ってきたのは、なんだったんだろう。

 鈍い痛みが頭に宿っていることに、今更のように気付く。
 聴覚を埋めるみたいに音が響く。ずっと鳴っている。

 ひとまず、俺はそのメモをポケットの中に入れることにした。

 そして、『伝奇集』を持って図書カウンターへと向かった。

 図書カードに借りた日付と名前を記入し、図書室から持ち出す。

 ひとまず、試してみるのは悪いことではないだろう。

 頭がくらくらするのを感じて、教室に戻ると、大野がいた。



「おう」と手をあげられる。────

「ああ」と俺は答える。────

「どこ──てたんだ?」

「図書室」

 図書室、と大野は不思議そうな顔をした。
 風が吹いている。

「な──図書室──かに」

「……いや。『伝奇集』を」

「──集。今度はな──ってたか?」

「ああ」

 ……体調が悪いせいだろうか。いつも以上に、葉擦れの音が、うるさい。

「瀬尾──いだな──かりでもあれば──だが──」

「……心配だな」


「おま────ぶか? カオイ──るい──」

「ああ、うん、大丈夫だ。ちょっと、頭痛がするだけだ」

「────」

「……悪い、ちょっと、今日は具合が悪いみたいだ」

「────」

 汗が滲むのが分かる。

「悪いけど──まは──りに──れ」

 ついに、自分の声すら聞こえなくなった。
 まいった。ここまでひどいのは久々だ。

 自分の声がちゃんと音として響いているのかどうかさえ、確信がもてない。

 視界が二重にブレる。
 最近、あのときのことを思い出すことが多い。そのせいかもしれない。

 いつもどおり、なるべく普通に振る舞わなければ。


 大野は何かを言った。その表情もいまはよくわからない。

 たぶん、けれど、俺を気遣うようなことを言って、今は気をきかせて去ってくれたんだと思う。
 後ろ姿になって去っていくのが分かる。

 そういう想像をするのも、いいかげん慣れてきた。

 砂嵐が重なっているみたいに、視界が灰色に、半分、透けて潰される。

 ……。

 自分の席に向かおうとしたけれど、うまく、空間の奥行きがつかめない。
 慎重に、一歩一歩、歩く。慣れているはずの教室の机の間の感覚さえおぼろげだ。

 けれど、大丈夫。
 
 自分の席について、息を吐く。
 目を閉じて、深く深く呼吸をする。

 音──音は──

 ひゅーひゅー、びゅーびゅー、ざわざわ、ひゅるひゅる、
 轟々、颯々、蕭々、轟々。



 ──があのとき──ッテ──タカら────でも──さ──レ──みた──で──アシ──さ

 ため息をひとつ。
 それから、落ち着け、と自分に言う。

 ──かいて──キ──で──アカ──しん──イえ──の──くが──たで──とき──

 いずれ止む。
 止むんだ、これは。

 ──だけどあ──シラ──んだ──ていうかあい──シ────シラナイ────

 この音は、いずれ止む。

 俺はそれを知っている、経験上。

 ──ざ──せん──イッテて──ど──ショセン────りだろ──カカヨ────いいがかりだ──

 ……そうなんだろうか。
 ずきずきと、頭が痛む。目の奥が痛む。
 それが徐々に、吐き気に近付いていく。


 ──きこえ──な──しら──てすと──きにあい──ドクネ────ろ────  
 
 喉の奥から、気持ちの悪い気配がせり上がってくる。

 こらえろ、こらえろ。

 数を数える、それに徹する。
 一から順に、終わりが見えるまで、ずっと数えていく。

 ──えば────パイサ──きょとって──こうじこ──んだよ──あのば──ウマンシ──

 目は、瞑っておく。目さえ瞑れば、問題は音だけだから。

 音は……音は、耳元で、鳴り響いている。
 頭の中を支配するみたいに、意識を全部もっていこうとするみたいに、響いている。

 でも、いずれ止む。

 ……そうだろうか。

 これまでがそうだったからといって、これからもそうであり続ける保証なんて、ひとつもない。
 もしかしたら、この音はやまないのかもしれない。

 その考えを否定して、数を、数える。
 数える……数える……。




 息をつく。

 少し、音がマシになってきたが、吐き気がおさまらない。
 気分が悪いままだ。

 どうしようもないなと俺は思う。どうしようもない。
 慎重に呼吸しなければ、どうにかなってしまいそうだ。

 それでも、さっきよりマシになったのだから、いずれおさまるだろう。

「──さ、おまえ大丈夫──顔色──」

「……ああ、うん」

「まっさお──」

「いや、うん。朝から体調が、悪くてな」

「そっか。保健室──」

「大丈夫だよ」


「そっか。ならいいんだ」

 ようやく、落ち着いてきた。

「いや、悪いな。心配かけて」

「……おまえがそんなふうに素直な反応すると、気持ち悪いな」

「……俺のことをなんだと思ってるんだよ」

「胡散臭いやつ」

「……ひどいぞ、それ」

 ……大丈夫、ちゃんと見えるし、聴こえる。
 話しかけてきたのは、クラスメイトの男子。部活は違うが、話す回数は多い。

 真中のことを訊いてきた奴だ。
 そう、そのくらいのこと、わかる。

「まずそうなら言えよ」

「いや、平気」

「それにしても、三枝もそういうふうになることあるんだな」

「俺だって人間だぞ」

「ん。まあ、そりゃそうなんだけど。あんまりそういうイメージないからな」

「……」

 そう言って、彼は去っていく。
 昼休み、だ。昼食を、まだとっていない。


 身体を軽く動かしてみる。もう、大丈夫そうだ。だいぶマシになってきた。
 いつもながら心臓に悪い。教室で吐きでもしたら、人に迷惑がかかるだけじゃすまない。

 まったく、俺の生活に暗雲がたちこめたらどうしてくれる。

 と、音に文句を言っていても仕方ない。止まないのだから、慣れるしかない。

 そのとき、不意に、雨の音に気付く。

 一瞬混乱したけれど、どうやら現実に雨が降っているらしい。
 ほっと、今度は安堵のため息が漏れる。

 雨音に気付けるくらいに、落ち着いてきた。

 この分なら、飯くらい食えるだろう。

 純佳が作ってくれた弁当に口をつけないのは申し訳ない。

 俺はそのまま、雨を見ながら弁当を食べることにした。

 たぶん、大丈夫だ。……きっと、大丈夫だ。




 葉擦れの音は落ち着いたけれど、俺はその日、部活は休むことにした。
 頭痛がひどく、耐えられそうになかった。純粋に体調を崩しているのかもしれない。

 瀬尾のことを考える余裕が、今はない。

 それでも、帰り道の途中でふと思い出して、例のメモをポケットから取り出した。

 瀬尾の手紙。

 今度は、内容を、どうにか理解することができる。


「机の角に足をぶつけることが増えました。なんだか、これまでと全然違う生活を送っているせいで、からだの感覚がすり減っているみたい。
 そんなわけで、朝起きるたびに、最近のわたしはラジオ体操をしています。
 といっても、ラジオなんてないからうろ覚えだし、ラジオ体操なんて小学校のときにやって以来だから、合っているかどうか自信はないんだけど。
 まあ、そんな感じで過ごしています。さいわいこっちには本がたくさんあって、暇つぶしには困らないみたい。

 これを最初に見るのは大野くんかな。どうなんだろう。三枝くんかもしれない。
 最近わたしは変な夢を見ます(こっちの景色のほうが変な夢みたいと言えばそうなのだけれど、ともかく)。

 その夢には、なんだか三枝くんがよく出てきます。どうしてなのかはよくわからない。
 でも、三枝くんはわたしの夢の中で泣いています。
 わたしたちはけっこう長い期間一緒に過ごしたはずだけど、わたしは三枝くんのことをなんにも知らないような気がする。

 急にいなくなったせいで、思いつめていないか、最近はそんなことが妙に気がかりです。
 ときどき無理をしているような気がしていたから。……こんなこと言っても、困らせるだけかもしれない。
 でも、手紙なら素直に言えるような気がする。

 わたしはいま小説を書いています。どうしてなのかはわからない。でも、書いています。
 だから、心配せずにいてください。わたしは大丈夫だから。

                瀬尾青葉」


 大丈夫と自分で言うやつが、大丈夫だとは、あまり、思えない。
 けれど今は、その言葉に甘えたい気がする。結局は俺の杞憂で、瀬尾は元気にしているんだと、信じたい。

 家について、部屋に戻り、ベッドにうつ伏せに倒れ込むように身体を投げた。

 葉擦れの音。これはいったい、なんなんだ。
 
 泣き出したいような気分になる。

 何に対する罰なのか、それとも、罰ですらないのか。
 ただの、理屈に合わない、起きるだけの出来事なのか。

 そうだとしたら、どうしてそれが、俺に起きるのか。

 わからない。
 なにもわからない。

 俺はまともじゃない。
 ずっと、まともじゃない。わかっていた。

 ──ねえ、あなたは、すごく恵まれてますよね。

 ──あなたの周りにはいろんな人がいて、誰もがあなたを、
 ──あなたみたいな、どうしようもない人を、当たり前に受け入れてくれていますよね?

 ──そんな人間のくせに、どうして、不満そうなんですか?

 不満なわけじゃ、ない。

 ただ、どうしても、ここが、この景色が、自分のためのものではないように思えてならない。
 俺が本当にいるべきなのは、いや、本当にいるのは、あの暗い森の中で、
 それ以外の風景は、俺が他の誰かから、不当に奪い取ったものだという気がする。

 本当は焦がれている。そのすべてを、受け取りたいと思っている。
 それなのに、どうしても、そうすることがおそろしい。

 いつか誰かに、「返せ」と言われそうで。

「おまえのものじゃない」と、言われてしまいそうで。

 どうしても、怖くてたまらないのだ。
 こんなありようの人間だと、いずれ見透かされはしないかと。


つづく


 ちどりは濡らしたタオルを持って戻ってきて、また椅子に腰掛けた。
 差し出されたタオルで、俺は自分の指先を軽く拭く。
 
 彼女の頬はまだ少し紅潮して見える。

「おかえり」と試しに言ってみると、「ただいま」と恥じ入るみたいな調子で返事が帰ってくる。

「……忘れてください」

「そうするよ」

「……なんで平然としてるんですか」

「どんな態度でいてほしいんだよ」

「さすがに、ちょっと、平然とは、していてほしくなかったです」

「気難しいな」

「隼ちゃんが変なんです」

「今更だろう」

 ちどりはそこで、少し不服そうに眉を寄せた。




「また、そういうこと言う」

「そういうことって」

「ふてくされたみたいなこと。隼ちゃんは、すぐそうやって拗ねる」

「……ちどりの方こそ、拗ねてるみたいだぞ、今日は」

「……」

 何か言いたいのだけれど言葉がまとまらないのだというように、ちどりは口をもごもごさせる。
 それから不満げに、ばしばしと俺の肩を叩いた。

「なに……」

「隼ちゃんのばか」

「……」

「ばか」

「なんだよ」

「うるさいです」

 そう言って、彼女は顔を隠すみたいに、膝の上で腕を組んで、からだをたたむみたいに自分の顔をそこに押し付けた。


「うるさいの……」

「……どうしたの」

「わかんない。わかんないです。なんだか、すごく混乱して……」

「どうして」

「……もう、隼ちゃんに近付いたらだめなんだって思ってたから」

「……」

「急に嘘だったなんて言われても、困ります」

「悪かったとは、思うけど」

「……ちょっと、喋らないでください」

 そうすることで状況を整理できるというんだろうか。
 ちどりは本当に、珍しいくらいに混乱したようすだった。
 


 それでかえって、俺は今まで自分がちどりに何をしてきたかを理解できる。

 ちどりは、なにひとつ気にしていないと思っていた。
 俺に彼女ができたことも、俺とあまり会わなくなったことも。

 彼女にとってはそんなに大きな痛手とはなっていないのだと、勝手に思っていた。

「……ちどり、今日は帰れよ」

「……え?」

「風邪、うつるから。もう十分助かったから」

 ちょっと、冷たい言い方だっただろうか。
 そんな気もしたけれど、正解がわからない。

 いずれにせよ、今日はもう、互いに頭を冷やすのがいい気がする。
 これ以上一緒にいてもなんにもならない。

「……あ、ごめんなさい。熱、あるのに」

「話してると、気になんないからいいよ」



「……隼ちゃん、眠ってください。わたし、本でも読んでますから」

「さっきまでぐっすり休んだから、いまはそんなに眠くないよ」

「そうですか。帰ったほうがいいですか?」

「……帰ったほうが、いいと思うけど」

「それは、わたしを気遣ってるからですか。それとも、迷惑だからですか」

「迷惑ではないが、迷惑をかけるのは忍びない」

「じゃあ、少しだけ、お話してもいいですか」

 そう言って、彼女は椅子から降りて、ベッドの脇で膝をつき、布団の上に身体を預けるみたいにした。

「……どうしたんですか、ちどりさん」

「訊きたいことがあったんです」

 彼女は頬を布団に押し付け、まぶたを閉じる。

「……隼ちゃんは、どうして文章を書くようになったんですか」

「……」

「隼ちゃん、小学の頃以来、文章なんて書かなかったのに」


 どうして。
 どうしてだろう。

 読書感想文でさえちどりに書かせていた俺が、どうして自分で文章なんて書き始めたのか。

 小説が好きだったとか、そういうわけでもなく、昔から書いてみたかったとか、そういうわけでもなく。
 
 ただ、何の理由もなく? そういうわけでもないだろう。

 あえて言うなら、やはり、

「……誘われたからかな」

「さそ、われた?」

「うん。文芸部に。それに……」

「……」

 ちどりは黙って、まぶたを閉じたままにしている。

「ちどり、眠いの?」

「……少しだけ」

「ここで寝ると、風邪うつっちゃうかもしれない」

「さいきん、寝不足で……」

 話が繋がっていない。




「夜更かしでもしてるのか」

「違います。なんだか、変な夢ばかり見るんです」

「……どんな夢?」と俺は思わず訊ねた。

「たいした夢じゃ、ないんですけど、湖で……」

「"湖"?」

「毎朝、湖面に靄がかかって……」

「……湖って、どこの?」

「……」

「ちどり?」

 ……返事がない。どうやら寝てしまったらしかった。

 少し気がかりだが、とりあえず、慌てる理由はないような気がする。
 目をさましたら、聞けばいい。それに、俺だって、いいかげんもっとちゃんと休むべきだろう。
 
 体調が悪いままだと、いざというときに無理がきかない。

 ……"毎朝"、か。
 
 そのことは、やはり、今考えても仕方ない。
 


 ちどりは、静かに寝息を立てている。寝不足というのは本当らしく、ちょっとやそっとじゃ起きそうもない。
 
 俺は、さっき彼女にされた質問を思い出して、ひとりで考える。

「どうして文章を書くようになったか?」

 べつに大層な理由なんてない。

 俺は本来、文章を一切書くことができない人間だった。
 
 今でも思い出すのは、小学校の低学年の頃、国語の授業で読書感想文を書かされたときのことだ。

 低学年向けの絵本に近い課題図書をみんなが読んで、みんなで感想文を書いた。
 
 クラスメイトたちが次々と文を仕上げていく間、俺だけが一文字も書き出すことができなかったのだ。

 授業の時間、まるまるずっと、本を読み返したりしたけれど、「感想」なんてものひとつも出てこなかった。

 何か思ったことを書けばいいと言われても、それがわからない。

 表現の仕方がわからないのか? 言葉が出てこないのか?
 たぶん、そんなに珍しい話のだろうが、それでも俺は書けなかった。

 そして放課後、俺は居残りになり、担任の先生と一緒に感想文を書くことになった。

 けれどもちろん、事態が変わるわけでもなく、俺は一文字も書き出せない。



 苦肉の策、だったのだろうか。最終的に担任は、原稿用紙と鉛筆を俺の代わりに握った。
 そしてこう訊ねてきたのだ。

「どんな話だった?」「どう思った?」

 俺は答えられない。

 担任は訊き方を変えた。

 彼女は本をぺらぺらとめくり、あるひとつのシーンを開いて、俺に見せ、

「このシーン──かわいそうだと思わなかった?」

 と訊ねてきた。

 俺は、何秒か黙り込んだあと、頷いた。

 担任は原稿用紙に鉛筆を走らせた。

"この話を読んで、ぼくはなんてかわいそうな話なんだろうと思いました。"

 担任は手品を見せたあとみたいに微笑した。
 俺はたまらなくおそろしい気持ちになりながら、その様子を見ていた。

 担任は俺に質問し、俺の感想を訊ねているように見せかけながら、
 疑問形で"正答"を付け加えた。そうすることで、俺は頷くことだけで感想を表明することになった。

 そして原稿用紙二枚分の感想文が出来上がった。
 俺はそれがおそろしかった。

 その「正しい答え」は、担任としては、書き方を教えたつもりだったのかもしれない。
 けれど、俺が感じたことは逆だった。

 俺はむしろ、「そう感じること」が正解で、「そう感じない」のは間違っているのだと言われた気がした。

 その感覚は、読書感想文が市のコンクールに入選したことでよりいっそう強まった。


 体育館のステージの上で賞状を手渡され、館内にまばらな拍手が響いた。
 朝会が終わったあと、家が近いからという理由でよく話す上級生が声をかけてきた。

 ──すげえよな。新聞にも載ったんだぜ、おまえの作文。

 俺は答えられない。

 ──俺、読みながらちょっと泣いちゃったもん。

 答えられない。

 その頃の記憶はもう虫食いの部分のほうが多いくらいなのに、未だにそのことだけはくっきりと思い出せる。
 
 あのとき以来俺は文章を書かなくなった。読書感想文はちどりに任せるようになった。

 それがどうして、今書いているのか。

 まあ、答えはきっとシンプルだ。

 文芸部にさそわれたから、と、コンプレックスがあったから、だ。

 初めから、"文章を書けない"というコンプレックスから始まって書くようになったのだ。
 それがだいぶマシになったのだから、言うことはない。
 
 ちどりの寝顔を見て、俺はこっそりと、彼女の髪に触れてみる。
 誰かに触れるたびに、なにかを盗み取ろうとしているような気分になる。

 どうあっても、俺は人を突き放せないような気がする。

 遊びに混ぜてもらっているような気持ちで、ずっと生きている。
 いつだってそれが奇跡みたいに思えてしまうのだ。



つづく




 ふと気付くと俺は眠っていて、起きたときにはちどりはいなかった。
 
 枕もとには書き置き。

「熱がだいぶさがったようすなので、帰ります。おだいじに。今日のことは誰にも秘密にしてください」とあった。

 メモ書きをとりあえず枕元に置き、自分でも体温を計ってみた。
 三十六度八分。ずいぶん上がったり下がったりする熱だ。

 たしかに熱は下がったらしい。食欲もある。この分なら回復したと思ってもいいだろう。

 ついでに時計を見ると、まだ七時頃だった。ずいぶん長く寝た気がする。
 ……こんなに急激に体温が変化して、人間って大丈夫なのか?

 まあ、今は無事なのだからいいだろう。

 そこで誰かが階段を昇ってくる音がした。ちどりが忘れ物でもしたのか、と思っていたらドアを開けたのは純佳だった。

「おかえり」と最初に声をかけると、純佳はきょとんとした顔になった。

「ただいま帰りました。……起きてたんですね」

「いま起きたとこ」

「ちどりちゃんからメールで、熱だって」

「だいぶ落ち着いたみたいだ。疲れが溜まっていたのかもしれない」

 と、よく言うけれど、そういえば俺は、疲れが溜まっていると熱が出るというメカニズムが事実に即しているのかどうか知らない。
 昼間のことを考えるに、体調以外の要因が大きそうな気はするのだが。




「やっぱり兄はばかです」

 そう言って今度は、さっきまでちどりがしていたみたいに、純佳がベッドのそばに寄り添った。

「……あのな、子供じゃあるまいし、熱出したくらいで心配しすぎだよ」

 茶化したわけでもないけれど、純佳は否定すらせずに、

「心配くらいします」と言った。

「他の誰が心配しなくてもわたしは心配します。普通じゃないっていわれても、それでかまわないです」

 彼女もまた、まぶたを閉じた。違うのは、純佳はすぐに顔をあげたことだった。

「おなか、空いてますか。ごはんは食べれますか?」

「……ん、どうかな」

「風邪ひいたとき、食欲ないなら、食べないほうがいいらしいです」

「へえ。無理しても食べたほうがいいって聞く気がするけど」

「風邪のときは、からだは風邪を治すためにがんばってるわけです。その仕事をしてるから食欲が抑制されて、
 でも、そのときに無理して食べちゃうと、治す仕事が中断させられるんです。消化器系が弱ってるなら、余計な負担もかかります」

「……博識だな?」

「こないだテレビで言ってました。食欲、ありますか?」

「長々と話をさせて恐縮だが、食欲はある」

「……よかったです」
 
 本当にほっとした顔を見せる。
 最近は、こいつのこんな顔ばかり見ている気がした。




「……あれ、これ」

 と言って、純佳は俺が枕元に置いたままにしていたメモ書きを手にとった。

「……兄、ちどりちゃんに何かしたんですか?」

 怪訝げな表情で妹に睨まれる兄の図である。

「なにかって」

「いったい、ちどりちゃんに何をしたんですか? あるいはされたんですか?」

「看病されたんだよ。それだけだ」

「……それだけならこんな書き方しないと思いますけど」

「気になるならちどりに聞けよ。なんにもないっていうから」

「それはまあ、ちどりちゃんが事実の隠匿を兄に依頼している以上、そうでしょうけど……」

 頭も口もやたら回る奴だ。とっさに言葉が次々出てくるところがすごい。
 とはいえまあ、ちどりの書き方も拙かった。
「今日のことは誰にも秘密にしてください」。あいつは言葉選びが逐一意味ありげなのだ。

「……まあ、あまり立ち入らないでおきます」

「そうしてくれ」

「とにかく、今日は油断せずに早めに休んでください。ごはんはつくりますから」

 ああ、と頷いたとき、インターフォンのチャイムがなる音が聞こえた。

「……誰だろう。見てきますね」

 そう言って純佳はいなくなった。
 


 ひとりになって、俺はもう一度さっきの書き置きを眺めてみる。

 秘密、秘密。
 心配しなくても、ちどりのことを話すような相手は俺にはほとんどいないっていうのに。
 
 それともちどりは、何か別のことを心配していたんだろうか。
 ……別のことってなんだ? 自分で考えたことなのによくわからない。

「兄」

「ん」

「おともだち、お見舞いにきましたけど」

「……友達?」

「はい」

「連絡もなしに……」と思って、ふと思い出す。携帯はどこだろう。
 
 枕元、テーブルの上。ない。
 ……制服のポケット。そうだ。ちどりが着替えさせたと言っていた。

 冷静に考えるとやはり、着替えさせられたというのがどうにも居心地が悪い。
 などと今考えても仕方ない。

 とりあえず立ち上がり、クローゼットを開け、吊るされていた制服のポケットを探る。
 すぐに見つけて、画面を開く。

 大野から何通かメッセージが来ていた。

 寝巻き姿は気まずいが、大野ならいいだろう。とりあえずそのまま玄関に向かった。
 体調はだいぶマシになっている。




 そして俺の家の玄関口には、大野と市川と真中が立っていた。

 俺はさすがに開き直るしかなかった。

「みなのもの、おはよう」

 と俺は手を挙げて言った。「何を言ってるんだこいつは」という顔を市川がする。

「元気そうだね」と市川は言う。

「そうでもない」

「うん。妹さんに聞いた。体調悪かったんだってね。それならそうと、言ってから帰ってくれればいいのに」

「心配かけたか?」

「わたしが? ううん」

 市川は心底意外なことを言われたというふうに目を丸くした。
 こいつのなかで「自分が三枝隼を心配する」ということはものすごく意外なことらしい。

 まあそれもいいだろう。正直なやつは気疲れしなくていい。

 それにしても、さっきから大野と真中がやけに静かだ。

 というより、むしろ、顔色が悪いようにすら見える。
 何か驚いているみたいな。


「……そっちのふたりも、わざわざ悪かったな」

「あ、ああ」

 やっぱり、大野の反応は鈍い。
 それにしても、純佳も意地が悪い。あいつは真中を知っているんだから、そう教えてくれればよいものを。

「連絡かえってこなかったから、心配なのもあってな。昼間、体調悪そうだったって真中に話したら、見舞いにいこうっていうので」

「ああ、そうか。今はおかげでだいぶよくなったよ」

「せんぱい」

 と、不意に口を挟んだのは真中だった。

「……ん」

 その声の冷たい響きに、俺はいくらか驚いていた。
 真中の顔つきは何かを抑え込むみたいにこわばっている。

「せんぱい、ひとつだけ、訊きたいんだけど……」

「……なに」

「この家に……さっきまで、せんぱいたちのほかに、誰かいなかった?」

「……真中?」




「せんぱい。なにか、隠してること、ない?」

「……」

 ずいぶん、真剣な様子だ。答えを間違ったら、どうなるっていうんだろう。
 
「……たくさん、あるけど」

「そう。ねえ、せんぱい。わたしたち、ちょっと前からこの家の近くにいたんだ。
 すぐに来なかったのは、ちょっと話し合うことができたから」

「……」

「せんぱい、わたしたち、ここについたとき、玄関から青葉先輩が出ていくのを見たの」

「ん……?」

 真中は、俺の言葉を待つみたいに間を置いた。
 この期に及んで俺は、どう返事をすればいいのかわからないでいる。
 
 ちょっと驚いたような気持ちだった。

「せんぱい、ひょっとして……せんぱいが、青葉先輩をかくまってたの?」

「……あ、ああ。そうか、おまえらから見たら、そうなるのか」

「……どういう意味?」

「いや、違う。そうか、無理もない。……そうか」

 普通そうなるか。同じような顔の人間がふたりいるなんて、まず考えない。
 だから、同一人物だと、自然と考えてしまうのだ。



「違うよ。……あれは瀬尾じゃない」

「……青葉先輩じゃない? じゃあ、誰だったの?」

「あれは……」

 ……少し、考える。
 
「純佳」

 リビングで待機していた純佳を呼ぶと、彼女は扉の隙間からひょこりと顔を出した。

「ちょっと出かけてくる」

「だめです」

「……」

 駄目ですと来た。

「寝ててください」

「心配ないよ。だいぶ平気になったから」

「無理をするとこじれます。無理をするとこじれるんです」

 二回言った。……ああ、そうか。
 無理をするとこじれるのか。そんな言葉が妙に印象に残ってしまった。



 とはいえ、このままこいつらを帰すのはよくない気がした。

 不信感と混乱というのは、抱いているほうが疲れるものだ。
 そういう負担を、この場でこいつらに背負わせるのはよくない。
 まして……今後はもっとあれこれあるかもしれないのだ。

 こんな勘違いなんかで、互いに消耗してもいられない。

「……じゃあ、純佳、ひとつお願いがある」

「……なんですか」

「こいつらを、『トレーン』に連れて行ってやってくれないか」

「『トレーン』に?」
 
 純佳はあからさまに戸惑った表情になった。無理もない。
 この場で俺以外に、俺の考えていることを理解できるやつはいないだろう。

 だからこそいいかげん、情報の共有をしておいたほうがいい。
 それは俺にとって恐ろしいことでもある。

「ちどりに会わせてやってくれ。本当は俺がいけたらいいんだが」

「……どうして?」



「まあ、ちどりに何か言う必要はない。純佳はちどりを呼んで、今日のお礼をあらためて伝えてくれればいい」

「……」

 やはり要領を得ない様子だったが、それ以上は純佳には説明しない。
 
 俺は全員の顔を順番に眺めてから、言った。

「たぶん、俺に訊きたいことができると思う。その説明は、明日の放課後にする。
 純佳にも……あとでちゃんと話す。隠し事はいいかげんやめる。それでいいだろう」

「……せんぱい?」

「行って、見ればわかる。俺は純佳の言う通り、今日は休むことにするから」

「……わかりました。柚子先輩、準備するので、少し待っててください」

「わざわざ来てもらったのに、悪いな。明日ちゃんと話すから、今日はもう行ってくれ」

 納得した様子ではなかったが、三人は頷いてくれた。
 市川だけが、何を考えているかわからなかったが、それも仕方ない。
 他人の考えを読み取る力は俺にはないんだから。

 そうして四人が玄関から出ていくのを眺めてから、俺は自分の部屋に戻った。

 いろいろなことが、一気に起きるものだ。





 しばらくして、大野から連絡があった。

「誤解は解けた。詳しいことは、明日、学校に来られたら聞く」

「了解」とだけ返信した。
 
 それから少しして、純佳が帰ってくる。
 俺はリビングで彼女を待っていた。

「……いろいろ、柚子先輩から聞いてきました」

「ん。どんな?」

 純佳は何を話せばいいのか、困ってしまった様子だった。

「……柚子先輩たち、ちどりちゃんを見てびっくりしてました。
 兄と一緒の部活の子と、そっくりなんだって。その人が、いなくなったんだって」

「……うん」

「じゃあ、兄。こないだ公園に行ったときに話してたのは……」

「そういうことだな」

「……やっぱり、ほんとに探してたんだ」

「……そういうことになる」

 純佳はそれ以上何も聞かなかった。
 何を聞けばいいのかもわからなかったのかもしれないし、俺の体調に気を使ったのかもしれない。

 ちどりと瀬尾がそっくりだということは、ただそれだけなら、べつに考えても仕方ないような話だ。
 大野も真中も市川も、複雑な何かを感じはするだろうが、結局のところそれを瀬尾の失踪と関連付けはしないだろう。

 俺たちはそのあと夕食を食べ、俺はやっぱりすぐに休むことにした。

 眠れるだろうか。……たぶん、眠れるだろう。
 ひどく身体が疲れているのは事実だ。
 
 明日、大野たちに、何を話せばいいだろう?

 考えてみたけれど、うまく思いつかなかった。


つづく





 その夜、また、あの葉擦れの森に、俺の意識は浮かんでいる。
 それが夢なのか、それとも二重の景色の片割れなのか、やはり判断がつかない。

 目の前に、カレハがいる。

「ずいぶん、苦しそうでしたね」

 そう、彼女は微笑んだ。

「……あ」

 と、試しに声を出してみた。
 そして驚いた。
 ……どうして、声が出せるんだ? 以前はまるで話せなかったのに。

「いえ、声を出せているわけではないです」

 カレハは俺の方を見ている。……見られている俺の身体を、俺はうまく動かせない。

「不便なものですから、便宜的に、声を用意させていただきました。こういう機会もなかなかないものですから」

 用意、と来る。ずいぶんな話だ。厄介な相手という印象は変わらない。
 が、絶好の機会と言えば、そうだ。


「……いくつか、訊きたいことがある」

「わたしに訊いて、わかることでしょうか」

「だといい。そうじゃないとしても、整理したいから、ちょっと付き合ってもらう」

 ……そう、そうしないといけない。
 瀬尾のことは、ひとまず、瀬尾のことだ。

 それとは別の問題が、俺の目の前に浮かんでいる。
 いいかげん、そっちにも向き合いたい。
 
 カレハは、ゆっくりとした動作で俺のそばに座った。

「どうぞ」というふうに、彼女は微笑む。
 風は吹いているが、景色が統一されている分、昼間に聞くよりも、葉擦れの音はだいぶマシだ。
 混乱していない分、助かる。



「きみは、いったいなんなんだ?」

「……なんなんだ、と聞かれても」

 カレハは落ち着いた様子でゆっくりと首を傾ける。
 どこか忙しない口調のさくらとは、また違う。

 彼女はやはりさくらとは違う存在なのだ。

「わたしには結論は出せません。あなたがさくらと呼ぶ少女とは、また別の存在です」

「……神さま、か?」

 彼女は含み笑いを漏らす。

「違います。けれど、あなたたちから見たら似たような存在かもしれませんね。
 少なくとも、あなたたち人間とは少し違うルールで動いているかもしれません。
 理から外れた存在とでもいえば、少し、かっこいいですかね」

「……」

「呆れましたか?」

「いや、意外だっただけだ。……とにかく少なくとも、人間ではない」

「はい。幽霊でもないです。神というのは違います。悪魔でもないはずです。
 もっとも、定義によります。怪異とか、妖怪と言われたら、はずれではないかもしれない」

「きみをどう呼ぶかはべつにして、とにかく……きみのような存在が、いる」

「はい。聞き分けがいい子は好きですよ」

 カレハは子供を見るように微笑む。
 カレハのような存在が、いる。ひとまずそれを、認めなければいけない。

 さくらやカレハのような存在。神隠し、神さまの庭、葉擦れの森、そういう存在が『在る』。
 ひとまずそう仮定することからしか、話は進まない。

 


 今まで俺がそれを真面目に考えてこなかったのは、あまりにもバカバカしいからだ。

 まず第一に、神隠しの記憶を、俺は夢だと思い込もうとしてきた。
 あんなバカバカしいことが現実にあるわけがない、と。

 そして、瀬尾とちどりの顔が……いや、体格や体型すらもが、あまりに似通っていることについても、偶然だと思おうとしてきた。
 これは自然なことだろう。

 どれだけ似ていても、髪型や表情の変化が違えば別人のようにも見える。印象が似ているだけなら、そんなに珍しい話でもない。
 
 神隠しが夢で、瀬尾とちどりのことが偶然なら、葉擦れの音や二重の景色は、単に俺の幻覚に過ぎない。

 けれど、もう事態は、そういうものを否定できないところまで来てしまった。

 ひとつは怜の言葉だ。

 怜には神隠しのときの記憶がある。
 少なくともあいつは『神隠し』を体験している。そして、何度も『むこう』に行っている。
『むこう』の存在は、これで少なくとも俺だけの夢や幻ではなくなる。

 そして、それが事実なら、俺が見てきたこの二重の景色と葉擦れの音は、その現象となんらかの関係があるはずだ。

 もうひとつは、瀬尾青葉の失踪と、彼女からの手紙。

 誰かがかくまっているとか、どこかに隠れている、という可能性は、状況上、低い。
 であるなら、彼女はやはり、『むこう』のどこかにいる、と考えることができる。

 いま、この場所も……たぶん、ただの夢ではない。




 まずは、それを前提にしよう。
 これらの現象はたしかに起きている。

 さくらやカレハの存在、神隠し、神さまの庭、瀬尾の手紙、『むこう』との行き来、二重の風景。
 その仕組はおそらく、考えてもわからない。

 問題はそれが現に起き、俺たちに影響を与えているという点だ。

 ひとつずつ、整理しなければいけない。

 今までうまく考えられなかったのは、いろんなものを同時に解決しようとしていたせいだろう。
 問題は、分けて考えなければいけない。
 分けて検討したあと、すべてを結び直す必要がある。


 瀬尾青葉が向かったのはどこか。

 答えはもはや、ほとんど出ている。神さまの庭。神隠し。怜の発言の通りなら、『むこう』のどこか。
 どこから向かうかで、どこに出るかが変わるという。
 瀬尾の靴は下駄箱に残されたままだった。ということは、瀬尾は校内のどこかからむこうへと渡った。

 そしてむこうで生活をしている。怜が『むこう』で学生証を拾ったのも、状況的には証拠の一つになりうる。
 とはいえ、学生証がふたつある意味も理由も仕組みもわからないままだ。ただ、「それは起きた」。
 瀬尾が「伝奇集」を介して手紙を送れる仕組みについても同様だろう。

 そして怜の話を信じるならば、『むこう』へは、いける。
 少なくとも、怜は通っていた。

 さいわい、瀬尾がどこから『むこう』へ渡ったかということについてもも、まったく宛がないわけではない。

 ということはつまり、瀬尾青葉の行方については、五里霧中というわけではない、ということだ。

 問題は、別にある。

 誇大妄想のような、ひとつの想像。

 それが、目の前にいるカレハによって、より強調される。

 見れば見るほど、さくらとそっくりだ。

 そこについては、直接訊ねるのがいいだろう。

「カレハ……と、呼んでいいんだよな?」

「はい。名前は必要ですから、便宜上」

 便宜上、と来る。


「カレハとさくらは、似ている」

「はい。そうですね」

 やはり、そうだ。

「きみは、さくらを知っている」

「はい。知っています」

「けれど、さくらは、きみの存在を知らない」

 カレハは感心したような顔になった。

「そこに目をつけるとは」

「……そんなに意外でもないだろう」

「てっきり、『そういうものだ』と受け流してしまうと思いましたから」

「もうひとつ、気になった点があったから。さくらは以前、俺に『森』についての予言をした。
 ……でも、それがなんなのか、彼女自身でもわかっていない様子だったんだ」

 なるほど、とカレハは頷いた。

「『森』について知っているのは、カレハの方だった。きみは俺に、以前、その話をしたな」

「はい。わたしはここにいますから」

 ここから先の話をするのは、俺にとってはひどく苦しいことだ。



「さくらとカレハは……なんらかの形で、繋がっている。
 感覚か、意識か、記憶か、それがなんなのかはわからない。どこまでの規模なのかもわからない。
 別人で、知っていることも過ごしている時間も違う。それなのに……繋がっている」

 カレハは、やはり子供を褒めるみたいな顔で、手をぱちぱちと叩いた。

「すごいですね」

 その言葉が肯定だとわかる。
 少なからず、俺はショックを受けた。

 否定してほしかった。

 そうじゃなければ、このあとの話は、いっそうの混乱をきたすことになる。
 それでも続けなければならないだろう。

 いっそこんな景色さえただの夢であれば、どれだけいいことか。

「逃げられませんよ」と見透かしたみたいにカレハは笑った。

「あなたは逃げられないんです」

 まじないみたいに、繰り返すだけだ。

つづく



 カレハは、俺の言葉を補足するみたいに、勝手に話しはじめた。

「わたしとさくらは、ある程度、感覚を共有しています。もっとも、そんなにはっきりとした感覚ではありません。
 ある程度、です。そして、彼女とわたしはまったく同じ存在というわけでもない」

「けれど、同じ部分もある。さくらは心を読み取る力があり、神出鬼没だ。
 そしてきみもまた、俺の心を読み取ることができる」

「……そう断言してしまっていいんですか?」

「以前、きみは声を持たなかった俺の考えていることを読み取ってみせた。
 それに、俺の書いた小説にさえ言及した。これで不十分か?」

 別の可能性だって、考えることはあった。
 
 たとえばカレハと、彼女がいるこの森が、俺の記憶が作り出した夢である可能性。
 葉擦れの森が現実に存在するからといって、この森が「現実」とは断定できない。

 むしろ、普通に考えたら、現実ととらえるほうが不自然だ。
 なにせ俺はどこからも『むこう』に行っていないんだから。

 夜ごと見る夢だと考えるほうが、自然だろう。
 そうだとすれば、カレハが俺の小説について知っていてもおかしくない。
 俺が作り出した夢なんだから。

 けれど……そうじゃないと仮定したとき、仮説が生まれる。



 さくらとカレハが、よく似た別の存在であること。
 彼女たちがある程度感覚を共有していること。
 
 それはひとつの可能性を示す。

「同様のことが、瀬尾青葉と鴻ノ巣ちどりの間に起きている、と考えられる」

 カレハは、肯定も否定もしない。

「……少し、突飛な想像という気が、やはりしますね」

 もちろん、俺にだってわかっている。けれど、この仮説を続けるしかない。
 実のところ俺は、的外れであってほしいと願っているのだ。

「俺は瀬尾青葉の家に行き、彼女が血縁のいない、孤児だったと知った。
 彼女の……こう言ってよければ、親、が、彼女を見つけたのは、六年前の五月だった」

「……なるほど」

「六年前の五月、俺と、ちどりと、怜は、神隠しに遭った」

 突飛な想像。たしかにそうだ。
 けれど瀬尾の家に行き、六年前の五月の話を聞いたとき、俺は謎が解けたような気分になったのだ。
 
 それまで、瀬尾とちどりが似ているということは、不思議なことではなかった。
 俺にとっては大きな意味を持つことだったが、そこに裏があるなんて考えていなかった。




「カレハ、俺が間違っていたらそう言ってくれていい。
 俺たち三人は神隠しに遭い、帰ってきた。
 同時期に、『ちどりにそっくりな瀬尾青葉』が現れ、俺は『風景が二重に見える』ようになった」

「……」

「理屈はわからない。話している今だって信じられないし、あまり信じたくもない」

 カレハは見透かしているように微笑する。
 生徒の答えを静かに待つ教師のように。

「ちどりは今日、『湖の夢を毎朝見る』と言った。
 瀬尾青葉は、『静かな湖畔』で過ごしていると書いていた。
 ……理屈は、わからない。でも、さくらとカレハが繋がっているように、ちどりと瀬尾も繋がっているんじゃないか」

「……どう、でしょうね。わたしは、どちらにも会ったことがありませんから」

「……全部仮説だ。土台になる部分に証拠がなにひとつない。状況からの推測だ。
 そしてそのうえに、もうひとつ重ねることができる」

 いや、重ねなければならない。

「俺はいま、葉擦れの森にいる。葉擦れの景色を見ている。からだは動かせない。きみがそばにいる。
 ……この声は、きみがどうにかしてくれているんだったな」

「……はい」

「葉擦れの音、二重の景色。これが夢でも幻でもないなら、俺はこれを『見て』いて、『聴いて』いるってことだ」

 それはつまり、感覚を得ている、ということになる。


「夜眠っている間も、どうして葉擦れの音が聞こえるのか。そのときだけ、どうして景色が二重じゃないのか。
 考えてみれば単純なことだ。普段ふたつを見ている俺は、『俺』が眠っているときだけ、片方を見ているんだ」

「……」

 辻褄が合う。
 怖いくらいに。

「カレハとさくらがそうであるように、ちどりと瀬尾がそうであるように、俺もまた、誰かと繋がっている」

 カレハは否定しない。

「そして、そいつは……眠りもせず、休みもせず、身体一つ動かせずに、この森にいる」

 俺が眠っている間も、俺が起きている間も、身じろぎすらせず、夜の明けないこの森で、声も出せずにいる。
 いや、あるいは、違う。

 話せないのではなく、話さない。動けないのではなく、動かない。そうなのかもしれない。

 なにせ、俺はこの景色を見ている"誰か"の身体の主導権をもっているわけではなく、
「その誰か」が見ている景色、聴いている音を、共有しているに過ぎないからだ。

 カレハは、その身体に宿っている俺の意識を、彼女自身の力で読み取っていた。
 そして、俺の意識に"声"を与えて、会話を試みた。

 けれど、当の身体の持ち主は……カレハにも、俺という存在にも、何の反応も示さない。
 
「よく、そこまで考えつきましたね」
 
 カレハはまた微笑む。その笑みが、おそろしいと思った。



「ご褒美に、見せてあげます。からだを動かす気は、ないみたいですから」

「……なにを」

「このからだを動かす気がない以上、あなたはこのからだを見ることができない。
 目は頭上をずっと眺めていますからね。あなたが、夢だと感じたのも無理はないです。
 わたしやさくらなら、相手がからだを動かせば、それが自分じゃないとわかりますから」

 そう言って彼女は、"俺"(の視界)に近付いた。
 そっと、手に何かが触れる感触が、かすかに感じられ、"それ"が視界に映るように持ち上げられた。

「見えますか?」と彼女は訊ねる。

 俺は、背筋が粟立つのを感じた。

「これが腕ですよ」

 焦げ茶色の肌は、えぐれたように細い。
 骨と血管が浮き出て、月夜に照らされ、枯れ枝のようにいくつも窪みがある。

 人間の腕というよりは、ミイラの腕のようだった。

 それは生きている人間の腕とは思えなかった。
 死体の腕のように見えた。

 その腕の持ち主の視界を、俺はいま、眺めている。

「……あとちょっとですね」とカレハは言う。

「もしまだわからないことがあれば──」と、続いた。

「さくらのことを知っている人に、訊いてみるのがいいかもしれませんね」



 そして彼女は腕を離し、月を見上げた。
 不意に、思い出したように声をあげる。

「そういえば、さくらは、この世界は愛で満ちていると言っていましたね」

 そう言った表情に、どうしてだろう、嘲りのようなものが、含まれているように見えた。

 葉擦れの森は、ざわめいている。

「それは、さくらの景色。わたしのとは、違う……」

 俺は、何かを言おうとして、もう声を出せなくなっていることに、遅れて気付いた。
 
 カレハは俺のことなんて忘れたみたいに、もうこちらを見ようともしない。

「この世界は、愛や、歓びや、安心や、幸福に、"満ちてはいない"」

 彼女は歌うようにそう微笑んで、
 ひそやかに"俺"の……枯れ枝のようだった腕の持ち主の方を見た。

「もうすぐですよ」と彼女は言う。

「たどり着けるといいですね」

 そうしてカレハは姿を消して、
 俺は、動かない視界のまま、葉擦れの音を、聴いているほかなくなった。

 叫ぶべき声も動き出す力ももはやない。

 まるで枯れ木のひとつのように、ただ夜を眺め続けるだけだ。



つづく




 翌日、まだ心配そうな様子の純佳に起こされた。

 前日の夜からそうだったが、具合はだいぶマシになっていた。我ながら単純な身体をしている。

 葉擦れの音は、いつもよりだいぶ控えめに感じられる。
 認識の問題だろう。

「無理はしないでくださいね」と純佳は言う。
「大丈夫だよ」と俺は言った。

 純佳のつくった弁当の入った巾着袋を鞄に入れて、俺たちは一緒に玄関を出た。

 さあさあという雨音が降っているのを聞きながら傘をさす。

「今日はバイトは?」

「……ああ」

 と思って、俺は携帯を見た。シフト表は写真に撮って残してある。

「今日は休みだな」

「わかりました。晩ごはん、どうしますか?」

「んん……。食べる」


「なにがいいですか?」

「ええと、そうだな……」

 何が食べたい、と聞かれるとなんとも言いがたい。
 
「……オムライスとか」

「……オムライス、ですか」

 ふむ、と、純佳は考えるような顔つきになった。

「わかりました」

 わかりました、とだけ言われると、何を言い加えるべきか迷う。
 
「……兄」

「ん」

「しつこく言いたくありませんが、無理はしないでくださいね」

 ……やっぱりこいつは、俺の心を見透かしているような気がする。

「肝に銘じとくよ」

 いつもどおり、そう言っておいた。






 教室に着くと、大野がいた。

 おはよう、とひとまず声を掛け合う。

「調子はどうだ」

「至って快調だ」

「それはよかった」

 そして話は、すぐに昨日のことに流れる。

「ちどりには会ったな」

「ああ。昨日はおまえが何を考えてるのかと思ったが、納得がいった」

 そうか、と俺は思う。
 大野はそれで納得するのか。

「でも、どうして話さなかったんだ?」

「なにを?」

「今まで、雑談でもなんでも、瀬尾とそっくりの知り合いがいたなんて言ってなかっただろ」

「べつに、言う機会もなかったしな」

「やっぱりおまえは、秘密主義者って気がするよ」

 呆れたように、大野は言う。
 以前もそんなことを言われたっけか。
 今は、さほど否定する気にもなれない。



「隠し事はなしだと言っていたが……」

「うん」

 そうは言ったものの、どうしたものかなと未だに迷っている。
 すべてを話す気には、あまりなれない。

 何を話すべきかを考えたとき、大野や真中や市川に話せることはあまりないような気がする。

 瀬尾のこと、ちどりのこと、俺のこと、その全部が、意味不明で混乱している。
 それを、伝えてもいいのだろうか。

 ましてや、昨日の夜のあの景色、あの中でカレハに聞いた言葉が事実なのだとしたら……。

 ……いや、けれど。

「話せるかぎりのことは、話す。俺がしようとしていることも」

「……ああ」

 大野は、不思議そうな顔をした。
 
 秘密主義。そうかもしれないな、と思う。

 昼休みに俺は、一文字も目を通していないままの『伝奇集』に「近々そちらに行く」というメモを挟んで図書室に返却した。





 そして、図書室を出たあと、そのまま東校舎へと向かう。

 雨は朝から降り続いている。さあさあと静かな音のまま、続いている。

 部室の入り口に立ち、さて、そこから始めてみよう、と思った。

 部室を出たとき、既に瀬尾の姿を俺は見つけられなかった。
 追いかけるまでに、そんなに時間が経っていたわけじゃない。

 それでも、この周辺に入り口足り得るものがなかったか、探す価値はあるだろう。

 足音すら聞こえなかったけれど、探る意味はある。

 まずは、廊下の窓。
 
「鏡」「絵」「自然」。鏡でいいなら、窓でいけない理由はない。
 
 その理屈でいえば、水もまた、鏡たりうる。

 とすれば……どこからでもむかえるような気がする。

 けれど怜は、そうは言っていなかった。あいつなら、窓や水を試さないはずもない。
 だとすると、何かの条件があるのかもしれない。



 窓をひとまず度外視して、周囲を見回す。
 とはいえ、他にそれらしいものがあるだろうか。

「隼さん」

 と、声をかけられたほうをみると、ちせが立っている。

「やあ」

「こんにちは。探しものですか?」

「……ちょうどいいっていえばいいか」

 ちせは首をかしげた。

「ちせは、東校舎のなかで、鏡がある場所って知らないか?」

「鏡……? お手洗いにはありますけど」

「ん。そうだな」

 それは最初に考えた候補だ。今のところ、それが最有力と言えるだろう。

「それ以外で思いつくのは、なにかないか?」

「……鏡、ですか」

「ああ」

「階段の踊り場……には、窓しかありませんね」

「だな」

 考えてみれば、校舎のあちこちに鏡を置く理由もない。
 そっちの線は、やはり、薄いだろう。


「とすると、絵か」

「絵……ですか?」

「そう。絵だ。絵だったら、なにか浮かぶか?」

 ちせは少しだけ考え込むような顔になったが、すぐに、おそるおそる、というふうに口を開いた。

「文芸部室に……絵が飾られていましたね」

「うん。そのほかなら、どうだろう」

「……わかりません。文化部の部室棟ですから、どこかにはあるかもしれませんが」

 となると、やはり、入り口はかなり絞られる。

 トイレの鏡。あるいは手鏡でもいいのかもしれないが、それはひとまず置く。
 
 そうでないとしたら、もうひとつは、あの絵だ。




 俺はちせに礼を言い、部室に戻る。
 なぜだか彼女は後をついてきた。

 文芸部室に入り、壁に架けられた絵を眺める。

 海と空とグランドピアノ。

 ましろ先輩は、この絵を象徴的だと言った。

「ここに描かれているのは、空と海とグランドピアノ。ねえ、それでぜんぶなんだよ。それがすべてなんだよ。なんだかそれって、とっても綺麗じゃない?」

 世界の終わりのような、あるいは始まりのような、予兆のような、余韻のような絵。

 ピアノの前にひとつだけ置かれた椅子。
 初めてこの絵を見たときに、俺は、孤独な絵だと思った。
 綺麗な孤独についての絵だと思った。



 瀬尾青葉は、部室を出て姿を消した。

 その後誰も彼女の姿を見ていない。
 
 けれど、そのときまだ彼女がむこうに行っていなかったとしたら。
 俺たちが部室を出たあと、こっそりと戻ってきていたなら。
 そして、この絵が『むこう』への入り口になったとしたら。

 俺は静かに、絵に向けて手を伸ばす。
 恐れが……湧く。

 それでも、そっと触れてみる。紙の感触があるだけだ。

「隼さん……?」

 不思議そうに、ちせが首をかしげた。

「……ん、確かめてた」

「何を、ですか」

 ちせを巻き込むわけにはいかない。
 
「いろいろ」

 納得がいったふうではなかったが、ちせは何も訊いてこなかった。

 俺たちはそのまま部室を出る。




「隼さん、青葉さんのことなんですけど……」

「ん」

「なにかわかったこと、ありますか?」

「いや……」

 俺は迷っている。

 怜や、ちせや、大野や、真中、それから市川。
 みんな瀬尾を心配している。

 けれど、それを話すべきなのだろうか。
 話してしまって、いいのだろうか。

 信じてもらえるとも思えない。悪い冗談だと思われるかもしれない。

 だから、

「まだ、わからない」と、そう言うしかなかった。

「……どうして、鏡と絵なんですか?」

「ちょっと調べたいことがあっただけだよ」

「青葉さんと、関係があるんですか?」

「あるかもしれないし、ないかもしれない」

「隼さん」

 ちせはむっとした顔になった。


「隼さん、ごまかしてます」

「……まあ、そうだな」

「ちゃんと話してください」

 それでも俺はためらう。
 どちらがいいのだろう。
 
「……ちせ、今日の放課後、暇か?」

「……はい? 放課後、ですか」

「ああ。もし暇だったら、ここに来てくれ」

「……」

「瀬尾のことについてわかったことを、そこで話す」

「……やっぱり、なにかわかってるんですね」
 
 いかにも不満そうに、ちせは口をとがらせる。

「なにもわかってないのとほとんど一緒だよ」

「とっかかりくらいは、あるんですね」

「たぶん、あると思う」

「わかりました。放課後、ここに来ます」

「ああ、そうしてくれ」

 ふと、カレハの言葉を思い出した。

 さくらのことを知っている人に、話を訊いてみたら、と言っていたか。
 心当たりはひとりしかいない。

 ましろ先輩……この状況で、彼女が関係することが、なにかあるんだろうか。



 不意に、声をかけられる。

「あの」と後ろから。

 さくらだ。

 まだ、ちせはこの場にいる。

 なんだよ、と訊ねてみる。

「いえ、少し……話したいことが、あるんです」

 話したいこと。
 話したいこと?

「……ちせ。それじゃ、放課後に会おう」

「はい。よろしくおねがいします」

 どこか不安そうな面持ちだったが、ちせは素直だった。
 俺は逃げるみたいに階段へと向かう。
 
 少し迷って、昇る方を選んだ。

 


 屋上に昇るのはひさしぶりだという気がした。
 もちろん、実際にはそんなことはないのだけれど、最近はいろいろとありすぎて、俺自身も混乱しているのだろう。

「話っていうのは?」

 さくらは俺の言葉に答えずに、フェンスの方へと歩いていった。
 
 見下ろす街は広い。
 広い。どこまでも、広い。

「……あなたが考えていること、わたし、わかるんです」

「知ってるよ」

「カレハって、誰ですか」

「……」

「……わたし、少しだけ、未来を見ることができました。ほんのすこしだけ。
 でも、今は何も見えない。……どうしてなのかわからない。なんにも見えないんです」

「見えない?」

「……わからないんです」



 さくらは戸惑っている。それが、不思議な気がしてならない。

 俺はこいつが、何もかもを見透かしているような気分になっていた。
 
 俺の心を見透かして、未来を眺めて、糸を手繰り寄せるように人と人とを結びつける。
 そんな人外の存在が、戸惑いを覚えるなんて、考えたこともなかった。

 俺の葉擦れの音でさえ、こいつは見抜いていた。
 
 でも、考えてみればそうだ。

 こいつは、葉擦れの音の正体を知っていたわけじゃない。
 俺の心を読んで、それを知っただけなのだ。

 瀬尾がどうしていなくなったのかさえ、こいつは知らないんだろう。
 
「わたしは気付いたら、この場所にいました。そのことに疑問を覚えたことなんてなかった」

「……」

「いつからここにいたのかなんて、覚えてない。わたしを見つけたのは、ましろが初めてです。
 少なくとも、覚えているかぎりだと、そうです。それまでわたしはずっとひとりだった」

 何を言えるだろう。



「ずっとひとりだったこと、思い出すんです。誰にも見つからなかった。
 誰にも触れられなかったし、誰にも声が届かなかった。
 誰もわたしを求めていなかったし、わたしも誰も必要としてなかった」

 さくら。

 さくらはいる。眼の前に、いる。

 俺にはそれがわかる。

「わたしは、誰にも見つからないまま、小細工や、与えられた力のいくつかを使って、人と人とを結びつけてきました。
 誰に褒められなくたって、それがわたしのやるべきことだった。どうしてかは、知らない。
 ただそれは、わたしがそういうものだから、そういうふうに作られたから。生まれたときから、そういう存在だったから」

 世界は愛に満ちている、とさくらは言った。

 この少女のことを、俺はどれだけわかってやれるだろう。

 どうして考えずにいられたんだろう。

 こいつが『誰からも見えない』存在だってことを。
 こいつの声は誰にも届いていないってことを。

 愛に満ちていると断言したこのひとりの女の子が、誰からも愛情なんて与えてもらっていないことを。



 そういう存在だからと、俺はわかった気になっていた。

「わからないんです。なにも。自分が何者で、何のために生まれたのかも」

 俺は、彼女に聞かせてやれる言葉を、今、持っているだろうか?

「わたしは、なんにも変わらずにいられるはずだったんです」

 何かを間違ってしまったような気がした。
 
 俺は、ここに来るまでに、いくつもの間違いを犯してきて、その最たるものが彼女に対して態度だという気がした。

 俺は彼女の言葉にもっと耳を傾け、彼女を知ろうとするべきだったんじゃないか。
 彼女から頼まれたことを無視するみたいに、いろいろなことが起きた。

 本当は俺は、彼女の頼み事を日々ひとつひとつ消化していくことで、前に進めたんじゃないだろうか。

 誰かと誰かの縁を結ぶ手伝いをして、そうすることで、何かを得ることができたんじゃないか。

 どうしてこんなにも、それが混乱してしまったのだろう。

 今、その結果として、彼女は混乱している。
 俺が手伝いをしなかったせいなのか? それとも、『カレハ』のせいなのか?
 わからない。



「……カレハは、おまえと、さくらと、繋がっていると言っていた」

 彼女は俺の方を振り返って、目を合わせた。何かを言いたげに、視線が揺らいでいる。

「この世界は、愛に満ちてはいない、とカレハは言っていた」

 ──不思議なものですね。まるでわたしは、あなたのために生まれてきたみたいな気がします。

 カレハがどういう存在なのか、さくらがどういう存在なのか、俺にはよくわからない。
 たぶん答えなんて出ないような気がする。

「でもさくら、俺はまだおまえに答えを見せてもらってない。
 この世界が愛に満ちているのか、それとも、空虚に充溢しているのか、それを教えてもらってない」

「……」

「だから約束だ。瀬尾のことが片付いたら、おまえの力になってやる。
 おまえが望むなら、おまえのことや、カレハのことを、調べる手伝いをしてもいい」

 いつのまにこんなふうになったんだろう。
 俺は、こんな人間だったっけか?
 
 わからないけれど、この子を放ってはおけない気がした。

「全部片付いたら、おまえに付き合ってまた芝居をしてやる。校内全員恋人持ちにするくらいの勢いで」



「……それは、ましろに頼まれたからですか?」

 鍵の代金、とましろ先輩は言っていた。

 偽っても仕方ない。それもある。
 けれど、

「それだけじゃない。読めるんだろ」

 さくらは、かすかに笑った気がした。

 ひとりきりで、声も届かず、求めても与えられず、
 そのなかでなすべきことをなそうとする少女。

 郵便ポストも信号機も愛だと彼女は言った。
 甲子園が好きなんだと冗談めかしていっていたっけ。
 
 やけに古臭い言い回しだって知っていた。天王山なんて言葉だって。

 でも、こいつは、そう言うこいつは、この学校から出られない。

 この学校の中のことしか、知らない。

「俺がからっぽじゃなかった頃のことを、思い出させてくれるんだろ」

 そうだ。俺だって、期待していた。
 こいつのそんな言葉に、期待していた。

 どうして葉擦れの音が止まないのか、どうして目に映る景色が、自分のものじゃない気がするのか。
 そんなあれこれのなかで、俺が何かを手に入れることは可能なのか。

 それはきっと、行動することでしかたしかめられない。



 自分が何者であるかを規定するのは、いつだって、他者か、内面化された他者の視点だ。
 
 他者が、自分の中に潜んだ他者の視線が、自分自身を規定する。

 だとすれば、自分に対する『視線』を持たない彼女は、たしかに、何者であるとも自認できないのかもしれない。

「だったら俺が、おまえを見てやる。おまえを規定してやる」

 そうやって、『これが自分だ』と胸を張って言えるものを、俺が渡してやる。
 
「自分のことが自分でわからないなら、俺が決めつけて判断してやる。
 それを自分だって誇ればいい。誇れるくらいのおまえを、俺が見つけてやるから」

 さくらは、うつむいたままくすくす笑った。

「偉そうなこと言わないでください」と彼女は言う。

「自分がなにかくらい、きっと、自分で見つけてみせますから」

 その言葉に、ほんのすこしだけ、俺はほっとした。

「でも、嬉しい。……約束ですよ」

「ああ、約束だ」

 そうして、俺たちは改めて契約を交わした。

 

つづく




 放課後、俺は部室に向かう前に、図書室に寄った。

 大野、市川、真中、それからちせ。みんなにどんな話をするべきなのか、未だに結論は出ていない。

 いずれにせよ、瀬尾の居場所についての推測を話すには、必然的に俺自身のことを話さなければならない。

 それが俺にできるだろうか。
 
 こんなことなら、怜が拾った学生証を俺が預かっていればよかったと思った。
 とはいえ、それを見せたところで、何かの証明にはならないだろう。

 図書室の本棚には、昼に俺が返却したばかりの『伝奇集』が既に並べられていた。

 ぱらぱらと開いて、探ってみる。

 返事は既に来ていた。

「やめておいたほうがいいと思います」

 と一言。
 名前はないが、瀬尾の字だ。

 タイムラグはない。瀬尾は無事だと考えていいだろう。

 


 俺はそのまま本棚に『伝奇集』を戻し、部室へと向かった。
 東校舎に繋がる渡り廊下をゆっくりと抜け、部室へと歩く。

 扉を開けると、中では既に大野と真中が待っていた。

 真中は俺を見て、「昨日はごめんね」と言った。

「いいよ」

「ううん。体調、悪かったのに」

「あんまり気にするな。隠し事があったのは事実だ」

 そう言うと、真中は黙った。早く内容を聞きたいのだろう。

 けれど彼女も、市川が来るのを待つことに決めたらしい。

「ちせも来る」

「あ、うん。聞いた」

「……」

 俺は少しだけ考えた。
 すべてに結論が出たとして、謎がすべて解けたとして、俺はどうするのだろう。

 真中と、俺のクラスメイトの間に縁があるとさくらは言った。
 
 さくらの手伝いをする、と俺は言った。
 仮にさくらがそれを言い出したとき、俺はどうするのか。



「……なに?」

 ふと気付いたら、俺は真中のことをじっと見つめていたらしかった。
 頭を振り、なんでもない、と答える。

 それについても、結論を出さなきゃいけない。

 嘘と偽り、まがいもの。
 
 韜晦だらけでごまかしてきた日々に、俺も決着をつけなければいけないのだろう。

 少し遅れて、市川がやってくる。

「ごめん、遅くなって」

「ああ、いや」

 大野、市川、真中。

 たった一月や二月、一緒に活動しただけの関係。
 
 瀬尾がいなくなってから、この場所に違和感を感じないことはなかった。

 俺たちは、あいつがいないと、うまく結びつくこともできなかった。

 さて、覚悟を決めなければいけない。
 そう思って、ちせが来るのを待つ。



 けれど、

「……ちせ、来ないね」

 しばらくして、真中がそう口を開いた。

 放課後になって、結構な時間が経っている。
 何かの用事があったとしても、遅い。

 俺だって図書室に寄ってきたし、市川はそれより遅れてきた。
 なにか不都合でも起きたのだろうか。

「……急な用事とか?」

 俺は携帯を開いた。最初に会ったときに、ちせとは連絡先を交換している。
 何かの事情で来られなくなったなら、連絡してきそうなものだが……。

「……」

 そこで、妙な胸騒ぎを覚えた。

「真中、おまえとちせはクラスが違うよな?」

「え? ……うん」

「ちせのクラスに知り合いとかいるか?」

「……せんぱい、わたしの交友関係ってそんなに広いと思う?」

 聞くだけ野暮というものか。多少は広まったとはいえ、まだいろいろと尾を引いている部分もあるだろう。

 嫌な予感がよぎる。
 というより、それはもはや予感なんて生ぬるいものじゃないように思える。


 俺は携帯を操作して、そのままちせの番号を呼び出して電話をかけた。

 これで出なかったら、出なかったら……?

 俺は今日の昼休みに、あの絵を眺めた。触れるところを、ちせに見られた。
 でも、何も起きなかった。

 そしてそのあと、俺はさくらに声をかけられ、部室の入り口でちせと別れた。
 
 ちせは聡い。
 俺のあのときの行動をちゃんと考えれば、あの絵や、もしくは鏡になにかあるんじゃないかと察してもおかしくない。
 ましてや俺たちは、瀬尾の話をしていた。

 もしちせが、あのとき部室に引き返したとしたら、
 あのとき俺が触れてもなんともなかった絵。

 あのときはただ条件が揃っておらず、そしてちせが引き返したとき、条件が揃ったのだとしたら。
 ちせは、『むこう』に行ったのかもしれない。

 あまりにも迂闊だった。
 あのときちゃんと説明していたら……。
 それでも、どうなったかわからない。



 祈るような気持ちでコール音を聞く。

「せんぱい?」と訊ねてくる真中の声に、答える余裕がない。

 どうして俺は『むこう』に行けなかったんだ?
 
 ……コール音が止んだ。

 ざらついたノイズが聞こえる。

「……ちせ?」

 ノイズが続いている。

「……隼、さ……」

「ちせ」

 ノイズ。

「ちせ、どこにいる?」

「……、さん……わたし……」

「どこだ?」

「……森……絵が……」

「すぐに向かう。あまり動くな。電話は切るな」



 そして俺はポケットに携帯を突っ込んだ。

 あたりを見ると、全員が俺に視線を集めている。

 一瞬、この場で実演してみせるのが一番説得力があるのかもしれないと思うが、すぐに考え直す。

 説明無しで俺が『むこう』にいけば、大野たちは混乱するだろう。
 かといって、説明してしまえば、今度はひとりで向かうことを止められる。

 ましてや、説明している時間的余裕があるかというと、必ずしもそうとも限らない。
 
 怜は言っていた。

 ──わかるのは、どこから入ったとしても、ある一定の距離を歩いたところに、森があるってことだ。

 ちせは、森、と口走っていた。

 あの森は、よくない。
 森に迷い込んではいけない。
 帰れなくなるかもしれない。

 俺は、自分ひとりで全部を解決できるなんて思っていない。
 俺の手には負えないことばかりだ。
 
 でも、今、ここにいる人間を巻き込んだら、今度は何が起きるかわからない。

 葉擦れの音、繋がり。厄介なことが、また増えるかもしれない。
 そんなリスクは、冒すべきじゃない。



「大野」

「ん」

「真中、市川も、少しの間、部室を出ていてくれるか」

「……せんぱい、ちせはどうしたの」

「あとで説明する」

「……」

 大野は、納得がいかないように眉をひそめる。

「なあ、おまえ、いったい、何を隠してるんだ?」

「……あとで、絶対に説明する」

 俺は大野を見る。
 彼は明らかに不信感をつのらせている、ように見える。
 
「すぐに終わる。だから、俺がもう一度呼ぶまで、絶対に部室に入らないでくれ」

「……」

 値踏みするみたいに、大野は俺を見ている。ここで目をそらしてはいけないのだと思った。
 
「わかった」と言ったのは、大野ではなく、真中だった。



「わたしたち三人とも、部室の外にいればいいんでしょう?」

「ああ」

「大野先輩、鈴音先輩、そうしましょう」

「けど」

「せんぱいは、自分が何をしようとしてるのかも、ちせに何があったのかも教えてくれない」

 俺は、答えに窮した。実際、そのとおりだ。
 隠し事はやめるといって、またその続きをしている。

 人から見れば、傲慢以外のなにものでもない。

「せんぱいは……結局、そう。なんにも話してくれないまま」

「……」

「せんぱいは、誰のことも、最初から、信じてない。頼らない。必要としてない」

 反論さえ浮かばない。
 そうではないと言いたかったのに、どうしても言うことができない。

「せんぱいは、誰のことも、好きにならない」

 でもいいよ、と真中は続けた。

「せんぱいがそういう人だって、最初からわかってたから」

 そう言って真中は、背を向けて部室を出ていく。


 戸惑ったような大野を取り残し、市川もまた立ち上がった。

「埒が明かないからね」

「……悪い」

「正直なところ、わたしはどっちでもいい」

 彼女はそう言った。

「ただ、真中さんがかわいそうだなって思う。でも、きみの事情は知らないから、責める気もない。
 でも、彼女の言う通り、きみが誰も頼らず、必要としないのだとしたら、彼女を早く突き放すべきだよ」

「……」

 またしても、反論すら、浮かばない。

 最後に部室に残った大野は、なにか言いたげにしていたのが嘘のように、困った顔をしていた。



「手厳しいな、あいつらは」

「……いや、そりゃそうだ」

「……すぐに終わる、と言ったな?」

「ああ」

「だったら、待ってるよ。ただ正直、おまえの様子を見てると、嫌な予感しかしないんだ」

 沈黙が、肯定のようになってしまう。

「おまえを部室に残すだけで、何が起きるってわけでもない。普通に考えたらそうだ。
 でも、瀬尾のこともある。『伝奇集』のことだってそうだ。
 ……なんだか、妙なことになってる実感は、俺達にもある。分かるよな? 心配してるんだ」

「……約束は守る」

 信じてもらおうなんて、都合のいい話かもしれない。
 俺はたしかに秘密主義者で、嘘つきかもしれない。

 大野は、黙って頷いて、部室を出ていった。
 
 扉が閉まる音がする。

 俺は静かに、壁にかけられた絵に向かい合った。



 ひとつ、深く呼吸をする。

 絵を、眺める。入部してからというもの、俺は暇を持て余すたびに、この絵を眺めていた。
 今の今まで、何も起こらなかった。

 怜は、『存在を知っているから』あちらにいけるようになったのだと考えていた。
 
 けれど、俺は『存在を知っていた』のに行けなかった。
 ちせは、『存在を知らなかったのに』あちらに行った。

 いったい何が条件なのか、今の俺にはわからない。

 考えるだけ無駄なのか。それはただ、偶然や気まぐれにすぎないものなのか。

 でも、怜は、あちらに行ける。

 おそらく任意のタイミングで、あちらに通っていた。
 怜にできて、どうして俺にできないのか。

 俺は、絵に手を伸ばす。触れようとして、躊躇している。

 昼休み、俺の身には何も起きなかった。
 
 それは俺が、本心では、『むこう』に行きたくなんかないと思ってるからじゃないのか?

 瀬尾がいるとしても、ちせがいるとしても、また『むこう』に行くなんてごめんだと思ってるからじゃないか?



 指先が絵に触れる。何も起きない、と判断し、手を引っ込めそうになる。

 この絵のむこうに何があるのか、俺は知っている。

 何も起こらない。……そう信じていただけだ。
 何も起こらない。……起きてほしくないだけだ。

 認めよう。
 俺は、『むこう』に行くのが怖い。

 けれど、

 知らねえよ、と思った。

 手のひらを押し付けるように、深く絵に突き出す。

 身体が、どろどろとした液体のなかに入り込むような感触がある。

 俺の腕は肘まで飲み込まれた。
 途端、背筋に鳥肌が立つ。

 でも、関係ない。

 不意に、何者かに腕を引かれるように、身体が吸い寄せられる。

 俺は思わず目を瞑り、
 身体がなにかに飲み込まれた。

つづく


 目をもう一度開いたとき、俺は森の中にいた。

 空には太陽がある。立っていたのは木立の間の小径だ。
 板切れが並び、道のようになっている。その道のまんなかに、俺は立っている。

 全身を悪寒が走るが、すぐにそれが収まる。
 いまのはたぶん、単に、気持ちの問題だろう。

 本当に来てしまった。……夢ではなかった。

 そう考えながら、あたりを見回す。

 景色はどこまでも森だ。が、葉擦れの森の景色ではない。

 深い鮮やかな緑に彩られた、真昼の森。

 鳥の声すら聞こえないし、風も穏やかだ。

 ……大丈夫、と俺は自分に言い聞かせる。
 ここはあの森とは違う。まだ、恐れる必要はない。


 俺はポケットから携帯を取り出した。
 不思議な話だ。電話は切れていない。

「ちせ」
 
「……隼、さん」

 声が聞こえる。さっきよりも、ノイズはない。

「いま、どこにいる?」

「……どこ、と言われても、目印がなにも」

 景色が同じようなものだということは、そう離れたところにはいないのか、それともこの森が広いのか。

「どのくらい歩いた?」

「そんなには……途中で、歩き回るほうが危ないと思ったので」

 厄介なことに、ここは道の真ん中だ。
 距離がそう離れていないにしても、どちらに向かったかがわからない。

 俺は空を見た。……太陽の位置が参考になるかと思ったが、方位がわからない。
 
「太陽は、どちら側にあった?」

「背に。太陽を背に、歩きました」

「……すぐに向かう」

「隼さん、こっちにいるんですか」

『こっち』か。さすがに経験すると早い。

 電話を耳に当てたまま、俺は歩いていく。



「隼さん、ごめんなさい」

「いや、俺が説明しなかったのが悪い」

「隼さんは、でも、説明するつもりだったんでしょう?」

「それでも、予想できたことだった」

 無性に胸が痛むのは、さっき真中に言われたことを気にしているだろうか。

 俺はどこかで間違ったのか?
 でも、どこで間違ったんだ?

 そんな場合じゃないとわかっているのに、考えるのをやめられない。

「ごめんなさい、勝手なこと……して」

「……ちせ?」

「……は、い」

「おまえ、どうした?」

「ん……いえ、な、にも……」

 さっきは、ノイズのせいで気にしていなかった。
 こっちに来て話し声が鮮明になってからも、状況のせいで気にかけていなかった。

 息遣いが、荒いように感じる。


「……体調、悪いのか?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

 そうは言っても、電話の向こうの声だけでも、呼吸が浅いのがわかる。

「少し急ぐ」

「あ……隼、さん。すみ、ませんけど、その……」

「ん」

「……できるだけ、ゆっくり、きていただけると……」

「……は?」

「あ、えっと、大丈夫、なので……」

「……」

「えと、一度……電話、切っても、だいじょうぶ、ですか?」

「……もう一度繋がるとは限らないんだぞ」

「そ、う、ですよね……」

 苦しげに何かをこらえるような声が聞こえる。
 
「……なにか起きてるわけじゃないんだな?」

「は、い」

「……とりあえず、一応歩いてみる。合流できるまで、電話は切らない」

「あ……は、はい」

 息遣いが、まだ続いている。



「いま、どうしてるんだ?」

「えっ……ど、どう、って」

「どこかで休んでたのか?」

「あ……はい、えっと、木に、もたれて。少し、つかれ……たので」

「道から、外れてはいないか?」

「道は……はずれて、ない、です」

「……わかった。『太陽を背に、道に沿って歩く』」

 その宣言に意味があるのかはわからない。
 でも、言葉にしておいたほうがいいように思えたのだ。

 景色は続いていく。高い木々は、その空間は、広がっている。
 ここには広がりがある。絵のなかの景色、とは、違う。

 瀬尾も……あの絵から入ったのだとしたら、彼女に会うことも、できるかもしれない。
 とはいえいまは、ちせを見つけて連れ戻ることのほうが先だ。


 とにかく、『ここ』に来られた。
 それは、結果的にひとつの収穫だ。

 あとは、失うものがなければいい。

 道を歩いていく途中に、花が咲いているのを見つける。
 薄桃色の花びらがバドミントンのシャトルみたいな形をしていた。

 平たく広がる尖った輪郭の葉が、木漏れ日をかすかに浴びて濡れたように艶めいていた。

 視界の先まで睨んでみても、ちせの姿は見えない。

「ちせ!」

 呼んでみても、返事は聞こえない。

まだ、距離があるのか。

 俺はもう一度電話に耳を当てる。
 荒い呼吸が聞こえるだけだ。

「隼、さ……」

 苦しげに、俺の名前を呼んでいた。

 歩きながら、なにかわかりやすい目印のようなものを探すけれど、見当たらない。
 さっきのを除いたら、花さえほとんど姿を見せなかった。



 林冠の隙間は徐々に狭まっていき、やがて日の光は遠く隠れていく。
 枝葉の合間に覗く空はたしかに真昼に近い色だが、風景は暗い緑に近付いていく。
 
 木漏れ日がまばゆいくらいに、歩く小径は暗くなっていた。

 まずいな、と俺は思う。
 頭がくらくらしてきた。

 覚悟は決めてきたつもりだったし、知っているぶん衝撃は少ないはずだった。

 それでも目眩のような感覚に襲われる。

 本当に、こんなところに来てしまった。
 わかっていたはずのことなのに、動悸がひどい。

 電話に、耳を当てる。

「ちせ」

「……は、い。……んう」

 んう。

「……ちせ、どうした?」

「ど、うもしてないです、ん……な、なんですか……?」

「そう、か……?」

「さっき、名前を呼んでみたんだけど、聞こえたか?」

「……いえ、きこえませ……っ、でした……」

「今、もう一度呼んでみる」

 と言って、電話を離し、もう一度呼んでみる。
 


 そしてもう一度電話に耳を当てる。

「……ました。きこえ、ました。隼さ、きこえ」

「近くまで来られたみたいだな」

 ようやく、ほんの少しだけほっとする。
 見当違いの場所に来ていたらどうしようかと思っていたが、助かる。
 怜の検証のとおり、「近くから入れば近くに出る」というのはたしかと考えていいかもしれない。

 俺は小走りしながらちせの名前を呼んだ。
 ときどき電話に耳を当てて、ちせの言葉をヒントに、距離を詰めていく。

 やがて、電話のむこうのちせから、声をかけられた。

「とまって、ください」

「……え?」

「少し、待って」

 そして静かに、電話が切れた。

 そうなってしまうと、俺は本当に待つしかない。

「ちせ」

 そう名前を呼んでみる。返事はない。
 
 酩酊したように足元が急にぐらついた。
 俺はいま、誰とも繋がっていない。



 
 急な不安……けれど慣れている。
 慣れている、はずだ。

 やがて、

「隼さん」

 と、声をかけられた。後ろから。

 振り返ると、そこにちせが立っていた。

「……ちせ」

 駆け寄って、彼女の表情をたしかめる。それがちゃんと、俺の知っているちせだとわかる。

「大丈夫か?」

 彼女は、言葉にはすぐに答えずに、ほんの少し後ずさった。

「あ、はい。大丈夫ですよ」

 彼女は困ったように笑っていた。さっきまでとは違って、もう呼吸は乱れていないようだった。

「体調、悪かったのか?」

「あ、ええと……そんなことは、なかったんですけど」

 彼女は、俺と目を合わせようとしなかった。
 なにか気がかりなことでもあるみたいに、一定の距離をとって、制服の裾を引っ張るみたいに握っている。



 不審には思ったけれど、怪我はないみたいだとほっとする。
 それから急に不安になる。

「……ちせだよな?」

「……」

 問いかけの意味がわからない、というように、彼女は首をかしげた。
 なにかをごまかすみたいな微笑をたたえたまま、もぞもぞとからだを揺らしている。

「ちせ、ですよ……?」

 その表情には、どうしてだろう、不安や戸惑いみたいなものは浮かんでいなかった。
 もっと気がかりで仕方のないことがあるみたいな、何かを隠したがっているみたいな。

 とはいえ、ここでうだうだと言っていたところで仕方ない。
 
「とにかく、見つけられてよかった」

 それまで夢でも見ているみたいに心もとない表情をしていたちせは、はっと思い出したみたいな顔になる。

「……はい。よかった、です。本当に、ほっとしました」
 
 それでようやく、彼女の意識が本当の意味で現状をとらえたような気がした。

「電話、きたとき、ほっとしました。携帯、もってたのに、忘れてて……。
 ひとりだし、なにがなんだかわからなくて、このまま帰れなかったらどうしようって」

「……」

「ごめんなさい、隼さん」

「俺が悪い」と俺は繰り返すほかない。



「詳しい説明はあとでする。……とりあえず、帰ろう」

「はい……」

 とりあえず、来た道を引き返すことにする。
 ちせは、はぐれないためにか、それともいまさら不安が蘇ったのか、俺の制服の裾を掴んでいた。

「隼さんは、知ってたんですね。この場所のこと」

「……おぼろげにはな」

「そう、ですか」

 声の調子が、やはり、いつもと違うような気がする。
 少し、熱っぽいような、鼻にかかったような、甘えた声。
 
 やはり怯えているのかもしれない。

「……この場所にきてから、わたし、なんだか、おかしくて」

「ちせがおかしいんじゃないよ」と俺は言った。

「この場所がおかしいんだ」

 けれどその言葉に、ちせは「ちがいます」と小さな声で言った。

「わたし、おかしいんです……」

 消え入りそうな声だった。



 少し、こわかったけれど、俺は振り返った。

 ちせは顔を隠すみたいにうつむいて、足元を見ていた。
 そういえば、顔が少し赤いような気がする。

 俺が立ち止まって振り返ったことに気付くと、ちらりとこちらに視線をよこして、からだをびくりと震わせる。
 ちせが、スカートから伸びる両足がきゅっと閉じたのが目に入った。

 なんでかそれが妙に目に毒で、俺は思わず視線を外し、前方を向き直した。

「……とにかく、戻ろう」

「……はい」

 恥じ入るみたいな声が、妙に耳に残る。
 
 気を取り直して、俺は帰り道を……。

 ──帰り道?

「……あ」

「……隼さん?」

 思わず声をあげてしまった。

 そういえば、こっちに来る方法はわかっていたけれど、
 ……帰りは、どうすればいいんだ?



つづく


 ひとまず道を引き返しはしたものの、帰る宛があるわけでもなかった。

「……隼、さん?」

 黙って歩き始めた俺に、ちせは不安そうな声をあげた。

「いや、大丈夫」

 と、返事をしてから、真中の声が耳に甦った。

 ──せんぱいは、自分が何をしようとしてるのかも、ちせに何があったのかも教えてくれない。

 真中の言うことは、たしかだ。
 
 今、俺はどんなふうな思考をたどって、ちせに本当のことを話さなかったんだろう。

 余計な心配をかけたくなかったから。不安がらせたくなかったから。
 それとも、パニックになられると面倒だから?
 話したところで、何が解決するというわけでもないだろうから?

 でも、そんなふうに考えた末の発言だっただろうか。

 そうではなくて、俺はもっと当然のことのように、他人に本当のことを話さない癖がついているんじゃないか。




 それは仕方ないこと、なんだろうか。

 真中や大野や市川に、ここのことを話さなかったのはどうしてか。
 ちどりのことを話さなかったのは、どうしてか。

 考えれば考えるほど、わからなくなるような気がする。

「隼さん、青葉さんは……この場所のどこかに、いるんですか」

「……わからない」

 さっそく、詳しい説明をせずに、断片的な言葉を返してしまった。
 それが悔しくて、俺は言葉を続ける。

「たぶん、いると思う。いろいろと考えてみたけど、そうとしか考えられない」

「ここって、なんなんですか?」

「……あとで、ちゃんと説明する。こうなった以上、他の奴らにも説明はしやすい。
 でも、本当のことを言うと」

 本当のことを言うと、そうなんだ。

「俺も、よく知らないんだ」

 俺は知らない。
 この場所のこと、さくらのこと、カレハのこと、葉擦れの森のこと。
 神隠し、神さまの庭。そんな名前をつけたところで、なんにもわからないままだ。

 何が起きているかはおぼろげにわかっても、理由も理屈もわからない。
 それって、なんにも知らないのと同じだ。

 ここのことを、真中たちに話しても、なんにも解決しない。
 瀬尾とちどりのことも、俺の感覚のことも、全部そうだ。

 でも、よく考えてみれば、違うんじゃないか。

 俺ひとりで考えていたところで、なんにも解決しないのはおんなじだったんじゃないのか。


 たとえば、今もそう。
 
 不安がらせないように、とちせには黙っている。
 ちせに言ったところで解決する問題じゃないから、黙っている。

 でも、黙っていたところで、俺だって漠然と歩く以外の方策を今は持っていない。
 黙っていても、話しても解決する問題じゃないのに、どうして俺は黙っているほうを選ぶんだろう。

「……ちせ、実はさ」

「はい」

「帰り方が、わからないのを忘れてた」

「……え?」

「来る方法は、たぶんというか、まあ、だいたいわかってたんだが、そういえば帰り方は……」

「え、っと。それは……困りましたね?」

「うん」

 そういえばそうだ。
 六年前の五月のときも、俺は、こちらからどうやって帰ったのかを覚えていない。



「……どうしましょう」

「帰る方法がないわけじゃない。ちゃんと帰る方法はある。それを見つければいいだけなんだけど」

「……方法、ですか」

「まあ、入り口と出口がおんなじものだと信じるなら、最初の地点に戻れればいいはずだけど……」

「でも、隼さん。わたしが来たところには、何もありませんでしたよ?」

「……まあ、だよな。俺もそうだったし」

「なにか、ヒントがあればいいんですけど」

「ヒント、ね……」

 やっぱり、こういう謎解きみたいなのは俺の領分じゃない。
 こういうのは俺じゃなくて……。

「……ちせ、こっちに来てから、携帯で誰かに電話をかけたりしたか?」

「え? ……いえ」

 だったら試す価値はあるか。
 携帯を取り出して、怜の番号を呼び出す。

 あいつはこっちに通っていたという。それなら、訊くのが一番早い。
 
 が、駄目だった。

「……つながらないな」

「……困りましたね」



 ふむ、とちせは一緒に考えてくれる。

「分け入っても分け入っても、森のなか、ですしね」

「道を辿って来たわけじゃないから、道を進んでも、行き着く先で戻れるともかぎらないか」

「……となると、やっぱり、一旦、見覚えのある地点まで引き返してみますか?」

「見覚えのある地点か」

 とはいえ、似たような景色が続いているのだから、確信が持てるものでもないだろう。
 不用意に歩いて回るのは危ない気もする。

 本当に、道標でもあればいいのだが。

 怜との会話に、なにかヒントはなかっただろうか。

「そういえば、こっちに来る方法はわかってたって言ってましたけど……」

「ああ」

「昼休みに、鏡や絵を探していた、ということは、それがこちらへの入り口なんですよね?」

「そうなるな。もっとも、俺も実際に来たのは久々だから、半信半疑だったんだが……」

「あの、隼さんがさっきおっしゃったように、入り口と出口が同じものだとしたら……」

「あ、そうか」

 思わず声をあげた。

「鏡や絵を見つければ……」

「はい。そこから帰れるかもしれません」

 俺たちは一瞬笑いあったが、すぐに肩を落とすハメになった。


「……一応聞くが、そういったものを見かけたか?」

「いえ……」

 振り出しだ。

 とはいえ、まあ、そういったものを探せば済むわけだ。

「森のなかで、絵といってもな」

「道の先にいくのが、正解なんでしょうか」

「……それは、できれば避けたいな」

 道を歩きながら、俺達はなるべく会話が途切れないようにしていた。
 黙り込むことで、打つ手がないという現状を認識しなおすのが嫌だったのかもしれない。

 いずれにせよ、道は一本だ。
 
 やがて、来たときとは反対に、小径は徐々に広がって、日の光が差し込むようになってきた。

 こんなに明るい場所から歩いてきたのだとは、ちょっと信じられないくらいに。

「ちょっと休むか」

 急がなくては、と思うのだけれど、実のところ、そこまで焦燥に駆られなくてはいけない理由もない。
 焦りはかえって危険かもしれない。それに、ちせはまだ疲れているように見えた。

 ぼんやりと空を見る。太陽の位置は、さっきと変わらないように思える。
 


 ただ歩いているだけなのに、道がそこまで整っていないせいか、足の裏が疲れているのを感じた。
 ……というか、俺もちせも上履きのままだ。

「帰ったら、靴の裏、綺麗にしないとな……」

 こんな状況でそんなことを言うのがおかしかったのか、ちせはくすくす笑った。

 そのままぼんやりと、足を軽く動かしたり、腰を回したりして身体をほぐす。
 近頃は運動不足みたいだ。余計なことばかり考えるのも、そのせいかもしれない。

 ふと、ちせの方を見る。
 
 電話中ずっと体調が悪いようだったし、会ってからも少し様子が変だった。

 目をむけると、彼女は道のそばの木に背中をあずけて、落ち着かなさそうに身じろぎしている。

 自分がおかしい、とちせは言っていたけど、話している分には、いつもどおりだ。
 人と会って、安心したのだろうか。

 自分の両手の指をからませたりほどいたりして、落ち着かなさそうにしているちせ。
 疲れたような溜め息を漏らしながら、膝と膝をこすり合わせるように、落ち着かなさそうに脚を何度も動かしている。
 というより、太腿をこすり合わせているようにも見える。

 ちせは、俺の視線に気付くと、はっとした表情で、一連の動作を強引に止めて、そそくさと視線を外し、前髪を指先でいじりはじめた。

 そういえば、ちせは昼休みからここにいるのだ。心当たりは浮かぶものの、とりあえず口には出さない。



「……えっと、そろそろ行くか」

「は、はい……」

 どことなく気まずそうな声のせいで、なんだかよくないものを見てしまったような気分になる。

 そうして歩き出したものの、やはり、目につくものはない。

 都合よく鏡のかけらでも落ちていないものかと思ったが、そうもいかないらしい。

 さっき見かけた花を見て、まだ最初の地点までは戻っていないのだと知る。

「……ほんとうに似たような景色だな」

「花なんて、さっきは気付かなかったです」

 視線をむけると、ちせは慌てたみたいにそっぽを向いた。
 
「……何の花だろうな」

 気まずさを打ち払うみたいに、俺は世間話のつもりでそう声をかけた。

「えっと……たぶん、ですけど、イワカガミですね」

「イワカガミ?」

「はい。花びらが筒状で、葉が厚くて、キョシがあって……」

「キョシ?」

「葉っぱの端のぎざぎざです。のこぎりの歯って書いて……」

「ああ、鋸歯か」

 なるほど、言われてみれば、深い緑色の艶めく葉は丸い形の端々が尖っている。
 房状のピンク色の花は頭を垂れるようにしながらいくつも連なって、束ねられた鈴のようだった。
 見た目はほんとうにささやかな、小さな花だ。




 ──待て。

「……えっと、ちせ? さっき、なんて?」

「……のこぎりの歯ですか?」

「ちがう。この花の名前」

「えっと、たぶん、イワカガミです。花言葉は忠実……」

「いや、花言葉はべつにいい」

 野花の知識が堪能だとは知らなかったが、ちせは未だピンと来ていないらしい。

「イワカガミっていうのは、漢字だとどう書くんだ」

「たしか……岩の鏡、だったと」

 あ、とちせはぽかんと口を開けた。

「で、でも……これは鏡じゃなくて花ですよ」

「考えてみれば、この道を歩いていて特徴的だったものなんてこの花だけなんだ。
 何が起きても不思議はない以上、藁にでもすがる価値はあるだろう」

 ましてやそれが、イワカガミだと言うならなおさらだ。



「……と、言っても、どうするんですか?」

「……どうするんだろうな?」

「隼さんって……いろいろ考えてるようで、けっこう考えなしなんですね」

「……」

 なんだか呆れられてしまったようだった。

「とりあえず」

「とりあえず?」

「触ってみるか……」

 ちせはくすくす笑って、俺が花びらに触れるのを見ていた。

「どうですか?」

「柔らかいな」

「それから?」

「植物に触れている感触がする」

「まあ、植物ですからね」

「……」

「……」

 何も起きない。



 ちせがまた笑った。今度は楽しそうに、声を上げて。

「……なんだよ、もう」

「いえ、ごめんなさい。なんだかおかしくって」

 まあ、状況が状況だ。悲壮感にかられているよりは、笑ってもらえたほうが気分はマシだ。

 そしてちせは、言葉を付け加えた。

「イワカガミの名前の由来は、葉にあるそうですよ」

「というと」

「表面がなめらかで、光沢がある様子が、鏡に喩えられたそうです」

「表面がなめらかで光沢のある葉を持つ植物なんて他にもさんざんありそうなものだが」

「無粋ですよ、隼さん」

 大人っぽく笑って、ちせは花のそばに屈み込んだ。

「花言葉の忠実というのも、おもしろいですね。頭を垂れた花の様子からという話ですけど、
 名前が鏡と言われると、それだけではないような気もします」

「というと」

「というと」

「……なんだ、急に」

「隼さん、二回目なので、真似してみました」

 ……こんなキャラだったか、こいつは。



「鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。鏡は見るものの姿を忠実に映し出すものですよ」

 そう言って彼女は、イワカガミの小さな葉を覗き込んだ。

「とはいえ、こんな小さい花ですけどね」

 そう言って、彼女は俺の方を振り返った。
 愛らしい笑顔の向こう側で、小さな光が見える。

「……ちせ」

「へ?」

 まばゆい光が、目を潰すように、視界を覆う。

 次の瞬間には、ちせの姿は消えていた。

 ひとり取り残されて、「おいおい、マジか」と思わず呟いてみた。
 アタリか、これ。こんなんでいいのか?

 なんだか急に、自分がものすごく無駄な恐怖を抱いていたような気分になってきた。

 それともまさか、別の場所に送られたとか……。そっちの可能性も、考慮するべきだっただろうか。
 


 
 などと、ここで唸っていても仕方ない。

 俺はちせを真似て、イワカガミの葉を覗き込む。

 艶めいた葉に……何かが映り込んだ。

 思わず俺は、背をのけぞらせた。

 そこに映っていたのは俺の顔ではない。
 たしかに、誰か別の人間の顔が映っていた。
 
 ……いや、そうなのか?

 ──鏡を見るものは、まず自分自身と出会う。

 ふと、足音が聞こえて、考えるより先に振り返っていた。

 驚きながらも、俺はどこかで予感していたのかもしれない。

「や。ひさびさ」

 瀬尾青葉が、そこに立っていた。


つづく

848-16 「そう、か……?」 は消し忘れです
ごめんなさい


 パイプ椅子に腰掛けて、四人は俺の方を見ている。

 俺はホワイトボードの前に立っている。
 こんな景色を、俺は見たことがある。

 いや、見たことがあるわけではない。知っているだけだ。

『薄明』を出そうというときに、こんなふうに並んで座ったのだ。
 そのとき瀬尾が立っていた場所に、いま俺は立っている。
 
 そして、俺の代わりに、ちせが座っているのだ。

 不意に雷鳴が聞こえた。音につられて窓の外を見る。
 雨が降っている。雲は厚く、景色は暗い。

「雷だな」と大野が言う。

 俺は黙って頷いて、どこから話したものだろうな、と考えた。




 まずは、そう、起きたことから。

「大野と市川は、俺が戻ってくるところを見たな」

 ふたりは、それぞれに頷いた。

「それに、お前以外いないはずの部室に……えっと、名前、ちせさん、だったか」

「ちせ、でかまいません」と、ちせはいつか俺に言ったのと同じようなことを言う。

「ちせがいた。そして、物音に気付いて戻ってきたとき、おまえがいなかった」

 俺は頷いた。それが、大野たちが見た景色だ。
 真中は直接見てはいないが、おそらく彼女は、俺を疑いはしないだろう。

「見間違いじゃなければ、おまえは……絵の中から出てきた、ように見えた」

 大野の言葉が沈黙にまとわりつくように響いた。
 皆の視線が一枚の絵に集まる。水平線。海と空とグランドピアノ。

「説明は聞きたい、が……単純に納得できそうにはないな」

 真中と市川は、黙り込んでいる。
 雨の音が部室の中に響いていた。


「簡単には納得できない話だと思う。だからこそ、というのは言い訳だが、だからこそ、話しにくかった」

「はい」とちせが手をあげた。

 さっきまでの落ち着かない様子はなりをひそめて、もういつものように自然な振る舞いに戻っている。 
 彼女がどうして電話口であんなふうになっていたのか、と、どうして会ったときは普通に戻っていたのか、は、考えないことにする。
 
 彼女は「道を離れていない」と言ったのに、俺の背後からあらわれた。彼女はそのとき、一度道の外にいたのだ。
 くわえて、電話を切ろうとしたし、実際、切った。何かを俺に隠そうとしたのだ。である以上、それを暴き立てることもない。

 気になるのは、「わたし、おかしいんです」という言葉だ。
 
 それでも、やはり、俺は彼女に何も聞かないことにする。
 ……あれこれ想像するのもよくない。考えるのも避けるのがいいだろう。
 必要があることならば、ちせは話す。そうしない以上、それは知られたくないことなのだ。

「なんだろう、ちせ」

「隼さんは、あの場所のことを最初から知っていたんですか?」

「知っていた」
 
 どうしようかな、と俺は思う。どこから話せばいいのだろう。
 ちせと俺がどこにいたのか、そこからだろうか。

 それとも……。

「あの場所って?」

 大野が口を挟んだ。

 そうだな、と俺は頷いた。そこから話すのがいいだろう。




「順を追って説明する。混乱するのはよくないから、俺の解釈みたいなものも付け加えない。
 知っていること、起きたことだけを、話す」

 信じてもらえるかどうかは、もう関係ない。実際に起きたことの説明を、彼らは求めているんだから。

「ちせは、実際にむこうにいったから、現象としては目の当たりにしていることになる」

「『むこう』。『あの場所』」

「……」

 不意に、市川が、その名の通りの鈴を転がすような声音で、呟いた。

「隼くんは絵の中から出てきた。状況から考えると、ちせちゃんもそう。ということは」

 混乱したりは、しないんだろうか。市川は落ち着いた様子だった。

「『空間』があるんだね。あの絵の中に」

「そういうことになる」

 俺が頷いた瞬間、大野が額を抑えるのが見えた。常識人の大野としては、さすがに頭が痛いところだろう。

「ゲームかなにかか、ここは……」

「理屈はわからない。でも、とにかく、ある」

 



「本当です」とちせが言う。

「わたしは、昼休みに、隼さんがこの絵を調べるのを見てたんです。
 それで、ひとりになったときに、ここに来て絵に触れてみた。そうしたら、気付いたら、まったく別の空間にいました。
 どこか……山深くの、森みたいな場所です」

「……幻覚、とは、ならないよな」

「大野たちは、物音がするまで部室の外の廊下にいたんだろう?」

「……そうだな」と、大野が頷く。

「トリックでも疑いたいところだが……そんなことをする意味もないか」

 彼は静かに言葉を続けた。

「部室唯一の出入り口は俺たちが見張ってた。今日は雨で窓は閉めっぱなしだし、仮に開いていたって、どうがんばっても窓からは入れない。 
 というか、そんなことをしてまで俺たちを驚かすことに何のメリットもない。
 そこにちせが現れて、おまえがいなくなって、それからおまえが絵の中から現れた。見たものは信じるしかない」 

 幻覚という説明はありえない。ちせは実際、いなかったはずなのにいたし、いたはずの俺もいなくなっていた。
 そして、何より、俺は絵の中からあらわれた。

「わかった。認める。とにかくそういう空間が、『在る』。……瀬尾の手紙のこともあるしな」

 とりあえずの納得を得て、俺は話を続ける。



「今日、俺はここにいる人間に、『むこう』について話そうと思っていた。
 昼休みにちせと会ったときに、ちせにも話すことにした。そのとき、俺が絵に触れたときは何も起きなかった。
 でも、ちせがそのあとにひとりで触れたとき、おそらく、反応したんだろう」

「はい」とちせが頷いた。

「……六年前、俺はその空間に迷い込んだことがある」

 詳しい説明は避ける。ちどりのことや、怜のことは、今は直接関係がない。

「……待て。それは六年前に、ここに来て、この絵に触れたってことか?」

「違う。この絵以外にも、入り口がある」

「入り口」

「そう。あちこちに、『入り口』がある。そのことを知っていたから、俺は瀬尾がひょっとしたら、『むこう』に迷い込んだんじゃないかって思ってたんだ」

「……むこう」

「静かな湖畔で暮らしている、と瀬尾が言ったとき、そういう景色は『むこう』にならありえると思った。
 瀬尾がいなくなったとき、あいつの靴は下駄箱に残ったままだったし、荷物だってあった。どこかに行ったというよりは、校内で忽然と姿を消したみたいだ」

「……まあ、それは不思議だったが」

「くわえて、瀬尾からは手紙が来た。もし瀬尾が校内に隠れて、『伝奇集』にこっそりメモを挟んでいるのでないのなら……。
 そこにはなにか、理外の力が働いていたはずなんだ」

 異論はないのだろう。みんな押し黙った。
 手紙について、現実的に説明するのは難しい。それを奇妙に思っていたのは、全員が同じなのだ。

「瀬尾の手紙が理外の力によって届けられているなら、そして瀬尾の手紙に嘘がなく、彼女が本当に湖畔で暮らしているなら、
 それが『理外の空間』から届けられていると連想するのは難しくなかった。少なくとも俺は、そこにいったことがあるから」
 
 これは、カレハと話し合った夜に話したことの反復にすぎない。
 あのとき整理できたおかげで、俺は筋道立てて説明することができる。

 とはいえそれを信じてもらえるかというと、少し怪しいところかもしれないが。




「じゃあ、瀬尾は、その絵の中にいるってことか?」

「と、俺は考えて、今日その話をするつもりだった」

「……なんとも荒唐無稽だな」

 半信半疑、といったところだろう。
 認めるには証拠がないが、状況を見ると俺の説明に難はない。
 なにせ、俺とちせは知っている。それは実際に起きたことなのだ。

 さて、ここからの言葉を、信じてもらえるかどうか。

「さっき、実は、ちせが帰ったあと、俺は瀬尾に会った」

 これには、四人とも驚いた。

「あいつはまだ帰らないと言っていた。何かやることがあるから、と」

「……なるほどな」

「ねえ」と口を開いたのは、また市川だった。

「もう、説明を聞くより、会いにいったほうが早いんじゃないかな」

「ていうと」

「その、『むこう』に。わたしや大野くんや柚子ちゃんも。
 それなら、信じるも信じないもないでしょう?」


「……まあ、手っ取り早くはあるんだろうが」

「なにか、渋る理由があるの?」

「正直、俺とちせがこうして帰ってこられたのだってたまたまだったんだ。
 実際、ちせは帰り方がわからなくて、俺が迎えにいかなきゃいけなかった」

「そのうえ、隼さんは帰り方がわかりませんでしたしね」

「実を言うと、あまり行きたくはない」

「どうしてだ?」

 どう説明するのが最善なのか、わからない。
 頭が拒否する。からだが嫌がる。

 あの場所には行きたくない。

「何が起きるか、わからない」

「でも、それならなおさら、引っ張ってでも瀬尾さんを連れ帰るべきなんじゃない?」

 市川のその言葉は、もっともだ。

「……うん。そうなのかもしれない」


 ただ、それでも付け加えなければならないだろう。

「六年前、むこうに迷い込んだとき、俺は帰り方が分からなくなって、暗い森に二週間取り残された。
 迷い込んだのは俺ひとりじゃない。四人、むこうに行った。
 そのうちのひとりは、そのときの記憶をなくしていた。繰り返すが、何が起きるかわからない」

「……」

「だから、正直、話したくなかった」

 真中が、俺の顔をじっと見ていることに気付いた。
 何かを言いたげに、けれどこらえているみたいに、じっと、こちらを見ている。

 俺が聞いている葉擦れの音、二重の風景のことは言わない。
 信じてもらえるかわからないし、俺自身、話したくはなかった。

「にわかには信じがたい話だが……」

 大野は、俺ではなく、市川の方を見た。
 これまでの流れからして、意見を求めるなら市川だと思ったのだろう。

「……でも、とりあえず、瀬尾さんはむこうにいる。自分の意思で。そういうことだよね?」

「ああ。そう言っていた」

「……隼くんの言うことを信じるなら、か」

 もちろん、そういう話になるだろうことはわかっていた。

「でも、市川も見ただろ。こいつは絵の中から出てきた」


「うん、でも、そこが何が起きるかわからない場所だとしたら、
『隼くんが瀬尾さんの幻を見た』って可能性だってあるわけでしょう」

「それを言われると、参る。俺には証明する手立てがない」

「だから」と市川は続ける。

「だからわたしは言う。『むこう』にいって、瀬尾さんの姿を自分の目で見るまで、信じきれない」

 たしかに、そういう話になる。

 だが、彼女は気付いているだろうか?

 俺が見た瀬尾が幻だという可能性を理由に、むこうで瀬尾を見るまで信じられないというならば、
 市川がむこうにいったとき、見つけた瀬尾の姿だって、幻じゃないとはかぎらないのだ。

 見たものを信じられなくなったとき、人は未分化の混沌に踏み入ることになる。

 そこにはもはや足場すらない。

 ……この二重の風景が、俺にとっての現実を歪めてしまっているのと同じように。


つづく


「はい」とちせがまた手を挙げた。

「だったら、みんなで行くといいと思います」

「……ちせ」

「隼さんが心配するのはわかりますが、そこに青葉さんが取り残されているのは事実です。
 それに、ここまで聞いてしまった以上、隼さんがいくら止めても、『むこう』へ行きたい人が出るのは当たり前です。
 だとしたら、それぞれが勝手な行動を取るよりも、みんなで力を合わせてむこうを調べたほうがいいと思う。どうでしょう?」

 さすがに答えに窮する。

「幸い、隼さんとわたしで、帰り道になりそうな法則みたいなものは見つけられました。
 もちろん、それが通用するとはかぎりませんけど、わたしが見たかぎり、あの空間にそこまで変なところはありませんでした」

 ちせはわかっていない。
 あの森に立ち入っていないから、わかっていない。

 けれど、それを説明する術はないし、したところでわかってもらえるわけもない。

 実際、ちせの言うとおりかもしれない。

 怜は、『むこう』に何度も向かい、そして帰ってきている。
 だとすると、用心さえすれば、帰ってこれなくなることは、ないのかもしれない。

 かもしれない、かもしれない。……人を巻き込むには、仮定が多すぎる。

「……どう? 隼くん」

 市川にそう訊ねられ、俺は頷くほかなかった。

「ちょっと、時間をくれ。いろいろと考えてみる」

 納得したかはわからないが、俺がそれ以上話をする気がないとわかったのだろう。大野も市川も頷いてくれる。

 無事に、確実に帰ってくる方法さえあれば、たしかに『むこう』に行ったほうが話は早い。

 俺ひとりでは無理でも、瀬尾の説得もできるかもしれない。
 怜に、詳しい話を改めて聞いてみるべきだろう。




「ぼくに何の相談もなかったっていうのは、どういう了見だろうね」

 その日の夜、夕食に純佳が作ってくれたオムライスを食べてから、部屋に戻って怜に電話をかけた。

「事後報告になるのは謝るが、状況が状況だったのはわかってくれるだろ」

「それで、瀬尾青葉さんは見つけられたわけだ」

「ああ」

「万事解決だね」

「……ま、そうだな。あいつが帰ってきさえすれば」

「そこが不思議だな」と怜は考え込むように呟いた。

「瀬尾さんは帰り方がわからなかったわけではない。のに、帰らないんだろ?」

「何かを探してる風だった」

「……学生証かな?」

「だったら話は簡単なんだけどな」と俺は笑った。

「観念的な空間だからね」と怜は言う。

「観念的なさがしものなんだろう」

「観念的、というと」

「さあ? 記憶かな」

 記憶。そうかもしれない、と俺は思う。


「ちょっと困ったことにはなってるんだ」

「うん。そうだろうね」

「どう思う?」

「仕方ないだろうね。見られたんだから」

「……まあ、そうだな」

 迂闊なところがあったのは事実だが、そもそも、「ちせ」があんなふうに簡単にむこうに行ったこと自体が驚きだ。
 今日のように誰もが簡単にむこうにいけるなら、あっちに行ったことのある人間は、もっと多くてもいいはずだ。

 だからこそ条件があると思っていたのだが、どういうことだろう。

「それで、他の部員もあちらに行ってみたいと言ってるんだ」

「それも仕方ない」

「そう、仕方ないことなのかもしれない」

「まあ、たぶん……問題ないと思う」

 怜の反応は、思った以上にシンプルだった。




「根拠は?」

「ないといえばない。でも、『むこう』にいっても、基本的に害はないと思うんだ」

「長年の研究の結果か」

「そういう言い方もできるけど。少なくとも、あの森に入り込まないかぎりは、危険はないと思う」

 ここに俺と怜の認識の違いがあるのかもしれない。
 怜は、あの場所に踏み入るリスクを、俺よりも軽く見積もっているように思う。

「……まあ、そこに関しては仕方ないか」

 今日は実際、帰ってくることができた。
 瀬尾が帰ってこない以上、あちらに行く意味はないが、大野たちが瀬尾の無事を確認したいという気持ちも理解できる。
 それに、未知の現象をどうにか自分の感覚に落とし込んで納得したいという気持ちも、わからないではない。

「でも、隼、気をつけたほうがいいね」

「ん」

「瀬尾青葉さんの学生証のことを考えれば、彼女が必ずしも安心できる状態ではないということは、たしかだと思うから」

「……」

 考えてみれば不思議な話だ。
 怜は瀬尾青葉の『顔』を知らない。

 とはいえ、そこに関しては、今はわからないことだ。口に出す意味もない。
 


「それで、怜、聞きたかったのはべつのことなんだ。帰り方のことなんだけど」

「帰り方?」

「むこうに行ったとき、おまえはどうやって帰ってきてるんだ? 通ってる以上、帰り方は知ってるわけだろ」

「うん。まあね。……そっか。その話をしてなかった」

「おかげで帰ってこられなくなるところだった」

「べつにぼくのせいじゃないと思うけどね」

「誰のせいでもないってことだろうな」

 うん、と怜は頷いた。

「帰り方はシンプルだよ。鏡や絵を探せばいい」

「鏡、絵、か」

「隼は、どうやって帰ってきたんだ?」

「花だよ」

「花?」

「イワカガミだ」

「なるほどね」と怜はくすくす笑った。



「カガミとついてればなんでもいいってことか?」

「いや、違う。言っただろ。あそこは観念的な場所なんだ」

「観念的な場所。というと」

「物理的に鏡であっても駄目なんだ。観念的に鏡でなければいけない」

「……イワカガミの葉は、観念的に鏡だってことか?」

「そういうことになるね」

「だとすると……『窓』では駄目か」

「駄目だ。たとえ鏡としての機能を果たしたとしても、それは鏡ではない。
 そうわかっていれば、出口探しはそんなに難しくないよ」

 難しくない? ……怜はあちこちからむこうに行ったという。
 そのどこにでも、鏡があったとは……。

 いや、違う。

「入り口の近くに、出口はかならずある。簡単には見つけられないだけだ」

「そうは言っても、イワカガミみたいなものばかりだったら、途方に暮れるしかないが」

「いや。それはたぶん、むしろ珍しいくらいの出入り口だよ。普通はもっとシンプルだ」

「結論から言ってくれ」

「水だ」

「……水鏡か」

「それが一番多い。人工物のようなものが多い場所だと、絵のほうが多いな。ただの鏡って場合もあるけど」

「……とにかく、迷ったら、絵か、水か、鏡を探せ、ということか」


「隼ひとりで行かなくてよかったね」と怜は言った。

「ひとりで言っていたら、イワカガミなんて気づきもしなかっただろう」

「まあ、そうだな」

 そう考えると、結果的にはよかったかもしれない。

「瀬尾さんが見つかったというなら、ぼくが無理になにかアクションを起こす理由はない。
 ただ、むこうに行くときは、念のためにぼくにあらかじめ連絡してくれ」

「……そうするよ」

「それから、隼」

「ん」

「さいきん、ちどりになにかあった?」

「……なにかって?」

「昨日連絡したんだけど、ちょっと様子がおかしかったような気がして。
 ……考えすぎかもしれないけど、気になってね」

「……心当たりはないが、一応気にかけておく」

 嘘だ。ないわけではない。
 
「隼は嘘つきだからな」と怜は言った。そのとおりだと俺は思う。





 怜との電話を切り、あれこれと考えを巡らせる。
 
 瀬尾は見つけた。彼女は帰ろうとしないだけだ。
 それを無理に連れ帰ることは、できない。

 その上で改めて考えてしまう。

 とりあえずのところ。
 むこうの法則のようなものを見つけ、ある意味で対策は打てる立場になった。
 瀬尾を探していたメンバーにも、一応の説明は行えた。

 けれど、何も解決なんてしていない。

 俺はこれまで、何を優先しても瀬尾の行方を特定するのが最初だと思っていた。
 でも、それは正しかったのだろうか。

 瀬尾の居場所がわかったところで、なにも事態は変わっていない。

 俺は相変わらず葉擦れの音を聞いている。景色が二重に見えている。

 瀬尾を連れ帰ったらさくらを手伝うと約束はした。

 けれど……瀬尾が帰ってきたとき、俺はどうなっているんだろう。



「隼ちゃん」と、瀬尾は最後に、俺のことをそう呼んだ。
 俺をそう呼ぶのは、鴻ノ巣ちどりだけだ。

 瀬尾はちどりに会ったことがない。

 今、考えても結論は出せない。
 
 いずれにしても、瀬尾が探しているものは、俺もまた見つけなければいけないものなのかもしれない。
 
 そうしなければ、このわけのわからない状態に決着をつけることはできないだろう。

 でも、本当のところ、俺はどうしたいんだろう。

 瀬尾を連れ戻して、それで?

 それでいったい、どうなるっていうんだろう。

 俺は、自分が何を求めているのか、わからない。

 ……いいかげん、逃げ回っているわけにも、いかないのだろうか。
 
 瀬尾があの場所で何かをさがすというなら、俺もまた、彼女のように何かを見つけなければならないだろう。

 そうしなければ、俺は永遠にこのままなのかもしれない。





 翌日、瀬尾からの手紙が『伝奇集』に届いていた。

「昨日はありがとうございました。次来る時は牛乳プリンを忘れずに」

 そう書かれていたが、その日、俺たちは『むこう』に行くことができなかった。

 やはり何か条件があるのだろうか、大野や市川だけではなく、ちせや俺までも、絵の中に入ることはできない。

 誰も不平は言わなかったが、拍子抜けした感は否めなかった。

 真中は部室にいるとき、なにかいいあぐねているみたいに俺に声をかけずにいた。

 その日の夕方はバイトがあって、結局何もできないまま終わった。

 バイトに入る前に、俺はある人に連絡を入れた。




 県道沿いに立つファミレスのテーブル席に座って、彼女は俺を待っていた。
 時刻は夜の九時半を過ぎた頃。バイトを終えてすぐに来たが、いくらか待たせる格好になった。

 黒く長い髪の毛先を巻いて横に結び、首にかかるように流している、そんな髪型が大人っぽくて新鮮だった。
 俺と毎日のように会っていたとき、彼女が髪を結んでいた記憶はない。

 袖の短いカットソーから伸びる腕は、相変わらず白く、細かった。

 彼女は俺を見つけてふわりと笑う。その所作は、不思議と懐かしかった。

 俺は彼女の真向かいに腰をおろし、その様子を改めて眺めてみる。

 そんなに長い時間が経ったというわけでもないのに、別人のようにすら思える。
 が、いや、やはり、この人は変わっていないのだと気付く。

 単に、私服姿が珍しいというだけのことなのかもしれない。

「お久しぶりです」と声をかけると、彼女は子供みたいににかっと笑った。

「ん。ひさしぶりだね、後輩くん」

 人形のような綺麗な顔つきと、取り繕わない自然な表情の動き。
 微細に計算されているような、それでいて自然にこぼれだしたような変化。

 ましろ先輩は、口元に笑みを浮かべたまま、メロンソーダの入ったカップのストローに口をつけて俺を見ていた。

つづく




「どう、部活」

 何の説明もしていないから、ましろ先輩はそんな世間話を最初に口に出した。
 
 少し会えませんか、と連絡して、いいよ、と返信が来たのだ。ありがたいことだ。

「順調とは言い難いですね」

「んん。そうなの?」

「ちせから、聞いてないんですか?」

「何を?」

「瀬尾がいなくなったこと」

「……」

 きょとんとした顔で、彼女は俺を見る。

「いなくなった? 青葉ちゃんが?」

 てっきりちせは、そのことをとっくにましろ先輩に話しているものだと思っていた。
 だから今日の用件だって、何も言われなくてもそうわかったはずだと思ったのだけれど。





「……聞いてないんですね」

「ん。あとでお仕置きだね」

「あんまりいじめないであげてください」

「ええ? いっつもわたしがいじめられてるほうなのにな」

「そうなんですか?」

「ん。ちせは、わたしにはお説教ばっかりだからね」

 思い出し笑いみたいに、彼女は頬を緩めた。
 意外といえばそうだという気もしたが、似合うといえば似合う話かもしれない。

「岐阜城はどうしました?」

「岐阜城?」

「最近日本の城のプラモデルに凝ってるって聞きましたけど」

「あ、うん。……いや、そんな話はいいんだよ。青葉ちゃんのこと」



「ええと、いや、とりあえず見つかったんで、大丈夫です」

「見つかった? ……なんか、全部事後報告だなあ」

「知ってると思ってましたから」

「今日わたしを呼んだのは、そのこと?」

「そのことも、です」

「ん。聞こうか」

 ましろ先輩は、背筋をピンと正して、いつもみたいに(……いつも?)、笑う。

「ひさびさに、相談室を開いてあげましょう」

 頷いて、俺は話の出だしを考える。。
 会うのは久しぶりなのに、ましろ先輩にいろいろなことを話すのには、抵抗がない。
 
 聞きたいことも、言いたいことも、たくさんある。
 けれど最初に、いちばん気になっていたことを、聞いてしまおう。

「ましろ先輩。……先輩は、『むこう』に行ったことがありますね?」

 彼女は視線をそらしながら、ことん、と力を抜くみたいに、首をかしげて笑った。





「『むこう』って、何の話?」

「……先輩は俺に、桜の木の下は、『異境の入り口』だって言いましたよね」

 その言葉が意味のあるものとして頭に蘇ったのは、つい最近のことだ。

 先輩は言っていた。瀬尾には、『守り神』と、俺には、『異境の入り口』だと。

 そのときは深く考えていなかった。
 当時はあの場所のことをまともに考えてはいなかったし、ましろ先輩が『むこう』を知っている可能性だって考えていなかった。
 
 だから気付かなかった。

「そんな話もしたかな」と、ましろ先輩はまた首をかしげる。

「瀬尾には、守り神と言っていましたね」

「ん。その話はしたかもね」

「先輩は、何を知ってたんですか」

「ちょっとまってよ」と慌てたみたいに彼女は手をぱたぱたさせた。

「何の話か、ぜんぜんわかんないよ」

「……」

 思えば、ましろ先輩が、俺と瀬尾に別々の情報を与えたことは、それが初めてではない。

 部員数が足りなかったときもそうだ。
 ましろ先輩は、部の維持条件について、俺と瀬尾に別々のことを言った。

 瀬尾には廃部になると言い、俺には廃部にはならないと言った。

 そうすることで、彼女は俺と瀬尾を、それぞれに都合よく動かした。

 そこまで気付いてしまえば、嫌でも想像してしまう。
 先輩は、そのときもまた、俺と瀬尾に別々の情報を与えることで、何かをさせようとしていたんじゃないのか。



「まったく。後輩くんは、わたしのことを全知全能だとでも思ってるんでしょ。
 じっさいわたしは、青葉ちゃんのことだって、今日初めて聞いたんだよ?」

「それに関しては、本当に驚きです」

「それなのに、人がいつも何かを企んでるみたいに言って。ちょっとひどいよ」

「……でも、『むこう』のことは知ってるでしょ」

「ん。まあね」

 これだ。がっくり肩が落ちるのが分かる。

「知ってるんじゃないですか」

「そりゃあ、まあね。だから教えたでしょ。桜の木の下は、あそこは異境の入り口だって」

 異境の入り口。たしかに怜も言っていた。鏡、絵、それから、『人目につかない自然の中』。
 もちろんあそこは人目につかないとは言い難い場所だが、あの朝、たしかに周囲に人はいなかった。

「何者なんですか、先輩は。さくらのことも、異境のことも、全部知ってたんですね」

「……だからさ、わたしはべつに、全知全能でもなんでもないんだって。
 知ってることなんて、本当にわずかだし、実のところ、なんにもわかってないんだよ」


「じゃあ、知ってることだけでも教えてください」

「甘えてるねえ、後輩くん」

「いけませんか」

「……そこで開き直られると、弱いなあ」

 そう言ってましろ先輩は、自分の毛束の先を指先でつまむみたいに撫でて苦笑する。

「ね、後輩くん。さくらは元気?」

「……どう、ですかね。俺にはわからないけど」

 あんまり、元気ではないような気がする。

「鍵の代金、ちゃんと払ってもらわないとね」

「忘れてるわけじゃ、ないですよ」

「ん。よろしい。ね、わたしの方からも、いくつか質問するね」

「はい」

「まず、話の流れからして、青葉ちゃんは『異境』にいたんだね?」

「……はい」



「そっか。ところで、後輩くんはやっぱり『異境』を知ってたんだね」

「ええ、まあ……」

 ……やっぱり?

「やっぱりってなんですか」

「きみの小説。あんなの、分かる人には何のことだか分かっちゃうよ」

 そうか。
 俺が部誌に寄せた小説は、『むこう』をモデルにした話だった。
 知っている人には、それと分かってしまう。

「……先輩は、いつむこうに行ったんですか」

「それは答えになっちゃうなあ」

「何の、ですか」

 なぞなぞがしたいわけじゃない。
 
「ん。そんな怖い顔しないでよ。べつにはぐらかしてるわけじゃなくて……。
 ううん、はぐらかしてるんだけど、そうだね、わたしもちょっと期待しすぎたのかも」

「期待?」

「そうだね、ここらで、話してもいいかな」

 そう言って、ましろ先輩は俺を見て笑った。



「本当は、自分で気付いてほしかったんだけどね」

「なにを、ですか?」

「わたしときみが、会ったことがあるってこと」

「……」

「きみは、わたしと会ったことがあるんだよ。気付いても、ぜんぜん不思議じゃないのに、きみはぜんぜん気が付かなかった」

「それって、学校で会うより前に、ってことですか」

「ん。そのとおり」

 それは、思い出したというより、たくさんの手がかりから結びついた結論だった。
 そんなひとつの思いつきが、俺のことを一瞬で支配した。

 そうだ。

『むこう』に行ったことがあったからって、俺の小説を読んで、それが『むこう』の景色だと特定できるわけがない。
 怜は言っていた。「どこから入るかによって、景色はまるで違う」。

 だとしたら先輩は、『俺が見たのと同じ場所』にいたのだ。

 ──きみ、この先に行くつもりなの?

 よぎる記憶は、やっぱり、夢のようだった。

 ──ここから先はきっと、わたしたちが行くべき場所じゃないよ。



 ましろ先輩の表情を、見る。
 端正な顔立ち。やさしげな目元、親しげな微笑。

「やーっと、気付いてくれた?」

「先輩は……」

「わたしは、きみが気付いてくれるかもって、ずっと待ってたんだぜ?」

 茶化すみたいに、彼女はテーブルの上に両腕を組み、顎をのせて上目遣いに俺を見た。

 六年前の五月、あの日、あの場所には、怜とちどりのほかに、もうひとり、知らない女の子がいた。
 中学の制服を着た、親切な女の子。

「あれが……先輩?」

「ふふふ」と彼女はわざとらしく笑った。

「気付くのが遅いぞ、後輩くん」

つづく






「あの頃のわたしの話はしたって仕方ないことだから、とりあえずいいね。
 そうだね、当時のわたしにもいろいろあったけど、それもまあよくある話だから。

 それで、わたしはあの頃、『あの場所』に通うのが好きだった。
 わたしだけの秘密の遊び。誰にも知られない場所。

 その入口に、ある日きみが立っていた。

 わかるよね?」

 六年前の五月、俺は、いなくなったちどりと怜を探して、あの木立の向こうに立った。
 ましろ先輩は、そこにいたのだ。

「きみが入部してきたとき、わたしはきみをどこかで見たことあるなって思ったんだ。
 それは錯覚じゃなかった。きみの小説を読む前から、ひょっとしたらって思ってた。
 でも、きみはわたしがわからないみたいだったし、言わないようにしてたんだ」

「どうして言ってくれなかったんですか」

「ん。まあ、いろいろね」

「先輩は……じゃあ、先輩が異境の話をしたのは」

「ひょっとしたら、思い出してくれるかな、と思って。でも、空振りだった」



 さすがに頭が混乱してくる。

 ましろ先輩、瀬尾青葉、鴻ノ巣ちどり。
 
 俺の身の回りに起きたすべての不思議が、六年前の五月に収斂していく。

 何が問題で何が聞きたいのかすら、自分じゃわからなくなりそうだ。

「先輩は、思い出させることで、俺に何かをさせたかったんですか?」

「ん、んん。べつに、そういうわけじゃないよ」

 彼女は困ったみたいに眉を寄せた。

「よくわかんないな。青葉ちゃんを見つけられて、きみの周りに、もう問題なんてないんじゃない?」

「……」

「きみはなにか、困ってるの?」

 なにか、困っているか。

 なにか、困っているか、か。
 
「……べつに、そういうわけじゃありませんよ」

「あ、心を閉ざす音が聞こえた」

「……」

「ごめんね、茶化してるわけじゃない。これでも心配してるんだよ、きみのことは」

「心配?」

「乗りかかった船だからね」

 その言葉の意味はわからなかった。俺はため息をつく。



「教えてあげようか。きみが、なにに困ってるのか」

「……」

 まるで知ってるみたいな言い草だな、と俺は思う。

「きみはね、恋がしたいんだよ」

「は?」

「恋がしたいから、困ってるんだ」

「……そういえば、なにか注文しないといけませんね」

「あからさまにごまかさないでよ」

「いや、ほら、来てからなんにも頼んでないですし、さすがにお腹がすいてますから」

「……ま、なんかは頼まないといけないんだけどさ」



「おいしそうですね。じゃがバター炒め」

「後輩くん、わたしこのダブルチョリソーってやつ。あ、でも唐揚げ食べたい気分もないではない……」

「おごりませんよ」

「ええ? なんで? 誘ったの後輩くんなのに?」

「年下にたからないでください」

「おっかしいな。ちせにはジュースおごったって聞いたのにな」

「……」

「……やっぱちせには勝てないかー」

「……まあ、サイドメニューくらいだったら別に払いますよ」

 適当に注文を済ませてから、あまり間もおかずに皿が届き始める。
 先輩はチョリソーを一口かじると、「から……からい……」と涙目になった。

「そりゃ辛いですよ」

「チョリソーは、べつに辛いソーセージのことではない……」

「あ、そうなんだ……」

 知らなかったなあ、と思いながら、俺はじゃがバターを頬張った。
 
「後輩くん、飲み物よかったの?」

「ええ、まあ……」

「飲む? メロンソーダ」

 差し出されて、どうしようかなあと迷ったけれど、とりあえずいただいた。




「おお、躊躇もなく」

「……」

「ちょっと照れますなあ」

「……からかってますよね?」

「そんなことないもーん」

 子供みたいな人だ、本当に。

「それで、きみの話だけど」

「そんなに辛いんですか、そのチョリソー」

「話題を変えようとしないでね。きみの恋の話」

「悪い冗談はよしてください」

 いいかげんにしてほしい。

「恋ってなんですか」

「恋は恋だよ」

「……ああ、そうか」

 ……この人、さくらの手伝いをしていたんだった。


「さくらは、きみのこと、変だって言ってたよ」

「直接言われましたよ」と俺は答える。

「この世のものとは思えないとかなんとか……」

「ひどい言われようだねえ」

「さすがの俺でも傷つきましたね」

「嘘つき」とましろ先輩はまた笑う。

 たしかに嘘だ。そんなに傷つかなかった。
 よく分かるものだ。

「さくらは言ってた。『この人には難しいと思います』って」

「……何が、ですか」

「恋が、だって。なんでなのかは知らない。さくらはほら、そういう子だから」

「……」

「わたしも、そうなのかなって思った。でも、さくらはこうも言ってた。
『この人からは、たくさんの縁の糸が伸びていますよ』って」

「……縁の糸、ね」



 ポテトフライが届いた。ましろ先輩はにこっと笑って塩をふりかける。

「そう、さくらに言わせるときみは一種の『混乱』なんだってさ」

「混乱?」

「人一倍、縁の糸が多い人。モテるって意味じゃなくてね、どういう表現だったかな……」

「モテるって意味ではなくてですか」

 知ってはいるが。

「そう、モテるっていうのとは違う。おそろしく『良縁に恵まれている』って言ったかな」

「良縁……? おみくじみたいですね」

「でも、さくらはきみを難しいと言った」

 ──あなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。

 さくらはいつかそう言っていた。

「きみはその縁に心当たりがある?」

「……ずいぶん優しい人間が周囲にいてくれるな、とは思っていますね」




 ポテトフライが届いた。ましろ先輩はにこっと笑って塩をふりかける。

「そう、さくらに言わせるときみは一種の『混乱』なんだってさ」

「混乱?」

「人一倍、縁の糸が多い人。モテるって意味じゃなくてね、どういう表現だったかな……」

「モテるって意味ではなくてですか」

 知ってはいるが。

「そう、モテるっていうのとは違う。おそろしく『良縁に恵まれている』って言ったかな」

「良縁……? おみくじみたいですね」

「でも、さくらはきみを難しいと言った」

 ──あなたが周囲に嫌われていないことの方がわたしには不可解です。

 さくらはいつかそう言っていた。

「きみはその縁に心当たりがある?」

「……ずいぶん優しい人間が周囲にいてくれるな、とは思っていますね」



「さくらは、きみを『混乱』と呼んだけど、わたしはあんまりそうは思わないんだよね」

 ましろ先輩はポテトをつまみつつ、話を続ける。

「厄介な荷物を持ってそうだな、とは思うけど」

「荷物ですか」

「きみを苦しめているものって、なんだろうね」

「……」

 そうだな。

 瀬尾の行方を見つけた今となっても、俺は以前のように、日々に戻ることができずにいる。
 さくらのこと、神様の庭のこと。

 何が問題なのか
 明白だ。

『葉擦れの音』だ。

 だからこそ俺は、ましろ先輩に声をかけた。


「先輩は、『異境』に通ってたって言いましたけど、なにか変なことは起きなかったですか?」

「たとえば?」

「見えないものが見えるようになったとか」

「見えないもの」

「聞こえないはずのものが聞こえるとか」

「きみは何が知りたいの?」

「……異境、って、先輩は呼びますけど。あの場所は、いったいなんなんでしょう?」

「ふむ」

「あの場所が、なにかおかしなことを引き起こす、そんなことがあるんでしょうか?」

 たとえば、カレハが言った、あの『繋がり』。

 その正体が、今は気になって仕方ない。


 俺が考えているのは、この葉擦れの音がどうしたら止んでくれるのか、という、ただそれだけ。

「先輩は、どうして俺が、恋をしたがってるなんて思うんですか」

「きみは、心当たりがないの?」

「俺は……」

 人を好きになることは、おそろしいことだ。

 茫漠とした塩の砂漠に放り出されるような、
 涯のない桜の森の下で求めたものさえかき消えるような、
 ひとりで深い森をさまよい歩いたあの夜のような。

「……できることなら、恋なんてしたくないです」

「嘘だよ」と、彼女はあっさりとそう言った。

「どうして、先輩にそんなことが言えるんですか」

「それは、わたしもそうだからだよ」

「……」

「なんてね」

「……先輩」

「ポテト、冷めちゃうよ。ほら、お食べ」

「……」



「さくらはわたしの友達なんだよ」

 ポテトをまたかじりつつ、先輩は話を変えた。

「ずっと昔から、わたしとさくらは一緒だった」

「……」

「さくらは、わたしの唯一の友達だった。何でも話せる、誰とも違う、友達」

 どうして、そんな話をするんだろう。

「さくらは言ったよ。この世界は、愛に満ちてるんだって。でも、わたしはそうは思えなかったな。
 それでもわたしには、さくらはいちばんの友達だった」

「……それで、さくらと一緒に、縁結びをしてたんですか」

「ん。そういうこと」

 唯一の友達。先輩がそんな言葉を使うのが、意外と言えば意外だった。
 
 少し考えて、違和感を抱く。

「ずっと昔からって?」

「あ、ほら、料理来たよ、皿寄せて」

「あ、はい」



 ウェイトレスはテーブルの上に器用に皿を並べていく。
 ご注文は以上でおそろいでしょうか。それではごゆっくりお召し上がりください。

 話の内容を忘れたみたいに、ましろ先輩はカルボナーラをフォークで不器用そうに巻き上げている。

「それで、ましろ先輩、さっきの話ですけど」

「んー?」

「ずっと昔から、さくらと一緒だったって言いましたよね。でも、さくらはあの学校の守り神なんじゃ」

「ん。そうだよ」

「じゃあ、高一の頃からってことですか?」

「ん。んー。もっと前だね」

「……でも、それっておかしいじゃないですか」

「そう、おかしいんだ」

 先輩はくすくす笑った。

「さくらはいつのまに、守り神なんかになっちゃったんだろうね?」

「……どういう意味ですか?」


「もともとさくらは、わたしの友達だったんだよ。わたしだけの……“架空のおともだち”」

「……」

「子供の頃からね。いつのまにか会えなくなってた。それなのに、わたしが高校に入った頃に、突然、わたしの前にまた現れた。
 そのときのさくらは、なんにも覚えてなかったよ。自分はずっとあの学校にいるんだって言ってた」

「……どういう意味ですか?」

「たとえ話でもなんでもないよ。“さくらはわたしの友達”」

「だって、さくらは、でも、ずっと学校にいたんでしょう?」

「本人はそう言ってる。どっちが本当なんだろう?
 わたしはこう思ってる。さくらはあの学校にずっと居たわけじゃない。
 あの学校にずっと居た、という記憶を持って、ある日突然あらわれたんだって、そう思ってる」

「……」

「六年前の五月、あの場所はわたしとさくらの遊び場だった。でもあのとき、きみたちと森の奥に入ってから、
 さくらはずっと姿を消していたんだ。そういうものなんだって、思おうとしたんだけど……再び現れた。初対面みたいにね」

「……」

「どっちだと思う? わたしの記憶がおかしいのかな、それとも、さくらの記憶がおかしいのかな?」


 どっち、
 どっちが……?

 そんなの、確かめようがない。

 でも、ここでまたひとつつながりが見えた。

“ましろ先輩は、昔からさくらという友達をもっていた”。
 そして彼女は、六年前の五月、“俺たちと一緒にむこうに行った”。

 そうだとすれば、また繋がる。

 学校から出たことのないはずのさくらと、彼女にそっくりなカレハ。
 その繋がりが、ましろ先輩によって生まれる。

 ましろ先輩とさくらが友達だったなら、“さくらはましろ先輩と一緒にあの森に踏み入った”のだ。

「わたしは思うよ。あの森には、良くも悪くも、よくわかんない力が働いてる」

「……」

「きみの混乱も、もしかしたらそうかもしれないね」

「……先輩だって、『混乱』じゃないですか」

「そうだね。そういうことになる。問題は、きみが方位磁針を見失っていることにあるんだろうね」

「……」

「だから、恋をするといいよ」

「……どうして、恋なんですか」

「なんとなくかな」

 そんな軽口は、やっぱり見透かしたみたいな、企んでいるみたいな雰囲気で、
 だから俺は、そんな言葉を真剣に考えてしまう。

つづく





 弁当を食べ終わったあと、俺はさくらに言われるままに屋上を後にした。

「まずは状況の確認と行きましょう」

 そう言って彼女が俺の前を歩いていく。
 人がいようとおかまいなしに、彼女は話を続けていく。

「ふたりは今教室でそれぞれに昼食をとっているはずです。あなたが食事を急いでくれたおかげで間に合いそうですね」

「調子は取り戻したみたいだな」

「はい。あ、周りに人がいますから、喋らないほうがいいですよ」

 そういえばそうだった。俺には見えるし聞こえるから、つい油断してしまう。
 ……ましろ先輩の、友達。

 考えると、不思議なことだ。

 さくらは心が読めるのに、ましろ先輩がさくらを知っていたことは、分からなかったんだろうか。
 それに、いまこうして俺がそれについて考えていることを、さくらは『聞いて』いないのだろうか?

「……どうしたんです、急に黙って」

 ……聞こえていないのか。
 どういう理屈なんだろう。



 さくら自身の持っている『力』が、さくらにそれを教えまいとしているみたいだ。

 あるいはさくらが……知りたくないのか。

 すべてがご都合主義だ。
 何かをもくろんでいる『何者か』を仮定したくなるくらいに。

 でもきっと、そんな存在はどこにもいない。
 
 最初からずっとそうだ。俺たちは何かを演じている。誰が仕組んだ舞台かもわからないまま。

「ここですね」とさくらが言う。

 一年の廊下は賑やかだった。ときどき俺をちらちら見てくる奴がいるのは、上級生だからだろう。
 あんまり気にかけられないように、なるべく堂々と振る舞う。

「似合いませんね、堂々と、というのは」

 じゃあどうしろっていうんだ。

「斜に構えていてください。そのほうが似合います」

 ……斜に構えたやつはいけすかないって言ってなかったっけか?

「人には向き不向きがあります」

 そう言われると返す言葉もなかった。



「ここです」とさくらがある教室の入り口で立ち止まった。

「窓際の三人組が見えますか」

 見える。

「一番奥に座っている子です」

 なるほど。そう言われても、さっき聞いた情報だけでは何の感慨も湧かなかった。

「男の子の方は……教室中央で、ふたりで食べていますね。眼鏡をかけていないほうです」

 ふむ。それで、これを知ったところでどうなるというんだろう。

「顔を覚えておいてください。あとで話しかけることになりますから」

 なるほどね。

「ちなみに女の子のあだ名はコマツナです」

「は?」

 慌てて口を覆った。

「名前が小松ななみなので」

 はあ。そうですか。


「せんぱい、なにしてるの?」

 後ろから声をかけられて振り向くと、真中とちせが揃って立っていた。

「ああ、いや……」

「一年の教室に、なにか用事ですか?」

「せんぱいに『用事』なんてものがあるの?」

「どういう意味だ真中」

「あ、いや。深い意味はないけど」

 しかし考えてみれば、真中の言う通りかもしれない。

 俺の用事なんて、そもそも文芸部関連と大野からの頼み事以外にはほとんどない。
 瀬尾がおらず、大野が自分で感想文を書くようになった今、俺には用事なんてものはない。

 個人的なものはだいたいメッセージで済ませてしまうし。

 ……。

「何をむなしくなってるんですか」とさくらが言う。

 最近は思うところがいろいろあってな、と頭の中だけで返事をした。

「……そちらは?」

 と、ちせが視線をさくらに向ける。
 この流れは覚えがあるぞ、と俺は思った。

「悪い、急用を思い出した」

 と言って、俺はその場を逃げ出した。
 






「よかったんですか?」とさくらが訊いてくる。
 
 俺と彼女は、中庭の欅の下に立っている。

「仕方ない」と俺は答えた。何がよくて、何が仕方ないんだろう?

 ……本当に仕方ないのだろうか?

 俺は真中から逃げている。そんな気がする。

「今回はずいぶん雑でしたね」とさくらは言った。

「もう答えが出ているだろう」

「……あなたからしたら、そうかもしれない」

「ちせは“むこう”に行った。それでさくらが見えるようになった」

 予想していたことではあった。

 俺とましろ先輩に見えて、真中には見えない。
 以前のちせには見えなかった。このあいだ、“むこう”に行く直前まで、ちせはさくらを認識できなかった。
 今は見えている。

 条件はわかりきっている。

「“むこう”に行った人間には、さくらが見えるようになる」

「……そういうこと、なんでしょうか?」

 さくら本人さえ、不思議そうにしているが、ここまで来ると話はシンプルだ。

 そして、“瀬尾は最初からさくらの姿が見えていた”。
 部誌を完成させてあちらに行く以前から、さくらが見えていた。

 ということは、“瀬尾は、それ以前にむこうに行ったことがある”。

「……ということは」

 やはり、むこうに行ったことがある人間、行ける人間というのは、本当にわずかなのだろう。
 それに関して考えるのは、後にすることにした。


「あの二人のこと。どうすればいい?」

「あの二人、というと、コマツナさんたちのことですか」

「そう」

「今日の放課後です。コマツナさんがここに来るので、あなたもここにいてください」

「……」

 放課後は部室に行かなければいけない。大野と市川は、瀬尾の姿を見たがっている。
 俺だってそうだ。
 
 瀬尾が、あいつが帰ってきさえすれば、俺だって……。

「いいでしょう、今日は息抜きです」

「息抜き、ね」

 仕方ない。
 もう俺だって、いろいろと限界が来ている。
 
 いろんなことが、耐え難くなっている。
 今日のところは、さくらの言うとおりにするのも、悪くない。





 そして放課後、俺はさくらと一緒に、中庭の欅のそばにいた。

 すると例の“コマツナさん”があらわれた。

「こんにちは」と彼女は声をかけてきた。

「ああ」と俺は頷いた。

「こんにちは」

「柚子の彼氏さんですよね」

 人当たりのよさそうな笑顔。俺は少しだけ驚いた。

「真中の知り合いだったのか」

「はい。クラスは違いますけど、ともだちです。先輩のこと、よく聞かされてます」

「悪口ばかりだろ」

「はい」と言って、彼女は困り顔で笑った。

「仕方ないことだけどな」

「そうなんですか?」

「ああ」


 さくらはここで待っているだけでいいと言った。
 案の定、コマツナさんはここに来た。本当に、こんな力があれば、なんだってやりたい放題じゃないか。

「そうも行きませんよ」とさくらは言う。やっぱりそうかもしれない。

「先輩は、柚子と付き合ってはないんでしたっけ」

「うん。まあな」

「どうして付き合わないんですか?」

「どうして」

 どうして? それが分かれば苦労はしない。

「先輩は恋愛感情がないのかもしれないって柚子が心配してました」

「それできみは、おせっかいを焼いてここに来たの?」

「そういう言われ方をするとあれですが、ちょっとどんな人か気になってたので」

「そんなに話題に昇るのか」

「はい。柚子からもちせからも。……どっちの印象も、なんだか偏ってそうで」

 たしかにそうかもしれない。

「きみ、名前は?」

「小松ななみです」

「コマツナさん」

「コマツナってゆうな」

「……」

 ナチュラルに呼び名を統一しようと思ったのだが、阻止されてしまった。嫌な思い出があるのかもしれない。


「……小松さん。俺にだって恋愛感情くらいあるよ」

「そうなんですか?」

「たぶん。いや、ていうか、わからない。どうなんだろう。そう聞かれると不安になるな」

「え、なんでですか」

「誰かと比べることができないものだしな。自分のこれがそう呼ぶのかなんてわからないだろう」

「わたし、あの、ポップソングとかで好きなフレーズがあるんですけど」

「ん」

「“これ”が“それ”じゃないなら、何が“それ”なのかわからない、みたいな言い回しです」

「……ふむ」

 と俺は考えてみた。

「『愛をこめて花束を』みたいな?」

「そう、まさしくそれです。あと、『リユニオン』とか」

「……なんだっけ、それ」

「ラッドです」

「あー、なるほど」

 ……まあ、そういう考え方もあるのかもしれない。




「先輩って、なんか人間不信っぽいですよね」

「そう?」

 ていうか初対面だよね、と言いたくなるのを飲み込む。
 一応ここでこうして話しているのは目的あってのことだ。気まずくなってもいけない。

「話聞いてるだけでもそんな気がしますけど、なんだかいつも、浮いてる感じ」

「浮いてる?」

「現実から三ミリくらい」

「ドラえもんか俺は」

「物の例えですよ」

「比喩じゃなかったら怖いだろ……」

 小松はくすくすと笑う。
 どうして俺は女の子と話す度にこうやって主導権を握られてしまうのか……。


「でも、柚子のこと、はっきりしてあげないとかわいそうですよ」

「わかってるよ」

「なにか事情がありそうですね」

「そんな大層なことでもないけど……」

「……ふむ?」

 彼女は不思議そうに眉を寄せた。

「恋というのがどうにも分からなくて」

「ははあ。青春ですね」

「そうかもね。……」

「今です」とさくらは言った。俺もそう思う。

「きみは?」

「へ?」

「恋。してます?」

「……え、ええ。そこでわたしの話になるんですか?」

「なにかの参考になるかと思って」

「人のを聞いてどうこうなるような話でもないと思いますが……」


「何もかもが経験によってしか学べないようなものだとしたら」と俺は言う。

「誰かの思考の足跡である本にも、表現である芸術にも何の意味もなくなるだろう。少なくとも俺はそこに学ぶものがないとは思わない」

「……さすが文芸部ですね。何言ってるかさっぱりわかんないです」

「物の例えだよ」と俺は彼女の言い方を真似た。

「少女漫画に恋を学んだっていいだろう」

「読むんですか?」

「たまにね」

「……ふーん。ちょっと意外」

 小松はうなずきながら空を見た。今日の空は薄曇り。いつ雨が降り出してもおかしくなさそうだった。
 
「わたしも、恋ってよくわかんないです」

「そうかな。偉そうなこと言っといて」

「これがそうかな、って思ったことはあります」

「まあ、わかるよ」

「でも、いろいろあって、なんだかどうでもよくなっちゃって。どうでもよくなるなら、それって、恋なのかなって」

「どうでもよくなるような恋があってもいいだろう」

「そういうもんですか?」

「一時の気の迷いなんて言い方をしてたら、この世に気の迷いじゃないものなんてなくなるだろうからな」

「それにしても今日のあなたはいつにもまして喋りが適当ですね」とさくらが感心したような声を漏らす。
 俺はそれを無視した。



「……そういうもん、ですかねえ」

「と、思うよ」

「先輩、けっこう良いこといいますね」

 ……そうか?
 さて、でも、これではもちろん足りないだろう。
 俺は少し考えることにする。

「……たとえばだけど。ちょっとしたことが理由で、話しにくくなったりするだろう」

「はあ」

「でも、そういうのって案外、なんでもない誤解や行き違いだったりして、話してみればすぐに解決したりする」

「……はあ」

「急に下手になりましたね」とさくらが言う。じゃあおまえが考えろ。

「わたしは今日は傍観です」

 いいご身分だ。

「先輩は、そういう経験、あるんですか?」


「……ずっと前に、女の子に告白したことがある」

「え」

 と小松は口をあんぐり開けた。

「いつですか」

「ずっと前だ」

「どうなったんですか」

「返事はその場でもらえなくて……次に会ったときに、なんでもないみたいに振る舞われた」

「……うわ、それは……」

「ま、脈なしだったんだろうな、という話だ」

「……しんどいですね。あれ、でも、その話、いまの流れにどう繋がるんですか?」

「あ、いや。つながらないかもしれない」

「なんですか、それ」

 俺は、鴻ノ巣ちどりのことが好きだった。
 彼女に告白した。

 でも、彼女はなにもなかったみたいに振る舞った。

 ちどりはなかったことにしたいんだ、と思った。
 だから俺も、なかったことにしていた。



 俺は、『神さまの庭』に閉じ込められた二週間のうち、どこかで、『先に帰ったはずのちどり』ともう一度会っている。
 そこで俺は、彼女に告白したのだ。
 
 でも、彼女はいなくなってしまって、俺はひとり、暗い森に取り残された。

 こっちに帰ってきた俺は、葉擦れの音と二重の風景に悩まされた。
 そんななか、ちどりは俺が帰ったあとも、なにもなかったみたいな顔をしていた。

 ――隼ちゃん。

 ――どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんですか?

 どちらにしても、もう一度ちどりに告白したいという気持ちはなかった。
 それがいったいなんだったのか、俺にはもうわからない。

 ちどりがあのときの記憶をなくしていると気付いたのは、ずっとあとのことだった。

「でもそれだって、話してみたらなんでもない誤解で……たとえば彼女は、俺の言葉がよく聞こえなかっただけなのかもしれない」

「……」

「連絡先を人づてに渡すように頼んだのに、連絡が来なかったこともある。でもよく考えたら、頼んだ奴が忘れてたのかもしれない」

 小松は、ちょっと息を呑んだ。

「気になることなら、本当に会えなくなる前に、確かめればよかったんだよな」

「……」

 考え込むような顔のまま、小松は俯いた。
 ちょっと動揺しているみたいだ。




「……くだんない話をしたな」

「いえ……。あの、わたし、もう行きますね」

「ああ。まあ、がんばれよ」

「な、なにをですか」

「いろいろかな」

「いろいろ、ですか」

 ふむ、と小松は頷いた。

「じゃあ、わたし行きます。先輩も、いろいろがんばってください」

「そうするよ。じゃあな、コマツナ」

「コマツナってゆうな」

 それで小松はいなくなった。
 俺はさくらとふたり取り残される。

「どうだろうな」と俺は訊ねた。

「どうでしょうね」とさくらもぼんやりしていた。

つづく




 コマツナとのやりとりを終えてから、俺は部室に向かった。
 メンバーは揃っている。ちせもまた、顔を出している。

「遅かったな」と大野が行った。

「所用があったものですから」と俺は軽く返事をする。

「やる気ないね、隼くん」

「そういうわけじゃないが、こうも収穫なしだとな」

「いったい、なんなんだよ、この状況は」

 俺は肩をすくめた。

「何が足りないんですかね?」

 あれこれと話し合い、いろいろと考えてみたものの、結局その日も"むこう"にはいけなかった。




 解散になったあと、ひとり帰路につこうとすると、後ろから真中に声をかけられた。

「せんぱい」

「ん」

 うなずきを返すと、真中は何も言わずに隣に並んだ。
 そんな、何気ないやりとりが、無性に、苛立たしくなる。

 急に、そう感じる。

 真中に対する苛立ちではない。俺自身に対する苛立ちだ。
 いつまでこんなことを続けるつもりなんだ?

「……真中はさ」

「ん」

「なんで、俺のとこに来るの」

「……迷惑?」

「違う」

 そう答えてから、いっそ、迷惑だと言ってしまったほうが、こいつは楽になれるんだろうか、と考えた。
 



「だったら、いいでしょ?」

「いいっていえば、いいんだ」

「じゃあ、なんなの?」

 なんなの、と聞かれても、わからない。
 このままじゃ駄目なんだと分かっている。
 
 俺は、自分がどうしたいのか、それが分かっていない。

「……なにか、あったの?」

 こんなときに、真中はまだ、心配そうな顔で、俺を見る。
 
 不機嫌そうでもない、からかうようでもない、今はただ俺のことが心配だというみたいな顔で、俺を見る。
 その顔に、俺は一層の苛立ちを覚える。

 どうして俺をそんな目で見るんだ。

「よくわからないんだ」

「なにが?」

「真中がどうして……俺にこだわるのか」

 彼女はムッとした顔をした。それは分かる。




「なんで」

「なんでって、なんだよ」

「どうして、そんなこと思うの」

「……やっぱりやめよう、この話」

「わたしはせんぱいのことが好きだよ」

 俺は真中の顔を見た。彼女も俺の方をまっすぐに見ている。
 以前のような無表情なら、きっと冗談だってやり過ごすことができた。

 でも今は、今の真中の表情は、怒っているようにさえ見える。
 それくらい真剣なんだと分かってしまう。

 だからこそ俺は、よりいっそう深く混乱する。

 これは違う、これは俺のためのものではない。

 真中が俺を好きなのだと、そう感じさせられるたび、信じそうになるたび、
 俺のなかの歯車が悲鳴をあげるみたいに火花を散らす。
 焦げ付きそうになる。

 うまく、動作しなくなる。



「話してよ」と真中は言った。

「面倒だなんて思わないから、思ってること、全部言ってよ。不安なことも、どうしたいかも」

「……」

「そうやって話してくれないと、わたし、いつまで経ってもこんなふうにしてないといけなくなる」

 不安なこと。
 どうしたいか。

 そんなの……。

「"どうしたいか"?」と俺は思わず繰り返してしまった。
 
 声が震えていることに、自分で気付いた。

「俺がどうしたいかなんて、そんなの……」

 続きを待つみたいに、真中は俺の方を見ている。
 じっと、覚悟を決めたみたいな顔で。

 怯えているんだろうか。
 唇をきゅっと結んで、叱られるのを待っている子供みたいな顔で。

 どうしてこんな顔をさせてしまうんだろう。



「……悪い。先に帰る」

 結局、俺はまた真中から逃げる。

「逃げるんですね」とさくらの声が聞こえる。

 どこで聞いていたんだろう。
 自分の足音が廊下にこだましている。

「せんぱい! わたしは、せんぱいのことが好きだよ!」

 背後から、そんな声がかけられる。
 東校舎には、まだ生徒たちは残っている。

 大野や市川やちせだって、遠くには行っていないだろう。
 それなのに真中は、そう言わずにはいられないみたいに、そんなことを言う。

 言えるわけがない。
  
 俺は何も望んでなんていない。

 目標も、目的も、望みも展望も、なにもない。

 誰かとどうなりたいとか、自分をどうしていきたいとか、そんなビジョンはひとつもない。
 やってみたいことも、触れてみたいものも、見てみたいものも、本当はひとつもない。

 俺はただ、やり過ごしているだけだ。
 葉擦れの音と二重の風景の中で、どうにか、変に思われないように、みんなからはぐれないように、必死で維持しているだけだ。

 最低限の日々を。

 それ以上のものを考える余裕なんてない。
 
 俺には、なにもない。
 空虚だ。


 何も求めたくなんかない。そんな余裕は俺にはない。
 何かをしているときだけ、ほんの少し、聞こえる音のことを考えなくて済む。
 
 そうやってどうにかやり過ごしているだけで、本当は、いつだってそれどころじゃない。

 自分がどうしたいか?
 真中のことを好きになれたら幸せだろうと俺は思う。

 でも、俺は、この絶え間ない音の中で、誰かのことを考えている余裕なんてない。

 ときどき本当に、自分が存在しているのかさえ怪しく思える。

 そんな人間が、誰かを好きになれるわけがない。
 誰かを求めていいわけがない。

 そんな言葉を、真中にぶつけられるわけがない。

 ……いや、違う。

 俺はそれを、真中に知られたくない、と思っている。
 そんなことを言って、真中が離れていってしまうことを、それでも恐れている。
 
 逃げるように足早に昇降口へ向かってから、牛乳プリンかもしれない、と思った。
 ひょっとしたら、瀬尾のところに行くためには、必要なのかもしれない。

 俺は携帯を取り出して、大野にメッセージを送った。

「牛乳プリンかもしれない」。既読はすぐについたが、返信が来なかった。






「兄、どうしたんですか」

 そんなに様子がおかしかったのだろうか。
 夕食のとき、純佳は俺に向かってそう言った。

「なにが」

「今日、ずいぶん、様子が変ですよ」

「そうかな」

「はい」

 とぼけてみせても、純佳は戸惑いすらしなかった。
 彼女には見ただけでわかってしまうらしい。

「べつに、なにもないよ」

「そうですか」
 
 ほっとしたわけではないだろう。それでも純佳は、わざとらしく安堵した表情をつくったように見えた。

 食卓を挟んで、純佳の表情を見やる。
 一瞬それが泣いているように見えたけれど、どうやら錯覚だったらしい。




 俺は死んでしまった猫のことを思い出した。
 
 ちどりと、あの雨の金曜日に拾った小さな猫。
 
 家に連れ帰って、飼い猫にしたけれど、数年後に車に轢かれて死んでしまった。

 俺が中学生だった頃のことだ。

 怜が転校し、真中と出会い、ちどりと疎遠になった、あの頃。

 かわいがっていたのは純佳だった。
 純佳はあのときもこんな顔をしていた。

 そんなことを思い出して、やるせない気分になる。

 あんな気持ちになるなら、最初から猫なんて拾うんじゃなかった、とまでは言わない。
 言わないけれど……。

 いま、俺は、ひどく疲れているのかもしれない。
 どうしてだろう。どうしてこんなに疲れているんだろう。
 
 結局、それ以上交わす言葉もなく、俺達は食事を終えた。

 食器を洗い、風呂に湯をためて、その夜を過ごした。






 九時半を回った頃に、ましろ先輩から電話が来た。
 俺は少し迷ってから、電話を受けた。

「もしもし」

「こんばんは、後輩くん」

「どうかしましたか」

「ん。べつに、たいした用事はないんだけどね。なんだか、ちょっと心配になって」

「心配?」

「なんだろう、虫の知らせって奴かな」

 ちょうどいいのかもしれないな、と俺は思う。

「ましろ先輩、聞きたいことがあったんです」

「ん」

「先輩は、六年前、俺と会っていた。そして、そのことに気付いたんですよね」

「うん。そうだね」

「じゃあ、瀬尾青葉とも六年前に会っていたことを知っていましたか?」

「……青葉ちゃんと?」

「……」

「あの、どちらかが、青葉ちゃん?」

「……やっぱり」

 やっぱりそうだ。先輩は、瀬尾とちどりを同一人物だと認識していなかった。


「……どうだったかな。森の中は暗かったし、外に出た頃には夜だったし、顔もよく覚えていない」

「俺のことは、すぐに分かったんですよね」

「すぐにじゃないよ。言ったと思うけど、似てるなとは思ったけど、決め手になったのは小説だったから」

「そうですか」

「それに、きみと青葉ちゃん、高校で初対面みたいな感じじゃなかった?」

「……そうですよね」

 こんな偶然ってあるんだろうか。
 
 ましろ先輩は、俺が入部したときから見覚えがあるように感じていた、と言った。

「ひょっとしたら」と思っていたと。

 そして、その認識を、瀬尾青葉には抱いていなかった。
 当然だ。ちどりと瀬尾は、顔立ちや体格こそ似通っているけれど、雰囲気がぜんぜん違う。
 髪型も、仕草も、違う。

 幼い頃のちどりを見たことがあったとしても、それと瀬尾は結び付けられなかったのかもしれない。

 だとしたら、全部偶然だ。

 俺と瀬尾が同じ学校に入り、
 同じ部活に入り、
 そこにましろ先輩がいたこと。

 そのすべては、本当に偶然でしかない。

 縁、とさくらは言うけれど……これはもう、そういう次元ではないような気がする。



「青葉ちゃんが、あの場にいたの?」

「わかりません」と俺は答えた。

 けれど俺は、瀬尾青葉と鴻ノ巣ちどりの"繋がり"に気付いてから、ずっと思っていた。
 さくらとカレハのことを知り、さくらが"ましろ先輩の友達"だったことを知って、よりいっそう疑念が深まった。

「先輩、"スワンプマン"って知ってますか?」

「……えっと。スパイダーマンの仲間?」

「いえ。一種の思考実験です」

「思考実験。スワンプは……沼地とか、湿地だっけ?」

「はい。沼の男という意味だったと思います」

「どんな思考実験?」

「ある男が、ハイキングに出かけます。その道程の途中の沼のそばで、男は落雷に打たれます」

 不意に……風の音が聞こえる。
 二重の景色に、カレハが姿を見せる。

 もうすぐですよ、と彼女が言った。心待ちにするみたいに、楽しげに。
 やっぱりわたしは、あなたのために生まれてきたのかもしれない。彼女はそう言っている。


「男は落雷で命を落としますが、ほぼ同時に、偶然、もうひとつの雷が沼に落ちます。
 その結果、落雷は、沼の汚泥と化学反応を引き起こすんです」

「……どうなるの?」

「奇跡的な偶然によって、その沼の汚泥は、雷によって、死んだ男とまったく同一と言ってもいい存在を生み出すんです」

「同一?」

「はい」

 俺は、静かに言葉を選んだ。

「先輩は言っていましたよね。『さくらはあの学校にずっと居たわけじゃなくて、あの学校に居たという記憶を持って、あるとき生まれたんだ』って」

「……うん」

「それと同じです。この、泥から生まれた存在は、死んだ男とまったく同一の記憶、知識を持って、雷によって生まれる。
『雷に打たれる直前の男』と、原子レベルで同一の存在として。
 そして、自分が死んだ男自身なのだと疑いもせずに信じ、帰路につくんです」
 
 死んだ男の家に帰り、死んだ男の家族に電話し、死んだ男が途中まで読んでいた本の続きを読む。

「それがスワンプマンです」

「……それが、どうしたの?」

 カレハが騒いでいる。「もうすぐだよ」

 ずっとまえから、そんな気がしていた。

「先輩、俺は、六年前、先輩たちとはぐれてから、あの森から帰ってきた記憶がないんです。
 目に映る全部が、俺のためのものじゃないような気がする。他の誰かの居場所を、かすめとっているような気がする」




 ずっと不思議だった。
 
 先輩や、ちどりや怜とはぐれたあと、俺はたしかに、ちどりにもう一度会った。
 その記憶がある。それなのに、怜といくら話しても、ちどりがもう一度いなくなったなんてことは言わなかった。

 俺があのとき会ったちどりは誰だったのか?
 
 どうしてさくらとカレハという、よく似た存在が、むこうとこちらにそれぞれ存在しているのか?

 仮に、あの森が、踏み込んだものになにかの影響を与えたとしたら、
 たとえば鏡映しのように、その者とまったく同質の別の存在をつくりだしていたとしたら?

 それがどうして、怜や先輩には起こらなかったのかはわからない。

 それでもそうだとしたら、説明がつく。

 カレハは、「先輩の友達」としてのさくらのデッドコピーだとしたら?
 俺があの森の中で再会したちどりが、ちどりのデッドコピーだったとしたら?
 そのデッドコピーが、のちに森を抜け出して、瀬尾青葉として生きることになったのだとしたら?

 本物とデッドコピーの間には"繋がり"があり、感覚を共有しているとする。
 そして俺のこの二重の風景が、その"繋がり"ゆえのものだったとしたら。

 だとしたら俺は?

「先輩、俺は、三枝隼ですか?」

「なにを、言ってるの?」

「それとも俺は──三枝隼のスワンプマンですか?」

 どこかから、哄笑がきこえる。
 誰かが俺を嗤っている。

 俺は、あの日森に踏み込んだ三枝隼という少年のデッドコピーなんじゃないか。
 だとしたらいま、この暗い景色を眺めている誰かこそが、本当の三枝隼なんじゃないか。

 俺は六年もの間、三枝隼という空の玉座を不当に占有し続けた簒奪者なんじゃないか?


つづく


傘を忘れた金曜日には.
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