【モバマス・大槻唯SS】《楽しい日々》 (17)

大槻唯は小さなボックス部屋で歌っていた。

彼女は笑顔だった。

手元にあるタブレットに数字を入力して、流行りの曲を呼び出す。

イントロが流れると唯はマイクを唇に近づけ、歌った。

喉が乾いて烏龍茶を飲んだ。

カラオケを楽しんだ。

別れ際、唯の友達は言った。

「唯は歌が上手くて羨ましいよ」

唯は得意げに笑った。

自負していることを褒められるのは嬉しいことだ。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1523805945

唯が事務所に着いたのは夕方だった。

空はオレンジ色に染まっている。

黒い雲が流れている。

まもなく明るい色は影を潜めた。

事務所の前の電灯が明滅を繰り返していた。

唯はボイスレッスンを受けた。

自信があった。

だがベテラントレーナーの青木聖はなかなかOKを出さなかった。気難しそうな表情を浮かべている。

「駄目だ。もう一度だ」

そう繰り返すばかりでもやもやした。

唯は喉がかすれる感覚を抱いた。咳をする。低音が上手く出せない。

聖は溜息をついた。

「大槻。お前、ここに来る前にカラオケにでも行ってきたのか?」

唯は謝った。ごめんなさいと頭を下げた。

聖は溜息をついて、頭を振った。

「甘えるなよ。プロとしての意識を持て」

唯は下を向いた。

レッスンが終わった帰り道、彼女の足取りは重かった。

駅に着くと学生がたくさんいた。

駅前の塾から出てきた者もいる。

勉強をしていたのだろう。唯は売店で棒付きの飴を買った。

包み紙を捨ててひと舐めする。

パイン味の飴だった。

別の味にすればよかったかなと思った。

飴の溶けた唾液は今の気分には甘すぎた。

彼女はゴミ箱の中に飴を捨てた。

乾いた咳が出た。

車内は混んでいた。

唯は自動ドアの前辺りに立った。

隣には学ランを着た高校生が英単語帳に目を落としていた。

集中している。

赤いシートを使って意味の部分を隠していた。

唯はこっそりと単語帳に目を向けた。

意味がわかる単語はほとんどない。

楽しくないなと思った。

電車が到着するまでの時間が長く感じた。

家に帰ると唯はうがいをした。

喉がヒリヒリする。

腫れている感覚がある。

咳をすると痛んだ。

倦怠感もあった。

制服姿のままベッドに倒れこむと目を閉じた。

しばらくすると階下から母の呼ぶ声が聞こえた。

夕飯はどうするのか、と言った気がする。

唯は答えずにそのまま眠りに落ちた。

うるさいと思った。

もう動きたくなかった。

唯は風邪を引いていた。

寒気がした。

母に揺すられ目を覚ました。

手早くシャワーを浴びて布団に潜り込んだ。

夜に計った時は37.6℃。

次の日の朝には38.4℃にあがった。

母は心配した。

優しかった。

うっとおしかった。

唯は学校とレッスンを休んだ。

トレーナーが呆れる姿を想像して泣きそうになった。

プロ失格だという言葉が頭の中で反芻された。

夜になると唯は嘔吐した。

昼間から何も食べていなかった。

スポーツドリンクで薄まった胃液がバケツの中に溜まった。

酸味のある匂いがこもった。

唯は死ぬのではないかと思った。

それでも気分は落ち着いた。

薬を飲み、眠ると、次の日の朝には熱が下がっていた。

夕方、梅の入ったおかゆを食べているとプロデューサーと相川千夏がお見舞いに来た。

「元気そうね」と千夏は微笑んだ。

「心配したぞ」とプロデューサーはホッとしたような表情を浮かべた。

大袈裟だよと唯は笑った。

千夏は紅茶を置いていってくれた。

寝る前に砂糖を大匙2杯入れて飲むと身体が温まった。

夜は浅い眠りと覚醒を繰り返した。

昼間に充分寝ていたからだ。

暗い部屋の中で唯は天井を見つめた。

あー、と小さく声を出してみた。

次は上手く歌えるだろうかと思った。

風邪を引いてから4日。

唯の体調は回復した。

制服に着替えて外に出ると朝日が眩しく感じた。

顔が綻んだ。

棒付きのキャンディを咥えると学校に向かった。

駅で友人と会い、心配したと声をかけられると幸せを感じた。

放課後にはレッスンがある。

そのことを考えると少しだけ気持ちが沈んだ。

放課後、レッスンが始まるまで時間があった。

唯は事務所の一階にあるカフェでオレンジジュースを飲んでいた。

スマートフォンをいじり、時間を潰していた。

「大槻さん。こんにちは」

声をかけてきたのは青木慶だった。

事務所ではルーキートレーナーと呼ばれている。

唯はほっとした。

青木4姉妹はみな似ていた。

「こんちはー☆ 慶ちゃん♪」

「もう。『トレーナーさん』ですよ?」

「あはは。仕事中じゃないからいいじゃん☆ 慶ちゃんって歳も近いし、話しやすいんだもん☆」

唯は慶としばらく話した。他愛もない話だった。

唯は聞いた。

「慶ちゃんのおねーさんたちってさ。家で怖くないの?」

慶は苦笑した。

「怖いです。特に上2人は」

「麗さんと聖さんだよね」

「ええ。昔はよくプロレス技をかけられたりしたんですよ」

「プロレス技かぁ」

唯は男兄弟みたいだと笑った。

慶は「血気盛ん過ぎるんですよ」と顔をしかめた。

その様子がおかしくて唯はさらに笑った。

「お姉さん達と仲悪いの?」

「いえ、仲は悪くありませんよ。特別、嫌いなわけでもありません。姉達には嫌な面もありますけど…尊敬できる部分もありますから」

「ふーん。変なの」

「姉妹とか家族ってそういうものなんじゃないかと思います。複雑なんです」

唯は「わかる」と微笑んだ。

母に看病されていたことを思い出した。

慶と別れると唯はボイスレッスンを受けに行った。

レッスンルームのドアを開けて挨拶をすると、聖が書類を眺めていた。

唯をいちべつすると「身体はもう大丈夫なのか?」と短く聞いてくる。

唯は緊張したが「大丈夫です」と答えた。

聖は立ち上がった。

「そうか。始めるぞ」

レッスン中、唯は叱られた。

一生懸命に歌っても叱られた。

レッスンは1時間。

厳しく、辛く、楽しくない。

唯は聖の言う通りに歌った。

レッスンが終わると唯はほっとした。

聖は「今日はよかったぞ」と言った。

視線は手元の記録用紙に落としたままだった。

無表情だった。

唯はきょとんとして、頭を下げ、部屋を出る。

帰り道、足取りは軽かった。

レッスンが終わった後、待合室で唯はプロデューサーと会った。

「お疲れ様」と声をかけられた。

「もしかして唯のこと張ってたの? 嫌~、ストーカー☆」

「違うっつの。身体は平気か?」

「もちろん☆」

唯は笑顔を見せた。

彼女はいつでも笑顔だった。

「ねぇ。プロデューサーちゃん」

「何?」

「ゆいね。毎日楽しいよ☆」

「…いきなりなんだよ。昨日までダウンしてたくせに」

「えへへ☆」

唯は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

明日もまた頑張ろうと思った。

辛いことや嫌なことがあるかもしれない。

それでも日々は楽しいことで満ちているのだから。

終わり

以上です。
お読みいただきありがとうございました。

1レス目の名前が違うのは打ち間違いです。

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom