「亜麻色の少女」 (14)


 突如襲ってくる眠気に恐怖を覚えた事がある。記憶も朧気な幼い時分、私には大好きなお姉さんがいて、眠ってしまう事でお別れの時間になるから。長く深い、眠りの中で後悔の意識が包むのだ。

 始めはまだ夢の中を漂っている感じだった。けれど次第に混濁した部分が去っていき、薄ぼんやりとした闇だけが残った。そして私の耳に音が蘇ってくる。遠くで風が吹いているような音だ。やがて何かの金属音。思わず頬をぴくりと動かした。

「今、反応がありました」

 誰かの声がした。若い男の人の声。すぐ傍に人がいる。どうして見えないのだろうと思ったけど、間もなく自分が目を閉じている事に気づいた。指先に毛布の感触。どうやら私は寝ているらしい。ゆっくりと瞼を開いた。


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 白い光が飛び込んできて眩しい。細く開いたまま少し待ち、光に馴れてから改めて瞼を動かした。

 目の前に顔が三つあった。男が二人と女が一人。何か恐ろしいものでも見るように、緊張した目をしている。彼らは全員白衣を着ていた。ここはどこだろう?

「我々の顔が見えるかね」

 彼らの中で最も年長と思える、髪が真っ白の男性が尋ねてきた。目尻から額にかけて無数の皺が刻み込まれていて、その上に金縁眼鏡をかけている。

 見える、と答えようとした。けれどうまく声を出せない。出し方はわかっているのだけど、喉や唇が自分のものじゃないみたいに硬くなっているのだ。無理をして声を出そうとしたけど、まずは唾で喉を潤すのを先にすべきだった。声は声にならず、こんこんとみっともない咳を漏らす羽目になった。


「無理をする事はない。頷くか、首を振るかでいい」白髪の男性は、噛んで含めるような調子でいった。私が瞬きを二、三度してから頷くと、彼は安堵したように吐息をついた。

「聞こえているし、言葉も理解できているようだ。それに目も見えている」

 私は息を吸い込むと、慎重に喉の加減を窺いながら口を開いた。

「ここ……は……どこ」

 この一言はさらにこの人たちを元気づけたらしい。目を輝かせて、お互いの顔を見た。

「質問をしてきましたよ。成功ですよ、先生」

 若くて顎の尖った男の人が言った。興奮しているのか、顔が紅潮している。

 白髪の男性は小さく頷いてから私の目を見た。

「ここは病院だよ。東和大学附属病院第二病棟だ。私の言ってる意味がわかるかね」

 私は小さく顎を引いた。それを確認してから彼は続けた。

医師「私は君の手術を担当した医師という者だ。ここにいる二人は、助手の男助手君と女助手君だ」

 彼の紹介に、顎の尖った男、若い女性の順で軽く頭を下げた。

 戸惑いが色となって瞳に宿る。自覚できるほどに浮かび上がったそれを汲み取ってか、三人の表情が険しくなる。


「わたし……なんでここ……に?」

医師「覚えていないのかね?」

 医師と名乗った男性に訊かれ、私は目を閉じて考えた。長い間夢を見ていたような気がする。その夢を見る前はどうだったのだろう。

医師「思い出せないなら無理する事はないんだ」

 彼が言った時、不意に私の瞼の裏に人影が現れた。女の子だ。顔はよくわからない。何か持っている。

 それをこちらに向け、叫んでいる。いや、叫んでいるのは私の方か。女の子の手が赤く光ったーー。

「銃……」私は目を開けた。「ピス……ト……ル」

「そう、思い出したようだね。君はピストルで撃たれたのだ」

「撃た……れた……」

 もう少し詳しく思い出そうとした。けれど、記憶に薄いベールがかかっているようだ。はっきりしない。

「だめ……思い……出せない」

 私は頭を振ると、再び瞼を閉じた。その途端後頭部が何かに引っ張られるような感触があり、直後に全身の感覚がふっと消えてなくなった。


 水の中に私はいた。

 私は両膝を抱え、体操の選手のようにくるくると回っていた。頭が上になったり、下になったりする。

 しかし周りは薄暗いし、重力というものを全く感じないので、どちらが上でどちらが下なのかはわからなかった。水は冷たくも暖かくもなく、適度な温度に保たれている。

 回転を続けながら、私は様々な音を聞いていた。

 地響きのような音、滝が落ちるような音、風の音、そして人の話し声。

 気がつくと私は坂道にいた。その場所の事を、私は微かに覚えている。山の手に向かう緩やかな坂道で、その先にレンガ造りの大きな病院が建っていた。建物の回りにはブナやクヌギの木が植えられていて、堀の外から見るとまるで西洋のお城のようだった。


 私たちは二人だった。近所に住む同級生で、仲のよかった男の子と、しばしばお城のような病院に遊びにいく。経営者が寛容な性格だったのか、病院に用のない人間が敷地内に入っても咎められる事がなかった。

 だから私たちも当初は、近所に住む歳上の子供たちに連れられて病院に訪れる事が多かった。

 その広い敷地内を、お姉さんはいつも散歩していた。頭に被っている白い三角頭巾と、やはり白いエプロンが彼女のトレードマーク。色の白い、どこか人形を思わせる顔立ちをしていた。年齢はよくわからなかった。私は彼女の事を『お姉さん』と呼んでいたけど、実際には私とは母子(おやこ)ほど離れていたのかもしれない。

 私たちが遊んでいると、彼女はいつもその様子を遠くから眺めていた。夏の暑い時など、麦茶を水筒に入れて持ってきてくれた事もある。彼女のエプロンのポケットには必ず飴玉やキャラメルが入っていて、私たちが求めれば喜んで出してきた。

 お姉さんがどうしてレンガ病院にいるのか、子供たちは誰も知らなかった。特に気にかけなかったというべきなのかもしれない。それを本人から聞く事もなかった。

 ただ彼女が普通の大人たちとは違うという事は、私たちにもわかっていた。まず話し言葉が違う。彼女はまるで幼い少女のような言葉遣いをした。それは私たちに対する時だけでなく、病院を訪れる人々に対した時でも変わらなかった。そうすると相手は決まって少し驚いた顔をし、そそくさと彼女から遠ざかった。

 彼女がいつも小さな人形を持っていた事も、少し異質な感じがした。その人形が、まるで自分の子供でもあるように話しかけているのを、私は何度も聞いている。

「おねえさんはさ、少し悪いんだよ」

 ある日子供たちの中でも年長の子が、自分の頭を指差しながら私たちに言った。

「だからこの病院にいるんだ。先生に良くしてもらうために、ここにいるんだ」

 この話は私に衝撃を与えた。お姉さんが病気だとは、一度も考えなかったから。

 この噂が伝わり始めた頃から、子供たちはあまり病院の庭では遊ばなくなった。どうやら噂を聞いた親たちが、自分の子供たちを彼女に近づかせないようにしたらしい。

 けれど、私と、もう一人の男の子は、時々二人で訪れた。私たちがいくとお姉さんが寄ってきて「みんなは?」と必ず訊いた。用事で来られないと答えると「寂しいね」と彼女は言った。


 私たちは主に木登りをして遊んだ。本当はお人形遊びやおままごとのような、女の子の遊びもしたかったけど、怖くて言い出せなかった。我が儘を言って遊んでくれる相手を失うのは嫌だったから。

 その間お姉さんは草抜きをしたり、花に水をやったりしていた。そして遊び疲れて休んでいると、どこからかスイカを持ってきてくれたりした。

 彼女と一緒にいると、私は嫌な事を考えずにいられた。彼女は時々歌をうたう事があったけど、それを聞くのも楽しみの一つだった。彼女の歌は日本のものではなく、異国の言葉で出来ていた。何の歌かと私たちが訊くと、知らないとお姉さんは答えた。

 そういう事が、この年の夏にあった。そしてその秋にお姉さんが死んだ。

 お姉さんが死んだという話を聞いた日の夕方、私は男の子と二人でレンガ病院にいった。色づき始めた落葉樹の下、私たちはお姉さんの姿を探した。しかしいつもいるはずのところに彼女はいなかった。
 男の子と私はこの夏に登った木の下でうずくまり、随分長い間泣いた。

 映像はそこで曖昧になった。懐かしい病院のイメージが崩れ、私は再び水の中にいた。相変わらず何の力も感じず、自分自身が水の粒子になったような気さえする。

 やがて身体の回転が止まった。今まで静止していた水に流れが生じている。私はその流れに乗って、移動を始めた。物凄い速度だ。私が流れの先に目をやると、白く小さな点が見えた。それが徐々に大きくなっていく。そして私を包み込むほどになった時、その白い闇の端に何かあるのがわかった。目を凝らす。

 それは机だった。そのすぐ傍には椅子があって誰かが座っている。その誰かは最初身動き一つしなかったけど、私が見つめ続けていると、こちらを向いた。


「目が覚めたようね」

 この声で私の全身の神経が一斉に活動を始めた。カメラレンズの絞りを開くように周囲の光景が広がっていく。椅子に座っていたのは女性で、私を見て微笑んでいた。見たことのある女の人だ。

「だ……れ?」

女助手「忘れちゃったかしら? 女助手です。医師教授の助手をしています」

「医師……あ……」

 少し時間をかけてその名前を思い出す事が出来た。夢と現実の区別がつきにくい状態だけど、一度目覚めたのは確からしい。その時にもこの女性に会った。

 女助手さんは机の上のインターホンのボタンを押し「先生、クランケが覚醒しました」と連絡してから、私の枕の位置を直してくれた。

女助手「御気分はいかがかしら?」

「よく……わかりません」

女助手「何か夢を見ていたようだったけど」

「夢? ええ……そう、子供の頃の事でした」

 けれどあれが夢と言えるのだろうか。あれは過去に実際にあった事なのだ。自分でも驚くほど細部が鮮明で正確だった。とても印象深い出来事だったとはいえ、細かな事はもう大分忘れてしまったと思っていたのに。


 間もなくドアをノックする音がして、白髪の男性が姿を見せた。すぐに思い出した。医師教授だ。彼は私を見下ろすとまず最初に「私の事を覚えているかね」と訊いた。私は頷いた。そしてあなたの事も、その横の男助手の事も覚えていると答えた。教授は安堵したように小さく息を吐きだした。

「では、自分が誰かはわかっているかね」

「私は……」

 名前を言おうとした。けれど口を開きかけた状態で私は停止した。自分が誰なのか、そんな事は考えなくても答えられるはずなのに、それがすぐに出てこない。
突然耳鳴りが始まった。蝉しぐれのように断続的に襲ってくる。私は頭を抱えた。

「私は……誰なんだろう?」

医師「落ち着いて、焦らなくていい」教授が、私の両肩を持った。「君はかなりの重傷を負い、大変な手術が行われた。その結果、一時的に記憶が凍結されているんだよ。だから心を鎮めて待てば、氷が溶けるように記憶も蘇ってくるはずだ」

 私は金縁眼鏡の奥にある、教授のやや茶色がかった瞳を見つめ返した。そうしていると不思議に心が和らいでくる。

「リラックスするんだ。全身の力を抜いて」

 教授の声が飛んだ。男助手さんも言う。「焦らずに、息を整えて」

 けれど頭の中は白く塗り潰されていた。何もない。何も思い出せない。目を閉じて、深呼吸を繰り返した。

 ぼんやりと何かが浮かんだ。それはアメーバのように形を定めぬまま漂っていたけど、徐々に形を成していった。

 白いエプロンだ。大人用の丈で今の私にも少し大きい。それを着た女性の姿を思い出した。あれはお姉さんだ。あのお城のような病院で何度も会った。その彼女が小さめの口を開けて何か言っている。


「少女……」

医師「何だって?」

少女「少女、名前です……そう、呼ばれていました」

 教授が大きく身を乗り出してきた。

医師「その通りだよ。君は少女と呼ばれている」

少女「少女……亜麻色の……青い」

 その呼び名を中心に、色々な事が焙り出しのように浮かび上がってきた。古ぼけた民家、学校の机、そして一人ぼっちの時間。

 亜麻色の髪、青い瞳。これは……私の身体的な特徴。

 頭痛がし始めた。私は顔をしかめ、両手でこめかみを押さえた。手に包帯が触れた。この包帯は何だろう?

女助手「あなたは頭を撃たれたのです」

 私の疑問を察したらしく、女助手さんが言った。外国の映画女優のような綺麗な顔が気遣わしげに表情を変える。

少女「頭を……なのに……助かった?」

男助手「最新医学が君に味方したのだよ。それから幸運もね」

 男助手さんがどこか誇らしげに言った。こちらはお医者さんというより、銀行マンという感じだ。ドラマや映画でしか銀行マンというのをイメージできないけど。

 私は毛布の中でもぞもぞと手を動かした。全てきちんと揃っている。五体満足みたいだ。

 身体を起こそうとする。ところが全身が鉛を埋め込まれたように重い。動かそうとするのも億劫だった。

「まだ無理をしない方がいい」と医師教授は言った。

医師「相当体力を消耗しているはずだ。何しろ三週間昏睡状態だった」

少女「三週間……も?」

 その状態がどういうものなのか、私には想像がつかなかった。「ゆっくりと休めばいい」教授はふっと添えるように私の肩に手を置いた。

「気長に、じっくりと回復を待つ事だ。焦る必要は何もない。君には充分な時間があるし、多くの人間が君の全快を祈ってくれている」

「多くの……ひと?」

「そうだ。世界中の人々が、といってもいい」

 教授が言うと、傍にいた二人も深く頷いた。

ここまで
ゆったりと更新していきます
二次創作ですが原作は知らなくても大丈夫です

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