ジュリア「光について」 (471)


「昔話なんだけどね?」

「昔話ねえ」

「そういうのって嫌い?」

「あんまり好きじゃないけど、たまにはいいんじゃないかな、そういうのも」

「じゃあ手短に」

「頼むよ」

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「私、よく迷子になったの。
 たとえば、買い物先の大型スーパーとか、縁日とか」

「まあ、そうだろうな」

「そういえば、連れられていくたびに、
 なにかしら買ってもらってたような気がするんだけど、
 なにを買ってもらってたかって覚えてないなあ」

「そういうもんだよ」

「そうかしら」

「あたしも覚えがある気がするよ。覚えてないけど」


「オボエがないのにオボエがあるの?」

「うーん」

「そういえば同じような話題を昨日テレビで見たんだけどね」

「悪かった。続けてくれ」

「あるようなないような記憶って実はけっこう信用できるんだって」

「いやそっちじゃなくて」

「どっち?」

「昔話のほうさ」

「ああ。ええと、どこまで話したかしら」

「こどもの頃、迷子になりがちってところまで」

「そうそう。
 それで私は迷子になっても、
 ただ漠然とふらふらするばかりで。
 と言うよりは、ふらふらすること自体に夢中になっちゃって、
 あんまり困ったなあ、とか思わなかったんだけど」

「今もそんな変わらないと思うぜ?」


「でも、こどもの私がそこにいるってことは、
 私をそこに連れて来てくれた両親含む大人の人っていうのがいるわけだし、
 こんな私を連れて来てくれるような親切な人たちなんだから、
 私がいなくなれば、探そうとするじゃない?
 実際に見たわけじゃないんだけど、私がいなくなると大騒ぎになるらしくて」

「連れてきたこどもがいないってなれば、当然の反応だな」

「流石にそれは悪いなあとは思ったのよ。それで私は閃いたの」

「うん」

「空を飛べればいいのになって」

「うん?」


「どういうことだかわからない?」

「いや、わかるよ。
 そうすれば目立つし見つかりやすい」

「あたり。今思うと、子供じみてるって思うけど」

「そうだな」

「それで思いついたの。
 そろそろ飛べるんじゃないかしら、私」

「さっき自分で子供じみてるって言ったじゃんか」


「それとこれとは別でしょ?」

「そう言うなら別物ってことにするよ。それで目的地は?」

「なし。ただ、飛んでみたいだけで」

「飛んでみたい、ねえ」

「やっぱりおかしい?」

「とんでもない。ちょっと考えてただけだよ」

「なにを?」

「あたしもそろそろ飛べるんじゃないかってさ」

「でしょでしょ? やっぱりそうだと思った」

「奇遇だな」

「そういうもん、でしょ? ありがと」

「どーいたしまして」


 ざけんじゃねえ。
 あたしは椅子からずり落ちながら、書類の山を投げ散らした。

 パンクがやりたかった。
 ヴォーカルでギタリスト。
 場合によっちゃそれ以外もやぶさかではない。

 だから慣れない応募書類なんて書いて、それをポストに突っ込んだのだ。

 返事はすぐに来た。
 一度、お会いしませんか。

 その事務所へ行くと、まず応接室に通された。
 外から見るとぼろい雑居ビルって感じだったのに、中は観葉植物なんか置かれていて、けっこう清潔な感じだった。

 いい感じだ。悪くない。
 もっと荒くれたもんだと思ってたので、私は安堵した。
 そうこうしてるうちにおっさんが入ってくる。
 これもまた清潔感のある、カタそうなおっさんだと思った。


 おっさん(たぶん偉い人)は向かいに座り込んで書類と私の顔を交互に眺めた。
 そして難しそうな顔をした。

「パンクがやりたいのかい」

「ああ。だって、そういうところ、ですよね?」

「いや、うちはアイドルを専門にやってる事務所だ」

 開いた口がふさがらない。
 口の中が乾く。
 出されていたお茶をあおって、根っこまでかわいた舌を湿らせる。


 おっさんはどうしたものかと視線を宙に泳がせている。
 そしてよし、と息を吐く。

「私の知り合いで、そういうのをやってるヤツがいるんだ。
 あいにく、私はそういう音楽にどうも疎くてね。
 君さえよければ、紹介してあげようと思うのだが、どうだろう」

 悪くない提案。
 しかし、この次のおっさんの一言で、あたしの予定は狂いだす。

「まあ君ならここでもいいセン行けそうだと思うがね」

 思えばお世辞だったのかもしれない。
 しかし、話を進めるうちに、あたしは丸め込まれた。


 これもなにかの縁だ。
 どちらにせよ歌うことには変わりない。
 アイドルをしてやろう。

 そんな気になってしまった。
 やるからにはとことんやる。
 そんな余計な言葉まで付け足して。

 ものの数十分で、あたしはアイドルになることを決めていた。
 秋の夕暮れどきだった。
 陽がブラインドの隙間から入り込んで、帯状の光が部屋のなかに伸びていた。


 けれど、すぐ後悔することになる。

 書いて来いとつき出された書類が山ほどあったのだ。
 こういうのを書くのは昔から苦手だった。

 けっきょく、散らかした書類を拾い直し、夜も遅かったので、その日はもう寝ることにした。


 閉じていく視界。
 最後に部屋の片隅にギターが見えた。
 そういえばギターに触らなかったのなんて、久しぶりだな。

 あたしは思う。

 夢みたいだった。
 ギターに触らないのも。
 今日という日も。

 夢だ。目を閉じたままあたしは唱える。
 そうじゃないことを知っているのに。


 この日、あたしは事務所に行かない。
 ちゃんと事務所の名前をインターネットで調べたからだ。
 アイドル事務所? なんかの間違いじゃないですか。
 電話をかけて事はそれで終わり。
 書類は送り返してくれると言われたけれど、それも悪いので近いうちに取りに行くことを約束した。
 
 電話を切ると、あたしはベッドに倒れ込む。
 アイドルかあ。ガラじゃないな。でも、アイドルってどんな音楽やってんだろ。


 ゆっくり身を起こす。
 財布をポケットに突っ込んで、近所のレンタルショップまで足を伸ばす。
 人気ランキングの棚にあるCDを三冊借りて、家で聴く。

 キャッチ―なメロディ。
 使い古された言葉をこれでもかと集めた結果、脈絡がなくなり、風変わりになるリリック。

 けっこういいもんだな。
 コードでもたどろうとギターを手繰り寄せようとする。しかし手が届かない。


――ギターはないよ。

 ぱきっとした、輪郭のある声だった。
 性別不明。部屋中見回す。誰もいない。

「誰だか知らないけどさ、すぐそこにあるじゃないか」

――そこにあるよ、そこに。

 声がするたび、低い音が揺れる。
 泉にコインを投げいれたあとみたいに、音は広がっていく。
 しかし相変わらず手は届かない。

「なら仕方ないか」

――弾かなくていいのかい。

「手が届かないんだから弾けないだろ?
 そこまで弾きたいって訳でもないしさ。
 それにそういう夢を見てたんだ、さっきまで」


――おかしな夢だった。

「よくわかるね」

 そいつの透明な腕が伸びる。
 あたしの借りてきたCDが持ち上げられる。
 ぎょっとしたが、顔には出さない。

――アイドル?

「ああ、少し興味がわいたんでね」


――そう。

 声が張りつめた。
 透明な何かが部屋中にふくらんでいく。
 あたしは押さえつけられる。
 弾力があるおかげで、ぺちゃんこにつぶされることはない。

 けれど、身動きが取れない。
 透明な何かは部屋を飛び出して、どこまでもどこまでも伸びていく。

「何が気に入らなかったんだ。謝る! 謝るからさ、止まってくれよ!」

 許しを乞うても返事はない。
 家がみしみし音を立て出す。
 やめてくれやめてくれ。無駄でも叫ぶ。
 それしかできない。


「そんなにアイドルが気に食わないのかよ!」

 自分の叫び声で飛び起きた。
 前髪が汗でべったり張り付いている。
 部屋の片隅では、いつものように愛用のギターがひっそりたたずんでいる。

 なんてこった。

 つぶやいたけれど、気づいていた。

 あたしはこれから自分がしようとしていることを認めきっていない。
 その証拠がこんな夢だ。
 悔しいというか腹が立つというか、とにかくたまったもんじゃない。


 あたしは灯りをつけて机に向かった。
 そして積みあがっていた書類を次々にやっつけていく。

 そうすることが、あたしの、あたしに対する唯一の反抗だった。

 そうして進めていくうちに行き当たったのが、芸名の欄。

 自分で自分に名前を付けるだなんて、滅多にできることではない。
 しかし、だからと言って、すぐに思いつくものでもなかった。

 あたしはその欄をひとまず飛ばす。
 そして、つぎに目に入った抱負の欄に、思いついたことを一気に書いた。

 二、三行くらいしか書けなさそうな余白でそれをを語れだなんて、ちょっとおかしいんじゃないか。
 思ったけれど、膨大な量を課されるよりは遥かにマシだった。


 芸名ねえ。
 口にする。
 外はすでに明るみだしている。

 あたしは閃く。
 そうだ、この名前があったじゃないか。

 いつからか呼ばれ出したあだな。
 誰が呼び出したかは覚えてない。

 だけど、その名を私が知るみんなが知っている。

「ジュリア」

 あたしはあたしに名前を付ける。
 窓の外を新聞配達のバイクが通り過ぎていく。

見切り発車のミリマスSS
よろしければおつきあいください

支援だよ

>>21
ジュリア(16) Vo
http://i.imgur.com/Pp8h1am.jpg
http://i.imgur.com/1bg4uMc.jpg

>>23
どうもですー

グレイプバインいいよね


 もう動けないほど疲れたのか?
 軽い調子で、あたしは訊いた。
 けれど、そうならおぶっていくのもやぶさかではなかった。

「あまり星が見えませんね」

 質問には答えないまま、マツリは手を上に伸ばす。

 しかし、じっさい星がよく見える夜だった。
 ちゃんと見えるぜ。
 あたしは言った。

「まつりはお星さまなのです」

 あたしは黙ってまつりの次の言葉を待った。

「ときどき休むために雲に隠れます」


 あたしはマツリのそばにしゃがみ込む。
 からだは冷え込む一方だ。

「ほんと悪いことしたと思ってるよ。ごめんな」

 マツリが何を言いたいかまるでわからなかったが、私はもう一度謝った。

「大したことじゃありません。毛布ならまた引っ張り出せばいいのです」

「ならよかったよ」

「なにせまつりの心は広いのですから」

「お気遣いどうも」


「やってるよ」

 あたしは答えた。
 一瞬気詰まりになっていたのが嘘のように、言葉がすらすらと出て来た。

「最近はスケジュールが合わなくて、なかなかライブまでこぎつけられないんだけどな」

「すごいんですね」

「すごくはないよ」

 エミリーは一度黙りこんでからゆっくりと、でもすごいと思います、と言った。
 そんなに大した話じゃない、と私は思う。

「ありがちな話だぜ?」

 いちおうあたしは断った。
 エミリーはそんなことは構わないと言うふうにうなずいた。

 エミリーの乗った電車が発車するのを見届けてから、あたしもまた電車に乗り込む。
 かろうじて席が空いていたので、座ることができた。
 
 しかし、座ったことで思考に余裕ができてしまい、ライブに行く前のことを思い出してしまった。

 エミリーと落ち合う前に、事務所に呼び出されていたのだ。
 
 心当たりはあった。
 というか、考えるまでもない。
 むしろ呼び出されるのが遅いくらいだった。

「なぜ呼び出されたかはわかりますか?」

 仕掛け人さま(エミリーがそう呼んでいた)は言った。
 声に張りつめたところがなかったので、あたしは身構えずにすんだ。

 けっきょく、あたしはいくつかの仕事を勧められた。

 街の美容院のカットモデル。
 洋品店のちらしに載せるためのファッションモデル。
 デパートのクリスマスセールでの一日限定売り子。

「ひとつふたつ適当に見繕っておいてくれ。
 あたしからの条件はとくにない。あんたに任せる」

 仕掛け人さまとやらは事務的にうなずいた。
 それ以上用も無いようだったので、あたしはコートを引っ掛けて、事務所を出た。

投下します


 雪は、いまだに降っていない。
 暖かい冬になるだろう。
 それが天気予報の見解だった。

 かわりに雨が降り続いている。

 なかなかやまない、しぶとい雨だった。

 あたしは気ままに踊っている
 ダンスレッスンは先生が体調を崩したせいで、自主練になっていた。

 踊ることは相変わらず新鮮なままで、あたしはけっこう楽しんでいた。


 ステップを踏んだり、腕を伸ばしたりするにも、
そこに例えば指先の動きを加えたり、感情をこめたりすることが出来る。

 すこしふざけてエミリーに習った日本舞踊の動きを取り入れてみる。
 おなじレッスンを受ける生徒たちから、ちょっとした歓声なんかがあがる。
 あたしはすこし得意になる。

 ひとしきり満足して、踊りをやめると拍手が上がる。
 そして、その集団のなかにマツリがいるのを見つけた。




「探してた漫画は見つかったか?」

「通信販売で頼みました。このあたりでは見つからなかったのです」

 手に入れる術があったことを喜ぶべきか。
 それとも、この辺で見つからなかったことを嘆くべきか。
 迷っているうちに、マツリは雨が止めばいい、と言って、カップの中身をすすった。

 すこし付き合ってほしい。
 マツリに誘われたので、喫茶店にいる。

 目的は教えてもらえなかった。
 
 楽しみにしておくのも悪くない、ってか。
 どうやら口に出ていたようで、その通りなのです、とマツリは満足げにうなずいた。

「雨がやむとよいのですが」

 マツリは繰り返した。
 やたら長ったらしい名の紅茶が入ったカップを、両手で包み込むようにしながら。


「このぶんじゃ難しいんじゃないかな」

 あたしは思ったままを口にする。
 マツリの表情は浮かないままだ。

 もう少しましな返答をすべきだったか。
 さほど間違った答えだったとも思わないが。

「完全にやまなくてもよいのです」と、マツリは言った。

「弱くなりさえすれば」

「リミットは?」

「今日中です」

 窓の外を見る。
 建物の中からでは、雨が強くなったか弱くなったかなんてわからなかった。
 けれど、降り続けていることに変わりはなかった。


 店員がやってくる。
 その手の上には、やたら大きいパフェが乗っている。
 間違いかと思ったがマツリはカップの位置をずらし、今空けた場所に置くよう促す。

「難しいけど、できることは簡単です」

 店員のごゆっくりどうぞ、みたいな言葉を待たずにマツリは言う。

「何ができるんだい?」

「わかりませんか?」

 あたしは首を振る。
 マツリがスプーンを取ってパフェをすくう。

「ただ、待つだけなのです」




 マツリについて、エミリーに訊いてみたことがある。

「神出鬼没です」

 難しい四字熟語を知ってるんだな。
 そう言うと、エミリーは少しむくれてみせたが、かまわず語ってくれた。

「ふっと現れて、ふっといなくなります。
 かといって存在感がないわけではありません。
 いなくなっても、それを感じさせないだけのなにかを残していきます」

「なんていうか難しいな。
 マツリに関する噂とかそういうのはないか?」

「ええと、選考試験荒らしをしているとか、
 お稽古に現れては、練習場を更地のようにして去っていく、とか」

「ちなみに、実際に見たことは?」

「いえ、人づてに知った噂と言いますか……」

「そんなもんだよなあ」

「すみません」

「いや、よくわからないってことがよくわかったよ」

「でも神出鬼没というのは本当です」

 大げさぶらず、毅然とした態度でエミリーが言う。
 あたしは深々とうなずいてみせるしかなかった。


 神出鬼没。
 正体不明。

 あげられたマツリの要素を声に出さず、読み上げる。

 そうすれば、なにかしらの繋がりが二つの言葉のあいだに表れるかもしれない。
 しかし、なにも思い浮かばなかった。
 神出鬼没、正体不明という二つの言葉のままで、新しい発見を得ることはできそうになかった。


「エミリーはじっさいに、マツリと話したことはあるのか?」

「ほんの少しですけれど、いちおうは」

「その時の話をしてくれないかな」

「ええ。以前、事務所に泊まったときです。
 目を覚ますと、なぜか私は応接室のソファに寝かせられていました。

 まわりの皆さんはまだ寝静まっているようだったので、
 私はなるべく音をたてないように部屋を出て、
 お仕事場にある古びた長椅子――ちょうど今座っているこれ――の上で、
 ジュリアさんが口を開いたまま寝ているのを見ました」

「それは言わなくてもよくないか?」

「知りません」

 エミリーは自分が座っているソファに視線を落とした。
 茶色の合成皮革に亀裂が入っていて、中から黄色いスポンジがのぞいてしまっている。


「思わぬ場所で目を覚ますなんて、大和撫子らしからぬことです」

 エミリーが暗黙にあたしを責めているのがわかった。
 柔らかなソファに寝かされたことが気に食わなかったのだろう。

 良かれと思ってさ。
 言おうと思ったが、なにを言ってもエミリーが余計に機嫌を損ねるのは目に見えている。
 あたしは何食わぬ顔をして、「それでマツリは?」と続きを促した。

「マツリさんの話でしたね」

 相変わらずエミリーはむくれていたが、気づかないふりをするあたしに根負けしたのか、話を続けてくれた。




 ジュリアさんを起こすにしても、
やっぱり時間が早かったので、
まず洗面台で顔を洗いました。

 手ぬぐいで顔を拭きながら、さてどうしようかと思案していると、不意に声をかけられたのです。

 早起きですね、と。

 少々面食らいました。
 と言うのも、ずいぶん明瞭な声で、起き抜けの人らしくなかったからです。
 
 その一瞬の動揺を悟られぬよう、私は何か返事をしました。

 前の日に、期せずして昼寝のようなことをしてしまった。
 確かではありませんが、だいたいそのようなことを答えたはずです。


「なんにせよ早起きはいいことです」

 その人は言いました。

「まつりは夜更かしをしてしまいました」

 それで私はこの人がまつりさんというのだな、と思いました。
 同時に、先ほど言ったような噂と、目の前の人を突き合わせてもいました。
 正直に申し上げますと、その評判とはかけ離れたたたずまいだったので。
 もっと鋭い雰囲気を身にまとった方なのかなあと、私は漠然と思っていたのです。
 
「眠れなかったのですか?」

 私はこわごわ訊ねました。
 いつどこで私の想像していたような鋭さを垣間見せるのか、分かりませんでしたから。
 予想に反して、まつりさんはおっとりと私の質問に答えはじめました。


「なんにせよ早起きはいいことです」

 その人は言いました。

「まつりは夜更かしをしてしまいました」

 それで私はこの人がまつりさんというのだな、と思いました。
 同時に、先ほど言ったような噂と、目の前の人を突き合わせてもいました。
 正直に申し上げますと、その評判とはかけ離れたようなたたずまいだったので。
 もっと鋭い雰囲気を身にまとった方なのかなあと、漠然と思っていたのです。
 
「眠れなかったのですか?」

 私はこわごわ訊ねました。
 いつどこで、想像していたような鋭さを垣間見せるのか、分かりませんでしたから。
 予想に反して、まつりさんはおっとりと質問に答えはじめました。


「どうしても寝入ることが出来ませんでした。
 と言うのも、欲しい漫画があったのに、見つけられなかったのです。
 そのせいで、姫はそわそわしてけっきょく夜中の事務所から出かけました」

 すこし遠いけれど、深夜も営業してる本屋さんがあって、そこまで足を伸ばした。
 まつりさんはそう教えてくれました。

「それで、ご成果は」

 まつりさんは何も言わずにかぶりを振りました。
 私はあいまいな声を出して、嘆きを表します。
 すると、まつりさんも私と同じようにあいまいな声を漏らして、目を細めました。


 ちょうど朝日が窓から差し込んできていたのです。
 光の差す方を直接見てしまったので、私は目がくらんでしまいました。

「まつりはいったん帰ります」

 眩しさで白んだ視界のなかで、まつりさんが言いました。

「交通の具合もだいぶ良くなったみたいなので」

 私の返答を待たず、まつりさんは、ね、とだけ言い残して、その場を後にしました。
 たてつけの悪い事務所の扉がぎいと鳴ります。
 朝日に照らされたまま、私はまだ夢を見ているかのような、不思議な気分に陥っていました。



 エミリーは一つため息をつく。
 そして、わかりましたでしょうか、と訊ねてきた。

「わかったよ、よくわからないって以外のことも」

 答えると、エミリーが顔を綻ばせる。

「それはなによりです」

 しかし、じっさい、よくわからない以外のことがわかったとは言い切れなかった。

 あたしは硬いソファに座りなおす。
 エミリーは鼻唄なんて歌いだす。
 いつかまた機会があれば、エミリーに寝場所を選ばせてやろうなんて、あたしは思った。




 雨脚は多少ましになった。
 もちろん、雨が降っていることに変わりはなかったが。

 マツリは時間を追うごとに無口になった。
 あたしも無理に話そうとはしなかった。

 店を出がけに、ビニールの屋根の下から外へ向かって、マツリは腕を伸ばした。
 二人分の傘を持って、あたしはその様子を眺めていた。
 
 マツリは雨にさらされている手のひらを開いたり閉じたりして、雨の降り具合を確かめていた。

「大丈夫そうかい」と、あたしは訊ねた。

「雲がなくなればもっといいのですが」

 差し出した傘を、マツリは後ろ手に受け取った。

「ゼイタク言えりゃあ、上等だよ」

「仕方がないのです」


 マツリが傘を開く。
 赤地に白の水玉があしらってある傘だった。

 目立ちそうな傘だな。
 あんがい、そうでもないのです。
 つまらなさそうにマツリは答えた。

 あたしたちは雨の降りしきる町へと歩きだした。
 通りは、色とりどりの傘で埋め尽くされていた。
 マツリはその間を縫ってすいすい進んでいく。

 どこに向かうかなんて訊く間もなかった。
 もっとも、教えてくれる保証はなかったけれど。

 マツリの、あれだけ目立っていた傘が他のものに紛れてしまい、大部分のうちの一つになってしまっている。
 あたしは傘を目で追うのをやめて、マツリの軽快な足運びを見つめながら、それに倣って人ごみをかき分けていった。


 マツリが足を止める。
 あたしはやっと顔をあげる。
 暗いショーウィンドウのなかでマネキンが静止している。
 ここらへんでは有名なファッションビルだった。

 建物自体はともかく、店はもう開いていないはずだった。
 しかし逡巡することなく、マツリは中へと入っていく。
 なんとなく予想がついたので、あたしは口を開いた。

「ライブハウスだろ?」

 この建物の最上階にライブハウスがあることをあたしは知っていた。
 と言うのも、以前何度かバンドで出たことがあったからだ。


「そこに行くことに違いはないのです」

 マツリは含ませた物言いをして、エレベーターのボタンを押した。
 もちろん行き先は最上階。
 エレベーターを出る。
 カウンターのなかにいたスキンヘッドのおっさんがコーラを注ぐ手を止め、マツリに向かって口の端をあげた。

「来ないかと思ってたよ」

 おっさんが口を開く。
 あたしもいつか話したことがあった気がしたが、よく覚えていなかったので目礼にとどめた。

「雨に脚を掴まれていたのです」

「そりゃ大変だ」

 おっさんは片手でコーラを洋酒の瓶に持ち替えて、もう一方の手でマツリに鍵を突き付けた。

「行かないのですか?」

「あいにく中でいいことやってるもんでね」

 あたしは扉の向こうにあるはずのステージの方を見る。
 耳を澄ませてみるに、なにかやっているのは間違いなさそうだった。


「ま、ただの身内向けのイベントさ。鍵は後で返しに来てくれ」
 
 マツリは鍵を掲げながら、礼を言う。
 おっさんも紙コップを掲げ、扉の方へ向かったと思ったが足を止めて振り返った。

「なんでジュリアがいるのか知らないけど、たまには歌いに来てくれよな」

 あたしが何か答える前に、おっさんは扉の向こうに消えていった。
 考えとくよ、くらい言えればよかったのだが。

 ジュリアちゃんというのですね、とマツリは言った。
 まつりはまつりというのです、とも。

「わかってる」

 あたしは答えた。

「とてもよく知ってるよ」


 当たり前なのです。
 マツリが鼻を鳴らす。指先の鍵が、ちゃりちゃり音を立てる。

「まつりはお姫様なのですから、みんな知っていて当然なのです」

 やりとりもそこそこに、あたしたちは非常用階段をのぼり、屋上に通じる扉の鍵をあけた。

 傘をさす。
 向かって、すこし強い風が吹いている。

 いい風ですね。

 つぶやいたのはマツリだった。

「肌寒いけどな」

「風に乗っていくことだってできそうです」

「そりゃいいね」

「マツリは風なのですから」

「この前は星って言ってなかったか?」

 あたしが指摘すると、マツリはすこし眉をひそめて、
「まつりはなんにだってなれるのです」と尻すぼみに言った。


 当たり前なのです。
 マツリが鼻を鳴らす。指先の鍵が、ちゃりちゃり音を立てる。

「まつりはお姫様だから、みんな知っていて当然なのです」

 やりとりもそこそこに、あたしたちは非常用階段をのぼり、屋上に通じる扉の鍵をあけた。

 傘をさす。
 向かって、すこし強い風が吹いている。

 いい風ですね。

 つぶやいたのはマツリだった。

「肌寒いけどな」

「風に乗っていくことだってできそうです」

「そりゃいいね」

「まつりは風なのですから」

「この前は星って言ってなかったか?」

 あたしが指摘すると、マツリはすこし眉をひそめて、
「まつりはなんにだってなれるのです」と尻すぼみに言った。


 端の方までゆっくり歩いていく。
 空は暗かったが、見下ろされた町は雨の中でも光っている。

「これをあたしに見せたかったのか?」

 マツリは首を振った。

「あとほんの少し待っていてください」

 さすがに待ちくたびれたよ。
 言おうとしたとき、なにかがはじける音がした。

 音の出所の方角を見やると、また一度、花火が上がり、はじける。
 それが何回かあがって、数分休憩が入り、またあがってを繰り返す。

「花火大会にしちゃ遅すぎないか」

「こんな時期でもあるものはあるのです」


 花火が光り、少し間をおいて、爆発音が響く。
 残った煙は風に流され、雨の中へと溶けていく。

 濡れたコンクリート。
 冷えた風。
 火薬の匂いは届いてこない。

 そうしてみているうちに、三十分ほど経った。

 休憩時間にしてはだいぶ間があいている。
 そろそろお開きなのだろうか。


 花火に見惚れはなしだったので、あたしはまずなにから言ったらいいものか、わからなかった。
 先に口を開いたのはマツリだった。

「決めてほしいことが二つあるのです」

「決めてほしいこと?」

 マツリは何も言わずうなずいた。

「それはあたしに関係あることなのかい?」

「大いにあります」

 マツリがつま先で水たまりに触れる。

「すこしの間、マツリとステージで歌ったり踊ったりしてくれませんか?」


「降って沸いたような話だな」

 マツリのつま先から広がる水紋を眺めながら、あたしは言った。

「質問してもいいかい?」

「どうぞ」

「すこしの間ってどれくらいかな」

 始める前から訊くことではないような気がしますが。
 あたしに顔を向けず、マツリは呆れたような声をあげる。

「そうですね、春くらいまでということでどうでしょう」

「あたしが言うのもなんだけどさ、
 そんなにいい加減に決めちゃっていいのか?」

「まつりが決めることに、いい加減なことなどないのです」

「もしかして、事務所の差し金とかじゃないよな」

 マツリは首を振って、姫の独断です、と答えた。
 なぜかあたしは安心してしまった。
 あいつは悪いやつじゃなさそうだが、そこまで親切でもないはずだ。


「独断ってのはそれはそれで問題ありそうなもんだけどなあ」

「問題ありません。まつりは姫なのですから」

「ほんとうに何にでもなれるんだな」

 からかうように言うと、マツリはあたりまえと言うように鼻を鳴らした。

「それで、もう一つはなんだ?
 もしかしなくても、そっちも厄介事なのか?」

「かんたんなことなのです。
 この花火が終わったかどうかを決めてください」

「それを決めると、どうなるんだ?」

「ここで今日はお開きなのです」

「決めるまで帰れないってことか」


 マツリは何も答えず、あたしの向こう側に視線を移した。
 その先を追ってみたけれど、街も天気も変わりだす予兆は見えない。
 さっきまで花火が上がっていたのが、嘘みたいに静かだった。

 マツリにはなにか見えているのだろうか。
 ここから見える景色の中の、なにか特別な一点が。
 少なくとも、あたしにはなにも見えない。

 マツリが傘を傾ける。
 その横顔すらうかがい知れなくなる。
 雨を受けた派手な傘が街の光を受けて、きらきらと輝いて見える。

 あたしはまだ、手掛かりになりそうなものを探している。

第一部おわり

毎度修正多くて申し訳ない
続きもこのスレでゆっくりやります

スレ立てしたときには3月までに終わるものと思っていました…
投下します


 またあの夢を見てしまった。

 あたしはベッドの中にいる。
 突然、あたしの知ってる誰ともつながらない声が響く。

 今度は何を言われたのか、わからなかった。
 前と同じだったのは、あまり愉快な気分にはならなかったこと。

 そして結末も同じ。
 透明でやわらかなものがどこからかあらわれふくらみだす。
 あたしのからだは押しつぶされそうになる。


 もしかすると、これは夢なんかじゃないのだろうか。
 そう思ってしまうほどに、息苦しくなった。
 むしろ普段起きていると思っている時間の方が、夢なのではないかと思ってしまうくらいだ。

 けっきょく、この夢が何を示しているのか。
 あたしはわからなくなった。
 初めてこの夢を見たときは、自分がアイドルを拒絶していることのあらわれかと思った。
 しかし、この期に及んでこれだけ強い拒絶があるというのも考えづらい。

 なにかメッセージのようなものはないか。
 息苦しさで薄れゆく意識のなかで、どうにかそれを探し出そうとする。
 目覚まし時計が音をたてる。
 舌を鳴らして、あたしは起き上がる。


 メッセージのようなものはけっきょく見つけられなかった。
 しかし、覚えていられなかったのかもしれない。
 普通、夢の中身なんて忘れてしまうものだ。

 まったく、なんだってんだ。

 あたしはアラームを止めて、ギターに手を伸ばす。
 いつも通りギターは腕の中に収まる。


 こんな悪いこともあったが、いいこともあった。
 ボーカルレッスンの先生が変わったのだ。
 おかげであたしはボーカルのレッスンに参加できるようになった。
 なぜかぼろくそに言われることに変わりはなかったのだが、それでも以前を思えばましに思えた。

 あたしはエミリーにそのことを書き綴って、手紙を送った。
 正直、手紙を書くのは不得意だった。
 しかし向こうから住所を知らせる手紙がわざわざ来たのだ。
 さすがに何もしないわけにはいかない。

 ちなみに、前任のおばさんはと言うと、偉い人になったらしい。
 後任者に目をつけられているような気がしたのも、それならうなずける。


「幸運でしたね」

 痩せ男が書類に目を通しながら言う。

「人に見てもらう機会ができるのはいいことです」

「そりゃ違いないけど、劇場の方に空きはでないのか?」

「残念ながら、以前申し上げたときと状況は変わりません」

「そこを何とかさ」

「努力はしてみます」

 時間ができたおかげで、あたしはよく事務所に顔を出すようになった。
 痩せ男はたいていデスクに座って、なにやらしていた。
 顔を合わせるたび、あたしは何か仕事はないか訊ねた。

 小さな仕事があればそれをもらった。
 何もなければすぐに引き下がった。


 痩せ男は、同じようなことを何度言われても意に介さないようだった。
 要は適当にあしらわれているということだろう。

 もっとも、それであたしは気兼ねなくあれこれ訊いたり、口出ししたりすることができた。
 なにか言って、答えが返ってきて、それでおしまい。
 決して面白いわけではないが、気楽と言えば気楽だった。

 ただその日は違った。


 いつも通り、あたしは仕事があるか訊いた。
 痩せ男はないと答えた。

 劇場でなにかする日でもなく、レッスンもなかった。
 あたしはそのまま帰ろうとした。
 すると、痩せ男に呼び止められた。
 
「頼みごとがあるのですが」

「なんだ、仕事か?」

「仕事と言えば仕事ですが、仕事と言うほどのものではありません。
 どちらにせよ、本来あなたの領分ではないことです」

「じゃあ引き受けなくてもいいってこと?」

「無理にとは言いません。けれど引き受けていただきたい」

 痩せ男はふかぶかと頭を下げた。
 痩せ男が頭を下げるなんて、予想だにしなかった。

「わかった、わかったからさ、そういうのやめてくれよ。
 あたし、かしこまったのは苦手なんだ」


 痩せ男が頭をあげる。
 あたしは覚悟する。
 こいつがこれだけ頼み込むのだから、よほど大ごとに違いない。

「ありがとうございます」

 しかし、その頼みごとについての説明を終えると、痩せ男は何事もなかったかのようにふたたびデスクに向かった。
 そしていつものように、あたしが事務所から出ていくのを見送ろうともしなかった。




 寒々した日々は終わっていた。
 すでに汗ばむ陽気と言ってもいい。
 日を受けた木々が青々と輝いている。
 落ちた葉が一ヶ所に集められていて、小さな山を成している。
 その山の上で、木漏れ日が揺らめいている。

 横断歩道を渡り、路地裏に入る。
 せまい道をいっぱいに使ってトラックが走っていく。
 あたしは塀にくっつくようにしながら進む。
 
 痩せ男の依頼は、あんがい簡単なものだった。

 レッスンの講師から、貸した教本をそろそろ返してほしいと催促があった。

 間の悪いことに、それをあるアイドルに貸し出してしまっている。
 しかもそのアイドルと電話がつながらない。
 だから、そいつの家まで行って来いとのことだった。


「もし家にいなかったらどうするんだ?」

 訊ねると、痩せ男はそんなこと考えたくもないという風に首を振り、深く息を吐いた。

「それか断固として出さないとか言われたら」

「そのようなことはないかと」

「悪いやつじゃないってことだ」とあたしはしたり顔で言った。

「考えたくないのは、家にいないか、教本ををなくしてしまっているかのどちらかですね」

「あとあたしの気が変わること」

「簡単なことです」

 痩せ男はあたしの冗談に取り合わず続けた。

「その方の家に行く。
 教本はないか訊いてくる。
 あるようなら受けとってこちらへ戻って来ていただきたい。
 それ以外なら、そのままお帰り下さってけっこうです」


 与えられた地図とまわりの建物を交互に見る。
 電柱に貼られた番地のプレートと住所のメモを照らし合わせる。
 そして目的地である建物を発見する。
 決して大きくはないが、小ぎれいなアパートだった。

 教えられた部屋の前で、ためらいなくチャイムを鳴らす。
 しかし反応はない。
 もう一度、今度はゆっくり鳴らしたが、返事はない。

 あたりを見回し、扉に耳をつける。
 人の気配があるかどうか、定かではない。


 部屋の主は外出中のようだとあたしは決めてかかった。

 電話をかけ、痩せ男の落胆した声を聞いて、後は自由行動だ。
 近ごろは劇場での雑用やギターの練習で、根を詰めてしまっていたかもしれない。

 このまま家に帰るもよし。
 どこかで時間を潰すもよし。
 新しく出来たという洋食屋に立ち寄ってみるのもいい。

 念のため、ドアノブを回す。
 あっけなく扉は開く。
 考えていたことが一気に吹き飛んだ。
 廊下がまっすぐ続いていて、奥の部屋の扉は閉ざされている。

 おそるおそる呼びかけてみるも、やはり返事はない。


 あたしは迷いながらも中に入る。
 いちおう、人がいるか確かめるくらいのことはしてやろうと思ったのだ。

 しかし、これで後ろから誰か入ってきたら、たまったもんじゃない。
 背後に気を払いながら、ふたたび呼びかけようとする。
 だが思った以上に声が上ずりそうだったので、やめた。 

 足もとをよく見ると、パンプスやら運動靴やらサンダルが乱雑に転がっている。
 自分の靴をていねいにそろえると、そこだけ光って見えそうなくらいだ。

 すり足で廊下を歩き、玄関を開けたときと同じようにドアノブに手をかける。
 そしてなるべく静かに扉を開ける。


 すると、まずゆるやかに風が通り抜けていき、次に甘いにおいが鼻を突いた。
 それもマツリのよく食べるような、べったりしたものではない。
 ほのかで、複雑さのあるにおい。

 明かりは消されているが、外からの光で暗いということはない。
 部屋中の窓が開け放たれている。
 じっと見ると、塊のようなものが部屋のすみでかすかに動いている。

 悲鳴をすんでのところでとどめる。
 かわりに喉の奥で、金属の擦れるような音が鳴る。


「どちらさま?」

 塊が声をあげ、その身を揺らす。
 あたしは深く息を吸い、事務所の名前とここに来たいきさつを告げる。
 声の上ずりは押さえきれなかったが、この際仕方ない。
 それによくよく見ると、普通の人間、普通の女が座り込んでいるだけのことだった。
 何も恐れることはない。

 あたしが説明を終えると、女は手を打った。
 そして、教本のことをすっかり忘れてたと言った。
 妙なことにその一連の動作に、芝居がかった様子はみじんもなかった。
 あたしが部屋に押し入ったことに対しては、とくに意見が無いようで安心した。

「じゃあ早く出してくれよ。
 あたしは別に困らないんだけどさ、
 事務所がどうも困ってるらしいんだ」

「そうですよね。ごめんなさい」

 部屋のなかは、散らかっているどころの騒ぎではなかった。
 乾いた洗濯物が、かごの中からあふれ出している。
 お菓子の包み紙が石ころみたいに落ちている。
 無造作に置かれたリモコンのふたは取れていて、電池がむき出しになってしまっている。


 しかし、何より目を引いたのは部屋の真ん中に置かれたテーブルだった。
 その上に、大きなケーキの乗った皿がどっかり乗せられている。

「でも、すこし時間をくれませんか?
 見ての通り、私今すっごく悩んでるんです」

「いったい何に悩んでるんだ?」

「初めから話すことになるけど、いいですか?」

 痩せ男からすぐ戻ってくるようには言われていない。
 あたしは大きくうなずいてみせた。


「私、そろそろ誕生日になるんです」

「そりゃおめでとう」

「やだ、まだ誕生日じゃないですよ。せっかちですね」

 女は笑い声をあげた。
 あたしは反論しようとしたが、構わず女は喋りつづけた。

「それで私、自分の誕生日になると、
 ケーキを焼いてみんなに配ることにしてるんです。
 でも、何の準備もなしにケーキを焼くのって不用意だなあって、
 今年になってやっと気づいたんですよ!

 だって私、他の人よりはケーキを作る方だと思うけど、
 ケーキ屋さんじゃないから毎日焼いてるっていうわけじゃないし、
 ぶっつけ本番で作って失敗するのって、嫌じゃないですか。
 それで、今日はケーキを焼く予行演習をしようって決めたんです。

 となると、材料を揃えなくちゃいけないでしょう?
 まず私は買い物に出かけました。
 外は鼻歌を歌いたくなっちゃうくらいいい天気!
 こんな天気みたいなケーキが作れたらいいなあって思いながら、
 恥ずかしい話なんですけど、ついスキップなんかしちゃって」


「ちょっと待ってもらっていいかな」

「なんでしょう?」

「あたしたち、いちおう同僚って言うことになるからさ、もっと気楽に話してくれていいよ」

「そうですか? じゃあお言葉に甘えて。それでね……」

「悪い、あともう一つあって」

「ああ、ごめんなさい! 初対面の人に名乗らないなんて失礼よね。
 私、どうも抜けてるところがあるみたいで」

「うん。それもすごく大事なんだけど、
 まず知りたいのは、あんたがなんで悩んでるかってことなんだ。
 あたしにできることなら協力するからさ」


「ほんと? ありがとう」

 女は屈託なく笑った。

「でも名前がないと不便よね。
 いくらなんでもあなたのことを『教本取り立て屋さん』とか『赤毛のねこ』とか呼ぶわけにはいかないもの。
 私だって『うるわしの君』とか『教本取り立てられ屋さん』とかだったらいやだし。
 いや『うるわしの君』なら呼ばれてもいいかな。
 でも今は私の名前よね。
 私は北上麗花って言います。よろしくお願いします」

「ああ。あたしはジュリア。よろしく」

「ジュリアってすごい名前! 外国の人?」

「そういうわけじゃないんだけどさ……」

 あたしは答えに困った。
 しかし、キタカミレイカの言うことももっともだった。
 言われてみれば、これまで何も訊かれなかったのが不思議なくらいだ。


 ひとまずあたしは話題を打ち切ることにした。
 気が進まないのもあった。
 それに、その話をするといつまでたっても本題に入れなさそうだった。

「その話はまたの機会にするよ。とにかく、悩みの話を頼む」

「わかった。悩みって言うのはこれなの」

 キタカミレイカがケーキに視線を落とす。

「失敗したのか?」

「ううん、違う。
 まだ食べてないけどケーキはとてもおいしく出来たはず。
 思わずうっとりしちゃうようなケーキ!
 これが本番じゃないのが残念なくらい。
 でもだからこそ悩んでるの」

 キタカミレイカはその辺に置かれていた袋をがさごそやって、何やら取りだし、テーブルの上に置いた。
 赤、黄、緑、パステルピンク。
 色とりどりのろうそくがビニールの包装のなかで束になっている。


「これが悩み」キタカミレイカは本当に悩ましげに息を吐いた。

「バースデーケーキってろうそくを刺すものでしょ?
 初めは練習のつもりだったんだけど材料を買ってるうちに、
 どうせ後で買うんだからいいわよねって、二ダース買っちゃったの。

 それが大間違い。
 こんなに素敵なケーキが焼けたんだから、
 ろうそくを刺したほうがいいんじゃないかっていう気持ちになってきてね……。

 でも、これはバーステーケーキじゃない。
 普通のケーキにはろうそくなんて刺さない。
 となると、このケーキにもろうそくは刺さずに、このまま食べた方がいいのかもしれない。
 そうやって考えてるうちに、もうどうしたらいいかわからなくなっちゃった」


「刺したらいいんじゃないかな」

 あたしは言下に答えた。
 キタカミレイカは驚いたようにあたしを見る。

「それだって予行演習のうちになるんじゃないのか?」

 キタカミレイカの顔が、見る見るうちに輝きだす。
 そして包装をていねいに破り、二三本のろうそくを取り出す。

 本番じゃないからすくなめだけど、とキタカミレイカは心底残念そうにこぼしていた。
 取り出されたろうそくが、ケーキへと刺されていく。
 次にキタカミレイカはどこからかマッチを取り出した。


 キタカミレイカの動きに迷いはまるでなかった。

 マッチなんてあんたが使うには危ないんじゃないか。
 そうあたしが口を挟む間もなかった。

 マッチ棒をはさんだ指が素早く動く。
 かすかな音が部屋の中で鳴る。
 指先の延長線上に火がともっている。
 丸めたてのひらの内側から、白い煙が立ち、風の吹く方へとたなびいていく。

 キタカミレイカは手際よく、ろうそくに火をともした。

 その間、会話を交わすことはなかった。
 声を出すことすら、ためらわれた。
 ケーキのろうそくに火をともす。
 それだけのことが、神聖な儀式のようにすら思われた。


「バースデーケーキのろうそくの火を吹き消すのって、私、好きなの」

 キタカミレイカはもごもご口を開いた。
 マッチの火はすでに消されていて、代わりにろうそくの火が風に揺られていた。

「歳を重ねるごとにろうそくも一本ずつ増えるでしょ?
 でもある年齢に差し掛かったら、ろうそくの数が減っちゃった。
 何で減ったんだろうと思ったわ。
 その年を境に、私の年齢が一つ一つ減っていくのかしらって考えちゃったくらい。

 みんなに訊いてみると、
 たくさんろうそくを刺して、
 それに火をつけるのは面倒とか危ないとか、たしかそんな感じに答えられたかな。
 
 いちおう私は納得することにしたの。
 面倒なのも危ないのも確かだから」

「そうだな」


「ケーキの上で円状に並んでるろうそくの火を消すのって、たいへんじゃない?
 あれって少しでも手を抜くと、絶対一本か二本残るのよ。
 だから、全部消すために思いきり息を吸って、思い切り吐く。
 その間だけは、他に何も考えられない。
 でも、それってとても楽しいことだと思うの」

「うん」

「火が消えて、暗がりのなかで白い煙だけがろうそくの先から浮かび上がって、
 一緒にテーブルを囲んでくれていた家族や友達が拍手をしてくれる。
 部屋の明かりがついて、ナイフを持った母親がケーキを切り分けてくれる。

 でも私は、ろうそくの火を吹き消せたっていうことだけで、
 胸がいっぱいになっちゃって、お祝いの言葉なんてどうでもよくなっちゃってるの。
 けど、せっかくお祝いしてもらってるのに、
 まったく関係ないことを考えちゃってるのは、さすがにいけないかしら」

「かもしれないな」

 あたしはどうにか場所を見つけて座り込み、

「でもそれが好きなんだろ?」


 キタカミレイカがにっこり笑って、深く息を吸いこむ。
 ケーキの上、ろうそくの火が見事に吹き消される。
 切り分けられたケーキは、たしかに今日の天気みたいな味がした。

 それを食べ終えると、あたしはキタカミレイカに電話をかけさせた。
 もちろん事務所に。
 電話がかかって来たのに、キタカミレイカはまるで気づかなかったらしい。
 玄関のチャイムが鳴ったのにも気づかなかったのだから、無理ないことだ。

 予想外に電話はすぐ終わった。
 どうせ、さっきみたいに長話を始めるのだろうと踏んでいたのだ。
 どんな手を使ったのか、あたしは痩せ男に訊きたくなった。


 しかし、本当に厄介なのはそれからだった。
 当の教本が見つからないというのだ。
 そのせいであたしまで部屋の片づけに付き合わされる羽目になってしまった。

「ごめんなさい」

 キタカミレイカは衣服の入ったかごを部屋の端へと追いやった。

「いろいろ予定とかもあったんでしょ?」

 予定があったわけではないが、やろうと思っていたことは多くあった。
 ただ、今言われるまでそれをすっかり忘れていた。
 あたしの心は、すっかり先ほどのろうそくの火で満たされていた。


「私、また近いうちに、今度は本番のケーキを焼くから」

 キタカミレイカはやはりあたしの返事を待たず言葉を継いだ。

「そのときもよろしくね」

 あたしは散らばっていたお菓子の袋という袋を拾い上げ、ゴミ箱に放る。
 教本と関係なさそうなものが、部屋のあらゆる場所で積みあがっていく。
 部屋に差し込む光は淡くなり、物々がつくる影も薄くなる。

 それでも教本はまだ見つかりそうにない。

 強い風が吹きこんでくる。
 白のレースのカーテンが、部屋の内側に向かって大きくひるがえった。

今日は以上です


 そちらはそろそろ暑くなる頃でしょうか。
 私のほうは変わりなく元気で過ごしています。

 不便なことと言えば、こちらでは横文字を使うのを免れ得ないところです。
 相手に通じない言葉で話しかけるわけにもいきませんしね。
 でも、これはこれでなかなか新鮮です。
 また違う文化を知るような気持ちになれます。

 もともと自分が住んでいたところなのに、おかしいですね。
 けど、そう思ってしまったのだから仕方ありません。
 そんなふうですから、思っていた以上に楽しく日々を送ることができています。
 もちろん、早くそちらに戻りたいという気持ちは相変わらずなのですが。


>>7
× もっと荒くれたもんだと思ってたので、私は安堵した。
○ もっと荒くれたもんだと思ってたので、あたしは安堵した。

>>8
× おっさん(たぶん偉い人)は向かいに座り込んで書類と私の顔を交互に眺めた。
○ おっさん(たぶん偉い人)は向かいに座り込んで書類とあたしの顔を交互に眺めた。

>>21
× だけど、その名を私が知るみんなが知っている。
○ だけど、その名はあたしを知るみんなが知っている。

>>86
× あたしは黙ってまつりの次の言葉を待った。
○ あたしは黙ってマツリの次の言葉を待った。

>>87
× マツリが何を言いたいかまるでわからなかったが、私はもう一度謝った。
○ マツリが何を言いたいかまるでわからなかったが、あたしはもう一度謝った。

>>96
× そんなに大した話じゃない、と私は思う。
○ そんなに大した話じゃない、とあたしは思う。

>>131
× 「マツリさんの話でしたね」
○ 「まつりさんの話でしたね」

>>352
『エミリーからの手紙②』を『エミリーからの手紙』に修正

ミスが多くて申し訳ない限りです…
見直して問題なければ今日の9時ごろから最後まで投下しようと思います

投下します


 まずは、ご出演おめでとうございます。
 お祝いにしても、すこし気が早いでしょうか?
 いずれにせよ、ジュリアさんが出演なさることに変わりはありません。
 素晴らしいことだと思います。

 催事について、ご存じなかったのですね。
 夏の終わりなんて、ずいぶん先のことのようでしたが、こうしてみるとあっという間です。
 私の場合は、事務所に入った当初に、催事についての説明を受けたことと記憶しています。
 そのときいただいた資料でも、たしか言及されていたかと。
 仕掛け人さまのおっしゃられた通り、どこかで行き違いが生じたのでしょうね。
 ただ、それによって不都合が生じたわけでもないようですので、一安心です。


 さて、私はと言えば催事に出られない分、日々の鍛練を続けております。
 これでは、今までのお手紙と変わりないでしょうか?
 しかしながら、「雨だれ石を穿つ」という諺もあることです。
 もちろん、それ以外にもお借りした音源を聞いたり、近場で催される小さなお祭りを見に行ったりしているんですよ?
 このように、ほどほどに休息も取っているのでご安心ください。

 それでは、月並みな言葉になってしまいますが、遠くの地より公演の成功をお祈りしております。

 追伸

 北上麗花さんなら、何度かお稽古をご一緒させていただいたことがあります。
 あまり多くの言葉を交わしたことはないのですが、とても綺麗で聡明な方ですよね。
 私のような者でもお近づきになれるでしょうか……?


 やっとか、という思いだ。
 夏のイベントでもしかしたら、という予想はしていた。
 しかしじっさいに、パンフレットに彼女の名が連なっているのを見ると、喜びを抑えることが出来なかった。

 あまりに姿を見ないので、なにかしらのトラブルでも起こしたのかとすら思っていた。
 だが、それは杞憂であった。
 
 彼女がどのような形でステージに立つのか。
 現段階では私には知ることもできない。

 当然のことであるが、今よりこのことを残念に思うことはない。
 しかし同時にそれを嬉しく思う。
 まだ私には驚く権利が残されているのだから。

 彼女がいったい何をしてくれるのか。
 この目にそれを焼き付けるため、私は劇場へ足を運ぶことになるはずだ。

 非常に楽しみにしております。


 大荷物を抱えた人々を見送っている。

 レイは来ていない。
 待ち合わせの時間まで、まだ少しある。
 一番星が出ている。
 まだ明るさの残る空で、白い月が静かに夜を待っている。

 それらをぼんやり見上げていると、声をかけられた。
 レイではなく、品のよさそうな老夫婦だった。
 じいさんのほうは、首からずいぶんごついカメラをさげている。

 この道で合っているのでしょうか。
 ばあさんの方から、訊ねられた。
 身動きするたびに腰に付けた鈴が鳴るのが、どこかおかしかった。


「あたしも人頼みなんで確かなことは言えないけど、
 みんなこの道に入っていくからあっているんだと思います」

 あたしが持って回った答え方をすると、ばあさんは頭を下げた。
 じいさんはにこにこしながら、首から提げたカメラを外し、こちらに差し出してきた。
 慣れない機械に手間取りながらも、あたしは二人の写真を一枚撮ってやった。
 二人は口々にお礼の言葉を過剰に並べたてたあと、他の人らと同じように山道に入っていった。

「ジュリアちゃんっていいとこあるのね」

 何食わぬ顔で現れたレイが口を出してきた。
 今の一連のやり取りをどこから見ていたかは知らないが、時間には間に合っている。

「レイにも優しくしてるだろ?」

「いつもありがとね」

 レイは山道のいく末を見つめる。
 日がほとんど暮れているのにもかかわらず、まぶしそうに目を細めながら。

「山歩き日和」

「レイが言うならそうなんだろうな」とあたしは伸びをした。




 山に行こうと、ふたたびレイに誘われたのだった。

 山登りって言うより、山歩きみたいなものよ。
 レイは微妙な言い回しで、さほど苦労を伴う誘いでないことを表わした。

 事務所のソファにもたれかかりながら、あたしは今度も断ろうとした。
 どうしてもいや、と言うほどのものでもない。
 いざやってみれば、悪くないかもしれないとは思う。
 だが、どちらかと言えばやっぱり気が進まない。

 それでも行こうという気がすこし湧いてしまった。
 そのわけは、だめ押しのようにレイにまくしたてられたからだった。


「その日、流星群が来るんだって。
 流れ星が見える間に三回願いを唱えると、願いがかなうって言うじゃない。
 流星群ってことは、それが束になって押し寄せてくるんだから、
 もう願い事のつかみ取りみたいなものよ!
 これは行かない手はないと思うの。
 ね、行きましょ?」

 その勢いに押されたのもあって、あたしはついオーケーを出してしまったのだ。

 思い返しても、断る余地はなさそうだった。

 もっとも、星を見るのは嫌いじゃない。
 だからと言って、取り立てて愛好家というわけでもない。
 ただ、そこまで言うのだったら、山歩きなるものをしてもいいかと思えたのだ。


「高いところから見る夜空ってどんな感じだ?」

 あたしが訊ねると、レイは知らないと言った。

 夜に登ったことがないから行くんじゃない。
 それに星を見に行くなんて、なんだかロマンティックでしょ?

 その言葉を思い出しながら、今目の前に立つレイに訊ねた。

「何も持ってきてないんだな」

「水とかお菓子ならあるわよ?」

「星を見るための道具だよ」あたしは望遠鏡をかついだ集団に目をやった。

「レンズ越しより、直接目で見たいじゃない」とレイは言下に答えた。

 その言葉に根拠はなさそうだったが、それもそうだなとうなずいた。
 そしてあたしたちは山道へと入っていった。


 見送った人々に比べると、あたしたちはずいぶん身軽だった。
 レイは、はずむようにして歩いていく。
 ほどなくして、周りの景色がうっそうとしてくる。
 ほとんど風が感じられないのに、梢の揺れる音がする。

「すこし早く来過ぎたかしら」とレイが口ずさむ。

「遅いよりはいいさ」

「それもそうね」

 ギターを背負ってもいないのに、背中で汗がにじむ。
 明るさは失われているのに、熱気は収まらない。
 さきほどまで青々していた木々の葉が、暗がりの中に溶けこんでいく。
 道脇まで顔を出してきた、背の低い草が足元をかすめる。


「ジュリアちゃんはどんな願い事をするか決めてきた?」

「そういうのって人に教えると叶わないんじゃなかったか」

 答えると、レイがぎょっとして立ち止まる。

「じゃあ唱えられないじゃない」

「小声にすればなんの問題ないだろ」

「出来るかしら」

「努力するしかないな」

 いい加減に答えたものの、あたしはまるで願い事を考えていなかった。
 いったい何を願えばいいか、思い浮かばない。
 決して無欲というわけではない。
 ひょっとすると、願い事が叶うなんて信じてないのかもしれない。


 レイは何を願うのだろうか。
 自分の願い事よりも、そっちの方が気になった。
 あれだけ目を輝かせて、願い事について熱弁したのだ。
 それこそたくさんの願いを持ってきたに違いない。

 あたしは自分の発言を後悔した。
 人に教えると叶わない、だなんて言うもんじゃなかった。

 勾配が急になってくる。
 それに反して、レイの足取りはみるみる軽くなる。
 レイのものでない声がほうぼうでする。
 けれど見回す限り、人の姿は見当たらない。
 あれだけの人を見かけたのに。
 皆どこまで行ってしまったのだろう。

 レイは息を切らす様子すら見せない。
 日頃のレッスンのたまものだろうか。


 けっきょく、レイのレッスンを見学する機会は訪れなかった。

 一緒に演る望みがなくなったとは言え、興味がなくなったわけではなかった。
 時間がまるで合わないということもなかった。

 しかし、どうもあたしの苦手なおばさんが頻繁にレイのレッスンに顔を出しているらしかった。
 心底いや、と言うほどでもない。
 ただそこまでして、見学しに行かなくてもいいかなと思ったのだ。

 レッスンはあんがい無難にこなしている。
 レイについてそういう評判を聞いたが、それは評判でしかない。
 だから、じっさいのところはわからなかった。


 反対に、見学されたことならあった。
 レイにではない。
 あのおばさんにだ。

 ダンスと歌のレッスンが連続で入っているときだった。

 初め、おばさんを見つけたときはすこし驚いたが、大して気にならなかった。

 ダンスなら分野が違う。
 さすがに口出ししてくることはないはずだ。
 おおかた、時間でも余っているところなのだろうと踏んだのだった。

 あたしの一つ目の予想は当たった。
 おばさんはレッスンの最後まで黙りこくったまま、腕組みしながら壁際につっ立っていた。

 しかし、二つ目の予想は外れた。


 歌のレッスンのときも、おばさんは壁際につっ立っていた。
 それも先ほどとまったくおんなじポーズで。
 まるで置物のようだった。

 今度こそ難癖を付けられる。
 そう思いながらも、あたしはいつも通りレッスンをこなそうとした。
 おばさんがいるからと言って、下手に力んだり手を抜いたりするのはいやだった。

 やたらに長く感じられたレッスンをどうにか終える。
 とうとう、おばさんが詰め寄ってきてなにかを言ってくることなかった。


 あたしは小声で挨拶をしながらおばさんの前を通り過ぎる。
 あたしの背中越しに、おばさんは小声で言った。

「歌って踊れるんだから、歌って踊ればいいじゃない」

 とても過去に歌のレッスンを担当していたとは思えない、こもった声だった。
 あたしは振り返らずに、スタジオを後にした。
 おばさんがあたしを呼びとめることはなかった。

 正直なところ、かちんと来た。
 おそらく、おばさんは先に控えているイベントでのことを言ったのだろう。

 だが、今回ばかりは歌おうが踊ろうがギターを弾こうが、あたしの勝手だ。


 今の今までそう思っていた。
 レイの鼻歌が聞こえてくる。
 足元に落ちた、乾いた葉が踏まれてざくざく音をたてる。

 ひたいに汗が伝う。
 この暑さと反対に、あの時感じた怒りは鎮まっている。
 おばさんの言ったことは、すくなくとも間違いではない。
 歌ったり踊ったりして、マツリの言った通り、今まで通りやればいい。

 もちろんギターを弾く方が踊ることより好きだし、得意だとも思う。
 ただ、踊ることだって、決して嫌いじゃない。
 アイドルになって、出来るようになったことをする。
 それを選ぶことも、間違いなく正解の一つになるはずだ。

 歌って踊ればいいのに。
 おばさんのこもった声が、頭の中で響く。

 それを皮切りにして、さまざまな声が堰を切ったように耳の奥で流れ出す。


 今まで通り。
 マツリが言った。

 あなたもその一人です。
 痩せ男が言った。

 ため息をすると幸せが逃げますよ。
 エミリーの跳ねるような笑い声。

 すげえ衣装だ。
 スキンヘッドが大笑いした。

 でもそれが好きなんだろ?
 あたしが言った。

 不気味ですらあった。
 評論家気取りの声も、どこからか浮かび上がってくる。


 アイドル?
 その後ろ姿に憧れてしまったのです。

 細やかさに欠ける。
 お星さまなのです。
 あなたの出す音は、綺麗。
 
 まつりとステージで歌ったり踊ったりしてくれませんか?

 今日はよかった。
 あなたの意見は?
 言いすぎだったかもしれない。
 どうしましょう。
 応援しています。

 笑えたよ。
 大切なことです。とても。
 バースデーケーキのろうそくの火を吹き消すのって、私、好きなの。
 そういうことってありふれてるものよね。

 次は君の番だ。
 ピザトーストなんかどう?


「大丈夫?」

 レイがあたしの顔を覗き込んでくる。

「すごい汗よ?」

 あたしは手の甲で頬を拭う。
 こんなところにまで、たくさんの汗が伝っている。
 濡れた手の甲が、わずかばかりの風で冷やされる。

「大丈夫さ」

 あたしはレイを見上げながら言った。

「山歩きはどうも不慣れでね」

「慣れないうちはたいへんよね」

「そう思う」

「ほんとにきつくなったら言って。でも、あとすこし」

「頑張るよ」

 そう来なくっちゃ。
 レイはふたたびずんずん歩き出す。
 あたしもやけくそになって、大股でその後についてゆく。




 レイの言った、あとすこしというのを、じつのところあたしは信用していなかった。
 もうしばらくはかかるだろうと踏んでいたのだ。

 しかし、それはほんとうだった。
 あれからすぐ、ひらけた場所に出られたのだった。
 ここが頂上かと訊くと、そんなわけないじゃない、とレイは笑った。

「だいたい中腹ってところかしら」

 得意げに解説を始めるレイを横目に、タオルを顔に押し当てる。

 ビニールシートを広げて、飲み食いしてる連中。
 でかい望遠鏡のまわりに集まって議論を交わす連中。
 退屈さに耐えかねて泣き出すこどもとそれをなだめる親。

 さまざまな人々がそこらに散らばっている。


「そういうわけで頂上まで登れないのは残念だけど、
 ここは星を見るのにうってつけのスポットなのよ」

 レイは懐中電灯をつけ、二人分が寝転べるだけの場所を探し、そこにビニールシートを敷いた。

 あたしは持ってきたラジオを付けた。
 キャスターは、気圧や前線について語っていた。
 そして、天体観測にはうってつけの気候となるでしょうと締めくくった。

 レイにならって、シートに寝転ぶ。
 すでに日は暮れ切っていて、いくつかの星が姿を現している。
 薄いシートをへだてて、地面の凹凸や小石が背中に食い込んでくる。
 人々の声は合わさり、一つのざわめきになってゆく。


「やっぱり早すぎたかしら」

 レイはさきほどと同じことをこぼした。

「うまく時間を合わせれば、
 ここにたどり着いた瞬間に、
 星降る夜空が私たちを出迎えてくれるの。
 もしそれが叶ったとしたら、とっても素敵なことだと思わない?」

「そんなにうまくいくか?」

「うまくいくかどうかなんて、やってみなくちゃわからない。
 けど、もう私たちは取り返しのつかないことをしちゃったんだと思う」

 レイが深くため息をつく。
 薄暗い色をした小さな雲が、高いところでそのかたちを伸ばしてゆく。


「そういうわけで頂上まで登れないのは残念だけど、
 ここは星を見るのにうってつけのスポットなのよ」

 レイは懐中電灯をつけ、二人分が寝転べるだけの場所を探し、そこにビニールシートを敷いた。

 あたしは持ってきたラジオをつけた。
 キャスターは、気圧や前線について語っていた。
 そして、天体観測にはうってつけの気候となるでしょうと締めくくった。

 レイにならって、シートに寝転ぶ。
 すでに日は暮れ切っていて、いくつかの星が姿を現している。
 薄いシートをへだてて、地面の凹凸や小石が背中に食い込んでくる。
 人々の声は合わさり、一つのざわめきになってゆく。


 らしくないことを言うものだ。
 今になって気付いた自分の過ちを、そんなに悔いているのだろうか。
 あたしからしてみれば、大したこととは思えない。

 それとも本番を前にして、神経質になっているのかもしれない。
 だったら、まだ納得がいく。
 レイだって、そういうふうになることだってあるはずだ。

 しかし、突然レイが大きな声でなにやら言って飛び上がる。
 あたしは寝転がったまま訊き返す。

 レイはにこやかにしながら、
「早口言葉の練習をしない?」と言った。
 
「早口言葉?」

「流れ星って一瞬で通り過ぎちゃうから、
 いざ願い事を言おうってときに口が回らないと大変でしょ?」


 レイの大声で、周囲の人々までこちらに注目している。
 それもあって、あたしはその練習に付き合うのを断った。

 あたしはやらないけど、やるんなら静かにやってくれよな。

 レイは不服そうにしながらも、低い声で早口言葉を唱え始めた。
 ほどなくして周りの人々までもが、同じように低い声で早口言葉を唱えるようになった。

 間違いなく、いつも通りのレイだ。
 余計なことを考えてしまった。
 あたしはタオルを畳んで、頭の下に敷く。
 早口言葉は続いていて、あたしのまわりで渦を巻くみたいに漂っている。




 それは音もなく始まった。
 なのに、あたしは目を覚ました。
 その瞬間、絵筆を走らせたようにして、一筋の光が夜空を通り過ぎた。
 人々が歓声をあげる。
 その話しぶりに耳を傾けると、さっきのが最初の流れ星だったらしいということが分かった。

 目を覚ましたら、今日最初の流れ星が流れた。
 ただそれだけのことで、あたしの頭に奇跡と言う単語がよぎった。
 レイの大げさな口ぶりに影響されただろうか。


 それから多くの流れ星が降り続けた。

 先ほどの騒がしさも、歓声も、とうに止んでいる。
 寝転んでいた人々も立ちあがって、ぼおっと空を眺めている。

 レイはと言うと、見事に眠ってしまっていた。
 あたしもレイもいつの間に寝入ってしまったのだろうか。

 その肩をつかんで揺する。
 レイがうめき声を漏らす。
 容赦なく降り注ぐ夜空の星を見上げたまま、あたしは願い事のことを思いだす。
 ここまで来ると、すっかりレイの趣味に付き合ってやる気になってしまっていた。


 肩をつかむ手にさらに力を入れ、素早く願い事を唱える。
 早口言葉なんて練習しなくても、問題なく口は回る。

 その後で、レイが目を覚ましからだを起こす。

 周囲の声がぽつぽつ戻ってくる。

 あたしはまた寝転んだ。
 もちろん目を開いたまま。
 レイは口も開けたまま、空を見上げているようだった。

「たくさん降るのねえ」

 レイは感心したように、感想を述べた。

「でも、思ってたよりあっけないかも」


「どんなのを想像してたんだ?」レイの後頭部越しに見える星たちを眺めながら、あたしは訊いた。

「見た瞬間に思わず息を呑んでしまうような、それはもう美しい光景。
 それこそ、気づかないうちに涙を流しちゃうような。
 今見ているものが美しくないっていうわけじゃないの。
 じっさい、とってもきれいだと思う。

 期待しすぎちゃってたのかも。
 でも決してがっかりしてるわけじゃないの。
 ごめんなさいこんなこと言っちゃって。
 私から誘ったのにね。
 こういう時にウソでも感動したふりができたらよかったんだけど」

 なるほどね。
 しばらく間を空けてから、あたしは答えた。
 夜気に冷えた土の匂いが近い。
 レイは星ではなくあたしの顔を見ている。
 星はまだまだ降りそそいでいる。


「願い事ってやつはしなくていいのか?」

 レイの表情がゆるんだ。
 それを見て初めて、レイの表情がこわばっていたということにあたしは気づいた。

 まあ、あんなこと言っちゃったけど。
 せっかく来たんだもんね。
 しなかったからって、まったく叶わないってわけじゃないと思うけど。

 レイは言い訳がましいことを延々と並べ立てた。
 延々と話すのは普段通りだった。
 けど、どこか焦っているふうでもあった。

 その様子がおかしくて、あたしはすこし笑った。
 レイは話すのをやめた途端、泣きそうな顔をした。
 あたしは驚いたが、よくよく見ると、いつも通りのこまやかな笑い顔だった。

 そしてレイは空の方へと顔を向け直し、何やらぶつぶつ唱え始めた。




 流れ星はすっかり見えなくなった。
 ついさっきまでが嘘のように、穏やかな夜空が広がっている。
 人々はそれぞれの荷物を畳み、山のふもとへと戻りはじめた。
 片付けを進めるレイを見下ろしていると、入口で会った老夫婦に出くわした。

 二人はあたしに気づくと、これ以上ないくらいていねいなお辞儀をした。
 あたしもふかぶか頭を下げた。
 ばあさんの腰に付けられた鈴が、ちりんと鳴った。

 みんなと同じように、あたしたちも広場を後にする。

 懐中電灯片手に、人々がぞろぞろ山を下りていく。
 登っていたときに聞こえたさまざまな音は、人々の声が近いせいかほとんど聞こえることはない。
 そのなかで、レイはあれこれ口を開かず歩みを進めている。
 ときおり、大きなあくびをまじえ、目の端に涙を浮かべながら。


 人の多さで、思うように先へ進んでいけない。
 そのせいで余計に足取りが重くなり、疲れが増す。

 レイはどんなふうにして泣くのだろう。
 先ほど、レイが自分で言っていた。
 気づかないうちに涙を流しちゃうような、と。

 何か考えることで、あたしは疲れを忘れようとしたのだった。
 あまり趣味のよくない想像だとは思う。
 しかし、思いついてしまったのだから、仕方ない。

 さめざめと泣くのか。
 それとも大声をあげて泣くのか。

 どちらも、想像がつかない。
 ただ、どこかあけっぴろげでありそうな、そういう予感はある。


 それはなんの予兆もなく始まる。

 レイが泣き出す。
 原因は誰にもわからない。
 みんなが視線をレイに向ける。
 なのに、誰もが声をかけることはできない。

 当のレイははらはら涙をこぼし続けている。
 ようやく、一人また一人と口を開き出す。

 なにがあったのか、とか。
 どこかが痛む、とか。
 通り雨のように泣き出したこどもを相手にするような言葉を投げかける。

 しかしレイは何も答えない。
 ただただ首を横に振るばかりだ。


 ついには、みんなあきらめる。

 決まり悪さにその場を立ち去るやつもいれば、残ってしまうやつもいる。
 残った奴らも目のやり場に困って、視線を宙にさまよわせている。
 そうしているうちにレイはすっかり泣き止んでいる。
 何事もなかったかのように、へらへらした表情を浮かべながら。

 もうみんな何が起こったのかわからなくなっている。
 その様子を見たレイが口を開く。

「みんなどうしたの?」


 ばかげた想像だ。
 考えるのをやめ、前を見据える。
 レイがこちらを振り返り、遅くなっちゃったねとまたあくびを漏らす。

「叶うかしら、願い事」

「どうかな」

「ジュリアちゃんはどんな願い事したの?」

「教えたら叶わなくなるって言ったじゃんか」

「つまりジュリアちゃんにも叶えたい願い事があるってこと?」

「そういうことになるな」

「じゃあ教えてもらえないんだね」とレイは肩を落とした。


「別に大した願いじゃないんだけどな」

 そうあたしは前置きした。
 教えてしまってもいい気がしたのだ。
 それに、おかしな想像をしたという引け目を勝手に感じたのもあった。

「歌やギターがうまくなりますように。
 レッスンやステージが首尾よく行きますように。
 正確なところはすこし違ったかもしれないけど、だいたいそんなところだ」


「言っちゃって大丈夫?」

「まあ、絶対叶わないってこともないだろ。
 それにありきたり過ぎて面白くないから、隠す必要もない気がしてさ」

「それもそうね」

「レイは何を願ったんだよ」

「教えたら叶わないんでしょ?」

 レイは言った。

「私のは、ありきたりじゃないの」


 あたしは押し黙った。
 レイは満足げに笑うと、わざとらしいくらいの大股で歩きはじめた。

「でも失敗しちゃった」

 前を向いたままレイは言った。

「あれだけ星があったのに、一つしか願い事をしなかったのは、大失敗」

 あたしは天を仰ぎ、息を吐いた。
 流れ星はもう見えなかった。
 そこには晴れた日に姿を現す星々が、いつものように見られるだけだった。


 レイの願い事は、教えてもらえなかったな。
 ふとあたしは思い出す。
 レイは自分のした願い事をまだ覚えているのだろうか。

 ずっと覚えていそうな気もする。
 あっという間に忘れていそうな気もする。
 たしかなのは、ありきたりじゃないあっと驚くような願い事を一つだけした、ということだけだ。


 ノックの音が響く。
 事前に言われていた時間より、すこし早い。
 しかし楽屋の扉を開けたのはスタッフじゃなくて、レイだった。

 緊張していてもたってもいられなくなった、ってわけじゃないのよ。
 隣の椅子に腰かけたレイは、会話の合間にこのフレーズを呪文のように何度も唱えた。
 あたしはギターを弾きながら、調子はどうとか、そういうつまらないことを訊いた。


 レイが頬杖をついて、あたしの脚に乗せられたギターを覗き込む。

「触ってみてもいい?」

 あたしはうなずいてみせる。
 レイの手が伸びてくる。
 ぎこちなく弦が弾かれ、その振動が音となり楽屋を満たす。

「もし、一緒にやることになってたら」

 ギターを見据えたまま、レイが言った。

「ジュリアちゃんはギターを弾いてた?
 それとも、歌ったり踊ったりしてたと思う?」


「どうだろうな」とあたしは頭をひねった。

「ジュリアちゃんって、あんがい見通しが甘いわよね」レイは責め立てるふうでもなく言う。

「返す言葉がないよ」

 レイは返事をせず、ふたたびギターに手を伸ばす。
 ぎこちない音が響く。
 その音を聞きながら、結成されなかったレイとのユニットについて考えてみる。

 歌って踊っていたか。
 それとも、あたしがギターを弾き語りして、それに合わせてレイが歌っていたか。

 レイは歌も踊りもうまくやれる。
 その話を信じれば、どちらでもそれなりにうまくやれたことだろう。
 となると、レイの気分次第ということになっていたのだろうか。

「レイはどっちだったと思う?」レイの頭を見下ろしながらあたしは訊いてみた。


「けっきょく、ジュリアちゃん次第だったんじゃないかしら」

 レイは背筋を伸ばして答えた。

「私にギターはないけど、ジュリアちゃんにはあるから」

 あたしが何か答える前にノックの音が響く。
 今度こそ、スタッフが顔を出しに来たのだ。
 そのスタッフは、レイの顔を見るやいなや時間までに自分の楽屋に戻るよう釘を刺した。

 レイの返事は力強かった。
 もっとも、力強いだけであまり信用ならないということをあたしは知っている。
 確認ごとを終えて、スタッフは楽屋を後にする。


 あたしはこれからのステージの思いを馳せる。
 ステージの中央で、ギターを持って歌いだす。

 ここは普段、歌って踊る場所だ。
 客には驚かれることになるだろう。
 驚かせるためにギターを弾いて歌うわけではない。
 もちろんそのためにアイドルを始めたわけでもない。

 それでも、客の驚いた顔を見るのをあたしは楽しみにしている。

 誰かの足音が外の通路を通り過ぎてゆく。
 レイは壁時計を見上げてはうつむきを繰り返している。
 あたしはギターを置いて、水を飲む。
 勢い余って口の端から水がこぼれる。
 それを拭ってから、黙りこくっているレイに向かって言った。


「まだ時間もあるし、それまで何か話してくれよ」

 そうねえ。
 口ずさんで、レイが首をかしげる。

「正直言って、時間まで手持ちぶさたなんだよ。なんでもいいからさ」

 さすがのレイもあたしの言葉に、戸惑いを隠せないようだった。
 楽屋の端に置かれた姿見に、あたしの姿が映っている。
 鏡の中のあたしの表情は、笑いをかみ殺しているせいでひどくこわばっている。
 その鏡に目をやっているうち、レイがゆっくりと口を開く。

「昔話なんだけどね?」




 会場が暗転する。
 客席は沸くというより、異変にざわめいている。
 その異変というのが、ステージの中央に置かれたギターの存在のことだとあたしは知っている。
 当のギターは大人しくあたしが来るのを待っている。

 スタッフがこちらを見て、出て行ってよいとうなずく。
 あたしは指を組んで伸ばす。
 レイがしていたみたいに、一度深く息を吐いてみる。

 すると、耳の奥でレイの声が鳴る。

 空を飛べればいいのになって。


 ギターを弾くより、その方が驚いた顔をされるだろうな。

 目を開いていても、こんなふざけたことばかりを考える。
 それに目を閉じれば、ばかげた夢を見る。
 つまるところ、寝ても覚めても、頭をよぎるのは大抵ろくでもないことばかりってわけだ。

 でも、あたしにはギターがあるからギターを弾いて歌う。

 緊張してるのかい。
 なじみのスタッフが笑う。
 
 ちょっとした儀式みたいなもんさ。
 言い残して、ステージに足を踏み入れる。

 強いライトが当たる。
 客席から戸惑ったような拍手が上がる。
 久しぶりの光に顔をしかめながら、ギターのストラップを肩に下げる。
 いまだに客席の面々は、状況をつかみ切れていないような顔をしている。
 見たことのある顔もいれば、見たことのない顔もある。


 名前も知らない。
 下手したら、今見えている客の顔も覚えていられないかもしれない。
 しかし、あたしはこいつらの声を聞くことになるはずだ。

 ほどなくそれは一つのかたまりとなるだろう。
 それはきっと、忘れられない音になるだろう。

 もう一度、今度は浅く息を吐いてみる。

 はじまりは一瞬で、終わるのもまた一瞬だ。
 夢見たり、馬鹿な考えを持ったりする暇はない。
 見通しも立てられないあたしにとっては、なおさらだ。

 あたしは目を見開く。
 その瞬間をとらえ、ステージを始めて、終わらせるために。
 そして前を見据えて、大きく息を吸い込む。
 願い事を、これから叶えにいく。


 空を、飛んでいる。

 離陸してからもうずいぶん経っているのに、いまだ着陸する気配はない。
 隣の窓際の席で寝息を立てているのは、レイだった。
 思い返せば、搭乗してからほとんどこの体勢でいるような気さえする。
 離陸したときには、あれほどはしゃいでいたのにもかかわらずだ。
 
 通路を挟んだ向こうの席で、小柄なスーツの男が外国語で書かれた新聞紙を広げている。
 その小難しそうな横顔がどこか痩せ男に似ていて、あたしはすこし苛立った。


 事の発端はエミリーからの手紙だった。
 じっさい、手紙が来る前から事は起こっていたらしい。
 しかし、あたしがそれに気づくことになったのは、間違いなくエミリーからの手紙だった。

 一見して、エミリーの手紙はいつもと変わりないように見えた。
 丁寧なあいさつに始まる。
 今回は、それに続いて事務所のイベントの成功を祝っていた。
 そこから先の文章で、まさか自分の目を疑うことになるとは思わなかった。




 さて、このたびは私の我儘を聞いていただく形になって、本当にありがとうございます。
 お礼が付け足しのようになってしまい、申し訳ありません。
 お祝いごとの方が先かなと思ったものですから。

 ほんとうに、思いもよらないことでした。
 ご近所の方々に、私のそちらでの職業がばれてしまうだなんて。
 別に内緒にもしていなかったのですが、公にもしていなかったもので……。
 そういうわけですから出演の依頼をいただいたときは、気が動転してしまいました。

 思わず仕掛け人さまに国際電話までかけ、相談をしてしまったほどです。

 仕掛け人さまは、快く私の相談に乗ってくれました。
 しかも、そちらからお手伝いを送ってくれるという親切まで!
 それがジュリアさんたちというのですから、こんなに心強いことはありません。


 それにしても、まさか私の故郷でジュリアさんと再会することになるなんて!
 いろいろなことが起こりうるものなのですね。
 
 そのことにあたって、謝りたいことが一つ出来てしまいました。
 いい宿が取れそうにないのです。
 申し訳ありません。
 どこももう予約で埋まってしまっているそうでして……。

 せっかくだからとっておきの場所を。
 そうして探しては悩んでいるうちに、時間ばかりが経っていたのが原因かと思われます。
 お恥ずかしい限りです。


 それで提案なのですが、私のお家に泊まっていただくというのはどうですか?
 私個人としては、そうするのも楽しいかなと思ったのですけど、ジュリアさんはどうでしょう。
 もっとも、少々手狭な部分がないとは言い切れないのですが。

 どうかご意見をお聞かせください。

 そうそう! そろそろそちらに戻ることが出来そうなんです!
 まだ確定してはいないのですが、その話もジュリアさんが来た時にこっそりできたらなあと思います。

 いろいろ詰め込んだせいもあって、忙しい文章になってしまいましたね。
 それでは再会の日を心待ちにしております。




 あたしはこの手紙を片手に事務所へ駆け込んだ。

 百歩譲って、悪いとは言わない。
 とは言え、まるで話を聞いてない。
 どういうことだか説明してくれ。

 外のひぐらしの鳴き声を掻き消すように、あたしはわめき立てた。

「手紙に書かれてある通りです」

 いつもと変わらぬ語調で、痩せ男は答えた。

「あなたには、外国まで行ってもらうことになっています」


 痩せ男からなされた説明は、単純明快極まりなかった。

 ちょうどエミリーの住む町で、お祭りが開かれる時期らしい。
 エミリーはそのお祭りで催されるステージに、出演依頼を受けた。
 こっちでアイドルをしていることが、ばれてしまったというのだ。
 それで、どうしたらよいでしょうかと言う相談がエミリーから痩せ男のところに来た。
 その結果、痩せ男はあたしを向こうに送ることにした。

「助っ人がいれば心強いかと思いまして」

「あたしもそう思うけどさ、先に本人の承諾くらい得るべきだと思うぜ?」


「当面、さほど忙しくはないでしょう」

 そりゃそうだけどさ。
 言い返す言葉が見つからず、視線を宙に漂わせる。

 先のステージは、結果から言えば成功だった。
 しかし、それで爆発的に仕事が増えるようなこともなかった。
 良い兆しと言えば、今後ステージに立つ目途が立ったくらいだった。
 もっとも、それもすこし先の予定になっているのだが。 

「それに呼ばれてるのに行かない理由はない、と以前言っていたではないですか」

 そりゃそうだけどさ。
 あたしは同じ言葉を繰り返す羽目になる。

「でもせめて事前に一言くらい、なにか言ってくれよな」

「わかりました」と痩せ男がデスクに戻ろうとするのを、あたしは引きとめた。


「なにか」

「それはあたし一人で行くことになるのか?」

「その点に関しては安心してください。
 スケジュールの空いていた方を、もう一人確保しています。
 しかも即答していただけました」

「そうか、世話掛けるな。
 恥ずかしい話だけど、単身で海外ってのはさすがに心細いもんだ。
 ちなみに誰に声掛けたんだ?」

 そこで、痩せ男は何のためらいもなくレイの名前をあげた。


 あたしはいちど訊き返す。
 痩せ男が機械的に繰り返す。

 あたしは自分の耳が疑わしくなる。
 しかし、ひぐらしは鳴き続けている。
 まるで、あたしの耳の正しさをたたえるように。

「今回ばかりはあんたを恨むことになるかもしれないぜ」

 絞り出すようにして、あたしは言った。

 甘んじて受け入れるつもりです。
 がっくりうなだれるあたしをよそに、痩せ男は今度こそデスクに戻った。




 レイを外国に連れて行くだなんて、心配の種がむやみに増えるだけだ。
 問題ごとが起きないわけがない。
 だから、あたしはマツリを誘ってみた。

 姫は忙しいのです。
 しかし、マツリはすげなく答えた。
 この一言であたしの望みは絶たれた。

「バカンスも悪くないと思いますけどね」

「あたしだって、遊びに行くわけじゃないんだけどな」

 レッスンを終わらせたやつらが、スタジオの外へと出てゆく。
 あたしはマツリのレッスンを見学に来ていた。
 以前ここで出くわしたときに、マツリが見に来てほしそうだったので、来てやったのだ。

 それに、暇がまた出来たのもある。
 これからステージに立つようになるのだから。
 そう言われて、劇場の手伝いをいくらか免除されたのだった。


 マツリは、レッスンでも器用な立ち回りを見せていた。
 全力を尽くすでもなく、手を抜くでもなく。
 それ以外、言い表わしようがない。
 あたしから言えるのは、なかなかできることじゃないってことだけだ。

「まつりだって、遊びじゃない、外せない用事があるのです」

「仕事か?」

「幸いにして、まつり姫を必要としてくれる人が増えてきたので」

 マツリは腕いっぱい使って空に弧を描き、その増えてきた人々とやらを表わそうとした。

「あたしも必要としてるんだけど」

「ちょっと遅いぐらいですね。
 でも、これでまつりの名が、世にとどろくことになるのです」


「そんなにうまくいくかな」

「まつりの見立ては当たります。
 それはジュリアちゃんもよく知っているでしょう?」

「じゃあ、言う通りになったとしたら、
 マツリも忙しくなるだろうし、またあたしとやるって話は立ち消えか?」

「どうでしょうね」

 マツリは歌うように言った。

「姫としては、ジュリアちゃんがどうしても、と言うなら考えてもいいですよ?」


 相変わらずだな。

 あたしは思った。
 不遜な言い回しも。
 にもかかわらず、とげを感じさせないところも。
 けど、マツリが変わらずにいてくれるのは、そう悪いことでもない。

 そのマツリが、こちらの出方をうかがうように口の端をあげる。

「なんなら予約しておきますか?」

「そうだな」

 あたしは答えた。

「マツリがどうしてもって言うんなら考えておくよ」




 面白くなさそうな顔のマツリと別れ、建物から出ようとすると、あのおばさんに出くわした。
 わずかに頭を下げて通り過ぎようとしたら、運悪く呼びとめられてしまった。

 おばさんはべらべらしゃべりたてた。
 その内容はあたしのステージの成功をほめそやすものだった。
 あたしはああ、だとか、はあ、だとかあいまいな相槌を打つに終始した。

「でも、ピックを投げたのは危ないわね」

 今度ばかりはあたしも謝った。
 つい、ギターを持って歌うときのやり方で、客席に向かってピックを投げ入れてしまったのだ。


「それで思うんだけど、やっぱりあなたは歌って踊ったほうがいいと思うのよね」

 おばさんが、何やらぶつくさ言いだしそうだったので、あたしは適当な理由を作ってその場を後にした。
 個人レッスンなんて話になったら、たまったもんじゃない。

 おばさんの声があたしを追いかけてくる。
 今後が決まったら、いつでもいらっしゃい。
 なんでも教えてあげるわ。


 逃げ出したあと、あたしは公園のベンチに腰掛け、事務所から持って来た手紙を開いた。

 評論家気取りからの手紙だった。
 今回もあたしをほめたいんだか、けなしたいのだかわからない。
 そんな内容だった。

「ジュリア、というのが彼女の名らしい」と最後に評論家気取りは書いていた。

「私はその由来が気になって、すこし調べてみた。
 ジュリア、というのはさまざまなものの名前になっていた。
 例えば、ある花の品種、自動車、映画のヒロイン、歴史に名を残した人物……。
 それらと比べて、彼女がどうだとか言う気はない。
 彼女は唯一無二であるのだから。
 それでは劇場でふたたび会える日を心待ちにしております。
 応援しています」


「追伸

 彼女のピックは商品化されないのでしょうか。
 ご検討いただきたく思います」


 あたしはその足で、閉館間際の図書館へと駆け込んだ。

 評論家気取りの言うことの真偽を確かめたくなったのだ。
 結果から言えば、評論家気取りの言うことは正しかった。

 ジュリア。
 ある花の品種、自動車、映画のヒロイン、歴史に名をのこした人物。
 そして他でもない、このあたしだ。




 寝ているレイのからだに覆いかぶさるように身を乗りだし、窓の外を覗いてみる。

 それにしても代わり映えしない景色だ。
 いつだったか、マツリが星は雲の上で休んでるとか言ってたが、星ひとつ見えやしない。
 どうも窓の向こう側は昼間らしい。
 だだっぴろい陸地がどこまでも続いていて、他には雲が目に入るくらいだ。

 身をのりだしたら危ないわよ。
 レイの声がする。
 こんなところで危ないも何もないものだ。
 そう思いつつ、あたしは元の体勢に戻る。


「いつの間に起きたんだ」

「ついさっき」

 レイは大きな欠伸をして、大きな伸びをする。
 その動きの大きさに、スーツの男がこちらをちらりと見る。
 レイは窓の外をひとしきり眺めたあと、退屈ね、と笑ってみせた。

「せめて海でも見えれば、気分が盛り上がるんだけどな」

「私、外国っていちど行ってみたかったのよね」

「あたしも同じ意見だけどさ、レイを連れてく羽目になるとは思わなかったよ」

「そういえばギター持ってきてたじゃない?
 やっぱりジュリアちゃんが弾いて、それに合わせてみんなで歌う感じになるのかな」

「エミリーの意見を聞いてからだな。
 でも急場しのぎで踊りを合わせるのも難しそうだし、
 そうするのがいちばん賢明なんじゃないかと思う」


 エミリーちゃんのご近所さんに、恥ずかしいところみせられないもんね。
 レイは目の端に溜まった涙を拭った。

「そうそう、いい夢見られたのよ。
 前にステージに立った時のことが、
 そのままそっくり夢に出て来たの」

 その言葉を聞いて、本物の評論家が情報誌でレイについて書いていた記事をあたしは思い出す。

「歌も踊りも高い水準でまとまってる。
 なのに、何をしでかすかわからない危うさがあり、
 それが私の目には魅力的に映った」

 もっともらしい文章だ。
 しかし、評論家気取りの書くことと大差ないようにも思える。
 ひょっとしたら、本物も偽物もないのかもしれない。
 間違いないのは、こいつらの言うことで、腹を立てたり喜んだりさせられてるってことだ。


 レイは夢で見たステージの成功について語り続けている。
 夢と言えば、近ごろあの夢も見ていない。
 もちろん、ただ覚えていないという可能性もある。

 また何の前触れもなく、夢のなかにやつが現れるのだろうか。
 とくにまた見たいというわけではない。
 それでも、会ったら文句の一つ二つは言ってやろうとは思っている。

 あんたに言われないでも、自分の出番くらいわかるさ。
 文句を言われる筋合いもない。
 だから黙っててくれないか。
 あたしはもう決めたんだ。

 なにをかって?
 ギターを弾いたり、バンドをやったり、歌って踊ったり、飛行機に乗ったり、まあそういうことをだ。


 あたしは夢のことについて考えるのをやめる。
 会えるかどうかも分からない奴より、これから会いに行く奴の方を考えた方がいいに決まってる。
 それに歌は終わるが、これからのことはしばらく終わりそうにない。

 マツリと組もうという話もあれば、レイと組むという話もある。
 前回みたいに一人でやることだってある。
 もちろん、それ以外の選択肢だって浮かんでくるだろう。
 あたしにはまだわからない。
 できるのは、エミリーじゃないが、その時まで鍛錬を積むのみだ。

 ぽん、という音が鳴る。
 ようやく着陸を知らせるアナウンスが鳴る。
 あたしは肘置きを握りしめる。


「そうだ!」

 唐突にレイが大きな声をあげる。
 乗客の視線が集まる。
 綺麗な顔の乗務員までもが立ち止まって、こちらを見ている。

「何か忘れ物でもしたのか?」

「言い忘れてたことがあったのよ」

 レイの言葉を聞き、事の軽さを悟ったのか乗客の視線が散らばっていく。
 その様子を見て、乗務員も狭い通路をふたたび歩き出す。

 あたしは胸を撫で下ろす。
 レイを連れて飛行機を降りるのに、余計な心配事が増えずに済んだ。


 こんなレイを連れて行って、エミリーはがっかりしないだろうか。
 なにせエミリーはレイのことを聡明だと思っているらしいのだ。
 そのレイは、あたしの目の前まで顔を突き出してきている。
 こんな姿を見れば、エミリーもわかってくれるに違いない。

 しかし、もしかすると、こんなことを言い出す可能性もないこともない。

 なにも分かってないのはジュリアさんの方です。

 その時はその時だ。
 エミリーの感性を身に付けるために、ヤマトナデシコでも目指すことにしよう。


「なんだよ」とあたしは満面の笑みをたたえたレイに訊いてやる。

「おはよう!」

「ああ、おはよう」

おわり

スレタイは >>26 の言うとおりGRAPEVINEの楽曲より
どうもでしたー

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年06月09日 (火) 22:44:26   ID: DaVZgWJ5

不思議なSSだった
麗花さんがものすごく麗花さんだった

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