ジュリア「光について」 (471)


「昔話なんだけどね?」

「昔話ねえ」

「そういうのって嫌い?」

「あんまり好きじゃないけど、たまにはいいんじゃないかな、そういうのも」

「じゃあ手短に」

「頼むよ」

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「私、よく迷子になったの。
 たとえば、買い物先の大型スーパーとか、縁日とか」

「まあ、そうだろうな」

「そういえば、連れられていくたびに、
 なにかしら買ってもらってたような気がするんだけど、
 なにを買ってもらってたかって覚えてないなあ」

「そういうもんだよ」

「そうかしら」

「あたしも覚えがある気がするよ。覚えてないけど」


「オボエがないのにオボエがあるの?」

「うーん」

「そういえば同じような話題を昨日テレビで見たんだけどね」

「悪かった。続けてくれ」

「あるようなないような記憶って実はけっこう信用できるんだって」

「いやそっちじゃなくて」

「どっち?」

「昔話のほうさ」

「ああ。ええと、どこまで話したかしら」

「こどもの頃、迷子になりがちってところまで」

「そうそう。
 それで私は迷子になっても、
 ただ漠然とふらふらするばかりで。
 と言うよりは、ふらふらすること自体に夢中になっちゃって、
 あんまり困ったなあ、とか思わなかったんだけど」

「今もそんな変わらないと思うぜ?」


「でも、こどもの私がそこにいるってことは、
 私をそこに連れて来てくれた両親含む大人の人っていうのがいるわけだし、
 こんな私を連れて来てくれるような親切な人たちなんだから、
 私がいなくなれば、探そうとするじゃない?
 実際に見たわけじゃないんだけど、私がいなくなると大騒ぎになるらしくて」

「連れてきたこどもがいないってなれば、当然の反応だな」

「流石にそれは悪いなあとは思ったのよ。それで私は閃いたの」

「うん」

「空を飛べればいいのになって」

「うん?」


「どういうことだかわからない?」

「いや、わかるよ。
 そうすれば目立つし見つかりやすい」

「あたり。今思うと、子供じみてるって思うけど」

「そうだな」

「それで思いついたの。
 そろそろ飛べるんじゃないかしら、私」

「さっき自分で子供じみてるって言ったじゃんか」


「それとこれとは別でしょ?」

「そう言うなら別物ってことにするよ。それで目的地は?」

「なし。ただ、飛んでみたいだけで」

「飛んでみたい、ねえ」

「やっぱりおかしい?」

「とんでもない。ちょっと考えてただけだよ」

「なにを?」

「あたしもそろそろ飛べるんじゃないかってさ」

「でしょでしょ? やっぱりそうだと思った」

「奇遇だな」

「そういうもん、でしょ? ありがと」

「どーいたしまして」


 ざけんじゃねえ。
 あたしは椅子からずり落ちながら、書類の山を投げ散らした。

 パンクがやりたかった。
 ヴォーカルでギタリスト。
 場合によっちゃそれ以外もやぶさかではない。

 だから慣れない応募書類なんて書いて、それをポストに突っ込んだのだ。

 返事はすぐに来た。
 一度、お会いしませんか。

 その事務所へ行くと、まず応接室に通された。
 外から見るとぼろい雑居ビルって感じだったのに、中は観葉植物なんか置かれていて、けっこう清潔な感じだった。

 いい感じだ。悪くない。
 もっと荒くれたもんだと思ってたので、私は安堵した。
 そうこうしてるうちにおっさんが入ってくる。
 これもまた清潔感のある、カタそうなおっさんだと思った。


 おっさん(たぶん偉い人)は向かいに座り込んで書類と私の顔を交互に眺めた。
 そして難しそうな顔をした。

「パンクがやりたいのかい」

「ああ。だって、そういうところ、ですよね?」

「いや、うちはアイドルを専門にやってる事務所だ」

 開いた口がふさがらない。
 口の中が乾く。
 出されていたお茶をあおって、根っこまでかわいた舌を湿らせる。


 おっさんはどうしたものかと視線を宙に泳がせている。
 そしてよし、と息を吐く。

「私の知り合いで、そういうのをやってるヤツがいるんだ。
 あいにく、私はそういう音楽にどうも疎くてね。
 君さえよければ、紹介してあげようと思うのだが、どうだろう」

 悪くない提案。
 しかし、この次のおっさんの一言で、あたしの予定は狂いだす。

「まあ君ならここでもいいセン行けそうだと思うがね」

 思えばお世辞だったのかもしれない。
 しかし、話を進めるうちに、あたしは丸め込まれた。


 これもなにかの縁だ。
 どちらにせよ歌うことには変わりない。
 アイドルをしてやろう。

 そんな気になってしまった。
 やるからにはとことんやる。
 そんな余計な言葉まで付け足して。

 ものの数十分で、あたしはアイドルになることを決めていた。
 秋の夕暮れどきだった。
 陽がブラインドの隙間から入り込んで、帯状の光が部屋のなかに伸びていた。


 けれど、すぐ後悔することになる。

 書いて来いとつき出された書類が山ほどあったのだ。
 こういうのを書くのは昔から苦手だった。

 けっきょく、散らかした書類を拾い直し、夜も遅かったので、その日はもう寝ることにした。


 閉じていく視界。
 最後に部屋の片隅にギターが見えた。
 そういえばギターに触らなかったのなんて、久しぶりだな。

 あたしは思う。

 夢みたいだった。
 ギターに触らないのも。
 今日という日も。

 夢だ。目を閉じたままあたしは唱える。
 そうじゃないことを知っているのに。

これはもしやミリオンライブのジュリアさん?


 この日、あたしは事務所に行かない。
 ちゃんと事務所の名前をインターネットで調べたからだ。
 アイドル事務所? なんかの間違いじゃないですか。
 電話をかけて事はそれで終わり。
 書類は送り返してくれると言われたけれど、それも悪いので近いうちに取りに行くことを約束した。
 
 電話を切ると、あたしはベッドに倒れ込む。
 アイドルかあ。ガラじゃないな。でも、アイドルってどんな音楽やってんだろ。


 ゆっくり身を起こす。
 財布をポケットに突っ込んで、近所のレンタルショップまで足を伸ばす。
 人気ランキングの棚にあるCDを三冊借りて、家で聴く。

 キャッチ―なメロディ。
 使い古された言葉をこれでもかと集めた結果、脈絡がなくなり、風変わりになるリリック。

 けっこういいもんだな。
 コードでもたどろうとギターを手繰り寄せようとする。しかし手が届かない。


――ギターはないよ。

 ぱきっとした、輪郭のある声だった。
 性別不明。部屋中見回す。誰もいない。

「誰だか知らないけどさ、すぐそこにあるじゃないか」

――そこにあるよ、そこに。

 声がするたび、低い音が揺れる。
 泉にコインを投げいれたあとみたいに、音は広がっていく。
 しかし相変わらず手は届かない。

「なら仕方ないか」

――弾かなくていいのかい。

「手が届かないんだから弾けないだろ?
 そこまで弾きたいって訳でもないしさ。
 それにそういう夢を見てたんだ、さっきまで」


――おかしな夢だった。

「よくわかるね」

 そいつの透明な腕が伸びる。
 あたしの借りてきたCDが持ち上げられる。
 ぎょっとしたが、顔には出さない。

――アイドル?

「ああ、少し興味がわいたんでね」


――そう。

 声が張りつめた。
 透明な何かが部屋中にふくらんでいく。
 あたしは押さえつけられる。
 弾力があるおかげで、ぺちゃんこにつぶされることはない。

 けれど、身動きが取れない。
 透明な何かは部屋を飛び出して、どこまでもどこまでも伸びていく。

「何が気に入らなかったんだ。謝る! 謝るからさ、止まってくれよ!」

 許しを乞うても返事はない。
 家がみしみし音を立て出す。
 やめてくれやめてくれ。無駄でも叫ぶ。
 それしかできない。


「そんなにアイドルが気に食わないのかよ!」

 自分の叫び声で飛び起きた。
 前髪が汗でべったり張り付いている。
 部屋の片隅では、いつものように愛用のギターがひっそりたたずんでいる。

 なんてこった。

 つぶやいたけれど、気づいていた。

 あたしはこれから自分がしようとしていることを認めきっていない。
 その証拠がこんな夢だ。
 悔しいというか腹が立つというか、とにかくたまったもんじゃない。


 あたしは灯りをつけて机に向かった。
 そして積みあがっていた書類を次々にやっつけていく。

 そうすることが、あたしの、あたしに対する唯一の反抗だった。

 そうして進めていくうちに行き当たったのが、芸名の欄。

 自分で自分に名前を付けるだなんて、滅多にできることではない。
 しかし、だからと言って、すぐに思いつくものでもなかった。

 あたしはその欄をひとまず飛ばす。
 そして、つぎに目に入った抱負の欄に、思いついたことを一気に書いた。

 二、三行くらいしか書けなさそうな余白でそれをを語れだなんて、ちょっとおかしいんじゃないか。
 思ったけれど、膨大な量を課されるよりは遥かにマシだった。


 芸名ねえ。
 口にする。
 外はすでに明るみだしている。

 あたしは閃く。
 そうだ、この名前があったじゃないか。

 いつからか呼ばれ出したあだな。
 誰が呼び出したかは覚えてない。

 だけど、その名を私が知るみんなが知っている。

「ジュリア」

 あたしはあたしに名前を付ける。
 窓の外を新聞配達のバイクが通り過ぎていく。

見切り発車のミリマスSS
よろしければおつきあいください

支援だよ

>>21
ジュリア(16) Vo
http://i.imgur.com/Pp8h1am.jpg
http://i.imgur.com/1bg4uMc.jpg


付き合うよ

>>23
どうもですー

グレイプバインいいよね

ジュリアの名前の由来はやっぱりあのジュリアなんだろうかとか夢想するの楽しいよね

なんで ぷぅちゃんなんだろう

今のとこ、苗字が熊野説が有力っぽいね


「どういうことだかわからない?」

「いや、わかるよ。
 そうすれば目立つし見つかりやすい」

「あたり。今思うと、こどもじみてるって思うけど」

「そうだな」

「それで思いついたの。
 そろそろ飛べるんじゃないかしら、私」

「さっき自分でこどもじみてるって言ったじゃんか」


 芸名みたいなことは協議して決めるものだ、ということを知ったのは後になってからだった。
 けっきょく、あっさり通ったんだけれど。

 あなたに似合ってる。
 言われて、悪い気はしなかった。
 当たり前だ。
 自分のことなんだから。

「あなたにはまず、レッスンをしてもらいます」

 あたしの書いた書類に目を通し、社員の痩せた若い男が顔をあげた。

「基礎は大事です」

 そりゃそうだ。あたしはうなずく。

「それと、事務所にはあなたと同じ立場のものが何人かいます」

「ああ、知ってるよ。ちゃんと活動してるのもいるんだろ?」


 今度はちゃんと調べたのだ。
 どんなアイドルがいるのか、とか。
 昔はけっこう鳴らした事務所らしいけれど、真偽のほどは定かでない、とか。

「ええ。一緒にレッスンをすることになると思うので、
 無理に仲よくしろ、とまでは言いませんが、
 差し障りないようにやってください」

「オーケー。
 仲良くする。
 万が一、できなさそうでも差し障りなくやってけるよう努力するよ」

「頼みます」

「問題児でもいるのか?」

「いないと言えば嘘になりますが、人に危害を与えるようなのはいないと信じたいですね」

「思わせぶりだな」

「あなたもその一人です」

 言い返そうとしたけど、やめた。
 話が長くなりそうだし、痩せ男の言うことも間違いでもなかったからだ。


「手違いの挙句このザマだもんなあ」

「まったく」

 痩せ男に書類を渡される。
 レッスンスタジオの名前やらその場所の地図、スケジュール表がひとまとまりになっていた。

「まあ頑張ってみるよ」

 あたしは指で挟んだ書類を掲げてみる。
 痩せ男はうなずくと、自分のデスクへと戻って行った。


 日々は過ぎていく。
 歌のレッスン、ダンスレッスン、その他、姿勢やら表情の作り方やらのレッスン。

 なかでも厄介なのは歌のレッスンだった。

 ピッチを正確に。
 半音のまた半音ずれている。

 先生役の、小太りのおばさんがヒステリックに騒ぐ。


 あたしですら知ってるアイドルの曲の歌詞を持ってきて、この歌詞はどういうことでしょう? とか訊いてくる。
 あたしは首をかしげる。
 おばさんはかな切声をあげて、身の毛のよだつような表現を連発する。

 正確な音程ってのは大事だけれど、そればかりにこだわるのはおかしい。
 それに歌詞の解釈なんて、誰かに押し付けられるものでもない気がした。

 だから、あたしが歌のレッスンをサボりがちになるまで、大した時間は要さなかった。

 そんな歌のレッスンに対して、ダンスレッスンは意外と楽しかった。


「あんがい動けるのね」

 先生が足踏みでリズムを刻む。
 それに合わせてあたしは折り曲げていた腕を一気に伸ばしたり、ステップを踏んだりする。
 先生が言うには、あたしのリズム感はばっちりらしい。

「少し覚えが遅いのと細やかさに欠けるのを差し引いても、あなたはなかなかのものだと思うわ」

 覚えが遅いのは踊るのに慣れないからだとしても、細やかさが欠けるってのは余計だ。

 ありがたいお言葉を聞き流して、あたしはスタジオを後にする。

 次は歌のレッスンだった。
 あたしはサボりを決め、汗で濡れた額をタオルでごしごしとこすった。
 そして自販機の前で何を買おうか迷っていると、突然声をかけられた。


 キンパツの、お人形みたいな顔した子が、あたしの後ろに立っていた。

 腕の中にレッスン用のノートを抱えている。
 よく見ると、スタジオで見かける顔だった。
 自分のことで精いっぱいだったから、他の連中とやっていこうとすることを、おざなりにしてしまっていたのだ。

「なんか用かい?」

 あたしはなるべく柔らかな口調をつくった。
 近寄りがたい。
 そういう印象を与えているであろうことは、想像にかたくなかった。


「歌のお稽古には行かれないのですか?」

 キンパツの子が口を開く。
 稽古というのがレッスンのことを指しているのだと気付くまで、やや時間を要した。

「いかないよ」

「なぜだかお訊きしても?」

「なぜってねえ、まあ話し出すといろいろあるけど、つまるところ相性がとことん悪いんだろうな」

「相性、ですか」

「逆に訊くけど、ええと……」


「エミリー・スチュアートと申します」

「ああ、そうだ。エミリー。
 なんていうかエミリーはさ、
 あのおばさんと合わないなあとか思わないのか」

 エミリーは難しそうな顔になる。
 一度は見たことのある子たちが、あたしたちの横を通り過ぎて、スタジオのある奥の方へと消えていった。

「エミリーはさ、ひとまず行った方がいいんじゃないかな」

 あたしが言うことでもないだろうけど。
 言葉を継ぐ前に、エミリーは悲鳴みたいな声をあげて、あたしと廊下の奥の方を交互に見た。

「いいよ。どこか適当な場所で、レッスン終わるまで待ってるから」

 あたしはエミリーの抱えていたノートを借りて、その紙の端に携帯電話の番号を記した。


 失礼します。

 エミリーは駆け出す。
 あたしはその背中を呼びとめてしまう。
 エミリーが振り向く。
 けれど、なんで呼び止めてしまったのか、自分でもわからない。
 何も言わないあたしを見て、エミリーは不思議そうな顔をする。

「あのさ、日本語上手だね」

 失敗した。
 すぐにわかる。
 そんなこと言われ飽きてるに決まってる。

 でもエミリーは、ぱあと顔を輝かせて礼をすると、またスタジオの方へ駆け出した。

 お稽古ねえ。

 人けのなくなった場所でつぶやく。

 蛍光灯が、わずかにじりじりという音を立てている。
 ほっとかれていた自動販売機が、あたしの入れていた硬貨を吐き出した。




 エミリーが来るまで、適当に散歩でもしながらインスピレーションを働かせようとしたけれど、すこし肌寒かった。
 だから、あたしはカラオケ屋に入った。

 何もしないよりはマシだろうと思っだのだ。

 じっさい、一人で入るのは多少気が引けた。
 けれど、歌っているうちにさほど気にならなくなった。

 そうしているうちにエミリーからの連絡が入る。
 なにか喫茶店かファミレスでも指定しようかと思っていた。
 だが、いい具合に楽しくなってきていたので、あたしはけっきょくカラオケ屋を指定した。


「もっとちゃんとしたところで話そうと思ったんだけど、
 どうにも盛り上がってきちゃってさ。
 でも、カラオケって思ってたより練習になるね」

 到着したエミリーに言い訳すると、構いません、とエミリーは言った。
 あたしは話をしやすいように絶えず流れてくる音を消して、マイクを置いた。

>>39
エミリー(13) Da
http://i.imgur.com/UtYfwcX.jpg
http://i.imgur.com/hvmkoIh.jpg


「何から話せばいいのかな」

「相性」

「そう、相性。いや、まあ相性というかフィーリングと言った方がしっくりくるか」

「相性と、感性」

「感性?」

「駄目、でしょうか」

 ダメってことはないけどさ。
 言いかけて、呑み込んだ。

 しかし不服は見透かされたようで、エミリーは、
「片仮名を使うのは、大和撫子の道にそぐわぬことと思いまして」と、もじもじしながら教えてくれた。


 ヤマトナデシコノミチ。

 よくわからないが、そのスケールの大きさに叶う気はしない。
 それにあたしにとっては、こだわるほどのことでもない。

「感性ってのも悪くないか」

 今度は口にする。
 譲歩ってやつだ。
 エミリーはまた顔を輝かせる。


「エミリーはあのおばさんと感性が合わないなあとか、
 やだなあとか思ったことってないのか?」

「正直に申し上げると、考えたこともありませんでした。

 でも、相性が合わない方がいらっしゃるのだと思うと、
 私までなぜかそんな気がしてきてしまって……。

 そういうわけで、先のお稽古は今までと違って、
 少しやりづらく感じてしまいました」

「そりゃ悪いことしちゃったな」

「いいんです。それより、感性の話を」

「うーん、一言でいうと、あたしはパンクをやりたかったんだけど、
 手違いでこんなことになっちゃってる。

 でも、それは問題じゃないんだ。
 やるからにはちゃんとやろうと思ってたし、今でも思ってる」

 あたしはグラスに入ってたコーラを飲む。
 飲み物は、とエミリーに訊くと、後で、と言うのであたしは話を続けた。


「うーん、一言で言うと、あたしはパンクをやりたかったんだけど、
 手違いでこんなことになっちゃってる。

 でも、それは問題じゃないんだ。
 やるからにはちゃんとやろうと思ってたし、今でも思ってる」

 あたしはグラスに入ってたコーラを飲む。
 飲み物は、とエミリーに訊くと、後で、と言うのであたしは話を続けた。

>>47 取り消し


「まあどっちが間違ってるかって言えば、たぶんあたしだ。
 それくらいはわかる。
 けど、あたしは単純にあのおばさんと合わないんだ。

 初めはギターだった。
 レッスンにギターを持ち込んだんだ。
 あたしはバンドやってて、そこでギター持って歌ってたりしてた。

 だから、ただ棒立ちになって歌う自分をうまく想像できなくてさ、
 ちょっとくらい、いじりながら歌ってもいいかと思って。
 でも、それでおばさんは、もうかんかん。
 顔を皺くちゃにしてたよ。

 その時は大人しく従ったよ。
『おまえの望みどおりにしてやる』みたいに考えてね。
 でも、結果はごらんのとおり。
 ズレは深まるばかり。
 お互いへそを曲げ続けてる。
 だから歌のレッスンの時間は、ギターを弾いたり、曲づくりの構想を練ったりして過ごしてる」

「難儀なのですね」

 ため息みたいにして、エミリーは言った。

「そうそうナンギなんだよ」


 あたしはエミリーが何か言いだすのを待ったけれど、エミリーはじっと考え込んでいるみたいだった。
 ただ待つのも気詰まりだったので、エミリーの分の飲み物を頼む。
 声をかけるのもはばかられたから、あたしとおなじコーラにした。
 エミリーはまだ神妙な面持ちのまま口を開かない。

 テーブルの上で、マイクが転がってる。
 液晶では、きれいめの女が口をぱくぱくさせてる。
 音もないのに、さも喋っているようにふるまう画面の中の女は、どこか現実味にかけていて不気味だった。


「難儀、ですね」

 さんざん考え抜いた末、エミリーはまた同じ言葉を繰り返した。
 店員が入ってくる。
 一瞬、音のない映像を珍しそうに見たけれど、笑顔を張り付けたままコーラを置いて去って行った。

「エミリーはなんであたしなんかの話を聞こうと思ったんだ?」

 難しそうな顔をしたままのエミリーに訊ねる。

「いっちゃえば、あたしははみ出し者だ。
 だから、声をかけてくれたのかもしれないけどさ。
 わざわざここまでしなくてもいいんじゃないかな」


 エミリーが顔をあげる。
 目の前に置かれたコーラをまじまじと見つめていたので、あたしは飲むように勧めた。
 エミリーは戸惑っていたけれど、ほんの少しだけグラスに口をつけた。

「不思議だと思ったんです」

 エミリーは言った。

「お稽古の合間の休憩時間に、
 私は窓辺にたたずみ外の様子を眺めていました。
 すると、建物から出ていくジュリアさんが見えたんです。
 足取りが軽くて、不思議だと思いました」

「不思議?」

「はい。
 その足取りを見て、私は羨望の念を抱きました。
 あの方はなんて軽やかに歩かれるのだろう、と」


「つまり、エミリーもレッスンをさぼりたかった、ってことか?」

「いえ、違います。抜け出したいと思ったことが、全く無いというわけでは無いのですけれど」

「エミリーでもそういうことがあるのか」

「喉の調子などが今一つすぐれない時、ですが」

 なんだ。
 あたしはわざとらしく机の上に寝そべる。
 エミリーの目があたしの動きを追う。
 あたしは目で話の続きを促した。

「それから空き時間は窓辺に立つことが増えました。
 ジュリアさんは、背中に楽器を背負うことも増えてきました。
 足取りは日に日に軽くなっていきます。
 それはしなやかでさえありました。
 だけど、その様子が淑やかかと言われると」

「まあ大和撫子とは程遠いよな」

 からかうようにあたしは口を挟んだつもりだったけど、エミリーはすみませんと謝った。

「いいんだ、自分がお淑やかじゃないことくらいわかってる」


「たしかに、淑やかとは言えないかもしれません。
 けれど、私はその後ろ姿に憧れてしまったのです」

「憧れてくれるのは嬉しいんだけどさ」

 あたしは言った。

「喉の調子が悪いときは休んだ方がいいと思うぜ?」

 暗い部屋のなかでもわかるくらい、エミリーの顔が赤くなる。
 あたしは寝そべったままおもむろにリモコンに手を伸ばし、音量を上げた。
 画面の中の登場人物は、流行りのバンドのメンバーに変わっている。
 そいつらは今度出すアルバムのことについて仲睦まじげに語っていた。


 部屋の壁に据え付けられた電話が鳴る。

 ご利用時間終了十分前です。

 ぐるりと部屋を見回す。

 机の上には、変に甘い匂いのするぺらぺらのウェットティッシュ。
 二つのグラス。
 そして、置き去りにされた一本のマイク。

 エミリーが不安げにあたしの方を見ている。
 けれど、目が合ったら逸らされた。

 あたしは電話口に向かって答える。

「あと一時間延長お願いします」

今日のところは以上です

それと画像ありがとうございました

いいね


 エミリーは一言でいうと、品行方正を地で行くタイプだった。

 立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、ってやつだ。
 言ったら、エミリーには大げさと笑われたけれど。

 あたしはカラオケでエミリーと話してからというもの、建物を出づらくなった。
 エミリーが見ていることを考えると、ただ歩くだけのことなのに、どうもやりづらかったのだ。
 でも、振り返って、窓辺にたたずんでいるであろうエミリーに向かって、手を振ることはなかった。
 サボりってそういうものだ。


「おばさんは何も言ってない?」

 建物を出る前に、エミリーに訊ねる。
 さっきまでのダンスレッスンでずいぶん熱心に指導されていたからか、エミリーは肩で息をしている。

「さもジュリアさんがいないかのようにしています」

「ちょっとむかつくけど、その方が都合いいかもな」

「今日もお稽古には行かれないのですか?」

「いつも通りさ」

 エミリーは残念そうにする。

 ちゃんと歌ってみれば、ちょっとは状況が良くなるかもしれないのに。
 拗ねたような口調で、エミリーは似たような内容を繰り返す。
 なかなか引き下がらない。
 一度くらいならいいとも思うけど、あそこに行くのは気が進まない。


 スタジオの扉の前まで行った自分を想像してみる。

 ここまで来たら、という気になって扉をあける。

 おばさんが顔をしかめる。
 あたしは一度はやり過ごす。

 悪かったよ、なんて思ってもないことを口にしながら。
 レッスンが始まって間もなく、注意が入る。
 たぶん、立ち位置とか足の広げ方とか些細なこと。
 みんなが同じ幅に足を拡げて、同じタイミングで息を吸い、同じ口の大きさで歌をうたう。

 どうにかなってしまいそうだ。
 息を吸いきれず、声が掠れる。

 おばさんが金切声をあげる。
 やむなくして口論が始まる。

 おばさんがヒートアップしていく一方で、あたしはどんどん熱がそがれていく。
 あれだけ腹を立てていたのにもかかわらず、だ。
 あたしはスタジオを一人で出ていく。
 扉を閉める際、何事もなかったかのようにピアノの音が響きだす。


「ロクなことにならなさそうだしやめとくよ」

 首を振りながら、あたしは告げる。
 エミリーはまだ納得した様子ではない。
 あたしは代わりの提案をする。

「代わりにレッスンが終わったら、ギター弾くとこ見せてやるよ」

 今回はそれでいいです。
 すげなくエミリーは言って廊下の奥へと消えていく。
 エミリーはあんな態度をしたけれど、それがわざとらしさに満ちていたことにあたしは気づいていた。




 よく晴れている。
 空では、細かくちぎれた雲が連なっている。
 公園の端に置かれた、色の剥げたベンチに腰掛けて、あたしはギターのチューニングを始めていた。

 公園の中央に位置した噴水の前では、風船売りが色とりどりの風船を持って、集まったこどもたちの周りをくるくる回ってる。
 ときどき学校帰りのやつらがきゃあきゃあ騒ぎながら、あたしの前を通り過ぎていく。
 ラジオ聴きながらぶつくさ言ってる年寄りなんかもだ。

 あたしがこの場でギターを弾きだしても、やつらは一瞥もくれない。
 たとえ目の前を通っていてもギターの音なんか聞こえないんだろう。
 ここで、楽器を演奏している人間は別に珍しくもないのだ。
 だから人々はとくに気にも留めないのだ。

 あたしがここでギターを弾くのが好きだったのは、そういうところだった。
 誰にも邪魔されない。
 代わりに誰の邪魔もしない。
 敷地の隅であたしはこっそりコードを押さえる。




 風が強くなった。
 高いところで、音を鳴らしながら吹いている。
 拠り所をなくした風船がひとつ、宙を舞っている。
 ずいぶん人けが少なくなった。
 風船売りはぼんやりそれを見上げながら、帰り支度を始めている。

 そろそろレッスンも終わっただろうに、エミリーはなかなか現れなかった。
 遠くからサイレンの音が、幾重に重なって聞こえてくる。
 あたしは知ってるコードに知ってる言葉を乗せて、適当なフレーズをぼそぼそ歌う。




 いい感じの曲が浮かんだので、あたしはギターを置いてノートを取り出した。
 口ずさみながら、分かる限りを記していく。
 書き終わってから、何かが足りないことに気づく。
 覚えてるうちに、あたしはもう一度曲を口ずさんでみる。

 書き留めているうちに抜け落ちていることは、多々あった。
 抜け落ちていることに気づかなかったことも、たぶん、あるのだろう。
 気づいて、ないはずだった隙間を埋めて元通りにする。
 それが思わぬ結果を生むことがある。
 いい方にも、悪い方にも。

 思いつきを書き終えたので、ノートを膝の上に広げてギターを抱え直すと、エミリーがあたしの前に突っ立っているのに気が付いた。

「どうした」

「話しかけても反応がなかったので」

「そりゃ悪かった」

「こちらこそ遅くなってしまい、申し訳ありません」

「いいんだ。その時間のおかげで一曲出来そうだ。せっかくだし聞いてくれないか」


「そうしたいのは山々なのですが」

 エミリーがギターに視線を落とす。

「あまり良くないお知らせがあります」

「そういうのって、良い知らせもあわせて持ってくるんじゃないのか」

 おもむろに弦の上で指を滑らせてみる。
 いささか滑りが悪い。
 エミリーはあたしを見下ろしたまま、首をかしげた。

「余計なこと言った。いいよ、続けて」

「詳しいことはわからないのですが、交通網が麻痺しているそうです」

 エミリーは言った。
 
「道はひどくごった返していて、車が渋滞していました」


 ごった返し。
 エミリーが口にすると、ぎこちなく響く。
 携帯電話を取り出すと、事務所からの着信履歴がいくつも残っている。

「まず確かめに行こうか」

 あたしはギターをケースにしまう。
 さすがにエミリーも残念そうな顔はしない。
 むしろ不安の色が大きい。

「どうにでもなるさ」

 励ますようにあたしは言った。

「もしかすると、何ともないことだってあるかもしれないぜ?」


 しかし、最寄の駅の前にたどり着くと目がくらむ思いがした。

 ごったがえし。
 エミリーの口ぶりが耳の奥で繰り返される。
 遠目に見ても、怒気やうんざりした雰囲気が、構内の空中に浮かんでいるのがわかる。
 身動きの取れなくなったたくさんの頭が、何かしらの変化を期待してか、わずかに上下する。
 売店には行列ができていて、店員たちが狭い場所をせわしなく動き回っている。

 エミリーはあたしの後方で立ちすくみ、居心地悪そうにしていた。

「とりあえず、事務所に戻ってみるか」

 大賛成です。
 ようやくエミリーが笑う。
 あたしたちは軽い足取りで駅を後にした。




「連絡が来なかったので、私は帰ることができませんでした」

 事務所に戻るやいなや、痩せ男に嫌味を言われる。
 あたしはその嫌味をものともせずに、痩せ男にこの状況の原因を訊ねる。
 痩せ男は鬱陶しそうに、つけっぱなしになっているテレビを指差した。

 駅でのぼや騒ぎやら、線路内に倒木があったやらの様々な要因が重なった。
 ニュースキャスターは延々と同じ内容をしゃべりつづける。
 おかげで、状況を把握しきるのに時間を要さなかった。

「もう少しはやく連絡が取れれば、
 宿を取ったり、タクシーでも拾ったりすることもできたのですが」

「つまり、ほかの連中はそうしたんだな?」

「その通りです」


 エミリーに悪いことをした。
 あたしは思う。
 あたしに関わっていなければ、さっさと帰ることもできただろうに。
 当のエミリーは、すぐそこにあるソファの上ですやすや眠っている。

「もちろん、仕事やレッスンに出ていた全員に対して、適切な対応ができたわけでは無いのですが」

「ウチらみたいな逃げ遅れがいたって訳か」

 それ以上口を開かず、痩せ男はあたしから視線を外した。
 その先には応接室の扉があって、中からきゃあきゃあ騒がしい声が聞こえてくる。

「あそこは、もういっぱいになってしまいました」

 申し訳ない。淡々と痩せ男は述べる。
 あんたが謝ることじゃないよ。
 いちおう言って、空いていた隣のいすに腰掛ける。
 古びた回転いすが軋む音を立てる。
 テレビは同じ内容を繰り返している。


 ここに初めて来たとき、応接室に通されたことを思い出す。

 あそこにも、ソファが二台ある。
 それもすぐそこのものと比べ、大きくて柔らかいやつだ
 詰めれば、一台あたりに二人は寝転がれるだろう。
 となると、あの中にいるのは四人前後になるだろうか。

「晩御飯を買いすぎたと彼女たちは言っていました」

 痩せ男は書類やらをカバンに詰めているところだった。

「夕食の買い出しの手間が省けたでしょう」

 そうだな。
 相槌もそこそこに、どこに行くつもりかと痩せ男に訊ねた。

「一人分なら宿が取れたものでして」

 申し訳ない。
 特に申し訳なさそうに痩せ男は頭を下げ、応接室のなかへ向かって何か呼びかけた後、事務所から出ていった。


 あたしは座ったまま息を吐く。
 エミリーは静かに寝ている。
 誰にも使われていない方のソファには、どこからか引っ張り出したらしい毛布が積み上げられていた。

 すこし伸びをして、痩せ男に言われた通り、応接室の扉に手をかける。
 中では、三人が床に座り込んでポーカーをしていた。

「これで全員なのか」訊ねると、

「あと一人いるんだけど、どこか行っちゃった」

 見ている限り、一番負けが込んでそうなやつが笑って答えた。

 話を聞くと、どうやらあたしの存在は認識されているらしかった。
 レッスンにギターを持ち込んだ人。
 あたしと言う人間を、ここらの誰かに語ろうとするときは、その一言で十分理解してもらえる、ということがよくわかった。


 食べ物は容易に分けてもらえた。
 カップめん、菓子パン、おにぎり、ジュース、お茶。……
 買いすぎてどうしようと思ってた、なんてことを三人は悠長に話していた。
 駅での喧噪やテレビの内容が、冗談みたいにここは平和だった。

 去り際に、せっかくだしポーカーをしていかないかと誘われたけれど、
すぐそばにいるとは言え、またエミリーを放っておくのも気が引けたので、あたしは謹んで辞退した。

「すぐそこにいるからさ、なんか用あったら声かけてくれよ」

 わかったと言うあかるい声を背中に受けながら、ドアを後ろ手に閉めた。


 ポーカーの誘いを断ったものの、手持ち無沙汰だった。
 ギターはあったけれど、寝ている人間のそばで弾くほどあたしも大雑把な人間ではない。
 窓の外を見下ろしてみると、道路の上に車が所狭しと並んでいて、人々がそれぞれの場所で停滞している。
 そうして事務所の中を意味なくうろうろしていると、エミリーが目を覚ました。

「お恥ずかしいです」

 肩をすぼめ、エミリーは言った。

「疲れてたんだろ? 構わないよ」

 あたしは、もらい受けた食べ物を食べながら、エミリーが寝ている間に起きたことをそのまま伝えた。
 
 みんなでお泊りなんて楽しいですね、なんてのんきな感想をエミリーは述べた。


「なんか悪いことしちゃったな」

「なにがですか?」

「わざわざあたしなんか迎えに来なければ、
 こんなひなびた建物の硬いソファじゃなくて、
 ホテルのふかふかのベッドで寝られただろうなって思ってさ」

「大したことじゃないです」

 エミリーは軽く笑った。

「そんなことより、聴かせてください。六弦琴」

 六弦琴という単語がギターを示していると把握するまで、少し時間がかかった。
 あたしはギターケースからギターを取り出し、確認するようにコードを鳴らしてみる。
 エミリーの目がわかりやすく輝きはじめる。


 あたしはギターを鳴らしながら、ぼそぼそと歌いだす。
 有名な、外国の曲だ。
 エミリーも、あたしの声に合わせてフレーズをぽつぽつ歌って、口を押える。
 たぶん、外国の言葉なのがまずいのだろう。

 あたしは適当な発音をしたり、切れ切れに歌って歌詞が飛んだ振りをした。
 すると、じきにエミリーは歌いだした。
 当たり前なんだけれど、滑らかな発音だった。
 あたしはそれを真似るようにして、何事もなかったかのように歌い続ける。

 エミリーの声が止む。
 引っ掛けられたことに気付いただろうか。
 あたしは顔をそむける。
 エミリーの怒り顔を想像しながら。


 次もまた外国の曲。
 こわごわ顔をあげる。

 エミリーは怒った顔なんてしてなかった。
 というか、後ろを向いていた。
 応接室の扉が開いている。
 いくつかの目がこちらを覗いているのがわかる。
 構わずあたしは歌い続ける。

 調子が出てきたので、和洋織り交ぜて。
 応接室から出てきたせいで、見物人が増えている。
 大した人数じゃないのに、ずいぶんとかしましい。
 最近レンタルショップで借りた、有名なアイドルの曲の一部分だけを口ずさんでみる。

 わっ、と歓声が上がったので、その箇所を繰り返してみる。
 その場の全員で声を合わせ、顔を見合わせて笑った。

 そんなことをしばらく続けた。
 けっこういいもんだった。




 弾き足りなかったので、あたしは屋上に出た。

 澄んだ夜の匂いがした。
 白んだ息がのぼっていく。
 見上げると、月がずいぶん高いところにある。

 弾き語りも夜が更けるにつれ、観客の勢いはみるみるなくなっていった。
 立ったまま寝る奴なんかもいた。
 あたしはキリのいいところでギターを置いて、余力の残ってるやつらと協力して、眠りかけているやつらを応接室のソファに寝かせた。

 そのついでにエミリーもそこに寝かせてきた。
 人一人分のスペースが余っていたのは、幸いだった。
 さっきみたいに、オフィスのど真ん中の硬いソファで寝るよりはいいだろう。

 不正確な和音に気づき、コードを抑える指をそれぞれ確認する。
 座り込んだコンクリートから冷たさがじわじわ伝わってくる。


 冷えるな。
 つぶやいた言葉も白い息になり消えていく。

 手がかじかむので、あたしは手をこねながら立ちあがり、屋上の端から道を見下ろした。
 渋滞は相変わらずだったが、のろのろと前に進んではいる。
 車から放たれる光が道を埋め尽くしていて、それがどこまでも続いて行くように思えた。


「あんまり乗り出すと、危ないですよ」

 背筋が伸びる。
 聞いたことのない声だ。
 なにかよくないものだろうか。
 実のところ、その手のものはあまり得意ではない。

 おそるおそる振り返る。
 月明かりだけでは輪郭を捉えるのがやっとだったが、声の主が人の形をしていることは把握できたので、あたしはからだをそちらへ向けた。


「心配させたなら悪い。
 ちょっと渋滞がどうなってるか気になったもんでね」

「どうなっているのです?」

「相変らずさ。でも光が綺麗って言えば綺麗だな」

 影が歩み寄ってくる
 近づくにつれ、背格好が明らかになる。

「たしかにきらきらしています」

 そいつは言った。
 あたしより背が高かった。

「でも少し騒がしいのですね」

 言われてから気づく。
 気の立ったクラクションの音なんかが、結構な頻度で鳴り響いている。
 さらに耳をそばだてるとウインカーを出す音なんかも聞こえてきそうだった。


「見た目は綺麗ですけど、出す音が綺麗じゃありません」

 そいつは柵に寄りかかりながら、下を覗き込むようにする。

「でも、あなたの出す音は、綺麗」

 独り言みたいにそいつはつぶやく。

 あたしはなんと言うべきかわからなくなって、空を見上げた。
 灰色の雲がゆるやかに形を変えながら流れていく。

「まつりは今日お家に帰れませんでした。
 なぜだかはあなたも知っていると思います」

 唐突に、そいつは言った。
 どうやらマツリという名らしい。
 あたしは知っているということを示すため、うなずいてみせる。
 マツリはそれを見届けてから、話の続きを始めた。


「それでまつりは、事務所のみんなが気持ちよく眠ることが出来るように、
 応接室のソファの位置を変えたり、
 奥から毛布を持ってきたりして、
 それはそれはかいがいしく働きました。

 一仕事終えたまつりは、
 外でお食事を済ませて、
 それから、欲しい漫画があったので本屋さんを巡っていたのですが、
 結局お目当てのものにはたどり着けず、
 とってもうるうるな気持ちで事務所に戻ってきました。

 でも、応接室の扉をあけると、まつりが寝転がれるだけのスペースはありません。
 毛布をそろえる時、その時にいた人数まで確認したのに。

 さて、なぜまつりは寝場所を失ったのでしょう?」

 あたしはマズいものを感じた。
 言い逃れる術を探したがどこにも見当たらない。
 ツイてない日だ。
 冷え冷えした風があたしを通り抜けてゆく。


「マツリの寝場所を奪っちゃったのは悪かった。
 そうなるには、せめてもの罪滅ぼしと言うか、
 まあいろんな経緯があったんだけどさ……、
 でも、それでマツリにしわ寄せが行くのもおかしいよな。
 悪かった。あたしのせいだ」

 あたしが謝り倒すのを、マツリは横目で眺めていた。
 あたしは決まり悪くて視線をそらす。

 そういうこともあるのです。
 マツリが言う。
 そして、突然仰向けに倒れ込んだ。

 厄介なことになったと思ったが、眼下のマツリを見るに、どうやらわざとやったことのようだった。


 もう動けないほど疲れたのか?
 軽い調子で、あたしは訊いた。
 けれど、そうならおぶっていくのもやぶさかではなかった。

「あまり星が見えませんね」

 質問には答えないまま、マツリは手を上に伸ばす。

 しかし、じっさい星がよく見える夜だった。
 ちゃんと見えるぜ。
 あたしは言った。

「まつりはお星さまなのです」

 あたしは黙ってまつりの次の言葉を待った。

「ときどき休むために雲に隠れます」


 あたしはマツリのそばにしゃがみ込む。
 からだは冷え込む一方だ。

「ほんと悪いことしたと思ってるよ。ごめんな」

 マツリが何を言いたいかまるでわからなかったが、私はもう一度謝った。

「大したことじゃありません。毛布ならまた引っ張り出せばいいのです」

「ならよかったよ」

「なにせまつりの心は広いのですから」

「お気遣いどうも」


「こちらこそいいものを聞くことが出来ました」

 マツリの笑い声。

「でも、ダンスが上手と聞いていたのですが」

「ダンスなんてガラじゃないんだけど、なんでかそういうことになってるよ」

「そうかもしれません。マツリも、あなたは歌うべきだと思いました」

 あたしは立ちあがってついた砂を払った。
 やおらにマツリが両手を伸ばしたので、掴んでやった。

>>83
徳川まつり(19) Vi
http://i.imgur.com/2l8zwX2.jpg
http://i.imgur.com/uGxBPbE.jpg


 オフィスの真ん中だけど、寝床は作ってあるんだ。
 応接室のより、だいぶ硬いソファだけどな

 あたしはマツリに教えてあげた。

 そんなの、このコンクリートよりよっぽど柔らかいのです。

 なんてことなく、マツリは言った。

 違いないね。
 あたしは笑い飛ばし、勢いをつけてマツリのからだを起こしあげた。


 オフィスの真ん中だけど、寝床はあるんだ。
 応接室のより、だいぶ硬いソファだけどな。

 あたしはマツリに教えてあげた。

 そんなの、このコンクリートよりよっぽど柔らかいのです。

 なんてことなく、マツリは言った。

 違いないね。
 あたしは笑い飛ばし、勢いをつけてマツリのからだを起こしあげた。

今日は以上です
それと画像どうもですー


 ライブハウスのなかにある、ありとあらゆるものの周りで音が飛んでいる。
 床から天井、壁から壁、その間にいる人たちも。
 ずっと客側にいるのは、ずいぶん久しぶりな気がした。

 演奏が終わる。
 一瞬の静寂。
 ほどなく、わっという歓声とともに拍手がわく。
 どこまでも広がっていた音は鳴りやんだが、あたしのなかで耳鳴りとして残る。

 どこか遠い場所にでも立っているみたいだった。
 エミリーが隣で拍手をやめないのを見て、ようやくあたしは我に返る。

 楽団を見たい。エミリーがそう言ったのが始まりだった。
 あたしもバンドをやるにはやっていたけれど、ライブをやる予定がしばらくなかった。
 そこで知り合いからもらったチケットが、財布に挟まっていたのを思い出したのだ。

 うっとりとエミリーが何かつぶやく。
 よかった、とかそういうことを言ったらしかった。
 耳鳴りのせいもあって、あたしはあいまいに返事をする。

 今日はありがとうございますとエミリーが言ったのは、どうにか聞き取れた。


 ライブハウスを出て、あたしたちは和食が売りのファミリーレストランへ足を運んだ。
 少し遅い時間で客足も少ないからか、店員の動きもどこか緩慢だった。

「時間は大丈夫か?」

「問題ありません」

 あたしは親子丼を、エミリーは焼き魚定食を頼む。

 斜向かいで、三人組の客がテーブルを囲んでいたが、言葉を交わすでもなく気詰まりな風だった。
 それをぼんやり眺めているうちに。あたしたちにまでその空気が伝染する。
 先程のライブの感想でも述べればいいのだろうが、一度口をつぐむと適切な言葉がある気がして、ふたたび口を開くに至らなかった。


「よかったですね」

 ため息みたいにエミリーは言った。

「ああいうの見ると、あたしも自分のバンドで演奏したくなるよ」

「ジュリアさんも楽団をやっていらっしゃるのですか?」

 エミリーがテーブルの上に乗って、前のめりになる。
 グラスの水面がかすかに揺れる。
 脇に置かれた箸置きが音を立てる。
 その音で我に返ったのか、エミリーは元の姿勢に戻り、小さく咳払いをして同じ質問を繰り返した。


「やってるよ」

 あたしは答えた。
 一瞬気詰まりになっていたのが嘘のように、言葉がすらすらと出て来た。

「最近はスケジュールが合わなくて、なかなかライブまでこぎつけられないんだけどな」

「すごいんですね」

「すごくはないよ」

 エミリーは一度黙りこんでからゆっくりと、でもすごいと思います、と言った。
 そんなに大した話じゃない、と私は思う。

「ありがちな話だぜ?」

 いちおうあたしは断った。
 エミリーはそんなことは構わないと言うふうにうなずいた。


「さっきも言った通りほんとうにありがちな話なんだ。
 
 すっげえ好きになったバンドがあって、
 特にそこのギタリストにあたしは魅かれたんだ。

 音楽に合わせてからだを思い切り反らしたり、
 ジャンプしたりなんかしててさ、
 じっさい見て、ああこれがギタリスト、なんだって思って。
 ギターを弾く人、じゃなくて、まさにギタリスト、って感じだった。

 そんなんだったから、とうぜんあたしは憧れた。
 あの人になりたい、と思った。

 よくちっちゃい子たちが、
 テレビでやってるような番組に出てくるヒーローやヒロインを指差して、
『大きくなったらあの人になりたい!』とか言うだろ?

 ああいう風になりたい。じゃなくて、あれになりたい、って。

 恥ずかしい話だけどさ、あたしもそれと同じ状態になっちゃったんだ。


 同じモデルのギターを買う。
 自分の利き腕用じゃないのなんて、全然かまわなかった。

 ライブの映像を見て、
 ギターを持つ位置とか、
 どれくらいストラップを伸ばしたらいいかとか、、
 ジャンプはこの曲のここからここまで続ければいいとか。

 そう言うことばっか気にしてた。

 もちろんギターの練習もやってたんだぜ?

 まあふざけたことしてたんだなって思うよ、今になると。
 でも、あれはあれで楽しかった。
 どうしようもなく馬鹿げてもいるけどな。

 そうしてるうちに一人じゃ物足りなくなってさ。
 あたしはどうにか一緒にバンドをやってくれそうな人を探すことにしたんだ」


 にこやかにしながら、店員が食事を運んでくる。
 話を中断して、テーブルの上を空けてやる。
 そしてあたしはさっさと食べ終えたのだが、エミリーの箸がどうも進んでいないように見える。

 もしかすると、箸に慣れていなかったのだろうか。

エミリーは一心不乱に、焼き魚と格闘している。

 しかし、あたしが手を出しても事態を余計に悪くするだけだろう。
 なにせあたしはこまごましたことが苦手なのだ。

 悪戦苦闘しているエミリーに変な気を遣わせないために、できるだけ話を間延びさせるよう意識しながら、あたしは話の続きを始めた。


 にこやかにしながら、店員が食事を運んでくる。
 話を中断して、テーブルの上を空けてやる。
 そしてあたしはさっさと食べ終えたのだが、エミリーの箸がどうも進んでいないように見える。

 もしかすると、箸に慣れていなかったのだろうか。

 エミリーは一心不乱に、焼き魚と格闘している。

 しかし、あたしが手を出しても事態を余計に悪くするだけだろう。
 なにせあたしはこまごましたことが苦手なのだ。

 悪戦苦闘しているエミリーに変な気を遣わせないために、できるだけ話を間延びさせるよう意識しながら、あたしは話の続きを始めた。


「それで無理やりメンバー揃えて、
 好きなバンドの曲をコピーしたんだ。
 
 結果は散々。

 みんな初心者みたいなものだったし、
 そうなるのはあたりまえなんだけど、
 心のどこかでは、
『みんなで合わせてみれば、あの音が再現できるかも』
 なんて考えてたんだな、たぶん。

 それであたしは参っちゃったんだ。
 ギターはちょっと弾けるようになったけど、ギタリストそのものにはなれなかった。
 だから、ストラップをやたらと長く伸ばしたり、そういうしぐさを真似するのも全部やめた。
 
 ただ、せっかく頼んで組んだバンドをすぐ解散しちゃうのも気が引けた。
 だからバンドでの練習は続けたんだ。
 相変わらず、あたしの持ってきたスコア通りにする練習。


 きつかったけど我慢した。
 でもある日、とうとう耐えられなくなって休みの電話を入れた。

 忙しいとか何か適当な言い訳をして、
 行けたらいく、みたいなことを言った。

 でもベッドの上でごろごろしてると、
 だんだん落ち着かなくなって、
 けっきょくスタジオまで走って行ったんだ。

 時間ぎりぎりだったよ。

 息を切らしたあたしにメンバーが訊いた。
『時間ないけどなんかやる?』って。

 あたしはつい、何でもいい。
 って言っちゃったんだけど、
 即興でどうにかできる技術もまだなかったから、
 すぐにこう付け加えたんだ。

『みんなで弾けるやつならなんでもいい』って。


 それでみんなの手持ちのスコアを引っ掻きまわして、曲を見つけた。
 ちょっと昔の、かんたんなやつ。
 もちろんみんな細かいことはできない。

 あたしは押さえられるコードを押さえてくだけだし、
 リズム隊も同じリズムの繰り返し。

 でもさ、これが楽しいんだよ。
 みんなできることしかしないから、まず、音が変に揺らがない。

 おたがいが揺らがないから、それが重なって膨らんでいく。

 音を調節しようみたいなことをしなかったから、
 音量もそんなに大きくなくて、
 それぞれの出す音がすごく近しかった。

 とにかく楽しかったんだ。
 楽器も、みんなで合わせたことも。
 真似事なんて、必要なかった。

 少なくともあたしには。


 それで練習にも熱がこもって、
 スタジオに通うことが増えた。

 しょっちゅう通ってたもんだから、
 スタジオのオーナーに目を付けられた。

 まあ、その人の誘いで、ライブとか出られるようになったんだけどさ。

 ライブの楽しさは、さっき見た通り。
 見るのも楽しいけどさ、やる方も楽しいんだぜ?
 
 そうやって活動してるうちに、
 コピーだけじゃ飽きたらず、曲も作る様になった。

 今度はそれだけじゃ飽きたらず、
 パンクやりたいって言って書類書いて応募した結果、
 アイドルになっちゃったりして、
 ギター持って歌えないからって言う理由で、
 レッスンさぼっちゃったりしてるけど
 まあ、それは、それだ」


 コップに数センチ残った水を飲み干して、あたしは締めくくる。

「だいたいそんな感じ」

 店に団体の客が入ってくる。
 店内がざわめきだして、店員もせかせかと動き出す。

「バンド、とは素敵なものですね」

 またしてもうっとりと、エミリーはつぶやく。
 既に箸は置かれていて、皿の上に残っていた焼き魚は綺麗にたいらげられていた。

 すこし量が多かったです。
 エミリーはそんなことを言いながら、ていねいに手を合わせる。

 あたしは椅子の背に引っ掛けていたコートを身に着け、二人で外に出た。


 夜はすっかり冬めいていた。
 息を吸うと、鼻の奥が冷える。
 あたしたちは駅の方へ向かって歩き出す。

「曇っていますね」と、エミリーが言った。

「今週中には雪が降るんじゃないか、とか予報で言ってたよ」

「なんの予報ですか?」

「天気予報だ」

「雪、ですか」

「エミリーのいた国は雪とか降るのか?」

「すこしは。でも、こちらで降る雪とは少々趣の異なるものかもしれません」


 きれいなもんだよ。
 言って、あたしはいつかの雪が降った日のことを思い出す。
 
 その日はスタジオの予約をしていた。
 けれど、雪があまりに降るので断りの電話を入れた。
 開店休業状態だとオーナーは嘆いていた。
 
 用もなくなったので、あたしは部屋のなかでぬくぬくと曲作りにいそしんだ。

 延々と交通情報を伝えているラジオ。
 耳から耳へすり抜けて行くその中身。
 しかし、たいへんなことになっているのは間違いないようだった。

 夜遅くなると家の前を、何台か車が通り過ぎていった。

 ライトがカーテン越しに透けて光る。
 地面を噛んでいるタイヤがぼこぼこ音を立て、遠ざかっていく。


 家の前の道に、雪が降り積もっているところと、そこに轍を作りながら進む車の姿を思い浮かべた。

 カーテンから覗き見る。
 窓ガラスには自分の顔が映る。
 まじまじ見ると暗闇のなかで、白々と雪が降り積もっていて、その色どりに見惚れた。

 窓ガラスに触れる。
 指が濡れる。
 一本の線が窓にでき、そこから水滴が伝う。

 顔を寄せると、窓ガラスに引かれた線がすぐ曇る。

 あしたは大変だな。

 つぶやいて、ラジオを止める。
 あたしはベッドに倒れ込み、濡れた指であたたかな頬をなぞった。


 今、試しに頬を拭う。
 もちろん指先は乾いている。
 
「でも、しばらく降らないような気がするよ」

「そうだといいですね」

「雪は嫌いなのか?」

「まだ好きとも嫌いとも判別しがたいのですが」

 エミリーは言った。

「こちらで雪の降るときを楽しみにしています」

 なるほどな。
 あたしは笑って、おもむろに腕時計を見る。
 思っていたよりも、電車の時刻に迫っている。

 今日という日の余韻に浸る間もなく、あたしたちは冷たい道の上で足を速めた。


 エミリーの乗った電車が発車するのを見届けてから、あたしもまた電車に乗り込む。
 かろうじて席が空いていたので、座ることができた。
 
 しかし、座ったことで思考に余裕ができてしまい、ライブに行く前のことを思い出してしまった。

 エミリーと落ち合う前に、事務所に呼び出されていたのだ。
 
 心当たりはあった。
 というか、考えるまでもない。
 むしろ呼び出されるのが遅いくらいだった。

「なぜ呼び出されたかはわかりますか?」

 仕掛け人様(エミリーがそう呼んでいた)は言った。
 声に張りつめたところがなかったので、あたしは身構えずにすんだ。


「わかってるよ。レッスンのことだろ?」

「癖のある方なのはわかっています」

「あたしが? それとも向こうが?」

「両方」

「そりゃ重々承知してるけどさ」

 あたしは前にエミリーに説明したことをそのまま告げた。
 
「どうにかなりませんか」

 とくに思案するようなそぶりも見せないままに、訊ねられる。
 あたしはわざとらしく肩をすくめて、否定をあらわす。


「うまくやっていただければよかったのですが」

「感性ってやつが合わないんだよ」

「感性、ですか」

「それだそれ。でさあ、どうにもならないのか?」

「どうにも、とは?」

「そうだな、たとえば別に講師を呼んでくるとか」

「違うやり方を試すのはいいことかもしれません」

「じゃあ、できるのか?」

「まあ難しいでしょう」

「だよなあ」

 悩む振りをしながら、壁時計を見つめる。
 こいつとの話し合いより、待ち合わせの方があたしには大事だった。


「あたしがレッスンに行かないことで、なにかよくないことが起きてるのか?」

「とくには。ですが、いいことも起きないかもしれません」

「なるほどね」

「そういうことです」

「ひとつ訊いていいか?」

「どうぞ」

「呼び出すのが遅くない?」

「急ぎの用事でもなかったので」


 けっきょく、あたしはいくつかの仕事を勧められた。

 街の美容院のカットモデル。
 洋品店のちらしに載せるためのファッションモデル。
 デパートのクリスマスセールでの一日限定売り子。

「ひとつふたつ適当に見繕っておいてくれ。
 あたしからの条件はとくにない。あんたに任せる」

 仕掛け人様とやらは事務的にうなずいた。
 それ以上用も無いようだったので、あたしはコートを引っ掛けて、事務所を出た。


 あいつの口ぶりから、あたしに何の期待もしていないことは明白だった。
 告げられた仕事も、優先度の低いものばかりなのだろう。

 不意に頭のすぐ後ろの窓を、雨粒が叩く。
 思い出すのを中断して、斜め後ろを振り返る。

 鳴りだした音が止む気配はしばらくなさそうだ。

 窓の向こうで、降り続ける雨と夜の街とが重なる。

 短くなるかもしれない前髪をつまむ。
 あたしは駅から家までの最短ルートを思案する。
 そして、エミリーが濡れずに、今日の余韻を何ものにも壊されぬまま、帰路につけることを祈った。

今日は以上です

生存報告
年内にもう一度更新できれば

了解です

 エミリーの乗った電車が発車するのを見届けてから、あたしもまた電車に乗り込む。
 かろうじて席が空いていたので、座ることができた。
 
 しかし、座ったことで思考に余裕ができてしまい、ライブに行く前のことを思い出してしまった。

 エミリーと落ち合う前に、事務所に呼び出されていたのだ。
 
 心当たりはあった。
 というか、考えるまでもない。
 むしろ呼び出されるのが遅いくらいだった。

「なぜ呼び出されたかはわかりますか?」

 仕掛け人さま(エミリーがそう呼んでいた)は言った。
 声に張りつめたところがなかったので、あたしは身構えずにすんだ。

 けっきょく、あたしはいくつかの仕事を勧められた。

 街の美容院のカットモデル。
 洋品店のちらしに載せるためのファッションモデル。
 デパートのクリスマスセールでの一日限定売り子。

「ひとつふたつ適当に見繕っておいてくれ。
 あたしからの条件はとくにない。あんたに任せる」

 仕掛け人さまとやらは事務的にうなずいた。
 それ以上用も無いようだったので、あたしはコートを引っ掛けて、事務所を出た。

投下します


 雪は、いまだに降っていない。
 暖かい冬になるだろう。
 それが天気予報の見解だった。

 かわりに雨が降り続いている。

 なかなかやまない、しぶとい雨だった。

 あたしは気ままに踊っている
 ダンスレッスンは先生が体調を崩したせいで、自主練になっていた。

 踊ることは相変わらず新鮮なままで、あたしはけっこう楽しんでいた。


 ステップを踏んだり、腕を伸ばしたりするにも、
そこに例えば指先の動きを加えたり、感情をこめたりすることが出来る。

 すこしふざけてエミリーに習った日本舞踊の動きを取り入れてみる。
 おなじレッスンを受ける生徒たちから、ちょっとした歓声なんかがあがる。
 あたしはすこし得意になる。

 ひとしきり満足して、踊りをやめると拍手が上がる。
 そして、その集団のなかにマツリがいるのを見つけた。




「探してた漫画は見つかったか?」

「通信販売で頼みました。このあたりでは見つからなかったのです」

 手に入れる術があったことを喜ぶべきか。
 それとも、この辺で見つからなかったことを嘆くべきか。
 迷っているうちに、マツリは雨が止めばいい、と言って、カップの中身をすすった。

 すこし付き合ってほしい。
 マツリに誘われたので、喫茶店にいる。

 目的は教えてもらえなかった。
 
 楽しみにしておくのも悪くない、ってか。
 どうやら口に出ていたようで、その通りなのです、とマツリは満足げにうなずいた。

「雨がやむとよいのですが」

 マツリは繰り返した。
 やたら長ったらしい名の紅茶が入ったカップを、両手で包み込むようにしながら。


「このぶんじゃ難しいんじゃないかな」

 あたしは思ったままを口にする。
 マツリの表情は浮かないままだ。

 もう少しましな返答をすべきだったか。
 さほど間違った答えだったとも思わないが。

「完全にやまなくてもよいのです」と、マツリは言った。

「弱くなりさえすれば」

「リミットは?」

「今日中です」

 窓の外を見る。
 建物の中からでは、雨が強くなったか弱くなったかなんてわからなかった。
 けれど、降り続けていることに変わりはなかった。


 店員がやってくる。
 その手の上には、やたら大きいパフェが乗っている。
 間違いかと思ったがマツリはカップの位置をずらし、今空けた場所に置くよう促す。

「難しいけど、できることは簡単です」

 店員のごゆっくりどうぞ、みたいな言葉を待たずにマツリは言う。

「何ができるんだい?」

「わかりませんか?」

 あたしは首を振る。
 マツリがスプーンを取ってパフェをすくう。

「ただ、待つだけなのです」




 マツリについて、エミリーに訊いてみたことがある。

「神出鬼没です」

 難しい四字熟語を知ってるんだな。
 そう言うと、エミリーは少しむくれてみせたが、かまわず語ってくれた。

「ふっと現れて、ふっといなくなります。
 かといって存在感がないわけではありません。
 いなくなっても、それを感じさせないだけのなにかを残していきます」

「なんていうか難しいな。
 マツリに関する噂とかそういうのはないか?」

「ええと、選考試験荒らしをしているとか、
 お稽古に現れては、練習場を更地のようにして去っていく、とか」

「ちなみに、実際に見たことは?」

「いえ、人づてに知った噂と言いますか……」

「そんなもんだよなあ」

「すみません」

「いや、よくわからないってことがよくわかったよ」

「でも神出鬼没というのは本当です」

 大げさぶらず、毅然とした態度でエミリーが言う。
 あたしは深々とうなずいてみせるしかなかった。


 神出鬼没。
 正体不明。

 あげられたマツリの要素を声に出さず、読み上げる。

 そうすれば、なにかしらの繋がりが二つの言葉のあいだに表れるかもしれない。
 しかし、なにも思い浮かばなかった。
 神出鬼没、正体不明という二つの言葉のままで、新しい発見を得ることはできそうになかった。


「エミリーはじっさいに、マツリと話したことはあるのか?」

「ほんの少しですけれど、いちおうは」

「その時の話をしてくれないかな」

「ええ。以前、事務所に泊まったときです。
 目を覚ますと、なぜか私は応接室のソファに寝かせられていました。

 まわりの皆さんはまだ寝静まっているようだったので、
 私はなるべく音をたてないように部屋を出て、
 お仕事場にある古びた長椅子――ちょうど今座っているこれ――の上で、
 ジュリアさんが口を開いたまま寝ているのを見ました」

「それは言わなくてもよくないか?」

「知りません」

 エミリーは自分が座っているソファに視線を落とした。
 茶色の合成皮革に亀裂が入っていて、中から黄色いスポンジがのぞいてしまっている。


「思わぬ場所で目を覚ますなんて、大和撫子らしからぬことです」

 エミリーが暗黙にあたしを責めているのがわかった。
 柔らかなソファに寝かされたことが気に食わなかったのだろう。

 良かれと思ってさ。
 言おうと思ったが、なにを言ってもエミリーが余計に機嫌を損ねるのは目に見えている。
 あたしは何食わぬ顔をして、「それでマツリは?」と続きを促した。

「マツリさんの話でしたね」

 相変わらずエミリーはむくれていたが、気づかないふりをするあたしに根負けしたのか、話を続けてくれた。




 ジュリアさんを起こすにしても、
やっぱり時間が早かったので、
まず洗面台で顔を洗いました。

 手ぬぐいで顔を拭きながら、さてどうしようかと思案していると、不意に声をかけられたのです。

 早起きですね、と。

 少々面食らいました。
 と言うのも、ずいぶん明瞭な声で、起き抜けの人らしくなかったからです。
 
 その一瞬の動揺を悟られぬよう、私は何か返事をしました。

 前の日に、期せずして昼寝のようなことをしてしまった。
 確かではありませんが、だいたいそのようなことを答えたはずです。


「なんにせよ早起きはいいことです」

 その人は言いました。

「まつりは夜更かしをしてしまいました」

 それで私はこの人がまつりさんというのだな、と思いました。
 同時に、先ほど言ったような噂と、目の前の人を突き合わせてもいました。
 正直に申し上げますと、その評判とはかけ離れたたたずまいだったので。
 もっと鋭い雰囲気を身にまとった方なのかなあと、私は漠然と思っていたのです。
 
「眠れなかったのですか?」

 私はこわごわ訊ねました。
 いつどこで私の想像していたような鋭さを垣間見せるのか、分かりませんでしたから。
 予想に反して、まつりさんはおっとりと私の質問に答えはじめました。


「なんにせよ早起きはいいことです」

 その人は言いました。

「まつりは夜更かしをしてしまいました」

 それで私はこの人がまつりさんというのだな、と思いました。
 同時に、先ほど言ったような噂と、目の前の人を突き合わせてもいました。
 正直に申し上げますと、その評判とはかけ離れたようなたたずまいだったので。
 もっと鋭い雰囲気を身にまとった方なのかなあと、漠然と思っていたのです。
 
「眠れなかったのですか?」

 私はこわごわ訊ねました。
 いつどこで、想像していたような鋭さを垣間見せるのか、分かりませんでしたから。
 予想に反して、まつりさんはおっとりと質問に答えはじめました。


「どうしても寝入ることが出来ませんでした。
 と言うのも、欲しい漫画があったのに、見つけられなかったのです。
 そのせいで、姫はそわそわしてけっきょく夜中の事務所から出かけました」

 すこし遠いけれど、深夜も営業してる本屋さんがあって、そこまで足を伸ばした。
 まつりさんはそう教えてくれました。

「それで、ご成果は」

 まつりさんは何も言わずにかぶりを振りました。
 私はあいまいな声を出して、嘆きを表します。
 すると、まつりさんも私と同じようにあいまいな声を漏らして、目を細めました。


 ちょうど朝日が窓から差し込んできていたのです。
 光の差す方を直接見てしまったので、私は目がくらんでしまいました。

「まつりはいったん帰ります」

 眩しさで白んだ視界のなかで、まつりさんが言いました。

「交通の具合もだいぶ良くなったみたいなので」

 私の返答を待たず、まつりさんは、ね、とだけ言い残して、その場を後にしました。
 たてつけの悪い事務所の扉がぎいと鳴ります。
 朝日に照らされたまま、私はまだ夢を見ているかのような、不思議な気分に陥っていました。



 エミリーは一つため息をつく。
 そして、わかりましたでしょうか、と訊ねてきた。

「わかったよ、よくわからないって以外のことも」

 答えると、エミリーが顔を綻ばせる。

「それはなによりです」

 しかし、じっさい、よくわからない以外のことがわかったとは言い切れなかった。

 あたしは硬いソファに座りなおす。
 エミリーは鼻唄なんて歌いだす。
 いつかまた機会があれば、エミリーに寝場所を選ばせてやろうなんて、あたしは思った。




 雨脚は多少ましになった。
 もちろん、雨が降っていることに変わりはなかったが。

 マツリは時間を追うごとに無口になった。
 あたしも無理に話そうとはしなかった。

 店を出がけに、ビニールの屋根の下から外へ向かって、マツリは腕を伸ばした。
 二人分の傘を持って、あたしはその様子を眺めていた。
 
 マツリは雨にさらされている手のひらを開いたり閉じたりして、雨の降り具合を確かめていた。

「大丈夫そうかい」と、あたしは訊ねた。

「雲がなくなればもっといいのですが」

 差し出した傘を、マツリは後ろ手に受け取った。

「ゼイタク言えりゃあ、上等だよ」

「仕方がないのです」


 マツリが傘を開く。
 赤地に白の水玉があしらってある傘だった。

 目立ちそうな傘だな。
 あんがい、そうでもないのです。
 つまらなさそうにマツリは答えた。

 あたしたちは雨の降りしきる町へと歩きだした。
 通りは、色とりどりの傘で埋め尽くされていた。
 マツリはその間を縫ってすいすい進んでいく。

 どこに向かうかなんて訊く間もなかった。
 もっとも、教えてくれる保証はなかったけれど。

 マツリの、あれだけ目立っていた傘が他のものに紛れてしまい、大部分のうちの一つになってしまっている。
 あたしは傘を目で追うのをやめて、マツリの軽快な足運びを見つめながら、それに倣って人ごみをかき分けていった。


 マツリが足を止める。
 あたしはやっと顔をあげる。
 暗いショーウィンドウのなかでマネキンが静止している。
 ここらへんでは有名なファッションビルだった。

 建物自体はともかく、店はもう開いていないはずだった。
 しかし逡巡することなく、マツリは中へと入っていく。
 なんとなく予想がついたので、あたしは口を開いた。

「ライブハウスだろ?」

 この建物の最上階にライブハウスがあることをあたしは知っていた。
 と言うのも、以前何度かバンドで出たことがあったからだ。


「そこに行くことに違いはないのです」

 マツリは含ませた物言いをして、エレベーターのボタンを押した。
 もちろん行き先は最上階。
 エレベーターを出る。
 カウンターのなかにいたスキンヘッドのおっさんがコーラを注ぐ手を止め、マツリに向かって口の端をあげた。

「来ないかと思ってたよ」

 おっさんが口を開く。
 あたしもいつか話したことがあった気がしたが、よく覚えていなかったので目礼にとどめた。

「雨に脚を掴まれていたのです」

「そりゃ大変だ」

 おっさんは片手でコーラを洋酒の瓶に持ち替えて、もう一方の手でマツリに鍵を突き付けた。

「行かないのですか?」

「あいにく中でいいことやってるもんでね」

 あたしは扉の向こうにあるはずのステージの方を見る。
 耳を澄ませてみるに、なにかやっているのは間違いなさそうだった。


「ま、ただの身内向けのイベントさ。鍵は後で返しに来てくれ」
 
 マツリは鍵を掲げながら、礼を言う。
 おっさんも紙コップを掲げ、扉の方へ向かったと思ったが足を止めて振り返った。

「なんでジュリアがいるのか知らないけど、たまには歌いに来てくれよな」

 あたしが何か答える前に、おっさんは扉の向こうに消えていった。
 考えとくよ、くらい言えればよかったのだが。

 ジュリアちゃんというのですね、とマツリは言った。
 まつりはまつりというのです、とも。

「わかってる」

 あたしは答えた。

「とてもよく知ってるよ」


 当たり前なのです。
 マツリが鼻を鳴らす。指先の鍵が、ちゃりちゃり音を立てる。

「まつりはお姫様なのですから、みんな知っていて当然なのです」

 やりとりもそこそこに、あたしたちは非常用階段をのぼり、屋上に通じる扉の鍵をあけた。

 傘をさす。
 向かって、すこし強い風が吹いている。

 いい風ですね。

 つぶやいたのはマツリだった。

「肌寒いけどな」

「風に乗っていくことだってできそうです」

「そりゃいいね」

「マツリは風なのですから」

「この前は星って言ってなかったか?」

 あたしが指摘すると、マツリはすこし眉をひそめて、
「まつりはなんにだってなれるのです」と尻すぼみに言った。


 当たり前なのです。
 マツリが鼻を鳴らす。指先の鍵が、ちゃりちゃり音を立てる。

「まつりはお姫様だから、みんな知っていて当然なのです」

 やりとりもそこそこに、あたしたちは非常用階段をのぼり、屋上に通じる扉の鍵をあけた。

 傘をさす。
 向かって、すこし強い風が吹いている。

 いい風ですね。

 つぶやいたのはマツリだった。

「肌寒いけどな」

「風に乗っていくことだってできそうです」

「そりゃいいね」

「まつりは風なのですから」

「この前は星って言ってなかったか?」

 あたしが指摘すると、マツリはすこし眉をひそめて、
「まつりはなんにだってなれるのです」と尻すぼみに言った。


 端の方までゆっくり歩いていく。
 空は暗かったが、見下ろされた町は雨の中でも光っている。

「これをあたしに見せたかったのか?」

 マツリは首を振った。

「あとほんの少し待っていてください」

 さすがに待ちくたびれたよ。
 言おうとしたとき、なにかがはじける音がした。

 音の出所の方角を見やると、また一度、花火が上がり、はじける。
 それが何回かあがって、数分休憩が入り、またあがってを繰り返す。

「花火大会にしちゃ遅すぎないか」

「こんな時期でもあるものはあるのです」


 花火が光り、少し間をおいて、爆発音が響く。
 残った煙は風に流され、雨の中へと溶けていく。

 濡れたコンクリート。
 冷えた風。
 火薬の匂いは届いてこない。

 そうしてみているうちに、三十分ほど経った。

 休憩時間にしてはだいぶ間があいている。
 そろそろお開きなのだろうか。


 花火に見惚れはなしだったので、あたしはまずなにから言ったらいいものか、わからなかった。
 先に口を開いたのはマツリだった。

「決めてほしいことが二つあるのです」

「決めてほしいこと?」

 マツリは何も言わずうなずいた。

「それはあたしに関係あることなのかい?」

「大いにあります」

 マツリがつま先で水たまりに触れる。

「すこしの間、マツリとステージで歌ったり踊ったりしてくれませんか?」


「降って沸いたような話だな」

 マツリのつま先から広がる水紋を眺めながら、あたしは言った。

「質問してもいいかい?」

「どうぞ」

「すこしの間ってどれくらいかな」

 始める前から訊くことではないような気がしますが。
 あたしに顔を向けず、マツリは呆れたような声をあげる。

「そうですね、春くらいまでということでどうでしょう」

「あたしが言うのもなんだけどさ、
 そんなにいい加減に決めちゃっていいのか?」

「まつりが決めることに、いい加減なことなどないのです」

「もしかして、事務所の差し金とかじゃないよな」

 マツリは首を振って、姫の独断です、と答えた。
 なぜかあたしは安心してしまった。
 あいつは悪いやつじゃなさそうだが、そこまで親切でもないはずだ。


「独断ってのはそれはそれで問題ありそうなもんだけどなあ」

「問題ありません。まつりは姫なのですから」

「ほんとうに何にでもなれるんだな」

 からかうように言うと、マツリはあたりまえと言うように鼻を鳴らした。

「それで、もう一つはなんだ?
 もしかしなくても、そっちも厄介事なのか?」

「かんたんなことなのです。
 この花火が終わったかどうかを決めてください」

「それを決めると、どうなるんだ?」

「ここで今日はお開きなのです」

「決めるまで帰れないってことか」


 マツリは何も答えず、あたしの向こう側に視線を移した。
 その先を追ってみたけれど、街も天気も変わりだす予兆は見えない。
 さっきまで花火が上がっていたのが、嘘みたいに静かだった。

 マツリにはなにか見えているのだろうか。
 ここから見える景色の中の、なにか特別な一点が。
 少なくとも、あたしにはなにも見えない。

 マツリが傘を傾ける。
 その横顔すらうかがい知れなくなる。
 雨を受けた派手な傘が街の光を受けて、きらきらと輝いて見える。

 あたしはまだ、手掛かりになりそうなものを探している。

第一部おわり

毎度修正多くて申し訳ない
続きもこのスレでゆっくりやります



こういう雰囲気いいね

保守


 けっきょく、マツリとは行動を共にするようになった。
 それでわかったことがいくつかある。
 聞き流していたのだが、マツリはどうやら本当にお姫様ってやつらしい。
 そのせいで、謎はいっそう深まってしまったのだけれど。

 当然と言えば当然だが、お姫様とやらに出くわしたことは、これまで一度もなかった。
 あたしがわからないのも、無理ないことだ。

 ときどき上がることになったステージについて。
 事務所持ちの劇場や、近所の小ぢんまりしたライブハウスが主だった。

 ステージに関して言えば、マツリはやり手だった。
 かといって、隣にマツリがいることに対するやりづらさは、あまり感じられなかった。
 もっとも、あたしにマツリほどの安定感はなかったのだけれど。


 しかし、客が少なかったり、空気がいまいちだったりすると、どうしても燃えてこない。

 懸命にやっているつもりではいる。
 それでも、どこか上滑りしているような。
 ふと我に返ると、そんな感覚に襲われてしまう。

 よくかっこつけたバンドマンなんかが言うことだ。
 客の数なんか関係ない、君のために歌うぜ、みたいなやつ。
 たしかにとても素敵なことだが、なかなか難しい。

 ステージが終わると、マツリはとにかく甘いものを所望した。
 それも目にするだけで、口の中がべとべとになってしまいそうなやつ。
 マツリは何食わぬ顔でそれらを平らげるのだった。


 そんなふうだったけれど、あたしとマツリはうまくやっていた。
 お互い妙に構えず、ステージの上に溶け込むことが出来ていた。
 ただ、心底かみ合わない部分もあった。

 フリルやらレースやらがふんだんに使われた衣装。
 無理とまでは言わないが、正直言うと気に入らない。
 そして残念ながら、動きづらいということもない。

「ステキなのです」

 それを身に着けたあたしを見て、マツリはうっとりした声を出す。
 あたしは思いつく限りの言葉を並べて、抵抗を試みるのだが、気が付くとステージにあがらされている。

 脱ぎ捨てる選択肢もなくはなかったけれど、マツリを敵に回すのは得策とは思えなかった。
 さすがにスキンヘッドのおっさんに大笑いされた時は、本気で逃げ出したくなったけれど。


 ジュリアちゃんと、踊らせてほしいのです。
 マツリの提案を、痩せ男はあっさりと認めた。

 仕事ができるのはいいことです。
 あたしたちを交互に見て、痩せ男は淡々と述べた。

 あたしは肩透かしを食らった。
 てっきり、なんらかの質問を投げかけられたり、難しい顔をされたりするものだと思っていたのだ。

「それって大丈夫なのか?」

 念を押すように、訊ねてみた。
 けれど、マツリと痩せ男の不思議そうな視線に挟まれ、あたしはとうとう質問を引っ込めた。


 事の顛末を話して、驚いたり、不思議そうな表情を作ったりしてくれたのは、エミリーだけだった。
 頼りになるのはエミリーくらいだ、なんて言ったらまた大げさだと笑われたけれど。

 レッスン終わりの帰り道だった。
 街はネオンで彩られていて、街路樹なんかにも電飾がつけられている。
 洋菓子屋から漏れ出る湯気の中から、クッキーの匂いが漂っている。

「まつりさんのお人柄はわかりましたか?」と、エミリーが訊ねる。

「相変わらずさ」

 あたしは首を振った。

「他に変わったことと言えば、マツリに呼び出されるようになったくらいかな」


「どちらへ?」

「必ず決まってるってわけじゃないけど、
 だいたい喫茶店とか図書館とか、あと本屋。
 まあ、そんなところだ」

「二人でお出かけですね」

「お出かけなんて大したもんじゃないさ。
 本屋を巡って漫画を買いあさったり、
 図書館に連れて行かれて古い漫画を読みあさったり、いろいろ」

「でも、楽しそう」

「タメになるよ」

 あたしはため息をつく。
 ため息をすると幸せが逃げますよ。
 エミリーが笑う。

 幸せねえ。
 つぶやいて、道の端に寄せ集められた落葉を踏みつける。
 エミリーは、雑貨屋のショーウィンドウに並べられた、ガラス細工に目を奪われている。




 作戦会議をするから来てください。
 呼び出されたので、図書館へと足を伸ばす。
 作戦会議と言うのはいつものことで、つまり名ばかりだ。
 マツリが呼びつけたいから呼ぶ、以上のものではない。

 棚に敷き詰められた本。
 ページをめくる音。
 心惹かれた棚の前でじっと立ち止まり、視線を泳がせる人々。

 いつもの古い漫画が置いてある辺りを探しても、マツリは見つからなかった。
 早く来すぎただろうか。
 判断が付きかねたので、普段見ない別の棚を覗いてみることにした。
 
 待つ間に漫画を読むのも手だったが、実のところ、ここにある漫画にも飽きが来ている。


 しかし、なにを手に取っていいかわからない。
 もともとは図書館に縁がなかったし、本屋に行っても音楽雑誌を手に取るくらいだった。
 
 やむなく断念し、棚と棚のあいだから抜け出す。
 
 頭をひねって、作詞くらいなら出来ることを思い立つ。
 あたしは閲覧机のある方へと向かう。
 そこでマツリを見つけたのだった。

 マツリはあたしに気づいたようだったが、視線を送る以上の反応を見せるでもなく、再び視線を落とした。

 手元には大判の図鑑が広げられている。
 広げられたそれを目でさらってみても、マツリが何の図鑑を開いているか、あたしにはわからない。
 そこには、ど派手な原色で彩られた何かの写真が、ページ一面に載せられていた。


「それはなんだ?」

 声を潜めて訊ねた。
 マツリはでかい図鑑を造作なく持ち上げ、こちらに見せてきた。

『ウミウシ――ふしぎな海のいきもの』

 あたしはあいまいにうなずいてみせる。
 ウミウシは知らないが、個人的に、不思議な生き物というのは、あまり得意ではない。
 マツリは見せつけるようにしながら、奇妙な紙上の物体の輪郭を指先で撫でている。


 あたしは身振りで、声を出して話せる場所に行こうと促す。
 マツリは少し不満げにしていたが、図鑑を脇に抱えて立ちあがった。

「持ち出すのはまずいんじゃないか?」

 つい、普段の調子で声をあげる。
 まずいのはあたしの方だ。

 おそるおそる辺りを見回す。
 幸い、誰もあたしに注目していない。

 マツリは何も言わず、図鑑の背表紙を見る。
 そしてもう一度、背表紙をこちらに向ける。
 そこには、貸出禁止を示す赤いシールが張られていて、マツリは浮かべていた不満の色をさらに深めたのだった。


「漫画は好きですが、いつも漫画ばかりというわけでもないのです」

 図書館の談話スペースで、マツリはそう説明した。
 
「あの図鑑はそんなにいいものなのか?」

「じっくり説明しましょうか?」

「いや、遠慮しておく」

 そうですか。
 マツリは、大して気にしないふうにつぶやく。
 そして、磨かれた爪先などを気にしだす。
 表面に何の凹凸もない、磨き抜かれた滑らかな爪を。



 あたしは、組んでいた足をもう一度組み直す。
 それから、ぐるりと辺りを見回す。

 談話スペースにいるのは、あたしたちの他にいなかった。
 と言うことは、この静かな建物で話しているのは、二人だけかもしれない。
 そう考えると、どこか落ち着かない気分になる。

 気分を紛らわすために、あたしはマツリになにか質問をするべきだと思った。

 それは唐突な思い付きだった。
 ただ、いろいろなことがはっきりしないことに、違いはなかった。
 マツリに関して、霞みがかったことが多すぎる。
 おかげで、あたしの気分が晴れない。


 知りたいことはいろいろあった。

 けっきょく、マツリは何者なのか。
 どういう経緯でステージに立つようになったのか。
 漫画や図鑑をよく読むけど、小説や詩は読まないのか。
 どんな音楽が好きか。
 海と山ならどちらが好きか。
 そして、嫌いなものはあるのか。それは何か。

 しかし、とくに知りたかったのは、なぜあたしに決めたか、ということだ。
 一緒に歌ったり踊ったりするなら、他に選択の余地はあっただろうに。
 ただ、簡単に問うことはしない。

 なにせ相手はマツリだ。
 はっきりした答えは期待できない。
 あの独特な言い回しであしらわれるのが関の山だろう。


 一緒にやろうということになった時、あたしはこう言った。

「やってみるとさ、相性がわかるんだ」

「相性、ですか」マツリは、あたしの言葉を繰り返した。

「ああ。表面上うまくやってるように見えても、
 どこかしっくりこないなあとか、
 そういうのってさ、後々どこかで綻びが出てくるだろ?
 なんとなくだけど、すぐわかるんだよ。
 だから、もしも合わないと思ったら、予定より早めに解散しようぜ。
 その方がお互いのためだろ?」

「わかりました。でも、問題ないと思いますよ」

 平然とマツリは言い放った。

「まつりに間違いなんてないのですから」

 じっさい、間違いはなかった。
 すくなくとも、ステージの上で違和感を覚えたことはない。
 これまでを鑑みるに、マツリの選択は正しかったと言えるだろう。


 なぜ、あたしを選んだか。
 知ってどうこうしようというのではない。
 ただ単純に、不思議だと思うのだ。
 不気味なくらい、しっくり来ている。

 マツリは、始める前からそれがわかっていたのか。
 そしてあたしのどこに、その予感のようなものを見出したのか。

 あたしはそういうことを訊ねたかったのだ。

 しかし、こうも思う。
 じつはマツリも予想外だったのではないか。
 だから、マツリも答えなんか持ち合わせちゃいないのではないか、と。


 マツリが退屈そうに両手をこねる。
 そして頬杖を突きながら、何か思案するように斜め上に視線を移す。

 とにかく、あたしはもう、決めてしまった。
 決めたことを翻すことも不可能ではない。
 ただ、その選択肢はないも同然だ。
 マツリはあたしを選んだし、あたしはマツリの提案を受け入れた。
 それだけは、はっきりとしている。

「なにかごちそうしましょうか」

 視線を宙に漂わせたまま、マツリが言う。

「せっかくご足労頂いたのですから」

「ものにもよるな」

 答えながら、訊き損ねたと思った。
 タイミングを逃したような気がしたのだ。

 館内放送で、催し物の報せが流れ出す。
 マツリはようやくあたしに顔を向ける。


「好き嫌いがあるのですか?」

 大声を出しているふうでもないのに、マツリの声はよく耳に届いた。
 館内放送と重なっていたにもかかわらずだ。

「うーん、まずくなければだいたいオーケーだけどさ」

「事情はよくわからないですが、選ばせてあげてもよいのですよ?」

「そりゃ光栄だな。でもこのあたりの店ってよく知らないんだ」

「なら、いい案があります」

「聞いとこうか」

「ケーキバイキングが、この近くで催されているらしいのです」

「なるほど」

 あたしは言った。

「やっぱり、あたしに決めさせてくれ」




 決して心が晴れたわけではない。
 しかし、図書館で話したあの日以来、さほど気にならなくなった。

 ステージが用意される。

 そこで歌って踊る。
 客が入っているか、熱気はどうか。
 それは蓋をあけてのお楽しみ。

 大なり小なり違いはあっても、基本的にはその繰り返し。

 もちろん衣装もマツリ好みのばかり。
 それだけには、いつまで経っても慣れられなかった。
 ただ、以前を思うと、状況は上向いているのだ。
 それくらいのことなら、不本意だが、あってもいいだろう。


「今日はよかったですね」

 一度だけ、マツリが言った。
 珍しく、今にも立ち消えそうな一言だった。

 ステージ直後で、二人とも息があがっていた。

 客受けは平凡だった。
 けれど、いいステージだった。
 お互いの歌声や踊りが、完全に結びついているかのようだった。

 ほんの少しでもズレが生じれば、たちまち崩れてしまいそうな。
 いつ足を踏み外すかわからない、ぎりぎりのところであたしたちは踏みとどまり続けた。

 ベストアクトと言うやつだ。

 こういうこともあるもんだな。
 ふざけたような調子で、あたしは言った。
 マツリは驚いたような顔をした。

 余計なことを口にしたかと思った。
 しかし、マツリは何事もなかったかのような抑えた声で、
「例え偶然でも、まつりたちがやったことに違いはないのです」と、言ったのだった。


 あたしは静かに笑った。
 マツリもおかしそうにからだを揺らしていた。

「なあ、マツリはなんであたしと一緒にやろうと思ったんだ?」

 すこしばかり、マツリにすきができた気がして、訊ねた。
 それに、答えが期待できないのなら、訊いても訊かなくても同じことだ。

 控室の鏡台にあたしたちの姿が映っている。
 二人とも髪が乱れているし、衣装もところどころシワが出来ている。
 さっさと着替えればいいものを、どこ一つ、留め具が緩めらていない。
 マツリは逡巡せず、こう言った。

「ジュリアちゃんこそ、なぜ提案を受け入れたのですか?」

 答えに窮する。
 考えを巡らせる。
 どうやら答えを持ち合わせていなかったのは、あたしの方だったらしい。


 すこし考えさせてくれないか。
 いいですよ。

 やりとりの後、マツリが帰り支度を始めるので、それに倣った。
 時計を見るに、少し長居してしまっていたようだ。

 流れ作業のように片付けを終わらせ、ろくに言葉も交わさないまま劇場を後にする。
 客はおろか、演者もほとんどいなくなった建物。

 冷えた夜のなかで大人しくたたずんでいる。
 先程までは熱気にあふれ、膨張せんばかりだったのに。
 あれほどの音にあふれていたのに。

「そうだ」

 立ち止まり、あたしは口にする。
 冷たい夜に声がよく響く。
 マツリが一歩先のところで、あたしの顔を覗きこむようにする。


「なんでマツリと一緒にやろうって思ったかって話だけどさ」

 マツリがうなずく。

「退屈してたんだよ、たぶん」

 あたしは何らかの返事を期待した。
 なるほど、とか、ふうん、とか、気のない相槌でもよかった。

 だが、何の返事もない。
 見ると、マツリが腰を折っていた。
 暗がりの中で、表情はよく見えない。
 かがみこんでいるから、なおさらだ。

 様子をしばらく見ていると、どうも笑いを噛み殺そうとしているらしい。
 しかし、堪えきれなかった音が口の隙間から漏れ、甲高い笑い声に変わるまで、大した時間はかからなかった。


「そんなに変なこと言ったか?」

 腹を立てながら、あたしは訊ねた。
 マツリはまだ笑いやまず、しゃべることすらおぼつかない。
 こんなに大笑いするマツリは、はじめてだった。
 それも声をあげて笑うようなのは、とくにだ。

 おかげで、自分の言ったことに自信がなくなってきた。

「やっぱり、おかしかったかな」

「おかしい」

 マツリは息を弾ませながら、
「でも、姫も退屈だったのかもしれません」と言った。

 そりゃなによりだ。
 うつむきざまに言いながら、あたしは足先で地面をつついた。
 夜と、すこし湿った土の匂いがした。

今日は以上です
エミリー誕生日おめでとう

引きこまれて一気に読んでしまいました
次回の楽しみにしています


 一緒にやろうということになった時、あたしはこう言った。

「やってみるとさ、相性がわかるんだ」

「相性、ですか」マツリは、あたしの言葉を繰り返した。

「ああ。表面上うまくやってるように見えても、
 どこかしっくりこないなあとか、
 そういうのってさ、後々どこかで綻びが出てくるじゃんか。
 なんとなくだけど、すぐわかるんだよ。
 だから、もし合わないと思ったら、予定より早めに解散しようぜ。
 その方がお互いのためだろ?」

「わかりました。でも、問題ないと思いますよ」

 平然とマツリは言い放った。

「まつりに間違いなんてないのですから」

 じっさい、間違いはなかった。
 すくなくとも、ステージの上で違和感を覚えたことはない。
 これまでを鑑みるに、マツリの選択は正しかったと言えるだろう。

投下します


 二両編成の、鈍行列車に乗っている。
 鈍行と言うだけあって、一駅一駅ていねいに停まる。
 あたしは、窓を開けて春の風を感じてみたり、電車と同じくらいの速度で走る軽トラックをぼおっと眺めたりしていた。

 一度乗り継ぎをしてからというもの、ずっとこの調子。
 目的の駅まで、まだずいぶんかかりそうだった。

 へんぴな土地に呼ばれたもんだな。

 へんぴでも土地は土地なのです。

「遠いにしても、もう少し速い列車があればよかったのですが」

 マツリが欠伸を噛み殺すように、唇を横に伸ばした。
 それに気づかないふりをして、あたしはなかなか進まない腕時計に目を落とした。


 うちでステージやってくれないかい。すこし遠いけど。

 いつも通りステージを終え、そそくさ退散しようとすると、そう呼び止められたのだ。
 隅っこの方で壁に寄りかかっているような客の一人で、ここ最近よく見かけるやつだった。
 そいつは、あたしの聞いたことのない町の名前をあげた。
 話を聞くに、海沿いにあるところらしい。

「構いませんよ」

 すこし細かな説明を聞くと、マツリはあっさり答えた。

 先に事務所を通したほうがよさそうなもんだが。
 思ったけれど、この方が手間が省けそうだったので、あたしはとくに何も言わなかった。


 あなたの意見は?
 後になって、痩せ男があたしに訊ねた。

 不意を突かれ、すこしうろたえた。
 前に頼まれた遠征のことを言っているのは分かった。
 ただ、当然行くものだと思っていたので、なにか訊かれるとは思っていなかったのだ。
 
「訊いてなかったんですか」痩せ男がマツリに視線を移す。

「うっかりしていました」とマツリ。

「あなたがよくても、もう一人はよくないという場合もありえます」

「それもそうなのです」

 マツリは毛先を指でいじりながら、あたしを見る。

「どうしましょうか?」

「行くに決まってるさ」

 今度は間髪入れずに、あたしは言った。

「呼ばれてるのに、行かない理由はないってもんだ」


 そのようないきさつで、電車に揺られている。

 マツリは退屈げに甘ったるそうな飲み物を飲んでいる。
 季節が変わっても、マツリは相変わらずだった。
 もちろん、突然味覚が変わったりするわけもないのだが。
 あたしだって、相変わらずマツリの食べるものをみては、違う意味で胸がいっぱいになる。

 そして訪れたのが、相変らずの春だった。
 漫然としていて、ぼわぼわとからだの輪郭が散っていきそうな季節だ。

 乗り換えをする駅で降りる。
 待ち時間が一時間近くもあるらしい。

 知らなかったのですか。
 マツリは呆れた声を出し、二人だけの待合室のベンチで足を投げ出している。

 少し寝るよ。電車が来たら起こしてくれ。
 マツリに取り合わず、背負ってきたギターを置き、あたしはベンチの上に寝転んだ。




「二番線ホームに列車が参ります」

 マツリの呼びかけより先に、ホームのアナウンスで目が覚める。
 あたしは荷物を持ち直し、マツリと一緒に電車に乗り込んだ。
 入ってすぐのところで、路線図を見上げる。
 聞いていた地名は、図面の端の方にある。

 こんなにのんびりした電車ばかりに乗るのは初めてだった。
 もう一眠りと思ったが、あいにく目が冴えている。
 バッグに突っ込んでいた、音楽雑誌を開く。
 すると、マツリがからだを寄せて来たので、マツリの座っている方へ雑誌をずらしてやる。


 なにげなく開いたページで、その筋で有名な海外のベーシストが特集されていた。
 素肌に革ジャンを身に着けた髭面の男の、長髪を振り回しながら演奏している姿が、数ページにわたって載せられている。

 おかしな格好をするのですね
 マツリが感想を述べる。

 マツリも大概だよ。
 心のうちで答えながらも、まあ異文化ってやつだな、と言うにとどめる。

「理解しがたいのです」

 難しそうな顔をしながら、マツリが言う。

「あたしもよくわからないけど、こういうのもあるってことだな」

「興味深いことです」

 ページをめくりながら、マツリは言った。

「姫たるもの、異文化を知るのもたしなみのうちの一つですから」


 なにげなく開いたページで、その筋で有名な海外のベーシストが特集されていた。
 素肌に革ジャンを身に着けた髭面の男の、長髪を振り回しながら演奏している姿が、数ページにわたって載せられている。

 おかしな格好をするのですね
 マツリが感想を述べる。

 マツリも大概だよ。
 心のうちで答えながらも、まあ異文化ってやつだな、と言うにとどめる。

「理解しがたいのです」

 マツリが難しそうな顔をしてみせる。

「あたしもよくわからないけど、こういうのもあるってことだな」

「興味深いことです」

 ページをめくりながら、マツリは言った。

「姫たるもの、異文化を知るのもたしなみのうちの一つですから」


 マツリはさ、こういうふうに電車に乗ったことってあるのか。
 雑誌を閉じたあと、興味本位で訊ねてみた。

 普段は馬車で移動しているのです。

 澄ました顔で、マツリは答えた。
 どうもあたしはだいぶぽかんとした顔をしたらしい。
 こちらをじっと見て、マツリはこう続けた。

「黙って頷くのです」

 あたしは言われた通りにした。




 わりに新しそうな宿にたどり着いたのは、夕方ごろだった。
 部屋から見える海に浮かぶものはなく、ただどこまでも深い青色が続いている。

「どこか見に行きますか?」

 マツリが言った。
 ステージは明日なので、今日の予定は空いている。

「いいや。今日はゆっくり休もうぜ」

 あたしはベッドに寝転がる。

「そうしましょうか」

 マツリはベッドに腰掛けて、腕や脚を伸ばしてからだをほぐしていた。

 横になったまま、首だけ動かして部屋を見回す。
 部屋のなかはベッドが二台。
 テーブルと机がワンセット。
 それに今では見ないような、奥行きのあるごつごつとしたテレビ。


「まつりには似つかわしくないお部屋なのです」とマツリがため息を吐く。

「マツリの部屋ってやっぱり豪華な感じなのか?」

「ないしょです」

「でも漫画はたくさんあるんだろ?」

「そういうことにしておきましょう」

「徹底してるんだな」

「国家機密ですから」

「そう言えば漫画は持って来てないのか?」

「かさばるし、荷物になるのでありません」


「あたしも楽器なんて持ってくるんじゃなかったよ」

 少しからだを起こして、壁際に立てかけたギターにあたしは目をやる。

「空き時間で練習するなり、
 路上に出て、ミニライブみたいなことをしようかと思ってたけど、
 あんな長旅のあとじゃ、それもおっくうだ」

「そんなの、もらった行程表をみればわかっていたことでは?」

「その手のこまごましたものって性に合わなくってさ」

「頼りにされているのですね」

「感謝してるよ」

「姫たるもの、人を導くことくらいできなくては、ね?」

「マツリがわがままで高慢ちきな、ひどいお姫様じゃなくてよかったよ」

「まつりはいつだって誠実で、前に出過ぎずお淑やかで……、とにかく絵に描いたようなお姫様なのです」


 正直なところ、マツリのあげた言葉は、嘘とも本当とも思えなかった。
 間違いでないとは思う。
 しかし、少なくとも前に出過ぎないなんて言うのは、マツリらしくない。

 あたしは劇場でのマツリの様子を思い浮かべる。
 スポットライトの下、あたしとマツリがステージを始める。
 音が飛び交い、その行く末を追いかけるように、マツリは踊る。

 曲が止む。
 光が落ちる。
 ステージ上は真っ暗になり、人が立っているかどうかすら認識できない。

 あたしは一度ステージから掃け、水を飲むうち、目が慣れてくる。
 マツリは自分の立ち位置にとどまったまま、肩を上下させている。


 その先には、客がいて、壁際ではスタッフがおかしな奴はいないか目を光らせている。
 しかし、マツリはそのうちのどれも見ていない。
 壁なんか通り抜けて、はるか遠くのどこかを見つめているようにすら思える。

 給水を終えて、持ち場につく。
 曲の前奏が流れ出す。
 客席でペンライトが光る。
 スポットライトが再び当たる。

 マツリが不敵に曲名を唱える。

 客席が沸く。
 聞き慣れた声も混じっている。
 ファンがいると思ってもいいのかもしれない。
 あたしは前を見据える。
 視界の端で、マツリが笑みを浮かべている。


 あたしはギターを見つめたまま、
「次はマツリを連れまわすくらいしてやるさ」と軽口を叩く。

「期待していますね」

 マツリは大して期待していなさそうに答えた。




 どうやら眠り込んでしまっていたらしい。
 ささやかではあるが、人の声もする。
 それに、またたくものをまぶたの外に感じる。
 目を開くと、テレビが付きっぱなしになっていた。

 あたしがつけたのかマツリがつけたのか、記憶にない。
 すぐ寝入ったような気もするし、しょうもない話をしたような気もする。

 明滅する液晶に目もくれずリモコンを探したところ、ベッドの間に落ちていた。
 マツリは壁の方に顔を向けたまま眠っているようだ。

 テレビを消すとずいぶん暗くなったので、再びベッドに潜る。
 強い明かりを受けたせいか、まぶたの裏側が落ち着かず、目を開いたり閉じたりする。
 そうしているうちに、暗闇のなかに、ギターケースが視界のなかに浮かび上がった。


 寝入る前に、触っておけばよかった。
 あたしは思う。
 近頃、忙しくしているおかげで、ギターを弾く時間が目に見えて減っている。
 そうした時間を作れればと思って持ってきたのだが、このざまだ。

 布団のなかで自分の指先を撫でてみる。 
 ずいぶんと柔らかくなっている。
 しばらくなかった感触だ。
 日頃、弦を押さえていればこうはならないはずなのに。

 あたしはもうギター無しで歌うことに慣れていた。
 もともと、できないことはなかった。
 ただ、しっくりこなかっただけだ。

 あたしが歌って踊る。
 そうすることで、マツリに手を貸してやれるし、なによりファンも満足する。

 これ以上ないことだ。
 目を閉じる。
 耳をそばだてると、波の音が聞こえてくる。
 その音が耳のなかで渦を作り、あたしを眠りにいざなう。




 夢を見た。
 夢と言っても、すこし前にじっさい起きたことだ。

 事務所に手紙がいくらか届いているらしい。
 しらせを受けて、あたしはそこまで足を運ぶ。

 どうもファンレターのようだ。
 段ボールにたくさんとまでは言わないものの、それなりの数の手紙が入っている。
 差出人はだいたい匿名希望。

 ファンのうちの一人ではなく、ただのファンでいたいんでしょう。
 痩せ男の言葉に珍しく納得しながら、あたしは封を破る。

 言っちゃなんだけど、だいたい月並みな内容だ。
 前のステージを見てしびれたとか、応援してますとか、そういうの。
 でも、変に凝った文面よりか、月並みな言葉を並べ立てている方があたしは好きだった。


 そうして眺めているうちに、最後の一枚になる。
 差出人の名前が載っている。
 書き出しを見ると、しょっぱなから評論家を名乗っていて、文面からどこか偉そうな雰囲気が漂っていた。

「訳の分からないステージだった」

 仰々しい時候の挨拶を終えると、評論家はこう切り出した。

「歌は粗削りだし、ダンスもときおり繊細さが失われるのがいただけない。
 更にいただけないのが、新入りの、衣装を着せられている感じ。
 断っておきたいのが、似合わないわけではないこと。
 なのに、着せられている感じが拭えない。
 それを見て立ち去ろうとも思ったが、生憎時間の都合上、やむを得ず見ていくことにした。

 結論から言うと、私の感じた不満は、まったく問題にならなかった。
 それだけステージが素晴らしかったのだ。
 あそこまで素晴らしいと、多少の瑕疵さえ計算された演出のように思えてくる。
 とにかく、あのステージには不思議な力が働いていて、
 その力を生み出していたのは、間違いなくステージに立つ二人だった。
 私にはそう思えてならない。
 応援しています」


 新入りと言うのは、あたしのことだろう。
 それにしても、褒めてるんだかけなされてるんだか、わからない。
 けれど、どちらかと言えば腹が立った。

 余計なお世話だ。

 後になって、あたしは評論家の名前を調べてみた。
 しかし、そんな名前の評論家はどこを探してもいなかった。




 ベッドの上で適当に手を伸ばすと、リモコンに行きあたったので、あたしはテレビをつけた。
 流れてくる声を聞くに、夜が明けて間もないくらいのようだ。
 すこし迷ってから、身を起こすことに決めると、隣のベッドがもぬけの殻になっていることに気づいた。

 また漫画でも探したくなったのだろうか。
 それともウミウシ探しだろうか。
 もっとも、こんなところに生息しているかどうかは知らないが。

 マツリのいたベッドのシーツは、ずいぶん整えられていた。
 ここに誰かが寝ていたなんて、知らない人が見たら信じられないと言うくらいだ。
 見よう見まねでベッドメイクを試みてみる。
 しかし、手を加えれば加えるほど隣の整然としたベッドから遠のいた。


 しわくちゃになったベッドの上に、光が薄く差し込んでいる。
 あたしは意味ない奮闘をやめ、シャワーを浴び、持って来たチョコレートを食べた。

 それにしたって、マツリはまだ戻ってこない。
 もう既にどこかで朝食をとっているのだろうか。
 マツリはそんな人を出し抜くような真似をしない。
 そう信じたかったが、お腹が空いていたのです、の一言で済ます可能性も否定できない。

 しかたなく、あたしはケースからギターを取り出す。
 なるべく音を抑えて、作った曲のおさらいなんかをしてみる。
 弾いているうちに、なにか沸きあがってくるような感覚はあった。
 しかし、それもうまく形にならないまま、ただただギターを弾き続けた。


 鼻歌を歌いながら、あたしはなにかを待っている。

 たとえば、新しい曲の全体図。
 すでに作ってある曲のアレンジ。
 誰も口ずさんだことのないようなフレーズ。
 朝食の時間。
 そして、徳川まつりが戻ってくるのを。

 しかし、ギターを触っている間に訪れたのはせいぜい朝食の時間くらいのものだった。

 あたしはギターを抱えたまま、腰かけていたベッドに寝転んだ
 部屋のなかは朝で満ちている。
 マツリの携帯電話にかけてみると、マツリの鞄の中でやたらかわいらしい曲が流れだしたので、電話を切った。


 いい加減探しに行くべきだ、とあたしは思った。
 万が一、事件にでも巻き込まれていたら、大ごとだ。

 マツリに限って、そんなことはないだろうが。
 それでも心の片隅で、不安を覚えずにいられなくなる。
 おもむろに、ギターの弦を低い方から一本ずつ鳴らす。

 六弦。
 マツリは現れない。

 五弦。
 あんなに甘いものばかり食べるマツリは変わっている。

 四弦。
 変わっているどころじゃない。
 やっぱりマツリはおかしいんじゃないだろうか。

 三弦。
 だってお姫様なんてありえない。
 少なくとも、あたしはマツリ以外にお姫様を見たことがない。

 二弦。
「本日は絶好の行楽日和」
 テレビの声がうるさい。
 身を起こし、リモコンを探す。
 しかし、近くに放り出したつもりだったのに、探しても見つからない。
 あたしはギターをベッドにおいて立ち上がる。


 不意にドアノブの回される音がした。
 涼しい顔をしたマツリが戻ってきた。

「どこ行ってたんだ?」

「お花を見に行っていたのです」

 マツリは手を合わせて目を細めた。

「この近くにお花がたくさん咲いているお庭があって、
 とてもきれいだと、宿の人に昨日教えてもらったでしょう?
 でも、今日の予定を考えると、見て回る時間がなさそうだったので、早起きしていってきたのです。
 ジュリアちゃんもお庭を見に行きませんか?」

「でも、それだとマツリは二回目になる」

「きれいなものはなんど見てもよいのです。まつりのように」


「まったく興味がないわけでもないんだけどさ」

 リモコンを探しながら、あたしは答えた。

「残念ながら、だいぶ腹が減ってるんだ」

「それは一大事ですね」

 あたしはようやくリモコンを見つけた。
 ベッドの下に落ちていたのだ。
 テレビを消す。
 暗くなった液晶が、あたしの顔を映す。


「悪い食事でないといいのですが」

 マツリは言った。

「姫のお眼鏡にかなうような料理でないと、エネルギーも半減してしまうのです」

「マツリってさ」

 あたしは訊いた。
 画面に映った自分の顔から目を逸らしながら。

「本当にお姫様なのか?」

 テレビを消したのもあって、波音がよく聞こえる。
 鳥のさえずり。
 外の通りを行くこどもたちの笑い声。
 部屋の隅の冷蔵庫がぶうんと低い音を立てる。


「姫は本当にお姫様ですよ?」

 うろたえることなくマツリは言った。

「そうか」

 あたしはベッドの上に腰を下ろした。

「なら問題ないんだ」

 食事に行く前に、あたしたちは今日のスケジュールをおさらいした。
 朝からマツリの呆れ顔がよく見られた。
 あたしの把握がおおざっぱ過ぎたためらしい。

 おおざっぱでも、間違ってることはないからいいのです。
 マツリの深いため息とともに、おさらいは締めくくられた。

「それではお食事に行きましょう」

 マツリがさっさと身支度を整える。
 あたしは出しっぱなしにしていたギターを片手にケースを開く。
 しまう前に一弦を指で撫でると、かすかな音が鳴った。


「いい音ですね」

 静かな声でマツリは言った。
 自分が褒められたわけでもないのに、妙に気恥ずかしくなった。

「おまじないみたいなもんだ」

 とっさにあたしはでまかせを言った。

「いい日になりますようにってな」

 ふうん。
 マツリの反応は素っ気なく、それ以上何も訊かれずに済んだ。


 二人で並んで朝食へと向かう。
 あたしがあくびを噛み殺すと、マツリがくすくすと笑う。

 甘いものがあればいいですね。

 そればかりでバランスが偏らないのか。
 あたしはもっともらしいことを訊く。

 問題ないのです。姫独自の栄養理論がありますから。

 そう答えて、 
「それより食事を早めに済ませて、お庭を見に行きませんか?」とマツリは繰り返す。

 ああ行こう、とあたしは答えた。

今日は以上です

おつー

乙でした


「もう一泊して行きませんか?」

 マツリが言った。

「まつり、もうクタクタなのです」

 疲れていなくても、深く寝入ってしまいそうなほどの退屈さを思い出す。
 電車での、ここまでの道のりは長かった。
 鉄板の上のお好み焼きが、マツリによって作られていく。


 ステージはすぐに終わった。
 地元の有力バンドの前座だった。
 ほんの二三人だったけれど、見覚えのある顔があって、よく来るもんだと感心した。
 けれど、客席の多くが待っていたのはあたしたちじゃなくて、そのバンドだった。
 それなりの努力は試みたが、張り合いはなかった。
 こちらからペンライトを投げ入れてみても、客のほとんどは壁際でもじもじするばかりだった。

 そんな状態が初めから終わりまで続いた。
 悔しいことは悔しいが、ないことではない。
 バンドでライブをしていたときにも何度か経験したことがある。

 お目当てがそれぞれにいるのだ。
 そういうやつらをどうにかする気概はある。
 パフォーマンスもベストとまでは言えないものの、さして悪くなかった。
 それでもやはり、どうにかするのは難しい。


 ステージを終えると、地元商店街だかなんだかの割引券を何枚かもらった。

 いい店だらけなんですよ。
 スタッフは言った。
 あたしはマツリの表情をうかがった。
 しかしマツリはいつも通りにこやかなままで、あたしたちは颯爽とライブハウスを後にするのだった。

 町の中心部をぬけ、海岸沿いの通りを歩く。
 汽笛が長く鳴る。
 海の方を見ると、小ぢんまりした船がこちらの岸に向かってきている。
 砂浜では小さなこどもが、犬の散歩をしている。
 その後ろから、母親がついてきている。


「こうしてみると穏やかでいい町だな」とあたしはつまらないことを言った。

「まつりの別宅を作るにはいいかもしれません」

「都会の喧騒を離れるってやつか」

 マツリは淡く微笑んで、先ほどの割引券を取り出し、束の半分をあたしに渡した。
 そして手元に残したもう半分を、丁寧に破りだした。

「これで昼飯の当てがなくなったな」その一部始終を見届けてから、あたしは言った。

「もう半分残っていますよ?」

 あたしは、マツリがしたように割引券を破いた。
 それは造作もなく破れ、手の中には紙屑だけが残った。

 腹減ったよ、そこら辺の店に入ろう。
 まつり、美味しくないのはいやなのです。

 そういうわけで、そこらへんにあったお好み焼き屋にいる。


 こういう庶民的なものは、珍しいですね。
 言うわりに、マツリは手際よく焼いていく。

「姫に作らせるなんてひどいことをしていると思いませんか?」

「作ってやりたいのはやまやまなんだけどさ」

 あたしは言った。

「自分の作ったものを食べさせることの方が、もっとひどいことになりそうなんだ」

「やってみるといいのです。まつりは心が広いですから」

「正直言うと、あたしがあたしの作った料理を食べたいと思わない。
 それどころか、目にしたいとも思わない」

「呪いのようなものをかけられているのですね」

「そういうこった」

 器用にマツリはお好み焼きをひっくり返す。


「どこに泊まりましょうか」

「昨日のところでいいだろ。どうせガラガラさ」

 音をたてる鉄板。
 卓上に置かれたサイダーの瓶。
 瓶のなか、気泡がしらしら立ちのぼる。
 薄い座布団の座り心地がよくないので、何度か座りなおす。
 落ち着かない様子のわたしをよそに、マツリは次々焼いていく。

「お好み焼き屋になれるな」あたしは言った。

「せっかくやるなら、もうちょっと瀟洒なお店がいいのです」

 マツリの声が店中に通る。
 店の奥の店員が睨みつけてくる。
 思わずあたしは目を伏せる。
 マツリはその視線を気にも留めない。
 そして、まんざらでもない顔をしながら、焼き上げたお好み焼きを切り分け始めた。




 一室だけ空きがあります。
 いかがいたしましょう。
 フロント係が念を押すように言った。

 混むのですか。
 それとなしにマツリが訊ねると、週末ですからとフロント係は答える。
 週末に、よそから人が集まるような町なのだろうか。
 今度はあたしが訊ねてみると、なんでも地元の祭りが近いんだという。
 とにかく、あたしたちはここにもう一泊することに決めた。

 二日目にもなると手慣れたものだった。
 カーテンを開け、加湿器のスイッチを入れ、荷物の置き場なんかもあれこれ談義せずに決まる。


「夜までまだ時間がありますし、すこし散歩しましょうか」

 さっき自分でクタクタと言っていたのに、マツリはそう言った。

 あたしとしては、もう休みたいというのが本心だった。
 しかし、マツリもそんなことは知っているはずだ。
 それでいて外に出ようと言っていることくらい、わかる。

 しぶしぶあたしは立ちあがる。

「言っとくけど、長くなるのは勘弁してくれよな」

「心配ないのです」とマツリは笑ってみせた。


 堤防沿いの階段を降り、海岸へ立つ。
 足跡がそこかしこにあるが、人影は見当たらない。 
 夏になれば賑わうこともあるのだろうか。
 すこし興味は沸いたが、時間をかけてまでふたたび来たい場所とも思えない。

 まだ日は高い。
 潮の匂いが強い。
 青空が果て無く続き、海面は光で溢れている。
 歩きながら波音を聞いているうちに、眠気も寄せてくる。

 どこまで歩くのだろう。
 砂浜を歩きだしてから、マツリもあたしも口を開いていない。
 マツリは先を歩いている。
 ときおり海の方を思わせぶりに見つめながら。


 多くの足跡の上に、あたしたちは足跡を残した。
 それもすこし過ぎてしまうと、誰のものか判別できなくなった。
 つま先で砂浜を蹴る。
 少し深い跡が出来る。
 白い砂が低いところで舞って、靴のなかに忍び込んでくる。

 足裏にざらついた感触を覚えながら、あたしは口を開いた。

「なんか用があるんだろ?」

 マツリが振り返る。
 あたしは片足立ちになって、靴を脱ぎ砂粒を落とす。


「マツリはいつもそうだよ」

「そう、とは?」

「すこしまわりくどい感じ」

「いつもではないのです」

「たしかに、いつもってのは言いすぎだったかもしれない」

「しばしば、くらいですね」

「そのくらいかな」

 あたしはかがみこんで、靴を履き直す。

「悪いんだけどさ、あたしは疲れてるんだ。
 話があるならここら辺でしようぜ」

 足元まで波が寄せてくる。
 水を含み、重くなった砂のかたまりをつかみ上げ、海に向かって投げる。
 泥は飛沫をあげ、浅瀬へと沈む。


「これからどうしましょうか」とマツリは切り出した。

「春に、なったな」

 春までは二人で組んで、ステージにのぼる。
 それから先は、その時になったら考える。
 そのような取り決めをしていた。

「どうしましょう」とマツリは繰り返す。

「またあたしが決めるのか?」

「息が合ってたかどうか、ジュリアちゃんの方がよくわかっているのでは?」

「たしかにそう言ったけどさ、でもそういうのってずるくないかな」

 マツリは何も答えずしゃがみ込んで、足もとに落ちていた白い貝がらを拾い上げた。
 そして、貝がらについた砂を払い、それを慈しむような目で見た。


 悪いコンビではなかった、たぶん。

 等しく、光を浴びた。
 おなじ振りで踊ったし、対照的な振りでも踊った。

 二人で、歌を歌った。
 あたしにとってはガラでもない曲だったかもしれない。
 ただ、そんなことはどうだってよかった。
 歌さえ歌えれば、さほど問題はなかった。

「楽しかったよ」

「なによりです」

 マツリが答えた。
 そして、わかりました、と言葉を継いだ。


「マツリが決めてもよかったと思うんだけどな、あたしは」

「かもしれません」

「ちなみにマツリの意見は?」

「ちなみに解散理由は?」

「簡単さ。ああいうひらひらした衣装は、性に合わない。
 たまにならいいけど、まあ、それだけのことだ」

「仕方ないことですね」

 マツリは笑った。

「価値観の不一致によるものなのです」


「あたしも一つ訊いていいか?」

「どうぞ」

「全然関係ない質問だけどさ」

「構いません」

「ステージが暗くなったとき、マツリはどこ見てるんだ?」

 今度はマツリが考え込みだした。
 あたしは中腰になって、てのひらを海水に浸して泥を流した。


「変な顔をしていましたか」

 静かな声でマツリは訊いた。

「いや、そんなことはない。絶対」

「なら、たぶん、どこも見えていないのです」

 手にしていた貝がらを、マツリはそっと砂浜に戻す。
 マツリの座り込んだ先、地続きになっている砂浜のきわに、岩肌が見える。
 夕方前の波が岩にあたって、飛び散っている。
 手には濡れた感覚が残っている。

「あたしに委ねたのは正解だったな」

 あたしは明るい調子で言った。

「そんなやつにあれこれ決めさせちゃいけないよ」

 ね、と海を見つめたままマツリは言った。
 たった一音なのに、まるで歌でも歌ったかのようだった。




 話し終え、あたしたちは先程までが嘘のようにせかせかと帰路についた。
 マツリはほんの少し歩くたび、遠いと嘆いた。
 その都度ここまで連れてきたのはマツリだろう、とあたしは言った。
 もちろん、マツリが意に介するような態度を見せることはなかった。

 宿に戻った途端、あたしは泥のように眠った。
 マツリがどうだったかは知らない。
 ただ、ふたたび目を覚ました時、マツリは寝ているふうだった。
 時計は深夜と呼べる時刻を指していた。

 腹は空いていたけれど、なすすべはなかった。
 自分のバッグに入っていたのは、せいぜいのど飴くらいのものだ。
 ひとまず、あたしは改めて寝支度を整えようとした。
 食べられるものがないのだから、寝ることしかできない。
 せいぜい早起きして朝食にありつこうとするのが、今のあたしにできることだった。


 そうこうしているうち、マツリが目を覚ました。
 腹減ったけど、食うもんがないから寝ようと思うんだ。
 あたしが言うとマツリはバッグを引き寄せ、逆さにした。
 お菓子の袋らしきものがどさどさと出て来た。

「荷物は最低限しか持たないんじゃなかったのか」

「お菓子はふわふわしているから、問題ないのです」

 理由になっていないが、それ以上訊ねるのはやめた。
 文句を言って目の前で取り上げられたら、たまったものじゃない。

 たくさんの袋をこじ開け、ベッドの上に広げる。

 マシュマロ。
 ドライフルーツ。
 いちごミルクのキャンディ。
 個包装されたミニドーナツ。
 チョコチップの混じったクッキー。
 りんごジャムがサンドされたビスケット。……

 空腹をしのぐには多すぎるほどだった。
 もっとも、すべてが甘ったるそうなお菓子という点には、目をつぶらなければならなかったが。


 手当たり次第にむさぼりながら、あたしたちはいろいろな話をした。
 とくに、マツリのオーディションの話なんかは傑作だった。

 出来レースみたいなオーディション。
 マツリはそう語った。
 気づいたのは、会場に着いてからだったらしい。

「初めからおかしかったのです」と、マツリは言った。

「場の雰囲気がどんよりしてて、
 受けてた子たちは目配せもせず地面を見つめていました。
 勘のいい姫だから、それですぐにわかったのです」

 当然、オーディションには落ちた。

 ただ問題だったのは、誰の目から見てもマツリが圧倒していたことだった。
 あくまでマツリの口から語られたことなのだが、想像には難くない。
 決まり悪そうに足先で床をつついたり、指先を擦りあわせる合格者の姿が目に浮かぶようだった。


「本当にオーディション荒らししてたんだな」

 あたしは感心しながら言った。

「そんな物騒なことはしていません」マツリはわざとらしく怒ってみせ、
「おかげで姫は、知る人ぞ知る、みたいにな存在になってしまったのです」と肩を落とした。

 マツリの持ってきたお菓子は、やたら腹に溜まった。
 それでいて飽きることがなかった。
 べたべたと甘ったるそうに見えるし、口にしても甘ったるいのに、どこまでもあたしの中へと収まった。
 
「そんなに食べて気持ち悪くならないのですか」

 見かねたマツリがあたしに訊ねた。

「こういうことだってあるものさ」


 なにをするでもなかった。
 壁に掛けられた時計は淡々と時を刻んだ。
 話題が尽きても、接ぎ穂を探しては話を続けた。

 ただただあたしたちは空白を埋めようとした。
 何の空白かはわからない。
 ただ、それができることで眠気がまたぶり返すかもしれないし、腹が減りだすかもしれなかった。

 どうしても言葉が浮かばない時は、目の前に広がったお菓子に手を伸ばした。
 ベッドの上で膝を抱えたり、伸ばしたり、横になってみたりもした。
 横になりながらお菓子に手を伸ばすと、マツリに行儀が悪いと叱られるので、しかたなくからだを起こした。


 そうしたことを幾度となく繰り返した。
 とうとう言葉が見つからず、手を伸ばしたけれど、既にお菓子は消え去っていた。

 おしまいか。
 思わずあたしはつぶやいた。

 マツリはうなずいて、窓の方を見た。
 カーテンの裾から光が漏れだしていた。

「朝ですね」

「朝だな」

「朝食に行きますか?」

「いいや、お腹いっぱいだ」

「なら、行きましょう」

「さっさと帰るとするか」


 ホテルを出て、あたしたちはもう一度海沿いを歩くことにした。
 空に雲が切れ切れになってたなびいている。
 堤防の上の方からこどもたちの声か聞こえる。
 学校の宿題がどうこう、とか言う話をしているらしかった。
 
 ぼろぼろになったベンチを見つけ、そこに腰掛けた。
 ベンチはひどく軋む音をたて、あたしたちを歓迎していないようにすら思えた。

「せっかくなので、なにか歌ってくれませんか?」とマツリは言った。

 あたしはリクエストに応えるためにギターを取り出し、歌いだした。


 面白いくらいに、声がよく伸びた。
 こうやって歌い続けることが出来たら、と思ってしまうくらいだった。
 ただ、歌には終わりがある。
 それはあたしの歌ったものも例外ではなかった。

 歌い終えると、マツリは拍手をしてくれた。
 それから、必要以上の言葉を交わさず、あたしたちは堤防沿いの階段をのぼり、道を歩き、列車に乗り込んだ。

 列車のなかは、来たときと同じく閑散としていた。
 乗り換えはしばらく先になるので目を閉じてみたのだが、眠気は来なかった。

 列車は海沿いを走っていく。
 マツリはなにをするでもなく、窓の外をぼんやり眺めている。


 その光景を見ていると、気分が曇って来た。
 まだ、言っていないことがあった気がしたのだ。
 それは口にすると、途端に言い訳がましくなるように思えた。

「うまく言えないんだけどさ」

 しかし、あたしはとうとう切り出してしまう。

「マツリと一緒にやって楽しかったし
 またいつかどこかで一緒にやれたらいいと思うよ。
 今までやってたのは、手ごたえはともかく正直ぱっとしなかった。
 でも、だから組むのをやめるっていうわけじゃないんだ。
 と言って、お互いのためを思って、みたいな殊勝な理由でもない。

 なんていうかさ、ええと、難しいな……。
 とにかくマツリを嫌になったわけでもないし、
 気を遣ったっていうわけでもないんだ。
 だから……」


 だから?
 思わず口をつぐむ。
 だから、なんだというのだろうか。
 頭の中を引っ掻きまわして適切な言葉を探すが、ついになにも思い浮かばない。

 列車がトンネルに入る。
 海は見えなくなり、窓にあたしたちの顔が映る。
 時間稼ぎのため、あたしは考え込むような唸り声をあげてみる。
 しかし、なにもかもが車輪の音に阻まれる。

「わかっています」

 マツリの声だけが、いつも通り明瞭に響いた。

「とてもよく知ってるよ」

今日は以上です

おつおつ


 身軽になった。
 同時に、すこし厄介なことにもなった。

 まず、マツリとのコンビを解消したら、出る幕がなくなってしまった。
 他の場所はともかく、事務所自前の劇場でも、だ。
 これまでステージに立っていた時間は、もともとマツリが使っていた時間だった。
 自前の劇場は、出演予定がけっこう先まで決まっている。 

 痩せ男はそう説明した。

 そのまま食い下がる訳にもいかず、どうにかできないか頼みこんでみた。
 結果の良し悪しに関わらず、意思表示すべきと思ったのだ。

「では劇場で待機する、というのはどうですか?」

 痩せ男は間髪入れず答えた。

「緊急事態に備えて、ということになりますが」


「例えばどういう事態だ?」

「そうですね。
 何らかの手違いで予定が合わなかったり、
 出演者の体調がよほど思わしくない場合、でしょうか」

「つまり補欠みたいなもんか」

「ええ」

「こういうこと訊くのはよくないと思うけどさ。
 その緊急事態ってのは、どのくらいの頻度で起こるんだ?」

「滅多には」

「でも、絶対にないとは言い切れない」

「そうなりますね」

「わかったよ。ありがとう」

「どうしますか?」

「よろしく頼むよ」とあたしは答えた。


 しかし、その補欠みたいな役割がくせものだった。
 万が一の事態に備えて、公演が行われる時は劇場で待機。
 そんなの、ただ待機しているだけで済まされる訳がない。
 気づけばあたしは体のいい雑用係にされていた。
 
 来る日も来る日もこまごました雑用ばかり。
 ちらし配り。
 待機列の整理。
 そして、退場時の誘導。

 不服はあるにせよ、まるでつまらないというほどでもない。
 裏方も裏方で悪くないものがある。
 舞台袖で、マツリや他の子らを見るのも新鮮だった。


 しかし、同時にそこにいないような気持ちにもなった。
 ステージにも客席にもあたしはいない。
 演者でなければ、客でもない。
 スタッフを名乗れるほど大した役割を担っているわけでもない。
 
 ステージの最中にできたことと言えば、舞台袖で見守ることくらいだった。
 それも演者みたいに歌ったり、客みたいに盛り上がったりもできないまま。
 この場所において、あたしはなんでもなかった。


 とくに今日はステージを見守ることすらままならない。
 と言うのも、エミリーが自分の国に戻ってしまうことを知ったからだ。
 もっとも、一時的なものではあるらしい。

 親の仕事の都合かなにかで半年ほど。
 とはいえ、もしかすると長くなったり短くなったりするかもしれないとのことだった。

「急なことだったみたいですね」と痩せ男は説明する。

「親御さんがいらしたのですが、ずいぶんばたついている様子で、
 そういう時、決まって話すような普段の様子や仕事の内容なども、
 とうてい話せそうにありませんでした」


 当のエミリーはというと、家で寝込んでいる。
 撮影のロケで風邪をもらってきてしまい、しかもそれをこじらせたようだ。

 無理もない。
 春が来たというのに、ここのところめっきり冷え込んでいる。
 体調を崩しているやつも少なくない。
 それでもあたしに出番は回ってこなかった。

 みんな多少の無理はするのだ。
 あたしがその立場でも、間違いなくそうするだろう。

 しかし、多少の時間を拘束されるとは言え、マツリと一緒にいたときより時間が空いた。
 おかげでおろそかになっていたギターの練習を改めて始めたり、楽器屋に寄ったりと羽根を伸ばすこともできた。


 ただ、今日はそういう気分になれなかった。
 すぐさまエミリーと顔を合わせず済んだのは、幸いだった。
 まず、何と声をかけていいかわからない。

 半年なんてあっという間さ。
 いい休みになるよ。
 外から眺めるのもタメになるかもしれないぜ?

 それらしい慰めの言葉はいくらでも浮かぶ。
 しかし、そんな中途半端な言葉はかけたくなかった。

 自転車が一台、あたしを追い抜いて行く。
 あたしはなるべく歩幅を縮めながら、考えを巡らせる。
 自転車はあたしの歩く坂を登りつめ、その向こうへと消えていく。
 どちらにせよ、エミリーに訊きたいことは少なくない。


 たとえば、からだの回復ぶりはどうか。
 近頃は何をしていたのか。
 いつ頃こっちを発つのか。
 それにあたって何か欲しいものはあるのか。

 夕日に目をくらませながら、あたしは坂のてっぺんにたどり着く。
 自転車は坂を滑り落ちるようにして、ずいぶん先を走っている。




 たしか、紅茶ではなく緑茶の方が好ましいと宣言されたころだ。

 レッスンスタジオの、自販機の前でのことだった。
 なにか世話になったので、お礼としてエミリーに飲み物を買おうとしたのだ。
 それを聞いて、なるほど考え足らずだったと思ったものだ。
 なにせ相手はエミリーなのだから。

 水分補給を終え、スタジオの外に出る。
 どこで時間を潰そうか口ずさみながら。

 公園。
 カラオケボックス。
 喫茶店。
 ボウリング場に行くのも悪くない。
 いや、ゲームセンターってのもありだな。

「エミリーは他に行きたいとこあるか?」

 あたしの問いに、エミリーはおずおず答えた。

「行ってみたいところがあるんです」




 家に帰り、携帯電話を片手にメールの文面を練った。
 けれど、言いたいことを言おうとするのはなかなか難しかった。
 ファンレターを書いてくるやつらなんかよくやるものだ。
 あいつらはいつだって言いたいことを言ってきているように思える。

 あたしがステージに立たなくなって、そのことを訊ねる手紙もいくらか来ていた。
 例の評論家気取りの手紙も、そのうちの一枚に含まれていた。

「徳川まつりは、彼女一人でステージを完結させることができる。
 そのようなステージを作り上げられる者は、数少ないよう思われる」

 大げさな文章だ。
 とてもきれいとは言えない神経質そうな文字はこう続く。


「しかし、彼女のステージにはもう一人立っていたはずだ。
 もう一人がいたころと比べての良し悪しを主張したいわけではない。
 良かった悪かったという尺度でははかりきれない。
 ただ一点、正確さと言う尺度に限れば、彼女一人のステージの方が上回っている。

 以前、私は二人のステージを素晴らしいと言った。
 それは誤った表現であった。
 素晴らしかったことに変わりはない。
 しかし、それでは言葉が足りなかった。

 この場を借りて、訂正しよう。
 あれは不気味ですらあった。
 浅瀬と思った場所で突然足をとられ、気づくと首元まで浸かっているかのようだった。
 と言っても、不思議な力が働いていたことに変わりはない。
 そのような現象を引き起こした、もう一人はどこへ行ったのでしょうか。
 またステージで、その彼女を目にすることが出来る日を、楽しみにしております」


 やはり思い返すと腹が立つ。

 ありがたいことではある。
 でも、本物のモンスターじゃあるまいし不気味と言うのはあんまりだ。
 それに、良し悪しを主張しないと言いつつ、良し悪しを主張しているように思えなくもない。

 あれこれ考え、余計なことを思い出したあげく、あたしはひどく簡素な内容でメールを送った。

 風邪は大丈夫か。
 あと、事務所で聞いたよ。
 大変だな。
 今後の予定で何か手伝えることがあったら、遠慮なく言ってくれ。

 もうすこし、言いようがあったとは思う。
 けれど、文面に過度な装飾をくわえたり、長々書きたてるのはガラじゃない。




 エミリーが行きたいと言ったのは、和菓子屋だった。
 それもずいぶん立派な。

 有名な建築家が作ったらしい。
 もちろん、あたしにはちんぷんかんぷんだ。
 建物の中は薄暗かった。
 こういうのが本格的と言うやつなのだろうか。

 あたしたちは、窓辺の席に案内された。
 中庭の紅葉が綺麗だった。

 エミリーはずいぶん居心地悪そうに、メニューを開いたり閉じたりしていた。

 その様子が気になって、あたりを見回した。
 幸い、誰からも注目されていない。

 店の客の意識は、それぞれのテーブルの上で完結しているように見える。
 場所柄もあるのか、みんな品よくふるまっている。
 飲食店特有の、ざわめきのようなものが感じられない。
 あいまいな輪郭のささやき声が、切れ切れに聞こえてくるくらいだ。


 しかし、エミリーの様子は店に入った時と変わりない。
 よほど格調高い場所なのだろうか。
 とはいえ、どことなく気づまりになるのも分かる。

 ここはあたしにないものを求めている。

 純和風。

 エミリーならともかく、あたしとは程遠い。
 いや、もしかしたら、エミリーですら尻込みするような代物なのかもしれない。
 認めると、こちらまで居心地が悪くなった。
 ついさっきは気にならなかったまわりが、とたんに気になった。
 あたしたちに注目しないことが、客たちにとって正しいふるまいのように感じられた。

 おそらく気に病み過ぎだ。
 頭では分かっている。
 そのようなことはない。たぶん。
 ただ、もう気に病んでしまった。


 以降、会話を交わすことさえ難しくなった。
 それでもなんとか、口を開いた。
 気の利かない冗談だった。
 エミリーはあいまいに微笑んでみせた。
 それきりだった。

 注文した和菓子と抹茶が、目の前でしずしず置かれていく。
 店員が遠のくのを見届けて、急ぐ用事を控えているかのように、せっせとたいらげる。
 正直なところ、あまりおいしいとは思わなかった。

 あたしはエミリーとうなずきあう。
 ほとんど同時に立ちあがる。
 会計を済ませ、流れ作業のように店を出る。
 そして、どちらからともなく駆け出した。


 秋晴れの一日だった。
 エミリーは、あんがいすばしっこかった。
 人々はあたしたちに目をやって、道を空けた。

 あれは、おかしなものを見る目だった。
 今度は間違いない。
 確信を持つと、笑いが込み上げた。

 しかし声が出ず、渇いた喉の奥でひっかかる。
 思わず咳き込みだし、その場で立ち止まった。
 エミリーが立ち止まり、こちらへ振り返る。
 人の多い場所はとっくに通り過ぎていた。


 笑えたよ。

 切れ切れにあたしは言った。
 覗き込むようにしているエミリーを見上げながら。

「笑える、ですか?」

「だいぶ」

 エミリーがようやく笑って見せた。

 呼吸が落ち着いたところで、あたしはゆっくり立ちあがる。
 エミリーも、まだ肩で息をしている。




 エミリーからの返信は早かった。

 とても退屈していること。
 からだの具合は、快調に向かっていること。
 そして、こちらを発つおおよその日取りなどが、きわめて明快に記されていた。

 暇というのならば、冗長に書きたててもらってもよかった。
 送られてきた文面を、もう一度見返す。
 日取りを見るに、あまり時間はなさそうだった。

 今生の別れではないのですから。
 エミリーが薄く笑ってみせるのが思い浮かぶ。
 見返しているうち、せめて「お大事に」くらい言っておくべきかと思い、たった四文字だけのメールをあたしは送った。

 携帯電話を枕元に放るようにして置く。
 まっすぐ帰路についたせいで、眠るにはまだ早い。
 だから、散らばった机の上を片づけたり、出しっぱなしになっていた楽譜を整理したりした。
 それにも飽きると、ギターに手を伸ばした。


 張り直したばかりの弦はよく鳴った。
 なにげなく弾いているうちはわからなかったが、細かい感覚がだいぶそこなわれている気がした。
 カーテンの端から覗く窓の外は、すっかり暗くなっている。
 改めて部屋を見渡すと、それなりに片付いたように思える。

 ギターをスタンドに立てかけ、のびをする。
 そして今後のスケジュールをざっと思い起こす。

 たまには、こちらからマツリでも呼びつけてみようか。
 すこし前まであれだけ呼び出しを食らっていたのだから、あたしが呼んでも文句は言われないだろう。
 だから仮になにか言われても、気にする理由はないはずだ。

 窓を開く。
 若干冷えてこそいたけれど、春の夜だ。
 風はほとんどない。
 外に向かってひとつ息を吐くと、すこし気分が和らいだ。




 あたしたちは道なりにのんびり歩き、公園まで出た。
 季節外れのアイスクリームの屋台の中で、店員が退屈そうに頬杖をついている。
 刈り揃えられた芝生が、さやさや音をたてている。

「付き合っていただいて、ありがとうございました」

 今日二本目の緑茶のペットボトル片手にエミリーが言う。

「どーいたしまして」

 あたしは答えた。

「でも正直、あんまりうまくなかったな」

「やはりそう思われましたか?」

「なんだエミリーもか。
 ってことはけっきょく、見かけ倒しだったってことだな」


「申し訳ありません。
 外から見てとても素敵な建物だったので、
 よいものが出されるとばかり……」

 わからないでもない。
 先に空にしたペットボトルを、軽くつぶす。
 見てくれは、エミリーの言うように悪くなかった。

「精進が足りないということですね」うつむき気味にエミリーがこぼす。

「別にいいさ。あの店の前を通るたびに、ここ美味しくなかったなって思い出すのものも悪くない」

「それならよいのですが」

「でも、やっぱりあたしに大和撫子は向いてないな」

 なにせ、あの店の中で、あたしは少なからず浮いていた。
 何の断りもなく、陰気なフォークグループにでも放り込まれたみたいだった。


「そんなことはないと思いますよ?」

「そうか?」

 わざとらしく咳払いをして、エミリーはうなずいてみせた。
 そのように言われるとは、予想だにしなかった。
 しかし、エミリーが言うと妙な説得力があった。

「せっかく、こうして仲良くなれたのですし、
 ジュリアさんも大和撫子を目指してみませんか?」


「具体的には何をすればいいんだ?」

「そうですね。たとえば、所作の一つ一つに注意を向けるとか、些事に心乱されないとか……」

「あと、横文字を使わない」

「大切なことです。とても」

「難しそうだ」

「たしかに、容易なものではありませんね」

「だよなあ」

「どうでしょう?」

「今のところはやめとくよ」

 あたしはエミリーの表情を見ずに答えた。

「けど、目指したくなることだってあるかもしれないからさ、
 そのときが来たら、またいろいろ教えてくれよな」


 エミリーがゆっくりとベンチから立ちあがる。
 楽しみにしていますね。
 そう笑いかけながら。

「今日のお礼とお詫びを兼ねて、
 そこで氷菓子を買ってこようと思うのですが、お好きですか?」

 あたしがうなずくのを見るやいなや、エミリーは屋台の方に向かった。
 店じまいの支度を始めていた店員が客を前に、にこやかにしながらアイスを盛りつけた。
 ベンチに深く座り直し、背もたれに身を預ける。
 明るさを残す空の上で、爪先みたいな白い月がぽっかり浮かんでいる。




 マツリは簡単につかまった。
 姫は忙しくしてるのですよ。
 文句を言いながらも、呼ぶと二つ返事で了承した。

 あたしはギターを弾きながら、いつもの公園でマツリを待っている。
 音の響きを細かに確認しながら、正確な響きを鳴らすよう心掛けていた。
 正直なところ性に合わない。
 それでも必要なことだったので、やった。

 春の日を浴びた噴水がきらきらとあがり、水面を打つ音だけが絶え間なく流れている。
 冷え込みのせいか人影もまばらだ。
 噴水のきわで、風船売りが風船を膨らませもせずぼんやり座り込んでいる。


「この寒いのによくやりますね」

 その風船売りの姿すら見えなくなったころ、マスク姿のマツリが現れた。

「風邪対策ってとこか?」

「ジュリアちゃんもした方がいいですよ。
 それに、こんな寒いところで待ち合わせなくてもよかったのでは?」

 マツリが窮屈そうにマスクのひもを伸ばしてみせる。

「ちょっと練習しておきたくてさ」

「練習できる場所は他にいろいろあったでしょう」

 あたしが肩をすくめると、マツリは器用に目だけで呆れて見せた。


 公園を出ると、人の数が増えてくる。
 歩きながら、マツリは一人で使うにしてもステージが狭すぎることを嘆いた。

 ステージが広くなれば、もっと大きな動きができる。
 自分の魅力を表現するのに、それは必要不可欠な要因である。
 マツリはずいぶん事細かに説明してくれた。

 その間中、あたしたちはどこにも入らなかった。
 あたしが手ごろそうなレストランや喫茶店を見つけて誘っても、首を振られてしまった。
 そのくせマツリは寒い寒いと繰り返す。

 あたしは寒さを紛らすため、エミリーに大和撫子の道へ誘われたという話をした。

「大和撫子、目指してあげればよかったのに」とマツリは感想を述べ 顔の前で手を擦り合わせた。


 前を歩くいくらかの人々が道をそれる。
 マツリもそれと同じようにふらふら道をそれた。
 そして、映画館の入り口に貼られたポスターの前で立ち止まった。
 
「見たい映画でもあるのか」

 訊くと、マツリはただうなずいてみせた。

 そうしてあたしたちは映画館に入った。
 館内に入ってすぐのところでブザーが鳴り響き、上映が始まった。

 笑い声がときどき起こった。
 マツリもこっそり肩を揺らしているようだった。
 マスクをつけたままだったので、表情はうかがい知れなかった。


 あたしはと言うと、まるで集中できなかった。
 ただただ音だけが耳に入ってきた。
 それは片耳から、もう一方の耳を通り抜けていくばかりだった。

 話が進むにつれ、笑い声がすすり泣きへと変わっていった。
 その声のなかにマツリの声が混じっているかは、定かでなかった。
 しかし、どうやらクライマックスに差し掛かっているらしいことはわかった。

 面白そうな映画だ。
 他人事みたいにあたしは思い、同時に損したとも思った。
 もちろん、真面目に見られなかった自分が悪いのだが。

 映像が切れる。
 幕が閉じる。
 明かりがともる。
 よかったねなんて言う声が聞こえる。
 あたしは思わずあくびなんてしてしまう。

「どうだった?」とあたしは立ちあがったマツリに訊ねた。


「いい映画でしたね」

 マツリは涼しい目で答えた。

「でも、みんなの心をとらえてやまないまつり姫ほどではないのです」

 そのまま映画館を出ず、あたしは売店でジンジャーエールとホットドッグを頼んだ。
 空腹だったのだ。
 マツリは何も頼まなかった。
 売店のあるホールでは、これから上映される映画に対する人々の期待で満ちていた。
 そのうちの数人が持ったパンフレットがあたしの目を引いた。

 表紙には、赤い車が一台で荒野を駆けている絵が描かれていた。
 たしか流行りのカーアクションものだったはずだ。


 人の流れに逆らって映画館を出る。
 夜の気配がそこまで来ているようだった。
 しかも雨の匂いが漂っている。

 マツリはここで帰ると言った。
 傘を持っていないし、濡れるのは避けたいとのことだった。

 あたしはどうしようか迷った。
 漠然と、これからどこかの喫茶店にでも入るものと思っていたのだ。

 そうしているうちに、入り口前のポスターが目に入った。
 さきほどのパンフレットの表紙と同じく、赤い車が大きく描かれている。
 そこから目を落とすと、上映スケジュールが示されていた。
 もう一本見ていくくらいの時間はありそうだ。


 せっかく来たんだし、あたしはこれも見ることにするよ。

 告げようとして、顔をあげた。
 しかし、マツリはすでに姿を消していた。
 通りを流れる人波の中にいないか、目を凝らして探したが見つからなかった。
 そういえば声をかけられ、別れを告げられたような気もした。

 ポスターを照らすライトが点く。
 足もとに、誰かの捨てた空の紙コップが転がっている。
 拾い上げようか迷っているうち、スタッフが建物から出てきて何の迷いもなくそれを拾い上げた。




 映画館から家に戻り、あたしはエミリーに電話をかけた。
 電話越しでも、エミリーの声が弾むのがわかった。
 思ったよりも明るい調子だったので安心した。

 あたしは劇場で小間使いにされていることを嘆いた。
 エミリーはおかしそうに笑い声をあげた。

「マツリと一緒にあれこれするのをやめても、元通りになるわけじゃないんだな」

「以前の通りがよかったんですか?」とエミリーは言う。

「なんとも言えないな」

 あたしは答えた。

「元通りがよかったと思うこともあるし、今みたいになってよかったと思うこともある」


「あえて選ぶなら、どちらでしょう?」

「どちらともいえないな」すこし迷ってからあたしは答えた。

「そうですよね」とエミリーはきっぱり言った。

「そうと分かりながら訊くのは意地がわるいと思うぜ?」

「でしょうか?」

「じゃあエミリーは?」

「そうと分かりながら訊くのは意地が悪いですよ」

 エミリーはくすくす笑い声をたてた。

「だからまた戻ってきます」


 なるほどね、とあたしは言った。
 そうして話題は打ち切られた。

 あたしはエミリーにいつ事務所に挨拶に来るのかを訊ねた。
 エミリーが告げた日は、劇場で雑用をしなければならない日だった。

「まあ何とか抜け出して見せるさ」

 それ以上、話すべきことは見当たらなかった。
 それ以外で話せることはないでもなかった。
 ただ、病み上がりの人間を長話に付き合わせるのも気が引けた。


「お願いがあるのですが」

 別れを告げようとすると、かしこまったふうにエミリーが言った。

「おすすめの音源を貸してはいただけないでしょうか」

「わかった」とあたしは答え、挨拶をかわして電話を切った。

 あたしはすぐさまCD選びを始めた。
 作業は思った以上に難航した。
 さんざん悩んだあげく、あたしは六枚のCDを選んだ。
 どれも本当に好きな曲ばかりが入ったものだった。




 当日。
 けっきょくあたしは劇場での雑用をうまく抜けられなかった。
 エミリーが言っていた時間に間に合うかどうか、微妙なところだった。
 地面を強く蹴る。
 人々の通る隙間を縫い、あたしは全力で走った。
 何を言うべきか考えようとして、やめた。
 そんなことは間に合ってから考えればいい。

 目の前の信号が赤色に変わる。
 あたしは膝に手をついて息を切らした。
 足もとに白いものが落ちてきて、コンクリートを黒く染めた。
 手の甲にあたる粒の感触は重く、水跡が広がる。
 雪と言うより、みぞれに近いようだ。


 薄暗く重たい雲越しに、光が差している。
 信号が青色に変わる。
 それを合図に、あたしは誰よりも早く横断歩道を駆け抜ける。
 そしてようやく建物の前までたどり着く。

 上がらない脚を無理に引き上げ、階段をのぼりつめて乱暴に事務所の扉を開ける。
 痩せ男が振り返り、変なものを見る目であたしを見る。

「先程出て行ったばかりです。すれ違わなかったのですか」

 あたしはがっくりとうなだれる。
 間に合わなかった。

 CDなら言われた通り持って行かせました。
 事務的に痩せ男が言う。
 念のため、事務所に置いて来ていたのが幸いした。


 あたしは感謝の言葉を述べようと、顔をあげる。
 痩せ男は窓辺を見据えている。

 ここからまだ見えますよ。
 痩せ男が言ったか言わないかのところで、あたしは窓辺に飛びつくように走る。
 たしかにエミリーの後ろ姿が窓越しに見える。
 窓を開け、あたしは呼びとめようとした。

 しかし、何も言えなかった。
 渇いたのどに、声が張りついてしまったようだった。

 なんでもいいから叫べ!
 あたしの声が頭のなかであたしをなじる。
 エミリーを振り向かせるんだよ!


 顔にぽたぽたと当たるものがあった。
 さっきまでのみぞれは完全に小雨と化している。
 エミリーは急ぎながらも、どこか優雅に通りを抜けていく。

 雨ですね、と痩せ男が言う。

 あたしはいちどまぶたを閉じ、呼吸を整える。
 エミリーの後ろ姿がまなうらにくっきり浮かぶ。
 目を開くと、エミリーがちょうど角を曲がり、姿を消すところだった。
 窓辺に肘を置き、あたしは頬杖をつく。
 きんきんに冷えた頬に、てのひらの温かさが心地いい。


「追いかけないのですか」と痩せ男があたしに訊く。

「気が変わったよ」

 あたしは言った。

「呼び止めたら、貸したCDのどこがいいかを延々と語っちゃいそうだしさ」

 生え際に伝う汗のすじを拭う。
 エミリーが、一瞬でもあの雪を目にしていたらよいのだが。

 痩せ男が窓を閉じるように言うので、しぶしぶ閉じる。
 エミリーの居なくなった通りを眺めながら、再びあたしは頬杖をつく。
 首筋のあたりが、強く脈打っている。

第二部おわり

乙です

今一番楽しみ

スレ立てしたときには3月までに終わるものと思っていました…
投下します


 またあの夢を見てしまった。

 あたしはベッドの中にいる。
 突然、あたしの知ってる誰ともつながらない声が響く。

 今度は何を言われたのか、わからなかった。
 前と同じだったのは、あまり愉快な気分にはならなかったこと。

 そして結末も同じ。
 透明でやわらかなものがどこからかあらわれふくらみだす。
 あたしのからだは押しつぶされそうになる。


 もしかすると、これは夢なんかじゃないのだろうか。
 そう思ってしまうほどに、息苦しくなった。
 むしろ普段起きていると思っている時間の方が、夢なのではないかと思ってしまうくらいだ。

 けっきょく、この夢が何を示しているのか。
 あたしはわからなくなった。
 初めてこの夢を見たときは、自分がアイドルを拒絶していることのあらわれかと思った。
 しかし、この期に及んでこれだけ強い拒絶があるというのも考えづらい。

 なにかメッセージのようなものはないか。
 息苦しさで薄れゆく意識のなかで、どうにかそれを探し出そうとする。
 目覚まし時計が音をたてる。
 舌を鳴らして、あたしは起き上がる。


 メッセージのようなものはけっきょく見つけられなかった。
 しかし、覚えていられなかったのかもしれない。
 普通、夢の中身なんて忘れてしまうものだ。

 まったく、なんだってんだ。

 あたしはアラームを止めて、ギターに手を伸ばす。
 いつも通りギターは腕の中に収まる。


 こんな悪いこともあったが、いいこともあった。
 ボーカルレッスンの先生が変わったのだ。
 おかげであたしはボーカルのレッスンに参加できるようになった。
 なぜかぼろくそに言われることに変わりはなかったのだが、それでも以前を思えばましに思えた。

 あたしはエミリーにそのことを書き綴って、手紙を送った。
 正直、手紙を書くのは不得意だった。
 しかし向こうから住所を知らせる手紙がわざわざ来たのだ。
 さすがに何もしないわけにはいかない。

 ちなみに、前任のおばさんはと言うと、偉い人になったらしい。
 後任者に目をつけられているような気がしたのも、それならうなずける。


「幸運でしたね」

 痩せ男が書類に目を通しながら言う。

「人に見てもらう機会ができるのはいいことです」

「そりゃ違いないけど、劇場の方に空きはでないのか?」

「残念ながら、以前申し上げたときと状況は変わりません」

「そこを何とかさ」

「努力はしてみます」

 時間ができたおかげで、あたしはよく事務所に顔を出すようになった。
 痩せ男はたいていデスクに座って、なにやらしていた。
 顔を合わせるたび、あたしは何か仕事はないか訊ねた。

 小さな仕事があればそれをもらった。
 何もなければすぐに引き下がった。


 痩せ男は、同じようなことを何度言われても意に介さないようだった。
 要は適当にあしらわれているということだろう。

 もっとも、それであたしは気兼ねなくあれこれ訊いたり、口出ししたりすることができた。
 なにか言って、答えが返ってきて、それでおしまい。
 決して面白いわけではないが、気楽と言えば気楽だった。

 ただその日は違った。


 いつも通り、あたしは仕事があるか訊いた。
 痩せ男はないと答えた。

 劇場でなにかする日でもなく、レッスンもなかった。
 あたしはそのまま帰ろうとした。
 すると、痩せ男に呼び止められた。
 
「頼みごとがあるのですが」

「なんだ、仕事か?」

「仕事と言えば仕事ですが、仕事と言うほどのものではありません。
 どちらにせよ、本来あなたの領分ではないことです」

「じゃあ引き受けなくてもいいってこと?」

「無理にとは言いません。けれど引き受けていただきたい」

 痩せ男はふかぶかと頭を下げた。
 痩せ男が頭を下げるなんて、予想だにしなかった。

「わかった、わかったからさ、そういうのやめてくれよ。
 あたし、かしこまったのは苦手なんだ」


 痩せ男が頭をあげる。
 あたしは覚悟する。
 こいつがこれだけ頼み込むのだから、よほど大ごとに違いない。

「ありがとうございます」

 しかし、その頼みごとについての説明を終えると、痩せ男は何事もなかったかのようにふたたびデスクに向かった。
 そしていつものように、あたしが事務所から出ていくのを見送ろうともしなかった。




 寒々した日々は終わっていた。
 すでに汗ばむ陽気と言ってもいい。
 日を受けた木々が青々と輝いている。
 落ちた葉が一ヶ所に集められていて、小さな山を成している。
 その山の上で、木漏れ日が揺らめいている。

 横断歩道を渡り、路地裏に入る。
 せまい道をいっぱいに使ってトラックが走っていく。
 あたしは塀にくっつくようにしながら進む。
 
 痩せ男の依頼は、あんがい簡単なものだった。

 レッスンの講師から、貸した教本をそろそろ返してほしいと催促があった。

 間の悪いことに、それをあるアイドルに貸し出してしまっている。
 しかもそのアイドルと電話がつながらない。
 だから、そいつの家まで行って来いとのことだった。


「もし家にいなかったらどうするんだ?」

 訊ねると、痩せ男はそんなこと考えたくもないという風に首を振り、深く息を吐いた。

「それか断固として出さないとか言われたら」

「そのようなことはないかと」

「悪いやつじゃないってことだ」とあたしはしたり顔で言った。

「考えたくないのは、家にいないか、教本ををなくしてしまっているかのどちらかですね」

「あとあたしの気が変わること」

「簡単なことです」

 痩せ男はあたしの冗談に取り合わず続けた。

「その方の家に行く。
 教本はないか訊いてくる。
 あるようなら受けとってこちらへ戻って来ていただきたい。
 それ以外なら、そのままお帰り下さってけっこうです」


 与えられた地図とまわりの建物を交互に見る。
 電柱に貼られた番地のプレートと住所のメモを照らし合わせる。
 そして目的地である建物を発見する。
 決して大きくはないが、小ぎれいなアパートだった。

 教えられた部屋の前で、ためらいなくチャイムを鳴らす。
 しかし反応はない。
 もう一度、今度はゆっくり鳴らしたが、返事はない。

 あたりを見回し、扉に耳をつける。
 人の気配があるかどうか、定かではない。


 部屋の主は外出中のようだとあたしは決めてかかった。

 電話をかけ、痩せ男の落胆した声を聞いて、後は自由行動だ。
 近ごろは劇場での雑用やギターの練習で、根を詰めてしまっていたかもしれない。

 このまま家に帰るもよし。
 どこかで時間を潰すもよし。
 新しく出来たという洋食屋に立ち寄ってみるのもいい。

 念のため、ドアノブを回す。
 あっけなく扉は開く。
 考えていたことが一気に吹き飛んだ。
 廊下がまっすぐ続いていて、奥の部屋の扉は閉ざされている。

 おそるおそる呼びかけてみるも、やはり返事はない。


 あたしは迷いながらも中に入る。
 いちおう、人がいるか確かめるくらいのことはしてやろうと思ったのだ。

 しかし、これで後ろから誰か入ってきたら、たまったもんじゃない。
 背後に気を払いながら、ふたたび呼びかけようとする。
 だが思った以上に声が上ずりそうだったので、やめた。 

 足もとをよく見ると、パンプスやら運動靴やらサンダルが乱雑に転がっている。
 自分の靴をていねいにそろえると、そこだけ光って見えそうなくらいだ。

 すり足で廊下を歩き、玄関を開けたときと同じようにドアノブに手をかける。
 そしてなるべく静かに扉を開ける。


 すると、まずゆるやかに風が通り抜けていき、次に甘いにおいが鼻を突いた。
 それもマツリのよく食べるような、べったりしたものではない。
 ほのかで、複雑さのあるにおい。

 明かりは消されているが、外からの光で暗いということはない。
 部屋中の窓が開け放たれている。
 じっと見ると、塊のようなものが部屋のすみでかすかに動いている。

 悲鳴をすんでのところでとどめる。
 かわりに喉の奥で、金属の擦れるような音が鳴る。


「どちらさま?」

 塊が声をあげ、その身を揺らす。
 あたしは深く息を吸い、事務所の名前とここに来たいきさつを告げる。
 声の上ずりは押さえきれなかったが、この際仕方ない。
 それによくよく見ると、普通の人間、普通の女が座り込んでいるだけのことだった。
 何も恐れることはない。

 あたしが説明を終えると、女は手を打った。
 そして、教本のことをすっかり忘れてたと言った。
 妙なことにその一連の動作に、芝居がかった様子はみじんもなかった。
 あたしが部屋に押し入ったことに対しては、とくに意見が無いようで安心した。

「じゃあ早く出してくれよ。
 あたしは別に困らないんだけどさ、
 事務所がどうも困ってるらしいんだ」

「そうですよね。ごめんなさい」

 部屋のなかは、散らかっているどころの騒ぎではなかった。
 乾いた洗濯物が、かごの中からあふれ出している。
 お菓子の包み紙が石ころみたいに落ちている。
 無造作に置かれたリモコンのふたは取れていて、電池がむき出しになってしまっている。


 しかし、何より目を引いたのは部屋の真ん中に置かれたテーブルだった。
 その上に、大きなケーキの乗った皿がどっかり乗せられている。

「でも、すこし時間をくれませんか?
 見ての通り、私今すっごく悩んでるんです」

「いったい何に悩んでるんだ?」

「初めから話すことになるけど、いいですか?」

 痩せ男からすぐ戻ってくるようには言われていない。
 あたしは大きくうなずいてみせた。


「私、そろそろ誕生日になるんです」

「そりゃおめでとう」

「やだ、まだ誕生日じゃないですよ。せっかちですね」

 女は笑い声をあげた。
 あたしは反論しようとしたが、構わず女は喋りつづけた。

「それで私、自分の誕生日になると、
 ケーキを焼いてみんなに配ることにしてるんです。
 でも、何の準備もなしにケーキを焼くのって不用意だなあって、
 今年になってやっと気づいたんですよ!

 だって私、他の人よりはケーキを作る方だと思うけど、
 ケーキ屋さんじゃないから毎日焼いてるっていうわけじゃないし、
 ぶっつけ本番で作って失敗するのって、嫌じゃないですか。
 それで、今日はケーキを焼く予行演習をしようって決めたんです。

 となると、材料を揃えなくちゃいけないでしょう?
 まず私は買い物に出かけました。
 外は鼻歌を歌いたくなっちゃうくらいいい天気!
 こんな天気みたいなケーキが作れたらいいなあって思いながら、
 恥ずかしい話なんですけど、ついスキップなんかしちゃって」


「ちょっと待ってもらっていいかな」

「なんでしょう?」

「あたしたち、いちおう同僚って言うことになるからさ、もっと気楽に話してくれていいよ」

「そうですか? じゃあお言葉に甘えて。それでね……」

「悪い、あともう一つあって」

「ああ、ごめんなさい! 初対面の人に名乗らないなんて失礼よね。
 私、どうも抜けてるところがあるみたいで」

「うん。それもすごく大事なんだけど、
 まず知りたいのは、あんたがなんで悩んでるかってことなんだ。
 あたしにできることなら協力するからさ」


「ほんと? ありがとう」

 女は屈託なく笑った。

「でも名前がないと不便よね。
 いくらなんでもあなたのことを『教本取り立て屋さん』とか『赤毛のねこ』とか呼ぶわけにはいかないもの。
 私だって『うるわしの君』とか『教本取り立てられ屋さん』とかだったらいやだし。
 いや『うるわしの君』なら呼ばれてもいいかな。
 でも今は私の名前よね。
 私は北上麗花って言います。よろしくお願いします」

「ああ。あたしはジュリア。よろしく」

「ジュリアってすごい名前! 外国の人?」

「そういうわけじゃないんだけどさ……」

 あたしは答えに困った。
 しかし、キタカミレイカの言うことももっともだった。
 言われてみれば、これまで何も訊かれなかったのが不思議なくらいだ。


 ひとまずあたしは話題を打ち切ることにした。
 気が進まないのもあった。
 それに、その話をするといつまでたっても本題に入れなさそうだった。

「その話はまたの機会にするよ。とにかく、悩みの話を頼む」

「わかった。悩みって言うのはこれなの」

 キタカミレイカがケーキに視線を落とす。

「失敗したのか?」

「ううん、違う。
 まだ食べてないけどケーキはとてもおいしく出来たはず。
 思わずうっとりしちゃうようなケーキ!
 これが本番じゃないのが残念なくらい。
 でもだからこそ悩んでるの」

 キタカミレイカはその辺に置かれていた袋をがさごそやって、何やら取りだし、テーブルの上に置いた。
 赤、黄、緑、パステルピンク。
 色とりどりのろうそくがビニールの包装のなかで束になっている。


「これが悩み」キタカミレイカは本当に悩ましげに息を吐いた。

「バースデーケーキってろうそくを刺すものでしょ?
 初めは練習のつもりだったんだけど材料を買ってるうちに、
 どうせ後で買うんだからいいわよねって、二ダース買っちゃったの。

 それが大間違い。
 こんなに素敵なケーキが焼けたんだから、
 ろうそくを刺したほうがいいんじゃないかっていう気持ちになってきてね……。

 でも、これはバーステーケーキじゃない。
 普通のケーキにはろうそくなんて刺さない。
 となると、このケーキにもろうそくは刺さずに、このまま食べた方がいいのかもしれない。
 そうやって考えてるうちに、もうどうしたらいいかわからなくなっちゃった」


「刺したらいいんじゃないかな」

 あたしは言下に答えた。
 キタカミレイカは驚いたようにあたしを見る。

「それだって予行演習のうちになるんじゃないのか?」

 キタカミレイカの顔が、見る見るうちに輝きだす。
 そして包装をていねいに破り、二三本のろうそくを取り出す。

 本番じゃないからすくなめだけど、とキタカミレイカは心底残念そうにこぼしていた。
 取り出されたろうそくが、ケーキへと刺されていく。
 次にキタカミレイカはどこからかマッチを取り出した。


 キタカミレイカの動きに迷いはまるでなかった。

 マッチなんてあんたが使うには危ないんじゃないか。
 そうあたしが口を挟む間もなかった。

 マッチ棒をはさんだ指が素早く動く。
 かすかな音が部屋の中で鳴る。
 指先の延長線上に火がともっている。
 丸めたてのひらの内側から、白い煙が立ち、風の吹く方へとたなびいていく。

 キタカミレイカは手際よく、ろうそくに火をともした。

 その間、会話を交わすことはなかった。
 声を出すことすら、ためらわれた。
 ケーキのろうそくに火をともす。
 それだけのことが、神聖な儀式のようにすら思われた。


「バースデーケーキのろうそくの火を吹き消すのって、私、好きなの」

 キタカミレイカはもごもご口を開いた。
 マッチの火はすでに消されていて、代わりにろうそくの火が風に揺られていた。

「歳を重ねるごとにろうそくも一本ずつ増えるでしょ?
 でもある年齢に差し掛かったら、ろうそくの数が減っちゃった。
 何で減ったんだろうと思ったわ。
 その年を境に、私の年齢が一つ一つ減っていくのかしらって考えちゃったくらい。

 みんなに訊いてみると、
 たくさんろうそくを刺して、
 それに火をつけるのは面倒とか危ないとか、たしかそんな感じに答えられたかな。
 
 いちおう私は納得することにしたの。
 面倒なのも危ないのも確かだから」

「そうだな」


「ケーキの上で円状に並んでるろうそくの火を消すのって、たいへんじゃない?
 あれって少しでも手を抜くと、絶対一本か二本残るのよ。
 だから、全部消すために思いきり息を吸って、思い切り吐く。
 その間だけは、他に何も考えられない。
 でも、それってとても楽しいことだと思うの」

「うん」

「火が消えて、暗がりのなかで白い煙だけがろうそくの先から浮かび上がって、
 一緒にテーブルを囲んでくれていた家族や友達が拍手をしてくれる。
 部屋の明かりがついて、ナイフを持った母親がケーキを切り分けてくれる。

 でも私は、ろうそくの火を吹き消せたっていうことだけで、
 胸がいっぱいになっちゃって、お祝いの言葉なんてどうでもよくなっちゃってるの。
 けど、せっかくお祝いしてもらってるのに、
 まったく関係ないことを考えちゃってるのは、さすがにいけないかしら」

「かもしれないな」

 あたしはどうにか場所を見つけて座り込み、

「でもそれが好きなんだろ?」


 キタカミレイカがにっこり笑って、深く息を吸いこむ。
 ケーキの上、ろうそくの火が見事に吹き消される。
 切り分けられたケーキは、たしかに今日の天気みたいな味がした。

 それを食べ終えると、あたしはキタカミレイカに電話をかけさせた。
 もちろん事務所に。
 電話がかかって来たのに、キタカミレイカはまるで気づかなかったらしい。
 玄関のチャイムが鳴ったのにも気づかなかったのだから、無理ないことだ。

 予想外に電話はすぐ終わった。
 どうせ、さっきみたいに長話を始めるのだろうと踏んでいたのだ。
 どんな手を使ったのか、あたしは痩せ男に訊きたくなった。


 しかし、本当に厄介なのはそれからだった。
 当の教本が見つからないというのだ。
 そのせいであたしまで部屋の片づけに付き合わされる羽目になってしまった。

「ごめんなさい」

 キタカミレイカは衣服の入ったかごを部屋の端へと追いやった。

「いろいろ予定とかもあったんでしょ?」

 予定があったわけではないが、やろうと思っていたことは多くあった。
 ただ、今言われるまでそれをすっかり忘れていた。
 あたしの心は、すっかり先ほどのろうそくの火で満たされていた。


「私、また近いうちに、今度は本番のケーキを焼くから」

 キタカミレイカはやはりあたしの返事を待たず言葉を継いだ。

「そのときもよろしくね」

 あたしは散らばっていたお菓子の袋という袋を拾い上げ、ゴミ箱に放る。
 教本と関係なさそうなものが、部屋のあらゆる場所で積みあがっていく。
 部屋に差し込む光は淡くなり、物々がつくる影も薄くなる。

 それでも教本はまだ見つかりそうにない。

 強い風が吹きこんでくる。
 白のレースのカーテンが、部屋の内側に向かって大きくひるがえった。

今日は以上です


北上ちゃん出番きたやったー!

ほー
次は4月初めまでになんとかできれば


 当のエミリーはというと、家で寝込んでいる。
 撮影のロケで風邪をもらってきてしまい、しかもそれをこじらせたようだ。

 無理もない。
 春が来たというのに、ここのところめっきり冷え込んでいる。
 体調を崩しているやつも少なくない。
 それでもあたしに出番は回ってこなかった。

 みんな多少の無理はするのだ。
 あたしがその立場でも、間違いなくそうするだろう。

 しかし、多少の時間を拘束されるとは言え、マツリと一緒にいたときより時間が空いた。
 おかげでおろそかになっていたギターの練習を改めて始めたり、楽器屋に寄ったりと羽を伸ばすこともできた。

投下します


 お返事、ありがとうございました。
 まさかいただけると思っていなかったので、とてもうれしく思います。

 こちらは新生活でてんてこまいです。
 舞踊や歌のお稽古をつけてくれる方を探すのは一苦労!
 引っ越し作業などはさほど難しくなかったのですが……。
 さほど長い期間でないとは言え、やはり日ごろの鍛錬は欠かせません。

 やむを得ない事情とは言え、穴をあけることになるのですから、
そちらへ戻るときに恥ずかしく無いよう、成長した姿をお見せできればと思っております。

 そうそう、今日の帰り道、六弦琴を背負った方を見かけたんです!
 これまでだと単なる風景の一部に過ぎなかったはずなのに、ついその方を目で追ってしまいました。
 なんだかジュリアさんとのことが思い出されて、不思議な気分になりました。


 そんなときに、郵便受けにジュリアさんからの手紙が入っているのだから、運命ってあるのだなと言うことを、ひしひし感じてしまいました。

 ジュリアさんも、お稽古をつけてくれる方が変わったそうですね。
 くれぐれも、喧嘩などなさらないでくださいね?
 もっとも、不当に扱われていると感じられたら、怒ってしまうのも無理ないとは思いますが……。
 
 では、おからだに気を付けて。
 お返事、頂けたらとっても嬉しいですけど、無理はなさらないでください。
 ここまで書いてみて分かったのですが、お手紙を書くのってなかなか難しいものです。
 お時間があって、ふと思い出したときに筆をとってくだされば、幸いです。

 追伸

 てんてこまい、という言葉をさいきん覚えたのですが、なんだかかわいいですね。
 私の知らないことがそちらにはまだたくさんあります。


 誕生日当日になると、宣言通りキタカミレイカはケーキを焼いてきた。
 円状に連なったろうそくの火の列も、見事に吹き消された。
 ケーキはやはり妙な味がした。
 ちなみに、天気は土砂降りだった。

 キタカミレイカを何と呼べばいいか、あたしは本人に訊ねた。
 好きに呼んでいい、とキタカミレイカは答えた。
 だから、あたしはレイと呼ぶことにした。

「いい感じね」

 レイは思い出し笑いみたいな笑い方をした。

「まさにジュリアちゃんって感じ」

 レイは二三度、あたしのつけた名を歌うように唱え、また含み笑いをした。
 馬鹿にされているのかと思ったが、そういうわけでもないようだった。


 とにかく、レイはそう呼ばれるのを気に入ったらしい。
 そのせいかどうか知らないが、以来、レイはあたしに付きまとった。
 それどころかいろいろなところにあたしを連れ出した。

 動物園。
 植物園。
 水族館。
 パッチワーク展。
 プラネタリウム。
 他にもいろいろ。

 マツリのときと違って、レイがあたしを連れていく場所に一貫性はまるでなかった。
 なにかをあたしに教えようという気はとくに無いようだった。

 それどころか、どこに行ってもレイの方が張り切っていた。
 はしゃいだレイをなだめるのにあたしが苦労したくらいだ。


「じっとしてるのが苦手で」

 前触れなくレイは言った。
 デパートの最上階。
 恐竜の化石の特別展を出たときのことだ。

「いや、ひょっとすると苦手じゃないのかな。
 でもお家にいると見る見るうちにお部屋がピンチになっちゃうから、
 お休みの日は出来るだけ外に出るようにしてる」


「じゃあ、いつ掃除してるんだ?」

「そう! それが問題。
 レッスンやお仕事がある日はともかく、
 お休みの日も、さっき言ったみたいになんとなく出掛けちゃって、
 帰ったらくたくたになってるからそのまま寝ちゃうの。
 だからお掃除する時間がまるでなくて。
 そんなわけで、けっきょく大ピンチ」

「それで?」

「その、助けてくれると嬉しいな……って」

 断る理由が思い浮かばず、あたしはしょうがなくうなずいてみせる。
 それを見てレイはまた屈託なく笑って見せるのだった。


 無秩序に散らばったものを片付けるのは、一苦労だった。
 あたしの部屋がましに思えてくるくらいだ。

 ひと段落ついて水だしの麦茶を飲んでいると、外がぱっと光り、ほどなく雷鳴が聞こえた。
 あたしはあわてて窓を閉める。
 雨粒が窓を叩きはじめる。
 レイは悠長にテレビをつける。
 誠実その物と言った顔つきのニュースキャスターが、梅雨どきだということを伝えている。

「大雨ね」他人事のようにレイは言った。

 雨脚はどんどん強くなっていく。
 しかし雲の向こうで、光がうっすら差しているようにも見える。
 通り雨かもしれない。

 あたしは先ほどの掃除で空けた場所に腰掛けた。
 レイはビスケットを差し出してきた。
 それをつまみつつ、レイはいつものようによしなしごとを語りだした。


「レストランで昼ごはんを食べたときなんだけどね、
 その日はちょっと忙しかったから遅い時間に入ったの。
 だからお客さんはあたしだけ。

 でもなんだか様子がおかしくて……、
 お店の人みんながそわそわしてるふうで、
 どうしたんだろうなあって思ったんだけど、
 あんまりきょろきょろするのも失礼だから、
 おとなしくおいしい料理を食べながら午後はどうしようかしら、
 なんて考えていたところで、偉そうなおじさんがお店にきたの。
 
 お店の人はほとんど直立不動。
 そのおじさんが座った真ん中のテーブルにたくさん料理が運ばれて、
 おじさんは一皿食べるごとに、それはもうまずそうに顔をしかめるのね?

 けど料理が出されるペースと同じくらいの早さでお皿を空っぽにしていって、
 積まれたお皿でおじさんの顔が見えなくなったころに、
 おじさんは勢いよく立ちあがって、大声で叫んだの。

 なんて叫んだかはわからなかったわ。
 おたけびみたいな感じだったから。
 お店の人たちの表情を見るに、たぶんあんまりいい意味ではなかったんでしょうね。

 そしたら給仕の人が焦り顔で私のところまできて、
『たいへん申し訳ありません。本日は閉店とさせていただきます。お代はけっこうです』
 って言われてそのまま、追い出されちゃってね――」


「新装開店したデパートの入り口で、風船配りをしたときのこと。
 開店時間の前から列ができてたくらいだから、いざ開店するともう大混雑!

 こどもを中心に風船を渡したんだけど、こどもって不注意でしょ?

 だからすぐに風船から手を放しちゃって、
 気が付いたらさっき渡した風船が空の上で風に流されちゃってるの。

 それでこどもたちが『飛ばしちゃったから、もう一つ下さい』ってせがんでくるのね。

 ほんとうは一人一つのルールだったんだけど、
 かわいそうだしあげちゃえって渡していったら、
 デパートの中のお店にできてるのとおんなじくらい、
 私の前にこどもの行列ができちゃって、ほんとたいへんで――」


 レイはほんとうによくしゃべるな。
 なにげなくつぶやくと、レイの声がやんだ。

 余計なことを言っただろうか。
 あたしはレイの方へ視線をゆっくり滑らせる。
 予想外に、レイは難しそうな表情を浮かべていた。

「そっか」

 ビスケットの粉を唇の端に付けたままレイは言った。

「ジュリアちゃんもいろいろ話したいわよね。
 ごめんなさい気が付かなくて。
 私、人の話を聞かないってよく怒られちゃうの」

「かもしれないな」言葉を選びながら、あたしは答えた。


「だから、どうぞ」

 レイがテレビを消し、ていねいに座り直す。
 その言葉が、あたしが話し出すのを促していると気付くまで、すこし時間を要した。

「どうぞって言われてもなあ」

 あたしは頭を悩ませた。
 まさか、このように事が運ばれるとは考えてもみなかった。
 それに唐突に何か話せと言われると、なかなか浮かばないものだ。

「ほんとうになんでもいいのよ」

 考えあぐねているあたしを見かねたのが、レイは諭すように言った。


「お悩み相談やすっごく面白い話みたいな、そんな大それたものじゃなくていいの。
 嘘でもいいし、話したそばから忘れちゃうような、そういうので。

 例えば、道端にきれいな石が落っこちててきれいだな、と思いながらも、
 無意識に蹴っちゃって、それが排水溝に落ちてショックだったとか。

 他にはそうね……。
 夢のなかで鳥がたくさん出てきて、
 その鳥たちを率いて合唱コンクールに出ようとしたんだけど、
 みんな四方八方に散って行っちゃって、
 それどころじゃなかったとか、そういう変なのでも大丈夫」

「ちなみに、それはレイが見た夢なのか?」

 話したそばから忘れちゃうから、とレイは言葉を濁した。


 夢ねえ。
 まずあたしはレイの口元を指して、口のまわりを拭わせる。

 とりとめなく話すことを求められるのもナンギなものだ。

 あてはないでもない。
 ただそれがどれだけの長さになるか。
 まるで予想がつかない。

 ついに、あたしは話し出すことを決心した。
 レイが待ちわびているように、ゆっくりまばたきをしている。
 雨音のなかに、自分の声が重なりはじめる。




 ちかごろ見た夢の話。
 それまでにも似たような夢を二度見てるんだけど、今回、いや前見たので三度目だった。
 二回目までの内容はこう。

 知らない誰かの声が寝ているあたしを呼ぶ。
 そのあとすぐ透明な何かに押しつぶされる。
 息苦しくなって、もうだめだってなったところで目が覚める。

 何かって何か?
 分からないし、分かってたとしても覚えてないだろうな。
 だいたい夢ってそういうもんだろ?

 それで、その日もそうだった。
 変な声が聞こえた。
 またかよってあたしは悪態をついた。
 そして襲ってくるはずの何かに備えて身をこわばらせた。
 抗いようがないから、それ以外どうしようもない。


 でも今度はすこし違ったんだ。

 何も襲ってこない。
 おそるおそる起き上がって呼びかけても、何の返事も戻ってこない。
 そこでようやくこの部屋を出ればいいってことに思い至った。

 どうしてそれまで思いつかなかったんだろうな。
 まあ、焦ってる時なんて頭が働かないもんだ。

 とにかく、あたしはギターをかついで寝間着のまま、窓から部屋を出た。
 街は霧でけぶってたけど、寒くはなかった。
 行き先も目的もこれと言ってなかった。
 適当に歩いてれば、どこかに着くだろくらいにしか思ってなかったんだ。


 霧のかかった場所を抜けると、広場みたいなところにたどり着いた。
 そこではステージが作られていて、その上で人が歌ってた。
 ステージって言っても大したもんじゃなかったけどね。
 小学校の校庭にある朝礼台みたいな、いやそれよりは大きかったかな。
 どちらにせよ、小ぢんまりしたもんさ。

 客と思しき影は草むらの上で気持ちよさそうに寝転がってた。
 あたしには、それがこの上なく素敵なことに思えた。

 だからあたしも同じように寝転がった。
 霧が晴れて、雲一つない空の上、星がよく見えた。
 歌声もしっかり響いていた。
 どこか特徴のある声だったが耳に心地よかった。


 歌声が止んだ。
 拍手が上がった。
 ステージが終わったらしかった。
 突然誰かがあたしの耳元でささやく。

「次は君の番だ」

 あたしは飛びあがった。
 さっきまで歌っていたやつの声だった。
 何の説明もされないままそいつに手を引かれ、ステージに上がらされた。

 そいつがあたしを紹介する。
 ジュリア。
 その声が、いつも夢のなかであたしを呼ぶ声と同じものだと気付く。
 あたしはそいつを追いかけようとする。


 でも、客席からあたしを受け入れる拍手がわいちゃったんだ。

 それであたしは逃げ場をなくす。
 拍手と、耳をつんざくような叫び声が、場を支配してた。
 そりゃもうお祭り騒ぎってなもんだった。

 それが鳴りやむまでの間で、あたしをこの場に引きずり出したやつは既に姿を消していた。

 けっきょく、ギターを持って歌いだすよりほかなかった。

 すこし高いところから見てみると、客は相変わらず空を見上げたまんま。
 こっちのことなんか見ちゃいない。
 たぶん、大騒ぎしてた時もずっとそうしてたんだろうな。
 でも歌はちゃんと聞いてたみたいで、曲と曲の間になると必ず拍手をくれた。


 きれいな夜だった。
 それこそ出来過ぎなくらいに。

 誰もあたしの邪魔をしなかった。
 それでいてあたしも誰の邪魔をしていなかった。
 透明な何かのことなんて、もう頭になかった。
 もちろん、あたしをその場に連れ出した奴のことも。

 歌って、歌って、またあたしは歌いだした。
 その曲を歌い始めたときは、まだ気づいてなかった。
 けど歌ってる最中で、これで最後だってわかった。

 何の曲だったかは覚えてない。
 そもそも何を歌ってるかすら定かじゃなかった。
 でもそれが、最後の曲であることに変わりはなかった。


 歌い終えると、そばに手ごろなギタースタンドがあるのを見つけた。
 あたしはそこにギターを立て掛けた。
 それもなるべく緩慢な動きでで

 まだ終わりって言いたくなかったんだ。

 でもまあ何も言わずにステージから下がるわけにもいかないだろ?
 しょうがないから、あたしは絞り出すように言った。

「これで終わりです」


 律儀な拍手が沸いた。
 それどころか、拍手の音はどんどん大きくなっていった。
 あたしは拍手に応えるように手をあげて、ステージから降りようとした。

 そこであたしは群衆に担ぎ上げられた。

 一瞬の出来事だった。
 文字通り、あたしのからだは人波に乗っかって、運ばれていった。
 ライブハウスでよく見るダイブみたいなもんだ。
 またもや行き先はわからない。


 でも不思議とあたしは冷静だった。
 と言うより、むしろ別のことで頭がいっぱいだった。
 さっき歌った曲を思い出せる限り、すべて思い出そうとしてたんだ。
 我ながらいい曲順でやったもんだって、自分で自分に感心してたくらいだ。

 もっとも、いい曲順でやった、って言うことしか思い出せなかったんだけどさ。

 人波が絶える気配はなかった。
 動き続けているあたしのからだも止まりそうになかった。

 そのまま、まばゆい光に包まれて、あたしの夢は終わった。
 我ながら、唐突でつまらない終わり方だと思うけど、仕方ない。

 目が覚めて、ベッドの中に潜ったまま、まだあたしは思い出そうとしていた。
 けどやっぱり無理だった。
 話してみたら、思い出すかもしれないと思ったけどうまくいかないもんだ。

 さて、こんなもんでいいのかな。
 レイみたいに話すのってけっこう疲れるな。
 よくわかったよ。




「おはよう」レイは目をこすった。

 おはよう、とあたしは返した。

 話している最中に、レイはすっかり寝入ってしまっていた。

 それに気づいてもあたしは話すのをやめなかった。
 その方が話しやすかった、と言うのもある。

 あたしはふかぶか息を吐いた。
 話した後で気づいた、話し損ねたことも一緒に吐き出すようにして。

「いい夢は見れたか?」

「どうだったかな。覚えてない」

 レイは大きなあくびをした。

「それでジュリアちゃんはどんな話をしたの?」


「途中までは起きてただろ?」

「実を言うと、眠かったからよく覚えてないのよ」

「あたしも忘れちゃったよ」

「うそ」

「話したそばから忘れるって言ったのはレイじゃないか」

「そんなこと言った?」

「言ったね」

「でもそんなことまで覚えてるジュリアちゃんが、
 ついさっきまで話してたことを忘れるかしら?」

 あたしは口をつぐまざるを得なかった。
 レイはあたしの表情を見て、満足そうに口の端をあげた。


「それでどんな話をしたの?」

「鳥が」

 やぶれかぶれにあたしは言った。

「たくさん出てきて大騒ぎであたしの歌を聞いてくれたよ」

「ジュリアちゃんの夢にも、鳥が?」

「ああ」

「ほんとに?」

「さあな」

「もしそうだとしたら、出来過ぎかも」

 レイは笑って見せた。

「でも、そういうことってありふれてるものよね」

 いまだに雨は、絶えず降り注いでいる。
 いつの間にか雲も重苦しい色かたちに姿を変えている。
 雷が近いところで鳴って、あたしは思わず息を呑んだ。

今日は以上です


 花火に見惚れはなしだったので、あたしはまずなにから言ったらいいものか、わからなかった。
 先に口を開いたのはマツリだった。

「決めてほしいことが二つあるのです」

「決めてほしいこと?」

 マツリは何も言わずうなずいた。

「それはあたしに関係あることなのかい?」

「大いにあります」

 マツリがつま先で水たまりに触れる。

「すこしの間、まつりとステージで歌ったり踊ったりしてくれませんか?」


 こんな悪いこともあったが、いいこともあった。
 歌のレッスンの先生が変わったのだ。
 おかげであたしは歌のレッスンに参加できるようになった。
 なぜかぼろくそに言われることに変わりはなかったのだが、それでも以前を思えばましに思えた。

 あたしはエミリーにそのことを書き綴って、手紙を送った。
 正直、手紙を書くのは不得意だった。
 しかし向こうから住所を知らせる手紙がわざわざ来たのだ。
 さすがに何もしないわけにはいかない。

 ちなみに、前任のおばさんはと言うと、偉い人になったらしい。
 後任者に目をつけられているような気がしたのも、それならうなずける。

今日か明日の晩に投下しようと思います


 そちらはそろそろ暑くなる頃でしょうか。
 私のほうは変わりなく元気で過ごしています。

 不便なことと言えば、こちらでは横文字を使うのを免れ得ないところです。
 相手に通じない言葉で話しかけるわけにもいきませんしね。
 でも、これはこれでなかなか新鮮です。
 また違う文化を知るような気持ちになれます。

 もともと自分が住んでいたところなのに、おかしいですね。
 けど、そう思ってしまったのだから仕方ありません。
 そんなふうですから、思っていた以上に楽しく日々を送ることができています。
 もちろん、早くそちらに戻りたいという気持ちは相変わらずなのですが。


 お手紙、拝見いたしました。
 新しくお知り合いの方ができたんですね。
 名前をあげられていませんでしたが、私の知っている方なのでしょうか?
 すこし風変わりな方なのかな、とお手紙を読んで思いました。
 同時に、とっても素敵な方だなあとも。

 ジュリアさんのまわりには、いつも素敵な人ばかり集まっていて羨ましいです。
 きっとジュリアさん自身が素敵な方だからでしょうね。
 私もそのうちの一人であることができたら、嬉しいです。

 それでは、繰り返しになってしまいますが、おからだにお気をつけて。
 お返事、また頂けてほんとうに嬉しかったです。
 これからも期待してしまって、よろしいのでしょうか……?


 不思議に思っていることがある。
 彼女を見なくなって久しい。
 先の公演予定を見ても、彼女の名前が連なっている場所はない。

 あれだけ迫力のあるステージができるアイドルだ。
 得難い存在であるよう私には思える。

 あくまで推測だが、何か事件でも起こしたのだろうか。
 それとも、我の強さが災いしてしまっているのだろうか。

 もちろん私はステージ上での彼女しか知らない。
 しかし、彼女の我の強さというのはにじみ出ていた気がする。
 もし私の勘違いであれば、申し訳ないことと思う。

 ただ、彼女ほどの実力者がステージにいないのはおかしなことだ。
 私は彼女のステージを待ちわびている。
 それは徳川まつりとのユニットでも構わないし、彼女のソロでも構わない。
 もしくは新たなユニットでも。

 どのような形であっても構わない。
 彼女の姿をまた見たい。
 そう考えているのは、おそらく私だけではないはずだ。

 それさえこの手紙で伝えられたらと思い、筆を執らせていただきました。
 応援しています。


 あたしはレイについて誰かに訊ねることにした。

 本人に訊くのが一番と分かっていた。
 だが、知り合って日が浅い人間に「あんたは何者だ?」なんて訊くのも気が引けた。
 いや、レイなら臆せず嬉々として教えてくれるだろうか。
 生い立ちから今に至るまで子細に。

 きっと訊いていないことまで延々と語ってくれるに違いない。
 さすがのあたしも、それに付き合えるほど辛抱強くはない。

 マツリに訊くのも手ではある。
 マツリなら、なにかしら知っていても不思議ではない。
 ただ、マツリはあれで人のことをべらべらしゃべりたてるタイプじゃないから、期待はできない。
 思わせぶりなヒントを与えられるのが、関の山だろう。


 けっきょく、あたしは痩せ男に訊ねることにした。
 もっとも、痩せ男にもたいして期待はできないのだが。

「レイのことなんだけどさ」

 痩せ男は振り向かず、事務所のデスクに向かったままだった。

「あいつ、何者なんだ?」

「なにか彼女に不審な点でも?」

「いや、レイってどういうやつだと思うか、あんたに訊いてるんだ」

「あれほど見たままの方はいないと思いますが」

 痩せ男の答えは的を射ていた。
 それこそ、これ以上レイの人となりについて訊く気も失せるくらいに。


「じゃあ、あんたに意見を訊きたいんだ」

 だからあたしはまるで別のことを訊ねた。

「レイとあたしがユニットを組んだら、どうなると思う?」

 回転いすが、軋む音をたてる。
 痩せ男がやっとあたしを見る。

「そのような段取りになったのですか」

「仮定の話だよ」

「難しい質問ですね」

 珍しく、痩せ男は悩んでみせた。

「彼女が歌ったり踊ったりしているところは見たことがあるのですか?」


 あたしは首を振る。
 レイとはスタジオでも劇場でも居合わせたことはなかった。
 痩せ男はふかぶか息を吐いた。
 そのしぐさはあたしにマツリの呆れた目を思い出させた。

「せめて実物を見てから、言ってほしいものですね」

「だから言ったじゃんか、仮定の話ってさ」

 痩せ男はうんざりした目で視線を宙に漂わせ、デスクに向き直った。

「もうそれほど時間はないのですから」

 反論の余地がなかった。
 黙り込んでいると、痩せ男が紙っぺらを差し出した。

「北上麗花さんの、レッスンのスケジュール表です」

 痩せ男は言った。

「仮定の話であるなら、そうですね。
 まるでないということはない、といったところでしょうか」




 すこし前の、雨の強い日のことだった。
 事務所の入り口には、たくさん水の粒が散っていた。

 集まるように言われていたのだ。
 何の用かも知らされないまま。

 大雨のせいであたしは遅刻した。

 遅れてきたのはあなただけです。
 痩せ男が嫌味を言って肩をすくめる。

 言われなくても分かるくらいに、事務所はほとんどもぬけの殻だった。
 それほど遅れたとも思わなかったのだが。
 痩せ男はいろいろ書き込まれた紙を手に取り、あたしに座るよう促した。


「まさか遅れるとは思いませんでした」痩せ男は嫌味を繰り返す。

「たしかに悪かったけどさ、仕方なかったんだよ。
 それに、そんなに遅れてないだろ?」

「まあいいでしょう」

 痩せ男はこの話を打ち切った。

「あなたが来ない間、皆である程度詰めてしまいました。
 と言っても、まだ本決めというわけでもないのですが。
 なにせ内容や曲が被っては、演る方も見る方も面白くないですからね。
 今のところ皆の希望が一通りかなえられそうで、私も安心しています」

「ちょっと待ってくれ」

 あたしは話を遮った。

「いったい何の話をしてるんだ?」

「冗談にしては面白くないかと」冷静ぶって痩せ男が返した。


「悪い。ほんとうに、知らないんだ」

 痩せ男は眉をひそめた。
 そしてあたしが以前、嫌だと言ったにもかかわらず、またふかぶか頭を下げた。

「情報の伝達がうまくいっていなかったようで、申し訳ありません」

 痩せ男が手にしていた紙を差し出す。
 その紙には事務所のやつらの名前や、曲の名前が連なっている。
 それといっしょにあたしの名前も走り書きされている。


 平たく言えば、お祭りのようなものです。

 痩せ男はいつもの調子で説明をする。
 夏のおわりをめどに、イベントを企画している。
 今揃えられる限り、事務所の全員を出す。
 それも、いつもとは趣向を変えたもの。

 普段はある程度、事務所の方から指示が出されている。
 そこまで厳密なものではない。
 たとえば、与えられた曲、踊り、それとステージの上で喋る内容なんかだ。

 今回はそれを演者にできるだけ好きにやらせる。
 もちろん何かしてほしいということがあれば、協力は惜しまないとのことだ。
 そうして出来上がったものを客に披露する。

 決まったことをやるわけではないから、普段と比べて質にムラのある公演になることも考えられる。
 だからその代わりに、いつもより安い値段でチケットを売る。


「もっとも、そうした試みが好きだというファンの方も少なからずいるのですが」と痩せ男は締めくくった。

「つまり、あたしもそれに出るってことか?」

「そういうことになりますね」

 指の間から紙がこぼれ、ひらひら落ちてゆく。
 それが床に落ちる前に、痩せ男が器用に指で挟む。
 そして顔のあたりまで持ってきて、精査するように紙の上で視線を走らせている。




 何をするか、あたしはすぐに思いついた。
 ギターを弾いて、歌えばいい。
 こんなチャンスはそうそうない。

 ステージのど真ん中にあたしが立つ。
 暗転した会場で、何の音も起こらないことを不審に思った客たちがざわめきだす。
 それを鎮めるように、コードを一つ鳴らす。
 会場がまた別の理由でざわめき始める。
 その中であたしは歌いだす。

 我ながらいいアイディアだ。
 おそらく誰ともかぶらないだろう。
 いつも通り、許可は通るはず。

 痩せ男が言うには、誰かと組むのも一手ではあるらしい。
 ソロもよし。
 一時的にユニットを組むもよし。
 むしろいくつかのユニットを作ることを、痩せ男は推奨していたふうだった。


「人数の多さを考えたとき、
 一人ずつステージに上がるとすると、
 いやがおうにも時間が押してしまうのが目に見えていますからね。
 ですが、今のところは問題ありません」

 痩せ男はそう言っていた。

「複数人で演ったほうがステージを目いっぱい使えるということで、
 現状ではそのように考えておられる方々が多いようです。
 狭いステージではありますが、一人で使うには少々手広ですからね。
 おかげで当日のタイムスケジュールにも余裕ができそうです。

 ですので、好きなようにして下さってかまいません。
 既に出来上がっているユニットから、引き抜きをするようなことは避けていただきたいですが」


 そんなことはしない。
 余計な波風を立たせる気は毛頭ない。
 そこで、ふと気になったのはレイのことだった。
 レイは誰かと組んだりしているのだろうか。

 痩せ男はよほどの仕事ができなければ、全員総出演と言っていた。
 ならばレイも出演するはずだ。
 もし、まだ誰とも組んでいないというのであれば、考えてみる価値はある。

 レイとステージに立つ。
 面白そうだとあたしは思った。。
 どんなふうになるのかまるで想像もつかないのが、その証拠だ。

 そう思い立って、痩せ男のところまで確認に行ったのだが、追い返されてしまった。
 当たり前と言えば当たり前だ。
 レイの歌うところも踊るところも、あたしは見たことがなかったのだから。

 帰りの電車に揺られながら、レイのスケジュール表と自分の手帳を突き合わせる。
 レイのレッスンは、ずいぶんと早い時間に組まれている。
 道理でスタジオで顔を合わせたことがなかったわけだ。


 思い返してみるとレイに呼びつけられるのは、早い時間が多かった。

「山登りが好きなの」

 いつだったかレイは言っていた。

「ああいうのって基本的に早い時間に出なくちゃいけないのよね。
 まあレッスンとかもそうなんだけど。
 せっかくだしジュリアちゃんもどう?」

 たしかあたしは遠慮した。
 きつそうだとか早起きは苦手だとか。
 そんな言い訳をしたのだったと思う。

 そうしたら、レイはいかに山登りが素晴らしいかを語りだした。
 と言っても、風が気持ちいいとか運動になるとか、月並みな言葉を並べ立てるだけだった。
 あたしはいつも通り話半分に聞いた。
 レイはそれを語っただけで満足したようで、それ以上あたしを誘おうとはしなかった。




 あくびを噛み殺すと、すこし開いた扉の向こうで、誰かがリズミカルに手を打ちだした。
 おそらくレッスン教師だろう。
 揃った歌声が響く。
 朝だというのにみんなよく声が出るものだ。

 レッスンスタジオの廊下は、顔をしかめてしまうくらいの朝日が差し込んできている。
 その陽だまりのなかで立ち止まって、用意した言葉を反すうする。
 
 すこし早く来てしまったけど、他にすることもないので見学させてください。

 他にすることもない、は余計だろうか。
 だったら見学させてください、だけでいい。

 しかし、意を決したところで呼びとめられてしまった。
 声を聞いただけで誰かすぐにわかる。
 あたしの名を呼んだのはマツリだった。

 やり過ごすわけにもいかず、仕方なく立ち止まった。
 こんな早くに珍しいですねとマツリは言った。


「レッスンに来たんじゃないんだ」

 あたしは答えた。

「すこし見たいものがあってさ」

「レッスンならとうに終わっているのです」

 マツリのじゃなくて、と言う言葉をあたしは飲みこんだ。
 そうする理由はなかったのに、飲みこんでしまった。

 相変わらず、マツリはいきなり現れる。

 レッスンを終えたばかりとは思えないくらい涼しい顔をしている。
 急いで着替えたというふうでもない。
 化粧も服も、何もかもが整えられている。


「残念でしたね」

 マツリが先に口を開く。
 わけもわからないまま、うなずいてみせる。
 レイを見に来たなど、いまさら言いだせそうにない。

「でもジュリアちゃんの気持ちはよくわかります」

 マツリは日差しをかわして、くるくる回って見せた。

「歌って踊る姫を、見たくなったのでしょう?」

 回転を終えたマツリが壁際に寄りかかり、思わせぶりに脚を交差させる。

「歌って踊るまつりの姿はどうしようもなく素晴らしいですからね。
 今日は残念でしたけど、また見学しに来るといいのです」


「そうさせてもらうことにするよ」

 スタジオの扉が大きく開かれる
 レッスンが終わったようだった。
 どやどやと人が出てきて、その中にはレイの姿もあった。

 しかし、あたしはすぐに視線を逸らした。
 レッスン教師と偉くなったあのおばさんまで出て来たからだ。
 レイはあたしに気づくことなく、奥の更衣室の方へと姿を消した。
 そしておばさんたちは、ふたたびスタジオへ戻っていった。

「だいたいこのくらいの時間にレッスンやってるのか?」

 見学を諦めたあたしはマツリに質問をした。

 まちまちなのです。
 マツリはあいまいな答え方をした。

「色々なやつと一緒にレッスンを受けてるわけだ」

「そうなります」


「上手いやつも下手なやつもいる」

「ジュリアちゃんはどちらでしょう。教えてあげてもいいですよ?」

「今日は遠慮しとくよ。それよりさ、キタカミレイカってわかるか?」

 マツリはうなずいた。

「あいつはどっちの部類に入るかな」

「ひとついいですか?」

「なんだ」

「ジュリアちゃんは嘘が下手ですね」

「奇遇だな」

 あたしは頭をかいた。

「あたしもちょうど同じことを考えてたとこだ」




 帰り際にレイを呼びとめると、あたしはスーパーマーケットへと連れられた。

 お昼ごはん作ってあげる。
 もちろんレイの誘いだ。
 食パン、トマト、チーズ、バジルの粉末、セロリ、黒こしょう、卵。
 ケチャップ、刺し身の盛り合わせ。
 それに惣菜売り場のサンドウィッチ詰め合わせ、フライドチキン。

 レイに見立てのようなものは無いみたいだった。
 目についた商品から順に、カゴへと放り込んでいる。
 すくなくとも、あたしの目にはそう見えた。

「ジュリアちゃんと偶然会ったんだから、食事くらいつくらなきゃね」

 レッスンもないのに、なぜレッスンスタジオにいたのか。
 それについて、レイはさほど興味が無いようだった。
 あたしは空返事をしながら、マツリと話した内容をあらためてたどり直した。


 まるでないことはないと思います。
 レイについて言及する代わりに、マツリはそう答えた。

「あいつにも同じことを言われたよ」とあたしは痩せ男の名前をあげた。

「姫の見立てはいつも正しいのです」

「ちなみに、マツリはどうするんだ?」

「今まで通り。まつりにとっては一人でも十分手狭ですから」

「なるほどね」


「でも、またジュリアちゃんと歌ってあげてもいいのですよ」

 マツリは組んでいた脚を直し、壁際から背を離した。

「なんでも、復活を望む声がいくつか寄せられているそうですからね」

 その話はあたしも聞いていた。
 それどころか、復活を望んでいるんだかいないんだかわからない手紙まで来ていた。

「その時はたいして見向きもしなかった癖にな」

「まったくです」マツリは大げさにため息を漏らす。

「死んでから評価される画家みたいだ」とあたしは冗談めかした。

「さいわいなことにまだ生きてるので、考えておいてください」

「ああ、考えておくよ」

 あたしは言った。
 そう言ったからには、本当に考えておかなくちゃなと思った。


 それにしても照明が強い。
 夏も間近ではあるが、冷房がひどく効いている。
 蒸し暑い陽気ですら恋しくなる始末だ。

「ねえジュリアちゃん」

 レイがおもむろに売り場からりんごをつかみあげる。

「ピザトーストなんかどう?
 食パンの上にトマトソースを塗って、
 またその上にピーマンとかスライスしたサラミを乗せて、
 チーズでふたをしてオーブンで焼くの。

 それで、ここからが提案なんだけど、
 薄切りにしたりんごも、そこに乗っけたらいいんじゃないかな。
 ピザトーストっておいしいし、
 火を通したりんごもおいしいって私は思うんだ。
 その二つを組み合わせるのって悪くないんじゃないかな。どう?」


 箱のなかでたくさんのりんごがごろごろ積み上がっている。
 手を伸ばして、レイの手のなかのそれを奪う。
 無造作に選びあげたものとは思えないくらい、赤々としたものった。

「悪くないとは思うけど、普通に食べた方がいいんじゃないかな」とあたしはりんごを押し返した。

「それもそうね」

 レイは反論もせず、そのままりんごを売り場に戻した。
 その後、あたしはかごの中からピザトーストと関係なさそうなものを片端から元の場所に戻した。
 今度こそレイは不満げだった。
 だが、あんな多くの荷物なんて、とうてい持って帰れそうになかった。
 レジで支払いを済ませると、あたしはついに話を切り出した。


 レイの反応は鈍かった。
 必ず大丈夫だと、期待していたわけではなかった。
 だが、ここまでかんばしくないとは予想外だった。

 難しいかも。
 レイがビニール袋をがさごそと広げる。

「面白そうだとは思う」袋に商品を詰め込みながらレイはつぶやいた。

「まずいことでもあるのか?」

「まずいって言うか、
 一人で出るって言っちゃったのよ。
 まだとくに何も決まってなかったときに訊かれちゃって」


「まだ変更は効くって言ってたぜ」

「事務所にじゃなくて、前にジュリアちゃんが苦手って言ってた先生に」

「どういうことだ?」ここでもおばさんが出て来たことに驚きながら、あたしは訊ねた。

「ええと、先生、いや今は違うけど、とにかくそのおばさんがレッスンによく来るんだ。
 いても、私はいつも通りやってたんだけどね。
 で、最近声をかけられたの」

「なんて」

「やっぱりあなたいいわねって」

 レイはおばさんの声色をまねて言った。

 あたしはすこし吹きだした。
 そして、なんだそれ、と言った。
 レイの歌に対する感想にしても、どこか時代がかっている。
 しかし、レイは生真面目な顔を崩さなかった。


「その時はそう言われただけだったのよね。

 でも、次から毎回顔を出すようになって、
 ときどきあたしにいろいろ教えに来てくれたり、
 さっきも言ったけど一人で出るの? って訊かれたりして。
 今までそんなことなかったから、どうしたのかなって思って、こっそり新しい方の先生に訊いてみたの。
 そしたらね、『あなた気に入られてるのよ』って答えられたわ。
 気まぐれな人だからそんなに長く続かないと思う、ってため息つきながら」

「レイと組んだとすると、あのおばさんが何か言ってくるかもしれないってことか」

「そういうことになっちゃうと思う」

「苦労するな」

「私はそんなに気にならないんだけどね」

「いつまで続きそうなんだ?」

「新しい先生によると、わからないけどそんなに長くは続かないでしょって」


 ついてないなあ、とレイは言った。
 目の前の壁に貼られたアルバイト募集の広告に目をやりながら。
 その視線を動かさないまま、どうする? とあたしに訊ねた。

 間が悪い。
 あたしは思った。

 レイも、あのおばさんも。

 エミリーだってそうだ。
 せっかくのイベントをやるのにこっちにいないなんて。

 マツリと組むのをやめるのも、やめなければよかった。
 そうすれば、何の問題もなかったのに。
 せめてもう少し続けておけば、今困らなかった。


 しかし、いちばん間が悪いのが自分自身だということを、あたしはよく知っていた。
 レイの言うとおり、まったくついてない。

 今からだって、無理にレイを引っ張り込むこともできなくはない。
 けれど、それはやめておいた方がいいよう思える。

 また、おばさんとやりあうことになって、レイに余計な気を回させることになるのは避けたい。
 それに加えて、どうしても、と誘い込めるほどの熱意があたしにはなかった。
 絶対いい、とか、完璧なものが出来る、とかそう言えるほどの根拠もなかった。

 レイのレッスンを見ていたら、気が変わっていたのだろうか。
 どちらにせよ、叶わないことだ。
 ほんとうにあたしってやつは、間が悪い。


 ごめん、言ってみただけだよ。
 軽い調子を意識しながら、あたしは口を開く。

 こわばっていたレイの顔がゆるむ。

 なんだ、焦っちゃった。
 あたしこそごめんね?
 せっかく誘ってくれたのに、こんなことにしちゃってて。
 でも、思いつきを口にするのって楽しいわよね。

 あたしはいろいろ入ったビニール袋を持ち上げる。
 店員の声を背に受けて建物を出る。
 待ちわびていた暑さが、すぐさまわずらわしいものへと変わってゆく。

今日はここまで

間が空いてしまい申し訳ありません
とりあえずエタらせずには済みそうです

おつおつ待ってた

おつかれ
ずっと待ってるからゆっくりでも頼むぜ


>>7
× もっと荒くれたもんだと思ってたので、私は安堵した。
○ もっと荒くれたもんだと思ってたので、あたしは安堵した。

>>8
× おっさん(たぶん偉い人)は向かいに座り込んで書類と私の顔を交互に眺めた。
○ おっさん(たぶん偉い人)は向かいに座り込んで書類とあたしの顔を交互に眺めた。

>>21
× だけど、その名を私が知るみんなが知っている。
○ だけど、その名はあたしを知るみんなが知っている。

>>86
× あたしは黙ってまつりの次の言葉を待った。
○ あたしは黙ってマツリの次の言葉を待った。

>>87
× マツリが何を言いたいかまるでわからなかったが、私はもう一度謝った。
○ マツリが何を言いたいかまるでわからなかったが、あたしはもう一度謝った。

>>96
× そんなに大した話じゃない、と私は思う。
○ そんなに大した話じゃない、とあたしは思う。

>>131
× 「マツリさんの話でしたね」
○ 「まつりさんの話でしたね」

>>352
『エミリーからの手紙②』を『エミリーからの手紙』に修正

ミスが多くて申し訳ない限りです…
見直して問題なければ今日の9時ごろから最後まで投下しようと思います

投下します


 まずは、ご出演おめでとうございます。
 お祝いにしても、すこし気が早いでしょうか?
 いずれにせよ、ジュリアさんが出演なさることに変わりはありません。
 素晴らしいことだと思います。

 催事について、ご存じなかったのですね。
 夏の終わりなんて、ずいぶん先のことのようでしたが、こうしてみるとあっという間です。
 私の場合は、事務所に入った当初に、催事についての説明を受けたことと記憶しています。
 そのときいただいた資料でも、たしか言及されていたかと。
 仕掛け人さまのおっしゃられた通り、どこかで行き違いが生じたのでしょうね。
 ただ、それによって不都合が生じたわけでもないようですので、一安心です。


 さて、私はと言えば催事に出られない分、日々の鍛練を続けております。
 これでは、今までのお手紙と変わりないでしょうか?
 しかしながら、「雨だれ石を穿つ」という諺もあることです。
 もちろん、それ以外にもお借りした音源を聞いたり、近場で催される小さなお祭りを見に行ったりしているんですよ?
 このように、ほどほどに休息も取っているのでご安心ください。

 それでは、月並みな言葉になってしまいますが、遠くの地より公演の成功をお祈りしております。

 追伸

 北上麗花さんなら、何度かお稽古をご一緒させていただいたことがあります。
 あまり多くの言葉を交わしたことはないのですが、とても綺麗で聡明な方ですよね。
 私のような者でもお近づきになれるでしょうか……?


 やっとか、という思いだ。
 夏のイベントでもしかしたら、という予想はしていた。
 しかしじっさいに、パンフレットに彼女の名が連なっているのを見ると、喜びを抑えることが出来なかった。

 あまりに姿を見ないので、なにかしらのトラブルでも起こしたのかとすら思っていた。
 だが、それは杞憂であった。
 
 彼女がどのような形でステージに立つのか。
 現段階では私には知ることもできない。

 当然のことであるが、今よりこのことを残念に思うことはない。
 しかし同時にそれを嬉しく思う。
 まだ私には驚く権利が残されているのだから。

 彼女がいったい何をしてくれるのか。
 この目にそれを焼き付けるため、私は劇場へ足を運ぶことになるはずだ。

 非常に楽しみにしております。


 大荷物を抱えた人々を見送っている。

 レイは来ていない。
 待ち合わせの時間まで、まだ少しある。
 一番星が出ている。
 まだ明るさの残る空で、白い月が静かに夜を待っている。

 それらをぼんやり見上げていると、声をかけられた。
 レイではなく、品のよさそうな老夫婦だった。
 じいさんのほうは、首からずいぶんごついカメラをさげている。

 この道で合っているのでしょうか。
 ばあさんの方から、訊ねられた。
 身動きするたびに腰に付けた鈴が鳴るのが、どこかおかしかった。


「あたしも人頼みなんで確かなことは言えないけど、
 みんなこの道に入っていくからあっているんだと思います」

 あたしが持って回った答え方をすると、ばあさんは頭を下げた。
 じいさんはにこにこしながら、首から提げたカメラを外し、こちらに差し出してきた。
 慣れない機械に手間取りながらも、あたしは二人の写真を一枚撮ってやった。
 二人は口々にお礼の言葉を過剰に並べたてたあと、他の人らと同じように山道に入っていった。

「ジュリアちゃんっていいとこあるのね」

 何食わぬ顔で現れたレイが口を出してきた。
 今の一連のやり取りをどこから見ていたかは知らないが、時間には間に合っている。

「レイにも優しくしてるだろ?」

「いつもありがとね」

 レイは山道のいく末を見つめる。
 日がほとんど暮れているのにもかかわらず、まぶしそうに目を細めながら。

「山歩き日和」

「レイが言うならそうなんだろうな」とあたしは伸びをした。




 山に行こうと、ふたたびレイに誘われたのだった。

 山登りって言うより、山歩きみたいなものよ。
 レイは微妙な言い回しで、さほど苦労を伴う誘いでないことを表わした。

 事務所のソファにもたれかかりながら、あたしは今度も断ろうとした。
 どうしてもいや、と言うほどのものでもない。
 いざやってみれば、悪くないかもしれないとは思う。
 だが、どちらかと言えばやっぱり気が進まない。

 それでも行こうという気がすこし湧いてしまった。
 そのわけは、だめ押しのようにレイにまくしたてられたからだった。


「その日、流星群が来るんだって。
 流れ星が見える間に三回願いを唱えると、願いがかなうって言うじゃない。
 流星群ってことは、それが束になって押し寄せてくるんだから、
 もう願い事のつかみ取りみたいなものよ!
 これは行かない手はないと思うの。
 ね、行きましょ?」

 その勢いに押されたのもあって、あたしはついオーケーを出してしまったのだ。

 思い返しても、断る余地はなさそうだった。

 もっとも、星を見るのは嫌いじゃない。
 だからと言って、取り立てて愛好家というわけでもない。
 ただ、そこまで言うのだったら、山歩きなるものをしてもいいかと思えたのだ。


「高いところから見る夜空ってどんな感じだ?」

 あたしが訊ねると、レイは知らないと言った。

 夜に登ったことがないから行くんじゃない。
 それに星を見に行くなんて、なんだかロマンティックでしょ?

 その言葉を思い出しながら、今目の前に立つレイに訊ねた。

「何も持ってきてないんだな」

「水とかお菓子ならあるわよ?」

「星を見るための道具だよ」あたしは望遠鏡をかついだ集団に目をやった。

「レンズ越しより、直接目で見たいじゃない」とレイは言下に答えた。

 その言葉に根拠はなさそうだったが、それもそうだなとうなずいた。
 そしてあたしたちは山道へと入っていった。


 見送った人々に比べると、あたしたちはずいぶん身軽だった。
 レイは、はずむようにして歩いていく。
 ほどなくして、周りの景色がうっそうとしてくる。
 ほとんど風が感じられないのに、梢の揺れる音がする。

「すこし早く来過ぎたかしら」とレイが口ずさむ。

「遅いよりはいいさ」

「それもそうね」

 ギターを背負ってもいないのに、背中で汗がにじむ。
 明るさは失われているのに、熱気は収まらない。
 さきほどまで青々していた木々の葉が、暗がりの中に溶けこんでいく。
 道脇まで顔を出してきた、背の低い草が足元をかすめる。


「ジュリアちゃんはどんな願い事をするか決めてきた?」

「そういうのって人に教えると叶わないんじゃなかったか」

 答えると、レイがぎょっとして立ち止まる。

「じゃあ唱えられないじゃない」

「小声にすればなんの問題ないだろ」

「出来るかしら」

「努力するしかないな」

 いい加減に答えたものの、あたしはまるで願い事を考えていなかった。
 いったい何を願えばいいか、思い浮かばない。
 決して無欲というわけではない。
 ひょっとすると、願い事が叶うなんて信じてないのかもしれない。


 レイは何を願うのだろうか。
 自分の願い事よりも、そっちの方が気になった。
 あれだけ目を輝かせて、願い事について熱弁したのだ。
 それこそたくさんの願いを持ってきたに違いない。

 あたしは自分の発言を後悔した。
 人に教えると叶わない、だなんて言うもんじゃなかった。

 勾配が急になってくる。
 それに反して、レイの足取りはみるみる軽くなる。
 レイのものでない声がほうぼうでする。
 けれど見回す限り、人の姿は見当たらない。
 あれだけの人を見かけたのに。
 皆どこまで行ってしまったのだろう。

 レイは息を切らす様子すら見せない。
 日頃のレッスンのたまものだろうか。


 けっきょく、レイのレッスンを見学する機会は訪れなかった。

 一緒に演る望みがなくなったとは言え、興味がなくなったわけではなかった。
 時間がまるで合わないということもなかった。

 しかし、どうもあたしの苦手なおばさんが頻繁にレイのレッスンに顔を出しているらしかった。
 心底いや、と言うほどでもない。
 ただそこまでして、見学しに行かなくてもいいかなと思ったのだ。

 レッスンはあんがい無難にこなしている。
 レイについてそういう評判を聞いたが、それは評判でしかない。
 だから、じっさいのところはわからなかった。


 反対に、見学されたことならあった。
 レイにではない。
 あのおばさんにだ。

 ダンスと歌のレッスンが連続で入っているときだった。

 初め、おばさんを見つけたときはすこし驚いたが、大して気にならなかった。

 ダンスなら分野が違う。
 さすがに口出ししてくることはないはずだ。
 おおかた、時間でも余っているところなのだろうと踏んだのだった。

 あたしの一つ目の予想は当たった。
 おばさんはレッスンの最後まで黙りこくったまま、腕組みしながら壁際につっ立っていた。

 しかし、二つ目の予想は外れた。


 歌のレッスンのときも、おばさんは壁際につっ立っていた。
 それも先ほどとまったくおんなじポーズで。
 まるで置物のようだった。

 今度こそ難癖を付けられる。
 そう思いながらも、あたしはいつも通りレッスンをこなそうとした。
 おばさんがいるからと言って、下手に力んだり手を抜いたりするのはいやだった。

 やたらに長く感じられたレッスンをどうにか終える。
 とうとう、おばさんが詰め寄ってきてなにかを言ってくることなかった。


 あたしは小声で挨拶をしながらおばさんの前を通り過ぎる。
 あたしの背中越しに、おばさんは小声で言った。

「歌って踊れるんだから、歌って踊ればいいじゃない」

 とても過去に歌のレッスンを担当していたとは思えない、こもった声だった。
 あたしは振り返らずに、スタジオを後にした。
 おばさんがあたしを呼びとめることはなかった。

 正直なところ、かちんと来た。
 おそらく、おばさんは先に控えているイベントでのことを言ったのだろう。

 だが、今回ばかりは歌おうが踊ろうがギターを弾こうが、あたしの勝手だ。


 今の今までそう思っていた。
 レイの鼻歌が聞こえてくる。
 足元に落ちた、乾いた葉が踏まれてざくざく音をたてる。

 ひたいに汗が伝う。
 この暑さと反対に、あの時感じた怒りは鎮まっている。
 おばさんの言ったことは、すくなくとも間違いではない。
 歌ったり踊ったりして、マツリの言った通り、今まで通りやればいい。

 もちろんギターを弾く方が踊ることより好きだし、得意だとも思う。
 ただ、踊ることだって、決して嫌いじゃない。
 アイドルになって、出来るようになったことをする。
 それを選ぶことも、間違いなく正解の一つになるはずだ。

 歌って踊ればいいのに。
 おばさんのこもった声が、頭の中で響く。

 それを皮切りにして、さまざまな声が堰を切ったように耳の奥で流れ出す。


 今まで通り。
 マツリが言った。

 あなたもその一人です。
 痩せ男が言った。

 ため息をすると幸せが逃げますよ。
 エミリーの跳ねるような笑い声。

 すげえ衣装だ。
 スキンヘッドが大笑いした。

 でもそれが好きなんだろ?
 あたしが言った。

 不気味ですらあった。
 評論家気取りの声も、どこからか浮かび上がってくる。


 アイドル?
 その後ろ姿に憧れてしまったのです。

 細やかさに欠ける。
 お星さまなのです。
 あなたの出す音は、綺麗。
 
 まつりとステージで歌ったり踊ったりしてくれませんか?

 今日はよかった。
 あなたの意見は?
 言いすぎだったかもしれない。
 どうしましょう。
 応援しています。

 笑えたよ。
 大切なことです。とても。
 バースデーケーキのろうそくの火を吹き消すのって、私、好きなの。
 そういうことってありふれてるものよね。

 次は君の番だ。
 ピザトーストなんかどう?


「大丈夫?」

 レイがあたしの顔を覗き込んでくる。

「すごい汗よ?」

 あたしは手の甲で頬を拭う。
 こんなところにまで、たくさんの汗が伝っている。
 濡れた手の甲が、わずかばかりの風で冷やされる。

「大丈夫さ」

 あたしはレイを見上げながら言った。

「山歩きはどうも不慣れでね」

「慣れないうちはたいへんよね」

「そう思う」

「ほんとにきつくなったら言って。でも、あとすこし」

「頑張るよ」

 そう来なくっちゃ。
 レイはふたたびずんずん歩き出す。
 あたしもやけくそになって、大股でその後についてゆく。




 レイの言った、あとすこしというのを、じつのところあたしは信用していなかった。
 もうしばらくはかかるだろうと踏んでいたのだ。

 しかし、それはほんとうだった。
 あれからすぐ、ひらけた場所に出られたのだった。
 ここが頂上かと訊くと、そんなわけないじゃない、とレイは笑った。

「だいたい中腹ってところかしら」

 得意げに解説を始めるレイを横目に、タオルを顔に押し当てる。

 ビニールシートを広げて、飲み食いしてる連中。
 でかい望遠鏡のまわりに集まって議論を交わす連中。
 退屈さに耐えかねて泣き出すこどもとそれをなだめる親。

 さまざまな人々がそこらに散らばっている。


「そういうわけで頂上まで登れないのは残念だけど、
 ここは星を見るのにうってつけのスポットなのよ」

 レイは懐中電灯をつけ、二人分が寝転べるだけの場所を探し、そこにビニールシートを敷いた。

 あたしは持ってきたラジオを付けた。
 キャスターは、気圧や前線について語っていた。
 そして、天体観測にはうってつけの気候となるでしょうと締めくくった。

 レイにならって、シートに寝転ぶ。
 すでに日は暮れ切っていて、いくつかの星が姿を現している。
 薄いシートをへだてて、地面の凹凸や小石が背中に食い込んでくる。
 人々の声は合わさり、一つのざわめきになってゆく。


「やっぱり早すぎたかしら」

 レイはさきほどと同じことをこぼした。

「うまく時間を合わせれば、
 ここにたどり着いた瞬間に、
 星降る夜空が私たちを出迎えてくれるの。
 もしそれが叶ったとしたら、とっても素敵なことだと思わない?」

「そんなにうまくいくか?」

「うまくいくかどうかなんて、やってみなくちゃわからない。
 けど、もう私たちは取り返しのつかないことをしちゃったんだと思う」

 レイが深くため息をつく。
 薄暗い色をした小さな雲が、高いところでそのかたちを伸ばしてゆく。


「そういうわけで頂上まで登れないのは残念だけど、
 ここは星を見るのにうってつけのスポットなのよ」

 レイは懐中電灯をつけ、二人分が寝転べるだけの場所を探し、そこにビニールシートを敷いた。

 あたしは持ってきたラジオをつけた。
 キャスターは、気圧や前線について語っていた。
 そして、天体観測にはうってつけの気候となるでしょうと締めくくった。

 レイにならって、シートに寝転ぶ。
 すでに日は暮れ切っていて、いくつかの星が姿を現している。
 薄いシートをへだてて、地面の凹凸や小石が背中に食い込んでくる。
 人々の声は合わさり、一つのざわめきになってゆく。


 らしくないことを言うものだ。
 今になって気付いた自分の過ちを、そんなに悔いているのだろうか。
 あたしからしてみれば、大したこととは思えない。

 それとも本番を前にして、神経質になっているのかもしれない。
 だったら、まだ納得がいく。
 レイだって、そういうふうになることだってあるはずだ。

 しかし、突然レイが大きな声でなにやら言って飛び上がる。
 あたしは寝転がったまま訊き返す。

 レイはにこやかにしながら、
「早口言葉の練習をしない?」と言った。
 
「早口言葉?」

「流れ星って一瞬で通り過ぎちゃうから、
 いざ願い事を言おうってときに口が回らないと大変でしょ?」


 レイの大声で、周囲の人々までこちらに注目している。
 それもあって、あたしはその練習に付き合うのを断った。

 あたしはやらないけど、やるんなら静かにやってくれよな。

 レイは不服そうにしながらも、低い声で早口言葉を唱え始めた。
 ほどなくして周りの人々までもが、同じように低い声で早口言葉を唱えるようになった。

 間違いなく、いつも通りのレイだ。
 余計なことを考えてしまった。
 あたしはタオルを畳んで、頭の下に敷く。
 早口言葉は続いていて、あたしのまわりで渦を巻くみたいに漂っている。




 それは音もなく始まった。
 なのに、あたしは目を覚ました。
 その瞬間、絵筆を走らせたようにして、一筋の光が夜空を通り過ぎた。
 人々が歓声をあげる。
 その話しぶりに耳を傾けると、さっきのが最初の流れ星だったらしいということが分かった。

 目を覚ましたら、今日最初の流れ星が流れた。
 ただそれだけのことで、あたしの頭に奇跡と言う単語がよぎった。
 レイの大げさな口ぶりに影響されただろうか。


 それから多くの流れ星が降り続けた。

 先ほどの騒がしさも、歓声も、とうに止んでいる。
 寝転んでいた人々も立ちあがって、ぼおっと空を眺めている。

 レイはと言うと、見事に眠ってしまっていた。
 あたしもレイもいつの間に寝入ってしまったのだろうか。

 その肩をつかんで揺する。
 レイがうめき声を漏らす。
 容赦なく降り注ぐ夜空の星を見上げたまま、あたしは願い事のことを思いだす。
 ここまで来ると、すっかりレイの趣味に付き合ってやる気になってしまっていた。


 肩をつかむ手にさらに力を入れ、素早く願い事を唱える。
 早口言葉なんて練習しなくても、問題なく口は回る。

 その後で、レイが目を覚ましからだを起こす。

 周囲の声がぽつぽつ戻ってくる。

 あたしはまた寝転んだ。
 もちろん目を開いたまま。
 レイは口も開けたまま、空を見上げているようだった。

「たくさん降るのねえ」

 レイは感心したように、感想を述べた。

「でも、思ってたよりあっけないかも」


「どんなのを想像してたんだ?」レイの後頭部越しに見える星たちを眺めながら、あたしは訊いた。

「見た瞬間に思わず息を呑んでしまうような、それはもう美しい光景。
 それこそ、気づかないうちに涙を流しちゃうような。
 今見ているものが美しくないっていうわけじゃないの。
 じっさい、とってもきれいだと思う。

 期待しすぎちゃってたのかも。
 でも決してがっかりしてるわけじゃないの。
 ごめんなさいこんなこと言っちゃって。
 私から誘ったのにね。
 こういう時にウソでも感動したふりができたらよかったんだけど」

 なるほどね。
 しばらく間を空けてから、あたしは答えた。
 夜気に冷えた土の匂いが近い。
 レイは星ではなくあたしの顔を見ている。
 星はまだまだ降りそそいでいる。


「願い事ってやつはしなくていいのか?」

 レイの表情がゆるんだ。
 それを見て初めて、レイの表情がこわばっていたということにあたしは気づいた。

 まあ、あんなこと言っちゃったけど。
 せっかく来たんだもんね。
 しなかったからって、まったく叶わないってわけじゃないと思うけど。

 レイは言い訳がましいことを延々と並べ立てた。
 延々と話すのは普段通りだった。
 けど、どこか焦っているふうでもあった。

 その様子がおかしくて、あたしはすこし笑った。
 レイは話すのをやめた途端、泣きそうな顔をした。
 あたしは驚いたが、よくよく見ると、いつも通りのこまやかな笑い顔だった。

 そしてレイは空の方へと顔を向け直し、何やらぶつぶつ唱え始めた。




 流れ星はすっかり見えなくなった。
 ついさっきまでが嘘のように、穏やかな夜空が広がっている。
 人々はそれぞれの荷物を畳み、山のふもとへと戻りはじめた。
 片付けを進めるレイを見下ろしていると、入口で会った老夫婦に出くわした。

 二人はあたしに気づくと、これ以上ないくらいていねいなお辞儀をした。
 あたしもふかぶか頭を下げた。
 ばあさんの腰に付けられた鈴が、ちりんと鳴った。

 みんなと同じように、あたしたちも広場を後にする。

 懐中電灯片手に、人々がぞろぞろ山を下りていく。
 登っていたときに聞こえたさまざまな音は、人々の声が近いせいかほとんど聞こえることはない。
 そのなかで、レイはあれこれ口を開かず歩みを進めている。
 ときおり、大きなあくびをまじえ、目の端に涙を浮かべながら。


 人の多さで、思うように先へ進んでいけない。
 そのせいで余計に足取りが重くなり、疲れが増す。

 レイはどんなふうにして泣くのだろう。
 先ほど、レイが自分で言っていた。
 気づかないうちに涙を流しちゃうような、と。

 何か考えることで、あたしは疲れを忘れようとしたのだった。
 あまり趣味のよくない想像だとは思う。
 しかし、思いついてしまったのだから、仕方ない。

 さめざめと泣くのか。
 それとも大声をあげて泣くのか。

 どちらも、想像がつかない。
 ただ、どこかあけっぴろげでありそうな、そういう予感はある。


 それはなんの予兆もなく始まる。

 レイが泣き出す。
 原因は誰にもわからない。
 みんなが視線をレイに向ける。
 なのに、誰もが声をかけることはできない。

 当のレイははらはら涙をこぼし続けている。
 ようやく、一人また一人と口を開き出す。

 なにがあったのか、とか。
 どこかが痛む、とか。
 通り雨のように泣き出したこどもを相手にするような言葉を投げかける。

 しかしレイは何も答えない。
 ただただ首を横に振るばかりだ。


 ついには、みんなあきらめる。

 決まり悪さにその場を立ち去るやつもいれば、残ってしまうやつもいる。
 残った奴らも目のやり場に困って、視線を宙にさまよわせている。
 そうしているうちにレイはすっかり泣き止んでいる。
 何事もなかったかのように、へらへらした表情を浮かべながら。

 もうみんな何が起こったのかわからなくなっている。
 その様子を見たレイが口を開く。

「みんなどうしたの?」


 ばかげた想像だ。
 考えるのをやめ、前を見据える。
 レイがこちらを振り返り、遅くなっちゃったねとまたあくびを漏らす。

「叶うかしら、願い事」

「どうかな」

「ジュリアちゃんはどんな願い事したの?」

「教えたら叶わなくなるって言ったじゃんか」

「つまりジュリアちゃんにも叶えたい願い事があるってこと?」

「そういうことになるな」

「じゃあ教えてもらえないんだね」とレイは肩を落とした。


「別に大した願いじゃないんだけどな」

 そうあたしは前置きした。
 教えてしまってもいい気がしたのだ。
 それに、おかしな想像をしたという引け目を勝手に感じたのもあった。

「歌やギターがうまくなりますように。
 レッスンやステージが首尾よく行きますように。
 正確なところはすこし違ったかもしれないけど、だいたいそんなところだ」


「言っちゃって大丈夫?」

「まあ、絶対叶わないってこともないだろ。
 それにありきたり過ぎて面白くないから、隠す必要もない気がしてさ」

「それもそうね」

「レイは何を願ったんだよ」

「教えたら叶わないんでしょ?」

 レイは言った。

「私のは、ありきたりじゃないの」


 あたしは押し黙った。
 レイは満足げに笑うと、わざとらしいくらいの大股で歩きはじめた。

「でも失敗しちゃった」

 前を向いたままレイは言った。

「あれだけ星があったのに、一つしか願い事をしなかったのは、大失敗」

 あたしは天を仰ぎ、息を吐いた。
 流れ星はもう見えなかった。
 そこには晴れた日に姿を現す星々が、いつものように見られるだけだった。


 レイの願い事は、教えてもらえなかったな。
 ふとあたしは思い出す。
 レイは自分のした願い事をまだ覚えているのだろうか。

 ずっと覚えていそうな気もする。
 あっという間に忘れていそうな気もする。
 たしかなのは、ありきたりじゃないあっと驚くような願い事を一つだけした、ということだけだ。


 ノックの音が響く。
 事前に言われていた時間より、すこし早い。
 しかし楽屋の扉を開けたのはスタッフじゃなくて、レイだった。

 緊張していてもたってもいられなくなった、ってわけじゃないのよ。
 隣の椅子に腰かけたレイは、会話の合間にこのフレーズを呪文のように何度も唱えた。
 あたしはギターを弾きながら、調子はどうとか、そういうつまらないことを訊いた。


 レイが頬杖をついて、あたしの脚に乗せられたギターを覗き込む。

「触ってみてもいい?」

 あたしはうなずいてみせる。
 レイの手が伸びてくる。
 ぎこちなく弦が弾かれ、その振動が音となり楽屋を満たす。

「もし、一緒にやることになってたら」

 ギターを見据えたまま、レイが言った。

「ジュリアちゃんはギターを弾いてた?
 それとも、歌ったり踊ったりしてたと思う?」


「どうだろうな」とあたしは頭をひねった。

「ジュリアちゃんって、あんがい見通しが甘いわよね」レイは責め立てるふうでもなく言う。

「返す言葉がないよ」

 レイは返事をせず、ふたたびギターに手を伸ばす。
 ぎこちない音が響く。
 その音を聞きながら、結成されなかったレイとのユニットについて考えてみる。

 歌って踊っていたか。
 それとも、あたしがギターを弾き語りして、それに合わせてレイが歌っていたか。

 レイは歌も踊りもうまくやれる。
 その話を信じれば、どちらでもそれなりにうまくやれたことだろう。
 となると、レイの気分次第ということになっていたのだろうか。

「レイはどっちだったと思う?」レイの頭を見下ろしながらあたしは訊いてみた。


「けっきょく、ジュリアちゃん次第だったんじゃないかしら」

 レイは背筋を伸ばして答えた。

「私にギターはないけど、ジュリアちゃんにはあるから」

 あたしが何か答える前にノックの音が響く。
 今度こそ、スタッフが顔を出しに来たのだ。
 そのスタッフは、レイの顔を見るやいなや時間までに自分の楽屋に戻るよう釘を刺した。

 レイの返事は力強かった。
 もっとも、力強いだけであまり信用ならないということをあたしは知っている。
 確認ごとを終えて、スタッフは楽屋を後にする。


 あたしはこれからのステージの思いを馳せる。
 ステージの中央で、ギターを持って歌いだす。

 ここは普段、歌って踊る場所だ。
 客には驚かれることになるだろう。
 驚かせるためにギターを弾いて歌うわけではない。
 もちろんそのためにアイドルを始めたわけでもない。

 それでも、客の驚いた顔を見るのをあたしは楽しみにしている。

 誰かの足音が外の通路を通り過ぎてゆく。
 レイは壁時計を見上げてはうつむきを繰り返している。
 あたしはギターを置いて、水を飲む。
 勢い余って口の端から水がこぼれる。
 それを拭ってから、黙りこくっているレイに向かって言った。


「まだ時間もあるし、それまで何か話してくれよ」

 そうねえ。
 口ずさんで、レイが首をかしげる。

「正直言って、時間まで手持ちぶさたなんだよ。なんでもいいからさ」

 さすがのレイもあたしの言葉に、戸惑いを隠せないようだった。
 楽屋の端に置かれた姿見に、あたしの姿が映っている。
 鏡の中のあたしの表情は、笑いをかみ殺しているせいでひどくこわばっている。
 その鏡に目をやっているうち、レイがゆっくりと口を開く。

「昔話なんだけどね?」




 会場が暗転する。
 客席は沸くというより、異変にざわめいている。
 その異変というのが、ステージの中央に置かれたギターの存在のことだとあたしは知っている。
 当のギターは大人しくあたしが来るのを待っている。

 スタッフがこちらを見て、出て行ってよいとうなずく。
 あたしは指を組んで伸ばす。
 レイがしていたみたいに、一度深く息を吐いてみる。

 すると、耳の奥でレイの声が鳴る。

 空を飛べればいいのになって。


 ギターを弾くより、その方が驚いた顔をされるだろうな。

 目を開いていても、こんなふざけたことばかりを考える。
 それに目を閉じれば、ばかげた夢を見る。
 つまるところ、寝ても覚めても、頭をよぎるのは大抵ろくでもないことばかりってわけだ。

 でも、あたしにはギターがあるからギターを弾いて歌う。

 緊張してるのかい。
 なじみのスタッフが笑う。
 
 ちょっとした儀式みたいなもんさ。
 言い残して、ステージに足を踏み入れる。

 強いライトが当たる。
 客席から戸惑ったような拍手が上がる。
 久しぶりの光に顔をしかめながら、ギターのストラップを肩に下げる。
 いまだに客席の面々は、状況をつかみ切れていないような顔をしている。
 見たことのある顔もいれば、見たことのない顔もある。


 名前も知らない。
 下手したら、今見えている客の顔も覚えていられないかもしれない。
 しかし、あたしはこいつらの声を聞くことになるはずだ。

 ほどなくそれは一つのかたまりとなるだろう。
 それはきっと、忘れられない音になるだろう。

 もう一度、今度は浅く息を吐いてみる。

 はじまりは一瞬で、終わるのもまた一瞬だ。
 夢見たり、馬鹿な考えを持ったりする暇はない。
 見通しも立てられないあたしにとっては、なおさらだ。

 あたしは目を見開く。
 その瞬間をとらえ、ステージを始めて、終わらせるために。
 そして前を見据えて、大きく息を吸い込む。
 願い事を、これから叶えにいく。


 空を、飛んでいる。

 離陸してからもうずいぶん経っているのに、いまだ着陸する気配はない。
 隣の窓際の席で寝息を立てているのは、レイだった。
 思い返せば、搭乗してからほとんどこの体勢でいるような気さえする。
 離陸したときには、あれほどはしゃいでいたのにもかかわらずだ。
 
 通路を挟んだ向こうの席で、小柄なスーツの男が外国語で書かれた新聞紙を広げている。
 その小難しそうな横顔がどこか痩せ男に似ていて、あたしはすこし苛立った。


 事の発端はエミリーからの手紙だった。
 じっさい、手紙が来る前から事は起こっていたらしい。
 しかし、あたしがそれに気づくことになったのは、間違いなくエミリーからの手紙だった。

 一見して、エミリーの手紙はいつもと変わりないように見えた。
 丁寧なあいさつに始まる。
 今回は、それに続いて事務所のイベントの成功を祝っていた。
 そこから先の文章で、まさか自分の目を疑うことになるとは思わなかった。




 さて、このたびは私の我儘を聞いていただく形になって、本当にありがとうございます。
 お礼が付け足しのようになってしまい、申し訳ありません。
 お祝いごとの方が先かなと思ったものですから。

 ほんとうに、思いもよらないことでした。
 ご近所の方々に、私のそちらでの職業がばれてしまうだなんて。
 別に内緒にもしていなかったのですが、公にもしていなかったもので……。
 そういうわけですから出演の依頼をいただいたときは、気が動転してしまいました。

 思わず仕掛け人さまに国際電話までかけ、相談をしてしまったほどです。

 仕掛け人さまは、快く私の相談に乗ってくれました。
 しかも、そちらからお手伝いを送ってくれるという親切まで!
 それがジュリアさんたちというのですから、こんなに心強いことはありません。


 それにしても、まさか私の故郷でジュリアさんと再会することになるなんて!
 いろいろなことが起こりうるものなのですね。
 
 そのことにあたって、謝りたいことが一つ出来てしまいました。
 いい宿が取れそうにないのです。
 申し訳ありません。
 どこももう予約で埋まってしまっているそうでして……。

 せっかくだからとっておきの場所を。
 そうして探しては悩んでいるうちに、時間ばかりが経っていたのが原因かと思われます。
 お恥ずかしい限りです。


 それで提案なのですが、私のお家に泊まっていただくというのはどうですか?
 私個人としては、そうするのも楽しいかなと思ったのですけど、ジュリアさんはどうでしょう。
 もっとも、少々手狭な部分がないとは言い切れないのですが。

 どうかご意見をお聞かせください。

 そうそう! そろそろそちらに戻ることが出来そうなんです!
 まだ確定してはいないのですが、その話もジュリアさんが来た時にこっそりできたらなあと思います。

 いろいろ詰め込んだせいもあって、忙しい文章になってしまいましたね。
 それでは再会の日を心待ちにしております。




 あたしはこの手紙を片手に事務所へ駆け込んだ。

 百歩譲って、悪いとは言わない。
 とは言え、まるで話を聞いてない。
 どういうことだか説明してくれ。

 外のひぐらしの鳴き声を掻き消すように、あたしはわめき立てた。

「手紙に書かれてある通りです」

 いつもと変わらぬ語調で、痩せ男は答えた。

「あなたには、外国まで行ってもらうことになっています」


 痩せ男からなされた説明は、単純明快極まりなかった。

 ちょうどエミリーの住む町で、お祭りが開かれる時期らしい。
 エミリーはそのお祭りで催されるステージに、出演依頼を受けた。
 こっちでアイドルをしていることが、ばれてしまったというのだ。
 それで、どうしたらよいでしょうかと言う相談がエミリーから痩せ男のところに来た。
 その結果、痩せ男はあたしを向こうに送ることにした。

「助っ人がいれば心強いかと思いまして」

「あたしもそう思うけどさ、先に本人の承諾くらい得るべきだと思うぜ?」


「当面、さほど忙しくはないでしょう」

 そりゃそうだけどさ。
 言い返す言葉が見つからず、視線を宙に漂わせる。

 先のステージは、結果から言えば成功だった。
 しかし、それで爆発的に仕事が増えるようなこともなかった。
 良い兆しと言えば、今後ステージに立つ目途が立ったくらいだった。
 もっとも、それもすこし先の予定になっているのだが。 

「それに呼ばれてるのに行かない理由はない、と以前言っていたではないですか」

 そりゃそうだけどさ。
 あたしは同じ言葉を繰り返す羽目になる。

「でもせめて事前に一言くらい、なにか言ってくれよな」

「わかりました」と痩せ男がデスクに戻ろうとするのを、あたしは引きとめた。


「なにか」

「それはあたし一人で行くことになるのか?」

「その点に関しては安心してください。
 スケジュールの空いていた方を、もう一人確保しています。
 しかも即答していただけました」

「そうか、世話掛けるな。
 恥ずかしい話だけど、単身で海外ってのはさすがに心細いもんだ。
 ちなみに誰に声掛けたんだ?」

 そこで、痩せ男は何のためらいもなくレイの名前をあげた。


 あたしはいちど訊き返す。
 痩せ男が機械的に繰り返す。

 あたしは自分の耳が疑わしくなる。
 しかし、ひぐらしは鳴き続けている。
 まるで、あたしの耳の正しさをたたえるように。

「今回ばかりはあんたを恨むことになるかもしれないぜ」

 絞り出すようにして、あたしは言った。

 甘んじて受け入れるつもりです。
 がっくりうなだれるあたしをよそに、痩せ男は今度こそデスクに戻った。




 レイを外国に連れて行くだなんて、心配の種がむやみに増えるだけだ。
 問題ごとが起きないわけがない。
 だから、あたしはマツリを誘ってみた。

 姫は忙しいのです。
 しかし、マツリはすげなく答えた。
 この一言であたしの望みは絶たれた。

「バカンスも悪くないと思いますけどね」

「あたしだって、遊びに行くわけじゃないんだけどな」

 レッスンを終わらせたやつらが、スタジオの外へと出てゆく。
 あたしはマツリのレッスンを見学に来ていた。
 以前ここで出くわしたときに、マツリが見に来てほしそうだったので、来てやったのだ。

 それに、暇がまた出来たのもある。
 これからステージに立つようになるのだから。
 そう言われて、劇場の手伝いをいくらか免除されたのだった。


 マツリは、レッスンでも器用な立ち回りを見せていた。
 全力を尽くすでもなく、手を抜くでもなく。
 それ以外、言い表わしようがない。
 あたしから言えるのは、なかなかできることじゃないってことだけだ。

「まつりだって、遊びじゃない、外せない用事があるのです」

「仕事か?」

「幸いにして、まつり姫を必要としてくれる人が増えてきたので」

 マツリは腕いっぱい使って空に弧を描き、その増えてきた人々とやらを表わそうとした。

「あたしも必要としてるんだけど」

「ちょっと遅いぐらいですね。
 でも、これでまつりの名が、世にとどろくことになるのです」


「そんなにうまくいくかな」

「まつりの見立ては当たります。
 それはジュリアちゃんもよく知っているでしょう?」

「じゃあ、言う通りになったとしたら、
 マツリも忙しくなるだろうし、またあたしとやるって話は立ち消えか?」

「どうでしょうね」

 マツリは歌うように言った。

「姫としては、ジュリアちゃんがどうしても、と言うなら考えてもいいですよ?」


 相変わらずだな。

 あたしは思った。
 不遜な言い回しも。
 にもかかわらず、とげを感じさせないところも。
 けど、マツリが変わらずにいてくれるのは、そう悪いことでもない。

 そのマツリが、こちらの出方をうかがうように口の端をあげる。

「なんなら予約しておきますか?」

「そうだな」

 あたしは答えた。

「マツリがどうしてもって言うんなら考えておくよ」




 面白くなさそうな顔のマツリと別れ、建物から出ようとすると、あのおばさんに出くわした。
 わずかに頭を下げて通り過ぎようとしたら、運悪く呼びとめられてしまった。

 おばさんはべらべらしゃべりたてた。
 その内容はあたしのステージの成功をほめそやすものだった。
 あたしはああ、だとか、はあ、だとかあいまいな相槌を打つに終始した。

「でも、ピックを投げたのは危ないわね」

 今度ばかりはあたしも謝った。
 つい、ギターを持って歌うときのやり方で、客席に向かってピックを投げ入れてしまったのだ。


「それで思うんだけど、やっぱりあなたは歌って踊ったほうがいいと思うのよね」

 おばさんが、何やらぶつくさ言いだしそうだったので、あたしは適当な理由を作ってその場を後にした。
 個人レッスンなんて話になったら、たまったもんじゃない。

 おばさんの声があたしを追いかけてくる。
 今後が決まったら、いつでもいらっしゃい。
 なんでも教えてあげるわ。


 逃げ出したあと、あたしは公園のベンチに腰掛け、事務所から持って来た手紙を開いた。

 評論家気取りからの手紙だった。
 今回もあたしをほめたいんだか、けなしたいのだかわからない。
 そんな内容だった。

「ジュリア、というのが彼女の名らしい」と最後に評論家気取りは書いていた。

「私はその由来が気になって、すこし調べてみた。
 ジュリア、というのはさまざまなものの名前になっていた。
 例えば、ある花の品種、自動車、映画のヒロイン、歴史に名を残した人物……。
 それらと比べて、彼女がどうだとか言う気はない。
 彼女は唯一無二であるのだから。
 それでは劇場でふたたび会える日を心待ちにしております。
 応援しています」


「追伸

 彼女のピックは商品化されないのでしょうか。
 ご検討いただきたく思います」


 あたしはその足で、閉館間際の図書館へと駆け込んだ。

 評論家気取りの言うことの真偽を確かめたくなったのだ。
 結果から言えば、評論家気取りの言うことは正しかった。

 ジュリア。
 ある花の品種、自動車、映画のヒロイン、歴史に名をのこした人物。
 そして他でもない、このあたしだ。




 寝ているレイのからだに覆いかぶさるように身を乗りだし、窓の外を覗いてみる。

 それにしても代わり映えしない景色だ。
 いつだったか、マツリが星は雲の上で休んでるとか言ってたが、星ひとつ見えやしない。
 どうも窓の向こう側は昼間らしい。
 だだっぴろい陸地がどこまでも続いていて、他には雲が目に入るくらいだ。

 身をのりだしたら危ないわよ。
 レイの声がする。
 こんなところで危ないも何もないものだ。
 そう思いつつ、あたしは元の体勢に戻る。


「いつの間に起きたんだ」

「ついさっき」

 レイは大きな欠伸をして、大きな伸びをする。
 その動きの大きさに、スーツの男がこちらをちらりと見る。
 レイは窓の外をひとしきり眺めたあと、退屈ね、と笑ってみせた。

「せめて海でも見えれば、気分が盛り上がるんだけどな」

「私、外国っていちど行ってみたかったのよね」

「あたしも同じ意見だけどさ、レイを連れてく羽目になるとは思わなかったよ」

「そういえばギター持ってきてたじゃない?
 やっぱりジュリアちゃんが弾いて、それに合わせてみんなで歌う感じになるのかな」

「エミリーの意見を聞いてからだな。
 でも急場しのぎで踊りを合わせるのも難しそうだし、
 そうするのがいちばん賢明なんじゃないかと思う」


 エミリーちゃんのご近所さんに、恥ずかしいところみせられないもんね。
 レイは目の端に溜まった涙を拭った。

「そうそう、いい夢見られたのよ。
 前にステージに立った時のことが、
 そのままそっくり夢に出て来たの」

 その言葉を聞いて、本物の評論家が情報誌でレイについて書いていた記事をあたしは思い出す。

「歌も踊りも高い水準でまとまってる。
 なのに、何をしでかすかわからない危うさがあり、
 それが私の目には魅力的に映った」

 もっともらしい文章だ。
 しかし、評論家気取りの書くことと大差ないようにも思える。
 ひょっとしたら、本物も偽物もないのかもしれない。
 間違いないのは、こいつらの言うことで、腹を立てたり喜んだりさせられてるってことだ。


 レイは夢で見たステージの成功について語り続けている。
 夢と言えば、近ごろあの夢も見ていない。
 もちろん、ただ覚えていないという可能性もある。

 また何の前触れもなく、夢のなかにやつが現れるのだろうか。
 とくにまた見たいというわけではない。
 それでも、会ったら文句の一つ二つは言ってやろうとは思っている。

 あんたに言われないでも、自分の出番くらいわかるさ。
 文句を言われる筋合いもない。
 だから黙っててくれないか。
 あたしはもう決めたんだ。

 なにをかって?
 ギターを弾いたり、バンドをやったり、歌って踊ったり、飛行機に乗ったり、まあそういうことをだ。


 あたしは夢のことについて考えるのをやめる。
 会えるかどうかも分からない奴より、これから会いに行く奴の方を考えた方がいいに決まってる。
 それに歌は終わるが、これからのことはしばらく終わりそうにない。

 マツリと組もうという話もあれば、レイと組むという話もある。
 前回みたいに一人でやることだってある。
 もちろん、それ以外の選択肢だって浮かんでくるだろう。
 あたしにはまだわからない。
 できるのは、エミリーじゃないが、その時まで鍛錬を積むのみだ。

 ぽん、という音が鳴る。
 ようやく着陸を知らせるアナウンスが鳴る。
 あたしは肘置きを握りしめる。


「そうだ!」

 唐突にレイが大きな声をあげる。
 乗客の視線が集まる。
 綺麗な顔の乗務員までもが立ち止まって、こちらを見ている。

「何か忘れ物でもしたのか?」

「言い忘れてたことがあったのよ」

 レイの言葉を聞き、事の軽さを悟ったのか乗客の視線が散らばっていく。
 その様子を見て、乗務員も狭い通路をふたたび歩き出す。

 あたしは胸を撫で下ろす。
 レイを連れて飛行機を降りるのに、余計な心配事が増えずに済んだ。


 こんなレイを連れて行って、エミリーはがっかりしないだろうか。
 なにせエミリーはレイのことを聡明だと思っているらしいのだ。
 そのレイは、あたしの目の前まで顔を突き出してきている。
 こんな姿を見れば、エミリーもわかってくれるに違いない。

 しかし、もしかすると、こんなことを言い出す可能性もないこともない。

 なにも分かってないのはジュリアさんの方です。

 その時はその時だ。
 エミリーの感性を身に付けるために、ヤマトナデシコでも目指すことにしよう。


「なんだよ」とあたしは満面の笑みをたたえたレイに訊いてやる。

「おはよう!」

「ああ、おはよう」

おわり

スレタイは >>26 の言うとおりGRAPEVINEの楽曲より
どうもでしたー

七ヶ月間お疲れ様でした

>>307
北上麗花(20) Da
http://i.imgur.com/q7EXOOo.jpg
http://i.imgur.com/OuMjKy9.jpg

おつ

お疲れ様でした
素晴らしいSSをありがとう

このSSまとめへのコメント

1 :  SS好きの774さん   2015年06月09日 (火) 22:44:26   ID: DaVZgWJ5

不思議なSSだった
麗花さんがものすごく麗花さんだった

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