「ねえ、まるで雪みたいだね」と、クリスタは言った。(67)

「ねえ、まるで雪みたいだね」

「え、そう?そうかぁ……?」

「ふーん。まあいいや」
とクリスタはそっけなく言ってから、私より二歩ほど先でくるりと振り向いた。
金色の髪の毛が空を映してきらきらと光り、そしてふたたび謎めいた言葉を口にした。

「ねえ、秒速5センチなんだって」

「ん、何が?」

「なんだと思う?」

「わかんないな」

「すこしは自分で考えてよねユミル」

そんなことを言われても分からないので、私は分からないと素直に言う。

「桜の花びらの落ちるスピードだよ。秒速5センチメートル」



みたいなユミクリがみたい

俺も見たい
だから続きを書いてください
あなたならできる筈

びょうそくごせんちめーとる。不思議な響きだ。私は素直に感心する。
「ふーん。クリスタ、よくそんなこと知ってたな」

ふふ、とクリスタは嬉しそうに笑う。

「もっとあるよ。雨は秒速5メートル。雲は秒速1センチ」

「くも?くもって空の雲か?」

「そう、空の雲」

「雲も落ちてるってのか?浮いてるだけじゃなくてか?」

「雲も落ちてるの。浮いてるんじゃなくて。小さな雨粒の集まりだから。雲はすごく大きくて遠いから浮いてるように見えるだけ。
雲の粒はゆっくり落ちながらだんだん大きくなって、雨や雪になって、地上に降るの」

「……ふうん」
と、私は本当に感心して空を眺め、それからまた桜を眺めた。クリスタのころころした少女らしい声で楽しげそうにそういうことを話されると、
そんなことがまるで何か大切なこの世界の真理のように思える。秒速5センチメートル。

「……ふうん」
と、クリスタが私の言葉をからかうように繰り返し、唐突に駆け出した。

「あ、待てよクリスタ!」
私はあわてて彼女の背を追う。

  ※  ※  ※  


クリスタと出会ってから――訓練兵団に入隊式から解散式までの三年間において、私とクリスタは似たもの同士だったと思う。
入隊式初日、芋女にパンと水を与えている彼女の表情を今でも覚えている。
きっとこいつが噂の少女だと思い、すぐに少女にすがるような親近感を覚えた。だから、最初に話しかけたのは私の方からだった。
そして私たちはすぐに仲良く(始めの頃は一方的に)なった。

私たちは訓練所の宿舎に住んでいて、訓練も共に行い、クリスタのベッドは隣だった。
だから私たちはごく自然にお互いを必要とし、休み時間や訓練後の多くをふたりで過ごした。

そして当然の成り行きとして、同期からはよくからかわれることにもなった。
今振り返れば当時の同期たちの言葉も行動もたわいもないものだったけれど、あの頃はまだ、私はそういう出来事を上手くやり過ごすことができなかったし、一つひとつの出来事にいちいち深く傷ついていた。
そして私とクリスタは、ますますお互いを必要とするようになっていった。

疲れた、基本は秒速5センチメートルの小説をもとにのんびり時間を決めずに書いていこうかと
俺が書いてやる!っていう乗っ取り歓迎

頑張れー!!!
超期待!!

雪山でダズを引きずってる話かと思った

ある時、こんなことがあった。昼休み、トイレに行っていた私が教室に入ると、クリスタが黒板の前にひとりで立ちつくしていた。
黒板には(今思えば実にありふれた嫌がらせとして)相合い傘に私とクリスタの名前が書かれていて、同期たちは遠巻きにひそひそと囁きあい、立ちつくすクリスタを眺めている。
クリスタはその嫌がらせをやめて欲しくて、あるいは落書きを消してしまいたくて黒板の前まで出たのだが、きっと恥ずかしさのあまり途中で動けなくなってしまったのだ。
その姿を見た私はかっとなって、無言で教室に入り黒板消しを掴みがむしゃらに落書きにこすりつけ、自分でもわけの分からないままクリスタの手を引いて教室を走り出た。
背後に同期の沸き立つような嬌声が聞こえたけれど、無視して私たちは走り続けた。自分でも信じられないくらい大胆な行動をしてしまったことと、握ったクリスタの手の柔らかさに目眩がするような高鳴りを覚えながら、私は初めてこの世界は怖くない、と感じていた。
この先の人生でどんなに嫌なことがあろうとも――この先もたくさんあるに決まっている、訓練や仕事、私の秘密や慣れない人々――、クリスタさえいてくれれば私はそれに耐えることができる。
恋愛と呼ぶにはまだ幼すぎる感情だったにせよ、私はその時にははっきりとクリスタが好きだったし、クリスタも同じように思っていることをはっきりと感じていた。
きつくつないだ手から、走る足取りから、私はそれをますます確信することができた。お互いがいれば私たちはこの先、何も怖くはないと、強く思った。

そしてその思いは、クリスタと過ごした三年間、褪せることなくより強固なものとなり続けていった。

レスありがとう、そしてダズ編じゃなくてごめんね
この先どうしよう、巨人中にしとくんだった…

はっきりと惹かれあいながら、ずっと一緒にいたいと願いながら、でもそれが叶わないことだってあるということを、私たちは、

――もしかしたら犠牲の経験を通じることによって――

感じ、恐れていたのかもしれない。
いつか大切な相手と会えなくなってしまった時のために、相手の断片を必死で交換しあっていたのかもしれない。

きったいさん

>>11ありがと



結局、クリスタと私とは別々の兵団に入団することになった。
解散式も近い冬の夜、私はクリスタから呼び出されそれを知らされた。


クリスタから呼び出されて話すことはあまりないことだったし、夜遅い時間(といっても九時頃だったろうか)に呼び出されることはもっと珍しかった。
だから「少し話したいことがあるの」とクリスタから呼び出された時に、すこし嫌な予感がした。

「ユミル、ごめんね」と小さな声でクリスタが言った。それに続く言葉は信じられないような、私が最も聞きたくなかったものだった。

一緒の兵団には行けなくなっちゃったの、とクリスタは言った。レイス家の都合で、監視しやすい憲兵団に配属が決まってしまったのだと。
今にも泣き出しそうな震える声。私にはわけが分からなかった。体がふいに熱くなり、頭の中心がさっと冷たくなる。
クリスタが何を言っているのか、なぜこんなことを私に言わなければならないのか、よく理解できなかった。

秒速5センチメートル好き 新海さんの作品が好き スッゴい期待してる 頑張って!!!

>>14ありがとうございます、自分も好きです。
ただあまり期待のハードル上げないでねww



「え……だって、調査兵団はどうすんだ?志願届けも出したのに」
とやっとのことで私は口に出した。

「内地の憲兵団に手続きするって……ごめんね」

私はその場にうずくまり膝を抱えた。どう答えていいか分からず、それでもとにかく言葉を探した。

「いや……クリスタが謝ることないけど……でも……」

「せめて、できるなら駐屯兵団してほしいって言ったんだけど、上の偉い人が決めた以上無理だって……」

クリスタの押し殺した嗚咽が聞こえ、もう聞いていたくない、と瞬間的に思った。気がついた時には私は強い口調をクリスタに投げつけていた。

「……わかったよ!」
とクリスタの言葉を遮った瞬間、かすかに彼女の息を呑む音が聞こえた。それでも言葉を止めることができなかった。

「もういいよ」と強く言い、「もういい……」ともう一度繰り返した時には、私は涙をこらえるのに必死だった。どうして……どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

十数秒も間が空いて、嗚咽の間に「ごめんね……」という絞り出すようなクリスタの声が聞こえた。
私はうずくまったままクリスタを見ることもその場を離れてしまうこともできなかった。
私の言葉でクリスタが傷ついているのが手に取るように分かる。でも、どうしようもなかった。私はそういう時の気持ちの制御の仕方を学んでいなかった。
クリスタとの気まずい会話を終えた後も、私は膝を抱えてうずくまり続けていた。


それからの数日間を、私はひどく暗い気持ちで過ごした。
私よりもずっと大きな不安を抱えているはずのクリスタに対して、優しい言葉をかけることのできなかった自分がひどく恥ずかしかった。
そういう気持ちを抱えたまま私たちは解散式を迎え、ぎこちない関係のままクリスタと別れた。
解散式の後、クリスタが優しい声で「ユミル、これでさよならだね」と声をかけてくれた時も、私はうつむいたまま何も返すことができなかった。
でも仕方ないじゃないか、と私は思った。今までクリスタの存在だけを頼りに私はやってきたのに。
私は確かにこれから大人になろうとしていたけれど、それはクリスタがいてくれるからこそできるはずのことだったし、私はは今はまだまだ子どもなのだ。
なんだかよく分からない力にこんなふうに何もかも奪われて、平気でいられるはずがないんだと私は思った。
まだクリスタに選択の余地はなかったにしても、私たちはこんなふうに離ればなれになるべきではないのだ。ぜったいに。


  ※  ※  ※


収まりのつかない気持ちを抱えたまま、それでもやがて調査兵団の仕事が始まり、私は慣れない新しい日々に嫌でも向きあわねばならなくなった。
クリスタと入団するはずだった調査兵団にひとりで入団し、すこしずつ同期や新しい仲間と仲良くなっていった。
訓練兵の頃に比べれば忙しい毎日だったが、私にとってはその方が都合が良かった。ひとりで時間を過ごすことは心地よくはなく、それどころかはっきりとした苦痛だった。
だから私はなるべく積極的に長い時間を仲間と過ごし、夜は夕食を終えるとさっさとベッドに入り、朝早く起きて訓練に励んだ。

そしてクリスタもきっと、憲兵団で同じような忙しい日々を送っているはずだった。その生活の中で次第に私のことを忘れていってくれればいいと願った。
私は最後にクリスタに寂しい思いをさせてしまったのだ。そして、私もクリスタのことを忘れていくべきなのだ。私もクリスタも犠牲という経験を通じて、そういうやり方を学んできたはずなのだ。


そして夏の暑さが本格的になる頃、クリスタからの手紙が届いた。

ベッドの上に薄いピンク色の手紙を見つけ、それがクリスタからの手紙だと知った時、嬉しさよりもまず戸惑いを感じたのを覚えている。どうして今になって、と私は思った。
この半年間、必死にクリスタのいない世界に身体を馴染ませてきたのに。手紙なんてもらったら
――クリスタのいない寂しさを、私は思い出してしまう。

そうだった。結局のところ、私はクリスタのことを忘れようとして、かえってクリスタのことばかりを考えていた。
たくさんの仲間ができたけれど、そのたびに私はクリスタがどれほど特別であったかを思い知らされるばかりだった。
私はベッドの上で、クリスタからのその手紙を何度もなんども読み返した。仕事や訓練の合間にひそかに眺めた。
文面をすべて覚えてしまうくらい、繰り返し。


「ユミルさま」――という言葉で、その手紙は始まっていた。懐かしい、端正なクリスタの文字だった。

――――――――――
たいへんご無沙汰しております。お元気ですか?

こちらの夏も暑いけれど、訓練兵時代にくらべればずっと過ごしやすいです。
でも今にして思えば、私は訓練兵時代のあの汗臭くて暑い夏も好きでした。
溶けてしまいそうな熱い立体機動装置も、陽炎の向こうの山々も、たまに食べた頭が痛くなるくらい冷たい氷菓子も
――――――――――

妙に大人びた文章の合間あいまには小さなイラストが描き込まれていて(太陽とか馬とか山とか)、それはそのまま、少女のクリスタが大人になりつつある姿を私に想像させた。
近況を綴っただけの短い手紙だった。体を強くするために仕事の後もひとりで訓練をしていること、思い切って髪を切って耳を出してみたこと。それが意外に落ち着かない気持ちにさせること。
私と会えなくて寂しいというようなことは書かれていなかったし、文面からはあいつが新しい生活に順調に馴染んでいるようにも感じられた。
でも、クリスタは間違いなく私に会いたいと、話したいと、寂しいと思っているのだと、私は感じた。そうでなければ、手紙なんて書くわけがないのだ。
そしてそういう気持ちは私もまったく同じだったのだ。


それ以来、私とクリスタはひと月に一度ほどのペースで手紙をやりとりするようになった。
クリスタと手紙のやりとりをすることで、私は以前よりずっと生きやすくなったように感じた。
たとえば退屈な仕事を、はっきり退屈だと思うことができるようになった。
クリスタと別れてからはただそういうものだと思っていたハードな訓練や理不尽な先輩の振る舞いも、辛いものはやはり辛いのだと認識できるようになった。
そして不思議なことに、そう思えるようになってからの方が耐えることがずっとたやすくなった。
私たちは手紙に日々の不満や愚痴を書くことはなかったけれど、自分のことを分かってくれる誰かがこの世界にひとりだけいるという感覚は、私たちを強くした。


そのようにして調査兵団一年目の夏が過ぎ、秋が過ぎて、冬が来た。
私は一つ歳を重ね、この数ヶ月で背が数センチも伸び、体には筋肉もついた。
自分と世界との距離は、以前に比べてずっと適切になってきているように感じられた。
クリスタも一つ歳を重ねたはずだ。制服を着た同期の女の姿を見ながら、クリスタの外見はどのように変わったのだろうかと、私は時々想像した。
ある時のクリスタからの手紙には、訓練兵の頃のようにまた私と一緒に桜を見たいと書いてあった。
憲兵団本部の近くに、とても大きな樹があるのだと。
――――――――――
春にはそこでもたぶん、花びらが秒速5センチメートルで地上に降っています
――――――――――
と。

うおぉぉぉ!!
ここういうの好きだ!

切なく、ほろ苦い、こういうss大好きだ。
美しい文章にするのは言葉選びに苦心するよね。頑張ってください。期待。

>>22>>23ありがとうございます
極力変にならないよう頑張ります。


私の次の壁外調査が決まったのは、年も明けた寒い日のことだった。

調査の時期は冬も終わり春も近づきそうな頃で、場所はウォールマリア南、それもウォールローゼから離れた山奥になるということだった。
馬車で巨人に遭遇しなくても2,3日はかかる距離だ。それはもう、この世の果てというのと変わらないと私は思った。
でも私はその時点でそのような仕事に慣れていたから、戸惑いはそれほどでもなかった。問題はクリスタとの距離だ。
訓練兵を卒業してから私たちは会っていなかったけれど、考えてみればそれほど遠くに離れてしまっていたわけではなかったのだ。
クリスタの住むシーナの街とローゼの私の住む地区は、馬車で5,6時間程度の距離のはずだった。考えてみれば、私たちは休日に会うことだってできたのだ。
でも私が次の壁外調査に行ってしまえば今度こそ、クリスタと会える可能性はなくなるだろう。


だから私はクリスタへの手紙で、壁外調査の前に一度会いたいと書いた。場所と時間の候補を挙げておいた。クリスタからの返事はすぐに届いた。
お互いに仕事があったし、私には壁外調査の準備もあったから、お互いの都合がつくのは壁外調査の一週間ほど前の夜となった。
馬車を予約し、私たちは夜11時に憲兵団本部近くの街入口で待ち合わせることに決めた。
その時間ならならば私が勤務後すぐに出発すれば間に合うし、2時間ほどクリスタと話した後に、馬車で私の所属する調査兵団支部まで帰ってくることができる。
とにかく朝の訓練時までに帰ることができるなら、上司へのいいわけもなんとでもなる。
いくつかの森や町を抜けていく必要があり、夜道を駆け抜けるためそれなりの料金ではあった。
それは当時の私にとっては小さくはない出費だったけれど、クリスタと会うこと以上に欲しいものは、私にはなかった。


約束の日まではまだ2週間あったから、私は時間をかけてクリスタに渡すための長い手紙を書いた。それは私が生まれて初めて書いた、たぶん、ラブレターだった。
自分がこれからやりたいこと、好きな本や音楽のこと、そして、クリスタが自分にとってどれほど大切な存在であるかを
――それはまだ稚拙で幼い感情表現であったかもしれないが――
なるべく正直に書き綴った。具体的な内容は今ではよく覚えていないけれど、便箋に8枚ほども書いたと思う。その頃の私には、クリスタに伝えたいこと、知って欲しいことが本当にたくさんあったのだ。
この手紙をクリスタが読んでくれさえすれば、私は壁外調査での日々にも上手く耐え生き残ることができるだろうと思った。
それはクリスタに知っておいて欲しい、当時の私の断片だった。

もう切ない

>>28原作思い出して飛び込まないようお願いします


クリスタへのその手紙を書いている数日の間に、何度かクリスタの夢を見た。

夢の中で、私は小さくて俊敏な鳥だった。夜の街中をくぐり抜け、鋭く羽ばたいて壁の上空へ駆け上がる。
訓練所を走る何百倍ものスピードと、世界でひとりだけの大切な人の元へ向かっているという高揚に、鳥である小さな体に溢れるくらいのぞくぞくとする快感が走る。
みるみるうちに地上は遠く離れ、密集する街の灯りは強い夜風にまるで星のように瞬く。
やがて私の体は雲を抜け、月光に照らされたいちめんの雲海にでる。透き通った青い月光が雲の峰々を鈍く光らせ、まるで違う世界のようだと思う。
どこまでも望む世界に行ける力を得た喜びに、羽毛に覆われた身体が強く震える。
あっという間に目的地が近づき、私は意気揚々と急降下し、眼下に広がるあいつの住む土地を眺める。
遥かまで広がる農園、人間たちの住むまばらな屋根、所々に茂る林を縫って、一筋の光が動いているのが見える。馬車だ。あれにもきっと私自身が乗っているのだ。そして私の目は、街の入口でひとり馬車を待っているあいつの姿を捉える。
髪を切って耳を出した少女が入口横の椅子にひとりだけで座っていて、彼女の近くには大きな桜の樹が一本立っている。
まだ桜は咲いていないけれど、その硬い樹皮の中で息づく艶めかしい情動を私は感じる。やがて少女は私の姿に気づき、空を見上げる。
もうすぐ会える。もうすぐ――。

明日は早いのですみませんがキリのいいここまでで

おつおつ

>>32レスありがとう
お腹の調子悪くて目が覚めてしまった


クリスタとの約束の当日は、朝から雨だった。空はまるでぴったりと蓋がかぶされたように灰色一色に覆われていて、そこから細く冷たい雨の粒がまっすぐに地上に降り注いでいた。
近づきつつある春がまるで心変わりをして引き返してしまったような、真冬の匂いのする日だった。
私は制服の上に濃い緑色のマントをはおり、クリスタへの手紙を鞄の奥にしまってから訓練所に向かった。


その日一日の訓練を、私は窓の外を眺めながら落ち着かない気持ちで過ごした。訓練の内容はまるで頭に入ってこなかった。
たぶん制服を着ているはずのクリスタの姿を想像し、交わされるだろう会話を想像し、心地よいクリスタの声を思い浮かべた。
そうだ、あの頃はきちんと意識はしていなかったけれど、私はクリスタの声が大好きだったんだとあらためて思った。クリスタの声の空気の震わせかたが、私は好きだった。
それは私の耳をいつでも優しく柔らかく刺激した。もうすぐその声が聞けるのだ。
そんなことを考えていると体中が熱く火照り、私はそのたびに気持ちを落ち着けるために窓の外の雨を眺めた。

雨。

秒速5メートルだ。訓練所から眺める外の景色は日中なのに薄暗く、私が眺めている間にも雨粒は次第に大きさを増し、やがて一日の訓練が終わる頃には、雨は雪になった。


訓練後、周囲に同期がいなくなったのを確認し、私は鞄から手紙と地図を取り出した。手紙はすこし迷って制服のポケットに入れた。
それはどうしてもクリスタに渡しておきたい手紙だったから、いつでも指先に触れていた方が安心するような気がしたのだ。
地図の方は馬車のルートを確認するためのもので、私はもう何十回目かになる確認をもう一度行った。

まず、a区を午後5時25分発の川沿いでb区まで行き、平原を越えc区、そして森を抜け、目的の街には10時50分頃だ。
クリスタとは夜11時に街の入口付近にあるという喫茶店で待ち合わせているので、これでちょうど良い時間に到着できるはずだった。
ひとりでこれだけ長い馬車での移動をするのは初めての経験だった。

薄暗い訓練所の階段を駆け降り、玄関をでて空を見上げる。
朝は雨の匂いだった空気がきちんと雪の匂いに変わっている。雨のそれよりももっと透明で鋭くて、心がすこしざわめく匂いだ。
灰色の空から無数の白い欠片が舞い降りていて、じっと見ていると空に吸い込まれそうになる。
私は慌ててフードをかぶり、a区の予約している店に走った。


  ※  ※  ※  


a区にひとりで来たのは馬車の予約に来た時を除けば初めてだった。私の生活圏からほとんど馴染みのない地区だったが、そういえば何ヶ月か前に同期の芋女と飯を食いに来たことがあった。
その時は芋女と二人でa区まで来て街の入口から店まで行くのにさんざん迷ってしまったのだ。飯の内容よりもずっと強く印象に残っていた。


入口を抜け、迷わないように立ち止まり慎重に案内図を眺め、「馬車 乗り場」と書かれている方向に向かって早足で歩いた。
同じような外観の家や店が並ぶ巨大な空間の向こうに馬車が何台か並んだ建物があり、予約の旨を伝える。

受付でトイレを見つけ、念のため入った。次の街まで馬車には1時間以上乗ることになるから、用を足しておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。
手を洗うときに鏡に映った自分を見た。汚れた鏡面の向こうに、ランプの明かりに照らされた自分の姿が映っている。
この半年で背も伸びたし、私はすこしは大人っぽくなったはずだ。寒さからか、高揚からか、頬がすこし赤くなっていることを恥ずかしく思う。
私は、これから、クリスタに会うんだ。


馬車の中は快適ではあった。窓の外を眺め、時折通りすぎる人たちを見た。
手を繋ぎ楽しそうにしているカップル。多分今日あった事やこれからどうするかなどの話しをしているのだろう。自分には関係ないはずなのに私はなぜかすこし恥ずかしくなる。
制服のポケットの中で指先に触れている手紙の感触を確かめながら、反対側の窓の外に目を向ける。馬車は街を抜け、農道を走り出した。
初めて乗る箱型の馬車だった。普段乗る馬車とは揺れ方や走る音が微妙に違って、それが知らない場所に向かっているという不安な気持ちを強くさせる。
冬の弱い夕日が地平線の空を薄いオレンジに色づけていて、地上は視界のずっと彼方まで道が続いている。
雪に濡れた靴先が少し冷たいと思った。


窓から見える風景を眺めながら、私はずっと昔にこの風景を見たことがある、とふいに思い出した。

そうだ、これは初めて通る道ではなかった。

訓練兵団に入隊する前、志願するためb区に向かったのだ。記憶に残る故郷とはまるで異なるこの風景を、私は馬車に乗り激しい不安を抱きながら眺めていた。
私と同じような境遇であろう少女に会えるだろうかと思うと、不安で涙が出そうになった。
それでもあれから4年の月日が経ち、私はひとまずここまでは生き抜いてこれたのだと思った。
クリスタが私を助けてくれたのだ。そしてクリスタにとっても同じであって欲しいと、私は祈った。


b区の街もまた、a区の街ほどでないにせよ大きな街だった。
街中は雪の匂いが濃く強くなっていて、行き交う人々の靴は雪の水を吸ってぐっしょりと濡れていた。
――そこで初めて、私は嫌な予感がした。御者のせいだと気づくまで一瞬の間があいた。

「お客さん、この天気だと目的地に時間通り着くのは難しいかもしれないよ」

その瞬間まで、私はなぜか馬車が遅れるなんていう可能性を考えもしなかったのだ。地図と懐中時計を見比べてみる。
予定ではこの街には7時前には着いているはずが、もう7時32分だった。
急に寒さが増したような気がして、身震いがした。街中を抜けた時も寒気は治まらなかった。


  ※  ※  ※

馬車の速度が今までよりも少し遅くなっているような気がした。
馬車内は熱を逃がしにくくなっており、窓は曇り四隅にはびっしりと水滴が張り付いていた。

窓から見えるどこまでも広がる田園は完全に雪に染まっていた。ずっと遠くの闇の中に人家の灯りが瞬いているのが見えた。
ここはもう完全に、私の世界なのだ。風景を眺めながら、考えるのはクリスタとの待ち合わせ時間のことだった。
もし約束の時間に私が遅れてしまったとしたら、私にはそれをクリスタに知らせる手段がなかった。
窓の外の雪はますます勢いを増していった。

>>42
×私の世界
○私の知らない世界


次の街となるc区に着くまでの間、本来なら3時間強のところを馬車はじりじりと遅れながら走った。
信じられないくらい平原が続いて、馬車は信じられないくらいペースが落ちた。

私は何度もなんども繰り返し懐中時計を見て、まだ11時にならないようにと強く祈り、それでもあまり距離が縮まらないままに時間が確実に経っていき、そのたびに何か見えない力で締め付けられるように全身がどくどくと鈍く痛んだ。
まるで私の周囲に見えない空気の檻があり、それがだんだん狭まってくるような気分だった。

待ち合わせに間に合わないのは、もう確実だった。


とうとう約束の11時になった時、馬車はまだ街にさえ着くことができずにいた。クリスタの待つ街は、次の街からさらに馬車で20分かかる距離なのだ。
b区の街を出てから馬車内でのこの3時間半、どうにもならない焦りと絶望で、私の気持ちはびりびりと張り詰め続けていた。
これほど長く辛い時間を、今までの人生で経験したことがなかった。今の馬車内が寒いのか暑いのか、もうよく分からなかった。
感じるのは深い夜の匂いと、昼食以降何も食べていないことによる空腹だった。
私は制服のポケットからクリスタへの手紙を取り出して、じっと眺めた。約束の時間を過ぎて、きっとクリスタは今頃不安になり始めている。
クリスタとの最後の会話を思い出す。どうしていつもこんなことになっちゃうんだ。

それから15分ほどして、馬車のスピードがほんの少し速くなったような気がした。


  ※  ※  ※

馬車がようやくc区の街に着いたのは、11時40分を過ぎた頃だった。

街の建物は大きなものばかりだったが、遅い時間ということもあり灯りはまばらだった。全体としては冷えびえとした街だった。

私はすこしでも寒さを防ぐためにマントを頭からかぶり、体を丸めた。
クリスタを待たせている焦りと体温を奪い出した寒さと刺すような空腹とで、私の身体は硬くこわばっていく。
街の出口横にまだ開いている店を見つけた。食事を取ろうかと思い、でもクリスタも空腹を抱えて私を待っているかもしれないと考え、私だけが食事を摂るわけにはいかないと思い直した。
せめて温かい飲み物を飲む事にして店の前で一度降ろして貰った。
制服のポケットから財布を取り出そうとした時に、クリスタに渡すための手紙がこぼれ落ちた。



今にして思えば、あの出来事がなかったとしても、それでも手紙をクリスタに渡すことにしていたかどうかは分からない。どちらにしてもいろいろな結果は変わらなかったんじゃないかとも思う。
私たちの人生は嫌になるくらい膨大な出来事の集積であり、あの手紙はその中でのたった一つの要素にすぎないからだ。
結局のところ、どのような強い想いも長い時間軸の中でゆっくりと変わっていくのだ。手紙を渡せたにせよ、渡せなかったにせよ。


財布を取り出す時にポケットからこぼれ出た手紙は、その瞬間の強風に吹き飛ばされ、あっという間に街の出口を抜けて夜の闇に消えた。
そのとたん、私はほとんど泣き出しそうになってしまった。反射的にその場でうつむいて歯を食いしばり、とにかく涙をこらえた。
飲み物は買わなかった。


  ※  ※  ※  

結局、私の乗った馬車は、目的地への中間あたりで完全に停車してしまった。
「吹雪が酷いから一度停車させてくれ」と御者が告げていた。「急いでるところ悪いが吹雪が少しおさまるまで待ってくれ」と。
窓の外はどこまでも広がる暗い雪の広野だった。吹き付ける吹雪の音が窓枠をかたかたと揺らし続けていた。
なぜこのような何もない場所で停車しなければならないのか、私にはわけが分からなかった。
懐中時計を見ると、待ち合わせの時間からはすでにたっぷり2時間が過ぎていた。今日一日で、私は何百回この時計を見ただろう。
刻み続ける時間をこれ以上見るのが嫌で、私は時計を鞄の中に入れた。私にはもうどうしようもなかった。
とにかく馬車が早く動き始めてくれることを祈るしかなかった。


――ユミルさまお元気ですか、と、クリスタは手紙に書いていた。「仕事で朝が早いので、この手紙は職場で書いてます」と。

手紙から想像するクリスタは、なぜかいつもひとりだった。そして結局は私も同じようにひとりだったのだ。
と私は思う。調査兵団には何人もの友人はいたけれど、今このように、マントで顔を隠し誰もいない車内の座席にひとりで座り込んでいる私が、本当の姿だったのだ。
馬車のなかは、とてつもなく寒々しい空間だった。どう表現すればいいのか――、こんなにも酷い時間を、私はそれまで経験したことがなかった。
私は座ったまま体をきつく丸めて歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように、悪意の固まりのような時間に必死に耐えているしかなかった。
クリスタがひとりだけで寒い街の入口で私を待ち続けていると思うと、あいつの心細さを想像すると、私は気が狂いそうだった。
クリスタがもう待っていなければいいのに、寮に帰っていてくれればいいのにと、私は強くつよく願った。

でもクリスタはきっと待っているだろう。

私にはそれが分かったし、その確信が私をどうしようもなく悲しく、苦しくさせた。
窓の外は、いつまでもいつまでも雪が降り続けていた。

うわぁぁぁぁぁぁ(´;ω;`)

>>50再開するから泣かないで


馬車がふたたび動き始めたのは2時間以上が経過した頃で、私が待ち合わせの街に着いたのは約束よりも4時間以上経った深夜3時過ぎだった。
馬車のドアから降りた時に靴が新雪に深く埋まり、ぎゅっという柔らかな雪の音がした。
もうすっかり風は止んでいて、空からは無数の雪の粒がゆっくりと、垂直に音もなく落ち続けていた。
降車した街の前には何もなく、見渡すかぎりの雪原が広がっている。あたりはしんといていて、停車した馬車馬の鳴き声しか聞こえなかった。

街の入口までゆっくりと歩いた。入口の小さな門からは少しだけ街の様子が見えた。
家の灯りは片手で数えられるくらいしか灯っておらず、街はただ黙々と雪に降りこめられつつあった。
入口で駐屯兵に会釈をし、木造の門をくぐり街に入った。
その場で辺りを見渡すが人の気配はなかった。――だよな。
とりあえず目の前にある、まだ灯りのついた店に入ることにした。


店に足を踏み入れたとたんに暖かな空気が身体を包んだ。目の前の光景に胸の奥から熱い固まりが込みあげてきて、なんとかそれをやり過ごすためにきつく目をつむった。
――ふたたびゆっくりと目を開く。ひとりの少女がカウンター席の椅子にうつむいたまま座っていた。

白いコートに包まれたほっそりとしたその少女は、はじめ知らない人のようにみえた。ゆっくりと近づき、くりすた、と声をかけた。
私の声は知らない誰かのもののようにかすれていた。彼女は少し驚いたようにゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。クリスタだった。
大きな両目には涙がたまり、目尻は赤くなっている。一年前よりも大人っぽくなったクリスタの顔は、暖炉の柔らかな光を滑らかに映し、私が今まで見たどんな女の子よりも美しく見えた。
心臓を指で直接そっと触れられたような、言葉にできない疼きが走った。それは私が初めて知る感覚だった。目をそらせなかった。
クリスタの目にたまった涙の粒がみるみる大きくなっていくのを、私は何かとても貴い現象を見るように眺めていた。
クリスタの手が私のマントをぎゅっとつかみ、私はクリスタの方に一歩ぶん引き寄せられた。
私のマントをにぎりしめたクリスタの白い手に涙の粒が落ちるのを見た瞬間、こらえられない感情の固まりがふたたび沸きあがってきて、気づいたら泣いていた。
パチパチと暖炉で燃える薪の優しげな音が、店に小さく響いていた。


  ※  ※  ※  

クリスタは水筒に入った紅茶と手作りの弁当を持ってきてくれていた。私たちはカウンター席の椅子に並んで座り、カウンターに弁当の包みを置いた。
私はクリスタからもらった紅茶を飲んだ。紅茶は少しぬるく、柑橘系の味がした。

「うまい」と、私は心の底から言った。

「そう?普通のレモンティーだよ」

「レモンティー?初めて飲んだ」

「うそ!ぜったい飲んだことあるよ!」とクリスタに言われたけれど、私はこんなにおいしい紅茶は本当に初めてだと思ったのだ。「そうかぁ……」と答えると、

「そうだよ」とおかしそうにクリスタが言う。

クリスタの声は彼女の体と同じように、私が覚えていたよりも大人っぽくなっているように思えた。
口調には優しくからかうような響きとすこし照れたような響きが混じっていて、クリスタの声を聞いているうちに私の体温は次第にぽかぽかとぬくもりを取り戻していった。


「それから、これ」と言って、クリスタは弁当の包みを開いて二つの箱をの蓋を開けた。一つにはパンが4つ入っていて、もう一つには色とりどりのおかずが入っていた。
小さなハンバーグ、ウィンナー、卵焼き、プチトマト、ブロッコリー。それらが全部2つずつ、綺麗に並べられている。

「私が作ったから味の保証はないんだけど……」といいながらごそごそと弁当の包みを畳んで脇に置き、「……良かったら、食べて」と、照れたようにクリスタが言う。

「……ありがとう」と私はやっとのことで声に出した。胸にふたたび熱いものが込みあげてきて、すぐに泣きそうになってしまう自分が恥ずかしくて、必死にこらえた。
空腹だったことを思い出して、慌てて「腹すいてたんだ、すごくな!」と言った。クリスタは嬉しそうに笑ってくれた。


パンは思ったよりも重く、私は大きな口を開けてひとくち頬張った。噛みしめているうちにも涙が溢れそうで、それがクリスタにばれないようにうつむきながら飲み込んだ。
今まで食べたどんな食べ物よりもおいしかった。

「今まで食べた中でいちばんだな」と私は正直に言った。

「おおげだなー」

「ホントさ!」

「きっとお腹がすいてたからよ」

「そうか……」

「そうよ。私も食べよっと」と嬉しそうにクリスタは言って、パンを手に取った。

それからしばらく、私たちは弁当を食べ続けた。ハンバーグも卵焼きも、驚くくらいおいしかった。
そう伝えるとクリスタは恥ずかしそうに笑い、それでもどこか誇らしげに、「仕事お昼から早退して寮に戻って作ったんだよ、パンは時間かかるしね」と言った。「寮母さんにちょっと教えてもらっちゃったんだけどね」

「寮母さんになんて言って出てきたんだ?」

「何時になっても絶対に帰るから、どうか心配しないでって手紙置いてきたの」

「私も似たようなもんだ。でもクリスタん所の寮母さん、心配してんじゃないか」

「うーん……でもきっと大丈夫よ。お弁当作ってる時『誰にあげるんだい?』なんてきかれて私笑ってたんだけど、寮母さんちょっと嬉しそうだったもん。きっと分かってるんじゃないかな」

何を分かっているのかが気になったけど、なんとなくきけずに私はパンを嚼った。
たっぷりと量のあるパンはそれぞれが2つずつ食べると十分にお腹がいっぱいになり、私はとても満ち足りた気持ちになっていた。


私たちはもう時間をきにすることなく、レモンティーを飲みながらゆっくりと好きなだけ話をした。ふたりとも帰ることは考えていなかった。
口に出して確かめ合ったわけではないけれど、お互いがそう考えていることがちゃんと分かった。
話したいことはお互いに尽きぬほどあったのだ。この一年の間に感じていた孤独を、私たちは訴えあった。
直接的な言葉は使わなかったけれど、お互いの不在がどれほど寂しかったか、今までどれほど会いたかったかを、私たちは言外に相手に伝える続けた。


コンコンと、店員が控えめな音でカウンターを叩いた時は、もう4時を回っていた。

「悪いがそろそろ閉めますよ。店長にばれると大変だし」

文句の一つでも言われるのかと思ったが、彼は微笑していた。「なんだか楽しそうだから邪魔したくはなかったんだけど」と、その店員はすこし訛りのある発音で優しく言った。

「決まりだからここは閉めなくちゃならいんだ。こんな雪だし、気をつけて帰ってください」

私たちは店員にお礼を言って、店を出た。


街はすっぽりと雪に埋まっていた。雪は変わらずに降り続けていたが、空も地上も雪に挟まれた深夜の世界は、不思議にもう寒くはなかった。
私たちはどこかうきうきした気持ちで新雪の上を並んで歩いた。オレンジ色のランプの光がスポットライトのように行く手の雪を丸く照らしていた。
クリスタは嬉しそうににそこに向かって走り、私は記憶よりもすっかり大人びたクリスタの背に見とれた。

クリスタの案内で、以前手紙に書いていた桜の樹を見に行くことにした。店から10分ほど歩いただけなのに、民家のない広々とした畑地に出た。
人工の光はもうどこにもなかったけれど、あたりは雪明かりでぼんやりと明るかった。風景全体が薄く微かに光っていた。
まるで誰かの精巧で大切なつくりもののような、美しい風景だった。

その桜の樹はあぜ道の脇に一本だけぽつんと立っていた。太く高く、立派な樹だった。
ふたりで桜の樹の下に立ち、空を見上げた。真っ暗な空から、折り重なった枝越しに雪が音もなく舞っていた。


「ねえ、まるで雪みたいだね」とクリスタが言った。

「そうだな」と、私は答えた。満開の桜の舞う樹の下で、私を見て微笑んでいるクリスタが見えたような気がした。


その夜、桜の樹の下で、私はクリスタと初めてのキスをした。とても自然にそうなった。

唇と唇が触れたその瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした。これまで生きてきたことのすべてを分かちあえたように私は思い、それから、次の瞬間、たまらなく悲しくなった。

クリスタのそのぬくもりを、その魂を、どこに持っていけばいいのか、どのように扱えばいいのか、それが私には分からなかったからだ。
大切なクリスタのすべてがここにあるのに。それなのに、私はそれをどうすれば良いのかが分からないのだ。
私たちはこの先もずっと一緒にいることはできないのだと、はっきりと分かった。私たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、横たわっていた。

――でも、私を瞬間捉えたその不安はやがて緩やかに溶けていき、私の身体にはクリスタの唇の感触だけが残っていた。
クリスタの唇の柔らかさと温かさは、私が知っているこの世の何にも似ていなかった。それは本当に特別なキスだった。
今振り返ってみても、私の人生には後にも先にも、あれほどまでに喜びと純粋さと切実さに満ちたキスはなかった。


  ※  ※  ※  

私たちはその夜、畑の脇にあった小さな納屋で過ごした。その木造の小屋の中には様々な農具がしまい込まれていて、私とクリスタは棚にあった古い毛布を引っぱり出し、濡れたマントとコート、靴を脱いで同じ毛布にくるまり、小さな声で長い時間話をした。
コートの下のクリスタは憲兵団の制服を着ていて、私は調査兵団の制服姿だった。制服を着ているのに私たちは今ここで孤独ではない、それがむしょうに嬉しかった。

毛布の中で話ながら時折私たちの肩は触れあい、クリスタの柔らかな髪は私の頬や首筋を時々そっと撫でた。その感触と甘い匂いはそのたびに私を昂ぶらせたけれど、私にはクリスタの体温を感じているだけでもう精一杯だった。
クリスタのしゃべる声が私の前髪を優しく揺らし、私の息もクリスタの髪をそっと揺らせた。
窓の外では次第に雲が薄くなり、時折薄い硝子窓から月明かりが差し込んで小屋の中を幻想的な光に満たした。


外が明るくなりだしたのに気づいたのは朝の6時頃で、雪はいつのまにか止んでいた。私たちは冷たくなったレモンティーを飲み、マントとコートを着て待たせているはずの馬車のもとまで歩いた。
空はすっかり晴れわたり、昇ったばかりの朝日が雪景色の田園をきらきらと輝かせている。眩しい光に溢れた世界だった。

早朝の街の入口には馬車以外には私たちしかいなかった。ドアを開き、私は馬車に乗り込んで振り向き、目の前に立っているクリスタを見た。
白いコートの前ボタンをはずし、間から憲兵団の制服を覗かせている、クリスタ。

――そうだ、と私は気づく。私たちはこれからひとりきりで、それぞれの場所に帰らなければならないのだ。

さっきまでたくさんの話をして、あれほどお互いを近くに感じていたのに、それは唐突な別れだった。
こんな瞬間に何を言ったらよいのか分からずに私は黙ったままで、先に言葉を発してくれたのはクリスタだった。


「あの、ユミル」

私は「え」、という返事とも息ともつかない声を出すことしかできない。

「ユミルは……」とクリスタはもう一度言って、少しの間うつむいた。
クリスタの後ろの雪原が朝日を浴びてまるで湖面のようにきらめいていて、そんな風景を背負ったクリスタはなんて美しいのだろうと、私はふと思う。
クリスタは思い切ったように顔を上げ、まっすぐに私を見て言葉を続けた。

「ユミルは、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!」

「ありがとう……」と私がやっとの思いで返事をした直後、馬車のドアが閉まった。
――このままじゃだめだ。私はもっとちゃんと、クリスタに言葉を伝えなければならない。閉じて閉まったドア越しにも聞こえるように、私は思い切り叫んだ。

「クリスタも元気で!手紙書くから!」

その瞬間、遠くで鋭く鳴く鳥の声が聞こえたような気がした。私たちはお互いの右手をドアのガラス越しに重ねた。それは長い時間ではなかったけれど、確かに一度だけ重なった。
そして馬車が走り始めた。


帰りの馬車の中で、私はいつまでもドアにもたれ掛かっていた。

クリスタに長い手紙を書いていたこと、それをなくしてしまったことを、私はクリスタに言わなかった。
あのキスの前と後とでは、世界の何もかもが変わってしまったような気がしたからである。

私はドアにもたれ掛かったまま、クリスタが触れたガラスにそっと右手をあてた。

「ユミルはこの先も大丈夫だと思う」と、クリスタは言った。

何かを言いあてられたような――それが何かは自分でも分からないけれども――不思議な気持ちだった。
同時に、いつかずっとずっと未来に、クリスタのこの言葉が自分にとってとても大切な力になるような予感がした。

でもとにかく今は――と私は思う。私は彼女を守れるだけの力が欲しい。

それだけを思いながら私はいつまでも、窓の外の景色を見続けていた。



――完――

おわったー疲れたー

アニメ派だから区の名前全然わからなくてa区とかにして後で後悔した
文字抜けとか多々ありますがすみません

自分携帯なので★完結作をまとめるスレ★にどなたか貼って頂けると助かります

レスくれた方ありがとうございました

おっつおっつ!!
きゅんきゅん切ないけどとてもよかった!
二人なら秒速本編の展開にはならないであろうきっと

切ないけどとってもよかった!!!

乙乙!!!!

このSSまとめへのコメント

このSSまとめにはまだコメントがありません

名前:
コメント:


未完結のSSにコメントをする時は、まだSSの更新がある可能性を考慮してコメントしてください

ScrollBottom