雪歩「伊良部総合病院の神経科?」 (114)

小さな会場 //



結論から言うと、見誤った。



雪歩「……きゅう」バタッ

P 「ゆ、雪歩!?」

最近だいぶマシになってきたと思い志願したファンとの握手会。
だがやはり永らく染みついた性質は抜けないようだった。

最初の方はまだ何とかなったが、時間が経つにつれ積み重なっていった恐怖、
そしてそれを押さえつけたストレスによって、徐々に体が言うことを
きかなくなってしまい、今、こうして倒れてしまったのである。


雪歩「や、やっぱりむり~……」


この身体に染みついた恐怖症。異性との接触や交流などによって発症し、
怖くてどうしようもなくなってしまう症状、即ち――




雪歩「お、男のひとぉ……」ガク






そう、「男性恐怖症」である。






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*注意書き



奥田英朗の小説「伊良部一郎シリーズ」(インザプール、空中ブランコ、町長選挙)
とアイマスのクロス。



アイマスだけ知ってる人は、なんか変わった医者が雪歩を診察する話とでも思ってくれれば。
伊良部だけ知ってる人は気弱なアイドルが患者の話、という具合です。

雰囲気とか進行は原作の伊良部一郎シリーズ遵守で。


では、前置きは以上。よろしくお願いしまーす。


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765プロ事務所 //

翌日、、、


P 「すまない雪歩。俺がちゃんと見極めてれば」


申し訳なさそうに頭を下げるプロデューサー。心が痛くなる。明らかに悪いのは自分だ。
自分が自分を見誤ったから、いや、そもそもこんな性格だから……。


雪歩「やっぱり私はダメダメです……」


同じ事務所の仲間たちは、とても凄くて、とても自身に満ちている。なのに自分はいつも
おいて行かれている気がして。雪歩は、ダメダメな自分を悔いる。

せめて、優しくしてくれるプロデューサーの負担にだけはならないようにと頑張っては
みたものの、結果はこのざまであった。



P 「そんなことはないよ。雪歩は雪歩らしくでいいんだ、な?」


それでもまだ優しいプロデューサー。言っていることはよくわかる。だけど、だけど……。
もし変われるものならば、変わってみたい。こんな風に自分が嫌いなまま生きていきのは嫌だ。

最近少し、人生が辛い。


雪歩「…………」


P 「うーん、どうしたものだろう……」


ガチャ



社長「やぁ諸君おはよう。……おや? 暗い顔をしてどうしたんだね?」


P 「……あの、実は」


かくかくしかじか。昨日のことを伝えると、社長は「ふむ」と考え込む。



社長「いや、本当に直したいならば、心当たりがないわけでもない」


雪歩「ほ、本当ですか!?」


社長「あぁ、この間お偉いさんの集まりがあってね。そこで聞いて名刺をもらったのだが……、
   えぇと、……あぁあった。これだよ」


社長がケースから名刺を取り出す。そこに書かれていたのは、


雪歩「伊良部総合病院……、の神経科?」


P 「伊良部総合病院っていったら、あの?」


そう、伊良部総合病院と言えば知らぬ者のいない大病院ある。何のどういう集まりで
名刺をもらったのかは知らないが、つくづくこの社長の交友関係は不明だ。


社長「いやね、そこの伊良部会長さんの息子さんが神経科医をしているらしくてね?
   ちょっと変わり者らしいが、腕は確かなようだ、と聞いている」

P 「あぁ、直接はしらないんですか」

社長「まぁ私も又聞きだからねぇ」


雪歩「……」


神経科。つまりは精神病などを扱う科の事だ。精神病、か。とても深刻なものに聞こえてしまい、
さすがに少し落ち込んでしまう雪歩であった。だが、もし、これで直せるのなら万々歳だ。

それに専門の医者に診てもらうことで、今まで思いつかなかった解決策が見えたりもするかもしれない。
雪歩は手をグッと握る。


P 「どうする、雪歩?」


雪歩「私! 行ってみます!」





これがすべての始まり。








     伊良部一郎シリ-ズ × アイドルマスター











          『 マンジュウ怖い 』







地下//



日本に名だたる伊良部総合病院。その瀟洒な建物の地下に、目当ての一室はあった。
地上の方とはうって変わって、人っ子一人いない閑散とした地下フロアの先に、
蛍光灯に青白く照らされた「神経科」の文字がそっけなく浮かび上がる。


雪歩「……ここ、だよね?」


日も差さず、ひんやりとしたこの階は、どうみても病院経営者の息子が診察する
場所には見えない。案内板を見間違えたのか? いや、でも確かに「神経科」と
書いてある。間違いない。だがそのせいで余計に不安が煽られる。

ヤブじゃないだろうな、と。




とはいえ社長がすすめてくれたのだ。大体こういうときの社長の目に狂いはない、はず。
……ええい、行かなくちゃ始まらない。内心の懐疑を抑えつつ、雪歩は戸の前に立つ。


雪歩「……」ゴクリ


唾をのみ、……コンコン、恐る恐る叩く。すると――







??「いらっしゃーい!」



甲高い声が、どこかの落語家のように迎えてくれた。


伊良部総合病院・神経科 //


声の主は太った白衣の男だった。年は四十代か三十代後半か。
ずんぐりとした脂ぎった体で、いうなれば不養生をした医者といえようか。


一人掛けのソファにどっかりと腰をおろし、ニヤニヤと薄気味悪く手招きをしていた。

白衣なのだから医者なのだろう。だが念のため雪歩はもう一度扉のプレートの文字を確認し、
やはりここが目的の場所だったということを再認する。いっそ嘘だと言ってほしかった。


??「なぁに? どしたのー? ほらほら、早くしてよー」

雪歩「は、はい」


だが男の胸にある名札に書かれた「医学博士・伊良部一郎」という文字を見るに、
やはりこの場所で、しかもこの男こそが社長が奨めてくれた医者その人であったのだと知る。

本当に大丈夫なのだろうか……?


伊良部「僕は伊良部一郎ね。ここのお医者さん」

雪歩 「は、萩原雪歩です。そ、その……」

伊良部「あ、その前にコーヒー飲む? マユミちゃーん!」


返事もしていないのに勝手に注文する伊良部。彼の視線の先に目を向けると、部屋の隅で
茶髪の若い看護婦が不機嫌そうに雑誌を読んでいた。

伊良部「マユミちゃんてばー!」

マユミ「……、チッ」

マユミちゃんという看護師は無愛想に立ち上がる。……最初は気づかなかったが、この
看護婦の装いもまた異様だ。世間一般の人が思い浮かべる清純なナースの見た目ではなく、
豊満な胸や脚をこれでもかとさらけ出した、露出狂もかくやというセクシーナース服。
やはりここは尋常の病院ではないようだ。

マユミは伊良部の注文に対し返事はせず、だらしなくサンダルをペタペタ鳴らしながら
不機嫌そうに部屋を出て行った。


伊良部「……で、診察だね診察。カルテみたよー。男性恐怖症だって?」

雪歩 「……はい」

やっと病院らしくなる。伊良部はちらりとだけカルテを見ると、机の上に放り投げた。


伊良部「ちなみにさぁ、僕のことは大丈夫なの?」


……たしかに、最初入ってきたときは「あぁ、男の先生か」と緊張した。
昔の自分ならばこうして一対一で面と向かって話すことも難しかったろう。
しかし今では、苦手だが、別に逃げ出すほどではない。少なくとも、十数人と握手
できるくらいには免疫がついたのだ。

それもこれもプロデューサーのおかげである。頭が上がらない。


伊良部「ふーん、なるほどねぇ。じゃあ男への恐怖心を根治してほしいと、そういうわけか」


一通り話し終えると、伊良部はそのように総括した。最初こそ懐疑の念が強かった雪歩だが、
やっと伊良部を医者として見始めることができるようになってきた。……のだが、


伊良部「ま、そんなことは置いといて」

雪歩 「はい?」


そんなこと?


伊良部「雪歩ちゃんってアイドルやってんだってね! 受付の人に聞いたよー。
    ね、パンクレディのサインもらってきてくれない? 僕SOSとか好きなんだよー」


パンクレディと言えば往年のトップアイドルだ。歌って踊れるアイドルの草分け。自分のような
駆け出しアイドルが気軽に会える相手ではない。というより治療はどうしたのだ。精神科とは
このようなものなのだろうか。


伊良部「うっか~り 信じたら~♪ 駄目 駄目 ああ駄目駄目よ♪」


突然始まるコンサート。ダメなのはあなたじゃないのか、先生。



伊良部「S・O・S! S・O・S!」


こっちのセリフだ。助けてプロデューサー。雪歩のピンチ。


雪歩 「そ、そんな簡単に会えるわけないですよ! トップアイドルの人ですし」

伊良部「えー、つまんなーい」


つまんないとは何か。本当に、自分はここに何をしに来たのだろう。

これは期待せざるをえないコラボ



雪歩 「そんなにおっしゃるなら先生がアイドルになってお会いすればいいんじゃないですか?」

伊良部「え? なれるかな? 結構行けると思うんだよねー」


キメ顔をする伊良部。もの凄いポジティブだ。こんなに自信があれば人生楽しいだろう。


雪歩 「でもレッスンとか厳しいですよ? オーディションも難しいですし」

伊良部「あー、レッスンとか僕そういうの、ああ駄目駄目よ」


ほら。そんな気はしていた。


伊良部「でも僕もねぇ、このあいだ映画のアクションスターのオーディション
    に出たことがあってねぇ」

雪歩 「えぇ!? 意外ですね……、それでどうなったんですか?」

伊良部「オーディション会場で門前払いされちゃった」


がくっ。いやでもきっと妥当な判断だろう。




伊良部「酷いでしょー!? 一回は映画に出演したいと思ってたのにー!
    こうさぁ、ハリウッド映画みたいに、アチョー! アチョー! ってね」


アチョーはカンフー映画だと思うが、と雪歩は思う。あと、声だけは一人前だが
足が全然上がっていない。


伊良部「まーボリウッドでもいいんだけどねー。ほら僕の顔ってインド人受けしそうじゃない?
    それにダンスシーンとかでも行けるよー? せーの、ワン・ツー・ス、うわぁ!」


ズデン!


大きな音をだしてお尻からコケてしまう伊良部。とりあえずとてもどんくさい人であるということは分かった。


雪歩 「だ、大丈夫ですか?」


伊良部「うーん、床が悪いね床が。もっとちゃんとしたステージじゃないと」



あとちょっとめんどくさい人でもある。




しばらくすると、奥の方からマユミがコーヒーを運んできた。甘さたっぷりの濃いコーヒーであった。



伊良部「んー、じゃあ今日はこのくらいにしとくかぁ」

雪歩 「えぇっ!? まだなんにもしてないじゃないですか!?」


今日やったことと言えば、伊良部のコンサートを聞いたことくらいだ。こんな状態で帰っても
なんにもない。やはりこの医者はヤブなのだろうか。


雪歩 「こんなので男の人が怖いのは治るんですか!?」

伊良部「んーと、ねぇ。まず知っといて欲しいんだけど、神経症と風邪とかの病気は別物ってこと」

雪歩 「?」

伊良部「風邪ってさ。ウイルスに免疫をつけて、根絶させたら治療完了、ってことじゃん?
    でも神経症は、症状がMAXの状態からホントにひょんなことでパッと治ったりするし、
    逆もまた然り。しかも男性恐怖症でしょ? 案外簡単なことで克服できたりするさきっと」


一理ある。が、余りに無責任な態度に内心怒りを覚える雪歩。そんなことならお前は必要なのか、
そう問い詰めたくなる雪歩だったが、グッとこらえる。




雪歩 「じゃあその方法を教えてください」

伊良部「方法ー? いいよ」

雪歩 「えっ!? あるんですか!?」

伊良部「雪歩ちゃんを男の中に放り込む」

雪歩 「……」

伊良部「どう?」

雪歩 「どうって……」


そんな恐ろしいマネ。想像しただけでも鳥肌が立つ。というかそんな「苦しいなら苦しくなくなるまで走れ!」
みたいな昭和精神論な治療法に効果があるわけがない。




伊良部「あ、疑ってるでしょー。実際、こういう治癒例もあるんだよー? もう潔癖症でどうしようもない、
    って人がさ、大震災で被災して、汚れや埃なんてそれどころじゃない生活してたらいつの間にか
    治ってたり、なんてね。ショック療法も治療の内だよ?」

雪歩 「へぇー」

なるほど。確かに一理ある。だけれども放り込むのはやめてほしい。そんなに自分はメンタルが強くない自信がある。
というよりそんなメンタルの強さがあればここには来ていないのだ。


伊良部「とりあえず新木場行こっか。ゲイ達のハッテン場とかあるし」


これを正気で真面目に言っているのだから頭が痛くなる。「やめてください」というと、やはり伊良部は
つまらなそうにソファに深々と身を預けるのだった。


雪歩 「……じゃあ、私は帰ります」


伊良部「あ、帰っちゃうの?」


このままここに居ても、という思いが内心あった雪歩は、足早に立ち去ろうとする。
が、伊良部はそんな雪歩の腕を握って止めた。



雪歩 「ひ、ひやああ!!」




男に、そして不意打ちだったこともあり、雪歩は変な悲鳴を上げてしまう。



雪歩 「なっ、なに! いきなり何するんですかぁ!」

伊良部「ごめんごめん! いやいや、帰る前に注射だけしていってもらおうと思って」

雪歩 「注射?」

伊良部「体調不良にきくビタミン剤だから。あ、初回サービス無料だよーん」


そんなことを聞いているのではない。なぜ神経科にきて注射が必要なのだ。べつに体の調子が
悪くて来ているわけではないのだから。そう疑いの目を向ける雪歩を察したのか、伊良部が
取り繕うように言う。


伊良部「ほらほら、寝不足とかさ、体調悪い時って妙に神経過敏になったりするじゃない?
    ちょっとしたことが気に障ったりなんてさ。もしかしたら握手会で倒れたのも
    実は体調不良だったのかもよ? だって普段は大丈夫だったんでしょ?」


そういわれてみればそうかもしれない。体調不良を自覚した事実はなかったが、
もしかしたらそういうこともあったかもしれない。と、医者に言われればそう思ってしまうもので。


伊良部「だからそういうときは注射注射! 現代人は慢性的なビタミン不足だからね」

雪歩 「はあ、じゃあお願いします」

伊良部「よしきた! おーいマユミちゃーん!」




すると先ほどのセクシーナースが現れ、これまた不機嫌そうにアンプル剤を注入する。


雪歩 「…………」


雪歩はじっと目の前のマユミを見つめる。すごいスタイルである。顔も綺麗だ。グラビアアイドルに
いそうである。こんなに肌を露出させているのだ。そうとう自分に自信があるのだろう。あって当然だ。
私もこんなだったらなぁ、と雪歩は思う。もっと自分に自信が持てただろうか。

外見とは、自信とかなり結びつくものだ。自分も誰しもが見惚れるスタイルだったなら、もっと自信満々に
なれただろうか……。


マユミ「はい、じゃ拳にぎって」

不愛想にそう言い放つと注射台に括り付けた左腕に針を刺す。伊良部はというと注射針が刺さった左腕を
興奮した様子で凝視している。驚いた雪歩だったが、マユミはまったく気に留めた様子はない。


本当になんなんだろうここは。雪歩の中で現実感が一気に喪失していく。





3秒くらい経っただろうか。マユミが離れたことで、雪歩は注射が終わったことに気づいた。
そういえば、注射の痛みも忘れていた。




伊良部「じゃあ雪歩ちゃん明日も来てね。毎日検診するのがなにより大事だからねー」





非現実的な空間にまどろんだからだろうか。雪歩は伊良部の言うことに全く疑問を持たずに
「わかりました」と頷いてしまった。

















車の中 //

翌日、、、



P 「ははは、そりゃ災難だったなぁ」

雪歩「もう! 笑い事じゃないです!」


収録を終え事務所へと戻る途中の車の中で、雪歩は昨夜の顛末をプロデューサーに話した。
最初はプロデューサーも驚いて聞いていたが、徐々に変わったお医者さん、位に捉えたのか、
軽く考えているようだった。……とんでもない。変わった、なんてものじゃない!


雪歩「ホント、大丈夫なんでしょうか……」

P 「んー、まぁ社長が奨めてくれたんだし、悪い人じゃないだろう」

雪歩「まぁ、悪い人、ではないと思います」


自分も含め765プロの全員に言えることだが、「社長なら大丈夫」という思いがある。
だから雪歩も猜疑心メーターが振り切りかけようとも最後まで治療を受けたのだ。
しかし今回のこれはどうしても信じにくい。


P 「何かあくどいことをするような顔じゃなかったんだろ?」

雪歩「……多分」

P 「なら安心だ。雪歩もよく人を見ているから、きっと正しいさ」

雪歩「多分ですけどね」



P 「大丈夫だって。ホントに何かあったらすぐに俺に連絡してくれればいいから、な?
   すぐに飛んで行って雪歩を助けてやるから」

雪歩「えへへ、ありがとうございますぅ」


P 「任せとけ。なんたって雪歩は俺のアイドル、いや、俺の天使だからな!」


時折プロデューサーは恥ずかしげもなくこういうことを言ってのける。そして雪歩はその度
ドキッとしてしまうのだ。恐怖ではない。むしろ、嬉しい。自分にはもったいないくらいの
プロデューサー。あぁ、世界中の男の人が皆プロデューサーか真ちゃんみたいになってくれれば
私だって男の人が好きになれるのになぁ、と妄想する。



とはいえ、そんなことはありえない。今日の収録も、持ちこたえたものの、危なかった。
かつて降郷村で青年団の男の人と鉢合わせした時のように、男性に重なって黒い悪魔のような
幻覚が見えてしまった。最近はなくなっていたのに、また再発してしまったのだ。

心当たりはある。あの握手会の後だ。一度倒れてしまったことで再発してしまったのだ。


一人二人なら大丈夫。ただ、周りの多くが男性、などという状況になった時は徐々に
悪魔が鎌首をもたげてくる。これはアイドルとしては致命的だ。


雪歩「……」



やっぱり、治さなければならない。私の為にも、プロデューサーの為にも。雪歩は決意する。











伊良部総合病院・神経科//



マユミ「はい、これで終わりね」

雪歩 「ありがとうございます」



あれからしばらくたったが、悪魔の幻覚は一向に改善されない。寧ろ徐々にきつくなっているのではないか。
そんな想いすらある。その恐怖から逃げるため、効くんじゃないかという藁にもすがる思いを注射に託す。
が、そんな紛らわしもそろそろ限界である。このままいくとまずいことになる気がする。


伊良部「うーんそうだねぇ。じゃあちょっとカウンセリングしてみる?」


伊良部もさすがにそろそろ注射だけは治療は無理と感じたのだろう。そんな提案をしてきた。




伊良部「ま、僕ってカウンセリング苦手だからねー。ていうか嫌い。だから期待しないでね」


酷い言い草だが、それでも構わない、と言うと、伊良部は真面目になったのかカルテを取り出してきた。



伊良部「雪歩ちゃんってさー、何か男の人にトラウマとかあるの? 暴力とか色々」

雪歩 「いえ、そういうのはないんです」


伊良部「そっかー、じゃあ思い当たる節とかないわけ?」

雪歩 「一応、理由みたいなものは……」

伊良部「何々?」

雪歩 「えっと、お父さんがとっても厳しい人なんです」


伊良部「ははぁ、なるほどねぇ。そんな風に怖いお父さんを男性に投影してしまってると」


雪歩 「そう、なのかな? というより、お父さんが厳しかったから、私、幼い頃から
    男の子と話す機会も全然なかったんです。だから、それで怖い、という感じです。  
    お父さんは厳しいですけど怖いわけじゃありません。好きです」


伊良部「ふーむ、なるほどなるほど」


伊良部はそういうと、手元のカルテにペンでリズムよく書き込む。何を書いているのかわからないが、
真剣な表情をしている所をみると、こちらも話した甲斐があるというものだ。雪歩はほっと安堵し、
出されたお茶に口を付ける。





伊良部「ちなみに好きな人はいるの?」


噴き出した。





伊良部「ちょ! あーあー、急にどうしたの?」フキフキ

雪歩 「げ、げほっ、す、すみません。で、でも急になんですか!?」

伊良部「好きな人だよぉ。男性が怖いのは分かったけど、じゃあ逆に好きな男性はいないのかってこと」

雪歩 「す、好きな男性ですか? えっと……」

真ちゃんは同性だし、……じゃあ、やっぱり、プロデューサー? これは言ってもいいのだろうか。
もしもここ経由で社長やプロデューサーの耳に入ったら私は崖に飛び込むのだってやぶさかではない。
いや、でも病院なのだから患者の個人情報を漏えいするような真似はしないだろう……、と思ったが、
この男ならやりかねない。そこでしかたなく、


雪歩 「えっと、そうですね。やっぱり優しい人? あと、頼りになる人」


嘘は言っていない。プロデューサーは優しいし頼りになる。そこから惹かれていった憶えがあるのだ。

そういうと伊良部は「なるほどねー」と再びカルテ記入に没頭する。コップの中のお茶は残っていたが、
噴き出したのも入っているはずなので、もう飲むのは止めにしようと雪歩は思った。


伊良部「ちなみに怖いものって男性だけでいいの? 他にはない?」


雪歩 「あ、後、……犬、ですね」


伊良部の眼だけが、ちらりとこちらを向く。




伊良部「ははぁ、成程。犬ねぇ。ちなみに噛まれたことは? 入院沙汰になったとか?」


雪歩 「いえ、そういうことは一度も」


伊良部「ふんふん。なるほどねー。他にはない?」

雪歩 「他……、はないですね、多分」

伊良部「そうかー、けっこう怖がりなんだねー」

雪歩 「はい、そうです……」

伊良部「なーるほどね。じゃあー……」



伊良部「こんなのはどうだっ!?」バッ


雪歩 「わわっ!」



伊良部が突然引き出しのところから何かを取り出し投げる。ポトンと雪歩の膝の上に乗ったそれは、
緑色でで細長くて、鱗があって、目鼻口がある、即ち、蛇であった。



雪歩 「? なんですかこれは?」

伊良部「あれー? 驚かないのー?」




雪歩はそれを手で掴み取ると伊良部に渡す。何のことはない。ただのおもちゃである。


伊良部「なーんだもっとびっくりすると思ったのになぁー」

雪歩 「そうですねぇ、別に蛇は怖くないです」

伊良部「ほーん、なっるほどねぇー」


伊良部はいそいそと蛇をしまいながら、楽しげにこちらを向いた。



伊良部「じゃあまさに『マンジュウ怖い』ってわけだ!」


雪歩 「お饅頭ですか? いえ、普通に好きですけど」


伊良部「そうじゃなくてー、男は英語でManでしょ? で、犬は獣なわけじゃん?
    つまり男と犬が怖い雪歩ちゃんは『Man獣怖い』! つまりマンジュウ怖い!」


再びどっかりとソファに座った伊良部は、これ以上ないくらいのドヤ顔を雪歩に向ける。
上手いことを言ったつもりか。ただちょっと「おぉー」と感心してしまった自分も憎い。

それに「饅頭怖い」の落語では実際は、饅頭が大好きなのだ。だからこそ、
「最後にお茶が怖い」っていうオチが意味を成すわけで……。と、そんなことはどうでもいいか。




伊良部が再びカルテを手にもつ。



伊良部「で? いつも怖いことが起こったらどうしてる?」

雪歩 「どう、とは?」


伊良部「なんかさ、いいストレス解消法とか。そういうのあったりする?」


ストレス解消法か……。うーん、なんだろうか。目一杯歌う? ポエムを書く?
何かストレスを感じた時にする行動と言えばー……、あ!


雪歩 「……穴掘り、ですかね」


伊良部「穴掘り? ……雪歩ちゃんってば珍しい行動するね」


雪歩 「えぇっと! 自分でもよくわからないんですけど!
    嫌なこととかがあった時、穴を掘って埋まってたくなるんです。それで……」


伊良部「あはははは! 穴があったら入りたい、って言う人は今までよく見てきたけどさ、
    実際に穴掘って入った子は君が初めてだよ! あはははは!!」


むっ。あまり笑われるといい気がしない。




雪歩 「そ、それで! これがどうしたって言うんですか?」


伊良部「うーん、多分雪歩ちゃんにとって『穴を掘る』って言うのは一種の代償行為なんだろうね」


雪歩 「代償行為?」


伊良部「雪歩ちゃんに恐怖とかの強いストレスがかかった時に、脳がなんとかしようと
    別の行為で発散しようとするんだ」

雪歩 「へぇー」


本当に医者なのかと何度も疑ったこともあったが、流石医者だ。
専門分野の会話だとちゃんとしっかり医者をしてる。




伊良部「ムラムラしてる時に体動かしたらスッキリするでしょ? あれと一緒」

雪歩 「む、ムラムラ、って……」


前言撤回。


伊良部「あ、別の表現がいい? イライラでもいいよ。
    とにかくムカつく時に、運動をしたら気がまぎれるのと一緒」


雪歩 「そ、そっちの方がいいです」


しかし、成程。代償行為か。つまり怖いことやストレスを抱えることがあっても
その都度穴を掘ればなんとかなるということだ。まさか自分の癖にそんな心理学的な
意味があったとは、と雪歩は少し感動する。穴を掘る癖も捨てたものじゃない。




伊良部「余談だけどねぇ、昔、不定愁訴に……あー、わかんないか。えっとね、
    ストレス性の体調不良になった患者がいてね、僕、その人にプールを勧めたの」

雪歩 「プール……。水泳ですか?」


伊良部「そそ。そしたらさぁ、見事にハマっちゃって。滅茶苦茶体調が良くなったらしいんだけど、
    代わりに泳げないことで禁断症状出るレベルになっちゃってさ! たった一日泳がなかっただけで
    吐いたり震えたり、いやー酷いもんだったよー。ははははは!」


こちらも前言撤回だ。その都度穴を掘ってちゃいけない。やっぱり根治しなければ。
常に穴を掘らねば生きていけなくなった自分を想像して、ゾッとする雪歩であった。


伊良部「と、いうわけで。なんていうかな、代償行動を癖にするとよくないよ、ってこと」


コクン、と頷く。本当に肝に銘じておこう。なるべく封印した方がよさそうだ。




伊良部「でもなるほど、穴掘りかぁ。中に入るんだよね?」


雪歩 「はい」


伊良部「なるほどねぇ。理にかなってるなぁ」

雪歩 「そうなんですか?」


伊良部「うん。まず穴掘りってのはさっき説明した、ストレスを発散する運動になるよね?
    で、プラス、狭いとこに入るってのは安心感を生み出すんだ」


勿論、閉所恐怖症は別だけど、と付け加える。


伊良部「人間って背中の景色が見えないしね。ファミレスとかで壁側の席好む人いるじゃん?
    あんな感じでさ。背中を守ってくれると安心するの。ついでに言えば猫とかウサギも
    狭いトコ好むしね。特に雪歩ちゃんは人への恐怖症だから、自分だけの空間、って
    言うものに安心してるのかもね」


なるほど。とても理解できる。さすが自分で名医と言うだけはある。




伊良部「ちなみにこれはほとんどの人間がそうだと思うよー? 後ろ側が敵だと別だけど、
    信頼できる人が背中側だと盾ができて安心するんだよねー。ほら、あすなろ抱きって知らない?」


雪歩 「あす、……なんですか?」


伊良部「あすなろ抱きだよー? 知らないの? うわージェネレーションギャップ!
    昔ドラマでキムタツがやってたんだよ。こう、後ろから抱きしめることを――」ガバッ



雪歩 「き、きゃあああ!!」


伊良部「ありゃ」



雪歩 「な、なにするんですかぁ~!」

伊良部「抱きしめようと」

雪歩 「ようと、っていうかもう半分以上抱きしめてましたよっ!!」


ホントに! この男は一体何をするのだ。これ以上男性恐怖症が加速したらどうしてくれるつもりだ。
精神科の医師であるのに、なぜこんなにデリカシーがないのだろうか。


伊良部「ごめんごめん」

雪歩 「もう……」


伊良部「でも僕が近寄った状態は大丈夫だったよね」


雪歩 「あ」




そういえば、私はなんでこの人を後ろにしていられたんだろう、と雪歩は思った。そうだ、そもそも
後ろに敵が来れば何よりも恐怖だと言われたばかりではないか。だというのに恐怖の対象である男の人に
後ろに回り込まれて、ほぼ抱きしめられるほどに警戒を解いてしまっていたのだ。


伊良部「今はまだ触られるのはキツイかもしんないけどさ、こうやって時間をかけて話し合った相手なら、
    雪歩ちゃんだって普通に接することができるんだよ」


おぉー! 雪歩は内心で歓声を上げる。手段はさておき、これは確かにそうだった。ここにきて初めて
光明が見え、久しぶりに、気が少し楽になった気がした。


伊良部「じゃ、今日はここまでかなー!」


カルテを投げるように置き、グッと背筋を伸ばす伊良部。どんなことが書いてあるのだろう、と好奇心に駆られた
雪歩はその内容をちらりと見た。するとそこには棒人間たち必殺技を駆使して闘っている落書きが記されていた
だけであった。……やはり、この医者はよくわからない。











大きな公園 //


あれから数日が経つ。すこし希望が見えたこともあってか、男性恐怖症の症状は握手会前、
いや、それ以上に落ち着いていた。悪魔はほとんど顔を出さなくなったし、触られるのは
まだ無理だが、男の人の人数が多くても、身体に変調をきたさなくなった。


『それでは、現場の萩原さーん?』


雪歩「はい! こちら都内の公園に来ております、特別レポーターの萩原雪歩ですぅ」


今日は、午後のニュース番組ゲストとして、お花見で盛り上がる公園の模様を現地で生中継
するロケに来ている。久しぶりに入った大きめの仕事。私やプロデューサーの為にも、失敗
するわけにはいかなかった。




『ではそちらの方でどなたかにインタビューをお願いします』

雪歩「はい。それではあちらの方々に聞いてみましょう。BBSです。よろしいですか?」


「おぉ! テレビ!? いぇー!」
「BBSだってさ! 全国放送じゃん!」
「はいはーい! 俺インタビュー受けまーす!」


『盛り上がってますねぇ。ではお願いします』


雪歩「皆さんは会社のお仲間でしょうか?」


「うっす! 俺らみんな新卒でぇ、花見の場所取りに駆り出されてます!」


雪歩「それは大変ですねぇ」


「でも先にみんなでこうやって楽しめるので無問題っす!」
「いえー!」


雪歩「楽しそうで何よりですね!」




伊良部先生は、症状とはひょんなことから治ると言っていた。雪歩は未だ根治されたわけではないが、
随分と軽減できたようで、このようにインタビューができるくらいにはなったのだった。

よくわからないが、これでなんとかなったようだ。



雪歩「――はい、ではありがとうございました!」




そう思っていた。




『では萩原さん。次はあちらの川沿いの方にお願いします』


雪歩「わかりましたぁ」


『それでは一旦CMです』



「それでは、移動しまーす」

スタッフの掛け声とともに全員が移動する。そんな中、プロデューサーだけが雪歩の元に駆け寄ってくる。
雪歩は安心したような顔で一度力を抜く。



P 「よくできていたぞ、雪歩」

雪歩「はい。でもやっぱり長くは居られませんねー」

P 「何言ってるんだ。ゆっくりでいいんだよ、ゆっくりで」


やはり長時間こうしているのは辛い。なので時々人ごみから離れた場所の画も映してほしいとお願いしたら、
プロデューサーが交渉してくれたのだった。本当に、プロデューサーは頼りになる。


P 「じゃあそろそろCM明けだ。頑張れよ雪歩!」

雪歩「勿論です!」



「CM明けまーす」





雪歩「見てください。こちらから見た桜もきれいですねー」



川沿いは宴会禁止の立札もあって、人が少ない。時折無視しては並みをしていくマナーの悪い集団がいるが、
基本的に人はいない。本来ならばこんなところ映すわけもないのだが、プロデューサーが「荒らされていない分
川沿いの桜の景色は画面に映えますよ」と言ってくれたらしい。でも、それは嘘ではなかった。たしかに
ここから見た桜も美しい。と、雪歩がそんな感動を覚えていた頃である。







??「……」ゴソゴソ


雪歩「?」




暗くなり始めた時間帯。なので、視認は上手くできないのだが、明らかに何かの音がする。
ゴソゴソ、なにかを漁る音だろうか。雪歩は耳を澄ます。すると、




犬 「ワンワン!」



雪歩「ひ……!」






ここは人ごみから離れた場所。それが災いした。人を避けた野良犬たちが集まり、先述したマナーの悪い
集団がポイ捨てしたチキンの骨やつまみなどを食い漁っていたのだった。
そしてその野良犬は自分の餌場を荒らす敵と雪歩を認識したのか、雪歩にむかって突っ込んできたのである。


雪歩「ぃ――!」


こうやってロケの最中に動物が乱入してくることというのは、TV業界の歴史をみてもたびたびある。
そしてよくハプニング映像として、後日、笑いの種になったりするのだが、それは上手く対処できた
時の話。少なくとも……




雪歩「いやぁぁああああああ!!!」






犬から怯え、逃げ出してしまう、というのは笑いようのない、本物の放送事故となる。







―――――――――――――――――――

―――――――――――

――――――――

――――




P 「申し訳ありません! 本当に申し訳ありません!」



手の震えが止まらない。犬の恐怖もそうだが、何より、致命的なミスを犯してしまったこと、
そしてそのせいでプロデューサーが頭を下げなくてはならなくなったこと。雪歩は申し訳
なさでいっぱいになり、身体が震えてしまっていた。

そして理由はそれだけではない。




「あんな程度何とかしろよな」

             「あーあ、俺らも叱られるわー」

 「なんであんなのがアイドルやってんだよ」




雪歩を責めるスタッフたちの声。当然のことだ。自分はそれだけのことをしたのだから。
だが、そのセリフの一つ一つが、とても凶悪な響きをもって雪歩に届く。





雪歩の耳に、悪魔、がやってくる。



スタッフたちに重なるようにして、悪魔が現れ、大きくなる。より凶暴に、より悪辣に、
より雪歩を害するビジョンに変貌する。


雪歩「は、――っ、っ!」


呼吸ができなくなる。嫌な汗が流れる。焦点がぼやけ、身体から力が抜ける。
震えが止まらない。寒いのか、熱いのか、今ここにいるのはなぜだったか。

色々なモノがスピードオーバー気味に脳を巡り、限界に達してしまった雪歩は、



数週間前の握手会の時の様に、地面に倒れこんでしまったのだった。











雪歩の部屋 //


数日後、、、



雪歩「…………」



あれから、数日。雪歩は一度も外に出てはいない。アイドル活動は休止中である。

社長のすすめというのもあったが、何より雪歩の様子に父親がとても怒ってしまい、
なんと事務所に乗り込んで直訴しに来たのだった。なんとかプロデューサーが簀巻きに
されようとした直前にアイドル活動一時休止を申し出て、こうして家に閉じ込められる形で
何とか手打ちになったが……、本当にこれからどうなるのだろうか……。


雪歩「……」

しかしちょうどよかったのかもしれない。今ではお父さんやプロデューサー、社長、
それからいつも出入りしている若い衆の人たちはまだギリギリなんとかなるが、
他の男の人は本当に、見るだけでも過呼吸気味になってしまうほど怖くなってしまったのだ。


雪歩「……」ギュッ


もうあんな思いはこりごりだ。あれ以来こうして逃げるようにして部屋に閉じこもってはいるが、
世界の人口の半分は男の人なのだ。一生関わらない、というわけにもいかない。この部屋をでれば、
そこかしこに男の人がいることを知っている。まるでゾンビ映画の籠城シーンだ。いつなんどき
この部屋の外からあの悪魔が覗いてくるか、気が気じゃない。あの恐ろしい形相の悪魔。

そう、例えば、いま窓のすぐ外にいる黒い怪物みたいに、……いや、ああいうのじゃないか、もっとこう――




雪歩「……え?」




??「……」モゾモゾ


雪歩「」




??「やぁ」バァ






雪歩「きゃぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁあああああああああああ!!!!!!」



??「うっへっへっへっへ~、お化けだぞ~!」

雪歩「い、いやあぁぁぁあああああああ!!!!」



 ド タ ド タ



「お嬢、どうしたんで、……おい! なんだこいつぁ!?」

「てめぇ! どっから入りやがった!?」

「何者だ……、つか何物だ!?」

「気色悪ぃキグルミ着やがって! てめぇどこの組の鉄砲玉だぁコラァ!」



雪歩「あああぁぁ……って、え? キグルミ?」




??「どこの組ー? あ、組合のこと? 全医協連だよ。全国医師協同組合連合会」


「医師ぃ!? なにわけわかんないこと言ってんだテメェ!」


雪歩「医者……、って、まさか!」

??「もー、雪歩ちゃんからも何か言ってあげてよー」


この嫌に明るく甲高い声、この口調。まさか……、


雪歩「伊良部先生!?」

伊良部「そうだよ、もう! 声聞いたらわかるでしょう!?」


ジィーっと背中側のチャックを開けて、伊良部その人が顔を出した。
汗っかきなのか長時間入っていたからなのか、キグルミから突き出た
上半身はとてもぐっしょり濡れていた。




雪歩「いや、確かによく聞けば……って、なんでそんな恰好を!?」

伊良部「治療だよ、治療」

雪歩「?」


「お嬢の知り合いで?」

雪歩「えっと、伊良部先生って言って、かかりつけのお医者の先生」

伊良部「よろしくねー!」

「こ、これが?」



と、新たな足音が向かってくる。思い当たる節は一つであり、
伊良部を以外の、雪歩を含めた全員が緊張する。




雪歩父「おい、手前ら、なんの騒ぎだ」


部屋に入ってきたのは、厳格無比、大きいガタイ、低い声。
多くの人が一目で恐れる萩原雪歩の父親だった。


伊良部「どうもどうも! 雪歩さんの主治医の伊良部一郎でーす」


だというのに、ずかずかと距離を縮め、あまつさえ握手をするのがこの男である。


「おま、なんて口のきき方!」

雪歩父「伊良部一郎ぅ? ……どっかで聞いた名だな」



無礼を怒る前に、何か引っかかりを覚えた雪歩の父。


伊良部「えー、ホントに? あ、専門は神経科ね。精神病とか神経症担当」


雪歩父「神経症……、……思い出したぞ。前に紀尾井んトコの若頭の野郎が
    世話になったっつってた先生さんだ。伊良部一郎」


「え? あの猪野誠司がですか!?」


雪歩父「俺も詳しくは知らねえんだがよ、随分感謝してたみてぇだぜ」


伊良部「まぁねー、僕って患者さんに愛されてるからさ」


あの父を前にこの態度で談笑している人間は初めて見た。やはりつくづく
良くわからない男である。




雪歩父「で、その名医さんがなんの用だい」

伊良部「娘さんの治療にきたの。男性とか諸々恐怖症のね」

「な、治るんですかい!?」

伊良部「当然さー。僕は、名医だからね!」

雪歩父「ふむ……」

考え込む父。と、その時部屋の隅でじっとしていた雪歩と目があった。

雪歩父「雪歩」

雪歩 「は、はい!」

雪歩父「お前にとってこの先生は、信用に値するのか?」

雪歩 「えっと……」

信頼できるか、うーん、なんだかとっても変わった人だから、何とも言い難いし、
まだ成果も出ていないから確証は出来ない、……でも、もし、こんな状況を打破
できるなら、すがってみたい、とそう思った。


雪歩 「……、うん」


雪歩父「そうか。……じゃあ、先生。よろしくたのんます」


伊良部「オキドキー! 任せちゃってよ!」











商店街・裏路地//


翌日、、、



日曜日の商店街。近頃の商店街と言えば日本中で「シャッター通り」なんて言われているが、
この場所はとても繁盛していて、商店街のイベント日というのもあってか家族連れが目立つ。

そんな華やかな表通りからすぐ裏手に入った路地に、雪歩と伊良部はいた。


伊良部「じゃあ、僕がいいよって言ったら出てきてね?」

雪歩 「は、はい~……」

伊良部「なに? やっぱり苦しい?」

雪歩 「いえ、まぁちょっと苦しいですけど、これくらいは大丈夫です」

伊良部「さっすがアイドル。体力あるね~」

雪歩 「それより、大丈夫でしょうか」

伊良部「大丈夫! 怖くないって! パパのコネで許可もとったしね! じゃ、準備してね!」



そういって大通りの方へ出て行く伊良部。雪歩はひとり取り残された。本当に大丈夫だろうか。
許可云々というのも気になるところだが、今からこの人だかりの中に単身で乗り込むのだ。
以前の自分ならまだしも、今の自分で行けるだろうか……? 雪歩の中で不安が巻き起こる。

雪歩 「うぅ……!」


伊良部「ゆっきほちゃ~~ん!」


大通りから大声が届く。あの医者は……。余計に目立ったではないか。雪歩の不安が加速する。
だがGOサインが出てる以上、行くしかない。これも治療、治療、治療! 自分に言い聞かせ、
もうどうにでもなれ、とその身を大通りにさらけ出す。


商店街・大通り//



「きゃぁあぁぁあああああああ!!」





第一声、聞こえたのは悲鳴。それも黄色い悲鳴とかいうものではない。
正真正銘、恐怖による悲鳴。その証拠にほら、子供たちが青い顔で雪歩を見ている。



「お、おばけぇえぇええええええ!!!」



少年が雪歩を指さす。正確には、雪歩が被っているキグルミを、だ。
黒い体に白い尻尾。ぼてっとした体に丸い目。こう書けば可愛いものだが、見た目は
完全に怪物のそれである。だが「世界のいきもの図鑑」で調べてみるとなんと
既存の生物らしい。 名前は 「スペパププ」 という。


「こわいよー!」

「ママー!」


警察を呼ばれそうな勢いであるが、今日はイベント日ということもあって、大人は理解しているようだ。
ただ、大人の方も、ゆるキャラなどを想定していたのだろう。出てきたのがまさかのバケモノであった
ため、男女問わず顔が引きつっている。



さすがの阿鼻叫喚っぷりに雪歩も心を痛めたのか、かなり申し訳なくなってくる。が、伊良部は楽しそうに
もっともっと! とあおるようなジェスチャーを向けていた。もう、他人事だと思って!


雪歩 「(アイドルとして真面目に育ててくれたプロデューサー、ごめんなさい。
     私、こんなんになってますぅ……!)」


本当に申し訳ない。……だが、一つだけ、伊良部の思い通りになったことがあった。


雪歩 「ン゛ブーヴ……」


図鑑で調べた通りの鳴き声をして、人ごみに寄って行く。子供は本気で泣いているが、
流石に大人は逃げるようなことはなかった。が、その目には明らかな戸惑いが見えている。

勿論、家族連れである。大人たちの中には男も多数いる。そして、やはり、重なるようにして悪魔のビジョン
が浮かび上がってくる。一瞬、心臓をつかまれたような衝撃が雪歩を襲うが、




「パパー! あれやっつけてよー!」

「い、いや、パパも、ちょっとな……」


その悪魔の幻影たちは、こちらをみて怯えだしていた。その厳つい見た目とのギャップが
とても滑稽に見え、雪歩はなんだかおかしく思う。


雪歩 「ン゛ブーヴ!」


精一杯の低音。すると蜘蛛の子を散らすようにして人が避けていく。傍目から見れば
全く笑える光景でもないし、行為でもない。だが、そんな非日常的空間が、雪歩に
強さを錯覚させた。もはやなぜあんなものに怯えていたのだろうと、笑いすらこみあげてくる。


雪歩 「ふふっ」



自分は、思っていたより良い性格をしていたようだ。






商店街を練り歩く。光景はまるで異様である。モーセや大名行列もかくやという人の配置。
最初は申し訳なさと寂しさを覚えた雪歩だが、段々と空気に飲まれてきたのか、ノリノリ
に鳴き声を発して人ごみに近づく行為を繰り返していた。



雪歩 「ン゛ーブーヴー!」



が、そんな雪歩に試練が襲う。




「!? ギャン!」

雪歩 「!?」




雪歩が鳴き声を上げるや否や、あの生き物の声が彼女の耳に届く。次の瞬間には人ごみが
騒がしくなり、その生き物を囲うようにして野次馬の輪ができた。


犬 「ガウガウ! ガウガウ!」


その生き物は犬。雪歩が男と並んで恐怖する対象の一つである。その身体はそこそこ大きく、
声も鋭かった。毛並みは黒毛で、筋肉質。少なくとも簡単に抱え上げて止められる犬ではない。

そんな犬が、手放されたリードのつけてが肉屋の前で暴れまわる。ガラスケースを引っ掻き、
上に陳列された商品を倒し、おおあらわ。飼い主らしき男でさえ、止めようとしたら噛まれ、
誰も凶暴な犬に近づけずいる。肉屋ののおばあちゃんも困り顔だ。




雪歩「(どどど、どうにかしなきゃ。えっと、だれか……、プロデューサー、は居ないし。伊良部先生!)」


流石の雪歩もこの状態で続けるほど常識がないわけじゃない。現場に居合わせた者として、何とかしようと、
伊良部の方を向く。が、当の伊良部はムリムリ、と手で大きく×を示していた。

しかしそれでも止めないわけないはいかない。雪歩は意を決して犬と向き合う。

そうだ。今の私は強いんだから。恐れることなんてない。この犬だってきっとあの悪魔の幻影と
同じように、実はかわいい所があるんじゃないだろうか。そう思って、雪歩は犬をおとなしく
させるために犬に向かって叫ぶ。




雪歩「お座り!」


犬 「……」



あ、だめだ。睨まれた。これは怖い方の犬だ。怖いけど優しそうだからなんとかなる、という犬じゃない。
例えるならば、マフィアが組織の裏切り者にけしかけるような犬だ。

いや、でも、こう見えて実は優しい犬だったりするのではないか。


犬 「ウゥ、グルルルル」


あぁ違う。だって喉鳴らしてるもの。威嚇されてるもの。優しい犬じゃないよこの子。




「ガンバレー! キグルミー!」


今まで逃げ惑っていた子供たちが、ここに来てまさかの声援を雪歩に送る。
大人たちも期待の視線を向けていた。


雪歩「(た、退路なし……!)」


もはや逃げることすらままならない。ここまで商店街の人々を脅した罰なのだろうか。
それとも調子に乗ってしまった報いなのだろうか。雪歩は目の端に涙を湛える。


犬 「グルル、ガウ! ガウ!」


せめて「キャン」とか「ワン」ならまだしも、「ガウ」とはどういうことだろう。
ピカピカマッチョなボディーの黒い犬。黒い犬。ブラックドッグ。いや、もうオオカミだろうか。

と、そんなどうでもいいことを考えていると、隙と見たのか、



犬 「ガウッ!」




犬が襲い掛かってきた。



雪歩「――っひ」




咄嗟の事に声が出ない。体勢もとれない。そこそこ巨体の黒い犬は、不釣り合いに白い牙をむいて
手に思いっきり噛みついてきた! 

あぁ、終わった。私は死んだんだ。雪歩の恐怖は限界突破し、脳がいやに冷静になる。
あぁ、終わりだ。私の人生はこのオオカミに食い殺されて終わるのだ。こんなことなら男性恐怖症克服なんて
こと試みるんじゃなかった……。ずっと避けてればよかった。そうだ。よくいうではないか
「男は狼なのよ、気を付けなさい」と。やはりパンクレディは偉大だった。往年のトップアイドルだけある。
男=犬、犬=男。恐怖は二倍。そうだやはり逃げるのが正解だったんだ! だってほらこんな風に噛みつい――











雪歩「――あ、あれ?」


犬 「ガウッ! グ! グ!」





ふと、身体に全然痛みがやってこないことに気づく。……手加減されてる? いやそんなことはない。
鉄砲玉の若い衆のように殺気立ってる。


雪歩「あ、そうか」


理由は単純だった。今、自分はキグルミを来ているんだ。生身で噛まれたら骨までやられていたかもしれない、
が、キグルミというのは意外に硬い。そのおかげで手が保護され、ちょうど警察犬の訓練みたいになっていた。

犬 「グルル?」


犬も、これはおかしい、と気づき始めたようで噛むのをやめ、雪歩に顔を向けて吠える。
雪歩は、この頃には「安全」であるという確証もあって、落ち着いてものが見られるようになっていた。
そして、やっと、この犬が自分を怖がっていることに気づいたのだった。


雪歩「(そっか、見た目スペパププさんだもんね。……私はカワイイと思うのになぁ)」


とはいえ、さっきから町ゆく人が恐怖の目でこちらを見ていたことを鑑みても、やはり、この外見は怖いのだろう。
しかも犬にしてみれば、キグルミというものを知っていない限り、自分より体の大きい謎の生物が近づいてきた
様にしか見えないのだ。この犬も、変な鳴き声をする雪歩にびっくりして吠え、噛みついたのだろう。




雪歩「……」


犬 「ガウ! ガウ!」



そう思うと、不思議にも、



犬 「ガウッ! ガウッ!」


雪歩「……」スッ



犬 「!? ガ、ガウッ!」




雪歩「……よしよし」



何故だか、途端に愛らしく見えてくるもので。




犬 「! グ、グルル! バグッ!」


ガブリ、と噛みついてくる黒い犬。だがやはりキグルミを貫通することは出来ず、
雪歩は心行くまで優しくなで続ける。


犬 「グルル、グルルルル」


雪歩「だいじょーぶ、だいじょうぶだよ? 怖くない怖くない」ナデナデ


犬 「グルルルル……」


雪歩「ね?」ナデナデ


犬 「……」






犬 「キュゥーン……」パッ


敵意がないとわかったのか犬が噛みつくのをやめ、おとなしくなる。そういえば、
有名なアニメ映画にこんなシーンがあったような気がするなぁ。


そんな取り留めもないことを考える雪歩だったが、直後に起こった周囲の歓声に
よってハッと我に返る。


「よくやった!」

「よっ! いいぞ怪物ー!」


怪物って。



「す、すみませんでした! 俺がリードを手放したばっかりに……!」


飼い主の方が謝りに来る、が、恐らくこの犬が凶暴化した原因の半分以上は自分の外見に
あるのだから、雪歩はなんとも微妙な気分になる。いいえ、こちらこそ。


「おばあちゃんも本当にすみませんでした。弁償します!」


雪歩「あ、それなら私も……」


「いやいや、いいんだよぉ。けが人が出なかったんだし。それに被害って言っても
 陳列倒されただけだしねぇ」

「本当に、すみませんでした!」



こちらの方もなんとか大丈夫だったみたいだ。平穏無事、とは言い難いが、まぁ、
ギリギリセーフとでも言うだろうか。




「ねぇねぇ、なんか黒くておっきい動物さーん?」


振り向くと、小さな女の子がキグルミの手をクイクイと引っ張っていた。




「一緒に写真撮ろっ!!」



その後、スペパププのキグルミを着た雪歩の周りには子供が集まってきた。
わいわいと騒ぎ立てる子供たち。それに連れ添う形で親も寄ってくる。
当然男親も。しかし、もう雪歩は恐怖しない。

あの重なって見えた悪魔の幻影は、すでに雲散霧消していたのだった。


「パパー! あたしも! あたしも写真撮るー!」

「えぇ!? 一緒にかぁ……」


雪歩「どりまじょーう(撮りましょーう)」


低いダミ声で話しかける。女の子は嬉しそうにキャッキャと笑っているが、
お父さんの方はどうにも慣れないらしかった。


「もっと他の写真撮ろうよ、な?」

「えぇー! だってこの子可愛いじゃん!」

「そうかぁ? はは、子供の感性ってよくわからんなぁ……。父さんはちょっと怖いよ」ビクビク


私もよくみればこのスペパププのキグルミはかわいいと思う。だが、あまり一般受けはしないらしい。
積極的にかかわってくる娘さんに反して、父親のほうはやや腰が引け気味だ。



「ほら、お父さん! 一緒に写真に入って!」

「えぇー、もう。仕方ないなぁ。……すいませんねぇ。あ、俺はちょっと離れたここでいいので」


要は写真の枠内に収まればいいのだろう? と雪歩と娘を密着させ、父親は人ひとり分開けて立つ。



「えー! お父さんもっと近づいてよー」

「父さんはここでいいの!」


雪歩「……」


今の雪歩にとって、既に大人の男性も、特別恐れる対象ではなかった。悪魔も消え、普通に接することが
できる存在となったのだ。……いや、むしろ。



雪歩「ン゛ブーヴ!」ガバッ


「ひっ!」


雪歩は肩を組むようにして父親の男性にもたれかかる。娘はキャッキャと喜び、男は顔をひきつらせている。
カメラをもった人が「笑顔笑顔ー」と言っているのだが、プルプルと震え、なんだか嗜虐心がそそられる、
というか、なんというか、…… 男の人とは、案外 かわいい ものなのだなぁ。



そんなことを思いつつ、キグルミの暑さも忘れて、雪歩は更に町を練り歩いたのだった。











伊良部総合病院・神経科 //

翌日、、、



商店街をパニックに陥れた一日は終わった。
雪歩はというとちょうど使ったキグルミを洗濯して返しにきたところだった。


伊良部「えー、別にそれ使わないしあげるよ?」

雪歩 「そうなんですか? 結構しっかりしてるから高そうなものなのに……」

伊良部「まぁね。特注だから。ただそれ不評だったんだよね。ウチの裏に系列の幼稚園が
    あるんだけどさー。そこのお遊戯会で使ったら泣いちゃって大変だったんだー」


それはそうだろう。大の男が引くフォルムなのだ。子供たちには刺激が強すぎる。
……ただ、雪歩にとってはなんだかんだ愛着のできたキグルミである。再び倉庫の肥やしに
なるくらいならば、と持って帰ることにした。




伊良部「で? その後の調子はどう?」

雪歩 「まだ昨日の今日ですけど、絶好調です」

伊良部「ははは! それは良かったねー!」

雪歩 「伊良部先生にはお世話になりました」

伊良部「いんや、僕はなにもしてないって。神経症は風邪じゃない。だから患者さんが
    勝手に罹って勝手に治すものなんだよ。今回は雪歩ちゃんに自信がついたから、
    ちゃちゃっと恐怖症が治っちゃったわけ」


自信? まぁ確かに自信はついたような気がする。でもそんなことで治るものなのだろうか?



伊良部「雪歩ちゃんってさ。男とか犬が怖いんだよね? これってさつまり、身近な、
    自分に危害を加える可能性のあるものを恐怖してるってことなんだよね」

雪歩 「へぇ。……あ、でも、犬は吠えるっていうのは分かるんですけど、我ながら
    男の人がなんでそこまで怖かったのかわからないんですが」



伊良部「そだねー。むしろ危害を加える面で言えば君のお父さんとその取り巻きの方が
    そこいらの一般人より怖いもんね。でもさ、そういうことじゃないんだよ。
    ほら、幼い頃から男との接触が少なかったんでしょ? そうするとさ、男を認識が
    正しくできなくなっちゃうことがあるんだよねー」



伊良部はコーヒーにミルクを入れ、一口飲む。だが甘味が足りなかったのか更に砂糖を入れた。
記憶するにあのコーヒーはかなり甘めだったのだが……。と、雪歩は伊良部の体形に目が行き、
なんとなく、察する。


伊良部「正しく相手を知らないと過度に恐怖することがあるんだよ。例えば『男はみんな狼』
    なんてのもそう。別に実際は大したことないのに異様に警戒して見せたり。後、逆に
    ものっすごい高い理想を押し付けたりね。そういう子は白馬の王子様に憧れたり、
    宝塚に行って『理想』を演じる同性の女優に恋しちゃったりなんかねしてね」


ここまで聞いて、正しくこの状態が自分であったことに気づく。特別なにかされたわけでもない
のに男性におびえたり、同期の菊地真に理想の王子様を重ねて見たり。……というか、ここまで
完璧に診断で来ていたなら早く教えてほしかった。




伊良部「で、話は逸れたけど、そういう風な身近にある、自分に危害を加える対象を
    雪歩ちゃんは恐れてたんだよねー。だからヘビは大丈夫だったんだよ。
    実感の問題さ。『カミソリ握りしめちゃった!』より『鉄砲で撃たれた!』の方が
    絶対に痛いのに、カミソリの方がリアルに痛みを想像できるでしょ?」


余りに日常から離れると恐怖感がなくなるという。確かに一理あった。




伊良部「つまりまとめるとだ。怖い理由は攻撃される恐れが云々、だったわけだから、
    『この人は絶対に危害を加えない人だ』ってわかったりとか、自信がついて、
    嫌な言い方だけどさ、『自分より格下だな』、って思えれば、こいつは自分に
    危害を与えられないなっていう感じにあって、怖くなくなるわけ」


スペパププのキグルミを着たのは身を守るためかと思っていた。しかし実際はむしろ、
こちらから攻撃して、自信を付けさせるためだったらしい。


雪歩 「へぇー……」


伊良部「つまりさ。自分の方が強いんだ、って自信があれば、
    犬も男もなーんにも怖くなくなっちゃうわけだよ! あはははは!」



おちゃらけたように言って見せるが、雪歩にとってみればなんだか難解な数式が
とても合理的に解けたような気分になる。



雪歩 「…………」




この人、本当は凄い名医なんじゃ……。





伊良部「ん? 僕に何かついてる?」


雪歩 「……いえ、なんでも」


ただ認めるのもなにか違う気がしたので、雪歩は不意に湧いた尊敬の念を心の底に押しやった。





伊良部「じゃ、もう大丈夫だと思うけど。また来てねー」



雪歩 「えへへ。二度ときません」


伊良部「え~、そうか~。じゃあ最後に注射なんてどう?」



雪歩 「私が刺す側ですか? だったらやります!」



伊良部「……なんか雪歩ちゃ、いや、萩原さん。キャラ変わっちゃった?」



雪歩 「おかげさまですよ、伊良部先生?」



伊良部「あはは、僕しーらないっ!」






二人「「 あはははははは! 」」










 それからほどなくして、雪歩はスターダムにのし上がることとなった。








               数 か 月 後




765プロ事務所//



記者「それでは本日はよろしくお願いします」


最近人気になってきてから増えた仕事。その一つがこうした雑誌のインタビューだ。
雪歩一人の話を聞くために、こうしてわざわざ記者がやってくる。人気のバロメーター
といえようか。


対面は有名雑誌の記者。そして雪歩と、隣にはプロデューサー。
和やかムードで取材が進んでいるが、プロデューサーだけは緊張気味だ。



記者「最近人気急上昇のアイドル、765プロの萩原雪歩さんに話を聞こうと思います。
   アイドルになった理由はなんですか?」

雪歩「最初はかずちゃん、あぁ、私の友人なんですけど、友人が書類を送ってくれたらしくて。
   で、私も弱い自分を変えたかったので、アイドルになりました」


何度も繰り返したこの返答。よどみなく話す。とはいえ真実なのだから当然か。



記者「弱い自分、ですかー。そういえば、萩原さんは男性と犬が苦手だそうで」


雪歩「あー……」


正確に言えば、それは過去の話である。今となっては……、



雪歩「そうですねぇ……。実はちょっと」エヘヘ


記者「ですが、そのおかげで『まるで天使のようだ』と話題になりましたね」

雪歩「えへへ、嬉しいですぅ。ね、プロデューサー?」

P 「え!? あ、あぁホントにな……、ははは」



そう。これは、今となっては嘘になる。男の人はかわいい。いっそ好きだとすらいえる。

ただ、プロデューサーと話し合った結果、「犬好き」はまだしも、「男好き」なんて公言した日には
干されるに決まっている、というわけで、今までどおりに振舞おうということになった。
但し以前のように気絶などすることは勿論ない。嫌な言い方だが、キャラなのである。



雪歩「ふふふ♪」




でも、それを二つ返事で了承した私も、やっぱり良い性格になったものだと思う。





記者「では萩原さん、なにか苦手なものを教えてくださいますか?」


雪歩「苦手なもの? うーん……、あ」




雪歩「マンジュウ、ですかね」


記者「へぇ、お饅頭ですか?」


雪歩「えぇ、マンジュウ怖い、です。後――」

記者「後?」


雪歩「やっぱり、お茶が怖いですね!」


記者「え? お茶って、むしろ萩原さんの好きなものじゃ……」


雪歩「ふふふ、なんちゃって。冗談ですぅ。ね、プロデューサー?」




ちらりと横を見る。冷や汗を垂らしたプロデューサーが乾いた笑いをしていた。
あぁ、もう、プロデューサーかわいい。なぜ男の人を恐れていたのか、いまでは
その感覚すら思い出せない。伊良部先生から言わせれば自信がついたのだろうか。
……、ただ、我ながら少しつきすぎたようにも思う。


雪歩「ま、いいかぁ」



男の人も、犬も、怖いものが好きになり、好きなものがもっと好きになり、
そして、自信ができて、自分自身すらも好きになれて。

そうして怖いものがいなくなったこの世界は、前よりずっとキラキラと輝いて見えるようになった。



雪歩「えへへ」ニッコリ










最近、人生が楽しい。






                                 END?









(おまけ)



一方で、



P 「…………」


プロデューサーは思った。『まるで天使のようだ』と人気になった雪歩だが、
どこが天使なのだろうか。たしかに、昔は天使だとおもっていた。

だが今となっては堕天使だ! いいや、むしろ……。


雪歩「えへへ」ニッコリ


心の中で言いかける前に、目の前の景色が変わる。雪歩に重なって何かの幻影が見える。
黒い羽、黒い角。そう、今となっては、もう悪魔だ!

 
呼吸がはやくなる。嫌な汗が出る。



記者「じゃあ、本当にこれは好き! っていうものがあったら教えてください」

雪歩「大好きなものですかぁ……。えっと……、やっぱりプロ――」チラッ


P 「プロテイン! そうプロテインに嵌ってるんですよ雪歩は! 
   それじゃあ『ムキぽ』なるぞー、なんっていってね! あっははははは!!」



一同「「「 ははははは! 」」」





彼、プロデューサーが、伊良部総合病院神経科の戸を叩く、わずか3日前の出来事である――。





                                   END



では以上でしたー。
尚、プロデューサー編の予定はありません。

ニッチなクロスだけど読んでくれてありがとう。

乙!

乙です

乙です。
テレビ版の阿部寛と釈由美子のペアが好きだったなぁ

伊良部役が徳重聡と聞いたときはすったまげたもんだ


小悪魔雪歩かわいい

Sに目覚めちゃったかー

伊良部も雪歩もすげー再現度面白かった乙

面白かった

町長選挙すき
新刊はよ

萩原雪歩、17歳です
男の人が大好きですぅ!



次は無意識にストレスを溜め込んで倒れてしまうやよい編だな

伊良部の再現率が違和感なさすぎ
まさに雪歩と伊良部が絡んだらこんな感じになるんだろうなって思えた

どうでもいいけど、伊良部シリーズってニッチって言うほどじゃないと思う

伊良部ってこんなに理路整然と話す人だったっけ?

読み直してみるかな

>>108

ニッチなクロスSS≠ニッチな小説とのクロス

伊良部SSなんて初めて見たし


>>109
わりと医者してるよ
ラストは「むちゃくちゃやったらなんかうまくいってた」パターンと
「実はわかってたんだよ」パターンがある

実はパターンはコンパニオンとか

>>110
一回どこかで古典部シリーズとのクロスを見たことがある気がする。

1年くらい前にもアイマスと伊良部シリーズのクロスはあった気がする

アイマスのキャラはみんな何かしら弱点があるから、このクロスは映えるね

りっちゃんとか相性良さそう

乙 久々に伊良部シリーズ読み返そうと思った

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