エルフ「素敵な顔ですね」(232)




「私たちは、いつだって何かに囚われて――――」




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1352212725

――――――
――――
――

私は闇を裂くように走っていた。

より正確な言葉で表現するならば、逃げていた。

羽虫や小枝が顔や胴に当たるが構わずに駆け続ける。

前方に鎮座している大木を迂回して、更に森の深奥へと突き進む。

春が訪れたばかりで木々には柔らかい葉がついているのだろう。
やがて更に成長し、青々とした広い葉になるはずだ。
しかし、この暗闇の中では若葉を視認することはできない。

土地勘などは無く、夜陰の中の僅かな輪郭を辛うじて捉えて経路を選択する。

夜の森は一つの生物が蠢いてるようで、貪欲でおぞましい蟲の姿を連想させる。
濃厚な臭いを鼻腔へと送りつけ、異物である私までをも取り込んで膨張するかのような錯覚を与える。

そう考えると息苦しさを覚えたが、すぐに気を確かにして駆けていく。

着用していた粗末な履物はだいぶ前に脱ぎ落としてしまい、現在は裸足だ。
全力で駆けているため、闇の絨毯が敷かれた地面に偏在している仰向いた枝や尖った小石に意識を向けることもできない。
それらは分厚く変容した足裏の皮膚さえも突き破って私に傷を負わせる。

由々しき事だが、追われているため気を割くことはできなかった。

それに、別に幾ら怪我を負っても支障はないのだ。

私は死から断絶した存在なのだから。

私の顔の傍を炎槍が通り抜けていったことで、横筋へと逸れていた思考が現状の認識へと回帰する。
即ち追手から逃げる現在の状況へと。

追手の数は六十ほど。屈強で野蛮な男たちだ。
男たちは荒い声を発する指揮官に従っている。

おそらく彼らの大多数は傭兵だろう。
中には呪術使いも含まれているらしいから、かなり信用されている者たちだ。
呪術は、他国に漏洩しないように厳重な管理下に置かれているはずだからだ。

呪術使いを動員するとは、どうやら彼等の雇い主――おそらく王、または次ぐ有力貴族――は、本格的に私を捕縛するつもりらしい。

しかしこの調子ならば逃走に成功するだろうと私は分析する。

もう既に耳長共の領土に入ったのだ。

エルフたちの主張ではこの森から既に彼等の領土の域内だ。
そして人間側は、その主張を毅然と撥ね退けるだけの権力も暴力も保有していないのだ。

そのためこの近辺には、おそらくエルフたちによる警備が行われていると考えられる。

それでも追手たちは、尚も執念深く私に迫ってくる。
彼等――背後の男たちと彼等の雇い主――は余程私を欲しているらしい。

正確には、私に宿る禁呪を。

戦争が近いのだろうか。火種は至る所に蒔かれている。

もしくは、特に差し迫った理由は無いのかもしれない。
私の身に宿る呪術は、それだけで大国の戦力に相当する威力を有する。

まさしく戦う為――殺す為だけの呪術だなのだから。

――いずれにせよ、捕まるわけにはいかない。

もう少し奥に到達できれば流石に追って来ないだろう。
希望的観測が多分に含まれていることは否定できないが他に手立てもない。

炎槍が再び近くの樹木を焼き貫く。今度は二本だった。

もしもあの一撃を頭部に被ったとして。
死を求めるほどの激痛こそ感じはするが終焉を迎えることはない。
髄まで灰にされても無事だ。実際に無事だったのだ。

蒼白い雷を纏った矢が足下に刺さった。
派手な呪術ばかり使うのは、威嚇行為で私が投降するのを算段してのことだろう。意味の無いことだ。

おそらくは姿や音を誤認させる呪術などを発動させているのだろうが、それでも余りに慎重さが足りない。
人間の紛い物の呪術で耳長の目を欺くのは、猿が人間になりきる事よりも難しい事だ。

それに、先ほど放たれた炎槍や今の雷の矢は幸運なことに山火事を引き起こすようなことは無かったが、そのような可能性を考慮するべきだ。
エルフたちの逆鱗に触れる事が、これ以上無い禁忌で有ることは重々に承知しているはずだ。

――大虐殺。

まだ風化していないで記憶しているはずだ。
そもそも忘れてはならないのだ。

前方に一際大きな黒い塊が有った。全容が掴めない程に巨大な影だ。
おそらくは倒木が幾重にも重なったのだろう。
傲然と居座るような影は、城壁のように高かった。

一秒にも満たない思案の後、私は巨大な塊を跳び越える事を決めた。

私に宿る呪術の威力の一端を垣間見させることで、追跡する気力を喪失させることが目的だ。
それに、仮に追跡を続行するとしても相当の時間稼ぎになるはずだ。

全身に意識を巡らせる。
足の爪先から髪の毛一本一本の末端まで。

――月であり蛇。

私という存在の濃度が増していくのを感じる。

――千の穢れ無き女。

そしてこの身体は私のものでは無いのだと再認識する。

――血化粧。

全身に巻き付いた蛇のような紅の刺青が発光を始める。

――狂おしく愛した人。

久方振りに目にする真紅の光は、自分でも身震いしてしまいそうなまでに禍々しかった。

――紅い鬼。

蔦と倒木で形成された塊の真近まで来て私は地を強く蹴り、斜め前方に跳んだ。

およそ常人では有り得ない跳躍力を発揮する。

数瞬の後には、私は天然の壁よりも悠に高い地点にいた。

斜め後方にいる男たちが放った幾つかの呪術が、体の脇をすり抜けて行く。
しかし、そんなものはどうでも良かった。

私は天を駆けている。

このまま満天の星々の一つになってしまえればどれだけ幸せだろうかと考える。

古き時代に信仰されていた神々。その名を授かった星の図形。
私もそれらを形作る一つの光になれたら――

しかし、私の体はある地点まで上りつめた後、再び地に吸い寄せられる。

やはり私は自然の理に囚われたままだった。

落胆を抱えながら下方に視線を向けた私は、自身が或る問題に衝突したことに気付いた。

自然と顔が曇る。それから諦念の溜息を吐いた。

世界には不変の法則が有る。

太陽は登っては沈む。

月は満ち欠けを繰り返す。

季節は巡る。

人間は戦争をする。

そして、宙に放られた物体は地に落ちる。
私だってその例に漏れない。

問題は高さだ。
予想される落下地点は、跳躍した地点よりも遥かに下だった。
私は断崖から飛び降りたのだった。

頭の中で算用する。
私の身に宿る呪術を駆使すれば落下の衝撃を相殺できるだろう。
しかし耳長どもに存在を悟られるわけにもいかない。

仕方なく私は、両腕を大きく広げて無防備のまま墜落していく。

痛みに耐えるのは一時的だ。
四肢が千切れても死ぬわけでは無い。

しかし時に痛みというのは、死んで解放されたいと思うほどに辛いものである事も少なくない。

不死身の難儀さは文字通り身に染みているのだ。

地面がすぐ近くにまで差し迫っている。

現実から逃避するように、私は眼を閉じた。




意識が継ぎ接ぎの布切れのようだ。

落下の後、すぐにその場を後にした。
溢れた臓物は今では元通りに復元されている。
痛みも消えた。

肉体は人間の理から逸脱していた。
しかし、精神は脆いままで、相も変わらずに疲弊して睡眠を欲する。

……眠るのは怖い。きっと今の私にとって、それ以上に怖い事はない。

小川のせせらぎが聞こえる。
心地良く、疲弊した精神を落ち着かせる音だ。

目蓋が自然と眼球を覆うようになっていた。
甘美な地獄への誘いに私の身体が屈する。

身体を動かすのが億劫で、私は傍らの立ち木の幹に寄り掛かった。

気付けば、もうどれだけ眠っていないのかも憶えていない。
限界だった。

最終地点で踏みとどまっていた力を抜くと、私の意識は容易く微睡みの中に溶けていった。




愛する女性は――コクレアは浴びるように飲んだワインに酔っていた。

「私は永遠に自分を許せない」

自嘲的に呟く彼女の悲しい微笑みが、ひどく細い肩が余りにも儚くて、私は彼女を抱きすくめていた。

「お前は優しいな」

そんなことは断じて無かった。

私は酔いのために露呈している彼女の弱さに漬け込んだだけだ。

その姿態を、心を独占したかった。彼女の全てを私だけのものにしたかった。

その肌に触れるだけでも私は涙が零れる程に彼女に飢えていた。

蛮族よりも野蛮で、蛮獣よりも凶暴な、獣以下の最低な悪鬼だ。

彼女の香りを胸いっぱいに吸い込む。

芳醇な甘い匂いがした。

甘い匂いは、次の瞬間には血の臭いに変わっていた。

蹂躙され尽くした街。夥しい屍体。

私が滅ぼした街の一つかと思ったが、屍体から鑑みるに違っていた。

屍体は中と外が『ひっくり返って』いる。

内臓や骨が表皮の外側に露出しているのだ。

しかも生きている状態で『ひっくり返した』らしく、まだ心臓が微かに動いている者もいた。

人間にできる業では無かった。

気付けば背後に誰かが立っていた。

私は振り返る。

――ああ、そうだ。

私はその姿を視認できなかったのだ。

振り返るよりも先に、私も『ひっくり返された』から。

肉の塊と化した私は、肉の門の前にいた。

私は此処が地獄であることを知っている。

門から生えた手が蠢いていた。
私はその数を知っている。

二千二本でないことを痛切に乞う。
祈る神が居ないとしても。

無数の手が私を?む。手繰り寄せる。
これは冥界の門。私の霊柩。私が清算すべき業。

「大丈夫ですか」

知らない声が聞こえた。
透き通った水のような、静かに通り過ぎる微風のような声音だ。

――神の声?

声は女性のものだ。父なる者ではないだろう。

しかし、この私にとっては神と等しい――神よりも尊い声だった。

肉の門が遠ざかっていく。

私もまた導かれていく――




陽光が目蓋を透過して、私の網膜を刺激していた。
右手で両眼を覆いながら数度瞬きをして、具合を調節しようと試みる。

覚醒したばかりの思考は朧で、正常に機能しないが、取り敢えずは上体を起こし、現状の把握を開始する。

質素な室内。小さな丸い窓。
寝心地の良いベッド。手触りの良いリネンのシーツ。燭台。

「起きられたようですね」

声をかけられて初めて、ベッドの傍に誰かがいることを認識した。

聞き覚えのある声だった。

彼女の姿を視界に入れてから暫らくの間、私は呆けていた。
警戒も不安も忘れて見惚れていたのだ。

人間では無かった。人間の持ち得る美貌では無かった。

エルフの事を妖精と形容する者も多い。
それは彼等の性質を指している事も有るが、多くはその外見を示唆しての事だ。

どこまでも白い肌は陶磁器などでは比較にならない程に艶やかで、その物腰は視線を引き寄せて離すことを許さない。

双眸は閉じられていて、彼女という存在の全容を隠している。

それでも人間より少し大きい尖った耳が、彼女が何者なのかを示していた。

「初めまして。体調はよろしいですか?」

彼女はやはり柔和な声音で訊ねた。

私は上手く言葉を紡げない。
まるで、形の良い口から零れる言葉に酔ってしまっているようだ。

戸惑いながらも、私は良好である事を告げて、どうして自分が此処にいるのかを問う。

「女中と連れ立って朝の散歩をしている時に、精も根も尽き果ててお眠りになる貴方様を見つけまして、このように介抱していた次第でございます」

彼女は木漏れ日のように穏和な微笑みを浮かべて答えた。
悪意も敵意も感じられない表情だ。

教会に掲げられた聖母が脳裡に浮かんだ。
天窓から注いだ陽光を纏ったその微笑が。

訊きたいことも訊かなければいけない事も仰山あった。
しかし次々と浮かぶ疑問に、私自身の処理が追いつかなくなり口ごもってしまう。

「失礼します」

おもむろに彼女は両手で私の腕に触れる。
それから上へと伝っていき、肩を超え、首を撫で、やがて顎へと触れた。
更に頬、鼻、唇、額、眉と顔面のあらゆる箇所を両手でなぞる。
その様子は自作品の具合を確かめる彫刻家のようでも、美しい旋律を奏でる音楽家のようでもあった。

やがて、彼女は静かに手を遠ざける。
そして目を瞑ったまま言った。

「素敵な顔ですね」

やあやあ我こそは子宮を壊すことに定評の有る>>1なり。
たぶん大長編です。
更新頻度は遅くなるでしょうが、死なない限りエタることはないのでお付き合いいただけると幸いです。




窓とは反対側に位置する扉が開いた。
眼を向けると、少女が顔に恐怖を滲ませながら私を睨んでいる。

整っていながらも、あどけなさが残る顔立ちだ。
そして、この少女もまたエルフの特徴を備えていた。

少女を見つめた時に何か違和を感じたが、それは直ぐに消えてしまい一種の不快のみが残る。

この少女が先ほど彼女が口にした女中なのだろう、と私は見当づけた。

少女は私とエルフの女性を交互に見やる。
私には怯えと警戒の瞳を以って、彼女には不安そうな瞳を以って。

「お入りなさい」

美しいエルフは扉の方へと顔を向けて少女に言った。
相変わらず彼女の双眸は閉じられている。
彼女は眼が見えないらしい。

少女は高くか細い声を出した。
それは私の知る言葉では無かった。
おそらくはエルフ固有の言語だろう。

むろん少女が自身たちの固有言語を用いるのは至極当然のことだ。
むしろ傍に座す女が人間の言語を流暢に話す方が異常なのである。
あまりに自然な発音で、彼女が私たちの言葉を話していることに違和感を覚えなかったほどだ。

盲目のエルフは、やはり私の解せぬ言葉で少女に何かを伝える。

こんなファッティなssを読んでくれている人がいたら甚謝します。
不満等が有ったら改善したいと思いますのでお気軽にどうぞ。

風呂から上がった後、私はフィリアに此処から立ち去ると伝えた。
私が長居すれば彼女たちに迷惑をかけることになるからだ。

「お気遣い頂かなくても結構ですのに……」

彼女は困ったような微笑みを浮かべる。
このエルフは喜怒哀楽を全て微笑みで表現するのかもしれない。

私は深々と頭を下げて、部屋を後にした。

表口に出る途中で少女とすれちがった。
やはり少女から何かしらの違和を感じたが、その正体は掴めない。
彼女は私に一瞥をくれたがすぐに目を逸らし、逃げるように私の横を駆けすぎていった。

表口から外に出て直ぐに、借りた服を着用したままでいることに気づいた。

このまま貰っていく訳にも行かず、私は着物を返却して元の粗末な服に着替えるため、再び扉の把手を掴んだ。

その次の瞬間には、私の身体は地に伏していた。

側頭部に鈍痛が走り、視界は幾重にも歪んでいた。

頭部に甚大な衝撃を受けたのだと理解するまでにかなりの時間を要した。
また、何者かに頭を踏まれていることに気付くのも。

私は手を動かして頭を踏み付けている足を払おうとした。

「……人間は脆いと聞いていたが、存外丈夫らしいな」

凛とした声が上から降り注ぐ。

耳が捉えたのは私の知らぬ音の羅列だが、頭の中では意味を持った言葉になっていた。

おそらく伝達を操作する呪術を行使しているのだろう。
それは鈍痛と相俟って奇妙な感覚を私を与える。

声に応える間も無く、二度目の衝撃が私の頭部を襲う。
痛みは無かった。
あまりに強い衝撃を受けると脳は痛覚を暫時遮断するものだ。
今も例外では無い。

衝撃のあまり視覚器官が正常に機能しなくなり、再び光を感受するまでに結構な時間がかかった。

地面に飛散した脳漿が、赤く染まった視界に入る。

私が常人ならば、おそらく二度絶命したのだろう。

私は身体を奮い立たせて跳ね起きた。
私が未だ存命なのに驚愕したのか、相手は大幅に距離を取った。

「……劣悪種の分際で呪術を刻印してるのか」

目前に佇んでいるのは、長身の女だった。
私が今身につけている衣服はおそらく彼女の物なのだろう。

彼女もエルフのようだ。
しかしフィリアや少女と異なり、その肌は浅黒く、幾分か目が吊り上っている。

「……答えろ。その呪術をどうやって手にした?」

葡萄酒のように紅い瞳が私を睨みつけていた。

私は如何な言葉も紡げなかった。
息が上手く吸えなくなるほど、感情が昂ぶっているにも関わらず。

全身が慄え、立ち続ける事さえままならない。
脳漿はもう既に頭蓋の内側へ戻ったはずであるのに。

「その紅の刺青。それは術式だけ確立されたものの、使われる事の無かった呪術じゃないのか?」

彼女の刺々しい声音が頭の中で幾度も反響する。
痛いほどに耳鳴りがして、彼女が何を言っているのかよく分からない。

「……お前、泣いているのか?」

言葉につられて頬に触れる。
透明な雫が指を濡らしていた。

唐突に表口の扉が開く。

「こら。何をしているのですか」

盲目のエルフが少女に支えられながら家屋から出てきた。
長身の女に向けられた彼女の顔と声音は険を帯びている。
怒る時は流石に微笑まないらしい。

「『これ』は人間の中でも特に危険らしい。お前は盲だが、これが危険だという事は気づいてるはずだ」

「私は貴女に『何をしている』のかを問うているのです」

浅黒い肌の女はたじろぐ。
その様子から、フィリアの方が彼女よりも立場が強い事が見て取れた。

「……これは人間のくせに極めて凶悪な呪術を刻んでる。だから、危険だと判断したんだ」

「同じ事を三度も言わせないでください。『何をしている』のかを訊いているのです」

黒エルフは観念したというように肩を竦めた。

「……殺そうとした。二回ほど。しかし私はお前の事を案じて――」

「紅鬼様、お怪我はございませんか?」

彼女の言葉を遮るようにして盲目のエルフは私に労わりの声をかける。
長身の女は親に見放された子どものような途方に暮れた面持ちになり、それから私を視線で殺せそうなほどに睨み付けた。

「あら? お泣きになっていらっしゃるのですか? それに震えておられるようですけれど」

私は眼の雫を掌で払う。涙はまだ止まらない。

「そのご様子だと何やら理由がお有りのようですね」

彼女は光を喪っているのに、どうして私の様子に気付けるのかを訊ねた。

「眼が視えなくても、感じる事はできますから」

私は彼女の言葉の意味を理解できず曖昧な声を漏らした。

「……人間なんて醜悪な存在だ。チビ、お前はよく知ってるだろう?」

黒エルフの女は吐き捨てるように言って、同意を求めるように少女を見る。
少女は俯きながらも微かに肯いた。

「……お二人が人間を嫌うのは尤もですが、だからといって紅鬼様に罪が有るわけでは無いでしょう」

それは分からない、と私は思った。

「……『それ』は私たちが忌避する獰悪な呪術を身体に宿してるんだぞ。私たちに無関係な人間であるわけがない」

「紅鬼様のご事情を知らないのに決め付けるのは早計です。だいたい『それ』とは何なのです。倨傲な態度を取るのもいい加減にしなさい」

フィリアにきつく諌められ、黒エルフの女は歯がみした。
その仕草は、やはり幼子がするそれに似ていた。

「……人間は悉く悪だ」

自分に言い聞かせるように彼女は言った。

彼女の声を耳にしている内に、私は頭痛がしてきた。
依然として身体は震え、吐き気すら催している。
まるで感冒にでも罹ったようだ。

「……ご気分が優れないようですね」

私は言葉に詰まり、くぐもった声を出す事しかできなかった。

「……彼女が関係しているのですか?」

盲目のエルフは黒エルフの女に顔を向ける。

「……私は心当たりないな。有りたくもない」

心から忌々しげに黒エルフは言った。

私は再び目頭が熱くなるのを必死に食い止めていた。
片手で両の眼を覆い、歯を食いしばる。
これ以上無様な姿を晒したく無かった。

「……紅鬼様、お行きになる処が無いのでしたら此処にお住まいになってください。小さくて粗末な処ですけれど」

彼女は私が思ってもみない事を提案する。

「……何を言ってるんだ。白痴にでもなったのか」

長身の女は吐き捨てるように言って私を睨み、

「……」

エルフの少女は怯えと不快感を綯い交ぜにした顔で私を見つめていた。

「貴方様はそう為さるべきでしょう」

盲目の女は確信に満ちた顔で断言する。

「……お前の酔狂にはついていけない。私がお前の酔狂で助けられた存在だとしても、だ。振り回される私たちの身にもなってくれ」

「あら、貴女たちの為でも有るのですよ。紅鬼様は必ず貴女たちにも素晴らしい影響を与えます」

「……根拠は有るのか?」

フィリアは微笑みながら「勿論です」と肯いた。

「貴方たちの幸せそうな顔が視えましたから」

それは酷く曖昧な理由で理由とも呼べない代物だったが、彼女の声と姿はそれを頷かせるだけの説得力を有していた。

私と同じ事を感じたのか、黒エルフも少女も閉口する。

「紅鬼様、どうなさいますか? ご選択ください」

彼女は私に顔を向ける。

私は、彼女の目蓋の奥ではどのような瞳が輝いているのか想像しようとした。
しかし納得できる物を想像する事はできなかった。
どのような瞳でも似合うようで有ったし、どのような瞳でも彼女にそぐわない気がしたのだ。

おそらく、もっと共に過ごす時間が必要なのだろう。

――悪くないな、と私は言った。

早く投下できるように頑張ります。
おやすみなさい。

二年ぶりくらいにFF13をしてみましたが、ライトニングさんはネットでネタにされてる時の方が可愛いと思いました。

乙乙

結構読んでる人いると思うよ

楽しみにしてるから頑張って

ゆっくり待ってます

>>70
読んでくれて乙乙

>>71
期待にこたえられるよう頑張ります

>>72
いや、ほんと有難うございます

散歩から戻った後、フィリアは作業場に入って仕事に取り掛かった。

はたが小気味の良い音を鳴り響かせる。

彼女は機織り得意で、私たちが着用している麻の衣類は全て彼女が作った物だそうだ。

彼女の機織をする姿は優美で、私は少し離れた位置に立って、それに見入る。

自身に課せられた家仕事は既に片付けており、昼食の時間までは暇だ。

フィリアは緯(よこ)糸を縦(たて)糸に繰り返し挿入している。
光を失っているとは到底思えないほど鮮やかな手際だ。

伏せがちな面は、真剣味を帯びた、それでいて幸せそうな微笑みを湛(たた)えている。

彼女が織っているのは絹布だ。
もともと高級な代物だが、エルフの手で織られる事でその価値はいっそう増す。

何故ならば、エルフが機織する際に漏れ出る尋常ならざる力が絹の光沢、手触りを高めるからだ。

『靡絹(びけん)』と呼ばれるその絹は、悪魔的存在であるエルフの手による物であることから、教会ではそれの所持、及び売買が禁止されている。

しかし本当に素晴らしい物は、不当に批判するのは容易だが、それを渇望する人間を説き伏せるのは非常に困難だ。

故に、教会の勢力圏の国々においても密かに流通し、その希少性もあって法外な値段で取引されている。

上級貴族が靡絹を欲するあまり破滅したという逸話も残っているほどだ。

その有用性を示す説話も多い。

靡絹は、羽毛の如き軽さに、強大な魔獣の爪牙にも耐えうる強靭さを備えていると云われ、着る者は人智を超える力や全知を手に入れるとも語られる。

エルフのように異様な術を行使できたという話の殆どは虚偽であろうと呪術の基本を学んだ今では思う。

呪術の道理に合わないし、話にはえてして尾ひれが付くものだ。

しかし全知は大仰だとしても、着用する者の視野を明瞭にし、思考を洗練したりする可能性は個人的には有るように思える。

少なくとも織られる際に変質している可能性は高い。

小気味の良い音は断続的に続く。

彼女の作品は大部分が出来上がっていて、もう数日で完成を遂げるだろう。

完成品はおそらくエルフたちの間で流通するのだろう。

昨日訪れたエルフが関わるのかもしれない。
彼は慈善のみで食料を供給しているわけではなく、一応対価も払っているらしい。

小休止しているフィリアに訊ねると、

「いえ、これは人間の方と物々交換するための物でございます」という答えが返ってきた。

興味が湧き、更に発問しようとしたところで、混血の少女が作業場に入って来る。

その眼は少し吊り上がっている。

「こら。お昼を作る時間でしょ」

言われて切り窓を見れば、陽はだいぶ高い位置にあった。

いつの間にか正午近くになっていた事に些か驚く。

「あらあら、もうこんな時間。確かにお腹が空きましたね」

「すぐに作るから。ほら、行くよ」

私は少女に続いて部屋を出る。

後ろから可愛らしい腹の音が聞こえたが、聞かなかったことした。




私は慄然としていた。

陽は西に沈み、残照のみが光源であるため辺り一面の輪郭は不明瞭だ。
そのため眼前の女の表情も詳しくは窺い知れない。

しかし強烈な臭いが私の鼻腔を刺激して私を慄かせる。

むせ返るような血の臭いが。

夥しい死体が深い穴の中に集積されている。
随分と粗末な墓穴だ。

「“これら”は昨夜に近隣をうろついていた。人を探るような様子でな」

黒エルフの女が言語の差異を取り除く魔術を行使して私に話しかける。

「どうせお前を探していたんだろう。……まあ、それは一旦置いておく」

彼女が穴の縁に引っかかっていた死体の一つを蹴り落とす。

肉が打ち付け合う音が響いた。

確かに“彼ら”は私を追蹤していた男たちであった。

彼女が昨夜に疲弊した様子だったのは彼らを始末していた為らしい。

それとも巨大な穴を掘っていたからか。

「これらは呪術を宿した道具を手にしていた」

彼女は私に小さな白っぽい欠片のようなものを放る。

掴み、眼を凝らして見てみると、それは歯であることが分かった。
おそらく人間の犬歯だ。
指先で表面をなぞると、凹凸が確認できる。

「……しかも、ただの呪術じゃない。何なんだ、これは?」

彼女は自問するように言った。
その声音には怒気、そして怯え。

「あまりにも禍々しい怨恨、憎悪、悲愴、絶望。
どうやったら、ここまで恐ろしい物を作れる?」

まったく分からないと言うように彼女は首を振る。
怯えの原因はそれらしい。

この歯には雷を放つ呪術が宿っている。
この呪術具の作成方法は知っているため、彼女へ仔細に語ることにした。

おそらく彼女は人間に対して無上の侮蔑の念を抱くだろう。

しかし、彼女には知る権利が有るし、私には話す義務が有る。

犬を鎖に縛り、極限まで飢餓に追い込んだ状態で肉を見せる。

そして、死力を振り絞って肉に食らいつこうとする犬の首を斬り落とす。

その首数十個を埋めた土の上で、電気を放つ効果器を備える魔獣に数百匹の毒虫を食わせる。

魔獣が辛うじて生きていたら、扼殺した処女(おとめ)から犬歯を抜き取り、魔獣の脳天に突き刺す。

数日後に、生き絶えた魔獣から歯を抜き取り、刻印を彫りこんで完成する。

「……もういい。その汚い口を閉じろ」

処女は扼殺前に極限まで拷問を加える。
歯以外の部位を削り落とし、感覚器官に強烈な不快を与え続ける。

終盤には白痴と化し、窒息して苦悶に顔を歪めながらも口が笑っている状態になる。

「口を閉じろと言った! ……お前たちの醜悪さは嫌というほど分かった!」

語気を強める彼女に対して私は首を振る。

今の呪術は人間の醜悪さの片鱗に過ぎない、と私は言った。

彼女は途方に暮れたような顔で私を見つめる。
それから俯き、小さな声で呟く。

「……お前たちが扱っているのは呪術などではない。
あまりに許し難い、万物への愚弄だ」

その通りだ、と私は思った。

黒エルフの呪術は万物からの畏怖を触媒として発動している。

しかし人間の呪術はどこまでも悪感情の塊を触媒とする。
そして、あまりにも大きい犠牲の上で成り立っている。

私の体に宿る呪術もその例外ではない。

「……確認させろ。人間に呪術を教えたのは――」

彼女は消え入りそうな声で言う。

「教えたのは――」

次の言葉を出せない彼女のために、私はその名を口にした。

――コクレア、と。

「……なんで」

彼女は両手で頭を覆う。呟く声音は幼い少女のようだ。

しばらくその状態で硬直し、

「……あの女は何処にいる? 殺す。殺さなければいけない」

熱病にうなされたように「殺す」繰り返す。

「私はあの女に全てを狂わされた。壊された。奪われた」

よろめきながら私に近づき、胸ぐらを掴む。
暗がりの中でも、その顔色が悪いのが見て取れた。

「答えろ。答えろ! 何処にいる! 何処にいる!! 答えろ!!」

半狂乱になりながら彼女は叫ぶ。

もういない、と私は告げた。

事実だ。

彼女は暫時沈黙し、

「……なんだ、死んだのか」

私の胸ぐらから手を離し、平坦な声で呟いた。

「あははは、そうか、そうか」

それから渇いた笑い声をこぼす。

心を圧し潰そうとする様々な感情を吐き出そうとするように、笑い声はいつまでも続いた。

どうでもいいけど、13-2が可哀想なほど安かったので買ってみました
13-3らしきものも出るそうですね
スクエニ、ライトニングさん愛し過ぎワロタ
おやすみなさい

FF13-2面白いのには

まだかなー

13-2やってるんじゃね

遅くなりました、ホントすみません。

>>83
たしかに前作よりは面白かったです。
でもあのEDは無いと思います。

>>84
本当にすみません。ゴミ屑な>>1ですみません。
次は待たせないように善処します。

>>85
仰る通りです。
でも、もうシークレットEDまで見たのでしばらく起動することは無いと思います。
やっぱりあのEDは無いと思います(大事なこと)。




「ねえ、いつもよりボーッとしてない?」

夕餉の準備中、少女が私に尋ねた。

いつも同じようなものだ、とぞんざいな口調で言うと、

「……それもそっか」と彼女は納得してしまった。

彼女は煮込んでいる具材に火が通っているのを確認する。

「ん、だいじょうぶ」

少女はうなずき、皿に料理を盛ろうとして、

「いたっ……!」

顔を歪め、片手で側頭部を押さえた。

そして熱された鍋の方へ倒れそうになる。

「あ……」

少女が鍋に倒れこむよりも僅かばかり早く、私の手が彼女の痩身を引き寄せた。

私の胸に寄りかかった彼女の体は、想像以上に小さく、私は些か驚く。

彼女は幾秒か放心した様子で私に寄りかかっていたが、正気に戻ったのか直ぐさま身体を離した。

大丈夫か、と私は訊ねる。

「……ん」

彼女はやや頬を赤らめて小さく肯いた。
男に直接触れた経験が殆ど無いのだろう。

「……なんだろ。急に痛くなった」

暫らくの間、彼女は不思議そうに側頭部を触っていた。

就寝前、私は夕べに起きた出来事の顛末をフィリアに語った。

卓上の燭台には、だいぶ短くなった蜜蝋が頼りなげに灯り、私たちを光りの繭で包むように照らしていた。

フィリアは私の向かいの席に座って、神妙な面持ちで私の話に耳を傾けている。

少女は先に眠ってしまい、黒エルフの娘は母屋に戻って来ないままだ。

「そのような事がお有りでしたか」

全てを聴き終えた後、彼女は憐れむような微笑を浮かべた。
やはり聖母のような微笑みだ。

「その他にもあの娘に何か言われましたか?」

「この家から出ていけ」と言われた事を彼女に伝える。

私がいたら危険が迫るのだ。
娘の言い分は尤もだろう。

「どうなさるお心積もりですか?」

すぐにも出て行くつもりだ、と私は言った。

これ以上この場所に留まれば、フィリアや少女、あの娘まで危険に晒してしまう。
それは避けねばならない。

「――それで良いのですか?」

彼女は神妙な顔で問う。
子を諭す母親のような声音だった。

「貴方様の御力ならば私たちを守る事も可能では有りませんか」

私は口ごもってしまう。

確かに私に宿る呪術は強大で、敗れることは決して無い。
しかし、如何なるときも必ず彼女たちを守れる力では無いのだ。

私が此処に居座るよりも、私が別の場所で発見された方が彼女たちが安全なのは明白である。

「……しかし、最も重要なのはそこでは有りません。
貴方様の御心です」

どういうことだ、と私は言った。

「私は貴方様の罪が具体的に如何なものかは存じません。
このまま此処を去るのは逃げることと同じでは有りませんか?」

そうなのだろうか。

「よくよく御自身をお見つめください」

そう言ってから、彼女は私の心を逆撫でするような一言を口にした。

「そもそも、貴方様は御自身の罪とやらを正確に把握なさっておいでですか?
私にはそう見えないのですけれど」

馬鹿な、と私は言葉を漏らす。

この上なく侮辱された気持ちになり、何と無神経な言葉だと怒りが湧き上がった。

しかし、反論の言葉は出てこなかった。
認めたく無かったが、全く以って彼女の言葉通りなのだ。

この十年間、祖国から逃亡を続けて来た。

そして自分の罪からも逃げていたらしい。
私にとって最重要な事柄であるにも関わらず深く考えるのを避けていたのだ。

数多の人間を殺しながら、私は惨めなまでに怯懦であった。

十年来、殆ど『血化粧』を行使しなかったのも、罪を少しでも自分から遠ざけ、自分自身を見つめ直したくなかったからだろうか。

どれだけ時間を経ても、私は何にも向き合わず、独善的に己の罪を裁量していた。

私は、自分からも逃げていたのだ。

そして、また逃げようとしている。

「出過ぎた事とは重々に承知しております。
しかし、私は貴方様の幸せを願っているのです」

蓋(けだ)し彼女の口調は押し付けがましいものではない。
私を深く思ってくれていることはひしひしと伝わる。

私は己の掌を眺めた。
巻き付くような紅い斑紋は胴のものに比べて細い。

千と一人の女の血によって生み出される呪術。
原罪よりも重い私が背負わなければいけない罪。
幾ら逃げても逃げ切れないもの。

私は立ち上がり、己に与えられた部屋に向かう。

惑乱した胸中を持て余す状態は辛く、苦しかった。

盲の女は見守るように、ただ沈黙していた。




部屋に戻り、寝台に潜りこんだが、眠気は訪れない。

それどころか頭の中はいやに明瞭で、思考が巡る。

フィリアの言葉、コクレアの顔。

娘に贖罪をしたいという思いはあった。
それなのに、甚だ恐ろしい考えが脳裡を掠めた。

――私が娘に償うことは何も無いのではないか?

彼女は人間を嫌悪している。そしてコクレアを憎んでいる。
そして私は人間であり、呪術を身に刻み、コクレアと関係があった。

しかし、憎悪の対象にこそなれど、私が贖う事など無いのではないか。

そこまで巡ったところで、思考を断ち切る。


そして、あの娘の壊れたような笑顔を脳裡に浮かべる。

どのような感情が彼女をあのようにしたのだろうか。
決して憎しみだけでは無いはずだ。

コクレアを自分の手で裁くことの出来なかった失望か。
それとも、やはり心底では彼女を愛していたのか。

いずれにせよ、あの壊れた笑みが生まれた要因に私が関わっていることは確かなのである。

掌を上に掲げる。
紅い斑紋は深い暗闇のせいで見えないが、その存在感は逆に昼間よりも強く、身体に異物を飼っていることを改めて実感した。

私は寝台から起き上がる。
娘と話をしようという思いが俄かに強まり、抑えきれなくなったのだ。

罪から逃げたくなかった。
私には罪を正しく裁量する義務がある。

彼女と話をすることが最も手っ取り早く、最も正確な方法だ。

彼女は未だ家の中に戻っていないようであるから、屋外に向かう。

私の眼前一面に広がっているのは重厚な暗闇のみで、部屋のドアまで辿り着くのにも相当な時間を要した。

外は月と星が出ているため屋外よりは幾分明るかった。
それでも眼を凝らしてようやく物体の輪郭を捉えられる程度である。

私は離れの小屋に向かう。そこに娘がいるはずだ。

春の夜はまだ寒く、吐く息は微かに白い。

私は何度か手に息を吹きかけた。
寒さ故の行為ではなく、自分の心に熱を吹き込もうとしての行為であった。

小屋からは仄かな光りが漏れていた。
また、何かを打ち付けたような硬質な音が響いている。
彼女はまだ起きているらしい。

突如足が動かなくなった。
心臓が痛いほどに早く脈打ち、呼吸が荒くなる。

恐怖を覚えているのだ。
かつて、如何な戦場でもここまで恐れることは無かった。

しかし、今の私は幼児のように情けなく怯えている。
俄かに湧き上がり、私をここまで突き動かした衝動は消え去っていた。

引き返してしまおう、と私の心が甘く囁く。
そして、東雲(しののめ)の刻にひっそりと立ち去ってしまえば良い。
それからまた終わりなき流浪の旅に出るのだ。

私は母屋に戻ろうと踵を返した。

――それで良いのですか?

ふとフィリアの声が脳裡をよぎった。

思わず自嘲的な笑いが口から溢れた。
私は無意識的に再び逃げようとしていたのだ。

私の中で何かが弾けるのを感じた。
それは怯懦の心であった。

代わりに戦場での昂揚に似た昂ぶりが体の芯から湧き出てくる。
久しく潜んでいた勇敢が鎌首をもたげた。

私は凛然たる心持ちで、彼女のいる小屋の扉を開いた。

照明が煌々と室内を照らしている。

その中で、彼女は木槌を神経質そうに振るっていた。
槌と鑿(のみ)を使って彫り物をしているらしい。
打撃音の正体はこれらしい。

彼女が工芸に秀でていることはフィリアより聞いていたが、作業している姿を見るのは初めてであった。

私の位置からは彼女の顔が見えないが、相当に熱中しているらしく、小屋の扉が開いた音にも気付いていないようだ。

怖気付いたわけでは無いが、その真剣な姿に声をかけるのが憚られる。

彼女が彫っているのは、思わず恐惶してしまいたくなるような異形の存在だった。

憎しみに歪んだ人の顔を持った悪魔的な形(なり)をした怪物の彫刻である。

しかし、その彫刻には憎しみだけでなく、怒り、威厳、そして曰く言い難い哀しみが有った。

首から下はまだ彫られておらず、完成には程遠いのだろう。
それでも、私は無意識に感嘆の声を漏らしていた。

そこでようやく彼女の手が止まった。
私の存在に気付いたらしい。

果たして、彼女は憎悪が多分に入り混じった眼を私に向けた。

急にすまない、と私は言った。
言ってから、まだ言葉が通じていないであろうことに思い至る。

先ずは言葉の壁を取り払ってくれるように頼むところから始めないといけない。

「……何の用だ」

しかし、幸運なことにも彼女は簡単に呪術を行使した。

私は何と切り出せばよいか咄嗟に浮かばず沈黙してしまう。

「出て行くつもりになったのか? ならば二度とこの地に――」

違う、と私は言って、彼女の言葉を遮った。
反射的に飛び出た言葉に私自身驚く。
これが私の本音なのだろうか。

彼女は自分を狙う猛獣の接近を警戒する狩人のような目付きになる。

ふと後ろから猫の鳴き声が聞こえた。

私が振り返る前に、黒猫が私の足元をしなやかに走り抜けて行った。

再び顔を戻すと、艶やかな黒い毛並みをした猫が彼女の足元にいる。

黒猫は灯りを反射させた爛々とした瞳で私を見つめていた。

単眼であった。

本来鼻が有るべきところに大きな瞳があり、鼻は見当たらない。

異形の黒猫は私を凝視している。
私も黒猫から眼を離せなかった。

恐怖や好奇と言った感情は湧かなかった。
その美しき肢体と、気高く理知的な瞳に惹きつけられていた。

畏敬の念が不思議と私の胸に満ち、自然と頭が垂れる。

黒猫は彼女の足元を離れ、私と彼女の中間の距離で止まった。

そして私を見つめたまま一声短く啼いた。

「……そいつを認めると言うのか、ニゲル」

ニゲルと呼ばれた猫は私の足元に寄る。
それから私の周りをぐるりと回って、穏やかな鳴き声を出した。

かなり高次の知能を具有しているようであった。

――――――
――――
――

レンガ造りの豪奢な屋敷が王都に聳えている。
その屋敷内の広々とした一室で、老商人はただでさえ小さい体を更に縮こまらせるようにして立っていた。
餌を欲する犬のような媚び諂った顔をしている。

部屋には老商人の他に、革張りの長椅子に座った恰幅の良い中年男と、その後ろに控える長身の男がいた。
屋敷の主と、護衛の男である。

「……素晴らしい出来じゃないか。まさか君のような薄汚い惨めな老人が本当にエルフとの繋がりを持っているとはな。驚きだ」

屋敷の主ルソーはそう口にして、老商人が差し出した靡絹を机に置いた。

宝石や、エルトゥールルを初めとする東からの貿易品など、様々な物品を大規模に取り扱っている豪商である。

その名は国内だけでなく周辺諸国にも知られている。
特に商人の間では悪辣で強引な手段を好む非道的な人物として有名であった。

そんなルソーの言葉に、老商人は愛想笑いを貼り付けたまま何も言わない。
しかし、やや白濁した瞳は眼前の大豪商をいつ出し抜こうかと隙を窺っていた。

「それで、この靡絹の売値は?」

老商人は言い値を告げる。

彼は敢えて本来要求したい額の倍近い値段を要求した。
そうする事で売買の主導権を握ることが出来るからである。

しかし、事は彼の思惑通りには進まなかった。

「ほうほう、そうか。なるほどな」

ルソーは老商人の顔を見据えた。
それから不敵に微笑む。

「分かった。言い値で買おう。ただし、確認させてもらう」

「確認、ですか」

老商人は拍子抜けした顔で言葉を繰り返した。

「靡絹を手に入れるまでの経緯を教えて欲しい。やはり、確かな情報がなければ安心して取り扱えないからな。
商売は信用が無くては始まらない。そうだろう?」

老商人は肯き、盲目のエルフについて出来るだけ事細かくルソーに話した。
尤も、受け取り時の悶着については口を閉ざし、あくまで健全な合意の上である事に置き換えた。
また彼女たちの家に寄宿しているらしき紅い刺青の男については何も言及しなかった。

「なるほど、そのエルフたちは他のエルフからは孤立しているのか」

話しを聞き終えた後、ルソーは目を瞑る。
何かについて熟慮しているらしく、眉間には深い皺が刻まれている。
それから目を開け、振り返りもしないで護衛役の男に声をかけた。

「アルノー、本業だ」

名を呼ばれた男が前に歩み出る。

すらっと背が高く、無駄な肉の無い引き締まった肉体は鍛え抜かれた業物を彷彿とさせる男である。
精悍な顔立ちながらも、その目は何処までも透き通っていて、彼の年齢を差し図るのは困難な事だった。
野蛮というわけでも粗野というわけでもないが、老商人は男から何処か獣らしさを感じた。

アルノーは俊敏な動作で、未だ状況が飲み込めていない老商人の前に立ちはだかると、彼の口全体を掌で覆うように掴み、彼の体を持ち上げた。

そして、伸び切った首筋にもう一方の手の指先を全力で突き入れた。

指先は老商人の弛んだ皮膚の奥深くまで沈み、老商人の生命をいとも容易く絶った。

老人の体は幾度か激しく痙攣した後、直ぐに弛緩した。
顔には凄絶な表情が浮かんでいた。

「相変わらず鮮やかだな」

ルソーは彼の殺人術を称賛し、男の手の中で息絶えた老商人を冷めた目で見遣った。

「代金は払うつもりだったが、死んでしまっては仕方がないな。
アルノー、“それ”の後処理も頼んだ」

男は首肯し、老商人の亡骸を掴んだまま静かな足取りで部屋を去る。

暫しの静寂が訪れる。

やがて、部屋に独り残った大豪商の愉快そうな声がそれを破る。

「盲目のエルフか。……ふふ、金の匂いがするな」




それから一週間が過ぎた。

カルヴァン枢機卿はルソーに招待され、豪華な邸宅の応接間にて彼と対面していた。

彼はいつもの如く赫い衣服に身を包み、十字架の首飾りを下げていた。

「ご足労いただき甚謝します、猊下」

恭しい所作で枢機卿の指輪に口付けする素振りを示した後、ルソーは言った。

カルヴァンはルソーに促されて席に座る。

それから扉の傍に控える男を横目に見た。

新しく雇った者らしく、カルヴァンが初めて見る男であった。
部屋には他にもルソーの使用人やカルヴァンの従者が数人いたが、彼等とはまったく異なった雰囲気を纏っている。

鋭く力強い顔つきをしているが、その瞳は世界の悪意を知らぬ少年のもののように透き通っていた。

その瞳に須臾(しゅゆ)見惚れ、それから正気に戻り、ルソーに顔を向け直す。
肌つやの良い中年男の顔は好んで見たいものではなかった。

「噂では屋敷の中に新しく浴場を作ったそうだな」

ルソーはカルヴァンの言葉ににっこりと笑みをたたえて肯いた。

「風呂を愉しむためにエルトゥールルまで行くのが億劫でしてな。
せっかくだからと百人近くが一度に入れる大浴場を作りました」

カルヴァンはルソーの言葉に難しい表情を浮かべた。

彼等が信仰する教えでは風呂は贅沢で悪しき文化である。
また医学的にも入浴は体の“孔”を広げ、病の元を取り込みやすくなると考えられており、軽い水浴びや水拭きのみが推奨されている。

そのため高い身分の者は体臭を隠すためにこぞって香水を付ける。
カルヴァン枢機卿もその例にもれない。

それにしても、とカルヴァンは驚きとも呆れともつかない心持ちでルソーを見る。

エルトゥールル式の風呂――蒸し風呂を建設するためには設計士や建築士を遠い異国から大量に招致する必要がある。
莫大な費用がかかることは間違いない。

ルソーはそれを殆んど気まぐれに近い感覚で実行してしまったのだ。

「相変わらず隆盛しているようだな」

「ええ、万事順調ですとも。これも単(ひとえ)に猊下のご威光あってのものです」

「私は何もしていないさ。其方の才覚が築き上げた栄華だろう」

社交辞令に辟易としながらも、カルヴァンは微笑みを崩さない。

ルソーはカルヴァン枢機卿の後援によって大豪商としての地位を不動の物にしている。
またカルヴァンも彼より巨額の資金を教会への寄付という形で受け取っている。

尤も彼はそれを自己の懐にしたことはない。
実際に教会の寄付にすることも有ったが、金品の殆んどは国家予算に充てた。

というのも、現グラン国王は『空費王』という不名誉な異名を諸国に轟かせるほど浪費癖の酷い男であったからだ。

かたやエルトゥールルの帝王は『壮麗王』として高名なのが尚更カルヴァンを心苦しくしている。

グラン国の実質的指導者は宰相を務めるカルヴァン枢機卿であったが、彼としては一刻も早く名実共に王が国を治める健全な王制国家を熱望している。
その時を待ち望んで、彼はグランを存続、発展させようと尽力しているのである。

「本日は猊下から国王陛下へとお渡しなさっていただき物がございまして、お呼びさせていただきました」

ルソーの言葉を継ぐように、使用人の一人が高価そうな布で梱包された物品をカルヴァンの目の前に置いた。

その後ルソーは手振りで使用人に退室するよう命令したため、カルヴァンも従者に別室で待機するように促した。

最後に退室した者が扉を閉めたのを確認してから、ルソーは梱包を外した。

「……これは、靡絹か?」

カルヴァンは目を瞠って露わになった絹織物を見る。

この世の物とは思えない煌びやかな絹の着物に、金糸でグラン国王朝の家紋が刺繍されている。

「素晴らしい……」

枢機卿は茫然自失として呟いた。
靡絹が教会にとって忌むべき対象であることさえ一瞬忘れてしまっていた。

「とある筋から入手した靡絹がを高名な意匠家に依頼して織った逸品です。
国王陛下もきっとお気に召されるでしょう」

「それは間違いないだろうは」

カルヴァンは同意し、もう一度織物に目を落とす。
見れば見るほど素晴らしい逸品であった。

靡絹には様々な不可思議な力が宿るとされている。
ほとんど御伽噺(おとぎばなし)だが。
せめて、大いなる知恵を与えるというのが真実で、暗君が明君になれば、とカルヴァンは夢想する。

「……しかし、私の立場上それを渡す訳にもいかないのだがな」

「ふむ、次の機会にでも新世界において見つかった黄金の調度品を猊下に献上するつもりでおりますが」

「……分かった。私から陛下にお渡ししよう」

内心で溜息を吐いている枢機卿の承諾に、ルソーは目を細めて笑う。

「有り難うございます。それと、もう一つ私の願いをお聞きいただきたく存じます」

「……何だ?」

「実はエルフを捕獲しようと考えてましてな。子どもが一定数必要なのです」

「エルフの捕獲だと!?」

カルヴァンは愕然とした表情で豪商の言葉を繰り返す。

彼の脳裏を年前に起こったエルフによる大虐殺が過ぎっていた。
彼は大虐殺の数日後にその土地を訪れていたのである。

『ひっくり返った』無辜の民の屍体がありありと彼の頭の中に浮かぶ。
もはや人間ではなく肉の塊であった。

「……愚行だ。出来得る限りエルフとの接触は避けねばならない」

「ご安心ください。対象とするエルフたちはあちらの社会から疎まれているらしく、大森林帯の中央付近に住み着いているそうです。
呪術を使えば他のエルフに悟られることもないでしょう」

「しかし……」

「猊下と私は運命共同体。そうでしょう?」

ルソーの言葉に、カルヴァンは沈黙する


二人は呪術具を密かに市場へと流して莫大な利益を上げている。
最重要国策として極秘裏に作られている呪術具を横流ししている事が明るみに出たら、確実に二人は今の地位から下落する。
最悪の場合処刑される可能性すらある。
まさに一心同体である。

「……子どもが必要だというのは呪術具の使い手にするということか?」

「ご明察でこざいます」

ルソーは満面の笑みで肯いた。

人間が作る呪術具には獣の牙や革の腕輪など様々な形状の物が有るが、いずれにしても呪術を発動する為の動力源と回路として生命が必要である。

呪術具は生命力を呪術に変換する為の装置に過ぎない。
例えば電撃を放つ呪術の場合、呪術を行使しようとする者の熱量や電気信号を呪術具が汲み取り、人間に返還し、使い手の任意で電撃が放てるようにする。

当然体への負担は大きく、酷使すると廃人にもなり得る。

謂わば、産まれた胎児を再び子宮に戻すようなものである。

その呪術具の使い手としてルソーは子どもを要求しているのだ。

「傭兵を使えば良いではないか。奴等は肉体を商品にしている者たちだ。金の為ならば寿命を削る事も厭わない者も多いだろう」

「傭兵は好いていません。実際のところ、奴等は雇い主にどれだけ死力を尽くしているように見せるかにだけ力を注いでいますから。雇うだけ金の無駄というものですよ」

その言葉に、カルヴァンは逃走した元同胞を追跡しているはずの傭兵たちを思い浮かべた。

「……その通りだろうな」

「故に、私は子どもを使いたいのです。便利な物ですよ。
従順で、倫理も固まっておらず、飼い主を出し抜く知恵も足りない。
そして呪術具があれば充分に人も殺せる兵士になれる」

「……私に子どもを要求するということは、孤児を回せということか?」

ルソーは理解の早いカルヴァンに対して満足そうな顔で肯く。

「私は教会に決して少なくない寄付をしております。
孤児院もその管轄ならば、子どもたちも私に“恩返し”がしたくて仕方がないでしょう」

「……ああ、そうだな。まったくその通りだ」

カルヴァンは俯いて言った。
握られた拳は力を込め過ぎたせいで血が滲んでいた。

ルソーは目を細めて笑う。

「……私は猊下をとても敬愛しておりますよ。
特に、お優しいところと、小事の為に大事をお潰しにならないところに」

俯いた男は何も言わなかった。

遅くなりました
男しか出ないと>>1の書く気も削がれます

――――――
――――
――

私は斜陽の射し込む部屋で、眠る少女の横顔を見つめていた。

混血の少女は倒れた日から三日三晩ひたすら眠り続けていた。

かたや私とフィリアは寝不足であった。
高熱に苦しんでいる少女の看病を昼夜続けているからだ。

一応は交替に面倒を看ているのだが、私は炊事などもしなければいけないし、フィリアは強く言わなければ休まないほど献身的に看病している。
実際フィリアは昨夕から今日の午前まで一睡もせずに少女に付き添い、少しでも苦しみを緩和させようと解熱の術を使っていた。

この家で暮らし始め、彼女たちと共に生活するようになってから初めて、常に穏やかなフィリアが狼狽える姿を目にした。
彼女でも心を乱すことがあるという当然のことを今更になって知った。

いつもは白い少女の顔は、今は赤みを帯び、苦しげな表情を浮かべている。
感冒に罹った重篤患者のようだ。

フィリアの話では少女の体調不良は『選定』といって、全てのエルフが必ず経験するものらしい。

「『選定』は第二次性徴期に発症し、高熱がしばらくの間続きます。
『選定』を生き残った者が成人と認められますが、その生存率は六割程度と言われています」

フィリアの言葉が頭を過る。

――六割。

生死を分かつ確率としては余りに低い。

彼女は三日間も食べ物を口にしていない。
水だけはフィリアの清術で摂取させているものの、確実に衰弱が進んでいる。
このままでは体力がもたないだろうとフィリアは危惧していた。

しかも、もう一つ懸念があった。

『選定』によって頭痛や吐血といった症状は通常ないらしい。

「あの娘はもっと危険な事態に直面しているのかもしれません」

フィリアは悄然とした顔でそう言っていた。

私は少女の額に載っていた布を冷水で再び濡らし、また彼女の額に載せる。
苦しんでいる彼女に些細な事しかしてやれない自分がもどかしい。

「……ああ、お前か」

疲れ切った女の声が暗がりから聞こえた。

私は彼女の承諾を得て、部屋の照明を点けた。
光が室内に満ちて、彼女の姿がはっきりと見えるようになる。

彼女は椅子に座ってうなだれていた。
連日眠っていないのか目の下には濃いくまができている。

私は手に持っていた食事を差し出したが、彼女は首を振った。

「何も食べたくない」

彼女はほとほと弱り切っていてら本当に食欲がなさそうな様子だ。

しかし私は食事をとるように食い下がる。
このままではこの娘まで倒れてしまいそうだった。

「……はあ」

最終的に、彼女は私の熱意に呆れて皿を二つとも受け取った。

彼女は私の内心を見透かそうとするように私を凝視する。

「……ここまで私に構うのはコクレアの事で何か負い目を感じているからか?」

それもある、と私は言った。

元々はそれが理由でここに留まることを決めたのだ。
それに今も贖罪は終わっていないとも思っている。

しかし、今はそれだけではない。

日々を過ごす内に、様々なものに情が移ってしまっていた。

ここでの生活は穏やかで、安らかで、手放し難いと感じるし、彼女たちにも親愛の情を抱いている。

しかし今は純粋に心配なのだ、と私は娘に言った。

彼女は一瞬不思議そうな顔で私を見つめ、それから不機嫌そうに睨み、最後には溜息を吐いて苦笑した。

「……奇特な奴だな」

その声音は優しく、私は内心驚く。
先の老商人の一件以来、彼女の中で私の印象が変わりつつあるのかもしれないとは思っていた。
しかし、あれ程に私を拒絶していた彼女が私に笑いかけるとは思いもしなかった。

驚愕している私をよそに、彼女は私の作ったオートミールをゆっくりとした動きで口にする。

「チビのよりマズイな」

彼女はそう不満を口にしながらも食べることは止めない。

私は黙って彼女の食べる様子を見つめていた。

「そんなに熱く見つめられると食べ辛い。
なんだ? 私の魅力に悩殺されたか?」

彼女はそう言って悪戯っぽく笑う。

とっくにされている、と私は言った。

実際、彼女はコクレアに似てとても魅力的だった。
おどけたつもりだったが、全くの冗談とは言い切れなかった。

「……意外と調子が良いんだな。もっと堅物だと思っていたが」

たっぷりと時間をかけ、彼女はオートミールとスープを胃に収めた。

「……食べようと思えば食べられるものだな」

彼女は先程よりも幾分か顔色が良くなっていた。

体調が悪いのか? と私は訊いた。

彼女は躊躇うように沈黙したが、やがて口を開いた。

「チビに『選定』の時期が訪れた。だが、『選定』の症状に頭痛、鼻血などの出血は普通見られない」

それはフィリアから聞いている。
私は黙って言葉の続きを待った。

「……私はチビと同じような様子になった者を知っている」

彼女はぼそりと言った。

両親と姉か、と私は頭に浮かんだ推測を口にした。

彼女は沈黙で肯定する。

「『叛逆』と呼ばれている。一般には生物的に優秀な個体ほど発症しやすいと言われているが、詳細は分からない。
外傷以外ではエルフ唯一の死亡原因であることから、『叛逆』はエルフの寿命だと言う奴もいる」

私は背筋が凍る。
もしも彼女の言葉通りならば、横たわって苦しんでいる少女は『選定』と『叛逆』というもの両方に苛まされていることになる。

六割どころの話ではない。

しかしコクレアも『叛逆』に罹っていたならば彼女は助かったはずだ。

そう言った旨の私の言葉に、彼女は静かな声音で反駁する。

「あいつが生き残ったのは奇跡みたいなものだ。
チビが『選定』の途中なのは確かだし、生き残る確率はより低いだろう」

少女に対して冷淡な彼女の態度が気に障るが、すぐに彼女が小さく震えていることに気付いた。

「……いつだって不安なんだ。平穏な日々が壊れないか、フィリアやチビ、ニゲルを喪わないか――もう何も失いたくない。……置いていかれたくない」

彼女はか細い声でそう告げた。

ここまで彼女が己の弱さを露呈したのは初めてのことだった。

その姿に昔の彼女を垣間見る。
家族を失い、途方に暮れる彼女を。

やはり両親の死とコクレアの失踪は彼女の心に多大な影響を及ぼしたのだ。

常に怯えてるからこそ、時には過剰な暴力を以って外敵を始末しようとするのだ。
少女を喪うかもしれない恐怖から逃れようと彼女たちを避けているのだ。

不安なのは悪いことじゃない、と私は言った。

私にはそのような彼女の弱さを否定することはできなかった。
それに、この娘はそのような言葉を望んでなどいないはずだ。

他人の言葉そのものに心を変える力などない。
本人が変わろうとする時のみ人は変わるのだ。

だから私は彼女の心を安らかにしうる言葉をかける。
言葉だけで人を救うことはできないが、言葉が一助になることが有るのも確かである。

誰もお前を置いて行きはしない。あの少女は必ず生き延びるし、安寧な日々はこれからも続いていく。安心していい。
そう私は言った。

実際、少女が『叛逆』とやらに罹ったと断定はできないのだ。
世界でも類を見ない混血ならば、普通のエルフには見られない病気に罹っている可能性もあるのだ。
それはそれで問題ではあるが。

「……はは」

黒エルフの娘は不器用に笑う。きっと笑い慣れてないのだろう。

「まさか人間なんかに慰められる日が来るとは。
まったく人生は何が起こるか分からない」

私も微笑んで同意する。

彼女は立ち上がり、少し前に完成した異形の木像の前に佇んだ。

異形の木像の怒りや憎しみ、哀しみを綯い交ぜにしたような表情は彼女の心象そのものなのだろう。
初めて見た時は威厳も感じたが、今ではただ強がっているようにしか見えなくなっていた。

彼女は長い間像を睨んでいた。自分と向かい合っていた。

やがて娘は私へ向き直った。

「……用事が済んだなら、さっさと戻ってフィリアを見張っていろ。あいつはすぐに無茶をするからな」

私はフィリアが殆んど休憩を取ろうとしない事を伝え、彼女からも説得するように頼んだ。

「……悪いが、私はとても眠いんだ。それに私が何を言っても無駄だろう」

あまり期待はしていなかったが、やはり少しだけ落胆した。
仕方がないので、私は空になった皿を手にして彼女の作業部屋を立ち去ろうとする。

「……ありがとう」

思いがけない言葉に驚いて振り返ると、黒エルフの娘は褐色の肌の上からも分かるくらいに頬を紅潮させていた。
それを見られたくないのか、片手で顔を隠していた。

「……っ! わ、忘れろ! さっさと行け! 首の骨を折るぞ!」

彼女は照れ臭さを消そうとしたのか必要以上に大きな声を出した。

彼女の場合冗談ではないため、私はそそくさと立ち去る。



娘との距離が縮められて浮かれ気味であった。
また混血の少女とフィリアの事が気にかかっていた。

だから気付けなかった。

私が立ち去る直前に、彼女が鼻血を出していたことに。

ちと訂正
>>160で症状で吐血とか書いてますが、鼻血でした。

情報量が多過ぎて脳足りんな>>1ではいちいち記憶していられないのです。
もうホント色々とすみません。

呪術を解放する。

身体中の紋様が紅く発光し、私は驚異的な力を自在に使えるようになった。

「止まれ!」

男が大声を上げた。
子どもたちを統率する役割を担っている者が、私の身体から放たれる紅い光を見咎めたのだろう。

私は早口でニゲルに目を瞑るよう伝える。

それから自分も目を細め、紅の鮮烈な光を全身から周囲へと照射した。

周囲一帯が気味の悪い赤色で染まる。

やつれた子どもたちはその光から視覚を守るために目を瞑っている。

そして、その子どもたちの奥に長身の男がいた。
同じように目を瞑っている。

私は男へと駆け出す。

一飛びで子供たちを飛び越え、着地と同時に全身を投げ出して男へと突進する。

「がっ……!?」

男は細身のわりにはやけに重かったが、呪術で爆発的な加速力を得た私の突進には耐えられず、何度か弾んで樹に叩きつけられた。

私の身体は先の目くらましの時ほど強烈ではないが未だ発光して照明となっている。

私はいくら姿を見られても問題ない。

むしろ相手を見失うほうが厄介であるから、こうして体を光らせ続けている。

このまま子どもたちを虐げる男を呪術で粉々にしてしまっても良かったが、訊きたいこともあるため捕縛することにした。

しかし、男は予想よりも素早く立ち上がり、駆け寄った私の顎を極めて正確に蹴り上げた。

視界がチカチカと点滅する。

男はさらに流れるような動作で小刀を抜いて、私の首に突き刺した。

さらに腕の両腕の腱を叩き斬る。

かなり熟達した技術だ。

――しかし、無駄だ。

「なっ……!?」

男は全く倒れない私に驚いて目を瞠る。

私は使い物にならなくなった腕を呪術で硬化させ、やはり超加速させて振り下ろした。

それをもろに受けた男の肩がひしゃげる。

間を置かずに、横殴りで叩きつけて地面に倒し、馬乗りになる。

私の首と片腕の傷はほとんど元の健全な状態に戻っていた。

「……その禍々しく光る呪術。
あんた、世に聞く紅鬼ってヤツか?
どんだけ傷を負っても死なずにすぐ治り、アホみたいに強力な呪術で各国の兵士を片っ端からぶっ殺したっていうあの紅鬼か?
十年ほど前に地位も名誉も捨てて消えたっていう紅鬼なのか?」

私は男の質問に答えなかった。

ここに来た目的は何だ、と私は返答の代わりに問い質した。

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