和「君がいない冬」(145)

ちょっと暗めの咲SS
諸事情によりオール地の文
苦手な人はごめんなさい


高校生活最初の夏。
今なお、忘れようと思っても忘れることのできない、あの熱かった夏の日々。
私たちは、夢のように遠いと思っていた目標――――全国制覇を成し遂げた。

正直、その瞬間のことはよく覚えていない。
まるで自らが対局しているかのごとく、熱に浮かされたまま大将戦の行方をモニターで見守って。
優勝が決まった瞬間、全員で対局室に駆け出して。
私はおそらく、いの一番に彼女に抱きついて、泣いたのだろう。

これで来年も、清澄で麻雀ができる。
この仲間たちと、これからも一緒にいられる。
ただ難しいことは考えずに、そう思って泣いたのだろう。

そして彼女は視線の先に、ずっと目標にしていたお姉さんの姿を見つけて――


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「そういうこと言うのは……この口かーっ!」

「いは、いはいいはい! ……もう、京ちゃんってば!!」


通い慣れた部室の扉をくぐると、賑やかなじゃれあいが聞こえてきた。
宮永さんと須賀くんがまた他愛もないことで、可愛らしくいがみ合っていたのだろう。
この数年で、すっかりおなじみとなった光景だ。


「二人とも、こんにちは」

「おっす、和」

「あ、和ちゃん! ちょっと聞いてよ、京ちゃんったらね……!」

「それはひどいですね。謝ってください須賀くん」

「せめて最後まで聞いて!? 原告の証言すらロクに聞かないとかどんな魔女裁判だ!」


やれやれと大げさに頭を振った須賀くんに、宮永さんと二人、顔を見合せて笑う。
彼はちょっとげんなり表情を曇らせたと思ったら、次の瞬間には誰よりも快活に歯を光らせていた。


「原村部長は宮永さんばっかえこひいきしてていけないと思いまーす」

「ひいきなんてしてません。だいたいもう部長じゃありません」

「あれがひいきじゃなきゃなんだってんだよ……」

「女子をひいきしてるんじゃなくて、単に須賀くんに信用がおけないだけです」

「なお悪いわ!」

「……ふふ」


こんな軽口を彼と叩けるようになったのは、いつからのことだったろう。
思い返すにおそらく、竹井元部長の引退が契機だったのではないだろうか。


同じ女性とは思えないほど凛々しく、しかし女性らしい魅力に満ち溢れていた竹井先輩の後ろ姿は、今でも鮮明に思い出せる。
何事にも率先して先頭に立ち、常に清澄麻雀部を引っ張り続けてきた頼れるリーダーの引退は――それだけが原因ではなかったが――私たちの上に、一時的だが暗い影を落とした。

そんな時に声を張り上げたのが、須賀くんだった。
物怖じしない笑みと良く通る声で、竹井先輩がよく使っていたホワイトボードに大きく書き殴りながら、


『清澄、全国制覇おめでとう!!! 来年もきばって、目指せV2!!!!!』


と叫んだのだった。
染谷前……いや、元部長などは、あれで再始動したようなものだった。
竹井先輩の良き右腕であり、清澄のNO.2であり続けた先輩が、一つ殻を破った瞬間だったのかもしれない。


静かに不敵にふてぶてしい染谷部長。
そしてその隣で、須賀くんがみんなを鼓舞しサポートする。
私は形式上の副部長に据えられてこそいたが、元より誰かの上に立つなど性分ではなかった。

ゆえに。
本来自分がやるべきことを肩代わりしてくれたから――というわけではないが、あの時期須賀くんには感謝の気持ちでいっぱいだった。
そしてそれは、染谷先輩が引退し、私が部長に就任してからも何も変わらなかった。

私などは竹井先輩とも染谷先輩とも違って、厳しくするしか能のない部長だった。
ダメなものはダメとはっきり言いすぎる嫌いがあるし、お世辞にも後輩に慕われていたとは思えない。
自然、潤滑油としての須賀くんの負担はいたずらに増し、大変な迷惑をかけてしまったのだろう。


麻雀部について、部員について、須賀くんとは何度も話し合った。
あいつはちょっと落ち込んでたからメシおごっといた、とか。
逆にあいつは調子のりすぎ、もっと和がへこませてやるのも勉強だ、とか。
私では絶対に気の付かなかった部分まで、彼は実に細やかに心を配っていた。

須賀くんに不思議な人気があるのも頷ける話しだった。
彼は男女問わず、とても友人が多い。
けしてモテる、というわけではないのだが、人が集まってくるところに自然と彼がいる印象はあった。

宮永さんも、あるいはそうだったのかもしれない。


「まっ、京ちゃんの味方なんてハナからここにはいないってことだよ」

「言ったなテメ、なんなら今から部員全員招集して、俺とお前のどっちに非があるのか聞いてみるか?」

「須賀くんは天性のいじられキャラなんだから、ヘタに敵を増やすのはやめといた方がいいと思いまーす」

「お前に言われたくないよ」

「違うよ! あたしいじられキャラじゃないよ!」

「……だな。お前はどっちかというとぼっちキャ」

「むむーっ! ぼっちじゃないもん!」

「お前この学校来たばっかりの頃、俺以外に話すヤツいなかったじゃん」

「やーめーてー思い出さないようにしてるのに! 京ちゃんのいじわるー!!」


……もう何回も何回も、食傷気味になるほど見飽きた光景だというのに、いまだ胸がじくりと痛む。
二人はお付き合いしてるんですか。
っていうか、いっそ付き合っちゃったらどうなんですか。
我慢しきれず、そう声を掛けそうになったことが何度もある。

そして、その度に思いとどまってきた。
余人の踏み入ってはならない領域というものは、確かに人間と人間の間には存在する。
人の心の機敏に疎い私でも、どうにかそのくらいは理解できた。

須賀くんは分け隔てなく色んな人に笑いかけて、その度に人から色とりどりの笑顔を返されている。
しかし彼の心の中には、たった一人のために空けてある特等席があるのだ。
そのことを思うと、下手な口出しはできなかった。


「おおーーっす! 待たせたなお前らっ!!」

「いちいち声がでかいんだよなお前……」

「ご主人様に口答えするない、バカ犬!」

「まあまあ、優希ちゃんも京ちゃんも落ち着いて」


そのうち優希が、底抜けの陽気とともに部室に飛び込んできた。
二言三言、いつものやりとりを交わすと、誰からともなく自動卓の前に。
この四人が、清澄麻雀部の現三年生。
最も長きに渡って、苦楽を共にしたかけがえのない仲間。

この夏の大会をもって清澄高校麻雀部を引退した四人が、久々の全員集合を果たしたのであった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


気が付けば夕陽もすっかり沈み、窓の外は一面の闇に彩られていた。


「だああああっ!!」

「また負けたじぇぇ!!!」


須賀くんと優希、4位と3位に沈んだ二人が二人して卓に突っ伏す。
私が2位で、宮永さんがトップ。
統計的に、長期的に考えて、いつも通りの結果が出ただけだ。
それなのになぜだろう。
私はなんだか、理由もなく泣きたい気分になっていた。


「そういやさ、和はプロ入り蹴って進学すんだっけ?」


須賀くんが卓に伏していた顔を上げて、何気ない口調で言った。
多分、私の内心のどうしようもないやるせなさを察して、気の紛れるような話題を振ってくれたのだ。
本当に、頭が上がらない。


「もったいないよねー、和ちゃんの実力なら活躍間違いなしなのに」

「父が、将来のために大学だけは出ておけと……かくいう私も、今回は父の考えがよくわかりますから」

「のどちゃんの人生設計は麻雀同様、実に堅実だじぇ」


優希の揶揄するような言葉に、宮永さんが頬を掻きながら苦笑する。
彼女は全国大会で見せた圧倒的な個人成績を武器に、すでにプロ入りを決めている。
彼女の実力をもってすれば、プロ入りというリスキーな選択肢もギャンブル足り得ないだろう。


「優希ちゃんと京ちゃんは……」

「私は池田……センパイと同じ大学で麻雀続けるじぇ」

「ああ。そういやお前、あの人には何かと気ぃかけてもらってたよな」

「それじゃあ、優希と私は大学ではライバル同士、ということになりますね」

「おう、負けないじぇのどちゃん!」

「ちぇー、いいよなぁみんなは。俺一人だけ一般入試でヒーヒー言ってんのにさ」

「なんならあたしんとこ、一芸入試で受けてみるかー?」

「バカ言え、俺の麻雀は大学で続けられるレベルにゃねえよ。優希だって知ってんだろ?」

「そうじゃなくて、マネージャー力でだな」

「それこそ無理に決まってんだろーが!」


須賀くんのツッコミにつられて、三人して大笑いした。
彼は憮然としてそっぽを向いたが、ポーズだけだということはこの場の全員が承知だ。
笑いながら、私は優希の提案も案外理にかなっているのでは、などと埒もないことを考えていた。

二年前に全国制覇を果たして以降、麻雀部への入部希望者は激増した。
というより長野県全体で、清澄高校進学を目指す学生の母体数そのものが、相当増えたらしい。
そうなれば当然、レギュラーに入れない後輩も出てくる。
須賀くんが今まで一人でこなしていた雑用まがいの仕事を、分担させられるだけの人数はゆうにいた。

しかし、それでも私や染谷先輩は、須賀くんのサポートこそを欲した。
無論本人の意思は尊重した上でだ。
頭数や麻雀の実力では語れない、えも言われぬ安心感を、須賀京太郎という少年は私たちにもたらしてくれる。

私たちにとって最後のインハイの直前、私は遠慮がちに話を切り出し、頭を下げた。
すると須賀くんはやはりというべきか、笑って快諾してくれたのだった。


あまりの即答ぶりに、尋ねた私の方から何度も確認をとってしまったほどだった。

いいんですか、本当にそれで。
須賀くんが自分の練習に専念したいなら、絶対に無理強いはしませんから。
だから、もう少しよく考えてみてください。
……その上で私たちを助けてくれるのなら、すごく嬉しいですけれど。

悔しくなかったはずがない、と思う。
彼だって聖人君子ではない。
私たちが何度も全国の舞台で脚光を浴びる傍ら、須賀くんは結局三年の間一度も、県予選を突破できなかった。
忸怩たる思いが、なかったはずがないのだ。

それでも須賀くんは、最後まで私たちのサポートに徹してくれて――――その結果清澄高校は、見事に二度目の入賞、すなわち全国準優勝を成し遂げたのであった。


「あー、そっか。ってことは……」


私の益体もない思索を遮ったのは、宮永さんのどこか寂しげな声だった。


「来年からは、みんなバラバラなんだね」


沈黙。
心地よさとは程遠い、肌に突き刺ささるような三十秒。
そんな気まずい空気を払拭するのは、たいていの場合彼の仕事だった。


「……うし。せっかくだから、みんなで帰ろうぜ」


「京ちゃん?」

「みんな、進路のことでこれからも色々とごたごたするんだろ? まあ一番ごたごたすんのは、間違いなく俺だろうけどな」


須賀くんが立ち上がって、頭をガシガシ掻きながら照れたように言う。


「今日だってホント、久しぶりに集まれたんだよな。今日が12月の2日だから、いったい何日ぶりに……まぁ、それはいいや」

「犬は計算が大雑把だじぇ」

「うっせ……んでさ、今後何回、こういう機会があるかもわかんないじゃんか。だったら少しでも、つまんないことでもいいから……お、思い出とか、作っとこうぜ」


……照れたように、じゃなく、本当に照れた。
それはもう、くさい台詞だったのだからしょうがない。
聞いてるこっちまで恥ずかしくなるような。


「……いいこと言うね、京ちゃん!」


頬を赤くする代わりに目を輝かせた、宮永さんを除いて、だったけど。
いそいそと通学カバンを肩にかけた彼女は、駆け足で部室を出て行く。


「玄関で待ってるねー!」

「おい、ちょ、待てってば!」


そのすぐ後を、慌てて須賀くんが追いかけていった。
暗がりを早足で駆け抜けようとする宮永さんのことが、よほど心配なのだろう。
残されたのは私と優希の二人。


「ったく、京太郎はホント過保護だじぇ」

「別に、過保護なのは宮永さんに対してだけ、じゃないと思いますよ?」

「……わかってる」


ちょっぴり拗ねたような優希をなだめる。
そう、優希だって本当はわかっている。
須賀くんは誰に対してだって、老若男女問わず“ああ”なのだ。

あるいは、私たちがそうさせてしまったのかもしれないけれど。
部室の隅っこに飾った写真立てを眺めながら、私は口の中だけでそう呟いた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「さっむいねぇ。明日は雪降るかな?」

「あー……そりゃ勘弁だな」

「え、なんで? 京ちゃん、雪嫌いなの?」

「積もるぐらい降ったら、お前が滑りまくって学校まで辿りつけないかも、だろ」

「……えいっ」

「いってぇ! カバンで叩くなよなお前!」


数メートル先も満足に見渡せない暗がりの真っただ中。
キラキラした金髪と、軽くウェーブがかったショートブラウンが、楽しそうに嬉しそうに跳ね回っている。
私と優希は二人の少し後ろから、それを言葉少なに並んで眺めていた。


「やっぱり、さ」


優希がぼそと呟く。
消え入るような声だった。
涙を堪えているようでさえ、あった。


「京太郎には、咲ちゃんがお似合いなんだよな」

「……優希」


私にはただ、彼女の名前を呼んであげることしかできなかった。
他の言葉は、どこを探しても見つからなかった。
そんな私の心境を知ってか知らずか、優希は突然パッと顔を上げると、先を行く二人目がけて駆け出す。


「……そーれ、二人でイチャついてないで私も混ぜるじぇーい!!」

「うおっぷ!? いきなり飛びかかってくるんじゃねえよ!」

「あー優希ちゃんずるーい! 私も私もー!」


心底困った声を張り上げながらも、須賀くんが本気で二人を振り払うことはついになかった。
私はといえば、やはりその光景を遠い目で遠巻きにしていただけだ。


「どうして」


切ない。
悔しい。
やるせない。
単純な感情の羅列がのしかかるように去来して、胸のうちのどこかにしんしんと堆積した。
どうして、いったいどうして――――


「……は、あの輪に加われないんですか」


独白は誰にも受け取られることなく、冬の真っ黒な夜空に融けていった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「あ」

「よう、和」


結局雪は降ることなく、数日後の通学途中。
高校の最寄り駅で改札をくぐったところで、須賀くんとばったり出くわした。


「おはようございます、須賀くん」

「おう、おはような」


そのままどちらからともなく並んで、校舎までの道のりを二人行く。
二年前ならばいざ知らず、今の私たちが、十分やそこらで道連れの与太話に欠くことはない。


「……須賀くん?」


ふとした瞬間、会話が途切れた。
ちらと横目で彼を見やった瞬間、反射的に眉尻が吊り上がった。


「また見てましたね」

「い、いやいやいや! 誤解するなよ和! これは男にとって、心臓が拍動するのに等しい自律行為であってだなー!」

「眼球が不随意に女性の胸部に対して自動追尾を行うなんて、そんなオカルトありえません。あなたのそれは明らかに随意運動です」


これだ。
こればかりは、彼が一年生の頃から何も変わらない。
女性の……その、何というか……豊かな、胸部……もう!
それが放つ何がしかの何かは、須賀くんの眼球運動に誘蛾灯のごとき作用をもたらしてしまう、らしいのだ。


これだから私は、彼のことを一人の男の子として見る気になれないのだ。
いや、確かにこの事実は、彼が立派な男性であることの証左ではあるのだけれど。


「私は慣れているからいいですけど」

「よっ、さすがは原村大明神! 器と胸がデカい!!」

「後輩が何かしらの訴えを提起してきたら、父に相談しますからね。弁護士として」

「おいやめてくれガチ犯罪者になっちまうよオレ」


まあ、ちなみに実際の犯行現場では、


『須賀先輩さいてーい』

『セクハラなのですセクハラ!』

『慰謝料としてアイス奢ってくださーい』

『ついでにタコスも買ってこい犬』


ぐらいの糾弾で、事件はすっかり終息を見てしまうのだが。
須賀くんの人徳が時々、逆に恐ろしくなることがある。
……被害に遭いそうにない人物からの賠償請求ばかりなのは、きっと気のせいだろう。


「ああそうだ、そう言えばさ」


須賀くんは言うが早いか、いきなり鞄に手を突っ込んでまさぐりはじめた。
どうやら何かを探しているようだ。


「ん、あったあった」


差し出してきたのは、一枚のくしゃくしゃになったチラシだった。


「へえ。諏訪湖畔で、冬の花火大会ですか。夏のそれは、全国有数の大花火大会で知られてますけれど……」


折り目があちこちに付いたチラシを丁寧に伸ばすと、力強い字体が目に飛び込んできた。
華やかながらもどこか侘びしい、空に咲く花の写真がバックを飾っている。
綺麗だな、と素直にそう思った。


「もしかして、デートのお誘いですか?」


内心の動揺を辛うじて押し殺し、にっこりと笑いかける。
すると須賀くんは頬を掻いて、


「ま、そんなところかな」

「っ」


ぎゅっ、と拳を握り締めた。
悟られないように俯いて、唇を軽く噛む。


「……うして、そんな」

「あいつらも誘ってさ、三年生四人で見に行かない?」

「……」

「ほら、ちょうどこの日はガッコないじゃん。だからってぇぇぇぇ!!!!?」


思いきり向こう脛を蹴飛ばしてやってから、悶絶してうずくまる須賀くんを無視して先を急ぐ。
紛らわしいことを思わせぶりな顔で言わないでください、このおバカ。
ため息まじりの罵倒は、胸の内に閉じ込めておいた。


「まっ、つつぅぅ…………ま、待てってば和!」


と思っていたら、あっさり立ち上がって私の背中に追いついてきた。
渾身の力でサッカーボールキックを叩きこんだつもりだったのに、こういうところはさすがに男の子である。


「……どうして、急にこんなことを?」


今度は包み隠そうともせず盛大に息をつくと、一応は話に取り合ってあげる。
なんだかんだ言っても、私は須賀くんのことを信用している。
こういう時の彼に、下卑た下心は決してない。
1%たりとも、砂粒一つ分もない、とまではさすがに言わないが。


「いや、さぁ」


すると意外にも彼は言い淀んだ。
目線で促すと、心なしか頬が上気したようにも見えた。


「ああ、えっと……だな、この間。部室で言ったことなんだけど」

「部室? 麻雀をした時ですか?」

「ん」

「あの時、須賀くん何か言って……あ」


『今後何回、こういう機会があるかもわかんないじゃんか。だったら少しでも、つまんないことでもいいから……お、思い出とか、作っとこうぜ』


目を丸くして視線を向けると、今度ははっきり頬を赤らめて、須賀くんがそっぽを向いた。


「あれ、本気だったんですか?」

「ほ、本気じゃダメ?」

「ダメってことはないですけど」

「じゃ、じゃあ行こうぜ……えと……」

「思い出づくり?」

「……あらためて言われると、なんか恥ずかしいなぁ」

「ぷっ」

「えーい笑うなっ!」


「ぷっ、はは、あははははっ!」

「このやろ、笑うなっちゅーとんのに!」

「だ、だって、恥ずかしがるぐらいなら……最初から、言わなければいいのに……ふふっ!」


人目も気にせず、お腹を抱えて笑ってしまった。
こんなにも大笑いするのは何時ぶりだろう、というぐらいには笑ってしまった。
だんだんと呼吸が苦しくなって、ひいひい言いながら息を整えていると、


「だってよ、欲しいじゃんか」


絞り出すような重苦しい声。
何かを諦めたはずなのに、本当は諦めたくなかった、そんな想いの乗った声。


「俺らが、この長野で、三年間一緒だったんだって証拠、欲しいじゃんか」


すう、と背筋が冷えて、私は笑いを引っ込めた。
頬骨がわずかに震えて、歯を一度、かちりと噛み合わせる。
中で燻るものを、閉じ込めるかのように。


「……わかりました。宮永さんには私から伝えておきますね」


吐き出したのは、一分後だったのか、十秒後だったのか、刹那の後のことだったのか。
そんなこともわからないまま、くるりと須賀くんに背を向け、いつの間にか眼前でそびえていた校門をくぐる。

須賀くんが小さく吐いた湿り気のある呼気を背中で受け止めながら、私は部室の写真立てのことを思い出していた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「あ、おはよう和ちゃん」


教室のドアをくぐると、一番に気が付いた宮永さんが声をかけてくれた。


「おはようございます、宮永さん」

「和ちゃんにしては珍しく、遅刻ギリギリだったねー」

「今日は須賀くんと一緒でしたから」

「あはは。京ちゃんはどれだけ予鈴スレスレで登校できるのか、を生きがいにしてるからね」

「なんだか聞いてて切なくなる生きがいですね……」


鞄と畳んだコートを机に置いて、深い意味も重たい思惑もない雑談に耽る。
こういうのは長野に来てから身につけた所作だと、我ながらつくづくそう思う。
なにせ高校一年生までの私と来たら、思い返すだに無愛想な小娘だった。


「あとは……和ちゃんのおっぱい……かなぁ。京ちゃんの生きがい」

「ば、バカなこと言わないでください!」


そんな私を変えてくれたのが、清澄高校麻雀部だったことは言うまでもない。
人差し指を尖らせた唇に当てて、拗ねたように呟く目の前の少女。
彼女ももちろん、私にとって大事な仲間であり、大切な親友だ。


今年四月のクラス分けで初めて一緒の組になってからも、特別彼女との付き合いに何か変化があったわけではない。
ただ、のちにクラス分けの結果を聞いた須賀くんが、


『がんばれよ、和』


そう言って、私の肩を慰めるように叩いたことだけが、不思議と言えば不思議だった。


「……あ。あああああ~~!!」


その疑問は新学期開始後一週間とせずに、綺麗に解消されることとなったが。


「どどど、どうしよ和ちゃん!」

「……いったい今日は、なんの教科書を忘れたんですか?」

「数Ⅲと倫理と世界史と、あと古典のノートがががが」

「…………はぁぁ」


これだ。
こればかりはいくら親友だからといっても、いや、親友であるからこそ嘆息を禁じえない。
兎角この少女、麻雀が絡んでこない世界での日常生活スキルがポンコツにすぎる。
女の子なのだから愛嬌のうち、で済ませるにも限度というものがあるのだ。


「数Ⅲは私と教室が同じだから、見せてあげられます。倫理は優希とクラスが被ってますよね? 先生に言って、優希の隣の席を確保させてもらいなさい」

「あうあう」

「世界史は……私も須賀くんも優希も取ってませんね。前に忘れた時はどうしましたっけ? 古典のノートはルーズリーフ貸しますから、それでどうにかしてくださいね」

「うーうー」

「もしかしたら部室に、竹井先輩か染谷先輩が置いてった教科書が、億が一ぐらいの確率で埋もれているかも……」

「あわあわ」

「……少しは自分でも打開策を考えてくださいっ!」

「あいたぁっ!?」


拳・骨・一・閃。
涙目混じりの宮永さんの上目づかいがちょっとだけ『そそった』のは原村和の墓場まで持っていきたい秘密その149です。


「ううう……和ちゃぁん、なんか同じクラスになってから容赦なくなったよね?」

「気のせいです」

「いや、気のせいじゃないよ! 拳骨なんて三年生になるまで一度も貰わなかったよ!?」


ぷんぷん、と頬を膨らませて抗議する彼女は、同性の目から見てもとても可愛らしかった。
そういえばiPS細胞というので同性の間でも子供ができるらしいです。
役に立たない豆知識というやつである。

とにもかくにも、私はそんな彼女の幼い仕草にほだされて、


「そんなことはありません。部室で初めて会った頃から、わりと私は宮永さんに対して――」


気の緩みから、口を滑らせてしまった。


「……大丈夫、和ちゃん?」


数瞬の間、口を半開きにして呆けていたようだ。
気が付くと目と鼻の先で、宮永さんの心配そうな眼差しがゆらゆら揺れていた。
私は半歩だけ後ずさると、軽く首を横に振った。


「いえ、なんでもありません」

「そう……? ならいいんだけどねー」


得心いったとは言い難い表情の宮永さんが、渋々と引き下がっていく。
同時に担任の教師が教室のドアをくぐり、SHRが始まった。


受験に向けて自由登校期間も近づくこの季節、悪さをして進路を危うくすることのないように。
面白みのない注意文句で朝の挨拶を締めくくった教師の声を右から左に流しながら、私はふと思い出した。


(そういえば、須賀くんの提案について、宮永さんに伝え忘れてました)


大した問題ではない。
そう思いながら、前列二番目で教室移動の準備に取り掛かる彼女の後ろ姿をなんとなしに見やった。
大した問題ではないのだ。
彼女とは同じクラスなのだから、いくらでも話す機会がある。

事実私はこの数時間後に、食堂で出会った宮永さんに花火の件を無事伝えることができた。
だから、大した問題ではなかったのだ。


ただ、何かがしこりとなって胸の奥で引っかかった。
朝の一時の他愛もないやりとりの中で、なぜかそのことだけを容易には切り出せなかった。
そのどうでもよい事実が、無意味に私の内側で重みを増していく。

いったい何が、私の舌の滑りに制止をかけたのか?

須賀京太郎という名前か?
二人きりで登校したという事実か?
色鮮やかに空を彩る、火花の祭典へのいざないか?

どれ一つとっても、宮永さんへの告白を躊躇させるに十分な要素が見当たらない。
だから私は結局、大した問題ではないのだと自分に言い聞かせて、この問題を脳内から追い払った。

そして、まさにその時が訪れてしまうその瞬間まで、見て見ぬふりをし続けたのだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「たーまやー、だじぇぇぃ!!!!」

「はえーよ」

「早すぎです」

「フライングゲットだじぇい!」


年の瀬を目前に控えた冬のとある一日、湖上の空を一発の快音が響いて抜けた。
諏訪湖の四方を囲む山々のうち、西側の日本アルプスの山肌はいまだ、燃えるような赤に支配され続けている。
今しがた鳴った華々しくも孤独な号砲は、本番前の試し撃ちか何かなのだろう。


「思ってたより人出が多いなぁ」

「それはもう、諏訪湖畔の花火大会といったら、夏は五十万人からの人出になるという一大イベントですよ?」

「でも、こんなクッソ寒い時期でもウン万人集まるなんて……そんなん考慮しとらんかったじぇ」


白のダッフルコートにニット帽、もこもこした耳当ての優希が、肩をすくめて呟いた。
未曾有の人混みに向かい長身を伸ばして覗きこむ須賀くんは、某メーカーが開発したライトグリーンの防寒ウェアにジーンズと簡素なレザーグローブ。
かくいう私は少女趣味全開、レースたっぷりワンピースの上から薄手のボレロを羽織って、その上にフェイクファーのコートを着込んでいる。
エトペンの絵柄が編み込まれたピンクのマフラーは、後輩たちに何度からかわれても手離さなかったお気に入りの一品だ。

三者三様の態で待ち合わせ場所に無事集合した私たち。
そう、三者三様。
三人。


「……で、宮永さんはどうしたんですか?」

「……迷子にでもなったんじゃないのか」

「……ほんっっと、手間のかかるヤツだよなぁ」


待てども待てども、待ち人来らず。
誤解のないように言っておくが、宮永さんが私たちのお誘いを断ったとかそういう事実はない。
こと須賀くんのお誘いに関して、宮永さんが丁重にお断り申し上げる光景など、私にも優希にも想像が付かない。

要するに、至極単純に、彼女は待ち合わせ場所まで、無事辿りつけていない。
と、そういうことなのだ。


「携帯に電話は……」

「とっくにしたけど出ないじぇ」


思わずため息が漏れ出て、大気をわずかに白く染める。
隣を見れば優希も、悟りを開いた仏陀の表情で堆くなりつつある天を仰いでいた。


「あいつよく、ケータイマナーモードにした挙句カバンの奥につっこむからなぁ」

「なんのための『携帯』電話なんですかっ……!」

「いや俺にキレられても」


三人で探し回るのも手だが、はぐれてますます泥沼になるのも避けたい。
そうこうぼやいているうちに、プログラム上の開始時間が刻一刻と迫ってくる。
優希が、そして私もしびれを切らしかけたその時、


「仕方ねえ、俺が探しに行ってくるよ」


須賀くんが、左手で後ろ頭を掻き毟りながら声を上げた。


「和と優希は、二人で適当に花火楽しんでな。俺はあいつを見つけてから合流するからさ」


制止する間もなく、彼は雑踏に向けて一歩踏み出す。
その横顔がどこか満足げだったのは、おそらく私の目の錯覚ではなかった、と思う。


「和ちゃ~ん、優希ちゃん、京ちゃ~~ん! ごっめ~~ん!」


その時だった。
人混みの中から、一際まばゆい輝きを放つ笑顔が飛び出してきた。
ベージュのタートルネックに同色の毛糸手袋。
下は黒のレギンスにミニスカートという、垢ぬけているのかそうでないのか、よくわからないファッションセンス。
どこか掴みどころのない彼女の魅力を際立たせるのは、やはりそのふわりときらめく無垢な笑顔なのだと、あらためてそう思わされた。


「おーまーえーなー。いくらなんでもおっそすぎんだよ、今度首輪とネームプレートでもプレゼントしてやろーか?」

「た、確かに悪いのはあたしだけど……こっちの人権もちょっとはそんちょーしてよー!」

「ケータイ常時マナーモードにしてる女子高生に現代人の資格なんてないじぇ!」

「え……ああああ!! ほ、ほんとだ! 着信13件ってなってる!」


「ぎるてぃーだな」

「ぎるてぃーすぎるじぇ」

「ごめんなさいごめんなさい許して下さい! なんでも奢りますから!」

「ん?」

「んん~? 今のを聞いたかえ、片岡さんや」

「おうおう、ばっちり聞いちまったじぇ須賀さんや」

「なんでも奢るって言ったよね?」

「な~んでもかんでも奢るって言ったじぇい。言質はとったぞ、言い逃れはできぬ!」

「ひええええええっっ!! へ、へるぷみー和ちゃん!」


「宮永さん、私はあっちのさつまいもクリームたい焼きなるものを食してみたいです」

「あうち!」


そして始まったおバカなやりとり。
涙をちょちょぎれさせながらお財布の中身を確認する宮永さんと、謎のテンション爆上げを果たしたその他二名。
私はそれらの光景を尻目に、一人後ろを向いて、密かに胸をなで下ろす。
宮永さんが無事に姿を見せた瞬間、安堵と同時に湧き上がってきた、ある感情を整理するためだった。

その感情に名前を与えることは、どうもできそうにない。
私自身『これ』が苦しみなのか悲しみなのか、怒りなのか喜びなのか、それすら把握できていなかった。
ただ、その感情がなぜ、胸の内に生じたのかだけは理解できている。

誰の助けも借りず、一人で目的地に辿りついた宮永さん――


「うし、じゃあ俺はたこ焼きに焼きそばにフランクフルトの定番フルコースで」

「ちょちょちょ、京ちゃん! 一人一品までにしといてよ!」

「な~に~? 聞こえんなぁ~?」

「おに! あくま!」

「迷子の迷子の宮永さんに言われたって痛くも痒くもありませーん」


――を目の当たりにした瞬間の、須賀くんの落胆しきった表情。

宮永さんにずっと迷子でいてほしかったと、口より雄弁に語るその表情。
その一シーンだけが、私の瞼に焼き付いて離れてくれなかった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


糸を引くように天高く昇った光線が、放物線運動の頂点で弾ける。
誰もが見上げた視線の先で、冬の夜空に大輪の花が咲き誇った。


「たーまやー!」

「たーまやー……っておい、足下見ろ見ろ! つまずくぞ!」

「京ちゃんは心配症だなー、だいじょぶだいじょぶ」

「こらこらこら待て待て待て、走るな!」

「『こら』と『待て』は一回聞けばじゅーぶんでーす」

「とか言いつつ一回たりとも聞いた試しないだろ!?」


「……ほんと、仲いいじぇ」

「あれで来年から大学生だっていうんだから、頭が痛くなります」

「あっはっは、のどちゃんは二人のお姉さんか何かか?」

「手間のかかる妹なら、今私の隣にも一人いますけどね」

「がーん!」


じゃれ合う二人と後ろを行く二人。
いつかの帰り道をなぞったかのような。
その構図のまましばらく、ぽつぽつと二組の足音が混ざっては分かたれる。


「わっ! 見た京ちゃん、今のすっごく近かったよ!?」

「わかったからはしゃぐなって……うっひょー、でけー!」

「京ちゃんだってはしゃいでるじゃん」

「うっせうっせ」


そして時折、花火の轟音が宙を裂いては消える。
いつの間にやら人気の少ない一角に迷い込んでいたようだ。
私たちの周囲にさざめく物音が、徐々に徐々にその種類を減らしていく。


「咲ちゃん……」


優希が囁いたのは、空を振り仰ぎながら何度目かもわからない花火に目を奪われている時だった。


花。
大輪の花。
空に咲いた一輪の花。
山に囲まれた湖の上で、夜空を彩った美しい花々。

誰もが空を見上げて、一夜限りの芸術作品に酔いしれていた。
私も、優希も、須賀くんも、宮永さんも。
瞬間、全員の注意が天空高くへと集る。
各々歩みは止めぬまま。
すると、必然。


「わ、わ……!?」


整備の行き届かない畔道に、足をとられる者が出る。
それが偶然、たまたま、私たちの中では――――宮永さんだった。


「っ、と」


隣を歩く須賀くんが事態に気が付き、手を伸ばすが時すでに遅し。
少女の華奢な身体は、少年の逞しい腕をかすめて、スローモーションで地面に吸い込まれ








「おわわ、っ、とと、と……セーフ! あはは、失敗失敗」


……はしなかった。
たたらを踏み、脚を必死に空転させて、元の姿勢に戻った。
何事もなかったことに私と優希はほっと一息、宮永さんは照れたように頬を掻く。
そして須賀くんは、





「………………咲?」




須賀くんに、異変が起きた。


「……京ちゃん?」


須賀くんの右腕は明らかに、『転んで地べたにお尻を着いてしまった宮永さん』に対して、差し伸べられる形で伸ばされていた。

宮永さんは、本当ならば転んでいた。
『宮永さん』なら、ここで転んでいて然るべきだった。

須賀くんの挙動がそう発話していることを、その場にいる全員が感じとった。
感じとって、しまった。


「京ちゃん……」


それが、崩壊の序曲だった。


「あ、いや、わり。ついつい、どんくさいお前のことだから、さ。転んじゃったもんだと思ったよ」


異変は刹那で終息した。
快活に人懐っこく笑う須賀くんは、すっかりいつも通りの彼だった。


「……ごめんね、京ちゃん」


しかし異変は伝播する。
伝播して、その先で増大する。


「お、おいおい。なんでお前が謝って」

「本当にごめんね、京ちゃん」


宮永さんは、綺麗に笑っていた。
笑いながら、綺麗に綺麗に泣いていた。
私は凍りついて、地に足を縛りつけられて、指先一本動かすことができなくて。
優希はうつむいて、全てを悟ったように地に向けて顔を伏せていて。


「やっぱり、あたしには無理だったんだよね」

「おい、なに言ってんだよ」


ただ須賀君だけが、食い入るように彼女の眼差しに抗っていて。
そして彼女は。


「あたしじゃ――」

「やめろ――」






「咲ちゃんのかわりになんか、なれっこないんだよね」


「やめろ、淡ッッッ!!!!!」





◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


高校生活最初の夏。
難しいことなど何も考えず、勝利の熱狂と明日への希望に、私が泣いた夏。

それは、彼女がまだ、私たちのすぐそばにいた夏。

大将戦を終えた彼女――――宮永咲さんは視線の先に、ずっと目標にしてきたお姉さんの姿を見つけた。
歩み寄る二人。
感動的な姉妹の再会。
余人の立ち入ることかなわぬ邂逅は、二言三言でその時を終え。


その数週間後、咲さんは東京へと転校していった。
それ以来、私は彼女に会っていない。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


「……どうしてあなたは、『宮永さん』なんですか?」


気が付けば私は彼女――――宮永淡さんに向けて、そう問い掛けていた。
二年前、彼女が咲さんとほとんど入れ替わりに転校してきた時。
まさにその日に投げかけた質問と、まったく同じものだった。


「離婚した母親の旧姓が、宮永だったから、だよ。和ちゃん」


そしてその答えも、二年前と寸分違わぬものだった。


何度聞いても同じ答えだった。
私が聞いても、優希が聞いても、竹井先輩が聞いても、染谷先輩が聞いても。
須賀くんが聞いても、宮永さんは首を横に振って、それ以上のことは何も言わなかった。


「なあ、淡ちゃん」


優希が、堪えられなくなったように問いかける。


「どうして咲ちゃんは、私たちに何も言わずに、いなくなっちゃったんだ?」


あれから二年も経つというのに、その答えはいまだ闇の中に埋もれたままだ。

咲さんはまさに転校するその日まで……いや、転校してからも、私たちに何かを語ることはなかった。
私たちは何一つ聞かされていなかった。
ただ彼女のクラスの担任が、淡々と、トレーシングペーパーを転写したかのように、


『宮永咲は東京へ転校した』


と知らせただけだ。
彼女は携帯電話を持っていなかったし、正確な転居先が何処なのかも杳として知れなかった。


何より彼女はその後二年間、麻雀の公式大会に姿を現すことはなかった。
私は東京のみならず、すべての県予選の全部門の全記録を、目を皿のようにして眺め続けた。
しかしついに、「宮永咲」の名を高校麻雀界で目にすることはなかった。

時を同じくして「宮永照」の名もまた、日本の麻雀界から消えた。
プロ入りを確実視されていた高校生チャンプの失踪は、一時は凄まじい狂騒を巻き起こしたものだ。
そして私たちは、事ここにいたってようやく、事態の異常性をはっきりと認識したのであった。

咲さんは、消えてしまった。
この世にいた痕跡を残さず、跡形もなく、消えてしまったのだった。

ただ一つ、部室の写真立てに飾られた、六人の麻雀部員が笑い合う―――あの写真を除いては。


手掛かりがあるとすればそれは、目の前の少女の証言をおいて、他にはないはずだ。
優希が悲痛に訴える主張と同じものを、誰もが同じように、同じ胸の奥に秘めていた。


「……ごめんね、優希ちゃん。私には、何もわからないんだ」

「でも! 咲ちゃんと淡ちゃんは、入れ替わりでこの長野にきたんだ! そんで淡ちゃんは、咲ちゃんのお姉さんと同じ学校だったんだ! それで、それで……」

「それで、関係ないはずが、ないって? ……うん。それは、あたしもそう思うよ」

「だったら!」

「でも、ごめんね」


それでも。
昏い瞳をかすかに瞬かせた優希の希望は、即座に切って捨てられる。


「あたしにも、その理由まではわからないんだ。あたしはただ、母さんと一緒に、こっちに引っ越してきただけだから」


失望の暗さが、重く肩にのしかかる。
今さら有益な情報など得られはしないだろうと、わかっていても胃にずしんとくる。

彼女は。
宮永さんは。
やはり、何も知らないのだ、と。


「……だったら」


肩を落とす私と優希。
しかし彼は、悲痛そのものの泣き笑いを浮かべながら、なおも宮永さんに食い下がった。


「だったら、淡。どうしてお前は、そんな格好してるんだ?」

「……」

「どうして、髪を茶色く染めて、短く切って、整えてまで、どうして……」

「……」


「どうして、咲の真似なんかしてるんだよ」


ウェーブがかったショートブラウンの少女に向けて、問うた。


「やだなぁ、そんなの決まってるじゃん」


返答の代わりに、淡い微笑み。


「京ちゃんのこと、好きだったからだよ」

「……………………な?」

「転校してきたばっかの私に、最初に話しかけてくれたの、京ちゃんじゃん」

「それ、が、なんだって」

「それだけだよ。それだけで好きになっちゃうチョロい女の子も、この世にいないわけじゃないんだよ?」


「でも、京ちゃんの心の中には、いつだっていなくなったあの子が棲んでたから」


淡くて、消えてしまいそうな儚い笑み。


「だから、あの子の、咲ちゃんの、真似してみよう、って」


今にも壊れてしまいそうな、しかし。


「そしたら、京ちゃん、振り向いてくれるかな、って」

「――――っ」


微笑みかけられた須賀くんごと、何もかも壊してしまいそうな笑み。


「ごめんね……期待させちゃったなら、ごめんね。咲ちゃんに繋がる手掛かりがあるんじゃないかって、勘違いさせちゃったならごめんね。いきなり、好きだなんて言って――――ごめんね?」


少年が、がくりと膝から崩れ落ちた。
処理しきれない情報量が、彼の脳の内側と外側でパンクしかけている。


「違うんです……宮永さんが悪いんじゃないんです」


私は、気が付けば声を上げていた。


「ただ、私は悔しいんです」


気が付けば、自然に声は張り上がっていた。


「どうして、どうしてこの場に」


気が付けば、大きくかぶりを振っていた。


「どうしてこの輪の中に、咲さんがいないんですかっ!?」


気が付けば――――私もまた、泣いていた。


「なあ、淡。教えてくれ」

「俺たちは、どうすれば、咲を失わずにすんだんだ?」

「お前が、淡がいて」

「俺がいて、優希がいて、和がいて、先輩たちがいて、後輩たちもいて」

「――――咲が、いて!」

「どうして、それじゃダメだったんだ?」

「……なんでだよ?」

「なんでなんだよおおおっっ!!??」


気が付けば、その場にいる全員が泣いていた。
私は啜り泣いていた。
優希はへたりこんで嗚咽していた。
須賀くんは地に腕を叩きつけ、慟哭していた。

そして、宮永さんは。


「……残酷なことを言うようだけれど、あたしはこう思う。あたしが勝手にこう思ってる、って意味なんだけど」


はらはらと珠の様に、落涙していた。


「多分、みんなは、咲ちゃんを」

「テルに会わせちゃ、いけなかったんだよ」

「離れ離れでいることが、あの二人にとっての幸せだったんだよ」

「すべてが終わっちゃった今だから、そう言えるんだけど、ね」


終わった。
何が終わったというのか、宮永さんははっきりと言葉には出さなかった。
それでも私は、彼女の言わんとするところを、なんとなくだが理解できてしまった。

ああ、もう――――何もかも、終わってしまったことなんだ、と。


山の上の空に花が咲く。
彼女が大好きだった麻雀役の由来が、私たちのあんな近くにいる……というのは、少々こじつけに過ぎるだろうか。

どこかで彼女も、この花を見ているのだろうか。
仕様もないことを考えてから、私は小さくかぶりを振った。

咲さんが、私たちの隣にいない冬。

もう戻らない夏に向かって、小さな祈りを捧げながら。

この冬という現実を、私は強く強く噛みしめた。



今のりつべならこのぐらいの展開はやりかねないかな、と思って書いてみた
咲さんがどうなったのかは多分あなたの想像通りです
それじゃ、お付き合いいただきありがとうございました

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