海未「穂乃果、起きて下さい。穂乃果……」 (18)

 コタツの台の上に突っ伏して、気持ちよさそうに寝息を立てる友人の肩を何度か揺する。それに合わせてトレードマークのサイドテールがゆらゆらと動いたが、本人はなかなか目を覚まさない。
 疲れが一定のラインまで溜まると、直前までは快活に活動していたのに、電池が切れたように深い眠りについてしまう。一度そうなると揺すっても叩いてもまったく動こうとしない。
 それが私の友人、高坂穂乃果の特徴だった。起きている間は元気の塊のようなのに……極端なものだといつも思う。
 しかし今日はこのまま眠らせるわけにもいかなかった。

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「穂乃果、コタツで眠ると風邪を引きますよ。それに早く起きないと日付が変わってしまいます」

「んん~……? もう食べられないよぉ……」

 ありきたりな寝言を呟いて穂乃果はますます深い眠りにつこうとする。口元から涎が垂れたが、気にする様子もない。

「もう、はしたないですよ。……仕方ありませんね。ここは一つ私のビンタで気合を入れてあげましょう」

「う、海未ちゃん待って! それは最終手段にしよう?」

 すっと利き腕を構えた私を制したのはこちらも私の友人、南ことり。穂乃果を挟んで共にコタツに腰掛けていることりは慌てた様子で両手を振った。両手の動きに合わせて、特徴的な前髪が小刻みに揺れる。

「ですが……穂乃果はそれくらいしないと目を覚ましませんよ?」

 ことりとも穂乃果とも、既に10年来の付き合いだ。こうなった穂乃果はテコでも動かないことは重々承知している。

「私に考えがあるの。ちょっと待ってね」

 そう言うとことりはコタツの上のみかんを一つ手に取った。
 丁寧に皮を剥いて、綺麗な円を描いた果肉の中でもとびきり大きなものを一粒選び取り、穂乃果のだらしない寝顔の前に差し出す。
 私はその行動の意味を図りかねて、にこにこと笑っていることりの顔をただ見つめるだけだった。

「穂乃果ちゃ~ん。ミカンだよ~。甘酸っぱくて美味しいよ~」

 どうやらことりは穂乃果を食べ物で懐柔するつもりらしい。いや、これは餌付けと言った方が正しいのだろうか。

「はぁ……ことり。いくらなんでもそれで起きるとは…」

「はむっ! ん~、うまい!」

「……犬ですか」

 ついさっきまでぐっすり眠っていたはずなのに、ことりがみかんを差し出すと条件反射のように跳ね起きる。そして幸せを顔いっぱいに表して、美味しそうにミカンを頬張る。
 単純極まりない穂乃果の姿を見て、思わずため息が漏れた。

「まったくもう……誰のための勉強会だと思っているんですか?」

「うぐ……だ、だって海未ちゃんちの掘りごたつが気持ちよすぎるんだもん。これに入って、眠るな!なんて無茶だよ~」

 ぶーぶーと唇を尖らせて、よく分からない反論をする穂乃果。
 口元の涎にはまだ気づいていない。

「ではコタツのスイッチを切りましょう。そうすれば穂乃果も勉強に精がでるでしょう」

「海未ちゃんの鬼~!」

 頬を膨らませて怒っていることを素直に表現する。喜怒哀楽を体全体で示すのは、サイドテールと同じく、幼い頃から変わらない穂乃果の特徴だ。
 もう中学三年生にもなったというのに、初めて出会った時とほとんど同じ、まさにそのまま大きくなったかのようにすら思える。

「とにかく、さっきの数学の問題の続きからいきますよ。……x=3の時、yの値はいくつになりますか?」

「え~……と……z? あはは、なんちゃって……」

 額の青筋が音を立てた気がした。

「……穂乃果?」

「ご、ごめんなさい分かりません! だからその般若みたいな顔をやめて海未ちゃん!」

「……はぁ、すっかり集中力が切れてしまったみたいですね」

 穂乃果の集中力は一度波に乗ると目を見張るものがある。しかし、それが切れるのもまた早い。
 時間が少し空いただけで、高まっていた集中力はゼロに戻ってしまったようだ。

「まあまあ海未ちゃん。穂乃果ちゃん、苦手な数学の勉強ずっと頑張ってたんだもん。疲れるのも仕方ないよ。ここら辺で少しお休みにしない?」

「ことりちゃ~ん!」

「もう……ことりは穂乃果を甘やかし過ぎです」

「そ、そうかなぁ?」

 私が穂乃果を叱ると、穂乃果が膨れる、もしくは恐がる。それをことりがなだめて、穂乃果がことりに抱きつく。
 このやり取りももう何度交わしたことだろう。

「はぁ……分かりました。30分ほど休憩にしましょう」

「わーい!」

「ただし!」

「はひっ!?」

 ビシッ!と穂乃果を指差す。

「休憩が終わったらすぐに勉強再開ですからね。さっきより厳しくしていきますから覚悟しておくように!」

「……鬼ぃ~」

「う~ん、ことりちゃんのクッキーはいつ食べても最高だね!」

「ほんと? ありがとう、嬉しいな♪」

 満面の笑みを浮かべてむしゃむしゃとクッキーを食べる様を見ていると、だんだん穂乃果が犬のように見えてくる。食べ物で簡単に手懐けることが出来るところも犬にそっくりだ。
 本人に言うと、きっとまた膨れてしまうだろうから思うだけにしておこう。

「はむはむはむ……むっ!? うぐぐぐ……!」

「穂乃果ちゃん!?」

 小気味良くさくさくとクッキーを食べ続けていた穂乃果の手がピタリと止まり、みるみる顔が青くなる。
 口に詰め込みすぎて喉にクッキーが詰まってしまったようだ。

「もうっ! 欲張ってそんなにたくさん詰め込むからそうなるんです! ほら、お茶を飲んで……」

 先程用意したばかりの暖かい梅こんぶ茶を手渡す。クッキーに梅こんぶ茶はどうかと自分でも思ったが、紅茶を切らしていた以上は仕方がなかった。

「うぐ……ごくっ…ごくっ…ごくん! ぷはーっ! ありがとう海未ちゃん! あー、苦しかった……」

「あなたはもう少し落ち着きを持って行動するようにしなさい。ことりや私の心労を少しは考えるように!」

「うぅ……ごめんなさい…」

 しょんぼりとうつむいた穂乃果はますます犬のように見える。もし尻尾が付いていたら今ならだらんと垂れ下がっているだろう。

「まあまあ海未ちゃん。いつでも元気いっぱいな所が穂乃果ちゃんの良いところなんだから。そんなに怒らなくてもいいんじゃないかな」

「ことりちゃ~ん!」

 数分前に交わしたやりとりが目の前で再び繰り返される。まったく、これでは私が悪いみたいじゃないですか。

「確かに穂乃果の良さはそういうところにあるかもしれませんが……落ち着きを持った方が良いというのも事実ですよ。4月には高校生になるんですから、とりあえず朝は一人で起きれるようになってですね、それから宿題も期限ギリギリまで溜め込まずに受け取った日に終わらせるくらいの余裕を持って……」

「うぅ~……海未ちゃんがお母さんみたいなこと言ってるよことりちゃ~ん…」

「あ、あはは…。それだけ心配してるってことだと思うよ」

 これくらいは友人として当然だと思うのですが……そんなに過保護になっているでしょうか?
 思えば幼い頃から穂乃果の世話ばかり焼いてきた気がする。宿題の手伝いから何から色々なことで面倒を見てきたような……保護者に似た気持ちになるのも当然と言えるかもしれない。

「海未ちゃん、穂乃果ちゃんが合格出来るか心配で心配で……合格祈願のお守り三個も買っちゃったんだよ」

「なっ…! よ、余計なことを言わないで下さいことり!」

 私はことりに弱い。
 唐突に私が恥ずかしく思っていることを笑顔で発言されたり、ことり独特のペースに乗せられて頼みごとを引き受けてしまったり。時々笑顔の裏に黒いものを隠し持っているのではと思ったこともあるが、本人に悪気はなく天然でやっているところが始末に悪い。

「海未ちゃん……」

 穂乃果が目を潤ませて私を見つめてくる。ああ、これは……。

「だーいすき!!」

 やはりそうだった。
 ガバッ!と穂乃果が抱きついてきた。嬉しいことも悲しいことも体全体で表すのが穂乃果の特徴。私やことりに感謝を示す時は大概こうして抱きついてくるのだった。
 三人で外を歩いている時も見境がないため、周りの人に微笑ましい視線を向けられて恥ずかしい思いをしたこともあった。それでも、私はこうされるのは嫌いではない。

「海未ちゃ~ん、本当にありがとう! 私ぜっっったいに合格するからね!」

「どういたしまして。……き、気持ちは伝わりましたから少し離れて下さい」

 抱きつかれるのは慣れてきてしまったが、頬ずりまでされるのはさすがに許容できない。

「ふふっ、海未ちゃん顔真っ赤だよ」

「ですから余計なことを言わないで下さい!!」

 ことりの要らない一言で私はますます顔が熱くなった。やはり私はことりに弱い。

 三人で同じ高校を受験することは決まっているが、私とことりはともかく、穂乃果は数学がとにかく苦手だった。他の教科は合格ラインまで達しているものの、数学を克服しない限りかなり危ない。
 私とことりが自分達の受験勉強の合間に、穂乃果に数学を教えているのも三人で同じ高校へ通うためだ。お守りを三個買ってしまう程度には、私はまだ三人一緒でいたかった。

「もう……穂乃果、どうぞ。本当はもう少しあとで渡そうと思っていましたが…今のうちに渡しておきます」

 表面に梟の絵が描かれ、裏面に大きく『合格祈願』と書かれたお守りを取り出す。受験する高校の近くの神社で買ったばかりの物だ。三個買うと言ったら、神社の巫女さんが少し安くしてくれた。

「おお~、ありがとう! これがあれば百人力だよ!」

「穂乃果ちゃん。私からも…これ」

 ことりが可愛いらしい模様のあしらわれたひざ掛けを取り出す。試験を受ける時に穂乃果が寒くないようにと作ったことりお手製の物だ。私も手伝おうとは思ったが、ことりと違って手先が不器用なので思っただけだった。

「わぁ~、可愛い! もしかしてことりちゃんの手作り!?」

「うん。ちょっと遅めのクリスマスプレゼントも兼ねて、ことりから穂乃果ちゃんに」

「ことりちゃ~ん!!」

「ひゃっ!……えへへ」

 今度はことりの番だった。
 穂乃果はこれ以上ないくらいの笑顔を浮かべてことりを抱きしめた。これだけ喜んでもらえれば作った甲斐もあるというものだろう。穂乃果の笑顔は見る人も笑顔にさせる力がある。私もことりも、それに救われたことは一度や二度ではない。

 ことりが用意したクッキーをお茶請けに私が淹れた梅こんぶ茶を飲み終わると、部屋全体を心地良い静寂が包んだ。聞こえる音はしゅっ、しゅっ、という加湿器の音のみ。
 ことりと、穂乃果と、私。
 会話がなくとも、二人と一緒にいるだけで居心地がいい。もし一人でも欠けていれば、パズルのピースが一つ欠けているような気持ちの悪さを感じるだろう。私にとって二人はもはや体の一部のようなものだ。

「……受験が終われば、すぐに卒業式かぁ~。私泣いちゃうかも」

 穂乃果がぽつりと呟いた。
 中学生活の締めくくりの日が近づいていることを実感しているのか、いつもの元気なトーンではなく、少し寂しげな声音だった。

「いいではないですか。最後くらい大泣きしてしまっても」

 これは自分への言い訳でもある。私も卒業式で涙を堪えることが出来る自信はない。中学3年間で出来た思い出の数はとても両手では数えきれないくらいにあって、それらを思い返すだけで涙腺が緩んだ。

「海未ちゃんも泣くかな? ことりちゃん」

「ふふ、ちょっと楽しみだね♪」

「なっ……! 人が泣くのを楽しみにしないで下さい!」

 穂乃果とことりがいたずら好きの子供のような笑みを交わし合う。
 私は心を読まれたような気がして、つい声を荒げてしまった。

「だって~、海未ちゃんの泣き顔なんて滅多に見れないし……」

「べつにそんなの見れなくてもいいでしょう。悪趣味ですよまったく……」

 自分の泣き顔を見られていい気分はしない。
 気心の知れた友人の前なら尚更だ。

「そういえばしばらく見てないねぇ……。子供の頃は足に虫がついた時によく……」

「ことり、それ以上言うと怒りますよ?」

「ぴぃっ!」

 凄みを効かせてことりを睨む。
 あまり昔のことを詮索されると碌なことにならない。
 そうなるとまず間違いなく……

「あはは、昔は海未ちゃん恥ずかしがり屋で泣き虫だったもんね」

 こうなる。
 穂乃果やことりと昔の話を始めると大抵私が標的になり、必ず恥ずかしい思いをすることになる。

「えへへ、初対面の人は想像出来ないかもね」

「やめて下さいもう……そんなことより高校に入ったら何をするかについて話し合いませんか?」

 無理やりに会話の方向転換を図る。これ以上昔話に花を咲かせることにはいかない。

「ちぇ~、海未ちゃんはガード固いよね」

「これが普通です」

「高校かぁ~。二人とも入る部活は決めてるの?」

 ことりがおっとりとした声で尋ねてくる。

「私はそのまま弓道部に入ろうと
思っています。中学の3年間で心を落ち着かせるためには一番の素晴らしい競技だと実感しましたから、高校でも続けたいです」

 中学から何となしに始めた弓道だったが、今ではすっかり虜になってしまった。弓を握った時、気持ちがゆっくりと静まっていくあの感覚は他のことでは味わうことは出来ないだろう。

「海未ちゃん、大会でもいい結果出してたもんね。きっと高校でもうまくいくと思うな」

「ありがとうございます。ことりは何を?」

「う~ん、部活に入るかは決めてないんだけど……手芸をやってみようかなって」

「手芸、ですか」

「ことりちゃん、手先器用だもんね」

 なるほど。確かにことりは美術の成績が良く、お菓子作りなども上手い。今日のクッキーもことりの手作りだ。何かを作ることに才能を発揮するタイプのようだから、きっと手芸も上手くこなすだろう。

「あ~あ、私だけ何にも決まってないや」

 穂乃果が両腕を投げ出して床に寝そべった。

「何かないのですか? 高校に入ってからやりたいことは?」

「うーん、よく分かんないや。中学は毎日楽しいからそれでいいやって思ってたから」

 穂乃果は珍しく迷っているようだった。自分のやりたいことが見つからずに
逡巡するなんて、穂乃果らしくもない。

「やりたいことかぁ……何だろうなぁ…」

 ぼうっとした目で天井を見つめる穂乃果の目には微かな焦りのようなものが浮かんでいた。

「ふふ、穂乃果ちゃんならきっと見つけられると思うな。自分がやりたいこと」

 私が口を開くよりも早く、ことりが言おうとしていた言葉を代弁してくれた。どうやら考えていることは同じらしい。

「え? 何で何で?」

 穂乃果が起き上がり、頭に疑問符を浮かべてことりの方に身を乗り出した。

「それは……」

 チラッとこちらに目配せをすることり。ことりと私だから分かること。昔から何度穂乃果に引っ張り回されて苦労したことか。そしてその度に、何度感謝したことだろう。穂乃果が引っ張ってくれなければ見えなかった世界、見えなかった景色。

「穂乃果自身には……理由は分からないかもしれませんね。引っ張り回されてきた私達だからこそ理解できることです」

「えぇ~!? 何それ!? そんなこと言われたらますます気になっちゃうよ~!」

 慌てふためく穂乃果の様子がおかしくて、ことりと二人、顔を見合わせて笑い合った。当の本人は仲間外れにされたと思ったのか、そっぽを向いて膨れている。
 ひとしきり笑ったあとに、一呼吸置いてことりが言った。

「行けるといいよね。3人で、一緒の高校に」

「きっと大丈夫ですよ。穂乃果はやる時はやりますから」

「わ、私だけじゃないでしょ!? 海未ちゃんとことりちゃんだって受かるって決まったわけじゃないんだよ!?」

「……ふふふ」

「むむむ……! ば、馬鹿にされてる気がする……!」

「穂乃果ちゃんなら大丈夫だよ。……でも、ちょっぴり寂しいね。中学生活がすぐに終わって、そのあとの高校生活もいつかは終わっちゃうんだよね」

 ことりが不安げにうつむいた。
 中学の卒業を間近に控えて、心配になっているのかもしれない。私達3人、いつまで一緒にいられるのか。
 私は自信を持って答えた。

「大丈夫ですよ。何があっても、私達が共にいたいと願っていれば、必ずその通りになるはずです」

「……そうだね。そうだよね」

 もちろん私の言葉に根拠なんてない。ことりも穂乃果も当然分かっているはず。そうあって欲しいという思いしか存在しない。実際に叶う保証なんてどこにもない。
 それでも私は……ことりと穂乃果とはいつまでも、こんな風に過ごしていたいと願い続けるだろう。
 いつか別れることになっても、その時が来るまではずっと……

「さぁ! 休憩も十分です! 穂乃果、勉強の続きを始めますよ!」

「えぇ~! もうちょっと話し込んでも……」

「穂乃果ちゃん!」

「こ、ことりちゃん……?」

「頑張ろ! 終わったら今度はケーキだよ!」

「さーぁ、かかって来い数学!」

「……単純にも程がありますよ」

 穂乃果と、ことりと、私。
 私達はどんな時も、三人一緒です。


おわり

 

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