貴樹(今振り返れば、きっとあの人も振り返ると……強く、感じた)
僕と彼女を遮る踏切の音が、けたたましく鳴っている。
目の前にはごうごうと流れる快速電車、車輪が軋み、騒がしいくらいの音が……電子音に混じって鳴り響いている。
そして、その向こうには……彼女がいる。
貴樹「……」
やがてそれらは通り過ぎ、僕たちの視界がぱあぁっ、と開けた。
遮断機がゆっくりと上がり、僕と彼女の間には……もう、何も無くなっていた。
貴樹「明里……」
僕はもう一度、彼女の名前を小さく呼んだ。
明里「貴樹君……久しぶり」
彼女もまた、僕を見つけて。
僕の名前を呼んでくれた。
数年ぶりに聞いた……彼女の、優しい声だった。
桜の花びらと太陽の光を浴びながら、明里はその場所に立っている。
僕は小さく手をギュッと握りしめ……また来た道を戻っていってしまったのだった。
明里はそこを一歩も動かないでいた。
線路の中央で再会をするわけにもいかないか……と、僕は彼女の側へと歩み寄っていった。
明里「久しぶりだね、まさかこんな場所で会えるなんて。東京に戻ってたんだね」
僕が歩みを止める前に、彼女は言葉をくれた。
貴樹「明里も……東京に来てたんだ。驚いたよ」
何かを探るように、僕は言葉の尻尾を追いかける……。
そんな話し方しか、今は出来ないような……気がしたんだ。
明里「うん。あれから色々あって……今はこの街に住んでるんだ」
あれから……。
僕と彼女が、決別した日。
そういう計算でいいのだろうか?
それだったら、電話も手紙も途絶えた……高校生の……。
明里「……貴樹君、大丈夫? なんだか顔色悪いみたいだけど」
ボーッとしてしまった僕の顔を見て、明里はそう声をかけてきた。
貴樹「あ、ごめん。少し寝不足で。頭ボーッとしてたよ」
明里「そっ……か。ねえ、よかったらさどこかで座ってお話しない?」
貴樹「え……」
僕の心臓が、ドクッと揺れたのがわかった。
明里「立ち話も疲れるでしょ? どこか喫茶店にでも……って、時間は大丈夫? もしかして急いでた?」
貴樹「……いや、そんな事ないよ。明里こそ大丈夫なの?」
明里「うん、私は平気。じゃあ行こっか?」
スッ、と髪を耳にかけた彼女の左手に、僕は見つけてしまった。
薬指にキラリと光る、小さな結婚指輪……。
貴樹「うん、行こうか」
でも僕は、自分でも意外なほど冷静にそれを見つめていたのだった。
僕の心の中には、もう煌めくような想いは無い……。
明里「うんっ!」
指輪を黙って見過ごせた時には、そう……思っていたのに……。
喫茶店に着くまでの時間、僕と明里はその大半を上を見つめながら歩いていた。
明里「桜の木、懐かしいね」
貴樹「ん……よく歩いていたよね、ここ」
明里「小学校以来かぁ。すごい昔の事みたいだよね、まだ十年ちょっと前なのに……」
貴樹「そう、かな? 十年っていったらずいぶん時間は経ってると思うけど」
明里「私……人間にとってはそうかもしれないけど、宇宙の時間から見たら全然だなぁって思って」
貴樹「……明里って、そういう事よく考えていたよね」
小学校時代、僕と彼女はこんな話ばかりしていた思い出が……ちょっとだけ、よみがえった。
明里「十年以上……か」
貴樹「……」
桜の木を見上げる彼女を、僕は後ろから見つめていた。
僕たちの背中は小学校の時よりも全然位置にあって……高かった桜にも頭が近付いて、花びらが少しだけ大きく見えている。
貴樹(これが、十数年……)
時間は僕と明里を再び引き合わせた。
今日も、去年も、僕たちが小学生だった十数年も……桜は変わらず、毎年春になるとこの場所で花を咲かせていた。
そして今は……また僕たち二人の前で、変わらずに桜を咲かせている。
変わり過ぎてしまった僕たち二人を見て……この花びらは何を思いながら散って行くのだろうか。
明里「……時間は過ぎちゃったけどさ」
貴樹「ん……」
明里「一緒に桜、見る事が出来たね」
貴樹「……!」
明里は、自分よりも高い場所にある桜の枝を見つめながら……僕にそう言ってくれた。
貴樹「約束、ってわけじゃなかったのにね」
明里「そうだね。あの頃は、また来年も会えるって思えていたのに……その約束は、お互いに離れてからいつか消えちゃって……」
明里「でも……」
貴樹(こうやって、また、明里と……)
花びらは、優しいシャワーのように僕たち二人に降り注いでいる。
春の陽気と、頬をくすぐるような暖かさの少し強い風が……僕たちを包み込んでいた。
貴樹「……行こっか」
明里「……んっ」
貴樹「……コーヒーを」
明里「私はレモンティーをお願いします」
ウェイターに注目を告げ、僕と明里はふうっ、と息をついた。
まだお昼前の喫茶店には、僕たちと他二組ほどのお客しか入っていない。
貴樹「……お昼、食べないでよかったの?」
明里「うん。ご飯は家で作ってあるから」
貴樹「そう……か」
明里「……」
左手の指輪の事を、彼女は話そうとはしてくれなかった。
帰る家があって、待ってくれてる人がいる……それは。
彼女の中では、サラリと話せる内容ではなかったらしい。
貴樹「……」
明里「……あったかい、春だよね」
僕が左手を見つめても、彼女は指を隠すかのように髪をかき上げ……そして、机の下に隠してしまう。
隠して、と言ったが、それはけっして不自然な手の運び方ではなかった。
貴樹(それでも……)
「お待たせしました、レモンティーのお客様……」
明里「あ、はいっ」
明里は僕に左手を……正格には、薬指を見せないように振る舞っているように見えたのも事実だった。
明里「……ん? どうしたの、コーヒー。冷めちゃうよ?」
貴樹「あ……うん」
明里「ここのレモンティー、好きなんだ」
ふふっ、と笑う明里の薬指を僕はどうしても追ってしまう。
──あの、その指輪。
そう聞けたら、どんなに気持ちが楽になっただろう。
すでに見えているその答えに対して、明里は何も言ってはくれなかった。
ただ、美味しそうにレモンティーを飲み笑顔を浮かべる彼女がいて……。
僕はその正面に、こうして座っている。
それだけは奇跡のような現実だった。
貴樹「明里……」
明里「ん? なーに貴樹君」
名前を呼べば、それを返してくれる、そんな当たり前のような奇跡……。
貴樹「……ううん、何でもないよ」
僕は自分でも気が付かないうちに、フッと小さく笑みを浮かべた。
明里「ふふっ、変なの。でも、変わってないね貴樹君も」
貴樹「そうかな……明里はずいぶん変わったみたいだけど」
明里「ええ~、そうかな? そんなに大人っぽくなった?」
貴樹「……あんまり顔立ちは変わってないね。さっきだって明里の顔、すぐにわかったもの」
明里「ひどいなぁ、もう。これでもちゃんとお化粧とかしてるんだよ。髪だってほら、前髪の切り方とか……」
そう話す明里の表情は、どこか。
昔会話をしていた時みたいに、キラキラ輝いているように見えた。
彼女と直接会話をした僕の記憶の中では、こんな風にはしゃいで笑う顔をよく見ていた気がする。
貴樹(あれから、時間が経って……それでも彼女は)
明里「……でね、小学校の時に読んでた本を見つけちゃって……」
こうやって、昔みたいに眩しい笑顔を生み出す事が出来るんだ。
貴樹(じゃあ、僕は……?)
きっとあの頃のような笑顔には、もうなれないのだろうと……そう、冷静に心の中で考えている自分がいた。
明里「ね、懐かしいでしょ?」
貴樹「……そうだね。明里、あの本好きだったものね」
明里「うん。私が五回借りて、貴樹君が四回。あの本だけは、どうしても譲れなかったな~」
貴樹「最後は明里が本を返してから、またすぐに借りちゃうんだもの。あれじゃあ借りれないよ」
明里「ふふっ、実はあれね、最後の方は読んでなかったんだよ。ただ借りて、貴樹君より多く名前残したかったの」
貴樹「……実は、僕も」
明里「ふふっ、じゃあおあいこだ」
貴樹「そう……だね」
柔らかな春の一時は、確かに、ゆっくりと僕たちの間にだけ……流れているようだった。
昔ならば二人の世界で終われた時間が、今では……。
明里「……あ」
時計を見て、明里がフッと外の世界の事を思い出したような顔をした。
貴樹「時間?」
明里「あ、うん。洗濯機セットして……一回帰らないといけないんだ」
一回。
僕はその言葉に淡い期待を抱いてしまっていた……。
なぜだろう、彼女との会話ではそうなってしまう。
事実、さっきの会話の中だって……。
明里『変わってないね、貴樹君も』
「も」とは……どういう意味なのだろうか。
もし言葉の通りなら、明里も……。
明里「……ごめんね、せっかく会えたのに」
貴樹「いいんだよ、明里。忙しいなら無理しないでさ」
明里「本当にごめんね。あ、よかったら……電話番号……」
貴樹「え……」
明里「迷惑じゃなかったら、交換……しないかな?」
僕と、彼女を繋ぐ糸が。
小さな結び目になって……また僕たちを紬いでしまった瞬間だった……。
明里「あ……そう言えばね『遠野』君」
そして別れ際。
彼女は僕に答えを教えてくれたんだ。
明里「私ね……結婚したんだ」
それは、先ほどまで見せていたようなキラキラした笑顔じゃなくて……もっと、こう。
大人になった、明里の新しい表情だった……。
貴樹「遠野君……か」
向かいがポッカリと空いてしまった喫茶店に、僕は一人とり残されながら、そう呟いた。
貴樹「……」
わかっていた事だが、何も考えが浮かんで来ない。
意識が海の底の底に沈んだような……。
あるいは、ただ漆黒だけが広がる宇宙に放り投げられたような……。
どちらにしろ、僕の頭は何も考えてはいなかったんだろう。
ただ覚えている事は、お昼時になって混んで来た喫茶店の騒がしさと、右手に握りしめた彼女の連絡先を記したメモの手触りだけ……。
僕は席を立ち、支払いを済ませ外に出た。
風は、また甘い匂いを僕の鼻に運んできたのだっ……。
貴樹「……」
あれから二日が過ぎた。
僕は相変わらず、仕事のためパソコンに向かっている二日間だったが……。
特に変わった事はない。
明里からの連絡も……何も。
お互いの連絡先を交換はしたけれど、僕の携帯電話は彼女からの電波を受信しないでいる。
別に、期待をしているわけでなかった。
貴樹(去り際にあんな事言われたんじゃあ……な……)
私ね、結婚したんだ。
僕の頭の中に、まるで呪文のようなその言葉が。
いつまでも、鳴り響いていたんだ……。
でも、今の自分に残る言葉はそれだけではなかった。
再会した彼女との会話……そのどれもが、すぐに引き出そうと思えば鮮明に思い出せるくらいに。
自分の中に確かに存在していたんだ。
貴樹(……子供の時とは違う、か)
冷静になれる自分がいる。
そうだよ、今だってこうして……いたって落ち着いた気持ちで彼女との会話を思い返している。
貴樹(懐かしかったな……小学校の話。本の話……)
貴樹(……)
あれ?
僕も彼女も、したのは「昔」の話だけだ。
彼女から聞いた「今」は……結婚した、という事だけだった。
僕の頭に、他の旧友との会話がよみがえった。
それは、ある電話での話。
転校を繰り返して来た自分だが、何人かの友人とは、今でも連絡をとっている。
高校時代の友人は、九州、東京の距離だが、ごくたまに話なんかはする。
大学は東京に戻ってきて、その時に知り合った人間との連絡の方が多いが……。
その、どちらの友人も久しぶりに話すと決まって、当たり前のようにこう聞いてくるのを僕は思い出したのだ。
『今、何してるんだよ?』
『仕事とか何の職? どんな状況』
決まって……今を尋ねて来る言葉だ。
その度に僕も、当たり前の返事をしていた。
会社に勤めていて、仕事を辞めた事。
今は……細々ながらも仕事を見つけ働いている、という事。
そして相手の話を聞き返す……大抵はこんな流れだ。
それは、どんな友人知人にも漏れないパターンだった。
友人の近況が気になる気持ちは……僕はあまり持ち合わせていなかったが、聞かれるのだから仕方がない。
そう思いながら会話をしていた……でも。
貴樹(明里は、違った)
貴樹(僕の「今」を聞かずに……ただ二人で。昔の、一番楽しかった時間の事を話していただけだ)
貴樹(時間が無かったから……聞かなかっただけか?)
僕は明里に対して、今を尋ねようとはしなかった。
それは、知りたくなかったからなのかもしれないし、もうわかってしまっていたからなのかもしれない。
どちらにしろ、僕は……明里の口から答えを聞くのが怖かった。
だから少しだけ……楽しい会話に紛れながら安心もしていた。
最後の最後で、彼女の口からそれを告げられるその時までは……。
貴樹「……」
秒5のSSとか初めて見た
貴樹「もしかしたら彼女も……」
語りたくない。
そんな考えを持っていたのだろうか?
貴樹「……いや、よそう」
同じような思考を持って、共通して。
まるで心が通っているかのように、勝手に考えをまとめて……。
とても、卑しい人間の考えに思えてしまった。
貴樹「ふぅ……出かけるかな」
僕はため息をつきながら、パソコンの電源を落とした。
春物のコートを羽織り、外へ出る……まだ風は変わらない。
桜の花びらも、僕の頭に舞っている。
さあ、と、緩やかな日差しの中に身を投げ出した春の午後だった……。
花苗『亮君……』
花苗『……ありがとう』
穏やかな公園の真ん中でベンチに座りながら……私は携帯の電源ボタンを軽く、一度だけ押した。
さっきまで聞こえていた故郷の音……波、風、空……その全てが今は、都会の空気に消されている。
花苗(……ねえ遠野君は)
花苗(遠野君は、たどり着けた?)
私は空を見ながら……彼の名前を二度呼んだのだった……。
かなえちゃんが1番かわいそう
花苗「……」
地元の種子島を飛び出して、今は一人……東京の空の下にいる。
全ては、彼に会うために。
花苗「……私、会えるかなぁ」
たくさんの人の波に圧倒されながら、私はここまで歩いて来た。
フラフラと、まるでアスファルトが種子島とは違う材質で……もっと硬い硬い、鋼鉄みたいな地面みたいな。
同じ距離を歩いても、ずいぶんと疲労感が違う……そう、感じながら私はやっとこのベンチまでたどり着いたのだった。
花苗「……すごいなぁ、東京って」
私はもう一度、空を見上げた……。
ふぅ
この空の下に、貴樹君がいる。
もしかしたら、歩いてきた人の中にいたのかもしれない……通り道のコンビニのレジで買い物をしていたのかもしれない。
花苗(地元じゃあ絶対無かったのに……)
今は、そんな奇跡があり得る状況なのだ。
花苗(……いつでも探していれば、どっかに)
花苗(貴樹君を、見つける事が出来るのかなぁ?)
花苗(例えばそう……電車で向かいのホームとか、あの路地裏から見える窓とか……踏切ですれ違っちゃうとか)
花苗(……なんてね)
花苗(こんな所にいるはずなんて、無いもん……)
スッ、と。
視線の隅を男の人が横切っていくのが目に入った……。
貴樹「……」
花苗(あ、あの人。貴樹君に雰囲気似てるなぁ……)
花苗「……え?」
あ、あれ?
鼓動が早くなる。
心臓が、高鳴る。
まるで……大きな波の上で立てた時みたいな、確かな鼓動。
躍動、高揚感、そして……恥じらいと興奮。
花苗「……!」
私は、夢中で彼に声をかけていた。
何を話したかは覚えていない……。
それでも、ちゃんと伝わってくれてたんだと……今でも私は思う。
だって……。
貴樹「もしかして……すみ……だ?」
花苗「うんっ!」
彼はちゃんと、私を呼んでくれたのだから。
昔とは「違う」大人の笑顔で、私を……。
今この瞬間は私だけを……見つめてくれていたんだから……。
貴樹「……久しぶりだね、澄田。こっち来てたなんて知らなかったよ」
花苗「う、うん……」
さっきのベンチに、今度は二人で。
貴樹「懐かしいね、時間はそんな経ってないのに。ずいぶん大人っぽくなったね」
花苗「そ、そうかな……た、貴樹君だって。背、伸びたんだね……」
花苗(わ~っ、私普通に会話してる~! しかも、た、貴樹君って自然に呼んでるし……)
自分でも、驚くくらいにドキドキしていた。
このドキドキは、あの日……貴樹君が種子島からいなくなって以来、ずっと訪れる事の無かった、ドキドキ。
花苗「……」
花苗『貴樹君の事が、ずっとずっと、大好きでした』
花苗『さようなら』
私はあの時、確かに自分の気持ちを伝えられた。
それで……全てが終わったのだと思っていた。
でも、今になって……。
貴樹「……そう。一人で東京に。旅行かなんか?」
私の心臓は、こんなにも元気に血液を送る事が出来るんだって……思い出しちゃった。
花苗「そ、そんな所かな……今日着いたばかりなんだけど、何だか気疲れしちゃって」
花苗「すごいね、東京って」
話す度に、呼吸は少しずつ落ち着いていく……昔なら考えられなかった事態だ。
貴樹「……人は多いよね。建物もたくさん、でも、それだけだよ」
それだけ、と言った彼はどこか遠い目をしたのが……見えた。
これはドロドロの予感
花苗「……」
貴樹「……」
私は、彼が仕事を辞めている事を知っていた。
ここにたどり着く前に、色んな場所に電話して……仕入れた情報だった。
花苗(うう~ん、でもそういう話をするのも何か、ね)
心の中で、小さく苦笑い。
花苗(なんだろう、他に話したい事……もっとたくさんあるはずなのに)
唐突過ぎる出会いは、私たちの会話を奪い去ってしまってい……しばらく、沈黙が続いた。
そして、とうとう……。
プルルルル プルルルル。
彼の胸ポケットから、この空気を割くような電子音が聞こえた。
貴樹「……!」
その表情は、私には掴めない……。
ヤンデレっすか(´・ω・`)
貴樹「澄田、ごめん。ちょっと……」
花苗「あ、うん、いいの。気にしないで」
そう言って貴樹君はベンチから立ち上がって……少し遠い場所で電話をし始めたのが見えた。
誰からだろう、自然と、気になってしまう。
花苗(もしかしたら恋人かな……なんて)
そう言えば、私は貴樹君の現在を何も知らない。
恋人はいるのかすらも……今の私にはわからない。
花苗(でも、そんなすぐには聞けないもん、ね~カブ)
遠い故郷にいる愛犬の名前を呼んで……私は貴樹君を見つめていた。
空を見ながら名前を呼ぶのは、彼とカブだけなのだ、と思うと、なんだかクスリと笑えてきたのだった。
小説はタカキ君のくそっぷりが露呈します
貴樹『うん……わかった。じゃあ、今から……また……』
やがて電話を終えた彼はゆっくりと私の元に近付いて来る。
そして、彼が申し訳なさそうに口を開いた……。
貴樹「ごめん澄田、約束が入った」
花苗「そう……なんだ。残念」
つい、残念という言葉が出てしまう、これも昔なら考えられない事だ。
貴樹「……ごめん、せっかく会えたのに」
花苗「し、仕方ないよ。用事が入ったんじゃあ……ね。私の事は気にしないで」
貴樹「……ごめん。じゃあ」
花苗「あ……と、遠野君っ!」
去っていく背中に向かって私は、とっさに彼の名字を呼んでしまった。
貴樹「ん……なに? どうしたの?」
振り向いた彼の笑顔は、優しかった。
だから私も……。
花苗「あ、あのっ。こ、今夜、よ、よかったら一緒にご飯とかた、食べてくれない……かな、って」
その笑顔に釣られるたみたいに、自然なままで彼を誘う事が出来たんだ……。
やめろ(´・ω・`)
かなえちゃんだけは泣かせないでくれ
貴樹(明里……)
澄田と約束をして別れてから、僕は例の喫茶店に向かっていた。
明里『今から、会えないかな?』
明里からの電話、受話器越しの小さな息づかい……。
それはただのため息のようにも、どこか艶やかさの残る吐息のようにも聞こえていた。
……僕は、ただ明里の待つ場所へと歩いて行くだけだった。
今夜中に完結したら明日から本気出す
明里「こっち、こっち」
喫茶店の扉をすぐ、明里は僕の視界に入って来た。
以前座った席と同じ場所で……明里は小さく手招きをしていた。
貴樹「どうしたの、急に」
僕は座りながら彼女に尋ねた。
明里「ちょっと時間が出来たから、お茶でもしたいなって思って……迷惑だったかな?」
貴樹「いや……」
僕はそう返事をして、注文をとりに来たウェイターにコーヒーとだけ言い放つと……また、明里を見た。
ふう
今日は白いカーディガンを羽織りながら、薄いピンクのシャツを着ている……ほんのりと白い顔と、優しい赤みを帯びた頬が、また可愛らしく見えた。
貴樹「……いいの?」
明里「ん?」
貴樹「その、家を開けてさ。洗濯とか、色々あるんじゃないの?」
明里「今日は大丈夫。だいたい終わらせて来たから……それに、彼も」
貴樹(彼……)
明里「……とにかく、大丈夫よ」
お互いが、ハッとしながらも。
僕はそれを問い詰める事が出来なかった。
ふ、ふりん
明里「桜、まだまだ残ってるね……」
明里もまた、先ほどの言葉に上塗りをするように……僕に話を振っていた。
彼女の表情は、けっして崩れはしない……。
僕の表情もまた、取り乱す事なく彼女との会話を遜色無く続けていた事だろう。
ああ、そういう意味で僕たちは……大人になったのだと、そう、感じた。
支援
明里「……」
貴樹「……」
どれだけの時間が過ぎただろう。
カップに残るコーヒーから熱はとうに消え、お昼を過ぎた喫茶店の中はとても静かだった。
まるで、僕と明里以外この場所にいないような……。
大人になった僕たちは、こういった現実的な事でしか二人の世界を「作れない」のだと、思った。
貴樹「ねえ……明里」
貴樹「結婚って……どんな感じ?」
僕は明里に、それを聞いてみたのだった。
明里「どんなって……う~ん」
明里「……よく、わからないかなぁ」
明里から返って来た答えは意外にも、ひどく曖昧で不安定な物だった。
貴樹「わからないって……不満とか?」
明里「あ、違うの。そういう意味……でも無いんだけどね。どう言えばいいのかな」
明里「結婚って言うけど、私の周りは特別変わってないっていうか……」
貴樹「……」
明里「もちろん環境や人間関係は変わったわよ。新しい付き合いや、栃木から離れた事だって……とても大きな変化だと思うわ」
明里「でもね……私自身は何も変わっていない、そんな気がするの」
不穏な空気を感じる
僕はその言葉を聞いて、つい思っていた事を正直に聞いてしまったのだ。
貴樹「大人になった今と、子供の時の気持ちも……変わっていない?」
明里「……うん。今も昔も、私は私のまま。そしてきっとこれからも、それだけは変わらないと思うの」
明里「でも……」
明里「でも、人を想う気持ちは変わってしまうの」
貴樹「……!」
僕の心に、一本のナイフが刺さったのがわかった……。
俺ならこのあと泣いて逃げる自身がある
コーヒー代10000円置いて
明里「……」
貴樹「……」
僕はその言葉の意味を聞けないまま、座っていた。
貴樹(もう、明里の心はここには無いんだ)
最初から、わかっていた事じゃないか。
何かを期待していたわけでもない……そうやって、ただ淡白にそれを受け止め彼女と会っていた。
貴樹(それだけのはずなのに)
明里「あの……でも実は……ね」
じゃあどうして彼女は僕を呼んだりしたのだろうか。
明里「……」
明里「……」
明里「……今の生活に、ちょっとだけ。不満もある……の」
貴樹「……!」
とても、意外な言葉だった。
彼女は何かに申し訳なさそうな表情をしながら……僕にそれを打ち明けて来たのだった。
花苗「……」
花苗「お?」
一人で街を歩いていると、ポケットの中の電話が震えた……私は、なんとなく予感がしていた。
花苗「あ、やっぱり……」
先ほど登録したばかりの『遠野 貴樹』の名前がそこに表示されている。
学生時代にどんなに願っても叶わなかった……彼からの着信が。
私にはとても嬉しくて、意気揚々と電話に出たのだった。
澄田『もしもし、遠野君?』
……。
花苗『うん、うん……その駅なら、わかるよ。まだいるから』
花苗『……じゃあ、またね』
……彼との待ち合わせは今いる街の駅に決まった。
用事が住んで、今から合流出来るらしい。
花苗「……お腹すいたなぁ、なに食べよう?」
いつの間にか空は夕暮れで、東の空はぼんやりと青黒く変化し始めているのが、ビルの間からチラッと見えたのだった……。
花苗「……」
私はその空の色に、なんとも言えない不安を覚えながらも……彼と会える嬉しさに胸を踊らせながら。
約束の場所へと、向かっていたのでした……。
……。
……。
貴樹「お待たせ、澄田。早かったね。待った?」
彼は、さっきと何ら変わらない顔で私を……。
花苗「あ、大丈夫だよ。私も今来たとこだったから」
貴樹「そう、よかった。じゃあ……こっち。着いてきて。人多いから、はぐれないで」
花苗「うんっ!」
私は、彼の背中を追いかけられるだけで……幸せなんだから。
かなえだけは泣かせたくない
すまん、これボイスドラマにしたいんだが許可をくれ
花苗「……はぁ、美味しかったぁ」
貴樹「気に入って貰えたならよかったよ」
花苗「もう、あんな綺麗なお店で食事出来るなんて最高。さすが東京って感じね」
貴樹「最近はああいうお店増えてるから、東京だけってわけじゃないよ」
花苗「ふふっ、少なくとも種子島には絶対無いようなお店だもん。でも……よかったの? ご馳走になっちゃって……」
貴樹「ああ、気にしないでいいよ。久しぶりに会ったんだから、奢らせて」
花苗「ありがとう、遠野君……」
いつの間にか、名字で呼んでいる私がいるのでした。
ら抜き言葉
貴樹「……そういえば澄田、泊まる場所とかどうするの?」
夜の街を歩きながら、彼が私にそんな質問をして来ます。
花苗「……一応ビジネスホテルをとってあるの。ほら、駅前にある……」
貴樹「ああ、あそこね。どれくらい泊まるの?」
花苗「とりあえず……三日間は予約とってあるけど。その後はわからないかな」
花苗「帰るかもしれないし……ちょっと残るかもしれないし」
貴樹「三日間……」
その時彼の顔が、夜の街の明るすぎるくらいの灯に照らされて……私に、曇ったような表情を見つけさせたのでした。
貴樹(三日……)
明里『あのね、三日後に……彼が出張なの。もう何度目かわからないんだけど……』
これは
>>166
色んな形で見られたら、それはそれで嬉しいと思います。
そういった物があるなら是非見たいなぁ、と。
貴樹(つい数時間前、明里は僕にそう打ち明けて来たのだった)
貴樹(およそ半年、都内に住居を借りて結婚生活を始めたのはいいものの……度重なる夫の残業や出張が続いている状況だというのだ)
明里『もちろん、私や家庭のために働いてくれているから……精一杯私もサポートするだけなんだけどね』
明里『……でもどうしても、寂しい時もあるんだ』
貴樹(明里はまるで愚痴でもこぼすかのように、僕にそれを話してくれたのだった)
貴樹(僕もそれを、よくある主婦の愚痴として……ただ、聞いていた)
貴樹(そのまま、聞いているだけで……終わって、欲しかった)
これは………
ゴクリ
明里『……今度の出張は少し長いみたいなの。実家に帰ってれば、とも勧められたんだけと……』
貴樹『……』
明里『ねえ、貴樹君。よかったらその日……一緒に食事でもしない?』
貴樹(彼女は大人になった……悪い事が出来るようになったのだから)
貴樹(ただ友達を食事に誘うのとは理由が違う……今の僕にはそれがわかる)
貴樹(だからこそ僕も)
貴樹『……うん、いいよ。大丈夫』
貴樹(僕も「悪い事」をする大人になったんだ……)
ふふふふふふりん
……。
花苗「……それでね。今日と明日は都内でも見て回ろうかなって。予定はまだ決めてないんだけど……って、遠野君?」
貴樹「……え? あ、ああ。ごめん、何?」
花苗「大丈夫? もしかして私のせいで疲れちゃった?」
貴樹「違うよ、澄田のせいじゃないよ。ちょっとボーッとしちゃって」
花苗「そう……ね、と、遠野君。この三日間で暇な日ってあるかな? もしよかったら、都内を案内して欲しいんだけど……ダメ、かな?」
貴樹「……」
貴樹「明日と明後日なら、多分」
寝れない
貴樹「……あれ、澄田。さっき、今日と明日って言った? まだ日付変わってないよ」
花苗「へ……! そ、そんな事言ったっけ? は、恥ずかしいなぁ……もう」
花苗「東京と鹿児島って、時差あったっけ~……なんてね」
貴樹「……ははっ」
花苗(あ、笑った……)
花苗(笑って、くれた)
なんだか久しぶりに彼の笑顔を見つけた私は……それだけで。
もう、この夜の街も怖くないくらいの、そんな高い高い気持ちになりました。
好きなの人笑顔を見る事が出来る……それが一番幸せなのではないでしょうか?
花苗(その笑顔が見られるなら、私は何だって……)
貴樹(そう、何だって……)
私と、彼が同じような思考を持っていたのは多分、この時がきっと……最初で最後だったのでしょう。
でもそれを知る人は、誰もいないのです……。
抜いた
花苗「……送ってくれて、ありがとうね」
貴樹「うん。じゃあ、また」
花苗「おやすみなさい、遠野君……あ、あの明日なんだけどさ」
貴樹「わかってるよ、十時には駅に着いてるから。遅れるようなら連絡して」
花苗「うん……ありがとう、遠野君」
貴樹「じゃあ、おやすみ」
……。
どんどん小さくなる背中が、夜の闇に溶けるまで。
私はずっと彼の後ろ姿を見送っていました。
嬉しさと切なさと、そして胸の片隅に一欠片だけ残る不安を抱きなから……私は、都会の春風にそのまま遊ばれていました。
暖かくも、どこかに淀みを含んだその風を……私は黙って受け入れ、その場に立ち尽くしていたのでした……。
かなえかわいそう
……ガチャッ。
明里「あ、おかえりなさい。今日もご苦労様、お風呂沸いているから、よかったら……」
明里「……え?」
明里「……そう。出張、明日からに変更になったんだ?」
明里「終わる日は同じで……そう、なんだか大変ね」
明里「あ、ううん。私は大丈夫よ。今までだって一人の時はたくさんあったんだし」
明里「うん……心配しないで。仕方ないわよ」
明里「仕方ないから……大丈夫、大丈夫よ……ね?」
明里「……」
ダボーブッキング
次の日。
貴樹「……」
花苗「お待たせ~、遠野君」
貴樹「澄田、おはよう」
花苗「ごめんね、ちょっと準備に戸惑っちゃって……」
貴樹「電車、一本早いのに乗れちゃってさ。時間通りだから、謝らないでいいよ」
花苗「う、うん……あ、ありがと」
貴樹「……じゃあ。どこ行こうか? 見てみたい場所とか、ある?」
花苗「あ、わ、私ね。東京タワーが見てみたい!」
貴樹(……彼女の笑顔は、昔。種子島でいつも見ていた海と太陽のように、とてもとても、眩しいものだった)
ふぅ
貴樹(都会から見る太陽だって、光自体に変わりがあるはずはないのに)
貴樹(まあ当然というか、空気の濁っているこの街から降り注いで来る光は、とても気持ちのいいもので無いというのはよくわかっていた)
花苗「わ~、見てみて、ここ。床が透けてるよ~……きゃ、怖い~」
貴樹(その光が僕らを……いや、僕を変えたわけでもない)
花苗「あ、望遠鏡あるんだ。覗いてみよ~っと」
貴樹(……昔、か)
種子島から来た彼女、都会に再び戻って来た僕と……明里。
その誰もが今、この街にいる。
みんな、大人になりながら……。
花苗「……あ、終わっちゃった。もう百円百円」
かなえ可愛い
貴樹(ダメだ、余計な事ばかり考えてる)
原因はわかっている……今朝、出かける前になって明里から電話があったんだ。
明里『出張が今日からになったから……』
明里『……』
明里はそれだけ言うと、僕に言葉を委ねるようにそのまま、押し黙ってしまった。
じゃあ、今日会おうか、と僕が言い出すとまるでそを待ちわびていたかのように……彼女と会う話がトントンと進んでいった。
貴樹(僕は……悪者だ)
花苗「あ……ねえ遠野君。ソフトクリームだって、一緒に食べようよ。ねっ?」
貴樹「あ、うん。そうだね」
花苗「えへへ、じゃあ私、買ってくるよ」
アカリ……
貴樹「……」
彼女がいなくなった窓の向こうは、ずいぶんと見晴らしがよかった。
どんなに高いビルやマンションもここからでは、とても小さく見えていて……なぜか、僕の不安を煽るのだった。
その不安は、二つソフトクリームを持った笑顔の彼女が戻って来ても、甘い味覚を脳に感じさせても……けっして拭う事の出来ない不安だった。
僕の心は、東京タワーから見下ろした……人間の姿のように、小さい。
もうハーレムにしてみんな幸せになってくれ
花苗「ふんふ~ん、面白かった~」
貴樹(下に降りて、同じ大きさになれば少しは安心するか……)
貴樹「……あ、澄田。お土産買わなくてよかったの? あんなに言ってたのに」
花苗「あ、よく考えたらね。まだ日にちがあるから……ここで買わないでもいいかな、って」
貴樹「そう。まあお店ならたくさんあるからね」
彼女と話す余裕も、少しくらいなら……。
花苗「うんっ。えへへ」
貴樹「……半端な時間だね。食事とかどうする?」
花苗「あ……もうお昼過ぎなんだ。全然気付かなかったよ」
胸が張り裂けそう
花苗「えっと……今日は遠野君、何時くらいまで大丈夫なの?」
貴樹「……夕方。夕食前には帰るかな、約束があるんだ」
花苗「そう……なんだ。じゃあ、軽く何か食べようか? このまま食べないのも、アレだしね?」
貴樹「ああ……そうだね」
花苗「えへへっ」
貴樹「……」
かなえ………
貴樹(それから澄田と別れるまでの事は、よく覚えていない)
貴樹(軽く食事をして、デパートをいくつか案内して……そしていつの間にか、明里との約束の時間になっていたという具合だった)
花苗「遠野君、今日は本当にありがとうね」
貴樹「こっちこそ、ありがとう。帰り、本当に送らないで平気?」
花苗「うん。駅までの道ならバッチリだから。遠野君も約束あるんでしょ? 私なら大丈夫だから」
貴樹「……そっか。じゃあ、またな澄田」
花苗「うん。あ、明日も……一応、暇……なんだよね?」
昼はかなえ、夜はあかり
遠野君も悪だなー
貴樹「……ちょっとわからないかな。目処が立ったら連絡するよ」
花苗「そ、そっか。わ、私からも連絡していい? 予定とか、また考えるからさ、ね?」
貴樹「……うん、大丈夫」
花苗「えへへっ、よかった」
貴樹「そろそろ、行かなくちゃ」
花苗「うん。またね、遠野君!」
貴樹「ん……」
……。
花苗「……」
花苗(私は、今幸せ……そう、なんだよね?)
かなえが健気すぎて泣きそう
貴樹(デパート群の街並みを抜け、二つの大きな歩道橋を渡る)
貴樹(……まだ桜は散らないでいて、緩やかな坂道を歩いて行く)
貴樹(その並木通りを抜けると……そこに)
明里「あ……」
貴樹(そこには、彼女が待っているんだ)
明里「もう、遅いよ」
クスッ、と笑う小さな彼女の口元には……薄紅色の化粧塗が、上品に塗られているのが見えた。
貴樹「ごめん、待った?」
明里「ううん、今来たとこ」
夜の街で見つめる彼女は……どこか、違って見えた。
あかりも大人の女になったんだな
貴樹「明里、お腹すいてない?」
明里「もうペコペコ」
貴樹「……お店、案内するよ。何が食べたい?」
明里「わ、本当に? じゃあね~……いいの、貴樹君に任せるわ」
貴樹「そう……じゃあ、こっち。ついてきて」
明里「うんっ」
貴樹「……!」
そう返事をすると明里は、僕の腕に彼女自身の腕を絡ませ……組んできたのだった。
まるで、恋人みたいに見える二人は……まだ、夜の街を歩き出したばかりだ。
わ、わっふる
ワクワクがとまらない
明里「わあ、美味しそうな匂い。ここ?」
さすがに、昨日と同じ店には連れていけないなと思いながら……僕は、ある店の前に明里を連れて来たんだ。
明里「イタリアンだけど、大丈夫?」
明里「うん、好きだから大丈夫っ」
貴樹「そう……」
オレンジ色の照明に、横から照らされている彼女の笑顔は……とても可愛らしく見えた。
貴樹「……」
今の僕の気持ちは、まだここで止まってくれるのだった。
でも……。
明里「あ、ねえ貴樹君。そういえば貴樹君て……」
明里「お酒ってさ、飲める?」
貴樹「……!」
お酒いれるのか
貴樹「まあ、人並み程度には。明里は?」
明里「私も飲めるけど……ちょっと弱いかな。甘いお酒なら、平気なんだけどね」
貴樹「ん……飲みたいの? 多分、ワインくらいしか無いと思うけど」
明里「貴樹君が頼むなら、って思っただけ。特に飲みたいとかじゃないんだ」
貴樹「そう、なんだ」
貴樹「……とりあえず食事にしようか」
明里「うん、賛成」
僕たちは……明るいガラス扉の向こうへと足を踏み入れた。
二人、まるで恋人みたいに手を繋ぎながら……。
焼けたチーズの匂いが、僕らの鼻を美味に刺激する。
まずは食欲……そう、考える本能が僕の中に確かに存在していた……。
その次は性欲
明里「……ゴクッ」
貴樹「どう?」
明里「……うん。白ワインはまだ飲みやすい、かも」
貴樹「赤は慣れてないと辛いから。そっちにして正解だったね」
明里「ちょっと甘味があるから、私でも飲めるよ、ふふっ」
そう言いながら、明里はもう一度ワインで喉を小さく鳴らした。
貴樹「……んっ」
僕もそんな明里を見て、グラスの中のワインを喉の奥に流し込んでいた……。
これくらいでは、酔いもまだまだ感じない。
待ちきれん
明里「あ、お料理来たみたい」
明里の頬はほんのりと赤みを増していたように見えた。
その姿に、僕は妖艶ささえ感じているようだった……。
貴樹(お酒のせい、かな)
まだ、理性は十二分に保たれている。
明里「いただきます」
貴樹「ん……いただきます」
僕と明里は、テーブルに並べられた料理を食べ始めた……。
パスタ、ピザ、チーズ……二人で色々交換しながら、食べていた気がする。
明里「……美味しい」
僕「うん、美味しい。明里と食べると、やっぱり」
明里「もう、相変わらず大げさだなぁ貴樹君は」
貴樹「そ、そんな事ないよ。本当、本当に美味しいんだ」
明里「クスッ、ふ~ん」
はにゃーん
明里「でも私も、こんな風に楽しく食事したのは久しぶりかな」
貴樹「え……」
明里「大抵は、いつも一人だから。お料理作っても、なんだか張り合いが無くて……」
貴樹「明里……」
明里「よかったら、今度ご馳走するね。こう見えても料理は得意なんだよ。昔みたいに……お母さんがいなくてもちゃんとお弁当だって作れるんだから」
明里「……ちゃんと、食べてもらいたいだけなんだけどなぁ……」
その時、明里が小さく涙を拭いたのを……僕は見てしまった。
明里「……ふふっ、ごめんね。変な話しちゃって。さ、食べよう?」
貴樹「……」
胸が張り裂けた
明里「ごちそうさま。美味しかったね」
貴樹「あ、明里。ここは僕が出すから……」
明里「え? 悪いよ、それは。私もちゃんと半分……ううん、自分の分は出すよ」
貴樹「いいんだよ、大丈夫だから」
明里「でも……」
貴樹「……そんなに気になるんだったらさ、何か他の場所でお返ししてくれればいいよ。金額とかは気にしないでさ……何かを、ね」
明里「うん……じゃあ、そうする。ありがとう、貴樹君」
貴樹「ん……」
支払いを済ませて、僕たちはその店を後にした。
席を立ってから、こうして外に出るまで……明里はずっと僕に腕を絡ませたままだった。
明里「美味しかった。また来たいね」
貴樹「う、うん。そうだね」
心なしか、明里の足がふらついているように感じる。
また来たいという言葉の意味も、わかっていないのではないのだろうか?
貴樹(早く送った方がいい……のかな?)
そう思いながら、僕は明里に声をかけた。
貴樹「ねえ明里。タクシー呼ぼうか?」
明里「えっ?」
貴樹「ちょっと酔ったみたいだから、早めに帰った方がいいかなって」
明里「……ううん、大丈夫。そこまでは平気よ」
貴樹「でも」
ああ、僕はわかってこんな事を言っている。
きっと、彼女だって……わかっているんだ。
明里「どうせ家に帰っても一人なんですもの。だから……大丈夫」
明里「……ちょっと、歩きましょう。外、気持ちいい」
貴樹「……」
体内にアルコールが入り込んでいる、男女が二人。
僕たちは明るい光に誘われるかのように……ある街の一角を、いつの間にか訪れていた。
それは、僕の足がそこへ向かって行ったのか……。
または、彼女がそれを望んでいたのか……いずれにしろ、僕たちは。
いくつもの看板が立ち並ぶ、ホテル街へと足を踏み入れていた……。
いつの間にか、それが僕らの言い訳だった。
oh………
駅での2人のやり取りがはるか昔に感じる
明里「……こういうとこ、初めてかな」
貴樹「僕も、あんまり」
明里「あんまりって。来た事あるの?」
貴樹「……過去に一度、だけ」
明里「そうなんだ」
明里「私は、今がその一度目だよ」
貴樹「……」
あかりぃいいい
明里「ねえ、貴樹君……私、なんだか疲れちゃったみたい」
貴樹「……」
貴樹「少し、休……む?」
明里「……」
明里の手が、ギュッと僕の腕を締め付け、そして……。
明里「……はい」
はっきりとした彼女の浮気の返事が聞こえた……。
僕は彼女を引っ張るようにして。
眩い光の中に、消えていくように……歩みを始めたんだ……。
これだから現実の恋は嫌なんだよ
花苗(……なんか、目が冴えちゃったなあ)
昼間の幸福と興奮を、私の脳はまだしっかりと覚えていたみたいで。
花苗(……喉渇いちゃったなぁ。飲み物飲み物)
花苗(……無いや。仕方ない、ちょっと怖いけどコンビニ……行ってこようかな)
都会の夜は、寝巻きで出歩けるような雰囲気じゃなかったので……わざわざ普段着に着替えてからの出発です。
花苗(夜の空気は……ちょっとだけ落ち着くなぁ。それでも、種子島の夜とは全然違う)
花苗(……と、あんま浸ってる場合じゃないよね。早く買い物して、ホテル戻らないと)
花苗(えっと……コンビニコンビニ、と。ああ、あった)
花苗(……地元とはやっぱりコンビニも違うのね)
花苗(お茶と……お水でいいかな、うん)
これは………
花苗「よしっ、買い物完了~……って、あれ、私どっちから来たんだっけ?」
花苗「……ちょっと距離歩いたからなぁ。あんまり光も見えないし」
花苗「……あ、向こう明るい。あっちだっけ?」
花苗「……」
花苗(うわあ、なんかピカピカしてると思ったらこれって……ラ、ラブホ街ってやつ?)
花苗(……す、すごいなぁ。都会って)
花苗(……あ、カップル歩いてる。当たり前か、そういう場所なんだもん、ね)
あー
あーーー
花苗(あ……入っちゃった。わ、わ、わ……って、なんで私が慌ててるんだろう)
花苗(関係なんて無いのに……)
花苗(……いいや、帰ろ帰ろ。一人でいても仕方ないもんね)
花苗(やれやれ……あ、またカップルさんだ。わ、若いなぁ……あ、ああいう人も利用するんだ。でも、あの人なんか……似ている)
貴樹「……」
花苗(え、え……違う。あの服、確か。今日貴樹君が着てた……)
明里「……」
貴樹「……」
……スッ。
花苗「たっ……!!」
貴樹「……ん?」
明里「どうか……したの?」
貴樹(今、なんか聞こえた?)
貴樹「……ううん、何も」
明里「そ、う」
明里「……」
貴樹「……」
明里「……」
貴樹「……」
それから、僕と明里は。
十数年の寂しさを埋めるように、お互いの事を求めあった……。
それと同時に、子供の頃に持ち合わせていた、真っ直ぐで純白な想いという物が……もう、僕たちには跡形も無いくらいに残っていないのだと。
僕たちは、きっと互いに同じ事を考えながら……長い長い夜を、二人で。
真新しい毛布にくるまれながらベッドの中で……過ごしたのだった……。
大人になったらこんなもんだよな
明里「……今日は、私が悪い人」
眠りにつくちょっと前に、彼女はそう呟いた。
きっと、僕に聞かせるためだけに呟いたわけではないのだろう。
僕にはその意味も、彼女が呟いた時の気持ちも……全て、理解しているつもりだった。
貴樹「明里……今日よかったら」
貴樹「僕の家に……来ない?」
明里「……」
彼女の柔らかな素肌が、僕のわき腹にしっとりと当てられた。
今日は、僕が悪者なんだ……と、頭の中で考えていた。
明里も、きっとそれは同じ事なんだろう……。
僕たちは、確かに、見えない何かで繋がっているのがお互いにはっきりとわかっていた……。
(;´Д`A
明里「ねえ、私一度帰って着替えて来てもいいかな? 荷物も持ってきたいの」
ホテルを出る前に、明里は僕にそう言って。
お昼過ぎにまた待ち合わせをするという約束をして、今朝は別れた。
昼過ぎだと……今日は澄田に付き合えそうもない。
断りの電話を入れておこうと思い、僕は携帯を取り出した。
澄田、花苗……と。
電話番号をコールすると、すぐに接続音が鳴り出した……。
プルルルル。
花苗「……」
プルルルル。
花苗「……」
プルルルル。
花苗「……」
プルル……。
四度のコールで、電話は切れた。
不在着信に残された名前は、私の大好きな人から……でも。
私はその名前に反応する事が出来なかった。
少なくとも、あんな現場を見てしまった今は……。
花苗(遠野君。女の人と……誰だろう、やっぱり彼女かな)
花苗(綺麗な人だったな。長い髪の毛で、肌も綺麗で、可愛くて、美人で、それから、それから……)
花苗(わ、私なんか全然もう……何もかも負けていて……さ、最低だ私……)
やや硬いベッドの中で、薄いシーツにくるまりながら。
私は声を圧し殺して、ただただ泣きじゃくるたげだった。
花苗(遠野君……遠野君……とお、のくんっ……)
涙がこぼれ落ちる度に、私は彼の名前を呼ぶのだった。
この空の下、この街に……確かに彼はいた。
しかし、待っていたのはあまりにも辛い現実の形。
花苗(彼に一度会えた……それだけで、もう奇跡だもん……よかったんだ……もん……)
今の私の姿は、まるで失恋した高校生みたいに……淡く、甘く、酸っぱい涙を……ただ。
今日はきっと、どこにも出かける事は出来ないだろう。
それでいい、私は……。
彼にとってそういう存在ではないのだと、改めてわからせられたから……。
私は一人で、また、泣いて。
花苗(それでもたまらないくらい……私は……)
花苗(私は、遠野君の事が大好きなんだ……)
私の気持ちは、時間や現実では変わらない……まだ、変わらないの……。
変わってくれればどんなに楽か……そういう風に生きられれば、きっと。
でも、私にはそれが……出来ない。
だから、今もずっと。
私は、この街にいる彼のために……涙を流す事しか出来ないのだから……。
だれも報われないな
貴樹「いいよ、入って」
明里「……お邪魔します。素敵なお部屋」
貴樹「一人暮らしだから、どうしても掃除しきれない場所はあるけどね」
明里「ううん、清潔感があるから私はいいと思うよ。あ……パソコン」
貴樹「ああ、仕事用の。プログラミングの……まあ、一人でボチボチやってるよ」
明里「へえ、なんだか難しそう」
貴樹「慣れればたいした事……」
貴樹「……あ、明里。指」
明里「ん? 私の、薬指がどうかした?」
貴樹「……いや。なんでも」
明里「フフッ。ねえ、貴樹君」
貴樹「ん……なに、明里?」
明里「……」
貴樹「……」
明里「ちょっとだけ、甘えても……いいかな?」
貴樹「……」
僕が何も言わずに腕を差し出すと彼女は、思い切り僕の胸に飛び込んで来たのだった。
ベッドを背中にしていた僕はそのまま倒れこみ……明里を包むようにしながら、彼女を抱きしめた。
彼女の髪の匂いが……フワリと僕の嗅覚をくすぐった。
あかりかわいいな
明里「……すーっ、すーっ」
いつの間にか、彼女は眠ってしまっていた。
僕の腕の中で、無防備なその寝顔は……子供のまま、無邪気な寝顔だった。
貴樹(疲れて……いたのかな)
僕は窓の外を見ながら、彼女の頭を撫でていた……すると。
貴樹「……ん」
僕の携帯が、震えた。
この振動は……メールだろうか。
無視をしてもよかったが、なんだか気になった。
もしかしたら、澄田からの連絡かもしれない……そう思いながら、僕は携帯を開いた……。
「澄田 花苗」
メールはやはり澄田からだった。
うひょ
『遠野君へ。いきなり東京に来た私を、かまってくれて本当にありがとう
突然ですが、私は今日の飛行機で種子島に帰ろうかと思います。
遠野君も何かと忙しいと思いながらも……こうしてバタバタした中でメールしてしまい、本当にごめんなさい。
私、本当の事を言うとね……遠野君を探すためだけにこの街を訪れたんだ。
彼女がいた事はショックだったけど、元気な姿を一目見れて、一緒に東京(タワー)巡りまで出来て、とても幸せでした。
そんな中で私にここまでしてもらって……これは、私にとって奇跡以外の何物でもありませんでした。
本当に、本当にありがとう。
彼女といつまでもお幸せに。
澄田 花苗』
かわいそす
貴樹「澄田……」
貴樹「……」
明里「すーっ、すーっ……」
貴樹「明里、ちょっと。ごめん」
腕枕を明里から取り上げる、僕はメモを探しそこにメッセージを残す。
『ちょっと出掛けてくる。すぐ、戻るよ。何かあったら連絡を』
貴樹「……」
メモを机に置くと、僕は部屋の鍵を持って外へ飛び出していった。
今なら、まだ……間に合うかもしれない。
どうして、僕は走って彼女を追いかけているのか……よく、理解出来ないでいる自分がいた。
僕は今、駅への道を走っている……どれほどの速さで、僕は澄田を追いかけているのだろうか……。
あーあ
貴樹「はぁ、はぁ、はぁ……澄田っ!」
花苗「っ……!」
まだ改札機からずいぶん離れた場所で、僕は澄田の姿をつかまえた。
大きな旅行カバンを抱えて歩く彼女の姿が見える。
花苗「と、遠野……くん……」
振り向いたその顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
目は真っ赤に充血し、頬の上のや目の周りを何度も何度も擦ったのだろう……赤く腫れているのがくっきりと見えていた。
貴樹「澄田……違う、違うんだよ」
花苗「ちがうって……な、なにっ……わ、私はもう……もう……」
駅の真ん中で、彼女はまた泣き出した。
都会はドライだ、誰も気にとめる者はいない……。
僕は澄田の手を、小さくこちらに引き寄せた。
あかりはどうなるの?(´・ω・`)
むしろあかりの旦那はどうなるの?
花苗「わ、わたしっ、み、見たもん……か、彼女と、ホ、ホテル入ってく、の……」
貴樹「澄田……明里は違うんだ。彼女じゃない。彼女じゃ……ないんだよ……」
花苗「で、でも……あ、あんなに仲良く……」
貴樹「……」
貴樹「……浮気」
花苗「え、えっ」
貴樹「彼女は大切な人だけど、僕にはもう手の届かない人なんだ……だから、こうやって」
貴樹「どんな形でも彼女に触れられる事が……僕も嬉しいんだ」
貴樹「もう、会えないと思っていたのに……こうして、もう一度会えたから……」
貴樹「僕は、もう彼女を手離したくはない……」
言葉の中で、僕は確かな矛盾を強く感じていた。
僕は、明里を奪って今の明里の人間関係を壊すような事はしないつもりでいる。
それでも僕ははっきりと言った……明里を手離したくはない、と。
貴樹「……今離れたら、もう二度と会えない気がするんだ」
貴樹「だから、僕は……僕は」
花苗「貴樹……くん……」
彼女が僕の名前を呼んだその瞬間、僕の体を……澄田が優しく抱きしめたのだった。
花苗「その気持ち、わかるよ……すっごい、すっごいよくわかるよ……」
花苗「わかるから、痛いんだよぉ……貴樹君がその人の事想ってるって考えちゃうと……すごい胸がズキズキするんだよ……」
貴樹「すみ……だ」
花苗「でも、でもねっ。離れたくない気持ちは私だって同じなんだよぉ……! 種子島帰ったら、もう二度と貴樹君には会えないんだもの……」
花苗「私は、そんなの嫌なんだよ……。種子島の空は好き、東京の空は嫌い……でも」
花苗「貴樹君のいない街は、もっと嫌いになるしかないんだよぉ……!」
貴樹「……!」
駅の真ん中で、澄田は。
まるで、赤ん坊みたいに。
いつまでも、いつまでも……僕のために泣き続けてくれていた。
花苗「どんな形でもいいんだよ……わ、私だって……貴樹君と一緒にいたい、会いたいの……!」
その泣き声は、冷たい都会の人間すらも思わず足を止めてしまう……まるで、氷のような泣き声だったと僕は後々に思った……。
一方あかりは
──三日目。
貴樹「……ん」
窓から差し込む光で、僕は目を覚ました。
時計に目をやると、朝の八時を回った所のようだ……。
貴樹「……」
明里「あ、おはよう。貴樹君」
貴樹「おはよ、明里、起きてたんだ」
明里「ついさっき目が覚めたの。貴樹君とおんなじくらいかな」
貴樹「……そっ、か」
明里「くしゅっ……さすがに何も着てないと寒いね」
貴樹「今着替え持ってくるよ。待ってて」
明里「あ、ありがとう~」
不倫すなー
明里「んっ……シャツいい匂い」
貴樹「ちゃんと洗濯してるからね」
明里「えら~い。じゃあご飯とかも作ってるの?」
貴樹「……あんまり。買ってすませちゃう、かな」
明里「ふふっ、やっぱりそんなものだよね。まあ、男の人らしくていいけど」
貴樹「ん」
明里「……」
貴樹「……あ、あのさ明里。今日は昨日話してた通り」
明里「うん、わかってる。今日は仕事するから、また明日から会ってくれるんでしょ?」
貴樹「うん……出張、いつまでだっけか?」
明里「あと一週間。だからそれまでは……ね」
明里が、優しく僕に微笑みを浮かべた。
僕もそれに釣られ、笑って返事をする事しか出来なかったんだ。
うらやまけしからん
明里「……じゃあ、今日はバイバイだね」
貴樹「朝食だけでも食べればいいのに。それに、本当に送らないで平気?」
明里「うん、今日はいいの。なんだか歩きたい気分だから」
貴樹「そう……」
明里「付き合ってくれて、ありがとう。また……ね」
また……その言葉が明里から聞けるだけで、僕は。
貴樹「うん……また。連絡、するよ」
明里「わかった、待ってるから……んっ」
チュッ。
玄関を開ける前に、僕と明里は口づけをかわした。
それは、昔みたいに純粋で真っ直ぐなキスではなかったのかもしれない……それでも。
僕と彼女はあの頃と同じ気持ちのまま……唇を重ねていたんだ……。
それはきっと、僕と彼女にしかわからない……二人だけに通じる、気持ち。
明里「じゃあ……またね、貴樹君」
貴樹「うん、気をつけて」
明里「……貴樹君なら」
貴樹「?」
明里「……」
……その言葉を、僕はもう一度彼女から直接聞いたのだった。
そして……彼女は僕の場所から、離れていった。
ほんの少しの間だけ……寂しくはない、また明日には会う事が出来るのだから。
僕は、パソコンに向かい……適当にキーボードを叩いてみた。
すると……。
ピン、ポーン。
呼び鈴が、響き僕を呼んだ。
貴樹「……は~い」
僕はゆっくりとドアに近づき、重々しい扉を開けた……。
貴樹「や、来たんだ」
貴樹「……うん、大丈夫。明日になったら、また少し出るけど」
貴樹「……いない間、部屋は自由に使ってくれて構わないから。仕事用のパソコンだけ触らないでいてくれれば」
貴樹「あ、後で何か食料買っておこうか。冷蔵庫、あんま食べ物入ってないんだ」
貴樹「……そんな所かな。何かあったら、また聞いて」
貴樹「澄田……わかった?」
花苗「……」
花苗「うんっ、お邪魔します。貴樹……くん」
──それから。
貴樹『はい、はい……はい。じゃあ明日、わかりました』
貴樹『……失礼します』
ピッ。
貴樹「……ふう」
花苗「また仕事の電話? 最近ずっとだよね」
貴樹「うん、雑誌作るのも楽じゃないんだ……打ち合わせとかしないとだから」
花苗「大変だね、体調平気?」
貴樹「好きで選んだ仕事だから、ちょっと疲れるくらいがちょうどいいんだ」
花苗「……ふ~ん。あ、そう言えばね、今日お姉ちゃんからメールが来たんだよ。無事、産まれたって!」
貴樹「へえ……どっち?」
花苗「ふふっ、可愛い可愛い、女の子だって」
素晴らしい
もっとやれ
貴樹「そっか、よかったね」
花苗「うんっ! 私も赤ちゃん欲しいなあ……あは、なんてね」
貴樹「……そういう話は、もう少し落ち着いたら、な?」
コツッ。
花苗「イタッ……えへへ、殴られちゃった」
貴樹「ははっ」
花苗「えへへっ」
花苗(お姉ちゃん、私今……すっごい幸せだよ)
花苗『お姉ちゃんへ。出産おめでとうございます
母子共に、健康そのものという事で、まずは安心しました。
今私は東京で、遠野君と一緒に暮らす事が出来ています。
あかん
これは本当にクズだ
不倫してるのを知っている花苗もクズ
不倫してるあかりもクズ
と言うのも、やっぱり私にはいまだに信じられない結末の一つだから、なのですが……。
でも、今私が手に入れる事が出来た、この運命と奇跡を大事にしながら、頑張って生きていこうと思います。
ではお姉ちゃん、お姉ちゃんに負けないくらい美人な赤ちゃんを育てて下さいね。
遠い空の下から、私はいつでも種子島の景色を思い描きながら……見守っています。
澄田 花苗より』
花苗(……送信、っと)
貴樹「……あ、もうこんな時間」
花苗「え? あ、え~っと、今日もまた打ち合わせがあるんだっけか?」
貴樹「うん。電車で移動するから、ちょっと早めに出ないと」
花苗「そっ、か。わかった、いってらっしゃい貴樹君」
ドアが……閉まる。
貴樹「……」
花苗「……」
僕と澄田の間には、まだまだ見えない壁が存在している。
この、重々しい扉のように……お互いを遮る壁のような物が、僕たちの間には存在しているような気がして。
花苗「……」
この扉の向こうで、彼女は今……どんな表情をしているのだろうか。
あの時も、あの時だって……いつも背中を向けて来た僕には、それはわからない。
だから僕は扉を見ずに、歩き出す事しか出来ないんだ……。
貴樹「……間に合った」
電車に飛び乗って、目的の駅へと向かっている。
今の僕は……揺れ動くこの電車のように、前に進めているのだろうか?
僕は速さを持つ事が出来ているのだろうか……例え、ゆっくりとした歩みでも、前に、前に……。
貴樹(いや……やめよう)
貴樹(そう思っていたからこそ、僕は)
『次は~…………』
僕、は……。
あかりも花苗のこと知っても動じなさそう
電車を降りて、ホームの階段を上がり……改札を抜ける。
すると、何かから解放されたかのように、外の空気が一斉に僕の周りを取り囲む。
ああ、初夏の匂いがする。
空気の匂いを楽しめる余裕がある……素晴らしい事だと、僕は感じた。
スウッと、深呼吸。
そして僕は腕時計に目をやった
貴樹「……」
貴樹(約束の時間、ギリギリだ)
僕はやや早足になりながら、駅前広場へと出ていった。
もう、すっかり日の暮れた広場を僕は見回す。
貴樹「……まだ、来てないのか」
その言葉が終わらないうちに、僕は。
彼女の姿を、見つけた。
貴樹「あ……」
昔は、どんなに探してもけっして見つからなかった彼女が……。
今は、この桜木町でこうしてちゃんと見つける事が出来る。
貴樹「……お待たせ、待った?」
いつもの挨拶をして、彼女もいつもの反応をする。
それは僕たちの日常、だった。
貴樹「じゃあ……行こうか」
僕は彼女の手を、優しく握った。
明里「うん……」
彼女も、僕の手をそっと握り返すと。
二人の手は、指の一本一本を絡ませながら……離れていた隙間を埋めるよう、ピタリとくっつける。
そしてやがて二人は、夜の闇の中へと溶けていくのだった……。
まるで、最初から恋人同士だったかのように振る舞いながら、僕と彼女は今も……この街で。
明里「……貴樹」
貴樹「ん……なに、明里?」
明里「……好きだよ、ずっと大好きだった」
この街で僕たちは、今も。
確かな速度で……歩みを続けている。
花苗「貴樹……」
貴樹君みたいにヤリチンになりたい\(^o^)/
秒速見たことないんだけど
これ舞台栃木なの?
栃木県民は報われるアニメですか?
>>388
誰も報われないよ
僕はもう、この手を離さない。
例えそれがどんな形であっても、僕たちは……お互いに。
貴樹「明里」
明里「ん……なに、貴樹?」
桜の花はもう散ってしまったけれど……来年も、また。
明里と一緒に、舞い落ちる花びらを見つめていよう……。
来年は「あの」桜の木の下で。
貴樹(僕たちは……)
明里(一緒に……)
僕も、明里も。
ただ純粋にお互いを愛しあっていたあの頃には、もう戻る事が出来ないのだから。
ずっと二人で……秒速5センチメートルだけを感じていよう……。
今年もまた、桜の季節がやって来る……。
終
おわた
おつ
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