慰める者(54)
そこはウォール・ローゼの中にある、数少ない酒場の一つだった。
酒場と言っても狭く、満足な酒が置いてあるわけでは無かったが、
男たちが集まり、日々の不平を口にしたり、時には恐怖を振り払うように騒いだりするのには、
それなりに間に合っていた。
ギギィーっと重々しく扉が開いた。
「いらっしゃい」
この古く寂れた酒場に似合わない声が響いた。
柔らかく、穏やかに包み込むような声だった。
酒場に足を踏み入れた男たちは、その声の主に一瞬目を見張る。が、しかし次の瞬間、2人はいつもの無表情に戻っていた。
「初めてみるお顔。お二人さん?どうぞ。」
女は2人の男を右奥のテーブルへ座るように促した。
女の髪はきれいなブロンドで、緩く波を打ち腰のあたりまで伸びていた。
伸ばした女の髪なんて、久しぶりに見るな、と一人の男は思った。
「アル、酒をくれ!」
カウンターに座っていた男の声が響いた。
「わかったわ。ちょっと待ってね。」
ブロンドの女が穏やかに応える。
「早くしろよぉ!」
カウンターの男はもうすでに出来上がっているようだった。
頬が上気し、白目が充血していた。
ブロンドの女はテーブルに座った2人の男に苦笑いを向けると、
カウンターの中に戻った。
自分たちがテーブルを埋めたことで、酒場は満員だった。
いつ巨人が現れるかわからないこの状況だったが、
少なくともこの酒場の中は、100年と少し前の様な平和があるように見えた。
「アルが目当てで来たのか?」
テーブルのすぐ横の、同じくカウンターに腰かけていたいた男が2人を振り返って言った。
兵士なのか、鍛えられた体の持ち主であることが服の上からも見て取れた。
「あ!」
男はテーブルに座った2人を見て短く叫んだ。
「ごめんなさい。それでお二人さんは何にします?」
その時、ブロンドの女が戻って来た。
「・・・と言っても今日はもう麦酒か葡萄酒しかないのよ。」
女は申し訳なさそうに2人を見た。
テーブルの男たちは何も喋らなかった。女はもしかしたらこの人達は兵士かもしれないと思った。
鋭い眼差し、寡黙なところ、正直に言うと女が相手をするのに得意な人物達ではなかった。
けれども、女がこの酒場にいるのは「男たち」のためだった。
どんな男も、戦わなくてはならない。
ある男は軍人として。ある男は職人として。ある男は商人として。
その男たちの慰めになればと、女は思っているのだった。
女は突然左手を後ろに、右手を拳にし胸をドンと一つ叩いた。
それは巨人と戦う兵団の兵士がとる敬礼の真似だった。
「私の名前はアルディス・ラウロー。酒場の男たちに慰めを施す者です!」
カウンターに座っていた男たちがどっと笑った。
ブロンドの女、アルディスも笑った。花が咲いたような笑顔だった。
テーブルに座っていた男の口元もふっと緩んだ。
「私はエルヴィン。こっちはリヴァイだ。」
「そう。よろしくね。エルヴィン。リヴァイ。」
2人に向けられたアルディスの笑顔は、優しく、そして清らかなものに思えた。
あまりに屈託がなく、まっすぐな瞳に、リヴァイは思わず目を逸らした。
”全く。この女が夜な夜な男たちの相手をしているだって?”
リヴァイはそっとアルディスに視線を戻す。
眩しい笑顔。
「巨人の討伐から隊員の下半身まで、なんで俺たちの仕事なんだ。」リヴァイが小声で囁いた。
「まぁ、そう憤慨するな。」エルヴィンがなだめる。
「憲兵団のクソどもが街の見張りじゃねぇのかよ。」
「我々のところの隊員がバカ騒ぎしているのじゃなければそれで構わない。
とにかく調査兵団の素行には他がいろいろとうるさいからな。」
リヴァイは舌打ちした。
アルディスがテーブルに酒を運んできた。
色が白く、瞳は薄いブルー。
顔立ちは整い、黙っていればこちらが気後れするほど美人だが、
表情は常に緩み、笑顔を絶やさず、それゆえにとても親しみやすかった。
「まぁ。怖いお顔!」
リヴァイに向かってアルディスはそうおどけて言ってみせた。
「・・・生まれつきだ」目だけをアルディスに向け、リヴァイは酒をあおった。
エルヴィンがクックと笑った。
「でも。優しそうな眼。それに、兵隊さんにしてはきれいな手ね。」
「ゴホっ!」リヴァイは思わずむせた。
「ゲホッ、ッホ・・・。」リヴァイは自分の口元を手で拭った。
「とても。繊細な手。」
アルディスはそう言ってほほ笑むとカウンターへ戻った。
「あの女、頭がおかしいのか?」
「さぁな。」エルヴィンが声を立てて笑った。
突然乱暴に入り口の扉が開いた。
酒場にいた全員の緊張した視線が、入って来た一人の男に注がれた。
男は背が高く、長い髪を後ろで束ねていた。
「ゲルド。いらっしゃい」
アルディスは変わらず穏やかにその男にほほ笑んだ。
「賑わっているな。」
低く野太いその声を聞いて、意外と歳かもしれないと、リヴァイは思った。
その男は自分の座る場所が無いとわかると、
リヴァイ達が座っているテーブルの後隣にあった扉へ入っていった。
どこへ通じているのか、わからない扉だった。
酒場の男たちはみな、その扉を凝視しているように見えた。
どこからともなくため息混じりの声が聞こえた。
「あいつかよ
「アル、今日はあいつなのか?」
アルディスはそんな問いに応えることなく、
ただ微笑んでいるだけだった。
「おい、酒をくれ。」
リヴァイが彼女に向かって言った。
アルディスはカウンターの中で頷いた。
程なくして、2杯目の酒がリヴァイのところへ運ばれてきた。
「お前。」
「え?」
アルディスが少し驚いたように目を見開いた。
長いまつげの大きな瞳。
「お前、どうして俺が兵隊だとわかった?」
「そうだな。今日は兵服を脱いで来たのに。」エルヴィンが続けた。
アルディスはホッとしたように笑った。
「そんなこと?ただの感です。」
よく笑う女だと、リヴァイは思った。兵団にいる女どもとは全く違う、女らしい振る舞いのオンナ。
”まぁ、だからこそ、男たちの慰めにもなるんだろうな”
近くでよく見ればその体もなかなか官能的だった。
極め細やかな白い肌。ふくよかな胸。締まった腰回り。
リヴァイはゴクリと生唾を飲みこみ、慌ててアルディスの体から視線をずらした。
「しかも、調査兵団じゃなくて?」
「!?」言い当てられて、リヴァイは一瞬たじろいだ。
しかしいたずらっぽく笑うアルディスに、リヴァイはすぐに面と向かった。
「何故わかった?」
アルディスは声をあげて楽しそうに笑った。
そしてカウンターに戻って行った。
「リヴァイ、お前、語るに落ちたんだよ」エルヴィンがまたクックと笑った。
「チッ。娼婦ごときが。」
そう言いながらも、リヴァイはその娼婦ごときを目で追っていた。
そして、昔、野良犬のように地下街をうろついていた頃のことをぼんやりと考えていた。
騙されたこともあったが、
どれだけの娼婦に慰められたことだろう。
娼婦といえども、みんな必死に生きている一人の人間だった。
何かを捨てて、何かを守り、戦いながら生きている―。
けれども目の前にいるアルディスは、それらの娼婦とはどこか違うように思えた。
その仕草も。
その、微笑みを湛えた、圧倒的な美しさも。
「・・・図り知れないな、その力は。」
エルヴィンの言葉にリヴァイは我に返った。
「あぁ。」
ごまかすように酒を飲んだ。
「壁外に行くしかあるまい。」エルヴィンはそう言って目の前で両手を組んだ。
「壁外?」リヴァイがエルヴィンの顔を見た。
「あぁ。エレンを連れてな。」
「・・・しかし、あのガキ・・いや、エレンの力はわからないことだらけだ。今壁外に連れて行くには我々が危険すぎる。」
エルヴィンは両腕を組み、うつむき加減でリヴァイの話を聞いていた。リヴァイは構わず続けた。
「少し時間をくれ。エレンを調べる。」
「調べる?お前がか?」エルヴィンは顔を挙げてリヴァイを見た。
「いや・・・。ハンジが・・・。」
「ハンジ・・・。エレン、死なないだろうな?」
2人は沈黙した。
「きゃっ痛い。止めて。」
アルディスの声がしてリヴァイはカウンターに目を向けた。
さっきの出来上がった男が、カウンターの中にいるアルディスの長い髪を鷲掴みにし、
自分の方へ引っ張ろうとしていた。
「お願い。今夜は仕方ないでしょう。」
「何言ってやがる!どれだけ待たせんだよ!」
リヴァイは思わず席を立った。そしてカウンターへ行こうと踏み出した。
そのリヴァイの左手首をエルヴィンが強く掴んだ。
「止めとけ、リヴァイ。」
リヴァイは無表情でエルヴィンを見下ろした。
「あれがこの酒場の日常だ。女は一人しかいない。こうなるだろうさ。」
「きゃぁ!」
男はアルディスの髪を鷲づかみにしたまま、カウンターに叩きつけた。
同時にグラスが床に落ちて割れた。
リヴァイはエルヴィンの手を振りほどいた。
「ほっとけ、リヴァイ!」
エルヴィンが語気を強めた。そしてエルヴィンが正しいかのように、
酒場にいた男たちの誰もが、男に殴られるアルディスを黙って見ていた。
「お前が騒ぎを起こすな。」エルヴィンが言った。
「命令なら、兵服を着ている時だけにしてくれ。」
リヴァイはエルヴィンにそう言い放つとカウンターに近づいた。
男はさらにアルディスを殴ろうと右手を振り上げた。
「みっともねぇぞ」
リヴァイはその右手を抑え、自分の拳で男の顔面を殴った。
既に相当酔いが回っていた男には、その一発で十分だった。
男は面食らい、驚いてリヴァイを見ると、逃げるように扉から出て行った。
何人かの男たちがすぐそれに続いて出て行った。
リヴァイはカウンターに目を戻した。
きれいな波をうっていたブロンドの髪が、グシャグシャだった。
「大丈夫か?」
リヴァイはカウンターにぶつけた額の部分を見ようと、アルディスの髪をかき上げた。
濡れたまつ毛。
衣服も乱れて鎖骨から肩にかけて白い肌が見えた。
ドクン。
リヴァイの鼓動が速くなる。
ハンジやペトラと違う。
兵団の、戦う女どもとは全く違う。
無造作にアルディスの髪をかき上げたのに、
リヴァイは改めてそう感じ、その至近距離に自分で戸惑った。
「少し腫れている。冷やすといい。」
慌てて手を放し、目を逸らす。
「・・・なさい。」消え入りそうな声でアルディスが言った。
「え?」リヴァイが聞き返す。
「ごめんなさい。」
「いや。お前は悪くないが。」
「せっかく初めてお店に来てくれたのに。」
今までずっと笑っていた女から、笑みが消えた。
その事にリヴァイは何故か胸が痛くなった。
「なんの騒ぎだ。」
奥の扉が開いて、さっき入っていった長髪の男が顔を出した。
男は上半身の服を脱いでいた。
「早く来い、アル。」
男はそれだけ言うと扉を閉めた。
小さなため息をついたアルディスを、リヴァイは見逃さなかった。
「行くぞ、リヴァイ。」エルヴィンがテーブルに金を置いて立ちあがった。
気がつくと酒場の中には自分たち以外の男がいなかった。
「あぁ。」
エルヴィンに続いてリヴァイは外への扉に向かった。
「ありがとう。」アルディスの声にリヴァイは振り返った。
穏やかな微笑み。
乱れたままなのに、清らかささえ感じる。
何か気恥かしいような、味わったことのない想いがリヴァイの胸に込み上げた。
「また来て。」優しく、アルディスの声は響いた。
リヴァイは頷くのが精いっぱいだった。
エレンの力は未知数だった。
憲兵団の手に落ちることは避けられたが、
かと言って調査兵団もどんな風にエレンを扱えばいいのか考えあぐねているところだった。
ただ、最悪な事態が発生した場合には、リヴァイが殺す。
リヴァイなら殺せる。
それだけは間違いなく、リヴァイも絶対にしくじらない自信があった。
勿論、そうならないことを調査兵団の誰もが願っていたが。
「旧調査兵団本部?」リヴァイは聞き返した。
「あぁ。」窓から景色を眺めながらエルヴィンは答えた。
「あそこでまずエレンの様子を見ろ。近くでハンジが捕獲した2体の調査をしているはずだ。ハンジにも協力を仰げ。」
「仰ぐも何も、あの巨人バカのことだ。エレンが本部に着くや否や自分から来るだろう。」
そう言うとリヴァイはソファに腰掛けた。
「それから、壁外調査だ。」エルヴィンはリヴァイを振り返った。
「壁外・・・。」リヴァイは低く呟いた。
「恐らく一ヶ月ほど後になるだろう。」
エルヴィンは真っすぐ前を見つめ、何かを深く思慮しているようだった。
「掃除道具はあるのか?」
考えに沈み込んでいたエルヴィンには、そのリヴァイの問いの意味がよくわからなかった。
「ん?道具?・・掃除?」
「あぁ。しばらく使ってねぇ古い城なんだろ。」
「あ、あぁ。」旧本部のことかと、エルヴィンは理解した。
「ったく・・・丸一日掃除だな・・・・」
ブツブツと独り言を続けるリヴァイを見ながら、そう言えばこいつ潔癖症だったなと、エルヴィンは思った。
「好きなだけ持ってけ、掃除道具。」
エルヴィンの言葉に、珍しくリヴァイはニヤリとした。
旧本部での滞在に、壁外調査。
ローゼを出たらしばらく戻れないのだなと、リヴァイは思った。
いや。
”戻る”
兵士にとってそれほど不確実なことがあるだろうか?
戻れるという保証が一体どこにあるのだろう。
例え人類最強の兵士と呼ばれるリヴァイであっても。
リヴァイの脳裏に酒場で微笑んでいた女が浮かんだ。
ここを出る前に、もう一度行ってみようか。
しかし・・・。
いや、会いに行くべきだ。
何故俺が・・・。
誰に急かされているわけでもないのに、
リヴァイの自問自答は続いた。
あの笑顔が、今日は戻っているのだろうか。
エルヴィンの部屋から戻る途中、リヴァイはぼんやりとそんなことを考えていた。
わぉ~ん!
ありがとうございま~す!
がんばりまっすo(>ω<*)o
再びその酒場を訪れたのは、酒を飲むためではなかった。
調査兵団の素行を調べるという目的はあったが、
それを大義名分とするにはあまりにも仰々しすぎた。
考えても答えは見つからなかったが、
女に会いたいがため、とはどうしてもリヴァイは認めたくなかった。
真実、そうであるとしても。
杯を煽るには、まだ全く時間が早かった。
けれどもリヴァイは酒場の扉の前に立っていた。
笑って、いるだろうか?
もし、そうでなかったら?
それよりもまず、自分のことを覚えているだろうか?
入り混じる思いでその扉を開けられず、当惑し、立ち尽くすリヴァイは、
旋風のごとく巨人を狩るあのリヴァイとは別人のようだった。
突然、目の前の扉が開いた。
そこにはブロンド髪のアルディスが立っていた。
驚き、目を見開き、リヴァイを見つめる。
そして次の瞬間、甘く、柔らかい笑顔になった。
「リヴァイ」
嬉しそうなアルディスの声が、そよ風のようにリヴァイの耳に響いた。
「ありがとう。来てくれたのね。」
「あぁ。」忘れられていなかったことに、リヴァイはひとまずホッとした。
「あの、でも、ごめんなさい。お店はこれからなの。」
「あぁ。」アルディスの顔を直視出来ず下を向くと、彼女の足元に水の入ったバケツがあった。
「これからお掃除しようと思って。」
「掃除?」リヴァイの目が光った。
「・・えぇ。」その気迫のこもった眼差しにアルディスが怯む。
「手伝おう。」リヴァイはバケツを持ち上げると、酒場の中に入りこんだ。
瞬く間にリヴァイは酒場を磨きあげた。
もともとそれほど広くない場所であったので、リヴァイには簡単なことだった。
アルディスを前にして、何を話していいのかわからずにイスに座っているよりも、
体を動かしている方が、ずっと自分の性分にあっていた。
「凄い!窓もピカピカ!」
アルディスは両手を頬に添え、本当に喜んでいる様子だった。
そんなアルディスを見て、リヴァイは少し、肩の力が抜けた。
「リヴァイって調査兵団でお掃除係なの?」
真顔でそう問うアルディスに、リヴァイは思わず笑った。そして低い声で言った。
「俺が掃除しているのは巨人だ。この世からな。」
「やっぱり。お掃除係なのね。」
ちょこんと首を傾げて、得意気に言ったアルディスに、
リヴァイは堪らず声を立てて笑った。
アルディスはカウンターに入り、ひとつひとつグラスを磨き始めた。
冷たい眼差しのリヴァイが自分にうちとけ、
笑ってくれたことに、少し安心し始めていた。
そして、この間のことを心配して来てくれたのだろうかと、ふと思ってリヴァイを見た。
「あ、ダメ!」鋭い声が飛んだ。
「え?」リヴァイはハッとしてアルディスを見た。
リヴァイはカウンターの横の、奥へ通じていると思われる扉を開けたところだった。
「あ、ごめんなさい。その部屋は、あの、そこは・・いいの。掃除しなくて」
歯切れ悪く、アルディスは言った。
リヴァイは彼女をじっと見つめると無言で扉を閉めた。
そしてこの間来た時と全く同じテーブルの席に座った。
「・・悪い。」
言い訳のように、リヴァイは呟いた。
緩んだ紐が引っ張られ、ピンと張りつめていくように、
空気は緊張したまま、沈黙は続いた。
「ううん。いいの。」アルディスは首を振った。
そしてハッとした。
あぁ、そうかと、アルディスは納得した。
リヴァイは、あの部屋に行きたいのだ。
自分と一緒に過ごしたいのだ。
私を、抱きたいのだ。
自嘲気味にアルディスの口元がゆがんだ。
こんな簡単なことを、何故自分は忘れていたのだろうか?
アルディスは自分に呆れた。
リヴァイは、男じゃないか。
やっぱり、ただの男なのだ。
酒場に来る他の男たちと一緒なのだ。
“だからこんなに早くに来たんだわ。”
突然ふっきれたようにアルディスが笑い出した。
リヴァイは驚いて彼女を見た。
拭いていたグラスを中途半端にしてカウンターに置くと、
リヴァイのところへやってきた。
「ごめんね。気がつかなくて。」
座っているリヴァイの顔を覗き込むようにアルディスは言った。
そして続けた。
「あの部屋に、行く?」
アルディスは奥の扉を指差した。
「夜は無理だけど、今なら大丈夫よ。」
「え?」リヴァイはアルディスの考えていることがわからなかった。
「さぁ、行こう。」アルディスはリヴァイの手を掴んで引っ張った。
「待て。」
暗い眼差しでリヴァイはアルディスを見つめた。
今、リヴァイの手を掴んだアルディスは、娼婦、だった。
上辺だけの笑顔。
リヴァイが見たかった笑顔ではなく。
かつてリヴァイが荒んだ暮らしをしていた頃、いくつも見て来た笑顔と大差なかった。
「早く。店にお客が来ちゃうわ。」
アルディスは力を込めてリヴァイの手を引いた。
そして逆に、リヴァイに手を取られた。
痛いくらいに力を込めてリヴァイはアルディスの手を握った。
アルディスは怯えたようにリヴァイを見た。
「違う」腹の底から搾り出すような低い声だった。
「俺はお前と肌を合わせたくて来たわけじゃない。」
リヴァイは、この女が哀れで、自分に腹が立ち、そして、悲しかった。
いや。
「悲しい」という感情をリヴァイは忘れかけていた。
ただ居たたまれなく、胸クソの悪くなる気分だった。
「じゃぁ、何故来たの?」
リヴァイはアルディスの手を放した。
リヴァイが掴んでいたところが赤くなっていた。
「酒を飲みに来た。」
全ての感情を堪え、落ち着き払ってリヴァイは言った。
平静を装うことは、どちらかと言えば得意だった。
「こんなに早い時間から?」
たたみ掛けるようなアルディスの質問にリヴァイは答えなかった。
尋問されることは好きではなかった。
「・・・邪魔したな。」
アルディスの顔もろくに見られないまま、リヴァイは酒場を出て行こうとした。
その時、男が一人、酒場に入って来た。
「へ、兵長。」
「エルド」
男は、調査兵団で行動を共にするエルドだった。
「何故ここに?」
「どうして?」
エルドとリヴァイの声が重なった。
リヴァイがここにいることに、エルドはとても驚き、そして不思議に思った。
それと同時に、自分が誇らしくも思えた。
あのリヴァイ兵長と同じ酒場で酒を飲むのだから。
「アル、兵長に失礼はなかっただろうな。」
エルドは冗談めかしてアルディスに声をかけた。
「えっ・・・。さぁ・・どうかしら。」
不意を突かれて、アルディスは一瞬声が詰まった。
「あの・・知り合いなの?」
アルディスは恐る恐るエルドに訊ねた。
「知り合い?バカ言え。こちらは調査兵団の兵士長殿だぞ。知らない奴はいない。
それに俺の上司だ。」
エルドはカウンターに腰掛けた。
調査兵団のリヴァイ・・・・リヴァイ兵士長!
そうだ!聞いたことがある、とアルディスは思った。
リヴァイは壁の外から帰還してくるたびに、いつもその強さを噂されていた。
兵団にとって痛恨の痛手を受けた時も。
兵団にとって敗北以外の何ものでもない時も。
リヴァイの強さだけは伝説のように語られているのだった。
「リヴァイ兵士長。」
アルディスは自分に確認するように呟いた。
それからリヴァイに向かってこう言った。
「リヴァイ兵士長。今から店を開けるわ。どうぞ、ここに座って。」
アルディスは微笑んだ。
優しく、穏やかに。
その笑顔を見ても、リヴァイは躊躇った。
外に出ることも、カウンターに腰掛けることもせずに、どうしたらいいか思案していた。
「アルディスとは、同郷なんですよ。」エルドがリヴァイに向かって言った。
「こいつ、今はこうしているけど訓練兵だったんですよ。」可笑しそうにエルドは笑った。
「本当は憲兵団目指していたんですよ。でも全然ダメ。なぁ?」
からかうようにエルドは続けた。
何も知らないエルドが、リヴァイとアルディス、二人の張りつめていた空気を少しづつ柔らかくしていった。
「・・・そうか。」リヴァイはエルドの話を聞きながら、なんとなくカウンターに腰を下ろした。
「だって私、この髪を切りたくないし。」アルディスが少し拗ねたように言う。
「はは。まずそこがダメ。」エルドはアルディスを指差した。
「それに高い所が苦手だし。」アルディスは眉間にしわを寄せた。
「あははっ。お前よくそれで志願したな。」
「だって憲兵団ならいいかなって。」
「ばか。憲兵団は優秀じゃないとなれないんだぞ。」
「へぇ~。じゃ二人は落ちこぼれ?」いたずらっぽくアルディスが言う。
「バカ。俺はともかく、兵士長になんてこと言うんだ!」
リヴァイのことを言われてエルドは思わずムキになった。
「・・構わん。」と、リヴァイは言った。
二人はじゃれ合う動物のように流れる会話を楽しんでいた。
時々リヴァイを気にかけながら、話は続いた。
リヴァイはそんなその場の雰囲気が嫌ではなかった。
「おい、アル。酒を出せよ。」
「あ、ごめんなさい。つい・・・。」
「全くお前は気がきかないなぁ。ここ酒場だろ。」
「もう!エルドがぺちゃくちゃと話しかけるからでしょう!」アルディスは本気で少し怒ったように言い返した。
「大変!本当にもう店をあける準備をしないと!」
アルディスは二人に酒を出すと、あたふたと慌てた様子で外に出て行った。
彼女がいなくなると、酒場の中は急に静かになった。
陽は傾いていたが、暗くなるのにはまだ早かった。
「驚きました。まさ兵長がいるなんて。」少し戸惑い気味にエルドは笑った。
「・・・そうか。」リヴァイは酒杯を口にした。
「酒を飲むんですね。」
「少しはな。・・・だがあまり飲まん。いつ奴らが現れるかわからんからな。」
「巨人ですか。・・・兵長は、気が休まることはあるのですか?」エルドが言った。
「どういうことだ?」リヴァイは横目でエルドを見た。
「いえ・・・。」つまらないことを聞いてしまったとエルドは思った。
何も酒を飲んでいる時まで、巨人の話をすることはない。
「あの・・・アルディスはなかなか器量がいいでしょう。」エルドは話題を変えようとした。
「・・そうだな。」一瞬、間をおいて、リヴァイは答えた。
「しかし、人の女に興味はない。」リヴァイはエルドを見た。
「え?それは・・どういう・・・。」エルドは言い淀んだ。
「同郷と言ったが、それだけではなかろう?」
エルドはリヴァイの言葉と眼差しに射すくめられそうだった。
「いえ。別に。そういうわけでは・・・。」言いながらエルドは、動揺している自分がいた。
「お前は、あの女・・いや彼女が、あの奥の部屋で何をしているか知っているのか?」
リヴァイの言葉にエルドは答えなかった。
「なぜ、幸せにしてやらないんだ?」
それは、エルドに対して、リヴァイの優しさから出た言葉だったのかもしれない。
しかしエルドは鼻で笑った。笑うしかなかった。そしてリヴァイに向かって言った。
「兵長。我々は調査兵団ですよ。今日死ぬか、明日死ぬか。
今日明日は生き延びても、壁外調査に行けばどうなるかわからない。
それで、女を幸せにできると思いますか?」
内に溜めていたものを吐き出すように、エルドの言葉は溢れ出て来た。
「兵長ならできますか?・・いや。兵長なら出来るのかもしれない。
俺は絶対に死なんと、好きな女に言ってやれるんでしょうね。自分には、無理ですが・・・。」
そういってエルドは頭を抱えた。
目尻に涙が滲んでいるようにも、リヴァイには見えた。
「・・・調査兵団というのは、女一人、幸せに出来ない組織なのだな。」
リヴァイは呟くように言った。
「すいません、兵長。」
「いや。」
二人は無言で酒を飲んだ。
コメントありがとうございます♪
嬉しいです。
最後までがんばります!
「時々、ふっと何もかも忘れて、柔らかい女の肌に触れながら眠りにつきたい・・・
兵長はそんな風に思うことは無いですか?」
エルドの言葉は命を賭けて戦う男たちの、心の叫びだったかもしれない。
リヴァイはしばらく考えていた。
「・・・わからん。だが、一つだけ。俺は巨人を削げば削ぐほど、俺の中の人間らしさも削がれていっている気がする。」
リヴァイは酒を飲んだ。
「え?」エルドは少し驚いてリヴァイを見た。
「あいつらを切り刻んでいるうちに、俺は俺自身も、切り刻んでいるのかもしれない。」
喰われていく部下。
死んでいく部下。
自分が出した命令で沢山の兵士が命を落としていく。
人類最強と言われても、リヴァイも人間だった。
その数え切れないほどの死の残像が、いつも彼を取り巻き、彼を安息から遠ざけているのだった。
「でも・・・。」エルドはなんて声をかけていいか迷った。
「でも・・・兵長には、ハンジ分隊長がいるじゃないですか!」
「は、・・ハンジ?」リヴァイは思わず声が裏返りそうになった。
「はい。」オドオドとエルドが答える。
「あのクソメガネ?」
「え・・・・?いや・・その・・・違うんですか?」
「あいつにはモブリットがいるだろう。」
「えぇぇぇ???」エルドには衝撃の事実だった。
「それに俺は、自分よりデカイ女は好きじゃない。」苦虫を噛み潰したようにリヴァイは言った。
・・・それは結構、限定されますね・・・という言葉を、エルドはのみ込んだ。
アルディスが両手に抱えるほど花を摘んで戻って来た。
暗くなると花が萎んでしまうので、ギリギリ間に合ったわ、と言って笑った。
白や黄色、薄い青やピンクの花。
アルディスが花を水に挿したものをカウンターやテーブルに置いて行くと、
殺風景な酒場の中が、確かにたちまち華やかになった。
「きれいでしょう?」アルディスは嬉しそうに笑った。
「あ、ねぇ、エルド、あの・・・お願いがあるのよ。」
「なんだ?」
アルディスが目の前で手を合わせた時、扉の開く音がして3人の兵士たちが入って来た。
「兵長!」
「兵長、どうしたんですか?」
「エルド、ずるい!」
それは、グンタ、オルオ、ペトラ、通称リヴァイ班と呼ばれる3人だった。
エルドを含め、みなリヴァイが自ら指名して集め、一緒に戦う者達だった。
「エルド、ぬけがけずるい!」紅一点のペトラが口をとがらせた。
「まさか兵長も一緒とは。」グンタはリヴァイの横に腰掛けた。
「あの・・あ・・」オルオはアルディスに目が釘付けだった。
「お前達、何だ?」リヴァイが少し驚いて言う。
「いや・・・その・・みんな何となく落ち着かなくて・・。一度、みんなで話しておいた方がいいのではないかと・・・。」
エルドが言葉を選びながら言った。
「あのガキ・・エレンか?」リヴァイはすぐに察した。4人は頷いた。
エレンはリヴァイが行動を共にするということで、調査兵団の預かりとなっていた。
リヴァイと行動を共にするということは、つまり、リヴァイ班と行動を共にするということだった。
「普通の、ガキだ」リヴァイは言った。
「でも巨人になるんですよね?巨人の力で岩を持ち上げ、穴を塞ぎ、トロスト区を奪還したとか・・・」こらえきれなく、ペトラは訊いた。
「兵長はその・・審議所でかなりその新兵を痛めつけたと聞きましたが、大丈夫だったんですか?」グンタも興味を抑えきれない。
「あぁ。」リヴァイが短く答える。
「攻撃を加えても、その時は巨人にならなかったんですね?」エルドが更に深く切り込む。
「あぁ。そういうことだ。」
「兵長、そのガキは何故、調査兵団を希望しているのですか?まさか、その力で調査兵団を壊滅させる気じゃ・・」それはオルオの邪推のようでもあったが。
「お前ら!」言葉と同時に、リヴァイはカウンターを掌で叩いた。
4人に緊張が走る。
「お前ら、噂だけであれこれ判断するのは止めろ。お前らのその目は何のためについてるんだ。耳は何のためだ?俺たちは近々エレンを連れて旧調査兵団本部に向かうことになる。その時、自分たちで確かめるんだ。あいつが、人類の希望なのか、それとも破滅へ導く化け物なのか。お前達は今まで生き延びた。そのことに自信を持て。そして生きることを勝ち取ってきたその目で、エレンをよく見るんだ。あいつを仲間として信じられるか、信じられないか、判断はそれからだ。」
リヴァイ班の4人はそれぞれ無言で考えていた。
自分の頭で考え、答えを見つけ出そうとしていた。
気がつくと酒場はいつの間にか男達で満員となり、陽はとうに落ちていた。
「難しい話?」小首を傾げて、アルディスはリヴァイ班に声をかけて来た。
「うわ。きれいな人。・・・まさか、リヴァイ兵長の?」ペトラが悲しげに言った。
「バカか。」リヴァイは不機嫌そうに答えた。
「エルドの同郷なんだよな?」グンタがエルドに片目をつぶって見せた。
「えぇぇぇ??」オルオが叫ぶ。
「同郷ってだけで驚くことないだろう?」エルドがオルオに言う。
「そ・・それは羨ましいな。・・・いや、実際羨ましい。これは俺の見解だが、エルド、
お前はこの女性と同郷以上の何かがあるんじゃないのか?」
「ねぇ・・まさか、その喋り方・・・?。」悲壮な顔でペトラは言った。
「ペトラ。」リヴァイが呼びかける。
「はい。」
「俺はあぁいう喋り方なのか?」
「いえ。全然違います!」ペトラは思わず拳を左胸に、リヴァイに敬礼していた。
グンタが噴き出した。エルドは声を出して笑った。リヴァイも呆れ顔だが、笑っていた。
ペトラはオルオをたしなめる。
「いいなぁ。楽しそう。」その談笑の中に、アルディスはそっと声をかけた。
「まぁ、ずっと組んで来た仲間だからな。」エルドが応える。
「おい、そろそろ戻るぞ。」リヴァイが腰をあげた。みなもそれに続いた。
グンタはアルディスを見ながらエルドに小声で何か囁いた。
ペトラとオルオはまた言葉の応酬をし始める。
リヴァイ班がぞろぞろと帰っていく。
「そうだ!アルディス、さっきのお願いって何だ?」扉の手前で振り向き、エルドが訊いた。
「あ、・・うぅん。今度来た時に言うわ。」アルディスは何気なくそう言って笑った。
「そうか?」エルドも当たり前のように微笑み返した。
「みんな、また来てね」アルディスは外に出て、手を振り見送った。
今度があると信じていた。
しかしその機会はやってくることがなかった。
もう、二度と、永遠に。
そこは巨大樹の森だった。
「・・・っクソ。女型め。」
リヴァイは森の中を駆けるように舞い進んでいた。
エルヴィンの作戦は失敗だった。
今は一刻も早く班の人間と合流しなければならない。
立体機動装置のワイヤーが、次々と樹に打ち込まれ、
リヴァイは風のように木々の間を流れていった。
エルヴィンが何故ガスと刃を補充して行けと言ったのか、
考えられることは一つしかなかった。
女型の中身は、生きている。
リヴァイは嫌な予感がしていた。
今は早く、早く。一刻も早く仲間のところへ。
そう急ぐのみだった。
同じ頃。
リヴァイ班は撤退の信煙弾を目にしていた。
巨大樹の森の入口で待機していた多くの兵士たちと同じように、
リヴァイ班も今回の作戦の失敗を知らなかった。知りようがなかった。
終わった。帰れる。撤退だ。
その信煙弾の信号を見た兵団の誰もが、そう思っていた。
そしてそれは気の緩みを招いた。
エレンを含めたリヴァイ班は、この作戦で女型の捕獲に成功したと思いこんでいた。
戦いに勝利したという高揚感が、また更に油断を生んでいた。
森の中、前を飛び進んでいく一人の兵士が、グンタの目に入った。
リヴァイ兵長?いや、違う・・・グンタがそう思った瞬間、グンタのうなじが深く削られた。
グンタがワイヤーにぶら下がる。
ピクリとも動かない。
「グンタさん!」エレンが叫んだ。
しかし立ち止まってはいられない。
「エレン、止まるな、進め!」グンタに寄ろうとするエレンを、オルオが引きあげる。
宙を舞いながら、リヴァイ班はパニックに陥った。
敵は何だ!?
女型の中身か!?
一人か!?
二人か!?
その正体が掴めない。
しかし、自分たちの使命はわかっていた。エレンを死守せよ、それがリヴァイ班の任務だった。
この1カ月、エレンと過ごし、彼が戸惑い、不安に思い、それでもぶつかり合って出したリヴァイ班の答えは、
エレンが仲間に値するということだった。
「エレンを守れ!」エルドが叫んだ。
リヴァイ班のすぐ近くで閃光がした。
それは再び女型の巨人が姿を現した瞬間だった。
ここが正念場だと、エルドは思った。
エレンを味方のところに急がせ、女型は自分とペトラ、オルオ3人で仕留めなければならない。
グンタがいなくても。必ず。自分達は巨人殺しの達人なのだから。
あうんの呼吸で3人の刃は女型の視力を奪った。
あと一分以内だ。声を掛け合わなくとも、3人はわかっていた。
視力を奪われた女型は樹に寄りかかり、その回復を待っていた。
女型のその両腕はしっかりと自分のうなじを守っていた。
まず腕だ、3人はそう思った。
ビシュッ!
3人が立体機動で飛び回り、あっという間に肩の筋肉が削がれた。
うなじを抑えていた女型の腕がダラリと下がった。
次は首だ。支える筋肉を削げば、うなじが狙える!
あと一息のところまで、エルド達は女型を追い詰めた。
これで、首が墜ちる!渾身の力を刃に込めて、エルドは女型に斬りかかった。
その時、女型の右目が開いた。
自分の首に、今まさに向かって来たその兵士に向かって、口を開けた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
そこは暗闇だった。
痛みと言えば痛みのような衝撃が一瞬にしてエルドの全身に走った。
そして体中が熱かった。
噴き出す鮮血と共にエルドの意識が失われていく。
これが最期かと、エルドは霞む意識の中で思った。
この暗闇が人の最期に見える光景なのだと。
・・あぁ・・どうか・・アル・・この死を・・悲しまないで・・く・・れ・・・。
女型は喰いちぎったエルドの半身を地べたに吐き出した。
ペトラ、オルオも次々と女型に倒され、エレンを守って来たリヴァイ班4名は、女型を前にその命運が、尽きた。
木々の間を飛び急ぐリヴァイの耳に聞こえて来たのは、
巨人となったエレンの咆哮だった。
リヴァイはその声の方角に進路を変えた。
嫌な予感は当たりつつあった。
ワイヤーにぶら下がる兵士が見えた。
リヴァイはそれがグンタであることを確認した。
そしてその近くに、エルド、オルオ、ペトラの亡骸を見つけた。
いずれも戦って死んだと思わせる兵士の遺体であった。
リヴァイはしばし呆然とし、そして剣を握り締めた。
しかし、ここに立ち止まってはいられない。弔ってもいられない。
リヴァイは心を閉じた。
“エレンは?エレンを探さなくては!”
そのエレンは、うなじを齧り取られた巨人の残骸だけが残されていた。
リヴァイは再び木々の間を巡った。
仲間は死んだ。エレンの行方も知れない。
閉じた心にも絶望が忍び寄る。しかしリヴァイはそれに屈しない。
今、出来ることをやる。
今まで何十回と繰り返してきたように。
そして、女型を見つけた。
その瞬間、リヴァイに全身の血が沸騰したような怒りがこみ上げて来た。
「殺してやる」
そう呟くとリヴァイはさらにスピードを上げ女型を追う。
“絶対に許さない。許せない。ズタズタに切り刻んで、クソ女の中身を引きづり出してやる!”
閉ざされていた心は怒りとなり、女型に向けて一気に解放された。
女型を追いながら、リヴァイは一人の兵士が女型に斬り掛かっていることに気がついた。
“あれは誰だ?新兵か?”
その兵士は、何度も何度も執念深く女型を斬りつけていた。
ただやみくもに、力任せに剣を振り回す姿は、激情に駆られ自分自身を見失っているように、リヴァイには見えた。
そして、その感情に激昂している姿が、自分自身と重なった。
・・あれでは、女型は倒せない。
「同じだ。一旦離れろ。」
リヴァイは冷静に戻って、その新兵を捉えた。
「エレンは死んだのか?」新兵に問いかける。
「エレンは生きています。」新兵はきっぱりと答えた。
何故そう言い切れるのかリヴァイは不思議だった。
「・・・そもそもはあなたがちゃんとエレンを守っていれば、こんなことにはならなかった。」
新兵は怒りをリヴァイにぶつけて来た。
その顔をよく見ると、どこかで見た記憶があった。
「・・・お前はあの時のエレンのなじみか・・・」リヴァイの問いにその新兵 ― ミカサ、は答えない。
ただ、リヴァイの顔を凝視していた。
エレンを救いたいという一心。
何故かリヴァイ班のことが脳裏をかすめた。
この新兵の悲壮なまでの覚悟。
生きているなら必ずエレンを救い出さなければならないと、リヴァイは剣を強く握り直した。
この新兵は筋がいい。
戦い方を導けば、女型は倒せなくてもエレンは奪還できるだろう。
リヴァイは目標をそう定めた。
「俺がヤツを削る。お前はヤツの注意を引け」
リヴァイは旋風のごとく女型の周りを舞い、目をつぶし、切り刻んだ。
ミカサはその早さに目を見張った。
女型も疲弊しているのか動きに精彩がない。
リヴァイの攻撃にかかり、守っていた手が下がり、弱点のうなじがあらわになった。
ミカサはそこを逃さなかった。
両剣を構え、女型の息の根を止める為に、うなじめがけて飛び込んだ。
「よせ!」リヴァイは叫んだ。
女型はうるさい蝿でも追い払うかのように、ミカサを手でたたき落とそうとした。
リヴァイはその女型の手を膝で蹴り抑えた。
そのまま顔に突進し、耳の下から顎の筋肉を深く断ち切った。
女型の口が開き、中から唾液に見舞われた意識のないエレンがドロドロと落ちて来た。
リヴァイはエレンをしっかりと抱えた。
「オイ、ずらかるぞ!!」
リヴァイはミカサに向かって叫んだ。
女型はもうそれ以上は追って来なかった。
二人は立体機動で、女型からどんどん遠く離れていった。
味方と合流し、リヴァイは一息ついた。
一緒に戦ったミカサは、エレンをきれいに拭いてやり、まだ意識の戻らないエレンに声をかけていた。
リヴァイは空を仰いだ。
リヴァイ班は壊滅した。
俺が班を離れたから。いや、しかしそれはエルヴィンの命令だった。
女型を捕獲した時点で、俺はヤツのうなじを削るために班を離れなければならなかったのだ。
リヴァイの思いは巡る。
「結果は誰にもわからない。」吐き捨てるようにリヴァイは呟いた。
そして思い出していた。巨大樹の森を馬で駆け抜けながら、自らがエレンに投げかけた言葉を。
“俺にはわからない。ずっとそうだ。
自分の力を信じても・・・信頼に足る仲間の選択を信じても・・・
結果は誰にもわからなかった・・・。
だから・・まぁせいぜい・・悔いが残らない方を自分で選べ。“
何を選んでも、誰を信じても、悔いが残らなかったことなんてあっただろうか?
自分自身を慰めようがなかった。
もう絶対に、戻ってくることはない。
もう決して、一緒に戦うことはない。
あの4人の命が失われてしまったことが、
何よりも重く、闇のように暗く、リヴァイの心にのしかかっていた。
リヴァイは目を閉じた。
そして考えることを止めた。
仲間を想うことを止めた。
それが唯一、自分が平常でいられる為にできることだった。
今回の作戦の失敗で、エレンが王都に招集されることは確実だと思われた。
エルヴィンは考えを巡らせていた。
女型と接触し、生き残った僅かな兵士たちから情報を掻き集めていた。
人類の為に調査兵団の存亡と名誉をかけて、最後かもしれない作戦を綿密に練っているのだった。
リヴァイはその案を立てることに加わりながらも、どこか上の空だった。
それはリヴァイ班の仲間を失ったせいかもしれないし、
女型との闘いで膝を負傷したせいかもしれなかった。
リヴァイは当分戦闘に加わることはできなかった。
巨人を削ることに命を賭けてきたリヴァイにとって、第一線に出られないということは、
また焦燥感の募るものでもあった。
そしてもう一つ。
エルドの死を伝えに、彼女、アルディスのところへ行かなければ。
その思いは負傷した膝をさらに重く感じさせた。
期限は迫っていた。
エレンが招集されれば、調査兵団の幹部も同行することになるだろう。
行くなら、今夜しかないか・・・。
どんな顔をして会えばいいのか、何と言えばいいのか・・何を考えていても、頭の中は
すぐそこに戻ってしまうのだった。
リヴァイの足取りは重かった。
酒場の前まで来て、リヴァイは溜息をついた。
しかし、観念して、扉を開けた。
アルディスがいた。
数人の客を相手に、笑っていた。
相変らず。穏やかに。
「リヴァイ!いらっしゃい。」
久しぶりね、とアルディスは笑った。
リヴァイは顔を向けることが出来なかった。
無言で膝を引きずって歩き、カウンターに腰掛けた。
アルディスはその様子を黙って見ていた。
リヴァイは憔悴しきっていて、顔色も悪かった。
ただ事ではない、とアルディスは直感した。
そして何も言わずに、そっと酒を出した。
数人の客の笑い騒ぐ声が、狭い酒場に響いていた。
リヴァイは酒を一口啜って、唇を舐めた。
アルディスがカウンターの向こうからそれを見つめていた。
何も言わず、珍しく無表情で。
これから告げるリヴァイの言葉をじっと待っているかのようだった。
「エルドが、死んだ。」俯いたまま、リヴァイは言った。
「え?」アルディスは顔をこわばらせ、絶句した。
どのくらいの間だろうか、長い沈黙が続いた。
何か言葉を続けなければと、リヴァイは口を開いた。
「最期は俺も見ていない。だが・・」
言いかけたリヴァイの言葉をアルディスは遮った。
「ありがとう。」
リヴァイは視線をあげてアルディスを見た。
「・・あなたは、・・生きて帰ってきてくれて。」アルディスが微かに笑みを浮かべた。
突然、彼の胸に痛いほど何かが込み上げて来た。
悲しみのような、怒りのような、自分の不甲斐なさを呪う思い。
胸が熱く、そして苦しくなった。
リヴァイは拳を握りしめた。
「すまない・・・」リヴァイは声を絞り出した。
「なぜ?」
「俺の部下・・仲間は・・・死んだ。・・みんな・・。」
リヴァイの眼から涙があふれそうになった時、アルディスは毅然と言い放った。
「泣いては駄目よ、リヴァイ。」
潤んだ瞳で、リヴァイはアルディスを見た。
「泣いては駄目。」アルディスは繰り返す。
小柄なリヴァイが、さらに弱々しく、小さくなっていくように、アルディスには感じられた。
リヴァイは何も言わなかった。言われた通り、泣くこともしなかった。
ただ黙って何かに耐えていた。
後悔や、泣き事を言うことや、言い訳をすることに。
「間違って、いないわ。」あなたは間違っていない、力強く彼女は言った。
「大丈夫。」アルディスは優しく笑った。
けれども、果たしてそうだろうかと、リヴァイは思った。
自分が選択したことや、自分が信じた事は間違いではなかったか?
エルドは死んだ。グンタも、オルオも、ペトラも。その他の兵士も大勢死んだ。
自分が仲間を振り返らなかった為に。
リヴァイは杯を握り締めた。
彼は苦しかった。
自分の抱えている思いが苦しかった。
誰にもぶつけられないことが苦しかった。
アルディスにすら、拒否されているような気がした。
うなだれて、杯を握り締めるリヴァイを、アルディスはカウンターから見下ろしていた。
そしてカウンターの中から出て来た。
「ねぇ、来て。」リヴァイを呼び、奥のどこかにつながっている扉に、手をかけた。
リヴァイはアルディスを見た。
「いや・・俺は・・・」リヴァイは躊躇した。
アル、今夜はそいつなのか?と、どこからか、冷やかしの声がした。
「いいから。来て。」お構いなしにアルディスはリヴァイの手を引き、奥の扉を開けた。
扉の向こうには2,3歩行くほどの暗い空間があり、その向こうにまた別の扉があった。
アルディスがその扉をあける。そして部屋に明かりをつけた。
そこには、壁一面に、何かが貼られていた。
それは絵だった。何十枚も。何百枚も。
微笑んだ顔、破顔の表情、澄ました顔、横顔、寝顔・・・。
茶けたような粗末な紙に、黒鉛の棒で描かれたような、男たちの顔だった。
四方の壁全て、今開けた扉にもぎっしりと貼られていた。
「・・・これは・?」リヴァイは驚いて部屋を見回す。
「似顔絵よ。」
「似顔絵?」リヴァイが聞き返した。
「そう。私が描いたの。」アルディスはそう言って、少し広めのベッドに腰を下ろした。
「最初はね、寝物語に、面白がって描いていたの。みんな上手いって褒めてくれてね。
出来上がったら、壁に貼っておいたの。
そしたらそのうちに、似顔絵を描いた男たちはだんだんと来なくなって・・・。」
リヴァイは無言のままアルディスの話を聞いていた。
「どうしてなのかなって思っていたけど、ある時気がついたの。あぁ・・そうか、みんな死んだんだって・・。
きっとこれが、この絵を、彼らは自分たちが生きていた証にしたかったんじゃないのかな。
自分がこの世に存在したって証拠。それが、嬉しいのかしらね・・。」
アルディスは思い出したように小さく笑った。
「死んだって・・みんな兵士か?」リヴァイが問いた。
「さぁ。わからない。でも兵士が多いんでしょうね。奪還作戦でウォールマリアに出て行った人も、少なからずいたと思うわ。」
アルディスの言葉は続く。
「何もしないで、夜通しずっと、絵だけを描いて欲しいという人もいたわ。
この絵を見たいためだけに来る人もいる。
・・ねぇ、リヴァイ。私、思うの。この人たち、ここで生きているんじゃないのかなって。」
リヴァイは無言で絵に見入っていた。
「人って誰からも忘れ去られた時が、本当に死ぬ時じゃないのかなって。」
・・・そうなのだろうか、とリヴァイは思った。
「みんな覚悟を決めていたのかもしれない。あなたの、部下も、仲間も、みんなそうじゃない?」
「みんな、心臓を捧げよ、でしょう?それを誓った人たちなのだから。」
「死んだのは、リヴァイ、あなたのせいじゃないわ。みんなが命を落としたのは巨人のせいよ。
巨人が悪いの。そうじゃなくて?」
アルディスの話は続く。
「だから、泣いては駄目。涙は弱さを引き寄せるわ。」
リヴァイはじっと考えていた。そして呟いた。
「何を信じていいのか、わからない。」
「何も。今まで通りよ。」アルディスが即答する。
「そう。あなたがやってきたことを、これからもやっていけばいいの。悲しみに惑わされてはいけないわ。」
アルディスの言葉が、少しずつリヴァイの渇ききった心に染み込んできた。
同じように、少しずつ体の隅々に力が戻ってくるような気がした。
「あなたは間違っていないし、あなたの信じたものも疑ってはいけないわ。」
「信じるものを、疑ってはいけない・・・。」
リヴァイは自分に言い聞かせるように呟いた。
アルディスがベッドから立ち上がり、リヴァイの目の前に来た。
慈悲深い目でリヴァイを見つめる。
右手を伸ばし、そっとリヴァイの左頬に触れた。
「自分を責めないで。そして・・どうかもう、あなたが傷つきませんように・・・。」
リヴァイはアルディスのその右手に自分の左手を重ねた。それから握り締めた。
俯きがちだったリヴァイの眼差しが、前を向いた。
再び強く握ってそして、静かにアルディスの手を放す。
「あなたは、人類最強の兵士、でしょう?こんな小さな酒場でメソメソしているなんて可笑しいわ。」
冗談っぽくアルディスは笑った。
「・・・そうだな」リヴァイはもっともだと、苦笑いした。
彼は大きく息を吐き出した。迷いを断ち切るような吐息だった。
それから自分のやるべきことを思い出していた。
そうだ。仲間の死を無駄にしない。
それを糧に自分は歩いてきたし、これからも歩いていくのだ。
そして勝たなければいけない。人類を勝利に導かなければならない。巨人を倒さなければならない。
それが自分の使命であるのだ。
「アルディス」リヴァイは名前を呼んだ。
「はい。」アルディスが答える。
「お前に、礼を言う。」
アルディスは微笑んで首を横に振った。
「リヴァイ。」部屋から出て行こうとするのを、アルディスは呼びとめた。
彼が振り返る。
「また来てね」アルディスはいつものように優しく笑った。
リヴァイは頷いて、扉を閉めた。
店を出て、リヴァイは膝を庇いながら歩いていた。
状況は厳しかった。
けれどもエルヴィンの立てようとしている作戦を、
今度こそ必ず成功させなくてはならない。
死んでいったリヴァイ班、その他の多くの仲間の遺志を背負って。
自分は歩かなければならない、最後の巨人を倒す、その時まで。
リヴァイの足音が消えて、アルディスは息を吐きながら、
再び崩れるようにベッドに腰を下ろした。
彼は気づいただろうか。
ベッドの向かいの壁には、沢山の絵にまぎれて、端の方にエルドの似顔絵が貼ってあった。
アルディスはしばらくその絵を見つめていた。
そしてその絵に語りかけた。
「・・・これで、よかった?」
みるみる両目から涙があふれ、こぼれ落ちた。
顔を両手で覆い、アルディスは一人、忍び泣いた。
完
連続投下すいません。
終わりです。
読んで下さった方、本当にありがとうございました!!
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