異説 ひのきの棒と50G (84)


 「ははは、ありゃあ籠城も意味ねえわな」

 領主の野郎、溜め込んだ食料をすべて吐き出すわけだ。
 あんな数の化け物相手に時間なんか稼げるはずもねえ。
 空を飛ぶ大蛇に、櫓よりもでかい巨人。
 俺たちを守ってくれる壁なんて、あってないようなもんさ。
 見てみろ、あの大狼なんか二本足で立って槍を握ってやがる。
 あまりに健気で泣けてくるじゃあねえか。

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 つまるところ、俺たちに残された道は潔く戦って死ぬことだけってわけだ。
 まあ、それもいいかもしれねえなあ。
 一度は賊に身をやつしたんだ。
 たらふく食わせてもらったうえに上等な剣までもらって、戦士として死ねるなら文句はねえ。

 さあかかって来い化け物共。
 この辺境の勇者様がお相手してやるぜ。



「僕は、正しかった」

 街を囲む堀と防壁を目にして、口をついて出た言葉がそれであった。
 魔物に襲われた故郷から、幼い妹を抱え辛うじて逃げ延びてきた。
 川の水で喉を潤し、ポケットに詰めたパンを齧り二日夜通し歩いてようやく街に辿り着いた。 

 堀に渡してある唯一の橋を渡り、門を抜ける。
 門の両脇には、全身鎧を着た兵士が物々しい雰囲気で並んでいる。
 だが仰々しい警備の割には、僕達はすんなり街へと入れてもらえることができた。


 きれいに整った石畳の大通り、そして道沿いに並ぶ色鮮やかなテント張りの商店。
 目に映るどんな光景も、故郷で見ることの無かったものだ。
 初めて見る街並みにも圧倒されるが、それよりも目につくのは戦支度に勤しむ大勢の人々だ。
 多くの人が皮鎧を身に着け剣を腰に差している。だが、どうも身のこなしがぎこちない。

 腰に差した剣の鞘に、手を触れる。
 僕の体つきに見合わない重いこの剣は、父の形見だ。


 ああ、そうか。彼らも僕と同じなのだ。
 これまで剣を振るう機会に、見舞われてこなかった人たちなのだ。

 故郷を襲った魔物の軍勢。あの恐ろしい怪物達が、今度はこの街を襲うのだろう。
 街の人々でさえ戦に備えているということは、もしかすると兵が足りていないのかもしれない。
 沸き立つ不安に、背中で静かに眠っている妹が恨めしく思えてくる。


「坊主、大丈夫か?」

 行くあてもなく呆けていた僕に声をかけてきたのは、髭を生やした男であった。
 身に着けている武具は、どれも使い込まれており周囲の人たちと違い様になっている。
 その様子を見るに、街の衛兵であるようだ。 

「どこから来たんだ。そっちの娘は大丈夫か」

「南の集落から。妹は眠ってるだけ」

 矢継ぎ早の質問、あるいは尋問なのだろうか。僕は、なるべく簡潔に答えた。


「何でまたこんな時に、街に来たんだ」

「二日前、村が魔物に襲われた」

「―――南からも魔物が来ているのか」 

 男は、少し焦った表情で近くにいた若い男を呼び止め何事か耳打ちをした。
 若い男は、顔色を変えると大通りを街の中心へと駆け抜けていく。
 僕に向き直った男は、あからさまな作り笑いを見せた。

「おっとすまないな。坊主、腹減ってないか?」

 その表情に、不安がかきたてられたが、二日間歩きどおしの空腹には抗えない。


「うん」

「領主様の館で、食事が振舞われてる。この道をまっすぐ、広場を抜けた丘の一番上だ」

 男が指をさしたのは、先ほど若い男が走り去っていった方角であった。
 僕は、男に感謝を伝え妹を背負い館へと向かった。

 広場を抜けると、男の言ったとおりに館が見えた。なるほど、この街で一番高いところに領主さまは住んでいるらしい。

 石畳は緩やかな坂となっていき、妹を背負って館にたどり着くのにはかなりの時間を要した。
 登って来た坂道を振り返ると、街が夕焼けに赤く照らされている。
 その光景に、火に巻かれた故郷が重なった。 


 館の前には、大きな机がいくつも並べられ大勢の人が食事をとっている。

 驚くべきは、その料理の豪勢さだ。
 村では祭りの時でしか口にしたことの無い豚や羊が、ピカピカのソースで光り輝いている。
 別の皿には、山盛りの果実。まるで貴族の食卓だ。

 そして、その量の何たることか。
 皿が足りずに街中から集めたのだろう、銀食器と木の食器が不揃いに入り混じり所狭しと並べられ、その全てに山盛りの料理が載っている。
 その場に集まった人々だけでは、到底食べつくせる量ではない。


 しかし、一方で料理に向かう人々は一様に身一つで薄汚れている。
 美食とも呼べる料理と、みすぼらしい人々のその対照的な姿に違和感を禁じ得ない。
 おそらく、彼らは僕と同じく何処かの集落から、逃れてきた人たちなのであろう。

 自身の民ではない流民にまで、こんな素晴らしい食事を振るまうなんて。
 この街の領主さまは、料理に違わぬ素晴らしい考えを持ったお方に違いない。 

「おっと坊ちゃん、女の子はこっちで預かるよ」

 空いている席を探す僕に、給仕の服を着たふくよかな女の人が声をかけてきた。
 妹を渡すように言われ警戒をする僕に、女給仕は眠る妹を気遣ってか声を落として続けた。


「背負ったまんまじゃ食事もできないでしょ。使用人の部屋で寝かせておいてあげるから」

 僕は、妹を起こさぬようそっと女給仕に渡す。

「妹をよろしくお願いします」

 村を出てからずっと背負っていた妹から解放され、体がとても軽く感じられた。

 僕は、軽くなった体を慣らすように数度飛び跳ねてみる。
 すると、丁度よく隅っこに空いた席を見つけることができた。 

 そこは、4人掛けのテーブル席で既に二人の男が食事をとっていた。
 まん丸としたお腹を抱えた大食漢と、目つきの鋭い男だ。
 


 大食漢がその大きなお腹のせいか二人分の席を使っていたせいで、僕は少し気後れしながらも目の鋭い男の隣に腰をおろした。

 間近で見る料理は、圧巻の一言であった。
 僕の顔よりも大きいパンに、思わず声があがる。
 
 手元には、大量の料理の隙間を縫ってカトラリーが並べられていた。
 ナイフとフォーク、スプーン。
 ―――そして1枚の銅貨。

 僕は田舎者ではあるが、物を知らないわけでは無い。
 テーブルマナーだって、父から厳しく躾けられたものだ。
 カトラリーの扱いなら、知らないことなんてない。

 そんな僕でも、この1枚の銅貨の使い方には見当もつかなかった。



 空腹のあまり、街についてからのことはよく覚えていない。
 案内されるがままに、丘を登り、席につき、飯を喰らっていた。
 
 ふと我に返ると、いつのまにか隣の席にガキが座っていた。
 背の丈から見て齢は12か13といったところか。
 腰には、ガキには見合わない立派な剣が差さっている。
 断りもなく、勝手に座りやがって。しつけのなってない奴だ。

 一言、礼儀を教えてやろうかとガキに視線を向ける。
 すると、ガキは目を輝かせて銅貨に見入っていた。
 口に肉を運ぶのをやめ、目の前の皿を動かしてみる。
 なるほど、確かに俺の席にも一枚の銅貨が置かれている。


 ご馳走に気を取られて、今の今まで気づかなかった。
 この土地の慣習か何か知らないが、置いてあるのだから貰っておこう。
 俺は、ためらいなくそれを懐に納める。

「その金は、お館様からだ」

 目の前のデブが、銅貨の扱いに困っているガキに話しかけた。

「坊主は、一人でこの街に来たのかい?」

「両親は、魔物に襲われて死にました」  

「そうか……苦労をしたんだね。ほら遠慮せずいっぱいお食べ」


 領主のことを「お館さま」と呼び、食事を勧めるホストのような振る舞い。
 察するに、デブはこの館の人間だろう。
 しかし、どうして館の人間が俺達のような流れ者と席を同じくしている。
 周りを見渡しても、どいつもこいつも薄汚れて生気のない顔で飯を貪っている。

 魔物に追われ街にたどり着いた、ここにいるのはそういう連中ばかりのはずだ。 

 いや、そもそも、このご馳走は何なんだ。
 お貴族様が食べてそうな豪華な料理を、どうして流れ者に振舞える。

 そう考えると、机に無造作に置かれていた銅貨にも疑念が湧いてくる。 
 
 くそったれ。

 空腹のせいで回らなかった頭が、満たされた途端に不安を煽りだしやがった。
 喉が渇く。酒はないのか。 
 机に置かれた水差しからジョッキに注ぐ。
 一気に飲み干すが、中身は水であった。


「おいデブ! 酒はないのか?」

 デブは、目を細めこちらを睨みつけてきたが、悲しいかな少しも恐ろしくない。
 
「お館様のご指示だ。今宵の晩餐に、酒は供されない」

 今宵の晩餐と来やがった。
 その気取った言いぶりに、苛立ちが増す。 

「物見から早馬が来た」

 その声が、背後からかけられていなければ、俺はデブの鼻面を潰していたことだろう。
 静かながらも力のこもった声だった。
 振り返ると、青く染められたチュニックに妙に太い剣鞘を下げたブロンド髪の男が、居丈高に立っていた。
 


「月が出る頃には、魔物の軍勢は街を囲うだろう」

「お館様……」

 デブが、女のように震えた声をあげる。
 怖いのは、お館様か魔物の軍勢か。考えるまでもなく後者であろう。
 仲間を蹂躙された夜のことを思い起こす。
 あの筆舌尽くしがたい恐ろしさは、戦士を幼い少女に変えてもおかしくない。

「じゃあ、今晩は戦になるのですか?」

 ガキの物怖じしない問いかけ。

「私も飯がまだなのだ」

 それを無視して、領主は手を前後に振った。
 その所作に、デブが肩を縮こませ机の端に寄る。
 領主は、愉快げに頬を緩ませデブの隣に座った。


「さて、そこのお前」

 領主の青みがかった目が、俺の濁ったそれと交錯する。

「飯を喰らい、金を受け取ったな。ならばお前は、既に我が軍門だ」

 思わず息をのむ。
 ああ、結局そういうことなのだ。
 このご馳走と、一枚の銅貨は前払い金。

 俺の―――流れ者たちの命を、格安で買いたたいたわけだ。
 空腹と疲労の中で、誰がこの報酬を断れよう。
 たとえ、その代償に魔物を前に無惨にも命を散らすことになったとしても。
 


「悪いが、剣や槍は既に枯れた。だが、代わりになるものを用意した」

 領主が、テーブルナイフを握り俺の眉間に向ける。
 思わずギョッとするが、向けられているのは俺の頭の先だ。

 振り返り、テーブルナイフの先に視線を送る。
 無造作に置かれた樽から、長柄が幾本も伸びている。
 槍―――ではない。

 長柄の先についているのは、スコップでありフォークであり鍬の刃だ。
 領主の言葉通り、剣や槍の代用品。そこにあるのは、古びた農具ばかりであった。

「くそったれ」

 思わずついた悪態に、領主は眉一つ動かさなかった。
 ジョッキを握る手が震える。
 どうしてこうなった。どこで道を間違えた。
 自分自身に問いかけるが答えは返ってこない。


 くそ、酒が欲しい。この震えを止めるにはもうそれしかない。

「やります」

 幼く少し上ずった声に、隣を見上げる。
 立ち上がったガキが、拳を領主へと突き出していた。
 凛々しくも、未だ頼りないその姿を月明かりが照らす。 

「子供を戦に出すことはできん」

「しかし、僕はもう食事を口にし銅貨も貰い受けました」

 ガキが拳を開く。そこには、一枚の銅貨が載っていた。


 俺は、愕然としていた。
 どうしてそんな恐ろしいことが言える。
 魔物の恐ろしさは、お前だって知っているはずだ。

 親を殺されたんだろう?
 その場で抗うこともできず、無残に殺されることも拒んで。
 お前だって、どこぞの村から逃げてきたんだろう。
 
 なのになぜ。

「ならばそれは―――施しであって報酬ではない」

「でも」

 先ほどまで、どこか余裕を見せていた領主の表情が強張る。


「……領主さまが問題にしているのは、お前がまだガキだってことだ」 
 
 俺の言葉に、ガキが口を真一文字に結んだ。

 どうして俺は、領主に助け舟を出しているのだろうか。
 
「僕は、もう子供ではない」

「いやガキだね」

「違う」

「女だってまだ抱いたことねえだろ」

「女を抱いたことなら―――ある」

 デブと領主が、あっけにとられたのか口をポカンと開けたまま固まった。
 阿呆共が、ガキのたわごとに惑わされやがって。
 


「僕は、妹を抱いてこの街まで逃げてきたんだ」

 今度は、俺の開いた口がふさがらなかった。
 酷い誤解だ。まったく話が通じてねえ。
 やっぱりただのガキじゃねえか。

 だが、その強い眼差しに俺はもう何も言うことはできなくなっていた。
 こいつは、もう覚悟を決めている。何を言ったって聞きやしないだろう。

 冷たい風が、俺の頬を撫でた。
 手の震えはいつの間にか止まっていた。


 俺は無言で立ち上がり、後ろに置かれた樽に向かった。
 到底、武器とは呼べない農具の中からひざ丈ほどの棍棒を見つけ抜き取る。
 羊や豚を〆るのに使ったのだろう。
 棍棒には、既にいくつかの血のシミがついていた。

 机に戻ると、皆が俺の様子を訝しんでいるようであった。
 握っていた棍棒を、ガキへと放り投げる。
 ガキは、律儀にも棒を落とさぬよう両手で抱え込んだ。

 俺は、すかさずガキの腰から強引に剣を抜き取った。
 驚くガキを無視して、剣身を手のひらに載せじっくり検分する。

 錆もなく、よく手入れされた剣だった。
 刀身に残った曇りは、この剣が幾人もの血を吸ってきた証だ。
 文句なしにいい剣だ。だが、少し重い。
 

 
「これは俺が使う。お前はそっちの棒でも使っとけ」

「酷いじゃないか! それは、その子の剣だ」

 デブが、立ち上がり詰め寄ってくる。

「ガキにはもったいねえ剣だ」

「そんな盗賊みたいな真似をして!」

 デブの言葉に思わず吹き出す。
 侮辱のつもりだったのだろうが、それは俺には通じない。


「そうさ、俺は野盗さ! 東の山で野営を魔物に襲われ、仲間を全員失い、剣も具足も誇りも何もかもをかなぐり捨てて、街に流れてきた悪党だ!」

 横目にガキと領主を見る。事の成り行きをを見守っているのか、微動だにしない。

「俺を監獄にでも突っ込むか?」

「そんな話はしていない、その子に剣を返せと言っているんだ!」

 デブが、慣れない手つきで剣を抜いた。
 恐ろしく美しい刀身だった。
 ガキの剣とは比べ物にならない高級品だ。 


「善人ぶりやがって、てめえも盗人じゃねえか。その剣はどこで拾った!?」

「この剣は、お館様から預かったものだ!」

 領主に目を向けると、一切動じている様子はない。デブの言葉は真実なのだろう。
 口内に溜まった唾を吐き捨てる。

「いいぜかかってこい。お前を殺してその剣は俺が使ってやる。その剣なら、魔物を何体斬ったって刃こぼれ一つしないだろうよ」

「やめてください」

 ガキが、俺とデブの間に入ってきた。

「僕は、この棒で構いません」

 ガキの言葉に、デブが戸惑う。
 そして何事かを言おうとし、それをガキに再度止められた。


「僕に、その剣は重すぎる。父の形見なんです。大事に使ってください」

 ガキは、そう言うと腰に刺さったままの空の鞘を自ら俺に寄越してきた。
 俺は、それを受け取り剣を納める。
 ガキの目は、少しだけ涙に滲んでいた。
 柄にもなく罪悪感に沈みそうになる。

 結局、最後まで領主は一言も口を挟んでこなかった。
 止もせず、諫めもせず。何を考えていやがるのか、さっぱりわからねえ。
 
 だから俺は権力者ってやつが嫌いなんだ。
 心中を隠して、人を操ろうとするそのやり口。
 同じ人間とは、到底思えない。反吐が出るぜ。
 

 
 流れ者の命を使って、街を守るつもりだろうが。
 俺には、この街の為に命を捨てるつもりはねえ。

 だが―――この剣があれば俺はまた戦える。
 俺は何も言わずに、ガキとデブに背を向け街の広場へと歩をすすめた。

 ぬるい風が坂を駆け上がってくる。
 その風には、獣と鉄の臭いが微かにのっていた。



 あの盗賊は正しかった。

 僕は、この目で見た。
 魔物が、プレートアーマーごと人間の胴体を握りつぶすのを。
 魔物の皮膚が、ツヴァイヘンダ―を生身で弾き返したのを。
 あんな化け物共とまともに剣を交えてはならない。

 
 幸いにも多くの魔物は、その巨体のせいか俊敏とは言えない。
 ならば壁を背に、地面を背に、魔物の攻撃を誘い、躱し、その間隙を打つだけだ。
 それも、ひたすらに急所のみを狙って。

 どうせ、僕の力じゃ大したダメージは与えられない。
 だけど、魔物の意識を一瞬だけ刈り取れれば。
 あるいは、僕に煩わしい羽虫程度の意識を向けさせることができれば。
 きっと、僕以外の他の誰かが、その剣を魔物の喉に突き立ててくれるかもしれない。

 だったら、重い剣なんか必要ない。 
 僕には、この軽い棍棒で十分だ。


 正門は既に破られ、多くの魔物が門に殺到してきている。
 当初、大通りには街の衛兵や騎士で構成された本隊が陣取り、僕を含む流民の即席戦士団は道の両脇、並ぶ建屋の路地に配置されていた。
 魔物の勢いを正規兵が受け止め、その横っ腹を僕たちが突くという作戦だ。

 この用兵は、父上に教わったことがある。
 門が早々に破られることを見越した、敵を引き入れての包囲殲滅だ。
 陣も組まず、ただまっすぐに突き進んでくる魔物の様子を考えれば効果的な作戦だ。
 だけど、そううまくはいかなかった。


 門を破った一つ目の巨人が、勢いそのままに僕の棍棒の何十倍もある丸太を振るったのだ。
 その一薙ぎは、大通りを塞いでいた本隊前衛を文字通りひき潰してみせた。
 魔物の前衛を食い止めるはずだった、その大半の兵を、一薙ぎで。
 あまりの光景に、僕はごくりと唾を呑みこんだ。


 十分に、魔物を引き入れてから鳴るはずだった突撃のラッパが響き渡る。
 魔物の前進を止めることはできない。本隊の指揮官は、そう判断したのだろう。
 もしかすると本隊を一度退かせるために、僕達を魔物にけしかけたのかもしれない。

 僕は今更、僕達が後退の合図を知らされていないことに気が付いた。 
 鳴り響くラッパに、流民の虚勢をのせて地獄のような乱戦の幕開けだ。



 あいつを倒せば、まだ本隊を建て直せるかもしれない。
 淡い希望を胸に、僕は一つ目の巨人に向かって駆け出した。

 短い棍棒でできることは、限られている。
 選択肢が少ない分、迷う時間は刹那で済んだ。
 懐に飛び込み、急所を潰す。


 一つ目の巨人の大きな瞳が、天上に達した月を映し出している。
 魔物の急所が、人間と同じとは限らないが人の形をしているのだ、潰れぬ目があるはずもない。
 しかし、巨人の背丈は建屋の屋根程もある。
 明らかな弱点ではあるが、あの大きな目玉に僕の棍棒は届かない。
 ならば、どうするか。狙うべき急所は、腰下のそれだ。



 剣の扱いは、父上にならった。
 農閑期、日がな一日木刀を振り続け手の豆を潰す日もあった。
 父上は、暮らしの助けとなるとは思えない知識や技術を僕に厳しく仕込んだ。
 それは剣に限らず、礼儀作法、文の書き方、馬術、用兵術。
 そして、何より「正しい」生き様。 


 それらは、麦を刈り森と共に生きる一介の農民には不要なものだ。 
 僕と父の関係も、農家の親子というよりは師と弟子に近いものだった。
 それもあってか僕の家は、村の中でもかなり浮いた存在だったように思う。
 父上は、他の家と交わることを避けていたし、それどころか父上の村人との接し方はどこか尊大に見えることすらあった。

 とある夕暮れ、台所でウサギを煮込む母に父の生い立ちを聞いてみた。
 僕には、父上の立ち振る舞いと、この穏やかな村がどうしても結びつけられなかったからだ。


 母はしばらくためらったが、遂に白状した。
 曰く、父はアコレードを受けるほどの名家の出自であった。
 だが、その後どういう経緯で、この村にたどり着いたかまでは終ぞ教えてくれなかった。

 実直な母が、僕をからかって嘘をつくとは思えない。
 しかし、農民の子として生きてきた僕にとって、それはあまりに突拍子のない話で。
 母の話を、素直に信じられなかった僕は、割り切れない気持ち悪さを抱えることとなった。

 あの日、あの剣を見つけるまでは。


 夕食時、家のドアがドンと大きく叩かれた。
 戸口にたった母が、ドアを開ける。立っていたのは、灰色の肌で猪の頭を持った悪魔。
 僕は、それが何者なのかを知っていた。父の蔵書、古き英雄誌に出てくるカインの末裔オークだ。
 
 オークは、驚き固まってしまった母の両肩をつかむと左右二つに引き裂いた。
 妹が金切り声を、父が怒号をあげ棚に置かれた鉈を手に立ち上がる。
 僕は、気を失い椅子から転げ落ちそうになった妹を抱えベットの下に滑り込んだ。
 

 
 ベットの下で、僕は必至に息を殺し震えた。
 母が、人が、いとも簡単に、想像を超えた最期を迎えるのを目にして。
 湧き上がったのは怒りでも、悲しさでもなく初めて見る魔物への恐怖であった。 

 家の中で、父上の雄叫びとかち合う金属音が鳴り響く。
 父上が真っ先に立ちふさがったおかげで、オークからは僕達が潜む姿は見えていなかっただろう。
 僕は、妹が目を覚まさぬよう、その耳と目を両腕で覆った。
 すると、人肌の温もりのおかげか、僕の震えは少しだけ収まった。


 ふと、肩に何かが当たっていることに気付き、僕は薄暗がりに目を凝らす。
 それは、僕らの質素な暮らしには不相応に立派な剣だった。

 鞘には銀であしらった鷲が、鍔にはアザミの紋章が刻まれている。  
  
「父上は、王都を守る騎士様だったのよ」


 母の言葉が、蘇る。

 僕はようやく、それが真実であると吞み込むことができた。
 そうでなければ、たかが農民が、あのように恐ろしい悪魔に立ち向かえるはずがない。


 そして、父上は、僕を農家の子としてではなく騎士の子として育てようとしていたに違いない。
 父上が口を酸っぱくして僕に説き聞かせた、「正しい」生き様とは「騎士道」のことなのだ。

 ドスンと、大きなものが倒れる音を全身で感じた。
 ベットの外に目をやると、床にうつ伏せとなって倒れた父上と目が合った。
 父上の右肩からは、先ほどまで握っていたはずの鉈の柄が生えている。 
 目を大きく見開き、父上は僕に向かって手を伸ばす。


 父上の口が、微かに動いた。
 だが出てくるのは、赤い泡ばかりで声になっていない。
 いや、父上は声にならずとも僕に何か伝えようとしているのだ。
 僕は、父上の口の動きに意識を尖らせた。

「た」「す」「け」「ろ」

 僕は、息をのんだ。
 「たすけろ」。それが、父上の最期の言葉であることは明らかであった。
 僕は、回らぬ頭で父上の言葉の意味を必至で考えた。
 騎士道を修めた父上が、僕なんかに助けを乞うはずがない。
 

 
 思い浮かぶのは、父上との厳しい鍛錬の日々であった。
 雨の日も、風の日も、嵐の日もたゆまず続けられた父上の指導。 
 幼い頃より、繰り返し言い聞かされた「正しい生き様」。
 そう「騎士道」だ。

 僕は、父上の目をまっすぐに見て、そして頷いて見せた。

「妹は、必ず僕が助けてみせます」


 声は出さずとも、僕の決意は必ず父上にも伝わったはずだ。
 父上の瞳が、少し揺らぎ、滲み、そして光を失った。 

 僕は、魔物の気配が消えるのを待ってからベットの下から這い出した。
 家を出ると、村のあちらこちらから火の手があがり、人々の悲鳴が響き渡っている。
 そして僕は、未だ目を覚まさぬ妹を抱え村を背に走り出した。

 僕は、愚かで臆病な男であった。




 巨人の振るう丸太を、体を低くして躱し、僕は巨人の股座に棍棒を叩きつけた。
 低い唸り声をあげ巨人は、思わず膝をつく。
 頭が下がった。その大きな瞳を潰すには絶好のチャンスだ。

 しかし、僕はそれを無視して別の魔物に向かって駆けた。
 この棍棒じゃ、短すぎて巨人その脳髄にまでは達せないかもしれない。
 ならば、留めは後ろに続く誰かに託して僕は他にやれることをやるだけだ。


 背後から、歓声があがる。
 見知らぬ誰かが僕の期待に応えてくれたに違いない。
 僕は、僕の選択が正しかったことに胸を撫でおろした。



 少年にとって、これほどまで寝覚めの悪い朝は生まれてこのかた一度としてなかった。
 硬く冷たい石畳を頬で感じ、鼻の奥を血の臭いがつんざく。
 日の出前の静けさと、痛々しいまでの冷気が少年の鈍い意識を無理やりに目覚めさせた。

 少年が、気を失っている間に戦は終わってしまったらしい。
 頭を打ったか、あるいは疲労の果てに倒れたか。
 少年の体に痛みはなかった、ならば後者なのであろう。

  
 鉄の臭いに紛れ、どこからか肉の焼ける香りが漂ってきた。
 在りし日の母の後ろ姿を少年は思い起こすが、そんな穏やかな朝を迎えられるはずもない。

 ならば、焼けた肉の香りは―――いったいどこから。

 少年は、すぐに体を起こすことはせず息を潜め周囲を伺った。
 空は陰り月明かりもない、闇と静けさに包まれた街に魔物の息遣いは感じられない。
 危険はなさそうだと、ゆっくり立ち上がる。


「そこにいるのは誰だ」

 ふいに、掛けられた声に少年の小さい体がビクリと跳ね上がった。
 慌てて声の方を振り向くも、街は闇に包まれている。
 声の主は、黒い影の塊にしか見えなかった。

 だが、姿が見えずとも、その声には聞き覚えがあった。 

「ご無事だったんですね領主さま」

「君か……」

 領主は、少年を軽くあしらい街の広場へと歩を進める。
 しかし、その足取りは酷く重い。もしかすると、怪我しているのかもしれない。
 その身を案じ、少年は領主の後に続くことにした。


 大通りを静かに進む。
 気配こそ感じられないが、そこかしこに人間大の影の塊が横たわっている。
 漂う血の臭いに、それが何であるかは言うに及ばないであろう。
 願わくば、その幾分かでも魔物のものであったのならば。

 辿り着いた街の広場では、火がごうごうと燃え盛っていた。
 夜陰の中、唯一見えた灯に少年は胸を撫でおろした。

 だが、くべられているのものが薪ではないことに気付いた時、少年の心は大きく揺らいだ。
 肉の焼ける匂いの出どころは、この広場であった。


 焚かれた炎の中には、戦士たちの亡骸で小山ができている。
 火に巻かれながらも小山が崩れずにあるのは、彼らがプレートアーマーを着込んでいたからであろう。
 その亡骸の多くは、正門前から前線を押し込まれた正規兵たちであった。

 小山の頂きには磔台が築かれている。括られているのは一際体の大きな男。
 既に長い時間、火に炙られたせいか皮膚は黒く焦げ落ち、人別は最早つかない。
 あまりの惨状に、少年は瞬きも呼吸すらも忘れて立ち尽くすしかなかった。

「肉包丁を握っていれば、領主と間違われることもなかったであろうに」

 領主の口ぶりは、磔にされた男が何者であるかわかっているかのようであった。


「早く火を消して弔ってさしあげましょう」

「ならぬ」

 少年の提案に、領主はにべもなく答えた。少年は、領主の顔を強く睨みつけた。
 街の為に力を尽くした戦士たちを、火に弄ばされるままにしておくことを、少年のまっすぐな心は許せるはずがなかった。

「このまま燃やしてしまった方が良い」

 領主は、誰ともなしに念押しをするかのように言った。
 揺らめく炎に照らされたその顔は、青白く生気がない。まるで死者のそれだ。
 よもや、領主様は正気を失っているのではなかろうかと、少年は疑った。

「なぜ―――」

「死体は病を呼び込む。魔物の次は病が街を襲うことになる」


 領主の言葉に、少年は病に倒れる妹の姿を想像した。

 そして、少年は自身の浅はかさを恥じた。反目する前に、その言葉の意味を熟慮するべきであったと。 
 
 領主は、口をつぐんだ少年を気にも留めず、落ちていた松明に火を灯した。

 その濁った瞳孔は、小高い丘の上に立つ領主の館に向いていた。

 傾斜のついた石畳を、二人は静かに登って行く。
 館が近づくにつれ、領主の足取りはますます重くなっていった。


 少年が無言で肩を貸すと、領主は一言「すまない」と呟いた。
 戦火は広場から先には及んでいなかったようで、道端の家々に荒らされた様子はない。
 
 だが、その平穏も僅かな間しか続かなかった。

 閑静な石畳に、異形の死体が転がり始めたのだ。
 それも、どういうわけか魔物たちは一様に館に背を向け倒れている。
 その姿は、まるで街から逃げ出そうとしたかのようであった。


 領主が、一体の魔物の亡骸に松明を近づける。
 狼の頭をもちながら、二本の後ろ足だけで歩いていた魔物だ。
 その大きな目を極限にまで見開き、口からは泡をあふれさせ、尋常ならざる形相で息絶えている。

 魔物たちの亡骸は、館に近づくほどその数を増やしていった。
 一方、街の戦士たちのそれは一向に見受けられない。
 では、魔物たちはいったい何と戦い死んだのだ。

 館にたどり着くと、その有様は道中と比べようもないほどに酷いものであった。
 食卓に並べられた絢爛豪華な料理に、魔物たちが突っ伏しその腹の中身をぶちまけている。
 血と強い酸の入り混じった匂いに、少年は思わずえづいた。


 そんな少年をしり目に、領主はくつくつと笑い始めた。
 魔物たちの作り上げた地獄を眺め愉快に笑うその姿は、おとぎ話で知る邪悪な魔王そのものであった。

「いったい、何を為されたのですか」

「残った料理に、毒を盛った」


 少年の脳裏に、昨夜の豪勢な晩餐がよぎる。
 人々に食べ尽くしようがない大量の料理。
 その残された皿の処遇に、わずかながらの罪悪感を抱いたが。
 領主が、それを無駄にすることは無かったのだ。

 戦の後、広げられた豪華な料理を前に魔物たちは一体どうするであろうか。
 そんなことは、考える間でもなく明らかであった。領主は、そこに一計を案じたのだ。

「襲われた村々を見て思いついた。奴らは、糧秣も持たずに侵攻を続けていたからな」

「……魔物たちは毒で全滅したのでしょうか」

「そこまで愚かでもあるまい。生き残りは散ったか、あるいは他の街へ向かったか」


「妹を探してきます」

 館のあまりの惨状に、少年の不安が搔き立てられる。
 館には、少年の妹が預けられていたはずだ。
 戦の前に、穏やかに眠り続けるその顔を覗き見たのが最後であった。

「まあ待て」

 勇む少年を、領主が手で制する。

「女子供は、枯れた水路から街の外に逃がした。追うにしても準備が必要だ」
 
 領主は、逡巡の後、続けて言った。


「一先ず―――金が要る。死体の懐を漁ってこい」
 
 領主のあまりに人道に反した言葉に、少年は戸惑いを見せた。
 それは、少年の知る「正しい生き様」からかけ離れた行いだ。

 だが、先ほどの反省から少年は不用意に意見を口にすることを抑えた。
 そこには、少年には思い至らぬ何らかの「正しさ」があるのかもしれないと。

 一人館を離れ、坂を下る。広場の遺体は、燃え盛る炎の中だ。
 到底、懐を漁ることなどできない。
 ならば、戻るべきは街の正門。最も過酷であった戦場だ。


 少年が正門にたどり着くころには、東の空が薄明るくなってきていた。 
 影の塊にしか見えなかった数多の遺体が、その姿を明らかにされる。
 人、人、人、人、大勢の戦士達。そして、僅かながらの魔物。
 
 ひときわ目立つのは、一つ目の巨人の亡骸だ。
 昨晩、少年が金的を潰した魔物である。
 少年が恐る恐る近づくも、息は完全に途絶えていた。

 意外であったのは、巨人の瞳が傷一つなく残っていたことだ。
 膝を屈した巨人のどこを狙うかとすれば、その巨大な瞳だと少年は考えたが。
 巨人の命を奪ったのは、その太い首を3分の1ほど切り裂いた太刀筋であった。


 少年は、巨人の隣にうつ伏せに倒れている男を見つけた。
 どこか、見覚えのある背中であった。

 少年は、意を決して男の体をひっくり返す。
 男の顔は、元の大きさの半分ほどにひしゃげていて人別はつかない。
 だが、その男の手に握られている剣は少年の父親のものであった。
 
 少年は、思わず剣に手を伸ばした。
 しかし、男の拳は強く握られていて剣を一向に放そうとしない。
 無理やりに手を開かせようとしたところで、少年は我に返った。
 死体が握る剣を奪わんとする、自身のその姿は。
 少年の思い描く「正しい生き様」から遠く離れたものであったからだ。


「まずは、領主さまの指示に従おう…」 

 少年は、自分自身に言い聞かせ深く息を吐いた。

「この行いにもきっと理由があるんだ」

 男の懐に、手を伸ばす。その体は、既に冷え切り固くなっていた。
 あるはずの人肌が持つ温かみ、それがないことが男の死を明確に告げている。

 メノウの釦に果実の種、教会のシンボルを模した木端。
 男の懐には、碌なものが入っていなかった。
 唯一、金目の物と言ったら昨夜配られた1枚の銅貨ぐらいのものだ。


 銅貨を前に、少年の手が止まる。少年の良心が止めさせたのだ。
 これまで、多少の間違いはあれど少年は正しいと信じる道を生きてきた。
 人として、踏み越えてはならぬ境を超えたことはなかったはずだ。

 最後の一線を前に、少年の足は完全に動きを止めてしまっていた。

 ふと、東の山より登った朝日が少年の目を眩ました。
 少年の心情など歯牙にもかけず、太陽は一日の始まりを無情にも告げてくる。

 日の光は、正門前に広がる昨夜の惨状を明るく照らしだしていった。
 ほどかれた闇の中から、一目には数えきれないほどの骸が現れた。
 その手足は千切られ、腹は食い荒らされ、流れ出た血は乾き石畳を黒く染めている。 


 戦の有様なんてものではない。
 これは、魔物にとっての晩餐の果てだ。 

 少年は、痛感した。
 正しくあったはずの男も、そうでない男も。
 ここではみな等しく屍となった。
 「正しさ」は、この戦場において何の意味をも為していない。

 喉から声にならない声が漏れた。
 目から拭いきれない涙が零れ落ちた。
 少年の良心は、その小さき体から溢れる嗚咽と共にガラガラと崩れ落ちていった。


 世に「正しさ」などはない。
 その果てに残されるのは、屍と死体漁りだけ。

 この世界に救いはない。
 この世界に神はいない。

 父の最期の姿を思い出す。
 あの手が求めたのは、剣であった。
 あの目が訴えかけたのは、懇願であった。
 父のあの言葉は。 


 僕は、「正しく」ありたかっただけで「正しく」などなかった。
 そして、それすらも無意味であることを僕は知ってしまった。

 だから、父の剣はもう必要ない。

 ただ、銅貨だけをもらっていこう。



「こんなに絢爛な食卓は、我が一族始まって以来だな料理長」

 厨房に溢れかえる料理人と食材をかき分け、御屋形様は私のもとまでやってきてそう言った。

「朝から作り続けてもうくたくたですよ」

 実際、次から次へと運び込まれてくる食材を片っ端から料理にしてきて数刻が経っている。
 人出は圧倒的に足りず、庭師や家政婦にまで鍋を振るわせている状況であった。 

「とにかく、ありったけを飯にしてくれ」


 当初こそ、戦を前に男たちによりよい飯を食わせたいという御屋形様の心遣いかと思ったが。
 それにしても度が過ぎている。とてもこの街の者だけで食べつくせる量ではない。
 街中から食材を集め、いったい御屋形様は何を考えておられるのか。

「ところで、話は聞いているか?」

「ええ、まあ……」


 話と言うのは、戦のことだ。人手が足りぬのは厨房に限ったことでは無いようで。
 先ほど、防壁の中に居る全ての男たちへ召集がかかったのだ。
 だが、私は決して戦に出るのを恐れているわけでは無い。
 男に生まれた以上、戦いに赴くのは義務だ。誉だ。

 
 それよりも問題は―――。 

「御屋形様、どうかこれだけは勘弁なりませんか」

 突き出した右手には、長年料理長に受け継がれてきた肉切り包丁が握られている。


「ならぬ」

 御屋形様の揺るぎない言葉に、私は諦念の息を吐いた。
 足らぬのは戦士だけではなく、その武具の数にもあった。
 館に備えてあった武具は、襲われた村々から流れてきた者たちに配られ既に底をついた。
 そのため、この厨房にある刃物すら武器として供出するようお触れが出されたのだ。
 
「私は、これで魔物を切りたくない」

「ならば、誰かに渡せばよい」

「だけど、見知らぬ誰かにこれを渡したくないのです」


 我儘を言っている自覚はある。だが、どうしても自身の中で折り合いがつかないのだ。
 私の言葉に、御屋形様はしばし目を閉じ思案を巡らせている様子であった。

「見知らぬ誰かで無ければよいのだな。ならばそれは私が振るおう」

「……いや、しかし」

「おっと、そうなるとお前が空手で戦うことになるな」


 御屋形様は、腰に差された剣をスッと抜き柄を私の面前に突き出した。
 美しい刀身には、戸惑う私の膨れた顔がきれいに映し出されている。

「我が家の宝剣だ。ちゃんと返せよ」

 私は震える手で、御屋形様の剣を恭しく受け取った。
 そのような貴重な剣を差し出されては、最早断る術は無いではないか。

「永らく使われてなかった剣だ。肉切り包丁の方が切れ味は良いかもしれんぞ」

 御屋形様は、私の肩をバシバシと叩きながら豪快に声を上げて笑った。


 
 僅かな時間、眠ってしまっていたようだ。
 いつの間にか、夜が明け朝を迎えていた。

「領主さま、集めて参りました」

 目を腫らして帰って来た少年に、口元が少しだけ緩む。
 瓦礫に背を預け、一見すると悠々として見せてはいるが、もはや立ち上がる力もない。

「どれほどだ」 

「銅貨が50枚ほど」


 安物の剣が、一本買えるかどうかの金額だ。 
 しかし、これ以上は望めまい。

「女子供は北の集落に逃した。お前の妹もいるやもしれん」

 少年は、その言葉に北へと目を向けた。

「その金を持って行け」

「領主さまは?」

 子供を戦場に出した負い目からか、この少年には辛くあたっていた。
 にもかかわらず、この少年は常に私の身を気遣っている。


「生き残りを探す。毒のことを、皆に伝えねばならんしな」

 嘘だ。
 もはや、そんな余力はない。
 だが、そうでも言わなければこの少年は。

 戸惑う少年に、私は追い払うように手を振った。
 少年はしばしの逡巡の後、礼儀正しく一礼し北へと体を向ける。


 遠ざかる少年から、ひと時も目を逸らせなかった。
 ひのきの棒を腰に差し、懐には僅かな銅貨を忍ばせ、街から一人の若者が旅立っていく。

 私は、幸運であった。
 最期に、彼を見送ることができたのだから。
 そうでなければ、街を守ることのできなかった不甲斐なさに苛まれ、苦しみながら神に召されることになっていたであろう。


 視界がかすみ、もう少年の姿は見えない。
 願わくば、彼の妹、そしてその旅路が無事であらんことを。

 薄れゆく意識の中。 
 どこからか、声をかけられた気がした。
 



 少年は、森に入る直前で足を止めた。
 その背に、街からの見送りの視線を感じたからだ。
 少年は、街を振り返り大きく右手を振って声を上げた。

「行ってきまあす」

 街からは既に遠く離れ、もはや誰にも見えるはずもなく届くはずもない。
 しかし、少年はそうせずにはいられなかった。

 そして、その新たな勇者の旅立ちの姿はきっと。

はじまりはじまり

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