ネイチャさんの商店街メシ (29)


ウマ娘SSです。
一応、地の文形式。



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 モノレールはビル群をゆっくりと縫って進み、ナイスネイチャが目的とする駅に到着した。

「それじゃトレーナーさん、14時に小倉駅だね」

「うん。ネイチャ、ごめんな? せっかく前から約束してたのに……」

「大丈夫ですよ。それより、トレーナーさんもしっかりお仕事頑張って来てくださいな」

「ああ。ネイチャこそ、楽しんで」

 ネイチャはホームに降り立ち、笑顔を取り繕ってトレーナーを見送った。彼はこのままモノレールに乗り、小倉レース場まで行く。

「はあ……」

 彼を乗せた列車が見えなくなると、ネイチャは肩を落とし、溜息を吐いた。

 ネイチャとトレーナーは小倉に来ていた。


 トゥインクルシリーズで結果を残し、デビューしてからの最初の三年間を、ネイチャはトレーナーと共に乗り切った。シリーズ通じて強敵相手に善戦を繰り返していたが、昨年のシニア級では年末のグランプリでトウカイテイオーに競り勝ち、ナイスネイチャは初めてG1を制覇した。その勢いのまま、URAファイナルズも勝利し、彼女自身も出来すぎだと思う三年間を過ごした。今年からはドリームトロフィーリーグに参戦し、夏は優勝とはいかなかったが、強豪ひしめくなか掲示板に載るなど、着実に結果を残している。

 今回ネイチャとそのトレーナーが小倉に来たのはトークイベントのためであった。クラシック級の夏、力をつけ、初めて重賞を制覇した地でもある。ネイチャにとっては、ファンに愛され、支えられることの大切さを改めて知った地でもあった。

 トークイベントは前日、小倉レース場で行われた。ネイチャを一目見ようと大勢の人が詰めかけ、イベントは大盛況に終わった。


 本来であれば、今日はネイチャもトレーナーもオフであり、昼過ぎの新幹線に乗るまでは時間が空いていた。そこで、以前お世話になった商店街をもう一度巡ってみようかと二人で話し合っていた。ところで、これはデートではない。そうネイチャは心の中で強く断言していた。

 しかし、彼はトークイベント後、小倉にいる見習いや若手のトレーナーに特別講義を翌日してほしい、と依頼を受けた。トゥインクルシリーズで活躍したウマ娘を育てたトレーナーであり、彼の手腕が注目されるのは当然でもあった。だが、翌日はネイチャと二人で商店街に行く約束である。

 どうするのだろうかとネイチャが注意深く耳をそばだてていると、

「ええ、もちろんいいですよ」

 とトレーナーは二つ返事で快諾した。


 それから彼は特別講義についての打ち合わせを早速し始めた。しばらく話し込み、おおよその段取りを決めた後、ネイチャの方を振り返って彼女のツンとした表情を見たとき、彼は翌日に何をするはずだったのか、すべてを思い出した。

 彼の人柄の良さは、ネイチャ自身もよく理解している魅力ではあったが……。

「トレーナーさんの、ばか」

 とネイチャは自分にだけ聞こえるよう呟いた。

 俺にとってはネイチャが一番だとか、今は君の活躍が一番だとか、君が好きだからとか、思わせぶりなことばかりアタシに言うけど、そうですよねそうですよね、トレーナーさんはそんなお人でしたね知ってましたとも、とその晩夕飯を食べる間もネイチャは拗ねっぱなしで、トレーナーは頑張って宥めすかしたのであった。


・・・・・・・・・・・


 ひゅうっと吹いた風がネイチャの意識を現在に引き戻す。こうして結局、彼女は一人で商店街巡りをすることになった。

 足取りは少しばかり重いのは、彼がいない寂しさが表れたためであろうか。

 ホームから階段を降り、改札を抜けてさらに地上へと降りる。通りへ出ると、枯葉が舞い、冷えた秋風がネイチャの頬に当たった。雲も少なく太陽も燦々と道や建物を照らしているが、空気は冬の訪れをしっかりと伝えている。北西が響灘に面する小倉の街は、冬になると強い風が通り抜けていく。これよりも冷え切った真冬のなか、小倉では競馬が開催される。ネイチャが走ったのは地面に陽炎ゆらめく夏の盛りであったが、なるほど冬の小倉もこれまた過酷であろうと彼女は思った。

 目的地は駅から降りて目の前にある。モノレールも中央を走り、車も多く行きかう大きな通りだが、右には小さく口を開けた商店街が横に細く伸びている。入り口には、降り立ったモノレールの駅名と同じ地名と市場の文字。アーケードになっているが、中がほの暗く、洞窟に入るような心地になる。今回ネイチャが訪れたのは、この商店街である。


 商店街の中に入ると、外の印象と打って変わって、熱気と活気に満ち溢れていた。しかし、道幅が狭い商店街である。その狭さたるや、歩いてすれ違う時に肩をぶつけないよう注意しなければならない。その小道の両側で店がひしめく様子は壮観である。以前、初めてこの場所を訪れたネイチャはその光景に圧倒されたが、久々にやって来ると改めて驚かされる。

 大正時代から起源をもつ古い商店街である。店舗の多くが戦後に建てられ、その古さがこの商店街の独特の雰囲気を形成しており、ネイチャは初めて訪れたときからこのノスタルジックな雰囲気を気に入った。

 さらに、通路を挟んだ一方の建物群に至っては、商店街に沿って流れる川にせり出して建っている。川面からコンクリートの柱が無数に伸び、その上に建てられた商店街の外観は異様ではあるが、壮観である。

 しかし、建物の老朽化が進んでいることから、商店街を建て替える再開発の計画が決まったそうだ。郷愁誘う商店街の雰囲気が失われるのは寂しさも覚えるが、数年前に豪雨被害を受けたことも、建て替える理由の一つらしい。これからも商店街が生きていくためには必要な変化なのだろう。


 この商店街が取り扱っているのはほぼすべてが食品であり、それゆえ、この商店街は「北九州の台所」とも称される。市民の大事な食卓を囲うのみならず、市内の老舗の料亭もこぞってここを訪ねて食材を買い付けに来るそうだ。

 特に魚のモノのよさは目を見張るものがある。瀬戸内と日本海の両面に接する北九州は、言わずと知れた魚の宝庫であり、その種類といい鮮度といい申し分ない。サワラやカマス、サバといった旬の魚が、まるで生きているかのような澄んだ目をして氷の上に陳列されている。

 相変わらずいいもの置いてるなあと感心していると、ネイチャは魚屋の店主に話しかけられた。

「おーっ、ねーちゃんじゃねえかぁ! 元気だったかい!」


「ありゃ。おじさん、お久しぶりです。ええ、ご覧の通り元気ですよ。おじさんはどう?」

「こっちも見ての通りよ! ……そういえば、小倉に何しに来とん? レースは今やっちょらんやろ?」

「何しにってそりゃ、ねーちゃん昨日イベントで小倉のレース場おったもんね?」

「あら、おばさんもお久しぶ……ってみんなっ!?」

 魚屋の店主の通った声が市場に響いたおかげで、周りの店にいた人々が一斉にネイチャのもとへ集まってきた。

「あれっ、ねーちゃん、今日は旦那はおらんのかい?」

 花屋の女性がネイチャに尋ねた。

「あらホントやね。いつも旦那さんと二人で来とったやろ?」

 何故かこの商店街でも、彼女のトレーナーは「旦那」で通っているらしい。


「旦那じゃなくてトレーナーさんね。今日は仕事で小倉レース場なんです」

「かーっ。こんな遠い場所でこんな別嬪なねーちゃん置いて仕事っちゃア、いけん男やなあ」

 魚屋はため息をついて肩をすくめる。

 そうだそうだ、とネイチャは心のなかで頷いた。

「それじゃあ、今日は何しに? 探し物?」

「いやあ、小倉は久々だったから、ちょっと寄りたくてね。それに、いつもレース前に連絡くれたりしてたから、そのお礼にも行きたいな、と思って」

「なあに、水臭いこと言ってんじゃないよ。ったく、泣かせるなあ。俺たちはねーちゃんから見返りが欲しくて応援したわけじゃねえ」

「そうよ、みんなねーちゃんのこと応援したいと思ったけ、応援したんやから」

 おう、そうだ、と周りから声が聞こえる。

 「みんな……ありがとね。ううん、ありがとうございます」

 ネイチャは胸が熱くなりながら、深々と頭を下げた。


「ったく、しんみりしていけんな。……おお、そうだ。ねーちゃん、『例の』ポスターも、ばっちり貼っちょるよ」

「ポスター?」

 何の話だろうかとネイチャは目をしばたたかせた。

「何って、あら、旦那から聞いちょらんのか? うちの商店街の広告にねーちゃん使わせてもらってるって」

 魚屋は柱に張り付けたポスターを指さした。

「いや、アタシはそんな話……って、ちょっとぉ!?」

 ポスターにはネイチャの姿が大きく映っていた。そして、何よりネイチャを狼狽えさせたのは、ライブで投げキッスをした瞬間の写真を使われていることだった。おそらく、URAファイナルズ優勝後のウイニングライブでのものだろう。



「こ、これは……?」

 顔を赤らめながらネイチャは尋ねた。

「良いポスターやろ? ねーちゃんの旦那にこの前頼んだら、作ってくれたんよ」

 右下にはトレセン学園とURAのマークもついている。しっかりと公式のお墨付きだ。

 ネイチャは頭を抱えると、トレードマークのツインテールがモフモフと揺れた。

「このポスター人気でなあ、この辺りの商店街は大体貼られちょる」

「えっ」

「そしたらこの前、別の街の商店街の関係者もねーちゃんのポスター見て、『こりゃいい。ウチにも貼らせてくれんか』って問い合わせてきてな。話によると全国の商店街共通のポスターにしようかって話が進んどるとか……」

「だああぁぁ!! それはだめえぇ!!!」

 ネイチャの叫びは市場中に響きわたった。


・・・・・・・・・・


「はあ……」

 ネイチャは大きく息を吐いた。

 その溜息は、駅に着いてトレーナーと離れたときのものとは異なっていた。

 その後も市場を歩いていると、声をかけられては同じやり取りを繰り返した。無論、ポスターについても話題になった。事情を知らぬ無垢な店の人々は、嬉々としてネイチャの可愛らしい姿が大きく映ったポスターを彼女に指し示す。嬉しくもあるが、ネイチャにとっては恥ずかしさの方が十二分に勝った。当たり前だが、商店街の人々には罪はない。咎を受けるべきは、彼女に何も知らせず、あのような恥ずかしいポスターを作ったあの男である。

「トレーナーさん、後で会ったら……」

 すぐにでも責め立てたいが、彼は少し離れたレース場で教鞭をとっている。ネイチャは虫の居所が悪かった。


 だが、その虫はどうやら腹に移動したようである。ぎゅる、とネイチャの腹が鳴った。まだ正午を迎えるには十分に時間があったが、恥ずかしさから何度も声を上げたおかげで、エネルギーをつい消費したようであった。

 多くの商店街は、定食屋や喫茶店、ラーメン店や居酒屋といった飲食店がある。一方で、この商店街は飲食の専門店という体裁の店は少なく、魚屋や総菜屋が丼モノや定食を提供するといった形式の店が多い。さらには、商店街の中には近くの公立大学が開放するスペースがあり、そこでご飯が盛られた丼を買い、店々の食材を少しずつ購入しながら自分オリジナルの丼を作るというユニークなものもある。

 ネイチャは何を食べようかと考えながら商店街を歩いていると、ある店舗に目が留まった。ネイチャが入ってきた方とは逆の、商店街の出口に近いところに構えた、この商店街では珍しく暖簾や戸で仕切られ飲食店の風采をした店である。隣には、唐揚げや焼き鳥串がショーケースに並んで売られていることから、鶏肉専門の総菜屋が開いているお店なのだろう。

「『トリカツ丼』、かあ……」


 紺の暖簾に白抜きで書かれた五文字と、卵でとじたカツのイラストを描く立て看板がネイチャを誘った。トレーナーへすぐに仕返しできないフラストレーションを昇華したいという気持ちもあったのか、彼女は食べ応えのあるモノを食べたかった。そこに、油っ気のある香ばしい匂いが漂うと、ネイチャの気持ちを一層誘った。

 ネイチャは暖簾をくぐり、木戸をガラガラと引いて中へ入った。

「いらっしゃい。お一人ですか? こちらへどうぞ」

 カウンターの向こうで調理をしながら、若い女性の女将がネイチャに声をかけた。

 世間はまだ昼には早かったか、L字のカウンターしかない店内には2人の客だけである。客はネイチャだと認めたようで、「おお、ねーちゃんだ」と声をかけると、ネイチャも会釈して応えた。

 店内は十人座れるかどうかの狭い店住まいであり、書き入れ時はすし詰めになることが容易に想像できる。電球が灯る店内は、あまり明るいとは言えないが、不思議と居心地がよい。ネイチャにとっては、壁に真新しい例のポスターが貼られていることを除けば、ではあるが。


 さて、ネイチャは例のポスターの隣に掛けられたメニュー表を眺めた。メニュー脇に画鋲でぞんざいに留められた「ただ今、新米使用」の張り紙が、胸を躍らせる。外の暖簾に銘打っていたトリカツ丼の他にも、親子丼や唐揚げ定食もあるようだ。親子丼は鶏肉の種類で2つに分けられており、凝っている。とはいえネイチャはトリカツ丼を欲してここに来たのであり、鋼の意志のごとく揺るがない。ネイチャを少し悩ませたのは、トリカツ丼の大きさが、小盛りに並盛り、大盛り、そして特盛りと多様にあったことだ。

 ネイチャは少し考えた後、厨房で作業をする女将に声をかけた。

「トリカツ丼の大盛りで。あと、お吸い物も」

 女将はネイチャの注文を受けると、厨房と繋がった裏口へ「とりかつ、大盛りぃ」と呼びかけた。カツは横の総菜屋が揚げて持ってくるようだ。

 ウマ娘はしばしば大食いと目される。しかし、それはあくまで体を動かした場合である。人よりもより重いものを運び、より速く走ることができる。その分、人よりもエネルギーの消費が多いから、より多く食べて補給をするのである。それゆえ、あまり体を動かさなければエネルギー消費は人並みとなるため、食事量もある程度は落ち着くことになる。もちろん、レースに出走している現役のウマ娘は普段の運動量が激しいぶん代謝も高いため、比較的よく食べる。なお、運動しようとしまいと、健啖が過ぎるウマ娘も中にはいるが……。


 ネイチャは一昨日も練習メニューを軽く済ませ、前日は東京からの移動とトークイベントがあっただけで、あまりエネルギーも消費していない。それゆえ並盛りでも十分足りたのかもしれないが、トレーナーへの鬱憤を晴らしたいという気持ちが、ネイチャを大盛りへと誘ったのかもしれない。

 ネイチャが注文を済ませてしばらくしていると、絶え間なく客が来店し始めた。昼も近づき、書き入れ時である。次々と注文を受ける女将の動きもペースが上がり、忙しなくなる。

 その厨房では、女将は割り下に玉葱を入れて火をかけている。すると裏口から揚げたてのトリカツが三枚、運ばれてきた。割り下の入った鍋でカツをとじるかと思いきや、女将は器用に片手で卵を割り、ボウルで軽くかき混ぜると、玉子丼を作る要領で鍋に流し入れた。それから数秒、女将は玉子の状態をじっと見つめたと思えば、さっと火を止め鍋に蓋をする。余熱で玉子を蒸らすのだろう。その間に三枚のトリカツを手早く切り、予めご飯をよそっていた黒の丼に盛り付けると、鍋の蓋を取り、玉子を慣れた手つきでその上にかけた。そして三つ葉を乗せると、ネイチャのいるカウンターへ持ってきた。


「はい、お待たせしました。とりかつ丼大盛りですね」

 ネイチャが丼と汁椀を乗せた盆を受け取ると、ずしりとしっかりした重さを感じた。

 トリカツ丼はネイチャが想像していたよりも大盛りであった。トリカツは一枚一枚が小ぶりだが、とはいえ十分な大きさで、それが三枚乗っていると十分な迫力である。これはなかなか食べ応えがありそうだ、とネイチャは心構えた。

 しかし、湯気とともに漂う甘みを含んだ割り下の香りは食欲を誘う。女将の火加減の見極めも見事だったのか、玉子は半熟でとろりと光沢を帯びている。

 ネイチャは手を合わせ、それから割り箸を手に取った。

 まず手始めに、トリカツを一切れ箸で持ち上げた。断面は鶏モモ肉の繊維がしっかりとしており、肉汁もうっすらと滲み出ててらてらと輝き美しい。

 半分ほどかじると、衣がサクリと小気味よい音を立てた。カツをとじることなく、上から玉子を乗せたことで、揚げたてのカツの軽妙な食感が残されているのだろう。おかげで、カツを取った下に敷かれた白米は、まだ割り下が浸み込んでおらず、白く無垢のままである。肉は手塩にかけて飼育された若鶏を使っているのか、柔らかで独特の臭みもなく、噛むと肉汁と旨味があふれる。それから、割り下の甘みと出汁の風味、濃厚な玉子の滋味が追って来る。カツの残り半分を口に運び、さらに下に隠れたつややかな白米を頬張ると、得も言われぬ幸福感がネイチャを襲った。思わず頬が緩む。

 なにより絶妙なのは、パン粉の付き具合である。目も細かいパン粉を使っているおかげで衣は薄い。おかげでパンチのある重たいカツにはなっていないが、鳥の淡白な味わいには丁度よく、優しげな印象を受ける。これならばネイチャが衝動で注文した大盛りでも十分に食べられそうだ。ネイチャは「うんうん、こりゃいいじゃん」と心の中で頷いた。


 河岸で早朝から働く人々、また土地柄オフィスワーカーも多い場所であり、しっかりと胃を満たすことを目的にこの店へとやって来る。とはいえ、油気が多いと胃が堪えるものだ。量的な重さと質的な重さは似て非なるもので、ゆえに二つのバランスが重要なのだが、そのバランスの黄金比をこのトリカツ丼は見出している。

 一切れ、また一切れと食べ進めるうちに、気付けばネイチャは三枚あったトリカツの一枚を食べてしまっていた。これはなかなか危険である。今日のネイチャでも、食べようと思えば特盛、いわゆる二人前でも完食できたかもしれない。もしも腹を空かせた大食いのウマ娘がここを訪れたら、どうなることかと一旦ネイチャは想像したが、空恐ろしく途中で止めた。

 箸休めに吸い物を一口啜る。わかめと麩が入ったシンプルな澄まし汁だが、みりんが効いてほんのりと甘く、丸みを帯びた柔らかな味わいである。軽妙な味わいのトリカツ丼との相性もよい。

 丼を半分ほど食べ進めたネイチャは、トリカツに三つ葉を乗せ、それを一口で食べた。大ぶりの一切れを頬張るのは、親子丼ではできない行いである。鶏肉の旨味、揚げ衣のほのかな油気、割り下を含んだ玉子と玉葱の風味、そして、三つ葉の鮮烈ではあるが優しい香りがそれぞれ混ざる。舌を刺激し、鼻を抜ける風味は見事に調和している。

 カツの衣は割り下を吸い、程よく柔らかくなり、甘みを含み始めた。このことがさらに一層の調和を生み出した。さらにその割り下は、トリカツの下に敷かれた白米にも染み始めている。これはBNWか、TMか、はたまたTTGを彷彿とさせる渾然一体の様である。これらすべてを同時に一口で食べたら、一体どうなるのだろうか。ネイチャは思わず喉を鳴らす。ネイチャは箸でトリカツ一切れとご飯を器用に乗せるようにして取り、大きく口を開けて、そして食べた。その快感にネイチャの両耳はへにゃりと横に倒れた。うら若いネイチャには少々刺激が強すぎたのかもしれない。


 カツを煮込まなかったおかげで、始めのうちはサクサクとした食感と香ばしさを楽しめ、次第にカツや白米が汁を吸うにつれ、しっとりとした食感と調和の取れた味わいへと変化する。カツをあらかじめ煮込まなかったのは、昼間のごった返す客を捌くべく時間をわずかでも節約するための、店の涙ぐましい努力が生み出した方策だったのだろう。しかし、その方策が結果として、一杯で二度美味しいトリカツ丼を生み出したのである。この変化の魅力は、まさにターフのマイル王からダートの怪物へと成り代わったクロフネさながらである。

 すっかりと丼に魅了されたネイチャは、食べることに没頭した。ここまで夢中になって一気呵成に食べる彼女の姿はなかなか見ることができない。なぜならば、揚げ物やにんじんハンバーグを何個も平らげるウマ娘を食堂で眺めては、「やれやれ、みんな若いねぇ。アタシなんてあんなに食べちゃったら最近は胃薬ないと胃もたれが……ねぇ?」なんて年寄り染みたことをのたまうネイチャである。そんな彼女が一口、また一口と頬張るのだ。玉子と玉葱、そして三つ葉を纏ったトリカツに、割り下が染みて一層輝き宝石のようにきらめく新米に魅了されたのだ。気付けば、丼の中はほとんど空になってしまった。

 この勢いのまま、しまいに丼を呷るようにして米を掻き込もうとしたが、ネイチャはふと理性を取り戻した。それから、丼の内側に付いた米の一粒一粒を静かに集め、丼をゆっくりと傾けながら口元へ寄せ、そして、丁寧に米を掻き込んだ。


 丼を置くと、ネイチャは息を吐いた。その溜息は充足感と幸福感に満ちていた。

 ネイチャは最後に、残った吸い物を口にした。少し冷めてしまっているものの、締めには丁度よい。ほんのりと甘みのある吸い物は、口の中の油気を洗い流すが、トリカツ丼の余韻を残してくれた。

 もうしばらくこの余韻に浸りたいという名残惜しさはあるが、ネイチャは手を合わせて食後の挨拶を済ませると、座席から立ち上がり、女将に声をかけた。外では客が待つほどの盛況であり、足早に会計を済ませるのが筋である。

「ご馳走様でした。美味しかったです」

 お釣りを受け取りながら、そうネイチャが言うと、女将も、

「また来てくださいね」

 と朗らかに答えた。


 がらりと戸を引いて外に出た。正午が近い商店街は、変わらず賑わいを見せていた。

 ふと、ネイチャはトレーナーのことを頭に思い浮かべた。彼の特別講義は正午過ぎまでする予定だと昨日言っていた。となれば、帰りの新幹線に乗る前に昼食を済ませるには、時間がないかもしれない。

 隣に併設された鶏肉専門の総菜屋に目を向けると、鶏のから揚げが積まれている。そうだ、とネイチャは思いついた。少しばかりではあるが、トレーナーにこの唐揚げをお土産代わりに買っていこう。朝から熱量高く講義しているから、きっとお腹を空かせているはずだ。新幹線に乗る前に駅弁を買うだろうから、追加のおかずとしても丁度よいだろう。

 先日の予定をすっぽかしたこと、そして勝手に自身のポスターを作っていたことへのトレーナーへのもどかしい感情は、どこかへ消え去っていた。

 ネイチャは百グラムほど鶏の唐揚げを購入した。唐揚げをもう百グラムほどおまけに貰ったのは、ネイチャの愛嬌ゆえだろう。なお、総菜屋の女性からも「旦那はどうした」と訊かれ、ネイチャをまごつかせたことはご愛敬である。


・・・・・・・・・・


 ネイチャは小倉駅の土産物屋を散策していると、レース場での一仕事を終えたトレーナーがやって来た。

「しばらく待たせたんじゃないか?」

 モノレールで小倉駅に着いた丁度そのとき、トレーナーから『講義が今終わったから、大体三十分後には小倉駅に着くよ』と連絡を受けていた。

「ううん、大丈夫。色んなところブラブラしてたから、そんな『待ったー!』って気はしてませんよ」

 みんなのお土産も買えたからね、とネイチャは笑った。

「そうだネイチャ、お昼は食べた?」

「うん。商店街でね」

「そっか。俺は講義終わってそのまま来たから、まだ食べてなくてさ。……新幹線に乗るまで時間もないし、それじゃあ駅弁買おうかな」

「……よしよし」

「どうした?」

「そういうかもと思って、ほら」

 ネイチャはビニールの袋をトレーナーに差し出した。


「これは?」

「唐揚げ、商店街で買ってきたの。お弁当のおかずにチョイ足ししたら丁度いいかもって思ってさ」

「おおっ、いいな。折角だし、そうさせてもらうよ。ありがとう」

 トレーナーは嬉しそうに笑った。

 見事、ネイチャの思惑通りである。無自覚にも、ネイチャは尾を軽く揺らした。

 新幹線の改札口へと向かいながら、ネイチャは昼食のトリカツ丼についてトレーナーに話した。

「そのトリカツ丼がすっごく美味しかったんだよね。だから、そのお隣の総菜屋さんで唐揚げ買っちゃおって」

「なるほど。でもトリカツ丼か、美味しそうだな。俺も食べてみたかったよ」

「今からは流石に新幹線乗らなきゃいけないから難しいけど……。まあ、また、ここに来ればいいんじゃない?」

 そうだ、また小倉に来ればいい。今度は仕事も抜きで、旅行で来たっていいじゃないか。ネイチャの言葉には、そんな気持ちも混じっていた。


「うん、そうだな」

「……えっ」

 トレーナーの返事に反応して、ネイチャは彼の方を見遣った。アタシの気持ちがトレーナーさんにも届いたのか、ネイチャに淡い期待が膨らむ。

「今度また、小倉でレースに出るときだな。ネイチャを一番に輝かせて、それからそこで祝勝会だ」

 トレーナーは屈託なく笑った。

「あ、そうデスネ……」

 ネイチャはがっくりと首を垂れた。

「ネイチャ、どうした?」

「ううん、なんでもない」

 ネイチャは垂れた首をそのまま振った。

 でも、こういう人だ、とネイチャは苦笑した。だから彼のことを信頼できるのだろう。でもやはり、思わせぶりなことを言うのにうんと鈍いところは、ちょっと直してほしいものだが。

「ささ、トレーナーさん。駅弁買ったりして新幹線乗る準備でもしましょうか」

 ネイチャは帰りの切符を改札に通した。




 ……つづく?



今回取り上げた商店街は、小倉駅から競バ場へ一本で行けるモノレールの途中にあるので、小倉で競バを見に行った時には是非訪れてはいかがでしょうか。

続編はあるかもしれないし、ないかもしれません。

このSSまとめへのコメント

1 :  MilitaryGirl   2022年04月20日 (水) 00:38:54   ID: S:01v_H_

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2 :  MilitaryGirl   2022年04月20日 (水) 02:23:02   ID: S:V1SO5-

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