【ミリマス】馬場このみ『3月19日』 (48)
あの時君がくれたものは少しあったかくて、いつしか宝物になった。
けれど、新しい扉の向こうには、あの時照れくさそうに笑った君が居なかった。
君はあの時のことを覚えてるのかな。きっとこの想いは、ずっと胸の奥のまま。
初めて出会った今だから、もう一度。
──もう一度、恋をしよう。
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その日は、雨が降っていた。
俺は、携帯を握ったままで、もう片方の手で窓ガラスに触れた。
体の芯が凍えてしまうほどに、ただ、冷たかった。
左手の中にある携帯に目をやった。
何度見ても、そこには何も表示されていない。
ただ、真っ白なページだけが表示されていた。
そのせいか、画面上部のステータスバーの時刻表示が何度も目に飛び込んできた。
そこには12:00と表示されていた。
傍の机の上には、写真立てが置かれている。
写真の中の彼女、馬場このみと目が合って──俺は写真立てをそっと倒した。
出来る事ならば、これからも彼女の隣に居たかった。
彼女の選んだあの道の先を、彼女と歩いて行きたかった。
けれどもう、それは叶わない。
ガラスの向こう側の世界は静かで、雨音に全部吸収されてしまったみたいだった。
雨水が地面を叩き、水が流れる音だけが耳に届いた。
だけど、自分の心は穏やかではいられなかった。
俺はもう一度だけ、祈るようにして携帯の画面を見た。
それでも、画面の表示は何も変わらない。
そこには、さもそれが当然であるかのように、ただ白い画面が表示されていた。
白という色を、これほど受け入れ難く感じたのは初めてだった。
この日は、何もする気になれなかった。
◇
次の日の朝、ベッドから起きて、いつものように携帯を触った。
昨日のことがもし夢だったなら、どれほど良かっただろう。
あるアイコンが指に触れて、真っ白な画面が表示される。
その度に、心が沈んだ。
その気持ちから目を背けるように、俺は重たいスーツを着こんで、おもむろに家を出た。
前日と真逆で、空には雲一つなかった。
気温も、少し暑いくらいだった。
まるで自分が、淀みなく回っている世界から取り残されてしまったみたいだった。
否応なしに降ってくる日差しは、その眩しさの分だけ俺の心に陰を作った。
そう簡単に割り切れるわけがなかった。
別れが来ることなんて、ずっと前から決まっていたはずなのに。
彼女は最後のときまで笑っていた。
俺はきっと、彼女のように強くはいられない。
残り香を探すように、気がつけば事務所に来ていた。
階段を上がって、すぐのところに入口の扉が見える。
よく見慣れた、何でもない扉だった。
ドアノブへと伸ばしたはずの俺の手が、それに触れる数センチ手前で止まった。
扉の先へ進むのが怖かった。
昨日の出来事が夢であったのなら。
何事もなかったかのように、彼女とこの場所で会えたのなら。
そんな都合の良いことばかり浮かんでは消えていく。
それにすがりそうになる自分が嫌だった。
結局俺は、扉の前でしばらく動くことができなかった。
意を決して、ドアノブをぐっと握って、扉を開けた。
事務所の中に入って辺りを見回すが、やはり彼女はいなかった。
心に穴が空いたみたいだった。
──そんなこと、初めから分かっていたはずだったのに。
それからずっと、机仕事に没頭した。
その方が何も考えずにいられた。
二、三時間経ったくらいだろうか。
社長に急に呼び出された。
応接室で面接をしていたらしいのだが、なんでも急用が入りそちらに出向かなくてはならなくなったそうだった。
「それじゃあキミ、あとは頼んだよ」
社長はネクタイを締め直して、足早に駆けて行く。
俺は頭を掻いて、今一つ状況が飲み込めないまま件の応接室へ向かった。
応接室の前で立ちどまって、深呼吸をした。そして、右手でドアを何度か鳴らした。
「失礼します」
そう言って俺はドアを開けた。
その先に見えたのは彼女──馬場このみだった。
自分の目を疑った。
そんな事ある訳がないって。
──だけど、見間違える筈なんてなかった。
その瞬間、頭の中にたくさんの記憶がよぎった。
彼女と出会って、宣材写真を始めて撮ったとき。
彼女が初めてソロ曲をステージで歌ったとき。
そして、彼女との最後の──海外の水上都市で、写真集の撮影をしたときの事も、鮮明に覚えている。
明るい茶色をした、ちょっとくせ毛がちな髪も。
落ち着いていて、相手を優しく見つめる瞳も。
小さくて小動物みたいなかわいらしさを湛えた姿も。
昔から、ずっと知っている。
椅子に座ったままの彼女と目が合った。
今すぐにでも駆け寄りたかった。
だけど彼女は、俺がそうするより先にうやうやしく立ち上がって、言った。
「初めまして。馬場このみと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
彼女は、まるで初対面みたいに深く頭を下げて、それからそっと微笑んだ。
──本当は分かっていた。
彼女とは、これが初めての出会いなんだ、って。
自分の祈りは祈りでしかなかった──ただ、それだけの事だ。
「──初めまして。こちらこそ、よろしくお願いします」
だからきっと。これでいいんだ。
「それじゃ、まずは志望動機から──」
それから俺は、面接としてありがちな、なんでもない質問をいくつか投げかけた。
聞きたい事、話したい事は山ほどあったけれど、それは胸の奥にしまい込んだ。
形式ばった会話のなかで、彼女の素の立ち居振る舞いが何度も顔をのぞかせた。
目の前の彼女と話すたびに、それが自分の良く知っている彼女と同じだと、俺は何度も気づかされた。
「でも、私をアイドル志望と思うだなんて……。悪い気はしないわね。ウフフッ♪」
彼女は、昔と変わらない笑顔だった。アイドル、馬場このみと。
「──馬場このみさん。もしよかったら……本当にアイドルとしてやってみませんか?」
俺は名刺を取り出して、彼女に両手で差し出した。
俺は思いを巡らせた。
彼女が、満場の喝采を浴びて、光溢れるステージに立つ──そんな瞬間を。
『貴方には笑顔でいてほしい』。
そんな身勝手で単純な願いだった。
初めて出会った今だから、もう一度。
──もう一度、恋をしよう。
◆
部屋の中で単調な電子音が響いた。
頭が重い。ぼうっとする。
「…………ぅ……」
音は段々と大きくなっていく。
思考がまとまらない。
私は、動かない体を無理くりに引きずって、何とか布団から抜け出した。
むくりと起き上がって、ベッドの上でぺたんと座る。
瞼はまだ開かない。
頭が揺れる。
少しずつ、意識が戻っていく。
「っ……朝……」
単調な電子音は今も鳴りっぱなしだった。
半ば手探りでベッドの上の携帯電話を見つけて、電子音を止める。
濡れた目元を指で拭ってから、ベッドからのそりと立ち上がった。
出し抜けに鳴ったアラームの音で、私は──馬場このみは、夢から醒めた。
◇
次の日の朝、私はクローゼットからスーツを出していた。
ごく最近まで着ていたはずなのに、私にはそれが新鮮に見えた。
胸がチクリと痛んだ。
黒色のスーツに身を包んで、私は家を出た。
昨日と違って、空は晴れ晴れとしていた。
日差しは夏のように鋭くて、思わず手で陰を作る。
その眩しさは、私が密かに持っていた淡い期待を、胸の一番奥へ追いやってしまうのには十分だった。
面接で話す内容を頭の中で確認しているうちに、目的の建物に到着した。
階段を上がったすぐ先のところに、765プロダクションと書かれた扉がある。
扉の前に立って、心臓が速くなるのが分かった。
私の胸の内側は、緊張と不安と……それと祈るような気持ちがない混ぜになったみたいだった。
扉の横に据え付けられたチャイムのボタンに、指を近づけた。
だけど、それに触れる寸前で、伸ばしたはずの指が止まった。
息を吐いてから、私は腕時計を覗いた。
まだ予定の時間よりほんの少し早かった。
早く着きすぎても迷惑よね、と胸の中で小さく言い訳した。
そうして私は、決心が付かずにいる自分の心を押し隠した。
それから少しして、私は時間に背中をせっつかされるような形で、チャイムを鳴らした。
「馬場このみさんですね。初めまして、事務員の音無小鳥と申します」
彼女は柔らかい物腰で、丁寧にそう言った。
そして、その隣には、眼鏡をかけた初老の男性──高木社長が立っていた。
胸の片隅にあった祈るような気持ちは、容易く霧散した。同時に、緊張で背筋が伸びた。
社長は一瞬だけ部屋の奥の方を気にする素振りを見せたが、私にはそれを気にかけるほどの余裕はなかった。
それからすぐに、私は応接室に案内された。
そこから先はあまり記憶に残っていない。
投げかけられる質問に、予め想定していた内容を答えた。
ある時高木社長の携帯電話に、何件かの着信が続けざまに入った。
高木社長が一旦退室して電話で確認したところ、どうやら緊急の用事である場所へ出向かなくてはならなくなったそうだった。
代わりの者がすぐに来るから、もう少しだけここで待っていてほしいと言って、社長は部屋を後にした。
部屋の中一人になった私は、深呼吸した。
仮に私が事務員として入社したとき何ができるかについて、自分の言葉で伝えられたとは思う。
けれど、自分を十分にアピールできたかといえば、どうしても不安が付き纏った。
そんな弱気な気持ちを振り払おうと、頭を横に振った。
今の私にできることは、質問内容を想定して、出来る限り準備することだけだ、と。
こう聞かれたら、どう答えるか?
もっと分かりやすい表現はできないか?
思考を巡らせ各々に答えを出すたびに、少しずつ緊張が解れていくような気がした。
その時、唐突に部屋の扉をノックする音が聞こえた。
私は驚いてしまって、肩を揺らした。
自分の身だしなみをちらりとだけ確認してから、その後で扉の向こうへ返事をした。
ゆっくりと扉が開く。そこに立っていたのは、ダークグレーのスーツを着た男性だった。
彼の首元には赤みがかった茶色のネクタイが提げられていた。
普段あまり見ない色味で思わず目に留まったが、芸能に携わる仕事であることを踏まえればこれでも主張が少ないくらいなのかも、と思った。
扉が完全に開いたタイミングで、彼と目が合った。
見たところ、年齢は私と同じくらい。
社長面接の代わりとなる人物であることを考えると、仕事ができて、信頼されているということだろうか。
実際、彼からは真面目で、誠実そうな印象を受けた。
ただ、それ以上に取り立てて特徴があるわけではなかった。
どこの会社、あるいはどこの課にも、彼のような人が一人はいるだろう──そんな第一印象だった。
それなのに、彼の顔を見た瞬間、胸がざわついた。
一瞬間が開いて、私はまだ何一つ挨拶をしていないことに気が付いた。
私は慌ててしまって、とっさに浮かんできただけの、何の飾り気のない挨拶をした。
「初めまして。馬場このみと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
「──初めまして。こちらこそ、よろしくお願いします」
彼はそう返してから、机を挟んだ向かいの席に腰をかけた。
二回目の面接が始まった。
──筈だった。
「事務員! オフィスレディ志望です!」
「そ、そうだったんですか! すみません、引き継ぎができていなくて……」
彼は、私をアイドル志望だと勘違いしていたらしかった。
私が、アイドルだなんて……。
ちょっぴり可笑しくて、思わず声に出てしまいそうになる。
お陰で、さっきまで私が抱えていた緊張は、すっかりどこかへ吹き飛んでしまった。
そんな私とは反対に、彼は一瞬肩を落としたように見えた。
そのときの彼の表情は、陰になって私には見えなかった。
「でも。私をアイドル志望と思うだなんて……。悪い気はしないわね。ウフフッ♪」
彼は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。
感情がすぐ表情にでてくる人なんだな、なんて私は思って、少し彼に親しみを感じた。
彼は少し息を吐いた。
そして、私を見た。
真剣な目だった。
「──馬場このみさん。もしよかったら、本当にアイドルとしてやってみませんか?」
「……ええっ!? アイドルって……私が!?」
彼は私に頷いて、両手で名刺を差し出した。
嘘や冗談ではないことは、これ以上ないほどに彼の瞳が証明していた。
私は、自分の身体の温度が上がっていくのを感じた。
熱を出した時みたいに、自分の鼓動の音が、良く聞こえた。
私はそっと深呼吸をした。
──彼に気づかれないように、そっと。
「うーん、アイドルねぇ。私、就職したかったんだけど……」
そう言って私は、頬を掻いた。
指先が顔に触れた瞬間から、頬が熱を持っているのが分かった。
アイドル。
スポットライトが照らすステージの上に立って、満員の観客の前で、歌って、踊って──。
これまで、そんな経験、私は何一つだってしてこなかった。
歌もダンスも、全くの素人。
そんな私がアイドルだなんて。
今の私には、想像だってできない。
でも──。
『彼の気持ちに応えたい』と。そう、思ってしまった。
私は、名刺を受け取った。両方の手で、しっかりと。
頬が緩んでしまいそうになる。私は何でもない風を取り繕って、それを隠した。
受け取った名刺を、胸の前に持ってきて、何度も見返した。
間違いなんかじゃない。
あの日の夢の続きを見たくて──。
胸の奥に居た、もう一人の私が持っていた、子供のような他愛のない夢。
今までずっと、想いに蓋をして、しまい込んでた。
夢にまで見た、あの光り輝くステージの続きを。
初めて出会った今だから、もう一度。
──もう一度、恋をしよう。
◆
「──みさん、……このみさん?」
「……プロデューサー? どうしたの?」
「もうすぐスタンバイの時間かな、と思って。様子を見に来ました。……どうですか?」
「ええ、もう準備はばっちりよ! ……なんて、言えたら良かったんだけど」
「……このみさん?」
「ねえ。また、手を握ってくれる?」
「……。はい、何度でも」
◆
熱を持つほど眩しい、スポットライトの光たちが降り注いだ。
私の身体の奥底まで揺らすほどに大きな音楽が飛び込んできて、様々な歌声たちがそれを彩ってゆく。
そのメロディーに合わせて、客席ではサイリウムが揺れて、波間を作っていた。
胸の鼓動が、どきどきと音を立てた。
光溢れるその光景を、私は袖幕の間から見つめていた。
耳元のイヤーモニターから、出番の一分前を知らせる合図が聞こえてきた。
マイクを手にして、鏡で自分の髪や衣装を確認する。うん、大丈夫。
床を這う配線を踏まないように注意しながら、前へと歩いてゆく。
私の足元には、豆電球ほどの、仄かな灯りがいくつも灯っていた。
一つ一つは小さいかもしれない。
でも、それらが連なって、ステージへと続く一本の道を作っていた。
袖幕の道を、私は歩く。
私は、たくさんの人に支えられて──自分の意志でここに立っている。
『私がステージで輝いている姿を、私も見てみたい』。
そう願ってここまで来れたのは、私がみんなから数えきれないくらいの勇気をもらって、励まされてきたからだ。
だから、私は。
誰かに一歩を踏み出す勇気を届けられるような、そんなステージを。
脚を止めて、前を向いた。
ステージと客席とが言葉を超えて想いを通じ合わせる、そんな瞬間が目の前にある。
今だって胸は鳴りやまない。
私は、マイクをぎゅっと握った。
暗転までの秒読みが聞こえる。
私は目一杯胸を張って、ステージに立とう。
私の想いを、貴方に届けるために。
舞台上を照らす照明が、一斉に落ちた。
暗くなったステージの上へ、私は駆けだした。
◇
私は、ステージの縁に腰かけていた。
照明はまばらにしか点いていない。
目の前の客席にも、ステージの上にも、私以外誰もいない。
辺りは自分の呼吸の音しか聞こえないほど静かだった。
私はそれで、公演が──夢の時間が終わってしまったんだって、実感した。
空っぽの客席を見るたびに、胸の中が、きゅうって締め付けられた。
夢の時間は限られていて、それが終わるたびに切なくて、寂しくなる。
でも、きっと大丈夫。
私がこの劇場に立っている限り、何度でもまた逢える。
私の大切な人たちと、離れたりなんかしない。
──そう、信じられた。
目を閉じれば、そこにさっきまでの光景が浮かんでくる。
客席いっぱいに広がった桃色の光たちが、さざ波のように優しく揺れている。
私が手を伸ばせば、それに応えるみたいに、たくさんの光が私に近づいてくる。
ステージの上から、サイリウムを振る一人一人の顔が見えて、胸がいっぱいになる。
その景色は眩しくて、綺麗で、何よりも暖かかった。
自分の進んできたこの道を、もう迷ったりしない。
だって、サイリウムの向こう側に、大切な人たちがいるから。
──ちょっぴり照れくさくて、私にはそれが誇らしく思えた。
しばらくの間、私は客席を眺めていた。
夢見るこの劇場が心地良くて、時間を忘れてしまいそうになる。
「──やっぱり此処に居たんですね、このみさん」
「あら、プロデューサー。呼びに来てくれたの?」
私は立ち上がって、舞台端の彼のもとへと歩いて行く。
ふと彼の手の中を見れば、そこには手紙の束があった。
「……? プロデューサー、それは何?」
「これですか?今日会場に届いてた、このみさん宛てのファンレターです。
チェックできてる分だけでも、先に渡そうと思いまして」
彼から差し出されるままに、手紙の束を私は両手で受け取った。
一番上にあるのは、薄桃色をした便箋だった。
そこには、手書きで『765プロダクション 馬場このみさまへ』と書いてある。
「私宛ての……。うん、ありがとう、プロデューサー」
プロデューサーと一緒に、舞台袖の方へ歩く。
そのとき私は、ふと誰もいないはずの客席を振り返った。
私は、この場所で、たくさんの大切な人たちと出逢ってきた。
公演の数だけ、夢の時間は終わってしまう。
だけど私は、同じ数だけ、また逢えると信じている。
だから、この劇場で、何度でも。
──何度でも、恋をしよう。
◆
僕は、フロントに鍵を預けて、ホテルの外へ出た。
眩しい日差しに、思わず身が引き締まる。
僕は学生服の詰襟を留めた。
午前八時半。
参考書の入った鞄を提げて、僕は見知らぬ街へと歩き出した。
携帯にイヤホンを繋いで、ミュージックアプリを起動する。
履歴の一番上にある楽曲を見つけて、再生ボタンを押した。
僕の耳元に触れるように、穏やかで透明な旋律が通り抜ける。
それは、珊瑚の咲く暖かな海を思わせた。
そして、それに続くように彼女は歌う。
水晶の玉のように透き通った、優しい歌声。
彼女のことを知ったのは、ほんの一年くらい前。
学校の友人に誘われて、公演を観に行ったことがきっかけだった。
将来の進路の事で悩んでいた僕を掬い上げてくれたのが、彼女の『水中キャンディ』だった。
学生の僕と違って、彼女はこれまで色んなことを経験してきたんだと思う。
嬉しい事も、辛いことも。
アイドルとしてステージに上がる事だって、僕が想像だってできないような、葛藤や決意があったはずだ。
──だから、だと思う。
この曲を聴く度に、励まされるのは。
この曲は、いま抱えている不安や悩みを、どこかへ消してしまう訳ではない。
だけど、それらを抱えたままで、強く前へと歩いて行く──そんな勇気を、僕はいつだって貰ってきた。
彼女のような『かっこいい大人』になりたい。僕はいつしか、そう思うようになった。
信号が青に変わる。僕は、前を向いて歩きはじめる。
目の前には、大きな門扉が開かれていた。
そしてそのすぐ脇には、『二次試験 試験会場』と書かれた、白い看板が立っている。
僕は看板の前で立ち止まって、そっとイヤホンを外した。
僕は胸ポケットから受験票を取り出した。
それはありがちな様式で、受験番号がただ事務的に印字されている。
他の人には、ありきたりで、何でもない紙切れなのかもしれない。
でも僕にとってこの受験票は、僕が自分の意志で自分の道を選んだことの証だ。
受験票を丁寧に仕舞って、僕は門扉の先へと進んでいった。
◇
あの日から、何週間かが経った。
住み慣れたこの街を歩くと、少しずつ季節は移り変わっていることを実感した。
家のそばの公園では、桃が綺麗な花をつけていた。
明日、僕はこの街を旅立つ。
だから今日は、その最後に、僕にとって大切な場所に来ていた。
電車でたった数区間。
駅を降りると、微かに潮風が抜けて、僕の鼻をくすぐった。
765プロライブ劇場。
休日ともあって、広場には多くの人が詰め掛けていた。
建物の傍には、法被を着て談笑する人たちが見える。
少し離れたベンチの傍には、寄せ書きを呼び掛けている人たちが集まっている。
そこには、普段と何も変わらない光景が広がっていた。
僕はそれを遠巻きに見ていた。
僕の心は温かくなって、そして胸の片隅がちくりと痛んだ。
今日の定期公演では、開演前に握手会が設けられる事になっている。
765プロライブ劇場では、このような構成のイベントが、結構頻繁に行われる。
基本的には、当日の公演の出演者と同じメンバーが参加する。
僕はスタッフに携帯のメール画面を見せて、劇場の中に入った。
『馬場このみ』と書かれた札を見つけて、僕はその列の最後尾に並んだ。
いつになっても、握手会は慣れなかった。
言いたい事は沢山あるのに、本人を前にすると胸がいっぱいになって、言葉が出てこなくなる。
僕がこの一年頑張ってこれたのは、貴方がいてくれたからだって、伝えたい。
待機列に並んでいる間、心の中で何度もシミュレーションをした。
列が進んでいくたびに、胸の鼓動が大きくなるのが分かった。
待っている時間なんて、あっという間に過ぎていった。
気が付けば、自分の番になっていた。
「──い、いつも応援しています!」
「ウフフ、ありがとう。お姉さんも頑張るわね♪」
彼女が伸ばした手を、僕はそっと両手で握った。
彼女の手は柔らかかった。
僕が目線を戻すと、彼女の顔がすぐ目の前にあって、ちょっぴり気恥ずかしかった。
僕は準備していた内容を彼女と話した。
やりたいことを見つけて、ある大学を志望したこと。
受験当日の朝に『水中キャンディ』を聞いていたこと。
そして、志望していた大学に合格したこと。
「僕は今まで、貴方からたくさんの勇気を貰いました。
──本当にありがとうございました」
僕は、彼女の手を握ったままで、頭を下げた。
顔に熱が上っていくのを感じる。
ともすれば何かが溢れそうになるけれど、それを何とか押しとどめた。
僕が顔を上げると、そこで彼女と目が合った。
優しい目だった。
彼女のその瞳は、真っすぐ僕の目を見つめていた。
彼女の息遣いが聞こえてきそうだった。
「私もね、みんなが振ってくれるサイリウムの光に、いつだって勇気をもらってるの。……だから、私からも言わせてほしい」
「いつも、ありがとう」
彼女はそう言ってから、にこっと笑った。
僕の中で色々な記憶、思いが駆け巡った。
僕は公演へ来るたびに、彼女の色のサイリウムを掲げてた。
──『どうか、届きますように』って。
抱えた色々な思いが僕の心で溢れて、胸がいっぱいになった。
それと同時に、胸が鈍く痛んだ。
僕がこの街にいられるのは今日が最後なんだ、と。
思いが大きくなるたびに、そんな胸の綻びが大きくなっていく。
そしてとうとう、僕の心は決壊した。
今まで隠していた言葉が、勝手に声になって、僕の胸の奥から出ていく。
自分でも、もうどうにも止まらなかった。
合格した大学が地方で、関東から離れなくてはならないこと。
この街にいられるのが、今日が最後だということ。
そして、この劇場に来れる回数も減ってしまうかもしれないこと。
彼女は、そんな僕の話を、ただ静かに聞いていた。
僕の心は正直だ。
……話すつもりなんてなかったのに。
本当は別の事を言おうとしたのに。
こんなことを彼女に伝えても、彼女を悲しませてしまうだけだって分かっていた。
「で、でも──」
僕は沈黙を破るように、慌てて切り出す。もう、今更隠すことなんてないだろう。
「僕は貴方に、劇場のみんなに必ず会いに来ます。
向こうで頑張って、『かっこいい大人』になって──!」
……結局、全部言ってしまった。
やっぱり、良くも悪くも僕の心は正直なんだと思う。
彼女の瞳は、何も変わらず僕の目を見つめていた。
たったそれだけだったけれど、僕には分かった。
大勢のファンの一人でしかない僕の話を、彼女は真っすぐに受け止めてくれたんだと。
「伝えてくれて、ありがとう。
そういう気持ちを誰かに話すのって、すっごく勇気がいると思う。
……だから、私は嬉しい」
彼女は、もう一方の手を添えて、僕の手をぎゅっと握った。
「最高のステージを見せるから。
貴方が安心して貴方の道を進んでいけるように、私がこの場所で最高に輝いて見せるから」
「──だから、その姿を見ていてくれる?」
その答えは、初めから決まっていた。
初めて出会った時から今まで。
そしてきっと、これからも。
時間が来て、彼女の手がそっと離れた。
彼女の手はとても小さくて……とても暖かかった。
彼女のような『かっこいい大人』になりたい。
改めて、僕はそう思った。
◇
僕は座席に着いて、開演の時間を待っていた。
時間まで、あと二、三分くらい。
僕の胸の中で、どきどきと鼓動が高鳴る。
だけどそれと対照的に、僕の心は穏やかだった。
きっとこの公演は、僕の宝物になる。
照明が落とされた。
それに呼応するように、ファンたちは一斉に歓声を上げた。
客席の光が一つ二つと増えていって、次第に辺りは光の海に変わっていく。
開幕のベルが鳴る。
その音に、思わず緊張が走った。
きっとそれはみんな同じで、辺りは途端に張りつめた。
隣の人の鼓動さえ、聞こえてきそうだった。
暗がりの中で、オープニングとなる音楽が流れ出す。
『Thank You!』。
たった十数秒の、短いアレンジ。
昔からずっと変わらない、優しいメロディー。
幕が、開く。
高翌揚が高翌揚を呼ぶ。
それが最高潮に達した瞬間、一斉にスポットライトが点いて、ステージを眩しいほどに照らし出した。
その刹那、僕は桃色のサイリウムを掲げていた。そして、その先には、白い光に包まれた彼女がいた。
『とびらあけて さあ行こうよ──』
『──私たちの Brand New Theater Live!』
客席中からコールが響いて、サイリウムの光たちが一際大きく揺れる。
大きな破裂音と共に、銀色に光を反射するたくさんのリボンたちが、宙を舞った。
僕は、彼女のパフォーマンスを目に焼きつけながら、目一杯にサイリウムを振った。
最高のステージには、最高の応援を──。
僕の思いが貴方に届くように、心を込めて。
遠い場所へ発つことに、後悔なんてなかった。
例え遠く離れてしまっても、きっとこの桃色の光が繋いでくれる──そんな確信が此処にある。
だからまた、その度に、何度でも。
──何度でも、恋をしよう。
◆
俺は、舞台袖の片隅から、ステージに立つ彼女を見つめていた。
彼女のダンスは小さいながらも、それを補い余りあるほどの情熱がある。
額から流れる汗が、輝きに変わる。
見ている人を惹きつけて離さない──そんな瞬間を幾度だって垣間見た。
彼女の歌声は、鈴が鳴っているようだった。
透き通った声が、会場の端から端までに届けられていく。
切なさと強さを併せ持った、彼女の震えるような高音が劇場中を包みこむ。
彼女のパフォーマンスは全て、これまで彼女が実直に取り組んできたトレーニングに裏打ちされたものだった。
出逢った頃の彼女は、毎日夜遅くまで自主レッスンに取り組んでいた。
自分に実力が足りていないだけだからと、彼女はよく自嘲した。
当時の俺は、彼女のその姿に危うさを覚えた。
彼女をそうまで突き動かすものは何なのか、俺は分からなかった。
もし突然、その原動力が失われてしまったのなら……?
あれから彼女は、多くの時間を仲間たちと過ごして、たくさんのステージに立ってきた。
そして、その数だけ、多くのファンたちと出逢ってきた。
──そうした出逢いの先に、今の彼女がいる。
彼女のこのステージは、その軌跡の上にあるものだ。
ステージの上の彼女の、瞳の向く先を追いかけた。
彼女の瞳には、光あふれるサイリウムの海が──ファンたちが映っていた。
向かい合えば、手を伸ばせば──きっと、気持ちは届く。
彼女と客席のファンたちの間で、そんなやり取りがあった。
彼女はステージ上でのパフォーマンスで。
ファンたちはサイリウムの光の波で。
それだけできっと、想いは伝わる。
彼女のステージを見て、そう直感した。
だからこの劇場から、数えきれないステージを、何度でも。
──何度でも、恋をしよう。
以上になります。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
GREE版ミリオンライブ!のサービス終了から、早いもので3年も経ってしまいました。
それでも8年前に始まった彼女の物語──軌跡は止まっていないのだと、何度も実感します。
実際、GREE版でも重要な役割を果たしてきた彼女の楽曲『dear...』や『水中キャンディ』もまた、シアターデイズで新たな物語を紡いでいます。
そんな背景の下で、3年前当時と今現在、それぞれの彼女を取り巻んでいる(いた)環境と、その変化について表現したいと思い立ち、筆を執りました。
その中でとくに、現在の彼女において、『定期公演』の概念はとても大きな役割を果たしているのでは、と思っています。
メタ的な側面もまた、彼女の軌跡の一部だと考えています。
そんな彼女の物語を見て、何かを感じ取ってくれたのならば、幸いです。
>>40 (sagaを忘れてました……)
開幕のベルが鳴る。
その音に、思わず緊張が走った。
きっとそれはみんな同じで、辺りは途端に張りつめた。
隣の人の鼓動さえ、聞こえてきそうだった。
暗がりの中で、オープニングとなる音楽が流れ出す。
『Thank You!』。
たった十数秒の、短いアレンジ。
昔からずっと変わらない、優しいメロディー。
幕が、開く。
高揚が高揚を呼ぶ。
それが最高潮に達した瞬間、一斉にスポットライトが点いて、ステージを眩しいほどに照らし出した。
記憶残したまま世界線超えてきちまったか
3年もたったんだな....乙です
馬場このみ(24) Da/An
https://i.imgur.com/kTQPgbO.jpg
https://i.imgur.com/RUbDFP9.jpg
https://i.imgur.com/0soeree.jpg
>>14
音無小鳥(2X) Ex
http://i.imgur.com/hFRWAa5.jpg
http://i.imgur.com/ZBxZZAR.jpg
>>30
『水中キャンディ』
http://youtu.be/sWU-PSuRAC8?t=86
>>40
『Thank You!』
http://www.youtube.com/watch?v=KaOo73W_GS8
>>41
『Brand New Theater!』
https://www.youtube.com/watch?v=2ELtcG7sRCU
>>45
『dear...』
http://youtu.be/Vc8Nlerv5iE?t=68
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