空銀子“先生”と口に出す際は、務めて平静を装っていなければ私は間違いなく取り乱す。
私が籍をおく清滝一門において、もっとも目障りなのは誰かと問われれば真っ先に空銀子の名前を挙げる程度には嫌っている。
理由はいくつかあるが、棋士として、対局者として”絶対に許さない”リストに入っていることは当然として、私の師匠(せんせい)と良い仲であることが何よりも許し難い。
いくら姉弟弟子として、そして清滝鋼介の内弟子として幼い頃からひとつ屋根の下で暮らしていたとはいえ、先生と恋仲になる権利があの女にあるとは思えない。
たしかに空銀子は見目麗しいかも知れない。
将棋馬鹿の先生と会話が出来る程度には将棋の知識も備わっているのもまた事実である。
しかし、空銀子の先生に対する態度は到底許容出来る範囲を超えている。やりすぎだ。
先生を馬鹿にしていいのは私だけなのに。
先生を揶揄っていいのは、私だけなのに。
空銀子よりもずっとずっと、私のほうが。
「私のほうが……八一を好き」
私だけが知ってるその事実を伝えたかった。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1613822921
「黒いの。暇ならちょっと付き合いなさい」
「はあ? 嫌に決まってるじゃないの。馬鹿なの? 頓死するの?? 頓死すれば??」
その日、私は将棋会館で対局を終えて帰宅しようとしたら空銀子に捕まった。最悪だ。
私をどこかに連れ出そうとする彼女に、当然ながら反発する。すると、ペシンっと。
「うるさい。姪弟子の分際で口答えするな」
「な、殴ったわね……!」
痛みこそないものの、頬を張られた事実によって私のはらわたが煮えくり返った。
「お返しよ!」
「あ、八一」
「ッ!?」
棒切れみたいな脛に蹴りを入れようとすると、不意に空銀子が私の背後を見てその名前を口にしたので、慌てて振り返ると。
「ガキが。何を色気づいてるんだか」
「ぐっ……よくも……そんな嘘を……!」
師匠である八一の姿はなく、空銀子の嘲笑が耳朶を打つ。白熱する視界と熱い吐息。
これほどまでの怒りを覚えたのは初めてだ。
「ふっ。やっぱり黒いのは白いのよりも揶揄い甲斐がある。その点だけは褒めてあげる」
空銀子はそんなふざけたことを抜かし、私の頭に手を置き、そしてそのまま撫でてきた。
当然ながら払い除ける。すると、空銀子は。
「八一以外には撫でられたくないの?」
そんな妄言を吐いた空銀子を睨みつける。
「図星みたいね。と言っても……」
見透かしたような態度で空銀子は嘲笑う。
「八一が頭を撫でるのは白いのばっかりで、最近黒いのは放置気味のようだけど」
「あなたに何がわかるのよ」
怒りはなかった。ただ否定だけに専念する。
「先生はちゃんと私のことを見ているわ」
「ふうん? 満足してるんだ?」
「は? 何を言って……」
「たまに気まぐれで餌を与えられる程度で、満足なんだ。ふっ……安い女ね」
怒りはなかった。代わりに憎しみが増した。
「いいわ。その挑発に乗ってあげる」
務めて冷静に。意識して優雅に。強気に。
「そんなに私とおしゃべりがしたいんだったら、とことん付き合ってあげるわ」
すると空銀子はふと、優しく微笑んでから。
「……やっぱり黒いののほうがまだマシね」
そう言って、再び私の頭を撫でてきた。
手のひらから優しさの気配が伝わって、今度はその手を払い除けようとは思わなかった。
「それで、黒いの。どこまで本気なわけ?」
空銀子に連れられて入った喫茶店で、長靴のようなコップに入ったクリームソーダのアイスを、どうにかして沈めようとストローでつついている最中に、不意にそう尋ねられた。
「少なくとも、あなたよりは」
短くそう答えると、空銀子は私のクリームソーダを奪い取り、少し飲んでから眼光一閃。
「沈められたいわけ?」
アイスクリームを、コップの底深くに沈めながら脅してきた。メロンソーダは溢れない。
私がここで、泣き喚いても、先生は来ない。
「黒いのみたいなのは八一の好みじゃない」
クリームソーダをこちらに突き返しつつ、空銀子は淡々とした口調で私を否定してきた。
「八一は単純だから、白いのみたくベタベタに甘えないと好意に気づかない。そして八一は童貞だから、わかりやすい好意を見せてくれる女の子にはたとえどんなにお子様だとしてもみっともなく鼻の下を伸ばしてデレデレしてしまう。九頭竜八一は、あんたの師匠は、そんな男よ」
居飛車。そして恐らくは、居玉であろう。
息つく間もない程の辛い攻め手。深い研究。
空銀子はひと通り私に己の研究を披露した。
「要するに、黒いのは"地味"なのよ」
王手とばかりに、ぐりぐりと急所を突く。
「私ほど八一を粗末には扱わない癖に、白いのほど八一に甘えない。たまに優しくされても嬉しくないふりをする、天邪鬼」
「ええ。そこを先生は気に入ってくれてる」
端歩を突かれたので突き返すと、鼻で笑い。
「手のかかる生徒のつもり?」
「手の施しようのない幼馴染みよりはマシ」
「たしかに、私には今更八一への態度を改めることは出来ない。積み重ねてきた歳月があんた達とは違う。私にはこのままでも八一と通じ合える自信がある」
そこまで言い切られて、私は視線を落とす。
コップの中で沈んだアイスクリームが、まるで窒息しているかのように沈黙していた。
「黒いの」
呼ばれて、再び視線を合わすと挑発された。
「このままでいいの?」
対する答えは沈黙。否。私は熟慮していた。
「あんたは八一と出会って日が浅いし、何よりまだ小学生じゃないの。変わるなら今よ」
甘い囁き。しかしこれが罠だと知っている。
「そしたらきっと私は先生に失望されるわ」
「八一は喜んでくれないと?」
「いいえ。私が甘えれば先生は喜ぶに決まってる。私を愛してくれる。でも、それで終わり。それ以上、私は強くなれないから……」
強くなれないと。成長が止まったらきっと。
「あの人はきっと……私に失望する」
仮に恋人になれたとしても、棋士としての繋がりを失えば、先生の家族にはなれない。
棋界という狭い世界以外では生きられない。
「もうひとつ、飲みなさい」
空銀子はまるでそれが正解とばかりに頷いてから、またクリームソーダをオーダーした。
誰も同じものを飲みたいなんて言ってない。
「ひとまず、弁えていることは理解したわ」
「あなたに理解される筋合いはないけれど」
「黒いのの考えを理解出来るのは棋界じゃ私くらいよ。理解者と呼んでも過言じゃない」
過言にも程があるし、ちっとも嬉しくない。
「八一に失望されないように強くなって、強くなれば八一は褒めてくれる。たしかに今はそれで満足かも知れないわね」
「何が言いたいのよ」
「でも八一はずっと雲の上の存在なの」
九頭竜八一は竜王だ。棋界の頂点に立つ男。
「たまに下界に降りてくることがあるにせよ、住む世界が違うことには変わりない」
「だから?」
「選択肢は2つ。雲の上まで這い上がるか、下界で空を見上げながらひたすらに待つか」
ならば選択の余地はない。私は最初から。
「待つのは慣れてるわ」
ずっと待って、待ち望んで、会えたのだ。
「待っていたのはあんただけじゃない」
空銀子はまるで忠告するかのように告げる。
「下界に降りた竜王を捕らえようとしている輩は大勢居る。だから、油断しないで」
自分が言いたいことだけを言いたい放題言って、空銀子は伝票を片手に席を立つ。
少し伸びた白い髪を目で追って、尋ねた。
「あなたは随分と余裕がないようね?」
「私には余裕なんて……最初からない」
空銀子は立ち止まらない。そのまま去る。
「あの女が私に助けを求めるなんて……」
空銀子は私に忠告した。油断するなと。
「竜王を捕らえようとする輩、ですって?」
カラカラに乾いた喉に、すっかりアイスが溶けたクリームソーダを流し込み、飲み干す。
今だけは、忠告に感謝して空"先生"と呼ぶ。
「いいわ。先生のお望み通り踊ってあげる」
何が理解者だ。私のほうがよほど理解者だ。
空銀子の唯一の理解者として踊ってやろう。
天から堕ちて弱った竜王に群がる捕獲者の群れを追い払ってやる。そうしたら、きっと。
「私は今とは違う私に……進化できる」
出来るだろうか。空銀子は可能だと言った。
接し方を変えて、違う関係性を築く。
無論、失望されない形に。強く、美しく。
「私も……空銀子"先生"のように」
無意識に呟いた言葉を認めたくない。嫌だ。なんで私があの女を目指さなければならないのか。あんな風にだけはなりたくないのに。
「ふん……八一にもわかる好意、ね」
果たして、あの空銀子にそれが出来るのか。
でも、どうだろう。空銀子だって、きっと。
今更弟弟子との関係性を変えることは出来ないと口にしていたあの女だって、仮にも恋人ならば鈍い八一にもわかるような好意を伝えている筈で、たとえば語尾にハートマークを付けるような真似をしている可能性もある。
甘ったるい声で好きと言って、擦り寄って。
空銀子に甘えられた八一がすぐにその気になってしまうことは想像に難くなく、それを良いことにあの女は私の八一を誘惑したのだ。
「わ、私だって、その気になれば……!」
「お嬢様」
悔しさから親指の爪を噛んでいる私に、ボディガードの晶がそっと声をかけてきた。
何を今更とは思うが、晶は晶なりに見守ってくれていたのだろう。だから私は咎めない。
「帰るわよ、晶」
「はっ。しかし、その前にお嬢様」
「なによ」
「あれほどたくさんお飲み物を口にされた後ですから、お手洗いに行かれたほうが……」
長靴のようなクリームソーダを2杯。
たしかに小学生には多すぎる量だった。
しかし、晶の懸念はもはや無意味である。
「必要ないわ。替えの下着を用意しなさい」
「お嬢様……少し、失礼いたします」
晶が私のスカートの端に触れて確認をする。
無理矢理2杯もクリームソーダを飲まされた挙句、脅されて漏らしてしまったことを確認して、私のボディガードは愉悦を溢した。
「フハッ!」
周りの客が何事かと見てくる。羞恥によって顔に血が上るのを自覚しつつ、店を出た。
店内からは晶の高らかな哄笑が漏れている。
「フハハハハハハハハハハハハッ!!!!」
空銀子め。許せない。それはそれとして。
「次に会う時まで、八一を、必ず……!」
言いつけ通り、八一を守り抜くと誓った。
【りゅうおうの恋人のおしごと!】
FIN
このSSまとめへのコメント
このSSまとめにはまだコメントがありません