【ミリマス】志保は弟に助言を与えたい (27)
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北沢陸、五歳。
少年は冷蔵庫からキンキンのヤクルト容器を取り出すと、
憂いた手付きで蓋を開け、溜息と一緒に乳酸菌を胃袋の中へ納め入れた。
そして小さくげっぷ、ゴミはゴミ箱へ。
肩から外す鞄は彼が保育園のお世話になっていることを周囲へ示す証である。
その一連の様子を姉は見ていた。
北沢志保、十四歳。
彼女は買い物袋の中身を冷蔵庫へと移しながら、
この愛しき弟が何か重大な悩みを抱えている事実にそれとなく気がつき始めていた。
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「ねぇりっくん、今日、保育園で何かあった?」
「……べつに。なんでそんなこと聞くの?」
「なんでって……。いつもと少し、雰囲気が違うから」
姉は努めて優しくそう答えた。弟が着替えの為に制服を脱ぐ。
その背中から感じ取れるオーラは実に頑ななモノであり、
陸少年がパンツ一枚の姿になっても迫力は衰え知らずだった。
「……お姉ちゃんって、アイドルでしょ」
志保が返答に困って動きを止める。
愛する弟に問われた通り、北沢志保は間違いなくアイドルだった。
それもクラスの中の人気者や、町内会の老人達から
孫のように可愛がられている――といった比喩表現的アイドルではない。
仕事として、生き様として、煌びやかな衣装を身にまとって、
大勢のファンの前で歌って踊る本家本元大元締め、正真正銘の元祖アイドルなのだ。
「まさか、お友達からサインをねだられたの?」
姉は思った事を素早く口に出した。
「ううん、そんなことされてないよ」
弟が即座に否定を返す。
「だってお姉ちゃん伊織ちゃんじゃないもん」
刹那、志保は自らの視線を愛弟の背中から派手に逸らし、
込み上がる嗚咽を漏らさぬように口は片手で無理やり押さえつけた。
その不甲斐なさに小さく肩は震え、
手にしていた卵が床に落ちた衝撃で無数にひび割れる。
それはあたかも志保の心のようで、
滲み出す白身に彼女は悔し涙を堪え切れない。
「そ、そうね……。お姉ちゃん、伊織ちゃんじゃないね……!」
「うん。それにね、サインなら高木のお兄ちゃんにおねがいする」
高木のお兄ちゃん、とは志保の面倒を見ているプロデューサーの名前である。
彼の人となりの紹介は面倒なので割愛するが、
保育園のお迎え時間の関係で志保がにっちもさっちもいかなくなると、
決まって手を出す――いや、車を出してくれるお節介焼きの男だった。
また、陸はこの男に懐いており、
保母さん方からも『笑顔が胡散臭いが善人だろう』と好意的に受け入れられている。
志保も全く同感だ。
しかし今、彼女が気にせずにいられないのは隠し事を抱え込んでいる弟の方である。
「なら、何があったのかな?」
志保は今一度、気丈にも優しく尋ねてみた。
パン一で仁王立つ陸が顔だけをこちらへ向けるようにゆっくり彼女へ振り返る。
「お姉ちゃん。アイドルのお仕事に、オーディションっていうのがあるでしょ?」
「オーディション?」
それは仕事を得る為の手段だが、あえて訂正の必要も感じない。
……一体どうしたというのだろう? 志保は頷くことで先を促す。
「それで、役をえらぶんだよね。テレビとかの、お芝居とかの」
「ええ。お姉ちゃんも経験あるわ」
「それをね、保育園でもすることになったんだ」
言って、陸は幼い眉間にキリッと皺を寄せて見せた。
その凛々しい顔と佇まいに、志保の胸がにわかにキュンキュンときめき出す。
だが、しかし、オーディションとな?
「あのね、こんど劇をやるの」
途端、志保はいつか見たお知らせプリントを思い出した。
そういえば、近々保育園では保護者を招いて演劇の発表会をすることになってたな……と。
「りっくんやりたい役があるの?
だからオーディションの受かり方をお姉ちゃんに聞きたかったのかな?」
そんなことならば幾らでも教えてあげるとも! そう勢い込んで志保が訊けば。
「ううん。ぼくはプロデューサーだから」
「……えっ?」
「かほちゃんとしーかちゃんのどっちかをね、お姫さまにえらばなくちゃいけないんだ」
答える弟の眼差しは真剣だ。
しかし、保育園で披露するような劇の中に、
"プロデューサー"なる役が登場するお話なんかあったろうか?
……困惑する姉のことを他所に、
陸は洗濯物を腕に抱えると再び大きく嘆息した。
そうしてやれやれと首を振る弟の姿。
それに志保は、何か見慣れた人間の印象を重ねてしまい複雑な気持ちになるのだった。
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北沢家の家族構成は母一人、子二人のいわゆる母子家庭である。
時期によって忙しさにバラつきのある母に代わって、
まだ幼い弟のお迎えから食事の支度、
寝かしつけまでの面倒を見るのは姉である志保の役割だった。
「ところで、りっくん達は何の劇をするの?」
時刻は夕方六時過ぎ。
食卓には彼女のこしらえた料理が並んでいる。
とはいえ、志保に扱えるレパートリーの幅はそれほど広くはないために、
今日も今日とて子供舌に合わせた唐翌揚げと、無難な作りの野菜炒め、
そしてデザートに用意されているのは形の歪な水餃子を使ったスープである。
その、唐翌揚げに箸を伸ばしながら陸が言う。
「えぇっとね、白雪姫。それで、かほちゃんとしーかちゃんのどっちかをね――」
「白雪姫に選ぶんだね」
「うん。こんどの劇は"じしゅせい"を大事にするんだって。
誰が、なんの役をするか、ぼくらがぜんぶ決めるんだよ」
「ふ、ん……そうなんだ」
だが、それならどうして陸一人が白雪姫を選ばなくてはいけないのか?
それこそ多数決でも取って皆で決めるべきことだろう。
ぷりぷりの水餃子を口に運びながら、志保は浮かんだ疑問を訊いてみた。
「それは……ぼくの役が一番に決まったから。ほんとは王子さまと――」
「王子様っ!?」
瞬間、志保はさもあらんと瞳を見開いた。
そも、身内の贔屓目を無しにしても、
この弟君の容姿は抜群に整った部類にあり、
不意にはにかめば隣席の幼女は恋に落ち、
寝起きの潤み目はたちまち保育士の母性を刺激して、
さらには身にまとう柔和な雰囲気が、その素直で優しい性格が、
時に同性にさえときめきを覚えさせかねない魔性の魅力として発揮される。
……そんな陸がメインキャストとも言える王子様に?
「凄い! 先生達は実に見る目があるわ」
「ちがうよお姉ちゃん。役を決めたのは先生じゃなくてみんなだから」
「……でも待って。りっくん初めはプロデューサーだって」
「それも、ぼくがやるっていうのが決まったから。
かほちゃんとしーかちゃんが、お姫さまをえらぶのはぼくの仕事だって」
「えっ、本当!?」
志保が驚きで開いた口を押える。
これが姉の邪推で無いとすれば、かほちゃんとしーかちゃんとやらは
少なからずの好意を弟に抱いていると考えるのが普通だった。
しかし、当の陸本人は困ったように自分のお茶碗へ視線を落とす。
そうしてたっぷり間を計った後で、彼はゆっくりと姉にこう尋ねた。
「お姉ちゃん。どっちか一人をえらぶのって、
高木のお兄ちゃんがいっつもしてることなんだよね」
それが公演のセンターを務める役目、はたまたユニットの
リーダーのことを指しているのか志保には即答できなかった……が。
きっと自分のあずかり知らぬ場所で、
弟はプロデューサーの仕事について質問したことがあるのだろう。
男同士の秘密の会話である。
志保は少しばかり自分が女であることを嘆いたが、
すぐに気持ちを切り替え思考を巡らせた。
「……そうだね、プロデューサーさんのお仕事だよ」
「じゃあその時、えらばなかった人にはなんていうの?
えらぶのも、どうやってお兄ちゃんは決めてるの?」
「ん……りっくん、それは――」
つい、ご飯を運ぶ箸の動きだって鈍くなる。
事ここに至って志保もようやく弟の悩みが理解できた。
「お姉ちゃん、いつも選んでもらう側にいるから。詳しいことは分からないかな」
「……そう」と視線を伏せてしまうりっくん。
「でもね、選ばれなかった時にはいつも、プロデューサーさんは理由を教えてくれるんだよ。
だからお姉ちゃん、一々落ち込んだりしない。ダメだったところを練習して、今度は選んでもらえるように頑張るの」
「そうなの?」
「うん、選ばれるってそういうコト……。りっくんも二人のお友達が何をできて、
だからお姫様に選ぶんだって理由を最初に考えてみたらどう?」
言って、志保は優しく陸に微笑みかけた。
彼は口に入れたばかりの唐翌揚げをしばらくもごもごしていたが、そのうちにご飯と一緒に飲み込んで。
「ぼく、お姉ちゃんの言うとおりかんがえてみる」
そう力強く答え返すのだった。
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「で、りっくんはどっちを選んだのかな?」とハンドルを握る男は言った。
志保は止まったばかりの景色を眺めながら
「そういうの、見るまで知らない方が面白いんじゃありませんか」と素っ気ない態度で言い返した。
「それもそうだ。別に賭けてるワケでもないんだし」
「勝手に人の弟を賭けの対象になんてしないでください」
「ははっ、そこんところは安心するように。そもそも乗る相手がいない」
高木の笑顔に溜息をつく。
志保はシートベルトを外すと助手席のドアを静かに開けた。
そうして車から降りる直前にふと、思いついたように後ろを振り返ると。
「だったらこういうのはどうです? プロデューサーさんが今日の劇を観て、驚くかどうかに賭けるって」
その、志保にしては珍しい悪巧みをするような表情と、突飛な提案に高木は両目を瞬かせた。
「……今のはカウントされないよね?」
「"劇を観て"って言ったじゃないですか」
「随分自信たっぷりだし。言っとくけど、保育園の出し物で驚く人はそういないぜ」
それこそ舞台から子供が落ちるだとか、トラブルでも起きない限り。
……高木は言葉を飲み込むと、不敵に笑う志保に続いた。
陸の通う保育園にはそこそこの広さの講堂が存在する。
招待された父兄の中に高木と志保の姿もあった。
まるで本職のカメラマンかと見紛うような、気合の入った親御さんの姿を目の当たりに
「三脚ぐらいは持ってきた方が良かったかな?」とビデオカメラを構えた高木が志保にこぼす。
「映ってれば文句はありませんよ。
大事なのは、今日来れない母の為に陸の姿を残すことなんですから」
「君が良いならそれでいいけどもさ。
せっかく焼いたお節介だし、もう少し準備しておけばよかったと今更ながらに思ったんだ」
「本当、今更ながらの提案です」
言って、志保は表情筋が緩まないよう口元を中心に力を込めた。
男のお節介焼きは知っているし、今回もどこから聞きつけたのか突然の提案ではあったものの、
お陰で撮影係を任せて自分は劇に集中できる。
志保はそれを有り難くないとは思わない。
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