【Another】恒一「……中村青司?」 (373)
「そう、中村青司。――榊原くん、聞いたことある?」
「いや……初めて聞く名前だけど。その人が、どうかしたの?」
「この家を建てた、建築家の名前なんだって」
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※「Another」本編の重大なネタバレ、及び同作者「館シリーズ」の内容に触れている箇所があります。
1
御先町に位置する人形ギャラリー兼、ぼくのクラスメイト・見崎鳴の自宅でもある<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>。
その地下室の一角に置かれた黒い円卓、その前にあるニ脚の赤い肘掛け椅子の一つに、ぼく――榊原恒一は腰掛けていた。
円卓を挟んだ向かい側の椅子には、鳴が座っている。
ここは約二週間ぶり、ということになるだろうか。
前に訪れたのは、九月も終わりに近づいたある日。
病院で検査を済ませた帰りに、ふと思い立ってここを尋ねたのだ。
その時家には鳴が一人きりで、そのまま地下に案内されて……。
――そして鳴の口から、彼女がこの夏体験したもう一人の「サカキ」にまつわる話を聞いたのだった。
それなら今回ぼくが来た理由も、その話が絡んでいるのかといえば、そうじゃない。
鳴の体験とその顛末、その事件が遺した不穏な「予兆」について、思うところが無いわけではないけれど、
事件についてぼくは完全なる部外者であるし、問題の「予兆」にしても、今は単なる「予兆」でしかない。
結局、それが現実となった時に立ち向かうしかないのだろう。
じゃあどうしてぼくはここにいるのか、という話になるけど……。
今は十月も中旬に入りかけた土曜日の午後、である。
ぼくや鳴が在籍する夜見山北中学校も高校受験に向けての体制を整えはじめ、多くの生徒が受験勉強に励んでいる状況だ。
もちろん、ぼくが在籍する三年三組も例外ではない。
担任代行の千曳さんの下、それぞれが目標に向かって歩き始めている。
そんな中でぼくは、どこか取り残されているような気がしていた。
来年ぼくが受験するのは、東京にある私立高校で、ぼくが去年までいた中学校とは一貫校の関係にあたる。
県外の高校を志望しているのは、ぼくだけ。
そしてぼくは、大学教授である父の影響(あけっぴろげに言ってしまえば、つまりはコネだ)で、内部進学枠扱いで受験できることになっているのだ。
かといって勉強をしなくていい理由にはならないし、今サボれば高校に入学してから苦労することは分かりきっていたから日々の勉強を怠ってはいなかったけれど、どうしても他のクラスメイトとは取り組みの姿勢に差がついてしまう。
他のみんなが、同じ志望校どうしでそれぞれ切磋琢磨している状況を考えれば、尚更だ。
それから、理由がもう一つ。
現在の三年三組は、今までぼくが過ごしてきた「三年三組」とは違ってしまっている。
その事実こそが、ぼくの足を止めていた。
これは比喩などではなく、本当にそうなのだ。
なぜならクラス全員――ぼくと鳴を除いた誰もが、"彼女"のことを憶えていないのだから。
◇
今年三年三組を襲った<災厄>は、八月に行われた合宿において数多くの犠牲者を出し、ようやく終結した。
正確には、クラスに紛れ混んだ「もう一人」=<死者>の死をもって、である。
その<死者>の名は、三神怜子。
ぼくの叔母で、三組の副担任だった。
……八月までは。
<災厄>の終結と共に、その年の<死者>である彼女に関して改竄されていたあらゆる事実は修正され……。
彼女がいたことを今でも覚えているのは、その死に深く関わったぼくと鳴の二人だけだ。
他の人にしてみれば、「三神怜子」という名前は「二年前に亡くなった教師の名前」でしかない。
名前はともかく、顔まで覚えている人間は、今の三組では美術部の望月優矢と千曳さんくらいのものだろう。
そして……ぼくや鳴も、いずれは1998年における三神怜子の一切を忘れてしまうことになる。
そうなってしまえば、ぼくにとっても怜子さんは「二年前に亡くなった叔母さん」――それも小学校以来顔を合わせていない――ということに……。
もっとも本来は、それがあるべき事実だったのだ。
死んだ人間がクラスに紛れ込むなどという、この異常な<現象>が起きてさえいなければ。
だが現実として今年は<ある年>で、ぼくは生身の<死者>である怜子さんと、過ごすはずのない日々を過ごして……。
――そして今更になって、全てが元に戻ろうとしている。
怜子さんのいない、今となってはもはや偽りの1998年へと。
要するに、今ぼくが抱いている疎外感の原因は、このずれにあるのだろう。
そうした現状への反発で、自分が動けなくなってしまっていることは少なからず自覚している。
馬鹿げた話だけど、クラス全体で怜子さんのことを意識的に忘れようと――それこそ、いないものに――しているように思えて、理不尽な苛立ちを覚えてしまうこともあるのだ。
そうなるくらいなら、いっそぼくも怜子さんのことを忘れてしまった方がいいのかもしれない、とも思う。
それはつまり、そのうち<現象>によって遅かれ早かれそういうことになってしまうのだけど、
今のうちから現実を受け入れて、これからのこと(例えば勉強)に専念するべきではないか、ということだ。
少なくとも鳴はそうしている……ように、ぼくには見える。
もともと勉強が好きだったということもないはずだけど、最近は傍目にもよく勉強している。
鳴が受験するのは、市内のとある公立高校らしい。
決してレベルの低い高校ではないけれど、現時点での鳴の学力を考えれば、
県内だけで考えても、他のもっと偏差値が高い、いわゆる進学校だろうと十分に合格できるはずだ。
それでも市内の高校にこだわっているのは、霧果さんのことがあるからなのか、他の理由があるのか……。
いずれにせよ、机に向かっていてもどこか上の空なぼくとはえらい違いだ。
もっとも、鳴の場合は四月に亡くなった双子の妹・藤岡未咲のこともあるのだろう。
しかもそれは、有無を言わさず修正される<死者>の記憶とは違い、自分自身で折り合いをつけるしかない。
忘れてしまいたい、だけど忘れられない、そして忘れてもいけない記憶。
――そんなに忘れたくない? ずっと憶えていたい?
<災厄>が終わって間もない頃。
見舞いに来た鳴にそう訊かれ、ぼくははっきりと答えることができなかった。
ぼくへ向けられたその問いはもちろん、怜子さんのことを尋ねていたのだろうけど……。
もしかしたらそれは、自分への問いかけでもあった?
鳴は、答えを出したのだろうか。
ぼくは……まだ、結論を出せていない。
ただこれは、「その時」が来てしまえばどのみち消えてなくなる悩み。
だからこそぼくは、こうして立ち止まっている部分もあるのだろう。
どう頑張っても忘れてしまうのなら、逆に無理して忘れようとする必要もない――と。
それはつまり、怜子さんのことを忘れたくない、そういうことのようにも思えるけど、
彼女を忘れてしまった自分を想像しても、不思議と寂しい気持ちにはならないのだった。
たとえ、そうなってしまったとしても。
それからのことは、そうなってからのぼくがきっとなんとかするだろう。
立ち止まっていたことを「先生やクラスメイトが亡くなって落ち込んでいた」とでも結論づけて、遅れを取り戻すべく頑張ってくれるに違いない。
だからぼくは、今も<災厄>が終わった時のまま、ただ佇んでいる。
答えを出さなくても、いずれ時が経てば考える必要もなくなるぼくは、幸せなのかもしれない。
――話はようやく、元に戻る。
そんな調子だったから、ぼくはわざわざ休日まで勉強する気にはなれず、午前中はずっと家で小説を読んでいた。
午後にはそれも飽きてしまい、どうしたものか悩んだ結果、鳴の家を尋ねることにした……
というより、霧果さんの創った人形を見に行こうと思ったのが、今ここにいる理由。
なんてことはない、早い話がぼくは暇だったということだ。
2
おや、と思ったのは、入り口近くまで来た時だった。ギャラリーの中が、薄暗い。
普段からそれほど明るいという印象があった訳でもないが、それにしても暗い。
ショーウィンドウから館内を覗きこんでみるが、やはり照明は点いていないようで、中の様子もよく分からなかった。
いつも天根さんが座っているカウンターはここから見えないけれど、この様子では、きっといないのだろう。
顔を上げると、ちょうどぼくの目の前に位置した顔と、ガラス越しに目が合った。
ショーウィンドウ近くに展示されている、上半身だけの少女人形の顔だ。
中を覗き見たことを咎められているような気がして、思わず身を引く。
そういえば、今日は表に看板も出ていない。
……まさか、また閉館?
ニ、三歩下がり、コンクリート造りの建物を見上げる。
上階の窓からは、薄いカーテン越しに、蛍光灯の光が白く浮かび上がっていた。
どうやら、留守ということではないらしい。少なくとも、鳴か霧果さんはいるみたいだけど……。
わざわざ外階段を登ってインターフォンを押すというのも、気が引ける。
そもそも今日はギャラリーの人形を見るだけのつもりで、鳴に連絡もしていない。
ここに来た結果として、たとえば天根さん辺りから、上階に上がっていくよう誘われたとしても断るつもりだった。
そのくらい気軽に来た、と言えば聞こえはいいが、要するに無計画でしかない。
だからこの現状を受けて、今日のところは大人しく帰るという決断をすることにも、大した時間はかからなかった。
霧果さんの人形を見るという目的は一応果たされたことだし……ショーウィンドウ越しだけど……と、一人で納得する。
ただ最後に、本当に閉館なのか確かめるくらいのことはしてもいいだろう。
ひょっとしたら、明かりが消えているのは外がまだ明るいからなのかもしれないし。
ドアの前に立ち、レバーハンドルを握って押し下げる。
どうせこのドアを押したところで、返ってくるのは施錠されたドアの硬い感触だけ。
そう思って、少し強く腕に力を込めた。
――からん、というドアベルの透き通った音が響く。
……開いてる?
予想していなかった展開に、右腕を突き出したままの姿勢で固まってしまう。
ひょっとして、閉館ではなかったのだろうか。いや、だとしてもこのまま入ってしまうのは……。
ああでも、ここでこうしていたって、それはそれで不審だ。
少しの逡巡のあと、ぼくはドアの隙間に体を滑り込ませた。
3
背後でドアが閉まり、ドアベルがもう一度音を立てる。
もともと館内を満たしていたであろう静寂の中に、その残響が消えていく。
やはりと言うべきか、入って左手に設置されたカウンターの中に天根さんの姿はなく、明かりもショーウィンドウを通して入ってくる光だけ。
いつもなら名前も知らない弦楽の調べが流れているはずだけど、今日はそれもなかった。
分かっていたことだけど、これはどう見ても営業中じゃない。
やっぱり今日は閉館で、ドアの鍵は単に締め忘れただけなのだろう。
そんな普段とは違う館内であっても、人形たちはいつも通り、思い思いの場所にいる。
当然ながら、そこに人形を置いたのは創った本人である霧果さんなのだろうが、ただ並べられているだけじゃなく、
中には陳列棚に腰掛けたり、ショーケースの中に横たわっているものもあったりと、
まるで人形が自分でお気に入りの場所を見つけ、他の人形に奪われないよう、そこを守っているような。
そんな錯覚に陥ってしまう。
ちなみに、霧果さんというのは鳴の母親(正確には義理の母親で、血縁上は伯母にあたる)なのだが、
霧果というのは人形師としての雅号のようなもので、本名は由紀代というらしい。
霧果さんの人形は、ただ美しいというよりは、どこか妖しく……いっそのこと、不気味と言い切ってしまってもいいのかもしれない。
人に限りなく近いようでいて、どこかで決定的に異質でいる。
かといって、それを上手く説明することもできなくて……。
それでも、単純に「美しい」の一言で終わらせてしまうことが憚られるのは、ぼくがその差異を無意識に感じ取っているからなのか。
とにかく、そういう負の魅力も内包した一筋縄ではいかない美しさに、ぼくは惹きつけられているのだろう。
こうしてじっと見ていると、どんどんと魅入られて……ある一線を越えた瞬間、ずるりと何かに取り込まれてしまいそうな――。
これが鳴の言う、人形の「虚ろ」に自分を吸い取られていく、ということなのかもしれない。
鳴の家だということも知らないままここを訪れ、初めて人形たちを目にした時よりは、
そういう感覚にも慣れたのか、気分が悪くなることも無くなっていたけれど……。
今日は、雰囲気が違っていた。
人形だけで占められていた空間に、ぼくという異物が混ざり込んでしまったせいか、
至るところから視線を注がれているように感じてしまう。
仄暗い無音の中で、人形たちが息を潜めてぼくの様子を窺っている。
そして今にも、その押し殺した息遣いが聞こえてきそうな――。
……やっぱり、今日はもう帰ろう。
そう思った時だった。
「誰か、そこにいるの?」
聞き覚えのある声がした。
もちろん、ぼくの見える範囲には誰の姿もないし、ましてや人形が喋ったわけでもない。
声が聞こえたのは、一階の奥にある階段、その更に奥からだった。
一階のこちら側には、上階へ向かう階段はない。
裏口から入る天根さんの居住スペース側には上りの階段があるそうだけど、ぼくはそっちに行ったことはない。
この建物にはエレベーターもあるのだが、その入口もやはりここにはない。
つまり、裏口側から壁を隔てたこのギャラリーにあるのは、地下へと降りる階段だけなのだ。
近寄って手すりから身を乗り出し、下を覗きこむ。
「榊原くん?」
鳴が、階段の踊り場からこちらを見上げていた。
「……こんにちは、見崎」
答えながら、階段を降りる。
鳴はいつだったかの黒いロングワンピースを着て、それだけでは肌寒いのだろう、これまた黒いカーディガンを上から羽織っていた。
それから……左目にはいつも通り、眼帯を。
「どうして、ここに?」
驚いているというより、単純にぼくがここにいることを不思議がっているような口調だった。
「気分転換に、霧果さんの人形を見ようと思って。ドアが開いてたから入っちゃたんだけど……」
それを聞いて、鳴は首を傾げる。
「開いてた?」
「うん」
「ふうん。……じゃあきっと、天根のおばあちゃんが鍵をかけ忘れてたのね」
「え。……ちょっと不用心じゃないかな、それって。他の階はどうなの?」
「二階も三階も、わたしがちゃんと鍵を掛けたから大丈夫。ここの裏口もね。どうせここを見に来る人なんて、めったにいないし。たぶん、入ってきたのは榊原くんが最初だと思う」
「ひょっとして、入っちゃまずかった?」
「別にいいよ。でも今日はギャラリー、お休みだから、見てもあまり面白くないかもね。……上、電気点ける?」
「あ……いや、大丈夫。そこまでしなくても」
「そう? じゃあ、どうぞ」
そう言って、階段の側にある円卓の椅子の一つを勧める鳴。
言われるままぼくが座ると、鳴も向かいの椅子に腰掛けた。
<夜見のたそがれの……。>は地下一階も同様に展示スペースとなっているが、上階とはだいぶ趣が異なる。
区別するために、一階部分を「ギャラリー」、地下一階を「地下展示室」と呼ぶことにしよう。
地下展示室にもギャラリー同様陳列棚が置かれ、様々な人形があちこちに並んではいるが、
色とりどりの衣装に身を包んだ一階のものとは違い、ほとんどが裸のままで置かれている。
そのうえ、人形たちには首や腕が無かったり、かと思えば部屋の一角には腕だけがまとめて置かれていたりもする。
要するに、つくりかけの人形がそのままここに置かれているといった風情だ。
いや、霧果さんにしてみれば、これでもう完成しているということなのかもしれないけれど……。
白磁のような肌を赤や緑のライトで様々に染め上げている人形たちは、たまたま人の形をしているだけのオブジェ、という風にも見える。
「榊原くん、本当にこういうの、好きなのね」
そう言われて、自分がずっと人形たちを眺めていたことに気付き、慌てて鳴に向き直る。
鳴はどうやら、淡い笑みを浮かべているらしかった。
……ぼくの様子がそんなに面白かったのだろうか。
その背後、折り返す階段の下に空いたスペースには、首だけが無い人形が立っている。
「まあね。……天根さん、ひょっとしてまだ体調が悪いの?」
この前来た時に、鳴がそう言っていたはずだ。
鳴は「ううん」と首を振る。
「あれからすぐ良くなって、普通に受付をしてたんだけど……数日前にね、今度は腰を痛めちゃって。今は霧果の実家で療養中」
「ああ……それはまた、大変だね」
「本人は大した事ないって言ってるみたい。でも、無理をさせても仕方ないから」
天根さんは霧果さんの伯母、つまり鳴にとっての大伯母さんにあたる。
祖母を早くに亡くしている鳴にとっては、本当の祖母のような人だという。
「それに、お休みなのは霧果の工房だって一緒だし」
「そうなの? じゃあ見崎、もしかして今日も一人――」
「お母さんなら、上にいるよ」
「……あ、そうなんだ」
って、ぼくは何を勢い込んで聞いてるんだ。
気恥ずかしさを取り繕いたくて、慌てて質問を重ねる。
「見崎は、ここで何を?」
「特に何か、ってわけでもないんだけどね」
少し考え込むような仕草を見せたあと、
「榊原くんと同じ……かな。気分転換」と答える鳴。
「さっきまでは、自分の部屋で勉強してたの。ちょっと休憩のつもりでここに来て、誰かが入ってきたから声をかけてみたら――というわけ」
示すように手の甲を下にして、揃えた指先をぼくに向ける。
「そっか。じゃあ、お互い暇なんだね」
軽い沈黙が流れた。
この前は、この地下展示室でこうやって向かい合って座りながら、鳴の話を聞いたぼくである。
きょうもこうして座ったということは、もしかしてまた、ああいった話をしてくれるということなのだろうか。
もしそうなら、いい退屈しのぎになるんだけど。
鳴に座るよう誘われた時から、いや、実はそもそもここを訪れた時点で既に、ぼくは内心そんな期待をしていたのかもしれない。
果たしてそんなぼくの心を読み取ったのか、鳴は両肘をついてテーブルに体を預けると、ぼくを見上げるようにしてこう言った。
「ねえ、榊原くん。――中村青司って人、知ってる?」
4
「この家はね、私のお父さん、見崎コウタロウ――漢字で書くと紅太郎って字を書くんだけど――が、霧果のために建てたものなの」
「見崎のお父さんって、いつもは海外にいるんだっけ」
「うん、後の半分は東京で仕事。だからあっちに拠点代わりの家はあるみたい。この家にもお父さんの部屋はあるんだけどね」
鳴の父親については、やり手の実業家だという話は聞くし、もしかして家の一軒や二軒、彼にとっては大したものではないのかもしれないけれど……。
この家にしても、家というよりは殆どビルといった佇まいだし、相当な費用がかかったことだろう。
「霧果にしても、それまでは実家で人形制作をしていたところに自宅と仕事場を貰ったわけだから……とても喜んでたって、お父さんが言ってた」
「つまり、きみのお父さんがその中村って建築家に頼んで、この家を建ててもらったんだ?」
肘が痛くなってきたのか、鳴は体を起こして座り直し、こくり、と頷く。
「ということは……結構有名な人なのかな。ぼくはそういうの、あまり詳しくないからよく分からないけど……」
「それほど有名って訳でもないみたい。お父さんの言い方も『知る人ぞ知る』みたいな感じで……名前を知ったのも、仕事の関係で、たまたまだって」
「……そうなんだ」
「自分の趣味を優先した、へんてこな家ばかり建ててた人で……お父さんはそれを見て、虜になっちゃったのね。絶対自分も家を建ててもらうんだ、って」
鳴の口調が、感心しているような、呆れているような、そういった感情が混じったものになる。
「当時、中村青司はもう建築家を引退してて、孤島で家族と暮らしてたらしいんだけど……お父さん、直接そこに乗り込んでお願いしたらしいの」
「へえぇ……でも、こうして家が建ってるってことは、それで上手くいったんだ?」
「ううん、最初は取り付く島もなかったって。自己紹介して名刺を渡したら『名前が弟と似ているのが気に食わん』って言われて門前払い」
それはなんとも理不尽な理由だ。
ぼく自身が名前で嫌な思いをしたことがあるせいか、自分のことでもないのに少しむっとしてしまう。
でもまあ、その中村青司が建築家――すなわち芸術家であるということを考えれば、
その気難しさにしても、さもありなんといったところなのかもしれない。
「それから何度お願いに行ってみても、同じことの繰り返しで」
「……なんか、到底オーケーを貰えるようには思えない流れだね。何かしら、向こうに心境の変化があったとか?」
「うーん、心境の変化というよりは……霧果のおかげ、なのかな」
「ここで霧果さん?」
「その時はまだ結婚してなくて、お父さんの婚約者だったらしいんだけど」
そっと眼帯の縁に指を添え、鳴は続ける。
「ある時、お父さんが霧果の人形を手土産に持って行って……中村青司は、それをいたく気に入った、というわけ」
「……ははあ」
それが突破口になった、ということらしい。
しかし、人形を手土産にするというのも……苦肉の策というか、思い切ったというか。
もちろん、霧果さんの人形には、ただ美しい以上の、それこそ言葉では言い表せないような魅力があるのはぼくでもわかるけれど……。
もしかしたら、中村青司もぼくと同じように――いや、芸術家としてぼく以上に、感銘を受けるところがあったのかもしれない。
鳴の父親は、その可能性に賭け、そして勝利したということか。
「それで『創った人に会ってみたい』という話になって、霧果と二人で、ようやく家に上がらせてもらったのね。最終的には『ある条件』の下、建築の依頼を請け負った」
「その条件って?」
今までの流れを考えれば、それがどういうものであるかは薄々分かったけれど、あえて訊くことにする。
鳴は小さく頷き、こう言った。
「霧果に、人形を創ってもらうこと。――それも、自分の妻をモデルにして、ね」
◇
「……よっぽど気に入ったんだね、霧果さんの人形」
「霧果にしても、仕事の依頼があれば引き受けない理由はないし、そこからはとんとん拍子に話が進んで、この家が建ったんだって。家が完成するより、霧果の人形が出来上がるほうが先だったみたいだけど」
自分の妻をモデルにした人形。
ぼくは思わず、ここにある鳴そっくりの人形を思い出す。黒い棺に入った例の人形だ。
中村青司の妻をモデルにしたというその人形もきっと、本人によく似ていたことだろう。
ちなみに、当の人形は地下展示室の奥に置かれているが、ぼくの座っている位置からは見ることが出来ない。
その前に置かれている陳列棚が、ちょうど衝立のように棺を覆い隠してしまっているのだ。
何を隠そう、ぼくがここに来た当初の目的には、その鳴の人形を見ることも含まれていたんだけど……。
しかしまさか、モデルである鳴の前でそれをじろじろと見るわけにもいかない。
棺の人形は、鳴に言わせれば確かに鳴をモデルにしてはいるものの、
これは霧果さんが、生まれてくることができなかった自分の子供を想って創ったものであり、鳴はその半分以下でしかない……らしい。
そうは言ってもぼくにしてみれば、やっぱり鳴にしか見えないわけで。
それでも鳴や霧果さんには、あの人形が全く違って見えるということなのだろうか。
そんな風にぼくが考えこんで沈黙してしまったのを、鳴は別の意味で捉えたのか、
「普通だな、って思った?」
「えっ?」
突然こんな事を言い出すのだった。
「建築家から、そこまでして家を建ててもらったのに、案外普通の家なんだな……って」
「ああいや、別にそういうことを考えてたんじゃなくて――」
慌てて答えながらも、鳴にそう言われてみると、どこか同調してしまう自分に気付く。
住宅街の中にあって、コンクリートが打ちっぱなしになっているこの建物は一際目を引くけれど、この建物自体がそれほど特殊な構造をしているわけではない……ように思う。
少なくとも、鳴の言葉の中にあった「へんてこな家」という部分に引っかかりを覚えたのは事実だ。
とはいえ、ギャラリーと工房、それから自宅を兼ねているという点を考えれば、それこそ奇抜なデザインにするわけにもいかないだろう。
それにこの家を除けば、ぼくは中村青司の建てた家を目にしたことは一度もないし、名前だって今日初めて聞いたばかり。
建築家=奇抜なデザインをするもの、という偏見がぼくの中にあるだけで、もともとこういう作風の人なのかも……。
しかし、鳴は更に言葉を続けた。
「いいの。わたしもそう思ったから」
「えっ?」
ぼくはもう一度間抜けな返事をしてしまう。
「お父さんからこの話を聞いた時にね、わたしもそう思って訊いたの。……お父さん、この家についてはお金だけ出して、あとは全部霧果に任せたみたい」
全部を、霧果さんに?
「夜見山に建てる時点で自分は住めないから、もともとそういうつもりだったんだと思う。それに、霧果のおかげで上手くいったから、そのお礼って意味合いもあったのかもね」
「じゃあ、霧果さんがこういう構造でリクエストしたんだ?」
「そう。ギャラリーと工房がメインで、見てくれや住むところは二の次。霧果らしいでしょ」
ぼくは以前に一度だけ、霧果さんと顔を合わせたことがある。
鳴と似通っている部分が確かにありながら、より一層人形を思わせる無感情な面立ち。
確かに、この無機質と言ってもいい外観と、重なるところがあるかもしれない。
「だから、住む分には大変なところもあるけどね。……わたしの部屋って、どこにあると思う?」
「見崎の部屋?」ぼくはまだ入ったことはない。当然だけど。「三階、とか? リビングもあるし」
「やっぱりそう思うよね。でも、正解は二階。――外の階段を使って二階の入口から入るとね、入ってすぐは三和土になってて、そこを上がると両側にドアがあるの。右側がわたしの部屋で、左側が霧果の工房」
「へえ、そうだったんだ」
「入口から近いのはいいけど、ご飯を食べるにも毎回階段を登らないといけないし、たまに工房のお客さんが間違えて部屋に入ってきちゃうし……」
そう言って、指折り数えて難点を挙げていく。
不満はなかなかに多いようだ。
「でも、霧果さんの工房が向かいにあるって、ちょっと羨ましいかも。すぐ見に行けてさ」
「……わたし、霧果の工房にはめったに入らないよ」
「そうなの?」
「べつに、普通に暮らす分には入る必要、ないから。邪魔もしたくないし。最後に入ったのなんて、もう何年も前」
「霧果さんの方は? 見崎の部屋に様子を見に来たりとかって、ありそうだけど」
「全然。そういうの本当に気にしないよ、霧果は。工房で人形を創っていられれば、それでいいって人だから」
つまり、お互いに目と鼻の先に居ながらにして、行き来は全くないということらしい。
「でも、気になったりしない? 霧果さんが今、何を創ってるのか……とか」
鳴も、霧果さんの人形に悪感情を持っているわけではなかったはずだ。
時折こうして彼女が地下展示室を訪れる理由も、「嫌いじゃないから」なのだし。
「ならないって言ったら嘘になるけど……でもね、入るべきじゃないって気持ちの方が強いかな」
そう言って、鳴は地下展示室のあちこちに立つ人形たちを見回す。
「霧果がどんなに想いを込めて創っても、この子たちはまだ、こんなにも空っぽなの。だから、まだ完成してない人形なんてきっと……」
「――あまりにも、虚ろすぎる?」
ぼくが言葉を継ぐと、ゆっくりと鳴は頷いた。
「……たぶんね。あれだけ自分自身を注ぎ込んで、涸れ果ててしまわないあの人が不思議」
胸の辺りで祈るようにして両手を合わせ、指先をじっと見つめながら鳴は言う。
「そうして創られた人形で、この家は埋め尽くされてるの。……だからやっぱり、"夜見山の人形館"はお父さんのものじゃなくて、ほとんど霧果のものっていうのが適切かな」
「夜見山の人形館?」
「知らない? ここの名前、<夜見のたそがれの……。>って、長くて言いにくいし、名前を知らない人もいるから、この辺の人たちはみんなそう呼んでる」
……知らなかった。
そうは言っても、ぼくにとってここは「鳴の家」だし、これからも使う機会はないかもしれない。
「……人形館、か……」
ここを目にした人が抱く印象は、やはり人形だということだろう。
当然、そこに「誰がこの家を設計したのか」なんて疑問が浮かぶことはない。
鳴の父親が、わざわざその中村青司に依頼した甲斐は果たしてあったのか、そんな気もしてしまう。
「……きみのお父さんは、それで良かったのかな。せっかく依頼を受けてもらえたのに」
「たぶん、だけど……途中から、中村青司に家を建ててもらうことそのものが、目的になってたのかもね」
彼に拒絶され悪戦苦闘しているうちに、それ自体が目的になってしまったということか。
そういうことも、確かにあるかもしれない。ぼくだってそんな経験はある。
「それを達成して満足したのと……あとは、下心とか」
「霧果さんに対して、ってこと?」
「そう。お父さんにしてみれば、霧果へのいいアピールになった、ってところね。……ひょっとして、普段の仕事でもこういうやり方、よくしてるんじゃないかって思ったり」
そういう側面があるのは事実かもしれないが、あまりに身も蓋もない鳴の言いように、思わず苦笑してしまいそうになる。
何もそこまでバッサリ切り捨てなくても……とは思うが、ぼくが口を挟むべきことでもない。
「わたしに対しても、帰ってくるなり別荘に連れ出して、その上自転車の練習に誘って、って……どうもね。父親としてこなすべきことを効率よく片付けてるって感じ」
うんざりとした様子で、鳴は肩をすくめ、
「可愛がってくれているのは分かるし、迷惑だって言い切るつもりもない。だけど、やっぱり……」
そこまで言いかけたところで言葉を切り、ため息をつく。
その後も続きを話し出す気配はなく、どうやらこの話はこれで終わりということらしい。
けれどぼくには、鳴が呑み込んだ言葉がなんとなく想像できた。
きっと、「だけど、やっぱり……」の後は、こう続いたはずだ。
――やっぱりわたしは、本当の娘じゃないから。
5
さっきも触れたことだが、霧果さんは鳴の本当の母親ではない。
なら、誰がそうなのかと言えば……霧果さんの双子の妹・藤岡美津代さんがそうなのだ。
むろんぼくも、鳴にそんな事情があると知ったのはつい最近の話。
あの合宿の夜に本人の口からそう聞くまでは、彼女と霧果さんの関係を疑うこともなかった。
鳴はもともと、美津代さんとその夫である藤岡さん夫婦の間に生まれた。
藤岡未咲と共に、双子として。
二人は二卵性双生児だが、とてもよく似ていたらしい。
少なくとも、鳴が彼女を「自分の半身」と形容するくらいには、そうだったのだろう。
……そういえば、美津代さんと由紀代(霧果)さんも、同じように二卵性双生児で、やはりよく似ていたという話だ。
その霧果さんも、紅太郎さんと結婚して子供を身ごもったが……結果は死産。
加えて、それが原因で霧果さんは二度と子供を産めない体になってしまう。
霧果さんの悲しみは相当なものだったらしい。
それこそ、そのままでは正気を失ってしまいそうなほどに。
一方藤岡さん夫婦は、二人の子供を育てることに経済的な不安を感じていた。
奇しくも、双子の間で需要と供給がぴったり釣り合って――これは鳴の言葉だ――そして。
その結果、鳴は二歳の時に見崎家に養子に出されることとなり、今に至る。
鳴の両親に対するどこか他人行儀な態度は、このあたりの事情に端を発しているのだろう。
大人の都合で本当の両親から引き離された本人にしてみれば、自分は死んでしまった子供の代用品という思いを拭えないでいるに違いない。
そして、そうまでして保った均衡も、今年で壊れてしまった。
藤岡未咲が、亡くなってしまったのだ。
腎臓の重い病気を患った彼女は、母親である美津代さんから腎臓移植の手術を受けたという。
結果は成功。経過が安定したのを見計らい、東京の大きな病院から夜見山の市立病院に戻ってきていたのだが……。
様態が急変し、彼女が命を落としたのは四月も終わりのころ。
そう、今年の<災厄>による四月の、そして最初の犠牲者が彼女だった。
――親御さんがすごく取り乱して、大変だったとか。
水野さんが、そんな風に言っていたことを思い出す。
彼女の両親は当然のこと、鳴の悲しみも相当なものだったはずだ。
お互い親には内緒でこっそり会っていた、なんてことも言っていたし、とても仲が良かったことは間違いない。
とにかく、そんな出来事があって……。
今では、霧果さんと美津代さんの立場が逆転してしまっている。
もちろん、じゃあ今度は鳴をもとの両親のところに戻して……なんてことは馬鹿げているし、そんな単純な話でもない。
それは分かっているのだが、それでも両家の関係はなんともいびつだ。
――会いたいって、思ったよ。
本当の両親である美津代さん夫婦について、以前に鳴はこう言っていた。
しかし、霧果さんは鳴が彼女に接近することを極端に嫌い、そして恐れている。
それ以外のことに関しては、基本的に霧果さんは放任主義だという。
鳴がその気になれば、いくらでも彼女には秘密にして会いに行くことは難しくないはずだ。
それなのにそうしないのは、きっと霧果さんに対してもまた、割り切れない感情が鳴にはあるからで……。
当の鳴は、肘掛けの一方にもたれかかるようにして人形たちを眺めている。
そもそもの目的であったここでの気分転換に、改めて戻ったということだろうか。
それにしてはなんだか、思いつめたような表情をしているのがぼくには気にかかる。
鳴にしてみれば、さっきのことはただ単に話の流れでそう口にしかけただけのことで、ぼくがあれこれ気にすることもないんだろうけど……。
それでもこの空気は、やっぱり少し辛い。
――よし。
「あのさ」
沈黙を避けようとぼくがそう声にしたのと、
「あのね」
まるで意を決したかのように鳴が言葉を発したのは、ほぼ同時だった。
「あ……ごめん。何だった? 先に話していいよ」
すぐにそう言ったものの、鳴はただ首を横に振る。
どこか、安堵しているようにも見える表情だった。
「別にいい。榊原くんが話して。……それに、あんまり大したことでもないし」
今ので気勢を削がれてしまった、ということらしい。
たぶん、これ以上はぼくがいくら促そうとも無駄だろう。
ぼくは仕方なく、言いかけていたことの続きを口にした。
とはいえ、こっちもこっちで大したことではないのだけれど。
「えっと……夏に見崎が行ってた別荘、あったよね。あれもひょっとして、きみのお父さんが中村青司に建ててもらったもの?」
この質問に、深い意味はなかった。
ただ、ちょっと暗い方向に傾きかけたこの場の雰囲気を変える話題として、ふと思いついただけのこと。
そしてぼくの狙い通りと言うべきか、「ああ」と返事をする鳴の表情からは、さっきまでの憂いの色は消えていて。
それは良かったのだけど……鳴の答えは、予想していないものだった。
「あそこは違うの。……中村青司が建てたのは、この家だけ」
「あれ、そうなんだ?」
「お父さんは、別荘も中村青司に依頼するつもりだったのかもしれないけど……その前に、彼が亡くなってしまったから」
「亡くなった? それは、病気か何かで?」
小さく首を振る鳴。
「わたしたちがまだ小さいころの話で、あまり詳しくは知らないけど……殺人事件だったみたい」
「……え?」
ぞくりと、背中を冷たいものが通った。
それまで意識すらしていなかった、地下展示室の空調の低く唸るような駆動音が、急にうるさく感じられる。
それでも鳴の口調は、いつも通りの淡々としたもので。
「中村青司とその妻、それから、住み込みの使用人も殺されてしまって、ワイドショーやニュースでも大きく取り上げられてたって」
ずうぅぅぅーん……。
空調の音はいつの間にか、聴き覚えのあるあの重低音へと変わっていた。
手術で完治した肺に忘れたはずの息苦しさを覚え、胸の辺りを押さえたくなったが、なんとかこらえる。
「……だから、お父さんは依頼できなかったの」
そんなぼくをよそに、鳴は話をこう結ぶ。
頭の中で反響する重低音は、当分消えてくれそうもなかった。
6
ひとしきり話し終わった鳴は「んっ」と軽く喉を鳴らす。
「喉渇いたし、何か上で飲まない?」
「……ああ、うん。でも、いいの?」
「言ったでしょ、暇なの。それに『何か』って言っても、出てくるのはいつもの紅茶だし」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
正直、ありがたい申し出だった。このままここにいたら、具合が悪くなっていたかも……。
――ひょっとして、ぼくに気を遣ってくれた、ということだろうか?
だとしたら……ううむ、ちょっと情けない。
椅子から立ち上がり、二人で奥のエレベーターに向かった。
初めてここに来た人は、エレベーターがあることに気づかないかもしれない。
地下室展示室の奥に、こちらに背を向けて立っている一際大きな陳列棚がある。
その更に向こう側、カーテンの奥がエレベーターホールになっているのだ。
そして、陳列棚とカーテンの間、そのスペースにあるのが……
例の、棺に入った鳴そっくりの人形だ。
こうして間近で見るのは久しぶりだけど、いつ見ても本人に――というのは鳴にすれば不適切なんだろうけど――似ている。
人形なだけあって、流石に背丈は鳴よりふた回りは小さいし、髪も肩より下まで伸びているけど……何より顔が鳴そのものだ。
それから……その右目には、鳴のあの<人形の目>と同じ、蒼色の瞳。
長い髪に隠れて今は見えない左目にも、同じ輝きがあることをぼくは知っている。
見慣れているのだろう、鳴はまるで気にした様子もなく棺の横を通り抜け、カーテンの向こう側に消えていく。
立ち止まるわけにもいかず、ぼくも人形を眺めるのはそこそこに、カーテンに手をかけ、その向こうに……。
――と、その時。
「……?」
ふと、違和感を覚えた。
自分でも、何に対してそう感じたのか分からないまま、動きが止まる。
何だ?
一体、何が引っかかったんだ?
……人形?
棺の中を覗き込んだ。
蒼白いドレスに身を包んだ人形が、こちらを見つめている。
それは以前、初めてここを訪れた時のものと、全く同じ。
違う。
人形じゃない。
じゃあ、何が……。
「どうしたの?」
カーテン越しに、鳴の声が聴こえてきた。
「……ごめん、何でもない。すぐ行くよ」
それ以上は諦め、カーテンをくぐることにする。
エレベーターホールは、ちょうど床の形が正方形で、向かって正面と右手側にはむき出しのコンクリートの壁がある。
そして左手側にあるエレベーターの中から、鳴が不思議そうにぼくの方を見ていた。
薄暗い地下展示室の中では、エレベーター内の白い照明は眩しいくらいだ。
ぼくが早足でエレベーターに乗り込むと同時に、鳴が「3」のボタンを押した。
扉が閉まり、直後に全身が浮遊感に包まれる。
……毎度のことだけど、この感覚はどうも好きになれない。
もともとぼくが苦手だったということもあるけど、それが決定的になったのは……たぶん、水野さんが巻き込まれた事故から、だろう。
あれが<災厄>によって引き起こされた、通常起こりえないような事故だということは、頭の中では分かってはいるけれど……。
それでもやっぱり、エレベーターに乗るたびそのことを思い出してしまうのも事実だ。
そのうちこの小さな箱が、まるで棺の中のように思えてきて……。
――棺。
そうだ、棺だ。
違和感の正体が、ようやく分かった。
棺がひとつ、消えていたのだ。
確か、あの鳴の人形が入った棺のあるスペースには、棺がふたつ置かれていたはずだ。
色も大きさも全く同じ棺がもうひとつ、背中合わせになって。
◇
――新しい人形が、この中に納められるみたい。
ぼくがそれを見たのは、夏休みのある日のことだった。
そう言った鳴の言葉通り、棺の中は空っぽで……代わりに、鳴がそこにいた。
鳴は<人形の目>――その「うつろなる蒼き瞳」でぼくを見つめ、
――安心して。榊原くんは<死者>じゃないから。
そう、ぼくに告げた。
自分こそが<死者>ではないのか、そんな疑念を捨てきれずにいたぼくを、勇気づけるように。
無くなっていたのは、その空の棺の方だ。
すると……「新しい人形」が、いよいよ完成するのかもしれない。
そのために、霧果さんが工房に棺を持っていった、とか。
一階のギャラリーか、それとも地下展示室か。それは分からないけれど、近いうちに飾られるということだろう。
霧果さんの人形に心惹かれている身としてはやはり、そうなったら見に行かないとな、という気になる。
……別に、またここを訪問するちょうどいい口実ができたと喜んでいるわけではない。決して。
そんなことを思っている間に、エレベーターは三階に到着した。
7
「どうぞ」
鳴から缶のレモンティーを受け取り、それぞれ手近なソファに腰を下ろす。
この家の三階、相変わらずモノがないリビング兼ダイニングキッチンは「寒々とした」なんて表現をしてしまいそうだが、
あの薄暗い地下から上がってきたぼくにしてみれば、ここは人の温もりを感じる憩いの場だ。
「いただきます」と鳴に向かって軽く缶を掲げてから、プルトップを開けて一口飲む。
それだけで、先程までの不安や不調はすっかりと洗い流されていく。
そうしてまさしくぼくが一息ついたところで、「落ち着いた?」と鳴に問われ、思わずぎくりとした。
見れば、鳴は紅茶を口にせず、ずっとぼくの様子を窺っていたらしい。
――やっぱり、バレていたのか。
見栄を張ってやせ我慢した甲斐がなかったと知り、肩をすくめたくなる。
「ごめん、もう大丈夫だから」
「ううん、この前と今日とで、そういう話が続いちゃったものね」そう言って、ようやく紅茶を口に運ぶ。「いくら榊原くんが慣れたって言っても……」
「確かに、いきなりああいう話になって、ちょっと驚いた部分はあったかな」
鳴は小さく頷き、それからまた紅茶を一口飲んで、ぽつりと言った。
「もうこの話、おしまいにしよっか」
「もうって……まだ続きがあったの?」
「ないわけじゃないけど……でも、そこまで面白くもないかもしれないし」
そう言って眼帯を隠すように、ぽん、と左手を顔に当てる。
「うーん、そういう風に言われるとなあ」
「気になる?」
「そりゃあ、ね」
ひと心地ついたからだろう、改めて興味を取り戻す程度には余裕が出てきていた。
調子がいいなと言われてしまえば、それまでであるが。
「それならそれでもいいけど……もう少し休んでからかな」
缶を置いて、くっと伸びをする鳴。
そして、こう続けた。
「続きを話すにしても、どうせだったら下のほうがいいし」
「そうなの?」
「いろいろと、都合がいいから。……だから、無理しなくてもいいけど?」
また地下展示室に行くことになるが大丈夫なのか、ということなのだろう。
心配には及ばないと伝えると、鳴は頷き「じゃあ、もう少しゆっくりしてからね」と言うのだった。
8
それからリビングでしばらくの間、学校の話とか最近読んだ小説の話とか、そういう他愛もない会話を続けて二十分ほど経ったころ。
奥のドアが開き、霧果さんが入ってきた。
以前会った時の霧果さんは、飾り気のない服装で頭にはバンダナを巻き、いかにも「作業の途中」といった感じでここにやって来た、という記憶がある。
しかし今日の彼女は両耳にイヤリングを着け、薄く化粧もしているようだった。
服装こそ変わらず落ち着いたものだったけど、全体的に「よそ行き」の雰囲気を漂わせている。
そういえば今日は工房が休みという話だったし、どこかへ出かける用事でもあったのかもしれない。
霧果さんは、ぼくの姿を認めたかと思うと「あら」という声を出して、その動きを止めた。
「……えっと、あなたは……」
ぼくも慌てて立ち上がって挨拶する。
「すいません、その……お邪魔してました」
霧果さんは無言のまま、困惑しきった表情を浮かべている。
すっ、とその視線が助けを求めるように鳴に向かうのとほぼ同時に、鳴が口を開いた。
「同じクラスの榊原くん。結構前にも一度、来てもらったことがあって」
それを聞いて、霧果さんはようやく合点がいったというように「ああ、そうだったの」と表情を和らげる。
「鳴のお友達ね。……榊原くん、だったかしら? ごめんなさいね」
「いや、ぼくの方こそ挨拶もなしに……」
何度か電話で話をしたとはいえ、霧果さんと直接顔を合わせたのは半年前の一度きりだし、その時にしたってぼくはすぐに帰ってしまったのだ。
覚えていなくても無理はない。
「……お母さん、ここで何かするつもりだった?」
「そろそろご飯の準備をしようかと思ってたんだけど……でも、今はお邪魔みたいね」
そう言われて時計を見れば、ちょうど四時を回ったところだった。
この家に来てから一時間は経っていないはずだけど、そもそも訪れた時間も遅かったのだ。
鳴の言う話の続きも気になったが、そろそろ帰るべきかもしれない。
そう思い、帰る旨を伝えようとしたのだが、鳴が「榊原くん」と言う方が早かった。
「下、行こっか」
「えっ?」
「続き。――気になるんでしょ?」
「あ、うん……でも」
ぼくが答えに戸惑う間にも鳴は立ち上がり、奥の扉へてくてくと歩いていく。
有無を言わせないその様子に、ぼくもただ彼女についていくしかない。
ドアを開けたところで「ここ空けるから、使っていいよ」とだけ母親に告げ、鳴はそのまま先へ行ってしまう。
「ごめんなさいねえ、なんだか追い出したみたいになっちゃって。ゆっくりしていってね」
申し訳なさそうに微笑む霧果さんにぎこちなく会釈をして、鳴の後を追った。
9
廊下を出ると、少し進んだ先に鳴がいた。
体は前に向けたまま、首だけをこちらに向け、ぼくが追いつくのを待っている様子だ。
ぼくが来たことを認めると、鳴はまたぷいと前を向き、奥のエレベーターへと歩いていってしまう。
「ちょっと、見崎」
思わず呼び止めると、鳴は足を止めて再び顔をこちらに向け、不思議そうな表情で、
「どうかした?」と訊いてくる。
少し、引っかっていることがあった。
問題は、果たしてそれをぼくの方から尋ねてもいいものか。
一瞬迷ったが、結局、
「いや……置いていかれそうだったから」
と、言葉を濁すだけにして、そのまま近くまで歩み寄る。
鳴もそれで納得したのか、軽く頷いただけだった。
エレベーターは既に三階に止まっており、すぐ乗り込むことができた。
霧果さんが、リビングに来る時に使ったのだろう。お互いに口を開くこともなく、再び降下する。
沈黙だけが詰まった棺の中で、ぼくは先程訊けなかった問いを思い出していた。
それはついさっき、三階で目にしたやりとりについて。
どこかぶっきらぼうな鳴と、それでもなお、愛想よく振る舞う母親。
……別に、年頃の娘がいる家庭では、これが普通のやりとりなのかもしれない。
でも、だからこそ、ぼくにはそれが引っかかったのだ。
以前ぼくが霧果さんと出会った時も、今日のように三階でぼくと鳴が話しているところに彼女はやって来た。
その時の鳴と霧果さんのやりとりは、今でもよく覚えている。
自分の母親に「ですます調」を使って話す鳴。
それを気にとめるでもなく、やはりフレンドリーではあるけど、鳴に対してはどこか言葉少なげな霧果さん。
いずれにせよ、今日の二人の会話と比べるとひどく他人行儀なものだった。
それについて鳴は「仕方ない」と言うのだった。「わたしとあの人は、ずっとあんな感じ」とも。
きっと、その原因は二人の抱える秘密――本当の親子ではない――にあるのだろう。
……だとしたら、それを鳴が知る前はどうだったのだろう?
鳴が秘密を知るに至ったのは、ある時天根さんが口を滑らせてしまったからで、つまりはアクシデントだ。
秘密をずっと隠し通したかったであろう霧果さんは、ものすごく慌てていたらしい。
つまり、その出来事さえなければ、鳴が自分の母親に疑念を持つこともなかったのだろう。
ならばそうなる前の二人は、もっと普通の親子だったんじゃないだろうか。
それこそ今日、ぼくが目にしたように。
もともと、そうであった期間の方が長い二人。
何かのきっかけで、元に戻るということもあるのかもしれない。
……それともまさか、前にぼくから口調について問われたことを、意外にも鳴は気にしていたのだろうか。
いつもと変わらぬ様子でぼくの隣に立つ鳴を見やり、さすがにそれはないな、と思い直す。
何にせよ、ぼくがあれこれ考えても仕方ないことだ。
変化の理由も、それから……何が普通か、なんてことも。
ぼくの母親は産まれてまもなく亡くなってしまったし、
父親にしても、あれが「普通の父親」という枠をはみ出していることくらいは、ぼくでも分かる。
だからぼくに、普通の親子のやりとりがどんなものか、なんて決められるはずもなく。
……ぼくにとっての「母親とのやりとり」とは、この夏までの怜子さんとの生活が、あるいはそうだったのかもしれない。
だけど、それもいずれは忘れてしまう。
エレベーターが止まり、扉が開いた。
パネルの近くに立っていた鳴が「開」のボタンを押し、先に降りるようぼくに目で促す。
――語るすべを持たないことに頭を悩ませるのは、ひとまずやめにしよう。
鳴に向かって軽く頷き、ぼくは再び地下展示室へと足を踏み入れた。
10
それから数分後。
この家の三階、エレベーターの前にぼくはいた。
廊下の奥、リビングに通じるドアの向こうからは、霧果さんが料理をしているのだろう、とんとんとリズムよく包丁の音が聞こえてきている。
……さっき地下にいたはずのぼくが、どうしてここにいるかって?
どうしてなのかは、ぼくにもさっぱり分からない。
きっと、それを知っているのは鳴だけだろう。
◇
――地下に戻ると鳴は、例の自分そっくりの人形が入った棺の前で足を止め、その中に目を落とした。
ぼくもつられて人形を見る。
当然、ぼくらが上へ行く前と何も変わらぬ佇まいで"彼女"はそこにいた。
ここに来た目的であるはずの話の続きが始まる様子もないまま、しばらく二人でそうしていたぼくらであったが、
鳴がおもむろに右手を伸ばし、人形の頬に触れた。そして、ゆっくりとその頬を撫でる。
まるで赤ん坊をあやすかのような、優しい手つきで。
「この子とも、もうすぐお別れね」
手の動きは止めないまま、独り言のように鳴が言う。
「……見崎?」
真意を図りかねたぼくの言葉には応じないまま、不意に彼女の手の動きが止まる。
ややあって、脱力したようにだらりと垂れる右手。
かと思えば側に立てかけられていた蓋をやおら持ち上げ、ぱたん、と棺を閉めると、鳴はこんなことを言い出した。
「今の、見たよね?」
「は?」
あまりにも唐突な言葉に、思わず面食らう。何を言われたのかすら、理解に時間を要した。
数拍の間を置いて、ようやくそれがぼくへの問いかけであると気づく。
「見た、って……人形の棺に、見崎が蓋を閉めたよね。そのこと?」
それを聞いた鳴はただ「うん」とだけ頷き、更に意味不明なことを言う。
「じゃあ榊原くん。少しの間、上に戻っててもらえる?」
「上?」
今まさに降りてきたばかりなのに、また上に? しかもぼくだけ?
状況が飲み込めないぼくに、鳴はこともなげに頷く。
「榊原くんには、今のを見ていて欲しかったの。後はわたしだけで準備をしたいから、さっきのリビングで待ってて。終わったら呼びに行く」
「リビングって言ってもさ……それに、準備って」
そもそも今、あそこでは霧果さんが料理をしているんじゃなかったか。
「そんなに時間はかからないと思う。……だから」
質問は認めませんと言わんばかりに「さあ行った行った」という手振りの鳴。
わけが分からないうちに、エレベーターの前まで追いやられるぼく。
……結局、今は鳴の言う通りにするしかないだろうと判断して、ぼくは一人エレベーターに乗り込んだ。
鳴に見送られながら、である。
ぼくがいなくなるまで、その「準備」をするつもりもないのだろう、最後まで鳴はエレベーターの前を離れなかった。
ドアが閉まる直前、
「ちゃんと上で待ってないとだめ、だからね」
なんて、しっかり念を押すことも忘れずに。
◇
それが、さっき地下であったことの全て。
そうして再びぼくが三階に戻ってきたのが、今というわけだ。
腕時計に目を落とす。
あれから五分が経ったけど、エレベーターの階数表示はぼくが乗った後から変わらず「3」のまま。
ふう、とため息をひとつついて、今度はリビングに通じるドアを見やる。
包丁の音が止み、冷蔵庫を開け閉めする音や水の流れる音がしたかと思えば、また包丁の音。
色々な音が絶え間なく聞こえてきて、その向こうで忙しなく動き回っているであろう霧果さんの姿が目に浮かぶ。
そんな中に入っていって鳴を待つというのは、やっぱり気まずい。
「そんなに時間はかからない」と言っていたことだし、このままここで待っていてしまおう。
そう考えて、ぼくはまたエレベーターとのにらめっこに戻った。
それから、更に五分後。
状況に変化はなく、鳴が戻ってくる様子もない。
時計の針は、ちょうど四時二十分を指したところだった。
……正直なところ、そろそろ焦れてきた。
さすがにもう少しで戻ってくると思いたいけれど、下で鳴が何をしているのか分からない以上、予測のしようもない。
鳴は、話の続きは地下の方が都合がいい、と言っていた。
資料とか写真とか、そういうものを準備するだけなら、わざわざ地下に行ったりぼくだけを遠ざけたりする必要もない。
じゃあ、鳴の言う準備とは、ぼくに見られると都合の悪い地下にある何か、ということなのか。
なのに一方で、棺に蓋を閉める場面については、ぼくに見ていて欲しかったらしい。
全く意図が読めない。
……結局、その「何か」がはっきりしない内は、いくら考えても同じところをぐるぐると回るしかない。
何度目かの「とにかく鳴を待とう」という結論に達したところで、また時計を見る。
あれこれ考えていたからこれで五分は経ったはずと期待していたけれど、実際に進んだのは二分と少しだけ。
これまた何度目かのため息をついた時、視界の端でドアが開き、エプロン姿の霧果さんが現れた。
11
当然ながら、ぼくがいるとは思っていなかったのだろう。
ぼくを見るなり霧果さんは、何か珍しいものでも見つけたような、きょとんとした表情を浮かべた。
「鳴は? 確かさっき、二人で下に行くって……」
「そうなんですけど……その、よく分からないんですが見崎からここで待っているように言われてしまって……見崎は、下に」
説明になっていない説明だと、自分でも思う。
いきなりこんなことを言われたって、霧果さんの方こそわけが分からないはずだ。
だけど、本当にこの通りなのだからこう言うしかない。
案の定、霧果さんは「ふうん」と頷きつつも釈然としない顔をしている。
「ここで立ってて疲れない? あっちで座って待っていたら?」
「たぶん、もうすぐ戻ってくると思うので大丈夫です。……すみません、こんなに遅くまでお邪魔してしまって」
それを聞いた霧果さんの顔が「ふふ」とほころぶ。
「別にそういうつもりで言ったんじゃないのよ。大体、あの子が言い出したことなんでしょう? ……迷惑かもしれないけど、お相手してあげてね」
「いえ、そんなことは」と言いかけて、やっきになって否定するのもどうなんだ、と思い直した。
それにしても、いくらクラスメイトとはいえさほど親しくもない、しかも男子のぼくについて、霧果さんは何とも思っていないのだろうか。
鳴は、そういうところも霧果さんは放任主義だと言っていたけれど。
必要以上に警戒されるのもどうかと思うが、こうまで無警戒だと、他人事とはいえなんだか心配になってくる。
「……鳴は、下にいるのよね」
もう一度、その事実を確認するように霧果さんが言う。
いつの間にか、その顔はいつもの無表情に戻っていた。
「えっと……はい、そのはずです」念の為、階数表示が変わっていないことを確かめてから答える。
彼女は一瞬、ためらうように視線を巡らせた後、意を決したように切り出した。
「あなたたちのクラス――夜見北の三年三組って、少し前に色々と大きな事故があったって話を聞いたの」
「え……」
思いがけない話題に、取り繕うことも出来ずに反応してしまう。
「担任の先生が亡くなったり、夏休みにあった合宿でも火事があったりで生徒さんも何人か亡くなったって……それは、本当?」
「……見崎からは、何も聞いていないんですか?」
霧果さんは首を横に振る。
「訊いたけど、教えてくれなかった。『もう大丈夫だから』って。……やっぱり、本当にあったことなの?」
実際に今年の<災厄>が終わった今となっては、もう危険がないのは事実であるし、
何より鳴にしてみれば、事実を教えた結果として霧果さんから必要以上に心配されるのが嫌なのだろう。
なんとも鳴らしい説明のしかただな、と思った。
そして鳴が黙っているつもりなら、ぼくが勝手にそれを教えるべきではないのかもしれない。
だけど、ニュースや新聞で報じられている合宿の火災をはじめとしたいくつかの事故については、そもそも隠し通せることでもない。
今年三組を襲った<災厄>について、そのいくつかが既に霧果さんの知るところとなっているのも当然のことなのだ。
「どんな話を聞いているのかは知らないですけど、そういうことがあったのは……本当です」
だとしたら、はっきりしたことを伝えないのは、彼女の不安を募らせるだけだと感じた。
ぼくの父でさえ、合宿の後でぼくが入院した時にはひどく心配していたし、何も教えていなかったことについては散々怒られた。
あれだけのことがあったと知れば、心配するのは親として当然のことなんだろう。
それを聞いて、霧果さんが「やっぱり」と漏らす。
「合宿の事故については、後で学校から保護者の人を集めた上で詳しい説明があったって聞きました」祖母はその時入院中のぼくにつきっきりだったから、そこでどんな話があったのかぼくは知らない。「それには……?」
彼女はまたしてもかぶりを振る。
「それも、知らなかったわ。……ごめんなさい、知らないことばっかりで」
どことなく自嘲の色を帯びてきた口調に、どう返すべきか言葉に迷ってしまう。
沈黙が重くなる前に、思いつくままに言葉を並べた。
「でも、ここ最近はクラスも平和でようやく落ち着いてきましたし、だから見崎も大丈夫って言ったんだと思います」
「……そう。じゃあ、今さら私にあれこれ訊かれるのが、面倒だったのかしら」
「面倒というか……心配をかけたくなかったんじゃないでしょうか」ただ鳴の場合、心配されることそのものが面倒、という部分はあったのかもしれない。
「きっと、そうなんでしょうね。でも、良かった。もし鳴にまで何かあったら、私――」
そこまで言ったところで彼女は、しまった、という顔をして言葉を切る。
「ごめんなさい。クラスの中には、亡くなってしまった子もいるのよね。もしかしたら、あなたのお友達だって」
「……」
一瞬、ぼくの中で区切りをつけたはずの様々な感情がよみがえってきて、何も言えなくなってしまう。
そう、四月から八月まで、何人もの人が死んだ。
<災厄>が止まっても、その事実まで元に戻ってくれる訳ではない。
千曳さんによれば、教師が<死者>として復活したのは、今回が初めてのことだったらしい。
その他にも今年は、不測の事態がいくつか重なっていて……。
<災厄>を未然に防ぐことは、おそらく不可能だったのだろう。
それは分かっているつもりだ。
けれど、ぼくはどうしても考えてしまう。
もっと早く、<災厄>を止める方法を知っていれば。
もっと早く、<死者>が誰かを知っていれば。
ここまでの犠牲を出さずに済んだのではないか。
そして怜子さんとも、もっと違う別れ方があったんじゃないか……と。
最近は思いを馳せることも少なくなっていた苦い後悔が、ぼくの胸に滲んでいた。
――鳴は、こうなるのが嫌だったのか。
そんなことを思った。
まとわりつく想いを振り払うように、口を開く。
「いえ、ぼくもそう思います。見崎が無事で、良かったって」
これもまた、偽らざるぼくの本心だった。
ぼくや鳴にしても、<災厄>の犠牲にならなかったのはただ運が良かったからでしかない。
特に鳴の場合、自分の身の安全というものにどうにも無頓着なように思えて、ついやきもきしてしまう。
この前聞いた夏休みの話でも、実際に危険な目に遭っていたようだったし、
合宿の時だって、ぼくが電話しなければそのまま彼女はひとりで全てを終わらせていたはずだ。
だから、心配している人がいるということをもう少し考えてほしい……のだけど。
そんなことは、ぼくのわがままなんだろうな、きっと。
「……そうね。いろいろ教えてくれて、ありがとう。鳴と、仲良くしてあげて」
霧果さんが、淡く微笑んでそう言う。
「はい」とだけ言ってそれに頷いてから、急に気恥ずかしくなったぼくは、取ってつけたようにエレベーターに向き直った。
――と。
ちょうどその時、階数表示が「3」から「2」へと変わった。
それはそのまま「B1」までスライドして、少しだけ間を置いて今度は逆に動き出す。
そして再び「3」になり、中から鳴がようやく姿を見せる。
時刻は、四時三十分になっていた。
12
ぼくと目が合うなり、鳴は、
「ここで待ってたんだ」
とだけ言って、エレベーターを降りた。
ぼくや霧果さんが二人してこんなところにいてびっくりするかと思ったが、そんなことはないらしい。
ふと、鳴の髪に小さな埃がくっついているのに気がついた。
髪だけじゃなく、服にもところどころ埃が付着していて、彼女が黒い服を着ているせいかそれはよく目立つ。
ぼくと同じくそれに気づいたとみえる霧果さんが何かを言いかけたものの、ぼくの前でそれを咎めることを思いとどまったのか、何も言わなかった。
――いったい、下で何をしていたんだ?
とにかく頷いたぼくに、鳴は続ける。
「準備、終わったよ。……行こっか」
「えっ、もう?」
いきなりか。
さっきまで散々鳴を待ちわびていたというのに、いざそう言われるとなんだか気後れしてしまうのが不思議だ。
鳴がボタンを押し、そしてまたエレベーターの扉が開く。
なんとなく霧果さんの方を見たが、さっきの微笑みのまま「どうぞ」というように軽く頷かれただけだった。
まあでも、話の続きが聞きたかったことは間違いないし、
それにこのまま、ここで三人で立ち話、というわけにもいかないだろう。
――行くか。
そう思って足を踏み出した途端、ごごごご……という地鳴りのような音が、びりびりと空気を振動させながら伝わってきた。
「あら、雷かしら」
霧果さんがリビングのドアを振り返って言う。
そういえば、今日は夕方から雨の予報じゃなかっただろうか。
家を出た時はまだ晴れていたから、傘は持ってきていない。
仮に雨が降っていたとして、今さら慌てて帰るなんてことにはならないけれど、それでも外の様子が無性に気になった。
「ごめん、見崎。下に行く前に、雨が降っているかどうかだけ確認したいんだけど。――いいですか?」
鳴は無言で、霧果さんは「ええ」と言いながら、小さく頷く。
そんな何気ない仕草ひとつをとっても、やはり二人はよく似ていた。
13
リビングの奥にある窓から、外を見る。
思った以上に外は薄暗くなっていた。
夏休みのころに比べたら、だいぶ日が短くなったと改めて思う。
雨こそまだ降っていなかったが、空は暗い色をした雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくない。
窓ガラスに顔を寄せるぼくの眼前で、不意に遠くの雲がチカチカと明滅し、そして再び空気が震えた。
雷はどうやら、この近くで鳴っているわけではないらしい。
とはいえ、話の続きが終わったら流石に帰るべきだろう。
そんなことを考えながら外を眺めていると、視界の下の方から影が現れた。
「――ん?」
半ば反射的に、視線がそちらを向く。
リュックを背負った人影が、目の前の道路を歩いていた。
薄暗くてあまりよく分からないが、歩き方や服装からして男だろうか。
全体的にすらりとした印象で、おそらく身長もそれなりにありそうな感じだったけれど、
ここからは見下ろすアングルになるため、どうもはっきりしない。
いや、それよりも。
――今この人、ここの入口から出てこなかったか?
注意して見ていたわけじゃないから、自信を持っては言えない。
だけど、さっきまでこの道を歩いている人は一見していなかったはずだ。
それがこうして、いきなり現れた。しかも足元から。
ギャラリーを訪れていたのだろうか?
そういえば、ぼくがここに来てから、鳴は結局入口の鍵をどうしたのだろう。
鍵の話をしたものの、ぼくらはそのまま三階に上がってしまったから、
準備のために戻った鳴がずっと地下にいたのだとすれば、鍵はまだ開いたままなんじゃないか?
それで、あの人もぼくと同じく閉館とは知らずに入ったけど、人の気配がなくて帰ることにした、とかなのだろうか。
男はそのまま、ぼくから見て右へと歩いていく。
そうして丁字路にさしかかったところで、急に立ち止まり、こちらを振り返った。
目が合った、と感じた。
暗い上に距離もあるから、それがはっきりと分かったわけではない。
だけど、振り向いたその顔はぼくの方へとまっすぐ向けられている。
男はそれから、顔に手をやる。
庇を作るとでもいうのか、こちらをよく見ようとしているような動きだった。
考えてみれば、向こうからは明かりの点いたリビングの窓も、その前に立っているぼくのことも、よく見えているはずだ。
ぼくからは見えない。
でも、あっちからは見えている。……見られている。
それに気づいた途端、まるで周囲の温度が急に二、三度下がったような寒気を覚えた。
なのに、ぼくは窓から離れることも、輪郭すらあやふやなその顔から視線をはずすこともできない。
明るいはずの室内はどんどん暗くなっていき、代わりに男の姿は闇の中でぼうっと浮かび上がってくる。
そのうち、ぼくらを隔てていた窓ガラスも消え失せ、暗闇の中、ぼくとその男だけが――。
「雨、降ってなかったんだ」
すぐそばで聞こえた鳴の声で、急速に感覚が引き戻された。
いつの間にか、隣に立っていたらしい。
「でもやっぱり、天気はあんまりよくないね。……帰る? それでもいいよ」
「……いや、大丈夫だよ。行こう」
そう返して、ぼくは最後にもう一度、男が立っていた場所に目をやる。
そこにはもう、誰の姿もなかった。
14
「結局、さっきの『準備』ってなにをやってたの」
「秘密」
「秘密って……話の続きで、ここに戻ってきたんだよね? それと関係があるんじゃ?」
「もちろんそう。でも、まだそのタイミングじゃないってこと。後でちゃんと教えるから、安心して」
ようやく、というべきか。
今日三度目の地下展示室に、ぼくと鳴はいた。
とはいえ、鳴がここでなにをするつもりなのかは、相変わらずよく分からないのだけど。
エレベーターから降りたところで質問をぶつけてみたけど、結果はこの通りだ。
「まあ、後って言っても、もうすぐ分かるけどね。――榊原くん、そこのカーテンをめくってみて」
言われるがままに、展示スペースへと続くカーテンをめくる。
「あれ?」
異変にはすぐ気がついた。
さきほどまでそこにあったはずの、例の人形。
鳴そっくりの人形が、それを納めていた棺ごと忽然と消えていたのだ。
どこに行ったのかと展示室全体を見回してみても、目が届く範囲には見当たらなかった。
困惑するぼくの背後から、くす、という微かな笑い声。
振り返ったぼくに、鳴は気取った調子でこう言った。
「分かった? じゃあ、榊原くんに問題です」
「――人形は、どこに消えたでしょう?」
◇
「問題って……どういうこと?」
「さっき上で待ってもらっている間に、ここにあった人形をわたしが隠したの。場所は、この地下のどこか」
両手を後ろ手に背中に回し、心なし胸を張るようにして話す鳴。
なんだか、自分が彼女の授業か何かを聞いているような気分になってくる。
「榊原くんには、それを見つけてもらいます」
「えっと……質問、いいかな」
「どうぞ」
発言を許可されたので、軽く咳払いをして言う。
「さっきぼくを上に行かせたのは、このためだったの?」
「そう。隠すところを見られたら、問題にならないから。……でも、棺がもともとここにあったのは、榊原くんも確かに見たでしょ? だから最初は一緒に来てもらったの」
「……なんだか、話がよく見えてこないんだけど。これは話の続き、なんだよね? つまりその、きみの家とそれを建てた人についてのさ」
「うん」
「きみが人形を隠して、ぼくがそれを探すことが、それにどう関係してくるの?」
「言ったらヒントになるから、それはまだ秘密。でも、見つけられたら分かると思うよ」
肝心なところをあやふやにされ、思わず深く吸った息を「……なるほどね」という言葉と一緒に吐き出す。
鳴がいう「準備」とは、おそらくこのことだったのだろうと見当はついた。
しかしその理由については、相変わらずどころか一層分からなくなり始めている。
「いずれにしても、きみの言う通り人形を探すのが一番手っ取り早いのかな」
「そういうこと」
思えば、鳴からこんな風に謎かけというか、何かを挑まれるのは初めてのことだ。
しかもなんだか自信ありげな態度だし、それだけの「何か」があるということなんだろう。
そう考えると、にわかに興味が湧いてくるのだった。
もともとこっちは暇人だ。徹底的に付き合ってやろうじゃないか。
そう思い「それじゃあ」と言って取りかかろうとしたぼくを、鳴が手で制する。
「その前に。――時間は、何分がいい?」
「え、時間制限なんてあるの」
「だってここ、あんまり広くないし、時間をかければ絶対に分かるでしょ」
そう言って鳴はほんの少し袖をまくり、腕時計に目を落とす。
黒い革ベルトの、すっきりとしたデザインの時計だった。
言われてみれば確かにその通りなのだが、当然と言わんばかりのその様子に、少し意地悪がしたくなる。
「それはどうかな。……というか、きみが人形を隠したのって、本当にここなの」
それを聞いて、鳴は目だけをぼくに向ける。
「……どういうこと?」
「だって、ぼくは隠したところ、見てないし。『ここに隠した』なんて言って、実はどこか別の……例えば、二階とか三階のどこかにあったりしない?」
そんなことを言いつつも、それがありえないということをぼくはよく分かっていた。
もし鳴が人形を上の階に隠したのだとすれば、その運搬には当然、エレベーターを使ったはずだ。
だけど、他ならぬぼく自身がずっとエレベーターの前にいて、それが三階から動かなかったことを知っている。
動いたのは唯一、鳴が戻ってきた時だけだし、その時鳴は手ぶらで、もちろん人形はどこにも無かった。
とはいえエレベーターを使わずとも、階段を登ってギャラリー、あるいは二階や三階に人形を持っていくことは可能だ。
ただしギャラリーからは直接二階に上がることはできないから、この場合は一度外に出て、外階段を使うことになる。
棺は鳴の背丈ほどの大きさがあるけど、中に入っているのは人形だ。
それなりの力仕事にはなるだろうが、棺を抱えて階段を上がることは鳴にもできるだろう。
二階や三階の入口については、先ほど鳴が言ったとおり施錠されているはずだから、もちろんそのままでは外から入れない。
だが、こと彼女に限っては、それが問題となることはないのだ。
この家で生活している鳴なら当然、それを開ける鍵を持っているのだから。
持ち運びや扉の開け閉めの手間を考えたなら、どう考えてもエレベーターを使った方が楽ではあるけれど……。
いずれにしても、エレベーターが動かなかった=上階に人形を運ぶことは無理、ではない。
だとすれば、鳴がぼくに勘付かれないようエレベーターを避け、階段を使い人形を運んだ可能性はあるか?
それもありえなかった。
そもそも鳴はぼくに「リビングで待ってて」と言ったのだ。
ぼくがエレベーターを――それもリビングに行かずずっと――見ていたなんて、知りようがなかったはず。
予測できないことを見越して、わざわざ手間のかかる方法を選ぶはずもない。
それにぼくが言いつけ通りリビングにいた場合、今度は逆にギャラリーの外に出た瞬間を発見される危険すらある。
ぼくが先ほど、男の人を目撃したように。
もし階段を使うつもりだったとすれば、むしろ「エレベーターの前で待ってて」とでも言って、ぼくの意識を階段から逸らせるくらいのことはしそうなものだ。
要するに、この地下展示室のどこかに人形が隠されているのだろう、という点についてはぼくだって疑ってはいない。
ただ、なんでもかんでも鳴のペースで進んでいくのはちょっとなあ、なんて思っただけのことで。
「――ふうん、疑ってるんだ。榊原くんは」
ほんの少し眉を持ち上げ、しかしどこか楽しそうに鳴が言う。
「いいよ。そんなに怪しいって言うのなら、断言してあげる。一階にも二階にも、それから三階も……とにかく、この上には無いの。人形があるのは――」
すうっと、その右手が上がった。
「間違いなく、こ・の・ち・か」
一音一音区切りをきかせた「この地下」とシンクロした動きで、つんつんと床を指差してみせる鳴。
自信たっぷりのその様子に、思わず苦笑してしまう。
つられて鳴も微笑み、なおもこう続けた。
「もし人形が上で見つかったら、わたしの負けでいいよ」
「負け、って……じゃあ、人形を見つけられたらぼくの勝ちってこと?」
「そういうことになるかな」
「勝ち負けがあるってことは、ひょっとして、その結果に応じて罰ゲームみたいなものが?」
「もちろん」と頷く鳴。
「何をするかはわたしが決めるから、まずは榊原くんが時間を決めて」
なるほど、そうするのか。
ぼくが決めた時間で「勝てる」と判断したなら、遠慮なく厳しい罰ゲームにすればいいし、
逆にもし長い時間を――例えば、一時間とか――提示されたとしても、今度はそれを当たり障りのないものにすることだってできるだろう。
「その前に確認なんだけど。きみが隠したって言う人形は、棺に入ったあの人形でいいんだよね」
「そう。霧果が創った、わたしによく似たあの人形」
「それで、その人形は棺に入ったまま?」
「うん。人形だけを別にして隠したり、なんてことはしてないよ」
そうなると、棺はそれなりの大きさがあるし、隠すことができる場所は限られるはずだ。
そして、展示された人形のどれかにそれが紛れている、なんてことを考える必要もなくなる。
……これ、案外簡単に見つかるんじゃないか?
少なくとも、何十分もかかるものではなさそうだけど。
「時間はぼくが決めるんだったよね。――じゃあ、三分で」
「三分ね」揃えた指先でつう、と頬を撫でて鳴が言う。「まあまあ、かな。もっと長い時間にすると思ったけど」
「まあ、あんまり長すぎてもだれると思うからさ」
「じゃあ、次は何をするか、ね。うーん……」
いかにも考えてます、といった感じで腕を組み、視線を天井に向けた鳴だったが、ほどなくして腕を解いた。
「負けた人が、勝った人に<イノヤ>で何かごちそうする、っていうのはどう?」
<イノヤ>というのは、三組のクラスメイトの家族が営んでいる喫茶店の名前だ。
学校の近くにあり、ぼくも一度だけ行ったことがある。
「……なんだか、意外と大人しめな罰ゲームだね。もしかして、三分もあれば簡単に見つけられる?」
「さあ? 勝つのが分かりきってるから、優しくしてあげただけかもよ」
軽く揺さぶりをかけてみたつもりだったけれど、あっさりかわされてしまった。
でもまあ、言われてみれば確かにそういう考え方もあるか。
「ていうか見崎って、<イノヤ>に行ったことあったんだ」
「たまにだけど、紅茶を飲みにね。コーヒーはちょっと苦手」
家でも缶の紅茶を飲んでいるものだから、そこらへんにはあまりこだわりが無いんだろう、と思っていたぶん意外に感じた。
……それよりも、だ。
負けた方が勝った方におごるということは、当然そのためにぼくと鳴が二人で<イノヤ>に行く必要があるわけで。
それって……つまりその……ええと。
――これ、ぼくは勝っても負けても問題ないんじゃあ……。
いや、今からそれを考えても仕方がない。まずは目の前のことに集中しよう。
確認することも十分だろうと思ったぼくは、軽く両手を広げ「いつでもどうぞ」と促す。
鳴も応じて、再び時計を覗き込んだ。
「それじゃあ、準備はいい? 用意――始め」
15
「――あと一分。どう? 見つかりそうかしら」
壁際にある陳列棚の裏側を調べていたぼくに、鳴がそう声をかけてきた。
その声にはまだまだ余裕がある。
それもそのはずで、二分が経ったというのにぼくは一向に人形を見つけられていない。
もう、展示室の中はあらかた調べたと思うのだけど。
「……見崎、確認なんだけどさ。本当に、人形を隠したのはここなんだよね?」
返事はない。
このゲームが始まってからは、もうずっと鳴はこんな調子だった。
口を開いた場面といえば、「あと二分」「あと一分」と残り時間を告げる時くらいなもので。
どのような形であれ、ヒントは一切与えませんよ、ということなのだろう。
多分このへんだと見当をつけていた箇所が悉く空振りで、手当たり次第に展示室を探し始めたぼくが、
装飾として作り付けられた暖炉のマントルピースを覗き込もうとした時は流石に
「そこに棺は入らないと思うけど?」
と呆れ気味の突っ込みを入れられたが。
それはともかく、人形はどこだろう。
展示スペースにも、カーテンの向こう側、エレベーターホール周辺にも見当たらない。
ぼくがただ見落としているだけなのか、それともやっぱり、上に?
いや、それは鳴があれだけ否定していたじゃないか。
「あと二十秒」
いよいよ時間がなくなってきた。このままだと、時間切れでぼくの負け。
別にこのまま負けてしまっても、何をするのかは分かっているし、それに異論もないのだけど……。
このまま手も足も出せずに終わるというのは、やっぱり悔しい。これはプライドの問題だ。
せめて、あと一歩のところまでは迫りたい。
必死に室内を、人形たちを見渡す。
背中に翼を生やした天使のような人形。
二人で一つの体を共有する、結合双生児の人形。
折り返す階段の下に立つ、二体の首なし人形。
――二体?
「あれ?」
思わず声が出た。
ここに来て鳴と話していた時、あそこに立っていた人形は一体だけだったはずだ。
それがどうしてか、二体に増えている。
別のところに立っていた人形が運ばれてきたのかと思ったけど、ぼくが見る限り他の人形たちは動かされていない。
まるで分裂でもしたかのように、二体目の人形が現れていた。
棺にばかり意識を向けていたせいで、今まで気が付かなかったのだ。
その気づきがきっかけとなったのか、発見がもう一つ。
首なし人形たちが立っている、その向こう。
そこにあるのは壁だとばかり思っていたが、よく見れば上端が不自然に途切れている。
あれは壁じゃなく、衝立か。
となれば、当然その奥には空間があるはずだ。人形だったら、簡単に入るくらいの。
つまり、この突然現れたもう一体の首なし人形は、今までそこのスペースに置かれていたんじゃないだろうか。
その人形が、今こうして外に出されているということは。
――代わりにそこに入っているのは、一体何だ?
その疑問が、
――あそこしかない。
という結論に至るまでに、大した時間はかからなかった。
「あと十秒。九、八……」
土壇場の発見に色めき立つぼくとは対照的に、鳴は冷静な口調のまま、最後のカウントダウンを始めた。
間に合うだろうか。
ところ狭しと並ぶ人形にぶつからないようにしながら、それでも小走りに階段の下へ。
首のない人形たちを持ち上げ、脇へと寄せる。
「七、六、五……」
そこにあるのは、やはり衝立だった。
一方の端を持ち上げ、そのまま九十度回転させる。
そして現れた、人がひとり収まるほどのスペースに、探し求めていたそれはあった。
「四、三、二……」
ひとつ深呼吸をして、上から下までそれを見回す。
まだそのくらいの余裕はある。
――間違いない、この棺だ。
両手を蓋にかけ、深呼吸をもう一度。
そして。
「一……」
「――見つけたよ」
勢いよく、蓋を外した。
16
なにもない。
それが、一番最初に浮かんだ思考だった。だけど、棺の中が空っぽだったわけじゃない。
ぼくの思った通り、そこには蒼白いドレスを纏った人形が収まっていた。
でもぼくは、その人形が「鳴に似ている」だなんて、恐らくもう、二度と言えない。
長い黒髪。白蝋のように白い肌。
それでもなお、そこにはあるべきものが無かった。
それは消え失せてしまったのではなく、ただぼくがそれと認識できていないだけなのだろうが、どちらでも同じことだ。
いずれにしても、そこにあるのは「無」、あるいは「孔」だった。
人形は、顔が命。
いつかどこかで、そんなフレーズを耳にしたことがある。
その言葉に照らせば、ぼくの目の前にあるのは「人形の死体」ということになるのだろう。
そう、つまり……。
――その人形の顔は、潰されていた。
ハンマーか何かで殴打したのだろう。それも恐らく複数回。
人形の顔は広い範囲にわたって陥没し、顔のパーツは何一つ原形をとどめていない。
輪郭だけを残して後は空洞になったその顔の内部には、鼻だとか、瞼だとか、あるいは内側から眼球を固定する部品だとか、そういうものが砕けた破片が積み重なっている。
その中には割れた眼球も混ざっているようで、ガラスの断面が地下展示室のわずかな光をきらきらと反射していた。
とても恐ろしいものを目にしている、という自覚はあった。
なのに、それを見つめるぼくは自分でも不思議なくらい冷静で。
呼吸も、心臓の鼓動でさえも、いつもと変わらない。
こつん、と右のつま先に何かが当たる。
何だろうと視線を足元に落とし、そして――。
目があった。
丸い、人形の目――「うつろなる蒼き瞳」が、ぼくをまっすぐに見つめていた。
顔が壊された際、割れることなく眼窩からこぼれ落ちた片方の眼球が、蓋の開いた拍子に中からここまで転がってきたのか。
……表情、あるいは感情といったものは、顔のそれぞれの部分が一体となって表現されるものだ。
だから本来、瞼も唇もない、たった一個の眼球からそういったものが読み取れるはずもない。
あくまで眼が一つ、そこにあるだけ。そのはずだった。
それなのに、その見開かれた瞳は、まるでぼくに無念を訴えかけているかのように哀しげな光を湛えている。
殺された人形の、声なき叫び――。
それでようやく、血液が、恐怖が、ぼくの中で巡り始めた。
「……っ」
自分としては悲鳴を上げて後ずさったつもりだったのに、それは微かな息遣いにしかならなかった。
その精一杯の叫びも、それと一緒にぼくが手放した蓋が床に落ちる音にかき消されて、きっと鳴にすら届いていない。
……そうだ、鳴は?
さっきぼくが言った「見つけた」という声は、鳴にも聞こえていたはずだ。
早く鳴にも、このことを伝えないと。
いや……それともまさか、この破壊された人形こそが、鳴の見せたかったもの?
これを見せて、ぼくをびっくりさせたかったとでも?
もしそうだとすれば、これは流石に趣味が悪い。
それにこんなの、「話の続き」でもなんでもないじゃないか。
「見崎、これは一体――」
「……どうして」
いつもよりトーンの高い、上ずった鳴の声。
振り返ると、驚いた表情を浮かべた鳴が口元を手で押さえていた。その手は僅かに震えている。
「どうして、こんな……」
もう一度鳴が言う。彼女もまた、状況が飲み込めずにいることは明らかだった。
考えてみれば当然のことだ。鳴がこんなことをするはずがない。
誰かがやったのだ。
悪意を持った、誰かが。
――じゃあ、それは一体誰だ?
そう考えたぼくの脳裏に、一つの影がよぎる。
それは三階で目にした、こちらを見上げる男のシルエット。
「……あいつだ」
自分でも気づかない内に、そう口に出していた。
あいつがやったのか。
鳴が人形を隠し終え上へと戻った後、このギャラリーに入り、人形を見つけてその顔に凶器を振り下ろしたんだ。
ぼくが見たのは、それを終えて帰っていくあいつの姿。
それをぼくは、何も知らずに……!
そこまで考えた時には、もうぼくは駆け出していた。
あれからもう十分近くが経ってしまっているが、だからといって何もせずにいることはできない。
階段を登り、一階の出口へ。
登りきった辺りで、鳴が「榊原くん」とぼくの名前を呼んだ気がしたが、今はやつを追う方が先だ。
ドアに飛びつく。
そこで、カウンターの上にあるものが目に留まった。
「入館料五百円」と書かれた小さな黒板の前に、硬貨が何枚か――おそらく五枚だろう――積まれている。
間違いない、あの男はここに入っていたんだ。
そう確信を強め、ドアを思い切り開けた。乱暴に開けたせいで、けたたましくドアベルが鳴る。
あいつがいたのは……確か右手方向の角だった。そしてそのまま消えた。
角を曲がったのだとすれば、方角的には駅方面に向かったはずと見当をつけ、ぼくは駅を目指して走り出す。
走っている途中、閉まるドアがもう一度鳴らしたドアベルの音を、遠く、微かに聞いた気がした。
17
もう1キロは走っただろうか。駅はまだ遠い。
息はとっくに切れて、走るスピードもだいぶ落ちていた。
手術で肺は完治したのだから、せめて休みの日くらいはジョギングでもしておくべきだったかもしれないと、今更ながらに後悔する。
それでも何とか足だけは止めずにいたが、例の男はおろか、車や通行人ともすれ違わないままだ。
そこまで考えてようやく、あいつがあのまま徒歩で立ち去ったとは限らないことに思い至った。
相手は大人だ、車を使った可能性だってある。
そう考えた途端、気持ちが折れ、もう走れなくなった。
膝に両手をついて、肩でぜえぜえと息をする。それだけでは呼吸が静まらず、二、三度咳込んだ。
反射的に肺の痛みを予期して体を硬くしてしまうが、手術のお陰だろう、痛みが襲ってくることはなかった。
そのまま荒い呼吸を続け、それがようやく治まってきた頃。
うなじに、ぽつりと冷たいものが当たった。空を見上げると、それは顔にもぽつぽつと当たる。
頭上には黒い雲が広がっていた。
どうするべきか考える前に、今度はポケットに入れた携帯電話が震える。
ディスプレイに表示されたのは、鳴の電話番号。
通話ボタンを押し、「もしもし」と呼びかけた。
「榊原くん?」
「……ああ、見崎」
ぼくが知る限り、この番号は鳴にとって二代目の携帯電話になる。
携帯を「いやな機械」と言ってはばからない鳴は、合宿の後、一度それを捨てたのだ。
もっとも、すぐに霧果さんから新しいものを持たされることになるだろう、という本人の予想通り、
前回の訪問時には既にこの番号を使っていたのだけど。
鳴からの着信は、その時以来のことだった。
「今、どこにいるの?」
「ごめん、何も言わずに飛び出しちゃって……」
そう応じながら、重要なことを思い出す。
「――そうだ見崎、警察には通報した?」
「警察?」
「うん、だって犯人を捕まえてもらわないと」
「……」
鳴は少しの沈黙のあと、「榊原くん」とぼくの名を呼ぶ。
「今日のことは気にしないで。……もう、大丈夫だから」
「えっ?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「だけど……人形が壊されたんだよ。霧果さんだって、きっと」
「それも平気。霧果には、わたしの方から伝えておくから。――雨、降ってるんでしょ? 榊原くんも、もう帰った方がいいよ」
鳴の言う通り、雨はどんどんと勢いを増していて、道路の乾いた部分はほぼ無くなりかけていた。
「でも見崎、犯人が――」
「ねえ、榊原くん」
濡れるのも構わず、なおも食い下がろうとしたぼくに、鳴がぴしゃりと言葉を重ねる。
「犯人犯人って、誰のことを言ってるの?」
「誰って……ぼくらが地下に行く前に、男の人がギャラリーから出てきたんだ。だからその人が」
「わたしは見てない。――そんな人、本当にいたの?」
「いたから、こんなことになったんだよ。あいつが入ってきて……ええと」
「それで、人形を壊して出ていった? そう言いたいの?」
「う、うん」
言いたいことはたくさんあるのに、言葉がまるで出てこない。
鳴の家を飛び出してから五分近くが経っていたけれど、
冷静さを取り戻すどころか、何事も無かったかのような様子の鳴に、かえって動揺が強くなっている。
「……榊原くん、まずは落ち着いて。それから、あなたは何もしなくていいの」
「見崎……?」
ぼくに言い聞かせるような口調で、鳴は続ける。
「あなたの言う、犯人。ギャラリーに入ってきて、人形を壊して出ていった、男の人」
ざあざあという雨音の中で、それははっきりと聞こえた。
「――いないの。そんな人は」
「……いない……?」
「そう。……もう、大丈夫だから。じゃあね」
それだけ言って、電話は切れた。鳴が終話ボタンを押したのだろう。
スピーカーからは、ツー、ツーという不通音が流れてくるのみ。
なにもかも、理解できなかった。
大丈夫? もう平気? いない? そんな馬鹿な。それじゃ、それじゃあまるで……。
様々な感情が浮かんでは、そのまま通り過ぎていく。
雨はほとんど土砂降りに近いものとなり、ぼくはとうに全身くまなくびしょ濡れとなっていた。
もう、慌てて帰ることも、雨宿りだって必要ない。
しばらくそうして雨に打たれていると、ついさっきまでぼくを突き動かしていた熱のようなものが、徐々にその温度を失っていくのを感じた。
もう少し時間が経ってしまえば、ここから動くことすらもできなくなりそうな気がして、そうなる前になんとか足だけは家に向け、歩き出す。
これ以上何かを考える気にはとてもなれなかった。
……真冬の冷たい、雪に変わる寸前の雨が好きだと、いつか鳴が言ったことがある。
それには程遠いはずの十月の雨が、この時ばかりは凍てつくように冷たく思えた。
一旦区切ります。
続きはなるべく早めに投下します。
再開します。
18
その翌日、日曜日。
ぼくはまだ布団の中にいた。時刻は、午前十時を回ったころ。
とっくに目は覚めていたのだけど、もう一時間以上はこうしてぼんやりしている。
思考に浮かんでくるのは、昨日の出来事ばかり。
棺の中の、顔を失った人形。こちらを見つめる蒼い瞳。
いかにも「でき過ぎ」なあの光景を思い出す度に、やっぱりあれは夢か何かだったのではないか……。
そんな気もしてくるが、もちろんそうではない。間違いなくぼくが目にしたものだ。
にもかかわらず現実感が薄いのは、自分の目で見ておきながら、その意味をぼく自身が理解していないせいだろう。
そのせいで考えているとはいっても、それは何か具体的な形をつくるでもなく、絡まってはほどけてを繰り返していた。
枕にしていた右腕が痺れてきたので、寝返りをうって仰向けになる。
具合が悪いわけではなかった。昨日あれだけ雨に濡れたというのに、むしろ体の調子は良い。
濡れねずみになって帰ってきたぼくを出迎えるなり、一も二もなく風呂場に放り込んでくれた祖母のおかげだろう。
……なんというか、祖母には本当に心配をかけてばかりだな、と思う。
ここに来てすぐ気胸で入院したことに始まり、その後の通院、合宿明けには手術まで。
その間ずっと、ぼくの面倒を見てくれたのは祖母だった。
昨日だって、出かける時に伝えていた帰宅時間を大きくオーバーした上に、ずぶ濡れで帰ってきてしまった。
それに――ああ、そうだ。
心配をかけているのは、いまこの瞬間だってそうだったじゃないかと思い出す。
ちょっと前、なかなか起きだしてこないぼくに、祖母はそろそろ朝ご飯を食べたらどうかと声をかけてきてくれた。
それに対してぼくは、昨日のことが頭から離れず「まだいいや」なんておざなりの返事をしただけ。
まったくもって不義理極まりない。
急に、自分がものすごく悪いことをしているような気がして、いても立ってもいられなくなった。
いい加減に起きよう。
そして祖母や祖父に――それから一応、九官鳥のレーちゃんにも――おはようを言うのだ。
話はきっと、それからだろう。
「よし」と誰に言うでもなく口に出し、ぼくは勢いをつけて体を起こした。
◇
遅めの朝食を済ませた後、洗面所で顔を洗った。
十月に入ってお湯を使うようになっていたけれど、今日はなんだか気合を入れたくて、冷水で思い切りバシャバシャとやる。
濡れた前髪をタオルで拭いていると、鏡の中の自分と目が合った。
左手で前髪を押さえている鏡像のぼくのあらわになった額の右上、ちょうど髪の生え際辺りに、小さな傷痕があった。
長さは縦に約1センチ。そこだけ皮膚の色が白くなっていて、ちょうどチョークで引いた線のようにも見えるけど、
普段は前髪で隠れているから目立つというほどでもない。
これは合宿の時にできたケガ、らしい。
らしいというのは、ぼくにその瞬間の記憶がなくて、はっきりしたことが言えないからだった。
とはいえ、それがいつのものなのか、おおよその目星はついている。
合宿で"死者"――怜子さんの背にツルハシを突き立てた後、襲ってきた強烈な肺の痛みに耐えかね、ぼくは意識を失った。
最後の記憶は、砂利混じりの地面が急速に接近する光景。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上で、額には大きなガーゼが当てられていた。
要するに、倒れた時に石で切るなりしてできた傷、ということなのだろう。
この傷痕を目にする度に、ぼくはどうしてもその時のことを、そして怜子さんのことを思い出してしまう。
逆に言えば、この傷がある限り彼女のことを忘れるなんて絶対にあり得ないのではないか、そんな風にも思うのだけど、
それはきっと、甘すぎる考え方だ。
今ぼくが、どんなに鮮明に覚えていたとしても関係ない。「その時」が来てしまえば、それまでなのだ。
傷痕だって、何か違う理由でできたもの、ということになってしまうに違いない。
あるいは……この滅茶苦茶な<災厄>のことだから、傷痕そのものをなかったことにする、くらいのことはやりかねないんじゃないか、きっと。
いつの間にか思考が捨て鉢なものに傾いてきてしまっていることに気づいて、もう一度顔を洗うことにした。
勢いよく水を顔に打ちつけると、そこだけ皮膚が薄くなっているわけでもないのだろうが、傷痕がひりひりと染みる。
けれどおかげで頭は随分とすっきりした。
もう少ししたら、着替えて出かけることにしよう。
19
雨はあれから今日の明け方まで降り続いたものの、それで満足したとでも言うように、今では青空が広がっている。
昨日のこともあって一応傘を持ってはきていたが、この分ではただの手荷物で終わってしまいそうだ。
かといってわざわざ置きに戻るというのも面倒だしと、傘を杖代わりにして、かつかつ、こつこつとアスファルトを突っつきながら歩いた。
歩きながら考えたのは、それでも昨日のことだった。
あの地下展示室であったはずのことを、ぼくは想像する。
さきほどはまるでまとまらなかった思考が、今度はすんなりと、あるイメージとなって浮かんだ。
それは人形で溢れた暗い部屋と、そこに佇む一人の少女――鳴。
そして彼女の前には、身長と同じくらいの高さの棺が一つ。
その蓋は閉ざされている。ぼくの目の前で、鳴が閉めたからだ。
あの時はまだ、棺の中の人形は無事で、何の異常もなかった。
それはぼくがこの目で見たのだから間違いない。
ぼくを地下から追い払った後、鳴は"準備"のため、人形を棺ごと隠したと言っていた。
衝立の裏に置いてあった人形を引っ張り出し、代わりに棺をそこに隠す。
ただそれだけのことにあれほどの時間を――大体二十分くらい――かけていたのだから、
きっとあそこに決めるまで、それなりに悩んだのだろう。
とにもかくにも棺を隠し終えた鳴はエレベーターで三階に向かい、地下に残るは人形たちだけ……。
そう思いきや、階段を降りてくる影が一つ。
ひょろりと背の高い、リュックを背負った男。鮮明な鳴の姿とは対照的に、男の服や顔はぼやけて判然としない。
まあ、これがぼくのイメージであり、ぼくがこの男を間近で見たわけでもない以上、このくらいが限界だ。
男は、鳴とほぼ入れ替わりでギャラリーに、そして地下展示室に侵入する。
それから手際よく地下を探し、お目当てのもの――棺に入った鳴の人形を見つけ、にやりと笑う。
もちろん笑ったなんてことはぼくの想像でしかないが、これから彼がすることを思えば、それはひどく相応しい行為に思えた。
やにわに背負っていたリュックを下ろし、その中に手を入れる男。
取り出されたその右手には……日曜大工で使うような、ハンマーが握られている。
彼が最初からそのつもりだったとすれば、道具は予め自分で用意していたことだろう。
それにぼくの知る限り、地下展示室にはそういう類のものは置かれてなかったはずだ。
男の目が、じっと人形を見据えた。
と思った次の瞬間には、彼は勢いよく腕を振りかぶり、人形めがけて振り下ろす。
一回。
二回。
三回。
……もう一回くらいか?
念には念を入れて、四回。
それだけで、人形の顔は無くなってしまった。それを見た男は、満足げに深く息を吐く。
後は、撤収する準備だ。
ハンマーをしまい、リュックを背負う。棺の蓋を閉め、衝立と首なし人形も元通りに。
そして足早に階段を上がる。
そのまま出ていこうとした男の足が止まったのは、出口付近。目に留まったのは、「入館料五百円」と書かれた小さな黒板。
そこでまた男は、ふっと笑うのだ。
そして何を思ったか財布を取り出し、百円玉を五枚、重ねてカウンターに置く。
そうして、今度こそギャラリーをあとにした。
そこから先、ギャラリーから去っていく男の姿は、実際にぼくがこの目で見ている。
だから、以上がぼくの想像というわけだ。
想像といっても、他の可能性があるようには思えなかったし、いくつかの根拠らしきものもある。
確信には至らないまでも、それが真実だろうと思うことはできた。
――いないの。そんな人は。
鳴に、そう言われるまでは。
人形を隠していた間を除けば、鳴はずっとぼくと一緒にいた。
彼女にしても、状況はぼくとほとんど変わらない。
いやそれどころか、あの時ギャラリーから出てくる男のことを、鳴は見てもいなかった。
彼女自身もぼくに電話でそう言っていたはずだ。
ぼくから言われるまで、男の存在そのものを認識していなかったのだろう。
なのにどうして、あそこまできっぱりと言い切れる?
状況から考えれば、誰かが忍び込んで人形を壊したのは自明のことじゃないか。
それを訊こうとあれから何度か鳴の携帯にかけてみたけど、電源を切っているらしく、一度も繋がらなかった。
……まあ、これは昨日のことがあったせいとかではなく、いつも通りの鳴なのだろうけど。
かといって、家の電話の方にかけるというのはどうにもためらわれた。
鳴が出ればまだいいが、もし霧果さんが出たとき、ぼくは何と言えばいい?
何も言えないまま電話を切ってしまいそうな気がするし、それではいたずら電話になってしまう。
それに、例え鳴と話せたとしても、鳴はきっと何も教えてはくれないだろう。
そんな予感があった。
だから結局、あれから状況に変化があったわけでも、目の覚めるような新情報がもたらされたわけでもない。
ただ……鳴にああ言われた結果、昨日あそこで実際に起きたことは、ぼくが想像しているようなものだったとは思えなくなっていた。
鳴の言うことに同意するわけではない。
ただ、これだと思う考えに一度ストップをかけられて、自分でも気づいたことがあると言うべきか。
あの時、地下から戻ってきた鳴を出迎えた後。
ぼくらはすぐに地下へと戻ったはずだ。
ほんの少し話をしたり、外の様子を確認したりということはあったけど、その全てを合わせたとして、多めに見積もっても五分少々といったところ。
そのわずかな時間で、人形を見つけ出し、それを壊して、全部を元通りにして去っていくなんてことが可能だろうか?
ぼくの場合は、人形を見つけるだけで三分かかった。
それにしたって、衝立の存在に運よく気づいて三分だったのだから、もっと時間がかかっていた可能性だってある。
人形を破壊して逃げる余裕なんて、とてもない。
もちろん、最初から隠し場所を知っていて、迷いなく行動できたとすれば、五分というのは充分な時間になるだろう。
しかしあの時点では隠した本人である鳴を除いて、それを知るすべは無い。
つまり、あの男は棺のありかを知らなかったはずなのだ。
それを全くの偶然、幸運によってすんなり見つけられたと考えるのは、流石に無理があった。
疑問はそれだけじゃない。
ぼくが見た男が犯人であるとするなら、彼は初めから鳴の人形を狙っていたということになる。
展示されていた他の人形たちには何もせず、わざわざ棺を探し出して中の人形を破壊していることからもそれが窺えるし、
そもそも棺の人形の存在を知っている人間でなければ、隠されたそれを探す、という行動はできない。
だとすると、彼は以前にもあそこを訪れたことがあって、鳴の人形を見たことがあった。
そして昨日、何らかの理由でそれを壊していった、ということなのか?
「何らかの理由」なんて言っても、具体例を挙げられるわけじゃない。そんなものがあるのか、という気さえしている。
更に言えば、仮にそんなものがあったとしても、なお不自然な部分は残るのだった。
まず、今回のことが計画的な行動だったのならば、夕方の、しかも人までいる時にわざわざそれをする必要がない。
住人の不在時や、寝静まった真夜中。
もっと良いタイミングがあったはずだ。
しかも、そんな間の悪さで行為に及んだ上に、標的の人形が見当たらないというアクシデントにまで見舞われたのに、
態勢を立て直そうとするでもなく、悠長にそれを探し始めた……と?
どうにも納得がいかない。
それに、鳴からそう教えられたぼくとは違い、彼には「地下展示室のどこかに棺が隠されている」という確信はなかったはずだ。
霧果さんの工房にあるとか、あるいはもう、既にそれが売れてしまっているかもしれないとは考えなかったのだろうか。
あの人形ってそもそも売り物なのか、という疑問もあるけど……とにかく。
例の男が犯人だとすると、いろいろと腑に落ちないことがあるのだった。
しかもそれは考えてもどうにかなるものじゃなく、結局のところ、そもそもの前提が間違っていたのではないか、としか思えなくなっていた。
それは、つまり。
「……犯人じゃない、か」
まだどこか納得できないでいるぼく自身に言い聞かせるように、そう言葉に出した。
結局は、そういう結論になってしまうのか。
というより、ぼくもそれに薄々感づいてはいたけど、認めまいと無駄な抵抗をしていただけだったのかもしれない。
だって、彼ではないとするなら……それはぼくたちの中の、誰かがやったということに他ならないのだから。
正確に言えば、ぼくか、鳴か、霧果さんか。
もちろん、ぼくではない。それはぼく自身が一番よく知っている。
ロバート・ブロックの「サイコ」みたく、ぼくの中にもう一人ぼくがいて、自分でも知らないうちに……なんてことはないと思う、きっと。
霧果さんは鳴が人形を隠す前からリビングに来ていたし、ぼくが待っている間もずっと三階にいたことは間違いない。
だから、人形を壊すことはできない。
つまり、残るは――
ふっと視界が暗くなり、思考が中断される。
大きな影の中に入っていた。
見上げれば、この辺りではひときわ大きなコンクリートの直方体が聳えている。
鳴の家――<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>。
あれこれ考えごとをしていたら、いつの間にかここに辿り着いていた……なんて、白々しいことを言うつもりはない。
ぼくは間違いなく、自分の意志でここに来たのだ。昨日ここであったことを、もう一度確かめるために。
ギャラリーの入口には、昨日とは違い「閉館」の札が下がっていた。
もしかしてと思ってドアを開けようともしてみたが、流石に今度はしっかりと施錠されていた。
まあ、これは予想していたことだ。
そもそも昨日だって、本当は閉館だったのに運良く入れたようなものだったし。
だから今日のぼくは、最初から三階のインターフォンを押すつもりだった。
もちろん鳴がとり合ってくれない可能性もある。
が、わざわざやってきたぼくを即座に追い返す、なんてことはしないんじゃないだろうか。
それに見知った人が相手なら、たった一本の電話線だけでつながって表情も分からないまま話をするよりも、
こうして直接話す方がかえって気楽だ。
ところが。
インターフォンを押しても、誰の返事も返ってこない。
そして、窓の外から見えるリビングには、人の気配が全くなかった。
……留守か。そこまでは考えていなかったな。
二人で買い物、あるいは今の時間帯を考えれば、食事にでも出かけているのだろうか。
いずれにしても、これでは出直すしかない。
ぼくも一度家に戻って、お昼ご飯でも食べた方が良さそうだ。
さっき朝食を食べたばかりで、あまりお腹は減っていないのだけど。
そんなことを考えながら仕方なく階段を降りていくと、
「ありゃあ、閉館かあ」
という、どこかのんびりとした声が聞こえてきた。
どうやら、ぼくと同じようにここを訪ねてきて、肩すかしを食らった人がいるらしい。
階段を降りきったぼくは、そこに立っていた来訪者の姿を目にして――凍りついた。
リュックを背負った長身の男。
忘れもしない"あいつ"が、そこにはいた。
20
こういう時は、なんでもないふりをしなくちゃいけない。
第一、向こうだってぼくの顔をはっきりとは覚えていないかもしれないのだ。
大きく反応したり、動きを止めたりしてしまえば相手にまでそれを悟られてしまう。
とにかく今はこの場をやり過ごして、ここにはまたあとで来ればいい。
そう。ぼくはただ、この家に用事があって来ただけだ。誰もいなかったから、あとは帰るだけ。
そうやってあくまで冷静に、ただ通り過ぎてしまえば大丈夫……。
――なんてことを思ったのは、たっぷり五、六秒は固まってからだった。
とっくに手遅れだ。
目の前の男が、こちらに顔を向ける。
初めに感じた印象は、思っていたよりずっと年上の人なんだな、ということだった。
おそらく、男性としては少し長いウェーブのかかった髪や、ベージュのジャケットに濃い青のカッターシャツという着こなしといった、
彼が全体として纏っている――言ってしまえば洗練された雰囲気が、ぼくにそう思わせたのだろう。
しかしこうして間近に顔を見ると、浅黒い肌に深く刻まれた皺に彼の過ごした年月が窺える。
頬がこけた顔や、まさに「鷲鼻」という表現がぴったりの大きめの鼻、落ち窪んだ眼窩……。
部分部分を書き出すと、どちらかと言えば鋭利な顔立ちをしている人だと気づく。
しかしその目はやや垂れ目がちになっており、それが彼の印象を柔和なものにしていた。
なんというか、そう……ぼくの周りの人で例えるなら、千曳さんに似ている。
たぶん、年齢も大して変わらないはずだ。
少なくともこうして向き合っていると、悪い人のようには見えないのだった。
けれども改めて彼を目にしたことが呼び水になったのか、ぼくの直感はいっそう強く、
――昨日見たのはこいつだ、間違いない。
と訴えかけてきている。
当の男は、ぼくの顔を見て何かを思い出したかのようにほんの少し眉をひそめ、
「君は……」
と口を開いた。
どうしよう。
このまま走り去ってしまうべきだろうか? それとも、いっそ携帯で警察に通報を?
いやいや、さっきぼくはこの人が犯人じゃないという結論を出したばかりではないか。
……でも、それは本当に?
ああ、だけど――
そうこうしている内に、男はすっと上を指差して言う。
「昨日の夕方、あそこに立っていたよね。ここの家の子供さんかい?」
「はい?」
やっぱり、見られていたらしい。しかも一部誤解がある。
「……ここは、ぼくの家じゃないですよ。それよりなんで、それを知っているんですか?」
「ん? ああ、ちょっと覗かせてもらったという話でね」
そう言ってポケットの中から、覗き穴が二つついた平べったいケースのようなものを取り出した。
折りたたみ式の、オペラグラスという双眼鏡の一種だろう。
父が似たようなものを使っていたはずだ。
「申し訳ない。あまりお行儀のいい話ではなかったかな。しかし、となると君は……」
「……ここはぼくの、クラスメイトの家なんです。昨日は、それで」
「はあん、そういうことか」納得がいったというように、うんうんと頷く男。
「しかしここ、今日は休館なんだねえ。……君は、今日もそのお友達に会いに来たということかな?」
やたらとこちらのことについて訊いてくる。探りを入れられているようで、あまりいい気分ではなかった。
……この人、人形は壊していないのかもしれないけど、それとは別に何か企んでいるのか?
そう考えはじめると、ぼくの受け答えも自然とぶっきらぼうな物言いになってしまう。
「そうですけど、留守みたいですね。誰もいませんでしたよ」
「留守?」男が目を見開いた。「しまったな……やっぱり昨日、上の方も訪ねておくべきだったか」
「何か、ここの人に用事でもあるんですか」
「人というよりは……家に、だね」
――家?
そう言われて、記憶のほんの浅い部分でざわめくものがあった。
そうだ。鳴から昨日聞いたばかりじゃないか。この家は――
ぼくがそれを言うより早く、彼はその名前を口にした。
「――君は、中村青司という男を知っているかい?」
中村青司。
<夜見のたそがれの……。>を建てた建築家。
そして、孤島で非業の死を遂げた男……。
「……この家を建てた、建築家だって聞きました」
もともと正答は期待していなかったのだろう、「ほう」と答える男は驚きの表情を隠さなかった。
「それも、君のクラスメイトから?」
ぼくが頷くと、矢継ぎばやに次の質問が飛ぶ。
「じゃあ、ちょっと確認させてくれ。この家は見崎紅太郎という実業家が、中村青司に設計を依頼したものだと聞いたんだが、合っているかい?」
頷く。
「現在ここに暮らしているのは、件の見崎氏ではなく、人形作家である彼の妻だとも聞いたけど、それは?」
頷く。
「うんうん。……それで、この辺の人たちはここを"夜見山の人形館"と呼んでいる?」
頷く。
……質問攻めにあうというのはなかなかにしんどいものだと、ぼくはこの時、自分がされる側になってようやく思い知った。
これは鳴でなくても「嫌い」と言いたくなる。
男はそんなぼくにはお構いなしと言わんばかりの、いよいよ喜色満面といった様子で、
「成程。半信半疑だったけど、これはいよいよ信憑性が増してきたなあ」
なんて言い、また一人でうんうんと頷き、それからこちらを覗きこむように顔を近づける。
「君、他には? どんな話を聞いた? それだけじゃないだろう?」
「まあ、いろいろと聞きましたけど……」
「どうだろう、僕にもそれを聞かせてくれないかい? ぜひ頼むよ」
まだこの人の正体もよく分かっていないのに、いつの間にか彼のペースでどんどんと話が進んでしまっている。
……でも、これはある意味チャンスじゃないか?
昨日のことについて、彼の話を聞けば何か分かることがあるかもしれない。
それにお互い、一番話を聞きたい人間に聞けないでいるという立場は同じなのだ。
そんな風に考えると、この人のことをぞんざいに扱う気にはもうなれなかった。
「……又聞きですし、大したことは話せないと思いますけど、それでもよければ」
そう返答すると、男は「ありがとう。恩に着るよ」と満足げに笑う。
ぼくがさっきまで考えていたイメージの中で彼が浮かべていた邪悪な笑みとは、似ても似つかないものだった。
……やっぱり、悪い人じゃないんだろうか。
そんなぼくの内心を知るはずもなく、彼は「さて」と腰に両手を当てる。
「そうと決まれば、ここで立ち話ともいかないだろう。なんだが――」
「?」
「あいにく、この辺は地理不案内でね。どこかゆっくりできる所があったら、連れて行ってくれないかい」
そう言って、男はまたにっこりと笑うのだった。
21
十分後。
三組のクラスメイトの一人、望月優矢の姉・猪瀬知香さん夫妻が経営する<イノヤ>に、ぼくら二人はいた。
「どこかゆっくりできる所」なんて言われても、中学生のぼくが知っている場所なんて、夜見山ではここだけだ。
ここも、数ヶ月ぶりになる。
前に来たのは確か、夏休みのあの日。
ここで知香さんから<災厄>の解決に関わる、重大な情報がもたらされたのだ。
あの時ここにいたのは、ぼくの他には望月と勅使河原が。
……それから、赤沢さんもいた。
なんだか、遠い昔のことのように感じる。
「へえ、ここはなかなか雰囲気がいいね。君、やるじゃないか」
能天気にそう呼びかけられて、現実に立ち戻る。
目の前の男は興味深げに、店内をきょろきょろと見回していた。
さっきから思っていたけど、なんというか……年齢の割に、子供っぽいというか、落ち着きが無いというか。
千曳さんのよう、という第一印象は、もはや欠片も残っていない。
と言うより、初めて来る場所で、中学生とはいえ初対面の相手と一緒にいるというのに、なんでこの人はこんなに寛いでいるんだろう。
それともやはり、ぼくがこの人を必要以上に警戒してしまっているだけ、なんだろうか。
店の奥から知香さんがやってきた。
「あら、お久しぶり」
「……どうも。お久しぶりです」
そうして、向かいに座る男を見て、もう一度怪訝そうにぼくを見る。
――まあ、明らかに変な組み合わせだろうな。
しかし、そこは仕事中と頭を切り替えたのか「ご注文は?」と尋ねる知香さん。
「どうぞ」
ぼくは男にメニューを差し出す。
「うん? ああ、君から先に決めてくれ。好きなものを頼んでくれて構わないよ。流石に君みたいな未成年をつかまえて、割り勘なんてしないからさ。話を聞かせてもらう手間賃だと思ってもらってもいい」
おごってくれる、ということらしい。少し迷ったが、素直に甘えることにする。
「……ありがとうございます。それじゃあ、コーヒーを」
「はい」
ぼくの注文を聞いて、男が目を丸くする。
「コーヒーが好きかい? その歳で珍しいね」
「別に好きってほどでも無いんですけど……ここのコーヒーは、本物ですから」
「……ふふ」
知香さんが、それを聞いて微笑む。
「そういう風に言われると気になっちゃうなあ。じゃあ僕もコーヒーと……それから、サンドイッチでも頂こうかな。お昼も近いことだし」
◇
知香さんが奥に消えたあと、先に口を開いたのは男の方だった。
「さて、僕から誘ったわけだし、色々と訊きたいことはあるんだが……その前に」
少し困ったように眉を寄せ、ぼくを見やる。
「なんだか、君からあまり良く思われてないというか、疑われてる気がするんだな。僕はそんなに胡散臭いかい?」
急にそう言われると返答に困ってしまう。
肯定とも否定とも言えない、というのが正直なところだった。
「ああいや、確かに僕は昨日もあの家に行ったわけだが……それはさっきも言ったように、あの家そのものに興味があったんだ。まあ、訪ねたはいいけど一階には誰もいないし、上に人がいるのは分かったが今にも雨が降りそうだしで、昨日はそこで引き上げたんだがね」
それでも沈黙を続けるぼくに、彼は「もしかして」と前置きをしてこう言った。
「昨日、あの家で何か事件でもあったのかい? それで僕が怪しいと?」
手元に落ちていた視線が、一気に上へ、男の方へと向いた。
平静を装うことはできなかった。
そんなぼくの反応がまるで予想通りだったかのように、
「ふん。どうやら図星のようだね、少年」
と言って顎を撫でる彼の態度には、全く慌てた様子はない。
「……どうしてそれを。まさか本当にあなたが」
「ちょっと待った。僕はまだ何があったのかも知らないよ。ただ、あそこが本当に青司の"館"だというなら、そういうこともありえる、そう思っただけさ」
釈然としない表情を浮かべるぼくに「まあ、その辺はおいおい説明するよ。まずは君の不安を解消しておきたい」と言って、男は脇に置いたリュックの中を探る。
「初めに、僕がどこの誰なのか、それをはっきりさせておこう。間の悪いことに名刺は切らしていてね。これで勘弁してほしい」
そう言って彼がテーブルに置いたのは、運転免許証だった。
氏名の欄には「島田 潔」とある。住所は東京になっていた。
写真を見る限り、彼のもので間違いはなさそうだ。
「島田さん、っていうんですね」
「そう、島田潔(しまだきよし)。職業も言った方がいいのかな」
「いえ、そこまでは」
今日は日曜日だから、この人がどんな仕事をしているか断定はできないけど、
雰囲気からしてなんとなく、サラリーマンとかではなさそうな気がする。
<夜見のたそがれの……。>を調べているようだったし、ジャーナリストとか、フリーライターとかだろうか?
いずれにしても、そこまで訊くのもなんだか申し訳ないと思って断ったのだが、島田さんはどこか残念そうな顔をしている。
……むしろ、訊いてあげた方が良かったんだろうか。
「君がいいって言うなら、それでいいさ。……じゃあ次は、僕にも君の名前を教えて欲しいのだけど、どうだろう? もちろん、無理強いはしないが」
「……ぼくの名前、ですか」
会話の展開を考えれば当然そうなるべき流れではあったけれど、やはり返事に警戒は混ざってしまう。
彼もそれを敏感に感じとったようで「ああ」と言葉を続ける。
「別に深い意味は無いんだ。もし君が言いたくないのなら、偽名でもいいよ。例えば……僕は友人の一人を『こなん君』と呼んでいてね。もちろん彼の本名ではないんだが」
……この人は、推理小説が好きなのだろうか?
その名前だけを聞いても、当の「こなん君」がどんな人なのか、全くイメージが浮かばない。
「まあ、そういう類の渾名みたいなものでいいんだ。要は『君』とか『少年』とかじゃあ、こっちが呼びにくいってだけの話でね。なんなら、僕が名付けようか」
彼はそう言って「ふむ」と、ぼくを観察するようにじっと見つめ出した。
ぼくがこのまま沈黙していれば、おそらく一分もしない内に名前が決まってしまうことだろう。
そうなる前に口を開く。
「大丈夫です。島田さんに名乗ってもらった以上、ぼくも自己紹介するので」
「そうかい? 考えるのも手間じゃないし、別に僕は構わないよ」
「……いや、ぼくが困ります」
何にせよ、そんな名前で呼ばれ続けてはたまらない。ぼくも島田さんにならい、学生証を差し出した。
「榊原――君か。ははん、こりゃあ因果な名前だねえ」
「……それを言われるのも、もう慣れましたよ。むしろ最近はご無沙汰でした」
強がりではない。本当にそう思ったのだ。
ここ夜見山に移り住む発端となった、ぼくの苗字にまつわるあれこれ。
それを淡々と、「ああ、またか。久しぶりだな」とだけ。
心が動くこともなかった。
ここに来てからというもの、あまりにも色々なことがあり過ぎたせいかもしれない。
「それは失敬。どうも歳を取ると、いつまでもこういうことを言ってしまって駄目だねえ、どうか忘れて欲しい」
「別に、気にしてませんから。……そんなことより、本題に入りましょう」
待ってましたとばかりに、彼は頷く。
「ああ、それがいいね。それじゃあ、教えてもらうとしよう。――昨日、あの家で一体何があったんだい?」
22
ぼくが昨日起きた事件について説明する間、島田さんはじっとぼくの話に耳を傾けていた。
その途中で知香さんがコーヒーとサンドイッチを運んできたが、彼はそれに手をつけようともしない。
ぼくも同じくコーヒーはそのままにして、まずはひと通りの説明を終わらせた。
「――そして今日、ぼくはあなたに会ったというわけです」
「ふむ、成程ねえ。……話を聞く限り、確かに怪しいな。君が三階で見たというその男は」
まあそれは僕なんだけどさ、なんて言って、島田さんはおかしそうにくつくつと笑う。
それからようやくコーヒーに手を伸ばし、一口啜った。
「これは美味しいなあ、榊原君の言う通りだ」
「……ぼくはまだ、その人影が島田さんだったとは言ってないんですけど」
「いやいや、気を遣ってくれなくてもいい」と彼は空いた方の手をぶんぶんと振る。
「大体、同じ格好をした人間が偶然、一度に二人も現れるはずないだろう。……君が見たのは僕だよ、榊原君。それに僕だってその時、君のことを見たんだからねえ。そこの部分を誤魔化すつもりはないさ」
「じゃあ、そういうことにさせてもらいます。あれは、ギャラリーから出てきたところだったんですか?」
「ああ。さっきも言ったが、昨日一階の方にはお邪魔させてもらっていたんだ。もっとも、誰もいなかったわけだがね。そこでさっさと上を訪ねてれば良かったんだろうが……」
「……何かあったんですか?」
「いいや、何も。ただ、あそこに人形がいくつか置いてあっただろう? ちょっと見入ってしまってね。……凄いな、あれは」
なるほど、そういうことか。その気持ちはよく分かる。
なんだか彼に親近感が湧いてきて、ほんの少し口元が緩むのが自分でわかった。
「すごいですよね。具体的に説明しろって言われると、ぼくも難しいですが」
「ああ。本物の人間そっくり、というのとはちょっと違うんだが……"濃い"んだろうな、存在が。かれこれ十五分近くはあそこにいたんじゃないかなあ」
彼はそう言って、今度はサンドイッチに手を伸ばす。
一口食べたとたんにそれまでの神妙な顔つきから一転、「おお」と目を輝かせた。
なんとも忙しい人だ。
「そういえば、ギャラリーにお金が置いてありましたけど、あれも島田さんが?」
カウンターに積み上げられた百円玉を思い出す。「入館料五百円」だ。
もっとも、ぼくは中学生だからと天根さんから半額にしてもらったり、
最近では「鳴の友達」という理由でそもそも免除してもらったりと、思えばまともに支払ったことがない。
天根さんの裁量によるところが大きいのだろう。
「そうそう。あれだけのものを見せてもらった以上、対価はちゃんと払うさ」
「……今更ですけど、ひとつ確認させて下さい。つまり、島田さんは『いた』んですよね? 昨日、あの時、あの家に」
「もちろん。君の目に狂いはなかったと僕が保証するよ。……ただ、地下に人がいたとは知らなかったな」
「昨日は、地下展示室の方には行かなかったんですか?」
「階段があることは分かってたんだが、誰にも会わない内に、勝手にそこまで入るのもどうかと思ってね。僕としては当然、無用なトラブルは避けたいものだから」
「……そうですか」
「だからまあ、見崎氏の娘さんが僕に気づかなかったとしても不思議ではないんだが……」
釈然としないもの言いだ。「何か、気になることが?」
「それがねえ。何か引っかかってはいるんだが、どうもはっきりしなくてね。――ところで、君も飲んだらどうだい。冷めてしまうよ」
島田さんがぼくのカップを示す。話に夢中で、全く口をつけていなかった。
言われるままに、一口飲む。
もうだいぶぬるくなってはいたけど、それでも花のようにさわやかな香りと果物のような酸味が、ぼくの中を通り抜けていった。
おいしい。でもちょっと、苦い。
――やっぱり、ブラックはまだぼくには早いかもしれないよ、赤沢さん。
◇
それから半分ほどコーヒーを飲んで、カップを置いたぼくに、島田さんが「さて」と切り出した。
「昨日の僕の行動は、大体そんな感じだな。まあ、信じてはもらえないかもだが」
「……一応言っておきますけど、島田さんのことを疑ったのは事件直後の話で、今は違いますよ。嘘だとは思ってません」
彼に会うまでぼくなりにまとめていた結論は、もう既に伝えてあった。
「ああ、それもさっき言っていたっけねえ。僕としては別に異論はないし、妥当な推理だとも思うが……せっかくだし、一つだけ補足させてもらおうかな」
そう言って人差し指を立て、なおも彼は続ける。
「もし僕が犯人だったとしたら、僕があの館に行った時点で既に、人形は衝立の裏に隠されていた訳だ。これはいいね?」
「そうなる……と思います」
「すると僕は棺を探し当て、そのまま人形を壊した、と。つまり衝立の裏が犯行現場だ」
すっ、と指がぼくの方を向いた。
「だとしたら、これは妙じゃないか。目にしているべきものを、君は見ていない」
「ぼくが、ですか?」いきなり照準を向けられ、少しうろたえてしまう。「見てないって、いったい何を?」
「そこで犯行があったという証左。……つまり、返り血だよ」
一瞬意味が分からず、「はい?」と気の抜けた返事をしてしまったが、思考はすぐに追いついた。
「……人形に、血は流れていないと思いますが」
我が意を得たりとばかりに、彼は大きく頷く。
「ごもっとも。この場合は、その破片ということになるかな。……榊原君、君が棺を見つけた時、周りに破片は?」
「いえ、散らばったりはしていませんでした」
ぼくが棺を見つけた時には、周囲を含めて何の異常もなかった。だから深呼吸をする余裕だってあった。
もし破片が落ちていれば、蓋を開ける前に気づいただろう。
けれど、あそこまで人形を壊そうと思えば、当然かなりの強さで殴る必要がある。
破片を散らさず、それができたとは思えない。
眼球だって、あんな風に棺の中には残らず、そのまま転がっていってしまいそうだ。
「わざわざ拾い集めて、棺に戻したんでしょうか」
思い浮かんだことを、そのまま口にした。
「どうだろうねえ。大きいものならともかく、全部となるとこりゃなかなかに大変だ。むしろ……初めから破片が飛び散らないようにしていた、とかね。棺を寝かせた上で壊したなら、破片はほとんど棺の中に落ちるだろう?」
「ですけど、棺の置いてあった辺りはいろいろと物があって、棺を寝かせるだけの広さはありませんでしたよ? だとしたら――」
「それができるところまで移動させてからやった、ということだろうね。……しかしだ、破片を拾い集めたにせよ、棺を寝かせたにせよ、僕が犯人だとしたらそんな手間をかける理由は一体何だと、そういう話になってくる訳だなあ」
確かに、そこまでこだわる理由は存在しない。
そもそもこの時点では、後でぼくらが人形探しを始める、なんて予想はできなかったはずで。
発覚を遅らせたいのなら、元通り衝立で隠しておくだけでも充分だろう。
「まあ、あくまで補足だからね。僕の仕業じゃないと考えてくれているなら、それでいいさ。――それよりも榊原君」
「?」
「君の考えはついさっき教えてもらったわけだが、あれはまだ途中だね。その続きはどうなるんだい」
「……続き、というのは?」
「犯人かどうか検討するべき人間が、もう一人いるってことさ」
どくん、と心臓が一度、大きく脈を打つのが分かった。
それに呼応するかのように、背筋も自然とまっすぐに伸びる。
そんなぼくの様子を見てか、島田さんは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……ああ、君にしてみればあまり考えたくない話だったかな」
「別に考えたくないとか、そういうことじゃないですよ。ただ……来るべきものが来たな、と」
神妙にそう答えると、彼も苦笑しながら頷いた。
実際、ぼくだって「その可能性」を考えなかったわけではない。
むしろ、真っ先に疑ってかかるべきだとさえ言えるだろう。
だからこそ、ぼくは確かめる必要がある。
「ふむ、それじゃあお許しも頂いたことだし、考えてみることにしようか」
そう言う島田さんの手が、サンドイッチの最後の一切れをひょいとつまみ上げる。
それと同じくらいこともなげに、彼はこう口にした。
「見崎紅太郎氏の娘――鳴さん、だったかな? 彼女が犯人である可能性についてね」
23
分かっていたことだ。
ぼくではない。
霧果さんでもない。
島田さんでもない。
残る人物は、ただ一人――鳴だけ。
「……やっぱり、そうなってしまいますよね」
「おやおや。随分とがっくりきているね。何も僕は、最後に彼女が残ったから犯人だ、なんて乱暴なことを言うつもりはないよ」
サンドイッチを食べ終え、両手と口が空いた島田さんが言う。
ぼくのことを慮ってか、慎重に言葉を選んでくれているのが分かった。
「ですけど結局、見崎は怪しいんでしょう?」
「まあ、疑うことを避けては通れないだろうねえ。第一、『もうすぐお別れ』なんて、まるで事件が起こることを予め知っていたような口ぶりじゃないか」
――この子とも、もうすぐお別れね。
人形が壊される前、鳴がそう口にするのをぼくは確かに聞いた。
そして、直後に「別れ」は訪れたのだ。
事件が起きることを、鳴は知っていた。
……というよりもむしろ、鳴こそが人形を壊した張本人だと、そう考えるのが自然だろう。
島田さんの言うとおり、疑うなという方が無理がある。
そのことを再認識して目を伏せたぼくだったが、島田さんの言葉は思わぬ方向へ続いていく。
「とはいえ……そんな言葉だけで疑うのも、失礼ってものだけどね」
「えっ?」
「考えてもごらんよ。『お別れ』って言葉、意味するところは随分とあやふやだ。例えばその後、彼女は人形を隠したんだろう? つまり、壊されなくとも人形は消えていた訳だ。彼女にとっては、それを指しての『お別れ』だったのかもしれない」
「人形を壊すことではなく、ですか」
「ああ。それにもし彼女が犯人なら、そんなことを君に仄めかしたって何の得もない。そうやって色々と考えていくと、どうにもしっくりこない部分が多くてね。結論、僕にとって彼女は"怪しい"止まりなんだな」
おどけたように、彼は両手を広げる。
それがどこまで本心からの言葉なのか、ぼくには分からない。
「その辺りの確認も踏まえて、ひとつひとつ検討してみようか。……まずは、機会について」
「つまり、いつ人形を壊すことができたか、ですよね」
「ああ。人形が壊されたのは彼女がそれを隠して三階に戻り、再び君と一緒に戻ってくるまでの間。そう考えると君と霧果氏には犯行の機会が無くなり、僕にしたって時間は五分程度しかない」
ぼくは無言で頷いた。
ここまではぼくも同意見だった。
……そしておそらく、その先も。
「だが、これは彼女以外が犯人なら、だ。彼女が犯人ならば、話はもっと単純になる。なにせ君を追い払ってから三階に戻るまで、ずっと一人で人形の近くにいたんだからね。壊そうと思えば、その機会はいくらでもあったはずだよ」
そう、鳴がやったのだと考えれば、話はきわめて簡単になるのだ。
事件が起きた後、鳴が警察に通報したがらなかったことも、これで納得がいく。
自分の犯行を警察に知られたいと望む犯人なんて、普通はいない。
「さっき僕らが話題にした破片の問題にしても、それは例外じゃなくてね」彼はなおも続ける。
「他の人が犯人なら、犯行に及んだのは人形が彼女によって隠された後。この場合、人形は隠され、そして壊されたという順番だ。だからこそ、犯人は破片をどうしたのか、なんて疑問が生まれた訳だが……それも、彼女が犯人なら消えてなくなる。つまり……」
「――『隠され、そして壊された』のではなく、『壊され、そして隠された』から。……そういうことですよね」
ならば当然、人形が壊されたのは衝立の裏以外の場所、ということになるだろう。そこに破片が無いのは当然の話だ。
そしてぼくが人形探しをしている間、床に破片を見つけた覚えはなかったから、
島田さんの言う通り、棺を寝かせて壊したということなのかもしれない。
「ああ。行動の順番としてもそう考えるのが自然だろうねえ。そしてその順序で行動できたのは、もちろん彼女だけ。……ところがだ」
「何か問題があるんですか?」
「どでかいのが、一つね。僕がさっき『十五分くらいギャラリーにいた』と言ったことを覚えているかい?」
「霧果さんの人形に見入ってしまって、でしたっけ」
「そうそう。他にちょっと確認したいこともあったりでね」
まあとにかくだ、と言葉を継いで彼は言う。
「とても静かで、有意義な時間だったよ。――だからこそ、問題なんだな」
そう言って、唇の端を僅かに持ち上げた、まるで問題とは思ってなさそうな表情でぼくを見た。
というより、それのどこが問題だと言うのだろう? 良いばっかりなのでは、とぼくには思えてならない。
あの日は音楽も流れていなかったのだから、それはそれは静かだったはず……。
――あれ? それってつまり……。
「島田さんがギャラリーにいた間、物音は一切聞いていないってことですか?」
「そういうことさ。榊原君の話を聞く限り、人形はかなり派手に壊されているようじゃないか。彼女がことに及んだ時点で既に僕がいたのなら、その音は間違いなく聞こえてきたはず。そうじゃないということは」
ぼくに向かって突き出された彼の右手から、人差し指がぴんと上がる。
「僕があそこを訪れた後で、犯行が行われたはずがないんだ。だから彼女に『機会がいくらでもあった』というのは、表現として正しくはない」
「でも、それで見崎の疑いが晴れるわけじゃないですよね? 逆に、島田さんが来る前であればチャンスはあった、という言い方もできるんじゃないですか」
「はあん」顎に手をやり、彼は今度こそはっきりと笑った。「なかなか手厳しいじゃないか。僕よりも君の方が彼女を疑っているみたいだ」
「……今は見崎が犯人かどうか、それをはっきりさせる場面ですから。疑問は残したくないんです」
「ふん。なら、その辺りの時間をはっきりさせておいた方が良さそうだな。榊原君、君が一人で地下から三階に戻ったのはいつだい?」
「四時の……十分になるかならないか。そのくらいだったと思います」
「じゃあ、鳴さんが三階に戻ってきたのは?」
「四時三十分でした」時計を見ていたから、ここの時刻については自信があった。
「となると、彼女が一人で地下にいた時間は大体二十分くらいか。君の言う通り、人形を隠すだけにしては少々時間がかかり過ぎている気もするが……まず今はいいだろう」
島田さんはコップの水を氷ごと口に含み、がりがりと咀嚼しながら続ける。
「昨日、僕があの家に入った時間は四時二十分だったよ。入った時に腕時計を見たからね。そこは間違いない」
そう言ってぼくに示すように左手を掲げ、袖口から腕時計を覗かせた。
「それからしばらくギャラリーを見て回って、帰ったのが四時三十五分ころ……ってところだ。まあ、その時間については君も異論はないだろう?」
「ええ」互いに姿を目にしている以上、ここは間違いない。
「そしてさっきも言った通り」揃えた指先でこちらを指して言う。「僕がギャラリーにいる間、大きな物音――それこそ何かを壊すような音は、一切聞こえなかったよ」
「……それなら、仮に見崎がやったのだとして、人形を壊すことができたのは」
「四時十分から二十分までの、およそ十分。そういうことになりそうだ」
「隠すのは島田さんが来てからでも良いとして、壊すだけで十分、ですよね。充分な時間に思えますけど」
少なくとも、これで鳴に機会がないと言い張ることは無理がある。
「だが、時間があるというだけで人形は壊せない」
「……それは、凶器が必要という意味ですか?」
人形の損壊部位は顔に集中していた。
偶然の事故、例えば壁や床にぶつけてしまったとかでは、決してああはならない。
何かしらの道具――ぼくはそれをハンマーと想像したわけだけど――を使った、意図的な行為だと考えるべきだろう。
「あの家で、そういう道具がありそうな場所だと……」
「二階にある霧果氏の<工房 m>、とかかな。しかしね、なにも必ずそこから調達しなきゃならないって話でもない。彼女がその気だったのなら、予め自分で用意していた可能性だってある」
「それじゃ結局、凶器は大した問題にはならないんじゃないですか? 見崎がどうにかしてそれを準備して、人形を壊した。それだけの話なんじゃ」
「うーん、僕にはそこまで単純な話に思えないんだよなあ」島田さんはそう言いながら、こめかみの辺りを指でつんつんとつついている。
「もちろんぼくは、見崎がそんなものを持っている場面は見てないですけど……ぼくがいなくなって一人になった後に取りに行ったとか、あるいはもともと、地下展示室に隠していたのかもしれませんよ」
こうは行ってみたものの、工房に取りに行ったのだとすれば、どうしてエレベーターを使わなかったのかという疑問は残る。
それに、地下のどこかに隠していたのだとしても。
昨日、ぼくが鳴の家に行ったのは完全なる思いつき。鳴にとっては偶然だったのだ。
いつか来る機会に備えて、前もって仕込んでおいた……。
全くないとは言わないけれど、それはあまりにも大袈裟すぎやしないか、なんて気もしてしまう。
とはいえ、現に人形は壊れているのだ。
可能性がある以上、いやおうなしにそう認めざるを得ないのでは、とぼくは思うのだけど……島田さんは釈然としない顔で、まだこめかみをつついていた。
もうそろそろ、それは「つんつん」ではなく「こんこん」と形容しなきゃいけないくらいの強さになりつつある。
「榊原君の言う通り、彼女が現場に凶器を持ち込めたかどうかについては」不意に、彼の手がぴたりと静止する。「抜け道はいくらでもありそうだ。しかし……」
「しかし?」
「それから、凶器はどこへ行ったんだろうねえ。彼女が三階へ戻ってきた時は、当然なにも持ってはいなかったんだろう?」
「確かに、見崎は手ぶらでしたけど……地下展示室のどこかに隠していたんじゃないですか?」
「だが、地下は君が隅々まで調べているじゃないか。そしてそんなものは目にしてないときた」
「ぼくが探していたのは、たったの三分間だけでした。そりゃあ、あらかたのところは探しましたけど……ぼくが見落としただけかもしれないですよ?」
「見落としがあった可能性は否定しないさ。……が、そもそもね、これから徹底的に捜索されると分かっている場所に、敢えて凶器を隠したりするものかい? 君がもっと長い制限時間を要求することだってあり得たんだ」
「あ……」
そうだ。三分という時間を決めたのは他ならぬぼくだった。
ならば、隠し場所に地下展示室を選ぶのはまるで「見つけてください」と言っているに等しい。
それに、実際に探した身としては、やっぱりあそこに凶器が隠してあったとは思えないのも事実なのだ。
……ギリギリまで衝立の存在に気づけなかった手前、それを堂々と口にするのは、ちょっとはばかられるものがあるけれど。
どうせ隠すなら、最初からぼくが絶対に探さないような場所を選ぶだろう。
それこそ、ぼくが真っ先に除外してしまうような――
――人形があるのは間違いなく、こ・の・ち・か。
不意に、鳴の言葉が頭をよぎる。
今思えば、鳴にしては珍しく挑戦的というか、何か裏がありそうなもの言いだったけれど……。
あれはもしかして、誘導だったのだろうか?
ぼくの意識を地下に向け、他から遠ざけるための。
だとすれば、凶器の隠し場所は。
「一階のギャラリーはどうですか。隠してあったのなら、島田さんも気づかなかったでしょうし」
それは半ば確信を持っての問いかけだった……のだが。
「それなんだがねえ。実は昨日、僕はあそこを調べているんだ。凶器になりそうなものは無かったよ。断言してもいい」
「えっ?」
この上なく明確に、そしてあっさりと否定されてしまった。
「カウンターの内側とかも、ちゃんと見たんですか?」
「ああ。手抜かりなくしっかりとね」
「じゃあ、陳列棚の上は?」
「見たよ。もちろん、棚の下も」
他にありそうなところは……と更に考えたが、諦めた。
こうして考えると、あのギャラリーに物を隠せそうな場所はあまり多くない。
「というか……そもそも島田さん、どうしてそんなとこまで見てるんですか? 確認したいことがあった、って話でしたけど」
呆れの色も隠さないぼくの質問に、彼は笑いながら頭を掻いている。
「いやあ、いろいろと理由があってね。これも後で説明するが……今はまあ、中村青司のせい、とだけ言っておこうかな」
あの家を建てた中村青司に原因が? ともかく、ギャラリーに凶器がなかったのは確からしい。
「だったら、二階の工房ですよ。道具もやっぱり、そこから持ってきたんです」
「わざわざエレベーターは使わずに、かい? そこまで忌避する理由はあったんだろうか」
「それは……」
「とはいえ君の言う通り、彼女が工房へ行かなかったという保証もない。僕が『しっくりこない』と言った意味が、段々と分かってきたろう? ……ところで榊原君」
「なんですか?」
「ようやくと言うべきか、思い出したことがあるんだ。ギャラリーの入口には、ドアベルが付いていたね。それも結構大きな音の鳴る」
「そうですけど……それが?」
そう答えた直後、違和感を覚えた。
正体までは分からない。けれど、確かに感じる。
そんな微かな違和感を。
「僕があそこに入った時も、もちろんそれは鳴った訳だが……あの音、地下展示室には聞こえないのかい?」
「!」
曖昧だった違和感の輪郭が、その言葉でくっきりと浮かび上がる。
……そして、それが何を意味するのかも。
「昨日、君もあのドアから入ったんだろう。そして地下で鳴さんと会った。――その時はどうだった? 彼女に音は聞こえたんだろうか」
昨日のことだ。思い出すまでもない。
扉を開け、ぼくが館に足を踏み入れた時。
あの時、鳴は。
――誰か、そこにいるの?
「……地下にいた見崎の方から、声をかけてきました」
「成程。それはつまり――」
「島田さんがギャラリーに入って来た時も、見崎にはそれが分かったはずです」
「しかし、なぜか僕の場合は声をかけて貰えなかった。どうしてだろうね。一応『すみません』と挨拶もしたんだが……逆に怪しまれてしまったかなあ」
そう問いかける口調こそ穏やかなものだったけれど、こちらを見つめる彼の視線はいつの間にか鋭さを帯びている。
そんな話ではない、君だって分かっているだろう――。
暗にそう追及されているような気がした。
「……ぼくは見崎から『誰かが入ってきた』なんて一言も聞いてません。それどころか――」
「僕のことを『いない』と断言した。そうだったね?」
そうなのだ。確かに鳴はそう言った。「そんな人はいない」と。
もちろん、昨日あそこに島田さんがいたのは確かなこと。
鳴が彼の姿を見ていない以上、そう考えても仕方がないか……と思ったりもしたのだが、実際は真逆だったのだ。
「いない」だなんて、言えるはずがない。
「……もし見崎が地下にいなかったとすれば、気がつかなくても不思議じゃないとは思います」
「だがこの時間、彼女が地下展示室にいたのは間違いない、と」
「ええ。エレベーターが使われたのは見崎が戻ってきた時だけですし、仮に階段を使って他の階に移動していたとすれば――」
「再び地下へ戻る時、僕と鉢合わせになる、か。彼女が三階へ戻ってきたのは、僕が立ち去る前の話だったね」
「はい。しかも地下から、エレベーターを使って、です。地下以外の場所にいたのなら、島田さんがいる間に必ず一階を通ることになります」
つまり鳴にも、島田さんが「いた」ことは分かっていたはずなのだ。
それなのに彼女は「いない」と言う。矛盾は明らかだ。
――もう、答えは出たも同然だった。
それを口にしようがしまいが、もはや大した差なんてない。
「結論は、一つだと思います」
だから、それは自分で言おうと決めた。
「見崎は確かに地下展示室にいた。そして地下にいた以上、島田さんのことも分かっていた。――けれど、見崎は気づかないふりをした」
島田さんが、同意を示すように小さく頷く。
彼に存在を悟られないように息を潜め、一方でぼくや霧果さんには平静を装い、闖入者などなかったかのように振る舞う。
ここまで来たら、もう疑う余地はない。
――鳴は、嘘をついている。
24
議論がひとまずの結論に達して、ぼくらの間には沈黙が訪れた。
「失礼します」と知香さんがテーブルに歩み寄り、空いたカップと皿を片付けてまた戻っていく。
邪魔にならないタイミングを見計らっていたのだろう。思えば、ずっと話を続けていたのだ。
島田さんは目を閉じ、何事かを思案している様子だった。
次に何を言うべきか、適当な言葉が見つからないでいるぼくも、自然と無言になってしまう。
かといって、このままじっと彼を見つめているのも落ち着かない。
頭上で回るシーリングファンや、カウンターでコーヒーを淹れている知香さんといった店内のあちこちを見ていると、
まるで、ぼくらのいるテーブルだけが違う時間の流れに取り残されてしまったような気分になってくる。
そんな奇妙な感覚から逃げ出したくて、ぼくも目を瞑った。
◇
――背丈も髪型も服装も、全く同じ少女が二人、向かい合わせに立っている。
艶のある黒髪に隠れて、彼女らの顔は見えない。けれど、そのシャギーショートボブの髪型には見覚えがあった。
蒼白いドレスに身を包み、二人して身じろぎひとつせず立ち尽くしている。
不意に、向かって左手に立つ少女の右手がゆっくりと上がる。
そしてその手にはいつの間にか、ハンマーが。
あっと思った次の瞬間、それは勢いよく反対側の少女へ振り下ろされる。
声を発する間もなかった。
ばきっ、という乾いた音が響き、彼女はその場にくずおれる。
脚や腕、首までもが不自然に曲がり、それはまるで操り糸の切れた人形のよう。
……人形?
よくよく見れば、彼女は殴られたというのに血を流すこともない。
代わりに周囲にはその肌と同じ色をした、白い欠片が散らばっている。
なるほどそれは、確かに人形だった。
じゃあ、こっちは?
やっぱりこっちも人形なのか?
未だハンマーを持ったまま立ちつくしているもう一方の彼女が、ゆっくりとぼくの方を向く。
その右目にあるのは、蒼ではなく漆黒の瞳。
そして左目には、真っ白な眼帯。
……鳴だった。
その唇が微かに動く。しかし声は聞こえない。
人形を砕いた音はあれだけはっきりと聞こえたのに、今はもうなにも聞こえない。
それでも唇の動きから、鳴の言葉は理解できた。
――どうして。
どうして、だって?
それはぼくが言いたいよ、見崎。どうしてそんなことをする必要があるんだ?
叫ぼうとしても声は出なかった。
鳴は口を閉ざしたまま微動だにしない。ただ、ぼくの方を見ている。
なぜだかとても、淋しそうな顔をしていた。
◇
「――君。おおい、榊原君」
島田さんにそう呼びかけられて、目を開ける。
「あ……すいません。何ですか?」
「煙草。吸わせて貰ってもいいかな」
見れば、いつの間にか彼の手元には灰皿が引き寄せられていた。
「……ああ、どうぞお構いなく」
肺のことを思えば、好ましくないのは間違いないんだろうけど、そこまで神経質になるようなことでもない。
話すべき話題も尽きかけてきていたのだし、なんならぼくが席を外せばいいだけの話だ。
「喋り通しで疲れたんじゃないかい。この辺でお開きにしておこうか?」
「大丈夫です。……ちょっとぼーっとしてましたけど、疲れたとかではないので」
目を閉じてはいたけど、もちろん眠ってはいない。
ただ、さっきまでの……白昼夢とでも言うのだろうか、自分の妄想じみたイメージに没入してしまって、
まるで寝ぼけたような反応をしてしまった。
「そうかい。じゃあ失礼して」と言って上着のポケットから島田さんが取り出したのは、手のひらにすっぽりと収まってしまいそうな、小さな黒い物体。
てっきり煙草の箱とライターが出てくるものだとばかり思っていたから、それが一瞬、ひどく異様なものに映る。
形だけを見れば、それは印鑑を入れるケースによく似ていた。
しかし中を開けば、入っていたのは印鑑ではなく煙草が一本だけ。
「今日の一本」
彼はそう口にして煙草をくわえ、ケースを近づけて火を点けた。ライターまで内蔵されているらしい。
そのまま目を細めて一度大きく煙を吸い込み、そして天井に向けて吐き出す。
しみじみと煙草を味わう島田さんを眺めながら、思考はどうしても先ほどの光景に傾いていく。
……いや、あれは正確にはぼくの想像でしかない。
ただ、昨日のことが鳴の仕業だとすれば、あれと同じことが起きたはずなのだ。
最後に見た鳴の淋しげな表情が、頭から離れない。
「見崎はどうして、人形を壊したんでしょうか」
夢の中ではできなかった問いかけが、言葉となってようやく出てきた。
「うん?」
こんこんと灰皿の縁を叩き、煙草の灰を落としていた島田さんだったが、すぐには答えず、
代わりにじっとぼくの方を見た……かと思いきや、
「なんだい、随分と怖い顔をしているねえ。ガールフレンドに嘘をつかれたのが、そんなにショックだったかい?」
なんて言って、愉快そうに笑う。
「なっ……いやいや! ぼくと見崎は別に、そんなんじゃ」
「おやおや。しかし、彼女の家にはよく行くんだろう?」
「そんな頻繁に行くわけでもないです! 昨日だって久しぶりで……」
必死に言葉を並べながら、全身がじんわりと熱を帯びていくのを感じる。
鏡を見るまでもない。間違いなく、ぼくの顔は真っ赤だ。
「まあ、意地悪はこれくらいにしておくとしよう。それよりも、だ。……実際、榊原君はどう思うんだい。犯人は彼女で決まりかい?」
「……少なくとも、見崎は何かを隠しています」
「僕が来た時、気づかないふりをした、か。確かに、そういう結論になるだろうが……じゃあどうして、彼女はそんなことを?」
「ぼくが思いつく可能性は、ひとつだけです」
「それは?」
「島田さんに、地下展示室を見られたくなかったんでしょう。――もう既に、人形を壊してしまっていたから」
「……ふん、成程ねえ。僕が入って行きにくいように、敢えて無人を装ったってことか」
「さっき言ってましたよね。『誰にも会わない内に、勝手にそこまで入るのもどうかと思った』って。そう思わせたかったんだと思います」
もちろん、例え嘘をついていたからといって、それだけで鳴が犯人だと決まるわけではない。
その理由が分からないのならば、なおさら。
しかしそれでも、隠し事をする理由なんてそのくらいしか考えつかないのも事実だった。
「だがねえ、君も疑問に思っているようだけど、彼女に動機はあるんだろうか」
「ぼくが知らないだけで、そうせざるを得ない事情があったのかもしれません」
「人形を壊したこと自体は、そうかもしれないさ。でも、その後のことは? 壊した人形をどうしてわざわざ君に見せつける必要がある?」
あの時ぼくは、何をするのか直前まで知らされてはいなかった。
仮に鳴がぼくに対して壊れた人形の存在を隠し通したかったのだとすれば、適当にはぐらかしてしまえばよかったのだ。
わざわざ人形探しを提案して、それを見つけさせる必要なんてどこにもない。
「……例えば、そうやってぼくと一緒に人形を見つけることで、犯人が外からやって来たと印象づけようとしたとか」
実際、それでぼくも島田さんを一度は犯人と疑ったのだ。
それこそが、鳴の狙いだったのでは?
「要するに、外部犯の仕業にしたかった、と」
「島田さんがあの日ギャラリーに入れたのも、そういうことだったんじゃないかって気がします」
「それはつまり、ギャラリーの入口が開いていたのは、彼女が鍵を掛け忘れたのではなく、意図的にそうしていたから……ということかい?」
「そうです」ぼくは頷いて言う。
「もしギャラリーの入口まで施錠してしまえば、外からの侵入は不可能になります。そうなれば、犯人は家の中にいた人だってすぐに分かってしまいますから」
だからこそ、鳴はぼくに入口が開いていたと言われた後も、鍵を掛けに行かず、そのまま話を続けたのだ。
島田さんは「ふうん」と唸って、煙草の赤い火と、そこからまっすぐ昇っていく煙を見つめている。
「外部犯の可能性を残すために、涙ぐましい努力をしていたって訳だ」
「ええ」
「じゃあ、そうやってせっかく現れた、僕という犯人候補。――それを自分から潰してまで、なぜ彼女は嘘をつく?」
「……それは……」
この上なく真っ当な理屈だった。
電話で鳴と話した時、ぼくは島田さんを疑っていたのだ。
外部に疑いを持たせたいのならば、目論見通りのぼくの話は肯定するのが自然だ。それこそ、嘘をついてでも。
だが実際は真逆で、鳴は嘘をついてまでぼくの話を否定し、島田さんの存在を"いないもの"にした。
……そう、まるで"いないもの"なのだ、この状況は。
そんなことをする必要は、どこにもないというのに。
「それに外部犯に見せかけたいなら、人形を隠した後にもっと間を取りたがると思うけどねえ。誰もいない時間が長ければ長いほど、その可能性も高まるってもんだろう」
「そう……ですね」
三階へ戻ってきてから、適当な理由をつけて時間稼ぎをすることも出来たはずなのに、鳴はそれすらしていない。
更に言えば、あの時の鳴はすぐ地下へ戻ろうとしていた。
もしぼくがそれに従っていれば、外部犯の可能性はゼロに等しくなっていただろう。
自分が犯人であることを隠したいのなら、それとは正反対の行為を鳴はしている。
……どうしてだ?
「僕がしっくりきていないのは、むしろこの辺の事情についてなんだよ。彼女が犯人だという結論に事実を当てはめることはできても、内面はそうはいかない。どう考えても、"形"が歪になってしまうような気がするんだ」
組んだ両手の上にあごを載せ、彼は小さくため息をついた。
その指に挟んだままの煙草は、もうだいぶ短くなっている。
「だからね、こう考えるべきなんじゃないかな。――この事件の本当の"形"は、もっと違うものなんだと」
「"形"、ですか」
「ああ。この事件にはまだ、隠された何かがあるんじゃないか、そんな気がしてね。もっともこれは、僕の願望も入り混じっているのは否定しないが」
「……その、願望というのは?」
「まあ、つまりは……これが"青司の館"で起こった事件である以上、そう単純なものであるはずがない。そういう自分勝手な願望、だねえ」
そう言って煙草を灰皿に押し付け、火を消した。
「ええと……それって、何かしらの意味が欲しいってことですか?」
「そんな感じさ。何にせよ今の段階じゃあ、事件についての議論はここらで打ち止めだろうね。……榊原君、まだ時間に余裕はあるのかい?」
そう言われて時計を見れば、いつの間にか時刻は十二時を回っている。空腹はまるで感じていなかった。
「平気です。全然」
「ふん。だったら、今度は別の話を聞いてもらえるかな。僕が昨日、あの家にいた理由――中村青司と、彼の"館"についてね」
25
「そういえば島田さん、『あの家そのものに興味がある』って言ってましたよね」
「ああ。ちょっと前に、青司の"館"がここ夜見山にあるという噂を耳にしてね。それで東京からやって来たんだ」
そう言いながら、備え付けの紙ナプキンを一枚抜き取る。
口でも拭くのかと思ったけど、彼はテーブルの上で折りたたまれたそれを広げ、かと思えばまた折り、そしてまた広げ、そんな動作を角度を変えながら何度も繰り返す。
そうして折り目だらけになった紙ナプキンを、今度はしっかりと折り込み、何かを形作っていく。
彼は折り紙をしているのだと、そこでようやく気がついた。
完成形が何なのかは想像もつかないけれど、鶴を折っているわけじゃないのは確かだった。
「君も知っての通り、中村青司は建築家として異彩を放つ存在だった。それから、極めて早熟の人間でもあってね」
そう言葉を紡ぐ一方で、彼の視線は手元に注がれたまま、指先は淀みなく紙ナプキンを折り続けている。
彼にとって、中村青司にまつわる話はそのくらい引き出すことのたやすい記憶なのだろう。
「特に亡くなるまでの十年間は隠居状態で、殆ど建築家としての活動はしていなかったという話だが……『殆ど』という言葉は、なかなか厄介なもんだねえ。当然、皆無ではない。そしてその実例の一つが、ここ夜見山にあったという訳さ」
「見崎の家のことですか?」
「この辺の人たちは"夜見山の人形館"と呼んでいるんだろう? もっとも、あそこにはちゃんとした名前があるようだけど」
「分かりやすいと言えば、そうですけどね。<夜見のたそがれの……。>って、最初は建物の名前とは思いませんでしたし」
「名は体を表す、というやつだねえ。他の青司の館も、大体はそんな感じだよ」
「そうなんですか?」
「例えば、時計が沢山あるから『時計館』、仮面のコレクションがあるから『奇面館』……なんて具合でね。そしてここ夜見山にあるのが――『人形館』、か。……うん、成程ねえ。そうかそうか」
この人はたまにこうして一人で納得する部分があるな、というのがぼくにもうっすらと分かってきた。
……それにしても、なんだか妙に感慨深げな口調なのが引っかかる。
中村青司の館をようやく見つけた達成感、なのだろうか。
「ああ。一つ誤解の無いように言っておくが、あの館は青司の本来の作風からは大きく外れているよ。彼の館は大半が西洋建築の流れを汲んでいる。ああいうモダニズム的なものはまず無いと言っていい」
そう言われても、ぼくが知っている彼の建築物は鳴の家だけだから、あまりぴんとは来ないのが正直なところだった。
西洋建築と聞いてイメージできるのは、今はもうないあの<咲谷記念館>ぐらいだけど、ああいうものともまた趣が違っているのかもしれない。
「だからね、さっきも言ったが僕は半信半疑だった。人づてにあの館が青司の手によるものだと耳にはしたが、とてもそうは見えなくてね。――しかし、君が鳴さんから聞いた話でようやく納得できたよ。つまりあれは、霧果氏の意向だったんだな」
「霧果さんがああいう家をオーダーしたから、その通りに建てたと?」
「ああ。依頼主の要望を聞きつつも、自分好みの趣向はこれでもかと凝らすのが青司の常なんだが、彼女に人形を創ってもらうという交換条件があった手前、そこは自重したのか、言いなりになるほど彼女の人形に心惹かれていたのか……」
まったく、と言う彼の口からため息が漏れる。
「あの青司を虜にしてしまうとはねえ。つくづく恐れ入るよ。……まあ、実物を見た身としては納得だがね」
「その時霧果さんが創った人形って、今はどこにあるんですか? 中村青司はもうずいぶん前に亡くなったそうですけど」
「そうだねえ。彼の最期については、もう聞いているかい?」
「あまり詳しくは……えっと、殺人事件だった、とだけ」
「その認識で合っているよ。そしてその時、彼が住んでいた屋敷は燃えてしまっているんだ。だからおそらく……人形も火事で一緒に焼けてしまったんじゃないかな」
「……そうなんですか」
「ああ」そう答えた直後、島田さんの指の動きが初めて止まる。「榊原君、青司について君が知っていることは、鳴さんから聞いた話だけかい?」
ぼくが頷くと、彼は再び指を動かし始めた。
手の中の折り紙は、複雑な構造をした紙飛行機のようにも、はたまた鳥のようにも見えたが、何を作っているのかは窺い知れない。
ただ、それが未だ工程の途中だということだけは確かだった。
「そうかい。だとすれば、ここから先は君の知らない話になるな」
「まだ、続きがあるんですよね」
そう言えば、鳴もそんなことを言っていたっけ。
昨日はあんなことがあったから結局聞けずじまいだったし、率直に言えば忘れてしまっていた部分もある。
「ああ。僕や君にとっては、青司自身のことより、彼が命を落とした後の方が重要かもしれない。……彼の死後、全国各地に点在する彼の館では、不可思議な事件が起こるようになった」
「それってまさか……中村青司の幽霊が出るようになったとか、ですか?」
ぼくの言葉に、島田さんが大きくかぶりを振る。
「その程度だったら、まだましだったのかもしれないね。――起きるのは、決まって殺人事件だよ。それも凄惨な」
26
再び"殺人事件"なんて言葉が出てきたことに、動揺がなかったわけじゃない。
だけどそれ以上に、ぼくの中で強く湧き上がる得体の知れない感覚があった。
……何だ、これは?
「青司が死んだ角島に建つ"十角館"、岡山の"水車館"、京都・丹後半島の"迷路館"……。全てを挙げればきりがないからこの辺にしておくが、ほぼ全てにおいてそんな事件が起きている。多くは君がまだ小さい頃の話だから、あまり記憶には残っていないかな」
「……島田さんは、どうしてそんなに詳しいんですか?」
「まあ、僕自身興味を持っていろいろ調べているせいでもあるが……いくつかの事件については、実際に僕も関わっていてね。当事者って訳さ。こういう言い方もあれだけど、縁があるんだろうねえ」
実際に、事件を経験した当事者。
それはつまり、この話も無責任な噂なんかじゃなく、本当に起きたということだ。
――だとしたら。
「ちょっと待って下さい。じゃあ島田さんは、見崎の家でも、いずれそういう事件が起こるって言うんですか。あそこが本当に、中村青司の館なら」
彼の表情が、眉間に皺の寄った厳しいものになる。
ほんの少しの間があった。
「可能性は低くはない、と思うね」
「……!」
「僕も、面白半分でこんな話はしないよ。ただね、他の"館"でそういう事件が立て続けに起こっているのは事実なんだ。見て見ぬふりをする方が、かえって危険かもしれない。そう思える程にね」
「でも、殺人事件なら当然、犯人がいたわけですよね? だったら原因は館じゃなくて、あくまで別にあるんじゃ」
「もちろん、事件を起こすのは人さ。動機だって館とは無関係に蓄積された因縁だったり、不幸な偶然の連鎖だったり様々だった。……だが、それが起こるのは決まって"館"で、なんだ。まるで事件の方が呼び寄せられているかのようにね」
「だったら昨日、人形が壊されたのは? あれは予兆だったんですか、将来起こる事件の」
「……さてねえ。館によっては、そういう予言じみたこともあったと記憶しているが……まだ何とも、ってところかな」
ぼくに「話の続き」をするはずだった鳴。
続きとは、中村青司の館で起こる事件についてのことだったのだろうか?
もしも、そうだとしたら。
自分の家でもそういう事件が起こりうると、鳴が知っていたのだとしたら。
未来の自分となるかもしれない無残な姿の人形を見て、彼女は何を思ったのだろう。
……いや、それは鳴が自分でやったことかもしれないじゃないか、と思い直す。
さっきまで犯人なのではとあれほど疑っていたのに、今ではもうこんなことを考えている。
ぼくは鳴を疑いきれていないのか、それとも信じていたいだけなのか。
自分でも分からなかった。
そして本来なら、常識で考えるなら、ぼくはいい加減に声を荒げるべきだったのかもしれない。
そんな非科学的な話を持ち出すなんて、その家に住んでる人に失礼じゃないですか……と。
なのにぼくは、島田さんの話に言いようのない説得力を感じてしまっている。
それに気圧されて、口から言葉が何一つ出てこない。
理由は明白だった。
他ならぬぼく自身が、同じように理屈では説明できない<現象>を、ついこの間まで体験してきたのだから。
そして、先ほどからぼくの中で渦巻いている、このひどく奇妙な感じ。
その正体も徐々に分かり始めていた。
つまるところ、これは「既視感」なのだ。
過去に経験した事物に対する、拭いがたい既知の感覚。
……ぼくはそれを、島田さんの話に、中村青司の館に対して感じている。
そんなぼくのただならぬ様子を見てとってか、彼は更にこう続けた。
「とはいえ、それがいつ起こるのかについては分からないよ。あの家……"夜見山の人形館"が他人の手に渡ってからかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「ですけど、結局は起こる?」
「……ああ」未だ完成途中であろう折り紙を放り出して、彼は悩ましげに額に手を当てる。
「ここで『大丈夫だ』と言って君を安心させるのはたやすい。が、実際に経験してきた身として、そんな気休めを言うのは不誠実だと僕は思うんだ。だからね、やはりこう言うしかない」
細く息を吸う音が聞こえた。
「――人が死ぬのさ、青司の館では」
そう言い終えて、島田さんはゆるゆると頭を振る。
早々に消えていた千曳さんのイメージが、再び彼へと重なりはじめていた。
……似ている。どうしようもなく。
そう感じながら、ぼくは言った。
「つまり中村青司の館では、とにかくそれが起きる、と? 彼の呪いとか、悪意とかじゃなくて」
それはかつて、千曳さんが<災厄>をぼくに説明した時の言葉。
だけどもそれは、中村青司の館に対しても違和感なく当てはまってしまうようだった。
「少なくとも、青司の幽霊の仕業ってことはないだろうねえ。いやもちろん、もし青司が化けて出てきてくれるのなら、僕は是非ともお目にかかりたいところなんだが……長年彼の館を追いかけてるのに、一向にその気配はないね。残念なことに」
心の底からそう思っているというような調子で、島田さんは続ける。
折り紙はいつの間にか、その手の中へと戻っていた。
「しかし、一連の事件が青司の死を皮切りにしているのも事実だ。要は彼が死んだことを契機に、その館までもがこう……なんだろうねえ。死神に魅入られてしまったと言うべきか……」
より良い表現を探しているのか、彼はそう言って「ううん」と唸った。
今や魚のような鰭――それともあれは、腕だろうか?――を生やした折り紙を持つ手は静止している。
それだけ考え込んでいるということなんだろう。
けれど、ぼくにはもう分かっていた。
呪いでも悪意でもなく、ただ単にそれは起こる。
そんなものを言い表すのに相応しい言葉なんて、ひとつしかない。
「……そういう<現象>なんでしょうね」
「うん?」
「中村青司が亡くなって、彼の建てた"館"までもその"死"に引きずられて、"死に近い場所"になってしまった。それで事件が起きる。……そういうことじゃないですか?」
ぼくがある種の諦観をもって、淡々と言葉を並べ終えてからも、島田さんはぽかんとした様子で固まっていた……が、ややあって、
「……そうか……」
という呟きが、彼の口から漏れた。
「成程ねえ。なかなか面白い考えだと思うよ。青司の館は"死に近い場所"だから、そういうことが起こる。これはそんな<現象>なんだと。うん、確かにそうかもしれないな」
そう言ってひとしきりうんうんと頷いた後、「しかし、あれだねえ」と思い出したように言う。
「なんというか、ちょっと意外だなあ」
「何がですか?」
「いやね、榊原君みたいな若い子にこんな話をしても、話半分にしか聞いてもらえないと思ってたからさ」
「だって事件が実際に起きてるんだったら、信じるしかないですよ」
「まあそうなんだが、どちらかと言えばオカルトめいた話だろう? 現実にそういうことがあっても、館と関連づけて考えるのはあり得ない、って否定される覚悟はしていたからね。そこが予想外だったという話だよ」
「……」
確かに、以前のぼくならそうだったかもしれない。
だけど今はもう、島田さんの話を「あり得ない」と一笑に付すことはできなかった。
だってぼくは、知ってしまったのだから。
確かに「ある」のだ。
この世界には。
そういうことが。
甦る<死者>。
不可解な死の連鎖。
クラスの一人を"いないもの"にする「おまじない」。
そんな不条理が、ついこの間までぼくの、三年三組の現実だった。
だから……中村青司の館では必ず殺人事件が起きるのだ、なんて言われて、否定することなどできるはずもない。
――仕方ないよな。だって、そういうものなんだから。
そんな諦めにも似た感情が、ぼくの中にあった。
むろん、こんな赤裸々な心情を島田さんに語るつもりなんて、初めからぼくにはなくて。
「実はぼく、ホラー小説とか結構読むんです。それで、こういう話に抵抗がないのかもしれません」
だからこう言って、適当に誤魔化したつもりだったのだけど……これは思いのほか、彼を喜ばせる話題だったらしい。
「へえ。なかなかいい趣味じゃないか。それじゃあ、ミステリなんかも読むのかな」
「……その、ミステリは」
「あんまり好きじゃない?」
「……はい」
「ふうん。僕はホラーとミステリは相性が良いと思っているから、もしやと思ったんだが」
「別に、嫌いってほどでもないんです。ただ……」
「ただ?」
「……実際は、あんな風にならないじゃないですか」
「トリックのことを言っているのかい? まあ、ものによってはそういうのもあるからねえ。割りきって楽しまなきゃいけないというのは、その通りかもしれないなあ」
「……」
「おっと、もちろん僕の好みを押し付けるつもりはないよ。変な話をして悪かったね」
「いえ。――こちらこそ、すみません」
「いやいや、何も榊原君が謝る話じゃないさ」
そう言った後、島田さんはトイレに行くと告げて席を立ち、ぼくは一人取り残される形になった。
なんとも気まずい感じで、会話は終わってしまった。
……実のところぼくは、いわゆるミステリに分類される小説もそれなりに読んではいたのだ。
怪異や超常現象に人間が翻弄されるホラー小説とは違い、
ミステリの世界では、名探偵たちが刃のように切れ味鋭い推理でもって、謎に満ちた世界を律する。
ホラーを読んだ後にミステリを手に取ると、そんな彼らの姿を実に頼もしく感じたものだった。
だからこそ、ぼくはホラーを「物語」として純粋に楽しむことができていたのかもしれない。
大丈夫。実際にはこんな恐ろしいことはあり得ないんだから。
だって現実の世界に不思議なことは何もなくて、こんな風に全てが秩序だっているじゃないか……と。
少なくとも、それがぼくのリアルだったし、そう信じていられた。
――だけどもそれは、しょせん幻想でしかなかったのだ。
常識で考えれば信じがたい<災厄>で人が理不尽に死んでいくのを、ぼくは何度も目の当たりにした。
現実の世界が秩序あるものだというのはただの思いこみで、本当は不条理に溢れていた。
そして結局、不条理そのものと言うべき<災厄>からぼくらを救ってくれたのは、
<死の色>が見えるという、鳴の異能じみた<人形の目>――。
つまりは、また別の不条理だったというわけだ。
もしもミステリの名探偵が今年の三年三組にいたところで、<災厄>にはきっとなすすべがなかったことだろう。
そもそも、彼らがよりどころとするべき「事実」ですら、改竄であやふやなものとなってしまうのだから。
そんなわけでぼくは、なんとなくミステリに対して疎遠になってしまっている。
ホラー小説に対しても似たような抵抗は少なからずあったのだけど、元々「物語」だと思っていたか、そうでなかったかの違いは意外にも大きくて……。
この世界の現実以上に突拍子もない展開が起きたりすると、かえって安心してしまうこともあるのだ。
だから、なんだかんだでホラーは今も読み続けていた。
――それにしても、とぼくは思う。
この世界は、全てがミステリのように合理的・論理的に進むとは限らない。
そんなことはもう、痛いほど思い知らされている。
その前提を踏まえた上で……昨日の事件は、果たして一体どうなのだろう。
ただ単にぼくの知らない事実があって、真相をつかみそこねているだけなのか。
……それとも結局は<災厄>のように、ぼくらにはどうしようもない出来事だったのか。
結論にたどり着く見込みもない思考が、頭の中で渦を巻いている。
島田さんが席に戻ってくるまで、とりとめのないそれは続いた。
27
「この店、やっぱりいい豆を使っているようだねえ。支払いの時に少し買っていくとしようかな」
トイレからの帰り道、カウンターの知香さんとコーヒーについて言葉を交わしていたらしい彼は、そう言って再び席についた。
「何か頼んだらどうだい、榊原君。こんな時間だ。お腹が空いてるんじゃないか」
「いや、そうでもないんです。起きたのが遅かったので」
「じゃあ、コーヒーのお代わりでも頼もうか? それとも紅茶にするかい」
「気にしないで下さい。……あの、さっきから思ってたんですけど」
「うん?」
「それって、何なんですか?」
席につくなり、島田さんが再び興じていた紙ナプキンの折り紙を指差す。
先ほどまで魚のように見えていたそれは、また得体の知れない形状に姿を変えていた。
「ああ、これかい」
まるで悪戯を企む子供のような笑みを浮かべて彼は言う。
「出来上がってのお楽しみってところだねえ。まあ、もう少しで完成するよ」
「もうすぐ完成なんですか?」
それにしては、彼が一体何を作っているのか、ぼくは未だにさっぱりなのだけど。
「うん。だからそれまで、あとちょっとだけ僕の話を聞いてもらうとしようかな」
「えっと……今度は、何の話を?」
「もちろん、中村青司の"館"についてさ」
「……まさか殺人事件が起こるほかに、まだ何か?」
さっきまでの話の流れからすると、どうしても不吉なものを感じてしまう。
「いやいや、そんなに身構えるような話ではなくてね」
彼は愉快そうに白い歯をのぞかせる。
「第一、青司の館がそういう"場"になってしまったのは、あくまで彼が死んだ後、だろう? それと館自体が持つ『特徴』は、別のところにあるのさ」
「特徴って、さっき言ってた西洋建築だとか、そういう話ですか?」
「そうそう。榊原君も青司が奇妙な館ばかり建てていたことは、もう聞いているね? とはいえ、あの"夜見山の人形館"しか目にしたことの無い君には、ぴんとこないかもしれないが」
「まあ……そうですね」
「他のところはもっと強烈だよ。例えば……さっき僕が言った"十角館"。あれはその名の通り、上から見ると正十角形の形をしている」
「正十角形?」
数学の問題で目にしたことは何度かあるが、すぐにはイメージが浮かばない。
少なくとも、日常生活ではなかなかお目にかからない図形だろう。
「後は……"迷路館"もそう。名前でなんとなく察しはついていると思うが、廊下が迷路になっているんだ。各部屋を行き来するのには、毎回その迷路を通る必要があるんだよ」
……面白そうではあるけれど、実際に住むとなるとものすごく不便なんじゃないだろうか。
もしも火事が起きたりしたら、住み慣れていても焦りで迷ってしまいそうな気がする。
「他にも、まあ色々だね。是非とも一度足を運んでみて欲しい……と言いたいところなんだが、事件が起きた後で空き家になってしまったり、中には取り壊されてしまったものもあるらしいから、難しいだろうねえ」
「……こういう言い方も変ですけど、見崎の家みたいに奇抜なところがないのは、むしろ異色なんですね」
「そうかもしれない。……だが、もしあそこが紛れもない青司の"館"だとすれば、一つだけ共通しているはずのものがある」
「それは?」
「それこそが彼の館のもう一つの『特徴』でね。言うなれば――そう、からくり趣味だ」
「からくり趣味?」
「ありていに言えば、隠し部屋とか秘密の通路とか、そういう類のものだねえ。青司は館を設計する際、必ずと言っていいほどそういった仕掛けを仕込んでいたのさ」
「あの"夜見山の人形館"にも、それがあると?」
「おそらくそうなんじゃないかと、僕は踏んでいるけどね。時には依頼主にも内緒で仕掛けを施すこともあったというから、住む人間がその存在を知らないことも珍しくない」
「それって、普通に暮らしていても気づかないものなんでしょうか?」
「偶然見つけることもあるだろうが、まず気づかれないだろうねえ。大抵の場合、仕掛けを作動させるレバーなりスイッチなりがあるんだが、それにしたって壁の中や床下やらに隠されている。そういうものの存在を知った上で、意図的に探してみない限りは難しいと思うよ」
「――あ。そう言えば島田さん、昨日ギャラリーの中を徹底的に調べたって言ってましたよね。それって、もしかして」
「ああ、君の想像通りだよ。あの館の仕掛けを探していたんだ」
彼がそれを「青司のせい」と表現したのは、つまりはそういうことだったのだ。
「とはいえ結論としては、あそこにそれらしきものはなかったがね」
「その仕掛けを見つけたら、島田さんはどうするんですか?」
「別にどうもしないさ。こうやって探しているのだって、特に深い目的があってのことじゃないしね。ただ……」
「?」
「そこに隠し部屋や秘密の通路があるって言われたら――気になっちゃうじゃないか、どうしてもさ。ねえ?」
同意を求めるようにぼくに向けられた彼の表情は、この日一番の笑顔だった。
いやいや、あまりに身も蓋もない……と呆れる気持ちがなかったと言えば嘘になってしまうけど、
その分、この純粋で無邪気な答えこそが紛れもない彼の本心なのだろう、とも感じた。
「ギャラリーが違うのなら、可能性は他の場所、ですよね」
「ああ。地下か、それとも上階か……もし上階にあるなら、住人の許可無しには探せないなあ」
島田さんがそう言い終えた、その時。
それまでずっと動き続けていた彼の指が、まるで最後の一画を入れ終えたような、ある種の余韻を持ってその動きを止めた。
「――さて、完成だよ」
28
唐突に彼はそう言って、手の中の物体をぼくに向かって放り投げる。
それまでの繊細な手つきとは裏腹に、無造作な動きで投げ出されたそれは、テーブルの上を一度跳ね、ぼくの目の前に「着地」した。
「"七本指の悪魔"。自慢じゃないけど、これを折れる人はそうそういない」
彼の言葉通り、こちらを向いて直立しているそれの手には、鋭い爪を備えた指が七本。
山羊を思わせるたわんだ角に、背中には羽。矢じりのように先の尖った尻尾。
紙ナプキンの白の中にあっても禍々しさを隠しきれていないそれは、紛れもなく悪魔だった。
――しかし。
「……あの、島田さん。これって、元から"こう"なんですか?」
彼は確かに「完成」と言った。だとしたら、あるべきものがここにはない。
ぼくの問いに、彼はにやりと笑う。
それはもちろん、肯定の笑み。
「お察しの通り、今回はいくつかの手順を省略させてもらったよ。……榊原君が遭遇した事件のことを思うと、こうするべきなんじゃないかと思ってね」
折り紙の「悪魔」は本来、裂けたように大きな口を開け、一目でそれと分かる邪悪な表情を浮かべているという。
だが、これは後から調べて分かったことで、この時のぼくにそれを知るすべはなかった。
なぜなら――やはり、なかったのだ。
昨日ぼくが見つけたあの人形と同じく、この折り紙の悪魔にも、顔が。
顔の部分には、まるで削り取られたような平面があるだけ。
顔のない、純白の悪魔――。
言葉もなく、ぼくはただそれをまじまじと見つめることしかできない。
「僕らにとって昨日のことは、この悪魔のようなものなのかもしれないなあ」
ぐるぐると肩を回して、島田さんがぽつりと言う。
ひと仕事を終えてほっと一息、といった風情だ。
「ある程度の輪郭は掴めていても、肝心な部分はぼやけたまま、どんな表情をしてるかすら分かっちゃいない。……さてと」
そう言い終えると、彼はやおら立ち上がった。
「それじゃあ、僕は行くとしようかな」
「行くって、どこにですか」
「もちろん東京だよ。そろそろ戻らないとね」
思わず「ええっ」という声が出てしまった。
「もう帰っちゃうんですか? 今日も見崎の家に行く予定だったんじゃ」
「本当はそうしたかったけど、留守ならどうしようもないさ。一度は中に入ったんだから、それで良しとしておくよ」
「……なんだか、残念ですね。島田さん、せっかく遠くから来たのに」
「いやいや、門前払いを食らってそれっきりのところもあるからねえ。そうじゃないだけでもありがたい話さ。また来ればいいんだから」
「じゃあ、またいつか夜見山に?」
「スケジュールと相談になるだろうが、いずれ、ね。――だから事件についてはもう、どうするかは君次第だ、榊原君」
「……」
「昨日の事件、あれは言ってしまえば器物損壊だ。警察に届け出るのも一つの選択ではあるが……まあ、それは実質的な被害者である霧果氏の意向を尊重すべきだろうね」
事件のことを、霧果さんはどう考えているのか。思えば、ぼくはそれすらも分かっていない。
「……ぼくは、どうするべきなんでしょうか」
リュックを背負う島田さんに問いかける。
このまま別れてしまえば、どうすれば良いのか分からず、後はもう途方に暮れるしかなくなってしまいそうだった。
そんなぼくの心中を知ってか知らずか、彼はやはり軽い調子でこう言う。
「そんなに難しく考える必要はないさ。君がしたいと思ったことをすればいい」
「ぼくの、ですか」
「ああ。そもそも君は、これからどうしたい? 犯人を懲らしめたいのか、真実を知りたいのか……あるいは、もう考えたくないのか」
島田さんが与えてくれた選択肢を、一つ一つ考えてみる。
まず――犯人を懲らしめたい、なんて感情はぼくにはなかった。
というより、これはまだ上手く説明する言葉を得られていないのだけれど……この事件は「そういうもの」ではないんじゃないか。
そんなぼんやりとした感覚が、この時のぼくには既にあったのだ。
そして……考えることを放棄して、事件から目を背ける選択。
それも嫌だった。
例えとして適切かは分からないけど……それはまるで、他の人たちと一緒にクラスで鳴を"いないもの"として無視するような。
そんな選択のように、ぼくには思えたのだ。
だとすれば結局、ぼくがするべきことは――。
「――やっぱり、気になります。昨日、あの家で何が起きたのか」
ぼくの返事に、島田さんは満足げに頷いた。
「うん。だとすれば、その気持ちに従うべきだよ。君だって、この事件については当事者と言っていい。そうする権利はある……と、僕は思うね」
そう言って、今度はどこか寂しそうに笑う。
「逆に、そういう意味では僕は部外者だからねえ。首を突っ込むのはここまでにしておこう」
「でも、また来るんですよね?」
「もちろんさ。……そうだねえ、今度はあそこの主がちゃんといる時に訪ねるとするよ」
あそこの本来の所有者である、鳴の父親――紅太郎さんがいる時、ということだろうか。
彼が次に夜見山に帰ってくるのは、果たしていつになるだろう?
……というか、帰ってくるんだろうか?
「もっとも、しばらくは事件の影響で先方もゴタゴタしているだろうから、少し時間を置いた方がいいかなあ。……榊原君とも、また会えるといいんだが」
「……そう、ですね」
彼の言う「また」がどのくらい先のことを指しているかは分からなかったけど、それが来年度以降の話であるなら、
まず間違いなく、ぼくはもうここにはいない。
けれども、それはわざわざ口にする必要もないことだったし、
そもそも彼の場合、お目当ては鳴の家なのであって、ぼくがいようがいまいがきっと関係のないことだろう。
「ありがとうございました。その、色々とお話を聞かせてもらって」
「それはこっちの台詞だよ。長々と付き合わせて悪かったね。コーヒー一杯じゃ釣り合わないなあ。……君、別にもう絶対コーヒーは飲みたくないって訳じゃないだろう?」
「え。……まあ、そうですけど」
「よし。それじゃもう一杯ご馳走するから、ゆっくりしていくといい」
そう言って伝票をひょいと取り上げ、彼はすたすたとレジの方へ歩いて行く。
知香さん相手に会計を済ませ、ついでに購入したらしいコーヒー豆が入った紙袋を持ち、出入口の扉を開けて店の外へ……。
と思いきや、最後にもう一度ぼくの方を向いて軽く手を挙げ、今度こそ島田さんは出て行った。
そうして、テーブルにはぼくひとりが残された。
知香さんはカウンターに戻り、コーヒーサイフォンのフラスコにお湯を注いでいる。
島田さんが帰り際、ぼくのために注文していったものだろう。
少なくともそれを飲み干すまで、いましばらくの間はここへ釘付けにされてしまった格好だ。
まあ、今すぐここを離れなきゃならない事情もないから、ぼくにとってはありがたいばかりなのだけど。
緊張が途切れたせいか、急に全身が疲労感に包まれる。
テーブルに顔を伏せ、そのままだらしなく伸びをすると、頭のてっぺんに何かがかさりと触れた。
顔を上げると、文字通り目と鼻の先に紙ナプキンの悪魔が立っている。
ああ、そういえばこいつもいたんだっけ。
指の先で軽くつついてやると、それは何の抵抗もなくこてんと倒れた。
仰々しい見た目のわりに、ずいぶんとあっけないことだ。
――僕らにとって昨日のことは、この悪魔のようなものなのかもしれないなあ。
島田さんの言葉が甦る。
……こののっぺらぼうの悪魔が、事件の現状なのだとして。
ぼくが暴くべき「顔」とは、一体何なのだろう。
未だはっきりしない、鳴の真意?
館のどこかに隠されているという、中村青司のからくり趣味?
それとも……。
底なし沼のような思考にずぶずぶと沈んでいくぼくを、仰向けになった悪魔が見上げている。
顔のない悪魔が、ぼくを嗤っているような気がした。
今日はここまでです。
続きはまた明日にでも。
再開します。
29
「ほら、ここ」
回答用紙にびっしりと書かれた計算式の一つを、ぼくがとんとんと赤ペンで叩くと、
勅使河原直哉は眉間に皺を寄せ、その部分を覗き込んだ。
「問1の計算を間違えてるだろ? この大問は問1の答えを使って問2と問3を解いていくから、ここにミスがあると全部間違いになっちゃうんだよ」
「うわー……何だよ、そんなことだったのかよ」
「勅使河原の言う通り、考え方も使う公式も間違ってないよ。うっかりミスに気をつけましょう、って話だね」
「ったくもう、散々考えて損した気分だぜ。……悪りいな、サカキ。手間取らせちまった」
「別にこのくらいなら、手間にもなってないよ。分からなかったら訊くしかないんだし、いつでもどうぞ」
「おお、やっぱり出来る人間は言うことが違うねえ。んじゃ、またすぐに甘えさせてもらうことになると思うから、よろしくな」
休日が終わり、月曜日。
昨日はあれからもう一度鳴の家に行ってみたのだけれどやはり留守で、後はそのまま家に帰って一日が終わった。
なんとも居心地の悪い気分のまま登校し、午前中の授業を終え、ようやく昼食を済ませて一息ついたところ……というのが現在の状況だ。
教室を見渡せば、クラスのみんなは思い思いに昼休みを過ごしている。
友人と談笑する者、何をするでもなく微睡んでいる者……。
とはいえ、受験が徐々に迫ってきていることもあってか、昼休みでも変わらず勉強をしている生徒が大半を占めていた。
今しがたぼくにアドバイスを求めてきた勅使河原も、その一人である。
ちなみに、彼はもうとっくに自分の席に戻って次の問題と格闘しているようで、
ぼくの机の真後ろに位置する彼の席からは、鉛筆を走らせる音が忙しなく聞こえてきていた。
勅使河原がこれほどまで真剣に勉強に打ち込むようになったのは、合宿が明けてからのことだ。
それまでの彼は、良く言えばクラスのムードメーカー、悪く言えばお調子者の遊び人といった感じで、少なくとも勉強とは無縁だったと言っていいだろう。
成績も、下から数えた方が早いどころか、それを通り越して「逆トップ争い」の常連だったと、彼が自分で言っていたことがある。
そんな彼の現状は、今ではこの通り。
いつも楽しそうに騒いでいた勅使河原がこんな調子だから、
新学期を迎えてからというもの、休み時間になってもクラスはやけにひっそりとしてしまっている。
……もちろん、理由はそれだけじゃない。そんなことよりも明白で、重大な要因があった。
単純に、人数が少ないのだ。
あの合宿で<災厄>が終わったとはいえ、それまで犠牲となったのは、三年三組の生徒だけでも十二人。
あまりにも多く、人が死に過ぎた。
現在の三組の生徒は、たったの十八人。それで全員だ。
そして当然、残された者たちにしてみても、<災厄>が終わったから全てが元通り……なんて訳にはいかない。
全員がクラスメイトを、あるいはそれ以上に親しい友人を、それぞれ喪っているのだ。
その事実が今もなお、クラス全体に暗い影を落としている。
勅使河原の変化だって、つまりはそういうことなのだ。
彼は新学期になってから、志望校を県内でも有数の進学校である西高へ変えている。
彼の成績を考えれば、無謀でしかない決断。
だがクラス全員、彼がなぜそうしたのか、理由はすぐに分かった。
西高は彼の幼馴染であり、合宿で犠牲になったクラスメイトの一人でもある風見智彦の志望先だったからだ。
勅使河原と風見は、小学三年生の頃からずっと同じクラスで、家も近所同士だったという。
気のいい奴だけど、着崩した服装に茶髪という、見る人によっては不良少年と誤解されかねない風貌の勅使河原とは対照的に、
風見はいかにも優等生然とした、メガネがよく似合う落ち着いた物腰の生徒だった。
けれど二人はよく一緒に行動していたし、話をする時もお互い、いい意味で遠慮なくものを言っていた。
それは彼らの長いつきあいが成せるわざ、といったところだったのだろう。
いろいろあって人間関係がぎくしゃくした挙句、そのリセットも兼ねてここ夜見山へ来たぼくにとっては、そんな二人がほほえましくもあり、羨ましく思ったことだってあった。
まあ、当の彼らは互いの関係を「腐れ縁」なんて言ってはばからなかったのだけど。
その風見が命を落とした経緯について、ぼくはここで多くを語るつもりはない。
ただひとつ言えるのは、勅使河原がその死について責任を感じ、深く悔やんでいるということ。
それから彼が何を思い、西高を志望するに至ったのか。
ぼくはそれを知らないし、本人が語ったこともない。それならそれでいい、とも思う。
ただ友人として、できる限りの手助けはしてやりたいと思うだけだ。
夏休みが明けてもうすぐ二ヶ月が過ぎようとしているが、勅使河原の決意は揺らいでいなかった。
むろん、気合だけでどうにかなるほど現実は甘くない。
クラスのトップクラスではなくとも、勉強ができない部類では決してなかった風見ですら、西高に合格できるかどうかはこれからの努力次第、という状況だったのだ。
勅使河原の場合は、そもそものスタートから大きく出遅れていることもある。
彼の努力は近くで見てきたぼくも痛いほど分かっているが、現時点での学力は合格ラインに遠く及ばなかった。
担任代行の千曳さんが、受験すること自体を許さない可能性だってあり得るだろう。
けれど、それはあくまで現時点での話だ。
この二ヶ月間だけに目を向けると、勅使河原の伸びはクラスでも抜きん出ていた。
仮に彼がこのまま、それこそ年が明けてもずっとこのペースを維持できれば、
確実に合格とはいかないまでも、戦いの舞台に立ち、勝つか負けるかの勝負――それも多少は分の良い――をすることはできる。
そうぼくは確信していた。そして今の勅使河原ならば、きっとそれをやり遂げるということも。
親友の死に対する、彼なりのけじめ。
それが彼を突き動かす原動力なのだろう。
もしかしたら、そこにあるのは前向きな感情だけではないかもしれない。
向き合いたくないことから逃避するための手段として、勉強に没頭しているのではないか……。
そんな疑問が、脳裡をかすめたことも何度かあった。
休日もほとんどの時間を勉強に費やすようになり、めっきり付き合いが悪くなった勅使河原を思うと、その可能性の方が高いのかもしれない、とも。
が、ぼくはそれでもやはり、それならそれでいい、と思うのだ。少なくとも、今は。
賑やかだった勅使河原を知っている身としては、今の彼をほんの少し寂しく思う気持ちもあるけれど、
息があるのなら、足が動くのなら、走れるだけ走ればいい。
そうして辿り着いた結果がどんなものだったとしても、きっと彼の中で何か答えが出るはずだ。
勅使河原の鉛筆の音は、ぼくがこうしてぼんやりしている間も絶え間なく聞こえてくる。
難問に直面しているのか、時折「うーん」という悩ましげな唸り声も。
彼がぼくの後ろの席で良かった、と思った。
――未だ立ち止まったままのぼくにはきっと、彼の姿は眩しすぎる。
30
――おはよう、見崎。
――おはよ。
今日の朝、昇降口で挨拶を交わした鳴の様子はいつも通りに思えた。
それこそ、土曜日のことなどまるでなかったかのように。
だが一方で、あのことについて彼女がぼくに何かを語ることもなく、それきり会話もないままだ。
鳴にどう話を切り出したものか、ぼくが迷って声をかけられないでいる、というのはある。
だがそれ以上に、鳴の方もどことなく、ぼくを避けているというか……話しかけられるのを拒絶する雰囲気があるのは、ぼくの思い過ごしではないはずだ。
まるで――そう、ぼくがクラスで"いないもの"にされていた時の、クラスメイトたちのどこかよそよそしいあの感じ。
そんな印象を鳴から受けるのだ。
……皮肉なものだな、と思う。
ぼくが"いないもの"だった時でも唯一、同じく"いないもの"だった鳴だけは、普通にぼくと接していたというのに。
<災厄>が終わった今になって、よりにもよって鳴とこうなるなんて。
やっぱり何か、ぼくに言えない、言いたくないことがあるということなんだろうか。
振り返り、ぼくの席から見て左後方の窓際、最後列に位置する鳴の席を見やる。
彼女は机にノートを広げ、午前中にあった授業の内容をまとめているらしかった。
俯いたその横顔を髪が隠しているから、鳴の表情は分からない。
多分、ぼくのことも見えてはいないだろう。
こうしてずっと鳴を見つめていれば、いずれぼくに気がつくだろうか?
あるいは……例えぼくを視界の端に捉えたとして、そのまま"いないもの"にしてしまうのかもしれない。
そんなことを考えながら、それでも鳴の方を見ていると、不意に背中をつつかれた。
「早いね。次はどの問題?」
二つ後ろの席の勅使河原は、思い切り身を乗り出し、定規を持った右手をぼくに突き出している。
彼が体を預けている、ぼくのひとつ後ろの席。
そこに座っていた王子誠は、今はもういない。
だから、振り向く前から勅使河原の仕業とすぐに分かった。
「いや、勉強のことじゃなくてよ。……なあ、サカキ」
彼らしくもない、まるでぼくの機嫌をうかがうような声。
ただならぬものを感じて、ぼくの声も自然とこわばった。
「どうしたの?」
「その、なんだ。おれが言えたことじゃないんだろうけどさ」
「?」
「……辻井のこと、許してやってくれよな」
「……うん?」
唐突に出てきた名前に、頭の中が「?」で埋め尽くされる。
当の勅使河原はといえば、さっきまでぼくが見ていた方向――窓側の、鳴の席あたりに顔を向けていた。
ぼくもつられてそちらを向き……ただし目の焦点は、鳴のやや手前で像を結ぶ。
ちょうどぼくと鳴をつなぐ直線上に、眼鏡をかけた一人の男子生徒が座っていた。
彼は立てた教科書でぼくから顔を隠しつつも、時折おそるおそるといった感じでこちらに視線を送り、
そしてぼくと目が合うと、また顔を引っ込める。その繰り返しだった。
彼の名前は、辻井雪人。
彼こそが勅使河原の言う「辻井」なのだった。
つまり、ぼくが鳴の方をじっと見つめていたものだから、勅使河原はぼくが辻井を睨みつけているのだと誤解したらしい。
なんでまたそんな勘違いを……と呆れてしまいそうになるが、勅使河原の表情は真剣そのものだ。
そしてその目には、ほんの少しの怯えの色。
あの合宿が終わってからというもの、彼は時折、こんな顔をするようになった。
……きっと、不安なのだろう。
取り返しのつかない「何か」が起こりそうな、そんな予兆を見過ごすことが。
自分自身がそうだった分、余計に。
「――ああ、違う違う。ぼくが見てたのはさ、ほら」
だからぼくは心持ち大げさに笑顔を作って、改めて鳴の方をあごでしゃくってみせた。
「んん……? ……あ、そういうことか。なんだよサカキ、見崎とケンカでもしたのか?」
それですぐに、彼の表情はぱっと明るくなった。
――やっぱり勅使河原には、いつもこういう顔をしていてほしい。
元気を取り戻した彼の茶々を軽くあしらいながら、そんなことを思う。
これで一件落着……なのだが、問題がひとつ。
それは当のぼく自身に、辻井を恨む心当たりが全くない、ということだ。
だから「許してやってくれ」と言われても、そもそも何を許せば良いのかさっぱり分からない。
いくら勅使河原が多少なりともそういうことに対して敏感になっているとはいえ、流石にただ誰かを見ているだけで「睨んでいる」と思ったりはしないだろう。
それは辻井も同じことで、彼がああいう反応をしていたということは、
彼自身もまた、ぼくの視線を「睨まれている」と思っていたということ。
つまり、二人の間で「ぼくが辻井を恨んでいる」、あるいは「そう思っていてもおかしくはない」というのは、どうやら共通認識となっているらしい。
だが、もちろんぼくはそんなことを思ってはいないし、そもそも辻井に悪感情を持ってもいない。
確かにクラスメイトの中でもあまり会話が多いほうではなかったけれど、お互い読書が好きということもあって、
時々そういった話をすることさえあったのに。
しかし考えてみれば、最近は彼と言葉を交わすことがほとんど無くなっているのも事実だった。
そうなったのは……やはりと言うべきか、合宿が終わった後からで。
あの時、ぼくと辻井の間で何かがあっただろうか?
そう考えてみると、答えは自ずと見えてきた。
31
<咲谷記念館>で行われた合宿。
結果としてそのおかげで<災厄>は終結したのだけど……代償は、あまりにも大きかった。
合宿での出来事をひとことで言い表すなら、"惨劇"という二文字がふさわしい。
<災厄>によってもたらされる無慈悲な死と、その狂気の渦に呑み込まれた人間の狂騒との狭間で、
<災厄>を止める唯一の方法――つまり、<死者>を"死"に還すこと――が、ある生徒の手によってクラス全員の知るところとなった。
だけど、そもそも<死者>が誰かなど、<災厄>の改竄による影響で分からなくなってしまっているのだ。
鳴の<人形の目>のことだって、この時点ではぼくと鳴の他に知る者などいなかった。
そんな状況で「<死者>を殺せば<災厄>は止まる」なんて情報は、はっきり言って毒にしかならない。
それも致死の猛毒だ。
結果として多くの人間が疑心暗鬼に陥り……やがてそれは、ある結論に達した。
"見崎鳴こそが今年の<死者>である"、という誤った結論に。
そうして、何人ものクラスメイトが明確な敵意を、あるいは殺意を持ってぼくと鳴の前に現れた。
その中には、辻井の姿も。
――僕は死にたくないんだぁっ!
そう言ってモップを振り上げた彼の表情には、死への恐怖がありありと浮かぶ。
咄嗟のことで体が動かず、ぼくはモップが鳴に振り下ろされるのを眺めていることしかできなかった。
しかし、直撃すれば充分に命を奪いえたであろうその一撃が、鳴に達することはなかった。
三神先生――怜子さんが、身を挺して彼女を守ったからだ。
倒れ伏した怜子さんの頭のあたりから流れ出した真っ赤な血が、ゆっくりと床に広がっていった。
死んでしまった、と思った。
殺された、とも思った。
頭が真っ白になり、体は瞬時に熱を帯びた。
考えるより先に手が動いて、ぼくは辻井を殴っていた。
彼は大きくよろめいて、尻餅をついた。
なおも向かっていこうとしたぼくを、鳴が止めた。
鳴は何も言わず、ただ小さく首を振った。
ぼくも、無言で頷いた。
……後は二人で手を繋ぎ、どこまでも逃げていった。
◇
合宿でぼくと辻井との間に起こったいざこざと言えば、これだけだ。
いや、「これだけ」という言葉で片付けるのが適当かどうかは分からないけれど……とにかく。
辻井が負い目を感じているのは、間違いなくこのことについてだろう。
……こんな大事なことを、ぼくは今まで忘れていたのかって?
まさか。忘れるはずないに決まってる。
ただ、これを「ぼくが辻井を恨む心当たり」として、思い浮かばなかっただけのこと。
今この瞬間だって、それは変わっていない。
ぼくはあのことで辻井を恨むつもりはない……というよりも、ぼくにそんな資格はないのだ。
なぜならぼくがしたことだって、彼と大して違いはないのだから。
◇
<災厄>に終止符を打つべく、鳴が<人形の目>で見抜いた<死者>の正体は、怜子さんだった。
鳴を庇った彼女が実は生きていたことに安堵する間もなく、鳴はそう告げた。
そうして怜子さんを"死"に還そうとする鳴を制し、最後はぼくが。
彼女の家族としてこのぼくが、すべてを終わらせた。
そう、それで今年の<災厄>は終わった。怜子さんは間違いなく<死者>だったのだ。
だから、あの時ぼくが下した決断は正しかった。そういうことになるのだろう。
けれどもそれは、「結果的に」正しかっただけ、なのだ。
あの時鳴が怜子さんに見た<死の色>を、当然ぼくは見たわけじゃない。
鳴はその結論を足がかりにして、<災厄>が巧妙に隠蔽していた違和感、
つまり三組にしか副担任がいないことや、始業式に教室で机の不足が起きなかった理由――足りなくなっていたのは職員室の机だったこと――をも暴いてみせたけれど、
それにしたって、確たる証拠とは言いがたい。
事実、ぼくは鳴の説明を聞いてなお、怜子さんが<死者>だと確信することはできなかった。
というより、半信半疑だったと言っていい。
じゃあ、どうしてぼくが彼女を"死"に還す決心をしたのかと言えば……。
結局のところ、鳴が言ったからだ。
――信じて、と。
だからぼくは鳴を信じた。信じようと思った。
ただ、それだけ。
論理的でもなんでもない。
きっと、今際の際の怜子さんには、辻井たちが鳴を殺そうとした時のものと同種の狂気に、今度はぼくがとらわれたようにしか見えなかったことだろう。
少なくとも彼女の目には、ぼくはそう映ったはずだ。
そして……彼女はそのまま、去ってしまった。
だとすれば、ぼくと辻井がやったことに、一体どれほどの違いがある?
ただ信じたものと、その結果が違っただけだ。
……そしてそれはきっと、勅使河原にしたって同じだったはずなのだ。
だから、ぼくは彼を憎む気にはなれない。
第一、もう怜子さんはいないのだし……とまで考えたところで。
延々と紡がれていた思考の糸がぶつん、と切れる。
見えない壁へいきなり激突したかのように、身体までびくりと震えた。
気づいてしまった。
ぼくが今まであれこれ考えていたことが、全くの見当はずれだったことに。
辻井がぼくに負い目を感じているのは、あの合宿で怜子さんを傷つけてしまったから。
そんなことはあり得ないのだ。
なぜならもう、<災厄>の改竄によって、彼の中で怜子さんは存在していなかったことになっているのだから。
勅使河原だって例外ではない。
今年度の、副担任としての彼女を未だに憶えているのは、今はもうぼくと鳴だけ。
……だとすれば。
もう一度辻井を見た。
ちょうど彼もぼくの方を見ていたようで、視線がまともにぶつかる。
彼は哀れに思えるくらい動揺して、またしても顔を伏せてしまった。
――改竄された"今"の事実で彼は一体、何をしたことになっているんだ?
そんな疑問はしかし、不意にスピーカーから流れ出した、
「えー、三年生の各クラス男子委員長、至急職員室まで集まるように。以上」
という校内放送に追いやられてしまう。
今のぶっきらぼうな声は、体育の宮本先生だ。
昼休みに呼び出し、しかも男子だけとは、一体何事だろう?
あの放送だけでは、肝心の用件がまるで分からない。
そんなことを考えながら、そのまま何となくスピーカーの方を見つめていると、肩にぽんと手が置かれた。
「お勤めみたいだな。よろしく頼むぜ、委員長」
いつの間にやら隣に立っていた勅使河原が、快活に笑う。
「はいはい。分かってるよ」と返事をして、ぼくは椅子から立ち上がった。
現在、三組の男子クラス委員長を務めているのは、ぼくだ。
合宿で当時の委員長だった風見と赤沢さんが命を落とした結果、新学期を迎えたクラスで「暫定的に」という名目で決められた役目ではあったけど、
たぶん、卒業するまでこのまま続けることになるのだろう。
「まったく……いいご身分だよね、勅使河原は。ぼくのことを勝手に推薦しておいて、自分はこうして悠々自適なんだから」
「おいおい、おれのせいみたいに言うなよ。大体、満場一致で賛成だったんだぜ? おれが言い出さなかったとしても、他の誰かが推薦してたってオチだろ、多分」
「まあ、そうかもしれないけどさ」
「観念するこったな。合宿であんだけリーダーシップ発揮してたら、そりゃ誰も放っとかないっての」
「……リーダーシップ、ね」
「おう。おれはちゃんと覚えてるぜ? 夕飯が終わってからも自由時間返上で指示やら連絡やら――」
「……」
「……サカキ?」
「ごめん、なんでもないよ。……じゃあ、そろそろ行ってくるから」
怪訝そうな表情の勅使河原に軽く手を挙げ、教室をあとにした。
◇
職員室への道すがら、ぼくは<災厄>が残した影響というものの大きさをひしひしと感じていた。
何を隠そう、ぼくが今こうしてクラス委員長をしているのだって、もとを正せば<災厄>のせいなのだ。
勅使河原はぼくが「合宿でリーダーシップを発揮していた」と言う。
だが実を言えば、そんなことをした記憶はぼくにはない。
あの合宿でぼくがしたことと言えば、<死者>を"死"に還したことだけ。
そしてそれを知るのは限られた人間だけで、当然ながら勅使河原は知らない。
けれど、彼が勘違いをしているわけでもないのだ。
事実、合宿に参加したクラスメイトに「ぼくは合宿でリーダーシップを発揮していたか?」と訊けば――そんな質問、ぼくは間違ってもしないだろうけど――みんなが「はい」と答えるだろう。
ただ一人、鳴を除いては。
要するに、これもまた<災厄>の改竄による影響、なのだった。
<災厄>が終わり、三神怜子という教師の存在は消えても、彼女はそれまで確かに存在し、生きていたのだ。
怜子さんの行動。それにより生じた、様々な結果。
それすらも無かったことにしてしまうのは、さすがの<災厄>であっても、どうやら手に余るらしい。
<災厄>が終わった後、怜子さんの行動は、他の人がしたこととして置き換えられていた。
彼女が顧問をしていた美術部は、違う美術教師が顧問をしていたことになり、
久保寺先生の死後に彼女が務めていた担任代行は、千曳さんのしたことになっていた。
――そして、夏休みの合宿。
和久井が発作を起こし、千曳さんと共に山を降りた後、残ったみんなに指示していたのはぼくではない。怜子さんだ。
その時ぼくはただ、鳴の部屋で彼女の話を聞いていただけ。
彼女の出自、霧果さんとの関係――それから、<人形の目>と<死の色>。
本当に色々なことを聞いた。
逆に言えば、クラスメイトたちのために駆け回るなんて殊勝なことは……正直に言おう、していない。
ぼくは怜子さんがしたことを、後になって<災厄>から引き継がされたにすぎない。
そしてクラスメイトたちは、その改竄された事実に従って、ぼくをクラス委員長へと担ぎ上げた。
ただ、それだけのことなのだ。
千曳さんがいない間の出来事だから、怜子さんの担任代行としての他の行動のように、千曳さんがしたことには出来なかったのだろう。
それは分かる。けれど……なぜ、ぼくなのか。
その時クラス委員長だった風見や、それこそ勅使河原とか、適任者は他にもいるはずなのに。
<災厄>はただの<現象>で、何者かの意思なんてものは存在しない。
だからぼくが選ばれた理由にしても、そんなものはそもそもなくて、単なる偶然にすぎない。
あったとしてもせいぜい、「ぼくが怜子さんの家族だから、改竄が簡単」程度のものだろう。
でも……例え、それだけの話でしかないのだとしても。
考えようによっては、これは事実が改竄されてなお、怜子さんがぼくに遺してくれたものだとも言えるのではないか。
彼女の行動。それが巡り巡ってぼくにもたらした、クラス委員長という立場。
……はっきり言って、今みたいに余計な仕事が増えるばかりで、良いことはほとんどないのだけど。
それでも卒業するまでの間、これ以上ないくらい完璧に務め上げてやろうじゃないか。
今のところぼくは、そう考えるようにしている。
職員室に集まったぼくたち男子に宮本先生が指示したのは、不要になった資料の運搬だった。
なるほど、力仕事になるから女子は呼ばなかったのか。
そんな風に納得しつつ汗をかきながら資料を運び、教室に戻ることも出来ないまま昼休みは過ぎていった。
32
結局、朝の挨拶からぼくと鳴の間に会話らしい会話が生まれることもなく、月曜日の授業は終わった。
鳴はホームルームが終わるなり鞄を持って席を立ち、すぐに教室を出ていった。
六限目の授業で分からなかったことを矢継ぎ早にぼくへ尋ねてくる勅使河原や、
その質問攻めを必死で捌くぼくを気にする様子もなく、である。
……まあ、それはそれで良かったのかもしれないな。
のけ反るようにして、<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>を見上げながら、そんなことを思う。
ここへ来ようと思うなら、それを悟られないよう、いずれにしても鳴と学校を出るタイミングはずらす必要があっただろう。
いや、例え鳴にぼくのやろうとしていることがばれたとしても特に問題はないのだけど、
こういうことはこっそりとやる方が気兼ねなくできる。
問題はギャラリーが営業しているかどうかであり、そこは完全に運任せだった……が。
幸いなことに、入口の前には看板が出されていた。
どうやら天根さんはもう復帰しているらしい。
店名が記された黒い額縁を思わせる看板の下には、いつもなら「どうぞお立ち寄りください 工房m」という表札めいた板も立てかけてあるのだが、今日はそれがなかった。
代わりに看板の下には、一枚の張り紙。
そこには黒いマジックで、こう記されている。
――しばらくお休みします 工房m
無理もないな、と思う。
霧果さんにとって棺の人形は、ただの作品以上の意味があったはずだ。
それに事件が起きてから、まだたったの二日。
鳴は「気にしないで」なんて言っていたけど、自分の人形を壊されて、堪えていないはずはない。
しかしギャラリーが開いているのなら、いずれにしてもぼくの目的は果たせることだろう。
今は自分のやるべきことをやらないと。
入口の前で立ち止まり、一度大きく深呼吸をしてから、意を決して扉を開ける。
ドアベルがからん、と鳴った。
◇
「いらっしゃい」
くぐもった声が、ぼくを出迎える。
一昨日は誰もいなかったカウンターテーブルに、今日は一人の老女が座っていた。
彼女は暗い緑色のレンズが入った眼鏡に手をやり、ほんの少し身を乗り出してぼくを見ている。
薄闇に満たされた館内、その調和を乱すまいとするかのようにくすんだ鉛色の服を着ていて、
ともすれば見落としてしまいそうになるこの人こそが、件の天根さんだ。
「おや、しばらくぶりだねえ」
入ってきたのがぼくと分かると、天根さんは眼鏡の奥で目を細める。
何かとこの家には来ていても、こうして彼女と対面するのは、もう数ヶ月ぶりのことだった。
初めてここに来た時の第一印象こそ不気味ではあったけど、それに慣れた今となっては、会話に気後れすることもない。
「お久しぶりです。……もう、お体の方は大丈夫なんですか?」
「あら、鳴から聞いたのかい? こんなおばあちゃんのことを気遣ってくれるなんて、優しい子だねえ。おかげさまで、この通り元気にしているよ」
「それなら良かったです。でも、無理はしないで下さいね」
「なんだか、みんなに心配かけてばかりで申し訳なくなってくるよ。坊やや鳴からもだし、美津代にも由紀代にもねえ」
……うう。十五歳にもなって「坊や」と呼ばれるのは、なんともこそばゆい。
しかしまあ、天根さんから見ればぼくなんて、やっぱり「坊や」でしかないんだろうし、
だからといってここで「『坊や』って呼ばれるのは恥ずかしいのでやめてください」なんてお願いするのは、もっと恥ずかしい。
「鳴なら、さっき帰ってきたところだよ。部屋にいるはずだから、呼んであげようか」
そう言って傍らの内線電話に手を伸ばしかけた天根さんを、ぼくは慌てて制する。
「あ、今日は違うんです。その……人形を見たくなって」
「そうなのかい?」
「はい。なので、見崎にはぼくが来たこと、内緒にしてて下さい。時間をかけて、じっくり見ていこうと思うので」
「そうかい。なら、お代はいらないからゆっくりしてお行き。他にお客さんもいないしねえ」
それで「ありがとうございます」と軽く頭を下げ、まっすぐ地下へ向かおうとしたぼくだったが、
「ああ、そうそう」
という天根さんの声に呼び止められた。
「すっかり忘れるところだったよ。はい」
そう言って、彼女は軽く握った右手をぼくの方へと差し出す。
反射的に両手をお椀にして受けると、ちゃりんちゃりんと音を鳴らしながら、百円玉が五枚、手の中に落とされた。
「えっと、これは……?」
「鳴から聞いたよ。土曜日に来た時、私がいないからお金を置いていったんだってねえ」
「はい?」
「別に、気を遣わなくたっていいんだよ。鳴のお友達なんだから、お代なんて取らないよ」
いやいや、気を遣う以前に、そもそもこのお金は……。
「あの……これ、ぼくじゃないです。払っていったのは、違う人ですよ」
今度は天根さんが目を丸くする番だった。
「違う人? 他にお客さんがいたのかい?」
「……見崎からは、何か聞いてませんか?」
「何も言ってなかったねえ。これを坊やが来た時に置いていった、ってだけで」
どことなく、噛みあわなさを感じた。
ぼくはこのところずっと、天根さんから入館料をおまけしてもらっていたし、
払うにしても中学生のぼくは半額の二百五十円だった。
五百円なんて、置いていくはずがないのに。
言うまでもなく、あの時島田さんがギャラリーを訪れていたことは、鳴にも分かっていたはずだ。
彼がぼくのようにドアベルを鳴らしギャラリーに入った時、鳴は間違いなく地下展示室にいたのだから。
なのに天根さんの様子を見るに、鳴は島田さんのこと、ひいては一昨日の事件そのものを彼女に伝えていないらしい。
――あのことは、そうまでしても秘密にしたいことなのか?
その後、このお金を受け取る受け取らないで押し問答をしばらくの間繰り広げたものの、
「じゃあ、これはおばあちゃんからのお小遣いってことでどうだい。帰りに何か好きなものでも買いなさいな」
と結局はぼくが押し切られ、五百円はぼくのポケットに収まることになった。
持ち主に返せる見込みはなく、かといって勝手に使うわけにもいかない。
ポケットの中で鳴るだけの、宙ぶらりんなお金になりそうだった。
33
二日ぶりの地下展示室は、全てが元通りになっていた。
階段下に立つ首なし人形は一体だけになり、その片割れは衝立の裏に戻されていたし、
こことエレベーターホールを区切るカーテンの手前には、蓋の閉ざされた棺がひとつ。
……流石に、それを開けてみる勇気はない。
それに中の人形がどうなっているかくらい、わざわざ見るまでもなくはっきりと思い出せる。
室内の様子をあらかた確認し終えたぼくは、目を閉じて深く息を吸った。
きょう、ここでの目的はひとつだけ。
中村青司が自らの作品には必ず施したという"からくり"を、見つけ出すこと。
ぼくがこの目で見ておきながら、いまだ"形"のはっきりしない、この事件。
もし、ぼくの知らない「何か」がまだ隠されているのだとすれば、
それはこの館に文字通り隠されているという"からくり"に他ならないのでは、と思うのだ。
そう考える根拠もある。鳴の「話の続き」だ。
あの日、勝負の後で鳴が明かすはずだった、中村青司の話の続き。
結局、ぼくはそれが何だったのか知らずにいるけれど、島田さんの話を聞いた今となっては、
その正体に、彼の"からくり趣味"は相応しいものであるように思えた。
となれば当然、鳴はこの館の"からくり"のありかを、知っていたことになる。
その鳴が、続きを語る場所としてこの地下展示室を選んだのだとすれば。
"からくり"はきっと、ここにある。そしてそれはきっと、事件にも深く関わっている。
そう思えてならなかった。
だとすれば、後はもう探すしかない。見つけ出す以外に、はっきりさせる方法はない。
「よし」と声に出して、足を踏み出す。
探すと言っても、あの時のように何の勝算もなく、ただ無為に探し回るつもりは初めからなかった。
ある種の確信を持って、ぼくはその場所――永遠に火が灯ることのない、イミテーションの暖炉――へと近づく。
――そこに棺は入らないと思うけど?
勝負の最中、あちこちを探し回るぼくに動じることなく悠然と構えていた鳴が、
暖炉を覗き込もうとしたあの瞬間だけ、そう言ってぼくを制した。
確かにもっともな指摘だろう。あのサイズの棺が、ここに入るはずはない。
ならばなぜ、鳴はぼくを止めた?
事実として、棺はここに無かったのだ。
あの場面、放っておいてもぼくが制限時間を浪費するだけで、鳴にとっては有利でしかなかったのに。
この上なくシンプルにその理由を考えるなら、答えは一つ。
……鳴は、それでもやはりぼくに暖炉の中を見てほしくなかったのだ。
つまり、ここには「何か」があるということ。
棺ではない、しかし彼女にとって重要な「何か」が。
◇
暖炉の奥行きは、せいぜい1メートルといったところだった。
地下展示室の決して明るくはない照明の下でも、内部の様子は簡単に見てとれる。
赤茶色のレンガが敷き詰められた暖炉の壁や床面は、当然ながら灰やすすで汚れることもなく綺麗なままで、
本来なら事故防止のために設置される鉄製の柵もついていない。
約60センチ四方の開口部からこうやって中を眺めている分には、何もおかしなところはなかった。
今度は身を屈め、暖炉の中へと入っていく。
レンガのひとつひとつを観察し、時にはそれを押してみたりもしたが、残念ながらびくともしない。
仕掛けがありそうな雰囲気など、まるでなかった。
……まさか、ここじゃない?
ぼくの予想は、間違っていたのか。
暑くもないのに、体中から嫌な汗がじんわりと滲み出てくるのを感じる。
反射的に立ち上がりかけ、
「いてっ!」
思い切り天井に頭をぶつけてしまった。
中腰のまま両手で頭を押さえ、今度はゆっくりと、おそるおそる頭上を――
「……あれ?」
暖炉の内部は、レンガで出来た立方体のような空間になっているけれど、そこにはふたつ、穴が開いていた。
ひとつは、ぼくが入ってきた入口がそう。そしてもうひとつは、天井に開いていた。
同じく直径60センチくらいの丸穴が、ぽっかりと。
――煙突。
通常、暖炉であれば決まって必要となるこの設備を、この模造品も律儀に備えていたのだ。
とはいえ、さすがに外までは通じていないようで、
穴の続く先に光は見えず、代わりに漆黒の闇だけがそこに満ちている。
ぼくは立ち上がり、ためらいなくその中へ体を潜らせた。
内部はいよいよ暗く、何があるのか様子は全く分からない。
加えてそこに滞留する空気はかなり埃っぽくて、入り込んだ途端、何度も咳き込むはめになった。
それでも必死に壁面へ両手を這わせ、手探りを続けていく――――すると。
ひんやりとした感触が、両手に伝わる。
金属製の何か――機械のようなもの――が、そこにはあった。
ぼくはとっさにポケットから携帯電話を取り出し、ディスプレイの明かりを目の前に差し向ける。
"それ"は、三つのパーツから構成されていた。
金属製の箱のようなもの。そこから伸びるケーブル。
そして……箱に取り付けられた、持ち手のあるスイッチ。
――ついに見つけた。
スイッチは上方に跳ね上げられている。
ぼくはその持ち手を掴み……全身の力を込めて、それを引き下げた。
ぎ、ぎぎぎ……
ほどなくして、金属のきしむような音が微かに聞こえてきた。
それに少しだけ遅れて、ごごご……という、重量のある何かが徐々に動いていく音も重なる。
空気が震えていた。
いや、空気だけじゃない。
ぼくが立っている暖炉の床面や、ぼくをぐるりと取り囲んでいる煙突の内壁から、微弱な振動が伝わってぼくの体全体をびりびりと揺らしている。
……いま声を出したら、きっと扇風機の前で喋った時みたいになるんだろうな。
揺すられながらそんな下らないことを考えて、せっかくだから試そうかと口を開けた時。
ぴたりと、それは止んだ。
もぞもぞと暖炉の中から這い出すと、明かりがとても眩しかった。
今まで一度も、ここでそんな風に思ったことはなかったのに。
まだ埃が残っているのか、鼻がむずむずする。服もだいぶ汚れてしまっていた。
まあ、普段からあんなところを掃除したりはしないだろうし、仕方がないのだけど。
手で服の埃をぱんぱんと払いながら、ぼくは一昨日の鳴を――今のぼくのように埃まみれで三階に現れた、鳴の姿を思い出していた。
あの日、鳴もきっとここに入ったのだ。そしてあのスイッチを作動させた。
……"からくり"は、確かに存在した。
"夜見山の人形館"は正真正銘、中村青司の作品だったということだ。
慎重に周囲を見渡す。一体どこで、何が動いたんだ。
見える範囲での変化はない。だが、何も起こらなかったはずはない。
だとすれば、ぼくの目の届かない場所――そう考えたところで。
部屋の奥、ある一点で視線が止まる。
カーテンの向こう側。エレベーターホール。
何かを思うより先に、体は動いた。
――今思えばこの時、ぼくはどうしようもなく気持ちが逸っていた。
中村青司が遺した"からくり趣味"。
それをいよいよ目前にして、頭の中がいっぱいになっていた。
大した距離でもないのにダッシュしたのがいい証拠だ。
そんな調子だったから――すっかり忘れていたのだ。
カーテンの手前に置いてある、一際大きな陳列棚。
その裏に、何が置かれているのかを。
「わっ!」
陳列棚を回り込んだぼくの目の前に、突如として黒塗りの棺が現れた。
かわすこともできず、そのまま思い切りぶつかってしまう。
棺が、ぐらりと傾いだ。
慌てて棺に抱きつき、その動きを止める。
ほっとしたのも束の間、依然として傾いたままの棺から、がたんという音と共に蓋が外れた。
ぼくの目と鼻の先で、それはひどくゆっくりと倒れていく。
――間に合え。
そう思って突き出したぼくの手も、スローモーションにしか動かない。
蓋はそのまま、あえなく倒れてしまった。
カーペットが敷き詰められている床だからか、思いのほか音は小さく済んだ。
これなら天根さんが異変に気づくこともないだろう。
何にしても、人形に被害が及ばなくて良かった。
さすがにこれ以上傷つけられてしまっては、あまりにも"彼女"が可哀想だ。
安堵のため息をついて落ちた蓋を持ち上げ、その時ふと、ぼくは蓋の裏側、端っこの目立たない位置に「1997」という数字が刻まれていることに気がついた。
人形の制作年だろうか。
さして気に留めることもなく、そのまま棺の中へと目を移す。
――せっかく拾い上げた蓋を、ぼくはもう一度落としてしまった。
蒼白いドレスを身に纏った、鳴の人形がそこにはいた。
そう、「鳴の人形」だ。
だって、こんなにそっくりな顔をしているのだから。
蒼く煌めく瞳が、まっすぐにぼくを射抜く。
言うまでもなくその顔には、傷ひとつついてはいない。
……どうして?
一昨日、壊されてしまったこの人形を、ぼくは確かに見たのだ。
手を伸ばして、その顔に触れる。綺麗だ、と思った。
もし仮にあの状態から修理したとして、こうまで完璧に直すことは不可能だ。
次に考えたのは、霧果さんが顔の部分だけを一から創り直したのではないか、という可能性。
けれど、あれからまだたったの二日しか経っていないのだ。
そんな短期間で創り直せるはずがない。
そして何より、そんな可能性はぼく自身の直感が強く否定していた。――それだけは絶対にない、と。
なぜなら……この顔は、全く同じだから。
鳴ではなく、五月にここで出会い、それから地下を訪れるたび目にしてきた"彼女"自身の顔と、である。
でも。
だとしたら。
これは一体、どういうことなんだ?
顔に触れたままのぼくの手が、徐々に震え出す。
「どうして、こんな……」
一昨日の鳴をなぞるように、同じ台詞が口をついて出た。
あの時起きたことは、紛れもなく現実だ。現実だったはずだ。
だけど、今ぼくの目の前にあるこの光景もまた現実だ。
あり得ることのない二つが、同時に成立する矛盾。
手から伝播した震えは、とうとうぼくの足にまで及んでいた。
もう限界だった。
これ以上「うつろなる蒼き瞳」に見つめられていたら、ぼくはきっとおかしくなってしまう。
ぼくは反射的にカーテンへと突っ込んでいた。
今すぐにでも、この視線から逃れたい。
ただそれだけを思った。
カーテンをめくるのももどかしく、全身を絡めとられながらも闇雲に突き進む。
そして不意に視界が開け――勢いあまったぼくは、もんどりうって床に倒れ込んだ。
仰向けになったまま腕で目を覆い、荒い呼吸を繰り返す。
起き上がる気力は、すぐには湧いてこなかった。
目を閉じた真っ暗闇の中でふと、ここはどこだっけ、という疑問が浮かぶ。
カーテンの向こう側だから……そうそう、エレベーターホールだ。
あれ? そもそもぼくはここに来るはずで――
「……!」
一瞬で身を起こす。
そうだ。ぼくの目的は、目的は……!
それは、気づいてしまえばあからさまなくらいだった。
エレベーターが設置されている側から、向かって反対側の壁。
その壁が数メートルほど、奥へと後退している。
そして、それによりあらわになった部分――つまり今まで壁が塞いでいた部分に、階段が出現していた。
地下へと降りる階段が。
これがこの館の"からくり"。
取り憑かれたようにぼくは階段に足をかける。
混乱だけが深まっていくこの状況で、ぼくが縋れるものはもう、これしかない。
答えはきっとこの先にある。そう信じて進むしかなかった。
一段、また一段と下っていくごとに、低く響く駆動音がどんどんと大きくなっていく。
空調設備がごく近いところにあるのかもしれない。
ついには自分の足音すらも聞こえなくなった。
ふと、この前読んだ小説に、似たようなシチュエーションの話があったことを思い出す。
それは『ラヴクラフト全集』に載っていた、『ランドルフ・カーターの陳述』という短編。
題名にもその名前が出ているカーターと彼の仲間であるウォーランが、とある研究のため、深夜の墓地に忍び込む。
やがて一つの墓石の下に地下へと続く階段を見つけ、ウォーランは勇敢にもそれを降りて行くのだ。
……だがラヴクラフトの作品において、「勇敢」であるということは、たやすく「蛮勇」へと変わる。
カーターはウォーランの体に結びつけたワイヤーを持ち、地下を探索する彼と地上で交信を続けるのだが、
彼は地下にいる「何か」に怯え、地上のカーターに逃げるよう促すものの、ついには絶叫を残して連絡が途絶えてしまう。
そして――。
あの結末を思い出すだけで、思わず背筋が寒くなる。
……今のぼくの状態は、まさしくそのウォーランにそっくりだ。
しかも彼とは違い、体にワイヤーも結んでいなければ、上でカーターが待っているわけでもない。
不意に、後ろを振り向きたい衝動に駆られた。
空調の音はかなり大きい。
誰かが背後から忍び寄ってきていたとしても、ぼくは間違いなく気づけないことだろう。
……ああ、いけない。余計なことを考えるな。
歯を食いしばり、足を止めずに進む。
前だけを向いたまま、階段を一段ずつ降りていった。
――そうして辿り着いた先には、部屋がひとつ。
そしてそこに、真実はあった。
短いですが今日はここまで。
明日で完結です。
再開します。
34
――はい。
――もしもし、見崎?
――……榊原くん。
――実はさ、ぼく、今きみの家にいるんだけど。
――えっ?
――それでね、分かったんだ、この前のこと。どうしてあんなことになったのか、その理由が。
――……。
――だから、見崎と答えあわせがしたいんだ。……今から、地下に来てくれないかな? できればきみのお母さんも一緒に。
――……。
――見崎?
――わかった。今から行く。……待ってて。
35
エレベーターの扉が開く。
その中から現れた鳴は、まだ着替えていなかったのだろう、夜見北の制服姿のまま。
肩ごしに中を覗き込むまでもなく、彼女がひとりで来たことは一目瞭然だった。
「声をかけたけど、『今は夕食の準備で忙しいから、それが終わったら行く』だって」
まるで牽制するかのように、ぼくが何も言わないうちから、そう説明する鳴。
いつもとなに一つとして変わらない、静かな響きを持った声だった。
だがエレベーターを降りるなり、その目がほんの少しだけ、すっと細くなったのをぼくは見逃さなかった。
それはそうだろう。これを目にしたのなら、ちょっとは驚いてもらわないと張り合いがない。
それはつまり、ぼくの背後で後退したままの壁と、地下へと続く階段。
そして――ぼくの傍らに並んでいる、二つの黒い棺を見たら、ということである。
一方の棺には、鳴と瓜二つの人形が。そしてもう一方には……顔のない、壊れた人形が収まっている。
全く同じドレスを着て、全く同じ棺に入った二体の人形は、その顔だけが決定的に違っていた。
「来てくれてありがとう。……じゃあまず最初に、ひとつだけ言わせてもらおうかな。一応、区切りはつけないとね」
ぼくはそう言って、無傷の人形が入った棺に、とん、と手を置く。
「ようやく、きみが隠した人形を見つけたよ。なんとか五十時間は超えずに済んだのかな。勝負はぼくの負け、だね」
実際には、うっかり棺にぶつかったあの時が発見時間なのだから、本当のタイムはもう少し早くなるはずだけど……。
まあ、誤差の範囲でしかない。
「一昨日……きみが隠した人形をぼくが探して、見つけた時に人形は壊されていた。だから最初はこう思ったんだ。きみが隠した人形を、誰かが先に見つけて壊したんだ、って」
先を促すように、鳴はただまっすぐにぼくを見据えている。
「それから、こんなことも考えたよ。きみが自分で人形を壊して、それを隠したんじゃないかって」
「……べつに、そう思ってくれてもいいけど?」
口元に微かな笑みを湛えながら、そこでようやく鳴が口を開いた。
「いや、それはどっちも間違いだったんだ。きみが隠した人形は、この通り無事なわけだし」
「……」
「ぼくの言ってること、見崎なら分かるよね。あの時ぼくが見つけた、この人形」壊れた人形を指差す。「これは、きみが隠したものじゃなかった。見ての通り、別の人形だったんだ」
つまり、人形は二体あった。
そしてあの日、この家で起きていた出来事も、二つ。
一つは、鳴がぼくとの勝負のため、人形を隠したこと。
そしてもう一つは、誰かがまた別の人形を壊し、それを地下展示室へ隠していたこと。
この二つが一昨日、ちょうど同じタイミングで起きていたのだ。
つまりぼくは今の今まで、鳴が隠した人形を見つけられてはいなかったのだ。
その前にここで壊れた人形を見つけ、それは鳴が隠したものとは違うと気づかないまま、飛び出して行ってしまったから。
隠された二体の人形のうち、見つけるべきではない方を見つけてしまった……。
ある意味でぼくは、"ハズレ"を引いたのだと言えるかもしれない。
鳴は二つの人形を交互に見比べて、それからゆっくりとぼくに視線を移す。
「榊原くん、『分かった』って言ったよね。これからわたしに、その話をしてくれるんだ?」
ぼくが頷くと、鳴も応じるようにこくりと頷いて、地下展示室に通じるカーテンをめくった。
「それなら、あっちで座って話をしましょ。……たぶん、長くなると思うから」
「……そうだね」
二つの棺をその場に残し、ぼくも鳴の後を追う。
壊れた人形は、"からくり"により出現した階段、その先にある部屋から運び出してきたものだ。
鳴の後ろについて歩きながら、ぼくは先ほどまで滞在していた、そこでの出来事を思い出していた。
◇
――地下墓地。
この館の地下、その更に奥深くに位置する"隠し部屋"。
手探りで明かりのスイッチを見つけ、裸電球が照らすその部屋の全容を目にした時……ぼくはそう思った。
そこにあったのは、ずらりと並ぶ黒い棺の群れ。
間違いなく十基以上はあるだろう。
部屋の広さは地下展示室の半分ほどだが、棺以外のモノが存在しない分、かえって広く感じる。
にもかかわらず息苦しさを覚えるのは、間違いなくこの異様な雰囲気のせいだった。
展示の順路に含まれていないこの部屋には、当然ながら音楽を流すスピーカーなんてものは存在せず、
ごうんごうんという空調の音だけがうるさいくらいに響く。
置かれた棺は、色こそ黒で統一されているがみな一様に同じというわけではなく、まちまちの大きさをしている。
……ぼくにはなんとなく、その理由が想像できていた。
棺の中に、何が入っているのかも。
部屋の奥にある、一番小さな棺に近寄る。積もった埃の様子からして、これが最も古いものに思えた。
そしてたぶん、ここに安置されてから、この棺には誰ひとり触れていない。
当然だ。この棺が全てここに「埋葬」されているのだとしたら、たやすく墓を暴いたりはしないだろう。
蓋の縁に手をかける。
禁忌を犯そうとしている自覚はあった。だけど、今は……。
逡巡に抗い、蓋を開けた。
……まだあどけない子供時代の鳴が、そこにはいた。
もちろん、ぼくは鳴が子供だった頃を知らない。
知っているのは、今の、十五歳の鳴だけだ。
それでも、きっとこの通りだった、そうに違いない。
そう思わせるだけの説得力が、棺の中身――その穢れの無さが表出したかのように真っ白なドレスを着た、小さな人形――にはあった。
蓋の裏側を見れば、そこに刻まれている数字は「1985」。
今から十三年前だ。
鳴が見崎家に引き取られた時期と、ちょうど一致する。
もう迷いはなかった。列をなした棺を、ぼくはひとつ残らず開けていく。
1986、1987、1988……。
新たな棺を開けるごとに、中の人形はどんどん成長していった。
その身に纏う衣裳も、赤、黄色、緑と、まるで季節が移ろうように様々な色へと変わっていく。
この家で鳴が過ごしてきた今までの日々を、ぼくが垣間見ているような気分だった。
――鳴をモデルとして、霧果さんが生まれてこられなかった我が子を想い、創った人形。
すなわち棺の人形とは、その嘆きの発露に他ならない。
だとすれば、それが現在の鳴とそっくりな、あの一体だけであるはずがなかったのだ。
なぜなら彼女の悲しみは、子供を喪った日から今まで、ずっと癒えることなく続いてきているのだから。
年に一度のペースで、霧果さんはそれを創り続けてきたのだろう。
隠し部屋には、全部で十三基の棺があった。
そのうち「1985」から「1996」までは、既に開かれている。
そして残った、最後のひとつ。全く埃の積もっていないその蓋を、ぼくは持ち上げた。
「1997」の人形は、いまだ上に、地下展示室に置かれたままだ。
つまり、この棺の中に入っているのは……。
蓋を脇へと寄せた。そこに刻まれた数字は、「1998」。
……見慣れた「1997」と同じ意匠のドレスに身を包んだ人形が、横たわっている。
その体躯は、ぼくのよく知る鳴と遜色ないほどに成長していて……。
――そして少女は、顔を失くしていた。
◇
「――だからさ、ごめん。あそこの棺、一度全部開けちゃったんだ。もちろん、元通りにはしたんだけど……後で霧果さんに謝らないとね」
二日前のように円卓を挟み二人で座った後、ぼくはおそるおそる、自分がしたことを鳴に打ち明けた。
ところが、鳴は意に介した様子もなく、
「別に、気にしなくていいと思うよ。壊したわけでもないんだし」
と、実にあっけらかんとした様子で言う。
「え。……でもさ、霧果さんにとっては、あの人形ってものすごく特別なものなんじゃ」
「他の人形に比べたら、確かにそう。……でも、本物じゃないから」
「本物じゃない?」
おうむ返しになったぼくの質問に鳴は答えず、代わりに、
「それで? あの部屋を見て、榊原くんはどういう結論を出したの?」
と問いを返してきた。
いつの間にか脱線しかけていたことに気づき、頷いて本題に戻る。
「うん。あの日、ぼくはきみが隠した人形を見つけたつもりだったけど、そうじゃなかった。だってそもそも、きみが人形を隠した場所は地下展示室じゃなかったんだから」
「……それなら、榊原くんはわたしがルール違反をしたって言いたいの? 人形は地下じゃなく、上にあったって」
試すような口調で問いかける鳴に、ぼくは首を振る。
そうじゃない。あの時、鳴は地下より上には行けなかったのだ。
……そう、上には。
「違うよ。きみが隠したのは、上じゃなくて、下。この地下にある隠し部屋の方だった。――まさしくきみの言った通り、だったんだね」
――人形があるのは間違いなく、こ・の・ち・か。
「この地下」とは、地下展示室のことではなく、その更に地下。隠し部屋のことを指していたのだ。
もしぼくが、あらかじめこの建物に地下二階が存在することを知っていたならば、
鳴の言う「地下」は一体どちらを意味しているのか、迷うことができたのかもしれない。
むろん、鳴はぼくがそれを知らないことを見越してああいう言い方をして、ぼくにトリックを仕掛けたのだ。
そうしてぼくがまんまと地下展示室だけを探し時間切れとなった後、暖炉のスイッチを作動させ、正解を発表する。
同時に、中村青司にまつわる話の続き――彼の"からくり趣味"も披露する。実物を見せながら。
鳴が一昨日思い描いていたシナリオは、おそらくこんな感じだったんじゃないだろうか。
ルール違反だとは思わない。彼女の狙いが分かった時、むしろぼくは感心していた。
もし当初の予定通り話が進んでいたのなら、全てが明らかになった時、ぼくは素直に負けを認めていたことだろう。
そして喜んで、罰ゲームという名のデート(鳴にその気は全く無いのかもしれないけれど)の算段をしていたはずだ。
きっと、そうなっていたに違いない。
ぼくが地下展示室で、あの人形――壊れた「1998」の人形――を見つけさえしなければ。
そう、あの人形の出現こそが誤算だったのだ。
ぼくにとっても……それからもちろん、鳴にとっても。
鳴の手が、すっと部屋の奥を指す。
「ねえ。……あの階段って、榊原くんはいつ見つけたの?」
「ついさっき。中村青司が建てた家にはこういう仕掛けがあるって、ある人に教えてもらってね。探してみたら……見つけちゃった」
「……ふうん、そうなんだ」
「見崎は、いつからこのことを?」
階段の先がああなっているのだから、少なくとも霧果さんは、かなり前からこの隠し部屋のことは知っていたはずだ。
「小学校に入ったあたりだったかな。霧果に教えてもらったの。霧果は、お父さんから聞いたんだって」
おそらく隠し部屋を最初に見つけたのは、鳴の父親だったのだろう。
自分で中村青司に依頼するほど入れ込んでいたのだから、彼の"からくり趣味"についても熟知していたに違いない。
「じゃあ、あの部屋にはよく行ったり?」
「ううん」即座に否定の言葉が飛ぶ。「榊原くんも、もう見たんでしょ? あの部屋に、何があるか」
「え。……それは、そうだけど」
「だったら、分かるかなって思うんだけど。――あそこにいる人形は全部、わたしそっくり。でも全部、わたしじゃないの。いくら似ていても」
「……」
ぼくが言葉を失い、沈黙してしまうような話題なのに、それを口にする鳴の表情は妙に晴れやかだ。
まるで、全てを受け入れているかのように。
「だから……ね。わたしはあそこに行くこと、ほとんどないかな。でも、全くってわけじゃないよ。――分かってても、どうしようもなく確かめたくなる時って、たまにあるから」
「……じゃあ、その『たまに』が、一昨日だったんだ? きみが人形を隠した、あの時が」
「……」
ほんの少しぼくから視線を外して、眼帯をそっと撫でる鳴。
肯定の返事が来るものだと、信じて疑わなかった。
「――違う、って言ったら?」
「えっ?」
あまりにもさらりとした口調で、彼女はそう言った。
36
「わたしはあの日、隠し部屋には行ってない。人形を隠したのは、あくまでここ、地下展示室でした。……もしもわたしがそう言ったら、榊原くんはどうするの?」
ほんの少し首をかしげて、鳴は淡く微笑する。
自分で言っておきながら、心の底では露ほどもそうは思っていない。そんな口調だった。
「どうする、って……。いや、それはおかしいよ。だってあの日、きみの隠した人形はどこにも無かったじゃないか」
「それは榊原くんが見つけられなかっただけ、だったとしたら? 実はどこかにあったのかもよ」
そんなはずは、もちろんなかった。あれだけ探したのだから。
しかしそれを口にしたところで、「かもしれない」という可能性の話は、どこまで行っても平行線にしかならないだろう。
そもそもの話、鳴にしたってこんな屁理屈を本気で言っているわけじゃないのは、彼女の様子を見れば明らかで。
「電話で言ってたよね。これは答えあわせだ、って。答えだけをそのままぽんと書いても、数学のテストなんかじゃ正解にはならないでしょ? ……それに榊原くんの言うことにただ丸をつけるだけじゃ、わたしも面白くないから」
と、鳴は更に言う。
暗にぼくの考えを肯定しているも同然の発言だったが、その意図はこれではっきりした。
つまり彼女は、ぼくにこう問うているのだ。
――わたしが隠し部屋に行ったって証拠は、あるの?
一昨日に起きたことについては、確信がある。ぼくが想像している通りで間違いはないだろう。
それでもまだ……鳴の、この態度だけが、どうしても分からない。
既に暴かれつつある真相を、なお隠さんとする、その理由が。
あるいは……鳴にとってはこれもまた、一昨日の勝負の続き、ということなのだろうか。
ならば受けて立とう。勝算は、充分にある。
「ダメだよ、見崎。間違いなくきみは、あの時隠し部屋に行っていたんだ。……だから、"これ"を今ぼくが持っているんだろ?」
ポケットの中を探り、取り出したそれを鳴へと示す。
彼女が隠し部屋にいた"証拠"――五枚の百円玉を。
「それって……土曜日に榊原くんが置いていったお金?」
「違うってば。それにぼくは五百円なんて、ここで一度も払ったことはないよ。天根さんが、いつも半額にしてくれてたから」
「そうなの?」
ぼくの言葉に、鳴は少なからず驚いたようだった。
「なら、これを払っていったのって……」
「あの時ぼくが電話で言ったこと、覚えてる? 『ギャラリーから男の人が出ていった』って。その人だよ。――あれから本人に会って、確認もしたんだ。島田さんって人なんだけど、間違いないって」
「……じゃあ本当に、榊原くんの言った通りだったんだ」
「うん。見崎が人形を隠している間、その人がギャラリーに来てたんだよ」
「……」
「そんなわけでさ、これはきみが……というより、きみの家が受け取るべきなんだよ。だから、はい」
そう言ってぼくがもう一度手を突き出すと、それでようやく、鳴は五百円を受け取った。
手の中のそれを、鳴は未だ釈然としない面持ちで見つめている。
当然ではあるけれど、この家で暮らす鳴には、ギャラリーの入館料を払う機会なんてあるはずがない。
黒板には「入館料五百円」としか記されていないから、天根さんがぼくにサービスしてくれていたことを知らない鳴は、
島田さんが支払ったそのお金を、ぼくのものだと勘違いしたのだろう。
そう、「勘違い」だ。
鳴はなにも、島田さんのことを意図的に"いないもの"にしていたわけではなかったのだ。
――それは、つまり。
「気づかなかったんだよね?」
ぼくの問いかけに、鳴が顔を上げる。
「……気づかなかったって、何に?」
「あの日きみが人形を隠していた間、人が入ってきていたことにだよ。だからきみは、お金もぼくが置いたと考えた」
「……っ」
何かを言いかけ、言葉にする前にそれが崩れてしまった。そんな吐息が、鳴の口から漏れる。
「もちろん、ギャラリーに誰かが入れば――」
ぼくがそう口にした、ちょうどその時。
まるで示し合わせたようなタイミングで、ドアベルの音が聞こえた。
「はい、ごくろうさま」と天根さんが言う声がして、すぐにもう一度ドアベルが鳴る。
郵便配達か何かだったのだろう。
ぼくにとっては、地下でドアベルを聞いたのはこれが初めてのことだったけれど、その音は十分に聞き取れた。
聞き逃すはずがないほどに。
「……ね? ここにいれば、人が来たことには絶対に気づく。でもきみは気づかなかった。つまり……その時きみは、ここにはいなかったんだ」
ドアベルの音が届かない場所で、あの時鳴が移動できたのは、たったひとつ。
「島田さんがギャラリーに入ってきた時、きみは地下二階――隠し部屋にいた。人形を隠すために。だから音が聞こえなかった」
地下二階へと続く階段で、その先の隠し部屋で、空調の音は一際大きく、絶えず唸りを上げていた。
ドアベルの音など、そこではたやすくかき消されてしまうだろう。
「榊原くんも、ここの下には行ったんだもんね。……だったら分かる、か」
軽く髪を払い、鳴が言った。
<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>を訪れる人間は、決して多くはないという。
――だから、そんな都合のいいタイミングで誰かが来てたなんて、あるはずがない。
島田さんの来訪に気づかなかった鳴には、そんな先入観があったのだろう。
更に言うのなら、あの時点できっと、鳴にはもう分かっていたのだ。
この事件に、外部の人間はまるで関係がないということを。
――いないの。そんな人は。
だからこそ、彼女はあれほどきっぱりと言い切ったのだろう。――外からやってきた犯人などいない、と。
見当違いの方へ疑いの目を向けて暴走しかけていた、ぼくを止めるために。
「もう一度だけ、訊くよ。あの時きみが人形を隠したのは、ここの隠し部屋だった。……違うかな、見崎?」
さっきと同じ質問を繰り返す。
鳴は一瞬、足下に視線を落として、それから諦めたようにため息をつき、
「違わない。榊原くんの言うとおり」
そう、ぽつりと言った。
37
「あの日、きみはぼくをを三階に戻してから、まずは暖炉に入った。からくりを作動させるために」
「そう。それから人形を棺ごと隠し部屋に運んで、暖炉のスイッチを元に戻して……エレベーターであなたを呼びに行った」
回想するように中空を見つめながら、頬に手を当てる鳴。
「説明するだけなら、すぐなのにね。実際は棺を運ぶのが大変で、思ったより時間がかかっちゃったの」
「つまりきみがしたことは、それだけだった。あの人形を隠し部屋に持って行っただけ」
「……」
「だって中村青司の話の続きをするために、別の人形を壊して衝立の裏に隠す必要なんて、どこにもないからさ。……でもあの時、そこに人形は確かにあった。顔のない、もう一つの人形が」
階段の下に立つ衝立を指差す。
「もちろん、それは初めから衝立の裏に隠されていたわけじゃない。一昨日にぼくがきみと最初に話をした時、そこにまだ棺は置かれてなかった」
こんな風に座って鳴と話をしながら、ぼくは彼女の背後に立つ首なし人形を目にしていた。
二体ではなく、今と同じように一体だけ。
つまりその時、衝立の裏にはまだ棺ではなく、もう一体の首なし人形が存在していたのだ。
「だから棺はぼくがここを訪れた後、別の場所から運ばれてきたってことになるんだけど……そもそもさ」
ぼくの話にじっと耳を傾けている鳴に、言葉を向けた。
「あの壊された人形って、元はどこに置かれていたんだろうね。それとも、こう言った方がいいのかな。――あの人形は、一体何なのか」
答えが返ってこないのは分かっていたから、そのまま続ける。
「少し前まで、地下展示室には棺が二つあった。片方には、きみそっくりの人形。もう片方は空だった。その空っぽの棺の中に入って、きみはぼくにこう言ったよね」
――新しい人形が、この中に納められるみたい。
「ぼくが見つけた壊れた人形こそが、その『新しい人形』だったんだ。あの人形はもともと霧果さんの工房に置かれていて、それをあの日、誰かが壊してここへ隠した。きみがもう一つの棺を隠し部屋に隠したように」
そこまで言い終えた時、唐突に鳴が口を開いた。
「それだけで例の人形が元は霧果の工房にあったなんて、少し話が飛躍してると思うけど」
「どうして? この家で人形が創られる場所は、そこしかないんだよ」
「でも、榊原くんはそれがいつ完成したのかまでは知らない。そうでしょ?」
素直に頷いた。
「それなら、完成したのは最近の話じゃなくて、それから霧果がどこかに移動させていた可能性だってある。それこそ地下の隠し部屋、とかね」
それからまた、鳴はいたずらっぽく右目を細める。
「だとすれば、人形を隠し部屋に持って行ったわたしには、その新しい人形を壊すことも、代わりにそれを地下展示室へ持ってくることだってできた。――わたしはまた、容疑者に逆戻りかしら?」
「いや、それはないよ」
「……どうして?」
「見崎は、棺の蓋の裏側って見たことある?」
脈絡のない問いに思えたのだろう。不思議そうな表情を浮かべ、鳴は頷いた。
「あるよ。もちろん」
「数字が彫ってあるよね、人形が創られた年の。今回きみが隠したあの人形は『1997』。そしてぼくが見つけた、壊れた人形の数字は『1998』。今年の西暦だ」
「それがどうかした?」
「一昨日にぼくが最初にここへ来た時、『1997』の人形はまだここに置かれていた。きみが言うとおり『1998』の人形がとっくの昔に完成していたのなら、霧果さんはどうしてそれをここに飾ってなかったのかな。まっすぐ隠し部屋に運ぶなんて、おかしいよね。あそこじゃ、誰も見てくれないんだから」
音は聞こえずとも、鳴が小さく息を呑んだのが動きで分かった。
「『1998』の人形が完成していない、つまり制作途中だったのなら、それはまだ霧果さんの工房にあったはずだし、仮に完成していたのなら、霧果さんはそれを『1997』の人形に代えて、地下展示室に飾っていたはず」
そして彼女は、役目を終えた「1997」を隠し部屋へと弔っていたことだろう。
それだけの二択なのだ。
「そして事実として、あの日の地下展示室には『1997』の人形が置かれたままだった。――つまり『1998』の人形があったのは、霧果さんの工房なんだよ」
「……」
肯定も否定もしないままに、鳴はぷいと顔を背けてしまう。
壊された「1998」の人形は、既にドレスも着ていたし、顔以外は「1997」と見分けがつかないほどだった。
だからぼくも勘違いをしたのだ。
おそらく未完成だったとはいえ完成間近で、後はわずかな仕上げの作業を残すだけだったのだろう。
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない。ぼくの考えていることが、合っているかどうか。……どうかな?」
体ごとあさっての方向を見たままの鳴にそう呼びかけたが、返事はない。
何かあるのかと思い、ぼくもつられて同じ方を向いてみたけれど、部屋の奥でカーテンが揺れているだけだ。
「……正解」
不意に、鳴の声がした。
振り向くと、彼女はいつの間にかこちらに顔を向けている。
「それは、認めるってこと? あの日、『1998』の人形はもともと、霧果さんの工房にあったって」
「ええ。あともう少しで完成だったって、霧果は言ってたかな」
「そっか。なら、見崎は知ってたんだ。『1998』の人形が完成して、『1997』の役目が終わる。――つまり、"お別れ"だってことをさ」
「……うん」
――この子とも、もうすぐお別れね。
霧果さんがそうであったように、鳴もまたこの家で繰り返してきたのだろう。
棺の中で眠る自分の写し身との、出会いと別れを。
「でも、これではっきりしたよ。やっぱり、見崎には無理だったんだね」
「何が?」
「『1998』の人形を壊して、地下展示室に隠すことがさ」
「……」
「ぼくがここに来てから壊された人形を見つけるまで、きみが工房のある二階に行くことは不可能だった。ぼくと一緒にいた時はもちろん、きみが一人きりで『1997』の人形を隠していた時も、きみはずっと地下にいて、エレベーターは一度も二階では止まらなかった」
エレベーターを使わずとも、階段で二階へ行くことは、確かにできた。
だが、あの時ぼくがエレベーターを監視していたことを、鳴が知っていたはずはない。
知らなかったのなら、ぼくに気づかれないよう階段を使うという発想は浮かばない。
だとすれば、例え物理的に可能だったのだとしても、そんな選択をすることは決してない。
――そして何より、ぼくにこう言われてなお、当の鳴自身がその可能性を指摘していない。
ぼくの言葉を受け入れているかのように、ただ静かにぼくの方を見やるだけだ。
この現状こそが、鳴が二階へ行くことはなかったという事実を如実に物語っている。
「だとすれば当然、『1998』の人形を壊したのも、それを工房から運んで衝立の裏に隠したのも、きみとは別の人がやったこと。そうなるよね。……なんだか、これを言うためだけに随分遠回りをした気がするよ」
衝立の裏で壊された「1998」の人形を見つけた時、もちろんぼくは驚いた。
だが、鳴はぼく以上に驚いていたはずだ。
自分が隠したものと同じ棺、同じドレスの人形が、あるはずのない場所から現れたのだから。
当然、それが別の人形だなんて考えはすぐに浮かばず、彼女はこう思ったことだろう。
誰かが、自分が隠し部屋に運んだ人形を壊し、ここまで持ってきたのだ……と。
――どうして、こんな……。
壊された人形を見て、こう口にした鳴。
それは人形が壊されていたことへの、"どうして、こんなことに"という驚きだと、ぼくはそう考えていた。
けれどそこにはもう一つ、別の意味があったんじゃないだろうか。
つまり、人形がそこに存在していること、そのものに対する――"どうして、こんなところに"という驚きが。
もっとも、これを鳴に言ったところで「国語の問題みたいで、あんまり好きじゃない」なんて言われそうだったから、言葉にするつもりもないのだけど。
言うべきは、揺るぎのない事実だけでいい。そしてそれも、残るはひとつ、だった。
「あの日、この家では……二人の人間がそれぞれ、別の人形を違う場所に隠していた。一人目は――見崎、もちろんきみだ」
ぼくとの勝負のため、ここに置かれていた「1997」を、地下二階の隠し部屋へ。
目を伏せ、頷くことはないまま、「そうね」とだけ鳴は言った。
「そして、もう一人。二階の工房に置かれていた『1998』を壊して、地下展示室に隠した――犯人」
この「犯人」という言葉を使うことに、今は少なからず抵抗があった。
なぜなら――。
「まず前提として、犯人はあの日、もともと家の中にいた人。人形のあった工房に繋がる二階の入口はきみが鍵を掛けていて、外からは入れなかったからね」
「外部の人でも、ギャラリーの入口から中に入ることはできたと思うけど?」
またしても、心にもないことを鳴は言う。承知の上で、ぼくもそれに応じる。
「確かにそうだけど、工房に行くまでが大変だよ? 一度地下に降りて、そこからエレベーターに乗ってまた二階に上がって……ってさ。そこまでする人は、そうそういないんじゃないかな」
「けれど、いなかったとは限らない。もし犯人がわたしに恨みを持っていて、わたしそっくりの人形を壊したいと思っていたのなら、その程度の苦労は平気ですると思うけど」
「……見崎って、そんなに人から恨まれるようなタイプだったっけ」
「さあ? 自分では気づかないものなんじゃない、そういうのって」
反論を並べながらも、言葉遊びを楽しんでいるかのように鳴の表情はどこか明るい。
「犯人が外部から来たとして、狙いがきみの人形を壊すことだったのなら……まあ、確かにそのくらいはしてもおかしくないのかもね」
「でしょう?」
「じゃあさ、犯行はいつ行われたの? さっきも言ったけど、ギャラリーから入ったのなら、二階へはエレベーターを使わないと上がれない。そしてエレベーターは、きみのお母さんが三階に来てからは一度も二階に行ってないんだよ」
「それなら……そう、霧果が来るより前だった。それだけの話でしょ」
テーブルの上で両手を組み合わせ、鳴は続ける。
「霧果が来る前ってちょうど、わたしと榊原くん、ずっとリビングで話をしてたよね? その時だったら、誰かが入ってきていても気づかない。霧果だって、そうだったのかも」
「ならその時に、きみに恨みを持つ人がギャラリーに侵入し、工房にまで行って人形を壊していった。そして犯人は、運良く誰にも見つからず帰っていった――って?」
「ええ」
ぼくの言葉にすんなりと鳴は頷く。
――その返事を、ぼくが待ち望んでいるとも知らずに。
「見崎。だとすれば、犯人が二階の工房に行ったはずはないよ。……いや、行く必要がなかったと言うべきかな」
「……どういうこと?」
「だってそうする前に、お目当てのものにありつけたんだからさ。まだきみが隠す前、地下展示室に置かれたままの――『1997』の人形に」
「……あ……」
「『1997』も『1998』も同じドレスを着て、同じ棺に入ってる。工房に行くまでもなく、目的は達成できたはずなんだ。……でも、『1997』は無事だった。外部の人間がきみの人形を壊すためにやってきたのなら、放っておいたはずがない」
そして鳴が「1997」を隠した後では、エレベーターはずっとぼくが見ていたし、ギャラリーに島田さんもいたのだ。
「1997」がある間は工房に行く理由が存在せず、「1997」が消えた後は工房に行くことができない。
「……だからやっぱり、外からやってきた犯人なんていないんだよ、見崎。あの時、きみが言ったように」
「……」
俯いたまま、鳴は答えない。
分かっているのだろう。犯人を示す道筋が、既に明らかになっていることに。
「今までの話で、犯人としての条件が二つ出てきたよね。一つ、もともと家の中にいた人。一つ、ぼくが来た後で、他の誰にも気づかれることなく工房と地下展示室へ行けた人」
事件の様相は、今となってはその形を大きく変えていた。
「被害者」である人形の取り違えが明らかになり、現場が工房だと判明した結果、
当初の犯行時間と目されていた時間帯――鳴が「1997」の人形を隠し始め、ぼくが「1998」の人形を見つけるまで――は、事件「後」であると分かったのだ。
その時間帯では鉄壁かに思えた"彼女"のアリバイは、もはや意味などない。
「その人は、ぼくときみがリビングで話をしている間、自由に動き回ることができた。……事件は、その時に起きたんだ」
犯人がリビングに現れた時にはもう、全てが終わっていた。
それからぼくと鳴がもう一度地下へ降り、鳴が「1997」の蓋を閉めた、あの時。
顔のない「1998」の人形は、既に衝立の裏に隠されていたのだ。
すぐ三階に戻ったぼくはもちろん、暖炉の仕掛けを作動させて更に地下へと降りた鳴も、その異変に気づくことが出来なかったのだろう。
「そして、犯人は――」
ぼくの言葉を遮るようにして、結論を言ったのは鳴だった。
「そう。――犯人は、霧果」
38
肘掛けに両腕を踏ん張って体を浮かせ、椅子に深く座り直す。
地下展示室は相変わらず暗い。
しかし今までここに流れていた、どこか鋭利な気配。
それが揺らいだように感じるのは、ぼくの気のせいだけではないだろう。
「全部、霧果がしたことだったの」
目を伏せて淡々と話す鳴の声にも、その変化は表れているようだった。
「……なんだか、ずいぶんとあっさりだね。見崎の方からそんな風に言い出すなんて、思ってなかったよ」
「だって榊原くんも、もう分かっているんでしょ。あの日わたしと榊原くんが話をしている間、霧果がずっと一人だったこと。……それとも、最後まで言わせてあげた方が良かった?」
「いや、別に。――見崎は、いつから知ってたの?」
「あの日……榊原くんが出ていった後にね。霧果に直接確認したの。あの人形がわたしの隠したものじゃないことは、すぐ分かったから」
「それは、蓋の裏側の西暦を見て?」
「確かにそれもあったけど、一番は時間。わたしが人形を隠してから榊原くんと一緒にここへ戻ってくるまで、五分も経ってなかったよね」
鳴のほっそりとした指が、左目の眼帯に添えられる。
「榊原くんも分かると思うけど、暖炉のスイッチを操作してから階段が出てくるまでって、結構時間がかかるの。それで階段を降りて人形を持ってきて、それを壊してまた階段を元に戻す……なんて、五分じゃ絶対にできないから」
「ああ……そういうこと」
「だからね、あの時――榊原くんに電話した時には、もう全部分かってた」
「やっぱり。何となくだけど、そうなんだろうなって気はしてたよ」
鳴が事態を把握できていなかったのは、ぼくが「1998」の人形を発見した直後の、わずかな時間でしかなかったのだろう。
一方のぼくは、ずっと混迷の中で惑い続け、抜け出したのはついさっき。
「電話で話した時は、どうしてちゃんと説明してくれなかったの? 『もう大丈夫』なんてだけ言ってさ」
くっと、鳴の口元が引き締まった。
「……あの時は、言っても余計に混乱させるだけだと思ったの。ほとぼりが冷めてからの方がいいって、そう思って」
「じゃあ、ぼくがこうしてきみに確認しなくても、いずれは教えてくれてた?」
無言のまま、鳴はこくんと頷いた。
「そっか。――霧果さんが犯人って言ったよね。どうして自分の人形を? もうすぐ完成だったのに」
「どうしても、出来に納得がいかなかったんだって。それでちょうどあの日、勢いあまって人形を壊してしまった」
そこで一度言葉を切り、ふっ、と息をついてから、後ろを振り向く。
「だから、人形を人目につかないここに隠したんだけど……その直後、わたしたちがよりにもよって、ここで人形探しを始めちゃって。――後は、榊原くんの知ってるとおり」
「ぼくが今日ここに来た時はもう、『1998』の人形は隠し部屋に置いてあったけど、それも見崎が?」
「そう。さすがにあのままにはしておけなくて。ギャラリーに来たお客さんが見ちゃったら、またややこしいことになりそうだったし。だからとりあえず、隠し部屋から『1997』の方をまた持ってきて、代わりに置いてたの。霧果も、そうしてって言うから」
実際に今日ぼくがこうして棺を開けてしまったのだから、鳴がそう危惧したのは正しかったのだろう。
もっともぼくにとっては、むしろ無傷の「1997」がそこにあったからこそ、真実に辿りつくことができた。
そういうことになってしまうのだけど。
「……なるほどね」
納得を込めて、ぼくはそう鳴に頷いてみせる。
こだまを返すように、鳴も深く頷いた。
「うん。……わたしの話は、これでおしまい」
後には、沈黙だけが残った。
お互い何も口にせず、身動きすることもなく、ただただ時間だけがゆっくりと流れていく。
――鳴の告白は、終わった。
もしぼくが「もう帰るよ」と言えば、鳴は何も言わず、ただぼくを見送ることだろう。
そして、もしもこのまま何もせずにいれば、たぶん、ぼくたちはいつまでもこうしていられる。
人形たちの"虚ろ"の中で。
目を閉じて、深く息を吸い込んだ。
"虚ろ"が肺に満ちていく。息を止めてみても、どこからも漏れることはない。
天井を見上げて、それを大きく吐き出す。
さて。
ぼくはついさっき、確かにこう語った。
ここで起きたことについて「確信がある」と。
その言葉に偽りはない。
鳴の告白を聞いた今もなお、それが揺らぐことはない。
だから今一度、ここで断言することにしよう。
「ねえ、見崎。――どうして、本当のことを教えてくれないの?」
鳴は、まだ嘘をついている。
39
空気が再び張りつめていく。
「本当の……こと?」
鳴の顔には、狼狽の色がはっきりと浮かんでいた。
「うん。だって、霧果さんが犯人のはずがないんだ」
「榊原くん、さっき自分で言わなかった? 犯人の条件が二つあって、それを満たすのは霧果しかいない……って」
「ぼくの話はまだ途中だった。それを遮ったのはきみだよ、見崎。霧果さんが犯人だって言ったのもね。――ぼくはそんなこと、一言も言ってないはずだけど?」
虚を衝かれたような表情を浮かべた後、呆れたように鳴は言う。
「……意地悪ね、榊原くんって」
冷ややかな視線を受け流しつつ、ぼくは続ける。
「犯人の条件は、さっき言った二つだけじゃなくて、もう一つあったんだ。その最後の一つに、霧果さんは絶対に当てはまらない」
「霧果が犯人だって、わたしが言ってるのに?」
「まあまあ。……でも、霧果さんのやったことにしては、ずいぶん変だとは思わない?」
「……べつに。自分の納得いかない作品をどうしようが、霧果の勝手だし」
「そこじゃなくて、その後がさ」
「人形を隠したこと? それも、当然の行動だと思うけど。工房に置いたままじゃ、誰かが来た時にすぐ見つかってしまうもの」
「――その"誰か"って、誰?」
「えっ?」
「事件のあった一昨日、工房は休みでお客さんが来るはずはないし、天根さんも不在だった。まあ、実際にはぼくが訪問していたんだけど……きみのお母さんは、リビングに来て初めてぼくに気づいたわけだからね」
それより前に人形を壊したその時点で、ぼくが工房に来ることを予期できるはずはない。
「他に工房に行きそうな人と言えば、向かいに部屋がある……きみかな、見崎。でもきみはぼくに言ったはずだ。『工房にはめったに入らない』って」
「……」
「避けるべき人目なんか、どこにも無かったんだ。霧果さんなら、そんなことはよく分かっていたはずだよね? 人形を工房に置いたままでも、全く問題は無いってことを」
黙ったままぼくの話を聞いていた鳴が、静かに口を開いた。
「榊原くん、一番大事な人を忘れてない?」
「誰のこと?」
「霧果本人。他ならぬあの人自身が、人形を自分の目の届く範囲に置いておきたくなかった。――あの人形が、失敗作だったから」
そしてほんの少し、首を傾げて微笑んだ。艶のある黒髪が、さらりと揺れる。
「それなら……工房から移動させても不思議じゃない、でしょ?」
「……ふうん。それならまあ、確かにね」
「じゃあ――」
「でも、そこに隠したのはやっぱり変だよ」
人差し指をまっすぐ鳴に――彼女の向こう側、棺の置かれていた場所に――向ける。
「そんな、すぐ見つかるような場所に隠すなんてさ。だからぼくなんかが、うっかり見つけちゃうんだし」
「それは、偶然そうなっただけじゃない? 元を正せば、榊原くんがギャラリーに入れたのだって、そうだと思うけど」
「うん、それはぼくもそう思う。ぼくが人形を見つけてしまったのはたまたまで、ある意味では運が悪かったからだって。でもね見崎、ぼくが言いたいのは……そこに隠すくらいなら、もっといい場所があったんじゃないかってことなんだ」
ぼくがいくら探したところで絶対に見つかるはずのない場所が、ここにはあったのだから。
「見崎。実際にそこを使った、きみなら分かるはずだよ。――この地下にある、隠し部屋。霧果さんはどうして、人形をそこに持って行かなかったんだろう?」
細く白い鳴の喉が、かすかに上下した。
「だって、『1998』の人形が霧果さんの指示でさっきまで隠し部屋にあったってことは、霧果さんは失敗作をあそこにある他の人形たちと一緒にしたくなかった、ってわけでもなさそうだしさ」
仮にもしそうだったとしても、「1998」の棺だけを隠し階段の途中や例の部屋の前に置けば済む話だろう。
「それに工房と同じで、隠し部屋にもきみが行くことはほとんどなかったんだよね? ……それとも、あの日ぼくらが人形探しをすることを、きみはお母さんにこっそり話してた? まさかね」
鳴が答えるはずもないと分かっていたから、自分ですぐに否定する。
言うまでもなく、ぼくが来てから鳴にそんなことを伝える余裕は無かった。
「つまりあの隠し部屋だって、この上なく"人目につかない場所"だったんだ。一昨日はきみが暖炉の仕掛けを実際に動かしてるから、機械に不具合があった、なんてこともない。当然、仕掛けを使うことは可能だった。――霧果さんが犯人なら、どうしてそれを使わなかったのかな」
鳴は俯き、答えない。
答えられないのだ。
不用意に口を開けば、それすらも命取りになる。
それほどまでにぼくは今、核心へと迫っているのだから。
「……ねえ見崎、気づいてる?」
沈黙を続ける鳴に、ぼくはゆっくりと語りかける。
「霧果さんなら、霧果さんなら……。全部、"霧果さんが"犯人だと考えるから、上手くいかないんだよ」
「……それは……」
かろうじて聞き取れるほどの音量で、ようやく鳴の声がした。
「けど、霧果さんじゃないのなら、そうしたっておかしくはない。つまり、"この家の事情を知らない人"なら、ね」
俯いていた鳴が、顔を上げる。
「壊した人形を工房から移したのは、向かいの部屋を使うきみが入ってくるのを恐れたからだし、隠し部屋を使わなかった理由は――言うまでもないよね。そもそも犯人は知らなかったんだよ、そんなものがこの家にあるなんて」
だから、人形をあそこに隠すしかなかった。
犯人にとっては、あれが最善の隠し場所のつもりだったのだ。
「この家のことを、よく知らない人。――それが犯人としての、最後の条件だよ。ここに住んでる霧果さんが、犯人であるわけがない」
「……それなら」震える声で鳴が言う。「それなら、榊原くんは一体誰が犯人だって言うの? わたしでもあなたでもなく、霧果でもないなら……もう、誰もいない」
振り絞るようにして、ついに彼女はそう言った。
カウンターを喰らうことが分かりきった、まるで身投げに等しい反論。
それを口にしてしまえば、もうどこにも退路はない。
だとすれば後はもう、ひと思いに叩きつけてやるだけだ。
鳴が最後の最後まで守りぬきたかったであろう、真実を。
「いいや、ぼくの言うことは変わらないよ。犯人はぼくときみがリビングで話している間に、人形を壊すことが出来た人だ。それが出来たのはたった一人で、もちろん霧果さんじゃない」
続けざまにぼくは、とどめの言葉を口にする。
「……それでも犯人は間違いなく、"きみのお母さん"なんだよ、見崎」
鳴の右目が、大きく見開かれた。
それからぼくは、部屋の奥へと大きな声で呼びかける。
さっきから時折カーテンが揺らめいていること――そこに誰かがいることに、ぼくも鳴もとっくに気づいていた。
「――そうですよね? 藤岡美津代さん」
40
両手をテーブルに突き、身を乗り出すように鳴が椅子から立ち上がる。
がたん、と大きな音がした。
「どうして」呆然とした様子で言う。「どうして、榊原くん」
信じられないという表情で、同じ言葉を繰り返す鳴。
それに気を取られ、カーテンに向けていた視線が外れる。
そして再び顔を戻せば、もう既に、"彼女"はそこに立っていた。
それからゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。
彼女がテーブルの近くまで来てようやく、ここには椅子が二つしかないことにぼくは気がついた。
立ち上がりかけたぼくに、
「いいの。そのまま座ってて。あなたはお客さんなんだから」
と彼女は笑いかける。
同じく鳴が場所を譲ろうとしたけれど、やはり「いいから」と言われて終わった。
自分だけが腰を下ろしている状況に居心地の悪さを感じつつ、それでもぼくは問いかけた。
「いつから、そこにいたんですか?」
「十分くらい前から、かしら」
つまり、ぼくと鳴がこちらに移ってからの会話は、ほぼ全て耳にしていたことになる。
「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの。でも、あなたたちの会話に割って入るのも悪いと思って」
申し訳なさそうに言う彼女は、この前と同じようにエプロンをつけていた。
適当なところで料理を切り上げ、すぐこちらに来ていたのだろう。
というより、そもそもぼくが呼んだから彼女は来たのだ。
そう、ぼくが呼んだのは間違いなく"彼女"の方だ。
一昨日も、そして今日も、この家にいたのは霧果さんではなく、彼女――美津代さんだったのだから。
頭では分かっていても、こうして目にするとやはり混乱してしまう。
それほどまでに似ているのだ。
「霧果さんは、今どこに?」
「紅太郎さんと一緒に、東京にいるはずよ。仕事の都合で、夫婦で出席しなきゃいけないパーティーがあるんですって。――大変よね。そういう業界の付き合いって」
ここにいるのが藤岡美津代であることを前提にしたぼくの質問にも、すんなりと彼女は答えた。
しらを切るつもりは、どうやら初めから無いらしい。
「予定だと一週間、向こうにいるのよね?」
美津代さんに問われ、ややあって鳴はこくりと頷く。
「……うん。出発したのがこの前の水曜日だから、たぶん明日には戻ってくる」
「それで、その間は工房がお休みなのよ。もしかしたらもう、看板の張り紙を見てるかもしれないけど」
「……ええ。確かに見ました」ぼくは頷く。「美津代さんはその間、家のことを霧果さんから頼まれたんですか?」
「まさか」彼女は笑って手を振る。
「由紀代は私に、わざわざそんなことを伝えたりはしないわ。――連絡をくれたのは、鳴よ。もっともこの子だって、それだけなら電話してこなかったかもね」
美津代さんの言う通り、霧果さんが不在になったところで、身の回りのことくらい鳴は自分でやるだろう。
唯一不安が残るのは料理だが、天根さんがいればそれも――。
「ああ」それで合点がいった。「天根さん、ですか」
「そういうこと。伯母さまが腰を痛めて、さすがに私の助けが必要になったというわけ。医者に連れて行くにも、やっぱり車がないとねえ」
頬に手を当てて、彼女は鳴の方を見やる。
「それに由紀代が戻ってくるまで、ご飯くらいは作ってあげようかなって」
当の鳴は、美津代さんの視線をかわすようにしてぼくを見た。
そこまでは頼んでないのに、とでも言いたげではあったけれど、それを敢えて口にはしない程度には、感謝もしているのだろう。
「じゃあ、ここには毎日通っているんですか?」
「ええ。主人から許可は貰ってるけど、だからってほったらかしにはできないもの。今日だって夜ご飯を作り終えたら、家に戻るつもり」
そう話す美津代さんの耳に、イヤリングが揺れている。思えば、一昨日もそうだった。
霧果さんにしては珍しいと思った、着飾った装い。
ぼくは外出の予定でもあるのかと考えたけれど、確かにそれは当たっていた。
ただし彼女――美津代さんは、あの時もう、既に外出中だったのだ。
自分の家から、ここ"夜見山の人形館"へと。
◇
この家が現在置かれている状況については、これでずいぶんとはっきりした。
けれど、それはあくまで外郭でしかない。核心は自分の手で突くしかないようだ。
「改めて、確認させてください。一昨日、人形を壊したのは……美津代さん、あなたですよね」
「……ええ。驚かせてしまって、ごめんなさい」
「理由を訊いても、いいでしょうか?」
覚悟を決めてぼくが言うと、美津代さんの顔からすっと表情が消えた。
こうなると、ますます霧果さんそっくりだな――と、ひどく場違いなことを思う。
「その前に。……一つ、いいかしら?」
冷たさすら感じる声で、彼女は言った。
「何ですか?」
「私が由紀代じゃなくて藤岡美津代だってことは、素直に認めるし、誤魔化すつもりも無いわ。それを断った上で、興味があるから訊くのだけど……」
そう言って、今度は淡く微笑む。
鳴がよくする表情だ。
「もし私が、『自分は霧果だ』って言い張ったら、あなたはどうするつもりだったの? 私たちの区別がついたかしら?」
自信に満ちた口調だった。
彼女の顔を見れば見るほど、それに気圧され、迷いが生まれていくのが自分でも分かる。
――だから、見てはいけない。
似ているところばかり見ていれば、惑うのは当たり前だ。
「……確かに、あなたと霧果さんはよく似ています。正直なところ、こうして対面していると、今ぼくが話しているのはどちらなのか、自信が無くなってくるくらいです。でも……」
喋る勢いに任せるようにして、とうとうぼくも椅子から立ち上がった。
「実際にやるかどうかは別として、お二人を見分ける方法なら――あります」
「へえ?」興味を惹かれたように、美津代さんの眉が持ち上がる。「ひょっとして、人形を創れとでも言う気? 確かに私は、由紀代みたいに器用じゃないけど」
「それよりもっと簡単で、間違いの無い方法です。――そういう意味では、お二人を見分けるのは『見崎鳴と藤岡未咲を見分けろ』と言っているのに等しいんじゃないでしょうか」
ぼくの言葉に、鳴がまた驚愕の表情でこちらを見た。
美津代さんに、彼女――藤岡未咲の話は禁物だ……ということか?
だが、美津代さんは特に気にしたふうでもなく言う。
「鳴と、未咲? それなら簡単でしょうね。どんなに顔がそっくりでも、眼帯をしている方が、鳴。それだけの話だもの」
その言葉に誘われるようにして、鳴が眼帯に手を当てる。
自身と妹を区別する"印"に。
「でも、私も由紀代も眼帯なんてしていないけど?」
「確かにそうです。ですけど、お二人にも決定的な違いがあるんです。それこそ、眼帯にも等しい違いが」
まるで思い当たることが無いとでもいうように、美津代さんは右手を口元にやり、深く考え込んでいる。
ぼくの言葉をじっくり吟味しているのか、人差し指だけが一定のリズムで動いていた。
「……不思議ね。自分たちのことなのに、全然ぴんと来ないなんて。私や由紀代の体に、印でもついて――」
彼女の言葉が、何かに気づいた表情と共にそこで途切れる。
やがて、ぽつりと呟いた。
「……そう。そういうことなのね」
「そうです」ぼくは頷く。「美津代さん、あなたの体にはあるんです。霧果さんにはない"印"――手術痕が」
今年の初め、彼女は病院で手術を受けた。
自らのためではなく、娘――藤岡未咲を救うための腎臓移植手術を、ドナーとして。
当然、その傷痕が彼女にはあるはずだ。
「ええ、確かにその通り。……あなたは今ここで、それを確認するつもりかしら?」
すぐに首を振って否定する。
「いえ。ぼくはただ、質問の答えを示しただけです。あなたと霧果さんを見分ける方法は、間違いなくあると。それでこの話は終わりです。……後はその、また別の問題なんじゃないかと」
「ああ、だからあなた、ああいう言い方をしたのね」おかしそうに美津代さんが笑う。「そうでなきゃ、私に服を脱げって言ってるようなものだもの」
おかしさが次々とこみ上げてきているのか、くすくすという彼女の笑い声は尾を引くように続く。
それが治まりかけてきた頃、
「……そうね」
と、これはひどく弱々しい声で。
「確かに私、手術を受けたわ。自分のことなのに、すっかり忘れてた。――あまりにも、意味が無かったから」
ああ――と、今更ながらにぼくは思う。
いくら話すきっかけを作ったのは美津代さん自身でも、やはりこのことは口にするべきではなかったのかもしれない。
言えば当然、こういう話になってしまうのは分かりきっていたのに。
「病院の先生は、『これで大丈夫』って言ってくれてたのにね。どうしてなのか、原因は結局分からなかった。でもきっと……私のせい、なんでしょうね。あの子に腎臓をあげた私に原因があったから、きっと」
それは違うと、そう言えたらどんなに楽だったろう。
悪いのは<災厄>で、移植手術に問題があったわけでも、ましてや美津代さんのせいでもないと、今ここでそう言えたら。
けれど、仮にぼくがそう説明したところで、それはいかにも子供じみた、優しく陳腐ななぐさめの嘘。
そういう風にしか受け取ってもらえないことだろう。
それにもし、美津代さんが<災厄>の存在を信じてくれたとしても、それが何になる?
彼女はきっと、今度は夜見山に戻ってきたことに責任を感じてしまうだけだ。
もし彼女の悲しみを癒せるとすれば、それは藤岡未咲だけ、だろう。
死んでしまった彼女が、戻ってくることだけが。
そしてそれは、言うまでもなく不可能で。
鳴はきっと、だから彼女に何も言わないのだ。
<災厄>が終わってからももちろん、こうしている今だって。
悲しそうに微笑む美津代さんをただ、無言のまま見つめている。
その表情はいつもと変わらないはずなのに、その裏では様々な感情がうねり、溢れ出しそうになるのを必死で押しとどめている。
そんな揺らぎを、確かに感じた。
……鳴がじっと耐えているのに、ぼくが先に音を上げてしまうわけにはいかない。
沈黙の中、美津代さんが再び口を開く。
「……あなたの質問に、そろそろ答えないとね。私がどうして、由紀代の人形を壊したのか」
そう話す声の調子は、もうすっかり元に戻っていて。
「私、由紀代の創る人形は好きよ。双子なのに、あの子にだけあんな才能があるなんてずるいって、昔はよく思ったりもした。お互い結婚して離れて暮らすようになって、今までここに来ることも無かったんだけど」
地下展示室をぐるりと見回しながら、並ぶ人形たちにも語りかけるように言う。
「今回たまたま、こうしてじっくり見てみる機会ができて、やっぱり素敵だなって思ってね。悪いとは分かってたけど、こっそり工房にも入ってみたくなったの。そしたら工房の中に棺があって、蓋が閉まってたから、気になって……開けてみた」
その時の光景が甦ってきたのか、彼女の言葉がそこで止まる。
痛みに耐えるよう目を閉じて、静かに言った。
「――未咲だった」
「えっ?」
「中にいたのは未咲だった。あの子が棺の中で……眠ってた」
未咲。未咲というのは、つまり。
「……藤岡未咲さん?」
「もちろん、中にいたのは人形よ。でも、顔がね。――あなた、『1997』の人形は見たことある?」
カーテンに隔てられ今は見えない、ぼくにとっては一番なじみの深い人形。
「それは……あります。何回も」
「あれは、誰だと思う?」
まっすぐ突きつけられるような問いに、言葉に窮する。
様々な思考が駆け巡ったが、素直に、思ったままを答えることにした。
「見崎――見崎鳴に見えます。少なくとも、ぼくには」
そう答えながら、自然と顔は鳴の方を向いていた。
変わらぬ沈黙を保ったまま、彼女は身じろぎひとつしない。
「……そう。あなたがそんな風に感じたのと同じように、私は工房の人形を見て、未咲だって思った。……そういうことだったと、思うんだけどね」
「ですけど、霧果さんにとってあの人形は――」
「ええ。それも、後で鳴に教えて貰ったわ。鳴でも未咲でもなく、由紀代自身の子供……。そうなんでしょう?」
「はい。……そうだよね、見崎」
二人分の視線と言葉を向けられ、さすがに何かを言わねばならない気になったのか、鳴はひとつため息をつき、
「わたしはあの子たちのこと、わたし自身だって思ったことは一度もないよ」
とだけ、言った。
「私が『1997』の人形を見た時も、確かに似てるとは思った。でも、それはどちらかと言えば鳴に……ううん、そもそも具体的に誰かなんてことは考えなかったわ。漠然と『似てる』って思っただけ」
自らの感情をなんとか言葉にしようともがいているのか、美津代さんは額に手を当てて言う。
「そして工房で見た人形も、『1997』と顔が大きく違うとか、そういうことはなかったと思う。ドレスだって同じものを着ていたし。……それなのに、その時は思ったの。『ああ、これは未咲だ』って。それが分かった途端、頭が真っ白になって……気づいた時にはもう、壊してしまってた」
「……」
「未咲だったから。それが、私が人形を壊した理由なの。……でも私は、あるはずのないものを見て、ひとりよがりな勘違いで取り返しのつかないことをしてしまったのね。そもそも、工房に入ったのだって勝手にしたことなのに」
自分自身への失望を示すように、ゆるゆると首を振る。
「由紀代が戻ってくれば、隠し通せないのは分かってた。だからせめて、それまでの間――ここで鳴といられる間は秘密にできたら、そう思って隠したのだけど……結局、すぐに見つかっちゃって」
そうしてゆっくりと、彼女は頭を下げた。
「あなた――榊原くんにも、鳴にも、それから由紀代にも……私のせいで、とんでもない迷惑をかけてしまったわ。……ごめんなさい」
そこから美津代さんが顔を上げるまでの、沈黙の時間。
実際にはほんの数秒でしかなかったのだろうけど、頭の中では多くの思考が巡った。
◇
人形を壊した理由は「未咲だったから」と、美津代さんはそう言った。
彼女からそれ以上の説明はなかったのだから、この言葉はそのまま受け止めるべきであって、
部外者であるぼくがあれこれ解釈を試みるのは、それこそ野暮というものなんだろうけど……。
それでもぼくが、理屈をつけるとするならば。
たぶん――美津代さんには耐えられなかったのだ。
「1998」の人形……彼女にとっての「藤岡未咲」が、この家に存在していることが。
自分の娘が――それも二人とも――霧果さんの側にいる。
我が子を喪った彼女の悲しみを埋め合わせるために。
それなのに、同じように娘を喪った自分の元には誰もいない。
なにもない、空っぽ――"虚ろ"。
美津代さんはあの日、ほんの一瞬だけ、工房でそんな"虚ろ"に取り込まれてしまったのだろう。
そして今、そのことを深く悔いている。
だからこそ、彼女は多くを語ろうとしないのだ。
ぼくが考えていることが正鵠を射ているとして、もしそれを詳らかにしてしまえば、
その言葉はきっと、鳴を傷つける刃にもなってしまう。
本意では決してなかったにしても、かつて鳴を手放す決断をしたのは、美津代さん自身でもあるのだから。
……そして、今。
美津代さんの中では、もう既に結論が出ている。
霧果さんが人形を通して見ているのは、鳴でも未咲でもなく、全く別のもの。
だから自分が人形を「未咲だ」と感じたのは、単なる気の迷いであったのだ……と。
それならそれでいい。
けれども一方で、ぼくの中にある考えが浮かびつつあるのも事実だった。
今回の真相が分かってからというもの、ぼくがひそかにずっと抱き続けてきた疑問。
その疑問への答えとなりうる、一つの考えが。
「1997」と「1998」、二つの人形。
ぼくが一番初め、鳴と人形探しをした時にこの二体を取り違えてしまったのは、
彼女たちが同じ色、同じデザインのドレスを着ていたからだ。
――だがそもそも、どうして二体とも同じドレスを着ていたのだろう?
隠し部屋で目にした他の人形たちはみな、色とりどりのドレスに身を包んでいた。
もちろん、あれだけの数があればどうしても色の系統が似通ってくるものこそあったけれど、
少なくとも二年続けて全く同じドレス、ということは決してなかった。
……それなのに。
この二体だけが、全く同じドレスを着ている。
むろん、そこには創り手である霧果さんの意図があると、そうは思っていたけれど……。
それが一体何なのか、具体的なところはまるで見当もつかなかった。
しかし美津代さんの話を聞いて、思い当たる可能性が一つ。
今までぼくは、霧果さんが「1998」を完成させたのなら、それを地下展示室に飾り、
「1997」は隠し部屋の方へ運ぶのだろうと、そう考えていた。
「お別れ」を感じていた鳴も、たぶん同じように思っていたのだろう。
――もし、そうではなかったとしたら?
ぼくが考えている可能性。
それは、霧果さんが「1997」と「1998」を並べて展示するつもりだったのではないか、ということだ。
同じ棺に入った、同じドレスの人形が二つ並ぶ。
それを目にした人は、果たしてどう感じるだろう?
ただ単に、「同じ商品が二つ並んでいる」としか思わないだろうか?
ぼくはそうは思わない。
霧果さんの人形を見てそんな風に感じることは、きっとできない。
油断しているとふと、"彼女たち"と呼んでしまいそうなくらいに"個"を持った人形なのだ。
きっと、こう感じることだろう。――ああ、この人形たちは「双子」なのだな、と。
だからこそ、霧果さんは二体に同じドレスを着せたのではないか。
双子の姉妹。姉と妹。
区別する方法は言うまでもない。
先に創られた「1997」が「姉」で、「1998」が「妹」だ。
そして、同じく双子である見崎鳴と藤岡未咲の姉妹のうち、「妹」、つまり「1998」であるのは……藤岡未咲の方。
霧果さんが何を思い、「1998」を創ったのか。
それは本人にしか分からない。
だが藤岡未咲の訃報は、霧果さんの耳にもきっと届いていたはずで。
そしてもし、霧果さんに彼女の死を悼む気持ちがあったとしたら。
霧果さんは、それをどうやって表現するだろう?
……やっぱり彼女は、人形を創るんじゃないだろうか。
ぼくにはもう、壊されてしまった「1998」の顔を見ることはかなわない。
けれどそう、"彼女"だけは本当に。
鳴でも、ましてや霧果さんの子供でもなく本当に、藤岡未咲だったのではないか。
そして美津代さんは不幸にも、それを無意識に感じとってしまったのではないか。
……そんな考えが、どうしても消えてくれないのだった。
41
これまで流れていた静かなチェロの旋律がちょうどその時終わり、次に流れ出したのはピアノのメロディ。
ああ、これはぼくも前にどこかで聴いたことがある。
確か曲名は――ドビュッシーの「夢」。
それがきっかけになったのか、美津代さんが天井を振り仰ぐ。
「だいぶ長居してたみたいね。ご飯が遅くなっちゃうから、私はそろそろ上に戻るわ」
ことさらに明るい声を作るようにして、彼女はそう言った。
何の集まりと形容していいか分からないこの場も、そろそろお開きの頃合い、といったところだろう。
ぼくも、遅くならないうちに家に帰らないと。
土曜日のことがあったのに、また祖母に心配をかけてしまうのは避けたかった。
「……すいませんでした。長々と時間を取らせてしまったみたいで」
「いいえ。私がしたことだもの。むしろ私が、あなたに手間を取らせてしまったの。ごめんなさいね。――それにしても」
「?」
「榊原くん、あなた何でも知ってるのね。私と由紀代のことも、鳴や未咲のことも。……まさかそこまで知ってるなんて、思ってもみなかった」
「ああ、それは……前に教えてもらってたんです、見崎に」
「やっぱり、そういうことよね。鳴、あなたにそこまで言ってたんだ」
ぼくはそこで「ね?」と同意を求めて鳴を見たのだが……。
鳴はまた、呆然とした表情でぼくを見るばかり、なのだった。
今まで鳴が殆ど見せたことのないそんな表情を、ぼくは今日だけで何度目にしたことだろう。
ぼくの言っていることが自分の理解を超えているとでも言いたげな、鳴の顔を。
鳴がなぜそんな顔をしているのか、ぼくには分からない。
そんな鳴に「ねえ」と呼びかけたのは、美津代さんだった。
「鳴、私が言えたことじゃないけど……榊原くんには、最初から全部話しても良かったんじゃないかしら」
「どういうことですか?」
「土曜日に初めてあなたに会った時はね、たぶん私を由紀代だって勘違いしてるんだろうなってことは分かったけど、そのままにしてしまったの。私たちのこと、どのくらい知ってるのかも分からなかったから」
「でも」という言葉に続けて、驚くべき事実を彼女は口にする。
「それから私が壊した人形が見つかって、あなたが帰った後……鳴に言われたわ。――あなたには何も言わないでって。私が由紀代じゃないことも含めて、全部」
「えっ?」
「だから私は、『ああ、榊原くんは何も知らないんだ』って思ったの。でも……そうではなかったんでしょう?」
もちろん、そんなはずはない。ぼくは全部知っていた。
霧果さんのことも、美津代さんのことも、藤岡未咲のことも。
そうでなければ、ぼくが真実に辿りつけるはずがないではないか。
鳴がひた隠しにしておきたかったこと。
それは言うまでもなく、今この家にいるのが霧果さんではなく、美津代さんだったということだろう。
だから今日だって鳴は一度、霧果さんが犯人ということにして話を終わらせようとしたのだ。
今の美津代さんの言葉で、それは一層はっきりした。
……だけど、なぜそうまでしてぼくに隠そうとしたのだろう?
もしぼくが何の事情も知らない、完全な部外者だったらそれも当然のことではあるけど……。
しかし霧果さんが鳴の本当の母親ではないこと、そして美津代さんの存在は、ぼくにとってはもう既知の事実だったのだ。
他ならぬ鳴本人が、合宿でそのことをぼくに教えてくれていたのだから。
言葉を変えれば、全てを知っているぼくが真相に気づくのは時間の問題だった、とも言える。
少なくとも、いつまでも隠し通せるものではなかったことは間違いない。
なのに、なぜ?
……やっぱり、分からない。
考えれば考えるほど、苛立ちにも似た感情がぼくの中で、ただただ積み重なっていく。
美津代さんは「何でも知ってる」なんてぼくに言ったけど、買いかぶりもいいところだ。
ぼくにだって、分からないことくらいある。そう、こうしている今だって。
事件が終わった今だってまだ、分からないことだらけではないか。
これ以上考える気力は、ぼくの中でとうに失せていた。
降参だ。
これはきっと、ぼくには解けない問題なのだ。
そして分からないのなら、後はもう訊くしかない。
「……見崎」
曲が山場を迎え、叩きつけるようなピアノの音が響く中、ぼくは鳴に問う。
「どうして教えてくれなかったの? ぼくに、初めから全部を」
強く訴えかけるような口調になってしまわないよう、必死に自分を抑えた。
これがただのわがままであることくらい、ぼくにも良く分かっていたから。
いくらぼくが多少なりとも事情を知っているとはいえ、それで鳴がぼくに全てを話す義理があるわけでもないし、
今回のことにしたって、美津代さんのことを明かすかどうかは当然、鳴の自由。
いまぼくが口にしていることは、八つ当たりもいいとこだろう。
……でも一方で、そうは割り切れないぼくがいるのも、また事実なのだった。
――信じて。
あの合宿の夜、ぼくは鳴の言葉を信じたのだ。
だから今度は……そう。
ぼくは鳴に、ぼくのことを信じてもらいたかったのだろう。最初から、全てを説明してもらいたかった。
まるで見返りを求めているみたいだったし、あまりにも身勝手な感情で、自分で自分に嫌気が差しそうになる。
なるけれど……どうしても、そんな風に考えてしまうのはやめられそうにない。
俯いた鳴の唇から、「榊原くん」と呟きが漏れた。
「わたしが何を秘密にしておきたかったのか、分かってるの?」
「なんとなくはね。でも、理由についてはまったく」
「……そう」
それからもう一度、「榊原くん」とぼくの名を呼ぶ。
「わたしがあなたに隠そうとしてたのはね……今ここにいるのが、霧果じゃなくて美津代だってこと」
「……うん」
だから、どうしてそれを――とぼくが口にするより早く、「それから」と鳴が言う。
「美津代がわたしの本当のお母さんで、霧果は本当の母親じゃないこと」
…………え?
「わたしと未咲が本当は双子だってこと。……そして<災厄>が、本当は四月から始まっていたこと」
耳を疑う間にも、鳴はつらつらと言葉を並べていく。
待て。待て待て。待ってくれ。
「わたしが隠していたことはもうとっくに、全部あなたに知られてた。――どうして? なぜあなたが知っているの?」
――鳴は一体、何を言っているんだ!?
◇
「どうして、って……それはきみが合宿で、ぼくに教えてくれてたからじゃないか。そうだよね?」
鳴は強くかぶりを振る。
その仕草には、揺るぎようのない確信が伴っていた。
「そんなこと、してない。だってあの時、榊原くんは――」
そこから先の鳴の言葉は、もうぼくの頭には入ってこなかった。
話を聞いていた美津代さんが何かを確認するように鳴に語りかけ、それに鳴が答える。
そんなやり取りも、異国の会話のようにしか聞こえない。
――ぼくがとっくに知ってる鳴の事情を、彼女は秘密にしようとしていた?
意味が分からない。そもそもぼくがそれを知ったのは、他ならぬ鳴からなのに。
しかもそれを、鳴は覚えてもいないだって?
何かがおかしい。それも、致命的に。
ぼくと鳴の認識が、まるで噛み合っていない。
何だ、これは。これではまるで……。
まるでどちらかの記憶が書き換えられてシマッタヨウナ――?
「……あ……」
その瞬間。
今度こそ、ぼくにはすべてが分かった。
まるで霧が晴れたように、疑問はもう、どこにもない。
……だからこそ、よく見える。
自分の置かれた状況が。
そこにある、絶望が。
もはやぼくには、戸惑うことすら許されていない。
答えは既に明らかだった。
そして、それを確かめる方法も。
簡単なことだ。
たった一つ、鳴に訊けばいい。
「……見崎……」
口の中がからからに乾いていて、自分でも驚くほどしわがれた声が出た。
「……どうしたの?」
言うべきことは分かっているのに、言葉が出ない。
まるで、見えない何かがぼくの口を塞いでいるかのよう。
どうした、恒一。
何を迷ってる。
お前が黙っていたところで、何が変わるというんだ?
言え。
言ってしまえ。
「――今年の<死者>……三年三組にいた<もう一人>が誰だったか、憶えてる?」
「<死者>?」
質問の意味をはかりかねたのだろう、美津代さんが眉を顰めた。
別にいい。彼女に聞かれても構いはしない。
これは、ぼくと鳴の間にだけ伝わる問い。
そのはずだった。
鳴はぼくから視線を逸らすこともなく、いつもと変わらぬ無表情でこちらを見つめていた。
その唇が声には出さないまま動き(……し、しゃ。)、そして――。
鳴の顔に、衝撃が広がる。
……少しの間があって、彼女は首を横に振った。
<災厄>による、記憶の改竄。
<もう一人>の正体の隠蔽。
<死者>である怜子さんの死に深く関わったぼくと鳴だけは、その波に呑み込まれることなく今まで過ごしてきていた。
だが、<災厄>がいつまでもそれを見逃してくれるはずはない。
ぼくらにもいずれ、逃れられぬ運命に追いつかれる時が来る。
……そんなことは、十分理解していたはずなのに。
いつの間にか、「その時」はやってきていたのだ。
一足早く、鳴にだけ。
<災厄>は、鳴の記憶を塗り替えてしまった。
怜子さんのいない1998年へと。
そしてそれだけでは飽き足らず、様々な事実を捻じ曲げていった。
彼女が存在しないことへの、辻褄合わせのために。
何がどう変化したのか、未だ"こちら側"にとどまるぼくにははっきりしない部分もある。
しかし確実なのは――合宿での出来事。
鳴のぼくに対する秘密の告白は、なかったことにされたのだ。
そうでなければ、このずれ――ぼくがちゃんと覚えていることを、彼女が忘れている説明がつかない。
……なぜ、そんなことが起きたのかって?
理由なんて分かるはずがない。
それにどのみち、<災厄>のすることなんて考えても無駄だ。
だから……ぼくにできるのは、ただ受け入れることだけ。
鳴はもう、あっちへ行ってしまった。
今年の<死者>としての「三神怜子」はもう、ぼくの中にしか存在しない。
「……ああ……」
分かっていたことだ。
いつか……そう遠くない未来に、ぼくらがそうなってしまうことは。
鳴だけじゃない。
ぼくにだって、「その時」はくる。
だから抗うでもなく、投げ出すでもなく、ただそれを待っていようと――そう決めたじゃないか。
それなのに。
「……いやだ……」
そんな言葉が、口をついて出た。
自分でも、わけが分からないまま。
ふっと膝の力が抜け、ぼくは崩れるように椅子に座り込む。
もしも椅子がなかったら、そのままひっくり返ってしまっていたことだろう。
「榊原くん?」
ぼくの異変に気づいた鳴が駆け寄ってくる。
鳴の声が、遠い。
さっきまで流れていたはずのピアノの演奏も、もう聴こえなくなっていた。
代わりに聴こえてきたのは――ああ、またか。
ずうぅぅぅーん……。
可聴域の辺縁をたゆたうようなあの重低音が、また。
ずうぅぅぅーん……。
鳴がぼくに、何かを必死に呼びかけている。
重低音が五感すべてを塗りつぶそうとしているのか、視界までが暗い。
ずうぅぅぅーん……。
ずうぅぅぅーん……。
――憶えているのは、そこまでだった。
一旦中断します。
すぐ戻ってきます。
再開します。
42
新しい土曜日がやってきた。
ぼくと鳴は、ちょうど一週間前と同じように、またしてもテーブルを挟み、向かい合って座っている。
しかし、今回はテーブルの上にカップが二つ。
片方は、ぼくが頼んだコーヒー。そしてもう片方は鳴のレモンティー。
そう。
ぼくらは今、<イノヤ>にいた。
「――ごめんね、急に誘っちゃって」
カップに浮かぶレモンの輪切りをスプーンでつつきながら、鳴が言う。
先週ほどには着込んでおらず、ゆったりとした白いブラウスに黒のミディスカートという服装。
それもそのはずで、予報によれば今日は九月上旬並みまで気温が上がるのだとか。
ぼくらの座るテーブルが面した窓も今日は開け放たれ、白いレースのカーテンを心地いい風が揺らしていた。
「全然。見崎の方から言ってくれて、逆に良かったかも」
――これからどう? 約束の罰ゲーム。
ぼくがそんな電話を受け取ったのは、ちょうど家でお昼ご飯を食べ終えた時のこと。
人形探し――ぼくと鳴の勝負に先立ち、交わしていた約束。
忘れていたわけではなかったけれど、それから色々なことがあり過ぎて、どうにもうやむやになってしまったような感じもしていた。
さてどうしたものかと思案していた矢先、意外にも鳴の方から連絡してきたのだ。
敗者の義務を果たさねばならないのはぼくの方だし、そもそも鳴の誘いを断る理由などない。
返答に時間はかからず、こうして二人だけのお茶会――会費は当然、ぼく持ちの――は開催の運びとなった。
……もしかしたら、この前のことについてぼくと話す機会を、彼女の方でも求めていたのかもしれない。
少なくとも、学校の休み時間に気軽にできるような話ではなかったから。
「榊原くんは体調、もう大丈夫なの?」
「すっかり元気だよ。というか、別に授業を休んだわけでもないしね。めまいがしたのはあの時だけで」
「なら、いいけど。帰る時もふらふらだったから、美津代叔母さんが心配してたよ」
月曜日はあれからどうやって家まで帰ったのか、未だに断片的な記憶しかない。
ただ、翌日以降に引きずるようなことが無かったことだけは幸いだろう。
……祖母には結局、またしても余計な心配をかけてしまったけれど。
「それより、見崎の方こそ大丈夫だった?」
「何が?」
「その……霧果さんと美津代さんがさ。もう霧果さんは帰ってきてるんだよね? あれからどうなったの?」
「どうも何も……霧果が帰ってきて、美津代叔母さんが謝って、霧果が『分かった』って言って……それでおしまい」
起きたことをそのまま羅列しました、という感じだ。
「……それだけ?」
「それだけ」
「いや、ぼくが言うのも変な話だけどさ……霧果さんも、怒ったりとかそういうの、ないの? 自分の人形を壊されちゃったわけだし」
「別に。帰ってきていきなりだったら少しは驚いたのかもしれないけど、美津代叔母さんのこととか人形のこと、霧果には前もって伝えてたし」
事件が起きた直後の電話で、確かにそんなことを言っていたような気もする。
霧果には伝えておくから、と。
「そうじゃなくても、人形を壊されて霧果が怒るなんてあるわけないよ。――本物じゃないんだから」
まただ。
「それ、前にも言ってたよね。本物じゃないって。……どういう意味か、訊いてもいい?」
この前と同じように受け流されてしまうかと思ったが、鳴は頷いてくれた。
「霧果が自分の創る人形に何を求めているか……榊原くんは、もう知ってるよね?」
「ええと、生まれてこられなかった自分の子供……だよね」
「うん。だから、霧果にとってはそれが本物。それを求めて、あの人は人形を創り続けてる。わたしをモデルにした棺の人形たちなんか、特にそう」
でもね、と鳴は続ける。
「霧果の子供じゃないわたしをモデルにしている時点で、あの子たちが霧果の子供になれるわけがない。――そうは思わない?」
「……」
「だから霧果にとって出来上がった人形は、ある意味じゃ失敗作みたいなものなの。ギャラリーも、地下展示室も、隠し部屋の人形も、全部。――榊原くん、あの隠し部屋のこと、お墓みたいって言ってたよね」
「うん。……言った」
「だとしたら霧果は、お墓参りなんて一度もしたことないよ。運んでいって、それで終わり」
それもこれも全部、あの人形たちが本物じゃないから……か。
「あの人にとって大事なのは、今まさに自分が創っている人形だけ。まだ決まっていないから、揺らいでいるから、今度こそは本物になってくれるかもしれない。――人形を創っている間は、そうやって夢を見ていられる」
鳴の目に、ふと哀しみとも憐れみともつかない色が浮かんだ。
「でも完成してから、ふと気づくの。――ああ、これも偽物だった、って。あの人はいつだってそう。わたしがあの家に来てから……ううん、子供を喪った時からずっと、同じことを繰り返してる」
眼帯に指を添え、そこで鳴はひとつ、ため息をついた。
「……それならわたしのことも、最初から偽物だって気づいていればよかったのにね」
そのままカップを口へと運ぶ。
一方のぼくは、椅子にちょこんと座ったまま何もできずにいた。
鳴の心中を思うと、なんだかコーヒーに手を伸ばすことさえ、はばかられるような気がして。
「どうしたの、そんな顔して黙っちゃって」
当の鳴はといえば、まるで何事もなかったかのような口調でぼくに言う。
「もともとはわたし、榊原くんにもこういう話、してたんでしょ? ――わたしはあんまり思い出せないんだけど」
「……そうだね。大体のところは、合宿の時に」
「ふうん」という呟きを漏らしながら、頬を撫でる鳴。
「本当に、忘れてしまうものね。分かってたことだけど、いざ自分がなってみるとやっぱり……」
「悲しい?」
「――とは、ちょっと違うかな。不思議というか、変な感じ。……合宿でその話をしたのって、いつごろ?」
「え。……夕食の後、自由時間があったよね。その時に、きみの部屋で」
「うーん」鳴は訝るように眉を顰める。「その辺からもう、違ってきちゃってるのね。わたしの記憶だと、夕食の後に榊原くんと話す余裕なんてなかったし」
「それは、どうして?」
「和久井くんが発作を起こして、千曳さんが付き添いで山を降りてしまったから。引率する人がいなくなって、みんな身動きがとれなくなって。――榊原くん、対策係の人たちと一緒に指示とか連絡とか、忙しそうにしてたよ。覚えてない?」
覚えていないというより、身に覚えがない。が、そうだったという話は聞いている。
勅使河原もそんなことを言っていたし、ぼくが今クラス委員長をしているのもそのためだ。
怜子さんの行動をぼくが肩代わりした形だが、それが改竄後の事実ということなのだろう。
「でもさ、いくら忙しくったって、話をする時間くらいは確保できなかったのかな」
「……それだけだったら、確かにね」
「えっ?」
まだ何かあるのか。
「わたしも榊原くんにはちゃんと話をしておくべきだと思ったから、手が空くのを待ってたの。……でも、そうしているうちにあの放送があって」
――今年の<死者>は見崎鳴です。
「それでクラスの人が何人か――放送を聞いた榊原くんも――わたしのところに来て。榊原くんはわたしを<死者>じゃないって言ってくれたけど、とうとう辻井くんがわたしに殴りかかってきて。……でもね」
鳴の視線が、ふっとテーブルに落ちた。
「榊原くんがわたしを庇ってくれたの。だから、わたしは何ともなかった。……榊原くんは、覚えてないんだよね」
「……うん」
覚えているはずなどない。そもそも、そんなことは無かったのだ。
けれど、奇妙な納得がそこにはあった。
なぜなら――あの時実際に鳴を庇ったのは、<死者>である怜子さんだったから。
つまり、ぼくはここでも辻褄合わせで怜子さんの代役を務めたというわけだ。
「それで、その後は? ……えっと、ぼくはどうなったの?」
自分で自分の安否を確認するなんてどうにも変な話だが、鳴の記憶にある「榊原恒一」は、ぼくであってぼくじゃない。
「気を失ったみたいだった。出血もしてて、それで周りの人は我に返った部分もあったみたい。その時にはもう火事も起きてたから、とにかく安全な場所に運ぼうって話になって、みんなで建物の外に」
あの時は色々と状況が錯綜していたが、そこからは上手く逃れた形になったらしい。
「わたしは<災厄>を止めなきゃって思って、<死者>を探し回って――見つけたの。瓦礫の下敷きになって動けなくなっている、<もう一人>を」
「……きみは、そのまま<死者>を"死"に?」
そうは言いつつも、ぼくの中ではこの時既に違う予測が固まっていた。
「そのつもりだった。でも……目を覚ました榊原くんが、ちょうどその時わたしのところに来て」
「……」
「わたしの<目>のことを話したら、それで榊原くんは納得してくれた。そして……『ぼくがやるよ』って。――それで今年の<災厄>は終わったの」
「……そっか」
「榊原くんが見聞きしたことと、食い違ってる部分はあるんだよね。それでも、まだ合宿の出来事についてはわたし、こうして一連の流れはちゃんと覚えてるの。……なのに」
きつく目を瞑って、鳴は言う。
「<死者>が誰だったのかだけは、どうしても思い出せなくて。顔も名前も、男子だったのか、女子だったのかすら……」
実際は男子でも女子でもなく、教師だった。
改竄に呑み込まれてしまった彼女には、やはりその選択肢が出てこないのだ。
「気になるのなら、千曳さんに名簿を見せてもらえば分かると思うけどね」
今年の<死者>が怜子さんだったことは、合宿が終わってからほどなくして、ぼくの口から千曳さんに伝えてあった。
教師も間違いなく、<もう一人>になり得るということ。
そしてその時、一体何が起こるのか。
……頭では分かっていても、今まで実例が無かったことだ。
それを記録としてちゃんと残しておくことは、きっと後輩たちへの助けになる。……そう思ったから。
「うん。でも……わたしがそれを見たところで、何の実感も湧かないんだろうって思うと……」
そう言って鳴はカップの中身を飲み干した。
ぼくがポットから新たに紅茶を注いであげると、「ありがと」とだけ言って、ちびりと口をつける。
「何の話をしてたんだっけ……そうそう、だからわたし、合宿では榊原くんにわたし自身のことなんて、話すタイミングが無くて。それに学校が始まってからは、今さら改まって言うことかな、なんて気にもなったし。――ああでも、それは今だからそう思うのかな」
「と、言うと?」
「わたし、本当は合宿で榊原くんにちゃんと話をしてたんでしょ? それを忘れてしまったから、今まで説明してなかった理由として、そうやって理屈をつけてるだけなのかも」
「それじゃ先週、ぼくがきみの家に行った時は……」
「たぶんもう、分からなくなってたんだと思う。<死者>のことや、合宿で本当に起きたこと。榊原くんが来てすぐに言おうとして、結局言えなかった記憶があるから」
そんな場面が、確かにあった。あの時、鳴はもう<災厄>に記憶を――。
「……あのさ、見崎。答えたくなかったら、いやだって言ってもいいし、無視してくれてもいいんだけど」
そう前置きして、ぼくは鳴に言う。
「きみが<死者>のことを忘れて、事件が起きた後。きみはどうして、ぼくに美津代さんのことを話してくれなかったの? あの家にいたのは、実は彼女の方だったって」
「……」
「事件が起きる前は、きみも霧果さんや美津代さんのことをぼくに話す気があったんだよね? だったら事件が起きた後は、どうして急に隠そうと……?」
この前は、とうとう答えを得ることなく終わってしまった、この問い。
ぼくはそれを、もう一度鳴にぶつけた。
「……」
鳴は小さく吐息し、ややあって口を開いた。
「正直に言うね。――事件が起きてしまったから、言えなくなった……言いたくなくなったの」
紅茶に映る自分自身を見ているかのように、視線は手元のカップに落ちている。
「あんな事件があった後じゃ、自分の家はこれだけぎくしゃくしてます、って榊原くんに言うようなものだと思ったし、知られたくもなかったから。……タイミングとしては最悪、でしょ?」
「それは……うん」
「だからね、わたしが喋ってないのに榊原くんが何もかも知ってるって分かった時は、本当にびっくりしたよ」
そこまで言ってまた、小さな吐息が。
「……ごめん」
「別に、榊原くんが謝るような話じゃないと思うけど? あったはずのことを忘れてしまってるのは、わたしの方なんだし」
と、ここで鳴は微笑む。
……気を遣わせてしまっているな、と感じた。
「悪者がいるとすれば、それは<災厄>ね。――ひょっとしたら、事件が起きたのもそのせいなんじゃないかって思ったり」
「え。それって……今回のことも、<現象>の一部だってこと?」
「正確に言えば、後始末なのかな。事実として、わたしは合宿で榊原くんに話をしていた。でもわたしはそれを覚えていない」
「つまり記憶の改竄によって、忘れてしまったと」
「そう。だからもし、榊原くんまで記憶を改竄されるようなことがあれば――」
「ぼくも忘れてしまうんだろうね。きみから事情を聞いてないことにされてしまうんだし」
「でも<災厄>の影響を受けるのは、<死者>に関することだけのはずでしょ? それとは全く関係のないわたしの身の上話があなたの記憶から消されてしまうのは、道理に合わないと思わない?」
「いや、確かにそうかもしれないけどさ……。現実に見崎は、話をしてないことにされてしまったんだし」
「今まではね。だけど事件が起きた結果……わたしと榊原くんはこうしてもう一度、秘密を共有する機会を得たの」
「……!」
言葉を失った。
「たぶんこれから先、榊原くんが<もう一人>のことを思い出せなくなっても、わたしと美津代叔母さん、それから未咲との関係とかは、ちゃんと覚えてると思うよ。今回の事件をきっかけとしてわたしから聞いた、みたいな感じで。――そうすれば<災厄>は、あなたの記憶をそのままにしておける」
「……じゃあ<災厄>は、ぼくが見崎から聞いたことを忘れさせないようにするためだけに、今回の事件を起こした……いや、起こさせたんだ、って?」
「まあ、あくまで一つの考えだけどね。でも考えてみて。美津代叔母さんがわたしの家にいたのは、"たまたま"天根のおばあちゃんが腰を痛めたせいだし、わたしたちは、"たまたま"中村青司の話になって"たまたま"人形探しを始めた結果、"たまたま"叔母さんが壊した人形を見つけてしまった」
「……」
もっと言えば、そもそもぼくが鳴の家に行ったのも"たまたま"だ。
……いや、あれは本当に"たまたま"だったのか?
<災厄>がそうするように仕向けていなかったと、どうして言える?
「普通じゃ考えられないような偶然が、あまりにも重なりすぎてると思うの。……まるで、<災厄>で人が死ぬ時みたい」
「でも、どうしてそこまで……」
「さあ。<現象>にそれを尋ねても無駄じゃない?」
「……う」
「それでも理屈をつけるとすれば……やっぱり<死者>に関する記憶以外は極力消さないようにしてるんじゃないか、とか……後はそう」
すっと、鳴の人差し指がぼくに向けられた。
「<死者>を"死"に還したのは榊原くんだから、そうじゃない人より特別扱いされてるのかも、とかね」
「……それはそれは」
ずいぶんとご丁寧なことだ、と皮肉めいた笑いが出てしまいそうだった。
今回の事件の要因にぼくという人間の「特殊性」があるというのは、確かにそうかもしれない。
だがそれを言うなら、「特殊性」は事件の舞台――"夜見山の人形館"にもあったはずだ。
なぜならあそこは……中村青司が建てた「館」、すなわち「死に近い場所」だったのだから。
三年三組という「死に近い場所」に巣食う<災厄>が伝播する先としては、これほどおあつらえ向きの場所もないだろう。
それを思えば、事件が起きるのはもはや必然だったのでは――。
ぼんやりと紡いでいた思考がにわかに現実味を帯び始めてしまい、ぼくはぶんぶんと首を振る。
やめておこう。これ以上は本当にきりがなくなってしまいそうだ。
「なんだか結局は、そういう<現象>だから仕方がないって思うしかないのかな」
とりとめのない連想に区切りをつけるべくこう口に出すと、鳴も同意するように頷いた。
「そう思う。それで済ませてしまえるなら、そうした方がいいよ」
そう言って、物憂げな目でカップを傾ける。
「仕方がないで済ませてしまいたいのに、そうは出来ないことなんて、他にもいっぱいあるんだし」
「それって……霧果さんと美津代さんのこと?」
「……そうね」
眼帯を覆い隠すようにして、鳴は顔に手を当てる。
「霧果はやっぱり、妹から子供を奪ってしまったって思ってる。未咲が死んでしまってからは、特にそう。美津代がわたしを取り戻しに来ても仕方がないと思う一方で、それをとても怖がってた。叔母さんからしてみれば、何を今さら……って感じなのにね」
まるで他人事のように肩をすくめて言う。
「負い目を感じているのは、美津代叔母さんだって同じなのに」
「美津代さんも?」
「うん。霧果のためとは言いつつ、結局は自分の判断でわたしを手放して、それで現実に助かってしまっている部分もあるから、わたしや霧果に合わせる顔がないって感じ。……それでいて、やっぱり気にはなるのね。電話でわたしが『来てほしい』って言った時の、あの人の嬉しそうな声ったらなかった」
当時のことを思い出したのか、鳴の口元がわずかにほころんだ。
「わたしもあの人とあんな風に過ごすのは初めてだったし、一回だけのつもりで試しに『お母さん』って呼んでみたら、嬉しいを通り越して泣きそうな顔するし……だから結局、それで通さざるを得なくなったりして」
「……」
そう話す鳴は今、霧果さんも美津代さんも「お母さん」とは呼んでいない。
……彼女はもう、誰のこともそうは呼ばないのかもしれない。
「二人ともわたしに対してはそうでもないのに、顔を合わせるとぎこちなくなって……と言うより、わたしのせいでそうなってるの」
「そんな……」と言いかけたが、否定の言葉は継げなかった。
事情が事情だけに、二人の中で鳴の存在は避けられぬ前提となってしまっている。
「双子なんだし、昔はもっと仲が良くて、もっとつながってたのかもしれないけど……わたしがいる限りはもう、無理ね」
そこまで言ったところで、鳴は天井を見上げるようにして「あーあ」と声を上げる。
鳴にしては珍しい、どこか投げやりな響きがそこにはあった。
「いっそのこと、わたしも東京の高校にでも行っちゃおうかなぁ」
「えっ」
「そうすれば、あの二人も少しはましになるかもしれないでしょ」
彼女がそんなことを口にするのは、初めてのことだった。
――鳴が東京? 本当に?
だがぼくが何かを言うよりも早く、鳴はくすりと笑う。
「……なんてね、冗談」
一気に肩の力が抜けた。
「あ、ああ……そう、だよね。うん」
「それにあの二人、これから先は会うこともほとんど無くなりそうだから。……美津代叔母さん、来月に引っ越すんだって」
「引っ越す? どこに?」
「県外。旦那さん――藤岡のお父さんが前から転勤の希望を出してて、それがようやく通ったみたい」
「夜見山にはもう、帰ってこないってこと?」
「ひょっとしたら、未咲の命日くらいは戻ってくるつもりかもね。でも、無理にそうしなくてもいいんじゃないかって、わたしは思うけど。……きっと、ここは辛い思い出ばかりになってしまっているだろうし」
「……」
「だから、当分の間はお別れになるのかな。わたしはたぶん、夜見山を離れることはないと思うから」
「……霧果さんのことがあるから?」
「それもあるけど……他にもちょっと、考えてることがあって」
「それって?」
とぼくは尋ねてみたのだが、鳴は「んー……」とだけ声を発して、もの言いたげな半眼でぼくを見る。
「なんだかさっきから、わたしばっかり質問に答えてる気がするんだけど」
「……ごめんごめん、つい。――質問攻めは嫌い、だったよね」
「これ以上は拒否します、ってわけじゃないけど……わたしだって榊原くんに訊きたいこと、あるのに」
「そうだよね。じゃ、交代しよっか? ……見崎、質問をどうぞ」
ぼくがそう言うと、鳴はぼくの目をじっと見つめ、唐突にこう言った。
「いやだ」
「えっ」
鳴の方から言い出したことなのに? と思ったが、これにはまだ続きがあった。
「『いやだ』……って、あの時言ったよね、榊原くん。わたしが<死者>のこと、覚えてないって言った後に」
「……ああ。えっと……」
「それとももう、忘れちゃった?」
「……どうだったかな」
言い淀むぼくに、鳴は更に質問を重ねる。
「そんなに嫌だった? 今年の<死者>……<もう一人>のことを、忘れてしまうのが」
「……」
「榊原くんは、その人と仲が良かったとか? ――それとも、その人のことが好きだった?」
鳴が口にした"好き"という言葉に、ぼくの胸がちくりと痛んだのは事実だ。
けれども、ぼくがあんな風に言った理由はもっと別のところにあった。
あの時は自分でもどうしてそんなことを言ったのか分かっていなかったけれど、今なら分かる。
もし怜子さんのこと、今年の<死者>にまつわる全てを忘れてしまうのなら、その時はきっと。
きっと、鳴と一緒にそうなるのだと、ぼくはそう思い込んでいたのだ。
だけど現実はそうじゃなく、ぼくは置いていかれた。
だからそれが嫌だった。
ただそれだけの……まるで子供が駄々をこねるような、そんなくだらない感情。
今思えば大した思い上がりだ。
大体、ぼくと鳴が怜子さんの死に深く関わったといっても、
その本当に最期、その締めくくりは、鳴ではなくぼくがやったこと。
そういう意味では、ぼくと鳴にしてもその関わり方は違う。
ならば、そこに差が生まれるのも当然というものだろう。
実際にそうなってしまうまで、ぼくはそんなことにも気づいていなかったのだ。
……こんなこと、正直に言えるわけがないし、何よりぼくが恥ずかしい。
だからぼくは、
「うん、そうだね。……そうだったのかもしれない」
と、はぐらかすことしかできなかった。
「……ふうん」
そうは言いつつ、どこかすっきりしないといった様子の鳴。
その左手がすっと上がったかと思うと、眼帯に触れるかどうかといったところでまた下りた。
眼帯を外そうとしたのだろうか?
<死の色>が見えるという、鳴の<人形の目>。
その目には人がついた嘘も見える、なんて話は聞いたことがないけれど……。
今もし鳴が眼帯を外して、<人形の目>でぼくを見つめていたら。
ぼくの下手な嘘なんてきっと、いとも簡単に見抜かれていたことだろう。
そんな気がした。
「ま、別にいいけどね。わたしだって、なんとしてでも知りたい、なんて思わないし。……あなたと同じで」
――あるいはもう、彼女はとっくにお見通しなのかもしれない。
言いたくない、知られたくないことは、ぼくにだってある。
それに触れてしまわぬように、鳴はそっと手を引いてくれた。
「……ありがとう、見崎」
と呟いたぼくに、
「でも……そうね」
と微笑みながら、鳴はいつの間にか空になっていたティーカップを持ち上げる。
「せっかくだしもう一杯、ごちそうになっちゃおうかな。――今度は、ミルクティーで」
ああ、喜んで手を打つとしよう。
それに今日に限れば、最初からぼくの返事は決まっている。
「――かしこまりました」
ぼくは右手を挙げ、知香さんを呼んだ。
◇
「考えてたことっていうのはね」
白い湯気が立ちのぼるカップを口元に近づけたまま、鳴が言う。
「わたしは確かに、<死者>についてのことは忘れてしまった。でも、それ以外のことはちゃんと覚えてるの」
「うん」
「例えば、どうすれば<災厄>が止まるのか、とか」
「……うん」
――<死者>を、"死"に。
「今も覚えているってことは、年が明けても……ううん、わたしたちが卒業して、新しい年度が始まってからもまだ、覚えていられるかもしれない」
「……」
鳴の読みは、おそらく当たっている。
<災厄>を止める方法は、<死者>の正体に直接関わっているわけではない。
だとすればこれもきっと、<災厄>による記憶の改変・調整の範囲外となっているはず……。
だからこそ、かつて<災厄>を止めた松永さんの残したテープが、十五年もの時を経てぼくらの元へと流れ着いたのだ。
確かにぼくらが松永さんと会った時、彼自身は合宿で起きた一切を忘れてしまっていた。
けれどもし<災厄>が、それを止める方法まで隠蔽してしまうのだとすれば、
それほどまでの間、テープが無事だったはずがない。
ならばそこには、大なり小なり、見逃されうる余地があるのではないか。
そう考えるのは自然な流れだろう。
「だからね、来年……もしもわたしがまだ、止める方法を覚えていて……そして次の三年三組が、<ある年>だったら」
「<ある年>だったら……どうするの?」
答えなんて訊くまでもない。けれど、訊かずにはいられなかった。
鳴が静かに頷き、カップを置く。
その白い指が、眼帯の縁をそっと撫でる。
「――止める、と思う。<災厄>を。この<人形の目>で、<死者>を見抜いて」
「……」
……それが鳴の「答え」だった。
予想していなかったと言えば、もちろん嘘になる。
むしろ……とうとうこの日が来たか、という感覚が――ややもすれば鳴が<死者>の記憶を失ったと知った時以上に――強くあった。
「わたしの記憶だと、<人形の目>のことはまだ、榊原くんにしか話していないはずだけど……。これって、榊原くんの記憶でもそう?」
「うん。千曳さんには、そのことはまだ。……未咲さんのことも、学校で知ってるのはぼくだけだよ」
――言うべきかどうか、もう少し考えさせてほしいの。
かつてぼくが、千曳さんに今年の<死者>について話しに行くと、鳴に告げた時。
彼女は自分の<目>や藤岡未咲のことについて、そう言って保留したのだ。
だから今も記録上、今年の<災厄>は「何らかのイレギュラー」によって、五月から始まったことになっている。
そうしなければ、何の<対策>も講じていない四月に犠牲者が出ていないのはなぜなのか……と、疑いを持たれてしまうおそれがあったから。
当然、ぼくは鳴に何も言わなかった。
未咲が<災厄>なんてわけの分からないもののせいで死んでしまったなんて、信じたくない――。
そう吐露した鳴の心情や、妹を喪った彼女の悲しみは、ぼくにも痛いほど分かっていた。
<人形の目>にしてもそう。
例え千曳さんに伝えたところで、彼はそれで鳴に何かを強いるような人ではない。
だが<災厄>に対抗する手段として、<人形の目>の存在は、従来の<対策>とは比べものにならないくらい強力なのだ。
だからこそ、その存在を知らせることには慎重になる必要があった。
正直なところぼくは、もし鳴が沈黙を望むならば、誰も何も知らないまま終わってしまってもいいと、そんな風に考えていた。
あるいは鳴のことを思えば、その方が好ましいのではないか、とも。
しかしそう思う一方でやはり……いつかこうなる予感はしていたのだ。
それも、想いを馳せる必要もないくらい身近な未来で。
「来週、学校が始まったら……わたし、千曳さんに言うつもり」
「何を?」
「全部。卒業しちゃったら、学校に入るのも簡単じゃなくなるもの。千曳さんの助けが必要になると思うし、その前に説明しておかなきゃ」
「……本気、なんだね」
「うん。……だって、こうするしかないでしょ?」
確かにそうだろう。
<災厄>を止めるには、鳴の力が、彼女の<目>が、絶対に必要だ。
それは鳴にしかできないこと。
だから、彼女がやるしかない。
そうしなければ……不確かな<対策>に縋るしかない三年三組ではまた、人が死ぬ。
これからもずっと。
ぼくですら分かることだ。
だから、鳴の選択はどこまでも正しい。
――正しいからこそ、納得できるはずがなかった。
「……どうしてなのかな」
知らず知らずの内に、ぼくはそう声に出していた。
表情が翳るのも、止められそうにない。
「どうしてきみだけが、こんな……」
独り言のように呟くぼくに、鳴はほんの少しだけ右目を細める。
「……優しいのね、榊原くんは」
……ああもう。何をやっているんだ、ぼくは。
鳴にこんなことまで言わせて。
何も言えないでいるぼくに、鳴は続けて言う。
「でも……あなただったら、どうしてた?」
「えっ?」
「もしも三組に増えた<もう一人>が、あなたにだけ分かるとして……榊原くんなら、どうしてたと思う? ――たぶん、わたしと同じようにしてたんじゃない?」
「……それは……」
あまりにもずるい質問だ。こんなの、答えられるわけがない。
唇を噛んで、ただ俯く。
そうやって沈黙で回答することが、精一杯の抵抗だった。
「それでね、わたしはもし榊原くんがそんな風になってたら、きっとこう思ってた。――どうして榊原くんだけがこんなことをしなくちゃいけないんだろう……って」
そう言って、鳴は微笑む。まるでぼくを安心させるように。
「<死の色>が見えるなんて、べつに望んだわけじゃない。でもね、わたしはこれで良かったと思ってるよ。<災厄>で死んでしまう人や、それで悲しむ人――わたしや榊原くんみたいな人がいなくなるのなら、それで」
「……」
<災厄>で犠牲になる人を無くす。
<人形の目>をもってすれば、それもあながち夢物語ではない。
少なくともこの先、鳴は多くの人を救うことになるだろう。それだけは確実だ。
……だがそれでも、彼女が本当に守りたかったはずの人はもう、守れないのだ。
それすらも分かっていて、鳴は――。
もどかしさが募る。
何かをしなければ。
何かを言わなければ。
この時ぼくが抱いていた感情は説明が難しい。
ただ、何かに追い立てられるような焦燥感だけははっきりと感じていた。
「……さっき、千曳さんに全部話すって言ったよね」
「うん。……そうだけど?」
「それって、未咲さんのことも?」
一瞬、鳴の動きが止まる。
けれどそれは本当に一瞬のことで、彼女はすぐに頷いた。
「……ええ。本当のことを言うべきだって、そう思うから」
「ぼくはさ、無理に言うことはないと思うんだ。別に今のまま、五月から始まっていたことにしても影響は――」
「だめ。……今年の<災厄>はもう、四月に始まっていたの。誤魔化したって何にもならないよ」
「それに」と鳴は続ける。
「このまま五月から<災厄>が始まったことにしていたら、五月に<対策>が失敗して、それで始まったことにされちゃうよ。……転校してきた榊原くんが、わたしに話しかけたせいで<災厄>が始まったんだ、って。そんなの――」
ぷいと窓の方に視線を向け、しかしはっきりと鳴は言った。
「――そんなの、わたしは嫌」
「見崎……」
ぼくはそんなこと、まるで気にしてなんかいないというのに。
だがそれを口にしたところで、鳴が心変わりするはずもないと分かっていた。
鳴はもう、答えを出しているのだ。
動けないままのぼくとは違う。
「本当はね、やっぱり信じたくない。でも、見ないふりしてやり過ごせるものでもないもの。例えわたしが未咲のことを誰にも言わないでおいたって、<災厄>が見逃してくれるとも思えないし」
「それって……?」
<災厄>が見逃す?
いったい何から――という反射的に浮かんだ疑問に、答えはすぐ与えられた。
「未咲だって<死者>になるかもしれない、ってこと」
「!」
<死者>となりうるのは、これまでの<災厄>で犠牲になった人間。
ならば三年三組の生徒ではなくとも、藤岡未咲がそうなってしまう可能性だって、もちろんある。
「考えたくはないけど……覚悟はしておかなきゃって思うの」
「でも、<災厄>で亡くなった人はこれまでたくさんいるんだし……」
「だから大丈夫って、本当にそう思う? 単純に、何十分の一の確率でしかない……って」
「それは……」
「じゃあ、逆に訊くね。榊原くん――あなたのお母さんが<もう一人>として三組に紛れ込む可能性、あると思う?」
「……ぼくの?」
ぼくの目を見つめたまま、無言で鳴は頷いた。
ぼくを産んですぐに帰らぬ人となってしまった母親――榊原理津子。
その死もまた、<災厄>によるものだった。怜子さんが三組の生徒だった<ある年>の。
素直に考えれば当然、母も<死者>の候補ということになる。
しかし――。
「……いや。それはない……気がする」
「どうして?」
「どうして、って……」
「べつにわたし、否定してるわけじゃないよ。というか、わたしもそう思う。――でも、それはどうして?」
「だってそれは、なんていうか……」感覚的にしか考えていなかったから、表現するのが難しい。「大変じゃない? その、<災厄>がさ」
亡くなった時、母は二十六歳だった。もし生きていれば、現在は四十一歳だったことになる。
仮に<死者>として三組の構成員になるとすれば、教師としてだろう。怜子さんのように。
だが、母はまだ学生のうちに父と出会い、そして結婚した。
教師として働いていた経験などあるはずもない。
もし<災厄>が母を教師の<死者>として復活させようというのなら、<災厄>は存在するはずのない「教師としての榊原理津子」の記憶を、丸々でっちあげる必要に迫られる。
それも数十年分を、である。
そのために必要な改竄は、もともと美術教師だった怜子さんの比ではない。
そして、母を三組の「教師」ではなく「生徒」として復活させる――なんて考えはそもそも論外だ。
そんなことをすれば、息子であるぼくよりも年下になってしまう。
だからやはり――ぼくの母が<死者>となる可能性はゼロに等しい。
そういうことになるのだろう。
ぼくが結論に達したタイミングを見計らったように、ここで鳴が大きく頷いた。
「そう、障害が多いの。大人の人だけじゃない。生徒として亡くなった人だって、何年も前の人なら環境が変わってしまっていることだってあるでしょ? 家の場所が変わったり、他のきょうだいに年齢を追い越されたり……」
「じゃあ、<死者>になる可能性が高いのは……」
「一番は、直近の<災厄>で犠牲になった人、ってことになると思う。だから次の<ある年>で<死者>になるのはきっと……今回の<災厄>で死んでしまった人」
つまりは、ぼくらのクラスメイト……か。
いったい誰が……なんて考えても意味はないと分かっているけれど、どうにもやるせない気持ちになってしまう。
「だからそうやって考えていくと、未咲が<死者>になる可能性は決して低くないって、そう思う」
「……」
「あ、でもね」と、ここで鳴はわざとらしく明るい声を作るようにして。「じゃあ可能性が高いのかって言われると……そうでもないのかな、って感じもするの」
「それは、今年の<災厄>で亡くなった他の人と比べると、ってこと?」
「うん。未咲はそもそも夜見北の生徒ではなかったし、後はやっぱり……美津代叔母さんたちも、ここからいなくなるわけだから」
「ああ、さっき言ってたよね。美津代さんが来月に引っ越すって」
「そう。未咲を<死者>にするとしても、来年以降は帰る家が無くなってしまうことになるでしょ? 引っ越した先から通ってる、なんて改竄をするのもやっぱり大げさになるし」
「そっか……確かに」
「だから叔母さんたちが引っ越してくれて、かえって都合が良かったのかもね」
言い切るような口調。
隣で聞いている身としては、なんだか心配になってしまう。
「……見崎は、寂しくないの?」
「どうだろ。別にこれまでだってほとんど会ってなかったんだし、それでどうこうってのはないと思うけど。二度と会えなくなるわけでもないし」
窓の外、景色の更に向こう側を見通すような目つきで、鳴は言う。
まるでその視線の先に、美津代さんの向かう先があるかのように。
「それに……もし本当に『つながってる』のだとしたら、そのくらいでどうにかなるものじゃない、でしょ? ……困ったことにね」
口では困ったと言いながら、どこかそれを愛おしく思うような響きが伴っている気がしたのは、ぼくの勘違いではないだろう。
こちらに向き直った鳴の顔は、微かな笑みをたたえているようだった。
「じゃあ結局、どうなるか分からないってのが結論になるのかな」
とはいえ鳴の話を聞く限り、決して高い確率ではないのでは……。
そんな風に考えつつ、ぼくはこうまとめた――のだが。
「……」
鳴は何かを考えこむようにして、テーブルの一点を見つめたまま微動だにしない。
その直前まで浮かべていたはずの微笑みも、とうに消え失せていた。
「見崎?」
ぼくが呼びかけると、彼女はすぐに顔を上げる。
「……ごめんなさい、ちょっとぼんやりしちゃった。でも、話はちゃんと聞いてたよ。――そうね。わたしの杞憂でしかないのかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
弁解のようにそう言い、カップを口に運びかけ――途中で中身が空だと気づいて、また戻す。
いったい、どうしたんだ?
鳴の様子が明らかにおかしい。
重大なことに思い当たり、愕然としているという感じだ。
まるで……そう。
<死者>についての記憶を失ったと気づいた、あの時のよう。
何か、大変なことに気がついたのだろうか? だとしても、何に?
今までぼくらが話していたことと言えば――藤岡未咲が<死者>となってしまうかもしれない、ということだけど……。
だとしても、それはやはり鳴の言う通りでしかないだろう。
そうなるかもしれないし、そうはならないかもしれない。
ぼくから見ればむしろ、例え来年が<ある年>だったとしても、よほどのことがない限り彼女が<死者>となることはないのではないか、と感じるのも事実だ。
そしてそれさえ乗り切れば、その次の<ある年>にはもう別の<死者>が――。
待てよ。
来年が<ある年>だとして、鳴はそれを止めるつもりなのだ。
おそらくは始業式の段階で、一人の犠牲者も出すことなく。
そしてそれを、彼女はずっと続けていこうとしている。
ならば当然、<災厄>による犠牲者がこれから増えることはない。
裏を返せばつまり……<死者>の候補となる人間も増えない、そういうことになる。
加えてぼくらはついさっき、こんな仮説を立てたはずだ。
<死者>になる可能性が一番高いのは、直近の<災厄>で犠牲になった人ではないか……と。
だとすれば。
<災厄>で人が死ぬのを、1998年で最後にしてしまうのならば。
これからの<ある年>に<死者>として復活するのはずっと、1998年の<災厄>で亡くなった人間となる可能性が極めて高い。
そういうことになりはしないか。
――鳴も、同じ考えに行き着いてしまったんだろうか?
これから先の<災厄>を防ぐということはすなわち、死んでしまったぼくらのクラスメイトを縛り付けてしまうことになるかもしれないと。
それだけじゃない。
1998年の犠牲者が<死者>になり続けるとするなら、「あのこと」がいよいよ現実味を帯びることになる。
鳴が恐れる事態――藤岡未咲に<死者>の順番が巡ってくることが。
夜見北の生徒ではないから。夜見山に家がなくなってしまうから。
だから大丈夫だろう。
そんな考えは、きっと気休めのお守りにもならない。
ぼくらは初めからこう考えるべきだったのだ。
その上で藤岡未咲を<死者>とするなら、<災厄>は一体どうするだろう――と。
意気込んで考えたい内容では、決してない。
それなのに、思考はぼくの意思とは無関係に突き進んでいく。
もともと夜見北の生徒ではなかったとしても、三年三組に加わることは簡単だ。
三年生になって「転校」してきたことにすればいい。
他ならぬぼく自身がそうだったではないか。
そして、家の問題。
美津代さんたちは夜見山を去り、藤岡未咲が<死者>となるころには、彼女が過ごした場所はもうない。
それこそが彼女の復活を妨げる防壁になるのだと、鳴は言う。
……それも砂上の楼閣でしかないのだと、ぼくは思う。
引っ越した先から通うなんて、そんなまどろっこしいことをする必要なんてない。
なぜなら……あるのだから。
<死者>という「死」そのものが宿るにふさわしい場所が、ここ夜見山には。
もちろん、三年三組のことではない。
ぼくが想像している場所、それは――<夜見のたそがれの、うつろなる蒼き瞳の。>。
またの名を"夜見山の人形館"。
異形の建築家が生み出した、「死に近い場所」。
藤岡未咲が<死者>として甦るのなら……彼女の"家"はきっと、そこになるのだ。
東京での手術を終えて退院した後、生まれ育った夜見山での生活を望んだ彼女は、
"姉"である鳴が暮らすこの家に身を寄せ、転校生として三年三組の一員となる――。
そんなかりそめのストーリーが容易に浮かぶ。
いつか必ずそれが起こるという、圧倒的なリアリティを伴って。
――いつの日か鳴は、その<人形の目>で<死者>の"妹"に<死の色>を見るのだろう。
そして悟るのだ。
救われたはずの彼女の命が、既に奪われているということを。
……その時、鳴は一体どうするのだろう?
――覚悟はしておかなきゃって思うの。
彼女は確かにそう言った。
それは藤岡未咲が<死者>となることへの「覚悟」なのだろうか?
それとも、それから先のことも含めての?
だとしても……鳴にできるのだろうか。
<災厄>を止めるため、<死者>とはいえ妹を"死"に還すことが、本当に。
ぼくがそれを考えても仕方がない。
そんなことは分かっていた。
けれどやっぱり、ぼくの頭は考えることをやめようとはしてくれなくて。
そして……ああ、どうしてだろう。
――人が死ぬのさ。青司の館では。
どうしてぼくは、こんな時に島田さんの言葉を思い出してしまうんだ?
……これも同じだ。そういうものだと受け入れるしかない。
中村青司の館では人が死ぬ。"夜見山の人形館"でも、きっと。
その予言の成就が、避けられないものだとすれば。
――あの"館"では一体、誰が死ぬ?
<死者>として甦った藤岡未咲が、再びあそこで"死"へと還るということなのか。
あまりにも酷な運命だが、それでもまだ「良い方」ということになってしまうのだろう。
むしろ――と、ぼくは思う。
ぼくらは、"そういうこと"にしなければならないのだ。何としてでも。
さもなければ、あの館で命を落とすことになるのは――。
「…………」
頭の中から無理矢理引きはがすようにして、ぼくはようやくそれ以上の想像をやめた。
しかしそれでも、そんな未来が存在する事実は変わらない。
ぼくは、どうするべきなんだろう?
いや、そもそも……ぼくに何ができるのだろう?
彼女――鳴のために。
分からない。
そもそも考えたところで分かるようなものでもない。
これもきっと、ぼくには解けない問題なのだ。
だけど……。
「……見崎」
ぼくの声に、鳴が顔を上げる。
不安げな……なんて言い切るのはためらわれるけど、しかしやはり憂いを帯びた表情。
「……どうしたの?」
――あれこれ考えるのはもう、やめだ。
「ぼくも手伝うよ。きみがやろうとしていること」
「手伝う?」
何ができるかは分からない。
それでも……彼女のそばにいよう。
「<人形の目>で<死者>が分かったって、"死"に還さなきゃ<災厄>は終わらないんだよ? ……きみ一人じゃ、不安だ」
「……わたし、その時は千曳さんに助けてもらうつもりだったけど」
「千曳さんだって、万一のことがあるかもしれないじゃないか。手は多いほうがいい」
実際にはたぶん、ぼくなんかより千曳さんの方が数倍頼りになるだろう。
だが、これはそういう問題ではない。
「でも……榊原くん、来年から東京に行くんでしょう?」
「うん。だから夜見山には、始業式の日にまた帰ってくるよ。来年も再来年も、ずっと……。きみと一緒に<災厄>を止めて、それからまた東京に戻ればいい」
「……そんなこと、できるの?」
「できるさ。というより、やる。授業があっても休めばいいし、家族――父さんだって説得するよ」
結局は、ぼくがそうしたいからやるのだ。
鳴の言葉を信じようと思ったあの時と、何も変わりはしない。
そして、その時が――"彼女"の番が回ってきた時に、少しでも力になることができたら。
「ずいぶんと自信満々なんだ。……わたしだったら、東京にいる時点で諦めちゃうけど」
いまだ話半分、といったところなのだろう。
テーブルに組んだ腕を置き、下から覗き込むようにして鳴はぼくを見る。
「そりゃあ、実際にその時になってみなきゃ分からないことだってあるけど……でも」
「?」
「やってみる前に諦めちゃうのは、かっこ悪いと思うんだ」
――大事なことよ、かっこいいか、かっこ悪いかって。
そんな優しい声が、ぼくの脳裏に甦る。
……ああ。
ぼくはまだ、憶えている。
彼女の言葉を。
彼女との生活を。
「だから……ね? ――ぼくのこと、信じてほしい」
それを忘れてしまうまでは、と思っていたけれど。
ちょっとだけ早く、歩き出してみよう。
――それでもいいですよね? 怜子さん。
「……」
テーブルから身を起こし、鳴は前髪を軽く払う。
無言のまま、返答はない。
「だ、だめ……かな?」
たまらずそう声に出すと、不意に彼女はこう言った。
「帰ってくるのは、始業式の時だけ?」
「えっ?」
「だから、始業式の時にしか帰ってこないつもりなの? 榊原くんは。<災厄>を止めたら、それで終わり?」
「えっと……いや、お盆の時とか冬休みとか、他にも帰ってくる機会はあると思うけど。おばあちゃんたちも寂しがるだろうし」
「……ふうん」
「あ、もちろん帰る時は見崎にも連絡するよ」
――って、ぼくはどさくさに紛れて何を言ってるんだか。
取り繕う言葉を並べようとした矢先……鳴が頷いた。
「うん。……そうして」
「えっ?」
今、何て?
「わたしも東京に行くことがあったら、前もって連絡するね。――入れ違いになったら困るし」
「……東京?」
「約束でしょ? 美術館巡りするって。そう遠くない内にはしたいと思ってるけど」
確かに以前、そんなことを言ったけれど。
「あのさ、見崎。その……さっきぼくが言ったことは……?」
「ああ」と言って、こともなげに鳴は頷く。
「まだ言ってなかったっけ。……うん、分かった。榊原くんのこと、頼りにする」
そしていつものように、彼女は淡く笑むのだった。
「だから――これからもよろしくね、榊原くん」
……願ってもない言葉だ。
当然、ぼくの返事は決まっている。
「……ああ、もちろんだよ。任せて」
何度も縦に首を振るぼくを見つつ、鳴は「それにしても……」と呟いた。
「さっきの言葉は、誰の受け売り?」
「え。……さっきの言葉、って」
「『やってみる前に諦めるのはかっこ悪い』、ってやつ」
「ああ。……どうして分かったの? 受け売りだって」
「だって、榊原くんらしからぬ台詞だもん。すぐに分かったよ」
そう言って鳴はくすくすと笑う。
じゃあ「ぼくらしい台詞」とはいったい何なんだ、と思ったけれど、ぼくの身の丈に合っていない言葉なのは否定しようがない。
「……でも、いい言葉ね。教科書にでも載ってた?」
興味ありげな様子で、鳴は質問を重ねる。
「いや……。これは、違うんだ」
「そうなの?」と、首を傾げる鳴。
――ここで"彼女"の名前を出しても、鳴はきっと、不思議そうな顔をするだけなのだろう。
それでもいい。
どうか憶えておいてくれ。
「この言葉は――」
……ぼくがそう口にした、その瞬間。
それまで穏やかにカーテンを揺らしているだけだった窓に、一際大きな風が吹き込んだ。
風はカーテンを大きくはためかせ、ぼくの視界を覆う。
一面が白く染まり、何も見えなくなる。
これはカーテンの……いや、違う。
それとは明らかに異質の、塗りつぶすような白。
――闇だ。
真っ白な闇が、すべてを――。
――どくん。
◆
「――ああ、ごめんなさい。急に吹いてきちゃったみたいね」
知香さんがぼくらのテーブルに駆け寄り、窓を閉めていった。
なんだか寒気がする。たぶん、さっきの風に体温を奪われてしまったのだろう。
予報にはまるでそぐわない、ひどく冷たい風だったから。
身ぶるいをひとつしたぼくに、鳴が言う。
「それで?」
「……うん?」
不意の問いかけに、ぼくは首を傾げる。
「だから、誰の言葉なの?」
「ああ」そういえばさっきまで、そんな話をしていたんだっけ。「えっと――」
言いかけた言葉は、そこで途切れてしまう。
「…………」
――あれ?
「どうかした?」
「いや……」
――あれは、誰が言ったことだったろう?
いつかどこかで、誰かに、確かに言われたことがあるのだけど。
そしてついさっきまで、ぼくはその"誰か"を具体的にイメージできていた……気がするのだが。
しかし今となってはもう、それを思い出せそうな気はまるでしなくて。
「……ごめん、なんかど忘れしちゃったみたい」
ぼくがそう言うと鳴は、
「そう。じゃあ仕方ないか」
とだけ言い、それで興味を失ったようだった。
もともと会話の流れで訊いてみただけの、言ってしまえば些細な質問だったのだろう。
でもまあ……仮に鳴が食い下がってきたとしても、どっちみちぼくは思い出せないと思うけれど。
それほど見事に忘れてしまっていた。
そしてぼくの経験上、こういう時はさっさと諦めてしまうに限る。
あまり気にしすぎない方が案外、後々になって思い出せるかもしれないというものだ。
そう考えてぼくはひとつため息をつき、それを頭から追い出そうとしたのだが……。
ぼくの思いとは裏腹に、こめかみの辺りが徐々に、鈍く痛み出すのだった。
まるで頭の中では未練を断ち切っていても、それを諦めきれない無意識の部分が必死に記憶を探っているかのように。
「大丈夫?」
鳴の言葉で我に返った。
じわじわと増していく痛みに、いつの間にか手で頭を押さえていたらしい。
「……うん、大丈夫。ちょっと頭痛がね」
気を遣わせまいとぼくは鳴に微笑んでみせたのだが、彼女はそれでも心配げな眼差しでこちらを見ている。
――そしてなぜか、申し訳なさそうにこう言う。
「……ひょっとしてまだ、傷が痛むの?」
「えっ?」
傷?
それでようやくぼくは気がついた。
ぼくがいま額に当てている右手、そのちょうど指先のあたりに残る――ひとつの傷痕。
これは――。
「それ、わたしのせいで榊原くんが怪我した時にできた傷……だよね。やっぱり、まだ痛い?」
――ああ、そうだった。
これは<死者>の疑いをかけられた鳴が辻井に襲われ、それをぼくが庇った時にできた傷痕。
そしてある意味ではぼくにとって、誇らしくもある傷痕。
だが、その時の傷はとうに癒えているのだ。
こんなものが今さら痛むはずもない。
……いい加減にしよう、これ以上は鳴を心配させるだけだ。
「違う違う。本当にもう大丈夫だから、気にしないで」
ぼくはそう言って大げさに両腕を広げ、オーバーなくらいにおどけてみせる。
それでようやく、鳴が笑った。彼女が笑ったから、ぼくも笑う。
鈍い痛みはもう、とっくに消えていた。
――了
以上で終了です。
読んでくださった方、ありがとうございました。
今年こそは、「Another2001」が出るといいですね。
このSSまとめへのコメント
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