「切腹って痛いのかなぁ」
町田さわ子が真剣な表情で尋ねてきた。いきなり何を言っているんだこいつは、と疑問がよぎるが、彼女が持っている文庫本のタイトルが眼に入って納得する。「幸福号出帆」。三島由紀夫著。
切腹が痛いかどうかよりも、まず町田さわ子が三島由紀夫の最期についての知識があることが驚きだった。
いや、と私は思い直す。私たちももう二十歳を超えた大学生だ。流石にそれくらい知っていてもおかしくはない。
「痛いだろ。結局切腹だけじゃ簡単に[ピーーー]ないからこそ、侍なんかは介錯役が必要だったわけだし」
「そっかぁ。そうだよねぇ」
それだけの感想をぼんやりと述べて、また読書に戻った。
昔と比べて随分と本を読む姿が堂に入るようなったものだ。そんな、まるで師匠じみたことを考えてしまう。
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私は依然として本の虫で、今こうして過ごしている部屋にも、壁を覆い尽くすサイズの書棚が聳え立っている。町田さわ子は時たま私の部屋へとやってきて、本を手により、読み切って帰ったり、借りて帰ったり、あるいは「この本難しくてだめだぁ」と諦めて帰ったりする。
読書が、ひいては活字を追うことに不慣れでは、大学生活もうまくはいかないだろう。こいつが文学部への合格を決めたとき、果たして本当に学べるのか心配ではあったものの、それも杞憂に終わったようだ。
「なにか飲むか?」
「ビール」
「バカ。お前水曜は午後一で授業あるんだろ」
「神林はよく覚えてるなぁ」
現在時刻は十時を回ったところ。私もこいつも朝食はまだ。何か腹に入れなければそろそろ腹の虫が騒ぎ出しそうだ。
町田さわ子の通う大学の3コマ目、午後最初の授業は、確か13時20分からだったはず。時間的に余裕はある。かといって手の込んだものを作るほど、材料もなければ技量もない。
とりあえずコップに牛乳を注いでやった。
「えぇー、あったかいのがいいー」
「わがまま言うな」
子供のような駄々をこねる町田さわ子。
「だって寒いんだもん」
「そりゃお前が」
私はそちらに視線をやろうとして、やめた。自らの行動を途中で止めるのは、かなりの強い意志の力と、首の筋力が必要だった。
そのまま素直に向いていれば、きっとそこにはいまだ毛布に裸体を包んだ町田さわ子がいるだろうから。
赤面をからかわれるのは、なんとなく癪だった。
「……服を着れば済む話だろ」
「神林はわかってないなぁ」
町田さわ子はけらけら笑う。かんらかんらと愉快に笑う。
物事の道理をわかっていないのだと彼女は言いたいのではない。人の気持ちをわかっていないのだと言いたいのだ。
直截的な物言いや感情の表現は苦手だった。私自身が苦手であり、そういったものに曝されることはより一層。そして彼女は不器用だから回りくどい手段を決してとらない。
だのに、私が彼女を苦手と断定できないのは、人付き合いの妙なのだろう。
「昨日の神林はあったかかったのになぁ」
私を羞恥に染め上げたいのか、はたまた単なる天然か、町田さわ子はそんなことを言う。私は否定しようと思わず彼女のをほうを向いてしまった。
目が合う。
毛布を軽く肩にかけた彼女は、昨日私たちが狭い狭いと言いあってじゃれあったシングルベッド、そこに座っている。素っ気ない薄水色の下着。キャミソールの肩紐がずり落ちて、ブラが半分くらい見えていた。
寒いはずだ。ベッドの脇にジーンズとシャツが乱雑に脱ぎ捨てられているのだから、それをすぐに着ればいいだけだというのに。
私と町田さわ子がこういう関係になってから、おおよそ二か月が過ぎていた。
最初は殆ど酩酊の勢いだったと記憶している。夜に私の部屋で酒盛りをしながら本の話をしたり、原作物の映画を見たり、そうしているうちにあいつが私にしなだれかかってきて……。
徐々に近づいてくる顔の、好奇心旺盛な瞳に見つめられると、私はどうにも身動きが取れなくなる。取れなくなってしまった。だから、耳から頬、頬から口の端と、確かめるように、確認するように近づいてくるその行為を、私はなんの抵抗もなく受け入れてしまったのだ。
自分が同性愛者だという自覚はなかった。反面、今まで恋い焦がれる異性が現れたという経験もなかった。
「極道に惚れたのではない。惚れた男が極道だっただけ」という台詞は、家田壮子の原作には出てこず、少し拍子抜けした記憶がある。つまりはそういうことなのかもしれなかったし……、
町田さわ子をこっそりと盗み見る。興味は本へと戻ってしまったらしい。
……「幸福線出帆」の一文にあるように、「これが私たちのオペラ」であるのかもしれなかった。「善も悪もない、自由でひろい世界」。
「ねぇ、神林ってまだ小説書いてたりするの?」
「えっ? ……うん、まぁ、どうかな」
マグカップに入れた牛乳を電子レンジに入れながら答える。ついでに、自分のぶんも。
「やっぱりさ、文章って人間性出るよね。神林はどんな感じなの?」
見せてくれと言われるかと思ったが、どうやら少し趣が違うようだ。
濁してみせたが、実際に小説を書いていると断言できるほどではない。そもそもが無目的で、真似事だ。模倣は芸の始まりとはよく言ったものだけれど、私のそれはあくまで頭の中に浮かんだ設定を文章化して、悦に浸るだけの行為に過ぎない。
それを小説と呼ぶのは、私の中の矜持が少し邪魔をした。私が読者だったならそれを小説とは認めないだろうし、尊敬する小説家たちにも失礼な気がしたからだ。
「どんな感じって……自分じゃわかんないぞ」
自分の文章を思い返す。ポップな文体ではない。例えばライトノベルのように、テンポの良い会話重視で進んだりはしない。かといって新本格ミステリに列せられるような言葉遊びを楽しんだりするわけでもない。
やはりSFの影響が強いのだ。それも筒井康隆や星新一のような感じではなく、もっとごりごりのハードSFの。
「お前は書いたりはしないのか?」
電子レンジが音を鳴らす。扉を開き、手に持てる程度に暖まったマグカップを町田さわ子に渡した。
彼女は牛乳の上に張った薄い膜を、指で掬い、まずそれだけを口に入れた。
変な飲み方をするやつだな、と思った。
「えー!? 私になんて無理だよ、レポートだって大変なのに!」
もしこいつが小説を書いたとしたらどうなるだろうか。きっとあちらこちらに話題が飛んで、最後はみんなが笑いあう大団円に、強引に持っていくに違いない。
笑いがこみあげてくる。四百字詰め原稿用紙を前に頭を抱えている彼女と、にっちもさっちもいかなくなった挙句「神様が出てきて全員幸せになりました! おしまい!」と書き殴る姿がイメージできてしまったから。
「確かに文章ってのは人間性が出るな。お前が今読んでいる三島もそうだ。繊細で美しい文章だとは思わないか? 洒落ているというか、上品というか、『美』に対して執着している気配を感じるだろ? 美への執着と言えば『金閣寺』だよな。読んだことあるか? ない? 読め! 本棚の上から三段目の左の方の奥列に新潮社文庫版があるから読め!
でな? その中に『海の気配がした』って表現があるんだけど、あくまで形のない、広くて包容力のある海って存在と、山の向こうにあっても気配を漂わせる力強さが同居した一文にすっかりやられてしまったんだよ! はぁー! 本当に好き!
あ! 文章表現なら私は江國香織とかも好きだな。『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』は実に良かった。説明不足ともとられるくらいに簡潔ですっきりとした文章は、作者が詩人でもあるからかもしれないけど、読後感がとにかく爽やかなんだ。『私たちみんなの人生に、立てておいてほしい看板ではないか』。もう聞いただけで記憶に残るだろ?
そうそう三島はともすれば神経質ともとられかねないナイーヴな内面から脱却するために、かなり体を鍛えていたんだ。いわゆる昔の文豪のイメージが部屋に籠って小説ばかり書いている虚弱体質ばかりなのに比べて、そのあたりもまた凄い面倒くさいやつだなぁって感じがして、私はそこも気にいってるんだ!
別に私はジャンルに甲乙をつけるつもりはなくて、SFも超能力ファンタジーもミステリも恋愛も全部いいところがあると思ってるけど、純文学はエンタメってよりも芸術の色合いが強いから、作者の人間性を楽しみたいならそっちのジャンルがお勧めだぞ。お前は全然手をつけないけど、今読んでる『幸福号出帆』だってなかなか軽妙だろ? 内容を楽しむ小説と、文章や構造を楽しむ小説は、同じ括りにしちゃだめなんだと私は常々思ってる。
構造って言えばスーザン・ソンタグの『反解釈』なんかは芸術全般をどう理解すればいいのか、ってことにかなりためになることを書いてるな。素晴らしい芸術とは内容が素晴らしいのではなく、芸術を形作る構造が素晴らしいのだっていう形式主義的な観点からの著作なんだけど、選書版はちょっと邦訳が堅苦しくて、読み返すには向いてないのが残念だなぁ……」
口の中の乾燥を覚えてホットミルクで湿らせる。と、そこでようやく私は口に手を当てた。町田さわ子が笑っている。また悪癖が出てしまった。
「あ……ご、ごめん」
このせいで、私は大学でサークルに入ることを自粛している。一応大学には文芸部や映画研究会などもあるのだけれど、この悪癖をところ構わず披露しても平気と思えるほどには、まだこころは強くなかった
「いいよいいよ。私、神林のそう言うところが好きだなぁ」
ふへへ、と笑った。許してくれたというよりは、包容力のある態度で包み込んでくれたというか。
「……」
私はもう一度ホットミルクに口をつけた。
こいつは面倒くさがりだ。今でこそ頻度は減ったものの、本を読まずにあらすじで済ませたり、それどころかどうすれば上手に読んだ振りができるかに腐心する。つまりこいつは回り道をしない女ということだ。
変な権謀術数を張り巡らせない。好きなものは好きだと言う。本にだって、それ以外にだって。
私は何かを言わなければいけなかった。返事をしなければいけないと感じていた。それは使命と言い換えてもよかった。
私の言葉で。
幼いころから本の虫だった。だから、語彙だけは豊富な自信がある。名文と呼ばれる一文だって、かなりの数諳んじることができる。
けれど、それらを用いることは、今この場にはそぐわない。
文章をそのまま用いれば、それはあくまで引用に過ぎない。多少いじくってみたところで、オマージュの域を出ないだろう。私は別にクイズがしたいわけでなければ、ウィットに富んだ会話を楽しみたいわけでもなかった。
小説は誰かから受けた影響で書かれているけれど、誰かの言葉で書かれているわけではない。
三島由紀夫ではなく、江國香織ではなく、スーザン・ソンタグではなく。
ジョン・スタインベックではなく、グレッグ・イーガンではなく、ジョージ・オーウェルではなく、アルベール・カミュではなく、アルフレッド・ベスターではなく、ティーブン・キングではなく、カズオ・イシグロではなく、タゴールではなく、パウロ・コエーリョではなく。
太宰や芥川や井伏や川端や大江や坂口や中島や筒井や星や、舞城や西尾や有栖川や清涼院や、有川や谷川や入間や米澤や。
これまで私が読んできた作家の言葉ではなく。
神林しおりの言葉を紡ごう。
「私、もっ」
声がひっくり返ってしまった。飲み込みそうになるけれど、そうしたら最後、二度と喉元まで来てはくれない予感が私を動かす。
「好き、だぞ。あっ、その、お前の、そういうとこ! そういうとこが!」
「えー? どういうところ?」
町田さわ子は衒いもなく笑った。
いつかの蜜柑のように笑った。
そういうところだと私も笑った。
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おしまい
あーこういうマイナーなジャンルで自分の妄想がりがりやってるときがとても二次創作って感じして幸せ。
あとどうしても出てくる作品と作家とジャンルに偏りがありますね。趣味がばれる。
待て、次回。
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