【シャニマスSS】冬優子「それは」灯織「あったかもしれない邂逅」 (27)

注意
新アイドル黛冬優子と、風野灯織のtrue微ネタバレがあります
特に黛冬優子ストーリーを、少なくともシーズン3までプロデュースをされてから読むことを、強く推奨致します

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1554625801

 冬の終わりの冷たい雨の中、私は彼女に出会った。

 黒い髪からポタポタと雨をしたたらせながら、彼女は坂道を上っていく。傘はさしていなかった。それでいて急ぐ様子もない。濡れることなど意に介さぬかのように、彼女はゆっくりと歩を進めていた。

 私は思わず息をのんだ。水中を悠然と歩く彼女のうしろ姿が、私に雨を忘れさせる。彼女はまるで、世の憂いを断ち切らんとする聖者のようで、神々しい何かのように見えた。

 一枚の西洋絵画を見上げているかのような、そんな錯覚に私は陥っていた。そのくらいに彼女は綺麗だったのだ。

 でも、それも一瞬のこと。吐く息の白さが私を現実に引き戻す。寒さに思考が緩慢になっていくのを感じながら、私は歩をとめて、漫然と頭上の雨と彼女を眺めていた。

 時刻は午後の二時半。真昼間だというのに、辺りはうすぼんやりとしている。分厚い雲のせいか、とにかく光に乏しかった。

 ……強い人、なのかな。

 見上げて、思う。

 雨はひどく冷たい。凍えるほどだ。傘なしでは、私には耐えられそうにない。だからそう思ったのだ。彼女は雨に負けぬほどに強い人間なのだろうと。

 だけど、どうやらそれは勘違いだったらしい。風が吹き、彼女は肩を震わせた。肩を抑えた彼女の指は、赤く腫れあがっている。

 風上を見つめる彼女の横顔が、思い出したかのように苦痛でゆがんだ。

 それで気がつけば、私は走り出していた。

「あ、あの……! えっと……!」
 
 駆け寄って傘をさしだす。「傘を忘れたんですか」とも「大丈夫ですか」とも聞けなかった。焦っていた上に、あまり人との会話に慣れていない私では、最適な言葉の判別がつかなかったのだ。

 アイドルをはじめて一年弱になるというのに、未だにコミュニケーションは苦手に感じてしまう。真乃やめぐるなら、もう少し上手にできたのだろうか。

 そんな小さな後悔をよそに、彼女はさしだされた傘の下から私を見つめていた。大きめの白マスクをつけているせいで、細かな表情はうかがい知れない。
 
 ただ、その他の要素。長く切りそろえられた黒髪。透き通った明るいブラウンの瞳。清楚さを感じさせるピンクのブラウス。外見からは、品のよい年上の女性、という印象を受けた。

「……その、ありがとうございます!」
 
 彼女がよどみない動作でマスクを取る。その下から現れたのは控えめではあるが、たしかに人懐っこい笑顔。

「傘、途中で忘れちゃったみたいで。ふゆったら本当にドジですよねっ」

 『ふゆ』と名乗った彼女はそう言って、こつんと自分の頭をこづいた。その間も一貫して笑顔は崩さない。彼女に対する印象に、親しみやすさを兼ね備えた女性、という言葉が追加される。とても、吸い込まれるような笑顔だった。

 だけど何故だろう。私の心はざわついたままだ。彼女のまとう空気は私を和ませてくれているのに、同じ人物が持つ笑顔だけが、不思議と私の心をかき乱していた。

 駅まで彼女に同行することにした。建前上は「私も行くところだったんです」と言って。駅に行く用事はない。だけども、彼女を放っておくのはためらわれた。

 傘を持つ彼女の指を見る。指のところどころが、わずかに赤く変色していた。しかし、駆け寄る前に見た時ほどではない。おそらく気が動転していたのだろう。遠くから見えた指先は、必要以上に痛々しく見えてしまった。

 そもそも、数メートル以上の距離から、指先の色など正確に見えるはずがないのだ。自分の悲観的なタチに嫌気がさす。とはいえ、実際の指の容態だって、無視できるほど軽微に思えなかった。

「あの、どうかしましたか?」

 会話の最中に押し黙った私を、彼女がのぞき込んだ。不安を与えないためなのか、ニコニコと笑っている。私は慌てて言葉をつないだ。

「あ……すみません、ふゆさん。その……それで、体育の授業の途中にですね……」

 私は彼女を『ふゆさん』と呼んでいた。『ふゆ』と呼ぶように言われたが、呼び捨てはこそばゆいので『さん』だけはくっつけさせてもらっている。

 対して、彼女は私を『メガネさん』と呼ぶ。私のかけている眼鏡を「可愛らしいですね」と気に入り、以降はそのあだ名で呼んでいた。

 眼鏡を誉められたのは初めての経験だった。それはある意味当たり前の話で、種を明かすと、眼鏡をかけはじめたのは最近のことだからだ。それも変装用の伊達メガネ。めぐるが戯れに買ってきたものを、私はここ数日、やはり戯れに装着している。

「なるほど、メガネさんは高校生の方なんですね」

 さきほどから、当たり障りのない話が細々と続いていた。本名を名乗り合う雰囲気ではない。私は名乗るタイミングが掴めず、そもそも彼女にはそういう気が無いようで。会話の内容は、ますます散発的になっていた。

 指のことも聞き出せないでいる。彼女はたおやかな笑いを、維持し続けている。その笑顔のせいで、私は一歩を踏み込めずにいるのだ。

 同じの傘の下、肩が触れあうような近さにいるのに、まるで間に分厚い壁が差し挟まれているようだった。

 どこか虚ろな距離感に変化が生じたのは、賑やかな繁華街に足を踏み入れてからだった。

 きっかけは些細な注意。

「そこ、水たまりがあります」

 横断歩道を渡りはじめるその時、車止めの陰にある水たまりを彼女は指摘した。進行方向にあった濁った障害物を、私は寸前のところで回避する。

 黒く澱んだ水はアスファルトに擬態していた。それも注意深く見なければ、まず気づけないほど巧妙に。その上、物陰に潜んでいたのでは手に負えない。それをひと目で看破した彼女の注意力に、私は舌を巻いた。

「ありがとうございました。おかげで助かりました」

 礼を言う。

「うん……」

 返ってきたのは空返事だった。彼女はあさっての方向を、感情のない表情で見ている。だが、私の視線に気づくとすぐに、あの親しみ深い笑顔に戻った。

「はいっ。メガネさんが濡れなくて良かったです」

 語尾にハートマークでも付きそうなほどに甘い声。空いている左手で小さくガッツポーズを作る、愛想のいい仕草。好感が持てるはずのそれらから目を背けたくて、私はさっきまで彼女が見ていた『あさっての方向』に目をやった。

 そこには月岡恋鐘がいた。

『夢見る髪に』『魔法のような、恋の香りを』『マジーア・アンティーカ』

 正確に言えば、ビルのディスプレイ広告の中に恋鐘さんはいた。頭上から耳馴染んだ声で宣伝文句が聞こえてくる。ヘアフレグランスのCMだった。

 アンティーカの皆さんが、そういう仕事を受けたという話は聞いている。だけど、実物を目にするのは初めてだった。会心の出来だとプロデューサーが言っていたが、どうやらそれも本当らしい。

「……いいですね、あれ」

 そんな言葉が口をついた。

「ふゆも、そう思います」

 彼女も再び、その広告に目を向けている。二人で同じものを見ていた。それから数秒ほどで画面が切り替わり、二人とも同時に前方へと視線を返す。

「お好きなんですか?」

 私が問う。目的語はぼかした。図らずも自分の立場を隠している状況で、『アイドルが好きなんですか』と聞くのは、下卑た感じがして嫌だったのだ。

「好きですよ。アイドルって可愛くて、かっこよくて、キラキラしてて……ふゆも女の子ですから、やっぱり憧れちゃいます」

 しみじみと彼女が言う。

 そこに正面からサラリーマンが通りがかったので、二人で道のはじに寄って小さくなる。肩がわずかに触れ合って、すぐにまた離れた。

「メガネさんも好きなんですか、アイドル」

「……はい、大好きです。憧れの人もいるんですよ」

 中学の時に出会った人を思い出して、言葉にする。その人が私のアイドルとしての原点であるのは間違いない。太陽みたいに眩しい笑顔を持っている人で、私はずっとその笑顔に焦がれていた。

「ふふっ。メガネさん、今日で一番生き生きしてますね」

「そ、そうでしょうか……?」

「はい。文句なしに、です」

 顔が熱くなる。へんてこな自慢話をしてしまったような気分になって、私は腕を所在なさげにふらふらとさせた後、胸の前でがっちりと組んだ。まだ熱い。

 そして、熱を感じていたからこそ、私は温度差……彼女の表情の、冷たい陰りを見逃せなかった。

「……でも、ふゆは、アイドルも虚像なんじゃないかと期待しちゃうんです」

 虚像、彼女はそう言った。それは一体どういう意味を持った言葉だったか。それを脳内から引っ張り出す前に、私の口は勝手に動き出していた。それよりも、もっと気になる言葉があったのだ。

「期待、ですか」 

「あ……えっと、すみません。ふゆの言い間違い……言葉の綾です。『期待』はおかしいですよね。ふふっ……ちょっと考えてしまう、くらいに受け取ってください」

「……」

 彼女が笑う。
 また、私は何も言えない。

「アイドルって実は、キャラクターを作っている人ばかりなのかな、と。メガネさんは知っていますか?」

 虚像。誰かによって作られたイメージ。

「私には……よくわからないです」

 私のよく知るアイドルの方たち、すなわち283プロダクションの中には、そういう人はいない。その他のことはわからない。

「本当に知らないんですか?」

「……はい、想像もできません」

「メガネさんも、芸能人なのに?」

 絶句した。今度は、言いたいことがあるのに言えない、のではない。正真正銘、私は口にすべき言葉を失っていた。

「その眼鏡、度が入ってませんよね。この距離なら、ふゆでもわかりますよ。ファッションにも見えないので変装用の眼鏡です。メガネさんは高校生だと言っていましたから、変装が必要な高校生となると……」

 彼女は楽しげに言う。もう楽しげに言えている。糾弾するような響きは一切ない。謎解きゲームで遊んでいるかのように、その相手である私を楽しませようと努めていた。

 私は少しだけ見えた彼女の陰りが忘れられなくて、だから、彼女の態度に上手く応えられなくて、なんとか別の言葉を取り繕う。

「……ふゆさんは、アイドルが虚像だったら、どう思うんですか?」

 彼女は二、三度目をパチクリとさせた。それから、ちょうど大手の寿司チェーン店の横を通り過ぎたからか、こう言った。

「マグロさんみたいだな、と思います」

「……マグ、ロ?」

「はい。マグロさんって、寝ている間も食事の間も、どんな時でも泳ぎ続けているそうですよ」

 彼女がピンと人差し指を立てた。私は考える。マグロという比喩の意味を、彼女の言いたいことを。考えて、結び付けようと試みる。

 虚像とアイドルと、どんな時も泳ぎ続ける魚。そこに何となく、アスファルトに擬態した水たまりを混ぜ込んだところで、その四つのワードが私に一つの仮説を与えた。

 ……つまり、虚像のアイドルは、虚像のままで泳ぎ続けないといけないと。一度キャラクターを作ってしまえば、寝ても覚めても、そのキャラクターから逃れることはできないと。彼女は、そう言いたいのかもしれない。

 でも、それは……

「あまりにも、辛くないですか?」

 素直に思ったことを口にする。彼女はそれを、きっぱりと否定した。

「慣れているでしょうから、辛くはないと思いますよ。それに……」

 また、彼女が笑う。

「そうしないと生きていけませんから。仕方がないです」

 ……でも、それは、マグロの話のはずだ。

 そう考えてしまったが口には出せない。それを口にしたところで、自分の言いたいことを的確に伝えられる自信がなかった。

 だんだんと、そんな口下手な自分に苛立ちがつのる。その苛立ちを悟られたくなくて、うつむいた。

「……あ……」

 うつむいて、澄んだ水たまりを見とめた。足元の水面に歪んだ自分の顔が映る。昔からよく知るその顔を見て、私にある閃きが宿った。

 彼女の笑顔の意味。彼女の笑顔を前にすると、何も言えなくなる理由。それに気がついて。

 それを理解して。 

 私は、岐路に立っていた。

 人で最も賑わっていた繁華街の中心地。そこから徒歩で五分くらいの、値段が手ごろな飲食店がひしめく大通り。私が立っているその場所は、地理的な意味でも岐路だった。

 大通りをこのまま真っ直ぐ進めば、ビル街を経由して、十分程度で駅に着ける。対して、大通りを外れて路地を行けば、そこから三分ほどの時間を短縮することが可能だった。

 私は、迷わず路地に入る。

「あれ……メガネさん?」

「こっちの方が近道なんです」

「あ、そうだったんですか。ふゆ、知らなかったですっ」

 閑静な路地だった。

 当たり前だが、大通りに比べて、路地の人通りは格段に少ない。近道としてもあまり知られていない道なので、なおさら無理もなかった。

 防犯上の観点から言えば、雨の日の通過がはばかられる道ではある。しかし、ここでの犯罪の話は聞いたことがないし、それに今は一分一秒が惜しかった。

「これで数分早く駅に着けますから。そしたら……病院に行きましょう、ふゆさん」

「え……」

 彼女が目を丸くする。

「指、霜焼けしてますよね。ひょっとしたら、水ぶくれになってるかもしれません」

 いざ口にすると決めると、あっさりだった。

「そんな、大丈夫ですよ。ぜーんぜん痛くありませんから」

 手を二回ほど開閉させてから、やはり彼女は笑みを浮かべた。気がついてしまえば、ぎこちない笑顔。

 それは、やんわりとした、ある種の『拒絶』だ。あらゆるものを拒絶しているわけではない。ただ、自身の本質に立ち入ろうとするものを排除しようとする笑みだった。

 例えば本名。例えば失言。

 そういった拒絶を無意識下に感じ取れていたからこそ、私は何も言うことができなくなってしまっていた。

「そこまで赤くなっていて、痛くないわけがないです」

 言い切る。

 彼女の笑みは、拒絶であると同時に『取り繕い』だ。現に私も意識下で、「笑えているから痛くないのかもしれない」と思い込んでいた。だから、何も言ってあげることができなかった。

「心配しないでください。ふゆ、強い子ですので」

 彼女は依然として笑みを崩さない。胸に軽く手を当てて快活そうな表情を作っている。

 私はそこに、真乃とめぐるを想起した。それは実際のところ、ほとんど逃避のような想起だった。

 真乃とめぐるは感情のままに笑うことができる。あの二人は、誰かを良い方向に変えることのできる、本物の笑顔を持った二人だ。

 だが、目の前の彼女の笑みは二人の物とは全く違う。もう私には、それが作り物にしか思えない。そうとしか見えなくなってしまえば、苦しくなる。だからこそ私は、弱い心ですがるように想起をした。

「……心配、しますよ。当たり前のことです」

 だからといって、言葉の上でも同じことをするわけにはいかなかった。私は震える声を絞り出す。

 彼女の声が、心なしか低いものに変わった気がした。

「だから……何の問題ありませんって、さっきから言っていますよね」

 だけど、彼女は笑顔のままだ。

 私の心が、より一層かき乱される。でも、その理由だってもうわかっている。それは彼女の笑顔の意味を、理解できた理由と同じ。

 ずっと昔から知っていたからだ。

 同じ笑顔が私に根付いていたからだ。

 水たまりに映る自分の顔を見て、ぎごちなくしか笑えなかった一年前の自分を、どうしようもなく思い出してしまったからだ。

「ふゆさんは……」

 ああ、だから、私は。

 私は、それを口にしてしまう。告げてしまう。

「……自分のこと、お嫌いなんですか?」

 同じ傷を、開いてしまう。

 右足。左足。右足。

 三歩あるいて、彼女もまた立ち止まる。私は慙愧の念を告げると同時に、既に歩けなくなっていた。

 自分の髪と肩が濡れていく。雨は変わらず冷たいまま。そういえば、傘は彼女が持っていたのだったと、私は他人事のように考えていた。

「なんで……そう思うの?」

 彼女が抑揚のない声で問う。

 表情は口元しか見えていない。彼女は傘を前方に傾けて、顔の上半分を隠している。少しの間、自分が濡れてしまうことはどうでもよかったけれど、そうされるのは悲しかった。

 でも、問われたからには答えよう。

「……そんな指で傘を持とうとするなんて、おかしいです」

 傘を持つ指だけが、くっきりと見えている。

「おかしくない。身長が高い方が傘を持つのは当たり前のこと、ですよね」

 彼女は即答した。

「……そんな指になるまで、傘もささずに雨の中にいるなんて……変、だと思います」

 赤く腫れあがった指は、やっぱり痛々しい。

「昔の友人とちょっと話がこじれて、感傷的な気分になっていただけ。変かもしれないけど……大したことじゃない」

 彼女は断言した。

「私には……そう思えないです」

 切りそろえられた髪型も、品のいい服装も、彼女がそれほど真剣に、容姿に気を配っているのかを雄弁に語っていた。

 そんな彼女が、それらがどうでもよくなって、雨に打たれるままになっていた。彼女をそんな風にしてしまうことが、『大したことじゃない』わけがない。

 私には知る権利はないけれど、推測することも許されないけれど、辛い何かがあったことは、のたうつくらいに痛く伝わっている。

「何も知らないのに、勝手なこと言わないで……ください」

 それなのに彼女は、それでも彼女は、口元だけで笑おうとしていた。

 私も、止まれなくなっていた。自らの信じる、救いのような何かに、我武者羅に突き進もうとしている。

 そのために、私と彼女の間にある唯一の交信を。言葉を、紡ごうとする。

「マスク……外す動作が綺麗でした」

 彼女の、静かに息をのむ声が聞こえた。

「つけ、慣れているんですよね」

 今度は、私が断言をする。それ自体を、彼女は否定しなかった。

「そ、それは……風邪とか、花粉症……とか……」

 消え入りそうな彼女の声に、私はうつむきがちに首を横に振る。少なくとも、その二つは違うのだ。

 雨に打たれながらも、彼女はマスクを外していなかった。いかに体調に気を使う人でも、それでは息苦しいはずだ。

 伊達メガネの理由に、彼女は花粉のことを挙げなかった。普段から花粉を気にしている人間なら、そのことに少しでも触れるはずだ。

 だから、つけ慣れている理由は。

「口元を、隠すためですよね」

 そして、彼女は沈黙した。

「口元を隠しているのは、不意に表情を覗かれるのを恐れているからです」

 取り繕う時間を求めているのだ。自分を見抜かれるのが怖くて、いつだって周囲を見つめ返している。

 私は逆だった。でも、知っていた。周囲から隔絶されるための壁を作りたくて、いつも音楽で耳を塞いでいたから。

「愛嬌をふりまくのは、素の自分が無力だと思っているからです」

 誰かの目を反らしていたいのだ。どう見られているのかを検分し、意図的に好かれる自己を作り出そうとしている。

 私は逆だった。でも、知っていた。どうせ自分など誰の目にも留まらないと、いつしか不愛想を決め込んでいたから。

「笑顔がぎこちないのは……それが、偽物だからです」

 本物の笑顔なんて作れない。それを理解して、偽物の笑顔を張り付けている。

 私は逆だった。でも、知っていた。その手に入らないものを、アイドルになることで無理やり手に入れようとしていたから。

「……自分のこと、お嫌いなんですよね」

 彼女は自己を擬態させて閉じ込めた。私は他者への期待を捨てて夢だけに救いを求めた。

 私と彼女では手段が違っただけ。根底にある感情は同じもの。

 それは、自分の価値を何ひとつ信じることのできない、空虚なる感情の氾濫だ。

 それなら。

 だったら。

 私と、同じだというのなら……!

「あなたも……! あなただって……っ!」

 金切り声をあげる。しかし、それが私の限界だった。私は、未熟だった。

 つたなく差し伸べたその手を、彼女は鼻で笑って……切り捨てた。

「はっ……」

 低く、重い音だった。

 彼女は傘の傾きをなおして、私を睨む。その瞳は怒りと憎悪で燃え上がっていた。恐怖はない。その激情が向けられているのが、私ではないと知っていたから。だから、ただ哀しい。

「なによ。なによ、黙ってれば好き放題言ってくれちゃって……!」

 乱暴な言葉遣い。肩にかかっていた髪が落ちて、活動的な、あるいは暴力的な雰囲気を醸し出す。

 物腰柔らかな振る舞いは、もう微塵もない。これが彼女の本質なのだろう。彼女自身が嫌う、『本当の彼女』が立っている。

「マスクは表情を隠すため? はぁ、何よそれ? ……ざっけんな! 初対面のあんたなんかに何がわかるって言うのよっ!!」

 叫ぶ。髪を振り乱して、水滴を舞わせて、冷えた体を震わせて、彼女は叫ぶ。

 私は何も言えない。その激情を救い上げるすべを持たなかったから。つまるところ、私は失敗していた。

「何が偽物の笑顔よ……! 何が、自分が嫌いなんですね、よ……! そんなの……! そんなの、ねぇ……っ!」

 声が上擦る。嗚咽していた。そうだ。ずっと、彼女は泣いていたのだ。

 私には何もできない。何もできずに、せめて最後の言葉だけでも受け止めようと立ち尽くしている。

 彼女は逃れるように目をつぶった。行き場を失った左拳を、殴りつけるように下へと向ける。肩をいからせる。

 そして、彼女はまた、叫ぶ。

「……そんなの、ふゆが一番よくわかっているわよ!!」

 傘が宙を舞った。はらりはらりと雨の中を泳いで、私の足元に落下した。

 落ちた頃には既に、彼女は走り去っていた。足音すら聞こえなくなって、耳に響くのは途切れることのない雨音だけ。後悔の念が、じわりと心に染み込んでくる。
 
 ……私は、そもそも何をしたかったのだろう。彼女の心を暴き立てて、それでどうするつもりだったのだろう。

『私もそうなので、一緒にアイドルをやりませんか?』

 とでも言うつもりだったのか。まさか。

「……まさか」

 驚愕した。どうやら私は、本気でそんな無責任なことを言いたかったらしい。

 でも、だというのなら、なおさら私は失敗している。最初から自分の目的に気づいていれば、別の道もあったのだろうか。

 ……いや、それもない。

 実のところ、私には最初からわかっていたのだから。弱い私では受け止めきれなくて、目を背けていただけ。

 彼女の擬態があまりにも綺麗だったから、ほんの一瞬、騙されてしまったけれど。でも、あの雨に打たれる彼女を見た時点で、私にはその根底が見えていたはずなのだ。
 
 雨を意に介していなかったのは、濡れてしまう自分なんてどうでもよかったから。

 冷たさに耐えられていたのは、嫌いな自分が罰を受けているようで安心できたから。

「……一年前の私なら、たぶん平気だったから」

 投げ渡された傘を拾う。今の私には必要なものだ。冬の終わりを告げる冷たい雨の中を、私はもう泳ぐことができない。でも、それでいい。

 私はまた、ぼんやりと空を見上げた。自分の無力さに視界がゆがむ。

「……う……ぁ、ぁあ……」

 雨水が静かに、頬をつたった。


 どのくらい、たったのだろう。

「……灯織か?」

 見知った黒い傘と白いコートが、雨の向こう側から現れた。

「ぁ……プロデューサー……」

「何をしてるんだ。こんな道の真ん中で」

 私を心配そうに見つめる瞳。そこで、はたと気づいた。これでは誤解されてしまうかもしれないと。

 ずぶ濡れと言うほどではないが、私は雨に打たれて頭から爪先まで濡れている。ここで問題になるのは顔と髪。頭髪に染み込んだ雨水が、ようやく額から目元へとこぼれはじめていた。これでは泣いているように見えてしまうかもしれない。

「ち、ちが……! これは、違うんです……!」

 慌てて顔全体をハンカチで拭う。そんなせわしない私の言動を、プロデューサーは黙って見つめていた。そして、私の作業を終わりまで見届けてから、優しく言った。

「じゃあ帰ろうか、灯織。事務所で暖かいものでも飲もう」

 諭すように告げて。そして、ゆっくりと歩き出す。

 ハンカチを丁寧に折りたたんでから、私もプロデューサーの後に続いた。プロデューサーは、私が歩きはじめたのを確認してから、わずかに歩調を速める。いつも通りのスピードになった。

「……あの、プロデューサー」

「なんだ?」

 私は道すがら、ふってわいた疑問をぶつけることにした。自らを『ふゆ』と呼ぶ彼女のことを、何かもっと知りたくなって。プロデューサーなら、答えを示してくれる気がしたのだ。

「プロデューサー。私の名前、読んでみてください」

「……? 『灯織』」

「そう……ですよね。プロデューサーは下の名前を、呼び捨てにしますよね」

「ああ。最初からそうだったろ」

「はい。でも……それは、なぜですか?」

 プロデューサーは私たちのことを、苗字でもあだ名でも呼ばない。『さん』づけもしない。アイドルなら誰に対しても名前呼びで統一している。

 さきほど改めて名前を呼ばれて初めて、私はそこに、こだわりのような何かを読み取っていた。

「うーん、そうだなぁ……」

 しばらくの沈黙。一分ほど歩いて、再び坂道に差し掛かったところで、プロデューサーは口を開いた。

「……たぶん、ずっと心のどこかに決めていたことなんだ。芸名とか、ファンからのニックネームとか、アイドルだからそういうのもあるけど。それでも俺は絶対に、下の名前で呼ぼうって」

 プロデューサーの声は決して大きくはない。だけど、雨のなかでもよく通っていた。

「呼び方って結局は、その人のどこを見ているか、なんだと思う。だから俺は本名で呼びたいんだよ。等身大の彼女たちを見ていられるように。どれだけ大きな存在になっても、一人のかけがえのない女の子だってことを、決して忘れないように」

 そういってプロデューサーは、「取らぬ狸の皮算用かな」と自嘲気味に笑う。そんなことは、ない。

「……プロデューサーは、『本当』を見ていたいんですね」

「そうかもな。ああ、きっとそうだ」

 『実像』に対する『虚像』。『本当』を見ていたいというプロデューサーの言葉は、暗に『虚像』の存在を肯定しているようだった。

 それで、わからなくなってしまう。

「……虚像って、一体何なんでしょうか」

 えらく抽象的な質問になってしまった。プロデューサーは、それに辞書的な意味で答える。

「凹レンズなどで作られる、光を逆向きにたどって見える物の像……だったか?」

 お互いに、とんちんかんなことを言っている気がした。

「その眼鏡もそうだろ。遠くにあるの物体の虚像を結んで、近くにあるように見させるものが眼鏡だ」

「これ、伊達です」

「あ……それもそうか」

 度の入っていない眼鏡は虚像を結べない。結局のところ、私は彼女のいう『虚像』が理解できなかったのかもしれないと、陰鬱な気分になってしまった。

 でも、下ばかり向いてはいられない。上ばかりを向いてもいられない。

「それなら……プロデューサーは、『本当の自分』が好きですか?」

 これが最後の質問だ。彼女を知るための、最後の。

 首をひねってから、プロデューサーは努めて柔らかな口調で言った。

「それは……どうだろうな。仕事がうまくいってる時の自分は好きだし、行き詰っているときの自分は嫌いだ」

「ふふっ、結局のところ仕事ですか」

「仕事は大好きだからな。本当の自分なんて俺には難しくてわからないよ。少なくとも、今のところは」

 プロデューサーが肩をすくめる。その仕草が、私には嬉しかった。

 『本当』を見ていたいと彼は言う。『本当』なんて難しくてわからないとも彼は言う。その矛盾、理解できるかわからないものを尊ぶ彼の在り方が、私には希望のように思えた。

 プロデューサーの言葉を反芻する。

『呼び方って結局は、その人のどこを見ているか、なんだと思う』

 それは正しいと思う。では、ある呼び名を要求する行為とは何なのだろう。『ふゆ』と呼ばれたがる彼女が、周囲に求めているものとは一体どんなものなのだろう。

 やはりそれは、見てもらいたい自分をこいねがう行為で、彼女はそうやって虚像を結ぼうしているのだろうか。

 遥か遠くの実像に、私はすがった。トップアイドルになりさえすれば自分を肯定できるのだと、目的と手段を入れ替えた。自分を肯定できないものが、トップアイドルになれるはずはないのに。

 手短な虚像を、彼女は被り込んだ。自分じゃない自分なら肯定してもらえるのだと、目的を別のものにすり替えた。それでは、満たされるはずがないのに。

 ……ああ。そんなところまで逆さまで、そっくりだ。

 彼女と私は似た感情から出発して、真逆の道をたどろうとしている。ならば、その行きつく先も、行き着きたいと思う願いも、おそらく鏡合わせのようなものになるはずだ。

 この一年、アイドルとして在る中で、私は自分の底に根付くものを取り戻した。それは、「自分自身を好きでいたい」という大切でささやかな願い。忘れかけていた夢の詰まった宝物。

 その逆だというのなら、彼女の願いは。嫌いな自分をひた隠しにしようとする彼女の祈りは。その根底にある綺麗な想いは、きっと。

 いつか誰かに、『本当の自分』を――

「わっぷ……!」

 ぶつかった。いつの間にか、プロデューサーが立ち止まっていた。

「虹だ」

 下り坂から見える、少し広くなった空を指差した。輪郭がはっきりとしない虹が浮かんでいる。さっきまでに比べて小雨になっているが、まだ雨は降り続いていた。雨上がりの虹はよく見られるものだが、雨中の虹というのは珍しい。

 プロデューサーが足をとめたのにも頷ける。立ち消えそうに輝く虹が、儚く、淡く、幻想的だった。

「虹も虚像らしいな」

 なんと気なしに、プロデューサーがつぶやく。

「でも、綺麗ですよ」

 私が言う。プロデューサーは「間違いない」と言って、また歩き出した。

 そうだ。私はこの日、綺麗な虚像に出会ったのだ。暴き出す言葉を止められなかったのも、もっと知りたくなったのも、私がその虚像に惹かれていたから。虚像を生み出す光に、どうしようもなく魅了されたから。

 そして、あの透き通るブラウンの瞳から、私は目を離せなくなったのだ。
 
 だったら本当は、『本当の自分』なんてどこにも存在しないのかもしれない。それはナンセンスな言葉で、でもしかし、確かに愛を注ぐことのできる虚像なのだ。

 人を構成するすべてが虚像で実像。そんな身もふたもないことを、私は勝手に考えている。

「そういえば、仕事で思い出したんだけどさ」

 プロデューサーが話を戻した。私は短く「はい」と相槌を打つ。

「今度、新ユニットを立ち上げることになったんだ」

「初耳です。もうメンバーも決まっているんですか?」

「いや、それはまだだ。というかプロジェクトが始動しただけで、細かいところはまだ何も決まってないんだよ」

「……あ。なら、最近プロデューサーの外回りが増えてるのは」

「スカウトだな」

 その四文字のカタカナが、私には踊って見えた。横目でもう一度虹を見る。

「良い子が見つかるといいんだがな。こればっかりは運だから」

 ぼやきが水溜まりに溶ける。私はプロデューサーとは反対に、期待に胸を膨らませていた。

「……プロデューサーが、見つけてあげてください」

「え……灯織?」

「きっと待っていますから。誰かが、見つけてくれるのを」

 私は空から視線を外して、明日になるまではもう見上げないことを決めた。そうして駆け出して、プロデューサーの横に並ぶ。

 プロデューサーは気合を入れ直していた。「そうだよな。それくらいの心積もりでいないとな」と、何度となく頷いている。

「普段は行かないところにも、足をのばしてみようか」

 最後にプロデューサーはそう口にして、パタリと傘を閉じた。私もそれにならう。話し込んでいるうちに、気がつけば事務所に到着していた。

 雨は止まない。明日の朝まで降り続く予報だ。だけど、不意にふわりと、暖かな風が吹き抜ける。

 それは予感。新しい季節の到来を、私はたなびく髪に感じていた。

 ――こうして私は出会った。冷たい雨のなかで、彼女とすれ違った。どこか逆さまで、どこか似ている、黛冬優子という女性を知った。

 ――そうして彼は出会ったのだろう。暖かい日の下で、彼女と言葉を交わして。『ふゆ』と呼んでほしい少女を、かたくなに冬優子と呼び続けるのだろう。

 それは、あったかもしれない邂逅。柔らかな春の一幕に、私は目を閉じて想いを馳せる。



 そんな、目を開かなくとも日差しを感じられるような、穏やかな三月末のこと。283プロの全員が参加しているイベントで。その終わり際に、ようやく彼女たちは現れた。

「黛冬優子です。気軽に『ふゆ』と呼んでくださいね」

 彼女が言う。私の顔がほころぶ。

 ストレイライト。その一員である黛冬優子に、私は初めて出会ったのだった。

終わりです。お目汚し失礼しました。

灯織の対という観点から一筆です。

優勝後のご褒美はPラブ的なアレじゃなくて、もっと根源的な叫びみたいな奴だと思うんですよね。
それはそれとしてSR以上のコミュではすごいイチャイチャしてほしさがある

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