一ノ瀬志希「ほころび」 (138)

 ――――。

 寒さで目を覚ましたけれど、陽はもう昇っていた。

 時間を確認しようとスマホを取り出すと、プロデューサーからの着信がたくさん表示されている。
 当たり前か。何も言わずに失踪したのだから。

 帰ろうか無視するか、どうしようかな――自分がどうしたいのかさえ判然としない。


 分かっているのは、今のあたしは独りぼっち。
 キミはもういないのだということ。

 さっきまで見ていた夢の中で、あたしの隣で寝転がってくれていたはずの、夕美ちゃんはいない。


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 ――――――

 ――――


「あのなぁ、志希」

 あたしの後ろで、彼の呆れ声が聞こえた。
 生返事でそれに答えるあたしも、すっかり板についてきている。

「俺の事務スペースを占領してまでやらなきゃいけないことか、それ?」
「んーん、そんなでもない」
「だったらどかせよ! 俺の仕事にならないだろ」
「まーまー」

 試験管をチョチョッと振って――ふむ、この反応は予測通りかにゃ?
 ポストイットにメモメモ。
 で、だとすると次は――。

「やれやれ……アイドルに興味があって俺について来たんじゃないのか?」


 彼のその一言に、あたしの体がピタッと止まる。

 その行為に意味はない。
 たぶん、後ろにいる彼が「おっ」みたいな反応をしてくれるのを期待しただけ。

 おもむろに振り返ってみると、ほら予測通り、驚いた顔をしたプロデューサーが立っていた。
 実験成功~♪

「んー、アイドルにっていうか、キミに興味があっただけー。にゃははー、飲む?」

「なっ!? の、だ、誰が飲むか!」

 なぁんだ、志希ちゃんつまんな~い。
 手の中にある、沸騰した試験管を台に戻す。

 やっぱ色がまずかったかなぁ? もう少し警戒されにくい、透明の――。

「まったく……そろそろ新しい子が来るんだから、キリのいい所で片付けてくれよ、それ」


 ――――?

 あたしの体がピタッと止まる。

「な、何だよ……前にも言ってあっただろ」
「そうだっけ?」
「確か、お前と同い年くらいの子だ。相葉夕美、って子」
「アイバユミ」

 新しい子――。

「じゃあ、俺、迎えに行くから。
 その子がビックリしないように、ちゃんと片付けておくんだぞ、いいな?」

 念を押すように何度かあたしを指差して、彼がドアの向こうへ去っていくのが見えた。



 ――新しい子。

 今、この事務所にはあたし以外にもアイドルやその候補生達が何人かいて、それぞれにプロデューサーが付いている。
 プロデューサー一人当たり、大体2~3人のアイドルを担当している計算だ。

 今の彼の担当は、あたし一人だけ。
 聞く所では、彼も新人ってわけじゃないらしいし、もう一人くらいアイドルが付くのは何もおかしいことじゃない。

 ただ、あたしにとっては初めての経験だ。
 他のプロデューサーに付いているアイドルの子達とは、たまに近くのカフェで駄弁ったりすることはあるけれど。


 誰かと一緒に、アイドルをやる――切磋琢磨、というヤツか。

 ――おっといけない。
 火にかけてあった丸形フラスコをそっとどかす。加熱時間は3分52秒。温度は116度。メモメモ。

 この世界には二つしか無い。
 予測できるものと、できないもの。

 興味があるから予測し、検証する。
 仮説したとおりの事象が発現されれば嬉しいし、想定外の事態が起きればわんだほー。
 3分おきに止めどなく発生するあたしの知的好奇心は、ケミカルだけでは抑えが効かない代物だったらしい。

 ただ、次なる興味の対象が、なぜアイドルだったのかと聞かれても、リッパな理由なんてない。
 たまたま彼を見かけて、楽しそうなコトをしてて、イイ匂いがしてたから。
 あまりに未知なる領域の、右も左も分からない取り留めの無さが、当時のあたしにはたまらなかったんだろうねー。


 ふふっ――そう考えると、新しい子が入るというのは、あたしにとって大いに歓迎すべきことだ。
 プロデューサーは、反応そのものは単純だけれど、こうして新しいエッセンスをあたしに供給し、興味深い事象を引き起こし続ける。

 さて、何をし――。
「あのぉ」



 ――?

「へ、部屋、間違えちゃったかな?
 ここに来てって、言われたんですけど……」

 ――振り返ると、女の子が一人、ドアのそばに立っていた。

 快活な印象を与える明るいミディアムショートの金髪に、ライトグリーンの七分袖シャツ。
 その下はブルーのワンピースで、花柄のアクセントが愛らしいパンプス。

 そんな爽やかな外見とは裏腹に、なぜか気まずそうに頬を掻いてる不安げな顔。みすまっち。


「飲む?」

 おもむろに、さっき置いた試験管をサッと取って差し出してみる。

「え、えぇっ?」

 露骨に表れた驚きの表情からは、先ほどまであった不安感は跡形もなく消し飛んでいた。
 でも、あたしを驚かせたのはその次だ。

「えぇと……い、いいの?」

 !?
 なんとその子は、恐る恐るではあるけど、あたしが差し出した絶賛沸騰中の真っピンクな試験管を手に取り、匂いを嗅いでみせたのだ。

「うえぇ、エホ、エホッ! な、何コレー!?」

 刺激臭まる出しの試験管をモロに嗅いだその子は途端に涙目になり、あたしに当惑の表情を向けた。
 コロコロと変わる彼女の表情は、とてもファンキーで賑やかだ。

「ぶふっ! にゃははー、それはねー、たぶん知らない方がいいヤツー」
「な、何でそんなのを私にあげるのー!?」
「キミが受け取ってくれるからー♪」

「あ、あれ? おいっ、何してんだ!?」

 急にドアがバターンと開いて、プロデューサーが飛び込んできた。
 ふむ、にゃるほど。とするとやはり――。

「キミが、アイバユミちゃんだね」


「えっ」

 予測通り、ピタリと止まったユミちゃんにそっと近づき、顎の辺りをちょっとハスハス。

「!? え、えぇっ!?」

「んふふ、甘い匂いがするね、キミ」

 顔を真っ赤にしながら、手を口元に当てて必死に自分の匂いを嗅いでるユミちゃん。
 にゃはは、ソレね、たぶんあたしじゃないと感じ取れないと思うよ?

「悪ふざけはいい加減にしろ。
 相葉さん、ごめんね。この子が君と一緒に活動をすることになる、一ノ瀬志希だ」

 プロデューサーがあたし達の間に割って入り、お互いを紹介する。


「あぁ、そうなんだ。あなたが……」

 先ほどまで混乱していた赤ら顔が、花開くようにパァッと明るくなっていく。


「相葉夕美です! これからよろしくね、志希ちゃんっ」


 その眩しい笑顔を目の当たりにした瞬間、あたしの中で何かが崩れる予感がした。

 ――――


「よ、おっ……わ、きゃぁ!」

 ドテッと夕美ちゃんが尻餅をついた。

「あいたたた」
「だいじょーぶ?」
「えへへ、平気平気……ごめんね、志希ちゃん」

 あたしの手を取りながら、夕美ちゃんは恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。


「焦らなくていい、相葉。
 落ち着いて、引き足をしっかり止めることを意識しなさい。
 テンポを落としてもう一度やってみよう」
「は、はいっ!」

 トレーナーさんのアドバイスに、夕美ちゃんは元気よく答えた。

 実際、夕美ちゃんの運動神経はたぶん悪い方じゃない。
 ただ何よりも、彼女はとってもマジメだ。
 レッスンに対し真摯に取り組む姿勢は、他の子達と比べても一際なのだそう。

 あたしは、どうだったんだろう?
 ふと、候補生になりたての頃のレッスンの様子を思い返してみる。

「お前は特別だ、一ノ瀬」

 顎に手を当てて、うーんと唸ってみせたあたしを見るにつけ、トレーナーさんがピシャリと言い放った。
「相葉も、あんな子と自分を比べるようなことはしないように。いいな?」
「は、はぁ」

 あんな子って、そんな言い草あるー? ちょっと志希ちゃん傷ついたなぁ。



 天才だなんだと、小さい頃から言われてはきた。
 ギフテッド――つまりあたしの才覚は、天からの授かり物なのだと。

 ダンスやボーカルも、トレーナーさんが与えてくれる課題に対し、水準はクリアできていた、らしい。
 それは、プロデューサーに言わせればとてもすごいことなのだという。

 一方で、それが簡単だったのかと聞かれれば、あたしにも分からない。

 簡単か難しいかの評価は、比較対象がなければできない。
 あたしにとって、それらのレッスンは初めての出会い、唯一の経験であり、「やったらできた」以上の意味は持たないのだ。

 ところが、今のあたしは、夕美ちゃんという比較対象を得ている。

 彼女が今苦しんでいるステップも、あたしは初見でこなすことができたものだ。
 トレーナーさんの表情がさほど曇っていないところを見ると、それは決して珍しい事象ではないのだろう。

 では、次の疑問はこうだ。


 あたしはアイドルとして、夕美ちゃんより優等なのか?


「あ、志希ちゃん!」
「にゃ?」

 ふと我に返ると、目の前にはちょっとキリッとした夕美ちゃんの顔がズイッとあった。

「女の子なんだから、あまりだらしないカッコしちゃダメだよっ!」
 そう言うが早いか、夕美ちゃんはあたしの着ていたジャージのチャックをズイーッ!っと締めてしまう。

「ふぎゃっ! ええぇ、やだぁモゾモゾする」
「そうじゃなかったら、せめてシャツはあまりはだけさせちゃダメっ」

 夕美ちゃんだってジャージの上脱いでるクセに。
 ほんのり汗を吸って体のラインが見えやすくなった、夕美ちゃんのTシャツ。

「後で嗅がせて?」
「ヘンなことばっか言ってないで、ほらっ、レッスンしよっ!」

 ムムム――なーんか思うようにいかないにゃー。

「はっはっは、相葉はすっかりお姉さんだな」
 あたし達の様子を見て、なぜかトレーナーさんがホッコリした顔をしている。

 夕美ちゃんが事務所に来て、異変がもう一つあった。

「よいしょ、っと……」

「? 夕美ちゃん、何してんの?」
「あっ、志希ちゃん。引っ越しの準備だよっ」
「引っ越し?」

 見ると、事務室の一角――あたしが勝手にラボに改造した一角が、丸々段ボールの群れに置き換わっている。

「Pさんと相談して、1階のガレージを使わせてもらえるようにしたんだ。
 元々、誰も使ってなくて、必要ないものばかり置いてたっていうから、全部捨てて有効活用しようってね」

 テキパキと、夕美ちゃんは段ボールを台車に乗せていく。
 あーあー、ホントは迂闊に動かすと結構アブナイヤツもあったりしたんだけどなー。
 言わない方がいっか。

「Pさんも安心して事務仕事できるし、志希ちゃんも実験に集中できて、お互いにいいでしょ?
 近場にラボがあった方が都合いいだろうし、かといってわざわざ部屋を借りるのもお金かかっちゃうもんね」

 夕美ちゃんに連れられていった1階のガレージは、思いのほか良いカンジの環境だ。
 広いし、最低限の採光も換気扇もあるし、間仕切りを隔てた隣の部屋には簡単な水回りもある。

 ただ、蛇口を捻るとドボドボと赤茶色の水が流れてきて、夕美ちゃんはビックリして飛び退いた。

「ま、まぁ、使っていけばそのうち綺麗になると思うから。あは、あはは」

 そう言うと、夕美ちゃんは一旦部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
 大きいデスクとキャスター付きの椅子を、やっぱり台車に乗せて。
 ひょっとしてそれ、一人で持ち上げたの?

 雑巾で手際よく拭いて、「よしっ!」と一息つくと、

「これ、どこに置こっか?」

 あたしのラボ、になるらしいのに、自分が当事者であるかのように楽しそうに作業を進めていく。
 結局、デスクのレイアウトだけでなく実験器具のセッティングまで、夕美ちゃんはすっかりこなしてしまった。

 プロデューサーはというと、そんな夕美ちゃんを心の底からありがたがっていた。

「ありがとう夕美……本当に助かる。俺の頭痛のタネを、こんなにも綺麗に…」
「冷蔵庫にあったPさんのビール、捨てといたからね」
「えっ!? 何で!?」
「ここは仕事するところでしょっ。飲みすぎは健康にも良くないっていうし」

「そ、そんなぁ……!」
 膝から崩れ落ち、この世の終わりかってくらい涙目になるプロデューサー。
 そこだけ切り取れば、映画のワンシーンにも使えそうなくらい、絶望的な表情だ。

「えへへっ、なんちゃって♪」

 夕美ちゃんは、イタズラっぽくニコッと笑って、後ろに隠した手をサッと見せた。
「はいっ、ちゃんとお家に持って帰ってね。途中で飲んだりしたらダメだよっ」

「あぁ、ビール! ありがとう、美味しく飲むよ、ありがとう……」

 にゃははー、これじゃどっちが監督者か分からないねー。


 聞けば、夕美ちゃんは通っている大学でも色々とまとめ役を買って出ることが多いらしい。
 実にしっかり者で、何にでも気配りができて、それでいて嫌味が無い。

 絵に描いたように、品行方正の良い子だ。

 あたしは、人間付き合いの経験が浅い。

 気づけばあたしの回りには、権威と呼ばれるお偉い先生ばかりが集まっていた。
 あたしが適当なプレゼンをすれば、彼らは何でも持て囃した。

 いや、煙たがっていたかな。
 彼らの鼻っ柱を折ることのないよう、適度に手加減をして論文の出来を下げることも一つの処世術だと、あたしは経験で知った。
(詰めの甘さに気づいて、真っ向から否定してくれる人はあまりいなかったけれど)

 つまり、同年代の子達との見目麗しい学生ライフとは無縁だったわけで――。

「志希ちゃん、明日一緒に映画観に行かない?」


 昼下がりの、事務所の最寄り駅のそばにあるカフェ。
 あたしの目の前に座る夕美ちゃんが急に、雑誌を開いて指を差してみせた。

「全米NO.1の純愛ラブストーリーだって! ネットでもすっごく評判なんだよっ。
 映画館の近くにお店屋さんもあるから、観終わったらそこで買い物していこうよ」

 あたしの返答を聞く前から、夕美ちゃんは自分の手帳に楽しそうに記入していく。


 当日、その映画のラブシーンで夕美ちゃんは顔に手を当てて(アレなシーンでは目も隠して)、クライマックスでは泣いてて――。

 かと思ったら、ランチのイタリアンであたしが自分のお皿に無遠慮に振ったマイタバスコにビックリして。
 よせばいいのに、「ちょっと一口」なんて手を伸ばして、案の定涙目になって水をガブガブ飲んで。

 洋服屋さんでは、あたしを着せ替え人形にして子供のようにはしゃいだ。

「あ……し、志希ちゃん?」
「ん?」

 ふと、夕美ちゃんがあたしの顔を覗き込んだ後、ちょっと顔を伏せた。

「ご、ごめんね。私ばかり楽しんじゃってて……付き合わせちゃったね」

「え、何で謝るの?」
 あたしには、夕美ちゃんが申し訳なさそうにしている理由が分からない。

「えっ!? だ、だって、何かヘンに私ばかり盛り上がっちゃったかなぁって」
「そんなことないよー。ところであたし、着替え途中なんだけど」
「!? わ、わっ! ごめんなさい!」
「遠慮しないでいいのにー♪」
「何がっ!?」

 ダンスレッスンの時以上に俊敏な動きでカーテンの向こうに消える夕美ちゃん。
 にゃははー、やっぱり夕美ちゃんは楽しいねー。


 夕美ちゃんは、あたしにとって新鮮なもの、あたしに足りていなかったものを絶えず供給してくれる。
 それは、たぶん彼女にとってはごく当たり前のことなのかも知れない。

 あたしを普通の女の子として見てくれる夕美ちゃんは、あたしにとって初めての人だった。

「夕美ちゃん」
「ん、何?」

 服屋さんを出て、大きな袋を両手にいくつも抱える夕美ちゃんがくるりと振り返る。
 中身はほとんどあたしのものだ。

「次は、夕美ちゃんの行きたい所、行こうよ」

「私の?」
 夕美ちゃんが首を傾げる。
「さっきの服屋さんがそうだよ?」

「これは推測だけど」
 あたしが彼女の顔を下から覗き込むと、夕美ちゃんはちょっとたじろいだ。

「たぶん夕美ちゃんはさ、悪いこととか、人を困らせるようなことって、したことないでしょ」
「えっ?」

 呆けた夕美ちゃんの顔が面白くて、あたしは畳みかけてみる。

「せいぜい、アイスクリームを寝る前に食べちゃう程度とみた」
「な゛っ!!」

 にゃははー、分かりやすーい♪
 そしてそれを悪いことだと本気で思ってるんだね。

「さらにその後、歯も磨かない」
「は、歯は磨くよっ! 虫歯になっちゃうもん!」
「やっぱ食べちゃうんだ?」
「――!!?!?」

 お腹を抱えてゲラゲラと笑う。
 あたしのアイドルとしての知名度はまだそんなに無いけれど、往来のど真ん中で大声を張り上げれば、そこそこ人目にはつくものだ。

「し、志希ちゃんっ! 恥ずかしいから、もう行こう、ねっ?」
「うんうん、夕美ちゃんの行きたい所にね」
「だ、だから私のは……」

「今日は夕美ちゃんがエスコートしてくれてばかりでしょ?
 あたしに気を遣わないで、もっと好きな所行ってもいいよ、ていうか行こう」

 袋を持つ夕美ちゃんの手を上から握って、あたしは大きく振り上げた。

「わ、わっ!? ちょっと志希ちゃん」
「れっつごーとぅーゆぁふぇいばりっと、らいとなーう。にゃははー♪」


「わ、分かったから! じゃあちょっと、志希ちゃんこっち」

 夕美ちゃんは、あたしに捕まれていた手をそのままグイッと引いて、違う方向に歩き出した。
 引っ越しの時も思ったけど、実は夕美ちゃん、結構力持ちだよね。

 荷物を駅のロッカーに預け、連れられた先は――。
 へぇー、お花屋さんかぁ。

「ひょっとして、夕美ちゃんまたあたしに気を遣った?」
「えっ、志希ちゃんもお花好きなの?」
「んーん、でもイイ匂いがいっぱいで楽しいね。ヨリドリミドリー♪」

「良かった」
 夕美ちゃんは穏やかに笑って、屋外に並べられた苗の上に屈み込んだ。

「それは?」
「ベゴニアだね。割と年中楽しめるお花なんだけど、ほら、よく見てみて」

 彼女が指差した先に、目を凝らしてみる。

「お花の形が、左右非対称でしょ? こっちの子なんか、ハートみたいっ。
 花言葉も、『親切』とか『幸福な日々』とか、どれも明るいカンジで好きなんだー♪」

「これを買いたかったの?」
「ううん」

 夕美ちゃんは、なぜか首を振った。

「お花屋さんに来る時は、欲しいものをイメージして来ることはあまり無いの。
 そこへ行って、その時にいいなって自然に思ったものを、育てるようにしてて」

 ベゴニアの苗を一つ手にとって立ち上がり、花弁を指先で愛おしそうに撫でる。
 あたしに向けたその表情は、なぜか赤ら顔だった。

「へ、ヘンかな……?」
「んー、分かんない」
「そ、そうだよね! ごめんねヘンなこと聞いて」

 恥ずかしそうに手を振って、そのまま夕美ちゃんは、別の花を2、3コ手にして店を出た。

「夕美ちゃんの家にも行っていい?」
「えっ? い、いいけど、どうせ帰る所一緒じゃない?」

 夕美ちゃんとあたしは、マンションが同じだ。
 事務所が借りている部屋が何戸かあり、主に地方から上京してきたアイドルの単身住まい用として提供されている。

 夕美ちゃんの実家は、神奈川の南の方らしい。
 神奈川ってどこだっけ?

 あぁ、東京の南かー。

「ま、まぁ知らない人にとっては分からないよね」

 苦笑しながら、夕美ちゃんは自分の家のドアを開けた。
 おそらく普通の人にとっては常識なんだろうけど、気を遣って流してくれる辺り、夕美ちゃんはやっぱり優しい。

 そして――。



「……へぇー」

 夕美ちゃんの部屋は、あたしの想像をはるかに超えていた。
 なるほど、あたしのラボを見て変人呼ばわりしないのは、あたしに気を遣ってくれたからだけではないらしい。

 彼女もなかなかのレベルで変人だ。

 夕美ちゃんの部屋は、まるで植物園だった。
 リビングもバルコニーも、床もテーブルの上も、至る所に大小色とりどりの花が咲き乱れている。

 よくよく見たら、植木鉢や花瓶だけでなく、スリッパやトイレのペーパーホルダーのカバー、食器、冷蔵庫のマグネット等、あらゆる小物に至るまで、花柄のモチーフで溢れていた。
 ここまで徹底していると、感心してため息が出る。

 心持ち、黄色系統の花が多いかな――夕美ちゃんの好きな色なのかも知れない。
 そういえば、さっき買ったベゴニアという花も黄色だ。

 部屋を観察している内に、バルコニーの方でゴソゴソしていた夕美ちゃんが戻ってきた。

「さっき買った子を、鉢に植えなきゃ。志希ちゃん、こっち来てみて」


 そこそこの大きさの鉢植えに、袋詰めにされた土をスコップで入れていく夕美ちゃん。
 いくつか種類があるらしい。

「今日買ったベゴニアは、四季咲きベゴニアって言って、一番ポピュラーな品種なのっ。
 それで、これを植える時の土の配合は、腐葉土を入れて、あとは水はけを良くするために小粒の赤玉土と、パーライト、あとはこの……しょっと、このピートモスっていう、コケを乾燥させたヤツを混ぜ合わせるといいかな。
 で、苗をこう入れて……お水はたっぷり入れます。何でもそうなんだけど、土に直接こうして……ほら、下から出て来たでしょ? ここまでちゃんと……」


 言いかけて、夕美ちゃんは止まって、顔を俯かせた。

「? どうしたの?」
「ううん……また、一人で突っ走っちゃったかなぁって。ごめんね」
「えぇー?」

 夕美ちゃん、またヘンな所で謝るなぁ。おかしくないのに謝るのはおかしい。

 でも、一つ分かったことがある。

 夕美ちゃんの面倒見の良さは、どうやら花の世話をしていく中で培われたものらしい。
 これだけ多くの種類があると、花を咲かせる時期も、留意すべきポイントもたくさんあるだろう。
 それらを全て把握して、時宜を得た世話を続けていくことは、並大抵のことではない。

 彼女は、どうやら本当に良い子なのだ。
 そして――。

「夕美ちゃん夕美ちゃん」
「え、何?」
「あたしにも育てられそうな花、あるかにゃ?」


「それなら、このベゴニアあげるっ!」

 暖かくて力強い優しさは、あたしの価値観を容易く破壊してくれる。


「え、いいの? やったー、ありがとー♪」
「ヘンな薬とかあげちゃダメだよ?」
「にゃははー、その可能性は否定しない」
「否定してっ!」


 次に起こり得る事象を絶えず予測し、検証することに慣れきっていたあたしにとって、夕美ちゃんの与えてくれる刺激はどれも新鮮で、身を任せているだけで楽しいものだった。

 ――――


 先般の疑問の答えは、今のところハッキリとは表れていない。

「今日は皆さん、ありがとうございましたぁー!!」
「次にやるときも、また来てねー!」


 夕美ちゃんとあたしは、ユニットを組むこととなった。

 頑張り屋さんの夕美ちゃんは、どういうわけかあたしをライバル視というか、目標の一つとして捉えたようである。
 もっと目指すべき人いると思うんだけどなぁ。

 なんてウカウカしていたら、気づくとあたしよりも良いステップを踏むようになっているから面白い。
 どれ、あたしもアチョチョチョーッてね♪

「わ、わぁ……やっぱり志希ちゃんはすごいなぁ」

 あたしのステップを食い入るように見て、夕美ちゃんは今日も居残りでレッスンをする。
 好きでやっているんだから、志希ちゃんは付き合わなくていいよ、って夕美ちゃんは言うけど、それはあたしを止める理由にはならない。

「それなら、あたしも好きで夕美ちゃんの自主練に付き合うから、気にしないでいいよー♪ どんとまいんど」
「だ、だからっ! 志希ちゃんが一緒に上手くなっちゃうと、差が縮まらないでしょっ!」

 どうやら、一方的に負い目を感じているようである。
 なーんかニホンジン的なんだよねー。卑下や謙遜は美徳ではない。ましてあたし達アイドルだよ?

「夕美ちゃんがあたしより魅力的じゃないなんてこと、絶対にないんだからね?」
「……えっ」
「まーあたしの方こそ負けるつもりないけどねー、負けてもいいけど♪」
「な、何を言ってるのぉ志希ちゃん~!」


 ユニットを組んでいるから、人気の差が現れにくくなっている、という可能性もある。
 どちらが優等なのか、定量的な評価は難しい。

 だが、あたしはケミストの端くれとして、物事を分析することは不得手ではない。
 あえて断言しよう。


 夕美ちゃんはアイドルだ。
 それこそお花のように、およそ全ての人に愛される、アイドルになるべくしてなった子だ。

 誰かを楽しませるための配慮も、地道な努力も惜しまない、美しい心を持った子なのだ。
 徹底して自己中なあたしと違って。

 ベタ褒めしすぎかにゃ?
 夕美ちゃん本人に聞かせたら、きっと顔を真っ赤にして狼狽えるだろう。
 あえて実証せずとも、それは手に取るように分かる。

 一方で、一つ断りを入れさせてもらうならば――。


「夕美ちゃーん」
「んー?」

「これ、枝がちょっと伸び過ぎちゃったカンジかにゃ? どう思う?」

 夕方、レッスンを終えて自分の部屋に戻り、鉢植えを持って夕美ちゃんの部屋に行く。
 ほとんど日課と言っても良い。

 そして、夕美ちゃんに聞かずとも、本当はそれくらいの判断はあたしにも既にできている。
 参考文献をテキトーに(なんて言ったら夕美ちゃん怒るだろうけど)紐解いて得た知識によれば、これは剪定が必要なレベルだ。

「うーん、そうだね~……ちょっと貸してっ」

 夕美ちゃんは、毎度毎度、嫌な顔ひとつせずあたしの相談に応じてくれる。

「そうだね、ちょっと葉っぱも付いちゃってるかも……
 この辺りを少し剪定してあげると、もっと高く元気に育つと思うよっ」
「わぁーい、さすが夕美ちゃんっ♪」


 一つ断りを入れさせてもらうならば――やはりあたしは、夕美ちゃんに好意を抱いている。

 かつてのダッドやママ以外で、初めて安心して寄りかかることのできる夕美ちゃんの存在は、あたしの中で次第に大きくなっていた。

 客観的な視点を保つことは、どうやら困難になってきている。
 それは否定できない。

 ――――


 ――オーウまいがっ。
 これは想定外のカロリー量だねー、キミ写真と違くない? なーんて。

「あ、いた! 志希ちゃんっ!」

 街角の屋台でお兄さんからクレープを受け取り、振り向いた先には夕美ちゃんがいた。

「あ、夕美ちゃんだー。にゃははー、食べる?」
「食べるじゃないでしょっ! ほらっ、レッスン戻ろう」
「だよねー」

 生クリームが零れるのもいとわず、ガシッとあたしの手を掴んで引っ張る夕美ちゃん。
 ホント力強いね。



 夕美ちゃんは、失踪したあたしを見つけるのも上手だった。

 元々、あたしの失踪には意味なんて無い。
 興味が3分しか持続しない、飽きっぽくて落ち着きの無い、ともすれば多動性障害と言われかねない性分は、失踪の誘因の一つではある。
 でも、物事に飽きたその捌け口が失踪に帰着する理由は、あたしにもよく分からないのだ。

 意味も理由も無いので、傾向も統一性も無い。
 ある時は衆目溢れるターミナル駅の中にあるカフェだったり、ある時は都会の喧噪から離れた公園の遊具で遊んでみたり。
 畑仕事をしているお婆ちゃんに、おにぎりをごちそうになったこともあった。
 それはともかく。

 あたし自身にさえ分からないあたしの行く先が、他の誰かに看破されることはそう無いはずだった。

 それでも夕美ちゃんは、その日のうちに容易くあたしを探し出してしまう。
 今日みたいに、午前のレッスンを抜け出して、昼過ぎに見つかることなんてザラだ。


 ムキになるなんて、ガラじゃないんだけど――。



 ICカードを改札にかざす。
 事務所から支給されるまでは、持っていなかったものだ。

 未だにあたしは、電車の乗り方がいまいち分からない。
 ホームのどこに並んだらいいのか、目的の乗り換え路線をどう見つけたらいいのか。
 そんな気は無かったのに列に割り込んでしまって、余裕なさげなサラリーマンのおじさんに怒られた。

 システムも面倒だし、人も多いので、失踪に使うことはそんなになかった。
 だけど、今日は思い切ってどっかに行っちゃおう。
 乗り方も目的地も分からないなら、かえって好都合だ。

 たどり着いた先は、無人駅だった。

 設置されたばかりであろう、不釣り合いなほどピカピカの改札にICカードをかざす。
 出てから気づいたけど、乗り越し精算機とかいうヤツが見当たらない。
 もしカードにチャージした残金が足りなかったら、どうすればいいんだろう?

 まぁいいや、えーと――現在、午前11時半。
 およそ2時間乗って、たぶんここはまだ東京なのかにゃ?


 あー、それにしても良い天気ー♪
 緑豊かな山々と小川、およそ東京とは思えない田園風景が歩けど歩けど続いていく。
 たまーに車が通りすぎる以外は、なーんにもない所だった。

「……なんか懐かしいな」
 誰に聞かせるでもなく、口から零れ出た。
 懐かしい――?

 確かに、記憶の中にあるあたしの生まれ故郷、岩手はこんなカンジだったかも知れない。
 何にもなくて、優しくて――退屈で。


 そのうちに、そこそこ大きな公園が見えてきた。
 車での旅行者が立ち寄るための、道の駅みたいなものかにゃ?
 でも、管理人らしきお爺ちゃんが小屋で寝ている以外は、一人の利用者もいないようだ。

 ちょっと喉が渇いたので、自販機でジュースを買う。
 一口飲んで、なんかヘンな味がしたので、賞味期限を見ると昨年の日付だった。

 ポイッと投げ捨てて、公園の入口へ――あ、入場料なんて取るんだココ!
 にゃははー、セコいねー。でも、お世辞にも経営が順調そうには見えない。

 ペンキ缶に穴を開けただけの粗末な料金箱に100円玉を1枚。
 ――いや、2枚入れてあげるか。

 木々に囲まれた遊歩道を5分ほど歩くと、視界が開けた。
 辺り一面に芝生が広がり、右手にはそこそこ大きな木が一本植わった小高い丘が見える。

 ロクに管理もされてなさそうなのに、綺麗な芝だな。
 そう思いながら、あたしは丘の上を目指した。
 存外に広い視界はあたしの遠近感覚を狂わしたようで、目的地までは結構距離があり、たどり着くころには息が上がっていた。

 ふぅっ、と息をついて腰を下ろしたが最後、そのままデーンッともんどり打って寝転んでしまう。


 どこまでも晴れ渡る青空。通り抜けていく爽やかな風。

 よく言われる、ゲンダイジンに必要なゆとりじゃないかにゃ? コレって。
 年がら年中やりたい放題のあたしがゆとりを説くのもなんだけど、あのサラリーマンのおじさんは、たぶん来た方がいい。

 まぁいっか。
 気持ち良いのは事実だし、目を瞑って、このままウトウトとまどろんでいくのも悪くない。


 今日は、大した予定はなかったな。
 仕事もレッスンも無くて、今度出るオーディションの戦略を練ろうって、プロデューサー言ってたっけ。
 あたしだけが出るから、夕美ちゃんには関係が無い。そもそも彼女は今日一日オフだった。

 つまり――今あたしが失踪したという事実すら、夕美ちゃんは知る由も無い。

 さすがに、今日のあたしを見つけることはできないだろう。

 ――――。


 風が吹いた。
 甘い香りが鼻腔を刺激して、目を覚ます。

 寝転んだまま見上げると、頭上の木にオレンジの花がチラホラと咲いているのを見つけた。


 これは――。
「キンモクセイだねっ」



 ――?


「そっかー、もうそんな時期か。
 私と志希ちゃんが出会って、もう半年くらい経っちゃったんだね」

 寝転んだ視界の中に、水玉模様のスカートが揺れる。
 季節はもう秋に差し掛かっていたけれど、青空の下に咲く夕美ちゃんの爽やかな笑顔は、春か夏のそれだった。


「……夕美ちゃん、もう少しめくって」
「ど、どこ見てんのっ!?」

「なんで、夕美ちゃんがここにいるの?」

 ひょっとして、GPS?
 体を起こし、パタパタとしてみるけど、異物が服にへばり付いてる感覚は無い。

 それか、夕美ちゃんらしく、花の匂いを擦りつけてるとか?
 ――ってそんなわけないか、犬じゃあるまいし。
 大体、今日着た服に付ける暇なんて無かったし、それならとっくにあたしが気づいてる。

 こんなにも馬鹿げた仮説を想起するほど、夕美ちゃんの突拍子も無い行動はあたしの思考を破壊してしまうらしい。


「まぁ、それはそれとして。
 はいっ! キンモクセイの花言葉は何でしょう、志希ちゃん?」

 強引にあたしの質問を無視して、夕美ちゃんはあたし達のそばにあるそれを指差した。

「夕美先生の花言葉抜き打ちテストだよっ♪
 せめて、お花の知識くらいは志希ちゃんに良いところ見せたいなって」

 ――ま、いいや。

 知識として蓄えがないものは、予測するしかない。

 キンモクセイの特徴といえば、その甘い匂い。
 こんな小さい花弁とは似ても似つかない、その主張の強さを言い表すならば――。

「大胆、とか?」
「えへへ、ハズレー♪」

 夕美ちゃんは得意げに鼻を鳴らした。
 妙に楽しそう、というか嬉しそうだ。

「キンモクセイの花言葉は、『謙虚』。
 香りの強さとは裏腹に、控えめなお花を咲かせるから、っていうのが理由みたいだね。
 他にも、『真実』とか、色々あるけど」

「えぇー、謙虚?」
 あたしは憤慨した。
 なるほど、逆の発想だったかぁ。とはいえ、この強い匂いのどこが謙虚だというのか。

「夕美せんせー。志希ちゃん納得できませーん」
「そうはいっても、そう言われてるんだからしょうがないでしょ」
「誰が決めるの? 花言葉って」
「ん? それは……」

 あたしの隣に腰を下ろして、夕美ちゃんは空を見上げた。
「昔の人が決めたんだよ、きっと」
「決めたモン勝ちってこと?」


 ――ふふ、イイことを思いついた。

「ってことは、新しい花の花言葉は、あたしが決めてもいいのかにゃ?」

「えっ?」
 夕美ちゃんは驚いてあたしに向き直る。

「まるきりの新種は難しいにしても、例えば、このキンモクセイのお花。
 新しい色の花弁のキンモクセイを開発できたら、あたしがお似合いの花言葉をつけてあげようかなぁって」

「志希ちゃんは、すごいことを考えるね」

 呆れるように、夕美ちゃんは笑った。
 あのね、凡人のフリしてるようだけど、夕美ちゃんも大概なんだよ?

「新しいキンモクセイは、どんな色にするの?」
「んー……ピンクかな」

 どうせなら、ギラギラにドギツい真っピンクの花弁をいっぱい咲かせてやろう。
 そしてこの匂いである。『大胆』以外の花言葉がどこにあ――。

「それ、志希ちゃんの好きな色だねっ!」
「?」

 ――言われてみればそうかも?

「そう言えば、いつぞや夕美ちゃんに飲ませようとしたおクスリもピンクだったっけ。
 あれはケッサクだったなー、夕美ちゃんホントに飲もうとしてさ♪」
「んもうっ、知らなかったんだからしょうがないでしょ!
 志希ちゃんのことをだんだん分かってきてからは、ちゃんと警戒してるし」


「あたしの失踪先が分かるのも、あたしを理解してくれているから?」

 ――しばしの沈黙の後、夕美ちゃんは、優しくニコリと笑った。

「志希ちゃん、私ね? 失踪には、二種類あると思うの」
「ふむ?」


「見つけてほしい時と、見つけてほしくない時」


 夕美ちゃんの綺麗な金色の横髪が、静かに凪いでいく風に揺れてキラキラ光るのが見える。

「志希ちゃんは、たぶん前者だと思ったから、見つけたいって思ってるだけなんだ」


 ――あれ、理由になってなくない?

「ここはあたしも知らない場所だよ。
 勝手な思い込みで見つけてくれるのは嬉しいっちゃ嬉しいけど、どうやって見つけたのかにゃ?」

 ここは都心部から遠く離れている。
 当たりをつけるでもしない限り、オンタイムでたどり着くのは物理的に不可能だ。

「ただの、まぐれだよ」
「マグレ?」

「つまり、すごくラッキーだったってこと。
 でも、あらゆる場所をしらみ潰しに当たってでも、見つけなきゃとは思っているの」

「あたしが、夕美ちゃんの友達だから?」

 しれっと爆弾を投下してみた。
 自分で自分のことを友達などと、我ながら思い上がりも甚だしい。

 顔を真っ赤にして照れるのか、それとも、顔を真っ赤にして否定するのか。
 夕美ちゃんの性格からして、たとえ違っていたとしても、否定をすることはないだろう。

 でも、夕美ちゃんの返答は、あたしのいずれの予測とも違っていた。

「いつか、志希ちゃんの本当の笑顔が見たいから」


「――もっかい言って?」

「誰よりも謙虚で慎み深い志希ちゃんが、誰にも遠慮せずに心の底から笑う姿を見たい」

 おもむろに立ち上がってキンモクセイの花弁を一つ摘み、夕美ちゃんはそっとあたしに向ける。

「私がその一助になれたら、って思うの」


 ――おーぅ。まい、がっ。
 ゆーあーきでぃんぐみー、夕美ちゃん。

「いつでも自由奔放でやりたい放題、迷惑かけ放題のあたしを捕まえて、謙虚で慎み深い?
 にゃははー、こう言っちゃ悪いけど、夕美ちゃんは人を見る目が無いねー♪」

「そうかな」

 ふぅっと息をつくと、彼女は目の前に高く広がる青空に負けないくらい透き通る声で笑いかけた。

「帰ろっか!」

「そうだね」
 あたしも立ち上がる。
「帰ろう」

「お得意の『にゃはは』笑いもいいけど、いつか志希ちゃんの本当の笑いを、見れるといいな」


「……気が向いたら、黄色のキンモクセイも開発してあげるよ。夕美ちゃん、黄色好きでしょ?」
「えっ? よく分かったね。でも、黄色のキンモクセイは既にあるから大丈夫だよっ」
「何が大丈夫なのかにゃー?」

 小屋の中で寝ている管理人のお爺ちゃんに二人で手を振り、公園を後にする。


 まるで今のあたしが本物じゃないみたいな言い方をされたようで、少し心がささくれ立ったのは、言わないでおいた。

  『すごいぞ、志希! お前は何という子だ』


  『どんな無理難題をもいとも容易く乗り越え、新たな発見をこの世界にもたらし続ける』


  『まさに至宝だ。砂糖粒がダイヤに変わるのと同じくらい、お前は奇跡の象徴だ!』


  『次は何をしてくれるんだ? プルトニウムの半減期を5秒に縮めてみせるか?』

  『それとも、太陽光エネルギーの変換効率をほぼ100%にまで高める触媒を発明してくれるのか?』


  『何だってできるだろう。なぜなら志希、お前は――』

 ――――。


 ――初めての失踪は、4年ほど前。

 歴代最長であり、今なお記録は更新を続けている。



 夕美ちゃんの言うとおり――こうして夢に見る程度には、あたしは彼らに、見つけてほしいのかも知れない。

「志希! これはどういう事だっ!!」

 あたしの後ろで、彼の怒鳴り声が聞こえた。
 生返事でそれに答えるあたしも、すっかり日常のワンシーンだ。

「んー? 新しいお花の生成実験」
「事務所全体にキンモクセイの匂いが充満してるのはそのせいか!?」
「ごめんねー、換気扇を伝って全部に回っちゃうみたいで」
「チキショウ! これから外回りだってのに『キンモクセイの匂いする人』って後ろ指さされちまう!!」

「アハハ、えーと……ごめんねPさん、私が止めなかったせいかも」

 頬を掻きながら、場を宥める夕美ちゃん。
 その“大人な対応”が、何となく不愉快に思えてしまう。


 あの日、夕美ちゃんに言われてから、あたしの言動はますますエスカレートした。
 こうして事務所全体に迷惑をかけることなんて序の口。
 レッスンやお仕事に時間通りに到着したことなんてまず無いし、気が乗らない時はドタキャンだってした。
 その度にプロデューサーは頭を下げた。あたしも下げさせられた。

 あたしが謙虚で慎み深い――。
 夕美ちゃん、これを見ても同じことが言えるの?

 ムキになるなんて、ガラじゃない。
 だけど、明らかに誤った認識は正すべきだ。
 スペクトルが卓越していれば、それだけ明瞭な判断が可能となる。

 あたしは、違う。良い子なんかじゃない。

 彼の――ダッドの期待の全てに答えようとしたけど、それを達成できずに逃げたあたしの本質は、謙虚なんかでは決してない。

「にゃははー! プロデューサー、じゃあこれをキミにかけてあげよ~♪」

 そう言って唐突に霧吹きをシュシュッとプロデューサーの顔に吹きかける。

「ぶへっ!? な、何だ、うわくっせぁ!!」
「にゃはははー! どう? 志希ちゃん特製のキンモクセイ濃縮フローラルノート」
「ぐわああぁぁっ!!! 逃げ場が無いっ!! 顔の隅々まで甘ったるい香りがぁ!!」

「そーれ夕美ちゃんにも、えーいっ♪」

「わっぷ!?」

 夕美ちゃんの綺麗な顔にも霧吹き攻撃をした。
 どうかにゃ? いっそ、怒ってくれたりしないかな。

「えへへ、志希ちゃん、私はお花の香りは好きだからノーダメージだよっ♪」

 夕美ちゃんは固く絞ったタオルで軽く顔を拭くと、ニコッと笑い、手際よくそのタオルでプロデューサーの顔をゴシゴシ拭いてあげた。
「うっぷぁ! 夕美、もう少し優しく……!」

 なぜ夕美ちゃんは、あたしを謙虚と評したのか?
 改めて考え直した結果、あたしは違う可能性を見出した。

 いつか謙虚になってほしいという、将来に向けた願望。
 あるいは、そばにあったキンモクセイから得た、深い意味を持たない思いつき、といったところか。

 夕美ちゃんは、時に大胆だけどしっかり者で、あたしみたいにテキトーな事は言わない。
 差し詰め前者だろう。
 彼女らしくやんわりと、相手を思いやりつつ、そっと注意を促したと考えるのが自然だね。

 そうであるならば、過激さを増すあたしの言動は、彼女の期待に反するものだ。
 夕美ちゃんは、昨今のあたしを見て心を痛めていることになる。
 良好な関係を築けていた二人の間に、このままだとほころびが生じてしまうかも知れない。

 しかし、それはあたしが態度を改める理由にはならない。


 なぜあたしは、こんなにもムキになるんだろう?
 こんなに好きな夕美ちゃんを、困らせなくてはならないのだろう。

 それは、あの日にできたあたしの心のささくれが、まだ根強くこの胸にこびり付いているからに他ならない。

 人はレッテルを貼るのが大好きだ。
 ケミカルの現場にいた時から、それは重々承知している。

 人は無知を恐れる。

 学術論文の発表の場において、本当の真実なんてほんの一握りだ。
 いかに通りの良い、それらしい、反論の余地が無い屁理屈を提唱するか。

 彼らの世界では、優秀なプレゼンターであることが優秀なケミストの条件だった。
 ほんの一握りの真実を本当に解明してしまう、あたしを除いて。

 非の打ち所の無い正論は、嫌われる。


 自分の物差しで測れないものを、彼らはやがて恐れた。
 その結果として、ひとまずのキャラクタライズを彼らは試みた。

“ギフテッド”というレッテルは、異物と見なされたあたしを端的に表する記号だ。

 そして――ダッドさえ、その安直な記号でしかあたしを見ることができなくなった。

 あたしは、やっぱり見つけてほしいのかな――。


 ガレージに置いた冷蔵庫をカパッと開けて、エナドリを一本。
 プロデューサーが最近、他所の事務所から仕入れてきている栄養ドリンクらしい。

 それと、ふむ――今日はビールは入っていないな。
 見つけた夕美ちゃんが彼を叱りつけるのを見るのも、それはそれで楽しいんだけどね。
 今度コッソリ買って入れてみようかにゃ。ふふっ。


 ――おっといけない。滴定を始めてからもう2分を過ぎている。
 濃度を測定、ふむ――66%。予測通り。優秀優秀。メモメモ。

 なりゆきと気まぐれで始めたピンクのキンモクセイ作りは、思いのほか時間を要する。
 それは、あたしにとってはたぶん、歓迎すべきことだった。

 絵の具のようにピンクの色素を配合すればピンクになるわけではない。
 計算と予測、そして――根気だ。
 無いんだよねー、根気。


 夕美ちゃんはあたしを信じている。
 謙虚、だと内心は思っていないのかも知れないが――そうあってほしい、それができる良い子だと思い込んでいる。

 そう信じたいだけなのだ。

 あたしに貼り付けたレッテルが間違いであることを、彼女はきっと恐れている。

 皆、そうなんだ。
 所詮、自分の物差しでしか評価できないのだから。


 あたしは良い子なんかじゃない。そして――。

 夕美ちゃんは、良い子だ。
 だから、彼女を困らせることはしたくないけど、認識は改めてほしい。

 そして――できる限り早く、彼女にピンクのキンモクセイをプレゼントしたいなと思う。


 温暖な気候条件に調整したプラケースの中で、丁寧に配合した土壌に薬を数滴垂らす。

 生育を早めるため、細胞分裂を促進させる――つまり、寿命を縮める。
 花弁をピンクにするのと同じくらい、生物の摂理に反する行為だ。

 夕美ちゃんが知ったら、怒るかな。それとも、卒倒しちゃうかな――。

「仕事を休みたい?」

 驚きの色を多分に含んだ彼の声が事務室に響く。

「すみません、Pさん」
 夕美ちゃんの顔は、いつも通りの笑顔を装ってはいるけど、どう見ても少し暗い。
 彼女のことだから、申し訳ないという思いがあるのか。

「体調が悪いのか?」
「ううん、私は全然です。ただ、ちょっと実家の方に」

 急な話ではあった。
 なにせ、5日後には各芸能事務所合同のライブイベントを控えている。
 あたしと夕美ちゃんも、順調に人気を集めてきたユニットだから注目度も高いのだ、とはプロデューサーも言っていた。

 そして、夕美ちゃんはこういう時にシャレを言うような子ではない。
 すごく重要な用事があるんだなと、あたしは直感した。

「理由は聞かないであげてよ」

 あたしは二人の間に割り込み、プロデューサーににへらと笑った。

「あたしなんかと違って、夕美ちゃんが大事なお仕事をすっぽかすような子じゃないの、プロデューサーも知ってるでしょ?
 ここは黙って送り出してあげるのがオトナであり、オトコってもんじゃないのかにゃー♪」

「オトコは関係ない気がする。が……まぁ、な」


 プロデューサーは、う~んと腕を組みながら呻いて、夕美ちゃんに向き直った。

「ご実家の用事とあれば、のっぴきならないものなんだろう。
 とりあえず、ライブイベントには夕美と志希の二人でエントリーしてあるが、何かあったらすぐに連絡してくれ。いいな?」

「もちろんです」

 夕美ちゃんは、しっかりと頷いた。

「……それで、私に何か、用?」


 陽が落ちるのも早いし、マンションの屋外廊下を通り抜ける風も肌寒い。
 一緒の仕事帰り、マフラーに顔を埋めながら自分の部屋の鍵を開ける夕美ちゃんは、あたしに不安げな表情を見せていた。

「あたしに言えない用事なのかにゃ、って」

 バチは当たらないはずだと思った。
 何せ、一緒にユニットを組む、切磋琢磨してきた仲間同士だ。


「……うん、そうだよね」

 夕美ちゃんはドアを開け、あたしを中に招き入れた。



「これは……?」

 一目見て、異常事態である。

 花が――お部屋の中に、一つも無い。


 いや、さっき通った玄関と、トイレと、冷蔵庫の上――。
 そういう所には、申し訳程度だけど、あるにはある。

 だけど、こんなにお花が少ないなんて一体――。
「あ、ううん」

 驚きを隠せないあたしを見るにつけ、夕美ちゃんはまるで言い訳をするかのように声を掛けた。

「あ、あるよ? お花は今、バルコニーと、こっちに寄せてあるの」
 そう言って、夕美ちゃんはリビングの脇にある収納スペースの扉を開けた。

「おぉ~」

 にゃるほど。
 収納の中は、黄色とか白とか、どことなく統一された花々で一杯だ。

 よく見ると、花が置かれていたはずのリビングの床は、たぶん服とかを入れているであろう収納ボックスが雑然と置かれている。

 ふふふ、後で夕美ちゃんの下着とか物色しちゃおうかにゃ?


 でも――。

「何でこっちに入れてるの?」

 パッと見て、夕美ちゃんらしくないなと思った。
 お花が大好きの夕美ちゃんが、まるで視界に入らない所へお花を隠しているみたいだ。

「んーと……こっちの子達は、温度とか湿度とか、気にしてあげる必要があるの。
 ほら、最近、寒いし」

「ふーん」

 そうであるなら、バルコニーに置いてあるお花は気にしてあげなくていいのかにゃ?
 まぁ、種類にもよるのかも知れない。あえて掘り下げることも無いか。

「この子達の面倒を、しばらくは丁寧に見てあげたいな、って思って」


 ふむふむ――。

 そっかそっか。

「納得したよ夕美ちゃん、ありがと。ごめんね、ヘンに追求しちゃって」
「ううん、全然! 私の方こそごめんねっ、ちゃんと説明しなくて」
「にゃははー、いいよそんな謝らなくて。ところで」

 どうにも気になることがある。あたしはスマホを取り出した。


「ちょっと、この子達の写真、撮ってもいいかにゃ?
 あたしも今度、育ててみようかなーなんて」

「えっ? あ……うん、いいよっ」

 夕美ちゃんの表情は、本当にコロコロとよく変わる。
 彼女はおそらく、ロクにウソを付いたことすら無いんだろうな。

 一瞬驚いて、俯いて――すぐに取り繕うような笑顔を見せた彼女の表情からは、あからさまに暗い色が垣間見えた。

 上手に隠したつもりでも、あたしがそれを見抜いたことは、言わないでおいた。



 自分の部屋に帰り、パソコンでさっき撮った花の種類を調べる。
 概ねそれらは、予測した通りだった。

 この国の常識に疎いあたしになら、彼女は隠し通せると思ったのかも知れない。


 菊とか、白百合とか――夕美ちゃんの収納スペースにあった花々は、いずれも葬式によく使われるものだった。

「……志希」

 あたしの後ろで、彼の緊張した声が聞こえた。
 振り返るとやはり、相当に焦っている。まーそりゃそうか。

「さっき、夕美から連絡があってな……今日のステージは、お前一人で立ってもらうことになる」


 合同ライブの本番当日。
 夕美ちゃんがいないことを除いて、既につつがなくリハも終えている。
 いや、あの日からとっくに、あたしの腹は決まっているのだ。

 夕美ちゃんは今日、来れない。


「良かったねー、あたしまで失踪しなくて♪」

 いつも通り、にゃははと笑い飛ばしてみせる。
 一方でプロデューサーは、表情を強張らせたままだ。

「お前は、何も聞かされていないのか?
 今日のライブの重大さは、お前はともかく、夕美も重々承知していたはずだ。
 ロクに理由も明かさずに、夕美がこの仕事をキャンセルするなんて……お前の言う通り、まるで失踪だ」

「プロデューサーはさ、知ってる?」
「何?」

 これから大舞台に立とうとゆー担当アイドルに向かって、そんな暗い表情ばっかしてていいのかねキミ?
 まったく、かくして人はガラにも無い役回りを演じるハメになるのだ。

「失踪には、二種類あるんだって。
 見つけてほしい時と、見つけてほしくない時。
 前にも言ったけど、あたしと違って夕美ちゃんがシャレで失踪なんてするわけ無いんだから、心配せずにここはあたしに任せてよ。
 何たってあたしは……」


 ――少し、胸の中にあるささくれがチクリとしたけど、気にせず笑い飛ばす。

「あたしはギフテッドだからね。にゃはははー!」

 ――――。

 あたし、また何かやっちゃいましたか?
 なーんて、流行りの言葉では言うらしい。

 業界の一部では有名なお騒がせ失踪アイドルが披露してみせた圧巻のステージは、大方の予測通り、それまでと違う意味であたしを業界の有名人にした。

 しかしその話題は、それを上回るスキャンダルにより、間もなく取り上げられなくなった。



 とある日の週刊誌に、酩酊した某男性俳優が夜中に一人の女性とホテルを出入りする写真がデカデカと掲載されていた。

 それまで女性関係など明らかにされた事の無い、清潔で実直なイメージがウリだったイケメン俳優のスキャンダルは、各メディアも大いに飛びついた。
 まして、近く公開予定の大作映画の主役であり、注目度も抜群に高い、今最も旬な芸能人の一人だろう。


 しかし、問題はそれではない。

 その写真に映った女性の後ろ姿が――ボンヤリとではあるけれど、夕美ちゃんにそっくりだったのだ。

 記事に載っていた日は、まさにライブイベントの当日だった。

「夕美……どうか、落ち着いて聞いてくれ」

 事務室の応接スペースで、プロデューサーと夕美ちゃんが向かい合わせに座っている。
 昨日、ようやく連絡が取れて、夕美ちゃんがここに顔を出すのも久しぶりだ。

 当の夕美ちゃんは、普段からは想像もつかないほどに体を縮こませ、膝の上で手をギュッと握り、俯いている。
 二人に挟まれたテーブルの上には、件の週刊誌が開いて置かれている。

「事務所の中では、この記事の真偽についての意見は、半々といった所だ。
 俺自身、正直に言うとまだ明確な判断が……100%の確信が、得られないでいる。
 ただ、いいか夕美」

 プロデューサーは、極めてゆっくりと夕美ちゃんを、そして自分自身を落ち着けるように語りかける。

「どちらにせよ、俺はお前がこの件について世間から責められることの無いよう、全力でお前を守る。
 もちろん、個人の問題として片付けること無く、事務所としても対応してもらえるよう、上層部にも働きかける。
 誓って言うが、俺にはこの場でお前を糾弾するだとか、咎めたり戒めたり、追い詰めるつもりなんてこれっぽっちも無い。
 お前には絶対に、苦しい思いはさせない。約束する」


 そういう時は、「お前は絶対にやっていないと俺は信じている」って言ってあげるべきじゃない?
 ――いや、そう言うとかえって夕美ちゃんにプレッシャーを与えちゃうのかな。

 人間付き合いの経験が浅いあたしには、彼がかけた言葉の良し悪しが分からない。

「分かっています」

 小さい声でボソリと呟き、夕美ちゃんは顔を上げた。
 言葉遣いにさえ、普段の快活なカンジはどこにも見当たらない。

「そのためには、私がPさんに、本当の事を言わないといけないんですよね?」

 プロデューサーは、少し苦しそうな顔をしながら、黙って頷いた。


「この写真の人は、私じゃありません」

 週刊誌に視線を落とし、夕美ちゃんは言った。


「それじゃあ夕美……お前はこの日、どこにいたのか、教えてもらえるか?」

 糾弾するつもりは無い、ってさっき言ったじゃん。
 なーんて――茶化せる雰囲気じゃないよね。


 夕美ちゃんは、顔を上げた。
 とても悲しそうな顔だった。

「……どうしても、言わないとダメですか?」

 その返答に、プロデューサーは大いに狼狽えた。
 首を掻きながら「いや」とか「あの」とか、必死で言葉を探している。

「推論が正しくないのなら、その証拠を提示しなければならない。これを反証とゆー」


 二人の間のテーブルに、週刊誌の上から座り、あたしは夕美ちゃんに向けて首を傾げてみせた。

「プロデューサーを困らせるなんて、夕美ちゃんらしくないね?
 夕美ちゃんなら、この場で秘匿することは求められていないって、分かってるはずなのに」

「おい、志希」
 彼があたしを咎める声が聞こえる。
 でもごめんね、あたしはこういう時の空気の読み方を知らない。
 目的を達成させるための手段を選ぶ必要性が、あたしには分からない。


 ――夕美ちゃんは、やはり口を開くことはなかった。



 で、あるならば、だ。


「真実を得られないなら、いっそ真実を作っちゃおう、プロデューサー」

「は?」

 彼の口から間抜けな声が飛び出す。
 顔を上げた夕美ちゃんも、一層の驚きに満ちた表情だ。


 正しいか正しくないかは重要ではない。
 いかに通りの良い、それらしい、反論の余地が無い屁理屈を提唱するか。

 ひとまずのマスコミ対策として、今求められているのはそれだ。
 彼女を守るために、かつては忌避してきたそれをこしらえるというのも、なんとも皮肉な話である。

 だけど、背に腹は代えられない。あいはぶのーちょいす。

「二人とも、こっち来て」

 1階のガレージに着き、扉を開けると――。
「うわ、くっっせぁ!!」

 クサいとはなんだ。
 プロデューサーは相変わらずこの匂いが好きじゃないらしい。

「志希ちゃん、これは……」

 ゆっくりと、しかし真っ直ぐに、夕美ちゃんは部屋の中央に歩みを進めていく。
 そこには、プラケースに入った一本のキンモクセイがある。

「あんまりネタバレしたくなかったんだけどねー。
 ま、研究の進捗度合いはおよそ80%と言ったところかにゃ?」


 まだ小さいし、花の数も少ないけれど、ピンクと言われればピンクかなーってレベルのキンモクセイ。

「出来たんだ……」
「まだまだだよ。『大胆』にはほど遠い。
 一目見て夕美ちゃんにも正しくそれだと言わせられる状態まで、育てるつもりだったんだ」

「そっか……」

 とても小さい声だったけれど、夕美ちゃんはその日、初めて笑った。
 あたしの心も、自然と軽く浮き上がる。

「ごめんね志希ちゃん。でも……どうして、今になってこれを?」
「俺にも説明してくれないか、志希。
 これを使って、どうやってメディアから夕美を守るというんだ?」

 あたしはプラケースに手を置き、二人を交互に見た。

「夕美ちゃんが、このピンクのキンモクセイの開発実験をしていたことにする」


「何だって?」

 混乱しがちなプロデューサーを半ば無視して、あたしは言葉を続ける。

「夕美ちゃんのお花に向けた情熱が常軌を逸しているの、あたし達もファンの人達にも、十分知られているでしょ?
 お世話をするだけじゃ飽き足らずに、自分で新種を発明したくなったことにしちゃえば、そこそこ納得しちゃう人もいるんじゃないかな。
 発明したくなった動機は、たとえば普段お世話になっているプロデューサーへのプレゼントのためとか、適当に屁理屈を付けてさ」

 言いながら、あたしは夕美ちゃんの顔を見た。
 彼女は、少し驚いた顔をしてはいるけれど、冷静にあたしの話を聞いているっぽい。

「ご近所さんにもこのキンモクセイの香りは届いているだろうから、信憑性も担保できるし。
 もちろん、事務所の中での口裏合わせは必要になるけど、そこは皆にも協力してもらえるんでしょ?」
「あぁ、当たり前だ」

 プロデューサーは、胸を張った。
「何なら俺も“キンモクセイ大好き人間”として振る舞えば、プレゼントのためっていう理由づけの信憑性は上がるだろう。
 ここ最近は、外回りにだってキンモクセイの香りをプンプンまき散らかしているからな」

「じゃあ、ピンクの小物も身につけてよ。ピンクのキンモクセイを開発する理由の裏付けにもなるし」

 あたしが冗談で言ってみると、プロデューサーは少し狼狽えた。

「う、ぬぬ……よし、とりあえず手帳とスマホケースはピンクにしてみるか!」

 にゃははー、するんだー!
 これは予想外だにゃー。結構面白い反応するねーキミぃ、えいえい♪

「な、何だよ! こら、脇腹をつつくな!」


「ありがとう、志希ちゃん、Pさん」


 ふざけ合う手をピタリと止めて振り返ると、控えめに、俯き気味に笑う夕美ちゃんがいた。


「本当に、ごめんなさい……」


 謝らなくていいのに、やっぱり夕美ちゃんは謝った。
 萎縮する夕美ちゃんなんて、見たくないのに。

 まだ駆け出しで、全国ネットに出てくるようなアイドルではないことが幸いしたのかも知れない。
 メディアが大きく取り上げるのは専らイケメン俳優の方ばかりで、夕美ちゃんへの注目度は想定していたほどではなかった。

 しかし、ネット上ではかなり辛辣な意見が飛び交っている。
 彼らにとっての問題は、有名かどうかではなく、安心して叩けるネタかどうかなのだろう。
 大事なライブイベントをすっぽかして俳優と不倫するアイドルについて、悪と断じるに葛藤を抱く余地なんて無い。


 事務所としては、上層部の判断で、この件に関する公式の釈明を未だ発表していないままでいた。

 プロデューサーは、すぐにでも釈明すべきだと主張していた。
 ネットで騒がせてしまった後では、苦し紛れの言い訳だと思われる可能性が高い。

 だけど、あたしは上層部の判断も間違いではないと思う。
 下手に早いタイミングで手を打つと、いかにも用意していた回答であるかのように受け取られる可能性もある。
 まして、各メディアから強く追求されてもいないのに、自ら能動的にデリケートな発表をするのも違和感だ。

 つまり、メディアから追求されたら答える、という対応方針を事務所はとった。
 プロデューサーも、最終的には渋々それに了承した。
 決して望ましくないけど、徐々に注目度は高くなってきているし、その時はいずれ近いうちに訪れるだろう。

 留意しなきゃいけないのは、あたしが用意した“真実”は、極めて薄氷に近い代物だということだ。

 例えばの話、ライブイベント当日に事務所に引き籠もっていたはずの夕美ちゃんに関する目撃情報がどこかであった場合、一発でアウトである。
 それは、あるいは不倫疑惑そのものをシロにする証明にはなり得るが、同時に、間違いなくあたし達の“真実”をクロにしてしまう。

 一縷のほころびから一瞬で瓦解するカードは、下手に切るべきではないのだ。
 まして誰かさんのせいで、すっかりあたしの思考もフニャフニャになっちゃってるし。


 従って、今あたし達が得るべきは、“本当の真実”に他ならない。

 そして、非の打ち所の一つ無く、それを明らかにすることを煙たがる人は、幸いなことに今のあたしの周りにはいない。

 とある日。
 ――お、いたいた。

「Excuse me♪ そこのミスター」


「……え、誰?」

 あたしに呼び止められて振り返ったその俳優さんは、なるほど、確かに甘いマスクで背もスラッと高い美男子だ。
 マネージャーと思しき男の人を連れていて、こちらを露骨に警戒している。

 対して、あたしは真っ黒のカツラを被り、伊達眼鏡をかけてスーツをバシッとキメている。
 キマッているかは分かんないけどねー、客観的には見れないので。
 それはともかく。

 先日のライブイベントで注目をさらったあたしに、幸いにもこの人は気づいてないみたい。
 元々あたしを知らないのか、思いつきの変装が功を奏したのか、いずれにせよありがたい。


「件の週刊誌に掲載されたスキャンダルのことで、ちょーっとお話をお聞きしたくて~♪」

 そう言った途端、彼らはより一層あたしを鬱陶しそうな目で睨みつけた。
 そりゃそうだろう。予測通りだ。

「あのね、どこの記者さんか知らないけど、あの記事は全くの事実無根なんだよ。
 すぐにでも名誉毀損で訴えたいくらいだ」

 怒りを隠そうとせずそう捲し立てて、俳優さん達は足早にあたしのもとを去ろうとする。
 あたしの方からは、自分が記者だなんて一言も言ってないのにね。ふふっ。

「でもあの写真に映っていたのはあなたですよね?
 あの写真も、捏造だっていうんですか?」

 そう言った瞬間、彼の肩がピクッとうずいたのがハッキリと見えた。

「実は先ほど、あなたの事務所と協力関係にあるという方から、興味深いお話を聞いたんです」

 ゆっくりと振り返った彼の顔には、怒りと混乱の色がアリアリと表れている。


 真実を明らかにするには、それに一番近いであろう当事者に話を聞くのが一番だ。
 そう判断したあたしは、前もって一つの予測を立てていた。

 ずばり、彼が何者かにハメられた、という可能性だ。

 彼のスキャンダルは、主役映画の公開を目前に控えた中で発現したものだった。
 あまりにタイミングが悪すぎる。

 このスキャンダルで得をする誰かがいる、とあたしは踏んだ。

 そして、さっき彼は「すぐにでも訴えたいくらいだ」と言った。
 つまり、訴えたくてもできない事情が彼にはある。

 さも後ろ暗い事情が――。
 行動を起こしたら、それを白日の下に晒すというリスクをも背負うことになるだろう。
 藪蛇というヤツだ。

 つまり、彼の持つクリーンなイメージは、彼の事務所によって作り込まれたものであり、彼らにとってもそれを守り切れるかどうかの瀬戸際なのである。
 ネットだけでなく、メディアからも連日追求される彼らにとって、いつそのカードを切るかの葛藤は、あたし達のそれよりも深く強いものなのかも知れない。

 でも、それはあたしが彼を追求しなくていい理由にはならない。


「どうかお引き取りください。これ以上は警察を呼びますよ」

 彼のマネージャーさんが目の前に立ち、脅しつける。
 どっこい謙虚とは無縁のあたしには通用しないんだよねーそういうの。

「お引き取りしてもいいですけど、あたしが持ってる情報をどこかに売っちゃってもいいんですか?」

 そう言って、あたしはニヤニヤ笑いながら一つのボイレコを取り出した。
 中身は空。言うまでもなくブラフだ。

 でも、後ろ暗い彼らの警戒心がそれを無視できないであろうことを、あたしは知っていた。

「まずはお互い、話し合いましょうよ。できれば二人きりでね?」

 マネージャーさんには丁重にお引き取りいただき、俳優さんと二人で喫茶店に入り込む。

 本当だったら、プロデューサーにも手伝ってもらうべきだったかなぁ。
 でもあの人、結構ウッカリ屋さんだし、ヘタ打たれたらヤだし。

「それで、何をどこまで聞いているんだ、君は」

 イケメン俳優さんは、あたしを強い剣幕で睨みながらさっそく問い詰めてきた。
「まーまー」

 レモンティーにマイタバスコをチョチョッと振りながら、あたしは彼を宥めた。
 案の定、彼はあたしの動作に釘付けだ。

「使います?」
「いや、いい」

「まず、相葉夕美というアイドルは、知ってますか?」
 あたしが夕美ちゃんの写真を見せながら聞くと、彼は首を振った。

「一緒に仕事したこともない人なんて、いちいち気に掛けていられないよ。
 その子、役者でもないんでしょう?」

 この人は、バラエティ番組やラジオ等への露出も少ない、役者の道一筋の俳優さんらしい。
 アイドルの世界に頓着が無いのも頷ける。

「ただ、あの写真に載っている子がその子かどうかは、僕には分からない。
 僕にとっても知らない子だから」

 Hmmm――にゃるほど。
 彼にとっての知り合いだったなら、必然的に夕美ちゃんじゃないんだろうけど――。

 この情報だけで、直ちに断じることはできないか。

「次は僕の番だ。君は何を知っている」

「あなたの女性関係を、ほんの一部だけ」

 カップを傾けながらチラリと見ると、あんまり顔を真っ赤にさせてるものだから、吹き出しそうになっちゃった。

「法的措置をとらないのも、公明正大に自分がシロだと言い切れない事情があるからでしょう?」
「そのボイスレコーダーには何が入っている」
「今度はあたしの番です」

 あたしは、焦らすようにゆっくりとカップを置いた。

 その日の夜の記憶を聞いたところで、「ひどく酔っ払っていて覚えていない」と彼は答えるだろう。
 おそらく、酩酊していたというのは事実だ。

 ここで次に聞くべきは――。


「相葉夕美を知っているような人は、あなたの周りにいますか?」

 もしこの記事がでっち上げだったとするならば、前もって夕美ちゃんがその日のライブをドタキャンするであろう事情を知った人間が、彼の周囲にいるはずだった。
 単なるファンでは片付けられない人間が――。


「――心当たりは、一人だけいる」

 彼は続けた。

「君の言う、協力関係にある芸能事務所――今となっては厄介なライバル事務所でしかないが、そこの俳優友達がアイドルオタクでね」

 話を聞くと、専ら都内のマイナーアイドルを応援する事に執念を燃やす、変わった人がいるらしい。
 どんなに小さいイベントでもチェックし、半ばストーカー気味にその子達の活動を追いかけるオタク。

「大方、自分がそのアイドル達を育てたとでも思い込みたいんだろう。
 馬鹿なヤツだよ」


 次に話を聞くべきは、そのオタク俳優だ。

 そうと決めたあたしは、付き合わせたお礼に空っぽのボイレコをそのイケメン俳優さんに渡してその場を後にした。

 紹介されたアイドルオタク俳優さんは、想像していたよりも悪くはない容姿だった。
 まー、俳優になるくらいだし、そりゃそうか。

 あたしの素性がバレてはいけないので、カツラを変え、ギトギトに厚化粧しておいた。
 芸能ジャーナリストという設定は、まだギリギリ許されるかにゃ?

「あ、取材ですか!? あぁどうぞどうぞ、そこに掛けてください」

 オタクさんはあたしが一ノ瀬志希であることに気づく素振りを見せず、事務所の応接スペースにアッサリと案内してくれた。

 今が旬の男性俳優が大注目する若手アイドル、と銘打って特集記事を組みたい。
 そう言ったら、彼はマネージャーも通さず大喜びであたしを受け入れたのである。
 脇が甘いねー、大丈夫この事務所?


「今注目すべきは、やっぱり今井加奈ちゃんかなー!
 高知から出てきた子なんだけど、この笑顔見てよ、歯を見せて笑うのがすごく可愛いんだ。
 そして、いかなる時でもメモを取る事を忘れない。真面目だよね、今時の子には無い素朴な魅力さ。
 それでね? 皆知らないだろうけど、この子そばつゆを買っている事が多いんだよ。
 自分の家用とかじゃなくて、明らかに仕事先で、飲み物とかと一緒にだよ? ミステリアスだよねー。
 あとは、綾瀬穂乃香ちゃん。この子はバレリーナから転身しただけあって、ダンスに適正があるんだけど、注目してほしいのはそこよりもこれ!
 この、緑色のキモカワイイキャラクターのグッズをよく身に着けているんだ。
 好きなんだろうねー、彼女も等身大の女の子なんだ。普段のストイックな姿とは想像できないギャップの…」

 予測した通りだ。
 概してオタクというのは、自分の「好き」を外部に発信したくてしょうがない、どこまでも衒学的な人種なのである。
 推しメンについて滔々と熱く語る彼の姿は、あたし達のプロデューサーとちょっと重なる部分もあった。

「ふむふむなるほどー。つまり総括すると、他人を思いやることのできる子こそが愛されるべきアイドル像であると」
「えぇもちろん! やっぱ優しい子が一番だよぉ。だってそうじゃない?
 ファンの人達が求めるものを供給するのが彼女達の仕事なワケだし、それを想像し予見する、それこそがまさに思いやりなワケで…」

 にゃははー、こりゃまいったね。
 まるでハチドリのようなマシンガントーク。

 適当に相槌を打ちながらタイミングを見計らってたんじゃ埒が明かないな。
 もういいや、ちょっと強引に――。

「あたしの知る限りで優しいアイドルといえば、相葉夕美って子がいるんですけど、ご存知ですか?」



 ――――?

 急にオタクさんの顔色が変わった。

「あぁ、あの子ねぇ……」
「……何か?」

 脚を組み直して、少し大仰に咳払いをして彼は言葉を続ける。

「正直、ここ最近では一番応援している子の一人だったんだ。
 それがさ、まさかあんな事をするなんて……」

 ――役者だてら、とまでは言わないけど、ふふっ、何とも芝居がかった振る舞いだねー。
 わざとらしく伏し目がちに、暗い表情で雰囲気作って、さも自分は目撃者であるかのように気取っている。

 関係が無いように取り繕うということは、自分は第三者ではないと言ってるのと同じだ。

「何か、あったんですか?」
「え、おたくジャーナリストなのに、あの不倫騒動を知らないの!?
 ここ最近、毎日のように報道されてるじゃん!」

 とぼけたあたしを見て、彼はギアを戻し始めた。

「ライブイベントに出る予定があったのに、その相葉夕美って子、ドタキャンしたんだよ。
 お客さんには、当日になって初めてそれをアナウンスしたんだってさ。
 それで、お客さんを放って何をしたかと思えば、あの新進気鋭のイケメン俳優とよろしくやってたんだぜ?
 ヒドい話だよね、ライブには彼女を目当てに来た人だっていただろうに」

 うんうん、そうだねそうだねそれで今何て言ったキミ?

「そ、そうなんですか?
 でも、ドタキャンをしたのなら、お客さん達へのアナウンスが当日になってしまうのもしょうがないんじゃあ……」
「しょうがないって、何がだよ」
「だって、前もって「ドタキャンします」なんて言ってたらドタキャンじゃないですし、事務所側としてもその事実を知るのは当日にならざるを得ないでしょうし」

「いちいちどうでも良いことにツッコむなぁ、君は。
 そんなのは本筋と関係ないだろう、大体ね、事務所は既に知ってたって話だよ」

 ――。
「既に知っていた、とは?」

「前もって相葉夕美は、事務所のプロデューサーや相方である一ノ瀬志希ちゃんに、当日休むことになる可能性を示唆していたんだよ。
 つまり、事務所側も完全に確信犯のグルだったってことでしょ。
 仕事を放り投げるのだって信じられないのに、ましてそれを予定していただなんて……何でそんな事ができるのかなぁ、まったく」

 腕を組み、苛立たしげに指をトントン叩きながら首を捻ってみせるオタクさん。
 うーん、お芝居に疎いあたしでも、この人はちょーっと残念なカンジかにゃー。

「へぇ~~、なるほどぉ~。ところで」


 あたしは身を乗り出した。
「当日、そのイケメン俳優さんってどれくらいお酒飲んでたんでしたっけ?」

 オタクさんは、「えっ?」と一瞬驚いた顔をして、すぐに手を振った。

「いや、そんなの分からないよ。
 でも、彼もマイナーとはいえ現役アイドルと一発やれるって、相当浮かれてたんだろうね」
「彼は、普段はあまりアイドルに興味が無い、ストイックな役者さんだというお話でしたが」
「ハッ! アイツだって、カメラが回ってない所じゃ色んな女を泣かせてきたんだよ。
 人間の本性なんてそんなもんさ。下半身が付いてりゃやることは決まってる」
「なるほどー、なまじ身に覚えがあるから迂闊に言い返せないこともあなたは予測済みだったんですねー」
「ていうか、ほとんど事実みたいなもんじゃんあの記事だって、別にアイツの女癖なん……」


 ――そこまで喋って、ようやく彼は我に返ったらしい。
 一瞬、体をピタリと硬直させ、あたしの顔を恐る恐る見つめ直した。

「事実みたいなもの……とは、どういう意味でしょうか?」

「いや……事実だよ、あの記事は」
「事実みたいなもの、ということは、あの記事は事実ではないということですか?」
「うるさいな、事実だって言ってるじゃないか!」
「そう言い切れるのは、そう信じたいからですか? それとも、そういう事にしておきたいから?」
「さっきから何なんですか君は! 失礼だなぁ!」

「にゃははー、今の応答は奇妙ですねー♪」
「? ……何?」

 どうやら本当に脇が甘い。
 あたしが本物のジャーナリストじゃなくて良かったね、キミ。

「あの記事が事実かどうか以前に、イケメン俳優さんが言い返せなくなる事を予測済みだったというあたしの言及を、キミはまず否定しなきゃいけなくない?」

 いや、夕美ちゃんの潔白を証明するため、どのみちこの話は世間へ明らかにするから同じか。

「……何だと?」
「不倫騒動を知らないはずのあたしが、当日イケメン俳優さんが酩酊していた事実を知ってることにも、キミは疑問を持とうとしない。
 ぶら下げた餌に食いつきもせず、明後日のベクトルから自爆するとは驚いたよねー♪」


 顔を紅潮させ、額に汗をうっすらと滲ませながら、彼は問い質した。

「君は一体何者だ?」
「その前に、最後の質問」

 件の週刊誌を取り出し、そのページを指差す。

「この写真の女性は誰?」

 彼は首を振った。苦し紛れの、意味の無い行為だ。

「知らない」

 おや、でもやっぱ夕美ちゃんじゃないんだ。
 良かった。

「それなら良いですよ、事務所に行って聞いてきますから」
「何だって?」


「夕美ちゃんが当日休むかも知れないことを知ってたのは、事務所の人間だけ。
 あっちに行って、ここの事務所とコンタクトを取っていた人を聞いて回れば、キミの行いがバレるのも時間の問題だねー」


「あ、なっ!? き、君は……ま、待てっ!!」

 後ろ手にバイバイしながらカツラを取り、あたしはオタク俳優さんのもとを去った。

 事務所へ帰る道すがら、思考を整理する。

 とりあえず分かったのは、あの写真は夕美ちゃんじゃなかったということだ。
 知っていたつもりだったのに、その事実はあたしを大いに安堵させた。

 だが、ここで疑問が少なくとも二つ発生することになる。
 一つは、誰が事務所の内情を外部に漏らしたのかということ。

 そしてもう一つは、どうして夕美ちゃんは本当のことを隠し続けるのかということだ。


 一つ目の疑問については、大方の予測はついている。

 考えたくはないけど、夕美ちゃん(とあたし)の活躍を妬んでいる誰かが事務所の中にいて――。
 彼女をハメようと、ライブイベントをキャンセルする事実を利用することを思いついた。

 そこへ、同じくあのイケメン俳優を失脚させるタイミングを覗っていたオタク俳優の事務所にコンタクトを取り、協力関係を結んだ。

 イケメン俳優と夕美ちゃんとの不倫騒動をでっち上げれば、お互いの標的を同時に陥れることができる。
 まして、都合の悪い事情を抱えた俳優と、ドタキャンしたアイドルだ。
 反論を封じつつ、世間の心象を操作するのも簡単だし、一定の信憑性も確保できる。

 身内から不条理な反感を買った夕美ちゃんは、俳優業界の出世レースに待ったをかけるための、都合の良い当て馬にされたわけだ。


 しかし――問題は、現時点で夕美ちゃんにアリバイが無いということだ。
 彼女自身にも言ったことだけど、反証をまるでしようとしないのはいかがなものか?

 彼女にとっても、都合の悪い事実が隠されているというのだろうか――?

 事務所に着くと、プロデューサーが他のプロデューサーと思しき男性と、取っ組み合いのケンカをしていた。
 他の社員さん達も、総出で彼らの周りを囲んでいる。


「お前、よくもウチの夕美を……!!」
「こっちの台詞だ! お前らのせいで、どれだけ俺達が精神的に追い詰められてきたか知らないくせに!!」
「知るかこの野郎っ!!」

 普段あたしのオモチャにされている彼からは、想像もつかないほど怒りに満ちた表情だ。
 怒らせなくて良かった、などと暢気なことを言っていられる状況ではない。

「あぁそうとも、お前らには分からないだろうな!
 後進にアッサリと追い越される側の気持ちが! 蹴散らす側のお前らにはな!!」
「夕美や志希の人気は、彼女達自身が努力して勝ち取ったものだ!! 軽々しく得たものなんかじゃない!」
「一ノ瀬志希は才能だけで食ってるようなもんじゃねぇか!! ふざけやがって、あの子と組めれば誰だってトップになれるわ!」
「夕美は志希にぶら下がってなどいない!! あの子達を馬鹿にするなっ!!」
「散々惨めな思いをさせてきたヤツらが、よくもいけしゃあしゃあと!! ちきしょう!!」


 ――Hmmmm、にゃるほどにゃるほど。
 なんとなーく、今の彼らのやり取りで、おおよその察しはついた。

 大の男二人のケンカをいたいけなJKが仲裁できるわけもないので、そそくさと彼らの脇を通り過ぎてガレージへ向かう。

 扉を開けると、夕美ちゃんが隅っこでうずくまっていた。

 かわいそうに――心根の優しい彼女は、自分のせいであの人達がケンカをしていると思っているのかも知れない。
 でも、それは全くのお門違いだし、今のあたしには夕美ちゃんが無実であることを証明する用意がある。

「夕美ちゃ……」

 言いかけて、あたしは言葉を止めてよくよく彼女を見た。

 目の前の女の子は、膝を抱えた姿勢のまま、ゆっくり顔だけを上げてこちらに向けた。
 あたしに対し、ひどく怯えているようだ。


 この子は、夕美ちゃんじゃない――でも、似ている。
 髪型も服装も背格好も。

 にゃるほど、さっきまでのあたしみたいに大袈裟な変装をせずとも、彼女だったら夕美ちゃんにそっくり似せる事は可能だろう。
 そして、この事務所の中で見つかるということは――。

「キミが夕美ちゃんを陥れた裏切り者、ってことでいいのかにゃ?」


 目の前の女の子は、なおも怯えた目をしながら、奥歯を小さくカチカチと振るわせている。

「解き明かせてみせる前に、まさか自白される形になるとは思っていなかったなー。
 キミやキミのプロデューサーの気持ちも分からなくはないけど……いや分からないけど、羨み恨むべきはあたしであって夕美ちゃんじゃなくない?」

 彼女と目を合わせたまま、あたしはゆっくりとラボ内のデスクに歩みを進める。

「あ、それともそうか、なまじ容姿が似通っているから、投影しちゃったのかにゃ?
 自分と夕美ちゃんだったらそれほど変わりが無いのに、夕美ちゃんだけがチャンスを得たのが余計に悔しかった、とか」

 チラリとデスクの上にある薬品類を確認する。
 ふむ――昨日までの記憶にあった通りのものが置かれたままだ。
 どうやら、盗まれたり壊されたり、何か悪さをされた様子はない。


「何とか言ったらどうなの?
 あたしの手に掛かったら、20秒もあればここにあるものでキミを死に至らしめるヤツを作れるよ。
 もう1分あれば、手段やシチュエーションを検討する余裕も生まれる」

 もちろん、それを行使するつもりはない。
 だけど、社会的に夕美ちゃんを殺そうとした人を許すつもりだってない。



 彼女は、口をかろうじて動かし始めた。

「ゆ、夕美ちゃんに、言ったの……」

「言った? 何を?」

「私、確かに、夕美ちゃんや志希ちゃんが羨ましくて、妬ましくて……ズルい、って思っちゃって、だから……
 そう、余所の芸能事務所に情報を渡して、でっち上げたのは、本当よ、でも……」

 細い体を抱える手を、せわしなく擦らせている。
 心理学はあたしの専門外だけど、たぶん強い不安感を覚えている人の行動だろうなと、何となく察しはついた。

「いざ、行動に移すとなった時に、急に、怖くなって……
 夕美ちゃんだけじゃなくて、事務所も……むしろ、私自身をも追い詰められるような事態になりはしないかって、不安になったの。
 勝手な言い草なのは、百も承知しているわ。でも、だから、すごく怖くなって、でも、協力するって約束した手前、後には引けなくなってて、ゆ……夕美ちゃんに……!」


 頭を抱えて、彼女は嗚咽を漏らし始めた。

「全部、夕美ちゃんに……言ったの……絶対、お、怒られるって……怒ってもらえるって、思ったのに……!」

 ――夕美ちゃんが、知っていた?

 自分が、あの不倫をでっち上げられることを――不当に追い詰められることを?

「ご、ごめんなさい……週刊誌には、わた、私の方から、白状して……!」

 そして、あたしはこのラボにある重大な異変に気づいた。
 言ってることがいまいち要領を得ない彼女の方には目もくれず、あたしはそれに近づく。


 ピンクのキンモクセイが――ラボの中央にあるそれが、満開の花々を咲かせていたのだ。
 よく見ると、鉢も少し大きなものに植え替えられていて、土の色も違う。

 疑いなく、夕美ちゃんが手を加えたのだ。


 しばらくはこのラボに引き籠もってて、なんて冗談で夕美ちゃんには言ってあったけど――。
 まさか、この短期間の世話で、こんな元気に育て上げるなんて――でも。


 あたしは、彼女に向き直った。

「夕美ちゃんはどこ?」
「えっ……」

「何で夕美ちゃんがいないの?」

 あたしは冷蔵庫を開けた。
 500mlの缶ビールが2本置いてある。
 夕美ちゃんがいたのなら、すぐにプロデューサーを叱りつけ、処分するはずのものだ。

「志希……!」

 あたしの後ろで、彼の驚く声が聞こえた。
 こんな非日常はちっとも歓迎しない。


「プロデューサー……あたし、夕美ちゃんのトコ行ってくるね」

 彼の方に振り向くことなく、あたしは部屋を出た。

「待てって!! 夕美とは連絡が取れないんだ!」

 ――?



「夕美が失踪している」

 振り返ると、暗い廊下にプロデューサーの苦悶に満ちた表情が浮かんでいた。

 ――夕美ちゃんの失踪は、実に鮮やかだった。

 部屋に着くと、そこら中に咲き誇っていたはずの花々はすっかり姿を消していた。
 それだけじゃない。
 服も、小物も、冷蔵庫も洗濯機も、ベッドやテーブルといった諸々の家財も、全部無い。

 そっくりそのまま、新規の入居者を待つ空室そのものだ。
 まるで、夕美ちゃんがそこにいたことすら、ウソみたいに。


 大家さんに聞いても、首を捻っていた。

 元々この部屋は、アイドルのために事務所が借りているものだ。
 利用の有無に関わらず契約が続いているから、入居者がいない状態も珍しいことではない。
 そして、退去する際にアイドルが大家に対し取るべき手続きも、特にないのだ。


 誰にも連絡を寄こすことなく、行方をくらます――。

「俺達が知っている夕美は、こんな事をするような子だったか……?」

 もぬけの殻となったリビングの窓から夕日が差し込み、遠くで電車の通る音が聞こえる。
 部屋に立ち尽くすプロデューサーの顔は、呆然としていた。

 あたしも、今、どんな顔をしているだろう?

 明らかに異常で、予測し得ない事象だった。

 理由がまったく分からない。


 夕美ちゃんは、いつでもあたしの価値観を破壊してくれた。
 それまで触れる機会を得なかった世界を見せて、突拍子も無い言動であたしを楽しませて、夕美ちゃん自身も笑ってて――。


「見つけてほしい時と、見つけてほしくない時……」
「何だって?」

 理由はまだ、分からない。
 だけど、夕美ちゃんにとって、決して晒したくないものがある。

 あたしの失踪とは明らかに異色のものだと感じ取った原因はそれだ。

「ねぇ、プロデューサ-はさ、家出ってしたことある?」

「家出……あるよ。ずっと小さかった頃に、一度だけ」

 プロデューサーは、鼻で一つため息をついた。

「といっても、隣町の公園まで歩くのがやっとだった。
 スーパーでパンを買って、泣きながら食ってたら、じきに親が迎えに来てな……って、そんなの今はどうだっていいだろ」

「最後まで見つからないようにする家出って、あり得ると思う?」

 あたしは、プロデューサーの顔をジッと見つめた。
 すごくヘンだけど、まるで自分自身を見ているような感覚にふと襲われた。

 見つけてほしくない失踪がそこにある――だけどそれは、あたしが見つけちゃいけない理由にはなり得ない。


「夕美ちゃんを探してくる」

「おい、ちょっと待て。どこへ行く気だ!」
「だから夕美ちゃんのトコ。それとも、失踪するって言った方が分かりやすい?」


 ここにいないのなら、夕美ちゃんのルーツに行こう。
 あたしは部屋を出た。

 神奈川の場所は分かっている。東京の南だ。

 新宿から、湘南新宿ラインとかいう電車に乗った。
 プロデューサーに教えてもらって、夕美ちゃんの実家の最寄り駅には苦も無くたどり着くことができた。
 なんでも、未成年者のアイドルの場合、事務所との契約は親が行うものらしい。

 あれ――あたしの時はどうしてたんだっけ?
 確か、実の親は海外にいてコンタクトが取れないとか何とか適当に誤魔化して、岩手にいる遠い親戚に代理人になってもらったような。
 まぁそれはともかく。

 駅に着くと、プロデューサーが車で先回りをしていた。
 もう夜も遅いから、夕美ちゃんの実家に行くのは明日に改めようというのが彼の提案だった。


 ビジネスホテルでプロデューサーとお泊まりだなんて、普段ならワクワクしちゃうんだろうけどなぁ。
 決して嬉しくない意味で、あたしは布団の中で悶々とした思いを抱くことになった。

 こうしている間にも、夕美ちゃんがどんどん遠ざかっていくような気がして――。

「突然失礼致します。
 夕美さんをお預かりしている事務所の、プロデューサーでございます」


 外から見る分には何の変哲も無い、オーソドックスな二階建ての一軒家だ。
 ただ、花を愛する夕美ちゃんを想起させる、青々とした立派な垣根が印象深い。

「夕美ちゃんと同じ事務所の、一ノ瀬志希です。夕美ちゃんいますか?」

 慣れない丁寧語で、プロデューサーに続く。
 夕美ちゃんの友達を名乗るのは、ちょっとはばかられた。


「あぁ夕美の……よくお越しくださいました」

 あたし達を笑顔で出迎えてくれた夕美ちゃんのお母さんは、夕美ちゃんと瓜二つのとても綺麗な人だった。
 でも心なしか、表情は少し暗い感じがする。

 通された先のリビングは、夕美ちゃんの部屋ほど極端ではないにせよ、やはり色んな花のイイ匂いで一杯だった。
 大きな窓から差し込む陽の光が部屋を明るく照らして、あたしが勝手に抱えている陰鬱な思いを少しだけ軽くしてくれる。

 ジャスミンティーを淹れながら、夕美ちゃんのお母さんは申し訳なさそうに語った。

「夕美は、つい昨日までここにいたのですが……」
「どちらに行かれたのですか?」

 差し出されたカップには目もくれず、プロデューサーは身を乗り出す。

「小学校に行っていました。夕美の母校です」
「小学校?」

「あの子が、ボランティアで花壇の世話をしている所の一つです。
 他にも、この近所の公園だとか、花屋のそばにある花壇なんかに、あの子はマメに足を運んで……
 大学に通い、アイドルをやるようになってからも、変わらずにあの子は定期的にこちらに帰ってきて、それを続けています」

 ボランティアで花壇の世話、か――。
 いよいよ筋金入りだ。今さら驚くべきものでもない。

「そこの庭の隅っこに、ネットが架かっているのが見えますか?」
 お母さんは、窓の外にある庭の一角を指差した。

 パッと見、ネットというより布が架かってあるだけかと思ったら、よく見ると蔓みたいなのがビッシリと茂っている。
「アサガオです」

 視線を戻すと、お母さんが苦笑していた。

「あの子が小学生の時、夏休みの宿題で、アサガオを育てたんです。
 それで、種がいっぱいとれるものだから、あの子は学校の裏庭にバァッと蒔いて……
 裏庭をアサガオの蔓だらけにしたあの子を、当時の担任の先生は叱りました。ふふっ、当たり前ですね。でも」

 言葉を切り、深く息を吸う。
 なぜか、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。

「あの子は、先生と、私にも必死に頼み込んだんです。
 アサガオを家の庭で育てさせてくれ、って……迷惑のかからないように、今度は自分の責任で育てるからと、服の裾を引っ張るんです。
 小学校に上がったばかりの子が、いつ覚えたのかしら、責任だなんて言葉を口にするもんだから、私も先生もビックリして……
 内心、嬉しかったんでしょうね。先生はこう仰ったんです」

 おもむろに、お母さんは自分の後ろの電話台に手を伸ばし、そこに置かれていた写真立てを取ってあたし達に見せてくれた。


 白いワンピースを着て、愛らしくピースしている小さい女の子――夕美ちゃんと、ちょっとふくよかなお婆ちゃんが映っている。

「宿根アサガオなら、適切に霜除けや敷き藁をしてあげれば、冬も越せるのよ。
 お母さんにお願いして、今度は庭にグリーンカーテンを育ててみましょうか、って……
 その先生は、夕美にとって、ガーデニングの先生でもあったんです」

 一緒に怒ってくれるかと思ったら、先生に裏切られちゃったわ、なんて、お母さんは冗談ぽく笑った。
 とても楽しそうに、彼女は言葉を続ける。

「それからというもの、夕美はいつも先生を家に招いて、夢中で庭いじりをするんです。
 ねぇ、この子はどこに植えたらいいの? 肥料をたくさんあげたら元気になる? ちょっとこの子は剪定しすぎちゃった? なんて、泥だらけになりながら先生に聞くんです。
 先生も、ご迷惑なんじゃないかと思ったのだけど、嫌な顔一つせず、いつも親身にあの子に付き合ってくれて……卒業してからも、よくお越しくださっていたんです」


 ふと、お花の世話をする夕美ちゃんの姿を思い出した。

 頻繁に自分の鉢植えを彼女の部屋に持って行った時のあたしと夕美ちゃんが、今のお母さんの話にあった、幼き頃の夕美ちゃんと先生の姿と重なる――。


「おかげで、最初は一角だけだったあの子の花壇が、それこそアサガオのように、どんどん庭を占領していって、ふふふ……
 でも、先生は本当に、あの子によくしてくださいました……」



 鼻を啜る音が、リビングに小さく響いた。
 夕美ちゃんのお母さんは、泣いていた。

「ちょうど、先生のお葬式がこの間、あったもので……」

 小学校に行っても、夕美ちゃんの姿は無かった。

 ただ、年配の先生がちょうど捕まったおかげで、話を聞くことができた。
 夕美ちゃんのこともよく知っているみたいだ。

「えぇ、そこの花壇もそうですが……夕美ちゃんは、その先生の葬式でも世話役を買って出てくれましたね。
 会場の準備とか、当日の受付とか、参列者へのお茶汲みといった雑務だけでなく、祭壇に備える花まで、一部ですが、あの子が用意してくれたんです」

「花を?」

 驚くプロデューサーの横で、あたしは夕美ちゃんの収納にあった花々を思い出した。
 あれは、この日のためのものだったんだ。

 葬式が行われた日は、ライブイベントの当日だった。

「まるで用意していたみたいで、心苦しいと彼女は言っていたのですが、ご親族は大層喜んでおられました。
 花の師匠である先生に、お礼と哀悼の意を示すには、やはり花しかないって、あの子はずっと考えていたようですね」

「そうだったんですか……」


 話によると、夕美ちゃんは東京に戻ると言っていたらしい。

 だけど、あの部屋はもう引き払われている。
 彼女は一体、どこに行くというのだろう――。

 年配の先生の話が、夕美ちゃんの昔話になってきた。

 どうせ言うことは決まっている。
 あの子は良い子だった、優しい子だった。
 興味深いけど、彼女を見つけたい今のあたしにとっては、聞くまでもない内容だ。


 先生の相手をプロデューサーに任せ、あたしは外に出て、夕美ちゃんが世話したという花壇を見つめた。

 マーガレット、アルメリア、パンジー、ゼラニウム――チューリップはもう少し先かな。
 どれも丁寧に揃っていて、葉っぱの色も青々と綺麗。
 虫に食われたあとも見当たらない。


 夕美ちゃんが帰る場所――ここ以外にどこがあるというのか。

「キミ達は、夕美ちゃんから何も聞いてない?」

 ツンツンと花弁を突いてみる。
 返事が無いことなんて、分かりきっているのに――。

「まったく……ヘンなところで大胆すぎるよ、夕美ちゃんは」

 と、ため息をついたあたしの鼻腔を、花の香りがふわりと刺激した。



「大胆……」


  『えへへ、ハズレー♪』



「…………キンモクセイ?」


  『はいっ! キンモクセイの花言葉は何でしょう、志希ちゃん?』


 ――キンモクセイの花言葉は『大胆』だ。
 少なくとも、あたしが作ろうとしているピンクのキンモクセイは、それだと決めている。
 それはともかく。


 なぜ夕美ちゃんは、あの日あの場所に失踪していたあたしを、オンタイムで見つけ出すことができたんだろう?

 ずっと気になっていた。
 マグレだと彼女は言ったけど、どう考えても不可能なはずだった。


 そう――ずっと、あたしは固定観念に囚われていたのかも知れない。

 あの日の夕美ちゃんが、あたしを見つけ出すためにあの場所を訪れたわけではなかったとしたら――?


  『帰ろっか!』



 晴れた日の公園の、青空の下に咲く夕美ちゃんの眩しい笑顔が鮮やかに蘇る。

 あたしは走り出した。
 プロデューサーのことを待とうなどとは考えもしなかった。

 一旦事務所に戻り、夕日が差し込むガレージに駆け込む。
 ピンクのキンモクセイは健在で、夕美ちゃんが来た形跡は――ちょっと期待していたけど、やはり無かった。

 でも、落ちこむことはない。
 あたしの予測は確信に変わっている。

 夕美ちゃんは絶対にあそこにいる。
 でなければ、夕美ちゃんがあの日、あの丘に現れた理由がない。

 東京で、夕美ちゃんの帰る場所が他にあるとすれば、あそこしかない――!


 夕美ちゃん、もう大丈夫なんだよ。

 夕美ちゃんを陥れようとした連中は、直に真実を知った世間によって裁かれる。
 あの件で、夕美ちゃんを責める人は誰もいなくなる。

 あたしと一緒に、まだまだアイドルを続けられるよ。

 活動再開の計画立案はプロデューサーに任せて、家財はゆっくり揃え直したらいい。
 なんならあたしの部屋に一緒に住もうよ。

 そうだ、それがいい!
 せっかく空っぽにしたあの部屋は、夕美ちゃんとあたしの植物園にしちゃおう!
 いっそ大々的に部屋中をリフォームしてさ、フローリングを剥いで土をぜーんぶ敷くの。
 空調も高くてしっかりしたヤツを入れて、厳格に温度や湿度管理ができる部屋も作ろう。
 夕美ちゃんの希望に応じて、あたしが品種改良して新しいお花もポンポン開発しちゃえば、あたしも楽しいし夕美ちゃんも――。


 ――楽しい、でしょ?
 だから。


 一緒に帰ろう。

 地方に出る電車は、夜遅くにも関わらず満員だった。
 それは、普段電車を使わないあたしにとっては知る由も無い経験で、後ろの人から押されただけなのに、サラリーマンのおじさんから舌打ちをされた。

 あたしもつい、にらみ返した。
 大事なキンモクセイが潰される所だったのだ。
 でもそれは、おじさんにとっては全然どうでもいい話で、むしろこの満員電車の中、デッカい植木鉢を抱えるJKこそ迷惑な存在であろうことも知っている。
 余裕が無いのはあたしの方。

 都心部を離れ、建物も少なくなってくると、窓の外はすっかり闇一色になっていく。
 乗客もだんだんと減り、いつの間にかあたし以外に同じ車両の人は、数えるほどしかいない。


 あの時の駅でも、夜に降りるのは初めてだから、全然違う場所にしか見えなかった。
 ICカードを改札にかざすと、残金はギリギリだ。

 乗り越し精算機が無いけど、チャージする時はどうすればいいんだろう。
 どうでもいいことがいちいち思考を妨げる。

 街灯が心許ない、真っ暗闇の道路をあの公園に向かって歩く。

 身震いがしたので、コートのチャックを目一杯上げた。
 春が近づいてきたとはいえ、陽が落ちれば吐く息が白くなるほどに寒くなる。
 キンモクセイを下げた袋を代わりばんこに持ち替え、こまめに手を温める。

 手袋、してくれば良かったな――。

 夕美ちゃんは、こんな寒い夜の公園に、本当に一人でいるのかな――。


 いつからあたしはこんなに臆病になってしまったんだろう。

 どうして、要らない不安を掻き集めてしまうんだろう。


 この世界には二つしか無いんだ。
 予測できるものと、できないもの。

 夕美ちゃんがいるか、いないか――それだけだ。
 どっちかの事実しかないんだ。

 仮説したとおりの事象が発現されれば嬉しいし、想定外の事態が起きれば、それはそれで――。



 ――――。



 公園が見えてきた。自然と歩みが早くなる。

 もうすぐ、夕美ちゃんに会える――!

 営業時間という概念が無いのか、公園の入口には柵もロープも架かっていない。
 ポケットに手を突っ込み、無造作に置かれたペンキ缶に、ありったけのコインを入れる。

 まるで神社だかお寺だか――どっちか分かんないけど、そういう超常的で不明瞭なものに祈ってすがるなんて、極めて非合理的だ。
 だけど、きっとそういう感覚に近いものだった。


 遊歩道に入り込むと、いよいよ足元が見えなくなるくらい真っ暗だ。
 スマホのライトを照らして、樹海を探検するように木々に囲われた道を慎重に歩く。

 以前来た時よりもずっと時間をかけて開けた視界には、月明かりに照らされてかろうじて輪郭を帯びた丘が右手に映った。

 ――人影は、無い。



 いや――ちょうどあのデカいキンモクセイの裏側にいて、ここから見えないだけかも知れない。


 丘に向かって真っ直ぐに歩く。
 所々、思ったより勾配がキツい所がいくつかあって、勇み足を踏み出す度につまづいた。

 ようやく丘の上にたどり着き、肩で息をしながら辺りを見渡す。


 ――――。


 呼吸を整え、しんと耳を澄ましても、風が木々の葉っぱを凪ぐ音すらもしない、静寂そのものだ。

 ここにも、いないの――?



 ――――。

 にゃははは、なーんだ志希ちゃんの予測大ハズレー♪

 冷静に考えて、そりゃそうだよね。
 こんな寒い日に一人でここに来て、夕美ちゃんが一体何をしようというのか。

 大体、今の時間じゃ終電もない。
 仮に今日一度ここに来ていたとしても、今頃はもう帰っているだろう。

 とんだピエロだ。
 すっかりあたしの思考回路は、ほころびまみれのポンコツに成り下がっていた。

 夕美ちゃんのせいなんだよー?
 にゃはは、まったく――。


 さて、と。

 キンモクセイが植わった、その根元に腰を下ろす。

 そこにあたしは、予め持ってきたスコップで穴を掘り始めた。

 普段いじっている、人の手が加わってふっくらした土とは違い、自然の中にある土というのは岩かと思えるくらいに硬くて、全然勝手が違う。


 そういえば、夕美ちゃんは花壇以外の土もこうして耕したことあるのかな?
 なーんて。

 どうでもいいか。
「結構大変だよね? 掘るの」





 背後から聞こえたその声に、あたしの体がピタッと止まった。



「もう何年前になるかな……私も、このキンモクセイを植えた時、すごく手こずったの覚えてるから、分かるよ」

 気づくと夕美ちゃんは、いつの間にかあたしの隣に座っていた。

「貸してっ」
 言うが早いか、あたしの手の中にあったスコップをサッと取って、穴を掘り始める。

 あんなに手強かったはずの岩がザクザクと土塊に変わり、見る見るうちに穴が大きく深く広がっていく。

「本当だったら、キンモクセイみたいに大きな根鉢を植える時は、片手サイズのじゃなくて、もっと大きなスコップがいいんだけど。
 こういうのは、ただ突き刺すんじゃなくて、手首をこう、何ていうのかなぁドリルみたいに捻って返してあげるといいの。
 それと、根鉢とピッタリのサイズだと、周りの硬い土より外に根が広がっていかないから、少し大きめに……っしょ、っと……」

 逆手に持ち替えて、今度はだいぶ乱暴にスコップを突いて、穴の側面を削っていく。

「よっ、ほ……えへへ、あの、小手先のコツだけだと、本当に硬い土が相手じゃ、限界があるでしょ?
 だから、こうや、って! ちょっとちから、まか、せっ! に! っと……ふぅ、志希ちゃん交代っ」

「……にゃははー、オマカセあれ!
 ただ、あたしは箸より重たいものなんて持てないからすぐ代わってねー♪」
「さ、さっきまで志希ちゃん自分でやってたでしょ!?」
「キミがいなかったからー♪」

 あたしがチョビッと広げ、夕美ちゃんが手直ししてくれた穴に、二人でピンクのキンモクセイを植えた。
 文句なしの『大胆』を彼女に想起させるほどのドギツい真っピンクが保たれているかどうかは、暗くて分からない。

「はぁ……ちょっと、休もっか」
「そうだね」


 スッキリ澄んだ寒空に、熱を帯びた二人の息が溶けていく。
 見上げると、東京とは思えないくらいたくさんの星が一面に輝いていて――。

「綺麗」
 って、思わず言っていた。
 視線に気づいて隣に目を向けると、夕美ちゃんが膝を抱えながら優しく笑っている。

「夕美ちゃん」


 あたしも、笑おうとした。
 強張ってしまったのは、寒さのせいだけではきっとなかっただろう。

「あたしとさ……アイドル、続ける気は、ある?」

 夕美ちゃんは、どこか困ったように、視線を外した。


「うーん……」


 あ――もういいや。

 そっか。


 そっかそっか。

 そうそう、夕美ちゃんは気休めのウソもつけない子なんだよね。

 あたしは膝をポンと叩いた。

「じゃあさ! にゃはは、そこで志希ちゃん、とっておきのイイものを持ってきてまーす♪」

 キンモクセイを入れてきたものとは別の袋を思わせぶりにゴソゴソとあさり、サッと取り出す。


「ほら、じゃじゃーん! 缶ビール~~♪」


 ガレージの冷蔵庫に、プロデューサーがコッソリ入れていたヤツだ。
 こんな事もあろうかと、キンモクセイと一緒に回収してきたのだ。

「はいっ、お互いの良き労働に感謝しよー。
 夕美ちゃん大学生なんだし、あたしよりもお酒なんて慣れっこでしょ? にゃははー♪」

 無理矢理夕美ちゃんの手に一本持たせて、あたしはプルタブに指を掛けた。

 プシュッと開けると、うわっ。

 あ、そっか、炭酸だもんね。
 ここに持ってくるまでにたくさん振っちゃったから、泡が無限にわき出てきて、手がベトベトになっちゃった。

 構わず一口付けてみる。

「……うぇ、にっがい」
 おまけに匂いもあんまし好きじゃない。

 何でプロデューサー、こんなのが好きなんだろう。
 彼にあたしをどうこう言える筋合いは無い。 


 ――でも。

「にゃっはっはー! 未成年飲酒成功ー!」


 スクッとその場に立ち、目の前に広がる星空に向けてダーンッとあたしは缶を突き出した。

「この様子を発信しちゃえば、あたしは炎上確定。
 夕美ちゃんの件みたいに誤解が生まれる余地も無い。
 誰にとっても分かりやすい悪事で、擁護や弁解のしようも無い。
 みーんなあたしを叩くだろうし、あたしも反省する姿勢を見せなければ大問題になるだろうね。
 あ、そうだ、さっきからプロデューサーからの着信がすごいんだけど、さっそく記念にあたしの写真撮って送ろっか? にゃはははー!」

 彼女の方を直視することなく、澄み渡る夜空にあたしの笑い声を無理矢理に溶かしていく。

 全部全部、何もかも忘れさせてやりたかった。
 夕美ちゃんの思考も。今回のことで、怒ったり悲しんだりした人の思考も。

 もちろんあたしも。
 くだらない事象で埋め尽くして、この世界をどこまでもどうでも良くしてやろうなんて。

「にゃっはっははは、そうだ夕美ちゃん!
 すっごく良いアイデアがあるんだ。夕美ちゃんあたしと一緒に住もうよ。
 でね? 夕美ちゃんの部屋は全部リフォームして植物園にしよう。プロデューサーへの説得はあたしがしよー。
 大丈夫、手段を選ばなければ同意を得るのは難しくないよー実践したことは無いけど。心配しないで。
 アイドルとして活動できなくても籍を置かせてもらえればいいし、それが無理なら別に違う場所を二人で探せばいいし。ねっ?
 夕美ちゃん、何も……」

「志希ちゃん」


 振り返ると、夕美ちゃんは、小さく笑っていた。
 渡した缶ビールは、開いていないままだった。


「ありがとう。志希ちゃんのそういう優しさ、私、大好きだよ」

「……いや、優しいっていうか、あたしのワガママなんだけど」

 やっぱり夕美ちゃんは分かってないなぁ。

「あたしがそうしたいからそうするの。
 そうして皆を振り回し続けて今のあたしがあるの。謙虚とは最も遠い…」

「これは、推測なんだけどね、志希ちゃん」


 夕美ちゃんは、もう一度穏やかに笑った。

「たぶん志希ちゃん、実は、ワガママってあまり言ったこと無いと思うんだ……違うかな?」


「あたしが、ワガママを?」

 この子は一体何を言い出すのかにゃ?
 なーんかいよいよ話が噛み合ってこなくなってきた?

「今でも絶賛ワガママ発揮中なの分からない? ビールも強要するし、一緒に住むのだって」
「ううん」

 首を振り、そのまま彼女は少し手持ち無沙汰そうにビールを見つめる。

「なんて言うかな……
 じゃあ、志希ちゃんからもらったこのビール、私がポイッて投げ捨てちゃったら、志希ちゃんは怒る?」

「ん? ううん、むしろ笑っちゃう」

「じゃあ、「ごめんね、一緒に住めない」って言ったら、どう?」
「事情にもよるけど、まぁそうかーってカンジかにゃ?
 気持ちは分かるからねー、あたしが言うのもなんだけど」

「うん、だからね……」


 しばらく間を置いて、夕美ちゃんは、あたしの顔を真っ直ぐに見つめてきた。

「たぶん、志希ちゃんは、何にでも客観的になりすぎているんだと思う」


 ? 一理ある――かも知れない。

「本当のワガママって、私が何て言おうと、「やだ!絶対こうしなきゃダメ!」って、無理強いすることだと思うの。
 志希ちゃん、あまり主観を押しつけるような事ってしないでしょ?
 そりゃあ、すごい事を言って皆をビックリさせる事が多いけど、たとえ自分の思い通りにならなくても、そんなに怒らないのかな、って」

「にゃははは、思い通りにならない事なんてケミストやってりゃ日常茶飯事だからねー♪」

 全てが二つに一つだった。
 予測通りに行くか、行かないか。白か黒でしかないのだ。

 いちいち一喜一憂していられるほど、ドラマティックな現場ではない。
 むしろ、黒が起きてもわんだほーを叫んでいた方がよほど楽しいことだってある。


「だからもっと、志希ちゃんは主観的になっていいと思うんだ。
 確かに、化学者さんって、色々と冷静に観察をしなきゃいけないかもだけど……でも、志希ちゃんはもう、アイドルなんだから。
 どんな時でも我を通して、本当の意味で夢中になった時の志希ちゃんを、私はずっと見てみたいのに……
 物事に対して、謙虚になりすぎていないかなって、いつも思うの」



「……まさか夕美ちゃんから、そんなお説教を聞くことになるとはねー」

 一体全体、どの口がそんな事を言えるというのか。

「夕美ちゃんの方こそ、人のこと言えるの?」

 ビールを一口飲んだせいか、寒空の下にも関わらず、体の芯がボゥッと熱っぽい。
 次の瞬間、あたしはたぶん、ありったけの怒りをこの子にぶつけてしまう。


「聞いたよ。あの子が不倫騒動をでっち上げようとしてたの、夕美ちゃん、事前に聞かされてたんでしょ?
 なのに、それを咎めて怒ることも、止めることもしなかったって。
 何でそんなことを許したのか、あたしにはこれっぽっちも理解できない」


「うーん……」
「うーんじゃなくて!」

 あたしは夕美ちゃんの優しさが好きだ。
 でも、こういう時に言葉を選ぶのは間違ってる。

「聞きたいことはまだあるよ。夕美ちゃんは何でアイドルをやめる気なの?
 知らないなら教えてあげるけど、あの騒動はもう解決したんだよ。
 でっち上げた犯人はどこぞの芸能事務所のオタク俳優とウチの候補生。きっと明日には真実が明かされて夕美ちゃんの疑いは晴れる。
 誰も夕美ちゃんを責める人なんていなくなるんだよ、やめる必要なんてなんにも無い、誰もそんなの望んでない」

「たとえそうだとしても……たぶん、あたしを見て、悲しい、嫌な気分になっちゃう人も、いると思うから。
 真実がどうっていうより、イメージが大事だと思うの。
 アイドルって、お客さんを楽しませるのが仕事だから、余計に。
 気分を悪くする人がいるなら…」

「他人のせいにするの、ズルいよ。自分の意志を他人に依存させないでよ!」

 夕美ちゃんは、とても困ったように苦笑している。
 その表情が余計に腹立たしくて、こんな感情任せになるのはカッコ悪いのに、でも止められない。

「夕美ちゃんがどうしたいのかを教えてよ。
 大体、イメージが悪くなったっていうなら、ますますあの子達のせいじゃん。
 何でそれを見過ごしたの? それとも夕美ちゃんは元々アイドルなんてやりたくなかった?
 そんなはずない。レッスンだってあんなに頑張っていたでしょ、夕美ちゃん。
 あの子なんて、夕美ちゃんに比べれば全然大したこと無かったのに、何でそんな子のために遠慮する必要があるの?
 一部の人間の八つ当たりと身勝手のために、あの頑張りを無駄にしていいって、そう言ってるんだよ夕美ちゃんは!」



「あの人……私が入るずっと前から、事務所で候補生やっていたんだって」

 夕美ちゃんの声は、あたしの乱暴で不細工な声とは違って、どこまでも穏やかだった。

「オーディションもいっぱい落ちて、だけどプロデューサーさんと一緒に、何度も励まし合いながらお互いに頑張って、それでも一向に芽を出せなくて……
 そんな時に、志希ちゃんのパートナーとしてスカウトされたあたしが、あっさりステージに立っちゃった。
 自分に容姿が似ている子が……大して違いもしないのに」

「情状酌量とでも言いたいの?」

 全くのナンセンスだよそんなの非合理的で実にニホンジン的っ。

 斟酌すべき事情があれば悪いことをしていいなんて理屈が通るはずがない。
 一つの事象には一つの結果。罪には罰だ。許す理由がどこにあるだろう。


「志希ちゃん……少しだけ、私の話、聞いてもらってもいいかな?」

 自分の隣の芝生をポンポンと叩いて、夕美ちゃんはあたしを見つめた。


「私が、ここに来た理由」



 ――――。

 黙って、夕美ちゃんに従い、あたしはそこに並んで座った。



「ここに初めて来たのは、小学校の時だったの」

「夕美ちゃんのお花の先生と?」
「お母さんから、聞いたの?」
「大体ね」

「その先生はもう、私のクラスの担任じゃなくなってたんだけどね」

 夕美ちゃんは、少しだけ楽しそうに笑ってくれた。
 美しい思い出を話す時は、こうしてちゃんと笑顔になれるんだ。

「四年生の遠足で来た時は、この丘の上にも、私があそこの遊歩道から誰よりも早く、一番乗りで走ったの。
 私、男の子よりもかけっこが速かったから、運動会でリレーの選手とかにもなってたんだよ」
「へぇぇ~」
「まぁそれはともかく」

 夕美ちゃんがチラリと後ろを振り返ったので、あたしもそれに倣った。
 視線の先には、大きなキンモクセイがある。そのそばには、さっきあたし達が植えたピンクのキンモクセイも。


「全然、話飛んじゃうんだけどさ……志希ちゃん、イチゴって育てたことある?」

「イチゴ? あの、食べるストロォベリィーのイチゴ?」
「あははは! うんっ、それ」

 くだらない発音に笑ってくれた夕美ちゃんを、あたしは訝しんだ。
 話がどこに着地していくのか見えなくて、知らず不信感を抱いてしまっている。

「うん……そうだね。育てたことあるって人は、あまりいないかも」

 小さく頷いて、夕美ちゃんは視線をボーッと前方に向けた。

「遠足に行く、一年くらい前だったかな……家の庭に、イチゴを育てたいって私、お母さんに言ったの。
 私も、お父さんもお母さんも、イチゴは好きだったから、たくさん実がなるように大事に育てようって、さっそく植えて。
 それで、志希ちゃん知ってた? イチゴって、すごく繁殖力が強い植物なの。
 放っておくと、ランナーっていう弦がどんどん辺り一面に伸びていって、根っこも力強いんだよね」

 ふふっ、と小さく笑う――その表情はどこか自嘲的で、先ほどとは色合いが違う感じがした。

「イチゴがどんどん庭を占領していって、私が大好きな他のお花達も、気づいた時には枯れちゃって……
 それで……イヤになって引っこ抜いちゃったの。イチゴを、全部。
 こんなに他の子達に迷惑をかけるような子なんてイヤだ、って……えへへ、本当は、私がちゃんと育ててあげられなかっただけなのに、本当に無責任だよね」

「子供だもん、しょうがないよ」
「うん……ありがとう。
 それで、その日はたまたま先生が家に来てくれる日だったの。
 そう言えば、何もアドバイスを受けていなかったのを、その時に気づいて……」

「先生は、何て?」

「思いっきり引っぱたかれちゃった」

 えへへ、ともう一度笑った。先ほどの表情の理由はこれか。
 とはいえ、あの写真で見る限りは優しそうなお婆ちゃん先生が、そこまでしたとは驚きだ。

「命を粗末にするなとか、育てる責任を放棄するなんて何事だー! みたいなカンジ?」
「もちろん、それもあったけどね……先生が本当に怒ったのは、別のところにもあって」
「…………」

「迷惑をかけられて困っている子を助けたかっただけなのに、って、私は先生に言って……そんな、泥だらけになって泣く私の頬を、先生は叩くから、いっぱい泣いたなぁ。
 それで、えぇと……先生はね? 迷惑って何かしら、って私に聞いたの」

「迷惑とは何……小学生の女の子に対して、なかなか哲学的な問いだね」
「本当にね。優しそうに見えて、結構厳しい先生だったんだよ?」

 厳しい先生、か――あたしには実感が無い人種だった。

 強いて言えば、ダッドだろうか。
 ただ、彼もあたしに無茶苦茶な要求こそすれど、怒ったり叱ったりされた記憶は無いから、まぁ、あれで一応愛されてはいたのかも知れない。

 プロデューサーは、あたしを叱りつけてばかりだけど、もはや諦めてそうな面もあるし。

 鉄拳制裁を行使して矯正してやろうという人は、とうとうあたしの周りには現れなかったなぁ。


「一切の迷惑をかけない人が、この世にいると思う?
 自分は誰にも迷惑をかけたことが無い人だと、夕美ちゃんは自分でそう思うの? って先生は言ったの」


「それ、ちょっと意地悪じゃない?」

 思わずムキになってしまった。
 当時の彼女達が掘り下げるべきはそこじゃないと思った。

「夕美ちゃんが言及したのは、イチゴちゃんが他のお花達に迷惑をかけたことの是非についての話でしょ?
 そして、それを引っこ抜いた夕美ちゃんの是非。
 迷惑をかけたことが無い人しか正義を振りかざしちゃいけないとか、そう言いたいんだとしたら、先生の話は論点のすり替えだよ」

「あはは、そう、かな……それを小学生の私が理解して、その時反論できていたら、違ったのかも知れないけどね」

 ワガママを言う子をあやすような笑い方だ。
 困った子供扱いされた不満よりも、夕美ちゃんを困らせてしまった事への申し訳なさが勝る。

「ごめん、話の腰を折っちゃったね」
「ううん、いいの。それで、そう……ちょっと違ったかな。先生の言いたかったことは」


「誰も悪い子なんていない。迷惑なんていうのは自然界には無い。
 自然は、皆が必死になって生きようとするんだから、結果として必ず誰かが割を食うし、泣いたり、傷ついたり、死んじゃう子だっている。
 それ自体に良い悪いなんて無いの。
 夕美ちゃん、あなたが学ぶべきは、生きるためのいかなる行為には寛容でありなさいということ。
 それと、そういう生物の摂理に手を加えることには、必ず責任が伴うことを知りなさい、って」

「…………」


「全然、当時の私には理解できなくて……その次の日、家出しちゃった」

 小学4年生の遠足の1年前――3年生で初失踪か。
 プロデューサーの話といい、あたしの失踪デビューは世間一般に比べると遅い方だったのかも知れない。

「携帯も持たずに、電車に飛び乗って……どうやって来たのか、まるで覚えてないんだけどね。えへへ。
 どんどん人里を離れていって、少なくなってきた乗客の人達が、一人ぼっちでいる私を不審そうに見てて……
 逃げるように降りたのが、あそこの駅。無人駅だったから、たぶんお金払わないで飛び出しちゃったと思う」

 それにしても、夕美ちゃんは本当に行動力がある。
 小さい頃からそれは変わらなかったらしい。

「トボトボ歩いた先に公園があって、丘の上に座って……お日様も傾いてきて、お腹も空いて……
 先生の言葉が頭の中によぎって、お父さんとお母さんを思い出したの。
 心配しているかな、余計な迷惑をかけちゃったかなって、うずくまって泣いて……そしたら」


「……先生が来た、なんて言わないよね?」
「えへへ、正解ー♪」

 たまたま先生は、その公園の管理人さんと知り合いで、ちょくちょく草木の手入れをしていたのだという。
 夕美ちゃんを見つけた先生も、さぞビックリしただろう。

 あの日あたしを見つけた夕美ちゃんも、それは同じだったのかも知れない。

「キンモクセイを植えようと、先生、すごく大きな鉢を持ってきていたんだ。
 私も手伝わされたんだけど、本当に土が硬くて大変で……
 植え終わった後に、先生がおにぎりをくれたの。あれは美味しかったなぁ」

「その時に、キンモクセイの花言葉を?」
「私が志希ちゃんにしたように、先生にクイズを出されたんだ。
 私も、志希ちゃんと同じことを答えて、「えー!?絶対ウソだよ!」なんて文句言ったりして」
「にゃははー、なぁんだ」

 二人で笑い合う。
 偉そうにあの日、私に講釈をしてみせた夕美ちゃんが、どこか滑稽に思えてしまった。

「先生、優しかった……お父さんとお母さんは、ちょっとだけ怒っているけど、心配はいらないわ。
 私からもご両親には言っておくから、夕美ちゃんは決して萎縮はしちゃダメ。
 迷惑だなんて考えないで、好きなように、これからも元気に伸び伸びと生きなさい。
 ただ」

 夕美ちゃんは、後ろを振り返った。

「この場所と一緒に、慎み労る気持ちは、忘れないようにしましょう。
 心のどこかには、他者を尊重し、寛容となれるよう、謙虚な部分も残しておきなさい、って」


 ――なるほど。
 まさにそれは、今日の夕美ちゃんの人生哲学となったわけだ。

「やっぱり、思い出の場所だったんだね。夕美ちゃんにとっても、ここは」

「次の年、ここに遠足で来るのを提案したのも、先生だったの。
 この素敵な場所を皆にも一番に教えたくて、私、はりきっちゃったなぁ」


 それからというもの、定期的にこの場所にも通って、先生の草木の手入れを手伝っていたのだという。

 やがて時が経ち、先生が足を悪くしてからは、それを引き継いで――。


「私がプロデューサーさんにスカウトされて、アイドルになるって連絡したら、先生すごく喜んでくれたんだ。
 最近、少し元気が無くなってきていたから、お世話になった先生をたくさん元気にできるならって、私も……」



「…………夕美ちゃん?」

 夕美ちゃんの言葉が、突然途切れた。


 見ると、夕美ちゃんは唇をギュッと小さく振るわせて、目には涙を溜めている。



「あまり、言いたくなかったから…………先生のこと、週刊誌の人とかに……」

 ――そうか。

 自身の潔白の証明のために大切な人の死を晒し、それを辱めてしまうことを彼女は避けたかったのだ。
 だから、あの日に起きたことを夕美ちゃんは黙して語ろうとしなかった。


「志希ちゃん……私、あのね……」


「先生が死んじゃったからアイドルをやる理由が無くなった、なんて言わないで、夕美ちゃん」


 あたしは夕美ちゃんの手を握った。
 いっそ、あたしの手を払って、恩人の死を軽々しく口にした私の頬をそのまま叩いてくれたらと思った。

 でも、夕美ちゃんはあたしを受け入れた。

「夕美ちゃんを陥れたあの子達を、夕美ちゃんが止めなかった理由は分かったよ。ほんのちょっとだけ。
 でも……もしあたしがもっとワガママを言うべきだって思ってくれているなら、夕美ちゃん……やっぱり、アイドル続けてよ。
 夕美ちゃんにとっての先生と同じくらい、夕美ちゃんはあたしに綺麗な思い出をたくさんくれたんだよ?」

「ありがとう、志希ちゃん……本当にありがとね」


 夕美ちゃんが私の方へ顔を向けた時、綺麗な瞳から大粒の涙が一つ流れた。

「その無遠慮な優しさは、私だけじゃなくて……皆にも与えてあげて。アイドルだから」


「……あたしは、夕美ちゃんに受け取ってほしいのっ!」

 あたしは繋いだ手を乱暴に解いて立ち上がった。

「何でっ! 調子の良いことを言っておきながら、あたしのワガママを受け入れてくれないのかなぁ!?
 アイドルがどうとか言うなら、夕美ちゃんこそアイドルを続けるべきだよ、あたし……あたしなんかよりずっと!
 あたしだけのために一緒にアイドル、もっとやろうよ!」

「ごめんね、志希ちゃん」

 月明かりに照らされた夕美ちゃんの笑顔に、涙がポロポロと星のように光って浮かんでいる。

「私も、ワガママだから」

「――――ッ!!」


 あたしは手に持っていた缶ビールを丘の下に向けてぶん投げた。

 舐める程度の一口しか飲めなかったそれは、輪郭が曖昧な芝の上へ落ちて転がり、遠くでゴボゴボと中身が流れ出る音が微かに聞こえる。

「はぁ……はぁ……」

 こんなに感情が昂ぶっている自分に内心驚いている。

 どこまでも自分にとって淡泊であるはずの結果に、許し難いものがあるなんて考えもしなかった。

「あたしは……」


 顔を上げ、夕美ちゃんの方へと振り返る。
 彼女は肩を震わせ、嗚咽を漏らすことだけは辛うじて耐えているような有様だった。

「ひょっとして、余計なことをしちゃったのかな……夕美ちゃんをハメたあの子を、あたしは追い詰めた。
 せっかく夕美ちゃんが許したのに、結局、夕美ちゃんが期待したように芽を出せないまま、あの子はアイドル人生を終える」

「それも、し、志希、ちゃん……っ」

 涙声を枯らして、夕美ちゃんは首を振った。

「志希ちゃん……私の、ためにっ、してくれたから、大丈夫だよっ」
「何がどう大丈夫なの!! 夕美ちゃん、イヤだ!!」

 あたしは夕美ちゃんを助けたかっただけなんだ。
 真実を明らかにすれば夕美ちゃんが置かれた不当な境遇はきっと洗われて、問題なくアイドルを続けられるはずだった。

 これじゃあ何のために、あたしはいたんだ――どうして、夕美ちゃんは辛い思いをしなければならなかったのか!?

「夕美ちゃんは、報われるべき人なのに……!
 あたし、あたしは……ただ、夕美ちゃんと一緒にいたいだけなのに! どうして……」

 あぁ、もうダメだ。
 修復不可能な傷が、この胸に刻まれていくのが分かる。


 納得を得られない、理解ができないのって、こんなに辛いことだったのか。

「どうして、あたしは夕美ちゃんの力になれなかったのかなぁ!!」


 何だってできると、かつてダッドは言ったけど、それはウソだった。
 結局、あの人も自分の物差しでしかあたしを測れない。

 どうして皆、そうやって分かったフリをして、勝手なレッテルを貼るんだ。

 その場にガックリと膝をついた。
 視界に映る芝が滲んで揺れる。ブチブチと握りしめると爪の間に土が入って、それも構わず次々に引っ掴んだ。

「く、うぅぅ……!」

 この草ほども、あたしには価値が無い。



「志希ちゃん」

 振り上げたあたしの手を、夕美ちゃんが掴んだ。
 意外と力強い、夕美ちゃんの手――。

「え……」

 あたしの八つ当たりで傷つき失われた命が、あたしの手の中からポロポロと落ちていく。



 そのまま夕美ちゃんは、黙ってあたしを抱き寄せた。

 甘い匂い――キンモクセイの香りだ。

 研究を進める中で、飽きるほどに散々嗅いだはずなのに、あたしのささくれだった心は不思議なほどにその温かな匂いで安らいでいく。

「あ、うぁ……」

 夕美ちゃんは、何も言わなかった。

 あれが最後の言葉であってほしくない。言葉をかけたいのに、何も出てこない。

 なのに、夕美ちゃんに包まれると、気持ちが良くてウトウトして、自然と瞼が閉じていく――。



「どうか、笑って……」


 夕美ちゃん――。



 ――――。

 ――――――

 ――――


  『おぉー、志希! お帰りなさい。一体どこに行っていたんだ?』

  『まぁ話は後で聞こう、母さん! 母さん、志希が帰ってきたぞ!』

  『お腹も空いただろう? 母さん、何か志希の喜ぶものを……』


  『ん? 志希、お前は一体何が好物だったっけか?』

  『ウームいかんなぁ、お前の失踪の時期がどうにも長かったもので、ハッハッハ』

  『しょうがないですよ。志希ちゃんはワガママの言わない、手のかからない子だったのでしょう?』

  『うん! 志希ちゃん、この間初めて私にワガママを言ってくれたんだよっ』


  『おぉっ、ハッハッハそうだったな! お前は実に聞き分けの良い子だった』

  『せっかくだ、何か願い事を言ってみなさい。どんなワガママでも今回は聞いてやろう』



  『……アイドルを続けてもらいたい? 彼女に?』


  『あぁー……それはねー』

  『えっ、ダメなのか? お前と志希の活動再開に向けた企画も、上層部にもう通してあるんだぞ』

  『アイドルとして元気に活躍していった方が、先生も喜ぶだろうに』

  『えぇと、そ、そうやって自分の意志を他人に依存させるのは良くないと思いますっ! って志希ちゃんが言ってました!』

  『なるほどなぁ、ウーム、さすが我が娘……うおっ、辛ぁ!!』

  『タバスコ入りのジャスミンティーです。この子の好みかと思ったのですが……』

  『ひ、ひぃぃぃっ!!!』

  『お義父さん! お義父さん、これ水です、しっかり!』

  『き、キミにお義父さんと呼ばれる筋合いなど無い!』


  『ほら、あんな人達のことなんていいから、こっち来て志希ちゃんっ!』

  『私の自慢の庭だよっ。芝生が気持ちいいから、一緒に寝転がろうよ。デーンッ!』

  『あれはアサガオのグリーンカーテンで、こっちはキンモクセイ! えへへ、すごいでしょ?』

  『志希ちゃん……まだ正直、私もどうしたらいいのか、よく分かってないんだ』

  『でも、今のポッカリ空いた気持ちのまま続けても、誰かに迷惑をかけちゃうかも』

  『なんて……他人のせいにするのはズルい、だよね? でも……』

  『やっぱり私、アイドルである理由を、依存していたんだと思う。だから……』

  『まずは、自分の中でしっかり、気持ちの整理をつけてからなのかなって』


  『でもね、志希ちゃん。私は、アイドルを嫌いになったわけじゃないの。本当だよ?』

  『それに私だって、楽しい思い出をたくさんくれた志希ちゃんを、もっと独り占めしたいもん♪』

  『えへへ。なーんて、ちょっと大胆だったかな?』


  『もう、この子ったらまた服を泥だらけにして……ちっとも成長しないわね。ふふっ』

  『な、そ、そんなこと言わないでよぉ!』

  『おーいそろそろ帰るぞー、ってキンモクセイ!! くっっせぁ!!!』


  『ワッハッハ、志希は良い友達に恵まれたのだなぁ』


 ――――

 ――――――

 ――――。

 寒さで目を覚ましたけれど、陽はもう昇っていた。

 時間を確認しようとスマホを取り出すと、プロデューサーからの着信がたくさん表示されている。
 当たり前か。何も言わずに失踪したのだから。

 帰ろうか無視するか、どうしようかな――自分がどうしたいのかさえ判然としない。


 分かっているのは、今のあたしは独りぼっち。
 キミはもういないのだということ。

 さっきまで見ていた夢の中で、あたしの隣で寝転がってくれていたはずの、夕美ちゃんはいない。



 優しい夕美ちゃんは、あたしが本気で頼み込めば断ることなんて無いだろう。

 そう思いたかっただけなのか――あたしも、勝手なことを――。

 もういいや、どうにでもなれ。

 このまま目を閉じていれば、この悲しみも忘れられるかも知れない。

 あるいは――。



 ――キミの匂いが好きだった。甘い匂いがした。

 風が吹き、それが鼻腔を刺激して、覚醒する。

 飛び起きて振り返ると、案の定視線の先にあったのは彼女ではなく、小さなキンモクセイだった。

 起き上がって、そのそばに近づく。

 昨日は暗くてよく見えなかったドギツい真っピンクが、小さいながらもその存在感を無遠慮に主張している。

 でも、本来キンモクセイは秋の花。

 本格的な春を迎える前に無理矢理花を咲かせたこの子のリズムは、既にガタガタに狂っていて、この先天寿を全うできるかどうかは分からない。

 キミは一体、何のために生まれてきたんだろうね。



「……おや」


 ――?


「これはこれは。まさかお客さんが来てくださっていたとは」

 振り返って丘の下を見ると、お爺さんが空き缶を持って立っていた。
 手の中にあるのは、空になったあの缶ビールだ。

「……管理人さん?」

「普段、こんなド田舎の公園に、人など来ませんでな」

 ボサボサの髭を撫でながら、お爺さんはニコニコと笑った。


 めったに人が来ないというのなら、その缶ビールを捨てたのが目の前のあたしであることも、おおよそ見当が付いているんだろう。

 だけど、その人はそれを気に留める様子を見せず、こちらに上ってくる。


「キンモクセイがお気に召しましたか」

 あ゛ぁ~と呻き声を上げながら腰をトントンと叩き、軽く伸びをする。

「ですがすみませんなぁ、キンモクセイの季節は」
「秋」

「えぇ、よくご存じだ」


「教えてくれたんだ……あたしの……」

 友達が――。


「あぁ~~、夕美ちゃんのお友達でしたか。
 それは、ホッホッホ、なるほど、夕美ちゃんに負けず劣らず可愛らしいわけだ」

「……え」


 どっこいしょ、っとお爺ちゃんは芝生の上に腰を下ろした。

「夕美ちゃんは、この公園の木々や花々を……中でもそのキンモクセイを、丁寧に手入れをしに来てくれていてね。
 先日来た時、彼女からあなたの話を聞いていたんですわ」

「夕美ちゃんが、あたしのことを?」

 その場に立ち尽くして動けないあたしの方へ顔を向け、お爺ちゃんは優しく笑いかける。


「とても素敵な、アイドルのお友達ができたんだと。それは嬉しそうにね」


「……そんなの、ウソだよ」

 友達なら、本当に苦しい時にそばにいてあげられる。
 救ってあげられるはずなんだ。

 一方向からの視点でしか――都合のいい部分しか彼女には、見せることができなかった。
 夕美ちゃんは、ずっとあたしの事を誤解したまま――。

「笑顔が綺麗に咲いている人に憧れる、と」
「えっ?」

「アイドルは、それを咲かせることができるからすごい、とあの子はよく言っていました」

 立ち上がってお尻をポンポンと叩き、お爺ちゃんはあたしの方へ歩み寄ってくる。

「いつか皆を笑顔にできるその子を、私は笑顔にしてみせたいのだとも……ところで、妙ですな」
「? ……な、何が?」
「いえ、この香り」

 あたしを通り過ぎて、お爺ちゃんは鼻をくんくんと鳴らしながら首を捻っている。

「キンモクセイの季節は、半年以上先のはずだが」
「あ、それはコレ……」

「……ほぉ~~」

 あたしが指差したそれの前に座り込み、お爺ちゃんは興味深そうに観察し始めた。

「キンモクセイの花言葉に納得がいかなくて、新種を作ってやろうとして……」
「こりゃあすごい」


「ピンクと、この、一部欠けたように控えめについた黄色の対比が見事ですなぁ」

 ――!?

「え、黄色?」

「まさに謙虚と言いますか、しかし、確かな存在感を放っている……
 ピンクという色も、この時期に咲くこと自体も珍しいが、この互いを称え合うような色合いのバランスが実に美しい」


 お爺ちゃんを押しのけ、もう一度そのキンモクセイを食い入るように観察した。


 本当だ――たくさん咲いた花弁の一つ一つ、よく見るとそれぞれに黄色の欠片が――。

 まるで、そこだけほころんだかのように――。

「どうやったらこんな色合いになるのか、はぁ、良いものを見れました。ホッホッホ」


 白か黒、二つに一つしかないと思っていた。
 ピンクになるか、ならないか――でも。

 本当は、白と黒の間には数えきれないほどの色があって――。


 ――夕美ちゃん。
 今、一つだけ信じてみたいことができたんだけど、いいかな。

「夕美ちゃんは」
「ん?」

 あたしは、結論を急ぎすぎたのかも知れない。

「……夕美ちゃんは、またここに来ますか?」

「あの子がここを忘れることなどありません」

 お爺ちゃんはニッコリと笑いかけた。

「もちろん、このキンモクセイもね」


 あたしは、もう一度出来損ないのキンモクセイを見つめた。

「あはは……」

 改めて見ると、なんて中途半端な色合いだろう。
 しかしその花は、モノクロでしか視界に映さないあたしに、目を覚ませと生意気にも叱りつけるようにも見えて――。


「はははは」

 夕美ちゃんに破壊され、ボロボロになった心から、ほつれた糸が垂れていた。
 それを何となしに引っ張ったら最後、それはするりするりと伸びていく。

 一体何がおかしいのか、自分でも分からないくらい、どんどん顔がほころんでいくのが止まらない。

「な、はは、あははは」

 そうか、夕美ちゃん――。


 ほころびはまた広がって、何かが顔を出した。
 そこにいたのはキミだった。

 笑ってるキミ。

「……ありがとう」

 謝る以外で人に頭を下げることは、たぶん初めてかも知れなかった。

 あたしはお爺ちゃんとキンモクセイに、一旦別れを告げる。


 夕美ちゃんの帰る場所は、この先も変わらずここにある。

 だけど――信じてはいるけど、もう大丈夫だよ。


「……もしもし、プロデューサー」

 昨日の悲しみは、まだ納得できていない。
 でも、受け入れた。

 悲しみを跨いで、あたしも帰るよ。
 夕美ちゃんがくれた、この心の柔らかい場所をずっと、大事にして。


 いつかキミは帰ってきてくれるのか。
 キミが期待してくれたように、アイドルとしてあたしは皆を笑顔にできるのか。

 それらは、二つに一つという、単純な事象とは言えないのかも知れない。
 だけど、今のあたしなら、いずれ迎える結果について納得し、尊重できるだろう。
 この先もきっと、いつまでも。

 ピンクの中に黄色がほころんだ場所が、この胸にある。


~おしまい~

Mr.Childrenの『ほころび』という曲を基に書きました。
途中、同曲の歌詞を所々引用しています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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