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不意にまぶたが落ちた。意識する間もなく。きっと気絶する時というのはこんな感じなのだろう、と思うのは大抵もう一度目を覚ましてからだ。今はそんなことを感じる間もなく意識はどこか遠くへ行った。
このまま何もなければ、きっと緩やかに、深く深く眠っていったのだろう。脳も身体もそうなると信じて疑わなかった。しかしその予測は目を閉じてからほんのかすかな時間の間に消し飛ばされた。右肩をぐっと捕まれ、身体をぐらぐらと揺らされる。思わず目を開けた。
「提督さん、もう眠いっぽい? まだ寝ちゃだめぇ」
ほとんど耳に口をつけるような近さで彼女は言った。それもささやき声であったなら、歳恰好に似合わぬ色気を感じていたかもしれないがいつものように声を出されては耳障りですらある。彼女の方を向いた。
「おはよ、提督さん。あたしたちの時間はこれからっぽい」
「なにがこれからだよふざけやがって。お別れの時間が近いだろ」
半笑いを浮かべて彼は左手首のGSG9を覗き見る。まだ九時を回ったばかりを指している。信じられずに霞む目でカウンターの向こうの掛け時計を見る。果たして同じ時分を指していた。
無意識の内に笑みが失せた。退庁してからまだ二時間しか経っていない。
夕立との時間が苦痛なのではない。しかし昨晩から艦隊指揮所に詰めて睡眠も細切れにしか取れていないまま退庁を迎えた身としてはこの時間まで将校クラブで飲むのは正しく苦行だった。明日が土曜日なのが奇跡だと安堵しながら迎えた週末だというのに。
「私は昨日の朝に起きてからまともに寝てないんだ。分かるだろ。悪いけど、そろそろ寝かせてくれよ。夕立は眠くないのか?」
「全然。むしろこの時間は目が冴えるっぽい」
「タフだな。同じくらいしか寝てないはずなのに。夜型どころの話じゃない」
「夜こそ水雷戦隊の本領発揮。照明弾を焚いて探照灯で辺り一面照らせば昼も同然っぽい」
「冗談だよな。夜は少なからず眠くなるように人間って生き物は作られてるはずだ」
軽く首を振ってカウンターのロックグラスの中身を小さく、一口飲んだ。半端に残った生のウイスキーは溶けた氷と混ざり合い、下の上に流れてきたのはただ苦く不快な液体だった。ため息を漏らすより早く全て飲み干す。とにかく帰りたかった。
冗談じゃないっぽい、と隣で夕立が頬を膨らませたが相手にしなかった。戦闘服の下衣からマネークリップを取り出した。
「本当にもう帰るっぽい?」
「帰るよ。あとは一人で……」
「なら、提督さんの部屋、行っていい?」
また始まった。思わず舌打ちそうになるのをこらえた。
夕立の方を見る。途端に彼女は首をいくらか彼の方から逸らす。右手にはiQOSのホルダーが握られている。彼女の手の中では大きく見えた。へらへらした笑いを浮かべながら、空いた手で頬杖をついていた。
「色目使う気か? そんな幼いなりで」
夕立はただでさえ大きな目をもっと見開いてこちらに視線をかちりと合わせた。赤くビー玉のようにきらきらした瞳で見つめられると思わず息をのむ。途端、彼女は破顔する。
「三十路を二つ三つ越えた提督さんと大差ない女を捕まえて幼いなんて嬉しい。あたし、幼女っぽい?」
回らない頭の中でクエスチョンマークが浮かんだ。夕立、いくつだっけ?
見た目だけで言うなら女子中学生でなんの疑いもなく通る。しかし実際は? 酒もタバコもやる。何度も見てきた。見た目どころか言動も幼い。心のどこかで彼女を子供か何かだと思っていたのか。執務室のパソコンを叩けば三十秒でわかることなのに。今まで、よほど感心がなかったのか。
不意に、二十時間前のある光景が目に浮かぶ。投光器に照らされた埠頭。あまりの明るさに彼女の目元にうっすら浮いたしわまで見えた。夕立はこちらを向いて佇む。緊張した空気の中で彼女だけバツが悪そうに笑っていた。長い亜麻色の髪はつやがなく、まともな化粧は望むべくもなかったがそれを意識させないほどには彼女の顔立ちは綺麗だった。
我に返り、脳裏の光景をかき消す。思考がとりとめなくなっているだけだ。
「提督さん、聞いてる?」
「うん。聞いてる」
ぼんやりした頭のまま返す。気付けば絞られた照明の中で彼女の顔を正眼に見ていた。
もう帰ろう。これ以上いたら本当によくない考えがはっきり胸中に顕れそうだった。
マネークリップから適当な札を二枚引き抜いて夕立の手元に置いた。
「遅くまで飲むのもいいけど、ちゃんと寝ろよ」
ようやく電子タバコをくわえようと口を開けていた夕立の顔が不服そうに歪んだ。早く帰ればいいものを。
立ち上がり、早足にクラブを後にする。背に彼女の視線を感じることは、なかった。
今回は以上になります
電気を着けることもなくベッドに倒れ込んだ。戦闘服のまま、着替える気力もない。月明かりが射し、青暗く染まった天井を見つめていると、静けさのあまり耳鳴りを感じ取れた。眠いわりには泥酔しているせいで上手く寝つけない。まぶたを閉じても目が回っているようだ。
不意に夕立の顔が浮かぶ。iQOSを握ったまま笑っていたときの。ちゃんと帰ったのだろうか?
彼女が着任してからまだ半年と経っていない。しかし意識する頻度は増えている。きっと好きなのだろう。その明確なきっかけや理由を自分の中で探るべきではない。そんなはっきりしたものはたぶんない。それよりも彼女について心配すべきことはいくらかあった。ここでは解決することのできない心配事をつらつらと思い浮かべている内に彼の意識はどこかへ行こうとしていた。
彼女は着任直後から距離が近かった。食堂に行くにも、時おり走りに行くにも犬のように着いてくるのも最初はいやだったが、ニ、三週間もすれば慣れていた。すると今度はたまに彼が一人の時間を持つため勤務後に立ち寄る将校クラブにも着いてくるようになった。
これにはうんざりした。おまけに彼女は酔うと相手構わずスキンシップが激しくなる。最初は止めていたが、やがて見てみぬふりをするようになった。彼女の事情を知ると、よろしくないとわかっていても止めるのが忍びなくなってしまった。
いずれ彼女は確実に死ぬ。思ったほどショッキングではなかったが、絶えず彼の胸をざわつかせていた。
週明けの朝を穏やかな気分で迎えられた試しはない。たとえ何も起こらず平穏なまま時間が経っていったとしても不安は拭い去れない。
登庁してまもなく、彼が執務室でパソコンを起ち上げながら湯のように薄いコーヒーを飲んでいると制服姿の男がふらりと入ってきた。
ひょろりとしたその男は階級こそ彼と同じだが海軍内でのキャリアは遥かに長く、年齢も上だ。まだ四十をいくらか越えただけなのに髪はほとんど白くなり、大きいわりに神経質な色をたたえた目はいつも不健康そうに血走っていた。
人事将校であるこの男がわざわざ朝の早い時間に来るだなんて。おまけに片手には二、三枚のクリップボードを持っている。ろくな報せでないことは簡単に想像できた。
「おはようございます。こんな時間にどうしましたか?」
「あぁ、おはようございます。夕立、まだ出てきてないですか?」
人事将校は振り返って扉の外を気にしていた。
「来てますけど、もう艤装の格納庫で準備してます。今日は宿毛湾泊地の第一艦隊と演習ありますから」
「そうか……ならしばらくは戻ってこない?」
「演習の終わる夕方までは帰ってこないでしょうね」
すかさず彼は切り出した。
「あまりよくないことですか?」
人事将校は深く一度頷き、彼にクリップボードを全て手渡した。
最初に見えた書類に目を通し終わる前にため息が漏れた。
「いよいよ迫っています」
「今から艤装に触らせなければ……」
「間に合わないというのが衛生部の見解で変わりません。手遅れで……」
言いかけて相手は言葉を呑んだ。もう何度も繰り返したやり取りだ。茶番もいいところ。
こんなこと、彼女がここに赴任する前からわかっていたことだ。それでも軍令部は彼女を使い潰そうとしていた。横須賀の者たちはもう夕立を人間と見なしてはいないのかもしれない。
駆逐艦夕立は深海棲艦になろうとしていた。かなり長い時間を艤装と共に過ごしてきたし、沈みかけたことも何度かある。その過程で心身ともに蝕まれていた。
艦娘の艤装と深海棲艦のルーツは同じだ。艤装とは深海棲艦の力を人間がコントロールできるように危うい所で押さえつけているに過ぎない。たがを外そうと思えば呆気なくできてしまう。
正規空母赤城の撃沈による深海棲艦化によって初めてこの危険は知られつつあった。夕立は艦娘運用史におけるその第二例目になろうとしていた。あれがまだ三年前の出来事だというのに。
「これ、軍令部にも報告するんですよね?」
「もちろんです。処分も……」
今回は以上になります
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