先ほどまで右手にあったふわふわとした感触はもうなかった。
突然路地のアスファルトが苔の匂いのする地面に変わり、薄汚いファミリーレストランの裏手は太い幹回りの木々に変わった。
「えっ?」
状況が分からず、思わず口から声が漏れた。
左手には書類の入った通勤用のカバン、恰好は退勤時のパーカーのまま。
傍らには、帰ってクリーニングしようと思っていた白衣が無造作に丸まっている。
幻覚でも見ているのだろうか?
見上げると、先ほどまで夕闇の色だった空には、木々の隙間から見える真っ白な太陽が昇っていた。
「おんやぁ、ヌシは誰ぞ?」
後ろから、中年男性を思わせる声がした。
ああよかった。
何か起こっているかさっぱりだが、とりあえず人がいる。
「すみません、ここっていったいどこなん――」
勢いよく振り向いて、とうとう彼は――望田大樹(モチダ ダイキ)は声が出せなくなった。
「ここはツンガリ森の湖側じゃがどうした、迷子かね?」
目の前には、かっちりとスーツを着こなした猫が二本足で立っていた。
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――――
――
「……い、おい、おいおい」
「んー……」
何か柔らかいものが頬にぽにぽにと触れる心地よい感触。
眠る前の記憶がぼんやりして思い出せない。
まどろんで向きを変え、再び眠ろうとした望田は、何やら覚えのある「ぽにぽに」の正体にふと思い当たった。
あ、猫の手だこれ。
「目ぇ覚ましたかい」
「ひぃっ!!」
目を開くと、自分をのぞき込むスーツ姿の猫。
思わず突き飛ばし、ベッドの上で後ずさりをした。
「いちち、何じゃいいきなり」
「えっはっ、えっ、猫が喋って、えっ!!」
「ああいかんなこりゃ、記憶が混線しておるのか」
肩で息をするパニック状態の望田とは裏腹に、二本足の猫は落ち着いた様子だ。
打った腰をさすりながら、ベッドと反対側の大きな本棚から一冊の本を取った。
「ええと、唄医者の寄こしたのはこれだったかな。少し落ち着かせりゃあいいから、『草原』第3節から……」
猫はぶつくさと呟きながら戻ってきた。
そして慣れた様子で本を開くと、おもむろに言葉を紡ぎだした。
「『開け草原の扉、彼方より此方へ、此方より彼方へ――』
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