神谷奈緒「今はまだよくわからないけれど」 (16)
教室の窓から見える、学校前の公園の木々はもうすっかりその葉を落とし切っていた。
吹きつける冷たい風を受け、枝をしならせる様はなんだか痛々しい。
「奈緒、なにぼーっとしてんの?」
前方からの声で我に返る。
視線を窓の外から正面へと移すと、そこには怪訝そうな顔でこちらを見て、プリントを手渡してくれている友人がいた。
「ん。ああ、ごめんごめん」
「アイドル、やっぱ大変そうだね」
友人はあたしの頭を冗談めかして「えらい、えらい」と撫でてきた。
しかし、彼女なりに労わってくれていることがわからないあたしではないため、素直に撫でられてやることにする。
「全然。余裕だよ、余裕。まだまだこれからだしな」
「体、壊しちゃわないでよー? 私をアリーナライブに招待してくれる約束なんだからさー」
「あはは、うん。ありがとな」
そして、手渡されたプリントを見れば、そこには『進路希望調査』の文字が躍っていた。
「みんなの将来のことだから、よく考えて。何かわからないこととか、相談したいこととかあったら、先生に聞きに来ていいからね」
担任が真剣な顔つきで、言う。そんな大事な話をしていたのか、と上の空であった自分を恥ずかしく思う。
ここからはちゃんと聞いておかないと、と襟を正すも、残念ながら既に遅かったようで続く説明はなく、担任は「それじゃあ今日も一日、頑張ってね」と笑顔を見せた後で、職員室へと戻って行ってしまうのだった。
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○
進路希望調査という爆弾が投下されてから数時間が経ってもその威力は絶大で、あたしの頭の中はこの一枚の紙のことでいっぱいとなってしまっていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつと身の入らない授業が終わり、昼食の時間がやってきてもまだ尾を引いている始末だ。
いつもなら購買へと駆けていくところなのに、どうにも立ち上がる気になれなかった。
「ねぇ、奈緒もしかして今日体調悪い? 保健室で寝ておいでよ」
そんな調子のあたしを見兼ねたのだろう、友人に気を遣わせてしまっているようだった。
「いや、そーいうんじゃなくて……」
「体調が悪いわけじゃないの?」
「うん。大丈夫だぞ、あたしは普通!」
「んー……あのさ、普通に見えないからこうやって声かけてるわけなんだけど」
「……」
「そんな私、信用ないかなぁ。一年生からの付き合いなのになー?」
「その、ほら、気ぃ遣ってもらってんのはわかるし、悪いと思ってるよ。でも、これはあたしの問題、っつーか」
「あっ、アイドルのお仕事の話? 私には言っちゃいけない感じ?」
「そういうわけでもないけど……」
「ほらほら、お悩み相談コーナー開催したげるから話してみな、って」
話したところで解決するわけはない。
頭では理解しているが、ここまで心配してくれている友人に話さないのも良心が痛むから、あたしは胸の内のもやもやを少しずつ言語化していくことにした。
「朝のホームルームでもらっただろ? あれ」
「進路希望調査?」
「そう。それのことでちょっと頭、こんがらがっちゃってさ」
「奈緒、進学しないの?」
「それもまだ決めらんなくて……」
「あー……そっか、そういうことか」
あたしの抱えている悩みを察した友人は腕を組み「そっかぁ……」と繰り返して「難しいね」と言った。
「あー、なんかしんみりさせちゃってごめん」
「いやいや、これは仕方ないよ。仕方ない。奈緒は私なんかの何倍も難しい問題に向き合ってるんだし」
「……アイドル、いつまで続けるんだろー、とかアイドルじゃなくなったときに大学を出てないとやっぱり不利になるのかなー、とか……そうやって考え出したらわけわかんなくなっちゃったんだよな」
「それは……うん。わけわかんなくもなるよ。これは私、無責任なこと言えないかなぁ」
「そこは、うん。助言してくれー、なんて言わねーから大丈夫」
「だってさ、今だって高校生とアイドルの両立で大変そうなのに、身勝手に頑張れ、なんて言うわけにもいかないし……」
それもそうだよな、と友人の言葉を受けていっそう気分が沈んでしまう。
しかし同時に、親身になって聞いてくれて、本当にあたしのことを考えて言葉を選んでくれている彼女の心遣いはありがたいなぁ、と思う。
「なんにせよ、さ。こうやって普段学校で話したり、たまにカラオケとかランチとか行ったりする奈緒も私は好きだし、アイドルとして頑張ってる奈緒のことも応援してるから……その、さ。納得のいく答えが出るといいね……なんて、こんなことしか言えないけど」
「いや、十分だって。話したらちょっと楽になった」
「ならいいけど……まぁ、ほら。今はお昼食べよ?」
「ん、そうだな。なんかホント、悪い」
「謝んなくていいよー。さぁさぁ! 売れ残りのあんまおいしくないパン買いに行くぞー!」
「おー! ……全然嬉しくねぇなー、これ」
「間違いないね」
立ち上がり、財布を片手に教室を出る。隣を駆ける友人に、少し小さな声での「ありがとな」を投げると「ふふふーお安い御用だぜ」と返ってきた。
解決はしなかったものの、自分が抱えている物の輪郭はくっきりとしてきたような気がする。
ほんの一歩ではあるが、あたしの中で前進したことは友人に感謝しなくてはいけないだろう。
「あ。そうそう」
友人はぴたりと足を止めて、何かを思い出したように口を開く。
「ん。どうした?」
「さっきの奈緒と私の話あるじゃん?」
「おー」
「あれさ、テレビで感動エピソードとしていつか披露してもいいよ!」
「ほんと、おまえ、そういうこと言わなきゃ完璧なのにな」
「そこが良いとこです」
「はいはい。あんまおいしくないパン買いに行くんだろ」
「購買のおばちゃんに失礼だよ」
「いや、先に言ったのお前!」
○
それから、友人のおかげで少しだけ気が晴れたらしいあたしは、残る午後の授業を無事に乗り越えて、学校を後にする。
珍しくレッスンやお仕事も入っていない日であったにもかかわらず、真っ直ぐ帰宅するのは、放課後のお誘いがなかったからで、またしても気を遣われてしまっているなぁ、と友人の温かさに感じ入りながら帰路につくのだった。
○
自宅に到着して、玄関で靴を揃え廊下を歩く。キッチンの方向からは、包丁とまな板とが当たって奏でられる軽快な音が届いていた。
今日はなんだろうか、と鼻を利かせてみたが、まだ何か特定できるほど調理は進んでいないらしい。
洗面所で手を洗い、ついでにスクールバッグから体操服を出して洗濯機へと押し込んでリビングへと向かった。
「ただいまー」
「あら、おかえり。今日はアイドルないの」
アイドルとなったときも散々説明したはずであるが、未だ母はアイドルという存在をそこまで理解していないらしく、部活か何かのような口ぶりだ。
「うん。……って昨日言ったけど」
「そうだったっけ」
「まぁいいや、それでさ、ちょっと話があって」
「……大事な話?」
「んーまぁ、そんなところ」
「なら、これだけ作っちゃうから着替えて、リビングで待ってなさい」
はーい、と返事をして、言われるがままに自室へ行き、やや雑に鞄を床へと降ろす。
そして鞄の中から一枚の紙を、進路希望調査を取り出した。
着替えを済ませて再びリビングへと戻ると、エプロン姿の母が待っていてくれた。
ちらりと母の視線が、あたしの手元のプリントに移るのを感じて、どきりとする。
なんて言われるだろうか。このままアイドルを続けることを母はどう思っているのだろうか。
果たしてアイドルでいることをいつまで母は許してくれるのだろうか。
そんな心配が、ぐるぐると回る。
母が腰掛けているソファの隣にアタシも腰を降ろし、母の顔を見る。
すぅ、と息を吸い込んで、心の中で「よし」と呟いた。
「あの……さ、今日学校でこれ渡されて」
おずおずと母に、進路希望調査を差し出す。
母はそれを受け取ると、軽く眺めた上で「それでどうしたの」と言った。
「いや、どうした、っつーか。お母さん的に、どうなのかな、って」
「これは奈緒の進路の希望を調査するものでしょう? お母さんのじゃなくて」
「そうなんだけど……ほら、その、あたしはアイドルやってるわけだろ? それで……どっちも中途半端になっちゃうのは嫌だし……みたいな」
「つまり、大学に行くかどうかっていう話?」
「まぁ、悩んでるのはそういうことになる……のかなぁ」
「アンタ、そもそもいつまでアイドルするつもりなの?」
「それは……わかんねーけどさ……」
「今は楽しいばっかりなのかもしれないけど、それで一生食べていけるって保証はないのよ?」
「……わかってるけど」
「それにね。進学するにしても、しないにしても、準備ができるのは今だけだからね。来年になってから慌てても遅いのよ」
「………………うん」
「だからお母さんが言えるのは、それだけ。答えはアンタが出しなさい」
「…………」
「いいわね?」
「……うん」
「そ。じゃあ、お母さんは夕ご飯作っちゃうから」
ソファから立ち上がり、キッチンへと戻って行く母の後ろ姿を見送る。
友人との会話で少しは楽になったと思っていたものにもう一度牙を剥かれ、自身の認識の甘さを痛感する。
これが芸能界に対する一般の人の意見である、ということを噛みしめると共に、自身のいる世界の不安定さを思い知らされたのだった。
○
母との話の後、重々しい心持で夕飯を食べ、お風呂を済ませると、何もかもから逃げるような思いで、布団に入った。
そうして迎えた翌日、あたしは携帯電話の着信音で目を覚ます。
時刻は午前八時、朝早くに誰だろう。
「もしもし」と受けると、電話の主はあたしを担当しているプロデューサーさんだった。
『おはよう。あと三十分もしたら着くからね』
音として耳に入ってきたそれを、回っていない寝起きの頭がゆっくりと咀嚼する。
ようやく意味を受け取れると、真っ青になった。
やってしまった。
脳内のスケジュール帳をぱらぱらとめくる。
九時半から、クリスマスイベントに向けたユニットでのレッスンがあったのだった。
大丈夫。大丈夫だ。なんとかしてみせる。
自分に言い聞かせるように胸の内で繰り返して「了解」とだけ返し、電話を切る。
着替えて、軽くメイクをして、髪を整えて、荷物を準備して、家を出る。できる。いや、やる。
クローゼットを開く。悩んでいる暇はない。大体のコートに合うような、無難でカジュアルなものを取り出して、ベッドへと投げる。
さらに、ジャージとタオルをスポーツバッグへと雑に詰め込むと、早着替えのようなスピードで先程取り出した衣類を身に着けた。
次いで、メイクとヘアセットをするべく自室を飛び出し洗面所へと駆けこむ。
どうせレッスンで汗だくになるので、こちらは最小限で問題はない。
レッスンスタジオへは車移動となるので、プロデューサーさん以外の人に見られることもない。
というか、プロデューサーさんに見られることがなければ、ノーメイクでもいいとすら思うのだけれど、などとどうでもいいことを考えている間にメイクと髪を整え終わる。
再度自室へと舞い戻り、用意したスポーツバッグを肩にかけ、財布やら携帯電話やらの必需品たちも忘れないように詰め込む。
全ての支度が完了したことをチェックして、部屋を後にする。
冷蔵庫から買い置きのスポーツドリンクを一本取り出して、寝ている母を起こさぬように控えめに、誰に宛てるわけでもない「行ってきます」を呟いて家を出た。
自宅を出て、通りに目を凝らす。
そこには見慣れた車があった。
小走りで駆け寄り、助手席側から運転席に座る人物を確認する。やはりプロデューサーさんだ。
プロデューサーさんも覗き込むあたしに気が付いたようで、助手席のロックを解除してくれたので、ドアノブを引いてそのまま乗り込む。
「おはよう。早いね」
「こっちのセリフだろ、それ。三十分って言ってたのに」
「ああ、うん。ちょっと早く着いたんだよね」
「なら言ってくれたらよかったのに」
「だって電話した時、声がいつもの調子じゃなかったから。起きたばっかなのかと」
寝起きであったこと見透かされていたとは。
もしもしと了解の二言しか喋っていないのに、よく気が付くものだ。
「バレてた……?」
「あ、いや、責めてるわけじゃないよ。奈緒は時間通りに来てるわけだし」
「そうは言われても……」
「恥ずかしいものは恥ずかしい?」
にやにやとしながら、プロデューサーさんはあたしの顔を覗き込む。
「わかってんならいちいち口に出すな、っつの!」
プロデューサーさんは、あたしの全力の要求をあははー、と躱して、緩やかに車を発進させ、窓の外の景色は流れ始める。
出発からしばらく走行したあとで、プロデューサーさんが「そういえばさ」と口を開いた。
「最近はお仕事にレッスンにと忙しくなってきて、ゆっくり話す時間もスカウトしたばっかの頃よりは減っちゃったけど、何か相談ごとだとか、悩みだとか、そういうのはない?」
正面の信号が黄色を点灯し、プロデューサーさんは車を減速させる。停止線の前でぴたりと停まった上であたしの顔を見て、同じ言葉を繰り返した。
こんなことってあるのか。
それが一番に抱いた感想だった。ずばり今まさに、相談ごとだとか、悩みだとか、そういうものがあるタイミングでこんな言葉をかけられるとは思っていなかった。
プロデューサーさんは目聡いところがあるし、電話越しの一言であたしの寝起きを見分けたくらいなのだから、もしかするとあたしの悩みも察しているのかもしれない。
いや、そんなわけはないと思うけれど、とぐるぐる考えてしまう。
「奈緒?」
「えっ、あっ。あー、うん。大丈夫」
「本当に?」
「………………嘘。実は、ある」
咄嗟の返しにもたついてしまった時点で、嘘はもうつくことができない。
プロデューサーさんだって大人なのだから、悪いようにはならないだろう、と早々に諦めて全てを話すことにした。
学校で進路希望調査を渡されたこと。
その記入のために悩んでいること。
そして、それを親に相談したところ、厳しい言葉をかけられたこと。
あたしはできる限り包み隠さず、全てをプロデューサーさんに語った。
「…………なるほどなぁ」
「その、スカウトん時から世話になってるプロデューサーさんにこんなこと言うのは、良くねーのかもしんないけど……」
「いや、大丈夫。うん、お母様のその指摘は至極真っ当なものだと思うし、自分の娘の将来がかかってるんだから、そう言う気持ちもわかる」
「やっぱ、そう、だよな……」
「でもね、奈緒」
「ん?」
「奈緒には、奈緒がやりたいことを思うままにやる権利があるよ。そして、そうやって思うままに行動したことで起きたあらゆる結果は、奈緒の責任になる。勝手なことを言うようだけど、こればっかりは奈緒の人生の問題だしどうにもしてあげられないからね」
「……うん、わかってる」
「もちろん、肩代わりしてあげられる責任はこっちに振ってくれていいんだけどね。それに、俺の出番はきっと、奈緒が答えを出した後で来ると思うし」
「答えを出した後?」
「そう。奈緒の出した答え、奈緒の選択を実現するために全力を尽くすことだけは約束する」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、具体的はどういう……?」
「ああ、まぁ、たぶんしばらくしたらわかる」
「?」
「まー、今はじっくり考えなさい」
「うん。よくわかんねーけど、わかった」
「あとはそうだなぁ。俺から言えることは……いろんな人の話を聞いてみるのも良いと思うよ、ってことだな」
「いろんな人?」
「うん。例えば、これから今日のレッスンでご一緒する三船美優さん。あの方は大卒で就職をして、そこからアイドルになったと聞いてるから、そのときの心境とか、そういうの、聞いてみたらいいんじゃあないかな。聞き辛ければ俺から聞いてあげてもいいし」
「……そっか、三船さんもすげー経歴と言えば、すげー経歴、なんだよなー……。うん、ありがとな。自分で聞くよ」
「きっと、親身になって聞いてくれると思うよ。三船さんも、その担当も人の良い方だから……さて、というところで」
車がゆっくりと減速して、やがて完全に停止すると同時にプロデューサーさんが「着いたよ」と言った。
「じゃあレッスン頑張って。荒木さんも三船さんも入りは同じはずだからもしかしたらもう来てるかも」
「わかった。……その、ありがとな」
「まだ送ってきただけだよ」
「そーじゃなくて、その、ほら」
「ほら?」
「話聞いてくれて、ありがとな、ってこと」
「ああ、うん。答え、出るといいね」
うん、と返事をして車を降りる。
ばたん、というドアの閉まる音ののちに、プロデューサーさんは車を発進させ遠ざかっていった。
○
レッスンスタジオに到着してすぐ、更衣室でウェアへと着替え、タオルなどを手に指定されているレッスンルームに向かう。
まだ早い時間であることもあってか、いつもと比して静かな廊下を小走りで抜け、目的の部屋に入るとそこには既に今日レッスンを共にするユニットメンバーの二人がいた。
「おっ、奈緒ちゃん。おはようございまっス」
「おはよーっす。美優さんも比奈さんも早いなー」
「いえ、私も比奈ちゃんもついさっき来たところですから」
アップを始めている二人に混ざり、あたしも入念に柔軟を行う。
プロデューサーさんに提案された、例の質問を今投げかけてみようか、とも思ったけれど、そのせいでレッスンに身が入らなくなってしまってはトレーナーさんにもユニットの二人にも申し訳がないから、今はレッスンに集中したいと考えて帰りに聞くこととする。
それからしばらくして、トレーナーさんがレッスンルームへと入ってきた。
「よし、揃ってるな。アップも済んでる、と。上出来だ」
言って、トレーナーさんは両手を打ち鳴らして、あたしたちに起立を促す。
あたしたちもそれに従って立ち上がり、自然と想定されているフォーメーションでの位置に並んだ。
「さっそく合わせていくからな。しっかりついて来るように」
三人揃って「はい!」と返事をして、気合を入れる。
そこからは鬼のようなレッスンが始まった。
トレーナーさんの怒号のような指摘と、あたしたちのダンスシューズがレッスンルームの床と擦れて鳴る音だけがひたすら響く。
そんな時間を三時間余。
音楽プレイヤーの吐きだす曲の終了と同時に、あたしたちは床へ倒れ込んだ。
「よし、良いだろう。合格点だ。今日はここまで」
トレーナーさんのその号令を受け、「あー」だとか「うー」だとか、そんなような思い思いの呻き声を上げる。
「各自給水と、しっかりダウンを行うようにな。それじゃあお疲れ」
なんとか息を整えて必死に「お疲れ様でした」の一言を喉から搾り出す。
こうして、地獄のレッスンは幕を閉じたのだった。
汗を吸い込みに吸い込んだシャツはべっとりと体にはりついて重い。
これ以上はどう頑張っても無理です、とでも言うかの如く、持ってきたタオルは拭き取れる汗の限界を随分前に迎えていた。
「あー、しんどかったッス……」
「奈緒ちゃんも比奈ちゃんもお疲れ様です……。私も三途の川が見えました……」
「あはは。でもホンっト、今日はしんどかったなー」
「いや、奈緒ちゃんこれ冗談とかじゃなくて、アタシとたぶん美優さんもガチっスよ……」
「奈緒ちゃん、流石高校生の体力、という感じですね……」
突っ伏したまま動かない二人を「でもクールダウンはしないとー」と、起こし雑談を交えながらクールダウンを済ませる。
その最中に、比奈さんの携帯電話がメッセージの受信を告げ、それを確認した比奈さんは「あ、もうお迎え来たみたいなんで、早いとこシャワー浴びて先上がるッス」と言って足早に帰ってしまった。
そして、レッスンルームはあたしと美優さんの二人だけとなる。
今こそ質問を投げかける好機と踏んだあたしは、意を決し柔軟中の美優さんに「あの」と声を出した。
「その、ちょっと悩んでることがあって、それで、美優さんに相談したくて……その」
言い澱んでしまうあたしを見て、重大なことと判断してくれたのか、何故か美優さんは正座になってあたしの前に座り直すので、つられてあたしも正座になってしまう。
「私が何か助言をしてあげられるかどうかはお約束できないですが、それでもいいのかしら……?」
「それは、うん。大丈夫……っつーか、どっちかって言うと、美優さんに聞きたいことがあって……」
「私に答えられることなら、なんでも。……奈緒ちゃんの力になれたら良いのですが」
まず、質問を投げる前にあたしの状況を説明しなくては、と今朝プロデューサーさんにしたように順を追って一つ一つ話し、今思っていることをあたしは美優さんに伝えた。
「なるほど…………」
「その、重い話をして申し訳が……」
「いえ。奈緒ちゃんが相談してくれて、嬉しいです。ですが……難しい、問題ですね……」
「……うん。それで、美優さんには聞きたいことがあって」
「今の奈緒ちゃんのためになることを言ってあげられるかはわかりませんが、私に答えられることなら」
「え、っと。美優さんは何でアイドルやろうって思えたのかな、ってのが聞きたくて」
「何で、ですか……?」
「うん。美優さんは普通に大学も出て、会社にも勤めてて、それでもアイドルのスカウトを受けたって聞いたから……その、決め手というか何というか……」
「なるほど……。そう、ですね……。アイドルとなることを決意した理由は、私生活や仕事があまり上手くいっていなくて、どん詰まりにいるような感覚になっていたことなど、挙げればたくさんあるのですが……一番は“この人となら”と思える人に出会えたこと、でしょうか」
「それって、美優さんのプロデューサーさん?」
「はい。きっと、別の人にスカウトされていたら私はまだあの小さな会社で働いていた可能性すらある、と思います。ですから、私がアイドルになろうと思えたのは、あの出会いのおかげ、と言えるのかもしれません。……その、質問への回答としてこれで良かったかしら……?」
美優さんの話を聞いて、脳裏に一人の男の顔が浮かぶ。
友人との待ち合わせをしていた際に、しつこいほど名刺を持って近付いてきたあの男。
何かあるたびにお節介なくらいあたしに世話を焼いてくるあの男。
あたしが不自由しないように、スケジュールの調整から送り迎えまで、自分だって忙しいのにしてくれるあの男の顔だ。
ああ、そうか。
あたしは、あの男だったからアイドルになったのか。
今更、そんな不思議な納得があった。
そして、胸の内にあった悩みへの自分なりの答えが出た気がした。
「美優さん、あたし、わかったかも」
「……? よくわからないけど、奈緒ちゃんのお力になれたなら良かったです」
「いや、ほんっとーに感謝してる! で、えっと、その、あたし行かねーといけないとこができて」
「ええ、ふふ。私のことは気にせず」
「美優さん、ホントにありがとう! また!」
「はい。また」
転げるようにしてレッスンルームを出る。
猛スピードで帰り支度を終えすぐに更衣室のロッカーの鍵を受付へと返して、レッスンスタジオの玄関を抜けると正面の通りにはプロデューサーさんの車が停まっていた。
「お疲れさん。どうだった? ってその様子を見ればわかるか」
「?」
「答え、出たんでしょ」
「え。何でわかるんだ?」
「そりゃわかるよ。朝とは比べ物にならないくらい表情が晴れ晴れとしてる」
「……あたし、そんな顔に出てるか?」
「出てる出てる」
「…………。まぁ、それはいいとして、だ」
「うん」
「あたし、わかったよ。プロデューサーさん」
「うん」
「きっと、すごい簡単なことだったんだよな。あたしはもっと単純に考えるべきだったんだ」
「そうなの?」
「うん。プロデューサーさん、あのさ、あたし、アイドルまだまだ続けたい」
「そっか」
「でも、進学も選択できるようにしたいし、そして進学したとしてもアイドルもやりたい」
「それが奈緒の答え?」
「そう。……わがまま、かな」
「さぁ、どうだろう」
「……」
「でも、俺は奈緒が今出した答えが実現できるように全力を尽くすよ」
「……お母さん、なんて言うかな」
「そこはそれ、一緒に説得しよう。大変になると思うけど事務所としても私としても奈緒さんのためにできることを精一杯させていただくので、ご家庭にもフォ
ローをお願い致します、ってことはお伝えしなきゃだし、ね」
「え。……そこまでしてもらわなくても」
「何言ってんの。そういうのも含めて俺の仕事。言ったでしょ、奈緒が奈緒のしたいことを実現するために俺がいるんだから。奈緒は俺を使ってなんぼなの、わかる?」
「……うん。ありがとな」
「何より、親御さんには、ちゃんと頭下げに行くのが筋だと思うからね。一番大変なのは奈緒だけど、ご家庭にも少なからず負担をお願いするわけだから」
車を運転しながら「というわけでご両親の好きな食べ物とかある? 菓子折りも用意しないと」とかなんとか言って、あたしの家に来るための算段をあれこれ立てているプロデューサーさんを見て、美優さんの言葉を思い返す。
――この人となら。
まぁ、確かにこの男となら大抵何とかやっていけるのではないだろうか。なんて、思うあたしなのだった。
おわり
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