【アイマス】滄の惨劇 (251)
アイドルマスターのSSです。
アニメ版しか知らないので細かな設定等の矛盾はご了承ください。
SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1561037458
「ええ!? 本当ですか!?」
春香が身を乗り出した。
「ああ、リフレッシュも兼ねて、ということらしい。みんな、このところ忙しかったからな。
とはいえこの時期によく日程を確保できたものだよ」
まるで自分が大仕事を取ってきたかのようにプロデューサーは得意気に言う。
実際、これは売り上げに貢献するものではない。
彼がもう少し貪欲で事務所の利益を優先するような人間なら、カメラを複数台持ち込んでクルーに撮影させただろう。
「もちろん都合もあると思うが……どうかな?」
各々は互いに顔を見合わせる。
仕事については先ほど彼が言ったとおり、うまく調整してある。
つまり各人の意思次第ということになるが――。
「南の島でバカンス……これはもう行くしかないっしょ!」
「断る理由があるかね、諸君? いや、ない!」
真っ先に手を挙げたのは亜美と真美だ。
それが引き金になったように事務所内は俄かにざわめきだす。
「こらこら、ちょっと静かにしなさい」
律子が制するが興奮はすぐには収まらない。
「それってつまり旅行ってことですか? 前に行ったみたいに――」
「そういうことになるかな。まあ、社長は合宿の意味合いもあるって言ってたけど」
「強化合宿ですか!? うーん! 燃えてきましたっ! ボク、参加します!」
「いや、強化とまでは言ってないぞ……」
「また皆で旅行なんて楽しみね」
「まあ私は世界中行き飽きたから、たまには国内の小さな島もいいかもしれないわね」
「お昼寝できるところだったら、どこでもいいの」
という具合である。
「盛り上がってるところ悪いが、とりあえず参加人数を確認しておきたいと思う。参加したい人は挙手を――」
プロデューサーが言い終わる前に全員が手を挙げていた。
「よし、決まりだな。日程や必要な物なんかは後で知らせるとして……社長からの伝言だ。
”せっかくの機会だから何かやりたいことがあったらどんどん言ってほしい。できるだけ希望に沿うようにしたい”、だそうだ」
「よっ! さすが社長! 太っ腹!」
「たしかに最近、運動不足みたいだし太っ腹と言えなくもないですなあ。ねえ、律っちゃん?」
「あら、残念だわ。亜美と真美はキャンセルってことでいいのね?」
「ウソだよ! ウソウソ! 今のはアメイジングジョークだよ!」
律子が眼鏡をかけ直した途端、2人は滑稽なほど慌てふためいて取り繕う。
「ビーチバレーとかしてもいいの?」
響が訊いた。
「いいんじゃないか? 他に利用客もいないハズだし」
「やった!!」
「プライベートビーチってすごいね!」
「それならどんなに穴を掘っても怒られないかも」
銘々が盛り上がる中、小鳥がプロデューサーに耳打ちした。
「実は私も社長に、”たまには羽を伸ばしてくるといい”って言われたんです。
私もそのつもりだったんですけど、急な仕事が入ってきて一緒に行けなくなってしまって……」
「え、そうなんですか?」
「そうなんですよ……それでですね、プロデューサーさん。デジカム渡しますから、是非ともお宝を――」
その言葉に彼は申し訳なさそうにかぶりを振った。
「ところでどういう経緯で南の島に、なんて話になったんですか?」
律子が少し訝しげに問うた。
「ああ、それはな――」
南の島で一服してはどうか、と持ちかけたのは高木だった。
アイドルたちもそこそこ売れてくると、プライベートを過ごすにあたっても気が抜けない。
そこで彼は合宿と称して、彼女たちが羽を伸ばせる場所を用意したいと言い出した。
それなら仕事熱心な者も後ろめたさを感じることなく楽しめるし、合宿と銘打ってある以上、
本当にレッスンに打ち込みたくなってもそれはそれで違和感はない。
どういう伝手でか、彼は南の島に建つ洋館を所有するに至った。
外部の人間が入り込まない、765プロだけの楽園――と言えば盛大豪華に聞こえるが、
実際には周囲には何もない国内の無人島である。
それでもプライベートビーチという表現は間違いではないし、周囲の目がないという点ではストレスもない。
何もない場所だからこそ伸び伸びと過ごすことができ、自主性も磨かれ協調性も生まれる。
アイドルたちの絆はより強固となり、765プロはますます大きくなっていくだろう。
尤もらしい言い方だが、いつものように思いついたことをそのまま発するような口調だった。
要は全員でまとまった休暇を……というワケである。
それも3泊4日という大型連休並みの日程だ。
これだけの調整ができたのも、プロデューサーや律子は元より、ひとえに彼の業界に広く通じる顔によるところが大きい。
事務所自体を閉めるわけにはいかないうえ、急な仕事が入ったために社長と小鳥は留守番になるが、
少なくともこの数日の業務量は普段よりもずっと少なくなるだろう。
「大いに楽しんできてくれたまえ!」
社長は陽気にそう言って見送った。
「――と、いうことなんだ」
大雑把な説明に律子は小さく息を吐いた。
「なんというか、社長らしいですね……」
彼の思いつきに何度か振り回されたことのある律子は微苦笑した。
「で、あんたがその引率をするってワケ?」
バカンスには慣れている伊織は他と違って燥(はしゃ)ぎはしない。
「まあ、そういうことになるんだろうけどな――」
「…………?」
「正直、俺もほとんど何も聞かされてないんだ。島の場所も知らないし」
「何よそれ? どういうこと?」
「とにかく自分に全部まかせておいてくれ、って。俺は当日になったら皆を港に連れて行けばいいって。
島での衣食住も心配いらないらしい。俺が言われたのは、”彼女たちをよろしく頼むよ”くらいだったからな」
これに呆れた様子で返したのは律子と伊織くらいで、他は島での過ごし方をあれこれと話し合っている。
「きっとプロデューサーさんにも楽しんでほしいんですよ」
あずさがにこやかな笑顔で言う。
彼に仔細を伝えないのは引率という役目を気にせず、皆と一緒に時間を過ごしてほしいと考えているからではないか。
それが社長の想いではないか、と彼女は言った。
「どうかしらね。案外、何も考えてないだけかもしれないわよ?」
伊織の懐疑的な言葉に、律子も曖昧に頷いた。
「まあ、そういうことなら俺は少し楽ができるってことなんだけどな」
プロデューサーという仕事の範囲は広い。
営業はもちろん、会場を押さえたり、そこまでの足を確保したりと細部にまで気を回さなければならない立場だ。
仮に所属アイドルを率いて南の島で一服……と言われても移動の段取や安全確保、荷物の管理等、やることは雑多だ。
これではとても心も体も休まらない。
それが今回、面倒事は社長が引き受けるとなれば彼も休暇を満喫できる。
―― 1日目 ――
9時07分。
空を覆う青と海に広がる青は一見すると似ているが、目を凝らせばその違いは瞭然だ。
都会の港から見れば黒に近い海でも、遠く離れればそこには宝石を敷き詰めたような蒼がどこまでも広がっている。
「風が気持ちいいわね」
靡く髪を押さえて千早が言った。
「そうだね」
天を仰いで春香がその横に立つ。
強過ぎない日差しと心地よい潮風とが交互に肌を打つ。
「社長と小鳥さんも来られたらよかったのにね」
残念そうに言う春香をよそに、千早はカメラを構えて風景を撮影し始めた。
空や海だけではなく、船上でそれぞれに時間を過ごす仲間も写真に収める。
「できるだけたくさん撮っておきたいの。思い出にもなるし、社長と音無さんにも見せてあげたいから」
そう言い笑う彼女に、春香も自然と笑みをこぼす。
時折り来る揺れに雪歩が蹌踉(よろ)めいた。
「大丈夫ですか?」
そうなることを察知していたように貴音がその背に手を回して支えた。
「あ、ありがとうございます……」
「顔色が優れないようですが、船酔いでは? 少し休んだ方が――」
「い、いえ! 大丈夫です! 大丈夫ですから!」
やや青かった雪歩はたちまち赤面し、大仰に手を振った。
「そうですか……なら良いのですが……?」
にこりと微笑み、貴音は船の反対側を見やる。
へりを掴んで身を乗り出しているのは亜美と真美、それにやよいだ。
そのすぐ傍に響と真が立っている。
「魚ってあんなに小さいのになんで速く泳げるんだろうね?」
「ヒレとかあるからじゃないの?」
亜美の問いにやよいが首をかしげながら答える。
彼女たちの乗る船はかなりの速力を出している。
海面近くを泳いでいる魚たちはまるで船を護衛するかのようにぴったりと付いている。
「この船と競争してるのかもしれないぞ? きっと負けず嫌いなんだな」
「またまた~。そんなのひびきんとまこちんくらいっしょ」
「え? ボク?」
急に名前を呼ばれた真は分からない顔をする。
「そうそう! 2人のことだから島に着いたらまた泳ぎで勝負するんでしょ?」
「いや、もう勝負はしないぞ? あれは自分の勝ちってことで終わったからな」
「ちょっと待ってよ、響。いつ終わったって?」
真が腰に手を当てて抗議した。
「この前は響が途中で魚捕りしてたから無効だよ。というか先にゴールしたのはボクだったし」
「真は分かってないな。泳いでる魚を素手で捕まえるのがどれだけ難しいか知らないでしょ?」
「そりゃあ……そうだけど。でも勝負をほっぽり出したんだからボクの不戦勝ってことになるじゃないか」
「あれはあのままじゃ自分の圧勝だったから、真に花を持たせてやろうと思ってやったんだぞ?」
「頼んでないよ、そんなこと。響こそ負けそうだったからウヤムヤにして誤魔化そうとしたんじゃないの?」
「自分の負けだ、って言いたいのか!」
「そっちこそ!」
「響さんも真さんもケンカはダメです! 仲良くしてくれないと悲しくなっちゃいます……」
「あー! まこちんたちがやよいっちを泣かせたー!」
「先生に言ってやろ!」
「ええっ!? ち、ちがうんだよ? ボクたち、別にケンカしてたワケじゃないんだ!」
「そうそう! 今のは……ケンカ……そう! ケンカの練習なんだ!」
亜美たちの揶揄いに、真と響は慌てて否定する。
本当に悲しそうな顔をするやよいを宥め、どうにか笑顔を取り戻す。
最後には仲直りの握手をさせられ、どうにか収めることに成功する。
「岩倉さん、お忙しいところすみませんでした」
そんなやりとりを眺めながら、プロデューサーが操舵席の男に頭を下げた。
「いえいえ、テレビで観てる人らを乗っけるなんて滅多にないことなんで、忙しいなんて言ってられんですわ。
それにここんところ天気もぐずついちまって漁にも出られんかったからちょうどいいや」
岩倉と呼ばれた男は真っ黒に日焼けした腕を振りながら笑顔で答えた。
”ガンさん”の愛称で通っている彼は漁師として海に出る傍ら、時間が空いた時には送迎役も務めている。
2人は初対面だが高木が話をつけてくれていたおかげで、すぐに船を手配してくれた。
「俺が765プロの人らを送迎したんだって孫にも自慢できますわな。あいつ、あの女の子が好きなんですわ」
「あの子……?」
横にいた律子が問うた。
「そうそう、髪の長い子。よく3人で歌ってる……すんませんな、そこまで詳しくないんで」
「3人ということは竜宮小町じゃないですか?」
「竜……そんな名前じゃなかったなあ……プロなんとかだったかなあ――ああ、ほら、あの子ですわ。
あそこで喋ってる、ちょっと日焼けしとる子。孫がよく真似しとってね。口癖みたいなやつ」
アイドルはテレビでたまに観る程度の岩倉には、彼女たちの区別はついていない。
休日は孫と一緒に歌番組を観ているが印象には残っていないようだ。
「もしよかったらサインなんか貰えたら――いやいや、やっぱりいいや! 申し訳ない!
765プロさんも仕事でもないのに、こんなこと頼んだら迷惑だもんなあ」
大袈裟にかぶりを振る岩倉に、プロデューサーは苦笑して言った。
「いえ、いいですよ、サインくらいお安いご用です。送迎をお願いしているんですから……」
「本当かい? いやあ、悪いねえ……これで顔向けできますわ。俺がアイドルを乗っけたって知ったらあいつ、
きっと拗ねちまいやがるに決まってるんで。いただけるんなら一生の家宝にしますわ」
黙っていれば射竦めるような目つきの彼も、孫の話となると別人のように表情が変わる。
「今後ともうちのアイドルをよろしくお願いします」
律子が丁寧に頭を下げた。
「仲間にも宣伝しときますわ。こんな別嬪のお客さんならいつでも大歓迎だ」
孫への土産ができたことでますます機嫌を良くした岩倉は大仰に笑った。
「起きてるなんて珍しいじゃない」
目を細めて水平線を眺めながら伊織が言う。
「いつも寝てるみたいに言わないで欲しいな」
美希はぼんやりと海を見つめているが声ははっきりしている。
「いつも寝てるわよ」
「こんなキラキラしてるのにもったいないから」
呆れたように言う伊織を無視し、美希は水面を指差した。
「太陽の光が反射してキラキラしてるの。ガラスみたいで綺麗でしょ?」
「そんなの別に大した……まあ、そうね」
2人はそろってうねる水面を見下ろした。
「あっ! みんな、見て!!」
突然、真美が舳先の方を指差して叫んだ。
「まったく情緒も何もないわね……」
微苦笑して伊織が真美の元に向かう。
美希もそれについて行った。
深い青の向こうに小さな島が浮かんでいた。
「亜美隊員! 我ら、ついに無人島を発見しましたぞ!」
「うむ、あの島を探検団の名にちなんで双海島と名付けよう! 各員、上陸の準備をせよ!」
2人は船縁を掴んで身を乗り出している。
その後ろで落ちないようにと、あずさがしっかりと2人の裾を掴んでいた。
「バカね。あの島は事務所の所有ってことになってるんだから、無人島じゃないわよ」
伊織がため息まじりに言う。
「でも今は無人でしょ?」
「え? ああ……そうなるのかしらね……?」
亜美に言われ、彼女は首をかしげた。
「よっし! あと10分もすりゃ着くからな。お嬢ちゃんたち、もうちっと辛抱してくんな」
岩倉は波の動きに合わせて船体を傾け、揺れの小さくなるように船を走らせた。
次第に近く、大きくなってくる輪郭は絵に描いたような南の島――というワケではなかった。
全容は歪(いびつ)で、ところによっては峻峭な絶壁も目立つ。
ただ手前には真っ白な砂浜が広がっていて、それなりの雰囲気は醸し出している。
船は俄かに速度を落として砂浜の一部から突き出した桟橋を目指す。
車のように巧みに方向転換し、岩倉は慣れた手つきで杭に舫(もや)った。
「ほいほい。あっと気をつけなよ。いま寄せるからな」
逞しい腕で杭を掴み、ぐいっと引っ張る。
その力を受けて船が小さく揺らぎ、桟橋との距離をかなり縮める。
「自分が一番だぞ!」
どうにか桟橋に足が届く距離まで船が近づき、真っ先に響が降りる。
「あ、ずるいぞ、響!」
真、亜美、真美、貴音にエスコートされるように雪歩が続く。
「岩倉さん、どうもありがとうございました」
再度、プロデューサーと律子が揃って頭を下げた。
「よしてくれ。代金を貰ってる以上、ちゃんと送り届けるのが仕事ってもんだ」
岩倉は恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。
しかしすぐに真剣な表情に戻り、
「ところで迎えは本当に予定どおり、3日後の正午でいいんですかい?」
内緒話をするように声をひそめて言った。
「ええ、お願いします」
「まあそう言うならしょうがねえが……心配だなあ。もうちょっと早くしたほうがいいと思うんだがねえ」
「大丈夫ですよ。食料等、必要なものは充分揃っているという話ですから」
「う~ん…………」
「私たちが引率してますから危険なこともさせませんし――」
律子も言葉を添える。
だが岩倉は腕を組んで唸った。
「いや、そういうワケじゃないんですがね……」
春香たちは既に桟橋の向こう、砂浜で思い思いに遊んでいる。
「脅かすつもりはないんだが最近、この辺りで物騒なことが起こっててなあ」
「どういうお話なんですか?」
「あんまり気分のいい話じゃないんで……」
「そこまで聞いたら気になるじゃないですか」
律子が少し怒ったように詰め寄った。
岩倉はしばらく口を噤んでいたが、やがて観念したように、
「あんまり口外しないでくださいよ――」
と前置きして話し始めた。
「不審者がいるらしいって噂されるちょっと前だったかな。野良犬や野良猫の死骸があちこちで見つかるようになったんだ。
それがどうも病気や寿命じゃないらしいんで。ひどい殺され方だったもんで俺も弔ったんですわ」
「こ、殺され……?」
「何かで殴られたり斬られたりで。警察の捜査も始まってるんですが、一向に手がかりがないらしくてね。
何人か目撃者も現れたんだが、それがまた妙な証言ばっかり集まりやがるんで。
真っ黒な影みたいなやつが宙に浮いてたとか、でっかい光る蛇みたいなのが空から落ちてきて海に潜ったとか。
なんせ要領を得ないもんだからお巡りも調べようがないって。仕舞いにはどこから聞きつけたのか霊媒師だかが集まってきて、
今すぐお札を買わないと呪われる、なんて言い出しよったんですわ。
若いモンも、”物の怪にちがいない”とか騒ぎ始める始末で――」
「気味が悪い話ですね……プロデューサーは知ってたんですか?」
「いや、初耳だ。社長もそんなことは一言も……」
「そりゃ言えませんわな。観光地から離れてるったって、あの辺りも旅行客で成り立ってるからねえ。
俺たちだって時期によっちゃそこらの島嶼巡りの案内役やって何とか生計立ててるんだ。
妙な噂が広まったらガタついちまうんで。物好きな連中なら却ってやって来るだろうけどね。
霊媒師みたいな面倒な客まで来ちまったらお手上げさあ。だから自然とこの話はせんようになったんですわ」
岩倉は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「でもそれって港周辺のお話ですよね? この島では?」
「そんな噂は聞いてないなあ。他の島嶼でも話は聞かんから、どうも港だけみたいだわな」
それを聞いてプロデューサーは小さく息を吐いた。
「なんだか気持ちの悪い話ですけど、それなら大丈夫じゃないですか?」
「んん、まあ……宙に浮いてた影とか、クジラほどもある大きな蛇が海に潜ったって証言があるから、そこは気になるんですがね」
そう言い、岩倉は拝むようにして両手を合わせた。
「すんませんなあ、今になってこんな話して。久しぶりに全員揃って旅行だと聞いたもんで、水差したくなかったんですわ」
そんな彼を責めるように律子がため息をついた。
「今さらキャンセルするわけにもいきませんし、ここも港から遠く離れた島ですし。
取り敢えずこの件は置いておくとして……せっかくの旅行を楽しみましょうか」
ちらりとプロデューサーを見やる。
「ああ、そうだな」
彼も曖昧ながら頷いた。
「では岩倉さん、3日後のお昼にまたお願いします」
船を降りた2人はもう一度お辞儀した。
その様子を貴音はじっと見つめていた。
「船頭さーん! どうもありがとうございましたー!」
砂浜から春香たちが手を振る。
「おうよ! こっちこそありがとな!」
ガッツポーズを見せる岩倉にプロデューサーが思い出したように、
「そうだ、響! ちょっとこっちに来てくれ!」
やよいと蟹で遊んでいた響を呼び戻す。
「忘れ物?」
「いや、岩倉さんのお孫さんが響のファンらしくてな。サインしてほしいんだ」
「お安い御用だぞ。色紙持ってる?」
「ああ、何枚かある。ほら、これ」
渡された色紙にサインする響。
「ほ~、手慣れたもんだ。よくそんなにスラスラ書けるね」
何かの文字か記号にしか見えない岩倉はしきりに頷いている。
「まあね。自分、カンペキだから! はい、できた!」
その後、さらに2枚分書き上げて岩倉に渡す。
「こっちはおまけ。もし他にも欲しいっていう人がいたらあげてね」
「おお、ありがとよ! いやあ、アイドルってのは気前がいいねえ。ごめんな、無理言っちまって」
「ううん、自分たちこそ、ちょっとうるさくしちゃったでしょ? だからそのお詫びっていうか。
それにファンには自分たちのこと、もっと好きになってもらいたいし……」
無邪気に笑う響に、
「今のは惚れたなあ。俺、きみのファンになってもいいかい?」
岩倉は耳まで真っ赤にして言った。
「もちろん! お孫さんと一緒に応援してくれると嬉しいぞ!」
すっかりファンになった岩倉は響と握手した。
「悪い、またせたな」
船が引き揚げるのを見送ってから、プロデューサーは砂浜で遊んでいる春香たちに声をかけた。
貴音は慌てて余所を向いてから彼を見た。
「遊んでるところ悪いけど、まずは荷物を部屋に置いてからよ」
律子が通る声で言った。
3泊するということで各々の荷物はかなりの量だ。
それでも雪歩や千早は片手で持てる程度のバッグに要領よく物をまとめてあるが、
亜美と真美はどう見ても3泊には大きすぎるリュックサックである。
「あんたたち、どうせゲームでも詰め込んでるんでしょ?」
伊織が意地悪そうな顔で言った。
「当然っしょ? 旅行にゲームは付き物だぜ、いおりんや」
「はいはい、なら今度チェスでも教えてあげるわ……で――」
彼女はちらりと反対側を見やる。
「こっちは山籠もりでもするつもりかしら?」
ゆうに30キログラムは超えているであろう登山用リュックサックが4つ。
真と響がふたつずつ持ち込んだものだ。
「だって合宿だよ? これでも少ないくらいだよ」
「この程度で山籠もりに見えるなんて、伊織は日頃の鍛錬が足りないぞ」
「要らないわよ、そんな鍛錬。バカじゃないの?」
と言い合っている間にプロデューサーを先頭に島の奥へと歩き出す。
「伊織、ありがとね」
大きなリュックサックを軽々と担ぎながら、追い越しざまに響が言った。
「きゅ、急に何よ? あんたにお礼を言われるようなことした?」
「ハム蔵たちを預かってくれたことだぞ」
「ああ、そのことね」
南の島に、という話が持ち上がった時は喜んだ響だったがその間、ハム蔵たちはどうするかという問題があった。
事務所につれて行くワケにはいかず、社長も小鳥も面倒を見ることはできない。
そのため最初、響は合宿を辞退したが、水瀬家の敷地なら充分サポートできると伊織が申し出た。
出発前日には無事に全頭の移動を終え、そのお陰で彼女は参加することができた。
「あんた、本当に来ないつもりだったの?」
「3日も家を空けるワケにはいかないからな。だけど伊織のおかげで――」
響は肩越しに後ろを振り返った。
「…………?」
「と、とにかく、感謝してるってことさ!」
「いいわよ、別に。あんたにも参加してもらわなきゃ困るから……」
伊織は最後まで言い切らずに、ふいと余所を向いた。
100メートルも進むと肌理の細かい砂地は途切れ、高木が生い茂る森に入る。
「あずささん、はぐれないようにお願いしますね」
「ふふ、その時はお願いしますね……」
念のため律子が最後尾を歩き、列が乱れないように見守った。
一行はなだらかな斜面を進む。
アーチ状に伸びた枝葉が天然のトンネルを形成し、下を歩く彼女たちにちょうどよい日差しを齎(もたら)す。
人の手の殆ど加えられていない道は足に優しく、土本来の反発性もあって歩きやすい。
名前も知らない草が足首に絡み付き、春香は蹌踉(よろめ)きながら千早の後を追う。
「泊まるところは洋館だって言ってましたけど、遠いんですか?」
前を行くプロデューサーに雪歩が問うた。
まださほど歩いてはいないが、額にはうっすら汗をかいている。
「いや、そんなに遠くないらしい。そろそろ着いてもよさそうだけど……」
その割に一向に洋館が見えないのは、ジャングルのように木々の密度が高いせいだ。
腰の高さほどもある草が繁茂していて、道を逸れればたちまち迷ってしまいそうになる。
「あ、あれだな!」
いつの間にかプロデューサーを追い越して先頭に立っていた響が指差した。
その先には――。
「すっごくおっきいですー!」
”洋館”という言葉が表面的に与える様々なイメージを全て取り入れた外観が鎮座していた。
孤島に佇んでいるそれは、聳立していると言っても誤りではない。
コの字型のシンメトリー。両端が手前に張り出している。
様相は欧州あたりのモダンな館だが、外装は最近改修されたのか鮮やかな色合いだ。
「これで2階建てなんですか!?」
春香はあんぐりと口を開けている。
林を抜けた丘陵に建てられた館は、2階層とは思えないほどの迫力がある。
「なんか車椅子のミイラとか出てきそうだね」
「あと動くヨロイとか?」
亜美たちは早くも周辺の探検を始めている。
「こら! 勝手にうろうろしないの!」
最後尾の律子がようやく追いついた。
「外壁とか門はないんですね」
雪歩が珍しそうに辺りを見回した。
緩やかとはいえ丘の頂上に建つ館は平地のそれと違って外壁を造りにくい。
どうしても歪な形になるし、石造りになるとその歪さのせいで脆くなり、精彩さも欠けてくる。
「じゃあ開けるぞ」
ポケットから片手では収まらないような大きさの鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。
洋館といえば歴史や伝統を感じさせる響きだが現代的な部分もある。
両開きの正面扉は年季の入った木製なのだが、その横にはインターフォンがついている。
取っ手に関しても一般の住宅に見られるような金属製のサムラッチ型だ。
「あれ? こういうのって輪っかを叩くタイプじゃないんですか? ライオンの顔になってて……」
それを見つけた真が首をかしげた。
「社長が言うにはそんなに古くない建物らしいからな。そんなのが島の真ん中にあるのも妙な感じだけどな」
差し込んだ鍵を回すと、安っぽいお化け屋敷を思わせる軋轢音が鳴り渡る。
「うわぁ~~」
扉を開けると誰ともなく、そんな声を漏らす。
外観に負けない内装の美がそこにあった。
丘を登りきった時には荘厳な館に喚声をあげていた彼女たちだが、扉の向こうの光景には驚嘆の息が漏れるばかりだった。
ワインレッドのカーペットが足元から伸びている。
重厚な赤の花道はエントランスホールの中ほどで二手に分かれ、2階へと続く階段を案内していた。
「映画みたいなの……!」
入ってすぐ右に置かれている西洋甲冑。
天井に届きそうなほどの振り子時計。
全てが金銀珠玉でできているようなシャンデリア。
渋みのある大きなソファ。
それら全てが日常の生活にはまず縁のないものばかりで、一同は口をぽかんと開けて内外の美を堪能していた。
「ずいぶんこじんまりしてるわね」
ただひとり、伊織だけは涼しい顔をしている。
「もし運命の人がこんな大邸宅を持っていたら掃除が大変ねえ」
「掃除なら私がやります! やりがいがありそうです!」
正面の窓は大きく作られていて採光も良く、館内は重厚感を損ねない程度に明るい。
「ゾンビが出てきたりして……」
真美がぼそりと呟き、
「廊下の窓から飛び込んでくる犬に注意しないとね」
亜美が便乗する。
「あれ? ここって圏外なんだ」
春香が声をあげた。
手にした携帯電話には圏外の文字が小さく表示されている。
「はいはい、静かに。まずは中を見て回りましょうか」
荷物は一旦エントランスに置かせ、今度は律子が前に立って館内を歩いて回る。
最初は館左手側だ。
コの字型に建てられた館は幅の広い豪奢な廊下で繋がっているが、棟という区切りはない。
ホールを含む中央部分から左右に便宜上3棟に分けるとすると、共有スペースは中央の棟に集約されている。
厨房、食堂、大浴場などは1階に。
集会などに使用できる多目的室が中央棟の2階の半分ほどを占める。
「左右の棟は同一の構造になっているようですね」
「ええ、中央部分以外は同じ間取りになっていて、皆が寝泊まりする部屋もそこみたいね」
見取り図を眺めながら律子が言った。
「実際はこんな感じね。社長の手書きだけど正確に書かれてるわ」
貴音はちらっと律子を見やった。
「見てのとおり、1階に3部屋、2階にも3部屋。それが左右の棟にあるからちょうど全部で12部屋ね」
「ねえ、律子……さん、このいくつかある×印は何なの?」
美希が指差したのは、左右の棟と中央棟が接合する角の部分だ。
1階、2階とも食堂の横等に×印が書かれた空間がある。
「ちょっと待って、社長のメモ書きがあるわ……うん、物置とか発電機なんかが置いてある場所みたいね。使わない場所だから消してあるのかしら」
「ふうん……」
「じゃあ誰がどの部屋を使うか、クジで決めましょうか」
律子はポケットからメモ帳を取り出した。
クジといっても大したものではない。
見取り図の部屋にAからLの数字を書き入れ、メモを小さくちぎってこちらにも同じ数字を振る。
引いた数字に該当する部屋を使う、というだけのことだ。
「あの、部屋がふたつ足りませんよ?」
まじまじと見取り図を眺めていたやよいが言う。
「ええ!? じゃあ誰かが野宿するってこと?」
真美が頓狂な声をあげ、
「かわいそうに、ひびきん……風邪ひかないようにね」
亜美が響の肩を叩く。
「なんで自分なんだ!」
「おやおや? ということは他の誰かならかまわないと……?」
「そういう意味じゃないってば!」
響は顔を赤くして反駁した。
「俺と律子は一応引率ってことで、この管理人室を使うことになってる」
プロデューサーが示したのは中央棟1階、食堂に近い部屋だ。
「俺は1階。律子は2階のここだ」
そう言って多目的室横の部屋を指す。
「むむ、ということはGを引いてしまったら律っちゃんのすぐ傍になってしまいますぞ」
「大丈夫だよ、亜美。クジにこっそり細工して……」
「聞こえてるわよ、あんたたち」
12枚の紙片を折り畳んでビニール袋に入れて混ぜながら、律子が低い声で言った。
適当に順番を決めてそれぞれ一枚ずつ抜き出す。
間取りは同じなのでどこの部屋でも大差はない。
強いていえば階段の昇降を要するかどうかの違いくらいだ。
「ボクはC、1階の端だね」
一番にクジを引いたのは真だった。
「私は……B、真の隣だね」
次に春香、やよいが引く。
その後でやよいが伊織にクジの入った袋を渡そうとしたが彼女は頑なに固辞し、結局最後に引いた。
結果、割り当てはこのようになった。
1階 北
_____________________________________________________
| | | | ____ |
| | 厨 房 | | __ __ | | | | |
| ※ | | | |階段| |階段| | | | | |
| |_ _________| | | | | |_________| | 浴場 |
| | | | | | | | | | | | |
| ____| | | | | | |
| | | | | | | |__ __|
| | 食 堂 | | | | 談話室 | | |
|__ __| | | | | | | 脱衣所 |
| | | | エントランスホール | | | |__ __|
| | | | |
| |__ ____ __| | | |___ ___| |
|管理人室 | | | _____|
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| __________| |__________ 手洗い |
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| | | |______ ______| | | |
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|A美希 | | Dやよい |
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|_____| | | |_____|
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|B春香 | | E貴音 |
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|_____| | | |_____|
| | | | | |
| | | | | |
|C 真 | | F雪歩 |
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|_____|___| |___|_____|
2階 北
_____________________________________________________
| | | | | | | |
| | | __ __ | | | | |
| | | |階段| |階段| | | | | |
| 多 目 的 室 | | | | | |
| | | | | | | | | | | ※ |
|__ __ | | | | 遊戯室 | | |
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|_____| | | | | | | |
| | | | | | | |__ __|
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| |__ ____ __| | | |___ ___| _____|
|管理人室 | | | | |
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| __________|________________|__________ ※ |
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|G亜美 | | Jあずさ |
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|_____| | | |_____|
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|H真美 | | K響 |
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|_____| | | |_____|
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|I 千早 | | L伊織 |
| | | | | |
|_____|___| |___|_____|
「やった! ハニーの隣なの!」
美希が俄然喜ぶその横で、
「うあうあ~! まさかのGだよ! ねえ、律っちゃん、もう1回やりなおそうよ~」
亜美が泣き縋るように訴えた。
「やりなおしたらクジの意味がないでしょうが」
「いや! 亜美はこの目でたしかに見たんだかんね! さっきのは不正があったのだ!」
「不正?」
目が合った真が怪訝そうに問う。
「クジを混ぜる時に、まこちんはドータイ視力で中身を見てたんだよ。それで亜美にGを引かせたんだよ!」
どうだと言わんばかりの亜美に、彼女は絶句する。
「んっふっふ~、ヘヤワリのジツ、破れたり!」
ビシッと自分を指差す彼女に、
「ムチャクチャだなあ。そもそも亜美は4番目あたりに引いたんだから、まだ残ってるクジのほうが多かったじゃないか。
そんな状況で細工なんてしようがないだろ。かわいそうだけど今回は諦めて律子の隣で寝泊まりしなよ」
真はかぶりを振って言った。
「言ってることは尤もだけど、ちょっと傷つくわね……」
律子は不貞腐れるように言う。
「よし、決まったな」
プロデューサーが手にした見取り図に誰がどの部屋をとったかを手際よく書き込んでいく。
「じゃあ皆、それぞれの部屋の鍵を渡すから1階の管理人室に来てくれ」
14人がぞろぞろと歩くと、さすがに広い廊下も手狭に感じられる。
「ええっと……」
管理人室は他の客室に比べていくらか広い。
ベッドやキャビネット等、置いてある物はこの館の雰囲気に似合わず質素である。
「これだな」
ドア側の壁にキーボックスが掛けられている。
開けると昆虫標本のように30個以上の鍵が整然と並んでいる。
今も多くの住宅で使用されているディスクシリンダー型だ。
鍵にはそれぞれにどの部屋のものかを示す木製のタグがリングチェーンで結ばれている。
タグには『1F-管理人室』『2F-遊戯室』といった具合に書かれてある。
また客室の鍵は、『1F-D』『2F-K』のように英数字だけの表記となっていた。
タグの表記は機械で彫られており、先の尖ったもので擦っても消えないようインクが浸透している。
鍵もタグもデザインは統一されているため、遠目では区別がつかない。
「自分のものに間違いがないか確認してくれ」
先ほどの割り当てを元に鍵が行き渡る。
しばらく見取り図と手元の鍵とのにらめっこが行なわれる。
手違いがないことが分かると、部屋に荷物を置きに行こうということになった。
「じゃあ水着に着替えて10分後に集合ね」
誰が言うともなしに決まり、一同はエントランスに置きっぱなしだった荷物を持って部屋へ向かう。
10時25分。
白地に桃色の花が描かれた壺を見つめながら、春香はふっと息を漏らした。
棟をほぼ3分割しているだけあって一室はかなり広い。
そこに一人掛けのソファやテーブル、背丈ほどもあるキャビネットが程よい間隔で置かれている。
それらは白や薄茶が基調でカーペットやクロスとよく融和している。
壁には花や鳥を描いた絵画がかけられており、客を飽きさせない。
「一度でいいからこんなお屋敷に住んでみたいなあ」
小さなシャンデリアを仰いで春香がため息まじりに呟く。
内装だけでなく、設備面も充実している。
1階の大浴場や手洗い場とは別に、各部屋の南側には狭いが3点ユニットバスもある。
「あっと、遅れちゃう!」
慌てて荷物を片付け、水着に着替える。
途中、2度ほど転びそうになったが何とかもちこたえる。
「あ、千早ちゃん」
部屋を出て食堂を左手にした春香はちょうど前を歩いていた千早の背中に声をかけた。
だが彼女は振り返らずにエントランスのほうへと歩いていく。
「千早ちゃん」
もう一度呼びかけると、千早はようやく肩越しに振り向いた。
「ごめんなさい、少し考えごとをしていて……」
「…………?」
「大したことじゃないわ。ちょうど部屋数と人数が同じなんて、私たちのために建てられたみたいだと思って」
「言われてみれば……他は物置とかで使わない場所だって言ってたもんね」
「もしかしてずっと前から社長が私たちのために用意してくれてたのかしら」
「どうなのかな? そんなお金があるようには見えないけど……」
「ふふ、それは失礼よ」
春香は施錠したのを確認し、千早と一緒にエントランスに向かった。
エントランスにはほぼ全員が集まっていた。
「ねえねえ、やよいっち。部屋にあった絵、見た?」
「うん、あの貝殻みたいな絵でしょ?」
「貝殻……? 真美のところは湖だったよ」
「みんな違うのか。自分のところは蛇みたいなのが海に潜ってる絵だったぞ」
そこに大きなバッグを抱えたプロデューサーがやって来た。
「揃ってるか? ああ……よし、それじゃあ行こう」
彼はふっと視線を逸らす。
「ハニー、みんなの水着姿に興奮してるの!」
それに気付いた美希が大きな声で言った。
「プロデューサー、見損ないましたよ……」
「や、やっぱり男の人って……みんなそうなんですか……?」
真と雪歩に代わる代わるに責められ、
「な、なに言ってるんだ!? 仕事でも何度も見てるだろ。興奮なんてするワケないじゃないか」
彼は顔を真っ赤にして反駁した。
「みんな、プロデューサーさんをいじめちゃダメよ?」
おっとりした口調で言ったあずさは、やや前かがみに彼を見つめた。
上着を羽織ってはいるが、白い水着のおかげで豊満なバストがより強調される。
「あ、あずささん……!」
誤魔化すように彼はバッグを担ぎなおした。
「むー、なんか面白くないの……」
拗ねる美希だが真が宥めるとすぐにご機嫌になった。
律子の一声で一同は館を出て浜へ向かう。
来た道を逆に辿るだけなので皆の足取りは軽い。
「改修ってことは元々は違う間取りだったんですか?」
「詳しくは聞いてないがそういうことらしい」
「なるほど、高木殿の計らいでしたか――」
千早が部屋数についての疑問を口にしたところ、プロデューサーが曖昧に答えた。
社長が手に入れたのは洋館のみで、島そのものの所有者は別人であること。
その洋館も今とは様相がかなり異なり、部屋数は少なくとも倍はあったということ。
それを1年かけて壁を取り払い、内装を整えたということ。
インターフォンがついているのも、各部屋の鍵が新しいのもそのためだ、と彼は言った。
ただしそれ以上のことは聞いていないという。
「まあ福利厚生みたいなものだと思えばいいんじゃないか?」
彼は天を見上げた。
木々は燦々と降り注ぐ陽光を受けて青々と広がり、天と地を分かつ天井のように伸びている。
風に揺れ、葉の隙間からスリット状に地面に届く光と影が作り出す自然の模様は、ただの一瞬さえ全く同一のものはない。
「事務所のホームページにも今回のことは”社内研修”としか書いていないし、俺たちがここにいるのを知っているのは、
社長と音無さん……それからさっきの船頭さんくらいだ。人の目を気にせず目いっぱい楽しんでほしい」
「そうとあれば存分に養生すると致しましょう。ここは自然に溢れていますから」
などと話をしている間に林を抜け、開けた視界いっぱいに真っ白な砂浜が現れる。
桟橋以外に人の手が加えられたものはない。
都会ではしばしば不愉快な陽射しも、ここでは心地が良い。
「あまり沖のほうに行くんじゃないぞ」
「はいはーい」
亜美と真美はプロデューサーの声を後ろに海に向かって走り出している。
貴音、あずさが簡易のビーチベッドとパラソルを開いた。
この2人なら声をかけてくる男はいくらでもいるだろうが生憎、ここには他の海水浴客がいない。
「ハニー、日焼け止め塗ってほしいの」
既にプロデューサーに足を向けてシートの上でうつ伏せになっていた美希は、肩越しに甘えた声を出す。
「ああ、いいぞ」
「え、ホントに!?」
「ああ、いつも頑張ってるからな。でも恥ずかしいから、絶対にこっちを向かないでくれ」
「了解なの!」
だらしなく頬を緩ませて美希は組んだ両腕に顎を乗せた。
太腿にオイルが垂らされ、冷たい感覚にぴくりと足をくねらせる。
「じゃあ、いくぞ」
おそるおそる、手が触れる。
掌全体を太腿に押し当て、軽く指を曲げてなだらかな曲線に五指を沿わせる。
掴むのではなく、揉むのでもなく、なぞるように撫で上げる。
「………………」
くすぐったさに美希は身をよじる。
だが両の手はお構いなしに膝の裏へと滑っていく。
まるでひと続きの丘陵のように脹脛(ふくらはぎ)と太腿とを、緩急をつけて掌が往復した。
「ハニーの手、意外と小さいんだね……」
眠そうな彼女の声に、
「そ、そうか?」
プロデューサーが笑いを堪えながら言った。
「うん、それに柔らかくて女の子みた――」
そこまで言って彼女は上体を起こして振り向いた。
「あら、まだ終わってないわよ?」
律子だった。
その手はオイルに濡れている。
「り、りつこ……」
「さん」
「さ、さん……」
「よろしい」
イタズラが成功した子どものように律子が笑う。
「ハニー、ひどいの! こんなのってないの!!」
「無茶言うなよ。俺がそん……そんなことできるワケないだろ」
プロデューサーは余所を向いて言った。
だが堪えきれずにとうとう噴き出してしまう。
一方、雪歩は砂浜に巨大な穴を開けていた。
深さは2メートルに達しているが、彼女はまだ掘り進めている。
そのすぐ横では雪歩が掻き出した砂でやよいと伊織がサンドアートに興じていた。
適度に水分を含んでいるためによく固まり、小さな砦が完成する。
「ねえ、ビーチバレーしない?」
写真を撮っていた千早に春香が声をかける。
ここまでに100枚ちかく撮影している。
大半は自然の風景だが、今は海で遊んでいるアイドルたちがファインダーに映っている。
「あ、写真? いいの撮れた?」
春香がカメラを覗き込む。
「ええ、いいお土産になるわ」
バッテリーにも撮影可能枚数にもまだまだ余裕がある。
来られなかった社長や小鳥のためにたくさん撮りたい、と彼女は言う。
「ああ、えっと、ビーチバレー? 2人でするの?」
千早は提げていたバッグにカメラをしまった。
「んー、どうせなら765プロ対抗戦とか」
「面白そうだけど優勝する人は決まってるんじゃないかしら?」
千早の視線の先には準備運動をしている真と響がいる。
その動きはかなり激しく、準備運動というよりダンスに近いものがあった。
「勝負は時の運って言うよ?」
ボールは春香が用意している。
彼女は砂浜のほぼ中央に立ち、
「今から765プロビーチバレー大会を始めます!」
高らかに宣言した。
あまりに通る声だったので全員がそちらに注目する。
「ん? なんだ?」
響が首をかしげた。
「ビーチバレー大会だって。あ、千早たちもやるみたい」
「へ~、面白そうだな。自分たちもやろうよ」
「ちょっと待ってよ。ボクたちは今からあの岩まで泳いでどっちが先に着くか勝負するんだろ?」
船上ではやよいの仲裁で有耶無耶になったが、この2人の勝負はまだ始まってもいない。
洋館を出るときから決着をつけようと彼女たちは約束していた。
「ふ~ん、真はビーチバレーで敗けるのが恐いのか~。なら仕方ないなあ……」
「だ、誰が敗けるだって!?」
「無理しなくていいぞ? 誰だって苦手なことはあるからな」
「言ってくれるじゃないか、響……いいよ、その勝負、受けて立つ!」
根が単純な真はあっさりと挑発に乗る。
「こうしよう。ビーチバレーが終わったら、そのあと続けて泳ぎで勝負するんだ。
もちろんバレーのほうも勝敗にカウントする。それでどう?」
真の提案に響は顎に手を当てて唸った。
「言いたいことは分かったぞ。バレーで勝とうとして体力を使い過ぎると後の勝負で不利になる。
だからって手を抜いてたらみすみす勝利を譲ってしまう、ってことだな」
「そういうこと。ボクたちらしい勝負の仕方だと思わない?」
「そう、だな。よし、それでいいぞ! ビーチバレーと泳ぎの二連戦……いざ、尋常に勝負だ!」
参加者はプロデューサーと美希を除く全員――のハズだったが、春香が、
”優勝者にはプロデューサーになんでも頼める権利”が与えられると言い放ったため急遽、美希も参戦することになる。
これには伊織も乗り気で、優勝して下僕のごとく扱き使ってやるわ、と意気込んでいる。
こうなると今度は人数が合わなくなるからという理由でプロデューサーも半ば強制参加となった。
「じゃあチームを決めよう」
「その間にコートを作っておくわね」
「あ、私が行きますから!」
あずさが木の枝を拾ってきてコートを描くと言い出したので、千早が慌ててその役を引き受けた。
「ゼッタイ優勝してハニーをデートに誘うの!」
珍しく美希が準備体操を始めている。
「皆、悪い。ネットを持って来てたんだが館に忘れてしまったんだ。取って来るからちょっと待っててくれ」
プロデューサーが林のほうへと小走りで消えていく。
「あ、それなら私が――!」
「いや、俺が行くよ。律子は皆を見ていてくれ」
「分かりました」
彼が戻って来るまでの間、春香たちはチーム決めやルール作りで盛り上がった。
特にチーム決めについてはなかなかまとまらなかった。
勝つには誰とペアを組むかが重要だが、ゲームとして楽しむためにはパワーバランスも重要だ。
最初はクジで決めようとしたが真と響がペアになってしまい、これには他のチームが勝負にならないと猛抗議し、
結局は運動の得意な者と苦手な者、年長と年少といった具合にペアが組まれ、経緯は談合も同然だった。
そうして10分ほどかけ、どうにか準備が整ったところにプロデューサーが戻って来る。
ネットが予想より小さかったため、コートは描き直された。
「俺は誰とペアになったんだ?」
という彼の問いに、伊織は不機嫌そうに腕を組んだ。
まずは春香・真美ペアと、雪歩・貴音ペアの勝負。
ゲームは総当たり戦だが、暗黙の了解で真、響がいるペアは最後に行われることになった。
優勝賞品も懸かっているからか、なかなかに白熱している。
転んだ春香の手を引っ張りながら笑う真美。
あまり貢献できなかったと落ち込む雪歩を激励する貴音。
温和ながら意外にも奮闘するあずさとハイタッチを交わそうとするやよい。
だが背丈が合わないのでやよいが小さくジャンプしたところを、千早はしっかりと写真に収めた。
「こうして見るとダンスが得意な子が必ずしも強いとは限らないんだね」
出番を終えて観戦している雪歩が美希に言った。
「それってでこちゃんのこと? あれはちょっと違うと思うな……」
美希は欠伸をしながら言った。
「ちょっと! どこに向かって打ってんのよ!」
「今のは無理だろ!」
「あれくらい捕れなくてどうすんのよ! すでに5点差つけられてんのよ!」
プロデューサーと伊織のペアは、ボールを触った回数より小競り合いをしている回数のほうが多い。
お世辞にもチームワークも良いとはいえず、ラリーは続かない。
「美希ちゃんも運動得意だよね。何度もレシーブを決めてたし」
「んー、別に得意だって意識はないよ? やってみたらできたってカンジ」
「美希ちゃんはすごいなあ。それに比べて私なんて、飛んでくるボールが怖くてつい逃げちゃって……」
試合には勝ったものの、勝因の大半は貴音が握っていた。
軽いボールなら打ち返すことができたが、勢いのついたボールにはたじろいでしまう。
それを見越して貴音が後衛に徹することでカバーしてきたのだ。
「そんなに気にしなくていいって思うな」
彼女はもうひとつ欠伸をした。
連繋が上手くいかない伊織たちはもうどうやっても逆転できそうにない。
「みんなキラキラする場所もやり方も違うの。雪歩には雪歩の得意なことがあるハズなの。
苦手なことを無くすのは大事だけど、得意なことを見つけてそれを伸ばすのはもっと大事だって、ハニーも言ってたよ」
「………………」
雪歩は驚いたように美希の横顔を見た。
やはりどこか眠そうな目であったが、その視線は伊織と言い争いを続けているプロデューサーにしっかりと向けられている。
「えへへ、ありがとう、美希ちゃ――」
「あ、いよいよ大本命の試合が始まるの!」
雪歩の言葉をかき消すように美希が叫んだ。
プレイヤーは入れ替わり、ネット越しに見合っているのは真と響だ。
それぞれ律子、千早とペアを組んでおり注目の一戦と言われていた。
「やっと出番が来たな」
「響、頑張るのですよ。油断してはなりません」
「油断なんてしないぞ。いつでも全力で勝負するのが自分のやり方だからな」
貴音のエールに響が笑顔で手を振った。
「我那覇さん、作戦はどうする?」
「そうだな……千早のほうが背が高いからブロッカーを任せてもいい? ジャンプ力もありそうだし、かなり強力な壁になると思うぞ」
「え、ええ……分かったわ……我那覇さん……」
千早が引き攣った笑みを浮かべる。
「なんか顔が怖いぞ? もしかして緊張してる? 相手は真と律子だもんな。でも大丈夫だぞ。
なんたってこっちには自分がいるからな! ブロックできなくても全部自分が拾うから安心してよ!」
「そうね……頼りにしてるわ、我那覇さん。勝ちに行きましょう」
などと話し合っているコートの反対側では、
「向こうは当然、響が主軸でしょうね。あの子の性格からして無理をしてでもボールを拾うハズ。
だけどここは砂浜だからシューズを履いている時とは勝手が違う。いつものような動きはできない。
とにかく響から遠い位置にボールを落とすようにして自滅を狙うわよ。きっとムキになってミスが増えるハズだわ」
律子が冷静に分析を始めている。
だが真はかぶりを振った。
「そう簡単にはいかないと思うよ。前に一度、砂浜で競走したことがあるけど、結果は響の勝ちだった。
しかもボクはフライング気味だった。ハッキリ言って砂浜じゃボクたちの方が不利なんだ」
「それなら千早を狙うしかないわね……」
両チームがネットを隔てて対峙する。
「まったく、あのバカのせいで敗けたわよ」
ぶつぶつと不満を述べながら伊織が美希の横に腰をおろした。
「いよいよ本日のメインイベント、まこちんvsひびきんの頂上対決の時間がやってきたよー!」
「イケメン悩殺プリンス・菊地真が勝つのか? はたまた南国の太陽、なんくるない我那覇響が勝つのか? アイドルたちよ、カツレツせよ!」
亜美と真美が場を盛り上げようと勝手に実況を始めた。
「誰がイケメンでプリンスだよ!」
「なんくるないの遣い方間違ってるぞ!」
2人が同時にツッコミを入れた。
「はいはい、始めるわよ。それと”刮目”ね」
律子の一声で試合が始まる。
「はやッ!? なによ、あれ……コートが抉れてるじゃない……」
「真クンも響もすごいの!」
「千早ちゃんと律子さん、ゴーグルとか着けたほうがいいんじゃないかな……」
ゲームは延長戦に突入したが一向に勝負がつく気配がない。
真がアタックを決めればお返しとばかりに響がアタックを決める。
その応酬が延々と続き、千早も律子もコートにこそ残っているが棒立ちも同然だった。
「もうジャンケンか何かで決めたらいいと思うな……」
と美希が言ったときだった。
「あ、れ……雨……?」
ぽつぽつと雨が降ってきた。
先ほどまで快晴だったというのに、いつの間にか曇天となって灰色の雲が空全体を覆っている。
見上げた春香の頬を雫が打つ。
「うわ! 急に……!」
数秒もしないうちにザアザアと大きな音を立てて、雨は烈しさを増していく。
「まずいわね! 風邪をひくといけないわ……館に戻るわよ!」
沛然と降る雨は少女たちを容赦なく叩く。
年少組を先に帰らせ、プロデューサーと律子が中心となって道具を片付ける。
「ちぇっ……勝負はおあずけか……」
響が残念そうに言った。
「命拾いしたね、響」
さすがに疲れたのか、肩で息をしながら真が言う。
「む……それはこっちの台詞だぞ」
「明日、晴れたら続きをしよう」
畳んだネットを抱えてプロデューサーが小走りでやって来た。
「皆、急げ! ほんとに風邪をひいてしまうぞ!」
という彼の声も、雨音に掻き消されてしまう。
小走りで館に向かうと、前を歩いていた年少組に追いついた。
舗装されていない地面が泥濘(ぬかる)んでいて、足をとられる危険があるため走らなかったという。
来た時と同じようにプロデューサーが先頭に立つ。
「それにしても急に降ってきたね」
真美が足元を一歩一歩確かめながらぼやいた。
「夢中だったからね、私たち」
春香が笑う。
雲ひとつないほどの晴天だったのに、土砂降りになるまで気付かなかったのは自分の責任だ、と律子が言った。
丘の上に館が見えてきた。
「あれ…………?」
玄関扉の前でプロデューサーがもたついている。
「どうかしたんですか?」
すぐ横にいたあずさが訊いた。
「鍵が…………」
呟きながら彼は一度鍵を抜き、再び差し込んで回す。
金属音がするのを確かめてサムラッチを押す。
そのままゆっくり引くと扉が開いた。
「開いてたってこと?」
その様子を見ていた伊織が口を挟む。
「あ、ああ。出る時に確かに鍵をかけたハズなんだけどな……?」
「さっきネットを取りに戻ったじゃない。その時に閉め忘れたんじゃないの?」
「いや、でも確かに……」
プロデューサーは訝しげに扉を見上げた。
その間に春香たちはさっさと館内に上がり込んでいる。
「この島には亜美たちしかいないんだから、別にカギなんてかけなくていいっしょ」
「そういうワケにはいかないだろ」
「っていうか寒いんだから、さっさと閉めなさいよ」
プロデューサーは釈然としない顔だったが、まずは全濡(ずぶぬ)れの体をどうにかするほうが先だ、ということになる。
エントランスは風通しが良すぎて体が冷えるから、足の泥を落とし、体を拭いてから談話室に移動する。
「今からお湯を張るには時間がかかるけど、どうする? シャワーで済ませるか、お湯を張るまで待つか」
客室のユニットバスを使うか、1階の浴場を使うかということになる。
だが浴場はさすがに全員が同時に入れるほど広くはなく、せいぜい6人が限界だ。
「シャワーでいいんじゃない? とりあえず汚れを落としたいし」
「でも体が冷えてるわね。温めたほうがいいと思うわ」
律子が意見を求めると、シャワー派と入浴派が拮抗した。
取り敢えずは部屋にあるシャワーで汚れを落とし、その間に浴場にお湯を張って改めて入浴しようという話で落ち着く。
「プロデューサー、どうしよう!?」
それぞれが談話室を出ようとした時、響が慌てた様子で言った。
「どうした?」
「自分、部屋の鍵失くしちゃったみたいなんだ。ポケットに入れてたハズなのに」
「よく探したのか? そのポーチの中とかは?」
「全部探したけどなかったんだ。浜で落としちゃったのかも……見てきていい?」
響が今にも泣きだしそうな顔でこぼす。
「こ、こんな雨の中で探すなんて無茶だよ……!」
雪歩が不安そうな表情で言った。
「で、でもこのままじゃ自分、部屋に戻れないぞ……」
「いや、大丈夫だ」
プロデューサーの言葉に2人はぱっと顔を上げた。
「管理人室にスペアキーがあるんだ。入ってすぐ左側の机。その一番上の抽斗の中に同じように鍵が並べられてたハズだ」
それを聞いて響の顔が俄かに明るくなった。
「抽斗の中だね? 取ってきていいでしょ?」
「それなら俺も一緒に行くよ」
「いや、いいって! 自分のミスだからプロデューサーの手を煩わせるのは悪いし……」
「そうか? 場所は分かるよな?」
「うん!」
響は談話室を飛び出して行った。
その後ろ姿を見送ってから貴音は自分の部屋に向かった。
5分ほどして響が戻ってきた。
「もう失くすなよ? さすがにスペアキーまで紛失したらドアを壊さなくちゃいけないからな」
「う、うん、気をつける……ごめんね、プロデューサー」
響は恥ずかしそうに俯いた。
「ああ、いや、管理してなかった俺も悪かった。出かける時は一旦預かるとかするべきだったな」
その後、彼女もシャワーを浴びるために自室に戻った。
それから数分おきに春香たちが戻って来る。
夏とはいえ、体は冷やすのは良くないということで何人かは薄手の上着を羽織っていた。
談話室の隅に電気ストーブを見つけた雪歩が電源を入れる。
内装に合わせて木目調のフレームだが、これ自体は数年前に製造されたものだ。
「夏も近いのにストーブなんてヘンな感じだね」
「急に降ってきたもんね」
手をこすっている雪歩の横に真が並ぶ。
千早は少し離れたソファに座り、カメラの調子を確かめている。
突然の雨で少し濡れたが故障はしていなかった。
「すこーる?」
「うん、沖縄だと晴れてるのに急に雨が降ることがあるんだ」
「狐の嫁入りとは違うのですか?」
「う~ん、ちょっと違うかも。さっきみたいにザーって降るのがスコール。狐の嫁入りはもっと静かな感じでしょ?」
貴音に沖縄の天候事情を説明しているのは響だ。
間もなく律子がやって来て、湯はりが終わったことを伝えた。
14時05分。
小さな旅館の浴場と大差はない。
6メートル四方の浴槽は大理石調で洋館の雰囲気に合っている。
床タイルも臙脂色を基調とした落ち着いた色で統一されているが反面、シャワーやカランは現代的で調和がとれていない。
「足を伸ばせるっていいよね~」
肩まで湯船に浸かった春香が大息しながら言った。
「運動した後は特に、ね。ゆっくりお風呂に浸かるのも久しぶりだわ」
春香のすぐ横で千早も同じように羽を伸ばす。
胸元はタオルでしっかりと隠している。
「こんな時間からお風呂に入ってると、温泉旅行に来たみたいだね」
雪歩が嬉しそうに言った。
彼女の白い肌は湯船に反射した照明とが相俟って、よりその白い嫋やかさを際立たせている。
「だよね。夜には花火なんかも上がったりして。まあここは旅館とは正反対のイメージだけど」
湯船に浸かりながら真はマッサージに余念がない。
「それにしても、さっきは残念だったね……結局、勝負はつかなかったもんね」
「もうちょっと時間があればなあ。そうしたらプロデューサーになんでも頼める権利はボクたちのものだったのに」
ため息まじりに真がそう呟くと、
「それは聞き捨てならないな」
向かい合うようにして浸かっていた響が口を挟む。
「あのままやってたら絶対に自分たちが勝ってたぞ」
「いいや、ボクたちが勝ってたね」
「いやいや、自分たちが――」
「ボクたちだって――」
「千早はどう思う?」
「え……?」
春香と話をしていた千早は名前を呼ばれて首をかしげた。
「さっきの勝負。あのまま続けてたら自分たちが勝ってたよね?」
「どうかしら。我那覇さんも真もすごく強かったから、どっちが勝っても不思議じゃないわ。
きっと勝負が着くとしたら私か律子のどちらかがミスをした時ね」
「え、ああ、うん……そうだな……」
響がちらりと真を見やる。
「やめよっか、この話……」
「うん……」
そのやりとりを見ていた貴音は微苦笑した。
「見事でしたよ、千早」
突然の称賛に千早は分からない顔をする。
だがその視線を半分以上湯船に浸かっていながらなお豊満さが隠れもしない貴音の曲線に向けると、彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
17時15分。
全員が入浴を終え、談話室で思い思いに過ごしていると、
「あの、少し早いけど、そろそろ晩ごはんの用意をしませんか?」
やよいが切り出した。
その発言をキッカケにほぼ全員が時計を見上げた。
「これだけの人数のご飯を作るのは大変ですし」
どうでしょうか、と彼女はプロデューサーに意見を求める。
「そうだな。皆、どうする?」
「食は生きるに欠かせぬもの。反対などいたしましょうか」
「さんせーい!」
時間が時間だけに反対する者はいない。
昼間は中断したとはいえビーチバレーで体を動かし、その後は入浴にまつわるゴタゴタがあり、
きちんとした昼食を摂っていなかったため、豪勢な夕食を期待する声もあがった。
「じゃあ私、作ってきますね!」
早くも厨房に駆けていきそうなやよいに、
「私も一緒に作るよ。皆の分、作るのは大変だし」
春香が名乗りをあげる。
「ふふ、じゃあ私も。将来のために愛情たっぷりのご飯を作る練習でもしようかしら」
「自分も行くぞ」
あずさ、響がそれに続く。
4人も入れば厨房はいっぱいになる、という理由で調理メンバーは彼女たちで決まった。
「ならミキはここで寝てるの。できたら起こしてね」
言いながらソファに横になろうとした美希を、
「働かざる者、食うべからずよ」
律子が引っ張り起こす。
料理は4人に任せ、残りは調理の補助や食堂のセッティング等に回ることにした。
特に目立つようなゴミは落ちてはいないが、せっかくだから綺麗にしようと食堂やその前の廊下の掃除が始まる。
これは律子が中心になって行い、監督のつもりか美希も掃除を手伝わされた。
一方、食堂のセッティングは人数の割には捗っていない。
純白のテーブルクロスはよいとして、黄金色の燭台や重厚な花瓶、何に使うのかよく分からないトレイ等、
置いてある物がどれも高価そうなため、作業の手も恐々となっていた。
エントランスホールから入って正面の壁には暖炉まである。
「これ、落としたりしたらベンショーだよね……」
さすがの亜美も銀製の器を持ってふざけようとはしない。
「あまり触らないほうがいいと思うわ」
千早が大きなトレイにグラスや皿を乗せて入ってきた。
食器等を納めている棚は厨房を抜けたさらに奥のスペースにある。
往復は料理中のあずさたちの邪魔にならないよう慎重になる必要があった。
「それにしてもスゴイなあ……」
改めて辺りを見回して真が呆気にとられたように言った。
中央にはゆうに20人は掛けられる長テーブルが設えられている。
椅子もホテルで見るような値の張りそうな意匠のものが一揃え。
テーブル上の燭台と花瓶は雰囲気を演出するためだが、これも決して安価な品ではない。
「こんなのもあったんだ」
暖炉の向かい側の壁に牡鹿のハンティングトロフィーが掛けられている。
近づいてみると思った以上に大きく、下から見上げると不気味だ。
「ねえ、まこちん、知ってる?」
足音を立てないように真美が近づいて言った。
「このハクセイ、笑うんだよ?」
「こ、怖いこと言わないでよ……!」
真は身震いした。
「ほんとだって。ゲームでやったことあるもん。昔のアクションゲームで主人公がジャクソンのやつ」
「ジャクソン?」
「白いお面のオノ持ってるやつだよ」
「白いお面……? もしかしてジェイソンのこと?」
「そうそれ。それで最後のほうにこれと同じハクセイが出てきてさ。主人公がダメージ受けたら笑うんだよ」
「なんかそれだけ聞いたら面白そうだけど……?」
「これでラスボスがカボチャなら決まりなんだけどね~」
真美は笑いながらその場を離れ、千早の手伝いに向かった。
一方、調理組は順調だった。
厨房に入るや、まずやよいが言ったのが”お米を炊きましょう”だった。
米や炊飯器はすぐに見つかった。
「あ、待ってください!」
春香が炊飯器の内釜に計量した米を移そうとしたところに、やよいが待ったをかける。
「そのまま洗ったら釜が傷んじゃいます」
彼女は調理器具が収められている棚から大きめのボウルを見つけ出し、そこに米を移した。
そこに水を流し込み、米を研がずにすぐにその水を捨てた。
「捨てちゃうの?」
「はい。最初はお米についた汚れを流したほうがいいんですよ。お米は水に触れるとすぐに吸収してしまうんです。
そのまま研いだらお米が汚れを吸っちゃいますから」
「へ、へえ……」
「うちではお水がもったいないからしないですけど……」
やよいが恥ずかしそうに笑う。
「それから研ぎ方も大事です」
袖を捲って小さな力こぶを見せた彼女は、左手でボウルの縁をしっかり掴んだ。
「お米を研ぐっていうのは洗うことじゃなくて磨くことなんです。だから力を入れ過ぎないようにして――」
「すごいわね、やよいちゃん」
その手際の良さにあずさも響も感心した。
「えへへ、この前テレビでやってたんです」
その後、この時期なら浸水は30分程度だとやよいが言い、品書きは何にするかという話になる。
「変わった野菜があるね」
冷蔵庫を覗きながら春香が言った。
そう広くない厨房に業務用の大型冷蔵庫の存在は目立つ。
中段の冷蔵庫部は3段に分かれ、卵や調味料、飲み物が整然と並べられている。
ボトルタイプの飲み物は10本以上あるが、人数を考えれば3泊でこれは多いとはいえない。
下段の抽斗になっている部分は野菜室で、野菜や果物が詰め込まれている。
上段の冷凍庫部には肉や魚がラップフィルムに包まれた状態で保存されている。
左側に牛肉や鶏肉、真ん中に魚肉と分けられているが、右側にはサッカーボールが収まるくらいの隙間があった。
衣食住は心配しなくていい、という社長の言葉の意味は、冷蔵庫の中にまでしっかりと及んでいた。
肉類に魚類、野菜等がひととおり揃っている。
質、量ともに申し分なく、少なくとも食料が足りなくなる、という事態にはなりそうにない。
手際よく人参やじゃがいもの皮を剥きながらあずさが微笑む。
調理器具が収められている棚にはピーラーもあったが、彼女は敢えて包丁で皮を剥いている。
「ところで自分たち、未成年だけどいいの?」
牛肉を一口大に切り分けていく響の手捌きは見事なものだった。
運動したこともあり、食べごたえのある料理もあっさりしたものも必要だろうということで4人で話し合った結果、
メニューは牛肉のビール煮込み、サラダ、スープとなった。
「大丈夫よ。アルコールなんて作ってる途中に飛んじゃうもの」
冷蔵庫の奥にビールを見つけたあずさは、すぐにメイン料理を提案した。
「自分、柔らかくするのにソーダを使ったことがあるけど、ビールでもいいんだね」
「プロディーサーさんが社長さんに頼んだのかしら? もしかしたら夜中に呑むつもりだったのかも……」
「まだ残ってるから平気ですよ」
そう言う春香は調味料の類を吟味していた。
後ろではやよいがスープ作りにとりかかっている。
彼女は野菜室に大量のある食材を見つけていて、それを豪快に使いたいと言っていた。
こうして各々が調理にとりかかってから1時間。
白米も炊け、ようやく全てのメニューが出来上がる。
「持って行ってー!」
という響の大声に、真っ先に貴音が飛びつく。
さらに雪歩、美希、伊織たちが加わり、厨房と食堂を往復する。
伊織は、
「たまには運ぶ係もいいわね」
なんて言っている。
料理を運び終えても、春香は厨房に残って何かをしていた。
18時30分。
「いただきまーす!」
牛肉のビール煮込みとサラダ、それに鍋いっぱいのもやしスープ
白米はやよいが手をかけただけあって色艶もよく、適度な弾力があった。
「美味しいっ!」
あちこちでそんな声があがる。
「このお肉、すごく柔らかいですぅ」
上品な手つきで肉を口に運び、雪歩が舌鼓を打つ。
「ビールで煮ると柔らかくなるんだって。あずささんのアイデアなんだよ」
春香が自分のことのように自慢した。
「これなら特売のお肉でも美味しく作れますね! あ、でも私じゃビールが買えません……」
「だったらソーダを使うといいぞ」
「ジュースなら私でも買えますね。でも甘くなっちゃいませんか?」
「ううん、普通の味のついてない炭酸水を使うんだ。最近は薬局とかでも売ってるぞ」
「さすが響さん! 何でも知ってるんですね!」
「まあね、自分、カンペキだから」
やよいたちは大いに盛り上がっている。その横で、
「それにしてもこんなに美味い料理を食べたのは初めてだ。あずささんの旦那さんになる人が羨ましいですよ」
プロデューサーは頻りに料理の腕を褒めていた。
彼はバランスよく口に運んでいるが、やはりメインディッシュに手をつける回数が最も多い。
「うふふ、ありがとうございます。少し自信がつきました」
「自信、ですか?」
「ええ、誰かに食べてもらうために作ったことはほとんどなくて……自分の味覚にも自信がなかったんです」
「勿体ないですよ、こんなに美味しい料理が作れるんですから。何というか、その……惚れ…………」
「え…………?」
「あー! 兄ちゃんがあずさお姉ちゃんを口説いてるー!!」
真美が嫌らしい顔で笑うと、
「ウチの娘はそう簡単にはやれんですな! コーサイしたくば伊織パパを倒してからにしてもらおーか!」
亜美がそれに悪乗りする。
「誰がパパよ!?」
伊織は飲んでいたオレンジジュースを危うく噴き出しそうになった。
「だってプロポーズしてんだよ? それってつまり生え抜きってことっしょ?」
「心配いらないわ。あずさがこんな冴えない男を選ぶワケないでしょうが」
「おいおい、言ってくれるな……」
プロデューサーが冷や汗を拭った時、静かに器を置く音が妙に響いた。
「もし――」
その声に全員の視線が彼女に集中する。
彼女は背筋をまっすぐに伸ばし、
「――おかわりはないのですか?」
空になった器をちらりと見て言った。
「もやしスープならまだまだいっぱいありますよ!」
やよいが手元にあった器にもやしを山盛りにして貴音に差し出す。
鍋の中は半分も減っていない。
「もやしがこれほど美味だとは思いませんでした。やよいの食材に対する愛情を感じますね」
そう言い終わる頃には既に器は空になっている。
「えへへ、ありがとうございます!」
貴音のおかげで残るかと思われた料理の数々はきれいになくなった。
「ごちそうさまで――」
「っとその前に!」
厨房に消えた春香が大きなガラスボウルを持って来た。
中には大きさを揃えて切られたイチゴ、バナナ、キウイフルーツ等の数種類の果物が入っている。
それらをパフェグラスに移し替え、上からチョコレートソースをかければ即席のデザートの完成だ。
「本当はクッキーでも作ろうかと思ったけど、材料も時間もなかったから……」
と恥ずかしそうに言う春香に、
「これも立派なデザートだよ。それにちゃんとグラスも冷やしてあるの」
真っ先に賛辞を送ったのは美希だった。
「ミキ的にはいちごババロアが食べたかったけど、春香のがんばりに免じてこれで我慢してあげるね」
ころころと変わる美希の口調と表情に春香は苦笑した。
19時43分。
準備には得手不得手から担当が分かれたが、後片付けは誰にでもできる。
何人かはクロスを汚していないことを確かめながら、手際よく食器を片づけていく。
”俺は何もできなかったから、せめて片付けくらいはさせてくれ”と言うプロデューサーの勧めで、
調理メンバーだった4人は先に談話室で寛ぐことになった。
談話室は全員が集まっても居場所に困らない程度に広い。
ソファには12人が掛けられるし、一人用の椅子も数脚ある。
中央の長テーブルを囲めばボードゲームに興じられそうだ。
「憧れるわね」
シャンデリアを見上げながらあずさが呟く。
「あずささんはやっぱりこういうお家に住みたいですか?」
「そうねえ……憧れではあるけれど住みたい、というのは違うかもしれないわね。こんなに広いと迷子になってしまいそうで」
「あずささんらしいですね」
春香が笑った。
「私も大きな家は嬉しいですけど、ちょっと落ち着かないかなーって」
「だよね。広すぎても部屋が余っちゃうし。それに――」
「どうかしたんですか、響さん?」
やよいが不安そうな顔をした。
「なんていうか、こう……じっとしてたらどこかから誰かに見られてるような感じがするんだ……」
響は声を潜めて言った。
「食堂でご飯食べてた時も、なんかヘンな感じがしてさ……」
「こ、コワイこと言わないでください……! 誰かって誰なんですかー!?」
「それは私よ!」
誰かの両手が響の目を覆った。
「うぎゃあーーーッ!?」
驚いて飛び上がった勢いで、そのまま後ろにひっくり返る。
「響ちゃん!?」
慌てて春香たちが駆け寄り、抱き起こした。
「ちょ、ちょっと! そんなに驚くことないじゃないの!」
イタズラを仕掛けた伊織が心配そうに響の顔を覗きこむ。
「ひぐっ……い、いおりぃ…………?」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら響が見上げる。
「ああ、ほら! 響ちゃん、これで拭いて。もう! 響ちゃん、泣いちゃってるじゃない!」
春香が抗議の声をあげる。
「片付けが終わって戻って来たら面白そうな話してたから、ちょっと驚かせてやろうと思っただけよ」
伊織はばつ悪そうに余所を向いて、
「わ、悪かったわよ……! そんな驚くなんて思わなかったから……」
拗ねたような口調で言った。
食堂から雪歩たちがやって来る。
「さっきのは伊織が――」
「だ、だから悪かったって言ってるでしょ!?」
何事かと心配する面々に春香が経緯を説明する。
その後、響が落ち着くのを待ってゲームでもしようということになった。
この館にはテレビやパソコンの類がないと前もってプロデューサーが言っていたため、各々はいろいろと遊び道具を持って来ていた。
特に亜美と真美は荷物の大半がオモチャで占められていて、2人が言うには1週間あっても遊び尽くせない量らしい。
トランプやボードゲーム等、誰でも知っている物からマニアックな物まで揃っていて、談話室はさながら玩具箱をひっくり返したような状態になっていた。
「サイバーエンドドラゴンを召喚!」
「コインベット! さあ、カードを見せてもらうよ!」
「えーっと、真ちゃん、どうしたらいいかな……?」
「このタテコモールっていうのをライブ……すればいいと思う」
「甘いの、雪歩。これでずっとミキのターンなの!」
「おや、これは……融合召喚? なんとも面妖な英雄ですね」
亜美たちが持って来たカードゲームに興じる面々。
本来のルールを勝手に作り変えて無理やり複数人で遊んでいる。
「株で大損、1千万ドル失うだって。ねえ、これ資産がマイナスになったらどうなるの?」
「そんな程度、水瀬が立て替えてあげるわよ」
「さっすがいおりん! 物件買い占めてるだけあるねー」
「借金しててもゲームは進められるハズだぞ? あ、律子、四四は反則だぞ」
「たしか歩兵は前に1マスずつしか動かせないのよね。じゃあこっちの香車を……」
「それは駒を飛び越せないんだ。それと千早、21を超えたからお前の負けだ」
「くっ……それならビショップとルークを墓地に送り、蒼い鳥を特殊召喚します」
「響、決着をつけようじゃないか。どうだ! ハートのフラッシュだ!」
「ふふん、甘い……甘すぎるぞ、真! 自分が神のフルハウスを見せてやるさー!」
「やりますね、雪歩。しかし黙っていましたが私には透視能力があるのです。それを使えばとらんくの中身など……」
「し、四条さん……ダウト1億、です……うぅ、すみません……穴掘ってトランクの中身を見ちゃいました……」
「あらあら、★に40のダメージってすごいのかしら? やよいちゃんのマークは★だったかしら?」
「さっき転がした時に▲になりました。だからダメージはなしですよ」
カードゲームで遊んでいたハズがいつの間にか人生ゲームに変わり、次いで連珠に将棋が始まり、種々様々なゲームに転じていた。
しばらくして雪歩と律子が席を立ち、ホットココアを淹れて戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「ちょうど喉が渇いていたところだったんだ。いただくよ」
真っ先に手を伸ばしたのはプロデューサーだ。
「いただきます」
その後、雪歩がトレイを持って回り、やよい、春香……とカップを手に取る。
「美味しいわ」
伊織が頷いて言った。
「美味しいです!」
「これはバンホーテンね?」
やよいとあずさが舌鼓を打つ。
ゲームで遊んだ後は甘さの中にほろ苦さが覗くココアは好評だった。
一息入れたことで遊びにも区切りがつき、
「あら、もうこんな時間じゃない」
律子が時計を見上げて言った。
時刻は22時過ぎ。
2時間以上遊んでいたことになる。
そろそろ寝ようか、という声があちこちで上がる。
亜美たちはまだ遊び足りなさそうだったが、美希はココアで温もったこともあって何度も欠伸している。
春香や千早は足元に落ちたコマやカードを拾っていた。
「そうだな、夜も遅いしそろそろ寝るか」
「えー、もっと遊ぼうよー!」
と真美が口を尖らせる。
「こら、夜更かしはダメよ? アイドルなんだから体調管理も仕事のうちなの」
「でも今日はお仕事じゃないっしょ?」
「真美、そう焦ることはありませんよ。まだ3日もあります。今宵はここでお開きといたしましょう」
「ちぇ、お姫ちんがそう言うなら仕方ないか……」
亜美たちが渋々といった様子でテーブル上に散らばった道具を片付けはじめる。
――その時だった。
『我が声を聴け』
突然、どこからか声が響いてきた。
「な、なんだ!?」
響が頓狂な声をあげて辺りを見回す。
「い、今のなに……?」
雪歩が不安げに隣にいた春香を見やるが、彼女も分からないといった様子でかぶりを振った。
『我が声を聴け』
同じ声がもう一度。
老婆のような嗄(しわが)れた不気味な声が館内に響き渡る。
「だ、誰だ!?」
プロデューサーが血相を変えて立ち上がった。
『次に名を挙げる者たちはそれぞれ以下の罪を背負っている。
秋月律子
汝は頑迷にてしばしば他者をその規律で縛り、弱きを切り捨て、個を蔑ろにした。
独善により和を損ねたる狭窄の為体は第一の罪である。
天海春香
汝は競合の場に於いて干戈を交えようとせず、籌策を巡らそうとせず、相手に和合を求めるに終始した。
己が身上を弁えず、戦意を持たずして結実を冀望する愚行は第二の罪である。
音無小鳥
汝はしばしば淫佚な想見に耽り、清白なる同胞を胸臆にて穢すこと数多度あり。
輔佐を怠り、責を逃れる尾籠な振る舞いは第三の罪である。
我那覇響
汝は実兄を蔑し、身侭に郷里を離れ、音信を断って憂患の種を蒔き、また椿堂の不帰に悲歎することなし。
眷族を顧みない許し難き忘恩は第四の罪である。
菊地真
汝は現実を解せず、己が理想との乖離に抗し、剰え椿堂の求めに違背した。
寸草を知らず、報謝を忘れたる不孝は第五の罪である。
如月千早
汝は歌唱にのみ注力して他を等閑にし、その過度の拘泥のあまりしばしば不和を引き起こした。
戮力を妨げ、乖離を齎す我執は第六の罪である。
四条貴音
汝は己に纏わる一切を隠匿し、それによって不信を招き、ときに同朋をも欺いた。
人心を翻弄し、惑わし、跋扈する不逞は第七の罪である。
高槻やよい
汝は庇護すべき血縁との対話を疎かにし、その心情の機微について忖度せず。
弟妹を軽んじ、己のみ願望を叶えんとする放埓は罪悪の八である。
萩原雪歩
汝は己の怯懦を知りつつも、その克服を遅々として進めず逃避に終始した。
自立を忘れ独歩を怠る矮小な姿勢は罪悪の九である。
双海亜美
汝は双子(そうし)を等閑にし、独尊の心にて飛躍を第一義として顧みることなし。
共歩を疎かにし、把手を拒みたる陋劣の体は罪悪の十である。
双海真美
汝は双子(そうし)の栄進を祝さず、むしろ嫉心を抱き、怨嗟に駆られた。
芝蘭玉樹を幸いとせず、切歯扼腕する低劣は罪悪の十一である。
星井美希
汝は非凡の才を持つが故にそれに溺れ、懈怠に日々を貪ってきた。
研鑽を忘れ、遊蕩の限りを尽くすは罪悪の十二である。
三浦あずさ
汝は齢の長たる自覚を持たず、彷徨を重ね、その悪癖を改める兆しを見せず。
逍遥を常とし、他者を煩わせるを是とする愚盲は罪悪の十三である。
水瀬伊織
汝は高慢にして傲岸、他を見下し、不遜なる体を露わにすること厭わず。
謙譲の念を捨てたる人にあるまじき狷介は罪悪の十四である。
罪深き者たちよ、悔い改めよ。
我は天に代わり裁きを下す者である。
異あるならばその清白を示せ。
罪深き者たちよ、悔い改めよ。
十四の罪を背負いし者たちよ、その血を以て償いとせよ』
声が聞こえなくなっても、しばらく誰もが口を開けずにいた。
怨嗟の念が込められたような声は、天上から降り注いだのか地の底から湧き出したのかは明らかではない。
ただひとつハッキリしているのは、彼女たちを動揺させるには充分すぎるものだったということだ。
「何だったんだ、今の……?」
一番に疑問を発したのは響だった。
誰も答えない。
律子は呆けたように天井を見つめ、雪歩は震えを必死に抑えるようにして俯き、貴音は周囲を窺っている。
「なんか、ヘンなこと言ってなかった? 罪がどうのこうのって――」
辺りを見回しながら真が言う。
声はもう聴こえない。
時計が秒を刻む音だけが談話室に響いていた。
「兄ちゃん……さすがに冗談キツいって……」
真美が言ったのをキッカケに、全員の視線がプロデューサーに集中した。
「お、俺じゃない! 本当だって!」
「あんたにしてはまずまずの仕掛けじゃないの。で、スピーカーはどこに隠してるワケ?」
伊織が髪をかき上げながら言った。
その口調は怒りと呆れが入り混じっている。
「本当に俺じゃないって! こんなことするワケないだろ!?」
「どうだか……こういう場所じゃホラーは定番だもの。面白いアイデアだったけど残念ね。誰も怖がってなんかいないわ」
「いおりん、そういうのは足の震えが止まってからにしないと」
「う、うっさいわね! さすがにちょっとビックリしただけよ!」
「なあんだ、プロデューサーさんのサプライズだったんですか……」
春香がぎこちない笑みを浮かべた。
「いや、だから違うんだって! 俺だって驚いてるくらいなんだぞ?」
「悪趣味ですよ、プロデューサー殿。というか雰囲気出すのはいいですけど、言葉を選んでくださいよ、まったく……」
ため息交じりに律子は談話室を出て行こうとする。
「どちらへ?」
「ちょっと喉が渇いたの。ココアが甘すぎたのかもしれないわ」
「ならば私も――」
貴音も立ち上がり、律子と厨房へ向かう。
「あの、私も行きますっ!」
雪歩が慌ててその後を追った。
3人が厨房に消えると先ほどまでの盛り上がりは一気に冷めてしまった。
本人は否定しているが、ここにいる全員がプロデューサーの仕業だと言った。
「言葉が難しくてよく分かりませんでした。あれは何て言ってたんですか?」
「頼むから信じてくれよ。本当に俺じゃないんだって」
懇願するようなやよいに彼はだんだん必死になってきた。
「なに言ってんのよ。さっきの告発みたいな声、あんたの名前だけ挙がってなかったじゃない。それはどう説明するのよ?」
「俺に言われても……こっちが訊きたいくらいだよ」
「本当に兄ちゃんじゃないの?」
「さっきから言ってるじゃないか。俺も気味が悪いんだよ」
「プロデューサーでないとしたら、誰が――?」
千早が自分の腕を抱くようにして唸った。
その視線は春香、続いて真に注がれるが2人ともかぶりを振った。
「ま、少なくとも真と響じゃないことは確かね」
「ん? なんでボクたちじゃないって分かるの? いや、実際にボクじゃないけど――」
「あんたたちがあんな言葉を知ってるワケないじゃない」
伊織が意地悪そうな顔で言った。
「ああ、なるほど、たしかに……って、どういう意味だよ、それは!?」
「そうだぞ! 真はともかく自分はあれくらいの言葉、知ってるぞ」
「ともかく、ってどういう意味さ!?」
3人のやりとりに場は少しだけ和んだ。
だがそれも僅かのことで、やはり話題は先ほどの声の正体に戻ってしまう。
「でも実際、全て聞き取れたワケではないのよね」
と言ったのはあずさだ。
「亜美には呪文みたいに聴こえたよ」
「真美も」
プロデューサーはどうだったか、と千早は問うたが、
「いや、声自体に驚いてしまって内容はほとんど覚えてないんだ……」
彼は申し訳なさそうに答えた。
「社長じゃないの?」
今まで眠そうな目で成り行きを見ていた美希が言った。
あっ、と全員が弾かれたように顔を上げる。
「そうだよ! 社長だよ!」
亜美と真美が同時に叫んだ。
「兄ちゃんたちにも内緒でこっそり仕掛けてたんだよ。だってここ、社長の島なんでしょ?」
「違うわ、亜美。事務所が持ってるのはこの館のほうで、島は別の人よ」
「あれ、そうなの? あ、だったらなおさら社長じゃん!」
この場にいるほとんど全員が社長の仕業だとして結論付けようとしていた。
「だってさっき、ピヨちゃんのことも言ってたっしょ? この合宿、ピヨちゃんも来るハズだったんだよね?」
「ああ、急な仕事が入ってキャンセルになったんだ」
「ってことは……つ・ま・り! この場にいない唯一の人物……そう! 社長が犯人だったのだ!」
「さすが亜美! 名推理!」
「んっふっふ~、今日から亜美のことはタンテイと呼んでくれたまえ」
「う~ん、でもあの社長がそんなことするかなあ……?」
難色を示したのは響だ。
「意外とそうかもしれないわね。社長、お茶目だから」
あずさが微笑した時、律子たちが戻ってきた。
「…………どうしたの?」
3人とも険しい顔をしていた。
「食堂に――」
食堂の暖炉がある側の壁面。
律子の指差した先に大きな模造紙が貼付されていた。
両手をいっぱいに広げても足りないほどの幅のそれに、先ほど謎の声が語ったのと同じ文句が書かれてある。
縦書きの告発文はガイドを使ったように体裁が整えられている。
毛筆で書かれているように見えるが、墨汁の滲みがないことから書体を似せて印刷されたものであると分かる。
それは頻繁に出てくる”汝”という字が全て均一であることからも明らかだ。
「これってさっきの……」
真美の呟きに春香が小さく頷く。
「夕食の時はこんなのなかったよね?」
「難しい漢字ばっかり使って、書いた人は読ませる気がないって思うな」
「――難しい、というより古い言葉を遣ってるわね」
律子が唸る。
「あの、これってどういう意味なんですか?」
「……すまん、俺にもよく分からない……見たことない言葉が多くて……」
やよいに訊ねられたプロデューサーは困ったように頭を掻いた。
「これ全部、意味分かる人っているんですか……?」
春香が誰にともなく問う。
一同は年長者のあずさに注目するが、彼女は分からないとかぶりを振った。
続いて律子はどうかとなるが、彼女も部分的にしか分からないと言う。
「じゃあ――」
縋るような視線を一身に浴びた貴音は、
「理解していますが、内容を知るのはお勧めしません」
と伏し目がちに言った。
「そんな恐いことが書いてあるんですか……?」
雪歩が今にも泣きだしそうな顔をした。
彼女は何も答えない。
「またまた~! 社長が書いたんだから、親父ギャグか何かでしょ?」
真美が大仰に笑う。
「え、社長……?」
怪訝な顔で律子が訊き返す。
「そだよ。兄ちゃんじゃないって言うから、社長じゃないかってメータンテイ亜美が――」
まるで自分が答えを導き出したように自信たっぷりに言う彼女に、
「――違うと思うわ」
律子は俯き加減に一蹴した。
「社長だったらこんな酷いこと……冗談だとしても言うハズがないもの」
「律っちゃん? さっき分からないって――」
「部分的に、よ。全部じゃないわ。けど分かるところだけ読んでも、内容があまりに――」
「そ、そこまで言われたら気になるぞ……」
一同は声やこれを貼付した者の正体より、告発文自体について言い合いになった。
つまりその内容を貴音に訊くべきか、訊かざるべきか、ということだ。
雪歩、真、やよいは怖がって内容を知ることに否定的だった。
美希、響、千早は教えてほしいという。
他の者たちは是非を保留にした。
「俺の立場から言うべきことじゃないが……」
プロデューサーは告発文を見上げて言った。
「聞きたい者だけ残ってくれ。後で個別に貴音に聞く――そうすれば自分が何を書かれているかは誰にも知られない」
それでいいか、という彼に貴音は軽く頷いた。
「あんたはどうするのよ?」
「俺はプロデューサーだ。誰がこんなことをしたか分からないが、内容については知っておく必要があると思ってる」
「そう言われれば私も残らないワケにはいきませんね」
ため息まじりに律子が言った。
「分かった、じゃあ律子も。美希と響と千早は知りたいって言っていたな。他の者はそれぞれ部屋に――」
「やっぱりボクも知りたいです」
彼の言葉を遮るように真が言う。
「真ちゃん!?」
「よく考えたら不公平じゃないですか。ボクたち、同じものを見聞きしてるのに、知ってる人と知らない人がいたんじゃ――」
「あの、真ちゃん、そういうことじゃなくて……!」
恐いことなら知らないほうがいいと、雪歩にしては珍しく強く反駁した。
「四条さんたちの様子を見たら普通のことじゃないって分かるよ。だからやめようよ」
「雪歩の言うことは分かるよ。でもボクも知りたくなったんだ。そこまで隠したくなるようなことを書いてるのかってね。
それに自分のことなのに知らないっていうのも気持ちが悪いし……ごめんね、雪歩。でも覚悟はできてるんだ」
「………………」
彼女はそれ以上の反論はしなかった。
代わりに、
「だったら、私も……! 私も聞きたいです!」
雪歩は手の震えを抑えながら言った。
「雪歩!? 無理しないで! これはボクの勝手だから!」
「そうじゃないの! ただ、真ちゃんたちを見てたら私も聞くべきだと思っただけ……」
貴音は告発文を見て小さく息を吐いた。
「これを書いた者は見当違いをしているようですね……」
2人が意思を翻したことで場は騒然となった。
彼女たちに触発されたように態度を保留にしていた春香、伊織が揃って内容を知りたいと申し出た。
最後にはやよいでさえその流れに乗り、教えてほしいと懇願するほどだった。
「なあ、どうだろう? 内容を全員で共有するっていうのは――」
全員の意思確認がとれたところで、プロデューサーは苦悶の表情で言った。
「共有ってみんなの内容を知るってことですか?」
春香の問いに彼は小さく頷く。
「俺を含め希望者だけ知っていればいいと思ってたが、こうなったら互いに知ったほうがいいような気もする。
それに全部は読めなくても何となく意味が分かっている者もいるんじゃないか……?」
これに対しても賛否の声があがる。
「プライバシーに関わることもあるんじゃないですか?」
千早が小声で言うと、貴音は心苦しそうに頷いた。
「でもそれならなおさらプロデューサーや貴音だけが全員のを知ってる、っていうのも不公平な気がするぞ」
響の意見に尤もだと賛同したのは真だった。
場の空気はまだこの告発文を性質の悪いイタズラだと捉えている向きが強い。
しかし律子が言った、”社長ではないと思う”という発言からイタズラで片付けるべきではなく、内容を共有することで何か手がかりを得られるかもしれないという声が出始めていた。
話し合った結果、プロデューサーの提案に全員が肯うことになった。
「本当によろしいのですか?」
そう決まっても貴音は執拗なくらいに念を押した。
「みんなそれでいいって言ってるの。気持ちが変わらないうちにしたほうがいいって思うな」
「………………」
全員の顔を見まわしてから貴音は天井を仰いで大息した。
「分かりました。皆の意思を尊重します。では、律子から――」
彼女は告発文をいま一度黙読し、それから平易な言葉に置き換えた。
「”あなたは頑固で自分の決めた規則で他人を縛り、弱い者を切り捨てて個人を大切にしない。
独り善がりで和を乱すものの見方の狭さは一番目の罪だ”、と書いてあります」
伊織とあずさがほとんど同時に律子を見た。
「なるほどね、私が自分勝手なせいでチームワークを乱してる、と……大体、予想していたとおりだわ」
ある程度は告発文の内容を理解できていたが、貴音の説明で全容を得た、と彼女は言った。
「バカげてるわ」
吐き捨てたのは伊織だ。
「たしかに突っ走るところはあるけど、それでも竜宮小町をまとめてきたのは律子よ。
和を乱してるっていうのならとっくに解散してるわよ」
「そうね。律子さんのおかげで私たち、こうして続けられているもの」
「でも、もうちっと優しくしてくれてもいいけど」
伊織に続いてあずさ、亜美がフォローする。
「だからといって、これを罪というのはさすがに重すぎるんじゃないかしら? 短所とか欠点とか、他に言いようもあるのに……」
険しい顔で告発文を見つめながら千早が呟いた。
これには誰もが同調した。
「なんか大したこと書いてなさそうなカンジだね。他のもそうなの?」
眠そうな声で美希が問うたが、貴音は表情ひとつ変えずに、
「――そうとは限りません。次は春香ですね」
告発文を見上げた。
「”あなたは競い合う場で戦おうとせず、作戦を立てようとせず、いつも相手と仲良くなろうとした。
立場を弁えず、戦う覚悟を持たず結果だけを求める愚かな行為は二番目の罪だ”……といったところでしょうか」
ほとんどは意味を理解できなかったのか、しばらく黙ったままだった。
「えっと……どゆこと?」
亜美がとぼけた声で訊いた。
「競い合う場で、っていうのはもしかしてオーディション?」
響の呟きに、おそらくそうだろうと貴音は頷いた。
美希はちらりと春香を見た。
彼女はそれには気付かず困ったような表情を浮かべているだけだった。
「話にならないわね」
またしても伊織が一蹴する。
「まあオーディションで戦おうとせず、っていうのはアイドルとしてどうかと思うけど。
別にセコイことをしてるワケでもないのに、それが罪っていうのは腹が立つわね」
彼女は翻訳しただけだというのに貴音に向かって言った。
プロデューサーは顎に手を当てて何事かを呟いている。
「ダメ……なのかなあ、やっぱり……」
春香は自嘲気味に笑った。
「そんなことないよ! それで合格したことだってあるし、他のアイドルと仲良くなるのが間違いだなんて思わないよ」
真が力強く否定し、雪歩がそれに頷いてみせた。
「そうだよ。春香ちゃんは何も悪くないよ」
「あはは、ありがと、2人とも……ちょっと自信なくしかけてたかも……」
取り繕うに春香が答える。
「どーすんの? ピヨちゃん、ここにいないけど」
「小鳥さんのは省略してもいいんじゃないかしら。だいたい想像はつくし……」
「いや、読んでくれ。もしかしたら何か手がかりがつかめるかもしれない」
プロデューサーは終始真剣な表情だった。
「”あなたはしばしば淫らなことを考え、心の中で仲間を穢すことが何度もあった。
仕事を怠け、責任から逃れる愚かな振る舞いは三番目の罪だ”……といったところでしょうか」
内容のわりに貴音が滔々と読み上げたために妙な空気が流れてしまう。
「あらあら……」
困惑した様子のあずさが目を向けた先では、律子が怒りとも呆れともつかない顔をしている。
「ねえねえ、律っちゃん。ミダラって何のこと? 女王様?」
「それはアミダラ。知ってて訊いてるでしょ?」
「いやいや、亜美にはよく分かりませんな~」
3人に対する告発が笑い飛ばせる程度の内容だと分かり、場にはいくらか和やかな雰囲気が戻ってきていた。
この分では残りも大した内容ではないだろう、と貴音に先を促す声があがる。
だが彼女の視線は告発文と響との間を何度も往復した。
「これは……本当によろしいのでしょうか……?」
逡巡の声は全員に聞こえていた。
「おーい、たかねー? 早く自分のも読んでほしいぞ。だいたい想像ついてるし」
「え、ええ……そうですね……」
貴音は喉元に指先をあてがい、深呼吸した。
「”あなたは兄を馬鹿にし、我が儘で故郷を離れ、連絡をしないために……家族を心配させ……”」
彼女はそこで言葉を切った。
「お姫ちん……?」
「”心配させ……父親の……死を、嘆き悲しむこともしない……家族を顧みず、受けた恩を忘れるのは四番目の罪だ”、と……」
再び空気が変わる。
「なん――?」
千早が弾かれたように響の横顔を見た。
響は俯いたまま視線を彷徨わせている。
「ちょ、ちょっと……それって……?」
律子は何か言おうとしたが言葉が続かない。
誰もが口を閉ざしていた。
まるで時間が止まったように身動きひとつとれないでいる。
数秒が経ち、誰かが椅子にもたれる音がした。
「な、な~んだ! あっははは、そういう意味だったのか~!」
突然、響が腹を抱えて笑い出した。
「”不帰”って書いてあるから自分、島に帰らないことかと思ったぞ」
「響…………」
大仰に笑う彼女を、真は憐れむような目で見た。
反対に春香やあずさなどは彼女から目を逸らした。
「貴音っ!」
大声を出したのは美希だった。
「なんで読んだの!? そんなこと書いてるって知ってたらミキだったら読まなかったの!」
非難がましい視線に貴音は反駁しない。
「ヒドすぎるよ! 何もこんな――」
「いいんだ!」
「――ひび、き?」
「教えてくれって言ったのは自分なんだ。貴音を責めるのは筋違いだぞ」
「でも……ッ!」
「それに自分、こんなの気にしてないから。父さんが亡くなったのは自分が小さい頃の話だし。
ただ、急に父さんのことが出てきてビックリしたっていうか……」
困ったように笑って響は手を叩いた。
「もう! みんな、そんな顔しないでよ! 自分はほんとに平気だぞ!?」
そう言われても調子を取り戻す者はいない。
憐憫の視線が響に注がれる。
再び陰鬱な沈黙が場を支配しかけた時、
「次はボクだよね! 貴音、お願い!」
凛とした表情で彼女が言った。
「え…………?」
「早くボクのを読んでよ!」
真の目はまっすぐに貴音を見据えている。
わずかに動く唇は、空気を振動させずに”早く!”と促していた。
一瞬、救われたような顔つきになった彼女は勧めに従って告発文を読み換えた。
「”あなたは現実を理解せず、自分の理想との食い違いに抵抗し、しかも父親の求めることに逆らった。
親の恩に報いる気持ちを知らず、感謝を忘れた親不孝は五番目の罪だ”、とあります」
「………………」
「ま、納得ね。私も前からそれは罪深いって思ってたのよね~」
伊織が心底からバカにしたように言ったため、
「な……言ったな!? ボクだって毎日がんばってるんだぞ!」
真が顔を赤くして言い返した。
「真クンは女の子のハートを奪うから、立派なセットウ罪なの。これってそういうことでしょ?」
「み、美希までそんなこと言うなんてヒドイよ……」
彼女の落ち込みようが滑稽だったためか、プロデューサーまでもが笑った。
だが千早だけはにこりともせず、何かを考えているような響を見つめている。
「女の子らしくなりたい、って思うのは間違ってるのかなあ……」
「そ、そんなことないよ! 真ちゃんは今のままでも充分カッコイイよ?」
「だからボクはかわいい女の子になりたいんだって……」
「あ、ああ! ごめんね、真ちゃん……落ち込まないで……!」
先ほどとの落差に加え、伊織たちが茶化したことでいくらか明るさが戻ってくる。
「なんか言いがかりっていうかイジワルだよね」
「そう、ね……四条さん、お願いします」
「”あなたは歌を重視して他のことを軽く考え、その強いこだわりのために和を乱すことが度々あった。
協力することを妨害し、我を通して皆の心をばらばらにするのは六番目の罪だ”とあります」
これも想像していたとおりね、と律子が呟く。
「そんなことないです! 私、千早さんの歌、大好きです! それに皆、ばらばらになったりなんかしません!」
真っ先に反発したのはやよいだ。
「そうだよ。千早ちゃんにはファンがたくさんいるんだし、そんなのが罪だなんて――」
「っていうか、これ……内容だけなら律子、さんと被ってるの」
「ひょっとしてもうネタ切れなんじゃないのー?」
さして辛辣とは思えない、と彼女たちは口々に言った。
「千早ちゃん……?」
「え、ええ、ごめんなさい。そうね、罪と言えるほどのことじゃないかもしれないわ。でも――」
春香の訝るような視線を避けるように、
「見方によっては……罪なのかもしれないわ…………」
彼女は誰にも聞こえない声で呟いた。
「これは戒めのつもりなのか……?」
プロデューサーの疑問に全員の視線が集まる。
「今までのを聞いていると、それぞれこういう部分があるから直した方がいい、と言っているようにも聞こえないか?」
たしかに、と何人かが頷いた。
だが律子がそれに異を唱える。
「それは好意的に解釈しすぎじゃないですか? そのつもりならこんな言葉を選ばなくてもいいじゃないですか。
それに”裁き”だの”血を以て償え”だの、どう考えても親切心の欠片もありませんよ」
「あ、ああ……たしかにそうだな……すまん、貴音、続けてくれ」
「はい、次は私ですね……」
貴音は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「”あなたは自分に関することを何もかも隠し、そのために不信を招き、ときに仲間も騙した。
他人の心を弄び、惑わし、思うままにのさばる悪い態度は七番目の罪である”」
あちこちでため息が漏れる。
が、それは悲憤ではなく主に納得によるものである。
「お姫ちん、ナゾだらけだもんね」
「宇宙人説もあるくらいだし」
これに対しての異論は特に出なかった。
今までの中で一番正鵠を射ている告発だという声もあがったが、
「ひっかかるわね」
律子は”同朋”の文字を睨みながら言った。
「仲間を騙した、ってどうしてこれを書いた人が知っているのかしら?」
「どゆこと?」
「貴音が謎が多いのはいいとして、仲間を騙したかどうかなんて誰にも分からないじゃない。本人以外は――」
律子がそう言ったことで何人かが貴音に目を向ける。
「私が自分の事柄について隠していることを、”欺く”という言葉で表現しているのかもしれませんね」
だが当の本人は涼しい顔をして返した。
「これも本当っぽいけど、誰にでも書けそうな内容だね。貴音、気にしないで次いくの」
「え、ええ……次はやよいですね」
「はい、お願いします!」
やよいはぐっと両手を握りしめた。
「”あなたは守るべき家族との会話をあまりせず、何を思い何を考えているかを知ろうとしない。
弟や妹を軽く見て、自分だけが願いを叶えようとする勝手な振る舞いは八番目の罪である”と述べられてい――」
「そんなことないぞ」
言い終わるより先に響が口を挟む。
「やよいは家族想いだし、仕事も家のこともちゃんとこなしてるからな。こんなのデタラメだ」
「響さん…………!」
「そうね、これを書いた奴の目はとんだ節穴だわ」
伊織もそれに同調したことで、やよいは目を潤ませている。
「ツンツンしながらも、やよいっちを気遣う健気ないおりんなのであった」
「ちょっと! ヘンなこと言ってんじゃないわよ!」
「まあまあ、そう怒りなさんな。ホントのことなんだから」
亜美と真美に代わる代わる揶揄され、伊織は顔を真っ赤にした。
「ああ、でも2人の言うとおりだ。やよい、こんなこと気にしなくていいぞ」
プロデューサーも後押しするが、彼女の表情は暗い。
「でも弟たちの面倒、長介に任せっきりにしてる時もありますし……」
「それは仕事を頑張ってる証拠じゃないか。弟さんたちもきっと分かってくれるさ」
「そう、だといいんですけど……」
これも大した内容ではない、ということで大方の意見は一致している。
罪というほどのことではなく、家族で話し合えばそれで解決する問題だから深刻に考える必要はない。
律子がそう言ったことで貴音は次の告発文を読み換えた。
「”あなたは自分が臆病で気が弱いことを知りながら、それをなかなか克服しようとせず逃げてばかりだった。
自立しようとせず自分の力で歩むことを怠ける小さな姿勢は九番目の罪である”ということですが……」
彼女は呆れたようにため息をついて、
「これを書いた者は大きな思い違いをしているようですね」
優しい目で雪歩を見た。
「先ほど、雪歩は勇気を出してこの告発文の内容を知りたいと言いました。これでも臆病と言えるでしょうか?」
「四条さん……でも私……小さいってことは、貧相でちんちくりんで臆病なのは本当だから……!」
雪歩は既に泣きそうな顔をしている。
その手を真がとった。
「大丈夫だよ、雪歩は臆病なんかじゃない。ちょっと怖がりなだけだよ」
「まこちん、フォローになってないよ?」
「そう? とにかく! 雪歩は本当は強くて根性があるってことだよ。だから――」
「………………?」
「とりあえずそのスコップはしまおうよ……ここに穴掘っちゃったら弁償できないでしょ?」
言われてスコップを脇に置く。
「やけに大きな荷物だと思ったら、こんなもの持ち込んでたのね」
「うう……やっぱり穴掘って埋まってますぅ!」
再びスコップを手にしかけた雪歩を総出で止めにかかる。
未然に阻止できたため、食堂の床に穴が開くことはなかった。
「大勇は怯なるが如し、と言います。雪歩が勇敢であることはここにいる皆が知っていることです。このような戯言を聞き入れてはなりません」
「は、はい! あの、四条さん……ありがとうございます」
先ほどと違い、ほんのわずか自信を覗かせる雪歩の表情に貴音は小さく頷く。
が、その表情はすぐに険しくなり、
「さて、これはどうしたものでしょうか……」
再び告発文に目を戻す。
「次は……亜美ですよね?」
春香の問いに彼女は返事をしなかった。
「いいよ、お姫ちん。亜美たち、何を言われても大丈夫だから」
それまでおどけていた2人は真顔で言う。
「よろしいのですか?」
「だって今までのやつ全部、罪でも何でもなかったじゃん。どうせまたイジワルなこと書いてるんでしょ?」
「そう、ですね。全て言いがかりのようなものです」
「だったらいいじゃん。早く終わらせちゃおうよ!」
急かす亜美に対し貴音はしばらく黙っていたが、やがて呼吸を整えるように息を吐いてから、
「”あなたは双子を気にかけず、自分さえ良ければよいという気持ちで高みにのぼることを一番に考えて振り返らない。
共に歩むことをせず、共に手を取り合うことをしない卑しさは十番目の罪である”とあります」
亜美や真美に分かるよう、特に言葉を平易にして読み換えた。
「亜美、そんなこと思ってない!」
顔を曇らせた律子はあずさに何事かを耳打ちした。
「ほんと、言いがかりもいいとこだわ!」
伊織がテーブルを叩いて怒鳴る。
それに驚いた雪歩が身を縮こまらせた。
「これは竜宮小町のことを言っているのよね?」
「そうだろうけど、律子が気にすることじゃないわ。趣味の悪いイタズラよ」
今にも告発文を破り捨てそうな伊織をあずさが制した。
「私たちの気持ちはこんな言葉じゃ引き裂けないわ。そうでしょう、亜美ちゃん?」
「亜美、ほんとにこんなこと思ってないよ? みんなでがんばってみんなでアイドル続けたいもん」
「ええ、分かっているわ」
あずさは微笑し、亜美の頭を撫でた。
「お姫ちん、真美のも読んで。だいたい分かるから」
「………………」
真美の突き刺すような視線に貴音は求めに応えた。
「”あなたは双子の活躍を祝わず、むしろ焼きもちをやき、恨む気持ちを抱いた。
家族から優れた者が生まれたことを喜ばず、悔しがる卑しい様は十一番目の罪である”と――」
訳しながら彼女は亜美と真美の様子を窺った。
2人はほとんど同じ反応をしている。
「これを書いた人は――」
呟いたのは春香だ。
「私たちを仲違いさせたいのかな?」
「仲違い?」
「こんな意地悪なことばかり書いて、揉めさせたいのかなって……」
「その意図は今は測りかねます」
貴音はそう言葉を置いたうえで、
「しかし無暗に恐れる必要はありません――そうでしょう?」
真美に視線を送った。
彼女はしばらく困ったように俯いていたが、やがて顔を上げて、
「うん。だって亜美も真美もこんなこと考えてないもん。ウソばっかりだよ!」
通る声で断言した。
「そうね、私も同感よ」
律子が前に出た。
「春香が言うように私たちを掻き乱したいだけなのかもしれないわ。こんなワケの分からない文章で――」
「ええ、ですからこのような”作業”は早々に終わらせましょう」
貴音はちらりと美希を見た。
「”あなたは才能に恵まれていることに溺れ、怠けた毎日を送ってきた。
自分を磨くことを忘れ、遊びに耽ってばかりいるのは十二番目の罪である”と書いてありますね」
言われた本人は呑気にあくびをしている。
「あんた、言われてるわよ……?」
まるで気にしていない様子の彼女に伊織が呆れたように言う。
だが彼女は眠そうな目で告発文を眺め、
「ミキのこと、褒めてくれてるの。だから気にしてないよ」
微笑して言った。
「う~ん、これに関しては戒めね……」
「でもいつも寝てるけど、決める時はビシッと決めるから美希はすごいと思うぞ?」
「その、いつも寝てるのが問題だ、って言ってんのよ」
響がフォローするも、伊織がすかさず反駁した。
「しかしこれも個人の問題であって、罪という表現は大袈裟すぎる気がするな」
腕を組んで唸るプロデューサーの目つきは険しい。
「それに……ちょっと気になることも……」
彼がそう口にしかけた時、伊織が一番に視線を向けた。
「どうかしたんですか?」
やよいが心配そうに見上げる。
「ああ、いや……貴音、続けてくれ」
「………………」
彼女は何か言いたそうに口唇をわずかに動かした。
だが結局、何も言わずに次の告発を読み換えた。
「”あなたは年長者としての自覚を持たず、さまようことを繰り返し、その悪い癖を直そうとしない。
あちこちを歩くばかりで他人の手をわずらわせる愚かさは十三番目の罪である”、とあります」
あずさは微苦笑した。
「困ったわね……治そうと努力はしているんだけど……」
その表情は柔和そのもので、他の誰とも違う穏やかな顔つきだ。
「迷子になるだけで罪なら、小さい子はみんな犯罪者ってことになるよね」
真の言葉に春香が頷く。
「もはや告発文になるように無理やり理由を探しているようにも思えるわ」
律子が憤然とした様子で言う。
内容がバカバカしすぎる、というのが大半の意見だ。
美希同様、さして深刻に受け止めていない様子のあずさに、
「”あずささんは”そのままでいいですよ。そんな風に思ったことは一度もありませんから」
律子が宥めるように言った。
「なんかミキに当てつけてるようなカンジがするの……」
拗ねたような口調の彼女に、
「よく分かったわね」
と律子が意地悪く言った。
「我那覇さん……」
多くが告発文に注目している中、そのやや後ろにいた千早が小声で響を呼んだ。
「ん? どうかしたの?」
彼女はすぐに振り向いたがその声量がやや大きく、近くにいた春香や雪歩がそれに気付いて視線を向ける。
「いえ、ごめんなさい、何でもないわ……」
千早は取り繕うように笑んで俯いた。
「さて、次がいよいよ最後ですね」
食堂に集まってから30分ちかくが経過していた。
「私は何となく分かってるわよ。さっさとやってちょうだい」
「”あなたはうぬぼれが強く威張ってばかりで、他人を見下し、思い上がった態度を隠そうともしない。
へりくだる気持ちを捨てた、ふふ……人としてあってはならない頑固で融通が利かないのは十四番目の罪”と――」
「ちょっと!? なんで笑うのよ!?」
「まんま伊織のことじゃないか」
真が囃し立てる。
「これは弁解の余地はないわね……」
「律子まで!? あんたねえ、自分がプロデュースするユニットのリーダーが貶されてるのよ? そこは否定するべきでしょ!」
伊織は顔を真っ赤にして反駁した。
そんな彼女を宥めるように、
「誤解を招いたことはお詫びします。決して伊織を貶めるために笑ったわけではありません」
貴音は静かな口調で言う。
「他もですが、あまりに表面的にしか見ていないものばかりで、それが可笑しくてつい噴き出してしまったのです」
「………………?」
「人には皆、欠点があります。しかし誰にもその欠点を補って余りある美点があります。
この告発はほんの僅かな瑕疵を誇張し、罪悪に仕立て上げようとする悪意ある駄文に他なりません」
凛然とした語勢と態度は誰に対して向けたものでもなかった。
だがそれが場の空気を変えたのは確かだった。
「よく分からないですけど貴音さんの言うとおりだと思います!」
やよいが真っ先に賛同した。
「駄文って言われてるわよ?」
伊織がプロデューサーに言った。
「おいおい、まだ俺のこと疑ってるのか?」
「だってあんたの名前だけ挙がってないじゃない」
「ちょっと伊織、やめなよ。プロデューサーがこんなの書くワケないじゃないか」
見かねた真が割って入った。
「じゃあ誰が書いたっていうのよ?」
「それは……ボクにも分からないよ。あ、そういえばプロデューサー、さっき何か言いかけてませんでした?」
「あ、ああ……! ちょっと、な」
告発文を見上げていた律子がそのやりとりを聞いて彼に向き直った。
「何か気になることでもあるんですか?」
「まあ、これを書いた奴のことだけどな……」
「…………?」
「引っかかってたんだよ。内容もそうだが、なぜ俺のことだけ何も書かれてないのか――」
「だからそれはあんたが書いたから――」
最後まで言わずに伊織は言葉を切った。
「書いた奴は俺のことをあまり知らないんじゃないかと思ってな」
「どういうことですか?」
「どれもちょっと調べれば分かるようなことだ。例えば千早が歌にこだわってるとか、貴音に秘密が多いとか。
事務所の公式ホームページのプロフィールやブログの記事、ファンのブログなんかから拾い集めればこれくらいは書けると思う」
「たしかに……」
春香が納得したように頷いたが、すぐに弾かれたように顔を上げて疑問をぶつけた。
「でも美希の普段の様子とかは分からないんじゃないですか?」
「いや、ライブDVDの特典映像で事務所の日常風景を撮ったものがいくつかあったハズだ。
それにツイッターやブログをやっている者もいるだろう? そういう情報からそれらしく告発文に仕立てたとも――」
「つまりいろんな情報を集めて、もっともらしく作ったってことですか?」
「そういうことだ。それなら俺の名前が出てこないのも納得がいく。皆は当然アイドルとして露出が多いが、
俺はプロデューサーだ。調べようにも告発文にできるだけの情報が見つからなかったんじゃないか?」
なるほど、とあちこちで納得する声があがる。
「頷けますね。思い返せばあずささんがよく迷子になることをインタビューで話したような気もしますし、
竜宮小町結成後の記事で私が常に厳しい態度で臨んでいると書かれたこともありましたし……」
「こじつけや言いがかりに近いのも、それが理由でしょうか?」
千早が怒ったような口調で訊く。
「俺はそう思う。表現をぼかせば誰にでも書けそうなことだ。難しい言葉を遣ってるのも、読む側にいろいろと
解釈する余地を与えて、さも当たっているように思わせる魂胆かもしれない。占いなんかでも使う手だ」
「あの、あの……プロデューサー……」
「どうした、雪歩?」
「プロデューサーの言うとおりだとしたら……知らない人がここにいるってことになりませんか……?」
全員の目が彼に集まる。
その視線の多くは批難がましく、伊織に至っては終始懐疑的な眼差しである。
「まさか!? ……いや、そうなるのか……?」
「はあ……興醒めね……」
伊織が皆に聞こえるようにため息をついた。
「サプライズのつもりでしょうけど、もっと巧くやりなさいよ。穴だらけじゃない」
「俺じゃないって言ってるだろ? それより雪歩が言ったように、この館に誰かいるのか……?」
「なんだか気味の悪い話ですね、それ……」
春香が身震いした。
ぱん、と手を叩く音が鳴り響き、全員の目がそちらに向けられる。
「はい、もうおしまい! 私は部屋に戻るわよ」
伊織だった。
こんなつまらない寸劇に付き合いきれない、と捨て台詞を吐いて彼女は食堂を出て行った。
「あ~、あれは一番に犠牲になるパターンだね」
「いおりん、お約束すぎるよ~」
亜美たちが言うと、
「伊織ちゃんじゃないですけど、私たちもそろそろ休みませんか? もう遅いですし……」
あずさがおずおずと切り出す。
食堂の時計は23時17分を指している。
穏やかな口調がそうさせたか、彼女たちが告発文に向けていた注意は一気に散漫になる。
「ミキも言おうと思ってたの……あふぅ……」
テーブルに突っ伏した美希が大きな欠伸をした。
「ちょっと、こんなところで寝たら風邪ひいちゃうよ!」
「なら真クンに部屋まで運んでほしいの」
「なに言ってるんだよ。ほら、起きて!」
もはや緊張感や陰鬱なムードはなく、大半がこの問題に飽き始めている。
「私も眠くなってきたかも……」
「無理しなくていいのよ。朝からたくさん遊んで疲れたものね」
目をこすりながら呟くやよいに、あずさが年長者らしく気遣う。
「プロデューサーさん、やよいちゃんを部屋まで送りますね。私もそのまま自室に――」
「え、あずささん……? でも……」
「あ、私も一緒に行きます! 同じ方向ですから」
戸惑うプロデューサーを横目に雪歩が口を挟んだ。
「そ、そうか、それなら安心だ。大丈夫とは思うが念のため、ちゃんと部屋の鍵をかけておくんだぞ」
「は、はい!」
「ほら、美希もこんなところで寝ちゃダメだよ!」
春香に引っ張り起こされた美希は彼女にしな垂れかかった。
「ミキはここでいいの……」
「もう、美希ってば! プロデューサーさん、私も美希を連れて部屋に戻りますね。ちゃんと鍵もかけさせますから」
あずさ、雪歩、やよい、春香、美希の順に食堂を出ていくのを見送り、
「な~んか白けちゃったね。もうちっと何かあると思ったのに」
「しょうがないから亜美たちも寝よっか? 良い子はもう寝る時間だし」
「ってワケで真美たちも部屋に戻るであります!」
左右対称の敬礼をして2人も食堂を飛び出して行った。
こうなると騒がしかった場も途端に静まりかえり、自然と残った者たちの口数も少なくなる。
「じゃあ、私もそろそろ――おやすみなさい」
愛想なく言い置いて千早は廊下に出ると、ドアのすぐ近くで一瞬立ち止まり肩越しに振り返った。
中ではプロデューサーと律子が何事かひそひそと話をしていた。
貴音は魅入られたように告発文を見上げ、真は腕組みをして難しい顔をしていた。
「………………」
響の姿は既にそこにはなかった。
目を閉じ、呼吸を整えてから千早は階段を登って自分の部屋へ向かった。
「取り敢えず、この件は明日またゆっくり考えませんか? 時間も時間ですし」
埒が明かないことに若干イラついた口調で律子が言う。
「そうだな……2人も今日はもう休んだほうがいい。いろいろあって疲れただろ?」
「ええ、そうですね……」
貴音は微笑して返した。
視線は告発文に向けたままだ。
「じゃあ俺たちも部屋に行くから」
律子を伴い、プロデューサーも食堂を後にする。
「ボクたちも戻ろうよ」
23時25分。
真が背伸びをして言った。
「先ほどはありがとうございました」
この少女の声は抑揚がなく平素はそれが高貴さの裏打ちになっているが、今ではその静かな迫力はない。
むしろ弱々しく、自分が取るに足らないと決めつけていた存在にさえ縋ろうとする儚さが覗く。
「真が先を促してくれたおかげで響を追い詰めずにすみました。感謝します」
消え入りそうな声で言うと、彼女は深々と頭を下げた。
「やめてよ。別にそんなつもりで言ったワケじゃ――」
「いいえ、皆の注意を響から逸らす意図があったこと、私には分かりましたよ」
貴音が微笑むと、真は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「見てられなかったからさ……お父さんが亡くなったっていうのに、晒し者にされてるみたいで……」
「その想いは響にも伝わっているでしょう。それにしても告発とは……穏やかではありませんね」
「これ、誰が作ったんだろう?」
「私には分かりかねますが、人の手によるものである以上、いずれ明らかになるでしょう。ただ――」
「…………?」
「それを望むか否か、です。性質の悪い悪戯、として取り合わないこともできますから」
「ボクはなんだかスッキリしないな。こんな引っかき回すようなことして、文句のひとつでも言ってやりたいくらいだよ」
「真らしいですね」
貴音は微苦笑した。
「ボクたちのことをこれだけ知ってるのも気持ち悪いし。誰が書いたのかくらいは知りたいよ」
腕を組み不快感を露わにした真だったが、すぐに告発文から目を逸らした。
「それにさっき雪歩が言ってたこと。知らない誰かがこの館にいるかもしれない、なんて本当にそうなら大問題だよ」
「おそらく誰も真面目に受け止めてはいないのでしょう。こういうのは――さぷらいず、というのでしょうか?
だとすれば低劣極まりないこと。私たちの中にかようなことをする者がいると思いたくはありませんね」
「なんて考えてても仕方ないか。さ、ボクたちもそろそろ寝ようか。考えても分からないし」
2人は食堂を出てそれぞれの部屋に向かった。
エントランスを通り、廊下を右に折れたところで貴音は雪歩とすれ違った。
「おや、どうかしましたか?」
声をかけられた雪歩はビクリと体を震わせ、
「あの、何でもないです……おやすみなさい、四条さん……」
恥ずかしそうにそう返して小走りに去っていった。
―― 2日目 ――
9時18分。
喉に手をやり、いつもどおりに発声できていることを確かめた千早はそっと食堂のドアを開けた。
「おはよう」
先に来ていた響が抑揚のない声で言った。
「あ、我那覇さん、おはよう……早いのね」
千早は取り繕うように言った。
「そんなことないぞ、ほら」
暖炉脇の時計を指差す。
「もうこんな時間だったのね」
「昨日はいろいろあったし疲れてたのかもね」
2人は自然と並んで告発文を見上げていた。
しばらくして、
「ねえ、我那覇さん――」
千早が憚るように切り出す。
「気分を悪くしたらごめんなさい。その、お父さんのことは本当なの……?」
言葉はすぐには返ってこなかった。
何か考えるような素振りをしてから響は、
「本当だぞ。自分が小さい時にね。だから顔も声も憶えてないんだ」
話題には似つかわしくない明るい声で言った。
「ごめんなさい……」
「別にいいってば。いないのが当たり前みたいなものだったから、寂しいとかそんな気持ちもほとんどないし」
「それでも……!」
千早は弾かれたように響の手を握った。
「千早……?」
彼女の真剣な眼差しに響はたじろいだ。
これは歌に真摯に取り組んでいるときの表情だ。
たかだか数分の準備運動代わりのボイスレッスンにさえ手を抜かない、鋭い目つきである。
「私にも――弟がいたの」
「弟……?」
「ええ、でも事故で亡くなったわ。ずっと前に――それが元で両親も離婚したの」
千早はそっと手を離した。
背を向け、椅子の背もたれに指を乗せる。
「なんで……そんな話をするんだ?」
反対に響は真っ直ぐに彼女を見据えた。
常に視野に全身を捉え、一挙一動を見逃さないようにした。
「――分からない」
ずいぶん長いこと間を置いて、彼女は背を向けたまま答える。
「ただ何となく、フェアじゃないと思ったから……」
「それって……」
「別に同じ痛みを持つ者同士、なんて言うつもりはないわ。ただ我那覇さんには言っておかなきゃいけないような気がして――」
響からは苦悶の表情を浮かべている彼女の顔は見えない。
「そのこと、他に知ってる人はいるの?」
「いいえ、誰にも。進んでするような話じゃないから」
「じゃあ自分たちだけの秘密だな」
響にしては珍しく控えめに笑った。
「誰にも言っちゃダメだぞ? 特に……春香には」
「……どうして?」
ずっと背を向けていた千早が驚いたように振り返った。
「えっと……春香と一番仲がいいでしょ? だから心配させちゃうかもって」
「………………」
「………………」
「ふふ、優しいわね、我那覇さんは」
「だ、ダメか……?」
「そんなことないわ。我那覇さんらしいと思ったのよ」
「むむ、なんかちょっとバカにされてる気がする……」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ――」
弁解しながら千早は暖炉に目をやった。
「同じ質問を私もしてもいいかしら?」
「なんだっけ?」
「その、お父さんのこと……知っている人はいるの?」
「どうだったかな……言ったような気もするし……あ、いや、やっぱり言ってないぞ――多分……」
響は腕を組んで唸った。
「そう、よね……わざわざ言うようなことじゃないものね。それなら――」
誰が書いたのか、と彼女は呟いた。
「気にしてないって言ったけど、気持ち悪いよね、これ」
「ええ」
「書いてることもだし、誰が書いたのかも……」
響が顔を顰めた時、外の廊下から数人分の足音が近づいてきた。
「おはようございまーっす!」
やよい、貴音、春香の3人だった。
「はいさい、やよい! やよいは元気いっぱいだな!」
「昨日はいつもより寝るのがちょっと遅かったですけど、疲れはしっかりとれました!」
「千早ちゃんに響ちゃん、おはよう。2人ともここにいたんだ」
「おはようございます。皆、談話室に集まっていますよ」
5人はそれぞれに挨拶を交わす。
が、ふとした瞬間に告発文を見てはばつ悪そうに視線を逸らした。
「そうなの? 自分が降りてきた時はまだ誰もいなかったのに」
「響ちゃん、何時ごろに起きたの?」
「9時前だったと思う。寝坊した! って思って慌てて降りてきたのに誰もいないからさ」
「あ、私も! 昨日ははしゃいじゃったから疲れたのかも」
「転び疲れた、の間違いじゃないのか~?」
「もう、ひどいよ、響ちゃん!」
合宿はあくまで名目だったため、この島での工程は特に定めていない。
つまり起床時間も食事の時間も全てが曖昧になっている。
さらにいえば調理や配膳等の担当も明確に決めていたワケではないので、ここでの生活は各人の自由になっていた。
「朝食にはずいぶん遅くなってしまいましたが一度、談話室に集まりませんか?」
貴音の提案で5人は談話室に向かう。
「あら、寝坊助のお出ましね。美希でさえもう起きてるっていうのに」
ほぼ全員が揃っていた。
一番に嫌味を言ったのは伊織だ。
「そんなことないぞ。自分が降りてきた時にはまだ誰も起きてなかったんだからな! 伊織こそ――」
つまらないことで響が張り合おうとする。
さらに畳み掛けようとしたところでプロデューサーの姿を認めた彼女は、
「あ、プロデューサー。あのね、昨日の話なんだけど……」
もじもじと恥ずかしそうに切り出した。
「どうした?」
「あの後、よく探したらね……鍵、あったんだ。ポーチの底に穴が開いてて、隙間から奥に入り込んでたみたい」
「そうか、見つかってよかったな」
「だから借りてた鍵、返してくるね!」
恥ずかしさをごまかすように響は管理人室に走って行った。
「朝から騒がしいなあ」
呆れたように言いながらも真は笑っていた。
「そんなことよりお腹空いたの。もうとっくに朝ご飯の時間、過ぎてるよ」
「たしかに……」
ほぼ全員が時計を見やる。
とりあえず食事の準備をしよう、と春香が立ち上がった。
「パンと簡単なサラダくらいになるけど、それでもいいかな?」
「私も手伝います。春香さんひとりじゃ大変ですよ」
「じゃあ私は食器の準備をします」
やよいと雪歩が倣い、3人は食堂に消えた。
それと入れ替わるように律子が談話室に駆け込んできた。
「す、すみません! 私としたことがこんな時間まで……!」
肩で息をする彼女は服はやや乱れていて、髪もきちんと留められていない。
「ほほ~……寝坊とはよいご身分になりましたなあ~……」
「遅刻したからにはそれなりの罰を受けてもらわねばなりませんなァ」
ここぞとばかりに亜美と真美がにじり寄る。
「これで美希のことは言えなくなるわね」
伊織もそれに乗って意地悪な笑みを浮かべた。
「目覚ましはちゃんとかけたハズなのよ。なのにいつの間にか止めちゃってたみたいで……」
「俺たちだって変わらないさ。皆、さっき集まったばかりだし」
「え、そうなんですか? って、ちょっとあんたたち! まるで私が遅刻したみたいに――」
「寝坊は寝坊なの。ミキより遅く起きるなんて、ちょっと問題だと思うな」
「く……美希にまで言われるなんて……!」
普段、厳格な彼女が犯した失態に場は湧いた。
非を鳴らそうとする声と宥める声とが重なり、昨夜の陰鬱な雰囲気とは打って変わって和やかな空気を形成する。
すっかり赤面して反駁する律子はさながら道化役だった。
「あれ? あずささんはまだ寝てるんですか?」
批判の矛先を躱すように律子が言う。
先ほど厨房に向かった3人を除けばあずさだけがいない。
「さっき声をかけたけど出てこなかったから、まだ寝てるんじゃない?」
伊織の口調はいつものように突き放した感じだったが、表情はわずかに翳っている。
「あれ、あずさは?」
「何度呼んでも返事がないんだよー。ずっとドア叩いてたんだけど手が痛くなったから戻って来ちゃった」
落ち込んだ様子で亜美は美希の隣に座った。
「悪い予感がしますね」
「お姫ちん、悪い予感って……?」
「昨日は雨に当たりましたから、もしかしたら体調を崩してしまったのかもしれません」
「それじゃ大変じゃない!」
律子が勢い込んで言った。
「ああ、そうだとしたらマズいな。俺が様子を見てくるよ」
「そうは言っても鍵はどうするんですか?」
千早が訝しげに訊く。
「この際だから仕方ない。スペアキーを使わせてもらおう。無理に起こすのも悪い」
プロデューサーは管理人室に走った。
「ねえ、律っちゃん。お薬とかあるの?」
「念のために持って来てあるわ。湿布や消毒液なんかも揃えてあるわよ」
鍵を持ってプロデューサーが戻ってきた。
「待ってください、私も行きます」
「私も行くわ」
「私も……」
律子が立ち上がり、伊織、千早がそれに続く。
「様子を見てくるだけだぞ? そんな何人もで行かなくても――」
「あんたってホント、デリカシーがないわね。女子の部屋に飛び込むつもり?」
伊織が憮然として言った。
「あずさに何かあったら大変だから、私たちが行くって言ってんのよ」
「お、おい!? なんてこと言うんだよ!? そりゃたしかにあずささんは魅力的だし、たまに風に乗って甘い……」
言いかけて彼は言葉を切った。
「ハニー、エッチなの……」
「見損ないましたよ、プロデューサー……」
冷たい視線が突き刺さる。
「今のは言い間違いだ! ……いや、言い間違いっていうのはあずささんに失礼だけど……と、とにかく!
俺たちで様子を見てくるから、皆は先に食堂に行って食べててくれ!」
残された貴音たちは互いに視線を交換する。
「先に、って言われてもボクたちだけ食べるワケにはいかないよね?」
「仕方ありません。ひとまず食堂に参りましょう。春香たちにもこのことを伝えておくべきでしょう」
4人は一丸となって食堂に向かった。
「あ、ちょうどできたところだよ!」
配膳をしていた春香が言った。
時間も限られていたとあって、パンにサラダと紅茶というシンプルな品書きである。
だが量はそれなりにあり、空腹を満たすには充分だった。
「あれ、響も手伝ってたの?」
厨房からグラスをトレイに乗せて出てきた彼女に、真が声をかけた。
「うん、鍵を戻す時に食堂の前を通ったら、雪歩がテーブル拭いてるのが見えたからね。他のみんなは?」
「そのことなのですが――」
貴音が経緯を説明する。
「それは心配です……」
まだあずさが体調不良と分かったわけではないが、やよいは不安そうな顔をした。
彼らもすぐにやって来るだろうということで、彼女たちは適当に席についた。
「共演してみたい人? キラキラさせてくれる人だったら誰でもいいの。あと、寝てても文句言わない人」
「でもあのALGEBRAってグループとは一緒にやってみたいかも。パフォーマンスがすごくてさ」
「自分、メンバーのMMさんと勝負したことあるぞ。敗けちゃったけど最後に、”認めよう、きみの力を”ってサインもらったんだ」
「私は各地の郷土料理を食し、その魅力を多くの方々に伝える仕事ができればよいですね」
「お姫ちん、それってただ食べたいだけじゃないのー?」
アイドルだけあって話題はイベントやテレビ番組が中心となる。
そこそこに話が盛り上がりかけた時、ドタドタと廊下を走る音が聞こえ、食堂のドアが乱暴に開かれた。
「ち、千早ちゃん!? どうしたの、そんなに慌てて!? それに顔色も……」
縁にしがみつき、肩で息をしながら千早は、
「たいへん……大変なの……! あずささんが…………!!」
掠れた声でそう叫んだ。
ふらつく足取りの千早を支えながら春香たちが2階に上がると、
「ああ、亜美……あずさが……あずさが……!」
伊織が今にも倒れそうな顔で駆け寄ってきた。
「あずさお姉ちゃんがどうしたの……?」
大変だ、としか聞いていない亜美は怪訝な顔をした。
鉄錆のような臭いがあたりに立ち込めている。
「あれ、何なんだ……?」
響が半開きになったドアを指差した。
左上から右下にかけて、赤いペンキのようなものが塗られている。
ドア全体に斜線を引いているように見えた。
「一体なにが……?」
春香が近づこうとする千早がその肩を掴んで制した。
だが亜美はその脇をすり抜けるようにして半開きになっているドアをゆっくりと開く。
「………………ッ!?」
同時に彼女の動きはぴたりと止まった。
まるで足を何重にも縫いつけられたみたいに進むことも退くこともできなかった。
その様子に訝しみながら真美が室内を覗き込む。
あずさはベッドの上に仰向けになっていた。
腹部から溢れ出た赤黒い液体がシーツを染め上げ、周囲の床に黒く変色した池を作っている。
乾き、べたついた水溜まりの中に同じ色に染まったナイフが落ちていた。
ナイトテーブルには電気スタンドとこの部屋の鍵が置いてある。
「何度呼んでも返事が、なかったから……開けたんだ……そしたら、こんな…………!」
プロデューサーはドアの前で蹲っていた。
誰もまだ部屋の中には入っていなかった。
「あ、あずささん!?」
遅れてやって来た春香たちも、その惨状を目の当たりにする。
「あ、ああ……っ!」
美希と響の後ろからそっと中を覗き込んだ雪歩は両手で口を覆った。
滑稽なほど震える彼女を真が抱きしめるようにして押さえる。
「これは面妖な…………」
ただひとり、貴音だけは表情を崩していない。
室内の様子を見てその場に立ち尽くす者、反射的に目を逸らした者、魅入られたようにベッドを見つめている者。
反応はそれぞれだったが誰も中に入ろうとはしなかった。
「退きなさい!」
そんな彼女たちを掻き分けるように伊織が飛び込む。
「待って!」
すんでのところで律子が制止した。
「乱暴なことしちゃ駄目よ! 後で捜査する時に問題になるわ!」
「捜査って!? どうしてあずさが死んだみたいに言ってんのよ!」
「見て分からないの!? どう考えたって――死んでるじゃないッ!!」
「信じない……信じないわよ、そんなこと! 今すぐに手当てすれば助かるかもしれないじゃないの!」
焦る伊織とそれを食い止めようとする律子は激しく言い争った。
その時、部屋の外から喘ぐような声が漏れ聞こえ、2人はハッとなって振り返った。
「どうして……どうしてケンカしてるんですか……!? どうして……あずささんの前で……!!」
やよいだった。
彼女の位置からは黒く変色したベッドシーツが見える。
「違うのよ、やよい! これはね……」
弁明しようとした律子を遮り、美希がやよいの視界を塞ぐようにドアの前に立った。
「やよい、下に行こ!」
そう言って腕を掴む。
「見ちゃダメなの! ミキも見たくないの!」
彼女は振り返りもせずにやよいを引っ張って階段を駆け下りた。
廊下にいた者たちは呆然と2人を見送ったが、しばらくして、
「…………ッ! わ、私も降りる! 誰か一緒についてきて!」
春香が慌ててその後を追った。
その声に導かれるようにして千早と真が続いた。
「どうして……!? ねえ、どうしてよ…………!!」
室内では伊織が拝むようにして慟哭していた。
「あず、さ……お……姉ちゃん…………」
それは亜美も同じだった。
彼女は泣き叫ぶことはせず、ベッドの傍に立ってただそれを見下ろしていた。
それから数分、室内も廊下も歔欷(きょき)の声が絶えることはなかった。
9時57分。
一同は談話室に集まった。
食堂にはこれから食べるハズだった朝食が並べられたままだが、誰もそれには触れない。
沈黙の中、柱時計の音だけが響く。
「何の冗談よ、これ」
それを苛立たしげに破ったのは伊織だ。
「どうしてあずさがあんなことになってんのよ!!」
彼女は虚空に向かって叫んだ。
もちろん誰も答えない。
皆、ただ俯いているばかりだった。
「うぅ…………」
プロデューサーは嘔吐(えず)いて咄嗟に顔を背けた。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、平気だ……ちょっと、思い出してしまってな……」
何人かは自然と天井を見上げていた。
「ま、まさかドッキリ、なんて……言わないよね……?」
響が不自然な笑みを浮かべて言ったが誰も反応しない。
「ごめん…………」
場は再び沈黙に包まれてしまう。
「これから……どうするんですか……?」
雪歩の問いはもはや囁きに近い。
「どうする、って言ったってボクたちにはどうしようもないよ。こういうことは警察に――」
真が言い切る前に春香が立ち上がっていた。
「そ、そうだよ! 警察! 警察に通報しなきゃ!!」
「あ、ああ、そうだな!」
我に返ったようにプロデューサーと律子がポケットをまさぐって携帯を取り出した。
「そんな…………」
が、その勢いはすぐに萎えていく。
圏外だった。
通話ボタンを押してみても、
”電波状態のよいところでかけなおしてください”
のメッセージが出るだけだ。
「私のも圏外だ」
「こっちも」
各々、自分の携帯電話を取り出して通報を試みるも結果は同じだ。
「あれ、雪歩は?」
真の携帯電話を覗き込んでいた雪歩に、春香は訝しげに問う。
「わ、私のは部屋に置いてきちゃって……」
彼女は申し訳なさそうに俯いた。
「落ち着いて聞いてちょうだい」
いつの間にか談話室の入り口に立っていた律子が言う。
「エントランスにある電話機もコードを切られてたわ。それも相当念入りにね」
この館にある電話機はエントランスにある一台だけのため、外部への連絡手段は断たれたことになる。
「もしかして、あずささんを殺害した人が……?」
という千早の疑問に伊織は不愉快そうに顔を顰めた。
「迎えの船は明後日にならないと来ないんですよね……?」
春香が訊くとプロデューサーは力なく頷いた。
「船頭さんには連絡できないんですか?」
「電話が通じればすぐにでも来てくれるよう頼めるんだけど……」
「だからその電話が通じないんでしょ!?」
伊織がヒステリックに叫んだ。
あまりの剣幕にやよいは怯えたように体を震わせた。
「律子を責めてもしょうがないだろ。それより自分たち、これからのことを考えないと――」
「分かってるわよ!」
「とにかく落ち着こう。なんとか外と連絡がとれないか考えてみる。俺が――!」
プロデューサーは言葉を切り、入り口を凝視した。
「兄ちゃん……?」
彼は一点を見つめたまま身動きひとつしない。
「……どしたの?」
「い、いま……廊下の向こうに人が――」
「ええッ!?」
「い、いや! 俺の見間違いかもしれない! ハッキリと見たワケじゃないんだ……」
彼が言うには、談話室正面の廊下をエントランス方向に走る人影が見えたらしい。
春香たちは互いに顔を見合わせた。
誰もが額に汗を浮かべている。
「駆け抜けたっていうか、小走りみたいな感じだった」
「小走り……たしかに私たち、誰も足音を聞いてませんよね」
「だよね。走り抜けたんだったら相当大きな音がするハズだもん」
「もしかして……その誰かがあずささんを……?」
雪歩が小さく声をあげた。
「ボクたち以外に誰かいるってこと……?」
「こ、恐いこと言わないでよ!」
春香がかぶりを振った。
「――追いかけよう」
震える声で真が言った。
「や、やめようよ、真ちゃん……危ないよ……!」
「でもこのままじゃ何も変わらないよ。それにあのヘンな文章を書いたのもそいつかもしれないじゃないか」
「だとしても危険だわ。あずささんをこ……殺した相手ならなおさら……」
律子はぎこちない手つきで何度も眼鏡をかけなおす。
「じ、自分も追いかけたほうがいいと思う」
「あなたまで何を言いだすのよ?」
「放っておいてどこかに隠れられたらどうするんだ? 殺人犯がうろうろしてるなんて恐すぎるぞ!
だけど今のうちに自分たちで捕まえちゃえば安心でしょ!?」
「プ、プロデューサー、どうします?」
律子はすっかり冷静さを失っているように見えた。
竜宮小町をまとめあげる気概は鳴りを潜め、決断を彼に委ねる。
「2人の言うことも分かる。でも相手は人を殺した奴かもしれないんだ。危険すぎる」
「だからその人殺しを放っておくほうがよっぽど危険じゃないか! 追いかけて危ないのは今だけでしょ!?
でも放っておいたらもっと危ないことになるかもしれないじゃないか!」
その後も響はしきりに追跡することの必要性を説いた。
何者かがいるなら捜しだし、捕まえるなり閉じ込めるなりしておかなければ自分たちも安心できない。
警察に通報できない現状、凶悪犯を野放しにはできないというのが彼女の論だ。
この主張に真、伊織、美希、貴音も賛同した。
「分かった。なら俺も行く。他はここに残っていてくれ」
根拠はなかったが6人もいれば大丈夫だろう、ということで彼らは一塊になって廊下に出た。
人影が走り去ったとされる方向はエントランスに階段、食堂などがある棟だ。
いざ犯人と対峙した時、最も頼りになるという理由で真と響が先頭に立つ。
「まさか空手がこんなところで役に立つなんてね」
「自分も琉球空手やってたからな。相手が武器を持ってても平気だぞ」
館の構造はシンプルで回り込むような場所もないから、突き当たりまで調査すれば必ず犯人に辿り着く。
――ハズだった。
「なんで……?」
食堂、厨房、管理人室、美希の部屋、真の部屋と順番に調べたが目的の人物は見つからなかった。
道中、隠れられるような場所はほとんどない。
彼らは念のために食堂のテーブルの下や厨房の調理器具置き場も確認したが、やはり何もなかった。
「いずこへか消えた、とでもいうのでしょうか?」
突き当たりの壁を凝視して貴音が呟く。
「1階じゃなくて2階に行ったかもしれないよ」
「あんた、本当にこっちの方向で合ってるんでしょうね?」
「間違いない、と思う。見間違いじゃなければな」
「どこに行ったかも気になるけど、そもそもどこから来たんだろう?」
「考えてる暇なんてないわ。このまま2階も探すわよ!」
一同は2階に上がり、西側から順番に調べ回った。
だが怪しい人物はどこにもいなかった。
「おいおい、俺の見間違いなのか……?」
プロデューサーは頭を押さえた。
「でも見たんでしょ?」
「あ、ああ……」
「とりあえず律子たちのところに戻らない? ここで固まってても仕方ないし」
談話室では律子たちが不安げに彼らが戻って来るのを待っていた。
「どうでした? ……って聞かなくても分かりますね」
「ああ、どこにもいなかったよ。やっぱり俺の見間違いだったのかもしれない」
「見間違いなんかじゃないと思う。絶対どこかにいるハズだぞ!」
落ち込むプロデューサーに響が掴みかからん勢いで言う。
「あの告発文を書いたのも、あずささんを……殺したのも……そいつに決まってる!」
伊織は少し離れたところに立って、力説する響を見ている。
その目つきは普段よりも鋭かった。
一同は何者かが潜りこんでいるという前提で今後の対応について話し合った。
突き詰めればその何者かを探し出すのか、それとも安全を最優先にするか、ということになる。
積極的に意見を出す者もいれば、気味悪がって旗幟を曖昧にする者もいる。
そんな中で、人影を見失ったのは館の外に逃げたからではないか、と貴音が言った。
常に平静を保ち、見識が高い彼女の仮説とあってその言い分にはほとんどが頷いた。
そこで再び捜索を徹底すべきではないかという声があがる。
何者かが館内にいないからといって安心していいのか?
島のどこかにいるとしても放置しておいてよいのか?
また戻って来るのでは……?
明後日まで凌げるのか……?
正体を突き止めるべきだとする強硬派と、固く戸締りをして身を守るべきだとする穏健派に分かれ議論が繰り返される。
結局、双方の意見を尊重して捜索が行われることとなった。
一度だけ総出で捜索し、仮に発見できなかったとしても追加の捜索は行わず、その後は館内で犯人に備えるというものである。
徹底的に突き止めたいという真や響は不満そうだったが、安全を考えて最後には同意した。
「じゃあグループを3つに分けて、それぞれの範囲を調べる――で、いいわね?」
一貫して穏健派だった律子は明らかに不服そうな顔で言った。
プロデューサー、真、亜美、やよいのAグループ。
春香、千早、真美、響のBグループ。
雪歩、伊織、律子、美希、貴音のCグループ。
各々の性格や体格等を考慮して、以上のように分かれることになった。
何者かは既に館の外にいる可能性が高いとの理由から、Aグループは館近辺、Bグループは島の中央部と沿岸の中間辺りを、
Cグループは島の外周をそれぞれ捜索することに決まった。
念のために武器になるものを持っておいたほうがいいとプロデューサーが提案したため、厨房や物置から使えそうなものを集める。
厨房には包丁も数本あるが鋭利なものは却って危険だということで、擂粉木やモップの柄等がそれぞれの手に行き渡った。
「なんか頼りないね……大丈夫かな?……」
亜美が卵焼き器をしげしげと見つめながら言った。
子どもでも片手で扱えるが、力いっぱい殴れば衝撃はかなりのものだ。
「仕方ないよ。刃物は危ないし」
そう言う真は何も持っていない。
「大丈夫かな……鉄砲とか持ってたらどうしよう……?」
「そんなものを持っていたら、あずささんを殺害する時にナイフを使ったりしないわよ」
心配そうな春香を宥める律子はまだ不機嫌そうだった。
「どうでしょう。私たちに気付かれぬよう、敢えて銃火器の類を使わなかったのかもしれません」
「だ、だったらこんなフライパン持ってても何の役にも立たないじゃん!?」
亜美はすっかり怯えた様子で顔を卵焼き器で隠した。
「あ、それいいな! 亜美、そうやってたら鉄砲の弾も防げるんじゃないか?」
「こんな薄っぺらいのなんてすぐに穴開いちゃうよ! ひびきんこそ、どうすんの?」
「自分は弾なんて全部避けてやるさ!」
「デラックスみたいに?」
「あれは結局、足に当たるからなあ。それとデラックスじゃなくてマトリックスだぞ?」
「あんたたち、ちょっとは緊張感持ちなさいよ……」
律子はさらにイラついた口調で割り込んだ。
「じゃ、じゃあ遭遇してもあまり刺激しないように……大丈夫、とは思うけどくれぐれも気をつけてくれ」
そう言うプロデューサーの声が一番震えていた。
何者かを捕まえるに越したことはないが、下手に刺激して逆襲に出られたら危険だ。
彼はその点を再三言い含めた。
「1時間後に談話室に集合だ。いいな?」
携帯電話が使えない状態での行動となるため、3グループは互いに連絡をとれない。
そのためしっかりと約束を交わし、普段の仕事以上に時間厳守を徹底しなければならなかった。
「それじゃあ行くわよ」
伊織が4人を率いて館を出た。
Cグループのリーダーは律子のハズだったが、実質的には早くも伊織がその役を担っている。
「わ、私たちも……!」
Bグループは春香がリーダーを務めるがこれは心許ない。
最後に館を出たAグループはプロデューサーが主軸となる。
10時22分。
「水瀬さんたちはもう海まで出たかしら?」
草を掻き分けながら千早が呟いた。
「着いてるんじゃないかな? 真っ直ぐ歩けば5分くらいの距離だし」
Bグループは館を中心に半径300メートルほどの範囲を捜索する。
昨日、突然の豪雨をもたらした雨雲は既に消え去り、広闊たる青空が広がっている。
4人は落ち着きなく辺りを窺った。
時おり風が吹いて草が揺れると、彼女たちは反射的にそちらの方を見やる。
犯人はどこに潜んでいるか分からないのだ。
小さな物音ひとつにさえ、春香たちは全神経を集中させた。
「あっ!?」
響が声をあげた。
「な、なに!?」
振り向いた春香はあやうく転びそうになった。
それぞれ手にした武器をしっかり握りしめ、身を固くする。
「ご、ごめん……見間違いだったみたい……」
響が指差した先では背の高い草が風に揺れていた。
「ちょ……ひびきん! 心臓に悪いって!」
真美はその場に座り込んだ。
「だからごめんって。でもこんな場所にいたら、動く物が全部怪しく見えるぞ……」
「それはそうかもしれないけど……」
春香が非難がましい目を向ける。
その後も山狩りよろしく少人数での捜索が続く。
しかし林立する高木と風に靡く草花以外には特に何も見当たらない。
そうして10分ほど館を中心に円を描くように歩いている時、
「どうしたの、千早ちゃん? さっきからずっと何か考え込んでるみたいだけど?」
その様子を気にした春香が声をかけた。
「ええ、ちょっと気になることがあるっていうか……」
ハッキリとはしないが引っ掛かるものを感じる、と彼女は言う。
このBグループの行動範囲ではたまたま草木が視界を遮る場合を除けば、彼女たちは常に館の全体が見える距離にいる。
千早はしばしば顔を上げては館を見つめ、その度に首をかしげている。
「やっぱり……」
館の真後ろまで来た時、彼女の足はぴたりと止まった。
「どったの? 千早お姉ちゃん」
響と前を歩いていた真美が振り返る。
「あれを見て」
千早が指差したのは館の上の部分だ。
3人は背伸びしたり、体を左右に動かしたりして観察するが特におかしな点はない。
「煙突がないわ」
館は遠目から見ると横に長い箱のようになっていて、鋭角のないのっぺりとした屋根になっている。
4人がいる場所は島の中でも比較的高い位置にあり、屋根をほぼ水平に見ることができた。
確かに彼女の言うように煙突の類はない。
しかしそれがどうしたというのか、という響に、
「確かめたいことがあるの……いいかしら?」
千早は凛とした表情で言った。
「ん…………?」
その時、2階の窓を見ていた響が声を漏らした。
「どうしたの?」
それに気付いた春香が声をかけるが、
「な、なんでもない。なんでもないぞ。うん……」
彼女はぎこちない笑みを浮かべるばかりだった。
5人はまず桟橋に向かい、そこから時計回りに島を一周することにした。
この島はそう広くはないが、さすがに1時間では回りきれない。
そこで人が隠れられそうな要所を優先し、見通しの良いところをショートカットすることになる。
ただし平坦な道ばかりではないから、進むには慎重さを要する場所もある。
「昨日はここで遊んでたのよね……」
桟橋を背に浜を歩きながら律子が呟いた。
ビーチバレーのために描いたコートは昨日の雨がすっかり洗い流してしまっている。
一帯は白い砂がなだらかな起伏を形成し、空の青さとも相俟って南の島と呼ぶに相応しい景勝だ。
しばらく歩くと岩肌が露出した段差が伸びており、それを越えた途端に木々が犇めいていて枝葉が空を覆い隠す。
この辺りから左手は急斜面になるため、伊織たちは少しだけ歩くペースを落とした。
「何者かが潜んでいるやもしれません。呉々もご注意を」
Cグループの中心は伊織だが、先頭に立っているのは貴音だ。
そのすぐ後ろ、彼女の背中に張り付くように懸命についていく雪歩。
さらに伊織、美希、律子と続き、5人は周囲を油断なく窺いながら森の中を進む。
「何もないね……」
美希が安心したような口調で言った。
森をしばらく行くと今度は上り坂が続く。
大して急ではないが昨日の雨で泥濘(ぬかる)んでいる場所が多く、滑らないように姿勢を低くして登る。
「きゃっ!」
坂を登りきったところで雪歩が泥に足をとられた。
バランスを崩し、転げ落ちそうになるのを傍にいた美希が腕を掴んで引っ張り上げた。
「…………!?」
一瞬、美希の表情が引き攣る。
「び、びっくりした……ありがとう、美希ちゃん……」
「ケガしてない?」
「うん、大丈夫……」
雪歩は照れ笑いを浮かべた。
「あんたたち、大丈夫なの?」
最後尾にいた律子が見上げた。
「だ、大丈夫です!」
「まったく、これだから反対だったのよ……」
強硬派の意見も取り入れたことに彼女はまだ不服のようだった。
その後、全員が坂を登り終える。
「……雪歩、手、冷たいね」
美希がぼそりと言った。
「え? そ、そうかな……?」
「うん、さっき掴んだ時、すごく冷たかったの。ミキ、びっくりしちゃった」
「うぅ、ごめんね……」
「謝ることないよ。手、つなぐ?」
「え……?」
「そしたら少しは温かいの」
そう言って彼女は雪歩の手をとった。
左手に海を見ながらさらに進むと、周辺の草花の丈が少しずつ低くなっていく。
徐々に遠くまで見通せるようになると、前方の木々の隙間にひときわ強い光が差し込んでいる。
鬱蒼とした森林の終わりだった。
「こっちはこんなふうになってるのね……」
一気に降り注ぐ陽光に伊織は手をかざした。
先は緩やかな登りになっていて、凹凸も少ないために歩くには支障はない。
だが硬い土が数十メートルほど前方に続いているだけで、その先は切り取られたようにどこにもつながっていない。
「あまり前に行くと危険ですよ」
伊織について歩きながら貴音は周囲を見渡した。
いつの間にか伊織が先頭に立って歩いていた。
この高所からは、海が少しだけ遠くに見える。
端まで行くとそこは崖になっていて、見下ろせば寄せる波が岩礁にぶつかって真白な飛沫をあげている。
壁面は弓形に削り取られているため降りるのは不可能だ。
腹這いになって身を乗り出しても、大きくカーブを描いた断崖のおかげで真下の様子は分からなかった。
「ちょうど桟橋の反対側あたりかしらね」
海を正面にしたときの太陽の方向から、律子はそう推測した。
「この下はどうなってるのかしら?」
直接降りて調べられないことに伊織はイライラした様子で言った。
「洞窟になってて宝物とか隠されてるかもしれないよ?」
「そんなの映画の中だけでしょ?」
美希が惚けた調子で言ったので彼女は呆れたように返した。
「船でもあったら入って調べられるのに、残念なの」
「船があったらとっくにこの島を出てるわよ」
崖下を憎々しげに睥睨してから伊織は天を仰いだ。
「こんなところに犯人が隠れられるワケないわ。行くわよ、あずさを殺した奴を絶対に見つけてやるんだから」
彼女が早足で歩き出したため、4人は慌ててその後を追った。
「なんか、こうして見ると気味悪いね……」
館を出るなり亜美が振り返って言った。
木製の玄関扉は年季が入っていると言えば聞こえは良いが、それゆえの木目や染みが不気味な模様を描いている。
特にドアノブあたりの模様は濃淡のせいで髑髏のように見えた。
「みんな、離れるなよ」
モップの柄を両手にしっかり握り、及び腰で先頭を歩くのはプロデューサーだ。
最初、真がその役を引き受けようとしたが、万が一のことがあってはいけないからと彼が下がらせた。
「頼むから何も出てくれるなよ……」
歩みは遅い。
館近辺の捜索のため、遠出するCグループより楽そうだが、彼らの行動範囲には死角も多い。
館の角、茂み、丘陵の向こう側……。
見回せば犯人が身を潜められそうな場所はどこにでもあった。
「やっぱり止めたほうがよかったな――」
「プロデューサーは最後まで反対してましたもんね」
ぐっと拳を握りしめて真が言う。
「当たり前だろ。大事なアイドルをみすみす危険な目に遭わせるようなこと、賛成できるワケないじゃないか」
「でも犯人を捕まえないで野放しにするのも、それはそれで危険じゃないですか」
「それは、まあ……」
彼は数歩おきに振り返った。
亜美もやよいも一定以上の間隔をあけずにしっかりついて来ている。
「悔しいですよ。あずささんを殺した犯人……ボクは絶対に許せません」
「それは俺も皆も同じだ。正直、犯人を見つけたら冷静でいられる自信がない」
彼は蒼い顔をして言った。
「頼もしいですね、プロデューサー」
真は引き攣った笑顔を浮かべた。
館の壁伝いに歩いていた4人は、ちょうどあずさの部屋の真下まで来た。
「どうやって入ったんだ……?」
窓を見上げてプロデューサーは呟いた。
「登っていったんじゃないですか?」
「足場もないのにか? それに窓には鍵がかかってるぞ」
彼の言うように窓は施錠されている。
「後で誰かが閉めたとか……?」
「いや、俺も律子も確かめた。俺たちがあずささんの部屋に入った時、間違いなく鍵がかかってた」
「じゃ、じゃあ中からってことに……なりませんか?」
真は身震いした。
そのとおりなら殺人犯と一夜を過ごした可能性が出てくる。
「あ、あの、プロデューサー……それに真さんも……」
やや離れたところからやよいが小声で言った。
「そういう話は……やめてほしいかな、って…………」
彼女は今にも泣き出しそうな亜美の肩を抱いている。
「す、すまん……」
プロデューサーは慌てて腰を屈め、目の高さを亜美に合わせた。
そして震える両腕を挟むように掴み、落ち着かせる。
「悪かった。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ……大事なことだったから……」
考えておかなければならなかった、と彼は言う。
「ボクも、ごめん。早く犯人を見つけたい、って気持ちばかり焦って……」
真は憎々しげにあずさの部屋を見上げた。
しっかりと鍵をかけられた窓には、外から見る限りでは犯人が出入りしたような跡はない。
昨日の降雨によってできた小さなシミも、他の部屋のものと大差はない。
「分かってる……亜美だって、このままじゃイヤだもん……」
「亜美……?」
「恐いけど……でも犯人を見つけたいっていうのは亜美も同じだよ。多分、いおりんも――」
その時、背後の茂みからガサガサと音がした。
4人が咄嗟に振り向く。
「だ、誰だっ!?」
立場上、プロデューサーが前に出るが腰は完全に引けている。
「2人とも離れてて」
やよいたちに小声で言い、真も彼の横に立つ。
「か、隠れても無駄だぞ! こ、こっちは分かってるんだからなっ!」
モップの柄を握りしめながら、彼はゆっくりと……後退りし始めた。
腰の高さほどある草が揺れ、その隙間から人が飛び出して。
「わあああぁぁぁっっ!」
彼は自分の足に躓いて尻もちをついた。
武器だけはしっかりと握っていて、あたり構わず振り回している。
「プロデューサー、私たちですよ、私たち」
春香が少し拗ねたような顔で言う。
「驚きすぎだぞ……」
響が呆れたように言うと、その後ろで千早が申し訳なさそうに微苦笑した。
「春香さんたち、どうしたんですか? まだ30分以上もありますよ?」
館を出てから20分ほどしか経っていない。
予定では1時間後に談話室に集まることになっている。
「千早お姉ちゃんが気になることがあるって言うから戻ってきたんだよ」
それが何かをまだ聞いていない真美も分からない顔をしている。
「も、戻って来るにしても分かりやすいところから来てくれよ……心臓が止まるかと思った……」
プロデューサーは尻もちをついたまま抗議した。
「で、何なんだ? その気になることっていうのは?」
「それは――」
・
・
・
・
・
Aグループ、Bグループが合併したことで彼女たちの表情にはいくらか余裕がある。
人数が多いほど死角は減り、また犯人が手を出しにくい状況を作り出せる。
千早を先頭に彼女たちは食堂にやって来た。
朝食はそのままテーブルに残されている。
「紅茶、冷めちゃってます……」
やよいが残念そうに言った。
当然、誰も口をつけていない。
「ほんとだ! 足場があるよ!」
暖炉を覗き込んで亜美が叫ぶ。
「やっぱり……」
千早が告発文を見ないようにして呟く。
気になること、というのはこの食堂でもひときわ目を引く暖炉のことだった。
「引っかかっていたの。改めて外から見たらどこにも煙突がなかったから――。本来の暖炉ではなくてただの装飾なら、どこかに繋がっているのかと思って……」
亜美は携帯電話のライトで中を照らした。
手前の壁に等間隔で互い違いに突起があり、それはずっと上まで続いている。
数十センチ張り出した突起は足をかけて登るには充分だった。
「こんなものがあったのか……」
亜美と交代に中を覗き込んだプロデューサーはため息をついた。
足場は手前の壁にしかないため、暖炉に顔を近づけただけでは見つけられない。
中まで入り、振り返って見上げなければまずその存在には気づかない。
「もしかしてここから……?」
春香の言葉に何人かが頷く。
彼女の考えは何者かがこの足場を使ってここに隠れたか、あるいは足場がどこかに続いていて2階に逃げ込んだ、というものだ。
プロデューサーが目撃したという人影が消えたのもこれで説明がつく。
「登っていったらどこに辿り着くのかな?」
響が首をかしげた。
「真上は多目的室だったわね」
千早が顎に手を当てて言った。
「登って確かめてみようよ」
言うなり響は暖炉に顔を突っ込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
真が慌てて響の手を掴んだ。
「なんで止めるんだ? 犯人の居場所が分かるかもしれないじゃないか」
「だからだよ! 独りで行くなんて危ないよ。先で犯人が待ち伏せしてるかもしれないだろ」
「あ、そっか……」
苦笑いを浮かべながら響が引き返す。
千早はそのやりとりを鋭い目つきで見ていた。
「よし、なら俺が先に多目的室で待っていよう。亜美、真美、やよいもついて来てくれ」
「分かりました」
「ボクは行かなくていいんですか?」
「俺たちが2階に行っている間、ここを守ってくれ。心配するな。さっきはカッコ悪いところを見せたが、俺も男だ。2階で何か起きても対処するさ」
暖炉を登るのは5分後、と決めて彼らは食堂を出て行った。
「それにしても千早、こんなのによく気が付いたな」
響は言いながら何度も頷いた。
「プロデューサーが見た人影がどこにもいなかった、っていうのが気になってたの。階段を使ってないなら……ここをよく調べてないのを思い出して……あれがあるから……」
千早は告発文をちらりと見た。
しかしすぐに視線を戻し、
「我那覇さんも気付いてたんじゃないの? 暖炉に何かあるかもしれないって」
真顔でそう問うた。
「え、そうなの!?」
驚いて声をあげたのは春香だ。
「そんなことないぞ。こんなの、思いつきもしなかったし……なんでそう思うんだ?」
恥じるような、拗ねるような口調で返す。
「いえ、なんとなく……いつもカンペキだって言ってるから、気付いてるのかと思って」
千早は申し訳なさそうに言った。
「そろそろ5分経つけど……響ちゃん、本当に大丈夫?」
「ちょっと登って見てくるだけだぞ? 多分、多目的室に続いてるんだろうし、上にはプロデューサーたちもいるし平気さ」
「我那覇さん、私が行くわ。見つけたのは私だし……」
と言う千早だったが、
「自分に行かせてくれ」
彼女は突き放すような口調で制した。
千早はそれ以上は何も言わず数歩下がり、一瞬だけ食堂の入り口に目を向けた。
「響、気をつけてね。何かあったら大声で叫んで。すぐに行くから」
「大袈裟だなあ、真は」
大仰に笑い、響は身を屈めて暖炉の中に入った。
身軽さを活かして一段、一段と足場を登っていく。
中ほどまで来ると食堂の明かりが届かなくなり、手探りで足場を確保する必要がある。
響は携帯電話のライトを点けて銜(くわ)えた。
頼りないが今はこれが唯一の光源だ。
さらに何段か登ったところで天井部分に当たる。
響は首をかしげるようにしてライトを上に向ける。
行き止まりではなかった。
こげ茶色の板が蓋のように頭上を覆っているが、手が届くところに取っ手が付いている。
それを引っ張ってみる。
だがビクともしない。
反対に押し上げてみると、天井の一部が嫌な音を立てて持ち上がった。
その隙間からうっすら光が差し込んでくる。
「響さん!」
やよいが覗き込んでいた。
最後の突起に足をかけて縁を掴み、響は伸び上がるようにしてさらに取っ手を押し上げた。
「やっぱりここに繋がってたのか……」
やよいと亜美に引っ張り上げられた響は、辺りを見回して言った。
彼女が出てきたのは多目的室の中ほど。
この部屋は入って正面に長テーブルが”コ”の字形に置かれていたが、裏に回り込むと床下収納のような床の切れ目があった。
響はそこを押し開けて出てきたのだが、床自体には取っ手もなければ目立つ境い目もない。
「やよいっちが見つけたんだよ」
と言ったのは真美だ。
暖炉で繋がっているなら当然、多目的室からも降りる場所があるハズだとプロデューサーが言い、4人で探していたところ、やよいがこの床の切れ目に気が付いたという。
「これ、こっちからは開けられないんだよ」
亜美が床を指差して言った。
「俺が見た奴はここを通って2階に逃げたのか?」
「多分、そうだと思うぞ。ちょっと力がいるけど蓋は簡単に開くから」
やよいは隠し通路を覗き込んで身震いした。
中は真っ暗で1階部分には食堂の照明がわずかに差し込んでいるが、上からではずっと遠くに見える。
「だとしてまだ館のどこかにいるのか、それとも外に隠れ潜むような場所があるのか――」
プロデューサーはかぶりを振った。
「下で春香たちが待ってるから、このまま降りるよ」
「ああ、蓋を閉めたのを確認したら俺たちも食堂に戻る」
響は再び突起に足をかけ、来た道を引き返した。
半分ほど降りたところでプロデューサーがゆっくりと蓋を閉じる。
今度は携帯電話のライトを使わずに降りていく。
その時、下で椅子が倒れる音がした。
「春香!?」
千早の叫び声と、激しく格闘するような音もする。
「な、なに…………!?」
響は足を止め、その姿勢のまま数秒待った。
下ではまだ春香たちが騒いでいる。
さらに数秒――。
音はまったく聞こえなくなった。
響は小さく息を吐き、ゆっくりと足場を降りていく。
「あ、戻ってきた」
額に汗を浮かべて春香が迎えた。
その後ろに険しい顔をしている真と、彼女と反対に動じていない様子の千早がいる。
「ね、ねえ、さっきの音、何だったの……? 千早、叫んでなかった……?」
埃を払いながら響は辺りを見回して言った。
椅子はきちんと整えられており、周囲には争った形跡はない。
「さっきのは――」
響を待っていた春香は暖炉の近くにゴキブリを見つけてしまい、慌てて飛び退いた拍子に椅子を倒してしまったという。
さらにそのゴキブリが今度は真の足元に向かって行き、彼女も走り回っていたという。
「ビックリさせないでよ! 犯人かと思って心臓が止まるかと思ったぞ!」
「ご、ごめんね、響ちゃん……それでどうだったの?」
「多目的室に繋がってた。でも床には取っ手も何もないから向こうからは開かないんだ」
暖炉の中の様子や多目的室の構造を簡単に説明する。
「じゃあ犯人はこれを使って……?」
真の呟きに千早が頷く。
「可能性はありそうね。それなら見失った理由も説明がつくわ」
言ってから彼女は暖炉を覗き込んだ。
「もしかして他にもこんな場所があるのかしら?」
その時、亜美と真美が戻ってきた。
「ひびきん、お疲れ……うわっ! 足のところ真っ黒じゃん!」
「埃っぽかったからな。足場も取っ手も汚れてたし」
「ちょっとあっち向いて」
響に背を向けさせ、亜美が服に着いた汚れを払った。
「ありがと。プロデューサーとやよいは?」
「すぐに来るよ。戸締りしてから降りるって言ってたから」
「えっ……!?」
千早が驚いたように真美を見た。
「どうしたの?」
「……いえ、何でもないわ」
真に訊かれ、彼女はかぶりを振った。
それからすぐにプロデューサー、やよいが戻ってきた。
11時20分。
Cグループも無事に館に到着し、談話室にて情報交換をする。
「私たちのほうは特には……足跡ひとつ見つけられませんでした」
まずは律子が捜索の結果を伝える。
昨日の雨の影響もあり、足場の悪い場所は避けつつ彼女たちは島を一周した。
しかし目に留まるものは何もなかった。
崖の下だけは確認できなかったが、人が降りられるような場所ではなく危険を冒してまで調べる必要はないだろう、と貴音が言った。
「まあ、犯人がいたとしても、5人でぞろぞろ歩いてたんだからいくらでも身は隠せたでしょうけどね」
伊織は拗ねたような口調で言った。
「プロデューサーはどうでした? 館の周辺に何かありましたか?」
「ああ、そのことだが……」
律子に水を向けられ、彼は隠し通路にまつわる経緯を説明した。
「あの暖炉が2階に続いてる……?」
それを聞いた律子は最初は信じられないと言ったが、発見のキッカケとなった千早や実際に登って確かめた響の言葉もあり、最終的には隠し通路はあるとの判断に至った。
「なんなら確かめてみるか?」
「……やめておきます。疑いようがないみたいですから」
「でもこれで犯人のことは分かったの。きっとこの館に詳しい人なの。そうでしょ?」
美希が勢い込んで言う。
それに押されたように、
「あ、ああ……そうなるな、うん」
プロデューサーはぎこちなく何度も頷いた。
「だけどそんな奴がウロウロしてるなんて不気味だな。構造に詳しいのならいくら探しても隠れられてしまうんじゃないか?」
彼の言葉に春香たちは頷いた。
「それじゃあ、もう探さないの?」
責めるような口調の響を、
「捜索は一度だけって約束したでしょ? それに相手はどんな奴か分からないんだから刺激しないほうがいいわ」
やんわりと律子が諭す。
だがこれをキッカケに今度は犯人ではなく、館の構造について詳しく調べるべきではないかという声があがる。
これに賛成する者たちは、構造を知ることでより安全になり身を守りやすくなるということと、
一度だけという約束はあくまで犯人捜索に対してのみだ、という点を根拠とした。
反対派は隠し通路の類が見つかったところで身を守る助けにはならないこと、
犯人を刺激し逆上させて却って危険を招くこと等を訴えた。
議論は紛糾したが、引率役でもあるプロデューサーと律子が強く反対したこともあり結局、探索は行わないと決まった。
「これでいいのよ。私たちは警察じゃないんだから」
律子が安心したように言った。
「それにこっちは複数、犯人がいたって手出しできないわ」
納得していない様子の伊織は、キッと彼女を睨みつけた。
「あ、あの、お腹空きませんか?」
険悪なムードを破るように春香が立ち上がった。
談話室を取り巻く空気とはまるで正反対の、調子の外れた呼びかけに、
「朝から何も食べておりません。少しでも口にしておくべきかと」
貴音が一番に応え、誰からともなしに食事にしようということになった。
テーブル上に並べられていた朝食を片付け、春香ややよいが中心になって準備をする。
品書きは下げたものと殆ど変わらず、パンにサラダとベーコンエッグ、飲み物はコーヒーや紅茶が並ぶ。
「簡単なものしかできなかったけど……」
と申し訳なさそうに言う春香に、
「あんまり脂っこいものが出てきても食べられないだろうから、これくらいで丁度いいの」
美希が微笑むように言った。
全員、昨夜と同じ席についた。
食事中、喋る者はほとんどいなかった。
暖炉に正対して座っている雪歩や千早は、できるだけ壁――告発文を見ないようにした。
「やよいっち、食べないと力が出ないよ?」
春香と料理の大半を手掛けたやよいは、パンを半分ほど食べた以外は殆ど手をつけていなかった。
それは彼女だけではなく、程度の差はあれど大半に食欲は見られなかった。
サラダだけ食べる者、半分食べて残す者、飲み物を全く摂らない者もいる。
そんな中で貴音と響だけは時間をかけて全て食べ切っていた。
「あんまりお腹空いてないから……」
そう言って苦笑いを浮かべるやよいに、
「医食同源という言葉もあります。心情は察しますが、栄養を摂らねば心身を健康に保つことはできませんよ?」
貴音は食べるよう勧めた。
「そうですね……」
彼女はパンを少しちぎり、それからサラダを一口食べた。
しかしそこから先は手が動かない。
「や、やよいちゃん、無理しなくていいからね……? 食べられるだけ食べよう?」
隣に座っている雪歩がそっと彼女の背中をさすった。
「食べられるワケないわよ」
伊織が責めるように言う。
「あんなことがあったのよ? 食欲があるほうがおかしいわ」
その視線は貴音と響に注がれていたが、2人ともそれを無視した。
「ねえ、律子。竜宮小町は……どうなるの? やっぱり解散ってことになるのかしら……」
「伊織……なにも今そんな話をしなくても――!」
「答えてちょうだい。プロデューサーとして、どうなのか」
「いおりん、やめようよ! 聞きたくないよ、そんなこと……!」
律子も亜美も制しようとするが、彼女は追及を止めようとしない。
そのため両者の間で小競り合いとなったが、やがて律子は意を決したように、
「――解散よ」
通る声で短く言った。
「律っちゃん……?」
「あずささん、伊織、亜美の3人が揃ってこその竜宮小町よ。1人でも欠ければ成立しない……それがプロデューサーとしての考えだけど……どう、伊織? この答えは不満かしら?」
挑むような視線に、伊織は何も答えなかった。
だが数秒が経ち、
「いいえ、満足よ」
彼女は少しだけ笑って言った。
険悪だったムードが俄かに和らぎ、何人かがため息をつく。
その後10分ほどかけて食事を終える。
結局、最後まで食べ切ったのは2人の他はプロデューサーだけだった。
「どうしたんですか……?」
後片付けをする段になり、各々が自分の仕事を探して動いている頃、告発文の前に立った貴音はじっとそれを見つめていた。
そこに声をかけた雪歩は怯えた様子で彼女の横顔を覗き込む。
「改めて読み返してみようと思いまして」
ほんの一瞬、雪歩を見やった彼女は再びそれを凝視した。
「雪歩、あなたは自分を臆病だと思いますか?」
「え……? ええ、っと……」
「無理に聞こうとは思いません」
「臆病……だと思います。男の人が苦手なのは治らないし、いつもみんなに助けてもらってばかりで……この前も――」
「……そうですか」
失敗談を延々と話し始めた彼女を貴音は制した。
「欺き、惑わすつもりはありませんが、私が自身に纏わる事柄について隠匿しているのは事実であり、自覚はあります。
そして雪歩もまた、この内容に心当たりがある……で、あれば――」
「…………?」
「この告発文は書いたのは私たち自身なのかもしれませんね」
雪歩は首をかしげた。
春香たちが食堂と厨房を往復する。
「ちがうと思います……」
ずいぶん間を置いてから雪歩が掠れたような声で言った。
「それだと、響ちゃんや真美ちゃんも書いたことになってしまいます…………」
消え入りそうな、しかし堂々とした反駁だった。
2人は告発文の前に並び、互いに顔を見合わせた。
「今のあなたは臆病どころか、誰よりも強く、そして優しい心の持ち主のようですね」
先に目を逸らしたのは貴音だった。
「このような陋劣な告発文を見せつけて悦ぶ小人など、あなたの足元にも及ばぬでしょう」
そう言い、彼女は厨房に向かった。
「皆の手伝いをして参ります……」
雪歩はその背中をじっと見つめていた。
その時、厨房で大きな音がした。
「危ないから近づいちゃ駄目よ!」
律子が叫ぶと、傍にいた春香たちが後退る。
大皿が数枚、棚から落ちて割れてしまったのだ。
破片は広範囲に飛び散っており、細かな取りこぼしでも怪我をする恐れがあるということで入念に掃除をする。
集めた破片を二重にした袋に詰める等の作業に数分を要した。
・
・
・
・
・
後片付けが終わり、談話室に集まった彼女たちの顔は青ざめた。
「ねえ、やよいは……?」
真の声は震えていた。
それぞれ、やる事がなくなると告発文のある食堂を避け、自然と談話室に集まっていた。
そうして全員が揃ったところに、やよいの姿だけがなかった。
「なんで気付かなかったんだっ!?」
弾かれたようにプロデューサーが立ち上がる。
「ま、待ってください! 私も行きます! あんたたちはここにいなさい!」
律子も立ち上がり、2人して食堂に走って行った。
「あ、ちょっと!? ここにいろって言われたじゃないか!」
亜美と真美が立ち上がり、談話室を出ようとしたところを真が制した。
「だってやよいっちが心配なんだもん!」
同時にそう言い、亜美たちも食堂に向かった。
「やよい!」
食堂に入るなりプロデューサーが呼んだ。
だが返事はない。
物音ひとつしない。
「厨房を見てみましょう!」
追いついた律子がテーブルを迂回して厨房に向かう。
「律っちゃん、亜美たちも一緒に行くよ」
遅れてきた2人も合流する。
調理台などの死角も多いため、律子たちは丁寧に見て回った。
だが、やよいの姿はなかった。
「あれ、なんかドアみたいなのがあるよ?」
奥の壁にある取っ手を見つけた真美が言った。
「あんなのあったっけ?」
「さあ、亜美たち、ここに入ったのはこれが初めてだもんね」
「なんだ? どうかしたのか?」
プロデューサーがやって来た。
「兄ちゃん、あそこ見て! なんかドアみたいなのがあるよ」
「ああ、あれは物置につながってるんだ。鍵がかかってるハズだぞ……ほら」
ノブを回して押したり引いたりするが、ドアはびくともしない。
試しにと真美も開けようとしたが結果は同じだった。
「それよりやよいは……? ここにもいないのか……?」
「ええ、隈なく探しはしましたが……一度、談話室に戻りますか?」
「そうしよう」
途中、エントランスの階段裏も確かめながら4人は談話室に戻ってきた。
「どうでした……って、その様子だと――」
見つからなかったみたいですね、と春香が言った。
「ええ、食堂と厨房にはいなかった……あれ? 響たちはどうしたの?」
律子は人数を数えながら言った。
響と美希の姿がない。
「あんたたちが食堂に行った後、気になるから自分も探すって」
「どうして止めなかったの!?」
「止めたわよ! 私だって探しに行きたいくらいなんだからっ!」
「おいおい、バラバラになるのはまずいぞ! 2人だけか!?」
プロデューサーは額の汗を拭った。
「高槻さんの部屋を見てくるだけだ、って言ってました。だからすぐに戻って――」
「ねえ、みんな! ちょっと来て!」
千早が説明しかけたところに2人が走って戻ってきた。
「2人とも、なんで勝手に行動したんだ!? 危ないじゃないか!」
「そんなことより来てほしいの! 早くっ!」
プロデューサーの叱責を無視して美希も急かす。
怒るタイミングを失った彼は全員がついて来ているのを確認しながら、やよいの部屋に向かった。
「これ……?」
一番に声をあげたのは亜美だった。
「あずさお姉ちゃんの部屋のと同じだ……」
斜線のように真っ直ぐな赤い線が一本、ドアノブの高さあたりから右上がりに引かれている。
幅は3センチほどで所々がかすれており、小さな刷毛で乱暴に塗ったように見える。
「美希と来てみたら、こんな風になってて……呼んでみたけど返事もないし……」
「鍵は――」
律子はドアノブに手をかけ、
「――開けた?」
少し回したところで肩越しに振り返る。
「いや、開けてないぞ」
「ミキも触ってないよ」
2人は同時にかぶりを振った。
「どうかしましたか?」
貴音は少し離れたところに立っていた。
「鍵、かかってないみたいなのよ……」
律子はプロデューサーを見た。
彼は深く頷いた後、
「いや、俺が開ける」
覚悟を決めたようにドアに近づいた。
「やよい……?」
ノブを回す前に声をかける。
返事は――ない。
「……開けるぞ?」
ドアは何の抵抗もなく開く。
だが彼はすぐに閉めた。
「どうしたんですか……?」
蒼い顔で春香が問う。
彼はかぶりを振った。
「まさか…………!?」
「お前たちは談話室に戻れ。ここは――」
「そんなのウソだよッ!」
真美がプロデューサーを押しのけ、強引にドアを開けた。
「やめろ! 見るんじゃ――!」
力いっぱい開いたドアは壁にぶつかり、室内の様子が晒される。
やよいは部屋の中央にいた。
窓に向かってうつ伏せに倒れていた。
背中からは夥しい量の血液が流れた跡がある。
血液は両脇に広がり、カーペットを黒く染めている。
彼女のすぐ横には包丁と、穴の開いハンカチが落ちていた。
ハンカチは大量の血液を吸って元の色が分からないほどだった。
「やよいっち…………?」
真美が恐る恐るといった様子で踏み込む。
「駄目よ、真美」
律子が制する。
が、彼女はそれを無視してやよいに近づいた。
「や、やよい、ちゃん……!!」
廊下にいた雪歩は動かなくなった彼女を見て、小さく悲鳴をあげた。
その場に崩れ落ち、体を小刻みに震わせる。
真が雪歩の両肩を挟むように抱いた。
「やよい! やよいっ!!」
真美に続いて部屋に入った伊織は、拝むように蹲って何度も名前を呼び続ける。
声は虚しく室内に木霊するばかりだった。
「なんで……? ねえ、ヘンな冗談やめてよ……」
やよいに触れようとした真美の手を、律子が強く掴む。
「真美たちのこと、からかってるんでしょ? 真美たちがイタズラばっかりしてるから……?」
「………………」
「ねえ、ウソでした! って……言ってよ……ネタばらししてよ……!
あずさお姉ちゃん、そういうの得意なキャラじゃないんだよ!? やよいっちも知ってるでしょ!?」
「真美……そろそろ……」
律子はかぶりを振って言った。
彼女が振り返ると、いつの間にか千早と美希が入って来ていた。
「高槻さんまで……」
千早は拳を握りしめた。
「2人とも、真美と伊織を連れて外に出て」
「律子、さん……?」
「まだ受け容れられないのよ。しばらくして落ち着かせれば――」
「そんなの、ミキだって同じなの!」
叫んだ美希の目から涙が零れ落ちた。
「どうして律子は落ち着いてるの!? あずさもやよいも死んだのに、悲しくないの!?」
「美希、やめなさい」
千早がぐっと彼女の腕を掴んだ。
「悲しい…………?」
眼鏡をかけなおし、律子はキッと美希を睨みつけた。
「悲しいどころか恐いわよっ! 死んでるんじゃない! 殺されてるのっ! 恐いに決まってるでしょ!?」
「お、おい……!」
騒ぎを聞いてプロデューサーが入ってきた。
「だからって取り乱してどうなるの? 泣き喚いたら犯人が見つかるの? 違うでしょっ!?」
あまりの剣幕に伊織と真美も怯えたように彼女を見ていた。
「……冷静に……冷静にならなくちゃいけないの。でなきゃ次は私かもしれないし、あんたかもしれないのよ……?
悲しくないワケ……ないじゃない……。ずっと仕事してきた、765プロの仲間なのよ…………?」
最後は消えそうな声で言い、彼女は目を閉じた。
唇はわなわなと震え、頬には濡れた跡がある。
「全員、廊下に出るんだ」
プロデューサーはやよいに手を合わせた。
「早くっ!」
最後まで部屋に残っていたのは伊織だった。
12時44分。
再び談話室に集まった彼女たちは、ほとんど言葉を発さなかった。
春香や響が話題を振っても、それに返事をするのは限られた者だけで会話らしい会話にはならない。
しばらくの沈黙の後、思い出したように雪歩が立ち上がった。
「どうした、雪歩?」
考え事をしていたらしいプロデューサーは衣擦れに気付いて顔を上げた。
「あの、その……エントランスのほうに……確かめようと思って……」
「何を?」
「犯人が、その、ここの造りに詳しいなら……しっかり戸締りしておいたほうがいいんじゃないでしょうか?」
玄関扉の施錠を確かめるべきだと彼女は言う。
おずおずと言う彼女に続き、
「そ、そうだね! 鍵をしっかりかけておけば……!」
大丈夫だ、と春香が同調した。
しかし他の者たちの反応は冷ややかだった。
何か言いたそうな彼女たちはしかし雪歩の顔色を窺って発言はしない。
その様子にイラついたように、
「言ってることは分かるけど、ハッキリ言って手遅れよ」
伊織が呆れた口調で言う。
「い、伊織、もうちょっと――」
「事実じゃないの」
言葉を選べ、と窘めようとした律子を先回りして制する。
談話室の天井を仰ぎ見、ため息をついた貴音は伊織を見つめた。
「あずさのことを考えてみなさいよ」
全員が目を伏せた。
「あずさは殺されたのよ? ドアの鍵もかかってた。窓にもね。分かる?」
伊織の勢いに威圧されたように雪歩は小さく震えながらかぶりを振る。
「あずさを殺した奴はとっくに館の中にいた、ってことよ。いつからか――なんて分からないわ。そいつは私たちに気付かれないように出入りしてる。しかも鍵のかかった部屋であっても、ね」
彼女の声は重く淀んでいたが、談話室の隅々にまで響いた。
「で、でも……!」
「…………?」
「あずささんが部屋に入れたのかもしれないよ! それなら鍵がかかっていたって――!」
青い顔で雪歩が反論する。
自ら犯人を招き入れたとすれば筋が通る、と彼女は言うが、
「ナイトテーブルに鍵が置いてあったじゃない。その状態でどうやって施錠してあの部屋を出るの? それに――」
伊織は恐ろしいほど冷たい口調で一蹴した。
「招き入れたとしたら……それがどういう意味か分かってるワケ?」
「伊織、もういいよ」
貴音が何か言いかけたが、それより先に真が口を開いた。
真は批難がましい目を伊織に向けている。
「と、とりあえず落ち着こう? ね? とにかく私たちが考えなきゃいけないのは――」
いかにして身を守るかだ、と春香は仲裁した。
だが伊織はちらりと響を見てから、腕を組んで鼻を鳴らした。
「みんな、本当は思ってるんでしょ? あずさややよいを殺した犯人はこの中にいるかもしれないって」
「ん……なんでそうなるんだ? あずささんが殺されたのは多分、自分たちが寝てる時じゃないか。誰にも――」
「なら全員ができるってことじゃない。寝静まった頃なら誰にも気づかれないんだから」
「殺人なんてそんな恐いこと、誰ができるっていうんだよ!? どんな理由があって……!!」
「さあ、そんなことは分からないわ。でも実際にあずさもやよいも殺されたのよ。これは立派な連続殺人じゃない」
「れん……いえ、連続殺人とまでは言いませんが、累卵の如き危うさであることは確かです。啀み合っている場合ではありません」
「るいらん? お姫ちん、それってどういう意味……?」
ここにいる誰かが犯人だと伊織が言ったことで、場は騒然となった。
特に響や真は強く反駁したが、雪歩や千早はどちらにも加勢せずに成り行きを静観している。
この状況を収拾するべきプロデューサーたちも、両者の語勢が激しいために口を挟みにくくなっている。
「それはないと思う」
不意に春香が険しい顔をして言った。
「伊織の言うとおりなら、プロデューサーが見た人影はどう説明するの? 何のために島中を調べたの?」
「それは……何かと見間違えたんじゃないの!? あんただってハッキリ見たワケじゃないんでしょ!?」
「え? あ、ああ……まあ、そうだな……」
唐突に話を振られ、彼は曖昧に頷いた。
「うぅ…………」
雪歩は膝の上に手を乗せて、ぎゅっと拳を握りしめた。
「わ、わたしが余計なこと言ったせいで…………」
小刻みに震えるその手に、美希が自分の手を重ねた。
「雪歩のせいじゃないの。みんな、分からないことだらけでイライラしてるの。きっと、でこちゃんもね」
そう言って彼女はぎこちない笑みを浮かべた。
2人の手は冷たかったが、重なった部分だけはわずかに熱を帯び始めている。
「ありがとう……美希ちゃん……」
雪歩がそっと囁いた時、
「――じゃあ響に訊くわ」
挑むような目で伊織が言った。
「な、なんだ……?」
「この中で一番泳ぎが得意なのはあんたよね。それとも真?」
「……まあ、泳ぎだけじゃなくてスポーツなら何でも――」
言い淀む響は援護を求めるような視線を真に向ける。
「ボクも自信はあるけど響には敵わないよ」
真はかぶりを振って伊織に先を促した。
「港からこの島まで泳いで来れる?」
「泳いで?」
響は腕を組んで目を閉じた。
「大体でいいわよ。できるかできないか」
「かなり難しいと思うぞ。多分ここまで50キロメートル以上あるだろうし、潮の流れが速いところもあったからな。
それにサメやクラゲがいることも考えたら独力ではまず無理だと思う。サポートがあればできるかも」
「あんたが無理なら普通の人は不可能ね」
「それが何の関係が――」
「貴音、私たちは島を一回りしてきたわよね。何か見つかったかしら?」
一瞬、刺すような視線を伊織に向けた彼女は、
「いいえ、何もありませんでした。舟の一艘さえ見つかりませんでしたね」
観念したようにため息まじりに答えた。
「いおりん、話が全然分かんないよ?」
亜美が不満げに言う。
「少なくとも律子と貴音は分かってるみたいよ」
彼女が挑むように言うと2人は俯いた。
「ボクたちにも分かるように説明してよ」
「泳いで来るのは無理。島には舟も見当たらない。だったら犯人はどうやってこの島に来たと思う?」
「…………?」
「犯人なんて最初からいないのよ。ここと港を往復したのは私たちが乗って来た船が1回きり。
船には私たちしか乗ってなかった。船頭がいた、なんてバカなこと言わないでよ?」
「ちょっと待ってよ。犯人は夜中に舟で来て、それから帰ったかもしれないじゃないか!」
どうだ、とばかりに真が勢い込む。
その横で雪歩は首を横に振った。
「真ちゃん、それ、違うよ……。やよいちゃんは島の捜索をした後に…………」
「雪歩の言うとおりよ。それに帰ったっていうんならあんた、この館を独りで歩き回れる?」
「それは…………」
「でもでも兄ちゃん、人影を見たって言ってたでしょ? あれは勘違いだった、ってこと?」
「他にも見た人がいるなら話は別よ。でもプロデューサーだけってことはそうだと思うわ」
プロデューサーは小さく息を吐いた。
「そう言われるとだんだん自信がなくなってくるな……見たと思ってたんだが……」
しばらく沈黙が続いた。
彼女たちは探るように互いに顔を見合わせてはばつ悪そうに視線を逸らす、を繰り返した。
そんな中でひとりだけ無表情のまま天井を見上げていた貴音が、
「徒(いたずら)に不安を煽るものではありませんよ」
戒めるようにそう言った。
「誤解の無いよう。私は伊織の考えを否定するつもりはありません。しかし私たちは苦楽を共にした同志です。その中に同志を手にかけるような者がいるとは思えません」
染み入るような声が談話室に静かに響く。
春香や雪歩は同調するように何度も頷いていたが、伊織と律子の表情は険しいままだった。
「……いいわ。私も熱くなり過ぎた。まだ決めつけるには早かったかもね。でも――」
伊織は納得していない様子で、
「やよいが倒れていた方向を考えなさい」
そう言い、腕を組んでそれ以上は何も言わなくなった。
律子はポケットから携帯電話を取り出す。
そして表示が圏外のままであるのを確かめると、ため息をついて項垂れた。
「どうにか外と連絡をとる方法はないのかな……?」
その様子を見ていた春香がぽつりと言った。
「近くを通りかかる船があれば、合図して知らせることはできるかもしれないが……」
島嶼ならまだしもこの辺りでは可能性は低い、とプロデューサーが言う。
「な、何にしても注意していれば大丈夫なハズだ。こうして皆で固まっていれば」
彼の声は震えていた。
「すまん……俺が連れてきたばかりにこんなことに……!」
「そんな!? プロデューサーの所為じゃないですよ!」
真が立ち上がった。
「悪いのはあずささんとやよいを……犯人じゃないですか! そんなこと言わないでください!」
「そ、そうですよ! 私たちのために連れてきてくれたんですから!」
真や春香が代わる代わるに擁護しても、彼の表情が晴れることはなかった。
「ありがとう。でもそうは言ってもな、引率者としての責任が――」
「それなら私も同じですよ」
律子が言葉を遮る。
「私だって社長の提案を受けたんです。でも――竜宮小町を守ることができなかった……」
普段の彼女からは想像もつかないほどの落魄ぶりだった。
眼鏡を外し、目元をそっと拭う。
「ああ、もう! みんな、しんみりしすぎだぞっ!?」
テーブルを叩いて響が勢いよく立ち上がった。
その音に雪歩がびくりと体を震わせる。
「プロデューサーも律子も、今は自分を責めたってしょうがないでしょ!? それよりあと2日、どうやって過ごすかを考えなきゃ!」
「響…………」
「もう一度、館や島を調べて犯人を探すのかとか、寝る時はどこかに集まったほうがいいのかとか……とにかく考えることはいっぱいあるじゃないか!」
その言葉に何人かの顔が明るくなる。
伊織は談話室の入り口に目をやった。
「ボクも響の言うことに賛成だよ。後ろ向きになってちゃダメだと思う」
「私も……我那覇さんの言うとおりだと思う。こんな状況なのだから、生き延びる方法を考えるべきだわ」
多くは賛同の声だったが、亜美と伊織は追従しなかった。
2人は何か言いかけたが居心地が悪そうに俯くばかりだった。
「そうだな、弱気になってちゃ駄目だ。考えよう、迎えの船が来るまでどう切り抜けるか――」
プロデューサーの声に少しだけ張りが戻っている。
これをキッカケに当面の方針が話し合われた。
実際には身を守るための約束事だ。
まずはできるだけエントランスや談話室、食堂等の広くて見通しのよい場所にいること。
これは死角から襲われる危険に備えてのことだ。
次に館の外には出ないこと。
館が丘の上にあるとはいえ草木が茂る場所もあり、全域を見通せないためだ。
加えて転倒等の事故を防ぐ意味もある。
そもそも外に出る意味もないから、これには全員が納得した。
さらに不審者、不審物等を発見した場合は近づかず、プロデューサーか律子に報告すること。
この点は亜美と真美が何度も念を押されていた。
これらの約束事の下に行動すれば大丈夫なハズだ、とプロデューサーは言った。
「夜はどうするんですか? やっぱり部屋で寝るんですか……?」
疑問調だが春香は実際にはこれを拒否している。
あずさ、やよいが部屋で殺害されているとあって、大半がこの件にアイデアを求めた。
「いくら鍵をかけてたって意味ないですよね?」
「2人ずつ部屋で寝るとか……」
「ここのベッド、シングルだよ?」
「そんなこと言ってる場合じゃないぞ。ちょっとくらい狭くてもいいじゃないか」
「何人いたって寝てる時に入って来たら同じなの」
就寝時の備えに関しては名案が出ず、意見が出てはその不備を指摘する言い争いになる。
「埒が明かないわ。夜をどうするかは後で考えましょう。その時になれば良い案が出るかもしれないし」
ここは律子が上手くまとめる。
しかしこれは先延ばしでしかない。
大方の方策が出尽くしたところで、場は再び沈黙に包まれる。
しばらくして立ち上がったのは、
「あの…………」
またしても雪歩だった。
「喉、渇きませんか? お茶でも淹れようかと……」
「まさか1人で行かないわよね?」
律子と伊織がほぼ同時に立ち上がる。
「ボクも行くよ。何かあったら大変だし」
都合、4人で厨房に向かう。
飲食するなら食堂に行くべきだが、誰もそう呼びかけはしない。
自然とお茶がこの談話室に運ばれてくるのを待つことになる。
「ねえ、貴音」
響が小声で呼ぶ。
「…………?」
「さっきの話……貴音も……その、思ってるの? この中に犯人がいるって――」
「………………」
美希は俯いたまま視線だけを2人に向けた。
「そうは思いたくはありません。しかし伊織の意見に頷ける部分があるのは確かです」
貴音はため息をついてから続けた。
「私たちでない何者かが犯人であれば、どのようにしてこの島に来たのか……それを明らかにできれば良いのですが…………」
「そんなの、簡単なの」
美希が呟く。
「きっと犯人はずっと前からこの島にいたんだよ。こんな大きな館なんだから何か月だって生活できるの」
それは無理があるわ、と千早が口を挟んだ。
「私たちがここに来ることなんて事務所の人以外には分からないことよ。それに動機がないもの」
「じゃあ千早さんはこの中に犯人がいるって思ってるの?」
「そうは……言ってないわ。私だってそんなふうに思いたくないから」
「それにハニーだって誰か見た、って言ってたの! そうでしょ、ハニー?」
「あ、ああ……正直、自信がなくなってきてるけどな……」
「ね、ねえ、やめようよ。こんな話したって気持ちが落ち込むだけだし……ね?」
どこで容喙しようかと迷っていたらしい春香が慌てた様子で言う。
その仲裁で一同は言葉が続かなくなった。
「………………」
「遅いね……」
真美がそう呟くとほぼ同時に雪歩たちが戻ってきた。
前を歩くのは真と伊織、その後ろにいる雪歩と律子がそれぞれ湯呑を乗せたトレイを持っている。
「大丈夫だった?」
という響の問いに、
「ええ、思ったとおり何もなかったわ」
伊織はぶっきらぼうに返す。
「…………? 何か自信でもあったのか?」
「固まって動いてたからボクたちに手出しできなかったんだよ。そういうことでしょ?」
代わりに答えた真が伊織に水を向ける。
彼女はこくん、と小さく頷いた。
雪歩たちが湯呑を順番に配る。
途端に室内にほうじ茶の香りが広がった。
「お団子でもあれば良かったんですけど……」
申し訳なさそうな彼女に、
「ううん、これで充分なの。雪歩、ありがと……」
力のない笑みを浮かべて美希が言った。
「ミキね、頭がヘンになりそうだったの……あずさもやよいも死んじゃって…………それなのにこの中に犯人がいるなんて話になって――」
「美希ちゃん…………」
「だけど雪歩のお茶のおかげで、ちょっとだけ元気が出たの。雪歩ってすごいね!」
「そ、そんなの、全然大したことないよぅ……私、これくらいしかできないから……」
「そんなことないぞ。自分も落ち着けたし。もっと胸を張るべきだぞ? こんなに美味しいお茶を淹れられるんだから」
「ふふ、ありがとう、美希ちゃん、響ちゃん」
2人に褒められ頬を赤くした雪歩は困ったように俯く。
「これからどうするんですか……?」
春香が不安そうに訊いた。
「名目は合宿だったからな。トレーニングしたい者もいるかも、と簡単なスケジュールも作ってはいたんだが……。
それどころじゃなくなったな……すまん、俺もどうすべきか分からないよ」
「することなんて決まってるの」
お茶を飲み干した美希が拗ねたような口調で言った。
「みんなで事務所に帰るの。ここにいるみんなで――」
彼女にしては珍しい、含みを持たせたような言い方だった。
「ああ、そうだな……そうだ、美希の言うとおりだ……」
プロデューサーは何度も頷くものの表情は固い。
「ねえ、ゲーム……しない?」
唐突にそう切り出したのは真美だ。
全員の目が彼女に集まったが、その視線の大半は批難がましいものだった。
「ゲームって……ゲームのこと?」
「うん…………」
律子の問いに頷いたのは亜美だ。
「あんたたち、本気なの――?」
今にも怒鳴りつけそうな顔で伊織が詰め寄る。
「不謹慎にも程があるわよ! どういう神経して――」
「だからだよ!」
「な、何よ…………?」
「ゲームでもしなきゃ空気、悪いじゃん……亜美、こんなのイヤだよ……」
「真美も……どうにかなっちゃいそう……」
泣きだしそうな2人の表情に、伊織は悔しそうに唇を噛んだ。
「いいね、やろっか」
「春香っ!?」
千早が驚いたように彼女を見た。
「たしかにこの状態がいつまでも続くのは苦しいし、それで気分が紛れるんだったら……どう、かな……?」
同意を求めるように春香は皆の顔を見た。
何人かが曖昧に頷く。
「精神の安定を保つために――ですか……良いかもしれませんね」
「わ、私も……!」
雪歩が慌てた様子で同調した。
13時35分。
半数近くが同意したことで、昨夜のようにテーブル上にゲームに必要な道具がばら撒かれた。
将棋やリバーシ等もあったが、複数人で遊べる方がいいと春香が言ったこともあり、
誰でもルールを知っているという理由でトランプを使ったゲームをいくつかすることになった。
だが雰囲気はかなり異様だ。
テーブルを囲んでのババ抜きやポーカーは終始無言で、順番が回ってきた時だけ衣擦れの音がする程度だ。
響でさえ完璧なポーカーフェイスを保っている。
「………………」
伊織はゲームには加わらず、少し離れたところに座っている。
「でこちゃんはやらないの?」
手許のカードを眺めながら美希が言う。
彼女のななめ後ろにいる伊織は、
「そんな遊びしてる場合じゃないでしょ」
皮肉めいたため息をつく。
「よく耐えられるね。こんな状況なのに……」
「あんたこそ、よくゲームなんてできるわね。こんな状況なのに……」
この間にもゲームは黙々と進んでいる。
今はポーカーをやっているが、戦略や駆け引きは一切ない。
探りを入れるための会話もなく、静寂の中にカード交換が行われている。
「ちょっと行ってくるね」
「あ、じゃあ私も……」
時々、誰かがトイレに立つと、手待ちの誰かが入れ替わるというサイクルができていた。
今は真美が席を立ち、その後を雪歩が追いかけた恰好だ。
「ほら、伊織も」
空いた席をぽんぽんと叩いて春香が誘う。
それを無視していた伊織だったが、彼女がしつこく誘ってくるので渋々といった様子で席についた。
「こっちは何をやってるの?」
「ポーカーだよ」
さすがに12人で1セットのトランプを使うのは無理があるということで、ふたつのグループに分かれていた。
春香、美希を含めた5人はポーカーを、他の6人はババ抜きや七並べをしていた。
「ふうん。ま、そこまで言うならちょっとだけ――」
親は亜美が務めていた。
彼女の手捌きはかなりのもので、ヒンズーシャッフルとリフルシャッフルを巧みに混ぜてカードを配る。
「ちょっとこれ、ジョーカーが入ってるわよ?」
「いおりん、それ言っちゃダメじゃん」
「だってジョーカーが……」
「そういうルールなの。どんなカードにもできるんだよ」
美希の説明を交えながらゲームが進行する。
5回ほど遊んだところで雪歩と真美が戻ってきた。
伊織がソファの端に寄って2人を迎え入れる。
「あ、伊織ちゃんもやってるんだね」
「春香に誘われて仕方なく、ね」
すげなく答え、彼女は顔を上げた。
何人かは談話室を離れており今、ここにいるのは9人だけだった。
「………………」
「………………」
「…………響の番ですよ?」
一方、こちらのグループはババ抜きをやっていた。
カードを使ったゲームはあまり詳しくない、という貴音に配慮してルールが簡単なゲームにしている。
「え……あ、うん……」
呼ばれた彼女は慌ててカードを引こうとする。
だが、
「ちょっと、響。ボクから引いてどうするのさ? 貴音から引かなきゃ」
手を伸ばした彼女を真が制する。
「え、そうだっけ……?」
「さっき千早が抜けたから順番が変わったでしょ」
「ああ、うん」
「……響? 顔色が優れないようですが、何か気がかりなことでも……?」
「べ、別に何でもないぞ……!?」
響が大仰に手を振る。
「さっきからちょっとヘンだよ? 大丈夫?」
心配そうに顔を覗きこむ2人に、平気だと彼女は返した。
そこに千早が戻ってくる。
「あれ、ひとり? 律子は?」
同じグループでゲームをしていた真が問うた。
この数分前、千早と律子は手洗いに行くと言い置き、談話室を出ていた。
「先に戻るように言われたわ。単独行動は……と思ったけれど、すぐ横の手洗いを使っていたから大丈夫だと思って」
そう言って千早は談話室を見回した。
「先に……? 何故でしょう?」
「さ、さあ……戻るように、としか言われませんでしたから」
「理由は訊ねなかったのですか?」
貴音が挑むような目で千早を見た。
「ええ……そこまで気が回らなかったので……」
千早は咄嗟に視線を逸らす。
「そういえばプロデューサーも、出て行ってからけっこう経ってるぞ?」
間に割って入るように響が言った。
「そりゃ男の人だもん。トイレだって同じ場所を使うワケにはいかないだろうし、いろいろ時間がかかるだろうし」
「なんで男の人だと時間がかかるんだ?」
「ええっ……?」
響の追及に真が困ったように視線を彷徨わせる。
「ほ、ほら! もしかしたら船頭さんと連絡をとろうとしてくれてるのかもしれないよ! 無線機とかで――」
と慌てた様子で真が返した時だった。
「プロデューサーっ!!」
館中に響き渡る悲鳴に春香たちは一斉に顔を上げた。
「い、今の……律子、さん……だよね?」
「何かあったんだ!」
真が叫ぶと皆、弾かれたように立ち上がり談話室を飛び出す。
「さっきの声――」
「あっちから聞こえたよ!」
亜美がホールの向こうを指差した。
はぐれないように一丸となって西棟に走る。
管理人室のドアが開いていた。
「律子!?」
真っ先に飛び込んだのは千早だ。
「来ちゃ駄目よっ!!」
彼女が足を踏み入れるかどうかのタイミングで律子が制した。
「一体なにが……!?」
遅れてやって来た響たちが千早のすぐ脇に立って室内を覗き込む。
プロデューサーがうつ伏せに倒れていた。
首には細いロープが巻きついている。
「プロデューサー……?」
ふらつく足取りで入ろうとした響を千早が押し留める。
律子は彼の傍らに崩れ落ちるように跪き、手首に触れて脈を確かめた。
「………………」
彼女の顔はみるみる青ざめていく。
次いで頸動脈も確認した律子は、肩越しに振り返ると首を横に振った。
「そんな……まさか……!」
倒れそうになった千早を押しのけるように美希が踏み込む。
「ハニーッッ!!」
「駄目ッ! 美希! 部屋を出なさい!!」
律子は素早く立ち上がると、ぶつかるようにして美希を部屋の外に出した。
「貴音、美希をお願い! 皆、絶対に部屋に入らないで!」
叫びながら彼女もゆっくりとプロデューサーから離れた。
彼の右手は何かを掴むように突き出されている。
「ね、ねえ……? なに……何があったんですか……?」
雪歩が今にも泣きそうな顔で問う。
「ハニーが……! ハニーが…………!!」
貴音に両肩を掴まれながら、美希が泣き叫ぶ。
「落ち着くのです! 美希、落ち着きなさい! 取り乱してはなりません!!」
「だって……だってハニーが……ッ!!」
「分かっています! しかし今は泣いている時ではありません! 気を確かに持ちなさい!」
「じゃあいつ泣けばいいの!? なんで貴音はいつも平気でいられるの!?」
「………………」
「悲しくないんでしょ!? あずさの時もやよいの時もそうだったもん! だからそうやって――」
パン! と乾いた音がして、美希がよろけた。
驚いた様子で顔を上げた彼女の前にいたのは響だった。
「悲しくないワケないだろ……」
「ひびき…………?」
「こんな……こんなことになって、悲しいに決まってるじゃないか! だってもう会えないんだぞ!?
おしゃべりだって、一緒にレッスンだってできない! 歌うことも……ライブも、もう二度とできないんだ!」
響は拳を握りしめた。
「そのうえプロデューサーまで殺されて……普通でいられるワケがないじゃないか!」
「………………」
「貴音は……ずっと我慢してるんだ。自分たちが冷静じゃないから、その分、貴音が冷静でいてくれるんだ。
悲しいのは――寂しいのはみんな一緒だぞ……泣きたいのは……貴音だって同じなんだ…………」
「………………」
美希はその場に崩れ落ちた。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭い、
「そんなこと、分かってるのっ!!」
彼女は何度も何度も床を叩いた。
「分かってるけど、どうしようもないの! だってミキ、何もできないんだもん! 分からないんだもん!!」
貴音がその肩にそっと手を置く。
その様子をやや離れたところから見ていた春香は管理人室に向きなおり、
「ウソ、ですよね…………?」
呟きながらゆっくりと歩を進めていく。
「プロデューサーさん……?」
それに気付いた真が彼女に近づいた。
美希の慟哭が廊下中に響く。
それに負けじとばかりに、
「プロデューサーさんっ!!」
喉が潰れてしまいそうなほどの悲鳴をあげた春香は管理人室に飛び込もうとして――。
「ダメだよ! 入っちゃダメだって言われたじゃないか!!」
真に腕を掴まれて外に引きずり出される。
「約束したじゃないですか! 一緒に頑張ろうって!! トップアイドルを目指そうって……!!」
声を限りに叫ぶ。
しかしそれに答える者はいない。
「どうして……どうしてこんなことになるんですか!? ねえ、プロデューサーさん……!!」
律子に視線を向けられた真は小さく頷き、
「春香、落ち着いて……。部屋に……ううん、談話室に戻ろうよ……」
宥められた春香は幼児がいやいやをするように首を左右に振った。
「皆、聞いてちょうだい」
律子が床の一点を凝視しながら言った。
「今後はこの部屋はもちろん、あずささんとやよいの部屋に入るのは禁止よ」
「律っちゃん、それって……」
「警察が捜査する時に困るでしょ」
言いたくないことを言うように彼女は唇を噛む。
「談話室に、行くわよ。貴音、真……美希と春香を頼むわね」
そう言い律子はゆっくりとドアを閉めた。
ドアの下半分には赤い線が引かれてあった。
14時21分。
再び全員が談話室に集まる。
律子は拝むように組んだ両手に額を押し付け、ぶるぶると震えている。
「………………」
貴音はようやく泣き止んだ美希の背中を、彼女の呼吸に合わせて何度もさすっている。
誰の表情も暗い。
ここに戻ってきて10分が経過しているが、まだ言葉は交わされていない。
秒針の音だけが鳴り渡るこの空間で。
それからさらに数分が経ったとき、
「――そろそろ話していただくことはできませんか?」
消えそうな声で問うたのは貴音だ。
全員の視線が貴音に集まったが、彼女が律子を見ていることに気付き、今度はそちらを注視する。
「千早に先に戻るようにと言い置き、別行動をしていたあなたはプロデューサーの部屋にいた……。
これでは皆に疑念を抱かれても弁明は難しいのではありませんか?」
「………………」
「私は何らかの事情があったと推察します。貴女が嫌疑をかけられるを良しとするならば別ですが……。
皆の憂患を取り除くには明らかにすべきかと思います。ですが懸念があるのでしたら無理強いは致しません」
物静かな彼女の口調と表情には挑むような雰囲気があった。
律子は長いこと黙っていたが、やがて観念したように顔を上げ、
「躊躇いは……あるわ――」
潤んだ瞳で貴音を見つめた。
「……では、その真実は律子の中に――」
「だけど、そうね……いつまでも黙っていられることでもない。ええ、きちんと話すわ……」
律子は深呼吸を数度繰り返してから、自分に注がれる視線にひとつひとつ答えるように室内を見回し、
「プロデューサーに呼ばれていたの」
小さく、しかしハッキリとした口調で説明した。
「亜美たちがゲームで気を紛らそうと言いだす少し前に、プロデューサーに声をかけられたのよ。”あとで独りで俺の部屋に来てくれ”って」
「理由は聞いたのね?」
伊織の問いに彼女は頷く。
「”犯人に心当たりがある”って言われたわ。”ただハッキリそうだと分かったワケじゃないし、曖昧な状態で他の子たちに聞かせるのもまずい。だからまずは律子にだけ話したい”って」
律子は目頭を押さえた。
「きっとプロデューサーは、私の考えを聞きたかったんだと思う。意見が一致すれば確信に至るし、そうでなかったら考え直す――そうするつもりだったのかも」
今となっては分からない、と彼女は唸った。
「ねえ、聞かれたらまずいってことはつまり――」
恐る恐る響が切り出す。
「やっぱり犯人は自分たちの中にいるってこと……?」
「分からないわ。そうかもしれないし……もしかしたら私たちが知っている誰か、なのかも――」
「そもそも聞かれてまずいこと、って何なのよ?」
腕を組んだ伊織はイラついた口調で言った。
「あの……プロデューサーが見た人影のことも解決してないんじゃ…………」
囁くような雪歩の声はほとんど聞きとれない。
だが近くにいた貴音はそれを受けて、
「プロデューサーが見たという何者かが犯人であり、その人物は私たちにとって既知である、と――」
そういう可能性もあるのではないか、と彼女は言う。
「亜美たち全員が知ってる人? それなら社長とピヨちゃんくらいじゃないの?」
「あとはテレビ局の人とか、撮影の人とか? 意外と多いね……」
「自分たち、いろんな仕事してるから絞り込むのは難しいんじゃないか?」
「……ちょっと気になることがあるんだけど」
そう言ったのは真だ。
何人かの視線が彼女に集まる。
「律子だけ来てくれ、ってことはその時はプロデューサーも独りだったってことだよね?
それっていつからなのかな? 犯人が館内にいるかもしれないのに、どうしてそんなことができたんだろう……?」
「たしかに真の言うとおりだわ。考えてみれば不用心だもの。だって実際――」
途中まで言って千早は言葉を呑んだ。
「ボクたちとトランプをしてたよね。あの時はたしか――」
「始まって20分くらいで席を立ったわよ」
怒ったような口調で伊織が言った。
「憶えてるの?」
「私はゲームはしてなかったからね。誰かさんに強引に誘われるまでは」
当てこすられた春香は愛想笑いを浮かべた。
だがそれも一瞬のことで、次にはもう悲痛な面持ちに戻っている。
「最後に律子と千早がこの部屋を出るまでに、全員が一度は談話室を離れたわ」
「水瀬さん……? それってどういう……」
「事実を言っただけよ」
伊織は余所を向いた。
「そのプロデューサーさんが殺された、っていうことは……」
春香が震える声で言った。
「犯人は自分の正体に気付かれたと思ってプロデューサーさんを殺したんだよね……?」
「口封じに、ということ?」
怪訝な顔の千早に春香は軽く頷いた。
「もしかしたらプロデューサーは心当たりどころか、核心に近づいていたのかもしれないわね……」
残念そうに律子が呟く。
「その手がかりも失ってしまったわ……」
再び、沈黙。
誰もが探り合うような視線を交わす中、
「いい加減やめたら? ヘタな演技なんて」
低く、呵譴(かけん)するような声で伊織が言う。
彼女は誰とも目を合わせていなかったので、誰に対して言ったのかと春香たちは互いの顔を見やった。
「分かってるでしょ? 私はあんたに言ってるのよ――」
彼女は唇を僅かも動かすことなく、
「――響」
恨むような声で言う。
春香たちは驚いたように2人を交互に見やった。
「伊織!? いきなり何を言い出すんだよ!?」
刺すような視線を向けて真が怒鳴る。
当人は自分が名指しされたことにも気付いていないようにキョトンとしていたが、やがて顔を赤くして、
「ど、どういう意味だよ!? 自分が何の演技をしてるっていうんだ!!」
掴みかからんばかりの勢いで反駁した。
「それが演技だって言ってんのよ」
対照的に伊織の口調に抑揚はない。
「確信が持てなかったけど、アイツが殺されてハッキリしたわ」
激昂を誘うようなさらに冷たい声で詰め寄る。
響は咄嗟に一歩退いた。
「――そう思う理由があるのね?」
そう問う律子は疑うような目で響をちらりと見やった。
「律っちゃん……?」
「聞かせてちょうだい、伊織。それほど自信を持っているんだから当然、納得できる理由なんでしょう?」
訝るような亜美を無視して律子は先を促した。
「あずさは何時、どこで殺された?」
「ねえ、律っちゃん……」
「…………? 昨夜から今朝にかけて、よね? 場所はあずささんの部屋で……」
「そうよ。私もそうだけど昨日はずいぶんと遊んだから、きっと皆、疲れて寝てたハズよ。当然、目撃者もいないわ。言い換えれば全員にチャンスがあった、ってことなの」
淡々と述べる伊織とそれに乗る律子に、
「水瀬さん、どうしてそんな話をする必要があるの? それに律子も――」
我慢できない、といった様子で千早が口を挟む。
言葉にこそしないものの、雪歩や春香もそれに同調した。
必要なことだからよ、と彼女は短く返したうえで、
「だけどこれも分かってることだけど、あずさの部屋には鍵がかかってたわ。しかも鍵はナイトテーブルにあった。
そうよね、千早? あんたも一緒にいたんだから間違いないでしょ?」
意趣返しとばかりに問い返す。
「え、ええ……たしかに、そうね」
これは事実だ。
「この館のドアはオートロックじゃない、古いタイプの鍵よね。なら問題はどうやって施錠したか……」
持論に確信を持っているような強気の表情で伊織は言を紡ぐ。
「夜中から明け方にかけて部屋に忍び込んであずさを殺し、部屋を出て鍵をかける――あの状態でそれができるのは響とアイツしかいないのよ」
口調には迷いも躊躇いも一切ない。
事情を何もしらない部外者がここにいたら、彼女の言い分を鵜呑みにしても不思議でないほどの雰囲気ができていた。
「スペアキーを持っているから……そういうことね?」
律子がはっと思い出したように呟く。
「たしかにあの時、プロデューサーはスペアキーを使ってたわ。あずささんの部屋には鍵がかかってたから」
「だったら自分は無実じゃないか! 伊織の言ってることは矛盾してるぞ!」
「矛盾なんてしてないわよ。あんただってスペアキーを使おうと思えば簡単にできるんだから」
伊織がぐっと前に出た。
だが響は今度は退かない。
「あんた、部屋の鍵を失くしたって騒いでたじゃない。その時、どうしたか覚えてるわよね」
「プロデューサーに言って、代わりの鍵をもらったんだ。それが何の問題があるんだ?」
「”もらった”んじゃないでしょ?」
「…………?」
「あっ…………!!」
雪歩が声を出し、咄嗟に口を手で塞いだ。
「どうしたの、雪歩?」
「う、うん……伊織ちゃんの言ってること、ちょっと分かって……」
詰め寄るような真に彼女は怯えた顔つきで返す。
「響はね、管理人室にスペアキーを取りに行ったのよ。ひとりでね」
”ひとり”という言葉を強調する。
響は天井を仰いでため息をついた。
「その時の様子は誰も見てないのよ。どういうことか分かるでしょ?」
伊織は律子に向かって言った。
「管理人室に行った響は自分の部屋じゃなくて、あずささんの部屋の鍵を持ち出した、って言いたいのよね?」
「ええ」
分かってるじゃない、と彼女は長い髪を掻きあげた。
「伊織がこんなにバカだとは思わなかったぞ……」
呆れたような、憐れむような表情で呟く。
その白地(あからさま)な態度に伊織はキッと響を睨みつけた。
「どういう意味かしら?」
「鍵を失くしたんだぞ? あずささんの部屋の鍵を持ち出したんだったら結局、自分の部屋に入れないじゃないか」
「バカはどっちよ。自分の部屋の鍵も一緒に持ち出せば済む話じゃない」
その程度の反論は想定していた、と言わんばかりの伊織はたじろぎもしない。
「それは……どうかしら?」
ここで律子が疑問をぶつけた。
「鍵の管理はプロデューサーと私の役目よ。キーボックスからあずささんの部屋の鍵が無くなっていたら私に相談したハズよ。
実際、鍵の数については私たちも特に注意していたもの」
これには伊織もすぐには反駁しなかった。
響はやや責めるような表情――いつもの得意気な――で彼女を見ている。
「ねえ、伊織。よく考えてよ。響ちゃんがあんなことするワケないよ。分かってるでしょ?」
沈黙を埋めるように春香が言うと、
「そうだよ! どんな理由があって響があずささんたちを……あんな目に遭わせなくちゃいけないのさ!?」
今とばかりに真が加勢する。
伊織はしばらく黙っていたが、小さく息を吐くと、
「安心してるように見えるわよ?」
厭らしい笑みを浮かべて言った。
「いい加減に――!」
真が伊織の腕を掴んだ。
「鍵を失くした、っていうのがそもそもウソだったら?」
その手を払いのけ、彼女は言う。
「なん――?」
視線を彷徨わせた真は勢いを挫かれ、伊織からそっと離れた。
「響が本当に鍵を失くしたかどうかなんて、誰にも分からないことよ。海で落とした振りをしたんじゃない?」
「だから! あずささんの部屋の鍵を持ち出したら、プロデューサーが気付くじゃないか! さっき律子も言ってたでしょ!?」
「プロデューサーは気付かなかったのよ」
「話にならないぞ……伊織の言ってることはさっきからムチャクチャだ」
「キーボックスからはたしかに響の部屋の鍵が無くなっていた。でもそれがあずさの部屋のものだとしたら、どう?」
挑戦的な視線に一同は固唾を呑んだ。
成り行きを静観していた貴音は静かに目を閉じた。
「……? 意味が分からないね……?」
亜美と真美は互いの顔を見た。
「この館の鍵、タグと鍵が簡単に取り外せるじゃない」
伊織はポケットから鍵を取り出し、リングチェーンをひねってタグと鍵を分離させた。
「誰でもいいわ……そうね、亜美。あんたの部屋の鍵、ちょっと貸して。すぐに返すから」
「え? うん、いいけど……どうすんの?」
伊織は亜美から鍵を受けとり、タグを外した。
そのタグを自分の部屋の鍵に取り付ける。
「すり替え……?」
千早が呟く。
それをしっかり聞いていた伊織は満足そうに頷いた。
「そう、あずさの部屋の鍵と響の部屋の鍵、こうやってタグを入れ替えれば分からなくなるわ。普通、鍵を見分けるときは繋がってるタグで確かめるものね。つまりこういうことよ」
亜美はまだキョトンとしている。
「仮に、”タグがあずさの部屋のもので鍵本体は響の部屋のものをカギA”として、その逆に”タグが響の部屋で鍵があずさの部屋のものをカギB”とするわ」
伊織はふたつの鍵を振りながら言った。
「昨日、スペアキーを取りに行った響は、まずキーボックスの中にある自分の部屋とあずさの部屋の鍵でカギAとカギBを作った。
そしてカギBを持ち出して、カギAを元々あずさの部屋の鍵があった場所に戻したのよ」
「んん? たったそれだけ?」
耳を傾けていた亜美は首を傾げた。
「そうよ、たったそれだけであずさの部屋の鍵を手に入れられるのよ。しかもプロデューサーや律子にもバレないようにね」
「なんかややこしいんだけど……」
春香が呟いた。
「キーボックスの中は見た目には響の部屋のものだけがなくなってる状態よ。でも実際は違う。
あずさの部屋の鍵がある場所にはカギA……つまり”あずさの部屋のタグがついた、響の部屋の鍵”が残ることになる」
「ああ…………」
説明を聞いて春香は曖昧に頷いた。
「これなら見た目には分からないし、鍵自体の数にも問題はない。だって響の部屋の鍵だけがなくなっているように見えるもの。
もし鍵の管理を徹底していてタグと鍵が一致するかどうかまで確認するとしたら、全ての鍵を持ち出して全てのドアを開閉しなきゃならない。
ねえ、律子? あんたさっき鍵の管理をしてるって言ってたけど、いちいちタグと鍵が一致しているかまでは――」
「ええ、そんなところまで確認してないわ。実際、過不足はなかったから。もし数が合わなかったとしても……そうね、伊織の言うようにタグを見て足りない鍵を判断していたわ」
律子はかぶりを振った。
それからゆっくりと顔を上げ、響を見る。
その目つきは明らかに疑念を含んだものだった。
「我那覇さん…………」
「………………」
「言うまでもないけど今朝、響が鍵が見つかったからってスペアキーを返しに行ったでしょ。その時に入れ替えたタグを戻したのよ。
だからプロデューサーはスペアキーで何の問題もなくあずさの部屋を開錠できた……違うかしら?」
響は俯き、悔しそうに唇を噛んでいる。
「おかしいと思ったのよ。あんたが慌てて鍵を返しに行く様子がなにか焦ってるように見えたからね。
入れ替えたタグを戻し損ねたら、あずさの部屋に入ろうとした時にタグと鍵が合わないことがバレるもの。
そうなったら誰もいない状態でキーボックスを開けたあんたが真っ先に疑われる」
「………………」
「タグを戻すのを急いだのは、近いうちにスペアキーを使ってあずさの部屋に入る状況になると分かってたから。
つまり……あずさに起きた”異変”を知っていた、ということよ!」
これでも言い逃れができるか――彼女の目はそう言っていた。
反対にその視線を躱すように、響は俯いたまま姿勢を崩さない。
「――伊織」
目を閉じて聞いていた貴音が呟くように呼ぶ。
「プロデューサーが見たという何者かについては、如何に説明するのですか?」
「そ、そうだよ! 私たち、それで島を捜索したじゃない! 結局は見つからなかったけど……」
「残念ながら勘違いだった、ってことになるわね」
伊織は拗ねたように言った。
「アイツが見たって言っただけよ。私たちは誰もその人影を見ていないわよね? 足音すら聞いてないのよ?
こんな状況だもの、何かを人と見間違えたとしても不思議じゃないわ」
彼自身もその可能性を考えていただろうが、捜索が始まってしまったことや、
内部に犯人がいると思いたくないという心理から言うに言えなくなってしまったのだ、というのが彼女の弁である。
「捜索はした。船も見つからなかった。泳いで本島と往復するのは不可能――これは響自身が言ったことよ。
そしてプロデューサーが殺された……だったら考えられることはひとつしかないじゃない」
今まで私が言ってきたことを振り返って考えればいい、と彼女は言った。
「高槻さんとプロデューサーも……その、我那覇さんが手にかけた、と言うの?」
恐る恐る千早が問う。
「それは…………」
伊織は一瞬、口ごもったあと、
「そうだと、思うわ……」
これまでの饒舌ぶりから一転して迷いを見せた。
「思い出したくないけど、やよいは窓に向かってうつ伏せに倒れてた。背中を刺されてね。それもあって外部の人間が犯人じゃないと思ってたのよ」
「……どういうこと?」
掠れた声で訊く真美は今にも泣きそうな顔をしている。
「部屋にいて誰かが入って来たら普通、入り口のほうを見るでしょ。もしそれが見ず知らずの人間だったら?
何をされるかも分からない状況で背中なんか向けられるワケがないわ。逃げるにしても背を向けないように後ずさるハズよ」
「言われてみれば……」
「逃げ道があるなら走って逃げるでしょうけど、入り口の反対側には壁と窓しかないもの。
私なら相手に背を向けるより、手近にあるものを投げつけながら思いっきり叫ぶでしょうね」
あっ、と春香が声をあげた。
「そういえば私たち、やよいの声を聞いてない……」
同意を求めるように彼女が振り返れば、何人かが無言のままに頷く。
「私もハッキリとは見なかったけど、部屋の中は荒れてなかったと思う。つまり抵抗した跡がないのよ。
だから犯人はやよいが知っている人物――それも相手に背中を向けられる程度に信用してる人ってことよ」
つまりここにいる誰かだ――と彼女は言った。
殆ど淀みのない、しかも辻褄の合う推理は聞く者を納得させるには充分な説得力があった。
――数秒。
誰も何も言わない。
響でさえ抗弁しなかった。
「――伊織の言ってることは何となく分かったよ」
真の口調はこの状況でも凛然としていた。
「でもボクは違うと思う。響が言い返さないならボクが代わりに言うよ」
「何を? あんたが何を言うって? さっきの話に間違いがあるって言いたいワケ?」
伊織は腰に手を当て、挑戦的な視線を叩きつけた。
「おかしいじゃないか。プロデューサーは犯人に心当たりがあったんだろ?
もし響が犯人でプロデューサーがそれに気付いてたんなら、みすみす殺されるハズがないじゃないか」
「それは…………」
伊織は顔を顰めたが、
「見当が外れたってこともあるでしょ。別の誰かだと踏んでたのよ。だから響には油断したのよ」
これでどうだ、とばかりに鼻を鳴らす。
「それでもいいよ。でも伊織の言うとおりなら響がプロデューサーをその……殺す理由がないだろ」
「理由ならあるじゃない。春香も言ってたでしょ。アイツは犯人の手がかりを掴んでたのよ。
結果的にそれが見当違いだったとしても、響が自分が犯人だとバレたかもしれないと思えば当然、口を封じるわよね。
タイミングが良すぎるじゃないの。律子が手がかりを聞く前に殺されるなんて……これ以外にどんな理由があるのか教えてほしいわね!」
苛立ちながらも冷静を装っていた伊織は、言を重ねるにつれて口調が荒々しくなってくる。
真は怒鳴りかけたが拳を握りしめ、深呼吸すると静かにこう言った。
「今のこの状況が、響が犯人じゃないって思う理由だよ」
彼女らしくない意味深長な物言いに、春香たちは訝るように2人を見守る。
「さっき言ってたじゃないか。あずささんを殺せるのは響かプロデューサーのどっちかだ、って」
「ええ、それが何だっていうのよ?」
「鍵をすり替えてまであずささんを殺したんだとしたら当然、ボクたちに疑われないようにするハズだよ。
もしかしたら伊織みたいにスペアキーのことに気付く人が出てくるかもしれない。
タグの入れ替えを思いつくくらいなんだ。自分とプロデューサーが疑われることだって考えてるに決まってる」
「………………」
「そんな状況でプロデューサーを殺してしまったら、消去法で自分が犯人だって宣言してるようなものじゃないか。
現に伊織だってプロデューサーが殺されたから、響が犯人だって言い切ってるんだろ?」
「………………」
「もしボクが響で犯人だったら、少なくともプロデューサーだけは絶対に殺さないよ。
というかスペアキーを管理してるって理由でみんながプロデューサーを疑うように仕向けると思う」
「――そう思われることを逆手にとって、敢えてアイツを殺したとも考えられるでしょ?
今のあんたみたいに弁護をしてくれる人がいたら好都合じゃないの。だったら――」
視線を真からそのまま響に移して、
「今のこの状況が、響が犯人だと思う理由よ」
伊織は無表情に切り返した。
「なんだよ、それ……なんで響が……」
「知らないわよ。本人に聞けば? 私はあずさが――」
「さっきからうるさいの!!」
突然の叫び声は言い争いを続ける2人と、嫌疑をかけられている者、成り行きを見守っている者たちの注意を引くには充分すぎた。
泰然としていた貴音でさえも、まるで覚醒したように声の主に目を瞠っている。
「なんでそこまでして響を犯人にしたいの!? 響に何の恨みがあるの!?」
美希の感情を乗せた悲鳴は裏返り、泣き声と殆ど区別がつかないほどだった。
実際、彼女は涙を流してはいない。
しかしまぶたは腫れ、赤くなった目が伊織をしっかりと捉えている。
「わ、私は別に響を犯人にしたいワケじゃ、ないわよ……ただ、そうとしか考えられないってだけで――」
あまりの剣幕に伊織は怯んだ。
「それが決めつけてる、って言ってるの! さっきからでこちゃんの言ってること、全然理由になってない!」
「な、なによ……」
「響が犯人だったらツジツマが合うっていうだけで、証拠がひとつも出てきてないの!
証拠もないのにテキトーなこと言って響を犯人扱いしないでよ!」
「しょ、証拠ならあるじゃない! あずさの部屋の鍵が……」
「それも伊織が言ってるだけでしょ!? みんなが納得できる証拠があるなら出して!!」
「………………」
談話室を取り巻く空気は一変した。
伊織の推理は筋が通っていたが、美希の言うように証拠がなかった。
そのため頷きはしたものの、誰ひとり響が犯人であるという考えに同意する者はいなかった。
「響を見てよ。あずさもやよいもハニーも殺したんだったら、血くらい付いてなきゃおかしいの」
反論に窮して沈黙することすら許さないように彼女はさらに迫った。
「ミキ、ちゃんと憶えてるもん。昨日お風呂に入ってから響の服はずっと同じなの」
「それは…………」
「信用できないなら写真でも見ればいいと思うな! 千早さん、撮ってるでしょ!?」
「え、ええ、そうね……たしか昨夜、全員で撮ったものがあったハズだけど……」
不意に呼ばれ狼狽したような千早は確かめるように頷く。
「………………」
何度目かの沈黙である。
今度は伊織と美希が睨み合い、火花を散らしている。
毅然と反論していた真も、美希の気迫に押されたように一歩退いた位置にいた。
「まさか、あんたにここまで言われるとは思わなかったわ」
諦めと呆れと、少し怒気を含んだ表情で伊織が言った。
美希たちに背を向け、天井を仰いでため息をつき、
「……少し、頭を冷やしてくるわ」
誰とも顔を合わせずに談話室を出て行った。
それを茫然と見送った律子は、
「あ! 駄目よ、伊織! ひとりじゃ危険だわ!」
亜美を伴い慌ててその後を追った。
残された者たちはしばらく黙ったままだった。
「響への疑いは晴れた、って思っていいんだよね……?」
憚るように真が言った。
何人かが示し合わせたように頷く中、
「最初から響は犯人じゃないって、みんな分かってることなの」
そう断言する美希には逡巡が見られなかった。
美希が心配そうに響の顔を覗きこむ。
彼女はひどく憔悴しているように見えた。
「響…………?」
「あ、うん……真、美希……さっきは、ありがと…………」
取り繕うように微苦笑する彼女は額にうっすらと汗をかいている。
「大丈夫? …………って、そんなワケないよね……何か飲み物でも持ってこようか?」
「い、いや、いいんだ! 喉、渇いてないし」
慌てて真を引きとめた響は、まだ何かに怯えているように視線を彷徨わせていた。
「少し体を休めたほうが良いかと。さあ――」
貴音がソファを勧めると、響は素直にそれに従う。
もともとそう大きくない体躯をさらに縮こまらせるように、彼女は自分の両腕を抱くようにして腰をおろした。
すぐ横に腰かけた雪歩が響の額に浮かんだ汗を拭う。
「それにしても、伊織があそこまで言うなんて……」
呟く春香の表情は少しだけ怒っていた。
「ひびきん、本当に大丈夫?」
「うん…………」
「ごめんね。真美もいおりんの言ってることは違うって思ってたけど、ちゃんと言えなかったんだ」
迫力に押されて口を挟む機会を逸してしまったと彼女は詫びた。
「気にしなくていいぞ。真美まで疑われるかもしれないからな……」
それでいいと響は力なく笑ったが、それでは済まないと語勢荒く言ったのは真だった。
「いくらなんでも酷すぎるよ。根拠もなく響を悪者にしたんだよ? それなのに謝りもしないで――!」
「………………」
「響もなんで言い返さなかったの? あのままじゃ伊織に言われっぱなしだったよ」
「ああ、それは……」
「それとも、もしかして言い返せない理由があるとか? それならそれで――」
「ま、真ちゃん……落ち着いて。そんなに急かしちゃダメだよ……」
響は観念したようにため息をついた。
「自分はほんとにやってないんだ。だけどやってないって証拠もないから反論しようがないんだ」
「やってない証拠って……そんなこと言ったらボクたちだって同じだよ。千早だって貴音だって、みんなそうなるじゃないか」
「だからだよ!」
響は力なく怒鳴った。
「自分が犯人じゃないって決まったら、じゃあ誰があずささんたちを殺したんだってことになっちゃうでしょ?
そんなの、自分……イヤなんだ。この中に犯人がいて、それが誰か暴いたりするのなんて――」
「成程、つまり響は皆が徒(いたずら)に猜疑心を抱かぬよう、敢えて強く反駁しなかったのですね?」
「さいぎ……? うん、そんな感じかな……」
響は笑ったが、その目はどこをも見ていなかった。
「貴女は優しいですね。この状況にあってなお目配りを利かせるとは――」
「それは違うって思うな」
妙に凛とした口調に、春香は驚いたように美希を見た。
「みんなが疑われないように黙ってるなんて、そんなの優しさでも何でもない。ちっとも嬉しくないの」
「………………」
「響が一方的に悪者にされて、もっとちゃんとちがうって言えばいいのに何も言わないからミキ、すごく苦しかったんだよ?
人殺しなんてこの中にはいないの。だからみんな堂々としてればいいの。雪歩もそう思うでしょ?」
そう言って彼女は振り向いて同意を求める。
雪歩は困ったように俯くだけだった。
「響は犯人にされてもいいの? やってもないのに、やったことにされるんだよ?」
「………………」
「伊織だけじゃないの。犯人の正体が分からないから、みんな不安になってる。早く正体を知りたいって思ってるってことなの。
そんな時にウソでも認めちゃったら、みんなから本当に犯人だと思われちゃうんだよ?」
「そうなの、かな……?」
「そうに決まってるの。だって響が犯人ってことにしておけば気が楽になるんだもん。きっと伊織もそうなの。
きっと本当は誰でも良かったんだよ。たまたま響がテキトーな理由をつけて犯人にされただけなの」
「そんなの私、我慢できないよ」
春香が前のめりになって言った。
「ごめん……私も……伊織の言ってることに説得力があると思ったから何も言えなくて……真と美希がハッキリ否定してるのを聞いて、こんなの間違ってるって気付いた――」
項垂れ、彼女の前で擁護できなかったことを詫びる。
「そっか……やっぱりちゃんと否定したほうがよかったのかな。今さらだけど……」
「響なりの考えがあってのこと。しかし美希の言い分も分かります。どちらが正しいとは言えないことかもしれませんね」
貴音は微笑した。
その目元は少しだけ寂しそうに見える。
「美希、真……ありがとね。みんなも……ごめん……」
「ちょっと、ひびきん。そこは謝るところじゃないっしょ」
呆れたように言う真美につられるように響は笑った。
「それと美希……さっきは叩いたりしてごめんね? けっこう強く叩いたから痛かったでしょ?」
「あ……そういえば……」
美希は思い出したように手を打って、
「すっっっごく痛かったの! 痛くてミキ、もうアイドルできないの。責任とってもらうからね?」
ぐいっと詰め寄った。
「うえぇっ!? そ、そんなにきつくしてないぞ!? で、でも叩いたのは事実だし……!」
「冗談に決まってるの。痛いのはほんとだけど」
「うぅ~……やっぱり痛かったよね? ごめんな……」
「いーの、気にしてないよ。っていうかあの時、叩かれなかったら貴音にもっとヒドイこと言ってたかも知れないの……」
響を揶揄って笑っていた美希は、ふと申し訳なさそうな顔で貴音を見上げた。
「ええ、美希の辛辣で心無い言葉の数々、胸に刺さりました。あまりのしょっくに立ち直れそうにありません……」
貴音はふらりと壁にもたれかかった。
「貴音はウソつきなの……」
「おや、響のようにはいきませんか?」
「でもヒドイこと言っちゃったのは本当のことだから、そのことはごめんなさい……」
「ふふ、お気になさらずに。本意でないことは承知していますよ」
口調こそ柔らかに言う貴音は、しかし目だけは笑っていなかった。
「はあ…………」
深く陰鬱なため息が聞こえ、春香たちが振り返ると律子が戻ってきていた。
「響、大丈夫? かなり強く言われてたけど……」
「うん、もう平気だぞ」
「そう……ごめんなさい。無理やりにでもあの子の言葉を遮るべきだったんだけど……」
プロデューサーという立場から考えると、踏み切れなかったと彼女は言う。
「あずささんが殺されて……そのうえ私が竜宮小町は解散だなんて言ったものだから、相当ショックだったみたい」
「それは……」
「普段はしっかりしてるように見えるけど、あの子だってまだ15歳の女の子よ。
こんなことになって取り乱しそうになるのを何とか抑えてるんだと思うわ――」
伊織を責めないでやってくれ、と律子は遠回しに告げた。
「もしかしたら水瀬さんは、我那覇さんを責めることで精神の安定を図っていたのかもしれないわね」
「そうかもしれないけど……」
真はまだ納得がいっていない様子だ。
「ところで律子、2人はどうしたのですか?」
「食堂にいるわ。伊織も少し落ち着いてきたし、はやく響に謝ろうと思って戻って来たのよ」
「自分、そんなに気にしてないのに」
「あの、私……伊織ちゃんたちのこと、見てきます!」
雪歩は誰の反応も待たずに談話室を飛び出していった。
「真美も行くよ!」
すぐ後に真美が続く。
その背中を見送った貴音がぼそりと呟いた。
「彼女はずいぶんと強くなりましたね……」
しかしそれは誰にも聞こえなかった。
それから10分ほどして亜美と真美が戻ってきた。
「律っちゃんたちが心配するだろうから先に戻りなさいって」
「雪歩と伊織は?」
「まだお話してるよ。ゆきぴょんが説得してるみたいな感じだったけど……」
「2人だけで大丈夫なのかなあ……」
「今のいおりんなら犯人くらいやっつけちゃいそうだけど」
しばらくして伊織たちが談話室に戻ってきた。
不満そうな彼女を守るように前を歩いていた雪歩は、響と目が合うと気まずそうに目を逸らした。
「――悪かったわよ」
謝罪の言葉にしてはあまりに打切棒(ぶっきらぼう)で誠意に欠け過ぎている。
実際、彼女は余所を向いているし、怫然とした表情は変わっていない。
「たしかに真や美希の言うとおりだわ。確たる証拠もなしに犯人扱いしたのは早とちりだった」
あくまで”早とちり”であることを強調する伊織。
「でもだからって疑いが晴れたワケじゃない。響が絶対に犯人じゃない、っていう証拠が出てくるまではね」
そう言って挑戦的な視線を全員に向けた。
「まだそんなこと言って……!」
詰め寄ろうとする真を響が制する。
「いいんだ、真。自分はやってない。これ以上、言うことなんてないぞ」
今度は彼女は退かない。
冷たく突き刺さるような視線を叩きつける今の響は、ステージの上の彼女――ダンスで多くの観客を魅了するクールな――そのものだった。
「なんなら今からずっと自分を監視すればいいさ」
「しないわよ、そんな”無駄”なこと」
蔑むように言ってから伊織はちらりと雪歩を見やる。
視線に気付いた雪歩は何かに耐えるように俯いた。
「でこちゃん、悪いと思ってるならちゃんと謝ったほうがいいと思うな」
目も合わさずに美希が言うと、伊織は小さくため息を吐いた。
「悪かった、って言ったじゃない」
「そんなの、謝ったことにならないの」
「響の潔白が証明されたら土下座でも何でもしてやるわ」
それきり彼女は何も言わなくなった。
「みんな、落ち着いて。今は仲間割れしてる場合じゃないよ」
春香が仲を取り持つように口を挟むも、それで空気が変わるわけではなかった。
談話室には全員集まっているが、それぞれのいる位置や距離からいくつかのグループができている。
顕著なのは寄り添うようにしている亜美と真美、肩が触れ合うほどに接近している雪歩と真だ。
伊織や響、貴音は特に誰とも密着しようとせず、部屋全体を見渡せる位置にいた。
「ちょっといい?」
沈黙を打ち破るように律子が言った。
「皆、こんなことになって相当なストレスが溜まってると思うわ。外との連絡も取れないし、迎えは明後日まで来ない。
正直……この館に留まってること自体、精神的につらい人もいると思う」
という自分自身も何とか平静を保つように努めている、と彼女は言った。
「そんな状況でこうして全員で同じ部屋にずっといる――というのもあまり神経に良くないんじゃないかって考えてるの」
室内がざわつく。
「まさか自分の部屋で過ごせ、なんて言わないわよね?」
一番に噛みついたのは伊織だ。
「そんなワケないじゃない。私はただ、今のこの状態が精神衛生上、良くないかもって言ってるのよ」
「どうして、ですか?」
雪歩がぎゅっと拳を握って問う。
「考えてたの。プロデューサーが言ってた”心当たり”とか、伊織の推理とか……どれもハッキリしたことじゃないけど……。
でも……ごめんなさい……私もこの中に犯人がいない、って言い切れる自信がないのよ…………」
尻すぼみに言ってから、誤解しないでほしいと彼女は慌てて付け加えた。
「響が、って言ってるワケじゃないわ。ただ、これまでの出来事を総合すると……どちらの可能性もあるってだけで……。
せめてプロデューサーが見たっていう何者かを一度でいいから、私たちがハッキリ目撃できればいいんだけど……」
「律子は――」
声の調子を確かめるように、千早が胸のあたりで拳を握る。
「私たちの中に犯人がいないとは言い切れない、と言ったけど……それは状況的な証拠を指してのことなの?」
「……どういう意味?」
「律子の言い方だと、私たちを殺人を犯せるような人だと見ている、ということになるわ」
「………………」
苦悶の表情で雪歩が俯いた。
しばらく黙っていた律子は眼鏡をかけなおすために手をあげた。
が、その指がテンプルに触れることはなかった。
「――そういうことになるわね」
静かに答え、そっと手をおろす。
「仕方ないじゃない。もしプロデューサーの見た人影が勘違いだとしたら、伊織の言うように島には私たちしかいないのよ?
その状況で人が殺されたなら、この中の誰かが……としか考えられないじゃない」
「そうだとしても! ボクたちの中に犯人がいるワケないじゃないか。これまでずっと一緒に仕事してきたのに……!」
「分かってる! あんたの言うとおりよ! だけどそれは情で考えるからそうなるの! 現実を見なくちゃいけないのよ。
思い込みや感情を持ち出すべきじゃない。もっと……もっと冷静に、現実的に考えなきゃ…………」
「………………」
「そうは言っても私だって765プロの人間よ。信じたい気持ちのほうがずっと強いわ。それを…………。
それを不審者だか物の怪だかに振り回されたくない。私だって本当は喚き散らしたいくらいよ」
それを聞いた貴音の表情が変わった。
「不審者? 物の怪……?」
「物の怪ってヨーカイのことだよね?」
亜美が訊ねると、春香が小さく頷いた。
「ひとつ、確認しておきたいことがあります」
「何かしら?」
「この島に着いた時、船頭の岩倉殿と何やら話をしていたようですが、その表情に峻厳さを感じ取りました。
羽を伸ばすために来たにしては――座視できないような何事かがあったのではありませんか?」
何人かが怪訝な顔つきで律子を見た。
特に千早は疑念というよりも、刺すような目つきから敵意をさえ感じさせた。
「こうなったからには……それも話すつもりでいたわ」
よく見てるわね、と言ってから彼女は岩倉から聞いた内容を打ち明けた。
港付近で動物の不審死が相次いでいること。
影や光る蛇等を目撃したという証言が多数あり、その騒ぎに乗じて霊媒師の類が集まって来たこと。
それらは港のみであり、ここを含めた島嶼では確認されていないことなど。
「気味悪いぞ、それ……」
響は顔を顰めた。
「ちょっと、律子。他に何か隠してないでしょうね?」
「な、ないわよ!」
「どうだか…………」
伊織は呆れたように大袈裟にため息をついた。
「私とプロデューサーだけで留めておこうと思ってたのよ。水を差したくないし、私たちとは無関係だと思ってたから。
正直、プロデューサーが人影を見たと言った時は件の怪奇現象かと疑ったわ」
「でも犠牲になったのは動物だけで……人間がその、殺されたりはしてないんですよね……?」
雪歩が震える声で訊くと、律子は曖昧に頷いた。
「……でも人間も動物だぞ」
ぼそりと言う響に、雪歩は小さく悲鳴をあげた。
「も、物の怪とは……穏やかではありませんね……」
「どしたの、お姫ちん? 顔が白いよ?」
「白いのは元々じゃん」
「いえ、大丈夫です。荒唐無稽な話に些か驚いてしまっただけのこと……」
控えめに髪を掻き揚げ、上ずった声調を元に戻す。
だがその優雅な所作は、小刻みに震えている手の所為で隠していた瑕疵が露わになってしまう。
「バカバカしくて話にならないわ」
伊織は終始、嘲弄するような態度で律子の話を聞いていた。
「どこの妖怪があんな告発文を書いて、刃物やロープで人を殺すのよ? あずさに至っては施錠までしてるのよ?」
「たしかに……」
「人間に決まってるでしょ。仮にその噂が本当だとしても、ここで起きてることとは無関係だわ」
「でももし本当にその幽霊か何かがこの島にいたらどうするんだよ?」
語調は強く、しかし真の声は震えている。
「どうしようもないでしょ。こっちは生身の人間なんだから」
くだらない、と伊織は取り合わなかった。
「それよりどうするの? みんなでまとまっていないほうがいい、っていう律子の話――」
自分は反対だ、という意見を添えて響が問うた。
「安全だとは思うけれど、不用意に疑い合ったり啀み合ったりするのは避けるべきだと思う」
とは千早の弁だ。
「それだと……分かれて行動するっていうのはどうなんだろう……」
春香は不安げな顔で呟いた。
「別々に行動することで、お互いに疑い合ったりしないかな……」
「なんでそう思うの?」
「だって2つのグループに分かれたとしても、他のグループのことは見えないんだよ?
もし何かあったら……あの時どこにいたとか何をしてたか、とか……そんなふうになるんじゃないかな……?」
「全員がバラバラになるならともかく、複数人で固まっていれば大きな問題にはならないと思う。
誰かが不審な行動をとったとしても誰かが見てるワケだし……あ! 今のは仮に、の話よ?」
取り繕うように言い、律子は両手を振った。
「ミキはどっちでもいいよ。この中に犯人はいないって思うから」
さらりと述べた彼女の意見には、多くが複雑な表情を浮かべて返した。
「あのね、美希……そんな簡単な話じゃないのよ。私たちは両方の可能性を――」
「だって理由がないの。あずさややよいやハニーを殺す理由が誰にあるの? 何のために殺すの? 何の得があるの?」
「得とかそんなことじゃ……」
「怪しいっていうならミキたち全員が犯人になるよ? だったら全員が一緒にいても分かれても同じことなの」
突き放すような口調は平素の星井美希からは想像もつかないほど冷然としていた。
この何も考えていないような発言が春香たちに熟考を促す。
つまりこの状態を維持して全員が同じ場所で過ごすか、いくつかのグループを作って分かれるか、だ。
この館はそれなりの広さだが構造は複雑ではないし、大勢が集まれる場所は限られている。
談話室、食堂、2階の多目的室に遊戯室。
見通しの良さならばエントランスも候補に入る。
また階段を上がってすぐの空間――エントランスの真上――にも小卓や椅子が置かれているため、ここで過ごすこともできる。
島の捜索の是非を問うたように、この後の行動についても大いに言い合いになった。
分かれるメリットがない、と主張するのは春香や真、響が中心となる。
これまでのアイドルとしての歩み方、事務所内でのスタンスを象徴するように、彼女たちは和や戮力を押し出した。
手を取り合うことの大切さ、信じ合うことの尊さ、和合して困難を乗り越える必要性を説く。
こんな時だからこそ疑念を捨てて心をひとつにするべきだ――春香たちはそう訴えた。
しかしこれに賛同しない者たちもいる。
外部の人間が島に来る方法が存在せず、したがい犯人はこの中にいる誰かだという姿勢を相変わらず貫く伊織だが、
亜美と真美もハッキリと言葉にはしないもののその考えに靡いているかのような態度を示している。
貴音は旗幟を明らかにせず、グループで分かれた場合には均衡を保つため少数グループに加わる旨の発言をした。
この議論に言うべきことは言った、と美希が傍観する立場をとる。
律子は貴音の態度を評価しつつも、彼女の”均衡”という言葉を言い換えて、この膠着状態を変えたいと再度提案した。
そして――。
15時35分。
やや狭かった談話室は、その広さや設備に対してちょうどよい人数を擁することになった。
空間も広くとれ、余裕も出てきたハズだが、春香たちはため息ばかりついている。
「こんなことになるなんて思わなかったよ……」
普段は恬淡快濶な真の声に怨嗟の色が混じる。
”充分な”話し合いの結果、彼女たちはふたつのグループに分かれて行動することになった。
春香、千早、真、雪歩、美希、響の6人はそのまま談話室に残った。
伊織、律子、亜美、真美、貴音の5人は同じ階にまとまらないほうがいいとの理由で、2階へと上がっていった。
皮肉にもそれぞれの顔ぶれは、律子の提案に賛成した者と反対した者とに分かれた。
「仕方ないわ。疑い合いながら不本意に全員が集まるくらいなら、ある程度納得できる分かれ方をしたほうが――」
2階に上がる際、律子は”少しの間だけだから、気分を変えるためだけよ”と言い残した。
「ボクは納得できるワケじゃないけど……千早は冷静だね」
「仲間割れなんて犯人が一番望んでることだわ。私は妥協点としてはいいと思ってる」
「仲間…………」
響がぼそりと呟いた。
「どうしたの、響ちゃん?」
「簡単に壊れちゃうんだな、と思ってさ……」
春香は目を逸らした。
彼女の呟きは現状を的確に表したものだった。
離れていても、心はひとつであることを意識して仕事をしてきた彼女たちにとり、この状況は劇的な変化だ。
自分たちがこれまで信じてきたこと、築いてきたものを根底から否定するも同然だった。
「そんなこと……ないと思うよ……」
蚊の鳴くような声で雪歩が言う。
口唇は僅かに動いており、何か言いたいのを我慢しているように見える。
「伊織ちゃんだって、本当は私たちのことを疑いたくないと思う」
その言葉に全員が彼女を見た。
「そりゃ、ね……伊織はハッキリものを言うタイプだし。だからって本心じゃないってことも分かってるけどさ」
呆れたように真が言う。
「それでも不安を煽るようなことを言うのはよくないよ。こんな時こそ信じ合わなくちゃいけないのに」
そう言って春香を見やる。
視線に気付いた春香は深く頷いた。
「犯人を捕まえれば済む話なの。そしたら、でこちゃんだって自分が間違ってた、って気付くと思うな」
「そんな簡単にはいかないよ。相手は人を……殺すような人だよ? 危ないよ」
春香が微苦笑して言ったが、美希は退かなかった。
「野放しにしてるほうが危ないと思うよ? 犯人が捕まれば部屋でゆっくり寝られるし」
「それはそうかもしれないけど……」
「自分は――」
響は天井を仰いだ。
「犯人捜しなんてしなくていいって思ってる。っていうかしないほうがいい」
「どうして……?」
問うたのは雪歩だ。
「だって刺激しちゃうかもしれないでしょ? 犯人の立場で考えたら追いかけられないほうがいいハズだし。
プロデューサーが口封じのために殺されたんだとしたら、なおさら静かにしてるほうがいいんじゃないか?」
「でも犯人を見つけられたら響の濡れ衣だって晴れるの。疑い合わなくて済むんだよ?」
美希の口調は怒気を含んでいるような、優しく諭すような、複雑な声質を帯びていた。
「美希はやっぱり犯人をハッキリさせたいのか?」
「当然なの。あずさとやよいと、それにハニーまで殺したんだよ? ミキは絶対に許せない……。
もし目の前にいたら……ミキも犯人と同じようにするかもしれない…………!」
その形相はとてもアイドルと言えるものではなかった。
鋭く、射抜くような双眸は照明を浴びてぎらりと光り、獣を想起させる獰猛さは隠れもしない。
その悪鬼羅刹のような表情を見て響は、
「やっぱり、そう、だよね…………」
諦念したような顔をして呟き、壁の時計を見た。
15時51分。
外の陽射しは強いが、談話室に射し込む陽光は徐々に少なくなり、場所によっては薄暗い。
「喉、渇いちゃった」
先ほどの忿怒を含んだ口調はどこへ行ったか、まるで寝起きのような声で美希が言った。
「あ、それなら何か淹れてくるね。何がいいかな?」
と、その声を待っていたように雪歩が立ち上がったが、
「いや、いいよ! 自分が行くから。雪歩はさっきもお茶淹れてくれたでしょ?」
制するように響が言い、美希の手をとった。
「ほら、美希も行こうよ」
「えぇ~、メンドクサイの……せっかく雪歩が淹れてくれるって言うんだから、ここで待ってる」
「喉が渇いてるのは美希でしょ。それにちょっとは動いたほうが気分転換にもなるぞ」
渋々ながらも立ち上がった彼女は生あくびをした。
「私も行こうか?」
「ううん、大丈夫。真、何かあったら頼むぞ」
腰を上げた春香を留め、談話室にいる3人を真に任せる。
「こっちは4人いるから大丈夫だけど、響たちのほうが心配だよ」
「心配ないさ。だって自分――」
「カンペキだから」
美希が意地悪そうな笑顔で言った。
「うがー! それ、自分の台詞だぞ」
大仰に腕を振って抗議する響。
そのやりとりに春香たちは微苦笑した。
「みんなの分も淹れてくるよ。何でもいいよね?」
全員が頷いたのを確かめ、美希を伴って厨房に向かう。
エントランスまで来たところで美希の足がぴたりと止まった。
「なんか、ヘンなカンジだね……」
「何が?」
「昨日、ここに来たばかりなの。まだ1日しか経ってないのに……」
そのたった1日で起こったことが信じられない、と彼女は零した。
豪奢な内装に驚き、誰もがここでの滞在に期待に胸を躍らせたのも過去のこと。
陰惨な出来事が続き、この重厚なワインレッドのカーペットさえ、犠牲者の血でできた色のように見える。
その呟きには何も返さず、響は無言のまま階段を見上げた。
緩やかなカーブを描く階(きざはし)は左右対称で、一般家屋よりも階高がずっと高く、2階の様子はよく見えない。
「あ……っ!」
不意に響が声をあげた。
「どうしたの!?」
「う、うん……いま、ちょっと思ったんだけど」
響は2階を見上げたまま言った。
「あずささんの部屋って、やよいの部屋の真上だよね。何か意味があるのかな、って思って」
「意味……?」
「それに、プロデューサーのいた管理人室はやよいの部屋の向かいだし……これって偶然なのかな」
「あんまり関係なさそうなの」
美希は真顔で言った後、
「それにやよいの部屋の向かいはハニーじゃなくてミキの部屋なの」
別段気にも留めていないふうに補足した。
「あ、そっか……」
響は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「………………」
美希はそんな彼女を横目で見ると食堂へ足を向けた。
テーブルの上は綺麗に片付いている。
しかしクロスを見ると各々の食べ方や作法の違いが分かる。
たとえば亜美と真美が座っていた場所は、スープかサラダのドレッシングを零したらしい染みがある。
反対に貴音や伊織のいた場所には染みひとつ、汚れひとつない。
雪歩のいた場所も汚れはなかったが、垂れ下がったクロスの一部に何度も爪で引っ掻いたような解(ほつ)れがあった。
美希はぼんやりとテーブルと告発文を眺めている。
響は脇目も振らずに厨房に入ると、何カ所かの収納スペースの中を覗き見た。
「雪歩はどれでお湯を沸かしたのかな?」
「こっちの大きなお鍋だと思うよ。これだけ伏せてあるの」
美希が響の後ろに立って言う。
「あ、ほんとだ」
鍋をコンロに置いて点火する。
「ついでに何か簡単なものでも作ろうか……ねえ、美希、何か食べたいものある?」
「おにぎり、かな。あ、でもあんまり食欲ないかも……」
「ご飯を丸めてるだけだしね。あ、そういえばアイスクリームがあったっけ……」
冷蔵庫を漁り始めた響に背を向け、美希はまた食堂に戻ってきた。
大きく掲げられた告発文は、食堂のどこにいても目立つ。
「ハニーのウソつき……」
それを眺め、彼女は消え入りそうな声で呼ぶ。
「キラキラできるって、もっともっと輝かせてくれるって約束したのに……」
呟きを聞いているのは、それを発している本人だけだった。
彼女はぼんやりと告発文を眺めながら、そっとテーブルに手を置いた。
そこはあずさが座っていたところだった。
「ミキは、信じないの……ハニーが死んじゃったなんて……だって……ミキは、ね……? これから……」
ぎゅっと目を閉じ、小さく握った拳を胸の辺りに押し当てて――。
「…………ッ!?」
次の瞬間、彼女は何かに驚いたようにパッと顔を上げた。
そして今度は眺めるのではなく、告発文を凝視した。
「どうかしたの?」
一番に雪歩を気遣うのはいつも真だった。
彼女は2人が去って行ったほうを何度も見ては、その度に大息している。
「あ、何でもないよ……」
そう言って取り繕うような笑みを浮かべる。
「隠さなくてもいいよ。2人が心配なんでしょ? ボクだって同じだよ」
真はそう言うが表情にはどこか後ろめたさを感じさせる暗さがある。
「真ちゃんこそ大丈夫? 元気がないみたいだけど……」
こんな状況で元気があるほうがおかしいが、彼女の問いはこの場には相応しかった。
千早はソファに座って項垂れ、何事かを考えている様子である。
が、その目は垂らした前髪で隠しながら雪歩と真を交互に見やっている。
「うん……まあ、ね……」
「…………?」
「考えてたんだ。伊織の言ってたこと……」
「まさか真まで響ちゃんが犯人だ、なんて言わないよね?」
やりとりを見ていた春香が口を挟み、真は慌てて否定した。
「ち、ちがうよ! さっきも言ったじゃないか! 響は犯人じゃないって」
大仰にかぶりを振った後、彼女は握った拳をわずかに震わせた。
「そうじゃなくて、さ。響が犯人だ、って伊織が言い切った時……ボク…………」
真は沈痛な面持ちで何か言いかけたが、それはドタドタと廊下を走ってくる音に遮られた。
談話室までわずかな距離だというのに、フルマラソンを走り終えたように肩で息をしながら、
「美希は!? こっち来てない!?」
血相を変えて飛び込んできたのは響だ。
「我那覇さん……!? どういうこと……!?」
「いなくなったんだ! 後ろにいると思ってたのに、声かけても返事がなかったから……でも食欲がないからって……!」
「落ち着いて、我那覇さん。何があったのか、落ち着いて説明して」
呼吸を整え、小さく頷いた彼女は経緯を話した。
「お湯を沸かしてる時に、お昼はあんなことがあってみんな、ちゃんと食べてないだろうって思って……。
それで何か簡単なものを作ろうとしたんだ。美希は最初、おにぎりがいいって言ったけど食欲がないって言うから、
デザートとかなら食べれるかもって冷蔵庫の中を探してたんだ」
「その時、美希は厨房にいたのね?」
「うん。背中越しだけど返事は聞こえてたから。それで冷蔵庫の奥の方にアイスクリームを見つけたんだけど、
いま出したら溶けるからお茶を淹れてからにしようと思ったんだ。だから扉を閉めて振り向いたら――」
「いなくなっていた、ということなのね……?」
適度に相槌を打ちつつ先を促す彼女は、普段の人を寄せ付けない雰囲気に反して、相手から聞き出す能力を垣間見せた。
経緯を聞いていた雪歩は困ったように視線を彷徨わせている。
「時間にして1分もなかった、と思う。自分、美希はずっと厨房にいると思ってたんだ。どこかに行く理由なんてないし」
「とにかく美希を探そう!」
今にも飛び出さん勢いで真が言う。
「こんな状況でひとりで行動するなんてありえないよ! 早く探さなきゃ!」
「わ、私も……!」
キッカケを待っていたように雪歩が後に続く。
「ボクたちは食堂を見てくるよ!」
「じゃあ私たちは2階に上がって律子たちに声をかけてくるわ!」
千早は春香を伴って談話室を出ようとした。
「響ちゃん…………?」
動く素振りを見せない響に春香が声をかけた。
「一緒に行こう? 何か言われても私たちが証人になるから」
「あ、ああ、うん……ねえ、春香……」
「どうしたの?」
「気を悪くしたらごめん。そんなつもりじゃないんだけどね――」
そう前置きしてから、
「みんな、ずっとここにいたんだよね……?」
おずおずと、しかし明らかに懐疑的な口調で響は問う。
「………………」
「………………」
春香は何も言わず、千早に目配せした。
「ええ、いたわ」
抑揚なく答える彼女には、その口調と同じく表情がなかった。
「それより急がないと」
春香が言うと今度は響も2人に続いて伊織たちの元へ向かった。
・
・
・
・
・
彼女たちは階段を上がってすぐのスペース――エントランスの真上――にいた。
誰かの部屋に集まろうかとの意見もあったが、さすがに5人は狭いということでここに落ち着いたのだった。
ため息ばかりが聞こえる。
無意識に出たらしいかすかなものもあれば、明らかに当てつけがましい深いため息も混じる。
「なんであんなこと言ったのよ?」
痺れを切らしたように律子が言った。
咎めるような視線は伊織に注がれている。
「事実だからよ。慰めみたいなこと言ってもしょうがないじゃない」
「そうかもしれないけど……響が犯人だなんて証拠はどこにもないのよ?」
律子はかぶりを振った。
「たしかにあんたの言うことには説得力があったし実際、私もそうかもしれないって考えたわ。
でも美希が反論したように、筋は通っていても裏付けがない。証拠がないのよ。
そういうのは推理じゃなくて憶測。決めつけてかかるのは良くないわ。まあ、あんたのことだから――」
「………………?」
「――この膠着した状態を何とかしたい、っていう気持ちもあったんだろうけど」
伊織は拗ねたように余所を向いた。
だがその動作によって今度は亜美と目が合う。
「ひびきんは犯人じゃないよ」
自信なさそうに、しかしハッキリと聞き取れるように彼女は言う。
「だってひびきん、そんなウソつけるタイプじゃないっしょ……? すぐ顔に出ちゃうんだから……。
あずさお姉ちゃんたちをころ……して、さ……それで平気でいられるワケないよ――」
すぐ傍で真美が同意するように頷いた。
グループに分かれてからも亜美と真美は片時も離れない。
「あんたはどう思うのよ?」
2人を無視するように伊織は貴音に問うた。
「……現状では何を言っても推測の域を出ません。もちろん心情ではこの中に犯人がいると思いたくはありませんが。
しかし多分に郢書燕説があるとはいえ、伊織の言い分にも頷けるところはあります」
彼女はすぐには答えなかった。
「郢書燕説は余計よ」
「不可解な行動をしている者が何名かいます。殆どは些末な事でしょうが……機を逸して聞きそびれてしまいました」
律子が俯き加減に視線だけを貴音に向けた。
「不可解な行動って……?」
伊織が怪訝そうに問いかけたところ、
「なんか下がザワザワしてる」
亜美と真美が階段の手すりから身を乗り出して言った。
「何事かが起こったのかもしれません」
険しい表情の貴音はゆっくりと腰を上げ、亜美たちの背後に立った。
「何事かって……?」
「良くないこと……でしょうか」
そう呟いた時、勢いよく階段を駆け上がってきたのは春香たちだ。
「手短に説明していただけますか?」
まるでこうなると分かっていたように、彼女は極めて冷静に――響に問うた。
伊織がやや離れたところから彼女たちを見ている。
響に代わって春香が状況を説明する。
「美希、が…………?」
不思議そうに問う律子の顔は強張っている。
「亜美たち、ずっとここにいたけどミキミキは来なかったよ」
彼女たちのいる場所は両側の階段を俯瞰できる位置にある。
誰かが上ってきたらすぐに分かるハズで、美希の姿は見ていないと亜美たちが証言した。
ならばまだ1階にいるに違いないと伊織たちともども階段を下りていく。
その時、念のために多目的室を見てくると言って貴音と律子は引き返した。
春香たちが降りるとエントランスには真と雪歩がいた。
「どこにもいないんだ! 部屋にもいない。浴場や食堂も見たけど……」
見つからなかったという真が額にうっすらと汗を浮かべている後ろで、雪歩は壁に手をついて肩で息をしている。
「一体どこに……あっ!」
俯き加減だった千早は不意に顔を上げて響に向き直った。
「ねえ、我那覇さん。美希の声は聞いた?」
「……声? ううん、そういえば聞いてない……」
「ということは誰かに襲われたり、連れ去られたりしたワケじゃない――」
「自らの意思で姿を消した――ということになりますね」
貴音の双眸は千早を一見し、それから真、雪歩を捉えた。
「とにかく探すわよ! 1階にいるハズだから――」
律子が手早く2つのグループに分け、春香たちは西棟と東棟をそれぞれ捜索した。
・
・
・
・
・
美希は見つかった。
彼女は厨房の奥にあった。
壁のすぐ傍で居眠りをしているみたいに横たわっていた。
「み、き…………?」
最初に見つけたのは春香だった。
千早と響の3人で食堂を探し、続いて厨房を見回っていた時に作業台の向こうの異変に気付いたのである。
その時にあげた悲鳴によって、各所を捜索していた律子たちが何事かと集まってきている。
「……私の仕事よ」
近づこうとした響を押し留め、律子が美希の元に跪く。
そして脈や呼吸を確かめ、彼女の死を告げた。
「なんで……?」
亜美が頽(くずお)れる。
傍にいた真美が支えようとしたが、彼女にもその力はなかったようだ。
「どうして美希が…………?」
蹌踉(よろ)めいた伊織は咄嗟に近くにあった作業台に手をついた。
呼吸は荒く、小刻みに揺れる眸子はどこにも定まっていない。
「ねえ……」
真の後ろに隠れるようにして立っていた雪歩が、足音を立てずに伊織に近づいた。
「なんで、伊織ちゃん……美希ちゃんが……」
おどおどと怯えたような雪歩は、疑うような目で伊織を見た。
「分からない……ありえないわ。こんな……美希が殺されるなんて……」
「じゃあ、伊織ちゃんの言ってたことは――」
「………………」
彼女はもう何も答えず、ひどく落魄したようにため息を繰り返すばかりだった。
「――分かってるわね?」
振り返った律子が談話室に集まるように言う。
「美希を――このままにしておくの?」
響が言った。
彼女が倒れているのは調理場から見える位置だ。
作業台はもちろん流し台の前に立ったとしても必然、美希の姿が視界に入ることになる。
律子は首肯した。
「もう……いいんじゃないか……?」
「どういうこと?」
「警察の捜査の邪魔にならないように、ってことでしょ? でも、もう充分じゃないか。
今さら美希を移しても、あずささん、やよいの……体だけでも捜査できるでしょ?」
「………………」
「ここにこのままなんて……可愛そう過ぎるぞ……せめて部屋のベッドに運んでも――」
「なんで移動させたがるの?」
律子は低い声で問うた。
「まさか……このままにしておくと都合が悪い……なんてことはないわよね……?」
「それは違うよ」
真が口を挟んだ。
「ボクと雪歩で一度、ここは見たんだ。その時には美希はいなかった。律子がどう思ってるかは分からないけど。
響を疑ってるなら……春香より先にボクたちが見つけてるハズだよ」
「そうなの?」
律子は雪歩に問うた。
彼女は少ししてから頷いた。
「そのことは知ってたの?」
今度は春香に訊く。
彼女はかぶりを振った。
しばらく黙っていた律子は目頭を押さえ、呼吸を整えた。
「ごめんなさい……響を疑ったワケじゃないわ……ただ、あまりにいろんな事が起こりすぎて――。
正直に言って頭がおかしくなりそうなのよ……!」
そう吐き出す彼女は美希から目を背けるように調理台にもたれかかった。
「私も響の考えに賛成です」
これまであまり自己主張してこなかった貴音が、通る声で言う。
「亡骸を置き去りにするのは、美希の死から目を逸らし、彼女の存在を無下にするも同然ではありませんか。
誄(しのびごと)のひとつも添えずに立ち去るなど……到底できません」
彼女はこれまでの犠牲者の中で美希だけが、固く冷たい床に放置されている様は見るに忍びないと訴える。
せめて部屋に移すことはできないか、と響の望みを後押しした。
「こういうのは……どうですか……?」
意を決したように進み出たのは千早だ。
「律子は警察の捜査に支障が出るから動かすべきじゃない、ということでしょう?
それなら、その……この状況を写真で記録しておけばいいんじゃないかしら……」
「写真…………?」
「ええ、私も我那覇さんや四条さんと同じ、美希をここに置き……置き去りにはしたくない。
できれば部屋のベッドに……美希が……いつも仮眠していた、みたいに…………」
最後のほうは声が出ていなかった。
涙を拭う所作で彼女は言葉を中断し、律子の答えを待つ。
ずいぶん長いこと考えてから、
「――分かったわ。充分な記録をとってから、部屋に移しましょう」
彼女は観念したように許可を出した。
5分ほどして、春香に付き添われて部屋に置いてあったカメラを取って戻ってきた千早は律子に指示を仰ぐ。
どれだけあれば捜査に有用かは律子にも分からず、彼女が言ったのはあらゆる角度から数枚ずつ……ということだった。
「………………」
”充分な記録”のために収めた写真は、周囲の状況や厨房の全容も併せて50枚以上に及んだ。
震える手でシャッターを切る度に、千早は無意識に止めていた呼吸を再開して息を吸い込む。
特に美希の顔を撮る際には手の震えが止まらず、作業を貴音に押し付ける有様だった。
「これは……酷というものでしょう……しかし……」
カメラの使い方を教わった貴音は跪き、美希と見つめ合った。
「これも貴女を部屋に運ぶため……少し、だけ……辛抱してください…………」
美希の目はカッと見開かれていた。
まるで何かに驚いたように、怯えているように、輝きを失った双眸が中空を凝視していた。
貴音と美希は数十センチの距離で視線を交えたが、まばたきをしたのは一人だけだった。
指紋が付着しないよう調理用手袋をはめ、志願した響、千早、貴音で亡骸を静かに抱き上げる。
律子を先頭に、ゆっくりと部屋まで運んでいく様は宛ら葬列のようだ。
「美希…………」
それを見送りながら、春香は落涙を堪えた。
そのすぐ横には呆然と立ち尽くす伊織と、そんな彼女を疑うように見つめている雪歩がいる。
亜美と真美は誰からも等しく距離をとるように厨房の入り口付近に立ち、ひそひそと何事かを囁き合っていた。
「あの時、ボクが付いて行っていれば……!」
惨事を防げたかもしれない、と真は拳を壁に叩きつけた。
16時18分。
談話室には全員が集まったが、その人数は今や10名となった。
その顔つきも大半は、律子が呼びかけたから仕方なくここにいるといった様子である。
特に亜美と真美は彼女の声を無視して2階に上がりかけたところを、貴音が制したほどである。
そしてこの中で最も沈淪している少女――我那覇響は誰とも目を合わさないようにずっと俯いたままだった。
しかも表情もひどく怯えたもので、姿勢だけを見れば雪歩と区別がつかない。
「これから、どうするの……?」
真のその呟きに響は滑稽なほど体をビクつかせた。
誰も答えない。
この場をまとめる立場にある律子でさえ、言葉を発しない。
どうするべきか、についてはいくつかの選択肢があるものの、究極的にはひとつに絞られる。
”如何にして生き延びるか”
誰もがこれを考えているような深刻な顔つきである。
「分かったことがひとつ――」
眼鏡の奥で律子の双眸は小刻みに揺れている。
「……偶然じゃなかったんだわ」
「何の話?」
恐る恐る真美が訊く。
「最初にあずささんが殺されたこと、よ」
「…………?」
「どこかでは思ってたの。犯人は相手を決めてたんだろうって。そう思い込んでた……。
きっとあずささんとやよいを手にかけるのが目的だった。プロデューサーは運悪く犯人に近づいただけだって」
「律っちゃん……?」
「でも違う! ハッキリ分かったわ! 私たち全員を殺すつもりなのよ!」
「律子!?」
真が剣幕に一瞬怯む。
「そう考えるしかないのよ! 何者かが入り込んでるのかもしれない。この中の誰かかもしれない。
だけどそいつはきっと……ううん、私たち全員を殺す気なのよ」
「あ、あの……その、あまり”殺す”って……言わないでくださぃ…………!」
雪歩が青白い顔で言ったが、その声はあまりにか細く当人には聞こえていない。
「バ、バラバラにならなければ大丈夫じゃないかな! 何か理由がある時もみんなで――」
「そういう状況じゃないのよ」
取り繕うように声を張った春香に、伊織は冷水を浴びせるように言った。
「”一緒にいる”ってことは、犯人と四六時中行動するってことよ? あと2日……できる?」
「伊織はまだ響ちゃんが犯人だって考えてるの?」
春香の問いかけに雪歩が訝るような目で伊織を見た。
「断定はしないわよ。でも可能性はゼロじゃない」
響は大仰にため息をついた。
「やっぱり疑われるよね…………」
「我那覇さんではないと思うけど……?」
落ち着いた口調で千早が容喙する。
「我那覇さんを一番庇っていたのは美希や真よ。美希を手にかけるハズがないわ。
それに状況からいっても……真っ先に自分が疑われると分かっている状況で犯行に及ぶとは思えないもの」
「怪しすぎてかえって響が犯人とは思えない、ってことだよね?」
「ええ、誰かが我那覇さんに罪を着せるためにやったとしか思えないわ」
真がタイミングよく口を挟んだことで千早はやや語勢を強めた。
「誰か、って……誰よ……?」
伊織が呟いた時だった。
「誰でもいいよッ!」
突然、真美がヒステリックに叫んだ。
耳を劈くほどの大声に一同が真美を見る。
だがその視線はすぐに横にいる亜美に注がれることになった。
「帰りたい……もう帰りたいよぉ……!」
亜美がとうとう泣き出してしまった。
滂沱として溢れる涙は拭っても拭っても流れてくる。
それを宥めている真美の目元もじわりと濡れている。
「もうイヤだよ! 誰が犯人とか、どうでもいい! 真美たち、もう帰りたい!!」
「亜美…………」
律子がそっとその肩に触れようとしたが、彼女は乱暴に手を払いのけた。
「犯人とか考えたくない! でも……あずさお姉ちゃんたちを死なせた人がいるんなら正直に言ってよ!」
「落ち着いて、ねえ……2人とも……!」
「お迎えが来るまで我慢してればいいんでしょ!? だったら真美たち、ずっと部屋にいるかんね!!
そしたら大丈夫でしょ!? 亜美と一緒にいるからッ!!」
誰にともなく怒鳴りつけた真美は亜美の手を引いて談話室を飛び出した。
「待ちなさい!」
止めようと身を乗り出した律子だったが、真美の腕を掴むために伸ばした手は空を握りしめた。
「真美ッ!!」
鬼軍曹という表現が可愛く思えるほどの形相で仁王立ちになった彼女は、2人の背中に向かって、
「鍵をかけておきなさい!」
レッスン時でさえ聞いたことのないような声を張り上げて言った。
「律子、いいの……?」
追いかけなくていいのか、と真が問うた。
「錯乱してるわ。あの状態じゃ引き留めても逆効果よ。それよりしっかり戸締りさせたほうがいいわ」
それに2人いるから大丈夫だろう、と彼女は小さく頷きながら返した。
昨日まで賑やかだった談話室は人数が半分ほどに減ったこともあり、陰鬱な雰囲気を漂わせている。
ここにいること自体が目的であるかのように、彼女たちはソファに腰かけ、あるいは壁に凭(もた)れて沈黙を過ごす。
しばらくして時機を見たように貴音が呼びかけた。
「質問してもよろしいですか、雪歩? この際ですから明らかにしておきたいのです」
唐突に、何の前触れもなく名指しされた雪歩はビクリと体を震わせ、驚いたように彼女を見た。
「は、はい…………?」
「昨夜、あの告発文を見た後、私たちはそれぞれの部屋に戻りました。その折、私は雪歩とすれ違いました。
しばらく見送っていましたが、貴女は手洗いではなく談話室の方へ向かいましたね。その理由は――」
誰が聞いても納得できるものか、と貴音は問う。
「たしか貴女はあずさと共にやよいを部屋へ送りましたね。雪歩の部屋は1階東側の突き当たり。
その隣が私で、さらにその隣がやよいの部屋です。彼女を送り届けた後だとすれば、追い抜くことはあってもすれ違うハズがないのです」
全員の視線が雪歩に集まった。
「付け加えるなら私はあずさとはすれ違っていません。となれば雪歩だけがやよいの部屋に長居をしていたか、或いは自分の部屋に戻ったのでは?
全員がそれぞれの部屋に戻った時機を見計らって廊下に出たところ、私と鉢合わせになった――と」
「あ、あの、えっと…………」
注がれる視線の中、雪歩はきゅっと裾を摘まんだ。
羞恥に耐えるように、顔を赤くして。
「それ、本当なの?」
いっこうに答えようとしないため、それまで居辛そうにしていた響が訊いた。
「ええ、昨夜は気にも留めませんでしたが、今となっては知っておくべきかと」
貴音の目は訝るでもなく責めるでもなく、いつもの静謐さがそこにあるのみである。
しかしこの瑶林瓊樹も彼女の芯の強さに裏打ちされたものだ。
優雅さに負けないだけの毅然さをも秘めた四条貴音は、必要であれば誰もが躊躇する剔抉さえ厭わない。
「あ、あのさ、貴音……自分が言えたことじゃないけど、雪歩はそんなことしないと思うぞ……?」
「ええ、私もそう思っています。しかし行動に不審な点がある以上、可能な限り明らかにしなければ真相には辿り着けないでしょう」
言いよどむ雪歩に促すように、貴音は静かに言った。
「ねえ、雪歩。やっぱり恥ずかしがらないでちゃんと言おうよ? このままじゃ疑われるだけだよ」
真がそう言ったので、伊織は訝るような目で彼女を見た。
「その様子だとあんたは知ってるみたいね」
「あの、実は…………!」
疑念を含んだ伊織の言葉を遮るように、雪歩が進み出た。
「私……やよいちゃんを送った後、自分の部屋に戻ったんです。でもしばらくして、告発文を思い出して怖くなって……。
それで……真ちゃんの部屋に――」
ひとりで寝るのが怖くなり、真の部屋に駆け込んだことを恥ずかしそうに告白する。
「本当なのね?」
律子は真に訊いた。
「うん、本当だよ。昨夜、最後に食堂を出たのはボクと貴音だったんだ。部屋に戻ってすぐにノックされたからビックリしたよ。
あんなのを見た直後だったからつい身構えちゃったけど。あんまり雪歩が怖がってたから一緒に寝たんだ」
真が仔細に説明すると、雪歩は耳まで真っ赤になって俯いた。
「なるほど……それでは2人は同衾したのですね」
「同衾、ってたいそうな表現ね……」
律子がぼそりと呟く。
「失礼いたしました。弁解にもなりませんが決して雪歩を疑っての質問ではありません。その点だけは――」
「は、はい……分かってます……」
珍しく落魄した様子の貴音に、雪歩がまだ顔を赤くしたまま答えた。
「どうきん……どう、きん…………?」
貴音の言葉を繰り返し呟きながら、千早は難しい顔をしていた。
「千早ちゃん、どうしたの?」
その表情に真っ先に気付いた春香が問いかける。
「ええ、ちょっと……犯人はあの告発文を書いた人と同一人物なのかと思って」
「どういうこと?」
訊いたのは律子だ。
「私たちを――殺害することが目的なら、あんな告発文を掲げる必要はないハズよ。それに館内に響いた声も。
そんな回りくどい方法を採る意味があるかしら? それに……犯人がひとりだけとは限らないわ」
「えっと……じゃあ2人ってこと……?」
「他にもあるわ。あずささんを殺害して密室状態にできた犯人が、どうしてその時に全員を殺さず、夜が明けてから再開したのか。
昨夜のうちに全員が殺害されてもおかしくない。時間が経てば私たちも警戒するようになるから、殺人も犯し難くなる。
そんなリスクを冒してまでする……その理由というか、目的は何なのかしら……?」
次々と疑問を浮かべながら、彼女は最後に貴音を見つめた。
「考えられるのは――」
伊織が腕組みをしながら言う。
「ゲーム感覚でやってるか、そうじゃなければ……」
「…………?」
「敢えて誰かを殺さずにおいて、恐怖を味わわせるため……かしら?」
春香たちの顔が青ざめた。
「告発文を予告だと考えれば、元々は――」
「ね、ねえ、伊織……誰かって誰なの……?」
震える声で問う真の歯の根が合わない。
「誰かなんて知らないわよ。私は犯人じゃないんだから」
「もしそうだとしたら……言い換えればその誰かは助かるんだよね……?」
「助かるって言っても、最後は犯人と2人きりになるんだぞ……? それって結局は――」
「か、仮にそうだとしても! 固まっていれば大丈夫だよ! 犯人は順番に狙ってるらしいから」
「らしい、って……そう思っただけよ。もしかしたらなりふり構わず襲ってくるかもしれないわ」
「なら、そっちのほうが好都合じゃないか。こっちは大勢いるんだ。返り討ちにできるよ」
「いえ、これまで残忍な手口で殺めてきた相手です。安易に考えるのは危険です」
口々に言い合う春香たちを、律子は止めなかった。
彼女はまるで誰の声も聞こえていないみたいに天井を見上げている。
やや興奮気味になった彼女たちを一歩引いた場所から宥めた貴音は、律子に向きなおって言った。
「私が行きましょう」
「…………え?」
「2人とはいえ、まだ幼いと言ってよい年頃です。誰かが付いている必要があるでしょう」
「で、でも、今の亜美たちの様子じゃ誰も寄せ付けないんじゃないかしら……?」
「ふふ、ご心配なく。2人とは狎昵(こうじつ)の間柄なのです」
「あ、ちょっと待って」
談話室を出ていこうとする彼女を、律子が慌てて呼び止めた。
「まさか独りで行くつもりじゃないでしょうね」
はたと立ち止まった貴音は少し考える素振りを見せて、
「――そうですね。単独行動は慎むべきでした。では律子も共に参りますか?」
にこりと笑んだ直後、鋭い視線を律子に向けた。
「ええ、でもこっちも心配なのよね……」
彼女が目配せした先には伊織がいる。
その視線に気付いているのかいないのか、伊織は令嬢特有の淑やかさも翳んでしまうほどの険しい顔つきで周囲を探っている。
「ではこうしましょう」
翻って貴音は伊織に声をかけた。
「亜美と真美、2人だけでは心配です。説得して部屋に入れてくれるよう頼んでみませんか?」
「私たちが?」
伊織が訝るように言った。
「ええ、このような事情なれば無理もないことですが、亜美たちにはいつもの溌溂さがありません。
まだまだ幼い2人には受けた衝撃が大きすぎます。誰かが傍について庇護する必要があるでしょう」
突然の申し出に伊織はすぐには答えない。
ここに留まれば7人のグループに属することになり、申し出を受ければ4人のグループに属することになる。
損得で考えれば前者が有利と思われるが、
「そう、ね……2人を放っておくのは危険かもしれないわね」
彼女はしばらく考えた後、貴音の提案を受けることにした。
「あんたはどうするの?」
伊織は律子に問うた。
「本音は私も亜美たちの傍にいてあげたいんだけど――」
と言って彼女はちらりと貴音を見やる。
「そっちにはあんたと貴音がいるから大丈夫だと思う。こっちは私が見るわ」
プロデューサーがいない現状、まとめ役は自分しかいないと律子は言う。
「そう、分かったわ」
特に反対する理由もなく、2人は談話室を出ていく。
その時、貴音は振り返り、
「響、私は信じております。貴女に人を殺めるなど、できはしません」
先に出て行った伊織に当てつけるように通る声で言い残した。
響は何も答えず、困ったように俯くばかりだった。
それからはまた暫くの沈黙が続いた。
亜美たちがいないため、ゲームをして過ごそう等と提案する者もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
春香は居辛そうにソファの端に座ったまま、言葉を発しない。
千早は顎に手を当てたり、目頭を押さえたりして何事かを考えている様子だ。
響は辺りをキョロキョロと窺い、手を閉じたり開いたりして落ち着かない。
真は拳を握りしめながら険しい顔をしている。
そんな彼女にぴたりと寄り添うように雪歩は身を縮こまらせている。
律子は出入り口と全員の顔が見える位置に座っており、その視線をしばしば響に向けていた。
「ね、ねえ……」
こういう時、誰にともなく声をかけるのはいつも春香だ。
「いつまでもこうしてるワケにもいかないんじゃないかな……」
しかし声に張りはなく、尻すぼみになって最後のほうは殆ど聞き取れない。
「あちこち動き回るほうが危ないわよ?」
千早が言う。
「あ、そうじゃなくて……! 夕食のこととか、夜のこととか……」
春香は現状、気にしている事柄を挙げた。
まずは夕食。
1食くらいなら抜いても死にはしないが、迎えの船が来るのは明後日だ。
さすがにそれまで何も口にしないワケにもいかない。
しかし昼までは全員が食堂に集まったが現況、2つのグループに分かれてしまっている。
先ほどの様子から亜美たちは部屋を出てこないだろうから、食事をどうするべきかという問題が出てくる。
今ひとつ、彼女が不安だと言ったのは、夜の過ごし方についてだ。
つまり一夜を明かすのにそれぞれ部屋に戻るのか、ということである
起きている間は複数で互いを見張り合えたが、あずさの件を考えれば部屋で眠るのは正しいとは言えない。
「たしかに……でも部屋のベッドを移動させるワケにもいかないし……」
「ならたとえば3人ずつに分かれて――っていうのも不安、だよね」
誰も妙案が浮かばず鬱々としているところに、
「あのぅ……ここは、どうかな……?」
雪歩がおずおずと言った。
「大きなソファもたくさんあるし、部屋から掛布団と枕を持ち寄ればベッド代わりにならないかな?」
妙案というよりは消去法で最後に残った選択肢だ。
数人ずつで離れ離れになるより全員が同じ空間にいたほうがよい。
反対する者はいなかった。
寝具を持ち寄るのは寝る時になってから、ということで談話室は再び沈黙に――、
「実は気になってることがあるんだ……」
包まれる前に響が憚るように言った。
途端、律子が鋭い視線を向け、それに当てられた彼女は咄嗟に目を逸らした。
「いや、まあ……いま言うようなことじゃないけど……」
「そこまで言われたら気になるじゃないか」
口調は刺々しかったが、真の言葉には臆さずに先を促す効果があった。
「その前にちょっと外に出て確かめたいんだ。独りで行くワケにはいかないから――」
誰か付いてきてほしい、と響は言う。
しかしすでに生存者が二分されている状況でさらに分かれて行動するのは危険だということで、全員で行動することになる。
彼女の言う”外”とは館から遠く離れた場所という意味ではなく、”エントランスの外”という意味だった。
時刻は17時を少し過ぎていたが、昨日とは打って変わっての好天であるため辺りはまだ明るかった。
「ほら、あれ」
響が東棟の一角を指差した。
「昼間、プロデューサーが見た人影を追いかけてあちこち捜索したでしょ?」
彼女が指し示しているのは2階の一番奥だ。
浴場のちょうど真上にあたり、物置になっているため見取り図では×印が付されている場所だ。
「その時にあそこの物置にも入ったんだけど、ヘンな感じだったんだ」
「そう? ボクは特に何も感じなかったけど……? 掃除道具とか棚があったくらいで」
この中で館内を捜索したのは響と真だけであり、春香たち4人はその間は談話室で待機していた。
響はかぶりを振った。
「――あの物置の窓はひとつしかなかったぞ」
等間隔で並んだ窓は棟の端まで続いている。
「それに物置だけちょっと狭く感じなかった?」
捜索に加わっていない春香たちには返事のしようがない。
「――そう言われてみると……でもいろんな物がめちゃくちゃに置いてあったからそう感じたのかも……」
難しい顔をして真が唸る。
「奥に何かあるかもしれない、ってことね?」
窓を見つめながら千早が言う。
「うん、そんな気がするんだ。暖炉のこともあるし――」
「あ、もしかしてあの時、様子がヘンだったのはそのことを考えてたからなの?」
春香に問われ、彼女は曖昧に頷いた。
「調べてみる?」
律子が誰にともなく問うと、雪歩以外は控えめに首肯した。
見るだけ見てみようということになり館に戻る。
「一応、貴音たちに声をかけておいたほうがいいわね」
という律子の提案で一行は4人の元に向かうことにした。
彼女たちは亜美の部屋に集まっていた。
「ちょっといい? 私たち、これから物置を調べに行ってくるわ」
返事はない。
しばらくして、
「何のために?」
ドア越しに伊織が問う。
「気になることがあるの。何か見つけたらあんたたちにも伝えるわ。すぐに戻って来るから」
「分かったわ。何もなくても教えてちょうだい」
「ええ」
遊戯室を通り過ぎたその先。
東に向かって伸びる廊下の左右(南北)に物置がある。
響が言っているのは向かって左側、つまり北側にある大きな部屋のことだ。
「まさか犯人が隠れ潜んでる、なんてことはないでしょうね?」
律子が身震いすると、
「なら捕まえてしまえばいいじゃないか。そうすれば何も心配は無くなるんだし」
弱気な彼女を勇気づけるように真が言った。
「大丈夫かなぁ……」
雪歩はあからさまに一団と距離を置いていたが、離れすぎていることに気付いて慌てて春香の傍に駆け寄った。
「開けるよ」
言い出したのは自分だからと、響がドアを開けることになった。
そのすぐ後ろに真が控え、もし何者かが飛び出してきても対応できるように構える。
だがその備えは無駄に終わった。
中には誰もいない。
「確かに狭いね……」
じめじめしていてカビ臭い室内には、掃除道具やロープ、工具箱等が雑然と置かれている。
「窓は……あのひとつだけだね」
春香が指差した窓は塵埃を被っていて、陽光をいくらか遮ってしまっている。
そのため物置内は薄暗く、そのうえ道具類が無秩序に散らばっていることもあっていくつかの死角ができていた。
「たしかに……たしかに響の言うとおりよ。窓の数が合わないわ」
手書きの見取り図と窓とを見比べながら律子が言う。
その口調はやや興奮していた。
「やっぱり! ここには何か秘密があるんだ!」
だが、それ以上に興奮していたのは響だ。
まるで宝物を見つけたみたいに、どうだと言わんばかりに声を張る。
「でも秘密ってどんな?」
「さあ、それは調べてみないと――」
言いかけて律子は部屋の奥に目を凝らした。
正面の壁に大きな棚が置かれている。
天井に届きそうなほど高いそれにはハンマーやペンチ等の工具、それらの取扱説明書、厚めの書籍が乱雑に収められていた。
律子は書籍のうちの一冊を手に取る。
『食用キノコと毒キノコの見分け方』というタイトルの古い本だ。
書名どおりキノコの特徴や安全性、調理法などが記されているが、キノコに関しては写真ではなくイラストのみだった。
「古そうな本だね」
横から覗きこんだ真が言う。
埃をかぶった本は表紙も中身も褪色していて、少し力をいれると簡単に破れてしまいそうだ。
「なんでこんなものが……?」
「他にもいっぱいあるぞ」
工具箱をブックエンド代わりにして、いくつか並べられた本を指差す響。
『心理学ーもうこれで騙されない』
『西洋建築に真鍮製の鍵は使うな』
『獣や毒虫の居る森を正しく歩く』
『長生不死の秘密は泰山にあった』
『サバイバル~生き延びるために』
『哲学的な観点からの人の生と死』
藍色や臙脂色の古めかしい表紙は、埃を被っているのもあって手触りが良くない。
中身も時代を感じさせる独特の書体で、活版印刷特有の字間や行の揺れが見て取れる。
本文にも今は使われていないような難解な表現も多く、真は最初の数ページを読みかけたところで本を閉じた。
「置いてある本は古書店で見かけるようなものばかりね」
他にも専門書の類が多く並んでいたが、千早は手に取って見ることはしなかった。
「これがどうかしたんですか?」
春香が訝しげに問う。
「ああ、そうだったわ。つい本に目をとられて……」
『易占入門~筮竹の種類とその使い方~』という本を元あった場所に置いた律子は手に付いた埃を払った。
「この棚が気になったのよ」
そう言って数歩退いて全体を見渡す。
この部屋に棚はこの1架しかない。
しかも角に置いてあるのではなく、壁の真ん中を隠すように佇んでいた。
「置き方が不自然な気もするわ」
千早が言った。
棚の両側には何も置かれていない。
「試してみる?」
律子に訊かれて響は首をかしげた。
その反応に手本を見せるように彼女は側面に回り、棚に両手をついた。
ようやく理解したらしい響も横に並んで棚を押し出す。
「ん……?」
重厚な見た目に反し、力を入れると棚は難なくスライドした。
「下にローラーみたいなものが付いてるのかしら?」
律子が底部を覗き込んだ時、
「それより見てよ!」
響がひときわ高い声をあげた。
棚の向こうに、もうひとつ部屋があった。
「ほんとに部屋があったんだ……」
春香は目を丸くしている。
「この入口、棚の幅よりも狭いわ。それに高さも――ちょっと横から覗き込んだくらいじゃ見つけられないわね」
律子が顎に手を当てて言った。
「すごいよ、響! よくこんなのに気がついたね!」
「ふふん、自分の洞察力があればこれくらい当然だぞ」
「せっかく喜んでるところ悪いけど、ガッカリさせるかもしれないわね」
律子が奥の部屋を見ながら言う。
響の発見は一同を驚かせ興奮させるものではあったが、事態を進展させるものではなかった。
「何も、ない……?」
部屋を覗き込んで春香が呟いたとおり、隠し部屋には何もなかった。
目につくのは隅々に溜まる埃くらいのもので本の1冊、木片のひとつさえ落ちていない。
中の様子が分かるのはもちろん、窓から差し込む光のおかげだ。
「どうしてこんな造りにしたのかしら……?」
春香に続いて入ってきた千早は、床を何度か踏んだり四方の壁を叩いたりした。
しかし仕掛けらしいものは何もなかった。
「結局、ただ棚で塞がれていただけってこと?」
同じように隅々まで調べていた律子は落胆したように息を吐いた。
「暖炉は上の階につながる隠し通路だったから、ここは反対に下の階とつながってるんじゃないかな?」
「そう思ってボクもあちこち見て回ったけど、開けられそうな場所はないよ。床にヘンな隙間もないし」
「真なら思いっきりやれば踏み抜けるんじゃない?」
「それ、仕掛け関係ないよね? というか春香はボクをどんなふうに見てるのかな?」
真が不気味な笑顔を浮かべた。
その後、5人――雪歩は気味悪がって隠し部屋に入ってこなかった――はあちこちを調べた。
しかしどこにも異常は見当たらなかった。
「何もなさそうね……隠してあったのは気になるけどただの――」
憮然とした様子で言った律子は不自然に言葉を切り、目を細めて窓の外を眺めた。
「どうしたの?」
「え、ええ、あの木の陰……何か動いたような気がして――」
そう言って彼女は茂みを指差す。
「ど、どこ……!?」
離れた場所にいた響が駆け寄る。
「ほら、あの黒っぽい木が密集してる場所があるでしょ」
「う~ん……」
身を乗り出すようにして凝視する。
「何もないぞ。鳥か何かと見間違えたんじゃないか?」
「……そうかもしれないわね」
観に行こうか、という声は誰からもあがらなかった。
ここにいても仕方がないと春香たちは部屋を出ることにした。
その際に棚の周辺を念入りに調べた千早が、埃の堆積具合から自分たちの前に棚を動かした者はいないだろうと言った。
「大発見だと思ったんだけどな……」
隠し部屋を振り返り、響は残念そうに呟いた。
「よく考えるとちょっと恐いよね……」
「この部屋のこと? どうして?」
千早の問いかけに響は頷く。
「だってほら、あの棚って後ろからは動かせないでしょ? 奥の部屋に閉じ込められたら出られないぞ」
「我那覇さんなら窓を蹴破って降りられるんじゃないかしら?」
「もう! そういうことじゃないぞ!」
「ふふ、ごめんなさい。でもたしかに――そうね。造った人はそういう情況を考えなかったのかしら?」
18時22分。
何か食べなければ心身が疲弊するばかりだ、という律子の言葉もあり一同は夕食をとる。
雪歩たちの声掛けもあって亜美たちも食堂に集まる。
彼女たちの部屋には持参したお菓子の類しかなく、腹を満たすほどの量がなかった。
「よく出てきてくれたわね」
4人の姿を見て律子はほっとため息をついた。
「一食くらい抜いても死にはしないけどね」
と言って伊織は冷ややかな視線を貴音に送る。
「それは誤解です。食事とは空腹を満たすためだけではありません。脳に栄養を送り、思慮を巡らせるためには――」
「まだ何も言ってないわよ……」
「まあ、何であれ降りてきてくれてよかったわ」
律子は亜美たちに聞こえないように2人に顔を近づけ、
「そうやってうまいこと連れ出してくれたんでしょ?」
主に貴音に向けて囁いた。
やはり料理する者、それ以外の用事をこなす者とで分担するが、彼女たちはまず5人ずつ分かれることにした。
料理が不得手な者も厨房に入ることになるが、人数に偏りがないようにするためには仕方がない。
「簡単なものでいいよね?」
春香が誰にともなく言う。
厨房にいるのは春香と雪歩、千早、響、貴音だ。
そもそもここへは遊びに来ているため食材は充分にある。
こだわればホテル並みの料理さえ振る舞えるほど冷蔵庫の中は豊富だが、誰も調理に時間をかけたがらない。
喉を通りやすいもの、ということでスープやサラダを中心に献立を考えることになる。
「ええ、そうね……」
千早たちは美希が倒れていた場所を見ないようにした。
厨房はそう広くはないが作業台や棚などで死角となる場所が多い。
5人は常に一定の距離を保つようにして調理にとりかかる。
中心となるのは春香と響だ。
他の3人は補助的な役割を担い、知識や技量をそう必要としない作業を引き受ける。
そのためしばしば春香たちの後ろに移動することもあった。
「亜美と真美の様子はどうですか?」
千早がレタスを千切りながら貴音に訊いた。
「今は少し落ち着いていますが、まだ安心はできません。些細な出来事を切欠に取り乱す恐れもあります」
「そうですか……ひどく混乱している様子でしたからね。部屋にはすぐに入れてもらえたんですか?」
「いえ、易々とはいきませんでした。伊織と利害を説いてどうにか信を得たのです」
響がトマトやキュウリを切っては後ろの調理台へと運ぶ。
それを受け取った貴音は人数分の器に丁寧に盛り付けた。
「信……ということは四条さんや水瀬さんも疑われてたんですか?」
「そうなりましょう。正体不明の人影を皆が目撃しておれば疑心に囚われることもなかったでしょうが……。
今はあらゆる可能性を考慮すべき状況です。亜美や真美の考えも間違ってはおりません」
彼女は平然と話すが、反して憂いを湛えた表情はミステリアスな姫君と評しても差し支えない。
まるで国の滅亡を嘆くような顔つきは、いつもどおりの凛とした姿勢と相俟って全てを悟っているようにも見える。
「あの……四条さんはどう思ってるんですか……?」
お茶を淹れるためにお湯を沸かしていた雪歩がおずおずと切り出す。
「誰が殺めたか、ということですか?」
「は、はい……」
「私には分かりかねます。しかし私たちを欺き嘲弄し、剰(あまつさ)え疑念の種を蒔いた不埒な輩には違いありません」
彼女はやや口調を激しくした。
「何者であれ、これ以上の犠牲を増やさぬようにすべきです。迂闊な行動は災禍を招くでしょう。
プロデューサーも真実に近づいたために襲われたのかもしれません……」
湯がいた鶏肉を小さく切りながら、響は時おり肩越しに振り向いては彼女らのやりとりを聞いていた。
一方、食堂では珍しく伊織が率先してテーブルの掃除をしていた。
亜美と真美は居辛そうに食堂の端をうろうろしているが、それを横目で見ている律子は特に何も言わない。
「ボク、ちょっと思ったんだけど」
牡鹿のハンティングトロフィーを眺めながら、誰にともなく言う。
「ずっと食堂で見張ってれば犯人を見つけられるんじゃないかな?」
「どうしてよ?」
テーブルを拭きながら伊織。
「だって犯人だって何も食べないワケにはいかないだろ? ってことは食料調達にここに来るんじゃない?」
「無理ね」
「なんで?」
「明らかに計画的にやってるもの。それくらい考えてるわ。それに――」
伊織は厨房を一瞥して、
「仮に犯人に食料を調達する必要があるとしても、私たちの前で堂々と食べてるかもしれないわよ?」
不機嫌そうに言った。
「まだそんなこと言って――」
「”かもしれない”って言ったでしょ。断定してるワケじゃないわ」
ようやくテーブルを拭き終えた彼女は姿勢を起こし、そこで初めて真に向き直った。
「でもね、私が犯人だって可能性もあるわよ? こうやって周囲を惑わすようなことばかり言って撹乱して――」
「……伊織にあんなこと、できるハズないよ」
「………………」
「………………」
「当然よ。それくらいの気持ちでいなさいってこと。同じ事務所の人間だからって油断してたらどうなるか分からないわよ?」
真は何か言いかけたが、不愉快そうに顔を背けるだけだった。
「ちょっとあんたたち」
それまで黙っていた律子が亜美たちから目を離さないようにして言った。
「そのへんにしておきなさい」
いつもは口うるさい彼女も言葉少なく窘める。
伊織はまだ何か言いたそうだったが、恨みがましく律子を睥睨するとため息をついて厨房に消えた。
「あの子も不安なのよ」
「分かってる」
同じく不服そうな真は、伊織が残していった布巾で手を拭った。
・
・
・
・
・
18時41分。
全員が揃っての夕食は10人いるとは思えないほど陰鬱な雰囲気だった。
誰も殆ど言葉を発さず、黙々と目の前のパンやサラダを口に運ぶ。
実際、健啖なのは貴音くらいのもので全員、程度の差はあれ器の中身はほとんど減っていない。
野菜を咀嚼する音、飲み物を飲む音だけが聞こえるこの空間で。
下品にスープを啜るような音がして、一同の視線がそちらに注がれる。
「――律子」
彼女は流涕していた。
眼鏡を置き、身を小さくして、目元を拭うこともしないで。
「ごめんなさい…………」
蚊の鳴くような声は誰にもハッキリと聞き取れた。
「どうして律子さんが謝るんですか……?」
それよりもさらに小さく、微風にさえ掻き消されてしまいそうな声で問う雪歩。
俯いた律子はそれには答えない。
何人かの視線がテーブルの上で交わる。
しかし言葉が交わされることはなかった。
「こんな島に皆を連れてこなければ……」
ずいぶん長い間を空け、律子が搾り出すように言う。
「そうよ。合宿なんてどこででもできたハズよ。施設を借りるとかいくらでも方法が――」
「――律子」
「どうせなら経費なんて度外視して旅行会社にでも頼むべきだったのよ、そうすれば――」
「律子」
鋭く、窘めるように貴音。
「過ぎたことを悔やむより、今は前を向くべきです」
「分かってる。分かってるわ。でも私に責任がないなんて思わない。中止にすることだってできたハズなのよ」
それから律子は何も言わなくなった。
春香でさえかける言葉が見つからなかったようで、どうにか場を明るくしようとする素振りは見せたものの、
結局は何もできず時だけが過ぎていった。
「――ごちそうさま」
そんな当然の言葉も苦々しく発するように吐き出した亜美は、早くも立ち上がっていた。
その手は真美の腕をしっかりと掴んでいる。
「亜美たち、部屋にいるから」
「お待ちなさい」
凛然とした貴音の制止に、2人は歩を止めた。
「私も参りましょう」
「………………」
「それとも私を信用することはできませんか?」
「………………」
ずいぶん長いこと黙ったあと、
「いいよ」
諦めたように真美が応じた。
だったら私も、と伊織が立ち上がる。
「夜は……どうするの?」
春香が問う。
一部屋に4人で一夜を明かすのか、という意味だ。
「何とかなるわ。狭い部屋でもないし」
そう言い切る今の伊織には、床で寝ることさえ厭わない妙な気概がある。
「………………」
律子は亜美たちに付くべきかどうか迷っている素振りを見せた。
「こちらは私たちが見ます」
それに気付いた貴音が同行を制する。
「ええ、ええ、分かったわ……お願い……」
早く食堂を出たがっているらしい亜美たちは、話がまとまったと分かるとすぐに食器を片づけに行った。
ほどなくして戻ってきた4人は特に言葉をかけることもなく、無言のまま食堂を出て行った。
再び、沈黙。
真っ先に食べ終えた響は所在無げに視線を彷徨わせている。
彼女に遅れて食器を空にした真は千早のほうを見る。
「少しでも食べておいたほうがいいよ」
千早はサラダ以外にはほとんど手を付けていなかった。
「ええ、分かってはいるけど……」
食が進まない、と彼女は手にしたパンを口にすることなく器に戻した。
19時07分。
6人は談話室に戻ってきた。
「もし小鳥さんも来てたら――同じように狙われてたのかな……」
言ったのは春香だ。
「あの告発文のこと?」
律子の問いに彼女は特に反応しない。
「あれに書いてあるように私たちに罪があって、だから誰かがそれを罰するためにやってるのだとしたら――」
「…………?」
「そいつは狂っているわ。正常じゃない」
感情的になって律子は言う。
その視線が響を捉えたので、彼女は咄嗟にそれから逃れるように余所を向いた。
「い、今はそんなことよりどうやって生き延びるか考えるべきだぞ! あと2日――」
「そう、よね……」
「それには……やっぱりひとりにならないほうがいいんじゃないかな……?」
雪歩が控えめに口を挟む。
「あずささんもやよいちゃんも……ひとりのところを…………」
殺された、という直截的な表現を彼女は用いない。
言葉にしなくても意味は全員が理解できていた。
「少し早いけど先に寝具を集めておくのはどうかしら?」
千早が言った。
6人は談話室で夜を明かすことを決めており、ソファをベッド代わりにし、必要な寝具を各自の部屋から持ち寄ることになっていた。
特に異論もなく、春香たちはそれぞれ部屋を回って枕と掛け布団を持ち出すことになる。
ここから最も近い雪歩、続いて春香、真の部屋を順番に巡る。
当然、この移動も6人揃ってである。
さらに響、律子、千早の順に回る。
その際、念のために亜美の部屋のドアをノックする。
「あんたたち、特に異常はないわね?」
だが返事はない。
「亜美…………?」
数秒待つが、やはり反応はなかった。
「まさか…………!」
律子の顔つきが変わった。
彼女が不安げに振り返ると、真や雪歩は神妙な面持ちで見返した。
その横で、
「みんな、大丈夫? 何もおかしなことはないよね?」
春香が呼びかけていた。
ほどなくしてドアが開き、貴音が姿を現した。
「こちらは異常はありません。春香たちも――特に変わりはないようですね」
彼女たちは隣――真美の部屋に集まっていた。
「そ、そっちだったのね…………」
律子は額を拭って眼鏡をかけなおした。
そして壁に手をついてゆっくりと息を吐く。
「無事で良かったわ。返事がなかったから気が気じゃなかったのよ」
「それは失礼をいたしました。ところで貴方たちは今夜はどうなさるのですか?」
「談話室で寝るつもりよ。ソファをベッド代わりにしてね。それでいま布団やら枕やらを集めて回ってたの」
「なるほど……しかし夜は冷えるでしょう。体調にはくれぐれもご注意を」
「ええ、あなたたちも気を付けて」
4人が無事であると分かり安心したか、律子の声はやや弾んでいた。
律子たちを見送り、ドアを閉めた貴音は大息した。
ゆっくりと振り返り、室内を見渡す。
「談話室で一夜を過ごすそうです」
「聞こえてたわ」
伊織は別段興味なさそうに返した。
「あそこなら見通しもいいだろうし、犯人に対しては牽制になるんじゃないかしら」
「そうですね。ただ――」
犯人にとっても見通しが聞く、と貴音は言う。
「仕方ないわよ。他に場所がないんだし」
貴音はドアの施錠を確認してから一人掛けの椅子に腰をおろした。
伊織も真向かいにある同じような椅子に腰かけ、腕を組んで難しい顔をしている。
亜美と真美はベッドに並んで座っており、落魄した様子のまま顔を上げようとしない。
「2人とも、無理して起きていなくてもいいのですよ」
自分が警戒しておくからと亜美たちに休息を勧める。
ドアはしっかりと施錠されており、窓にも鍵をかけてカーテンを閉めてある。
誰かが入って来ることはない、と貴音は強調した。
「いいよ、まだ起きてる」
「亜美も」
2人は顔を伏せたまま返した。
「――そうですか」
貴音はそれ以上は何も言わず、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
それから数分。
「こんなことになるなんてね」
伊織は誰にも聞き取れないような声で呟いたが、貴音には届いていた。
「誰にも予想すらできなかったことです」
「そう、ね――」
「伊織」
「何よ?」
「今の貴方には迷いが見えます」
「こんな状況なんだから当たり前でしょ」
「いえ、そうではなく……後悔しているのではありませんか?」
途端、伊織はばつ悪そうに俯いた。
小さな手をぎゅっと握りしめ、何かに耐えるように表情を固くする。
「伊――」
「してるわ」
「………………」
「………………」
「響のこと、ですか?」
「――そうよ。だけどあんたが思ってるようなことじゃないわ」
「………………?」
貴音はそれ以上は追及しなかった。
「あんたはどう思ってるのよ?」
反対に彼女が問いかける。
貴音はちらりと亜美たちを見た。
2人はずっと同じ姿勢のままで、会話を聞いているのかどうかは分からない。
「悪い夢であれば、と願うばかりです」
「そういうことじゃなくて……!」
大きな声を出しかけた伊織は、貴音が2人を瞥見したのを認めて慌てて言葉を切った。
少しだけ頬を赤くして、
「そうね」
と拗ねたように吐き捨てる。
わずかに吹きつけた微風が窓を叩いていた。
21時35分。
ソファに腰かけていた律子が時おり船を漕ぐようになった。
「無理しないで横になったほうがいいわ」
それにいち早く気づいたのは千早だった。
「え……あ、私、もしかして寝てた!? ごめんなさい! そんなつもりじゃ……!」
睡魔を振り払うように律子は両頬を数度叩いた。
「こんな状況なんだから少しでも休まなきゃ。それでなくても律子はボクたちの代わりに――」
つらい役目を引き受けているのだから、と真も添える。
この十数時間の激動に疲弊したか、面々の顔色は悪い。
特に引率役として立場上、何かと鞅掌していた律子はひどく憔悴しているようだった。
亜美や真美がいなければ、強引にこの場を盛り上げることもできない。
「ええ、でも眠るのは……不安なのよ……」
あずさの件があったから、と彼女は涙混じりに打ち明けた。
「で、でもこんなにたくさんいるから、大丈夫……だと思います……」
数を恃みにしての弁だったが、そのわりには雪歩は落ち着きなく周囲を窺っている。
ここ談話室には西の階段側に続く扉、南側に廊下に繋がる扉と、北側の大きな窓がある。
部屋の中央からそれぞれまでの距離は10メートルはある。
誰かが飛び込んできても身構えるくらいの余裕はある。
だからこそ彼女たちは6人で夜を過ごすならここしかないと考えた。
突然、春香が立ち上がった。
皆の目が一斉に彼女に向けられる。
「何か温かい飲み物でも淹れてこようかと思って……」
「それなら私も……」
一緒に行く、と雪歩が立ち上がる。
2人では危険だということで真も同行することになった。
「みんな、気を付けて」
残るのは律子、千早、響の3人だ。
人数が減ったことで死角ができないようにと周囲に目を凝らす。
しかし物音ひとつしなければ、何かが動く様子もない。
「プロデューサーが見た人影って誰だったのかな――」
窓を見つめながら響が呟く。
「それは誰にも分からないわ」
今となっては、と千早が諦めたようにため息をつく。
「私たちの知っている人なのか、そうでないのか……それとも、見間違いなのか……」
あらゆる可能性があることを千早は付け加えた。
しばらくして春香たちがトレイを持って戻ってきた。
「ホットココアにしたよ。これでホッとできればいいんだけど――」
千早は堪らず噴き出してしまった。
「ありがとう、いただくわ」
固くなっていた表情を弛緩させ、律子が差し出されたカップを受け取る。
全員がそれぞれのカップを手にすると、トレイには4人分が余った。
「亜美たちの分も淹れたんだ。今から持って行こうと思って」
「それなら私たちが行くわ。春香たちはここにいて」
立ち上がった千早は響を誘った。
が、彼女は口にこそしないものの同行を渋った。
「い、いいよいいよ! 千早ちゃん、私と一緒に行こっ! 真もお願い」
雪歩と入れ替わるように千早がトレイを持ち、2人を率いて2階へと上がる。
「律子は相当参っているようね」
この声が本人に届かない距離を見定めて千早が言う。
「今日一日であれだけのことがあったから……」
苦悶の表情を浮かべる春香に、
「ボクたちもだけど、それ以上に律子はずっと気を張ってると思う」
と真も続けた。
これ以上の犠牲を出してはならないと彼女たちは誓い合う。
「私だよ。千早と真も一緒にいる」
ドアをノックして廊下に誰がいるかを伝える。
間もなく伊織が出てきた。
「助かるわ。少し気分を落ち着けたいと思っていたから」
「あれから何かあったの?」
「特に何もないわ。ただ、亜美たちの落ち込みようがね――」
伊織は言葉を濁した。
彼女によれば2人はすっかり憔悴しており、話しかけても会話にならない状態だという。
「今からでも私たちと一緒にいることはできないかしら?」
千早の提案に伊織はかぶりを振った。
「たぶん無理ね。大人数の中だとかえって混乱しかねないわ」
落ち込んでいても今はこの状況の方がいいと彼女は言った。
「それじゃあ、これ。冷めないうちに。伊織はオレンジジュースのほうが良かったかな?」
「贅沢は言わないわよ。ありがとう」
「なんか調子狂うなあ、伊織が素直にお礼を言うなんて」
真が意地悪な笑みを浮かべた。
「失礼ね! 私だってお礼くらい言うわよ!」
真のくせに、と捨て台詞を残して伊織は部屋に引き揚げた。
「はは、あれだけ言い返せるなら伊織は大丈夫だよね」
春香は安堵したように微笑した。
3人が談話室に戻ると雪歩たちはソファに腰かけ、油断なく辺りを窺っていた。
特に響は目をギラつかせていたが、反対に律子は眠そうな目を抉じ開けるように視線を左右させていた。
「あ、春香ちゃん。亜美ちゃんたちはどうだった?」
「あまり良くないみたい。今は一応は落ち着いてるみたいだけど……」
「そう…………」
「あ、でも伊織も貴音さんもいるから大丈夫だよ!」
春香は大仰に笑ったが、千早の目は笑っていなかった。
22時57分。
秒針が時を刻む音だけが聞こえる。
ホットココアを飲み終えた後、しばらくは周囲を警戒していた律子だったが22時を少し過ぎたあたりで、とうとうソファに横になってしまった。
皆それぞれに疲れていたらしく、雪歩も体を丸めるようにして眠っている。
今はかろうじて起きている春香もしばしば襲ってくる睡魔をどうにかやり過ごしている状態である。
「静か、だね……」
真が当たり前のことを呟いた。
「そうね」
答えた千早はテーブルに置かれたままのカップを眺めていた。
片付けるためにまた厨房に向かう危険を冒すくらいなら、一夜くらい放っておいた方がよいという判断だ。
少々不衛生だが仕方がない。
殺人鬼がいることに比べれば瑣末な問題だ。
「昨日はここで皆で遊んでたんだよね。いろんなゲームを持ち寄って」
感慨深そうに真が言う。
「なんだかもうずっと前のことのようね――」
千早が言うと4人とも俯いてしまった。
「自分たちもそろそろ寝たほうがいいんじゃないかな?」
部屋の隅にある一人掛けの木組みの椅子に座っていた響は、中空を見つめて言った。
「無理して起きてたって疲れるだけだし、犯人も大勢いるこんなところに来たりしないと思うし」
そう言い、響は立ち上がり大袈裟に背伸びした。
「うん、でも――」
春香は迷いを見せた。
「ソファの数が……」
彼女が言っているのは寝床のことだ。
談話室にはテーブルを囲むように4脚、西側の壁際に1脚と、計5脚のソファしかない。
人数と合わないため少なくとも1人はソファを使えないことになる。
その点について彼女たちは当初から気付きながらも話題にはしなかった。
ただ肉体的、精神的に負担の大きい律子には優先的に譲るという共通の認識はあった。
今は律子、雪歩、春香がそれぞれ使用しているので、空いているのは2脚ということになる。
「自分はそのへんの床で寝るからいいぞ? クッションとか多めに持って来たし」
さも意外そうに響は言う。
「ダメだよ、そんなの。それならボクが――」
「いいえ、みんなはソファを使って」
「みんなにそんな想いはさせられないよ。ここはリーダーの私が」
「いつ春香が何のリーダーになったんだ?」
わざわざ根心地の悪い床を巡って4人は譲り合わない。
律子たちは寝ているので小声での小競り合いが続いてしばらくした時、
「それなら交代で見張るっていうのはどう?」
真が提案した。
「見張る?」
「うん。1時間ずつ交代でね。最初は響で次がボク。その次は千早で次が春香。で、また交代。これなら全員、ソファで寝られるでしょ?」
「たしかに――それなら犯人が入ってきても対処できるわね」
この状況で3時間ずつ寝られれば充分だ、と彼女は言う。
「これでどう?」
真は響に訊ねた。
「自分は別にかまわないぞ。でも春香が見張りかあ……大丈夫かな?」
「え、私……?」
「うん。転んだりしないかなって」
「見張りってここにいるんだよね? 歩き回ったりしないよね?」
止まっていれば転ぶことは絶対にない、と春香はやや興奮気味に言った。
「じゃあ決まりだね」
見張り役は先ほどまで響が座っていた木組みの椅子を使うことになった。
・
・
・
・
・
響は辺りを窺った。
椅子は部屋の隅にある。
ここから談話室全体が見通せる。
もし何者かが入ってきても彼女なら先に動けるだろう。
響は深呼吸した。
律子たちはよく眠っているようだ。
秒針の音が木霊する。
異変は――ない。
誰かの足音も、何かが動く気配も。
「――響」
囁くように名前を呼ばれ、彼女はビクリと体を震わせた。
辺りを窺う。
真が手招きしていた。
彼女も寝ていたハズだが、いつの間にかソファに座り直している。
「もしかして犯人――?」
緊張した様子で響が近づく。
真はかぶりを振った。
特に異常はない。
「眠れないのか?」
「そうじゃないよ。いや、まあ、それもちょっとはあるけどさ……」
彼女にしては珍しい歯切れの悪さに、響は首をかしげた。
「響も休んだ方がいいよ、って思ってさ」
「まだ20分くらいしか経ってないぞ?」
次は真の番なのだから今のうちに寝ておいたほうがいい、と響は元の場所に戻ろうとした。
「あれは咄嗟にああ言っただけなんだ」
だが真はそれより早く彼女の手をつかんだ。
「どういうこと? 交代で見張るんじゃなかったの?」
「ウソついちゃったことになるかな、やっぱり」
響は怪訝そうに真を見下ろす。
「意味が分かんないぞ。なんでそんなウソついたんだ?」
「そうでもしないと春香も千早も納得しないと思ってさ。もちろんボクもだけど」
「………………?」
「誰かひとりだけソファじゃなく床で寝るなんて気分がいいもんじゃないよ。響もそうだろ?」
「うん、まあ……でも自分は本当にそれでいいと思ってたし」
「それがダメなんだって。ボクたちだって落ち着かないよ」
掴まれた手をぐいっと引っ張られ、響はそのままソファに腰をおろした。
「ちょっと狭いけど肘掛けのところを枕代わりにすれば何とかなるよ」
つまりは2人で1脚のソファを使う、ということだ。
響はじっと真を見た。
「もしかして自分に気を遣ってくれたのか?」
「……そうなる、かな」
真はすぐには答えなかった。
「なんで?」
「なんでって……響だってそうじゃないか」
「…………?」
「ボクたちに気を遣って床で寝るって言ったんじゃないの?」
「ああ――」
それはたしかにそうだ、と彼女は何度も頷いた。
「ボクも同じだよ。ボクたちは同じ事務所の仲間だしね。それに――」
「うん」
「後ろめたさも……あるし――」
「ん? なんて言ったんだ?」
「なんでもないよ!」
真はわざとらしく手を振った。
「………………」
「………………」
「帰ったら……帰ってからも大変だよね」
ソファの反対側に向かって真が言う。
「いろいろ訊かれたりしてさ……週刊誌とかにもいろいろ書かれたりして――」
「うん…………」
「やっぱりアイドル、続けられなくなるのかな?」
「どうだろうな」
「そんなこと言ってる場合じゃないもんなぁ……」
「自分は別だと思う。自分たちは被害者なんだ。それでアイドルやめなくちゃいけないなんて納得できないぞ」
「――響って、ほんと強いよね。いつも何に対しても自信満々っていうかさ」
「だって自分――」
「カンペキだからね」
「それ、自分の台詞だぞ――って」
響はぎゅっと身を固くした。
「美希にも言ったんだよね……」
暫しの沈黙。
「自分のせいだ……あの時、自分が目を離したから、美希が――」
意を決したように彼女は言う。
その声はとてもか細く、時計の音にさえかき消されそうである。
「――響のせいじゃないよ」
否定する真の声も似たようなものだった。
「ボクたちも一緒に行動していれば犯人だって捕まえられたかもしれないのに」
「自分を責めてもしかたないぞ。悪いのは悪いヤツなんだから」
「それを言うなら響だって」
響は釈然としない様子だったが、
「そう、だな……」
やがて諦めたような調子で言った。
その後も2人は他愛のない話をして時を過ごしたが、やがて睡魔に襲われどちらからともなく眠りに落ちた。
―― 3日目 ――
2時51分。
律子はゆっくりと目を開けた。
「ん…………」
目頭を押さえる。
静かだった。
寝息が聞こえ、彼女はのっそりと顔をあげた。
テーブルを挟んだ向かい側のソファで春香が眠っている。
彼女は音を立てないように起き上がった。
その拍子に冷たい空気がわずか渦を巻く。
夏とはいえ深夜の館内は冷える。
「こんな時に……」
律子は露骨に不快そうな顔をした。
「寝る前に行っておけばよかったわ……」
テーブルにはカップがそのままになっている。
彼女はココアを飲んだ後、そのままトイレに行かずに眠ってしまっていた。
「春香……春香……」
耳元で囁きながら体を揺する。
「うぅ~ん……やめてくださいよぅ……ぷろでゅーさーさぁん……」
「春香、お願い。起きて」
少し強めに揺すると、春香はのっそりと顔を上げた。
「ふぇ……りつこ……さん……?」
目をこすりながら彼女はぼんやりとした表情で律子を認めた。
「起こしちゃってごめんなさい。その、ちょっとお願いが――」
律子は恥ずかしそうに切り出した。
・
・
・
・
・
春香は目を瞬かせた。
寝起きに入ってくるにしては光が強すぎるようだ。
防犯のために館内の照明は全て点けたままにしてあった。
「悪かったわね、起こしてしまって」
「いえ……大丈夫です」
生返事をする彼女はまだ半分眠っているようである。
談話室からトイレまでは近い。
南側の廊下を進めば突き当たりにあるので往復に時間はかからない。
2人は身を寄せ合うようにして廊下を歩く。
手洗い場のドアを開け、中の様子を窺う。
広い洗面所の向こうには男女別の手洗いがある。
中を確認した律子はほっと溜め息をついた。
「何かあったら大声を出して」
そう言い置いて、律子は手洗いに向かう。
「あ、はい」
ようやく目が冴えてきたのか、受け答えもしっかりしてきた。
「あれ…………? そういえば見張りは…………?」
呟いた時、背後から足音が聞こえ、彼女は振り返った。
8時27分。
「ん…………」
千早は目を覚ました。
眠気を振り払うように頭を振りながら、部屋の時計を見やる。
「8時…………?」
その視線をそのまま下にベッド代わりのソファを見やる。
雪歩が眠っている。
真白な布団が彼女の呼吸に合わせて上下している。
「みんな、起きて!」
彼女は喉の強さを披露した。
「みんなっ……!」
一番に目を覚ましたのは響だった。
「どうしたんだ、千早……大きな声出して……」
続いて真、遅れて雪歩がもぞもぞと体を動かす。
「春香と律子がいないの!」
そう言い、ソファを指差す。
「いない、って…………?」
真が飛び起きた。
2人の姿はどこにもなかった。
周囲に乱れた様子はなく、まるでふらりとどこかに立ち去ってしまったようだった。
「いったいどこに……!」
振り返った千早は雪歩を見て目を見開いた。
「は、萩原さん……! それ……!!」
ようやく体を起こした雪歩は目を瞬かせた。
しばらくして千早の視線を辿るように自分の胸元を見つめ、
「あ――!?」
小さく悲鳴を上げる。
雪歩の襟元から胸元にかけて点々と血が付着していた。
彼女はそれを払おうとした。
既に凝固していた血液は粉状になって繊維から剥がれ落ちた。
「ゆ、雪歩…………?」
響が怪訝そうに見つめる。
「わ、わたし、何も知らない! 何もしてないよっ!?」
「分かってる! 大丈夫だよ! 誰も疑ってなんかいないから!」
真が慌てた様子で駆け寄り、彼女の両肩に手を置いた。
「ね、ねえ、とりあえず貴音たちと合流しようよ」
響が言い、真と雪歩が曖昧に頷く。
「ちょっと待って。交代で見張るという話はどうなったの?」
だが千早だけは首肯せず、責めるような視線を2人に向けた。
真たちは困ったように俯いた。
「じ、自分のせいなんだ!」
「我那覇さん?」
「真と交代するつもりだったんだけど、昨日はいろいろあって疲れて……それで寝ちゃったんだ」
「本当なの?」
「………………」
追及するような厳しい視線に、響は目を逸らす。
「本当だと思うよ。次はボクのハズだけど響から声をかけられなかったし」
千早は口元に手を当てて何かを考える素振りを見せた。
「あの……見張りって何の話なの……?」
雪歩は困ったように口を挟んだ。
「そういう話だったんだ。ボクたち4人で交代で見張ろうって」
あ、と雪歩は声をあげた。
「ごめんなさい、私……寝ちゃってたから……」
「雪歩は悪くないぞ。自分たちで勝手に決めたことなんだから」
それより、と響はちらりと千早を見やる。
「自分たちを疑ってたり……しないよね……?」
彼女はすぐには答えなかった。
だがしばらくして顔を上げると、
「今は疑っても仕方がないわ。水瀬さんたちのところに行きましょう」
通る声でそう言った。
4人は談話室を飛び出し、階段を駆け上がった。
「あ…………」
真美の部屋に向かう途中、彼女たちは見た。
管理人室(律子の部屋)のドアに、斜線を引くように赤い塗料で線が引かれてある。
線は取っ手を起点に下に向かって伸びていた。
千早はドアを叩いた。
「律子――」
だが返事はない。
ドアはいっこうに開く気配がない。
彼女はノブに手をかけたが、施錠されているらしくドアは開かなかった。
「ねえ……」
真が赤い線を指差して震えていた。
「これ、あずささんの時と――」
同じだ、と彼女は言った。
「犯人の目印なんじゃないか……?」
「目印…………」
響の言葉に、3人は顔を見合わせた。
ドアのことも気になるがまずは伊織たちと合流するのが先だと、彼女たちは真美の部屋の前に立つ。
「真美たち、起きてる? 大変なんだ! 出てきて!」
響がドアを激しく叩いた。
しばらく待つが中からは何の反応もなかった。
「真美! 亜美! 貴音! 伊織!!」
返事は――ない。
「まさか……もう、4人とも…………?」
響が泣きそうな顔で振り返った時、
「待たせたわね」
ゆっくりとドアが開き、伊織が顔を覗かせた。
「い、伊織! みんな無事なんだよね!?」
真が飛びかかような勢いで言うと、彼女は立てた人差し指を自分の口元にあてた。
「貴音がまだ寝てるのよ。全員無事だから安心しなさい」
「そっか……良かった…………」
「それより何かあったの?」
問いに響はすぐには答えず、しばらく視線を彷徨わせたあと、
「春香と律子も……殺されたんだ……」
苦悶の表情を浮かべて言った。
その返答を聞いていた千早は訝るように響を見つめた。
「ウソ、でしょ…………!?」
大声を出しかけて伊織は慌てて口を押さえた。
「とにかく皆で一緒にいたほうがいいと思うんだ。亜美と真美はどんな感じなんだ?」
「――分かったわ。支度をしたらすぐに降りるから談話室にいてちょうだい。詳しい話はその時に聞くから」
「うん、気を付けるんだぞ」
「あんたたちもね」
伊織はドアを閉めて施錠した。
「ボクたちも談話室に行こう」
真が言うと雪歩は控えめに頷き、階段の方へ向きなおった。
4人は1階に降り、布団やクッションを壁際のソファ上にまとめた。
各々、すっかり脱力した様子でソファに座り、伊織たちが来るのを待った。
「……ねえ、我那覇さん」
低く、冷たい声だった。
3人とは距離を置くように腰かけ、俯いたまま視線だけを響に向ける。
「ん、なんだ?」
「どうして春香と律子が――その……殺されたと思ったの?」
落魄した様子だった真と雪歩が、弾かれたように響に目を向けた。
当の本人は質問の意味が分からないという様子だ。
「2人はいなくなっただけよ。殺されたとは限らない。現に私は2人とも無事だと信じているわ」
「………………」
「でも我那覇さんはさっき、水瀬さんにこう言ったわ。”春香も律子も殺された”って――」
近くにいたから間違いなく聞いていた、と千早は語気を強めた。
その言葉にようやく何を言わんとしているのかを理解したように、響は視線を彷徨わせた。
「じ、自分、そんなこと言ったっけ……?」
「ええ、間違いなくそう言っていたわ」
反対に千早は彼女を凝視した。
真も雪歩も成り行きを静観し、助け舟を出すことも仲裁することもしなかった。
「たぶんあの赤い線を見ちゃったからだと思う。それで自分……そう思いこんだのかも――」
「春香は?」
「え…………?」
「律子の部屋のドアにはたしかに線が引いてあったわ。でも春香はちがう。まだ確かめていないわ」
響は何も答えない。
だがこれまでの彼女とは異なり、その目はしっかりと千早を見据えていた。
「何か……あったのですか?」
伊織が施錠したすぐ後に、貴音は訝しげに問うた。
「あんた、起きてたんでしょ?」
「いえ、話し声が聞こえたものですから、それで目が覚めたのです」
「まあ、いいわ。それより――」
伊織は響から聞いたとおりに伝えた。
「まさか――」
「私も信じられないわ。あっちには律子がいたのに……それに春香まで……」
頭を押さえて彼女は深呼吸した。
「そんな状況だから合流したほうがいいって話になったのよ」
「なるほど、そういうことでしたか」
「さっき寝たばかりの貴音には悪いけど、これから談話室に集まることになってるの」
貴音は緩慢な動作で起き上がり、室内を見渡した。
「こちらには異常はないようですね」
「当然よ。私たちが見張ってたんだから」
拗ねたように言った伊織はまだ眠っていると亜美と真美を起こした。
2人はなかなか目を覚まさなかったが、強引に布団をはぎ取るようにするとようやく起き上がった。
「どしたの……?」
目をこすりながら問う亜美。
「ウソだっ! そんなのウソに決まってるよ!」
経緯を聞いた彼女は耳を被って叫んだ。
真美は何も言わなかったが、信じられないという様子で震えている。
「落ち着きなさい。とにかく合流するのよ。一緒にいたほうがいいわ」
だが亜美はかぶりを振った。
「ワガママ言うんじゃないわよ! 命が懸かってるのよ!?」
「いおりんだっていっつもワガママばっかり言ってんじゃん!」
「今はそういうこと言ってる場合じゃないでしょ!! これは――」
「……伊織」
貴音は目配せした。
「あなたが冷静にならなくてどうするのです。気持ちは分かりますが」
まずは2人を落ち着かせることが先だ、と彼女は宥めた。
「そんな余裕が……!」
「分かっています。ですが元々、私たちの心労を考えて二手に分かれたハズ。今の状態で落ち合っても――」
良いことにはならない、と彼女は言った。
「じゃあどうするのよ?」
「2人とも思っている以上に憔悴しています。響たちと合流するのは得策とは思えません」
そこで今しばらくここで慰撫することを伝えに行ってくれないか、と貴音が言う。
彼女は少し考えるそぶりをしてから言った。
「それはできないわ」
「………………」
「こうなったらこの館をひとりで歩く気にはなれないもの。談話室まで近いといってもね」
「ええ、たしかに――」
「だからって”あんただけが”行くのも反対よ」
貴音は何も言わず、瞑目した。
しばらくそうした後、大息した彼女は向きなおり、
「亜美、真美、聞き分けてくださいませんか?」
恭順な態度で理解を求めた。
2人は困ったように視線を彷徨わせる。
伊織は時折り時計を見ながら様子を見守る。
やがて顔を上げたのは真美だった。
「――わかった」
彼女はそれだけ言った。
わずか空気が和らぐ。
「真美たち……みんな無事に帰れるよね……?」
貴音の手を掴んだ彼女は潤んだ瞳で問うた。
「ええ、もちろんです」
ドアノブに手をかけている伊織に向かって、貴音は優しい口調で言った。
4人は音を立てないように部屋を出た。
階段を下りたあたりで言い争う声が聞こえてきた。
「何かしら……?」
談話室のドアを開けた時、
「千早は自分を疑ってるんだな? 千早だけじゃない。真も雪歩も」
響は千早を睥睨しながら言った。
「ち、ちがうよ! 響ちゃん! 私はそんなこと……!」
必死に否定する雪歩は既に涙目になっている。
「そうだよ! ボクだって響を疑ったりしないよ! きっと千早だって――」
肩越しに振り返った伊織は、貴音に2人とその場で待つように言った。
だが真美は、
「いいよ。真美たち、大丈夫だから」
凛然と言い、伊織に続いて談話室に入った。
「ちょっとちょっと。どうなってるのよ、これ?」
場を収めるように声を張る。
「あ、伊織……」
幸いとばかりに真が事情を説明する。
昨夜から今朝までに起こったこと。
それぞれがどんなことを言い、どう動いたかを辿っていく。
その間に貴音は2人をソファに座らせ、会話から遠ざけるようにした。
響を問い詰めていた千早も、伊織たちが入ってきたことで追及の手を止めている。
「なるほどね…………」
全て聞き終えた伊織は腕を組んでため息を吐いた。
「私が言えたことじゃないけど、今は疑ってる場合じゃないと思うわ」
「そう、だよね」
一番に真が同調する。
「律子と春香を捜すのが先よ。話はそれからだわ」
千早はまだ何か言いたげだったが、まずは2人を探そうということになった。
全員で動くのも効率が悪く、かといってばらばらになるのも危険ということで4人一組で捜索が始まる。
ただし膠着を避けるため伊織、千早、雪歩、真のグループと、貴音、亜美、真美、響のグループに分かれた。
亜美と真美は離れたがらず、彼女たちをうまく慰撫できるのは貴音だとしてこのような組み分けとなった。
伊織たちは1階を調べることにした。
まずは食堂がある西棟に向かう。
告発文を見ないようにして食堂、厨房と見て回るが異常はない。
美希の部屋の前に来た時、最初にそれに気付いたのは千早だった。
「これは…………!」
ドアには赤い線が引かれてあった。
「昨日はなかったよね?」
「ええ……」
真の呟きに伊織は曖昧に頷いた。
「血を表しているとでもいうのかしら……」
千早が不愉快そうに言う。
ひとつ隣の春香の部屋も同様だった。
念のためにとドアノブに手をかける。
鍵は――かかっていなかった。
部屋の中は特に荒されている様子もなく、ベッドの近くにバッグが置いてあるだけだ。
春香の姿はない。
「まだそうと決まったワケじゃないわ」
落魄した様子の千早に伊織は凛然と言った。
4人はエントランスを横ぎって東棟に向かった。
浴場や脱衣所、手洗いも調べるが不審な点は見つからなかった。
「何か違いがあるのかしら……」
エントランスに戻ると、伊織があごに手を当てて呟く。
「伊織ちゃん……?」
すぐ横にいた雪歩が怪訝な顔をした。
貴音たちは2階を捜すことになった。
ほとんどは客室なので多目的室や遊戯室を中心に調べる。
「この部屋は食堂に繋がっているのですね?」
改めて確認するように貴音が問うと、響は無言で頷いた。
4人は多目的室を前にしていた。
これが正式な合宿であればミーティングやダンスレッスンに活用できただろう。
しかし今回は小旅行だ。
海で泳ぎ、砂浜で遊び、集まるには食堂や談話室があるから、わざわざここや遊戯室を用いることはなかった。
それゆえに何かを隠すに適している、と貴音は言う。
「鍵は――かかっていませんね……?」
彼女は首をかしげた。
「どうしたの、お姫ちん?」
このわずかな所作にも亜美は怯えの色を見せている。
「ええ……昨日、美希を捜す際、私と律子嬢でこの部屋に入ったのですが……その時、彼女は確かに施錠したハズ――」
ゆっくりとドアを開け、不意の襲撃に備える。
暖炉に通じる床の切れ目には不審な点はない。
この室には他に隠れられるような場所もなく、ぐるりと一周しただけで捜索は終わった。
「ねえ……律子が鍵をかけたんだったら、犯人は館中の鍵を持ってるってことになるんじゃないか……?」
響が言った。
「何者かが彼女を殺害して鍵を奪取した、ということですか?」
「うん、だって元々、鍵を管理してたのはプロデューサーと律子だし」
「……一理ありますね――ですが……」
だとすれば大事だ、と貴音は続けた。
「何者かはこの館の全ての部屋を自由に出入りできる、ということになります。立て籠もることさえ容易でしょう」
彼女は一貫して”犯人”という表現を用いなかった。
「じゃあ真美たち、どこにいても同じってこと?」
「私たちの強みは団結できることです。何者かはおそらく単独で行動しているでしょうから」
「なんで分かるの?」
「協力者がいるのであれば効率よく立ち回れるハズです。このような迂曲な手段を用いずとも――」
もっと短時間で多くの人間を殺害できただろう、と彼女は言う。
4人は遊戯室に向かった。
「ここは昨日から開いてたよ」
とは亜美。
「着いた時に真美とちょっとだけ探検してたんだ。廊下側のドアは閉まってたけど、階段側は開いてた」
言いながら彼女はおそるおそる南側のドアノブに手をかけた。
ノブは数センチ下がるが、それ以上はびくともしない。
西側に回り込む。
こちらは施錠されていなかった。
中央にはビリヤード台が置いてあった。
北側の壁にはピアノがあり、小さいながらバーカウンターも設えられている。
設備に合わせるように内装も格調高さが重んじられていて、子どもには退屈な空間である。
照明は薄暗い。
障害物となるものも多く、入り口からでは全体の半分も見通せなかった。
「春香……? 律子……?」
それぞれに呼びかけながら室内を探る。
死角が多いため、4人は慎重に歩を進めた。
テーブルの下やカウンターの裏まで見て回るが、2人の姿はない。
「2人ともどこに行っちゃったんだ……?」
響の呟きに誰も答えなかった。
30分ほどかけて館内を調べ尽くしたが、春香も律子もとうとう見つからなかった。
談話室に集まった8人の顔は暗い。
「春香…………」
特に千早の落魄した様は甚だしく、今にも倒れてしまいそうなほど青白い顔をしていた。
「竜宮小町は解散だ、なんて……あんたまでいなくなってどうするのよ……!」
対照的に伊織の血色は良い。
もともと勝ち気な目つきに瞋恚(しんい)の色は隠れもしない。
彼女は床の一点を睨んだまま、この場にいない律子への恨み言を呟いている。
歔欷の声が聞こえた。
雪歩だ。
小刻みに揺する肩を、真がしっかりと抑えていた。
それらを貴音は少し離れたところから見ていた。
――数分。
彼女らが落ち着きを取り戻した頃を見計らって、貴音は平素と変わらない口調で状況を説明した。
「律子嬢が施錠したハズの戸には鍵がかかっていませんでした。プロデューサーが既に手にかけられたことも考えれば――」
「………………」
「何者かはおそらく全ての鍵を持っているでしょう。こうなっては自分の部屋に閉じこもる方法も得策とは言えません」
ちらりと亜美たちを見やる。
2人は困ったように視線を彷徨わせていた。
「どうするん、ですか……?」
「死角の少ない、広い場所に集まることです。手を出すのは難くなるでしょう」
他に案は出ない。
昨夜は2つのグループに分かれたが結局、複数で固まって備える、という策を既に実行していたにすぎない。
「律子が言ってた……妖怪の仕業、かもしれないぞ……」
響がぼそりと言うと、貴音は途端に顔を顰めた。
「それはあり得ないって言ったでしょ」
「おかしいじゃないか! 自分たち、犯人の姿を一度も見てないんだぞ? 周りにはちゃんと注意してるハズなのに!」
不機嫌そうな伊織の言葉を遮るように彼女は言った。
「でも妖怪だったら説明がつくでしょ!? 妖怪だったら――」
「音声を流す。告発文を書いて壁に貼る。刃物やロープで人を殺す。鍵をかける……そんな妖怪、いると思う?」
「それは――」
「仮にいたとして、どう対処するつもりよ? 相手が人間のほうがよっぽど対策を立てやすいわよ」
早口でまくしたて、しかし理路整然とした反駁に響は言い返せない。
「それに……考えてる?」
「な、何をさ……?」
「あんたたちの話だとここで寝たのよね? 交代で見張るって段取りで」
「そうだけど?」
「でも響は寝てしまって、そのまま夜が明けた――そうよね?」
響は躊躇いがちに頷いた。
「で、律子と春香の姿が消えた。雪歩には誰のものかは分からないけど血がついてる」
「……! わ、私じゃないよ…………!」
「分かってる。そんなこと言うつもりはないわ。私が言いたいのはね――」
傍にあったソファの背もたれに手を置き、
「人間にしろ妖怪にしろ、そいつはあんたたちが寝ているこの部屋に入ってきたってことよ」
伊織は通る声ではっきりと言った。
雪歩が小さな悲鳴を上げると、千早は訝るような目を伊織と響に交互に向けた。
「寝てるあんたたちに気付かれずに2人を連れ出して、撹乱するためなのか雪歩の服に血を付けた……。
言ってる意味、分かるでしょ? あんたたち全員、殺されていてもおかしくないのよ?」
あっ、と真が声をあげた。
「そっか! ボクたちだって襲われてたかもしれないんだ!」
「だけどそいつはそうしなかった。理由は分からないけど、わざと4人だけを残したのよ」
挑むような目が響たちに向けられた。
「それは、どうかしら……」
静観していた千早が容喙した。
「眠っていたとはいえ、私たちは6人もいたのよ。誰にも気付かれずに……2人を連れ出すなんてできるかしら?」
「だって実際に――」
「誰かが入って来たら気配くらいするわ。それに足音や衣擦れの音だって」
千早の言い分はこうである。
音を立てずに――立てたとしても――眠っている6人に気付かれず運び出すのは容易ではない。
よほどの怪力の持ち主でない限り2人いっぺんに運ぶことなどできないから、何者かがいたとすれば少なくとも2往復したことになる。
しかし抱き上げられたり、引きずられたりすればさすがに春香たちは目を覚ますだろう。
そうさせないためには談話室で何らかの方法を用いて意識を喪失させる必要があるが当然、そうなると他の5人が気付くハズだ。
以上のように考えると、伊織の言う手順は妥当だがどこかで無理が生じてしまう、というのが彼女の意見だ。
「ならこの状況はどう説明するのよ?」
「そう、ね……」
挑むような視線を躱し、千早は少し考えてから言った。
「犯人はこの部屋には入って来なかったか……あるいは複数だったらどうかしら?」
複数、という言葉に反応した何人かが亜美と真美に目を向けた。
「亜美たちだと思ってるの……?」
誰も何も言わなかった。
その中で貴音だけは、
「私と伊織には分かっていますよ。同じ部屋にいたのですから」
憐れむような、穏やかな口調で言った。
「じゃあ、もうひとつの、入って来なかったっていうのは――?」
おそるおそる問うたのは響だ。
千早はそんな彼女から目を逸らすようにして、
「最初から談話室にいた、ということになるわ」
搾り出すように言う。
「ドアを閉めれば外からこの部屋の様子を見ることはできない。私たちが起きているかも知れないのに、中の様子を見るのはリスクが大きいわ。
だけど初めから中にいたのなら、寝静まった頃合いを待つのは簡単だと思う」
「つまり自分を疑ってるってことか……?」
「そうじゃないわ。でも……ごめんなさい。我那覇さんじゃないと言い切る自信がないの」
響を庇う声は上がらなかった。
雪歩は困ったように伊織を見やったが、彼女はその視線に対して小さくかぶりを振った。
「なぜそう思うのです?」
誰も口を開こうとしないのを確認して貴音が問う。
射竦めるような炯々とした眼光を叩きつける。
だが千早は動じなかった。
「美希のことがどうしても引っかかるんです。あの状況で彼女を手にかけられるのは――」
響しかいない、と彼女は言う。
その理由として、目を離したほんの数分の隙に殺されるなどありえない、という点を挙げた。
「あの時、我那覇さんを一番庇っていたのは美希だから、我那覇さんが犯人だとしたら彼女を手にかけることはないと思っていましたが」
今となってはそう思わせ、ミスリードを誘った可能性もあると千早は言った。
それに対し、響も反駁する気が失せたように俯いていた。
雪歩は懇願するような目で伊織を見た。
「響じゃないと思うわ」
観念したように伊織が言った。
それに対して瞠目したのは響ではなく千早だった。
「勘違いしないでよ? 私は美希のことを言ってるんだから」
「どういうことかしら?」
「美希が見つかったのは厨房の奥だったわよね。私の記憶だと、あそこは最初に真と雪歩が調べたけどその時は何もなかった――そうよね?」
「う、うん、そうだよ。間違いないよ」
真が言うと、雪歩も追従するように何度も頷いた。
「その後、再度調べて美希は見つかった。見つけたのは誰だった?」
千早は気まずそうに俯いた。
「私と春香と……我那覇さんだったわ」
貴音が胸元に手を当て、深呼吸した。
「あんたたち3人はずっと一緒に行動してたんでしょ? だったら響に美希を運ぶチャンスはないわ。できたとしたらあんたと春香が協力したことになる」
「そんな! 私たちは……!」
「でしょ? 美希を手にかけた後にどこかに隠し、あんたたちと行動しながら隠した遺体を厨房の奥に移す……そんなの不可能よ」
響はほっとしたようにため息をついた。
「だけど春香と律子の件に関しては別よ。あんたが言うように響の可能性もある」
「ね、ねえ……もうやめようよ……」
掠れた声で雪歩が言う。
「疑い合うのはよくないよ。そんなことしたって何にもならないよ……」
か細い仲裁に一同はしばし言葉を失った。
誰かを責める声は聞こえない。
だが事態を好転させようという声も出なかった。
――数分。
沈黙を破ったのは貴音だった。
「空腹を満たさなければ良い考えも浮かびません」
冗談なのか本気なのか分からない口調に、
「ほんっといいタイミングよね」
本気なのか冗談なのか分からない口調で伊織が言った。
10時11分。
彼女たちは食堂にいた。
誰も告発文を見ようとはしなかった。
テーブルの上にはパンと即席のスープ、サラダだけだ。
たったそれだけの量でも雪歩や千早は半分も食べられなかった。
反対に健啖な貴音や真、響は周囲を窺いながらではあるものの全て食べきった。
「これからどうするか考えなくちゃいけないわね」
オレンジジュースを飲みながら伊織が言う。
「どこかで固まっておくしかないんじゃないか? ひとりで行動するのは危険だし」
「それでも春香と律子の件は防げなかったじゃない」
ぴしゃりと言われて響は黙り込んでしまった。
「複数で集まって……はもう意味がないわ。それ以外の方法を考えなくちゃ」
「じゃあ、みんなバラバラになるの?」
真が訝るように問う。
「まさか。それじゃ犯人に狙ってください、って言ってるようなものよ」
「じゃあどうするのさ?」
「そうね……」
伊織は顎に手を当てた。
・
・
・
・
・
11時27分。
結局、妙案は浮かばず8人は談話室に集まることになった。
そこそこに広い、この空間。
椅子の数も充分にあるが彼女たちは既にいくつかのグループに分かれていた。
ソファで身を小さくしている雪歩とそれを支える真。
互いにずっと手を握り合い、隅で震えている亜美と真美。
千早は響を疑うような目で見、彼女はその視線を躱すように背を向けている。
伊織と貴音はそれぞれ離れたところから談話室全体を見渡すように構えた。
膠着状態が続いた。
交わされる会話は互いを気遣うか、何かを探ろうとするものばかりで言葉が続かない。
亜美も真美もゲームでもして気を紛らそうと提案しないから、談話室には動きがなかった。
「ああ、もう! こんな湿っぽい空気は耐えられないぞ!」
突然、響が立ち上がった。
その声に雪歩はびくりと体を震わせる。
「自分、ちょっと外の様子見てくる!」
言いながらドアノブに手をかける。
「………………!」
その手を掴んだのは伊織だった。
「どこに行くつもりなの?」
「ちょ、ちょっと外の様子を見に行くだけだぞ」
「――ひとりで?」
その言葉に全員の視線が響に注がれた。
彼女はばつ悪そうに俯いてから、
「付いてきてもかまわないぞ」
拗ねるように呟いた。
「どうする?」
伊織は貴音に水を向けた。
「危険です。どこに凶徒が隠れ潜んでいるか分からないのですよ?」
「でも近くを通りかかる船があるかもしれないじゃないか」
何人かが顔を上げた。
「た、たしかにそうよね……」
これには伊織も不意を突かれたように目を丸くした。
「迂闊だったわ。迎えが来るまでどうやって生き延びるかばかり考えてた……」
彼女の言うように通りかかる船があれば助けを求めればいい。
そうすれば明日の送迎まで怯えなくてすむ。
何もしないよりはずっといい。
名案だ、というムードが広がり、談話室の空気は少しだけ暖かくなった。
「だけどひとりはダメよ。少なくとも3人……ううん、やっぱり4人くらいでないと」
言いながら伊織は貴音に合図した。
それを受け取った彼女は短く息を吐いて、
「では私が同行いたしましょう。あとの2人は響が選んでください」
「うぇっ? た、貴音?」
「私では問題がありますか?」
「い、いや! そんなことない! そんなことないぞ! そうだなあ……じゃあ――」
響は6人の顔を順番に見回した。
「雪歩と真。どう?」
先に名前を呼ばれた雪歩は困ったように真を見た。
「ボクはかまわないよ。雪歩はどう?」
「う、うん。真ちゃんがいいなら」
メンバーは決まった。
携帯電話が通じず連絡がとれないため、外での行動は2時間以内と決まった。
2時間以上経っても館に戻ってこない場合、今度は伊織たちが4人を捜しに出ることになる。
「無茶しないでよ? 貴音がいるから大丈夫だとは思うけど」
「伊織たちこそ、気を付けてよね。自分たちが出たらすぐに鍵をかけるんだぞ」
「分かってるわよ」
それぞれに武器(モップの柄や擂粉木等)を持ち、4人は館を出た。
言い出したのは自分だからと響が先頭に立つ。
11時51分。
陽射しはよかったが、それゆえに枝葉が地面に落とす影も濃い。
どこから犯人が飛び出してきてもいいようにと、4人は油断なく周囲を探りながら浜を目指す。
「昨日、物置を調べてた時、律子がこの辺りで何か動いたって言ってたんだ」
雪歩が小さく悲鳴を上げて真にしがみつく。
「ゆ、雪歩。あんまりくっつくとかえって危ないよ」
「で……でもぉ……」
彼女は微風に木の葉が揺れる度に身を固くした。
浜への道はまだ少し泥濘(ぬかる)んでいることもあり、一行の歩みはゆっくりしたものだった。
「お待ちを。皆、注意を怠ってはなりませんよ」
桟橋まで百メートルほどというところで貴音が言った。
「私たちが外部に助けを求めに行くことは犯人も想定しているかもしれません」
つまり待ち伏せの可能性があるという。
「なん、なんくるないさー。こっちは4人もいるし、じぶ……自分がついてるからな!」
「響……声、奮えてるよ……」
そう言う真の声調も上ずっている。
4人はこれまで以上に慎重に歩を進めた。
余分に日光を浴びているからか、浜に続く一帯の樹木は他よりも高く、青葉は蓁々と茂っている。
当然、それだけ死角も多くなるので4人は衣擦れの音にも気を遣った。
しかし不安も杞憂に終わり、一行は開豁とした白浜に出た。
ここならば見通しはよく、人が隠れられるような場所もない。
「とりあえず一安心、かな……?」
常に臨戦態勢だった真は大息した。
とはいえ油断は禁物だ。
相手は神出鬼没の大量殺人犯である。
けして気を抜くべきではない、と貴音は忠告した。
4人はひとまず桟橋のある場所へ向かう。
船が通るなら、できるだけ海に近いほうが発見されやすいだろうとの考えだ。
「ところでさ、響。どうやって合図を送るの?」
「え? あ……」
「もしかして考えてなかった?」
「いや……そんなワケないじゃないか! あ、そうだ! こうすればいいんだ!」
響は慌ててポケットからスマホを取り出し、頭上に翳した。
「ほら、こうやって太陽の光を反射させれば――」
高々と掲げたディスプレイの角度を調節していた響だったが、折角の回答も尻すぼみになる。
厚い雲がぐんぐんと押し寄せて日光を遮ってしまったからだ。
「花火でも持ってくればよかったね」
と言う真の苦笑は慰めにもならない。
桟橋に立った響は時々後ろを振り返りながら、茫乎(ぼんやり)と水平線を眺めた。
5分経ち、10分が経つ。
しかし船どころか海鳥の姿すら見えない。
「そう都合良くはいきませんね……」
貴音が落魄した様子で呟く。
「こうなったら泳いで港まで行って助けを呼ぶしかないかも……」
「そ、そんなの、いくら響ちゃんでも危ないよ」
雪歩に言われて彼女は腕を組んで唸った。
遠泳は大きな危険を伴う。
水棲生物には毒を持つ個体も多い。
いかに体力に自信があろうと、無事に泳ぎきれる確証はない。
「筏(いかだ)を作るのはどうかな……?」
「それも一手かもしれません」
一番に貴音に認められ雪歩は恥ずかしそうに俯いた。
「そんな道具あったっけ?」
厨房にあるような包丁では樹木は切れない。
また川や湖ならまだしも、長距離を安全に移動する筏となると製作は容易ではない。
遠泳よりもマシだが実現は難しいとして、4人はこの案を却下した。
さらに10分ほど経ったところで、他の方角も見てみようという声が誰からとなくあがる。
せっかく船があっても島の反対側にいたのでは意味がない。
いなくなった春香たちの捜索も兼ね、彼女たちは時計回りに海岸線を歩く。
「見えないね……」
船の姿はない。
渺茫(びょうぼう)として広がる海原には漁船の一艘さえ存在しない。
再び木々が生い茂る一帯にさしかかる。
林間では自分たちが茂みを踏み歩く音が僅かに遅れて響くため、4人は何度も何度も振り返った。
道はやがてなだらかな登り坂になる。
蒼い海を左手に見ながら斜面を登りきると、切り立った崖の上に出た。
「ここからでは難しいでしょう」
周辺はかなりの高地になっている。
海との境目は崖になっており、仮に船と交信ができてもここからは降りられそうにない。
「どうしますか? かなり時間が経っていますが……」
時計を見ると4人が館を出てから1時間以上が経過していた。
館まで戻る時間を計算すると、外にいられるのはせいぜい30分ほどだ。
それ以上となると伊織たちとの約束が守れなくなる。
「自分はもう少し船が来ることに賭けたいけど……」
と言って響はちらりと雪歩を見やった。
ここに至るまで険阻な道も多く、彼女は額に大粒の汗を浮かべていた。
「雪歩、つらそうだぞ? 大丈夫?」
「う、うん……私なら大丈夫だよ。ちょっと息が上がっちゃっただけで……」
「無理しちゃダメだよ」
真が背中をさする。
「ありがとう、真ちゃん。ごめんね、足……引っ張っちゃって……」
「――いえ、真の言うとおりです。無理をするべきではありません」
貴音は表情を変えずに言った。
「犯人の所在が分からず島からの脱出も望めない以上、私たちは自分で身を守らなければなりません。体力の消耗は避けるべきでしょう」
そう言って響を見る。
彼女はしばらく海の向こうを眺めていたが、やがて納得したように頷いた。
だがせめて一縷の望みに縋ろうと、館までの帰路はできるだけ海岸線を選ぶことになる。
坂道をゆっくり降りていくと、次第に雪歩の呼吸も整ってきた。
「――では特に物音を聞いたり、異変を感じたりということはなかったのですね?」
道中、昨夜の件について話し合う。
この中でひとり2階にいたため当時の状況を知らない貴音は、見張りをしようとしていた真、響から事情を聞いた。
「うん。こんな状況だし気が張ってたハズだから、何かあったらすぐに目を覚ますと思うんだけど……」
答える2人の歯切れは悪い。
「見張り、ちゃんとしておけばよかったな……」
呟いた響は慌てて真の顔を窺った。
すぐにばつ悪そうに目を逸らす。
「伊織も言っていましたね。2人だけでなく全員が手にかけられていた可能性もあると」
「うん――」
「しかし犯人は敢えて4人を襲わなかった。その理由は分かりませんが、誰ひとり気付かなかったとなると――」
貴音は響を見た。
「………………」
「2人は自発的に談話室を出た、とは考えられないでしょうか?」
「………………」
響は安堵したように息を吐き出した。
「自発的、ですか?」
「ええ。なんらかの事情で自らの意思で談話室を離れた、と。そこを狙われた――という可能性もあります」
「こんな状況なのにどんな理由で? それに春香と律子は一緒に行動したの? それとも別々で?」
真は矢継ぎ早に質問をぶつけたが、貴音はそのどれにも答えなかった。
代わりに彼女がしたのは、
「交代で見張りをするハズが眠ってしまった――というのは本当ですか?」
新たな疑問を口にすることだった。
その目は一度、真に向けてから次に響を捉えた。
「ああ、えっと――」
響は真に助けを求めた。
「半分は本当、かな。実は――」
見張りを提案した本人として彼女は事情を説明した。
「なるほど、そういうことでしたか」
得心したように貴音が頷くと、雪歩は申し訳なさそうに縮こまった。
「――しかし、そうするとひとつの可能性が出てきますね」
彼女の目つきは俄かに鋭くなった。
その変化に気付いた響は咄嗟に余所を向いた。
「2人が自発的に談話室を出たとしたら、その後を追うのは難しくないでしょう」
「ね、寝てる間のことなんだから無理じゃないか……?」
「そうとは限りません。皆が眠っているのであれば起きている者には造作もないハズです」
「でも、あの……それだと誰かが寝たふりをしていたことになりませんか……?」
おずおずと雪歩が言う。
しばしの沈黙のあと、彼女は天を仰いだ。
「――そういうことになりますね」
13時44分。
扉を開けるなり、伊織は怒っているような呆れているような目で4人を見た。
「もう少し遅かったら探しに行くところだったわよ」
言ってから彼女は所在なげに髪をいじった。
「ごめんね、伊織ちゃん。私が足手まといだったせいで……」
「ちょっと? 怪我でもしたの?」
「ううん、そうじゃないの」
というやりとりを千早はやや離れたところから見ていた。
「それでどうだったの……って訊くまでもなさそうね」
談話室に集まって情報を共有する。
といっても4人には収穫はない。
念のためにと捜索を兼ねたものの、春香も律子も見つからずだ。
一方、伊織たちには小さな変化があった。
「あんたたちが外に出てる間に千早が見つけたのよ」
彼女がテーブルに置いたのは眼鏡だった。
左側のレンズが割れ、フレームが少し歪んでいる。
「ソファの下に落ちていたわ」
あそこに、と千早が指差す。
「律子の、だよね……?」
「としか考えられないわ」
シーツの乱れ具合やソファの下に潜り込んだと思われる壊れた眼鏡。
このことから彼女たちは、ここで犯人と揉み合いになったのではないかと話し合った。
しかし、と口を挟んだのは貴音だ。
「眼鏡がこうなるほどの揉み合いならなおさら、誰も気付かないというのは不自然に思えますが……」
そしてやはり2人は自発的に移動したのではないか、という説を推す。
「この状況ですよ? どんな理由があるにせよ先に私たちを起こすと思いますけど」
千早の口調は少し怒っているようだった。
これだけ犠牲者が出ていて、迂闊な行動をするほど2人は軽率ではないと彼女は言う。
「何かよほどの事情があったのか、それとも――」
伊織は思いつめた表情でテーブル上の眼鏡を見つめた。
一同が昨夜の出来事について話し合っている間、亜美と真美はこそこそと何かを囁き合っていた。
「どうかしたの?」
それに気付いた真が問う。
2人はどちらが返すか譲り合った。
「はるるんと律っちゃんのことだけど……」
小競り合いの末、亜美が答える。
「ほんとに犯人のせいなのかな……」
「どういうことよ?」
挑むように訊き返したのは伊織だ。
「――伊織。亜美、お話しいただけますか?」
貴音は相手が誰であろうと慇懃に接する。
それがしばしば見当違いな発言をする年少者であっても例外はない。
「うん…………」
亜美たちの見解はこうである。
春香と律子は共犯であり、犠牲者を装って姿を隠した、
館の内外を捜しても見つからないのは、捜索の手を巧みにかい潜っているから。
そうして殺害されたと思わせる意図があるのではないか、というものだ。
「………………」
誰も何も言わなかった。
肯定することも否定することもしなかった。
互いが互いを探るような視線だけが複雑に交錯する。
「あ、あの…………」
その雰囲気に耐えかねたように雪歩が立ち上がった。
全員の視線が彼女に注がれる。
「お茶……でも淹れようかと思って……」
雪歩は困ったように俯いた。
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気分転換としては良いタイミングだった。
膠着し、さらなる疑心暗鬼に陥りそうだった彼女たちは一旦はその芽を摘まれたことになる。
厨房には伊織、真、響が同行した。
余計なことを言ったのではないか、と落ち込む亜美たちは貴音が慰撫している。
「亜美たちが言ってたこと、なんとなく分かる気がする」
湯が沸くのを待ちながら響がぼそりと呟いた。
「なんでそう思うの?」
訝るように真が訊く。
「生きてるかどうか――ハッキリ分からないのは2人だけだし……」
「それは……」
二度にわたる捜索は春香と律子が生きている前提で行なったことだ。
もちろん見つかればそれに越したことはない。
仮に遺体が見つかったとしても、確かな死として受け止めることができる。
だが亜美たちの発言により、2人が生きていた場合のほうが問題になってくる。
殺害されたワケではなく突然に姿を消し、しかも存命ということになれば――。
いよいよ彼女が言うように2人が共犯であるという説が濃厚になってくる。
「で、でもさ、そうと決まったワケじゃないよ。犯人に連れ去られたのかもしれないし……」
何か気の利いたことを言ってくれ、と訴えるように真は伊織を見た。
彼女は人数分のカップを用意したところでため息をついた。
「正直、意外だったわ。あの2人があんなこと言うなんて――」
怒っているというより憮然とした口調だ。
「あんなふうに本気で誰かを疑うようなこと、今までなかったのに」
それは仕方がない、と響が言う。
「こんな時、律子がいてくれたら……」
伊織にしては珍しい弱音を吐く。
「それは……」
響が何かを言いかけたところで湯が沸いたことを知らせるビープ音が鳴り、雪歩が火を止めた。
そして手早くお茶を淹れる。
沸騰したての湯を使うのは彼女らしくなかったが、作法など気にしていられない。
人数分のお茶を用意すると4人は談話室に戻った。
「――いえ、まずは安全を確保するほうが先でしょう」
「どこにそんな場所があるんですか? こうしている間にも……」
千早と貴音が揉めていた。
感情的になっている千早を貴音が宥めている。
「どうしたんだ?」
響は少し離れたところで見守っている亜美たちに訊ねた。
「千早お姉ちゃんがはるるんたちを捜そうって――」
と彼女が言うように、千早は再度捜索することを強く訴えている。
生死をハッキリさせたい、というのが理由らしい。
「縋りたい気持ちは分かります。その想いは私とて同じです。しかし迂闊に行動するのは危険です」
「四条さんだってさっきまで外に出て捜していたじゃないですか」
「それは――」
事の成り行きからだ、と返す調子は弱い。
「はいはい、そこまでよ。せっかく雪歩がお茶を淹れてくれたのに冷めちゃうじゃない」
見かねた様子で伊織が割って入る。
厨房を出る際に持ってきたかき餅を、わざと音を鳴らすようにしてテーブルに置く。
「取り敢えずいただきましょ。何か食べておかないと考えもまとまらないわ」
貴音は身を乗り出した。
16時01分。
お茶菓子もとうに底をつき、彼女たちは談話室で時を過ごした。
今後の方針が話し合われたが、それぞれの主義主張が折り合わず殆ど何も決まっていない。
合意できたことといえば、”行動する際は最低でも2人で”、くらいのものだ。
もう一度、春香たちを捜しに行くか、という議論も決着していない。
「あと1日、なんとかすればいいんだよね……?」
そう呟く雪歩は思いつめたような表情だった。
これまでの怯えているような顔つきとはどこかちがう。
「うん……」
相槌を打った真は時計を見た。
明日の今時分にはとうに迎えの船に乗って港に着いているハズだ。
「夜はどうする?」
とは響だ。
つまり一夜を明かす場所のことである。
「やっぱり広くて見通しの良い場所のほうが安全だと思うけど……」
「昨夜のことがあるんだからそれも確実とは言えないわね」
真が言い終わらないうちに伊織が釘を刺す。
「いっそのこと浜辺にテントでも張って、そこで寝泊まりしたほうがいいんじゃないか?」
「あんたたちならそれでいいかもしれないわね」
響に対するツッコミも精細さに欠けている。
平素なら直情的に反応する響も何も言わなくなってしまった。
「な、何か言いなさいよね……」
拗ねるように伊織が呟いた時、突然に千早が立ち上がった。
「どしたの、千早お姉ちゃん……?」
「春香たちを捜したくて……どうしても気になるから」
「でも――」
「分かってるわ。でも真たちが捜したのは外でしょう? まだ館内で調べていない場所だってあるハズ」
千早は拘泥(こだわ)りゆえの頑固さはあっても、強く主張するタイプではない。
その彼女にしては珍しく捜索を断行しようという意思を見せている。
しかしそれに追従する声はあがらない。
希望に縋って危険を冒すよりも安全策をとりたいというムードが広がっていた。
「自分が行くぞ」
響が同行に名乗りをあげた。
その反応に千早が驚く。
「我那覇さんが……?」
訝るような視線は明らかに響に対する懐疑だった。
「自分も春香と律子は無事だって信じてるし。千早もそうでしょ?」
「え、ええ……」
真っ直ぐに見つめられて彼女は曖昧に頷いた。
「では私も参りましょう」
そう言って立ち上がりかけた貴音を響は制した。
「自分と千早だけで大丈夫だぞ。捜すのも館内だけだし。貴音はここでみんなと一緒にいてよ」
「ですが――」
危ない場所に行くワケではないのだから心配はない。
外とちがって館内は動ける範囲が限られているから大丈夫だ、と響は言った。
「そこまで言うのでしたら……分かりました。ですが危険を感じたらすぐに戻って来るのですよ? もし犯人と対峙してもけして立ち向かってはなりません」
「分かってる。気を付けるから。千早、どこから調べるんだ?」
「館内をくまなく調べ回るつもりはないの……まずは春香の部屋を見ようと思って。何か手がかりがあるかもしれないから」
危険なことはしないと約束し、2人は談話室を出ていった。
「………………」
「………………」
伊織と貴音の目が合う。
「どうかしましたか?」
「あんたなら絶対に付いて行くと思ったけど」
「響が信じているように、私も響を信じておりますから」
「そう……そういえばさっき出ていく時、響は千早より後ろを歩いていたわね……」
言ってから彼女はソファにもたれて大息した。
「私たち、感覚が麻痺してるのかしら……?」
どういうことか、と雪歩が問う。
「あずさがあんなことになってやよい、プロデューサー、それに美希までもが犠牲になったわ。そのうえ今度は春香と律子が行方不明――」
「うん……」
「こんな異常事態、泣き叫んで館を飛び出してもおかしくはないわ。なのに私たちはこうして涙も流さずにじっとしてるだけ……」
「そんなこと、ないよ……」
弱々しい声がぼそりと否定する。
「悲しくないワケないから……私だって逃げ出したいくらいだもん」
「………………」
「でも島からは出られないし、わ、私たちにできることをしないと……」
つまりこうして談話室に集まり、冷静に努めることも大事だと彼女は言った。
「あ、そうだ」
自身の言葉の勢いを借りるように雪歩は立ち上がる。
「ど、どうしたの急に?」
横にいた真がびくりと体を震わせた。
「あのね、携帯が繋がるかどうか試してみようと思って」
「なに言ってるのよ。みんなで試したじゃない」
伊織が呆れたように言った。
「あの時は私、携帯を部屋に置いたままでまだ試してなかったから……」
「そういえばボクのを見てたよね」
思い出したように真が言う。
「はて? 携帯電話というのはどれも同じ機能を有しているのでは?」
「ああ、えっと、機種によって性能にも差があるんだよ。ボクたちのはダメでも雪歩のなら繋がるかもしれないね」
試していない携帯がある、という空気に一同は僅かに希望を抱いた。
念のために各々、ポケットから携帯を取り出すが誰の物にもやはり”圏外”と表示されている。
「それでね、真ちゃん……ひとりで行くのは怖いから……」
ついてきて欲しい、と言い終わる前に真は立ち上がっていた。
「分かった。ちょっと言ってくるよ」
もしかしたら外と連絡がとれるかもしれないという期待に、彼女の声はわずかに弾んでいた。
「気を付けるのですよ」
忠言を送った貴音の視線は亜美たちに向けられていた。
2人は足早に談話室を出ていった。
「繋がるとよいのですが……」
貴音の呟きに伊織は小さく頷く。
「あの、さ……」
それまで黙っていた真美が口を開いた。
「真美たちも部屋に戻っていいっしょ?」
「――なぜです?」
「そのほうが安全だから」
「…………」
貴音と目が合った伊織は首を横に振った。
「いいえ、2人で部屋にいるのも安全とはいえません。犯人は神出鬼没です。いつ狙われるか分からないのですよ?」
「でも、千早お姉ちゃんやゆきぴょんたちだって2人で行動してるじゃん」
館内を動き回るより部屋に閉じこもっているほうがよほど安全だ、と亜美も加勢する。
「え、ええ……」
貴音は言葉に詰まった。
「あんたたちじゃ身を守れないでしょ?」
何も言わなくなった彼女に代わって伊織が一蹴する。
「真と響が同行してるのよ。あいつらだったら逆に犯人を気絶くらいさせるかもしれないわね」
言葉とは裏腹に表情には余裕がない
状況も相俟って虚しい強がりにしかならなかった。
「じゃあなんではるるんと律っちゃんはいなくなったの?」
挑むような亜美の目が伊織を捉えた。
言外にはその真と響がいながら……という、先ほどの強がりの矛盾を突いている。
伊織はすぐには答えなかった。
ややあって、
「”だからこそ”ここにいなくちゃいけないのよ」
彼女はその矛盾を巧く利用した。
数分後。
雪歩と真が落魄した様子で戻ってきた。
「ダメだったよ……」
とは言うまでもなく、2人の顔が物語っている。
「一応ホールの電話も見たけどやっぱり切れてた……」
雪歩が今にも泣き出しそうな顔をする。
これで外部との連絡手段はなくなった。
「どうにかできないかな……」
目元を指で拭いながら雪歩が呟く。
「手紙を瓶に入れて流すとか……」
この異常事態がそうさせるのか、彼女はどうにか状況を打開できないものかと積極的に案を出す。
「瓶が拾われる前に迎えの船が来るわよ」
「そう、だよね……」
せっかくの雪歩の発案はたった2秒で撃砕された。
「まあ、でも外に出ようっていうアイデアは悪くないわね。舟でも造れればいいんだけど」
「筏は無理だよ。ボクたちもそういう話はしてたんだけどね」
「そうなの? あんたが無理なら他の誰にも無理ね」
「えーっと……それ、褒めてる……?」
真はぎこちない笑みを浮かべたあと、
「外に伝える方法――あ! 島の木を燃やすっていうのはどう? それなら遠くからでも分かるんじゃないかな?」
物騒な手段を提案する。
「あ、危ないよぅ。もし燃え広がったりしたら……」
「そもそも放火は犯罪じゃないの」
「うーん、悪い手じゃないと思ったんだけどなあ……」
2人に諭されて渋々意見を引っ込める。
ただ、と伊織が顎に手を当てて言う。
「最終手段としては悪くないかもしれないわね」
「い。伊織ちゃん!?」
「犯人がうろついてるのに放火だの犯罪だの言っていられないわ」
「それはそうだけど……」
「なんなら館ごと燃やせば犯人だって隠れる場所がなくなるんだから、いやでも出てくるわよ」
真顔で言う彼女の策は、文字どおり炙り出し作戦だ。
もちろん風向きや延焼の具合によっては大きな危険を伴う。
しかも遺体の損傷も考えれば後々に面倒を残すことは必至だ。
「ねえ……」
亜美が掠れるような声で言った。
「千早お姉ちゃんたち……遅くない……?」
その一声に全員がハッとなって時計を見る。
2人が談話室を出てから既に20分ちかくが経過していた。
「まさか……!?」
もう何度も口にした言葉が誰からともなく発せられた。
「たしかに遅すぎるわ……!」
一番に立ち上がったのは伊織だ。
続いて全員が腰を上げる。
「千早ちゃん、春香ちゃんの部屋を見るって言ってたよね……?」
「行きましょう!」
貴音が立てかけてあったモップの柄を手に取った。
それぞれに武器を持ち、6人は春香の部屋に向かう。
最後尾を歩く亜美と真美は伊織たちからやや距離を置くようにしてついていく。
陽が沈みはじめ、やや薄暗くなった館内は魔物の棲み家を思わせる。
エントランスを通り抜け、廊下を曲がる。
角に何者かが潜んでいる可能性を考慮し、真と貴音が先頭に立つ。
「千早……響……?」
春香の部屋の前に立ち、貴音がひかえめにドアをノックする。
返事は――ない。
「………………」
「ボクが……」
貴音に目配せし、真はドアノブに手を触れた。
鍵は開いていた。
「亜美、真美、もうちょっとこっちに来なさい」
伊織が離れた位置に立っている2人に手招きした。
「――入るよ」
「いえ、私が参りましょう」
踏み込もうとする真を制し、貴音は音を立てないようにして身をすべり込ませる。
異常は見当たらない。
昨夜、談話室で寝るためにベッドからシーツを剥がされている以外は不審な点はなかった。
荷物も手つかずのままだ。
調度品も動かした痕跡はない。
「特におかしなところはないようです」
入り口に立っている真に言ってからバスルームを調べる。
中は乾いていて水滴のひとつもついていなかった。
「ここにはいないようです」
と彼女が言うと、雪歩は安堵したように息を吐いた。
「でも、だったらどこに行ったの……?」
言いかけて伊織はあっと声を上げた。
「管理人室……律子の部屋かもしれないわ!」
6人は来た道を戻り、階段を駆け上がった。
「千早っ!?」
先頭を走る真が叫んだ。
管理人室へと続く廊下の真ん中に、千早がうつ伏せに倒れていた。
「ウソ……でしょ……?」
数秒遅れで辿り着いた雪歩はその場に頽(くずお)れた。
その後ろでは亜美と真美が互いに抱き合うようにして打ち震えている。
「千早! 千早っ!」
肩を掴んで仰向けにさせ、真は何度も呼びかけた。
雪歩は慄(おのの)くばかりで行動を起こせない。
「こんな――」
伊織も似たようなものだった。
声をかけることも駆け寄ることも彼女はしない。
「千早…………?」
貴音は小さく呼びかけながら傍に跪いた。
「千早! ねえ、千早!」
真は縋りつくように両肩を掴む。
激しく揺さぶられる千早は、しかしそれでも閉じた目を開けることはなかった。
「ウソ、だよね……?」
力の入らない足を引きずるようにして雪歩が歩み寄る。
ふっと視界が暗くなり、貴音は徐に顔を上げた。
逆光に立つ雪歩は涕を流していなかった。
「ん…………」
その時、不意に千早がうめき声をあげた。
「千早っ!?」
真が反射的に顔を覗きこむ。
瞼がわずかに痙攣していた。
「生きています!」
貴音が彼女の脈をとって叫ぶ。
「生きてるん……ですか……?」
雪歩は言ってから慌てて口に手を当てた。
千早がゆっくりと目を開いた。
そして半ば夢の中にいるような表情で天井――厳密には見下ろす真と貴音の顔――をぼんやりと眺める。
「よかった……無事だったのね……」
伊織はその場にへなへなと座り込んだ。
「目立った外傷は……ないようですね」
貴音がにこりと微笑む。
だがそれも束の間、彼女の表情は再び険しくなる。
「私…………?」
千早はこめかみの辺りを押さえた。
次第に寝起きのような顔がはっきりしていく。
視線を彷徨わせて慌てて振り向く。
すぐそこにあるのは管理人室だ。
「ねえ、いったい何があったの?」
真の問いに彼女は俯いた。
「よく憶えていないの……たしか我那覇さんが先に部屋に入って――何かが倒れるような音がして……」
「………………」
「それで私も急いで部屋を覗いたら、何かを顔に押し当てられたような……」
そこからの記憶はなく、目を覚ましたらこの状況だったと千早は言う。
頭を押さえながら彼女は立ち上がろうとした。
だが蹌踉(よろ)めき、バランスを崩しかけたところを雪歩が支える。
「薬か何かを嗅がされたのかもしれませんね」
貴音が管理人室のドアノブに手をかける。
だが施錠されており開けることができない。
「我那覇さんは……?」
自分を心配そうに見つめる面々を順番に見返す。
その顔が文字どおり蒼白に彩られていく。
「ここに倒れてたのはあんただけよ。それに律子の部屋に鍵がかかってるってことは――」
伊織の額に大粒の汗が浮かんだ。
「――響はどこに行ったの!?」
千早が無事であることが分かり広がった安堵感が、新たな不安感を纏って戻ってきた。
「皆は千早をお願いします」
「四条さん……?」
中央棟に向かって歩き出した彼女を千早が慌てて呼び止める。
「ボクも行くよ」
「私もよ」
真、伊織がそれに続こうとする。
「待って! 私なら大丈夫……私も我那覇さんを捜すわ」
「でも千早ちゃん、まだ……」
「ありがとう、萩原さん。本当に大丈夫だから」
千早は強がりはするも愛想笑いを浮かべることはしない。
その凛然とした目つきに押されたように、雪歩も何かを感じ取ったように頷く。
「亜美、真美、あんたたちも付いてきなさい」
伊織が肩越しに振り向いて言う。
貴音たちは鍵のかかったドアノブをひとつひとつ回しては響の名を呼んでいる。
突き当たりにある千早の部屋、その反対側にある多目的室を見て回るが響の姿はない。
突然、何を思ったか真が東棟に向かって走り出した。
「え!? 真ちゃん! どこに行くの!?」
「ちょっと見てくるだけ! すぐに戻るから!」
「いけません! 単独行動は危険だと――」
貴音がすぐさまその後を追う。
「なにやってんのよ、あのバカ……!」
伊織も追いかけようとしたが、はたと立ち止まって振り向く。
まだ満足に動けないらしい千早と、彼女を支える雪歩。
亜美と真美は積極的に捜索に加わるでもなく、彼女たちと常に一定の距離を保っている。
「ああ、もう!」
苛立たしげに叫ぶと、彼女は反対側から千早の体を支えた。
真がそこにたどり着いた時には、既に貴音も追いついていた。
――響の部屋の前。
「ここにいると?」
「ううん、これを確かめに来たんだ」
そう言ってドアを示す。
「赤い線が引かれてない。響は無事だと思う」
「ええ、そうですね……」
足音が聞こえ、貴音がそちらを向く。
千早たちだ。
「急に走り出して何なのよ!」
口を尖らせる伊織に真はその理由を説明した。
「………………」
伊織は何の変哲もないドアをしばらく見つめてから言った。
「あの赤い線がないから響は生きてる――あんたはそう考えてるワケね」
「そう言ってるじゃないか。今までのことを考えたら――」
伊織は何か言いたそうに唇を噛んだ。
「響……?」
2人のやりとりを傍目に貴音がノックする。
中から返事はなく、ドアは施錠されていた。
念のためにと伊織の部屋も覗くが、やはり彼女の姿はなかった。
・
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彼女たちは廊下の突き当たり――物置へと続くドアの前にいた。
2階でまだ捜していないのはここだけだ。
端に武器を持った貴音が構え、真がドアを開ける。
生暖かい風が流れ出す。
犯人が潜んでいる様子はない。
「――――ッ!!」
千早がハッとなって口を手で押さえた。
見開かれた双眼がその一点を凝視する。
「千早お姉ちゃん……?」
後ろ手に亜美の手を握りながら、真美が気遣うように声をかけた。
「どうかしたの?」
気付いた伊織も問いかける。
千早の右手が操り人形のようにゆっくりと持ち上がり、正面の棚を指差す。
「あれが何か――」
貴音が訝るような目で千早を見た。
「昨日ここを調べたあと、動かした棚を戻さずに出たハズなのに……」
しかし今は元どおり真ん中にあって、奥の小部屋を隠している。
真は棚に向かってゆっくりと歩き出した。
物置部屋に漂うのはカビっぽい臭いだけではなかった。
肌にべったりと張り付くような湿気。
思わず噎せてしまいそうな塵埃。
そして――。
ここに来て彼女たちが幾度となく嗅いだ血の臭い。
埃をかぶった棚に真が手を添える。
全員が見守る中、彼女はゆっくりとそれをスライドさせる。
響があった。
隠し部屋の奥で体をくの字に折り曲げて倒れていた。
何かで刺されたのであろう、腹部は赤黒く染まっている。
「ひび……き……?」
伊織が足を引きずりながら近寄る。
響の体にはいくつもの刺し傷があった。
肩にも首にも――。
抵抗した後は見られなかった。
「そんな……ウソだ…………」
真は全身から力が抜けてしまったように崩れ落ちた。
「なんでだよ……ひびき……なんで……?」
その問いに彼女は答えない。
答えられるハズがない。
「まだ決着がついてないじゃないか……泳ぎも、ビーチバレーも……ダンスだって――」
「………………」
「どっちが勝つか、って……また勝負しようって約束したじゃないか……なのに、なんでだよ…………!」
外から様子を見ていた雪歩は、ぐっと拳を握りしめて中に入る。
彼女が動いたことでその背に隠れるようにしていた亜美たちが、隠し部屋の惨状を目の当たりにする。
そして――。
「もうイヤだっ! こんなとこいたくないッッ!!」
連れ立って物置部屋を飛び出していった。
誰もその痕を追おうとはしなかった。
振り返ることも見送ることもせず。
彼女たちの視線は新たな犠牲者に注がれていた。
「どうして…………!?」
跪拝するように伊織はその場に座り込んだ。
その数秒後、全く同じ言葉を雪歩が嗚咽交じりに口にした。
「こんなことになるなら……あんなこと言うんじゃなかった……!!」
泣き崩れる伊織は悔しそうに拳を握りしめた。
「ごめんなさい、響……私は……本当はあんたを疑ったことは一度もなかったのよ――」
貴音の視線が左右に揺れる。
動かぬ響と、動き出した真との間に揺れ動く。
「今さら何を言ってるんだよ? さんざん響を犯人扱いしてたじゃないか!」
掴みかからんばかりの勢いで真が叫ぶ。
「それ……ちがうの……」
それを止めたのは雪歩だった。
「何がちがうのさ? 伊織はずっと――」
「聞いて、真ちゃん!」
震える声が狭い部屋にこだまする。
一呼吸おき、彼女は昨日、頭を冷やすと言って談話室を出ていった伊織を追いかけた時のことを話し始めた。
・
・
・
雪歩は真美を伴って食堂に向かった。
先にいた亜美がどうにか伊織を宥めようとしている。
普段は良くも悪くもムードメーカーとなる亜美の口調も、今では空回りしかしない。
「――伊織ちゃん」
「なによ?」
やや後ろめたさの覗く勝ち気な姿勢が、説得に来た雪歩を怯ませる。
「あ、あのね……さっきのことだけど……」
「あんたも私が間違ってるって言いたいワケ?」
「え? うん、えっと――」
迫られ、彼女は助けを求めるように真美を見た。
「ね、いおりん。ひびきんがあんなことするワケないじゃん。ひびきんがウソついてたってすぐに分かるし」
「そーだよ。だいたいさ、理由がないじゃんか」
便乗するように亜美も言葉を重ねる。
しかし伊織は主張を曲げようとはしない。
3人の説得力のない説得がしばらく続き、
「亜美、真美、あんたたちは戻りなさい。律子が心配してるわよ」
苛立ちを抑えるように伊織が言った。
口調は平素の気の強さを感じさせない、事務的なものだった。
「でも……」
「伊織ちゃんとは私がちゃんと話すから。律子さんを心配させちゃだめだよ」
立ち尽くす亜美の背中を雪歩が押す。
「……分かった」
儚げな様子がそうさせるのか、2人は雪歩の言うことには強く反発しない。
時おり振り返りながら、真美の手を引いて亜美は食堂を出ていった。
言葉が飛び交っていた食堂は一転、静寂に包まれる。
自身の見解に否定的な意見を浴びせられ続けた伊織は、憮然とした様子で告発文を眺めている。
「ねえ、伊織ちゃん……」
自分の胸元に拳を押し当て、深呼吸をひとつしてから言う。
「響ちゃんは犯人なんかじゃないよ」
相手の考え方を否定するには、相手を上回る必要がある。
自信、論理、主義、時には声の大きさも必要だ。
彼女にはそのどれもが欠けていた。
「分かってるわ」
だが伊織は呆れたようにため息をついて言った。
「え……?」
雪歩は目を白黒させた。
「じゃあ、どうして……?」
伊織はすぐには答えず、入り口から顔だけを出して辺りを見回した。
近くに誰もいないのを確かめてから、
「反応を見てたのよ。響が疑われることで安心してる奴がいないか、ね」
「それってどういう――」
「私たちの中に犯人がいるのは間違いないわ。だったらそいつにとって誰かが疑われるのは都合が良いハズよ」
彼女の射抜くような視線が雪歩に向けられる。
「で、でも、そのために響ちゃんが……」
「ひいてはあいつを守るためでもあるのよ」
意味が分からない、というふうに雪歩は首を傾げた。
「みんなが響を疑えば、犯人は隠れ蓑にするために響を生かしておくハズよ」
そこまで説明させるな、と伊織は長髪をかきあげた。
それでも分からない、と雪歩は疑問を口にする。
「どうして響ちゃんなの?」
彼女はまたため息をついた。
「犯人に仕立て上げるのに都合が良かったからよ。さっきの推理、なかなか説得力があったと思わない?」
雪歩は首肯しかけてやめた。
「それとあの中で一番犯人の可能性が低かったから。あいつに人を殺すなんて無理よ。隠しごとだってできないでしょうね。
この前だって亜美たちにいたずらされて泣いてたくらいだもの」
そう言って苦笑する。
「なんだかんだあいつのバカみたいな明るさに助けられたこともあるからね」
「響ちゃん、優しいもんね。同じくらい伊織ちゃんだって」
微笑む雪歩に彼女は頬を赤らめた。
拗ねたように余所を向き、髪を弄りながら、
「――私にも責任があるから」
ぼそりと呟く。
「伊織ちゃん……?」
「雪歩、分かってる?」
恥ずかしさを誤魔化すように伊織は大袈裟に振り返った。
「な、なにを……?」
「こんな話をあんたにしてるってことは、あんたが2番目に犯人の可能性が低いからよ」
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こういう話をした時、いつもの伊織なら顔を真っ赤にして否定するところだった。
照れ隠しに髪をかき上げ、拗ねたように腕を組み、悪態のひとつでもつくハズだ。
「…………」
彼女の目にうっすらと涙が浮かぶ。
「響…………!」
泣いていたのは真だった。
蹲(つくば)い、声を殺して、滂沱として溢れる涙を拭いもせず。
「だから、ね……真ちゃん……伊織ちゃんを責めないで――伊織ちゃんは響ちゃんを守ろうとして――」
雪歩は困ったように2人の顔を見やった。
「ほんとは……ボクには伊織を責める資格なんて、ほんとは無いんだ……」
震えた声が狭い部屋の床を叩く。
「あの時――伊織が響を犯人だって言った時……一度だけ、そうだったらいいって思ったんだ……」
この独白に真っ先に反応したのは千早だった。
彼女は何か言いたそうに口を開きかけたあと、ばつ悪そうに視線を逸らした。
「それなら見えない犯人を怖がらなくて済むし、気持ちも楽になれるから――」
精神的な逃避を図りたかった、と彼女は静かに言った。
「でも……大切な仲間を犯人にして楽になろうとする自分がイヤだった。ボクは卑怯者なんだ……」
彼女の肩にそっと手が触れた。
「人には誰しも弱さがあるものです。それを卑怯だなどと誰が責められるでしょうか」
貴音だった。
「なるほど、貴女が響を誰よりも庇っていたのは、そうした後ろめたさもあったからなのですね」
彼女は二度、小さく頷いた。
貴音は彼女の呼吸に合わせて背中をさすった。
「――伊織」
「…………」
「これが貴女の”後悔”なのですね?」
彼女はかぶりを振った。
「たしかに響を犯人扱いしたのは不本意だったわ。でも私にとっての後悔はもっと前からよ」
握りしめた両の拳は震えている。
それは何か、と貴音が口にするより先に、
「――響がここに来た理由よ」
伊織は肺の空気を全て吐き出すようにして続けた。
「響はもともと合宿に参加する予定じゃなかった。家族の世話があるから3日も家を空けられないって。
だからうちで預かるって言ったのよ。うちには獣医もいるし不自由はさせないからって……」
「それは彼女のためを思っての配慮でしょう? 悔いるようなことは何も――」
「私が預かるなんて言わなければ響がこの島に来ることはなかった! 殺されずに済んだのよ!」
悔いて余りある不覚だ、と彼女は自らを詬罵(こうば)した。
慟哭も歔欷の声も、ここでは何の意味も持たない。
ひとりの死という事実は変わらず存在し続ける。
銘々がひとしきり涕泣(ていきゅう)したあと、
「このままにはできないよ……」
頃合いを見計らって真が言った。
「ええ」
貴音が力なくそれに答え、2人して亡骸を持ち上げる。
彼女の体は温かかった。
「あ……」
運んでいる最中、響の衣服から部屋の鍵が落ち、雪歩がそれを拾い上げた。
響の部屋は施錠されていたから当初、亡骸は伊織の部屋に安置するつもりだった。
念のためにと伊織と千早が武器を手にドアの前に立ち、雪歩が鍵を開ける。
室内に異常はない。
昨夜、談話室で寝るためにシーツがはがされている以外は、部屋に元々あった物を動かしている様子もなかった。
「こういうとこ、意外と几帳面よね……」
響の体をベッドに横たえ、伊織の部屋から持ってきたシーツを被せる。
短く黙祷を捧げて部屋を出る。
現状、やはり談話室にいるほうが良いと話になり、一丸となって1階に向かう。
その途中、亜美の部屋に立ち寄った。
貴音がドアをノックする。
返事はない。
「私たちは談話室におります。気分が落ち着いたら降りてきてください」
そう言い置き、彼女たちは再び談話室に集まった。
17時00分。
誰の顔も暗かった。
積極的な意見は出ない。
春香たちを捜そうという声も、犯人を見つけようと呼びかける声もあがらない。
この館には何者かがいる。
神出鬼没で、狡猾で、人を殺めることに微塵も躊躇いを感じない殺人鬼だ。
「なんでこんなことに……」
真は手を閉じたり開いたりした。
「プロデューサーが見たのは誰だったんだろう……」
「たしか律子は”犯人に心当たりがあると言われた”って言っていたわよね?」
誰にともなく問う伊織に千早が躊躇いがちに頷いた。
「あれはどういう意味なのかしら……」
「どういう意味って……?」
雪歩が引き攣った声で問う。
「プロデューサーが知っている人間って意味なのか、私たちの中にいるって意味なのか……」
もし前者なら、と伊織は続ける。
「局や事務所の関係者ってことになるかしらね。つまり私たちが知らない人の可能性もあ――」
「伊織ちゃん!」
「な、なによ……急に大きな声出して……?」
驚いた伊織は訝るような目で雪歩を見たが、彼女もまた同じような表情をしていた。
「もう。いいんじゃないかな、そういうのは……それより明日までどうするか考えたほうが――」
言ってから雪歩は他の者の反応を窺うように俯き加減で各々の顔を見た。
順番に見回すその視線が貴音のそれと交わったとき、彼女は天を仰いでため息をついた。
「――千早」
柔和で優雅な顔つきが凛々しくも険しいものに変わる。
「春香の部屋を調べたあと、貴女たちはすぐに2階に上がったのですか?」
全員の視線が貴音に注がれた。
が、雪歩だけは俯いたままだった。
「ええ、特に手がかりになるようなものは何もなかったので。なら次は律子の部屋を見てみようということになって――」
「そう持ちかけたのはどちらですか?」
「………………」
千早はすぐには答えなかった。
数秒の間をおき、搾り出すように、
「……私です」
「分かりました。では2階に上がる際に先を歩いていたのはどちらですか?」
「それも私ですけど……あの、この質問に何か……?」
ほとんど無表情で答えていた千早だったが、ここで不服そうに貴音を見返す。
「ではなぜ律子の部屋に先に入ったのが響だったのですか?」
「え…………?」
それまで顔を伏していた雪歩が驚いた様子で貴音を見る。
「どういうことですか?」
そう返したのは千早だ。
「答えられませんか?」
「いいえ、我那覇さんが自発的に入ったんです。続いて私も入ろうとしたときに――」
あのようなことになった、と彼女は説明した。
「それより四条さんも答えてください。どうしてそんな質問をするんですか?」
「不自然な点を解消しておきたいからです」
彼女は間髪入れずに答えた。
「春香たちを捜したいという千早に応じたのは響です。ならば捜索は貴女が主導するハズ。響が率先して前を行くのは――」
不自然だ、と貴音が言うと、
「で、でも響の性格ならあり得るんじゃないかな? ほら、行動力あるし……」
真が言い辛そうに割って入った。
「………………」
その容喙に勢いを削がれたように貴音は黙り込んだ。
再び重苦しい沈黙が訪れる。
しかし今度は長くは続かなかった。
「そこまでなの?」
伊織が小馬鹿にしたように言った。
相手は――貴音だ。
「…………?」
「不自然な点を解消したいっていうのなら、なによりも不自然なことが残ってるじゃない」
彼女の視線は千早に向けられていた。
「後ろから響を殴るなり首を絞めるなりして気絶させて物置に運ぶ。それから事に及んで律子の部屋の前に戻り、自分も誰かに襲われたふり――やろうと思えばできなくはないわ」
「い、伊織……なに言い出すんだよ!?」
「そ、そうだよ! 千早ちゃんがそんなことするワケ……!」
揃って抗議する真と雪歩。
しかし貴音は何も言わず、疑うような目を――伊織に向けていた。
「もし私が犯人なら顔を見られたかもしれない千早をそのままにはしないわ。響を物置の奥に運んで丁寧に仕掛けを動かす余裕なんてないハズよ」
「私が……本当にそんなことをしたと思ってるの? 四条さんも……」
千早は2人から距離をとるように退いた。
「可能性の話よ。断定はしてないわ。ただ腑に落ちないのよ」
「それは私が生きているからでしょう!?」
「そういうワケじゃ……ないわよ……」
珍しく声を張り上げた千早に威圧されたように伊織は目を逸らした。
「――分かったわ。ならこういうのはどうかしら?」
千早の挑むような目は伊織に、続いて貴音に向けられた。
「今までのように一ヵ所に固まるんじゃなくて、それぞれ自分の部屋で過ごすの。明日の朝まで」
「敢えて自分の身を危険に晒すことで犯人を呼び込もうということですか?」
「いいえ、違います。小さなグループを作って行動すると、そのグループ内に犯人がいた場合に身を守れなくなるからです」
それならいっそ全員がバラバラに部屋にこもっていたほうが安全だ、というのが彼女の意見だった。
「美希や響のことを考えると一理あるわね」
伊織がそう言うのを待っていたように、
「こんな提案をする私が犯人ではないと思うけど?」
千早は目を細めて言った。
「それならそれで順番に殺害して回れるわね」
「2人とも、落ち着こうよ! どうしてボクたちの中に犯人がいる前提で話してるのさ」
「そ、そうだよ。プロデューサーが見た人影のこともあるし……」
真が仲裁に入ると、雪歩もその勢いを借りるように言を重ねる。
「プロデューサーには心当たりがあって、でも誰かを見たってことは……私たちじゃないってことだよ……ね……?」
雪歩が同意を求めるように言ったが、頷いたのは真だけだった。
「そう思いたい気持ちは痛いほど分かりますよ、雪歩。ですが――」
小さく息を吐いてから貴音は伊織を見た。
「見間違いってこともあるわ。ううん、その可能性のほうが高いと思う」
「ど、どうして……?」
「不自然なのです」
「…………?」
「あずさの件を考えてみてください。一日目の夜、皆が眠っている時です。犯人の目的が私たち全員を殺めることにあるのなら、あの夜にそうしていたハズです」
「で、でも実際には……」
だからなのよ、と伊織が口を挟んだ。
「殺されたのはあずさだけ。きっと犯人はあずさの部屋の鍵だけを手に入れられたのよ。これってヘンだと思わない?」
「おかしくないと思うけど? ほんとは全部の部屋の鍵を手に入れようとしたけど、犯人にはできなかったってだけでしょ?」
真が呆れたように言うと、伊織はそれに対して呆れたようにため息をついた。
「あずさの部屋の鍵は入手できるのに他は無理ってどういう状況よ? ひとつ手に入れるのも全部手に入れるのも同じことじゃない」
「あずささんからこっそり奪ったかもしれないじゃないか」
「だったらその何者かと接触してるハズでしょうが。鍵は各部屋ふたつずつあって、ひとつは本人、もうひとつはキーボックスに集められてるのよ?
犯人がキーボックスを触れるなら全部取ってるわよ。でもその様子はない。じゃあ本人から手に入れるしかない。気付かれずに自然に手に入れるには――」
彼女と親しい人物しかあり得ない、と伊織は念を押すように言った。
真は黙り込んでしまった。
雪歩もどうにか反論しようとしている様子だが言葉が出ない。
「美希や響の件についても疑いが残ります」
誰も何も言わなくなり、時機を待っていたように貴音が紡ぐ。
「どちらも2人で行動していた時です。昨日、美希を殺害できた犯人がなぜその際に響を手にかけなかったのか。今日、千早を気絶させて響だけを殺めたのは何故か――」
「えっと、つまり……?」
「さらに言えば春香と律子嬢は何処へ消えたのか? 犯人の仕業だとすれば、なぜそのような迂曲な手段を用いるのか――」
「まだあるわよ」
挑戦的な目で伊織が言う。
「やよいの件があるわ。悲鳴も上げずに犯人に背を向けていたことがね」
「それは響のときみたいにどこかで襲ってから部屋に運んで、それから背中を刺したかもしれないじゃないか」
「鍵はどうするのよ? 私たちは基本的に部屋を出る時は施錠するハズよ。まあ気絶させてからやよいの所持品を漁ればいいでしょうけど」
この程度の反駁では彼女は折れない。
「仮にどこかで襲ったとしても、動かなくなったやよいを抱えるなりして部屋まで運ぶ――なんてリスクをとると思う?」
「………………」
「………………」
「…………みんな、そう思ってるの……?」
問うたのは雪歩だった。
「私たちの中に……あんなひどいことをする人がいるって……?」
「思いたくないわよ。でもそう考えるしかないのよ」
ふらつき、後ろに倒れそうになった雪歩を真が支えた。
「いい加減にしなよ! ボクたちは仲間じゃなかったの? こんなことで壊れるような仲だったの!?」
真は顔を赤くして訴えた。
765プロは幾多の困難を乗り越えてその度に結束を強くしてきた。
互いに疑い合うのは不毛だ、と。
言葉を変え、表現を変えて伝えるが伊織たちが頷くことはなかった。
「平行線ね。これ以上は話をしても何も進まないと思うけれど?」
千早はちらりと伊織を見た。
「共に歩んだ仲間との絆も、このような惨劇の中では脆く崩れ去るのも致し方ないでしょう」
とはいえ、と貴音は憂えた表情を見せた。
「敢えて単独行動をする、という千早の案には賛成しかねます。あまりに危険です」
「でも四条さんも思っているんですよね? 私たちの中に犯人がいると」
彼女はすぐには答えず、困ったように伊織を見た。
そして、
「思いたくはありません……が、そう考えるしかありません」
皮肉っぽく言った。
「そう考えるからこそ身を寄せ合う必要もあると思うのです。互いを監視するようで気分の良い話ではありませんが――」
牽制にはなる、というのが貴音の言い分だ。
「どっちにしても私たちだけで決めるのはどうかと思うわ。あの2人とも話し合わないと」
伊織は天井を見上げた。
「そうですね。酷なようですが2人にも今の状況を伝えておいたほうがよいでしょう」
そう言って談話室を出ようとする貴音を伊織が止めた。
「ひとりで部屋に籠もるのは賛成だけど、ひとりで出歩くのはさすがに反対よ」
つまりは同行するという意思を伝える。
千早はそのやりとりを黙って眺めていた。
やがて彼女たちが連れ立って談話室を後にすると、
「あの2人、いつも一緒にいるわね……」
訝るような目でその背中を流眄(りゅうべん)した。
「千早は伊織たちのことも疑ってるの?」
「最初に私を疑ったのは水瀬さんよ」
「それはそうだけど……」
真は気遣うような目で雪歩を見た。
彼女は何かに耐えるようにずっと俯いている。
「そう言う真も水瀬さんたちのことを信じているワケではないんでしょう?」
「そんなワケないじゃないか」
「ならどうして一緒に行かなかったの? 2人だけでは安全じゃないってことは――私と我那覇さんの件で分かってるハズなのに」
「それは…………」
「――千早ちゃんのことが心配だから」
俯いたまま雪歩が言う。
「そうしたら千早ちゃんを置いていくことになるから……」
「………………」
それには何も答えず、千早はソファに座りなおした。
時おり顔をしかめて蟀谷(こめかみ)を押さえる。
それに気付いた雪歩が声をかけようとした時、伊織たちが戻ってきた。
「あれ? 亜美と真美は?」
一緒じゃないのか、と真が訊く。
「それが――」
伊織によれば亜美の部屋は施錠されており、ノックしても声をかけても反応がなかったという。
真美の部屋も同様で返事がないので諦めて戻ってきたらしい。
「私たちに対しても疑念を抱いているのでしょう」
貴音が残念そうに言った。
「開けたら襲われるかもしれないから無視してた、ってこと?」
真の問いに彼女は渋々といった様子で頷いた。
19時11分。
彼女たちは動けずにいた。
それぞれの部屋で過ごそうという千早の案も有耶無耶になり、といって代替案も出ず談話室で時間を過ごすばかりだった。
座りなおす、咳き込む、髪をかき上げる。
そんなわずかな所作さえ許されない空気だ。
実際、衣擦れの音がしただけで全員の視線がそちらに集まるほどである。
つまりこの場で一語を発するだけでも極めて勇気の要る行動となるのだが、
「あの、みんな……」
彼女はそんな空気を打ち破るように切り出した。
「お腹、空いてない、かな……? よかったらお茶だけでも――」
誰も応じない。
日頃は何かと彼女を庇う真でさえ、このキッカケに乗ろうとはしなかった。
「萩原さんが淹れてくれるのかしら?」
まったく嬉しそうでない声で千早が訊ねる。
「え……? う、うん……そうだけど……」
「ごめんなさい。気を悪くしないでほしいのだけれど、たぶん誰も飲まないと思うわ」
「どうし、て……?」
雪歩は既に泣きそうな顔になっている。
「警戒しているのよ。たとえばそのお茶に毒が入っていないかとか――」
口調に躊躇いはなかった。
「千早――」
真が抗議の声を上げようとしたのを貴音が制する。
「それはないでしょう。私たちは昨日も雪歩の淹れてくれたお茶を飲んでいます。その気があるのならとうに命を落としているハズです」
窘められた千早は不愉快そうな顔をした。
「まあでもたしかに喉は渇いたわね。今日はほとんど何も口にしてないし」
場を取り繕うに伊織が言うと、泣きそうだった雪歩の顔が晴れる。
「そ、それじゃあ……」
いそいそと立ち上がったところに真もそれに倣う。
「千早ちゃんも一緒にどう、かな? お茶淹れるの」
「………………」
しばらく考える素振りを見せた彼女は控えめに頷いた。
「私たちはここにいるわ。もし亜美たちが降りてきたら一番にここに来るでしょうし」
伊織が言うと貴音もそれに同意した。
厨房に向かう3人は見えない何かに怯えるように辺りを窺いながら廊下を進む。
「あ……」
その道中、千早が小さく声を上げた。
びくりと体を震わせる2人。
「どうしたの?」
と訊く雪歩の声は掠れていてほとんど聞き取れない。
「我那覇さんのこと……」
「え……?」
「写真を撮るのを忘れていたわ」
遺体を動かす前に現場の状況を写真に残しておく、というのは彼女が提案したことだ。
「昨夜、カメラを部屋に置いてきてしまったから……」
「しゃし……写真はいいんじゃないかな……」
雪歩は額に汗を浮かべて言った。
「どうして?」
「えっと、その……つらいことを思い出しちゃうし――」
「でも記録に残しておかないと警察が捜査する時に……」
今からでも隠し部屋の様子を写真に収めておくべきではないか、と千早が言う。
「ボクも反対、かな。響は……もう運んだ後だし、犯人を刺激してしまうかもしれない」
「……真がそんなこと言うなんて意外だわ」
千早はさりげなく真と距離を取り始めた。
「正直、ボクにもよく分からないんだ」
「…………真ちゃん?」
「最初は絶対に捕まえてやる、って思ってたんだ。人数だってこっちのほうが多いし、隠れててもすぐに見つけられるだろうって」
この告白に覇気はない。
彼女は機械的に口唇を動かして話しているようだった。
「やよいが殺されて、プロデューサーが殺されて……いざ犯人を捕まえるって時になったら一番頼りにしてた響まであんなことになって――」
正体不明の殺人鬼が目の前に現れたら挑めるだろうか、それが不安だと彼女は漏らす。
「そうね……」
それに対し千早も雪歩も気の利いた言葉をかけることはなかった。
食堂にたどり着いた3人は告発文を見ないようにして厨房に入る。
調理器具や湯呑みを用意する雪歩は、千早に見せるようにそれらを並べた。
・
・
・
・
・
談話室で待つ2人の視線は交わらない。
伊織は俯き、貴音は天井の一角を見つめたままだ。
「いま何を考えていますか?」
彼女の視線は動かない。
「後悔しているだけよ」
伊織もまた俯いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「取り返しのつかないことをしてしまったわ」
「私も同じ想いです」
囁き声に伊織は貴音の横顔を見やった。
「あんたは相変わらず……なんていうか超然としてるわね」
こほんとわざとらしく咳払いをひとつして、
「そういうところ好きじゃないけど、今は頼もしく思えるわ」
いつものように拗ねた調子で言う。
「お褒めの言葉、感謝しますよ、伊織……ですが――」
数秒、深呼吸してから、
「私とて冷静ではないのです。これまでも判断を誤った局面は何度もありました」
天井を見上げたまま憂えるように目を細めて呟く。
伊織は鼻を鳴らした。
獰悪な殺人鬼を除けば、判断を誤らなかった者などいない。
しばらくして複数人の足音が近づいてきた。
雪歩たちだ。
トレイには大きめの急須と7人分の湯呑み、クッキーや煎餅などがある。
「体を冷やすのは良くないと思って――」
熱い緑茶を選んだ理由を説明した彼女はトレイをテーブルに置くと、真と千早を伴って談話室を出ようとした。
「どこに……いえ、いいわ」
伊織はトレイ上の湯呑みを数えた。
「出て来なかったらどうするの?」
「改めて持って行くしかないよ」
答えたのは真だ。
「さっきは伊織ちゃんと四条さんが呼びに行ってくれたから、今度は私たちが行くね」
先に飲んでいてくれていい、と言い置いて雪歩たちは2階に上がっていった。
数秒の沈黙の後、伊織と貴音の視線が合う。
「………………」
「………………」
「食べればいいじゃない?」
ソファに悠然と腰かける伊織が意地悪そうな笑みを浮かべる。
「――いえ、そのような不義理はできません。雪歩たちを待ちましょう」
澄ました顔で貴音が答えてから、さらに十数秒。
「………………」
観念したように貴音が菓子に手を伸ばした時、2階で物音がした。
何かを叩きつけるような重く、鈍い音だ。
「な、なんなの!?」
咄嗟に伊織が立ち上がる。
「亜美と真美が……!!」
真が転がり込んできた。
肩で息をしながら緊急事態であることを告げる。
「行きましょう」
手に取った煎餅をトレイに戻し、貴音たちは真に連れられて2階へと駆け上がった。
真美の部屋のドアが開け放たれ、前の廊下で雪歩が蹲(うずくま)っていた。
彼女は落涙していた。
「何があったのです!?」
今にも気を失いそうな雪歩の肩を掴む。
口調とは裏腹に彼女の表情は冷めていた。
「あ、あ…………!」
震える雪歩はまともに発音すらできない。
かろうじて動く手を持ち上げ、部屋の中を指差す。
貴音が顔を上げると、ちょうど伊織が中に入っていくところだった。
部屋の中央に千早が立っている。
彼女は両腕をだらりと下ろし、茫然とそれを見つめていた。
「……亜美…………?」
その後ろから覗きこむように身を乗り出した伊織は見た。
ベッドに仰向けになった亜美と真美は手を繋いでいる。
互いの指は絡まっておらず、実際は亜美が真美の手を包むように握っている。
まるで仲の良い双子が遊び疲れて眠っているようだ。
「どうし、て…………!?」
だが2人の様相は全く異なっていた。
亜美は腹部から胸元にかけてを血液で真っ赤に染め上げている。
対して真美の首の辺りには何かで締め上げられたような痕があった。
共通しているのはどちらも呼吸をしていない点だ。
「これは一体……」
遅れて入ってきた貴音もそれを見て絶句した。
ベッド近くの床に撒かれたような血液の痕はバスルームへと続いている。
それを見つけた貴音は血痕を踏まないように辿ってドアを開けた。
内部にこれといって異常はなかったが、バスルーム側のドアに近い床にもわずかに血が付いていた。
「なんで……こんなことになってんのよ……?」
怒りと悲しみが混じり損ねたような声で伊織が言った。
貴音はそれには答えず、緩慢とした所作で肩越しに振り返った。
立ち尽くす千早の向こう、蹲る雪歩と彼女を介抱している真。
この館に来て何度も繰り返してきた光景である。
繰り返す度に犠牲者は増え、涕泣する者は減っていく。
「………………」
彼女は生存者の様子を順番に見回したあと、
「――不可解ですね」
誰にも聞きとれない声で呟いた。
「亜美…………」
伊織が跪いた。
「とうとう、あんたまで……!」
拳を握りしめ、しかし彼女は涕を流さなかった。
爪が掌に食い込み、いくらかの痛みと出血を齎す。
どこかから生暖かい風が吹き抜けていった。
19時44分。
再び談話室に戻ってきた5人には、ただひとりを除いて表情がなかった。
お茶は飲むのに適した温度を逸し、湯気の一筋も昇らない。
「ドアに――」
自身を抱きしめるように腕を組んだ千早は囁くように言った。
「ドアの内側にあの線が引かれてあったわ。2本の線が交差していた」
「見なくても分かるわよ!」
伊織がヒステリックに叫んだ。
怒声に雪歩がびくりと体を震わせる。
「何なのよ! 一体……どういうつもりなのよッ!!」
彼女は2人を睥睨した。
視線の先のひとりは怯えた様子で、もうひとりは訝るような目で見返した。
「やっと分かったわ! ずっと……あんたたちだったんでしょ!?」
貴音は目を細めた。
一歩退いた場所で成り行きを見守る。
「なんでボクたちなんだよ!? そんなことするワケないじゃないか!」
鋭い視線を撥ねのけるように真が前に出る。
だが伊織は怯まない。
「ええ、そうね! 訂正するわ! あんたもよね、千早!!」
名を挙げられた千早は驚いた様子で見返した。
「まだ私を疑っているのね? 私が我那覇さんと一緒にいたから――」
「それだけじゃないわ。あんたたちは亜美と真美も殺したのよ!」
「何を言って――」
「私がバカだったわ! もっと早く気付くべきだったのよ! 犯人はひとりだと思っていた私のミスよ!」
雪歩は信じられないといった様子で伊織を見つめた。
その顔つきは犯人扱いされたことに対する怒りではなく、憐れ嘆くような憂いを帯びたものだった。
「水瀬さん、私たちが亜美と真美を……殺したと言ったわね? どういうことかしら?」
「そのままの意味よ。さっき2人を呼びに行くフリをして手にかけたに決まってるわ。3人なら簡単にできるわよね」
千早は目を閉じ、あからさまに嘲弄するようにため息をついた。
「それは水瀬さんにも同じことが言えると思うけど?」
「なんですって……!?」
「私たちが真美の部屋に入った時には2人は既に殺害されていた。ならその1時間ほど前に2人を呼びに行った水瀬さんと……四条さんの犯行ということになるわ」
「あんた…………!」
「2人はずっと前に水瀬さんたちに殺されていた。それを私たちが発見した――ということじゃないかしら?」
伊織が感情的になればなるほど千早は冷淡にあしらう。
「それは聞き捨てるワケにはいきませんね。2人を害するのであれば昨夜にもその機会は充分にあったハズです」
物静かな口調にはわずかに怒気が覗く。
「それに――美希や響の件はどう説明するつもりですか? 私にも伊織にも2人を手にかけることは不可能です」
ここにきて貴音は言葉に熱を込め始めた。
普段の真理を見据えたような双眸は輝きを失いつつあり、自分に嫌疑をかけた千早を射抜くような目で見つめている。
「まだあるわよ」
貴音の援護を受けてか、千早に押され気味だった伊織が勢いづく。
「響が殺されたと思われる時間、不自然な行動をしていたわよね?」
彼女は今度は雪歩を睨みつけた。
「えっ!? わ、私……?」
「あんた、携帯が繋がるか試すって言って真と一緒に出ていったじゃない」
「それは……もし繋がったら助けを呼べると思って……」
「理由としては満点ね。でもどうしてあのタイミングだったワケ? 千早たちが戻って来てからでもよかったハズじゃない?」
これは憶測ではない。
指摘は全て事実だったから、その気迫も相俟って彼女は答えを返すことができなかった。
「あんたたちは千早と合流したのよ。3人ならいくら響が相手でも殺すのは簡単だものね!」
語調には一切の迷いがなかった。
不確かな事柄でも断定口調で詰る様は、平素の水瀬伊織のそれと何ら変わりがない。
唯一の諫言役である貴音は肯定も否定もしなかった。
今は伊織からさえも距離を置き、視線だけは千早に向けたままだ。
「――いくらなんでも言い過ぎだよ」
菊地真にしては控えめだった。
低く、怨嗟を纏ったような声質はそれを聞く者に警戒心を抱かせる。
「こんな状況になって、団結しなきゃいけない時じゃないか。疑い合ってどうするんだよ」
「もう何人も犠牲者が出てるのに、今さら何が団結よ。人殺しと団結して助かるのは共犯者だけだわ!」
「伊織だって765プロだろ! 仲間同士信じ合わなくてどうするんだよ!」
「お、落ち着いて真ちゃん……伊織ちゃんも……!」
仲裁する雪歩は真の傍から離れようとはしない。
「そうやって信じた奴から殺されたじゃない! だからあんたはバカなのよ!!」
「伊織っ!!」
「ま――」
雪歩が制止しようと声をかけたが一瞬だけ遅すぎた。
真の伸ばした手が彼女の胸倉を掴む。
――ハズだった。
銀が閃き、赤が散り、真は後退った。
雪歩が悲鳴をあげる。
千早も貴音もまるで磔刑に処されたように身動きひとつしなかった。
悪鬼の形相で睨みつける伊織の手には果物ナイフがあった。
先端はたった今、濡れたばかりだ。
「そうやって頭に血が上って殺したんでしょ!? 今度は! 今度は私を殺すつもりなのね!?」
真は驚愕の表情で伊織を見た。
押さえた手頸から赤い液体が一筋流れ落ちた。
「念のために厨房から持って来ておいてよかったわ。どう? これならあんたたちも迂闊に手出しできないでしょ?」
刃先は真に、視線は千早に向ける。
「ま、真ちゃん! 早く血を止めないと……!」
青白い顔をして雪歩がその手を取った。
鮮血が一滴、カーペットを濡らした。
「見損なったよ、伊織――」
救急セットを持って来ているからという雪歩に促され、彼女は談話室を出て行こうとする。
「ほら見なさいよ! 自分たちは殺されないからそうやって悠々と行動できるんでしょ!? この人殺し! あんたたちが――」
「伊織ちゃんっ!」
呆気にとられたように伊織は雪歩の顔を見た。
「私も真ちゃんもそんなことしないよ! 千早ちゃんだって!」
精一杯と思われる怒声を張り上げ、彼女は真を伴って談話室を出て行った。
その後ろ姿を目で追った伊織は、刃先を千早に向けた。
「あんた、見捨てられたわよ?」
表情にいくらか余裕が戻ってくる。
対する千早は凶器を突きつけられているというのに、まるで動揺する素振りを見せない。
「私は犯人なんかじゃないわ」
とはいえ毅然と抗議はする。
「言ってればいいわ。貴音、私たちも部屋に戻るわよ」
千早から目を離さないようにして談話室を出ようとする伊織。
観念したようにため息をついた貴音もそれに続く。
「――千早」
去り際、彼女は肩越しに振り向き、
「もし貴女が本当に誰も殺めていないというのであれば、部屋に籠もり固く鍵をかけておくことです」
諭すような口調で言った。
ひとり残った千早は、生気が抜けてしまったようにソファに座り込んだ。
静寂だ。
自らの心音さえ聞こえそうなほどの静謐を、秒針の音が遠慮がちに打ち破る。
「………………」
ぼんやりと天井を見つめて彼女は長大息した。
照明を眩しく感じてかそっと手を翳す。
「誰も殺めていないというのであれば……?」
つい先ほど、貴音が残した言葉を繰り返す。
「誰も殺めて……誰も……誰も……!?」
突然、弾かれたように立ち上がる。
「プロデューサーは誰かを見た……心当たりがある、とも……でも、もしそれが…………!」
千早は談話室を飛び出した。
階段を駆け上がり、突き当たりの自室に入ると素早く施錠する。
ナイトスタンドに置いてあったカメラを手に取り、この島に来てから撮影した画像を展開していく。
1枚目は港の風景だ。
大小さまざまな漁船をバックに、やよいや亜美たちがはしゃいでいる様子が収められている。
4枚目は船からの光景である。
遠近に映る島嶼は木々が暢茂してどれも青々と美しい。
9枚目以降は島に着いてからのひとこまだ。
最初に館に向かう道中やそれぞれに砂浜で遊ぶ様子、ビーチバレーの経過が捉えられていた。
それら写真を順番に開いた千早は72枚目の画像を注視した。
映っているのは美希だ。
厨房の奥の壁際で体を折り曲げ、まるでいつもどおり仮眠しているような姿の彼女がほぼ真上から撮影されている。
「たしか高槻さんの遺体を最初に発見したのは美希――その時は我那覇さんも……」
さらに数枚の画像を見比べた千早はおもむろにデジカメを置いた。
そしてボイスレッスンの時のように、肺の中の空気をたっぷりと時間をかけて吐き出す。
「………………」
千早は音を立てないように部屋を出た。
そして目的の部屋の前に立ちドアノブを回す。
施錠されている。
彼女は控えめに3度、ドアを叩いた。
しばらくして鍵が外れる音がした。
再びノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開ける。
中の様子を窺おうと身を乗り出した瞬間、襟首を掴まれて部屋の中に引きずり込まれた。
「あなただったのね…………!」
それが千早が発した最後の言葉だった。
20時13分。
日はとうに沈み、窓の向こうは黒にちかい灰色が覆っている。
「大丈夫……?」
雪歩がか細い声で問う。
「うん、雪歩のおかげだよ。ありがとう」
幾重にも巻かれた包帯は傷口の上に血が滲んでわずかに赤黒くなっている。
咄嗟に躱したため傷自体は浅かったが裂傷の範囲が広い。
雪歩が救急セットを持ってきていたおかげで真はすぐに手当てを受けることができた。
止血や消毒に多少時間を要したが処置は適切だった。
「ごめんね、真ちゃん……」
「なんで謝るの?」
「あの時、私が携帯を試したい、なんて言わなかったから伊織ちゃんに疑われることもなかったのに……」
雪歩だけのせいじゃないよ、と真は力なく笑った。
「一緒に行ったボクにも責任があるし」
取り繕うように言った直後、その笑みは虚しいものに変わる。
「伊織ちゃんのことだから何か考えがあるんだって思ってたの。だから何を言われても黙っていようと思ってたけど――」
それが仇となって真が怪我をさせられたことが我慢できない、と雪歩は悔恨の情を滲ませた。
あの時、自分がハッキリと否定しておけば――。
誰も感情的にならず、仲違いをするにしても刃傷沙汰は避けられたのではないか。
あるいは真の代わりに自分が切られていればよかった、と彼女は言う。
「そんなこと言わないでよ。こんな状況なんだから誰が悪いとかないよ」
「うん――」
しばし、沈黙。
普段は昵懇の間柄の2人だがこの状況では会話も続かない。
どちらもが何事かを喋ろうと唇を動かすも、空気を振動させるには至らない。
だが言葉に寄らずとも思考や想いを伝える方法はある。
雪歩はそっと、躊躇いがちに彼女の手に触れた。
真はびくっと小さく体を震わせたが、すぐにその手を握りしめる。
その時、インターホンが鳴った。
「ひぅ……っ!!」
雪歩が頓狂な声を上げた。
怯えきった子犬のような目で真を見上げる。
「い、今のは――!?」
突然の音に跳びあがりそうになった真は左見右見(とみこうみ)した。
再び、インターホンの音が鳴り響く。
静寂の中にあっては不気味な余韻がいつまでも部屋の中を巡っているようだ。
「もしかして警察が来てくれたんじゃ……?」
雪歩が震える声で言う。
「通報してないんだよ? 警察が来るワケが――」
ない、と言いかけて真は言葉を呑んだ。
「――雪歩」
何かを決意したような顔で言うと、すっくと立ち上がる。
「ここにいて。ボクが出たらすぐに鍵をかけて」
「ま、真ちゃん……?」
「大丈夫。ちょっと様子を見てくるだけだよ」
「あ、危ないよ! もし悪い人だったら……!」
縋るような目で雪歩が訴える、
だが真は首を横に振ってそれを退けた。
「心配しないで。何かあったらすぐに戻って来るから」
またインターホンが鳴った。
今度は続けて2度だ。
「でも……」
と、しばらく押し問答が続き、最後には雪歩が折れる恰好となった。
「それじゃあ、真ちゃん――」
部屋を出tた真は小さく頷いた。
音を立てないようにドアを締め、施錠する音を確かめた彼女は深呼吸した。
「ごめん、雪歩。犯人の罠かもしれないけど……響たちの仇を取りたいんだ……」
呟きはドアを隔てた雪歩には届かない。
しつこく鳴っていたインターホンは鳴り止んでいた。
「………………」
真はひとつ隣の貴音の部屋の前に立ち、ドアを叩いた。
「貴音……?」
返事はない。
しばらく待ってみたが反応は返ってこない。
「さっきのインターホン、聞こえたでしょ? ボク、様子を見てくるから」
ドア越しに言い置いて薄暗い廊下を進む。
エントランスに漂う空気は湿っていて少し冷たい。
真は拳をぎゅっと握りしめたあと、正面扉をゆっくりと開けた。
隙間から生暖かい風が吹き込んでくる。
シャンデリアに照らされ、扉の向こうの土と草木がわずかに浮かび上がる。
特に異常はない。
真は半開きの扉に身を寄せるようにして外を窺った。
微風に枝葉が揺れる。
はらりと舞った一葉が真の前を過ぎった。
「…………!?」
それを目で追った彼女は息を呑んだ。
扉のすぐ横。
春香がうつ伏せに倒れていた。
血塗れの彼女は開いた右手を突き出している。
まるでインターホンを押した後に力尽きたような恰好だ。
「……はる、か…………?」
真はしばらく動けないでいた。
一陣の風が砂埃を舞わせ、木の葉と共に砂の一部を館内に運ぶ。
そろりと一歩を踏み出す。
周囲に人の気配はない。
真は充分に辺りを窺い、他に人影がないのを確認すると春香を館内に運び入れた。
硬直し、冷たくなっている彼女の体に目立った外傷はない。
外の砂塵や運び込んだ際にエントランスの床を擦ったせいで衣服は汚れている。
「春香……」
真は無駄なことをした。
呼びかけたところで彼女は死んでいる。
「やっぱり律子も……?」
呟いてから真は思い出したように振り返った。
2階へと続く階段がある。
左右に視線を振れば東棟、西棟に続く通路がある。
彼女はしばらく待った。
だがそれも無駄だった。
「インターホンは聞こえてたハズなのに貴音も伊織も来ないなんて……」
特に貴音に対しては返事がなかったとはいえ、ドア越しにこの件は伝えてある。
「まさか……2人とも、誰かに…………!?」
真は春香から離れた。
そして恐怖に引き攣った顔で亡骸を見下ろすと、エントランスを飛び出した。
東棟に続く廊下の角を曲がる。
「…………ッ!!」
突き当たりの部屋のドアが開いていた。
「そんな……まさか……?」
真は激しい動悸に襲われた。
足音を立てないように近づく。
「雪歩!?」
部屋に入るや名を呼ぶ。
部屋の照明は消えていた。
廊下の明かりがほのかに室内を照らしている。
彼女はベッドに横たわっていた。
腹部から流れた血液がシーツを伝って床に達している。
「そんな……っ!!」
真は危うく倒れ込みそうになった。
しかしどうにか踏ん張り、重い足を引きずるようにしてベッドに近寄る。
「雪歩! 雪歩!!」
追い縋るように白い肩を揺さぶる。
しかし眼下の彼女が目を開けることはなかった。
「どうして……なんでだよ……! なんで……!!」
嗚咽を漏らす真の後ろで物音がした。
振り向く。
何かが振り下ろされ、彼女はその場に倒れた。
20時36分。
2人の亡骸を見下ろし、貴音は深呼吸した。
しかし鼻腔を突く血液の臭いに咽んでしまう。
「私は……取り返しのつかないことを…………」
一筋の涙が頬を伝う。
薄明かりの中、彼女はぼやけた視界に腹部を血で染め上げた雪歩と撲殺された真を捉えている。
「………………」
手に握りしめたナイフの感触を確かめた彼女は静かに部屋を出た。
階段を上がりかけたところではたと止まり、エントランスを覗く。
春香が倒れている。
「あの呼び出し音は偽りではなかった……ということでしょうか……?」
貴音はその亡骸の傍に跪いて短く黙祷を捧げた。
「――だとすれば言葉どおり、真が……?」
再び顔を上げた彼女の目は鋭かった。
今度こそ階段を上って西棟へ。
亜美、真美の部屋を通り過ぎた貴音は千早の部屋の前に立った。
深呼吸をひとつし、静かにドアをノックする。
「――千早」
しばらく待つが返事はない。
「お話ししたいことがあります。私だけです。中に入れていただけませんか?」
言葉は丁寧だが口調には棘があった。
さらに数秒。
返事もなければ開錠する音も聞こえない。
貴音はナイフを握りしめた手を後ろに隠し、ドアノブに触れた。
「…………?」
鍵はかかっていなかった。
「入りますよ」
形式だけの断りを入れ、ドアを開ける。
彼女はすぐにそれを見つけた。
千早だ。
仰向けに倒れている彼女は喉を裂かれている。
凝固した血液と乱れた長髪に隠れて分かりにくいが、首には扼殺の痕があった。
「これは一体…………?」
貴音の手からナイフが滑り抜けた。
刃は豪奢なカーペットに小さな傷をつけ、軽く弾んで持ち主の足元に落ちた。
「千早…………」
囁く声は震えていた。
実際に震えていたのだ。
彼女自身が。
「――貴女では、なかったのですか……?」
千早は何も答えない。
それが答えだった。
「……いえ、そんな……それはあり得ないことです……」
貴音はかぶりを振った。
「彼女には……美希や響を殺めることはできなかったハズ……」
ではいったい誰が、と口にしかけた彼女はもう一度、千早を見下ろした。
そして何かを得心したように頷くと、足元のナイフを拾い上げた。
部屋を出た貴音は堂々と――悠然と――廊下を曲がり、反対側の棟へ向かった。
突き当たりの部屋のドアを叩く。
「私です。お話ししたいことがあります」
返事を待つ。
「今さら何の話があるのよ?」
相変わらずの勝ち気な物言いが返ってきた。
「私のことも信用できないって言ったくせに」
「今はそれが正しかったと言えます」
「どういう意味よ?」
ドア越しでくぐもっているというのに、彼女の声は廊下までハッキリと聞こえた。
「私は真実を知りたいのです――伊織」
「はあ? 真実?」
「真、雪歩……千早も何者かに害されました。えんとらんすには春香の亡骸が――」
貴音はこのわずか数分で見たものを説明した。
ドアの向こうからがさごそと何かが動く音がした。
そして数秒。
「じゃあそこにいるのはあんただけってことね?」
「はい」
「――分かったわ」
しばらくして鍵を開く音がした。
しかしドアが開く様子はない。
「入ってもよろしいですか?」
しびれを切らしたように貴音が問うと、
「いいわよ」
慳貪な声が返ってきた。
ノブに手をかけて深呼吸をひとつする。
そしてゆっくりとドアを開ける。
目の前には伊織がいる。
平素と変わらない自信に満ちた表情だ。
彼女の手の中で何かがきらりと光った。
貴音が身構える。
だがそれより先に飛び込んだ伊織が、それを彼女の腹部に押し当てた。
「…………ッ!」
じわりと熱が広がる。
続いて衣服に血液が浸潤し、不快感に貴音はたまらず後退った。
「貴女だったの……ですね…………」
腹部を押さえた手は真っ赤に染まっている。
「それはこっちの台詞よ! あいつらと組んでたんでしょ!? でも邪魔になったから殺した――そうよね!?」
「なにを……なにを言っているの、です? 貴女こそ……真たちを……」
「騙されないわ!」
伊織がナイフを振り上げた。
目の前の、かつての仲間を切りつけんと迫る。
だがそれが振り下ろされることはなかった。
ほとんど無意識的に突き出した貴音の手には、しっかりとナイフが握られていた。
照明を受けて銀色を返す刃先は驚くほどするりと伊織の喉を刺し貫く。
「た…………」
恨みがましい目で彼女は何か言おうとした。
しかし口から出たのは言葉ではなく夥しい血液だった。
痙攣しながら膝をついた伊織は貴音の首を掴もうと手を伸ばす。
指先が肩に触れかけたところで彼女は力尽き、自らの血液で作った湖に身を没した。
「………………」
一瞬、忘れていた激痛が再び襲ってきた。
「いお、り…………?」
虚しい呼びかけに応える者はいない。
「私は……なにを…………?」
問いに対する答えは彼女の手の中にある。
貴音は伊織だったものを見た。
彼女はまだ動いている。
筋肉が動き、血液が流れ、それが喉に空いた穴から止めどなく溢れ出てくる。
彼女の周囲はそこだけ内装を取り違えたように赤とも黒ともつかないカーペットが敷かれている。
咽返る鉄錆の臭い。
体温をぶちまけたことで上がった室温。
肌にべたつく湿り気。
それらが貴音に纏わりついて離れない。
「なんという…………!」
独り言を述べる体力も尽きようとしている。
すぐに適切な手当てを受ければ一命を取り留めることはできるだろうが、ここは医療機関のない孤島である。
雪歩の持っている救急セットでは気休めにもならないだろう。
したがって彼女は――。
「………………」
貴音はナイフを逆手に持ち替えた。
したがって彼女は死ぬのを待つか、自ら死ぬしかない。
「無念……です…………」
刃は脇腹に突き刺さった。
翌日。
迎えのために島に船をつけた岩倉が、約束の時間を過ぎてもいっこうに現れない彼らを不審に思って館を訪れたところ、エントランスで天海春香の遺体を発見した。
岩倉はすぐに本島に戻り、警察に通報した。
その後の捜査により、次のことが分かった。
秋月律子の遺体は2階の管理人室にあった。
腹部に深い刺し傷があった。
天海春香の遺体はエントランスにあった。
紐状のもので絞殺されたとみられる。
我那覇響の遺体は自室にあった。
体には複数の刺し傷があった。
菊地真の遺体は雪歩の部屋にあった。
頭部を鈍器で殴打された痕があり、これが致命傷となったようである。
如月千早の遺体は自室にあった。
首を絞められ、さらに喉を斬られていた。
四条貴音の遺体は伊織の部屋にあった。
腹部に複数の刺し傷があった。
高槻やよいの遺体は自室にあった。
背中を包丁で一突きにされていた。
萩原雪歩の遺体は自室にあった。
腹部を数度刺された痕があった。
双海亜美の遺体は真美の部屋にあった。
胸の辺りを刺されたことが死亡につながったようである。
双海真美の遺体は自室にあった。
紐状のもので絞殺されたとみられる。
星井美希の遺体は自室にあった。
扼殺されたものとみられる。
三浦あずさの遺体は自室にあった。
腹部を包丁のようなもので刺されていた。
水瀬伊織の遺体は自室にあった。
首を刺し貫かれていた。
プロデューサーの遺体は1階の管理人室にあった。
腹部を包丁のようなもので刺されていた。
事務所の一室で高木はそれを何度も読み返していた。
知性的な彼女らしい整った字体に理路整然とした文章だ。
描写も精緻で、その場にいなかった読み手にも当時の情景がありありと浮かんでくるようだ。
「ふむ…………」
彼はそれを脇に置くとわざとらしく背伸びをした。
見計らったように小鳥が入ってくる。
「社長、お茶でも――どうしました?」
落魄した様子の高木に心配そうに声をかける。
「ああ、これを読んでいたものでね……」
「……手紙ですか?」
「彼女からのね。音無君も読んでみるかい?」
湯呑みを差し出した彼女はしばらく考えてから言った。
「少し怖い気もしますが――」
小鳥は1枚の便箋を手に取った。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
―― 3日目 ――
21時07分。
静まり返った館。
生温い風と、どこにいても鼻腔を衝いてくる血の臭い。
それらが人に齎すのはこの上ない不快感。
あちらこちらに転がる遺体は見る者を震え上がらせ、正常な思考を悉く奪う。
迸(ほとばし)る血液は全て重力に従って下へと落ち、ゆっくりと床面に広がって張り付いている。
彼女はドアを叩いた。
控えめに、3度。
ビジネスマナーとして学んだことだが最近は根拠のないルールだとして見直されつつある。
そのことは分かっているが一応は踏襲してしまうのは彼女の几帳面さと融通の利かなさの表れでもある。
ドアはすぐに開けられた。
「とりあえず手を洗ったらどうだ? 手首まで血が付いてるぞ」
言われて彼女は自分の両手を見る。
拭いはしたが、そのせいでかえって血が広がってしまったようだ。
「ええ、そうします。手洗いを借りますね」
向けられた厚意は受け取っておく。
それが彼女――秋月律子の仕事に対する心構えである。
付着し、凝固した血液はなかなか落ちない。
5分ほどかけてようやく皮膚についた血を洗い流す。
衣服の汚れは諦めるしかない。
「――残念でしたね」
タオルで手を拭きながら律子が言う。
「いろいろと予定が狂ってしまったな」
心底残念そうな声が漏れる。
頭を抱える彼――プロデューサーはこの件をどう報告しようかと思案した。
「もともと無理があったんじゃないか? 今回の企画――」
「でも必要なことですよ。事務所の存続のためには……」
真のアイドルは強力なリーダーシップと恐怖に打ち克つ力を持っていなければならない。
生き延びるために知恵を絞り、どのような状況も打開する機転も必要だ。
ヴィジュアルやヴォーカルやダンス等の基礎的な要素はレッスンでいくらでも向上させることができる。
しかしそれだけでは厳しい業界で生き残ることはできない。
不撓不屈の心、その場その局面に対応できるしなやかさ、強かな謙虚さと形振りかまわぬ貪欲さ。
そのどれが欠けてもトップアイドルとしては成立しない。
誰が最もトップアイドルとしての資質を具(そな)えているか。
この小旅行はその選定のために企画されたものだった。
つまり仲間が殺害され、外に助けを呼べない状況で彼女たちがどのように思考を巡らし、行動するのか。
それを観察することによって誰がトップアイドルに相応しいのかを見極める。
”トップ”というからには合格者はひとりだけ。
最初の犠牲者が決定した後は、彼女たちの反応や状況を見ながら最も不適格と見做された者から逐次脱落していくこととなる。
「それにしても意外だったな」
「なにがです?」
「最初の犠牲者だよ。まさか律子があずささんを選ぶとは思わなかった。竜宮小町だから贔屓目に見てるかと思ったんだが」
「大事な選定に情を挟むワケにはいきませんからね。いろいろとリスクを考えた結果ですよ」
「どんなリスクなんだ?」
「あずささんのおっとりとした雰囲気や柔らかい歌声には多くのファンがついています。その性質は竜宮小町でも個性として確立されていますしね」
「高評価じゃないか」
「アイドルの寿命は長くないんです。若ければ若いほどいい。そこがまずマイナスです。なにより問題はあの迷子癖ですよ。
事故や事件に巻き込まれるリスクも高くなりますし、遅刻でもすれば失う信用は計り知れません。いちいち捜して連れ戻す労力やコストと釣り合わないんです」
それが選出の理由だ、と語る律子は落魄した様子だった。
「次にやよいを選んだのはプロデューサーでしたよね。これはどういう理由なんですか?」
彼女はあずさの話題から逃れるように早々に高槻やよいの名を出した。
「やよいはあずささんとは逆に伸びしろがあった。年齢的にも問題ない。ただ家庭のことが引っかかるんだ」
「長女でしたよね」
「それゆえに責任感や面倒見の良さはあるが、兄弟姉妹が多いから看病や家事等で仕事に穴を空ける恐れがある。大きな仕事を任せられず安定感に欠けるんだ」
彼は大いに残念がった。
「手にかける時はどうやって? 難しかったと思いますが」
「チャンスがあったんだ。千早が偶然、暖炉と多目的室が繋がってることに気付いてな。確かめるために俺たちは多目的室に行ったんだ。
響が降りたあとで亜美と真美を先に合流させた。俺とやよいも戸締りをしてすぐに追いかけると言ってな。
その際にやよいに言っておいたんだ。”大事な話がある。昼食後に施錠して自室で待機しろ。俺が行ったらすぐに入れろ”と」
なるほど、と律子が手を叩いた。
「だからあの時、私に何枚か大皿を割れ、と言ったんですね。皆の注意を引きつけるために」
「ただ大きい音がしただけじゃ注目するのも一瞬だからな。掃除に時間がかかればそれだけ釘付けにできる」
彼は傍に置いてあったコーヒーを一口だけ飲んだ。
「素直だったよ。俺がうつ伏せになれと言ったら疑いもせずにそうした。その背中にハンカチを乗せ、包丁で一突きに――」
「残念ですね」
「ああ、でも失格者だから仕方がない。その分、他のアイドルたちの観察の材料にさせてもらったよ。やよいの死を無駄にしないためにな」
律子は一瞬、訝るような目でプロデューサーを見た。
彼の言葉と表情は一致していない。
口調だけは思いつめたような強弱があるが、顔つきは微塵も変化しない。
「しかし暖炉にあんな仕掛けがあるなんてな。千早もよく気づいたものだよ」
その観察力が評価され、彼女は生存者候補に大きく近づいた。
「3番目に美希を選んだ理由は何ですか? やはり普段の怠けぶりからですか?」
彼は手を振った。
「真面目に取り組めば才能を発揮して、あいつが言うようにキラキラ輝くアイドルになれたかもしれないな――」
しかし、と間を置く。
「それにしても美希には驚かされたよ。死んだふりをしていた俺が起き上がったところにいきなり入って来たんだからな。その時に言われたよ。
”ハニー、やっぱり生きてたんだね”って。あいつ、勘が鋭いから気付いたんだろうな。考えている暇はなかった」
咄嗟に彼女の首を扼してしまった、とため息交じりに言った。
「死んだふりは犯人を欺くために律子と協力してやった、という言い訳もできるけど、あれを見られたからな――」
指差した先には15インチほどのモニターが置いてあった。
画面はいくつかに分割しての表示が可能で、今は談話室、食堂、2階東棟の廊下と伊織の部屋が映っている。
「俺も迂闊だったんだ。ちゃんと鍵をかけておけばよかったな」
些細なミスを振り返る程度の口調だ。
「美希の遺体は頃合いを見計らって裏から厨房に運び込んだ。見つかりやすい場所に置かないと面倒になりそうだしな」
「ええ、そうですね」
「さて、俺からも聞かせてくれ。春香を選んだ理由は何だったんだ?」
3日目になると誰もが警戒するので殺しが難しくなる。
篩(ふるい)にかけたはいいが失格者を減らせないでは意味がないので、夜が明ける前に律子がひとりを選んで始末することになっていた。
「悩みましたよ。春香は際立った個性がないために何にでも化ける可能性がありましたから。その意味では後回しにするべきだったかもしれません。
ですが彼女はメンバーの中心になることはできても、皆を引っ張っていく力まではなかったんです。うちの事務所は皆、個性が強いじゃないですか。
春香はそのまとめ役を担うことはできますが、言い換えれば彼女個人としてはトップアイドルの素養はないんです」
だから色の強いユニットに加えることで真価を発揮しただろう、と彼女は評した。
「単純ながら飲み物に薬を入れるという手も有効でした。あれのおかげで響たちに気付かれずに春香を連れ出すことができましたから」
「響といえばスペアキーの件で伊織が意外な展開に持っていったな。あれにも驚いたよ」
彼によればスペアキーがあるのは管理室のみだから、自分があずさ殺害の実行犯だと疑われるのは想定していた。
それを避けるために存在しない何者かを目撃したと偽ったが、少なくともその時点では伊織は極めて冷静だったと言える。
この点がプラスされ、彼女は生存者候補に一歩近づいていた。
「あの娘は才媛ですよ。ものをよく見ていますし指摘も的確です。響を犯人扱いしたのは彼女を庇うためだったみたいですけどね」
「さいえん……? ああ、才媛か。あんな難しい言葉、よく思いついたな。それを読めて意味も理解できた貴音も流石だが」
「私の趣味、資格取得なんです。漢検一級を持っていますから。誰も読めなければ適当な理由をつけて私が説明するつもりでした」
ここで博学な貴音に加点がなされた。
昨今は芸能界に限らず著名人の失言に厳しい。
軽忽な発言をすればすぐに炎上だ。
この点、貴音なら間違っても迂闊な発言はしない。
余計なトラブルを引き起こさないというのはプロデュースする側にとっても事務所にとってもありがたい。
「さて、肝心の今日ですけど……ここは接戦でしたね」
「ああ、といっても亜美と真美には早々と退場してもらうつもりだったけどな」
「やはり普段の言動からですか?」
「双子、というのはそれだけで充分な個性だ。しかも全く同一じゃないからそれぞれに持ち味がある。でも言動は大きなマイナス点だよ。
現場で何度もハラハラさせられたよ。2人に悪気はないんだろうが信用第一だ。不用意な発言で得意先の心証を損ねるのはまずい」
「でもなかなかチャンスが巡ってきませんでしたね。おかげであんなことをする羽目になりましたよ……」
律子は憤然として言った。
「まあいいですけど。ところで響の件ですが――」
「惜しかったな。あれは苦渋の決断だった。ムードメーカーだったしダンスの才覚だけでもトップアイドルの可能性は充分にあった。
もし千早と一緒に捜索に動いていなかったら脱落はずっと後になっていたと思う。
ただメンタル面がな……ミスが続くと混乱しがちだったし、反対に勢いのある時は調子に乗ってしまう。
それに最後まで仲間を信じていたようだけど、その優しさや脇の甘さはともすればカモにされるかもしれない」
千早か響、どちらかを残す選択に迫られ、彼は僅差で響を脱落させたと述べた。
「響は隠し部屋を見つけた点をプラスして千早ともども上位にあったんだが……あのタイミングを逃すと次にいつチャンスがくるか分からないからな」
館内の様子は複数の隠しカメラで常時監視しており、千早たちの行動も筒抜けとなっている。
そこで2人の行動を見て先回りし、響を脱落させたのである。
止むを得なかったと繰り返すプロデューサーの表情はやはり超然としていた。
「あ、そうだ。あの赤い線の意味は何だったんだ? 律子に言われたとおりにドアに引いたが」
「あれは主に2つの効果を狙ってのことですよ」
「恐怖心を煽るためとか?」
「そんなのは最初にあずささんの遺体が見つかった時点で充分ですよ。思い込みと錯覚、これが重要なんです」
律子は眼鏡をかけ直した。
「最初は犠牲者と赤い線……ここに共通点を持たせるためでした。誰かが死ねばその部屋のドアに線が引かれる。
これが常に一致していれば、彼女たちは次の犠牲者を直接見なくても線の有無だけで生死を判定してしまうんです」
その法則性はあずさ、やよい、プロデューサーでしっかりと示した、と彼女は言った。
「赤を選んだのは単純に血=死という意味ですけどね。ピンクや水色では締まりませんから」
「そんな法則を見せてどうするんだ? 手がかりを与えてどんな推理をするのか観察するためか?」
「プロデューサーはまだ気付いていないみたいですね」
律子は得意気だ。
彼は首をかしげた。
「彼女たちが犠牲者と赤い線を関連づけることが大事なんです。死んだ者の部屋には線が引かれてしまう、と。
次第に彼女たちはこれを次のように解釈します。”線が引かれた部屋の人間は死んでいる”という具合に」
「同じ意味じゃないのか?」
「全く違いますよ。線さえ引かれていれば死んだものと思い込むんです。隠れていようが行方不明になろうが、本当に死んでいようが――。
昨夜、私は春香とともに館から消えました。2本の赤い線を見た彼女たちは思ったハズです。”2人とも殺された”と」
これがこの仕掛けの、ひとつめの効果だと鼻を鳴らす。
「3日目ともなると私も自由に動けなくなります。だから彼女たちには死んだものと思わせておく必要があったんです。
あとは管理人室のモニターを見ながら機会を窺い、実行するだけです」
律子は人を殺すことを”実行”に置き換えた。
「もっともそう認めたくないのか、私も春香も生きていると考えを改めた娘も何人かいましたけどね」
「なるほどな。じゃあもうひとつの効果は何なんだ?」
「言い訳のように聞こえますけど、思い込みを利用した混乱――ですね」
「線を引かずとも皆、混乱していたと思うけどな」
「美希の件を除けばこの仕掛けは完璧だったんです。つまりさっき言った思い込みを生存者の意識に刷り込んでおくことですね。
生存者の数が減って実行が難しくなると線を引くのも難しくなります。いつ線が引かれるのか見張ろう、なんて話になりかねませんから」
「それはあるな」
「だから春香以降は線を引かないようにしたんです。というより引けなかったんですよ。それだけの充分な時間がとれませんでしたからね。
ただ結果的にそれが選定のために良い効果を齎しました」
彼女はいつになく饒舌だった。
「つまりいま何人生きているか、何人殺されたかが分からなくなるんです。まず線が引かれていないにもかかわらず響が殺された。
これで線と犠牲者の関連性が崩れることになり、ちょっとした混乱を引き起こします。まあこれは後付けですけど……。
さっきも言いましたけど最初に線を引くようにしたのは、秋月律子は死んだと皆に思わせるためなんですよ」
この目的はある程度達成できたから彼女は殊の外喜んでいる。
「………………:
プロデューサーは顎をさすった。
何事にも真摯なこの男には、彼女のように奸計を巡らせることはできない。
この企画を任された際、彼が考えたのは選定の基準と殺害のタイミングだけだった。
たとえば告発文を貼り出して面々の反応を見たり、初日の夜に淹れた飲み物に睡眠導入剤を仕込んであずさ殺害を確実にする等は律子のアイデアである。
その仕込みもあらかじめ全てのカップの”右手で持ったときに口が触れる場所”に薬を塗っておくという凝りようだ。
真美は左利きなのでこの手は使えないが夜更かしするのが彼女だけなら対処はできる。
もちろんプロデューサーと律子はわざわざ左手でカップを手に取った。
この仕掛けによってあずさ殺害は容易になった。
実行にあたって廊下を歩く音も彼女の部屋を出入りする音も、熟睡している彼女たちを起こすには至らない。
告発文からプロデューサーを除外し、代わりに小鳥の名を入れたのも律子のちょっとした思い付きだった。
伊織が何度か言ったように、唯一名前のない彼の仕業だと印象付けるためだ。
その彼が何者かの影を目撃し、その後に絞殺されたとなれば普通は第三者の犯行を疑うものだ。
正体不明の殺人鬼に彼女たちが団結し、誰がリーダーシップを発揮し、誰がどう動くのかを観察するのは興味深いものだった。
「それにしても大した手際だったよな」
彼は感心した。
選定にあたってはとにかくイベントを起こさなければならない。
新たな出来事が起こり、その度にどのような言動をするかで加点減点が随時行われる。
誰かが殺されるという大きなイベントの他にも、小さなキッカケをばら撒いたのもほとんど律子である。
象徴的なのは3日目の朝だ。
熟睡している秋月律子を演じた彼女は近くで雪歩の寝息を聞きながら、春香たちのやりとりに耳を傾けていた。
4人で交代で見張りをしてはどうかという案が持ち上がった。
後にそれは響を気遣っての真の提案であることが明らかになったが、分かったところで律子には何の関係もない。
ほどなくして響が真のソファに腰をおろした。
律子はそれを薄目を開けて見ていた。
待つこと数時間。
極度の心労ゆえか薬の効果か、談話室にいる全員が眠っているのを確かめた彼女はトイレに付き添わせるために春香を起こした。
寝ぼけ眼の彼女を背後から絞殺するのは簡単だった。
その様子をモニタリングしていたプロデューサーがトイレに駆け付けた。
彼に遺体を隠すよう頼み、律子は再び談話室に戻る。
掛布団をわざと乱して床に落とし、用意していた血糊を雪歩の襟元に付ける。
外した眼鏡はハンカチに包んでから――音を立てないため――左側のレンズを割り、フレームを軽く捻ってソファの下に忍ばせた。
血糊には鉄粉を混ぜているから臭いも再現できている。
不可解な格闘の跡を演出したのは彼女たちの思考力を見るためであり、雪歩に血糊を付けたのは疑心暗鬼に陥らせるためだ。
その一方、プロデューサーは引き取った春香の遺体をひとまず管理人室横の空き部屋に隠しておいた。
そこは美希の遺体を厨房に運ぶために通った部屋だが、ここに通じるドアは両方とも施錠されているので遺体を隠すには都合がよかった。
「難しかったのは亜美と真美ですね」
「ああ、ちょっとした賭けみたいなものだったからな」
あの2人の脱落は決まっていたが、肝心の実行をする機会が巡ってこない。
これにはプロデューサーも頭を抱えたが、律子がある提案をした。
それは亜美と真美、それぞれの部屋に隠れて待ち伏せしよう、というものだ。
普段はおどけていてもやはりまだまだ子供である。
犠牲者が増えて内部犯の疑いも強まってくると、彼女たちは身内以外を信用できなくなり、2人だけで行動したがるようになる。
律子はそこに目をつけた。
2人はいずれ貴音や伊織も拒絶してどちらかの部屋に閉じこもるに違いない、という読みがあった。
ただしどちらの部屋を選ぶかは運任せのため、真美の部屋には律子、亜美の部屋にはプロデューサーが忍び込むことになった。
チャンスは響の遺体が発見された時にやってきた。
とうとう耐えきれなくなった2人は真美の部屋に閉じこもったのだ。
ベッドの下に身を潜めていた律子はさらに待ち続けた。
やがて亜美がトイレに立つと、まず真美を絞殺した。
持っていたナイフを使わなかったのは彼女に声をあげさせないためだ。
その後、トイレから出てきた亜美を刺す。
遺体をベッドに並べたのはせめてもの慰めだった。
「でも本当に大変だったのはその後だよ。スピード勝負だった」
彼は怒涛の展開を思い返した。
残る生存者は5人だが少なくとも雪歩と真の脱落は決まっていた。
「雪歩にも成長性はあったからな。消極的で内向きな性格も少しずつ変わっていった。いずれ大舞台でも尻込みしない胆力は身に付いただろうな。
でもその成長を気長に待っている余裕はないんだ。そういう意味じゃもっと早い段階で脱落しててもおかしくはなかったな」
「ただ真がいますからね。どうにか引き離さないことには実行は難しいですからね」
「真も脱落させるには惜しかった。響に並ぶダンスの才能はあったし女性ファンも多い。それに大体の現場はそつなくこなしてくれるからな。
残念なのはあの一本気なところだ。正々堂々戦うって姿勢はこの業界ではきつい。最後まで仲間を信じようとしてたけど、その甘さもマイナスだ」
そこで彼がとった作戦はこうである。
律子は2階の管理人室に待機させ、隠しておいた春香の遺体を正門の前に置く。
厨房とつながる物置には外に通じるドアがあり、そこから遺体を運び出すことができた。
勝手口のようなものだが外からは分かりにくくなっており、初日に館近辺を捜索した真や亜美がそれに気付くことはなかった。
そして適当な間隔をおいてインターホンを鳴らす。
館内に鳴り響く音に対して反応は様々なハズだ。
怯え恐れるか、助けだと思って飛び出すか、犯人の罠だと警戒するか。
いずれにしても膠着状態を解す呼び水にはなるだろう。
そうして彼女たちに隙ができたところを葬り去るつもりだったが、ちょっとしたトラブルがあった。
千早が律子の部屋を訪れたのだ。
彼女は生存者の最終候補に残っていたが、部屋に招き入れた律子は躊躇いなく扼殺した。
「千早はどうやって突き止めたんだ? 律子が生きていることを分かっていたみたいな口ぶりだったらしいけど?」
「貴音の言葉がヒントになったみたいですね。その後で写真を見返してましたけど……今となっては理由は分かりませんね」
律子は憮然として言った。
「流石に候補に残るだけありましたね。千早の歌に懸ける熱意は他に抽(ぬき)んでています。ストイックな姿勢も好印象でした。
仕事を着実にこなそうとするところからも安定感や安心感がありましたからね。ただ融通の利かない点は致命的な短所です。
彼女の場合はモチベーションを維持するのも難しかったので――」
それらを勘案すると”実行”は妥当だったと振り返る。
「真相に迫ろうとする気概、実際に私にたどり着いた思考力も申し分ありません。が、直後の行動には問題があると言わざるを得ません。
せめて貴音か伊織を説得して同行させるべきでした。単独で危険に飛び込んだ軽率さ、迂闊さは大きなマイナスポイントですよ」
アイドルの仕事は積み重ねだ。
最後の最後で冷静さを欠いた千早にトップアイドルの素質はない――というのが律子の出した結論だった。
「まあ、そのお陰か俺のほうはやりやすくなったよ」
インターホンに明らかな反応を示したのは真だった。
恐怖心はあったハズだが彼女の場合は好奇心や犯人に対する復讐心がそれを上回ったようだ。
「私は千早の後始末に忙しくてその時の様子は見てないんですよ」
「真がひとりでエントランスに向かったのを見て、まずは彼女から仕留めようかと思ったがやめたんだ。
万が一、他の誰かが遅れてやって来たりしたら鉢合わせする可能性があったからな」
「それで雪歩を先に?」
「ああ。真が外に出て春香を引っ張り込んでいる隙に階段の後ろを通って雪歩の部屋に行くことにした。
施錠されていたけどノックをしたら簡単に開けてくれたよ。よほど不安だったんだろうな。外にいるのが真かどうかも確かめずに――」
ドアを開けた雪歩の口を塞ぎ、腹部を刺す。
絶命したのを確認してから彼女をベッドに横たえ、部屋の照明を消しておく。
隅に隠れて真が戻って来るのを待つ。
彼女は真っ先にベッドに横たわる雪歩に近づく。
その背後からあらかじめ用意しておいた工具で殴打すれば完了だ。
凶器を変えたのは自身も暗がりにいたために刺突では狙いが逸れる恐れがあったからだ。
加えて一撃で昏倒させる必要もあった。
相手は真だから思わぬ反撃を受ける可能性もなくはない。
「貴音はどうしたんですか? 様子を見に行くと声をかけた真にも反応しなかったようですけど」
プロデューサーは大息した。
「俺は貴音はどんなことがあっても動じないと思ってた。実際、これだけの犠牲者を目撃しても平静を保っていたからな。
しかし見た目にはそうでも彼女も限界だったらしい。おそらく真の呼びかけを彼女の罠だと疑っていたのだと思う。
呼びかけに応じてドアを開けたら殺されるのではないか――ドアから離れて窓際に立っていた貴音はそんな感じだったよ」
「まあ、それが普通の反応でしょうね……」
「今にして思えばこの貴音の判断がまずかったんだろうな。まさかこんなことになるなんて――」
結果は惨憺たるものであった。
最終的には伊織または貴音のどちらかが生き残り、事務所が全力を挙げてトップアイドルとして育てあげるつもりだった。
しかし伊織を殺害した貴音が自死してしまい、この3日間はまったくの無駄に終わってしまった。
「プロデューサーは最終的には誰を残すつもりだったんですか?」
「貴音だな。あの独特の雰囲気を持ったアイドルは他にいない。競合がいないっていうのは大きな強みだ。
スタイルもいいからモデルなんかもこなせただろう。浮世離れしているようだが常識がないワケじゃない。
弁えがあるから大きなスキャンダルに発展しにくいのもプラスだ。多少、融通が利かないところもあるが瑣末なものだろう」
なるほど、と律子は唸った。
「律子はどうなんだ?」
「私は伊織ですね。堅実性でいえば千早も最後まで候補でした。伊織はアイドルとしての貪欲さがまず評価の対象です。
妥協を許さず、水瀬の名に胡坐をかくこともしません。竜宮小町でもリーダーシップを発揮していましたしね。
それに意図があったとはいえ響を犯人と断じた際の推理力や説得力を見ても怜悧であることは明らかです。
不遜な言動もありますが必要とあれば猫を被る器用さもあります。うまく馭することができれば優秀なアイドルになれたでしょう。そして何より――」
彼女はわざとらしく間を置いた。
「水瀬家とのパイプがあるのが最大の強みです。資金提供、業界への介入――本人は嫌がるでしょうが使えるものは使うべきです」
「なんだ、結局は金じゃないか」
プロデューサーは冗談っぽく笑ったが律子はいたって真面目だった。
「それはそうでしょう。本人の素養だけではトップには立てません。井渫不食や臥竜鳳雛という言葉もあるように支えが必要なんですよ。
恵まれたレッスン環境、優秀なトレーナー、振付師に作曲家……どれもお金がかかります。これらにお金をかければかけるほどトップに近づけるんです」
彼女は断言した。
これは他のプロダクションや所属アイドルを見てきたからこその持論だ。
「ただ、それも叶わなくなりましたけどね――」
律子は拗ねたような調子で言った。
「伊織も最後まで頑張りましたが貴音の反撃に対応できなかったのが惜しいですね」
「相当参ってたようだな。疑心暗鬼だったみたいだが、この業界で生き残るにはそれくらいでちょうどいいんだ」
彼は何度目か分からないため息をつく。
「さて、これからどうしたものか――」
この結末は想定していなかったから、彼は何からどうすればいいか分からなかった。
予定ではめでたく生き残ったひとりに企画の趣旨を打ち明け、3人で本島に戻る手筈だった。
島に何者かが紛れ込み次々と殺傷したようだと口裏を合わせ、世間の同情を得ながらトップアイドルを目指す――。
単純だが概ねこのような筋書きだった。
「社長にはどう報告すればいいんだ? というかアイドルがいなくなったプロダクションってどうなるんだ?」
と、頭を抱える彼に、
「簡単なことですよ」
律子は呆れたように言う。
「――こうすればいいんです!」
言い終わる前に刃は彼の腹に真っ直ぐに刺さっていた。
飽きるほど見てきた血液と臭いとが、じわりと滲み出してくる。
痛みはそれを自覚した時には熱さに変わっていた。
「…………なぜだ?」
こんなことは予定にない。
いい加減、この赤に慣れてきた彼もそれを齎したのが自分だとなると話は変わってくる。
「なぜ――?」
律子は首をかしげた。
「さっき言ってたじゃないですか。アイドルがいなくなったらどうなるんだ、って」
ナイフを引き抜いた彼女はそれを突き出したまま数歩退く。
伊織の二の舞は演じない。
目の前にいるのは何人ものアイドルを仕留めてきた殺人鬼だ。
油断はできない。
「アイドルのいない事務所にプロデューサーは2人も要らないじゃないですか」
「そ、それを言うなら……お前だって……!」
「私だって元はアイドル――多少のブランクはありますが、その気になれば復帰できます。分かりますか? 私にはまだ価値があるんです」
「………………」
「今のは語弊がありましたね。765プロにはもはや私しかいないんです。今回の企画の主旨に沿うならば私こそ合格者ということになりませんか?」
「なにを、勝手な……」
一滴、また一滴と血が流れ出す度に彼の体から力が奪われていく。
「私にはセルフプロデュースができます。でもあなたはただのプロデューサー……事務所にいても邪魔なだけなんですよ」
彼には眼鏡の奥の澄みきっていて淀んだ双眸が悪魔のそれに見えた。
まるで情を感じさせない、理論と理屈と計算だけで自分を切り捨てた彼女に――。
彼は虚しい怒りを覚えた。
「ふざける、な……! 俺は、俺はこれまで事務所の、ために働いてきた……だぞ……! それがどうして…………」
「それはあずささんたちも同じですよ」
律子はさらに距離をとり、構えを解いた。
これだけ離れていれば不意を突かれることもないだろうし、相手もどうにか余喘を保っている状態だ。
かすり傷ひとつ負わせることはできないだろう。
これは油断ではなく分析の結果である。
「な、なら……せめて事務員でもいい……俺を……」
流れ出た血液にはプライドが含まれていたようである。
彼が必死に縋ろうとしているのは生だけでない。
それと同じ程度に業界とのつながりも求めていた。
「事務なら小鳥さんがいるじゃないですか」
彼女は冷淡に事実を述べた。
その瞬間、熱さは寒さに変わった。
どくどくと溢れ出た血液が、外気に冷やされて再び体内に戻って来るような感覚。
「り、りつ……りつこ……」
「はい?」
「頼む……医者を、呼んでくれ……血が…………」
止まらないんだ、という言葉はかすれて聞き取れない。
「なに言ってるんですか。外との連絡は取れないって知ってるでしょう? 明日になれば船が来ますから」
それから病院に行きましょう、と提案する彼女の口調は妙に軽やかだった。
「ま、まて……まって…………!」
踵を返した律子を追おうと彼は一歩踏み出した。
だがバランスを崩して転倒してしまう。
「……りつ…………」
それから彼は二度と立ち上がることはなかった。
22時15分。
脱力感から律子はベッドに伏した。
とても疲れていた。
たったひとりを殺めるのにも途方もない体力と精神力、なにより覚悟が要る。
そのどれかが欠けていたとは思えない。
屈強な格闘家ならまだしも、相手は自分とそう変わらない――あるいはずっと幼い――女ばかりである。
作業自体は道具を使えば容易い。
たとえ素手でも隙を突き、力を込めれば扼殺はできよう。
選定は苦痛を伴うものだったが事務所のために必要な企画だと確信していたから、その想いが罪悪感を和らげてくれた。
しかし今、である。
伊織か貴音、どちらかが生存していればこの企画にも意味はあったといえる。
惜しくも脱落してしまった者たちの想いを受け継ぎ、揺るぎないトップアイドルとして君臨させる。
それこそが彼女たちへの弔いになると。
(いいえ、ちがうわ……それは後ろめたさから逃げたいからよ――)
彼女は疲れていた。
企画は失敗に終わった。
つまり12人の脱落者はまったくの無駄死にだった。
ただ恐怖させ、惑わせ、疑わせ、そして――。
あとに何も遺さない、たんなる死であった。
「………………」
涕を拭った律子はペンを取った。
トップアイドルを生み出すためなら耐えられた罪悪感は、それが叶わなくなった途端に鎌となって彼女の首を刎ねようとしていた。
だが、その前に――。
ほんの少しの謝罪の時間が必要だ。
冷たく鋭い鎌も、彼女がそれをする暇くらいは与えてくれた。
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私は取り返しのつかないことをしてしまいました
全てはトップアイドルを誕生させるため
そのために未来も才能もある何の罪もない仲間を手にかけました
この企画で生き延びたたったひとりに事務所の全力を注ぎアイドル界のトップに君臨させる
私はその主旨に賛同しそして積極的に実行しました
しかし結果はご存じのとおりです
私はただ彼女たちを殺めただけでした
高尚な理念を掲げたところでこれはただの殺りくに変わりありません
このような罪深い人間に生きている資格などありません
わたしは自ら命を絶ちます
もはやトップアイドルの候補はいません
彼女たちを殺めた者もおりません
いるのはこの企画を発案したただひとりです
時間の許すかぎりここで起こったことを書き記します
それがせめてもの償いになると信じております
どうかお願いです
彼女たちを手あつくほうむってあげてください
そしてわたしとかれらのつみをえいえんにゆるさないでください
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それから書くべきことを書き遺した律子は生を終わらせた。
使用した便箋は全部で20枚に及び、うち18枚はこの島で起こったことを彼女なりに精緻にまとめたものであった。
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読み終えた小鳥はそっと便箋を置くと目元を拭った。
このたった1枚に彼女の苦痛が凝集されているのだと思うと、滂沱として溢れる涙を止めることができない。
「やはり見せるべきではなかったかもしれないな……」
すまなかった、と高木は謝った。
「いえ――」
小鳥も気丈に振る舞うが、上ずった声調は戻せなかった。
「彼らも765プロのためにあんな企画を考えてくれたのだろう。せめて私に相談してくれれば――」
「どうしてこんなことを……?」
「私はアイドルというのはそれぞれの個性を活かしてのびのびとやるのが一番だと思っている。もちろん結果が出れば、の話だがね。
だが彼らはちがった。レッスンや営業の効率化を重視し、より売れるアイドル――トップアイドルの育成に注力していたんだ」
小鳥は首をかしげた。
たしかに両者の方針はちがうが矛盾するような内容でもない。
個性を活かしたレッスンや営業をすれば双方のやり方を同時に満たせるのではないか、と彼女は思った。
その疑問を悟ったように彼は続けた。
「私がアイドル個人を中心に考えているの対し、彼らは事務所の発展を中心に考えていたんだ。事務所のためにアイドルがいる、とね。
プロデュースは彼らに任せていたから極力、口を挟まないようにしていたが……今となっては……」
高木は落魄したふうを装った。
再びお茶を淹れた小鳥が、そっと湯呑みを差し出す。
「どうやら黒井のやり方に感化されたらしい。真のアイドルは孤高である、と。それも考え方のひとつだろう。しかし私が見誤ったのは――」
「社長……?」
「彼らが黒井以上だった、ということだ」
「どういうことですか?」
「黒井のやり方は一言で言えば”勝つためなら何でもやる”だ。競争相手を陥れることも、仲間を欺くことさえもする」
「ひどいですね……」
「だがその方法でさえトップを維持するのは難しい。961プロはたしかに大手だが、実力あるアイドルはどこにでもいる。
だから彼らは黒井のやり方に共感しつつも、それでもなお甘いと考えていたようだね」
そうして館での惨劇が引き起こされたのだ、と彼は言う。
「仲間を欺いて平気で裏切り、極限の状態で知恵を絞りあらゆる手を講じて生き延びた者だけが真のアイドルになる素養を有する――。
天海君たちがあのような目に遭ったのは……この手紙にあるようにその選定に漏れてしまったからなんだ」
「でも、どうして……? プロデューサーさんも律子さんもアイドルのことを一番に考えていたハズなのに?」
「おそらく業績や財務状態を見てのことだろう。我が765プロには多くのアイドルが在籍していたが余裕のある経営ではない。
事務所としての発展を考えた結果、黒井の流儀に靡いたのだろう。費用を抑えて収益を最大化する――ある意味、黒井をも超越した理念と実践だよ」
小鳥は何も言えなかった。
765プロを想って行動した彼らをただ責めることはできない、と彼が付け加えたからだ。
それからどれほどの時間が流れたか。
高木は意を決したように口を開いた。
「こんなことを言うのは気が引けるが……音無君。アイドルにならないかね?」
「ええっ!?」
「プロデュースは私がしよう。大丈夫。彼らのような失敗はしないし、黒井のような手法もとらない」
「で、ですが社長……」
「もはや音無君しかいないんだ。最高の環境を用意しよう。どうだね? 引き受けてくれるかな?」
小鳥は即答しない。
しかし渋っているワケではない。
この誘いに乗らなければ765プロにはアイドルはいない――つまりプロダクションとして成り立たなくなる。
彼女はそれをもちろん理解している。
理解しているからこそ安易に引き受けはしない。
「少し考えさせてください」
妙な愛想笑いを浮かべる彼女に、
「ああ、良い返事を期待しているよ」
一仕事終えたように高木はお茶を飲み干した。
「あ、おかわり、淹れてきますね!」
「ああ、すまないね」
湯呑みを下げ、小鳥はそそくさと給湯室へと消える。
「………………」
その背中を見送った彼はポケットから丸めた便箋を取り出した。
「まったく秋月君にも困ったものだ。仕事には守秘義務というものがあるというのに」
灰皿の上にそれを置き、年季の入ったライターで火を着ける。
「最後の一枚にこんなものを書き遺すとは――あやうく私の発案だということが露見するところだったではないか」
パチパチと弾ける音がする度、真っ白だった便箋が黒く染まっていく。
橙色の手が緩やかに伸び、端から内側へと侵食する。
「遺書を装いながら私を道連れにするつもりだったのかね、秋月君……?」
ゆらゆらと。
踊る火の手が勢いを失い、彼は安堵のため息をついた。
その様子を覗き見ていた小鳥は、くすりと笑った。
終
・
・
・
・
・
朗読を終えた高木は極めて嬉しそうな顔である。
柔和な貫禄はすっかり消え失せ、童心に帰ったかのように無邪気な笑顔を隠そうともしなかった。
「どうかね、きみたち? 私が作ったシナリオは?」
自信に満ちた彼の問いかけに比し、反応はいまひとつである。
「何なのよ、この話! 私なんてすっかり悪者じゃない!」
真っ先に抗議したのは伊織だ。
「頭が良いっていうところだけはその通りだけど、私はこんなに怒りっぽくないし無暗やたらに場を乱すようなことも言わないわよ」
失礼しちゃうわね、と口を尖らせる彼女はすっかり鶏冠にきているようだ。
「そうかなあ、まさに伊織って感じだったけどなあ」
「なんですって!?」
とぼけた調子で言う真に彼女は顔を赤くした。
「いいじゃないかね、いおりんや。見せ場もいっぱいあったんだしマンゾクっしょ?」
「亜美たちなんていつの間にかコロコロされてんだよ? やっぱ律っちゃんはお話の中でも鬼軍曹だよ」
「ちょっと!? お話の中でも、ってどういう意味よ?」
思わず声を荒らげた彼女をプロデューサーが宥める。
「うむ……普段のきみたちを見て違和感の無いように書いたつもりだったんだが……」
高木は首をかしげた。
「あの、私なんかが3日目まで生き残っていいんでしょうか……?」
雪歩は不安げだ。
「こんな私なんて1日目でひっそりと穴にでも埋まっていたほうがいいと思いますぅ」
「お、落ち着いてよ、雪歩。ね? 知らないうちに殺されてる私よりずっと良い役だよ!」
焦った春香はよく分からない励まし方で彼女からスコップを取り上げた。
「ミキもナットクいかないの。どうせならもっとキラキラした死に方がいいの。響もそう思うでしょ?」
「キラキラした死に方ってなんだ……? それはともかく自分も納得いかないぞ。カンペキな自分が犯人を追いつめる見せ場がないじゃないか」
「でも響さんもとってもカッコよかったですよ? いつもみんなのことを考えてすごいなー、って思いました!」
「へ……? そ、そう……? ん~、やよいがそう言うならそうかも……」
美希に同調して不満を露わにした響だったが、やよいの一言であっさりと翻る。
「やっぱり響はちょろいの……」
呆れついでにひとつ欠伸をして貴音を見る。
彼女は声こそ上げないものの釈然としない様子で高木の持っている台本を凝視していた。
「貴音、どうしたの?」
それに気付いた美希が訝しげに声をかける。
「ええ……いえ、瑣末なことです」
「え~? なんか気になるの。思ってることがあるならちゃんと言ったほうがいいって思うな」
高木と目が合う。
「どうしたんだい、四条君? もしかして私の完璧なシナリオに圧倒されてしまったかな? いや~、これでも抑えたほうなんだがね。やはりあり余る才――」
「いえ、そうではなく。ただ一点、不服が――」
「な、なにかね?」
「なぜ館での食事にらぁめんがないのですか?」
「………………」
「………………」
「分かった、書き足しておこう」
貴音は笑顔になった。
「しかしどうにも反応が芳しくないな。きみ、どうしてだと思う?」
突然、話を振られたプロデューサーは視線を彷徨わせた。
「あ、えっと……そうですね。皆、社長の書かれたシナリオが素晴らしすぎて、どう反応すればいいか分からないんじゃないですか?」
「きみ、それは本心から言っているのかい?」
彼の眼力はプロデューサーを鷲掴みにした。
「え、ええ……もちろん……!」
曖昧に頷いてから律子に助けを求める。
だが彼女はその視線に気付きながら知らないふりをした。
「そうかそうか! いや~、私もそうじゃないかと思っていたんだよ。なにしろ我が765プロが総力を挙げて製作する初の映画、
”iDOLM@STER A 765PRO STORY”のために書き上げた渾身の作だからね!」
すっかり得意になった彼は大仰に笑った。
所属するアイドルたちの仕事が軌道に乗ってきたことで、高木はその人気を活かしたプロジェクトを立ち上げた。
先ほど彼が言った映画製作だ。
出演するのはもちろん765プロ所属のアイドルたち。
だがそれだけに留まらず社長、プロデューサー、事務員に至るまで全員が出演する大規模なものだ。
そのため平凡なストーリーではつまらないだろうと高木自らが脚本を手掛けると言い出した。
今日、そのシナリオが遂に完成し、さっそく披露したいと場を設けたのだが……。
「なんで慰安旅行の初日にそんな暗い話を聞かされなきゃならないのよ」
誰もが思っていることを伊織が代表して言った。
それぞれに人気が出始めてファンも増えてくると、これからますます仕事が忙しくなる。
その前にリフレッシュをしよう、と提案した高木とプロデューサー、律子の働きかけでスケジュールを調整。
奇跡的に全員が4日間のオフを確保することができた。
まだ肌寒い時期ということもあり、都市部から遠く離れた山奥の温泉旅館を提案したところ満場一致で行き先が決定。
今日がその一日目。
豪勢な夕餉を堪能したあと、重要な話があるという高木に連れられ、彼女たちはあらかじめ借りてあった離れにある多目的室に集められた。
そしてプロジェクトの発表とともに高木自身によってシナリオが読み上げられた――という次第である。
「暗い話だなんてとんでもない。765プロ総出の映画なのだよ? これ以上にない明るい話じゃないか」
「シナリオのことよ。みんな死んじゃってるじゃない」
「ま、まあまあ、伊織……」
高木の手前、少しは抑えろと律子が窘めた。
「社長、このお話で本当に大丈夫なんですか?」
横で聴いていた小鳥も不安そうに問うた。
この4日間は完全休業と関係各社に連絡済であり、慰安旅行ということで当然彼女も参加していた。
「いやあ、これくらいインパクトのある筋書きでないとね。もちろん、アイドルとしての側面もきっちり魅せるつもりだよ」
「でもこれじゃあ私が黒幕みたいじゃないですか」
「はっはっはっ! それでいいんだよ。一番犯人の可能性が低い者が実は……これこそミステリの王道、醍醐味じゃないかね?」
「あの、社長」
ここで珍しく千早が手を挙げた。
「うん、どうしたんだね、如月君?」
「できればどこかに歌を挿れていただくことはできませんか?」
「ミュージカル調にするということかい?」
「いえ、形式には拘泥りません。ですが歌があったほうがアイドルらしいかと……」
高木は頷いた。
「実は私も考えていたんだよ。練習風景とか回想シーンの要領で挿れられないかとね。いやあ、如月君もこのシナリオを気に入ってくれたみたいで何よりだ」
「いえ、特にそういうワケでは――」
「ち、千早ちゃん!」
春香が慌ててその口を塞いだ。
「さて、こうして発表も済んだことだしそろそろ戻るとしよう。実は予算の都合でこの部屋は2時間しか借りられなくてね」
そろそろ追い出される時分だ、と彼は陽気に笑って言った。
中身はどうあれ765プロが主役の映画となれば話題になることは間違いない。
これがキッカケとなってさらに露出が増え、たくさんの仕事が舞い込んでくるだろう。
高木は既に前祝いの気分になって揚々としている。
「ねえ、ところであずさは?」
伊織が室内を見回して言った。
「そういえば――?」
と律子もはったとして視線を巡らせる。
そう広くない多目的室に全員が集まって高木の朗読を聴いていたハズだが、いつの間にか彼女の姿がなくなっていた。
「お手洗いに立ったのかもしれませんよ」
と小鳥が言うと、それは大変だとプロデューサーと律子がほぼ同時に声を上げた。
「迷子になっているのかもしれないぞ」
「ありえますね、それ……」
捜しに行こうと、2人が室を出ようとしたその時だった。
廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。
「な、なんだ!?」
ほどなくして仲居が息を切らして飛び込んでくる。
「765プロ様……! お、おお、お連れの方が……!」
青白い顔をした仲居にただならぬ雰囲気を感じ取った高木たちは、詳しい事情を聞くために彼女とともに外に出ようとする。
だが焦っていたのか、それより先に、
「本館のお手洗いの前で三浦様がお亡くなりに――!」
そう叫ぶものだから全員に聞こえてしまった。
「そんなバカな……!?」
高木は声を荒らげたが、顔つきは落ち着いている。
「いまスタッフが通報を――」
聞けば腹部を包丁で刺されているという。
彼女がそう言ったのはうつ伏せに倒れているあずさの傍に、血に塗れた包丁が落ちていたかららしい。
「えっと……これも冗談、なんですよね……?」
春香が泣きそうな顔でプロデューサーに言う。
彼は答える代わりに高木を見やった。
「な、何かの間違いだろう。私が見てこよう。きみたちはここにいてくれ」
社長らしく落ち着き払った声で言うも、間もなくやってきたスタッフの一言がそれを台無しにした。
「電話が通じません! 電話線を切られたようです! ここは携帯電話も通じませんし、このままでは――」
悪夢は始まったばかりである。
完
以上で終わりです。
お読みくださりありがとうございました。
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